それでも邪馬台国は九州にあった11

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1邪馬壹國
畿内説者は来るな!
2日本@名無史さん:2011/12/10(土) 07:29:02.03
>>1
乙です
3サガミハラハラ:2011/12/10(土) 07:48:26.30
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。(九州説で倭人伝の記述の大きさの墳丘はここだけです。)
4日本@名無史さん:2011/12/10(土) 12:48:17.23
脱原発デモの正体
ttp://blog-imgs-37-origin.fc2.com/h/o/r/horo346/panflash00045313.jpg
2011.9.11脱原発デモで暴れる在日参加者逮捕の瞬間
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15581020

5筑紫次郎:2011/12/11(日) 09:09:56.24
@伊都国を糸島へ比定したら
方角、距離、伊都国の人口が違い、不弥国から先へ進めなくなります。
伊都国は佐賀大和都渡城付近です。
倭人伝記載の方角はほぼ正確だったと考えられます。

A周旋可五千餘里から倭の範囲は九州中北部程度です。
投馬国を南九州とか出雲とか遠くに比定するのは間違いです。

BAから奴国、投馬国、邪馬台国に広大な領域を比定するのは間違いです。
有屋室父母兄弟臥息異處から1戸の人数は一家族よりもかなり少なく、
対馬国千、一大国三千、末盧国四千を基準に考えるべきです。

C其餘旁國遠絶不可得詳から
勅使が邪馬台国への途中に通った国は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、
奴国、不弥国、投馬国だけです。
他の国は1国たりとも邪馬台国への途中にありません。

D当時有明海沿岸は九州最大の人口過密地帯です。
だから
@で伊都国を有明海へ進んだらCより伊都国以降は国と国はほぼ隣接していた状態です。

EABCDより水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではありません。
何らかの理由があって消費した日数です。

F有明海沿岸の当時の人口は山沿いにびっしりと密集しています。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
伊都国→佐賀大和都渡城付近
奴国→佐賀大和都〜吉野ヶ里、中心地は東名遺跡付近
不弥国→吉野ヶ里
投馬国→吉野ヶ里の南でツマの名前が残る三潴、筑後、八女地区
邪馬台国→投馬国の南でヤマトの名前が残る山門郡、大牟田、荒尾、玉名
6日本@名無史さん:2011/12/11(日) 19:45:25.41
背振山の周囲、松浦から糸島、室見川流域、筑紫野、鳥栖、佐賀と、
ぐるっと回って人口密集地帯なのは事実だろうね。
弥生遺跡がないところがないと言ってもよい。

また、甘木朝倉も遺跡の宝庫だ。

以前の奈良湖の話から考えていたのだが、
山すその扇状地から、平地に降りたときに灌漑技術の発達が必要ではないかと
考える。

ある程度高低差のある平坦地は、水田を作るときに水を入れる水路を作りやすいが、
完全な平野では、平地より下を川が流れるので、水を入れにくいのである。

これが技術の発達を促したのではないかと考えているのだが。
7筑紫次郎:2011/12/12(月) 02:05:37.78
>甘木朝倉も遺跡の宝庫だ。

小城〜佐賀大和〜吉野ヶ里〜鳥栖〜夜須〜甘木〜朝倉〜
田主丸〜北野町〜久留米〜八女〜筑後〜瀬高〜高田〜大牟田〜

弥生時代には筑紫平野の遺跡は山沿いに帯状に密集している。

密度がやや薄いのは鳥栖小郡付近だけ。
他は甘木朝倉を含めてびっしりと密集している。

遺跡が密集しているし
大和朝廷と関係がありそう、
または
4世紀以降の重要地域となることから
甘木朝倉あるいは久留米や八女を
邪馬台国の候補地に挙げる人もいる。
しかし、
倭人伝の行程記事からはそれらの地域を邪馬台国に比定するのは無理だろう。
目星を付けたにすぎないと言える。

特に
久留米、八女、三潴などは4世紀中頃までは邪馬台国の友好国だったが
4世紀後半から大和朝廷と関係の深い博多湾岸勢力が
この地域を支配していったのである。
久留米、八女、三潴が最重要地域となるのは4・5世紀以降の話だ。

倭人伝を読み解けば、
風土記などにより当時の邪馬台国滅亡の様子が見えてくる。
8USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/12(月) 22:54:25.84
鉄の優位性があるのに、なぜ九州勢は列島のイニシアチブを
畿内勢に譲ったのかという点に関して、本読んでもよくわからないのですが
なぜです?考古学的にみても鉄の利権をめぐり、九州と畿内瀬戸内との間に
大規模な戦などなかったらしいのですが。

個人的な考えでは記紀に書いてある崇神天皇の頃の疫病蔓延が
もしかしたら影響してるのかもと思ってるのですがトンデモですか?w
疫病蔓延が倭国大乱であり、高地性集落は疫病にかかったものを
高地に隔離するためか、あるいわ自分が疫病にかからないために
高地に移り住んだか、そしてモモソ姫の祖霊神を祭るシャーマニズム的な
鬼道で、疫病がおさまったので、九州勢もモモソ姫の力を認め、
瀬戸内や東海山陰とともにモモソ姫を女王に推戴。もちろん
モモソ姫の鬼道と疫病がおさまったのとは因果関係などないのですが
古代人はそうは思わなかったと。モモソ姫の鬼道のおがけだと
思ったというわけです。これでつじつまがあいますよね?w
9筑紫次郎:2011/12/13(火) 09:14:55.64
倭人伝で邪馬台国の場所が判ると言う専門家はいない。
それは当然だろう。
なぜなら
倭人伝に従えば
距離は違う、方角は違う、伊都国の人口は違う。
挙げ句の果てには
不弥国から先へは船で南へ行けと書いてあるのに
不弥国に海はなく、南は山である。
不弥国から先は何処へも行くことができないのだから。
これで邪馬台国の場所が判るというのはアホである。

しかし
冷静に考えてみれば
陳寿は情報を徹底的に吟味して間違いのない情報だけを記載すると
言われているではないか。
勅使と同時代(233〜297)を生きて比較的正確な情報を入手可能だった
天才とも言われた陳寿が
これほど出鱈目な情報を記載するものだろうか?

さらに冷静になって考えれば
末盧国から糸島へ進んだのはいかなる確証も無い。
単に目星を付けただけである。
東南陸行と記載されているのに、糸島は東北であり、
何よりも当時はまともに陸行できる道は無かったのである。
楽に船で行ける糸島半島へ上陸しないで、
唐津付近に上陸して極悪の土地(道ではない)を
大量の賜物を持って陸行するなど正気の沙汰ではない。
10筑紫次郎:2011/12/13(火) 09:15:12.02
それでは
東南陸行と言う記載通りに進むべきなのだろうか?
しかし
末盧国(唐津付近)から東南陸行五百里したらどうなるのだろう?
@東南陸行五百里到伊都國
A東南至奴國百里
B東行至不彌國百里
C南至投馬國
D南至邪馬台國
を満たす国々などあるのだろうか?

距離方角だけでなく陳寿は情報として人口も記載している。
方角、距離、人口を満たす伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国と同じ
位置関係が偶然に存在する確立はほぼ0である。
末盧国を日本の何処に比定しようとも
方角、距離、人口を満たす国々などあるはずもないのである。

ところが何と
〓〓〓〓
千里は四百q余りではなく、狗邪韓国〜末盧国三千里を基準にした距離。
戸は五人〜十人〜二十人ではなく、対馬国、一大国、末盧国を基準にした人口。
水行陸行は所要日数ではなく距離とは無関係の日数。
〓〓〓〓
と仮定すれば
末盧国を唐津に比定して倭人伝記載の通り東南陸行五百里した場合にだけ
これらの位置関係を満たす国々があるのである。
11日本@名無史さん:2011/12/13(火) 09:41:41.74
倭人伝の道程を、使者の行程そのものと考えることが間違い
あれは、倭国(九州)の位置相関図を文章で表現したものと考えればいい

伊都国には、郡の使いが往来して常に駐まると書いてある
つまり、正式な使者だけではなく、商人や郡の役人は邪馬台国には幾度も通っているのである

第一、使者が邪馬台国に行くのなら、船に下賜品を積載し、邪馬台国に一番近い上陸地点に
まで船で行き、そこから上陸すればいいではないか
なんでわざわざマツロに立ち寄り、そこから悪道を歩く必要があるのか、理由がない
12日本@名無史さん:2011/12/13(火) 09:59:00.49
邪馬台国九州説だが、筑後か熊本なら、
唐津、佐賀ルートは最短距離になり、非常に合理的である。

熊本なら、長崎を迂回し、天草島原から有明海に入るルートも
あるにはあるが、非常に遠回りになる。
また、有明海に入るまでは外洋であり、これも困難さを加えることになる。

航海の苦労がどの程度かはわからないが、
唐津までの航海で苦労している状況であれば、
長崎迂回ルートは、航海日数が長すぎるルートだと思う。
13イアン・馬韓:2011/12/13(火) 10:28:41.01
>>11
>わざわざマツロに立ち寄り、そこから悪道を歩く必要があるのか、理由がない
どだい。
最寄りの寄港地から陸行1ヵ月も要する陸の孤島に王都をつくるバカはいない。
当時の一級道路である水路交通ルートもあったろうが、
難儀な陸行をしたのはなぜか。その理由を考えるのが「考察」だ。

官もいない末盧は臨時の寄港地、末盧からの難儀な陸路は臨時のルート。
こう提示した天才研究者がいたっけな。

>12
>熊本なら、長崎を迂回し、天草島原から有明海に入るルートもあるにはあるが、
それが通常の通交ルートだったが、これを使えないから臨時の陸行ルートをとった。

>航海の苦労がどの程度かはわからないが、
舟をつかった水行こそが古代の一級通交手段だ。

>長崎迂回ルートは、航海日数が長すぎるルートだと思う。
これが最も早道で、臨時の陸路が迂回ルートだ。逆だな。
14日本@名無史さん:2011/12/13(火) 10:35:30.23
松浦と博多は、古代から近世まで、(いまでも?)
使われ続け、文献にも多く載っている貿易港ですが、

天草島原ルートでは、どこが貿易港に該当しますかね?
古代から使われたとおもわれる有名どころって、どこでしょうか?

この場所はかなり重要な情報だと思います。
15イアン・馬韓:2011/12/13(火) 11:16:25.41
>>14
王都というものは、
軍事拠点地域・商工業繁華地域・庶民の生活地域とかけ離れた所にあるものだ。
王都の出入り口と貿易港を関連づけてのことだろうが、互いは別次元のものだ。
思考不足か。
王都がどこにあろうが、九州北部沿岸が古代における外国との主要港になる。
ずーっとのちになると神戸、さらにのちには横浜がこれを担うことになっているだろ。

>松浦と博多は使われ続け
唐津は「カラへの津」だろ。
その「カラ」がナニを指すのかで港としての発祥時期もわかる。
絶対的主要港の博多と唐津を時代を一緒くたにして、
これをそのまま3世紀の貿易港でもあるかのいうのは、思考不足か詐欺論だ。
16日本@名無史さん:2011/12/13(火) 11:43:08.22
唐津は弥生前期、中期から大陸との交易の痕跡がありますからね。
まあ、場所的には一番貿易がしやすい場所でしょう。
博多と共に、ここから九州各地へいろいろなものが輸送されていたでしょうね。

逆に、ここが3世紀に貿易港でない、という論のほうが無理があると思いますがね。

17卑弥呼の都は久留米:2011/12/13(火) 11:47:23.58
>>12
>熊本なら、長崎を迂回し、天草島原から有明海に入るルートも
>あるにはあるが、非常に遠回りになる。
>>13
>それが通常の通交ルートだったが、これを使えないから臨時の陸行ルートをとった。
>舟をつかった水行こそが古代の一級通交手段だ。
>これが最も早道で、臨時の陸路が迂回ルートだ。逆だな。

>>12が正しい。

隋の裴清のルートも長崎回りだ。
雲仙有普賢岳の煙を見て海岸に上陸し、俀國の都(太宰府の南)である邪靡堆(久留米)に到着している。
(隋書・冊府元龜・唐會要・聖徳太子伝歴)

魏代の投馬國への水行20日のルートも同じだ。
帯方郡から末盧國まで1万餘里を10日の航海に費やしている。
末盧國から長崎島原を経て有明海岸の投馬國まで10日の航海である。
この航海は困難なので約5千里に10日(魏軍船船団)もかかっている。

ところが魏代に邪馬臺國に向かうには、島原湾には熊本の狗奴國舟が出没し、航海が困難だ。
末盧國から邪馬臺國へ梯儁張政らは陸路山越えの迂回ルートを取った。
この迂回ルートが陸行1月(1千里)の距離である。
18日本@名無史さん:2011/12/13(火) 11:47:38.86
>>13 >>15
またもや天災怪獣出現。
信じる馬鹿は┣ヾ民のみずら。


>こう提示した天才研究者がいたっけな。

十八番の自画自賛爆裂。
ブヒブヒブヒーン。
19卑弥呼の都は久留米:2011/12/13(火) 12:09:04.46
>>13
>官もいない末盧は臨時の寄港地、末盧からの難儀な陸路は臨時のルート。

末盧國は女王の直轄地。その津は大陸と往来する人や荷物の検査所。
取り締まり強化の為の末盧津ルート。臨時のルートではない。
20日本@名無史さん:2011/12/13(火) 12:44:03.39
マツロは、草木が繁茂して前に行く人が見えないような場所
こんなところにわざわざ上陸して、どうやって、たくさんの荷物を持ち抱えて歩くんだね?
21日本@名無史さん:2011/12/13(火) 12:57:30.82
途中の道の話じゃね?
さすがに港までそれじゃ、機能せんだろうし。
22卑弥呼の都は久留米:2011/12/13(火) 13:16:12.29
不審人物物品の出入りの発見を容易にする為。
即ちこの観音峠越え一本道ルート以外を通るものは不審者。
不審者の捜索発見逮捕は一大率の仕事。
23日本@名無史さん:2011/12/13(火) 13:55:26.04
観音峠なんて、車でも結構大変なところを
徒歩で行きたくないなあ。
24日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:44:19.88
>20
東南陸行五百里到伊都國と書いてある事実を否定してどうするかね?
25日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:58:21.86
松浦から佐賀は、一見するとすごく山の中を通るように見えるけど、
実際には、ずっと谷になってて、ぜんぜん山を登らなくていい。

北九州から唐津までの唐津街道が、(途中では他の街道も重なる)
佐賀を通る道なのは、移動が容易な道だから、古くから利用されて
いたからなんだよ。
26日本@名無史さん:2011/12/13(火) 19:35:43.66
>>24
それが何か?
問題は「たくさんの荷物を持ち抱えて」ということ
銅鏡100枚、かなり重量だろ
27イアン・馬韓:2011/12/13(火) 21:01:09.95
>>26
現実は、皇帝の詔書だけでもややもすれば4人担ぎの輿に乗ってくるんだぜ。
使節団が、いったい何人でやってきたと思って書いてるんだ。
28日本@名無史さん:2011/12/13(火) 21:02:10.06
>>26
>それが何か?
>問題は「たくさんの荷物を持ち抱えて」ということ
>銅鏡100枚、かなり重量だろ

それが何か?
まさか
東南陸行五百里を否定する根拠になるとでも?
29USボーカルスクール名古屋校生:2011/12/13(火) 21:39:54.83
それも前に僕が言ったでしょw
陸行一月も重い荷物背負って舗装もされてない獣道を
魏からきた使者が歩くわけないって。
九州でも近畿でもありえんよ。距離的にも陸行一月は長すぎるしね。
結局最初に来た郡からの使者が伊都国で仕入れた旅費を元にした
行程の情報と考えるのが一番しっくりくるよ。
魏からきた使者はおそらく船で伊都国まで行き、そこから瀬戸内を
通り近畿までいったはず。陸行一月は吉備〜奈良間の往復日程。
それを元に旅費が算出されてただけ。
30日本@名無史さん:2011/12/13(火) 22:04:22.97
カスの妄想など誰も聞いてない。
31日本@名無史さん:2011/12/14(水) 09:23:34.90
>>27、28
あんたたち、オレの言いたいことを勘違いしているようだな
東南陸行五百里を否定なんて、全然していないよ

オレの言いたいことは、倭人伝の記載通りの順番に使者が通ったとは限らないと言うことだ
女王国の東には海があるんだから、たくさんの荷物抱えているなら、
東海岸に上陸するのが一番の近道で楽だってことだよ
これは、邪馬台国が東京にあろうが大阪にあろうが、鹿児島にあろうが
どこであろうが同じ理屈だ
まあ、そう解釈しても、邪馬台国の位置が変わるわけではないがな
32日本@名無史さん:2011/12/14(水) 09:35:35.68
>>29
>陸行一月も重い荷物背負って舗装もされてない獣道を
 魏からきた使者が歩くわけないって。

それはそうだよな

>九州でも近畿でもありえんよ。距離的にも陸行一月は長すぎるしね。

陸行一月はあくまでも投馬国からの行程

>結局最初に来た郡からの使者が伊都国で仕入れた旅費を元にした
行程の情報と考えるのが一番しっくりくるよ。
魏からきた使者はおそらく船で伊都国まで行き、そこから瀬戸内を
通り近畿までいったはず。陸行一月は吉備〜奈良間の往復日程。
それを元に旅費が算出されてただけ。

これは意味不明というか、論外だなw

陸路を歩くってことは、単に道が悪いリスクだけではない
夜営もしなくちゃならないし、雨風にも当たる
強盗団に襲撃される恐れもある
あの目録の荷物をもう一度見直してみろよ
人間が手ぶらで歩くのとはわけが違うからな
荷物は魏の国内ではそれなりに舗装された道路で厳重に運搬されただろうが
倭国内となるとそうはいかない
危険な陸路よりも、出来るだけ海路で運ぶ方がリスクは少ない
33日本@名無史さん:2011/12/14(水) 10:45:21.73
陸行一月つっても直線距離で進むわけじゃないし、
危険領域を避けるために迂回することもあるわけで、
そういうのを考慮すれば陸行一月も決して長くはない。

ただ私も魏の使者は陸行一月も歩いてはいないと思う。
すべて水路で進んだとみるべきで、陸行一月は伝聞でしょう。
投馬国から邪馬台国まで陸路で歩けばなぜかそれくらいの日数がかかった。
それだけの話です。
34日本@名無史さん:2011/12/14(水) 15:36:06.49
>>銅鏡100枚、かなり重量だろ

伊都に保管して、わけて運べばいいじゃん。このドアホが!
35日本@名無史さん:2011/12/14(水) 15:37:18.92
>>銅鏡100枚、かなり重量だろ

百人で運べばいいじゃん。このドアホが!
36日本@名無史さん:2011/12/14(水) 16:04:06.58
お前、何興奮してるの?
気でも狂ったのか??
クビ括って死ねば楽になるぞww
37日本@名無史さん:2011/12/14(水) 16:52:36.03

ゴミクズ
38日本@名無史さん:2011/12/14(水) 17:05:00.16
金持ち、勝ち組のオレ様に、そんな戯言を叩いても無駄だよw
この負け犬、落ちこぼれめ!!ww
39日本@名無史さん:2011/12/14(水) 17:09:10.65

19歳落ちこぼれに天罰を。
40日本@名無史さん:2011/12/14(水) 20:31:44.93
在日の戦略にひっかかり、全ての間違いが始まった2009年 夏
        |:::::::::::::;;;ノ  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        |::::::::::( 」 < 民主になればこの世はバラ色、政権交代!
        ノノノ ヽ_l   \______________
       ,,-┴―┴- 、    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| | 在 反 | '、/\ / /     
     / `./| | 日 日  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   |
      |   ┬    |それでも懲りない日本人、韓国民団総理支持率35%w早く目を醒まそう!
41日本@名無史さん:2011/12/15(木) 14:15:17.51
数十年前、体重40kgあるかないかの小柄な行商のおばちゃんたちが、
100kgぐらいの荷物を背負って延々と歩く風景は普通だったぞ。
マヤ・アステカ・インカでも、どんなに重くても、全部人力で荷物を運んでいた。
鏡100枚を100人で運ぶ必要など、まったくない。
42日本@名無史さん:2011/12/15(木) 15:00:28.01
もういいよ
アホ相手に論議する気はない
普通に、大量重量の荷物を目的地に運ぶのに、どうやって運ぶのが一番に楽で安全かを
言っているのに、ズレタこと言われても困るんだよ
43日本@名無史さん:2011/12/15(木) 19:23:29.52
>普通に、大量重量の荷物を目的地に運ぶのに、どうやって運ぶのが一番に楽で安全かを
言っているのに、

お前が心配することでない。
お前の妄想をが正当化される訳でもない。
44日本@名無史さん:2011/12/15(木) 19:50:14.36
43は真性のアホw
45日本@名無史さん:2011/12/15(木) 20:01:49.73
>>43
お前もしつこい奴だな、このアホ!!
とっととクタバレ、ボケ!!
46日本@名無史さん:2011/12/16(金) 00:54:43.44
妄想垂れ流して根拠も示せず罵倒ですか?
47日本@名無史さん:2011/12/16(金) 20:36:36.17
>>15
>唐津は「カラへの津」だろ。
その通り。唐津は唐にあるわけではない

同様に、那の津も那国にあるわけではない
那の津から船で渡航した先に那国があるのは当然のこと
那国は邪馬台国以前の倭国の都
48日本@名無史さん:2011/12/16(金) 22:25:02.47
>那の津から船で渡航した先に那国があるのは当然のこと
那国は邪馬台国以前の倭国の都

≪那の津≫は≪奴国の津≫じゃないの?
伊都国と不弥国の間にある奴国ではなく、
もう一つの奴国の。
49日本@名無史さん:2011/12/16(金) 23:27:36.86
那国はひとつだよ
大国だよ
50日本@名無史さん:2011/12/17(土) 00:18:05.25
子供心に男狭穂女狭穂が未発掘とか正気の沙汰じゃねえと思ったことを覚えている
51日本@名無史さん:2011/12/17(土) 00:32:01.94
>>49
どこにあんだよ。
52日本@名無史さん:2011/12/17(土) 09:36:50.73
みんなアホすぎるw
魏志倭人伝ってのは倭国大乱から壱与登場までの約80年のスパンの出来事であり、
かついくつかの資料を陳寿がまとめたものであることがまるでわかってない。
魏志倭人伝だけ読んで畿内だの九州だのとあまりにも平面的で奥行きのない歴史観だ。

最初の倭国大乱では九州勢力と近畿瀬戸内勢との大規模な戦闘などなかったことが
考古学的にはっきりしてるんだし、まだ鉄の優位性で九州が上回っており、
卑弥呼共立のときの女王国は明らかに九州にあっただろうよ。
ただ政治経済の中心は徐々に畿内巻向の連合体に移していったと。
魏の使者が最初に倭国にきて卑弥呼に会った時は卑弥呼は九州の女王国にいたから
まずこの記録を書いた。交易を管理する大倭として巻向は登場している。
つまりは祭政分離で祭は女王卑弥呼が、政は畿内の連合政権が担当してたってこと。
京都の天皇と、江戸の将軍みたいなもん。卑弥呼の死後の第二次倭国大乱後、
壱与を新女王として共立したときはすでに巻向が発展していたので、
新女王も巻向に呼んで、一元化したと。これが邪馬台国のこと。
明治維新で天皇も東京に呼び寄せたようなもん。
その後壱与に会いに魏の使者が畿内邪馬台国に来た時の記録を持ち帰ったと。
なので後世陳寿が倭人伝を書いた時に資料をまとめる際に新旧女王に居場所が
異なっていたので倭人伝はちぐはぐな記述になっており、
九州説だの畿内説だのと醜い争いになってるにすぎない。
53日本@名無史さん:2011/12/17(土) 09:50:14.53
浅草線など戦前かあらある東京の地下鉄はどうやって掘ったか知ってるか?
地面から開削していったんだよ。しかも全て手掘り。
この、日雇い人夫を大量動員して人海戦術で土木工事をするというやり方は、
卑弥呼の時代から全く変わっていなかった。

徑百歩の土まんじゅうなんて1000人の土木作業員を100日働かせれば出来るくらいの軽作業。
ちょっと大きめの邑なら、農閑期に領民集めてできてしまう。

邪馬台国は邑。大きな国である必要はないだろう。
54日本@名無史さん:2011/12/17(土) 17:49:14.00
>>52
みんなアホすぎるw

おまいも相当アホすぎる。
55卑弥呼の都は久留米:2011/12/17(土) 18:22:47.51
>>53
昭和20年代
大阪地下鉄御堂筋線、昭和町駅より南、
オープンカットの状態で地下鉄が走っていた。
空堀の底のようなところを地下鉄が走っていた。
地下鉄の軌道を地下に埋め戻したのはずっと後。
56日本@名無史さん:2011/12/18(日) 12:03:05.99
>>19

末盧国と言うのは、旧松浦4郡一帯の地域名です。

「有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。」
倭人伝のこの文章からは、漁労民の小集落が海岸沿いに点々と散在する姿が読みとれます。
韓地からの渡航者は、一旦は呼子などに入港するのでしょうが、上陸しても何も無いので、
湾内で仮泊後、舟で伊都まで向かうのだと思います。
末盧に官が置かれていないのは、広大な地域に漁村が散在するだけで、中心集落のようなものも無いからでしょう。
行政的には伊都の直轄扱いです。
また、伊都を中心に500里以内の隣接諸国には陸路の記録がありました。
これは、伊都に駐在していた郡吏が、記録したもので、末盧は陸路で行けないわけでは無かったようです。
57卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 12:52:16.47
>>56
末盧國の津は中原遺跡
鏡山(領巾振山)の西側には古松浦湖があり、その南岸が末盧の津。
古松浦湖の範囲:北虹の松原、東鏡山、西松浦川西岸、南中原遺跡

>漁労民の小集落が海岸沿いに点々と散在する姿が読みとれます。
そうです。古松浦湖沿岸と虹ノ松原沿いの唐津湾側に漁労民の小集落があったのです。

>(末盧國は)行政的には伊都の直轄扱いです。

卑弥呼が共立されるまでは、末盧國は伊都の直轄地でしたが、
卑弥呼共立後は、女王の直轄地となっています。
女王への文書等の検閲をしているので、
伊都國の職務権限外の作業を、女王は一大率にさせていたと考えられます。

>伊都を中心に500里以内の隣接諸国には陸路の記録がありました。

伊都國は、末盧國から東南方向に陸行五百里ですから、
観音峠越えで、佐賀市大和町(惣座遺跡)になります。

糸島福岡平野にあったのは倭奴國です。
倭奴國=イト國=伊都國=倭都國、「倭奴(イト)」は「倭都(イト)」の蔑称。
58卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 12:54:22.02
  
3世紀の唐津
∵∵┃〜〜↓一大國から 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵
∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜○浜玉漁港
∵∵∵┗┓↓〜〜〜〜〜〜〜唐津湾〜〜〜┏━━━‖┛∵∵∵∵
∵∵∵∵┃↓┏━━━━━━━━━━━━┛∵∵∵‖∵∵∵∵玉
∵∵∵∵┃↓┃∵∵∵∵虹の松原∵∵∵∵∵∵∵∵‖∵∵∵∵島
∵唐津○┃↓┗━━━━━━━━┓∵∵∵∵∵∵∵‖∵∵∵∵川
∵∵∵∵┃└→┐○東唐津〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵┗=====
∵∵∵∵┗┓〜↓古松浦湖〜┏━┛∵∵∵┌→→→→→→→→→
∵∵∵∵∵┗┓└→→┐〜┏┛∵鏡山∵∵↑∵∵∵∵∵伊都國へ
∵∵∵∵∵∵┗┓古〜↓〜┃∵∵∵▲∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵∵┃松〜↓〜┗┓(領巾振山)↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵高尾山∵∵┃浦〜↓〜〜┃∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵▲∵∵┏┛湖┏◎━━┛∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┃〜〜┃└→→→→→→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┃〜┏┛中原遺跡∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┗‖┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵松浦川‖∵∵▲夕日山∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
5956:2011/12/18(日) 13:28:03.69
>>57

>卑弥呼共立後は、女王の直轄地となっています。

タテマエ上は、末盧だけでは無く、以北諸国全てが一大率の管轄下ですよ。
では、伊都は末盧などと同格の国でしょうか?
伊都は、奴などより格上で、特別の待遇を受けていたと思います。
その待遇が一大率です。
一大率は伊都で常治しますが、これは伊都王が一大率の権能を行使していたことを表します。
さらに、奴以下の玄海諸国の副官・卑奴母離も伊都王の派遣官です。
伊都国王とは、伊都一国の王では無く、玄海諸国6カ国の王なのです。
女王は、伊都王を通じて玄海諸国を治めることが出来たのですが、それを対外的に示すものが一大率。
タテマエ上は女王配下ですが、実質的には伊都王そのもの。
伊都王が女王に統属するとは、こう言う実態を表現したところのもです。
60日本@名無史さん:2011/12/18(日) 14:31:35.93
>>58
松浦川は現在のように唐津湾には流れていませんでした。
徳須恵川(旧波多川)とは合流せず、鏡山の麓を巻くように流れ玉島川と合流し浜玉の大江に注いでいたと考えられます。
地元の人間が言うので間違いありません。
61卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 16:14:16.58
>>60
>地元の人間が言うので間違いありません。

バカ言ってはいけません。
水は低きから高きには流れません。
鏡山の北側(干居)をどの様にして水は越えるのでしょうか?
62卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 16:15:11.14
弥生時代の唐津
∵∵┃〜〜↓一大國から 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵
∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜○浜玉漁港
∵∵∵┗┓↓〜〜〜〜〜〜〜唐津湾〜〜〜┏━━━━┛∵∵∵∵
∵∵∵∵┃↓┏━━━━━━━━━━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵玉
∵∵∵∵┃↓┃∵∵∵∵虹の松原∵∵∵∵∵∵┏━━━┓∵∵島
∵唐津○┃↓┗━━━━━━━━━━━━━━┛〜〜〜┗━┓川
∵∵∵∵┃└→┐○東唐津〜〜古松浦湾〜〜〜〜┏━┓〜〜==
∵∵∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━┛∵┗━━┛∵
∵∵∵∵∵┗┓└→→┐〜┏┛∵鏡山∵∵┌→→→→→→→→→
∵∵∵∵∵∵┗┓古〜↓〜┃∵∵∵▲∵∵↑∵∵∵∵∵伊都國へ
∵∵∵∵∵∵∵┃松〜↓〜┗┓(領巾振山)↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵高尾山∵∵┃浦〜↓〜〜┗━━━━┓↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵▲∵∵┏┛湾┏◎┐┓〜〜〜〜〜┃↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
徳∵∵∵∵┏┛〜〜┃中↓┃〜┏━━━┛↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
須∵∵∵┏┛〜〜〜┃原↓┃〜┃┌→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵
恵∵┏━┛〜〜〜〜┃遺↓┗━┛↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
川┏┛〜〜〜〜〜〜┃跡└→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
 ==〜〜〜┏━‖━┛∵▲夕日山∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵┗━━━┛∵‖∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵∵‖松浦川∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵▲霧差山∵‖∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
上記古松浦湾は縄文後期の最大範囲を記したものである。
13世紀元寇の頃でも中原遺跡は古松浦湾に隣接していた。
63卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 16:45:51.34
>>59
>伊都は末盧などと同格の国でしょうか?

末盧國は官不在の国ですから、官がいる国々より格下です。

>伊都は、奴などより格上で、特別の待遇を受けていたと思います。

特別の待遇とは、伊都國には世有王がいて彼等は旧体制(卑弥呼共立以前)からの王だと云うことです。
64日本@名無史さん:2011/12/18(日) 17:41:36.86
なぜ干居(ひすわる)という名前がついたのか分かりますか?
治水工事を行ったのは寺沢志麻の守ですよ。
松浦川と徳須恵川の間は氾濫平野とはいっても作物の出来ない湿地帯でした。
それを大規模な治水工事によって耕地に変えたのです。
65卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 18:27:01.14
>>64
>なぜ干居(ひすわる)という名前がついたのか分かりますか?
>治水工事を行ったのは寺沢志麻の守ですよ。

干居(ひつばる)に氾濫する横田川に護岸工事を施し、
干居(ひつばる)の水を、西方の松浦川方面に放水できるようにしたのです。

>松浦川と徳須恵川の間は氾濫平野とはいっても作物の出来ない湿地帯でした。

徳須恵川の鬼塚橋本付近は、氾濫平野と言うより、古松浦湖の湖底だったところです。
66日本@名無史さん:2011/12/18(日) 21:08:12.16
横田川は天井川
昔は川じゃありませんでした
67日本@名無史さん:2011/12/18(日) 21:12:59.89
ここの皆さんも本質的に或いは潜在的に論争が好きそうだ…
68卑弥呼の都は久留米:2011/12/18(日) 21:39:03.38
末盧國中心部(3世紀の唐津)
∵∵┃〜〜↓一大國から 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵
∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜○浜玉漁港
∵∵∵┗┓↓〜〜〜〜〜〜〜唐津湾〜〜〜┏━━━┓┃∵∵∵∵
∵∵∵∵┃↓┏━━━━━━━━━━━━┛∵∵∵┃┗┓∵∵玉
∵∵∵∵┃↓┃∵∵∵∵虹の松原∵∵∵∵∵┏┓∵┃大┗┓∵島
∵唐津○┃↓┗━━━━━━━━━━━━━┛┃∵┗┓江┗┓川
∵∵∵∵┃└→┐○東唐津〜〜┏━━━━━‖┛∵∵┗┓〜==
∵∵∵∵┗┓〜↓古松浦湖〜┏┛∵∵∵∵∵‖∵∵∵∵┗━┛∵
∵∵∵∵∵┗┓└→→┐〜┏┛∵鏡山∵∵┌‖→→→→→→→→
∵∵∵∵∵∵┗┓古〜↓〜┃∵∵∵▲∵∵↑‖∵∵∵∵伊都國へ
∵∵∵∵∵∵∵┃松〜↓〜┗┓(領巾振山)↑横田川∵∵∵∵∵∵
∵∵高尾山∵∵┃浦〜↓〜〜┃∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵▲∵∵┏┛湖┏◎━━┛∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
徳須恵川∵∵┃〜〜┃└→→→→→→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵======〜┏┛中原遺跡∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┗‖┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵松浦川‖∵∵▲夕日山∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
69日本@名無史さん:2011/12/19(月) 09:19:26.32
玉島川の昔の名前をめづら川といいます。
なぜ松浦川とめづら川、二つも同じ名前の川があるのか不思議ですが、実は簡単な話しで昔は同じ流れであったからです。
70日本@名無史さん:2011/12/19(月) 10:57:54.27
Wikipediaで松浦川を調べてもらえばわかります。
ただ虹ノ松原駅付近に河口があったとは考えられません。
満島山(今の唐津城)から続く虹ノ松原は元来砂丘で現在でも海抜5~6mはあると思います。
横田川は唐人川と呼ばれ、松浦川に合流しておりました。
71卑弥呼の都は久留米:2011/12/19(月) 14:15:04.16
>>69
>玉島川の昔の名前をめづら川といいます。
>なぜ松浦川とめづら川、二つも同じ名前の川があるのか不思議ですが、
>実は簡単な話しで昔は同じ流れであったからです。

そのように思います。
虹の松原浜堤が、玉島橋のところで未だつながっていた時、
玉島川の水は鏡山の北側を通って松浦川方面に流れていました。


>>70
>ただ虹ノ松原駅付近に河口があったとは考えられません。
>満島山(今の唐津城)から続く虹ノ松原は元来砂丘で現在でも海抜5~6mはあると思います。

虹ノ松原駅付近に河口があった時代はありません。
満島山(今の唐津城)の付近がどの時代にあっても唐津湾への開口部です。
地形的には満島山の西側が本来の開口部となるのですが、
現在の開口部は満島山の東側舞鶴橋のところとなっています。
この水路は、高さ約5mの虹の松原浜堤を人工的に開削して水路にしています。

>Wikipediaで松浦川を調べてもらえばわかります。
Wikipediaに間違ったことを書いた奴がいる。

>横田川は唐人川と呼ばれ、松浦川に合流しておりました。
何故唐人川と呼ばれたのでしょうか?
博多には唐人浜と呼ばれる海岸がありますね。
72日本@名無史さん:2011/12/21(水) 16:36:25.99
age
73卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/21(水) 18:28:52.36
いつのまにかスレが新しくなっていたのに気付かなかったw

あいかわらず行程記事についての論争が続いているようだが、伊都国まで来たのは帯方郡使ではない。交易商人か旅行者である。
郡使が来たのなら、南至投馬国水行二十日 南至邪馬台国水行十日陸行一月 などという意味不明なことを書くはずがない。

たしかに張政らは倭国に来た。しかし張政らが日本に来たのなら日本の地理についてまちがうはずがない。
だから張政らが来た倭国は日本ではない。朝鮮の倭国である。
74卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/21(水) 18:33:43.41
これまでほとんどの人が卑弥呼は日本にいたと考えた理由の一つが、九州北岸から金印が出たことである。
しかし三浦佑之「金印偽造事件」を読むと、金印は偽物である可能性がある。
私は三浦氏の説に賛同する。金印は偽物である。

ただし金印は偽物でも倭奴国は奴国である可能性はあるのだが。
75日本@名無史さん:2011/12/21(水) 20:04:19.58
△鏡や箸墓も偽造の可能性がある
76日本@名無史さん:2011/12/21(水) 20:05:20.78
江戸時代、身銭を切って金印を偽造する馬鹿がどこにいる?
77卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/22(木) 09:27:28.75
>>76
読めば分かる。尤も、読んでも、いや、偽物ではない、と判断する人もいるだろうが。

テン王之印も怪しい。というのは、この金印も、遺跡から遠く離れた何でもない場所の土の中からひょっこり出てきたからだ。
女の作業員がスコップで掬った土の中からひょっくり出てきたのだという。
普通、金印のようなものがそんな中から偶然出てくるか?
78日本@名無史さん:2011/12/22(木) 09:34:20.78
>末盧國は官不在の国ですから、官がいる国々より格下です。
書いてないからいないと思うのは浅はかな考えだ。

>伊都國には世有王がいて彼等は旧体制(卑弥呼共立以前)からの王だと云うことです。
王はどこの国にもいたんだよ。



79日本@名無史さん:2011/12/22(木) 09:56:10.29
奴国・・・ナラ。(朝鮮高句麗系古語)
80卑弥呼の都は久留米:2011/12/22(木) 13:26:22.01
>>伊都國には世有王がいて彼等は旧体制(卑弥呼共立以前)からの王だと云うことです。
>王はどこの国にもいたんだよ。

3世紀の倭に王がいたのは、

伊都國 : 世有王
邪馬壹國 : 卑弥呼、壹與
狗奴國 : 卑彌弓呼
国名不明 : 男王
81卑弥呼の都は久留米:2011/12/22(木) 14:15:41.28
末盧國中心部(3世紀の唐津)  改定版
∵∵┃〜〜↓一大國から 〜〜〜〜唐津湾〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵
∵∵┃〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜唐津湾〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵
∵∵┗┓〜↓満島山〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜○浜玉漁港
∵∵∵┗┓↓▲━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓┃∵∵∵∵
∵∵∵∵┃↓┗┓┗━━━━━━━━━━━━┛○┛┗┓∵∵玉
∵唐津○┃└┐┗━┓∵∵∵∵虹の松原┏━━┓┃浜崎┗┓∵島
∵∵∵∵┗┓└┐〜○━━━━━━━━┛┏‖┛┗┓〜大┗┓川
∵∵∵∵∵┗┓↓〜東唐津〜┏━━━━━┛‖∵∵┗━┓江==
∵∵∵∵∵∵┃↓〜〜古〜┏┛∵∵∵∵∵∵‖横田川∵┗━┛∵
∵∵∵∵∵∵┃└→┐松┏┛∵∵鏡山∵∵┌→→→→→→→→→
∵∵∵∵∵∵┗┓〜↓浦┃∵∵∵∵▲∵∵↑∵∵∵∵∵伊都國へ
∵∵∵∵∵∵∵┃〜↓湖┗┓∵(領巾振山)↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵高尾山∵∵┃〜└┐〜┗┓∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵▲∵∵┏┛〜┏◎━━┛∵∵∵∵∵↑魏使ルート∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┃〜〜┃└→→→→→→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵
徳須恵川∵∵┃〜〜┃中原遺跡∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵======〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵∵∵┗‖┛∵∵▲夕日山∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
∵∵∵∵松浦川‖∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
82日本@名無史さん:2011/12/22(木) 21:41:10.04
今日面白い邪馬台国論を見た。大阪で発行されている月刊誌でNという近畿説
学者が書いている記事で、50円のおつりを50万円と言って景気が良いように見
せかける飲み屋のように、中国の古代は将軍が1万人の敵を破っても10万人の
敵に勝ったというように10倍の値を報告したそうだ。報告を受ける方も判って
いて実際は10分の1だと理解したらしい。
その先生の記事では倭人伝の数字は上の例のようにすべて10分の1で理解すれ
ば良いとのこと。12,000里は1,200里(長里で530kmくらい)、水行10日は水行
1日、径100歩は10歩だそうである。
しかしソウルから530kmならとても近畿には届かないと思うが、それでもこ
の先生はまじで近畿説を書いているのでーーーー?








83日本@名無史さん:2011/12/22(木) 21:48:21.40
>>82
それなら邪馬台国を、秦の始皇帝が徐福に行かせた蓬莱山として
大げさに脚色して書いたほうがいいだろう。
でも、決してそうは書かなかったわけだ。
84サガミハラハラ:2011/12/23(金) 07:38:56.09
後漢書に「国、皆王を称し、世世統を伝う。」とあります。
85日本@名無史さん:2011/12/23(金) 10:44:13.00
天皇の直系男子でなければ天皇になれなくなったのは継体の頃からだし、
その前は諸王の合議制だったのだろう。
共和制ローマが帝政に移ったように、邪馬台国も帝政に移行していったのです。
313年にコンスタンティヌス1世が、首都をローマからコンスタンティノポリスへ遷し
テオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。
このやり方も大和朝廷の東遷し、神を伊勢に移した経緯とそっくりです。

西ローマ帝国は経済的、軍事的基盤が弱く、ゲルマン人の侵入に抗せず476年に滅亡。
邪馬台国もゲルマン人というか匈奴ツングース系の毛野氏や大伴氏の侵入で滅んだのです。

世界はひとつ。歴史は繰り返すものです。
86卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/23(金) 12:22:33.45
毛野氏や大伴氏が匈奴ツングース系だという証拠は?
87日本@名無史さん:2011/12/23(金) 12:51:21.22
おめはツングースでねえのけ?
んなこと北関東の毛野氏の子孫ならだれでもわかっぺ?
んだべ〜?

日本語覚えて何代たっても、「ん」系の言葉から抜け出せないのが特徴です。
88日本@名無史さん:2011/12/23(金) 13:33:45.63
毛野氏は崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する。
大伴氏は天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる。
8919歳某国立大生:2011/12/24(土) 10:34:47.07
陸行一月も魏使が歩くのはどう考えてもないわ。
西日本の街道整備に着手するのは奈良時代以降でしょ。
前も見えない獣道を豪勢な下賜品背負って一月も歩くわけないw
90日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:50:16.41
>>88
・・を称するという場合、地方豪族や渡来人が権威付のため仮冒している場合が多いようです。
もしくは、支配階級だけの話である場合もあります。
住んでいる住民はそのままで殿様だけ変わるものなのです。
んだべ?
91卑弥呼は九州にいた:2011/12/24(土) 12:32:37.56
>>89
まだそんなことを論じているのかw 日本に来たのは郡使ではないと何度も言っているのに。
>>90
んだんだ、と言いたいが、毛野氏も大伴氏も新撰姓氏録の諸蕃の部に入ってないから帰化人ではないなw
92日本@名無史さん:2011/12/24(土) 13:06:26.60
文献を抜きにして考古学の視点からの九州説の根拠って例えば何があります?
93日本@名無史さん:2011/12/24(土) 13:36:30.23
>>92

倭国の前身である倭奴国の金印の出土。
魏志倭人伝に記述のある鉄鏃の分布。
魏志倭人伝に記述のある弥生の絹の分布。
楼観跡と城柵跡の同時出土。
94日本@名無史さん:2011/12/24(土) 13:52:56.13
>>93
あと矛の分布や戦さの痕跡。
銅鐸みたいな魏志倭人伝には記されていない変な物が出土しない。
95日本@名無史さん:2011/12/24(土) 14:00:48.90
考古学的視点でみると圧倒的に九州が有利だね
中でも北部九州かな?
96日本@名無史さん:2011/12/24(土) 14:31:24.57
「魏志倭人伝に記載のない多数の古墳」がない場所であること。
97卑弥呼は九州にいた:2011/12/24(土) 14:44:15.45
漢委奴国王の金印は偽物
98日本@名無史さん:2011/12/24(土) 15:02:00.19
>>97
もはや独り言レベルw
99日本@名無史さん:2011/12/24(土) 15:06:08.02
畿内は倭種の国々だな
100日本@名無史さん:2011/12/24(土) 19:21:56.50
100
101日本@名無史さん:2011/12/24(土) 22:13:52.62

  .             /⌒>○
              /,,,,,,,,,,,,|
              (,,,,,,,,,,,,,,,) ̄\
              (´∀` )  ) )  ☆ メリー・クリスマス!!
       o())o__てO二 ̄ ̄~) )  )
       / /||(二ニ) (☆☆). _/
   γ ⌒ /|V||彡Vミ/⌒_ノ二二ノl0ドルルル
   l| (◎).|l |((||((゚ )(⌒)/||三三・) | ||  (´⌒(´
__ ゝ__ノ     ̄ ̄ ̄ ̄  ゝ__ノ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡ブルルルル♪♪
102日本@名無史さん:2011/12/24(土) 22:43:41.15
関係ないっちゃ関係ないんだが、
出土している銅器鋳型

九州で270
それ以外で44

鋳型は、石彫鋳型や砂型、粘土型などがあるが、
九州の場合は非常に石型が多いそうな。

春日のように、両方出てくるところもあるから、
技術がないわけではないが、
石を掘った型に命をかけていたらしい。
103卑弥呼の都は久留米:2011/12/25(日) 12:23:34.24
>鋳型は、石彫鋳型や砂型、粘土型などがあるが、
>九州の場合は非常に石型が多いそうな。

鋳型は何を鋳込んだかを示しているに過ぎない。

石型は模様のない鋳物であることを示している。(剣、矛、鏃、ミニ鋳物 等)

砂型は残らない。

粘土型は模様の複雑な精密鋳物用であることを示している。(鏡、鐸 等)
粘土型ではガス抜き用の木屑、籾殻、糠等を粘土に混入できるから。

104日本@名無史さん:2011/12/25(日) 12:26:21.50
手の込んだことを
105日本@名無史さん:2011/12/25(日) 12:27:05.89
恥知らずの自演は九州王朝
106卑弥呼の都は久留米:2011/12/25(日) 12:44:59.28
>>102
自演じゃないことを示してやったら。
107卑弥呼の都は久留米:2011/12/25(日) 13:04:30.32
  
「國出鐵、韓、濊、倭皆從取之」魏志韓伝

この鉄原料は何なのか?

考えられるものは3つある。
@鉄鉱石
A砂鉄
Bリモナイト(沼鉄鉱)

どれでしょう。
この鉄は楽浪郡にも供給していたのだ。

108日本@名無史さん:2011/12/25(日) 13:12:33.60
>>103

>>石型は模様のない鋳物であることを示している。(剣、矛、鏃、ミニ鋳物 等)

考えるとそう思うだろうが、九州の鋳型はたいてい石の型だから
ググって見ればいい。
小型銅鐸まであるが、非常に精密な模様を刻んだ石型である。
中子は粘土で作られていたりする。
109卑弥呼の都は久留米:2011/12/25(日) 13:42:47.30
>>103
>小型銅鐸まであるが、非常に精密な模様を刻んだ石型である。
>中子は粘土で作られていたりする。

小型鋳物なら、ガス抜きに神経を使う必要がないから石型で十分。
中子は粘土か砂にしないと鋳物として取り出せない。
110日本@名無史さん:2011/12/25(日) 15:52:15.36
かなり理にかなっており、
使い分けてたってことですな。
111卑弥呼の都は久留米:2011/12/25(日) 17:51:06.00
>>107の続き

弁辰地域の鉄原料の可能性

@鉄鉱石(赤鉄鉱、磁鉄鉱 等)
  鉄鉱石の鉱脈が弁辰地域にはない。

A砂鉄
  楽浪郡や濊が鉄供給を受けるほどの豊富な砂鉄産地はない。

Bリモナイト(沼鉄鉱)
  洛東江内陸部下流域にある。阿蘇に匹敵する大産地もある。
  なお、九州のリモナイト産地は、阿蘇、菊池、筑豊の三ヶ所。
112日本@名無史さん:2011/12/25(日) 19:32:46.64
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_130.htm

こういうページがありました。
ご参考までに。
113日本@名無史さん:2011/12/25(日) 21:23:05.93

これは必見
【2011.12.23】フジテレビ 現地生ロケ中に偏向報道抗議!
http://www.youtube.com/watch?v=uH0EKB-v5Ns
114卑弥呼の都は久留米:2011/12/27(火) 21:10:01.53
>>112
ご参考ありがとう。

筆者は冶金的な刀の専門家であって製鉄については素人のようです。
古代の製鉄原料は、砂鉄と鉄鉱石(赤鉄鉱磁鉄鉱等)だけと決め込んでいる。
115竹斯の民:2011/12/27(火) 22:56:53.71
「倭の五王」の話しようよ。
116竹斯の民:2011/12/27(火) 23:03:47.89
折角、伊作氏も年末年始休暇で里帰りなのでごちゃごちゃ言われんやろうし、今、論を深めんバ。
117卑弥呼の都は久留米:2011/12/28(水) 12:13:58.19
「倭の五王」は「倭の七王」のうち宋書に記載された5人

@倭旨 ?年〜368年〜?年
A倭讃 ?年〜421年〜425年〜?年
B倭珍(倭彌) ?年〜?年
C倭濟 ?年〜443年〜450年
D倭興 451年〜477年
E倭武 478年〜502年〜?年
F倭薈 417年〜529年 531年死亡

東九州を統一したのは誰か? 倭旨か?
水沼の君は誰か?
118日本@名無史さん:2011/12/28(水) 13:33:58.93
ここって九州王朝スレ?
119筑紫次郎:2011/12/28(水) 13:52:14.59
九州王朝と呼ばれている勢力は邪馬台国・卑弥呼とは別の勢力です。
倭国大乱で邪馬台国と戦ったのがこの勢力です。
邪魔、妨害が入らなければ

末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の比定地。
卑弥呼が朝貢した目的。
魏が卑弥呼を倭王に任じて勅使を派遣した理由。
卑弥呼に大量の賜物を与えた訳。
倭国大乱の原因。
邪馬台国がその後どうなったか?

などについて述べたい。
120筑紫次郎:2011/12/28(水) 14:04:30.98
勅使は邪馬台国まで行ってないとか、
陳寿が複数の情報から倭人伝を書いたとか、
陳寿の記載した方角は間違っているとか、
距離は当てにならないとか、
アホな主張がまかり通っている。

揚げ句の果てには
距離、方角は間違っていると主張しながら
何の根拠も提示せず
水行陸行戸数は正しいと決めつけて邪馬台国の場所を比定する。

根拠は妄想と語呂合わせだけ。
実に嘆かわしい限りである。
121筑紫次郎:2011/12/28(水) 14:15:14.35
魏帝は何のために勅使を派遣したのか?
何故卑弥呼を特別に優遇したのか?
勅使は何度も倭国へ来ている。
何の目的もなく遙かに離れた未開の地へ何度も来ようはずもない。
また
天才とも言われた陳寿が
その理由も記載してないとも考えられない。

倭人伝は場所比定だけのためにあるのではない。
それらにたどり着けない解釈は全て間違いだろう。
122筑紫次郎:2011/12/28(水) 14:30:29.98
倭人伝には補足説明が一切無い。
当時は
補足説明をすれば間延びした駄文になると考えられていたそうである。
ただひたすら、簡潔に
事実だけを記載して補足説明しなくても判るように書くのが優れた文章だったのである。

しかし
事実だけを記載して補足説明なしで、
その文の意味する事を読み取れ、と言うからには
いい加減な情報は完全に排除して正確な情報だけを記載する必要がある。
出鱈目な情報を記載してその裏にあるものを読み取る事は不可能だからである。

方角も距離も間違え、水行陸行の情報は他の情報を混入させた、
などというアホな主張は噴飯ものだ。
123筑紫次郎:2011/12/28(水) 15:01:20.29
陳寿は情報を徹底的に調査して間違いのない情報だけを記載したと言われている。
事実を記載することにより補足説明をしなくても判るように書く、というからには当然の話である。

何故倭人伝の謎が解けないのか?
それは
予断、恣意的解釈、勝手な思いこみによって倭人伝をねじ曲げてしまうからである。
理解できない記述、都合の悪い記述を全て倭人伝の間違いにしてしまうからである。

その連中の手にかかり
倭人伝は細切れにされて信頼性は完全に失墜してしまった。

伊都国は糸島に比定されているが
そうだとすれば
倭人伝は方角が違う、距離が違う(伊都国、奴国の五百里、百里)
伊都国の人口が違う
揚げ句の果てには
不弥国から先へは山へ向かって陸路を水行したと書いてある。

ここで問題なのは
これだけの致命的な矛盾がありながら
伊都国が糸島にあった確証は皆無だという事である。

しかし、
方角と距離が間違ってないとすれば
伊都国は佐賀平野にあったことになる。
佐賀平野へ進めば倭人伝に矛盾無く進めるのだろうか?
124卑弥呼の都は久留米:2011/12/28(水) 15:02:13.87
>末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の比定地。

国域
末盧國:唐津市
伊都國:佐賀市大和町
奴國:佐賀平野
不彌國:神崎市・吉野ヶ里町・上峰町
投馬國:みやき町・久留米市西部・筑後平野沿岸部・大牟田市
邪馬臺國:北野平野・久留米市・広川町・八女市

>卑弥呼が朝貢した目的
>魏が卑弥呼を倭王に任じて勅使を派遣した理由。
>卑弥呼に大量の賜物を与えた訳。

卑弥呼は親呉勢力である狗奴國に対抗する為。
狗奴國は漢代の東鯷人の国。
魏は対呉対策。

>倭国大乱の原因
帥升の倭國に対して、旧勢力倭奴國と新興投馬國邪馬臺國連合の反乱

>邪馬台国がその後どうなったか?
邪馬臺國は、狗奴國から八女・みやまに侵入を受け、その八女侵入勢力(後の倭5王)に入れ替わった。
125卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/28(水) 19:03:39.47
>>124
批判するのも可哀想な気がするが、
末盧、伊都、奴、不弥、投馬、邪馬台に類似する地名があなたの比定地になければ、
大方の賛同は得られないと思いますよ。地名を無視することはできない。
126日本@名無史さん:2011/12/28(水) 21:55:45.14
>>125
批判するのも可哀想な気がするが、
現代の地名と3世紀の地名が類似している、または同じという証明が科学的に
行われたことは無い。地名を無視することができないならば、3世紀の地名と
現代の地名が同じ、または類似しているとの証明をして下さい。
127卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/28(水) 22:09:01.33
>>126
地名学者じゃないから何とも言えないが、過去に地名を佳字に変えよという令が出たことはあるが、音は変えていない。
地名というものはそう簡単には変わらないというのが常識では?
128卑弥呼の都は久留米:2011/12/29(木) 11:38:21.15
>>125
批判するのも可哀想な気がするが、
魏志倭人伝をまともに読めないようだ。
魏志倭人伝の地名が、表音地名よりも表意地名として重視されている。

對海國:半島から見て対海の国

一大國:海域の一大率をする国

末盧國:水行の果ての水辺の国(郡から水行し続けてきた果てに舟を降りる国)

伊都國:倭都(イト)の国 帥升の倭國の都

奴國:倭奴國の後継奴國(餘旁國の奴國)の分国
  帥升王統の倭国(倭面土國)の領域に新しく作った分国の奴國

不彌國:久しくない国、新しくできた国、
    帥升王統の倭国(倭面土國・筑志米多國)を監視する為にできた国

投馬國:馬を投げ捨てる馬不要の国、舟だけが交通手段となる海辺の国。
    倭国乱の時に筑後の海岸沿いの島国数ヶ国が統合してできた新しい国。

邪馬壹國:山の壹國(倭国)
    北野平野と筑後内陸部の数ヶ国以上が合併統合してできた新しい国。

129日本@名無史さん:2011/12/29(木) 11:43:08.43
>>128
>投馬國:馬を投げ捨てる馬不要の国、舟だけが交通手段となる海辺の国。

お前精神病治療中だろ
130卑弥呼の都は久留米:2011/12/29(木) 12:22:39.49
>>128に追加

狗奴國:親呉で女王國に敵対する、狗で奴な国
    後漢代の東シナ海海外の東鯷人の20余ヶ国を狗奴國と称した。


>>129
>お前精神病治療中だろ

もっとまともな反応がないのか?
お前こそ精神病治療中だろ
131日本@名無史さん:2011/12/29(木) 12:51:42.74
じろうちゃんおひさしぶり
132卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/29(木) 22:23:23.18
ここは人が少ないから、じっくりと随想的なことを書こう。

邪馬台国論争史を振り返ると、昔の学者ほど自由な発想をしていたように思う。
たとえば宣長は邪馬台国は大和、卑弥呼は神功だと考えたが、熊襲の女酋が勝手に神功を僭称したのだろうと考えた。
橋本増吉は邪馬台国は筑後山門と考えたが、投馬国、邪馬台国の行程記事はむしろ本州の方が適合していると考えた。
戦後の学者ほど、却って邪馬台国と卑弥呼をセットにして固定していて、自由な発想を失っているように思える。

それと江戸期の学者は日本人としての矜持が高かったので、倭人伝や陳寿をあまり信用していなかった。
戦後の学者はそれに比べると倭人伝をかなり高く評価している。
133卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/29(木) 22:46:17.94
私は卑弥呼は朝鮮にいたと主張しているのだが、最近少し考えが変わってきた。
宣長は倭の五王とは任那日本府の卿が勝手に倭王を名乗ったのだろうと言っているが、
卑弥呼もそれではあるまいか。つまり朝鮮の倭人が勝手に神功皇后を名乗ったのではないか、と。

松浦と宇美の地名が神功皇后に由来するとされているところをみると、神功は卑弥呼よりずっと以前の人で、
朝鮮の倭人にとって朝鮮の倭国建国の女王として伝説化されていたので、それを名乗ったのではなかろうか。
134日本@名無史さん:2011/12/29(木) 23:38:59.20
>私は卑弥呼は朝鮮にいたと主張しているのだが、最近少し考えが変わってきた。

そろそろ朝鮮総連から書くのをやめよう、っとことかな?
135日本@名無史さん:2011/12/30(金) 02:01:21.70
平松サイド  vs   橋下サイド

民主党         大阪市民
自民党          ν速民
共産党
財界
関西電力
連合
自治労
日教組
公務員
毎日新聞
MBS
解同
極左

大阪の敵が濃縮されてわかりやすくなったな
136筑紫次郎:2011/12/30(金) 14:12:42.94
延々と邪馬台国論争が続いているが
一向に決着する気配は無い。
いや、それどころか
とんでもない場所を邪馬台国の候補地として挙げる者が続出している。
つまり
解決に向かうどころか、
逆に益々混迷の度合いを深めているのである。

何故邪馬台国論争が解決に向かわないのか、
その原因はっきりしている。

水行二十日水行十日陸行一月の解釈が間違っているからだ。
郡が水行の起点だと言う主張は論外としても、
水行陸行の日数を距離に換算したりするのはとんだ的はずれである。

方角距離を記載しているのだから
陳寿は邪馬台国まで案内しているはずなのだが
そんな解釈をしたのでは到底邪馬台国へたどり着くのは不可能だ。
そればかりか
其餘旁國遠絶不可得詳
自郡至女王國萬二千餘里
周旋可五千餘里
とも齟齬してしまうことになってしまうからである。
137筑紫次郎:2011/12/30(金) 14:15:33.96
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東南至奴國百里
と言う記述からすれば
陳寿は邪馬台国まで間違いなく案内をしているはずである。

なのに
南至投馬國水行二十日
南至邪馬台國女王之所都水行十日陸行一月の
水行二十日水行十日陸行一月を所要日数だとすれば
邪馬台国までの案内を放棄したも同然である。
しかも
其餘旁國遠絶不可得詳
自郡至女王國萬二千餘里
周旋可五千餘里
とも齟齬してしまう。

陳寿は情報を徹底的に調査して間違いのない情報だけを記載したと言われている、
のが事実ならば
水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではなく
何か理由のある日数だったのである。
138筑紫次郎:2011/12/30(金) 14:31:43.63
水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではないとすれば
投馬国、邪馬台国までの距離も所要日数も一切記載してない事になる。
これでは
投馬国、邪馬台国の場所は判らないではないか。

いや、
実は陳寿は投馬国、邪馬台国の場所を記載しなかったどころか
間違いなくピンポイントで投馬国、邪馬台国の場所を教えているのである。

それは一体どう言う事かと言えば、
其餘旁國遠絶不可得詳の一文を挿入することにより、
不弥国と投馬国、投馬国と邪馬台国の間には
他の国は一国たりとも無かったと述べているからだ。
つまり
不弥国から南へ進んで最初にある国が投馬国であり、
投馬国から南へ進んで最初にある国が邪馬台国である、
と言う事なのである。
139日本@名無史さん:2011/12/30(金) 14:32:19.04
>>135

もう、ウザいから、いいかげんにやめろよ。
知事になってみるまで、東京都知事みたいな権限が無いことも知らなかったアフォのことなんかどうでもよいw
140筑紫次郎:2011/12/30(金) 14:35:29.82
当然記載すべきはずの
投馬国、邪馬台国までの距離は何故か記載してない。
その訳は
距離を記載できない理由があったからであり、
距離を記載しなくても投馬国、邪馬台国の場所は判るからである。

場所を教えるのには方角と距離が絶対に必要であり、
方角と距離さえ判れば場所は判る。
方角と距離の両方とも記載しなければ場所は特定できないのである。
しかし
方角と距離の両方を記載しなければ場所は判らないはずなのに
距離を記載しなくても方角だけで場所が判るとは
一体どう言う意味なのだろうか?

実は例外的に
距離を記載しなくても、方角だけで場所が判る場合があるのだ。
例えば
「北海道の南には青森県がある。」
「熊本県は福岡県の南にある。」
北海道の南には本州も四国も九州もある。
福岡県の南には鹿児島県も宮崎県も沖縄県もある。
しかし
位置を教える多くの場合は「南」と言うのは「すぐ南」と言う意味があるのだ。
「すぐ南」でなければ「南」だけでは場所を教えたことにならないからである。
無意識にせよ、そのような暗黙の了解があるからこそ
「すぐ南」の「すぐ」を省略して「南」と言う場合が多いのである。
暗黙の了解が無い人は「どれくらい南?」と聞かねばならないことになる。
141日本@名無史さん:2011/12/30(金) 14:35:45.51
使譯時通、記述隨事、豈常也哉!
142筑紫次郎:2011/12/30(金) 17:49:54.59
水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではない。
不弥国から南へ進んで最初にある国が投馬国であり、
投馬国から南へ進んで最初にある国が邪馬台国である。
不弥国のすぐ南に投馬国があり、
投馬国のすぐ南に邪馬台国がある。

これが事実ならば邪馬台国論争がここまで混迷する必要は無い。
確かに
「陳寿は情報を徹底的に調査して間違いのない情報だけを記載した」のが
事実だとすれば
これ以外の解釈はあり得ない。
其餘旁國遠絶不可得詳
自郡至女王國萬二千餘里
周旋可五千餘里
など、倭人伝の他の記述と矛盾することもない。
143筑紫次郎:2011/12/30(金) 17:51:23.02
しかし、文章として
水行陸行が所要日数ではないと言う解釈が読み方として可能なのか?
読み方として不自然すぎると言う事は無いのであろうか?

実はこれについては
中国人学者も次のように述べている。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
ここに出てくる「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は、
休日や節日やいろいろな事情によって、
ひまどって遅れたり鬼神への配慮などから
道を急ぐのを控えた日々などをひっくるめた総日数に、
修辞も加わって記されたものである。
決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。
‐‐‐途中省略‐‐‐
魏使一行が一日も休まずに水行し陸行した
強行日程数を記したものでないことは明らかである。
【季刊邪馬台国86号P.149・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
つまり、中国人学者も
【決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない】
【一日も休まずに水行し陸行した強行日程数を記したものでないことは明らかである。】と、
読み方として不自然すぎるどころか
水行陸行が所要日数ではないことを強く訴えているのである。
144日本@名無史さん:2011/12/30(金) 17:57:17.38
謝銘仁は放射式の読み方を否定してたな
145卑弥呼の都は久留米:2011/12/30(金) 18:06:37.69
>>140の書いたとおり。
不彌國の南の境界に投馬國と邪馬臺國があったのだ。
投馬國と邪馬臺國も東西に境界で分けられていることになる。

 一大国                    帯方郡        帯方郡
   ┃                       │           │
   ┃渡一海千余里「至」           │           │
┏━┻━┓                    │           │
┃末慮国┣━━━┓      水行二十日│     水行十日│「一万里」
┗━━━┛     ┃        「二万里」│   and陸行一月│「千里」
      南東陸行┃              │        [至]│
    五百里「到」 ┃              │           │
         ┏━┻━┓東行 百里「至」 │┏━━━━━┓│
         ┃伊都国┣━━━━━━━┿┫  不彌國  ┃│ 
         ┗━━━┸─┐      ┏┷┻━━┳━━┻┷┓
         東南百里「至」│      ┃  投馬国┃邪馬壹国┃
                  │      ┗━━━━┻━━━━┛
               ┏━┷┓    
                ┃奴国┃
               ┗━━┛
146筑紫次郎:2011/12/30(金) 18:36:24.89
>>140の書いたとおり。
不彌國の南の境界に投馬國と邪馬臺國があったのだ。

いや、
放射式では説明を付けることができなかったので
私は直列式です。

>投馬國と邪馬臺國も東西に境界で分けられていることになる。

不弥国起点の
より合理的な説明ができるように健闘を期待しています。
147卑弥呼の都は久留米:2011/12/30(金) 18:52:43.36
  
水行二十日=20000里=20日×1000里/水行1日
帯方郡→狗邪韓國→對海國→一大國→末盧國→(平戸島・角力灘・天草灘・早瀬瀬戸・島原湾・有明海)→投馬國
=7000里+1000里+1000里+1000里+10000里

水行十日=10000里=10日×1000里/水行1日
帯方郡→狗邪韓國→對海國→一大國→末盧國
=7000里+1000里+1000里+1000里

陸行一月=1000里=1月×1000里/陸行1月
末盧國→伊都國→不彌國→邪馬壹國
=500里+100里+500里(邪馬壹國国内道程) 
148日本@名無史さん:2011/12/30(金) 19:24:43.63

朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作していた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。

Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社

−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ 09.3

149日本@名無史さん:2011/12/30(金) 19:28:59.44
http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=wuDOebvhhe0


YOUTUBEにやたら投稿してるこの爺さんは誰だ?
邪馬台国研究者の間では有名人なんじゃないのか?
この爺さんも九州説らしいが。
150日本@名無史さん:2011/12/30(金) 19:42:32.59

http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%88%B0
>字の初形は、至と人とに従う。至は矢の到達するところ、そこに人の立つ形である

到という字が用いられてるのは、実際に人が移動した行程
至と到は明確に使い分けられている
151日本@名無史さん:2011/12/30(金) 20:44:59.00
>>150
使い分けられる場面と、通用する場面とがある。
そこをきちんと理解しないと、字が違うから使い分けするんだという頓珍漢なことになる。
倭人伝は通用している。
152卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/30(金) 21:26:41.26
古代には豊の付く名前の女性がかなりいる。

豊玉姫 豊鍬入姫 先代旧事本紀で神功の妹とされるトヨヒメ 豊御食炊屋姫 飯豊青皇女…
それから琉球のキコエ大君(卑弥呼と同じようなシャーマン的女王)を別名トヨム・セダカコというそうである。

とくに神功の妹がトヨヒメとされているのが興味深い。
153卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/30(金) 21:31:04.47
倭人伝を読むとヒミコとトヨのことがいかにも史実らしく書かれているが、必ずしも史実とは断定できない。
神功とその妹トヨヒメの伝説が混入している可能性もある。

郡使が実際にヒミコやトヨに会ったかどうかは確定的ではない。会っていないという学者もいる。
154日本@名無史さん:2011/12/30(金) 21:35:30.34
至と到を使い分けていたか否かは余り重要じゃないと思うが
155日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:08:19.46
至と到:使い分けのあるなしは、どちらとも言えるので、これを根拠に何も立証できない。
156日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:33:39.85
「至」と「到」の語法がどうだという議論よりも、もっと明白なこと。
魏の皇帝の使者が、卑弥呼のいる宮殿を訪れていないことは有り得ないこと。

これを訪れずに、いい加減に報告したとする議論は、成り立ちにくい。
もし卑弥呼の宮殿まで行けなかったなら、行ったところまでを報告すればいいだけ(張騫のように)。
帰朝してからの処罰が怖いなら、逃げるだろう(徐福のように)。
157日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:37:13.59
卑弥呼のいた宮殿が邪馬台国の都の宮殿だったとは限らない
158日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:41:51.19
めったに人前に出ないんだから、
宮殿というほどのものがあったかどうか。

派手な舞台装置は人目についた時役に立つ。
159日本@名無史さん:2011/12/30(金) 23:51:17.16
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。
160日本@名無史さん:2011/12/31(土) 00:47:40.46
>>151
>倭人伝は通用している。
倭人伝も使い分けているよ。到は一区切りついたところに使っているんだ。
韓国の終わりの狗邪韓国、放射式出発点の伊都国という具合にね。
161日本@名無史さん:2011/12/31(土) 01:37:13.07
「郡使往來常所駐」
放射式でも連続式でも伊都国で一区切りでいいんじゃないかね。
162卑弥呼の都は久留米:2011/12/31(土) 01:58:24.14
>卑弥呼のいた宮殿が邪馬台国の都の宮殿だったとは限らない

そうだ。
卑弥呼のいた宮殿は女王國の都の宮殿だ。
女王國の宮殿が邪馬臺國にあるのだ。
邪馬臺國の城郭は、卑弥呼の宮殿とは別のもので、
邪馬臺國の官伊支馬がいるところ。

邪馬臺國の官伊支馬がいる城郭は、不彌國の城郭(吉野ヶ里遺跡)から400里の距離にある。
即ち、
邪馬臺國の官伊支馬がいる城郭は、末盧國の津から陸行一月(1000里)の距離にある。
邪馬臺國の官伊支馬がいる城郭は、八女か瀬高(山門)にあることになる。

卑弥呼の宮殿は久留米南部にある。
163日本@名無史さん:2011/12/31(土) 02:32:48.63
>>160
と信じてるだけだろう。
倭人伝以外で、そのような使い分けは確認されない。
倭人伝だけに特殊な使い分けが適用される論理的な根拠がない。
164日本@名無史さん:2011/12/31(土) 02:42:51.54
つーかトルバン出土の三国志呉書の晋代写本(部分)を見れば
1192字中に「紹煕本」と画数の同じでない字が416字で全体の1/3以上。
特に偏の省略や改変が多い。「免」と「勉」「俛」と「勉」などだな。
「至」「到」にしても筆者の段階だ変えられた可能性があり
原本がどうだったかわからんよ。
165卑弥呼の都は久留米:2011/12/31(土) 02:53:48.09
>>162の修正
瀬高は、3世紀では海辺であったから、海洋国の投馬國である。
ちなみに、邪馬臺國は内陸国。山の大倭(タイ)国
166日本@名無史さん:2011/12/31(土) 03:01:32.37
>>163
その通り。
漢字の新しい意味を創作するアホが多すぎる。
有りもしない意味をどこから持ってくるのか?
アホの思考回路は到底理解できん。
167日本@名無史さん:2011/12/31(土) 05:42:21.11
じろうちゃんの説が一番しっくりくる
168日本@名無史さん:2011/12/31(土) 08:31:55.23
指宿の橋牟礼川遺跡
縄文から弥生、平安時代にかけての遺跡が重層的に積みあがった地域。
弥生時代末期には九州最大の勢力であったと思われます。
魏志倭人伝の方向、距離に最も近いのがこの辺だと思われます。
169日本@名無史さん:2011/12/31(土) 08:34:42.68
王墓候補がないし、複合遺跡はどこにでもある
170日本@名無史さん:2011/12/31(土) 09:11:49.23
奈良の神武天皇陵だって江戸末期に急ごしらえしたわけだし、
そんなものは伝承に基づいてこしらえればいいんだよ。
そうすれば数百年後には晴れて卑弥呼の墓になる。
171卑弥呼の都は久留米:2011/12/31(土) 15:54:43.50
>>151
>>163
>>166
>>到は一区切りついたところに使っているんだ。
>倭人伝以外で、そのような使い分けは確認されない。

「到」と「至」の使い分けが無いことを説明してくれ。
「到底」「到達」「到来」と云う言葉はあるが、
「至底」「至達」「至来」という言葉はない。
何故なのか?説明してくれ。

>>150氏の様には、説明できないだろう。


「到」と「至」は使い分けられているのだ。
172日本@名無史さん:2011/12/31(土) 16:52:31.44
173日本@名無史さん:2011/12/31(土) 17:15:04.23
174日本@名無史さん:2011/12/31(土) 21:34:19.68
>>163
>倭人伝以外で、そのような使い分けは確認されない。
魏略西域傳でも読んでみることだ。

從玉門關西出、發都護井、回三隴沙北頭、經居盧倉、從沙西井轉西北、
過龍堆、到故樓蘭、轉西詣龜茲、至葱領、爲中道。從玉門關西北出、經
横坑、辟三隴沙及龍堆、出五船北、到車師界戊己校尉所治高昌、轉西與
中道合龜茲、爲新道。

到と至がちゃんと使い分けられているだろ。
175卑弥呼の都は久留米:2011/12/31(土) 22:38:31.06
>>174
到と至がはっきりと使い分けられている例をよく見つけました。
パチパチパチ 拍手

使い分けられていると誰が見てもはっきりわかる例を探すのは結構面倒なんですね。
176卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/31(土) 22:54:51.52
>>174
訳してくれなければ使い分けられているかどうかは不明。
また仮に使い分けられているとしても、水行、水行、陸行とあるからには九州説は不利だろう。
不弥国から水行では九州内陸部へは行けないから。
177卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/31(土) 23:26:10.92
体験文では到と至は区別できる。たとえば、
東南五百里で伊都国に到った。奴国に至るには東南五百里。

しかし説明文では区別できない。たとえば、
東南五百里で伊都国に到る。奴国に至るには東南五百里。
この場合、実際に伊都国に到ったことを表現しているのか、伊都国に到る説明をしているのかは、厳密には判別しがたい。
178卑弥呼の都は久留米:2011/12/31(土) 23:26:58.09
>訳してくれなければ使い分けられているかどうかは不明。

>>176は奥の手を出したな。
「ぼくは漢文読めないから認めないよ」か。

>不弥国から水行では九州内陸部へは行けないから。

不彌國から水行するなんてどこにもかいてないぞ。

君に漢文の読み方を教えよう。

不彌國の南に投馬國があると書いてあるのだ。
不彌國と投馬國の位置関係が書いてあるだけだ。
179卑弥呼は朝鮮にいた:2011/12/31(土) 23:41:19.93
>>178
では訳してください。

それから、起点が伊都国であろうと不弥国であろうと、南至投馬国水行二十日と書いてあるからには、
伊都国か、不弥国から水行するのではないのか。誰もがそう解釈しているはずだが。
180卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 00:01:32.13
>>179
>不弥国から水行するのではないのか。誰もがそう解釈しているはずだが。

不彌國から水行するならこのように書く。

「南水行○○里至投馬國」
「南渡海○○里至投馬國」
or
「南水行至投馬國○○里」
181筑紫次郎:2012/01/01(日) 00:07:24.07
陳寿は
情報を徹底的に調査して間違いのない情報だけを記載したと言われている。
文章は簡潔を旨とし、事実を記載するだけで補足説明を一切していない。
無駄な文字、文は徹底的に削り、必要な事しか記載してない。

だとするならば、
所要日数でない水行陸行は記載してないはずである。
所要日数なら記載する価値があるが、所要日数でないとすれば
無駄な記載になってしまうからである。

ところか゜
無駄、不必要な文字、文は徹底的に削って簡潔な文を書いた陳寿が
水行二十日水行十日陸行一月を記載しているのである。
と言う事は
この水行陸行はただ単にゆっくりと進んだ日数ではなく
何か特別な記載しなければならない理由がある水行陸行だったのである。

本当は
水行二十日水行十日陸行一月は倭人伝の謎を解く手がかりとなる
要ともいうべき一文なのだ。

しかし
水行二十日水行十日陸行一月は倭人伝の謎を解く手がかりとなるとは言うものの
理解するのは難しいこともあるので
その説明をするのは倭人伝の謎を解いてからになる。
倭人伝の謎を解くのは
次回から説明する邪馬台国までの国々の比定が終わってからである。
182 【豚】 :2012/01/01(日) 00:25:43.33
── あけおめ!今年も邪馬台国で論争よろしく!──

     へ、        \    あけまして       /
    /ノ》リ),  、        \おめでとうございます!/
   ///,∞, / ヽ、            ,-‐一‐- 、
   // !^^⌒^^ヽ )          d^     「^qp
  //!(| 《《M从リ _         ' !| l从((lilil |!i! !
  ! !! Y!゚ ヮ゚ノリ |賀|        /\N|l、゚ヮ ゚!レ!)Y
  ノノノ φ!%Y%!つ|正|       ( 辰`⊂\咒\つ
    とノi)兄)) . ̄        ヽ./  |!只!iヽ
   |三三三三三|              しヽ)~
183日本@名無史さん:2012/01/01(日) 01:17:34.35
K-POPの真実
89 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 18:42:50.71 ID:oPBf/MSP0
12月23日、東京国際フォーラムホールAで大国男児、X−5 、C-REALらが出演した『K-POP LIVE for X'mas 2011』が開催された。
しかし、ふたを開けてみれば2階はすべてクローズド、1階も後列は空席だらけと、さんざんな結果に終わった。

http://news.infoseek.co.jp/article/cyzowoman_27Dec2011_17759
    ↓    ↓    ↓

395 名前:山師さん@トレード中[] 投稿日:2011/12/27(火) 15:21:13.95 ID:E5FNgBRR0
K-POP LIVE for X'mas 2011
公演日:2011年12月23日(金)
会場:東京国際フォーラム(収容人数5000人)
出演:大国男児 / X−5 / C-REAL / Yoonji

開演前
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/ukiukineko/20111224/20111224221655.jpg
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/ukiukineko/20111224/20111224221654.jpg

開演中
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/ukiukineko/20111224/20111224222054.jpg
補助金が尽きてガラガーラ テレビは捏造演出装置

184日本@名無史さん:2012/01/01(日) 07:41:10.47
水行二十日水行十日陸行一月は、所要日数だよ。ただ、所要日数といっても、飛脚の所要日数みたいに
ぎりぎりの日数ではないってことだ。倭人が使者を案内するときには、ゆっくりとした日程で案内して
いたってことだろうね。2日進んで1日休みとか、普通の休息も含めた日数だよ。
185日本@名無史さん:2012/01/01(日) 07:42:16.50
>>184
根拠は?
186日本@名無史さん:2012/01/01(日) 07:44:14.27
>>184
カスが意見だけ書くんじゃねえ世よ。まず三国志をちゃんと読んで遣使について書かれてる
部分を確認してこいや。これ以上気違いはいらねんだよ。
187日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:16:30.78
>>174
全然、使い分けられてないんだが。
ちゃんと使い分けられてるって、どう読んだんだろう?
188日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:25:03.40
>>185 >>186
倭人伝の記事は、使者つまりは梯儁や張政が倭国を訪問した際の記録をもとにして書かれたものだ。
倭国の役人が使者を邪馬台国までどのように案内したかを考えれば、当然上に書いたようなことに
なるってことだよ。
それに九州に上陸して南へ行く、そして最後は陸行一月で終わる所、当然それがどこか決まってく
るってことだ。そこから逆算すれば速度は分かるってことよ。
189日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:29:57.90
>>188
>倭国の役人が使者を邪馬台国までどのように案内したかを考えれば

だからその考えを書けよ ソース付きで
三国志には旅の行程の様子などいくらも出てくる
190日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:31:28.72
考えただけじゃだめなんだよ
僕の考えは正しい、という馬鹿がいくらでも沸いてくる
重要なのは裏付けとなる根拠
191日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:33:10.71
>だからその考えを書けよ ソース付きで
倭人伝に日程が書いてあるだろ。それ以上のソースがあるかな?
三国志に旅の様子があるって? どこに倭人伝以上の描写があるのかね?
192日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:34:26.84
三国志にはどっからどこまで現代の距離で旅して何日かかったかなんて
いくらも出てくるんだから、最低原文で三国志を読んでから発言してくれよ
193日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:39:52.99
>>191
魏使はまず何人なんだよ?帯方郡には兵が多くいた時期だし大船もあった
倭への使いはおそらく数百人の大人数で軍事行動をとったと考えるのが常識的だ
三国志には行軍の記録はいくらもある
194日本@名無史さん:2012/01/01(日) 08:51:04.13
軍事行動なんてのは常識的ではないな。倭国を初めて訪問するんだ。ちゃんとした
道案内を立てる、倭の使者の帰るのに同行してきたって考えられていることは知っ
てるかな?迎える方は、いちいち上の指示を仰ぐんだよ。でなければ、賊を通した
ってことで非難されるかも知れん。
上の指示って分かるかな? 対馬、一支ならば、少なくとも一大率に連絡して返事が
きてから使者を進めさせるんだ。一大率は邪馬台国本国の指示を待って案内するんだよ。
それが当然の手順となる。
195卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/01(日) 09:55:00.13
>>180
ではあなたが南至投馬国水行二十日をどのように解釈しているのかを説明してください。
この水行二十日とはいったい何なのかを。南の投馬国に至るには水行二十日を要するという意味ではないのか。
ほとんどすべての人がそう解釈していると思うのだが、あなたに斬新な解釈があるならそれを示していただきたい。
196日本@名無史さん:2012/01/01(日) 10:35:21.23

「経世会(旧田中派)」VS「清和会」>
(田中派)田中角栄   逮捕 ロッキード事件 (←東京地検特捜部)
(経世会)竹下登    失脚 リクルート事件 (←東京地検特捜部)
(経世会)金丸信    失脚逮捕 佐川急便献金・脱税 (←東京地検特捜部&国税) 
(経世会)中村喜四郎  逮捕   ゼネコン汚職 (←東京地検特捜部)
(経世会)小渕恵三   急死(←ミステリー)
(経世会)鈴木宗男   逮捕 斡旋収賄 (←東京地検特捜部)
(経世会)橋本龍太郎  議員辞職 日歯連贈賄事件 (←東京地検特捜部)
(経世会)野中広務   議員辞職 日歯連贈賄事件 (←東京地検特捜部)
(経世会)村岡兼造   逮捕   日歯連贈賄事件 (←東京地検特捜部)
(経世会)小沢一郎   西松不正献金事件 (←東京地検特捜部)
(経世会)二階俊博   西松不正献金事件 (←東京地検特捜部)
(清和会)岸信介    安泰  A級戦なのに釈放。
(清和会)福田赳夫   安泰  清和会を創設
(清和会)安倍晋太郎  安泰  国際勝共連合、統一教会に深く関与
(清和会)森喜朗    安泰  子息の押尾事件関与疑惑ほか
(清和会)塩川正十郎  安泰  小泉構造改革の旗振り役
(清和会)小泉純一郎  安泰  郵政米営化、りそな問題他、疑惑の総合商社。
(清和会)尾身幸次   安泰
(清和会)中川秀直   安泰  統一協会(=米国福音派)に祝電   
(清和会)安倍晋三   安泰  統一協会(=米国福音派)に祝電
197 【だん吉】 【925円】 :2012/01/01(日) 13:03:39.08
今年は日本古代史に一石を投じるような発見がある


ような気がする。
198卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 16:29:59.86
>>195
>ではあなたが南至投馬国水行二十日をどのように解釈しているのかを説明してください。

魏志倭人伝文章地図文の構造

從 (従って)
郡至倭 (郡使は倭に至る)
@水行 到狗邪韓國 七千餘里 (倭に到着)(狗邪韓國の津に到着)
A度一海千餘里 至對海國 (對海國海岸に至る)
B渡一海千餘里 至一大國 (一大國海岸に至る)
C渡一海千餘里 至末盧國 (末盧國の津に至る)
D陸行五百里 到伊都國 (旧倭都に到着、旧倭王居住地)(伊都國城柵に至る)
 [伊都國]至奴國 百里 (奴國城柵に至る)
E行 至不彌國 百里
[郡]至投馬國 水行二十日(全行程2万里) (投馬國城柵に至る)
[郡]至邪馬壹國 水行十日陸行一月(全行程1万里+1千里) (邪馬壹國城柵に至る)
  [邪馬壹國城柵と女王の宮室樓觀城柵の場所は異なる]
199卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 16:57:05.23
  
水行1日≒1000里 (水行1日=1日航行)

海行1月≒1000里(隋書より)

陸行1月≒1000里
200日本@名無史さん:2012/01/01(日) 17:02:50.23
>>198
横レスだが、分かり辛いねえ

まあつまり「水行二十日」は投馬國迄の全行程距離が2万里、
「水行十日陸行一月」は邪馬壹國迄の全行程距離が1万里+1千里であるってこと?
んで「水行二十日」や「陸行一月」は実際に水路や陸路で移動したという意味では無く、
単なる単位(水行一日=千里、陸行一月=千里)ってこと?
201日本@名無史さん:2012/01/01(日) 17:23:37.42
>>174
なにをもって使い分けられてるのか、説明しないと反論もできんじゃないか。
よろしく頼むよ。
そこから転じるから到を使ってるとでも考えてるのかなあ。
202日本@名無史さん:2012/01/01(日) 17:26:15.40
>>198
>郡至倭 (郡使は倭に至る)

勝手に「郡使は」なんて文字を補って読んではいけないよ。
郡としか書いてないよ。
だから「從」を「したがって」とは読めないよ。
203日本@名無史さん:2012/01/01(日) 17:32:09.08
結論だけ述べて証明した気になっている人が多い。
訳だけしてその訳が正しいことを証明しなくてもよいと考えている人が多い。
204日本@名無史さん:2012/01/01(日) 17:48:41.09
>>203
>結論だけ述べて証明した気になっている人が多い。

これは、こまったもんだね。

>訳だけしてその訳が正しいことを証明しなくてもよいと考えている人が多い。

訳が正しいことを証明ってなんだよw
そんなの、どうやってするのか、わからんなあ。
ここが誤訳じゃないかと突っ込まれて説明するというのならわかるけど。
205卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 17:55:10.18
隋書百濟伝
百濟(百濟南端)とタン[身冉]牟羅國(済州島)の距離が海行三月(約230km)
ココでは、海行1月≒80km≒1000里

隋書俀國伝
俀國の南北距離(都斯麻國〜大隈) 
5月行≒400km≒5000里 ∴1月行≒1000里
俀國の東西距離(都斯麻國〜豊後水道鶴御岬)
3月行≒250km≒3000里 ∴1月行≒1000里

水行十日=郡〜末盧國≒7000里+1000里+1000里+1000里≒10000里

>>200
>「水行二十日」や「陸行一月」は実際に水路や陸路で移動したという意味では無く、
>単なる単位(水行一日=千里、陸行一月=千里)ってこと?

水行一日や陸行一月(海行一月・一月行)は大雑把な距離の単位で約千里に相当する。
206卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 18:10:38.97
>>202
>>郡至倭 (郡使は倭に至る)
>勝手に「郡使は」なんて文字を補って読んではいけないよ。
>郡としか書いてないよ。

直訳すれば、「郡は倭に至る」になります。
「郡至倭」は、「郡」主語+「至」動詞+「倭」目的語
「郡」は、非人称で抽象名詞の主語である為、日本語への直訳にはなじみません。
日本語に訳すには意訳になります。
「郡使は倭に至る」「郡の人は倭に至る」「郡より倭に至る」等の意訳。
207卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 18:12:36.66
〜〜〜〜┗━┓高句麗∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵新羅∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓───────────┬┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島(珍島) 〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏↑∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┝┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛│∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└┼┐一支國〜〜〜〜┏━┛∵│∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜│↓┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵∵│∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜〜│↓┗┛〜〜┏━━╋━━━┿━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜│↓〜┏━━┛∵∵┗━┓〜│〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜五〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓月〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :イ妥國伝〜〜〜│↓┗┓┃┗┓∵『イ妥國』 ┃行〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜│↓〜┗┛┏┛∵∵∵∵┏┛│〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│└→┏┓┃○泰王國┏┛││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗╋┛∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
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208日本@名無史さん:2012/01/01(日) 18:27:22.06
>>206
郡は倭に至りません
人間の事に言及するときは、ちゃんと「郡使往来常所駐」とあります。
あるいは郡が主語になるときは「郡使倭国」(郡の倭国に使いするに)と、
相応しい動詞を使っています。
だから、從郡至倭は「郡より倭に到るには」です。
>「郡至倭」は、「郡」主語+「至」動詞+「倭」目的語
こういう構文にはなりません。
209日本@名無史さん:2012/01/01(日) 19:20:51.70
>>205
だったら「水行二十日」ではなく「二万里」、
「水行十日陸行一月」ではなく「一万一千里」
と書いた方が自然じゃないかな?
全行程については「万二千余里」と書いてるのだし
210日本@名無史さん:2012/01/01(日) 19:53:44.07
>>174 日向厨 >>175 王朝さん
1.從玉門關西出,發都護井,回三隴沙北頭,經居盧倉,從沙西井轉西北,過龍堆,到故樓蘭,轉西詣龜茲,至葱領,為中道。
2.從玉門關西北出,經坑,辟三隴沙及龍堆,出五船北,到車師界戊己校尉所治高昌,轉西與中道合龜茲,為新道。
(魏略西戎伝)

1.は中道の行程。
玉門関従(よ)り西に出て、故(いにしえ)の桜蘭(ろうらん)に到り、そこから西に転じて、葱領に至るまでが中道。
2.は新道の行程。
玉門関従(よ)り西北に出て、高昌(こうしょう)に到り、そこから西に転じて、亀茲で中道と合するのが新道。

いずれも道が「轉西(西に転じる)」地点で「到」となっている。
新道は亀茲で中道と合するまでであり、中道は葱領までである。
最終地点である葱領は「至」となっている。

ここから、「到」は中間地点に使われ、「至」は最終地点に使われる、
というように使い分けられていると言えるのかな?
211日本@名無史さん:2012/01/01(日) 19:57:05.46
>>210
>「到」は中間地点に使われ、「至」は最終地点に使われる、

夢幻如の説とは真逆になってるなあ
>>174さん>>175さん、どうなの。
212卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 19:57:59.52
>>208
「郡より倭に到るには」と直訳できる文は、
「自郡至倭」又は「从郡至倭」となります。

「従」に「〜より」の意味はありません。

「従」が「〜より」の意味を持つのは、
「従」が現代シナ語の介詞と同じ働きをする場合です。
この場合、「従郡至倭」は「从郡至倭」と同じで、
より直訳的には「郡を通って倭に至る」の意味になります。

3世紀のシナ語には、まだ介詞はなかったと思います。
魏志倭人伝には、「从郡至倭」とは書かれていません。


以上のように考えます。
213卑弥呼の都は久留米:2012/01/01(日) 20:16:54.96
>>210
>>211
>ここから、「到」は中間地点に使われ、「至」は最終地点に使われる、
>というように使い分けられていると言えるのかな?
上記の様なことを誰が書いている?
書いたのは>>210だけだ。
こんなすり替えをする君は老眼君かね?

到は一区切りついたところに使っているんだ。←>>150氏の発言
即ち、特筆できるポイントとなる限定された地点に限られて使われているのだ。
214日本@名無史さん:2012/01/01(日) 20:30:59.82
>>205
海行一月も水行一月も千里という立場だが、それ以外はほぼ同意。
不弥国までは、倭奴国までの記録もあって里程で記録できるほど
正確な距離が知られていたが、それから先は正確さに確証が持てなかったので、
古い倭国で用いられている日数表記。

とはいえ、百済伝=百済でも共通に使用されている古い基準単位である。

だいたい、実日数であれば、29日滞在して、1日歩いても、一月だが、
それが距離の基準にはできない。

仮に長期間滞在したとしても、その日数は省いて実移動日数で考えなければ
距離の単位には使えない。

つまり、日数は実日数ではなく、距離単位の一つである。
215卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/01(日) 21:53:56.65
>>199
水行1日≒1000里 (水行1日=1日航行)
海行1月≒1000里(隋書より)
陸行1月≒1000里

とあるが、「唐六典」に一日の行程は陸行歩で50里、水行45里とある。これで計算すると、
水行一月=1350里、陸行一月1500里となる。
216日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:10:26.70

           ______
          r〃〃〃 f7⌒ろ)
           l‖‖‖ ||   f灯
            |‖‖‖ ||   | |
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          !゙ (・ )` ´( ・)   i/
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.          ,ィ(⊆≧リ≦⊇)〃   /     rク\
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      〃 l   |  l| | l| 〃    /     /    └ヽ
     /    l  |l | |l/″   /      !  厂    \
    く,  Y   ! l」fレト!    /       | /        1
    丿  |   | 丿} じ’  /      | /         |
   /     l   | `¨      /      レ′        |

             真の思考停
    (在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)

   民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
   そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
217卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/01(日) 22:11:39.89
「通典」州郡志にこうある。

日南郡 東至福禄郡界一百里…東南到海百五十里…去西京陸路一万二千四百五十里 水路一万七千里
去東京陸路一万五百九十五里 水路七千二百二十里

日南郡の説明だと思われる。これを読むと次のことが分かる。
1 至と到がまったく同じ意味で使用されている。
2 陸路では○○里、水路では△△里、という書き方だと思われる(ただし断言できない)。

218日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:22:58.32
>>217
それで?
219日本@名無史さん:2012/01/01(日) 22:47:20.90
>>212
王力『古漢語字典』の「從」では、「介詞、由。(介詞である。由るである。)」という説明の後、左伝の例文を挙げてます。
西田太一郎『漢文の語法』では、介詞の節で、例文として史記を多く引用しています。
3世紀にすでに介詞はあったということです。

また、『古漢語字典』は、「从」には「同“從”(從と同じ)」と説明しています。
『爾雅』釈詁では、「從は自なり」とあります。

>より直訳的には「郡を通って倭に至る」の意味になります。

これは、ニュアンスとしては残っていますが、すでに「自郡至倭」と厳密な用法の区別はありません。

>>213
>到は一区切りついたところに使っているんだ。←>>150氏の発言

>>150氏は、そうは言ってませんね。
>「到という字が用いられてるのは、実際に人が移動した行程」
つまり、至の方は、実際に人が移動していない場合と言っているわけですね。
卑弥呼の都は久留米氏の説と150氏の説は違うようですね。
220卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/01(日) 23:16:10.92
>>218
それだけ。

ちなみに久留米氏は水行二十日水行十日陸行一月を帯方郡からの距離と考えているようだが、
それは九州論者の苦しまぎれの珍説というべき。
221日本@名無史さん:2012/01/02(月) 00:36:09.31
九州説を苛める前に、トンデモ東北説と詐欺畿内説を退治しろよ。
222日本@名無史さん:2012/01/02(月) 00:42:57.28
>>213
> 誰が書いている?

え? じゃあ違うんですか?

> 特筆できるポイントとなる限定された地点に限られて使われているのだ。

邪馬台国に使われているのは「至」のほうですけどね。

> こんなすり替えをする君は老眼君かね?

老眼君ならローガンと書くでしょ。

王朝さん、けっこう疑心暗鬼なんですね。
以前、アホーでも tenchuukun のことを(2chの) www かと疑ってましたね(グラマン事件)。
223卑弥呼の都は久留米:2012/01/02(月) 06:55:59.07
>>222
>> (「到」は)特筆できるポイントとなる限定された地点に限られて使われているのだ。
>邪馬台国に使われているのは「至」のほうですけどね。

邪馬臺國は、特筆できるポイントとなる限定された地点ではない。
邪馬臺國は、投馬國と並ぶ、倭最大の巨大国にすぎない。
女王は共立され祭り上げられて強制的に邪馬臺國に住まわせられているに過ぎない。
邪馬臺國の真の王者は官の伊支馬である。

邪馬臺國は副官不在で次官が3人もいる複合連合国家(4ヶ国連合)と考えられる。
女王國は、邪馬臺國4ヶ国連合に、投馬國、奴國、不彌國を加えた国々を指す。
副官が2人おり世有王のいる伊都國と官不在の末盧國も女王國に附属する一員国と考えてよい。
又、「戸」ではなく「家」組織の一大國も女王國に附属する一員国と考えてよい。
又、伊都國の副官の一人は不彌國の官代行とも考えられる。

>> こんなすり替えをする君は老眼君かね?
>老眼君ならローガンと書くでしょ。

ローガン氏にそっくりなすり替えだったもので。

>以前、アホーでも tenchuukun のことを(2chの) www かと疑ってましたね

(2chの) www と同様、tenchuukun氏は根拠のない出鱈目を堂々とHPに書く人なので。
唐津の虹ノ松原は弥生時代には海だったと主張。
虹ノ松原は、縄文期の海面水位の高いとき、唐津湾にできた第二浜堤です。
224日本@名無史さん:2012/01/02(月) 07:18:55.18
>>217
>至と到がまったく同じ意味で使用されている。
東西南北には至が使われ、東南、西南、西北、東北には到が使われているね。
つまり、使い分けているってことだよ。
225日本@名無史さん:2012/01/02(月) 07:39:46.37
>>222
>> (「到」は)特筆できるポイントとなる限定された地点に限られて使われているのだ。
>邪馬台国に使われているのは「至」のほうですけどね。
横からだけど。邪馬台国は奴国、不弥国、投馬国と同様の書き方がなされているってことだよ。
最終目的地であるにかかわらず、同様の書き方がなされたところから、放射式書法を読み取る
ことができるってわけだ。
226卑弥呼の都は久留米:2012/01/02(月) 08:18:33.59
魏志倭人伝によると、魏代には倭の王が3人いる。
これ等の王を「王」と認定したのは誰だ?

@伊都國の世有王
A女王國の卑弥呼と壹與
B狗奴國の卑彌弓呼

A女王國の卑弥呼と壹與は魏帝が認定している。
では、@伊都國の世有王とB狗奴國の卑彌弓呼を王と認定したのは?

後漢書によると後漢代には、倭には自称王が30人ほどいた。
そのうち後漢が認定した王は、倭奴國の王と倭國王の帥升だけである。
227卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/02(月) 10:36:48.66
水行すれば十日、陸行すれば一月
この読み方には二つの点で疑問がある。

1「唐六典」に一日陸行50里水行45里とあり、大差はない。ところが十日と一月では大差がある。
2 水行すれば十日ということは、水行だけで行くことが可能な場所ということになり、大和説に適合しない。
228ひとぶた:2012/01/02(月) 11:08:11.52
>>222-225

「至」と「到」、私も使い分けられていると思いますが、
大きな違いでは無く、微妙なニュアンスの違いと言う感じで読んでます。
狗邪では、ここで一旦文章上での視点を停め、次の渡海ルートを見据えての一区切り感を、
伊都では、私は放射読み支持者ですが、ここでも視点を停めて、
周辺諸国や遠く邪馬台国等を俯瞰するようなイメージを感じます。
文法がどうのこうのでは無く、文章の流れから受ける感覚的な違いです。


229日本@名無史さん:2012/01/02(月) 11:12:20.92
>後漢書によると後漢代には、倭には自称王が30人ほどいた。
後漢書というのは、魏志の焼き直しなんだよ。范曄は、魏志が30国に王がいる
と書いているから、少し前の後漢時代にも30国にいただろうと書いただけだよ。
230日本@名無史さん:2012/01/02(月) 11:32:43.20
>大きな違いでは無く、微妙なニュアンスの違いと言う感じで
それはそうだね。いずれも「着く」という意味だ。人によっては区別しないかも
知れない。

>文法がどうのこうのでは無く、文章の流れから受ける感覚的な違いです。
だが、邪馬台国は最終目的地、「一区切り感」にこだわるならばここでも「到」とする
はずだ。しかし、「至」とした。それは書法的には、奴国や不弥国、投馬国と邪馬台国
とを同資格としたということだ。いずれも伊都国からの話だってことは同じだというこ
とを示したかったのだろう。
231卑弥呼の都は久留米:2012/01/02(月) 13:25:44.76
>>229
>范曄は、魏志が30国に王がいると書いているから、
>少し前の後漢時代にも30国にいただろうと書いただけだよ。

魏志に書いてあるのは30ヶ国あるとだけ。「今使譯所通三十國」
其々の国に王がいるとは書かれていない。
232日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:56:27.95
>其々の国に王がいるとは書かれていない。
読解力がないとそんなことを言うことになる。
世有王は伊都国だけの話ではない。

233卑弥呼の都は久留米:2012/01/02(月) 23:08:41.84
  
>世有王は伊都国だけの話ではない。

唖然、開いた口が塞がりません。
どうぞご自由に空想を広げてください。
234日本@名無史さん:2012/01/02(月) 23:10:44.22
>唖然、開いた口が塞がりません。
そんな基本的なことも知らないのか。少しは学者の本も読んでみるもんだ。
235卑弥呼の都は久留米:2012/01/02(月) 23:42:11.91
>>219
>>到は一区切りついたところに使っているんだ。←>>150氏の発言
>>150氏は、そうは言ってませんね。

アンカーミスでした。
修正
到は一区切りついたところに使っているんだ。←>>160氏の発言


>>191の「従」が介詞であるかどうかについては改めて反論します。
236卑弥呼の都は久留米:2012/01/02(月) 23:48:28.20
又アンカーミスです。
>>235の(>>191)は間違いで、>>219氏へのものです。
237卑弥呼の都は久留米:2012/01/02(月) 23:57:27.31
>>234
>少しは学者の本も読んでみるもんだ。
畿内説学者のご高説は読む気がおきないよ。
どうせ飯を食う為の嘘八百で改竄文書を根拠にしているのだから。
238日本@名無史さん:2012/01/03(火) 00:10:01.84
>畿内説学者のご高説は読む気がおきないよ。
畿内説の学者は、倭人伝の読み方なんぞ考えはしないだろ。
239日本@名無史さん:2012/01/03(火) 00:13:46.56
>>237 ヨコから
> 畿内説学者のご高説は読む気がおきないよ。

正月早々、わけ判んなくなってますね(アンカーミスもするし)。

>>234 は自分で引用している >>160 ですよ。
放射説の日向厨だ。
240卑弥呼の都は久留米:2012/01/03(火) 00:16:31.15
>>237の続き
その学者先生も御用原子力学者と同類だろ。

昨年秋の同窓会には彼等原子力関係者は誰も出てこなかった。
241日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:28:36.47
>>174
至と到がどのように使い分けられているというのか、2回説明を求めたが、まだ返答がない。
正月休みで帰省でもしているのか。
242日本@名無史さん:2012/01/03(火) 13:08:15.07
>>241 ヨコから
> 正月休みで帰省でもしているのか。

そんなことないと思うよ。>>174 は日向厨。彼のレスは以下だろう。
>>184 >>188 >>191 >>194
>>224 >>225 >>229 >>230 >>232 >>234 >>238
243卑弥呼の都は久留米:2012/01/03(火) 13:54:37.31
>>239
>>234をも放射説をも日向説をも支持できないが、
>>160には同意できる。
244日本@名無史さん:2012/01/03(火) 14:00:56.88
>>242
そうなんですか。ならば、説明してほしいものです。
それにしても、

>東西南北には至が使われ、東南、西南、西北、東北には到が使われているね。

これは本気で書いてるんでしょうかね。
答えられなくて冗談で返したのかと思ってたけど。
245日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:04:37.57
>これは本気で書いてるんでしょうかね。
ちょっとググってみれば、そのとおりだってことは分かるはずだよ。
246日本@名無史さん:2012/01/04(水) 00:08:58.80
>>245
>ちょっとググってみれば、そのとおりだってことは分かるはずだよ。

どうググったら、東西南北に至、東南・西南・西北・東北に到がわかるのか見当もつきません。
是非、ググった結果を見せて下さい。

それとも、「そのとおりだってことがわかる」というのは、冗談だってことが解るということですか?
247卑弥呼の都は久留米:2012/01/04(水) 01:56:53.72
>>246
>それとも、「そのとおりだってことがわかる」というのは、冗談だってことが解るということですか?

そりゃ、冗談でしょう。
前記の魏略西域伝にこんなのあるのを知っているはず。

「出五舩北 到車師界戊己校尉所治高昌」
248日本@名無史さん:2012/01/04(水) 04:38:00.37
>>247
話が分かってないようだね。通典州郡誌の話をしてるんだよ→>>217
249卑弥呼の都は久留米:2012/01/04(水) 06:03:52.99
>>248
通典に限れば、「東西南北に至、東南・西南・西北・東北に到」になっている。
議論の余地はない。
250卑弥呼の都は久留米:2012/01/04(水) 07:02:17.94
251日本@名無史さん:2012/01/04(水) 07:43:23.00
>>250
リンクありがとう。これは面白い。いやほんとに面白い。
たしかに「使い分け」だが、意味上の使い分けじゃなくて文を整えるためだね。
きれいな放射式だな。非常にわかりやすい文章だ。こんな漢籍ばかりだと助かるんだが。
252卑弥呼の都は久留米:2012/01/04(水) 08:25:17.20
>>238
>>畿内説学者のご高説は読む気がおきないよ。
>畿内説の学者は、倭人伝の読み方なんぞ考えはしないだろ。

言葉が足り無かった。

畿内説を前提にした、多くの学者のご高説は読む気がおきないよ。
253日本@名無史さん:2012/01/04(水) 09:56:55.84
>>250
ほんとだね。これは知らんかった。ありがとう。

しかし、これって、東西南北と東南・西南・西北・東北との違い以外、
意味的な違いは一切ないね。
倭人伝で主張されるような、行った・行かないとか、行程の一区切りとか、
そういうものは全く関係なく、修辞的に到と至を使い分けてる。

つまり、この通典の例って、
至と到には、行った・行かないとか、行程の一区切りとかの意味的な使い分けは存在せず、
修辞的に適宜にどちらでも使ってよいという証左だね。
254日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:01:09.13
>「使い分け」だが、意味上の使い分けじゃなくて文を整えるためだね。
そう簡単な話ではないだろう。文を整えるだけならば、全て「至」でよさそうだ。
誰か、通典に詳しい人はいないかな?
255日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:17:32.03
>至と到には、行った・行かないとか、行程の一区切りとかの意味的な使い分けは存在せず、
>修辞的に適宜にどちらでも使ってよいという証左だね。
どちらも「着く」という意味だからね。どちらを使っても直ちに間違いではないと言えるだろう。
しかし、通典の例からも、文章家は使い分けに気を使っているということは読み取れるだろ。
だから、史書により、どうして使い分けたのかを考えなければいけないってことさ。

256日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:21:52.12
>>254
>そう簡単な話ではないだろう。文を整えるだけならば、全て「至」でよさそうだ。

簡単な話だって、読んだらわかるやん。
文を整えるっていうのは、全てを「至」にするような不細工なことはやらないってこと。
最初の所だけ読んでおくと

南海郡、
東は海豐郡に至る四百里。南は恩平郡に至る五百里。西は高要郡に至る二百四十里。北は始興郡に至る八百里。
東南は恩平郡に到る四百里。西南は高要郡界に到る二百三十里。西北は連山郡に到る九百里。東北は海豐郡界に到る三百五十里。
西京を去ること五千四百四十七里,東京を去ること四千九百里。?五萬八千八百四十,口二十萬一千五百。

至・到がかかわるところは、これと同様の箇条書きが続いてるだけ。
257日本@名無史さん:2012/01/04(水) 10:26:41.30
>>255
>しかし、通典の例からも、文章家は使い分けに気を使っているということは読み取れるだろ。

通典の例からわかるのは、文章家が気を使っているのは、修辞的に変化を付けることだけってこと。

もともと、到・至に、行った・行かないとか、行程上の区切りのある・なしとか、そんな区別があったら、
通典のこのような文章はかけない。
ということは、そんな区別は無かったとしか判断できない。
ならば、何の断わりもなく、倭人伝の至と到は、行った・行かない、
あるいは行程上の区切りであると理解せよなんて、
陳壽は読者に超能力を要求していることになるよ。
258日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:35:41.42
>修辞的に変化を付けることだけってこと。
浅いな。私は次のように考える。
通典などは、書写されて広まることを念頭において書かれている。
その場合、懸念されるのは、誤写されることだ。東西南北は至、 東南・西南・西北・東北は到と
書き分けておけば、東南の一字が落ちて到東あるいは到南となっていても、一字落ちたらしいと分
かることになる。そのために書き分けてるのではないかな。

259日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:45:53.20
>何の断わりもなく、倭人伝の至と到は、行った・行かない、
>あるいは行程上の区切りであると理解せよなんて、
>陳壽は読者に超能力を要求していることになるよ。
超能力なんぞ不要だよ。漢文の読解力があればどうということはない。

260日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:52:52.93
>>259
漢文の文法に無い使い分けを、どうやって漢文の読解力で理解するんだ。
読解力じゃなくて、妄想力じゃないの。
261日本@名無史さん:2012/01/04(水) 11:58:57.87
>>258
深いな(爆)
262日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:05:52.08
裏の裏は表だったり(核爆)
263日本@名無史さん:2012/01/04(水) 12:25:11.94
同じ言葉を繰り返し使うのは、美的でないという感性は、どの言語でもあるだろう。
深読みし過ぎてもコケるんじゃあるまいか?
264日本@名無史さん:2012/01/04(水) 13:29:13.19
>漢文の文法に無い使い分けを、どうやって漢文の読解力で理解するんだ。
文法の問題ではなく、文字の意味だな。僅かな違いだから語感と言った方が
いいかも知れない。とにかく、その書き分けがあるから、読者は「なんだろう」
と考えて正しい解釈に到達することができる。読解力があればの話だが・・・
265日本@名無史さん:2012/01/04(水) 15:46:25.49

           ______
          r〃〃〃 f7⌒ろ)
           l‖‖‖ ||   f灯
            |‖‖‖ ||   | |
            |儿儿儿._」⊥厶
           〔__o____o_≦ト、
.          i / ⌒  ⌒  ヽ )
          !゙ (・ )` ´( ・)   i/
          |  (_人__)    | \
          \  `ー'    /  / ー- 、
.          ,ィ(⊆≧リ≦⊇)〃   /     rク\
.       /   | ̄r少}¨ ̄〃   /    /′ ヽ
      〃 l   |  l| | l| 〃    /     /    └ヽ
     /    l  |l | |l/″   /      !  厂    \
    く,  Y   ! l」fレト!    /       | /        1
    丿  |   | 丿} じ’  /      | /         |
   /     l   | `¨      /      レ′        |

             真の思考停
    (在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)

   民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
   そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
266日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:09:07.17
>>264
そんな謎かけみたいなことを…
267日本@名無史さん:2012/01/05(木) 01:36:40.50
>そんな謎かけみたいなことを…
思考過程を文章にしたまでのことだ。当時の史家ならば、瞬時に分かることだろう。


268日本@名無史さん:2012/01/05(木) 17:06:11.61
さて、話を基に戻そうか。末盧国が唐津、そこから東南500里の伊都国が佐賀市
大和町付近ということは問題ないかな。
そして、次は、伊都国から先を連続式に読むのか、それとも伊都国からの放射式に
読むのかという問題だ。これは、至と到の使い分け、方角、目的地、距離の語順等
から放射式に読むべきだってことになる。異議ある人はいるかな?いたら、ちゃん
と理由も述べてな。
269筑紫次郎:2012/01/05(木) 17:43:32.34
>>268
>伊都国が佐賀市大和町付近ということは問題ないかな。

伊都国は人口が少なく特定が難しい。
唐津から東南六百里の場所にある奴国を先に比定すべき。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
奴国の中心地〓東名遺跡付近
東百里(5〜10q)の吉野ヶ里
北西百里(5〜10q)の佐賀大和都渡城付近

>至と到の使い分け

至と到の使い分けで放射式に読むと言う意味はない。

>方角、目的地、距離の語順

奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国が
方角、目的地、距離の語順。
これらは国と国が隣接しているから。

>放射式に読むべきだってことになる

放射式に読めば邪馬台国の場所は特定できない。
放射式に読めば
東南至奴國百里
東行至不彌國百里に矛盾する。
270日本@名無史さん:2012/01/05(木) 17:53:20.46
一里77mで換算すると、大和町と小城市の間くらいになる。
まあ、おとなりの町なので、誤差範囲ではどっちともいいかねる。

奴国が大国だとすると、佐賀市中心部から大和町までを奴国として、
小城を伊都国としたほうがしっくりするかも。

ただし、腐るほど遺跡があるので、当時は違った可能性は
いくらでもあるため、なんとも言えないのが現状。
271筑紫次郎:2012/01/05(木) 18:57:03.95
>>27,0
小城を伊都国としたほうがしっくりするかも。

最初はそう考えていた。
千戸で城も小さかったから小城と言う名前かもしれないと考えた。
しかし
どうしても方角があわないし
百里か10qを大きく超えてしまう。

だから
奴国を先に比定して
その後伊都国と不弥国を比定した。

百里が6q程度になるが道なりの距離を考えれば妥当だと思う。         
272筑紫次郎:2012/01/05(木) 19:10:51.13
百里か10qを大きく超えてしまう。
↓訂正
直線距離で百里か10q程度になるから
道なり距離では10qを超えてしまう。 
273日本@名無史さん:2012/01/05(木) 19:47:56.12
個人的直感としては、東名遺跡付近(高木瀬?)は大和町から佐賀市中心部までの、
いわゆる、山から海(川?)まで、が一つの国という感じがしますね。

吉野ヶ里町や神埼市、みやき町、小城市なども、山から海(川)までの
細長い区域になっています。

おそらくは、乾燥して住みやすい山側扇状地から、だんだん海が引いていき、
湿地帯の灌漑ができるようになって、各クニが海側へと伸びていったのでしょう。

そのため、東名遺跡のある高木瀬から、大和までは同じクニのような気がします。

追加情報としては、嘉瀬川の西側の川上(船塚古墳のあたり)は、
小城郡だった時代もあったようです。
274日本@名無史さん:2012/01/05(木) 20:38:43.27
>>268
末蘆国が唐津とは証明されていない。釜山・対馬間1千里、対馬・壱岐間1千里
という記述と比べると壱岐・唐津間は500里くらいしかなく、とても魏使たち
が上陸した地点とは考えられない。たくさんの荷物の運搬も考えるとなるべく
行ける所まで船で行こうとしたはずで、壱岐から東南に1千里とすれば宗像あた
りまで船で行き、上陸したと考える。とにかく唐津上陸は証明されていない。
275筑紫次郎:2012/01/05(木) 20:45:41.05
>東名遺跡のある高木瀬から、大和までは同じクニのような気がします。

奴国二万戸は末盧国(唐津)四千戸の五倍。
それと唐津の遺跡分布図から判断すれば奴国の領域は
大和〜高木瀬〜吉野ヶ里だったと考えられます。
伊都国、不弥国は奴国の5l程度。

伊都国は嘉瀬川流域で佐賀大和の北部の一部分
不弥国は吉野ヶ里だと考えている。
276日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:07:42.94
>伊都国は嘉瀬川流域で佐賀大和の北部の一部分
>不弥国は吉野ヶ里だと考えている。
説明はよく分からんが、この結論は問題ないな。

>末蘆国が唐津とは証明されていない。
一支国からの方角、距離、上陸に適した良港といったことを考えれば、
唐津に勝るところはないよ。




277筑紫次郎:2012/01/05(木) 21:10:27.70
>釜山・対馬間1千里、対馬・壱岐間1千里
という記述と比べると壱岐・唐津間は500里くらいしかなく、


陸路では迂回すれば直線距離よりも長くなる。
海路でも
壱岐〜唐津は流れが強く渡海するのに時間がかかるから
進む距離は長くなる。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
『水行・海行の場合は更夫が更漏(こうろう・時刻を知らせる水時計)
または更香(こうこう・線香を焚いてその残る長さによって時刻を知る)を使って時間を計っていた。
彼我両地間を航行する時には幾更をついやしたかということで、
不正確ながらも行程距離の概数を算出していた。』
【季刊邪馬台国85号・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

>壱岐から東南に1千里とすれば宗像あた
りまで船で行き、上陸したと考える。

方角距離人口が合理的に説明できればの話。
投馬国へ水行できなければ問題外となる。
278日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:15:51.75
白村江、元寇、秀吉の唐入りにおける名護屋城と、
唐津は常に渡海の中心地ですな。
279日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:23:25.14
>>277
>壱岐〜唐津は流れが強く渡海するのに時間がかかるから
進む距離は長くなる。

壱岐から唐津は見えてるだろう。
280筑紫次郎:2012/01/05(木) 21:35:08.95
>>278
説明はよく分からんが、

末盧国(唐津四千戸)の五倍の人口が
奴国(二万戸)の人口。

唐津の遺跡分布図から判断すれば
佐賀大和〜吉野ヶ里の遺跡で唐津の遺跡の五倍程度になると考えられる。

千戸は二万戸の五l。二十分の一。
それから判断すれば
不弥国は吉野ヶ里程度。
伊都国は佐賀大和全部では多すぎるので
方角と津のあったことを考慮して佐賀大和嘉瀬川沿い都渡城付近。

ホテルアマンティのある嘉瀬川の形が
もしかしたら人工的な津の名残ではないかと妄想している。

>この結論は問題ないな。

うふふふ‐‐‐。
281筑紫次郎:2012/01/05(木) 21:40:32.76
>>279
壱岐から唐津は見えてるだろう。

大きな湖の対岸も見えているが
目測で距離を出したりはしない。
迂回して長くなった陸路の距離で言う。

渡海の場合も距離を測るのは目測ではなく
更漏を用いて計った時間で距離を出している。
282日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:49:34.57
>唐津は常に渡海の中心地ですな。

唐の時代も
その後の時代も大繁栄。

多分それ以前も。
283日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:53:00.61
>喫丹古伝に卑弥呼が朝鮮にいたことが書かれてるってほんとか?
284日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:56:49.41
>>280
水運という面を考慮するなら、都渡城のすぐ近くの、
与止日女神社を視野に入れるべきでしょう。

また、人工的といえば、嘉瀬川の少し下流から別れる
多布施川という川があります。

佐賀市内への用水と、与止日女神社付近までを繋ぐ水運のための
水路です。

逆に言えば、この水路を確保する必要があるほど、
大和と佐賀は繋がっていたと言えます。
285日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:02:36.77
佐賀大和温泉アマンティのところにある交差点が、
惣座の交差点になります。

惣座遺跡自体は佐賀大和インターチェンジの南側付近と思われます。
286日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:23:08.81
平塚川添遺跡ってどんな感じですか。見込みありそう?
287日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:29:16.38
邪馬台国は馬韓にあった。

http://www.hachiman.com/books/89350-561-0.html
288日本@名無史さん:2012/01/05(木) 23:18:03.32
伊都国は魏略によると1万戸だ。伊都国の重要性を考えると、魏略の方が
正しいのではないかな。
289筑紫次郎:2012/01/05(木) 23:25:01.67
伊都国が小城にしても佐賀大和にしても(多分佐賀大和)、
伊都国から二百里の場所にある
不弥国は吉野ヶ里の近く(多分吉野ヶ里)。
吉野ヶ里は東西に津があって多分海に面していた。
南水行は問題がない。

其餘旁國遠絶不可得詳の一文があるから
勅使は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
以外の国へは一国たりとも行っていない。
つまり
邪馬台国までの途中に他の国は一国たりとも無かった。

ならば
不弥国から南へ進んで最初にあった国が投馬国で
投馬国から南へ進んで最初にあった国が邪馬台国。

不弥国(吉野ヶ里付近)から南へ進んで最初にあるのは
下妻、上妻の名前で呼ばれていた八女、筑後、三潴などが投馬国(ツマ国)。
そこから
南へ進んで最初にあるのが山門郡でここに邪馬台国があったことになる。
邪馬台国の領土は山門郡〜大牟田〜荒尾、玉名付近まであったかもしれない。

異論がなければ
水行陸行の謎
魏帝が卑弥呼を特別に優遇した理由
大量の賜物を与えた謎、
勅使が未開の地、倭国へ何度も来た理由について述べたい。
290日本@名無史さん:2012/01/06(金) 07:18:59.29
>>289
連続説だね。しかし、伊都国が佐賀大和ならば嘉瀬川を下れば有明海だ。
奴国や不弥国へ行かずとも投馬国を目指すことができる。水行の出発点は伊都国の
はずだ。連続説は不自然だ。

>放射式に読めば東南至奴國百里、東行至不彌國百里に矛盾する。
なぜ、矛盾するのかな? 意味がわからないが。
連続説に読めば、邪馬台国までは水行三十日陸行一月となる。北九州から
それだけ南下すれば、九州を突き抜けてしまうと考えるべきだろう。

>勅使は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
>以外の国へは一国たりとも行っていない。
良い着眼だと思う。しかし、旁国の首都に行っていない、旁国の王に会っていないと
いうだけかも知れんよ。あるいは、倭国乱の結果、邪馬台国又は投馬国の領土が飛
び抜けて大きくなり、その領土の始めから首都の所在地までがやたら遠かったとか・・

>下妻、上妻の名前で呼ばれていた八女、筑後、三潴などが投馬国(ツマ国)。
>そこから南へ進んで最初にあるのが山門郡でここに邪馬台国
地名が似ているということかな?そんなことは何とでも言える。日本の首都も日本とは
言わない。それに、似た地名はあちこちにあるぜ。
例えば、投馬国は薩摩、邪馬台国は山田とかね。
291日本@名無史さん:2012/01/06(金) 10:03:20.06
短里77m、一月行千里に当てはめると、
投馬国は大牟田、荒尾付近に来る。

ここを中心として久留米から大牟田、荒尾、そして
反対側の玉名、荒尾までいれてもいいかもしれない。

そうすると、熊本中心部から熊本南部が邪馬台国ということになる。
292日本@名無史さん:2012/01/06(金) 10:58:24.34
一月行千里? 狗邪韓国から末盧国まで3か月もかかったとみるのか?
293日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:19:14.15
>>292

隋書倭国伝にこういう記述がある。

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、
三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、
各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與?耳相近。

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、
大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。
皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。
その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、?耳と相似するという。


投馬国と邪馬台国の行程で二月。
九州のサイズを考えれば、2/5〜1/3の間になる。

実日数ではなくて、距離の単位ということだ。
294日本@名無史さん:2012/01/06(金) 11:38:05.89
間違った。

>九州のサイズを考えれば、2/5〜1/3の間になる。

>九州のサイズを考えれば、2/5〜2/3の間になる。

に修正。

295日本@名無史さん:2012/01/06(金) 12:11:56.81
>下妻、上妻の名前で呼ばれていた八女、筑後、三潴などが投馬国(ツマ国)。

これ違うと思うよ
いわゆる好字二字令で上陽刀ィ上妻と変えられた可能性が高いと思う
296卑弥呼の都は久留米:2012/01/06(金) 13:41:16.26
伊都國の城柵が惣座遺跡

@末盧國の津(中原遺跡)から東南500里

A伊都(イト)は倭都(イト)を書き換えたもの。現王都は女王の都であるから。

B伊都國には「世有王」である。つまり卑弥呼女王共立以前の時代の王がいる。

C惣座遺跡は吉野ヶ里遺跡と同じ構造の環壕を持ち王都に相応しい。

D伊都國千戸5000人の居住範囲は、背振山系山麓嘉瀬川付近とその西側。
 (伊都國城柵の南側と東側の佐賀平野は奴國領域。奴國城柵は伊都國城柵の東南100里)

E伊都國になぜ「郡使往來常所駐」なのか?
 卑弥呼共立以前の倭都である伊都國に、楽浪郡から郡使が来ていたときからの習慣。
 (伊都國から女王の都まで平地300里20kmの1日行程)

F
297卑弥呼の都は久留米:2012/01/06(金) 14:05:39.16
>>293
下記の部分の訳が間違っている

「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」

誤:その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。

正:その国の東西の国境長さは五月行(5000余里)、南北の国境長さは三月行(3000余里)の行程で、各々が海に至る。
  (国境間隔が其々五月行、三月行と考えるのは誤り)

隋書百濟伝に済州島の記述がある。
「其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里」(「其」は百濟)
実際の済州島の大きさは、南北が数百里で東西が千余里である。
298卑弥呼の都は久留米:2012/01/06(金) 14:18:10.53
>>289
>下妻、上妻の名前で呼ばれていた八女、筑後、三潴などが投馬国(ツマ国)。

八女を除くと、其の通り。
内陸部の八女を除く有明海沿岸地域が投馬國。
北はみやき町南部、南は大牟田迄が投馬國の範囲。

「ツマ」の音訳が、投馬(トマ)と考えられる。

299卑弥呼の都は久留米:2012/01/06(金) 14:29:47.67
>>292
>一月行千里? 狗邪韓国から末盧国まで3か月もかかったとみるのか?

水行一日が1日航海の距離で、千餘里に相当する。

狗邪韓国から末盧国までは、水行三日で3日間の航海の意味。距離は三千餘里。

帯方郡から末盧國までは、水行十日で10日間の航海となり、距離は一万餘里。
300筑紫次郎:2012/01/06(金) 14:32:42.64
>>290
>奴国や不弥国へ行かずとも投馬国を目指すことができる。水行の出発点は伊都国の
はずだ。連続説は不自然だ。

理解できないからと言って倭人伝の解釈を自分の都合に合わせるべきではありません。
さらに進んで倭人伝の間違いにしてしまう人が多いので
倭人伝の信用は失墜してしまっている。

>>放射式に読めば東南至奴國百里、東行至不彌國百里に矛盾する。
なぜ、矛盾するのかな? 意味がわからないが。

矛盾しない
伊都国、奴国、不弥国の位置関係はありますか?

>連続説に読めば、邪馬台国までは水行三十日陸行一月となる。北九州から
それだけ南下すれば、九州を突き抜けてしまうと考えるべきだろう。

誤読でしょうね、

>良い着眼だと思う。しかし、旁国の首都に行っていない、旁国の王に会っていないと
いうだけかも知れんよ。あるいは、倭国乱の結果、邪馬台国又は投馬国の領土が飛
び抜けて大きくなり、その領土の始めから首都の所在地までがやたら遠かったとか・・

其餘旁國〓遠絶〓不可得詳
に齟齬します。

>地名が似ているということかな?そんなことは何とでも言える。日本の首都も日本とは言わない。それに、似た地名はあちこちにあるぜ。

読めば判るように
名前を根拠にしたことは一度もない。
行程記事に比定したら同じ名前があっただけ。
301筑紫次郎:2012/01/06(金) 14:38:08.42
>>295
>可能性が高いと思う

私は可能性の話はしていません。
不弥国から南へ進んで最初にある国が下妻、上妻の名前で呼ばれていた八女、筑後、三潴などが投馬国(ツマ国)、と言っています。

不弥国から南へ進んで最初にある国の話をしています。
302日本@名無史さん:2012/01/06(金) 14:47:40.17
下妻郡、上妻郡が投馬国(ツマ国)の語源となるとすると、
旧八女郡で、筑後市、八女市、みやま市あたりの領域になるのかな。
303筑紫次郎:2012/01/06(金) 14:48:31.66
>>298
>内陸部の八女を除く有明海沿岸地域が投馬國。
北はみやき町南部、南は大牟田迄が投馬國の範囲。

卑弥呼の都は久留米とは考えが違うので返信いただいても嬉しくありません。
しかし
四世紀の
八女、筑後、三潴を治めていたのは八女津姫。
山門郡以南を治めていたのは田油津姫です。
【北はみやき町南部、南は大牟田迄が投馬國の範囲。】
は成立しません。

>「ツマ」の音訳が、投馬(トマ)と考えられる。

どちらでもかまいませんが
投馬(ツマ)と呼ぶ説が多いようです。
304筑紫次郎:2012/01/06(金) 15:00:11.37

弥呼の都は久留米とは考えが違うので返信いただいても嬉しくありません。
↓↓訂正
卑弥呼の都は久留米さんとは考えが違うので返信いただいても嬉しくありません。
305卑弥呼の都は久留米:2012/01/06(金) 15:02:37.00
>>303
>四世紀の
>八女、筑後、三潴を治めていたのは八女津姫。
>山門郡以南を治めていたのは田油津姫です。

四世紀ではなく二世紀でしょう。
306日本@名無史さん:2012/01/06(金) 15:33:43.85
三国志の記述はぐちゃぐちゃだからなあ
ただ当時の九州は独自に中国と交流はしてたとは思うが
畿内にも王権はあっただろう
307日本@名無史さん:2012/01/06(金) 15:50:05.97
>>300
>倭人伝の解釈を自分の都合に合わせるべきではありません。
自分の都合に合わせているわけではない。地形からみて不合理だといってるんだよ。

> 矛盾しない伊都国、奴国、不弥国の位置関係はありますか?
いくらでもあり得るだろ。不弥国は小国だ。その南に奴国が広がっている
と考えればいい。

>其餘旁國〓遠絶〓不可得詳に齟齬します。
どこが齟齬するのかな? 遠絶とは使者がいたところからみたら遠いという
だけのことだろ。






308筑紫次郎:2012/01/06(金) 18:53:03.37
>>305
>四世紀ではなく二世紀でしょう。

二世紀の記録なんか残っていませんよ。
四世紀の話です。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓
http://www.yokaocha.com/yametuhimezinja.htm
四世紀前半、この地を治めていた水沼の県主猿大海が、
景行天皇に奏上したことから”八女”の名が起こったととされています。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓

【景行天皇の崩御は130年12月24日とされているが】
景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、〓実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。〓
ウィキベディア
309筑紫次郎:2012/01/06(金) 19:04:37.60
>>307
>いくらでもあり得るだろ。不弥国は小国だ。その南に奴国が広がっている
と考えればいい。

いくらでもあるなら提示すればいい。

>遠絶とは使者がいたところからみたら遠いというだけのことだろ。

使者がいたところからみたら遠いというのなら
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国以外に
使者がいたところの別の国は無かったんだろ?
だったら
>>290>勅使は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
>以外の国へは一国たりとも行っていない。
で何の問題もない。
310卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/06(金) 19:16:06.58
>【景行天皇の崩御は130年12月24日とされているが】

筑紫次郎さん、これをそのまま信じなさい。
311日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:37:02.03
日本書記が神功皇后を卑弥呼にあて昔から邪馬台国は畿内と考えられてきたんだから
そうなんだろ。
神功皇后が築いた香椎宮も邪馬台国の一つと考えられるのかもしれん。
船行一年とか沖縄らしき記述があることから出雲や畿内の国が語られないのは異常。
312日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:49:56.50
スマソ
香椎宮はただの廟か…
313太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/06(金) 19:51:43.98
>【景行天皇の崩御は130年12月24日とされているが】

これをそのまま信じてはいけません。

しかしだからといって書紀の編者らがウソを書いたものでもありません。

ここで問題なのはそれの年代部分です。これにより、そのままでは景行
が百数十歳の超長寿を果たした意味となり、これはまず考えられません。

というのは前後の天皇らも百数十歳の寿命だとなり、この辺の年代の天皇
はその殆どが百歳を軽く超える者ばかりとなるからです。

ということはそのまま信じていいものではなく、これは当時の朝廷が
2倍年暦等を行使していた関係のことから、これを見破れば、これらの
天皇は現代人間の寿命と大差ない寿命だったことが知れ、紀の記載に
誤りがないことが判明します。

景行没年の実年代は倍暦計算により、A.D.322年になります。
314日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:22:51.90
>>309
>いくらでもあるなら提示すればいい。
提示しただろ。「不弥国は小国だ。その南に奴国が広がっていると考えればいい。」
というのが一つの例だ。

> 使者がいたところからみたら遠いというのなら 対馬国、一大国、末盧国、
>伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国以外に使者がいたところの別の国
>は無かったんだろ?
なかったとは速断できんよ。→>>300
だから、君が>>289でいう「ならば〜」「そこから〜」は勝手な思い込みにすぎん
ということ。



315日本@名無史さん:2012/01/06(金) 20:48:07.15


 東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
 中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
 もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ  
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける
316筑紫次郎:2012/01/06(金) 21:02:27.95
>>314
>>いくらでもあるなら提示すればいい。
提示しただろ。「不弥国は小国だ。その南に奴国が広がっていると考えればいい。」
というのが一つの例だ


具体的に比定しないのならどんなことでも言える。
無意味な主張だ。
317295:2012/01/06(金) 22:01:37.21
>>295
景行天皇から持統天皇までは八女がヤメだというのは確実だと言っているのです
元明天皇の発した好字二字令により妻の文字が与えられ、のちに誤読されてツマと呼ばれたわけです

つまり三世紀の投馬国と無関係です
318295:2012/01/06(金) 22:04:14.66
317は>>301の間違いです
失礼しました
319日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:07:26.59
話は次のように進んできたんだよ。
>放射式に読めば東南至奴國百里、東行至不彌國百里に矛盾する。
   ↓
>なぜ、矛盾するのかな? 意味がわからないが。
   ↓
>いくらでもあり得るだろ。不弥国は小国だ。その南に奴国が広がっている
>と考えればいい。
   ↓
>矛盾しない伊都国、奴国、不弥国の位置関係はありますか?
   ↓
>いくらでもあるなら提示すればいい
   ↓
>提示しただろ。「不弥国は小国だ。その南に奴国が広がっていると考えればいい。」
>というのが一つの例だ

これで何で具体的に比定する必要があるのかな? 
矛盾しない位置関係があり得ることを示せばいいはずだが。   
 
320日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:10:15.12
>>319
まちがえた、3番目と4番目を逆転させてね。
321筑紫次郎:2012/01/06(金) 22:49:24.39
>>提示しただろ。「不弥国は小国だ。その南に奴国が広がっていると考えればいい。」
>というのが一つの例だ
これで何で具体的に比定する必要があるのかな? 
矛盾しない位置関係があり得ることを示せばいいはずだが。   

東南至奴國百里
東行至不彌國百里の矛盾しない位置関係が理論的にあるのは言うまでもない。

私はそれを満たす位置関係が現実には存在できないと言っている。
伊都国、奴国、不弥国は何処ですか?

言葉尻をとらえた言葉遊びには興味がない。
322筑紫次郎:2012/01/06(金) 23:01:34.41
>元明天皇の発した好字二字令により妻の文字が与えられ、のちに誤読されてツマと呼ばれたわけです

妻と八女は同時に存在する名前です。
誤読説は成立しません。
それとも
確かな証拠があると言うのなら提示してください。
根拠を提示できないのなら話は終わりです。
323日本@名無史さん:2012/01/07(土) 00:40:38.69
22 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/06(金) 23:40:34.39 0
AKB=金正恩

この意味わかるか
AKBという捏造ブームの裏に何があるか見えるか?


324日本@名無史さん:2012/01/07(土) 02:04:16.95
>>321
伊都国は佐賀市付近、不弥国は筑後川右岸の吉野ヶ里付近、奴国は筑後川左岸だよ。
奴国は広いから左岸一帯は全て奴国だろう。しかも、それだけではないかも知れんね。
325日本@名無史さん:2012/01/07(土) 03:18:44.53
九州って暖かいわけじゃないぞ。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n17072
326日本@名無史さん:2012/01/07(土) 07:56:46.76
なぜ記紀に邪馬台国に関する記述が一切ないのか?
それだけでも邪馬台国と畿内王朝が別系統の国だったと推定すべきであろう。
それどころか、畿内には、邪馬台国の存在を知る者さえいなかった可能性が高い。
つまり、記紀が書かれるかなり以前に邪馬台国は滅亡しており、
邪馬台国を滅ぼした勢力も畿内勢力とは別の集団であり、
その勢力も既に滅亡しているからであろう。

これが邪馬台国に関する記録が日本にほとんど残っていない理由である。

では、それがどこにあった勢力かといえば、弥生時代から存在した大きな集落で、古墳時代には急激に勢力を失っている地域。
磐井の乱で滅ぼされた筑紫の勢力に既に滅ぼされていた南九州の勢力も有力な候補であろう。
327日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:29:46.90
>畿内には、邪馬台国の存在を知る者さえいなかった可能性が高い。
九州の各地に畿内と同様の古墳が造られている。人は行き来していたわけだ。
九州のどこにどんな勢力がいるのか、それを知らないなどということはないな。

>なぜ記紀に邪馬台国に関する記述が一切ないのか?
一切ないという見方がまちがっているんじゃないかな。畿内の側が他の勢力に
ついて書くときには、貶めつつ書くということになるだろう。
記紀は、クマソを畿内の支配下に属さない勢力として描いている。これこそ邪
馬台国勢力のことだと思わないかな?

32819歳某国立大生:2012/01/07(土) 10:48:30.71
ともちん、整形だけどかわいいな
329日本@名無史さん:2012/01/07(土) 11:48:44.34
上からマリコは伊都国出身
330日本@名無史さん:2012/01/07(土) 15:55:41.68
その調子だ
巣からでるなよ
331筑紫次郎:2012/01/07(土) 19:49:57.32
>>324
>伊都国は佐賀市付近、不弥国は筑後川右岸の吉野ヶ里付近、

http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
不弥国を吉野ヶ里付近だとすれば
伊都国は距離方角からすれば佐賀大和〜吉野ヶ里の間程度。
ところが
遺跡分布図を見れば判るように
佐賀大和〜吉野ヶ里の間はびっしりと遺跡が密集している。
つまり
佐賀大和〜吉野ヶ里の間には
伊都国千戸、不弥国千戸を遙かに超える巨大な国があったのだ。
つまり
【伊都国は佐賀市付近、不弥国は筑後川右岸の吉野ヶ里付近】
は成立しない。

>奴国は筑後川左岸だよ。

筑後川左岸の人口密集地帯までは最短でも20q近くある。
百里に合わない。
直線的に進んでも二百里、迂回があれば三百里となっている所。
また
その途中は水行が必要な海、湿地帯があったと言われているのに
水行とは記載してない。
さらには
佐賀大和〜吉野ヶ里の間の
数倍の遺跡はあっても
10倍もの遺跡は無い、(伊都国千不弥国千、計二千の十倍が二万)

【都国は佐賀市付近、不弥国は筑後川右岸の吉野ヶ里付近、奴国は筑後川左岸】が
成立する余地は無い。
332卑弥呼の都は久留米:2012/01/08(日) 02:05:14.55
伊都國:惣座遺跡付近。千餘戸約5000人が居住の狭い地域。
    帥升王統の遷都先。

不彌國:吉野ヶ里遺跡付近。千餘家約5000人が居住の狭い地域。
    倭王帥升の王都。伊都國の東100里(7km)。3世紀の筑後川の北岸(右岸)。
    魏使行程(行至)の最終地、郡から12000餘里の女王國の始まり。

奴國:惣座遺跡(伊都國)の南、惣座遺跡(伊都國)と吉野ヶ里遺跡(不彌國)の間及びその南、
    即ち佐賀平野の大部分。二万戸10万人が居住の農漁業地域。
    奴國の城柵は、佐賀城又はその東寄り(東名遺跡も可能性あり)にあり、
    惣座遺跡の東南100里(7km)、又環濠(壕)遺跡であること。
    奴國の城柵も郡から12000餘里になるので、奴國は女王國に含まれる。
333日本@名無史さん:2012/01/08(日) 02:16:48.00
334卑弥呼の都は久留米:2012/01/08(日) 03:03:17.78
>>333
what?
335日本@名無史さん:2012/01/08(日) 07:53:34.87
>伊都国千戸、不弥国千戸を遙かに超える巨大な国があったのだ。
魏略によれば、伊都国は戸万余だ。伊都国の重要性を考えれば魏略の方が正しそうだな。
それに、伊都国、不弥国の境をどことみるかも問題だ。遺跡地図をながめたって境は分か
るものではない。

>筑後川左岸の人口密集地帯までは最短でも20q近くある。
右岸に人口密集地帯がたくさんあって、左岸にないなんてことはありえんな。
筑後川の川筋は何度も変わっている、今の川筋だと思い込むのはまちがいだ。

>10倍もの遺跡は無い、
当時の国の大きさをどの程度だと思っているんだ? 奴国は筑紫国全部かもしれんぞ。
336日本@名無史さん:2012/01/08(日) 10:04:37.71
邪馬台国はヤマト
337日本@名無史さん:2012/01/08(日) 10:30:13.69
邪馬台国九州説の人は己の愚鈍さを猛省しなさい。
338筑紫次郎:2012/01/08(日) 11:33:42.59
>>335
>魏略によれば、伊都国は戸万余だ。伊都国の重要性を考えれば魏略の方が正しそうだな。

【従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里】
帯方〜狗邪韓国七十里
侏儒國は倭の南で女王から四千余里離れている
貴方はそんな魏略をもとに邪馬台国の場所を比定すればよい。

>>筑後川左岸の人口密集地帯までは最短でも20q近くある。
右岸に人口密集地帯がたくさんあって、左岸にないなんてことはありえんな。
筑後川の川筋は何度も変わっている、今の川筋だと思い込むのはまちがいだ。

弥生時代の遺跡が集中している場所の話をしている。
筑後川の話なんぞ無意味だ。

>当時の国の大きさをどの程度だと思っているんだ? 奴国は筑紫国全部かもしれんぞ。


その無茶な考察によると投馬国、邪馬台国、狗奴国は何処になるんだ?
私は屁理屈、誤魔化し、強弁しかないイサクは相手にしないと何度も言っている。
イサクも名無しでは決して投稿しないと言ったばかりだな。
まさか
邪馬台国も狗奴国も熊本にあったなんてアホな事は言わないだろ?
339日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:10:19.06
>>337

畿内説をやり込め、その詐欺ぶりを血祭りにして申し訳ありませんでした。
詐欺はどこまでも詐欺のままであり、無駄な努力でした。反省します。
340日本@名無史さん:2012/01/08(日) 15:44:48.57
>>336>>337
ヤマトも九州説愚鈍もそれを立証しろ。ここは学問板だ。立証ができねーなら
口を出すな、ドア○ウ。
341日本@名無史さん:2012/01/08(日) 17:16:28.69
>侏儒國は倭の南で女王から四千余里離れている
これが何か問題があるかな? 倭人伝も同じことを書いているはずだが・・

>弥生時代の遺跡が集中している場所の話をしている。
遺跡は川の下になってるかも知れんね。

>その無茶な考察によると投馬国、邪馬台国、狗奴国は何処になるんだ?
伊都国から南へ舟で二十日行ったところが投馬国だ。川内だろう。
伊都国から南へ水行十日陸行一月が邪馬台国だ。都城盆地あたりだろう。
狗奴国は更に南だよ。

342日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:31:20.30
震災前

     /::::::::::::::::::::::::::::::;;::ノ ヽ;::\
    /::::::::;;;;;;;;;,,,;;...-‐''"~    ヽ:;::l
     |:::::::::::|    岡田 異音    |ミ|
     |:::::::/     ,,,  ヽ,、   '|ミ|  
     '|:::::::l    '''""   ゙゙゙゙`   |ミ|
       |:::::|.  ,,r ‐、   ,, - 、  |/
     ,/⌒|  ノ ・ _), (. ・ `つ|
     | (   "''''"    |"'''''"  | 
      ヽ,,.        ヽ    |
       |       ^-^_,, -、   |   
         |    _,, --‐''~    ) |  マニフェストもう守れない。どうしよう・・・・ 
         'ヽ  (   ,r''''''‐-‐′ / 


震災後

     |:::::::::/            |ミ|
     |::::::::|   ,,,,,    ,,,,,   |ミ|
     |彡|.  '''"""''   ''"""'' |/
     /⌒|  -=・=‐,   =・=-  |
     | (    "''''"   | "''''"  |  
     .ヽ,,         ヽ    .|  キリッ
        |       ^-^    |
   .     |     ‐-===-   |   大震災が起こったのだからマニフェストの破綻も致し方ありません
         ,\.    "'''''''"   / 
朝鮮民主党
     おわり
343筑紫次郎:2012/01/08(日) 20:54:45.95
>>341
>伊都国から南へ舟で二十日行ったところが投馬国だ。川内だろう。

熊本の川内か鹿児島の川内か知らないが
直線距離で80〜160q程度の場所に
舟で二十日かかっちゃうのか。
一日4〜8qか。
俺の一日の散歩ジョギング距離と同じだな。
随分遅い船だな。


>伊都国から南へ水行十日陸行一月が邪馬台国だ。都城盆地あたりだろう。
狗奴国は更に南だよ。

川内まで舟で二十日で行くのに
されより先にある都城へ行くのに
なんで水行十日なのかな〜?
きっと勅使は馬鹿なんだな。

・・・・
い―ちゃん。
もういいよ。
馬鹿馬鹿しいからもうおしまい。
これからは
俺にレスしないでね。
344日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:11:37.71
>随分遅い船だな。
舟の進み方を知らんとみえる。

>川内まで舟で二十日で行くのにされより先にある都城へ行くのになんで水行十日なのかな〜?
陸行一月を忘れる馬鹿もいるのか。あきれたもんだ。

>い―ちゃん。もういいよ。
誰と話しているのかも知らんかったのか。
345三馬鹿大将:2012/01/08(日) 23:19:56.51
19歳某国立大生
森村遺作
夢幻尿
346日本@名無史さん:2012/01/09(月) 10:19:18.93
名無しでいいよ:2011/08/15(月) 23:20:15.53 ID:2fed4jwtO
FNS歌謡祭やHEY!×3の制作会社
株式会社CELL
東京都千代田区麹町2―2―4麹町YTビル

前バリ・REN4・野田らに政治献金した後藤組のフロント企業
メディアトゥエンテイワン
東京都千代田区麹町2―2―4麹町YTビル


347日本@名無史さん:2012/01/10(火) 06:39:24.98
>>337
オマエのことだクズ。
またモモソヒメだの纒向だの言ってんだろがオマエは。
348日本@名無史さん:2012/01/10(火) 06:40:45.97
>>325
暖かいよ。
とくに卑弥呼の時代は暖かかった。その後寒冷化するんだったかな確か。
349日本@名無史さん:2012/01/10(火) 09:33:34.10
民主党には朝鮮人など外国人のなりすまし、スパイが約90名在籍している

野田内閣は過半数が帰化人

野田はどうだろうか
韓国人から賄賂を貰い、韓国人の集いに出席している野田は
350日本@名無史さん:2012/01/10(火) 20:42:35.33
>>348
1世紀末から2世紀は温暖期の最終期。
西日本の夏季には、集中豪雨と旱魃が同時に襲ってきた。
食料不足が100年あまり続く。
そこで起きたのが、倭奴國から帥升への政権交代。
続いて倭国乱。
2世紀末から気温がやや下がりだし、集中豪雨と旱魃の同時発生が減少。
食料の生産も安定する。
九州各国の小規模な合従連衡と卑弥呼の共立で社会不安は低減する。

3世紀には、本格的に気温も下がりだし、集中豪雨と旱魃の同時発生も少なくなり、食料も順調に増産し始める。
4世紀には寒冷期に突入、西日本では集中豪雨と旱魃の同時発生もなくなり、
食料の特に水田耕作において安定増産が図られ、経済発展が起き、
安定した巨大政権(倭の六王政権・畿内政権)が生まれた。
351日本@名無史さん:2012/01/10(火) 21:58:51.17
>350
>集中豪雨と旱魃

これ、気象か何かのソースあるかい?
ちょっと見には、思いっきり矛盾しているように見えるのだが。

集中豪雨でもあれば、普通は川の水量増えて、
早魃にはならんよね。
352日本@名無史さん:2012/01/10(火) 22:58:57.28
>>351

@「梅雨前線」と「秋雨前線+台風」の季節の集中豪雨
A夏の旱魃

@「梅雨前線」は穀物の苗と収穫前の野菜の流失。
@「秋雨前線+台風」は収穫前の穀物や野菜の流失。

Aは水不足による生育阻害

最近の半世紀をみても、気温の高い年には、西日本において@Aが頻発している。
西日本において夏の平均気温が低い年は農産物が豊作。

北日本がやませ等で夏の気温の低い年は、西日本が豊作。
353日本@名無史さん:2012/01/10(火) 23:12:52.71
>>352
ありがとう、納得した。
梅雨前線は作付け時の問題で、あまり影響は多くないが、
高温時の旱魃による生育不良と、台風は確かに影響が大きい。

一般的に九州は高温期に不作になりやすく、
低温期には豊作になりやすい。
354日本@名無史さん:2012/01/10(火) 23:43:13.41
ん?中国共産党から反日工作費を貰っているNHKか






355日本@名無史さん:2012/01/11(水) 01:03:36.40
>>353
>梅雨前線は作付け時の問題で、あまり影響は多くないが、

作付け時期には、その年に梅雨前線の集中豪雨が多発するかどうかわからないので、
梅雨前線の集中豪雨も大きな被害を及ぼすことになる。
356日本@名無史さん:2012/01/11(水) 16:04:43.42
七↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
千↓┃∵∵∵∵∵狗邪韓國┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
餘↓┃∵∵∵∵∵┏━◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
里↓┗━━━━━┛┌┤〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜└→→→@→→→┘↓千餘里A〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜對馬國┃◎↓方可四百餘里=八百里〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓千餘里B〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜一大國┃◎↓方可三百里=六百里〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┌←←←┤千餘里C┏━━┓〜〜┏━┛∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┏┯┓↓〜〜〜┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┃│┃↓〜┏━┛∵∵∵奴國◎〈旧倭奴國〉
〜〜〜〜〜〜〜┌←←┘┃│┗↓━┛∵観音峠∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜↓┏━━┛│〜◎→→→▲┐五百里D∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜↓┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜G↓〜┃∵∵│∵∵∵∵∵∵↓E百里∵不彌國∵∵
〜〜〜〜〜〜〜↓〜┃∵∵└┐∵∵伊都國◎→→→●∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜↓〜┗┓∵∵└┐∵∵百里└┐┏●┴●邪馬壹國
〜〜〜〜〜〜┌┘┏┓┗━┓∵└┐∵∵奴國●┃┃投↓∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜↓┏┛┗┓〜┃∵∵└┐┏━━━┛┃馬↓F∵∵∵
〜〜〜〜〜〜↓┃∵∵┃〜┗┓∵∵└┨〜〜〜〜┃國■┌───
〜〜〜〜〜〜↓┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃有明海┌■┌─┘∵∵∵
〜〜〜〜〜〜↓┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜G↑┠┘∵◎狗奴國

@7000里≒水行7日、A1000里≒水行1日、B1000里≒水行1日
C1000里≒水行1日、D+E+F陸行1月≒1000里、G水行10日=10000里
357日本@名無史さん:2012/01/11(水) 22:16:01.13

800 自分:名無し募集中。。。[] 投稿日:2012/01/08(日) 22:00:50.04 0
AKBブーム捏造の裏

サウンドスキャンの売り上げでさえほとんどが業者の自社買い他社買いで
資金洗浄した金額がオリコンの枚数×CDの価格って感じかね
http://livedoor.blogimg.jp/dqnplus/imgs/f/f/fff69a26.jpg

358日本@名無史さん:2012/01/12(木) 04:40:51.07
卑弥呼がいたのは九州だね
359筑紫次郎:2012/01/13(金) 21:09:36.88
>卑弥呼がいたのは九州だね

そうだ。
しかも
山門郡しかない。

水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではなく
目的を果たすための日数だから
場所比定するときには
書いてないのと同じと考えて良い。
360日本@名無史さん:2012/01/13(金) 21:20:41.11
>>359
そんなでたらめ言ってちゃ、いつまでたっても読めんぞ。
361筑紫次郎:2012/01/14(土) 00:20:03.42
>そんなでたらめ言ってちゃ

どこがでたらめ?

>いつまでたっても読めんぞ。

何を読めない?
362日本@名無史さん:2012/01/14(土) 00:28:51.88
>どこがでたらめ?
「所要日数ではなく目的を果たすための日数」

>何を読めない?
倭人伝


363日本@名無史さん:2012/01/14(土) 02:33:34.68
金印が出てくればなあ
364日本@名無史さん:2012/01/14(土) 05:02:57.83
魏志倭人伝の云う邪馬台国は九州だね
365日本@名無史さん:2012/01/14(土) 05:07:41.39
魏志倭人伝に見る畿内説が抱える矛盾点

・郡より女王國に至ること萬二千余里と畿内には程遠い
 →女王國は畿内と九州を含んだ連合国とすると別の矛盾点が生じる
・伊都國から邪馬台國に至るまでの道のりが極端に短い(六十日行=千余里)
・伊都國から邪馬台國には南行して至る
・兵器に矛・盾・木弓や鉄鏃を使うとあるが、畿内(特に奈良)は鉄製品の出土数が圧倒的に少ない
・死するや棺有れども槨無くと北部九州の甕棺のような棺が出土しない
・倭国の特産品である絹製品がほぼでない
・女王國以北に一大卒を置き、これは伊都國にある。何度も書かれている通り女王國と伊都國の位置関係は南北
・「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」とあるが、畿内説が推す纏向遺跡にはそれらの物が見当たらない
・「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種」とあるが、畿内では東の海の存在がない
・「周施五千余里ばかり」とあるが畿内まで行くと五千余里では狭すぎる
・出土する魏晋鏡の数が北部九州に比べて圧倒的に少ない
・畿内で弥生時代によく出土する銅鐸の記述が全くない
・女王の境界の尽きるところの南にあるという卑弥呼と敵対関係にある狗奴国の比定地に苦労する
 (当時の鉄鏃の出土数ベスト4は 福岡県>熊本県>>大分県>>>京都府)
366日本@名無史さん:2012/01/14(土) 09:02:37.97
結局は畿内派の邪馬台国=大和説の根拠はヤマタイとヤマトはにているという語呂合わせしかないのですよ。
だったら、秋田県の八幡平のほうがよっぽどあってますよ。
367筑紫次郎:2012/01/14(土) 09:41:23.73
>>362
>どこがでたらめ?
「所要日数ではなく目的を果たすための日数」

ふむふむ、
で、
じゃあ
水行二十日水行十日陸行一日はどう解釈するの?
まさか所要日数

所要日数だとするならば
水行二十日でどれだけ進み
水行十日陸行一日でどれだけ進んだの?
368日本@名無史さん:2012/01/14(土) 11:10:56.89
当然所要日数だよ。不弥国まで距離を里数で表示した。ところが投馬国や邪馬台国は
遠すぎて里数の計算がうまくできなかった。倭の舟で小刻みに休みながら進む、沖へ
でたり上陸して休んだりのくりかえし、或いは曲がりくねった山道ともなれば
当然のことだ。そこで、日数で表示したんだよ。
倭の一大率が配下に案内させたんだろう。使者を連日舟に乗せたり、歩かせたりするよ
うなことはせんよ。2日進んで1日休みてな調子だろう。
水行二十日で150〜せいぜい200キロ、陸行一月でも似たようなもんだろう。
369日本@名無史さん:2012/01/14(土) 11:15:35.39
福島県耶麻郡、崇神天皇の時代に四道将軍の一人・武淳河別命が、北陸からきた大彦命とこの地で出会ったことから「相津」の名が付けられたという。
しかし、実際には、武淳河別命と大彦命が出合ったのではなく、2方向から攻めてこの国を滅ぼしたのだろう
耶麻郡こそ邪馬台国の地だ。邪馬台国は会津にあったウガヤフキアエズ朝のことだ。

370筑紫次郎:2012/01/14(土) 11:18:56.38
>>368
>水行二十日で150〜せいぜい200キロ、陸行一月でも似たようなもんだろう。

一体どこから何処までの話をしているの?
九州の話なら
それだと水行二十日だけで鹿児島まで行っちゃうな。
水行十日陸行一月では南方海上で溺死するかも。
371日本@名無史さん:2012/01/14(土) 12:46:14.34
「從 郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
┃∵∵∵∵∵∵楽浪郡∵∵┃∵┃〜〜〜〜〜〜
┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃∵┗┓〜〜〜〜〜
〜┗━━━━━┓∵∵∵∵┗┓∵┃〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜@←┐∵∵∵∵┃∵┗┓〜〜〜〜
〜〜江華島■↓┃↑帯方郡∵┃∵濊┃〜〜〜〜
〜〜永宗島■↓┃└◎郡庁∵┗┓∵┃〜〜〜〜
〜〜大阜島■↓┣━━━┓辰韓┃∵┗┓〜〜〜
州胡■〜┌←┘┃∵∵∵┃八國┃∵∵┃〜〜〜
徳積島〜↓┏━┛∵∵∵┃∵∵┣━━┫〜〜〜
〜〜〜〜↓┃∵∵∵∵∵┗┳━┛∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜↓┗┓∵馬韓∵┏┛∵辰韓∵┃〜〜〜
〜〜〜〜└┐┃∵∵∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜水行七日↓┃∵∵∵∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜七千里┌┘┃∵∵∵∵┃∵∵弁辰∵┃〜〜〜
〜〜〜〜↓┏┛∵∵∵┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜↓┃∵∵∵┏┛∵倭∵狗邪┏┛〜〜〜
〜智島■↓┃∵∵∵∵∵∵┏━━◎┛〜〜〜〜
多島海〜B┃倭∵∵倭┏━┛┌→┤〜〜〜〜〜
〜珍島■↓┃∵∵┏━┛┌B┘■↓巨済島〜〜
〜〜〜〜↓▲━━┛┌B┘■〜〜↓〜〜〜〜〜
〜〜土末A→→B→┘〜南海島〜↓〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜多島海〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜
@:乍南、 A:乍東、 B:歴韓國
水行七日=七日航行≒7000余里≒500km
372日本@名無史さん:2012/01/14(土) 13:55:36.95
七↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
千↓┃∵∵∵∵∵狗邪韓國┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
餘↓┃∵∵∵∵∵∵┏◎━┛〜〜―――――――――――┬〜〜
里↓┃∵∵∵∵┏━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↑〜〜
〜↓┃土末┏━┛┌→┤千餘里A〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜水行1日
〜↓▲━━┛┌→┘〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜
〜└→@→→┘對馬國┃◎↓方可四百餘里=八百餘里〜―┼〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↑〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓千餘里B〜〜〜〜〜〜〜〜水行1日
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜
〜〜┬―――――〜一大國┃◎↓方可三百里=六百里〜―┴〜〜
〜〜↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━
〜〜│〜〜〜〜〜〜〜┌←←←┤C千餘里┏━━┓〜〜┏━┛∵
〜水行1日 〜〜〜〜〜↓┏┯┓↓〜〜〜┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵
〜〜│〜〜〜〜〜〜〜↓┃│┃↓〜┏━┛∵∵∵奴國◎〈旧倭奴國〉
〜〜↓〜〜〜〜┌←←┘┃│┗↓━┛∵観音峠∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜┴―――〜↓┏━━┛│∵◎→→→▲┐D五百里∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜↓┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜水行十日G↓〜┃∵∵│∵∵∵∵∵∵↓E百里∵不彌國∵∵
〜〜〜一万里〜↓〜┃∵∵└┐∵∵伊都國◎→→→●∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜↓〜┗┓∵∵└┐∵∵百里└┐┏●┴●邪馬壹國
〜〜〜〜〜〜┌┘┏┓┗━┓∵└┐∵∵奴國●┃┃投↓F四百里
〜〜〜〜〜〜↓┏┛┗┓〜┃∵∵└┐┏━━━┛┃馬↓∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜↓┃∵∵┃〜┗┓∵∵└┨有明海〜┃國■八女立花
〜〜〜〜〜〜↓┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃∵∵∵┌■みやま山川∵
〜〜〜〜〜〜↓┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜G↑┠――――――
〜〜〜〜〜〜↓〜┗┓∵┗━┛┗━━┓〜〜〜↑┃∵∵◎狗奴國
373日本@名無史さん:2012/01/14(土) 13:56:12.04
@7000里≒水行7日(7日航行)、A1000里≒水行1日(1日航行)、
B1000里≒水行1日(1日航行)、C1000里≒水行1日(1日航行)、
D+E+F陸行1月≒1000里、G水行10日(10日航行)≒10000里
帯方郡⇔末盧國=@+A+B+C=水行10日(10日航行)=11400餘里
帯方郡⇔不彌國=@+A+B+C+D+E=12000餘里
■:みやま山川・八女立花:女王國(投馬國・邪馬壹國)と狗奴國の紛争地前線
374筑紫次郎:2012/01/14(土) 14:02:32.30
都は久留米さんですか。

私は郡起点は支持できませんが。
頑張ってください。
375日本@名無史さん:2012/01/14(土) 14:04:58.38
>>365
これってサイキバ?
376日本@名無史さん:2012/01/14(土) 16:42:41.97

反日ネット工作員
朝日新聞社→社員約300人
民主党とその取り巻きの資金が入った反日工作会社→数社約450人

朝日新聞の社員は捕まった49歳の編集者を含め新聞記事を書く合間に2chを荒らしている程度とみられているが
民主党が用意した反日工作会社はほぼ24時間体制で工作を行っている
工作範囲は民主党が予め工作費を流している2ch、ニコニコ動画を中心にyoutube、個人のブログなどである。

377日本@名無史さん:2012/01/14(土) 17:30:08.45
対馬海峡横断 島半周説の根拠 狗邪韓國〜末盧國=4400餘里
  参考文献:http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/current-map/
魏使往路
七↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
千↓┃∵∵∵∵∵狗邪韓國┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
餘↓┃∵∵∵∵∵┏━◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
里↓┗━━━━━┛┌┤〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜└→→→→→→→┘↓千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜對馬國┃◎↓方可四百餘里=800餘里〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜一大國┃◎↓方可三百里=600里〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜〜┏━━┓〜〜┏━┛∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┯┓↓〜〜〜┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃│┃↓〜┏━┛∵∵∵奴國◎〈旧倭奴國〉
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃│┗↓━┛∵観音峠∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛│∵◎→→→▲┐∵∵∵∵◇倭京大宰府
〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↓〜∵∵∵∵∵∵∵∵
378日本@名無史さん:2012/01/14(土) 17:31:01.86
対馬海峡横断 島半周説の根拠 狗邪韓國〜末盧國=4400餘里
  参考文献:http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/current-map/
魏使復路
七↑┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
千↑┃∵∵∵∵∵狗邪韓國┏━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
餘↑┃∵∵∵∵∵┏━◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
里↑┗━━━━━┛┌┤〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜└←←←←←←←┘↑千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┝━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜對馬國↑◎┃方可四百餘里=800餘里〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└←┤〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↑千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┝━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜一大國↑◎┃方可三百里600里〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└←┤〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↑〜〜〜〜┏━━┓〜〜┏━┛∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┯┓↑〜〜〜┏┛∵∵┗━━┛∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃│┃↑〜┏━┛∵∵∵奴國◎〈旧倭奴國〉
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃│┗↑━┛∵観音峠∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛│∵◎←←←▲┐∵∵∵∵◇倭京大宰府
〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵│末盧國∵∵∵↑〜∵∵∵∵∵∵∵∵
379日本@名無史さん:2012/01/15(日) 10:03:35.96
魏志倭人伝には、邪馬台国は暖かく新鮮な食料が豊富で民衆は顔に刺青をしていいたとある。
畿内説では無理でしょう。邪馬台国は北部九州で、投馬国は西都周辺、狗奴国は大隅から人吉、
八代にかけての地域。
380日本@名無史さん:2012/01/15(日) 10:11:45.69
381日本@名無史さん:2012/01/15(日) 16:27:18.58
邪馬台国九州説は愚かな風説の流布です。
382日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:21:19.90
邪馬台国畿内説は愚かな詐欺捏造行為です。
383日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:34:48.17
今時九州説ってここはお爺ちゃん達の集まりですか?
384日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:41:02.10
>>383 九州から畿内に移動した事は間違いないだろう。
385日本@名無史さん:2012/01/15(日) 17:54:23.98
ホームレスの兄弟が流浪してできちゃったのが

邪馬痕王朝

無謀にいんべえだしたもんだから

にいちゃんころされちゃったけどさ
386日本@名無史さん:2012/01/15(日) 22:05:34.81
倭面土国も九州だったのかな?
387日本@名無史さん:2012/01/16(月) 00:06:32.40
>>386

倭面土國(倭メト国)は佐賀平野

吉野ヶ里遺跡付近の地名

米多(メタ)・・上峰町前牟田上米多(下米多)

目達原(メタ原)・・吉野ヶ里町目達原

米田(メタ)・・肥前國風土記三根郡米田郷

筑志米多國(筑志メタ国)・・旧事本記
388日本@名無史さん:2012/01/16(月) 00:38:06.40
ゴロ合わせ。
389日本@名無史さん:2012/01/16(月) 10:55:09.25
邪馬台国(台与)は邪馬壱国を構成する1国であった。
邪馬壱国の首都は伊都国で伊都国の女王が卑弥呼(漢委奴国王)
邪馬壱国からいち早く東遷して畿内まで到達したのが、筑紫にあった邪馬台国(台与)。
畿内での邪馬台国は日下(ひのもと)といった。
追って東遷したのが狗奴国の崇神天皇勢力。(神武東征)
日下は長野を経て津軽まで追われた。(ナガスネヒコ、アビ伝説(後の日ノ本)
その後九州から応神天皇(神功皇后系伊都国)が東遷。
日下は北東北で国を作る。これがエミシ{昔(エ)の 尊い人(ミ)の 国(シ)}後の蝦夷

という論がもっとも無理がない。
390日本@名無史さん:2012/01/16(月) 17:09:50.95
>>379
しかし、それでは使者は投馬国には行かなかったと言わざるを得んだろう。
そんな配置を考えてるようじゃだめだな。
391日本@名無史さん:2012/01/16(月) 17:55:01.57
>>387
語呂合わせという批判があるかもしれんが、吉野ヶ里は大きなコミュニティがあったと思うよね。

邪馬台国とは協力関係だったのかな?
392日本@名無史さん:2012/01/16(月) 18:15:20.50
其地無牛馬虎豹羊鵲 のくせして 邪馬壹國 とかへんでね

耶媽委國 とかかもね

阿媽 あまあ

吉野ヶ里のは呉に向けて開いたり防御したりしてる?
393日本@名無史さん:2012/01/16(月) 19:30:49.70
鎮魂譜fsr阿蘇山は移動したサガミハラハラ河童虫
394日本@名無史さん:2012/01/17(火) 15:10:53.13
>>386
倭面土国が九州だったのはまず間違いない。
しかし、倭面土国は倭人伝には登場しない。倭面土国が消えてなくなるとも思えないので
表記が変わっただけと思われる。つまり、倭人伝に登場する30カ国のうちのどれかと
考えるのが妥当ではないか。

倭面土国は倭国王・帥升の国。倭人伝の「其国」に該当し、男子を王とする国にあたる。
それから7,80年たって倭国は乱れる。卑弥呼が共立されて乱は収まる。
このように考えると、倭面土国=邪馬台国ではないかと思われる。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼
395卑弥呼の都は久留米:2012/01/17(火) 19:26:06.41
  
倭面土國は帥升王倭国の王都がある国で、
2世紀前半までの倭面土國城柵(都)は吉野ヶ里遺跡である。
帥升没後、倭面土國は衰退し、倭国乱が始まる。

乱の主役は、新興勢力の投馬國と邪馬壹國、
それに加えて帥升に滅ぼされた倭奴國の後継国の奴國の3ヶ国。

3ヶ国は帥升の都である吉野ヶ里を攻撃、
倭面土國は都を西方百里(7km)の惣座遺跡に移す。
惣座遺跡は倭の都の国である倭都國(伊都國)となる。
それ以降、伊都國(倭都國)は帥升王統の歴代の王がいる所となる。

卑弥呼共立による乱後処理。
吉野ヶ里には、倭面土國(倭都國)監視の為に、
邪馬臺國と投馬國により不彌國が置かれる。
(不彌國は戸制度でなく家制度で別格の国)
佐賀平野中部には旧倭奴國(奴國)の分国である奴國を置く。
396卑弥呼の都は久留米:2012/01/17(火) 19:27:33.10
 一大國                    帯方郡        帯方郡
   ┃                       │           │
   ┃渡一海千余里「至」           │           │
┏━┻━┓                    │           │
┃末慮國┣━━━┓        水行二十日│     水行十日│「一万里」
┗━━━┛     ┃        「二万里」│   and陸行一月│「千里」
      南東陸行┃              │        [至]│
    五百里「到」 ┃              │           │
         ┏━┻━┓東行 百里「至」 │┏━━━━━┓│
         ┃伊都國┣━━━━━━━┿┫  不彌國  ┃│ 
         ┗━━━┸─┐     ============筑後川
         東南百里「至」│      ┃  投馬國┃邪馬壹國┃
                  │      ┗━━━━┻━━━━┛
               ┏━┷┓    
                ┃奴國┃
               ┗━━┛
末盧國の津:中原遺跡、 伊都國の城柵:惣座遺跡、 奴國の城柵:佐賀平野東南部有明海沿岸
不彌國の城柵:吉野ヶ里遺跡、 投馬國の城柵;大川市中心部、 邪馬壹國の女王の都;久留米南部
邪馬壹國の城柵:八女
397卑弥呼の都は久留米:2012/01/17(火) 19:28:40.84
〜〜一大國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〈一支國〉┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜
〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜
〜〜〜〜〜┃∵┃↓〜┏┛∵∵∵∵◎奴國〈旧倭奴國〉∵∵∵┗━
〜〜〜〜〜┃∵┗↓━┛∵観音峠∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜┏━━┛∵∵◎→→→▲┐∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜┗┓∵∵∵末盧國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵不彌國〈女王國〉(旧倭面土國)∵
〜〜〜┃∵∵〈倭都國〉伊都國◎→→→●∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵└┐┏========筑後川
〜〜┏┓┗━┓∵〈女王國〉奴國●┃●┴●卑弥呼の都(女王國)(邪馬壹國の都は別)
〜┏┛┗┓〜┃∵∵∵∵┏━━━┛┃投馬國(女王國)∵∵∵∵∵
〜┃∵∵┃〜┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵┌─────────
〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃有明海〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┠┘∵∵◎狗奴國(東鯷人国)
398日本@名無史さん:2012/01/17(火) 19:29:31.31
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜├→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜
〜〜┬―――――〜一大國┃◎↓方可三百里=六百里〜―┴〜〜
〜〜↑〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┥〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜〜│〜〜〜〜〜〜〜┌←←←┤C千餘里┏━┓〜〜┏━┛∵∵
〜水行1日 〜〜〜〜〜↓┏━┓↓〜〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵
〜〜│〜〜〜〜┌←←┘┃∵┃↓〜┏━┛∵奴國◎〈旧倭奴國〉∵
〜〜↓〜〜〜〜↓┏━━┛∵┗↓━┛∵観音峠∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜┴――――↓┃――――- ◎→→→▲┐D五百里∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜↓┗┓∵∵∵末盧國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜水行十日G↓〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵↓E百里∵不彌國∵∵
〜〜〜一万里〜└┐〜┃∵∵∵∵∵伊都國◎→→→●∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜┗┓∵∵∵∵∵百里└┐┏●┴●邪馬壹國
〜〜〜〜〜〜〜〜↓┏┓┗━┓∵∵∵∵奴國●┃┃投↓F四百里
〜〜〜〜〜〜〜〜↓┃┗┓〜┃∵∵∵┏━━━┛┃馬↓∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜↓┃∵┃〜┗┓∵∵┃有明海〜┃國■八女立花
〜〜〜〜〜〜〜〜↓┃∵┗┓〜┃∵┏┛〜〜〜┌■みやま山川∵
〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┓∵┗━┛∵┗━┓〜G↑┠――――――
〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜┗┓∵┏━┓∵∵┃〜〜↑┃∵∵◎狗奴國
399日本@名無史さん:2012/01/18(水) 01:00:14.45
観音峠なんて通るかなあ?
ついでに言うなら、観音峠まではるばる登れば、
糸島の怡土も、佐賀の大和町も、
似たような距離だけどねえ。
400日本@名無史さん:2012/01/18(水) 09:43:23.68
今の唐津線ぞいの道だろう。
401日本@名無史さん:2012/01/18(水) 10:02:53.95
いや、観音峠は北山ダムの方に行く山の中の道。

唐津線沿いは松浦川から厳木、多久、小城に出る道。
こちらが旧唐津街道。ずっと谷がつながってて
意外と標高が低いのはこっち。
402日本@名無史さん:2012/01/18(水) 11:48:02.12
だからその低い所を通ったというのが正解だろう。
観音峠に登る必要はない。
403日本@名無史さん:2012/01/18(水) 11:53:10.46
>>402
あ、そういうことね。すまんかった。
俺も観音峠は通らずに、旧唐津街道を通ると思う。
404筑紫次郎:2012/01/18(水) 13:03:02.18
>>393>>403
倭人伝を正しく読む人が増えたのは喜ばしい限り。

伊都国を糸島に比定するような
予断、先入観念、恣意的解釈にまみれた学者が
倭人伝の謎を解くのは永久に不可能だ

しかし
東南五百里を正しく佐賀平野へ進んだだけではまだ不十分。
水行二十日水行十日陸行一月をどのように解釈するかが最も重要な鍵であり、
これを正しく解釈すれば大きく前進するはず。

正しく解釈するにはどのように解釈すべきなだろうか?
405日本@名無史さん:2012/01/18(水) 13:10:14.83
日数が郡からだなどという説もあるが、それが非常識な読み方であることは明白。
となると、問題は伊都国から先が連続式か放射式か、水行10日陸行1月が10日+
1月か10日又は1月かの問題だけだろう。
そこを正しく解釈すれば、邪馬台国へたどり着けるということだ。
406卑弥呼の都は久留米:2012/01/18(水) 13:12:10.44
>>399-401
>>いや、観音峠は北山ダムの方に行く山の中の道。

間違っている。
君の言っている観音峠は、国道263号の向合観音峠のこと。
佐賀大和(伊都國)と福岡平野(倭奴國)を結ぶ三瀬峠越え(標高580m)のルートだ。

唐津と佐賀大和を結ぶ国道323号の観音峠(標高440m)越えルートは、
観音峠付近でも田畑のある傾斜の緩やかな道。

自転車ででも走ってみたら?
体力の無いご老人なら車でどうぞ。
観音峠⇔佐賀大和は、徒歩でも5時間程度。


古代の唐津⇔佐賀大和ルートとして、
現国道323号沿いのルート以外に、観音の滝経由ルートも考えられる。
唐津―玉島川―七山滝川―観音の滝―袋底川―標高600mの峠越え―
―大串川―国道323号神水川大橋―嘉瀬川―佐賀大和
なおこのルートが最有力候補ではあるが、未だ十分には検証していない。
407卑弥呼の都は久留米:2012/01/18(水) 13:55:05.18
>>405
>日数が郡からだなどという説もあるが、それが非常識な読み方であることは明白。

この単純明快な決め付けが全ての間違いのもと。

郡から末盧國までの航行日数
水行十日≒7000餘里+1000餘里×3渡海
(水行1日=1日航行≒1000餘里/日)

末盧國から邪馬臺國までの陸路距離
陸行1月≒1000餘里
(距離単位:海行1月=陸行1月=行1月=1月行≒1000餘里)

末盧國から投馬國までの航行日数
水行10日≒10000餘里(倭人からの伝聞)
隋使のルートとほぼ同じ。隋使が到達した海岸は3世紀の投馬國になる。
408おれおれ:2012/01/18(水) 14:02:16.68
>>406
とちかんあるとおもうからきくけど

神代勝利さんてご存知?
409日本@名無史さん:2012/01/18(水) 15:18:18.36
>>407
やっぱり非常識だね。
郡から末盧國までの航行日数だとか、末盧國から邪馬臺國までの陸路距離
だとか、思い込み以外の何ものでもない。
何の証拠もないんだろ。
410筑紫次郎:2012/01/18(水) 15:48:52.96
水行二十日水行十日陸行一月が
郡からなのか
連続式なのか
放射式なのか
と言う選択肢以外に
もう一つ

所要日数ではなく
距離とは無関係の日数である可能性もある。
謝銘仁は連続読みでこれを支持している。

このうちのどれが正解かによって読み方、比定地は全然違う。
それとも
他の読み方があるのだろうか?
411卑弥呼の都は久留米:2012/01/18(水) 15:55:56.69
>>408
神代勝利さんは知りません。
遭った事ことはありません。

それとも、16世紀の人のことですか?


>>409
>何の証拠もないんだろ。

隋書等に証拠を見ることができます。
412日本@名無史さん:2012/01/18(水) 15:58:20.90
>謝銘仁は連続読みでこれを支持している。
なこと、言うわけないだろ。
よく読んでみることだ。

413日本@名無史さん:2012/01/18(水) 16:01:09.38
>隋書等に証拠を見ることができます。
隋書にそんなことはまったく書いてないよ。


414日本@名無史さん:2012/01/18(水) 16:08:54.90
「今使謂所通三十国…」
この部分すら正しく読めてないんだから話しにならない
その後の解釈がどんどん可笑しな方向にいってしまってる
415筑紫次郎:2012/01/18(水) 16:10:16.61
倭人在帯方東南大海之中
南至邪馬台國女王之所都水行十日陸行一月

「倭人は帯方郡の東南にある」と認識しているのだから
南至邪馬台國の起点が帯方郡になることは無いだろう。
416筑紫次郎:2012/01/18(水) 16:15:42.13
>>412
>謝銘仁は連続読みでこれを支持している。
なこと、言うわけないだろ。
よく読んでみることだ。

謝銘仁は連続読みをしている。
また
所要日数ではない、つまり距離とは無関係な日数だと述べている。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
ここに出てくる「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は、
休日や節日やいろいろな事情によって、ひまどって遅れたり
鬼神への配慮などから道を急ぐのを控えた日々などをひっくるめた総日数に、
修辞も加わって記されたものである。
決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。
‐‐‐途中省略‐‐‐
魏使一行が一日も休まずに水行し陸行した強行日程数を記したものでないことは明らかである。

【季刊邪馬台国86号P.149・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
417おれおれ:2012/01/18(水) 16:46:40.07
>>414
陳寿が三国志でちあげを開始したつうのは

蜀漢が滅んで晋のに就職してからですからな

壹與タンが32歳で王朝すり替わりおめでとうの使節送ったときあたりからだろ(266)

「今」といってるのの最終タイムラインはこのあたりだよね
418日本@名無史さん:2012/01/18(水) 16:47:02.33
今使譯所通三十国…
これでは意味が通じない。
なぜここでお得意の誤字説を主張しないのか?
譯→謂なら意味は通じる。
しかし譯の字は敢えて使ったもので決して誤字ではない。
辰韓伝でも言葉が通じるかどうかをかなり気にしている。
使者が謂ったってのと通訳が必要だった(言葉が通じない)ってのの二つの意味を譯の一字で表現してるわけ。
で、使者が謂った内容がどこまで続いているかというと、手元の資料と照合する場面まで。
419卑弥呼の都は久留米:2012/01/18(水) 16:48:17.01
>>410
>所要日数ではなく
>距離とは無関係の日数である可能性もある。
>このうちのどれが正解かによって読み方、比定地は全然違う。
>それとも他の読み方があるのだろうか?

ある。
大雑把に距離を表す長さの単位

水行1日=海行1月=陸行1月=1月行≒1000餘里
420日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:02:09.29
>>416
>所要日数ではない、つまり距離とは無関係な日数だと述べている。
それは、距離とは無関係な日数だなんて言ってるわけではないよ。
実際に道を進めた所要日数のことではなく、休日や節日やいろいろな事情によって、ひまどって
いる分も含めた日数だと言っているだけだ。例えば、2日進んで1日休みとか当時の実情を
考えることが必要だといってるわけで、当然、距離に比例した日数になるんだよ。軍隊や飛脚の
所要日数とはかなりちがうよというだけのことだな。
421日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:04:07.52
>>418
「使譯」は東夷伝中には用例が3件あるけどさ

とりあえず使譯でぐぐれかす
422筑紫次郎:2012/01/18(水) 17:10:15.14
>>420
>それは、距離とは無関係な日数だなんて言ってるわけではないよ。
実際に道を進めた所要日数のことではなく、休日や節日やいろいろな事情によって、ひまどっている分も含めた日数だと言っているだけだ。

距離とは無関係な日数でないとすればも
日数は距離に換算できる。
休日や節日やいろいろな事情によってまどっている分も含めた日数を
どうやって距離に換算するのですか?

>例えば、2日進んで1日休みとか当時の実情を
考えることが必要だといってるわけで、当然、距離に比例した日数になるんだよ。

貴方の勝手な予断です。
どこにそんなことを言っていますか?

>所要日数とはかなりちがうよというだけのことだな。

所要日数で無ければ距離に換算できない。
つまり
距離とは無関係日数です。
423おれおれ:2012/01/18(水) 17:14:43.58
>>417 のつづき

「今使譯所通三十國」

しんぱの熊襲の女酋長通じて晋のがおさえている國國を示して

それより近いところは直でおさえているよ のの補足しているわけですよ
424日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:18:46.68
>>423 のつづき

弁辰12ヶ國 及び 辰韓6ヶ國 は えくすぺくとですって書いてあるけどね
425日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:23:48.22
その前の場面は、旧→今、百余国→三十国、と対比させた構文になってるわけですよ。
それを理解してれば魏が三十国と通じてたなんて解釈になるわけないんです
426おれおれ:2012/01/18(水) 17:28:17.51
過去の件だからといって

その場その場でずらすとゆうのもどおなのかと
427日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:33:42.13
酔っ払ってるの?
なんか意味がわからない
428おれおれ:2012/01/18(水) 17:37:44.94
もすかすてよみちがえたかも
429日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:43:58.38
拙い文章でゴメンなさい
430日本@名無史さん:2012/01/18(水) 17:49:42.05
>>394-395
やっぱりそうですよね。
倭面土国は九州で決まりですよね。

あとは何らかの証拠さえ発見されればなぁ。
431筑紫次郎:2012/01/18(水) 18:11:12.98
「水行二十日」「水行十日陸行一月」が
距離に換算できると考えている人は
郡からなのか
連続式なのか
放射式なのか
そして
どこから何処までの日数なのか?
倭人伝の記述に矛盾することなく
合理的に説明できる人はいますか?
432日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:22:12.67
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮
可七萬餘戸

この2件は郡からで良いかなとはおもふが


東南至奴國百里
官曰兕馬觚 副曰卑奴母離
有二萬餘戸

これは分岐で


433日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:27:25.80
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

これを郡からだとすると

自女王國以北 其戸數道里可得略載

この件を満足させたりできるかなとはおもふが
434日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:33:55.08
そおなるとこの投馬國といふのは

玉と刃物がシンボルのの國とゆうことにはなるがね
435筑紫次郎:2012/01/18(水) 18:39:45.86
>>433
>自女王國以北 其戸數道里可得略載
この件を満足させたりできるかなとはおもふが

それだけでなく
郡からの場合は
自郡至女王國萬二千餘里と
郡起点だと断っているし

倭人在帯方東南大海之中
南至邪馬台國女王之所都水行十日陸行一月

「倭人は帯方郡の東南にある」と認識しているのだから
南至邪馬台國の起点が帯方郡とするのは無理だと思う。
436日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:42:15.20
>>431
何度も書いてるが、

連続式、
不弥国から水行二十日で投馬国
投馬国から水行十日陸行一月で邪馬台国へ

一月行は短里千里で。



437日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:50:35.23
郡から海に出たら南にいくしかなしね

自郡南至邪馬壹國 水行十日 陸行一月

自郡至女王國萬二千餘里
       ‖
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
       +
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
438日本@名無史さん:2012/01/18(水) 18:55:30.75
無理して合わないように読むべきではないかとはおもふが
439筑紫次郎:2012/01/18(水) 18:55:32.60
>>436
連続式、
不弥国から水行二十日で投馬国
投馬国から水行十日陸行一月で邪馬台国へ
一月行は短里千里で。

極めて自然な解釈。
それで
不弥国、投馬国、邪馬台国は何処ですか?
440筑紫次郎:2012/01/18(水) 18:58:32.57
>>437
郡から海に出たら南にいくしかなしね

南至邪馬台國の南は
邪馬台国のある方角ではなく
出発地点の方角ですか?
441筑紫次郎:2012/01/18(水) 19:02:36.09
>>438
>無理して合わないように読むべきではないかとはおもふが

合うように矛盾を生じるような無理な解釈はすべきではなく
無理な解釈をしなくても合うように解釈すべきだとおもふ。
442日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:03:40.81
>>439
今のところ、という前提条件がつくが、

松浦国=松浦、唐津
伊都国=小城
奴国=佐賀市(大和町も含む)
不弥国=大川付近
投馬国=荒尾、玉名、山鹿を中心とする領域
邪馬台国=熊本中心部から南部
443日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:09:35.96
熊襲の女酋長の前史とかおおまかにもそおとかするとさ

日本海の南岸に玉と刃物がシンボルののグループがあってさ

そこに青銅器持ち込んだやつがいてシンボルのの一部が金属器化されてだな

そこが鏡と刃物がシンボルののグループと合体化してだな

その合体化したので

玉と刃物と鏡をシンボルとするグループがでっちあげられたりしてさ

そのグループのが吉武高木のにさらっと出現とかしちゃうんだけど

そこらのはこの熊襲の女酋長の先祖ので

400ねんとかもっととかでえろふるいぽいよな

444日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:29:15.33
吉武高木とかって

高木神のおなまえが残存しちゃってからに

ちょっとしたおろろきですねえ
445筑紫次郎:2012/01/18(水) 19:43:11.97
>>442
>奴国=佐賀市(大和町も含む)
不弥国=大川付近

佐賀市から大川は東ではなくせいぜい東南です。
どのように解釈しますか?

>不弥国=大川付近
投馬国=荒尾、玉名、山鹿を中心とする領域
邪馬台国=熊本中心部から南部

大川付近は近代の干拓地で、当時は島が点在する海でした。
また
大川から南へ進んだ山裾、当時の海岸沿いの
山門郡〜大牟田は当時人口過密の遺跡大密集地帯です。
その地域の記載が無い事になりますが
どのように解釈しますか?

>不弥国=大川付近
投馬国=荒尾、玉名、山鹿を中心とする領域
邪馬台国=熊本中心部から南部

大川から熊本南部の八代まで
直線距離で82qですが
水行三十日陸行一月の合計六十日、
水行を半分含んで一日平均1400b足らずしか
進まなかったことになるのはどのように解釈しますか?
446日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:47:44.00
>>443
おまえ、小学校で句読点って習わなかったか?
447日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:49:30.25
おまいさ 小学校で いちばんはじめに わかちがきとか ならったろ
448日本@名無史さん:2012/01/18(水) 19:58:16.12
>>445
>佐賀市から大川は東ではなくせいぜい東南です。
>どのように解釈しますか?

それでは4〜5キロ上流の、諸富、城島付近に比定しましょうか?
これで、ほぼ真東のはずです。
城島は古いクスや神社がありますね。

>山門郡〜大牟田は当時人口過密の遺跡大密集地帯です。
>その地域の記載が無い事になりますがどのように解釈しますか?

投馬国5万戸という記述には一致していると思いますが?

>大川から熊本南部の八代まで直線距離で82qですが
>水行三十日陸行一月の合計六十日、
>水行を半分含んで一日平均1400b足らずしか
>進まなかったことになるのはどのように解釈しますか?

始めに書いた一月行短里千里で77キロになります。
つまり水行一月と直線距離の82キロがほぼ一致していることになります。
少し手前で上陸したことになるでしょう。

ここは上陸場所を宇土半島の付け根部分とします。
これより先では更に遠回りになりますから。

それから陸行一月で、球磨地方の人吉市に到着します。
宇土半島から道なりで約80キロです。




449日本@名無史さん:2012/01/18(水) 20:03:40.90
ちょっと解釈を間違いましたね。

>山門郡〜大牟田は当時人口過密の遺跡大密集地帯です。

これは荒尾から玉名付近を中心とした、投馬国に入ると考えています。
八女の岩戸山古墳まで、熊本の文化色が強いですが、
その影響が八女あたりまで広がる広域国家だったのでしょう。
450日本@名無史さん:2012/01/18(水) 20:29:34.12
;;;;;;;
451日本@名無史さん:2012/01/18(水) 20:43:02.40
>>422
>休日や節日やいろいろな事情によってまどっている分も含めた日数を
>どうやって距離に換算するのですか?
ならして計算するんだよ。2日間十キロずつ進んで1日休むってペース
ならば、3日で二十キロ、1日は7キロ弱と考えればいいんだよ。

>貴方の勝手な予断です。どこにそんなことを言っていますか?
「いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり鬼神への配慮などから道を急ぐのを
控えた日々などをひっくるめた総日数に、修辞も加わって記されたものである。」と
あるだろう。それがそうゆう意味だ。

>>所要日数とはかなりちがうよというだけのことだな。
>所要日数で無ければ距離に換算できない。
おいおい、私は、「軍隊や飛脚の所要日数とはかなりちがうよというだけのことだな。」
と書いたんだ。勝手に妙なところで切ってはいかんよ。
一般的に所要日数でないなんて言った覚えはないぜ。
軍隊や飛脚の所要日数ではないが、使者の所要日数だ。




452日本@名無史さん:2012/01/18(水) 20:51:22.32
>>431
伊都国は佐賀市付近。そこから放射式だよ。倭人伝の読み方も当然そうなるし、
佐賀市付近は海に近い、伊都国から直接南行できるのに、奴国や不弥国に行く
理由もない。つまり放射式が正しいんだよ。
水行二十日の投馬国は薩摩、現在の薩摩川内付近だろう。伊都国から水行十日
の上陸点は八代付近、そこから陸行一月で邪馬台国だ。都城付近だな。
これで倭人伝に何も矛盾していないよ。
453筑紫次郎:2012/01/18(水) 21:04:40.16
>>448
>それでは4〜5キロ上流の、諸富、城島付近に比定しましょうか?
これで、ほぼ真東のはずです。
城島は古いクスや神社がありますね。

もっと早く提示すべきだったのに遅くなりました。
これが弥生時代遺跡分布図です。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
佐賀市中心部の遺跡は点在しているだけで
密集しているのは佐賀市中心部から4〜5q北部の山沿いです。
城島は名前が表しているように島だったようです。
城の跡は神社になっているそうです。

>>山門郡〜大牟田は当時人口過密の遺跡大密集地帯です。
その地域の記載が無い事になりますがどのように解釈しますか?
>投馬国5万戸という記述には一致していると思いますが?

不弥国から投馬国まで二十日の間に
二十日の間に途中にある人口過密の遺跡大密集地帯を避けて通過したのですが?
立ち寄ったのに記載してないとすれば
其餘旁國遠絶不可得詳と齟齬します。
454筑紫次郎:2012/01/18(水) 21:10:02.61
>>449
>>山門郡〜大牟田は当時人口過密の遺跡大密集地帯です。
>これは荒尾から玉名付近を中心とした、投馬国に入ると考えています。



>八女の岩戸山古墳まで、熊本の文化色が強いですが、

八女が九州の広範囲を支配していた記録はありますが
熊本が九州の広範囲を支配した事実は無いはずです。
455日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:16:50.67
>>454
>八女が九州の広範囲を支配していた記録はありますが

これがなんの記録を示しているのか不明ですが、
荒尾大牟田の海に近い丘陵地帯が中心部でしょう。

そして八女から玉名山鹿までが投馬国と想定します。
その中で八女に本拠をおいた王がいても
いいのではないですかね?

密集地帯なのは事実です。
だから五万戸の人口を持っていたのでしょう。

不弥国や伊都国の千戸とは大きさが違いますから。
456日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:18:22.69
>>447
おい、>>443のどこが分かち書きなんだよ。
日本語が読み書きできてから言え。
457日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:18:26.37
投馬国は水行二十日しか、記録がありません。
従って、海に近い場所に中心を設定する必要があります。

大牟田荒尾付近は妥当な所ではないでしょうか?
458日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:22:37.46


ステマ相関図画像更新(1/17)
http://gazo.restspace.jp/img-box/img20120117010742.jpg
テレビや新聞、大規模なネットサイトで「今流行の」「今話題の〜」「女性に人気の〜」等と言われるものはほぼ全て
この画像上部、○○堂がコントロールしている。
  ・世間にどの程度流行らせるか
  ・流行に乗り遅れる(流行に乗り遅れさせる)人間をどのくらい作るか
  ・話題に乗り遅れた人間に対してどの程度の疎外感を与えるか
  ・いつその流行を終わらせるか
2chもステマ会場
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org2526030.jpg

ちなみに ハリーポッターと賢者の石の 「石」とはテレビのこと(著者が執筆当時)
 ダイオード→半導体→シリコン→石
 賢者とはテレビを見る人間でも番組を作る人間でもなく、テレビを操る人間。
459筑紫次郎:2012/01/18(水) 21:30:57.90
>>451
>ならして計算するんだよ。

距離に換算できないと言う立場だから計算しません。
其餘旁國遠絶不可得詳から
途中に他の国はありませんから
不弥国から南へ進んで最初にある国が投馬国で
投馬国から南へ進んで最初にある国が邪馬台国です。

>3日で二十キロ、1日は7キロ弱と考えればいいんだよ。

水行二〇日水行十日陸行一月は具体的にどこから何処までですか?
水行二〇日で140q
水行十日で70qです。陸行一月もあります。

>一般的に所要日数でないなんて言った覚えはないぜ。

>>412
所要日数ではなく
距離とは無関係の日数である可能性もある。
謝銘仁は連続読みでこれを支持している。

にたいして
>>412
なこと、言うわけないだろ。
よく読んでみることだ。
…と返答したので
>>416
謝銘仁は
「決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。」
と反論している状態。
460筑紫次郎:2012/01/18(水) 21:33:23.81
複数の人の相手は話が混乱してできないので
以後
名無し投稿の人への返答はご遠慮します。
461日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:08:01.89
一月行短里千里を設定して導きだされたのが人吉盆地で、
所詮、数字の扱いで導きだされたものでしかありませんが、
案外、突っ込みどころが難しいと思います。

ただし、同時に数字の扱いから導きだされたものなので、
それを支える遺跡の比定の面では薄い論です。

どこに比定しても、熊本を含む北部九州なら、
近所に環濠集落の一つや2つはあると思いますが、
そのため、場所を決定するのが難しいですね。
462日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:31:09.26
>>459
>距離に換算できないと言う立場だから計算しません。
君の立場なんぞの話をしているわけではない。君が「休日や節日やいろいろな事情に
よってまどっている分も含めた日数をどうやって距離に換算するのですか?」と間抜
けな質問をするから答えてやったまでだ。

>謝銘仁は「決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。」
ごまかすなよ。君は「謝銘仁は連続読みをしている。また所要日数ではない、つまり距離
とは無関係な日数だと述べている。」と書いたんだ。
謝銘仁の説は、けして「距離とは無関係な日数」などと言うわけではない。

463筑紫次郎:2012/01/18(水) 22:40:00.64
>君の立場なんぞの話をしているわけではない。君が「休日や節日やいろいろな事情に
よってまどっている分も含めた日数をどうやって距離に換算するのですか?」と間抜
けな質問をするから答えてやったまでだ。

「ならして計算するんだよ。」を
「ならどうして計算するんだよ。」と勘違いした。

休日や節日やいろいろな事情に
よってまどっている分も含めた日数で進んだ日数が不明だから距離に換算できないのは当然。
「2日間十キロずつ進んで1日休むってペース
ならば、3日で二十キロ、1日は7キロ弱と考えればいいんだよ。」と
貴方が勝手に決定しても無意味、

>おいおい、私は、「軍隊や飛脚の所要日数とはかなりちがうよというだけのことだな。」
と書いたんだ。勝手に妙なところで切ってはいかんよ。
一般的に所要日数でないなんて言った覚えはないぜ。
軍隊や飛脚の所要日数ではないが、使者の所要日数だ

名無しのままなので話は終わり。
464日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:45:31.52
>よってまどっている分も含めた日数で進んだ日数が不明だから距離に換算できないのは当然。
馬鹿さ加減をさらけ出しているな。君の論理ならば、全ての日数進んだにしろ、1日の進行
距離が不明だから換算できないのは当然と開き直るだけだろう。

>名無しのままなので話は終わり。
説明がでたらめだってことを認めたものと理解しておくよ。
465日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:48:59.55
倭という字は、人に委ねると書くのね♪倭人の支配者は人ということですね。
魏という字は、委ねた鬼と書くのね♪魏の支配者こそ鬼じゃないのか?

鬼道を操る卑弥呼は、魏から使わされた渡来系の女王だということだ。
466筑紫次郎:2012/01/18(水) 22:52:33.18
>説明がでたらめだってことを認めたものと理解しておくよ。

継続したかったらhn作成すれば良い。
467日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:53:44.70
>464
、全ての日数進んだにしろ、1日の進行
距離が不明だから換算できないのは当然と開き直るだけだろう。

その通りじゃろ。
468日本@名無史さん:2012/01/18(水) 22:54:20.34
>>465
東夷傳には「委」のこおゆう用例もあるよ


而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域 委以海外之事
469日本@名無史さん:2012/01/19(木) 02:23:04.20
>>436
投馬国から水行十日陸行一月で邪馬台国へ
一月行は短里千里で。

一月で千里?
無限尿は一日千里ち言うとる。
随分違うぞな。
しかしじゃ、両方とも出鱈目じゃの。
己の比定地に合わせて進む速度を算出しちょる。
470日本@名無史さん:2012/01/19(木) 09:31:13.53
水行20日や水行10日陸行1月は北九州の伊都国から南への行程だ。20日行っても九州なのだから
10日はその半分、つまりは熊本、あるいは八代付近しかありえない。
そこで上陸して、陸行1月も当然方向は南。しかも、投馬国からかなり離れているところ。
となれば、都城盆地付近に限定される。
熊本八代から都城盆地までは直線で百キロ余り、実際に歩くコースを考えたら170〜200キロだろう。
陸行1月にはちょうどの距離だな。
471日本@名無史さん:2012/01/19(木) 18:40:55.25
>20日行っても九州なのだから

どこかが問題。
何処でも同じ結論蜷にはならない。
472日本@名無史さん:2012/01/19(木) 18:41:24.34
倭人伝の「状態を示す動詞」&「動作移動を示す動詞」(述語)

@倭人在帶方東南大海之中
A(倭人)依山島爲國邑・・・・・三十國 
B從郡至倭
 C循海岸水行&歴韓國&乍南乍東&到其北岸狗邪韓國七千餘・・・・  7000余里
 D始度一海千餘里&至對海國・・・・方可四百餘里・・・・  1000余里+400余里×2辺 
 E又南渡一海千餘里名曰瀚海&至一大國・・・方可三百餘里・・・・  1000余里+300里×2辺 
 F又渡一海千餘里&至末盧國・・・・  1000余里 
 G東南陸行五百里&到伊都國・・・・  500里 
 -H東南至奴國百里・・・・  移動距離0里、位置関係の距離100里
 I東行&至不彌國百里・・・・  100里 
J(從郡)南至投馬國 水行二十日・・・・行程ではないので非里数表示。大雑把な距離表示。
K(從郡)南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月・・・・行程ではないので非里数表示。大雑把な距離表示。

@ABHJKは状態を示す動詞のみ文
CDEFGIは動作移動を示す動詞&状態を示す動詞の文
  * 移動と位置関係を示す動詞があるから、魏使の行程であることを示す。
  * 移動距離の合計は12000余里(=C+D+E+F+G+I)
HJKの文には、動作移動の動詞がないので位置関係を示すだけである。
  * 「自郡至女王國萬二千餘里」は魏志の行程には含まれない。

JとKの『南』は、直前に記述されている不彌國が視点となる。視点であって起点(基点)ではない。

水行1日=1000余里、陸行1月=1000余里
473日本@名無史さん:2012/01/19(木) 19:59:56.86
>水行1日=1000余里、陸行1月=1000余里

勝手に決めても無意味。
474日本@名無史さん:2012/01/19(木) 21:01:29.37
>>471
末盧国から東南五百里の伊都国は佐賀市付近。
そこから南へ水行二十日、そして戸数五万の国があったところとなると川内平野
以外にはなかろう。熊本では近すぎる。つまり、投馬国は薩摩川内付近だ。
その半分のところで上陸し、南へ陸行できるか所があるか? 八代ならばそれが
可能だ。正に倭人伝の行程にぴったりだよ。
475日本@名無史さん:2012/01/20(金) 11:53:55.68
水行10日陸行1月 は、またはと解釈して。 筑後川を上って、浮羽(生葉)辺りじゃないの。
高良山は歴史上重要なポイントで、筑後川は古代から重要な交通幹線だった。
記紀には浮羽/生葉/的は何度も登場し一番記述が多い場所。
景行天皇は、高良山の木で船を作り生葉の楠で櫂を作ったと書いている。
476日本@名無史さん:2012/01/20(金) 11:58:58.40
「又は」は無理だよ。水行10日で行けるところを陸行1月もかけて行く
者はいない。
47719歳某国立大生:2012/01/20(金) 12:00:44.92
大和入り前に難波で1月足止め食らったのが陸行一月の可能性はないのかい?
478日本@名無史さん:2012/01/20(金) 12:20:12.70
>>476 実際船で上った事が無いけど、雨季には水流が早くなり水行が難しくなり陸行したのでは。

>>475 生葉山に就き船山となし、高羅山につき梶山と為し給う
479日本@名無史さん:2012/01/20(金) 12:26:05.45
景行天皇は、高良山に行宮を置きそこを拠点に各地を巡幸している。 そして最後は浮羽に滞在しそこから都に凱旋した事になってる。
なぜ最後が浮羽なのか。
480日本@名無史さん:2012/01/20(金) 14:25:25.58
>大和入り前に難波で1月足止め食らったのが陸行一月の可能性はないのかい?
ないね。それは滞在だ。
481卑弥呼の都は久留米:2012/01/20(金) 17:37:42.03
>>479
>最後は浮羽に滞在しそこから都に凱旋した事になってる。
>なぜ最後が浮羽なのか。

都に凱旋したとは書いていない。しかし、最終記述地点は浮羽。

景行天皇と称される人物は、プレ九州王朝の倭王(前君)である。

景行紀には、久留米南部(三潴[水沼]近辺)に都があったと見られる記述があるので、
景行天皇と称される人物は、浮羽出身の倭王である。
時代は、4〜5世紀、倭旨から倭讃の頃と考えられる。

482筑紫次郎:2012/01/22(日) 17:24:52.63
>景行紀には、久留米南部(三潴[水沼]近辺)に都があったと見られる記述があるので、
景行天皇と称される人物は、浮羽出身の倭王である。
時代は、4〜5世紀、倭旨から倭讃の頃と考えられる。

景行天皇は四世紀前半。
三潴[水沼]県主が景行天皇を案内しているので
その頃の天皇の所在地は浮羽又は別のどこか。

その後5〜6世紀になると三潴には百bを超える円墳三個(現存しているのは二個)
をはじめ無数の古墳が作られる。
また
筑紫君磐井が九州の多くを支配していたのもその頃。
その頃の倭王は久留米・三潴付近にいたと考えられる。

しかし
それらの勢力は大和朝廷の勢力であり
邪馬台国の勢力ではない。
483日本@名無史さん:2012/01/22(日) 20:03:58.93
京都郡みやこ町に都を置いてたのって誰なの?
484日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:50:15.19

就活中
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485日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:51:59.22
>>481
>都に凱旋したとは書いていない。
19年秋九月に都に帰ったと書いているよ。
486日本@名無史さん:2012/01/22(日) 22:12:07.56
>>485
18年八月が浮羽だから、一年以上経っている。
487日本@名無史さん:2012/01/22(日) 22:36:16.98
一年以上かかったんだろ。それが何か?
488日本@名無史さん:2012/01/22(日) 22:46:32.79
>>483
秦王国
489日本@名無史さん:2012/01/23(月) 07:02:07.53
当時の事情でやたらと天皇が九州にワープするわけがないだろw

道後温泉の伝承もあり得ない。
そんな難所の多い瀬戸内海を「ちょっと温泉に行ってくるわ」なんて天皇が
はるばる愛媛まで行くかよw
490卑弥呼の都は久留米:2012/01/23(月) 12:51:24.56
景行紀の九州についての話は2つの話を合成したものだ。
前半は、周防、豊前、豊後、日向方面支配のための遠征話。
後半は、肥後、筑後地域の行幸話。
つまり未統一にあった九州の東岸を遠征した倭王の話と、
既に倭国である肥後筑後を行幸した倭王の話を九州倭国の歴史書から引用し合成したものである。
であるから、この二つの話は景行に近い時代であっても同時代のものとは言い切れない。

景行と称される倭王は、三潴(水沼)で、都の官僚を見かけている。
これは、都が高良山と三潴の間(久留米南部)にあったことを示している。
又、都に官僚の役職がある行政組織が成立していることも示している。
行政組織ができていることは、百濟と関係があった4世紀中葉の倭旨以降の時代である考えられる。
491日本@名無史さん:2012/01/23(月) 14:11:20.60
邪馬台国は瀬戸内海近辺、四国にあっただけの事だな。
492日本@名無史さん:2012/01/23(月) 15:38:48.60
四国にあったのは侏儒国だろ。
493筑紫次郎:2012/01/23(月) 23:04:05.14
>>492
うん。
494卑弥呼の都は久留米:2012/01/24(火) 00:54:31.19
侏儒国は高知
495日本@名無史さん:2012/01/24(火) 09:47:16.49
其の南の意味が問題だ。其のとは何か、ね。
496日本@名無史さん:2012/01/24(火) 11:50:43.20
中学から国語のお勉強やりなおしなさい。
497日本@名無史さん:2012/01/24(火) 13:15:01.59
北部九州は単に玄関口で通過点だからな。
距離的にも、気候風土でもピッタリなのは四国だね。
498日本@名無史さん:2012/01/24(火) 14:09:29.39
国語は小学校からやるんだよ。
499日本@名無史さん:2012/01/24(火) 17:25:44.79
「其」は中学の国語で初めて学ぶ。
小学校では学ばない。
500日本@名無史さん:2012/01/24(火) 19:31:00.33
で、「其」を何と訳しているんだ?
501日本@名無史さん:2012/01/24(火) 20:22:29.76
答えはすでに出ている。
それを認めないと言うことは曲解しようとしていると言う事だ。
屁理屈を強弁して曲解しようとしている。
502日本@名無史さん:2012/01/24(火) 20:29:41.80
確かに答えは出てるよ、九州には無いことが。
503日本@名無史さん:2012/01/24(火) 22:20:38.19
504日本@名無史さん:2012/01/24(火) 22:31:34.70
侏儒国が高知なんて言ってるのは、「其」を誤読しているってことだろうな。

505日本@名無史さん:2012/01/24(火) 23:31:25.44
>>502
話を曲解して捏造話に持ち込む詐欺師畿内説。
506卑弥呼の都は久留米:2012/01/24(火) 23:47:32.59
>>504
侏儒国が土佐は正しいと思うね。

「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南」

@女王國(筑紫平野)の東(東北)の千餘里の海を東(東北)に渡ると
 倭種の国(周防の光市付近)になる。
A倭種の国(周防の光市付近)の南(南東)方向に侏儒國がある。
  (「其」は、『其』の直前の倭種の『國』を指す。)

「又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里」

B侏儒國は女王(女王の都久留米)から半径四千餘里(約300km)の円周上にある。


Aの南(東南)方向への直線とBの円弧の交点には高知平野(土佐)がある。
  故に、侏儒國は土佐になる。

補足説明
倭人伝の方向は左回転方向に約35度ずれている。
南方向は実際の東南方向、東方向は実際の東北方向。
507日本@名無史さん:2012/01/25(水) 00:07:22.70
説得力無いな。
508卑弥呼の都は久留米:2012/01/25(水) 00:25:24.63
>>507
理解したくないのだろ。
509日本@名無史さん:2012/01/25(水) 00:47:25.09
>>506
文頭の女王國は前文に掛かってると思う
常有人持兵守衛女王国。東渡海…
横からだが自分に有利に句読点を設定するのはちょっと卑怯だと思う
510日本@名無史さん:2012/01/25(水) 01:04:14.01
横からだが漢文読めないやつが句読点を設定するのはちょっとズレると思う
511稗箕狐:2012/01/25(水) 01:06:34.10
>>509
ねえよ
512日本@名無史さん:2012/01/25(水) 01:10:48.02
漢文なんて英語と同じ
文頭から順番に単語のイメージを頭の中で構築していけば概念が出来上がる
日本語経由でないと概念が把握できない人が、誤った概念に到達してしまうんだと思う
513稗箕狐:2012/01/25(水) 01:12:46.55
>>512 のにいぴょおいれとく どおかんだなあ
514日本@名無史さん:2012/01/25(水) 02:33:50.46
>>506
こじつけだな。九州から山口県へ渡るのに渡海千里はあり得ない。其の山口県光市
付近の南に侏儒国があるならば、四千里もそのコースに沿って考えるべき。半径四
千餘里(約300km)の円周上なんて考え方はだめだ。
だいたい「其」は倭種の国ではないよ。侏儒国についての在其南ばかりみてると君
のような誤読をする。次の裸国黒歯国についても在東南とあるだろ。侏儒国の東南
か?なんか変だろ。在其南とか在其東南というのは、どちらも女王国からの話なん
だよ。
515日本@名無史さん:2012/01/25(水) 03:16:11.77
侏儒国は沖縄ですよ。黒歯国・裸国は台湾です。邪馬台国九州説の人はこんな事も知らないの?
だから邪馬台国九州説は愚昧で愚鈍だと言われる。戯言を言っている九州説の人は猛省しなさい。
516日本@名無史さん:2012/01/25(水) 08:15:59.64
>>514
変なのはおまいの頭じゃん。
517日本@名無史さん:2012/01/25(水) 09:27:08.84
どこが変か説明せんとな。
518日本@名無史さん:2012/01/25(水) 10:40:54.24
>>515

トンデモ説は、回線切ってから独り言でやってください。
519日本@名無史さん:2012/01/25(水) 12:36:53.41
説明しても自説が否定されたら理解したくないだろうに。
520卑弥呼の都は久留米:2012/01/25(水) 13:53:44.35
>>514
>九州から山口県へ渡るのに渡海千里はあり得ない。

「渡海千餘里」と書いてあるのに、「渡海千里はあり得ない」ってどう云うこと?
具体的には、「渡海千餘里」は、行橋から宇佐の海岸線から、
周防灘の千餘里の海上を東(東北)へ渡ること。
現代地図で見れば倭種の国は周南市から周防大島までの一帯であることがわかる。

>四千里もそのコースに沿って考えるべき。

意味不明

>半径四千餘里(約300km)の円周上なんて考え方はだめだ。

「侏儒國・・・・・去女王四千餘里」と書いてある。
侏儒國と女王の距離が四千餘里と書いてあるのが理解できないの?
女王(女王の都)から四千餘里の全ての点は、女王から半径四千餘里の円周上にある。
その全ての点のなかで、倭種の國の南(東南)方向にある円周上の点が侏儒國となる。

>次の裸国黒歯国についても在東南とあるだろ。侏儒国の東南か?なんか変だろ。

侏儒國の東南(東)は、紀伊、東海、房総になる。
紀伊、東海、房総等に裸國、黒齒國があってもなんの不思議もない。
方向には問題は無いが、距離が問題だ。

「船行一年可至」は具体的にはどの位か?
@船行1年=海行12月(12月行)=12000餘里≒800km
A船行1年=水行365日=365000餘里≒26000km

私は@だと思う。@なら裸國黒齒國は房総半島になる。
Aなら古田説、裸國黒齒國は南米西海岸になる。
521日本@名無史さん:2012/01/25(水) 13:54:28.05
筋が通った反論ならば聞いてやるよ。
522日本@名無史さん:2012/01/25(水) 14:57:48.23
>行橋から宇佐の海岸線から、周防灘の千餘里の海上を東(東北)へ渡ること。
そのあたりを渡海していた連中ならば、関門海峡の存在を知らないはずはない。
となれば、使者らに説明するときに、「渡海100里」と説明するはずで、「渡海千里」
はおかしい。千里の場所もあるから渡海千里に合うなんてのはこじつけ解釈というもんだ。

>>四千里もそのコースに沿って考えるべき。
>意味不明
当時の倭人は、鳥の目をもっているわけでもなければまともな地図をもっている
わけでもない。侏儒国へのコースを倭種の国経由で説明したのならば四千里も当然
そのコースを前提にしているはずだと思うがね。理解できないかな?

>侏儒國の東南(東)は、紀伊、東海、房総になる。
九州人が紀伊や東海、房総を説明するのに、何で山口→高知→紀伊等という説明をしなけりゃならんのかね。
瀬戸内海あるいは太平洋を東へ行くと説明するのが簡明だ。
あるいは、山口から陸行何ヶ月とか説明するものだろう。
「其」を直前のものを受けると読んでは不自然だってことだよ。




523日本@名無史さん:2012/01/25(水) 17:01:56.21
>筋が通った反論ならば聞いてやるよ。

トンデモの名無しに説明などお断り。
524卑弥呼の都は久留米:2012/01/25(水) 19:57:18.48
>>522
>「渡海100里」と説明するはずで、「渡海千里」はおかしい。

「渡海100里」とするならば、以下の文の場合である。
「奴國(旧倭奴國)東渡海百里」となる。
奴國が福岡平野にあるからである。

福岡平野の奴國起点で、東(東北)へ渡海する場合は、
門司からの渡海でその海は関門海峡。
筑紫平野の女王國起点で、東(東北)へ渡海する場合は、
行橋〜宇佐の海岸線からの渡海でその海は周防灘。

又僅か100里の海を横断する場合には、
「渡海」は不適切なことばとなる。
門司から千餘里の沿岸沿いの海を行くならば、
「渡海千餘里」ではなく「水行千餘里」の表現になる。
(又は「水行一日」の表現)

>当時の倭人は、鳥の目をもっているわけでもなければまともな地図をもっている
>わけでもない。侏儒国へのコースを倭種の国経由で説明したのならば四千里も当然
>そのコースを前提にしているはずだと思うがね。理解できないかな?

それはあなたの仮定に基づく空想。

>九州人が紀伊や東海、房総を説明するのに、何で山口→高知→紀伊等という説明をしなけりゃならんのかね。
>瀬戸内海あるいは太平洋を東へ行くと説明するのが簡明だ。

九州西北部の九州倭人は、関門海峡、豊後水道を通り、足摺岬を回って土佐侏儒國に行ったと考える。
土佐侏儒國からは黒潮に乗って沿岸沿いを房総裸國黒齒國に行ける。
侏儒國裸國黒齒國の人々には、黒潮に乗って琉球方面からやって来た人々も混じっている。
彼等の特徴は、色黒丸顔二重瞼の大きな目短身。
525卑弥呼の都は久留米:2012/01/25(水) 20:01:41.92
>>522
>「其」を直前のものを受けると読んでは不自然だってことだよ。

「其」は、漢文では一般的に直前に記載された該当名詞を指す。
526日本@名無史さん:2012/01/25(水) 23:08:24.54
侏儒国在其南 侏儒国は侏儒国の南にあるのかな?
527日本@名無史さん:2012/01/25(水) 23:49:52.16
賢いことを言ったつもりなのか?
この馬鹿は。
528日本@名無史さん:2012/01/26(木) 00:18:11.65
やっぱり根本的に九州説は間違ってるなw
529日本@名無史さん:2012/01/26(木) 00:49:44.64
「其」は、必ずしも直前に記載された該当名詞を指すわけではないってことだね。

530日本@名無史さん:2012/01/26(木) 00:50:23.54
間違っているのはあ。た。ま。
畿内説の。
531日本@名無史さん:2012/01/26(木) 01:24:21.47
>>529
うざい
532日本@名無史さん:2012/01/26(木) 01:56:21.79
女王国─(1000里)─倭種
南九州\        四国
  │   \
(4000里)  (1年)
  │        \
侏儒国         \
 沖縄           \裸国・黒歯国
                 ニューギニア・ハワイ?
533日本@名無史さん:2012/01/26(木) 08:39:34.16
復有國皆倭種
又有侏儒國在其南

復と又の用法に違いがあるらしい。
又は続け読みで國皆倭種から
復は元に戻って女王国(邪馬台国)から。

【復】
もとの状態にもどる。もとの状態にもどす。
もう一度くり返す。
報道の報(仕返す)と同系のことばで、↓の方向に来たものを↑の方向にもどすこと。
【又】
前のことの上にさらに。重ねて。
もう一段と。
外からわをかけたようにかばう(佑)の意を含み、転じて、わをかけて、さらにそのうえにの意の副詞となる。
534日本@名無史さん:2012/01/26(木) 11:47:47.71
やっぱり朝鮮人とバカしかいないな、九州説にはw
535日本@名無史さん:2012/01/26(木) 11:55:43.13
>>534>>533の説明も理解できないwバカ。
536日本@名無史さん:2012/01/26(木) 12:37:58.67
>>534
やっぱり朝鮮人とバカしかいないな、畿内説にはw

の間違いだろ?
なにしろ
大和朝廷は朝鮮の出だからな。
537日本@名無史さん:2012/01/26(木) 13:33:59.07
実際朝鮮人学者には九州説の方が都合いいし多いぞw
538日本@名無史さん:2012/01/26(木) 13:40:44.78
何で都合がいいのか知らないが全く何の関係も無い話だな。
話をずらすのが畿内説の得意技。
539卑弥呼の都は久留米:2012/01/26(木) 13:44:56.44
  
女王國──海岸―(幅1000里の海)─倭種(周防)
女王(の都)                  |
       \                |
       (4000里)           |
            \           南
              \         |
                \       |
                  \     |
                    \   |
                    侏儒国(土佐)――東 船行1年(12000里)――裸国・黒歯国(相模・房総)
540日本@名無史さん:2012/01/26(木) 13:59:10.02
侏儒国の東南は東か東北にするわけだな? で、何で周防の南はそのままなんだ?
541日本@名無史さん:2012/01/26(木) 14:16:56.61
>>540
そうだな。
それに
侏儒国を土佐に限定するのも不自然だしな。
愛媛香川徳島を別に記載してないことか。
侏儒国は四国で良いんじゃないの。
542日本@名無史さん:2012/01/26(木) 15:12:02.91
でも徳島には丹山があるしな、九州には無いしね。
543日本@名無史さん:2012/01/26(木) 15:14:02.42
年代不明なら、いくつかあるぞ

佐賀、大分、熊本
544卑弥呼の都は久留米:2012/01/26(木) 15:23:46.66
>>540−541

>侏儒国の東南は東か東北にするわけだな? で、何で周防の南はそのままなんだ?
>それに、侏儒国を土佐に限定するのも不自然だしな。
>愛媛香川徳島を別に記載してないことか。侏儒国は四国で良いんじゃないの。


疑問点は、>>506で説明済み。
>>520>>524で補足説明。

倭人伝の方向は、記述された方向より左回転で約35度ずれている。
侏儒国の位置は、大雑把に四国とするよりも、土佐にまで絞りこむことができる。
545日本@名無史さん:2012/01/26(木) 15:27:20.44
>>537
朝鮮も中国も畿内説の方が何かと都合が良いだろ。日本の史観と合わせ丸ごと料理出来る。つうか、これだけ日本の中で邪馬台国どうのやってるの知ってて中国からその後何ら関連する資料が出て来ないって何か胡散臭い。
546卑弥呼の都は久留米:2012/01/26(木) 15:37:43.17
>>545
シナは、日本の史観に合わせる為に、原文改竄もしている。
547日本@名無史さん:2012/01/26(木) 16:24:09.73
>>532
正解だろう。すなわち、倭人伝は、女王国を起点として、東の倭種の国、南の
侏儒国、東南の裸国・黒歯国を放射式に書いているんだ。
>>539の説は、倭種の国を周防とするが、そこに限定する理由はない。
少なくとも本州全体を考えなければならん。そんなものを規準にして侏儒国の
所在をいうはずはない。
548卑弥呼の都は久留米:2012/01/26(木) 16:38:35.83
>>547

>>533の書いている【復】と【又】の違いが解っていないね。

漢文の読み方を学び直そうね。
549日本@名無史さん:2012/01/26(木) 16:52:04.25
>>542
侏儒国だからね〜。
550日本@名無史さん:2012/01/26(木) 16:54:20.55
>倭人伝の方向は、記述された方向より左回転で約35度ずれている。

妄想

>侏儒国の位置は、大雑把に四国とするよりも、土佐にまで絞りこむことができる。

妄想妄想
551日本@名無史さん:2012/01/26(木) 17:01:06.03
>>533の書いている【復】と【又】の違いは絶対的なものではないな。
又は確かに連続説を示す一つの徴表とみるべき場合もある。しかし、倭人伝の場合には、
旁国のところで又を続けている。旁国は道里の分からない国だから、連続説を示すとは考え
にくい。単に、「それから」という程度の意味だろう。
女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。又有侏儒國在其南。人長三四尺。去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。
これをみると、裸國、黒齒國については、肝心の所在のところに復在其東南とある。
>>533の考え方でもこれは女王国からの方角となるはずだ。
又と復が規則的に使い分けられているようには読めない。
552日本@名無史さん:2012/01/26(木) 18:10:57.09
高麗時代に書かれた国史「三国史記」、その後の「三国遺事」で、朝鮮半島には古来より
倭人が住み影響力を持ち新羅も倭人の支配国だったと記述されている。瑞書、後漢書も然り。
553日本@名無史さん:2012/01/26(木) 18:12:16.65
朝鮮半島に古来より倭人が住んでいたのなら九州北部から進出したと
考えのが妥当で邪馬台国も九州北部が有力。
554日本@名無史さん:2012/01/26(木) 18:15:14.46
又有侏儒國在其南の其を女王国とするのは無理だろうな。
555日本@名無史さん:2012/01/26(木) 18:24:06.56
北部九州には伊都、奴国があるので当然邪馬台国はありません。
556日本@名無史さん:2012/01/26(木) 18:32:27.33
伊都、奴国以上の九州の人口密集地帯に邪馬台国はあった。
557卑弥呼の都は久留米:2012/01/26(木) 19:33:53.48
>>551
【復】と【又】の使い方を解っていないな。

「又有裸國黒齒國 復在其東南」の【復】は「儒國在其南」対しての【復】である。

「又有裸國黒齒國 又在其東南」となると、【又】は「又有裸國黒齒國」に続いての【又】になり、意味不明の文となる。
558卑弥呼の都は久留米:2012/01/26(木) 19:37:29.06
>>553
朝鮮半島南沿岸部にも九州にも元々倭人がいたのだよ。
559日本@名無史さん:2012/01/26(木) 23:34:06.57
>>557
>【復】は「儒國在其南」対しての【復】である。
自分で何を言ってるのか分かってるのかな? 日本語に訳してみな。

>「又有裸國黒齒國 又在其東南」となると、【又】は「又有裸國黒齒國」に続いての
>【又】になり、意味不明の文となる。
自分で意味不明の文章を作っているだけのことだ。原文に「又」はない。

「又有裸國黒齒國 復在其東南」の「復」は「ふたたび」という意味だ。
「ふたたび其」ということで、「其」が前の「其」と同じだということだよ。
「有侏儒國在其南」の「其」は女王国を指していた。それと同じく「復在其
東南」は女王国の東南ということだ。

>>554
後漢書が「自女王国南四千余里至侏儒国」と書いているのは知ってるかな?
范曄は倭人伝の「其」を女王国と読んでいるんだよ。
560日本@名無史さん:2012/01/26(木) 23:41:03.34
職場の人妻OLちゃんとどうしてもやりたい
子供産んで35歳くらいなのに細くていいケツして超可愛い顔してる
毎晩妄想でセックスしてる
どうにかしてやりてえなあ
561日本@名無史さん:2012/01/27(金) 00:31:27.21
>>559
>後漢書が「自女王国南四千余里至侏儒国」と書いているのは知ってるかな?

もちろんそれくらいのことは何度も目にしているが
後漢書には
「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」
と書いているのは知ってるかな?

>范曄は倭人伝の「其」を女王国と読んでいるんだよ。

范曄が范曄は倭人伝の「其」を女王国と読む誤読をする訳がない。
後漢書には
自女王國南四千餘里至朱儒國
自女王國東度海千餘里至拘奴國と
狗奴国の方角を侏儒国の方角として
侏儒国の方角を狗奴国の方角として記載している。
ただ単に
狗奴国と侏儒国の位置関係を間違えただけだろ。
しかも
狗奴国と侏儒国は別の方角だと書いている。
つまり
侏儒国の方角は邪馬台国から見れば
南にある狗奴国の方角では無いんだよ。
562日本@名無史さん:2012/01/27(金) 01:23:53.72
狗奴国と侏儒国との方角をまちがえた? そんな馬鹿な。書いてあるところも全く別だぜ。
侏儒国の方角は何も間違えていないさ。狗奴国をまちがえただけのことだ。
范曄の時代、狗奴国はなくなっていたんだろう。それで、彼は狗奴国がどこだったの
かを探し、倭種の国すなわち四国にあったものと考えたまでのことさ。
563日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:31:16.06
>>562
>侏儒国の方角は何も間違えていないさ。狗奴国をまちがえただけのことだ
>范曄の時代、狗奴国はなくなっていたんだろう。それで、彼は狗奴国‥‥


范曄が
其南を邪馬台国の南と解釈したとするのなら
【自朱儒東南行船一年 至裸國・K齒國】とも矛盾する。

漢文読めないで自説を訂正するつもりもなく
正しい読み方を理解する意志もない
トンデモとこれ以上論じても無意味。

勝手に解釈すればよろしい。
私の読み方を強制するつもりなど無い。
564日本@名無史さん:2012/01/27(金) 06:54:38.28
>漢文読めないで自説を訂正するつもりもなく正しい読み方を理解する意志もない
>トンデモとこれ以上論じても無意味。
そうゆうことだね。そのまま返しておくよ。

565日本@名無史さん:2012/01/27(金) 10:49:52.21
>范曄の時代、狗奴国はなくなっていたんだろう。‥‥プッwww
>彼は狗奴国がどこだったのかを探し、‥‥‥ゲヒwww
>倭種の国すなわち四国にあったものと考えたまでのことさ。……プヒwwww

面白かねー。
566卑弥呼の都は久留米:2012/01/27(金) 14:57:58.08
>>559
>後漢書が「自女王国南四千余里至侏儒国」と書いているのは知ってるかな?

范曄の後漢書を鵜呑みにするのは良くないね。
范曄は5世紀の時代状況に合わせて、資料元本からの書き直しをている。

 3世紀→→→→→5世紀

@イ(倭)→→→→→タイ(大倭)
  ↓        ↓
 邪馬イ(壹)國→→邪馬タイ(臺)國

A狗邪韓國→→→→拘邪韓國

B狗奴國→→→→→無記載(東鯷人分爲二十餘國?)

C國皆倭種→→→→拘奴國雖皆倭種

D無記載→→→→→東鯷人分爲二十餘國
 
567日本@名無史さん:2012/01/27(金) 19:49:28.72
後漢書の倭伝が、主として魏志倭人伝によったことは明らかだよ。
もちろん、東鯷人分爲二十餘國など他の資料を合わせた部分はあるが、拘邪韓國
や狗奴国の部分は、倭人伝の他には資料がなかったんじゃないかな。資料元本か
らの書き直しをているわけではないよ。
568卑弥呼の都は久留米:2012/01/27(金) 21:17:14.87
  
後漢書東夷伝の直接資料元本は、主として魏志東夷伝で、漢書、史記であったようだ。
魏略は資料として持ち合わせていなかったようだ。

それらを5世紀の知識で解釈し編集したようだ。
569卑弥呼の都は久留米:2012/01/27(金) 23:43:31.99
>>556をはっきりした自論として修正する。

范曄は5世紀の時代状況に合わせて、資料元本からの書き直しをている。
後漢書東夷伝の直接資料元本は、主として魏志東夷伝で、それに漢書、史記である。
魏略は資料として使われていない。
それらを5世紀の知識で解釈し編集している。

 3世紀→→→→→→5世紀

@イ(倭)→→→→→→タイ(大倭)
  ↓          ↓
 邪馬イ(壹)國→→→邪馬タイ(臺)國

A狗邪韓國→→→→拘邪韓國

B狗奴國→→→→→東鯷人分爲二十餘國

C國皆倭種→→→→拘奴國雖皆倭種
570日本@名無史さん:2012/02/02(木) 16:42:19.21
age!

gannbare
571日本@名無史さん:2012/02/02(木) 16:55:39.33
寝言は止せ、九州にある訳ねーだろw
572日本@名無史さん:2012/02/02(木) 17:01:26.64
ゴミクズレベル畿内説
573日本@名無史さん:2012/02/02(木) 19:05:15.58
 ドンと来い が流行ればほかのが廃れる。
574日本@名無史さん:2012/02/02(木) 19:07:53.46
>>571
誰に向かって書いているのか知らないが、九州説=寝言、と、九州に有る訳が無い、この2つの君の主張を立証せい。ここは学問板だからな。
575日本@名無史さん:2012/02/02(木) 19:29:55.84
畿内説は詐欺ですから、九州説を罵倒するだけなんです。
576日本@名無史さん:2012/02/02(木) 19:59:38.80
九州説は単なる観光客誘致の手段。
学問でもなんでもないからな。
特に酷いのが行程遊びばっかりして、進歩の気配すらない
自称専門家のパズルゲーム。
577日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:10:55.51
ここは九州説のためのスレだ。畿内説は来るな。スレの表題が見えねぇのか。
578志紀:2012/02/02(木) 20:26:29.88
そりゃ畿内説は観光誘致すらないしなw
なんも面白くない
579日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:31:25.41
畿内説なんて一言も言ってないのに思い込みでレッテル張り。
これが九州説論者の致命的な欠点だなw
学問には一部向いてないんだよ。
580日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:37:38.72
奈良県なんか産業が無いから、畿内説を絶叫して
観光客を誘致するしかないんだよ。察してやれ。
581日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:45:39.59
奈良県は観光客誘致しかないのは事実だが、
他にも遺跡類が多いので、邪馬台国に関しては微妙な立場、
むしろ静観だよ。巻向遺跡なんて売店一つない無人駅のすぐ横だし。

JR九州なんて社歌にまでヒミコの名を入れてるだろw
582志紀:2012/02/02(木) 22:15:49.65
奈良に魏志東夷伝の雰囲気なんてないし
583日本@名無史さん:2012/02/03(金) 01:06:23.47
倭人伝の雰囲気と言えば阿蘇でしょう。
阿蘇火口原が邪馬台国で、卑弥呼の墓は勝負塚古墳です。
狗奴国は、南の人吉盆地、後のクマソ。
阿蘇は高天原でもあります。
ここから、宮崎方面に一旦南下していった勢力がニニギ一族で、その子孫たちはクマソと闘いながらも
序々に北進、トヨ、ツクシ、アキと勢力を広げ、神武のときにヤマトに達しました。
ヤマト入りした神武は崇神と名前を変え、東海、北陸、丹波・出雲、そして宿敵クマソも制圧し、大和朝廷の礎となりました。
584日本@名無史さん:2012/02/03(金) 01:14:29.70
奈良も桜井市のマスコットがひみこちゃんだったり
卑弥呼の里という観光施設(というか農協の販売所?)みたいなのがあります

ただ、九州とは違って致命的に観光客誘致が下手だからそんなに知られて無いだけ
585日本@名無史さん:2012/02/03(金) 02:26:04.30
っていうか、畿内説は誰も相手にしなくなってきたので、
今さら畿内説を引込められなくなった学者が、詐欺で支えてるだけ。
586志紀:2012/02/03(金) 05:43:22.42
>>584
それは酷いw
そんなストライクなマスコット作って、どっか違うとこから発掘されたりしたら
担当役人の首飛ばして下さいw

そもそも古地名が少なすぎるし、「やまと」地方自体がないからねえ。
海の民とか、刺青とか、植生も南方系じゃないし。
587日本@名無史さん:2012/02/03(金) 09:55:42.80
>>586
じゃ、JR九州の社長も首だなw

>そもそも古地名が少なすぎるし、「やまと」地方自体がないからねえ。
海の民とか、刺青とか、植生も南方系じゃないし。

それを本気で言ってるのなら、古代史を語る資格はないよ。
大体安本の地名相似説なら何の根拠も無いんだぜw
588日本@名無史さん:2012/02/03(金) 10:57:05.97
博多駅にでっかい博多人形のヒミコとかあるよ。
589日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:04:00.03
邪馬台国は謎のままでいい
590日本@名無史さん:2012/02/03(金) 21:05:25.54
「鯨面文身す」だけでも海洋民族の証明で、奈良の山奥のはずが無いよな。さっさと目を覚ませ。
591日本@名無史さん:2012/02/03(金) 21:50:02.08
南方の海洋民族が河内・奈良に移ったんだよ。
その後半島辺りからもやってくる事になる。
592日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:49:16.65
金印貰った国の後継国が邪馬台国だ。
とつぜん奈良県に移動するわけないだろ。
593日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:53:42.67
超能力でピューッ はい移動しました。
594卑弥呼の都は久留米:2012/02/04(土) 00:50:27.98
邪馬台国に卑弥呼は都した。
その都は女王國の都である。

しかし、邪馬台国の城柵(中心地)は女王の都とは別の所だ。

女王の都は不彌國(城柵)から約100里にある。
邪馬台国の城柵は、女王の都から更に300里離れた所にある。
邪馬台国の城柵は、不彌國(城柵)から南に400里の所にあるのだ。
末濾國(浦)から邪馬台国の城柵まで1000里。


参考
陸行一月≒千里
海行一月=船行一月=一月行≒千里
水行一日≒千里
595日本@名無史さん:2012/02/04(土) 00:51:09.19
そういえば、景行天皇のように、九州に来た天皇は、
畿内から九州までは記録がなくって、
ワープしたかのように移動するよなあ。
596日本@名無史さん:2012/02/04(土) 00:53:29.74
超能力でわあぷ
597稗箕狐:2012/02/04(土) 01:20:28.47
>>594
くるさんえ

「南至邪馬壹國 女王之所都」

「之所」の用例からすると

「都」のは動詞ぽいかんじで読むべきなんだろうなあ
598稗箕狐:2012/02/04(土) 01:37:53.49
>>597
どうしても声出して読みたけりゃ このあたりでやるのがよいかとはおもふが

http://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%B6
599日本@名無史さん:2012/02/04(土) 08:31:56.57
>>593
邪馬台国の研究はれっきとした学問だ。学問としてのレスが出来ない者は口を出すな。ウマシカめ。
600卑弥呼の都は久留米:2012/02/04(土) 11:36:00.54
>>597
声出して読めましぇん。
日本語に翻訳するときは、動詞的に翻訳するしかありません。

之所都
都としている所
所 where is 都
601日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:41:22.61
都する所
602日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:51:58.54
邪馬壹國=之
所←都
女王はこれ(邪馬壹國)を都の場所としている
603稗箕狐:2012/02/04(土) 11:52:02.82
>>600
「みやこ」と読んだら術中に落ちて化かされるからきいつけようね
604稗箕狐:2012/02/04(土) 12:14:09.70
漢以土地廣遠 在單單大領之東 分置東部都尉 治不耐城
別主領東七縣 時沃沮亦皆爲縣

四郡体制を縮小した時に東の日本海側の七縣をひと括りにして
樂浪郡の下において「東部都尉」が「纏め上げる」要は「支配」した

七縣のなかみは
  東暆縣
  不而縣
  蠶台縣
  華麗縣
  邪頭昧縣
  前莫縣
  夫租縣    らしい

東夷伝の中で「みやこ」相当するのは「京都」しかない

あと「都護」「都督」「都尉」の職称みたいのと

地名では「井都」「骨都」「丸都」

「都於丸都之下」 これは、「がんつのもとにおいて〜する」だべさ

「都市牛利」はどおするつもりなんだ?

市をコントロールするおしごとでねえの? ってことさ
605稗箕狐:2012/02/04(土) 12:16:04.97
ごめんな いっこ漢字変換みすっちょるわ
606稗箕狐:2012/02/04(土) 13:05:41.56
>>604 のはじめのところのは「東沃沮」についての陳さんの御説明です
607稗箕狐:2012/02/04(土) 13:17:04.36
そこの「不耐城」のはテポドン基地のあるところあたりだす

正始八年(247) 太守王頎到官
          政等以檄告喩壹與
          壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還
          因詣臺 獻上・・・

これと同じ年に

正始八年(247) 詣闕朝貢詔更拜不耐濊王  だす
608日本@名無史さん:2012/02/05(日) 20:46:01.29
元気がなさそうだから保守しに来た。
今日は九州古代史の会あったのでしょ?
http://members3.jcom.home.ne.jp/qkodai/
609志紀:2012/02/05(日) 23:20:44.88
なあ、そのHPの、九州国立博物館の展示課長の
大宰の説明ってウイキパクってないか?
610日本@名無史さん:2012/02/06(月) 04:01:31.52
>>609
wiki 書いてるのが、その人という可能性もあるかも。
前に、wiki 書いてるの俺だから、パクリじゃねえと怒っている人見たことあるwww
611日本@名無史さん:2012/02/06(月) 10:37:05.42
>>590
奈良盆地に湖があったから漁民もいたんじゃないかな。
612卑弥呼の都は久留米:2012/02/06(月) 14:37:02.75
>>611
奈良盆地湖は、亀瀬の山塊崩落によるダム形成崩壊の繰り返しがあり、
水面高の安定した湖ではないので、魚資源は豊富でない。
其処に漁業を主な生業とした漁民が存在することはありえない。
613日本@名無史さん:2012/02/06(月) 14:42:17.63
奈良湖は、水田向きの土地でしょう。
614日本@名無史さん:2012/02/06(月) 14:59:35.44
>>611 湖には危険な魚はいないからイレズミなんかしないよ。
615日本@名無史さん:2012/02/06(月) 15:16:57.64
巻向からは鯛やらカツオやらの骨は沢山出てるのに。
616日本@名無史さん:2012/02/06(月) 15:19:05.12
>>612 奈良からは吉野川(紀ノ川)沿いに紀伊半島に繋がり漁とのかかわりは多い。
617卑弥呼の都は久留米:2012/02/06(月) 15:25:12.99
         
イト国について

倭奴國(ヰド⇔ヰト)=倭都國  後漢書倭伝

伊都国(イト)=倭都國(ヰト)  魏志倭人伝

倭都國=倭を都する国=倭を統ぶ国=倭を統率する国=倭を代表する国

帥升は倭奴国を滅ぼし、倭を支配し、倭國王となる。
倭國乱により、帥升王統は倭を支配出来なくなり、
倭を代表する国である倭都國王となる。
魏が卑弥呼を倭の女王と認めることになり、
「倭都國」の表記が使えなくなり、「伊都國」表記となる。

618日本@名無史さん:2012/02/06(月) 15:38:36.85
伊都之尾羽張=イツノヲハハリ
伊都=イツ

奴=ナ
619卑弥呼の都は久留米:2012/02/06(月) 15:39:56.02
>>613
奈良湖は水位変動が少ないので、湖の周辺平野は水田作の適地です。
盆地平野のいたるところに自噴井戸もあったので水不足はありません。

>>616
魚の繋がりは、大阪湾より紀伊との繋がりが深いですが、伊勢湾とも繋がりがありました。
奈良盆地には大阪湾の魚は入ってきませんでした。
620卑弥呼の都は久留米:2012/02/06(月) 15:55:41.82
>>615
>巻向からは鯛やらカツオやらの骨は沢山出てるのに。

足の早いサバやイワシの骨は出てきてないハズ。
621卑弥呼の都は久留米:2012/02/06(月) 16:01:13.83
>>618
伊都之尾羽張=イツノヲハハリ←日本の音

都=ト←漢代中原の音
622日本@名無史さん:2012/02/06(月) 16:03:23.40
巻向みたいな内陸だと、素干しか塩干しするんじゃないかな。
はもみたいに、いつまでも生きてる魚とか、アンモニアで殺菌されるサメ、
のようなもんじゃないと、ちょっとね。
623志紀:2012/02/06(月) 18:03:50.49
少なくとも奈良盆地で刺青する必要は・・・
624日本@名無史さん:2012/02/06(月) 18:13:45.65
耶馬渓とか、あの辺はもともと何かあったんじゃないのかね?
国東半島だって、くにさきって読めないよな。
国の東側…なんかでかい国でもあったのかね?

日出町とかも、ひじって普通読めないよな。
あれ、語源は何なんだろうね?
625日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:01:30.36
倭国大乱はおそらく、出雲と畿内、吉備勢力などとの戦い。それに、畿内連合が勝利し
出雲は荒神谷遺跡に銅剣などの武器などを大量に葬ったとみてよいのでは?
そして、その連合に北九州勢が加わった。
626卑弥呼の都は久留米:2012/02/06(月) 21:02:41.17
>>624
>国の東側…なんかでかい国でもあったのかね?

日本書記に言う景行天皇である九州王に滅ぼされた豊前地域の国ことだ。
京都郡の国は敗戦後の岩井が造った国。
627観客その1:2012/02/06(月) 21:27:38.37
>>626 久留米
向こうで伊作が呼んでるよ。
身の潔白を知らしめてみてはいかが?
628観客その1:2012/02/06(月) 21:47:30.92
久留米!どうしたんだ?身の潔白は証明できないのか?
このままでは「伊作が正統」で「久留米は贋作」になってしまうよ
629観客その1:2012/02/06(月) 21:58:57.53
久留米逃亡・・・久留米は贋作でした

残念な奴だ
630観客その1:2012/02/06(月) 22:11:34.77
久留米音信不通・・・
631卑弥呼の都は久留米:2012/02/06(月) 22:56:40.32
>>627-630
>久留米は贋作でした

逆だ、贋作は遺作
全く売れなかった平成2年出版の遺作本を私が読めているはずがない。
632ゴミために降りた鶴:2012/02/06(月) 23:18:40.48
>>631
平成2年以降、本、ホームページ、ブログで継続して唱え続けているが、
お前が知ろうが知るまいが、初出は俺だ。タコ

「いつ・どこで・どんなことを提唱したか」
この証拠づくりのために本やサイトで公開してるんだ。

初提唱者が誰か分かったんだから、
こんどからは、「伊作説」とことわりを入れて書け。それがルールだ。
俺が集中攻撃を受けている時は知らん顔しておいて、
ぬけぬけと自論のようにいいやがる。とんでもねー野郎だぜ。

>逆だ、贋作は遺作
証明できなかったら、てめ。名誉毀損だぞ。
633ゴミために降りた鶴:2012/02/06(月) 23:22:21.56
>>628
>「久留米は贋作」になってしまうよ
贋作ではないパクリだ。利口ぶってこの野郎。
634日本@名無史さん:2012/02/06(月) 23:24:51.24
ま、先出権を主張するなら、本を書いている伊作のほうが有利だな。
普通はそうならないように学会で発表する。
635ゴミために降りた鶴:2012/02/06(月) 23:32:48.22
>>634
同人誌だろうがホームページだろうが、先出権は尊重される。
尊重すべきだからこそ、俺たちは引用先には神経を使って、
くどいように提示する。この世界の常識だ。

自分がそうしているのだから、俺のから引用したら提示するよう要求する。
当然のことだ。まして、
ことわりもなく自論のようにいわれたら出るところへ出るだけだ。

636卑弥呼の都は久留米:2012/02/07(火) 01:39:45.81
         

パクリ贋作は遺作

先出権なんてチャンチャラ可笑しいわ。

半島水行渡海一万里十日説は昭和40年代以前から既にあった。
だから古田の半島斜め横断陸行説が注目をあびたのだ。

一万里十日説が私の発案だとは決して言っておりません。念のため。


「邪馬台国はなかった」を新聞広告に釣られて購読したのは、40年前だな懐かしい。
637日本@名無史さん:2012/02/07(火) 04:02:49.34
>>635 森村伊作
>ことわりもなく自論のようにいわれたら出るところへ出るだけだ。

面白い。
是非やって見せてくれwww
ろうな?
638日本@名無史さん:2012/02/07(火) 05:28:30.62
邪馬台国論争の素人です。
急に興味が出て、安本美典氏の高天原の謎と、古田武彦氏の邪馬台国はなかった、の二冊をざっと読んだんだけど、
どちらも別の方法論でそれぞれ論理的に考察してて非常に納得できる内容で、これ読む限り邪馬台国(邪馬一国)は
北九州、福岡のどこかで間違いないなって感じたんですが、世の畿内説派の人たちは当然この2氏のこれらの主張に対して
論理的な反論でもって畿内説を唱えてるんですよね?そういう畿内派の方の著作があればそれも読んでみたいんですが
どなたかおすすめの本はあるでしょうか?
639日本@名無史さん:2012/02/07(火) 06:48:22.01
安本に古田?
一番ダメじゃんw
640志紀:2012/02/07(火) 07:19:24.28
>>638
どちらも大変興味深い研究です。
畿内説の学者は、学閥に支配されているので、>>639のような学問外の方法、
無視や非人権的罵倒などで悪口を言ってるだけです。
学者と言うのはすべからく、真理と学究を追求すべきもので、それを通じて市民
全体に奉仕するものです。文系学者の方が、その点敏感であるはずなのですが、
とくに古代史研究者は完全に針の穴から天を覗いてやれ素人だの在野研究者だの
と馬鹿にする事しか能がないようです。

例えば、畿内説を理解するキーワードに「マキムク」があります。確かに面白い遺跡
ではありますが、そればっかりしか言わず、他は無視するのは宗教カルトみたいです。
他にも「ハシハカ」「ホケノヤマ」「サンカクブチ」「ドキヘンネン」などがあります。アマチュア
を馬鹿にするなら、天皇陵の一つでも発掘させてみろよと言いたいですね。

その点、福岡の遺跡群は、とにかく掘れば出てくるくらいの濃密地帯で、かつ埋蔵品が
日本一豪華で圧倒的です。行程がどうとかいう狭い話ではなく、多面的な論点や視座を
用意しているので、説得力があります。複数の結論が九州とりわけ北部を指すわけで。
私は八尾に住んでいますが、弥生までさかのぼれる古地名が北部九州ほど沢山あるわけ
ではないです。「しき」「とみ」「とみがおか」なんかは古いです。河内湖の南北岸にあって、
結構リアルですよね。神武記を否定するのは簡単ですが、否定する方法論も幼稚ですね、
今の偉い学者さんは。そこに出てくる地名や地形はどうするのかな。
641日本@名無史さん:2012/02/07(火) 07:45:49.34
まだ地名がどーたらとか言ってるの?
志紀クンは相変わらず思い込みが激しいのでは?
安本はよく立証もせず何たらとかいって批判してるが、
自分はどうなの?という話。高天原論なんて呆れてモノが言えないよ。
古田もゴッドハンドの件があるので信用度は低いぞ。
642日本@名無史さん:2012/02/07(火) 07:55:58.41
>>640
大正解です
643日本@名無史さん:2012/02/07(火) 08:05:52.12
九州説はまず、候補地を固めるのが先。
644日本@名無史さん:2012/02/07(火) 09:06:43.83
つーか、アレだけ根拠と論理が穴だらけの状況で、
箸墓一択にできる姿勢のほうが問題有り。

普通は根拠と推論で、「だいたいこのへん」とは言えても、
「これだっ!!」って言い切るのは難しいとおもうのだが。
645日本@名無史さん:2012/02/07(火) 09:23:32.74
638です
そうですか。安本氏と古田氏お二人の本を読んで、九州説がこれだけ地道に細かく考察して主張しているということは
いまだに論争が続いてるというもう一方の畿内説も同様に論理的な考察があって、お互いハイレベルな
論争を繰り広げているんだろうなと勝手に期待してたのですが。
どちら派でも無いど素人としては、客観的に両方の主張を見てみたいので畿内派で論理的な考察をしている本などは無いのでしょうか?
646日本@名無史さん:2012/02/07(火) 09:45:46.52
ここは九州説のスレだからな。でも当然地道に
畿内説を研究してる人も多いだろう。

それに畿内説でも奈良、箸墓一択でもない。
河内説も有力だし、最近は阿波〜河内との広範囲を比定する説もある。
石野氏だって箸墓を卑弥呼の墓と比定してないよ。
647卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/07(火) 09:46:32.18
>>645
まず江戸時代の宣長と白石を読む。それから明治の内藤湖南、白鳥庫吉、橋本増吉などを読む。
それから例えば三品彰英の『邪馬台国研究総覧』等を読んでみる。

で、いろいろ読んで大体のことが分かったら、山形明郷の本を読んで衝撃を受けてみる。
そこには邪馬台国や卑弥呼は朝鮮のことではないかという説が提示されているからだ。

で、最後に浜名寛祐の「契丹古伝」を読んでみる。→倭国大乱や卑弥呼のことは朝鮮半島の話だと確信するに至る。
648卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/07(火) 09:56:43.48
>>645
もう一つの注意としては、記紀を素直に信じること。
記紀の編年も、一応、公式の編年を信じてみること。

2chの邪馬台国関連スレに参加している人は、私以外、ほとんど全員が記紀を信じていないから、
この連中の意見を信じちゃいけないよ。それだけは忠告しておく。

現代の学説や考古学より、記紀を信じなさい。
649日本@名無史さん:2012/02/07(火) 10:20:45.81
江戸や明治の本は私には敷居が高そうですが、三品彰英氏の名前は安本氏(古田氏だったかな?)の本にも出てきてた気がするので
まず読んでみようと思います。それと>>646さんのいう石野博信氏の本も読んでみます。
朝鮮説なんてのもあるんですか。あの倭人伝の文章をどう解釈すると朝鮮になるのか興味湧きますね。そちらも読んでみようと思います。
ありがとうございます。
650太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/07(火) 10:26:40.64
>>648
記紀を素直に信じろといっても、記と紀の年代は違いがあるわけで、
これでストレートに信じろというのはおかしい。

記紀にインチキは殆どないが、即受け入れは出来ないものもある。
651日本@名無史さん:2012/02/07(火) 10:45:06.62
それは同意。記紀は内容差を考慮して、
漢字の違いを読み比べながら解釈をする事が大事。
652日本@名無史さん:2012/02/07(火) 14:00:41.91
>>624 国から見て、日の出る方向だから、日出
つまり、浮羽辺りに国があればまさにそういう地形。
国東、日出に合致する。
653日本@名無史さん:2012/02/07(火) 14:16:16.11
>>652 地図を見てみると良いが、国東半島の根元に有る日出町は、浮羽の真東に当たる。
景行天皇が宇佐から浮羽/生葉/的邑(いくはむら)に入ったという記述も有る。
654日本@名無史さん:2012/02/07(火) 14:24:56.94
>>653 うきは、は、古代史の中で一番地名が出て来て、場所が特定できる非常に珍しい場所。
景行天皇は、浮羽の山の木で舟を作ったと言う記述も有る。
うきは/ いくはの地名をつけたのも景行天皇だと言う記述も有る。
655日本@名無史さん:2012/02/07(火) 14:26:10.01
>>645
九州説、畿内説を等しく考えてみるのはある意味、必須じゃないかな。
そうでない人がけっこう多いが…。

しかし、九州説の本を読んだあとに畿内説の本を読むとがっかりすることが
多いかも。
656日本@名無史さん:2012/02/07(火) 17:09:41.70
そうだね、九州説は行程を何とかちゃんと解釈しようという態度の人が多い。
畿内説は、行程はそっちのけで、当時の権力者は1番大きな墓のところにいた
はずだという先入観で語っていく。

九州説としては、榎一雄の「邪馬台国」、畿内説としては山尾幸久の「魏志倭人伝」
は読んでおくべきだろうな。古田は屁理屈ばかりだから心して読まんとね。
657日本@名無史さん:2012/02/07(火) 17:37:50.18
>>656
斯馬國=下関・斯馬の関→己百支國=厚狭 => 伊邪國=山口 => 郡支國=櫛ケ浜 =>
彌奴國 => 好古都國=厳島 => 不呼國 => 姐奴國 => 対蘇國 => 蘇奴國 => 呼邑國=呉 =>
華奴蘇奴國 => 鬼國=岡山・鬼ヶ島 => 為吾國=相生 => 鬼奴國 => 邪馬國 =>
躬臣國=姫路 => 巴利國=播磨 => 支惟國=紀伊 => 烏奴國=津・安濃津・穴津 => 奴国
658日本@名無史さん:2012/02/07(火) 19:16:24.06
九州説は行程解きばかりに捕らわれ過ぎ、
という批判もあるけどな。
659日本@名無史さん:2012/02/07(火) 19:19:43.08
弥生時代の最大勢力は、福岡と佐賀だろ。
遺跡の量が桁違いで、確認済み未発掘遺跡も相当ある。
660日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:11:43.11

吉野ヶ里は弥生末期は分裂解体期だろ
661日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:22:27.49
記紀も現実的にあり得なかったり相互の矛盾があったりひどいけど
中国の史書もなぁ……
特に三国志は正史の中では特に偽りが多いと言われているし

可能な限り信じるという素直な姿勢でも史書の穴を埋めるには莫大な憶測を要する
662ゴミために降りた鶴:2012/02/07(火) 20:43:12.06
>>661
>三国志は正史の中では特に偽りが多いと言われているし
偽り論を並べる奴が使う「逃げの詭弁」だな。
663日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:43:58.84
いさくもどきはあと
664日本@名無史さん:2012/02/07(火) 20:50:47.93

中国の研究者も倭人伝の部分は研究対象外にしてそうだな
665観客その1:2012/02/07(火) 20:57:05.72
636 :卑弥呼の都は久留米:2012/02/07(火) 01:39:45.81
   パクリ贋作は遺作
先出権なんてチャンチャラ可笑しいわ。
半島水行渡海一万里十日説は昭和40年代以前から既にあった。
だから古田の半島斜め横断陸行説が注目をあびたのだ。
一万里十日説が私の発案だとは決して言っておりません。念のため。

>>662 ゴミ駄目のつる
これに応えてあげないと
666卑弥呼の都は久留米:2012/02/07(火) 20:59:20.36
>>660
>吉野ヶ里は弥生末期は分裂解体期だろ

吉野ヶ里遺跡は倭國王帥升の城柵(倭面土國の城柵)。
〔倭面土國=倭米多國〕

帥升王統は、倭國乱により弱体化し、吉野ヶ里から惣座遺跡(伊都國の城柵)に遷都。
667観客その1:2012/02/07(火) 21:10:38.67
>>666 久留米
なんだか興味がわきます。
なぜ「帥升王統は、倭國乱により弱体化し、吉野ヶ里から惣座遺跡(伊都國の城柵)に遷都」
なのか、教えていただけませんか?
668:2012/02/07(火) 22:50:33.00
>>666卑弥呼の都は久留米

私も興味があります。
何故陳寿は、帥升記事を省いたとお考えでしょうか?
帥升が九州なら、記載したと思います。

私は、帥升=近畿勢説ですが・・・
669観客その1:2012/02/07(火) 23:21:11.32
>>666 久留米!
君にファン殺到、この「伊作殺し」。
次にすごい展開をきたいしてます〜
670日本@名無史さん:2012/02/07(火) 23:27:23.99
畿内説の根拠って何?
畿内説は、いつ、誰が、何に、基づいて始まったのか?
671sss:2012/02/07(火) 23:29:42.86
>>668
後漢から倭国王と呼ばれた帥升は、九州の王というのが一般的。
西暦107年頃の近畿地方には倭国王・帥升の受け皿がない。また、帥升が
近畿地方だとしたら、倭国王というからには当然九州も支配しているわけで、
その支配する範囲が問題になる。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年…
の男子の王は、年代的にも帥升と考えられる。陳寿は当然、帥升のことも
知っていた。
672卑弥呼の都は久留米:2012/02/07(火) 23:32:48.32
>>667
現在形成中の自論なので、ポイントを幾つか挙げます。
@〜Dが倭國乱の前後

@帥升に滅ぼされた倭奴國の後継国である福岡平野の奴國の一派が倭面土國と敵対。
A有明海海上権益で倭面土國と投馬國が競合していた。
B北野平野と筑後平野内陸部の数ヶ国が連合して形成された邪馬壱國の台頭。

C奴國の一派、投馬國、邪馬壱國の新興勢力が連合して倭面土國を攻撃。
D倭面土國は連合側に破れ、城柵を吉野ヶ里から惣座に移し、佐賀平野の大部分の領域を失う。

E倭面土國の佐賀平野の領域には、奴國の一派が奴國の分国(伊都國の東南百里)を建国。
F倭面土國の領域は、佐賀平野と北野平野西部から惣座遺跡周辺部だけになる。
G当初、魏は倭面土國を倭都國としていたが、後に伊都國とする。
H倭面土國の帥升王統の王等は連合国(女王國)の管理下(統属)に入る。
673kannkyakusono1 :2012/02/07(火) 23:33:31.05
「帥升王統は、倭國乱により弱体化し、吉野ヶ里から惣座遺跡(伊都國の城柵)に遷都」
674観客その1:2012/02/07(火) 23:34:33.72
>>673 書き込み失敗
675観客その1:2012/02/07(火) 23:38:56.83
>>672 久留米
その幾つかのポイントに対して根拠または可能性を感じさせる遺跡はありますか?
または根拠または可能性を感じさせる事象(記録)はありますか?
676:2012/02/08(水) 00:00:06.24
>>671 :sss
「倭国王」と記載は確定ではない。 異論も出ている。
・倭奴國奉貢朝賀
・倭國王帥升等
 (窓口はひとつ)
・倭國大亂

 范曄は、喧嘩相手を明確にした。
 倭国王に「等」は必要ない。
 王統が同じなら、「願請見」は不自然。
677卑弥呼の都は久留米:2012/02/08(水) 00:11:57.07
>>675
>その幾つかのポイントに対して根拠または可能性を感じさせる遺跡はありますか?

立論できるだけの多くの事象はありますが、遺跡と絞るとあまりありません。
@吉野ヶ里遺跡では弥生末に衰退したこと。
A吉野ヶ里遺跡と惣座遺跡に同じ構造の環壕があること。
B吉野ヶ里遺跡の近くに、米多、目達の地名があること。米多國=面土國
C惣座遺跡の近くには、弥生後期から8世紀までの色々な遺跡が集中していること。

>または根拠または可能性を感じさせる事象(記録)はありますか?

たくさん有り過ぎてすぐにはまとめようがありません。
678sss:2012/02/08(水) 00:20:46.78
>>676
帥升が献上した生口160人は非常に多い。卑弥呼の場合は男女合わせて10人。
かなりの権力者だったと考えられる。倭国王と呼ばれるにふさわしい。

複数形で書かれている理由は、卑弥呼の場合と同じように統属する国王がいて
それらを代表する形だったのかもしれない。
あるいは、帥升自らが赴いたのかもしれない。帥升様ご一行というわけで…。

まあ、複数形で書かれる理由がないこともない。

こちらの質問もあるわけで、西暦107年に帥升が近畿地方にいたとしたらそれは
何という遺跡なのか。九州にはそれなりの遺跡がある。例えば吉野ヶ里遺跡も
存在していた。近畿地方の場合には候補地があるのか?

また、帥升は当然、九州を通っているわけでしかも大船隊と考えられる。
九州を支配せずしてこのようなことが可能なのか。
また、九州を支配していたとしたら、後の大和朝廷も顔負けの支配力となる。
このようなことがありえるのか?
679卑弥呼の都は久留米:2012/02/08(水) 00:26:58.34
>>676

倭奴國の王と帥升は別の王統

倭奴國=倭都國 (ヰト国)


倭國王帥升は倭面土國の王

倭面土國=倭米多國 (ヰメタ国)
「メタ」は吉野ヶ里の近くの地名
米多、目達原、米田郷、筑斯米多國
680卑弥呼の都は久留米:2012/02/08(水) 00:49:59.81
>>678
帥升が献上した生口160人は、倭奴國の捕虜。

帥升は米多國(面土國)の自称王。
他に倭諸国の何人かの自称王も同行していたと考える。

漢は倭使節の代表である帥升に倭國王の称号を与えた。
金印は倭奴國から引き継げば良いとの考え。
「倭奴國」は「倭都國」、即ち、倭を都する国の意味、倭を治める国の意味。
681sss:2012/02/08(水) 01:22:17.10
>>680
確かに、生口160人は戦争奴隷と考えた方がよさそう。
自分の国で何らかの役割を持っている人間を160人も献上したら国は成り立たない。

また、後漢書などには何も書かれていないが、帥升は何かをもらった可能性が高い。
日田から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡などはその可能性があるかも。
中国でも皇帝クラスの人物が所有するとされる鉄鏡をもらったのは誰かと考えると、
卑弥呼か帥升くらいしか思いつかない。しかし、卑弥呼はもらっていない。
682日本@名無史さん:2012/02/08(水) 01:52:50.03
>>677 武内宿禰と言われている高良玉垂命が祀られている高良山は?
高良山で政治を行ったのではという説があったと思う。 古田だったかな?
景行天皇は、浮羽山の木で舟を作り高良山の木で櫂を作った。
南北朝時代の懐良新皇もここに行宮を置いて戦いを行っている。
筑後川沿いの要衝。 古代の国は筑後川を無視しては語れないと思う。交通の大動脈だから。
683日本@名無史さん:2012/02/08(水) 07:07:19.32
九州で政治をした武内宿禰と葛城氏をはじめとした大和豪族の祖とされる武内宿禰は別人かな?
武内宿禰系の大和豪族がみんな九州王朝に遣わされてきたようにも見えないし
684卑弥呼の都は久留米:2012/02/08(水) 11:55:08.57
>帥升は米多國(面土國)の自称王。
>他に倭諸国の何人かの自称王も同行していたと考える。

「帥升等」の帥升に同行した倭諸国の自称王はどの国の王か?

@倭奴國と漢の直接接触によって、半島への海上権益を失った一支國(一大國)
A同じく、半島と佐賀平野を繋ぐ交易窓口を失った末盧國。
B一支國と共に、有明海からの海上交易路を失った投馬國。
C北野平野にあり倭奴國と隣接していた連立統合前の邪馬壹國の前身国。

帥升との同行者は、少なくとも上記四ヶ国の自称王
685卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/08(水) 12:34:21.02
倭国王帥升は、倭国主帥升の誤記ですよ。主帥=将軍。
生口を160人も献上したのに、金印を貰った形跡がないのは、国王ではなかったからですよ。

それとこの倭国も朝鮮の倭国ですよ。
倭奴国も、たぶん、朝鮮の倭国です。金印は偽物ですから。

とにかく、倭国とあれば日本、と思ってはいけないということです。
686ゴミために降りた鶴:2012/02/08(水) 12:53:41.29
>>681 sss  久しぶりのご登場だね。

かつて天才のサイトに掲載していたもの。
(賀川光夫・金銀錯嵌珠竜文鏡・所引『曹操集譯註』より)
「御物有尺二寸金錯鉄鏡一枚,皇后雜物用純銀錯七寸鉄鏡四枚,貴人至公主九寸鉄鏡四十枚」。
(武帝の)御物に尺二寸の金錯鉄鏡一枚あり、皇后の雜物に純銀錯七寸の鉄鏡四枚を用う、
貴人・公主に至っては九寸の鉄鏡四十枚。

つまり、金象嵌の鉄鏡は皇帝の使用物であり、皇后は銀象嵌の鉄鏡を使用する。
貴人や公主(皇帝の血縁関係者)は九寸の鉄鏡を使用するという。
▼後漢代の尺度でいけば。皇帝の鏡は27.6センチ。貴人・公主の鏡は18.4センチ。
▼魏代の尺度でいけば。皇帝の鏡は28.9センチ。貴人・公主の鏡は19.2センチとなる。
あくまでも『曹操集』1例からの推測であることを前提にいえば、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、
その材質・サイズ面からみて、皇帝クラスが所有した鏡ではなさそうである。

さらに、「貴人・公主は九寸の鉄鏡」とあるだけで装飾細工について書いていない。
とはいうものの、貴人・公主が何の装飾細工もない鉄鏡を所有するわけはない。
やや9寸に近い21センチというサイズと金銀の錯嵌細工がしてあることからも、
ダンワラから出た金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は貴人・公主クラスが所有した鉄鏡の可能性がある。
いずれにしても、皇帝に近い貴人が所有した御物を異民族国王に贈るか否か。

>確かに、生口160人は戦争奴隷と考えた方がよさそう。
俺は一部でいわれるように、大半は技術や知識を学ぶ留学生だったとみる。
687日本@名無史さん:2012/02/08(水) 17:24:33.02
>>683 武内宿禰は300年も生きた事になってるから、複数の人物像を重ね合わせたもの。
大和豪族の祖とされる武内宿禰も同一人物。

武内宿禰の子供たちの名前(氏:大和の豪族)はほとんど全てセットで北九州にまとまって存在する。
つまり、九州から地名もセットで大和に移った物と見るのが自然。

武内宿禰の子
●波多八代宿禰 ●巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) ●蘇我石川宿禰
●平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)  ●紀角宿禰(きのつののすくね)
○ 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ) ○怒能伊呂比売(ののいろひめ)
●葛城襲津彦 若子宿禰(わくごのすくね

http://kamnavi.jp/ki/city/takeuti.htm
『邪馬台国の東遷』(奥野正男著)を引用します。北九州の地図のつもりです。

  博多湾     /
   −−−−−−/
        曾我
    平群    羽田
 背振山地
=======  I      甘木
        ==I基肄
武雄  巨勢   I葛木
    −−−−−+−−−筑後川        
  有明海
--------------
羽田邑(筑紫神社のある筑紫野市周辺)
、平群早良邑(室見川周辺)、葛城邑(脊振山の麓、鳥栖地区)、巨勢邑(佐賀平野、
佐賀市周辺および浮羽郡巨瀬川周辺)、安曇邑(福岡市住吉神社周辺)、紀または基肆邑(佐賀県基山)
葛城邑は佐賀県武雄市周辺にもあったらしい。
688卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/08(水) 18:33:03.46
記紀を無視して何を言っても無駄でしょう。
記紀には三世紀以降に九州の勢力が大和に東遷したというようなことは書かれていないのですから。

九州に大和と同じ地名があるとしても、それが何時頃からあるのかは不明。
また武内宿禰は武人で、神功皇后の新羅征伐などにも関係しているのだから、
その一族の名が九州に残っていても不思議ではない。
つまり、地名や氏族名については、東遷ではなく西下ということも考えられるわけです。
689日本@名無史さん:2012/02/08(水) 18:48:19.24
>>687
なるほどと言いたいところだけど解らないなぁ

遺跡や古墳、記紀からいっても飛鳥時代より前から武内系豪族は近畿を本拠にしているように見える
しかし隋代まで大和朝廷より国際的に有利な地位にあった九州王朝から離れて関西に移転するとは考えにくい

武内系豪族がなんらかの理由で泣く泣く大和に亡命したということになっちゃいそうな
690志紀:2012/02/08(水) 20:24:45.38
アメノヒボコが何のために播磨〜但馬〜丹後に来たのか。
定住目的に見えるが。アメノヒボコの先祖は先行する伊和大神と激しく争ったとある。
ここは神武記と似ている。

ニギハヤヒやイツセも、何のために摂津〜大和へ来たのか。
沃野千里(短里で四周千里ぐらいw)の絶好の稲作向きの大湿地帯。
ただ、どれくらいの軍勢があれば当時の奈良盆地に「神」として降臨出来たのか。
既に九州勢力>奈良の在地勢力という政治上その他の権力関係があったのか
どうか。十種の十種神宝や三種の神器を見せればそれで良かったのだろうか。
どうも信じがたい。勝手に侵入を企てて敗れたイツセ兄弟はともかく、ニギハヤヒの
場合は何の武力衝突もなく拠点を得たのだろうか?

ただ、この頃から九州(半島?)勢力の各地への武力を伴う侵入が激しくなっていった
可能性は大きいのではないだろうか。ヒボコの出石は播磨風土記では「伊都志」、また
他の奈良や和歌山に移住したヒホコの後裔も糸、伊都の名と砂鉄の産地を伴っており、
北部九州(糸・伊都)もしくは朝鮮南部の製鉄集団が戦闘しつつ移住定着したと考えら
れよう。
691日本@名無史さん:2012/02/08(水) 20:41:47.40
飛鳥時代よりもっと前に移住して来てるんだよ。 武内宿禰300年の後ろの方で移住したんじゃないかな。
武内宿禰
景行天皇14年(84年) - 仁徳天皇55年(367年)4月?)

武内宿禰は神功皇后の朝鮮出兵を助けたり、この子供達も朝鮮出兵を何度も行っている。
神功皇后の足跡は殆ど九州に限られている。
692日本@名無史さん:2012/02/08(水) 20:50:16.90
西暦220〜265年頃に東遷を行ったと言われている。

大和に移った後の豪族たちの位置
http://2sen.dip.jp/cgi-bin/upgun/up4/source/up1880.jpg
>>687 と比べると面白い。

勿論その前にその土地に居た人達も居ただろうから、遺跡の古い物が出て来ても不思議ではない。
693志紀:2012/02/08(水) 21:12:03.58
神武記にある、イツセ兄弟一行が、何故奈良盆地への侵入を企てたのか。

彼地必当足以恢弘大業 光宅天下 蓋六合之中心乎 厥飛降者 謂是饒速日歟

夏四月丙申朔甲辰 皇師勒兵 歩趣龍田 而其路狹嶮 人不得並行 乃還更欲東踰膽駒山 
而入中洲 時長髓彦聞之曰 夫天~子等所以來者 必將奪我國 則盡起屬兵 徼之於孔舎衞坂 
與之會戰

「中洲」が当初の侵入予定の地域だったことが良くわかる。その侵入路は、ニギハヤヒとは違うのは
何故だろうか。だが、書紀では明白に「ニギハヤヒが先に飛降者」と記されている。

神武記で、中洲に侵入出来たことが最も大きく顕彰された事なのは、読んでみた印象だが、戦闘で
一蹴された長脛彦に本当に勝てたのかどうかは、正直よくわからない。神武記の最後まで、奈良盆
地中部北部や河内側の地名は出てこず、また長脛彦と再戦闘して勝利した記載もない。
また、以後何代も磯城の県主との婚姻を結んでおり、印象的には磯城の王の客分のような感じ。

ニギハヤヒ=物部は、堂々と奈良北部に入ってきたのとは対照的であり、ニギハヤヒの方はかなり
大部隊だったのかもしれない。
694日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:16:22.34
>>687
大和の豪族が半島への便のよい北部九州に
出張場所を求めた、とも言えるけどな。
神功だって葛城の生まれと明記されてるのに。
695志紀:2012/02/08(水) 21:22:14.41
既に稠密地域で、半島との紛争も絶えない筑紫にわざわざ
別荘を建てる意義が分らない。
てかそもそも当時の筑紫と奈良は遠すぎ。
なんでわざわざ半島紛争にコミットするのか理解できないな。
696卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/08(水) 21:25:13.93
戦闘とか大部隊とか、後世の感覚で推理しているが、
神武の東征は紀元前一万年以後のことで、後世の戦争のようなものを想像してはいけないよ。

半分は神話的色彩があるから、現代人が想像しているようなものとは違うよ。
697日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:30:15.32
別荘じゃなく貿易拠点だな、当然便利な場所に集中しただけの事。
698日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:45:14.19
>>691
その時代に移住したとすれば、今度は古墳時代〜飛鳥時代の間必死こいて九州への援軍に有力氏族の子弟を出しまくってる
畿内の立場がよくわからない

古墳の大きさからして当時の畿内豪族は九州に劣る勢力ではない、数百年前の君主というだけで九州に忠誠を誓うことはないだろう
かと言って九州王朝の半島での領土を守る戦いに援軍を送ることにメリットがあるとも思えない
畿内豪族自身の領土保全・拡大や植民地獲得が目的ならいちいち半島攻めずに九州を攻めるだろうしね

地名の話は、大和の各豪族の軍営キャンプが地名に残ったとしても矛盾はないよね
699太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/08(水) 22:57:42.93
>神武の東征は紀元前一万年以後のことで

そんな古くはないですよ。これは紀元前7年に九州から畿内へ出発です。
700卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/08(水) 23:25:23.67
太国さんは、記紀を信じているという点では、他の奴らよりましだが、編年が無茶苦茶だな。
神武が何人いたかは知らないが、初代の神武は一万年くらい前の人物ですよ。それはまちがいない。

倭姫命世記によると、開化天皇までは神と人の中間みたいなことが書かれていて、
崇神天皇でやっと歴史時代に入るみたいな感じだから、

崇神というのは紀元前千年〜三千年くらいの人物ではないかと、私は漠然と思っているのだ。
紀元前千年〜三千年くらいから歴史時代に入るというのが世界史の通説だから。
701卑弥呼の都は久留米:2012/02/08(水) 23:36:35.02
>神武の東征は紀元前一万年以後のことで

神武一行の戦争難民として東進開始は西暦106年。
神武は難民行の途中に日向で生れた。
702日本@名無史さん:2012/02/08(水) 23:41:31.99
>于今一百七十九万二千四百七十余歳
これをユリウス通日とすると193年
これが神武の東征開始時期
703卑弥呼の都は久留米:2012/02/08(水) 23:51:38.12
神武のおじさんは、170人の生口のメンバー。
704sss:2012/02/09(木) 00:03:56.70
>>686
なるほど。さすがに良く調べてある。皇帝の鉄鏡の尺二寸は予想外だった。
鉄鏡あるいは日田からいくつか出ている鉄帯鈎などからこれらは漢代のものと
思っているのだが、なぜ日田なのかがどうにも謎。
小迫辻原遺跡の環濠居館などもあって、日田にもなんか怪しげな雰囲気がありますね。
705ゴミために降りた鶴:2012/02/09(木) 00:22:45.47
ドンと来いが一杯になった。
あらためのタコがからんできたのでここに書いておく。
たぶん、板乞食どもがウンカのようにたかってくるだろうが、
そうなったら失礼するから。ちょと失礼する。


>>998 あらためのタコへ。
>裝封し帯方郡に付ける と書いてあるとおり、
「(特注で後送りになる金印紫綬は)装封して、帯方郡太守を介して授与する」といっている。
「帯方郡太守に委ねて」または、「帯方郡太守を経由して」だな。
「詔書を帯方郡太守に委ねる」とは書いてなかろう。

>反論があるようなら、相手してやってもいいですよ。
バカたれ。なにが反論だ。
封爵儀式は使節でなくちゃできんことばかりだ。使節とはこうだ。
●節:天子の使者であることを示す旗(先にからうしの尾がついている) 
●使節:節を与えられた天子の使者。天子代理として他国に差し向けられる使者。

天子の使者・天子代理の使者を太守が立てるてか?
天子の使者であることを示す節を太守が与えるてか?
天子の使者は天子が立てるのだ。

太守が立てた武人が使節で、王朝儀礼も知らん武人が
倭国の重臣・高官が着飾って居並ぶ中で封爵儀式を執行したてか?
反論を受けるのは俺のほうだぜ。

それにしてもここの板乞食ども。
偽物のなりきりなどという最低の手をまたぞろ使いはじめたようだな。
706日本@名無史さん:2012/02/09(木) 00:27:23.85
日田は、大交通網の筑後川上流に当たり、浮羽の隣。
この辺りまで頻繁に行ききが有ったと思われる。
707日本@名無史さん:2012/02/09(木) 00:30:49.66
>>692
物部の本貫地は大阪府東部じゃないか?
四条畷市〜東大阪市ぐらい

あと、その地図を見るとトミ氏(ナガスネヒコ)の所領の奈良市西部に
移住した豪族がいないというのが興味深いね
708:2012/02/09(木) 00:38:30.34
こっち来いってことかな?まあいいだろう・・・

>>705

『倭人伝』
正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔

とあるとおり、ここの主語は、「太守は」又は「太守が」なので
ここで明記されてると思うんですが、貴方が言ってるのはおかしいと思いませんか?

>天子の使者・天子代理の使者を太守が立てるてか?
>天子の使者であることを示す節を太守が与えるてか?天子の使者は天子が立てるのだ。

詔書で太守が任命されてるだろう?ちゃんと倭人伝よみましたぁ?

>太守が立てた武人が使節で、王朝儀礼も知らん武人が
>倭国の重臣・高官が着飾って居並ぶ中で封爵儀式を執行したてか?
>反論を受けるのは俺のほうだぜ。

あのねえ、魏と倭というのは、昔から〜魏 → 楽浪郡(らくろうぐん)→ 倭
卑弥呼の時代は、魏 → 帯方郡 → 倭 という具合になっていて、下位の倭への詔は
帯方に任せたと書いてるでしょう。
709日本@名無史さん:2012/02/09(木) 00:39:49.70
こっちにも書いとこ

「奉詔書印綬詣倭國」
「奉」とか「詣」って現代日本語だと目下の者が目上の者にアクションするイメージなんだけど、
当時は意味が違ってたのかな?
それとも文献解釈を間違えてるのかな?
710卑弥呼の都は久留米:2012/02/09(木) 00:41:24.47
>>707
>物部の本貫地は大阪府東部じゃないか?
>四条畷市〜東大阪市ぐらい

物部の本貫地は八尾、大和川が河内湖に流れ込む河口付近。
711:2012/02/09(木) 00:43:53.16
>>709
>「奉」とか「詣」

ていうのは倭人伝以外でもよく使われてる事ですよ。
私は始め読んだ時は「目上?倭人が?」なんて思ったことがあるんですが、
そこはあまり気にしなくてよいと思います。
712日本@名無史さん:2012/02/09(木) 00:49:18.23
>>711
>倭人伝以外でもよく使われてる事ですよ
ソースも欲しいんだよなぁ

>そこはあまり気にしなくてよいと思います
それはソースを見て自分で判断したいです
713:2012/02/09(木) 00:53:22.74
>>712
>ソース

渡すも本を開かないと出てこないのでめんどくさい。
で、私が貴方の為になんで教えてやらないといけないの?て思うし、
あとは、ご自身でみつけてくださいよ。
714卑弥呼の都は久留米:2012/02/09(木) 00:53:56.01
>>704
日田盆地には、漢代の倭百余國の頃からほぼ独立した勢力が居たと思われる。
日田盆地は地形的に攻め難く守り易い地域。
カゴメの歌も気になる。
715卑弥呼の都は久留米:2012/02/09(木) 00:58:48.62
>>709
「奉」と「詣」の漢籍の用例を辞書で調べたら?
716日本@名無史さん:2012/02/09(木) 01:00:52.31
>>713
っ 詭弁のガイドライン

学問板でソースも出さずに自説を信じてもらおうだなんて・・・
717ゴミために降りた鶴:2012/02/09(木) 01:08:34.45
>>708
>こっち来いってことかな?まあいいだろう・・・
いや、書くところがなかっただけのことだ。

>とあるとおり、ここの主語は、「太守は」又は「太守が」なので
帯方郡太守が「使節を立てた」とは書いてあるまい。
ただ、「建中校尉梯雋等を使わした」だ。詔書を奉じて持参したのは使節だ。

>貴方が言ってるのはおかしいと思いませんか?
おかしくない。古代の厳然たるしきたりの事実を述べている。

>詔書で太守が任命されてるだろう?ちゃんと倭人伝よみましたぁ?
お前どこをみて・何をいいはじめるんだ? 分裂か?
使節を立てることができるのは天子だけってことだ。タコ

>太守が立てた武人が使節で、王朝儀礼も知らん武人が
>倭国の重臣・高官が着飾って居並ぶ中で封爵儀式を執行したてか?
>反論を受けるのは俺のほうだぜ。

>倭への詔は帯方に任せたと書いてるでしょう。
お前、支離滅裂だが、睡眠不足か酩酊か、ラリってるか?
「詔は帯方に任せたと書いてるでしょう」
詔とは天子じきじきの言葉のことだ。これを帯方に任せたとどこに書いてあるか。
詔を文書にしたのが詔書だが。詔書を帯方郡太守に委ねるとも書いてないぞ。

話が噛み合ん。これくらいにしとけ。
なーにが「ちゃんと倭人伝よみましたぁ? だ。ボケナス
718:2012/02/09(木) 01:18:28.11
>>717
>帯方郡太守が「使節を立てた」とは書いてあるまい。
>ただ、「建中校尉梯雋等を使わした」だ。詔書を奉じて持参したのは使節だ。

あっははは おまぃさん〜そんなレベルなん?
てんで、話になって無いな・・・(ヤフーてそんなもんなん?)
もう一回、図書館行ってお勉強してきたらどうかね?

>おかしくない。古代の (以下省略)

おまじさんより、アホーの原付蒸し君のがマシなんじゃない?
「わたしとか、アホーの原付蒸し君は「倭人伝」専門というのを忘れられたら困るな。
話にならんぜwwww  

今日はもうおそいので寝る zzzzzzzzzzzz
719志紀:2012/02/09(木) 07:47:32.90
そやから物部は志紀や言うてるやろ!(;´Д⊂)

東大阪では狭すぎるんだよ、大勢力の経営地としては。

磯城氏は良くわからない氏族だが、歴代の神武の子孫の妃を
出している。これではどちらが大王家かわからないw
そんな有力豪族が出自不明というのは解せない。
一応ニギハヤヒの子孫と言われるが、俺もそうだと思う。
神武記にも、神武を助けたり長脛彦と繋いだりしているが、その
裏で裏切りの血にまみれた事を隠蔽したのが「磯城氏」ではないか。

実体は物部・ニギハヤヒだと言うのが俺の考え。
物部氏は勢力や名前からも、軍事力を司った大勢力だったのは確か
だから、イツセ兄弟と違って、エリアの王・長脛彦も容易には駆逐でき
ない移住だったのではないか。農耕、治水技術や兵器の供与もあった
んだろう。
720志紀:2012/02/09(木) 07:50:05.43
神武が1万年前って言う人、それはないよ。

人類の脳に変化があり、急速に文明が勃興したのが6千年前。
それ以前にそのような文明の痕跡が発見されたら別だが、今のところは
それはない。
その時代にそんな移住譚があったとしても、それはもはやどっかの家族の
移住物語レベルだろうね。にしてもそんな長距離の移動は困難じゃない?
721日本@名無史さん:2012/02/09(木) 08:18:43.60
一万年前から文明が始まったのは氷期が終わって農耕や貯蓄が可能になり、人類に余力ができたから
脳みそが一万年やそこらで急激に進化なんてありえないよ

その一万年より前は人類にとって定住は困難だったわけだから獲物を追ってどこまでも移住したよ
722太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 10:38:22.49
>武内宿禰は300年も生きた事になってるから、複数の人物像を重ね合わせたもの。

単一人ですよ。仁徳天皇が日本一の長寿者と彼のことを詠っているんだから複数の
人物ではなく同一名の世襲名ではなく、300年近く生きてたということですよ。
ただし当時の1年は現今の1年365日でない〜1年が180日余とか120日余とかの
2倍年暦等を行使していたから、現今の1年で考えたとき、彼の真の寿命は
いまの計算では現代での105歳か111歳でしょう。
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 10:44:25.54
>>700
>記紀を信じているという点では、他の奴らよりましだが、編年が無茶苦茶だな。
お言葉を返すようですが、それはコチラの言うセリフです。

神武は複数ではありませんね。単一人ですよ。彼はクレオパトラの活躍時代に
生まれた人物です。神武当時は3倍年暦を行使していたことから、後代の倍暦
をも考察、逆算すれば、そこの時代におちつきます。

神武天皇の即位は西暦元年の辛酉ですよ。
724日本@名無史さん:2012/02/09(木) 12:15:38.15
答えがまだ出ていないことに対する自分の考えを表明するだけなのに、別の考えの人のことを
いちいち罵倒しながら反論する人が多いのは何でだろう?アホとかボケナスとか。
耶馬臺國のことになると妙に頭に血が上るのかね。
725天空からの鶴の一声:2012/02/09(木) 12:39:54.46
>>724
>詔書で太守が任命されてるだろう? ちゃんと倭人伝よみましたぁ?
>倭への詔は帯方に任せたと書いてるでしょう。

↑↑↑これ。目を皿にしてよーくみろ。
日本語になっているか?
古代史議論として、どこもおかしくないか?
古代史の用語づかいがまともにできているか?
ボケナスというしかなかろう。

はちゃめちゃなことをいってるくせに「ちゃんと倭人伝よみましたぁ?」
といわれて、「ありがとう」とでもいえというのか?。
お前もどうやら、タコというにふさわしいようだぞ。
726卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/09(木) 12:44:07.60
>>723
太国どんに限らず、邪馬台国スレに参加している全員が、人類の歴史というものを理解してないので困る。
ウガヤフキアエズ時代の終わりが何時かといえば、紀元前一万年頃である。それはほぼ確か。

そのウガヤの子の神武の即位が前660年というのは明らかに不合理だから、
神武は何人もいたのである。七人どころか、七十人、七百人いても不思議ではない。

神武の即位が前6600年だったとしても不思議ではない。
727稗箕孤:2012/02/09(木) 12:50:06.87
魏率善邑君おわします月支國ガキニなる
728稗箕孤:2012/02/09(木) 12:54:20.43
月といへば香具邪姫
729日本@名無史さん:2012/02/09(木) 13:25:22.36
カグヤ姫と言えば竹取物語
竹取物語は奈良県北葛城郡が舞台だと言われておりますが、葛城はかつては尾張氏の住んでいたところ
そしてその尾張氏は天香久山(あまの『カグヤ』ま)の代に今の尾張地方熱田神宮へと移ったのです
730日本@名無史さん:2012/02/09(木) 14:19:18.03
ここだけの話だけどむかしの天皇は身長が5mくらいあったんだよ 本当だよ
731太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 14:49:34.69
>そのウガヤの子の神武の即位が前660年というのは明らかに不合理だから、
>神武は何人もいたのである。七人どころか、七十人、七百人いても不思議ではない。

即断に過ぎる考察であり、神武は一人しかいない。

笑われちゃうよ。
732卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/09(木) 17:39:45.94
太国どんもちっとも進歩しないなw 何回も教えてやっているのに。

ウエツフミ、竹内文献によれば、ウガヤ朝は72代続いたわけだ。
一方、倭姫命世記によるとウガヤ朝は84万年続いている。
つまり、一代が一万年以上続いているのだ。

だから神武が一万年続いていたとしても可笑しくはない。
その半分の五千年続いたとしても可笑しくはないのだ。
733日本@名無史さん:2012/02/09(木) 18:06:54.03
長い歴史を紙面の都合で端折って一人の人間として書いているのだ
天地開闢より日本の歴史が始まるのである
734日本@名無史さん:2012/02/09(木) 18:13:38.72
○鮮が快調に弄っております
735稗箕孤:2012/02/09(木) 18:20:41.67
卑弥呼が「まかん」にいた可能性は相当高いでしょう

でもそれが「熊襲の女酋長」なのかどうかというと

たぶんそれわむずかしいぽいなあ

「卑弥呼」でなくて

「加優呼」でしたら 辰王さんがそおゆうおなまえです

「加優居」さんでしたら高句麗方面にもおりますです。
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 18:56:35.65
>>732
>84万年
なんらかの間違いの増幅ですね。
そんなに長く肉体を持って、生きたと貴方は信じてるんですか?

神武は通常の寿命ですよ。

誕生はB.C.51年で
崩御はA.D.26年です。

 51+26=77歳

ですね。
737稗箕孤:2012/02/09(木) 19:01:58.11
おまいら高句麗傳嫁

公孫康と組んで弟の高句麗王に逆らった拔奇とゆうお名前のにいちゃんがいるぞ

弟の高句麗王のお名前は

おとおとだけに 「伊夷模(いいも)」 だとさ

738志紀:2012/02/09(木) 20:19:52.97
>>721

脳機能に関わる遺伝子獲得の年代(分子進化時計による推定)
 
  遺伝子           年代           イベント   
FOXP2遺伝子        200000年前    現生人類の誕生       
マイクロセファリン遺伝子  37000年前    ネアンデルタール絶滅
ASPM遺伝子           5800年前    文明の発生 

他の生物は勿論、進化上は我々と双子のチンパンジーでもこのような急
激な進化は起ってない。その事から、人間の脳は、自らを進化させる能
力を獲得しているのではないかという事で、近年注目されている。
739志紀:2012/02/09(木) 20:39:41.07
晋書四夷伝

不知正歳四節 但計秋收之時以爲年紀
人多壽百年 或八九十

>>736氏の言うように、倭人は1年の記数自体まだ持っておらず、
春と夏で季節を数えた。また、年齢が100〜80歳とあり、これは
当時の平均寿命からして(というか、ずっと後年でも)あり得ない
ので、2倍のカウントは説得力があり、私もそれが正しいと思う。

ただ、神武の生没年については、もっと後ではないか。
欠史八代は、長子単独相続の直列ではなく、兄弟等の同世代が
入り混じっていると考えたい。古すぎて、また錯雑にすぎ、証明は
極めて困難だが。
高地性集落を、九州鉄器勢力からの防衛と見るか、それら勢力
自身の領域支配の都と見るかも重要な問題です。

740日本@名無史さん:2012/02/09(木) 21:08:24.96
脳のサイズ調整に関係する遺伝子の一つであるマイクロセファリンは、ヨーロッパと東アジアに、
もう一つのASPM は、中東とヨーロッパに見出される、と言う主張は、
ヨーロッパに住むユダヤ人が人としての最高の認知機能遺伝子を持った種という主張
741志紀:2012/02/09(木) 21:25:01.80
>>740
そういう説は知らないが、仮にそのような選民思想っぽいのが事実だとしても、
それが進化に近いかと言えば、全く何とも言えないな。
次の進化がどのように起り、広がるのかは、全く何とも言えない。
まあ、マイナーチェンジ程度じゃこの人類の窮状を打破するには力不足なのは
明白だから、それこそ我々旧世代を圧倒できるくらいの知力を持った連中を
期待するよw
742卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/09(木) 21:54:16.29
倭人の長寿は、中国人は東夷にユートピアを想像していたわけで、修辞が入っているのである。
それから、春耕と秋収によって一年を計っていたわけで、一年を二年としていたわけではない。

また>>738は学者のデタラメだから信じる必要はない。
743太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 22:41:17.13
>>739
真の神武即位元年は西暦元年(辛酉)ですよ。

神武即位5年、大陸に即位の祝い として神武が国珍を奉じてたことが
漢書王莽伝 元始5年(=西暦5年)

 東夷王 度大海事国珍

の文にて記録となっている。
744太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 22:56:03.49
>春耕と秋収によって一年を計っていたわけで、一年を二年としていたわけではない。

春耕秋収はいいとして、1年を2年としていた時代が畿内にありました。
以下の表を見ても、当時の1ヶ月は現今の2週間ばかりで、1ヶ月が現代
での半月位になります。これは今の1年が当時は2年の計算だったという
ことです。

【紀の欠史八代日数統計表】

1日 4  15日 0  29日 0
2日 2  16日 0  30日 0
3日 3  17日 0
4日 3  18日 0
5日 6  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 3  23日 0
10日  1  24日 0
11日  4  25日 0
12日  3  26日 0
13日  3  27日 0
14日  7  28日 0

倍暦がちゃんとあったから、1日〜14日間に全記事が収まっている。
当時の1ヶ月が14日間の2週間であった時代が存在した事を示している。
このように空白日(15〜30日)はあったわけで、空白年など西暦0年以外
は存在せず、マシなどというものは宿主の脳内の盲象の産物なので
あ〜る。

745志紀:2012/02/09(木) 23:07:58.25
>>742
だから文系は馬鹿だと言われるんだよ。
でたらめとか言って、その根拠は何なのか言ってみろよ。
お前さんはちったあマシな奴と思ってたが、神武がBC1万年なんて漫画にこだわるのに
現代科学の最先端を言葉一つで否定するのかよ。
お前に古田や安本は無理だわ。

>春耕と秋収によって一年を計っていたわけで、一年を二年としていたわけではない
それも根拠は何かな。前提として、
不知正歳
って言ってるじゃないか。
>>744のレスに対して答えて見なよ。

>>743
その東夷王が神武という証明がないと。
貴方の説は、神武の生没年比定が正しいという前提で言ってるだけじゃないですかね。
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/09(木) 23:16:54.99
>>745
明日書きこみなしょう。証明など2チャンでの要求は無理筋でしょう。

そういうならば貴方の説を証明をして下され。
747卑弥呼の都は久留米:2012/02/09(木) 23:41:55.45
>>738
>他の生物は勿論、進化上は我々と双子のチンパンジーでもこのような急
>激な進化は起ってない。その事から、人間の脳は、自らを進化させる能
>力を獲得しているのではないかという事で、近年注目されている。

人間の脳は、自らを進化させる能力を獲得しているのではない。
人間が過酷な生活環境を生き抜いてきたことを示しているのだ。
新しい遺伝子を獲得できなかった人間は生き残れなかったと言うことだ。
748卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/09(木) 23:45:20.59
>>745
志紀君、科学者は君が思っているほど偉くはないのだよ。
私は人類の歴史を知っているから、現代の科学者が推定してることがまちがいだと知っているのだ。

>>744が正しいかどうかは私は知らない。
問題なのは太国さんは日を挙げているが月を挙げていないということだ。
たとえば一年が一月から六月までしかなかったと仮定して、七月以降の月が一例でもあれば太国さんの倍暦説は崩れる。

それに、不知正歳という言葉を信じなければならない理由はない。
中国人の書いたものが正しいとは限らない。

中国人の書いたものを信じて、記紀を信じていない。それが現代日本人の情けないところだ。

749卑弥呼の都は久留米:2012/02/09(木) 23:46:55.63
>>742
>また>>738は学者のデタラメだから信じる必要はない。

全くの出鱈目ではない。
それを信じる信じないで片付ける君こそ文系の馬鹿と言われるところだ。
750卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/09(木) 23:58:17.10
久留米さんも>>748を読んでください。

私は信じる信じないで片づけているのではない。
私は現代科学の説がまちがいだと「知っている」のだ。
751卑弥呼の都は久留米:2012/02/09(木) 23:58:45.11
>>748

>>744で太国氏は2倍年暦の根拠を示している。
傾聴に値する内容だ。

数年前から太国氏が何回も詳しく書いている内容だ。
752卑弥呼の都は久留米:2012/02/10(金) 00:04:18.02
>>750
>現代の科学者が推定してることがまちがいだと知っているのだ。

君の独りよがり。
現代の科学者が推定してることがまちがいだであることを証明しなければ、論として成り立たない。
753日本@名無史さん:2012/02/10(金) 01:17:34.15
久留米氏もあまり付き合わないほうが良いのでは?
754卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 09:47:25.08
神武天皇が語っているではないか、ニニギの降臨から180万年が経過した、と。

これは当たらずと雖も遠からずなのだよ。新生代の話なのだ。
アマテラスやスサノオの話は、おそらく、中生代の話なのだよ。

海幸彦、山幸彦の話は、なんとなくカインとアベルの話に似ている。
だから新生代の話なのだ。というのはカインとアベルの物語は新生代の話だから。

アマテラスとスサノオの話は、なんとなくアダムとイヴの話に似ている。
だからアマテラスとスサノオの話は中生代の話なのだ。というのはアダムとイヴの物語は中生代の話だからだ。
755日本@名無史さん:2012/02/10(金) 10:31:14.73
>年齢が100〜80歳とあり、これは当時の平均寿命からして(というか、ずっと後年でも)あり得ない
これは平均年齢の話ではないぞ。統計なんぞとっていない時代だから、平均年齢なんて分かるわけもないん
だ。長寿者の中には、8、90歳、時には100歳の者もいるというだけの話。
いつの時代だって、少しはそんな長生きの人もいるさ。
逆に50歳以上の人がまったくいないというのは、いくら古代でも不自然だろ
756太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 11:11:12.97
>問題なのは太国さんは日を挙げているが月を挙げていないということだ。
 たとえば一年が一月から六月までしかなかったと仮定して、七月以降の月が一例でもあれば太国さんの倍暦説は崩れる。

別に崩れないですよ。
欠史八代と神武の代では倍暦でもそのやり方が違います。

神武の場合は1月〜4月までを当時1年と勘定してたんですが、八代間は1ヶ月
を1日〜14日等を現今の半月ばかりを当時の1ヶ月として倍暦を編んでいたと
いうことです。崇神の場合もまた違うようです。但し神武の場合の倍暦とは、
畿内での即位から崩御までの間です。だから即位以前のときと崩御直後は通常の
暦法をやっていました。
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 11:33:23.39
>>756 続き
別に崩れないですよ。
欠史八代と神武の代では倍暦でもそのやり方が違います。

当時朝廷は倍暦をやってましたが、巷とか畿内周辺では通常暦のみをやって
ましたから、後の月があってもおかしくないです。
758日本@名無史さん:2012/02/10(金) 11:54:38.27
>八代間は1ヶ月を1日〜14日等を現今の半月ばかりを当時の1ヶ月として倍暦を編んでいたと
>いうことです。
となると、春正月、春2月ばかりでなく、秋正月、秋2月もなけりゃいかんな。
759卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 13:01:36.77
太国さんが何を言っても、倍暦なんて、ほとんどの人は信じない。
古代人はそれほど馬鹿ではない。むしろ天文に関しては現代人より進んでいた。

倍暦なんてのは、もともと、天皇などが非常識に長寿なのを、現代的に合理的に解釈しようとして生まれた仮説。
その不合理を不合理と思わずそのまま受け入れる。これが賢人の態度。

意味不明な伝説に関しても、それを現代的に合理的に解釈しようとせず、
意味不明なままに受け入れる。それが賢人というものだ。

津田左右吉などという学者は、すべてを現代的に合理的に解釈しようとして、
神武は実在しないとか、欠史八代は創作などという愚説を生み出した。

その愚説を信奉しているのが現代の学者。その学者の書いたものを読んで盲信しているのが一般大衆。
760卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 13:13:10.48
しかし津田左右吉が何を言おうが、津田の説など信じていない人はいっぱいいたわけで、
今でもまともな人は津田の説など信じてはいないのである。

ただ戦後は神話教育が否定されたので、われわれは日本神話も知らず、
縄文弥生から習い、大和朝廷は七世紀頃に誕生したなどと教えられた。

それで、ここにいる全員がそれを信じてしまっているわけである。
教育とは恐ろしいものだ。人間は猿から進化したと教えられれば、みんながそれを信じてしまうのだ。
761日本@名無史さん:2012/02/10(金) 13:27:47.91
江戸時代の契丹古伝でも明治時代の竹内文書でも超古代文書だと信じてしまうわけだw
無知とは恐ろしいものだなあwww
762卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 13:33:44.63
太国さんの挙げている「月の前半に記事が集中している」という事象についても、こういうことが考えられるのだ。
それは吉祥記事なのか、それとも不吉記事なのか、ということだ。

もし吉祥記事なら、こういうことが考えられるのだ。
つまり古代人は、新月から満月に至る期間を吉とし、満月から新月に至る期間を不吉と考えたかもしれないのだ。
それで、祝賀的行事などを月の前半に行った、と。それで月の前半に記事が集中しているのだ、と。

こういうことも考えなければいけないのだ。太国さんに更なる分析を期待する。
763卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 13:43:04.83
私は契丹古伝や浜名寛祐の説を信じているわけでも、正しいと思っているわけでもない。
有益だと思っているのだ。

それと私は竹内文書を読んだことはない。
私が書いていることは竹内文書などから得た知識ではない。
764太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 14:48:34.90
>となると、春正月、春2月ばかりでなく、秋正月、秋2月もなけりゃいかんな。

720年の書紀成立当時編者らは倍暦を知らなかったとみるべきで、秋正月、
秋2月は彼らは存在しないと観てるから、そんな記載が原書群にあって
たらその書を不採用とするか季節が間違いだろうと、春正月、春2月に
訂正すべきとして書き換えてますよ。

書紀は神武以降の年月日から始まる各冒頭文においてことごとくその殆どに
春夏秋冬を入れてるんだから、コレが後つけでないとすると当然書紀の
採用した多数の原書群も全部に春夏秋冬がそこの各箇所に入っているはず
でしょうが。ところが既存になってる各古史古伝を眺めれば、そこの各
冒頭部分にこの季語の欠落が目につきます。勿論大成経のように殆ど
入っている書もありますが、秀魔電など全部それが入っておらず抜けて
るんだから、書紀の原書群でもかなりの書が欠落してるはずだと観るのが
相当ではないですか? だから書紀の春夏秋冬は後つけなんですよ。

だから秋正月、秋2月が書紀にないのは倍暦の否定にはならないという
ことですよ。
それに雄略4年の書紀と大成経の両者の同一出来事の記事を見れば、
前者が春2月なのに後者は秋8月になってるんだから、書紀の後つけが
発覚したものなわけであり、倍暦の存在が氷山の一角の如く出現したと
いう貴重な文証です。
765太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:01:35.31
>>759
信じる信じないは倍暦の存在に関係ありません。

現実に今でもパラオで2倍暦の行使が認められ、古代マヤの
太陰暦のC文字暦が2倍暦なんだから、否定したところで、信じない者の
経験不足を露呈した行為そのものですね。
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 15:08:59.20
>賀的行事などを月の前半に行った、と。それで月の前半に記事が集中しているのだ、と

そういう傾向はありえましょうが、欠史八代の天皇全員が1日〜10日までの
月上旬に死亡してるんですよ。死亡は暗殺とか自殺以外は上旬中旬下旬とか
日数の選択はできませんよ。これは当時の1ヶ月が10日間しかない時代が
あったということですね。

天文を暦置きかえる達人の古代マヤのG文字暦(夜の魔王暦)などは、
この天皇の死亡日と似て、1ヶ月が10日間に近い9日間で行使しています。
やろうと思えば、1ヶ月が10日間と出来うるんですよ。
767卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 16:28:22.41
太国さんの倍暦説は明らかにおかしい。
欠史八代には春夏秋冬の表記がある。また一月から十二月までの表記もある。
つまり一年を二十四月としていたわけでない。ということは一ヶ月は30日くらいだったということである。

ところが太国さんは15日までの記事しかないから1ヶ月は15日だったと言っているわけだ。
そうすると1年の前半を12か月に分け、後半をまた12カ月に分けたことになるが、
そうするとたとえば前半の夏5月というのは、現代の暦でいえば3月の上旬に当たるわけだ。

いくらなんでも3月の上旬を夏とは言うまい。古代人でも季節感覚はわれわれと同じはずだ。
ゆえに太国さんの倍暦説は空想である。

ここに書いたことはやや分りにくいかもしれないが、じっくり考えてもらいたい。
768日本@名無史さん:2012/02/10(金) 16:30:48.94
>書紀の後つけが 発覚したものなわけであり、
そう、書紀の日付は全部あとづけなのだよ。その後付けをした書紀の編者らが
二倍歴を知らなかったということは、二倍歴などなかったということさ。
769太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 16:41:48.12
>ということは一ヶ月は30日くらいだったということである

1ヶ月が30日なら、当然欠史八代統計表で月後半に数字が在るはずでは
ないですか。それが無いんですよ。だから1ヶ月が14日間の月前半で
カウントしてたということですね。なると天皇の当時の寿命は現代人に
近い数字だったとなるわけで、合理的ではないですかな?

あと、季語は後つけなんだから、季語が記載どおりでないことは充分
いえますぜ。

>>768
二倍歴を知らなかったということは、二倍歴があったということさ。
770太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 16:44:36.39
>ゆえに太国さんの倍暦説は空想である。

貴方の言う当時の天皇らが数万年生きてたというほうが、よっぽど
空想でしょうが。W
771日本@名無史さん:2012/02/10(金) 16:57:47.27
当時の天皇ですか

そんなもんいねえよ

酋長にしとけよ酋長にさ
772卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 16:58:50.82
それは太国さんの詭弁であるw

季語が後付という証拠はどこにもない。

また私は天皇が数万年生きたなどとは言っていない。
ウガヤの後継者はすべてウガヤと名乗って、それが84万年続いたのだろう、と言っているのだ。
773日本@名無史さん:2012/02/10(金) 17:07:39.47
>季語は後つけなんだから、
季語だけじゃない、日付の干支も全て後付けさ。倭国には日付を書き残して
おくという習慣がなかったんだよ。
我が国で干支を使うようになったときは、当然のことながら同時に中国の暦も入っ
てきてるわけだ。だから、中国で使わない倍歴なんてものがあるわけがない。
774日本@名無史さん:2012/02/10(金) 17:37:50.00
其人壽考 或百年 或八九十年

【(魚豢)魏略曰:其俗不知正歳四節 但計春耕秋收爲年紀】


吾十有五而 志于学
三十而 立
四十而 不惑
五十而 知天命
六十而 耳順
七十而 従心所欲不踰矩


其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年

ここらへんみんな二倍暦ぽい

本気で「五十而 知天命」なら使い物にはならん罠
775日本@名無史さん:2012/02/10(金) 17:45:43.65
てゆうか倍歴を使う理由ってなんなの?
普通の暦があるのにわざわざ倍歴なんて使う訳がない
776日本@名無史さん:2012/02/10(金) 18:13:15.00
中国から暦が伝わるまで全く暦の概念がなかったってことはないだろう
それでは農業がなりたたない
日本にもストーンサークルはあるし、中国との交流以前の暦はあったはず
ただ、それを文字や図にして記録する技術が無かっただけで

そんでもって、中国から伝わった暦よりがは随分劣っていただろうから
蛮族の無知な習慣として打ち捨てられたに違いない

その失われた暦が倍暦だったかどうかなんて知る由もないがね
777太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 18:47:07.97
>>772
>季語が後付という証拠はどこにもない。

書紀の季語が後つけでないということはだ〜書紀は多数の原書群から
成ったものだから、その原書群の全てがことごとくそれらの年月日の各文
の冒頭に全部春夏秋冬の字がついていたということになる。

ところが各古史古伝にはかなり季語のついてないものが散見される。
だから当時の書紀の原書群にこういう季語のついてない書が多々在っ
たと観てよい。あなたの言い分では全部当時の古文献の各々そこのところ
に春夏秋冬がついてなければならない。

そんなはずはなかろうが・・・?w 全部ついてたと自信が持てるかね?

上の論で立派に状況証拠になりうるだろうがね。

>>743の漢書王莽伝という大陸の文献でも、元始5年というだけで、その
あとに春夏秋冬はついてにないだろうが?
778太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 18:51:51.64
>中国で使わない倍歴なんてものがあるわけがない。

史実では中国が用してた形跡は見られないが、そういう倍暦の考えを
古代中国人も持っていたぜ。
     ↓
西遊記では史実ではないが、倍暦の考えを導入している。
天上の1日は地上の1年だとなっている。

これは365倍暦を意味する。
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 19:00:26.55
>>775
動機はある。神武(とその朝廷)が倍暦を行使した動機とは、五瀬命が
名の数と同じ五月に戦死したことにある。当時は迷信は横行してただろ
うことから、神武らは相当の戦慄を覚えたのだ。それで彼ら
は五月を大凶と考え、ついでに5年、5日も同数のため当初は凶だと
想っていたと思うが、この二つは結局五瀬命の戦死には同数ながら違
うことに気づき、 5年と5日は吉だと確信するようになったのだ。
〜五月は大凶でも、5年と5日は吉と観たのである。暦では五月を
悪月というのだ。

それで神武即位5年、大陸に即位の祝いとして神武が国珍を奉じてた事が
漢書王莽伝 元始5年(=西暦5年)

 東夷王 度大海事国珍

の文にて記録となっている。

同年から5年後(皇紀29年)の西暦10年に皇子の綏靖が生まれた。さらに
綏靖が数えの5歳(皇紀42年)の時に立太子したのも、5数を年、歳では吉
と観ていたもので、誕生の偶然と兼ねて5にこだわったのだ。

倍暦計算で孝靈天皇の代が大陸の孝靈皇帝の代にほぼ相当することを確認
したが、このことから天皇の諡号を名づけた者は両者がおおむね同時代の
人物だと知悉していたものと考える。

そこで 漢書王莽伝

 元始5年5月   ・・・有 綏靖 宗廟社稷之大動・・・

とあるのは、天皇の諡号名づけ人がこの文関係を読んでいたのでは
あるまいかと想うものである。上の文は元始5年(=西暦5年)が
神武〜綏靖の相当年代(つまり実年代)だと覚知できうる文なのである。
780卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 19:15:55.94
太国どんもだんだん屁理屈を言うようになってきたなw
>>778なんて倍暦問題とは何の関係もない。
浦島太郎の話と同じで、お伽噺などによくあるパターンの話。

古史古伝なんて書紀の材料を推理する材料にはならない。
いずれも書紀より後に書かれたものだから。

大体、書紀が参考にしたと思われる文書なんて一つも残っていないのだから、
それらの文書に季語が書かれてなかったとは言えないわけだ。

とにかく季語が後付であることを証明しないかぎり、あなたの論は崩れるわけだ。
そしてそんなことは、あなたが一生研究しても証明できないことは目に見えている。

要するにあなたの言っていることは、「その可能性もある」程度のことで、
倍暦が在ったという絶対的な証拠にはならないのである。
781日本@名無史さん:2012/02/10(金) 19:27:36.44
>朝鮮馬鹿

オカルト談話は、唐松山を連れて他の板でやれ。
782日本@名無史さん:2012/02/10(金) 19:31:23.11
>>760 朝鮮
俺は神話を信じないけれど、日本神話はよく知っているよ。面白くて夢中で読んだ時期があるからね。信じられなくてもロマンだと思うよ。
第一、俺は地球は平らだと思っているのだ。地球はまーるいなんて言う奴がいるが、毎日、何万歩も歩いてみても地面は平らだもんな。ロマンだなー。
783日本@名無史さん:2012/02/10(金) 19:33:12.42

ここはオカルト板である。
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 19:41:03.15
>>780
原書群に全部ついてたとお考えなんですかな?w

古史古伝は各文冒頭についてなくてよいが、紀の原書群は全部季語が
ついてるというのは、恣意的でしょうがね?

古史古伝からこういう季語のない冒頭文がけっこうあったと観る推定は
堅いと思いますがね。

それに証明証明とほざくなら、貴方もアリランに卑弥呼がいたことを証明
しない限り、貴方の論も崩れるばかりでしょう。w

単に朝鮮人参だけじゃぁ、卑弥呼が半島にいたことにはならんでしょう
がね。

西遊記に人参果の話でも数百歳の仙童が二人いますが、これなども3倍暦
の示唆にも想えますよ。
785志紀:2012/02/10(金) 20:15:08.73
ギリシャに限らず世界各地で古代にさかのぼるほど異様な高齢の人物が存在したと記録にある。
ソクラテスはたった二人で殿となって敵軍の追撃を退けたが、その時40代半ば。ソクラテスはその豪勇でも名
高いが、いくら超人的と言っても、悲惨な敗軍に喘いだ帝国陸海軍でも徴兵されない年齢であり、かつ平均寿命
が20台前半の当時のギリシャ人の中で、70歳まで生きる事は容易ではない。プラトンに至っては80歳。
ソクラテスの没年は一応確定しているが、生年が確定していないことから、これは二倍年歴の証拠の一つとされ
ている。

786太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 20:26:09.83
>古史古伝なんて書紀の材料を推理する材料にはならない。
>いずれも書紀より後に書かれたものだから。

じゃぁ ↓ これのウガヤ朝はどこからの文なんですかな?

>732 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/09(木) 17:39:45.94
>太国どんもちっとも進歩しないなw 何回も教えてやっているのに。

>ウエツフミ、竹内文献によれば、ウガヤ朝は72代続いたわけだ。
>一方、倭姫命世記によるとウガヤ朝は84万年続いている。
>つまり、一代が一万年以上続いているのだ。

ウガヤ朝なんか、古史古伝の専売特許的ものですよ。よく古史古伝を
軽視してウエツフミとか、ウガヤ朝なんていう論を出せますなぁ〜?w

>いずれも書紀より後に書かれたものだから←これですがねぇ〜

〜稲荷山鉄剣の銘文は記紀より古いでしょうが。

「辛亥七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比垝・・・・・」

これに春夏秋冬の季語がついてますかね?w いかが〜?
ないですよ。
787卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 21:13:59.04
>>782
神話には深い真実が秘められているのです、現代人がその意味を理解できないだけで。
一度、記紀に書かれていることはすべて真実だと思って読んで下さい。
記紀を信じずに古代史を論じるということは、聖書を信じずにキリスト教について語るようなものです。
>>785
ギリシャ人の平均寿命が二十歳代なんて初耳です。それはなにかのまちがいでしょう。
>>784>>786
私がウエツフミや竹内文献や倭姫命世記を出したのは説明の便宜として出しただけで、
別に信じているわけではないのですよ。
私は別の方面の知識からニニギ降臨180万年前というのがあながちデタラメではないことを知っているのだ。

古史古伝というのは後代に一個人が?勝手に偽造したような文書が多いのだから、
そんなものと、国家事業として編纂された日本書紀を同日に論じてもらっては困るわけである。
その書紀に春3月とか夏5月などと書かれている以上、季語を後付だと断定することはできない。
788卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 22:05:18.57
太国どんは1ヶ月が15日だったと想定しているのだから、
春夏秋冬の季節と整合させるためには、
春6か月、夏6か月で1年、秋6か月、冬6か月でまた1年と数えた、と想定しなければいけない。

そうすると例えば夏十二月とか冬六月というような表記があるはずだ。
しかしそんな表記は一例もない。ゆえに倍暦などというものは空想である。
789日本@名無史さん:2012/02/10(金) 22:25:53.99

干支紀年法だすからに
790日本@名無史さん:2012/02/10(金) 22:26:52.29
元は太歳記年法だお
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 22:31:14.69

>春6か月、夏6か月で1年、秋6か月、冬6か月でまた1年と数えた、と想定しなければいけない。
これでは1/2倍暦じゃあないですか?

コチラはそんな論理ではないですよ。

>しかしそんな表記は一例もない。ゆえに倍暦などというものは空想である。
当たり前でしょうが。表記については後つけでは当然でしょう。
紀の編者らはもう720年当時、倍暦は無に帰してたんだから、そんなもの
は考慮外で、1年は365日で考えてるから当然でしょう。それで倍暦の
否定にはなりませんぜ。

あなたも現今でミニの2倍暦を使用してますね。時計を見て下さい。
12時間制と24時間制があるのはそれですよ。午後1時は13時でも同じ
ですよ。これは倍暦が空想でない動かぬ証拠ですね。
792太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 22:39:07.72
>私がウエツフミや竹内文献や倭姫命世記を出したのは説明の便宜として出しただけで、
>別に信じているわけではないのですよ。

書きこみを読んでみると、到底そのような感じには見えませんぜ。
ならもう二度と古史古伝を使わないで論をやって下さいよ。

>私は別の方面の知識からニニギ降臨180万年前というのがあながちデタラメではないことを知っているのだ

別の方面とだけでは証明と言ったお人の証明にはほど遠いですね。
自身があるなら記紀より古くなきゃ駄目だという〜関門通過できるその
知識文献をね。出せないなら、証明などとえらそうに言えないでしょうが。
793太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 22:51:49.68
>私は別の方面の知識からニニギ降臨180万年前というのがあながちデタラメではないことを知っているのだ

別の方面というと、忍日伝天孫紀、天津日嗣伝、道臣命在世紀等の
荒深道斉先生、日立道根彦先生関係ですかね?

天津日嗣伝などは、神武以前の五百余代の天皇伝を記述していますからね。
これらのことではないですかな?
794太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 23:00:11.70
そういっても、日立先生は卑弥呼が朝鮮だとは言ってなかったな?

なると他の方面か〜? 道ひらき関係者ではない別のほうか?
795卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 23:01:25.13
>>791
1/2倍暦ではありせんよ。二倍暦ですよ。とにかくあなたの論理では
春6か月、夏6か月で1年、秋6か月、冬6か月でまた1年と数えたことになるのですよ。
書紀の材料文書にもし夏十二月とか冬六月と書かれていたなら、書紀の編纂者は二倍暦だと気付くはずで、
普通の暦に換算して書き直したはずですよ。また注記でそのことを断っておくはずです。

時計で12時間制と24時間制があっても、一日は24時間として数えているのだから、
そんなことは何の根拠にもなりませんよ。

>>792
私が私の知識の源泉を明かさないのは、ここの連中の知性を信用していないからですよ。
猫に小判。馬の耳に念仏。ここの連中に高度な知識を明かすのはもったいないと思っているのですよ。
たとえば>>781のような人がいるのですから。
796太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 23:09:08.95
>書紀の編纂者は二倍暦だと気付くはずで
気づくことは薄いですよ。
なんらかの間違いだとしてボツになるか、季語だけ間違いだとして取替え
ますよ。

>そんなことは何の根拠にもなりませんよ。
何の根拠にならないなら、朝鮮人参では卑弥呼がアリランにいた根拠
にもなりませんぜ。

>私が私の知識の源泉を明かさないのは、ここの連中の知性を信用していないからですよ

それではそんなものは信用しませんぜ。
797太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 23:11:37.61
とにかくコチラの論理では
春6か月、夏6か月で1年、秋6か月、冬6か月でまた1年と数えたことになりませんぜ。
798太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/10(金) 23:20:39.77
だいぶ今宵もふけてきましたので、また明日に・・・・・。

まぁそこまでえらそうに言うなら、あなたもどのようにかを〜具体的に
編年表で出してみなさいよ。

聞いてあげるから、期待してますぜ。

それができないなら、180万年がどうのこうの主張しても、>>781氏に
ああ言われてもいたし方ないですな。w

zzzzzzzzzz・・・・・
799卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/10(金) 23:23:34.00
>>796
書紀は、不審な場合は、一書に云う、と注記するのであって、そんないいかげんな編集方針ではありまへんでw

貂皮と朝鮮人参。これはどう見ても朝鮮の産物でっせ、あんさん(爆笑)
800日本@名無史さん:2012/02/10(金) 23:38:18.98

あっはっはっはっはっは あ〜っはっはっはっはっは あ〜〜っはっはっはっはっは〜
801日本@名無史さん:2012/02/11(土) 02:29:35.23
>貂皮と朝鮮人参。これはどう見ても朝鮮の産物でっせ、あんさん(爆笑)
この当時、倭国が朝鮮のかなりの部分を支配していたことを忘れてるね。
802日本@名無史さん:2012/02/11(土) 04:36:20.92
>>795

× ここの連中に高度な知識を明かすのはもったいないと思っているのですよ。

○ ここの連中にオカルト知識を明かすと、俺様の低能がバレると思っているのですよ。
803志紀:2012/02/11(土) 08:34:14.03
>>787
ええ〜〜!! Σ(゚Д゚)ガーン

そんな初歩の初歩知らないの?
日本人なんて、縄文から室町まで14歳だよ?
それを突破できた人だけが30過ぎまで生きられる、そんな時代でずっと来たんだよ、人類は。
だから、卑弥呼が年長大とか言っても、20代後半かもね。それでもう結構なおばあさんだしw

だから古代人の年齢が異様なんだよ。
「吾れ 十有五にして学に志す。 三十にして立つ。 四十にして惑わず。 五十にし て天命を知る。
六十にして耳順がう。 七十にして心の欲する所に従って、 矩を踰えず。」の孔子とか、過酷な行
の末80で入滅した仏陀とか、109歳のデモクリトス、92歳のラムセス二世、王と言えども今日
の医療や栄養事情に比すれば遥かに悲惨な当時にあって、これをどう考えるか?

ということです。
804卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 09:09:45.23
>>801
>この当時、倭国が朝鮮のかなりの部分を支配していたことを忘れてるね。
そんな史実はありませんよ。当時の韓半島と日本の関係の実情は不明。
任那日本府とは何か、日本府がどこに在ったかさえ分かっていないのに。

>>803
そんな常識はありませんよ。君は何かいいかげんな本でも読んだのでしょう。
805日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:18:47.99
プレゼントしてきたのを

ちゅうこくにプレゼントしたのが

貂皮と朝鮮人参だろが
806日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:21:19.70
>そんな常識はありませんよ。君は何かいいかげんな本でも読んだのでしょう。

それは同意。妙な本ばかりかじり読みしてる印象しかない。
以前も古代史で不動明王語り出すしなw

807日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:51:14.21
>今日の医療や栄養事情に比すれば遥かに悲惨な当時
今の方が悲惨であるということに気づいていないらしい。
808日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:55:40.77
例えば100人の内50人は生後間も無く死亡で残り50人は50まで生きたとしたら平均寿命は25ってことになる
つまりそういうこと
809日本@名無史さん:2012/02/11(土) 10:09:56.08
弥生時代で、乳幼児死亡含めて、三十代半ばだっけ
810日本@名無史さん:2012/02/11(土) 10:18:37.50
>>この当時、倭国が朝鮮のかなりの部分を支配していたことを忘れてるね。
>そんな史実はありませんよ。
倭国王珍は、「百済、新羅、任那、秦韓、慕韓等六国諸軍事、安東大将軍」
と称している。ということは、その前からかなり朝鮮半島に勢力をのばして
いたとみるべきだ。倭王武の上表文にいう「海北を平らげること九十五国」
は四世紀から始まっていたということだろう。
811日本@名無史さん:2012/02/11(土) 12:32:48.81
とりあえず参考までにググッた物を…

http://www.city.fujiidera.lg.jp/9,1130,98,149.html
>これによると、縄紋人の15歳平均余命は、16から20年と推定されます。これを根拠に平均寿命を推測すると、20歳に達するかどうかという状況だったのです。

「平均寿命」と言う事だから
そもそも古代なんて新生児の死亡率が高く、その後の幼児期も死亡率が高かった。
(古典的人口論で言えば「多産多死」の段階)
そうやって早く死んだ人間が平均値を思いっきり下げる結果になるw

今日例えば「平均寿命70歳」と言えば大体70歳まで生きてそのあたりで死ぬ…というイメージなんだろうが
古代の場合早死にする人間と、そこそこ生きる人間の「バラツキ」が大きかったと言うことだなwwwwww
812卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 12:41:13.81
>>810
だからその倭国というのは日本ではなく、朝鮮の倭国なんですよ。
813太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/11(土) 13:47:05.03
>貂皮と朝鮮人参。これはどう見ても朝鮮の産物でっせ、あんさん(爆笑)

そんなことは何の根拠にもなりませんよ。

814志紀:2012/02/11(土) 16:23:52.52
>>8044
以下をご参考に。

ttp://2.ldblog.jp/archives/1049309.html
ttp://www.city.fujiidera.lg.jp/9,1130,98,149.html
ttp://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1615.html

どうもあなたは科学がお嫌いなようで。いや、別にいいんですがね。人好き好きだし、
それを罵倒して責めようとか思ってないですし。
でも、そんなんじゃ合理的な議論や論証は無理じゃないかな?

>>806
お前は死ねよ。クズ。
「旅行で行った」って文字列も読めないメクラ。
ttp://washimo-web.jp/Trip/Kumano/kumano.htm
ttp://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/kumanom/kumanom.htm
ttp://www.e-obs.com/rekisi/kodai/sousetu/sousetu3-2-2.htm

お前にレスなんて口が穢れるわ。
キチガイは死ね。
815卑弥呼の都は久留米:2012/02/11(土) 16:44:53.74
七五三で子供の成長を氏神に参って祝う風習がある。
これは大部分の子供が6歳の誕生日を迎えるまでに死んでいたのだ。
乳幼児が高い死亡率であるので、成人の死亡平均年齢が50歳であっても、
平均寿命は20歳前後になる。

立志は15歳
2倍年暦で15歳は、満6歳。
満6歳は、子供の生き方の方向を決め(立志)、その教育が始まる年齢だ。
少年は12歳位から独立し始める。
816日本@名無史さん:2012/02/11(土) 17:40:14.07
>>812
>朝鮮の倭国なんですよ。
韓伝に倭国はなかったよ。
817日本@名無史さん:2012/02/11(土) 17:51:13.58
朝鮮最古の国史、三国史記には倭人が朝鮮を古来から支配していたこと、
隋書にも同様の記載があることから倭人が朝鮮南部を中心に支配していた。
818日本@名無史さん:2012/02/11(土) 17:53:41.74
朝鮮は日本の家来である
819俾彌孤:2012/02/11(土) 17:57:17.94
卑彌呼は明帝の義理の娘である
820日本@名無史さん:2012/02/11(土) 17:59:09.11
邪馬台国は八幡国(やはたこく)。
当然福岡でしょうね。
821俾彌孤:2012/02/11(土) 18:00:05.72
狗邪韓國は女王境界の内側にあり半島の南岸にあります

血分けた女酋長さんとかがいても別に不思議ではありません
822俾彌孤:2012/02/11(土) 18:09:02.46
半島の南岸は倭地であるわけですが

陳壽さんは狗邪韓國しか書いてくれていません

書いていないから存在しないと断定するとゆうのは論理的にはおかしいのです

書いていないとゆうことは

あるかもしれないしないかもしれないとゆうことです

記録の残存するのは氷山の一角とゆうのはよくあることです。

いちおうあるかもしれないのケースは不定として保留しておいてあげると

あとから豆鉄砲くらうとゆうのは防げたりします
823卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 18:33:23.94
>>814
こんなのは嘘ですよ。どこにも根拠が示されていない。
江戸時代の平均寿命が30歳なんてのも嘘に決まってますよ。
こんなのはただの学説です。学者というものはいいかげんなことを言うのです。
もちろん君が何を信じようと君の自由ですが。

>>816
陳寿は韓は南で倭と接すと書いてますよ。弁辰のトクロ国は南で倭と界を接すとも書いている。
ただ陳寿はその朝鮮の倭国については詳しくは知らなかったのでしょう。
あるいは倭人伝で傍国の二十一国となっているのが、朝鮮の倭国なのかもしれませんよ。

韓国の前方後円墳の位置を図像で調べてみて下さい。全羅南道と慶尚南道などにあります。
この二道だけで九州の半分より広い。そこに倭の国々が 二十一国くらいあっても不思議ではない。
824俾彌孤:2012/02/11(土) 18:42:42.46
倭系のDNAもったひとが韓地に広範に分布していたとゆうのは読み取り上否定しがたいし

その倭系のDNAもったひとが奴婢でこき使われていたりするケースも皆無だとかはいいきれないよな

古墳とか残ってるつうことは奴婢でこき使われていたりするケースとは相当な隔たりだけどもね
825卑弥呼の都は久留米:2012/02/11(土) 18:55:10.96
>>816
>>812
>だからその倭国というのは日本ではなく、朝鮮の倭国なんですよ。
>朝鮮の倭国なんですよ。
>韓伝に倭国はなかったよ。

>>822
その通り。

半島韓地に在ったのは「倭國」ではなく「倭」である。
その国名は「○○韓國」「□□韓國」etc.  ex.狗邪韓國
○○、□□等は省略して、単に「暦韓國」と書いてある。

>>823
>韓国の前方後円墳の位置を図像で調べてみて下さい。全羅南道と慶尚南道などにあります。
>この二道だけで九州の半分より広い。そこに倭の国々が 二十一国くらいあっても不思議ではない。

其処に在ったのは「暦韓國」と書かれている、○○、□□等を省略した諸韓國であって二十一国ではない。
826卑弥呼の都は久留米:2012/02/11(土) 18:58:50.19
>>824
>倭系のDNAもったひとが韓地に広範に分布していたとゆうのは読み取り上否定しがたいし

倭系のDNAもったひとこそ、韓地の倭(倭人)。
827俾彌孤:2012/02/11(土) 19:01:05.78
狗邪韓國におわします酋長のかたのお名前は

官ので倭人傳のにあるみたいでし

彌馬(みま)升 彌馬(みま)獲支 だとはおもふよ

任那は彌馬(みま)那で

卑弥呼たんのときからの呼称だろ
828俾彌孤:2012/02/11(土) 19:05:48.28
韓地に住んでいる人は分類上は韓人で良いかとはおもふが

倭系のDNAとかカルチャーだとかもっていても韓人で良いかとはおもふが

たんなる符丁じゃからして
829卑弥呼の都は久留米:2012/02/11(土) 19:13:39.14
>>820
>邪馬台国は八幡国(やはたこく)。
>当然福岡でしょうね。

「好古都國」を博多とする説もあるよ。

唯、「好」を3世紀の中原の発音で「ハ」と発音したかどうかだけれど。
830卑弥呼の都は久留米:2012/02/11(土) 19:22:59.45
>>828
三種の韓人でも、馬韓、弁韓、辰韓(弁辰)と分類している。
三種の韓人と倭人では言葉が異なるから別に分類しなければならない。
831俾彌孤:2012/02/11(土) 19:28:47.31
弁辰 合二十四國

辰韓は吸い取られちゃって無いみたいですよ

魏の占領後のことでしょうがね
832卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/11(土) 19:30:44.94
>彌馬(みま)升 彌馬(みま)獲支 だとはおもふよ
>任那は彌馬(みま)那で

これは意外と深いんじゃないだろうか。
俾彌孤クン、久々のヒット。
833日本@名無史さん:2012/02/11(土) 19:37:17.76
海峡はさんでその南北両岸に勢力はるところのあま海賊酋長だものそんなのとうぜんだろ
834俾彌孤:2012/02/11(土) 19:45:49.61
伊都國(いつこく) 官曰爾支(いし)

このあたりもメモしとくのが良いかとはおもふが のちのちのためにさ

繼體紀のだけど

百濟本記云、委意斯移麻岐彌

         いいしいまきみ  のがほんとう

ここのは「おし」で読むように強制されていたりするのね
835日本@名無史さん:2012/02/11(土) 19:48:14.55
美馬だと四国になっちゃうよw
しかも丹の山の横だし。
836日本@名無史さん:2012/02/11(土) 20:21:04.79
トンデモはいくら集まってもトンデモだ。
837俾彌孤:2012/02/11(土) 20:21:19.47
彌馬那國 上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁 四縣  

哆唎國守 穂積臣押山
國守はへんだろ ここは 哆唎縣主

「穂積臣押山」のは読み指定ので汚染されちょるのな
「穂積臣石山」
 「いしやま」ので良し。

筑紫国造のは「磐井」(いしい)


そすると 「異斯夫」まであやしくなるよね

このひとのは 別名が「瓢公」でねえの

新羅の『脱解王』は倭の多婆那国から(以下略)
838筑紫次郎:2012/02/12(日) 15:01:48.36
俾彌孤はもしかしたら中国人?
もしもそうなら
倭人伝の解釈の質問に応えてほしい。

とりあえず
正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦?刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩
はどう訳すべき?

賜金帛錦……の賜の主語は梯儁等ではないのだから

正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔

賜金帛錦?刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩
は次のように別の文だと考えているのですが。


(正始元年、太守弓遵が派遣した建中校尉梯儁等は、この詔書と印綬を倭国へ持って行き倭王に授、併せて詔をもたらした。)
(詔書と金・白絹・綿・刀・鏡などの品物を賜り、倭王は使者に上表文を託して詔への答礼の謝辞をのべた。)


よろしくね。
839筑紫次郎:2012/02/12(日) 15:05:44.79
(詔書と金・白絹・綿・刀・鏡などの品物を賜り、倭王は使者に上表文を託して詔への答礼の謝辞をのべた。)

↓↓↓訂正

(金・白絹・綿・刀・鏡などの品物を賜り、倭王は使者に上表文を託して詔の恩に対して答礼の謝辞をのべた。)
840日本@名無史さん:2012/02/12(日) 16:18:45.16
賜は「たまわり」と読んではもらうという意味になってしまう。
「たまい」で与える意味だろう。
841俾彌孤:2012/02/12(日) 16:28:59.36
ちゅうこくのひととかでないけど ふつうによんでよいだろ

正始元年(240)
(帶方)太守弓遵遣建忠校尉梯儁等 奉詔書・印綬 詣倭國
拜假倭王 并 齎詔 賜金・帛・錦罽・刀・鏡・采物
倭王因使上表答謝恩詔


其年(238)十二月 詔書報倭女王曰:「
(略)今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝
(略)今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬 引見勞賜遣還
今以絳地交龍錦五匹(略)銅鏡百枚 眞珠・鉛丹各五十斤 皆裝封 付難升米・牛利 還到録受(略)」

難升米・牛利は現地で率善中郎將・率善校尉に任官されて銀印青綬getでプレゼントの目録貰って先に帰った

明帝の代理が帶方太守弓遵で 帶方太守の代理が建忠校尉梯儁で良いだろ

裝封されたプレゼントとかはんことか運んできたのは梯儁さんたちだろ

でもさ

建忠校尉梯儁さんのお仕事は偉ぶって読んで聞かせるとゆうのでは無いのな

「拜假」とゆうのは「天」の関与の元になされるわけで

「親魏倭王」の任官にはセレモニーが欠かせない

義理の親子になるためのセレモニーですね

建忠校尉梯儁さんの一番大切なお仕事はセレモニーの立会人なんだろうなっておもふよ
842筑紫次郎:2012/02/12(日) 16:39:24.61
>>841
>難升米・牛利は現地で率善中郎將・率善校尉に任官されて銀印青綬getでプレゼントの目録貰って先に帰った
>裝封されたプレゼントとかはんことか運んできたのは梯儁さんたちだろ

〜銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤皆装封付難升米牛利
(〜銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤、全部包装して難升米牛利に託する)
とあるから、品物持ち帰ったのは難升米牛利のはず。

>ちゅうこくのひととかでないけど ふつうによんでよいだろ

ちゅうこくのひととかでないなら話は終わりです。
謝謝‥。
843俾彌孤:2012/02/12(日) 16:52:41.90
あちゃあ

× プレゼントの目録
○ プレゼントと目録 だよな

そらへんだけのおないでなおしておいてね
844俾彌孤:2012/02/12(日) 17:06:58.29
てかさ 賜金・帛・錦罽・刀・鏡・采物 のの真の主語は明帝さんにきまるだろ

「録受」ってやっぱ「目録」貰って手ぶらで帰ったのかもな しらんけど
845俾彌孤:2012/02/12(日) 17:12:05.79
持ち帰ったけど開封しないで梯儁さんが来るまでおあずけわんわんとゆうストーリーとかもあるけどね
846俾彌孤:2012/02/12(日) 17:20:36.42
あちゃあ 「録受」って切るとこちゃったんだわね

もれののは白文だから ごめんですねえ
847日本@名無史さん:2012/02/12(日) 20:33:05.38
>>838
拜假倭王并齎詔賜金帛錦?刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩

倭王のつぎの并がぬけてたよ。
金帛錦?刀鏡采をちょっと抜いて考えて見ると。
「齎詔賜物  詔と賜物をもたらす」
となることがわかる。だから、

倭王を拝假し、并(あ)わせて詔と賜いし金帛錦?刀鏡采物を齎す。
倭王は使いに因りて上表し詔恩に答謝す。
848筑紫次郎:2012/02/13(月) 00:01:39.68
>>847
>并(あ)わせて詔と賜いし金帛錦?刀鏡采物を齎す。
>「齎詔賜物  詔と賜物をもたらす」
となることがわかる。だから、
倭王を拝假し、并(あ)わせて詔と賜いし金帛錦?刀鏡采物を齎す。

ある中国人学者もそのように解釈してたようです。

しかし
…銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤皆装封付難升米牛利
(…銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤、全部包装して難升米牛利に託する)
とあるから
賜物は難升米牛利が持ってきた物であり
梯儁等が持参してもたらした物ではない。
とすれば
詔書印綬を倭王に拜假した(皇帝の代理として授けた)梯儁等が
併せてもたらしたのは詔(詔書の他に詔)だけではないのかと疑問が残ります。

だから
梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦?刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩

(梯儁等は詔書印綬を奉じて倭国へ詣で皇帝の代理として授け、併せて詔をもたらした。
皇帝から金帛錦?刀鏡采物を賜った倭王は勅使に上表文を託して詔恩に対して答礼の謝辞をのべた。)
と訳せないかを知りたかっただけです。

今ここで結論を出すつもりはありませんので話はここで終了します。
849日本@名無史さん:2012/02/13(月) 01:07:01.50
>>848
終了とのことですが、少し補足いたします。

「皇帝から金帛錦?刀鏡采物を賜った倭王は」

この日本語文は、主語である「倭王」を「皇帝から金帛錦?刀鏡采物を賜った」という句が修飾しています。

漢文「賜金帛錦?刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩」の方の構成を貴方の御考えに沿ってみると、

「賜りし金帛錦?刀鏡采物 倭王は使いに因りて上表し詔恩に答謝す」で、
「賜りし金帛錦?刀鏡采物」は名詞句ですが、倭王を修飾しておらず、
「賜った倭王」のような関係にはありません。
倭王以下の部分のどこにも掛かりません。
ならば大主語あるいは提示部である可能性を考えて見ると、
倭王以下の部分は、「倭王が皇帝に答謝した」というだけで
賜り物について言及しているわけではないので、
「賜金帛錦?刀鏡采物」が大主語あるいは提示部というわけでもありません。
ということで、そのように読むことはできないと思います。
850日本@名無史さん:2012/02/13(月) 01:52:26.64
「齎詔」によって目前にある「金・帛・錦罽・刀・鏡・采物」の由来証明がなされる

本当に明帝が「賜」したものであると。
851筑紫次郎:2012/02/13(月) 07:42:46.28
>>849
>「賜りし金帛錦?刀鏡采物 倭王は使いに因りて上表し詔恩に答謝す」で、
「賜りし金帛錦?刀鏡采物」は名詞句ですが、

学研漢和大辞典には
{動詞}たまう
{動詞}たまわる
{名詞}たまもの。いただきもの。恵み。おかげ。
と言う意味があり、賜ると言う意味もあります。

≪賜りし金帛錦?刀鏡采物≫や
≪詔で賜うた金帛錦?刀鏡采物≫
ではなく
≪金帛錦?刀鏡采物を賜って≫ と解釈できるのではないかと考えて
漢文に精通しているはずの中国人に質問したかったのです。
852日本@名無史さん:2012/02/13(月) 11:53:12.79
>>836
だな。近畿説とかただのゾンビ説だもんな。
853卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/13(月) 17:20:46.25
どうでもよいことだが、

因使上表

これを、使いに因りて上表し、と読んでいるようだが、
よって使いに上表し、と読むべきではないのか。
854日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:36:01.17
朝鮮から来て北九州を征服して作ったのが邪馬台国、さらに近畿まで遠征して作ったのが大和王朝。この歴史的事実は両地域に朝鮮人が多いことからも明らか。
855日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:52:50.01
>>853

> 因使上表
>
> これを、使いに因りて上表し、と読んでいるようだが、
> よって使いに上表し、と読むべきではないのか。

本来は書面による上表を口述で行ったと言うことだろう。
上表とは君主に対して行うもの、使い(魏の使者)相手に上表は有り得ない。
856日本@名無史さん:2012/02/13(月) 21:52:00.09
>>853
上表する相手は上表という動詞の後におかれる。
つまり、上表使。
日本語の語順じゃなくて、英語と同じ、主語・動詞・目的語の語順。
857鶴の矯正:2012/02/13(月) 22:48:52.94
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王。
并齎詔賜、金帛、錦罽、刀、鏡、采物。倭王、因使上表答謝恩詔。

正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣(いた)り、
倭王に拝假す。并びに詔をもたらして金帛、錦罽、刀、鏡、采物を賜(おく)る。
倭王、使に因りて上表し、詔恩に答えて謝す。

正始元年、帯方郡太守の弓遵が、建中校尉の梯儁等を遣わして、
詔書・印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝假す。
併せて(別途に)詔をもたらし、金帛、錦罽、刀、鏡、采物を賜(おく)った。
倭王は、使節に委ねた上表書で、詔恩に答えて謝す。

※ここにある詔とは、明帝の詔書とは別途に斉王芳のメセージである。
※金帛、錦罽、刀、鏡、采物は、難升米たちが持ち帰った明帝の贈り物とは別途に、
斉王芳が贈った挨拶の品である。(明帝の詔書にある品物とは品目も異なる)。
※「上表」とは天子に文書で上告すること。

この解釈は卑弥呼の朝献年を「景初2年」としないとなり立たない。これが正解。
ここもネタ切れで閑古鳥だから、これをネタに、
「ああでもない・こうでもない」と、ひとしきり騒ぐといい。
858鶴の矯正:2012/02/13(月) 23:17:25.07
詔書にある魏の贈答品目。
・倭国には、絳地交龍の錦、絳地縐粟の罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹。
・卑弥呼には、紺地句紋の錦3匹、細斑の華罽5張、白絹50匹、金8両、5尺刀二振り、
銅鏡100枚、真珠と鉛丹おのおの50斤。

この品目序列をみると、決していい加減な序列で書かれているのではなく、
貴重なもの高価なものから順に書いている。
たとえば品目のトップにある絳地交龍錦。
これはたぶん、赤地の龍がからみ合った錦の図柄の正装礼服(袞竜衣)だろう。
この絳地交龍の錦は、王朝ご用達の品目の中でも格が違っている。

ところが、正始元年の贈り物は「金帛、錦罽、刀、鏡、釆物」で、
詔書にある皇帝の贈答品目とは内容も序列も異なる。
しかも、詔書にある蒨絳、紺青、真珠、鉛丹が抜けて、采物が加わっている。

※釆物
身分や資格権限に応じて身につけるものから衣服や軍旗までランクがある。
衣服や軍旗はそれぞれに絵柄や彩色によってランク分けされる。
ここでいう釆物とは、倭王の戦時支度(衣装や陣営旗)などだろう。
859卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/14(火) 10:35:40.43
>>858
伊作氏らしい深読みが見られる投稿である。
釆物とは何かは知らないが、倭王の戦時支度(衣装や陣営旗)というのは深読みのし過ぎだろう。

采物とは、色とりどりの美しい物、あるいは単に、さまざまな物、の意ではあるまいか。
860矢部川:2012/02/14(火) 17:10:49.30
>※金帛、錦罽、刀、鏡、采物は、難升米たちが持ち帰った明帝の贈り物とは別途に、
斉王芳が贈った挨拶の品である。(明帝の詔書にある品物とは品目も異なる)。

堂でも良いですけど
水行1日=千里とか
何でこんな馬鹿な事を言うのでしょうかね。
861日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:07:35.29
古田説の「水行十日陸行一月は郡から邪馬壹国までの日程、陸行一月は韓地内日程」との違いを出すためでしょう。
862日本@名無史さん:2012/02/14(火) 18:13:48.66
古田氏の著書は読んでいないと言っていたが、あれは嘘だろ。
水行十日陸行一月も里の6.5倍(1/6.5)も古田説の焼き直しだもんな。
863志紀:2012/02/14(火) 21:29:01.25
だよなあ。だって、自分で「俺は古田説とは違う。独自にこの結論に至った。」とか言ってたし。
知らないのに違うとか同じとかないわw
864鶴のお返し:2012/02/14(火) 22:23:46.55
もう、追っかけがウンコようについてくたようだな。

>>861 >>862 >>863 
82にいれば、読んでなくても詳しくなるぜ。
お前たちは、古田説をどの程度知っているのか?

この天才説との違いも把握できていないのに軽々にいうな。
水行十日陸行一月も里の6.5倍(1/6.5)も古田説とはコンポン的に違うぜ。
一緒されちゃ俺の沽券にかかわる。
「俺は古田説とは違う。独自にこの結論に至った」
ほれ。確認しろ。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/c/a97f58d1dfdb8e1c04a3cce328d53de9
865日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:27:44.77
学術的な研究を行うときには先ず文献調査を行うのが常道だそうだ。
折角研究しても先行する文献があって自分の研究手法や結論と同じことが書かれていたら発表しても
何の価値もないし、学術誌だとまず却下される。
また、論文を書く場合はテーマに関する既往の研究について紹介、概説し、何故自分がこの研究を行ったか
を序論において述べる。これは研究者として当然のマナーでもある。
そういう観点からすれば、伊作氏の著書は学術書の範疇には入らない。小説あるいは一般大衆的読み物である。
866鶴のお返し:2012/02/14(火) 22:36:21.17
陸路の距離尺度と海路の距離尺度については何度も提示したからいいだろう。

水行十日と陸行一月の天才独自の読みに至る論考だ。
「陰口大会」のような掲示板とは違って、
表社会では立派に通用する新説だ。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/93c5ec5d3a97a19b698c4e1fd6342eda
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/6047561c514eec09a8da58fb21b9f56c

依拠資料と論拠のどこか古田と同じ所があるか?
その証拠あげて証明してからほざけ。できるならやれ。

やっかみ心理丸出しで不当な陰口を叩く小ものども。
867日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:37:17.62
>82にいれば、読んでなくても詳しくなるぜ。

82に書き込まれたものからの知識で古田説を批判するのは軽卒だな。
最低でも書き込みの真偽を確認するために古田氏の著書を読むことはやらなければいけない。
それさえしなかったと言うなら何をか言わんやだ。

868鶴のお返し:2012/02/14(火) 22:47:07.46
>>865
>伊作氏の著書は学術書の範疇には入らない。
当然だ。俺ははじめから学術書のつもりでは書いていない。

学者が外野の論説など評価することはない。
すぐれたものでも得意の黙殺でメンツを保とうとする。
これまでの経過みれば明白だ。
そんなことも知らず、利口ぶってバカげたこというな。
知ったふりしてるつもりだろうが、
お前の思慮の浅さとバカさ加減とが露呈しただけだ。失笑

俺は外野の自由な立場で、借り物の言葉じゃない自分の言葉で、
一般向けに自由に発言することを旨としている。
これが俺のスタンスだ。
みのほども知らずじゃあるまいし、学界を意識したことなどないぜ。さんぴん

>小説あるいは一般大衆的読み物である。
それがどうした。
利口ぶるのは沢山だから、
自分で「小説や大衆的読み物とは違う学術書」を書いてみせろ。
まとまった論の一つも構築する能がないから、
こんなところで断片的に衒学してる気で自己満足してるんだろが。

クズ
869日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:51:34.04
>依拠資料と論拠のどこか古田と同じ所があるか?

そんなことは問題ではない。
「水行十日陸行一月」を郡から邪馬台国までの日程とするアイデア と
倭人伝の里を魏の公式尺度による里の約1/6の70m前後とするアイデア
があなたより先に古田氏によって出されていることが問題なのである。

同じアイデアでも違った根拠で述べることは可能である。
古田氏の根拠はかくかくしかじかだが自分の根拠はこうこうであると述べればよい。
先人の業績を否定して自分が正しいと言うような態度はよろしくない。
人間として守るべき節度というものがある。
870鶴のお返し:2012/02/14(火) 22:51:59.85
>>867
>82に書き込まれたものからの知識で古田説を批判するのは軽卒だな。

ああいえばこういう。ただの掛け合いだろ。
そういうお前こそ、俺が提示したページを読んでいってるじゃあるまい。
勝手な憶測で書いてるだろ。な

「82にいれば、読んでなくても詳しくなるぜ」。
>最低でも書き込みの真偽を確認するために
お前らみたいに、他人の発言を誤解したり、
認識不足の上に批判してるか。あればそれを指摘してみろ。

まったく、口先だけ達者な野郎どもだぜ。
871日本@名無史さん:2012/02/14(火) 22:57:24.23
古田のアイデアを拝借してモデイファイしただけだろ。
アリバイ作りに古田の著書は読んでいないと触れ回ったのはバレバレだ。
872日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:00:36.52
要するに、古田先生も、伊作氏も、
東夷で使用されたであろう里程を追っている。

同じ物を追っているのだから、結果が同じなのは当然。

伊作氏が別の根拠から推測したとすれば、
短里の新たな根拠を見付け出したのかもしれない。

しかし短里の提唱者は先に出した方である。
873日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:02:26.41
>>最低でも書き込みの真偽を確認するために
>お前らみたいに、他人の発言を誤解したり、
>認識不足の上に批判してるか。あればそれを指摘してみろ。

古田氏の著書を読んでいるんだろ?
874鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:06:21.21
>>869  >そんなことは問題ではない。
論拠が違って結果が似ているとすれば、どっちの論拠が正しいかが問題になる。
おかしな論拠によっている説はボツだ。なぜならば、こういう作業に「結果オーライ」はない。

>>「水行十日陸行一月」を郡から邪馬台国までの日程とするアイデア
なーにがアイデアだバカ野郎。じゃ続け読みもアイデアか。
俺のは独自の明確に理由がある。
倭人伝を読めば誰もが考える一つの方法だ。古田の手柄ではない。
まして、「郡から邪馬台国までの日程」とする説は古田が先駆ではない。
こんなのを古田の説だというところが古田シンパのさもしさだ。

>倭人伝の里を魏の公式尺度による里の約1/6の70m前後とするアイデア
何度も述べたが、古田とは論拠が違う。
まして、古田は俺の論拠とする材料も「短里」としている。

>あなたより先に古田氏によって出されていることが問題なのである。
まったく違う説だ。そうやって俺説を古田説に取り込もうとするのが前にもいたぞ。

>同じアイデアでも違った根拠で述べることは可能である。
詭弁だ。どっちの論拠が正しいか。なおかしな論拠によっている説はボツだ。
俺の論拠には是隊の自信と確信がある。古田の論拠批判は先に提示したページにある。

>古田氏の根拠はかくかくしかじかだが自分の根拠はこうこうであると述べればよい。
無礼だぞ。てめえなどにいわれるまでもなくそうしてるが、読まずにほざくな。

>先人の業績を否定して自分が正しいと言うような態度はよろしくない。
古田は俺にとって先人ではない。 「悪しき前例」だ。

>人間として守るべき節度というものがある。
節度のある正統な批判によって古田的手法批判している。みれ
875日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:12:20.60
ふと思ったのだが、伊作氏が短里という言葉を使用せずに、
1/6.5という表現をするのは、一日千里の絡みからなのかな、と思う。

一日千里は、公理であれば確かに現実離れした数値になり、
距離に関係なく、一日の航海距離を、どんなに千里とかけ離れてても千里といった、
という理屈の根拠になりうるからである。

しかし、これは1/6.5とすれば、「里「という言葉がつかないが、
短里としてしまえば、その数値に「里」がついてしまう。

短里を使用すれば幅はあるが、それほどかけ離れた数値、
という程でもない数値になる。
つまり、かけ離れていないから、一日千里なのか、
実距離千里なのかが区別できない。
876鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:15:43.24
さもしい邪推野郎ども。

>>871
>古田のアイデアを拝借してモデイファイしただけだろ。
>アリバイ作りに古田の著書は読んでいないと触れ回ったのはバレバレだ。
ゴマめの邪推。俺の説と古田説を非比較検討してのことか。外道

>>872
>東夷で使用されたであろう里程を追っている。
論拠が違う。質が違う。本質的には別ものだ。

>伊作氏が別の根拠から推測したとすれば、
短里の新たな根拠を見付け出したのかもしれない。
「短里」という言葉と概念がそもそも造作だろ。
一緒にするな。

>短里の提唱者は先に出した方である。
俺は「短里の提唱者」ではない。

>>873
>古田氏の著書を読んでいるんだろ?
卑しいやろうだぜ。俺がウソをいう人間でないことは82でも通っている。
82には、名うての古田批判者がいる。おそらくは日本一の古田説批判者だ。
素人では日本一の文献研究者でもある。
そいつが、俺が古田本よんでいないことは一番良く分かっている。
こういうことには証人がいるんだ。タコ
877鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:21:53.11
>>875
>1/6.5という表現をするのは、一日千里の絡みからなのかな、と思う。

またひとり。俺の論旨を誤解しておいて、その誤解に基づいて
分かったような能書きを垂れるバカがあらわれた。

@陸地距離尺度は6〜6.5倍で書かれている。
A海路距離は「1日航海1000里」「1航海1000里」という「表記法をとっている」。
(1日1000単位の表記法で、1000里とあれば1日航海を意味する)

これをしっかり理解して認識して分別して、もう一度能書きを書き直せ。
878日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:23:50.20
>>877

しかし7000里表記の航海を7日では行けない。
879鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:26:03.93
「古田」という文字が板に出るだけで、
古田シンパらしいのがドッとやってくるようだな。

俺の古田批判じゃ不満足なら、
82にいる名うての古田批判者のことを教えるぜ。
そいつの古田説批判は有名だ。サイトもある。
880日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:26:53.79
>>877
>@陸地距離尺度は6〜6.5倍で書かれている。
>A海路距離は「1日航海1000里」「1航海1000里」という「表記法をとっている」。
>(1日1000単位の表記法で、1000里とあれば1日航海を意味する)

@はありふれた短里。
Aは七千里と書かれた実質800kmを
当時の船で7日では移動できない。
881鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:34:05.46
>>878
>しかし7000里表記の航海を7日では行けない。
無視してりゃ・しつこいキチ害やろうだな。ここまで追っかけてくるか。

白村江の戦いのとき、大和から5000の援軍を派遣したが、
そのときの手漕ぎ倭船による日程が、
大和から白村江まで「2週間」だったという。
(前回1週間と書いたかも知れないがそれは手違い)

魏の櫂つき帆つき楼船の日程と比較してみて不可能てか。タコ
1日に何ノットだの・1日に何キロだのと、
みてきたような机上計算では否定しようのない事実だ。

わかったらとっとと消えろ。
882鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:41:35.30
>>880
>@はありふれた短里。
古田の短里説とは依拠する資料も論拠も異なる。
こっちは明らかな事実を根拠に割り出している。
誰も異論を唱えないほどに明確かつ確かな論拠だ。すでに説明済み。

Aは七千里と書かれた実質800kmを 当時の船で7日では移動できない。
念仏みたいな投稿はもういい。「移動できない」という理由は何だ。
大和から白村江まで実質何キロだ。ん? それも2週間では移動できないてか?

納得のいく返答できなかったら・そのまま消えろ。
883鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:43:34.13
………それにしても。
俺が行くところには板ゴミと板乞食がよく集まる。
884日本@名無史さん:2012/02/14(火) 23:55:50.18
>大和から白村江まで「2週間」だったという。

そのことが述べられている文献を示してもらわないと判断のしようがないのだが。
885日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:01:15.81
>A海路距離は「1日航海1000里」「1航海1000里」という「表記法をとっている」。
>(1日1000単位の表記法で、1000里とあれば1日航海を意味する)

それは伊作の思い込みに過ぎない。
文献には水行については百里単位、千里単位で里数表記されている例がある。又、日数で表記されている例がある。
しかし、日数と里数の関係を示す例は皆無である。
886日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:02:20.46
>俺が行くところには板ゴミと板乞食がよく集まる。

類は友を呼ぶだな。
887日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:16:44.92
ゴミとそれに集る蠅の関係だなw
888日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:37:10.06
ゴミが集まる人格のことを、
中国風に言えば、「徳がない」、という。
889日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:38:20.07
ついでに、ハエすらも寄らない人格、と言うのもある。
890日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:39:49.60
>>874 :鶴のお返し:2012/02/14(火) 23:06:21.21
>>>「水行十日陸行一月」を郡から邪馬台国までの日程とするアイデア
>なーにがアイデアだバカ野郎。じゃ続け読みもアイデアか。
>俺のは独自の明確に理由がある。
>倭人伝を読めば誰もが考える一つの方法だ。古田の手柄ではない。
>まして、「郡から邪馬台国までの日程」とする説は古田が先駆ではない。
>こんなのを古田の説だというところが古田シンパのさもしさだ。

アイデア(idea) は考え、意見、見解という意味であるが、お前はどういう意味にとっているのだ?
「「郡から邪馬台国までの日程」とする説は古田が先駆ではない。」って誰が古田が最初に提唱したと言ったか?
お前より前にあの見解を出していると言っているのだ。まあ、その意味ではお前の先駆と言ってもいいがな。
891日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:42:49.38
伊作は嫌われているなあ。
892鶴のお返し:2012/02/15(水) 00:45:03.42

>>884
>文献を示してもらわないと判断のしようがないのだが。
おしえない。消えろ。

>>885
>百里単位
ごく稀な例で目測可能な距離な。

>千里単位で里数表記されている例がある。日数で表記されている例がある。
千里単位か日数単位で表記するしかないから。

>日数と里数の関係を示す例は皆無である。
千里単位表記と日数単位表記は同じ表記法だ。
1000里が1日で、1日が1000里ということだ。

>>886
>類は友を呼ぶだな。
お前も類か友というわけだ。
他人を卑下したつもりが、自分もその一人という・お粗末。

>>887
>ゴミとそれに集る蠅の関係だなw
お前がその代表だ。
893日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:48:04.61
嫌われている理由も分かっていない。
自分が正論を言うから嫌われると主張する。
正論を嫌う者は少ないだろう。自分が一番と思っている尊大さが嫌われるのだ。
894日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:49:39.27
>>884
>文献を示してもらわないと判断のしようがないのだが。
>おしえない。消えろ。

>>881の捏造宣言か?
895鶴のお返し:2012/02/15(水) 00:51:37.95
>>890
>誰が古田が最初に提唱したと言ったか?
ぬぁー!? 
じゃなんで古田を持ち出すんだ・バカ野郎。
俺にとっての古田説は、「悪しき手法の前例」として批判の対象でしかないぜ。

>お前より前にあの見解を出していると言っているのだ。
それなのに「お前より古田が先」に何の意味があるんだ。

>まあ、その意味ではお前の先駆と言ってもいいがな。
ものの道理がまるで分かってない。
896日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:52:22.71
>>884
>>文献を示してもらわないと判断のしようがないのだが。
>おしえない。消えろ。

こいつは本物のアホだ。都合の悪い指摘に答えられないで言う文句がこれじゃね。小者だね。
897日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:55:36.04
>俺にとっての古田説は、「悪しき手法の前例」として批判の対象でしかないぜ。

お前の度量が狭いからだ。
898鶴のお返し:2012/02/15(水) 00:59:06.25
●よう板乞食ども●
何だかんだと俺の人気につきまとって日ゼニ稼ぎか。
俺が来るまではここも閑古鳥だったんだぜ。
ほれ。てめえで人を集める才もなれば魅力があるわけでもなく、
他人によりすがってるゴミクズどもが。ざまーねーな。

>>888 名前:日本@名無史さん :2012/02/15(水) 00:37:10.06
>ゴミが集まる人格のことを、
お前らゴミの人格は何というんだ?

>>889
>ついでに、ハエすらも寄らない人格、と言うのもある。
お前ら銀蝿とゴミによりすがられて・追っかけられて。
人気者も大変だぜ。

>>891
>伊作は嫌われているなあ。
最初からはっきりしてることだ。
てめえらに好かれようなどとは思っちゃいない。

>>893
>嫌われている理由も分かっていない。
わかってる。十分に。
嫌われているといいながら、お前らがたかってくる理由もわかってる。
お前らが卑しいからだ。
899日本@名無史さん:2012/02/15(水) 01:03:45.27
伊作というアホを突っついて遊ぶのが楽しいからな。
予想通りに、自爆するから、見てて楽しい。
そりゃ、暇人が寄ってくるだろうな。いいオモチャだからな。
900鶴のお返し:2012/02/15(水) 01:04:32.09
>>896
>こいつは本物のアホだ。
>都合の悪い指摘に答えられないで言う文句がこれじゃね。小者だね。
さいわい、お前ほどの小ものじゃない。

>>897
>お前の度量が狭いからだ。
俺の見る目が正しいからだ。
正当な検証と論証の手順と手法という点では、俺の右にでる者はいない。

なんなら、俺の板に日本一の古田批判者を呼んで古田批判をやるか?
(彼は2ちゃんにはこないから)
それこそ、古田説を隅々まで知り尽くした男だぞ。
901日本@名無史さん:2012/02/15(水) 01:05:35.19
>>日数と里数の関係を示す例は皆無である。
>千里単位表記と日数単位表記は同じ表記法だ。
>1000里が1日で、1日が1000里ということだ。

論理的でないな。ただ主張しているだけだ。
902鶴のお返し:2012/02/15(水) 01:10:13.72
「ドンと来い」で予見した通り。
微々たる日ゼニに植えたプロ固定どもが追っかけてきたろう。
で・きょうは・俺のお陰で・いくら稼いだ?

自力で、人集め投稿の一つもできない、コバンザメ生活の乞食ども。
903日本@名無史さん:2012/02/15(水) 01:11:53.77
>正当な検証と論証の手順と手法という点では、俺の右にでる者はいない。

はいはい。そう思えればそれでいいんじゃないですか。口に出すところが幼児性脳の露れだね。
904鶴のお返し:2012/02/15(水) 01:23:33.52
>>903
>口に出すところが幼児性脳の露れだね。
事実だ。
水行10日陸行1月が帯方郡から邪馬台国までの全日程と行程についても、
古田は「韓国陸行」というつしづま合わせの小細工を弄している。
それだけでも、朝鮮半島沿岸航行説を採る俺とは雲泥の差がある。
しかも俺は、「海路距離は1日1000里単位表記」という新説だ。
何でもかんでも短里説を採るのとは月とスッポンだぜ。

物事の本質を見極めるのもセンスのうちだ。
てめえらはセンスがなさすぎる。ナンセンス

905鶴のし返し:2012/02/15(水) 01:26:38.21
くり返す。
正当な検証と論証の手順と手法という点では、
俺の右にでる者はいない。

邪馬台国論者で、俺を超える正直さと誠実さと、
正当な検証・論証の手順と手法をとっている者がいたら、
そいつの名をあけげてみろ。

あげられるわけがないのだ。いないから。
906矢部川:2012/02/15(水) 02:46:15.92
正当な検証と論証の手順と手法を無視するという点では、
俺の右にでる者はいない。

だろうな。
907志紀:2012/02/15(水) 04:24:32.45
なに暴れてんだか興奮しやがって( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
908蹴爪鶴:2012/02/15(水) 09:30:14.55
>>907
なーにをシラっとしてやがる。

閑古鳥のところへ、>>857と >>858で俺が高尚な矯正話を投稿した。
高尚な会話が続くか思えば、お前を皮切りにクズがたかって嫉妬に満ちた伊作攻撃。
これに、プロ固定(日ゼニ稼ぎの掲示板乞食)どもが入り乱れ、
>>859以降ここまで50レスは伊作攻撃の話題一色。
例によって蹴散らしたが、2ちゃんではお馴染みになったパターンだ。
おかげで場の様相が一変だ。

お前もかき回しキャラのようだが、新手の掲示板乞食か?
この天才のように、場を盛り上げる能力はなさそうだが。
909蹴爪鶴:2012/02/15(水) 09:35:11.14
>>906
俺がちょいと行かないと「ドンと来い」もご覧の通りシラけたままだ。
名無しの板ゴミ風情で場をにぎわす能があれば、やって見せろ。

他人の人気と魅力にすがって横づけするしか能がないクズが。
実社会でも大差のないクズ生活してるんだろ。
910日本@名無史さん:2012/02/15(水) 11:19:26.97
>例によって蹴散らしたが、2ちゃんではお馴染みになったパターンだ。

遊ばれているのに。蹴散らしただなんて思えるとは幸せなことだ。
「海路距離は1日1000里単位表記」という根拠皆無の新説なんか誰も認めちゃいないのに。
認めさせることが出来ないのは論理的な説明がないからだが、そのことも理解していない。
911日本@名無史さん:2012/02/15(水) 17:27:00.82
>>895 :鶴のお返し:2012/02/15(水) 00:51:37.95
>俺にとっての古田説は、「悪しき手法の前例」として批判の対象でしかないぜ。

勘違いしている人間は同じ道を辿るようだ。
伊作説も「悪しき手法の前例」として批判の対象でしかないとは皮肉なことだ。
伊作説における不正解釈、こじつけ、無根拠の主張の例を下記に示す。

・郡から末盧国までの万餘里を水行十日にしたいがために水行1日=水行1000里を捏造した。
・景初2年の卑弥呼の朝献を軍事支援要請とした。
・梯儁らは戦時下に来倭したとした。
・有明海への入り口である天草の海域を狗奴国が封鎖したので梯儁らは末盧国に上陸し邪馬台国まで陸行したとし、
 これを陸行一月に当てはめた。


912志紀:2012/02/15(水) 20:58:45.01
え、結局古田の著作は読んだのかい?
話はそれから(ry
913日本@名無史さん:2012/02/15(水) 23:25:13.09
伊作は文献に書かれていないことでも読めるので古田の本も読まなかっただろう。
古田の本を読まずに古田説を批判できるのだから伊作は人間ではないのだろう。
914日本@名無史さん:2012/02/15(水) 23:26:42.07
見ずに行間を読んだのだろう。
915日本@名無史さん:2012/02/16(木) 00:34:51.65
古田は読んだが、漢文の基本的な読み方がなっていない。とんでもないこじつけを
して強引にそれを押し通そうとする。ま、どこかのトンデモと似たり寄ったりだ。
916日本@名無史さん:2012/02/16(木) 00:49:45.65
古田が説く語源由来説は、根拠のない身勝手な解釈が目に余る。
917日本@名無史さん:2012/02/16(木) 06:26:14.15
>>915
お前はちゃんと読めるのかよw
中国人でも古文献の読み方は難しいって知ってる?馬鹿だから知らない?
918日本@名無史さん:2012/02/16(木) 14:49:31.30
古田や君よりは読めるよ。まちがいなくね。
919卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/16(木) 17:03:25.84
磐井の本拠地が、岩戸山古墳のある八女市あたりだという定説に従って話をするが、
古田は、考古学的に考えて、九州の中心、最大勢力地は福岡以外にないという確信に基づいて自説を展開しているのだが、
それだと、なぜ磐井が筑後にいたかが説明できないのである。

九州最大?の古墳が八女市にあり、そこが大和朝廷に反逆した磐井の君の本拠地であったということ。
これが古田の理論では説明できない。

ところで、胡乱なことを訊くようだが、磐井というのは姓なのか名前なのか。
920日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:15:13.73
時間軸とか考えてみると良いよ

雷山の南側のは倭国のメモリアルなところ

卑弥呼あたりのは香椎とかに繋げて考えたいみたいなかんじ

大宰府の坂にいしさか宮とかのがあるし

南にいくと天子の水遊びとか

とくいになって騙っているでそ
921日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:16:08.70
× 南側
922日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:18:35.71
倭王姓阿毎 あまさんだぞ あまぞねす
923日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:21:12.71
尼さんじゃない。雨さん。
924日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:26:58.25
福岡でも、香椎とか、たたら川とか、糟屋の屯倉とか、
いろいろと痕跡が濃い地域だね。

その反対の早良とか今宿とかも。

そして奥の春日から筑紫野にかけても濃い地域だ。
925筑紫次郎:2012/02/16(木) 17:29:19.09
>>919
>九州最大?の古墳が八女市にあり、

九州最大の古墳があるのは旧三潴郡。

>大和朝廷に反逆した磐井の君の本拠地

磐井の乱は大和朝廷系列の勢力の内部紛争だと思う。

>古田の理論では説明できない。

古田さんは邪馬台国の比定地を間違っている。

>磐井というのは姓なのか名前なのか

926日本@名無史さん:2012/02/16(木) 18:41:33.01
九州最大の古墳って男狭穂塚、女狭穂塚じゃないの?
927日本@名無史さん:2012/02/16(木) 18:52:00.64
>>923
海人さんだろ
928卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/16(木) 19:00:50.85
最大の古墳のあるところに最大の勢力があった、という考え方から言うと、
邪馬台国が九州にあったとすると、宮崎か筑後ではないのか。
929日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:03:22.98
いなかもののこふんぼこりはでかいので志向
930日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:31:48.45
>九州最大の古墳があるのは旧三潴郡。

その通り。

>磐井の乱は大和朝廷系列の勢力の内部紛争だと思う。

磐井の乱は、玄界灘沿岸勢力が筑紫平野の磐井王への反乱。

>古田さんは邪馬台国の比定地を間違っている。

その通り。

>>磐井というのは姓なのか名前なのか?
>姓

姓名:倭薈(イワイ)

姓:倭(イ)
名:薈(ワイ)


931志紀:2012/02/16(木) 19:38:57.28
卑弥呼と磐井は時代が違う。
邪馬壱国が共立女王を有した頃よりずっと下って、九州王朝が統一首都を有していた時代
だから、博多湾岸とは違ってもいいんじゃね?
932日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:56:00.90
>>930
薈(ワイ) 《韻會》��烏外切,音濊(わい)
933日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:58:18.69
「逆賊磐井は国父倭薈だ」

米田良三著

だね。持ってるよ。
934930:2012/02/16(木) 20:04:46.05
>>933

「逆賊磐井は国父倭薈だ」

米田良三著

は、持ってないけれど
935930:2012/02/16(木) 20:14:34.78
>>931

倭王が都する京は、320年頃卑弥呼の時代から617年多利思北孤まで、久留米にあった。

京の位置はあまり移動していない。

卑弥呼の時は京と言うより、城柵と呼ぶほうが相応しいが。しかし、機能は同じだ。
936志紀:2012/02/16(木) 20:42:21.62
>>935
確かにその可能性はあるね。「山本」って名前も魅力的だし。
私自身は、邪馬台国の位置比定については九州内という以外ニュートラルです。
とにかく、まだまだ弥生九州の覇権争いが見えてこないので。
古田説の弱点的なのが、邪馬台国への里程が少々遠い事で、博多湾岸ならすぐ
ついてしまう。まあ、出土品は圧倒的だけどね。

ところで、みやこ郡についてはどう思います?名前からして怪しすぎる。「大極殿」
「紫宸殿」並みw
そういえば、そっちにも椿市があります。奈良と違って、古くから現存する古地名で、
斐世清が上陸したのもこちらかもしれません。いや、こっちの方がありそうな。
937日本@名無史さん:2012/02/16(木) 21:53:43.27
>>926
その通り。
西都原古墳群、
女狭穂塚古墳 180m 九州一の前方後円墳
男狭穂塚古墳 175m、日本一の帆立貝式古墳

生目3号墳 143m

ちなみに、八女市の岩戸山古墳は135m。
938竹斯の民:2012/02/16(木) 22:23:25.89
>>936 志紀
京都郡の由来

京都郡は、景行天皇が筑紫に到り、長峡県(ながおのあがた・現在の行橋市)に行宮を営んだとの伝えに由来

なお、同地には、御所ヶ谷神籠石山城(御所という名は筑紫風土記作成者貝原益軒が付けたようだ。)あり、
仲哀峠あり、弥生の大集落ありで、筑前筑後と匹敵するほどの遺跡でいっぱいです。

939日本@名無史さん:2012/02/16(木) 22:27:52.23
北部九州は巨大古墳に興味持ってないからねえ。
「巨大古墳こそ権力の証」って価値観持ってないと、
そもそもつくろうと思わないだろうねえ。

そういう意味じゃ、宮崎と畿内ってよく似てるよね。
宮崎から畿内に移っていった人もいるようだし。

宮崎と畿内って、瀬戸内海と周防灘、豊後水道の
両端に位置していると言えないこともない。

北部九州とは余り交流もないしね。
940日本@名無史さん:2012/02/16(木) 22:34:30.27
>>938
貝原益軒は「筑前続風土記」な
941竹斯の民:2012/02/16(木) 22:36:14.56
ちなみに京都郡の弥生の墓制は『甕棺墓』です。支石墓も存在します。
副葬品も、貝輪から剣・鏡・勾玉その他いろいろ・・・
筑紫・筑後・佐賀と同一文化圏とみてよいでしょう。
942竹斯の民:2012/02/16(木) 22:36:57.76
>>940 ありがと
943日本@名無史さん:2012/02/16(木) 23:34:14.73
景行天皇かw

突然ワープして九州一周して九州で終わった人なwww

>>930さんは、どうかな?
時代によって京都郡に都があった時もあったんじゃないだろうか。
944日本@名無史さん:2012/02/17(金) 00:29:51.17
ストーリーを破綻させてくれているからこそ透かしてリアルぽいのが見えてくるものがあるわけで

破綻させてくれているのは編集者の良心のなせる業かとさえ思われる。

良く考えてみればわかるはずだとか連発だもんね
945日本@名無史さん:2012/02/17(金) 00:41:21.32
巨大古墳がたくさんあるのが邪馬台国の特徴だったら、
魏志倭人伝にそう書いてないのがおかしい。
946日本@名無史さん:2012/02/17(金) 00:47:36.25
鯨さんのお面被ってからにボディのほおは耳なし芳一状態なのが倭人ですかあ
947日本@名無史さん:2012/02/17(金) 00:55:30.78
おそれおおくも陛下の先祖の人が鯨面文身していた

ことに誘導したいとゆうやつが畿内邪馬台国説なんだがな
948930:2012/02/17(金) 06:37:18.92
>>936
>ところで、みやこ郡についてはどう思います?名前からして怪しすぎる。「大極殿」「紫宸殿」並みw

磐井は、北野平野で敗戦し、豊前方面へ逃げた。
そして、倭王磐井が、落ち着いた先に京都を置いた。それが京都郡の始まり。
その立て篭もり防衛用の城が、御所ヶ岳神籠石。
一説にはその後、磐井親子(王と皇太子)は宇佐で殺された。
又一説には英彦山の山中に逃げ延び、生きながらえ人生をまっとうした。

豊前はあやしいところ。
景行が遠征した土地であり、京都郡、中津、国東、御所ヶ岳神籠石、
宇佐神宮、前方後円墳、あやしい地名遺跡が多すぎる。

949志紀:2012/02/17(金) 07:33:21.41
>>948
宇佐神宮の入り口に、唐突に「皇族下乗」と大書した立て看板がある。
幾ら格が高くても、そんなことわざわざ目立つように書かなくても、という内容w
現地で実際に見て、格が高いどころの話じゃないと思いました。
古代においては、案外霊的なものに対しては寛容、というかアンタッチャブルな物は
そのまま置いておくものなのかも。例えばニギハヤヒの天孫降臨神社、皇室の禁足
地たる伊勢神宮、各地の御霊神社・・・。大和王権の巨大権力があれば、さっさと潰し
てしまえばよさそうなもんですがね。ましてあんな不敬な看板。

つまりは「そういうこと」なんでしょう。宇佐こそ霊的にも血族的にも現天皇家の直系の
先祖だと。天皇家の最多数の行幸先は男山八幡、菩提は泉涌寺
いや、実体は継体朝なんだけどね。
明治以後「万世一系」とか言って巨大御陵築造を再開したり、廃仏毀釈、未だに意味不
明な建国記念日使ってたりとか、本質を欠いたまま近代国家が暴走すると、こんなとん
でもない事になってしまう好例だね。
950日本@名無史さん:2012/02/17(金) 09:40:53.37
>>945
その理屈は変。邪馬台国の主要人物が亡くなって
巨大古墳が築かれたなら、倭人伝の記述には載せられないよw
951日本@名無史さん:2012/02/17(金) 16:19:41.58
>>950
その議論以前に、畿内の巨大古墳は、実は4世紀以降のものだ。
詐欺の畿内説は、顔を真っ赤にして否定するけどな。
952日本@名無史さん:2012/02/17(金) 19:15:28.31
薄葬令の魏の使いがそんな巨大で特徴的な形状の墓を見れば、スルーするはずないよな。
古墳なんて、天皇陵の発掘が進まない限り何もわからない無理ゲーアイテムでしかない。
953日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:16:39.43
だからわざわざ径百歩の円墳と書かれた訳だ。
前方後円墳なんて概念はごく最近だからな。
江戸時代に書かれた絵図でも、箸墓は円墳で描かれてるしな。
954日本@名無史さん:2012/02/17(金) 20:53:25.67
そもそも卑弥呼の墓は、古墳じゃなくて冢だから、箸墓のわけないがなw
955日本@名無史さん:2012/02/18(土) 07:49:30.60
畿内説の土器編年は、畿内に邪馬台国があったことを前提として考えているからなあ。
その前提なしでは、古墳の年代はまったく分からないんだ。
956日本@名無史さん:2012/02/18(土) 08:42:27.29
元々九州説に合わせただけだぞw
957日本@名無史さん:2012/02/18(土) 09:54:37.04
九州説は古墳の年代なんぞ気にしないよ。
倭国とはどこを指しているか、行程記事に従って進んだらどこに行き着くか、
倭人伝の伝える風俗等に合致しているか、それで考えているからな。
958矢部川:2012/02/18(土) 10:49:18.15
>>953
「混一彊理歴代国都之図」とか
「江戸時代に書かれた絵図」とか
例外的な物ばかりを探し出して捏造しなくちゃならんとは―

畿内説も大変だね。
959日本@名無史さん:2012/02/18(土) 10:51:11.92
>>957

土器の方のことでしょ。
九州の土器編年に畿内の土器編年を合わせた。
それまでは100年くらいずれていたんだけど、
胎土の分析など、新しい観点で土器を分析したところ、
九州で出土しても畿内産である土器もあって、同じ層から出土する土器は同じ年代に編年せざるを得なくなった。
畿内を100年早くさせるか、九州を100年下らすかの二択なんだが、
九州を下らすと、九州は4世紀になっても、いまだ下大隈式(弥生後期中頃)の時代と言うことで、
今度は、韓国の編年とかと齟齬が生じます。
960日本@名無史さん:2012/02/18(土) 11:13:16.87
箸墓が3世紀は無いな。
961日本@名無史さん:2012/02/18(土) 15:25:05.19
畿内説に合わせると、卑弥呼は4世紀の人間となり、
魏志倭人伝自体を改竄しないといけないな。
962日本@名無史さん:2012/02/18(土) 17:56:26.85
>>957
行程や風俗で一番合致するのは四国なんだけどな。
963日本@名無史さん:2012/02/18(土) 18:19:14.29
うどんのことが書いてない
964日本@名無史さん:2012/02/18(土) 18:29:18.17
土器編年なんて、疑似科学だよ。トムクルーズのサイエントロジーと一緒w
屋上屋を架して、世間を振り回してるだけ。
畿内説の先生たちには参るわ。
965日本@名無史さん:2012/02/18(土) 18:40:53.66
日本車や日本製家電製品が世界に溢れていても日本が世界征服を果たしたわけではないのと同じように、
庄内式土器や三角が日本各地から見つかっても大和朝廷の支配地域を示すものではない事は明白。
そう考えると、前方後円墳も東京タワーやドバイタワーと同じように、政治的支配とはなんの関係もない流行りモノでしかないことがわかる。
三角の分布から邪馬台国の位置を推定しようとすると大きな過ちを犯すことになる。
966日本@名無史さん:2012/02/18(土) 19:09:54.49
だよね。土器も、翡翠やガラス、鉄器青銅器と同じ商品なんだから、なんでそれが
でたら支配とかになるのか。
967日本@名無史さん:2012/02/18(土) 20:05:54.67
やれ△鏡だ
やれ箸墓だ
やれ桃の種だと

畿内説が仕掛ける1点強行突破詐欺は、もう飽きた。
オオカミ少年なみのデマカセは、童話の中だけにしてほしい。
968日本@名無史さん:2012/02/18(土) 20:46:04.19
九州説は携帯小説以下だけどな。
内容の無い、ご都合主義の妄想ばかりw
969卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/18(土) 21:54:35.54
結局、君らの最大の問題点は、記紀よりも考古学を信じている点にある。

畿内で鉄器が出土しないから、畿内は九州より遅れていた、と考えたり、
古墳時代が四〜五世紀から始まるから、崇神や箸墓は四世紀だ、と考えたり…。

それは本末転倒である。比喩的に言えば、それは、
犯人が「私がやりました」と自白しているのに、
「証拠の凶器が見つかっていないから、お前の自白は信用できない!」と言っているようなものだ。

記紀に日本の歴史がちゃんと書かれているのに、君らは、
考古学的証拠がないから記紀は信用できない、と言っているのである。
970卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/18(土) 22:16:03.11
ここに一人の男がいて、こう考えたとする。
「イエスの復活なんて信じない。そんな証拠はどこにもないからだ。だからキリスト教なんて嘘だ」
なるほど。尤もな理屈である。敢えて反論しようとも思わない。
しかし、この男は、一生、キリスト教と無縁であろう、ということだけは確かである。

同様に、一人の男がいて、こう考えたとする。
「神武や欠史八代の天皇なんて実在したはずはない。なぜならそんな証拠はないからだ。記紀は信じられない」
なるほど。尤もな理屈である。敢えて反論しようとは思わない。
しかし、この男は、一生、記紀の価値に開眼しないだろう。

信じることは一つの力であり、人間を進歩させる。
971日本@名無史さん:2012/02/18(土) 22:17:41.98
日本は世界の中心である
972日本@名無史さん:2012/02/18(土) 22:22:45.69
私は神である
973日本@名無史さん:2012/02/19(日) 00:09:42.51
>>966
> だよね。土器も、翡翠やガラス、鉄器青銅器と同じ商品なんだから、なんでそれが
> でたら支配とかになるのか。

土器の話は九州と畿内の時代区分のズレを是正するって言うのが論点なんだけどさ、
それが、なんで土器の分布が支配領域みたいな話にすりかわるのかなw
脊髄反射でただただ反論してみたいだけなの?
974日本@名無史さん
別な地域で似た土器が出ても、その土器は同一年代とは言えないよね。
流行の地域年代差が当然ある。