アイヌ語地名は、北海道と北東北の事例が完全に一致していて、しかもアイヌ語の意味で土地の状態が
説明できるからな。この事例は否定できない。
後は、それを足がかりに、怪しいトコをさぐって行くのが吉。
まあ、最初のアイヌ語辞書がチョイあれだったりして、しかもその人に協力したアイヌの長老がちょいあれ
だったりするから、色々問題が出てきていたり、ワイオミングを「ワイを見んぐ」なんて程度の例も実際に
あったのは否定できないけどね。
>>951 平田実篤のアビル文字ですかw
そいや新撰組にもアビルさんっていたなあ。
阿比留文字は主に熊本で使われてたらしい
エミシじゃなくてクマソの字だったw
分布としては全国の神社に刻まれてるそうだ
>>953-955 阿比留文字だとか阿比留草文字だとかって名前つけたのは平田篤胤だが
もともとそういう名前だったのではない。
ハングルに似てるほうの阿比留文字は「肥人書(くまびとのて)」といって
九州西部で使われていた。
それとはまったく別の文字で阿比留「草」文字のほうは
「薩人書(はやとのて)」といって九州南部で使われていた。
対馬の阿比留家にも伝わってたから篤胤がそう名付けたんだけど
別に対馬が起源ってわけでも阿比留家が起源なわけでも何でもない。
>>952 縄文人は多様な集団から成り立っていたそうだけど
北海道と東北の集団は遺伝子的に近縁で、
しかも古墳時代、北東北には北海道から続縄文人が南下してるんだよね
で、中央政権によって完全征服されるのは頼朝の奥州合戦以降だから
北東北にアイヌ語地名が残ってるのは当然だといえる
ところがアイヌ語由来論者はヤマト王権が成立した4世紀から既に
ヤマト王権の構成地域だった福島以南の地名も
当たり前のようにアイヌ語由来だと主張するからトンデモ説になる
アイヌ語地名が残っている地域には残っていて当たり前の理由が存在するもんだ
古墳時代にアイヌが南下したと言ってるが
その前に本州倭人(縄文人)が北海道に北上してるはずなんだがなあ
南下ばっかり注目するのはおかしい
神 カムイ(カミ)
日本語とアイヌ語に共通点があるんだし、アイヌ語風地名は日本中にあっておかしく無い
>>956 全然阿比留文字じゃないなw
まあ阿比留氏は対馬に移配されたエミシだと思うが
記紀に出てくるような、すげー昔風の名字だよな
つまり、アイヌ風地名をアイヌ系だというのは間違ってる
単に古来の地名が残っているだけかも
ヤマトが地名を改変し過ぎ
だいたい気温の影響を受けるのは、農民、採取民であって
アイヌが狩猟民であれば対して影響を受けない
動物は津軽海峡を渡れないし、あの程度じゃあ植生も大して変化しない
弥生時代は北海道でも農業をしていた
水田が無理だっただけだ
アイヌ文化だって永続的だった訳ではない、今のアイヌ文化はオホーツク文化が入って成立した
縄文や弥生時代は別の文化だった可能性が高い
>>910 坂東の軍事貴族の連中が陸奥守・鎮守将軍として赴任してくるようになり、
それを媒介として力を蓄えて行くから全く無関係じゃないでしょ。
将門が奥羽の掌握を目指したことも指摘されるようになってきてるし。
俘囚長っていわれる安倍とか清原氏も蝦夷系身分者がそのまま発展した
ものかどうかも怪しいしね。
アイヌ語系地名とか何でもかんでも結びつける人が出始めるからなぁww
>>958 何故に北上するんだ?
北海道の続縄文人が東北へ南下したのは
地球の寒冷化による影響や、樺太のオホーツク人が
北海道へ南下し、道北や道東に定住し始めたのが理由だが
本州倭人とやらが北海道へ北上した理由はなんだ?
それと、日本語とアイヌ語は完全に別系統の言語だから
似てる単語が存在したとしても、それは単なる偶然か
借用語でしかないよ。
>>961 寒冷化の前に温暖化があるから、その時代は北上してるでしょ
縄文時代だと青森で見つかる土器と北海道南部で見つかる土器は同じだよ
南下ばっかりしてるバカは居ない
>それと、日本語とアイヌ語は完全に別系統の言語だから
これはヒドイ
無知もここまで来るとどうしようもない
>>962 どうして温暖化したら縄文人が北上するの?
縄文時代中期以降、縄文人は地球の寒冷化による
植生の変化によって、ガンガン人口を減らしていたんだよ?
せっかく暖かくなったのに、寒冷な地域へ移住するの?
粛慎(オホーツク人)と戦争していた渡島蝦夷(続縄文人)が
南下するなら分かるけど、弥生人と戦争していなかった
縄文人が北上するかな?
っていうか、君は日本語とアイヌ語が同系統だと思っているの?
膠着語である日本語と、抱合語であるアイヌ語が?
基礎的な語彙も全然違うのに、本気で同系統の言語だと主張しているの?
>>935 小野小町の伝承なんて嘘に決まってるんだけど、なんで雄勝郡と結び付けられて
理解されるようになったのか、その火種は気になるね。
何人か出羽国司として赴任してるのが確認できるからその辺なんだろうけど
>>963 粛慎は沿海州方面だと思うが
佐渡にも来たという記録がある
人は余裕ができたら拡散するもんなんだよ、江戸時代の倭人が北海道に行った様にね
アイヌ語と日本語は同系統です
語順が同じで近隣地域で話されている
そして朝鮮語よりも近い
アイヌ語に一番近い言語は日本語
膠着語と抱合語で世界の言語を分類して発表してくださいね
笑われるだけだ
なんでこの時期に粛慎が南下してくるのかは外的要因があるんだけどね
ともかくアイヌ文化が古代から変化してないとか
そんな幻想は辞めてくれ
アイヌは北海道の先住民じゃない可能性が高い
アイヌが北海道に定住したのは10世紀頃でないのかな
つまり古墳時代に北海道から倭人が減少し
来たから移住して来て融合したのが今のアイヌだろう
>>965 SOV型なんて世界中で最もありふれてる語順じゃないか。
世界の言語の約半分はSOV型だよ。
朝鮮語も、ツングース諸語もSOV型で、近隣地域で話されているけど別系統で
アイヌ語だけは基礎語彙が違って抱合語でも同系統って、なんつー理屈だ。
朝鮮語より近いって、何がどう近いんだよ。
アイヌ語も朝鮮語も日本語とは系統が違うんだよ。
同系統ってのは琉球語みたいな明らかに基礎語彙が共通の言語を指すんだ。
アイヌ文化は10世紀ごろから
古墳時代までは、本州と北海道の文化は明らかにリンクしてる
古墳期にアイヌが南下したとか
そんな時系列を無視した話しは勘弁してくれ
古墳時代にアイヌは北海道に存在していない
>>968 今だと、琉球語とアイヌ語は日本語族なってるぞw
アルタイ諸語には入ってるけどツングース諸語からは分離
アイヌ語は、語彙も文法も日本語族の特徴を備えておらず
アパッチ族やケットやニブフの言語に近い。
>>969で結論でたなww
アイヌ文化は一番単純化した話をすれば、北のオホーツクと南の律令国家側の
文化の影響を受けて道南を中心に成立した文化だろ。北の要素と南の要素。
成立期は13世紀の擦文文化の終焉が通説的理解だけど、10世紀代にそれ以上の
画期を見出す見解も出されている。
つまり、エミシはアイヌですか?とか、古墳時代にアイヌがいたとかはちょっとねww
まあエミシがアイヌ文化に繋がる要素をもっていたとする位ならいいだろうけど。
イヨマンテ(熊祭り)は、アイヌで最も重要な儀式だけど
10世紀まで北海道で全く行われた形跡がない
それ以降に知床半島あたりから広まっている
定着したのは300〜500年ぐらい前だろうから割と最近
8世紀頃の道央には都北と共通したエミシ塚があり蕨手刀も発見されている。
蕨手刀の発見は道東でも発見されている
これはアイヌ文化が始まる前
もちろんそれ以前も本州の文化に極めて近い
熊祭りはオホーツク人の伝統であり、これは移住があったと考えられる
遺伝子的に見てもアイヌ人は、オホーツクやシベリアとの混血が多い
つまり今のアイヌは、一部地域にいた先住民だが
北海道の先住民という理解は間違っている
本州と北海道は縄文時代から深い交流があり、ずっと途切れていない。
アイヌが先で倭人が後ではない、むしろ逆だ。アイヌの方が遅い
アボリジニやインディアンとは根本的に異なる
いい加減、目覚めなさい
日本という国は、そういう特権階級の人たちが、楽しく、幸せに暮らせるように、
あなたたち凡人が、安い給料で働き、高い税金を払うことで、成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる?
今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。
世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、
テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、
戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくれればいいの。
アイヌがオホーツク文化人と混血していたのは事実らしが、率にして大したモンじゃないのでは?
アイヌ文化の成立でアイヌ人ができたと定義するなら、まあここの書き込みみたいなことは
言えるだろうが、文化とか連続しているんじゃないの?
だいたい、本州アイヌもいたんだし。
言われッパですか
>>975のガキに・・
華族制度無き今は、天皇と皇族以外、皆、平民なのに・・上から目線とか、ガキそのもの
そんなモノ言いの勝ち組も、民主党時代の今では、日本脱出してる筈だったよねw
>>975 >戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくれればいいの。
今時、徴兵だと、年齢制限掛かる。
訓練に耐えられない中年は、用が無い。
俺含む、ここの住民は、大半、中高年だろう・・。
つ 囮部隊
わーわー騒いでやっつけられるのが仕事
302 日本@名無史さん[] 投稿日:2012/01/27(金) 15:40:59.10
”武内宿禰は100年ころに東北地方を偵察して
「東のひなに日高見国あり、其のくにの人勇みてこわし。えみしという。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」
と景行天皇に奏言している(書紀)。”
315 日本@名無史さん[] 投稿日:2012/02/22(水) 21:28:22.69
>>302 「遣武内宿禰令察北陸及東方諸国之地形且百姓之消息也」
それは大和より東の国を指しており東北のこととは限らない。
米の改良が進んだ現在、東北は米所になっているが、古代は米作には適さない土地だった。
武内宿禰が探索したのは、おそらく北陸から関東辺りと思われる。
982 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 05:27:36.28
武内宿禰はモデルになった人物いたろう。
ヤマトタケルに対するオグナノミコトみたいな。
ただ、初期大和朝廷の人間がはるばる東北へ
偵察に行くのはちょっと無理。やはの東東海、関東ぐらいかなあ。
日
福島の会津大塚山古墳では
ヤマト王権から贈られたと思われる神獣鏡が出土しているので
少なくとも4世紀中にヤマト王権の影響力は福島にまで及んでいたようだ。
なので、東北まで偵察に行ってたとしても不思議ではないよ。
福島も陸奥国の一部だしね。
984 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 08:15:39.61
ヤマト王権から下賜されたのか、あるいは交易または
一種の平和条約の「あかし」として贈られたか。
大和朝廷の成立が三世紀頃としても、四世紀には
まず東海ぐらいまでじゃないすな、勢力圏。
>>984 鏡はおそらく同盟の証だろう。
4世紀の関東はヤマト大君を名目的な頂点としながらも
豪族合議制政権の一員って感じだろう。
5世紀中頃には有名な金錯銘鉄剣が作られてるから
北九州から関東までがヤマト王権に従属的な立場になってる。
クニノミヤツコやアガタヌシの時代ですか?
987 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 12:34:12.56
朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
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日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
崇神天皇の時代、四道将軍を派遣し
北陸道に大彦命、東海地方に建沼河別命を派遣し
各地を平定し合流したのが相津(会津?)と書いてあるから
福島まで行ったと思われる
ただこのあとにヤマトタケルが出てくるので
四道将軍の遠征は面を征圧するというより、点を征圧して家来認定し
すぐ移動するという感じのようだ
各地で子種を巻いた可能瀬も否定できないw
鏡っていうか、前方後円墳に代表される古墳祭祀を受け入れていることで
畿内を中心とする豪族連合体制に加わったものと考えられているよ
991 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 20:11:48.89
胆沢の角塚古墳とかどう理解するんだよww
992 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 20:50:17.95
崇神天皇つうかミマキイリヒコは実在したと思うし、
三世紀頃の初期朝廷の王とはおもう。しかし
創世記のややこしい時に多方面に遠征軍派遣したなんて大嘘。
多分初期朝廷が各地の在地勢力と交流しはじめたことを
大げさに伝えている。
993 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 20:55:58.26
派遣しようにもまともな軍隊がないから絵空事よ
ヤマトタケルの遠征とかは何らかの史実をもとにしてるのとかは確かなんだけどね。
『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十一月己丑条
陸奥国牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。伝聞。押人等本是紀伊国名草郡片岡人也。
昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫為夷被虜。歴代為俘。幸頼聖朝撫運神武威辺。
抜彼虜庭久為化民。望請。除俘囚名。為調庸民。許之。
996 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 22:25:57.75
文化の優位性に魅力を感じて従属していったんだろう
武力闘争を想定するほうが難しい
稲作が可能にならなければ、優位性はなかった。
アイヌ語地名が山形−宮城の線で明確にできたり、秋田−盛岡の線でかなーりの間、
戦線が膠着していて押したり押し戻されたりしていたのはそのせい。
まあ、稲作は何人もの子どもを養えるから、非常に魅力的なんだけどな。
998 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 07:26:08.94
四道将軍派遣にしてもヤマトタケルにしても
よく言われているように、複数の開拓者による
何代もの話がまとまって物語化してんだろう。
あと縄文農耕論から言うと、
蝦夷も畑作なんか相当大規模でやってなかったかなあ。
稲作の優位性なんて江戸時代の話だろwww
時空が歪むぅーーーー
1001 :
1001:
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