尊雅王以後、史書からも消えた後南朝。いったい彼らに何があったのか?真実に迫る
どの史料に「尊雅王」という名が書いてあるのだ?
Wikipedia
とりあえずコレ↓読めばいいんかね?
『後南朝史論集 吉野皇子五百年忌記念』
後南朝史編纂会 編、瀧川政次郎監修 (新樹社、1956年)
新装版(原書房、1981年7月)、瀧川の新版前書きがある
長島銀蔵『皇統秘史』(私家版、1966年)
市川元雅・小笠原秀煕『後南朝新史』(南正会、1967年) ※ 南正会は熊沢家の縁者による会
(増補版『前後南朝新史』。芳雅堂書店刊)
辰巳義人『川上村に伝わる後南朝史』(私家版、1970年10月)
安井久善『後南朝史話 歴史と文学の谷間に』(笠間選書、1975年)
中谷順一『後南朝秘史 ―南帝由来考―』(私家版、1985年)
森茂暁『闇の歴史 後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書、1997年) ISBN 4047032840
森茂暁『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ、2005年) ISBN 4062583348
『歴史読本No.816 特集・検証 後南朝秘録』、(2007年7月号、新人物往来社)
熊沢家が書いた史書があるのか…
尊雅王は桜雲記・南方紀伝にも記載なし。
初出は1785年の南朝編年記略
南朝編年記略は未だ翻刻すらされてない
自分も読みたい
10 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 16:43:32.08
反日ネット工作員
朝日新聞社→社員約300人
民主党とその取り巻きの資金が入った反日工作会社→数社約450人
朝日新聞の社員は捕まった49歳の編集者を含め新聞記事を書く合間に2chを荒らしている程度とみられているが
民主党が用意した反日工作会社はほぼ24時間体制で工作を行っている
工作範囲は民主党が予め工作費を流している2ch、ニコニコ動画を中心にyoutube、個人のブログなどである。
11 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 19:10:12.79
後亀山天皇ー小倉宮ー尊義王ー自天王(1442〜1457)
以後断絶
断絶って何だろう?
13 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 02:10:28.61
南朝公家はどこ行ったんだろ
官職は北朝系が独占、家財も殆どないはずだが
>>13 その連中や悪党の子孫が南朝後胤を僭称してるんだろ
後南朝の生業は何だったのかな?
神官になれば生き残れたのでは…
北朝の子孫の明治天皇が、基地外集団の言いなりになって南朝こそ正統だなんて言う馬鹿な事を
口走ってしまったのが問題だな。
現実的には明らかに北朝が正統であり、平成の今の世で南朝の正統性を信じているのは、
現実逃避の引きこもりか、狂信的な基地外。
下手に喋りかけると刺されるから、みんな注意しろよ。
水戸光圀に家よ。
19 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 19:40:51.74
花山院とか洞院の子孫はみんな出家しちゃったみたいだな
21 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 23:23:28.25
>>19 あれは持明院派の資名流の子孫
義満期に別れた裏松流との争いに敗れたのが遠因
資朝流は子息邦親が山陰のどっかの国司として敗れて吉野戻ってからは不明
22 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 18:40:49.44
>>13 阿野がそのまま存続
経忠流近衛が北朝系花山院の養子になって花山院持忠を名乗ってる
23 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 22:14:38.40
そう。持忠は近衛経忠の曾孫に当たるんだろうか
25 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 06:55:57.65
神戸市中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。
26 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 23:27:15.48
楠木正元が義満の暗殺を図って処刑されたというのは本当かね?
そんな事件があったら、京都側の記録に残るはずだろう
>>25 いい話だなー。
昔の国はそういう感動話だらけだったんじゃないかな。
30 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 16:25:19.91
熊沢天皇
31 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 16:30:16.72
河合敦の本見たら、後亀山の皇子の名が実仁親王になっとった。
所詮そのレベルなんだなと納得
まあ、研究家であって研究者ではないからな
34 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:01:37.34
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
35 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 19:50:34.45
後亀山の院号って持明院統(旧北朝)の天皇が決めたの?
36 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 04:20:00.81
明治44年に明治天皇の命令で南朝3代を天皇と認め
煕成王を「後亀山」と追号
37 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 12:06:00.38
北畠と楠木の子孫はいるんだから、何かわかりそうなもんだけどねえ
38 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 16:35:46.67
後南朝の記録って言ってもほとんどが
北朝朝廷方の日記や寺社僧侶の日記なんだよね(しかも伝聞)
どんどんジリ貧になってどどめに
それまでの融和策から義教の南朝殲滅策への方針転換
やはり発給文書とか新出史料が出てこないと厳しいな
あれだけ皇子がいたんだから一家ぐらい残っててもいいと思うが
長い潜伏、そして応仁の大乱、戦国時代
この間に自家の由緒も忘れていったんだろうか
>>36 それはあくまで追認に過ぎない。
看聞日記には既に「後亀山院」とあるのだから。
>>37 子孫にも正確な記録は残ってなかったんだろう。
北畠氏の子孫が編んだという「北畠准后伝」の
内容の杜撰さから推して知るべしかと
北畠なんぞ南北朝合体後はちゃっかり室町幕府の守護大名におさまって、
戦国時代まで生き延びて最後は信長に滅ぼされるまで続いたけど、
意識としては普通の戦国大名と何も変わらんだろう。
関東在住者です
吉野山に二回行って土地勘が出来てきたので
次は、いよいよ奥吉野に行きたい。
関西の方に尋ねたいのですが
二泊三日でいくのに
どういうプランがお勧めでしょうか
レンタカーを使うのが良いかなと思っているのですが…
「悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について」がヤフオクに出てる
図書館で読んだわ
「悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について」がヤフオクに2件出てる
宣伝かよ
忠義王が征夷大将軍になったというソースは何?
なんだろうね。俺も知りたい。
多分、川上村の口伝とか熊澤系についての誰かの本とか
そんなレベルではないかと
「十津河記」自体が事実誤認や記憶違いで書かれたようなものだからね
「南朝誌」(『川上村史 史料編』所収)に、
(天靖十二年)二月二十五日忠義親王様征夷大将軍に被為玉ふ
とあるね。
すごいね、そういう史料を持ってるんだ?
俺はセコセコ集めている最中だよ
>>4にもあるが南朝関係で読んどくべき本一覧とか
どなたかお手隙の折にでも教えてくださいな。
一次史料
-----------------------------------
考証・研究論文系
-----------------------------------
伝承系
@川上村に伝来するものやそれに類似したもの
A熊沢家関係がらみ
B美作南朝をはじめ各地の○○南朝
などなどこんな区切りで説明していただければありがたいです。
「闇の歴史 後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉」森茂暁さん
「南朝全史 大覚寺統から後南朝へ」森茂暁さん
「歴史読本 No.816 特集・検証 後南朝秘録」
「悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について」
これぐらいしか持っとらんw
>>52 美作後南朝なんて捏造もいいとこだと思う。
気にしなくてOK。
美作後南朝については書物も少なく、闇の中のまま。
南北朝時代の末期に山陰の大々名の山名氏が南朝の断絶を避けるために
美作国の植月に後南朝の皇子を招いて開設されたのが美作後南朝。
三種の神器も美作後南朝に伝えられ、代々天皇が即位し、地元豪族達に守られて
戦国時代も生き延びたが、第8代高仁天皇が死に、後継者である良懐親王が江戸幕府
により庶民の身分に落されて美作後南朝は滅亡したとされている。
個人的には美作後南朝の存在自体を疑問視しております。
平民に落とされたにしろ子孫は続いた訳で、それらの足跡が余りにないのは
不自然ではないかと。
ましてや地元豪族が本当に支持していたなら、その後も支援するだろうし庇護もするでしょう。
突然のようにすべてが消失するなんてありえないと考えています。
後南朝の子孫なんて現存しない。
室町幕府の施策により男子は仏門に入れられ子孫は絶えた。
自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。
後南朝というか正確には後醍醐流は断絶に追い込まれた。
それが史実でしょ。
6代将軍の義教の時に、南朝皇族は滅亡させる方針に変わった。
小倉宮の子孫はじめ主要な皇族は仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実。
自称傍系の子孫らしいのが細々と吉野や紀伊の山奥で活動してただけ。
活動規模はもはや山賊レベルで驚異にはならなかった。
その傍系も赤松遺臣に討たれ滅亡した。
そこから先は伝承に過ぎず南朝の名前を利用されただけ
>>55 応仁の乱で山名が担ぎ上げた「西陣の南帝」と関係はあるのか?
美作後南朝自体が捏造。
西陣南帝とは無関係。
南朝方の公家の子孫を称してる家ってないのかね?
62 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 21:51:22.19
>>49 俺は突川記の「勝法親王」は「自天勝公」の訛伝だと思う。
現在北山に伝える位牌から「南方両宮」の名乗りは「勝公」「忠義」だった可能性があるし
「忠義王文書」も伝わっているがこれは、「梵勝」「梵仲」からとったと思う。
十津河記が、後亀山天皇の子を長慶院寛成と伝えているのは、そもそも北山の両宮は長慶天皇の子孫だったのを、
誤り伝えたものと思う。
>>60 一番メジャーなのは阿野さんか。
近衛経忠とか二条冬実なんかの系統はどうなったんだろうな
いるのかもしれないが記録が残っていないんだろうね。
冬実の子もほとんど僧籍だし
九州の南朝勢力は、後南朝の時代には壊滅しててないんだよな。
一時は、九州全土を支配する勢いだったのに。
懐良親王(後醍醐天皇皇子)→良成親王(後村上天皇皇子)に代替わりするが
最後は五条氏の領地の筑後矢部(福岡県八女市矢部村)くらいしか維持できなくて、
そこも攻められて何度か撃退するも、良成親王(後村上天皇皇子)が死んで終了。
1395年の感状が最後で30台半場前後で死去したとの通説だが、子供とかいなかったのか・・
それとも病死等ではなくて北朝側に寝返るために子供もろとも暗殺されたのか・・
五条氏はその後も生き残っているのに、良成親王の辞世とかも伝わってないし不自然さを感じる。
良成親王は病死か心労から身体弱らせて普通に亡くなったんじゃないのかな
男子がいれば旗頭にされたろうからいなかったか夭折したか
五条氏はその後、菊池氏の与力として筑後矢部を維持するけど
「宮」の不在では過去のようにはいかなかったと思う
それだけ「御輿」の存在は重要(特に鎮西では)だったってことかな
>>63 鷹司家諸大夫だった小林家(安政の大獄で獄死した小林良典が有名)は、
近衛経忠―経家の子孫と称する系図を持っていたとか何かで読んだけど
九条家諸大夫だった富小路家が二条家の庶流を自称したようなもんかな
花山院師賢の子孫を称した丹波篠山藩の青山家を忘れるなよ
「寛政重修諸家譜」編纂頃じゃ自称過ぎるw
もっと記録や状況的に傍証できるようなものじゃないと
後南朝詐欺って,江戸時代からあったのか
なんかすげえな。
家系図にも偽作が多いですからね。徳川家の家系も...
そこで浪合記ですよ
浪合記は偽書。
>>66 良成親王の辞世の句すら残ってないのが不自然。
辞世の句を残す時間すらない死に方をした可能性大。
突然死、戦死、暗殺など
畳の上でゆっくり病死したなら辞世の句くらい残すだろ。
五条氏が残ってるから辞世の句があったなら伝わっただろうしな。
懐良親王はおろか、歌人の宗良親王だって辞世は残ってないでしょ。
ただ、良成親王は本来敵であるはずの了俊の作品にも目を通してた
というから、和歌を詠むぐらいの文学的な素養は備わってただろうね。
宗良親王は戦死した説があるから辞世も残せなかったのでは?
それに側近の子孫が後世まで生き延びたという条件も揃わないな。
雲井にものぼるべき身のさはなくて 雲雀の床に音をのみぞなく (懐良親王)
テスト
>>74 不自然?どこがw
無理やり陰謀とか暗殺説にしたがる奴はいるなw
自分で考えてみろよ
明日、お前が事故死とか急な発作で死んだとして
今日のお前はそれを予見して辞世を残すか?
前々から辞世を準備している場合も多いが
それだってその個人の性格やタイミングによりけりだろ
さらに言えば辞世はあったが南朝衰退の混乱等により「伝わらなかった」可能性もある
歴史の事象がすべて書物に残る、あるいは口伝で伝わるわけでもあるまいに。
突然死は俺もその可能性は書いたが
辞世がない=戦死、暗殺は短絡すぎる
>>79 お前 馬鹿だろ。
突然死の可能性の中で事故死とか
>>74で既に書いてるじゃん。
文章読めないの?
三国人なの?
浪合合戦はおそらく史実だろう。
問題は、いつ誰が戦死したのか
84 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 16:18:58.32
age
新史料発見マダー
新史料じゃないが、「花押かがみ」は南北朝まで
出揃ったことだし、もっと利用されるべきだと思う
>花押かがみ
史料の少ない南朝方の花押を多く採録したのは評価するけど、
官位や没年の情報が「系図纂要」丸写しなのは如何なもんかな
「西征将軍懐良親王 隠された皇子」森田 泉 (著)
これは小説なの?
それともちゃんとした研究書なの?
>西征将軍
お察し下さい
征西府関係だと、最近「九州の南朝」って小説が出た
91 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 10:23:10.31
>>89 表紙に堂々と「西征」だもんな。あれはビビッたw
まったく関係ないが山地悠一郎さんの息子が
六角精児さんだと初めて知ったw
木寺宮の血を微妙に女系で引いてるのだが、後南朝の末裔の極端な人なら、
皇位継承できるとか言い出すんだろうな。
後南朝の子孫なんて現存しない。
室町幕府の施策により男子は仏門に入れられ子孫は絶えた。
自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。
後南朝というか正確には後醍醐流は断絶に追い込まれた。
それが史実でしょ。
在日の方で箔をつける為に、滅亡した旧大名家の
子孫を自称したりする人がいますが、それと同じ心理でしょう。
何かを誇りにしないと心の支えがないから。
その嘘を何代もつき続けると系図も、先祖伝来の宝物も捏造され、
子孫たちは本気で末裔だと言い出すのです。
95 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 12:27:26.17
96 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 17:10:27.01
熊沢天皇
ユキヨシ様か
98 :
日本@名無史さん:2013/06/15(土) 13:27:16.59
自天王の子孫は、代々、吉野川流域の富農の領内にかくまわれて、その
御座所は「吉野御所」と呼ばれることもあった。
時には御所を出て、領民に親しく声をかけられることもあったが、基本的には
御所の御簾の内側で過ごされることが多く、一般に知られることは少なかったと
考えられる。
それも伝承に過ぎず、真実は「後南朝滅亡」で終了でしょう。
自天王自身の系譜すら分からないんだからねえ
102 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 00:09:32.72
吉野御所では除目も行われたと考えられるが、やはり摂関は置かれず、
天子の御親政だったのだろうか。公卿議定は左大臣あたりが務めたであろう。
後南朝に付いてきた公家っているのか?
>>60 自称はしてないけど
そうなんじゃないかなと郷土史家が言う程度の話としてなら
うちの本家
kwsk
106 :
日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:14:58.11
後南朝に従った堂上貴族は少なかったよな。
だから、御所に仕えていたのは地下官人や滝口の武士ばかりだった。
昇殿する人は非常に少なく、朝廷は寂しいものだった。
107 :
日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:32:10.56
実態としての後南朝は次第にfade outしていったのであって滅亡ではない
滅亡というのは軍事的結果としてあからさまに潰された場合を言う
次第に衰微していったものだから、実態としての貴族性、自意識なども時間をかけて薄まっていったもので
血縁的な子孫や伝承のような形での自意識は当然残る
そして、子孫というのは増えて拡散するし、実態としての貴族と関係ないものだから
薄まった形でさまざまに存在する
そのどこまでを後南朝、南朝の後裔とするか、正確な基準など存在しようもない
また、南朝の後裔は吉野によった朝廷の系統だけではない
それ以前後醍醐が皇族をさまざまな場所に派遣している
これらの実態としての貴族性が失われたはもっと早いだろうが、それであっても南朝の後裔ということは残る
108 :
日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:37:37.42
いい加減、0か1かの幼稚な2byte思考から抜け出したらどうかね?
自天皇にせよ植月御所にせよ、もうその狭い地域だけで通用する
貴族性でしかなく、その実態も小地主、富豪程度だから
地元民間の意識=伝承には残っても、まともな記録に残ことなどまずない
何が言いたいのかよくわからん
110 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:00:04.28
実質を伴った後南朝の朝廷は200年くらいしか続かなかったのではないか。
それ以後の後南朝の朝廷は、室町幕府における小弓御所くらいの存在感しかなかっただろう。
昇殿を許された廷臣の数は全盛期でも数十人もいなかったのだから。
111 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:25:41.95
時代的に中世で、比較的現代に近い時代の出来事なのに謎が多すぎる。
日本史で後南朝は古代史と同じぐらいロマンがある。
しかし古代史と違って研究者が少ないし、進展もあまり望めない
113 :
日本@名無史さん:2013/06/22(土) 07:31:03.97
後南朝についた公卿はほとんどいなかったから、公卿議定を開くのもままならなかっただろう。
自天王や尊義王などの皇族の子孫が臣籍降下し、賜姓源氏となって公卿となっていたに相違ない。
賜姓源氏の公卿たちは高い官位を世襲し、その傍流の者たちは五位の受領クラスの武士となり、
長きにわたって後南朝の藩屏となったことだろう。
なんか壮大に勘違いしとりゃせんか
後南朝というのは残党の総称だろ
明徳の和約以後は南朝に正統性は無いし
朝廷と呼べるような組織なんて存続してない
115 :
日本@名無史さん:2013/06/22(土) 14:08:05.24
後南朝版の公卿補任とかがあれば、後南朝の任官状況がわかるのだが、
誰か読んだ人はいないのかね?
なんだつむりの弱い構ってちゃんか
117 :
林修:2013/06/22(土) 15:24:28.65
大室天皇家も寅之祐の曽祖父の代までしかさかのぼれないのに
光良親王の末裔だってさw
南朝公卿補任などという近世の偽書はあるが、
実際の南朝は補任記録を残していたかすら疑問。
119 :
日本@名無史さん:2013/06/23(日) 06:20:36.24
後南朝は結果として藤原氏を排除して賜姓源氏を中心とした皇親政治を実現したというわけか。
嵯峨朝のような栄華が吉野の秘境に花開いたのを、歴代の南帝はどんな思いでご覧になったであろうか?
妄想乙
121 :
日本@名無史さん:2013/06/23(日) 12:46:06.56
南朝の公卿補任は北朝によって抹殺された。
数々の状況証拠から、任官関係の史料を復元する必要がある。
『新葉和歌集』にしか出てこない公卿も結構いるんだよね。
「権大納言季脩」とか「前中納言氏定」とか系譜すら不明
俄に香ばしいスレになって参りました
南朝の公卿に関するまとまった史料が
和歌ぐらいしかないのは周知の事実だ
125 :
日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:40:53.18
後南朝では親王や賜姓源氏ばかりが公卿に昇り、後南朝を支えた土豪や
草莽の烈臣たちは下僚に甘んじただろう。そのことが人心の離反を呼び、
後南朝の衰退につながったのではないか。
仮に後南朝が朝廷として機能していたなら、
多少なりとも文書を残しているはずだと思う。
しかし、何も残っていないのが現実だ
127 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:22:03.47
後南朝の廷臣たちの残した日記や私歌集が需要な手がかりになるだろう。
吉野に桜が咲く季節には、公達たちは挙って歌を詠み、管弦の遊びを楽しんだ
のだから。
>後南朝の廷臣たちの残した日記や私歌集
そんなもんあったか?
129 :
日本@名無史さん:2013/06/26(水) 09:16:02.40
つーか歴史を知らずに南朝語るなよ、特に幼稚な2byte思考の否定屋は
何度吉野が武家側に落とされ、その後も赤松のゴロツキに破壊されたと思ってるんだ?
記録なんてのはその度に多くが失われ、最終的に文書類の保持なんかできなくなったに決まっている
そもそも応仁の乱他で南朝以外の史料も大量に失われてるのが実態なんだから
南朝自体は朝廷として機能し、さまざまな指示・文書を発行し
京の奪還も何度も行っている
衰微して実態を失っていったというのがまともな研究者の認識だろう
南朝はともかく、後南朝は朝廷じゃないだろ?
後南朝なんて統一された組織じゃなくて残党の総称でしかないのに
何も知らないで騒いでいるならまだ救いようはあるが
知っててミスリードしてるなら歴史じゃなくて創作の範疇
後南朝だと誤解されるし、後南党にするかw
だったらいいなとかそうであるべきとかで組み立てると楽しい後南朝ができあがるんだろうな
歴史じゃなくて時代小説だけど
要するに眉唾の与太話
135 :
日本@名無史さん:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN
奥吉野に逝きたい関東在住者です
単独の車無しだとどういうプランが良いでしょうかね?
吉野山までは二回生きました
旅行板で聞くべきかな
車なしなら無理レベル
レンタカーですね
レスしていただいた方有り難うございます
>>136 そこを何とか
>>137 ですかね。確か、橿原市あたりにレンタカーがあった気がします。
出不精で旅行経験があまり無い人間ゆえ
ハードルが色々有りそうなので
1つづつクリアしていくつもりです。
139 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
41 名前:日本@名無史さん 投稿日:2012/08/08(水) NY:AN:NY.AN
関東在住者です
吉野山に二回行って土地勘が出来てきたので
次は、いよいよ奥吉野に行きたい。
関西の方に尋ねたいのですが
二泊三日でいくのに
どういうプランがお勧めでしょうか
レンタカーを使うのが良いかなと思っているのですが…
140 :
135:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
>>139 おお懐かしい
去年、吉野から帰宅した時の書き込み
奥吉野に宿泊しようと思っても
良い所が無いんですよね
観光地じゃないからでしょうか
> 925 名前:日本@名無史さん [2007/12/06(木) 15:14:25 ]
> 吉川弘文館の日本史地図の系図に、
> 後亀山天皇─良泰親王─空因─(ry
> とか未だに書いてあってワロタww
書店で見たけど、この部分未だに修正されてないのな
これ以外だと、興良親王が宗良親王の子にされてたり
いくら研究が手薄とは言ってもこれはねぇ・・・
143 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN
後南朝を支えた土豪や悪党たちは、地下官人として後南朝の朝廷に仕えたことだろう。
せめて首領格は五位の受領くらいの地位で処遇してほしかった。
構ってちゃん現る
武士にもっと官位を授けて厚遇すれば、後南朝の支持は増えて、北朝を圧倒したよな。
>>145 後南朝ってのは南北合一後なんだけど
そんな泡沫政権から官位もどきなんてもらってどうするの?
南朝公卿補任もネットで見られるようになったか
148 :
日本@名無史さん:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN
149 :
日本@名無史さん:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
山本信吉『古典籍が語る―書物の文化史』(八木書店、2004年)の中で、偽文書の例として
「山や海での採取・通行権などを守るために作られた後南朝の王子の令旨」とあるんだが、
具体的に何の文書を指してるんだろう? 忠義王文書ってそんな内容だったっけ?
後南朝の朝廷では天子のみならず、皇子が文書を発給して行政や軍事を
担うことも多かったに違いない。
皇子は親王宣下はされていなかったが、征西大将軍といった官位や印綬を
帯びていたものと考えられる。
で、その文書とやらはどこに?
脳内でしょう
熊沢とやらが偽造した長慶天皇の綸旨ならあった気がする
154 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
南帝の煥発した綸旨はそもそも数が少なかったので、今ではあまり残っていない。
後南朝では公卿議定が行われることも少なく、南帝は吉野御所を出て、山を分け入って
折々の風情を楽しまれることが多かった。
>>154 公卿だけは定数に近かったんだろうけど、
役人(官人)がほとんどいなかった南朝は、政府の態をなしてないじゃん
少数の綸旨を発給する以外に何もできない、政権もどき
折々の風情を楽しまれることが多かった、というよりかは、それ以外に何もできなかったんじゃないの?
>>155 南朝の話と後南朝の話をごっちゃにして釣り込まれては困るえ
157 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 00:08:36.45
>>156 後南朝は
>公卿だけは定数に近かったんだろうけど、 役人(官人)がほとんどいなかった
という条件に合致しないぞ
公卿すら定数に満たないし官人に至っては皆無だろうが。
南朝(後醍醐〜後亀山)でさえ官人は(定数と比べると)ほとんど居なかったって知らんの?
吉野町時代でも官人の大多数は京都残留だぞ
>>157 なんで俺に噛みついているのかしらんが
後南朝に公卿が居たという時点で話すのも無駄
摂関家や清華家から参加した公卿は非常に少なかったからな。
後南朝の公卿の大半は、皇子が臣籍降下して賜姓源氏となった者が大半だった。
一種の皇親政治が行われていたと考えてよい。
定数足りないから、1人が兼官しまくってたらしい
後南朝の公卿云々の前に、「後南朝の天皇」は誰だ?
歴代の南帝には諡号が贈られておらず、天皇の呼び名が無いのは困ったことだ。
今からでも諡号を追贈して、「後南朝の天皇は誰?」と言われないようにしてほしい。
即位の礼も大嘗祭も挙行してない偽帝に諡号なんか不要
>即位の礼も大嘗祭も挙行してない
その点では長慶・後亀山も怪しいんだけど
>>164 ヘタしたら後村上も引っかかりそうな気が
吉野で即位してから崩御(と呼ぶのが妥当かどうかさえ微妙)まで一度も京都に入ってないし
後村上は簡素ながら一応挙行したらしい
>>164 少なくとも践祚、剣璽渡御はやっているでしょ?「神器はうちにある」が南朝の主張だったんだし。
院宣も含め、正当化するための建前すら有しない残党の総称が「後南朝」。
まがりなりにも朝廷としての体をなしていると(敵方からも)認められていた後亀山までの時代と
は、比較すること自体がおかしい。
168 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 20:17:59.93
儀式うんぬんとか言っているけど、応仁の乱で
山名宋全が担いだ時期もあったのだから、それなりにお金があった時期が
あったのでないの?
と想像してみる。
吉野御所の造営、宮中行事など費用のかかることも多かったから、一定の
経済力はあっただろう。
収入源は国衙領や荘園のほか、後醍醐の残した御金蔵があったのではないか。
南朝後半以降はほとんど北畠氏頼みじゃないかな
江戸の中期くらいまでは践祚・剣璽渡御は行われていたと考えられるが、
その後次第に廃れてゆき、帝といっても名ばかりになったに違いない。
後南朝の年号ももはや用いる者も見られなくなった。
何ら根拠もなく嘘が平気で吐ける人種というのはある意味で羨ましいわ
>>172 たぶん、あれ(171)は自分が言ってることを嘘とは思ってない。
妄想と現実を区別できてないだけだ
>>173 だ・か・ら、ある意味羨ましいんだよw
幸せだろうからな
最後のほうは南帝の全国的な権威は薄れていって、単なる地方政権になっただろう。
後南朝の年号は一種の逸年号として扱われることが多いのだろう。
九州王朝の年号のようなイメージか。
天靖と明応しか知らんが。
菅原氏や大江氏のような学者を京都から連れて行っていないから、勘申者を立てるのに一苦労だったろう。
文章博士や大学頭が花山院家から任じられてるしね。
南朝にも菅原氏・三善氏あたりはいたはずなんだけど
後南朝だっつってんのに南朝と勘違いするバカが絶えぬ
私年号なら勘申者いらないだろ
後南朝においては草莽の碩学を招いて勘申者に立て奉ったのではないか。
詮議に当たる公卿が少なかったため、南帝がおおみずから選定に当たられ給うたものと考えられる。
183 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:42:12.20
吉野御所に召し出されて勘申に当たった民間の学者は名誉なことだったろう
184 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 18:31:27.52
つまりは
「ぼくがかんがえた年号」
今なら
「ぼくがかんがえた内閣」
みたいなものか。
さすがに北朝ほど頻繁に改元できなかっただろう。
事実上、一世一元のようになっていたのではないか。
あるいは応永のように、30年以上続く年号も多かったものと思われる。
186 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:15:08.44
竹田恒泰氏の「怨霊になった天皇」P241
後南朝の600年の呪詛について書かれている。現在も続いているとのこと。
旧竹田宮樣だけに、内情をよくご存じなのでは。
187 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:21:57.93
竹田恒泰氏の「怨霊になった天皇」P241
後南朝の600年の呪詛について書かれている。現在も続いているとのこと。
旧竹田宮樣だけに、内情をよくご存じなのでは。
188 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:31:38.02
竹田恒泰氏の「怨霊になった天皇」P241
後南朝の600年の呪詛について書かれている。現在も続いているとのこと。
旧竹田宮樣だけに、内情をよくご存じなのでは。
後南朝の年号のほうが使い勝手がよかったかも知れないな
後南朝はもはや山賊レベル。
勢力というほどのものも無かったと推測される。
吉野や紀伊半島の奥地の小集団にすぎない。
>>190 山賊というほど活動していたのかすら怪しい。ただの山村民では?
小集団というほどの規模だったのかすら怪しい。ただの一氏族では?
後南朝の内裏を守る滝口の武士も次第に山賊化したに違いない。
吉野御所の衛門府や検非違使が取り締まっても、統制が効かない
場面もあったことと思われる。
検非違使はやっぱり坂上氏から任命されたのだろうか。
実際の取締り要員は地元採用だろうが。
従来の制度を斬新に変更しまくった後醍醐帝のもとで検非違使のような伝統的官職が継続したとは思えない
ただでさえ公卿以外の人材が酷く不足してたんだから、それに合わせた変更が行われてるに決まってる
身分というか格式の低い楠木氏を大抜擢したような政権だぞ、
仮に検非違使を任命しているとしても、伝統的な氏族なわけがない
また後南朝と南朝の区別もできないアホが
検非違使は知らんが、検非違使別当は南朝にもいたよ
後南朝では都の置かれた吉野の治安維持は、検非違使のような令外官ではなく、
刑部省や京職が管轄した可能性が高い。
ただし、都の造営が進んでいなかったため、左京職か右京職の片方だけ置かれた
可能性もある。
後南朝に都なんてありませんw
まともな政権ではなかった後南朝どころか、その前の南朝の頃でさえ、
公卿以外の廷臣、つまり官人が絶対的に不足していて、政権として機能しがたいレベルだった。
朝廷の威信にも関わる重大事業の一つであったはずの作暦すら満足には行えてなかっただろ
当然、検非違使も刑部省や京職も、満足に機能したことはなかっただろうさ
吉野には朱雀大路があったかどうかも不明なので、左京と右京に区画されていたかも疑問だ。
だから、後南朝の左京職・右京職がうまく機能していたかどうかも疑問が残るよな。
吉野は宮だけで都じゃない
もちろん左京右京の別もない
ただ、京はなくとも京職だけはあったかもしれんがな
ありもしない京の中に朱雀大路があった可能性などゼロだ
そもそも後南朝と呼ばれる残党は吉野の宮に居たのかよ
南朝と後南朝の区別もできない奴が何を語れるんだ
吉野に居たのって後村上の途中までだよね?
後南朝時代になるともう山の奥地に隠れていただけ状態。
紀伊半島の奥と吉野の奥にわずかに生息していただけ。
絶滅寸前の動物のようになっていたと思われ。
自称皇族だが山賊と変わらない。
>>203 長慶天皇は1373年から1379年まで、
後亀山天皇も在位末期は吉野にいた
南帝が御座所に南面しておられた位置から、公卿たちも吉野の住民も
何となく左京と右京の判別はついていたのではないか。
官人が乏しかったので、少納言や弁官クラスの中級官人が左京大夫・
右京大夫を兼任していたと推定するのが妥当だろう。
後南朝時代になると官人なんていたのだろうか?
そりゃ自称官人はいたと思うけど、京の都の官人とは別だったろう。
官人と名乗ってるだけで、ただの野武士か山賊にしか見えない人だったと思う。
後南朝の地下官人はどれくらいの規模でどのような人がいたのか、把握するのが難しい。
逆に言えば、この地下官人たちの官務や局務の実態が見えてくれば、後南朝の実相が見えてくる。
ただ官人は不足傾向であったのは確かであり、吉野京の住人が史生として立身する
ケースも多かったであろう。
推測という名の妄想はいいから歴史らしく史料で語ろうね
この分野は史料が少ないのがネックだよな
後南朝の公卿補任が見つかるといいのだが…
地下官人の任官記録は追跡するのは非常に難しいだろう。
後南朝って朝廷じゃないよね?
南北朝合一後の南朝残党の活動ことだよね?
>>212 そう
このスレにはその基本的なことを分かってない阿呆が約一名いるけど
正式な公文書だけでは後南朝の実態を明らかにするのは困難と考えるべき。
民間に残された資料や伝承などをもとにして、後南朝の全体像を描いて
いくしかあるまい。
後南朝は政権の態をなさない山賊集団みたいなものにすぎないから、まともな史料は残らんわな
信用に足るまともな伝承も些少で、大多数は無意味なゴミ伝承だろうし
後南朝の皇族や遺臣たちの子孫で吉野近辺に住み着いた人たちは多かっただろうから、
その子孫の家に行政文書や公卿の日記などは残っていないだろうか。
忠義王文書で我慢しなさい
後南朝の実効支配する領域は、末期になると吉野川流域のいくつかの村落に
過ぎなかったのだから、ひとつの政権としてはかなり小規模なものであった。
南帝の行う祭祀にしても、村祭りの規模を少し大きくした程度に過ぎなかった
のではないか。
>>218 いやーロマンすなぁー
流浪の王子様が村に住み着いて小さな独立国を作るって
おとぎ話のようだ。
>>219 流浪の王子様なら良いけど実際は法螺吹きの山伏だったと思う
千歩くらい譲って落人集落みたいなのを形成し得たとしてそれを独立国とか表現しちゃうのは
なるほどメルヒェンですなあ
>>220 いやでも神器を持ってる訳だから
只のホラ吹きでは無いでそ
都の寺から連れてこられた?兄弟宮も色白で優美だったろうから
山奥の村人達から見たら天使のように見えただろうね
いやーロマンすなぁ
後南朝を必死で否定するやつって、「独島は我が領土!」と必死でアピールしてるチョンとダブって見える
>>221 神器を持ってたのってかっぱらった一時期だけだろ
>>222 必死に否定も何も積極的に肯定するだけの史料が無いじゃん
ここはいつから民俗学板やオカルト板になったんだ?
>>223 肯定するだけの史料がないなら否定する必要すらないだろ
「東京は日本の領土!」と必死にアピールしてる奴が日本人にいるか?
>>226 そんならいいけど
史料も少ないというか殆ど無い中で
あたかも後南朝という亡命政権でもあったかのような発言を繰り返す
夢遊病患者かと疑いたくなるような人がこのスレには居るんだが
否定されるのが気に入らないなら自分の意見を学問板に出すのは止めたらいいと思うわ
吉野朝こそ正統な朝廷。
北朝は逆賊に擁立された傀儡偽朝廷。
歴代の南帝陵がほとんど特定されていないのが痛い。
南帝陵を発掘することができれば、史料の少なさを補うことができる
はずなのだが。
>>227 趙六の変の後は消滅だろうけど
そこまでは何らかの実体があったんじゃないか?
夜になると、村人達が干し柿や山芋等にの素朴な献上品を手に御所を訪れる。
囲炉裏を囲んで王子兄弟と村人達の笑い声が、吉野に深山に響いていく
いやーほっこりロマンすなぁ
231 :
230:2013/10/28(月) 23:49:08.21
>>230 誤字だらけですいまそん
スマホの画面が小さくて「の」のつもりが「に」に置き換わってます
いやーボロ携帯すなぁ
早く機種変のしたいすなぁ
>>230 何らかの実体というのをどんなものだと想定しているのかは知らないが
それを史料から考察するのが歴史なのであって
史料が無いものを好き勝手に想像して楽しみたいのならば
それは創作文芸の範疇なのだけど
>>230 何らかの実体があったなら北畠満雅や大覚寺義昭の反乱で南朝系皇子が戴かれる必要はないだろう
実体があった可能性があるのは禁闕の変から長禄の変までの間ぐらいか
あとは応仁の乱の西軍の南帝は年号を定めたというから実体を伴っていた可能性はある
でもこのスレの基地外が言っている公卿補任とかはなあ・・・西軍に迎えられていた時ですらそんな記録は残ってないのだから
>>233 平和な山村とは言え、
山で捕らえた狸の毛皮は猟師AとBどちらのものかとか、旦那さんの浮気が原因の夫婦喧嘩のとりなしとか、朝廷の仕事が色々とあったと思う
山村で発生した瑣事はさすがに衛門府や検非違使の下級官人が尋問しただろう。
帝はもちろん、公卿や弁官がそこまで面倒を見切れるものではない。
後南朝の子孫なんて現存しない。
室町幕府の施策により男子は仏門に入れられ子孫は絶えた。
自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。
後南朝というか正確には後醍醐流は断絶に追い込まれた。
それが史実でしょ。
在日の方で箔をつける為に、滅亡した旧大名家の
子孫を自称したりする人がいますが、それと同じ心理でしょう。
何かを誇りにしないと心の支えがないから。
その嘘を何代もつき続けると系図も、先祖伝来の宝物も捏造され、
子孫たちは本気で末裔だと言い出すのです。
6代将軍の義教の時に、南朝皇族は滅亡させる方針に変わった。
小倉宮の子孫はじめ主要な皇族は仏門に入れられ子孫は絶えた。
それが史実。
自称傍系の子孫らしいのが細々と吉野や紀伊の山奥で活動してただけ。
活動規模はもはや山賊レベルで驚異にはならなかった。
その傍系も赤松遺臣に討たれ滅亡した。
そこから先は伝承に過ぎず南朝の名前を利用されただけ。
239 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 00:35:52.66
いやでも兄弟で蓄電したりとかあったよね
そういうふうに奥地に逃れた皇胤を戴いた半独立の王国があっても不思議では無い。
熊や狼を退治するために、征熊大将軍(せいゆうたいしょうぐん)とか任命してたんじゃないかなぁ
コピペは敗北宣言と同義なんだけどなぁ
兄弟で蓄電したのは、その後2人とも担がれて反乱起こして成敗されてるでしょ。
そこで終わり。
その子孫なんていない。
熊なんとかは詐称だよ。
熊退治は滝口の武士が出動して当たっただろうが、熊は典薬寮が引き取った
だろうな。
244 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 03:55:46.58
熊沢家は宮将軍の家系だったという事か
つうか、あの辺に熊なんかいるの?
熊沢だから熊退治とか頭わるすぎだろ
そんな餌で俺様が釣られクマー(AA略
>>247 ホントに熊の毛皮着ててワロタ
って、バカじゃねーの?
熊の毛皮を身に纏って練り歩くさまを観覧される南帝の姿は、くまもんの
拝謁を受けられた天皇皇后両陛下を彷彿とさせる。
実態は南帝という名の山賊だけどな。
それも勢力の小さな山賊。
251 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 01:20:14.62
>>250 だーかーらー
山賊とは格が違うでしょうが
神器を保持するなんて言うのは
血と徳が備わってないと無理なの
分かった?
神器を保持してたのなんて短期間だろが
それも全部じゃなく一部だし、取り返しに来た軍勢に殲滅されて滅亡してるじゃん
強盗したのを保持してたとか言い換えるの止めてもらえません?w
神器はどのように保管していたのだろうか。
やはり吉野御所の内侍所に安置されていたと考えるのが妥当なのだろうか。
>>254 盗品を一時的に格納した場所がそんなに気になる?
「後南朝」の吉野御所ってどこ?
>>251 山賊だよ。
やってる事も規模も。
高貴な血が流れてる人って事になってるだけで。
それも本当に南朝の後胤かどうか怪しいけどな。
最後あやふやだし、何でもありだろ。
御所に安置してあったのは形代で、本体は傘下の神宮に移されていたのでは?
北朝側に奪還されたのは本体ではなかった可能性もある。
禁闕の変で後南朝勢が強奪したのは剣と神爾だけだよな
剣は「三種の神器」の1つだが、神爾は神器ではあっても「三種の神器」ではない
しかも、逃走途中、比叡山で立て籠もって討伐されたときに、剣を持ち運べず放置して逃げた
持ち去ったのは神爾のみだ
後南朝勢が神器を持っていた唯一の時期でさえ、「三種の神器」は1つとして吉野方面に持ち込めていない
念のため言っておくが、記紀に記された「三種の神器」は、剣と鏡と勾玉で、神爾は含まれていない
それと、平安時代末の壇ノ浦の時、入水した平家方が身につけて沈めた神器のうち、剣は未発見のままで、
後南朝の頃には本物の神剣は残存していなかったと考えられているんだがな。
つまり禁闕の変で後南朝勢が持ち去った神剣は鎌倉時代につくられた代品
>>257 各地に潜んでいた後南朝というのは自称で、実体はただの山賊にすぎなかったのでは?
北朝に滅ぼされて血統が続いていない可能性もある、というかその可能性の方が高い。
後醍醐の男系子孫は断絶。
男子は皆、仏門に入れられ子を残せず死亡して終わり。
それが史実。
史実は吉野へ神器を持ち込めなかったのであるが、その情報は当時にあっては
一般社会へ十分に伝達されていなかったのではないか。
そのため、神器を奪還したという事実のみがクローズアップされて、後南朝の
権威、根拠地となった吉野の聖性が高まったのではないだろうか。
一般社会において、後南朝をどの程度認知していたかがわかると、当時の
位置づけが見えて来るだろう。
〜ではないかと、〜だろうだけの、後南朝史。
>>260 そうだね。
そして皇統は絶え、逆賊が引っ張り出してきた偽物により簒奪された。
>>261 吉野だけが後南朝じゃねーだろ
一番頑張ってたのは上野越後の新田党
足利持氏が出兵取りやめた理由も新田党が蜂起するかもしれないみたいな理由だったはず
後南朝は人々の心の中にいつまでも残った。
そう、希望として。
>>265 × 人々の心に
○ 叛乱を起こそうとする人々の心に
といっても戦国時代になると、そういうハク付けなしに叛乱を起こせるようになったから、需要が完全に途絶えるんだけどな
>>265 殆どの人が忘れ去ったというのが現実。
一部の変人が妙な希望を抱いているだけ。
>>263 皇統は絶えていない。
南朝=後醍醐の子孫がいなくなっただけ。
他の皇統は生きてるし、続いた訳。
南朝滅亡とは、後醍醐の系統が終焉を迎えたというだけ。
後南朝妄想は放っておくとして、
> 念のため言っておくが、記紀に記された「三種の神器」は、剣と鏡と勾玉で、神爾は含まれていない
神璽は、剣と鏡と勾玉の総称として使われる場合もあるとのことだが、
勾玉だけを指すことも多い。
いずれにせよ、剣璽渡御等々でいう「璽」「神璽」は神器としての勾玉だね。
>>273 主張の先後も把握できんか
悪魔の証明も知らないなら議論なんてしない方が身のためだぞ
>>274 自分が資料も出さずに人に資料出せとか何様なんだ?
まずは社会常識を身に付けようなw
>>275 社会常識ときたか
>>267は
>>265へのレスなんだけど
>>267から先に資料を提示させたいなら
>>265が動かしようのない事実であることを端的に示してくれないか
>>265あまりにも自明のことであるならネットからでも簡単に参照できる記事くらいあるだろう
それができないなら
>>265を補強する資料を提示するのが先になるのだが
流石は史学を理解しない奴は論理も理解できないのだな
なんだ、まともに社会に出たこともないニートだったか
相手しただけ時間の無駄だったっぽいな
>>277 具体的なことを何も言えず罵倒すれば勝った気になる可哀想な御仁を相手にした私が悪うございました。
謝るので許してくださいね。
>>278 今回だけは多目に見てやるから今後は気を付けるように。
あとちゃんと働け。
>>279 そうですか、かたじけない。毎日働いていますよ。
結局何も言い返せないのですねえ、可哀想に。
>>272 どんだけバカなんだ。
天皇の血統は後醍醐だけか?
他にもいるだろうが。
皇統の意味すら理解できていないだろ お前。
@ 天皇の血統。
A 天皇が国を統治すること。
という意味であり、後醍醐の血筋だけが皇統ではない。
明治天皇も認めているだろ。
北朝は逆賊に担ぎ出された偽物の簒奪者と。
偽物の子孫はやっぱり偽物。
西陣南帝にしても、必ずしも後醍醐帝の後裔とは限らないんだよな。
後南朝は吉野だけではなく、紀州や東海にも分布しており、その全体像を
見誤ってはならない。
ややもすれば自天王系の皇孫とその廷臣による吉野朝廷ばかりクローズアップ
されがちだが、それは後南朝を矮小化した見方だ。
東海の後南朝は、近所に古墳があることが多いよね…
>>282 北朝側の公式見解としては、北朝が正統であって南朝は僭主
南朝の初代である後醍醐だけは一時的に正統の天皇だったことがあるものの、後村上以後後亀山までは全員が僭主であって偽帝
北朝が幕府に担ぎ上げられたのではなく、北朝が幕府の手を借りて権力を握ったという扱い。
んで、その見解が子々孫々にわたって継承され、明治維新までは天皇家の公式見解だった
明治維新を主導した連中が南朝正統説を信じていたのを無理矢理認めさせられただけ。
そもそも、
>北朝は逆賊に担ぎ出された偽物の簒奪者と。偽物の子孫はやっぱり偽物。
という説は、「現天皇は南朝の正統な子孫じゃないから尊ぶ必要が無い」と標榜する連中が主張していた反天皇説の亜流
どっちにしろ南朝が正統なのは揺るぎないんだよねえ
問題があるなら撤回するだろうし、皇室の公認である事は確実
明治天皇だって人間だから間違えることはあるさ。
ただ、立場が立場だからその意見を否定できないだけで、南朝正当論には
反対したい人は一杯いるだろ。
それに南朝が正当だとしても後醍醐の直系男子は絶えたのだからお終い。
各地にある後南朝の伝説はあくまでも伝説であり、史実ではない。
北朝キチガイの惨めさったらないよなぁ
皇室の公式認定だから直に批判する訳にもいかず、
>>287みたいに間違えた、みたいな風に苦しすぎる解釈しか出来ないのが涙を誘う
間違いならとっくに撤回してるはずなのにねぇ
ここは後南朝スレなんだから南北朝や正閏論争はよそでやれよ
吉野川流域の人たちにとっては、半ば廃屋のようになった御所に南面される
方こそが正統であり、その正統を護持する信念にいささかも揺らぎはなかった
のではないか。
一系の皇祚を踏める南帝が今や衣食にも欠くほどに衰微されているからこそ、
草莽の身を以て大御食を奉る栄誉に浴することができたのだから。
>>286,288
皇室自体がそれを決定する権限を持った時代は幕末まで
明治大正から昭和敗戦までは政府内の主流派が南朝正統論を強く主張していたし、
敗戦後は天皇の政治権限が過剰に規制されたから、ちょっとでも政治色がありそうなことは何も言えなくなった
それこそ、「そろそろオレも高齢だから隠居してせがれに跡を譲りたい」と口に出す権利すら剥奪されてんだぞ。
もちろん選挙権もない。ひどすぎだろ
職業選択の自由はしかたない面もあるとは言え、せめて引退する権限ぐらい許容しないと人道的じゃない。
>>288 南朝信者の方がおかしい。
すでに南朝は無いし、正統な血を引いている男子もいない。
滅亡済なんだから、もう終了。
明治天皇が気を利かせて滅亡した南朝を正当としてくれたんだから
それで満足すべき。
死後に名誉職に就けてくれたようなもの。
あくまでも現代まで続いているのは北朝。
後南朝なんてものは、自称後醍醐の系譜が反乱をいくつか起こしただけで
いつのまにやら消滅。
書籍「闇の歴史 後南朝」を読むべきです。
後醍醐一族の抵抗と終焉が書いてあります。
それらしい屁理屈を並べてるけど、
・天皇自らが南朝が正統だと発言
・現在に至るまでそれは撤回されていない
この二点だけで北朝信者の主張は全て論破可能なんだよなぁ
天皇が認めた、という事実の前ではどんな長文で反論しようが無意味。
哀れすなぁ北朝信者さん
「正統」てのは、まがりなりにも朝廷としての体裁を整えていて
皇位を主張していた二つの朝廷について、神器を持っていた
方を正、持っていなかった方を閏としたという裁定。
血統、系統の問題ではないから、偽朝廷云々は筋違いだし、
南北朝合体で神器を引き渡した後の正統は北朝というのは、
昔から変わっていない。
神器の保持に関しては、当然ながら「儀式を経て正しく受ける」
のが前提であり、盗賊が勝手に持ち出して隠匿しても「神器を
持っている」という話にはならないね。
>>293 天皇自らが認めた範囲は、南北合一までの期間だけ。
それ以後は北朝系が正統
合一以後も南朝系(後南朝とか)が正統とか言ってる人間は極めて少ないし、
そんな異常な説を認める発言を天皇自らが発したことは一度もない
もちろん、後南朝系の人間が神器を強奪していた時期についても、
その間ずっと北朝が正統だったと認定している。
いや、妄言を垂れ流すだけの糞馬鹿たちは、どんな分野・どんな内容の場合でも、
論破されても気にせず同一内容のレスを貼り続けるモノなんだよ
293も、その手の糞の一人っぽくて、同じレスを何度も貼ってきてる
>>295 俺は後南朝の話はしてないよ。
ただ単に北朝が正統だと間違った認識をしてる奴がいたので、そこを正しただけ。
>>294 それだったら何で南朝が正統なんて話が出てくるのかな?
君の認識がそもそも間違ってるんじゃないの?
>>298 >>299 意味不明。
現在は、北朝が正統。
ただ一時期は南朝が正統だった時期がある。
(鎌倉滅亡から南北朝合一までの短い期間だけ)
という事だろ。
何もおかしくないじゃん。
>>299 南朝正統論は、後醍醐流が血統として正統だったなんていう
主張ではないぞ。同レベルの正統性を主張しうる南北両朝の
どちらを優先させるかという議論に対して、「吉野に神器を持
ち出して保持していたから正統」としただけ。
南朝側が神器を後小松に引き渡した後の正統が北朝から
つながる系統だということについては、異論は少ない。
もちろん、旧南朝勢力は、合一の条件である迭立を主張して
はいたが、それも「同等の権利」の主張であり北朝系の権利
の否定ではない。
それにしても、偽朝廷の成れの果てであり、正統な朝廷から簒奪したという事実は揺るぎない。
先帝の意向を尊重するなら正統は大覚寺系>後二条流だし
長幼を考慮するなら持明院統>後伏見流だし
後醍醐流って神器を持ち出すくらいしか正統性が担保できないよね
とは言え天皇の御墨付きだからね
理屈ではなく直感的に南朝が正統だと理解したんだろう
>>304 さんざん言われているけど
南朝が正統というのは南北朝両立期のこと
合一の前にしろ後にしろ北朝を偽朝だなんて言ってない
>>305 偽物なんて一言も言ってないけど?
ただ簒奪者であり正統ではないというだけ
簒奪者であると主張しているのは、
>>306だけだな。
少なくとも明治天皇の見解はそうではない。
そもそも神器の保持を本当に論じるなら、光厳、
光明、崇光の三天皇は否定できないし、吉野没落
から正平の一統までの南朝は偽朝廷。
もちろん、後醍醐は「あらかじめ作った偽神器だった」
と苦しい言い訳をしているが。
>>301 南朝が本当に神器を所持していたと推測可能なのは正平一統以後に限られる
後醍醐の吉野行きから後村上の正平一統までの期間は神器を保持していたとは考えがたい
神器の所持を正統性の主たる根拠とするなら、
後醍醐→光厳→後醍醐(重祚)→光明→崇光→後村上
という形で移行したと見なさざるを得なくなる
廃位されて幽閉された後醍醐が神器を所持し続けたはずがない(そもそも本来、神器は担当の役人が管理するもので、天皇の手元にあるのは儀式の時だけ)
幽閉状態から逃走して吉野に入る際にも、役所から神器を盗み出す機会なんかない
ずーっと南朝が正統と思ってる基地外が1人いるだけ。
大した問題じゃない。
そいつは無視しましょ。
言っても理解しようとしないでしょ。
>>310 都合のいいように曲解している変な奴はいるようだけど、
明治天皇は簒奪だ偽朝廷だなんていう電波な戯言とは
無関係だ。
あくまでも「神器を保持していた時期は正統」としただけ。
正閏論てのは、他方を「偽」「簒奪」とする類の論ではない。
>>310 >>312 ずーっと現代まで南朝が正統だとする根拠は?
それを提示してもらわないと議論が進まないよ。
他の人も書いているけど、明治天皇は一時南朝が正統な時期があった
という事を認めただけですから。
南北朝合一後は、北朝正統ですよ。
明治天皇は簒奪者の偽天皇の子孫。
今の天皇家は、後小松簒奪者から始まった新しいもの。
後南朝と北朝のどちらが正統というのはイデオロギーの問題だから、言っても
仕方がない。
大切なのは、それぞれの朝廷が一定の影響力を発揮して時代をリードしたという
ことだ。明治以降、吉野朝廷を正統としたのは、太平記の影響が大きかったのでは
ないか。吉野朝廷にシンパシーを抱く歴史観は、民間にそれだけ強く生き続けて
いたということだ。
>>315 なるほど只のスピーカーだわ相手するだけ無駄だね
>>316 南朝と比べるならまだしも後南朝となんて比べるまでもないわな
南朝と北朝ならイデオロギーと言えなくはないが、
後南朝が正統と言い張るのはイデオロギーじゃなくデムパだな
南北朝時代でさえ、南朝の側に権力としての実体があったのは十年未満にすぎないんだが、
その短期間のうちでも、北朝を圧倒する政権だった時代は一年にも満たないしな
(その頃でさえ、確実に支配できていたのはさほど広い地域じゃなく、全国政権に成れていない)
民間の間では常に南朝が正統だという認識だったという訳だね
だから各地に後南朝の末裔伝説なんてものが生まれた
>>319 検証してやるから具体的な資料を幾つか挙げろ
南朝正統説は合一以前から下火になり始めてるし、
地下(じげ)の人々の認識で「南朝の方が正統」という人が多数派だった時期なんて最初から存在しない
多数派は、「南朝でも北朝でもいい、自分とこの利益を擁護してくれる方に付く」程度の人が大半
同時代の人々の間では、正閏論じたいが少数派なんだよ
だからこそ戦乱が長引いたわけだし。
そういう状況だから、合一後も南朝正統説を信じる人は、同時代にはほとんどいなくなった。
江戸時代に入ってから徐々に南朝正統説が蘇ったんだよ、主にイデオロギー的に。
最初は朝廷を相対化する目的と、徳川家の祖先と仮託された新田氏の称揚のためだな。
それが、国学系の思想家たちの影響で先鋭化して、幕府より朝廷(北朝系の朝廷)を重んじる流れに変わっていくんだからおかしなものさ
>>320 各地に後南朝伝説があるだろ。
自分で調べることも出来ないの?
>>321 新田の事はあったかもしれないね。
徳川というか松平のインチキ系図
伝説と史料を区別できないバカか、
伝説を史料と言い張って論拠に使おうとする詐欺師・インチキ論者か、どっちかに確定だな、後南朝シンパは。
吉野朝時代当時は、北朝のほうが圧倒的に優勢で、一般人の大多数は
北朝の年号を使用していたらしい。だから、当時の意識としては
「北朝が正統」というものだっただろう。南朝・後南朝を正統とするのは、
後世の歴史観と言って過言ではない。
後南朝の年号はほとんど逸年号のようなもので、勘申者が誰であったかも
あまりわかっていない。歴代の南帝はさぞ居心地が悪かったことだろう。
>>319 平家の末裔伝説は各地にあるから、民間では常に平家が正当だという
認識だったわけか。
まあ、そもそも後南朝末裔伝説なんてのはごく一部の地方にしかないが。
>>324 >>52とかにもあるし、後南朝で検索すれば色々出てくるだろ。
>>327 皇室と平家を同列に扱われてもねぇ
無理矢理すぎやしないか
>>328 >>319 各地に後南朝の伝説があるのは良いとして
それがどうして「民間の間では常に南朝が正統だという認識」になるのかね
理路が自分勝手にすぎないとは思わないのかな
個々の伝説からそれが導き出されるというならそれを検証してやるから端的な例を挙げてみたまえ
落ち武者伝承にせよ後南朝伝承にせよ、
貴種流離譚伝承として人気があっただけで、別にそれらの正統性認識とは関係ないだろ
都落ちした貴種、ご落胤の元ネタさえあれば足りる。
滅ぼされた皇統の末裔が山奥でひっそりと生き続ける…
ナイーブな日本人の判官びいきだろうね 。
日本人の心の中では、惟盛、義経、時輔、光秀、秀頼、隆盛…皆どこかの遠国に逃げて生き続けているんだよ。
日本中に散らばったんじゃないの
たしかに政治勢力としては消滅も断絶もしたが
血筋がことごとく断絶なんてのはむり、考えにくい
段階的に徐々に庶民に混ざっていったんだよ
後南朝がその高貴さを維持して、まがりなりにも存続したのは、西陣の南帝から
200年後くらいまでだろうな。それ以後は南帝を供奉してきた少数の公卿たちも
離れてゆき、わずかな廷臣が取り巻くだけの小集団になって忘れ去られていっただろう。
>>329 各地に後南朝の伝説がある事自体が後南朝が望まれていた証拠だろう。
伝説とは人々の希望から生まれるものだ。
木地師の惟喬親王みたいな、租税免除のお墨付きの権威付けにしたかっただけでねえの?
>>335 要するに君の願望を投影しているだけで史学としての検証をする気は毛頭無いのだね
>>323 いいえ
真の出自は、南朝足利冬直が実施した最初の倭寇の大河内氏だから、出自を伏せただけですから・・。
家康の父の大河内氏は、多田源氏の嫡流筋末代です。
新田世良多は、親類筋で辿ったのだろう・・。
後南朝は謎が多すぎる。
西陣の南帝が一応は南朝系の天皇の最後なのかな。
あと、後南朝より時代は後だけど、
戦国時代の後醍院宗重という武将は、
後醍醐天皇の男系の末裔なのかな?
江戸時代には、
系統では大覚寺統の木寺宮の縁者の大沢基宿が江戸幕府高家になっているようだから、
後醍院氏も特例で大名か高家、大身旗本で幕府が召抱えれば良かったのに。
>>339 幕府が召し抱えなかったってことは末裔じゃなかったんじゃない?
>>339 書籍「闇の歴史 後南朝」を読むべきです。
後醍醐一族の抵抗と終焉が書いてあります。
342 :
339:2013/11/22(金) 12:44:14.84
室町幕府足利将軍の一族(鎌倉公方の系統)が
江戸時代には喜連川藩主として
皇族でもないのに四品の位階とか名乗ってたらしいので
(しかも特例で江戸幕府と上下関係なしの扱い?)
後南朝の末裔がいらっしゃるなら江戸幕府でそれなりの待遇をしてもおかしくないのではと思ったのです。水戸学では南朝が正統という認識だったようですし。
オススメの
書籍「闇の歴史 後南朝」興味ありますので読んで見ます。
私が後南朝に興味持ったのは、旅行などで史跡を巡り、案内板の解説で
後南朝? そのような政権があったの? となったからです。
歴史教科書や歴史番組、時代劇ドラマでも見たことの無いテーマのような気がしますし。
それにしても、
本当に日本史の謎の部分って奥が深そうで探究心をくすぐりますね。
電波な奴は日本語も不自由だな
後南朝という政権はありませんでした。
それが史実です。
ちょうど応仁の乱があったから、南帝が「西陣の南帝」という形で歴史の
舞台に現れただけで、その前後においても逼塞しながら後南朝は続いて
いたのではないか。江戸時代に入ったころ、江戸幕府が後南朝やその後裔に
対してどんな処遇をしたかの記録がないから、そのころまでには消滅したか
利用価値を認められなくなっていたのだろう。
後南朝は史実から消えた。
それがすべて。
南朝後胤の最後の資料は、東大資料編纂所編纂の『大日本資料 第八編』の十一、
文明十一年(1479)七月十九日の条に「小倉宮ノ王子、越後ヨ リ越前ニ到ラセラル」
という網文のもとに、次の四件あります。
A『晴富宿禰記』文明十一年七月十九日の条
山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた「南方の宮」が国人らに送らて、
越後より越前国北荘へ移った。
B同記三十日の条
「出羽王」が高野へ向かう道中のこと。
C「妙法寺記」文明十年霜月十四日の記事
「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺
(現山梨県東八代郡石和町)に滞在したこと。
D同記明応八年霜月の記事
「王」が明応八年霜月に流されて三島(現静岡県三島市)に着き、
早雲入道(北条早雲)が諌めて相模国に送ったこと。
当時の文献上は、これで終了。
南方の宮=出羽王=王なのかすら当時不明。
もうどうでも良い存在だったろうし、本当の南朝後胤ではなく詐称の可能性あり。
本物の南朝後胤だったとしても相模で殺されて終了とかだろう。
そもそも「小倉宮ノ王子」という事になってるが誰の血筋なのかすら判らん。
日本で古代豪族は政争の貴族社会から没落しても
神社の社家としては現代に末裔が残っていたりするけど、
後南朝の皇族も社家として生き残ればよかった。
神聖な感じがする。
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺)
|
|(推定) 第104代
−岡崎前門主(小倉宮流)−西方新主(「小倉宮御息」)
|
−弟宮
小倉宮流については、教尊が隠岐に流されて、その後消息不明というのが史実と思われるが、当時の
文書等から西陣南帝に系譜をつなぐとこうなる。
*教尊・・・将軍・足利義教の猶子となり、真言宗勧修寺門跡に入室。
その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こった禁闕の変との
関係を疑われて翌月に捕らえられ隠岐島へと流罪となる。
その後の消息は不明。
349 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 02:52:21.21
征西将軍宮懐良親王ノ末裔を名乗って相良氏に代々仕えていた系統を自称
実際は北条邦時を新田義貞に売った御内人五大院宗繁の一族じゃないか
教尊は血筋を断絶する為に寺に入れられたのだから、教尊に子供がいるのはおかしい。
可能性としては隠岐に流された後に現地で妻子を設けたくらいだが、監視の目があっただろうし
難しいのではないか?
教尊は隠岐に流されて監視されたまま子供を残せず死に、小倉宮流は断絶したとみるのが妥当だろう。
かすかな可能性としては教尊に他の兄弟がいて、その子孫という事だがそれも兄弟がいたとしても
同じように寺に入れられて断絶させられている可能性のほうが大きい。
なので、岡崎前門主とその子供(西陣南帝とその弟がいたらしい)は、南朝の傍系の子孫であるが
ネームバリューのある小倉宮流の直系を詐称したと見る。
上で出てる戦国時代の後醍院氏と鎌倉時代末期の五大院氏は同じ氏族なのか?
南朝とその後継の後南朝とか
鎌倉北条氏とか一世を風靡したが没落、その後の動向が謎というのは魅了される。
五大院氏は得宗家の身内人で、あまり家格が高いとは言えない。
後醍院氏のイメージと異なるように見える。後醍院氏はやはり後醍醐源氏
ということでいいのではないか。
イメージから語ることには何の説得力も無いと言って差し支えないのではないか。
五大院は討幕の後、滅亡したんじゃないの?
五大院なんて聞いたこともねえな
大豪院なら聞いた事あるけど
花京院もあるよ
〜院は鹿児島にいっぱいいるだろ
>>358 荘園の地名で「〜院」ってのが多いからね、鹿児島には。というか、九州南部一円に多いんだっけ
美容院
test
362 :
日本@名無史さん:2013/12/31(火) 01:40:22.35
ほっこり流浪の貴公子萌え
363 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 04:24:22.93
戦国後期以降の後南朝は、地方に散在する支持者を除くと、わずかな公卿と
禁裏を護衛する武士が供奉するだけの地方政権に転落していただろう。
官務に必要な地下官人が不足していたから、朝廷を実務的に機能させることも
難しかった。そのことが、今日、後南朝の実態を見えにくくしている。
今年も何の根拠も無い妄想後南朝ポエムごくろうさまです
365 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 09:22:34.54
後南朝が表舞台に出て来るのは西陣南帝が最後だからな
その後は縮小していったのだろう
縮小というかポッと出の西陣南帝自体が真贋不明でうさんくさい
>>363 内容についてはもう触れないが一点だけ
南朝はごく初期を除いてずっと地方政権だ
そこだけは訂正を求める
西陣南帝は身元しっかりしてだろ
あくまでも当時の認識では
岡崎前門主の系譜が今は分からないだけで
>>368 担いだ時点では天皇にするつもりだったんだし血筋が怪しいのを連れくるわけないわな
>>363 そんな「わずかな公卿」とか「禁裏を護衛する武士」すら居なくなってたわけだがな
「官務に必要な地下官人」にいたっては、ただの一人たりとも存在しなかったぐらい
>地方に散在する支持者を除くと、わずかな公卿と禁裏を護衛する武士が供奉するだけの地方政権に転落していただろう。
>官務に必要な地下官人が不足していたから、朝廷を実務的に機能させることも難しかった。
という状態なのは、長慶・後亀山時代の南朝の話であって、後南朝ではないぞ
西陣南帝は山名宗全が東軍に対抗するために担ぎ出しただけで
血筋が確かかどうかは不明。当時から不明。
普通に考えて小倉宮流という可能性は低い。断絶してる可能性大だから。
372 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 23:25:45.35
西陣南帝を担ぎ出したということは、応仁の乱当時はまだ後南朝の存在が
一般に認識されていて、擁立することに政治的意義があると考えられた
ということだろう。
北朝の皇族を立てる手もあったと思うが、南帝を立てたほうが、東軍に対して
政治的効果、正統性の主張ができたということではないか。
担がれてくれる相手がいなかっただけだろうな。
西軍首脳部の間でさえ、意義があると考える人間と邪魔だと考える人間に別れて対立したぐらいだからなあ
最終的に、担ぎ出す意味なんかないってか邪魔なだけだ、という主張が勝って、うち捨てられて終わったんだよな
乱の当初には西軍討伐に積極的だった急先鋒のはずの義視さえ担ぎ出さざるを得なかった西軍が、
それだけの人材不足にもかかわらず、西陣南帝を擁立し得なかったことが、後南朝の不人気ぶりを表しているとも言える
>>372 根本的に認識が誤ってる。まあ今更反論しても無駄なのは分かってるけど。
応仁の乱当時は、南朝後裔というのを持ち出しても、まだ信憑性が幾らかはあった。
後南朝の存在が一般に認識されていたくらいなら、他にも南朝後裔の活動がはっきりと見られてもいい。
他に誰も持ち出すことのないような輿を担いだ方が、担ぎ手の思うようにしやすい。
北朝皇族では、他の皇族、公家、武家、寺社の思惑やしがやみがあるから、担ぎ手にとっては不安定材料でしかない。
西陣南帝に、政治的効果やら正統性やらがあったというなら、何かしらのエピソードが伝えられても良さそうな物だが、
何かあるかえ? 要するにその程度のもの。
ちょっと変わった生身の馬印といったところだろう。本気で南朝の復辟を狙っていたとも思えぬ。
結果論に過ぎないナ。
継体天皇、光仁天皇、孝行天皇、光格天皇、
傍系からの即位は何度もあったし、
西陣南帝も、当時は、即位する可能性はあったろう
377 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 23:19:44.16
>>374 今回の細川氏もほとんどの人にとっては忘れられた存在だったが、それでも担ごうとする人はいる。
さすがにもう後南朝の皇子ではと思う人もいただろうし、まだ利用価値はあると思う人もいたのだろうね。
後南朝の後裔の神通力を信じる人は信じたのではないだろうか?
「明応」の元号を立てたのは西陣南帝だろう >エピソード
380 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 09:24:20.70
後南朝側からすると、財政的に乏しい状態だったから、山名持豊が推戴してくれたことは
大歓迎で、応じやすい状況だっただろうな。
一方、大きな戦闘になっているので、下手に関わるとリスクもあるので、他の皇族は
容易に応じにくかったとも思われる。両者の利害が一致して南帝が推戴される
ことになったのだろう。
NGワード: だろう
>>380 つーか、当時は後南朝の皇族なんてほぼいないでしょ。
赤松残党に自天皇兄弟が殺されて終了してるんだから。
そもそも自天皇が皇胤であることすら疑っている研究家もいるし。
>>376 それは一理ある。
応仁の乱の帰趨如何によっては、西陣南帝が正式に即位して、新しい皇統と
なる可能性はあった。
>>382 自天皇は系譜不明だけど、
皇胤ですらないというのは、さすがになかっただろう。
>>384 中村直勝(大正・昭和期の歴史学者)は疑ってるよ。
京大文学博士。
古文書学・南北朝時代史・荘園経済史・芸能史の研究に成果を残し、
『南朝の研究』『日本古文書学』『荘園の研究』等の著書がある。
系譜の信憑性という点で言うと、自天王より十津川宮や熊野宮のほうが
はるかに高い。ただし、後南朝要人の知名度としては自天王のほうが
勝っている。
またまたご冗談を(AAry
五十歩百歩な気もするけど
>>386の言ってることは間違ってはいないだろう
389 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 11:31:32.68
西陣南帝は取り巻きの公卿も少なかったと考えられるから、あまり根回しをしなくても、
ご本人さえ説得すれば、擁立することができたと考えられる。
山名宗全がトップダウンで吉野朝サイドを口説いて、速やかにまとめることができたに違いない。
390 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 15:15:00.21
いや、当時なら、資料が紛失してなかっただろうから、系譜を明らかにすることはできたのでは?
391 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 00:31:38.19
自天王など後南朝の皇族の系譜がわからないというのは、今日において史料がないから
立証できないという意味であって、吉野朝時代・戦国時代の当時、わからなかったという
のとは違う。当時は実際に当事者がいたし、関係者も多数いたから、当然わかった。
>>391 マジレスすると、当時わかっていたかどうか、今日では検証できないのなら、「当時わかった」と断言はできないのだよ。
自天皇は山奥で認知されてただけだから
京都の政権からは真贋は不明だったろう。
西陣南帝は京都で陣を構えてたんだから
当局から見ても、血筋は確かだったろうね
西陣南帝は御輿として担がれただけで南朝系であれば誰でも良かった。
だから、用済みとなるとあっさり捨てられた。
あまりにあっさり捨てられているので南朝血筋ではなく詐称かもと思う人が出るのも当然。
>>394 前後の消息も不明だしね。
推戴されたから真の南朝皇胤だったのだという主張は只の贔屓の引き倒し。
396 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:15:31.59
系譜不詳と言われている自天王は、後亀山天皇の後裔とされることがあるが、
もしそうだとすると、後亀山天皇から数えて三代だ。
天皇から数えて三代程度の距離であれば、同時代の人々からすればその系譜が
わかる人がいた可能性は高いと見ていいのではないか。
だから、後南朝の皇族は、その当時は系譜が知られていた可能性が高いと見ても
いいのではと思う。
397 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 09:58:02.12
>>396 織田信成は3代前の人物が分からない
それでも織田信長の子孫だとして日本は勿論海外まで発信しているのだから
どうとでもいえそうだ
でも本当の織田家からは一族視されてないんでしょ?
信成が旧大名織田家の家督を継げるのか、ってことになると話は別
399 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 13:52:23.46
>>398 自天王もただの自称ではなく本家・天皇家から認識されていたのかが問題
401 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 22:35:11.11
皇室の場合、天皇から数えて、何代くらい離れると系譜がわからなくなるものか、
他の例を参考にすれば、後南朝の皇族たちの同時代における位置づけがわかる
のでは?
応仁の乱の頃には主要な南朝系統は断絶に追い込まれてるからね。
幕府によって。
うろ覚えだが戦国クロニクルには、出羽王が高野へ向かう道中で
京都で幕府に捕縛され処刑されたと出てなかったか?
幕府の当初の方針は両統迭立方式の復活だったんだよな
だが、初期は南朝が、合一後は持明院統がそれぞれ強行に抵抗したから、
最終的には方針転換を余儀なくされた。
迭立が不可能な状況で大覚寺統皇胤が存続することが叛乱の温床になったことを重く見て、
もはや断絶させざるを得ないと決意する羽目になったって事。
大覚寺統皇胤を断絶させる方針が確定するのは足利義教の治世後半ぐらいか?
義教時代初期頃までは迭立の復活を目指していたみたいだしな
>>401 ケースバイケースでしかないから、そんな推定に意味は無い。
自天皇はともかく、西陣南帝は血筋明らかだったはずとの推定が強く働く。
戦争中の権力側の人間が推戴してるんだから。
407 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 09:38:25.85
最初から偽物とわかっていたり、偽物の可能性が高いとわかっていたら、
命運を賭けた合戦に推戴することはできないよな。
大将も武将も生活がかかっているんだから。
要するに状況証拠しかないのだね
>>407 本物かどうかあやふやだから、あれだけ簡単に捨てられたのだと思うよ。
捨てられた後もどこかの大名が大事に保護したかというとそうでもないし。
どこの馬の骨か解からん奴だから、あれだけ冷遇されて最後は消息不明になったんだろう。
吉野や紀伊に行くでもなく、北畠を頼って伊勢に行くでもなく
北陸の方に送られて冷遇されてって、不自然すぎるわな。
後南朝の遺臣たちとの連携が全く見られない。
やはり詐称かなと思う。
>>409 それは血筋の真贋とは別問題だろう。
もともと南朝の血筋の政治的価値は当時ゼロに近かったわけで
万一にそなえて担いでみたけど、やっぱりイラネて感じだろう。
>>411 大して価値があるわけでもない者を特に重要な意味もなく担いだとするなら
血統の真贋すら危ういわな
「血統に偽りがあった、信憑性がなかったから捨てた」という意見が強そうだね。
だが、そこまででたらめな存在なら、あれだけの大きな戦争に担ぎ出されること自体に疑問が生じる。
担いだからには、後南朝の後裔であったのは間違いなかったとは言えないか。
一方、後南朝の威信がすでに低下しており、担いではみたものの、武士の動員には役立たなかった、
味方の士気は上がらなかったので、担ぐ効果がないと思われて、捨てられた、
威信がないのが明らかになったため、その後、後ろ盾となる人も現れなかった、
と考えることはできないか。
>>412 血統というのは遺伝・生物的ではなく
社会上の意味が大きいでしょう
継体天皇なんて応神天皇の五世孫ですから
当時の権力・権威に血統を認められれば
遺伝生物学的な証明なんて無くても
正当ということになってしまう
西陣南帝の場合は、あの山名宗全が担いだわけだから
当時において最も確からしい血統の一人と推定するのが自然でしょう
>>413 そういう推論は成り立つけど、史料の裏付けが無い限りは、どこまでも推論でしかないね。
>>414 そういうのは自然な解釈じゃなくて希望的観測なのでは?
御輿にしたけど用済みになると全く顧みられなくなったあたり、ただの木偶だったという解釈も成り立つよね。
歴史学の一分野としての系譜学という観点から考えれば、状況証拠だけで認定してしまうのは早計というより杜撰でしかない。
武家の系譜ですら懐疑的に論じられることが多いのに、肝腎の皇統について予断を許すのは納得できまへん。
「系譜がわからない」というのは、現在の学者が手にできる史料ではわからないということでは?
同時代に生きていた人たちがわからなかったというのとは違う。
自天王や西陣南帝の系譜を、「現存の史料からわかる」と言えば、それは言い過ぎになるだろう。
だが、同様に、「現存の史料から、当時の人もわからなかった」と言えば、それも言い過ぎではないか。
史料でわからない場合、どんな結論も断言できないが、いちばん蓋然性のある推定というものはある。
井沢元彦ではないが、「史料絶対主義」というのは、一種の落とし穴かも知れない。
理屈じゃないんだよな。
高貴な存在は見れば一目で分かる。
>>416 >だが、同様に、「現存の史料から、当時の人もわからなかった」と言えば、それも言い過ぎではないか。
そんなこと誰が言ってるの?
同時代人は現代人以上の情報を得ていたであろうけど、現代人は残された史料からそれを窺い知るのみ。
同時代人が系譜の真贋について正確に知り得ていたか不明であるならば、
現代人が論者個人の希望的観測や状況証拠から無理に推定するより、不明は不明としておくのが学問的態度でしょ。
井沢なんて名前が出てくるあたり、こんなことを言っても無駄みたいだけど。
でも、後南朝の遺臣たちとの連携が全く見られないのは不自然。
本当に小倉宮の系統だったら南朝の正嫡な訳で、後南朝遺臣の誰かが大事に保護するのでは。
北畠家とか伊勢の大名なんだから手を差し伸べてもおかしくないし、領内に匿うのも簡単だろうに。
戦国時代も大きな大名家は京から流れてきた公家を保護してる。
南朝後裔なら保護されそうなものだが・・・・
何で西陣南帝は、ああまで冷遇されたのかね?
北畠家は南朝の忠臣であるが、後南朝に対してどんなスタンスだったんだろうね。
あれだけの軍事力・経済力をもって、後南朝をバックアップすれば、頼もしかった
と思うが、幕府と和解してからは、後南朝の皇族との人脈も切れていたのではないか。
第99代
後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)
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ここまでは北畠家は忠臣として活躍してるし、聖承(小倉宮)を伊勢に受け入れて
幕府と戦い当主が戦死したりしてる。
ただ、教尊(勧修寺)の代になると早期に仏門に入れられた事もあり、表立った連携は無いな。
やっぱ小倉宮流は、教尊(勧修寺)が配流先で子供残せずに死んで終了になったんだろう。
西陣南帝は、後南朝遺臣からしても紛い物と見えたんじゃないか?
小倉宮流を名乗った時点で後南朝遺臣からしたらアーアって感じになったと思う。
だから誰も助けなかった。
>>420 応仁の乱より前には後南朝蜂起に呼応することはあったが応仁の乱では東軍(後南朝を担ぎ出した西軍と敵対中)だったしな
仮に西陣南帝が偽帝だったとして、西陣南帝って、江戸時代の天一坊みたいに
「自分は小倉宮の御落胤だぞ、後亀山帝の後裔だぞ」と、突然吹聴し始めて、
周囲の人々を騙し、取り巻きにしながら出現したのだろうか?
山名宗全がその風説に騙されて、西軍の陣営に迎え入れてみたものの、
どうも挙動が怪しい、「あれは偽物だ」という証言者も現れた、南帝本人に
問いただしたところ、どうも発言に一貫性がない、証言者の証言とも合わない
ということになって、西軍の諸将たちの間で「あれは偽物と断定する」という
結論が出たので、陣中から追放した、といった流れだったのだろうか?
小倉宮流ではないが南朝皇族の端くれの後胤くらいだったんじゃないかな。
北朝と上手く同調してやってたけど最後は配流になった南朝皇族とかもいるしね。
個人的には山名氏の支配地の因幡に入っていた玉川宮の後胤あたりかなと思う。
嘉吉3年(1443年)玉川宮は既に因幡に遷っていたというが事情は不明で、その後の消息も知られていない。
>>423 山名宗全がそんなアヤフヤな事をダラダラやってるわけ無いだろw
お前と一緒にすんな
>>424の説のほうがまだ有り得るわ
終始一貫、山名宗全のイニシアチブだろうからな
宗全「例の坊主いる?…あ、いたいた!」
宗全「おい坊主!じゃなくて陛下!」
西陣南帝「え?私ですか?」
宗全「明日から天皇だから!」
南帝「え?私は見ての通り出家…」
宗全「いいから!おい!誰か!京までお連れ申し上げろ!」
偽者ってばれたら、追放くらいですむものなの?
仮にも皇族を名乗って、西軍の指導者・山名宗全をだまして天皇になったのだから、
うそがばれたら、宗全に打ち首にされるんじゃないのか?
これって、偽有栖川宮事件より悪質だと思うよ。
傍系といえど南朝後胤ではあったろうし、小倉宮流ではない事を承知で
山名宗全が担いだのだろうから、そこは問題にはならなかったと思われ。
小倉宮流の末だと宣伝したのはまずかったけどな(笑)
そこは宗全が箔をつけるために、わざと誇大宣伝したんだろうね。
>>427 当時は、本当の皇族でも叛乱鎮圧の際に殺されることがあったぐらいなんだから、
詐称だとばれたら殺されててもおかしくない気もするな
佐村さんは作曲問題で世間を欺いただけで、批判を浴びて、河内守は解官確実だもんな
皇族を詐称して宗全をだましたら、死罪は当然だよな
なるほど、天一坊みたいな一介の庶民が御落胤を僭称したのではなくて、
後南朝の皇族がより箔をつけるため、後南朝主流の小倉宮を名乗って
西陣南帝として即位したところ、小倉宮ではないことがわかったので、
それでは天皇にするには値打ちが足りないとみなされて、西陣から退去
させられたというわけか。
西陣南帝って良く言うけど即位の事実あるの?
西陣宮と呼ぶのが関の山なんじゃないの?
>>432 将軍や天皇を自前で擁立しなかったら幕府内の主導権争いによる私闘でおさまるが、
乱の後半に義視を招聘して将軍にしようとしたせいで義政を本気で敵に回して混乱した
(それまでは義政は中立を保とうとしていた)
ここで天皇まで擁立したら現天皇から朝敵認定まで受けrて、益々苦境に立つことになると、
乱勃発時から(途中からは西軍だけの)管領だった斯波義廉が反対した
西陣南帝の血統が問題だからではなくて、たとえ血統がたしかであってもすでに役立たないほどに凋落しきっていた大覚寺統残党の存在意義の低下が問題だった
要するに、応仁文明の頃になると大覚寺統の子孫の存在価値自体が消滅寸前になってたわけ
そんな状態だから、血統の高貴さを保証しうる証人なんてすでに存在しなかっただろ
>>434 南朝の権威が微かに残っていた最後の時期だったね。
つまり、西軍が自前の天皇を擁立することがまず問題になり、擁立した後南朝の天皇に
もはや威信がなかったため、そんな威信のない役に立たない天皇を擁立してしまった
ことが問題視され、「せっかく擁立したけど、あなたはもうダメだ。出て行ってくれ」
と言われて、南帝は路頭に迷うことになったわけか。
けれど、擁立した山名宗全は「いや、まだ威信はある。利用価値はまだ残っている」
と思って擁立してしまった、ということだね。
「細川さんはまだ行ける。利用価値はある」と思って都知事候補に擁立してみたものの、
やっぱりもうダメで選挙は惨敗してしまった、でも、細川さんの血統が問題だったわけ
ではない、といった感じか。
宗全は完全に誤算だったって訳だな
西陣南帝を最後に後南朝の消息がわからなくなるのは、西陣南帝が西軍から放擲され、
もはや後南朝が中央では通用しないことが誰の目にも明らかになって、いよいよ
顧みる人がいなくなったことによるものではないか。
西陣南帝が最終的にどこに身を寄せられたかは定かでないが、これ以降、後南朝は
中央へ復帰することを断念し、吉野川流域や熊野方面に小ぢんまりした仮宮を構える
だけの小勢力にとどまっただろう。
>>439 アホか?
吉野川流域や熊野方面に小ぢんまりした仮宮を構える事すら出来てないぞ。
完全消滅だ。
このスレに度々出てくる「ないかだろう」くんをまともに相手してもしょうがない
まだ後南朝の皇族自体は残っていたのだから、完全消滅したとまでは言いきれまい。
西陣南帝自身も山名宗全に打ち首にされたわけでもなく、追放されただけ。
>>443 その後、活動拠点すら無いし、歴史にも登場しないし、子孫も不明なのだから完全消滅という解釈で良い。
不明ということと、完全消滅というのは違うのでは?
不明というのは、表舞台に出て来なかったので、見えなかったということだ。
それが完全消滅だろうが。
お前はバカか。
証明されないけど、どこかでひっそりと生き延びていて・・・・
という考えにつけこんで家系の捏造が始まるのに。
>>443 家系というのは社会学的に見るモノで
生物学的に捉えるものではない
世間の大部分から、または主要な権威から天皇になってもおかしくないと認められない以上、皇族としての家系は消滅と言わざるを得ない
448 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 23:07:36.89
西陣南帝は後南朝の出世頭なので、ついこの人だけ注目してしまいがちだが、
他の後南朝皇族のほうが地味に長く続いた。
449 :
日本@名無史さん:2014/02/14(金) 00:14:05.41
木寺宮の女系子孫が公家になったりね。
これが男系だったら、(皇族に復帰せず、史実どおりの公家の持明院家だったとしても、)
歴オタ的には大いに名誉挽回されたような気になったんだろうな。
昭和の「熊沢天皇」とかが名乗り出てた時代に、持明院家に取材に行った記者っていたん
だろうか?ちょっと興味ある。
>>448 >他の後南朝皇族のほうが地味に長く続いた。
続いてねーよ お前いい加減にしろ。
452 :
日本@名無史さん:2014/02/15(土) 16:29:05.37
女系子孫は公家として残ることができたんだね。
男系はせめて賜姓源氏として続くことはできなかったか。
後亀山源氏とかを清華家クラスの待遇で中央貴族として残すことができていたら、
少しは立つ瀬もあったものを。
後亀山法皇に仕えていた玉村駿河守季秀って、どういう素姓の人なの?
>>451 夢遊病患者みたいなものだから生暖かく憐れんでください
持明院家は藤氏として公家なのであって、木寺宮家の外孫として公家なのではない。
>>453 知らんがな っておもったら
「闇の歴史」に出てるのか
駿河守ってのはソースは?
>>456 『吉田家日次記』応永9年4月25日条に「玉村駿河守季秀」と見える
458 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 23:43:18.66
西陣南帝には諡号を贈ってほしかった。一種の廃帝扱いとなってしまったのが残念だった。
「廃帝」というのは、廃位されている訳だから、
前提として在位が認められていなければならない。
在位を認められない西陣南帝は廃帝にすらならない。
諡号を贈る権限のある人間によって公的に認められたときにはじめて諡号を贈られるわけで。
後亀山を最後に南朝系の人間に諡号を贈られることは無くなった。
後亀山以後は諡号を贈る権限のある人間を輩出できなかったからな。
諡号を贈る権限を持つのが北朝系だけになったあとでは、それと敵対する後南朝の関係者に諡号を贈ろうとするような酔狂な人間は居なかっただけだ。
後亀山に対しては、「分裂状態を終わらせたという功績」を理由に(かな?)「(皇位に即いたわけではないと見なしつつも)上皇宣治をだしたけど。
天佑院
珍鉾院
>>460 権限云々の前に、西陣南帝に即位や正統性の事実があるのかね。
464 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 16:02:21.31
西陣南帝には、後長慶院と諡すればOK
465 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 16:21:11.36
あれは即位する前に放逐されたから無理だな
466 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 09:11:52.06
西陣に迎えられた後の在位期間が短すぎた。もっと長く在位し、山名氏や一色氏の
輔弼のもと、皇子に譲位し、自らは治天の君になられていたなら、諡号も得られていた。
在位なんてしてない。
嘘を書くな。
その短すぎたという在位期間はいつからいつまでだね?
年月日や根拠史料を教えてくれないか。
応仁の西陣南帝
戊辰の東武皇帝
日本の大乱には新朝廷が出現しやすいのかも。
>>469 大乱に乗じたわけじゃないが、板東の新皇ってのもあったな
大乱と言えば、一天両帝南北京
>>469 ごく短期間だったにしろ即位を認めたとして、朝廷と呼びうるほどの組織が編成されたのかね?
とりあえず文武百官の上の方だけでいいから、役職と就任者を挙げてくれよ。
>>470のいう将門は一応朝廷の真似事はしたみたいだが。
武門 -- 寺門 -- 将門?
戊辰戦争期の東武皇帝の陣営では、
仙台藩主伊達氏が権征夷大将軍に任官したという説があるようだな。
応仁の乱で西陣南帝が勝った場合、山名氏が何らかの大将軍に任官した可能性はあるかもな。
征夷大将軍の他にも、鎮守府大将軍、征西大将軍など、年表では南朝側は大将軍職多いな。
西軍は形式上の総大将が管領の斯波義廉で、山名宗全は義廉の後見人みたいな地位だからな
南帝擁立案が実行されなかったのも義廉の反対が原因だったぐらいで、義廉の意見はけっこう大きく反映されてるわけで。
西陣南帝の擁立が実現してて、なおかつ西軍が勝ったと仮定して、宗全より義廉の官職が上になっただろう点に疑いの余地はないよ
まあ、そんなことはありえなかったけどな。
475 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:36:38.94
西軍が勝って、西陣南帝が正式に天下に君臨するようになれば、足利氏に代わって、
斯波義廉や山名持豊が武家の棟梁になったのだろうか。
これまで北朝に仕えていた公卿たちも南帝にすり寄って来るだろうが、元から
南帝に仕えてきた公卿たちとの間に対立が起こるかも知れない。
自前で将軍を擁立するために義視を招聘しようとした西軍だぞ
その西軍が勝ったところで宗全や義廉が将軍になれただろうかね? 無理っぽいな
細川氏が管令家から排除されて、山名氏が管令家に加わるぐらいだろ。
南帝も用済みで殺されるか吉野に追い返されるかが関の山。
478 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 10:23:32.66
西軍が勝ったとしても、室町幕府自体は存続するだろう。西軍勝利の日まで
西陣南帝が在位できれば、後南朝がそのまま復権するチャンスになる。
たとえ退位したとしても、皇子を即位させ、自らは治天の君になることが
できるかどうかがカギだ。
熊野宮や十津川宮などを宮家として定着させることも重要になる。
熊野宮家は筆頭宮家として皇位継承の有力なスペアになるだろうな
ない
絶対になる
>>478 前々から勘違い発言されてるようですが、即位してませんから(笑)
西陣南帝の子孫が現在の皇室になっていたわけだ。
もし途中で断絶したとしても、後南朝の宮家が継承できるよな。
現在ですら南朝が正統というのが皇室の見解だしな
>>483 南帝厨は息を吐くように嘘をつくな
>>484 明治初期、まだ天皇が全く何の実権も持てなかった頃に薩長閥政府の強要で認定された見解で、
その後も新政府内の主流派が南朝正統論を支持し続けたために撤回不可能のまま終戦を迎え、
終戦後は正閏論が政治活動に該当するということで天皇も学術研究者も手を出せない聖域になったので撤回不可能のまま今に至っただけ
右翼の一部の厨以外は南朝正統論を支持してないよ
キチガイには言っても無駄。
頭がおかしいのだから。
南朝が正統というのが皇室が認めた事実
どっちが正統かなんて個人の信仰の自由
>>488 そうとはならないんだな。
何しろ天皇自身が南朝が正統という見解を示しているんだから、赤の他人に口を挟む余地などない。
宗教とは違うのだよ。
もしも南朝が正統ならば、
男系女系含めて南朝の末裔の姫さまが
現在の皇室に嫁ぐのが一番のような気がする。
正閏論は、血統の正当性を論じたものじゃない。単に神器を
保持していた一時期には南朝が正、北朝が閏だったとして
いるだけのこと。南北朝合一後は、元の北朝が唯一の正統
な朝廷であり、後南朝なる残党が入り込む余地はない、と
いうのが正統派の解釈だよ。
>>491 合一時の(北朝系の)天皇による公式見解は、
(南朝方の前天皇である)後亀山を、「登極したことはないが上皇に任ずる」と宣言した。
南朝諸帝を天皇とは認めず、皇位を僭称した賊と認識していたわけ
この見解を公式に否定したのが薩長系の明治政府のみ
異論を認めない宗教とどこが違うのだ?
少なくとも歴史学の上でする話ではない。
南北朝時代の人々にとって、また公家や天皇たちにとって、正統性ってのがどういうものだったかを検証したところ、
神器の保持を特に重視する見解は多数派ではなかった。
神器を重視したのは南朝という非主流派の人々のなかの一部だけだったんだ
もちろん、南朝に正統性があったと考える人は合一後何百年もの間、ほとんどいなかった。
江戸時代なかばになって南朝正統論が新規に発生するまでね。
>>493 異論ではなく、子孫である天皇自身が言ってるの。
だったら納得するしかないだろう。
明治期の天皇なんて、政府の要望に応えることだけが仕事で、ほとんどロボット状態じゃん
大正や昭和初期も大差がない。
そんな時期の天皇が、政府の要求やら世間の要求を無視して正統は北朝などと口にできたはずがない。
幕末までの天皇家では北朝を正統と言ってたが、それを変更せざるを得なかった理由は統幕勢力の精神的支柱が南朝正統説にあったからだ。
で、戦後になっても、少なからぬ勢力を持つ南朝正統説への配慮などもあったんだろうが、北朝が正統との発言は不可能だった。
天皇の本心がどこにあったかを知る手段などないってことしか分からんのだよ
北朝正統説は南朝正統説と違って信仰心に支えられているわけじゃないから、声高に主張する人も少ないし、
政治的発言として主張する人なんて滅多にいないけど、学術的には南朝正統説の根拠はほとんどゼロだね。
>>495 いつもの頭のおかしい人だね。
明治天皇自身は一時南朝が正統な時期があったと認めただけ。
南北朝合一後は、北朝正統というスタンス。
これが史実。
>>497 南北合朝後に北朝なんて無い。唯一の皇統と、後南朝とか言う皇統を詐称する反逆者がいるだけ。
>>496 政府内でも意見が割れて、明治天皇に直接裁可を仰いだ結果だ。
明治天皇御自身のご意向だよ。
北朝は偽天皇と簒奪者だということだ。
これを否定する奴は日本人じゃない。
>>496 明治天皇自身が言わされたと発言したの?
そんな風に明確に間違ってるなら多少無理してでも撤回するはずじゃない?でも今に至るまで撤回されてないのは何故?
根拠のない君の妄想だね、全部。
北朝閏論は、
> 北朝は偽天皇と簒奪者だということだ。
という意味ではまったくない。その程度のこと「すら」知らない馬鹿だから
> これを否定する奴は日本人じゃない。
なんて戯言をほざけるんだろうな。
>>497 >>495 南北朝合一後は、北朝正統というスタンス。
これが史実。
釣りなのかガチなのか知らんが、そんな事実は一切無い。
確実な事実は南北朝時代は南朝が正統だった、と言う事だけ。
後小松院以降は天皇・朝廷が一つだけだからね。
南北朝合一後は、南朝正統というスタンス。
これが史実。
三国志に関する蜀漢正統説と同じで、日本の南朝正統説も、後代の人間が自分の想いを投影する手段として過去の歴史を利用しただけ。
単なる史実の捏造にすぎない。
>>505 分からない奴だな。
蜀漢正統論は蜀にも漢にも連ならない連中が、勝手に唱えただけの異説に過ぎない。
南朝正統論は、天皇自ら(系譜も確実)が発言している。
あ、無理矢理言わされた云々は北朝派の妄想だからな。
南北合一から明治維新までの期間、ずっと北朝正統と言い続けてきた天皇がなぜ南朝正統に転じたか理由を考えろ
薩長ら倒幕勢力が南朝正統を言い続けてきたこと以外の理由がありえるか。
>蜀漢正統論は蜀にも漢にも連ならない連中が、勝手に唱えただけの異説に過ぎない。
儒教の本流に連なる連中の主張だから、その影響力は以後のすべての王朝と世論を覆い尽くしたがな。
新政府の本流に連なる連中の主張が南朝正統説だったのと、事情に違いがあると言えるのかね?
天皇ってのは御輿なんだよ。
時の権力者に利用され、権力者に都合の良い発言を求められる事もある。
明治維新の時には、権力者であった薩長にとって都合の良い南朝正統という見解を
一時的に言わされただけ。
その後もずっと南朝が正統なんて発言はないし、明治天皇自身もそんな考えは無いだろ。
>儒教の本流に連なる連中の主張だから、その影響力は以後のすべての王朝と世論を覆い尽くしたがな。
えっ
勘違いしてる奴が多いが、南北朝統一後は南朝正統も北朝正統も無い。
統一したんだから。
ただし、南北朝時代は南朝が正統だった、というだけの話。
後南朝云々はまた別の話だ。
蜀漢正統論が全ての王朝と世論を覆い尽くしたとかどこの世界の話だw
魏晋南北朝って時代区分も知らんのか
>>499 >これを否定する奴は日本人じゃない。
お前さんが、物証の有無よりもイデオロギーを優先させる、宗教者のごとき存在だってことはよく分かった。
>>509 南宋の頃にでっち上げられた蜀漢正統説のほうであって、三国時代の辺境国家たる蜀漢の主張の事じゃないぞ
以後すべての王朝ってのは南宋以後の諸王朝のことな
>>501 馬鹿はお前だろ。
南朝、北朝ともお互いに「偽主」と罵りあっている。
天に二日無く、地に二主無し
だよ。
片方が本物ならもう片方は偽物なのは自明の理。
潤なんて簒奪者が必死こいて考え出した猿知恵。
正閏論はいわゆる南北朝の時代の数百年後に言われた
話であり、
> 南朝、北朝ともお互いに「偽主」と罵りあっている。
> 天に二日無く、地に二主無し
の時代からははるかに離れている。
> 片方が本物ならもう片方は偽物なのは自明の理。
なんていう話になる前提であれば、南朝が正統と認められ
ることは永遠になかっただろうな。
南朝を正統とする説の元ネタなんて、江戸時代前期の幕府側の立場の反映にすぎんだろ
南朝を持ち出すことで当時の朝廷を相対化する目的、
徳川家の祖先(ということにした)を含む新田一門が南朝の家臣だった
あたりによる、ちょっとした小話程度だったんだろ
それが、朱子学=蜀漢正統を含めた、実証よりイデオロギー的要素を多く含んだ学問と化学反応を起こして暴走した結果が南朝正統説
いってみれば、信仰心の発露としてでっち上げられたような、空理空論なんだよ
北朝信者の都合のいい妄言は聞き飽きたよ
現実に政治を動かすべき官僚たちにも見放されて辺境に隠れ潜むだけの亡命政権が正統とかw
捲土重来で国政に復帰できたのならまだしも、そのまま消滅してしまったのに、どのツラ下げて正統w
吉野には何人ぐらいの官人が随行したんですかw
百官のうちいくつぐらいの官職に官人を任命できたんですかw
自前の暦ぐらい作ってから言ってろ。年号決めるだけで精一杯だろwww
天皇家が北朝の後胤である以上、北朝を「簒奪者、偽主」とする
考え方が受け入れられる余地はないよ。明治維新そのものの
正当性を否定することに直結するんだから。
双方ともそれなりの正当性を有する中での「正」「閏」の判定とい
うのが正閏論の中身であり、明治天皇の正統云々という話もこ
の流れの中のことだ。
西陣南帝の子孫がそのまま皇位を継承し、後南朝が続いていたら、南北朝の
正統性をめぐる論争は起こらなかった。
後南朝が冷遇され、地方政権に転落したことが、今日の不毛な論争につながった。
>>519 その政権が正統と天皇自身が認めてしまった事実
世の中そう単純じゃないんだよボクちゃん
何かの本で見たが、江戸時代には、
長州藩・仙台藩・水戸藩あたりは南朝の末裔を密かに匿っていたらしいね。
南北朝時代の影響というのは後世にまで息が長いと感じる。
南朝正統を軸足のひとつとする人々が集まって作った政府が神輿として担ぎ上げただけの傀儡だった明治天皇が、
擁立者たちの意に反することを言えたはずがないって事すら分からん馬鹿がいる
戦前あれだけ盛んに南朝正統論を称揚し、武家政権を蔑ろにしていた割には、
南朝の公家政権の構造について建設的な議論が出てこなかったのは残念だ。
天皇の存在を強調するだけの南朝正統論は、皇国史観イデオロギーと同じ。
>>521 いつもの頭のおかしい人だね。
西陣南帝は、即位していない。
天皇ではない。
何度言えば理解するんだ このバカチンが。
北朝派はバカの一つ覚えみたいに明治天皇が無理矢理南朝が正統だと言わされた、と言うけど証拠は一切ないんだよな
所詮お花畑と言う訳か
明治維新以前の天皇家や公家社会での南朝に対する認識とか、討幕運動関係者たちの思想とかを見れば、
南朝正統という見解が天皇の意思によらないことは明瞭なんだがな。
当時の社会状況とか前史とかを意図的に無視するのも信仰者の病理って事か。
529 :
日本@名無史さん:2014/03/24(月) 23:38:03.94
公家社会では南朝・後南朝を正統とする考え方はあまりなかったと言える。
歴代天皇の間にもおそらくないであろう。
後南朝を正統として奉戴したのは、一部の公卿と草莽の烈臣たちだけだ。
西陣南帝を擁立し奉った山名宗全や斯波義廉たちは政略上の計算からそうした
だけのことであって、後南朝を復興させるところまでは考えていなかった。
そりゃそうだろ。
南朝が正当と言ったら、自分達のご先祖様は偽天皇を担いだ逆賊だもんなw
> 南朝が正当と言ったら、自分達のご先祖様は偽天皇を担いだ逆賊だもんなw
正平の一統の例などからして、これはないだろうな。
>>528 また北朝信者が妄想こじらせてるのか
懲りない連中だ
533 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 15:08:56.36
薩摩藩とか長州藩みたいな、幕府への敵意を伝統行事にまでしちゃうような特殊な大名家って、全国にいくつあったんだろうな。
こういう大名家だと、幕府を倒す口実こそが必要であって、本心では日本のためとか思ってたとは考えがたい。
まあ、実際に幕府を倒して政権を樹立してからは、さすがに日本のためって事を強く意識せざるを得なくはなっただろうがな。
534 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 19:00:32.52
528
それ以前の飛鳥宮とか藤原京、近江朝関連で突っ込んでもいい?
535 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 19:03:27.06
そもそも東国の藤原氏の謎も残ってるわ
スレタイも読めないガイキチはすっこんでろ
537 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 20:40:07.80
南都勢力ってなんだれね?
538 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 20:42:31.66
あ〜なんだろね?の間違い
興福寺一派と争った大和源氏の歴史関係の話だけどな
539 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 23:43:35.20
後南朝自体は次第に衰微してゆき、その末期においては地方政権に過ぎなかったが、
その存在はイデオロギーとして肥大化していった。
だから、南朝を正統とする考え方がやがて正式な方針となったし、後南朝の
古跡に一種のロマンを求める郷土地誌家も現れるようになった。
後南朝なんていう朝廷も政権も日本に存在したことはないが、
南朝のことであればある程度理解できんでもないな。
結局皆が求めてたのは南朝だったんだな。
おまえら、どんだけ難聴やねん
543 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 09:07:25.50
馬鹿かお前ら
南都関連崩壊後、あっちこっち散ったの大和源氏の方だぞ
宇野氏、東北の石川氏とか
西陣南帝の子孫がそのまま皇位を継承し、後南朝が続いていたら、南北朝の
正統性をめぐる論争は起こらなかった。
後南朝が冷遇され、地方政権に転落したことが、今日の不毛な論争につながった。
545 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 21:06:32.19
必ずしもそうはならん。
歴史にIFは通じないが、明治の南朝正統論を参考にすれば、次のような想定も出来る。
すなわち、西陣南帝・足利義視を擁する西軍が応仁の乱に勝利し、後土御門帝を廃して南帝が即位したとしても、
基本室町幕府の体制が継続すると仮定した場合、それまで幕府が擁してきた歴代の天皇を「正統」から排することは、
同時に幕府の正統性にも関わってきてしまうのであり、つまりは次のような正統歴代になっていたとも考えられるわけである。
後醍醐→光厳→後醍醐重祚→光明→崇光→(正平後村上)→後光厳→後円融→後小松→称光→後花園→後土御門→南帝……
そして、吉野朝後醍醐〜後亀山、明徳〜文明までの後南朝は「閏統」として扱われる。
>>544 いつもの頭のおかしい人だね。
西陣南帝は、即位していない。
天皇ではない。
何度言えば理解するんだ このバカチンが。
547 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 22:49:37.33
応仁の乱で西軍が勝利して、山名持豊たちが西陣南帝を戴いて凱旋すれば、
西陣南帝の天皇としての地位は誰もが認めるところとなり定着していた。
南帝はやがてその皇子に譲位し、自らの系統が皇位を継承していくこと、
皇統はもはや後南朝の手に帰したことを闡明にする。
そして、南帝は治天の君となり、その勢威はゆるぎないものとなる。
山名氏の居城の竹田城が、
天空の城や日本のマチュピチュと呼ばれて
近年、脚光を浴びているようだが、
西軍勝利の場合は、
西陣南帝の仮御所や離宮や御用邸の一つになったかもしれない。
>>547-548 いつもの頭のおかしい人だね。
西陣南帝は、即位していない。
天皇ではない。
何度言えば理解するんだ このバカチンが。
もし西軍が勝利したなら、用済みの西陣南帝は、寺に押し込められるか、吉野に追い返されるか、殺されるかの三択だよ。
西軍が勝利した後の西陣南帝に与えられる選択肢は次の3つ
寺に押し込められた後に首を刎ねられて殺されるか
吉野に追い返された後に首を刎ねられて殺されるか
その場で首を刎ねられて殺されるか
アンチ後南朝は気持ち悪いな。
きっと、そういう者の先祖は、北朝の武家勢力で、
しかも北朝の天皇をも軽んじていたことだろうな。
皇族への敬意が足りない。
アンチ北朝は気持ち悪いな。
きっと、そういう者の先祖は、南朝や後南朝の武家勢力で、
しかも南朝や後南朝の天皇をも軽んじていたことだろうな。
皇族への敬意が足りない。
その後南朝の「天皇」とやらは誰から譲位されたの?
まさか「天皇だ」と自称したら即位したことになるの?
現存の皇統の祖先たる当時の天皇たちを脅かした叛乱勢力なんぞを敬うのは山賊だけで充分。
良民は現皇統に直結する、当時の正統な天皇の方を尊重するのが筋。
南北朝時代ならまだしも、合一後の後南朝は尊重すべき点などないぞ
後南朝って熊沢天皇のこと?
北朝は南朝・後南朝に感謝しないといけないよね。
北朝自体が足利義満に皇位そのものを簒奪されそうになってただろ。
しっかりした野党として南朝の皇統があったからこそ、北朝も結果的に安泰だった。
南北朝合一はその義満が主導したんですけど
このおかしな奴は無視で。
前々から異常な事を書いてるし、忠告しても無駄。
北畠顕家や松平容保は当時の天皇に忠節を誓った真の朝臣で純粋な武人の気がする。
足利将軍家や薩長連合などは当時の天皇を利用したに過ぎない権力の亡者な気がする。
イメージってものの怪しさがよく分かるレスですな
562 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 00:21:47.15
足利は天皇擁立したり見捨てたりまた担いだり節操の無い事をやっていたから
イメージ悪いのはしょうがないと思うよ。
相手の後醍醐も相当なDQNだけどさwww
朝敵認定されたのを取り消してもらうために天皇に直談判したいと言って、
朝廷に攻め込んだあげく、警固の諸藩の軍勢に撃退された長州藩なんて、
もし明治維新が成功しなかったら叛乱軍としての悪名だけを残すはずだったのにな。
もっとも、叛乱軍討伐が失敗した(長州征伐のことな)以上、滅亡だけは避けられたことに疑いの余地はないが。
たしかに、
江戸幕府に負けて明治維新に失敗したら
長州藩は朝廷に牙を向いたドキュソという扱いで終わってたな。
後南朝が足利幕府に勝利した場合は、
長州藩よりも大義名分も揃ってるし、勝てば官軍になれた。
熊沢「君の一族と私の一族は元々ひとつの皇室だったのだ。南北朝のとき二つに分かれたがね」
熊沢「流行りの服は嫌いですか」
熊沢「私も古い秘密の名前を持っているんだよ、裕仁」
熊沢「君のアホ面には心底うんざりさせられる」
熊沢「全世界は再び南朝の元にひれ伏すことになるだろう」
熊沢「南朝は滅びぬ!何度でもよみがえるさ!」
熊沢「ひざまずけ!命乞いしろ!」
熊沢「3分間待ってやる」
熊沢「あああ、目がぁ、目がぁ、・・・!!」
566 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 19:41:52.13
西軍が勝利し、西陣南帝の御世になって後南朝のもとに皇統が戻ったとき、
北朝がどうなっていたかは、歴史家なら興味の尽きないテーマであろう。
都に戻った後南朝の皇族とは対照的に、北朝は都を後にして吉野の山中に
潜伏して、南北朝は立場を代えて相争うことを予想する人もいるかも知れない。
だが、私は案外、北朝もまた都にとどまってその地位を守るものと考える。
妄想乙
あんまり詳しくないんですが、少し前の新聞に出てた話。
うろ覚えながら書いてみますね。
○ふらふらと主を変えた足利尊氏より、南朝に忠誠を
誓い続けた楠正成のほうが武士のあり方として手本にふさわしいので、
大日本史では南朝正統論が支持された。
南朝が正統というより、楠正成の個人崇拝というべしとも。
○明治時代になり、ある学者が北朝南朝のどちらも
正統であると主張したら猛反発を食らった。
というのも南朝方のエピソードの方が庶民の心情に
訴えやすいこともあり、結果として南朝正統論が支持される。
明治天皇は自分の先祖が否定されるので、かなり不快だったご様子。
けっきょく、支持されてるのは「忠臣」楠木正成であって、その主たる後醍醐天皇ではないって事か
マスゴミの記述を真に受けるとかw
「統」というのはつながること。
「皇統」というつながりを前提にする以上、後代まで続いた持明院統が正統で、
消滅した大覚寺統は正統じゃない。
大覚寺統からも皇位保持者が出たことは歴史的事実であるが、皇統としての正統性は明らかに持明院統。
それを覆して南朝正統を言いたい人が様々なギミックを考え出して、種々多様な詭弁で南朝正統説を主張してきただけ。
日本の歴史で楠木氏が大人気なら、
皇太子殿下は、南朝の系統から正室を迎えれば、
国民から拍手喝采だったかもしれないな。
南朝武士のあり方が良しというのなら、南朝武士正義論に
しとけばよかったのに、南朝正統論とするから話がおかしいことに。
何で後代の一大名が
「南朝の系統が正しい」
なんて決め付けられるんだか。
明治天皇はあくまでも傀儡であって、自分の意見を主張できる立場ではなかった
だから、伝統に反した洋装や鼻髭(カイゼル髭とかいうんだっけ?)などの、自分の嫌いな装いで身を飾ったりもした
>>576 明治天皇が実は嫌だったって残してるの?
北朝正統論自体一切証拠のない異説でしかないのに、当たり前のように語る奴が多くて驚くわ。
ぶっちゃけ北朝正統論なんて「ムー大陸は存在する」とか「源義経はチンギスハン」レベルの珍説だろ。
ファンタジー小説の題材としては悪くないが、学問板でする話じゃないわな。
源義経などより、
遥かに悲劇なのが南朝・後南朝の皇子たち。
日本人は、
判官贔屓より親王贔屓になるべき。
580 :
日本@名無史さん:2014/04/09(水) 12:21:38.47
んー、自分の家は津島衆関係なんだが、三遠信各地の反政府勢力として南朝皇胤を推戴する勢力は現に有ったはずだと思うんだが…
581 :
sage:2014/04/09(水) 13:46:13.58
うちの村には、浪合記に記述のある旧家が現存するし、明治時代に行政村を「楠村」としてしまったぐらいなんだが、そこら辺からも浪合記を偽書扱いされているのはどうも納得できない。
582 :
sage:2014/04/09(水) 14:01:04.97
織田信定に平定される迄は津島神社は南朝方として守護に対して抵抗を続けていたわけだし、関係者の伝承は近代にまで伝わっている。近畿東海における後南朝の権威は歴史的に無視できないレベルだと思うぞ。
583 :
sage:2014/04/09(水) 14:43:43.88
室町時代を通じて幕府に反抗する勢力にとって南朝はマストアイテムになっていた感があるし、それは南朝こそが正当であるという意識が当時から相当強かったことの証左なのでは?
戦国時代に入ってしまうと幕府の権威自体が低下するので、皮肉にも南朝の権威も不必要になってしまったのでしょう。
>>578 政権としての連続性が正統性の根源である以上、吉野の政権は蜀漢と同様の非正統、ただ滅亡を待つだけの亡命政権に過ぎない
その正統性は理念のなかだけにとどまっていて、広い支持が得られてはいない
同時代の人々のうちに、北朝ではなく南朝こそが正統だと考えてた人は極めて少数だった
(大多数は、どっちが正統でもいい、自分の利益になる方につく、というスタンス)
>>584 いや、結局足利氏の支配は全国津々浦々まで、行き渡らず、
全国に散らばる南朝支持勢力を根絶するには至らなかった
というべきでは?
大体末期の足利将軍にしても継続した政権だとは言えないと思うぞ
>>586 幕府は後醍醐が折れて両統迭立を受け入れるのを期待して、
武力による南朝殲滅を避けて、交渉を試みて失敗した
幕府が総力を挙げて戦って他機関は十年にも満たない短期間であって、
後醍醐生前の時点でさえ勢力拮抗状態にはなかった。
そんな状態の中で観応の擾乱が起きて幕府内が割れたことで、消滅寸前だった南朝が再起したのが正平一統
その後も幕府は両統迭立状態への復旧を目指してたが、
合一までは吉野側の強硬な姿勢により失敗、合一後は今度は北朝側(というか、南朝はすでに存続してないんだから持明院統側だな)の抵抗により失敗。
合一から何十年かは迭立の復活を目指したが、6代将軍義教の治世の途中でついに政策転換し、
南朝系の皇子たちの子孫を残さない方向に切り替えた。
室町時代の戦争って、相手を殲滅するまで戦うことは多くはなく、
相手に妥協を求めるような形の戦いの方が多い。
叛乱を起こした守護たちも、当主の交代と領地の削減だけで、存在そのものは許容されることが多い。
妥協せず強行に争おうとした南朝が、あの時代には異質だったと言える。
>大体末期の足利将軍にしても継続した政権だとは言えないと思うぞ
そのあと、まもなく足利政権は滅亡してるじゃん。
存続したのは持明院統系の皇統のほうな。
まあ、幕府が主導権を握ってたから影響力の及ぶ範囲は狭かったけどさ、政権には違いないよ
浪合記は偽書。
それを元に主張されても、嘘を元に何を言ってるんだとなる。
相手にされない。
などと意味不明な言葉を発しており、動機は未だ不明。
何が正統って論じても、後々まで残ったほうが正統としか
言いようがない気がする。
継体天皇の出自が胡散臭くても、その系統が残れば
それは正統って話だろうし。
男系皇統 + 三種の神器 を持つ御方が、
日本の歴史では 天皇即位 できるという決まりだからね。
そういう意味では、わかりやすい制度かもしれない。
歴史の浅い大日本帝国憲法や日本国憲法ごときより、
遥かに優越性がある。
下品なワイドショーネタにされやすい
女系継承は絶対ダメということだ。
三種の神器自体女重要性も、室町時代までに薄れてたんだがな
三種の神器が重要と主張したのは、当時は南朝関係者(特に後醍醐帝)ぐらいで、
朝廷関係者の中でも非主流派、少数派だぜ
神器を以て吉野に去った後醍醐帝を、そちらが正統だからと慕って京都を離れた人間が極めて少数派だったことの意味を考えろ
ところで、壇ノ浦で回収できずじまいだった剣って、その後何回探しても見つからなかったんだけど、
沈んだ方が偽物ってことなのかなー
593 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:19:51.56
本物は熱田神宮
それ以外はみんな形代
ただ形代でも威力凄いらしい
594 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:24:32.70
後南朝っていうか過去に大和に勢力持ってたのは源氏だぞ
595 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:27:00.90
そりゃもう平安時代からずっと
始めは僧兵なんかと争ってたが終いには大僧正がでるくらい
596 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:28:51.53
>>592 近現代の歴史解釈って
そういう当時の人々の認識を無視しすぎだよね
ただ、室町時代でも三種の神器の重要だった事は事実
必要条件であはあるけど、十分条件ではなかったって事だろう
597 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:39:50.30
>>596自己レス
三種の神器って
「後世の為に守り伝えるもの」であって
「所持している者が正統な天子」っていうもんじゃないと思う
>>596-597 うん。
あるに越したことはない、無かったら少しみっともない。
でも、事情が事情なら無くてもしかたがない。
そんな扱い。
神器がなければ正統じゃない、なんていうほどの威儀は見いだされなくなっていた。
それでも、後南朝勢力が神器を持ち出したときには武力討伐が必要だったりしたわけだが、
このばあいは神器を持ち出したから討伐して取り戻そうとしたというよりは、重大な叛乱勢力だから討伐せざるを得ないって点が重要だよな
放置したら京都に潜入して神器持ち去りができるぐらいの力を持ってるなら、
要人暗殺ができるかもしれんわけだしさ。
599 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 20:20:28.07
熱田神宮って尾張だろ
まあ確かに尾張氏の伝承みたいのがあったっけ?
でも格式みたいのが上がったのは斯波氏が守護に
はいってからだけどな
600 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 21:31:42.72
>>598 三種の神器の権威が時代と共に薄れていった、のではなく
もともとが「皇統の証」であって「今上の証」ではなかったんだと思う
室町中期の天皇の御製↓
神代より いまに絶えせず 伝へをく 三種のたから 守らざらめや
他にも、神器の霊威の噂が日記に記されてたり、やっぱり神聖視はされていた
だから、「禁闕の変」で後南朝に神璽を持ち去られたのはやはり大問題
でも、取り戻したのって結局15年後
こんなにのんびりしてたのは
「現所持者に正当性を付与する存在」とは見做されてなかったからだろう
「持ってりゃ天皇!」なんて単純なものではなく
「天皇だから守っていかなくてはならない」、それが三種の神器の真義だろうね
601 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 21:45:41.85
>>599 うん尾張
鏡と剣は形代で、宮中にある本物は勾玉だけ
鏡が伊勢に、剣が熱田に祭られることになった経緯は
記紀とかに記されているけど
たぶん真相は、「宮中に置いておけなかった」んだと思う
だから後で勾玉を用意した
神器が三種になった経緯とか調べると面白いよ
最初から三種だろ
603 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 23:46:14.77
いや、どうやら初期は鏡と剣だったらしい
例えば古語拾遺に「天つしるしの鏡、剣を…」とあるし
そもそも、鏡と剣が宝となった経緯も違う
なぜ、勾玉にだけは
鏡や剣のような特別な物語が伝わっていないのか?
ま、今は三種とも重要な事に変わりはないが
>>603 最初は三種ではなかったんじゃ?って説は大昔からある説だけど
個々の根拠は否定されとる。
有名な二種説の大物は直木孝次郎だったけど反論に窮して
最初三種だったが一度二種に減ってまた三種に戻ったとか
むちゃくちゃ不自然な言い繕いしてその後は黙ってしまった
605 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 00:16:14.01
奈良時代にはすでに三種だったんだろ?
三種じゃなかった頃の手がかりなんて古墳の中にしか残ってないんじゃね?
記紀の記事だって、神器が三種になったあとに、その根拠説明として作り直されてるだろうしな。
たぶんだが、勾玉は元から天皇家が受け継いだもので、鏡とか剣は飛鳥時代末か奈良時代頃に追加されたんじゃね?
「最初は宮中で祀ってたが、事情により外部預かりとなった」と言ってるけど、ホントは最初から外部預かりだろ?
606 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 00:48:57.96
そう、その通り
神器はいつしか三種になった
後から説明が付会された
根拠が分からなくなるほど歴史が長いって事なんだから
別に不敬な事でもなんでもない
むしろ誇らしい
最初からいきなり三種って方が不自然
>>588 浪合記が偽書だとかつまらんな。決定的な証拠でもあるのか??
浪合記の記述を信用しないのはいいとしても、南信、三河には南朝の伝承は相当あるだろ。
各地の南朝方の動きを無視して、吉野の事だけ見ても仕方がないと思うが?
草薙の剣は、大和朝廷が、尾張氏の権威を引き継いでいるという印だろう。
まぁ、婚姻による同盟だろうと。どうも断夫山古墳や二子山古墳がろくに調べられてないらしいのは驚き
>>605-606 古墳時代にはすでに三種のセットが普通、
古墳時代の文化を引き継いでると考えるのが最近の通説だから
途中からいったん二種に減ってまた戻るほうがよほど不自然
そもそも神器っていっても先代から間違いなく引き継いでるってのがまず必要な事だから、何百年も前の物と本当に同一であるかは実は大した問題ではないのでは?
611 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 10:20:30.99
??
みんな古墳時代からの文化の継続性を前提に話してると思うし
誰も、初め三種で二種に減ったなんて言ってないよ
612 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 10:38:53.72
尾張氏の先祖に、天火明命、またの名を天照国照彦がいる。
皇祖ニニギの兄とされる。
おそらく、諱が、火明(ほあかり)で、通称が、天照国照彦だろう。
>>609 天皇陵古墳の発掘とかがほとんど行われていない今
(過去の盗掘や違法調査の情報があるからゼロではない、あと継体天皇陵が規制対象外になってる)
天皇陵からの出土品の調査なんてほとんど無いわけだが、
古墳時代には「三種の神器」(の原型とおぼしきもの)は天皇に独占されておらず、権力者の誰もが自由に所持してたって事か?
それじゃ単なる「威信財」であって、皇位の象徴たるレガリアになってはいないって意味だろ
>>607 浪合記は偽書。
お前の思い込みなんてどうでも良い。
学会では、内容に矛盾や時代錯誤が多く近世前期成立の偽書と推定されている。
それで十分。
偽書だとは思うが、内容の真偽はまた別だろう
江戸時代から見た南北朝時代なんて、現代人にとっての関ヶ原時代みたいなもんだ
あまりにも時代が遠い、直系祖先の事績でさえ信憑性が低下するレベル。
ましてや近隣地域の状況とか、役に立つような知見は見つけだせんだろうよ
応仁の乱とか戦国時代とかのごたごたで、残ってた資料も散逸してるだろうしな。
現代から見た江戸時代初期の、幕末維新期やら大戦やらのごたごたの影響と同等じゃねーか。
はっきり言って、「他の史料で裏付けを取れる情報」以外は信用できるはずがない。
つまり、「浪合記にしか存在しない情報は信用できない」だ。
>>616 偽書である時点で内容も信用されない。
何故、後世捏造されたのかを考えれば理解できるだろ。
浪合記は偽書。
著者・成立年代不詳。
現存本は、尹良親王の子、良王に従った者の子孫と称する天野信景が
1709年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性
には疑いがあり、信景が偽作したものと思われる。
「信濃史料叢書」所収。
なるほど浪合記の成立自体に疑問があるのは致し方ない所なのかも知れないが、評価している安井久善氏がトンデモというわけでもないでしょう?
私自身が津島の苗字で近所に長谷川・石黒氏がいるのでこの辺の真偽には、興味を持たざるを得ない。
三遠信・津島の後南朝の活動が完全にでっち上げだとするのは逆に無理があるような気がする。
ま、専門ではないので、いずれ日本史の教授にでも聞いてみますがね、図書館に写本もあるらしいし。オフで調べられる。
ネット上でのヨタ話のネタとしてぐらいありなのでは、そうでないと後南朝の話題自体ができなくなりそう
世の中で偽書と言われるものも、その原点になった地域の民話や伝承からのヒントがあったかもしれない。
これは正史、これは偽書だからと、正史以外は参考にもせずに無視しようというのは乱暴な気がする。
正史に組み込まれない逸話みたいなのは、当時の中央政界から離れた日本各地にあるだろうから。
>>593 後醍醐天皇が吉野に持っていった剣も型代なわけだ
鏡も同じく。
奈良時代の後半には、三種の神器より神璽の方が重視されてるっぽいな
624 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 22:00:25.98
神璽って三種のうちの勾玉のことじゃないの?
>>622 そりゃそうだ
まあ、辞書には
> 1 天子の印。御璽(ぎょじ)。 2 三種の神器の総称。天(あま)つ璽(しるし)。 3 三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のこと。
(デジタル大辞泉)
>1 三種の神器の一,八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)のこと。2A 三種の神器の総称。あまつみしるし。3天皇の印。御璽。
(大辞林 第三版)
とあるけどな、
八尺瓊のことを神璽とよんだり、あるいは三種の神器の総称として神璽とよんだりするようになったのはいつかって考えないといかん。
神璽の「璽」は、(たとえばwikipedia説明では)
>璽(じ)とは、印章の一種。本来は印章一般を広く指す言葉であったが、秦の始皇帝により、皇帝の印章を指す言葉として使われるようになった。その後、日本においても、天皇の印章を指す言葉として使われるようになる。また、日本においては〜
とあるように、もともと印章のことなんだよ
当然、日本で「神璽」という語句を用い始めた当初には、神器のことではなく印章(天皇印)の意味で用いられていたはずと解釈せざるを得ない。
奈良時代は? 平安時代初期はどうだったのか? 平安時代後半は? と考えていく必要がある。
626 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 10:49:44.98
ってことはやっぱり
勾玉こそが唯一、朝家の神璽としてあつらえられたオリジナルの "しるし" なんだな
本来、鏡は伊勢の度会氏、剣は熱田の尾張氏の "しるし" だった
どうして、初めはその鏡と剣を "天つしるし" にしようとしたかと言うと
それは、度会氏と尾張氏の出自をたどれば分かる
実は同族だよね、この二氏
627 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 11:09:37.51
天智朝での「草薙剣窃盗事件」
あれ、新羅(or百済)の僧が単独犯ってことになってるけど
そんな外国の僧が簡単に神宝を盗み出せるかね?
剣の祟りで嵐にあって、剣は帰ってきたって言うけど
すぐ熱田神宮に戻って来た訳じゃない
朝廷はこの事件に触れたくなかったのか、剣はしばらくの間
攝津の阿遅速雄神社に安置されていた
その後、天武朝になって、宮中もしくは石上神社に遷された
しかし、祟りでやっぱり朝廷の元に置いておくことが叶わず
18年後、ようやく熱田神宮に帰されたんだ
鏡も剣も、本当はオリジナルを宮中に置いておきたかった
でも、出来なかった
崇神天皇の頃の日本書紀のエピソードから察するに
"しるし" ってのは、血族しか祭り鎮めるることが出来ないのだろう
628 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 11:19:31.88
でも天武天皇はそれを分かっていた賢帝だよ
石上神社に納められていた諸家の宝物を
すべてその子孫に返却するよう命じている
ってことはつまり
それ以前に、全国の豪族から先祖伝来の宝物が接収されていたってことだ
そろそろスレチだな
629 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 14:59:38.48
>>591 そうではなく、三種の神器を保持している方が今上の天皇陛下だということ。
天皇家一族の間に悪臣どもが画策して「我こそは天皇なり」と名乗る方が2
人以上出た場合、三種の神器を持っている方を正統の天皇と認めましょうと
いう制度を採っている。したがって前天皇が誰に三種の神器を譲るかによっ
て次の天皇が確定する(現代の憲法規定や皇室典範の定めのことではない。
天皇家のしきたりとして)。それ故、前天皇が内親王や女系の孫に譲位する
ことも可能になっている。女系の孫は排除されてはいない。前天皇の意思
により三種の神器が譲渡されればその方は跡継ぎの新天皇だ。皇室を敬愛
するとは天皇の意思を何よりも尊重するということで、謀叛人にはならな
いようにね。
安徳天皇が京都を離れたとき(=平家の都落ち)、三種の神器は平家が持ち去って安徳天皇と供に都を離れたが、
即座に後鳥羽天皇が即位した。
三種の神器は後鳥羽天皇の手元にはなかったが、公家社会では安徳天皇は廃帝として扱われ、
正統は後鳥羽天皇とみなされた。
神器が手元に無いと不完全だからあえて困難な神器奪回を命じたが、
神器の存在は正統性の絶対条件ではなかったわけ。
>>629 だが、女系で皇位を継承した人物はかならず、父方の祖先を父系で何代かさかのぼれば天皇にたどりつくぞ
女性天皇と女系天皇をごちゃまぜに(意図的に?)して言い出す人がいるから困るね。
日本の歴史では、
女性天皇も家系図たどれば男系皇統なんだよな。
女系天皇になってしまうと、系統的にはもう婿に来た人の姓に変わってしまうので、それは別の氏族の王朝ということになる。
ヨーロッパの王室よりも、歴史も長くて資格も厳格なのが日本の伝統的な皇室。
さすが天皇陛下は現代の世界で唯一のEmperorの称号だ。
普通の王室よりも一段と格上。
一般的には、エンペラー/皇帝っつうのは多民族国家・世界帝国のことで、単一民族の場合は普通はエンペラーじゃなくキングなんだよね
そういう理由からか、古代国家の時代の日本は蛮夷の国を領域内に仮想的に設置して、擬似的な世界帝国を作ろうとした
支配領域の内部に隼人とか蝦夷とかの異民族国家があるという形式を作り上げようとしたんだよ
世界帝国指向を捨てて国内に籠もりっきりになってたのが中世・近世。
で、明治に入ってからは再び世界帝国を目指そうとしたんだよね、
多くの国々を従える路線は無理と分かってからは、多民族国家志向に変えてまで、エンペラーという自称にふさわしい体裁を整えようと頑張ったわけだ
今の日本で「天皇=エンペラー」を貫こうとするなら、
「日本は、多くの民族で構成される多民族国家の大国だ」という体裁が必要不可欠で、
「日本は単一民族国家だ」なんて言ってたらダメなんだよ
日本が単一民族国家であるならば、その首長たる天皇はキングになっちゃう
スレチやがな
>>621 だから、何故、後世捏造されたのか理由を考えろよ。
浪合記の場合は、この天野という奴が
「俺の先祖って凄いんだぞ、お前ら俺をなめんなよ。」
と言いたいが為に捏造したと言われている。
三遠信・津島の後南朝の活動を完全にでっち上げてね。
(同時代の他の文献に記述が無い事から推定される)
どこかに仕官したいが為に先祖の経歴を捏造したとも。
記述内容は信頼に足るものではないとされている以上、
そこに真実が隠されているなどと思わない事だ。
偽書は偽書としてしか評価されない。
日本史の南北朝の争いは、
アメリカ大陸史でいうと
アメリカ合衆国大統領(北部)とアメリカ連合国大統領(南部)が争った南北戦争みたいなものか。
そりゃ日本人ならば歴史的にインパクトがあるはずだわ。
もう現代なのにこうして南北朝の論争が続いてるんだから。
636 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 20:11:23.93
>>632 いや、日本の場合は
「キングの上に立つものだからエンペラー(=天皇)」
だと思う
太古の大王(おおきみ)時代は、地方豪族と言う複数の長(準キング)を従えていた
(これが一般的なエンペラー(=皇帝)に近い。しかし日本ではキングと呼ばれる)
しかし、
武家政権が誕生した中世以降は、天皇の臣である将軍というキングが
その下に諸大名(準キング)を従えることになった
(これが日本的エンペラー(=天皇)だな)
637 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 20:12:14.94
(つづき)
なぜ皇統が存続し、なぜ武家政権が700年近く継続したかといえば、
これは偶然ではなく
天皇がエンペラーであり、将軍がキングだったらに他ならない。
逆に言うと、キングを廃して天皇親政を目指すのって
エンペラー(天皇)をキング(大王)の地位に引き下げる事ってことで
かなり危険な諸刃の刃だと思う
尊皇を叫んだ明治の末路が、皇統断絶の危機だったのは
必然ってわけだ
南北朝の動乱期は、
南朝はキング(大王)を、北朝はエンペラー(天皇)を目指していたと思う
どっちに共感するかは人それぞれだろうけど
花園天皇は偉大だから、もっと知られるべきだと思うけどなあ
>>632 > 一般的には、エンペラー/皇帝っつうのは多民族国家・世界帝国のことで、単一民族の場合は普通はエンペラーじゃなくキングなんだよね
ドイツにもフランスにも単一民族しか支配しない「皇帝」が
いたんだが。いつの時代の話をしているんだ?
> さすが天皇陛下は現代の世界で唯一のEmperorの称号だ。
> 普通の王室よりも一段と格上。
EmperorがKingよりも格上だってのは、出所不明のデマ。国際
儀礼上は称号に関わりなく「終身元首」でひとくくりだ。
まさかと思うが、「三大権威」とかいう与太話を信じちゃっている
知的落伍者じゃないだろうな。
>>634 「浪合記」読んだことないだろ?
天野氏は従士の1人として名前が出てくるだけで、
特別な功績は何も書かれていない。
641 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 21:18:14.49
>>631 あんたは謀叛人だ。今上陛下が三種の神器を渡される方こそ次の天皇だ。
日本の歴史を考えれば女系天皇はダメだが、
もしも現代で女性天皇が出現するとすれば、
皇室の内親王殿下や女王殿下に皇族や旧皇族が婿に入って皇統が男系で続く場合だろうな。
男系を維持したいなら
未婚の桂宮を若い女性と結婚させて
人工授精でもいいから
子供を作らせろ。
国民のほとんどがその存在を知らない桂宮にしかできない荒技。
女系天皇ってそれもう他人じゃねーかよ
>>614 その威信財が三点セットで考えられてたってことだろ
日本書紀にでてくる地方豪族も三点セットを持ち出す
古墳時代の遺物にも三点セットがでてくる
皇室の三種の神器の伝承の背景にある当時の文化との関係を想定するのが通常の発想だろう
「鏡剣」って表記だけでは玉がなかったと即断できない
具体的に二種だったという明確な伝承は記紀に存在しない
646 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 05:12:29.85
647 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 05:31:55.77
>>640 アホか?
読んでるよ。
それっぽく偽装するために従士の1人として名前が出てくるだけにしてるんだよ。
あからさまに俺様の先祖が〜だと当時としても怪しまれたから。
>>646 同じく偽書である武功夜話とかでも史実だとする人たちがいる。
司馬遼太郎まで武功夜話を元に小説書いてる。
何でも一定数は騙される人がいるもんだ。
偽書を作る方も騙すために作成してるんだから、それっぽく工夫してるしな。
>>647 国学の成果もさかんに導入されたんだよな、偽作のネタに。
江戸時代初期には国学より唯一神道(吉田神道)の影響が強くて、偽作のネタは主に唯一神道だったわけなんだが、
国学の黎明期、初期頃には唯一神道への対抗心とか敵愾心のようなものを多くの国学者が持ってたらしい
リンク先の本の作者も、唯一神道の影響による偽史を念頭に置いてたに違いない。
後に増大する、国学をネタにした偽史のことは空想すらしてないだろうな。
651 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 02:45:19.54
>>649 浪合記は武功夜話とは相当に違う事例だと思う。
現在でも津島の郷土史は浪合記の記述をある程度踏まえたものになっていて、
尹良・良王に関する各家の伝承はある訳だし。
無から捏造するのはかなり困難だと思う。
こうなったのも渡辺世祐や柳田國男のコメントのせいなんですかね?
652 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:38:05.22
>>100,
>>386 自天王は鳥羽天皇の子孫、鳥羽源氏の鳥羽尊秀(源尊秀)と同一人物。
従って南朝の子孫というのは偽称。
653 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:42:56.80
自称するのって西日本が多い気がするのは気のせい?
654 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:45:22.22
系図関連は東日本の方がはっきりしてるからね
源平藤、橘氏はないけどほとんど追えるわ
>>651 自分達に都合のよい、心地よい物語であれば付会なんて簡単に起きるよ
>>651 逆じゃないか?
浪合記を信じて、それを根拠に津島の郷土史や
尹良・良王に関する各家の伝承が、後から出来たんだと思う。
尹良・良王の名は信用すべき同時代史料に見えないばかりか、まとまった伝記である
『浪合記』・『信濃宮伝』も内容に矛盾や時代錯誤が多く、近世前期成立の偽書と推定されていることから、
学界では親王の実在性そのものが疑われている現状にある。
658 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 05:22:28.24
>>657 浪合記について私が思うに各地に伝わる伝承の寄せ集めであるが故に矛盾があるだけのように思えます。
記紀でも同様では?年代が正しくないー実在ではない という事にはならない。
歴史的文献の真偽については、経験値が足らないので判りませんが。
浪合記の内容が不自然といえるほどに同時代資料ってあるのですかね。
京都なら公家や僧侶の日記があるから、分かるんでしょうが
>>658 お前の個人的見解よりも学会の判断を信じる。
同時代資料の資料はある。
お前が無知なだけ。
660 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 08:16:00.23
>>659 古銭の真贋についてなら多少の判断はできますが、
これって経験値積まないと絶対に無理なのはわかってるので
室町時代の文献についてなんて判断はできないですわね
しかしながら専門家の方もトーシロにも判るように説明する気がないのなら
はいそうですかという気にはなりませぬ。
どこいら辺を参照したら良いのでしょうか、よろしければ
図書館や日本史の教官の所へはいずれ行ってみようとは思うので
それぞれの都道府県立の中央図書館の書庫には、その地方の郷土史に関する良い本が有ったりする。
歴史好きなら、図書館を有効活用するのも良いぞ。
662 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 08:31:47.94
南朝と言っても幕府に正面で対抗するというよりも、堺、津島の海港と吉野の路飯田街道やら、平地の勢力とは違った繋がりの集団に見えますね。
商取引による経済力とゲリラ戦に長けた勢力が初期の信長をささえていた歴史的に意義とかを感じます
郷土史家だと、浪合記を部分的に評価している人が多い印象ですね
>>662 結果的には、室町幕府の副将軍や九州探題を務めたこともある今川氏や、足利将軍は信長にやられたと考えると面白いな。
南朝の悲願が少し達成された感じだな。
>>664 今川氏で「室町幕府の副将軍」なんてのいたっけ?
その立場に一番近かっただろう了俊の最盛期でも、そこまでの地位じゃないだろ?
管領の細川家が信長にってんならわからなくはない。
666 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 21:25:49.33
直義は副将軍とも呼ばれていたようだけど
あとは、可能性があるのは斯波くらい
足利が絶えたら吉良>今川なんて作り話があるから、誤解されているのでは?
ってか、南朝の悲願ってのは、世を戦国にする事だったのか?
>>665 戦の論功行賞で、足利義教から今川範政が副将軍に任じられたという説があるようだ。
まぁ江戸幕府の水戸黄門よりは本当に副将軍だったんだろう。
それっぽい権限を行使した形跡もないし、
子孫がそういう伝説を作ったのか、もしくは権限がない名誉職として一時的に設置されてたのか……
室町幕府の副将軍は、
常置ではないので、
名誉職っぽいな。
室町幕府の副将軍の経験者は、
足利直義と今川範政と毛利輝元か?
マ、マイナーすぎる・・・・
そのなかで、副将軍と呼べるような権限を実際に行使したのは直義一人だけじゃん
関東副将軍を自称した里見も忘れてはならない・・・・
鎌倉幕府、江戸幕府 → 正式な副将軍0
室町幕府 → 正式な副将軍3 自称1
この差は大きい。
>>671 まあ里見は出自そのものが小弓公方家の副官みたいなもんだから……
元同僚だった上総武田氏を吸収したあとは小弓公方派のナンバー2に間違いはない。
が、副将軍という役職が実在したわけではないな
時代劇で里見黄門さまだったのは歴史の暗号だったんだなw
674 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 20:01:08.12
結局、「副将軍」って響きが現代人の廚ニ心をくすぐるだけなのであって
当時の実質とはかけ離れているんだろうね
直義は、両将軍とか左武衛将軍とか言われてて
副将軍ってか、ほぼ将軍だし
それ以外は将軍が任命って言うけど
将軍は官位を推挙するんであって、任命は朝廷の役目だし
胡散臭すぎる
仮に、
朝廷官位での大将軍を 総理 とすると
朝廷官位での副将軍 副総理(公的なNO.2)
幕府役職や名誉職の副将軍 副総裁(党内のNO.2)
みたいなものなのだろう。たぶん。
水戸藩は南朝の末裔を会津藩領に匿ってたという伝説があるようだね
南朝の副将軍を目指していたのか
677 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 07:24:52.37
>>665>>666 今川は室町殿との血縁以外にも草創期に一族が多く討ち死にした事から功績を認められていて、
最初期は探題だったり遠州と駿河の両方の守護だったように地位が高かったんだよ。
だけど室町殿の同族としてその直轄領域の東端駿河の抑えになってから在国が多くなって中央での権勢が弱まっていったの。
最初期だけは細川とも立場に差は無かったし、吉良は今川の本家筋になるってだけで今川と比べて特に地位が高いわけでもなかった。
むしろ分家筋の今川が幕府草創期に思いのほか貢献したから評価する必要が生じて血縁上本流に当たる吉良も自然と持ち上げられた感じ。
後南朝ってなんどい?
吉良は観応の擾乱で没落して、公職は遠江守護ぐらいで他の一族は国人として散見する程
680 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 12:52:59.86
すいぶん今川を買いかぶっているようだけど…
>>677 室町幕府内での格式的な地位って、実績から判断出来るものじゃなくて
武家故実や儀礼作法から知ることが出来るよ
室町殿に次ぐのは、斯波と御一家(吉良・石橋・渋川)で
これらと他の足利一門とには、越えられない壁がある
ただ、今川が良い働きをしていたのは事実だし
京都の伊勢家と親しい関係だったから
幕府創成期以降も、中央での存在感は小さくなかったと思う
> 最初期だけは細川とも立場に差は無かったし
これは、流石に今川がかわいそうww
細川って本来、足利一門の中では一番下ってくらいの家格だよ
管領家になったから待遇が上がっただけで
もともとは、吉良>>今川>細川
三管領の中でも、儀礼上は、斯波>畠山>細川
家人の家人、普代どころか直臣ですらない陪臣的な立場だった零細な細川が、
(幕府の) 草創期に一族が多く討ち死にした事から功績を認められて
管領家にまで台頭した細川氏と、かなり早い時期に細川氏の派閥の一員となった(派閥の長にならなかった)今川では、
立場に少なからぬ差はあるな
今川氏の苦境の大半は斯波氏との争いに起因してる気がするんだが、それ以外って何かあったっけ?
斯波と細川の派閥争いの過程で細川派が一時的に敗退したあおりで今川氏が九州探題を解任されたとか、
その報復を計画中に反撃されて遠州の守護職を斯波氏に取られたりとか、
斯波氏に攻撃をかけた帰路に待ち伏せ反撃されて当主死亡で後継争い勃発、他家介入とか。
682 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 18:57:15.92
しかし、細川も分不相応な地位を与えられたものだな
結局、上に立つ器じゃなかった
まあ、勝元までは評価できるけど
無駄に過大評価されてる政元は、実際は幕政牛耳るどころか逃げまくってた上に
奇行のレベルが人知を超えたマジ基地
家宰の安富がまともだったから、細川家自体は何とかなっていたものの
それ以外の家臣は、足軽・悪党並みの鬼畜の外道
公家が日記で絶望するレベル
草創〜頼之〜持之あたりまでの賢臣細川、どうしてこうなった
683 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 19:07:44.75
↑まあ、薬師寺もまともだな、すまんな薬師寺
他のスレで知ったが
タシロは今川副将軍の男系末裔なのかよw
そう考えると志村けんのバカ殿様は凄かったんだな
かつては今川氏の末裔を家老にしてたとはwwwwww
南方紀伝・吉野拾遺あたりを文庫本でほしい
686 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:28:17.35
西園寺実俊正室が四条隆資正室ってマジ?
方や純北朝系公家、方や南朝最高幹部の一人ジャン
そもそも隆資って実俊の父、公宗とすら親子以上の差があるのでは
687 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:41:49.21
タシロが末裔だろうがなんだろうがだからなんだよ ?
キチガイカヨ
仮に末裔でも超傍流だろ
そんなんでも末裔扱いなら俺も守護大名の末裔だわ
>>687 またバイトの面接落ちたのかw
>>684氏は志村けんのバカ殿コントとタシロの縁を面白がってるだけだろ
なにカリカリしてんの?もちつけや
689 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 19:49:36.39
吉川から出た「南朝の真実」ってどうなん?
幕末、長州は孝明天皇、睦仁親王の暗殺に成功すると、南朝の後裔、大室寅之佑を睦仁親王として
送り込んだ。彼こそ後の明治大帝である。
>>689 少なくとも、690みたいな与太話じゃないだろうがな、とりあえず読んでみるわ
売れてるらしいな。重版決定だってよ
小野寺天皇って何ですのん?
694 :
日本@名無史さん:2014/06/23(月) 12:58:32.99
「南朝の真実」おもしろかったですか? すみません、川上村神之谷の金剛寺境内のお墓には自天王・忠義王おふたりの首が埋まっていると今は解釈されているんでしょうか。
戦国ゲームでは100万%無視される南大和だけど、実際、
賀名生の堀家や北山の竹内家以外は名のある勢力いなかったの?
ああ、あと、本宮に楠氏が居たか。
697 :
日本@名無史さん:2014/06/24(火) 09:17:00.11
>>695 戦国ゲームで後南朝勢力のあるものとかあれば興味深いな。
武将や勢力配置図とか。
PCEの斬・陽炎の時代は戦国時代シナリオの他に、
なぜか南北朝シナリオあったな・・・・懐かしい。
>>697 フリーゲーム「戦国史」なら、自分で登場させる事が出来るよ。
他人の作ったシナリオの広大な空白地帯が嫌で、自分で埋めようと思って調べたんだが、
御南朝の人たちの後裔はその3者以外発見できなくてね。
御南朝じゃないけど、調べてる課程で、あっさり滅んだと思われた石堂氏を発見できて嬉しかった。
699 :
日本@名無史さん:2014/06/24(火) 12:13:02.70
後の世の天皇を含めて南朝正当論は多い。
というかね、南朝が正当なのは明らかでしょ?
後醍醐天皇が正真正銘の天皇なうえに、三種の神器も持つ。
足利尊氏は正式な皇軍に刃を向けて三種の神器を強奪した明らかな賊軍なわけで。
ただし、北朝天皇も南北朝以前の天皇の男系男子で、皇位継承の血の正当性はある、
南朝ははっきりと現在に続かないので、遅くとも後南朝の天皇(天王)が足利の手の者に
殺害された時点に遡って正統と言える。と思う。
尊皇で有名な水戸光圀はじめ現在までの尊皇的学者など、南朝が正統と言う人は多いしね。
帝国議会でも南朝が正統、明治天皇も南朝が正統とされたしね。
正統論は決着していると思うのですが。
当時の記録では、後醍醐の隠岐配流後は光厳帝を主上と呼んでるし、
その頃には後醍醐帝のことは先帝と呼んでるぞ
隠岐を脱したあとぐらいから再び主上と呼ばれるようになった後醍醐は、
北陸宮が新田義貞に伴われて北陸行幸したころから再び先帝になった
それが当時の認識で、吉野朝を正統朝廷と思ってる人は当時にはごく少数だった
問題になるのは、吉野に去った後醍醐帝を、尊氏が依然として敬慕したことにある
本来なら叛乱軍として軍事制圧し、首謀者は一族もろとも処刑(ただし、後醍醐・後村上ら皇族の一部は処刑できないので流刑)
という処置が妥当なのに(その際に、当人の正統性は問題にならないのが普通。だって、そこまで考慮するなら、保元の時の崇徳上皇は復権の余地があったはずでしょ。)
>「南朝の真実」
人物評伝の形式は興味深いが、取立てて目新しい知見はないね。
南朝視点を謳いながら、征西府の内訌への言及がないのが残念。
個人的には、慶應の小川剛生氏に南朝で何か1冊書いてほしい。
「南朝の真実」のアマゾンレビューが臭すぎる
704 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 12:54:11.40
自天王、忠義王がだれの子かご意見あるかたお願いします。
ここ「後南朝」ですよね。
>>704 自天王は鳥羽尊秀(とばたかよし)、そもそも南朝の血を引いてないってのが真相だろ
だから「自天王」なんだし
>>704の言う「自天王」は長禄の変で殺害された北山宮(一宮)を指してるんじゃないの?
>>706 705の名前でぐぐって、とりあえずwikipedia程度でも読んでみろよ
北山宮のこと言ってるんじゃん
北山宮が後胤だという主張自体が怪しい、ホントは南朝皇胤じゃないだろ、と言ってるわけ
実際、そういう説もあるわけだしな。
鳥羽尊秀と北山宮が同一人だとお考えで?
そのことを示す史料があるなら、
ぜひご教示賜りたいものだが。
尊秀王の項目の説明(北山宮)だと、源尊秀(鳥羽尊秀のことだが、鳥羽尊秀という表記ではない)と同一人物という説もある、って程度の記述だな
710 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 15:53:28.65
でも北山宮(自天王)も河野宮(忠義王)も宮内庁が陵墓に治定してますし、このスレの見出しの「尊雅王」もこの二宮すら怪しいなら意味なくなってしまう…
711 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 16:01:43.58
源尊秀、鳥羽尊秀と川上村の言う尊秀王(北山宮)は別人でしょう。
>>710 明治期には政治的理由から、実在の人物じゃない遠祖の陵墓も治定したぐらいだから……
南朝正統説に基づいた活動から、怪しい説でも簡単に認めてたしな。
>>711 ああいう説もある、そういう説もある。どっちが正しいともいえんのが現状だろ
宮内省の治定(宮内庁になってからは治定替えが行われておらず、追認のみ)って、
学術的に確認が取れる正しいものは数基のみ、
ほかは、不確実なものから明白に間違ってるものまで千差万別って状態だもんな。
欽明陵とか継体陵とかの、飽きたかに違ってるものの方が、正しいと確認できるものより多いとかw
欽明陵については、一時、見瀬丸山で決まりといった報道や書籍があふれたため、世間では現在地は明らかに間違ってるものと思われ続けているけど
その後の研究の進展で現在地を推す意見も提出されたりしていて、考古学者の間では確実に間違っているとはいえない、というところだよ
715 :
日本@名無史さん:2014/06/27(金) 10:54:58.15
宮内庁が一度治定したものは明らかに間違っていても(斉明天皇のとか)ぜったいに変更・取消ができないのはなぜ?勅だから(その時の天皇が認定されてる)と聞いたことありますがほんと?
>>715 宮内庁になるまえ、宮内省の時代には訂正変更の実例がある
たから、訂正が効かないとかの理由ではないだろう
現在の宮内庁は人員が少なくて、治定がえのような大仕事に人手をさく余力が無いだけじゃないかな?
717 :
日本@名無史さん:2014/06/27(金) 13:59:47.25
訂正されたことあるんだ…ありがとうございます。
『後南朝史論集』にある川上村(奈良県)と宮内省のやりとりの顛末がかわいそうすぎて…
>>711 じゃ、なんで「自天皇」っていうんだよ?
誰からも相手にされず自分で天皇と自称したからだろうに
>>718 自称天皇という意味ではなく「自ずと天皇」という意味
>>710 後南朝どころか南朝の長慶天皇でさえ、実在が確認されたのが明治に入って以後の事で、もちろん陵墓の場所の記録もない
後南朝の皇子たちの陵墓なんて、それ以上に記録がなく、治定された陵墓の信憑性はゼロに等しいだろ
記録があるとしたら、処刑した皇子をどこそこに葬った、みたいな記事だけだが、そんな記事がある皇子のほうが少数派だ(処刑した記録はともかく、場所の記録が実在するかどうかは知らん)
森茂暁さんの『闇の歴史、後南朝』が文庫になった!
自天王の朝廷は少なくとも当時の人々の間では存在しました。自天王と言う言い方がだめなら北山宮でもいいです。
北山と川上で一宮二宮が弑され奉って神璽を奪われたのは史実です。誰だかわからなくても一宮二宮は存在しました。
少なくとも、京都で神器を強奪して逃げた賊がいて、
その賊に担ぎ上げられていた後南朝皇族が居たってことは認識されていた
ただ、天皇としてではなく賊軍として認識されていただけだがな。
その「賊」を殲滅した功績によって、某家のお家再興が許されたわけだし。
>>49 奥吉野に行こう行こうと思いつつ行けない関東者です。
バスに乗れば行けるのは分かったんだけど、
宿泊施設が無いんですよね…
自分の調べ方が悪いのかな
>>723 近場で宿泊して、そこから奥吉野までは日帰り
というか、奈良県の他所の観光でさえ宿泊は大阪なんて人が多いぐらいで、観光場所と宿泊場所は分ける
奥吉野なら大阪宿泊は難しいだろうが、吉野には宿泊する場所があるから、そこがいいのでは?
史跡間の移動は車でも1時間くらいかかるからレンタカーないとつらいよ
バスったってあの辺りは1日5本も走ってないだろう
後南朝の朝廷では、南帝とわずかな廷臣、御所を警護する衛士がいただけで、
充分な行政手腕を持つ実務官僚や公卿議定を行う摂関や公卿がいなかったのが
痛かった。南帝は周囲の廷臣や女官に対して、和歌の贈答を行うくらいしか
なすすべがなかった。
朝廷→逆賊の根城
弑され奉→誅殺
だろ?日本語の使い方がおかしいな。
自己紹介乙w
後南朝じゃなく南朝(長慶〜後亀山期)だったら、だいたい727の表現に近い状態だっただろうけどな。
後南朝だと、廷臣は一桁、公家の家格の出身者はほとんどゼロで、衛視は山賊程度の。
女官だって、たぶんゼロ。
和歌の贈答ができるような人間はほとんどいなかっただろうよ
そもそも後南朝に南帝はいないだろ
732 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 20:17:45.04
抹殺されたんだろう。
少なくとも、何人かが殺害された上で、それ以外も出家させられて根絶やしになったのは事実だがな、
抹殺ってのとは違う気がする
仮に皇胤の誰かが偶々三種の神器を手にしたとしても、それで天皇になった、即位した
とは誰も考えない。譲位の宣命なり院宣なりを受け、しかるべき手順を踏んで初めて
神器を手にし行為を継いだと主張することができる。
もちろん、ここで暴れている頭のおかしなポエマーは知らんし、内裏を襲撃して神器を
盗んだ賊は「手にする権利がある」と強弁していたかも知れんが。
735 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 12:38:10.93
>723
旅館に泊まるなら朝日屋がいいです。自天王の朝拝式にかつては参加してた宮内庁の人とかもとまってて、後南朝の資料があるみたいです。
あと森と水の源流館が後南朝史跡ツアーをやったことがあります。
金剛寺などは一人でも行けましたが、かくし平とか三之公御所とかは山の中なので、ひとりでは無理です。
736 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 12:57:16.42
掘田とか楠党だったんだから南朝の資料とか持ってんだろ
今の尾張徳川氏の人は掘田家からの婿さんだし
737 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 13:00:49.53
由比(楠)正雪の門下生だったんでしょ?
738 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 13:01:16.82
>734
あたし暴れてなんかいません。そりゃちょっとはポエマーかも
しれないけど頭がおかしいほどじゃありません。
自分なりにいろいろ勉強してるつもりです。
どこでもマイナーなのにこんな掲示板があったからうれしくて
書き込んでるだけです。
すみません、735もあたしです。
今の世の中において、もはや後南朝を正式な帝室として是認する人は数えるほどしかいない。
それは、歴代南帝に諡号が奉られていないこと、歴代南帝陵が特定されていないことが
大きく影響している。
歴史が混沌としていた時期はともかくとして、日本には勝手に「自立」を
宣言しただけの者を天皇と認める慣わしはないね。
× 今の世の中において、もはや
○ 今の世の中においても、
っつか、後南朝を正式な天皇と認める人が少なくなかった時代など一度も来たことがない
今からでも諡号を追贈したほうがいいのかも知れんな
御陵の特定は難しそう。宮内庁が猛烈に妨害する
山賊の親玉程度の奴に諡号を追贈する必要など無い。
諡号を贈ることができるのは現役の天皇だけだろう?
陛下が贈りたいと言い出せば、宮内庁は本気で動かざるを得ないよ
宮内庁とはそういう役所なんだから
即位していないどころか、内裏を襲撃して天皇を害しようとした
逆賊への追贈なんて有得ないな。
746 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:52:30.91
>>719 >自称天皇ではなく「自ずと天皇」
え?意味わからんこと言い出すなよwどういう文脈で「自ずと」なんだよ?
思いつきで適当なこというのやめてくれないかね
>>721 >自天王と言う言い方がだめなら北山宮でもいい
そういう問題じゃないだろ、話そらすなよ
「自天王」はなぜそういう名をもってるんだよ、説明つけろよ
> 陛下が贈りたいと言い出せば、宮内庁は本気で動かざるを得ないよ
それ以前に、妥当だという見解が無い状態で勝手に「言い出す」という
のは有得ない話だから。
>>744 現在は、過去の天皇への諡号追贈や任命の決定権は天皇にはない
弘文天皇や長慶天皇って本当は即位してないよね
当時の記事に「大覚寺法皇崩ず、五十二、長慶院と号す」とあるそうだから、
南朝の天皇として即位はしていたんだろう。
>>749 弘文天皇:天智天皇死後、その地位そのものは間違いなく引き継いだ。
ただ、即位の例を挙げることも大嘗祭を挙行することもできないうちに敗北しただけ
短期間で廃位されたから天皇じゃないってのは理屈としておかしい。廃位された=その直前には天皇だった、わけだからな。
長慶天皇は、即位したことの記録が散逸して残ってないが、おそらく吉野か賀名生かどこかで即位の例を挙げ、大嘗祭も挙行してるはず
長慶天皇が即位できてないなら後亀山も条件は同一のはず
似たような立場には他に、光厳天皇もいるな。北陸宮も一ヶ月程度の短期間だけ天皇だったらしい
長慶天皇は皇統に列される前に実証的な研究で在位が確実とされている
…因果関係がわかりにくいな
長慶天皇は実証的な研究によって在位が確実となったことから皇統に加えられた
弘文天皇だって、即位の礼を挙げる前ではあろうが、皇太子としてではなく天皇として政治を行ってるじゃん
北陸宮も、正式な即位ではないとは言え、天皇として宣治を発給した
ただ、(宮が先帝と思っていた)後醍醐帝の行動に呼応して、宣治の発給を廃止して王子の立場に戻っただけ
こちらは譲位を受けたと誤認したという体裁で元に戻」しただけだが、光厳の方は間違いなく、「天皇として」政務を執り行ってる
光厳の在位時期の後醍醐帝は光厳に対抗して独自に宣治を(正式な公文書として)発給することができる状態じゃないので、
後の南北朝期とちがって(ホントは)天下で唯一の天皇という形で政務を行った
光厳が「正式な天皇たる後醍醐の裏で対立する皇統「北朝」の初代扱いされ、正式な皇統譜に載ってないのは明治大正期の政治的理由のみに基づく政治的恣意であって、本当の史実ではない。
南帝だけではなく、廷臣や供奉の武士たちにも官位を追贈してあげてほしい。
廷臣は参議〜内大臣、武士は五位の受領くらいでいいのではないか。
しつこいな。
山賊に官位を追贈してやる必要はない。
廷臣は公卿相当の官位で異論ないが、武士の受領は高過ぎ
英語で言うPretenderという奴だな。
いずれにせよ、「後南朝の天皇」「廷臣」なんていう存在しないものに
追贈することは、本質的に不可能だな。
>>756 きっと、
そいつは足利武士団の末裔だろうなw
明治新政府も薩摩武士や長州武士に爵位乱発してる暇があったら、
南朝旧臣系にもっと爵位を贈呈すべきでしたな。
いや、きちんと探して爵位贈ってるやんか
>>754 南帝の廷臣や供奉たちは南帝から与えられた位階・官職だけで充分だろ
なんで敵対者の子孫からも官位をもらう必要があるんだよ。
>>760 うん、真偽不詳の怪しいヤツも居ただろうにな。
明治維新のときに諡号追贈と遺臣の子孫への叙爵を実現しておくべきだった。
後南朝の後裔については、皇籍復帰は難しいだろうから、賜姓源氏とした上で、
清華家くらいの礼遇をすればよかった。
楠木一族には贈官しているはずだが
ここって、後南朝のその後を研究するスレなのに、
何で南朝と後南朝の話しかしないの?
スレタイも読めない馬鹿しかいないって事?
贈官じゃなくて贈位ですね
楠木正成 贈正一位
楠木正行 贈従二位
楠木正家 贈正四位
楠木正勝 贈正四位
楠木正元 贈従四位
>>764 常識的に考えてネタが続かないだろ
何か新しい成果でもあるなら提供して
>>762 763のいう楠木氏の他、菊池氏なども叙爵されてるだろ。
何の叙爵もなかったみたいな嘘を言うな。
もっとも、菊池氏はホントに子孫なのか確証がないレベルらしいが。
そんな怪しいのでも叙爵しまくった。
後南朝後裔は、信憑性のカケラでもあるようなものは現れず、真底から怪しい有象無象しか見つけられなかったから、
どうにも扱いようがなかったしな。
>>764 後南朝の子孫の、明治期の動向とかは、
後南朝の「その後」の範囲にギリギリで入ってるんじゃないか?
皇統なんてのは消滅しちゃったんだから語りようがないわな。
南朝、後南朝の忠臣の子孫たちの戦国期の動向でも語ればいいじゃないか。
単にお前らが無知で知らないだけだろ?
野長瀬や竹内なんかは生き残ってる。
本宮に楠姓を持つものもいたし、信濃の大鹿の香坂(高坂)、伊予の得能も存続してた。
繰り返すが、山賊に官位を追贈してやる必要はない。
後南朝など山賊と変わらない。
>>769 繰り返すが、お前の意見など聞いてない。興味もない。
>>770 妄想上の「後南朝の天皇」だの、有象無象と変わらん「後南朝の末裔」に
追贈しろだなんだと吠えているのは、ここで暴れている頭のおかしいポエ
マーくらいだろうに。
気違いが興味を持つかどうかなんてことにこそ、誰も興味はない。
自天皇は南朝の皇族じゃなくて鳥羽尊秀だっちゅーのw 山賊なw
>>770 お前みたいな山賊崇拝の異常者の見解は不要。
日本の歴史に一定の影響を残した後南朝を単純に山賊扱いする者は、
趣がない味気ない人間。
南朝はともかく後南朝の歴史への影響なんて、嘉吉で滅んだ赤松氏の再興が許されたぐらいだろ
他にどんな影響を残せたって言うんだよ
後南朝は血統がハッキリせず、皇統かどうかすら怪しいという学者もいる。
それくらい不明瞭な存在。
皇統を自称したという見方もある。
777 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 10:53:11.70
後南朝の末裔には、少なくとも準太政法皇以上の称号を送るべきでございましたな。
明治時代以降であれば、公爵以上の叙爵が必要でございましたな。
あー頭痛くなるな
後南朝の末裔って・・・
伝説ですら戦国時代までしか残ってないのに明治になって南朝系皇族の子孫なんているわけ無いだろ
779 :
転載くん:2014/07/22(火) 15:14:01.63
746 :日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:52:30.91
>>719 >自称天皇ではなく「自ずと天皇」
え?意味わからんこと言い出すなよwどういう文脈で「自ずと」なんだよ?
思いつきで適当なこというのやめてくれないかね
>>721 >自天王と言う言い方がだめなら北山宮でもいい
そういう問題じゃないだろ、話そらすなよ
「自天王」はなぜそういう名をもってるんだよ、説明つけろよ
後南朝が特定の家柄として存在したのなら、末裔がいても自然だと思うが
そもそも後南朝が「特定の家柄」として存在したのかが怪しい。
不特定の山賊の総称だろう
後南朝を山賊呼ばわりしてる者こそ蛮族だろう。
後南朝など存在しない。存在するのは「自称南朝」だけ。
例えば大覚寺統のうち木寺宮の末裔、常盤井宮の末裔というものは存在するし
南朝の末裔だって玉川宮とか小倉宮とか存在する。
しかし、後南朝の末裔は存在しない。後南朝がそもそも存在しないのだから。
男大迹王は血統がハッキリせず、皇統かどうかすら怪しいという学者もいる。
それくらい不明瞭な存在
>>783 オホド王ほ、それ以前との系図関係が不明瞭だが、日本書紀の系図一巻が散逸して残ってないせい、というのもある。
か、より重要なのは、それ以後の系図が残っていて、現皇室に直結してる点。
歴史から消滅して、応仁ごろより後の歴史に影響を残せなかった後南朝との違いは、残らなかった点にある。