>>1 信長は、「天下布武」で武家を騙して味方に付ける一方、実際には頼朝以来の武家政治を廃して、
平清盛同様、天皇家と織田家の公武合体による中央集権的律令官僚政治の復活を目指した。
三官(関白、太政大臣、征夷大将軍)推認への返答保留は、それで解ける。
それを察知した光秀が全国の武家の意向を汲んで、本能寺で信長を殺害した。
秀吉は清盛や信長を反面教師として、武家政治の継続を約束したため、全国の武家が喜んで付いて来た。
別に秀吉が人たらしだった訳ではない。
家康はさらに征夷大将軍として「関東に幕府を開く」ことで、
頼朝(反朝廷・武家政治)の後継者をアピールすることで、秀吉以上に全国の武家の支持を集め、
江戸幕府の基盤を確かなものにした。
関西に幕府を開かなかったのは、結局京都に幕府を開いて朝廷に取り込まれた足利氏の二の舞を防ぐため。
>光秀が全国の武家の意向を汲んで
これ本当だったら武家の人達相当薄情やで
天子の首をはねるつもりで推認蹴ったのか。
やっべえ、信長も逆賊…
そう言えば、安土城には天皇の行幸御殿があったとか…
秀吉も足利義昭の養子になろうとして断られ、近衛家の養子になって関白(太閤)に…
ミイラ取りがミイラになったわけだから、家康が天下を取れたのも敵失だったとは…
>>42 そんなことしたら信長も殺られる。
清盛が娘・健礼門院徳子の孫を安徳天皇としたように、あくまでも天皇家と姻戚関係を結び、
外祖父として国家権力を握り、中央集権国家を復活させようとした。
関白・太政大臣を受けると、「天下布武」が詐欺だったことがバレるから、推認を保留したのだ。
誠仁親王の五男を養子にし、三官推認へ応答保留し、武家でありながら征夷大将軍として幕府も開かなかったことで、
自ら公家(貴族=天皇側近)となって、平安時代の藤原一族のように、天皇家外戚の織田一族だけが
地方の富を搾り取り、美味い汁を吸える中央集権国家を目指していると一部の武家から見抜かれてしまった。
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。」安国寺恵瓊
これにより、頼朝以来自ら血を流して地方分権を欲しい儘にしてきた武家の反感を買い、本能寺の変に一直線!
信長がもはや武家の利益代表ではなくなったことに気付き、
公家になるなんて「話が違う!」と怒れる側近光秀は無防備な主君信長を…
>>45 うぬがどれほど骨を折ったというのじゃ、この金柑頭っ!!
ガツンッ!ドカンッ!(光秀の頭を欄干に打ち付ける信長)
それでさらにキンカンに輝きが増したのであった
>>45 武家の利益代表=室町幕府の救世主として颯爽と世に現れ、自分たちの力を借りて大出世しながら、
いざ国家権力を握るとなれば、自分たちを見限って、自分だけ公家になって既得権益の仲間入りしようとする信長。
民主党や橋下市長の豹変ぶりと似ているね。
正親町天皇の譲位や暦の変更など、信長は朝廷にも圧力を掛けていた
上(朝廷)も下(武家)も敵に回し、本能寺で側近に討たれたのは必然だったのかも
変後は「よくぞ、やった光秀!」と上も下も歓喜したことは想像に難くない
秀吉という一枚上手の同僚がいたという不運さえなければ、
光秀は義昭を呼び戻し室町幕府を再興し、大老として英雄となっていたかも…