>>359 台風時に連環計は、衝突が怖いので疑問だな。
上手く嵐を避けたんじゃないかな?
>>360 その辺は仕方ない。「経」範の名乗りから判る通り、烏帽子親が義経だし
巷説なら義経から六韜三略を学んだ弟子でもある。
義経の実子と混同されれば、そりゃ実子が主役になるわな。
>>361 まあそれでも坂東八万騎と馬を船酔い患者も病死者もなく渡海させたのは事実なわけで。
琉球征伐といえば山岳戦での木曾党の活躍を忘れちゃいけない。
木曾義高の大活躍は唱歌にもなったぐらい有名だ。
>>360 武田に対して優しいのは頼朝にべったりだったほうの足利へのあてつけでしょ。
頼朝と仲が悪かった同士の繋がりってのもあるし。
>>244 チーーーン
マ・クベ 「いい音色だろ?」
ウラガン「は・・・。いい物なのでありますか?」
マ・クベ 「実朝だな。」
>>360 副将に教経の次男教長と梶原景季がついて補佐したことも大きいぞ。
特に梶原景季は軍船に逆櫓をつけて機動性をアップさせることを提案して採用された。
戦後は艦隊戦勝利の戦功第一と激賞され、「伏波」(ふくは)という名前の名剣をもらった。
教長とその郎党で教経の代から仕えてる経清(菊王丸)は指揮のみならず、船の上を飛び回って敵将を射落として回るという人間離れした働きもしている。
>>363 俺が子供の頃うちのじいちゃんの地元に琵琶法師がいて夏休みに帰省した時はよく平家物語を聞かせてもらったんだが、木曾党の山岳戦での大活躍と
>>367の教長八艘飛びの段を唄うときはいつもヒートアップしてたな。
そこだけバチの動きが倍ぐらい早くなるの。
よっぽど好きなんだろうなって思って聴いてた。
>>244>>366 本来硬玉、軟玉を使うところで代わりに実朝翡翠を使って作られた道具とかもあるらしいね。
あんまり出来が良すぎて20世紀まで陶器じゃなくて本物の翡翠だと思われて「キンカイ」って名前がついてたのは武内直子姫のファンならみんな知ってる話。
セーラームーンの敵キャラ(第一部)にも四天王に次ぐ地位の幹部としてキンカイが登場している。
キンカイトじゃなかったっけ?
>>354や
>>358の視点に立ってみると一世一代の大反乱を起こしたもののそれも平氏の掌の上だったってのはみんな同じはずなのに
武田信玄が名将扱いされて源頼朝が愚将扱いされる理由って何だろうな?
部下からの信望の差か?
そういえば、鎮西八郎為朝の子 義龍はどうしたんだ?
琉球で国作ったんだっけ?
あれ使えば良かったんじゃね?
>>372 まあ、一島の支配者にすぎず統治能力が不十分だから琉球一国を任せるのは無理でしょ。
主要合戦にも全て参加したとはいえ途中での参陣だし。戦後支配していた島の領有権を認められ、さらに海上権益も認められたしこのへんがいいとこでしょ。
それ以上の恩賞を与えると他の武将と釣り合わない。
>>371 武田信玄は頼朝の先例を引いて部下や一族を極力殺さないようにしてる。
父信虎を排除した時は出家させ、嫡男義信の謀反の時も原因となった側室を磔にするだけで本人は所領に幽閉ですませてる。
飯富虎昌が切腹しようとしたのも止めて、義信の息子の守役を命じてる。
ここまで違うのに一緒にはできないと思われ。
376 :
日本@名無史さん:2013/06/30(日) 14:34:03.52
源頼朝は後世の悪い意味での見本になったからな
どんな暴君も頼朝を例に出せばなだめられてしまう
その点では頼朝は間違いなく歴史を動かした人間だと言える
よく紂王と並べて語られるよね。
『寿永封神演義』に描かれた所業とか、相当誇張が入ってるのは確実なのにそれでも全部事実として語られてる。
こんなのと一緒にされたら、誰だって行状を改めたくなるだろ。
子らよ心せよ。忠孝の徳は仁義に及ばず。
故に忠孝を貫きし蒲冠者は天命尽き、仁義に舵切ったる判官は栄えたり…か。
誰が一番可哀想って、頼家が一番かわいそうだよね
>>378 この教えを忠実に守った織田弾正忠家の信定が崩壊寸前の織田本家を見限って下剋上したおかげで、織田幕府は続いたんだよな。
暗君放伐のいい見本だよ。
>仁義に舵切ったる判官は栄えたり
栄えたよね、義経流。
織田幕府時代には守護を多数輩出して一時は「六分の一殿」と呼ばれたぐらい。
畿内と東北で源氏と言えば義経流というのが織田時代府からの常識
あえて頼朝流を名乗った島津は何を考えていたんだろう?
一応嫡流だからか?
>>381 嘉吉の乱か。
って将軍様ぶち殺したのは親父の良信じゃなかった?
信定は跡目に据えられたお飾りでしょ。この時点では。
>>384 本当に頼朝の子孫だった位しか思いつかないな。
387 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 13:19:52.52
一瞬何の事かと頭が混乱したけど
ここはネタスレだったな
389 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 22:20:01.26
今度の木曜日、真鶴にある「しとどの窟」に行ってみるつもりです。
>>381 織田弾正忠家が弱体化した時には執権が迷わず政権を奪ってるしな。
ダメな主君は切るという伝統が織田を長続きさせたと言える。
391 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 05:55:17.40
島津氏は秦氏系の惟宗氏。
惟宗氏の中で、摂家につかえる武人の家系があって
それが島津氏の先祖。
>>384 つきあいのあった実朝の家が孫、曾孫の代で公家源氏として勢力を拡大して大臣家の家格を世襲にするところまで行ったから、コネクションを繋ぐためってのが一番大きいらしい。
源氏最高位の清華家を張った正統の頼政流につかなかった理由はその他大勢になるのがいやだったから、と言われているな。
>>390 暗愚放伐は資盛が富士川でうろたえまくった維盛を追い出して嫡子の座を取り返して以来の伝統だからな。
織田の政権を簒奪した羽柴も平氏だから、政権につく資格はあるし。
>>367 俺が聞いた話だと郎党三人引き連れて船の上飛び回ってたが…
>>384 >畿内と東北で源氏と言えば義経流
いくらなんでも下国の樺太の守護まで独占しなくてもいいだろうに
398 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 08:24:21.20
「藤原にふじんずば、百済藤の病」とか言ってたんじゃない?
>>397 義経流以外が守護では樺太人は納得しなかったのよ。
平家の家人を任命したら反乱を起こす、義経流の守護に交代させたらぴたりとおさまる、この繰り返しで義経流しか任命されなくなった。
蝦夷や樺太は義経の働きで文明化したという意識があり、一方で平氏や藤原氏は後からやって来て税だけ取っていくと思われているからなぁ
蝦夷の要地は平氏が押さえていたが義経の子孫たちが本気を出して結束したら蝦夷と樺太で独立国家形成もできたと思う
現実は義経流も所詮は源氏だからか一族で足並みは揃わず、平氏側もうまく対立を作り出して結束させなかったがね
>>400 自然条件の厳しさもあるけどね。
それを有効活用して分断したのはさすが平氏。
>>400 「北海道」設置の建言をしたのは義経の子孫だしな。
>>393 >>394 簒奪の時点では平氏。秀吉は本姓豊氏だが、秀吉の後を継いだ於次丸は信長の四男で生まれながらの平氏。
だから三法師の子を押しのけて政権を取っても批判されなかった。
頼朝の没年と、実朝の生年を教えて下さい。
>>400 こうアクの強そうな面子が揃ってたら足並み揃う方がおかしいだろ。
義経本人でもない限りまとめられん。
131 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 03:18:16.82
鎌倉中期の守護は、推定ではこんな感じだと言われてるね
渡島守護…経朝(義経流、京流…有名な静との間の子)
江差守護…新田経重(義経の女婿の子)
天塩守護…経義(義経流、時忠流)
十勝守護…義家(※八幡太郎とは別人。義経流本家、河越流)
406 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 01:21:54.93
誰か平治の乱以降の年表を作ってくれない?
407 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 04:37:20.25
1159年(平治元年)12月 平治の乱
1160年(永暦元年)2月9日頼朝捕まり六波羅に送られる
1180年(治承4年)8月 頼朝挙兵、山木館を襲って敗走、石橋山でも大敗
〃 10月 富士川の戦い 頼朝大敗 源範頼の軍が潰滅
まずはこんなところだな。
408 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:35:55.36 BE:1095657034-PLT(14000)
409 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:36:40.31 BE:1643485829-PLT(14000)
410 :
日本@名無史さん:
あげ