立てました
もしもしからなのでテンプレ等
追加して頂けましたら有り難く思います
2 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:35:54.92
≪天皇系図 1代〜50代≫
1神武天皇─2綏靖天皇─3安寧天皇─4懿徳天皇─5孝昭天皇─6孝安天皇─7孝霊天皇─8孝元天皇┐
┌──────────────────────────────────────────┘
└9開化天皇─10崇神天皇─11垂仁天皇─12景行天皇┬日本武尊─14仲哀天皇─┐
└13成務天皇 │
┌──────────────────-────────────────┘
└.15応神天皇┬16仁徳天皇┬17履中天皇─市辺押磐皇子┬24仁賢天皇─25武烈天皇
│. ├18反正天皇┌20安康天皇 └23顕宗天皇
│. └19允恭天皇┴21雄略天皇─22清寧天皇
│ ▼▼▼▼
└─稚野毛二派皇子─意富富杼王──乎非王──彦主人王──26継体天皇─┐
│
┌───────────────────────────────────────.┘
│┌27安閑天皇┌30敏達天皇─押坂彦人大兄皇子─┬34舒明天皇┬38天智天皇┬41持統天皇
└┼28宣化天皇├31用明天皇─厩戸皇子(聖徳太子)│ . └40天武天皇├43元明天皇
└29欽明天皇┼33推古天皇 │.. ┌35皇極天皇 ├39弘文天皇
. └32崇峻天皇 └茅渟王┼37斉明天皇 └志貴皇子┐
. └36孝徳天皇 . │
┌───────────────────────────────────────┘
└49光仁天皇─50桓武天皇────(略)───今上天皇
≪釈日本紀「上宮記一云」系図≫
伊自牟良君──久留比売命
│
中斯知命 ├─汙斯王(彦主人王)
洷俣那加都比古─弟比売麻和加 ├──乎非王 │
├───若野毛二俣王 ┌太郎子(意富富等王) │
凡牟都和希王(応神). ├────┼践坂大中比弥王 .│
母々恩己麻和加中比売 ├田宮中比弥 .│
└布遅波良己等布斯郎女 │
├─乎富等大公王
伊久牟尼利比古大王(垂仁)─伊波都久和希─伊波智和希┐ .│ (継体天皇)
┌────────────────────────┘ .│
└伊波己里和気─麻和加介─阿加波智君─乎波智君 │
├──┬都奴牟斯君 │
阿那爾比弥 └布利比弥命────┘
(振媛)
4 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:38:48.44
... _.._...
_イlll!lllllllllllllll爪lllll入_
イ!llllllllllllllllllllllllllllllll∧s 、
イllll夕千宀⌒^^弋巛llll!{!lll∧ 、.. l皿l
イ什 〔llllllllllll/∧.. l皿l
イ廴 -=///a_ !llllllllllllll∧.. l皿l
彳ヘ'' _/"""´ ヾlllllllllllllllllllレ. l皿l
/ftア.) ...イtオフ''' 'llllll弋llllllllllレ l皿l
イl / ` ̄´ ...''llllワ 丁llllllllレ.... l皿l
イ! / 彡 l6夂lllllllll辷,. l皿l
/彳(..... ヽ 彡彡_上llllllll巛彡彡l皿l
,,..,彡_ノ 彡iiillliiiiミヾ,, l彡lllllllllllllli!!llll彡ルl.. l皿l
彡彡.lllllllll彡⊂ニ⊃ミミ、... ,'lllllllllllllll巛彡ル l皿l
/彡.彡.lllllllliii人∩っ _/卅llllllll|lイl'´彡、.. l皿l
!/^ ̄ ̄ ,巛川,川l,川〆》´  ̄ ̄千U.  ̄、 ( ̄ ̄ ̄\
/ 〈lllllllllllllllllllll!イ .‖ ( ̄ ̄ ̄\
./ |l ''lllllllllllllllllllllイ ‖/ ( ̄ ̄ ̄..)
´ |l .辷!llllllllllllイ ノ‖ , .( ̄ ̄}
...|l 辷llllll广 、 ‖ ノ' ..... ̄
` レ┘ ‖゙
継体天皇=男大迹大王(507-531年在位)
帥升は何天皇?
天皇でも大王でもない
7 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 03:23:28.56
ナルはボンクラだから、秋篠宮に譲るべきだ!
8 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 05:48:33.12
乙
9 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 05:49:38.39
>>5 景行か垂仁天皇ではないかという人もいるね。
俺はそうは思わないが。
乎非王とは古四王であって越王ではないか?
こしおうじんじゃ
秋田県秋田市寺内字児桜81
社伝によると、四道将軍の一人・大彦命が
蝦夷平定の際、北門鎮護のため武甕槌神を祀り、
「鰐田浦(あぎたのうら)の神」として祀ったのがはじめ。
後に、阿部比羅夫征夷大将軍が下向の時、大彦命を合祀し、
越王(古四王)と称したといわれている。
『続日本記』によれば、出羽の柵を当地へ移し、
北方防備の本拠地とし、秋田城となった。
古四王、越王、巨四王、胡四王、高志王、腰王、小四王、小姓など
いろいろな表記があるが、すべて当社の関連社と考えられ、
新潟・山形・秋田・岩手に、広く分布している。
http://www.genbu.net/data/dewa/kosiou_title.htm
>>10 あなた東京の人?「ひ」と「し」の交代は古代の中央地域で起きなかったと思うよ。。
乎非(をひ)
13 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 10:32:43.52
継体がホムタワケの五世孫じゃなくてホムツワケの五世孫だとする意見は意外と少ないのかな?
ホムタワケとホムツワキは別人とするのが正当だろう
しかも、ホムツワキは王であって大王ではないし
つまり継体は応神の五世孫ではない
ホムツワケを継体天皇から切り離すために垂仁天皇の皇子にしてしまったと
>>18 流石+民と言ったところか
低レベルなこと・・・
20 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 16:59:23.43
ヌー速は恐怖新聞みたいなもので、読めば読むほどIQが低くなるからな。
継体天皇は応神天皇五世の孫、というのがこのスレの結論だね。
では具体的に業績に就いて語りましょう
ではどうぞ先生方↓
神武天皇の男系子孫が皇位に就くのが皇室の伝統だ。女系天皇は天皇ではない。
24 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:59:52.51
六条天皇は母親の身分が低かったが、それでも即位できたぞ。
25 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:13:37.82
26 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:20:53.99
男系の女性天皇はOKだが、女系の女性天皇はNGということでしょ。
そもそもの初代が女性なら、女系の男性天皇ばっかりじゃん。
つまり女系でも男性天皇なら容認ってことに……
このスレでは天照大御神は初代天皇なのか?
天照大御神は神話の神様だ。歴史ではない。歴史的には神武天皇が皇室の子孫で、その男系子孫が
皇位を継いできた。これが皇室の伝統。
>>25 ばーか
それは女系派のよく主張する論の一つで反論がきちんと用意されてる
@皇統は初代天皇の神武天皇から始まるものであって、天照大神から始まるものではない。
A天照大神には息子が5人いたが、素戔男尊との誓約によって生まれたとされているだけで彼らの父親は明記されていない。解釈としては
a.天照が性行為に依らず、単独で子供を産んだ
b.素戔男尊が父親である
c.他に父親がいた
d.神のことを人間に当てはめて解釈しようとするのが間違っている
の4つ。他の解釈は成り立ち難い。
ところでa.は生物学上有り得るように解釈すればクローンだろうが、女である天照のクローンで男が生まれるはずも無い。無理に解釈しようとしたら天照大神男神説を採ることになり、問題が解決してしまう。
b.だとしたら、素戔男は天照の同父弟であり、つまり天皇家の最初の祖先である伊弉諾の息子であるが故に
伊弉諾―素戔男―天忍穂耳命―(この間男系で3代)―神武天皇という図式が成り立ち、伊弉諾から神武天皇、そして今上天皇まで男系で繋がる。
c.である可能性は完全には排除できないが、記紀を読む限りでは父親がいるとしたらどう読んでも素戔男である可能性が一番高い。というかそれ以外を推測する方法が無い。
d.だとしたら議論の必要性も無い。
ということで現実的には素戔男を天照の夫と見立てることで男系が繋がるという解釈が一番妥当だろう。
31 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 04:38:47.03
>>30 Aの天照の子に対する神道の解釈はa
皇統に対しての解釈は@
のはず
太陽神(女性格)と皇祖神(男性格)はもともと別の神格。
古い前者が後者を取り込んで生まれたのが天照大神。
神話は史実じゃないからね。神武以後が史実。神話を史実のように語る女系派は
白痴。
34 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 06:12:18.84
女系派で天照の件を持ち出す奴はこのスレではたまにみかけるが
女系派全体ではごく稀な存在
36 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 13:12:30.34
汚らしい毛皮を着た不潔大王w
男系子孫を取ってこようにも伏見宮系しかいないんだよね。鍛冶屋の息子の子孫しか。
俺は継体の「応神五世孫」は皇統維持のための物語だと思っている。記紀の作者が
五世孫まで範囲を取っておけば安心だと思って創作した。でも全然足りなくなった。
神武天皇の男系子孫でさえあればいいんだから候補者はいくらでもいる。俺がなってやってもいい。
39 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 14:19:25.81
>>35 女系派はそれ持ち出せば良いのに、滅多に言わないよね。
神話で自説を正当化はしたくないのかな。
神話と歴史を混同するな
>>39 天照の件で女系派が正当化されることは無いから
神話を読み取っても天照の存在によって万世一系が否定されることは無い
男系派は苦しいね
43 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 15:47:11.67
>>41 そう?
自分は男系派だけど、もし女系派なら言うよ。「神武天皇も天照大神の女系子孫じゃないか」と。
勿論、天照大神は皇室の祖先であって天皇ではないから、こんなの詭弁だけど。
天皇要らね
>>42 どこが苦しそうなの?
>>43 女系継承の問題点って「女系によって皇位が継承されること」ではなくて、「女系継承は家系が変わったと見做されるので、系統が途中で途切れてしまう事」だよ。
父親不在の天忍穂耳と天照との間に家系の断裂は認められないから、
この時点で女系継承されてたとしても現代において女系継承を肯定する根拠とは一切成り得ない。
現代においても、例えば伏見宮と東久邇宮が同時に皇籍復帰をしたとして、
嫡系にあたる伏見宮が男系基準だと皇位継承順位を優先されるが、
昭和天皇の女系子孫ということで東久邇宮を優先したとしても問題は起きない。
この場合は女系継承を容認しているが、東久邇宮もまた皇統に属する者なので家系は断裂せず、正統性を確保できる。
天皇要らね。男系も女系も要らね。
スレチだが
>女系継承は家系が変わったと見做される
それが女系天皇容認派はそう見なさないんだなこれが
48 :
昭和:2012/02/19(日) 18:39:56.00
うざい 民主主義に王はいらんw
そういえば、この板にあった
「女系天皇なんとか」というスレ、今は無いね
50 :
昭和:2012/02/19(日) 18:40:30.94
うざい 死ね
51 :
昭和:2012/02/19(日) 18:42:44.16
お前ら官僚の家族とか宮内庁関係者の家族とか
散々いい思いをしていて
まだ天皇をしゃぶって
やっていこう
なんて思っているんだろw
52 :
昭和:2012/02/19(日) 18:43:41.62
お前ら
穢れていて
キタナイ
一族なんだよw
メンドクサイから天皇制廃止でいいや。
>女系継承は家系が変わったと見做されるので、系統が途中で途切れてしまう事
これが継体帝の時代でも常識だったと断言して良いかは疑問
と話を本筋に戻してみる
>>54 あくまで現代の皇位継承を男系女系どちらかの話だからね
継体帝の時代で女系継承=家系断絶という観念が形成されるとしたら中国の知識が入ってこないといけない
その可能性が無いとは言えないが
神武天皇から一貫して男系継承だ。中国の影響ではなくて皇室の伝統だ。
だから、今上陛下は女系に反対し、旧皇族の継承を望んでおられる。陛下の
聖旨に添い奉るのが臣下の義務だ。
>>56 継体を含め何代かが婿入りだろ
天皇家では傍系が継ぐときには必ず直系女子との結婚が行われている
本当の男系継承ならばどれほど血縁が遠かろうが女系無視なので
直系女子との結婚など全く不要
これを無視するのが男系死守盲目派の主張
59 :
昭和:2012/02/20(月) 14:43:00.60
ヘー
天皇てしぶとい家系なんだな
それが
今の日本に役に立つのかw?
>>59 固定名(いわゆるコテハン)使うならトリップも使うのを勧める
なりすまし防止のためにも
http://find.2ch.net/faq/faq2.php より
>トリップとは、2ちゃんねるで、名前欄に「#」と好きな文字列をいれるだけで生成できる暗号みたいな文字列のことです。
>たとえば、 初心者の質問板 の トリップ練習スレで、名前欄に、
>#01234567
>と入れて、投稿してみてください。
>#01234567 の場合、トリップは
>◆BvcplLXSGo
>となるはずです。
>#の後に続く文字列は、「トリップパス」とか「トリップキー」などと呼ばれています。
>その名が示す通り、#の後に続く文字列は、パスワードのようなものですので、他人に教えてはいけません。あなたしか知らない文字列にしてください。
>>57 歴代天皇はすべて神武天皇の男系子孫。この根本的事実を見ないフリするのが女系派。
女系天皇は皇室の伝統に反するからありえない。
無関係とは言わないがそろそろスレチ
女系天皇の是非を問う、専用スレ立てれば?
皇統の正当性主張という意味では武烈に暴君属性を付与したのはミスだよな
たぶん継体の5代傍系(あるいは6代)の相続に無理があると思ったから
記紀の編者が付け加えたんだろうけど、
暴君だった先代を倒して天子の座に着いたんじゃ、まるで易姓革命だ
そんなエピソードがあればますます継体の血筋が怪しくなってしまう
>>57 後花園天皇の后は藤原氏なんだけど…
入り婿の形式取ったのって継体天皇と光格天皇だけでしょ
それくらいは調べてから書き込もうね
女系派は歴史を知らないから女系派になれるのだろうから、この程度の無知が起こるのも仕方無いのか
琉球王朝の第2尚氏のように対外的な理由から
王朝が継続してるように見せかけたって線はないのかな?
>>67 面白い見方だね。
あと九州年号というのがあって、これが「継体」という元号jから始まってるらしい。
これも面白いかも。
>>65 伏見殿は持明院の正嫡だから入り婿の必要が無いよ。
70 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 05:14:02.91
>>57 世界史を知らないとそういう説を平気で唱えるんだな。
前スレにも出てきたフランスのブルボン家。ヴァロワ家とは血が遠い(アンリ4世はルイ9世の十世孫)が、サリカ法に基づき男系男子であるブルボン家には継承権があった。
それでも血の遠さを補うためにアンリ4世は即位に際してヴァロワ家の娘(マルグリット王女)を嫁に取った。ついでに言っとくとアンリ4世の祖母もヴァロワ家出身。
男系継承の国でも、女系で地を補うのは珍しくないよ。
71 :
70:2012/02/21(火) 05:23:26.81
訂正。
誤)女系で地を補うのは
正)女系で血を補うのは
第2尚氏の祖・尚円の場合は正室・オギヤカは
別に第1尚氏の縁者ではないみたいだね
てか出自がよく分かってない
神武天皇の男系子孫しか天皇になれないとすれば誰も天皇になれない。
神武天皇は実在しなかったからw
74 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 14:45:39.26
>>65 継体と光格の例は無視
後花園は唯一婿入りしなかったから女系は長らく無視されてきたというのが
史実無視(無知なだけだが・・・)男系死守派の主張だよね
まあ、後花園は5代も離れてないんだがw
75 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 15:05:53.02
>>70 つまり、当時の日本は欧州と同じぐらい易姓革命上等ということですね
男系派は旧皇族以外の候補者を検討したことないね。最初から旧皇族一本に決めてるんだから
旧皇族派と名のるべきだ。
77 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 18:10:13.29
>>73 あくまで系図上で繋がっているかが大事だよ
でも神武天皇の子孫といってもさすがに源氏とかには継承権がないから、正確ではないんだよなあ
>>74 5代離れてるのなんて大昔の継体だけ
後花園は3代離れてるが、光格も3代離れてる
ちなみにそれ以外の天皇で皇曾孫以下で即位した人はいないから
>継体と光格の例は無視
>後花園は唯一婿入りしなかったから女系は長らく無視されてきたというのが
このように3例しかないもののなかで2例がそうだったから女系相続肯定のような見方がいかに的外れなものかわかる
「唯一」って、そりゃ3例しかなかったら2例と1例に分かれることはよくあるんだから、1例しかないほうは「唯一」になるしかないじゃないか
>>75 おいおいサリカ法も知らないのか
欧州も男系による万世一系上等な王朝がいくつもある
>>76 血統だけなら男系で近い徳大寺を推す声がネット上ならないわけではない
78 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 19:53:18.71
>>77 いい加減関係ない他国の都合の良い部分だけ日本に適用するのはやめなよ
我田引水にもほどがある
79 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 19:58:23.62
そこでバイブ芳恵さまが登場するのだ!
>>70 アンリ4世が即位に際してマルグリット王女と結婚って言うのは時系列がおかしいのでは?
結婚当時、アンリト3世がまだ存命中で、年齢的に世継ぎ誕生の可能性がなくなっていた
わけでもないのでは?
アンリ4世の中にはそう言う意識があったかもしれないけど、
あくまで結果論じゃないの?
萬世一系なんか糞くらえ
82 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 08:45:58.39
>>78 はいはいww
潔く負けを認めてこのスレから消えろ
天皇要らね
サリカ法典では女帝もありえないからな。全然違う。それに、サリカ法典は
万世一系理念とは関係ない相続・継承法。
国姓が変わりまくっているフランスを例に出して万世一系を語るキチガイがいるのはこのスレか
どうせ神武天皇(実在だとして)が征服者として描かれてるんだから、
携帯絵天皇が征服者でも問題ないじゃないのか?
神武天皇からじゃなく、継体天皇からの万世一系でなんか問題有るの?
二千数百年が千数百年でも、滅茶苦茶古いことにはかわりなく、
たいした問題じゃないし。
「男系継承は皇室の伝統だから変えてはいけない」と言ってるヤツがなぜサリカ法典を持ち出すんだ。
外国には女系継承の例もあるではないか。それに、一族内の継承法をどう決めても万世一系にはならない。
該当者が絶えたり他家に取って代わられたらそれまでだからね。
神武東征とか征服とか良く聞くけど記紀を読む限り征服者というかただの移住者にしかみえないんだよなあ・・・
これそのまま事実かもね
「東征」なんてのは戦前の皇国史観の名残だよね。
実際に、記紀で記述されていることといったら、日向を発ったのは、神武と兄弟、息子、中臣氏の先祖、これだけ。
「軍勢」などではない。まあ、手下はいたんだろうが、大規模な軍勢だったら、吉備で三年間も何事もなく過ごせるわけがない。
大和の「征服」とやらも、ゲリラ戦や敵の有力者(ニギハヤヒ)の切り崩しで大和のごく一部(葛城)を乗っ取っただけ。
大和の有力地域は、考古学的にも三輪地方で、そこを支配下に治めて大和を統一したのは崇神天皇になってから。
神武天皇は、日本の支配者になったわけでも大和を統一したわけでもない。後に大和を統一し日本を支配する大王の祖先で
初めて大和に定着した人物として扱っているだけ。
>>90 しかし、初代の天皇なんだ。なぜなんだろうね。"政権"の実態は日向時代と変わってないのにね。
日向から大和までを支配下に置いたんじゃない。大和へのたんなる移住だ。
なぜニニギではなくて神武が初代天皇なんだろう。橿原宮で"即位"したこと以外に
天皇らしき事績は何もないのにね。
ニギハヤヒは?
>>93 それだ!ニギハヤヒ王権がある間は倭国王を名乗れなかったんだ。
ニギハヤヒとは徐福集団のことではないのか?
>>92 しかも橿原の地は後の蘇我氏の根拠地
いくら蘇我氏とは言え初代天皇が即位した地を所領に貰えるのか?
97 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 07:00:07.15
吉備が神武に屈服したとも思えないな
通してあげただけだろ?
本当は蘇我氏が大君一族の本宗家だったとか。
孝徳天皇は第2継体天皇だったとかね。
日向沖で船遊びか釣りでもしてたらうっかり漂流しちゃって、
紀伊半島にでも漂着しただけだったりして。
それで巧いこと地元の豪族にでも取り入って婿入りしたとか。
色男で娘をたらし込んじゃったとか。
実はその程度の話じゃないの神武天皇の東征って。
武烈天皇って、まあ「烈」の方はわからないでもないけど、
「武」はどのあたり?特段征服者でもないようだし。
平群氏を滅ばしたあたり?
そう言えばあのエピソードの時って、10代半ばから30歳くらいまでのイメージだけど、
享年18歳説だと10歳程度か、ちょっと無理がありそう。
その辺18歳説の人はどう説明してるのかな?
平群氏討滅事件自体無かったことにしてるのか、大伴金村の独断か?
まあ享年57歳説でも、いまいちイメージに合わないけど。
57歳説は継体の年齢と取り違えたんだろ
102 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 09:44:02.37
皇太子のアイドル『芳恵』をスレタイ検索←カチッ!
103 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 03:30:53.43
>>100 武烈って諡号は「武」+「烈」じゃないんだよ。
「武烈」で漢文の決まり文句、それをそのままつけた。
平群討伐の事績をそのまま諡号にしただけ。
古事記には武烈の悪行は書かれていない。つまり、継体で終わった旧辞にはなかった記事だ。
古事記の継体天皇の生年485年ってのが実は武烈天皇の生年だったりして。
106 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 00:10:38.75
野獣毛皮継体大王
107 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 18:24:05.45
崇神、応神、継体は新王朝の始祖
継体朝は三代で終わったのか?
そう言われれば、欽明天皇も本当に継体天皇の子だかどうだか。
舒明天皇以後もそれ以前との関係はあやしいもんだし。
天武天皇も本当に天智天皇と兄弟だか?
光仁天皇も本当に皇族だったんだろうか?
と、血統について疑える部分はいくらでもあるな。
疑えるってだけだけど。
110 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 16:01:29.26
秋篠宮に皇位を譲ったナルはバイブ芳恵と再婚し
苔篠宮を創設して隠居生活へ
111 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 18:48:05.88
天皇要らない
>>109 言うだけタダだからな特にネットの世界は匿名だからどんな無責任なことも言える
こないだなんかニュー速で「南北朝時代に天皇の血筋は断絶してる!!」て書き込みみてビビったわ
どこで断絶したんだよw
113 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 01:01:00.05
「完全に無関係である」と主張する人は少なそうで、
むしろ大多数は「系図のような男系継承ばかりでないが、
前王朝とは何らかのつながりはある」
と考えていると思う。
114 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 08:13:03.75
貧乏継体大王
115 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 08:47:50.96
男系継承でなければ王朝交代だ。
116 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 23:01:13.73
女系で繋がっていれば王朝交代ではない。
織田信長が天下をとって、その家来の秀吉が信長の姪の茶々を嫁にして、天下を継ぐ。
家康は茶々の妹の江を2代将軍家忠の嫁にして世継家光を産ませたことで、織田政権の正統を保った。
三輪王朝、河内王朝、そして百舌鳥、女系でつながった一連の王統と見るのが自然。
すると、260年間続いたのは織田幕府であって、これを織田時代と呼ぶべきである、と。
ここは現在の皇位継承問題を語るスレなのか?
俺は臣籍降下者の復位反対女系容認なんだが
今さら天皇になりたがる奴もいないと思うが長年皇位簒奪を防いできたこの復位禁止制度を崩すべきじゃないだろ
単純に天皇要らね
復位禁止制度ってなんだっけか
天皇って言う箱ですね。
その箱の中に、明治政府とか、徳川幕府とか小箱
出来ては、消えまた出来るを繰り返す。
天皇が居ればあとはどうでもいい
123 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 12:21:44.54
女系こそ皇位簒奪だろう
今過去の天皇の直系男子てどれぐらいいるんだ?
細川元総理とか織田信成なんかもそうだろ?
125 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 19:13:40.02
細川護煕は清和源氏なので清和天皇の子孫
信成は信長の子孫ではないと言われているし
仮に子孫だとしても織田氏自体が平氏ではなく
藤原氏か忌部氏だと言われてるので
歴代天皇の男系子孫ではない可能性が高い
公家の源氏と平氏は藤原から養子を取ってない限りは
間違いなく天皇の子孫だ。
127 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 22:45:09.40
でも公家の中にも系図が怪しいのいるよね
チンギスの子孫は1600万人もいるらしいし
男系かはともかく日本人の2割ぐらいかは天皇の子孫なんじゃないか?
>>118 ただ終戦直後の臣籍降下はアメリカの戦後処理の一貫で
本人の意思と無関係なファクターであることが大きいので
戻るのもアリといえばアリではないかと?
ただこのスレの主旨に沿って継体帝ネタに絡めると継体帝も手白香を
嫁にして天皇と認められた面も結構強いので現皇室女子の方々の
誰かと婚姻関係になる必要はあるかと…
一人の人間に、二人の親、四人の祖父母、八人の曽祖父母……。
単純に百年で三代として、とりあえず継体天皇まで15百年、2^(3*15)。
ざっと延べ35兆人。この中に歴代いずれの天皇も全くいない人のみが、
「自分は天皇と"全く"血がつながっていない」、と言える。
>>129 女性宮家を創設するとなると旧皇族の復帰と婚姻の制限は必要になってくるでしょうね
そして、このスレの趣旨に沿って話すなら、ロシアも東ローマ継承するために嫁は東ローマから
もらってたよね。あっちは女系だけど
132 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 13:38:17.14
>>113 同意する。血の濃淡は別として血縁だったと思う。
133 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 13:39:57.81
>>129 > ただこのスレの主旨に沿って継体帝ネタに絡めると継体帝も手白香を
> 嫁にして天皇と認められた面も結構強いので
血のつながりが薄い場合、補強する必要があったんだろうな。
134 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 20:53:13.09
例えば、「子供が産まれないので妹の子に跡を継がせる」
とかなら「王朝交代」と見なされるものだろうか?
135 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 21:58:33.26
>>128 およそ2億人と推定されるそうだ。つまり大和民族の日本人は全員、どの時代かの天皇の子孫だそうだよ。
136 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 22:52:59.40
その通り。
日本国民は天皇の赤子。
そうでないのは最近の渡来人だけだ。
あなたにはこの1500年だけでも累計35兆人の先祖がいると言うのは
先祖が重複しない人同士のカップルしか成立しなかった場合で
実際は婚姻は近い階級の間でしか起こらないので比較的血の近い家どうしで結婚する場合が多い
そうすると実在の先祖の数は急減する
武士や公家の多くは天皇の子孫だろうけど平民や田舎の土豪みたいなのはどうかな
138 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 04:43:01.62
欽明は、絶対に継体の子供では無いわ!
突然なんだ?
>>134 きちっと養子縁組し、スムーズに継承が行われたら王朝交代ではないだろう
後継問題で戦争が起こってたりすれば事実上の王朝交代だと思う
南斉と梁が王朝交代なら、五世の孫が事実でも王朝交代って言っても良いかも。
まあ、究極は「当人が王朝交代を宣言するかどうか」なんだよ
「事実は王朝交代でも、秘密にして王朝継続」という
歴史事実も、実は、数知れずあったろうしな
145 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 12:58:29.10
>>137 没落していった公家や武士もいっぱいいるしなあ
>>116 三輪王朝とか、河内王朝とか、いまだに言っているのか?
147 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 19:58:10.13
怪しさなら応神の方が上じゃないか?
少なくとも継体は武力で中央をのっとったわけでは無いだろ?
前王朝と恐らく何らかの血縁や姻戚はあったんだろ。
学会では三王朝交代論は今どういう扱いなの?
今もまじめに議論する価値のあるものなの?
それとも九州王朝説みたいなとんでも説、あるいは過去の遺物な扱いなの?
149 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 10:10:36.96
イングランドでウェセックス朝からウィンザー朝まで血が繋がってるようなもんか。
>>147 外戚であったのはおそらく間違いないし、父系の血縁もあったのかもしれないが
大和入りするのにやたらと年月をかけているのが不思議だな
武力闘争があったかどうかは不明だけど大和のなかには余程抵抗を示す豪族もいたんじゃないか?
151 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 17:38:48.32
王がいなくなったら必ず播磨、丹波、近江といった
畿内の外から迎えてる?
152 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 20:56:36.10
>>148 基本的には定説(区切りという意味で)
但し血縁関係には異論も多くまだ混沌
153 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 21:00:57.94
葛城王朝と三輪王朝の間には断絶は無さそうだな。
崇神になって初めて「国家」と呼べるようになったんでしょ。
>>148,
>>152 定説? 定説なのかねぇーw
定説といえば「三」王朝交代説の可否とは別に
とりあえず継体と応神はつながってるって見方は主流化してんじゃね?
あとは王朝交代説なんて極力ふれないようにするって空気じゃん。
露骨に「つながってる」っていうには学界は世間ほど右傾化してないからなw
痛し痒しでどっち方向にも余計なことは言えないだろ
保身が第一の連中ばっかりなんだしw
>>154 そりゃどっちについても変なのに噛みつかれるって分かってるからな
必要もなくあえてそこに触れる学者はおらんだろ
156 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 10:28:55.76
>>150 > 大和入りするのにやたらと年月をかけているのが不思議だな
>
> 武力闘争があったかどうかは不明だけど大和のなかには余程抵抗を示す豪族もいたんじゃないか?
武田と上杉も年中激戦やっているわけではないからね。
農閑期だけ戦争やっていたら時間かかるでしょ。
>>154 今更1500年以上前の文献が見つかるとも思えないし
宮内庁が古墳掘らせてくれない以上どうしようもないから
学問で扱うものではないんだろ
158 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 22:55:07.27
播磨の二皇子も怪しいよ。
三輪も怪しい、河内も怪しい、継体も怪しい。
いやいや、播磨も怪しいし、河内も古市と百舌鳥とで怪しいよ……
で、そんな「途切れ途切れ」の王様たちを、後世に一つの家系にしちゃっただって?
そっちのがよっぽど怪しいわ。
160 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 00:29:40.96
継体の出身氏族は新羅系の息長氏かもね。
163 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 01:37:17.58
古墳時代では複数の氏族から王が出てても、
奈良時代以降の人は単一の氏族だと解釈しそうだね。
なるほどな。
そう考えると、古墳時代の輪番制だか複数王家だかのgdgdをまとめ、
統一律令国家日本を建国してその後千数百年に渡って続く天皇家ってやっぱ別格だな。
いくら天皇の系譜が信用できないと言っても残ってる資料が天皇家の監督下にあったものしかないんだから
どうしようもない記紀に反する文書はとっくの昔に焚書されてしまった
ここはやはり古墳を掘ってDNAを調べるしかないだろ
奈良朝の時期に禁書令を出して墓誌まで提出させてるからな
大規模な歴史の調整が行われたことは間違いない
金印クラスの国家でありたいがために、倭の五王などと天皇家を無理矢理結びつけるのが目的だったと個人的には妄想する
実際のところは奈良朝期すでに情報が錯綜しすぎて良くわからない状態だったんじゃないのかな
167 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 12:34:31.91
新羅の場合は三王家があるが、
金氏も本当に単一の氏族だったか怪しい。
168 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 12:41:25.97
日本では王家に氏が無い。
王朝交代しても区別付かなくないか?
169 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 17:49:29.64
>>160 神功皇后も新羅のアメノヒボコの血を引いてたな。
170 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 17:50:53.54
新羅系の神功皇后や継体天皇が新羅と特に争っているのは皮肉か
>>170 神功皇后を先祖にもつ日本人は新羅系の韓国とときどき喧嘩してるし。
172 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 20:54:45.62
辛国息長大姫大目命神社というのもあるし、やはり息長氏は新羅系では?
で、息長氏がそれまでの王家と親戚だったので新しい王として
大和の豪族に推戴された、ということでいいのか?
辛国息長大姫大目命=三韓征伐の神功皇后(母方の祖父が新羅王子アメノヒボコ)
で、息長氏の祖が神功皇后の子の若野毛二俣王
間違えた曾祖父だ
175 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 06:38:45.72
>>166 > 実際のところは奈良朝期すでに情報が錯綜しすぎて良くわからない状態だったんじゃないのかな
天武天皇の頃には既にそうだったと思うね。
176 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 03:10:05.68
177 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 08:12:44.46
初期の天皇の妻がやたら小さい豪族なのは割とリアル。
ある程度フィクションが混ざってるのは仕方ないけど
基本的には真実を書いていると思うよ
天皇家と各豪族たちの伝承を比較検討して事実に近いと思われる伝承を採用したんだろ。
まったくの創作と決め付ける戦後史学の思考はどうかしているよ。
戦後史学でも多かれ少なかれ事実を含んでると考えてるはずだが
>>179のいう戦後史学はどこの世界?
>>180 大学で歴史やらないと、時系列は大体は正しいのではないか?
と言う話は教えてもらえないから、民間に流布されてるレベルの話でという認識じゃないかな
後に朝廷の元となったヤマトの始祖がイワレビコで周辺諸国を糾合して統一戦争を始めたのが
崇神以降だと思うのだけどね
だから、どちらも王朝の始祖といえば始祖
182 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 15:08:26.51
松平に住み始めた奴が神武で、
初代将軍の家康が崇神みたいなもんだな。
古代の王位が輪番制だなんて何の根拠があって唱えてるんですかね・・・(疑問)
184 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 21:26:34.78
輪番制ではなく合議制。
共和政ローマ帝国の事例を検討し給え。
>>184 そうじゃなくて古代日本で王様が複数の豪族で回していたとかいう話はどこから出てきたの?なんか証拠でもあるの?
ということでは?
186 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 23:16:34.50
>>182 それに近いと思うが
崇神より数代前から徐々に全国政権になっていったと思われる。
古事記の孝霊天皇の条に
大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口以言向和吉備國也。
とあるから このころ吉備が大和に組み込まれ、統一の基盤がつくられたと思える。
崇神がはっきり初代と扱われなかったのは大和が徐々に全国政権に拡大していったからでしょうね
帝記、旧辞、上宮記、どれか一つくらいは残っててほしかったなぁ
そうしたら古代史ももう少し解明されてたのにな
実に惜しい
日本書紀の系図一巻も失われた。これもあればなあ。
最近は江戸時代の天皇家の系図まで怪しいとか言われる始末そういう珍説のたぐいはまあいいとして
一般人的には在位100年越えとかの天皇は即架空の人物認定なんじゃないかね
いや欠史八代架空説だって即認定じゃなくて
ある程度は論拠を積んでるはずだろう
小学生の時に読んだ日本神話の本には、
「欠史八代は何事もなく、平和な時代が続きました」
って書いてあった覚えがある。物は言いようだなとw
スマホン天皇
聖徳太子はいなかった、とか
卑弥呼と邪馬台国はなかった、とか
天皇制は続いてなかった、とか
最近、日本史を根底から覆すような衝撃的な意見を度々耳にするけど、それを証明する資料や根拠が全然無い。
聞いてみれば全部推測、聖徳太子も「一度に複数人の声を聞き分けることが出来ないから実在したとは思えない」という自称専門化の推測が根拠となっているが、それは人物の存在を否定する根拠には絶対ならない。
それだったら金正日も金日成も「生前に数々の奇跡をおこしてきた」「死後に動物が一斉に黙祷した」とかわけのわからん逸話があるから、1000年後には存在しなかったことにされてるかもな。
そういう神々しい逸話はその者の権威性を高めるために作られた創作ってパターンが多い。話を組み立てたいならまず資料をもってこい。
聖徳太子は、邪馬台国(九州王朝)最後の皇太子
>>190 だから「一般人的」にはだって
よく天皇の系図の連続製を否定するために示されるのが
系図だと100年以上生きている天皇が何人もいるが常識的に考えてそんな事はありえないというもの
196 :
日本@名無史さん:2012/03/15(木) 21:52:40.00
他国の継承方法は参考にならないものか?
197 :
日本@名無史さん:2012/03/15(木) 22:21:56.75
「日本」は「天皇による国号」であって、天皇をなくすなら日本もなくなる。
もちろんそれは日本人の問題であって朝鮮人にはもとより関係ないことだが。
>>195 「一般人的」のうち「人」の字を見落としてた
スマソ
>>197 遅くとも現憲法が出来た時点で違う
天皇制をなくしても日本という国は存続可能になった
>>191 2代目は人の頭開いて脳みそ食べちゃうような人なのにw
(「悪人限定」なんだろうけども)
ウン百歳の人物とかが問題なのはその人物自体の実在よりも資料の信頼性じゃね?
即架空人物認定までいかなくてもその人物の記述を鵜呑みにはできなくなる
そして「あ、この資料はいくらでも都合の良い嘘書くんだ」と思われちゃう
記紀の編纂に際しては禁書令が出されているし、宗教的な聖典としての意味も持つ書物なわけだし
現代人的な感覚では相当受け入れにくいと思うよ
201 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 11:24:43.39
古代メソポタミアの王なんかは数百年生きたと王名表とかに載っていても
碑文から実在が確実視されてる王もいるしな
存在が確実視される王がいるからといって
その王名表の人物が全て実在で系図も全て正しいと言い張ればトンデモになる
いない人を書く方がむずかしい
いる人を抜くほうが、楽だろ
その通り往生際の悪いブサヨと陰謀厨がわめいてるだけ
古代中国の話になるが殷だってかつては架空説もあったが
遺跡が出たから存在したことは確定した
でも紂王が伝承のような暴君だったかどうかまではまだ分かってない
一説には初期の周には飲酒文化が無くて
殷の飲酒文化が堕落に見えたとか
206 :
日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:14:09.60
「記述がないから存在自体が架空」とかいう説も意味不明だな。
208 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 02:44:41.35
応神天皇渡来系説の根拠は、
・神功皇后の母は渡来系(アメノヒボコの子孫)
・神功皇后の名は「息長」、さらに応神天皇の子孫に「息長氏」がいるが、
息長氏は渡来系
・神功皇后が朝鮮に出兵している最中に応神天皇を妊娠している。
209 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 02:54:41.24
・八幡神社は新羅の人間の信仰が元になってる
210 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 06:50:34.27
欽明朝が権力の正当化をするために、神武からの神話を作り上げたんだろ!!
欽明朝をつくった人物は誰か!?
欽明朝とともに表にでてきたと言えば、もちろん!
211 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 08:54:57.90
212 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 11:15:33.38
全くデタラメじゃないよ。
213 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 11:57:41.91
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
【殺された石井こうきの発言から】
オウム、北朝鮮、麻原サブリミナル、左翼政権誕生→阪神大震災、サリン
韓流信奉、韓国、韓流サブリミナル、(反日)左翼政権誕生→東日本大震災、原発事故
似ているね
てかそのものか。 そうか、統一教会、朝鮮総連、民団→民主党
214 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 14:17:30.38
「応神って他人じゃね?」って記紀の編纂者も考えてたんじゃないのか?
「“神”功」「応“神”」って付いてるし。
初期の天皇の諡号は記紀のさらに後にまとめてつけられたんだよなぁ・・・
ホラふいて楽しい?
息長氏は渡来系ってどういう意味だ?
応神天皇の子孫なら息長氏は当然皇別になる
217 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:36:54.86
継体と息子2人は、磐井の反乱が収束したら邪魔になって、宴会の席で始末されたんだろ!!
誰が始末したか!?
218 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:47:44.74
香春神社だったかの祭神が「辛国息長姫」とかいう名前だったけか。
辛国息長姫は神功皇后のことでしょ
神功皇后にしても渡来系なのは母方だし
三韓を従えた事を表してるんじゃないか?
香春神社があるのは豊前国で息長氏の根拠は近江国と遠いし
息長氏と辛国息長姫の間にどういう関係を想定してるのか分からない
>>203 モデルとなる人物があればいくらでも水増し可能
いる人にありもしない逸話をもりこんだりして全くの別人に仕上げるのも簡単
むしろ文献の少ない時代だとある人物についてなんの捏造もなく正しく記載されている方が希
>216
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10年前小社で刊行し、古代史学界を沈黙させた衝撃の書「応神陵の被葬者はだれか」 の改訂新版。10年間の ...
東漢氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/東漢氏
東漢(やまとのあや)氏は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あ ... 古事記』には、4世紀末の応神天皇の時代に、倭からの要請もあり、新羅や百済 から技術者・文人が多く ...
>>217 崇峻天皇弑逆事件とかね。
>>218 春香(シュンコウ)は新羅系・秦氏系ですね。
224 :
ディアボロ:2012/03/18(日) 11:20:52.64
ウザイよ
宮内庁関係者ども!
225 :
ディアボロ:2012/03/18(日) 11:22:30.30
うだうだ言ってないで
楽して稼げる国家公務員の
宮内庁万歳!
といえよ!
226 :
ディアボロ:2012/03/18(日) 11:25:49.18
過去の歴史が現代に与えた影響
しかお前らの話すネタはないだろ
それも幼稚園児みたいな定理でモトズ板理論で
読むだけでも吐き気がする
私達は天皇のケツノアナを舐めて生きています!
とはっきり述べろ虫けらども!
227 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 15:48:07.47
日本国内ではほとんど見かけることのない現代自動車やサムスンのテレビが売れているというのも、どうやら広告代理店による情報操作らしい。
実は、古代にも広告代理店は存在したし、広告代理店の策略によって邪馬台国の女王卑弥呼は、魏が文化の進んだ大国だと信じ込まされてしまったのだ。
だから、広告代理店と商社に高い金を払って使いを送ったのだ。
しかし、実際のところ三国時代の魏や蜀や呉は、戦争に明け暮れて人民は疲弊し、文化水準は高いとはいえなかった。
229 :
ディアボロ:2012/03/18(日) 17:43:31.04
なぜか
内容が無理やり
宮内庁から
違う方向にw
230 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 19:55:36.27
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欽明が継体の子かどうかが非常に重要。
どっちだろう?
233 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 01:54:51.82
継体の子供じゃ無いだろ!
継体のあの歳じゃ可能性は少ない。
234 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 12:51:41.88
>>219 近江でなく、もとは河内という説もあるね。
235 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 22:27:55.62
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テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな
継体天皇に指定される人物は
普通に先代の天皇の遠い傍系の皇族だった人物だろう。
天皇家の系図も、ほぼ正しいと思うけど
あの系図にある人物たちが、
本当に倭王(天皇)に即位していたかどうかは分からない。
それと似たようなことが中世にもあって
それが、南北朝の動乱。
北朝の天皇が正当か、南朝の天皇が正当なのか
常に議論がって
幕末までは、北朝の天皇だけが正当であり、南朝の天皇は
即位してなかったことにされ、ただの親王号で呼ばれていた。
おそらく、古代の天皇の時も似たようなことがあり
現在の天皇の祖先であるイワレ彦も、
記紀編纂後は、初代天皇の神武天皇とされたけど、
記紀が編纂される以前は、
ヤマト朝廷のただの王族の一人であるイワレ彦とされていたかもしれない。
その場合、イワレ彦とは別に倭王に即位した人物がおり
そちらのほうが、初期のヤマト朝廷の正統な倭王とされていたはずである。
また、その人物は、高い確率で、イワレ彦とは同族の王族だったはずである。
倭国大乱とは、同族間による倭王の地位をめぐる対立である。
卑弥呼(モモソ媛命)の即位で一応の平和が訪れた。
もともと、倭国は一人の男王によって統一され、
代々、男王によって継承されたが
やがて、倭国大乱によって、卑弥呼(モモソ媛命)によって再統一された。
この倭国を統一した男王こそ、天照国照彦という人物であり
かれは、出雲国譲りによって、倭国の統一を成し遂げたので
天津と国津の両方の支配者という意味で、天照国照彦と呼ばれたのであった。
この天照国照彦には、ニニギという弟がおり、
兄の命令で、九州高千穂に赴任する。
このニニギ命の曾孫がワカミケヌであり、
後にイワレヒコ、さらに後世には神武天皇と呼ばれた。
そして、このワカミケヌの7代あとの子孫が
モモソ媛命(卑弥呼)である。
キモくて寒気した。照彦!
>>239 簡潔にまとめるのは大変だが
魏志倭人伝によると、
「倭国では、もともと、一人の男王によって建国され
それから数十年経過したが、やがて、倭国大乱が勃発し
歴年争うような時代に突入する。
その結果、倭国では臣下たちが話し合いで卑弥呼を女王にして
乱を鎮めたとある。」
魏志倭人伝の作者によると
この倭国を建国した一人の男王と、女王卑弥呼は同族であり、
同じ王朝内の出来事という認識なのである。
もし、この男王の建国した国と、卑弥呼が擁立された国が別なのならば
卑弥呼の時点で易姓革命が起こったことになり
魏志倭人伝に「この国は、もともと、一人の男王によって建国され」
というくだりは出てこないのである。
この卑弥呼に指定される人物が、
ヤマトトトヒモモソ媛命とされる説が強くなっている。
だとしたら、邪馬台国(ヤマト国?)による倭国を建国した
最初の男王は誰なのか?という疑問が出てくる。
そこで、この最初の建国した男王は、ヤマトトトヒモモソ媛命の7代前の先祖である
イワレヒコ(神武天皇)なのでは?というふうに思いやすい。
天皇家の系図から考察しても、そう思ってしまう。
でも、自分が思うに、それは違うように思う。
だからこそ、途中、倭国大乱みたいなことがあったのであろうと思う。
自分が推測する最初の邪馬台国の倭王とは
ヤマトトトヒモモソ媛命の10代前の先祖であるニニギ命、
このニニギ命の兄とされる火明命(通称:天照国照彦)こそが、
最初に建国した邪馬台国の倭王だと思うのだ。
倭国大乱なんぞ実在しない。
魏志倭人伝に「倭国乱」とあり、大の字は後漢書が勝手につけただけ。
それしきのこともわからんやつが何をいってもまったく説得力なし
>>241 >このニニギ命の兄とされる火明命(通称:天照国照彦)こそが、
最初に建国した邪馬台国の倭王だと思うのだ。
で、その火明命の子孫が尾張氏で弟の子孫である天皇家よりも格上、ってか?
アホらしい。
244 :
日本@名無史さん:2012/03/23(金) 18:28:01.93
平成天皇も最近、イスラエル人のように鼻がたれてきました。
天皇家は、朝鮮半島経由でやっとカナンの地つまり河内へ辿りついたということです。
河内王朝仁徳こそ、現天皇家の繋がる最も古い王統です。
ところで、河内王朝の特徴の一つが百済系の地名や社寺、そして環濠集落です。
仁徳天皇陵のある堺市、大阪市平野区の百済・喜連 喜連瓜破、奈良県北葛城郡広陵町南郷の環濠集落、近江の百済寺にも環濠集落があります。
百済からの渡来人は、大阪や奈良、近江などの畿内だけではなく、その後全国に広がっていきます。
それは、足利幕府に繋がる系統だからだと推測されます。
>>244 そういうアホらしいトンデモ説には興味がないよw
イスラエル人でも、日本天皇がユダヤだなんて信じるのは
眉唾物あつかいだよw
>>243 播磨国風土記や旧事本紀を読めばわかるけど
ヤマト朝廷の建国は、出雲国譲りから。
で、その出雲国譲りがなんだったのかというと
出雲の王の大国主命が、娘婿だった
ヤマトの王の火明命に、国譲りした事件だったつーこと。
よって、天下の覇権は
大国主命から、義理の息子(娘婿)だった火明命に
国が譲られ、
さらに、火明命の後を継承したのが、香語山命。
香語山命は、父がヤマトの火明命、母が天道日女命(出雲の大国主の娘)で
父系でヤマト、母系で出雲という、両者の統合の象徴だった。
そういう風に考えた場合、火明命の弟のニニギ命の子孫である
現在の天皇家の正統性が微妙に揺らぐということ。
>>244 :日本@名無史さん:2012/03/23(金) 18:28:01.93
>平成天皇も最近、イスラエル人のように鼻がたれてきました。
医学的に見ても、馬鹿丸出しの説だよなw
その人物に最も近いのは、直近の両親で
数十代前の先祖とは、DNAでみても、数百万部の一くらいしか
血が受け継がれていない。
イスラエル人みたいに鼻が垂れてきたとか、馬鹿丸出しの説w
そもそも、百済って、扶余だから、満州族の系譜だろうがw
満州族は、日本人とも、ユダヤ人とも、Y染色体でみても、違う系統だぞw
>>247 親族同士で結婚を繰り返し、血糖を維持してきた天皇家とその他の雑民を比べられてもなぁ。
それに支配層と被支配民の種族が違いことはよくあること。
その程度のことはわかるだろう?
なんでもユダヤを持ち出す人は
いったい何がしたいんだ
250 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 08:51:33.29
みんなもっと証拠資料を出して議論しろよ。このレスは何でも有りか?。
劣等感裏返しスレ?
証拠がなければ一歩も進めないのは検察官の仕事。
学者の先生の仕事もそれに似ている。十分な証拠がなければ学術論文は書ないのだ。
しかし、その証拠が常にすべて揃っているわけではない。
少ない証拠と、それをつなぐ大胆な発想で歴史の全体像に迫れるのは、自由な立場で発言できる素人研究者の強みでもあるのだ。
自由な発想のできないソース出せくんは、たこ焼きか焼きそばでも食ってなさいってこった。
そして玄人なら絶対しないミスをしかねないのが素人の弱み
254 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 15:04:50.26
>>250 古代史は物証が少ないんだから仕方ない。
>>252 日本の検察官は証拠がなければ自分で作りますよ
>>248 少なくとも、遺伝子上は無関係だよw
そもそも、現在の皇太子以降は、半分が庶民だろう?
江戸時代の天皇でも、母方が、下級武士と八百屋の娘だった場合もあるしな。
一代変わるごとに、血統が半分づつ入れ替わるんだから。
257 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 21:32:05.08
>>256 > 江戸時代の天皇でも、母方が、下級武士と八百屋の娘だった場合もある
具体的には何天皇?
光格天皇の母親だろう?たしか。
下級武士と八百屋かどうかは知らんけど
以下はWikiから
大江磐代
日本の皇族。閑院宮典仁親王の女房。
光格天皇の生母で、明治天皇の高祖母にあたる。
延享元年(1744年)に伯耆国倉吉(鳥取県倉吉市)で、
鳥取藩の家老荒尾氏の家臣だった父・岩室宗賢と、
鉄問屋の娘であった母・おりんとの間に生まれる。幼名はおつる。
9歳のときに浪人して町医者となっていた父・宗賢とともに京に上がる。
養女となり櫛笥家に仕えるなどの経緯をへて、
十代のころには橘姓を名乗り「大江留子」として
籌宮成子内親王の侍女となった。
その後、成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐと磐代も女房として
親王の寵愛を受け、三人の皇子をもうけた。
その長男で閑院宮典仁親王第六王子・師仁親王は、
皇子のいなかった後桃園天皇の第一皇女・欣子内親王を中宮に迎え即位した。
天皇の生母としては、当時では異例の出自の低さであった。
典仁親王没後は出家して蓮上院となり、
次男で聖護院門跡宮家を継いでいた
閑院宮典仁親王第七王子・盈仁入道親王のもとで暮らした。
父・岩室宗賢もその縁で家臣に取り立てられ法橋の位を与えられていた。
文化9年(1812年)に69歳で没し、盧山寺に葬られた。
1878年に従四位、1902年に従一位を贈られた。
>>249 ユダヤを持ち出すやつに、左翼以外にも
アホナ右翼が多いのには驚く。
左翼と右翼が似た者同士ってのは納得できる。
書記はウソがおおい。
まず、誰が(どの部族、グループ)が書いたのかを特定することが大事。
目的は自分たちの部族を持ち上げ、敵対する部族を卑下するのためだと思うが。
>書記はウソがおおい
どんな史書も似たようなもん。
>>260 中には、そういう記述もあるだろうが、
でも、それだけでは説明つかない記述も多くある。
よって、日本書紀だけ、目くじらを立てて否定しまくる意味が分からない。
263 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 13:59:04.11
気
あ を
の 付
民 け
元 主 .ろ
朝 党
鮮 .員
人
圖
∧_∧
( ´∀`)
( ○ )
280 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:26:01.31 ID:sGoAT50E
三年前ごみんすに投票した連中、今どんな気持ち?
287 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:27:00.18 ID:P8V2Yy+50
>>280 橋下様なら何とかしてくれるとお経上げてるよ。
09年の選挙では 民主なら誰でもよかった
今度の選挙では 維新なら誰でもよかった
幾らB層でも流石にこうはならないな
>>246 馬鹿馬鹿しいw
神武以前は「神話」。書記の編纂者も「史実」としての責任を負っていない代物だ。
出雲が大和朝廷の軍門に下ったのは崇神天皇のときだ。それが公式(日本書紀が認める)「史実」だ。
神武以前に大和と出雲に何か覇権争いのようなものがあり、それが「国譲り」の神話となって語り継がれたのかもしれない。
しかし、それは天皇家のあずかり知らぬ話。「正当性」など知ったことではない。
265 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 10:02:45.49
てか、関祐二氏も言っているが、
天火明命と天皇家は同族でしょ。
天皇家のことはしらんが、うちは間違いなく安徳天皇の直系の子孫
267 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 20:15:17.51
>>262 その書き込みは日本書紀の擁護にはなってなくね?
>>264 >出雲が大和朝廷の軍門に下ったのは崇神天皇のときだ。それが公式(日本書紀が認める)「史実」だ。
息をするように嘘をつくなよw
日本書紀では、神武よりも3代前のニニギの時に
出雲国譲りが起きたといっている。
しかしながら、その後も、ヤマト朝廷は何度も混乱し
全国への統制力を失ったのだろう?
一度、統一して、それで終わりではないのだよw
統一しても、また、地方が独立化して、また遠征軍を送って統一する。
それの繰り返しなんだよ。
歴史が明確になった後も、何度も地方が独立化して、遠征軍を送っているわけだから。
>>265 関祐二なんか例に出すなよw
あいつは、ただの歴史作家。学者ではない。
でも、皇室と天火明命が同族だというのは確か。
よく、神武と崇神を同一視するやついるけど
神武と崇神ってまったく似ていない。
というか、神武と崇神の間の系図でも、
貴族との婚姻関係が複雑なのに、それを全部
無視するほうが無理がある。
自分が思うに、天皇家の先祖で正式に倭王に即位したのが
三巻入彦(崇神天皇)からだったんだろう?
それ以前の天皇家の先祖にあたる人物
神武〜開化までの人物は正式には倭王にはなっていない。
というか、卑弥呼がモモソ媛命ならば、
欠史八代のあたりは、もろ倭国大乱の時期と重なるしな。
ながすね彦は大国主の末裔で出雲族。
継体も大国主の末裔で出雲族。
筑紫君磐井も出雲族。
磐井の乱は、継体・安閑・宣かが殺され出雲族が蜂起したものだそうです。
神功皇后に反旗を翻したのは押熊皇子
神武天皇の大和制圧を妨害したのは長臑彦
さて、この長臑彦、別名をトミヒコと言うが
奈良県の「トミ」の地(登美ヶ丘、富雄etc)と
押熊町は隣接した近い地域にある
このあたりの事情からわたしにはどうしても
長臑彦=押熊皇子と思えてしまうのであります
>>272 よく、神武、崇神、応神の3人を照らし合わせるみたいなことをいう学者がいるけど
もし、自分がその当時の日本書紀の編纂者ならば
わざわざ、そんな面倒くさいことしないけどな。
偽称するならば、あまり、複雑な業績とか書かずに
適当に架空の天皇を名前だけ、ずっと簡単な系図で並べるだけだよw
>>273 そんなもの中国や諸外国に見せたら一発で嘘ってばれるやん
>>237-241 ニギハヤヒ言い出すやつは大概デンパ
それからお前はなんで卑弥呼の話ばっかりしてんの?
スレ違いだろうが。氏ね
>>271-272 お前の個人的な妄想はどうでもいいんだよ!
お前以外のレスにも同じこと言いたいんだけど
お前が特別酷いから他の人には言わない
276 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 09:12:30.58
>>269 > でも、皇室と天火明命が同族だというのは確か。
仮に同族ではなかったとしても、婚姻を通じて「事実上の同族」にはなっていただろうね。
徳川家と酒井家みたいなものだろうな。
277 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 09:14:27.75
>>268 > しかしながら、その後も、ヤマト朝廷は何度も混乱し
> 全国への統制力を失ったのだろう?
> 一度、統一して、それで終わりではないのだよw
> 統一しても、また、地方が独立化して、また遠征軍を送って統一する。
> それの繰り返しなんだよ。
室町幕府もそんな感じだったな。
そうは言っても同じルートで同じ場所にいる敵を
倒した伝承が重複してるっていうのは胡散臭いな
さらにはその何度もあった混乱の中で今の天皇家の先祖が
ずっと頂点の座を維持していたなんてよほどの証拠がなけりゃ
信じられない
しかし現実には倭の五王ですら天皇家の系譜に同定できない有様
279 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 12:29:06.75
>>278 > そうは言っても同じルートで同じ場所にいる敵を
> 倒した伝承が重複してるっていうのは胡散臭いな
それはいえる
●継体天皇を執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう執拗に語ろう
281 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 16:44:08.32
>>278 倭の五王は、どの天皇なのか、あてはめることができるよ。
当時の漢字の音韻の解釈でほぼ可能。
ただし、倭の五王ではなく、倭の六王なのでは?という説もある。
最後の倭王武は、西暦5世紀と西暦6世紀は違う人物って説もある。
ちなみに、倭の五王は、天皇とは無関係とか言い出したのも
邪馬台国九州説の一部だったりする。
どちらにも共通するのが、天皇が中国に朝貢したなど
けしからんって発想から。
>>268 アホかお前w
「神話」を「歴史」扱いしてすき放題語るのは関祐二のような夢想屋のやることだ。馬鹿。
>日本書紀では、神武よりも3代前のニニギの時に
>出雲国譲りが起きたといっている。
だ・か・ら、それは「神代」だって言ってんだろうが。馬鹿w
ローマ神話は丸々ギリシア神話を転用しそこにローマの神々の話を挿入したものだ。神話は事実を語るものではない。
せいぜい「何らかの事実が反映しているのかもしれない」程度の認識でとどめておくものだ。
それは神話の価値を貶めるものではない。史実かどうかは別として先祖から受け継ぎ次世代へ伝承していくべきものだ。
ただ天照大神や大国主命の物語は、神武天皇からあとの物語と同程度に史実の反映とみなすべきものではないのだよ。夢想家さんw
日本天皇及太子皇子、倶崩薨は本当でしょ
285 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:37:41.15
朝鮮人犯罪があまり報道されない理由、テレビ番組が息を吐くように嘘を付く理由
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)
日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
286 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 04:40:08.63
>>284 朝鮮サイドの記録にも「これは伝聞情報で裏はとっていない」と書いてある。
事実だったとしても
暗殺などではなく、藤原4兄弟のように伝染病で死亡した可能性もある。
>>282 同定できてないよ
倭の五王=大和朝廷だとする学者の中でも誰が誰だかバラバラだし
どの説にも証拠がない
記紀には漢風に漢字一文字の名乗りをした大王なんていないし
朝貢の記録すらない
記紀を信じるならば倭の五王は天皇家とは無関係
江戸や明治の国学者ならともかく、中国大好きの天武・奈良朝の書が
倭の五王の朝貢を隠す動機もないしね
288 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 05:31:17.78
天武の時代には、既に倭の五王に関しては大まかなことしか伝わっていなかったんだと思う。
>>288 んなことはない。
中国の史書もあるんだしな。というか、
唯一の資料たる中国正史は読める立場にあったんだし。
倭の五王に関する、この資料状況は、現代となんら違いはない。
捏造するなら比定できる形で書けばいいのに
それをしない所も記紀の信憑性を裏付けてるよね
大和朝廷がすでに存在していたはずの時代に他の勢力が倭王を名乗り朝貢していたとしても
大和朝廷の大王が朝貢していたとしても、やはりそのことを書かないのはおかしい
うがった見方をすれば何かを隠すために倭の五王に触れるのを避けたとも考えられるけど
天武の頃には倭の五王が何者か断定できるだけの資料がなかったと言うのが素直な見方なんじゃないかな?
ただ、そう推測したら今度は倭の五王が何者かもわからないのに同じ時代の系図が残っていると言うのが胡散臭くなる
>>283 古事記のほうでは、神代と人代の区別がないんだよ。
明確に分けたのは、古事記よりも後に編纂され
正史とされた日本書紀のほう。
で、日本の神代を研究すると、明確な区切りがあって
それは、天照とスサノオの時と
天忍穂耳命、天穂日命らの兄弟以降の話とだ。
天照とスサノオのころの話は、流石に神話という扱いだが
天忍穂耳命、天穂日命とかは、実際にいた個人のことを書いているんだよ。
日本神話では、天照と天忍穂耳命の関係を母子の関係としているけど
各地の古い神社の伝承なんかでは、天照を無視して、天忍穂耳命からスタートさせたり
あるいは、天照を、天忍穂耳命のずっと遠い前の先祖みたい解釈にして
事実上、天照と天忍穂耳命直接的な関係を否定している。
>>291 >大和朝廷の大王が朝貢していたとしても、やはりそのことを書かないのはおかしい
そんなことはないだろ。
他王朝・他地域と認識してるのなら、それを書かなくて当然。
琉球や北海道のことだって記述してないし。(当時何もなかった訳じゃない)
ま、天武の時代にどこまでを「我が国」として認識してたのか、という問題がある。
あるいは、5世紀段階では「我が国」ではなかった、という判断も有り得るし。
>>287 倭王の正式名称は、長たらしいから、中国人には、全部、書ききれないから
略して漢字の一時で記してあるのだろうが
漢字の音韻から、だいたい、指定できる。
少なくとも、倭の五王の中には、応神とか仁徳にあたる人物はいない。
それ以降の5人の天皇(+1人の天皇)がいる。
また、倭の五王ではなく、倭の六王ではというのは、
最後に中国の朝貢した倭王武が、それ以前の倭王武とは異なる天皇の可能性が高い。
倭王武は、一般的には雄略天皇ではと言われているが
最後の倭王武に関しては、雄略天皇ではない。
「讃」→履中天皇
「珍」→反正天皇
「済」→允恭天皇
「興」→安康天皇
「武」→雄略天皇
西暦500年代の「武」→清寧天皇
>>293 中国まで行って金印をもらってこれるほどの大国があれば、そことの外交的なやりとりや戦争が記録に残るよ
北海道や琉球みたいに国家と言えるほどのまとまった勢力がなく、交通手段も限られていたとは考えにくい
>>294 中国の史書が他国の人間の名前を強引に一文字にまとめるという例が他にどれだけあるのかな?
あまり例がないことだと思うんだが
296 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 13:56:19.46
>>291 > 天武の頃には倭の五王が何者か断定できるだけの資料がなかったと言うのが素直な見方なんじゃないかな?
そうだと思うね。
伝承を記録することを怠ったんだろうね。
297 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 13:59:22.30
>>295 > 中国の史書が他国の人間の名前を強引に一文字にまとめるという例が他にどれだけあるのかな?
> あまり例がないことだと思うんだが
遣唐使の時代でも、日本の使者は、日本での本名とは別個の唐風の名前を名乗っていたからね。
日本側が「倭王の武の使者です」などと名乗っていたんだろうね。
中国側が強引に一字にまとめたなんて馬鹿なことをいってるやつは
倭王武の上表文も中国側が勝手に書いたって言い出しかねないなw
倭王本人じゃなくてもそのスタッフは漢文の素養があったわけだから
対中国用の漢風の名前をつけるぐらいぐらい朝飯前だろうに。
讃…讃える人の意。中国を讃える人ですっていう挨拶みたいなもの
珍…珍しい人の意。中国にくるなんて倭王にしちゃ珍しいでしょってアピール
済…橋渡しの意。代理の王か摂政的な立場だったんだろう
興…復興、再興の意。新しい家系に移って初代だったか復興の功労者だったか
武…上表文の内容からつけた自称キャラ。
武がワカタケのタケ(武)で雄略だとしたら、
倭の五王の一字名は、大王の名前の音ではなく訓を表わしていることになる。
讃[賛]……ほむ・ほめるの意からホムタワケの応神か。
但し日本書紀によれば応神が「呉」に遣わした使者が帰国するのは仁徳朝に入ってからで、
仁徳が以降も「讃」の名を使用し続けたか。あるいは中国側の拡大解釈か。
履中は在位が短いとの伝えもあり、遣使はしなかったか。通交の無かった王が省かれる例は、
「明史」の足利将軍にも見られる。
珍王が「讃の弟」とされるのは、本来は「前王の弟」の意であったか。
珍[彌]……みず=「瑞」でミズハワケの反正か。
済……あさ=「浅」の錯誤でアサヅマワクゴの允恭か。好太王碑には百済を「百残」と記している。
興……あな=「穴」の錯誤でアナホの安康か。
武……たけ・たけるの意からワカタケの雄略か。
300 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 15:32:47.32
>>294 倭の五王の通交は南宋のみ(578年の記事が最後)
武の579年(南斉書)、502年(梁書)の任官記事は建国時の一方的総花的なもので
こちらの内情とは無関係
>>297-298 臣下の小野妹子が蘇因高と名乗ったことが記録されているのに
君主のワカタケルやホムタワケの外交上の名前が記録されてないってまた釈然としない話だなぁ
そもそも南朝への朝貢自体が記録されてない時点でマユツバなのにさらに説得力が無い
5世紀も7世紀も同じ歴史の記録のされ方がされてる、という前提ならそうだが、実状は違うだろう。
7世紀は政治的・文化的発展の時期であり、歴史的出来事を文書として記録するということが
一次史料としてではないとしても、行われ始めた可能性はある。
「天皇記」「国記」編纂の記事や、実際この時代あたりから木簡資料が登場することからも。
しかし5世紀は、文字の使用が無かったとは言わないが、
これまでの文字資料の発掘成果(極めて少ない)から推測して、
日々の記録だの史書の編纂だのなんてのは、まず考えにくいのではないか。
よってこの頃の出来事は主に口伝となる。詳細は省かれるし、内容は物語的になっていく。
古代の中国人の倭に関する当て字は、
言葉の意味は関係なくて
基本、発音をもとに当て字していると思われる。
その当時、倭語を漢字で表す文化がなかったのだから
倭語の発音をもとに、適当に発音の近い漢字を当てたものが殆ど。
304 :
日本@名無史さん:2012/03/28(水) 19:19:20.82
ナシメ とかはそうだろうね。 帥升とかもそうだろうね。
五王より時代が古い卑弥呼は…
と思ったが書簡で自称した可能性があるか
>>304 西暦12世紀の魏書東夷伝の写本では「難升米」、
日本書紀の注意書きでは「難斗米」とあり、
西暦3世紀の漢字の音韻でいうと
「難升米」=「ナシミ」
「難斗米」−「ナトミ」
と呼ぶ。
「難升米」か「難斗米」、どちらが正しいかは分からないが
この人物の正体は
梨迹臣(ナシトミ)の可能性が高い。
中臣氏、藤原氏の御先祖様にあたる人物で
モモソ媛命、三巻入彦(崇神天皇)時代の倭国の重要な政治家。
この人物が、魏国の洛陽まで、倭国の外交使節として行った可能性がある。
>>306 記紀の崇神天皇の時代に魏との外交に関する記述はない。任那が朝貢してきたことは書いているのに。
そもそも九州に進出したのさえ景光天皇になってから。
崇神天皇は畿内の覇権を確立していた。狗奴国はどこ?
邪馬台国が畿内、九州のどちらにあろうと、現在の天皇家につながる大和王権とは関係ないと思うよ。
308 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 05:33:29.20
>>307 > 邪馬台国が畿内、九州のどちらにあろうと、現在の天皇家につながる大和王権とは関係ないと思うよ。
少なくても、婚姻を通じての結びつきはあったと思う。
そもそも邪馬台国は日本にあったの?
中国側が勝手に後の日本と魏に朝貢した邪馬台国を「倭」という同類項でくくっただけで全くの別物という可能性はないの?
>>307 >そもそも九州に進出したのさえ景行天皇になってから。
そんなこと、どこにも書かれてないw
景行天皇の時に、九州に遠征したとは書かれてはいるけどw
景行天皇の時に、ヤマト朝廷が初めて九州に遠征したとは書かれてないw
だいたい、彼のずっと前の先祖であるイワレヒコ(神武天皇)は
九州の日向からやってきたぐらいなのにw
ヤマト朝廷が初めて九州に進出したのは景行天皇からだなんて
どこにも書いてないぞw
>>307 >崇神天皇は畿内の覇権を確立していた。狗奴国はどこ?
狗奴国(コノ国)=許乃国(コノ国)
のことでしょう?
京都の宇治にあたりの旧名。(山城国風土記逸文より)
ここの国の領主が、武埴安彦命。孝元天皇の庶長子。
彼の母方や奥方は、河内彦の家系。
武埴安彦命の乱では、外戚の河内彦がバックにいた。
自分の一族の外孫である武埴安彦命を
倭王(天皇)に即位させたかたったのは容易に想像がつく。
魏略によると、狗奴国の副官は、拘右智卑狗(コウチヒコ)であり
拘右智卑狗が背後で、狗奴国王の卑弥弓呼を支えていたことが分かる。
312 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 17:38:20.38
>>308 >少なくても、婚姻を通じての結びつきはあったと思う
ソース出せ
313 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 19:02:00.18
貧民窟
>>309 魏志倭人伝で対馬・壱岐・糸島・松浦について言及してる
(特に壱岐では記述に沿う遺跡が出てる)のを考えると
後の日本国内でないというのは無理がある
ただ中国史書の「倭」と後の日本を区別する発想には同意
315 :
日本@名無史さん:2012/04/01(日) 15:12:30.83
邪馬台国の所在地だが
野球にたとえると
近畿説が九州説を2点ぐらいリードしていると考えてよろしいか?
>>316 読みは「まつうら」ではなく「まつら」。
古代社会の現代のように厳密に規格された読みのある時代でない時代には
松浦「まつろ」だったのかも。
益荒男、丈夫(ますらお)とは勇敢なもののこと
末廬の男はみな勇敢だったのだ。
>>314 あれは、唐の時代だったかな?
でも、あれには、倭国と日本は別だったと言ったかと思えば
倭国と日本は同じだとか言ってみたり
言うこと、二転三転しているんだよ。
要するに、当時の日本の外交官らは、倭国という名前が大嫌いだったので
中国に対して、なんとか変えてくれと言っているわけで。
そこで、倭国という名称は、自分らの王朝よりも前の時代に名乗られた名称で
自分たちの王朝は無関係だと言っている。
倭国という名称は、周王朝が健在だった時代からの名称らしい。
だから、ヤマト王朝が誕生する以前から、あった名前だろうね。
出雲が外交権を握っていた紀元前1世紀の時代よりも前から
日本の名称は倭国と呼ばれていた。
その後、紀元前1世紀から紀元後1世紀ぐらいに、ヤマトが出雲を倒して
倭国の覇権を握ったが、ヤマト王朝は倭国の名前を継続して使った。
西暦8世紀以降、日本国内で漢字が広範囲に広まり
その過程で倭国という名称は良くないという意見が出て
変えてもらうことにした。
中国から見て東の海の向こうを漠然と倭と言ってたのかも
かなり時代が下ってるが「倭寇」の「倭」もそういう意味合いに思える
>>293 >古事記のほうでは、神代と人代の区別がないんだよ。
事実上、上巻で神話、中巻から神武の具体的な事跡というふうに区別されているだろ。正史である日本書紀より厳格でないというだけで、
古事記が神武以前も歴史として扱っていることの論証にはならんね。
日本書記も古事記も、九州からやってきた神武が、大和のごく一部(葛城)を乗っ取って成立した小さな「クニ」が
拡大、発展して現在までつながる「日本」になったとしているんだ。神武以前の大和や出雲を誰が支配していようと
知ったことではないし神武以降の皇室が日本を支配する正当性に疑義などもたれんよ。
大和の最有力地域は考古学上も三輪地方だ。葛城地方を支配していたにすぎない天皇家がそこを攻略して大和全体の支配者となったのは
崇神天皇のときだ。日本書記にはこのときに激しい戦いがあったとは書いていないから乗っ取りに近いものだったろう。
神話に出てくる神々の子孫が尾張氏や海部氏で、もともと三輪地方を支配していたのが、内紛などで崇神天皇につけ込まれて支配を許し
いつのまにか地方へはじき飛ばされたということは「あったかもしれない」。しかしそれは、「あったかもしれない」という程度の
認識にとどめとけ。それを「尾張の信任を得て継体や天武が登極できた」などと「影の支配者」みたいにあつかうのは小説家でなければ
妄想の領域だ。
織田大和守家の分家で家老格程度の家格で尾張のごく一部しか支配していなかった織田信長が、本家筋を滅ぼし、ついでに守護の斯波家も
追放して尾張の支配者になった。その後、信長の「天下布武」の際し、何か斯波家の「信任」を要するようなことはあったか?知ったことかよ。
>>310 馬鹿w出直せ。
>>322 ヤマト王権というか、前ヤマト王権が
北九州から関東ぐらいまでを支配領域においたのは
天照国照彦(火明命)が倭王の時だと思う。
それは、おそらく、紀元前後。
出雲の大国主命が、娘婿にあたる火明命に、
出雲王権の支配領域を譲渡することにより、
火明命が事実上、倭国の全体の王になった。
かれは、天照国照彦と呼ばれるようになる。
この事件を後世、出雲国譲りと呼ぶ。
火明命には、ニニギという弟がおり、
出雲国譲りの直後、九州高千穂の統治を任される。
このニニギ命の曾孫にワカミケヌがおり、
後に近畿本国でクーデターが起こったので
宗家を助けるべく、援軍として駆けつける。
その後、その時の功績が認められて、イワレヒコとして天下の政治を補佐する。
これを後世、神武東征とよび、
また、後に、このイワレヒコを神武天皇とよぶ。
324 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 00:01:55.44
濃尾に追いやられた火明命。しかしながらその直系の子孫
には権威が会ったんだろう。
>>326 読んでみたけど、頭がくらくらするw
単刀直入、あほらしいw トンデモ説。
>>325 読んでみたけど、頭がくらくらするw
単刀直入、あほらしいw トンデモ説。
>>328 うん、トンデモ説がそこかしこに、炸裂隆盛しておるね。直近の
>>320や
>>323と
いい。
宗家を助けるべく、援軍として駆けつけ
>>323って、おいおい、それにしちゃあ
備後や備前にゆったり長逗留の東遷東行だぞ。
330 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 10:13:44.05
天火明命を租とする濃尾の豪族・村国氏
村国真墨田神社、村国神社、の村国は村国氏から来るものである。
村国氏は尾張連の末裔。壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)を
勝利に導いた側近のリーダー村国男依氏を輩出している。
播磨国風土記見たらわかるけど
出雲国譲りって、母系継承による易姓革命だよ。
じゃ、どう易姓革命があったのかというと
出雲の大国主命が、葛城(高尾張)の火明命に国譲りした事件。
火明命の正妃が、天道日女命で、
彼女は、大国主命の王女だった。
うんじゃ、天皇家の先祖はというと、火明命の弟のニニギ命のほう。
ニニギ命は、出雲国譲りの直後、葛城の高天地方から
九州高千穂に飛ばされることになる。
なんでオホド王を語るスレなのに神武やら崇神やら語るスレになってるんですかねぇ・・・(疑問)
333 :
日本@名無史さん:2012/04/11(水) 22:16:37.80
尾張厨のせい。
神話の曖昧さをいいことに妄想し放題
334 :
日本@名無史さん:2012/04/17(火) 03:29:20.49
継体の大和入り以前に、大和には事実上の天皇(大友皇子=弘文天皇みたいな人)がいたのかどうか?
>>334 いなかったでしょ。記紀にはその痕跡がない。大空位時代だったんです。
336 :
日本@名無史さん:2012/04/17(火) 10:03:58.78
337 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 09:12:13.00
継体擁立に先立ち、即位を要請された丹波のヤマトヒコ王は、
・架空の大王である仲哀の子孫
・ヤマトヒコという抽象的な名前
という点で実在性が乏しい。
継体即位を合理化するため、日本書紀の編者が述作した可能性が高い。
>>337 架空ってのは、第二次世界大戦後の学者が
戦後の反皇室史観の思想で生み出した説だろうがw
仲哀天皇も実在の人物だろうよ。
ただし、彼の場合、死ぬのが急で緊急事態だったから
諱が残っていない。
この時代の人は、諱よりも、通称のほうが後世に残りやすい。
言霊文化だから、諱は世間に公表されることがなく、文字で記録されないから。
339 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 10:28:16.18
>>338 反皇室史観ってことはないだろ。
仲哀天皇実在ってことは神功皇后三韓征討は史実だと思ってんの?
340 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 10:41:41.83
ヤマトタケルの息子
神功皇后の旦那
抽象的で後世風の名前(タラシナカツヒコ)
どう考えても架空の人物の可能性が高い
架空の人物というより、他の説話を取って、ここにはめ込んだ、という感じ。
>>341 そういう説は信じないw
なんで、わざわざ、そういうことしなきゃいかんのだw?
それにしても好きだなw
「はめこんだ」とか「とりこんだ」とかw
あほかいなw
仲哀天皇も実在の人物だよ。
むろん、仲哀天皇という漢風諡号は、後世の人間がつけたもの。
彼の場合、諱が残ってなく、字しか残ってないんだよ。
その当時は、生存中、世間で公表するのは、字のほうで
諱のほうは公開されることはない。
言霊文化といって、デスノートじゃないけど、本名を公開すると
それに呪いをかけられるという迷信もあったから。
そんなわけで、生存中は諱で呼ばない。
たとえば、源頼朝も、大河ドラマではたまに、頼朝殿みたいにするけど、
あれは間違いで、スケ殿ってよばれる。
仲哀天皇が諱が残ってないのは、彼の死が緊急で
後継者争いで失われたから。
仲哀天皇が自分の諱を伝えておいたのは
第一皇子で本来の後継者だった皇子にだろう?
応神天皇は側室の子供で第4皇子だし、仲哀天皇が死んだ直後は
幼児だしね。
だから、当然、仲哀天皇の諱は後世に伝えられる機会を失った。
おそらく、第一皇子は、知っていただろうが。
345 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 11:49:10.09
>>344 仲哀が死んだからって嫁が生きてるんだから夫の諱ぐらい覚えてるだろ
(嫁まで死んだら応神生まれず)
仲哀は奈良時代に贈られた名前だから、生前に呼ばれていた名前があるはず。
生前に呼ばれていた諱すら残らないなどまずありえない。
346 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 13:25:55.00
崇神、垂仁はイリヒコ系の名前なので実在の可能性がある。
かなり伝説的とはいえ、事績も伝わっている。
景行の名は後世風のタラシヒコと4〜5世紀風のワケからなりたっており、
オシロワケという王がいた可能性はあるが、事績はかなり創作されている。
成務、仲哀は名前が後世風で抽象的な上、事績が乏しい。
仲哀は神功・応神伝説の創作の過程でつくりあげられたキャラクターだ。
347 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 15:07:46.99
>>337 大王がいなくなったら畿内でなく近畿から選ぶということと、
継体派以外にも派閥があったことくらいはありえそう。
348 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 15:29:41.86
>>347 継体以前も系譜上天皇の子か孫しか即位したことはないよ
5世王と称する継体即位は間違いなく異常事態
継体以外に近畿の豪族の中から選ばれた例はない
349 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 15:57:36.37
播磨の二皇子は?
350 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 16:48:18.42
>>349 継体みたいな地方豪族が名乗りを上げるなら
他にも適任者がいるって名乗りが上がったんだろ
本当に大王の血を引いているかなんて確かめるすべもなかっただろ
逆に考えるんだ。
継体より以前は系として残された親子関係の信憑性が低かったとか。
352 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 17:47:29.04
仁徳系の皇別氏族がいないのをみても
継体は男系でもっとも近しいために
皇位継承候補となったんだろうな
倭彦王の話は後付だろうな
353 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 17:53:43.69
>>352 継体が出た息長氏は仁徳の祖母の出身
むしろ大王家と息長氏は女系つながりだよね
354 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 18:59:20.64
>>353 また、そうやって無理矢理女系に結びつけようとするw
355 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 19:05:32.42
>>354 応神って系譜が不明。
継体の父方息長氏、母方坂田氏、その同族三国氏がいずれも応神の傍系って
作られ過ぎじゃない?
356 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 20:52:56.06
中国の「姓」ももともとは女系でのつながりを指すものだったんだろうな。
357 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 05:02:17.05
欽明は、誰の子供でしょうか!?
358 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 00:04:14.88
>>357 蘇我氏じゃないの?確実なのは天智・天武からだろう
皇極・孝徳・斉明の時にクーデターで前蘇我王権を
倒したんじゃないのか?
女帝が立っている状況はすべて信用できない
後の持統も・・・・
359 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 00:09:01.00
>>355 河内政権は仁徳から始まり応神は継体政権が繋がっていると
見せるための架空と言っている人もいる
5代曾孫の継体が政権に就けるなら平将門も天皇になる資格がある
360 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 00:58:52.57
やはり欽明は、蘇我から出たと考えるとすっきりする。
361 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 07:17:45.22
>>352 >仁徳系の皇別氏族がいないのをみても・・・・・・
仁徳系というか、武烈までの応神王朝の大王を祖と自称する氏族が皆無だろ。
362 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 07:21:29.40
>>337 > 継体擁立に先立ち、即位を要請された丹波のヤマトヒコ王は、
でもこの王がいたことになっている場所は、古墳などから推測して、当時は実際に繁栄していたみたいだが。
363 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 07:25:02.20
>>348 徳川吉宗の将軍就任も異常事態といえば異常事態だが
吉宗はあからさまに家康の子孫。
364 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 08:28:45.34
>>363 継体の時代から1200年も後の江戸時代の将軍家と比べてもなあ。
江戸時代の大名家こそ女系も可、
全く血のつながりのない養子でも可だよ。
365 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 09:24:57.70
>>364 徳川宗家は男系だろ
百数十年前の政権ですら分家を地方に封建してたんだから
千数百年前の政権も同様のことしていても不思議でもないし
そこから後継ぎむかえるのも特殊とは考えられない
366 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 09:28:16.26
分家を地方に封建するってのは、中国では紀元前からやっているからね。
それこそ応神・仁徳の頃でもそういう知識というか統治ノウハウは伝来していたはず。
367 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 09:34:42.49
>>365>>366 継体以外の分家は?
まさか、一家ってことはないよね?
奈良時代や平安時代は、どんな分家が地方にあって
天皇になれる資格を有してたの?
男系支持者ってとんでも説だなあ
子供は父親とは住まないで母方の一族のもとで育てられたんだよね。
天皇の子孫が地方に住んでいても"分封"という解釈は当たらないだろう。
369 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 09:43:42.53
>>368 天皇って都じゃなくて地方で育ってたんだ?
継体以外に地方出身の天皇の実例希望
370 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 09:50:36.64
>>367 上にもでていたけど
仲哀天皇の子孫 倭彦王がいたでしょ
律令制下では皇族の地方在住はないけど
名義だけなら親王任国や太宰帥
中世になれば 鎌倉将軍宮
建武新政 の親王地方派遣とか
特にとんでもというわけではない
371 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 10:05:29.80
室町時代の伊豆堀越とか古河もそういう感じでしょ。
372 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 10:11:34.88
>>359 応神は新王朝の開祖だろ。
神功皇后のことを考えると
息長=応神の出身氏族かも知れない。
373 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 12:01:49.01
>>372 近江の豪族息長氏が河内へ進出して王朝設立?
近江と河内は離れすぎてるだろ
やはり応神は父方=河内豪族、母方=近江豪族息長氏で合ってるだろ
西暦3世紀の邪馬台国の女王卑弥呼とは、ヤマトトトヒモモソ媛命な。
記紀によると、崇神天皇の父方の大叔母。
魏志倭人伝によると、卑弥呼の王朝は、卑弥呼のよりもずっと前に
卑弥呼の親戚の男王によって建国されている。
そういう風に考えたら、ヤマト王朝が建国したのは、おそらく、
紀元前1世紀くらいで、その時の倭王は、天照国照彦天火明命という人物。
彼こそが、出雲国譲りを実現させた人物。
この人物は、男の太陽神アマテルとして、長い間
ヤマト王朝の始祖として崇拝されていた。
しかし、この人物には、ニニギ命という弟がいてな
出雲国譲りの直後、九州高千穂に地方官として派遣されるのだよ。
このニニギ命こそ、現在の天皇家の先祖だ。
375 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 19:59:51.73
376 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 21:09:40.46
ニニギもモモソヒメも神話や説話の中の架空のキャラだろ。
377 :
日本@名無史さん:2012/04/20(金) 21:20:51.16
4世紀
・ミマキイリヒコ→イクメイリヒコ→オシロワケ(三輪の王権)
5世紀
・ホムタワケ(=オオササギ)→イザホワケ・ミヅハワケ兄弟(讃・珍の王統)
・オアサヅマワクゴノスクネ→アナホ・ワカタケル兄弟(済→興・武の王統)
6世紀
・継体王朝
佐紀古墳群は?
379 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 02:09:57.13
>>373 徳川吉宗は和歌山から江戸に進出して将軍になったぞ。
>>376 ニギハヤヒは武蔵七党の児玉党の先祖。
児玉党系統の日本人は多い。
アタック・チャンス!
382 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 07:16:30.39
ニゴハヤヒ自体は説話上の架空のキャラ。
383 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 08:32:09.38
>>379 吉宗は世子と定められてからは江戸藩邸暮らしだよ。
だいたい、江戸時代将軍家の話を出すな。
384 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 08:59:09.04
嫁は初代神武天皇皇后姫踏鞴五十鈴姫、綏靖天皇皇后五十鈴依媛命、安寧天皇皇后渟名底仲媛命、
次の天皇を生んだ皇后はすべて事代主の直系の娘。
事代主は大国主と神屋楯比売(カムヤタテヒメ)の間に生まれており、
出雲の国譲りで男系は神武系に移ったけれども、女系は代々出雲系で占められており、
弥生時代から続く司祭を行う妹王の家系は今も生きている。
卑弥呼の時代から日本は女系社会だったのだ。
385 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 09:09:23.70
>>365 江戸時代大名は女系も可
将軍家だって本当に不可だったかはわからんじゃないか
そもそも将軍家の例にのっとって1200年前の天皇家は作られた
って著しい矛盾
国賊女系派に鉄槌を!!
387 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 09:27:59.34
>>385 江戸時代にも一時「皇族将軍」を擁立する動きはあった。
御三家というものがあるのに、どうして皇族将軍を擁立しようとしたのかというと
やはり幕府内部の主導権争いだろう。
388 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 09:42:18.23
継体の子、欽明については、金官伽倻第10代国王の仇衡王が倭国に移住後、
志帰嶋大王(欽明天皇)として即位したという説がある。
欽明には、なぜかおくり名(天国排開広庭)や通称(志帰嶋大王)しかなく、
いみなが伝わっていないので、その可能性は高い。
389 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 10:04:43.11
>>386 国賊も何も・・・
実際に日本に歴史上女系相続も女性天皇もいたって話
継体天皇が娘婿即位だったら、継体天皇は国賊になるのか?
その子孫が現在の天皇
390 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 10:53:53.00
391 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 10:57:29.81
>>388 金官カヤ(漢字だと文字化けする)の本拠地だった金海には
「倭王の始祖はここから船出した」
という伝承がある。
神武天皇は美々津からではなく、金海から出発したのだろうか。
392 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 13:33:21.01
393 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 14:40:03.97
欽明天皇については、百済の聖王が540年に高句麗を攻撃して失敗し、
日本に渡って欽明天皇になったという説もある。
>>389 継体天皇は神武天皇の男系子孫だ。女系天皇ではない。
395 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 15:13:22.27
欽明天皇は遺言で「朝鮮半島の失地を回復しろ」と言ったのではなかったか?
396 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 17:17:48.07
>>394 男系死守者が女系天皇を否定したいという理由からのみ
「継体は男系であってくれなければ俺が困るから男系とする」
という議論は要らないよ
女系の可能性を指摘すると「国賊」って
もし歴代天皇に女系がいたらお前こそが「国賊」だ
398 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 19:34:57.59
>>396 上宮記逸文の応神天皇から継体天皇までの系譜は
その音の使い方から推古朝まで遡れる 推古天皇は継体天皇の孫
系譜は極めて信用性が高いと思われる
日本書紀に記述がないのは 系譜一巻が失われたから
継体天皇が男系で皇統を受け継いでいないという史料のほうは皆無
399 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 22:17:08.42
>>398 上宮記、記紀はいずれも「天皇記」「国記」からの転用
推古朝に国家事業として作られた天皇記、国記ですでにそういう系譜が作られていれば
そういう史料しか作らないだろうね
400 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 00:09:37.93
>>398 >推古天皇は継体天皇の孫
そうなんだっけ?
401 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 00:31:04.29
継体天皇と磐井の乱をテーマにした大河ドラマって可能かな?
>>401 可能かどうかは知らんけど発狂する人間は多そうだな
403 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 01:53:32.09
>>401 史料が少なすぎて無理でしょ。
武烈天皇なんか実在かどうかわからないんだしww
404 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 02:01:12.29
「磐井の乱」のドラマ化て、何故かわくわくするわ!?
磐井が勝っていたら、日本史は全く変わってくるもんな
( ̄∀ ̄)
405 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 08:45:33.98
磐井って、実際にはヤマト政権から自立した筑紫の王だったんだろうな。
新羅と同盟するのも当然だ。
406 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 12:36:55.29
>>405 「半独立」というか「形式上は大和政権の配下」だろうね。
完全な独立勢力とは言えないと思う。
磐井は継体の即位を快く思わない大和の勢力と通じていたかもしれない
408 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 13:46:19.76
>>407 黒岩重吾説だとそれは逆で
磐井に反乱をさせる→外敵ができるから継体派と反継体派が呉越同舟で組める。まとまる。
との狙いで、継体派の蘇我氏あたりが磐井を炊きつけたとの説。
409 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 04:06:42.16
磐井を討った物部麁鹿火って英雄なの?
磐井は大王の宮に出仕したことがある。稲荷山鉄剣銘の丈刀人や典曹人のようなものかな。
中央の政情には通じていた。中央に内通者がいたかもしれない。単なる地方の反乱では
片付けられない。
継体天皇は普通に遠い傍系から継承した天皇だよ。
というか、天皇家は長い間、応神や継体よりもずっと前に起こった
系統上おこった皇位継承争いで、遺恨を残し続けたので
応神なり継体で易姓革命が起こったのなら
そんな長い継承争いの遺恨を引きずることはない。
継体も応神も神武やニニギの後胤だからこそ、その系統上の遺恨を引きずっていた。
では、その系統上の対立とは何なのかというと、
それは欠史八代の時に起こった皇位継承争い。
魏志倭人伝では、卑弥呼擁立の切欠になった倭国大乱と言われるものだ。
記紀などにある天皇家の系図は、だいたい正しいとは思うけど
あの系図にある人物が、天皇(倭王)を継承していたかどうかは分からない。
というか、皇位を継承するという出来事は、自然科学ではなく
社会科学上の出来事なので、人によって解釈が違うわけだ。
極論をいうと、明治天皇だって、その当時の日本人が全て彼を天皇と認めていたわけではない。
社会の総意ではそうだが、中には、自分こそが天皇だと思う八百屋さんや大工さんだって
いたかもしれないわけでw
それで、おそらく、記紀にある初期の天皇の時代では、同族内で皇位継承争いがあったはず。
その同族内の争いが、天武時代の、大海人命(天武天皇)と尾張大隅の対立となる。
また始まったw
413 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 19:30:48.99
イワイも含めヤマト朝廷は親新羅だった。それが半島経営を安定させていた。継体から親百済に路線変更。原因は百済の仏教。仏教に感化された皇族、有力豪族が百済びいきになり関係強化。百済の秘密兵器だったのさ、仏教は。
韓国の学校教師 大阪や日本の史跡を訪問 韓国文化の痕跡を楽しむ
韓国の学校教師一行552人が、「日本の中の韓民族史探訪団」と称して大阪・奈良を訪れている事を朝鮮日報が伝えている。
日本に伝えられた韓民族文化の現場を確認し、日本の中に韓国文化が深く根付いている事を確認する為だ。
ここで教師たちは、先祖の対日文化伝授の最大の目的の一つが、韓日間の対立の解決にあったことを確認した。
踏査は、教師341人を含む「日本の中の韓民族史」探訪団552人が、日本列島という空間でおよそ2000年という時間を見て、感じて、
考えながら進んだ。
新羅の攻撃に備える防御拠点だった福岡の太宰府を見て回り、奈良では百済人が古代日本の上層部を形成していたことを示す
石舞台や、世界最大の木造建築物であると同時に韓半島(朝鮮半島)系の手があちこちに加えられている奈良・東大寺、また
三国古代文化の総合版といえる法隆寺などを見ることができた。6日間にわたり各地で、先祖の高い文化水準と平和を追求する
戦略的思考を目にすることができた。
(中略)
探査を終えた後、参加者たちは旅を一言で表現した。ムン・ソヒさん(19)は「異なる見方(教室で学ぶのとは違っていた)」、
チョ・スヒョンさん(55)は「大当たりと悔やみ(もう少し早く来ていたら良かった)」、チョ・スヒさん(58)は「国力(国に力がなければ、
自分の家族も大変)」、ピョン・ジョンヒさん(84)は「びっくり(植民地時代に日本で勉強したが、文化伝来の事実はまるで知らず、
とても驚いた)」などの単語で表現した。
http://uramono.org/globalnews/1160.html
415 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 20:39:43.31
>>413 文化は 百済 >> 新羅 だが、軍事はその逆だからね。
416 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 21:18:16.93
417 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 21:25:05.96
そもそも怪しげだよな継体って
そもそも大王って名乗ってるぐらいだし
418 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 22:18:42.91
>>417 後漢の光武帝と同程度だろ
そういや、自分を光武帝になぞらえて、新王朝気分に浸ってた天皇がいたな。
420 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 05:25:30.64
>>417 継体とか雄略とか応神とか後醍醐は「プロ天皇」だから仕方ない。
>>420 後醍醐だけは天皇じゃん。
他は大王だけど。
422 :
日本@名無史さん:2012/04/26(木) 01:17:26.88
蘇我も、突然に継体と相前後して出てきて実権を握るのも面白いんだがな!
誰も上手く説明できない。
葛城氏の滅亡と入れ替わりに登場したとか、
葛城氏の勢力下にあった利権をい引き継いでるとか、
その辺とも関係あるかもしれんな。
あと、出現自体が突然なのか、無名の豪族が急成長したのかすら区別で金よなあ。現状では。
おおかた、滅ぼされた葛城氏の配下だった豪族なんじゃないか?
424 :
日本@名無史さん:2012/04/26(木) 19:10:52.53
黒岩重吾説だと「蘇我=百済王族」
425 :
日本@名無史さん:2012/04/26(木) 20:33:02.24
葛城氏の傍系が蘇我氏と名前を変えただけとか。
(蘇我氏→石川氏、物部氏→石上氏、中臣氏→藤原氏みたいに)
蘇我氏は葛城氏の土地をもとは自分の土地だったと言っているので
何らかの関係があるのだろうが、ただの配下だったのでは
いきなり天皇に妃を献上し天皇の外祖父となる大豪族となるには役不足か。
皇位継承に関しては「先例」が何よりも正当性の根拠になるからな。
蘇我氏が物部氏や大伴氏を差し置いて、皇后を出し、しかもその子供を天皇にできた。
これは、やはり蘇我氏が葛城氏の分家であり、かつて葛城氏が天皇の外戚になれたという「先例」があったからだろう。
推古天皇のときに、蘇我馬子が一族発祥の地だからと葛城県を望んでいるし。
少なくとも葛城と蘇我は同族と見るのが自然でしょう
428 :
日本@名無史さん:2012/04/27(金) 01:05:36.09
でも葛城と名乗らないの?
中世でも、足利家から、細川家、斯波家、吉良家が分家しただろうが。
日本は昔からそうだ。
皇別・葛城氏とは、孝元天皇の皇子の後胤の武内氏の流れ。
武内氏の者で、ヤマト朝廷の譜代豪族の葛城氏に婿養子に入ったものがいて、
それが皇別・葛城氏の始まり。
一方、前からいた譜代皇族系の葛城氏は、男系では異なると明確に区別されるにいたった。
実際に、新撰姓氏録では、皇別系の葛城氏と天神系の葛城氏で区別されている。
蘇我氏は、そんな皇別・葛城氏の傍流。
臣籍降下→武内氏→葛城氏→蘇我氏
ちなみに、蘇我氏(石川氏)が衰退した後、蘇我氏の後を事実上、継承したのも
同族の紀氏だったはず。
つまり、葛城氏、蘇我氏、紀氏は、完全に同族扱い。
あと、蘇我氏の当主に、高麗、韓子みたいな渡来系の名前が出てくることから
やたら、蘇我氏をその系譜だとする人間が多いが
日本書紀によると、当時の日本の豪族たちが、渡来系の側室に子供をうませて
その子に韓子と名付けたと記載されているから
おそらく、蘇我氏の人物の中に、母方に渡来系の人物がいた可能性が高い。
>>426 さすがに蘇我氏出身の「皇后」は出てないw
当時の皇后(大后)は皇族で占められていて
光明皇后以前に臣下から出た皇后は葛城磐之媛一人だけ。
>>429 それ、少しだけ書き間違いだなw
>一方、前からいた譜代皇族系の葛城氏は、男系では異なると明確に区別されるにいたった。
↓修正
一方、前からいた譜代豪族系の葛城氏は、男系では異なると明確に区別されるにいたった。
432 :
日本@名無史さん:2012/04/27(金) 16:43:42.33
>>430 > 光明皇后以前に臣下から出た皇后は葛城磐之媛一人だけ。
当時は東遷してきた大王家と、もともと土着していたと思われる有力土豪の葛城氏の
連立政権みたいな感じだったと思うね。
形式上は臣下であっても、事実上は同盟者みたいなもんだったと思う。
433 :
日本@名無史さん:2012/04/27(金) 16:51:19.73
>>432 大王家と葛城氏の勢力地は重なってないし、葛城氏が登場するのは河内王朝から。
「東遷」って・・・
連立王権でも臣下の娘が「皇后」は原則的にない。
それが当然なのだったら光明子皇后冊立はもっと楽だったはず。
仁徳天皇の時には皇族の妃がいなかったから後から記紀編者が付け加えたのかも。
434 :
426:2012/04/27(金) 20:24:17.74
>>430 失礼。ご指摘の通りだね。
(×) 蘇我氏が物部氏や大伴氏を差し置いて、皇后を出し、・・・・
(修正)蘇我氏が物部氏や大伴氏を差し置いて、蘇我氏の血を引く用明天皇を即位させることができた・・・
435 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 03:04:25.05
>>432 「東征」から数代は天皇一族は小豪族(県主)の妻をめとって無かったっけ?
おそらく九州から連れてきた人間も少なかったようだ。
437 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 10:10:50.56
和邇氏の王、応仁、新羅勢力による邪馬台国のっとりは成ったのだ。
>>435 東征から数代は、神武皇統の当主たちは
ヤマト朝廷のトップ、つまり正統な倭王の位にはいなかったのだろう?
だからこその欠史八代。
そして、そこが卑弥呼擁立の切欠になった倭国の大乱の時期に重なる。
しかしながら、神武天皇や欠史八代の人物たちは
その時代のヤマト朝廷の王族の親族たちであった。
だからこそ、魏志倭人伝では、卑弥呼共立として、そこで
それ以前と王朝が交代したと認識されていない。
>>437 その和邇氏と、王仁は、無関係だw
和邇氏は、天皇家の欠史八代の中ごろの人物の後胤だ。
系図をちゃんと見ろ。
一方、王仁の後胤もいて、中国系の諸蕃(渡来系)として記載されている。
440 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 11:15:46.22
>>438 > 東征から数代は、神武皇統の当主たちは
> ヤマト朝廷のトップ、つまり正統な倭王の位にはいなかったのだろう?
いたことはいたが、その地位は不安定だったと思うね。
>>440 自分は彼らは正当な倭王の地位にいなかったと思うよ、
神武皇統の9代目までの歴代天皇とされいる人物たちは。
442 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 16:26:12.36
×神武東征
○神武鬼征
邪馬台国卑弥呼の鬼道調伏を
物理行動に移したのが神武さん
>>442 神武さんこと、ワカミケヌ命は、
卑弥呼こと、モモソ媛命の7代前の先祖だよ。
イワレヒコ七代目がナガスネヒコを討つ。
古代天皇名は名前を世襲していたから、長生きだそうです。
446 :
日本@名無史さん:2012/05/02(水) 21:30:47.04
舒明こと大王田村王子は、義慈元年に百済から派遣された男らしい。
447 :
日本@名無史さん:2012/05/02(水) 21:57:45.36
坂上田村麻呂のご先祖様ですね?
448 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 01:12:31.00
継体の2人の息子は、天皇の系譜にいれるのは間違ってるだろ!?
449 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 05:52:23.66
450 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 11:07:59.43
一緒に殺されたんじゃなかったかな!?
451 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 13:31:29.18
>>450 それは百済に伝聞情報が伝わったということで、事実かどうかはわからない。
死亡が事実だったとしても、暗殺ではなく
藤原四兄弟みたいに伝染病による病死という可能性もある。
452 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 19:03:18.80
継体紀以降は実録的だと言われているが、国内関係の記事はごくわずかで、
それも漢籍による文飾を取り去ったら、たいした内容は残っていない。
そして、安閑宣化朝の年代の問題。
欽明朝以前は、やはり十分な記録は残っておらず、情報が不正確で混乱している。
453 :
日本@名無史さん:2012/05/03(木) 19:21:18.71
だから推古朝以前は本当の歴史学の対象とはいえない。
>>453 >>だから推古朝以前は本当の歴史学の対象とはいえない。
日本最古の客観的歴史書・魏志倭人伝があるではないか
推古朝以後の歴史学は虚飾的な主観歪曲歴史学とも言える
真実の歴史形成を理解するには強固な知力による推測力がモノを言う
無意識の認識から発する微弱な作用も肝
456 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 01:45:37.09
推古朝が出した遣随使!
確か、文面の主語は男の王じゃなかったかな!?
推古て、お釜かよ!
457 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 05:51:47.82
>>456 アマテラスがスサノオと対峙した時には、男装(軍装)して対峙したはず。
聖徳太子が摂政するためのいいわけとか?
459 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 11:10:41.77
継体紀は、一見、詳しい内容が記載されている印象を受けるが、
継体の即位事情を除けば、国内関係記事は磐井の乱以外はスカスカで、
磐井の乱も漢籍からの文飾を削ったら、ほとんど内容が残らない。
継体の時代ですら、書紀編纂の時代には詳しいことは不明だった。
だから安閑・宣化・欽明の即位年代があやふやで、乱れが出る。
推古が本名を中国側に教えたところでそれが女性名か男性名かなんて、むこうにゃ分からないはず
それなのに「アマ・タリシヒコ」の名前を載せたというのはどういうことか?
@本当に推古の本名が「アマ・タリシヒコ」だった
A摂政の聖徳太子の名前を使った
Bすでに死去している用明天皇の名前を使った
C遣隋使を送ったのは蘇我氏の独断で自らを日本の君主として中国に認めさせようとした
D遣隋使を送ったのは九州王朝
461 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 11:31:22.48
「天足彦」は本名ではなく、「天(の神の子孫)の満ち足りた男子」という称号では?
どちらにしても日本書紀にも古事記にも
該当者がいない称号や名前ってのは問題あるな
× ama tarasi hiko 天足彦
○ ama terasu hiko 天照彦
464 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 13:05:29.64
>>461 称号ではあるが、コロンビアローズみたいに複数の人物が同じ名を名乗っていた可能性もあると思う。
465 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 13:07:00.75
>>459 > 継体の時代ですら、書紀編纂の時代には詳しいことは不明だった。
そうだと思う。
安閑・宣化・欽明の即位の事情を隠匿しようとしたのではなく、既に断片的な伝承しか残っていなかったんだと思う。
466 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 14:32:40.84
紙が普及する前は、
百年前とかのことでも全くわからなくなってたのかも知れないな。
467 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 14:44:15.97
文字のない時代には、どこの国(邑)にも稗田阿礼のような口伝で歴史を伝える語り部がいた。
そういう語り部がいないというのは、継体が歴史が継承しない征服王だという動かぬ証拠だ。
468 :
日本@名無史さん:2012/05/05(土) 19:40:41.31
継体関連の謎と言えば、継体の王子である欽明の実名が不明であること。
ほとんどの学者が実在に疑問を抱いていない大王なのに、生前の実名が全く伝わらない。
欽明の子の敏達と用明も実名が不明っぽい。
469 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 05:51:31.83
>>468 用明天皇の諱は池辺じゃなかったか
欽明の天国押波流岐広庭というのは
これが初代だという感じの名前だな
継体は新王朝をひらいた欽明の父ということで
470 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 06:15:45.68
>>468 韓国の言語学者の姜吉云(カン・ギルウン)は、金官伽?第10代国王の仇衡王
(生没年不詳・在位:521年 - 532年)が倭国に移住後、志帰嶋大王(欽明天皇)として即位したという説を唱えて
いる。
日本でもドイツ文学者で古代史の愛好家だった鈴木武樹が同様の主張をしていた
ウィキより
472 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 08:56:19.11
橘媛、橘王、橘仲皇女というのもいるし
橘皇子というのが用明天皇の諱かもな
橘豊日皇子のうち豊日は美称かも
473 :
日本@名無史さん:2012/05/07(月) 02:54:15.29
遣随使時代の日本は、王の存在は極めて不確定何だよ!
474 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 18:59:13.22
継体がただのオホトで、欽明がアメクニオシハルキヒロニハというのは、
なんか奇異な印象を受ける。
欽明こそ新王朝の開祖で、継体はただのオッサン(北陸の渡来系豪族)だったのが、
後世、欽明の父ということで、追尊して歴代に列せられたのではないか?
475 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 20:01:13.60
あるいは王と認められたのが欽明の代になってからとか。
(継体は候補の一人)
山賊継体大王
478 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 15:09:58.34
>>474 > 継体がただのオホト
このへんが逆にリアルっぽい。
479 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 18:32:00.74
>>477 確かに欽明の二人の兄、安閑と宣化は、
それぞれヒロクニオシタケカナヒ(安閑)、タケオヒロクニオシタテ(宣化)
という名前を贈られている。
だからこそ3兄弟の父が「ただのオホト」なのは奇妙な印象を受ける。
やはり継体の正体は、ツヌガアラシトのような、北陸の渡来人だったのでは?
和風諡号が贈られたのは、平安時代になってからだ。
日本の歴史は平安時代になって捏造(創作)されたのだ。
和風諡号は奈良時代初頭か飛鳥時代末頃だな。
漢風諡号が奈良時代中葉から後半。
和風諡号を考案させた頃には継体天皇を天皇の代数に数えない方針があって、
和風諡号のときには正式な天皇と数える説が主流に変わってた、ということじゃないか。
482 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 06:31:33.86
今の皇室は継体朝だとしたら、継体の扱い方があまりにも粗雑すぎる!
やはり、きっと何か理由があるんだろな。
483 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 06:42:02.57
継体て、折れた体を継ぐギブスのような存在で、前と後ろとは全く関係ないかも!?
雄略で途絶えて、欽明から始まるとして!?
雄略と欽明の関係をいろいろ継いでいった。しかしやはり無理が多い。
だから、欽明朝は女帝が乱立する傾向が顕著になる。
男系と言えども!
484 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 08:52:27.92
>>483 全く関係がないとは思わない。
関係はあったが薄かった、というのが正確なところ。
485 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 10:40:17.31
欽明の「アメクニオシハルキヒロニハ」という壮大な名前を考えると、
やはり欽明こそが新王朝の開祖なんだろう。
次の敏達が「ヌナクラフトタマシキ」という、やや泥臭い名前なのに対して、
欽明の二人の兄が「クニオシ」「タケ」などの抽象的で無機質な名前なのは、
この二人の大王が欽明以降に追尊された可能性を示している。
486 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 18:52:42.61
継体や欽明のとき、倭国の半島経営はジリ貧で落ち目になってたのに、
なんで雄略のように南朝に朝貢して将軍号や○国諸軍事の称号をもらわなかったの?
任那復興を叫ぶくらいなら、中国から支配権を承認してもらえばよかったのに。
487 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 18:55:05.28
>>486 内政が大変だったんだろ
中国へ遣使するには大きな船に中国語に鍛錬した知識人や水夫、
乗組員たちの水や食料、中国皇帝への朝貢の品などいろいろ金もかかる
国内出兵などで疲弊しているときには遣使できない
そもそも、大和朝廷が半島の一部を支配した実態がなかったから、
既得権の承認を受ける余地がなかった。
存在しない既得権は承認してもらえないという意味。
実態は、半島南部の国々の一部が百済や新羅ではなく日本(大和朝廷)を宗主と仰いだだけで、
それらの国々は独立国だったんだよ。
で、そこは最終的に百済や新羅に征服されて、国としては消滅した。
489 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 07:48:57.11
>>488 > 実態は、半島南部の国々の一部が百済や新羅ではなく日本(大和朝廷)を宗主と仰いだだけで、
> それらの国々は独立国だったんだよ。
独立国と半独立国では微妙に違う。
戦国時代の江戸氏や真壁氏は事実上は独立勢力だったが
それでも戦場では佐竹氏の指揮に従った。
490 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 08:47:03.86
>>488 中国皇帝に朝貢していない国の支配権であれば、
実質的な支配の実態がなくても国王の称号を得ることはできたよ。
倭王武だって実質的な朝鮮王ではなかったんだろうが
中国皇帝に個別に朝貢していた百済を除く
新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の支配権(国王の称号)を与えられてるだろ
関東の半分も支配していない上杉氏を関東管領に任じたようなもんだろう
東夷の一部しか支配していない倭を広く東夷大部分を治める統括者とみなした
実質的な支配はできなくても倭は外交上有利なカードをもらったことになる
492 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 14:01:30.61
>>491 > 関東の半分も支配していない上杉氏を関東管領に任じたようなもんだろう
わかりやすいたとえだ。
>>491 支配権があるのか、ないのか、明確には区別できんが
例えば、現在のアメリカ軍って、世界中に軍隊を駐屯させている。
現在、日本も表向きは独立国だけど、
見方によれば、アメリカの属国みたいなもんだしな。
そういう意味と似ているだろう?
中国の冊封体制について研究する必要がある。
>>490 倭王武は、あくまでも倭王であって
新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓については
倭王は、中国の皇帝から、軍事と政治的な指揮権を与えられていたけど
それらの国では、独自の王がいただろう?
>>482 理由などない。単純に遠い傍系の皇族だったから
他の傍系皇族との間に反対意見があったのだろう?
496 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 03:11:18.36
雄略の後に、ヤマト朝廷の権力構造に変化がでた。
雄略の後の後継者が実質いなくなる。
豪族たちの力関係で、次の倭王を選び出す。これは継体から欽明までつづく。
この間に、磐井の反乱や大村の没落、蘇我の台頭が起こってくる!
497 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 03:17:48.60
血統を握っていたのは、欽明のお母さんだろ!!
継体の嫁と言うのは、あの転々とする継体の居住や年齢からみて怪しいだろ!!
じゃ 欽明の本当のお父さんは誰か!?
やはり、あとの勢力構成を考えると蘇我か!
498 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 03:23:21.41
欽明朝の推古が、「我は蘇我から出でたり」と言う言葉が象徴している!
聖徳太子も蘇我だからな!
しかし、その反動がテロリスト天智を生み出し、ク―デタ―屋天武を生み出してくる!
499 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 03:25:20.77
平清盛よりも、大河ドラマはこれをあつかうべきだわ!
日本最大のタブーだもんな!
( ̄∀ ̄)
500 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 17:58:15.87
オホト 北陸の在日オヤジ
501 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 03:29:04.47
日本史最大の謎は、継体で無く「欽明」だと言う認識が必要なんだよ!?
( ̄∀ ̄)
今の皇室は、継体の血はつないでいないだろ!欽明の血は生きている。
502 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 01:28:57.60
蘇我に血は間違いなくついでにいるわ!
継体一代に注目してはいけない。雄略〜欽明は大王位継承の混乱期だ。飯豊が即位したのか
しなかったのか議論されてるし、ニ皇子の発見も説話っぽくて史実とは思えない。
武烈の暴虐も在位期間や死亡時の年齢からしてありえない。
つ藤原不比等が編纂した日本書紀。
最もつまらない仮説・持統天皇=アマテラス
>>503 武烈の暴虐は古代中国の夏の傑王と殷の紂王の暴虐伝説を組み合わせただけの、中身が無い説話だしな。
二皇子発見も、ひょっとしたら史記からの引き写しかもしれん。
>>505 それ、よく言われる説だけどさ、
奈良朝ごろの日本の官吏が、そんなに杜撰だと思うか?
しかも正史編纂という国家事業において
507 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:44:53.30
国家事業だからこそ、上層部が指示した大筋に沿ってシナリオを構築し、
漢籍から引っ張ってきたネタや文章のパッチワークを緻密に行ったんだよ。
たとえば、清寧紀3年9月〜4年の記事はほぼ隋書による潤色だ
509 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:57:31.27
日本書紀の漢籍による文飾って、いまならコピペ、盗作扱いされるレベルだよな。
日本書紀の編纂者が隋書を見れたかな、時代的に
511 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:49:24.94
岩波の古典大系の日本書紀(上・下)を見ればわかるけど、
どの天皇の本紀も漢籍からの文飾だらけというか文章パクリまくりだよ。
磐井の乱の記述にしても、継体の詔の文言も戦闘描写も全て漢籍のパクリ。
文飾をごっそり削ったら、何も残らないくらいのシンプルな記述になるw
512 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 10:23:03.17
>>503 >飯豊が即位したのかしなかったのか議論されてるし
飯豊は即位しない状態で「天皇代行」の役をしていたんだと思うね。
513 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 10:24:24.70
>>509 漢王朝も周王朝も殷王朝も
著作権保護条約を批准していなかったからセーフでしょ。
飯豊は巫女だった。
巫女さんコスの女とプレーしたい
516 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:10:00.53
>>512 当時は即位の礼がないので他の天皇も即位した決定的な証拠はない。
政務を行っていれば即位したのと同じだろう。
宮内庁は代数に数えないが飯豊天皇としている。
517 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 02:14:48.03
確かに、継体の時代は不思議な時代だな!
帝紀には飯豊は天皇(大王)として組み込まれていたと思うね
519 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 19:54:10.66
中大兄皇子が即位しないまま(天皇代行のまま)病死していたら、どういう扱いになったのか?
520 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 02:29:03.54
文字のない時代ってちょっと前のことでも本当に分からなくなるんだな。
521 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 07:41:09.49
>>519 息子の弘文天皇のように
明治になってから歴代天皇に加えられたんじゃない?
>>182 > 松平に住み始めた奴が神武で、
> 初代将軍の家康が崇神みたいなもんだな。
となると継体は吉宗か
神武、つまり、イワレ彦が畿内に入ったあとも、
畿内で倭王の位にあったのは、別の王統。
げんみつには、イワレ彦の曽祖父のニニギの兄の火明の男系子孫たちが、
その地位にあった。
524 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 08:35:45.27
>>523 妄想垂れ流してんじゃねーよ。バカ。
何処にそんな証拠がある?
525 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 20:01:40.01
>>522 うまい喩えだ。
崇神の後、時代は少しとんでしまうが、雄略が家光というところか。
ただこの雄略天皇は荒っぽい王で敵対者は王族であれ豪族であれ、
片っっぱしらから粛正していった。
それでかなり遠いところから(地理的にも血統的にも)
継体を迎入れるしかなかった。
ただ、当世でも後世でも、
DNA的には本当か、という一抹の疑いがあったかもしれない。
(ただし、大王はヤマト王家の血を引いていなければならない、
という鉄則は厳然としてあったため、それなりの王ー応神五世王と見なした)
後世でもやはり、欽明天皇が始祖的な存在と考えられたので、
継体というさほど権威のある名とも思えない諡号が贈られることになった。
>>522 忍穂耳命は、松平に住み始めた松平親氏ぐらいの存在で
火明命が松平信広、ニニギ命が松平信光じゃないの?
神武は松平清康ぐらいじゃないの?
527 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 22:11:50.06
>>525 > 崇神の後、時代は少しとんでしまうが、雄略が家光というところか。
家光が雄略ばりに御三家を粛清していたら
徳川幕府は七代で滅んだかもしれない。
528 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 23:50:34.87
「日本文化チャンネル桜」と名乗ってる破落戸テレビ屋がね
「紀元二千六百年」を絶対の信条としてるんですよ www
「書紀を鵜呑みにするのは贔屓の引き倒し」と、
皇国史観の大家・平泉澄ですら二千六百年説を否定していたのに w
巨大古墳が出現するのは1800年前からだから、建国はせいぜいその頃。
事実を見ないのが、あのテレビ局です。
(なお、この点を指摘したら逆上してきますからあの破落戸どもは… お気を付けを)
豪雪の季節風が吹き荒れる時は
やっぱり野生味あふれる毛皮を
着込んでたんでしょうか継体さんは?
530 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 05:08:56.23
>>529 当時の寒冷地の有力土豪は毛皮着ていたと思うね。冬場は。
531 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 17:48:08.82
なんか山賊の親分みたいなイメージだな。
山賊ではないけど
まあ親分達の親分みたいなもんだけどな
533 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 16:57:18.16
継体=智証麻立干
534 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 22:02:28.02
>>525 実際には源氏で言うと頼朝のとこを宗家とした場合の足利レベル、
下手したら徳川(僭称)ぐらいの縁戚だったんじゃないの
535 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 03:10:46.91
如何に男系で継ぐのが難しいかを、後世に語り継ぐ為に系譜に入れたんだろな!
朝鮮人
537 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 22:25:34.42
朝鮮人と結託した磐井と喧嘩したのが、継体だろ!?
538 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 12:42:49.61
朝鮮人じゃないだろ
朝鮮半島に住んでいた人だろ
朝鮮人と結託した磐井と喧嘩したのが継体だから継体は朝鮮人ではない
磐井と筑紫が朝鮮人たろう
磐井の乱で国内の朝鮮人勢力はなくなって隠棲してそのうち分からなくなった
北部九州は朝鮮人の居住地であったというのは結構真面目に言われている。
狗邪韓國から末廬國、伊都国、奴国、不彌国あたりまで同系民族で、
狗奴国、投馬国、邪馬台国がいわゆる日本人国家であったのだろうと。
狗奴国が争うのはある意味当然。
北部九州の国々は邪馬台国の軍事力を恐れ、不本意ながら邪馬台国に従ってはいた。
朝鮮半島南部から倭地としていた。
狗奴国は朝鮮人国家と争っていただけなのだが、魏の人間は不屬女王としていて
民族の区別は付いていなかった。
神武は東征の過程で筑紫の岡田宮に一年所在したとされるが、古来日本国ゆかりの地であるとするためではないかと。
磐井のころまで朝鮮人勢力が存在したが磐井の乱が鎮圧されて以降歴史から消えて人々は朝鮮半島へ逃げ、
残った人々は日本人と混血し遺伝子的にもわずかに残るだろうが凡そとして歴史から姿を消した。
今の朝鮮人と当時の朝鮮人は違うし当時のまま残っていたとして現在の朝鮮人とは遺伝子的に共通しない。
筑紫の弥生遺跡で末期のものは戦死体も多く出土している。
そしてそれ以後衰退している。
これは邪馬台国から軍事力で攻められ、服属し、要塞的環濠集落を破棄させられていった証だろうと。
朝鮮絡みということで戦前はもちろん今でも空気として封殺されている。
意味不
543 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:00:42.41
天皇って万世一系なんでしょう
まだ日本が地続きだった名残があったと思われる。ようやっと
集落が発生して各所に豪族なる有力者ができつつあった、そのひとりってだけだろ
万世一系っていうのは明治時代で勝手に考え出されたものってイメージあるかな
この時代はよく知らないで勝手なことを言ってごめんね
545 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 15:34:27.75
>>544 その「一系」に含まれるのは歴代天皇のうちの半分以下だぞ。
>>544 豪族よりも縣主などの権力者構造の方が古い。
547 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 13:02:06.35
すみません。過去レス読んでない素人なんですが、歴史上実在が確実視されてるのは継体天皇からなんですか?
あと継体天皇は確か前の天皇の五代の子孫って習った気がするんですがそうなんですか?
549 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 15:23:07.50
>>548ありがとう。
よくあんな系図を根気よく書きましたね!
応神天皇あたりから実在性が高い感じかな?
万世一系やヤマトの首長については異論はあるけど
ほとんどの説で崇神以降の存在は認めてる
551 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 18:32:08.70
552 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 18:57:32.29
>>549 中国の史書倭の五王の比定や同時代の巨大古墳の存在、
記紀の記述の具体性が増すことなどから
一般的に仁徳からは実在の可能性が高い(仁徳の父という意味では応神から)
しかし継体に関して言えば前四代の記録がなく
比定されている古墳もないといった感じ
讃=ホムタワケだと思うし、応神からだろう
554 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 02:32:10.39
しかし、神武てなんで宮崎なんかにいたんだよ!?
継体もなんで北陸なんかにいたんだよ!?
みんな田舎の豪族か?
宮崎はちょっと微妙だけど
先進国である中国に近い九州北部
大陸から海を渡るとたどり着く日本海側
これらの地域は田舎ではないぞ
日本海側は太平洋側よりも先進地帯だった。
暗殺されたんでしょこの人
558 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 10:00:54.61
昔は宮中の男女関係がかなりおおらかで、DNA鑑定なんてなかったから、天皇が種をつけたと思った女性を妊娠させたのは実は他の男で、生まれた子供が天皇になった、というケースもあったんじゃないかと思ったりする。
血統なんてのは、支配者にとっては一手段に過ぎないから
権力の座に着いてしまえば、
自分の過去の血統なんかなんとでもつくろってくれいというのが現実
>>558 神武天皇の男系子孫だけが天皇になると定められているので、それはありえない。
考えるのも恐ろしいことだ。おまえはチョーセンジンだな。
561 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 10:51:17.75
妄想すること自体が不敬だ。
563 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 11:59:04.57
>>560 神武の父ちゃんって誰?
天皇家の祖先は女神である天照大神で。
神武って天照大神の女系孫なんだよね。
564 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 12:11:28.20
563>>ウガヤフキアエズ
565 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 12:11:52.14
ウガヤフキアエズかな?
566 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 13:31:10.46
ウヤガキフエアーズだろW
不敬?
だけど
父系なんかいくらでも捏造できるんだよ。
567 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 14:07:15.24
父親がわからなければ系図は作れない。系図が残っているのは
父親がわかっていた証拠。チョーセンジン妄想おつかれさまw
568 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 【東電 73.9 %】 :2012/07/03(火) 14:20:57.56
秀吉の天皇落胤仮冒がひどい。父系を捏造。しかも天皇家。
倭の五王は九州王朝でしょ。仁徳とか雄略とかじゃないよ。
570 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 14:34:01.05
父親?お前おとーちゃん誰?
571 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 15:24:18.08
>>567 徳川家は系図が作ってあるので清和源氏間違いなし
と信じてそうだな
572 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 15:41:00.88
573 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 15:42:06.95
>>572 その乞食坊主が清和源氏の流れという設定らしい
そういう系図を朝廷に提出し
朝廷が家康を清和源氏と認めてるから
つまり、そういうことだよ
575 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 16:43:31.22
戦国成り上がり大名の偽系譜と神代から続く皇室、堂上公家の系譜とは信憑性が根本的に
異なる。
天皇家を尊重するのは良いが、
奉り上げてしまうのは、学問ではない。
冷静な分析こそ必要。
宗教のように奉り上げてしまうと、
長期的に見て、天皇家の権威を地に落とすことになるぞ
神武天皇の男系子孫が皇位を継ぐのが皇室の伝統だ。例外は一つもない。
578 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:50:48.66
>>577 男系推進派としてはそうじゃないと都合が悪いからだろ。
現在の皇室が先代の血を引く手白香皇女に
地方豪族の継体が入り婿して生まれた欽明から始まる王朝だったりしたら
女系容認になってしまうから絶対認められないって意地になってる。
継体天皇は応神天皇の男系子孫。否定しなければならない客観的理由がない。
チョーセンジンが否定する動機は十分過ぎるくらいあるけどね。
580 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:09:21.32
>>579 まあ、それなら即位するのは末弟であった手白香皇女の子でなくていいわけだけどね
安閑・宣化が相次いで退位し宣化には皇后腹の嫡男があったのに即位できず
その他の大勢の兄たちをブッ飛ばして末弟の欽明に皇統が行ってしまったのはなぜだろう?
この醜女を「ヤワラ」って行ってる奴はマジで死んでくれ
すまぬ
誤爆です
応神天皇から五代だろうが十代だろけうが途切れることなく続いた男系だから継体天皇の正当性に一切問題ない。
新王朝だとか断絶だとかちょっと意味がわからない。
断絶新王朝であってほしいからだな。
>>554 神話が書き換えられて宮崎出身に変わったんだろ
名前から察するに、もともとはヤマト値域の北隣であるイワレの領主だったんじゃないか?
>>584 応神天皇と継体天皇の間の系図が記紀には載ってないのが問題なんだろ
系図も分からなかったぐらいだから、応神天皇の子孫という自称が詐称なんじゃないかって邪推されてるわけ。
>>585 日本書紀の系譜には載っていたけど、その系譜が焼失したんだよ。
上宮記とかには乗っていたんだから。
>>586 スマン、忘れてた。
日本書紀には、本紀のほかに系図一巻があったんだっけ。現存してないだけで。
神武天皇は奈良盆地の一角に居を構えただけだ。松平郷に居を構えた徳川の先祖の程度だ。
同じような"政権"は列島各地に無数にあっただろう。これが王朝の初代ならニニギノミコトを
初代にしてもいいのにね。
応神天皇自体が父親が誰か?
神功皇后は応神を妊娠しながら三韓征伐してるし、三石を抱えてお産を送らせたとある。
現実的じゃない。
応神天皇と神功皇后は仲哀天皇の皇子勢力と戦争して負かしてる。
書紀付属の系図は失われたが本文から復元できるから問題ない。
女系継承や王朝交代はなかった。
選挙王政だよね。基本的に。
592 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:24:13.15
>>590 記紀の記述を盲目に信じるならば
日本の天皇家は天照大神という太陽の女神から始まった
ということになるんだが
天照は人ではないw
物体から生まれたアメノオシホミミと天照に血縁は無い
天皇家の始祖は天忍穂耳
594 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:47:45.39
>>593 記紀によれば天忍穂耳も人ではなく神だよ
二二ギも祖母上である天照大神の命令で下界へ降りるんだね
595 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:58:15.08
天忍穂耳はタカミムスビの娘を妻にしてホアカリとニニギをもうけているから神だけどここからは人間とみなせると思うよ。
596 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 21:54:29.91
>>595 男女生殖で生まれた子ならば人間扱いなら
イザナギ・イザナミの男女生殖で誕生した
天照・月読・スサノヲも人間になるだろ
つまりイザナギ・イザナミと天照・月読・スサノヲの血縁はあるが
天照と天忍穂耳・天穂日・天津日子根・活津日子・熊野久須毘には血縁はないと…
598 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:59:29.29
>>597 天照大神が子孫を遣わしたと記紀にはっきり書いてあるだろw
599 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 05:38:40.99
女神の天照大神と女系祖先の高御産巣日神が共に皇祖神なんだよ。
600 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 06:36:18.85
男女生殖で生まれた子でなければ人間ではないだろw
男女生殖無しに子が生まれるのなら人間ではない
>>598 天照は神武が東征するときも居て意思を持って何事かやってるぞ
畿内で戦っている時には話したりできる状態でなく自然現象になってる
正当性主張
601 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 07:14:39.95
>>600 あんたの主張は神話解釈として無茶苦茶だ。
「国土は男女生殖から生まれるもんじゃない。男女生殖から生まれたのは国土じゃない」と
言うつもりか?太陽と月は男女生殖から生まれるものか?アダムとイブは人間じゃなかったのか?
602 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 07:16:42.17
人間は人間の男女生殖からしか生まれない。神様の男女生殖から生まれた者は
人間ではない。人間は神様の子孫ではなくて猿の子孫なんだよw
603 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:52:36.86
神代に活躍するのはみんな神さま。神武天皇が神と人の境に位置する。
記紀をまともに読めばそういうことだ。神さまはいろんな姿を取る。
人の姿をした神さまや時には人の姿で現れる神さまもあるということだ。
男女生殖で子を生んだら人間か?じゃあ、イヌもブタもネズミも人間だなwww
605 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 03:57:20.21
606 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 08:40:00.25
まあ神話の解釈は個人の「信仰」の域の問題だから、議論してもしょうがないからやめましょうね。
607 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 【東電 79.1 %】 :2012/07/06(金) 14:51:17.20
>>593 姓が新羅皇子アメノヒボコと同じアメノだね。
今でも天野姓はいるし、阿倍野、安倍晴明などの安倍氏のアベとも音は似ているね。
>>606 俺は天照を皇祖神と思ってたが"皇室の伝統"とやらによると忍穂耳が皇祖神なのか。
いや、神でなくて人なんだね。デマカセモエエカゲニセンカイw
>>606 アホですか。言語テキストとしてふつうに読み解けるレベルの話ですがな。
609 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:44:05.27
皇室の皇祖神は天照大神だよ
伊勢神宮に祀られているのは天照大神
ここに朝廷は代々天皇の即位や天変地異があるたびに勅使を派遣し
天皇の代理人である皇女を伊勢斎宮として置き専属で祭祀をさせたりもしていた
現在も伊勢神宮祭主は内親王が務める
(現在の祭主は昭和天皇の四女・池田厚子さん。
ただし高齢のため、臨時祭主に現天皇の長女・黒田清子さんが就任して助けている)
忍穂耳を皇室が皇祖神として扱ったなど聞いたことがない
伊勢神宮の起源に関する日本書紀の記述を見ると、
天照大神がもともといかにしょぼい神様だったかがよくわかる。
なんせ祭ってくれる祠一つなかったんだから。
612 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 22:22:04.27
>>610 もともとは宮中で祀ってた。
大王自ら祭祀をやっていたから。
宮中ってしょぼいの?
>>610 伊勢の地方神だったんだろ。
で、忍穂耳はしょぼくなかったの?
614 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 00:39:48.48
今日七夕じゃん。
継体天皇ウチにいるよ〜
>>613 元々天皇家の祭ってた神なんだから伊勢じゃなくて大和でそ
もともと伊勢には豊受姫大命が祀られていた。
しかし、宮中に祀られ天皇が祭祀を行っていた天皇の祖先神・天照大神が
皇女に祭祀を託されて転々と遷宮したのち伊勢に祀られることになり、
もともとの豊受姫大命は外宮に遷され、天照大神が内宮に祀られて、伊勢神宮になった。
617 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:49:03.50
何故、内宮と外宮があるか理解しました!
しかし伊勢神宮てありゃ拝めないだろ!?
>>616 そりゃ後世の作り話だろ?
外宮は鎌倉期に神道の体系化をする書籍編纂で勢力を伸ばしたんであって、
それ以前はあんなに大勢力じゃなかったはずだが。
あと、たぶんだが、
>しかし、宮中に祀られ天皇が祭祀を行っていた天皇の祖先神・天照大神が
>皇女に祭祀を託されて転々と遷宮したのち伊勢に祀られることになり、
という説話も奈良時代初期か飛鳥時代末期か、壬申の乱よりも後に作られた新しい物語だったんじゃないかな。
619 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:35:31.62
今、放送されているNHKを観ているけど
宮内庁が古墳に入るのを禁止しているようだ
考古学調査のためなら古墳の中の調査を認めてほしい、宮内庁は考えを改めよ。
620 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:48:42.82
元伊勢が京都の単語半島にあるので今の伊勢は転居後の大型の家なんでしょ
>>619 宮内庁というか、国会で決めるんじゃねーの?
622 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 23:07:21.75
>>618 少なくとも天武朝に大来皇女が伊勢斎宮として伊勢に派遣されたことは議論を要しない。
(日本書紀・万葉集。万葉集に大津皇子が伊勢にいる姉大来皇女を訪問したときの有名な歌が残る)
壬申の乱後に伊勢斎宮となった大来皇女を初代伊勢斎宮とするのか、
それ以前から伊勢斎宮が置かれていたかは議論を擁するが、
朝廷が伊勢神宮を皇祖神・天照大神を祀る社として大々的に創設し、
皇女を送り込んできたことは事実だろう。
もともと天照大神は宮中に祀られ、その後の遷宮地が大和や丹後にある。
何もなかった伊勢に突然伊勢神宮を創建したとみるより、
伊勢を勢力下においた後もともと地方神(外宮に祀られる豊受大神)が祀られていた社に
皇祖神を送り込み整備したとみるほうがよさそうだが。
>>621 内閣が決めれば宮内庁は従わざるを得ないよ。こういうことこそ政治主導でやってもらいたいね。
624 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 10:28:25.97
宮内庁は、アンタッチャブルだろ!
天皇は憲法に規定されてはいるが、ある意味憲法を超越している。
625 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 15:14:35.43
法的拘束力はないから素人のマニアさん掘っちゃえよwww
専門家に掘らせればよかったって泣きを見せてやれよwww
626 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 15:16:06.58
てか、日本人は注意を守るけど
日本文化を壊したい在日どもは何するかわからんぞ。
大阪にあるのに、よく無事だなwww
627 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 15:40:22.14
「天皇の古墳の発掘許可が下りない」のスレを参照して下さい。
>>625 あのなあ、他人が所有管理する施設に無許可侵入損壊できるわけないだろ。あんたは
中学生か。
629 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:30:33.74
>>621>>623 国会も内閣も天皇陵関連にはタッチしていない
許可を出すのは事実上宮内庁書陵部
学会が要望書を提出→宮内庁書陵部が調査・可否を判断
以前は「天皇家の尊厳が失われる」として立ち入りが厳しく制限されたが
現在は調査のための進入によって神聖な陵墓が壊れされる危険性が少ないこと・
年に1,2か所のみといった条件で、研究者にのみ立ち入り許可が下りる可能性がある
630 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:32:05.47
>>628 だから日本人は守るけど、
お宝欲しがってる朝鮮人は何をするかわからんよ。
入るなって札立ててるだけだし。
>>623 外交問題で外務省が、財政問題で財務省が国会や内閣に強固に抵抗して、どうなったか知ってるだろ。
法的に内閣が優越してようとも、現実にはそうではないって事じゃないのか。
>>631 とはいうものの、官庁の中にいる人が省益第1かといえば、どうなんだろう
それよりも同期と比べて得点を稼いだかどうかを重要にとらえている気がする
それらの問題も外務なり財務なりの問題より単に出世競争にプラスになるから頑張ったんじゃないの?
天皇陵掘りたい人が、それを胸に秘めながら政治家になって、許可出せば得点って空気を作れば
そのうち掘れるようになるのでは
・なぜ継体は越前にいたのか
・これまでの天皇(大王)と血の繋がりがあることはハッキリしているのか
・なぜ近場の血縁者でなく、わざわざ越前から迎えたのか
・継体を担いだ勢力はだれか
これらがなんら説明されていない
>>633 説明されてもイチャモンつけるだけでしょ
<宮内庁担当官の心のうち>
・学問のため、きちんとした比定のためには天皇陵発掘も選択肢だろうなぁ
・でも今までも慣例から言っても許可を出すのは難しかろうなぁ
・間違っても、このオレが決める訳にはいくまいよなぁ
・世論が盛り上がって、国会で議論ともなれば・・・
・まあ、そん時までは静かにしてよっと
尾張氏も重要じゃないの?
>>634 いいレスだ!
邪魔するな!
クソーめ!
639 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 01:04:37.82
欽明からでしょ!?
じゃあ欽明の父親は馬の骨なのか
神武―崇神―垂仁―応神―仁徳…今上
継体は担ぎだされたんだ。実力で皇位を奪ったのではない。担ぎ出されるには
それだけの正統性があったのだろう。家康が新田氏の裔を名告って天下を取ったのとは
全く違う。
643 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 21:48:39.55
蘇我が継体と同じ時期に現れてくるからな
644 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 08:32:15.67
>>642 継体が正当な後継者として担ぎ出されたのならば、
丁重に大和の都に迎え入れられるでしょう。
だけど、継体は確か生涯大和に入っていない。
樟葉に都をおき、墓も高槻かどこかにあって
明らかに大和王権の他の大王たちと扱いが違う。
この時代、「大和の都」なるものがあったのか、疑問。
武烈死後の空位時代でも大和の政権は存続し、機能している。そして、その大和政権を
牛耳る有力者たちが彼らの権力に正統性を与える適当な神輿を物色して継体が
選ばれた。
647 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 10:59:57.88
>>646 継体を擁立したのは具体的に「大伴金村」であると記紀に書かれてあるよ
大和豪族たちの総意によって擁立されたのではなく
大伴金村が個人的に擁立した大王だったのだろう
648 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:51:20.56
雄略21清寧22以降は、実質的に王無きヤマト政権だったんだろな!?
顕宗23仁賢24も、継体26みたいに無理にこじつけたが、続かなかった。武烈25はさすがに実在してないだろ!?
しかし大伴は継体26を担いだがすぐ失脚してるからな。
雄略死後の大王はただのお飾りだろう。だから、武烈死後に大王不在の政権が可能になった。雄略〜顕宗の間にも
空位時代があった。
650 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:32:48.77
大伴の失脚とともに現れたのが蘇我!
蘇我は朝鮮人!
652 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 08:22:43.08
雄略21清寧22顕宗23仁賢24継体26仙谷38秋葉48
653 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 15:02:05.28
うけた(笑)
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)→神武東征>>瀬戸内海>>大和
....................隼人(鹿児島)
日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
その男系子孫であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷(東征)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王(天皇)
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系「天皇」、筑紫系「天皇」の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
655 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 08:08:05.19
古代勢力が九州から畿内に移動したのは!?
@大陸勢力との関係
A気候の変化
B火山等の地殻変動
C人口増加への対応
D稲作の普及対応
などだろな。
なー思うんだけど次の天皇ってさー
皇太子殿下が成ったら10年位で秋篠宮様が天皇だろ?
日本は世界中から即位式に参加する様な状況でそんな事するのかね?
最初から秋篠宮様になりそうな気がしてんだけど
スレチ
659 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 19:04:33.09
秋篠宮様即位が系譜がすっきりしていいね。
皇后問題、後継ぎ問題が起きない。日本のためにも。
皇太子は奥様の看病に専念してもらうのがいいんじゃない?
スレチだっつの
661 :
日本@名無史さん:2012/07/30(月) 02:21:38.87
継体は翡翠を握っていたからな。
>>659 それは良い考えですね。
秋篠宮様なら国民統合の象徴として問題ないでやんす
>>662 そうでもないだろ。
皇太子→ヒサヒト様で問題なし。皇太子は秋篠宮より長生きする。
妃は秋篠宮の方が優れているのは同意するが。
664 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 09:01:15.36
秋○宮と結婚したくて中絶何回もした女ですが…
665 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 09:06:27.19
いい加減秋篠宮の話題辞めろ
スレ違い
666 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 00:11:45.23
タイムファック!ざけんな!ざけんな!
>>646 継体以外の別の王が立てられていた可能性もありそう
だから継体は入れなかったとか
>>667 継体以外の王が立っていた痕跡が日本書紀の記述に皆無だ。継体が大和に入ってから
対立王の擁立者を粛清した痕跡もない。
669 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 00:44:43.52
>>272 神功皇后は架空の人物で、
実際は渡来人もしくは渡来系の血を引く
応神が反押熊派らと結んで
ヤマトの王になったのでは?
670 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:40:34.71
>>669 なぜ架空の、しかも女を天皇に近い権力を持ったとでっち上げる必要があるの?
特異な巫女的力を持った息長家出身の妃がいたという伝承があったんでしょう。
わざわざそんなものをでっち上げる必然性はないよ。
671 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 15:28:52.11
ヤマトに入った継体が息子2人と共に粛清されたんだろ。
>>671 伝聞を記した百済本記から記紀を否定するより、記紀に記述された事柄が、何故百済本記にあるような伝聞となったのか考えるべきだろう。
宣化天皇が崩御しその長子と次子の二皇子が薨去していれば百済側は太子、皇子と書いて不思議はない。
皇統に一貫する男系原理を考えれば、仁賢の皇女を皇后に持ったのだから宣化と、手白香皇女を母に持つ欽明の間に、後世の庶兄、嫡子のような格の違いがあると見なされたかは疑問。
そう考えれば、欽明が即位を遠慮しようとした事も、百済側が伝聞として書き残した事も理解出来ると思う。
年代は、記紀の記述が口承を淵源とする事を想定して考えるべき。
相対的な順序は比較的信用でき、あとから考証した紀年は信憑性が薄い事は、記述者も自覚している。
673 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 00:31:15.79
>>672 母が前大和王権の皇女である欽明天皇と、母方が尾張豪族にすぎない宣化では差はありまくりでしょう。
前王権の娘を正室に迎えたから庶兄宣化は嫡弟欽明に対抗できるかといえばさに非ず。
聖徳太子の庶兄田眼皇子は前大后穴穂部皇女(聖徳太子母)を正室に迎えたが
嫡弟聖徳太子を越えて用明天皇嫡子になることはできなかったから。
携帯天皇
676 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 13:34:11.01
>>674 穴穂部間人皇女は用明天皇の大后
用明天皇が没したから前大后(前の大王の正后)と書いただけ
>>673 父親の妻だった皇女を嫁に迎えるって・・・。
>>673 恐い例が出たので、宣化天皇と皇后橘仲皇女の間の男御子に大いに期待できれば遜色無し?大きく下るが井上内親王母子薨去後の山部親王と酒人内親王との婚姻がある事、あとその例は凄すぎるという事はないのかとだけ、小さな声で言っておきます。
当時の即位は年齢が大きな要件なので、それが宣化が先に即位した主な理由とするのも当然です。
ただそれなら宣化崩御後、女帝を打診した後、欽明の即位となったのは不思議です。
宣化の在位が安定していて、崩御にあたり、宣化の皇統に属する相応しい皇子が不在であった事はやはり大きな問題であったと考えるべきなのではないでしょうか。
継体即位後欽明即位に到るまでの大きな事件として宣化崩御の状況が百済側で記録されたとみるのが、史料を信頼し生かせる見方だと思います。
679 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 20:07:16.34
>>678 宣化に関して言えば橘仲皇女との間に上殖葉皇子という実子があったにもかかわらず
皇統は欽明天皇の系統へと移行しました
これは宣化よりも欽明が嫡流であったためでしょう
山部親王は嫡弟である他戸親王が皇籍剥奪・毒殺されたために立太子できたのですよ
光仁天皇の嫡子他戸親王が存命であるにもかかわらず
庶兄山部親王が酒人内親王との婚姻によって他戸親王を差し置いて立太子できたわけはありません
>>679 上殖葉皇子が宣化崩御と前後して薨去されていた可能性は考えられませんか?
681 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:5) 【東電 62.0 %】 :2012/09/28(金) 07:42:43.31
秋田県の平田篤胤は国学者、神道の大成者。
篤胤の奥さんの名前を織瀬という。静岡沼津の人。
逆さに読むと瀬織津姫。
平田篤胤は実は千葉氏。大和田家生まれ。
千葉氏の祖は平良文。
平良文は将門の叔父であり将門の養子。将門の家督相続人。
682 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 10:04:03.51
>>680 上殖葉皇子には複数の男子が確認できることから
成人するまでは生きていたのでしょう。
また、上殖葉皇子こそが大王家の嫡流と考えられていたのならば
上殖葉皇子の王子こそが皇位継承にふさわしい。
庶弟欽明に皇位をやる必要はないわけで。
683 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 10:07:56.55
ついでにいえば、光仁天皇の嫡子他戸親王に子はいません。
他戸親王は数え15歳で死亡しており、妃の存在も知られていない。
他戸親王は井上内親王唯一の男子で、他戸親王の死により
光仁天皇の后腹男系は完全にとだえたため、
庶兄であった桓武が酒人内親王を娶って即位しています。
>>682 有り難う御座います。上殖葉皇子を継体天皇3年509年生まれの欽明天皇と同じ年頃と考えて、欽明天皇の、539年として30歳、531年として22歳の即位の直前、上殖葉皇子にも既に御子達がいらっしゃってもおかしくはないと思います。
上殖葉皇子の御子孫はしばらくの間、目立ちませんが、真人賜姓後の多治比嶋の左大臣にまでなった官歴は宣化天皇と皇后橘仲皇女の御子であった上殖葉皇子の血統に対する一定の評価があったと考える事は出来ないでしょうか。
用明天皇の御子孫も応神天皇の御子孫もこの時、真人を賜っていますので。
685 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 15:53:00.20
>>684 上殖葉皇子系が皇位継承に絡んだことはないので宣化は庶兄でしょう
上殖葉皇子の姉妹石姫皇女は、天智・天武天皇の曾祖母です。
天武天皇の定めた八色の姓で多治比嶋が真人姓を与えられ、
持統天皇(天智皇女・天武皇后)の治世で左大臣になったのは、
天武や持統が宣化天皇の血を女系で受けていたためとされます。
>>685 有り難うございます。
上殖葉皇子が早世したため、有力な皇女腹の御子を残さなかった事も、上殖葉皇子系が皇位継承に絡む事がなかった理由と成り得ると思いますが、上殖葉皇子の場合、叔母にあたる継体天皇の皇女か、異母姉妹しか選択肢はありませんね。
しかし、継体、宣化と直近の父系に祖父と父、二代の天皇をもつ上殖葉皇子と、父、継体一代のみの欽明天皇の間にそのような格差が有り得るでしょうか。母についてはどちらも仁賢天皇皇女で后腹です。
宣化天皇崩御後、欽明天皇が、初の女帝にも拘わらず、庶兄であるはずの安閑天皇の皇后で非皇族の母を持つ春日山田皇女の登極を促したのも、安閑天皇の皇后としての重みか、直近三代の父系に二天皇を持つ春日山田皇女の父系の重みを考えなければならないようにも思えます。
武烈天皇以外は壮年老年の即位が続いていますが、欽明天皇即位時の御歳満22もしくは30は実際問題として登極の障害と成りうる若さだったのか、当時の天皇の在り方を考える上でも興味深いものがあります。
687 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 08:31:32.26
>>686 欽明天皇と上殖葉皇子ではどちらが皇位継承に優位だったかということですが、
欽明天皇は継体天皇の嫡子なのだから、欽明天皇のほうでしょう。(上殖葉皇子は継体の庶子宣化の嫡子にすぎない)
では、欽明天皇の子と上殖葉皇子ではどうか。
上殖葉皇子に皇族出身の后はいませんが、欽明天皇の皇后は皇族です(宣化皇女石姫皇女)。
継体の嫡子ー欽明の嫡子ー敏達天皇(母は石姫皇女)、敏達天皇が有利です。
688 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:12:03.22
>>687 前々天皇の后腹よりも現天皇の后腹といった空気が生まれて何等不思議はないと思います。
外国から見れば、現天皇の后腹の皇長子は「太子」ではないでしょうか。
689 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:5) 【東電 67.8 %】 :2012/10/07(日) 18:36:45.43
>>670 その人こそ卑弥呼のモデルであると吹聴するため。
>>689 聖母が卑弥呼のモデルと吹聴しても一文の得にもならん。
691 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 08:44:32.56
>>690 「日本書紀」は神功皇后が卑弥呼であると書いてるがな
まあ、生涯未婚の卑弥呼とは似ても似つかんが
そもそも神功皇后って夫と先妻の子を殺して称制した人だよな
なぜ聖母ということになるのか分からん・・・
>>691 だから聖母が卑弥呼のモデルだと吹聴して何の得があるの?
聖母が後妻なら先妻も皇后だった事になるね。血統は聖母より遥かに貴いからそうでなければおかしい。
二番手妃の乳児が二人の皇后腹の兄を押し退け即位し成人して本格天皇として立ち天寿を全う。結果を見れば応神天皇は出生前から運命づけられていた胎中天皇で超ラッキーベビー。住吉三神の即位神託付き申し子の超々ラッキーベビーの母は聖母でしょ。
洋の東西を問わず聖母が現れる時は血が流れるものなのか、二人の御子と戦人達、無辜の子達。
693 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 17:14:35.34
>>692 だから、記紀は神功皇后をそこまで美化してないってw
たまたま編纂上、天皇の在位期間の引き延ばしをやってたら、
応神天皇の母の頃が卑弥呼が遣使した3世紀に当たったってだけで
卑弥呼は記紀ではもっと前の時代、崇神天皇の頃の話として描かれる巫女的女性だったともされる
卑弥呼は甥の崇神天皇の時代に神がかりして補佐した倭迹迹日百襲媛命(ひみこは「ひめみこ」)、
台与は崇神天皇の代わりに皇祖を祀った豊鍬入姫命(とよ、という名前も似てる)
>>693 日本書紀の聖母の年代観がたまたま魏書の卑弥呼の絶対年代と合致していたので、魏書から絶対年代を引っ張ろうとしただけ。
聖母伝承を卑弥呼に合わせて創作したわけではない。当て嵌めてみたのはチョンボ。
百済本記の方も本来宣化天皇崩御についての伝聞を記録したものを継体崩御に当て嵌めてしまったと考えられないかな。
695 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 12:35:32.15
>>694 上手く年代が合わなければ日本書紀は卑弥呼のことは完全無視だったわけか?
そもそも、倭の五王の年代から考えて、史実の応仁母が生きてたのは4世紀末になる。
つまり、実際には卑弥呼よりも150年ほど後の女性なのに、あえて卑弥呼の時代に合わせたことになる。
日本書紀編者は他にも「百済記」引用したり(葛城襲津彦)
涙ぐましい努力をして、中国や朝鮮の史料と日本書紀を一致させようとしてるよ。
>>695 どうなのかな。できればスルーはしたくないというのがまず人情としてあるかな。朝貢記事を完全スルーしたいという気持ちもあっておかしくないが。
その辺編纂の目的とも関連するでしょ。遣唐使に持たせるのが目的ならスルーは避けたいだろう。使節が、魏書のあれなんなのスルー?とか聞かれたらそりゃ辛い。だが外交目的に特化した編纂かというとどうなのかな。
魏書の卑弥呼は聖母ほど過激じゃないから、他の巫女的皇女の伝承に合わせる事も考えられるが、母后摂政が女王に一番合わせやすいのも確か。
絶対年代に対する飢餓感みたいなのがあって年代が外国史書の紀年が引っ張れるなら飛びついてる感じで、その辺悲しさがある
。葛城襲津彦は、死んだあとで活躍してて、あれだけあっけらかんとしていると、神功摂政、応神、仁徳それぞれの代の話として伝承があってそのまま書いたのかなと思う。そういうところに愚直さというか真面目さを感じてしまう。
宋書とか隋書だけど日本への伝来時期は確定してるの?
697 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:44:52.43
>>696 当時、中国の史書は日本にも多く入ってきて文化人を中心に読まれていた。
日本書紀が適合しないと、すぐに見破られてしまう。
日本書紀は唐に献上されるために編纂されたものではないが、
国内文化人たちの批判にさらされるわけにもいかないからできるだけ符号するようにしたはず。
神功皇后の三韓征討は史実だと思ってるの?
妊娠中に石を股にはさんで出産を遅らせ、朝鮮出兵したとか?
これは中国史書にも百済本紀にも載ってない話なんだけどね。
>>696 不自然な位置に句点があるから縦読みかと思ったじゃないか
>>698御免
>>697 > 当時、中国の史書は日本にも多く入ってきて文化人を中心に読まれていた。
宋書や隋書もあって不思議はないと思うけど。何が来てたのかな?
> 日本書紀が適合しないと、すぐに見破られてしまう。
嘘書いてるという意識がなければ、見破らるという観点は成り立たないと思う。当時の人達にとっては神武天皇も聖母も実在の人物だったわけだ。
> 日本書紀は唐に献上されるために編纂されたものではないが、
紀伝が揃った日本書が出来たら自慢するつもりだったかもね。
> 国内文化人たちの批判にさらされるわけにもいかないからできるだけ符号するようにしたはず。
むしろ国内の記録を正史の体裁で記述する事によって外国の文献の誤りを正すという認識だと思う。
卑弥呼についても、基本的には、そういう認識で、魏書の記述には誤りがあるので、日本に伝わる本当の歴史を書いておくという態度だと思う。
国内に文字化された時代毎の一次史料がないという事で引用文献の取捨選択を諦めたのは方針として正しかったし、取捨選択をしない方が日本側のどの記録に照らしても、外国文献の記述は誤りと指摘し易い。
紀年の正確を欠いた史料をもとに外国正史を否定しようとすればむしろその方が良いという事だったと思う。そのためには正史としての体裁を整える事も重要だったわけだが、特定の正史が一応のモデルと意識されたりしたのかな?
> 神功皇后の三韓征討は史実だと思ってるの?
なかった事にするのは無理だと思うし、基本的な部分は、史実と思った方が便利というか合理的じゃないかな。
通常では有り得ない事績を残さなければ聖母では有り得ないわけで、そう思ってみるべきだと思う。
それでなくても乏しい史料を、主観と常識だけで以って、なんか気前よく大量廃棄しちゃうのもちょっとね。
年代の矛盾を解決して史料として活かせるか模索する方が普通じゃないかな。
月延石を御裳の中に入れられた事までは奈良の大宮人にとっては事実だし。
神のお告げという事なら、相当無茶苦茶な事でもやらなければならないという事でもおかしくはないでしょ。従わなかった聖母の夫天皇は死を免れていない。
700 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 09:57:01.21
>>699 >国内の記録を正史の体裁で記述する事によって外国の文献の誤りを正すという認識
そもそも、日本国内に4世紀のことを記録した詳細な史書があったとは思えないけど。
日本の口承がすでに文字記録が発達した文明の高い中国歴史史書に優越するという根拠がない。
>史実と思った方が便利というか合理的
4世紀の朝鮮半島は日本の完全な支配下に置かれてたって?
当時の朝鮮の国々が日本と関係なしに独立国として中国に遣使してるよ。
701 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 00:29:46.44
>>697、
>>700 日本書紀も読まず思い込みだけで書き込むな馬鹿w
>これは中国史書にも百済本紀にも載ってない話なんだけどね。
>日本の口承がすでに文字記録が発達した文明の高い中国歴史史書に優越するという根拠がない。
それがどうしたw聖徳太子の時代に遣隋使を送ったが、『隋書』には「阿毎多利思北弧」が使者を送ってきたとある。
これをそのまま信じるのかw中国史書の信用性はせいぜい年代程度だ。
>4世紀の朝鮮半島は日本の完全な支配下に置かれてたって?
>当時の朝鮮の国々が日本と関係なしに独立国として中国に遣使してるよ。
誰もそんなこと言っていないが、馬鹿?
702 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 09:38:01.17
>>701 「日本書紀」読んでないのはそっちだよw
>聖徳太子の時代に遣隋使
『隋書』に「阿毎多利思北弧」が遣使したとある年の遣隋使記事は日本書紀にはない。
日本書紀に第一回目とあるのは実は中国側の史料では二回目の遣隋使。
「新唐書」では第一回目の遣隋使をしたときの日本の大王を用明天皇としており、
遣隋使は聖徳太子が初めて行ったという前提自体が古代史界の通説ではない。
>誰もそんなこと言っていないが
神功皇后の三韓征討は史実だと言っていたお馬鹿さんはお前だが?
703 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 09:42:54.31
>>701 日本書紀を読んだことのない馬鹿のためにもう一つ言っておく。
有名な「日出処の天子・・」の国書も「隋書」にしか載ってないから。
日本書紀のほうが正しいというなら、隋に対する非礼はなかったことになる。
日本が隋に対等外交を要求したという史実も嘘だということになるな。
704 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 15:03:25.80
>>681 > 平良文は将門の叔父であり将門の養子。将門の家督相続人。
叔父が甥の養子になっって家督を継いだ例はレアケースではないか?
>>700 >
> そもそも、日本国内に4世紀のことを記録した詳細な史書があったとは思えないけど。
> 日本の口承がすでに文字記録が発達した文明の高い中国歴史史書に優越するという根拠がない。
当時の日本人が直面した問題がそれで、打開策として日本側の記録を漢文による正史の体裁に編纂する必要があったのだと思う。放置すると外国正史の記述が歴代天皇名を含め正史化し日本側の記録や伝承が廃れる事を恐れたのだと思う。
>
> >史実と思った方が便利というか合理的
>
> 4世紀の朝鮮半島は日本の完全な支配下に置かれてたって
完全な支配って併合の事?そんな事は書いてない。
> 当時の朝鮮の国々が日本と関係なしに独立国として中国に遣使してるよ。
>
三韓征伐があったとしても、そういう状況は別に不思議ではない。日本に対する朝貢関係と両立するだろう。
>>702 それが舎人親王の意図された日本書記の正しい読み方だと思う。
新唐書の記事も日本書記の成立や漢風諡号の追諡が完全ではないが一定の成果を挙げたという事じゃないかな。
阿毎多利思北弧ではなく用明天皇でもなく、推古天皇と聖徳太子という当時の日本側の独自の認識を正史の体裁でとにかく文字化しておく必要性があるという判断があったのだと思う。
女王を男王にすべきとするような隋の内政干渉が発生しないようにする為の小手先の外交上の予防策として用明崩御を隠蔽した国書を提出した結果、
推古即位を否定する正史が外国にあり、国内には即位を記録した正史がないという事態が深刻な状況である事にようやく気が付いたところではないだろうか。
例えばの話、新羅の朝貢義務の根拠としていた三韓征伐について、
新羅や唐が魏書を根拠に、聖母とは卑弥呼の事で三韓征伐は中国正史に根拠がないと主張すれば、語り部の証言で対抗するはめになるわけだ。
それはいいとしても魏書を根拠に聖母の本名が卑弥呼といった調子で天皇の系譜や本名について外国正史を参照されるとしたら、それは危機的状況だったと思う。
707 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 10:59:27.91
田布施という町の、これはまあハッキリ申しますが朝鮮部落です。
なぜこれ朝鮮部落かと言いますと、その歴史的に言いますと、
山口県は長州藩になるまでに大内藩だったわけです、守護大名大内家がずっと支配してました。
大内家は完全な、本人達も言ってますが朝鮮人です。
で大内家の家臣が、毛利が侵入してきて負けたために散っていくわけです。
で彼らがちりじりになってほとんどが部落民にさせられるわけです。
その明治天皇を隠し撮りした写真を東大の資料館で飾っていました、大男です。
今の相撲取りでいったらどうでしょうか、百何十キロの大男です、これが明治天皇の姿なんです。
私はみなさんにお願いしたいのは、やはり日本を知るためには、
日本の暗い部分に目をつけるべきではないか、それを直視しないからいつまでたっても日本人は、
今もそうですけどアメリカ人に利用されてるじゃないかと。
で僕達はそういうことをもう全部知ろうじゃないかと。
知った上で堂々と外国の勢力に立ち向かっていく時が来たんじゃないでしょうか。
http://www.youtube.com/watch?v=qZve5N-_doI
708 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 21:04:53.49
意富富杼王(おおほどのおおきみ)=土師大保度(はじのおおほど)
毛皮大王w
ウチの地元に継体天皇の 陵墓があるから来てね
今城塚大王の杜
即位した楠葉宮も近郊にあるよ
(´・_・`)
宮内庁の指定が間違ってるおかげで、我々も継体天皇陵を歩くことができる。
入れないのは宮内庁の主張してるところだけだから、これに限らず必ずしも天皇陵の研究が闇に閉ざされているわけじゃないんだよね。
まあ、ここまで整備されちゃったら今更祭祀の場に戻すのは無理だけどな。
712 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 17:35:08.44
>>711 >ここまで整備されちゃったら今更祭祀の場に戻すのは無理
お前は何を
ほとんどの天皇陵古墳が、江戸時代末期頃に修理改修されてるじゃん。
そのときに原形を留めないほど変造された古墳だってある
それでも祭祀は行われてるだろ?
713 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 02:03:14.62
継体て辻褄あわせだろ!!
息子2人も
714 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 09:14:36.66
>>712 陵墓で祭祀なんて行われてないよ
田畑などで開墾され多くの陵墓が被葬者不明になってしまっているのに
(明治時代になってから無理矢理全天皇の陵墓を比定した)
祭祀が行われてたっていつの時代の話?
dfzhz
716 :
711:2012/11/22(木) 14:13:33.34
ああすまん
俺が言いたかったのは、既に一般市民に開放されて公園のようになっている古墳を
今更一般人の立ち入りを禁止して礼拝所を設けたりするようなことはもう無理だろうなあ…ってことだった。
祭祀って言葉に語弊があったな。
717 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 15:10:35.66
>>716 別にいいんじゃない。やれば。他の古墳を保存して公園化すればいいよ。
718 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 15:22:39.48
>>716 今の天皇陵は明治時代に神である天皇の陵墓に人が勝手に出入りするのは
よろしくない、ということで囲って立ち入り禁止にしたわけで。
天皇人間宣言後の現在、そこまでする必要があるかなあ…と思う。
立ち入り禁止の天皇陵を公開することで考古学上の発見もあるかもしれないし。
江戸時代までは立ち入り自由だったわけだしね…
昭和天皇が現人神であることを否定しただけじゃん
720 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 21:54:04.84
どうにも応神、清寧、継体は他氏族の婿入りくさいな。
純粋に武力征服と言えるのは応神だけだろうけど。
721 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 23:27:21.63
>>719 明治〜終戦まではすべての歴代天皇が神として扱われたんだよ。
722 :
日本@名無史さん:2012/11/23(金) 11:25:12.27
なら、明神天皇に名前を変えようぜ。
人間宣言とマスコミに名付けられたのは、「新日本建設に関する詔書」のこの部分だろ。
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。
天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ
歴代天皇関係なくね。
724 :
日本@名無史さん:2012/11/25(日) 20:13:18.90
継体って天皇一族じゃん。
雄略のかあちゃんが継体一族出身だし。
今で例えれば、大正天皇の子である三笠宮家の娘が天皇家に嫁に行って息子を
生んで(雄略)、その後本家の天皇家の男系子孫がいなくなった。
で、現実には生まれてないけど、寛仁親王に男子があり、その子にも男子があり
その子にも男子がいた。寛仁親王の孫があとを継ぐわけだ。
しかも三従兄弟姉妹どうしで結婚してね。
五世孫ってそんなに遠くないよ。
今は晩婚だからあれだけど、ちゃちゃと結婚して子供が生まれてりゃ、
その子らが20歳程度にはなってる。当時ならもっといってるかもしれない。
20歳のまこさんと、??歳の仮称の宮が結婚しあとを次ぐようなものさ。
725 :
日本@名無史さん:2012/11/25(日) 21:42:39.98
>>724 だから、息長氏はただの雄略の外戚でしょ。
継体の出た息長氏って近江の豪族だよ。
大和朝廷に妃を差し出したことはあるが父系は無理矢理つなげてる。
父系を無理やり繋げてる、と思う根拠は?
戦国大名が近隣大名家の跡継ぎとして実子を送り込んだように、
古代というか古墳時代の大王が地方の有力豪族の跡取りとして皇子を送り込んだ可能性はあるだろう。
だから、王族ではない地方豪族であっても、○○大王△世の子孫、なんてことは起こりうると思うんだ。
継体天皇の出自もそんな感じだったとは限らないけどさ。
たとえば。武田家がすわとか仁科とか近隣有力武家の跡取りを送り込んだじゃん。
その後、送り込まれた子は武田家の有力武将・重臣として活躍した。
そのなかで、諏訪勝頼は本家に戻って武田家を継ぐことになったわけじゃん。
毛利家でも、吉川・小早川両家に子供を送り込んで跡継ぎに据えたし、
織田信長だって北畠家や神部家、津田家などに子供を送り込んでる。
近隣じゃなく家臣の木下家にも送り込んだしね。(このこは夭逝したので羽柴家の跡継ぎ候補になれなかったけど。)
そもそも、継体天皇が息長氏出身という説は、
息長氏、三国氏、坂田氏など継体天皇と同じ意富富杼王の後裔氏族を名乗る一族のうち、
勢力地が近江北部で、一番天皇家とつながりが強そうなのが、息長氏だったからである
729 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 02:52:19.83
雄略で途絶えて、欽明で復活したと見るべきだろ!!
その間は誰にしようかな!?
>>726 >>728 説も何も、記紀は息長氏の祖を意富富杼王(継体の曽祖父)としている。
そのため記紀はいずれも継体は息長氏出身だとしている。
意富富杼王の姉妹である忍坂大中姫が雄略の母。
近江国に継続的に造られている大規模古墳群を見れば、
仁徳朝に仁徳の兄弟が突然武力で近江を制圧して土着したというより
近江は継続的に息長氏の勢力地であったとみるほうが自然。
岡田精司の説だろ
新王朝を樹立したなら、それに基づいて記紀を編纂したほうが、王朝の正当性を主張できると思うが…
733 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 00:42:17.56
>>732 それでは侵略王朝になり正当性が失われる。
相続の正当性を騙るために旧来の神話に自分たちを接合したのだ。
734 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 03:31:40.64
>>733 感覚が「終戦後」なんだよ。侵略に成功すれば堂々と征服者を名乗るさ。イギリスなんてウィリアム征服王だろ。
735 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 05:21:55.32
三国史記とか、旧王朝の始祖は中国から来ますた、本朝の始祖は日本から来ますた
みたいなことが書いてあったりするしな。
こういう意味では、
民族主義的な思考が現れる前の先史時代には、「天から降りてきた」とか、
「ふと地上に立ち寄った神が地元の娘に子供を産ませた」という類の始祖神話は、
異民族王朝という可能性を示唆してはいないと思うな。
漢の高祖といい、高句麗王朝の始祖と言い、チンギスハンといい、
いずれも神の子みたいな始祖神話だしな。
記紀神話での天孫降臨神話も、その程度の意味なんじゃなかろうか。
ひょっとすると渡来人王朝という可能性はあるにしても、天孫降臨神話などは、その傍証たりえない。
征服王朝なら、それを正当化する記述をする。
たしかに、記紀の記述はなんだか釈然としない面もあるが、
編纂時(現代ではなく)に書きにくいことがあっただろうが、
王権簒奪があったのを書きにくいって感じでももないんだよね。
そこまでの動乱があったわけでもないし。
もめてはいそうだけど、動乱があったというほどでもなく。
738 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 16:08:45.11
>>734>>737 継体は征服王朝じゃないんだよ。
前政権の直系女子手白香皇女の婿として平和的に政権を奪った。
手白香皇女の婿としてふさわしい血筋詐欺が「天皇の五世王」というだけだ。
継体の前の王、武烈天皇は妊婦の腹を裂くとんでもない悪王だとされているし、
十分、中国史書に出てくる征服交代の話も取り入れられている。
739 :
◆2Tl8Ew/3j2 :2012/12/03(月) 21:43:21.58
>>738 応神天皇の方がもっと「征服王朝」的じゃね?
前の王を戦って滅ぼして、それで婿入りを果たしている。
740 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 21:51:22.97
>>734 ダレイオス一世なんか自らをキュロスの係累としてるけど
実際には全然関係なかったという(婿入りはしている)。
「前の王朝の権威は受け継ぐ」というのは珍しくないんじゃないだろうか。
ウィリアム一世も自分がエドワード懺悔王から王位継承者と認められていたとか、
妻がイングランド王家の血を引くとか
「自分こそ正統な後継者である」と主張しているから例としてふさわしくないような。
>>740 ダレイオス纂奪説でも、父がサトラップ(総督)で有力貴族だったのはアケメネスの子ティスペスの子孫だったからという事じゃなかったかな。
古い説でも反乱を鎮圧した有力貴族の中でただ一人民主制と貴族制に反対し王制をを主張したのが王とされた理由とされていてアケメネスの血筋を主張して王となったわけではないよね。
イングランド王国諮問会議ウィテナゲモッドの指名によるエドワード懺悔王の後継イングランド王ハロルド二世を討ち取り、ハロルド二世の敗死後指名された血統的にも正統なエドガーも排除して王位についていて、
ウィリアム一世というよりウィリアム征服王と言われる事の方が多い。
というより墓もフランスにあって墓碑銘もウィリアムじゃなくてギヨーム。
現在のイギリス王家は彼のノルマン征服に起源を持つとされていて後のエドワード一世やエドワード二世の世数はエドワード懺悔王やそれ以前のエドワード王を数に入れていない。
古代〜平安と婿入り婚なのに、当時でも何で男系にこだわるのか、なんかよくわからないんだよね。
>>742 そのあたりは中国の制度を規範としたからだろうに。
744 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 18:33:53.72
>>741 むしろ、キュロスを自分の先祖のアケメネスに繋げたんだった?
前王朝とつなぎ合わせたという点ではやり似てくるんじゃないの。
継体が本当に当時応神の子孫を名乗ったかもわからないが。
>>744 >継体が本当に当時応神の子孫を名乗ったかもわからないが。
現代で揉めてるのはまさにそこなんだよな
746 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 09:24:22.54
>>744 アケメネス朝の初代とされるキュロスU世のアケメネスに繋がる系譜も動かないと思うな。
古い説でも纂奪説でもアケメネスに繋がる支系の系譜そのものを正統性の根拠として前面に出してるわけではないから、ダレイオス一世はたまたま支系の系譜だったので四代目となった感じじゃないかな。
継体天皇の方は父系血統は強く意識されているだろう。臣下である大和の大臣や大連が支系皇族を捜しまわって他の皇族には逃げられたりしている。
747 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 18:18:17.82
神武天皇が征服王朝だと記紀ははっきり書いてある。
美味し国が東にあるので、日向から乗っ取りに行ったと。
ならば継体朝が征服王朝であればそう書く。
中国の史書はかなりのものが読まれているので、
征服王朝というのが別に罪悪視されていたわけではないから。
しかし、ヤマトの王権はその神武につらなる血統こそ正統な大王だ、
という共通の認識が群臣の中にあったから、
遠い血脈であっても、継体を大王に据えた。
しかし、記紀に記されているようにヤマトから王位継承者がほとんどいなかった、
というのは疑問。
継体のようにある程度財力と力がある王でないと、
混乱を乗り切るのは困難だと判断したのだろう。
748 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 18:51:02.82
>>747 さすがに神武の時代と継体の時代は状況が違うでしょ
749 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 20:55:21.75
新羅の末期の宣徳王とかも偽物かな?
750 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 21:56:00.17
>>747 だから、武力や財力で王になった者が
前王朝の権威を全否定するはずだ、という決め付けがおかしいんでは?
継体の場合、ヤマトの豪族と結んで
日本をほぼ統一したヤマトの王位を引き継ぐ形で王になるわけで。
神武と主張方法が違うのもケースバイケースとしか言えない。
個人的には王位が絶えたら、播磨、丹波、近江といった近畿から迎えるところが気になる。
751 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 10:14:40.55
>>750 初めから系譜を信用できないと決めつける事に何の意味があるのかね。
易姓革命論では前朝も天命を受けて創業した正当な王朝と見做し権威を全否定したりしない。前朝の創業を理想化し新王朝の創業をそれに匹敵するものとして重ね合わそうとする。
継体天皇はこのパターンには当て嵌まらない。支系の系譜自体が正統性の根拠になっていて、該当者を中央の豪族が捜してまわっている。「継体」の漢風諡号は奈良時代に認識されていた継体天皇の位置付けをよく示している。
752 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 10:36:19.37
>>751 探し回って継体とあと一人しか見つからないわけないだろw
あれだけ大量の妾を持ち子を産ませまくった応神系天皇(河内王朝)の子孫が
たった2人であるはずがない
畿内の豪族が連枝を探し回って2人しか見つかりませんでした、なんて嘘だろ
だいたい継体は中央豪族の総意で探し回って見つけた皇統の直近者ではなく
大伴金村が個人的に越前から連れてきたと明記されてる
753 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 11:39:47.86
754 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 17:23:17.04
>>739 >>753 だから応神から始まる系統を河内王朝と呼び
それ以前の崇神から始まる三輪王朝と区別している学者はいるだろ
あと継体から始まる現天皇家と3つの王家が組み合わさっていると
だけど、ここは継体のスレだから応神の話はスレチ
応神の王朝交代を語りたいなら専スレ立ててくれ
実際のところ、王朝交代の定義って何?
756 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 18:15:06.98
>>752 応神以降雄略・武烈までの期間、親族間で殺し合いまくってるからね。
大王位継承権を巡っての骨肉の争いがあり、
それと平行して、親の敵討ちが頻発してる。
殺しすぎたから親族がいなくなった。
(のと、殺されたくないから身元を隠して潜行した)
継体天皇以後、親族間の殺し合いが激減したわけじゃん。
それでも、壬申の乱までの間に何件も起きてるけどさ。
757 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 18:44:54.25
>>756 なぜ継体は殺されなかったんだ?
しかも記紀によれば継体の出た息長氏は大王家に大后を出す家柄だ
雄略天皇の母方でありそんな身近に皇族がいれば息長氏を滅ぼしていただろう
継体が殺されなかったのは大王家と関係のない血筋だったからだろ?
ただの雄略の母系であって、大王になる資格がなかったから雄略に攻められずに済んだ
758 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 20:56:28.64
>>757 だから近江北部から越前を支配する大貴族だったんだよ
わかりやすく言うと、分家筋の公爵家
どこの馬の骨かわからないという日教組の与太話を
真に受けてはいけない
759 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 21:45:52.87
>>752 応神天皇の皇統に属する皇別氏族は他にもあるよ。大連大伴金村だけではなくて大連物部麁鹿火、大臣巨勢男人も皇統護持の功臣だから忘れないでね。最初の候補は仲哀天皇の五世孫だった。
760 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 22:17:11.82
>>758 仁徳朝に弟が越前・北近江に攻めこんだとかwそんな史実ないから。
そもそも応神の母神功皇后は和名が息長足媛で、息長氏の娘だ。
このころから息長氏は近江にいたんだ。
あと、勘違いが激しいが、息長氏は近江の豪族。
越前を支配するのは坂田氏だ。
継体の父方が息長氏で、母方が坂田氏。
継体の母振媛は若いころに夫と死に別れたため継体を連れて実家の越前に戻り、
越前で継体が育ったと記紀に書いてあるぞ
ちゃうちゃう。
仁徳弟は母が近江の出。攻め込んでないのはそうだろうが、
息長氏その他に分かれるのはその子孫の代。
神功皇后の「息長」は近江ではなく南山背の綴喜・木津川方面。
息長氏(米原市)も坂田氏(長浜市)も本貫は近江。
継体の母方は三尾氏。
762 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 22:52:57.64
そういえば、系図では吉備氏や上毛野みたいな大物豪族も、
継体の母方も王家からの分家なんだよな
763 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 23:02:50.88
>>754 神武から始まる葛城王朝説もありますね。
でも、葛城王朝は三輪王朝の前身かも知れない。
吉備はプレヤマト政権時代には楯築遺跡のような独特の王権があったようだけど、
古墳時代になると浦間茶臼山とか中山茶臼山とかヤマトっぽくなるな。
毛野も景行紀に見える彦狭島・御諸別の東下話の後ぐらいに、
準大王墓級の太田天神山古墳が出来たりするし、
垂仁皇子の磐衝別命も、羽咋臣の祖ということで石川県との所縁が言われるが、
実は福井県の手繰ヶ城古墳が彼の墓ではないかとも考えられる。
765 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 23:20:39.85
>>764 吉備氏が系図上で王家の分家にされたということは、
吉備がヤマトの属国になったということですからね。
墓も影響を受けたんでしょう。
766 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 00:30:46.65
>>760 北近江土着の豪族の一つが、周辺の他勢力を抑えて勢力を伸ばすための道具として、
ヤマトとの友好関係を利用したのが出発点だったと想定してみちょ
で、それをさらに活用する上で、ヤマトから皇子の一人を迎え入れて婿養子のように遇したことがあったら。
当初はヤマトとの交渉窓口として使うだけのつもりだったとしても、
一族内部での主導権争いの上でも、ヤマトとの交流の密接さが役立つと考えられる以上、
たとえ当初は後継者候補でなかったとしても、その婿が一族を束ねる族長になっていくことは充分に考えられるだろ。
皇別氏族とか、中世の武士団/地方武士達の多くは、そういう感じで中央と地方の混血として成立したんじゃないかなあ。
大王の親族が地方に下って土着勢力化するってのは、それを迎え入れたがるような地方豪族が有ったって意味だと思うよ。
攻め込んで支配したんじゃなくてね。
天智〜桓武までも、皇族間で殺しまくりのような…
768 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 08:43:24.56
>>760 >そもそも応神の母神功皇后は和名が息長足媛で、息長氏の娘だ。
神功皇后の実在性を考えると、
応神天皇自体が息長氏出身だったんじゃないか?
なら、息長氏から天皇が選出されても
さほどおかしくは無くなる。
769 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:36:51.26
>>761 だから、息長足姫や息長真若中比売がいるくらいだから、
息長氏の成立はもっと早いでしょ。
記紀は、息長氏は応神天皇の孫王から始まったとしているが、
だったら応神の母や妻に息長氏がいるのはおかしい。
>>769 >>766も言ってるけど、
息長一族は昔からいたけど、氏(うぢ)としての息長氏は意富富杼王が婿入りする形で始まったんじゃないの?
771 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 16:37:11.67
>>770 意富富杼王の妻・中斯知命は姓が不明。
記紀はいずれも意富富杼王のほうを息長氏の祖をしていて
それ以前に息長氏が存在していただの中斯知命が息長氏だっただの
中斯知命に婿入りして妻の姓を名乗っただのという記述は一切ない。
772 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 20:17:28.87
継体天皇って実は他人で王朝交代したの?
>>769 じゃあ息長真若中比売の姉、飯野真黒比売は飯野氏かよw
>>767 皇位継承争いによる戦争・内乱や殺し合い自体は、継体以後にも散見されるが、
応神から武烈までは、前王が死ぬたびに殺し合いをしてなかったか。
そのうえで、親の敵とか言って親族(ときに現役の大王)を暗殺したり。
それが継体以後になると、殺し合う頻度が明らかに減ってる。
まあ、粛正は相変わらずだけど、これは平安になっても起こってるしなあ。
息長氏は考古学的に見ても新興豪族。
5世紀以前の息長系王族は全て後付けで、
その犯人は舒明天皇(息長足日広額天皇)
776 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 17:54:06.47
>>775 > 息長氏は考古学的に見ても新興豪族。
>
継体天皇でやっと五世孫じゃ新興だろうね。
> 5世紀以前の息長系王族は全て後付けで、
そう考えると何かいいことあるのかな。
> その犯人は舒明天皇(息長足日広額天皇)
それ諡号なんだけど。
古事記の息長系譜が日本書紀でほとんど省略されてることはどう考えるの?
778 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 20:24:18.78
>>777 塚口義信氏の説だと、日本書紀は本文に加えて、散逸してしまった「系図一巻」があって、
本文で省略された天皇家や氏族の系譜がまとめられていたそうだ。
そう考えるほうが妥当じゃないの
名前しか記載の無い(どうでもいい)人が並んでいたんじゃないのか。
天皇ぐらいでも、人によってはたいした内容が書かれていないんだから、
その他大勢なんて、名前が書かれているだけだろう。
省略というより、残っていない。
残っていないというより、どうでもいい内容だったので、残す人もいなかった感じじゃないの
情報の残っている江戸時代以降の皇族だって、名前ぐらいしか情報価値の無い親王ばかりじゃん
系図って、もとは、現行政府(奈良時代の朝廷)と諸豪族との関係性を政府運営の規範として使う役割があったんだろう。
平安朝で関係が大幅に変わった上、以後の何度もの朝政刷新で、系図一巻の役割が失われたことで、
現物を残そうとする人間がいなくなってしまい、それで消滅したんだろう。
最初からどうでもいい情報だったわけじゃないよ。
782 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 22:18:11.14
>>779 その系図の書写もかなりの数がなされたはずなんだよね。
当時は血筋こそが最も大切だから、本文よりも多く書写されたはず。
それがのちに本朝皇胤紹運録に反映されたってのは十分にありうる。
稲荷山古墳の「テヨカリワケ=豊韓別」なんかも、言い伝えだけではなく
広く知られていて、系図にも当然に載っていたはず。
783 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 23:09:54.24
今の時代の感覚ではほんの少し系図が違うだけでも当時の人にとっては
大問題だったろうね。
古語拾遺なんて、「記紀とほとんど同じだろww」というレベルなのに
あれを書かずには居られなかった。
先代旧事本紀は物部の部分を中心に付け足しているが、記紀の基本は揺るがない。
日本書紀が「一書」として別伝をたくさん載せたのも、書かないと不満が出るからだろう。
そう考えると、記紀に書いてある系図の骨格は、おおむね事実を反映しているんだろうね。
系図=相続の正当性の証だもんなあ
功績、事跡なんて、二の次だろうな。
785 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 12:15:34.49
>>783 神武からずっと男系継承間違いなしって?
そんなことないだろ。
ずっと時代が下った徳川家康すら征夷大将軍になるために偽系図作ったんだし。
いや、家康が「スタート」だから。
家康が神武で(松平親氏が神武で、家康が崇神とも)、以下将軍が家康の男系。
家康が系図を源氏に繋げたのを天皇家に当てはめるなら、
高天原神話の天照に系図を繋げたという部分。天照の本来の系統は天火明命。
継体は吉宗に相当。
787 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 15:11:11.43
>>786 吉宗は直系女子と結婚してないんだから明らかに継体とは違うだろ
まあ、本命は綱吉の一人娘と結婚した吉宗の兄だったと言われてるがw
788 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 15:27:04.30
>>786 慧眼!よく本質を見究めてるね。
オマイらが神武だとして、将来直系男子が途絶えた時に備えて、分家を作っとくだろ?
家康は天皇家をとことん研究して、東照大権現は天照大神を、徳川御三家(宮家)は神武を真似したんだよ。
家康直系の徳川宗家は5代綱吉で途絶え、6代は家光の三男の孫で甲府城主松平綱豊を呼び寄せて家宣とし、
それが7代家継との2代で途絶えると、8代は家康10男頼宣の孫・頼方を紀州から呼び寄せて吉宗とした。
すなわち三輪王朝、河内王朝、近江王朝は、いずれも天皇家の分家(宮家)であり、
それぞれの男系男子が途絶えたことにより大王家の宗家である三輪王朝に取って代わったにすぎない。
789 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 16:32:26.93
>>788 皇太子徳仁に男子ができないから、徳仁が死んだら、
秋篠宮の長男・悠仁とその子孫たちが天皇家になるみたいなこと?
791 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 14:13:50.61
継体天皇は基本的に傀儡。
田舎の傍系皇族だったから、大伴氏らに頭が上がらず。
継体天皇が即位する前も後も
大伴氏らが権力を握っていた。
息長氏が外戚として力を持たなかったというのが不思議だよね
だからこそ、中央の利害に依らない御輿として、継体天皇が選ばれたのかもしれないけど
793 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 15:35:09.47
>>792 息長氏は敏達の大后を出しているからそれなりに取り立てられたんじゃないか。
基本的に息長氏に大した力はなく継体が出た後も畿内進出しなかったようだし。
息長氏が自力で畿内豪族を討って継体を擁立したわけではないから。
地方豪族ながら中央政界への影響力もあった、という意味では、
吉備や紀らと同等の地位だったとも言えるかな。
あと、ひょっとすると上毛とか身刺(だっけ?)、あたりぐらいまでは、
似たような感じだったかもしれない。
外戚になりかねないほどの位置にいたのは息長ぐらいだけど。
もっとも---
外戚が政治権力を持つためには、キングメーカーとしての実績が必要な気がする。
つまり、ただ外戚であるだけで力を持つなんてことは最初から無理で、
強力な外戚だから力を持つって感じだろう。
そもそも、古代の大王が、自らの権威だけで権力を持てたわけではなくて、
多くの臣下を束ねて擁立されることで力を持つ感じだった以上、
大王との血縁だけでは力の源泉として弱すぎたんじゃないかなあ。
側近とか外戚、近臣なんてのが、それ自体で権力を持ちうるためには、
権力の中枢が臣下の影響力に束縛されないほどの強い自立性を必要とするんじゃないかと。
継体天皇は離れすぎているから
万世一系は噓?
「万世一系」なんてただの言葉。
学問的に定義された用語じゃないから、離れ過ぎてるとか関係ないよ。
時代によって都合良く使われる。
万世一系という言葉の当初の意味自体が特殊で汎用じゃない。
もともと、今上帝である後醍醐帝の祖先筋たる直系と、それ以外である傍系を対比する言葉に過ぎなかった。
後醍醐系の子孫が消滅したから、その直系祖先であることの意味自体が無意味と化したんだよ。
ちなみに、現在の皇統譜で見て、今上帝の祖先筋とそれ以外の傍系は半々、ほぼ同じ。
地方の地盤があるから、中央に進出が出来ないって感じかね。
物理的にムリ。
鎌倉、室町時代でも、地方の人間が中央政界で生き残るのはけっこう大変だったじゃん。
>>797 万世一系は憲法にも皇室典範にも明記されている。神武天皇の男系子孫だけが
天皇にになるのが万世一系の意味だ。傍系直系は関係ない。。
>>799 その言葉を最初に使った北畠親房による意味と違う意味に変化してるってこと。
江戸時代末頃の国学者達が意味を作り替えたんだろ。
あいつらは、記紀神話の意味内容も含めて色々な変造をやらかしてるしな。
で、現在も、その辺蔵された内容が大枠で継承されちゃってると。
>>800 北畠親房と江戸時代の国学者
なんか朱子学VS水戸学って感じ?
朱子学とも違うとこがあると思うがなあ。
親房と思想的には大きく異なってる後醍醐帝の方が、
どちらかというと朱子学に近くない?
出羽三山蜂子皇子の伝説を形つくった江戸幕府黒幕天海大僧正以上に天皇家を思った人間は他にいない。
>>799 おいおい、万世一系と記載されたのは明治時代の大日本帝国憲法のみだぞ。
現在の日本国憲法には記載されてないし、皇室典範には一度も記載されたことがない。
万世一系にさまざまな解釈があることはここに書かれている通り。
万世一系って言葉に複数の解釈があったとはね
>>805 上諭に「万世一系」が書いてある。典範本文では「第一条 大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と
あるのが同じ意味だ。現典範では「第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とあるだけだから
万世一系は定められていない。万世一系とは現天皇の男系親族の男子にだけ好意を伝えるという意味ではなくて、
祖宗すなわち神武天皇の男系子孫にだけ皇位を伝えるという意味だ。
>>807 近代に作られた和製漢語の中には、古い漢熟語の文字表記を流用したものも多いが、
万世一系って言葉も、そのひとつだよ。
古い言葉を使ったフリしてるけど意味が変えられてる。
>>807 現天皇の血筋にこだわらず神武の子孫に皇統を伝えるというのならば
源氏も平氏も高階氏も在原氏も皆そうだから(藤原氏も皇別説がある)
日本国民の半分ぐらいは皇位継承者になれそうだな(藤原氏も入れたらほとんどかも)
810 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 21:59:28.89
>>809 日本国憲法は天皇空位を想定する必要がないから想定してないわけだ。
>>809 偽系図では駄目。女系は駄目。養子は駄目。
現天皇の子孫または近い親族に皇位を伝えることを世襲と誤認するから、
女帝、女系天皇、女性宮家など国体破壊の妄説が生まれてくる。
皇位の世襲の唯一の意味は神武天皇の男系子孫が皇位を継承すること。
現天皇から500親等1000親等離れていても差し支えない。
>>811 それでも半分くらいは天皇につながると思うぞ
平清盛、源頼朝、足利尊氏、岩倉具視、皆天皇になれる
細川も源氏だから現在の婿養子近衛家も天皇になれるな
現天皇に血筋が近いかどうかで次の天皇の天皇の資格を決めるのは
皇室の伝統に反し、国体破壊になる。神武天皇の男系子孫に皇位を伝えるのが
皇室の伝統で、万世一系の正しい意味だ。国体が破壊されれば日本は日本ではない。
神武天皇の後に神武天皇の男系子孫以外が皇位に就いた例がない。
それが皇室の伝統だ。伝統を破れば皇室は皇室でなくなり、天皇は
天皇でなくなる。憲法に「世襲」とあるのは皇室の伝統に従って
皇位継承者を決めるという意味。現天皇の子孫や近親に優先権を
与えたものではない。
政治家の息子が政治家になれば世襲政治家とか世襲議員とか呼ばれるが、
皇位の「世襲」を同じ意味に取ってはいけない。臣下の世襲と皇室の世襲とは
全く意味が違うのだ。
817 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:47:09.58
皇位は皇室の家法に則って伝承せらるべきもの。臣下の容喙を許さず。
>>818 だとするなら、明治維新勢力によって変更された結果である現行法を排除して、
明治維新以前の古い方式で皇位継承を行うべきだってことになるな。
一世一元は否定されることになるし、
宮家の数が少なすぎる現状は改善されるべきだし(特に、旧伏見宮家あたり?)
譲位は積極的に許可されるべきだし、逆に摂政は必要性が薄れる。
体力の衰え、健康面の懸念があるにもかかわらず、老体に鞭打って国事や諸々の祭事に尽力される陛下が肩の荷を下ろして、
さっさと譲位して、老後を楽しむことができるようにするべきだわな。
現状の制度は、陛下にとって過酷すぎるだろ。
話題が継体天皇からズレすぎじゃね
821 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 00:48:46.74
>>817 現皇室典範は庶子を皇族としないので完全に血縁順とは言えないよ。
どこの馬の骨ともわからない継体帝は、万世一系という観点からは天皇に非ずということを言いたいんじゃないのか?
>>822 ちゃんとスレを最初から読んだ方がいいよ
824 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 20:19:02.99
神武天皇の男系子孫が皇位に就くのだ。
825 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:00:46.02
ずーっと神武天皇(ホホデミ)を祀らずにいた皇室。
天照大神(天火明命)と倭大国魂大神(天火明命)を宮殿から追い出した崇神と垂仁。
伊勢神宮には千数百年間天皇は一切親拝しなかった。
でも三輪山や吉野山、熊野には熱心にお出かけ。
都の中や周辺には須佐之男命やいわゆる国つ神だらけ。
だが、近年の説では、天照大神を皇宮から追い出したというのは後付けの作り話であって、
あれは最初から伊勢にあった、当初は皇祖神どころか皇室との縁すらなく、純粋に一介の地方神だった、
といわれてるんじゃなかったかな。
倭大国魂大神の場合も似たようなもんじゃないの。
本来の地盤から引き離して大和へ引っ越させるわけにはいかなかっただけ、なんじゃないかなあ。
亀山上皇って、元寇のときに伊勢神宮で祈願してなかったっけ?
>>826 嘘をつくな。倭姫命が剣と鏡をもって諸国を巡った末に神勅に基づいて
五十鈴川の川上で天照大神を祀ったのが伊勢皇大神宮の起源だ。
壬申の乱のさなかに天武天皇は伊勢皇大神宮を遥拝して勝利を得た。
この事実が人麿の長歌では「度会の斎宮(いつきのみや)ゆ神風に
い吹き惑はし」と詠まれているのだ。伊勢皇大神宮は皇室の祖廟にして
守護神だ。
伊勢神宮と天照大神の成立を7世紀末にまで引き下げる売国奴が
いるそうだな。とんでもないことだ。
>>828-829 神話は神話。史実とは区別しなきゃダメ。
「記紀では、こう書かれている」というのは、あくまでも神話。
起源神話の一種だ。
それを史実と混同するヤツは、「安全神話」と「安全であるという事実」とを区別できない池沼。
まあ、「このような起源神話が語られています」などと紹介すること自体が悪いとはいわんけどな。
お前さんのような発想を突き詰めると、
「初期の天皇達は二百歳三百歳まで生きる例が多く、極めて長命だった」
というのが史実だったと決めつけることになる。
倭建命が東征の途中で伊勢を通って倭姫命に会ってるじゃないか。
倭姫命の話が嘘だったら倭建命はどうして会うことができたんだ。
>>832 ヤマトタケルも神話上の人物で実在しないから。
安全神話とか政治臭がして、学問板にふさわしくない例だな
天皇ネタはこういうのが沸くから困る
>>833 倭建命は今の天皇の祖先だよ。祖先が実在しなくてどうして子孫が
実在できるんだ。
現代の定義なら仮に足利義満の皇位簒奪が成功しても万世一系という
五世孫はあれに比べれば近いだろ
五世孫って現代に例えればはとこの孫がなるようなもの
現代でも田舎の親戚付き合いだとはとこの葬式に顔を合わすことになる
>>835 ひでぇ詭弁
天皇家の存在が倭建命(の業績を行った人物)が実在する充分な証拠にはならん
838 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 15:09:53.95
大彦命がいたんだから
日本武尊もいただろ
酷いマッチポンプが進行中w
>>838 大彦だって、「あの鉄剣が作られた当時の人々が実在だと信じていた」ってトコまでしか確認できないだろうが。
実在かどうかは依然として未知数。
そういうところの区別が甘い、史実と信仰を混同するヤツが多いのが、問題なんだよ。
始祖王としての神武の実在を信じること自体は古墳時代半ばまでに始まっていたらしい、
それ以前にまでさかのぼれるかは不明。実在したかどうかも不明。
ヤマトタケル神話も、後の時代に作られたもの(奈良時代以前、たぶん飛鳥時代末頃)であって、
ヤマトタケル自体の実在性は不明。
まあ、ヲウスノミコトはひょっとしたら実在したかもしれん。
でもなー、景行天皇とヤマトタケルの親子のとこだけ、前後の時代の記事よりも後から作られてるわけでな。
>>840 子孫がいるのに先祖が実在しないとか非科学的だよ。
壬申の乱の最中に天武天皇は神武天皇陵を祭ってる。
いつ神武陵に否定されたのだろう。近い時代ではないだろう。
江戸時だから明治にかけて行われたような陵墓比定事業が
飛鳥時代に行われた痕跡はない。
843 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 10:00:46.80
>>840 >大彦だって、「あの鉄剣が作られた当時の人々が実在だと信じていた」ってトコまでしか確認できないだろうが。
その当時の人にとってはたった七代前の人物 想像上でつくれるような古さではない
江戸時代にかかれた戦国時代の出来事を否定する材料がないのに一方的に神話にするようなもの
>>843 その論拠では実在が確定したとまでは言えない。
845 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 11:43:39.49
処女懐妊が有り得るとか信じてる脳でないと子孫がいるのに先祖が実在しないとかいう
>>840 >そういうところの区別が甘い、史実と信仰を混同するヤツが多いのが、問題なんだよ。
良いこと言った!
847 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 12:35:23.77
神武天皇は確か吾平津姫を筑紫に残してヤマトへマスオサンしたはず。
ここにちょっと気になる系譜が
天火明命/彦火明命の孫の天村雲命の妃に阿碑(人扁)良依姫命(アヒラヨリヒメ)が見えます。
これはいったい・・・
神武天皇の男系子孫だけが皇位に就いてきたのが日本の歴史だからね。
継体のところで変わってるなんんてあり得ないよ。それじゃ万世一系じゃ
なくなるじゃないか。まともな日本人でそんな思考するヤツいるか?
849 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 19:17:14.85
>>848 だから、万世一系なんて言い出したのは明治時代だからw
お前、本当に日本史を勉強したことのある日本人?
歴史学界は反日左翼の巣窟だからな。大掃除が必要だ。
851 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 20:02:58.19
>>849 「万世一系」の単語はそれほど古くはないが
概念は古くからある
>>851 継体帝の時代でも通用するかは疑問だがな
>>852 継体は神武天皇の男系子孫だから即位できたのだ。
>>853 「そういうこと」になったのは
「古事記&日本書紀」が出来た頃
継体帝が樟葉で留まっていたのも飛鳥の人々が
それを認めなかったからとも解釈出来る
(もっともあの当時の人達は近親での婚姻が多かったから
血縁関係だったとも解釈出来るけど)
>>854 その時代既に初代神武以来の皇統の歴史の長さは意識されていた。
>>855 意識した(とされている)のは皇統の長さそのものじゃないんだが、とマジレス
>>856 すでに25代1100年続いていれば十分に長いよ。1000年続いた王朝なんか
支那にはない。
>>855,857
神武天皇の時代をあんな荒唐無稽な古さに設定した(つまり、雄略より以前の歴代天皇の在位期間を水増しした)のは奈良時代半ば頃のことと言われてる。
つまり、継体天皇の時代には、代数はともかく年数は記紀の記載と異なった数値で信じられていた。
おそらく継体天皇の頃には、神武は三百年ちょっと前の祖先だと認識されてただろうよ。
1100年前と信じられていたとは思わんな。
そういや奈良時代末期の天武系→天智系の交代は
武烈→継体より近いってことでいいの?
男系ではな。
だが、男女双系統で見れば、継体の後の安閑・宣化と同様な、
武烈系の母親を持たない桓武が跡を継いでいて、
欽明に相当する、直前の皇統からでた皇后(に相当する女性)の系統が排除されたんだよな。
当初の予定では、安閑に相当する立場の桓武の次に、欽明に相当する立場の天皇が登場するはずだった。
持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、みんな天智系でもあるわけだが
>>862 皆女系で天智天皇の血を引いている
持統と元明は天智天皇の男系女子(配偶者が天武天皇の男系男子)
残りは男系で見れば天武系だが
天武天皇が天智天皇を殺したんでしょ? 現役の天皇が行方不明って・・・
大友皇子も明治になって弘文天皇ってことになったし
天武系の皇室が荒唐無稽な神話体系を作ったの?
藤原不比等さん(´・ω・`)
865 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 22:08:00.43
>>864 神話そのものはどうかな。壬申の乱の時神武天皇の陵に兵器を奉っているし。山上憶良は聖母神功皇后の鎮懐石を実際に見ている。
日本書記は異伝を丁寧に採録している。その辺は真面目にやったんじゃないかな。もとが口承伝承のところに年代を根性で当て嵌めようとしたのがおかしくなった一番の原因だと思う。
866 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 23:07:27.04
>>864 さすがに天智は殺してないだろう。大友皇子を討ったのは間違いないが。
それに、天武天皇は天智天皇の皇女を四人も娶った。
皇太子に定めた草壁皇子は天智天皇の外孫。
天智天皇を無茶苦茶に描いたら持統・元明天皇が大激怒だ。
なぞが多いね。弘文は皇太子に指名されたのか。即位したのか。
天武は皇太弟の地位を天智崩まで保持したのかどうか。
時間的な制約があったし、たぶん即位はできてないだろう。称制ぐらいじゃないの?
だが、本人の独断で勝手に登極しようとしたんじゃなく、先帝天智からの指名だろ。
ということは必然的に、天武は皇太弟の地位を、それ以前に失ってるという意味。
おおかた、その地位を失ったのと吉野へ隠棲せざるを得なくなったのが同時期ぐらいなんじゃないの。
そうじゃなかったら、隠棲する羽目に陥るはずがないし。
百済武寧王は筑紫の加唐島という島で生まれたので名はシマ。人質として日本に滞在した百済王の弟の息子。
>>868 日本書紀では天武は皇太弟辞退を申し入れているが天智がそれを受理したとは
書かれていない。もちろん弘文の立太子の記述もない。
だが、受理していなかったのならば皇太弟の地位のままでの吉野隠棲ってことだろ。
むしろ、そんな状態を許容しうるはずがないのではないかな。
書記は天武政党という立場が大前提だから書かなかっただけと思わざるを得ない。
天武天皇が皇太弟だったか、弘文天皇が皇太子になっていたか、
という話題自体は興味深いが、継体天皇の話に繋がらないならそろそろスレチかも。
>>872 そもそもあの時代に皇太子制度があった可能性は低い。
一般的に初めて天皇・皇后・皇太子の制度が整えられたのは天武朝。
>>861 桓武即位にまつわる政争によって、天武系の母を持つ異母弟他戸親王が葬られているが、
一方で、桓武は他戸親王の同母姉で、桓武の異母妹に当たる酒人内親王を自分の後宮に入れ、
見方によっては酒人内親王に入り婿即位している。
桓武天皇と酒人内親王の間には女子の朝原内親王ただ一人しか誕生しなかったが、
この朝原内親王は更に桓武の皇太子であった平城天皇と結婚している。
少なくとも、皇太子制度が確立される以前だったのは間違いないな。
天智天武ぐらいの時期から徐々にそれを作り上げようとしていたんじゃないかと考える説はあるが、
そうではなくて律令制とセットでようやく形成され始めたとも考えられ...
そもそも持統天皇が即位したのも皇太子制度が確立できていなかったからだしなあ。
ここで、確立できてなかった(作られつつあったけども未成熟)のか、
この頃からようやく作られ始めた(着手前後)のかが不明ってとこかな?
>>829 >天照大神の成立を7世紀末にまで引き下げ・・・・・・・・
筑紫申真氏著の「アマテラスの誕生 1962年」説のことですね。
>>877 男大迹王が育った越前高向の北にある金津の細呂木周辺で、北陸最古の古代
製鉄遺跡である「たたら遺跡」群が発見されているらしい。
皇統譜を疑うヤツは売国奴だ。そんなに国体が嫌いなら日本から出て行け。
蘇我馬子の天皇殺しとかどうするの?
崇峻天皇弑逆事件とかどうなの?
日本最古の有姓氏族大伴氏を追い出してその後居座ったのってだれ?
聖徳太子。そして聖徳太子は最後自殺する。安倍氏の娘と一緒に入水自殺。
安倍氏が怪しくね?
入水自殺とか話つくるな。
882 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 17:15:49.38
>>750 > 個人的には王位が絶えたら、播磨、丹波、近江といった近畿から迎えるところが気になる。
徳川吉宗は和歌山から江戸に乗り込んだが、別に軍事侵攻ではなかった。
883 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 20:07:56.93
>>882 徳川家と天皇家は違うし、そもそも吉宗は家康の三世孫で
継体ほど離れてないんだがな
徳川家康ー徳川頼宣ー徳川光貞ー徳川吉宗
884 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 21:31:27.06
>>883 しかし宗家は家継で家康五代孫だし
家康ー秀忠ー家光ー綱重ー家宣ー家継
有力候補だった尾張藩主 継友は 四代孫
家康ー義直ー光友ー綱誠ー継友
そんなに違わないと思うが
885 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:17:08.43
家康からその醜顔からギギって呼ばれた結城秀康って・・
確か福井藩の始祖だったはずだが
886 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 06:30:33.87
>>882 > > 個人的には王位が絶えたら、播磨、丹波、近江といった近畿から迎えるところが気になる。
藤原4兄弟の連続病死でもわかるように、
古代だと有力者でも伝染病であっさり死亡する可能性があるから
血を残すためにも、あちこちにスペアの分家を配置しておいたのだと思う。
継体天皇に習って、越前から松平越前守綱国を将軍継嗣にする腹積もりだったのだ。
さようでござったか
889 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 13:41:05.98
>>886 自分の王位を確実なものにするために同族粛清をかけた雄略天皇が
そんな有力な傍系があるならとっくの昔に滅ぼしてたろw
890 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 14:59:42.98
>>889 「有力ではない傍系」だったのではないか?
桓武天皇の父親みたいに、なんの権力も持っていなかったが
血統が良いことは明らかだった人物は生き残るし、
いざとなれば担がれる。
891 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 15:52:47.76
>>890 奈良時代の天皇は男系は天武系だが女系で天智系が強く
天智系皇子たちとの血縁も近かった
天智天皇の皇子たちは親しく朝堂に召されて厚遇されていたんだよ
雄略朝とは全然違う
892 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 19:53:17.30
>>889 雄略天皇が同族粛清をかけたからこそ
応神五世孫とか仲哀五世孫しか残ってなかったんだろうな
問題は
「五世孫に継承の資格があるか」ではなく、
その
「五世孫というのが信憑性があるのか」なんだよな
応神を「凡牟都和希王」と書いてる以上、信憑性はない
大王を王と呼ぶことは有り得ない
894 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:28:40.85
>>893 >応神を「凡牟都和希王」と書いてる以上、信憑性はない
>大王を王と呼ぶことは有り得ない
その話初めて聞いたな
だって、天皇(=大王)を王と呼んでいいなら、
>>3の系図で、だれが天皇か不明になっちゃうだろ?
王なんて沢山いるんだし
896 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:39:58.13
>>895 だれかが主張してる説なのか?と聞いたんだけど
それは知らん。オレの説かも
898 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:08:13.88
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマ(バチカン)を聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な聖地・都としてたたえる。
神社の総本社も大半が畿内に存在する。
例えば、二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、近畿に存在する。
日本にある世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
899 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:40:20.49
>>895 古事記の継体記には「品太王五世孫」とあるから
天皇=大王とは限らないし誤写ということもある
上宮記の系譜は母が垂仁七代孫とうのも日本書紀と合致するし
信憑性は高いだろう
>>899 さあそこが難しいとこだけど
古事記には「大王」の語は一語もなく、天皇はすべて「王」で統一されてる。
ところが、上宮記系図では「大王」と「王」が混在してる。
すなわち両者を区別している。
いずれにしても記紀は、継体天皇の直系子孫が編纂したものなので、
継体天皇の(たとえでっち上げだとしても)の系譜を貶めるはずはない
したがって「信憑性がある」という証拠には使えない。
表記の違いを即座に「両者を区別している」と断じてしまうとか、
どこぞのデムパ学者さんのお仲間ですね。
それぞれの記事の出典が違うことを反映してるだけという、低くない可能性を排斥しちゃ駄目ですぜ。
どういう理由で「両者を区別している」と推定できたのか、マトモな理由の提示がないとねえ。
┼  ̄フ -┼、\ ┼- ,--t-、 v--〆、 -┼、\`` | |
,--|--、ヽ ∠--、 / | ┼- 、 i / | /\/ | / | | |
i、_」 ノ _ノ / J ヽ_ノ V ノ ヽノ ノ / J ・ ・
継体を考古学に考えれば、三島野古墳群の造墓集団の王の系統だろう。
そもそも淀川水運を支配した、河内政権の有力な一員。
記紀では越やら近江から連れてこられたになってるが。
904 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:34:18.33
継体は越前ではなく近江から来たという説もあるからね。
その場合、近江のどのあたりにいたのかという疑問はあるが。
河内王朝も、近江から来たも、5世孫よりも眉唾だよな。
伝承すらないレベル。
実際、河内潟周辺にいくつかの造墓集団がいて、
それらが河内王権を形成してたんだろう。
百舌鳥と古市の古墳が交互に築かれてるとか、
仁徳陵より履中の方が古いとか。
吉備の造山とか大王墓級なのに言及がないし。
記紀の編者がまったくの出鱈目を書いたとは言わないが、
きちんと伝承されてなかったんだろう。
大仙古墳はやっぱり仁徳さんのお墓な気がしてきた
履中陵より完成が遅れたと考えれば矛盾はない
オオサザキって贈り名も、単にオホササキ=大きな陵(ミササキ)
大きな墓に葬られてる、程度の意味合いだから。
大仙とか大山という呼び名でいいんじゃない?
仁徳陵とか言うと、「記紀の記述が正しい」という思い込みを誘発することになる。
箸墓も箸中山古墳と言うべき。
>>907 いや、百舌鳥古墳群に造られた最初の大王墓として
石津ヶ丘古墳(伝履中陵)の意義は大きいだろ。
箸中山古墳みたいに、吉備や日向に相似形の古墳があることからも、
石津ヶ丘をもって河内王権の成立を見るべき。
興味深いのは、石津ヶ丘と同時期に吉備では造山が築かれ、
河内と吉備は肩を並べる勢力だったのが、
吉備の古墳はそれ以降縮小の一途を辿り、
逆に河内のそれは巨大化していく。
910 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 06:25:52.69
>>907 > 大仙古墳はやっぱり仁徳さんのお墓な気がしてきた
仁徳陵でない場合には、誰の稜だろうか?
911 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 09:17:18.56
漢風諡号で考えるから、ダメなんだろう?
>>909 いや、別に履中陵を貶めてるわけではないよ
前にニュー速で大仙古墳は仁徳さんの古墳だよって書いたら
築造年代を突っ込まれてなにも返せなかったんだが、
よくよく考えたら
>>907 の考えもありではないかと思ったんだ
二人の業績、在位年数など考えたらどう見てもそれしか考えられないんだよなあ・・・
ただ継体陵のように見事に違ってましたということも考えうるし・・・
これもうわかんねえなぁ・・・
陵墓の編年で見ると、石津ヶ丘山(履中)→誉田御廟山(応神)→大仙(仁徳)の順番らしいが。
記紀の記述やら延喜式の陵墓の比定に引っ張られ過ぎない、
ある程度距離を置いた自由な思考が必要ではないかな。
後世の混乱やら粉飾などは当然あるべきものとして考えていくべきだろう。
あとまあ、古墳てのは大王が死んだ後、次代の大王が首長霊を引き継ぐための
日継ぎの装置として機能したんだと思う。
そう考えれば、前王の前に、後の王の墓が完成するとかはない筈。
そもそも同時並行で建設されてたなら、土器編年に前後関係が出ないだろうし。
914 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 08:12:23.77
>>904-905 息長氏族もしらないなんてw
それでよくもまぁ継体スレにレスしようと思ったもんだわ
継体と息長氏は関係ないと思う
系譜上はつなげられているけど
916 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 14:38:59.49
>>915 関係はあったと思う。ただし濃かったとは限らない。
継体は息長本宗家の長ではなく、分家の長だったかもしれない。
ただ、いずれにしても継体が即位したのに、氏族としての息長氏のステイタスがそれほど上がったような感じはしない。
ここが疑問。
917 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 14:41:58.33
息長氏の根拠地は交通の要衝であったから、どの勢力も無視できなかったことは認めるが。
918 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 18:50:58.28
>>916 息長氏内部の序列よりも
皇室本流との近い関係が重視されたんじゃね?
それは、ある意味、皇室の藩屏的な存在として、
息長氏が機能していたということじゃないの?
ここで、息長氏がどかどか中央政界に割り込んで来たら、
それこそ革命を思わせる簒奪になるけど
あくまでも、継体だけが中央政界に呼ばれ
あいかわらず、中央政界の実権は、継体以前からの権力者だった
大伴氏や物部氏が回していた。
息長帯媛の伝承自体が、元々は筑紫地方に伝わる母子神信仰
オホタラシ媛伝承が畿内神話に採用されただけだからな。
海洋民である息長氏が伝承していたオホタラシ媛神話が、
記紀に採用されて神武と応神東征伝承として記述されたという。
920 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 04:59:41.04
921 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 13:16:52.39
>>919 > 海洋民である息長氏
息長氏が海洋民であるとは断定しがたい。
ただ水運を活用しての交易には長じていたような感じはするが。
和邇氏は名前からして海洋民っぽいが、あれもよくわからないんだよね。
水軍に関係していたとの説もあるが、要するによくわからない。
922 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 13:18:00.27
>>918 息長氏は室町時代の日野氏みたいなもので、
大王家がここから嫁さんもらうことが多かった、という感じなのだろうか。
>>902 何故に榮倉奈々先生が、継体天皇スレにお立寄りなされたのかえ?
924 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:53:38.90
>>922 むしろ上杉は?
初代王の母の実家で、畿内の外に本拠地があり
独自の勢力も持っている。
眉唾というより妄想だな。
ここまで妄想が進むと、まだ日本書紀のほうが史実って感じ。
古事記も日本書紀も天皇家の権威を高めるために創作された
なんて奇想天外な説を何でみんな疑いもせずに信じてるの
伝わっている話をそのまま書いたに決まっているじゃない
架空の人物を何人も創作して家系を古く見せかけるなんて聞いたことがない
外国の歴史書でそんな例が一つでもあるの
シナでもヨーロッパでもそのほかでもそんな歴史書が一つでもあるなら言ってみなさいよ
確かにそういう視点が抜けてた。
外国にも、同じような歴史書の例はあるんだろうか?
お隣の韓国じゃないのかw
929 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 16:25:28.18
三国史記?
あれって架空の人物で家系を古く見せかけるという指摘はされてるの?
930 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:42:43.90
チンギス・ハンにしろヌルハチにしろ
架空の人物を足して家系を古く見せてるみたいだけど。
931 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:45:02.04
今の天皇の先祖か。
ただの福井の豪族だろ(笑)
>>930 実際のところ、誰まで実在すると研究されてるんだ?
>>932 ヌルハチに関しては祖父のギオチャンガという人物は確実なんかな?
934 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 10:22:54.06
>>919 神功皇后(息長帯媛)は三韓征討の時に越前(福井県)の角鹿(現在の敦賀)
から出航している。
息長氏が越前と深い関係を持っていた証であり、
筑紫を経由しない独自の海路を持っていた証だろう。
筑紫など、何の関係もない。
神功皇后は、現在筑紫に眠っているわけだが
>>933 疑問形で返されても困るw
>架空の人物を足して家系を古く見せてるみたいだけど。
この発言のタネ本とかないの?
それとも適当に言ってみただけ?
938 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 19:09:34.64
>>937 「ヌルハチの都」とかいう本にはヌルハチの家系図は怪しいとか書いてあった
939 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 19:28:28.89
今調べたら、クローヴィスの家系図も怪しいらしい。
940 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 19:35:22.31
夏、殷、周も怪しいらしい。
941 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 19:43:16.47
むかーしのスレに書いた
記憶があるが
継体天皇のおやじを
まつる神社がどっかにあったな。
昔は、血統がものをいった時代だからね
でっち上げてでも、貴種につなげる必要があっただろう
でないと、諸侯が従わない。
夏、殷、周の王族の血統は、すべて黄帝につながっている
943 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 20:32:40.99
>>934 海流とか風の関係で
越前〜新羅
は航海しやすいと聞いたことがある。
946 :
日本@名無史さん:2013/02/18(月) 21:30:05.01
>>942 シナや朝鮮の方では倭王は呉太伯の系統で姫姓と勝手に黄帝の子孫と言ってくれているのに、皇室は古代から全力否定してるよ。
>>919 これだから記紀原理主義者はw
母子神信仰とか聞いたことない?
他にも天孫降臨にしろ、北アジアに広く分布する始祖伝承の影響があるし、
イザナギイザナミやら海幸山幸とか南方系神話とか知らないの?
記紀の記述を鵜呑みにして、比較神話学やら民俗学とか、
お前多分、そういった関連の本、一切読んだことないだろ?
「記紀に書いてるから」「わざわざ嘘を書くわけがない」とかばっかりだしw
948 :
947:2013/02/18(月) 21:58:22.73
>>946 そりゃ、古事記の記述と矛盾しちゃうからだろよ
つまり、呉太伯を取ると、古事記はウソで〜す、ってことになっちゃう
倭人は昔は呉の太伯の裔を名乗ってて、
途中で天孫降臨神話を創造したということ。
五六世紀頃のことだろう。
中国から来ましたって最初言っていたのに、途中から、「えーっと空から降ってきました」と言い出したと思うと、なかなか傑作w
まあ、揃いも揃って臣下の部族も、途中で出会って付いてきましたって言い張るしw
何があったんだ、お前らって感じだな。
中国からって言う話は、当初は取引をスムーズに進めるための与太話に過ぎなかったんじゃないかと。
魏晋朝の頃、日本が呉の背後にあると軍事的に有利っぽいってんで、傍証として拾い上げられたから記録に残ったとか、その程度だろ。
もっとも、その与太話をした連中は大和朝廷関係者じゃなくて九州王朝の人間で、後にヤマトに滅ぼされて消滅したとかかもしれんがな。
祖先が天から降りてきたって話は、日本に限らず、わりとメジャー。
中国周辺の諸王朝で始祖神話として採用される事例が散見されるし、
中国でも史記の古い時代の記述にいくつか類例がある。
953 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 00:37:55.52
呉の太白のまま黄帝の子孫を名乗っといた方が華夷世界では幅が利くでしょうが。
華夷世界からは遠ざかりたかったんでしょ
ヘタに中国の一部とか言っちゃうと、中国の天下に飲み込まれちゃいそうだったとか?
程々に離れて、独自の世界を築きたかったら、呉太伯とか言えなかったかもね。
後漢末期やら三国時代だったら、辺境諸国へ攻め込もうなんて意欲は少なかったけど、
隋唐ぐらいだと、そうも言えなかっただろうしな。
実際、高句麗や百済が攻め込まれたし、新羅も攻め込まれる寸前だった。
治天下大王とか名乗ってる人らが、華夷秩序なんて喜ぶわけがない
記紀にはちゃんと自分たちの世界観を提示してある
記紀の神話作成も
「でっち上げてでも、自分たちを貴種につなげる」
作業の一つと言えるかもな
958 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 11:05:10.44
継体天皇とは「体制」を「継続」させるという意味
959 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 11:17:36.59
おいらの通ってた高校の日本史の先生は
仁明天皇と光孝天皇は血の繋がりなく断絶してると言ってた。
古代史はトンデモ説が飛び交うアヘン窟だからね
しょうがないね
「記紀には間違えているところもあるかもしれない」
じゃなくて
「記紀は天皇家の権威を高めるために創作されたものだ」
という奇想天外なトンデモ説を前提にして
意地でも記紀と違う歴史を構築しようとしているからね
いろいろ無理も出るよね
単純に考えたら大和に現れた
血統と宗教的権威と軍事力の3つを兼ね備えた王権が
軍事力によって他の勢力を従えていって日本を統一した
って考えるのが普通だけど
それだと記紀と同じになっちゃうから
無理やり違うストーリーを考えてるって感じだもんね
いやまあ、そう考えるのは勝手だが、考古学やら同時代の中国史料から、
そうはならないんだな〜。残念ながら。
>>961 今後コテハンかトリップ付けてくれると助かる
お前のレスは読む価値無いから
964 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 20:23:38.95
>>942 というか、古代中世未開世界の系図で
古く高貴に見せかけてないものって無いんじゃ?
まだ未開・神話要素が残っていた夏殷周は当然として、
例えば曹操や李淵、趙匡胤も名門の家系を名乗ってるぞ。
記紀原理主義者は
「わざわざ嘘を書くわけがない」をお題目のように唱える狂信者だから。
まともに議論が出来ないよ。
学問板から宗教板に移ってくれれば良いのだが
記紀に誤りがあるのを認めてるのは良いとして、
自説に都合の良い部分は正しくて、
都合の悪い部分は誤りとか恣意的にも程があるだろw
で、反論されたら「記紀、嘘つかない」だからなw
お前は記紀の正誤を瞬時に判断出来てるつもりかしらんが、
世間ではお前みたいな奴のことをキ○ガイと呼ぶ。
肯定するにも否定するにも、あの時代は結局、記紀に頼らざる得ない。
蘇我氏の古墳をよく調べたら、古代の図書館の入り口ぐらい出てきたとか、
そういうことがない限り、どうにもならんよ
968 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 00:07:09.75
>>967 そうなんだが、唯一の頼みの綱たる記紀の記述でさえ、全幅の信頼を置くほどのものじゃない。
その分、文献以外の資料を使わざるを得ない。のに、これがとっても希少。
記紀の内容には錯誤、混乱、粉飾などが含まれ、どこまでが正しいかの判断は難しい。
その判断の基準になるのが考古学だということ。
お前の脳内妄想を基準にするな。
970 :
日本@名無史さん:2013/02/20(水) 01:17:03.13
>>969 オレは珍説を唱えたりしてなーい
だって、
「こうだったに違いない」とか、「じつは、こうだったんだよ!」とかいうこと自体をいってないもん。
独自の説を唱えたら、十中八九、珍説にならざるを得ないわなってこと。
でもさあ、もっと新しい時代でも、
例えば信長の前半生あたりとかでも、記紀の時代と事情が大差ないんだよなあ。
そっちではオレも珍説を言ってる記憶があるぞ。
>>969 でもそれは記紀に限らず基本的にどの時代にも言えることだよ
ただ正直古代史はおかしな珍説が流布されあまつさえそれを間に受ける人が多すぎる気がする
あまり見てて好ましいとは言えないなあ・・・
発掘したら、ザクザク木簡でも出てくれればいいのに。
974 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 06:29:14.64
>>972 既に盗掘されつくして、ろくな物証は残っていないのではないだろうか?
975 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 10:17:57.62
>>974 許可されたのは「立ち入り」だけで発掘は認められていない
研究者たちは箸墓の周囲を歩いて外側から眺めただけだそうだ
976 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 12:37:57.53
やまとととひももそひめは卑弥呼である
やまとととひももそひめは記紀では女王だとは一切書いてない
しかしその理由を説明する必要はない
一事が万事この調子だ
古代史の世界にはアホしかいないのか
「記紀には間違えているところもあるかもしれない」
というのと
「記紀は天皇家の権威を高めるために創作されたものである」
とはぜんぜん違うからね
架空の人物を10人も20人も創作して
王朝の交代も隠して家系をでっち上げるなんて
人類の歴史上ほかに例を見ないきわめてユニークな例だからね
日本は普通の国であり昔の日本でも普通のことが起こった
ほかの国で起こらなかったことは日本でも起こらなかったと考えたところで
狂信者扱いされる筋合いはないよ
考古学考古学っていってるけど
継体天皇の新王朝なんて考古学的な証拠なんて何もないじゃないか
継体天皇が新王朝を立てたって言うのの根拠は
「応神天皇の5世孫って怪しくね?」
って言うただそれだけだよ
ほんとにそれだけなんだからビックリしちゃうよ
「記紀は天皇家の権威を高めるため創作されたものである」
っていう奇想天外な奇説を前提にして
「万世一系はありえない 必ず断絶があるはずだ」
という強い信念のもと
記紀の記述をもとに記紀の記述を否定するという
わけの分からないことをやっているんだよ
エクストリーム屁理屈だよ
明確な根拠とは言えないが(古墳比定が正確とは言えないので)、
継体天皇以降、古墳の規模が小さくなった
王朝交代が理由とも考えられる
>>978 編纂時の事業としては、創作じゃなく脚色程度だろうよ。
だが、伝承ってのは意外と急速に変化することが判明した。
古くから伝わる創業神話と思ってたら、その内容がせいぜい百年程度しかさかのぼれない新しい内容だったなんて事は多いんだよ。
>架空の人物を10人も20人も創作して
>王朝の交代も隠して家系をでっち上げるなんて
古代の別王朝の王を自分の祖先につなぎ合わせる作業なら、史記もふくめ世界各地で見られることだよな。
記紀でも同様の加工が行われてたって不思議じゃないよな。
ノルマン朝、プランタジネット朝、チューダー朝
名前を見ると別王朝だけど血縁がないわけじゃないしなあ。
その程度の意味で考えるなら、王朝交替っぽい事件があってもおかしくない気はする。
982 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:12:03.24
近年の考古学の成果で言えば、真・継体陵は太田茶臼山ではなく
今城塚ということが分かった。
太田茶臼山の被葬者は継体から二世代前くらいの三島古墳群の王。
今城塚と太田茶臼山の埴輪は同じ新池遺跡で作られたことが分かっている。
普通に考えれば、太田茶臼山は今城塚の祖父。
継体は三島の造墓集団の後継者だろう。
しかし何故か記紀では近江やら越前から来たことになっている。
記紀信者はこれに対してどう説明するんだろ?
太田茶臼山は稚野毛二派皇子の墓でしょ。
古墳や陪塚のあり方からして「大王墓」ふうでしょ。
あの前後の時代の三島の古墳の動向からして、
「太田茶臼山は三島地域の王の墓」なんて言う奴はどうかしてる。
で、皇子の「子孫」の代に近江や越前を本拠とする豪族に分化した。
いわゆる息長氏(近江)、山道氏(越前)など。
984 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:32:29.81
>>981 >古代の別王朝の王を自分の祖先につなぎ合わせる作業なら、史記もふくめ世界各地で見られることだよな。
この例が知りたいです。別王朝の王を祖先につなぎ合わせて自分の王朝とした例ですよね?
全国21位、226メートルなんだから、王としても良いと思うが。
まあ同時代の百舌鳥古市に比べれば見劣りするんだけど。
継体は大王にはなれなかった人の孫ということ
986 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:41:41.89
だから「若沼毛二俣王」の墓で良いっしょw
三島累代の首長族の中からあの古墳を築くものが現れた、とは普通考えられないでしょ。
あの前後の古墳のあり方からして。
連合から代表者を推戴してひとつに纏まる時には、
共通の始祖を加上して擬制的同族化を行う。
クランの項を見よ。
988 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:49:02.27
そのクランによって前王朝を自分の王朝につなぎ合わせた例をご教示いただければ幸いです。
989 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:54:01.16
そもそもワカヌケフタマタの墓が三島地域にあったという伝承ってあるの?
ワカヌケが三島の王なら
息長の本拠地って三島にあったの?
なぜ継体が近江やら越から来たことになってるのやら。
クレクレの不勉強な奴が多いスレだな。
せめて自分なりにググってから書いてくれよめんどくさいw
反論なら応じるからさ
991 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:03:07.46
伝承はない。
ただ、子女の名前に淀川流域の地名が見られることや、
娘たち(允恭后妃)のエピソードに中臣・闘鶏といった
この地域ゆかりの豪族がからんでいることくらいかな。
あとは単純に難波から近江に抜ける要衝だという点から、
皇子の一人がそこに配された可能性とかね。
繰り返すけど、近江・越豪族となるのは、記紀や新撰姓氏録など見ても
「その後」の時代。継体はその末裔と考えればそんな難しい話ではない。
父方が近江ゆかりの応神裔で、母方が越前三国の三尾氏族。
992 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:10:51.62
>>991追加
あと、これも我田引水的で証拠とはならないと言われればそれまでだが、
墳丘規格の相似性からの推定ね。
つまり誉田御廟山と太田茶臼山の相似性
そして太田茶臼山と市野山の相似性(というよりは合同性)から。
記紀の人物名を当てはめれば、誉田御廟山=応神、
太田茶臼山=フタマタ、市野山=允恭、とも考えられる。
>>991 おいおいw伝承がないのに妄想していいの?
記紀に記載がないこと書くのは不敬だと思うが。
もっとご本尊を大事にしなよw
あとまあダメを押しとくと、三島野古墳群の最初は弁天山で、三世紀後半なんだが。
これはどう説明する?
994 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:30:37.87
いや妄想言うたら、記紀の伝承無視して「継体は前王朝と繋がり無し」なんてのも立派な妄想ですわ。
弁天山付近は前期以来代々古墳が造られた地域っしょ。
しかし太田茶臼山は「そこ」には造られていませんわな。
「そこ」に造られたのはむしろ今城塚っしょ。
今城塚はその弁天山の子孫だとでも言うわけですかな。
まあそう言われちゃそれまでだが。
いやまあなんというか、
淀川水運を押さえた豪族が三島野古墳群を造った。継体はその子孫。
というのが考古学的結論なんだよな。
応神の皇子とか年代が合わないし、そもそもそんな伝承なんかない。
記紀は後世の歴史家が少ない伝承から、
当時の研究水準から一番それらしい解釈を書いた書物。
色々政治的しがらみもあったようだが。
卑弥呼=神功皇后とか、最初の畿内説を唱えたのが紀の編者。
継体天皇が男系で応神天皇の血をひいてなかったら、
わざわざ大伴も田舎から都に呼び寄せんって
正統性があったからこそ御輿として価値がある
997 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:51:14.57
いやあ私はそんな結論聞いたことありませんなあ。
前期と中期さらに後期とで、三島の古墳形成のあり方は変わるし、
そこにはヤマト王権の政策とか介入が絡んでると見る方が常識的でしょ。
むしろ「三島の万世一系」にこだわるのが良うわからん。
三島各地域ごとの古墳年表とかみりゃ、太田茶臼と今城塚の「異質」性は素人にも感じとれるっしょ。
年代そんなに合わないか?
応神没=5世紀初、1世(フタマタ)=5世紀前半没、2世=5世紀中期没、
3世=5世紀後半没、4世=5世紀末〜6世紀初没、5世(継体)=6世紀前半没
多少のズレを考慮すれば、そんなおかしくないと思うんだが。
998 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:55:16.88
逆に
>>995氏に訊きたい。
私のような仮説のどこが問題、というか否定される部分なのであろうか。
「記紀に書いてるから」よりは余程マシだと思うがなw
あとまあ、倭の五王の記述を見ると、
倭王は自分だけでなく、20人もの臣下の称号も要求している。
倭王の権力が強ければそんなことをする必要はない。
当時の大王権が実質寄り合い所帯で、懐柔の必要があったから、
部下に称号をもらってやる必要があった。
三島の王もその1人だろう。
各地に大型古墳が造られてることにも符合する解釈だ。
今日は次期天皇陛下の誕生日(^O^)
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