明智光秀はなんで皆から敵視されるのか

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401日本@名無史さん
自説では、信長は基本旧勢力と仲良しこよし。
旧勢力衰退のきっかけつくったのはむしろ光秀。 これダメ?
402日本@名無史さん:2013/02/11(月) 22:02:14.74
>>401
信長は敵対しない旧勢力とは妥協した。だが、やはり新しい政策が旧勢力の
反発を食らったのだろう。彼らは光秀と組んで信長を除き、光秀とともに三族
皆殺しとなった。
403日本@名無史さん:2013/02/11(月) 22:03:42.50
上京は銭を差し出さないから焼き討ちされているね
同じように一度拒否した堺は焼き討ちされなかった
説明してみて
404日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:57:04.22
やや割り込みになっちゃうかもだけど…

>>403
上京の状況は 銭出さない=義昭の味方 だからじゃね?

>>402
信長の新しい政策が旧勢力の反発食らった具体例教えてちょ
意外となくね?
405日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:49:09.66
>>404
一番大きいのは、信長は正親町天皇をないがしろにし、誠仁親王を事実上の
天皇として扱ったことだろうね。これで反発を食らい、本能寺の変となったと
いう説も相当有力。

但し、明智光秀も遂に誠仁親王は殺せなかったようで、本能寺の変で最後は
御所に移動できた。
406日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:52:55.85
ちなみに、信長は再三正親町天皇の退位と、誠仁親王への譲位を迫っている。
これは相当有力公家に反発を買った。反発した彼らが光秀の信長抹殺を支援
した。そして光秀が滅ぶと何百家が六条河原で三族皆殺しとなった。
407日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:09:27.56
>>404
>信長は基本旧勢力と仲良しこよし
いや、これへのレスだから 「銭出さない=義昭の味方」だったら堺も義昭の味方になるんじゃねぃ?





それはそれとして、陰謀論者の登場で一気に糞スレ→過疎化の流れになりそうな悪寒…
408日本@名無史さん:2013/02/16(土) 12:21:29.45
過疎化阻止の志は全く無いけどちょっと一言。

そもそも上京が焼打ちされたのは「銭出さなかったから」じゃないでしょ。
焼打ちまでの経緯いろいろ
 義昭の命に乗っかり上京民が信長の建物壊す、それでも信長は義昭に許しを請うが拒否される、などなど。
409日本@名無史さん:2013/02/17(日) 01:34:56.17
銭を出した下京は焼き討ちを免れたんだけど?

ごちゃごちゃ理屈を付けるなら、上京は撤回して尼崎でいいよ
尼崎だったらググらなきゃ何の知識も無い君でも本論から外れずに会話を進められるだろ
410日本@名無史さん:2013/02/19(火) 03:03:52.76
>>360
2/17に岐阜市で「本能寺の変」公開討論会が、あったようです。
1 :春デブリφ ★:2013/02/19(火) 00:47:33.24 ID:???0
岐阜市ゆかりの戦国武将織田信長について考える「信長学フォーラム」(市主催)が17日、
同市橋本町のじゅうろくプラザで開かれ、作家や研究者らが「本能寺の変の真実に迫る」を
テーマに意見を・・・・・・・・・・・
【岐阜】「本能寺の変無かったら大阪が首都になっていただろう」の意見も…明智光秀謀反の理由で激論 岐阜でフォーラム★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1361202453/
411日本@名無史さん:2013/02/19(火) 19:04:56.73
>>405
正親町天皇は新興の信長を右大臣にまでするなど信長に協力的。
信長は誠仁親王に御所を献上するなど接近を図った事実はあるが
誠仁親王自身、正親町天皇の実子であり、父をおろそかにできるわけではない。
ちなみに正親町天皇は本能寺の変で死んだ織田信長・信忠親子の菩提を弔うため
勅願寺まで建てている。
412日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:12:21.66
>>411
怨霊をびびったからでは?
ということは真犯人は・・・みっちー?
413日本@名無史さん:2013/02/23(土) 02:05:23.72
光秀 天海説は嘘
武将(現代でいう軍事司令官)で120歳まで生きたやつはいないし
相当ストレスの強い役割だから間違いなく長生きできない(せいぜい80歳くらい)
妻 ひろ子は病気の光秀の為に髪を売って資金を工面した、
病気の人間が120歳まで生きれるとは到底考えにくい
414日本@名無史さん:2013/02/23(土) 11:06:11.52
90歳以上の武将たち
北条幻庵、龍造寺家兼、国司元相、一栗放牛、多羅尾光俊、三好政勝…

間違いなくとか簡単に言うなよ。こいつらみたいな化物もいるんだから。
415日本@名無史さん:2013/02/28(木) 21:36:53.55
上にも書いてある通り病気だったし
信長のもとで競争もあって叱咤も受けてストレスの強い環境なわけだし
主君殺しの汚名を着たまま逃亡して120まで生きるとか
相当なストレスになるわけだし光秀が絶対120まで生きるのは
無理 よって天美は完全に嘘
416日本@名無史さん:2013/03/02(土) 01:09:43.27
自分で天下とろうとした光秀が
家康の忠実な犬になどならないと思うよ
417日本@名無史さん:2013/03/02(土) 21:56:37.86
中村郷の下層民の子弥右衛門の子供秀吉に負けた
足利幕府に仕える奉公衆明智光秀wwwwwww
武官官僚がたかだか下層民に負けるなんてwwwwwwwww
418日本@名無史さん:2013/03/02(土) 22:16:25.58
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
419日本@名無史さん:2013/03/03(日) 00:30:13.70
>>417
いや、お前のいう通りだ。
そんな間抜けに寝首かかれた信長もどんだけwww
420日本@名無史さん:2013/03/03(日) 07:47:24.96
そして信長に負けた奴らもどんだけ〜
421日本@名無史さん:2013/03/03(日) 08:13:06.36
養子縁組でもないのに継父となっている時点で氏素性確かな者ではないわ
氏素性なんて武士と称する者も百姓も変わらんよ
自称詐欺のオンパレード
確かなのは公家と皇室くらいだ
422日本@名無史さん:2013/03/03(日) 08:37:58.42
>>420
ほんとうに信長がアホすぎて笑えますね。
他の武将もアホだけど信長の末路の惨めさと来たらw
423日本@名無史さん:2013/03/03(日) 08:39:01.27
>>418
あちこちに連投が酷い。
・秀吉の史料初見は29歳の時の安堵状。29歳まで何をしていたか確認できず。
安堵状から当時、堀秀政と同程度だったという根拠なし。
・津田や木下は織田家の親類ではない
・公記の秀吉初登場はもっと後
・太閤記は嘘だと決めつけるのに同じ軍記物の信長公記は信じろという矛盾
・ルイス・フロイス「日本史」に「関白は貧しい百姓の倅」の記述
424日本@名無史さん:2013/03/03(日) 11:30:50.73
フロイスの日本史なんて糞史料じゃん
キリスト教保護の人間だけマンセーするカスっぷりだし
小牧長久手の記述とか戸木も浜田も河波も神戸も長島も桑名も松ヶ島もしっかり残ってるのに
伊勢一国制圧したとか秀吉の捏造歪曲情報をそのまま記述したりしてるし
京以西の秀吉の捏造情報をそのまま史料にしてたりするし論外
そもそも信秀期の織田家臣の一次資料なんて数えるくらいしかないし
仮に秀吉の父が織田一門の重鎮でも史料になんか残らんわさ
>>秀吉の史料初見は29歳の時の安堵状。29歳まで何をしていたか確認できず。安堵状から当時、堀秀政と同程度だったという根拠なし。
それ以前に秀吉が低い身分だったなんて根拠は一切なし
さらに領土安堵状は丹羽も名を連ねているし一定以上の身分の物しかそもそも任せられない
425日本@名無史さん:2013/03/03(日) 11:33:11.94
木下雅楽助は織田の親類衆
あと秀吉の素性どうこうは完全に太閤記の講談ネタ。
つうか秀吉の逸話なんてすの俣一夜城とか金ヶ先の退き陣とかほとんど太閤記のデタラメ逸話ばっかりだから
今更一々疑う必要性すらない。一次資料にないどころか同じ軍記系列の信長記ですら初登場は
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし
426日本@名無史さん:2013/03/03(日) 11:34:06.74
氏素性書いてないって織田家臣団なんて皆書いてねーじゃねーか
427日本@名無史さん:2013/03/03(日) 11:35:18.71
つーか織田家家臣団の貫高を一々記載した織田家公式の記録自体が存在しない
そもそもそういうのは軍記とか由緒書とかにちょっこっと書かれるくらいが普通で
小田原所領役帳とか信雄分限帳みたいな物がない限り不明なのが実態
sa
428日本@名無史さん:2013/03/03(日) 11:36:23.31
丹羽氏次とかも数千貫レベルの領主なんだが信長時代の記録には全く載ってないしな
石田の毛利広盛とかも同
429日本@名無史さん:2013/03/03(日) 12:35:37.72
>>424
ルイス・フロイスは岐阜城の記述がかなり一致していたはず。
自分は見ていない伝聞はかなりあやふやなところもあるが、
実際に会った信長家臣団についてはかなり正確。
ちなみに明智光秀は幕府の家臣だったという近年有力な説も
ルイス・フロイスの「日本史」が出所ね。
「信長公記」を一次史料にしている人が言ってもw

あと、29歳以前の秀吉が低い身分だったという史料はないと言っているが
高い身分だとも言っている史料はもっとないから。
430日本@名無史さん:2013/03/03(日) 12:40:44.08
>>425
信長公記なんてただの軍記物だし、秀吉の初登場は30代じゃんw
そんなものを持って秀吉の生まれが良かったとはいえん

木下雅楽助が豊臣秀吉の親戚だという史料は?
苗字が一緒なだけの他人でしょ。
秀吉が織田一門なら秀吉には譜代の家臣がいたはずだからね。
431日本@名無史さん:2013/03/03(日) 13:25:31.45
信長公記は間違いもあるが太閤記よりは遥かに信憑性あるからなあ
あと日本史の記述の一致って例えば?
初登場で既に高い身分だったんだから元々そこそこ高かったと考えるのが妥当でしょ
織田家臣なんて一門優遇だし
秀吉は前野や蜂須賀ら河波衆と個人的なつながりがあり彼らが秀吉譜代家臣でしょ
後に仕えることになる福島加藤とかも尾張(or美濃)出身者が多いのも
秀吉に元々仕えていた家系からの関係で仕えたと考えられるし
432日本@名無史さん:2013/03/03(日) 13:29:13.29
フロイスの日本史はキリスト教傾斜と京以西の秀吉の捏造情報がそのまま書かれてるからなあ
初期の頃の記述はともかく小牧長久手の記述とかデタラメもいい所だし
キリスト教保護の人間だけマンセーするカスっぷりだし
小牧長久手の記述とか戸木も浜田も河波も神戸も長島も桑名も松ヶ島もしっかり残ってるのに
伊勢一国制圧したとか秀吉の捏造歪曲情報をそのまま記述したりしてるし
京以西の秀吉の捏造情報をそのまま史料にしてたりするし論外
そもそも信秀期の織田家臣の一次資料なんて数えるくらいしかないし
仮に秀吉の父が織田一門の重鎮でも史料になんか残らんわさ
433日本@名無史さん:2013/03/03(日) 13:33:28.35
譜代といっても当時の織田軍団で重鎮とされてた武将達も名の通った武将達は基本与力が付けられてただけだしな
当時織田家は軍閥化が進んでいなくて与力制をとってただけだし
秀吉の場合だと木下・前野・蜂須賀・河波衆やその後秀吉に仕えることになる福島加藤ら尾張出身の連中がそれに当たるんだろう
434日本@名無史さん:2013/03/03(日) 13:35:12.75
そりゃそうだ。美濃攻略前の1566年ですでに丹羽と並ぶくらいの領土安堵状出すような立場でいながら
譜代家臣が秀吉だけいないとかないわな。
435日本@名無史さん:2013/03/03(日) 15:57:11.37
同じくフロイスの日本史によって信長によって抜擢されたと書かれてる光秀も同様にデタラメ
光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を母にしてたし、信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され朝廷工作に必要な人材だったわけで
義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。信長の抜擢もクソもねーじゃん。
436日本@名無史さん:2013/03/03(日) 15:59:49.68
訂正 若狭守護武田義統の妹は光秀の妻ではなく母のお牧の方。
光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。
437日本@名無史さん:2013/03/03(日) 17:05:08.84
>>432
>キリスト教保護の人間だけマンセーするカスっぷりだし
キリスト教宣教師の報告書なんだから当たり前だろう。
一次史料っていうのはそういうバイアスを補正して読むもんだろう。
438日本@名無史さん:2013/03/03(日) 18:39:16.90
>>431
さすがに太閤記と比べて信憑性あるってのは、いうだけ馬鹿げているというか…
439日本@名無史さん:2013/03/03(日) 18:43:05.15
秀吉は武家出よりサンガ出説の方が支持したくなるなー。やたら広い人脈やら6本目の指を幼少期に切除しなかった事やら
武家出なら物心つく前に切ってたかもしれん
440日本@名無史さん:2013/03/03(日) 19:47:03.31
秀吉が底辺から出たとか光秀の場合と同じで講談小説家が書いただけだからなぁ
光秀だって>>435みたいに底辺から抜擢されたとか捏造されてるし
むしろ織田家臣なんて譜代系・一門優遇っぷりが凄くて信長晩年に佐久間林水野らを粛清しただけで反響で
離反が出るようなもろいものだったし
441日本@名無史さん:2013/03/03(日) 19:51:05.17
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
442日本@名無史さん:2013/03/03(日) 20:08:13.76
なぜ一定以上の地位に居たことにしたいのかわからんね。
ソ連人か何かかw
間違いない証拠といえる証拠は無し∴氏素性も知れぬ者と解して何ら問題無し。
終わり。
443日本@名無史さん:2013/03/03(日) 20:12:41.60
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
444日本@名無史さん:2013/03/03(日) 20:14:07.73
初登場で既に一軍の指揮官だったり領土安堵状を重鎮とともに出してる人間が素姓しれない人間だというなら
織田家臣なんて皆素姓しれない連中ばかりなわけで。
織田はおろか他家の武将とかも同じだが
445日本@名無史さん:2013/03/03(日) 20:42:40.48
弥右衛門も継父の竹阿弥も素性がはっきりしないでしょう
系図てのは一つ一通りで諸説あるとかそんなんじゃないしそんなんなら確かとは見られないよ
446日本@名無史さん:2013/03/03(日) 21:04:33.37
足軽が百姓やっててもおかしくないので、フロイスが間違ったとも言い切れなす
447日本@名無史さん:2013/03/03(日) 21:27:25.33
そもそも秀吉の父が弥右衛門とか継父が竹阿弥とか完全に糞講談じゃん
448日本@名無史さん:2013/03/04(月) 23:43:26.81
フロイスの言葉を全部鵜呑みにするのもどうかと思うが
449日本@名無史さん:2013/03/05(火) 08:53:13.36
>>443
しつこい奴だな。しかも、年齢を書かずに「初登場」と書いて
秀吉の幼少期からの史料があるように捏造。
安堵状のときの秀吉29歳。それ以前の素性を表す史料を出せ。
信長公記では秀吉は30代半ばからしか登場しない。
秀吉が信長の親戚なら35歳のときの浅井攻めで
未だに城の一つも持たず信長の小隊の一つの長として
自ら険しい野山を歩き上って攻めていること自体
おかしいことだと思わんのか
450日本@名無史さん:2013/03/05(火) 10:33:24.48
>>年齢を書かずに「初登場」と書いて秀吉の幼少期からの史料があるように捏造。
意味不明
>>安堵状のときの秀吉29歳。それ以前の素性を表す史料を出せ。
そんなもん織田の重鎮とされてる武将達も同じで氏素性書いてないって織田家臣団なんて皆書いてねーじゃねーか
つーか織田家家臣団の貫高を一々記載した織田家公式の記録自体が存在しない
そもそもそういうのは軍記とか由緒書とかにちょっこっと書かれるくらいが普通で
小田原所領役帳とか信雄分限帳みたいな物がない限り不明なのが実態
>>信長公記では秀吉は30代半ばからしか登場しない。
だからこそはじめからある程度高い身分だったとみるべき
>>秀吉が信長の親戚なら35歳のときの浅井攻めで未だに城の一つも持たず信長の小隊の一つの長として自ら険しい野山を歩き上って攻めていること自体
>>おかしいことだと思わんのか
同じく長島一向一揆で直接的に危険の戦線に立って討ち死にした織田一門やら
前線でまくってる津田信澄やら信包・信孝・信忠やらの例があるしむしろ逆に信長の縁戚だからこそ重責をまかされていると解釈可能
織田家は一門優遇っぷりがひどく
秀吉が初めから丹羽と同じような高い身分だったのも浅井戦で指揮官なのも前野・蜂須賀・川並衆・福島・加藤など尾張に譜代が多くいるのも
織田家の一門(親類衆)だったとみれば自然にわかりやすく解釈できる
451日本@名無史さん:2013/03/05(火) 10:33:47.95
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
452日本@名無史さん:2013/03/05(火) 10:35:13.76
初登場で既に一軍の指揮官だったり領土安堵状を重鎮とともに出してる人間が素姓しれない人間だというなら
織田家臣なんて皆素姓しれない連中ばかりなわけで。
織田はおろか他家の武将とかも同じだが
453日本@名無史さん:2013/03/05(火) 10:41:38.05
秀吉が底辺から出たとか光秀の場合と同じで講談小説家が書いただけだからなぁ
光秀だって>>435みたいに底辺から抜擢されたとか捏造されてるし
むしろ織田家臣なんて譜代系・一門優遇っぷりが凄くて信長晩年に佐久間林水野らを粛清しただけで反響で
離反が出るようなもろいものだったし
454日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:19:28.41
>>448
しかし、ルイス・フロイスの日本史を否定する史料は
どこにもないんだよね。
都合の悪い史料は信憑性がないと言って無視
軍記物の信長公記は信用(秀吉初登場は30代半ばなのに
若いころから秀吉は一軍の大将だったって捏造でしょw)
455日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:22:07.62
>>453
お前、一次史料読んだことないだろ。

ルイス・フロイスは明智光秀はもともと細川家に仕えていたと書いている。
低い身分から信長が抜擢したなんて書いてないしw

とんでもない捏造だな。
456日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:26:35.65
>>454
フロイスの日本史は秀吉関連の記述はどれもデタラメだな
・小牧長久手の記述とか戸木も浜田も河波も神戸も長島も桑名も松ヶ島もしっかり残ってるのに
伊勢一国制圧したとか秀吉の捏造歪曲情報をそのまま記述したりしてる
・小牧長久手の合戦の時家康が岩崎城その他数城の城主に偽りの降伏をさせ、秀吉が彼らの降伏を信じて軍を派遣したら家康はそれを待ってましたとばかりに騙まし討ちにした
・本能寺の変後の毛利と秀吉の和睦条件が、太閤記とか軍記と同じく「秀吉に有利な条件」となっている(実際には毛利にめちゃめちゃ有利な条件だった)

>>軍記物の信長公記は信用(秀吉初登場は30代半ばなのに若いころから秀吉は一軍の大将だったって捏造でしょw)
偽りの多い軍記物とはいえ太閤記みたいな糞講談と違ってそれなりに学者が引用したりするし
そもそも一次史料でも1566年時点で丹羽と並んで領土安堵状出すような身分だったわけで。
457日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:27:48.30
>>455
いや書いてる
ちゃんと読み直してみ
458日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:33:44.37
56章の始めに
彼はもとより高貴の出ではなく信長の治世の初期には〜信長の寵愛を受ける事となり…のくだりだな
459日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:12:24.08
安堵状や信長公記に秀吉の出自はどこにも書いていないのに
秀吉の30代半ばの活躍を書いては「30代半ばで一軍の大将になれる奴は
信長の親類だけ」などと嘘を書く。

で、秀吉の出自をはっきり正確に書いた一次史料は見つかった?
太閤記やルイス・フロイスを完全否定できる一次史料を提示しろよ。
460日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:19:39.74
なんで太閤記やらフロイスやらの糞講談を否定するのに一々史料がいるのか不明
最初からそんなもんソースにならんわw
461日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:21:47.85
脚色したり意図的に事実を捻じ曲げたり(朝鮮出兵の年次レベルの間違いみたいな)するのが軍記
そんなもんを一々否定するのにソースなんぞいらん
462日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:33:24.16
>>460
おたくの出してきた「信長公記」w
これも軍記物でありおたくの言うところの脚色したり意図的に事実を捻じ曲げた糞講談で
一次史料にならないことぐらいいくらおたくの疎い頭でも分かるよね?

結局、秀吉の出自を表す一次史料は結局出せないじゃんw
463日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:36:22.67
「信長公記」にも秀吉の出自は一切書いてないしなあ
何のための引用か意味不明w
464日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:40:30.56
>>456
嘘書くな。秀吉の史料初出は1569年の安堵状。
秀吉の名で土地を発給していることから幾ばくかの所領を持っていたことは確認できるが、
この時点での秀吉の地位が堀秀政と同等とか丹羽長秀と同等などと書くのはお前の全くの捏造。
この史料から分かるのは秀吉が当時、信長から幾ばくかの所領を得ていたということだけ。
秀吉が初めて城を持つのはもっとずっと後。
465日本@名無史さん:2013/03/05(火) 13:34:23.23
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる


木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)


あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
466日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:11:48.28
秀吉の安堵状が見られるのは30歳過ぎてからで、
すでにそれまでに清州城建設・墨俣城建設などで功績をあげているのだから
取り立てられもしているだろ
逆に太閤記にある秀吉の清州城建設・墨俣城建設はすべて出鱈目で
秀吉がいいところのボンボンだったから
取り立てられただけという理論のほうが無謀
467日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:46:48.17
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年(1565年)11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる


木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)


あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
468日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:47:23.21
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
469日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:53:43.76
>>秀吉の安堵状が見られるのは30歳過ぎてからで、
1565年ですでに30とか嘘もいいとこだな
>>すでにそれまでに清州城建設・墨俣城建設などで功績をあげているのだから
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談
>>取り立てられもしているだろ
最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
>>逆に太閤記にある秀吉の清州城建設・墨俣城建設はすべて出鱈目で
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
>>秀吉がいいところのボンボンだったから
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
470日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:54:38.88
秀吉の三大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
471日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:55:24.13
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない

秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
472日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:56:14.22
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
473日本@名無史さん:2013/03/05(火) 15:17:21.54
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
474日本@名無史さん:2013/03/05(火) 15:19:44.48
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)

津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
475日本@名無史さん:2013/03/05(火) 15:34:15.53
古来氏素性の確かな者が時勢によって帰農することはよくあること。
百姓が武士になり武士が百姓になっていたんだよ。
江戸時代で頭を固めるな。
江戸でも百姓から士分になることは稀にあったがな。
476日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:10:33.25
士分株とか郷士株とか売買してたしな
477日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:21:32.52
秀吉はいいとこの出身と連投している奴って
あちこちで長文連投してた馬鹿だったのかw
過去のコピペを繰り返し貼って質問に答えない基地外
478日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:23:08.53
>>469
おやおや。
6月10日付の安堵状は年号が入っておらず、1165年とは断定されてないぞ?
内容などから1165〜1168年頃と推定されているだけ。
都合のいい年号で決着付けるな。
479日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:27:01.72
>>最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
だから、秀吉の生家は丹羽と同レベルの家だと書いてある一次史料を出そう。
>>太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
だから、おたくの提示している信長公記も同レベルw
>>1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
>>信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
>>秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
>>秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
信長公記初登場の秀吉の年齢言ってみろw
秀吉は信長の親類だとかいてある一次史料が一度も出てこない
加藤や福島は秀吉のいとこ・またいとこだろ
前野蜂須賀川並衆堀尾も、秀吉を主君として代々仕えてきた累代の家臣じゃないぞw
480日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:28:54.38
>>472
わかったから国に帰れよ朝鮮人w
481日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:33:05.54
エンドレスで候
482日本@名無史さん:2013/03/05(火) 23:32:55.63
秀吉の出自だが、農民どころじゃないよ。河原者、非人の出身であることが、ほぼ定説になりつつ
あるよ。詳しくはURL先の本を参照のこと。

河原ノ者・非人・秀吉 [単行本]
服部 英雄 (著)
http://www.amazon.co.jp/河原ノ者・非人・秀吉-服部-英雄/dp/4634150212/ref=cm_cr_pr_product_top

内容紹介
差別に耐えながらも社会の重要な役割を担い、誇りを持って生きてきた人びと。中世の被賤視民を対象として差別の歴史を叙述。
フィールド調査と史料の読み直しによって、被差別民の新たな活動と役割を明らかにする。また、非人の世界に身を置きながら
関白にまで昇りつめた秀吉を賤の視点からとらえ直す。秀頼非実子説にたって、関係史料を見直す。

単行本: 711ページ
出版社: 山川出版社 (2012/05)
ISBN-10: 4634150212
ISBN-13: 978-4634150218
483日本@名無史さん:2013/03/06(水) 00:50:22.96
>>482
全部引用してる史料が豊鑑をはじめ江戸期の講談史料ばっかだから論外
484日本@名無史さん:2013/03/06(水) 00:53:04.34
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)

津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
485日本@名無史さん:2013/03/06(水) 01:06:21.05
>>6月10日付の安堵状は年号が入っておらず、1165年とは断定されてないぞ?
>>内容などから1165〜1168年頃と推定されているだけ。都合のいい年号で決着付けるな。
信憑性は愛知県史資料編編纂委員の見解>>>>>>お前の妄想だしそもそも之以前でも1565年に安堵状出してるし
>>だから、秀吉の生家は丹羽と同レベルの家だと書いてある一次史料を出そう。
領土安堵状で丹羽と名を連ねているしそもそも美濃攻略前の秀吉の所見史料で名前が見られる
(領土安堵状は丹羽柴田佐久間など重鎮連中しか出していないしそれどころか普通は大名レベルでないとなかなか見られない)
>>だから、おたくの提示している信長公記も同レベルw
信憑性は信長公記>>>>太閤記で太閤記は糞講談、信長公記は誤りも多いとはいえ一応一次資料

>>信長公記初登場の秀吉の年齢言ってみろw
だからこそ元々高い身分だったといってるわけで。低い身分から抜擢なんて全く書いてないわけで。
>>秀吉は信長の親類だとかいてある一次史料が一度も出てこない
津田や木下は織田の親類衆
>>加藤や福島は秀吉のいとこ・またいとこだろ
根拠不明。後秀吉の家臣に尾張組が多いことの例として出しただけなのでいとことかどうとか関係ない(そもそも叔母の子であるからといって抜擢する理由にはならないし
堀尾や中村前野蜂須賀など叩き上げ系が悉く尾張出身なので尾張時代にある程度基盤を持ってたとみるべき。)

>>前野蜂須賀川並衆堀尾も、秀吉を主君として代々仕えてきた累代の家臣じゃないぞw
彼らが秀吉が大身になってから使え始めたものではない事はアホでもわかる
(尾張時代から既に織田では重鎮しか出さない領土安堵状出すほどの身分だし)
元々尾張に基盤がありそれゆえ尾張出身者の家臣が多く世に出たと見るべき。
486日本@名無史さん:2013/03/06(水) 01:06:55.80
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる


木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)


あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
487日本@名無史さん:2013/03/06(水) 01:09:34.51
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
488日本@名無史さん:2013/03/06(水) 01:21:43.50
秀吉は最低でも1565年時点で3000貫レベルの領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
489日本@名無史さん:2013/03/09(土) 00:19:42.26
明智家ってお奉行さんなのに水飲み百姓に滅亡させられたんだからな
これは明智側の得意な言い訳不可能な事実なわけだし
大体百姓なんかに戦で負けて(ここまではまだわかる)命まで奪われるってどれほど
赤っ恥なことか名門智側の馬鹿は理解してるのか?
490日本@名無史さん:2013/03/09(土) 03:49:07.95
農民に殺されたって言っても元ネタは明智軍記だし。あんまあてにはならん
491日本@名無史さん:2013/03/09(土) 05:15:15.84
そんな明智を登用して殺されてりゃ世話ねえなw
492日本@名無史さん:2013/03/09(土) 07:10:55.31
百姓(秀吉)>百姓(長兵衛)>光秀>信長>武田勝頼>浅井朝倉>林佐久間
493日本@名無史さん:2013/03/09(土) 07:46:05.88
なんか勘違いしてるけどさ
武士とか名家ででもなんでもないよ
武士のあれって元々奴婢とか蝦夷のやる事だからさ
それか良民が渋々やってた
よくやったと言われるべきは外国からの防衛で戦った九州くらいのものだね
他の国内の戦は私利私欲の私戦でさ
何も生まない穀潰しの賊と変わらないろくなものじゃない
維新後にお国のための功あった武士は誇って良いけど
武士は本当に先祖代々武士なら百姓(良民)より下
名家と言えるのは皇室と公家だけです
494日本@名無史さん:2013/03/10(日) 01:55:50.92
光秀が百姓に殺されたのを認めたくないから
「秀吉は百姓じゃなかった」「明智軍記はウソ」と
言い訳を重ねる明智ファン
495日本@名無史さん:2013/03/10(日) 03:21:08.61
>>494
お前「百姓=農民」とか思ってるだろ。だから話がズレとる
496日本@名無史さん:2013/03/10(日) 07:02:31.52
明智ファンでもないし光秀がふがいない最期をとげたことくらいわかるが、
おまえは信長が悲惨な死に方したことを認めようとしないよねw
497日本@名無史さん:2013/03/10(日) 07:37:34.26
総ては汚物肉便器三枝夕夏のせい
498日本@名無史さん:2013/03/10(日) 14:44:18.58
>>488
馬鹿だな。
丹羽佐久間柴田豊臣は皆同じ階級の出身だという一次史料を出せと言っているのに。
何度言っても出してこない。
そして秀吉が30歳前後の1960年代後半に信長から3000貫程度の領地を与えられた
小領主であったことを持って、秀吉はもともとこの階級の出身だったとしつこく言う
信長自身、もともとの出自より1960年代後半のほうが領地を広げているんだよ
尾張を統一し、信濃を手中におさめ、市を北近江の戦国大名に嫁がせている
なのに秀吉は父親の代から持っていた領土を維持していただけで一切出世はしていないというほうが無理
499日本@名無史さん:2013/03/10(日) 14:47:26.45
>>487
秀吉がもともと立派な家の出ならもっと父親の史料が残っているはずだよ
しかし秀吉の父親が木下弥衛門という名であることすら
「太閤記」にしか載っていないんじゃないのか
木下は信長の親戚の苗字、だから秀吉は信長親族というお前の無茶苦茶な仮説は否定される
太閤記を否定するのだから秀吉の父親の苗字や姓は一切不詳だ
500日本@名無史さん:2013/03/10(日) 16:56:11.63
秀吉の父親が木下だったっていうネタ元は「太閤記」じゃなくて「太閤素性記」
ただし、これもつじつまが合わない記述があると言われている