神武天皇や神武東征をほのぼの語ろう

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200日本@名無史さん
>>199
面は薄く成るのは自然の摂理w
中国観てみろや万里の長城犯されもはや形質はほぼ全域万里の北の人種化しとる。
201日本@名無史さん:2011/12/16(金) 12:32:39.78
>>196
織田信長は忌部氏のほうだろう?
まあ、この忌部氏も複数系統ある。

>>197>>198
そんなことない。

>>199
今時、そんな発想する人はいない。
縄文と弥生で見るのから、卒業しよう。
202日本@名無史さん:2011/12/16(金) 14:42:14.38
>>201
織田信長の系譜も確かなものはないよ。
織田剣神社は平安時代にはあったことが記録に残るから、
この頃には神官の家系があったであろうことが推測できるが。
忌部氏が皆親戚関係にあるわけでなし、織田家は越前の土豪だろう。
203日本@名無史さん:2011/12/16(金) 17:38:48.30
須佐之男命の出雲系は朝鮮半島〜遼東辺りが出自。
イザナギ、イザナミを始め天照大神ことヒミコの日向王朝(南九州王朝)=天神系は中国南東部の呉国(周王朝と同族の姫姓)がルーツ。
・・・日本の中古の使節などが携えた国書やパスポート?には我が皇室は姫姓である云々

太古より近代にいたるまで中国大陸(海流に乗って)や朝鮮半島からの流入してくるのはある意味デフォ。
特に大陸や半島が騒がしくなる都度に逐われた人々、流民、亡命王族や貴族が行き場(生き場)を求めて日本に流入。
特に秦氏の大量流入(数万人〜の国規模)は史書に明らかなところ。
(当時の日本列島の推定全人口が300万人ともいわれる)
須佐之男命(布都斯)も亡命王族(布都)の御子とか。
須佐之男命や五十猛命を新羅大神と奉る由縁か?(新羅は当時有りませんが、地理的な意味での新羅)
204日本@名無史さん:2011/12/16(金) 20:37:21.78

天文三年(1534年)五月二十八日
尾張国、勝幡城にて生を受ける織田信長。
205日本@名無史さん:2011/12/17(土) 15:04:05.66
>>203
もう、トンデモ史観、真っ盛りだなw
文献にも書いてないトンデモだらけだろう?

>>202
織田家の系譜は正確には残ってないけど
忌部氏の後胤だというのは、ほぼ確かだよ。
しかも、忌部氏の中でも嫡流にあたるタカミムスビ系の忌部氏の系譜だったはず。

忌部氏には、もう一つ、カミムスビ系の系譜がいる。
この家系は、タカミムスビ系の一族の女性と、
カミムスビ系の男子が婚姻して婿養子に入ったものの家系で
阿波忌部氏などが、その代表的な一族。
徳島の後藤田家も、この系譜。