1 :
日本@名無史さん:
偉人
2 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 20:12:51.49
2
てs
赤松則村
赤松範資
6 :
忍法帖【Lv=8,xxxP】 :2011/12/29(木) 13:58:36.72
test
7 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 21:16:30.47
則村は過大評価気味だと思うがな
8 :
忍法帖【Lv=5,xxxP】 :2011/12/30(金) 22:43:16.07
むしろ過小やん?
過大過小評価される以前に知名度が低すぎて、あんまり存在知られてないのが現状
10 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 11:07:10.55
足利四天王というものを想定するとするなら
まず間違いなく入る
11 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 01:53:50.52
尊氏16紙将
12 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 05:11:07.53
新田義貞を食い止めなければ
室町幕府もなかったのに
13 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 07:48:38.67
六波羅陥落については間違いなく第一の殊勲者だよな。
決定打は高氏の謀反であるけれども。
もう少し恩賞を与えておけばよかったものを。
護良の失脚も痛かったな。
白旗城攻防については義貞を責めるのは酷だ。
あれは他の人間でも抜けない。
14 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 16:52:37.39
足利尊氏四天王
佐々木道誉、赤松円心、今川範国、上杉憲房
15 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 22:22:40.63
高師直
高師泰
16 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 00:53:55.75
なぜこうもろなおではなくこうのもろなおなのか
17 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 02:50:26.20
円心に限らず護良の組織した武将は後醍醐からは冷遇された
後醍醐と護良の政治思想の違いが影響したか?
護良の没落後反新政を明確にした尊氏側に付くのは当然の帰結
18 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 03:08:11.08
護良が後醍醐がある意味疎まれたのは
・自分の完全なコントール下に置けない
・阿野廉子の存在
後醍醐は政治的には有能だが一人よがりの事も多く・・・
活躍出来たのは悪党(集団)戦術?
ある本に赤松勢の鏃の写真があったが、特別な鉄を製造していたとかなんだろうか?
20 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 08:30:42.49
>>14 佐々木と赤松は元は足利の家臣じゃないから
四天王には入らなくない?
21 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 23:35:43.12
円心が京都を脅かした頃は
・探題方 騎馬武者主力
・円心 槍持ち歩兵主体
太平記の記述だが
22 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:05:26.97
円心wwおったなそんな人
23 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:27:05.65
>>17 護良は後醍醐天皇に出家して比叡山の主(天台座主)となることを命じられ
建武の親政時にも当初比叡山に戻るよう言われてたのに無理に還俗した
親の言うことを聞かないドラ息子ほど嫌なものはない
後白河が出家を命じたのに勝手に還俗した以仁王を親王宣下も与えず冷遇したようなもんだ
ただ護良がいなければ後醍醐は後鳥羽のように死ぬまで隠岐で暮らさなければならなかっただろう。
護良が令旨をばらまかなければ畿内の反幕勢力を組織化することはできなかっただろう。
25 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:48:52.94
>>24 足利尊氏や新田義貞は護良親王の令旨によって後醍醐に寝返ったわけじゃないからな
後醍醐天皇は護良の力によることなく隠岐を脱出、楠木などもこの時に
直接後醍醐のもとへ臣従している。
護良が動かなければ後醍醐は一生隠岐暮らしで鎌倉幕府は滅亡しなかったというのは
言い過ぎ。
ん、
27 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 07:47:07.42
燃える赤松
播磨を守れ
28 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 00:45:12.84
赤松のりすけ
白旗山城跡見たけど
よくあんな小城で大軍防げたな
でもよくできた城だった
これは戦国時代だが
逆に竹田城なんか
よく一日で抜けたなとも思うわ
則村。
31 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 21:56:18.37
範資と則祐って読み方が同じでまぎらわしい
32 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 19:17:55.34
ほしゅ
悪党だから後醍醐は冷遇したのか?
んー
後醍醐天皇は赤松や佐々木だけでなく、楠木あたりも冷遇してますから
結局のところ、古代律令制への回帰が目的であり、
それ以降に出てきた階層はすべて排除するつもりだったんではないでしょうか
名和とか結城は厚遇されてるだろ
やはり護良と関係が深かったのが一番だと思うよ
36 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 01:16:54.25
>>29 今残っている但馬竹田城の遺構は慶長年間に築かれたもので、それ以前は
もっと簡素な城で石垣もなかったそうです。
>>31 たしかに紛らわしいですね。
則祐は、太平記の現代語訳付きの本で「そくゆう」と読み仮名が降って振ってあるのを見たような気がします。
そうやって区別するしかないのでしょうかね。
>>33 昔は地方豪族のことを「悪党」と読んでいたらしいです。
何も悪人だからではないらしいです。
歴史の「たら・れば」を語る時、よく本能寺の変が起きなかったらとか、
関ヶ原で小早川秀秋が西軍についていたらとか言われますが、
建武の新政が続いていたらとは、あまり言われませんね。
>>36 結局建武政府崩壊後の足利幕府は本拠地を京にしたように基本的に継続しているからな。
「たら・れば」を語るのは観応の擾乱だろ。幕府の基本理念を打ち立てた直義がいなくなって
これ以後義満まで内ゲバが続くんだからな。
子孫が将軍殺したんだっけ
39 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 18:53:05.30
ほしゅ
40 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 23:42:43.02
赤松満祐:将軍義教を自邸に招いて殺害した人。その後どうなるのかよく考
えてなかったため討伐されてアボーン。
赤松則繁:将軍が逃げないように腕をつかんでいた人。事後あちこち逃げ回った
あげく朝鮮に渡り倭寇の棟梁になって大陸の沿岸を荒らしまわる。清水将軍
と呼ばれて自己満足。ホームシックになってこっそり帰国したところを捕まっ
て処刑される。日本の恥さらし。
赤松政則:自分に能力が無いくせに他人の力で赤松家を再興したために、
歴史の教科書の試験に出ないから誰も見ない守護大名の勢力分布図に登場する人。
鷹狩りに行った寺で若くして急死。暗殺嗅がプンプンするのにそれを疑う声が
皆無。他力本願の人生だったため、いてもいなくても良かった人。
赤松義村:養子のため養母の洞松院に頭が上がらず。戦乱で逃げてきた将軍の子を
匿ったりといい人なんだけど家臣を統制できず、暗殺されてアボーン。
赤松政村:美作と備前を没収された人。いろいろな災難があってあっちこっち
逃げ回ったあげく周囲の信用を完全に失ったため、将軍の名前の一字をもらっ
て「晴政」と改名してみたが効果無し。息子に追い出されてアボーン。
⊂⌒ヽ ○⌒\ (⌒⊃
\ \ (二二二) / /
⊂二二二( ^ω^)ニニ二⊃ 居ますおー
\ \_∩_/ /
( (::)(::) )
ヽ_,*、_ノ ブーン
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43 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 03:55:36.15
ほしゅ
楠木は冷遇されてるっつっても河内やらいろいろもらってるのに対して、
赤松は恩賞もらうどころか持ってる権益すら奪われたわけだからねぇ。
赤松の倒幕における功績は正成に勝るとも劣らないものなので、
まあ、建武新政で一番の不遇でしょう。
>>7 円心こと赤松則村が後醍醐一派の倒幕運動に加担した契機は、何だったの?
46 :
日本@名無史さん:2013/02/24(日) 01:25:53.37
三男ののりすけが比叡山延暦寺で僧になってて、その時の天台座主が護良親王という縁
北方謙三『悪党の裔』読んだ。面白かったが、ちと円心が老成しすぎのような…
49 :
日本@名無史さん:2013/05/20(月) 00:44:38.03
ほしゅ
元弘の乱まで何してたかもよくわからん
赤松氏が春日社を信仰してるのが謎
村上源氏は後付けで、実は藤原氏の後裔だったのか?
別に村上源氏でも春日神社の氏子やってて不思議ではない
摂関家とか関わりは無かったの?
55 :
日本@名無史さん:2013/06/05(水) 08:48:58.64
そもそも村上源氏はその出自からして摂関家の一門といっていいほど藤原摂関家と関係が深い。
村上源氏を名乗る以上春日社を尊崇して当然。
56 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 05:35:29.91
赤松義村
58 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 22:57:40.77
>>29 城の規模でなくいかに要害かがポイントだから
しかし尾根筋に出るまでの涸沢登りはホント地獄だわ
あんなとこ武具馬具のフル装備だったら絶対登られん
ナンボ兵隊の数頼みで攻めてもムリだわ
今年の大河に子孫登場
60 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:49:30.86
龍野赤松氏は赤松氏の直系支族ではなく、宇野氏が赤松姓を賜姓した家系
宇野氏自体は赤松氏の本来の宗家筋らしい
龍野赤松氏は、嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主 赤松政則の
実子が始祖と言われているから血筋的には総領家より、正統と言える。
赤松政則の子の村秀は、庶子であったために一族の支持を得られず家督相続することができなかったため
赤松家は娘婿の赤松義村が継ぐこととなり、村秀は塩屋城主・宇野政秀の養子となり、後に宇野政秀が龍野城を
築城すると、その城主となったという物である。
神戸の小さな城の主の名前みたら、ほとんど赤松氏族だな
63 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 04:15:49.21
蒲公英城
64 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 22:13:11.33
>>62 御着の小寺氏も赤松の支流だしな
黒田氏はよく姫路の領主になれたもんだw
65 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 22:33:38.30
黒田庄黒田氏から御着小寺氏の庶流の姫路小寺氏に入嗣した
66 :
日本@名無史さん:2014/02/09(日) 03:22:31.22
目薬屋の分際ガなあwww
67 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 13:49:10.82
当時商売してない武士なんぞいないわw
武士自体が「渡りもの」呼ばわりされた職業だからな。
69 :
日本@名無史さん:2014/05/20(火) 02:00:06.41
赤松のりすけ
そくゆうとも
71 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 23:51:31.39
>>70 範資(のりすけ)=円心の長男
則祐(そくゆう)=円心の三男
則祐を「のりすけ」と呼ぶ辞書や書物がけっこうあるが
二人は兄弟で生きている時代がモロかぶりなので「のりすけ」といえば範資の方をいい、
則祐は「そくゆう」と呼ばれていたと考えるのが自然。
72 :
日本@名無史さん:2014/06/10(火) 21:32:01.85
>>44 楠木は 河内守兼左衛門尉 摂津 和泉 の 守護。赤松は、播磨守護を取
りあげられて佐用庄の地頭にのみ。
73 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 12:15:30.50
赤松氏は実は宇野氏らの分家。
74 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 01:13:46.37
宇野氏は実は藤原姓
赤松円心以前に分家した一族は藤原姓
以後に分家した一族は源姓
76 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 21:53:15.26
オリバー
どろ
78 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:50:37.05
おたふく
イカリ
80 :
日本@名無史さん:2014/09/29(月) 00:23:42.34
宮本武蔵も赤松なの?