平氏が平家と呼ばれるのに源氏は…

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1日本@名無史さん
源氏を源家と呼ばないのはなぜ?
2日本@名無史さん:2012/02/11(土) 20:44:20.55
平氏と平家を混同しちゃ駄目だな。
鎌倉幕府の本質は、関東在住の武士だが、有力御家人は平氏が主流。
あの北条氏だって平氏。
清盛一族を平家と称して、他の諸々の平氏と明確に区別する必要があった。
当時の血統の意識はそんなもんでって、頼朝は単なる神輿であって、たまたま源氏だっただけ。

3日本@名無史さん:2012/02/11(土) 21:39:44.19
源氏のことを「源家」と書いた例は『太平記』などにある。
『日葡辞書』にも、「Guenqe 源氏の家・一族」とある。
まあ清盛一族を特に「平家」と称するのとはちょっと趣が違うが。
4日本@名無史さん:2012/02/12(日) 07:14:10.49
ヘイケボタルはヘイシボタルとは呼ばないわなw
5日本@名無史さん:2012/02/12(日) 10:45:34.23
もし頼朝周辺の血族のみを源家と言うなら構成員が結構寂しくなるな
6日本@名無史さん:2012/02/12(日) 17:27:49.27
>>5
でも源家は頼朝一族だけでしょ?
7日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:57:32.87
◆源頼朝◆父方:河内源氏、 母方:藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)


■藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)

■三河国高橋荘(愛知県豊田市)・高橋新荘(愛知県豊田市)
・三河国高橋荘:源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
・三河国高橋新荘:荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
8日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:58:03.44
【鎌倉幕府】

■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:幕府内序列2位、上総介、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護

■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)

国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))←頼朝が初めて国主として推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、後に実兄が伊豆守になり、伊豆に移り住み頼朝と懇意)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)

■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司一族に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
9日本@名無史さん:2012/02/13(月) 12:06:32.51
源家って、たまに使われている

司馬遼は源姓の特定の一族を指して、
「源家特有の性質」うんぬんみたいな言い回しをしていた記憶がある
10日本@名無史さん:2012/02/13(月) 12:30:36.08
氏と家を理解していないので、スレ主のような阿呆が沸く。
つまり根幹を理解していないので、
当然歴史も教科書通りで全く理解していないのであろうな。
おそらくスレ主は男系と女系すらも区別つかんのだろう。
11日本@名無史さん:2012/02/13(月) 14:41:10.54
>>10
猿、お前は何独り言ってんだ?
アンカー位付けろ、低能猿




12日本@名無史さん:2012/02/13(月) 22:01:42.49
>>10
なんつうか、スレの趣旨を理解しておらず何を語るべきかの分別のつかない典型のようなコメ乙。
13日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:55:49.41
>>1
源家といえば、八幡太郎義家の家系を指すjk
14日本@名無史さん:2012/02/18(土) 21:12:35.90
>>2-3
平時忠って、清盛一族じゃないどころか高望流ですらないよね
15日本@名無史さん:2012/02/19(日) 10:30:55.36
平家は伊勢平氏の傍流だというが、嫡流ってどこなの?
16日本@名無史さん:2012/02/19(日) 17:19:28.90
伊勢にいた平氏じゃね?
17日本@名無史さん:2012/02/20(月) 12:33:54.62
だからそれは何氏な訳よ
18日本@名無史さん:2012/02/20(月) 18:05:24.40
伊勢氏はちがうの?
19日本@名無史さん:2012/02/23(木) 01:45:48.62
『滝山寺縁起』(愛知県岡崎市)


伊勢氏

新編岡崎市史20(総集編)
足利家の根本被官で室町幕府政所執事などを務めた武士。ふつう桓武平氏で平季衡の子孫とする。
『滝山寺縁起』にみえる足利家被官の藤原俊経(肥前前司)・藤原俊継(伊勢前司)は「伊勢系図」にのる同名の人物と官途が一致するので伊勢氏の先祖にあたるとみられる。
とすると桓武平氏というのも必ずしも信をおけないことになるが、もとは藤原姓であったのを事情あって後に平氏に変えたのかも知れない。
『縁起』に登場する伊勢氏は、俊経・俊継父子のほかに、俊経の兄弟に滝山寺僧円辰、その子に同じく増恵がおり、鎌倉中期の滝山寺の隆盛に尽くしたひとが多く出た。
鎌倉時代の伊勢氏について知りうることは少なく、上総で足利貞氏の守護代を務めた伊勢九郎宗継がいるが系図にはあらわれない。
康暦元年(1379)に尊氏の近習であった貞継(俊継の孫)が政所執事に任じられ、以後伊勢氏がこの職を世襲した。ほかに将軍右筆や御番衆になった一族もいる。
明徳2年(1391)伊勢貞行が御料所額田郡山中郷の代官に任じられ、以後山中郷は伊勢氏の所領となった。寛正6年(1465)当時、山中郷代官は伊勢氏被官の蜷川親賢であった。
松平3代信光とその一族は、伊勢氏の被官となることによって西三河で勢力を拡大することに成功した。
20日本@名無史さん:2012/02/23(木) 01:47:55.22
伊勢俊継(初代伊勢氏)


新編岡崎市史20(総集編) 
鎌倉中期の武士で足利氏被官。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継とある人で、肥前前司俊経の子。
滝山寺に足利義氏追善のため檀那として法華堂を造営し、田畠3町8段をこの堂に寄進した。
また碧海荘青野・宇祢部の料田畠も足利(斯波)家氏に働きかけて寄進させた。
そのほか滝山寺の諸造営にかかわって財政的な援助を惜しまなかったのは、叔父の円辰や従兄弟の増恵が滝山寺僧侶であったからであろう。
文永11年(1274)6月23日鎌倉で死去した。58歳。
21日本@名無史さん:2012/02/23(木) 01:51:36.23
増恵(伊勢俊継(初代伊勢氏)の従兄弟)


新編岡崎市史20(総集編)
鎌倉中期の滝山寺僧侶。聖蓮坊大進法眼。父の円辰(相模法橋)は足利家被官藤原(伊勢)俊経の弟で、やはり滝山寺の僧であった。俊経から持仏堂を譲られ自身の持仏堂とした。吉良荘の奉行として足利家の所領経営も担った。
建長6年(1254)の本堂屋根葺替工事に大勧進を勤めたほか、同7年の温室改造、正嘉元年(1257)の一切経蔵建設、文応2年(1261)の山王社宝殿改築などにかかわり、最盛期の滝山寺経営に重要な役割を果たした。
弘安6年(1283)2月13日衆徒訴訟の使者として鎌倉に滞在中に没した。75歳。



>吉良荘の奉行として足利家の所領経営も担った ←これ重要
22日本@名無史さん:2012/02/23(木) 10:26:11.70
↑岡崎市史を引用されても、なんだかよく分かんないな

「平氏の嫡流」っていうと、どうも「氏長者」的な存在を知りたいんだろうけど、
神皇正統記を書いた北畠親房が、
「凡称氏長者、王氏、源氏、藤氏、橘氏有此号」としていて、
厳密には、いわゆる嫡流と言い切れる系譜は存在しないのではないかな

鎌倉期なら得宗家の北条氏が平氏では出世頭だろうから、
まあそれが氏の長者、ひいては「嫡流」的存在ともいえるだろう
23日本@名無史さん:2012/02/23(木) 12:05:09.68
>岡崎市史を引用されても、なんだかよく分かんないな


岡崎に居たときは藤原氏と名乗っていた
とすると桓武平氏というのも必ずしも信をおけないことになる


この程度の事が理解できへんの
書いてあるまんまやん


『滝山寺縁起』(愛知県岡崎市)に記載された伊勢氏の先祖に関する記述は、鎌倉期の具体的な活動を記した唯一の資料なんだけどな



24日本@名無史さん:2012/02/23(木) 12:17:53.40
>>22 ←こいつはセンスがなさすぎるw
25日本@名無史さん:2012/02/23(木) 20:35:20.69
>>1
平氏は殆ど桓武平氏に限定されるるから家という概念で纏めやすいけど
源氏は嵯峨源氏から始まって幾つもの源氏が並立してる上に家格としては
清和源氏より村上源氏の方が上だから家という概念では纏めにくい
26日本@名無史さん:2012/02/24(金) 01:08:59.21
三河厨も嵯峨(松浦)源氏厨とおなじで粘っこいよな
27日本@名無史さん:2012/02/24(金) 07:13:25.70
中世は三河中心でみれば、全てが読み取れる


上総で足利貞氏の守護代を務めた伊勢九郎宗継

馬鹿な関東人だと、足利宗家と伊勢氏の最初の接点はこれになるからな


三河で足利義兼と藤原俊経(初代伊勢氏の伊勢俊継の父)

これが正解


28日本@名無史さん:2012/02/29(水) 14:16:11.10
普通に、義家の家系が源氏の宗家、すなわち「源家」といっていいだろう。

今日、平家・源氏で定着しているのは、平家物語・源氏物語のせい。
29日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:09:48.80
主人公が藤原氏だったら、光藤原氏でも良かったのだろうか
30日本@名無史さん:2012/02/29(水) 23:40:47.16
天皇の御落胤で皇族から臣籍降下した大変な貴種が光源氏である。
と言うキャラ設定が物語上で重要。

光源氏には実在のモデルが居て源融(とおる)ではないかと言われています。

因みに、源融〜源綱=渡辺綱(渡辺氏を名乗った始祖)。
渡辺(源)綱の「打出の小槌」(資金源、地盤)は淀川下流域の交通、物流を掌握した事によるとか。
渡辺氏の総氏神は座摩(イカスリ)神社(摂津一宮。宮中に鎮祭の御巫神の一座と同体)
地名も渡辺。
おとぎ話の「打出の小槌」も実在?したそうで兵庫県芦屋市打出町はその長者さまのお屋敷が有ったことからの地名
31日本@名無史さん:2012/03/01(木) 07:28:05.62
更衣腹の皇子が大変な貴種として処遇されてたといえるかは微妙だよね。
32日本@名無史さん:2012/03/02(金) 21:41:05.13
>>31
皇族のままなら母の身分が低いから日陰者だけど臣籍降下させれば
源常(左大臣、嵯峨皇子)源融(左大臣、嵯峨皇子)
源高明(左大臣、醍醐皇子)源兼明(左大臣、醍醐皇子)
のように国政に関与出来る上級貴族になれる可能性が出て来る

この中で源兼明は皇族に復帰して兼明親王となったけど
その為に左大臣を辞任する事になったので甥の円融天皇の事を
「君(円融)昏くして臣(藤原兼通)諛ふ」と非難してる
兼明にとっては左大臣>親王って事だわな
33日本@名無史さん:2012/03/03(土) 00:47:53.01
つまらない話でセンズリするなよ
糞カッペめ



34日本@名無史さん:2012/03/03(土) 01:47:30.59
>>28
目からウロコですた
35日本@名無史さん:2012/03/03(土) 04:00:25.07
>>28
源氏長者(奨学院・淳和院の別当)に清和源氏が就いたのは
室町時代の足利義満が最初だから義家の子孫なんて事は直接には
何の関係ありません
36日本@名無史さん:2012/03/05(月) 13:35:15.36
>>35
「源氏長者」ではなく、「源家」の話でしょ

三浦義明: われ「源家」累代の家人として、いま貴種再興の秋に逢う。これ喜ばしからずや・・・とかなんとか
37日本@名無史さん:2012/03/08(木) 22:10:59.55
>>36
ちと待て、三浦氏って、坂東平氏だろう。
38日本@名無史さん:2012/03/09(金) 22:50:29.86
>>37
三浦は坂東平氏といわれてるね。異説もあるが。
千葉、上総、畠山、大庭、梶原、秩父、等々、みな同じ。
坂東平氏は、頼義・義家のころは源氏の家人だった。
39日本@名無史さん:2012/03/11(日) 20:04:19.28
源氏のパシリ、田舎者の坂東武者



40日本@名無史さん:2012/03/11(日) 20:10:20.98
 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 (    ) パンツ脱いで待ってる 
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 /     ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄   ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .|   | | 藤原信頼
||\..∧_∧             (⌒\|__./ ./
||.  (    )             ~\_____ノ|  ∧_∧
  /    ヽ骨は拾ってやるよ  .     \|  (    ) 
  |     ヽ                   \/     ヽ. 負けたら絶交な
  |    |ヽ、二⌒)               / .|後鳥羽| |
  .|    ヽ \∧_∧           (⌒\|__. / /
  藤原隆家
41日本@名無史さん:2012/03/12(月) 12:45:39.97
平氏が八幡信仰をすることはありえますか?
とある平家の落人村に、八幡大菩薩の赤旗が伝わっているのですが
42日本@名無史さん:2012/03/13(火) 07:05:16.19
>>41
元は源氏の嵯峨や清和の親筋の桓武天皇皇子だから、在っても不思議では無いが・・
平氏は基本、百済信仰神社に祀られたてと思うが・・
源氏寄りに仕えた伊勢平氏の北条末裔を装ってたとかかな・・?
43日本@名無史さん:2012/03/13(火) 10:45:44.14
源氏の八幡信仰って義家さんが八幡宮で元服したのが縁だよね?
八幡神は源氏だけの氏神というより、
武家の氏神だったのではないだろうか?
平氏を称していた熊谷直実さんは、
家紋に八幡神のシンボルの鳩を取り入れてるし。
落人の里に平家の赤旗に八幡大菩薩と書かれたものが伝わっていることもある
44日本@名無史さん:2012/03/13(火) 15:03:51.65
八幡宮は全国にあるけど追い出した後の平氏の荘園や支配地域に作ってない?
45日本@名無史さん:2012/03/13(火) 21:28:43.51
平国香と平将門が戦の時に,国香側が先祖のご本尊を持ち出して、将門は、地元のイカヅチの化身の神社の神の名を書いた幟で対抗してたよね?
46日本@名無史さん:2012/05/19(土) 11:02:18.88
執権の北条だって平氏なんだぞ
47日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:13:22.33
源氏が武家棟梁となったのは、頼信、頼義、義家の河内源氏三代において関東の平氏を家人にしたから。
源氏の家来になるのをよしとしなかった平氏の一部が伊勢に移り、伊勢平氏となった。
伊勢平氏は、源氏(河内源氏)と比べると武家のランクは低かったが、
河内源氏の興隆を阻まんとする院により、源氏の対抗馬として採用される。
河内源氏は戦に強い者が多すぎたため、義家没後、内訌となり凋落していく。
こういうことですね。
48日本@名無史さん:2012/05/22(火) 16:46:16.93
>>47
伊勢平氏のうち正盛の系統は、荘園の寄進や賄賂で白河院に接近
49日本@名無史さん:2012/06/25(月) 23:26:10.45
関東平野を耕して開拓したのは平氏の偉大な功績です。ところが平氏はみんな好き勝手なことをやって纏まらないから仕方なく源氏を担いだんです。
50日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:27:33.97
頼朝とは一体なんだったのか
51日本@名無史さん:2012/07/14(土) 11:54:15.15
>>50
伊勢平氏の北条政子の傀儡だから、平家と義経・頼朝と頼朝との間の我が子をも、全員毒殺。
高野氏百済人の血の成せる業。
52日本@名無史さん:2012/07/14(土) 11:56:16.76
鬼ヶ島の鬼の温羅百済人の血は、服中の虫・・エイリアンの血
53日本@名無史さん:2012/07/14(土) 11:59:55.11
そのエイリアン=高句麗傀儡師の本丸が、部落解放同盟。
人外。
大和民族にあらず。
54日本@名無史さん:2012/07/14(土) 12:00:53.09
獅子身中の虫とも言う・・
55日本@名無史さん:2012/08/20(月) 17:46:46.64
>>46
今時、北条が桓武平氏ってどんだけ無知なんだよ

時政以前の系図が不明であり、直方に無理やりこじつけたというのは定説
56日本@名無史さん:2012/08/21(火) 00:12:53.93
>>55
出自不明って、帰化にされるぞっ
57日本@名無史さん:2012/08/21(火) 00:33:17.59
>>56
すぐに半島に結びつけたくなるのねw
58日本@名無史さん:2012/08/21(火) 22:56:49.06
源氏は清和源氏、宇多源氏、村上源氏、正親町源氏とかたくさんあるのに、何で平氏は桓武平氏だけなの?
59日本@名無史さん:2012/08/21(火) 23:59:55.60
>>58
嵯峨源氏抜かすなッW
板東平氏・伊勢平氏・・と、居るでは無いか・・。
60日本@名無史さん:2012/08/22(水) 00:03:39.25
仁明平氏・文徳平氏・光孝平氏とマイナーなのも・・
61日本@名無史さん:2012/08/22(水) 00:04:53.92
>>58
アッ・・
佐々木源氏も無い・・
62日本@名無史さん:2012/08/22(水) 00:18:59.26
坂東平氏と伊勢平氏は桓武平氏で、佐々木源氏(近江源氏)は宇多源氏じゃん
63日本@名無史さん:2012/08/26(日) 19:40:58.28
>>61
佐々木源氏!?
佐々木天皇なんていたか?wwww
64日本@名無史さん:2012/08/27(月) 09:16:46.72
佐々木氏は、宇多源氏だな、近江源氏も同じ流れだ。
佐々木源氏は存在しないw
65日本@名無史さん:2012/11/07(水) 19:04:55.52
>>2
平家は滅亡したけど平氏は現代まで受け継がれている。
鎌倉時代の北条家や織田家は平氏、なので織田信成は平氏の末裔でもある。
いまだに平氏と平家の区別つかんタワケがおるからこんなスットボケたスレが出来上がるんじゃ嘆かわしいんじゃ
66日本@名無史さん:2012/11/26(月) 18:49:56.16
平氏と平家の違いなんてみんな知ってる。
このスレで話題になってるのは
平氏に平家があるのに(有名なのに)、源氏に源家がない(有名でない)理由だ。

偉そうにしてんだから、教えてくれるんだろうな。
67日本@名無史さん:2012/12/01(土) 21:14:53.67
1歴史上坂東武士、平氏は権力として存在するが、源氏、まして家など存在しない
2 事実上935~1200年頃までの勢力の争いは坂東武士対平氏の二対立勢力争いが主眼である。
この頃、完全に源家は厳密には
・平氏の傍流で
・坂東武士のおこぼれ犬(坂東武士反宮廷の宮廷スパイ役)
・~1200、~1500年常に総数、所領は小さく勢力は弱小
・歴史上はただの力なき貧乏貴族だった
としか書かれず、常に弱体でおとぎ中の話しか出てこない。
そもそも対平氏も、後の14世紀の関東の戦いも完全に戦力、勢力の、主力にならず傍流で
【似非名門フィクション流す政治叛乱】しかしてないだろ。
68日本@名無史さん:2013/01/26(土) 16:18:09.88
>>66
「平家物語」には、源氏・平氏の使用例はともにある。
一方で、平家の使用例はあるのに源家の使用例がない。

平家は平清盛一族のことを指すのに対して、
源家と呼ぶべき突出した源氏一族がいなかったことに由来する。

違いが分かっているなら源家の用例がない理由が分かるだろう。
現代人が源氏、平家とよびならわしているわけではなく、
平家物語の時代から源家という用例がなかった。
69日本@名無史さん:2013/01/26(土) 16:42:49.43
ぽぷらちゃんのカレーを直食いしたいお( ^ω^)
70日本@名無史さん:2013/01/27(日) 02:58:05.57
頼朝の将軍家がもう少し栄えたら源家って呼ばれたかも?普通に将軍家かな
71日本@名無史さん:2013/01/29(火) 14:24:24.93
>>13
そーなの?
源義家を略して源家なんてオチじゃないだろうな。
72日本@名無史さん:2013/01/29(火) 21:56:42.07
もう覚えている人も少なくなったかも。光GENJI。
73日本@名無史さん:2013/02/06(水) 01:24:50.07
>>65
鎌倉時代の執権やってた北条氏は、鎌倉幕府とともに滅亡した。現存していない。
伊勢新九郎長氏(=北条早雲)の末裔は、河内狭山藩の藩主として幕末まで続いた。
早雲の出自は一応、伊勢平氏の末ということになっている。

織田氏は一応「平氏」ということになっているが、はじめのうちは藤原氏を
名乗っていた頃もあって、あとから平氏になったということだ。
74日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:09:39.06
http://www.heikekai.jp/contents/inquiry.html

ここで平家の子孫と言って集金してるのは、自称平家って事か
せめて何処の平氏か明記しろよ
75日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:39:15.38
1980年代に活躍した2輪の平忠彦選手って、よく見たら平家一族にいてもおかしくない名前だな。
76日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:13:13.42
去年の大河ドラマが凋落した理由が良くわかるスレでつね・・・
77日本@名無史さん:2013/02/12(火) 12:38:31.45
>>74
自称、知盛の子孫で会費で福岡を遊び歩いてるDQN
http://blog.goo.ne.jp/agehakai/e/a2b3136465ba8cb2dc583df73492010d
ブログにも怪しい奴しかでてこない
78日本@名無史さん:2013/02/16(土) 14:41:34.80
源家(みなもとけ)は読むの長くてめんどくさいから
みんな源氏(げんじ)って言っちゃうんじゃないの
平氏(へいし)と平家(へいけ)はどっちも大差ないけど
79日本@名無史さん:2013/02/17(日) 03:58:05.18
新羅って倭人系と秦人系で構成されてたのですか
80日本@名無史さん:2013/03/20(水) 18:40:48.79
>>79
中国は、秦国・秦民族の満州人を除外した中国史観の中華共産思考・・
北朝鮮は、高句麗・百済以前の超古代朝鮮国・・
韓国は、自称で韓人系なのだろうなァWW
台湾人が、倭人系の様に・・
81日本@名無史さん:2013/03/20(水) 19:20:09.95
源家ホタルだとピンとこないから。
82日本@名無史さん:2013/04/13(土) 02:05:36.98
伊勢平氏「一族は団結するもの」→ファミリー結成、平家に

河内源氏「一族は殺し合うもの」→×
83日本@名無史さん:2013/05/19(日) 20:55:19.57
結局空気読めない奴が最強でしたっつーオチでいいんだよな?
源氏ってそんなんばっかだよな
氏族郎党総ヤンキーかよ
84日本@名無史さん:2013/05/19(日) 22:30:43.44
天皇の外戚に清盛がなったから、平氏から平家に。
源氏はそれができなかったから、源氏どまり。

そんな風に考えている。
85日本@名無史さん:2013/05/20(月) 23:36:39.14
平家物語、源氏物語があるから、『平家』『源氏』で定着したと思う
86日本@名無史さん:2013/05/22(水) 00:40:55.85
>>83
だから、後の源氏天下の世の江戸時代に、外様大名の倅が試し切りとか、辻斬り紛いな事を繰り返してた訳だろう・・
外様大名の倅=現代でもしらけて見られるヤンキー
87日本@名無史さん:2013/05/25(土) 10:08:52.45
「平家物語」に源氏が登場するのに「源氏物語」に平家が登場しないのは
なぜ?
88日本@名無史さん:2013/05/25(土) 23:43:22.79
去年の大河ドラマでは、平氏は公卿を多数輩出した家になったから
「平家」と呼ばれるようになったとか説明していた。
89日本@名無史さん:2013/05/28(火) 01:01:14.62
>>87
嵯峨天皇皇子の源融=光源氏が源姓を臣姓降下で源氏と成る時代から数十年後、葛原親王の嫡流平姓公家の高棟王も臣籍降下で平氏と成った訳で、
葛原親王の三男の高見王・・高持王筋の武蔵平氏の国香の平氏が武家で伊勢平氏始祖で国香の嫡子貞盛から7代目が清盛平家とは武家平氏が公家と成り上がったので、平家と成る。
が、壇ノ浦で御家滅亡。
後の鎌倉が、武家が公家と逆転する地位として、後の江戸幕府の石杖を築いたので、源氏が武家のままなので源氏なのだろう。
その末代も、5爵制度で公爵では無く、嵯峨領を預かる光源氏末代、外様大名の平戸松浦氏は伯爵止まり。
90日本@名無史さん:2013/05/28(火) 01:02:38.51
>>89訂正
×源姓を臣姓降下
○源姓を臣籍降下
91日本@名無史さん:2013/06/03(月) 17:55:45.02
平清盛一族はファミリーとして栄華を極めた(滅亡した)から「平家」とまとめて語ることに意味がある
92日本@名無史さん:2013/06/07(金) 09:35:40.92
確かに特別な意味でのファミリーだから○○家
というイメージは理解しやすいな
93日本@名無史さん:2013/06/16(日) 11:47:28.82
>>88
間違っちゃいないが、その最初は高望王系ではなく高棟王系なんだけどな
94日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
うちの祖母は河内源氏の家系
で、おれはオカルト板によると
前田姓なんだが平氏、菅原、ペルシャの輪廻らしい
95日本@名無史さん:2013/09/14(土) 09:58:15.43
>>91
そういえば平安貴族の家族は、婿が妻の家に入って、子は母方の家で育つから
外戚(外祖父)の影響が強くなるんだったな。一夫多妻でもあり、父と子が同じ家に
いるとは限らない。むしろいなくて当たり前。これは色恋に現を抜かしてるだけではなく、
政略的意味が多分に含まれてる。男が独立して屋敷を構えるときも、その屋敷は
妻の父にあてがってもらったり、妻の父が隠居して出て行ったのを引き継いだりとか、、、
男はそんな形でコネクションを築いて、実父や妻の父の力を借りて出世していく。
実父と子の協力関係は本質的にあるけれども、子が自立した後は社会的地位や
利害関係からの協力に変化していく。 実父と妻の父が対立するようなことがあれば、
妻の父側につく(立場上つかざるを得ない)場面も多く、まして兄弟・従兄弟・叔父ら
との家族意識は薄い。

だから当時の貴族社会にあって「○○家」としてまとめるにふさわしいグループは
少なく、家として語るほどの事績もなかった。一組の親子、数ある兄弟のうちの数名
の協力を家と呼ぶかどうかはさておき・・・・・。
頼朝一族までの源氏もまさにそうだったが、平清盛は一家を率いて勢力を築いたから、
「平家」(平清盛一家)として語るのがマッチした。
96日本@名無史さん:2013/11/13(水) 18:33:47.35
>>79
なんでここで聞いてるのかわからんが
新羅は高句麗や百済と比べると実は際立った特徴がある
それは近隣の諸民族が入り交じって合衆国の様相を呈していたこと
というと「当時は高句麗だって倭国だって百済だってそうじゃないか」
と反論するやつがいるが、ぜんぜん違うんだよ
普通の国は支配民族が一定しててそれが民族のアイディンティティーと繋がってる
初期の新羅は本当に合衆国でぐちゃぐちゃだった
通常の国では王族貴族は血縁社会、新羅だけは血縁より地縁社会
新羅王が血筋を重視して聖骨・真骨いいだしたのはそういう環境の中で
王の血筋の聖性を守り立てるため
97日本@名無史さん
太宰治の右大臣実朝でも源家と呼ばれている