1 :
日本@名無史さん:
どうなってたかな?
2 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 09:33:32.40
足利もスバルの車ばかりになってた
3 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 09:35:13.33
足利尊氏が将軍で新田義貞が管領とか?
もしくはその逆?
足利尊氏と新田義貞は鎌倉幕府の御家人であり、
執権北条氏と姻戚関係を持つ足利は特別待遇だったとはいえ、両者は同僚だった。
どっちかがどっちかの下に入るのが嫌だったからこその合戦だろうに。
4 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 10:38:45.40
だから組んだらどうだったかの話なんだが。
そもそも有り得ないとか寒い。
5 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 11:14:34.14
>>4 組んでも子か孫の代で謀反だろ
だいたい、足利一門の斯波氏ですら鎌倉幕府では同僚の御家人だったとして
ときの斯波氏当主が足利家管領となって尊氏の部下になることを拒み、
やむなく当主の子が義詮の代に管領になってる
6 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 17:25:31.28
義包(義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。
そもそも足利一族は、新田一族に対して同族意識はない
>>5 鎌倉幕府では同僚の御家人だったのは北条も一緒だろ・・・
その北条には尻尾振ってたんじゃないのか・・・
8 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 22:22:09.83
大内みたいにはならんのかな
9 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 23:04:27.30
解散コールは1:55から
12.19 街頭演説、国民の怒りと危機管理への不安
http://www.youtube.com/watch?v=6PQf9GvXWB0 国民に罵声を浴びせられ駅前交番に避難するテレビアカヒの取材班 12/19正午 新橋駅前
http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/111219_124643_ed.jpg ,:' .l .::;',. :::;/..://:: /,':/ ', l、 .i ヽ
. ,' ..::| .::;',' :;:','フ'7フ''7/ ',.ト',_|, , ',.',
,' .::::::!'''l/!:;'/ /'゙ / '! ゙;:|:、.|、| 'l
. ,'. .:::::::{ l'.l/ 、_ _,. 'l/',|.';|
l :::::::::::';、ヾ  ̄ `‐-‐'/! ';. '
. ! :::::::::::/ `‐、 ゝ |'゙ |
| ::::::::/ \ 、_, _.,.,_ ノ::: ! 野田政権が早く終わりますように
|::::/. _rl`': 、_ ///;ト,゙;:::::./
.. `´ /\\ `i;┬:////゙l゙l ヾ/
,.:く::::::::`:、\ 〉l゙:l / !.|
. /:.:.:.:\:.:.:.:.`:、ソ/:.:| | | 19日の報道ステーション
/.:.:.:.:.:.:.:.:.:\:.:.:.:У:.:;l
http://livedoor.blogimg.jp/kingcurtis/imgs/e/d/ed2dbc66.jpg
10 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 00:37:53.00
>>7 一番北条に尻尾振ってたのは足利だがな
鎌倉時代の足利歴代当主の正室はほとんど北条氏の娘で
足利氏はかなり北条の血が濃い
尊氏正室も執権の妹
11 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 07:36:52.94
義貞はどこの娘だい?
12 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 13:27:07.02
北陸一の守護大名になってた。
13 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 18:32:16.92
それはないな、義貞が北陸に落ちていったのは尊氏との抗争の末だから。
14 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 21:56:29.51
岩松氏の成立過程とか鎌倉にいた義貞を追い出したのとか足利にはいい印象ないな
15 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 22:12:49.68
天童(里見系新田氏)の家系を乗っとったのも最上(斯波系足利氏)だな
業が深すぎるぞ足利一門
16 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 05:13:53.44
尊氏にとっては新田は外様になるの?それとも一門になるのかな?一応系譜じゃあ同族なんだけど、どういうことになんの?新田が心底足利と連携しますとなると、織田と徳川みたいな関係かな?それとも朝倉浅井?
17 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 06:55:48.66
蘆名と猪苗代かな
18 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 07:54:11.19
外様かどうかは関ヶ原前後に徳川に従属していたかどうか
一門かどうかとかとは別の話
19 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 08:22:26.15
失敗国家
名無しでいいよ:2011/08/15(月) 23:20:15.53 ID:2fed4jwtO
FNS歌謡祭やHEY!×3の制作会社
株式会社CELL
東京都千代田区麹町2―2―4麹町YTビル
前バリ・REN4・野田らに政治献金した後藤組のフロント企業
メディアトゥエンテイワン
東京都千代田区麹町2―2―4麹町YTビル
>>16 佐竹と武田も同じ関係
でも完全に他人の関係
22 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 09:32:53.22
新田系といえども当初から足利に付いた山名とか後に幕府中枢に入った大館とか居るしね。
でも、本家としては鎌倉陥落直後に臣従を判断しなけりゃ、あとは同盟する機会は難しいかな。
内乱起こした糞政権
足利幕府
24 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:08:06.84
建武の新政に首を捻った足利と新田の両者は、鎌倉で起きた北条時行の乱鎮圧の口実で鎌倉に向かった。
北条を駆逐して足利と新田は鎌倉から動かない。やられたと思った後醍醐天皇は護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
って流れを考えた。
新田って自前の軍は集められてどれくらいなのかな。6000くらい?
25 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:38:25.47
>>24 都からの征討軍を返り討ちにして、そのあとは足利+新田連合軍vs北畠奥州軍か。
如何にも先鋒を買った義貞が討ち死にしそうな展開だな。
26 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 15:19:11.71
その場合の先鋒は足利の武将じゃないかな?
27 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 17:15:29.56
>>24 つーか、中先代の乱当時、護良は鎌倉に幽閉中だから
>護良親王を筆頭に足利新田追討軍を派兵した。
ってのはないなあ。
じゃあ、誰が総大将よ?となると適任を思いつかないが。
28 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 18:08:07.30
よっぽどのバカじゃない限り、足利と新田がベッタリだったら護良をずっと近くに置いておいたでしょ。
てか足利と新田って元々仲悪いの?
29 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 21:30:16.12
>>27 中先代の乱のときの官軍総大将は一応、成良親王でしょ。
足利直義が後醍醐天皇の命により成良親王を旗印として関東下向していた。
直義は中先代の乱のときに幽閉中の護良親王を殺害しているが、
成良親王は都へ連れ帰っている。
>>28 よく知らんが新田荘と足利荘が隣同士でいざこざが絶えなかったとか・・・
31 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 10:57:45.84
総相 川端達夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
法相 平岡秀夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
文科相 中川正春 在日韓国人法的地位向上議員連盟
厚労相 小宮山洋子 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟 自身の選挙区の太平建設と談合
国家戦略相 古川元久 パチンコ協会政治アドバイザー
韓国人から賄賂を貰っている野田
韓国人の集いに参加している野田
野田は日本人じゃないだろ
32 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 11:34:51.32
尊氏と義貞自体最初はふぅんって程度の認識なんじゃね?
しかし義貞は勝算があって立ち上がったの?
33 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 12:12:54.86
>>32 義貞は鎌倉を攻める際、鎌倉から逃げてきた
尊氏の嫡男千寿王を保護してるからな。
同僚意識程度はあっただろう。
34 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 13:36:08.74
隠遁癖のある尊氏と優柔不断の義貞が手を組めば……
現実主義の義直と積極決断の脇坂の二人で新政権樹立か反乱軍組織して兄に謀叛ちゃうか?
35 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 13:54:21.10
36 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 15:21:01.73
37 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 16:54:18.52
正季「わしも仲間に入れてくれへん?」
38 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 17:24:43.18
早めに尊氏に屈服してれば
関東管領くらいにはなれたかな?
39 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 19:53:04.51
北条時代は心の中で二人とも
「いつか北条をつぶす」って思ってて、そのきっかけが欲しかったんだろう。後醍醐を後ろ盾につけて両者は倒幕へ動き出した。
足利は兵を万単位で繰り出せるから六波羅攻めちゃえ!負けても九州逃げちゃえ!って出来ただろうけど、義貞の場合は新田系集めてもようやく6000くらいでしょ?
それに六波羅陥落したから新田についた武将がたくさんいたわけで、義貞が立ち上がった時は自前の軍のみの算段でしょ?もしかしたら裏で足利と新田が通じ合ってて、新田の鎌倉攻めを六波羅云々関係なく支援していたのでは?
40 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 20:06:10.33
無論、新田足利間でそれなりの連携はあったし事前準備もあったんじゃないかな。
そうでなければ越後勢などあんな早急に駆けつけられると思えんし、千寿王の合流もスムーズ過ぎるし。
そのへんの調整を誰がどう付けてたかは興味深いが。岩松とか船田かな。
41 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 20:48:28.97
10段階評価
足利尊氏
武力 7
政治 6
知力 4
43 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 23:56:42.62
何だかんだで足利と新田は談合があったって見解でいいって事かな?
たしかに幕府を倒すには六波羅と鎌倉を同時に叩かないと戦乱は収まらないし、新田が軍を挙げたのもタイミング良すぎだしね。
仮に足利系が加わらなかったとしたら…新田軍だけで鎌倉落とせたかな?もしかしたら尊氏と義貞が鎌倉をはさみうちにするって案もあったのかも。だけど新田だけで幕府倒しちゃったから後日揉めることにみたいな…
44 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 10:32:13.76
>>43 足利尊氏はわずか4歳の嫡男千寿王(後の義詮)が
鎌倉幕府を倒したとか無茶言い出すしな。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼすまでは多くの武士たちと同盟関係を結んでいたが、
鎌倉幕府滅亡後は自分ひとりで戦功を独り占めしようとして
ボイコットにあった気がする。
45 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 03:33:53.10
正直、北条家の勢力ってなんでこんなに弱かったの?
多くの所領を一族で独占してて収入も多かったし、多くの守護を兼ねてたのに。
後醍醐が敵になっても、それこそ持明院統の皇族を立てて朝敵でないと言うことは北条家にもできそうなものだけれど?
(それこそ当時の将軍である守邦親王を押し立てて戦うとか。)
46 :
日本@名無史さん:2011/12/27(火) 05:11:12.12
源氏の協力あってこその幕府だからなぁ
48 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 02:22:22.31
我らは源氏
49 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 20:56:59.86
実際のところ、源氏の我等が平氏の北条を討つという感覚が、当時の足利新田にどれだけあったかね。
正統化の根拠にはなりうるだろうけど。
治承寿永だって源平入り混じっての勢力争いってのが実相だし。
50 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 06:52:16.87
もうこのころになれば源氏も平氏も関係ないんじゃないのかな?ただ北条の執権政治を転覆させたいだけでしょう。実際尊氏も六波羅倒した後シラネだったんでしょ?同族の新田に根回しして鎌倉攻めてよって言ったかもしれん。
なぜ新田が率先して兵をあげたのか?が俺にはわからないが。
51 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 01:07:31.25
むしろ、南北朝時代になってからのほうが、やたらと何々の嫡流というのが幅をきかせる時代になったんじゃないかな。
新田も普通にいえば随分と没落してしまった旧家にすぎないのに、桓武平氏の北条はもとより、
弟の家系の足利よりも嫡流だと考えるからこそ骨肉の争いになったわけだ。
実際には足利は頼朝とも北条とも縁戚を重ねて鎌倉時代には有力者に成り上がっていたのだが。
52 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 01:14:57.66
(続き)
もっとも、そんな没落旧家の新田から義貞という傑物が出てきた一方で、足利のお坊ちゃま尊氏がまったく無能だったせいで
南北朝の争乱が泥沼化してしまったとみることもできる。
53 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 16:55:19.65
義貞が北陸で死ななきゃどうなるかわからんね
54 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 17:01:26.72
「新田から義貞という傑物が出てきた一方で」
え?
55 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 18:38:04.94
あれだけ出来れば十分傑物。
竜頭蛇尾の典型だから、もう一花咲かせて欲しかったとは思うが。
56 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 19:25:07.43
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作していた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ 09.3
57 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:13:50.82
北畠はなんで義貞嫌いなの?
58 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 00:42:39.66
北畠親房は、一般には貴族意識で武家全般を低く見ていたといわれているが、
義貞の場合は、最期が余りにあっけない犬死だったからガッカリ感が半端なかったことも加わったのではないだろうか。
それに北畠親房の思想は中世仏教的なもので、藤原氏や村上源氏(北畠など)の血統が栄えたのも功徳の高さ
ゆえというもの。
『神皇正統記』のトーンからは、武家ごときが高位高官にあずかったりしたのが分不相応だったがゆえに、
あっけない最期を遂げたと解釈されたのだろうなあと想像される。
しかも、義貞が尊氏よりも悪運が尽きるのが早かったのは、そもそも新田のほうが足利の末族にすぎないからだ
という解釈にもつながったのかもしれない。そこは少なくとも当家同士にとっては不正確な情報なのだが、
お公家さんからみれば末端のどうでもよい話、だったのだろう。
59 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 20:42:22.55
民主党党員名簿 (党員資格/代表選選挙人名簿) ※ 党外秘
1. 青木大姫
2. 秋山慶姫
3. 新井正煕
4. 金村成勲
5. 木下勲鍋
6. 佐井明博
7. 豊田檀君
8. 本山舜臣
1. 安藤重根
2. 池田青天
3. 金子佐鎮
4. 金山淑恵
5. 木子奉昌
6. 田山明雲
7. 平山明河 流石反日朝鮮人だらけの政党なだけはあるなw野田も韓国人疑惑があるくらいだし
60 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 05:22:39.32
尊氏は足利の世を作るために北条を倒したんだか分からん人だな。
結局武家の世をというならもっと新田とうまくやってればこんなに乱世にはなってないだろうに。そうではなく、ある程度力を持ってしまった新田は邪魔に見えたんだろうか。
中先代で新田が鎌倉行ってたらどうしたかね。
61 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:18:14.55
鎌倉攻略が上手く行き過ぎたことが新田足利の不幸の始まりではあるね
62 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 23:03:37.35
後醍醐が義貞に征夷大将軍を与えればよかったんじゃね?
尊氏はルーピー鳩山みたいに優柔不断だからなあ
64 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 15:50:18.22
直義までもが被害者に
尊氏は担がれた神輿
66 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:24:43.75
新田が屈伏して山名のように従えば
有力守護大名として生き残れたかもね
それ以外では手を組むってありえないでしょ
67 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 06:18:46.64
大内と新田
68 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 19:31:02.29
問題はどこで屈服するかって話であって。
69 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:20:22.82
70 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 01:12:09.89
村上氏
71 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 04:29:50.66
新田宗家は、守護国も、国司任用経験もない一地方豪族。
足利は泰氏までは順調に「将軍家御門葉」「北条得宗家との婚姻による縁故」で守護、国司任用を受けて、国内各地に所領を増やしてきた、門閥。
足利が、血統では兄筋というだけで、生母もちがう異母兄弟の新田を同族として見るわけもなく、他の武士団でさえも、そこは見誤らないはず。
経済的に豊かでなく、鎌倉北条氏に冷遇されてきたからこそ、猪武者として先陣を切り、手柄をたてて後醍醐天皇から恩賞をあずかろうとしたんだろうな。
72 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 15:35:07.26
なんで足利って万単位で兵動かせるのになかなか謀叛の兵を挙げなかったの?
北条はその数倍動かせるから
74 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 05:23:51.68
あっさり六波羅陥落したし、鎌倉攻めも分倍河原と極楽寺坂くらいで後はスンナリだから北条弱いんでない?
>>72 その足利の勢力が鎌倉幕府の恩恵によるものだから
鎌倉存続より滅亡の方が望ましいと思わなきゃ動かないだろう
76 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 15:36:32.76
最初は畠山貰ったり北条様々だもん
77 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 16:14:30.76
兄筋なんて関係ないよ。
そんなこといったら、足利家、新田家ともに
それぞれ長男が家督を継承したわけではない。
新田家のほうでは、山名家や里見家は分家だけど、新田宗家よりも兄筋だし、
足利家のほうでも、細川家、畠山家は分家だけど、足利宗家よりも兄筋だし。
78 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 07:08:24.85
斯波家もそうだったな。
ただ新田氏の場合、兄筋ということよりも、足利初代の義康が平治の乱の前に早世してしまったのに対して、
新田初代の義重が非常に長命だったから、鎌倉幕府草創期には新田義重が源氏の長老格だったということがあったんだろう。
そのため足利はおろか、娘婿・義平の弟だった頼朝に対しても若僧扱いしようとして、そのことが鎌倉期に冷遇される始まりとなったともいえる。
79 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 13:12:09.69
政義のバカン
80 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 16:59:26.58
>>77 そこは論旨からいえば掘り下げて語るポイントではない。
同族だから新田と足利が一緒に連携して…というような
話に対して言っているだけだから、わざわざ例をあげて
説明しなくてもわかった上で、おはなししてるんだお。
新田と足利の初代は、それぞれの母親が国司クラスの受領層の娘で
ほぼ同格の出自。ただし、その父の義国は、義重と同居して
いたから、義国の心の中では、義重が跡継ぎと考えていたと思う。
81 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 20:06:38.02
>>77 なんで兄筋云々の話に脱線するのか意味が分からない。それこそ無関係な話だろ。
新田義貞って本当に尊氏のライバルの地位にいたのかね
戦もたいして強くないし、源氏といっても傍流の傍流だし
83 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 13:35:43.19
義康は当初義国の代理として鳥羽院に参向したのだから、義康が嫡子でしょ。出世も義重より断然早いし。
84 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 15:36:02.83
ライバルにさせられた
85 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 15:46:34.05
血縁は足利も新田もどっちもどっちでしょ
足利義兼は伯父新田義重の庇護を受けて育ったくらいだし
ただし義兼は頼朝挙兵に際して新田より先にいち早く頼朝に臣従、頼朝の信任を得て、
頼朝の妻北条政子の妹時子を妻とするよう命じられ頼朝の義弟となることに成功した
この先例により足利は鎌倉時代を通じて北条執権家の親戚として発展
足利氏歴代当主が北条氏の正室を娶っていたために鎌倉幕府御家人の中でも別格扱いだった
86 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 19:00:35.35
源氏同士仲良くしようぜ
87 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 20:20:43.03
船田義昌あるいは船田家の後裔がどうなったか詳しい人教えてくりゃれ
88 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 04:35:15.42
荘園の大きさからいえば、義康な足利荘より、新田荘が大きく、荘園の形成に、源義国、義重ら親子が共に腐心したことが知られている。たしか義重を嫡子として扱っていたという研究者の論文が、いくつかあるはずだが、論文の詳細はわすれた。すまぬ。
義康は藤姓足利氏との所領を巡る緊張関係を優位にするため、中央に出仕して官位をあげて、権威で支配権を握ろうとしたと記憶している。
89 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 23:17:12.56
たしか足利荘も領有していたのは半分だけじゃなかったか。
後の半分は、籐姓足利氏のものだったはず。
新田荘って、「空閑の地」と言われていて、
平安末期には浅間山の噴火で荒れ果てていたので、
開発しなければ使えない土地だったと言われてるんだけど。
荘園の大きさで比較するなら、
まずは新田・足利ともに、本領以外に土地がない、
という前提になると思うのだけど?
因みに、新田氏は新田荘以外に、
八幡荘(高崎市の山名)辺りも所領だったようだね。
そもそも、初期は新田・足利が
別の一族という意識があったのかな?
義康が死ぬまでは、
都の義康
開発領主の義重
という図式だったのかも知れない。
91 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:25:56.92
意外と義興・義宗がさっさと帰参したら許されそうな気がしないでもない。
92 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 20:20:46.90
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職、武庫川で一族滅亡
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
93 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 20:25:59.71
■元弘の変(1331〜1333年)当時の室町幕府支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(足利一族、幕府執事、守護職)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(足利一族、管領家、守護職)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(足利一族、奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆 )の屋敷
・中条一族(足利被官、守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷
・石橋一族(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の屋敷
94 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 21:04:46.52
足利が新皇、新田が摂関とかは?
95 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 22:11:50.52
新田義貞は最強!
長男の義顕が非業の死を遂げた、翌年に金ヶ崎城奪還は、その証拠。
その後、子供の時の親友集めて物見に行って死んだのは、言わずもがな。
オレがそう認めているんだから嘘じゃない。
二刀流で日本の項羽とも称された武人。
義家、義朝、義経の源氏の強さを見事に受け継いでいた人。
尊氏とは正反対の、源氏の中の源氏と、なんで、こんなに、オレがエキサイトするんだw
とにかく義貞の悪口は許さん!人が良すぎたのが、唯一の。。。
でたらめであってもそうでなくても、江戸時代では新田の代表が徳川宗家で、足利の代表が喜連川ということでよろしいですかな?
>>97 徳川宗家は一応、新田とは別家を興した得川氏の子孫であって
新田氏とは違うということにしてたんじゃなかったかな
新田義貞を祖先としてあがめるということもしてないしね
新田も足利も好きなので
戦ってほしくないのだが
101 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 22:52:26.33
義貞の鎌倉攻めが成功したことが、逆に新田家の滅亡につながったんだな。
歴史の皮肉だ。
102 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2012/08/16(木) 12:29:08.62
清盛をみて思ったが、源氏と平氏で婚姻関係を結んで同盟を結べなかったのか
とは思う
103 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 14:06:41.56
婚姻関係を結んでいたにも関わらず、まったく関係改善や抑止になってない例もあるけどね。
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか)
>>6 それって今川が勝手に言ってるだけじゃねーのか?
105 :
名無しさん@恐縮です:2012/09/04(火) 06:50:33.19
>>23 キチガイがおるw
内乱くらいどの政権でも起こるわw
106 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 07:40:16.69
107 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 07:42:35.73
義家の母親は平直方の娘
109 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 04:49:08.67
新田は足利が六波羅を攻めてるって知ったのは、自らが出立してからでしょ?仮に談合で尊氏と義貞が出立する日を示し合わせてたとして、六波羅攻略失敗したらどうしてたのかな。新田軍は史実通り膨れ上がってた?
それとも多摩川渡れなかったかな?
110 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 16:24:46.83
たぶん尊氏は義貞に千寿王を向かわせたのは足利と新田が一緒になって北条を倒しましたってアピールしたかったんじゃあないの?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。
しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。
111 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 06:43:33.40
>>102 受領で院近臣かつ財産家の武士、平正盛の娘(平忠盛の姉)と、
源義家の嫡子、源義忠が結婚しており、源氏内でさらに力をもつことを恐れた、義家の同母弟の新羅三郎義光が、
兄の義綱の犯行に見せかけて、義忠を暗殺したため、伊勢平氏と河内源氏の共栄はなくなった。
忠盛の忠の字は、姉婿である源義忠が烏帽子親だった可能性を示す。
義忠の子孫は、のちに義家流源氏の家督となった、為義にはつかず、平家とともに行動したことからも、源氏内部での対立の深さを示す。
平氏の側の問題より、源氏一族内部の内訌が問題だった。
112 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 18:31:54.74
新田だけで鎌倉は落とせないが、関東の源氏が動いたって事で鎌倉方には動揺させる効果はあったんじゃないか?
それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。
113 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 22:07:29.95
所説あるが、千寿王は何処かに潜伏していたところ、新田方が思わぬ大軍勢に膨れあがった形勢をキャッチした腹心に連れられて
新田方に合流した、あるいは鎌倉陥落後に押っ取り刀で細川さん兄弟に連れられてやってきた、というあたりがリアリティがありそうに思う
114 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 22:09:48.34
所説→諸説
細川さん兄弟→細川三兄弟
115 :
日本@名無史さん:2012/10/19(金) 11:53:18.08
>>112 鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより
関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。
叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、
新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。
>>115 鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の
足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を
横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の
小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響
できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。
千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は
殺されている。
117 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 04:29:15.41
よく分からんが鎌倉を三方から攻めた時、軍を割いたのは義貞の独断なのかな?足利方は義貞の命令通り、すなわち鎌倉攻めの大将として認めて従ってたのかな?
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。
118 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 14:08:27.45
三方を任されたのが、義貞本人と大館、堀口という新田直系だから現場の指揮権は義貞にあったんだろう。
それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。
鎌倉攻めに参加した武士たちの多くがが戦功を記した軍忠状を足利に提出した
ことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。
指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるの
も仕方がない。
120 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 15:49:31.34
だな。
121 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 16:15:57.99
で、鎌倉を出たあと、結局一度も鎌倉にも上野国にも戻ることなく討死。悲しいのう。
122 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 15:42:18.86
150騎だけで鎌倉倒してたらどんな名将にも劣らぬ名声を手に入れられたかもね
123 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 00:03:25.01
まさか尊氏は無位無冠の新田が鎌倉にいても人望は集められず、いずれ鎌倉で戦った武将は足利になびく事まで予想して、新田を鎌倉攻めに立たせたとか?まさかねぇ
124 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 23:48:59.96
大族の足利のことだ、新田以外にも関東の諸将に声掛けしてたんじゃないか。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。
125 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 10:13:38.78
邪馬台国は当然、九州!
畿内説の人は、なぜ、巻向から九州の土器が出てこないかという重要な
ぽいんとをスルーしてるね。
それは巻向は古代出雲王国の都だったからだよ。
詳しくは「大和朝廷成立の謎」という本に書いてあるよ。
126 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:39:53.82
尊氏は鎌倉方を六波羅に向かわせないための時間つぶしとして新田を鎌倉攻めにと思ったんじゃないか?そしたら鎌倉落とされちゃってさあ大変となった。
新田は足利と手を取り合って天皇政治を盛り立てようとしたんだが、足利が新田ネガティヴキャンペーンを開始しておかしくなった。
127 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 02:12:41.73
義貞が尊氏に鎌倉攻めの恩賞を頼めば良かったのか
128 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 09:21:43.84
>>127 義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ
129 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 08:21:14.63
後醍醐と護良のリンジの差
130 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 09:26:45.61
わきやよしすけ
あしかがただよし
くすのきまさすえ
この三者が三奉行
あしかがたかうじが将軍
にったよしさだが副将軍
くすのきまさしげ
きたばたけあきいえ
が二大老
でおけ
新田義重の時代からずっと手は組んでたんだよ。
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで…
132 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 01:24:29.90
そもそも仲が悪かったら新田に千寿王なんか預けないしな(笑)
北条時代は新田氏は無位無官だったけど、新田系も全部無位無官だったの?
133 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 10:50:08.77
足利の尊氏、直義兄弟も、もともと「仲が悪かった」から分裂抗争に発展したわけでもなかろう。
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。
手を組むと言っても勢力のでかさを考えたら新田が足利の傘下に入るようなものになっちまう。
135 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 21:19:25.42
>>133 堀口初代が何故か伊具北条と婚姻に成功して代々官位得ている
あと岩松が持ってなかったっけ
136 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 08:36:23.11
>>125 邪馬台国は当然近畿辺りにあった
邪馬台は当時ヤマトに近い発音だったことくらいわかれよ
ヤマタイと読むのは現代読みであって当時の音ではない
137 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 17:07:23.77
岩松が官位持ってて義貞が無官だったの??
岩松は義貞を操ってたのかな
庶流でも嫡流の支配から逃れようとするのはもう珍しくない時代だから。
義貞の時代になるともうどこが本家かワガンネ状態にまでなってたから
義貞が下手に一発成功してしまったからますます足利の傘下に入りにくくなった
政義って基地外だね
140 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 23:48:15.45
岩松を呼べ
船田ノ入道
142 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 11:23:46.85
尊氏「鎌倉へ参陣の許可を!」
天皇
@「鎌倉を落としたのは新田義貞だから義貞を行かせよう」
A「お前だけだと何するかわかんねから軍監に義貞(脇屋でも可)を付けよう」
B「鎌倉に源氏はアカン!正成!」
このどれかだったら歴史は大きく変わってたよね。
>>132 鎌倉時代は足利氏も無位無官だろう
ただし足利は代々北条家から正室を迎え北条執権家の姻戚であったため家格は高かった
足利が有力御家人だったのは北条の恩顧の賜物だがその北条を攻め滅ぼしちゃったから
(尊氏の正室もまた北条氏であり足利全将軍に北条の血は流れているが)
145 :
日本@名無史さん:2013/03/20(水) 09:27:25.87
足利義氏 正四位下
新田氏にしたら足利に及ばないとは言え、貧乏所帯からかなりの所領と播磨守まで拝領したわけだから
わざわざ足利の傘下に入って所領を安堵してもらおうとは思わなんだのだろうな
上手く欲で釣ってますよ
×播磨守 ○播磨介
148 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 23:51:25.66
149 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 00:00:48.44
新田宗家とはいっても没落寸前だったから。
庶流が力を持っていてもおかしくない
150 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 16:17:52.18
新田は代々政治音痴というか世渡り下手が多いから
特に初代義重と四代目政義が致命的だった
151 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 16:24:47.99
規模が違いすぎて、手を組むというより新田が吸収されちまう
>>151 それはそれで良かったかもよ
なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある
153 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 19:06:30.57
後醍醐のもとに集まったのは一発逆転を狙う連中だらけだけどね
組んで天下穫っても共存共栄はないだろ。必ずお互い争う
建武の新政って民主党政権みたいだな
幕府の閉塞感にうんざりした諸勢力の支持を受けて成立したのに、実務能力や利害調整能力がさっぱり
で、期待はすぐ失望に変わり分裂、内ゲバ
3年で崩壊するところまでそっくり
156 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 22:52:12.40
>>155 歴史は繰り返すだな
後醍醐帝も学問だけなら英明と名高かったのに
どうしてこうなった。
157 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 00:26:54.86
時流を読み違えたんだよ
管総理と谷垣代表時代に、大連立してそれなりに実績作って、選挙制度も変えたりすればまた違った結果になったかもしれぬ
新田さんが夢見ちゃったと言うけど、鎌倉攻めの勲功第一等の人が武者所長官を拝辞できないでしょ
西園寺か、泰家の逮捕の時に新田だけ現れなかったので内通を疑われてるのにさ
新田義貞は木曽義仲と結構かぶる
政治に疎くて、治天の君にうまく利用されちゃった人
義貞は後醍醐天皇に弓引くところまではいかなかったけど
161 :
忍法帖【Lv=22,xxxPT】(1+0:5) :2013/10/16(水) 16:03:57.15
これか?
滝村の万松寺本尊の台座に、「慈応山万松寺本尊 永享十二年 松平和泉守源信光」とあり、これは、信光三十七歳のときとされている。
また。岩津妙心寺願文には、「源氏の武運をして永代尽くる期無からしめんと欲す。−−− 沙弥信光敬白」とある。
このように三河へ来住してからも、言い伝えとして源姓を表現しているのである。
伊勢氏に仕える前から和泉守だったんだな、出自の怪しい乞食僧の息子とは思えんな
162 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 16:09:35.77
どっちかの勢力が、より上を支えたんじゃね。近畿東国みたいに。
アホは勘違いするけど。
新田が足利の下で満足していれば丸く収まった気が
政氏以来そうだったんだからさ
血筋的には足利氏祖の義康と新田氏祖の義重兄弟は元々どっちが格上、或いは源義国系の嫡流に近い立場だったの?
いずれにしても鎌倉幕府末期には外様御家人中最大勢力になってた足利一門が、冷遇され没落しきっていた新田一門を同格と見なせる訳も無く、共に生きるには新田が臣従する以外の道は無かったろうね。
まぁ新田が自らを足利の庶流と認める事ができれば、或いは鎌倉を攻め滅ぼした名声で斯波氏を抑えて足利一門の筆頭の地位を狙えたかもしれない。
166 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 11:37:35.75
もともと尊氏の対抗馬だったのは護良親王で、義貞が当て馬に浮上したのはその後。
武者所頭人も尊氏の私的な警察権とバッティングするポジションだから、そこから受けるべきではないが、
武家で足利兄弟以外第1位の勲功を得た人間がその地位を拝辞することは政治的に困難でしょ。
赤松さんみたいになっちゃう。
武者所はともかく、所領は新田一族ぜひとも欲しいだろうしね。上野、越後、播磨は新田氏的には満額に近い恩賞だったわけで、
これを守る「内圧」が生じる
尊氏が中先代の乱を鎮圧する際に新田所領に手を付けた際に「私も所領安堵して下さい」と願い出られないでしょ。
建武政権の要人が。結局、義貞は積極的に尊氏と対立したわけではなく、義重‐義兼以来の友好関係を重視しつつ行動するつもりが、
尊氏のような例外的ポジションにおられず、巻き込まれてしまってる側面のほうが強いんだよね。
168 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 14:53:27.71
南北朝直後の尊氏も御輿に担がれてる感が否めないな。
高師直亡き後の反直義派の総帥に祭り上げられ対立
そもそも鎌倉に反目する時点で、どこまでが尊氏の本意だったのか疑わしいところはある。
名門のボンボンとしてはそこまで大事にしたくなかったけど、家中の突き上げにあって、じゃあお前らの判断に従うよって感じだったんだろう。
幕府を開いてから弟に政事の一切を任せてしまったところにも、最後まで後醍醐天皇へ未練たらたらだった所にも
尊氏がイケイケ状態になってる一門に対し、どこか冷めている感じが否めない。
170 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:45:58.77
それ以後、ひしと御謀反のことを思し召し定めて、上杉兵庫入道(憲房)を使者として、まず吉良上総禅門(貞義)に相談された。
「今まで、まだかまだかと思っておりました。たいへんめでたいことです。」と、お返事申し上げた。その後、ほかの人々にもご相談された。
このことは、関東をお発ちになった時から内々に上杉兵庫入道(憲房)が申し勧めていたようである。家時・貞氏(尊氏の祖父と父親)、この両御所の御造意を、
どうも殿(尊氏)は上杉だけに仰せ聞かせていたらしい。そのために、上杉はことさら骨を折って河原合戦で討死した。
これは、今の上杉中務入道(上杉朝宗(禅助)。『難太平記』が執筆された当時は関東管領だった)の祖父である。
>>167-169 「足利尊氏のすべて」読むと
尊氏て主体性もって行動してるのか、それとも回りに流されただけなのか
よく分からん複雑な男て印象だった
172 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 17:30:26.13
時に、南に正成あり、西に円心あり。くわうるに、四夷蜂の如く起こりて、東夷(北条)を窺う。
このとき、尊氏は東夷の命に随って上洛し、官軍の勝ちに乗るを見るも、なおも両端を相窺う処、
名越尾張守高家、戦場に生命を堕すの後、ようやく義兵を挙ぐ。高家、このときに当たりて、死せずんば、
あに尊氏、ひとり立ちて強敵に当たらんや。
173 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 00:17:12.06
義貞が政治力ないってことだけど、戦事についてはそれなりの大将としての器はあったんでしょ?じゃなかったら北陸落ちまでに暗殺されてると思うんだが。
174 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 02:28:09.56
政治力というのは本人の資質だけでなく環境や経験や人脈も大きい。安倍首相も一回目はあれだけぐだぐだだったのに二回目は別人みたいになっているし。
その意味で、足利氏と違い代々、鎌倉や京都の中央政界とはおよそ無縁だっただろう新田義貞がいきなり大出世してしまったのだから、
政治力については資質云々以前の問題だっただろう。
逆に言えば、義貞に突出した資質がなかったら、とてもあそこまでの活躍ができる位置にそもそもいなかった。
175 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 12:48:16.67
>>165 初期は新田氏のほうが優勢でしょう?
足利家は、実質的に新田氏の管轄下だったから。
まあ、これは、足利義康が早死、
新田義重が長く生きたのが影響しているが。
176 :
日本@名無史さん:2013/10/22(火) 13:47:58.99
義康死後、息子達の動向は不明だろ
本当に庇護を受けていたのかよ
177 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 14:50:25.18
足利と新田は領地が隣接していること
義重の娘が足利義清(義康の長男)の妻になっていること
義康死亡時、義康の子はみな若年であること
藤姓足利氏という共通の敵の存在などから、
程度は不明ではあるものの新田は足利を後見していたとみるのが自然
178 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 09:31:15.98
経済力軍事力政治力で新田など足元にも及ばない、義兼の母方は無視か?
京生まれ京育ちが、北関東などに行くわけねーだろ
京生まれ京育ちが下向する例はいくらでもあるよ
ましてや足利は本拠地が北関東、しかも係争地なんだから
180 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 17:04:55.22
母方の本拠地、母親の叔父、兄弟をはじめ、国人等の家来衆がうじゃうじゃいた三河をスルーして、わざわざ北関東まで行くわけねーだろw
東海道を下れば必ず三河を通るんだからよ
しかも三河は京に近い立地だ
なんだただの三河厨か
相手して損した
182 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 19:17:02.10
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移したとみられる
嘘ばっかついてやがるな
都合よく考えやがって
183 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 20:02:33.52
矢田郷(矢田義清)も広沢郷(広沢義実=義清子)も義清と婚姻関係が
あるとされる山名義範の本拠、山名郷の南隣だね。
184 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 21:08:47.56
源氏雌伏の25年、北関東に義清義兼がいた記録等は一切なし
、
186 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 21:35:37.83
>>184 義兼は母系があれだから兎も角、義清が三河にいたという証拠はあるの?
義仲が挙兵後上野国多胡郡に入ったのは父祖の縁を求めてということが
主であるにしても、そこが傘下又は同盟者である義清の根拠地であり兵站
その他に便があるからだと思うんだけど
187 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 12:19:13.13
三河の熱田大宮司家や頼政が保護していたんだろう
範頼の事例ををみても、三河の熱田大宮司家は面倒見がいいから
仲家と違って養子入りしなかったが、違和感ないわなw
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→矢田義清
・源頼光→源頼国(美濃守)→源頼綱(三河入道)→源仲政 →源頼政→矢田義清
189 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:10:40.10
下野に、細川氏仁木氏戸賀崎氏ゆかりが全くないのも不思議だよな
本当に関東からきたのかよ
関東から来たのなら、死ねば関東にも何らかの供養塔なりありそうなもんだがな
管領家として成り上がっても一切無視だ
義兼でなく、あくまでも義清の孫なんだからよ
家来待遇の零細御家人だったからと、簡単に話が済まされてしまうわな
191 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 12:23:09.01
コンダクター:三河の熱田大宮司家
■源義朝
生母:由良御前
・源頼朝;伊豆に流刑、三河佑範(由良御の兄弟)が侍従を一人付けてやり、毎月使者を送る、安達盛長は三河の大宮司家の郎党・
・源希義:駿河国で匿っていた?藤原範忠(由良御の兄弟)が捕らえ平家に突き出す、息の源希望は三河国吉良の所領から初代土佐吉良氏に
・源義門:生母は由良御前か?詳細不明
生母:池田宿の遊女
・源範頼:京で密かに養育、同じ藤原南家の藤原範季を養父させ、遠江で育つ、室は安達盛長と比企尼長女の娘
生母:常盤御前
・源義経;熱田神宮で藤原範忠(由良御の兄)立会いのもと元服、室は比企尼次女の娘、娘が源有綱(源頼政の孫)の室、三河の浄瑠璃伝説
・源義円:室は慶範法師(三河の熱田大宮司家、愛智郡郡司)の娘
・阿野全成:愛知氏は愛智郡に住んだ子孫の頼為から始まる
■源義康
生母;由良御前の姉妹(実父は藤原範忠(由良御前の兄))
・足利義兼:三河で養育か?三河に母親の所領あり(源義康との婚姻の化粧料)
生母;不明
・矢田義清:藤原南家と近い源頼政の保護下に入り、三河で養育か?
・源義長;詳細不明
・源義房;詳細不明
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼(三河守)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→矢田義清
・源頼光→源頼国(美濃守)→源頼綱(三河入道)→源仲政 →源頼政→矢田義清
193 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 18:14:36.25
三河スレでやれよ。何でここでやんだよ
基地外はスルーで
195 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 20:47:57.57
スレタイに沿った素晴らしいレスだと、ボキは思うな
段々、北関東などどーでも良くなってきた
京から徒歩1日圏内(30キロ)の華やかな人間模様に比べて、地味で陳腐だからね
197 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 22:10:26.16
>>195 ×30キロ
○130キロ
参考
京都〜名古屋(笑) 直線距離約100
京都〜西三河 直線距離130キロ
京の動向が、すぐ伝わり、程よく離れた立地と言えるわな
198 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 22:36:23.42
源頼朝、足利義兼と三河の熱田大宮司家
■藤原実範(三河国司)
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原成季(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄領主)
・他多数
@藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →A
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当)
A藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
・藤原範忠(北面武士、熱田大宮司、室は美福門院女房上総)→野田清季(三河国設楽郡野田城主、野田大宮司)
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、河国星野荘荘司) →B
・藤原範雅(北面武士、熱田大宮司)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進)
・娘(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人)
B・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司) →B
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫)
・藤原憲朝(八条院判官、駿河守、初代千秋氏)→藤原信綱(八條院判官代)
・藤原信雅(高松院蔵人)
199 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 22:39:45.37
源頼朝、足利義兼と三河の熱田大宮司家
■藤原実範(三河国司)
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原季綱(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄領主)
・他多数
@藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →A
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当)
A藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
・藤原範忠(北面武士、熱田大宮司、室は美福門院女房上総)→野田清季(三河国設楽郡野田城主、野田大宮司)
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、河国星野荘荘司) →B
・藤原範雅(北面武士、熱田大宮司)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進)
・女(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人)
・他多数
B藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司) →B
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫)
・藤原憲朝(八条院判官、駿河守、初代千秋氏)→藤原信綱(八條院判官代)
・藤原信雅(高松院蔵人)
200 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 19:18:14.66
■源頼朝(☆印)・足利義兼(★印)と三河の熱田大宮司家(藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
藤原実範
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原季綱(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(後に八条院領)領主)
・他多数
@藤原季兼
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →Aへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当)
A藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、熱田大宮司、室は美福門院女房上総) →Bへ
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Cへ
・藤原範雅(後白河院上北面、熱田大宮司)
・祐範(三河法橋祐範、三河国滝山寺層、頼朝支援者)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)
・他多数
B藤原範忠
・藤原忠季(刑部丞、蔵人)→藤原忠兼(備中守)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏)
・野田清季(野田二郎大宮司、三河国野田城主)→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺僧)
★女→足利義兼(八条院蔵人)
・他
201 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 19:18:55.25
C藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、尾張国海東荘地頭、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))
・藤原信綱(駿河守)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・他
足利義清の戦死後、義兼は義清母をかなり丁重に扱ったようだけれど
その割には義清の子孫は家来扱いでいまいちパッとしないのはなんでだろう?
203 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 02:08:30.64
義氏が三河守護になる前から三河にいて、根をはっていたからでつ
家来と言うより別行動でつね、だから細川氏などは動向がよくわかっていない7
細川仁木戸賀崎のうち、被官待遇が明白なのは仁木氏のみ
205 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 09:12:52.51
新田が兄、足利が弟だろ。
○に一つ引きが新田、○に二つ引きが足利。家紋な。
だから家格は同じ。強いて言えば、本当は新田が上だろ。
ただし、実力は足利だったろうけどな。そもそも足利市と新田町って
20キロくらいしか離れてないじゃん。
両者はこたつの上で手を組んでたよ。下では蹴飛ばし合ってたと思うが・・・
206 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 14:26:41.94
今川貞世
「義兼は源為朝の子供、義康が引き取った」(難太平記)
足利尊氏
「源為朝は、当家の祖神」(梅松論)
一門だけでなく尊氏本人からも、本当新田とは無関係と思われていたようですな
207 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 15:31:13.64
里見は長男で大新田とも呼ばれた。
斯波も長男で別家足利を称していた。
208 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 22:41:55.11
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
209 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 22:50:57.08
碧海荘
平安末期〜室町期に見える荘園名三河国碧海郡のうち矢作【やはぎ】川中流の沖積低地で,豊田市南部の旧上郷町から岡崎市西・南部の旧矢作町・六ツ美村に比定される
三河国所出の犬頭糸について記した「兵範記」仁安3年7月6日条に「近年以後三条女御々領碧海庄立券之中」とあり,犬頭糸60勾を年貢とした三条女御とは鳥羽天皇女房で斎宮研子母の参議藤原家政女とみられ
鳥羽院政期の寄進地系院領荘園の一例寄進者は不明であるが,あるいは藤原氏系熱田大宮司一族か荘名は郡郷名によるものであろう
承久の乱後足利義氏が地頭となり(瀧山寺文書/岡崎市史6),子泰氏・孫家氏(斯波氏祖)を相続し,鎌倉期を通じて斯波氏が地頭職を保持したとみられる
禅僧義堂周信の詩の序に「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」とある(空華集/大日料7‐13)
領家職は,永仁3年8月日の碧海荘米配分状案では熊野社領で,占部・中・村高・下青野・宇禰部・薬師寺・橋良(柱)・津々針(筒針)・下渡・長瀬・宿石神・小針・榑戸(暮戸)・南小(尾)崎・牧内・
上戸・大友の17郷から御供米409石5斗が納入されていた(紀伊続風土記附録十四本宮社家二階堂蔵/鎌遺18898)
他方元弘3年の内蔵寮領等目録には「碧海庄犬頭糸七十七両・用途二百文……持明院中納言家知行之」とあり,これは本家職か(宮内庁書陵部所蔵文書)
室町期にはさらに領有関係は錯綜する年月日未詳の観勝寺寺領目録に宣政門院(後醍醐皇女懐子,光厳後宮)寄進地として碧海荘内上戸・中曽禰(中園)・牧内・市摩・本一色が見え(大覚寺文書上)
建武4年5月13日に松殿(中山)家領として「碧海庄三木・今一色」が安堵されている(堤文書/岡崎市史6)
その後嘉吉元年11月には近江葛川明王院領とみえ,享徳2年9月15日に「碧海庄領家方」が同院領で,他方地頭代官島田参河守の名が見えるので(国会図書館蔵明王院文書/葛川明王院史料),それ以前に下地中分が行われていた
この地頭方が寛正4年に宗成喝食(斯波松王丸)へ「助成之所領」として将軍義政から与えられた「三河国近江庄」で(蔭涼軒日録寛正4年12月20日条など),それまでは将軍料所ということになる
荘内には前出の各郷のほかに,浄土真宗本願寺派の絵像裏書類に見える中之郷・赤渋・和田・牧御堂・中島・矢作・渡刈郷があった
/\___/\
/ / ヽ ::: \
| (●), 、(●)、 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, | < ま〜た始まった
| ,;‐=‐ヽ .:::::| \_______
\ `ニニ´ .:::/
/`ー‐--‐‐―´´\
212 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 09:58:07.98
一体何に触発されて・・・というか何を食って
頭、おかしくなったてしまったのだろうか?
213 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 16:07:01.84
義康と義重は異母兄弟だし、しかも義康は京武者
新田や足利荘にイマイチ冷淡だよな
一方
斯波寛義(松王丸)がもらった所領、助成の地とは隠居する地であるが、1250年代から200年以上たっても、斯波氏にとって碧海荘が特別な地と考えられていた事がよくわかる
宗家
義国→義康(京武者)→義兼(京武者)→義氏(祖母の地である三河に本拠を移す)
新田と比較して、北関東にしっかりと土着してないわな
214 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 16:18:35.34
斯波氏
家氏→宗家→宗氏→高経→義将(三河国永源寺創建)
家氏→宗家→宗氏→高経→義種→満種→持種→義敏→義寛
細川氏
義季→義俊→俊氏→公頼→頼春→頼之
松平氏とやら
親氏→泰親→信光→親忠→長親→信忠→清康→広忠→家康
宗家と対照的というしかない
217 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 21:12:10.21
218 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 07:38:59.93
>新田は足利を後見していたとみるのが自然
足利義兼の叔父叔母
父方
新田 義重(九条院判官代、左衛門尉、木工助、大炊助)
終了〜
219 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 07:53:07.32
母方
■母親が祖父藤原季範の娘として
・藤原範忠(北面武士、熱田大宮司、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司)
・藤原範雅(北面武士、熱田大宮司)
・藤原範綱
・藤原範智(大学助)
・三河佑範(三河国滝山寺、園城寺)
・粟田口長暹(三河国滝山寺、仁和寺)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進)
■母親が実父藤原範忠の娘として
・藤原忠季(刑部丞、蔵人)
・野田清季(野田二郎大宮司、三河国野田城主)→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(室は足利義兼の娘)
・藤原範高(熱田大宮司)
・藤原能季(相模守)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺、仁和寺)
・任暁(仁和寺)
220 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 08:10:03.20
訂正
母方
■母親が祖父藤原季範の娘として
・藤原範忠(後白河院上北面、熱田大宮司、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司)
・藤原範雅(後白河院上北面、熱田大宮司)
・藤原範綱(大学助)
・藤原範智
・三河佑範(三河国滝山寺、園城寺)
・粟田口長暹(三河国滝山寺、仁和寺)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
■母親が実父藤原範忠の娘として
・藤原忠季(刑部丞、蔵人)
・野田清季(野田二郎大宮司、三河国野田城主)→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(室は足利義兼の娘)
・藤原範高(熱田大宮司)
・藤原能季(相模守)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺、仁和寺)
新田開発
222 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 21:33:57.08
223 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 22:22:19.48
熱田大宮司
1114年〜 藤原季範
1137年〜 藤原範雅
1154年 足利義兼生まれる
1156年〜 藤原範忠(母の実父)
1158年〜 野田清季(母の実兄)
1161年〜 藤原範雅(母の実父の弟)
1171年〜 藤原範忠(母の実父)
1181年〜 藤原範雅(母の実父の弟)
1185年〜 藤原範経←源頼朝の後押し
1199年 足利義兼死去する
1200年〜 藤原忠兼
源氏雌伏の1170年〜1180年あたりに大宮司代理だったとして、北関東からやってきたのかい?
224 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:40:25.82
225 :
日本@名無史さん:2014/05/18(日) 01:05:01.94
新田恵利に見えた
226 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 20:36:28.31
227 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 21:16:44.83
マルチうざい
228 :
日本@名無史さん:
この時代の皇族、貴族って結構有能なの多いで
大覚寺統、持明院統で競争原理が働いてたのが勝因やろ