1 :
日本@名無史さん:
明智光秀といえば織田信長を殺した裏切り者として知られてる・・・
しかし俺には日本を救った人だと思うんだが
2 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 18:39:17.55
信長を殺したのは良いが人種差別したのがいくない
豊臣秀吉が部下から裏切り者を出すまいと徹底的に光秀にこき下ろしたからでしょ。
明智光秀=スペインの植民地になるはずだった日本を救った
あ、ケチ 3つ? ひでー
ワロタw
単純に性格悪かったからでしょ?
だって彼を知る人が皆そう言ってるもん。
タイムマシン作れば解決
9 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 13:41:21.87
信長が創価学会員だから集団ストーカーされてる。
創価学会とかw
なんだ泉ピン子の話か
11 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 15:20:13.75
ヒント:KOEI
12 :
通:2011/11/23(水) 15:26:15.80
その道の人に聞いたら、どうも秀吉がヤッタと言う説もあるらしい
しかも>>1に言っておくが、どうも部下の斉藤氏が行動を起こしたために主の光秀
がヤッタ事になってるらしいってのもある
13 :
通:2011/11/23(水) 15:34:43.61
>>1
たしかに、それは言えるかもしれん。
んで、秀吉説だが、当時秀吉は高松攻めに出ていた、だが、その秀吉は影武者で
実は、当の秀吉は旗を変えて本能寺へ・・後はご想像道理にょ路!!
14 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 16:32:09.18
なんですぺいんごときに
16 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 16:53:48.49
フィリピンは宣教師がきてスペインの植民地にされました
17 :
通:2011/11/23(水) 17:42:52.84
18 :
通:2011/11/23(水) 17:49:15.86
そもそも光秀関係の説ってさ一体どれくらい有るもんなの?(ただし俺の
言った2つのかして)
徳川家康が天下を取るために秀吉と組んでたって話
まあ秀吉は裏切られたがな
源氏になりゃ誰でも出来るんでしょ日本の統治?
22 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 19:17:35.05
明智光秀=空海って説もあるよな
>>22 空海さん長生き過ぎワロタ
天海の間違いでは?
空海は不老不死の秘薬を手に入れた
25 :
通:2011/11/23(水) 19:57:45.40
へえ〜>>24
でもさ、徐福さんが手に入れる事ができなかったのにさ何故出来るんだ?
戦国時代ってなんだったんですか
自作自演
28 :
通:2011/11/23(水) 20:22:05.11
>>26
おそらく、1450年ごろ足利幕府の政治不安と権力闘争などの分子が爆発→11年の戦いの後、結局、無政府
状態となり領地争いが頻発この中で「下克上」の風潮たかまる(斉藤氏が
有名)→この中で(三好氏、赤松氏、織田氏、上杉氏)など、活躍する→
1582年にこのスレで語られる事が起こる。(以下略)
光秀さんありがとう!by永井路子さん
30 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 10:55:09.93
光秀タソは土岐一族の若様などではなく
小浜の鍔師の息子だという伝説もあり
こっちの方が何かカッコイイ
31 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 20:53:05.08
さすがに明智光秀=足利義輝はない
でも明智光秀=千利休よりは可能性あるかも
敵視される理由、こんなところが考えられます。
細川忠興「光秀の忘恩は甚だしく大罪に値する」
多聞院英悛「光秀?誰それ」
細川ガラシャ「私の父は腹黒い。私はそれで苦労した」
ルイス・フロイス「彼は人を騙すのが上手で本人もそれを自慢している」
オルガンティーノ「光秀のような裏切り者には絶対味方してはいけない」
戦国時代でも主殺しは非難されたし、何より謀反のやり方が暗殺に
近かったからじゃないかな。
正々堂々という言い方も変だけど、もう少し共感の得やすい方法だったら
違っていたと思うけど。
34 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:57:32.53
回答 人気者の信長を殺したから
35 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 21:21:19.30
信長人気なんて創価のねつ造だろw
織田厨が創価だとはいわないが、創価に踊らされた道化といわねばならん
>>34 正解!!
>>35 あの時代にソウカはない。当時の史料みれば信長は意外と人気者。いやマジで。
37 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 22:06:41.04
↑意味不明。信長人気を知らない人なんているの?
38 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 22:48:28.66
>>37 36だけど、すまん、あっちの時代に意識がかなりいってますた。
いや今の人はさ、信長が殺されたのは当時皆から嫌われてたからって想像する人もいるじゃん。
でも実際は当時も充分人気者だったってことが言いたかったっす。
40 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 11:52:35.83
信長が殺されると皆逆臣明智光秀打倒に動いて
光秀を称賛しなかったからな
信長がそれ程嫌われていたなら信長が殺されれば
都にこれを喜ぶ落書ぐらい貼られてもいいものだがそれもない
朝廷すら入京した光秀に対して「様子見」を決め込んで
光秀からの官位要求を一切拒否したらしい
そのことから信長殺害に朝廷が絡んでいたという事実もないと思う
41 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 12:57:21.91
信長の首が見つからないのでは、
朝廷もクーデターの成功が判断できないわけだが…
42 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 13:16:40.97
その割には柴田勝家も同様に首が見つからなかったのに
あっさりと秀吉政権が確立したよな
あれで勝家が後でひょっこり出て来たら、凄い死ぬ死ぬ詐欺じゃないかw
足利家追放して朝廷が残っている状態での謀反だからねぇ
天皇家もないがしろにし出した後だったら180度変わっていたかも
(「ないがしろにしない」という可能性もあるが)
45 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 11:20:34.58
石田光成に細川ガラシャがレイプされて殺されるwwwww
最高に楽しい見世物なのに
46 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 16:13:16.22
信長はなんで皆から敵視されるのか
47 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 12:36:25.48
信長が、ではない。
現実を見ようとしない信長ヲタが敵視されているのだ。
あと信長自身も外国人から敵視されるね。
優秀な人の宿命ね。
西洋人はベタ褒めだけど。
西洋コンプレックスの自虐的史観乙
50 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 01:58:34.99
早く明智なんて殺せ 秀吉君
51 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 11:46:06.88
光秀君散々信長の下で悪いことしてたよね
「悪人扱いされたくない」とか「山崎で殺されて可哀想」とかどこまでこのクソガキ
は甘ったれれば気が済むの。
信長は本能寺で殺されて当然とか言うくせに
確かに光秀君周辺は感情だけで物事を語るからやっかい。
しかも自分は被害者だと主張する。
変に同情すると後で痛いめに合うかも。
53 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 20:18:14.64
信長暗殺の黒幕は秀吉。
54 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 21:39:21.69
信長みたいな極悪人を排除したんだから許してやれ
当時絶賛された人物を極悪人と呼ぶ人もたまにはいるだろう。
56 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 19:48:59.18
>>54 信長の軍隊使って、信長の命令によって徳川家康を殺害する
と偽ってやっただけなんだけどな
57 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 10:52:31.96
越前で大虐殺をおこなった天罰
比叡山焼き討ちにノリノリだった光秀がなんだって
まあ浅井朝倉匿ってた糞坊主どもなんて焼かれて当然だけどな
それがし不承知にござる。
>>57 それに光秀は信長の指示で積極的にやってるんだが。
61 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 17:36:40.46
>>57 光秀は世話になった朝倉攻めに加わったんだよな
62 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 10:38:16.64
積極的にやってるフリしないと粛清されるんだから信長の罪が無くなるわけがないがな
>>62 光秀以外( ゜Д゜)ポカーンだったじゃねぇか
麻原=信長
こう考えるとカルト織田の武将は皆被害者といえる
地下鉄サリン事件 比叡山焼き討ち
織田はカルトw
66 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 01:02:35.28
明智は馬鹿の中の馬鹿だな
67 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 08:25:28.42
その明智を信用し殺された信長は大馬鹿中の大馬鹿だな
69 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 18:38:59.88
小泉創価政権以降、信長人気急上昇。
コーエーも信長押しだったしな。
あと曹操も創価な。キャラ設定同じだし。
というか要するに民族系統が同じって話なんだけどさ
えっでもソウカは信長をやたら叩いてるお。
残虐者だの乱暴者だの言ってるじゃん。
そうか
73 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 00:48:27.26
>>67 光秀君は農民に殺された武士だぞ
いかにwwwwwな存在か考えてみよう
74 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 00:57:32.27
光秀君みたいに百姓に殺された武士って
日本の歴史上にいるのかなぁwwwwwww
おっと、穴山梅雪の悪口はそこまでだ。
76 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 07:57:03.84
77 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 08:29:14.54
>>74 だからなに?としか言えませんが。
信長がその明智に殺された事実となんの関係があるの?
78 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 22:50:50.84
明智みたいに百姓に殺された武士っているのwwwwwwww?
剣の
だから穴山信君の悪口はそこまでにしろって。
80 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 01:32:52.89
しょせん小物だからな明智なんてw
82 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 10:11:30.46
「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国連合の一国に「都支国」てのがある。
「土岐」は、古代ヤマト国の初期メンバーなわけ。
安土周辺ってのは九州南部で暴動を繰り返してた「隼人」を移住させた地。
「時は今 天が下知る 五月哉」
時=土岐。これはよく言われるけど
天=アメ。天津神の一族だってこと、
そして
五月=サツマから来た者。
>>82 >「土岐」は、古代ヤマト国の初期メンバー
そんなこと言ったら織田は忌部といく古代豪族でしょ?
>五月=サツマから来た者。
さらにその前は朝鮮半島にいたって話もまんざら嘘じゃなさそうだな。
光秀はどこか朝鮮人っぽい。
・被害妄想がある
・自分の一族に対する愛がハンパない
・人を騙せる自分はスゴイと思っている
本能寺の変はテルミドール
85 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 21:06:23.15
百姓に殺される宮本武蔵とか佐々木小次郎を想像してみろ?いかに
かっこ悪いか?それに置き換えるといかに明智が馬鹿かわかるだろ?
明智(笑)でしかないって
>>83 信長は織田家に寄生した養子じゃなかったか
87 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 21:12:33.14
明智が賢いとか「1+1=3」とか言うくらい
有り得ないこと むちゃくちゃ非論理的なこと
89 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 00:50:16.98
信長は小物明智に殺された超大馬鹿、まで読んだ。
>>85 小次郎は武蔵に殴られて気絶してるところを武蔵の門人たちに殴り殺されてるから
実は似たようなもの。
91 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 00:21:05.82
ここのスレはアホばかりm9(^Д^)プギャー
脳細胞に濃縮される放射性物質
__
/:::::::::::ヽ
|;;;;ハ;;;;;;;;;;| , r−、
,r‐-、 トイ ^ o^ t;| / `、
/ 、 \ >‐-ュr'ニヽ、 / i l、
| '| \ _.r'´ノニーイニヽ,\/ | l
| | `</ lo ) ⌒q! / .| |
.| | \/' _, |/ ト、 !
| | \ ⌒,,,⌒ / ハ ヽ
.| .|ヘ \ 巛《 / l ) \
| .| ヽ 彡゚д゚ミ ,' ノ \
ノ ヽ ヽ ミ《》彡 .ノ ゝ、__
/ ヽヘ、 ミ*ミ / `⌒
_ノ `ー 、. _ ,X、._,.-‐'´
光秀が百姓に殺されたかどうかなんてわかんないんじゃない?
まあ、光秀だからなぁ。
信長を討った手並みは見事だし、その後の動きも悪くないけど、秀吉と比べちゃうとね…
細川や筒井が無視決め込んじゃうあたり、人望無いよね。
>>85 武蔵は島原の乱で原城に突進したのはいいが、籠城側の投石が脛に当って
動けなるという醜態をさらした。
あやつもそんなに格好良くはない。
95 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 02:32:43.69
>>92 百姓に殺されただろ
秀吉って百姓によ
馬鹿だから秀吉軍の一般兵の百姓にも殺されたじゃん
96 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 02:35:08.96
よく考えてみよう
光秀=明智氏(武家)
秀吉=木下氏(農家)
光秀と秀吉と家康で話し合った末、じゃんけんで負けた光秀が信長を殺すことに決まったんだと思う
農民に農民に・・・ってそこばっか馬鹿にされてるけど当時の上級農民と下級武士って似たようなもんだったよ
残忍な本性が見え隠れする秀吉は
光秀を討ったとされる農民は手厚く褒賞した一方で
後年佐々成政を捕らえた農民に対しては「褒美にハリツケ」に処したw
あっ成政でなく佐久間盛政だったかなメンゴ
武田残党を突き出して信長から褒美もらった甲斐の農民達は
本能寺後一時的に甲斐が武田残党によって抑えられた時無事に済んだんだろうか
世の中明智を甘やかしすぎているよな
「そんなに悪い奴じゃない」「山崎で殺されて可哀想」
信長も秀吉もそこそこ叩かれてるのに
あと明智は土岐氏家臣団の上流武士で秀吉は中流くらいの百姓だろ
明智は生まれつきそこそこ身分は高いはず
馬鹿馬鹿馬鹿の明智wwwwwww
せこく甘やかされてる明智
山崎で明智を討ち取ってくれたみんな
君たちの正義は永遠に歴史が忘れない
「明智を殺す」この素晴らしい正義を有難う
まあたしかに世間の光秀超絶過大評価はキモイわ。
当時の人が語る光秀の狡っ辛さからすれば身分高い話も疑わしい。
>>102 明智と土岐氏の関係を証明する資料は皆無
現代の光秀過大評価は司馬遼太郎の功績によるところが多いと思う
人物像なんかは完全に司馬がパブリックイメージ作っちゃったんじゃないかな
ただそれまではずっと嫌われ者だったろ
マイナス評価の記録ばかり残されてるのも徳川政権下の時代が長く続いたからだと思うんだけど
光秀はうつ病だろ
109 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 10:05:25.22
光秀は討つ病どころか人生最大のhigh状態だった。
>>107 家康は光秀は武士の鑑とまで言ってたけどな
そのせいで天海光秀説なんか出たのもそのせいだろ
そのせいが重なってしまったw
>>110 その話、どの史料に書かれてる?
「えっと○○小説に」とか言わないでね。
光秀千利休説を唱えたら、他スレで利休は世阿弥の子孫だと言われた
これ、知り合いが、お茶の先生の前で、
千利休って明智光秀なんだよねって言ったら
なんでそんな秘伝の内容を知ってるんだって顔で見られたらしい
光秀非武家出生説が書いてあったから、意外と当たってると思うけど
あと光秀って先祖が朝鮮のヤンバンでした説ってのもあるよね。
これも意外と当たってる気がする。
ちょっと上流階級っぽさがあり、「恩義」にはあまり関心がないところとかさ。
115 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 22:07:51.94
>>あと光秀って先祖が朝鮮のヤンバンでした説ってのもあるよね。
ウッソコゲェッ!
>>113 光秀と利休では時代が被って成立しないがな。
>>116 だよね、おかしいなあ。途中から利休に光秀がなったって言うこともありえないか。
義経がチンギスハーンの参謀になったとか聞いてるけど、歴史って実際どうなって
いるかわからないと思うけど、どうかな。
他には、家康死亡の理由は呪法、易法で殺されたとか、卑弥呼は神功皇后だとか
聞いてるけど、わかったよ、俺の言い分には確証はないわな。
チンギスハーンになったは聞いてるけど、参謀は初めて聞いたな。
光秀は朝鮮に逃げて朝鮮の軍人になり、秀吉軍との戦いを指揮した。
光秀と三成の区別がつかない小学生がたまにいる
>>119 それ本当?
俺は、事実は小説よりも奇なりと思うから、
どんなオカルトな意見でも受け入れて考査させて頂く
一次史料どころか末端の与太本にもそんな話は載ってません
明智光秀天海説自体が
明智秀満天海説が間違って伝わったもの
124 :
日本@名無史さん:2012/03/12(月) 21:45:33.28
光秀うんぬんというか、
そもそも主君を騙まし討ちにして嫌われていない武将なんているの?
一部で松永久秀は好かれているのは意味合いが違うからまだわかるけど・・・。
斎藤道三とか三好長慶とか?
>>107 光秀過大評価と言うより妙にいい奴扱いされてね?
清廉潔白な悪を嫌うみたいな現代の光秀像が嘘臭すぎて
疑問だよね。
自分的には光秀の評価って、韓国人がやる安重根評価とすごく似てる気がするんだよな。
抽象的な言葉で褒めちぎるが、実際の根拠は何もない。
むしろ事実とは正反対のネタで大絶賛。
韓国人「安重根義士は朝鮮を憂い、日韓併合を阻止するため伊藤博文を暗殺したニダぁ〜」
光秀評価する人たち「光秀は日本を憂い、皇室転覆を阻止するため信長を暗殺したんだぁ〜」
しかし実際は
安重根、併合を阻止するどころか併合推進者。
光秀、皇室を護りたかったら信長を殺しちゃいけなかったのに平気で暗殺。
(天皇に近仕した或る僧侶など、多年が過ぎた後も信長の死を残念がる)
この史実ねじ曲げ捏造てんこ盛り、これも疑問。
>>98 お前アホか?明智氏と木下氏にどのくらい
家柄の差があるか考えろ?
明智氏自体土岐氏の家紋を譲り受けてる土岐氏の支流
で光秀の親父は明智城城主だったくらいの武家だぞ。土岐氏斉藤氏以下ではあるけどそこそこ上流な武家のはずだ。
それに比べて木下氏なんか浅井家分家とか胡散臭い逸話があるけど(多分嘘)
杉原氏とかいう無名の氏族の片割れらしいじゃん。
秀吉の親父なんてどこの馬の骨かわからんような人物だし
光秀はこんな百姓の息子に殺されたくらいのアホだぞ。
もうバカの極みもいいところ。
明智氏は足利幕府の奉公衆(今でいう官僚)
秀吉の親父は最下層の貧民、傀儡子、鍛冶大工、織田家の足軽などいろんな
説があるけど身分が低いのは確かだな
だから義昭と信長を仲介できたんだろうけど
杉原氏が浅井家支流だった
>>128 >光秀の親父は明智城城主だったくらいの武家
プッ
そんなん信憑性の低い軍記に書いてるだけで
秀吉が自称してた天皇のご落胤ってホラと同レベルの説だろ
>>129 >義昭と信長を仲介できたんだろうけど
これも物語の世界だよね?
信長殺害して有名になっちゃったからキャステングされただけ。
実際仲介したのは誰だろな。細川とか和田?
光秀が幕臣だったって証拠も無い
足軽衆の中に明智という名前が出てくるってだけ
光秀は美濃明智氏(これも確証は無いが)って言われてるけど京都にも明智氏は存在した
光秀は美濃明智氏に決まってるじゃん
土岐家紋だし
あと光秀の親父が明智城城主だってのはウィキ
に書いてあるよ
ウィキ創設者は、これほど手放しで信じてくれる人がいることを知れば、
きっと大いに喜ぶだろう。
135 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 19:19:54.26
>>134 場合によってはアンサイクロペディアのほうが正確なときあるからな
牟田口廉也とか
とにかく明智側の人間は馬鹿が多い
春日局とか
>>136 春日局は明智光秀家老の娘で明智と血縁関係はないよ
それから明智光秀の血はかなり広範囲に広がってるんだが皆馬鹿なのか?
明智光秀ー細川ガラシャー細川忠利ー(歴代熊本藩主)−細川護熙(内閣総理大臣)
光秀が
「馬鹿」なのは言うまでもない事実だろ?
光秀ファンはそれすらも
自覚できないくらいのアホなのか?
139 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 19:16:38.74
>>138 明智側の人間と言った場合に春日局以外思いつかない阿呆が言う言葉じゃないな
明智光秀は謀反人、逆臣。
さすが馬鹿の明智信者
勘違いにも程がある
142 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 10:09:05.48
>>130 でも足利義昭が織田家を頼ることになったのも
光秀が連れて来た説が一番(?)有力だし光秀が
身分の低い人物だったら義昭はついて来ないと思われ
143 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 10:13:34.52
>>142 逆、逆。
足利義昭が上京する気のない朝倉の代わりに自分を連れて上洛する気のある
戦国大名を大募集、織田信長が名乗りを上げた。
明智光秀は当時朝倉氏に客分として世話になっており、足利義昭に同行したの。
足利義昭が明智光秀を頼ったんじゃないから。
144 :
142:2012/04/23(月) 10:25:36.24
…で光秀の前半生が不明な点だが斉藤竜興が稲葉山城陥落の後
朝倉家に客分でいたことを考えると
竜興について行ったと考えてもいいのでは?
145 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 10:41:35.90
>>144 斎藤龍興が越前朝倉氏を頼ったのは永禄13年以降。
(美濃を追われた後、伊勢へ移り長島一向一揆に参加)
しかし、明智光秀は永禄9年以前に朝倉氏客分になっている。
(永禄9年、足利義昭が来たとき浅倉義景の命令でその接待係となり、
永禄11年には義昭について織田信長の配下となっている)
光秀のほうが先に朝倉氏のもとへきており、龍興についてきたのではない。
むしろ、光秀は道三方だったために美濃から逃げ出したとみられている。
146 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 12:28:12.42
>138
実力社会の織田で最も出世した男をバカとは・・・
貴方はそんなに頭良いのか?
ここのスレもまた捏造オンパレードだな。
>光秀は朝倉氏に世話になり、義昭に同行 →捏造 事実→とにかく分からない
>光秀は道三方だったため美濃から逃げ出した →捏造 事実→とにかく分からない
>光秀は義昭が来たとき浅倉義景の命令でその接待係 →捏造 事実→とにかく分からない
>実力社会の織田で最も出世した男 →捏造 まず織田が本当に実力社会だったかも分からない 意外と血縁重視と言う研究者も
148 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 18:15:59.95
>>147 明智軍記が捏造だとまでは言えないのではないか。
逆に否定するに十分な史料批判を持ち合わせてる?
否定するのに充分な史料
言継卿記とか晴豊記とかお湯殿とか。
これらの史料で光秀を調べてみると…
記録無し
要するに光秀は当時の人からすれば関心の外だったと思うわ。
妄想好きな人は「きっと書いてたんだけど慌てて消しちゃったんだよ」など言い出すんだろうけど、
おそらく単純に無感心。
明智厨には史料の無さっぷりは同情するけど、やっぱりフィクションとノンフィクションはきちんと区別したほうがいいような。
中韓じゃないんだしさ。明智軍記ネタなら、「〜〜の可能性もある」ぐらいにしといた方がいいんじゃないか?
150 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 15:46:24.50
>>149 言継卿記、晴豊記、お湯殿には武田信玄や上杉謙信の出自も出てこないぞ
公家の日記だけが一次史料でそれ以外は全部否定だったら
武家の大部分が架空の人物だろ
記録無しだけでは否定する論拠にはならないな。
>>147の負け。
捏造まで書かなければ良かったのに。
「捏造」って意味、大辞林で調べてみた。
>実際にはありもしない事柄を,事実であるかのようにつくり上げること。
軍記モノを本気で信じ込む人もいるわけだから、やっぱり捏造じゃ?
まず第一に、明智軍記の成立時期何百年も後の人が何で知ってんだよという。
捏造ほどに考えといた方がウソを信じずにすむっしょ。
あと戦国期の史料には「光秀は細川家の使用人だった」って話がなかったっけ?
153 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 18:01:42.25
>>152 信長公記、太閤記、徳川実紀
この辺りは捏造?
捏造かどうかの判断もお前の個人的なところが大きいな。
学者の名前を出して「○○氏の見解によると」と言ってくれるとありがたい。
明智軍記よりかは捏造度低いんじゃない?
成立年が光秀の生存期に格段近いし(あでも実紀は明智軍記と同時期だっけ?官製記録ってのは重要なんだろうけど)
ただそれでも捏造が混じってないとは言い切れない。
例えば公記記事とフロイス記事全く真逆のことだってあるわけで。
どっちかが捏造もしくは両方捏造、その辺は分からんけど。
で学者先生の本はほとんど見ないよ。一般人っす。
ところで多聞院日記にあるという「光秀は細川家の中間」って記事はどう解釈してるの?
155 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 23:11:32.84
>>152 >>154 「多聞院日記」は「明智は細川中間だったのを信長に取り立てられたらしい」
という伝聞を記しているだけだよ。興福寺の僧侶が実際に確認したわけではない。
その当の細川家自体は家伝で明智は朝倉にいたとか書いてるんだろ。
まあ、軍記物はほぼ捏造である(信長公記・太閤記含め)というのはおたくの勝手だが
そこまでいうなら
>>147 がすべて捏造だという一次史料を出してね。
それで初めて捏造だと断定できる。
「多聞院日記」て一次史料じゃないの?
これの筆者興福寺僧侶英俊は確認してないというけど、
細川家家伝の筆者も実際に確認してないよね。
確か成立年も江戸中期か後期で英俊より更に確認のしようがない。
しかも「明智軍記を題材にしました!」なんてことじゃなかったっけ?
だとするとなおさら、じゃあ明智軍記は伝聞じゃない証拠はあるのかなど聞いてみたくなる。
とにかくさ、光秀と同時期の人(もしかしたら面識もあった)人物の記事を無視して
数百年も経った後の記事を信じるなんて、なんかおかしくね?
157 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 00:06:48.86
>>156 多聞院日記は一次史料だが、伝聞で書かれている、と言っているの。
>もしかしたら面識もあった
↑これこそ君の妄想だよね。
たとえばある公家の同時代史料(一次史料)には
徳川家康と淀殿が大坂城で婚礼したらしい、という伝聞が実際に載っている。
だから、家康と淀殿は夫婦だった、とか信じてる人なのかい?
日記は一時史料であっても何処で聞いて来たのか判らない噂話の信憑性はそれなりでしかない。
159 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 00:13:31.98
>>156 英俊は本能寺の変が起こった後で光秀の伝聞を書いている。
同時代史料でなければ光秀の知り合いでもない。
光秀が「細川家中間」という低い身分でありながら
娘を主君嫡男の正室に据えることができた理由も見当たらない。
160 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 00:16:39.67
>>158 英俊も「どこで光秀の出自を聞いてきたか」なんてどこにも書いてないよw
同時代を生きた『立入左京亮入道隆佐記』は、本能寺の3年前に
光秀の出自は「美濃国住人ときの随分衆也」と書いてるしね。
じゃあもう「美濃に住んでた土岐の随分衆だったが、その後細川中間もやりました」でいいんじゃないか?
そんで、江戸中期後期の史料に多大な愛を感じてる人は、
「中間の後、朝倉氏にも仕えました ・・・かもね?」でいいんじゃ?
156だけど、
157は、>これこそ君の妄想だよね。
というが、「あくまで妄想です」ってすでに但し書きしてるのに、再び似た言葉繰り返さなくても…
家康淀君婚礼だって、「光秀中間話」と違ってそれを否定する同時期史料がたくさんあるんだろうに…
そして、>低い身分でありながら娘を主君嫡男の正室に据えられた理由が見当たらない
と言って、 そんなこと絶対あるはずないっっ!! と何故か決めるつける159氏。
何を信じるかは個人の自由だが、戦国時代に書かれた伝聞話は全否定して、
その後数百年経った後での伝聞かもしれない話は無条件に信じ切るってのがね、なんか違和感あってね。
こういうのって、ウンチをお味噌と間違えて美味しく召し上がってるように見えるから、つい気になっちゃって。
失礼致しました。
163 :
日本@名無史さん:2012/04/27(金) 08:36:23.03
>>162 「細川中間」と書いた史料が一つだけだと言ってるんだよ。
家康淀殿婚礼だって残っている史料がそれ一つだけならば
お前は一次史料として最大限に尊重するんだろう?
へえ、自分に仕える「中間」(下僕と重臣の間ぐらいの地位)の娘を
正室にした大名の例があるのか。
それなら、まずその好例をいくつか出すのが先決だろう。
自分の説を通すためにもしかしたら光秀と英俊は知り合いだった、という妄想は出す癖に
またまた妄想で話を通すのか。
>>162 >ウンチをお味噌と間違えて美味しく召し上がってるように見える
気持ち悪すぎる。
お前の脳みそみたいだな。
165 :
日本@名無史さん:2012/04/27(金) 08:42:35.29
>>161 光秀が朝倉にいたことは信長存命中の同時代史料
「浅倉始末記」にあるよ。
江戸時代中期後記に急に出てきた説ではない。
信長の合戦一覧
生涯の多くを敗北に費やし、同格にはとても勝てず
運で勝てたら調子こいて突っ込んで負けている。
普通にやっても負けている。格下にももちろん負けている。
幻想を通り越してもはや織田厨しか抱いていない幻覚としか思えない
兵農分離とか以前に、単純に信長の指導に問題があったと思われる。
秀吉って毛利輝元、織田信雄、北条氏政など一般的に馬鹿にされてる武将にことごとく大敗して重臣を大量に死なせ、
豊臣家を滅亡させた人でしょ。佐々攻略や紀州攻めでは60回も負けたし。
佐々は秀吉を殺せるとこまで追い詰めてたけど秀吉が嘘の降伏したから受け入れたら秀吉がこれを騙まし討ちにして捕らえただけだし
紀州攻めでは鉄砲隊に襲撃されて秀吉は命からがら敗走したけど雑賀衆が不注意で崖から崩れ落ちたから勝てただけ
1000万石もの圧倒的勢いの織田家継承しながら大敗し続け、全て失った凡将w
下克上は君主の器次第で引き起こされるもの
戦国の摂理に反した最も卑劣な他家を裏切り乗っ取った信長や秀吉兄弟、土壇場で寝返った秀秋が憤死したのは天誅に過ぎない
>>165 >光秀が朝倉にいたことは信長存命中の同時代史料 「浅倉始末記」にあるよ。
これたぶん史料を読み間違っちゃったんだろな。
あの史料にはこういう部分がある。
「北の庄朝倉土佐守が舘には三人衆明智日向守、津田九郎次郎、木下助左衛門と云仁を置賜ひ」
それで光秀は朝倉にいたんだぁ〜〜 って思っちゃったんだろ。
しかしこれの正しい読み方はきっと、
「(信長は朝倉滅亡後)朝倉土佐守の館に明智津田木下っていう三人を置いた」
きっと!?wwwww
146
光秀なんて馬鹿に決まってるだろ?
174 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 12:28:45.89
織田厨悔しさが滲み出てるなこのスレ
175 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 12:38:59.53
>>173 なるほど、その光秀を出世させていた信長はもっと大馬鹿なのですね
176 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 13:14:55.50
>>167 豊臣家を滅亡させたも何も秀吉の一世一代で作ったものだよ。
老害化した晩年に潰れる原因も作りはしたが死んだ時点でまだ第一勢力として残ってた。
潰したとすれば、何ら自分の才覚ではないたまたまその家に生まれただけ、
たまたま好かれただけ、たまたま懐妊しただけ…の淀殿と秀頼だ。
177 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 15:04:23.29
卑怯すぎるからだろ
意外に信長は光秀に怨み持ってなかったりして
裏切られた自分が悪いと自己完結して死んでいったと妄想
179 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:41:41.83
>>178 信長が自分の過失により光秀が裏切ったとは思わなかっただろう
信長自身も下剋上で自分の主君であった守護や守護代を
押しのけてのし上がった人物だから
主君を殺すなと言えなかったというのはある
主君に特筆するべき過失がなくても裏切りはあった時代ってこと
ただ信長は守護守護代押しのけてというより超守護オタで
「守護代が守護様を殺ろうとしてる?え何それ許せね〜 助けに行くっす〜」
「うわぁ〜間に合わなかったよぉ〜うえ〜ん(><)」
って書かれてる史料もある。まあこれ信じる信じないは好きずきで。
>>175 明智光秀は百姓に殺された馬鹿武士だからね
日本の歴史を見てもこれ程アホ武士は滅多に居ないね
>>175 考えてみよう
信長=武家
光秀=武家
秀吉=百姓
百姓に負けた
光秀がどれほど恥かわかるwwwwwwwww
183 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 19:39:35.83
184 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 00:37:53.46
>>181 182
つまりこう言う訳か
百姓>光秀>信長になるぞ
185 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 17:13:18.99
織田信長を殺したくらいの知識しかない俺の空想光秀学
信長が天下統一する。信長にとって宗教はいらない存在。親鸞が浄土真宗開祖して全国にかなり信者がいた。
信長が浄土真宗に対してもの凄いむちゃくちゃな対応する。怒った門徒が全国から集まり信長に立ち向かう。
みんな無残に敗れる、一揆指示したとして僧を並べてまとめてなで斬り。
側近の光秀はここで(かなりヤバイことになった・・・)と気づく。
信長「天下布武」をかかげる。光秀「殿!それはちょっと違いますぞ!」。信長「うるさい!武で天下おさめるのだ!」。
光秀完全に信長は間違ってると確信する。武だけが国を支配するのは日本の国体と違う、信長の暴走を止めないといけない。
光秀は自分と考えが似た侍を必死な眼で見定める。信長に気付かれないように勝てる人数集める。
光秀の考えに同調した侍が集まる、信長包囲網計画も順調にすすむ。
光秀「敵は本能寺にあり!!」
侍「おー!!」。四方火攻めじゃあああ。絶対に逃げれないようにするのじゃ。
信長は光秀の謀反にあって死亡。
光秀って本当に日本の歴史知ってて国体とか初めて意識して謀反決起した正義の味方かもしれん。
「敵は本能寺にあり!!」って言った時は最高の気分だっただろうな
侍の漢字の由来は知らないが寺の横にイ、って案外、光秀から由来したのかもな。
以上俺の妄想空想。歴史はいろんな見方があって楽しいなあ。
186 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 19:21:57.85
独裁者がむちゃくちゃやって政権を取ってるので怒りが生まれた
善良な市民がどくさいやを暗殺しただけでしょ、
187 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 22:22:56.99
明智ファンは光秀が本当に名君だと信じているのか?
サンタクロースが本当にいると信じている子供と同じ思考回路だわ
188 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 22:43:34.22
>>186 いや、善良な市民である百姓に竹槍で殺されたのは
光秀なんだがw
189 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 22:57:03.43
武将を使い捨てにし、民を虐げ、魔王と称する電波キチ信長を
天に代わって誅した義の人で、日本史上稀に見る英雄が光秀。
出世欲の塊の俗物・秀吉がこれ幸いと討って辱められた光秀です。
190 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 23:02:49.33
>>189 それは誰も光秀に味方してくれなくて残念だったな
光秀も信長を誅殺したら武装解除して農民にでもなればよかったのに
朝廷に対して征夷大将軍を要求したとか愚の骨頂
191 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 23:20:01.90
うん、やっぱり天下布武はアカンよ
天
下
布
武
かっこ良く見えるけどダメだね。だから第六天魔王と呼ばれるんだよ。
かっこいいならこっちだな
七
生
報
國
光秀は損な役回りだと思うよ。当時は斎藤家の重臣で
あったのに信長軍に参加。天下布武に貢献したのだが常に
冷遇。近江も足軽あがりの秀吉と半分
こ。つまりお人好しなところが悪者にされるのだ。
ドラマでは悪役ではなくなってるね>光秀
生真面目で正義感あって同情的に描かれてる
実際どうなのかはわからないけど
再現ドラマなぞでは、本能寺には信長は恐らくとして森蘭丸
含め20、30騎の小姓だけ警護していたらしいが、実際は
秀吉と毛利軍の合戦の加勢に向かう途中だったら安土から
兵をもっと引き連れていったはず
なんだが?それだったら光秀がきても応戦できるはず
それとも単独指揮官として参加するつもりだったのか?
195 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 18:42:12.38
本能寺〜山崎の戦いまでの光秀の立ち回りって
ある意味関ヶ原前後の三成の立ち回り以上にお粗末だったように見えるんだが。
信長って創作で描かれるほど残酷な人物でも無かったみたいだし
光秀はメッチャ重宝されてたのになんで謀反なんか起こしたんだろうねえ?
>>185 信長って負の面で過大評価されているんだよね。
長島の虐殺はあれだけ一族を殺されたなら戦国大名なら誰だってやるし、
敵を滅ぼす際の残虐さは秀吉や毛利元就の方が余程上。また、毛利元就
の新宮党事件みたいな敵の弱点を突いた効果的かつ陰湿な謀略は一度も
ない。どうしてそっちの方で過大評価されるんだろうね。
197 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 18:59:34.26
越前の大虐殺は?
198 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 20:02:26.28
今川の本陣を奇襲攻撃して勝利した信長が
本能寺(本陣)を奇襲され最後を迎えるのは歴史の偶然か?
>光秀はメッチャ重宝されてたのになんで謀反なんか起こしたんだろうねえ?
一説には源氏でもない信長(平氏?)が征夷大将軍の座を望んだため光秀(源氏)は
信長を許せなくなったとか?そこを突いた朝廷が光秀に信長を「朝敵」として討たせたとか。
森蘭丸が桔梗の旗印を見て「光秀謀反!」と叫んだとの事だが
もし信長敵対勢力(特に雑賀、根来衆ら)が信長軍分裂をさせる陰謀で
偽の桔梗の旗印を使い信長を暗殺しその罪を光秀に被せるという筋書きは
信長敵対勢力は考えたろうか?
199 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 20:45:14.11
そもそも信長はあくまで宗教が世俗権力と結びついて
ドンパチやってるのを治安維持の為に討伐しただけで
別に一向宗そのものを禁じたわけでも弾圧したわけでも無いのよね。
200 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 20:51:58.36
治安維持ってのは民を守ることで、信長が守ったのは自分の立場だけだからな。
201 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 21:12:08.76
長島で庶民が本願寺に付いたが、それを掃討したのは地域の経済を破壊したってこと。
民衆にしてみりゃ自分達の生活を脅かす信長の方が迷惑な存在だろ。
長島は賭博や今で言うヤミ金融、マルチで金儲けしてたから自国の民の為に滅ぼしたって感じなんだけど
あの頃のカルト系宗教だぞ、一向宗は
全てがそうとは言わんけど
203 :
日本@名無史さん:2012/07/30(月) 11:56:36.82
信長は今でいう軍部独裁政権でテロ支援国家なわけだが
まあ光秀を嫌ってるのは中途半端にしか歴史を知らない人達であって
信長がどんな酷い仕打ちをしたか知ってる歴史愛好家達は、光秀に同情的なのが一般的だけどな
信長好きであってもその傾向は変わらんだろう
>>204 信長が光秀にした酷い仕打ちって何?
浪人(無職)時代の長い光秀にとって城持ちにまでさせてくれた信長は
御恩の対象だと思うけど
>>205 あなたも戦国時代までの武士道が現在の武士道とは全くの別物である事は知ってるよね?
身内や親族が、仕えている人間に斬り捨てられた場合、たとえ主家であっても、斬っても良いとされた
戦国時代は親子が殺し合う時代であると共に、親子関係が非常に重要な意味を持つ時代でもあった
光秀は母を信長に殺されているから、当時の価値観に従えば、その一点のみで光秀は信長を斬る権利がある
出世させたとか何とかは一切関係がない
207 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 19:18:45.74
>>206 いや、光秀母を殺したのは波多野秀治の家臣だからw
信長が直接殺したならともかくw
206さんは確かに、重度の思い込み病に罹っているようです
光秀厨には、この病の人が多い
少しずつ治療していくしかありません
209 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 11:45:31.67
光秀母のことはしらないが、信長厨も重度の精神障害だから気を付けろよ。
>>208 中傷しかしないって事は、反論の術なしと自ら認めるようなもの
>>209 母を殺された事による怨恨説はメジャーな説の一つだよ
明智光秀と母
http://sakuraoffice.com/mituhidetohaha.html >光秀の丹波攻略は、丹波国最大の土豪波多野秀治ら三兄弟の頑強な抵抗に遭い、難戦をきわめていました。
>そこで、光秀は波多野氏の拠る八上城(兵庫県多紀郡篠山町)を重包囲、兵糧攻めにした上で、和議を申し入れました。
>
>「織田信長の丹波平定は、決して、私欲や遺恨ではない。偏に天下統一のためであるゆえ、
>信長に恭順するなら、波多野氏の領地も地位も保証しょう。その証に、わが母を人質に差し出すにやぶさかでない。」
>
>天正七年(1579)八月、光秀の母が八上城に送られるのと入れ替わりに、光秀にともなわれた波多野兄弟は、和議成立の挨拶のため安土城に赴きました。
>ところが、信長は滋恩寺町で三兄弟を磔に処してしまったのです。
>
>城に居残る波多野の家臣たちは激昂、人質になっている光秀の母を楼上で磔にし、報復します。
>このため信長に深い怨恨を抱いた光秀は、三年後に本能寺の変を惹起した。
>
>以上が「総見記」の記載であります。光秀が信長を襲撃した動機のひとつであるともされています。(怨恨説)。
信長は、波多野三兄弟を磔にすれば光秀の母が殺害されるのを承知で、磔にして殺している
直接的に殺したのと実質的に同じ
212 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 23:44:27.81
一部の信長厨は、それは創作だと主張するんだよな。
213 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 10:15:50.66
>>211 信長の命令で光秀が嫌々母親を人質に差し出したならともかく、
波多野攻略のために光秀の一存で母親を人質に差し出したのだから
単なる光秀の攻略失敗だろ
信長のせいにされてもw
214 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 10:16:50.91
>>210 君の考え方を否定されたら「中傷」かよw
君の考え方はかなり偏ってるよ
215 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 10:18:19.51
>>211>>212 そら、他人のブログを勝手に貼って(許可とったの?)
「これが証拠だ、えっへん!」と威張られても
史学板で相手にされるはずもないわw
この人は一次史料が読めない人なんだよね。
>>211 は『総見記』をあげてる時点で、あ、こりゃダメだと思った。
少なくとも『国史大辞典』執筆の先生たちからは信憑性低いと断じられてる史料。
そういう史料を真実が書かれてるように紹介しちゃダメね。
光秀厨はこの辺の優劣認識がグチャグチャだから困ります。
>>1 信長みたいなゴミ売国奴を討ち取ったんだから光秀公は大英雄だよな
信長は確かに危なっかしい人物だった
いい人だからだろ。 信長に散々罵られたりしているが
天下取りの勢力拡大に尽くしている。実際は徳川家康
や秀吉の方が信長の地盤を引き継ごうとしていたと
考えれる。しかし、 理不尽なものだ。冷遇は限界を極めて
いたらしい。
220 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 15:27:29.88
あげ
221 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 15:39:27.84
光秀ほどの逸材を冷遇した信長は凡君だな。
裏切られたのは身から出た錆。
てか信長は征夷大将軍になるの断ったけどあれって天皇になるためだろ?
Q.では信長は誰に天皇にしてもらおうと 考えたでしょう。
敵視されていたのはかなり昔の話。
今は信長コロスゲージがだんだんと上がっていく過程が描かれている
よって光秀に同情、パワハラ信長は自業自得、こういう流れ。
>>222 天皇にはなれないから天皇になろうとは考えない。
いまだに理由が解ってない、けどとりあえず裏切り者だから敵視される
ってのが一般的
パワハラネタは10年ほど前の主流だな
225 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 02:51:58.15
>>225 >シナや大陸みたいに相手を殲滅しない日本人の良さと言えば良さだが
どういう妄想をしたらそういうことを言えるのか判りませんが、普通に殲滅
していますが。平家、前北条家、武田家、明智家、豊臣家、朝倉家、浅井家
みたいに男系の子孫を残さず壊滅した一族なんてザラですが。中国、朝鮮、
その他大陸みたいにこういうことを余りしなくなったのは、綱吉の生類憐みの
令の影響。それでも、天狗党事件みたいに例外もあったけどね。あれのお陰で
明治時代の茨城県はペンペン草も生えない人材の枯渇ぶりだった。
227 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 07:45:47.85
>>226 茨木がどうしたって??
かんけーない
日本国の歴史、明治時代に茨木から国任せる人材いらなかったてだけじゃん
男系子孫壊滅か
当時(主に戦国かなぁ?)の侍の子供は子供でも大刀槍など命賭して殿・城・城下を守ったんじゃないの?
武の時代にガキに殺されちゃあ武将の名が泣くなw
壊滅してないのもあるじゃん
現代に魔王織田の子孫生きてるしな
なんかアイススケートやってたような?
お前、戦を何だと思ってるの?
俺でも城主の子供はひっ捕らえろって捕らえてそれでも反抗するようなら切腹か武士の情けで斬るかもな
現代の感覚で語っちゃいかんよ
>>227 明治以降、小学校や中学校(旧制)で、教えられる人間は限られていた。
で、士族がやった例が多い。
ところが、茨城県は天狗党事件に参加した300人余とその3族数万人が
惨殺されたため、士族がマジで残っていなかった。人材の質が茨城県
だけが著しく低く、戦前はからっきし人材が出なかった。
で、戦国時代だが、基本的に落城即皆殺しか奴隷売買の対象となった。
ちなみに、黒人奴隷が本格的に取引されるまで、世界最大の奴隷市場は
日本だった。日本人奴隷は数十万はいたと推測される。実際にポトシ銀山
で奴隷反乱で日本人が指揮したなんて記録もある。
戦国時代を甘く見んじゃねぇよ!!
光秀は暦を変えようとまでした朝敵信長を討ち取った英雄だよ
光秀が決心しなければどうなっていたか・・・
230 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 06:11:15.33
> 日本だった。日本人奴隷は数十万はいたと推測される。実際にポトシ銀山
> で奴隷反乱で日本人が指揮したなんて記録もある。
もっと詳しく。
どの本を読めばいいか、教えてほしい。
231 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 09:17:13.92
謎が多すぎる
どうやってあの暴君信長の周りで謀反に賛同する人々を集めたんだろ?
信長の耳に入れば即殺されただろうに
どうやって謀反起こしたんだ???????
>>231 そこに書かれてることは一切謎じゃない
「どうやって」ではなく「なぜ」というのが今も昔も
本能寺の変の謎だよ
ただ「なぜ」ということに関しても
勅命と考えれば疑問に思うことは何も無い
観修寺晴豊(公家、公卿) の日記(晴豊公記)に「かれなと信長打談合衆也」と晴豊は記述している
山崎の戦いから4日後の6月17日
晴豊は、この戦いで敗走し、捕らえられた光秀の家老 斉藤利三の京六条河原での斬首前の「市中引き廻し」を目撃し
この日の日記にそう記した
晴豊は山崎の戦い後、明智光秀の娘を保護したとされる人物
ではなぜ朝廷は光秀を使い信長を暗殺したのか?
それは暦が関係してると思われる
信長は朝廷に暦の変更を強要した。暦の変更は天皇しか出来ない。
だが信長は要求した。
信長の出身地である尾張の暦で統一しろと
反感や危機感を抱いたとしてもなんら不思議ではない
重要な証拠となる一級資料が発見されたのに
なぜTVドラマなどで勅命で信長を討つ光秀が描かれないのか?
自主規制的な配慮が働いてる可能性を疑ってしまう
あくまで動機は怨恨、単なる逆賊、謀反人という描き方の方が
色々と無難なんだろうと
234 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 21:23:33.52
>>229 暦を変えるといっても同じ旧暦の中の問題でたいしたことじゃない。
西洋の暦を導入とか自分が暦を作るとかなら話は別だが。
>>234 たいしたことじゃないとか何言ってんの?
暦を変えるのは天皇のみの大権であり
信長はそれを侵しはじめたわけだよ
これに従ったら天皇の権威が失墜するのは必定
旧暦だからとか全く関係ない
朝廷にとって重大な問題だよ
勧修寺晴豊は、「これ信長むりなる事候」と日記に記している
この直後に本能寺の変が起きたんだよ
たいした事じゃないだろ
いっその事、庶民が天皇制の事なんか知らない戦国時代のうちに
天皇制を無くしておいてくれれば
明治時代に国民は変な洗脳されずに済んだ訳だ
237 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 22:45:24.27
あのな、暦は科学的な根拠があって決まるもので、信長のは三島の暦を京都に持ち込もうとしただけ。
もしかして六月一日の日蝕がなんちゃらとかいう、桐野()の説をまともに受けちゃった?
もしかして、
>>235が言ってるのは暦じゃなくて元号の事?
239 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 12:16:18.99
>>235の内容からすると天正十一年の新年が西と東でヒトツキずれたことだろう。
巷ではヲタもアンチも暦の中身を知らずに議論してるようですな。
俺も旧暦に詳しい人に聞くまで理解してなかった。つーか、今でも理解してねえw
>>237 おいおいまじか?w
科学的な根拠w
仮に科学的根拠が信長側にあったとしても
のめるようなことじゃないんだよ
持ち込もうとしただけ? 勘弁してくれよww
241 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 18:21:55.09
旧暦を決める科学的根拠も知らない馬鹿か。
月の満ち欠けで決めるのな。信長や天皇が月の満ち欠けを決めるとでも思ってる?
よければこの件で俺に教えてくれた人に質問してくれ。俺の理解度では説明しきれんわ。
カタギの人だからここに板のアドレスだすのはためらわれるが、荒らさないと約束するなら案内する。
242 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 19:04:17.84
>>240 今のカレンダーにも旧暦の何月何日と書いてるけど、月の満ち欠けじゃなく皇室が決めるわけ?
243 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 19:42:23.13
241だが言い忘れていた。
教えてくれた人はアンチ信長だからお前に対して敵対行為はしないはず。
旧暦の科学的根拠についてみっちり仕込んでもらうといい。
244 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 22:13:46.75
>>240 「科学的根拠w」
と笑ったセンセイが無知晒して笑い物になりました。
>>241 で、新年がずれた理由はなによ?
>>242 今の旧暦は江戸幕府が採用したものだが、もうじき不測の事態となって日付を決定できない時期が来るらしい。
その時に日付を決定するのはその時代の政府だが今の政府は旧暦は過去のものと言ってるので回避不能らしい。
246 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 07:47:45.94
決めるにはそれだけの理由があるんだろ。
勘弁してくれとか、ばかじゃねーのwww
科学的な根拠というより歴法上の問題ね。
閏月を置かなければいけないのは、京歴でも三嶋暦でも同じ。
閏月をどこに置くか、歴法の解釈の問題。
まあ再計算の結果、決着したりはしてるんですけども。
改暦について織田信長が朝廷あるいは陰陽寮に対して高飛車だったというのはちょっと無理がある。
全国統一が間近いのだから、歴統一の機運が盛り上がるのは当たり前。
ただ、一旦、京歴に統一しようとした直後に月食が起きて、
旧武田領で大宮歴を廃止したせい月食が起きたと騒動になったので、
信長が日和って地元の歴を重視しようとしたのでいっそう混乱が起きた。
いずれにせよ、商人の使う暦を重視しないと、
この後に起きる町民文化が栄えることは難しい。
今の人間が考えるよりずっと暦が生活に密着していた。
248 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 17:41:17.44
>>244 おれは説明するほど理解してないよ。
247 か、俺に旧暦の仕組みを教えてくれたアンチ信長の人に聞いてくれ。
249 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 20:21:41.21
>>247 閏月の置き方は京都と三嶋でどう違っていたのでしょうか。
月の満ち欠けなど科学と無関係な宗教の問題?
しかし計算とか言ってる時点で科学的な根拠と無縁ではなさそうだね。
計算もせんで暦決められるかよ。
西洋で中世に暦および天文学が発展したのは、
三角法が発見されたから。
掛け算しなきゃいけないところが、
足し算で済むようになった。
コンピュータの登場に等しい飛躍。
251 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 21:13:12.14
計算なしに暦を決めたと勘違いしているのが240
252 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 23:27:07.43
253 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 21:13:38.91
一日レスがなくて残念だよ。
>>248 その方の紹介してくださいますか?
254 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 20:57:44.17
してもいいが、信長ヲタが荒らさないとも限らないからそれが不安で。
どうやって天皇になろうとしたか
Aローマ教皇に正式に日本国王と認めてもらう
256 :
日本@名無史さん:2012/09/14(金) 07:39:23.05
平成の明智光秀とは・・・・・落ちたものだ
「御輿は軽くて馬鹿が良い」と担ぎ上げられた能無しを光秀に喩えるのは
俺も違和感があるな
チキンで金まみれの小沢の戯言を後生大事に言ってるやつも違和感あるけどな
259 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 12:01:21.73
再来年のNHK大河ドラマになるみたいだね!
主役は光秀だけど、織田信長や斎藤道三、細川ガラシャなど
歴史の有名な主役級が密接に関わっているから面白いと思う!
54歳で本能寺の変を起こして亡くなっているので、主役の
人選を間違えなければ高視聴率番組になると思う。
260 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 12:07:20.33
※ナレ−タ−は、細川ガラシャ役の女優が務めるのが妥当だと
思うので、昨年の大河でも、細川ガラシャを演じたミムラが
ベストと思う。
261 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 13:43:59.09
ミムラ(笑)
262 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 09:27:48.18
光秀=天海説をとりいれた場合は、ナレーターはお福だな。
263 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 09:40:04.92
本能寺は斉藤利三単独説で頼む。
264 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 00:35:35.29
265 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 12:20:31.38
>225
自称源氏とか多いからあまり信用できないかも。
徳川氏→得川とかね。
コ川先祖なんて山賊出身と言う人もいるし。
266 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 11:43:13.60
225は、源平交代史観という、手垢のついた与太話を、最近知ったばかりの精薄だ。
ああいうバカはそっとしておいてやれ。
267 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 10:18:38.13
明智はみんなの嫌われもんの悪人
268 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 22:08:26.57
でも信長という極悪人を倒した点は評価する
269 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 20:38:13.90
何故極悪人?
270 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:25:10.65
信長が悪人かどうかは別として、部下を統率出来なかったのは天下人として失格。
271 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:35:59.37
>>270 部下とはいっても明智光秀なんか織田家の譜代でもなんでもなく新参者だからな〜
ころころ主君を変えてる野心家だし
272 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 19:31:56.75
しかし秀吉は家臣でないやつらに殺される間抜けなことはなかったよ
そういう詰めが少し甘いところのが信長のいいところだったのでは?
家康さんじゃ戦国時代は終わらせられないしな。
ある程度は猪突猛進タイプが必要。
とはいえ世間のイメージほど信長は唯我独尊だったわけではなく、
将軍対策や朝廷対策はそれなりにこなしているのだが。
274 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 13:44:41.43
外様でも能力重視で側近に取り立てたのが信長のいいところだよね
出自にこだわり譜代しか信用しなかった家康は関ヶ原まで勝ち戦なしだし
身内しか信じられないのは幼少時代から世界見てきたからなんだろうな
とは思う
まあ開幕してからは切り捨てたけどなw
御輿でしかなかった信長は切り捨てられたけどなw
278 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 05:25:54.88
明智光秀は犬より頭が悪いな
279 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 05:35:24.72
秀吉も加藤清正福島正則みたいな家臣に裏切られて
家を壊されたわけだが
まあ最強のアホは光秀だわ
百姓に戦で負けて命まで取られたわけだから
もう馬鹿で赤っ恥の極みだわ
280 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 12:02:04.53
そいつを雇い信用して大軍預け、殺された奴は救いようがないよなw
281 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 20:42:56.20
当時の百姓って割とヒャッハーな連中だったから、落ち武者が討ち取られても別に不思議では無いっていう。
282 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 21:24:00.20
いずれにしても明智に殺された信長哀れ
283 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 08:43:54.64
>>281 でも戊辰戦争の時は職業軍人である武士が
農民の寄せ集めである新政府軍に敗れて屈辱を味わったんじゃなかったっけ。
そういう意味では職業軍人の明智光秀が農民に敗れてる時点で・・・
285 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 10:28:23.20
>>283 秀吉の時代に、刀狩りというのがあってだな。
この後は自分で調べろ。
光秀はどこで自分の死を意識したのかな?
結局首はどうなったかよくわからないんだよね。
光秀の首とされたものが晒されたけど。
今の時点で振り返ってみると、坂本城に逃げ延びても同じ結果だとは思うが、
当時光秀はどう思っていたのだろう。
1643年(寛永20年)東叡山において108歳で
本能寺〜山崎の戦いの顛末だけ見てると、正直この人が三成以下に見えるから困る。
実際にはそんなことはないが、そう思えるくらい
本能寺起こしたのは軽挙と言わざるを得ない。
変のあとに味方になってくれる人がいなかったね。
290 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:50:36.96
>>288 三成は西軍の将の一人だったのに、関ヶ原の責任を一人で負わされた人。
たとえ西軍が勝っていても、何も三成の天下になったわけではない。
光秀は自分が天下に大号令をかけようとして誰も味方になってくれなかった人。
三成以下なんじゃ?
291 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 10:24:50.24
母親の仇を取ったんだから天晴れな孝子だよ。
>>288 明智光秀の場合、織田信長が隙を見せた瞬間、それまでの行動とは関係無しに襲ってしまったから、
その後の同盟と自らの体制維持について根回しは全くなかった。
単なる暗殺魔に終わってしまった。
>>291 それは俗説
変の後の手紙読むと哀れだよな。
294 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 06:11:08.37
>>292 俗説だと言うのは聞いたことがあるが、もともとあの話のソースは何?
一次史料になくて後代の文献に出たとするなら、信長の弾圧で語られなかった事実が暴露された可能性とかない?
295 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 06:33:01.90
結果を知っている後世の人間から見れば愚行なのだろうが…
現在進行形で本能寺の変を見たらどんなもんかな。確か数人、明智方というか
便乗組がいたように思うが。何といってもオッズがケタ違いだ。
>>294 手元の本によると「総見記」が初出。1700年頃成立
八上城は人質なんか出さなくても普通に落とせる城だったみたいだしな
それまで協力していながら急に「信長父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候」
なんて抽象的なこと言うより、「親の敵」と言ったほうがよほど名分立つだろうに
それをしなかったと言うことはそんなこと無かったってことなんだろ
298 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:50:14.97
297の言うこともわかるが、仮に親を殺されたとしたら、
その行為を大袈裟にして信長を非難したとも考えられる。
個人的な恨みでは周りは動かないが、天下のためだといえば乗せられるやつもいるさ。
「…討ち果たし候」
その野口城主の西尾光教宛ての6月2日の手紙、大垣城を攻め取れとも書いてあるんだよな。いきなりそんな事を言われても
「(; ̄▽ ̄)え?なに?」
と言うしかw
そういえば、一緒に斬首ざれたのに同時代の人間になんのコメントも残されない小西行長と安国寺恵瓊も哀れな気がする。
回りのコメントは光成に騙されましたばっかりだがw
光秀は、コメントすら残されていない。
同時代の回りの人々も、何で謀反を起こしたか、さっぱりわからんかったのかもね。
上杉と毛利には慕われてるよw
302 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 10:34:49.81
自民が「政権奪還」というより、心にもない「国民生活優先」で民主叩きするようなもので、
明智光秀もとりあえず信長殺しを天下のためだと言ったんだろう。
民主も信長も天下のためなら消えるべきだが、光秀も自民も同様に消えるべき存在ということだ。
303 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 17:33:51.39
光秀の“変後”における部下の兵の統率力。
これこそもっと賞賛されるべきだ。
京に入った兵のほとんどがそのまま山崎に立った。
これこそ驚異と言うべき。
主君を討ったのだから兵もかなり動揺したはず。
それらを取りまとめた光秀にもっと評価があっていい。
謀反の張本人“斉藤利三”の首を即座に刎ねずに生かし事後承認として
「是非に及ばず」として信忠を攻めたのも《現実主義者≫明智光秀というより
何より自軍の崩壊を恐れたからに他ならない。
光秀にとって悪夢の13日間がはじまった。
当時の信長配下の将は、信長の命令を受けてるけど、
独立に動くことが可能な軍隊の長だから、驚くようなことでもない。
信長の命令一つでどこにでもいく、つまり土着性の低い非常に機動力の高い軍隊だし。
305 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 00:40:34.96
>>304 戦国大名の軍隊は、土豪の寄せ集めだよ。
織田本軍は常備軍化していたが、征服して間もない丹波の兵は、
信長に本領安堵してもらった、旧領主の寄せ集めだ。
光秀は主君ではなく、あくまで上役。
306 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 01:36:29.40
>>300 そりゃ関ヶ原後だったらみんなそう言うだろw>私は騙されただけです
木食上人も「だって逆らったら何されるかわかんなかったんだもん!」
って家康に言い訳する書状送ってるし。
光秀の行動は当時の人間にとっても不可解だったからみんな秀吉についたんだろうな
307 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:53:54.06
小説やドラマだと、本能寺後の光秀って「ザ・憔悴」って感じに描かれるのが
定番になってるみたいだけど、実際はどうだったんだろう。
「やったぜ!!いける!!」的瞬間は無かったのか。
安土、長浜、佐和山を占拠した時あたりは「やっほーい!」状態だったかな?
309 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 08:32:42.45
>>300 石田三成は生け捕りされたため徳川家康の面前にも引き出され
結構史料が残っているが光秀は生け捕りできなかったことが最大の原因だろう
310 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 08:55:44.47
>>307 ドラマはたいてい私怨説だからな
私怨で信長を殺したはいいものの他の信長重臣たちに勝てる宛てもなく憔悴、って感じなんだろ
史実の光秀は朝廷に征夷大将軍を申請したり武将たちに号令下したりと
明らかに天下を取ったような振る舞いしてるんだが
申請するんなら別のものじゃね?義昭に将軍を辞任してもらうんじゃ時間かかる
312 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 11:14:23.92
>>311 光秀が本能寺の直後、娘婿である細川家に送った文書「明智光秀公家譜覚書」の中で
光秀は参内して従三位征夷大将軍になったという文章があるんだよな
実際に朝廷が光秀にこの地位を与えたかはともかく、光秀が征夷大将軍を望んだ、
あるいは朝廷に要請したことは事実なんだろう。
征夷大将軍の地位は朝廷が与えるものであるため、極端な話、足利義昭の同意などなくても
剥奪することは可能で、だから光秀はこのようなことを言ったのだろう。
>>312 一段落目から二段落目にちょっと飛躍があるかもね。
細川家に伝わったものでなく、安国寺にあったものなので。
まあガラシャ末弟経由の可能性がないでもないけど、
光秀の真筆と決まったわけではない。
いまだに光秀がなぜ謀反を起こしたのか容易に想像できない
信長が光秀に九州攻めまでやらせる気だったのは明らかでしょ
四国攻めから外されたくらいで、光秀がそれを誤解するかね
信長父子を同時に暗殺出来るからじゃね?
プラス、丹羽以外の軍団長レベルは地方で対陣もしくは占領地に入ったばかり
新規軍団の丹羽さえ何とかなれば畿内、狭義的には天下を取った事になるし
もうこのチャンス逃したら永遠に織田のいち武将だったろうし
勝算も自分勝手ながら存在したのかな。素人のゲーム的感覚だけど
光秀的にはまず、丹羽の軍団
次に柴田、羽柴は毛利に倒してもらおうとか
徳川は帰る途中死亡で、滝川は当分動けまいと
結局、丹羽軍団を吸収した羽柴軍団に負けるんだけど
毛利も切腹&講和直後に本能寺の変知るけど、秀吉に追討かけなかったしね。
追討なんてめんどくさいもんっ
一旦確約したものを守るべきか破るべきかは、為政者の判断が分かれる。
毛利は守って、豊臣政権の五大老になった。(関が原の戦いで定見がなく墜落したが。)
北条は破って、豊臣政権に滅ぼされた。(家臣は武田同様徳川へ召抱えられたが。)
約束は破った後で相手が生き残ると始末に負えなくなることがある。
小早川が追い討ちを制止
細川とか言いくるめる自信があったんだろうな。何か色々と自信過剰の病気に取りつかれたか光秀
当時、本能寺に従軍した足軽の日記には、信長を討つなんて聞かされていなかったとあるそうだが…
信長は光秀に謀反起こされるなんて夢にも思わなかっただろうし。
ワケワカンネーと思いながら切腹したんだろうね。
323 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 22:56:23.24
>>321 下っ端は家康を討ちに行くと、思い込んでいた。
324 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 22:59:46.38
あの時点で、信長が家康を殺す必然性がないと、大合唱していた人たちがいるが、
同時代人が、家康討ちの可能性を考えていたんだから、根拠が崩れるね。
信長が光秀に家康を討たせ、そのまま徳川領に侵攻させる計画は、本当にあったのではないかな?
あれだけ大宴会して京に行ったんだから家康の名前が浮かんだだけじゃね?京周辺にも敵いないし
信長の性格からしてそんな反則技ってあり得るの?信長は何か理由がないとめったにだまし討ちとかないでしょ。
327 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 08:01:26.49
その前に幹部連中は「これより上様の閲兵のために京に上る」
と触れ回っていたんでないの?
光秀もそのつもりだった。
それは在り来たりの閲兵ではなく天皇の御前の閲兵だったと。
帝の名をこのとき出さなかったのは憚りがあったから。
そのためのかっての馬揃えは予備練習だった。
戦場に向かう兵士への労い、
これこそがホンチャンの閲兵の名にふさわしい。
京に向かう光秀は生涯最高の高揚の気分にあった。
しかし、そこにはとんでもない地獄が待ち構えていた。
それが本能寺の自然な解釈じゃねえのかい?
そんなこんなの光秀君。
信長殺害後は天皇の居所踏み荒らし財産強奪。
前年には今の境遇は信長の恩によるものって書いてはいるけどな
とはいえ、この程度かフッとも書けないだろうけど
信長死亡までは少なくとも、秀吉も家康も織田家に敵対しようなんて思ってないだろうから
そんなもんではあるけど
330 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 13:18:44.74
>>327 だから、そんな史料がない。
だいたい夜中に閲兵などやるわけないし、いきなり本能寺を攻めろと言われて
閲兵気分の兵士たちが攻めるか?
当時の史料にあるのは「家康を攻めると思っていた」というのだけだから。
以前、本能寺の際の1万人の行軍の音を再現していたが、かなりうるさいものだった。
でも信長は逃げもせず、のんびりしていた。
本人も部下も、危機感なさ杉だろ…
いや、信頼なのか…
332 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 01:46:57.30
光秀軍が来たことは、当然、音でわかるよな。
自分の命令通り、光秀軍は家康を討つために京都に来た
と信長が思い込んでいたと考えれば、辻褄が合う。
京郊外で1万2千を包囲するように待機させ小隊程度で行動する計1千の軍でも向かわせれば
信長を討ち取るにはじゅうぶんなんじゃないか
>>332 信忠からの手紙で、信長は自分が上洛する前に家康が堺に行く事は分かってんだから「来なくていい」って連絡するだろ
当時の本能寺は城郭ですよ。
そして二条城(当時)に入っていた織田家家臣のうち何人かは脱出しています。
つまり、本能寺は包囲されていても、京都市内は包囲はされていなかった。
「殿!ここは我らが食い止めます!お逃げください!」ってドラマみたいにはいかないのね…
「殿!ここは食い止めてください!我々は逃げます!」
>「殿!ここは食い止めてください!我々は逃げます!」
wiki中国版ではそれに近いことを書いてるよw
信忠も信長を助けに行かなければ逃げ延びれたものを。
どちらか残ればお家は安泰なのが武家の習いなのにな。
織田家は天下統一しておらず信長の独断で政治・軍隊が動いていた
信忠に信長程の才覚があったとは思えず織田家分裂・同盟者離反で
武田勝頼の二の舞になって可能性はあるがな
織田信忠でも神戸信孝でも津田信澄でも、独裁権を確立してしまえば続行は可能だったと思う。
だが信忠は京都で光秀に、津田信澄は神戸信孝に大阪で、
そして神戸信孝は秀吉の擁した赤子三法師(織田秀信)に後継の座を奪われ、速攻で秀吉に攻められて殺された。
341 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:58:01.03
そもそも明智一万二千のソースはあるのか?
>>339 信長は天下を7割方抑えていたから、信忠で十分だったと思うし、離反しよう
にも正当な理由がない。信孝=勝家のラインはあり得るが、正統性に欠け
史実の賤ヶ岳以下の無残な結果になっていた可能性が極めて高い。
>>342 天下統一した豊臣家でも秀吉の死後あっという間に瓦解したぞ
(秀吉の死から関ヶ原までわずか2年)
知らんぷりで織田領侵略した徳川家康とか、信長が死んだら寝返る気満々だったろ
もともと新参外様が多い信長直臣たちは光秀でなくても独立夢見るものも多かっただろう
ほぼすべてが外様だった豊臣家家臣団のように
344 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 10:21:38.99
さっきBSでやった、本能寺の変の討論番組は、おもしろかった。
義昭黒幕説の藤田氏が出ていて、そっちの方へ引っ張ろうとするが、
事前謀議ではなく、信長を殺した後で、後付けの正当化に
義昭を担ぎ出そうとしただけという、義昭=白幕説に落ち着いたのが、
笑えた。
自称光秀の子孫の人も、録画で出てきたが、かなり軽い扱いだった。
やはり、四国問題で追い詰められた説が、正しそうだ。
信長が方針転換するのは珍しくないんじない?光秀が義昭を紹介した後もそうだったし
四国の事でショック受けるかね?
原因を一つだけに求めると迷走する。
藤田のは史料を都合よく解釈した上でのもので説得力全然無いしな
専門の学者なのになんであんな無茶なこと言い張れるのか理解に苦しむ
准教授、教授になると諌める人がいないから。
1万2千の大軍が来れば、もっと事前に京都の市民も察しただろうし、臣下も察したはず。
もともと、光秀は京都に来る予定だったんじゃないの?
350 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:57:53.64
>>345 単にメンツをつぶされただけじゃなく、斎藤利三の兄弟が長曽我部の養子にはいっている。
養子=人質だから、メンツどころじゃないよ。
本能寺は斎藤利三が一番動いたと書いている公家の日記があったはず。
実は、信長と信忠は互いに相手を討つよう光秀に内命を下していた。
両方から密命を受けた光秀は困り果て、ストレスのあまり両方とも殺すことにした。
光秀過大評価しすぎ。
信長も信忠も、そんなに光秀を信用してない。
だって織田政権でもっとも重要なこと○○を光秀は知らされていなかったんだよ。
フロイスが「織田家中でハブンチョ」ってのはリアリティーあるわ。
四国征伐軍がいるんだから、信長・信忠を打ち取ってもすぐ戦わなきゃいけない可能性あるよね。
やっぱり光秀の四国問題に端を発した決起と理解するのがいいのかな
354 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:22:05.10
四国問題なんて斉藤利三はともかく光秀にとってはたいしたことないだろう。
利三にしても、戦国時代なら血縁者と敵対するのはざらだ。
むしろ明智と稲葉家の二重在籍の方が深刻だ。
信長個人の潔癖性のみが原因じゃない。
この「二重主君」の問題は軍制上揺るがせにできないことだ。
斉藤利三のケースはそんなに稀なケースではない。
戦国大名から近世大名への過程でどこの大名でもあったんじゃないか?
もちろん『本能寺の変』遠因となりえる。
光秀「二重スパイもやれちゃう利三君、いいじゃないすかぁ〜」
信長「……」
よく言われるパワハラセクハラで積もり積もった恨みもあったし
あとは50代で焦りも出てきて己の中の賭けろって誘惑に勝てなかったんじゃないかな結局
長曽我部が織田の派兵前に降伏してれば交渉役だった光秀の手柄だよな
長曽我部の対抗勢力と秀吉は協力関係だけど、自分が行かされるのは秀吉の援軍
利三は隣でブツブツ文句言うし、煕子さん死んじゃうし、金柑頭だし
色々行き詰まってるな
明智ファン「光秀は名君、光秀がかっこいい、
光秀ほどの知将はいない」
めちゃくちゃ勘違いしてるな
思い上がりすぎだ
>>353 信長を討ってやれば、信長と敵対していた毛利や長宗我部は
皆光秀と同盟を組んでくれると楽観視してたかもしれんぞ
とにかくいろいろと楽観視しすぎた、しすぎた結果があれだろう
あまりにも馬鹿すぎて、こんなに無策に本能寺の変を起こすはずがない、
公家や将軍家の意向で信長を討ったのでは?という説が出てきてしまう。
それが光秀さん。
361 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 21:28:05.30
あまりにも馬鹿すぎて家臣の反感に無頓着で殺されたのが信長さん。
魔が差すような不用心な泊まり方をしてた信長も悪いわ。
謙信も上洛した時は少人数だったんじゃない?
364 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 07:44:48.46
でも謙信は殺されなかったよな
謙信殺して何が得られるのよw
366 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 11:09:10.52
謙信の上洛は、観光旅行みたいなもんだろ。
367 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 11:28:36.34
>>358 まあ佐久間さんを折檻した時に真っ先に
名前が出てくるくらいだし、当時相当功績があったのは確か。
368 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:19:09.43
>>365 逆に信長の場合は、殺しておいた方が日本のためだよな。
謙信2回目はそこそこの人数だよな。大人数で行ったらいくらくらいかかるのかな?下っ端は京の外で野宿かいな
371 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 22:46:47.87
宿舎には、お寺を使うのがデフォ。
信長が光秀を信用しきっていたことは分かるけど、光秀の面目丸つぶれに気付かなかったと言うのも、
ちょっと信じがたいミスに思えるけどな。
信長って最初は腰を低く贈り物とかして近づき、時期が来たら段々態度を厳しくして行く
って感じの外交をあちこちで、ずっと昔からやってるからな。四国も同じだし光秀も分かってると思ったかもな
やっぱり信長からは「またとない好機だから信忠を討て」と言われ、
信忠からは「信長を討て」と言われ、
思い余って両方とも殺したと言うのが納得がいくね。
愛宕の連歌会なんぞ行かないで作戦でも練らんかい
>>373 義昭を立てて上洛してから暫くとか傅きながら…ハッw老いぼれ足利がwとか呟いていそう
しかし世間体が気になり義昭を殺せない信長
>>377 そもそも信長は室町幕府を滅ぼす意思があったかどうか、そこからして疑問だからな。
信長は足利義昭から人質に取った嫡子(義尋)を出家させたが、普通なら義昭は
その後再度背いているので、殺す。それをあえて出家させ、保護したということは、
足利義尋を将来担ぐ予定があったと捉えられても仕方がないし、現にそういう説もある。
>>378 担ぐ予定があるなら秀吉が三法師にしたように自分の養子にでもしておくだろ
信長と義親子関係もなくただ出家させられただけの義尋を将来担いだところで
信長の言うがままになる保証が一切ない
将軍の子を殺すには値しないから出家させただけ
380 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 22:08:45.13
361
その信長さんより知能の劣る馬鹿今川義元wwwwwww
381 :
日本@名無史さん:2013/02/08(金) 22:31:14.66
360
中村とかいう無名の百姓に落ち武者狩りで刺されて殺されている
って想像するだけで糞飯もんの笑い話だろ?
普通明智ほどの名門に生まれているなら真剣勝負で
一刀両断だろ?明智の無能さを何より物語ってるだろ?
まだ言い訳するのか?
382 :
日本@名無史さん:2013/02/08(金) 22:43:17.03
無能な明智を引き立て、殺されてんじゃ世話ねえよなw
383 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:18:06.26
パワハラ上司が油断しまくって
簡単に殺せそうな場所で寝てたから
発作的に殺してしまったが
案外正解なのかも
384 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:21:17.10
中村とかいう無名の百姓に殺された
中村出身の無名の百姓上がりに殺された
ふむ・・・
385 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:29:32.98
信長ヲタが必死で光秀の悪口言ってるw
386 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 03:54:57.10
江戸時代までは農民と下級武士は同じで皆な姓持ってたし刀持ってた。
あの時代の百姓は落ち武者とはいえ鍛錬を積んだ武士すら討ち取るほどの武装勢力的側面も持つ。
刀狩前だからね。
大将なのに城で潔く死ななかったからこんな武士としては情けない最期になった。
三成曰く「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」。
死ぬのは容易いが生きていれば再起を期す事も出来る。
390 :
日本@名無史さん:2013/02/10(日) 18:59:25.09
信長を排除しただけでも偉業
>>389 あそこまでボロボロだと再起っていっても…
孟子曰く
天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず
人>地>天、て事で
絶好のチャンスだからといって飛び付くのはどうよ光秀さん
>>391 三成はもっとボロボロで下痢でも名言吐いたんだから。
三成は光秀よりもまだチャンスあったはず、生き延びれば。
まだ大阪の陣以前だし。
光秀死んだ時は孤立無援に近い。
>>394 光秀は言うほど孤立していない。室町旧幕府州及び有力公家が多く光秀方に
ついている。最も、光秀に味方した連中は戦後ほとんどが三族皆殺しになり、
その数十万前後と言われるけどね。
秀吉と一戦構えてるのに、戦で頼りにならない奴らばかりw
>>396 本能寺の変は旧勢力の抵抗みたいなもんだったから、光秀は旧勢力には
人気があった。結果的にはその旧勢力は完全に淘汰されることになるが。
ある意味、江戸時代が安定したのも、公家勢力を始めとする旧勢力の多くが、
この本能寺の変と後の秀次事件で族滅し、跡形もなくなったことが大きい。
例によってトドメは家康さんです…
>>397 > この本能寺の変と後の秀次事件で族滅し、跡形もなくなったことが大きい。
その前に信長の功績がある。
>>399 信長は敵対勢力は滅ぼしたが、積極的に敵対していない旧勢力は意外と手を
付けていない。その点は秀吉の方が徹底的にやった。
自説では、信長は基本旧勢力と仲良しこよし。
旧勢力衰退のきっかけつくったのはむしろ光秀。 これダメ?
>>401 信長は敵対しない旧勢力とは妥協した。だが、やはり新しい政策が旧勢力の
反発を食らったのだろう。彼らは光秀と組んで信長を除き、光秀とともに三族
皆殺しとなった。
上京は銭を差し出さないから焼き討ちされているね
同じように一度拒否した堺は焼き討ちされなかった
説明してみて
やや割り込みになっちゃうかもだけど…
>>403 上京の状況は 銭出さない=義昭の味方 だからじゃね?
で
>>402 信長の新しい政策が旧勢力の反発食らった具体例教えてちょ
意外となくね?
>>404 一番大きいのは、信長は正親町天皇をないがしろにし、誠仁親王を事実上の
天皇として扱ったことだろうね。これで反発を食らい、本能寺の変となったと
いう説も相当有力。
但し、明智光秀も遂に誠仁親王は殺せなかったようで、本能寺の変で最後は
御所に移動できた。
ちなみに、信長は再三正親町天皇の退位と、誠仁親王への譲位を迫っている。
これは相当有力公家に反発を買った。反発した彼らが光秀の信長抹殺を支援
した。そして光秀が滅ぶと何百家が六条河原で三族皆殺しとなった。
>>404 >信長は基本旧勢力と仲良しこよし
いや、これへのレスだから 「銭出さない=義昭の味方」だったら堺も義昭の味方になるんじゃねぃ?
それはそれとして、陰謀論者の登場で一気に糞スレ→過疎化の流れになりそうな悪寒…
過疎化阻止の志は全く無いけどちょっと一言。
そもそも上京が焼打ちされたのは「銭出さなかったから」じゃないでしょ。
焼打ちまでの経緯いろいろ
義昭の命に乗っかり上京民が信長の建物壊す、それでも信長は義昭に許しを請うが拒否される、などなど。
銭を出した下京は焼き討ちを免れたんだけど?
ごちゃごちゃ理屈を付けるなら、上京は撤回して尼崎でいいよ
尼崎だったらググらなきゃ何の知識も無い君でも本論から外れずに会話を進められるだろ
>>360 2/17に岐阜市で「本能寺の変」公開討論会が、あったようです。
1 :春デブリφ ★:2013/02/19(火) 00:47:33.24 ID:???0
岐阜市ゆかりの戦国武将織田信長について考える「信長学フォーラム」(市主催)が17日、
同市橋本町のじゅうろくプラザで開かれ、作家や研究者らが「本能寺の変の真実に迫る」を
テーマに意見を・・・・・・・・・・・
【岐阜】「本能寺の変無かったら大阪が首都になっていただろう」の意見も…明智光秀謀反の理由で激論 岐阜でフォーラム★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1361202453/
>>405 正親町天皇は新興の信長を右大臣にまでするなど信長に協力的。
信長は誠仁親王に御所を献上するなど接近を図った事実はあるが
誠仁親王自身、正親町天皇の実子であり、父をおろそかにできるわけではない。
ちなみに正親町天皇は本能寺の変で死んだ織田信長・信忠親子の菩提を弔うため
勅願寺まで建てている。
>>411 怨霊をびびったからでは?
ということは真犯人は・・・みっちー?
413 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 02:05:23.72
光秀 天海説は嘘
武将(現代でいう軍事司令官)で120歳まで生きたやつはいないし
相当ストレスの強い役割だから間違いなく長生きできない(せいぜい80歳くらい)
妻 ひろ子は病気の光秀の為に髪を売って資金を工面した、
病気の人間が120歳まで生きれるとは到底考えにくい
90歳以上の武将たち
北条幻庵、龍造寺家兼、国司元相、一栗放牛、多羅尾光俊、三好政勝…
間違いなくとか簡単に言うなよ。こいつらみたいな化物もいるんだから。
上にも書いてある通り病気だったし
信長のもとで競争もあって叱咤も受けてストレスの強い環境なわけだし
主君殺しの汚名を着たまま逃亡して120まで生きるとか
相当なストレスになるわけだし光秀が絶対120まで生きるのは
無理 よって天美は完全に嘘
自分で天下とろうとした光秀が
家康の忠実な犬になどならないと思うよ
中村郷の下層民の子弥右衛門の子供秀吉に負けた
足利幕府に仕える奉公衆明智光秀wwwwwww
武官官僚がたかだか下層民に負けるなんてwwwwwwwww
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
419 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 00:30:13.70
>>417 いや、お前のいう通りだ。
そんな間抜けに寝首かかれた信長もどんだけwww
そして信長に負けた奴らもどんだけ〜
養子縁組でもないのに継父となっている時点で氏素性確かな者ではないわ
氏素性なんて武士と称する者も百姓も変わらんよ
自称詐欺のオンパレード
確かなのは公家と皇室くらいだ
422 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 08:37:58.42
>>420 ほんとうに信長がアホすぎて笑えますね。
他の武将もアホだけど信長の末路の惨めさと来たらw
423 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 08:39:01.27
>>418 あちこちに連投が酷い。
・秀吉の史料初見は29歳の時の安堵状。29歳まで何をしていたか確認できず。
安堵状から当時、堀秀政と同程度だったという根拠なし。
・津田や木下は織田家の親類ではない
・公記の秀吉初登場はもっと後
・太閤記は嘘だと決めつけるのに同じ軍記物の信長公記は信じろという矛盾
・ルイス・フロイス「日本史」に「関白は貧しい百姓の倅」の記述
フロイスの日本史なんて糞史料じゃん
キリスト教保護の人間だけマンセーするカスっぷりだし
小牧長久手の記述とか戸木も浜田も河波も神戸も長島も桑名も松ヶ島もしっかり残ってるのに
伊勢一国制圧したとか秀吉の捏造歪曲情報をそのまま記述したりしてるし
京以西の秀吉の捏造情報をそのまま史料にしてたりするし論外
そもそも信秀期の織田家臣の一次資料なんて数えるくらいしかないし
仮に秀吉の父が織田一門の重鎮でも史料になんか残らんわさ
>>秀吉の史料初見は29歳の時の安堵状。29歳まで何をしていたか確認できず。安堵状から当時、堀秀政と同程度だったという根拠なし。
それ以前に秀吉が低い身分だったなんて根拠は一切なし
さらに領土安堵状は丹羽も名を連ねているし一定以上の身分の物しかそもそも任せられない
木下雅楽助は織田の親類衆
あと秀吉の素性どうこうは完全に太閤記の講談ネタ。
つうか秀吉の逸話なんてすの俣一夜城とか金ヶ先の退き陣とかほとんど太閤記のデタラメ逸話ばっかりだから
今更一々疑う必要性すらない。一次資料にないどころか同じ軍記系列の信長記ですら初登場は
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし
氏素性書いてないって織田家臣団なんて皆書いてねーじゃねーか
つーか織田家家臣団の貫高を一々記載した織田家公式の記録自体が存在しない
そもそもそういうのは軍記とか由緒書とかにちょっこっと書かれるくらいが普通で
小田原所領役帳とか信雄分限帳みたいな物がない限り不明なのが実態
sa
丹羽氏次とかも数千貫レベルの領主なんだが信長時代の記録には全く載ってないしな
石田の毛利広盛とかも同
>>424 ルイス・フロイスは岐阜城の記述がかなり一致していたはず。
自分は見ていない伝聞はかなりあやふやなところもあるが、
実際に会った信長家臣団についてはかなり正確。
ちなみに明智光秀は幕府の家臣だったという近年有力な説も
ルイス・フロイスの「日本史」が出所ね。
「信長公記」を一次史料にしている人が言ってもw
あと、29歳以前の秀吉が低い身分だったという史料はないと言っているが
高い身分だとも言っている史料はもっとないから。
>>425 信長公記なんてただの軍記物だし、秀吉の初登場は30代じゃんw
そんなものを持って秀吉の生まれが良かったとはいえん
木下雅楽助が豊臣秀吉の親戚だという史料は?
苗字が一緒なだけの他人でしょ。
秀吉が織田一門なら秀吉には譜代の家臣がいたはずだからね。
信長公記は間違いもあるが太閤記よりは遥かに信憑性あるからなあ
あと日本史の記述の一致って例えば?
初登場で既に高い身分だったんだから元々そこそこ高かったと考えるのが妥当でしょ
織田家臣なんて一門優遇だし
秀吉は前野や蜂須賀ら河波衆と個人的なつながりがあり彼らが秀吉譜代家臣でしょ
後に仕えることになる福島加藤とかも尾張(or美濃)出身者が多いのも
秀吉に元々仕えていた家系からの関係で仕えたと考えられるし
フロイスの日本史はキリスト教傾斜と京以西の秀吉の捏造情報がそのまま書かれてるからなあ
初期の頃の記述はともかく小牧長久手の記述とかデタラメもいい所だし
キリスト教保護の人間だけマンセーするカスっぷりだし
小牧長久手の記述とか戸木も浜田も河波も神戸も長島も桑名も松ヶ島もしっかり残ってるのに
伊勢一国制圧したとか秀吉の捏造歪曲情報をそのまま記述したりしてるし
京以西の秀吉の捏造情報をそのまま史料にしてたりするし論外
そもそも信秀期の織田家臣の一次資料なんて数えるくらいしかないし
仮に秀吉の父が織田一門の重鎮でも史料になんか残らんわさ
譜代といっても当時の織田軍団で重鎮とされてた武将達も名の通った武将達は基本与力が付けられてただけだしな
当時織田家は軍閥化が進んでいなくて与力制をとってただけだし
秀吉の場合だと木下・前野・蜂須賀・河波衆やその後秀吉に仕えることになる福島加藤ら尾張出身の連中がそれに当たるんだろう
そりゃそうだ。美濃攻略前の1566年ですでに丹羽と並ぶくらいの領土安堵状出すような立場でいながら
譜代家臣が秀吉だけいないとかないわな。
同じくフロイスの日本史によって信長によって抜擢されたと書かれてる光秀も同様にデタラメ
光秀は足利義昭の姉婿の若狭の武田義統の姉妹を母にしてたし、信長公記にも光秀は朝廷と強い繋がりがあったと記され朝廷工作に必要な人材だったわけで
義昭配下の幕臣だった細川幽斎や和田惟政と光秀は同じ立ち位置。信長の抜擢もクソもねーじゃん。
訂正 若狭守護武田義統の妹は光秀の妻ではなく母のお牧の方。
光秀の正室は不明。ガラシャを生んだ継室も出自がよくわかってない。
ただ細川家とガラシャは婚姻してるのでいずれにしても身分は高かったと言われてる。
>>432 >キリスト教保護の人間だけマンセーするカスっぷりだし
キリスト教宣教師の報告書なんだから当たり前だろう。
一次史料っていうのはそういうバイアスを補正して読むもんだろう。
>>431 さすがに太閤記と比べて信憑性あるってのは、いうだけ馬鹿げているというか…
秀吉は武家出よりサンガ出説の方が支持したくなるなー。やたら広い人脈やら6本目の指を幼少期に切除しなかった事やら
武家出なら物心つく前に切ってたかもしれん
秀吉が底辺から出たとか光秀の場合と同じで講談小説家が書いただけだからなぁ
光秀だって
>>435みたいに底辺から抜擢されたとか捏造されてるし
むしろ織田家臣なんて譜代系・一門優遇っぷりが凄くて信長晩年に佐久間林水野らを粛清しただけで反響で
離反が出るようなもろいものだったし
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
なぜ一定以上の地位に居たことにしたいのかわからんね。
ソ連人か何かかw
間違いない証拠といえる証拠は無し∴氏素性も知れぬ者と解して何ら問題無し。
終わり。
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
初登場で既に一軍の指揮官だったり領土安堵状を重鎮とともに出してる人間が素姓しれない人間だというなら
織田家臣なんて皆素姓しれない連中ばかりなわけで。
織田はおろか他家の武将とかも同じだが
弥右衛門も継父の竹阿弥も素性がはっきりしないでしょう
系図てのは一つ一通りで諸説あるとかそんなんじゃないしそんなんなら確かとは見られないよ
足軽が百姓やっててもおかしくないので、フロイスが間違ったとも言い切れなす
そもそも秀吉の父が弥右衛門とか継父が竹阿弥とか完全に糞講談じゃん
448 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 23:43:26.81
フロイスの言葉を全部鵜呑みにするのもどうかと思うが
449 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 08:53:13.36
>>443 しつこい奴だな。しかも、年齢を書かずに「初登場」と書いて
秀吉の幼少期からの史料があるように捏造。
安堵状のときの秀吉29歳。それ以前の素性を表す史料を出せ。
信長公記では秀吉は30代半ばからしか登場しない。
秀吉が信長の親戚なら35歳のときの浅井攻めで
未だに城の一つも持たず信長の小隊の一つの長として
自ら険しい野山を歩き上って攻めていること自体
おかしいことだと思わんのか
>>年齢を書かずに「初登場」と書いて秀吉の幼少期からの史料があるように捏造。
意味不明
>>安堵状のときの秀吉29歳。それ以前の素性を表す史料を出せ。
そんなもん織田の重鎮とされてる武将達も同じで氏素性書いてないって織田家臣団なんて皆書いてねーじゃねーか
つーか織田家家臣団の貫高を一々記載した織田家公式の記録自体が存在しない
そもそもそういうのは軍記とか由緒書とかにちょっこっと書かれるくらいが普通で
小田原所領役帳とか信雄分限帳みたいな物がない限り不明なのが実態
>>信長公記では秀吉は30代半ばからしか登場しない。
だからこそはじめからある程度高い身分だったとみるべき
>>秀吉が信長の親戚なら35歳のときの浅井攻めで未だに城の一つも持たず信長の小隊の一つの長として自ら険しい野山を歩き上って攻めていること自体
>>おかしいことだと思わんのか
同じく長島一向一揆で直接的に危険の戦線に立って討ち死にした織田一門やら
前線でまくってる津田信澄やら信包・信孝・信忠やらの例があるしむしろ逆に信長の縁戚だからこそ重責をまかされていると解釈可能
織田家は一門優遇っぷりがひどく
秀吉が初めから丹羽と同じような高い身分だったのも浅井戦で指揮官なのも前野・蜂須賀・川並衆・福島・加藤など尾張に譜代が多くいるのも
織田家の一門(親類衆)だったとみれば自然にわかりやすく解釈できる
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
初登場で既に一軍の指揮官だったり領土安堵状を重鎮とともに出してる人間が素姓しれない人間だというなら
織田家臣なんて皆素姓しれない連中ばかりなわけで。
織田はおろか他家の武将とかも同じだが
秀吉が底辺から出たとか光秀の場合と同じで講談小説家が書いただけだからなぁ
光秀だって
>>435みたいに底辺から抜擢されたとか捏造されてるし
むしろ織田家臣なんて譜代系・一門優遇っぷりが凄くて信長晩年に佐久間林水野らを粛清しただけで反響で
離反が出るようなもろいものだったし
454 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:19:28.41
>>448 しかし、ルイス・フロイスの日本史を否定する史料は
どこにもないんだよね。
都合の悪い史料は信憑性がないと言って無視
軍記物の信長公記は信用(秀吉初登場は30代半ばなのに
若いころから秀吉は一軍の大将だったって捏造でしょw)
455 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:22:07.62
>>453 お前、一次史料読んだことないだろ。
ルイス・フロイスは明智光秀はもともと細川家に仕えていたと書いている。
低い身分から信長が抜擢したなんて書いてないしw
とんでもない捏造だな。
>>454 フロイスの日本史は秀吉関連の記述はどれもデタラメだな
・小牧長久手の記述とか戸木も浜田も河波も神戸も長島も桑名も松ヶ島もしっかり残ってるのに
伊勢一国制圧したとか秀吉の捏造歪曲情報をそのまま記述したりしてる
・小牧長久手の合戦の時家康が岩崎城その他数城の城主に偽りの降伏をさせ、秀吉が彼らの降伏を信じて軍を派遣したら家康はそれを待ってましたとばかりに騙まし討ちにした
・本能寺の変後の毛利と秀吉の和睦条件が、太閤記とか軍記と同じく「秀吉に有利な条件」となっている(実際には毛利にめちゃめちゃ有利な条件だった)
>>軍記物の信長公記は信用(秀吉初登場は30代半ばなのに若いころから秀吉は一軍の大将だったって捏造でしょw)
偽りの多い軍記物とはいえ太閤記みたいな糞講談と違ってそれなりに学者が引用したりするし
そもそも一次史料でも1566年時点で丹羽と並んで領土安堵状出すような身分だったわけで。
56章の始めに
彼はもとより高貴の出ではなく信長の治世の初期には〜信長の寵愛を受ける事となり…のくだりだな
459 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:12:24.08
安堵状や信長公記に秀吉の出自はどこにも書いていないのに
秀吉の30代半ばの活躍を書いては「30代半ばで一軍の大将になれる奴は
信長の親類だけ」などと嘘を書く。
で、秀吉の出自をはっきり正確に書いた一次史料は見つかった?
太閤記やルイス・フロイスを完全否定できる一次史料を提示しろよ。
なんで太閤記やらフロイスやらの糞講談を否定するのに一々史料がいるのか不明
最初からそんなもんソースにならんわw
脚色したり意図的に事実を捻じ曲げたり(朝鮮出兵の年次レベルの間違いみたいな)するのが軍記
そんなもんを一々否定するのにソースなんぞいらん
462 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:33:24.16
>>460 おたくの出してきた「信長公記」w
これも軍記物でありおたくの言うところの脚色したり意図的に事実を捻じ曲げた糞講談で
一次史料にならないことぐらいいくらおたくの疎い頭でも分かるよね?
結局、秀吉の出自を表す一次史料は結局出せないじゃんw
463 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:36:22.67
「信長公記」にも秀吉の出自は一切書いてないしなあ
何のための引用か意味不明w
464 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:40:30.56
>>456 嘘書くな。秀吉の史料初出は1569年の安堵状。
秀吉の名で土地を発給していることから幾ばくかの所領を持っていたことは確認できるが、
この時点での秀吉の地位が堀秀政と同等とか丹羽長秀と同等などと書くのはお前の全くの捏造。
この史料から分かるのは秀吉が当時、信長から幾ばくかの所領を得ていたということだけ。
秀吉が初めて城を持つのはもっとずっと後。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
466 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 14:11:48.28
秀吉の安堵状が見られるのは30歳過ぎてからで、
すでにそれまでに清州城建設・墨俣城建設などで功績をあげているのだから
取り立てられもしているだろ
逆に太閤記にある秀吉の清州城建設・墨俣城建設はすべて出鱈目で
秀吉がいいところのボンボンだったから
取り立てられただけという理論のほうが無謀
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年(1565年)11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
>>秀吉の安堵状が見られるのは30歳過ぎてからで、
1565年ですでに30とか嘘もいいとこだな
>>すでにそれまでに清州城建設・墨俣城建設などで功績をあげているのだから
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談
>>取り立てられもしているだろ
最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
>>逆に太閤記にある秀吉の清州城建設・墨俣城建設はすべて出鱈目で
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
>>秀吉がいいところのボンボンだったから
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
秀吉の三大デタラメ
○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ
○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ
○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
古来氏素性の確かな者が時勢によって帰農することはよくあること。
百姓が武士になり武士が百姓になっていたんだよ。
江戸時代で頭を固めるな。
江戸でも百姓から士分になることは稀にあったがな。
士分株とか郷士株とか売買してたしな
477 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:21:32.52
秀吉はいいとこの出身と連投している奴って
あちこちで長文連投してた馬鹿だったのかw
過去のコピペを繰り返し貼って質問に答えない基地外
478 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:23:08.53
>>469 おやおや。
6月10日付の安堵状は年号が入っておらず、1165年とは断定されてないぞ?
内容などから1165〜1168年頃と推定されているだけ。
都合のいい年号で決着付けるな。
479 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:27:01.72
>>最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
だから、秀吉の生家は丹羽と同レベルの家だと書いてある一次史料を出そう。
>>太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
だから、おたくの提示している信長公記も同レベルw
>>1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
>>信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
>>秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
>>秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
信長公記初登場の秀吉の年齢言ってみろw
秀吉は信長の親類だとかいてある一次史料が一度も出てこない
加藤や福島は秀吉のいとこ・またいとこだろ
前野蜂須賀川並衆堀尾も、秀吉を主君として代々仕えてきた累代の家臣じゃないぞw
480 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 16:28:54.38
エンドレスで候
482 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 23:32:55.63
秀吉の出自だが、農民どころじゃないよ。河原者、非人の出身であることが、ほぼ定説になりつつ
あるよ。詳しくはURL先の本を参照のこと。
河原ノ者・非人・秀吉 [単行本]
服部 英雄 (著)
http://www.amazon.co.jp/河原ノ者・非人・秀吉-服部-英雄/dp/4634150212/ref=cm_cr_pr_product_top
内容紹介
差別に耐えながらも社会の重要な役割を担い、誇りを持って生きてきた人びと。中世の被賤視民を対象として差別の歴史を叙述。
フィールド調査と史料の読み直しによって、被差別民の新たな活動と役割を明らかにする。また、非人の世界に身を置きながら
関白にまで昇りつめた秀吉を賤の視点からとらえ直す。秀頼非実子説にたって、関係史料を見直す。
単行本: 711ページ
出版社: 山川出版社 (2012/05)
ISBN-10: 4634150212
ISBN-13: 978-4634150218
>>482 全部引用してる史料が豊鑑をはじめ江戸期の講談史料ばっかだから論外
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
>>6月10日付の安堵状は年号が入っておらず、1165年とは断定されてないぞ?
>>内容などから1165〜1168年頃と推定されているだけ。都合のいい年号で決着付けるな。
信憑性は愛知県史資料編編纂委員の見解>>>>>>お前の妄想だしそもそも之以前でも1565年に安堵状出してるし
>>だから、秀吉の生家は丹羽と同レベルの家だと書いてある一次史料を出そう。
領土安堵状で丹羽と名を連ねているしそもそも美濃攻略前の秀吉の所見史料で名前が見られる
(領土安堵状は丹羽柴田佐久間など重鎮連中しか出していないしそれどころか普通は大名レベルでないとなかなか見られない)
>>だから、おたくの提示している信長公記も同レベルw
信憑性は信長公記>>>>太閤記で太閤記は糞講談、信長公記は誤りも多いとはいえ一応一次資料
>>信長公記初登場の秀吉の年齢言ってみろw
だからこそ元々高い身分だったといってるわけで。低い身分から抜擢なんて全く書いてないわけで。
>>秀吉は信長の親類だとかいてある一次史料が一度も出てこない
津田や木下は織田の親類衆
>>加藤や福島は秀吉のいとこ・またいとこだろ
根拠不明。後秀吉の家臣に尾張組が多いことの例として出しただけなのでいとことかどうとか関係ない(そもそも叔母の子であるからといって抜擢する理由にはならないし
堀尾や中村前野蜂須賀など叩き上げ系が悉く尾張出身なので尾張時代にある程度基盤を持ってたとみるべき。)
>>前野蜂須賀川並衆堀尾も、秀吉を主君として代々仕えてきた累代の家臣じゃないぞw
彼らが秀吉が大身になってから使え始めたものではない事はアホでもわかる
(尾張時代から既に織田では重鎮しか出さない領土安堵状出すほどの身分だし)
元々尾張に基盤がありそれゆえ尾張出身者の家臣が多く世に出たと見るべき。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
秀吉は最低でも1565年時点で3000貫レベルの領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
489 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 00:19:42.26
明智家ってお奉行さんなのに水飲み百姓に滅亡させられたんだからな
これは明智側の得意な言い訳不可能な事実なわけだし
大体百姓なんかに戦で負けて(ここまではまだわかる)命まで奪われるってどれほど
赤っ恥なことか名門智側の馬鹿は理解してるのか?
農民に殺されたって言っても元ネタは明智軍記だし。あんまあてにはならん
491 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 05:15:15.84
そんな明智を登用して殺されてりゃ世話ねえなw
492 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 07:10:55.31
百姓(秀吉)>百姓(長兵衛)>光秀>信長>武田勝頼>浅井朝倉>林佐久間
なんか勘違いしてるけどさ
武士とか名家ででもなんでもないよ
武士のあれって元々奴婢とか蝦夷のやる事だからさ
それか良民が渋々やってた
よくやったと言われるべきは外国からの防衛で戦った九州くらいのものだね
他の国内の戦は私利私欲の私戦でさ
何も生まない穀潰しの賊と変わらないろくなものじゃない
維新後にお国のための功あった武士は誇って良いけど
武士は本当に先祖代々武士なら百姓(良民)より下
名家と言えるのは皇室と公家だけです
494 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 01:55:50.92
光秀が百姓に殺されたのを認めたくないから
「秀吉は百姓じゃなかった」「明智軍記はウソ」と
言い訳を重ねる明智ファン
>>494 お前「百姓=農民」とか思ってるだろ。だから話がズレとる
496 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 07:02:31.52
明智ファンでもないし光秀がふがいない最期をとげたことくらいわかるが、
おまえは信長が悲惨な死に方したことを認めようとしないよねw
497 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 07:37:34.26
総ては汚物肉便器三枝夕夏のせい
498 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 14:44:18.58
>>488 馬鹿だな。
丹羽佐久間柴田豊臣は皆同じ階級の出身だという一次史料を出せと言っているのに。
何度言っても出してこない。
そして秀吉が30歳前後の1960年代後半に信長から3000貫程度の領地を与えられた
小領主であったことを持って、秀吉はもともとこの階級の出身だったとしつこく言う
信長自身、もともとの出自より1960年代後半のほうが領地を広げているんだよ
尾張を統一し、信濃を手中におさめ、市を北近江の戦国大名に嫁がせている
なのに秀吉は父親の代から持っていた領土を維持していただけで一切出世はしていないというほうが無理
499 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 14:47:26.45
>>487 秀吉がもともと立派な家の出ならもっと父親の史料が残っているはずだよ
しかし秀吉の父親が木下弥衛門という名であることすら
「太閤記」にしか載っていないんじゃないのか
木下は信長の親戚の苗字、だから秀吉は信長親族というお前の無茶苦茶な仮説は否定される
太閤記を否定するのだから秀吉の父親の苗字や姓は一切不詳だ
秀吉の父親が木下だったっていうネタ元は「太閤記」じゃなくて「太閤素性記」
ただし、これもつじつまが合わない記述があると言われている
それでもって秀吉が百姓だったっていうネタ元は「太閤素性記」と、あとはフロイスか
結局、秀吉の出自は謎ですな
502 :
日本@名無史さん:2013/03/11(月) 02:28:04.07
信長にくらべれば光秀も秀吉も家康もかわいいもんやな
よかったな
503 :
日本@名無史さん:2013/03/15(金) 01:23:16.74
光秀って武士に生まれて兵法や戦のイロハを学んでおきながら、
なんの戦の教育も受けていない秀吉なんかに負けるって
凄い名将だなwwwwww。
>>503 その論法だと柴田勝家をはじめとした織田系武将はもちろん
島津や毛利、北条などの大大名も「凄い名将(笑)」になるけど?
>>光秀って武士に生まれて兵法や戦のイロハを学んでおきながら、
根拠なし
>>なんの戦の教育も受けていない秀吉
根拠なし
しかも山崎の戦いは2.5倍の兵力比&光秀方は京を山崎を守るため不利な布陣を強いられてたにもかかわらず
被害は秀吉のが多かったから戦闘能力は明らかに光秀>>>>>>>秀吉
(ランチェスターの法則でいえば2.5倍も兵力あったら被害差は6.25倍になるはず)
対柴田戦においては撤退中の佐久間盛政・柴田勝政を背後から圧倒的大軍で襲撃したら逆に反撃くらって撃退され
圧倒的規格外の兵力差で前田不破金森らが兵をひくまで均衡崩せず
対毛利戦では熊見川で3000ぶち殺され山名氏政にも負け美作攻防では補井田元清らにぼこぼこにされ
対北条戦では235000もの圧倒的兵力でわずか34500の北条に対し緒戦の駿河伊豆国境での攻防でボロ負けし
伊豆韮山500に大苦戦し小田原1000や忍城1000に手も足もでず一柳堀尾嫡男前田重臣依田平岩弟を戦死、氏家行継負傷で
米20万石も用意しながら豊臣方は兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる始末
柴田、明智、北条、毛利>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見・天正大地震
による領国崩壊でめちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の太閤記とか豊臣秀吉譜等の糞講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
秀吉の逸話なんてほとんど講談デタラメばっかだしな
すの俣一夜城・金ヶ崎の奮戦・城攻めの名人etc
農民出だとかも同様に太閤記の糞講談の影響と考えるのが妥当だと思う
秀吉家臣だって尾張出身者だらけだし普通に秀吉が尾張時代から一定以上の地位にいたことの裏づけになるだろ
(まあ丹羽と同じ立場で領土安堵状出すくらいだから当たり前だが)
しかし秀吉が生まれた頃は尾張は激動の時期だからねえ。
秀吉は最低でも1565年時点で3000貫レベルの領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。
寡兵なのは信長側だよ
明智ファンは馬鹿で言い訳がましい
本能寺の変で兵力差100倍もあったのに言い訳しない織田
対して山崎で負けたのは2.5倍の兵力差が何とかと言い訳しかしない
明智ファン
織田信長は織田家当主だから動員兵力30万
光秀は丹波と坂本だけだから12000程度
明智が30万人に勝ったとか自慢したい馬鹿がいるからな
なんで本能寺の変とか言うか考えろよ
あれは戦じゃないわけ
地方に兵力分散してて本能寺にばっか数を集めるわけには
いかないだろう
細川・筒井って本来明智の味方であるはずの
連中の頭数を明智軍に入れれば決して秀吉軍
に引けを取らない兵力になるはずなのに
明智ファンじゃないけど、本能寺の変で兵力差100倍の状況を作った信長がマヌケすぎるってことだろ。
戦争なんて数が圧倒的に物をいうからね
特に野戦だと2.5倍程度でも、実際の会戦では6.25倍の戦力比になって影響が現れる
「2.5倍の兵力差が」これがちゃんとした兵法の教育を受けた光秀
(明智氏は家紋もある足利の奉行さんだから兵法の教育を受けていない訳がない)
が何の兵法の教育も受けていないたかだか水吞み百姓の息子に
負けることがおかしいだろ?2.5倍の兵力差があろうがなかろうが
そんな無教養な人間に勝てる見込みはないわけじゃないし
そんな言い訳で負けたことを言い訳する光秀はやはり馬鹿だな
>>493 戦国の世でも一概に武家>>>>農家とは言わないと思うが、
明らかに明智のが木下より上の家柄なのは
絶対間違いないわけ(家紋の有無 財力軍事力的な観点から見てもね)
明智光綱は斉藤氏のお家騒動で斉藤道三の余力になれるほどの軍事力を有していたわけだし
足利の奉公衆だったわけで財力もないわけじゃない
それに対して木下は水吞み百姓とか鍛冶屋とか言われる
織田家の「傀儡」とかいう話もあるし
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり
美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
>>「2.5倍の兵力差が」これがちゃんとした兵法の教育を受けた光秀
根拠なし
>>(明智氏は家紋もある足利の奉行さんだから兵法の教育を受けていない訳がない)
足利の奉行と兵法の教育の何が関係あるのか意味不明
>>が何の兵法の教育も受けていないたかだか水吞み百姓の息子に
秀吉は木下だから織田一門だろ。しかも1565年時点ですでに領土安堵状出すほどの重鎮だから「兵法の教育うけてないわけがない」
>>負けることがおかしいだろ?2.5倍の兵力差があろうがなかろうが
誰が率いようが兵力比2.5倍で光秀側が山崎を守る形での不利な布陣だから負けて当たり前。
ランチェスター法則でいえば兵力比2.5倍のなら被害差は6.25倍になるはずだが実際の被害差は秀吉のが多かったから
明らかに戦闘能力は光秀>>>>>>>>>秀吉
>>そんな無教養な人間に勝てる見込みはないわけじゃないし
秀吉が無教養な人間なんて根拠なし
>>そんな言い訳で負けたことを言い訳する光秀はやはり馬鹿だな
言い訳も糞もない。6.25倍の被害差になるところを実際には秀吉軍のが被害大きかったから
光秀は秀吉より6.25倍以上戦上手
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
>>521 信光、信時、坂井氏、小坂氏あたりとはどういう関係だったんでしょうなあ。
秀吉が若かりし頃、木曽川流域の守山や春日井の辺りでかなりゴタゴタしていたはずだけど。
肥後細川家や筒井氏には裏切られ
敵方の豊臣側へまで寝返られる馬鹿光秀。
終いには、最愛の娘ガラシャまで細川に
見殺しにされ西軍の生贄にされてしまう。
間抜けの度を通り越してるな。
526 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 11:23:12.00
明智は織田政権で散々悪いことをした悪人
だから山崎で殺されようが擁護する必要なし
虐殺者信長を殺したんだから英雄じゃね
秀吉は水のみ百姓どころか賎民出身だよ
織田家に仕えるころにはある程度の金をもっていた
秀吉は最低でも1565年時点で5000貫レベルの領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
下野村(現在扶桑町)のある尾張国丹波郡は、今ではなんてことないと思える位置にありますが、
戦国時代は春日井郡西部から、海東郡、海西郡と喫水の湿地帯と荒野が広がっており、
交通不便な土地だったため、丹波や犬山の辺りは交通の要所になっています。
春日井郡西部から、海東郡、海西郡の平野は江戸時代に入って作られた新田です。
宮から三里渡しの津島湊へ行く佐屋街道も江戸時代初期に作られました。
(その前に家康も大坂夏の陣へ向かう時に使っているが)
ちなみに河野島(兼松正吉・佐々平太のケース)も当時は木曽川(境川)の左岸だった。
だから1560年代には木曽川下流左岸の有力者であったのは間違いない。
不思議なのは最初の記録が安堵する側なこと。
なにか特別な事情があると思われるが、資料がなくて検討不能。
531 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 09:12:54.80
羽柴軍(約4万0000) 高山右近・木村重茲:2000
中川清秀:2500
池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000
丹羽長秀:3000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)
織田信孝:4000(秀吉本隊の中に入れる資料もある)
秀吉本隊(蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・羽柴秀長・黒田孝高・神子田正治・蜂屋頼隆など):20000
明智軍を殺した英雄たち
ありがとう
細川に最愛の娘までくれてやったのに、裏切られる始末だもんな
光秀は そんで細川は秀吉の家臣になって
西軍に人質にされそうになっても見殺しにされ
馬鹿娘は死亡
ハハハ いい気味だ
最愛かどうか分からん
明智側の人間って信長のこと「独裁的」だとか
よく批判できるねwwwwwww
どういう神経してるのか
俺には光秀が独善的で気に入らないものがあると
すぐ殺そうとする性分なのは手に取るように理解できる
536 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 20:47:49.73
光秀「悪人」でお願い
豊臣家>>>>>>>>明智家
秀吉「馬鹿の光秀はさっさと利用して捨てた
光秀は雑魚だった」
誰が率いようが兵力比2.5倍で光秀側が山崎を守る形での不利な布陣だから負けて当たり前。
ランチェスター法則でいえば兵力比2.5倍のなら被害差は6.25倍になるはずだが実際の被害差は秀吉のが多かったから
明らかに戦闘能力は光秀>>>>>>>>>秀吉
現に織田家を信長や信忠が殺されて混乱したのをいいことに火事場泥棒した秀吉は結局徳川に敗れて滅ぼされるわけだし名
今から事の真相見に行ってくるけど、他になんかこれを聞いてきてとか見てきて、とかあれば今のうち言ってね
540 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 18:22:21.77
豊臣家>>>>明智家
541 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 18:40:37.61
>>538 秀吉の軍は中国大返しで6日間ろくに寝ずに走り続けて山崎の戦いだろ
本能寺から11日間、キでのんびり祝酒あげて体を休めてた明智の軍隊が
なんでそんなに弱いんだよw
秀吉の軍は主殺しをした光秀に怒り狂いいき盛んな上に秀吉が「負けたら蓄えなどあっても仕方ない」とばかりに
金銀財宝大盤振る舞いした後の士気の非常に高い軍隊
本能寺の変の後二条城攻防で2回も跳ね返されるなどヘトヘトに弱った光秀軍に対して、
光秀方は朝廷を守るため有利な天王山での迎撃を捨て不利な布陣を敷き、しかも寡兵の光秀側が天王山の秀吉を攻撃するという
攻撃側として戦った戦い。
ランチェスター法則でいえば兵力比2.5倍のなら被害差は6.25倍になるはずだし
攻守三倍原則を適用すると攻撃側の光秀は秀吉側の3分の1の戦力しか持たないので
光秀軍は6.25×3=19.75倍も秀吉方より小さい戦力比で戦ってたにもかかわらず実際の被害差は秀吉のが多かったから
明らかに戦闘能力は光秀>>>>>>>>>秀吉 (19.75倍以上の力量差)
現に織田家を信長や信忠が殺されて混乱したのをいいことに火事場泥棒した秀吉は結局徳川に敗れて滅ぼされるわけだしな
543 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 08:00:09.14
>>542 金銀財宝ふるまったからって疲れが取れるわけがないじゃんw
光秀は自分の天下がかかっているのに大事な軍隊に金銀財宝もふるまわなかったのか。
光秀は家臣に命じて安土城から信長の金銀財宝奪わせているのに全部一人占めするつもりだったんだな。
それだけ腹黒かったら誰も光秀のために死のうと思わんわw
それに二条城攻めでは光秀軍が圧倒的多数。
それでへとへとって、無茶苦茶弱かったんじゃんw
金銀財宝振舞えば士気が高揚するし秀吉軍は大返しする間戦ってすらいないし光秀は朝廷第一だし秀吉の大返しを予想していないから
金銀なんて振舞ってない
安土城なんて見事に焼失したしあれだけ大きな拠点を落としたり金銀運ぶのだってかなり労力がいる
二条城攻めでは信忠軍が3000で光秀方12000を数回跳ね返すなど多いに疲弊させている
さらに秀吉方は主君の弔い合戦、主殺しの汚名負った敵を殺す名分もあり士気が多いに上がったが
光秀は筒井細川高山などにも見捨てられ、いき消沈
光秀方は朝廷を守るため有利な天王山での迎撃を捨て不利な布陣を敷き、しかも寡兵の光秀側が天王山の秀吉を攻撃するという
攻撃側として戦った戦い。
ランチェスター法則でいえば兵力比2.5倍のなら被害差は6.25倍になるはずだし
攻守三倍原則を適用すると攻撃側の光秀は秀吉側の3分の1の戦力しか持たないので
光秀軍は6.25×3=19.75倍も秀吉方より小さい戦力比で戦ってたにもかかわらず実際の被害差は秀吉のが多かったから
明らかに戦闘能力は光秀>>>>>>>>>秀吉 (19.75倍以上の力量差)
現に織田家を信長や信忠が殺されて混乱したのをいいことに火事場泥棒した秀吉は結局徳川に敗れて滅ぼされるわけだしな
545 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 12:22:34.68
>>544 光秀すら信長から奪った安土城の金銀財宝を運び出すのが大変なら、
秀吉はどうやって金銀財宝を持ち運んでいたの?
司馬遼太郎かなんかの読みすぎであって、別に秀吉は金銀財宝ばらまいてたわけじゃない。
信長に仕えていた頃の秀吉は大富豪でもなんでもないし。
光秀は秀吉の大返しは予想してなかったけど、畿内にいる信長の息子信雄・信忠の反撃は予想してたでしょ。
そのためにあわてて娘婿やら信長の敵対する大名やらに味方に付いてくれ、支援してくれという手紙を出しているのだし
誰も色よい返事をくれなかった時点で自分のおかれている状況が分かるはず。
>>秀吉はどうやって金銀財宝を持ち運んでいたの?
秀吉軍は兵力がいっぱいいるし備中から大返しする途中拠点が秀吉策源地であり途中拠点が秀吉方だらけなので財宝の保管など容易
>>別に秀吉は金銀財宝ばらまいてたわけじゃない
天正記にちゃんと書いてる
>>信長に仕えていた頃の秀吉は大富豪でもなんでもないし。
播磨但馬近江因幡備前美作備中の一部淡路讃岐とまんまと棚ボタ的に領土広げたし石見銀山もってるから国力的にはかなりチート
しかも摂津河内や若狭などの諸侯も秀吉方に馳せ参じたしな
>>畿内にいる信長の息子信雄・信忠の反撃は予想してたでしょ
信忠は殺したし信雄は北畠の傀儡だし本能寺の変でもろくに軍おこせず終わってる
>>そのためにあわてて娘婿やら信長の敵対する大名やらに味方に付いてくれ、支援してくれという手紙を出しているのだし
信雄や信忠の反撃予想してたこととそれと論理的因果関係がない
予想してなくてもそれくらいはする(政情不安定なんだから味方は増えたほうが良い)
石見銀山は毛利領じゃないの?
548 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 13:48:26.32
>>546 光秀は朝廷から征夷大将軍も貰えず味方もいない状況で
安土城から金銀財宝も運ばせず手をこまねいていたなど阿呆すぎるw
丹波と近江坂本は光秀の領地であり光秀はキ近くの主城(坂本城や亀岡城)
からいくらでも自前の金銀を運ばせることができた
何も秀吉が信長配下で圧倒的に経済状況が豊かで光秀が極貧だったわけでもなし
信雄は本能寺後、近江まで攻め上っているし(光秀が討たれたので退散)
信孝は秀吉軍と一緒に山崎の戦いを戦っている。
光秀が信雄・信孝との交戦を予想していなかったなど戯言。
549 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:03:25.36
>>544 秀吉軍の堀秀政が山崎の戦い後、光秀の主城である坂本城を攻めた際、
坂本城にいた明智光秀の重臣・明智秀満から安土城から奪った財宝の引き渡しを求めているから
光秀は安土城から自分の主城・坂本城に財宝は運び込んでいたんだよ。
京から安土城までなど、坂本から舟をつかえばすぐだ。
現に本能寺の変に従軍していた明智秀満は3日後には安土城を落としている。
安土城は焼失していないよ
安土城本丸が燃えたのは秀満退去後。
その後も本丸以外は残っており、清州会議後は後継に定められた三法師が安土城に住んでいる。
中国大返しってそもそも10日かけて200KM走破だから一日20KMだろ。その程度で疲れるわけねーじゃん
よろいもつけず裸で走ればいいだけだし途中拠点なんて秀吉方策源地しかないんだし休憩なんて楽勝で取れる
天正12年に秀吉が尾張の楽田陣から大阪に敗走する際にも大垣〜伊勢楠本の85キロくらいをわずか2日で楽勝で移動して撤退してるし
大阪に帰陣するだけなのでわざわざ急ぐ必要もない行軍速度でも一日42キロくらい楽勝で移動してるので
それより遥かに遅い行軍で疲れるわけねーだろ
>>光秀は朝廷から征夷大将軍も貰えず味方もいない状況で 安土城から金銀財宝も運ばせず手をこまねいていたなど阿呆すぎるw
そんな馬鹿だからあんな状況で謀反起こしたんだしあっさり殺されただけ。
そもそもまだ戦争は決着してないし金銀財宝はその後の情勢考えると安易に振舞うより
今後明智家のために運営資金とされたとみるべき
>>何も秀吉が信長配下で圧倒的に経済状況が豊かで光秀が極貧だったわけでもなし
秀吉は但馬銀山持ってる上に播磨但馬近江因幡備前美作備中の一部淡路讃岐とまんまと棚ボタ的に領土広げたし石見銀山もってるから国力的にはかなりチート
しかも摂津河内や若狭などの諸侯も秀吉方に馳せ参じたしな(中川清秀なんか本能寺の変の時点ですら秀吉と兄弟の契りするほど強い結束力で秀吉の味方してる)
>>信雄は本能寺後、近江まで攻め上っているし(光秀が討たれたので退散)
そんな事実あったっけ?かなり鈍い動きで何もできずに終わったと記憶してるが。
そもそも木造が家を取り仕切ってただけだし信雄なんて傀儡にすぎないし国力でもショボいしなぁ
>>信孝は秀吉軍と一緒に山崎の戦いを戦っている。
でも寡兵で光秀討伐に向かってくると予想してたかはまた別問題だろ
>>光秀が信雄・信孝との交戦を予想していなかったなど戯言。
そりゃいつ交戦するかの問題だろ。しかも奪った財宝をすぐ振舞うか、朝廷への献上やら戦後の恩賞やら他大名への工作資金にするのかは
また別問題だし
>>安土城本丸が燃えたのは秀満退去後。
兼見卿記には秀満が火を放ったと書いてる
552 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:52:28.57
>>550 >よろいもつけず裸で走ればいい
どこで明智軍に遭遇するか分からないのに完全非武装ですか?
信長の死を知った毛利軍が追ってくるかもしれないのに完全非武装ですか?
誰が鎧を運んで山崎の戦までに届けるのですか?
>楽勝で移動して撤退
撤退する軍と、今から京を制圧している軍隊を攻めに行く軍は違うんですが?
大移動した軍隊が10日以上休んでいた軍隊に勝利した例を挙げてください。
>>どこで明智軍に遭遇するか分からないのに完全非武装ですか?
なんで播磨や摂津で明智軍に遭遇するんだ?摂津なんて秀吉が戻ってきたらさっさと味方になってるじゃんよ
秀吉方策源地の播磨も近隣だし途中の拠点で装備つければいいだけだし確か日本戦史かなんかの史料によろいもみにつけず走ったと書いてる
>>信長の死を知った毛利軍が追ってくるかもしれないのに完全非武装ですか?
なんで和平を結んだ後でしかも後ろは宇喜多や南条がしっかり守ってるのに毛利が攻めかかってくるんだよアホ
>>誰が鎧を運んで山崎の戦までに届けるのですか?
山崎までじゃなくても摂津でも山城でもいいだろw
途中拠点なんて秀吉方がほとんどだしなw
>>大移動した軍隊が10日以上休んでいた軍隊に勝利した例を挙げてください。
関が原の時の東軍とかか?
そもそも大移動なんてさほど回数多くないしお前のアホ理論なら遠征に行く大名は毎回城攻めの前に休息しなきゃいけなくなるな
>>撤退する軍と、今から京を制圧している軍隊を攻めに行く軍は違うんですが?
だから移動に急ぐ必要性0の時でも楽勝でそのくらいのスピードで進軍してるのに
それより遅い行軍で疲弊なんてするわけねーだろカスっていってんだろうがw
554 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 15:31:01.85
>>553 >なんで播磨や摂津で明智軍に遭遇するんだ
分かってないなあ、秀吉軍が到着したから畿内勢が自分も自分もと
秀吉に帰順しだしたのであって、秀吉が播磨をたつときなど
畿内勢は明智軍に非抵抗でどっちに着くか分からなかった
>和平を結んだ後でしかも後ろは宇喜多や南条がしっかり守ってる
秀吉は畿内へ向かう秀吉軍の背後を毛利が突かなかったことに感謝して
後々恩賞を与えている
>関が原の時の東軍
関ヶ原の時は西軍も大移動だ
>急ぐ必要性0
長久手のときの秀吉軍は急ぐ必要大アリだよ
なんたって秀吉が狙うのは天下で、西の大名たちにもにらみを利かせないといけないから
いつまでも家康ごときに構ってられない
秀吉は畿内に入るまで敵軍侵攻みたいなもんだよ
>和平を結んだ後でしかも後ろは宇喜多や南条がしっかり守ってる
毛利は畿内へ向かう秀吉の背後をつかなかったことを後で秀吉に誉められて
恩賞貰ってるぞ
>>分かってないなあ、秀吉軍が到着したから畿内勢が自分も自分もと秀吉に帰順しだしたのであって、秀吉が播磨をたつときなど畿内勢は明智軍に非抵抗でどっちに着くか分からなかった
備中から播磨の東端までだけでもよろいなしなら相当な距離をショートカットできるし
もし摂津や山城で味方につくものがいなかったら信長がやったみたいに恐喝して無理矢理武具を調達すればいいだけ。
>>秀吉は畿内へ向かう秀吉軍の背後を毛利が突かなかったことに感謝して後々恩賞を与えている
そんな事実あったか?史料は?
あれはそもそも毛利が秀吉方の口述詐欺にひっかかって騙されて和議になっただけだし
そんな宇喜多や南条も後ろにいるうえにろくに抗戦意欲も皆無の毛利に秀吉を追撃する力なんて鼻からないと思うしだからこそ大軍率いて大返ししたわけで。
>>関ヶ原の時は西軍も大移動だ
西軍は畿内からの移動だし東軍とは行軍距離がまるで違う
>>長久手のときの秀吉軍は急ぐ必要大アリだよ
>>なんたって秀吉が狙うのは天下で、西の大名たちにもにらみを利かせないといけないから
>>いつまでも家康ごときに構ってられない
お前いつの事かわかってないだろ。蟹江合戦のあった6月の攻防で秀吉が滝川見捨てて大阪に撤退していった時のことだぞ
このとき二日で80キロくらい移動している
急ぐ必要もない撤退でこれだけのスピードで動いている。
後お前この後再び秀吉が家康討伐に動いてる事もしらんだろw即効で決着つけるどころか長久手会戦以来長期持久戦でほとんど戦果なしなのが
撤退時だけ圧倒的スピードで2日で大垣〜伊勢楠本、さらに二日で伊勢楠本〜大阪と撤退成功している
>>秀吉は畿内に入るまで敵軍侵攻みたいなもんだよ
はぁっ?意味不明。なんで自領域に移動するのが敵軍侵攻なんだよアホ
>>毛利は畿内へ向かう秀吉の背後をつかなかったことを後で秀吉に誉められて恩賞貰ってるぞ
ソースは?
中川なんか秀吉が播磨姫路到着前の6/5で既に秀吉与党となってるのがわかるし
秀吉が変報聞いた6/4備中高松→6/6姫路入場とこの間の区間は圧倒的早さといえるが
これは秀吉方の策源地内部だっため武装解除しよろいもつけずに走ってたからというだけだろう
その後三日休養して6/9に姫路を出発し摂津尼崎入場。この頃には池田や高山、中川、信孝が完全に味方したようであり
6/12に秀吉は池田恒興等と議し、高山長房、中川清秀を先鋒とし、使を大坂に遣して、神戸信孝を迎え、富田に陣している
この翌日には信孝が筒井順慶に書状で兵を上山城口に出して惟任光秀を撃たせている
この日山崎合戦。以上のように秀吉方はただ単に味方のいる拠点をただ大して早くもないスピードでよろいもつけず走ってただけ。
光秀の方は二条城の信忠攻撃したりよっぽど疲弊しているといえる
557 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 16:02:30.03
>>555 おいおい、
>備中から播磨の東端までだけでもよろいなしなら
お前、史料に基づいて言ってる?
備中から播磨の東端まで秀吉軍が非武装だった一次史料があるのかよw
>毛利が秀吉の口述詐欺にひっかかって騙されて和議
吉川元春が秀吉の追撃を主張したが小早川隆景が止めている
>西軍は畿内からの移動
調べろ
西軍=石田三成軍じゃねえぞ
石田三成なんて大した軍勢持っておらず西軍の主力部隊じゃない
>二日で80キロくらい
その後秀吉軍は家康軍を攻めたのか?
移動後に攻めて勝利した例を挙げろと言ってるだろう
>>備中から播磨の東端まで秀吉軍が非武装だった一次史料があるのかよw
講談社現代新書の「秀吉神話を覆す」に書いてあったはず
>>吉川元春が秀吉の追撃を主張したが小早川隆景が止めている
それ思いっきり陰徳太平記の妄想じゃねぇかw
>>西軍=石田三成軍じゃねえぞ 石田三成なんて大した軍勢持っておらず西軍の主力部隊じゃない
他の連中だって大して動いてねーじゃん下野方面から遠征してくる徳川のはよほど疲れるだろうさ
>>その後秀吉軍は家康軍を攻めたのか?
攻めた攻めてないなんて関係ない。特に急ぐ必要もない行軍ですら自然に二日で80キロも移動しているんだし
これより半分も遅いスピードで行軍なんて普通に楽勝だろw
>>移動後に攻めて勝利した例を挙げろと言ってるだろう
関が原の時の東軍とかか?
そもそも大移動なんてさほど回数多くないしお前のアホ理論なら遠征に行く大名は毎回城攻めの前に休息しなきゃいけなくなるな
俺は、明智光秀は理解できるけど信さんは理解できなかったのか
560 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 19:40:47.28
>>558 >「秀吉神話を覆す」
それはお前の中で一次史料なの?
>「陰徳太平記」
一応同時代史料だが、完全否定する根拠は何かある?
>攻めた攻めてないなんて関係ない
関係あるだろ、大移動した秀吉が山崎の戦いで勝つのは当然だというんだから
一番重要なことだ
>関が原の時
関ヶ原は西軍にも家康に通じるものが多く西軍が動かなかったんだから仕方がない。
山崎の戦の時の明智軍は一切やる気なしで戦意喪失、
明智軍の中には秀吉に通じる者が多く全く戦わなかったというなら
関ヶ原と同様だったと認めてあげるよ。
>>560 >>それはお前の中で一次史料なの?
そりゃ大返しで疲弊したなどと論拠のない妄想するよりは一応文献名挙げるだけマシというだけ。
>>一応同時代史料だが、完全否定する根拠は何かある?
そりゃ軍記だからデタラメというだけ。否定も糞も初めから根拠にならんので論外
>>関係あるだろ、大移動した秀吉が山崎の戦いで勝つのは当然だというんだから 一番重要なことだ
相当馬鹿だな。そのオオ返しで疲弊したって論拠が全くないんだろうが。
天正12年6月楽田陣から敗走する際二日で大垣〜伊勢楠本、さらに二日で樟本〜大阪と遥かに速いスピードで行軍している
別に急ぐ必要ないときですら楽勝でこれだけの速さで行軍できるんだから
>>556のようにそれの半分程度の速さで行軍なんて普通に楽勝だし疲れるわけがない
>>関ヶ原は西軍にも家康に通じるものが多く西軍が動かなかったんだから仕方がない
小早川だけだろ
しかも家康は本隊投入前ですらほとんど決着がついているし
関が原の時は五分五分に近い兵力比ですらあっさり決着がついたが
山崎の合戦は兵力比2.5倍くらいだから直接戦闘に参加した者が戦意あろうとなかろうと
関が原の時の西軍より遥かに不利な状況だったというだけ。布陣でも朝廷を守る事を選んで天王山を捨てる事を選んで不利な形だし
それにもかかわらず明智方から仕掛けた戦なんだし
陰徳太平記みたいなアホ軍記間に受けてたら秀吉軍は6万もいながら数千の吉川相手に敗走した雑魚としかいいようがないし
それどころか大友・宇喜多に負けまくり南条も攻略失敗しただけのアホ毛利両川が無敗の名将になるわw
陰徳太平記は多々良浜の戦いや対大友の敗戦をことごとく捏造して
直轄領なんて皆無の反大友領域に攻め入ったのを、自力で大友に勝って寝返らせたとかデタラメばかりデッチ上げてる糞史料でしかない
564 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 21:33:11.56
>>561 >一応文献名挙げるだけマシ
「陰徳太平記」も史料名上げるだけマシってもんだろ
>疲弊したって論拠が全くないんだろうが
兵の疲弊も分からないのかw
まあ、圧倒的多数の光秀の二条城攻め程度で
明智軍は疲弊してたというくらいの馬鹿だからな
>小早川だけだろ
関ヶ原関係の史料を読んだほうがいい
>>「陰徳太平記」も史料名上げるだけマシってもんだろ
信憑性でいえば学者の書いた文献>>>>>デタラメ妄想ばかりの毛利軍記だから一応文献名だけあがるだけマシ
>>兵の疲弊も分からないのかw
はぁっ?わからないも糞も妄想だろw
>>まあ、圧倒的多数の光秀の二条城攻め程度で 明智軍は疲弊してたというくらいの馬鹿だからな
天正12年6月の急ぐ必要も全くない撤退時の行軍速度の半分程度の速度で行軍する疲弊度が
二回も押し返された二条城攻防での疲弊より大きいなんて妄想でしかないだろw
>>関ヶ原関係の史料を読んだほうがいい
毛利一族の事言ってるなら家康に内通してたのではなく馬鹿だったから兵力分散させて大敗しただけ。
何せ伊予での火事場ドロにすら失敗し奉行衆らの援軍要請無視して美濃をがら空きにして大阪城に居座り続け、家康が東上した後の9/12ですら伊勢湾や伊勢での活動
やめてない馬鹿だからな。
それとも小川とか赤座とかろくに戦局に影響なしの雑魚の事を言ってるのか?
566 :
はんぞう:2013/05/26(日) 15:19:25.71
天皇説、朝廷説、秀吉家康説、イエズス会説など色々な仮説がされてミステリアスで
話題に事欠かないけど単純に光秀の気まぐれ単独犯なんじゃないの。
どこかのバカが小難しくて理屈っぽく偉そうに論じているけどさ。
567 :
はんぞう:2013/05/26(日) 15:21:24.01
皇国史観では英雄だろう? 明智光秀
信長は尊皇って事になってるので、それはない。
570 :
日本@名無史さん:2013/06/24(月) 09:24:56.70
>>568 現行の戦後GHQ体制下=旧コミンテルン体制下=アメリカジューコミュニスト下の
日本では明智光秀は英雄だろう?工作員どうだ答えろよ。クズ
571 :
日本@名無史さん:2013/06/24(月) 18:42:02.65
>>566 ありえないようなビッグチャンスだし、俺でも下克上するよw
義昭の二条城を破壊してからは本格的な城は京市街にはなく
坂本や丹波を領する光秀は信長を単独で殺るのはいつでも出来たし
信長はわずかな共回りで光秀の京の屋敷に泊まったことも数回ある
だが、各軍団がそれぞれの敵と戦っていて簡単には畿内にもどれず(同盟の家康も畿内にいて、すぐには兵を動かせない)
すでに織田家の家督を継ぎ、濃尾+甲信を領し織田最大軍団を率いる信忠も同時に殺れるチャンスはめったにない
(信忠は本来は堺見物のハズだったんが、見物を続けてれば本能寺は起きなかっただろう)
下克上の成功確率を90%くらいと踏んだんだろう
572 :
日本@名無史さん:2013/06/24(月) 19:34:01.94
>>569 以前は天皇を脅かす存在だとヲタが言っていたのに、近年は掌返ししてワロタ。
尊皇は光秀でしょ?
帝をも膝下に置かんとする所業!許し難し!って完全にキレてた。
信長は合理的な人だから、天皇を殺しても天皇の血縁と称する連中が天皇になりたがるだけで
際限がない事くらい気づくので、神格化した状態で自分の上においていたほうが得策と考えるだろう。
邪魔なのは、自分と天皇の間に挟まる公家たち。
信長にとって公家など無用だろうから、根絶やしにするのは時間の問題だった。
公家もそのことに気づいていたから、光秀を頼った。
そんな脚本で、誰かドラマでも作ってみてくれ。
公家たちは根絶やしにしていたろうな
少なくとも根絶やしにする気ではと公家たちが危惧しても当然
>>574 信長自身は自分の身が危ないことにも気付かないのに、天皇家のことは気付くのか。
岡目八目と言って、そういう事はしばしばある。
尊王だという証拠は?
>>574 信長は養女を摂家に嫁がせているし公家を滅ぼす気はなかっただろ
信長は右大臣であるにもかかわらず安土にいて毎日内裏に出勤するわけでない
朝政を遂行するのに公家は必要だし
信長は公家を尾張・岐阜・安土に呼んで接待したり
自身が京を訪れたときも公家たちを接待したりと結構仲良くやってるぞ
武力を持たず教養は高い公家は、ただ単に信長が朝廷での昇進の約束を取り付けるために
接待していたというだけでなく、茶や舞の趣味のある信長にとっても
いろいろメリットあったと思うぞ
580 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 16:10:23.25
信長は合理的というより、むしろ芸術性を求めるタイプに見えるが。
581 :
日本@名無史さん:2013/06/25(火) 17:17:47.05
あまりに明智光秀が美しすぎた。ゆえに信長は受け入れられなかった。
うんこ
>>579 それでウグイスが鳴かなかったら公家といえども殺してしまえ!
じゃないか?
?
明智の提案でも OK出したのは信長
587 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 23:05:42.00
徳川家康は明智光秀を尊敬してるよ!豊臣秀吉と淀殿はクソ。
>>585 明智光秀が信長に仕官する前から信長は尾張に公家呼んで接待しているよ
朝廷に近づこうとしたのは信長の持論だろ
そのために信長は京言葉が話せ信長の意志を的確に朝廷に仕える
手駒として旧幕臣明智光秀を召し抱えたというだけ
関係ないが、
家康は敵対勢力に易法・呪法によって殺されたんだって
ちょっとオカルトだったかな
>>579 信長みたいなヤンキーに情があると思うか? 養女が嫁いだ先だろうと養女もろとも平気で皆殺しにするよ。
>>591 信長は養女の嫁いだ先を養女もろとも平気で皆殺ししたことはないんだが
信長がやったのは妹市の嫁ぎ先を攻めたことぐらいだろ
あれも浅井が朝倉と挟み撃ちで信長を殺そうとしたためで
あそこで浅井を許したら信長の権威ガタ落ちだよ
しかも市は殺されず信長が生涯庇護を与えたし
自分を殺そうとした憎い浅井長政の娘まで市に免じて一緒に庇護してた
浅井も最初許すって言ったけど、浅井から拒否られたんじゃなかったっけ?
実は朝倉も許すって言ってたが、こっちは従兄弟?にやられちゃった。
当時のスペイン人が「信長は優しい人」って言ってるけどそうなんだろと思うよ。
戦犯はルイスフロイスじゃね?
「信長は優しい人」(笑)
スペイン人達は単に「自分たちには優しい」という意味で言ったんだろう。
一度は自分に刃を向けた柴田勝家らを重用し、松永久秀の謀反も一度許した後に再度謀反され、
明智光秀を信頼しきっていたのか、京都で丸裸で寝ていた所を光秀に襲われて遂に逝ってしまった。
お人好し且つ何処か抜けた御仁と言う感じ。
597 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 18:51:16.73
独裁者明智を皆殺しwwwww
秀吉軍は英雄
598 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 21:53:45.12
信長は光秀を誰よりも信頼してたよ。秀吉が自分の欲の為に謀反を起こした。
599 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 17:50:52.19
光秀ほどの重臣に裏切られた信長は相当の欠陥があるのに違いない
600 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 18:09:23.83
>>599 光秀って信長に仕官したのは晩年でしょ
歴代の譜代でもなんでもないし信長も光秀の朝廷根回しを評価しただけで
それ以上の繋がりではないでしょw
>>592 秋山信友の後妻のこととか言ってるんじゃね?
養女じゃないけどね
>>600 歴代の譜代でもなんでもない光秀を誰よりも信頼した信長は馬鹿だ
まで読んだ
603 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:42:26.41
>>602 新規家臣をどんどん信用して登用したからこその
あの短期間での領土拡大なんだろうな
歴代の譜代以外絶対に信用しなかった家康など負け戦続きで
信長が死に秀吉が幼児残して死にしなかったら絶対に天下取りに動かなかったもん
>>601 おつやの方?あれは信長の実子(勝長)を養子にしたのに、秋山信友に裏切り、
更に勝長を人質として甲斐に転送した。その態度が信長を激怒させた。
まあ、どう信長に厳しく見ても、どっちもどっちとしか言いようがない。
>>603 いくら家康の前半生を叩いても信長が部下に殺されたことは変わらんわ。
天下統一した秀吉、太平の世を築いた家康と、自軍の統率もままならない信長では器量が違うんです。
>>603 家康も新規家臣の登用にはずっと積極的だったよ。少なくとも関ヶ原まではね。
>>605 そっちもいい過ぎ。戦国時代は裏切りは当たり前の時代だったからな。それに
信長はカオスを極めた畿内を統一しただけでも、相当な功績と言えるぞ。
信長の野望にはまった人は、三好長慶というかもしれないが、結構あれは
敵をのこしまくっている。
>>603 >>歴代の譜代以外絶対に信用しなかった家康など負け戦続きで
家康は常に大軍の朝倉今川豊臣北条関ヶ原の西軍など勝ちまくって天下統一したよ。
常に圧倒的大軍で寡兵の雑魚敵に負けまくって家を滅ぼされた織田や豊臣なんぞ話にならんわ
>>603 >>歴代の譜代以外絶対に信用しなかった家康など負け戦続きで
家康は常に大軍の朝倉今川豊臣北条関ヶ原の西軍など勝ちまくって天下統一したよ。
常に圧倒的大軍で寡兵の雑魚敵に負けまくって家を滅ぼされた織田や豊臣なんぞ話にならんわ
>>603 信長が勢力を楽に伸ばせたのは畿内での有力諸侯が1561年に 十河一存 斉藤義龍 1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興 1564年 安宅冬康 三好長慶 と次々に死に、謙信・信玄・直正もガチで戦うと
大敗したが、滅亡寸前の所で相手の病死に助けられるなどはっきりいって棚ボタで拡張しただけだよ。
北畠も斉藤も六角も上杉も三好も足利将軍家も信長とは関係なく内訌で勝手に崩壊しただけだし
信長の力量とか人事とかの問題ではなく単なる棚ボタとしかいいようがないね。
信長は信玄存命中は劣勢一方だったからな。
三方が原で佐久間平手滝川水野の大軍を大破されて
畿内でも当時のトップ4のうち二人を殺されて戦力不足になり、
もはや誰が味方で誰が敵かわからない、兵糧も物資も兵数も不足しているなどといって嘆いている有様だし
信長は最終的に光秀に殺されて負けたじゃん
弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角、統制が取れずバラバラな三好などを
火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
結局棚ボタの連続で領土が一時的に広がっただけだから光秀にあっさり殺されて死んだだけ
秀吉も織田家を一時火事場ドロして勢力広げたけど結局徳川に大敗して滅ぼされたし
>もはや誰が味方で誰が敵かわからない、兵糧も物資も兵数も不足しているなどといって嘆いている有様だし
ソース希望
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている有様
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるw天下布武で家臣へ土下座書状w
「家臣に土下座できるところが信長の凄さ(キリッ」
>>613 『信長公記』とかを読んで勘案した結果、そう結論したなら作家には成れそうだね。
信長公記は一次資料じゃないんだが。
最近大活躍中の「グンキガー」君?
立派な小説を書いてねw
>北畠も斉藤も六角も上杉も三好も足利将軍家も信長とは関係なく内訌で勝手に崩壊しただけだし
アホかw。内紛があってもそれを利用できない敵勢力なんぞいっぱいある
織田の場合敵対国の内紛を利用するに十分すぎる国力と
足利義輝が暗殺され、足利嘉昭が信長の元を訪れた事による畿内政権樹立に向けた大きな大義名分を棚ボタ的に手に入れたから
上洛ができて勢力が広がっただけじゃん。美濃平定から上洛までの間
浅井や和田ら甲賀衆や六角義秀らが全面的に信長に協力しまくり斉藤攻略と上洛が棚ボタ的に成っただけだし
上洛においてはさらに畿内の諸侯がアホみたいに次々に味方になるし
プッ
大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長じゃん。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いたのが信長。
そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍 1562年 三好義賢 1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興 1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
永禄3年に六角軍は北郡征伐に失敗し浅井長政に敗北。これをもって長政は家督を継ぎ六角からの再自立を達成(肥田・野良田の戦い)
六角は斉藤氏と共同しての浅井攻め戦略に移行。
翌年2月には逆に長政が美濃へ進攻する攻勢を示したが
3月に入るや背後から六角軍が進攻し佐和山城を落とされた(斉藤家の竹中重高への六角氏の感状あり)
しかし長政は反転し六角の退路を封鎖する動きを示すことで退却を誘い佐和山城の奪回に成功する。
またこの長期に渡る六角と斉藤との攻防の中で義龍が病死し美濃からの脅威は減少したこともあり、
畠山高政と六角義賢による三好長慶との京を巡る戦いが始まるや、長政は太尾城(米原市)を攻めるなど六角の背後を混乱させた。
このように浅井による北郡造反は畠山への援軍派兵の遅れを誘発し六角弱体化をさらに助長した。
この攻防は三好の勝利に終わり畠山の没落が確定し、
単体では三好にかなわない六角は三好と和睦を結び京を巡る戦いに終止符を打つ決断をする。
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが
義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ
永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ
一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で
反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し
この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。
信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、
中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、
ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、斎藤と義賢を凋落させることに成功。
これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。
しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して
高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし(天文18年が京極氏奉公人奉書現存最古の発給)
信長公記から消された人物がいるのは間違いない。そもそも浅井氏が挙兵しての天文日記に書かれる
北郡錯乱・国錯乱は天文21年の六角定頼死去翌年であり、この時に浅井久政は六角軍に敗北し六角に従属したわけだが
このような大規模な近江国人を二分する近江国錯乱の理由として考えられるのは
六角義賢を六角氏相続には大きな大問題がはらんでいたのだろう。
六角義賢親子と朝廷との強いパイプを持つ近江の舊主(旧主)との対立・・・この六角分裂が義昭上洛と絡んでいくのである。
625 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:21:29.88
幕末に例えると信長秀吉 日本
光秀 韓国みたいなもんだな
日韓関係をすぐに持ち出すのって何か意味あんの?
「ネトウヨ!」と誰かを罵りたい、淋しい奴の釣りじゃねぃ
628 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 09:21:17.82
つまり俺は釣られたのかw
629 :
!ninja:2013/09/23(月) 10:17:11.83
世の中には信長と秀吉が絶対正義と思ってる奴がまだまだ多いってことやね。
630 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 13:52:34.35
信長厨が自分に反論する相手をチョン呼ばわりするのはいつものこと
現代に明智光秀いた!
岐阜城盛り上げ隊・明智光秀
GーTETU哲丸
名古屋を中心にゲイ売り専として活動
明智光秀はホモだったー
<<625<<630
まあチョンがやたら光age信sageに励んでるのは事実。どんな効果を期待してんのかは知らんけど。
なんか親近感感じてんのかな光に。当時の光秀評「嘘つき」「恩を仇で返す」これ見ると分からんでもない。
636 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 19:08:24.01
光は南チョン、信は北チョン
ですねわかります
すぐにチョンだのってくだらないね。
日韓以外に対立軸がない世界にお住まいなんだろうかこういう人たち。
浅田真央が嫌いだからってキムヨナヲタとは限らないし、
AKBを聴かない奴のみんながみんなKARAや少女時代を聴いているわけでもあるまい。
韓国だろうと北朝鮮だろうと中国だろうと、信長をディスる理由はどこにもないはずなんだが。
読売巨人が嫌いなのは韓国リーグヲタではなく、阪神ファンだったりパリーグファンだったり。
もしかして「チョン」と言えば反論されないと思っている?
つまらんこと考えないで、実力で勝負した方が君のためになるんだぜ。
639 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 15:56:34.60
光秀って信長のもとで散々悪さしてるのに、
悪人扱いされたくないとか散々自己中心的なことほざいてるね。
信長みたいな人間のクズを排除したからってそれまでの悪行が許されるわけじゃないしな。
641 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 08:24:06.28
朝廷に暦がどうのとほざいてた信長を始末してくれた光秀さん
ガチでありです^^
642 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 08:28:29.10
右より保守は光秀寄りじゃないとおかしいだろw
信長は朝敵だぞ
643 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 20:28:01.40
640
そんなもん許される訳ねーだろ?
だから秀吉に山崎で、殺されることが正当化
されんだろ?
644 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 22:46:16.55
>>642 信長がいつ朝敵になったんだ?
いつ朝廷が光秀に錦の御旗を与えたんだ?
話を国際的にするとヨーロッパ人のオルガンティーノも言っている。
「光秀みたいな裏切り者に味方しちゃダメだよ絶対だよ、ホントだよ」
光秀はどう見てもシナチョンの移民みたいなんだよね。
天皇の御座所土足で踏み荒らすし、勤皇家の信長躊躇なく暗殺するし。
647 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 12:30:58.99
みんなの嫌われ者光秀wwwwwww
山崎で殺されて当然
本能寺に向かうまでの道で農作業をしていた農民達を切り殺す→数日後に農民に狩られる
悪党光秀www
ストレス解消楽しい?
光秀が詐欺師で悪党だからに決まっているw
石ころのようなカス光秀が信長だまして家臣になっただけでもありがたいと思え
本当は何も役に立たないカスの癖に嘘とみえだけは立派w
ついには信長より光秀は優れた武将ときた
アホなんか?どこまで傲慢なんだ?明智光秀とそのの子孫は?
まじで今も昔もむかつく奴だわ
ダマされる方がアホ