【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】

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1日本@名無史さん
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか?
2日本@名無史さん:2012/01/01(日) 20:55:34.99
何をもって正統と判断するのか?
3 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2012/01/01(日) 21:46:55.99
安徳天皇と後鳥羽天皇のどちらが正統かも定まっていないからねぇ
4日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:10:14.34

           ______
          r〃〃〃 f7⌒ろ)
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    く,  Y   ! l」fレト!    /       | /        1
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   /     l   | `¨      /      レ′        |

             真の思考停
    (在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)

   民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
   そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
5日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:07:43.92
>>1
明治天皇が勅裁しているので、この問題は解決しています。
6日本@名無史さん:2012/01/02(月) 10:34:40.46
もともと後嵯峨天皇が亀山天皇を寵愛したことに端を発しているのだが、後深草天皇のどこが気に入らなかったのだろうか?
7日本@名無史さん:2012/01/02(月) 11:12:09.72
だって後深草は御不孝者だし
8日本@名無史さん:2012/01/02(月) 14:19:20.56
>>6
後深草院は幼いころから病弱で、足腰の発育も遅く、長じても右側に傾く身体つきだったらしい。
一方亀山院は健康で聡明だったから、自然と両親の愛情や期待が弟の方に集中したんだとか。
余談ながらこの兄弟、後白河院の五世孫であるが、同時に、
今年の大河ドラマの主人公・平清盛、及びそのライバル・源義朝の五世孫でもある。
9日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:48:15.78
天子摂関御影では、他と比べて一回り小さく描かれてるよね>後深草
10日本@名無史さん:2012/01/02(月) 19:33:38.15
亀山は妹に手を出した鬼畜だろ?
11日本@名無史さん:2012/01/02(月) 22:35:07.56
>>6
秀忠の息子やらそんなん多いな
12日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:52:48.55
花園天皇宸記を読みたいが、よい本ありますか?
13日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:42:47.30
熊沢天皇を愛でる会
1月7日22:00開催
場所:日本史板
14日本@名無史さん:2012/01/07(土) 12:21:53.27
>>6
皇后腹の男子が複数いる場合、兄弟相続される例はよくある。
後嵯峨→亀山の兄弟継承はそれほど問題はない。
後嵯峨が亀山を優遇したと言われるのは、
亀山の皇太子に兄後深草の皇子ではなく弟亀山の皇子が立てられたことから。
しかし、皇太子に立った亀山皇子が皇后腹であったのに対し、
後深草の皇子はすべて身分の低い女官腹であったことから仕方がなかったともいう。
むしろ、後宇多と不和になった西園寺実兼が後深草の妾腹の皇子を担ぎ出して即位させ
自分の娘を中宮に立てたことから皇統が2つに割れた。
15日本@名無史さん:2012/01/07(土) 21:01:05.43
宮内庁では南朝が正統ってことになってるみたいだけど、なんでだっけ?
16日本@名無史さん:2012/01/07(土) 21:13:27.49
>>15
三種の神器
17日本@名無史さん:2012/01/07(土) 21:31:46.09
三種の神器を根拠にすると安徳→後鳥羽の正当性が否定されちゃうのがアレだな
18 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2012/01/07(土) 21:42:20.07
しかも御南朝が神璽を取り返したりもしてたし

まあ元の天皇や上皇、摂関のついた方が正統とされるのかな
19日本@名無史さん:2012/01/07(土) 22:42:57.27
>>18
すぐに奪い返されたじゃないか。それに、三種の神器があっても前天皇の譲位、立太子または治天君の指名が
なければ天皇にはなれない。
20日本@名無史さん:2012/01/09(月) 10:34:17.21
>>10
伊勢斎宮のことかな?増鏡の記述に院との情事があったがかつてはこの院が亀山
とされていたがとはずがたりから実はこの院が後深草だとわかったんだよな。

21日本@名無史さん:2012/01/12(木) 18:27:25.63
22日本@名無史さん:2012/01/13(金) 13:49:32.61
>>20
いや、後深草が関係を結んだ伊勢斎宮とは別の姫宮と亀山院が関係があった。

「増鏡」で亀山上皇が関係を結んだとされるのは異母妹の懌子内親王(五条院)。
美貌の姫宮(後の五条院)のもとへ異母兄亀山上皇が通い、密かに姫宮を産ませ、
乳母に育てさせたとある。

一方、「とはずがたり」で後深草上皇が関係を結んだのが異母妹の元伊勢斎宮、ト子内親王。
二条の仲立ちで関係を結んだがすぐに仲は途絶えたらしい。

後深草も亀山も、それぞれ別々の異母妹と関係を持っていた。
23日本@名無史さん:2012/01/14(土) 16:59:36.23
父の後嵯峨からは有望と思われた亀山も晩年は可愛がっていた自分の子の恒明
を天皇にしようとしたり、息子の後宇多の嫁に手を出したりして大覚寺統にひびを
いれたり有害な存在になったんだよな。
24日本@名無史さん:2012/01/14(土) 17:08:14.16
>>23
恒明親王の母は権門(西園寺家)の出身で、もちろん西園寺家の希望があったからだろう。
後醍醐天皇が立太子できたのは母五辻忠子が亀山の愛妾になったからという説もある。
息子を即位させたい継子の希望によるものだったともされている。

後醍醐天皇が兄二条天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり、
後伏見天皇が父伏見天皇の愛妾を自分の愛妾にしていたり
この時代はそういう話が多い。
25日本@名無史さん:2012/01/15(日) 11:52:44.77
楠木正成、新田義貞は忠臣だからね。南朝は正統。
26日本@名無史さん:2012/01/19(木) 11:46:38.20
神皇正統記で後醍醐をdisり、手紙で後村上を幼稚呼ばわりする北畠親房は逆臣だよね。

江戸時代から昭和初期の政治状況が生んだ価値観だよ。>南朝は正統
27日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:34:20.94
南朝公家で唯一残った北畠阿野もさっさと北朝貴族になって後南朝弾圧
白河・菊池といった南朝方で勢力保持したものも北朝幕府にゴマすり初めて
28日本@名無史さん:2012/02/09(木) 10:23:15.87
>>1
南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか?

単純に長幼の順でいうと持明院統(のちの北朝)。
しかし、正統な荘園(八条院領)承継の流れでいうと大覚寺統(のちの南朝)。
後嵯峨院の意思も、亀山以下の大覚寺統。

しかし、それで納得しない持明院統の後深草上皇が、
幕府に働きかけて「両統迭立」を実現させた、が事実。
29日本@名無史さん:2012/02/09(木) 11:45:06.71
後深草は、亀山の皇太子に世仁(後の後宇多)が指名された時、落胆して出家しようとした。
当時は後嵯峨上皇が生きていたからこの決定は絶対だった。ということで後深草自身には
そこまで強く自身の皇統にこだわりは無かったのが正解。

ではどうして出家も中止され、幕府を巻き込んだ騒動になったのか?
実は後深草に娘を入内させている西園寺家の意向が働いている。
娘の夫が院政を開けるか否かで、自身の生活が天と地ほど違ってくるから。
西園寺はこの時期武家伝奏だから、幕府に泣きつくアイディアを出したのは間違いない。
30日本@名無史さん:2012/02/09(木) 11:56:16.25
後嵯峨上皇の時代が朝廷が最後にきらめいた時だね。
1300年代に入ると荘園の浸食が進んで行く。
後嵯峨がきちんと「亀山に皇位と荘園を継がせる」と
明言していればその後の歴史は大きく変わっただろう。
時として人間を徹底して切り捨てることも必要だ。
31日本@名無史さん:2012/02/09(木) 13:57:49.12
後嵯峨は自分の責任じゃないとは言え簒奪者だから、
あまり強くは言えなかったんじゃないのかなあ。
天皇家の歴史は簒奪者の歴史でもある。
天武、光仁か桓武のどっちか、嵯峨(即位はしてたが事実上簒奪)、
光孝(望んでじゃないらしいが)、一条(これも本人の責任じゃない)……
これだけ長く続けば時々ごたごたがあるのはしょうがないけどね。
32日本@名無史さん:2012/02/09(木) 19:04:18.47
後嵯峨即位を決めたのは鎌倉幕府
後嵯峨が亀山の皇子を皇太子に定めながらも最終的には
幕府の判断にゆだねざるを得ず西園寺実兼が幕府を動かして
後深草の皇子を担ぎ出すと朝廷は何も言えず
33日本@名無史さん:2012/02/09(木) 22:08:33.87
>>28
後嵯峨院の死去後大覚寺統(南朝)の後宇多(91代)まで皇位が行っていましたが、
1275年(建治元年)幕府の意向で、持明院統ののちの伏見(92代天皇)の立太子が決まりました。

このころ両統迭立時は、皇位そのものよりどの派から皇太子が出るか「立太子」の方が重要。
両派とも幕府の支持を得ようと、鎌倉まで競馬まがいの競走をしたらしいです。ww 
34日本@名無史さん:2012/02/10(金) 00:18:02.71
>>29
極めて強いこだわりがあったから、抗議のために尊号返上や出家の意思表示を
したんでしょう?
こだわりがなかったなら、わざわざそんな行動はとらない。
35日本@名無史さん:2012/02/10(金) 13:24:28.47
>>29
後深草が出家しようとしたのは後宇多が皇太子に立った時ではなく
後宇多が即位したとき。
父後嵯峨院政期にはその存在は絶対的で後宇多が皇太子になっても
後深草は何の動きも見せず黙認していた。
父没後、弟の亀山が後宇多に譲位して院政をとる気配を見せると
兄である自分を治天にしないことに異議があるとして
出家の意思を鎌倉幕府に通達、初めてこれに抗議したってこと。
36日本@名無史さん:2012/02/11(土) 08:51:58.36
この辺りの事実関係を整理すると、

1259年後深草(持)強制退位・亀山(大)即位で両統分裂。
後宇多(大)立太子 1268年
後嵯峨院死去 1272年
後宇多(大)即位 1274年
伏見立太子 1275年 ←事実上の両統迭立の始り。
後宇多(大)退位・伏見(持)即位 1287年

持:持明院統のちの北朝
大:大覚寺統のちの南朝 を示す。
37日本@名無史さん:2012/02/21(火) 23:07:38.06
神戸市中央区の風呂谷部落は楠寺で切腹した
楠木正成の遺体に献花し、埋葬した功績により
後醍醐帝より摂津国内の花の専売を認められた由緒ある、部落です。
明治までその特権は続きました。
最後の弾佐衛門を生んだ、住吉部落とは婚姻を結ぶ事の多かった部落です。
38日本@名無史さん:2012/02/25(土) 00:06:02.69
>>28
どっちが正統っていうか南北朝分裂以前には
両統迭立の建前があるんだからどっちも正統でしょ。
どっちも皇位継承権を保持した皇族なんだから。

どっちが正統なのかって話になるのは光厳在位期間と
後醍醐の吉野遷幸以降だけじゃないの?
39日本@名無史さん:2012/02/25(土) 02:24:44.61
>>38
その通りだと思う。
少なくとも光厳天皇在位時と光明天皇即位から後小松天皇までの
南北朝時代までは、その世の天皇は1人だったわけだし、
40日本@名無史さん:2012/02/25(土) 17:10:13.29
そういえば、博多の筥崎八幡宮に亀山上皇像を祀る社ができている
東公園にある像の原型になった木造像で
よみうりランドで公開されていたのを九州国立博物館で修理し
この度上皇と縁の深い場所ということで筥崎八幡宮で祀ることになったらしい
結構デカくて立派でしたわ

中共の力が増大する昨今何かしら思うものがあるな
41日本@名無史さん:2012/02/25(土) 18:49:15.30
顔貌は、南禅寺の法皇像を参考にして作られたと聞いたな
ttp://www.nanzen.net/about_image/rekishi_kameyama.jpg
42日本@名無史さん:2012/02/25(土) 19:42:45.21
朕の命を以て国難に代へん
43日本@名無史さん:2012/02/28(火) 03:32:48.06
>>39
なにいってんだかわからんけど
特に後半へんだろ
44日本@名無史さん:2012/03/02(金) 03:21:26.12
>>43
南北朝時代は南朝と北朝どれぞれに天皇がいて、天皇が2人いる状態
だから、どちらが「正統」とか?と言う議論になるだろうってことだろ。
それ以前は、2つの系統が交互に皇位継承しているにせよ。天皇が
1人しかいないから正統という話にならないと言うことだろう。
45日本@名無史さん:2012/03/02(金) 07:20:45.76
片方がホンモノなら、もう片方はニセモノなんだがね
46日本@名無史さん:2012/03/02(金) 07:25:52.34
天にニ日無く地に二王無し
47日本@名無史さん:2012/03/02(金) 17:53:10.78
>>44
現存する北朝側公家の史料にも「南帝」という書き方があるから
二帝両立という認識でいたんだろう
絶対的にこちらが正統で生涯こちらにお付するという確固たる意志が
あったわけでもないってこと
官僚たちも時と場合により北朝についたり南朝についたりしてるしな
48日本@名無史さん:2012/03/27(火) 02:49:43.49
今の天皇が南朝系だから南朝を正統としたほうが合理的かな
明治維新の時に南朝系に摩り替えられている
薩長土肥の面々は南朝支持ばかり
49日本@名無史さん:2012/03/27(火) 14:39:32.88
>>45
何その高卒単純ガキ思考
50日本@名無史さん:2012/03/27(火) 16:08:15.00
>>49
「天にニ日無く、地にニ帝無し」という言葉は中卒には難しいようだな。
51日本@名無史さん:2012/04/06(金) 22:11:18.82
話しを戻して、
荘園の継承でいうと八条院領の大覚寺統(南朝)、持明院統の長講堂領は後発。
三種の神器・保持でいうと南朝。これも祭政一致の中世社会では、意外と無視できない。

持明院統(北朝)は、幕府の後援を得たのが大きい。
52日本@名無史さん:2012/04/11(水) 19:57:47.90
当時の公家の日記では観応の頃にはもう南朝を朝廷とはみなさなくなっていたよ。
ぶっちゃけ南朝優位とかいっているのは神皇正統記の記事をを都合よく抽出した江戸以降の
国学者連中の仕業だろう。
無理に法則や正当性を定義したがるのは歴史研究の悪しき慣習というべきか。三種の神器も
院の指名も強引にこなして後光厳は即位したけどそれが原因で北から南に離反した人間なんて
公家に1人もいないじゃないか。

53日本@名無史さん:2012/04/13(金) 14:33:54.77
>>52
いや、観応の擾乱の時に足利尊氏が南朝後村上天皇に降伏して
北朝の上皇・天皇・皇太子が全員南朝に連行されてるんだが

それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を
「南帝」と表現しているよ
54日本@名無史さん:2012/04/13(金) 15:39:14.40
>>53
>それ以降も「園太暦」など当時の一級史料で南朝の天皇を「南帝」と表現しているよ
北朝天皇のことをどのように表現しているかで、南帝という表記の価値は大きく変わってくるよ。

もし北朝天皇を北帝などと書いてたのならともかく、
今上とか帝と書いてるのなら、南帝という表記は「正統ならざる地位」という意図を含むことになる。
55日本@名無史さん:2012/04/13(金) 15:55:18.34
>>54
「帝」という言葉自体が天皇を表すってことだよ。

東京は東の京と書くから首都ではない(京都が本当の都)、
みたいな屁理屈だな。
56日本@名無史さん:2012/04/13(金) 16:40:07.87
たとえば。「一天両帝」と記された場面では、南北朝並立というニュアンスで記されているわけで、
北朝正統という意図を読み取るのは、この語句だけからは不可能だ。

だが、南帝という語句に関しては、北朝正統という意図を読み取れないとは言えない。

むしろ、正統ではない天皇が存在していて不快、みたいな意図を読み取る余地すら否定できない。
57日本@名無史さん:2012/04/13(金) 16:47:37.46
南朝が正統です。
58日本@名無史さん:2012/04/13(金) 17:23:20.77
>>56
後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから意味ないだろ。

後醍醐天皇が隠岐に流されていたとき、都の公家たちはこぞって「先帝」と書いた。
で、「先帝」と書いた都の公家たちは後醍醐が帰ってきて
「正統ではない天皇が存在していて不快」と思ったわけか?
そのときの都合でどうにでもなるって話。
逆に、南朝の天皇を将軍や先帝とかかずに現役の帝と書いているのが凄い。
隠岐にいる後醍醐を都の公家は完全に廃帝扱いしてたからな。
59日本@名無史さん:2012/04/13(金) 20:09:33.41
後村上天皇の御製を拝読したてまつれば吉野朝の正統性がわかろうぞ
 四方の海波も静まる印とて三つの宝を身にぞ伝ふる
 高御座帳かかげて橿原の宮の昔もしるき春かな
60日本@名無史さん:2012/04/13(金) 21:43:23.22
歌書よりも軍書に悲し吉野山
61日本@名無史さん:2012/04/14(土) 02:05:40.80
>>58
先帝は先帝
形式上は、隠岐に流されていた間の後醍醐帝は廃帝/先帝で間違いない。
京都に戻って重祚したと解釈せざるを得ない。

後醍醐帝自身は退位した(させられた)事実を無かったことにして、
重祚ではないと強弁したけど、それは実体を伴っていない、いわばウソ。

まあ、公家社会では、あの重祚(名目上は重祚ではない)によって、
後醍醐帝が再び正式の天皇になってるから、「正統ではない天皇が存在していて不快」と思った公家はいないと思う。

>後村上天皇が正統とされたときでも「南帝」だったんだから

幕府が後村上天皇に帰順した際も、公家社会全体が南朝を受け入れたわけじゃないし。
というかむしろ、公家社会としては、京都を支配している方が正統って感覚では。
後村上帝は入京したっけ?
62日本@名無史さん:2012/04/14(土) 02:59:07.48
入京前に足利軍に追い出された>後村上
63日本@名無史さん:2012/04/14(土) 03:05:31.11
>>52-53
北朝公家の南朝への離反は、皇位の正統性よりも自己の官職や所領を巡る争いに由来するから、それはあまり意味がないな。

>>33
競馬騒ぎは正中の変後
64日本@名無史さん:2012/04/14(土) 09:58:32.56
>>59
後村上以下の吉野在住の公家たちが京都に帰りたい和歌を詠んでるから
本音ではもう自分たちの負けでいいと思っていたよ。
65日本@名無史さん:2012/04/14(土) 09:59:47.17
>>64
それは勝って帰るつもりだったんだろ?
それじゃなければ、4回も(結果的には役に立たなかった)京都占領なんてやらないから。
66日本@名無史さん:2012/04/14(土) 10:16:54.37
>>61
北畠親房が元弘の乱の後醍醐同様官位や所領問題のちゃぶ台返しを強行しようとするから
正平一統は失敗した。(そもそも正平一統なんて歴史用語として存在している意味なんかないだろw)
公家社会(もっと言えば寺社勢力)としては京都支配もさることながら崩壊中の荘園支配を支えてくれる事が何よりも大事だろ。
南朝の機構では本所復活の徳政どころか、半済ですら無理だろう。
67日本@名無史さん:2012/04/14(土) 10:22:48.32
>>65
いや詠んでいるのは帰るのが絶望的な状況の時でまさに望郷そのものだから。
正平一統以外の占領は山名、細川など幕府内部の直義派や尊氏死後の権力抗争
ではぶられた連中がしているだけでもう南朝上層部は応仁の乱時に引っ張り出された
後南朝の末裔と変わらんレベルだよ。
68日本@名無史さん:2012/04/14(土) 19:51:35.96
>>64
和歌史方面の研究で、後醍醐・後村上の代には還京を切望して詠んだ歌が多いが、
長慶の代に入ると吉野を都として追認するような歌が現れる、という分析があったな。

君すめばここも雲居のよしの山なれてぞみつる花のさかりを(阿野実為)
69日本@名無史さん:2012/04/14(土) 22:23:54.67
南・北朝、特に南朝の存在意義がよくわかりません。
北朝には大方の公家も従っているし、幕府の後援もあります。南朝との差は歴然です。
それでも南朝は、南北朝合体(1392年)までそれなりの存在意義があったんですよね!?
はたまた「後南朝」なんてのもありました。このあたり、うまく説明できる方お願いします。
70日本@名無史さん:2012/04/14(土) 23:00:56.01
足利兄弟が喧嘩を始めたのがすべての元凶、と言うのは極端だが
喧嘩の原因が荘園の本所の権利回復をどうするかの方針にあることは確実。

蒙古襲来以前から弱肉強食の経済原理がまかり通るのが鎌倉中期の日本の
現実で荘園の所有者が流動化してそれまでの家格などの秩序が崩れだした。
武士でも公家でも庶流でも嫡流に取って代わろうとする下克上が珍しくなくなって
きた。分裂、抗争が当たり前の時代になったのだから担ぐためのシンボルも分裂しだした。
ついでに言うと応仁の乱以降は将軍も分裂したよ。
71日本@名無史さん:2012/04/15(日) 10:13:21.76
>>70
まずは自分たちの利益を尊重してくれる人間を担ごうとするし、
担がれた方も担ぎ手の利益を守ろうとする。

次に担がれた人間に自分たちの利益を守る力が無い時、少々怪しくても
自分たちの意になる人間に挿げ替えようとする。

最後には自分が直接政権を奪取する。

南北朝期は上で言う第二段階だった。
72日本@名無史さん:2012/04/16(月) 06:18:01.06
持明院統と二条派、大覚寺統と京極派の組み合わせなら
面白かっただろうにね。
73日本@名無史さん:2012/04/16(月) 06:20:49.85
「吉野朝の悲歌」が京極派調で詠まれていたら新葉集は日本文学史上に
得意な地位を占めていただろう。
74日本@名無史さん:2012/04/16(月) 13:20:31.52
二条派のほうがオーソドックスかつ優勢だったように大覚寺統の方が
本来有利だったのに・・・なぜこうなった。
権力亡者の後醍醐のせいか、女狂いに走った亀山のせいか、
密教にはまって院政を止めてしまった後宇多のせいか。








75日本@名無史さん:2012/04/16(月) 13:36:58.54
>>74
後二条天皇早世がターニングポイントでしょうな。
後二条の皇子がまだ幼かったために後宇多はやむなく後二条の弟後醍醐を
臨時的に即位させた(→後二条の系統に皇統を返す約束だった)。
しかし、本来大覚寺統の傍系であった後醍醐が持明院統はおろか
自分の兄である後二条の系統も無視してわが子に皇統を伝えようとしたことから
大混乱に陥った。
76日本@名無史さん:2012/04/16(月) 16:18:45.98
大覚寺統の方が有利だったってのは、単なる「従来イメージ」のような気がしなくはない。

むしろ、非主流派ゆえに色々と悪あがきする中で力を付けた気がする。
77日本@名無史さん:2012/04/16(月) 16:33:47.73
>>76
後嵯峨天皇は生前、後深草の系統を断ち切って
亀山を天皇に、その子後宇多を皇太子に定めて死んだので、
この時点では亀山の系統(大覚寺統)が正統だ。

しかし、亀山は西園寺家の后を冷遇したために西園寺家と不仲になった。
起死回生をかけた西園寺実兼が関東申次の座を利用して鎌倉幕府に図り、
後深草の庶子(伏見天皇)を皇太子に立て、自分の娘を伏見天皇の中宮に差し出した。
西園寺実兼の入れ知恵がなければそもそも持明院統は成立しなかった。
78日本@名無史さん:2012/04/16(月) 20:27:03.96
先日、河原町から南下して京都の街中をぶらついていたら、「長講堂」を発見した。
南北朝対立の遠因でもある史跡なんで、妙に感動してしまった。
79日本@名無史さん:2012/04/16(月) 21:12:49.93
>>78
長講堂って、元は今の京都御所にあった筈
京都御所の元になった里内裏の土御門東洞院殿の隣にあったのだが、
土御門東洞院殿が御所として固定化されたために室町時代初期に拡張工事が行われたために立ち退きになった筈。
土御門東洞院殿を御所として固定化したのは、光厳院だと言われているから、いろんな意味で北朝と縁が深い。
80日本@名無史さん:2012/04/17(火) 07:11:07.99
>>79
長講堂がもともとあった場所は六条西洞院だよ
もともとは後白河法皇の院御所六条殿の中に設けられた持仏堂
現在も後白河法皇の念持仏を所有
後白河法皇は六条殿で亡くなっている
豊臣秀吉が洛中改革をした際に現在の寺町通に移転した
土御門東洞院内裏(現在の京都御所)とは全く場所が違う
81日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:24:34.62
亀山院も最後には色ボケして、末子恒明親王を帝にしようとしたからな。
西園寺を宥めるためとはいえ、情けないことだ。
82日本@名無史さん:2012/04/18(水) 22:25:00.14
それも間違い、
1207年の火災で六条にあった長講堂が焼けた後に一時的に土御門東洞院殿の南隣の場所に移転して六条の長講堂が再建された後も当該地区の土地と建物は長講堂の所有だった。
1401年の火災後の土御門東洞院殿の再建の際に足利義満が長講堂から土地を接収して南側に土御門東洞院殿を拡張した。
83日本@名無史さん:2012/04/18(水) 22:25:41.44
>>82>>80へのレスです。
84日本@名無史さん:2012/04/19(木) 07:49:47.61
>>81
晩年に寵愛した若い妃に色狂いして末子を天皇にするなんて
鳥羽上皇(第八皇子を即位させ近衛天皇とする)
後白河上皇(第六皇子を即位させ高倉天皇とする)など大勢いるじゃん
むしろ天皇家のお家芸
85日本@名無史さん:2012/04/19(木) 09:09:18.75
>>84
院政時代になって初めて出てきた例だよね。
上皇になってから生まれた子供は、本来天皇になれないはずなのに。
86日本@名無史さん:2012/04/19(木) 23:35:42.68
>>81,84
そもそも、両統迭立のきっかけを作った後嵯峨自身が。

そして同様の意図を持った亀山・後宇多は意図をくじかれて逼塞する。
大覚寺統の初代である亀山即位の例は、結局は引き継がれず、否定されたわけだよな。
87日本@名無史さん:2012/04/20(金) 06:56:00.83
>>86
後深草と亀山は同母兄弟で、かつ母は中宮だ。
ちょいと亀山の例とは異なるだろう。
88日本@名無史さん:2012/04/20(金) 08:47:53.66
>>86
亀山の母は後深草の母と同じで、後嵯峨晩年の子ではない。
中宮腹に男子が2人以上いた場合、兄弟相続するのは普通だよ。
亀山は弟の系統であったために即位は否定されたというが、そもそも弟の系統が残っている例も多い。

朱雀天皇(兄)・村上天皇(弟)・・・弟村上天皇の系統が残る
後一条天皇(兄)・後朱雀天皇(弟)・・・弟後朱雀天皇の系統が残る
崇徳天皇(兄)・後白河天皇(弟)・・・弟後白河天皇の系統が残る
89日本@名無史さん:2012/04/21(土) 19:39:54.56
>>75
そこが南朝を好きになれない理由の一つだな
後醍醐は後二条の木寺宮家に皇位を譲れば印象が変わってた
90日本@名無史さん:2012/04/21(土) 21:23:27.53
後宇多が後二条亡き後、後醍醐に帝位をまわしたのが大覚寺の運の尽き。
後醍醐が後二条の系統の皇子を養子に取ればまだよかったんだが、
院政を否定した以上この解決策も実行不可能。
突き詰めて言うと、大覚寺統後醍醐流vs持明院+その他大覚寺だったわけで、
それを五分の勝負に持ち込んだ後醍醐を立派と言うべきなのか???
91日本@名無史さん:2012/04/21(土) 23:33:17.84
>>90
後醍醐は武力で既成概念を打ち破った
これまでの天皇家の二朝分裂や兄弟の礼といった従来の枠から飛び出して
新王朝を打ち立てたに近かったんだと思う
自分が建武新王朝初代だから2代目は自分の子が就くで問題ない
まあ、兄の遺児が即位できなかった例というのは後醍醐以外にもあるしね
92日本@名無史さん:2012/04/22(日) 00:34:12.00
>>91
建武という年号を立てたのも、新王朝を意識してるのかもね。
後漢の劉秀も王家の一族だけど傍流でありながら天下を取った。
後醍醐の意識の中に劉秀が居たのは間違いあるまい。
93日本@名無史さん:2012/04/22(日) 01:40:22.43
>>90
後醍醐も後院を設置しているから、いずれ院政を構想していたことは確か。
ただ、建武政権が早期に崩壊したために譲位するタイミングを逃しただけ。
94日本@名無史さん:2012/04/22(日) 01:48:24.99
院政と言うのはあくまでも後継者を定めるのが最大の目的だからね
勿論、実権までを譲り渡すなんて論外。
95日本@名無史さん:2012/04/22(日) 05:32:44.57
>>93
延喜・天暦の時代を理想として生きたのだから、天皇親政を貫きたかったのでは?
96日本@名無史さん:2012/04/22(日) 09:22:32.72
>>95
そもそも延喜・天暦は自己正当化のための主張だと思うけど
97日本@名無史さん:2012/04/22(日) 11:52:49.14
>>96
天皇大権を阻害する摂関を排除する口実だから、
当然に院政も否定することになると思う。
98日本@名無史さん:2012/04/22(日) 12:51:55.49
院政は皇位と天皇家の家督が分裂した状態。
家督掌握者が、意中の親族に皇位だけを譲った状態が院政。
莫大な荘園を抱えていた頃は国家を動かす権力を持っていたが、朝廷の権威が落ち、武家政権に養われるようになるとその権限もコップの中の嵐みたいなものになった。
99日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:02:38.73
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
100日本@名無史さん:2012/05/16(水) 23:47:30.04
>>98
そりゃ違うだろ。
家督は院のほう。
天皇が家督を保持していない状態が院政。
101日本@名無史さん:2012/05/25(金) 23:08:43.25
>>100
>家督は院
>>98も同じこと書いてると思うが?
102日本@名無史さん:2012/06/01(金) 21:17:04.28
103日本@名無史さん:2012/10/14(日) 19:13:01.18
大覚寺統にしても長男筋は後醍醐天皇ではなく、
後醍醐天皇は執拗に彼等に干渉し長男筋を皇位につけないようにした。

だから大覚寺統でも長男の方は北朝方だった。
104日本@名無史さん:2012/10/15(月) 09:22:04.42
>>103
そもそも大覚寺統の始まり亀山天皇は第七皇子だぞ
ちなみに持明院統の始まり後深草天皇は第四皇子だが
どっちも長男系ではない
105日本@名無史さん:2012/10/15(月) 10:46:36.66
>>103
後醍醐天皇の異母兄、後二条天皇の中宮は名門徳大寺家の出身だったが、
不仲のため別居しており、後二条天皇は徳大寺家からの支援を受けられなかった。
後二条天皇の遺児邦良・邦省親王は、典侍五辻宗子との子。
五辻宗子は後醍醐母五辻忠子の姪で、宗子の父は後二条天皇の在位中に死亡、
邦良・邦省親王は外戚の力も弱かった。
106日本@名無史さん:2012/10/15(月) 21:45:17.63
>>105
だが、邦良・邦省親王らは祖父である後宇多上皇の強いバックアップがあったぞ。
その対立で後醍醐帝に敗れたことで力を落とし、失意のうちに衰弱死したとまで...
107日本@名無史さん:2012/10/15(月) 22:48:36.02
>>106
邦良親王はもともと虚弱体質
後宇多は邦良親王を大覚寺統正統と考えていたとも言われるが、
持明院統に対決しうる強い帝王が誕生するならば必ずしも後醍醐を否定していなかった。
後宇多は両統迭立の上限である10年を超えても退位しない後醍醐を咎めることもなく、
皇太子邦良親王(この時期、天皇も皇太子も大覚寺統だった)への攘位を強要することもないまま没している。
108日本@名無史さん:2012/10/16(火) 22:31:42.56
>>107
もうこの頃の後宇多は密教三昧で政治からは遠のいているから
なあ。なにより譲位がいやで討幕運動を起こしたことが後醍醐
の立場を一番良く説明している。
109日本@名無史さん:2012/10/17(水) 10:10:45.50
>>108
後醍醐が討幕活動してたときの皇太子は持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)
邦良親王に譲るのが嫌で討幕志したわけではない(邦良親王はすでに死亡)

日本の歴史上、天皇家が権力闘争して兄系から弟系になったことはいくらでもあるし
後醍醐だけが特殊だったとはいえない
110日本@名無史さん:2012/10/17(水) 21:13:07.47
>>109
邦良だろうが、量仁だろうが、一旦譲位をしたら自己の子孫が皇位を継承する可能性が限りなく低くなると言う点では何ら変わりがない。
111日本@名無史さん:2012/10/17(水) 21:52:02.88
まあ後醍醐は譲位したはずの新田に同行した恒良の皇位をさらっと
否定しているから自分のことしか考えていないかも。
112日本@名無史さん:2012/10/17(水) 23:12:35.01
>>110
我が子継承を優先したという点では歴代すべての天皇がそうだろ
願いがかなったにしろ叶わなかったにしろ
皇統をたがえたという点では(当初予定されていた通りに皇位を継がせなかった)
白河天皇、桓武天皇、天智天皇、後一条天皇・・・たくさんいるぞ
傍系相続など天皇家では当然のことで自分の子に皇位を望まなかった天皇など一人もいなかった
113日本@名無史さん:2012/10/18(木) 17:20:18.18
まあ、そうだな。

しかも、中世には幼少期に即位して、自分の意思に関係なく皇太子を決められてしまった(または譲位させられた)ために、
別の実子を後継者にしようと目論む天皇や治天は多かったよな。
鳥羽上皇(近衛を避けようとした)とかさ。

それが大覚寺統では特に顕著で、ほぼ全員が問題を抱えていたみたいだな。
114日本@名無史さん:2013/01/24(木) 02:30:21.68
だからさ、
「いつの時代もそうだった」みたいな大雑把な括りしたら学問にならんじゃんよ

自分のやりたいように出来るか出来ないかってのは100%か0%じゃなくて
その時代や環境によっていろいろ微妙なあわいが生じるだろ
そのグラデーションの中に差異があるわけで
115日本@名無史さん:2013/01/24(木) 09:10:35.22
>>114
スレの流れ見てる?
「我が子継承を願った後醍醐は特殊で異常な天皇。そのせいで天皇家は分断。
だまって兄の子なり持明院統なりに帝位を譲るのが正常な天皇」
が正しいとはいえねえぞ?
後醍醐以前の持明院・大覚寺の各天皇の熾烈な帝位争いを
無視するのは無知な証拠。
116日本@名無史さん:2013/05/20(月) 15:38:38.72
>>68
ミヤコ(都)の語が面白い。
住めば都は冗談にせよ、ミヤコは天皇のいる空間のはず。
ところが後村上ほかの歌では、都は吉野や賀名生ではなく、明らかに京都を指している。
少なくとも後村上にとって、京都は帰るべき土地であり続けた。

今谷明先生は「中世の天皇は基本的に京都にいるもの」と喝破しておられた。
117日本@名無史さん:2013/05/20(月) 16:02:28.54
>>76
案外、大覚寺には正統性への不安があったのかも知れない。
鎌倉後期の勅撰集は、大覚寺が4、持明院が1だが、後宇多は2回も編ませている。
これは大覚寺統の不安が背景にあったかも知れない。

後光厳が2度も勅撰集を編ませたのも、崇光を押しのけて王位を継いだという不安があったかも…?

まあ二十一代集が新葉集を数に入れないことが何よりも北朝正統論を象徴してると思うのだが。
118日本@名無史さん:2013/05/20(月) 16:10:28.56
>>72-74
おそらく黙殺に近い扱いを受けていたと思われ。
江戸時代まで、京極流和歌は受けが良かったわけではない。
近代になって土岐善麿(哀果)が再評価するようになっても、一部識者の愛好の域を出ない。

「吉野朝の悲歌」とは言っても、後世の我々が勝手に望むような戦いの歌なんか無い。
和歌は、心を落ち着けるもの、神仏に祈るものではあっても、殺戮を賛美するようなものではなかった。

京極派も得意としたのは風景を詠むことで、その点では定家の流れ以外の何者でもなかった。
119日本@名無史さん:2013/05/20(月) 16:25:16.08
>>117
勅撰集の数で正統性への不安を推し量ることなどできないよw
後宇多天皇が和歌への造詣が深かったというだけで…
後嵯峨天皇の遺志が亀山天皇にあったことは大宮院も鎌倉幕府も認めるところで、
関東申次を世襲する西園寺家への配慮から幕府は持明院統の即位を認めたに過ぎない。
当時、鎌倉幕府は両統迭立を保証しており、大きな不安があったとは思えない。
持明院統へのライバル心は常にあっただろうが、
後宇多自身、後深草の后腹内親王を妻にするなど別の融合も見せている。
120日本@名無史さん:2013/05/20(月) 18:08:14.07
>>117-119
大覚寺統が自前の祭祀施設(ってなんじゃらほい)を持たなくて、
新規造営する必要があったとかいうし、
大覚寺統の成立当初には非主流派扱いだったと考えざるを得ないかな

その影響もあってか、建武政権は伝統破壊の新規政策が非常に多い
121日本@名無史さん:2013/05/20(月) 18:36:27.48
>>119
持明院統と大覚寺統の関係は複雑怪奇だよね。
後醍醐皇女が光厳院と結婚していたり。

さすがに勅撰集は天皇の正統性の根拠とするほどのものではなかろうが、
南朝方の和歌が北朝の勅撰集に入れてもらえなかったであろうことも事実であり、
勅撰集の意外な性格が露呈した一件とは言える。

ちなみに、最後の勅撰集(南北合体後の唯一の勅撰集でもある)
『新続古今和歌集』には「後亀山院」の名で収録されており、院号は公認されていた。
長慶院は「よみひとしらず」として収録されていて、
長慶が北朝方にどう認識されていたかの指標とはなるかも。
長慶が長らく即位したかもハッキリしない帝だったことはご存知のとおり。
122日本@名無史さん:2013/05/20(月) 21:42:01.78
>>121
>>117-119 は鎌倉時代後期の話でしょ。南北朝時代の話じゃない。
南北朝時代(後醍醐天皇が吉野に南朝を開いてから南北朝合一まで)には北朝の勅撰集に南朝が入らず
南朝の准勅撰和歌集「新葉和歌集」に北朝の歌が入らないのは当たり前のことで…
(そもそも住む土地柄・距離も離れており、同時に歌会などやっていない)
鎌倉時代には天皇は大覚寺統と持明院統一があっても、廷臣は基本はどちらの天皇にも仕えるので
大覚寺統よりの公家は持明院統天皇の勅撰和歌集に入らないとか(またはその逆とか)はない
123日本@名無史さん:2013/05/20(月) 21:48:57.42
>>120
大覚寺統が設立時に作った自前の祭祀施設というのを聞いたことがないが、
史料を提示してくれるかい?
大覚寺統初代の亀山天皇は後嵯峨天皇の皇子で、後深草天皇の皇太弟に立ってから即位、
祭祀施設を作る必要などなかったはずだが?

亀山法皇や後宇多法皇が大覚寺で院政を取ったことを言っているのかい?
亀山・後宇多天皇は退位後、出家して法皇となり、大覚寺に住んだ。
大覚寺は平安時代に開かれ代々法親王が住職を勤めた門跡寺院。
独自の祭祀施設でもなんでもない。
124日本@名無史さん:2013/05/25(土) 14:52:58.56
古筆を見ていると 後深草院と亀山院では 身体が不健康で色好みと言われる兄後深草院の方が能筆って感じを受ける
写真の掲載数も多いし 子の伏見院が本朝一の能書帝と言われるし
125日本@名無史さん:2013/06/04(火) 01:44:34.05
栄仁親王は、何故天皇になれなかったの?
126日本@名無史さん:2013/06/04(火) 02:51:30.26
すでに現役の天皇と、その実子である皇太子が存在していて、
彼らの反対が通ったからだろ
127日本@名無史さん:2013/06/18(火) 13:51:02.61
岩手県の座敷わらしの宿のご先祖が南朝の公家で後醍醐天皇の側近だった
万里小路藤房の子孫だという話を見たけどどうやって南朝の公家が岩手県で
暮らすことになったかちゃんと読むの忘れた
128日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
南朝を支えたのは名門の小石一族だと聞きました。
子孫の小石さんから直接聞いたのですが本当ですか?
129日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
その小石さんって家ではそういう伝承があってもおかしくない
って程度の話だろ
130日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
なるほど、源平の戦いでも小石一族が源氏を支えて勝ったみたいです。
131日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
(信憑性はともかくとして)
その手の祖先伝承を残してる家は少なくないんじゃないかって事だろうに...

130のレスによって、その家の祖先伝承の信憑性が大幅に低下したな
132日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
宇宙の平和はあの小石一族が守っているのである。
133日本@名無史さん:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN
>>1
134日本@名無史さん:2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN
>>89
貴見のごとく、
木寺宮家が大覚寺統の正統なり!

ところで、戦国時代までなんとか 血脈を伝えてた
木寺宮家を 最終的に断絶させたのは 誰?

某・トンデモ(?)本では、松平氏みたいに書いてあったやうな???
135日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
>>134
だが、すんなりと木寺宮家に皇位を譲り渡すような人柄だったらそもそも倒幕なんて目論むはずがなかったとも言える
136日本@名無史さん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN
南北朝争乱が 現代の我々に 残してくれた

唯一の 恩恵とは ?

答:
    おかげで、少女マンガの傑作 『ガラスの仮面』が 生まれた^^
137日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN
長子優先、親の遺言優先の視点からは、後醍醐は親不孝、兄不孝かも知れない。
しかし平安の昔から、天皇や上皇が親の遺志に反することを平気でやってたのも事実。

南朝正統論て結局、南朝びいきの人が無理矢理こじつけたものでしかないよね。
きわめてプロパガンダ性が強い。
138日本@名無史さん:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN
だって、北畠親房すら、長子相続を正しいとしながら、後嵯峨以降はなかったことにしているし。
139日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:07:14.89
なんでゼロか100かって発想するかね

大覚寺統の論理において長子相続ってのは
相対的な正当性の根拠にはなるってだけで先帝の意志のほうが優先順位は高いだろ
だから別に長子相続が全面否定されてはいないわけで
長子相続が絶対的な正当性の唯一の根拠だったようにいうやつはあほなのか
140日本@名無史さん:2013/12/26(木) 22:26:38.36
まーた北朝狂信者が発狂してるのか
血筋的には北朝の末裔である明治天皇がわざわざ南朝が正統だと宣言したという事の意味すら分かんないのかね
やれやれだぜ
141日本@名無史さん:2013/12/27(金) 09:15:29.82
>>137
持明院統の初代、後深草天皇は第四皇子。
長子ではないよ。
鎌倉幕府の親王将軍となった宗尊親王が第一皇子で後深草の兄だから。
142日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:46:40.47
あげあし取り楽しいかね?w

宗尊親王は確かに生まれた順番しかみなければ長子ってことしかわからんだろ
確かに長子だよ。なんで天皇にならなかったのかよく調べてみ
143日本@名無史さん:2013/12/28(土) 10:17:51.56
>>137>>142
自分の間違いを指摘されると揚げ足取り?
長子優先なら長子である宗尊親王と言っただけ
お前の言っていることが間違いなのであって長子優先ではなく嫡子優先だろ
しかも嫡子は父親の権限で決めることができる
同じ母親から生まれた兄弟であっても兄を廃嫡して弟に家督を譲るなんて
天皇家の歴史ではいくらでもある
よく調べてみ
144日本@名無史さん:2014/01/02(木) 03:26:15.97
だが、肝心の「先帝の遺志」ってのがな。

後嵯峨帝の遺志は明証のあるものはなく、当時から疑う人が少なくなかった

一方で、大覚寺統の諸帝で、末子を次期皇太子にしたいと明言のうえで根回しまでしておきながら、実子によって無視された例は多かった

遺志とやらの優先度が高いのであれば、先帝の遺言を反故にした大覚寺統の諸帝は不実を働いたことになるな
だが、その件で後世の人間から責められたわけではない。

先帝の遺志なんざ、その程度の物なのさ
145日本@名無史さん:2014/01/08(水) 16:20:43.31
>>144
だから、鎌倉幕府は大宮院に聞いてるよね
後深草・亀山両帝の実母であり後嵯峨の中宮であった大宮院が
後嵯峨の遺志は亀山にあったといったので亀山が正統になった

晩年に末子を帝にしようとした噂があるのは亀山だろ
ただしこれを聞いたと言っているのは亀山の末子恒明親王の叔父である西園寺公衡のみだった
女院の発言と親王外戚の発言は一緒にできない
当時院政をしいていた後宇多は亀山から何も聞いておらず反故にされた
146日本@名無史さん:2014/01/09(木) 02:28:53.14
そりゃあ、後二条の子孫に皇位を継承させる方針だったのだから聞いていても反故にするわな>後宇多
147日本@名無史さん:2014/01/11(土) 03:55:17.35
>>145
聞いていなかったとは考えにくい内容の史料も有るぞ
148日本@名無史さん:2014/01/11(土) 06:44:02.33
亀山院自身が、後宇多、伏見両院に話して了解を得たと
いう恒明親王宛書状を残していたのではなかったかな。
149日本@名無史さん:2014/01/16(木) 19:51:21.34
>>148
そういったものは残っていないはず
亀山の死後、後宇多と対立する西園寺公衡・昭訓門院が持明院統伏見上皇に近づき
恒明親王の立坊を条件に後二条の早期退位と富仁親王(花園天皇)の早期即位を了承
持明院統側から恒明親王の立坊を求める書状が幕府に送られたことはある
ただし後宇多がこの件を了承した記録は残ってないはず
150日本@名無史さん:2014/01/17(金) 15:34:55.31
宸翰英華 第一冊
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586902
の43号文書ってのが、148の内容だろ

文書を書き残した亀山院が後宇多の了承を得たと認識していたことはわかる
後宇多が本当に了承したかどうかを確定することはできないだろうがな。
騙してたとか、言葉巧みに誤魔化してたとかの可能性があるし。
151日本@名無史さん:2014/01/21(火) 13:35:17.13
>>150
当時は後二条天皇にまだ皇子がなかったので
後二条の次にはそれより幼い叔父恒明親王をというのはあり得たのだろうね
後宇多といえどもまだ孫が産まれていなかったのだから
弟を皇位に立てよという意見を無下にはできなかった

後二条に皇子があっても亀山がまだ恒明親王立坊にこだわったかは微妙だろう
後深草にすでに皇子がいるのに亀山皇子を立坊させた後嵯峨とは違う
152日本@名無史さん:2014/02/08(土) 14:02:37.24
太平記の現代語訳の文庫本ないなぁ
153日本@名無史さん:2014/03/25(火) 01:10:38.95
後鳥羽を後醍醐と入れ替えてたら少なくとも半世紀以上は続く
朝廷主導の安定政権ができてたと思うわ。後鳥羽の時であれば
むしろ朝廷有利だった。後鳥羽の根回しとか戦争指導がカスで
あっただけで。
後醍醐の時じゃもう手遅れ。
154日本@名無史さん:2014/03/28(金) 22:33:58.23
後醍醐帝前半(倒幕前)には、後醍醐帝のような強いリーダーシップを望む廷臣も少なくなかったが、
後鳥羽帝の頃の朝廷にはいなかっただろ

だから、もっと早期に見捨てられて終わってただけかもしれん。
つまり、承久の乱と大差ない結果に終わっただけで、どっちでもかわらんかったンじゃね。
155日本@名無史さん:2014/04/02(水) 10:34:53.79
>>153
朝廷を要因とするよりも幕府の方が問題ありすぎだろ。
政子の大見得も後醍醐の頃に言ったら、「何言ってんだこいつ。」だろ。

足利、新田に限らず、御内人の安東蓮聖もバックれるなど御家人の大量
反逆にあったのではどうしようもない。
156日本@名無史さん:2014/04/14(月) 01:09:21.70
>>144
観念上の正統性のことをいってるんだよ
もまえのいうような実態があったればこそ大覚寺統は
木寺宮、常盤井宮に分裂してるだろ
157日本@名無史さん:2014/04/15(火) 02:40:48.79
>>156
概念上って言うと、後々まで存続しえた方が、存続した方の祖先が正統

漢王朝の正統を引き継いだと自称する蜀漢より、禅譲を受けたと称した魏の方が実際には正統だったのと同様、
中央を逐われて辺境に落ち延びた時点で亡命政権。

捲土重来して中央政権として復活できたならともかく、最後まで亡命政権に終わった以上、政権としての正統性なんてない。
というより、政権ですらない。
158日本@名無史さん:2014/04/27(日) 02:26:30.87
>>157
おまえが言ってんのは単に勝ったほうが正統っていう薄っぺらい話
そう思ってんなら最初からそう言えばよかったのに。
「概念」も糞もぜんぜん関係ないじゃんw
159日本@名無史さん:2014/04/27(日) 13:47:38.34
正統の基本は「勝てば官軍」だぞ

この「ば」は仮定形ではなく已然形(過去形みたいなもの)であって、「勝ったから官軍」みたいな意味だろ

衰退消滅した亡命政権に正統性を見いだすようなのは、なんらかの自己投影による特殊意見。

北宋南宋の頃の中国人たちが、北方遊牧民の圧迫を受ける自分たちの境遇を蜀漢に投影して作り出した蜀漢正統説と同類


南朝/大覚寺統と同様な形で皇統を逐われた「元」正統なんて、他にも複数あったのに、
大覚寺統以外は全無視する恣意的な視点なんてゴミ同然
160日本@名無史さん:2014/05/04(日) 21:11:09.22
何故か負けた方の南朝が正統だと後の天皇が宣言してしまうのが歴史
勝てば官軍(キリッ
161日本@名無史さん:2014/05/15(木) 00:12:09.27
>>159
違うね。
もまえの言ってることはただの事実認定、
そんなアカラサマな物理条件なら「正統」という観念自体なくて済む。
そうじゃなくて正統とはまさに「勝てば官軍」の逆なんだよ
敗北したにもかかわらずそこで無に帰すことなく残されてしまった
精神的か道義的か文化的か心理的か何らかの不条理感を
救済し説明し納得するためにもちだされる概念が「正統」なんだよ
162日本@名無史さん:2014/05/15(木) 00:25:26.58
正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるものだ。

それに、それらの理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはないしな。

それともなにか?
負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね?
163日本@名無史さん:2014/05/16(金) 01:05:15.98
>正統争いをする連中は常に、自分こそが正統と標榜して、相応の理屈をつけるもの

そうだな

>理屈がどんなに正しいとしても、正しい理屈をつけた側が最後まで勝ち残ることはない

そんな誰でも知ってることをわざわざ書いて、何か反論できてるような空気作り?

>負けた側による自己憐憫の道具、オナヌーのことを正統とでも呼ぶのかね?

そういうのももちろんあるだろうな
164日本@名無史さん:2014/05/16(金) 02:03:01.88
勝ってる側は自分の正統性に理屈をつけることに必死にはならん
負けてるからこそ必死に理屈をこねるもんだ

だから逆説的に、一見して正しそうに見える方が負ける。


勝ってる方は、勝っていることそれ自体が正統性の根拠たりえるから、わざわざ理屈をつけようとまでは考えない。


南朝は、敗者だからこそ理屈にこだわらざるを得なく、
北朝は理屈をこねるまでもなく勝者だったから、自分の正統性を主張するための理屈を作ろうという意欲を持たなかった

後の人間が、両者の理屈を並べて比べたら、北朝側になんの主張も見えないのは当然だな。
だが、その理屈は正統性の根拠にはなりえんのだよ。

理屈と膏薬はどこへでも付く と言ってな、負けて消え去った敗北者であろうとも、その正統性を主張する理屈などいくらでも作れるぜ!
って程度の意味しかないんだよ。

敗者の自己憐憫の産物が、たまたま数百年後に発掘されて再利用されただけといった方がいい。
165日本@名無史さん:2014/09/18(木) 19:36:47.80
多くの武士にとっては武家政権のほうが良いいのだから
朝廷直属の軍隊つくらないかぎり
武家政権側が勝つだろうな
166日本@名無史さん:2015/01/30(金) 00:59:47.01
後醍醐帝が天下とった時に一つに統一しておけばよかった
167日本@名無史さん:2015/01/30(金) 03:01:59.51
>>166
いや、統一しようとしたでしょ
その施策があまり受け入れられずに反感買ってひっくり返されただけ。
168日本@名無史さん:2015/01/30(金) 17:23:09.49
光厳天皇と後村上天皇以降の南朝の天皇を天皇ではなかったことにすればスマートじゃないかな
169日本@名無史さん:2015/01/30(金) 19:11:09.58
後醍醐天皇は光厳上皇の姉と結婚
光厳上皇は後醍醐天皇の皇女と結婚

で血統統一しようとした、後醍醐天皇は
170日本@名無史さん:2015/01/30(金) 20:04:47.99
>>168
後醍醐帝が廃位され島流しされてた期間の天皇として実働してた光厳天皇を外すなんて論外で、
南朝正統論の色眼鏡が反映されてるだけだぞ

光厳を外すなら古代の弘文天皇とかも外さないと片手落ちだ
171日本@名無史さん:2015/01/30(金) 20:07:36.48
それと、後村上天皇はごく短期間だけとは言え京都を制圧して崇光天皇たちを正解から放逐し吉野へ拉致したわけで、
この短期間に関して、天皇としての実働を認めるべきだとは思うわけよ。
それ以外の期間には天皇とは認められないけどな。
172日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:28:26.03
>>170
光厳を外さないとなると後醍醐を無理やり重祚したことにしないといけなくなる
もしくは建武の新政を無視するか

やはり重祚した事実がない以上は光厳排除が妥当かなと思った
173日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:35:52.94
それ以外の天皇については後小松が南朝の譲位を受けて改めて即位したわけではない以上、その皇位は誰から受け継いだものかというと
後光厳、後円融、崇光、光明とさかのぼるわけだよね

この流れが正統だと個人的に思う

弘文の即位は否定してもどちらでもいいや
174日本@名無史さん:2015/01/30(金) 23:40:58.31
そしておそらく後醍醐が光明に渡した神器は本物だろうからね
神器のありかはどうでもいいが、後醍醐が光明に譲位したとするのが妥当

問題は
後醍醐→光厳→後醍醐→光明
後醍醐→光明
後醍醐→光厳→空位→光明
この中では光厳をなかったことにするのがいいかなと
175日本@名無史さん:2015/01/31(土) 00:04:31.21
>>172
事実上は重祚じゃん、重祚じゃないと自称してるだけで。
176日本@名無史さん:2015/01/31(土) 00:12:35.41
全部読まんとレスしてた、すまん

>>174
朝廷を動かしてた実態としては後醍醐重祚以外は全て実態に合わない
幕府と戦って敗れた後醍醐は、幕府軍を恐れる朝廷の要人たちによって廃位されて遠流に処され、
当時皇太子だった光厳が即位して朝廷を主導したが、まもなく後醍醐派の勝利によって光厳廃位となったのが実態
この際に、正式な手続きをせず、自分は退位していなかったと強弁して光厳即位の事実そのものを無かったことにしたところから周辺事情が混沌と化していったんだろ

光厳が朝廷を主導していた時期に後醍醐が帝位を保持し得ていなかった事実を無視してはいけないよ。と宮内庁には言いたい
177日本@名無史さん:2015/01/31(土) 22:58:49.27
>>172
重祚した事実を無理やり否定しようとしても意味ないぞ。
178日本@名無史さん:2015/01/31(土) 23:08:08.19
でも重祚の手続きはしてるの?
179日本@名無史さん:2015/02/01(日) 00:09:47.91
>>178
手続きはしてないだろ
光厳時代の公家とかを政界追放したりもしてるし、かなり無道な人
180日本@名無史さん:2015/02/01(日) 00:29:22.44
(鎌倉)幕府軍に負けて遠流に処された際には、退位の手続きをさせられていなかった可能性なんて無いだろ

それを、何の手続きも踏まずに、(自分が幕府軍に負けてから今までの人事は)全部無効と宣言して一方的に反故にしたんだろ
181日本@名無史さん:2015/02/16(月) 00:05:17.95
>>180
そのせいで公家社会も敵に回したからな
182日本@名無史さん:2015/02/17(火) 13:53:52.31
>>181
後醍醐、後村上の頃には摂関家や西園寺家が兄弟で
それぞれ南朝と北朝に分かれるなど拮抗していた時期もある
公家社会を敵に回していたわけではない
183日本@名無史さん:2015/02/17(火) 14:30:55.53
>>182
吉野側の公家は少数派だろ
南北両朝に別れた公家はいくつもあるけど、それは各家の継承争いが原因の場合が多いので、
北朝で居場所がなくてしかたなく吉野に行った人の方が多いわけ。

一家一門をあげて吉野側についた公家は、かなり少ない。
ましてや、朝廷の実務を動かす官人で吉野に行った人なんてほとんどいない。

公家社会を動かしていた人々の大多数は北朝支持だったわけで。(といっても、その基準が在京か亡命政府かという点に求められた場合のが多いんだろうけど)


少なくとも、後醍醐の政権運営が多くの公家に批判されたのは間違いない。
南朝の重鎮たる北畠親房も政権批判を書物として残したぐらいに多く、後醍醐に対する批判があった。
184日本@名無史さん:2015/02/17(火) 15:21:50.68
>>183
そんなことはない
摂家筆頭の近衛家や西園寺家では
当代の関白が後醍醐天皇に従って南朝入りしている

北朝方の公家だって光厳上皇や足利尊氏を褒めてはいない
園太暦を読むとどちらが都に取って代わるか分からない状況下で
都に残った公家たちが南朝を「南帝」と呼びその後も敬意を表していたことが分かる
親房は後醍醐天皇批判をしているわけではない
185日本@名無史さん:2015/02/17(火) 18:50:18.74
え、親房は後醍醐天皇の政策の多くに対して批判と愚痴を書き残したじゃん
186日本@名無史さん:2015/02/17(火) 22:10:22.32
親房は原理主義者で頭が固く、そのせいで3上皇+萩原前坊を拉致したのに講和に失敗した。
これほど南朝に有利な交渉材料は無かったのに、西園寺寧子を担がれて全部パー。
187日本@名無史さん:2015/02/17(火) 22:29:40.55
開祖の後醍醐帝の方がずっと頭が堅い原理主義じゃん
188日本@名無史さん:2015/02/17(火) 22:38:46.00
>>187
少なくとも観応年間には開祖の後醍醐は死んでいた。
親房が現実路線に転換しても何の問題も無かった。

後醍醐は皇位を子孫が独占継承することと引換に、
政治を武家に委ねていれば時代に合った安定した社会が作れただろう。
189日本@名無史さん:2015/02/18(水) 12:04:17.52
>>188
足利の娘を中宮に立てて武家におもねる必要があっただろうがなあ
尊氏は娘の鶴王を崇光天皇の中宮に立てようとしていた
娘が若死にして実現しなかったが朝廷に文句言って
死後に崇光院后として従一位とと頼子という諱を与えてもらった
公家が「無位の人にいきなり従一位は先例がない」と言ってもお構いなし
190日本@名無史さん
鎌倉幕府→大姫入内工作
足利幕府→鶴王入内工作
徳川幕府→和子入内工作

幕府の創設者は娘の入内を指向するようです。