謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!59

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。

前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1314283178/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2あらため:2011/11/03(木) 01:59:46.68
>>989 sssさん
>宇美町から南に水行?
>畿内説のように、東に水行としてみてもやはり続かない。宇美町の東には海(水)はない。
>放射説を取ったとしても、伊都国から南に水行が続かない。

よこしますが、福岡県福岡市東区志賀島(金印公園)から
「漢委奴國王印」が出土されてる。
奴國が博多周辺だったという動かぬ証拠になる。
よって、伊都国は佐賀の方向ではなく、前原方面伊なるとは思いませんか?
コメントお願いします。
3あらため:2011/11/03(木) 02:01:18.02
たとえば、昔に福岡県福岡市東区の志賀島で「漢委奴国王印」が発見されましたが、
中国史の記録にも、『親魏倭王印を授ける』っていうのがありまして、

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。

この「倭」ていうのは、記録と考古の両方から見て、外国ではなく日本列島で間違いない。
ただ、「記録」と「実態」については、現在みたいに人工衛星を使って正確な位置を
把握できる時代じゃなかった。
たとえば携帯電話やインターネットが普及してますが、ソノ時代は、
各区域間での情報のやりとりが困難だったため、多少、間違いが生じる。

徳川家康の会津討伐の際にも、その大阪城の御奉行との連絡に時間差が生じたりしてますよね。
邪馬台国の時代と言えばそれよりも時代は先なので、さらに正確な「情報」が行き来しない時代で、
どういうことを考えると、上記したような、

【記録】
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。

【実態】
畿内のヤマトは、九州に大宰府を設けて、諸国を検察する

のように、多少の間違いは仕方がなかったのではなかろうかと思う。
4あらため:2011/11/03(木) 02:02:13.42
「卑彌呼」の名だが、

日巫女(ひみこ)説、日御子(ひみこ)説、姫子(ひめこ)説、姫御子(ひめみこ)説、日女子(ひめこ)説
があり、私は、日巫女(ひみこ)をもって、「卑彌呼」と漢字表記されたんじゃなかろうかと考えてる。

大体、ヒミコ、ヒメコの2パターンの説が多いようだが、ヒメコていうのは、
男性・女性を称えた言い方でヒコ、ヒメ制からきてるのでしょうか。
しかし、倭人伝の文章中に「ヒメ」に対する、「ヒコ」がみれないことや、
もしヒメならば「卑彌」でも良い気がするのは私だけだろか。

話は戻るが、「卑彌呼」というのは、「卑」「彌」「呼」という字を見ても分かる通り、
中国側から蔑んだ「字」を当てられてる。
この事柄から想像するのに、ヒコ・ヒメ制からくるものではなく、
太陽を象徴する「日」から、シャーマンを連想する「巫女」であり、
当初日本側の主張では「日巫女」様だったのではなかろうか。
だから、蔑んだ「字」にされた。
ヒコ・ヒメ制のヒメ+コでは、蔑んだ「字」にされなかったこともあり得ないだろうか。
5あらため:2011/11/03(木) 02:05:09.91
八幡神ていうのは、源頼朝はもちろん、
戦国時代の各武将にも崇拝されており、応神天皇ていうのは、日本で一番人気がある天皇の一人。
この八幡神っていうのは石清水や宇佐で「八幡神」として祀られており、
八幡神発生について、向こうの掲示板で議論してるんだが、
その起源をたどると豊国でもある豊前宇佐から生じてるらしく、
571年に始めてその姿を現し、鷹居社で神仏習合をもって応神八幡神は誕生した。
その後に、小山田社を経て、現在の宇佐神宮内にある亀山で祀られてる。

前方後円墳についてだが、
・200メートルを超える前方後円墳
・100メートルを超える前方後円墳
・50メートルを超える前方後円墳
・円墳、方墳   の4段階に分けられており、
この「大きさ」によって、「格」が分かるというか、
大陸や半島との外交には、200メートル以上の前方後円墳に葬られた「列島の主」があたり、
国内の周辺諸国との外交には100メートル以上の前方後円墳に葬られた「豪族」があたってたんじゃなかろうか。

前方後円墳の前の時代でいえば、副葬品をみると
九州のスグ岡本やミグモが立派なので、上記の「主」にあたるのはこれらに葬られた被葬者が該当すると思う。
6日本@名無史さん:2011/11/03(木) 02:07:21.90
このスレもう廃止でいいのに
じゃなきゃ太国・唐松専用スレでおk
7日本@名無史さん:2011/11/03(木) 02:35:08.15
>>6
だな。邪馬台国関連スレの主役である河童虫が帰ってきたじゃないか。
ドツボは必要ないな。
8サガミハラハラ:2011/11/03(木) 03:35:33.01
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は、小城公園内の桜ヶ岡です。

ところで金印が志賀の島からでたからって、なんで奴国が博多周辺だといいきれるのですか?
9日本@名無史さん:2011/11/03(木) 09:00:13.74
>>4
金印は持ち運びしやすい物だから志賀島周辺が奴国の証明とはならない。

卑弥呼は3世紀の魏の発音で読まねば合理性を欠く。望月さんという研究者の
研究結果では「ヒムカ」と発音するのが近いということだ。ヒミコでもヒメ
コでもない。

現代人の勝手解釈にあんたは陥っているよ。

10サガミハラハラ:2011/11/03(木) 10:39:06.20
卑弥呼はヒミカだと思います。
呼は当時カだったのです。不呼国はオカ国で岡田(遠賀川河口)にありました。
不はオで不彌国はオミ国で、佐賀県小城のことです。
よってヒミカと発音したようです。ただし弥ははっきりした音ではなかったようで、
中国人にはそう聞こえたということでしょう。
ヒミカはアイヌ語のピリカと同義語です。
ピリカメノコといったらきれいな女の子という意味です。
よってヒミカとは、美しい、素晴らしいという意味になり、素晴らしい女性である女王
にあたえられた尊称です。新興宗教だったら、「お光さま」といったところでしょうか。
あいつはピカ一だとか、ピカピカの一年生も同義語です。
光の音、ヒカリもそうです。
11ローガン:2011/11/03(木) 11:14:52.00
>>9
>金印は持ち運びしやすい物だから志賀島周辺が奴国の証明とはならない。

なるほど。移動が容易なものは、遺物とその出土地との関連は認めない。 と。
ちょうど絹とかが該当しますな。出たからといって その土地のものだというのはおかしい。という主張だと承知。
12あらため:2011/11/03(木) 11:27:08.81
あげ
13日本@名無史さん:2011/11/03(木) 12:32:36.32
金印は偽物説も出てるが、このスレ的には本物前提ということか。
14:2011/11/03(木) 13:10:13.07
>神武東遷以来勢力を伸ばしてきたヤマト王権が、一気にその版図を拡大する時期ではあります。
>しかし、それは四道将軍の派遣や出雲征伐などに見られるように、九州にはその勢力が及んでいない。
>景行朝で九州に手を伸ばすことになる。
>ここが畿内説と記紀との最大の矛盾だと思います

さて、なんて答えようかな・・・

>>8
>ところで金印が志賀の島からでたからって、なんで奴国が博多周辺だといいきれるのですか?

貴方方は、現実から目を背けたいだけであって、
志賀島で「漢委奴国王印」が出土された事実なんて
屁とも思ってないようですが・・・
金印とうのは、その辺に転がっていたわけではない。
当時の記録いわく、隠すように巨石の真下へ埋めてあったのであり
仮に平原1号分の大きさは、巨大な景行天皇稜と違って小さいので、
奈良県から、現在の九州前原市に埋め移されたのであろう〜と言ってるようなもんでして(笑)
15:2011/11/03(木) 13:11:26.12
>>10 サガミさん
「卑彌呼」の「卑」「彌」「呼」の名称について〜

「卑」は、ヒ音で、日本側で使った漢字として考えられるのが
「日」「比」「火」「樋」あたりでして、「日巫女」「火巫女」なんてよく聞きますよね。

そして、「上代特殊仮名遣い」というのがあって、これは平仮名、カタカナの元となった
奈良時代より前の「万葉仮名」には、その音が2通りある。
その2パターンっていうのが「甲類」「乙類」だったかな、
「卑」はその後の「彌(ミ)」が甲類なので、それにならって「日」だろうといわれてるんです。
「彌」はなぜ甲類になるかというと 甲類・・・「見」「三」「彌」 乙類・・・「未」「身」 の内、
ここから選ばれたという感じだナノかな。

で、問題の「呼」ですが、呼が「コ」になるのか?「カ」になるのか?
私もここまではあまりよく調べてませんのでして、今ここで話せないんですが(笑)

しかし、たぶん、「呼」の音は「コ」で問題ないと思われます。
16サガミハラハラ:2011/11/03(木) 13:21:35.93
金印は海岸の波打ち際といっていいような(現在は波打ち際の道路の下にあたります。金印公園内ではありません。)
場所に隠しておいたのです。大石といっても当時の供述書から2人で持ち上げることができる程度の石です。
場所的にみて墓をつくるようなところでもありません。どう見てもあれは、戦いやぶれたドッカの国王が金印を持って志賀島
に逃げたが、島の主が庇護してくれるかわからないため、一時隠しておいたのです。
復活したらとり取りに来る予定でした。
しかし、殺されたのでしょうね。隠し場所の口をわらなかったために、江戸時代まで行方不明だったのです。

17:2011/11/03(木) 14:53:13.84
>>16
>金印は海岸の波打ち際といっていいような(現在は波打ち際の道路の下にあたります。金印公園内ではありません。)
>場所に隠しておいたのです。

田んぼ周辺の巨石の下だった気がします。
それに、公園内じゃないって〜観光案内には現在の"金印公園"と説明してるハズだよ。

>場所的にみて墓をつくるようなところでもありません。どう見てもあれは、戦いやぶれたドッカの国王が金印を持って志賀島
>に逃げたが、島の主が庇護してくれるかわからないため、一時隠しておいたのです。
>復活したらとり取りに来る予定でした。
>しかし、殺されたのでしょうね。隠し場所の口をわらなかったために、江戸時代まで行方不明だったのです。

それは、貴方の憶測でしょ。

サガミさんは〜邪馬台国を佐賀県にしたい!と思う、気持ちから来る解釈。
そして、貴方は佐賀ルート説をとっていらっしゃるが、それは無理でしょうね。
なんせ、伊都国が「地名だけ」を頼りにしてるんですもんねえ。。。。
18:2011/11/03(木) 15:23:24.58
柳田國男集「妹の力」て読んだ事ある人はおる???

巫女を知る上で、常に話題に出てくるのが、この「妹の力で」
この前購入して読んでたんですが、けっこうあっけにないよね。
構成は320ページから327ページの8ページ分なのですが、
なんていうかな・・・・普通というかw なんでこの本って
そんなに有名なのか、って思いたくなる。
19日本@名無史さん:2011/11/03(木) 15:36:28.75
>>15
日本に漢字が入ってきたのが、いつのことか、これは定かではありません。
ただし、中国王朝からの文書の形で、少なくとも漢代には伝わっていたもの思われます。
文字がただの模様では無く、コトバを記録したものであることが解れば、それを読んでみようと思うのは人の世の常。
当時の倭人の中にもそう言う人達が居て、少数でしょうが漢字による読み書きは行われていたと思われます。
ここでも議論のる漢委奴国王印が、真物であれば一世紀の倭音を「奴」と言う字で記録した例となり、読み方も知れていたと思われます。
また、国内で倭音が記録された例として、最古級のものは稲荷山鉄剣や隅田八幡社鏡銘などが知られており、いずれも五世紀ころのものです。
五世紀の中国は南北朝期で、倭は南朝との通交を主としていたことから、この時期の漢字音も南朝の長江地域の発音であったと思われます。

万葉仮名は、基本的には、いわゆる呉音系の読み方をします。
呉音と言うのは、北方系言語の影響を受けた華北地方へ、随唐代になって留学した日本人が帰国後広めた、
いわゆる漢音が伝わる前の日本で使われていた音で、七世紀までに伝来した音の総称です。
つまり万葉仮名と言うのは一〜七世紀間の中国音(上古から中古音への時代)と八世紀の倭音を同じ漢字で表現したものです。
例えば「奴」、これを上古音では"nag"と発音し、後の中古音では"no"と発音したと言われています。
金印が一世紀として、この時代が上古音(ほぼ定説です)だとすると奴国は「な国」、
固有名詞なので、表記が定まれば、音の変化があっても文字資料としては慣用的に使われて行くものと思われます。
「日本」と言う国号も音はジッポン>ニッボン>ズーベンと変化しても表記は変わりません。

なので、三世紀の中国音で同時代の倭音を記録したと思われている「倭人伝」の中にも、古い時代の表記と新しい表記が混在しており、
奴国は一世紀以来、音ではずーっと「な国」、魏代の中国では中古音で「nokwoku」のように読まれ、
狗奴国はずーっと「この国」で、三世紀になって中国音で記録されたため「konokwoku]と表記にされたかもしれない。
同一文書内で同じ文字があてがわれていても倭音は違う、だから、500年も後の発音をもって類似を云々するのは、たいへんな作業となります。
20:2011/11/03(木) 15:55:41.33
どっかで河童さんが出現してたね(遠慮してないで、こっち来ればいいのに)。

ちょっとネタを書き込みますが、
この前、富来隆「卑弥呼」をちら見してて、面白いことが書かれていた。

倭人伝の牛馬ですが

扶余伝(三国志)は「家欲得、輸牛馬乃與之」
高句麗伝(三国志)は「其馬皆小、便登山」
東沃沮伝(三国志)は「少牛馬、便持矛歩戰」
挹婁伝(三国志)は「有五穀、牛馬、麻布」
穢伝(三国志)は「祭虎以為神。 其邑落相侵犯、輒 ...」
韓伝(三国志)は「知乗牛馬、牛馬盡於送死」
州胡伝(三国志)は「好養牛及豬」
弁辰伝(三国志)は「乗駕牛馬」  

倭人伝の「其地無牛馬虎豹 羊鵲」は上記、
ほかの国々と精密な比較にもとずいて、記載されてある らしい。
まあ、そうだろうねえ。
21:2011/11/03(木) 16:30:39.59
これは縦目なのかな?まあ、よい〜ネタの続きを書き込むが・・・

よくドンコイのやつらがネタにしてる三角縁神獣鏡の事でも書き込みましょうかね。
倭人伝には「銅鏡百牧」と記述され、卑弥呼に贈られてるんですが、ほぼ、卑弥呼の鏡で間違いないんじゃなかろうか?

三角ではないんですが、人物が同じ方向の同向式神獣鏡が、三国(魏・呉・蜀)の魏の特徴で、
日本国内から出土した三角縁神獣鏡のうち、数個出土されてるはず。
で、画文帯神獣鏡を含む中に「師出洛陽」とか、「揚州会稽山で作られた」と記す銘文あり、
三角縁や画文帯が海を渡ってやってきた、すなわち舶載鏡で問題ないんではなかろうか?

このへん、反対する人はいるだろうがw まあ、ホボ間違いないんじゃない?
22:2011/11/03(木) 16:35:07.12
九州説スレみて〜〜
みんなして「河童」「河童」「河童」言っててウケルwwwwwwwww
馬鹿だなーっおめー等wwwwwww
23:2011/11/03(木) 17:06:51.98
サガミ氏の佐賀ルート批判になってしまうが、
志賀島の「漢委奴国王印」出土だけで博多周辺が奴国と言ってるのではなく、
私は全体を通して言ってるんであってその辺を理解してほしい。

たとえば、箸墓というのは、全長150メートル以上ありますから、
日本列島を代表する王の中の「王」というのは承知だろう。
これは、日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵にも言える事でして、
クフのピラミッドにも引けを取らない規模であるからには、当然、本物の「王」墓ということがわかる。

そして、巨大な前方後円墳が出現する前の王の中の「王墓」を考えたらどこだろうか?
当時「鏡」が非常ぉ〜に高価なものでして人気もあった。
この鏡の出土数で多いのは、
日本no.1・・・平原遺跡で39面  
  no.2・・・椿井大塚山古墳の37面  
  no.3・・・佐味田宝塚古墳の36面
  no.4・・・三雲南小路1号の35面
  no.5・・・勝山と黒塚の34面 
  no.6・・・スグ岡本甕棺の32面  となってまして、
九州のみで言えば平原遺跡、三雲南小路1号、スグ岡本甕棺の3遺跡がずば抜けてる。
スグ岡本遺跡なんかは、古の「都」といわれてまして凄いはず。

で、伊都国、奴国というのは、伊都国=戸数千余(他の書では一万)、奴国=二万余でして、
比較的多い人口になってるはず。

上記のことからして、奴国とは、博多周辺だったと考えるのが妥当であり、
佐賀ルートがどうたらとか、間違いと思うんですが、如何だろうか。
24:2011/11/03(木) 17:18:40.60
うーん、k−さんって結構詳しい人ですよね・・・

>あと狗奴国は熊襲(後の隼人族)のことと考えます。
>彼らは犬をトーテムとしていますから、「狗奴国」は卑弥呼の側からの敵対勢力に対する蔑称(犬野郎ということ)でしょう。

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on

狗←これはイヌですからねえ・・・・まあ、少し調べてみましょうかね。
誰か踏んで〜☆
25唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 17:24:22.96
3世紀初めの平場王墓 後漢鏡

纏向3類(前) ホケノ山 楽浪鏡 庄内3式期 239年垂仁末年
纏向3類(中) 廻間II初頭

纏向4類(後)箸中山・燈籠山、布留0の指標、261年景行末年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 274年~功渡海 纏向5類 (布留1)
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ
26唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 17:35:22.77
ホケノ山古墳(225〜250年) 楽浪鏡(同向式神獣鏡)、鉄器、穴あき壺(埴輪)
は、任那建国(210年)後であり、垂仁末をあらわす。
であるならば、
伊支馬=イクメ=垂仁 、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守 となり
景行による九州遠征が”乱の収束”の為の戦いとなり、
255年頃
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
であり、274年~功渡海から舶載△鏡の時代に入る。

27唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 17:45:17.33
狗奴国は、女王国(倭奴國)の南にある。
景行の九州遠征。
戦争の遺物として鉄鏃がある。
大分方面の戦争は最初である。日向へ出ると、筑紫から西方へ展開。
最後に筑後から南へ侵攻する。
熊本から東へ向かい日向へ出て戦争の終了である。
28:2011/11/03(木) 18:05:59.72
卑弥呼の「鬼道」について書き込んどきましょうかね。

この鬼道っていうのは、シャーマン(巫女)の神託する事を言ってるんだろうが、
「鬼」の「道」と書いて、なんか恐ろしいですよねえ(笑)

たとえば、この「鬼道」ってなにも魏志倭人伝にだけにみられるのではなく、
史記の「封禅書」ってところにも「八通の鬼道を除す...」とかありますし、
三国志魏書「張魯伝」にも「張魯は鬼道によって人々に教え....」とかありますし、
また、後漢書「劉翊伝」にも「鬼道」の文字が見れる。

その中身ですが、
扶余伝(三国志)の「正月天を祭り....牛を殺し吉凶を占う」。
高句麗伝の「鬼神を祭る」。
あと〜、「穢伝」、「馬韓」、「弁辰」に載ってるような、祖先や動物の霊などには
神がかった力があり、それを祭ることによって得られる神託のようなものを指したのではなかろうか。
29日本@名無史さん:2011/11/03(木) 18:20:14.31
孤独やの〜
30:2011/11/03(木) 18:23:12.62
>>19
>日本に漢字が入ってきたのが、いつのことか、これは定かではありません。
>ただし、中国王朝からの文書の形で、少なくとも漢代には伝わっていたもの思われます。
>文字がただの模様では無く、コトバを記録したものであることが解れば、それを読んでみようと思うのは人の世の常。
>当時の倭人の中にもそう言う人達が居て、少数でしょうが漢字による読み書きは行われていたと思われます。

移住民でしょうね。
秦の始皇帝時代の徐福伝説はもちろん、
倭人伝にも「皆黥面文身」や「タン耳・朱崖と同じ」、「皆徒跣」をみるかぎりでは、
どうも南方系民族の移住が多いのでは・・・といわれてるんです。
その時にあちら(大陸や半島)から持ってきたのではなかろうかと考えるんです。

>ここでも議論のる漢委奴国王印が、真物であれば一世紀の倭音を「奴」と言う字で記録した例となり、読み方も知れていたと思われます。
>また、国内で倭音が記録された例として、最古級のものは稲荷山鉄剣や隅田八幡社鏡銘などが知られており、いずれも五世紀ころのものです。
>五世紀の中国は南北朝期で、倭は南朝との通交を主としていたことから、この時期の漢字音も南朝の長江地域の発音であったと思われます。

そうですよね。
漢委奴国王印は一世紀のモノですから、其当時にはすでに少なくても首脳等は漢字を読めたという事になる。
南朝の長江地域の発音っていうのは興味深いですね。

>万葉仮名は、基本的には、いわゆる呉音系の読み方をします。

>三世紀の中国音で同時代の倭音を記録したと思われている「倭人伝」の中にも、古い時代の表記と新しい表記が混在しており、
>奴国は一世紀以来、音ではずーっと「な国」、魏代の中国では中古音で「nokwoku」のように読まれ、
>狗奴国はずーっと「この国」で、三世紀になって中国音で記録されたため「konokwoku]と表記にされたかもしれない。
>同一文書内で同じ文字があてがわれていても倭音は違う、だから、500年も後の発音をもって類似を云々するのは、たいへんな作業となります。

はぁ〜詳しいですね。
ここはもう少し、調べてからコメントしますょ。
31太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 18:28:17.69
臣下 伊支馬≠垂仁天皇

臣下は天皇には絶対なれないのは、道鏡の如くだ。

臣下は、彼らを選んだ〜ww

オマエの論は「猿の惑星 ウソ西紀」 同然!ppp
32:2011/11/03(木) 18:29:23.19
>>29
伊作かな?まあ、よい。

彼に一言、
つべこべ言ってないで、オメーさんの得意な「熊本説」を書き込んでみ。
て言いたい。

彼、畿内説の唐さんに論破されるのが怖くて逃げてるんだぜ〜wwww
だせー
33日本@名無史さん:2011/11/03(木) 18:30:47.67
大和に朝貢した国
34日本@名無史さん:2011/11/03(木) 18:34:33.86
>>28

無理に難しく考える事なく、鬼道って、あやしい手段。だろ
35:2011/11/03(木) 18:35:13.48
伊作ょ かかって来ーい by 太国

私が、カッパさんの観てる前で、
伊作と議論してもいいが、太国が「俺にやらせろ!」って言ってるので(笑)
私は、温泉でも入って来ましょうかね(逃げ) 〜☆
36唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 22:05:48.41
>臣下は天皇には絶対なれないのは、道鏡の如くだ。

妾の子崇神は天皇となった。
天皇位が絶対視されるのは、早くても倭王位を授与した、箸墓以後である。
その倭王位でさえ、~功渡海以後の内乱で乱れる。
允恭も内乱で死亡する。だから「倭の5王」と整合しない。
九州王朝は存在しない。
その証拠が前方後円墳の全国拡散である。
大和から派遣された屯倉臣の根源が239年と240年だ。
37太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 22:29:02.35
九州王朝は存在する。
年号の多出はオマエの否定から九州王朝の存在をガードする。
38太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 22:34:19.81
39日本@名無史さん:2011/11/03(木) 22:43:52.24

天承運 制詔親魏倭王卑彌呼
帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所献男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到
汝所在踰遠乃遣使貢献 是汝之忠孝我甚哀汝
今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封付帯方太守假授 汝其綏撫種人勉為孝順
汝来使難升米牛利渉遠道路勤労 今以難升米為率善中郎将牛利為率善校尉假銀印綬引見労賜遣還
今以絳地交龍錦五匹絳地□粟□十張絳五十匹紺青五十匹答汝所献貢
又特賜汝紺地句文錦三匹細班華五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤
皆装封付難升米牛利 還到録受悉可以示汝国中人使知国家哀汝故鄭重賜汝好物也
布告天下 咸使聞知
景初二年十二月二十一日 御璽
40サガミハラハラ:2011/11/03(木) 23:37:29.92
>>14金印のようにちいさなものは、懐に入れてでも簡単に持ち運びできるものなのです。
観光案内の記事はおおざっぱですから。
漢字の当時の読みについてですが、奴をナと発音するのは、戦後の邪馬台国論争のなかで、ハカタを奴国にしたいことから、
ナノツであることから、無理やりに当時は奴をナと発音(当時奴をなんと発音していたかの資料が中国にはない)と発音したとしたのです。
そうしたら、今度は辞書側が、偉い学者さんが奴はナと発音するといっているのだからそうなのだろうとして、辞書にナをいれるようになったのです。
なお、甲類乙類というのは日本の話であって中国の話ではありません。
41:2011/11/04(金) 00:00:31.58
>>40
考古学ではどうなんです?
貴女の論説は机上で「ナ」とか「ヌ」とか言ってるダケでして・・・
上記した通り、奴国とされる福岡県春日市岡本の「須玖岡本遺跡」ですが、
ここからは、当時貴重な舶載鏡32面が出土されてる。
これは、全国第六位の数でして、倭人伝に記述される奴國は「二萬余戸」でして
須玖岡本遺跡を無視してどうするんですかって〜この須玖岡本に関しての反論をお願いします。
42サガミハラハラ:2011/11/04(金) 00:02:22.74
長々と返答をかいたのですが、タッチミスできえてしまいました。
いやになってきたのできょうはおわりにいたします。
43唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 01:58:44.93
>年号の多出はオマエの否定から九州王朝の存在をガードする。

九州王朝を叫んでも、王都が存在しない。
北部九州は、庄内4式期には、大和の管理下であり、
布留1式期には、~功渡海がある。
だからどこそこの山間の地でひっそり王朝を維持していたと主張したいらしいが
前方後円墳の無い土地は、辺鄙な地方しか無い。
そんな片田舎でどう王朝を維持できるのか?
44サガミハラハラ:2011/11/04(金) 08:57:56.50
私の漢字の発音の解釈については、漢音を基本にしていますが、いろんな地名等を
くらべてみて、それに合わない場合がある場合は、ほかの事象とつきあわせて、倭
人が当時どのように発音したのを中国人がどのように聞いて漢字をあてはめたのか
と類推していきます。
ですから、学問上の発音と異なる音を決めることがあります。わたしは実証主義な
のです。
例えば、不の字は中国ではフと発音していたようですが、倭人は後にオと発音する
ことになる音であったとみるわけです。これは、小城が不彌国であり、岡田が不呼国であることから、当時
の倭人のある音をフであらわし、現在日本ではこれらの地名はオで表されているとみるわけ
です。
例えば、拘奴国というのがありますよね。これは通常クナ国と発音しているが、ど
うやら拘はクではなくコウだったようなのです。
その理由の一つは、日本では熟語などでは、コウと発音するものが多いということ。
つぎに、倭人伝、後漢書からみると、拘奴国は狗奴国と同じではないとみたほうが
よいことです。
従来は、拘奴国は狗奴国の書き間違いとみられているのであるが、女王国の東、と
みるならば、また、東に海があるとみるならば、同一国ではないとみたほうが合理的であるとみます。よっ
て、拘奴国は山口県にあった国であるとみます。
拘奴国はクト国(クナ国)ではなくコウ奴国なのです。(奴はトと発音するのが正しい)コウとよんでいた
国に、日本人は後に孔という字をあてて、孔奴国とし、さらに後には、孔の字義を取り、アナトとして穴門
という字でかきあらわすようになったのです。
私はかように考えます。
45日本@名無史さん:2011/11/04(金) 09:43:59.82
>39
布告天下 咸使聞知
景初二年十二月二十一日 御璽
て……

何と言う書ですか?
46サガミハラハラ:2011/11/04(金) 10:25:11.58
奴国は伊都国の東南百里とあります。私は、伊都国は多久市中小路集落庄とみていますから、そこから東南に鈴山峠を越えて、
6.7kmの肥前山口の土元集落とみています。
六角川の河口付近にあり、そこから西に六角川流域に領土を広げていった結果、2万戸となったとみます。

スク岡本地区は伊邪国とみます。ボウコクなので戸数は分かりませんが、かなりの大国であったことは遺跡や遺物から想像できますが、
奴国であると指定するような遺物はでてないと記憶しておりますが。
47名古屋大文学部1年生:2011/11/04(金) 10:34:16.45
>サガミハラさん

旁国が同じ伊都国と同じような北九州にあるわけないでしょw
だったら遠絶なので戸数や里数の記載ができないと書くわけないし。
日本全域に視野を広げてみるべきだと思いますがね。
48唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 10:59:45.10
而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。
景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。

「委以海外之事」とは、後漢の勢力範囲以遠を指す。
この「海表」とは、境界をあらわす。

正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯俊等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王。並繼詔賜金、帛、
錦罽、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。

正始元年,太守弓遵は、建中校尉梯俊等を遣り、詔書と印綬を奉げて倭國を詣で、
仮の倭王に拝する。…因みに倭王は使いをつかわし、上表文にて(倭王に)詔てくれた
ことに感謝し、答(倭王位受諾)える。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
これ以後に、女王・女王国が登場する以上、女王=倭王とはならない。
49唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 11:10:42.40
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

景初2年に魏魏使は、伊都国か奴国までしか来ていない。ここで倭国団結と朝貢を促す。
女王卑弥呼を倭国代表とし、邪馬臺國までの使節団を結成して景初3年の朝貢。
そして、3年この朝貢団と共に邪馬臺國を訪れ、倭王位を授ける。
50唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 11:36:39.21
「歴年無主」とはなんぞや。
歴年無主とは、歴年つまり暦でいうところの1章=19年7潤、この積み重ねが
暦であるから、歴年とは20年程度の長さ以上である。
「歴年無主」が畿内には存在しない、そして
前原王墓は3世紀前半で終了する。←歴年無主とできる。

そして”王”を名乗れるのは、魏(後漢から禅譲)が認めて王位を授与していなければ
魏は認めない。
女王卑弥呼は、朝貢団派遣時で女王である、であるならば、王位は何時認められたか?
女王卑弥呼が倭奴國王位の継承者である場合のみ可能である。
この時、邪馬臺國は、官伊支馬=イクメ=垂仁 でしかない。
51太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 14:41:17.32
官 伊支馬≠垂仁 でしかない。

官は天皇には絶対なれない。それは道鏡の事件からも明白である。
初代神武から今上まで臣下が即位した事実はない。それにオマエのは
途端に死亡したことになるわけで、どうやら怪しいインチキだという
ことが見え見えだ。ww おまけに弥馬獲支はミマキとして崇神に
あてがわず〜 ? で誤魔化すところを考えると、どうやら眉唾だという
ことが露呈している。ww

妾が産んでも、現今では不利になる身の上だが、当時はこんなことは
当たり前だ。ボスのオス猿は多数のメス猿がいるわけだが、どのメス猿
と小猿が出来ても、人間は生まれてこない。

つまり臣下(猿相当)は人間(天皇相当)にはなれない。当時の妾は
別に妥当ななりふりだったということだ。現在でもイスラムでは4人もの
女が持てるわけで、現在の日本では重婚は出来ないが、昔ならこんなこと
は当たり前のことであ〜る。それは真剣保持というのは現今では持って歩け
ないが(銃刀法違反)、当時は帯刀が出来たということの如くにだ。
52太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 14:44:50.19
>九州王朝を叫んでも、王都が存在しない。

へっへっへっへ・・・

年号には「倭京」があり、九州王朝の王都があったことは明快にわかる。
つまり九州王朝の王都がないという論はデタラメなのである。
53唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 17:49:14.62
>官は天皇には絶対なれない。

冠位十二階や十七条憲法の無い時代である。
”官”も”王”も魏の制度と言い分である。

>それは道鏡の事件からも明白である。
後世の出来事を古代にあてはめられるのであれば、
王都を築くには九州は偏りすぎている。

>九州王朝の王都がないという論はデタラメなのである。

九州王朝の王都が何処にあったかの主張がない。主張がなければ
妄想でしかない。
54太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 18:26:06.55
九州王朝は九州だよ。簡単だな。ww

秀魔電を書いた奴の住居が何処にあったかの主張がない、主張がなければ
妄想でしかない。
55日本@名無史さん:2011/11/04(金) 19:38:49.01
倭国のセモコ・ヘモコのヘモコは日矛ヒボコのことだろうな。

 セモコは分からん。
56唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 20:22:34.75
九州は、景行により大和に従属する国となる。
大倭(大和)は伊都国に一大率を置き(九州)諸国を検察する。
だから九州も前方後円墳の勢力範囲となる。
磐井も畿内から派遣された人物でしかない。
だから、九州王朝を主張しても王都は存在しない。
57あらため:2011/11/04(金) 21:37:16.75
ほう、彼なかなか詳しいね(もう返レスがきてる)。
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on

まあ、有る程度の人じゃないヤリ甲斐が無いですし、
逆に知らない人だと、議論するこっちが恥ずかしくなるし、丁度良いのはいいんですが。
58あらため:2011/11/04(金) 21:47:55.40
>>46 サガミ
だから、貴方のは机上での妄想というか。
春日井市の古墳(弥生時代の都)という現実問題を無視し、
自分の都合のいい解釈で邪馬台国を探すからそうなる。

まあ、大学生もこのスレを観戦してる事だし、私が「議論のお手本」ていうのを見せてやるので
サガミさんも一緒にここでも観戦してなさい(笑)
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
59唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 21:50:55.94
>年号には「倭京」があり、九州王朝の王都があったことは明快にわかる。
「倭京」とは大和のことだろ?だから九州に王都が存在しない。
60太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 22:25:05.47
>「倭京」とは大和のことだろ?だから九州に王都が存在しない。
倭京などという年号は畿内に存在しない。
従ってお前の主張したい畿内の年号にはならない。つまり九州王朝あ年号
であ〜る。日本統一は記紀成立のころであり、そんじょそこいらの恣意的
勝手な記載をした奴の朝廷の嫌われものたる秀魔電の成立のときでは
な〜い。景行は崇神のお助け役年代であり、秀魔電では末代の天皇で
あ〜る。なお五重在位は精神病院ご到着。ww
61太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 22:30:29.45
>>60 訂正
× 九州王朝あ年号
○ 九州王朝年号

>九州は、景行により大和に一部従属する国となる

62唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 22:49:41.99
>倭京などという年号は畿内に存在しない。

当たり前だろ、大和が倭京であるのは箸墓からである。
だから年号を使う頃には、大和が倭京であることは空気みたいなものだ
あるのがあたり前だから口にしない。

>日本統一は記紀成立のころであり、
こんな考えだから、前方後円墳の全国拡散も説明できない。
大仙陵この巨大古墳はどのようにつくられた?
もちろん九州からは、ピンク石が納められている。
63唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 23:05:37.80
「倭」と書いてヤマトと読む。何処から来たか?それは、
陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
邪馬臺國(大和)の王が倭王位を授与したからである。

だから、九州で“倭王”を主張したければ、時代を「後漢」とすべきである。
64太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 23:07:18.13
なにを寝言をぬかす。
漢委奴国王には 委 とある。これは九州だね。すれば 委 の京が九州に
あったというのが当然の当たり前となる。

>大仙陵この巨大古墳はどのようにつくられた?
建築学の板にでも行け。
65唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 23:20:15.73
> 委 とある。これは九州だね。

だから後漢時代なんだ。
~功渡海は、晋による冊封体制への参加である。
渡海ルートは大和が押さえる。
壱与もその子孫も登場しない、つまり、九州倭奴國は大和に吸収された。
まあ壱与(五百野姫)自身が大和から派遣されているから、問題にならない。
66太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 23:21:26.54
陸行一月,至邪馬壹國,即倭王所都。 ←これでいいのう。ww
67あらため:2011/11/04(金) 23:23:25.88
よし、書き込んできた!疲れたので寝る〜☆

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 23:27:16.34
>つまり、九州倭奴國は大和に吸収された。
九州されようと、「倭京」とともにある「継体」の年号は畿内の継体天皇
の時代のころの九州の年号だと如実に分かる。
つまり景行の代に九州統一は出来ない。また秀魔電成立の時代に日本統一
が成ってないことを意味している。日本統一は記紀成立のころであ〜る。

つまりオマエの主張は秀魔電を記紀以上にデッチ上げたいオマエという
朝敵の工作したイカサマなのである。そうはさせない。
69唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 23:27:34.34
後漢時代に倭王を主張してもだ、
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…

この様に”歴年無主”で説明される程度の王朝だ、
だから、楽浪鏡が納められた王墓が存在しない。
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。
東夷九種皆服事焉。楽浪鏡が存在しないということは、公孫度に服すほどの勢力ではない。
70あらため:2011/11/04(金) 23:29:25.87
サガミさんの>>44>>46については、後日レスします。

今日は疲れた〜zzzz
71唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 23:35:45.11
>景行の代に九州統一は出来ない。

そりゃそうだ、大和朝廷をまっとうな暦も使えない集団と主張する限りその通りであるが、
太陰暦を使用していたと主張するこちらから見れば、
>「継体」の年号は畿内の継体天皇の時代のころの九州の年号
「継体」の称号は後付けである。であるならば、「継体」を九州年号から頂戴したという文献を出してみなさいよ。
「継体」の称号は「途絶えた天皇を継ぐ」から来ているか正当性を検討しようではないか。
出してくれ。
7219歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/05(土) 10:46:04.06
こんなん考古学の専門職で仕事してるような人以外はナンセンスな作業でしょ。
素人が倭人伝を一字一句吟味して、独自に解釈してなんになるんです?
巻向の発掘さえ進めば邪馬台国問題など終わりますから。だって畿内が邪馬台国だしw
学生の僕でもわかることなのに、年配の方々がなぜこんなこともわからないのか
理解に苦しみます。
73太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 10:53:20.38
>太陰暦を使用していたと主張するこちらから見れば、

  ↓   太陽暦の文献だ

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年

 太陰暦を【太陽暦】に改め、

 30日を一月とし、十月を1年と定め給う。

太陰暦という文献を出してみなさいよ。
74太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 10:54:31.89
「継体」の称号は後付けであるという文献を出してみなさいよ。
75太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 11:16:28.06
景行の代に九州統一は出来ない。また秀魔電成立の時代に日本統一
が成ってないこととなる。日本統一は記紀成立のころであ〜る。

つまりオマエの主張は秀魔電を記紀以上にデッチ上げたいオマエという
朝敵の工作した松本某の上にアグラをかく超態度のデカい自己と秀魔電の
カリスマ化を企んだイカサマなのである。そうは問屋が卸さぬ。
76太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 11:18:41.48
以下のように訂正

オマエという朝敵の〜工作した(松本某の上にアグラをかく)超態度のデカい
自己と秀魔電の カリスマ化を企んだイカサマなのである。そうは問屋が卸さぬ。
77太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 13:57:23.37
>>36
>九州王朝は存在しない←大ウソ ↓のとおり。

九州年号

継体 善化 正和 発倒 僧聴 同要 貴楽 結清 兄弟 蔵和 師安 和僧

金光 賢接 鏡當 勝照 端政 従貴 煩転 光元 定居 倭京 仁王 聖徳

僧要 命長 常色 白雉 白鳳 朱雀 朱鳥 大和 大長
78太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 14:03:49.20
>だって畿内が邪馬台国だし
記紀には卑弥呼も壹與の記事も彼女らの即位記事も(倭人伝の借り物たる
神行39年等の記事を除いて)それらの相当年代には存在しない。

ヤマトとは畿内のことと日本全体のことと九州のことを指す場合があり、
必ずしも畿内だけとは言えない。

つまり畿内に卑弥呼の国は存在しなと観るのが相当である。
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 14:05:55.84
訂正
× 存在しなと観るのが相当
   ↓
〇 存在しないと観るのが相当
80唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/05(土) 15:20:20.98
>>73
>神皇紀  人皇第一代 神武天皇元年  太陰暦を【太陽暦】に改め、  
30日を一月とし、十月を1年と定め給う。太陰暦という文献を出してみなさいよ。

崇神天皇元年(甲申前九七)正月甲午。《十三》◆元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。
崇神天皇元年(甲申前九七)二月辛亥《十六》◆二月辛亥朔丙寅。

上記の如く、崇神元年1月は、29日である。
そして、“朔”を一日として、月・年を数えるのが太陰暦である。
「太陰暦を【太陽暦】に改め」であれば、“朔”を1日として数えることは無い。
だから「30日を一月とし」は誤りである。

>>74 「継体」と名付けたのは誰ですか?
>>75 考古学は箸中山古墳を最初の大王という。箸中山古墳に誰が葬られていると思う?
>>77 九州年号 継体。 だから「継体」という年号を使用した文献を出せば?
文献が無ければ、「継体」という年号を確認できないだろ。
>>78 それらの相当年代には存在しない。 この相当年代とは、太国倍年の事だろ?
だから太国倍年は存在しない証拠である。
81太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 17:21:26.19
>「継体」と名付けたのは誰ですか?
簡単だよ。人間だ。それとも猿の惑星か〜〜?ww

その古墳をそのように考古の誰が言ったのですか?
二中歴でも読むんだね。秀魔電より確かだからねえ。
九州王朝がないとどの古文献の誰が言ってますか? そしてどの証拠に
より無いとしてますか?

>それらの相当年代には存在しない。
この相当年代否定とは、宿主空年の事だろ?
だから宿主空年は存在しない証拠である
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 17:23:44.53
>崇神天皇元年(甲申前九七)正月甲午。《十三》◆元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。
>崇神天皇元年(甲申前九七)二月辛亥《十六》◆二月辛亥朔丙寅。

これには太陰暦とも何の文献かも説明してないでしょう。それとも題名無し
の文献ですか?ww
83太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 17:34:00.83
九州年号

継体 善化 正和 発倒 僧聴 同要 貴楽 結清 兄弟 蔵和 師安 和僧

金光 賢接 鏡當 勝照 端政 従貴 煩転 光元 定居 倭京 仁王 聖徳

僧要 命長 常色 白雉 白鳳 朱雀 朱鳥 大和 大長

当時の日本が、畿内と九州の2極支配だったということを意味している。
これは大陸の鼎の3極 魏呉蜀 支配の如くであり、日本は当時1極の
畿内政権だけではなく、九州に文武の代ころまで九州王朝があったという
文証である。勿論 倭京 の年号から都があったことは確かである。
また半島でさえ高句麗、百済等分極してたわけであり、日本が1極支配
だったという論が盲象であることが分かる。

このことから日本統一は記紀成立のころとなり、秀魔電成立のときでは
ない。つまり宿主の主張は秀魔電を記紀以上にでっち上げしようとする
朝敵宿主のインチキたる陰謀なのである。
84日本@名無史さん:2011/11/05(土) 17:48:40.66
邪馬台国の卑弥呼が日本書記などに書かれていないのは
シャーマン国家みたいな書き方で遅れている国として書かれていたから
そりゃ国書にそんなん書けんでしょ
85唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/05(土) 19:22:04.16
>九州王朝がないとどの古文献の誰が言ってますか? そしてどの証拠に
より無いとしてますか?
九州王朝があったという古文献の九州王朝は、卑弥呼、男王、までである。
そして、この時、倭人伝に
大倭は伊都国に一大率を置く。
以後、九州に王朝のあった古文献は無い。
>>83 の年号を使用した古文献が有りますか?
なければ、そのような年号も存在しない。

>>84
>シャーマン国家みたいな書き方で遅れている国 この様な国家に”王位”を授けるか?
半島の初国王は、邑長・邑君の叙勲を受けた。
新羅は韓に属す=王位授与は無く、邑長・邑君の叙勲を受け韓(王)に属す。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。

この時代、東夷は9国として冊封体制に組み込まれる。
王位を授与している邪馬臺國(大和)は、274年~功渡海、で冊封体制に組み込まれる。
274年=布留1式期=九州北部に半島の土器と共存。
323年 ~功49年 半島占拠、領土分与。←半島占拠に大きな戦は存在しない。
なぜならば、大和は、伊都国に置いた一大率の行為を半島で行う(警察行為を行う倭軍)
晋滅亡により、政治的空白地帯となる半島。
そこを、占拠する倭軍。一大率行為を行っていたから、大きな混乱もなく占拠できた。
326年 ~功52年=七支刀。

書記の主張に齟齬は無い。正しい主張をしている。それを、間違いのある百済本紀に合わせるから
歴史が見えない。


86太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 19:32:21.20
神武元年が41年 の年号を使用した古文献が有りますか?
なければ、そのような年号も存在しない。
87太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 19:40:04.94
>書記の主張に齟齬は無い。正しい主張をしている
ははぁ、そうですか〜。
ならば書紀の何処に五重在位の主張があるのかね?
そのような在位も存在しない。今一度言う。

五重の在位を記載した古文献が有りますか?
なければ、そのような在位も存在しない。
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 19:45:23.98
89太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 19:51:10.67
九州年号は厳然と存在する。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin11/knengou.html

なお景行の代、日本統一は出来ない。日本統一は記紀成立の代のころ
である。なお秀魔電はそんじょそこいらのたのオッサンが恣意的妄想を
入れこんで書いたトンデモが充分存在、含有する危険思想の書である。
90唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/05(土) 20:00:30.02
>>89
あれは九州年号でなく、古田年号というものだろ?
91太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 20:20:43.45
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 20:25:25.05
そのような年号も存在する。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou59/koga59.html
93唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/05(土) 22:56:40.38
「高良、九州ノコソウヒウタルカ、天平勝宝元年己丑ノ年、宇佐八幡ノ御社造立アリテヨリ、
この言葉使いは、江戸時代あたりだろう。
善紀元年壬寅(五二二)、大唐より八幡大菩薩〔大帯姫也〕日本に還り給いて、廻りを見給うに、
この言葉使いは、平安時代以後だろう。(古文を読んでいれば、江戸時代でも可能な文言)

年号が使われたころの、文献を出してくれ。
94太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 23:00:22.42
>この言葉使いは、江戸時代あたりだろう。
オマエの秀真電もそういうところがあるだろう。ww
95太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 23:01:50.40
41年が即位されたころの、文献を出してくれ。
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 23:05:52.85
97太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/05(土) 23:11:19.27
98唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/05(土) 23:43:41.14
>>97
「九州年号」対比一覧表(古田武彦著『法隆寺の中の九州王朝』より)
古田年号のもととなる文献は?
99サガミハラハラ:2011/11/06(日) 00:20:43.28
九州年号について
元号は、天皇や皇帝のもとにつくられるものである。よって誰かさんも九州王朝の王ないし天皇がいたなどといっているようである。
ところがわたしがみた九州年号には大和の天皇名がかかれておった。
つまりこれは九州年号をつくったひとたちは、大和の天皇のもとにおける年号であることを認めていたようなものである。
結局これらの年号は数寄者が遊びでつくったものなのである。
100日本@名無史さん:2011/11/06(日) 00:35:39.05
>ところがわたしがみた九州年号には大和の天皇名がかかれておった。

そんな九州年号は継体だけでしょ?
あれは後世、九州元号を畿内王に付けただけ。
101日本@名無史さん :2011/11/06(日) 06:30:13.03
畿内説論者のレベルは低いんだから許してやれよ
102サガミハラハラ:2011/11/06(日) 07:57:02.26
それでは何故九州の天皇の名をつけなかったのかということになる。
年号をつける以上は天皇のもとに使用するということは、年号製作者では
しっていたのではないでしょか。
103日本@名無史さん:2011/11/06(日) 08:12:27.85
天皇と言う看板だけ、つまり、アメ氏系とその取り巻きだけ、
九州から畿内に移ったという可能性はないかねえ?

その土地の豪族は、そうそうよそには移れない。

豪族の力の変遷で、天皇のスポンサーが代わったような感じで。
10419歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 08:17:04.77
サガミハラさんは、郡からの総日程説をとる九州小城説でしたよね?
では陸行一月をどう解釈いたします?九州内を一月は長すぎやしません?
サガミハラさんだけじゃなく九州説派のみなさんにも言えることですがw
105日本@名無史さん:2011/11/06(日) 09:15:08.84
3世紀当時は川に橋は無く、すべての川は渡し舟で越えねばならなかった。雨
で川水が激しい時は、水が引くまで岸に宿泊して待たねばならなかった。山、
峠も同じ。雨水が山道を川のように流れる時、無理な昇り降りはできなかっ
た。背中に3、40キロの荷物を背負って川や山を越えることは極めて難しく、
一々荷物を降ろしたり、分けたりしながら何日もかかってやっと越えた。
現代感覚で3世紀を判断することはできないよ。畿内説のウマシカどもがよく
やる失敗だけどね。
当時は以上のような理由で陸行よりも船で行ける所はなるべく船で行った。そ
の方が荷物の運搬が圧倒的に楽だからね。したがって壱岐から関門を通って難
波津まで一気に水行したというのなら畿内説も有り得るけれど、倭人伝はそう
は書かれていない。畿内説は絶対に成り立たない。
10619歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 09:35:14.30
>>105
その主張ももう崩せますよw
船での上陸地点は末櫨国でしょうが、その後船を乗り捨て
陸路で伊都国まで行くのは不自然なので海路を取り伊都国までいったのでしょう。
ではなぜ陸行五百里と書かれているのか?
これも邪馬台国まで水行十日陸行一月の記述の解釈の仕方が分かれば簡単に解けます。
伊都国で聞いた公的な旅費規定をベースにした行程を魏志倭人伝では記述してるだけです。
我々が電車に乗る感覚で、伊都国にで末櫨から伊都までいくらで距離は〜里、
伊都から大和までいくらで陸行何日と、その行程表を魏の使者が記録したのです。たぶんw
107サガミハラハラ:2011/11/06(日) 09:42:40.68
>>104 わたしは、陸行く陸行1月については韓国内陸行説をとっております。
錦江河口の群山に上陸し、東へ進み参礼に到り、南下し求礼に到り、東へ進み河東に到り、さらに東に進み固城にいたります。
この固城が出航地となります。
京城から群山までは、海岸に従って水行します。232Kmです。
群山から参礼までは34.5kmです。参礼から求礼までは113.5kmです。求礼から河東までは33.7kmです。
河東から固城までは78kmです。
合計491.7km となり、1里67.5mですからざっと7284里となります。
これは郡より7千余里に相当すると思います。
10819歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 09:49:24.85
>>107
韓国内陸行をとったと倭人伝に記されてないようですがw
水行と書かれてますよ。それに船を乗り捨て陸行に切り替える
必然性が僕には理解しかねるのですが。
109サガミハラハラ:2011/11/06(日) 09:51:02.15
よく旅費の話がでてきますが(結構偉い先生も行ってるらしい)、中国の資料にそのように細かい旅費のことがでている資料がありましたら教えてください。
11019歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 09:55:20.52
いえ、僕は若輩の学生なので、中国の資料など知りませんw
水行陸行に関する不可解さが気になり、調べていたところ、
旅費のことを知り、おそらくこの解釈が最も合理的であろうと
思っただけですw

そうしないと、畿内説でも九州説でも説明がつきませんよ。
無理やり、韓国内陸行にしたり、獣道で全然進めなかったと
仮定したりしないといけなくなるわけでw
11119歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 10:06:27.49
ちなみに、平安時代の「延喜式」における公的な旅費規定では、
大宰府〜京 までで陸行なら27日、水行なら15日だそうです。
水行の場合のみ往復の日数で旅費が支払われていたので2倍します。
陸行は時代が大きく異なるので街道の整備の仕方も異なると思うので、
+10日くらいは陸行の場合は3世紀ならかかったと計算してもいいと思います。
ほぼ倭人伝の記述と一致するでしょ。
112サガミハラハラ:2011/11/06(日) 10:16:51.72
海岸にしたがいて水行、韓国を経て、とあります。ここで行程が一度切れるのです。
ここで、当時韓国までは船でいくというのが一般的だったのでしょう。
全部水行なら郡からどんな船を使って九州までいくの?
11319歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 10:22:05.62
>サガミハラさん
あと郡から女王国までの総日程と解釈するのも
厳しいのではないでしょうか?
郡から女王国まで万二千余里、と万二千余里の記述に関しては
起点が郡からとはっきりと明記されてるのに、
邪馬台国に関しては起点が郡からと明記されておりません。
また投馬国に関しましても小城より北に位置し、かつ水行二十日では
説明がつきません。
114太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 10:41:51.21
西暦41年の記述ある文献は?
115太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 10:48:20.52
>九州内を一月は長すぎやしません?
 サガミハラさんだけじゃなく九州説派のみなさんにも言えることですがw
長くはないですね。
大陸人は九州へ来てゆっくり見物して行ったんですよ。それで逗留とか
台風、嵐等の気候の悪条件で遅延したり、道中急病人が出たり、道を
間違えて逆行したり、山賊海賊の接近に気をつかい、女王国ではゆっくり
して行けとか言われて時間が経過した。

つまり妥当な時間が書かれているということですな。
11619歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 10:57:25.93
>>115
太国さん、あなたやサガミハラさんも文面から察して
かなり年配の方とお見受けいたしますが、
なぜ年配でたくさん経験積まれてて賢明な方がそのような
幼稚なことを言うのか理解に苦しみますw
それ言ったら邪馬台国問題などほんとに研究するのも馬鹿馬鹿しいし
意味がないですよ。
117太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 11:01:16.74
君は昔ヒッキー中学生とかのようなコテハンで書きこんでいた人
だろう?

幼稚だけでは論説ではないよ。
記紀には卑弥呼の記事なんかないんだよ。それは神功39年とかの記事は
そうだが、これは倭人伝からの借用だ。これでなく、紀の原書からの
記事はどこにもない。これは女王国が畿内になかったことを意味するもの
だ。
118サガミハラハラ:2011/11/06(日) 11:11:28.07
あそこの部分はどちらともとれるということです。
しかし距離の計算上は水行では7千台をこえてしまいます。
韓国とはその都を中心にかんがえます。ただし、倭国への行路上には韓国の都ははいりません。
11919歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 11:25:22.84
太国さんもサガミハラさんと同じように郡からの総日程説をとってるのでしょうか?

郡から女王国まで万二千余里
南、邪馬台国に至る、水行十日陸行一月

となってますから、総日程説では起点が郡からだと示されてないのでおかしいです。
郡から邪馬台国に至るまで水行十日陸行一月、万二千余里。
と記述されてないと合理性がないのでね。
120サガミハラハラ:2011/11/06(日) 11:38:20.49
陳寿はおおくの資料を寄せ集めて、倭人伝をかいたのです。不ミ国からは別な資料をもとにかいているのです。ですから、そこから先は日程記述になっているでしょう。
またそこからは、順次式ではないのです。
12119歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/06(日) 11:44:02.92
あまりにご都合主義の解釈過ぎやしませんか?w
もう少し万人が納得するような合理性がなければ納得しかねます。

それに九州が邪馬台国なら九州に卑弥呼やイヨの伝説が残ってなきゃおかしいのに
なんもないでしょw
122日本@名無史さん:2011/11/06(日) 12:12:05.04
畿内派が嫌われる理由がよくわかる
123太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 13:05:10.15
>>119
これははっきりしませんね? しかし先述のとおり、時間がたっぷり
かかるのは妥当でます。不合理ではないですね。

>>121
それに九州が邪馬台国なら九州に卑弥呼やイヨの伝説が残ってなきゃおかしいのに
なんもないでしょw
こちらの無いは別におかしくありませんね。
貴方は畿内と条件、環境を同一視してるから、そんな抗弁となるわけです。
条件、環境が畿内とは違いますよ。
奥九州の女王国は隔絶した秘境的地理の場所にあったということです。
外界に殆ど情報が出なかった位置に在ったということですね。だから畿内
の外界と行き来のあった地域とは比較に出来ません。
それがたまたま女王国の情報が漏れ出たことから、大陸人の女王国行き
となったということです。秘境的隔絶地域では卑弥呼の伝承など残り
難いですよ。
124太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 13:10:09.50
>>123 失礼 >が抜けました

>それに九州が邪馬台国なら九州に卑弥呼やイヨの伝説が残ってなきゃおかしいのに
なんもないでしょw
125唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/06(日) 13:36:38.43
>奥九州の女王国は隔絶した秘境的地理の場所にあったということです。

卑弥呼を 女王と認定したのは魏国である。
だから、魏使が、『隔絶した秘境的地理の場所』で女王と認定した…

あまりにご都合主義の解釈過ぎであるとの見方は正しい。
126太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 13:48:54.85
>>125
意味不明??
ご都合はオマエの得意技だ。
127唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/06(日) 13:59:38.20
>>87
応神天皇十六年二月。王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。
応神天皇二八年九月。高麗王遣使朝貢。時太子菟道稚郎子讀其表。怒之責高麗之使。
応神天皇四十年(己巳三〇九)正月甲子《廿四》◆甲子。立菟道稚郎子爲嗣。

応神が若い菟道稚郎子を太子とするのは、四十年の事である。
だから、同十六,二十八年の記事と整合しない。

>ご都合はオマエの得意技だ。
太国は、議論に加わる前に、することがあるだろ?
それは、太国倍年で書記を読むこと。1年が300日であるならば、
1年を300日として書記を編纂しなおす。これが先決だろ?
 
128太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 14:05:16.00
宿主は、議論に加わる前に、することがあるだろ?
それは、宿主空年で書記を読むこと。1年が265日であるならば、
1年を265日として秀魔電を編纂しなおす。これが先決だろ?
 
         ↓

http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG
129太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 14:11:27.46
宿主空年で書記を読むと ↓ 不整合。空でない。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
130太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 14:14:41.36
>だから、同十六,二十八年の記事と整合しない。

だからオマエの脳内の考えが整合しない。それを紀のせいにして、
精神病院行きの五重在位とかppppppppppppppppppppppppppppppppp
・・・・・
ppppppppppppppppppppppppp これでオマエは合ってると想いこんでいる。ww
131唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/06(日) 14:18:11.41
纏向1類(前) 弥生X様式土器 2世紀末
纏向1類(後)
纏向2類(前) (217年垂仁元年 任那)
纏向2類(中)…纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 (垂仁末年ころ)
纏向3類(中) 廻間II初頭
纏向3類(後)…纏向4類(前)…纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山・燈籠山、布留0の指標260年頃±15年、(景行末年)
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 布留1 △鏡の副葬 (274年~功渡海)
纏向5類(前)東殿塚・下池山 半島の土器が九州に
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 (308年永嘉の乱)
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 (316年晋滅亡、兵の引き上げ)
  
旧纏向5式  326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
  仲津山古墳
旧纏向6式    須恵器を伴う 370年前燕滅亡?TK73石津丘古墳
TK216誉田御廟山古墳 渡海(274年)から110年後。

>>129の出来事を、崇神時代から差し込んでくれ
差し込めなければ、歴史認識とならない。
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 15:12:01.99
差しこむ原体がデタラメでは、何もならない。
それに考古は毎回書き換え書き換えの連続だ。
そんな真似は利口な奴はやりやしな〜い。
133日本@名無史さん:2011/11/06(日) 15:44:38.98
皇帝使節の一行は都市の門をくぐる少し手前で列の威儀を整える
2騎が先駆けして「奉拝!奉拝!(フォンバ〜イ! フォンバ〜イ!)」と触れ歩くと
都督は城門まで出向いて拝賀の礼をとって迎える
その為に門が要る
「城柵嚴設常有人持兵守衛」がそれ

134日本@名無史さん:2011/11/06(日) 16:01:08.92
>>106
あなたはマツロ国を唐津付近と考えているようだが、それもまだ立証はされて
いない。とするとあなたのみならず唐津付近に上陸したとする論者の説はどう
なるのかな。考えてみて下さい。

>>121
今のところイヨよりトヨと読む説が強い。トヨならば北九州一帯にトヨ姫伝説
がウジャウジャ有るよ。勉強してからレスした方がいいよ。

このところあなたのレスは九州説者・畿内説者を問わず、ウマシカ、ア○ウと
認識されているから、レスをするよりもまず自分の頭の中を満たしなさい。
135日本@名無史さん:2011/11/06(日) 16:08:37.85
おまいら>>121なんか相手にするな
ただの低能じゃないか
136日本@名無史さん:2011/11/06(日) 20:26:57.36
やはり、ヤマトモモソヒメが卑弥呼だと思う。
巻向ほどの都市はあの時代にほかにないし、魏誌の男弟がいたとか(崇神)、卑弥呼の墓の大きさの箸墓など酷似してるし
次のトヨもトヨイリビメとして祭祀を司っていたし
137あらため:2011/11/06(日) 21:27:48.24
書き込んできた〜☆

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on

では、早寝、早起きしろよ〜ねる(=0=)zzz・・・・・
138唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/06(日) 22:41:13.17
>>317
>それに考古は毎回書き換え書き換えの連続だ。
そんな真似は利口な奴はやりやしな〜い。

考古学と整合させられないかぎり、歴史ではない。
つまり、考古学を書き換える能力もなく、整合させる能力もないから 無視するに限ると
主張しているわけね。

>>136 >ヤマトモモソヒメが卑弥呼だと思う。
太国が大体その様な数字を主張しているから、当時の大和の状態を聞いてみるとよい。
139唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/06(日) 22:48:57.77
>>121
ホ38300      フソサミヱ キサラギヨカに
ホ38301      ヰオノヒメ クスコウチミコ
ホ38302      イセノカミ まつるいわひは
ホ38303      ツクシむけ ヒメコトシソヨ
ホ38304      ヤマトヒメ コトシモモヤツ
ホ38305      よろこびて ヨハヒいたれば
ホ38306      ワレたりぬ わがヤソモノべ
ホ38307      ソフツカサ ヰオノにうつし
ホ38308      つかえしむ

イヨ=5百野姫。
わがヤソモノべ ソフツカサ=伊都国の1大卒。
140太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 22:57:58.09
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

 〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

>考古と整合させられないかぎり、歴史ではない。
考古とは毎回書き換えばかりで、毎回歴史でな〜い。
つまり、考古学を書き換えるのは毎回で、整合させるのはコチラだから 
いつも毎回書き換え書き換えの考古を無視するに限ると 主張しているわけだ。

わかったか〜?  考古の威を借りる狐殿。
141太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 22:58:55.50
イヨ≠5百野姫。
142太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 23:12:56.06
考古学が書き換えてるかぎり、歴史ではない。
オマエは空年を書きとめる能力もなく、整合させる能力もないから 考古するに限ると
主張しているわけね。
143唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/06(日) 23:21:00.13
>>317
>それに考古は毎回書き換え書き換えの連続だ。
そんな真似は利口な奴はやりやしな〜い。

景初3年銘鏡も考古学の範疇である。
この銘をもって崇神6年と整合すると主張するのであれば、(考古学と整合するとの主張であれば)
土器程度の説明はできるだろ?できないのか?
ホケノ山は半島の文物、墳墓形態などから垂仁末で良い。
しかし、三角鏡は茶臼山からである。景初3年と茶臼山はかなり離れている。
なぜ離れているのに整合するんだ?説明できないだろ、説明できなければ
崇神6年と景初3年は整合しない。
144唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/06(日) 23:23:17.36
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。

倭人伝とホツマは同じことを言っている。
145太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/06(日) 23:27:55.02
>景初3年銘鏡も考古学の範疇である。
なにをぬかす。この鏡の銘文は紙面でない金属面での文献でもある。

41年程度の説明はできるだろ?できないのか?
いつも日食が数日間も続く数値を算出しているオマエのくだらない抽象的
数字の羅列なんか信用はゼロで、説明したことにはならない。

考古の説明はしなくても 崇神6年と景初3年は整合する。 なぜか?
当たり前だ。考古は毎回毎回ブツが出るたびに書き換え書き換えだ。
こんなものは参考にしかならない。オマエはいつも要領が悪く、採不採
がへたくそだな。ww

zzzzz・・・・・・
146日本@名無史さん:2011/11/07(月) 08:26:52.97
九州説派など、ほとんどが歴史マニアの素人で、
思い込みが激しく、プライドが高いうぬぼれ屋。
客観的に見ることができず、むしろマニア特有の
自分だけの邪馬台国論を展開したがる癖があり、
その証拠にやたら自分で本書いて出版したがる。
理数系にも弱い暗記馬鹿の低学歴が多いから、
非論理的なことばかり言う傾向もあるし、
そりゃプロの専門家からは相手にされないw
147サガミハラハラ:2011/11/07(月) 08:40:56.18
上からの5行、私にピタリとあてはまります。
148日本@名無史さん:2011/11/07(月) 14:01:38.57
>>146の自己紹介は正直でよろしい。
サガミさんはもと教員だからセミプロだね。
149日本@名無史さん :2011/11/07(月) 14:08:16.42
そうだな
146を相手にする専門家は誰もいないな
150太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/07(月) 14:53:01.98
>崇神6年と景初3年は整合しない。

 崇神6年と景初3年は整合する。

これは日本製たる景初3年鏡の銘文の景初3年がその前年の崇神6年に
相当することが、崇神6年の朝廷の最重要事 倭笠縫の鏡祭祀 の出来事
と崇神6年 9/3の鏡作神社の社伝の 鏡改鋳 の文面から年代の近接が
判明し、年代近接が整合していることを物語っている。
前年の崇神6年という意味は、倍暦確定における238年(=景初2年)と
編年されることである。倍暦は秀魔伝の385日暦法、265日暦法などからも
その存在が肯定される。

50年差の景行元年では鏡作りの記事等は見当たらず宿主の恣意的な 景行の
代 に超無理な牽強付会を企てたことのそれが失敗のドジだったということ
の発覚となり、おまけに五重在位という極めてひどい〜精神病者でも滅多
に思わないデタラメとともに、宿主のインチキが便器の側壁のクソ同然の、
第三者から最低の評価に至らしめる。

ウィンドウズ95が発売されれば当然1995年あたりに爆発的に皆が使用
するわけであり、ウィンドウズ95発売の50年後の2045年に爆発的に使用さ
れたなどとを肯定する馬鹿は、脳内のおかしい野郎等以外いやしない。ww
151記憶喪失した男:2011/11/07(月) 20:53:17.60 BE:3079593959-2BP(1)

ユアぺディアに「古代出雲」の記事つくりました。
http://ime.nu/ja.yourpedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2

検証してください。
152記憶喪失した男:2011/11/07(月) 20:59:22.24 BE:3832382887-2BP(1)

邪馬台国九州論者とは、一緒に飯を食う気になれん。
153日本@名無史さん:2011/11/07(月) 21:34:55.30
詐欺師(畿内説)と一緒に飯を食いたい奴などいないから、心配するな。
154記憶喪失した男:2011/11/07(月) 21:44:05.57 BE:3832382887-2BP(1)

ユアぺディアの記事はどうさ?
155唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/07(月) 21:53:11.84
>考古は毎回毎回ブツが出るたびに書き換え書き換えだ。こんなものは参考にしかならない。

新羅は韓に属す。魏・晋による冊封体制。
あるいは、倭に属す。
神功49年の出来事である。
そして新羅も倭に臣従する。その時代の百済王朝がクニシンまでである。
クニシンを5世紀とする百済王朝(3国志)では、好太王碑と齟齬をきたす。
12世紀の百済本紀より広開土王碑が正しい。
つまり、百済本紀には、高句麗軍が駐留する400年前後の50年ほどの記録を欠き編纂されている。
156唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/07(月) 21:59:28.10
>>151
>ホ03075 ワカヒルメ ソサクニにうむ
ホ03076 ソサノオは つねにをたけび
ホ03077 なきいさち
157太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/07(月) 22:01:45.16
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜

 〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

もうそろそろひっこめていい。
158唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/07(月) 22:41:19.11
> 〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。もうそろそろひっこめていい。

偽書であることを証明すればいいだろ?
太国倍年を正しいとする限り、ホツマは偽書として葬る必要がある。
つまりだ、まず、太国倍年の主張が中途半端のままである。
1年は300日で30日の10ケ月。←もっと具体的に主張しないと…

このごろ、新羅は倭の属国という文献が発見された
新羅を属国とできるのは、~功49年から、400年頃の高句麗の南下までである。
百済もどうようであり、倭に臣従する百済王家の記録が、応神時代のクニシン王までである。
太国倍年で説明することができない。
ホツマには書かれていない時代である。
ホツマを否定する前に、太国倍年は否定する人物もいない寂しさだ。
159唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/07(月) 22:46:07.50
>もうそろそろひっこめていい。

否定したければ、太国が正しいとする対案をだせば、
出せないの?かわいそうに…
160太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/07(月) 23:07:46.40
>1年は300日で30日の10ケ月。←もっと具体的に主張しないと…
なにをぬかすか。大金が動くときはことごとく万札の束だ。オマエのは
もっと十円玉の数まで見ろだ。ブハハハ・・・

強盗がコンビニとか銀行を襲うときは、奴らは万札の束しか興味はないよ。
それをまぬけな強盗なら、1円玉も数えないとねというだろう。ww
オマエ、夜でも顔を洗って来い。
161太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/07(月) 23:13:21.66
〜百済も同様であり、倭に臣従する百済王家の記録が、応神時代のクニシン王までである。
秀魔で説明することができない。
秀魔には書かれていない時代である。
162太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/07(月) 23:19:55.96
>ホツマを否定する前に、太国倍年は否定する人物もいない寂しさだ。

大いに結構だな。倍暦否定者がいないということは肯定者ばかりだという
ことだ。ww
163太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/07(月) 23:54:59.44
>>158
ついでに 神武年代の空年が皇紀何年から何年までなのか具体的説明をして
みろ。
また次代の空年が具体的に皇紀何年から何年までなのかを・・・以下後代まで
具体的空年の年代を出してみい。

それが出来なければ空年など存在しない。
164日本@名無史さん:2011/11/08(火) 11:58:12.75
卑弥呼は桃襲で間違いない。
九州説ならだれよ?w
八女なんとか姫?比売大神?
それくらいしか伝承残ってないでしょ。苦しいねw
165日本@名無史さん:2011/11/08(火) 13:24:16.09
>>164
あん?それくらい?はぁ?お前バカだろう。さっさと失せろや!この変態が!
166日本@名無史さん:2011/11/08(火) 13:39:13.90
>>164

何で、別な人物を、わざわざ同一視する必要があるわけ?
別な人物は別人だ。卑弥呼は他の誰でもないだろ。
167唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/08(火) 20:10:43.25
>倍暦否定者がいないということは肯定者ばかりだということだ。ww

太国倍年を肯定するためには、肯定できる数字に変換した後である。
たとえば、1年を300日とするならば、その暦法で書記の記事を書き換えるのが先決である。
それを太国はしたのか?してないだろ。だから、主張途中というより、
自分の主張するすうじにさえ合わせられない。これが現実だ。

ホケノ山(225〜250年)形態は任那建国後であり、埴輪を伴う=垂仁末が妥当である。
桜井茶臼山古墳、 ホケノ山から50年程度後の古墳であり、△鏡の副葬が始まる。

崇神6年は、桜井茶臼山古墳の直前か?
崇神6年が、ホケノ山に先行することは、書記の記事から明白である。
崇神6年と景初3年銘を整合させる文献も考古学の数字も存在しない。
考古学がアテニナラナイのであれば、太国自身が考古学の数字を主張しなければならない。
168太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/08(火) 20:25:13.65
宿主空年を肯定するためには、肯定できる数字に変換した後である。
たとえば、空年を神武10〜20年とするならば、その空年でオマエの記述を
書き置くのが先決である。
それを宿主はしたのか?してないだろ。だから、主張途中というより、
自分の主張するすうじにさえ合わせられない。これが現実だ。
169太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/08(火) 20:32:56.46
崇神6年と景初3年銘を整合させる文献も考古学の数字も存在する。

オマエはウソしか言えないのか。ww

崇神6年9月3日の鏡作神社の改鋳記事がある。
おまけに同年倭笠縫の鏡祭祀はもう古代史で有名のことだ。

いずれも鏡の出来事である。畿内の500枚が日本製なら、畿内の鏡作り
が景初3年近隣年代でこれらを作ったわけだ。景初2年が崇神6年の
ことから完全に隣接年代にある。すなわち整合しておる。

1995年ではなく50年後の2045年にウィンドウズ95をウーザーが爆発的に
使用したとするオマエの論は、デタラメのデタラメだ〜。ww
オマエのは50年もずれて近接してはいない。
170あらため:2011/11/08(火) 22:19:11.66
これ、おもしろいよ

http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub23.html
171太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/08(火) 22:24:34.73
>>169 訂正
× ウーザー
○ ユーザー

>>170
そこに精神病院ってあるね。なんだろう?
172あらため:2011/11/08(火) 22:33:55.23
「親魏倭王」印が発見されたところが邪馬台国だというが、
卑弥呼以外にもその臣にも銀印が与えられてるはずで、この銀印っていうが
一つや二つではない。
卑弥呼の金印が発見されるよりも、臣の銀印が出てくる方が確率的に早いんじゃなかろうか。
で、卑弥呼の金印じゃないが、それよりも古い金印が志賀島から発見されて、
話題を呼んだが、次にでてくる銀印が青森とかだったらどうしましょwww
まあ、それはないと思うんですがねえww
173日本@名無史さん:2011/11/09(水) 02:46:08.06
卑弥呼の金印は晋に変わった時壱与が中国にかえしています。
中国のどっかでみつかったら、そこが邪馬台国ですか?
金印もあてにならないのですよ。
174日本@名無史さん:2011/11/09(水) 02:53:40.24
>>173
根拠は?
175日本@名無史さん:2011/11/09(水) 03:05:14.34
倭奴国の金印はどうして返さなくてよかったの?>>173
176日本@名無史さん:2011/11/09(水) 08:51:08.27
金印は親魏倭王であって、親魏卑弥呼王ではないのです。つまり倭国の王の印鑑なのです。
ですから卑弥呼亡き後壱与が使用していたのです。
ところが世がかわり、魏から晋になりました。もはや親魏倭王の印鑑はつかえないのです。
使ったら晋にたてつくのかと、あやういことになります。
中国の王朝の変化は壱与の時代のことですから、壱与は今度は「親晋倭王」の
金印を頂いたと思います。
では使わなくなった金印はどうしたかというと、一つは中国に持って行って交換した。
一つは記念にとっておいた。
もってるとまずいので捨てた。
となります。(売りに出したことはないでしょう。(わざわざ生めることもないでしょう。)
しかし金印は純金ですので、簡単につぶせます。(べつに溶かす必要はありません)
よってつぶして他のものに変えたことでしょう。
発見されるとすれば、中国か、記念に取っておいたということになると思いますが、
保管していたとすれば、邪馬台国が大和によって征服されたとき、親魏倭王の金印と親晋倭王の金印は共に、
大和に没収されたことでしょう。
つまり、現在皇室の倉庫のどこかにある、ということになります。
宮内庁にお確かめください。
177日本@名無史さん:2011/11/09(水) 10:25:38.93
九州だろうが近畿だろうがどっちでもいいだろw
九州にあったなら3世紀の時点ではまだ畿内ヤマト王権の勢力が
九州まで伸びてなかっただけだし、畿内だったら、そのまま大和朝廷に
発展したんだろう。それだけの話。もっと大局的な視点で見ろよ。
そしたら邪馬台国の所在地論などたいした問題じゃないことくらいわかる。
こういうちまちましたことが好きなのは典型的オタク気質の奴w
178日本@名無史さん:2011/11/09(水) 10:49:15.85
>>176
晋に「親魏倭王」の金印返還になんかいったら怒られるだろう
卑弥呼が貰った金印を新しい国家に返すなんて伝統はどこにもないよ
それに奴国王の例を見れば金印を貰った王と一緒に葬られることが分かる

日本書紀に出てこないのもおかしいしな
179日本@名無史さん:2011/11/09(水) 11:51:05.23
>九州にあったなら3世紀の時点ではまだ畿内ヤマト王権の勢力が
>九州まで伸びてなかっただけだし、
畿内ヤマト王権なんてものを考えているだけでセンスがないってわかるな。
180日本@名無史さん :2011/11/09(水) 12:06:25.70
19歳はとり付けろよ、NGにするからw
181日本@名無史さん:2011/11/09(水) 12:08:43.97
<奈良・中西遺跡>弥生前期最大の水田跡 高い計画性と技術

奈良県立橿原考古学研究所は8日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)としては
国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見したと発表した。
水田が河川の氾濫による土砂で埋まった後、大規模開発などが行われなかったため地中に残っていたとみられ、
橿考研は「当時の水田開発の仕方が非常によく分かる発見」と評価している。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111109-00000010-mai-soci

182あらため:2011/11/09(水) 13:15:34.65
>畿内はド田舎

で、何を以って田舎とするのか、都会とするのかって事だと思うんだが
たぶん副葬品からきてるんじゃなかろうか。
九州は、大陸・半島と近かったため、
副葬品に現れる「銅鏡」や「鉄製品」が入り易かっただけ。
あと貝製品も南の諸国と近いために入ったんだろう。

奈良盆地の面積は、ハッキリ言って筑紫平野に劣るが・・・
畿内説側の主張としては大和、河内、和泉、摂津、山城を含むの形態であって
決して、人工的にも負けてないと思う。
あと、巻向には人が住んでない、とかよく耳にするが
巻向川ていう古代の川があったんだから、その周辺を生活の場として求める人達もいたに違いないわけで、
箸墓などに代表される巨大古墳の築造にしろ、多くの人が労働し、築かれたのは間違いないわけで。
183日本@名無史さん:2011/11/09(水) 16:58:55.53
纒向なんて、ダムの建設現場みたいな場所だろ。
いろんな場所から招集された労働者が集団で土木工事をしただけ。
纒向が列島の中心地だったとは笑わせる。
184日本@名無史さん:2011/11/09(水) 17:03:38.41
>>183
いろんな場所から労働者を召集し土木工事をさせるのができたなら
それこそ当時の列島の中心地だった考えるしか無いだろうにw

この馬鹿は何を言ってるんだ?wwww
185日本@名無史さん:2011/11/09(水) 19:09:45.86
魏と晋は禅譲ですので交換してくれたとおもいます。いやもっていかないと、私は倭国の使者ですと吠えても、信じさせるのに手間がかかります。
志賀島の金印は墓に入っていたのではありませんよ。
186日本@名無史さん:2011/11/09(水) 19:16:34.01
>>184
宗教的な場所ではあったかもしれないけど権力とイコールとは断定できないと思うぞ
187日本@名無史さん:2011/11/09(水) 19:35:36.90
纒向の土木工事現場が、なんで首都なんだ?
188日本@名無史さん:2011/11/09(水) 19:54:48.10
アレキサンドリアみたいなもんだったりして
189レス長たらし毘古:2011/11/10(木) 04:15:09.40
>>10
>よってヒミカと発音したようです。ただし弥ははっきりした音ではなかった
ようで、中国人にはそう聞こえたということでしょう。

えと、単なる感想ですので、レス不要です。「弥」と「呼」の呼び方は皆さん
各種お考えがあると思います。「弥」が「中国人にはそう聞こえた」と言う
のは共感できます。
さて、ここからが個人的思い付き感想ですが、北海道には「エトピリカ」と
言う鳥がおります。それから類推して「ヒリカ(ヒミカ)はありえないだろう
か?」と個人的には妄想しています。
つまり、ヒ+(イ行)+カ、と言う構図は共感を覚えます。そして、当時は、
「そのイ行の倭人独特の言葉」があり、残念ながら今は(伝わっている?or
伝わっていない)判らなくなっている。とも妄想されます。
190レス長たらし毘古:2011/11/10(木) 04:45:28.44
>>27
>景行の九州遠征。

一応古事記上から、これも感想ですのでレス不要。景行の遠征戦況のレポート
が皆無な事から、古事記ベースの当方は「在来九州権威との大和の同盟」を
想定しています。そして、その権威の位置ですが、現在では日田と日向の
どちらも選択肢を残して考察中です。
191レス長たらし毘古:2011/11/10(木) 05:04:21.42
>>28
> たとえば、この「鬼道」ってなにも魏志倭人伝にだけにみられるのでは
なく、史記の「封禅書」ってところにも「八通の鬼道を除す...」とかあり
ますし、三国志魏書「張魯伝」にも「張魯は鬼道によって人々に教え....」
とかありますし、また、後漢書「劉翊伝」にも「鬼道」の文字が見れる。

これも感想レベルで述べますと、同時代文献の中国さんの「鬼道」(或は
「鬼」の「道」)解釈で問題無いと当方も想定しています。鬼で無い物を
鬼と表記する意味合いも、メリットも、当時の中国には全く無いのですから。
逆に鬼(鬼道)で無い物を鬼(鬼道)のような物である、と上に報告した
としたら、その文官官僚制度に致命的な問題があると思われます。

さてさて、当時中華(地方)人にとって、鬼(鬼道)とはいかなる物であった
か?ここですが、異なる物・イニシエの物、と想定すると、漢の以前代王朝や
漢の辺境蛮族の「風習」の分析が必要になって来る話かもしれません。
192レス長たらし毘古:2011/11/10(木) 05:19:32.22
>太陰暦

これは誰へともない、感想独り言。結構あなどれない、海洋民族・古代文明の
「天文知識」
もし仮に、日蝕の場所と時間を「ピタリ」と当てられたら、それはそれ以外の
文明文化の人から見ると「神」と見えるかもしれない。
そう言えば、古代マヤ人とかって、春分秋分夏至冬至を、何年にも渡って
ピタリと当て続けていたんですよね。あたりまえのように。
そう考えると、天文とは無縁でかつある程度高度な文明を保有していた当時の
中国人が、「天文を何故かピタリと当てる倭の地方の海洋民族」をどの様な
眼差しで見たか。ここら辺が何となく察せられて来るのかもしれません。
(ハイ、勿論いつもの妄想です)
193日本@名無史さん:2011/11/10(木) 09:45:49.19
箸墓作れるだけの力が巻向にあったんだし、
九州にそれ以上のところはないんだし、
邪馬台国の第一候補なのはあたりまえだ
194日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:02:16.20
大型古墳を作るのを、北部九州人は興味がなかっただけだよ。
一部、宮崎の方で大型古墳が好きな一族もいたけど。
195日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:04:34.41
その巻向発祥の前方後円墳が、その後全国に広まり
スタンダードになったんだし、九州より畿内が優位なのもあたりまえ。
196日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:17:44.29
魏の皇帝でさえ小規模な墓なのに、
その配下の倭王が、でかい墓作るわけなかろうもん

巻向は、「東夷」とは文化が違うんよ
197日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:27:20.58
たしか仁徳天皇陵が世界一じゃなかったっけ?w

巻向というか大和地方のことを倭人伝で邪馬台国と認知してたのは
ほぼ間違いないよ。もう考古学的にみて、3世紀に九州に邪馬台国があったと
みるのは難しいよ。
ここのやつらは文献史学からのアプローチばかりで考古学的知見を無視しすぎ。
いかにも素人の歴史オタって感じで笑ってしまうがw
198日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:35:28.52
九州の古墳時代前期前半を考えれば、考古学的に、まとまった勢力のないことが
ほぼわかっている。
小国乱立状態で、各勢力にも消長がある。
初期ヤマト王権に詣でて前方後円墳造営の許可をもらったり、三角鏡をもらったりしている
状況。またヤマトからの入植も進んでいる。

ネットで見やすい論文はこれくらいしかないが。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/3596/1/Shien144_hp001.pdf
199日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:41:00.03
30ヶ国共立だからそんなもんだろう。
どこかが一手に支配してたら、
そんな面倒くさいことをする必要はない。
200日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:53:34.27
30カ国共立も実際30カ国だったんではないだろう。
旁国は架空の国の可能性もあるよ。
30とかきりのいい数字だし、倭人伝はきりのいい数字で
すべてまとめられてて信頼できん。
201日本@名無史さん:2011/11/10(木) 10:57:43.67
>箸墓作れるだけの力が巻向にあったんだし、
巻向に造ったからといって、その勢力の中心が巻向にあったということにはならんぞ。
202日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:04:09.90
箸墓作れる勢力を倭人伝に記述しないわけないだろw
九州説だと、東の海渡る倭種有の文章を持ち出すだろうが、
それじゃ弱いって。今でいえば、日本に来た外国人が、
長崎や福岡だけ見て回って、東のほうにもなんかいろんな都市がある
みたいだよと言ってるようなもんで、大阪や東京が日本のメインでしょうにw
それを知らなかったわけないし、書かなかったわけがない。
九州説じゃ説明できん。
203日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:09:21.47
>>202
オマエ低能すぎるから二度と来るな
204日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:10:30.16
箸墓が倭人伝に記録されていない以上、
箸墓は倭人伝以降の築造ということだな。
205日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:14:40.00
九州説などいまだに言ってるやつに低能言われてもなw
206日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:26:27.60
纏向は原ヤマトであって邪馬台国ではない
考古学にとって畿内説とかは大迷惑
207日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:30:34.59
そういえば、磐井の岩戸山古墳は、大きすぎて
周囲の古墳からは浮いている。

大型古墳が好きな、畿内から流れてきた一族だったのかもね。
208日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:32:23.06
だったかもねってw
全部推測の域を出てないし、
邪馬台国論争などまじ意味ない。
オタ向けのコンテンツだよ。
自分だけの邪馬台国を探して悦に浸ってろw
209日本@名無史さん:2011/11/10(木) 11:40:39.66
日本人の流行りもの好きは異常
きっと古墳も全国的ブームが起きていたに違いない
ただ、ブーム発信地はしょせんブーム発信地でしかない
210日本@名無史さん:2011/11/10(木) 12:05:59.50
バカはすっこんでれ
211日本@名無史さん:2011/11/10(木) 12:27:47.16
>>208
オマエは病んでる
212:2011/11/10(木) 21:22:02.51
>>191
>さてさて、当時中華(地方)人にとって、鬼(鬼道)とはいかなる物であった
>か?ここですが、異なる物・イニシエの物、と想定すると、漢の以前代王朝や
>漢の辺境蛮族の「風習」の分析が必要になって来る話かもしれません。

ん?ですから大陸・半島の鬼道ていうのは、私が>>28で書いたような〜

>祖先や動物の霊などには神がかった力があり、
>それを祭ることによって得られる神託のようなもの

です。
213:2011/11/10(木) 21:28:11.02
>>44 サガミさん
>例えば、不の字は中国ではフと発音していたようですが、倭人は後にオと発音する
>ことになる音であったとみるわけです。これは、小城が不彌国であり、岡田が不呼国であることから、当時
>の倭人のある音をフであらわし、現在日本ではこれらの地名はオで表されているとみるわけ
>です。

勝手にフを「オ」にしちゃっていいんですか?w

>例えば、拘奴国というのがありますよね。これは通常クナ国と発音しているが、ど
>うやら拘はクではなくコウだったようなのです。
>その理由の一つは、日本では熟語などでは、コウと発音するものが多いということ。
>拘奴国はクト国(クナ国)ではなくコウ奴国なのです。
>(奴はトと発音するのが正しい)コウとよんでいた国に、日本人は後に孔という字をあてて、
>孔奴国とし、さらに後には、孔の字義を取り、アナトとして穴門という字でかきあらわすようになったのです。
>私はかように考えます。

中国の漢字は一字一音なので、それはないな〜(ちゃんちゃん)
214:2011/11/10(木) 21:36:01.82
>>46 サガミさん
>スク岡本地区は伊邪国とみます。ボウコクなので戸数は分かりませんが、
>かなりの大国であったことは遺跡や遺物から想像できますが、
>奴国であると指定するような遺物はでてないと記憶しておりますが。

奴國の「二萬余戸」は第三位の戸数を誇ってる。
これは「博多」とみるべきでしょう。
そして、博多〜春日井市周辺までの遺跡から出土した副葬品をみますと
とてつもな豪華なものばかり。
勝手に妄想するのはいいんですが、貴方の説明だけで、これを読んでいる読者の方々を
頷かせることは無理でしょうね。
215日本@名無史さん:2011/11/10(木) 21:55:06.09
イザナギ=いざ凪
イザナミ=いざ波
元来、あまは海とかき転じて天となる。
高天原=高海原
海人(あまと)=やまと→大和
皇祖神、伊勢神宮
上記の事柄から、海辺に近い、伊勢湾(高海原)にいた部族(海人)が永年にわたり、九州まで征服。
近畿がニギハヤヒ(王)、九州をニニギ(家来)が支配。
大陸から技術がもたらされたニニギ系統のイワレビコが力を持ち
王位をえるため、近畿に侵攻し初代天皇となった。
216第三者委員会:2011/11/10(木) 21:56:33.99
メ氏
>>214
>そして、博多〜春日井市周辺までの遺跡から出土した副葬品をみますと

福岡県に春日井市は存在しない。春日市の間違いであろうが、注意力不足。
なお、年輪年代法について言及していたところで年輪の説明のつもりであろうが「木材の分子」なる用語
を用いていたのは噴飯ものであった。知らないことに口出ししても恥をさらすだけだから注意されたい。
217:2011/11/10(木) 22:02:04.03
>>216
おたく細かいっていうか、単なるいやがらせ?ww
誤字だよ-誤字!〜ったくwwww
218:2011/11/10(木) 22:05:41.69
ハイハイ
訂正すればいいのね〜訂正ぉ

214
春日井市→春日市

木材の分子→年輪  これでいいかしらぁ?w
219サガミハラハラ:2011/11/10(木) 22:11:07.26
拘奴に孔の字をあてたのは日本人です。それをアナと訓読みしたわけです。
220:2011/11/10(木) 22:15:27.60
>>219
>拘奴に孔の字をあてたのは日本人です。それをアナと訓読みしたわけです。

それは、貴方の単なる想像?それとも証拠はあるのでしょうか?
221日本@名無史さん:2011/11/10(木) 22:19:55.43
メ はキモイなあ
222第三者委員会:2011/11/10(木) 22:24:28.43
このスレで倭人伝の国名や人名の読み方(発音)について述べられていることは全て発言者の想像による
もので、証拠は得られない。3世紀に録音機器があってテープなりCDが残されているわけではないので
正確なことは分らないであろう。
223:2011/11/10(木) 22:27:59.00
>>222
3世紀に録音テープなんてあるわけないじゃんwwwwwwwwwwwwwwwww
馬鹿だな〜(笑)
224:2011/11/10(木) 22:46:02.14
え、、、、とですね。
對馬は「対馬」ですし、一大は「壱岐」ですし、末盧は「松浦」ですし、
倭人伝に載る、国名や人物名を「音」にかえて探すっていうのはとても重要な事。

それと、年輪年代法をココを読んでる人に「分かり易く説明」するとしたら
「木材の分子」なる用語でオカシク無いと思うよ〜☆   さて、もう寝よっと zzz・・
225唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/10(木) 22:58:02.40
>正確なことは分らないであろう。

これを推定するのが我々の趣味である。
まず、時代推定からであるが、考古学:は、
弥生後期後半、各地の遺跡での動き(居住区の放棄を含む)=新羅192,3年または後漢193年冷夏。
2世紀末、地方の土器の纒向への持ち込み。
210年 金官伽耶建国(任那建国)

上記が崇神世である。崇神(188〜216年)。垂仁(217〜239年)
この239年の朝貢に大和が関与したのであれば、
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。伊支馬=イクメ=垂仁
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
この3名であれば、書記にも登場するから、この読み方で合っている。

226サガミハラハラ:2011/11/10(木) 22:58:34.77
>>220私は古代史の神なのです。
私の言うことは常に正しい。
神を信じなさい。しんじるものは救われる、
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/10(木) 23:11:30.46
伊支馬=イクメ=垂仁 ←猿の惑星 創世記 さながらの大ウソ。

大中臣からのニセ編年撲滅の下命−−天津祝詞の太祝詞事〜天津金木

太古の大中臣からの出鱈目編年の退治の下命文〜これが大祓祝詞である。
その文の焦点が天津金木(天津神算木)の計測による インチキ編年を祓い
に祓え との大中臣の作法なのだ。真の編年を教示するのがここにある。

天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)にある三輪山の説話の三輪
(半径r=3の円)の球化の体積=表面積の数式をいう。すなわち

4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**は冪)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

3≠113.097335=113.◎97B350

右辺末桁50 をイスズ暦数あるいは単にイスズ暦という。両○数字は数的
にミワと読む。○数字に挟まれて B.C.97年 崇神即位年 がある。
崇神即位年の実年代は両○数字外側の数列 113 350 の差により求まる。

350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

大中臣からの真の年代は、それがし 太国 が拝受した。インチキ188年説を
祓いに祓って、日本古神道からの真の年代が開顕される。
228第三者委員会:2011/11/10(木) 23:37:36.43
>>223, >>224:メ
>3世紀に録音テープなんてあるわけないじゃんwwwww
そう。そんなものが無かったから正確な発音は分らないと言っているのである。>>222の趣旨を理解出来なかったのだな。

>それと、年輪年代法をココを読んでる人に「分かり易く説明」するとしたら
>「木材の分子」なる用語でオカシク無いと思うよ〜☆ 
アホなことを言わないで頂きたい。ここを読んでいる人の中にも化学や植物学の知識を持った者もいる
筈である。年輪と言うのは物質の基本単位である分子レベルの話ではない。セルロースやヘミセルロースや
リグニンなどの分子が集合して作り上げている細胞壁という組織レベルの話である。

春期には幹の肥大成長が速く夏期には遅くなるので木材の断面には濃淡の模様が形成される。
この濃淡1セットが1年で形成されるので年輪と称される。
その細胞壁の大きさや厚さや数は温度や大陽光線量や降雨量などの環境条件によって変化するので年輪の幅は毎年同じになる
とは限らず、その年の気象条件によって広くなったり狭くなったりする。
その年輪幅の変化のパターンを利用して年代を求めようというのが年輪年代法である。
229レス長たらし毘古:2011/11/11(金) 11:34:21.50
>>212
ええ、ですから鬼道解釈に関しては概ね共感です。

>>215
>元来、あまは海とかき転じて天となる。
理解はできます。古事記ベースで見る限り、海=わた、天=あま、ですので、
古事記以前の太古においては、天と海は「別物」であったと想定されます。
但し、古事記成立期(又は成立直前期)において、これらが同一視される
視点・発想が生じたと架空すれば、貴殿の言うその「転じて」も共感できる
物となって来ます。

つまり、当方は以下のように想定しています。
【太古】
天はアマであり、地上とは分離し接点はアマの架け橋。(オノロコ伝承)
【飛鳥】
天はアマであり、海はワタでありかつアマの要素も兼ねる。(神武渡航)

つまり、タカムスビ神話体系→アマテラス神話体系、への移行が、この時期
(古事記編纂以前)に行われた、と見る解釈です。
230レス長たらし毘古:2011/11/11(金) 11:54:18.95
さて、タカムスビ神話体系→アマテラス神話体系への移行ですが、ここで
ヒミカ(或はヒリカ・ピミカ・ピリコ・ピミコ・ピリカ)における「カ=呼」
を末字尊称と考えた場合、「消滅」する事になります。
しかし、消滅の場合は、その直前に「消滅するようなイベント」があって然る
べきなのですが、先述したように、景行大王の時代にはそれ程大きな戦争も
内乱も古事記には記されていません。ここが悩ましい所。
しかししかし、古事記にはちゃんと描かれているのです。そう、景行大王と
日向のお姫様との「政略結婚」と、その後の景行大王の子孫の「九州での
大活躍」

つまり、卑弥呼前後の時代に、「近畿と九州(一部)は同盟した」と言うのは
古事記上は「事実」ですから、その事実から、「それ以降、「呼」はどうな
ったか?」がここで重要になって参ります。
(当方は、ここで先述した、九州王朝が大和と融合し、神功時代にそれが逆転
した、と言う構図を述べた)
つまり、まず「呼」は、大和との合流により、最高位と伍する存在になり、
その後単なる権威へと落着いて行く。そして、神功の王位継承争い時、
「呼」→「毘売」へと完全に置き換えられる。このように架空想定してます。
「呼」の権威は「毘売」となり、「呼」の慣習は「巫女」に引き継がれます。

以上の妄想架空の結論としては、「呼」はタカミムズビ神話体系における
一要職であった。と、このような解釈筋となります。ハイ、勿論妄想です。
231レス長たらし毘古:2011/11/11(金) 12:10:35.18
さてここで一旦、過去への飛躍から、ワールドワイドへの飛躍筋も登場して
参ります。ハイ、いよいよ「鬼道」です。
ヒミコ時代のアバウトな時期に関して、ここの皆さんも大きくは異論は無い様
ですので(一年単位〜十年単位の相違は逆に皆さんに期待しております♪)
そのアバウトな時期の極東歴史環境を鑑みて見ましょう。

AD238〜239あたりで見て見ましょう。中華大陸は、漢の体制が大いに動揺・
崩壊し、黄巾の乱〜三国英雄乱舞、と、こんな感じの時代背景です。
つまり、漢の政治理念・世界観は、とりあえず崩壊したが、まだそれに変る
価値観も定まっていない、と言う状況下とマクロ的には推察されます。
では、そんな時、「倭人地域日本」なら、どうするか?どうなるか?
そう、「漢より前の時代の方が良かったんじゃネ?」と言う、反動的な価値観
も流行るかも知れません。
漢より前の時代は、所謂春秋戦国時代であり、それは「周王朝」の価値観が
維持され崩壊させられた時代でもあります。
さて、ここからが架空ですが、もし、タカミミスビ神話体系を信じる倭人
文化圏が、この「春秋戦国時代」のいずれかの「価値観」を、内容的に吸収
継承していたら、どうなるでしょうか?
そう、春秋戦国時代の勢力国のうち、倭人文化圏に地理的に近い国はどこか?
それは燕・斉の二カ国なのです。そして、この二カ国は、東方開拓によって
国力を伸ばした、元々は周の封土だったのです。

そう、倭人文化圏で「鬼道」は引き継がれていたのです。だからこそ、魏晋の
外交官はそれを上に報告しないワケにはいかなかった、となるワケです。
232レス長たらし毘古:2011/11/11(金) 12:20:07.62
さて、ここでタラレバIFにて、この「鬼道」(当方はツッコンデ更にこれに
神仙思想を重ねます)による「外交」テクニックの可能性を垂れてみます。

「倭人地域には30ヶ国もの大群を束ねる(事のできる)神仙天女がおるん
やで!」(byヒミコ)
(注:中国古代の西王母と言う神仙伝説等を参照されると理解しやすいです)

どうでしょうか?このハッタリ(カミングアウト)は、漢の価値観が崩壊し、
且つその代わりとなる価値観がまだ見出せない時代の中華大陸人に対して、
この「最終ウェポン」は、かなり効力があったかもしれません。
それが事実であれ、嘘であれ、今の時代に「うちには核兵器があるんや!」
と強弁するどこかの国を思い出させるような、華麗な外交かもしれない。

つまり、まとめると、外交詭弁説に「鬼道」を用いた、と。こうなります。
233レス長たらし毘古:2011/11/11(金) 12:27:58.61
勿論、主張だけでは、相手にバレバレになるでしょう。しかしながら、裏付け
があったらどうでしょうか?
例えば、周王朝や春秋戦国時代の「祭祀慣習」をも含んでいたら?そして、
その上で、「目に見える呪術実演(デモンストレーション)」がこれに加え
られていたとしたら?日蝕をピタリと当てる、ヒミカなる女酋長!?
死んでも蘇える事のできるオオクニヌシなる男酋長!?

「うひょー!?、この倭人(彼等にとっての蛮族)等、今は漢の価値観に
よって完全否定された価値観方法論(周・春秋戦国時代の)を独自に発展させ
て、とんでもない神仙技を身に付けやがった!!!」と驚くかもしれない。
234三流言説潰し:2011/11/11(金) 12:49:32.36
>>28 >>212
あらためよ。「鬼」の文字がつくからと、安っぽく表層的思いつきをいうな。

孝武帝はとくに鬼神祭祀に篤い人だったらしくてな。
『史記』孝武本紀と封禅書に登場する「八通之鬼道」「除八通鬼道」は、
鬼神祭祀に関する話でこれは「鬼神の通る道」のことをいう。

後漢末に登場した天師道(鬼道)とは何の関係もない。

鬼神とは、広義には死者の霊で、多くの場合、祖先霊を意味する。
どこのどんな民族でも、祀り方はまちまちでも祖先霊を祀るものだ。
そうした祖先霊を鬼神と書いているのであって、これと鬼道とも何の関係もない。
(扶余や高句麗や三韓が個々のやり方で自分たちの祖先霊=鬼神を祀るのは当然の話だ)。

それから、『後漢書』列伝に鬼道が登場するというのは、「劉翊伝」ではなく「劉焉伝」だろう。
これは、鬼道(天師道)を興した張陵の息子・張衡の妻(張魯の母親)が、
劉焉が領していた巴蜀の地で鬼道を布教していたことを告げたくだりだ。

『三国志』と『後漢書』に登場する鬼道は張陵・張衡・張魯と3代続く天師道の蔑称(別称)であって、
古くからある鬼神の概念とも鬼神祭祀(いわゆる祖先祭祀)とも無関係だ。

さほど注目されないようだが、後漢末は「一大宗教変革の時代」という側面をもつ。
その影響を、弥生以降の日本列島もモロに受けている。
道学・道書・天師道を自力で調べろ。張角の太平道もこれと根を一つにする宗教だ。
235サガミハラハラ:2011/11/11(金) 13:05:39.79
>>226 つまらぬ、へにもつかぬ冗談でした。
しかし、なんの反応もなかったですね。
「お前馬鹿か」とか「とうとうきがくるったか」とか「こんなこと言う奴は信じられん」とかあるかとおもったのですが。完全にスルーでしたね。
236日本@名無史さん:2011/11/11(金) 13:54:54.77
サガミさんが、イタコの口寄せをやったのかと思いました。
237レス長たらし毘古:2011/11/11(金) 15:01:26.25
(追加継続)つまり、本当に神仙鬼道を自由自在に操っていたか?の是非は
この詭弁にとっては「どちらでもいい」のであります。(私個人は「是」の方
だと妄想してますがw)寧ろ大事な事は、この外交によって「曹操の大海軍」
が「倭人文化域」に差し向けられる事を回避できればいいだけなのです。
従って、日蝕当て(今風に言うと天文学?)や蘇生術(今風に言うと医療?)
などのデモンストレーションパフォーマンスを駆使して、まずは華人の怖れる
「神仙(鬼道)パワー」を見せつけ、30余国を束ねる(多少水増しの可能性
は残る)我々と全面抗争をするのか?と脅す。
それと同時に、「奴婢を沢山献上する」と言う二面外交を行います。

結果として(あくまでも結果論ですが)曹操大海軍は倭人文化域に派兵される
事を免れます。

これがヒミ呼の業績なのですが、これがその後の日本史にとって、特に古事記
編纂者にとっては「色々と不都合」になって行きます。(これは先述済みです
が、お聞きになりたい奇特な方がいたら都度回答してもヨゴザンス)
238あらため:2011/11/11(金) 19:42:37.20
>>228 第三者委員会
>春期には幹の肥大成長が速く夏期には遅くなるので木材の断面には濃淡の模様が形成される。
>この濃淡1セットが1年で形成されるので年輪と称される。
>その細胞壁の大きさや厚さや数は温度や大陽光線量や降雨量などの環境条件によって変化するので年輪の幅は毎年同じになる
>とは限らず、その年の気象条件によって広くなったり狭くなったりする。
>その年輪幅の変化のパターンを利用して年代を求めようというのが年輪年代法である。

バカだな〜おめーw
年輪年代法の、細かい説明なんて、みんな「うぜ〜」と思ってるにきまってる。
一言で説明するとしたら「木材の分子」なる用語でいいと思うぜ。
で、私と「年輪年代法」をテーマに議論したいのかな?
おれはドンコイの奴らみたいに地味な論争はしたくないのでw(パス)
239サガミハラハラ:2011/11/11(金) 20:29:55.70
資料をしらべていて年代にかんしてとんでもない記載をみつけて唖然とした。
私はやはり天才なのだろうか。

どんなことかは、もう少し押してみてから書き込みます。
240あらため:2011/11/11(金) 20:32:14.50
>>234 三流さん
「鬼道」が記述されてるのは、何も
史記「封禅書」や、三国志魏書「張魯伝」、後漢書「劉焉伝」、だけではなく、
ここを観てもらえればわかるが、
http://www.tenri-u.ac.jp/lifelng/dv457k0000007gtj.html

>鬼道について史料を博捜された重松明久氏の業績「卑弥呼の鬼道の思想的背景」
>(重松明久『邪馬台国の研究』1969 白陵社所収)からは筆者も多くを学んだ。
>鬼道の示されている他の史料に、東晋の永和年間に常璩が著した『華陽国志』がある。
>その漢中志は『後漢書』と同じ張魯の鬼道について触れているが、
>大同志には「鬼道を以て民を惑わせた」陳瑞なる人物が、咸寧3年(278)に刺史の王濬に処刑されたことを伝えている。
>陳瑞の鬼道は張魯のそれと似たところがあり、その系統を引いていることが察せられる。
>重松氏によれば、このほかにも『晋書』の周札伝が「そのころ(東晋の初めごろ)李脱という道士がいて、
>妖術で人々を惑わせ、自ら年齢が八百歳だといって李八百と号していた。
>李脱は中州から建鄴にやってきて、鬼道を以て病人を治療した…」と述べているという。

又、「逸周書」にも
昔者玄都賢鬼道廃人事天[求祥神也]謀臣不用亀策是従神巫用国哲士在外玄都以亡[棄賢任巫所以亡也]」

とあるとおり、鬼道というのは医療であり、妖術でもあることが分かる。

そして、「鬼神」だが、貴方が言ってる通り、これは「祖先の霊」でもあるんですが、
「動物の霊」でもあり、大陸・半島の「鬼神」と「鬼道」を考える上で、
衆を惑わすですから、卑弥呼の「鬼神」というのは、霊の力を用いて人々を惑わす、
すなわち、記紀に載る神功の「神託」や宇佐の巫女が使う「託宣」を指してるんでょう。
241あらため:2011/11/11(金) 20:35:08.47
【誤字訂正】
240 卑弥呼の「鬼神」  → 卑弥呼の「鬼道」

28 後漢書「劉翊伝」 →後漢書「劉焉伝」
242:2011/11/11(金) 20:53:15.33
>>228
>>年輪年代法
>アホなことを言わないで頂きたい。ここを読んでいる人の中にも化学や植物学の知識を持った者もいる
>筈である。年輪と言うのは物質の基本単位である分子レベルの話ではない。セルロースやヘミセルロースや
>リグニンなどの分子が集合して作り上げている細胞壁という組織レベルの話である。
>春期には幹の肥大成長が速く夏期には遅くなるので木材の断面には濃淡の模様が形成される。
>この濃淡1セットが1年で形成されるので年輪と称される。
>その細胞壁の大きさや厚さや数は温度や大陽光線量や降雨量などの環境条件によって変化するので年輪の幅は毎年同じになる
>とは限らず、その年の気象条件によって広くなったり狭くなったりする。
>その年輪幅の変化のパターンを利用して年代を求めようというのが年輪年代法である。

僕は知ってるぞぉぉー ゴッコかな?w
ていうか、この説明「ウザッ」て感じた人多いと思うww
もしかしてジョーカーご本人じゃないだろうね?
243メ(畿内説):2011/11/11(金) 21:15:12.17
ジョーカーが頼りないので、私がドンコイ371「deshabari」のレスに答えてやろう。

>倭人伝には
>「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史」とある。
>伊都国は末盧国から陸行五百里のところと書かれているから九州北部である。ここに一大率が置かれて、
>諸国を検察し、諸国はそれを畏憚している。
>畏憚しているとはどういうことか。それは一大率が武力を持っていたからである。武力を持たない者が検
>察して畏憚されることなど有り得ない。とすれば、一大率は十分な人数の軍隊を持っていたか、あるいは、
>邪馬台国から直ぐに(1日か2日で)軍隊が派遣できたというような状態だったと考えられる。
>若し邪馬台国が畿内に在ったならば、上記のような態勢をとることが出来たであろうか?
>邪馬台国は畿内から大軍を派遣して伊都国に常駐させることが可能だったか?あるいは、必要に応じてすぐ
>に(1日か2日で)軍隊を派遣できたか?
>答えは否定的であろう。つまり、倭人伝の一大率の記事から見れば邪馬台国は九州内に在ったと見るしかない。

一大率というのは、地方行政機関なんです。
「諸国を検察し、諸国はそれを畏憚す」ですから、軍事的能力はあったでしょう。

そして、deshabari氏は「一大率」をテーマに九州説を上げてますが、まったく逆ぅで。
九州に「一大率」を設けたんですから、九州ではない可能性のが高い。

七世紀に大和朝廷は、大宰府(だざいふ)を設けてますよね。
又、豊臣政権内では、朝鮮出兵の際に肥前国松浦郡に名護屋城を設けてますよね。
中心政権が近畿にあるからこそ、九州北部に地方行政機関を設ける。
中心政権が九州に有ったなら、その逆で、近畿の諸国をけん制するために近畿に地方行政機関を設けるわけで、

歴史は繰り返すといいますが、deshabari氏の説明で、
なぜ「一大率があるから邪馬台国は九州」になるのか?分からないと思いません?
244日本@名無史さん:2011/11/11(金) 21:16:44.07
>>238あらため

あほやな〜この男は。科学的なことについて何も知らない者が間違った用語を使って口出しするから
恥をかくんじゃ。おとなしくしとけ。メざわりだ。
245メ(畿内説):2011/11/11(金) 21:19:53.78
>一大率は十分な人数の軍隊を持っていたか、あるいは、
>邪馬台国から直ぐに(1日か2日で)軍隊が派遣できたというような状態だったと考えられる。

九州北部に一大率があるので、邪馬台国はそこから1日か2日で行ける所ではない。
1日か2日で行ける所ならば、一大率なんて設けなくていいわけですし、
なんでこんなレスで、ローガンやジョーカーが取り乱してるのか不明だゎん(笑)
246日本@名無史さん:2011/11/11(金) 21:27:41.26
馬鹿だなあ。
九州邪馬台国は軍事政権じゃないから部隊が必要なんだよ。
畿内に部隊なんかおいても、銅鐸ぐらいしか守るものがないだろ。
247日本@名無史さん:2011/11/11(金) 21:29:40.60
一大率は帯方郡と関係があって、同じ伊都国には郡使も常駐していた
畿内邪馬台国が大陸・半島の力を借りて北部九州を抑えているんだろ
魏への朝貢の目的の一つがそれだし、邪馬台国=初期ヤマト政権は半島の伽耶国とつながりがある
後代に任那と呼ばれる地だ
248日本@名無史さん:2011/11/11(金) 21:31:58.73
この一大率の手で画文鏡をスムーズに畿内に流し
おこぼれを北部九州に与えたんだろ
249メ(畿内説):2011/11/11(金) 21:32:24.31
>>246
バカだな〜もしかして伊作?

邪馬台国ていうのは、女王が「都」にしてる所で「七万戸」を誇る「大国」でもある。
邪馬台国は軍事政権じゃないとする根拠を挙げてみろよ〜ほらほらw
250メ(畿内説):2011/11/11(金) 21:39:38.62
>>247
秀吉時代に朝鮮出兵ってあって
朝鮮半島各地で「秀吉の諸大名」と「明の援軍+朝鮮半島の軍」とで戦闘を繰り返した。
その派遣に九州の肥前国松浦郡に名護屋城を設けて、
大阪城から直接、朝鮮半島に兵を送るのではなく、肥前名護屋城を設けて
行き来する。
もし、政権の中心でもある大阪城が九州内にあったのならば、
直接、兵を送るのであって、この辺の認識は大丈夫かい?
251日本@名無史さん:2011/11/11(金) 21:45:20.28
>>250
おまいはレス読めんなあ
ヤマト政権が北部九州から離れてるからこそ
半島・大陸の力で北部九州を抑えてんだろ
郡使が伊都国に常駐してるのはそのためだろ
252メ(畿内説):2011/11/11(金) 21:45:32.22
ドンコイが荒れてるので、そのお流れがこっちに来てるのかな(笑)

考古学? おk、おk 
お前らの得意な「考」「古」「学」オンリーで相手してやろう。
その得意な考古学ってやつを書き込んでみろょ〜アッハハハ(高笑)
253メ(畿内説):2011/11/11(金) 21:48:11.74
>>251
お、おめー結構知ってるやつだな・・・・
まあ、言ってることはわかるんだが、
君の言ってること全て正解とは思えない。
254メ(畿内説):2011/11/11(金) 21:59:05.72
この「伊都」「一大率」ていうのは
この半島・大陸の力で北部九州を抑えてるわけではない。
ましてや、郡使が伊都国に常駐してるのはそのためではない。

「一大率」ていうのは、半島もそうだが、九州諸国には「力」が行き渡らないので
置いてるのであって、倭と半島との間に物資の交カンが行なわれ
郡使が往来する場所でもある。
半島さんが守ってくれてる為に「駐」してるのではなく、あくまでも「物資の交カン」の為に駐する所。
255日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:02:39.00
卑弥呼が軍事政権のトップだって?
笑わせるなよ。
256日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:05:07.34
諸国が戦争に明け暮れて、大勢が死傷してしまい、
疲弊した諸国が擁立したのが、非軍事政権の首長=卑弥呼だろ?
だから一大国という部隊が必要なわけだ。
257日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:08:52.80
>>254
卑弥呼が倭王に冊封されたから建前上は何かあった場合に魏に援軍要請できる
実際は無理があっただろうが
それだけで小国乱立状態の北部九州勢はびびるだろ
西新遺跡と纏向がつながったのもこのため
卑弥呼が倭王となって各地の勢力が纏向詣でをし
前方後円墳も急速に全国展開した
何の不思議もない
258メ(畿内説):2011/11/11(金) 22:08:56.92
いやいや、卑弥呼ていうのは「権威」であり、男王が「権力」をもつ体制で、
古代の「巫女-かんなぎ体制」というか、祭祀(権威者)と政治(権力者)は別である。
259日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:11:37.24
九州の諸国が疲弊してたから、ヤマトが九州に乗り込むことができた。

どうやら、きみたちもわかってきたようだね?

邪馬台国がヤマトだってことに。
260太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/11(金) 22:16:35.09
>>239
期待できることかね?
261メ(畿内説):2011/11/11(金) 22:22:15.84
>>257
>卑弥呼が倭王に冊封されたから建前上は何かあった場合に魏に援軍要請できる

実際に来たのは「ハタ」だったんですけどねw

262唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/11(金) 22:24:14.75
>非軍事政権の首長=卑弥呼だろ?
疲弊した諸国が共同で擁立したのが、卑弥呼である。
卑弥呼が1大卒という軍事力を保持して困るのは、共同で擁立したいがみ合う諸国である。
だから、諸国が軍事力を擁しても、卑弥呼はその軍事力を制御できない。

つまり、共立卑弥呼とは、ただの”お飾り大王”なのである。
だから、魏は正始元年に邪馬臺國王に倭王位授与。
乱で分裂した旧九州王朝を景行時代に統一、大倭は伊都国に1大卒を置く(庄内式期)
274年神功渡海(布留1式期)。

263deshabari:2011/11/11(金) 22:25:47.64
243 :メ(畿内説)

私がレスしていた相手は多分貴殿が名指しするジョーカーなる人物であろうが、この人物は「ゆるやかな首長連合」あるいは
「交易連合」を口にしていたように思う(以前に2ちゃんを覗いたときにたまたま目にしたように思う)。

畿内説派の諸兄の中には畿内とその周辺に関わる考古学的資料(特に前方後円墳の分布拡散、各地の土器の移動、三角縁神獣鏡
の出土分布)から考察して、弥生時代末期から古墳時代初期において、畿内とその周辺においては中央集権的国家は出来ておら
ず、戦闘の形跡が見られないから武力支配ではなく祭祀や交易でゆるく結ばれた首長連合の時代であったと主張する者がいる。

それを単に畿内とその周辺のクニの状態であったと言うぶんには問題ないが、飛躍して倭人伝に記された邪馬台国を盟主とする
3世紀の倭国の状態であったと言うからおかしなことになる。

「ゆるやかな首長連合」を唱える者にとって倭人伝に記された一大率の記事は極めて具合が悪い。卑弥呼(邪馬台国)は武力を
背景として諸国を検察する一大率を伊都国に配置しているのである。貴殿が例に挙げた「大和朝廷と大宰府」の関係にやや近い。
しかし、この大和朝廷は中央集権体制なのである。「ゆるやかな首長連合」では一大率を伊都国に配置できない。

一大率を「大陸や半島との交易ルートを守るために畿内の首長連合が兵を出し合って結成した軍隊(の長)」だという詭弁もある
だろう。しかし、九州北部の諸国を畏憚させるほどの兵力を派遣して維持するには相当の出費がかかった筈であるが、そもそもそ
のような出費をして得られる交易の益とは何なのであろうか。
264deshabari:2011/11/11(金) 22:27:09.65
263のつづき

貴殿の「なぜ「一大率があるから邪馬台国は九州」になるのか?」という問いの答は上にも書いたが、
遥か遠い畿内から九州の伊都国に一大率として少人数の役人を置いたところで諸国を検察し、畏憚させることなどできっこない。
何かあれば女王国から1日かそこらで軍隊が駆けつけられるような状態でなければ諸国にとって一大率など恐るるに足らずである。

つまり、女王国は伊都国に1日か2日で駆けつけることができるところ、すなわち九州内にあったということになる。
もし、畿内であれば、相当な軍隊を伊都国に派遣していたということになり、それは畿内に中央集権的国家ができていたということ
になるのである。兵士を徴収し派遣するには強権が必要である。しかし、それは考え難い。
265日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:47:23.66
>>263
>「ゆるやかな首長連合」を唱える者にとって倭人伝に記された一大率の記事は極めて具合が悪い。卑弥呼(邪馬台国)は武力を
>背景として諸国を検察する一大率を伊都国に配置しているのである。貴殿が例に挙げた「大和朝廷と大宰府」の関係にやや近い。

なんで、「一大率」が武力で検察したとかって思うの?

>>264

>遥か遠い畿内から九州の伊都国に一大率として少人数の役人を置いたところで諸国を検察し、畏憚させることなどできっこない。

それが出来たんですねえ。なにせ九州は疲弊してましたからヤマトの助けが必要だったわけです。
武力による支配は必要なかったんですねえ。
266日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:50:03.54
九州の人は、ヤマトから来た少数の役人を追い出すことも、ぶっ殺すこともできませんでした。

九州のほうから、ヤマトの役人においでいただいて、九州を助けて欲しいというわけですから、
外国人からみれば、「一大率をおそれてる」ように見えるでしょうなあ。

267唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/11(金) 22:53:22.87
>戦闘の形跡が見られないから武力支配ではなく祭祀や交易でゆるく結ばれた首長連合の時代であったと主張する者がいる。

あたらずとも遠からず。
210年 任那建国。
216年 崇神末年 任那より朝貢 3世紀前半の大型建物。
吉備や尾張をはじめ、崇神時代にゆるやかな連合国の首長となった崇神(四道将軍以後)。
鉄の分与権を得る垂仁。垂仁末(239年)に田道間守の派遣。
正始元年 邪馬臺國王に倭王位授与。魏は倭国統一を目的とし、大和政権に関与。
この時代に大和にもたらされたもの。牛馬、甲冑、が代表である。(箸墓の木製埴輪)
大倭は伊都国に1大卒を置く。
274年神功渡海。大和政権は晋の冊封体制に組み込まれ、伊都国の1大卒行為を半島にて行う
この時代に△鏡。
323年 神功49年 半島占拠。新羅は倭の属国。百済も同様である。
馬韓の食料を伽耶に供給し、伽耶から鉄が供給される。←大和から鉄の対価が持ち出されない=
巨大古墳の築造と大量の鉄器副葬。
268日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:54:29.94
>deshabari

誰かも書いてたと思うけど、平原以後の九州は、衰退の一途で、王墓なんて作られなかったでしょ。
それが九州が衰退して疲弊してた何よりの証拠。

で、九州が衰退して疲弊してたときに、西新町遺跡で近畿の土器が出てきて、ヤマトと交流が始まっている。
それが卑弥呼の時代なんだから、邪馬台国はヤマトということになりますわなあ。

269日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:59:19.46
>>268
客観的に見ればそれでファイナル・アンサーなんだ
それと画文の流入状況と、前方後円墳の拡散の状況
何も難しく考える必要はないんだ
3世紀半ばにはヤマト政権が全国的に大きな影響力を持つようになった
270日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:02:47.30
で、この影響力の元はもちろん武力ではなく卑弥呼の倭王冊封だろう
271日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:05:30.01
「九州が疲弊してた」ということを、理解できるかどうかですなあ。

理解できない人は、永遠に九州説の呪縛から逃れられず、老いていくのでしょう。

3世紀のヤマト王権の実力を、客観的に考察できるならば、
日本神話に書かれたいろんなことが、余計な空想しなくても、どんな史実を意味してるか手に取るようにわかってきますよ。


272唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/11(金) 23:19:32.87
>この影響力の元はもちろん武力ではなく卑弥呼の倭王冊封だろう

卑弥呼とそのあとの男王の死亡は、倭国統一戦争の最中である。
生き残ったのは、邪馬臺國倭王。
273太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/11(金) 23:27:09.66
× 216年 崇神末年

崇神末年は258年戊寅ころである。
274deshabari:2011/11/11(金) 23:36:36.19
>>265

>なんで、「一大率」が武力で検察したとかって思うの?
自女王國以北特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史と書いてあるから。
やくざだって暴力の背景がなかったら誰も言う事をきかない。警察だって逮捕や連行など実力行使を禁じれば役に立たない。
なお、魏、晋時には刺史は軍事指揮権をもつようになっていた。

>それが出来たんですねえ。なにせ九州は疲弊してましたからヤマトの助けが必要だったわけです。
>武力による支配は必要なかったんですねえ。
「九州は疲弊してましたから」は根拠のない話である。
275deshabari:2011/11/11(金) 23:38:43.68
>>266
レスするに値せず。
276日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:40:32.23
九州は疲弊してましたからwキリ
277日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:41:54.70
>>274

>「九州は疲弊してましたから」は根拠のない話である。

九州が疲弊してた証拠は、平原以後、王墓が発達しなかったこと。

九州のどこのクニが発展してたと言えるのかね?






278日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:43:26.68
現在発見されてる遺跡だけで勢力の伸長を推し量るのは、他に方法が無いとはいえ慎重になるべきだ
279日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:44:08.54
つ西都原
280日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:53:19.45
魏は薄葬だから、邪馬台国が薄葬傾向なのは当然。
ド田舎者の畿内は、馬鹿でかい墓を造って舞い上がった。
281deshabari:2011/11/11(金) 23:57:30.76
>>268
>平原以後の九州は、衰退の一途で、王墓なんて作られなかったでしょ。
ただ発見されていないだけ。王墓が見つかっていないから衰退の一途であったと言えるか?

>西新町遺跡で近畿の土器が出てきて、ヤマトと交流が始まっている。
>それが卑弥呼の時代なんだから、邪馬台国はヤマトということになりますわなあ。
「西新町遺跡で近畿の土器が出てきて、ヤマトと交流が始まっている」というのは構わないが、それが
卑弥呼の時代だとどうして言えるのか。その証拠となるものがあるのか。土器による年代推定は確実な
ものであるか?
近畿の土器が西新町の遺跡から出て来たということが「邪馬台国はヤマトということになる」とはおか
しな理屈だ。まるで関係ない話である。

282日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:59:41.27
>>280
径百歩が薄葬かw
283日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:07:32.63
 平原ごときの古墳が「王墓」なんてまともな九州説の連中は比定していない。
だいたい、糸島あたりを伊都国とは考えていない。
 >>277たかだか糸島付近に次の古墳が無いからって「九州が疲弊した」根拠には
ならない。糸島の田舎ごときの古墳などどうでもよい。
 でかい古墳=国の発展ではない。むしろ、東遷した九州勢力が自分たちの上官が
戦死したので、地元民にでかい墓を造らせただけだろう。
 だれかが、平原のあとの古墳は何処か?とかいっていたが、そんなものどこにもない。
平原如き古墳は九州にやまほどある。そして、その墓からは宝物わんさかさ。畿内に
たいした宝物出ているか?ただ、力任せにでかい古墳こさいでいただけだろう。しかも
その古墳築造を命じたのが九州勢だよ。 
284日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:10:49.18
アレクサンドロスのアレキサンドリアみたいなもんだね>畿内巨大古墳
285日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:13:21.59
>>271
>3世紀のヤマト王権の実力を、客観的に考察できるならば、
>日本神話に書かれたいろんなことが、余計な空想しなくても、どんな史実を意味してるか手に取るようにわかってきますよ。

なんの実力だよ?土器作りか?鏡配達か?古墳土建業請負人多数派遣会社か?
畿内に4世紀頃まで王様がいた根拠どこにもないな〜
286日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:19:15.59
普通に考えて、墓の上に家作るか?
自分の家のそばに墓作るか?
でかい墓=王様の近く・・・✖
でかい墓があるということはそこには王様はいない
だいたい、畿内のでかい墓は誰が誰のために造ったのか解っていないものが殆どだろ。
287日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:21:25.68
列島の葬送の場だったりしてなw
288日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:21:34.04
畿内説
鏡  ・・・ ✖
墓  ・・・ ✖
土器 ・・・ ✖
C14・・・ ✖
年輪 ・・・ ✖
もう、次はない。
289日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:30:03.75
九州には墓も無いのに王がいたと言い張る。
それが愚かしい。

290日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:35:51.13
畿内にあるでかい墓は九州勢力が畿内の土着民族に造らせたのさ。
なぜか
古墳時代到来まで畿内に何かあったか?九州を制覇する実力があったか?
ないだろう
であれば、実力をもった勢力が畿内に入って古墳を造らせたのさ。
そして、当時最も実力があったのは九州勢力さ。
291日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:38:06.64
>>289
残念だったな。今日は枕を濡らして眠れ
292日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:38:31.10
ヤマトには、九州の土器が無いので、誰も九州からヤマトに来てないことになります。

王様が一人でヤマトにきたとでもいうのでしょうか?
293日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:41:45.47
>>281

>近畿の土器が西新町の遺跡から出て来たということが「邪馬台国はヤマトということになる」とはおか
>しな理屈だ。まるで関係ない話である。

近畿が九州と交流してたなら、卑弥呼が九州の女王だとしても、
当然、ヤマトは卑弥呼を女王に共立してたはずだな。
というわけで、卑弥呼共立30国にヤマトが入るということは認めるのかね?


294日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:42:24.98
土器は王様が作るものではない。
土器は軍人が作るものではない。
土器は地元民に作らせて使用するもの。
土器は遠い所から運んでくるものではなく現地生産するもの。

>>292
今日は枕を濡らして眠れ
295日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:44:07.68
>>294

九州には、朝鮮半島の土器が出てるが、それは九州と朝鮮半島が交流してた証拠にはしないということかな?
296日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:47:04.21
>>293
なんでそんなに仲間に入りたいん?
魏志未記載の東方大国でいいじゃあないですかw
297日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:47:29.43
>>293
土器は移動しない。
土器を作る畿内人が移動したのだ。理由は不明、憶測では「稼ぐ」為か?

卑弥呼共立はヤマトと関係ない。
当時畿内に大した勢力はない、むしろ倭国の藩外だったのだから。
298日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:51:03.81
近畿の土器近畿の土器ってま〜た前方後円墳と同じ過ちおかしてるな

そんなもんは影響力なんかなくたって、人の移動や模倣で簡単に出来るのだ
299ローガン:2011/11/12(土) 00:51:47.21
>>281
以下は、貴方のレス。
「ドン来い>>237:deshabari 11/08(火) 15:02
近畿の弥生遺跡に王墓らしい(大勢力の長のものと思えるような)墓も出土品もない。須玖岡本、
三雲、平原などに比べられるようなものはない。マキムクの遺跡を作った勢力が在地のものであったとは考え難いのではないか。」

このレスの意図は、盟主墳の存在が、その地の勢力を有り様を説明出来るものである。 でしょう。
「須玖岡本、三雲、平原」が 「王墓らしい(大勢力の長のものと思えるような)墓」という訳ですな ?
では、平原の後の盟主墳は何処? と尋ねられて 返答がなかったと言う事は、
貴方の論調に沿うと 、平原以降の在地の勢力の存在が考え難い と言う事です。
300日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:53:24.70
>>295
>九州には、朝鮮半島の土器が出てるが・・・
 朝鮮半島の南端には倭人がいたそうだ。
 その倭人が倭国本土に移住して作った土器かな?
 
 いずれにせよ、重くて当時大して重要でない土器如きが
海峡渡って物流したと考えるほうがおかしい。
301筑紫の民:2011/11/12(土) 00:59:55.27
以上、おわり。
302日本@名無史さん:2011/11/12(土) 01:06:47.18
三世紀に畿内と九州で征服したのされたのってどーいう冗談だ
303日本@名無史さん:2011/11/12(土) 01:16:30.35
三世紀に畿内が九州を征服したんだよ。

日本書紀にも書いてあるだろ?ヤマトタケルがクマソ征伐したって。
304日本@名無史さん:2011/11/12(土) 01:30:36.41
>>290 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作  のポチ 筑紫のド民 か?
>そして、当時最も実力があったのは九州勢力さ。

コンプレックス丸出しのゴミクズレス。
この手のアホはこの板では消えることが無い。
「大九州主義」と言うか「九州版ウリナラ起源説」というかひたすら幼稚な馬鹿丸出し。

まあ実際には四隅や楯築のような大型首長墓の「実績」があれば
前方後円墳の源流の一つとして可能性が考えられたかもしれないが
そんなものも無いのだから検討の対象外。
机上に出すカード、駒がないのにそれの源流に名乗りを上げる どあつかましさ 。



305日本@名無史さん:2011/11/12(土) 02:08:27.97
>>282
短里だから小さ目だな。
卑弥呼の死後、たちまち作ってるから、土盛りも少ない。
要するに古墳でも巨大墓でも無いわけよ。
306日本@名無史さん:2011/11/12(土) 08:45:32.17
>>304

源流は中国の墓制でそれが九州にわたった塚だろう。
九州の墓制が本州に流れて形・大きさが発展したと一般に考えられるね。
筑紫・佐賀・熊本は人が住み水田がある平野の隅の山裾は古墳だらけ。そのいくつかが源流だな。
九州勢力は、新地の制圧→統治→現地との融合→発展→新たな進出を長い年月繰り返して東遷したんだよ。

307日本@名無史さん:2011/11/12(土) 09:05:31.71
畿内にしろ九州にしろ途中をガン無視にはできないだろ
最低でも吉備と瀬戸内海人を引き込まなきゃどうにもならんぞい
308日本@名無史さん:2011/11/12(土) 12:23:40.08
大都会岡山きたね
309日本@名無史さん:2011/11/12(土) 14:03:28.90
吉備が組んだ相手はヤマトだけどね。
310日本@名無史さん:2011/11/12(土) 14:08:40.10
>>305
短里とかいうものは、一歩の長さもフツーじゃねーのかw
311日本@名無史さん:2011/11/12(土) 14:11:33.64
>>310
歩じゃなくて里なんだけど?
穆天子伝にも使われているフツーの里だぞ。
312日本@名無史さん:2011/11/12(土) 14:19:31.61
径百歩
313deshabari:2011/11/12(土) 18:07:28.38
>>299:ローガン
>このレスの意図は、盟主墳の存在が、その地の勢力を有り様を説明出来るものである。 でしょう。

私には貴殿との議論を楽しいと感じられない。こちらの書き込みの趣旨を微妙に曲げて揚げ足取り的な論争をして
勝ちたいだけのように感じられる。

私の書き込み(「ドン来い>>237:deshabari 11/08(火) 15:02 )を再掲する。
「近畿の弥生遺跡に王墓らしい(大勢力の長のものと思えるような)墓も出土品もない。須玖岡本、
三雲、平原などに比べられるようなものはない。マキムクの遺跡を作った勢力が在地のものであったとは考え難いのではないか。」

貴殿はこの書き込みの趣旨(貴殿は意図としているが)は貴殿が書いているような「盟主墳の存在が、その地の勢力を有り様を説明
出来るものである。」というようなことではない。確かに王墓の存在はその地の近辺に大きな勢力を有する首長が存在したことを示
すものであり、出土品から文化、文明の一端を知ることもできよう。特に、大陸や半島の品物が存在すれば大陸や半島との交流の可
能性が知られる。品物が大陸でも王族にしか下賜されないような物であれば直接交流があったと見なされよう。

先の私の書き込みでは省略した部分が多かったので読者に十分伝わらなかったかもしれない。改めて書くと、

北部九州には大陸との直接交流があったと考えられる大きな勢力が紀元前1世紀頃から2世紀にかけて存在した
という証拠の遺跡がある。それに対して畿内にはそのようなものが無い。マキムクの遺跡の年代は未だ確定して
いないが、その遺跡は前方後円墳の規模や数からして小さなクニが作れるものではない。かなりの権力を有する
大勢力が作ったものであろう。そのような大勢力が短い期間(1世紀や2世紀)で育つであろうか?

畿内の弥生遺跡からの出土物の工具、農具など生産活動に使われる道具類は石器や木器がほとんどで九州に比べて
はるかに遅れている。また、人口が急速に増加したと見られるような弥生住居跡の増加も見られない。
このような弥生時代の畿内の状況から「マキムクの遺跡を作った勢力が在地のものであったとは考え難いのではな
いか。」と考えるのである。





314唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 18:07:59.74
>>290
>古墳時代到来まで畿内に何かあったか?九州を制覇する実力があったか?ないだろう

210年 金官伽耶建国(任那)
ホケノ山古墳(225〜250年)木槨、鉄器、楽浪鏡は任那以後を示す。
そして穴あき壺(庄内式)は、埴輪の始まり(垂仁末の墳墓)
1世代後の箸墓は、最初の大王墓。(布留0式の指標)
北部九州の庄内式は、畿内政権の九州進出の証拠品である。

考古学の年代を後ろにずらすためには、”任那建国”をどこに設定するか?
315deshabari:2011/11/12(土) 18:15:10.94
>>313の訂正
誤 貴殿はこの書き込みの趣旨(貴殿は意図としているが)は貴殿が書いているような「盟主墳の存在が、その地の勢力を・・・
正 この書き込みの趣旨(貴殿は意図としているが)は貴殿が書いているような「盟主墳の存在が、その地の勢力を・・・
316日本@名無史さん:2011/11/12(土) 18:19:06.56
>>313

>私には貴殿との議論を楽しいと感じられない。
>こちらの書き込みの趣旨を微妙に曲げて揚げ足取り的な論争をして勝ちたいだけのように感じられる。

ローガンの方は、そう言うのが楽しいのだよw
317日本@名無史さん:2011/11/12(土) 18:55:48.00
>>313
>大勢力が作ったものであろう。そのような大勢力が短い期間(1世紀や2世紀)で育つであろうか?

それが、可能なんですよ。
マキムクに突然王都が出現したように感じるのは、貴方が不勉強だからで、
ヤマトと交易関係にあった吉備、東海、丹後、山陰などでは首長墓がつくられはじめていました。
それら近畿の有力なクニが集まってマキムクを開発したのです。
318日本@名無史さん:2011/11/12(土) 19:03:01.40
>>313
>大勢力が作ったものであろう。そのような大勢力が短い期間(1世紀や2世紀)で育つであろうか?

対象的に、九州の3世紀の状況は、平原からなんの発展性もありません。
発展性が無いかわりに、近畿や山陰の土器を受け入れているわけです。

1世紀までは九州は先進国だったかもしれませんが、
2世紀には、九州は疲弊して衰退し、外来の勢力を受け入れるしかなかったというわけです。
319日本@名無史さん:2011/11/12(土) 19:10:44.99
>>313

>このような弥生時代の畿内の状況から「マキムクの遺跡を作った勢力が在地のものであったとは考え難いのではな
>いか。」と考えるのである。

在地ばかりで作ったわけではありません。
東海系土器が多く出土しますので、東海から人が労働力としてマキムクを開発したわけです。

九州から人が来たような形跡はないので念のため。
九州には、近畿の土器が出てますから、近畿が九州に進出し併合したのです。
それが卑弥呼の時代だというわけです。

320日本@名無史さん:2011/11/12(土) 19:12:05.47
>>313 deshabari

ああ、やっぱりこいつ縄文人なんだろうなw

多少文体や一人称その他の語彙を変えてもその主張内容までは変わらない、変えたら意味が無い。
その内容で特定できる(具体的にどの部分で特定できたかは秘密w)

そもそも鉄器の普及と集落の数、大きさ、そこから導き出される人口の結びつきを推測されるものが無い。
人口の急増と言うのなら定型化された大型古墳が出現するようになって奈良盆地にそのような人口の急増が見られると言う話を聞いたことが無い。

東遷勢力によるヤマト王権の勃興と言うストーリーに囚われたが為の与太話。

森村伊作 や 縄文人 に狂痛…もとい共通の与太話。




321日本@名無史さん:2011/11/12(土) 19:28:33.52
縄文人?

論破されて居なくなって、またハンドル変えて出てきたの?

2ちゃんに粘着して九州説信じてるなんて、社会の底辺だろ。
322320:2011/11/12(土) 19:33:17.92
>>320の「人口の急増」と言う問題に関して補足しておく

要するにこので しゃばり縄文人 が問題にする弥生時代の農耕地や人口の急増も無いが
かといって(大型古墳がバンバン作られた)古墳時代になってその急増がみられるということも無い…と言う事。

弥生時代の水田開発に関しては寺澤の「王権誕生」第二章 コメと日本文化 で

>弥生時代の水田開発もまた、きわめてゆっくりしたものなのだ。

と結んでいるので参考にできるだろう。

また>>181に出ている水田の跡は弥生前期。

何れにせよそもそも大型古墳の出現と集落・人口の急増がリンクする事実が無い。

よってこいつの言うことはハナから意味が無い。



323日本@名無史さん:2011/11/12(土) 19:43:57.95
縄文人は学問的なことは何もわからないんだよ
324日本@名無史さん:2011/11/12(土) 20:04:30.60
しかし、相変わらず畿内派は低脳しかいないよな。
325:2011/11/12(土) 20:19:26.48
>>263
あ〜、ジョーカーは馬鹿だからね(仕方ないw)
私は彼と違って当時の盟主邪馬台国っていうのは西日本全体を統括する「強国」と思ってますから
彼とはすこし考えが違う。同じ畿内説でも考えが違うという事。

たとえば、熊本県玉名郡の江田船山古墳の「銀象嵌鉄刀銘」や
埼玉県行田市の稲荷山古墳の「金錯銘鉄剣銘」が出土してるんですが、
雄略天皇時代には九州〜東日本にかけて、かなりの広範囲における王権が誕生していた。
遡る事、20代前の神武天皇時代には、神武東征が語るとおり、九州〜近畿まで統一していた。

で、卑弥呼の時代というのは第10代天皇あたりなので、この卑弥呼時代の「倭」というのは、
西日本全体だったことが想像できる。
近畿の前方後円墳が巨大化するが、その巨大になる前に一定の時間が必要であり、
260年又は290年でもいいです。
三世紀末から前方後円墳が巨大になったのなら、三世紀前半も二世紀後半もそこが盟主だったということになる。
邪馬台国が九州から東遷したとしても、巨大な前方後円墳を造るまでには、その周辺住民からの支持を得ないと出来あがらない訳ですし
「ゆるやかな首長連合」っていうのは、畿内説の私から見ても少し違うと思う。

そして、一大率に関してですが、これは「ゆるやかな首長連合」ならぬ、強国畿内政権だから成し得た事でしょうね。
326日本@名無史さん:2011/11/12(土) 20:20:56.92
朝鮮化が激しいの最近の畿内説。血のせいか妄想レベルが上昇してる感じだ。落ち着け中国社会科学院辺りにヘイこらするな。
327太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/12(土) 20:30:01.18
>で、卑弥呼の時代というのは第10代天皇あたりなので

これは正解。つまり彼と菅政友、橋本増吉、那珂博士、
原静岡大学名誉教授の主張の古事記の崇神没年 258年説 がほぼ真で
あることを意味する。そこで宿主の 215年没年 がデタラメであることが
確定する。
ただメ氏においては倍暦否定派であるからして、当人の固有暦法論からの
編年が求められるが、これがないとまだ本物の域に至れない。
328:2011/11/12(土) 20:35:00.38
>>264
>貴殿の「なぜ「一大率があるから邪馬台国は九州」になるのか?」という問いの答は上にも書いたが、
>遥か遠い畿内から九州の伊都国に一大率として少人数の役人を置いたところで諸国を検察し、畏憚させることなどできっこない。
>何かあれば女王国から1日かそこらで軍隊が駆けつけられるような状態でなければ諸国にとって一大率など恐るるに足らずである。
>つまり、女王国は伊都国に1日か2日で駆けつけることができるところ、すなわち九州内にあったということになる。
>もし、畿内であれば、相当な軍隊を伊都国に派遣していたということになり、それは畿内に中央集権的国家ができていたということ
>になるのである。兵士を徴収し派遣するには強権が必要である。しかし、それは考え難い。

「一大率」というのは、倭人伝に初めて載るので卑弥呼による行政機関でしょう。
これは、魏が公孫氏を倒し、帯方郡に太守を置くのを真似て「一大率」を設けたとみています。

魏〜帯方郡〜倭
倭〜一大率〜帯方郡・魏 という関係が出来上がり、一大率は周辺諸国をけん制しつつ、
一大率は伊都に置いてますので、対外交の窓口でもあったのではなかろうか。
そして、1日か2日で駆けつけることが出来るモノを置いたケースって、いままでの日本史(歴史)にありましたか?
たぶんないでしょうね・・・・
一大率という行政機関の設置というのは、近畿から離れてても
七万戸を誇る強国邪馬台国だから成し得たワザとはおもいませんか?
邪馬台国さんと伊都国(一大率)さんがご近所なら設置する理由が無いですから。
329日本@名無史さん:2011/11/12(土) 20:45:30.36
騎馬民族征服説みたいなマヌケなこと言ってんな
330:2011/11/12(土) 20:53:38.72
>平原以後の王墓

についてコメント〜
九州では、時代が下るごとに筑紫平野周辺から、「東」にかけて王墓が出来てますよね。
九州東部というか、代表的王墓が、豊前石塚山古墳、宇佐赤塚古墳でしょうね。

この九州東部には、日本書紀の景行天皇の条に一国之魁帥、神夏磯媛が記載されてる。
豊前石塚山古墳の被葬者と神夏磯媛がどう関わってるのか存じませんが、
その時代は結構近いんじゃなかろうか。
331:2011/11/12(土) 21:15:55.61
>「近畿の弥生遺跡に王墓らしい(大勢力の長のものと思えるような)墓も出土品もない。須玖岡本、
>三雲、平原などに比べられるようなものはない。マキムクの遺跡を作った勢力が在地のものであったとは考え難いのではないか。」

画文帯が出土するおおくの古墳は180年〜250年頃とされてると思うんですが、
巨大前方後円墳になる前のプレ古墳と言いますか、それらが該当するんじゃなかろうか。
「鏡」ていうのは、当時大流行してますし、その後に続く三角縁の出土数も近畿が圧倒してる。

ただ、鉄器に関しては、九州に劣る。
その理由としては、魏志韓伝に「國出鐵、韓、倭皆從取之」とあるので、
鉄は半島からと言うか、又、九州各地からもでていて、近畿は遠いというか
持ち運ぶのに手間がかかったのであろう。
畿内の人々は、鉄を輸入してもらうのに手間がかかるので、木製品で我慢したんじゃなかろうか?w
332唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 21:23:49.51
>卑弥呼の時代というのは第10代天皇あたりなので、

第10代天皇あたりを卑弥呼の時代という為には、考古学の主張する巻向時代で
説明できなければならない。
なお、新羅は韓に属したり、倭に属すためには、神功49年を正しい出来事で説明できねばならない。
369年=七支刀=神功49年では否定されている。だからこの数字は間違いである。
神功〜応神紀の百済王朝は、倭に属す百済王朝であり、高句麗の南下以前である。
333:2011/11/12(土) 21:29:11.94
>>332
倭人伝の卑弥呼の墓「径百余歩」は役150メートル規模なので
奈良の箸墓とぴたり「一致」する。

なんか年代論争になったら、太国と唐さんが凄く賑やかになるように感じるのは私だけだろうかw
334deshabari:2011/11/12(土) 21:43:05.83
>>320, >>322
縄文人とはどういう意味かな。弥生時代以降の未来について知りようもない縄文時代の人間というひとを馬鹿にした
レッテルなのかな。わけの分らぬ余計な書き込みはご遠慮願いたい。

>そもそも鉄器の普及と集落の数、大きさ、そこから導き出される人口の結びつきを推測されるものが無い。
>人口の急増と言うのなら定型化された大型古墳が出現するようになって奈良盆地にそのような人口の急増が見られると言う話を聞いたことが無い。

当然であろう。私もそのようなことを言ってはいない。いったいどこからそんな話が出てくるのだ?
私が言っているのは「マキムクの古墳などを作った勢力は在地(奈良盆地)のものではないだろう」ということだけなのである。

>何れにせよそもそも大型古墳の出現と集落・人口の急増がリンクする事実が無い。
私は「大型古墳の出現と集落・人口の急増がリンクする」などとは言っていない。大型古墳を作れるほどの勢力(人口)が奈良盆地で自生したとは
考え難いと言っているのである。何を勘違いして息巻いておいでやら。
335:2011/11/12(土) 21:54:45.42
現在の都市東京とそれ以外の地方とでは人口密集度が全然違う。
地方だと一軒家が立ち並んでる所、東京都では高層ビルが立ち並ぶ。
たとえば名古屋市を見ても分かる通り、高層ビルが立ち並んでるのは、「栄」や「駅周辺」であって、
ある一部分に密集して家が並んでるのではなく、平野に広く家々が立ってるのであって
「縦」より「横」というか、高層ビルではなく、広い範囲にわたって人々が住んでたのであろう。

そして、弥生時代の建物といえば、吉野ヶ里のようなせいぜい2階建の木造で、
倭人伝に「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」とあるが、これも高層ビルではなく
2階建の宮殿でしょうね。

邪馬台国は畿内というのは、纏向遺跡に高層ビルが立ち並んでたのではなく、
その周辺の山城、河内、和泉、摂津を含んで邪馬台国七万戸でしょう。
あくまでも高層ビルではなく、広い範囲に渡った都市が出来ていたのではなかろうか。
336唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 21:58:53.88
箸墓は最初の大王墓である。

考古学が50年遡上した意味とは、
七支刀=神功52年=369年が、
七支刀=神功52年=326年と43年ほど遡上する。
であれば、崇神は、
210年任那建国の功労者である。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカンコク、金官伽耶、任那)は存在する。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。

魏、晋が半島を管理する時代に“任那”建国は無い。
崇神世の任那建国を無視すれば、崇神世=卑弥呼の時代も範疇にはいるが
現在の考古学の数字で纒向を説明できないだろう。

崇神は”鉄”を持たない”纒向”の住人である。鉄なしで箸墓は作れない。
337:2011/11/12(土) 22:11:17.71
名古屋市の熱田神宮って言ったことある人どれぐらいいる?
熱田神宮っていえばヤマトタケルノミコトの草薙剣を御神体にしてる所でして
又、織田信長が桶狭間の戦いの前に立ち寄ったところで有名ですよね。
熱田神宮の前の道路が19号線でして、そこから247号線の方に行ったところに
「港東通り」てあるんですが、その前に大江駅が合って、よくそこから電車に乗って名古屋のほうに行ってましたね。

週末なんでもっとジャンジャンレスしてほしい。
338唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 22:15:05.78
箸墓には、円筒型埴輪が存在する。だから垂仁以後である。
ホケノ山古墳(225〜250年) 木槨、楽浪鏡、鉄器←任那以後。
穴あき壺(庄内式)=最初の埴輪。垂仁末以降をあらわす。
東海と瀬戸内の壺=崇神11年異俗多紀以後である。

この時代、纒向に“暦年無主”は無い。であるならば、
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。又東行百里,至不彌國。又南水行二十日,至投馬國。又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,
即倭王所都。

北史では、女王は、謂之倭奴國。倭王は、邪馬臺國
邪馬臺國の官は、イクメである。
“暦年無主”は3世紀前半までの平場王墓。
339太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/12(土) 22:18:39.45
再度の書きこみだが〜
メ氏においては倍暦否定派であるからして、当人の固有暦法論からの
編年が求められるが、これがないとまだ本物の域に至れない。

であるから、メ氏においては、倍暦でないどういう暦法を当時朝廷が
行使していたのか、そしてそれによって当時の天皇の超長寿をいかように
合理的説明が出来るかを開示すべきである。

まだ研究の途中であろうから、急に出せというのは厳しすぎるわけで、
おおむねの年代確定に至った事由を書きこむべきだろう。そして次第に
詳細を述べて自己の主張を通すべきである。

なお宿主の215年説はデタラメ以上のメチャクチャであ〜る。
340太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/12(土) 22:21:07.85
>箸墓は最初の大王墓である。

これもデタラメである。畿内の最初の大王は神武であり、橿原あたりに
陵墓があるわけで箸墓が最初の大王墓にはならない。
つまりでまかせのインチキ論である。ww
341唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 22:26:19.56
>魏志韓伝に「國出鐵、韓、倭皆從取之」とあるので、

楽浪鏡(公孫氏の鏡)は、東瀬戸内、大和に流入するが、九州に流入していないと思われる。
つまりこの地で鉄の採取を認められている大和には、楽浪鏡が流入する。
東瀬戸内方面に天日矛以後の人々が住み着く。だから、楽浪鏡が流入する。
342:2011/11/12(土) 22:27:54.71
>>340
倍歴?ナイナイってww
そんなことより〜吉野ヶ里の体験についてもっと書き込みお願いします。
んで、吉野ヶ里で考古学講座とかうけました?
私が行った時は、考古学講座とかやってない平日に行ったので無理でしたが・・・
うちで飼ってるワンコと一緒に入園(吉野ケ里公園)したので、犬にとっても良い散歩になったのではと思うw
343:2011/11/12(土) 22:32:25.62
吉野ヶ里〜行ったことあるのって、ここでは、私と太国とローガンぐらいなのかな??
まあ、名無しで書き込んでる連中にいるでしょうが、やっぱり古代史を追う人にお薦めできるのは
何といっても吉野ヶ里遺跡だと思う。
勉強になるって言うか・・・生で観る弥生時代の建物の数々には驚かされるものばかり。
そして、勉強にもなりますしね。
344:2011/11/12(土) 22:35:12.21
吉野ヶ里ではないんですが、考古学講座を受けた事がありまして、
周りの人と話したりするでしょ〜
みんなやけに詳しいんですよね(笑)
土器の形状がどうの〜圧倒されてしまった覚えがあるwww
345日本@名無史さん:2011/11/12(土) 22:39:06.53
お前より詳しくても
他人にとっては常識の範囲だろww
346太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/12(土) 22:39:51.14
メさんよ
ないという書きこみは貴方から以前確認してるから分かっているわけで、
じゃぁどのような暦法を当時朝廷が使用して、それでそのころの天皇の
超長寿を説明できるのか? それで10代が卑弥呼の時代になると説明が
出来れば、みなが聞く耳を立てるわけよ。

吉野ヶ里からはすでに13ヶ月が経過したが、あのときはよかった。
今年は似たような催し物がなかったようなので、行きませんでしたよ。
朝10時からでしたが、10時05分ころ会場に着きだいたいは聞けましたが、
なにしろ年なのでもう疲労してしまい、若干眠い状況でしたが、資料を
ロハで頂けておまけに菓子付きの無料サービスと、とにかく来場者には
懇切出血提供で、感謝しっぱなしでした。資料は中身が濃く、また九州で
(畿内でも可)そういう講義会があれば出たいものだと思いましたよ。

いまは西村京太郎の『二つの「金印」の謎』の推理小説を読んでる最中
ですが、えらく面白いですね。20年ばかり前、志賀島へ行ったことを想い
起こされました。
347:2011/11/12(土) 23:04:10.22
>>341
>楽浪鏡(公孫氏の鏡)は、東瀬戸内、大和に流入するが、九州に流入していないと思われる。

ほう、その楽浪鏡って言うのは、どれの事なんでしょうね?もしかして三角?

>>345
そういうのを土器馬鹿っていうんだよww

>>346
いや、記紀の歳が長く書かれてるから「倍歴」って言ってるんであって
大勢が納得できる説明を貴方がするべきと思う。
西村京太郎の「二つの金印の謎」は読んだ事無いな〜

ていうか、おっさん、20年前から邪馬台国論争やってるのかw(飽きないねww)
348:2011/11/12(土) 23:17:25.85
王権誕生やら二つの金印の謎がどうの言ってるので、
私もお薦めの一冊を書き込もう。

椛田美純「宇佐物語」かな。
http://search.newgenji.co.jp/sgenji/D1/?000107919559/

この本を開いてもらえればわかると思うんだが、その内容は邪馬台国に関する記事が多く
宇佐についても詳しく調べてらっしゃる。
宇佐についての本は結構難しい本が多く、この本は「お爺さんとお孫さんの対話」という形で
比較的読者にとっても分かりやすいんじゃなかろうか。
私から見ても、邪馬台国や宇佐について詳しく調べてる方なので、ぜひお勧めかな。
349唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 23:18:18.77
>編年が求められるが、これがないとまだ本物の域に至れない。

1年の日数が振れない太国倍年。だから本物の域に至れない。
という思考に間違いはない。
350太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/12(土) 23:22:34.61
1年の日数が振れない宿主空年。だから本物の域に至れない。
という思考に間違いはない。いつも抽象的数字の羅列で説明したふりを
して誤魔化す。成務60年まで日数と空年を振れるのか?
振れなければ成立しない。言ってみろ。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?

そしてその具体的説明を第三者が成程と思うよう説明しろ。
351唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 23:22:35.05
>>347
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten3yamatai.htm
ホケノ山古墳の楽浪鏡 画文帯神獣鏡と方格規矩鏡

*ホケノ山古墳の「石囲い木槨」
352:2011/11/12(土) 23:23:09.55
で、唐さんのお薦めの本はなんでしょうね?ほつま?w

みんなだしてるので、ここはバシッと決めて下さい。
さ、さ、唐さんのお薦めの本をどうぞ!
353太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/12(土) 23:26:09.04
いよいよ
宿主のお友達らが明日の夜9時「テレビ朝日」にご登場になられる。ppppp

1年の日数が振れない宿主空年。だから本物の域に至れない。
という思考に間違いはない。いつも抽象的日数字の羅列で説明したふりを
して誤魔化す。成務60年まで日数と空年を振れるのか?
354唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 23:26:39.16
ホケノ山古墳を垂仁墓とするには、
茅原を菅原とするだけで良い。
チガヤとスゲカヤは、植物学的に同一である。
つまり、漢字導入と地名への使用段階でこの程度の変化は起きうる。
355太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/12(土) 23:28:52.45
356日本@名無史さん:2011/11/12(土) 23:28:58.23
>>334 縄文人 
>私が言っているのは「マキムクの古墳などを作った勢力は在地(奈良盆地)のものではないだろう」ということだけなのである。

話をそらすな。
要するに外部勢力によって作られてたとする根拠が

>その遺跡は前方後円墳の規模や数からして小さなクニが作れるものではない。
>かなりの権力を有する大勢力が作ったものであろう。
>また、人口が急速に増加したと見られるような弥生住居跡の増加も見られない。

…と古墳の出現をクニの大きさ(=人口)とリンクさせた前提で言っているんだろうが。
その前提が無ければ

>大型古墳を作れるほどの勢力(人口)が奈良盆地で自生したとは考え難いと言っているのである

…を主張する意味が無い。

国力=大人口を擁するクニの出現・存在 が古墳出現の条件であるからこそ
その条件を満たしていない大和には古墳を築く能力が無かったと言う理屈。

てめえで言ったことを反故にするなら
じゃあ今度は何をもって在地勢力では作れない根拠とするのか?

こう言う行き当たりばったり、なのも縄文人の芸風w

357唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/12(土) 23:44:05.68
ホ35044      イテサムラ アハチシシアワ 淡路島、阿波
ホ35045      まゝにをれ ヒホコもふさぐ
ホ35046      すむトコロ ゆるしたまはゞ
ホ35047      めぐりみん キミゆるされは
ホ35048      アメヒボコ ウヂガワのぼり
ホ35049      アワウミの アナムラにすむ
ホ35050      またさらに ワカサめぐりて
ホ35051      すむタジマ

垂仁の了承のもと 阿波に渡来人が居住する。
358日本@名無史さん:2011/11/12(土) 23:49:46.68
ちなみに『 縄文人 』というゴミクズレベル九州説がかつて「弥生末期の奈良盆地湖」と言うアホネタに固執したのは

盆地の殆どが水の底なら古墳を築けるような「大きな(大人口を擁した)クニ」がありえたはずが無い…と言うことだからだw

359:2011/11/12(土) 23:52:11.72
中山平次郎ってみなさん御存知だろうと思うが、
彼が言うには、九州のスグやミグモの青銅文化が古墳文化を発達させたのであるようなことを言ってますよね。
で、九州説の言い分ですと、三世紀の国らしい国は北九州から出来たのであって
石棺は九州しかない点からも「大いに塚を造る」のは九州から近畿へ伝わったものと・・・
360ローガン:2011/11/12(土) 23:54:03.92
>>313:deshabari
>「近畿の弥生遺跡に王墓らしい(大勢力の長のものと思えるような)墓も出土品もない。須玖岡本、三雲、平原などに比べられるようなものはない。マキムクの遺跡を作った勢力が在地のものであったとは考え難いのではないか。」

を、「先の私の書き込みでは省略した部分が多かったので読者に十分伝わらなかったかもしれない。改めて書」いたものが、

>北部九州には大陸との直接交流があったと考えられる大きな勢力が紀元前1世紀頃から2世紀にかけて存在した
という証拠の遺跡がある。それに対して畿内にはそのようなものが無い。マキムクの遺跡の年代は未だ確定して
いないが、その遺跡は前方後円墳の規模や数からして小さなクニが作れるものではない。かなりの権力を有する
大勢力が作ったものであろう。そのような大勢力が短い期間(1世紀や2世紀)で育つであろうか?

という事ね。では前レスの「須玖岡本、三雲、平原」が「紀元前1世紀頃から2世紀にかけて存在したという証拠の遺跡」という訳だ。
さて、平原王墓を2世紀とする根拠を教えて貰えますか? それ伺ってから反論してみようと思うので。
361:2011/11/12(土) 23:57:42.55
「鬼神」という神様は、シャーマニズムで道教の要素が入ってるらしい。
その神様は、その言葉だけ聞く事が出来るが、その姿を見る事は出来ない・・・・
なんてたまに聞いたりします。
このへん如何だろうか?
362:2011/11/13(日) 00:05:11.60
>平原王墓を2世紀とする根拠を教えて貰えますか?

横ですが、たぶんそれは、須玖岡本、三雲、から出土された
「漢鏡」からみて、一世代後の遺跡が平原遺跡なのだから、平原王墓を2世紀と想定したのでしょう。
原田 大六氏の「実在した神話」にそうなズがあったと思う。
363:2011/11/13(日) 00:10:34.91
平原遺跡を220年頃と考える人は、近畿で見つかる、「有棺無槨」と繋げて
九州平原(220年頃)〜近畿の「有棺無槨」古墳220年から というズでそう考えたのでしょうが、
原田氏の言うとおり、平原遺跡は220年頃より早いのではなかろうか?
私自身も三世紀ではなく二世紀なんじゃないの???って思ってるわけでして・・・・
その辺、みなさんはどう考えてるんでしょうかね?
364唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/13(日) 00:27:27.06
歴年無主。
この暦年とは、19年7潤の積み重ねが太陰暦であるから、
19年程度以上あれば、”暦年”と表記できる。
239年時点で、暦年無主であるから、遅くとも220年頃には平場王墓の終了であるが
20年とは1世代であり、非常に検証しにくい数字ではある。
なお男王の死亡は景行18年(西暦250年ころ)であろう。
250年頃に祇園山古墳は作られる。
365日本@名無史さん:2011/11/13(日) 01:32:36.74
224 :メ:2011/11/10(木) 22:46:02.14
それと、年輪年代法をココを読んでる人に「分かり易く説明」するとしたら
「木材の分子」なる用語でオカシク無いと思うよ〜☆   さて、もう寝よっと zzz・・

に対し

228 :第三者委員会:2011/11/10(木) 23:37:36.43
>>223, >>224:メ
>それと、年輪年代法をココを読んでる人に「分かり易く説明」するとしたら
>「木材の分子」なる用語でオカシク無いと思うよ〜☆ 
アホなことを言わないで頂きたい。ここを読んでいる人の中にも化学や植物学の知識を持った者もいる
筈である。年輪と言うのは物質の基本単位である分子レベルの話ではない。セルロースやヘミセルロースや
リグニンなどの分子が集合して作り上げている細胞壁という組織レベルの話である。

春期には幹の肥大成長が速く夏期には遅くなるので木材の断面には濃淡の模様が形成される。
この濃淡1セットが1年で形成されるので年輪と称される。
その細胞壁の大きさや厚さや数は温度や大陽光線量や降雨量などの環境条件によって変化するので年輪の幅は毎年同じになる
とは限らず、その年の気象条件によって広くなったり狭くなったりする。
その年輪幅の変化のパターンを利用して年代を求めようというのが年輪年代法である。



366日本@名無史さん:2011/11/13(日) 01:34:35.75
上記に対し

238 :あらため:2011/11/11(金) 19:42:37.20
>>228 第三者委員会
>春期には幹の肥大成長が速く夏期には遅くなるので木材の断面には濃淡の模様が形成される。
>この濃淡1セットが1年で形成されるので年輪と称される。
>その細胞壁の大きさや厚さや数は温度や大陽光線量や降雨量などの環境条件によって変化するので年輪の幅は毎年同じになる
>とは限らず、その年の気象条件によって広くなったり狭くなったりする。
>その年輪幅の変化のパターンを利用して年代を求めようというのが年輪年代法である。

バカだな〜おめーw
年輪年代法の、細かい説明なんて、みんな「うぜ〜」と思ってるにきまってる。
一言で説明するとしたら「木材の分子」なる用語でいいと思うぜ。
で、私と「年輪年代法」をテーマに議論したいのかな?
おれはドンコイの奴らみたいに地味な論争はしたくないのでw(パス)

やっぱりメ(ドツボ)はバカだった


367日本@名無史さん:2011/11/13(日) 01:55:34.71
343 :メ:2011/11/12(土) 22:32:25.62
吉野ヶ里〜行ったことあるのって、ここでは、私と太国とローガンぐらいなのかな??
まあ、名無しで書き込んでる連中にいるでしょうが、やっぱり古代史を追う人にお薦めできるのは
何といっても吉野ヶ里遺跡だと思う。
勉強になるって言うか・・・生で観る弥生時代の建物の数々には驚かされるものばかり。
そして、勉強にもなりますしね。

勉強になる・・・勉強になるの繰り返しで何を勉強してきたのかサッパリ
やっぱ、馬鹿だな
368太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/13(日) 10:26:28.56
>>364
1年の日数が振れない宿主空年。だから本物の域に至れない。
という思考に間違いはない。いつも抽象的数字の羅列で説明したふりを
して誤魔化す。以下の各年代日数と空年を振れるのか?
振れなければ成立しない。”暦年”と表記できるなら言ってみい。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?

そしてその具体的説明を第三者が成程と思うよう説明しろ。
369deshabari:2011/11/13(日) 16:31:04.46
>>356 :日本@名無史さん:2011/11/12(土) 23:28:58.23

要は「奈良盆地の弥生遺跡の状態を見れば後の時代の大型古墳を作れるような大勢力が自生できたとは考えられない」
と私は言ったのである。貴殿が付け加えた下記の

>そもそも鉄器の普及と集落の数、大きさ、そこから導き出される人口の結びつきを推測されるものが無い。
>人口の急増と言うのなら定型化された大型古墳が出現するようになって奈良盆地にそのような人口の急増が見られると言う話を聞いたことが無い。

などを基に論じたことではない。奈良盆地の弥生時代の後進性と貧しさを見れば、これが1世紀や2世紀の短期間であのような大型古墳を築造する
(あるいは築造させる)力を持った大勢力に成長できるか?という誰にでも浮かぶ素直な思いだけを書いたと言っているのだが。
貴殿には何かトラウマになっている先入観あるいは苦い思い出でもあるのかな。
370:2011/11/13(日) 16:53:32.56
>>365-367
木材の細胞って言えば良かったのかな?
じゃおめー 年輪年代法を一言で表せ!と言われたら何ていうんだ?
年輪年代法なんて普通の一般人の中にどれだけ測定したことがあるんだって話で。

俺は、ドンコイの奴らみたいに地味な論争はしたくないのでw(パス)
371:2011/11/13(日) 17:02:18.30
>須玖岡本遺跡

私は、須玖を「スグ」と呼んでるんですが、
サガミさんは「スク」と呼んでいたので少し調べたんですが・・・・
考古学辞典には、スク遺跡と載ってますね。

私はなぜ、スグと呼んでるかと言えば、
以前、福岡春日市「須玖岡本遺跡」の隣にある
「奴国の丘歴史資料館」に行った際に現地の人がそう呼んでいたからであって
それ以後、須玖をスグと呼んでいる。
そこのパンフレットにもそうあるし、ここを観てもらえればわかると思う。
http://www.city.kasuga.fukuoka.jp/nakoku/siteibunkazai/kuni_05.html

まあ、辞書にはスク遺跡とあるのでどっちでもいいんだろうが・・・
372日本@名無史さん:2011/11/13(日) 17:14:55.02
>370 :メ:2011/11/13(日) 16:53:32.56
>>>365-367
>木材の細胞って言えば良かったのかな?

下は要点のみ簡潔にしている、見て勉強しなさい。

>>228
>年輪幅の変化のパターンを利用して年代を求めようというのが年輪年代法である。

僕、実は分かっていませんって言っているようなもの
  ↓   ↓   ↓
>俺は、ドンコイの奴らみたいに地味な論争はしたくないのでw(パス)
373:2011/11/13(日) 17:18:01.17
マキムクは田舎なんて言ってますが、
卑弥呼の住まいにしても高級住宅街の高級マンションでもなければ
大阪城みたいな立派なお城でもなく、せいぜい2階建の木造建造物だっただろう。
佐原の本だったかな、彼が言うには、卑弥呼が寝泊まりしてたのは「竪穴式住居」だった
なんて昔、本で読みましたが、現在の感覚で卑弥呼の住まいを考えるとよくないのかもしれない。
吉野ヶ里に行った時も卑弥呼の住まいみたいなのがあったと思う。
374:2011/11/13(日) 17:20:39.35
>>372
あ〜実際に測定した事が無いので詳しくは知らない。
ていうか知ってたぐらいでどうなるん?てはなしで・・・・
いちいち突っ込むなよ
375日本@名無史さん:2011/11/13(日) 17:24:52.60
倭人伝読んでるのか疑いたくなるレベル
376:2011/11/13(日) 17:27:51.08
年輪年代法を知ってたぐらいで威張るなよ〜バカw
顕微鏡を使うだろ〜顕微鏡ぉ

分子でいいんだよ、分子でwww

俺は、ドンコイの奴らみたいに地味な論争はしたくないのでw(パスぅ)
377日本@名無史さん:2011/11/13(日) 17:30:57.91
なんの根拠で断定したのかは知らんが、
吉野ケ里で王様、王妃様の竪穴式住居があった。

断熱という面では、高床式より優れているかもしれない。

高床式は、いろいろ工夫しないと、
直射日光で夏暑く、風が入って冬寒い。
378唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/13(日) 17:35:50.83
>>368
>【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】
で 太国が言いたいのは、太国3倍年を行使していた成務の年度をほぼ全国的に
使用されていた、その証拠として【神社等の由緒、伝承】があると主張したいんだろ?
であるならば、まず成務が使用した太国倍年が如何なるものか?、開示する必要がある。


成務5年 国造を賜う 国造を賜うのは、成務からであるから、どんな日付でもかまわない。
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建

清賀上人 椿油を採る  成務治世と関係のない記録である。ということは、成務と関係の
ない庶民も太国倍年の暦法を知っており、かつ使用すると。

で太国は、当時の庶民でも使えたであろう太国倍年を開示する必要がある。
太国倍年が開示されない限り、太国倍年での記録とはできない。
379日本@名無史さん:2011/11/13(日) 17:36:50.19
まあ住むとこと執政の場が別でも不思議じゃないとは思うけど
380日本@名無史さん:2011/11/13(日) 17:48:27.37
分子は2つ以上の原子から構成される電荷的に中性な物質

>376 :メ:2011/11/13(日) 17:27:51.08
>年輪年代法を知ってたぐらいで威張るなよ〜バカw
>顕微鏡を使うだろ〜顕微鏡ぉ

>分子でいいんだよ、分子でwww

 ↑  ↑  ↑
分子じゃなくって細胞のことだろ?プッ 
381:2011/11/13(日) 17:52:12.98
「鉄」に関してだが、上記した通り
魏志韓伝に「國出鐵、韓、倭皆從取之」とあって、
半島から採れる鉄を争うようにして持ち帰ってるんですが、
これ以外にも九州の福岡県の方に香春丘というのがありまして、ここから
銅や鉄が産出されている。
ん〜国内における、当時の鉄の産出地って、ここ以外にどこがあったんだろうね?
あまり聞かないってことは無いのかな・・・・知ってる人いたら書き込み〜宜しく!
382:2011/11/13(日) 17:57:48.07
ハイハイ、細胞ですね、細胞ぉ
年輪年代法は顕微鏡を使って木材の細かい細胞を観るねぇ〜

「分子」と「細胞」を間違えたぐらいでウルサイやつだなぁぁぁ。
「僕は考古学博士だぞ〜(。`Д´。)」てアピールしたいのか?w

まあ、よい、とにかく地味な論争はしたくないので、俺はパスぅだwww
383三流言説を潰す会:2011/11/13(日) 18:08:17.40
>>369
>奈良盆地の弥生時代の後進性と貧しさを見れば、
>1世紀や2世紀の短期間であのような大型古墳を築造する
>(あるいは築造させる)力を持った大勢力に成長できるか?
その可能性なし。
奈良盆地ではそもそも銅鐸の出土数が周辺各地よりも極端に少ない。

>誰にでも浮かぶ素直な思いだけを書いたと言っているのだが。
素直な思いが通じる感性なし。叫ぶのは感情論だけ。
384mirai:2011/11/13(日) 18:15:38.48
 今更ながらなんですが私は、邪馬台国の卑弥呼とは、天岩戸国(あまいわとこく)の
日孁尊(ひるめみこと、もしかしたら最後尾の「と」は外国語に見受けられることが
あるように発音されないのではないでしょうか)じゃないかと思ってます。そして卑弥
呼の「鬼道」は、鬼という字が「鬼という漢字の角を取ったらカミ(神)になる」と言
われることから神に相対する龍神を祭ること、つまり神道に相対する信仰であると見
ています。こう言うとすごく矛盾しているようですが、それは『記紀』に語られる天
照大神の、一般に私たちが皇祖と思い込んでいるのとは違う本当の正体がわかったと
きに初めて納得できることになります。
385太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/13(日) 18:19:07.11
>>378
当時の庶民でも使えたでない宿主空年を開示する必要がある。
宿主空年がどこか ↓ 開示されない限り、宿主空年での記録とはできない。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?

そしてその具体的説明を第三者が成程と思うよう説明しないと、精神異常者
等以外、誰も信じる奴はいない。
386:2011/11/13(日) 18:26:29.88
佐賀ルート?無いってばぁ〜www

奴國は福岡県博多周辺なのか?
はたまたサガミサンのいう佐賀県の方なのか? に関してですが・・・
人口を観れば一目瞭然なのではなかろうか?

倭人伝に記述される「奴國」の戸数は二萬余戸を誇っており、
邪馬台國(七萬余戸)投馬國(五萬余戸)に次ぐ、第三位の人口を誇っておる。

奴國=博多周辺というのは、
対馬國(千余里)、一大國(三千家)、末盧國(千余戸)、からみても九州の盟主という事がわかる。
対馬の地形、壱岐の地形、松浦半島の地形と対比して奴國(二萬余戸)はどこか?
を考えても博多周辺が一番しっくりくると思う。

博多と言えば、現在の人口密集地のその全国第5位とされており
佐賀ルート説をとってる方に聞きたいのは、このへんの認識についてであり、
九州の盟主「奴國」(博多周辺)なので、邪馬台國の七萬余戸を九州の島内に収めるのは
少し無理があるんではなかろうか?と思うわけです。
なお、一大國の戸数ではなく「三千家」に関しては、分かりやすく説明するとしたら
「戸」一般人てことです、「家」はそうではない人の事です。
まあ、「戸」とあまり変わらないので詳しく調べなくてもいいと思う。
387:2011/11/13(日) 18:44:27.49
>>384 miraiさん
>今更ながらなんですが私は、邪馬台国の卑弥呼とは、天岩戸国(あまいわとこく)の
>日孁尊(ひるめみこと、もしかしたら最後尾の「と」は外国語に見受けられることが
>あるように発音されないのではないでしょうか)じゃないかと思ってます。

卑弥呼の読み方なんですが、
これは、姫尊(ひめみこ)、日巫女(ひみこ)、日御子など諸説ある。
たとえば大和国と書いてヤマトノクニと呼んでいたらしく、「ノ」を省く場合だってあるんですし
言ってる事は最もだろう。
しかし、当時の中国の漢字と言うのは、一字一音というか、卑弥呼に関しては
ヒミコ又はヒメコが順当であろうと思う。

そして、日孁尊(ひるめみこと)に関しても言える事で、「と」を発音するしないは
当時の日本列島に住む人はなんと発音したのか?が重要であり、こっから言える事は
尊を「みこと」と発言したらしいので、「と」を発言するしないの話は、するが正解だろう。

>そして卑弥呼の「鬼道」は、鬼という字が「鬼という漢字の角を取ったらカミ(神)になる」と言
>われることから神に相対する龍神を祭ること、つまり神道に相対する信仰であると見
>ています。こう言うとすごく矛盾しているようですが、それは『記紀』に語られる天
>照大神の、一般に私たちが皇祖と思い込んでいるのとは違う本当の正体がわかったと
>きに初めて納得できることになります。

「鬼道」は「神道」の関係は、ほどゼロに近い。
神道を調べていくと分かる事ですが、どうも「神道」ではなく、「道教」と深いかかわりがある。
巫女のシャーマンという部分からも、神道にはその歴史は無く、道教的と言うか
大陸や半島から来たものであろうと思うわけです。
388日本@名無史さん:2011/11/13(日) 18:49:45.16
>>369 deshabariな縄文人

まあ集落や田畑の跡から見ればお前がほざくところの
(ついでに縄文人とか言う知ったかぶりのアホも良くほざいていたw)
「奈良盆地の弥生時代の後進性と貧しさ」
から飛躍的に脱して古墳を築くに至ったわけでもなんでもないwww

古墳の出現と人口の急増に無関は見られず。
ついでに鉄器の豊富さと人口の多寡にも関係は見られない。

何のことは無い、奈良盆地には古墳を築くだけの地力は元からあったと見るしかなく
後に各地に大型古墳が出現するのも別にそこで人口の急増があったとか
各地からそこに労働力が送り込まれたわけじゃない。
(畿内と同じ形のものは設計(プラン)は持ち込まれたのだろうが)

例えば
全長200m超級の九州最大の古墳は宮崎に出現するが宮崎なんて鉄器なら大和とそう変わらないだろうが
どこにそのような巨大古墳を築く勢力が存在したと見る痕跡があるのか?
それともここも外部勢力によってその古墳が築かれたのか?






389388訂正:2011/11/13(日) 18:50:56.38
誤)古墳の出現と人口の急増に無関は見られず。

正)古墳の出現と人口の急増に関係は見られず。
390太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/13(日) 18:55:00.31
>>378 泣き言はどうでもいい。

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
391唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/13(日) 19:05:36.56
>>390 泣き言はどうでもいい。
西暦を入れられなければ、太国の主張とならない。
392:2011/11/13(日) 19:06:03.52
皇祖、「天照大神」について少し書き込もう。

天照大神というのは、天皇家の祖神として
三重県の伊勢神宮に祀られており、人々から深く信仰されてるが、

どっかで太国のおっさんが言っていたと思うが・・・
「お伊勢に参拝する」というと、最近ではごく一般的なんですが、
これは江戸時代からであり(細かく言えば戦国時代)、その昔は一般人は参拝できなかった。
一般の人が参拝する事が許されるようになるのは江戸に入ってからであり、その昔は皇族でさえも
出来なかったと言われてる。

天照大神が伊勢に祀られるようになったのは、崇神・垂仁天皇時代の倭姫命が各地を巡り、天照大神を鎮座する地を求め、
最終的に伊勢神宮に祀ったのが始まりで、その神は女神とされ、
日本国家の皇祖神といえば天照大神なんですが、本来の皇祖神はタカミムスビ神で、
天照大神は後に祀り上げられたという声も高い。
又、女神ではなく、男神というのもよく聞く事で、これはホツマから来てるんでしょうが、
ヤマトの国神でもある天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を刺す人もいるのではなかろうか。
393:2011/11/13(日) 19:17:23.60
平原王墓を2世紀とする根拠って近畿の初期古墳で出土する
アノ木製の棺をみて、「有棺」、「無槨」の状態なので、九州平原遺跡で見つかった
棺とをくっ付けるというやり方で観て平原王墓=2世紀と言ってるんだろう?
「有棺」、「無槨」の状態と言えば赤塚古墳もそうだったはずで、槨有りの状態と言えば
もっと後代だしねえ。
394:2011/11/13(日) 19:26:35.99
唐さんが以前言っていた、箸墓を造るのに鉄器が必要ていうのは、
鉄器がなくても可能だったんじゃなかろうか?
古墳と言えば丘や、小さな山をベースにしてると聞きますが、
箸墓の形状からして、全て人工的にで築かれたモノって誰かさんが言ってたね。

たとえば吉野ヶ里の北墳丘墓とかは、土饅頭を並べて行き、土を盛って行くやり方なんですが、
この方法だと箸墓は、築けないとする考えはよくないのではなかろうか?
「昼は人が作り、夜は神が作る」という伝説を持つ箸墓ですので、鉄器というのは、
現在人の感覚で言ってるんじゃないでしょうか。
395太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/13(日) 19:31:46.09
青くなったか〜?ww
空年を入れられなければ、宿主の主張とならない。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?

そしてその具体的説明を第三者が成程と思うよう説明しないと、精神異常者
等以外、誰も信じる奴はいない。
396太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/13(日) 19:42:12.29
西暦を入れられているから、軽く太国の主張となる。

成務即位元年 323年
同   没年 342年

おまけに勘注系図のときでも整合している。
397日本@名無史さん:2011/11/13(日) 19:48:47.22
(゜ー゜夏)
398唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/13(日) 20:22:15.05
ミ03061 ヒノカミをうむ  そのミナを ウホヒルギまた  アマテラス オヲンカミとぞ  たゝえます
ホ04143 ヲサナナの ウはヲヲヒなり ヒはヒノワ ルはヒのチタマ ギはキネぞ かれウヒルギの ミコトなり
ウオヒルキ=大日孁貴≠オオヒルメムチ
伊弉諾尊=吾身陽元=日子→男
伊弉冊尊=汝身之陰元=月子→女
399唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/13(日) 20:51:29.89
西暦を入れられているから、軽く主張となる。

成務 (262年~265年)

400日本@名無史さん:2011/11/13(日) 21:06:31.66
『私の邪馬壹国』Vo.〜の著者 大林賢栄君がこの掲示板を覗いてるぽいので
彼に一言もの申す。


おまぃから来い!
401日本@名無史さん:2011/11/13(日) 21:11:17.31
宮崎に九州全域から人が集まったとは考えにくいからね。
宮崎の古墳は、宮崎の豪族が作ったと考えるべきだろう。

九州最大級と言われる岩戸山古墳でも、九州全域、
あるいは西日本全域から人が集まったという形跡はない。
402メ(すぐおち):2011/11/13(日) 21:22:12.67
>九州全域、 あるいは西日本全域から人が集まったという形跡はない。

もう巻向で決まりかな?
京都の椿井大塚山古墳周辺なら分からんでもないが
403メ(すぐおち):2011/11/13(日) 21:24:26.80
関係ないんですが、最近ここ(2ちゃんねる)って人がまばらですよね...
2、3年ぐらい前ですか、もう少し賑わいがあったと思うんですが。
やっぱ、河童さんがスレ回してくれないのダメなのかな・・・
404日本@名無史さん:2011/11/13(日) 21:47:24.92
メ が来たから特に落ちた
405太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/13(日) 22:04:34.86
成務 (262年~265年)←デタラメだな。ww

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
406太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/13(日) 22:21:53.77
>>398
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とコチラを口撃していた男が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

なおアマテラスは女神であり、秀魔電はデタラメである。
407日本@名無史さん:2011/11/14(月) 11:21:32.27
>>392
タカミムスビは、大伴氏の祖先。
天皇家の外戚の祖先。

天皇家を徳川家に例えるのなら、
タカミムスビの子孫である大伴氏らは
水野家みたいなもんだ。

あるいは天皇家を足利家に例えるのなら
タカミムスビの子孫である大伴氏らは
上杉家みたいなもん。
408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 13:00:44.43
太国:西暦を入れられているから、軽く太国の主張となる。
>成務即位元年 323年 同 没年 342年

342−323=19≠成務治世61年割る3
つまりここに誤魔化しがあるから、【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】
に西暦を振れない。
というのが真相でしたチャンチャン。
409日本@名無史さん:2011/11/14(月) 13:30:53.55
>>388 ジョーカー?
>何のことは無い、奈良盆地には古墳を築くだけの地力は元からあったと見るしかなく
>後に各地に大型古墳が出現するのも別にそこで人口の急増があったとか
>各地からそこに労働力が送り込まれたわけじゃない。

たぶん畿内王権の自生説なんだろうが、今時そんなことを言っている考古学者が居るのだろうか。
ある見積もりによると箸中山古墳の築造には1日千人の人夫を使って十年近くの時間が必要だったという。
そのような大工事を奈良盆地在住の民だけで行えたとは・・・奈良盆地はよほど裕福で人口も多かったのか?
410日本@名無史さん:2011/11/14(月) 13:35:53.96
>>358:日本@名無史さん:2011/11/12(土) 23:49:46.68
>ちなみに『 縄文人 』というゴミクズレベル九州説がかつて「弥生末期の奈良盆地湖」と言うアホネタに固執したのは
>盆地の殆どが水の底なら古墳を築けるような「大きな(大人口を擁した)クニ」がありえたはずが無い…と言うことだからだw

それ(「弥生末期の奈良盆地湖」)面白そう。誰か紹介してくれないかなあ。
411弩壺割:2011/11/14(月) 14:18:23.82
○江戸時代における奈良盆地の石高
 @五条代官  7万石
 A郡山藩  15万石
 B久居藩   5万石
 C高取藩   2万5千石
 D松山藩   2万8千石
 合 計   32万3千石

○ちなみに
 @ 熊本藩 52万石
 A 鍋島藩 35万7千石+蓮池5万2千石+小城藩7万3千石+鹿島藩2万5千石
 B 久留米藩32万5千石
 C 薩摩藩 90万石
 その他、福岡やら豊前・・・

江戸時代の石高=古代とは言わないが、国の発展の可能性・人口の目安になるだろう。
412太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 14:38:35.07
つまり空年に誤魔化しがあるから、【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】
の充填年にて西暦を振れない。 というのが真相でしたチャンチャン。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
413太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 14:50:19.58
>342−323=19≠成務治世61年割る3  ←これで正解だね。

天皇の死亡とは死ぬ前にいつだか古代人でも分かりやしない。死は殺害、自殺等
以外突然にやって来る。成務は殺害されたんでもなく、自殺でもない。

だから末の没年は倍暦の3年分が死で途切れるのだから、中途半端な余りの年代
が生じるわけで、3年ピタリのその日に天皇が死ぬとは言えない。ピタリ死ぬ
のは滅多にない。つまり余り年は3年ピタリでないのが当たり前。それに次代の
仲哀は公認では倍暦行使の世ではない。当然先代と仲哀の代との接続で余りが
現出する、当然だな。

現に昭和64年の昭和天皇も大晦日に崩御にはなっていない。1/7である。
つまり昭和64年は1年分ないわけで、たった7日間でありピタリ1年ではない。

つまり割り切れないのが当たり前。

どうだ上表で顔色が青くなったか〜?ww

そろそろ空年というデタラメを、上表と睨めっこしてそのインチキをひっこめろ。
414日本@名無史さん:2011/11/14(月) 17:26:28.15
>>409
適当にググったのものだが

http://enjoy.pial.jp/~kokigi/kodaisi/himikotyou/himiko1.htm
>なお、大林組の試算に拠ると、箸墓の造営には延べ一七〇万人の工夫(一日千人で六年間かかる)が従事したとされる(NHK特集『巨大古墳の謎』)。

一日千人で6年だそうだが…
よしんば不足する労力を盆地の外から集めるとしても西は河内、東は伊勢尾張程度じゃないか?
それを土器に合わせて日本国中から労力集めたと言うのは現実味に欠けると思うが…

>今時そんなことを言っている考古学者が居るのだろうか。

と言うのは、むしろこちらが訊きたい。

そんな日本中から労力をかき集めるとなると後代の「租庸調」の庸のようなシステムが3世紀にできていた話になる。
そんなことを言っている考古学者が居るのか?

>奈良盆地はよほど裕福で人口も多かったのか?

と言うか余程、人口を西高東低(九州が最大)とか考えていないか?先に出ていた奈良の水田跡も弥生前期だぞ?
逆にそれぐらいの地力が畿内はじめ各地になければ中期かけて日本各地(上毛〜日向)に古墳群が形成される事も無かっただろうとは考えないのか?

九州と畿内だけで頭イッパイイッパイならもう少し視野を広げた方が良い。

415日本@名無史さん:2011/11/14(月) 17:31:42.46
巨大古墳は丘陵を整形したもの…て仮定は駄目かな?
416日本@名無史さん:2011/11/14(月) 17:57:26.12
>>415
そう言うタイプもある。

417日本@名無史さん:2011/11/14(月) 18:27:48.48
箸墓古墳(wiki)
 従来、構築年代が3世紀末から4世紀初頭であり卑弥呼が死亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるため
 その可能性は少ないといわれてきたが、最近年輪年代法や炭素年代測定法による年代推定を反映して古墳時代
 の開始年代を従来より早める説が有力となっており・・・・

最近年輪年代法→まやかしと判ったので最近は用いない。
炭素年代測定法→一般に炭素年代、特に土器に付着した煤で測定するとかなり古い値を出す事が多い。

よって、箸墓古墳は従来どおり構築年代は3世紀末から4世紀初頭である。
418唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 19:00:28.06
>最近年輪年代法→まやかしと判ったので最近は用いない。

一昔前の編年を使用している連中には受け入れがたい数字であった。
だから、彼らは現在も、考古学の数字を信じないが、

纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 崇神5,6年飢餓、餓死、逃散。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)
纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 前半の建物跡を土
盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭
纏向3類(後)
纏向4類(前)
纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標260年頃、261年景行崩御
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。274年神功渡海
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
419唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 19:14:53.29
考古学が、文献史学の主張する年代を切り捨て、約50年遡上する。
そこには、崇神5,6年=新羅192,3年から
崇神世の任那建国年を含む文献が存在する。

昔の文献史学の設定は、七支刀=369年で、現在半島占拠は否定されている。
半島占拠を肯定する七支刀=326年で、43年ほどの差となる。
つまり今の考古学は、七支刀=326年を支持する年代観である。
七支刀=326年であれば、新羅は倭に属す。
420唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 19:50:07.93
>342−323=19≠成務治世61年割る3  ←これで正解だね。
>だから末の没年は倍暦の3年分が死で途切れるのだから、中途半端な余りの年代
>が生じるわけで、3年ピタリのその日に天皇が死ぬとは言えない。

3年ピタリのその日であれば、60割る3=20年だろうな、成務はこの数字より
長生きである。長生きしたから治世が19年になったのか?
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建 地方の民が『成務60年』を記録したのであれば、地方の民でも太国倍年を使えなくては記録できない。その方法が存在するのか?
まあ、太国倍年を運営できないと見るのが正解か。

成務60年 成務天皇 崩御
421唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 19:56:03.81
成務天皇元年(辛未一三一)春正月甲申朔戊子。
仲哀天皇元年(壬申一九二)春正月庚寅朔庚子。

成務崩御から、仲哀即位の間に1年の空白がある。
1年の空白があるからー1年で19年になるのか?まあそんな数え方は存在しないだろうが。
422太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 19:59:52.65
>そこには、崇神5,6年=新羅192,3年から
>崇神世の任那建国年を含む文献が存在する。
半島文献には、崇神5,6年=新羅192,3年と出来ぬ120年差があり、
空年はなく↓崇神世の任那建国年を含む文献が存在しても等号は成立しない。
成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
423唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 20:19:42.35
>>422
成務年間の記録は、地方の民が記録したものか?
そうであれば、記録の仕方がなければならないが
>342−323=19≠成務治世61年割る3  ←これで正解だね。
表記できるのか?
出来なければ、正しいとする根拠を失う。
424太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 20:22:56.57
表記できるのか?
  ↓ 出来なければ、正しいとする根拠を失う。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?

そしてその具体的説明を第三者が成程と思うよう説明しないと、精神異常者
等以外、誰も信じる奴はいない。

425唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 20:52:00.60
>>424
太国は欠史八代の意味を知っているのか?
欠史八代に存在するのは、即位と崩御にわずかな記録だけだ
記録が沢山あれば、表記できるのか?
表記できるのであれば、成務治世六〇年間に西暦程度は振れなければおかしい。
>>422 の表に西暦を振ってみな。振れなければ、太国倍年は成立しない。

426唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/14(月) 21:42:49.02
欠史八代といえども、その歴史としての暦は残存している。
だから、そのこよみから実際の経年を推理する意味はある。それが下記だ。

西暦  年号元旦朔  増し(章)調整(日)  暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯 辛卯
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
90年  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前

暦とは”日”単位で表記できるものでなくてはならない。
427太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 22:19:46.64
宿主は欠史八代の意味を知っているのか?
欠史八代に存在すると言う、即位と崩御の間の多数の空年だけと言う。
空年が沢山あれば、表記できるのか?
表記できるのであれば、綏靖〜開化治世年間に600年程度は振れなければおかしい。
空年の表を出してに空年を振ってみな。振れなければ、宿主空年は成立しない。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
428太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 22:23:37.37
暦とは”日”単位で表記できるものでなくてよい。

編年とは編日ではな〜い。
強盗が銀行に押し入って狙うのは万札であ〜る。1円玉単位で数えるバカ
な強盗はいない。玉数えて何年かかるんだ〜?ppppppppp

429日本@名無史さん:2011/11/14(月) 22:30:40.34
>>428

>暦とは”日”単位で表記できるものでなくてよい。

あふぉ!!!!!
430太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 22:36:52.10
>西暦  年号元旦朔  増し(章)調整(日)  暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯 辛卯
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
90年  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前

オマエいわく〜暦とは”日”単位で表記できるものでなくてはならない。
上表は表記したことにならない。抽象的に出しただけで、その実、日数が
正解だという具体性が全然無い。そんな数字でなくて空年が何年から
何年であり、それは具体的にこういう根拠資料等があってそこから
何年何月何日(←オマエが日がどうのと日が暮れるのを言い出している)
はその干支、次の出来事の何年何月何日(←同上)は××の干支で
スムーズに干支の接続が「全部」出来えているという具体性がなくては、
誰も見向きもしない。上の表はごまかしの虚像のポーズだけ。wwwww
431太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 22:49:10.17
>>429
ここでの論の「暦」という意味は即皆が毎日使う暦のことではありません。

編年ですよ。ただそこに補助的には日も必要なことも少しはありますがね。
編年だから、そういう少しの場合を除いて、日数までの正確性は必ずしも
入れないで可です。
〜まぬけな強盗なら犯罪現場で全て1円玉まで数えるそうです。w

極端に言えば、神武が大陸のA皇帝の在位何年目だとかいう信用性
ある古文献があれば、その文だけで大勢は決まりですから。
432日本@名無史さん:2011/11/14(月) 22:52:54.81
>>431

>編年ですよ。

ますますあふぉーwwwwwww
433太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 22:59:07.13
ますますオマエがあふぉーか〜?wwwwwww
434deshabari :2011/11/14(月) 23:03:34.15
>>388 :日本@名無史さん:2011/11/13(日) 18:49:45.16
>古墳の出現と人口の急増に関係は見られず。
>ついでに鉄器の豊富さと人口の多寡にも関係は見られない。

貴殿は考古学で『古墳の出現と人口』の関係や『鉄器の豊富さと人口」の関係が分るとでも思っているのかな?
古墳はまだしも人口を(それもその変化を)かなりな程度正確に推定することが可能とでも思っているのかな?

弥生時代の人口の推定に用いられるのは住居跡や水田などの食糧生産施設跡の広さなどであろうが、そもそもそ
れらの遺跡が全て発見されて調査されていなければ『古墳の出現と人口』の関係や『鉄器の豊富さと人口」の関
係など調べようもないだろう。

そういう状況だから「古墳の出現と人口の急増に関係は見られず。 ついでに鉄器の豊富さと人口の多寡に
も関係は見られない。」と言っても意味がない。相関関係を見るためのデータが揃っていないのだから結論
は出せないのである。

貴殿にはそこのところが理解できないらしく、「関係は無い」と断定する愚を犯しているのである。
鉄器が食糧生産の増大に寄与したか否かを現在の考古学的資料から論じるにはデータが不足している。した
がってこれは常識的な見地から考察する他はない。

常識的に考えれば、石器より鉄器の方がはるかに優れている。木を削るにしても岩石を割るにしても土地を
掘削するにしてもはるかに機能的であり長もちもする。このような優位性がなければ石器時代から鉄器時代
に歴史が動くこともなかったであろう。
435太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/14(月) 23:16:10.45
推理では駄目だな。↓ これではポーズだけ。糞紙にでもしろ。

西暦  年号元旦朔  増し(章)調整(日)  暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯 辛卯
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
90年  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       ↓
261年 成務元年 ← ここを何故削る?bbbbbbbbbbb
265年 仲哀元年 ← ここを何故削る?ppppppppppp

肌身隠さず〜↑ ここまで書かなくちゃ〜wwwww
436日本@名無史さん:2011/11/14(月) 23:48:18.32
>>434 deshabariな縄文人

下らない抗弁だな。
要するに考古資料からの推察よりオレサマの常識が正しいとほざいているだけ。
「常識的見地」とは自分の常識。
「すなおに読んだら」と変わらないw

そりゃ石斧より鉄の斧が木を切るには有利だろうがその鉄もタダで入手できるわけじゃない。
加工する為には大量の木材がいる。使っているうちに磨耗欠けも生じるだろう。
ようはイニシャルコスト・ランニングコストの視点が全く無い。

そもそも農業林業に全て鉄器を配することができたのが?

「鉄器豊富だから先進地域、国力も大きかった」と念仏唱えているだけに過ぎない。
鉄器によってもたらされた大きな国力を説明できない。
当然ある筈の成果を見ることができない。

でも自説を成り立たせる為にはそのアドバンテージで無理やり引っ張るしかない。

幼稚極まりない。
ハンドルを変え言い方を変えてもその幼稚さは変わらない。
437日本@名無史さん:2011/11/14(月) 23:50:09.47
基礎となる教養がないからだろうな
43819歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/15(火) 10:21:17.69
太国さん、逃げないで下さいよw
庄内式土器と三角縁神獣鏡について合理的解釈ができないかぎり
九州説などありえませんし、ましてや九州王朝などと言うヲタ話は
誰も真に受けたりしませんよ。
439日本@名無史さん:2011/11/15(火) 10:33:29.31
>>438

論点整理してくれんかね?
何に噛み付いてるのかわからん。
440唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 10:41:47.56
>261年 成務元年 ← ここを何故削る?bbbbbbbbbbb
>265年 仲哀元年 ← ここを何故削る?ppppppppppp

266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
273年 泰始9年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。

278年には東夷9国全てが冊封体制に、くみこまれていなければならない。
であるならば、世継ぎが出来て、出来事の少ない成務の治世は短い。
~功元年は、七支刀から逆算しても得られなければならない。
275年~功元年、326年~功52年七支刀。倭に臣従する百済王家である。
臣従する百済王家、新羅は5世紀には存在しない。
允恭の新羅の医者に対する態度はそのことを物語る。
441唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 10:43:48.52
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日  己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日  乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日  辛亥 ☆景初暦と同じ
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日  癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 ★庚戌 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 ★戊午 ★は1ヶ月の狂い
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑=丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等
442太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 10:56:50.30
>>438
オマエさんも 逃げないで下さいよw
庄内式土器は必ずしも正確とは言えず三角縁神獣鏡について合理的解釈が
できており
畿内説などありえませんし、さらにだ九州王朝の存立の多数の年号の存在は
近いうちに学会で真に受けたりされますよ。
443太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 10:58:41.90
空年の表を出してに空年を振ってみな。振れなければ、宿主空年は成立しない.
その表には空年の具体的個所はない。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
444日本@名無史さん:2011/11/15(火) 10:59:41.22
庄内式といえば、九州から畿内に人が動いた
根拠の一つだっけか。
445日本@名無史さん:2011/11/15(火) 11:01:05.40
庄内九州発祥なんて言ってるの安本だけ
44619歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/15(火) 11:04:00.89
九州王朝というと白村江で敗れて滅んだという説ですよね。
その時期まで九州に王朝などあったわけないでしょうにw
古田武彦という人も自分の本売りたいがために自分に都合のいい個所のみ
ピックアップして、さも斬新な論を展開してるだけだと
理解するおつむもないんですか?いい加減目を覚ましてください太国さんw
447太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 11:05:32.57
古代人からの贈り物たる真の年代を測る天下の宝器〜〜これを
天津神算木(天津金木)という。天津神算木とは三輪山の山名たる三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

右辺(天津菅曾)に

1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

この崇神即位年は見かけの年代であり、真の年代ではない。
大祓祝詞に曰く 「天津菅曾を本打ち断ち末刈り切りて」

 右辺=113.097335=113.0973350 --------------------@

@の右辺の先頭三数と末尾三数は 113 350 だが (350:ジョーカー数)

 350−113=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

この 崇神即位元年=237年 以外の主張は真ではない。
448唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 11:06:12.82
>>443
欠史八代のより正確な記録の提出をしてください。

古代において、改元とは、暦の数字の書き換えである。
一章(一九年七潤)*n回の空白年の差し込みであれば、正しい日付の復元は出来るが、
太国倍年では、成務六〇年に西暦さえ振れない。
成務六〇年に西暦さえ振れない事実を隠ぺいするために矛先をかわす。
かわいそうに
449太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 11:06:58.77
19歳・・・君

昼メシ後、相手にしてやろう。妄想の畿内説をよ〜く考えとけ。
450日本@名無史さん:2011/11/15(火) 11:08:14.65
庄内式は西陣式も含めて、北部九州全域から出る。
畿内ではほんの一部からしか出ない。

基本的に北部九州様式で、その一部が畿内に入ったと考えるのが妥当。

説はいろいろあるだろうが、ググッて見るかぎりでは、だいたい定説っぽい

451日本@名無史さん:2011/11/15(火) 11:11:45.65
>>450
安本儲乙
そんな定説はない
45219歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/15(火) 11:13:57.61
んなわきゃないでしょw
庄内式は近畿発祥で全国に広まったにきまってますよ。

ほんと九州説の人は自分に都合のいいように解釈しすぎです。
つまり北九州は3世紀の時点で近畿のコントロール下にあったということです。
453日本@名無史さん:2011/11/15(火) 11:16:04.11
九州ウリナラ起源説(笑)
454日本@名無史さん:2011/11/15(火) 11:41:25.55
文化遺物を勢力範囲なんかと考えるのはとんでもない過ちですよ
455日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:32:22.94
自称19歳のカスを相手にしてやって、オマエら優しいな。
45619歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/15(火) 13:09:16.57
自称ではないんですがw
太国さんも結局逃げ出したようなので僕もそろそろ
学校に行きますね。では
457日本@名無史さん:2011/11/15(火) 13:39:26.75
>>454
だな
でもまあ考古学でも○○文化圏とかグレーなことやっちゃってるけど
○○王権とまで言っちゃうのはやはり電波級のトンデモだわ
458日本@名無史さん:2011/11/15(火) 13:43:42.55
銅鐸王国(笑)
459日本@名無史さん:2011/11/15(火) 14:07:52.77
>>436 アホのジョーカー
>そりゃ石斧より鉄の斧が木を切るには有利だろうがその鉄もタダで入手できるわけじゃない。
>加工する為には大量の木材がいる。使っているうちに磨耗欠けも生じるだろう。
>ようはイニシャルコスト・ランニングコストの視点が全く無い。

知ったかぶりのジョーカーのマヌケ論だね。
道具や機械などは何のために用いられるのか。例えば計算を行うための道具であるソロバンとコンピューター
を考えてみろ。ソロバンを作るためのイニシャルコストおよびメンテナンスなどのランニングコストとコンピュ
ータのそれらを比較したらソロバンの方が遥かに安い。だが、ソロバンの方がイニシャルコストやランニングコ
ストが安いからコンピューターではなくソロバンの方を使うという会社があるか?

イニシャルコストやランニングコストだけでなくその道具の機能性とそれによってもたらされる収益の大小も含
めた総合的判断が必要なのだ。このジョーカーとかいうアホは物事の全体像を把握することが出来ず、一面だけ
で判断してしまうという幼児なみの頭脳しか持っていないようだ。
460太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 14:08:45.66
庄内式は近畿発祥で全国に広まったにきまってますよだとしても、それで紀無いに
女王国があったことには全くならない。

な〜んだ。19君は逃走か〜。w
461日本@名無史さん:2011/11/15(火) 14:11:51.81
青銅器は1世代、鉄器は5世代もつ
雨の村雲の剣も鉄剣でなかったら、伝世し宝剣とならなかったろう
462太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 14:14:46.64
欠史八代のより正確な空年の提出をしてください。

古代において、空年とは、暦の拡張の書き換えのはず。
一章(一九年七潤)*n回の空白年の差し込みをしても、正しい日付の復元は出来
ないのが(1582年の約2週間の日付の断裂(ユリウス暦→グレゴリオ暦)存在の
如くで、宿主空年では、成務六〇年間に空年さえ振れない。
成務六〇年まで空年さえ振れない事実を隠ぺいするために矛先をかわす。
かわいそうに
463太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 14:16:44.88
空年の表を出してに空年を振ってみろ。振れなければ、宿主空年は成立しない.
その表には空年の具体的個所はない。
成務六〇年まで ↓ 空年さえ振れない事実を隠ぺいするために矛先をかわす。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
464太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 14:18:15.81
成務六〇年まで ↓ 空年さえ振れない事実を隠ぺいするために矛先をかわす.

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
465太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 14:26:05.73
>その時期まで九州に王朝などあったわけないでしょうにw

九州年号の多数の存在は、君の言い分より説得力がある。
466日本@名無史さん:2011/11/15(火) 14:31:42.67
>>437
>基礎となる教養がないからだろうな

なんだこのジョーカーの尻にくっついて「おまえの母ちゃんでべそ」と叫んでいる奴は。みっともない小僧だな。
467唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 16:03:06.96
>>464
社寺仏閣の全国拡散が~功渡海前である。という主張であるならば、
どのように仏教が倭国に流入したか?
騎馬民族説も否定された理由に、半島、諸外国の倭国流入は管理された形でしかない。
それが、布留1式期であるから、太国倍年では布留1式期が何時になるか?
468日本@名無史さん:2011/11/15(火) 16:55:27.30
>>459 知ったかぶりゴミクズレベル九州説

それで揚げ足取ったつもりか?低脳ゴミクズwww

そりゃコンピュータが十分普及した現代じゃあ算盤よりPCだろうし少なくとも電卓は使うだろうな。
が、じゃあある日突然PCが算盤に取って代わったか?と言う話だ馬鹿者が。

(うろ覚えだが…コンピュータの需要は最初レーダーでリアルタイムに敵の位置を計算すると言う軍事需要からだったか?
 無論最初は真空管がずらりと並んだかなり大掛かりなものだったと思うが、そんなものがいきなり普及したなんて事は無い)

結局その鉄器がもたらした成果のようなものを具体的に挙げることができない。
そもそも「九州は大国」と言うことを主張したいが為の手段が鉄器の量であってそれ自体が目的ではない筈だが
いつの間にか「鉄器の量」自体が目的に変わってしまっていると言う馬鹿馬鹿しさw

だから「考古学でそんなこと分かるものか!」とヒステリー起こす。
果たして何処まで役に立ったのか?
その集落・社会にどのような影響を及ぼしたのか?
を説明できない。
兎に角ゴミクズレベル九州説は鉄器がツールとして優れているのアホの一つ覚え。

まあ馬鹿だから思考停止で考えた事がなかったんだろうがw

もうグダグダとしたアホな抗弁はいいから
じゃあ鉄器の豊富な大国、ヤマトに古墳時代をもたらしたその勢力とやらは九州の何処の勢力か?
きちんと考古資料を持って説明してくれw




469日本@名無史さん:2011/11/15(火) 17:22:45.44
仏教公伝以前となると上座部仏教の台湾→沖縄からの流入にでも期待するしかないな
470唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 17:33:14.84
>上座部仏教の台湾→沖縄からの流入にでも期待するしかないな

最大のネックが、この方面の文字の導入は最後である。
まさか文字なしで仏教が伝わったとはできまい。
その意味でも古墳前期ではまづい。まだ文字は普及していない。
471日本@名無史さん:2011/11/15(火) 17:38:31.71
>>450
そんなものが定説になっているなんて聞いた事が無いがwww

庄内土器というのは要するに河内の「叩き」と吉備の「削り」が合わさったものだろうが
九州発祥と言うのならそれらの要素が九州内にあって九州の何処かで合わさった…という事なのか?それを証明する資料があるのか?

それとも吉備や河内からそれらが北部九州に入って(この時点で土器様式の西進はあった事になる)再び東に流れていったのか?
なんともわけの分からない話だw

てか安本先生以外にこんな事主張している学者っているのか?

まあ本当に九州発症…もとい発祥なら豊中の庄内を名に冠するのは不適当だろうなw
九州の何処になるんだ?
472deshabari :2011/11/15(火) 17:56:22.30
>>436 :日本@名無史さん
>下らない抗弁だな。

その評価は貴殿のレスにこそふさわしいと思いませんかな。私は貴殿の
>古墳の出現と人口の急増に関係は見られず。
>ついでに鉄器の豊富さと人口の多寡にも関係は見られない。
という論がいかに馬鹿げた非科学的なものであるかを指摘したのだが、それに対する反論は出来ないようだね。
だから、自分の愚かさを糊塗するために「下らぬ抗弁だ」と返す。オトコらしくない。

イニシャルコスト、ランニングコストとかお粗末な論についてはどなたかが指摘していたが、それに対して何を
勘違いしたのか「じゃあある日突然PCが算盤に取って代わったか?と言う話だ馬鹿者が。」とピント外れの応答
をしている。要点は「鉄器製造のイニシャルコストやランニングコストのマイナスがあっても鉄器の機能性とそ
の使用でもたらされる生産性アップという利益が石器より優れているという総合判断」であるから貴殿はその点
について論じなければ反論したことにはならないのである。

何かと言えば「鉄器と人口の関係を示す考古学的資料を示せ」みたいな不可能な要求をする。そんな分析ができ
るほどに考古学的資料が揃っているとでも思っているのかと疑いたくなる。

>そもそも農業林業に全て鉄器を配することができたのが?

なんでこんな愚問を発するのだろう。全てとは意味が曖昧であるが、石器は一切使わず鉄器だけ使うという意味
ならそうではなかろうと答えるほかはない。要所で鉄器を使い、石器で十分なところでは石器も使っただろう。
473日本@名無史さん:2011/11/15(火) 18:18:07.76
>>472 deshabariな縄文人

またも下らない抗弁だな。
 
>鉄器製造のイニシャルコストやランニングコストのマイナスがあっても鉄器の機能性とそ
>の使用でもたらされる生産性アップという利益が石器より優れているという総合判断

その判断の根拠を出せと言う話だ。

成果・結果を出せずその道具の機能性からの想像だけで国力が増大したと言うのが 科 学 的 なのか?

そもそも量の問題にしても畿内ヤマトよりは多いとしてもそれがどれくらいの量があって集落・社会にどれ程の影響を及ぼしたのか?
それを計るに考古資料に「成果・結果」を見る以外にどうやって計るんだ?

じゃあ俺が
「確かに北部九州の鉄器は畿内ヤマトより圧倒的に多かったがそれでも社会全体に影響を及ぼすには至りませんでした」
と言ったらどうやって否定するんだ?

虚心坦懐先入観無しに見れば鉄器の豊富さが国力につながったような事を示すものは無い。
(これは自分にしても気づいた最初は意外だったんだがw)
474唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 19:54:25.79
>>464
社寺伝承を正しいとするためには、成務60年までの暦を全国で使用できなくてはならない。
太国は、太国倍年が全国で使用できる暦として発表する必要がある。
しかるに太国は社寺伝承に西暦さえ振れていない。
西暦さえ振れない暦が全国で使用できる暦とするのは太国の責任である。
責任放棄の太国倍年では全国で使用できないと考えるのが正解である。
475太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 20:25:34.71
宿主空年を正しいとするためには、成務60年までの空年を全国に説明できなくてはならない。
宿主は、宿主空年が2ちゃんから全国で説明できる成務の代として発表する必要がある。
しかるに宿主は宿主空年に空白さえ振れていない。
空白さえ振れない年が成務で使用できる論とするのは宿主の責任である。
責任放棄の宿主空年では全国で使用できないと考えるのが正解である。
476太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 20:27:43.49
ホレッ ↓ 空年はどこだ? 責任放棄せず、具体的説明をつけて早く言え。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
477日本@名無史さん:2011/11/15(火) 20:29:43.04
ゴミクズレベル・ゴミクズレベルと連呼する奴は
ゴミクズ以下なわけだがw
478太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 20:31:02.40
空年の表を出してに空年を振ってみろ。振れなければ、宿主空年は成立しない.
その表には空年の具体的個所はない。責任放棄のままでは誰も認めない。
成務60年まで ↓ 空年さえ振れない事実を隠ぺいするために矛先をかわす。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
479唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 20:53:45.27
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 
240年 景行元年壬申朔 2章0日 ☆景初暦と同じ
262年 成務元年甲申朔 3章1日 
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔  
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑=丁丑

崇神5年=新羅192年であれば、崇神元年は188年より遡上しない。
240年 景行元年 田道間守の帰国年。 正始元年 東倭重譚納貢。
275年 ~功元年は、326年~功52年七支刀からの逆算である。
つまり、文献から得られる数字は、成務に4年しか振ることができない。
文献は太国の主張に優先する。

七支刀から、倭に臣従する百済王家、高句麗の南下と百済、新羅の属国化。
倭に臣従する百済王家は396年以後に設定できない。
太国倍年は、倭に臣従する百済王家を欠く。だから歴史と認識できない。

>責任放棄のままでは誰も認めない。
太国3倍成務のことね。
480唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 20:59:47.18
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)元年春正月丁丑朔戊寅。

218 垂仁天皇二年(壬辰前二八)二年春二月辛未朔己卯。
218 垂仁天皇三年(甲午前二七)三年春三月。
218 垂仁天皇四年(乙未前二六)四年秋九月丙戌朔戊申。
218 垂仁天皇五年(丙申前二五)五年冬十月己卯朔。
219 垂仁天皇七年(戊戌前二三)七年秋七月己巳朔乙亥。
220 垂仁天皇十五年(丙午前十五)十五年春二月乙卯朔甲子。
220 垂仁天皇十五年(丙午前十五)秋八月壬午朔。
221 ソヤトシサツキミコニシキ イリヒコの イムナヰソキネ
222 フソマフユ うむミコヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)廿三年秋九月丙寅朔丁卯。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)冬十月乙丑朔壬申。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)廿五年春二月丁巳朔甲子。
228 垂仁天皇二六年(丁巳前四)廿六年秋八月戊寅朔庚辰。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)廿七年秋八月癸酉朔己卯。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)是歳。興屯倉于來目邑。〈屯倉。此云彌夜氣。〉
230 垂仁天皇二八年(己未前二)廿八年冬十月丙寅朔庚午。
230 垂仁天皇二八年(己未前二)十一月丙申朔丁酉。
231 垂仁天皇三十年(辛酉一)卅年春正月己未朔甲子。
232 垂仁天皇三二年(己亥三)卅二年秋七月甲戌朔己卯。
233 垂仁天皇三四年(乙丑五)卅四年春三月乙丑朔丙寅。
234 垂仁天皇三五年(丙寅六)卅五年秋九月
235 垂仁天皇三七年(戊申八)卅七年春正月戊寅朔。
236 垂仁天皇三九年(庚午十)卅九年冬十月。
237 垂仁天皇八七年(戊午五八)八十七年春二月丁亥朔辛卯。
238 垂仁天皇八八年(己未五九)八十八年秋七月己酉朔戊午。
239 垂仁天皇九十年(辛酉六一)九十年春二月庚子朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)九十九年秋七月戊午朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)冬十二月癸卯朔壬子。
481唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 21:07:39.20
222 フソマフユ うむミコヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
であれば、239年には子づくり年齢に達しており子づくりは可能である。
482deshabari :2011/11/15(火) 22:22:23.86
>>473 :日本@名無史さん
>その判断の根拠を出せと言う話だ。
>虚心坦懐先入観無しに見れば鉄器の豊富さが国力につながったような事を示すものは無い。

常識的に考えれば分りそうなものであるが。貴殿には考古学的資料から判断できることと判断できないことの区別が
できないらしい。例えば鉄製の農具が出土すればその遺跡の時代に鉄製農具が使われていたということが判断できる。
大陸の王族にしか下賜されない品物が墓から出土すればその墓の主は大陸と交流を持っていたと判断できる。

ところが、鉄製の農具が出土してもそれで耕した田畑や収穫した作物の記録などが残っていなければその鉄製農具が
国力の増大にどれほど寄与したかなど判断できない。記録に代るような耕地面積などの考古学的データは揃っていない。
そういう状況で考古学的証拠を出せなどとはアホの言う事である。

そんなことより、実際に自分で鉄製の鍬と木製の鍬(石製の鍬などないだろうから)で草地を耕してみればどちらが楽で
効率的であるかすぐ分る。木製の鍬に鉄の刃先をつけただけで作業効率は十倍はよくなる。稲の穂を摘むにしても鉄の鎌
と石の鎌では大きな差がある。岩を取り除くのに鉄の鏨とげんのうがあれば運べる大きさに割ることができるが石器では
無理である。こんなことは私だけの常識ではない。近所に農家があれば話を聞いてみればいい。
483日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:23:41.56
無教養、低知能の人だ
484太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 22:26:06.27
>>479の編年は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作であ〜る。

大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 4πr**2=113.09733552923255658」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。これこそ真物である。
 崇神即位年≠188年
485日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:26:26.45
>>483
自己紹介などしなくてもいいよ。
486日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:27:54.78
>>483
その人は高卒の職人さんだよ
487日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:34:34.71
483はいかにもコドモという感じだね。
488唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/15(火) 22:40:41.99
>4πr**2=113.09733552923255658」46・・・

これほど正確な数字をはじき出しながら
成務60年=太国3倍年は成務治世19年。となる

489日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:47:08.49
>>482  deshabari縄文人
>その鉄製農具が国力の増大にどれほど寄与したかなど判断できない

じゃあ殆ど寄与した無かったと言う推測も可能だなw
鉄製農具の多寡を国力に結びつけること自体が不可能と言うことでオチw

先にも言ったが事だがそもそも北部九州の鉄器が豊富と言うのはあくまで畿内とかと比べての話
あくまで”相対的”な話。
じゃあその絶対量が著しくその地域を発展させるだけあったのかどうかをどうやって検証する?

それに「鉄製の鍬と木製の鍬」での比較云々の話はいつものパターン馬鹿の一つ覚えだが
(こうやって続けてレスしてるとどうしても持ちネタが出てくるなw)

それだとデメリットである筈のコストの問題が端折られてるぞ馬鹿者。
鉄を加工するにもコークスも無ければ相当に大量の木材を必要とするだろうな。

で、この話畿内ヤマトには古墳を造るのは無理と言うことからスタートしてるんだろうが
それを可能にせしめたのは何なんだ?w

…って、まあいつもの「九州邪馬台国東遷説」と言う与太話なんだろうがw










490日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:00:38.30
大型古墳で知られる宮崎も鉄の出土は少ない。
鉄を持っていないところほど大型古墳に執着する
なんて相関あるのかね?
491太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 23:05:59.37
>>480 インチキはけっこうww
>236 垂仁天皇三九年(庚午十)卅九年冬十月。
>237 垂仁天皇八七年(戊午五八)八十七年春二月丁亥朔辛卯。

垂仁39年〜垂仁87年の間にはちゃ〜んと社伝等がある。つまり空年はない。

垂仁45年 田村神社(滋賀県) 4/8 倭姫を祀る
垂仁54年 佐太神社(出雲国) 4/3 イザナギ イザナミ尊を合祀
垂仁60年 神皇紀 2月 出雲国罪囚五百人 徒党を組み 逮捕 死刑
垂仁60年 大成経 7/12 出雲国の神宝を検する
垂仁62年 大成経 河内国 池 開墾
垂仁65年 熊野本宮 この年 創建
垂仁81年 大成経 11月 五大夫 十市根命に 物部姓 大連
492太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 23:08:06.73
空年の表を出してに空年を振ってみろ。振れなければ、宿主空年は成立しない.
その表には空年の具体的個所はない。責任放棄のままでは誰も認めない。
成務60年まで ↓ 空年さえ振れない事実を隠ぺいするために矛先をかわす。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?←どうやらここも空年はないww
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
493日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:12:16.17
>>490
畿内以外に巨大古墳抱えるというと吉備があるから
それも言えないんじゃないか?
494日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:13:14.68
鉄は少ないが巨大勢力っぽいところはリサイクルでもしたんだろきっと
495日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:19:17.42
確か宮崎とかは古墳時代になっても鉄器の出土ってそう無かったと思うが
吉備とか山陽は大体減少で200m超級といえばあと上毛だが関東は伸びてるんじゃないかな?
それでも九州他の地域には及ばず
結局古墳の大小にも鉄は関係ないっぽい。
496日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:21:02.84
>>482

> そんなことより、実際に自分で鉄製の鍬と木製の鍬(石製の鍬などないだろうから)で草地を耕してみればどちらが楽で

それって「石鍬」なるものが有れば、鉄鍬に代り得ると言うことでもありますね?
さあググってみようかw
497太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/15(火) 23:23:58.41
>>480 インチキはけっこうww
宿主よ、オマエは完全にコチラに<論破>された。wwwww
垂仁の代にもインチキ空年など ↓ 無いんだから引っこめろ。

>236 垂仁天皇三九年(庚午十)卅九年冬十月。
>237 垂仁天皇八七年(戊午五八)八十七年春二月丁亥朔辛卯。

垂仁39年〜垂仁87年の間にはちゃ〜んと社伝等がある。つまり空年は無い。

垂仁45年 田村神社(滋賀県) 4/8 倭姫を祀る
垂仁54年 佐太神社(出雲国) 4/3 イザナギ イザナミ尊を合祀
垂仁60年 神皇紀 2月 出雲国罪囚五百人 徒党を組み 逮捕 死刑
垂仁60年 大成経 7/12 出雲国の神宝を検する
垂仁62年 大成経 河内国 池 開墾
垂仁65年 熊野本宮 (和歌山県) この年 創建
垂仁81年 大成経 11月 五大夫 十市根命に 物部姓 大連
498日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:25:54.52
考えてみりゃ石戈があれば石鍬もあるわなw
499日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:35:16.94
開墾でないかぎり、草地や荒地を耕すって事は無い。
一度つくられた田畑は、木製の鍬や鋤でも耕せる。
鉄器を多く必要としたのは、東へ東へと進出した開発領主たちであって、やがて東国武士を形成した。
500日本@名無史さん:2011/11/16(水) 00:23:59.66
鉄器がなくても大型古墳は築造できると見るか、
鉄器が潤沢に流通する5世紀以降に
大型古墳が築造されたと見るか。
501日本@名無史さん:2011/11/16(水) 00:26:53.96
つか箸墓なんかは木製鋤・鍬で増築されたんだよ 
502日本@名無史さん:2011/11/16(水) 00:39:01.32
Wiki 「鉄」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84
>農器具が鉄器で作られるようになると、農地の開拓が進んだ。
>中世日本では鉄は非常に貴重であり、鉄製の農機具は政府の持ちもので、朝借りて来て夕方には洗って返すことになっていた。
>私有地の耕作には鉄の農機具を使う事が出来なかったため、良い農地は政府の所有であった。すなわち、中世の日本の貴族は鉄の所有権を通して遠隔地にある荘園を管理した[22]。
>11世紀頃から鉄の生産量が増えると、鉄が安価に供給されるようになった。個人が鉄の農機具を持つ事が出来るようになると、新しい農地が開墾されるようになった。

中世でさえ鉄は政府が管理なら古代にどれだけ使えたんだろうか?
503日本@名無史さん:2011/11/16(水) 01:27:48.23
青銅というのは農民レベルでも作れる
銅鐸や剣といった形に鋳込む技術は別として
還元だけならるつぼに入れて煮るだけで硫黄がとんで純銅になる
でも鉄は反応が複雑だから専門の職人あるいは技術集団だけに作れた素材だろう
鉄が国家管理の物だったというのも頷ける
青銅→鉄 という発展はそのバックボーンの変化をも伴うと見た方が良い
504日本@名無史さん:2011/11/16(水) 02:42:21.65
東征は無いけどね。

505日本@名無史さん:2011/11/16(水) 04:40:18.64
鉄の農具は壊れにくいが、作るのも費用が掛かる。
一方、木製の農具は、鉄よりは壊れやすいが、
作るのは簡単だから、また、新しいのを作り、変えればよいだけ。

一方、作業効率は、どちらも人力で耕すのだから
さほど大差がない。

よって、鉄の農具も木製の農具も、生産性に差はない。
506日本@名無史さん:2011/11/16(水) 10:01:36.87
水田の場合一年に一回だからね 耕すのは
507日本@名無史さん:2011/11/16(水) 10:52:19.89
自分勝手な妄想ばっかだし、邪馬台国に手を出すのは
マニアばっかだな
508日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:03:35.18
>>505
>一方、木製の農具は、鉄よりは壊れやすいが、
>作るのは簡単だから、また、新しいのを作り、変えればよいだけ。

例えば鍬を木で作るとしたらどういう木で作るだろうか。スギやヒノキなどは木理が通直で縦に裂け易いので
加工は比較的容易である。しかし、材質が軟らかいので刃先はすぐに潰れ、鉄製のものに比べれば作業効率は
ひどく悪く、しかも半日の作業にも耐えられない。

そんな軽軟な木では役に立つ農具はできない。そこで樫などの硬い広葉樹を使うことになるだろう。ただし、
硬い木材の加工には石器では大変な労力を要するであろう。鉄の切削工具があればその製作は楽になる。

木製農具を使うにしても鉄製工具が存在するか否かで大きな違いが生じることは確実である。鉄器の有用性
を過小評価したい気持ちはわかるが、何も知らない貴方のような人が 「また、新しいのを作り、変えればよ
いだけ。」と勝ち誇ったように叫んでも「バカ丸出し」と軽蔑されるだけなのだが、わかるかな?

>一方、作業効率は、どちらも人力で耕すのだから
>さほど大差がない。

木製の鍬と鉄製の鍬を使った場合にどちらが作業効率がよいかは実際に試してみればわかる。木製では土に深く
入り難い。同じ耕作深度にしようとすれば木製の方がより力を必要とする。したがって疲労度が高くなる。しか
も木製だと刃先がすぐに潰れて使えなくなる。修理したり新しいものと取り替えなければならない。新しいもの
を作るのにも人手と時間を要する。これで作業効率に大差がないと言う貴方は思考能力なしと言える。
509ロベルト・拔女:2011/11/16(水) 11:08:05.34
>>507
そういうお前こそ何さまのつもりだ。この野郎
510日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:18:01.45
>>506
>水田の場合一年に一回だからね 耕すのは

何を言いたいのかよく分からないが、
食糧生産の増加にかかわるのは耕地の増加や灌漑施設の整備であろう。つまり、開墾作業である。その
開墾作業に鉄製農具や工具の存在が大きな影響を与えることは誰にでもわかる。
511日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:21:39.72
| ┏━━━┓   従軍慰安婦は反日朝日新聞の捏造でした。
| ┃借収安┃    デマだらけの報道に注意しよう
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512日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:28:37.67
プロの玄人は邪馬台国など馬鹿馬鹿しいのでノータッチ。
アマの素人オタほどこういう話題に首突っ込みたがるw

現段階での情報量では、推論部分が多くなりすぎるし
正確な答えなど絶対に出てこないのが賢い人間ならわかってるからね。
513ロベルト・拔女:2011/11/16(水) 11:48:21.26
>>512
悟り切ったふりしてるが、お前だって口出ししてるじゃないか。
しかも。
それが邪馬台国へのかかわり方の一つのパターンだってことに
とんと気づいてはいまい。

>プロの玄人、アマの素人オタ
日本語もろくに知らんのが、失笑ものもいいところだぜ。
514日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:58:32.16
卑弥呼は現在に生きる人間がタイムスリップしたんだよ。
荒川区の町工場(社名は伏せておく)の社長の次女
たまにバイトで鋳造やら旋盤加工を手伝っていたらしい。
ある日タイムスリップして過去の日本にたどり着いて卑弥呼と名乗った。
証拠がないのも自分がタイムスリップして歴史を変えたと言われないようにするためにあらゆる痕跡を消したため
今は過去から戻って結婚し家庭を持ってる。
唯一の失態は外国と交流したため外国に痕跡を残してしまったこと。
本人痛く嘆いていた。
ちなみに親父である社長はヘルニアが悪化して工場を畳むことを検討中らしい
515日本@名無史さん:2011/11/16(水) 12:01:50.36
どうでもいいが、第5回アマチュア邪馬台国大論争宇佐大会で
卑弥呼役やってる女がかわいすぎるw
516日本@名無史さん:2011/11/16(水) 12:06:19.29
ちなみに卑弥呼は若かりしころの天地真理似な
517日本@名無史さん:2011/11/16(水) 12:22:23.51
>>515
画像希望
518日本@名無史さん:2011/11/16(水) 13:37:13.75
519日本@名無史さん:2011/11/16(水) 17:53:03.12
>>503
>バックボーンの変化

荘園制度の下、貴族が製鉄の技術をもった職能集団を囲い込んでいたのが
その集団も自由に動くようになったとか?

まあ中世で>502のような状態なら流石に3世紀頃の古代なら鉄を入手するのは首長が一括だろうな。
生産効率を目に見えて上げるほどの数を労働者に貸与したとも思えない。

北部九州の古墳にも鉄製の鍬が副葬されていたりするから
やはり特別なアイテムだったんだろうw

どんな優れたツールでも数無ければ意味が無いわけで>502によるなら
鉄の威力が本当に発揮されだしたのは11世紀(平安時代)か?

しかし鉄って今日身近なだけに思い込みの部分って多いよなあwww
520日本@名無史さん:2011/11/16(水) 18:10:38.02
>>518
たぶん卑弥呼役やってるかわいい女の子たちは弥生人みたいな土人なんて
まったく興味ないんだろうなw
521唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/16(水) 18:12:39.98
4世紀の古墳には、大量の鉄器副葬、これを
鉄器のだぶつきととるか?
巷の鉄器不足ととるか?

いずれにせよ、鉄器は巨大古墳築造にかかせないアイテムの一つではある。
522deshabari :2011/11/16(水) 18:15:14.69
>>489 :日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:47:08.49
>>その鉄製農具が国力の増大にどれほど寄与したかなど判断できない
>じゃあ殆ど寄与した無かったと言う推測も可能だなw
>鉄製農具の多寡を国力に結びつけること自体が不可能と言うことでオチw

まるで自分の勝ちだと言わんばかりの口ぶりであるが、相変わらずトンチンカンなことを言うご仁だ。

鉄器の使用が国力(食糧生産力や武力)を増加させたか否かを考古学的資料(遺跡や出土物など)から判断するには
データが不足している。つまりそのような考察を行うのに考古学的資料を使うことができない。

仮に或る地域に西暦150年に鉄器が導入されたとしてみよう。その鉄器の使用が食糧生産力の増加に寄与したか否か
を見るためには150年以前の人口と耕地面積がそれ以後どのように変化したかというデータがなければならない。よ
り正確にはその間の自然災害や疫病などの有無や戦争の有無などのデータも必要である。鉄器がどのように使用され
たか又その使用量はどれほどであったかも必要なデータである。

そんなデータが有るのか?勿論無い。今後の調査でデータが揃う可能性も無い。そういう状況であるにもかかわらず
貴殿は
「虚心坦懐先入観無しに見れば鉄器の豊富さが国力につながったような事を示すものは無い。
(これは自分にしても気づいた最初は意外だったんだがw)」
と得意げに述べたりする。「鉄器の豊富さが国力につながったような事を示すものは無い」と書けば「鉄器の豊富さ
は国力につながらなかった」というニュアンスを持つ。正確にはそのような判断ができるほどには考古学的資料は整
備されていないということである。

鉄器の使用が国力の増大に寄与したか否かは常識で考えるほかはない。常識では
「じゃあ殆ど寄与した無かったと言う推測も可能だなw 」という貴殿の言い分は成立しない。常識では「殆ど寄与
しなかった」とは推測できない。歴史的にも「石器の使用は減り鉄器の使用は増加した 」のであるから鉄器の有用
性は明白である。また、

「鉄製農具の多寡を国力に結びつけること自体が不可能と言うことでオチw」も間違いである。判断に必要な考古
学的資料が揃っていないというだけのことである。

523唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/16(水) 18:35:09.97
大和における古墳発生とは、
210年 任那建国
216年 任那より朝貢
石塚古墳 鉄器の副葬は無い。
239年 ホケノ山古墳 鉄器副葬

任那より入手した鉄器使用の農業の生産性向上(剰余時間の増大)を古墳づくりに割り振る。
鉄器分与の謝礼として 古墳築造。
524唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/16(水) 18:53:38.91
210年 任那建国
216年 任那より朝貢。 この時大和が任那での鉄採掘製造権を入手したのであれば、
東瀬戸内(阿波方面)に任即派遣と輸入代行(天日矛系)。
274年 神功渡海 桜井茶臼山 鉄器副葬量の増大は、任那における鉄製造の増大
当然送り込まれる人足の増加。食料供給の増加は畿内の疲弊。
仁徳4年(316年)課役の停止。
神功49年(323年)半島占拠。これにより、馬韓の食料を任那に供給し、鉄を
受け取るだけの畿内。巨大古墳の築造。

まあ、いくつかのモデルができそうである。
525唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/16(水) 19:03:58.70
訂正
×任即派遣と輸入代行(天日矛系)。
○任那への人足派遣と輸入代行(天日矛系)。  
×食料供給の増加は畿内の疲弊。
○食料供給の増加は畿内人民の疲弊。
526日本@名無史さん:2011/11/16(水) 19:21:14.79
>>522 deshabariな縄文人
>「鉄製農具の多寡を国力に結びつけること自体が不可能と言うことでオチw」も間違いである。判断に必要な考古
>学的資料が揃っていないというだけのことである。

で、考古資料に判断材料を求めるのは不味いから
「オレサマ主観」で判断するとw

話にならない。

国力・国勢を計るにそこから出てきた集落や田畑の跡ではなくて
出てきた鉄器をもって計るなんてリアルで何処の学者がそんなことをやっている?

それがまかり通ったら現在出されている古代の人口推定なんか根本から覆るわアホがw

頭に血が上ってここで抗弁するに必死になっているだけだろうが
少し頭冷やして考えてみろ。




527日本@名無史さん:2011/11/16(水) 19:48:03.53
常識と言うのなら…

鉄器の量で人口を計る、あるいはそれをパラメータのようにして数字を是正する(鉄器の多いところは下駄を履かせるw)様なことを主張している奴はいない。

例えば北部九州より東海地域が人口が大きい推定に対して
「鉄器の出土をを加味しろ!」
と文句をつける馬鹿はいない。

そ れ が 常 識 。

結局このゴミクズレベル九州説が畿内ヤマトにその地力が無いから外部の勢力によってなされたと言うオレサマストーリーにもって行きたいが為のへ理屈与太話。

ゴミクズレベル九州説の常識=世間の非常識 wwwwwwwwwww

528太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/16(水) 19:51:24.47
ジョーカーは血迷ったか?
529日本@名無史さん:2011/11/16(水) 20:35:42.34
畿内詐欺説は、コミクズよりはるかに悪質だと思うが
530ローガン:2011/11/16(水) 21:08:09.11
>>522:deshabari

>>360:ローガン 11/12(土) 23:54
>>313:deshabari
>「近畿の弥生遺跡に王墓らしい(大勢力の長のものと思えるような)墓も出土品もない。須玖岡本、三雲、平原などに比べられるようなものはない。マキムクの遺跡を作った勢力が在地のものであったとは考え難いのではないか。」
を、「先の私の書き込みでは省略した部分が多かったので読者に十分伝わらなかったかもしれない。改めて書」いたものが、
>北部九州には大陸との直接交流があったと考えられる大きな勢力が紀元前1世紀頃から2世紀にかけて存在した
という証拠の遺跡がある。それに対して畿内にはそのようなものが無い。マキムクの遺跡の年代は未だ確定して
いないが、その遺跡は前方後円墳の規模や数からして小さなクニが作れるものではない。かなりの権力を有する大勢力が作ったものであろう。そのような大勢力が短い期間(1世紀や2世紀)で育つであろうか?

という事ね。では前レスの「須玖岡本、三雲、平原」が「紀元前1世紀頃から2世紀にかけて存在したという証拠の遺跡」という訳だ。
さて、平原王墓を2世紀とする根拠を教えて貰えますか? 』

には答えられないようですな。これに回答してしまうと確かに、都合の悪い事になりますよね。
つまり、貴方の設問自体が貴説と、相反するものなんですよ。 それが可笑しくて…つい尋ねたんですが。 これまでとしましょう。
勿論、返信不要です。
531日本@名無史さん:2011/11/16(水) 21:22:35.63
ローガンの話は無駄な部分が多いのと、
無茶な屁理屈を延々と続けるので、誰も読まない。
532唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/16(水) 21:24:32.05
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

歴年無主の証拠である。
ただ、2世紀末でも3世紀初めでも結果は一つ 卑弥呼の共立はこの倭奴國の出来事である。
晋書正始元年東倭重譚納具。 朝貢の翌年には邪馬臺國(大和)に倭王位授与の現実から見れば
共立女王にはほとんど何の権限もない。ただ倭奴國王位の継承まで。
533日本@名無史さん:2011/11/16(水) 22:13:06.76
開墾道具としての鉄は、武器と同じくらい重要。
それを多く必要としたのは、東へ東へと進む開墾の先端部分であり、先端は時代とともに東に移動したということ。
これは、朝廷による官営の開発だけではない。
官営の一円的な開拓は、奈良時代〜平安時代に関東辺部にまで達したが、
それ以前にも入植者はいた訳で、彼らはいかなる出自か不明だが、独自に鉄を入手できる氏族だったということ。
小規模だから、ぽつんぽつんとコロニー的な開拓が進んでいき、それぞれが国をなしていた。
そのあとを朝廷による官営の開拓が追い掛ける、と言うより官による接収と内地化が進行する。
それが、言うところの公地公民。
さて、邪馬台国ならびに初期の大和朝廷が鉄を独占していたとするならば、
登呂遺跡をはじめ近畿以東の開拓痕も関与したとせざるを得ない。
でも、さすがに邪馬台国が登呂遺跡を残したと言う人はいないだろう。
九州説を取る人ならなお更だ。
という事は、邪馬台国は異国にも聞こえた最大手の政府だったには違いないが、
後の奈良・平安の朝廷のような包括的な政権ではなかったということだ。
534唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/16(水) 22:26:02.28
>先端は時代とともに東に移動したということ。

景行による関東平定、その地に屯倉を設置する。この時代の屯倉とは、領地の領有を
認める代わりに兵役の義務を負う。
それが前方後円墳の地方拡散。地方に配置された屯倉領主は、周辺部の”まつろわぬ人々”を調略
領土化。
つまり大和朝廷が手を出さずとも、国内は平定されてゆく。
福島に古墳がある事実は、日本武尊が筑波程度までしか行かなくともその後徐々に領土が広がったことをあらわす。
535日本@名無史さん:2011/11/16(水) 22:53:04.53
【倭人在帯方東南大海之中依山㠀為國邑】

倭人は、帯方の東南大海の中にあり、山、樹木が茂った島に国や村をつくる。


【舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國】

倭は旧百余国、漢の時に朝見する者あり、今、通訳し通じる処は三十国。


【從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千餘里】

倭人の先導にて帯方郡より倭に至るには、海岸沿いを船で進み、
韓国を背にし 南し、東し、その倭の領域(北岸)の狗邪韓国に到着する。ここまで七千里余り。


【始度一海 千餘里至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀、方可四百餘里】

始めにひとたびの海を基準とし計ること、千里余りにて對海国に至る。その對海国の大官を卑狗といい、副官を卑奴母離という。


【土地山險 多森林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴】

對海国の土地は山険しく、森や林が多く、道は獣や鹿が通るような細道であり、千余りの民家が有る。
その地は田植えに適しておらず、海産物を食べて生活している。
人々は船に乗って、南や北の町まで食料を買い入れしに行ってる。
536deshabari :2011/11/16(水) 22:58:53.88
>>526, >>527 頭に血が上ってわけが分からなくなった畿内説者らしき人
>国力・国勢を計るにそこから出てきた集落や田畑の跡ではなくて
>出てきた鉄器をもって計るなんてリアルで何処の学者がそんなことをやっている?

そんな馬鹿なことは誰もやっていないだろう。私もやらない。
なお、ちょっと注意しておくが、ある集落の居住遺跡や田畑の跡が示すのはその集落の規模を示してくれるだけのものである。
その集落を含むより大きな単位としての国力については未発見の遺跡があるため具体的な数値(人口や食糧生産量など)として
はじき出すことはできない。

>鉄器の量で人口を計る、あるいはそれをパラメータのようにして数字を是正する(鉄器の多いところは下駄を履かせるw)様なことを主張している奴はいない。

当たり前だ。そんなことができるわけがない。なにをくだらないことを言っているのだろう。

>それがまかり通ったら現在出されている古代の人口推定なんか根本から覆るわアホがw
>例えば北部九州より東海地域が人口が大きい推定に対して

その推定というのは現在までに発見された遺跡の数と規模を基にはじき出されたものかな。未発見あるいは壊されてしまった遺跡も多数有る筈であるがそれは
どう処理しているのかな。私はこれまでに発表されている人口の推定値は再検討されるべきだと思っている。現在出されている人口推定値は大幅に変更される
可能性もある。
537日本@名無史さん:2011/11/16(水) 22:59:27.91
【又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴】

又、ひとたび南へ、瀚海いう名の海を渡ること、千里余りにて一大国に至る。
また….官を卑狗といい、副官を卑奴母離という。この島の面積は三百里/四方程である。
この島は竹藪や林が多く、約三千と決められた家があり、不揃いな田地や耕す畑があるが、食物がままならず、
また・・・人々は船に乗って、南や北の町まで食料を買い入れしに行ってる。


【又渡一海 千餘里至末盧國 有四千餘戸 M山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之】

又、ひとたびの海を渡ること、千里余りにて末盧國に至る。
四千余りの民家があり、人々は山沿い、海沿いの浜辺に住んでいる。
この地は草木が盛んに茂っており、前を行く人を見失ってしまう。
人々は魚やアワビを好んで捕り、水の深浅に関係無く、皆潜って漁をする。


【東南陸行五百里到伊都國 官曰爾支 副泄謨觚・柄渠觚 有千餘戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐 】

陸地を東南方向へ行くと五百里にて伊都国に到着する。ここの官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。
千余りの民家が有る。この地には代々王が居たが、皆、女王国に系統し属していた。
郡の使者が往来する時、常に滞在する所である。


【東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸】

東南方向に行くと奴国に至る。ここまでは百里。ここの官を兕馬觚といい、 副官を卑奴母離という。 二万余りの民家がある。


【東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有三千家】

東方向に行くと不彌国に至る。ここまでは百里。ここの官を多模といい、 副官を卑奴母離という。千余りの家が有る。
538筑紫の民:2011/11/16(水) 23:01:45.54
>>527
こいつは、「<「日本の歴史−王権誕生」寺沢 >
を基に書き込んでいるんだろ?
「日本の歴史−王権誕生」によれば、鉄は開墾には使用されても開墾され耕された農地には木製農機具で十分だから
鉄製の農機具が農業を飛躍的に進歩させたのではないと言っているみたい。

?→まてよ?開拓には鉄が必要であれば、ほぼ直接的に農業に鉄が必需品であったんらろう?
?→「鉄は国力とは関係ない」と言い張るための詭弁か?

この本はこのあと、無理やり邪馬台国が「奈良にできた〜」って言ってるもんな〜
何でも言うぜ畿内説

539日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:04:53.69
【南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸】

南方向に行くと投馬國に至る。船で二十日かかる。
官を彌彌といい、副官を彌彌那利という。五万余り程の民家がある。


【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸】

南方向に行くと邪馬壹国に至る。ここは女王の都とする所で、船で進むと十日、歩いて進み一か月かかる。
官位は伊支馬といい、次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。七万程余りの民家がある。


【自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳】

女王国より北にある(道なりにある)国については、その戸数・里数を記録し、要点だけを簡単に記す程度は出来たが、
これから記載される諸国については、遠く離れており、詳かにすることは出来なかった。


【次有斯馬國 次有巴百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國
次有鬼奴國 次有耶馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有鳥奴國 次有奴國 此女王境界所盡】

次に斯馬国あり 次に巴百支国あり 次に伊邪国あり 次に都支国あり 次に彌奴国あり 次に好古都国あり 次に不呼国あり
次に姐奴国あり 次に對蘇国あり 次に蘇奴国あり 次に有呼邑国あり 次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり 次に為吾国あり
次に鬼奴国あり 次に耶馬国あり 次に躬臣国あり 次に巴利国あり 次に支惟国あり 次に鳥奴国あり 次に奴国あり
ここが女王の領域が尽きる所である。
540日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:05:34.88
後世、平家追討の院宣なんてのが出る。
院宣は頼朝を初めとする源氏の諸家に出たのだが、動いたのは全国の武士層だ。
領土欲に長けた在地領主は、院宣を口実に平家方についている隣国の領主に戦を挑める。
朝廷方は一兵も出さずとも、書面一つで全国の武士を動かせたのだ。
屯倉領主についても、同じだという事でしょうか。
では何故、屯倉領主はそれまで、”まつろわぬ人々“を自ら征服しようとしなかったのでしょう?
関東においては、勝手に手を出しにくい状況、
例えば“まつろわぬ人々”が誰か朝廷外の勢力に保護されているとか想定できるのでしょうか。
院宣で動いた領主は、相手が平家の被官だから、今まで手が出せなかったという理由がある。
541日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:06:33.08
【其南有狗奴國 男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王】

その女王の領域の南に狗奴国があり、男子を王とし、その国の官位にある狗古智卑狗は女王に属していない。


【自郡至女王國萬二千餘里】

帯方郡より、女王国に至るまで万二千里余り
542日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:08:32.83
540は >534へのレスです
543日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:18:26.04
倭人伝はすべて中国語で書かれており、字数は、約2000字からなっているんですが、
日本語訳にしないと読みづらいので、以前にこの約2000字をすべて日本語訳にしたんですが、
とりあえず、旅行記事の部分だけ...。

あとの風俗記事、倭国記事、記録記事も〜今ここにあるんですが、
少し訂正するので後日てことで...。
544deshabari :2011/11/16(水) 23:21:58.83
>>538 :筑紫の民:2011/11/16(水) 23:01:45.54
>>527
>こいつは、「<「日本の歴史−王権誕生」寺沢 > を基に書き込んでいるんだろ?

私もそうではなかろうかと思っていた。ジョーカーという人物らしいが彼の書き込みの内容から推定すると
ほとんどが借り物の知識(恐らく「日本の歴史−王権誕生」寺沢 も主要なソースであろう)で書いている。
自分の頭で考えることが苦手な人物と思われる。

寺沢氏はそれなりの研究業績をあげてはいるのだろうが、しかし、
>鉄は開墾には使用されても開墾され耕された農地には木製農機具で十分だから
>鉄製の農機具が農業を飛躍的に進歩させたのではないと言っているみたい。
であれば、頭が悪い人だとしか思えない。貴殿が指摘するように食糧生産量の増大は既存の農地だけを耕す
ことでは難しい。農地が増えるということが重要なのである。つまり開墾が食糧増産の最大要因なのである。
545日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:32:22.53
なんか北部九州じゃ誰もが鉄製農具を自由に使用していたかのような話だが、どのくらいの人口
に対してどのくらいの数が出土してるんだよw
そもそも九州説じゃ倭人伝の戸数に空家が出るだろうがw
546筑紫の民:2011/11/16(水) 23:34:34.36
>>544
だね。
deshabari 、頑張ってね。「ホークスがついている。」なんちって
おやすみばい
547筑紫の民:2011/11/16(水) 23:37:58.57
>>545 と、その他畿内説連・・・無理すんなって、かえって馬鹿を披露しているばい。
寝た方がましばい。  お・や・す・み
548日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:43:53.60
ひとつ良いことを教えてやろう〜☆
九州説さんがびっくりすることが書かれていた〜!!


【計其道里 當在會稽東冶之東】

(女王国までの)道のりの里数を数えると會稽、東冶の東に位置する。

まあ、邪馬台国が北部九州なんてワケのワカランこと言ってたらアホーだねw
549日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:44:18.05
倭錦とか鏃の分布を見て、畿内説のままでいる奴の気がしれない。
550日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:46:12.62
あ、スマソ〜☆ 訂正だょん


【計其道里 當在會稽東冶之東】

(邪馬台国までの)道のりの里数を数えると會稽、東冶の東に位置する。
551日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:49:01.91
>548
お前
漢文読めないか
馬鹿かのどちらかだな。
552日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:50:04.85
太国のおっさん、
上記の「道のり」について反論をお願いします。
では、もうねる・・・・zzz  good night
553日本@名無史さん:2011/11/16(水) 23:53:09.46
>>551
太国のおっさんにでも泣きつけよwww あばょ
554日本@名無史さん:2011/11/17(木) 00:18:13.86
逃げたところからすれば
まんざら馬鹿でもなかったのか。
555日本@名無史さん:2011/11/17(木) 00:18:29.65
南西諸島? だったの倭の地って?
556日本@名無史さん:2011/11/17(木) 01:21:00.63

筑紫の民ってほんとアホっぽいなw
557日本@名無史さん:2011/11/17(木) 02:05:21.79
>>548
重度の知的障害かな?
558日本@名無史さん:2011/11/17(木) 10:56:18.43
倭人伝の解釈で邪馬台国の位置を割り出そうとか
それ昭和時代までのやり方だからw
もうそんなの古いよ
559日本@名無史さん:2011/11/17(木) 11:52:21.57
王権誕生を偶然図書館で見つけ借りてきました。
これ読めば九州説などありえないのが一目瞭然w
所詮アマチュアの素人が浅い知識で九州説唱えてるだけだと
改めて実感しました。プロとはレベルの差がありすぎる。
560筑紫の民:2011/11/17(木) 12:13:58.91
>>559
すごく「必死」に偶然だね。
畿内説という「嘘」を押し通すから内容の随所に無理が見られる。
これから逐次その「嘘」を暴いていくばい。

お昼休み中の筑紫の民より
561日本@名無史さん:2011/11/17(木) 12:40:59.79
詐欺の畿内説同士だけかと思ったら、詐欺本も引き合うんだなw
562太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 14:12:56.00
>會稽、東冶の東に位置する。
これは当時も今も極東といったら日本だから問題はない。向こうの文献での
東海王とかいうのもそういうことだな。
向こうから見て東の位置なわけであって、北九州の東に位置するとかではなかろう。
563ローガン:2011/11/17(木) 14:28:56.67
>>560:筑紫の民
>内容の随所に無理が見られる。これから逐次その「嘘」を暴いていくばい。

王権誕生批判。楽しみにしてますよ。
564:2011/11/17(木) 14:35:16.75
>>562
そこは帯方郡が基準となっており、

「邪馬台国までの距離」と、「會稽・東冶までの距離」が『同等』という意味で書かれてる。

つまり、

郡→→→→→→↓
        →→→→→→→→→→→邪馬台国

郡→→→→→→→→→→→→→→→→→→會稽・東冶

こういうことになる。
565太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 14:40:50.03
とにかく倭人伝は北九州までの説明から〜畿内だというなら、北九州と畿内の間
の説明が無いも同然だな。このことは卑弥呼の国が畿内でないことを遠回しに
物語る。畿内ならば山口県から以東〜畿内までの地理説明が数回あるに違いない。

つまり女王国は九州だね。
566:2011/11/17(木) 14:49:52.83
どこをみてるんだぃ〜上で書いたでしょう・・・

【其餘旁國遠絶 不可得詳】

諸国については、遠く離れており、詳かにすることは出来なかった。

【次有斯馬國 次有巴百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國
次有鬼奴國 次有耶馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有鳥奴國 次有奴國 此女王境界所盡】

次に斯馬国あり 次に巴百支国あり 次に伊邪国あり 次に都支国あり 次に彌奴国あり 次に好古都国あり 次に不呼国あり
次に姐奴国あり 次に對蘇国あり 次に蘇奴国あり 次に有呼邑国あり 次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり 次に為吾国あり
次に鬼奴国あり 次に耶馬国あり 次に躬臣国あり 次に巴利国あり 次に支惟国あり 次に鳥奴国あり 次に奴国あり

〜畿内までの説明がありますね。
567日本@名無史さん:2011/11/17(木) 14:50:44.26
魏使は伊都国までしか行ってないから問題ない
568:2011/11/17(木) 14:53:55.20
↓彼も大笑いダネ、みんな笑わせないでくれよww

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
569:2011/11/17(木) 14:54:47.54
>>567
君もねww

ちと用事オチ 後できます・・・
570日本@名無史さん:2011/11/17(木) 16:52:53.99
>>536 deshabariな縄文人

情け無い抗弁をひたすら続ける馬鹿、無様な奴だ。
自分が常識で、相手の非常識だとほざくなら
当然、世間はそのお前の言うところの常識的判断を行っている筈だがそんな事をしている奴は誰もいない。
哀れ「オレサマ常識」に誰もついてきてくれない。なんのことはない要はお前が非常識なだけだ。

>未発見の遺跡があるため
>現在出されている人口推定値は大幅に変更される可能性もある。

…と何とか反論した形にしたいのだろうが

いまだ未発見の遺跡と言うなら畿内だろうが九州だろうが日本国中何処でも同じ。
(現に先にも奈良で弥生前期の水田跡が見つかった)
ある特定地域に未発見の遺跡が多いと予測しうる根拠が無ければその特定の地域(例えば九州)だけ大きく伸ばされる道理も無い。
(北部九州が10倍されると予測可能なら他の地域も10倍)
全体の絶対数が変わっても地域間の比率は変わらない、どのような推測をすれば現在の地域間の比率を大きく変えられるのか?
鉄器が豊富だからその未発見の遺跡の数に関してもいわば「期待値」として下駄を履かせようなんてことを言っている馬鹿もいない。
「鉄器豊富だからおおきなくにだったんだい!」の馬鹿の一つ覚じゃあ非科学的、非論理的、幼稚極まりない。

まあ、まともな人間なら現在ある資料の中で鉄器が古代社会に及ぼした影響がどのようなものだったか?…と考える。
無論、将来その考えを大幅に修正せねばならない資料が出てくる可能性はあるが(帰納法の持つ宿命と言えばいいのかな?)
だからと言って好き勝手な予測・期待を元に理屈を組み立てていたらもはや学問の体を成さない。
「すなおに読んだら」と同じwwww
最初に「鉄器がこう言う影響を与えたんだ!こう言う役割を果たしたんだ!常識だ!」ありき というのはもはや科学でも学問でもない。
それは「オレサマ脳内ストーリー」に依拠する単なる「思い込み」
「オレサマ脳内ストーリ」に合わせて全てを都合よく解釈したご都合主義。

理論的なものの考え方ができない低脳集団がゴミクズレベル九州説。
571日本@名無史さん:2011/11/17(木) 16:54:05.30
>>559
>これ読めば九州説などありえないのが一目瞭然w

それは言いすぎ。

ここのゴミクズレベル九州説が妄想しほざいている巨大帝国九州王朝としての邪馬台国はともかく
ぶっちゃけ「偽僭説」のようなものなら考古資料は役に立たない。

一目瞭然と言うのなら何処かに盆地を流れる各河川沿いに大小の集落を示した図版が載せてあったと思うがそれを見れば
かつて「縄文人」とか言う知ったかぶりのゴミクズがほざいていた「盆地湖ネタ」がいかに馬鹿馬鹿しいかわかるだろうwww

過去のあの与太話を思い出しながら見たら笑えるぞ?wwwwwwwww

その本にしても別に畿内説にとって「不磨の大典」と言うわけでもないがw
土器や鏡という話だけじゃなくて、古代の農耕、米の生産に関しては他の学者の著書に比べて結構深く突っ込んでいて
そこが出色の部分といえるんじゃいかな?

まあ個人的には寺沢センセイの芸風と言うか
ところどころ形而上学とでもいうべきもの(?)に走りすぎてるんじゃね?と思わないでもないがwwwwwwww



572唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 18:06:13.38
@ 一昔前の編年 纒向は3世紀半ばから
 モモソ姫=247年卑弥呼・4世紀初めの箸墓。369年七支刀
A 考古学は50年遡上した 纒向は2世紀末から
 モモソ姫=247年卑弥呼=箸墓。369年七支刀
B 50年遡上した考古学に文献を合わせると 巻向遺跡は2世紀末から
 2世紀末モモソ姫・247年卑弥呼=箸墓。326年七支刀

@ は、七支刀から逆算した年代観。
A は、考古学が、文献史学を見捨てる。
B は、文献史学が考古学に合わせる。

@ で、正解を得たものはいない。
A で、モモソ姫=箸墓となるが、纒向遺跡の説明ができない。
B で、考古学と整合する文献を得る。

崇神5,6年=新羅192,3年=後漢193年。
239年 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守・伊支馬=イクメ=垂仁
神功元年≒273年日食・278年 咸寧4年3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
323年 神功49年 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, 水羊(癸未年)祭
326年 神功52年 東晉明帝太寧4年:丙戌
573太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 18:48:04.09
メどの
どこに畿内と書かれてるの??
574太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 18:51:08.85
崇神5,6年≠新羅192,3年=後漢193年。
伊支馬≠イキマ≠垂仁=イクメイリヒコイサチ
神功元年≠273年日食
575唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 18:54:32.80
太国は@だろ?
@の思考でBを否定しても、否定するための文献もない。
だから考古学に見捨てられたのだ。
576太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 18:57:29.86
崇神5,6年≠新羅192,3年

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 19:17:15.29
>>574 訂正
○ 伊支馬=イキマ≠垂仁=イクメイリヒコイサチ
578唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 19:18:01.18
>>576
その資料は太国が使用しているのだから太国が西暦を書き込む必要があるが
私は使用していないので関係ない。
なぜ関係ないのかは、
箸墓から10年程度で神功渡海がある。
神功渡海とは、冊封体制への参加、兵の派遣であり、神功49年の基礎となる。

太国も七支刀から逆算したのか?
その結果は?渡海失敗だろ?
579太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 19:20:24.00
インチキの成務4年間 ↓ 宿主空年はイカサマ

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
580太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 19:23:23.63
空年の表を出してに空年を振ってみな。振れなければ、宿主空年は成立しない。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
581唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 19:42:34.50
太国は”アラシ”の対象者。
582太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 20:16:29.64
オマエの回答を待ってるんだよ。

もう→ 数年間 ←もこれを聞いてるのさ。
オマエは出来ない。出来ないから宿主空年は虚像のデタラメである。
583メ(スポーツスポーツ):2011/11/17(木) 20:59:45.63
>>573
そのまえに「會稽、東冶の之東」てどこにあたるんだい?
ちゃんと↓の地図で確認して下さいな。
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/KangnidoMap.jpg

道のりの最終地点は畿内になり、記述には「畿内」とは無いが・・・
畿内だろうということがわかる。

あ、それと投稿してきた〜☆
ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=121&summary=on
584唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 21:37:33.74
>>582
その前に >>579 へ 太国倍年で西暦を振るのが先決だろ。
成務60年の3倍年は治世19年という立派な主張が存在するんだからできるんだろ。
585日本@名無史さん:2011/11/17(木) 21:40:21.91
>>583

ああ、このデフォルメされた畿内説詐欺推進用地図でしょ?
世界地図の空白に日本列島を回転させただけなんだよね。
同時期の別な地図は、日本列島の向きがまったく違うからね。
586唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 21:59:33.51
>畿内説は、記紀と整合性は避けられない問題と思います。 <
メ:邪馬台国問題はすでに決着済みです・・・

でどのように決着済みなのですか?

587メ(スポーツスポーツ):2011/11/17(木) 22:17:42.77
>>586
倭人伝には「以婢千人自侍」、「徑百餘歩」、「殉葬者奴婢百餘人」とあり
卑弥呼というのは、偉大な王であったことがうかがえる。

日本国家誕生というのは北部九州ではなく、古代奈良を中心として始まるんですが、
これらを総合して考えると九州ではかんがえられないのではなかろうか?
よって解決という言葉を口にしてもそう悪くは無いと思うがどうでしょうか。
588メ(スポーツスポーツ):2011/11/17(木) 22:23:02.27
>>585
それは、貴方が九州説という立場を取ってるから、そのような言葉が出るのであって
まずは、これを覆して言うべきと思います。

【計其道里 當在會稽東冶之東】

(邪馬台国までの)道のりの里数を数えると會稽、東冶の東に位置する。
589日本@名無史さん:2011/11/17(木) 22:31:42.56
>>588

計=「数えると」っておかしいでしょ?
数えたりできないから、ざっくりと位置を「はかる」わけでしょ。
詐欺はいい加減にしてください。
590太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 22:42:33.54
>>584
その前に >>580 へ 宿主空年で空年を示すのが先決だろ。
成務60年の最初の3年目は治世4〜60年分とだいう古代史論バレー・ボール
の犯則ホールディング主張が存在するんだからできるんだろ。ww

成務3年にえらく多大年数が接着しっぱなしだな。bububu・・・
591太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 22:47:52.95
まぁ精神病院ご歓迎→成務3年=成務4〜60年(←全国神社等縁起社記等)

すでに宿主空年は論破されている。
592唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 22:55:53.14
>すでに宿主空年は論破されている。

了解。よって終了。
593唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 22:59:31.98
@ 一昔前の編年 纒向は3世紀半ばから
 モモソ姫=247年卑弥呼・4世紀初めの箸墓。369年七支刀
A 考古学は50年遡上した 纒向は2世紀末から
 モモソ姫=247年卑弥呼=箸墓。369年七支刀
B 50年遡上した考古学に文献を合わせると 巻向遺跡は2世紀末から
 2世紀末モモソ姫・247年卑弥呼=箸墓。326年七支刀

@ は、七支刀から逆算した年代観。
A は、考古学が、文献史学を見捨てる。
B は、文献史学が考古学に合わせる。

@ で、正解を得たものはいない。
A で、モモソ姫=箸墓となるが、纒向遺跡の説明ができない。
B で、考古学と整合する文献を得る。

崇神5,6年=新羅192,3年=後漢193年。
239年 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守・伊支馬=イクメ=垂仁
神功元年≒273年日食・278年 咸寧4年3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
323年 神功49年 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, 水羊(癸未年)祭
326年 神功52年 東晉明帝太寧4年:丙戌

庄内式期に大和は北部九州に上陸。女王国の併呑。
布留1式期に大和は渡海(神功渡海)舶載△鏡。

594メ(スポーツスポーツ):2011/11/17(木) 23:00:58.70
>>589
ゲンコ虫じゃないが・・・
私がいつ何処でそげなバカなこと言ったん?
でなにをもって「計=数えると」って訳したんですか?
私はそんなことを言った覚えがなんですが・・・
595太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 23:02:24.90
崇神5,6年≠新羅192,3年=後漢193年。
伊支馬=イキマ≠垂仁=イクメイリヒコイサチノミコト
596日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:05:16.81
>>594

>私がいつ何処でそげなバカなこと言ったん?
本日22時23分:02秒27に言ってますね。ここでね>>588
597メ(スポーツスポーツ):2011/11/17(木) 23:09:27.29
>>596
それのどこに「計=数えると」なんちバカげた事がかいてあるんですか?
いい加減なことは言わないで頂きたい。
598太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/17(木) 23:09:57.70
神功元年≠273年日食・278年
599唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/17(木) 23:18:08.29
神功渡海は274年。
この数字は七支刀から逆算で49年半島占拠。
600日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:19:45.17
>>597

あのね、>>588を何度読んでも、↓は、君の自説にしか読めないわけ。

>【計其道里 當在會稽東冶之東】
>(邪馬台国までの)道のりの里数を数えると會稽、東冶の東に位置する。

この2行を覆して見ろ、って他人に挑発してるわけでしょ?

何度読んでも 「 数 え る と 」って主張してるよね、君?
601メ(スポーツスポーツ):2011/11/17(木) 23:24:33.66
>>600
「数えると」というのは「数」なんです。
「計」という字は「合計」のことで「計=数えると」なんて言った覚えがない。


その数えると・・・というのはここにかいてある

【自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳】

「數」というのは「数」といい ここでしょう。
602日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:29:46.04
総相 川端達夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
法相 平岡秀夫 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
財相 安住淳  人権擁護法案推進派  人権擁護法案→日本人は冤罪で刑務所行きの可能性大
文科相 中川正春 在日韓国人法的地位向上議員連盟
厚労相 小宮山洋子 帰化人。 在日韓国人法的地位向上議員連盟
国家戦略相 古川元久 パチンコ協会政治アドバイザー       
603日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:32:23.08
>>601

ええと、全くダメですね。里数を数えるんじゃないんです。
里数など全く数えられないから、位置をざっくりとはかっているわけです。
604メ(スポーツスポーツ):2011/11/17(木) 23:35:46.40
>>600
じゃ〜ぁ あんさんの言う日本語訳では、ソコってなんて書いてあるんだい?

ほれ、ほれ 今すぐにココで訳してみろ〜笑ってやるからw
みんなみてるぜ。

【計其道里 當在會稽東冶之東】
605日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:37:34.97
>>601

見苦しいから、もう止めろw
606日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:40:52.01
これはひどい
607日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:46:10.24
日本語もよくわからん奴が漢文を弄る。
確か、ちょいと前まで、似たような奴が一人いたなw
608メ(畿内説):2011/11/17(木) 23:54:49.55
なんだポチ
人に意見して逃走か?www
おれをお前等三流と一緒にすなってwwww

609日本@名無史さん:2011/11/18(金) 00:10:37.78
>>604

論点はそこじゃないよね。
何度読んでも、君は「 数 え る と 」って主張してるよね?
610日本@名無史さん:2011/11/18(金) 00:15:30.29
>>608

逃げまくってるのは君だ。

 「計其道里」がどうして「里数を数える」ことになるわけ?
里数が数えられないので、ざっくりと位置をはかってるんじゃないの?

「計」=「数を数える」じゃないでしょ?
これって、畿内説特有の、 詐  欺  だね、君!
611日本@名無史さん:2011/11/18(金) 00:22:17.83
畿内説関係なくその人の個人的な問題だから
昔から説に関係なく嫌われぬかれてる人だからね
612deshabari :2011/11/18(金) 00:37:16.44
570 :日本@名無史さん:2011/11/17(木) 16:52:53.99
>>536 deshabariな縄文人

>情け無い抗弁をひたすら続ける馬鹿、無様な奴だ。

大変お気の毒であるが、「情け無い抗弁をひたすら続ける馬鹿、無様な奴」は貴殿のことであると大方の読者が
思っているであろう。

>いまだ未発見の遺跡と言うなら畿内だろうが九州だろうが日本国中何処でも同じ。
未発見の遺跡があるということにおいては何処でも同じということは当然である。しかし遺跡の発見率が全ての地域で等しいとは言えない。

>ある特定地域に未発見の遺跡が多いと予測しうる根拠が無ければその特定の地域(例えば九州)だけ大きく伸ばされる道理も無い。
それは当然のことである。

>(北部九州が10倍されると予測可能なら他の地域も10倍)
>全体の絶対数が変わっても地域間の比率は変わらない、どのような推測をすれば現在の地域間の比率を大きく変えられるのか?
日本各地の事情が全て同じであればそうであるが、土地開発の状況や教育委員会など遺跡発掘調査に当たる機関の熱意や予算などで各
地域が全て同じとは考えられないので「北部九州が10倍されると予測可能なら他の地域も10倍」ということにはならないし、「全体の
絶対数が変わっても地域間の比率は変わらない」とは言えない。

613deshabari :2011/11/18(金) 00:39:13.20
612のつづき
>まあ、まともな人間なら現在ある資料の中で鉄器が古代社会に及ぼした影響がどのようなものだったか?…と考える。
>無論、将来その考えを大幅に修正せねばならない資料が出てくる可能性はあるが(帰納法の持つ宿命と言えばいいのかな?)
帰納法がどうのとかの問題ではない。
貴殿には理解できていないようだ。「現在ある資料の中で鉄器が古代社会に及ぼした影響がどのようなものだったか」を考察できるわけが
ないのである。もう一度>>522を読み返してみて頂きたい。現在の考古学資料にはそのような考察を可能にするデータは揃っていない。
また、今後の調査でそのようなデータが揃う可能性もない。

>だからと言って好き勝手な予測・期待を元に理屈を組み立てていたらもはや学問の体を成さない。
この言の内容は正しいが、貴殿の論は学問的と言えるだろうか?

>最初に「鉄器がこう言う影響を与えたんだ!こう言う役割を果たしたんだ!常識だ!」ありき というのはもはや科学でも学問でもない。
ウソを言ってはいけません。鉄器の影響を評価するには考古学的資料では全く役に立たないから常識で考察せざるを得ないというのが私の
言い分なのである。必要なデータを欠く考古学的資料から結論らしきことを言うことこそ科学でも学問でもないのである。
614日本@名無史さん:2011/11/18(金) 01:13:33.21
>>612-613 deshabariな縄文人

要するに

「鉄器のもたらした結果は考古資料で計ることは不可能オレサマの常識が正しい」

とほざいているだけ。
勿論そんな与太は世間じゃ通用しない。アホの戯言。

「目の前に鉄の斧と石の斧があってどっちが良く木が切れるでしょうか?」という幼稚極まりないお話。

入手するコスト、維持修理するコスト、そもそも絶対量として生産性収穫量を引き上げるだけの量があったのか…etcも無視。

「鉄は便利だ」のアホの一つ覚え。「そりゃあれば便利だろう」としか言いようの無い話w

普通の脳みそを持っていればむしろ鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない。
少なくともその影響は限定的と考えるだろうが

「東遷説」と言う妄想ストーリーに酔ってしまったアホにはそんな理屈は通用しない。

615日本@名無史さん:2011/11/18(金) 06:52:29.36
縄文人は無学 
せめて三国志通読してから書き込むべき
616唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/18(金) 11:10:45.70
崇神天皇 188年〜216年 2章−1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。209年 新羅本紀、伽耶に援軍=三国遺事541年で建国330年=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。
鉄輸入権・配布権掌握を主要因とする大和政権。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮(3世紀前半)の跡に日代宮(3世紀半ば)。
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。遠国をまとめる為「魏の屯田手法」導入。
247年? 景行12年 九州平定へ。
252年? 景行20年 五百野姫=壹與
255年 景行27年 日本武尊の九州
256年 景行40年 日本武尊の関東 倭国統一なる。
260年頃(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 
神功皇后 275年〜   

ホケノ山古墳(225〜250年)は任那建国後の古墳である
箸中山古墳(250〜275年)は、最初の大王(倭国統一)
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
すべての東夷が冊封体制に組み込まれる。←これが神功渡海。
617日本@名無史さん:2011/11/18(金) 11:14:17.85
しかし低学歴臭い書き込みばかり目立つなw
ちゃんとした大学で歴史学や考古学の勉強をして
修士号くらいとった人らでないのはすぐわかる。
ただの歴史好きの素人マニアって感じ。

学問板なんだし、せめて歴史の高校教諭か、埋文で考古学の学芸員か
社会人ならそのへんのセミプロレベルじゃなきゃ書き込むな。
もしくは歴史学か考古学専攻の学生か。
618太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 11:18:38.86
ホツマより厳しく真の年代を測る天下の宝器→天津神算木(天津金木)
崇神紀の三輪山の説話に秘められていた三輪(半径r=3の円)の球化
の 表面積=体積 数式を天津神算木というのだ。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はべき)

以下の○数字は数的にミワ(三輪)と読む。
大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

3≠113.97335=113.◎97B350

○数字の中に 97 での B.C.97年 崇神即位年(見かけの年代) がある。
真の年代はその左右の数列 113 350 との差から

 350−113=237年(真の年代)=崇神天皇即位元年=景初元年

を得るのだ。なお 350 の50は五十となり、崇神の名を示唆している。
そこで 350 をイスの数読みから イスズ暦数と読んでいる。
619唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/18(金) 11:59:41.51
>社会人ならそのへんのセミプロレベルじゃなきゃ書き込むな。

巻向遺跡を書記の記事と整合させられないのが現在の文献史学のレベル。
モモソ姫=卑弥呼と同時代とした場合、纒向遺跡はだれが最初の王か?
そして、箸墓以後は?
620日本@名無史さん:2011/11/18(金) 12:39:42.37
>>614
ジョーカーはどうしようもないアホだとわかる書き込みでやんすね。
deshabariが言っていることにはまともに反論できず、言ってもいない「オレサマの常識が正しい」をdeshabariの主要な
主張であるかのごときに装う卑怯なやり口がこの男の得意技でやんすな。

>「目の前に鉄の斧と石の斧があってどっちが良く木が切れるでしょうか?」という幼稚極まりないお話。
相手の論をこのように単純化、矮小化してねじ曲げる姑息さもジョーカーの特徴でやんすな。

>入手するコスト、維持修理するコスト、そもそも絶対量として生産性収穫量を引き上げるだけの量があったのか…etcも無視。
ジョーカーはそれらを無視せずに論じることができるんでやんすかね〜? deshabariは考古学的資料にはそれらを考察するため
にひつようなデータがないと言っているが、確かに誰が見てもそんなデータはないね〜。

>普通の脳みそを持っていればむしろ鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない。
>少なくともその影響は限定的と考えるだろうが
ジョーカーの脳味噌は低級だからこんなバカな(論理的でない)ことが言えるんじゃろね。
「鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない」と言えるデータが何処にあるんでやんしょ。考古学資料で論じる
ことはできないということは「鉄器導入前後の集落人口および耕地面積の変化を示すデータが無い」ことから明らかでやんしょ。

なにを根拠に「鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない」と言えるんかいな。ほんまにアホや。

621日本@名無史さん:2011/11/18(金) 14:52:40.84
>>620
>「鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない」と言えるデータが何処にあるんでやんしょ。考古学資料で論じる
>ことはできないということは「鉄器導入前後の集落人口および耕地面積の変化を示すデータが無い」ことから明らかでやんしょ。

鉄器のある九州より
鉄器の無い東海関東のほうが人口が多いわけだが?

自分の勉強不足を棚に上げて他人を攻撃してもバカにされるだけだよ?
622日本@名無史さん:2011/11/18(金) 14:57:46.62
>>621
>なにを根拠に「鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない」と言えるんかいな。ほんまにアホや。

[国力国勢]の定義にもよるな。
何をもって国力があると言えるのか?

弥生時代末の国力とは、なんですか?
たとえば、ある国の王がいて、近隣の国が貢いできたというなら、そのある国は国力があるといえるかもしれないが、
九州にそういう「他の国から貢物が届けられていた国」なんてのがあるのか?
聞いたこと無いなあ。


623日本@名無史さん:2011/11/18(金) 15:05:21.21
>>622>>621>>620のアンカーミスだ。すまん。

>>620

おそらくだけど、君の頭では「国力があるから鉄がある」と、「鉄があるから国力がある」という因果関係がごちゃごちゃになってると思う。
九州に鉄があるのは、朝鮮半島よ交易が出来たというだけで、地勢的に鉄を入手するのに有利だったという話でしかない。

で、鉄を入手した九州の国が、それを利用するなりして、九州で王となり、代々続く王朝を築けたか?
答えは「ノー」

鉄があっても、国力には結び付けられなかった。
国力を得るには、鉄があるだけじゃなくて、政治力も必要。九州の王は政治力が無かったということだよ。


624妄論バスター:2011/11/18(金) 15:10:14.04
>>620
ここのところのジョーカーとdeshabariの論争を読んだ感想を述べる。

deshabari はジョーカーの書き込みに対して間違いを具体的に指摘してその論が成立しないことを述べている。
それに対してジョーカーは有効な反論が出来ていない。

また、ジョーカーに特徴的な点は先入観に囚われて冷静な議論ができていないということである。例えば、
deshabari は東遷という言葉を一度も使っていないし東遷論も述べていないにもかかわらずジョーカーは相手を
東遷論者と決めつけて論を作っている。これでは議論にも論争にも成り得ない。単なる恨み言の吐露に終っている。
625日本@名無史さん:2011/11/18(金) 15:15:35.24
>>522

>鉄器の使用が国力(食糧生産力や武力)を増加させたか否かを考古学的資料(遺跡や出土物など)から判断するには
>データが不足している。つまりそのような考察を行うのに考古学的資料を使うことができない。

データが無いなんてことはない。

山陰〜東北の日本海側には、四隅突出墳丘墓という共通の首長墓が広がっている。

九州には、共通の首長墓が面的に広まったなんてことはない。
1代かぎりで生まれた王が墳丘墓をポツリポツリと作ってただけで、代々権力を引き継いでその土地を支配していたような、様子が無い。

九州には鉄器があったが、九州に王朝は生まれなかった。鉄器と国力は関係なかった。
この事実を直視すべきだね。


626620:2011/11/18(金) 15:20:02.23
>>621
>鉄器のある九州より
>鉄器の無い東海関東のほうが人口が多いわけだが?

それはいつの時代のことなのか?またそのように断言できる根拠は何か?
一方的に宣言されても困りますがな。わては鉄器の存在が与えた影響を定量的に示せるような考古学資料は無いと
言うておるんやで。あんさん 自分の主張の根拠となるもんを示しなされ。できるんか〜?
627日本@名無史さん:2011/11/18(金) 15:25:39.99
国力を計るひとつの物差しになるのは生活や戦闘に不必要な装飾品や埴輪等の出土品の多さ
生活に不必要なものの極である古墳の規模
628日本@名無史さん:2011/11/18(金) 15:32:21.35
>>626

自分で図書館にでも行って調べろよ。

なんで、おまえなんかに手取り足取り、いちから基礎知識を教えねばならんのだ?

629620:2011/11/18(金) 15:55:00.85
>>623
なにを勘違いしておじゃる。わては「鉄器導入前後の集落人口および耕地面積の変化を示すデータが無い」
と言うてるだけですがな。

>君の頭では「国力があるから鉄がある」と、「鉄があるから国力がある」という因果関係がごちゃごちゃになってると思う。
アホらし。バカな想像をしなさんな。

>で、鉄を入手した九州の国が、それを利用するなりして、九州で王となり、代々続く王朝を築けたか?
>答えは「ノー」
あのね〜 九州には1世紀半ばに光武帝から漢委奴国王印を授けられた王が居たんだよ。2世紀初には帥升と言う王の存在も
中国の史書に記録されているんだよ。「代々続く王朝を築けたか」て どれくらいの期間続けば「代々続く」とあんさんが
思っているか知らんけど、倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」の以男子爲王の王は帥升の可
能性が極めて高いが住七八十年となれば3代か4代は男王の時代が続いたと見ていいんじゃないけ。
「王朝」となると議論が複雑になるが、あんさんは何をもって王朝と言っとるんか?

>鉄があっても、国力には結び付けられなかった。
そんなこと どしたら判るちゅうとんねん!!

>国力を得るには、鉄があるだけじゃなくて、政治力も必要。九州の王は政治力が無かったということだよ。
政治力が必要なことは言わずもがなの常識よ。「九州の王は政治力が無かったということだよ。」って何時の時代のことなんだ?
630620:2011/11/18(金) 15:58:40.19
>>628
了解。あんさんには考古学的な議論は無理だちゅうことやね。
631日本@名無史さん:2011/11/18(金) 16:04:11.87

>>628
>了解。あんさんには考古学的な議論は無理だちゅうことやね。

そうやって、最後に用意しておいた勝利宣言を言い放って逃げるのは、よくある手法だな。


632太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 16:25:08.83
>成務天皇 262年〜265年 3章 
成務空年 ↓ は実存しない。成務5年以上が存在していたのだ。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子←ここは動かない ww
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
成務60年 成務天皇 崩御
633唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/18(金) 16:34:35.57
高麗本記云。小獸林王即位二年壬申。乃東晉咸安二年(372)孝武帝即位之年也。
前秦符堅遣使及僧順道。送佛像經文(時堅都關中。
百濟本記云。第十五(僧傳云十四誤)[杵-十+匕]流王即位甲申(384東晉孝武帝大元
九年)。胡僧摩羅難陀至自晉。
新羅本記第四云。第十九訥祗王時。(417〜)沙門墨胡子自高麗至一善郡。
金官伽耶 一云金銍王 元嘉二十八年即位452 明年爲世祖許黄玉王后 奉資冥福於初與世祖合御之地 創寺曰王后寺

日本への仏教伝来は、せいぜい伽耶と同じ程度の年代しか割り振れない。
634日本@名無史さん:2011/11/18(金) 16:46:39.93
まあ、年中半島へ兵を繰り出していた国家が、

  鉄器を持っていない   とか

  木器しかありません   とか

畿内国家の低レベル肉弾戦じゃむりだな。
635太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 17:06:55.09
成務時代の仏教伝来は在る。非公式佛伝である。

成務の代ではたとえ景行が熊襲征伐しようと、九州は
朝廷の全領土ではない。景行の征伐にて初めて九州に
朝廷の支配の拠点の始まりが出来えたということで
ある。そこで九州の情報が成務の代に畿内朝廷にもたらされ
たわけであり、当時朝廷支配の国でない国がうんと
有ったわけだから、九州の佛伝は畿内の仏伝とは別国のため畿内より
早いのが当たり前である。成務48年の情報が畿内へ行ったのだ。
つまり成務48年の仏伝は畿内とは別国の記録であって、
向こうの国と天皇の国とは同一視するのは脳内が○ンマ
だということだ。ww
おまけに 熊野年代記 には 孝霊13年 天竺から文字が渡来
とあり、畿内にその前後ころ、天竺の影響があったこと
は否定出来ない。
ただ〜朝廷の公式佛伝なら538年であるわけで、朝廷は538年
以前に佛伝を採用してないから、色即是空は朝廷各自
の脳内に存在せず、宿主空年は存在しない。
636唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/18(金) 17:53:19.10
>景行の征伐にて初めて九州に朝廷の支配の拠点の始まりが出来えたということで

景行の九州遠征は、観光旅行ではないのか?

晋書正始元年東倭重譚納具。訳を重ねてはじめて洛陽に到達する。
>天竺から文字が渡来とあり、
だれが、どう訳すんだ?
637唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/18(金) 17:59:45.39
> 熊野年代記 には

熊野といえば、漁業だろ。良くても壱岐、対馬と同等。
暦も知らない漁民が文字を使っていただと… 笑止!!

638唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/18(金) 18:15:54.61
>九州の佛伝は畿内の仏伝とは別国のため畿内より早いのが当たり前である。

この言でいえば、
伽耶の仏伝は倭国より早いのは当たり前で…笑止!!
639日本@名無史さん:2011/11/18(金) 18:30:12.47
>>624 
>相手を東遷論者と決めつけて論を作っている。

ああ、それな。 deshaburi縄文人が
「自分は一言も東遷説を言っていない」
と言うのも予想して敢えて言っている。

もうもってまわった言い方しても仕方ないだろううざったい。
同じような面子で(お前だって昨日今日ここに来た人間じゃあるまい?w)同じような内容で万年ループしているような話で・・・

deshaburi縄文人はヤマトは外部勢力が古墳時代を起こしたと言う言って
尚且つこうやって鉄器の豊富さに固執している

…となりゃ九州東遷説だよ、馬鹿馬鹿しい。

おためごかしもうんざりだ



640日本@名無史さん:2011/11/18(金) 18:39:42.40
>deshaburi縄文人 以下 ゴミクズレベル九州説・東遷説のアホドもへ

集落や田畑の跡に関しては将来的にどうなるか分からず
これをデータとして扱うことは不適当と言うのならばだ…

じゃあ 鉄器の出土 そのものはどうなんだ?

将来畿内から大量の鉄が出土するかもしれない。

現在の鉄器の出土量の地域間の比率が大きく違ってくるかもしれない。

集落や田畑の跡に関しては現行のデータをとらず
鉄器に関しては現行のデータをそのままとる
…というご都合主義か?例によってwwww

まあ都合の良い耳障りの良い考古資料はそのまま頂いて
都合の悪いものはなんだかんだいちもんほざいて自説を組み立てる。

ゴミクズレベル九州説の常套手段。
無論世間一般じゃあ与太の与太。2ちゃんねるやネットでしか見られないようなゴミ。

641日本@名無史さん:2011/11/18(金) 18:50:14.86
圧倒的な倭錦と鉄器は、九州だけ。
畿内の各地から大量に出て来やしない。

まあ、詐欺の畿内説、ゴッドハンドの畿内説なら、何でもでてくるがなw
642日本@名無史さん:2011/11/18(金) 19:07:06.94
東遷説の人って、どうして堂々と東遷説だって言わないんだろうね?

九州勢力が東に遷ってヤマト王権を作ったなら、それは東遷説だろうに。

なにか、東遷説だって言われるのが、恥ずかしいのか?子供じみてて。
643太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 19:08:22.05
伽耶の非公式仏伝が書かれているなら出してみな。
オマエのは公式仏伝だろ。非公式は順序の先後は逆でもおかしくはない。
644太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 19:10:17.36
熊野といえば、漁業だろじゃぁ、確定ではなかろう。
漁業だと分かるわけもあるまい。上人は僧だぞ、漁師ではない。
645太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 19:38:21.37
>>636
平成3年、佐賀県大和町の東山田一本遺跡から

 南インドの象形文字

が発見された。調査に来たインドの考古学者 ポンナムバラム・ラグパティ
博士が発見。

甕棺の側面び熊手状の文字が描かれてあった。これは紀元前3世紀ころまで
南インドの土器にあったのと同じ文字だというのだ。

佐賀県は清賀上人のあの寺あたりだからな。
646ローガン:2011/11/18(金) 19:44:31.09
まあ、>>522でdeshabari氏が云うのは
>鉄器の使用が国力の増大に寄与したか否かは常識で考えるほかはない。

常識で判断しようと言う事。又、

>歴史的にも「石器の使用は減り鉄器の使用は増加した 」のであるから鉄器の有用性は明白である。

これに沿って考えてみると…X期の石器減少とは「常識で考える」と鉄器の増加である。
大溝護岸に用いられた大量の矢板は鉄器で、はつったもの。「常識で考える」と纏向造営計画段階で既に、工具としての鉄器が常用されていた。
更に、直接福岡と奈良を比較する資料はないが、土壌の硫化物濃度等で、鉄の腐食の速度が違う事。つまり、仮に同じ個体数があったとしても、場所によって鉄製遺物残存に違いがある事は「常識で考え」れば当たり前の事。
更に、甕棺といった九州の弥生墓(甕棺)は、その他のものより遺物の残りが良い。他所より多く見つかって当然。
一方、甕棺などを用いなかった畿内。古墳という厚葬が始まると一気に鉄製遺物が増える。
これらを「常識で考える」と、残りやすい墓制になった為、見つかるというだけの事。
急に入手可能になった、それまではなかった。というのは、「常識で考える」とペケ。
647日本@名無史さん:2011/11/18(金) 19:57:39.96
>>642
多分「小出し」にして最終的に東遷説に漕ぎ着けようと言うセコイ算段なんだろうwwwwwwww

先ず畿内ヤマトの後進性国力の無さを認めさせる。
次に九州の先進性国力の大きさを認めさせる。
で両者を結びつけて東遷説の出来上がりとwww

もう最初から見え見えなのを分割しても結果は同じなんだから
もって回ったくどいやり方はうんざりだw

一括払いだろうと分割払いだろうとゴミはゴミ。
648日本@名無史さん:2011/11/18(金) 20:18:50.60
>>646 ローガン
>甕棺などを用いなかった畿内。古墳という厚葬が始まると一気に鉄製遺物が増える。
>これらを「常識で考える」と、残りやすい墓制になった為、見つかるというだけの事。

それはあんたの勝手な思い込み。
古墳以前は「使用利用が少なかった」ともとれるだろう。むしろこちらの可能性の方が
遥かに高いな常識的に・・・
649メ(スポーツスポーツ畿内説):2011/11/18(金) 20:28:01.17
>それはあんたの勝手な思い込み。
>古墳以前は「使用利用が少なかった」ともとれるだろう。むしろこちらの可能性の方が
>遥かに高いな常識的に・・・

ローガンさんに突っ込む前にやるべきことがあるだろうw
図書館にレッツ・ゴー だなw

650日本@名無史さん:2011/11/18(金) 20:35:08.03
またまた、ローガン流の詐欺理論が出てきたなw

>甕棺などを用いなかった畿内。古墳という厚葬が始まると一気に鉄製遺物が増える。
651唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/18(金) 20:40:18.91
ホ34130 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ 崇神58年8月
ミユキして ケヰヲヲカミに 気比大神は丹後の“鉄”持ち
もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに (ツノガアラシト)
たゝよえり

崇神世までの大和は、鉄を分けてもらう立場。
この直後に任那建国 新羅209年加羅に援軍。三国遺事541年時点で建国330年。
216年 任那より朝貢。3世紀初めの大型建物(珠城宮)
239年 ホケノ山 任那以後、垂仁末。茅原をスガワラと読めば、垂仁陵である。
652メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 20:41:15.41
>しかし低学歴臭い書き込みばかり目立つなw
>ちゃんとした大学で歴史学や考古学の勉強をして修士号くらいとった人らでないのはすぐわかる。
>ただの歴史好きの素人マニアって感じ。

ほら、言われてるぞ オール!w(おれもかw)

>学問板なんだし、せめて歴史の高校教諭か、埋文で考古学の学芸員か
>社会人ならそのへんのセミプロレベルじゃなきゃ書き込むな。
>もしくは歴史学か考古学専攻の学生か。

ん?そうか?みんなの書き込みをみると、
専門的にやってる人が多く、結構詳しいと思うぞ。

それと昔の邪馬台国論争ていうのは、
現在みたいにインターネット等が無いので情報量にかけてるように感じるし・・・
653メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 20:45:54.33
>>650
ん?そうなん?
私はローガンやジョーカーみたいに考古学を専門としてないが
彼の言ってることは、考古学系の本を読んでるとたまに目にすることばかりで
ただ、たんに君が本を読 んでないダケじゃなかろうか?
654日本@名無史さん:2011/11/18(金) 20:47:29.09
メ は原発の炉心に落ちればいいのに
655日本@名無史さん:2011/11/18(金) 20:56:25.04
>>653
それ詐欺本だよ、君騙されているよ。
656メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 20:58:05.69
鉄器に関しては、私が上で言ったように、
鉄は半島からとれるのでどうしてもまずは九州に入る。
そして持ち運ぶのに手間がかかり、貝製品にしても近畿にはあまり入ってきておらず、
「遠い」という問題が生じる。
あと、ローガンさんも言ったように鉄は腐り易いし、甕棺内と外とでは、かなりの差がある。
657日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:03:12.55
>>656
当時畿内には甕棺もなければ鉄も無かったということさ。
そんな田舎だったので邪馬台国もあるわけないのさ。
658メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:04:52.12
>>655
じゃあ〜君のいう考古学系の本でお薦めできるやつってなんなん?
ホレ、誰かさんは王権誕生がどうの言ってたが、
君の言う詐欺本じゃないやつ一つ例に出してみ。
659日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:10:55.01
>>656
>そして持ち運ぶのに手間がかかり・・・
その手間って何だ?重いんか?関税でもあるんか?
半島から九州まで船で来たんならそのまま船で運べばいいじゃん
660メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:11:47.43
>>657
おぬしは伊作だな?

まあ、よいが・・・
この日本列島の建国というのは、九州の北部ではなく、近畿の奈良で始まりましたよね?
661日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:14:10.87
>>656
>貝製品にしても近畿にはあまり入ってきておらず
畿内には鉄にしても宝物にしても手に入れられる権力をもった者はいなかった。
ということだね。
662メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:20:37.17
>>659
南の貝(ゴボウラ、イモ)で出来た腕輪は当時の人々に大変人気があったようで
奈良で見つかるのは、川西町の島の山古墳ぐらい。
あとは石製の腕輪ばかりというか、これは田舎だからとかの問題ではなく
これは、南の奄美大島から近畿では遠い為に入手困難だったといわれてる。

鉄製品にしても同じことが言えるのではなかろうか。
663メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:21:31.24
>>661
いや入手困難だっただけ。
664日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:22:24.12
奈良のマキムクってさ、古墳が先?建物が先?
古墳があったということは<墓守>がいたんだろ?

古墳って人里離れたところに築造してそこに墓守達が
集落をつくって墓を守っていた。

マキムクって<墓守達>の祭祀場だったのか?

で、その<墓守達>のハシハカをヤマト王権の
始まりだったと言ってるわけか?
665日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:23:26.71
>>663
なんで、入手困難だったの?
666日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:26:47.75
>>663
ね〜、何で入手困難だったの?
667deshabari :2011/11/18(金) 21:30:50.33
>>639
>deshaburi縄文人はヤマトは外部勢力が古墳時代を起こしたと言う言って
>尚且つこうやって鉄器の豊富さに固執している

私の過去レスを見てもらえばわかるが、上記は大きな勘違いである。
私は九州には須玖岡本、三雲、平原など紀元前1世紀〜紀元2世紀の王墓遺跡が存在するのに対し、畿内の弥生遺跡には
王墓らしいものは見られず、出土品も石器や木器など縄文時代からさほど進化していないような貧しいものしかないこと
から在地の人々が1世紀や2世紀の短期間で箸墓などの大古墳を築けるような大勢力に育ったとは考え難いと述べたので
ある。

九州の王墓遺跡の話を出したので九州勢力の東遷論だと短絡して解釈したのだろうが、私は九州勢力の東遷とは一言も書
いてはいない。九州の王墓遺跡に言及したのは畿内の弥生時代が文化、文明的にいかに後れていたかを示すためである。
また、鉄器の件であるが、私は九州の鉄器出土の豊富さに固執したことなど一度もない。「鉄器と国力は関係ない」論
の根拠がないことを現在の考古学資料の状況から述べただけである。

要するに、貴殿のレスは先入観による思い込みの産物である。
668メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:31:10.31
>>664
>奈良のマキムクってさ、古墳が先?建物が先?

建物って何の「建物」を指してるのか不明。

>古墳があったということは<墓守>がいたんだろ?

あ〜これについては、わからんな〜ローガンさんコメント宜しく!

>マキムクって<墓守達>の祭祀場だったのか?

ただ、竪穴式住居が発見されとらんだけだろうw

>で、その<墓守達>のハシハカをヤマト王権の始まりだったと言ってるわけか?

初期ヤマト王権だよ。
ヤマトていうのはご存じと思うが天皇家を中心とした古代王権で
その始まりに関しては日本書紀にのってるだろうよ。

>>665
遠いからだよ。
669メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:39:58.18
九州説は、deshabariさんと伊作で
畿内説は、私とローガン、ジョーカー

九州内で都市といえる所って須玖岡本ぐらいじゃなかったけ?W
ありゃ前環境がはいってるので紀元前、あるいは、遅く見積もっても後漢初期の時期だっていわれてるんでしたっけWW
670日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:41:31.59
>>668 「遠いからだよ。」
田舎だったということを認めたね。
そして、遠い(田舎だった)ことにより鉄が手に入らず発展できなかったと認めたね。

マキムクについて
マキムクの祭祀場といわれる建物は古墳とどっちが先だったんかね?
古墳が先であればそれは<墓守>達の祭祀場じゃなかったのか?
<墓守>と<王>とじゃそれこそ天と地の差があるぞ。
671メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:41:38.58
失礼〜【訂正】

前環境・・・×

前漢鏡・・・○
672日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:44:12.83
詐欺の畿内説

・九州の甕棺に入れると鉄器は残るが銅鐸はみな溶ける
・畿内では鉄器がみな溶けてしまうが古墳の中には残る

これが、ローガンとメの唱える、詐欺の畿内説だ。
673日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:45:15.60
マキムクの「箸墓古墳」と「祭祀場跡らしきもの」を一緒にしたら拙いんでないかい?
<墓守達の祭祀>を<ヤマト王権の始まり>と言ってるんだぜ?
674日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:51:07.13
>>656
>そして持ち運ぶのに手間がかかり・・・
その手間って何だ?重いんか?関税でもあるんか?
半島から九州まで船で来たんならそのまま船で運べばいいじゃん

「メ」これにも答えてね。
675メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 21:51:17.04
>>670
>田舎だったということを認めたね。
>そして、遠い(田舎だった)ことにより鉄が手に入らず発展できなかったと認めたね。

馬鹿だな〜おぬし。
近代では長崎港が外国との玄関口だったんだが、オランダ人が良い品物を持ってきたからと言って
首都が長崎だったわけじゃないだろうW

黒船がやってきて開国を要求されたとき徳川幕府は、はじめ拒んだのだが、
圧力をかけられてとうとう開国してしまったんだが、これに反抗したのは薩摩藩で〜WW

>マキムクの祭祀場といわれる建物は古墳とどっちが先だったんかね?
>古墳が先であればそれは<墓守>達の祭祀場じゃなかったのか?
><墓守>と<王>とじゃそれこそ天と地の差があるぞ。

今、それを調べてるんじゃないのかね?
676日本@名無史さん:2011/11/18(金) 21:56:36.57
>>675
引き合いに出すものを間違ってるな、なんだか<ド・ツ・ボ>だね。
君おもしろいね。

>そして持ち運ぶのに手間がかかり・・・
その手間って何だ?重いんか?関税でもあるんか?
半島から九州まで船で来たんならそのまま船で運べばいいじゃん

これにも答えてね。
677deshabari :2011/11/18(金) 21:57:43.87
>>640
貴殿のレスは勘違いによるものである。667を参照されたし。
678日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:00:54.37
「メ」もう寒気がして寝たの?淋しいね。
また明日ね・・・「筑紫の民」より。
679メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 22:06:32.08
>>672
私の考古学系の本でお薦めなのがコレで

【日本の考古学―ドイツで開催された「曙光の時代」】
http://www.bk1.jp/product/02539927

鉄器は腐り易いらしいょ

>>673
おめー質問ばかりだなw イノシシみたいだwwww

>>674
>その手間って何だ?重いんか?関税でもあるんか?
>半島から九州まで船で来たんならそのまま船で運べばいいじゃん

南の貝製品と一緒で「とおぃ」ぁら手間がかかる言うてるんですよw
まったく〜人の話聞いてますぅ?
680日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:09:40.11
>>667
>九州の王墓遺跡の話を出したので九州勢力の東遷論だと短絡して解釈したのだろうが、私は九州勢力の東遷とは一言も書
>いてはいない。九州の王墓遺跡に言及したのは畿内の弥生時代が文化、文明的にいかに後れていたかを示すためである。

詐欺師みたいな言い方はやめてさ、東遷説じゃないなら、東遷説じゃないっていいなよ。

そして、東遷説じゃないなら、九州の邪馬台国はその後、勝手に滅んだってことでいいんだよな?

681日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:09:45.64
>>677 deshabariな縄文人

散々鉄の話で下らない抗弁を繰り返してきて
どうにもこうにもならなくなったらチャラにしようと言うのか?

本当下らない奴だな。

まあどの道同じだ。

>出土品も石器や木器など縄文時代からさほど進化していないような貧しいものしかない

とお前が見ても結局、国力=人口 に差は無い。

それが現実だ。出直して来い馬鹿者。

あ、今度はハンドルなんと変えるのかな?www
682筑紫の民:2011/11/18(金) 22:10:21.61
>>679
鉄をさ半島から九州まで船で来たんならそのまま船で<畿内まで>運べばいいじゃん。
なんで、そうしなかったの?って言ってるんだよ〜
まったく〜人の話聞いてますぅ?
683deshabari :2011/11/18(金) 22:12:47.89
>>646:ローガン
>土壌の硫化物濃度等で、鉄の腐食の速度が違う事。つまり、仮に同じ個体数があったとしても、場所によって鉄製遺物残存に違いがある事は「常識で考え」れば当たり前の事。

硫化物濃度等とは具体的に何を指すのですかな。鉄の腐食と言えば酸化であるが、これは酸化鉄に変化することであるから容積と重量は増加こそすれ消えてなくなるものではない。
鉄器が腐食して酸化物の塊になっていても存在すれば分かる。つまり発見されないことはない。
684日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:25:25.47
畿内詐欺説

畿内が先進的だった遺物は溶けて消えました。
九州には甕棺があったために残りました。
畿内の方が先進的で国力も旺盛だった証拠は
溶けて消えてしまっただけです。

→何でもかんでも捏造するなよ、ゴッドハンド詐欺畿内説!
685メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 22:29:17.96
鉄は錆びるんですよww
686日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:35:04.69
詐欺の畿内説

九州の倭錦は甕棺があるために残るけれど、
畿内で大量に生産された倭錦は、甕棺がないからほとんど溶けました。

何でも言うな、ゴッドハンド詐欺の畿内説!
687deshabari :2011/11/18(金) 22:36:20.25
>>681
>散々鉄の話で下らない抗弁を繰り返してきて
>どうにもこうにもならなくなったらチャラにしようと言うのか?

私のレスをどう読めば貴殿の言うようなことになるのかね。
貴殿は考古学に疎いだけでなく議論の仕方も知らないようだ。

議論というものは相手の発言を正確に受け止めることから始まる。相手が言っていないことを言っているかのごとく
錯覚したのでは議論にならない。

それから、貴殿のレスには間違いが多い。自分のレスを読み返してみることをお勧めする。

も一つ
>>出土品も石器や木器など縄文時代からさほど進化していないような貧しいものしかない
>とお前が見ても結局、国力=人口 に差は無い。
「国力=人口 に差は無い。」とは曖昧な表現だ。どことどこの国力に差がないと言うのだ?
文章というものは正確で分かり易く書くことが重要だ。
688日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:39:43.17
酸化して錆びても赤錆の固まりは残りますからねえ。
九州だって、大部分は赤錆ですがね。

強力な酸で溶かされれば、確かに消えてなくなりますが、
そんな条件は考えにくいでしょ。
689deshabari :2011/11/18(金) 22:47:07.30
>>685
>鉄は錆びるんですよww

そう。鉄錆は酸化鉄(化学記号で表すとFeO,Fe2O3,Fe(OH)3など)であるが、これらは消えてなくなるもの
ではない。土中から出土する鉄刀などは錆のため何倍もの容積を持つ塊となっていることが多い。
690日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:52:46.44
詐欺の畿内説だと、何でも溶けて消えるそうだ。
金印も鉄鏃も倭錦も、畿内でだけは消えるんだそうだ。
691日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:54:13.31
畿内詐欺説では、
畿内では三種の神器も当然、すぐに溶けて消えるんだそうだ。
九州では残るけどな。
692日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:54:37.65
>>687 deshabariな縄文人

下らないことを言うな馬鹿者が。
お前こそ自分のほざいていたことを読み返せ

>鉄器の使用が国力の増大に寄与したか否かは常識で考えるほかはない。
としてそのオレサマ常識的の結論として
>鉄器の有用性は明白である。

と国力の差を生むものとして散々鉄器の豊富さに固執してきたんだろうが阿呆。


で、結局ヤマトには古墳時代を拓く力は無かったとしてじゃあそれを可能にせしめたのはどういう力なんだ?



693日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:58:18.02
>>687

質問から逃げたな?>deshabari

680 :日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:09:40.11
>>667
>九州の王墓遺跡の話を出したので九州勢力の東遷論だと短絡して解釈したのだろうが、私は九州勢力の東遷とは一言も書
>いてはいない。九州の王墓遺跡に言及したのは畿内の弥生時代が文化、文明的にいかに後れていたかを示すためである。

詐欺師みたいな言い方はやめてさ、東遷説じゃないなら、東遷説じゃないっていいなよ。

そして、東遷説じゃないなら、九州の邪馬台国はその後、勝手に滅んだってことでいいんだよな?


694メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 22:58:33.46
「鉄」に関しては、弥生後期以後、九州に多くの出土例があるように圧倒されてるのが現状。

しかし、九州の主要古墳って須玖岡本、三雲、いわら、平原の4大遺跡だろうが、
須玖岡本・三雲については「紀元前(下限が一世紀初め)」で、その次のいわらが一世紀中頃(下限が後半)で
平原がその次っていわれてたと思う。

九州は王墓がないんですよ。
695deshabari :2011/11/18(金) 23:06:57.61
>>692
>>鉄器の有用性は明白である。
>と国力の差を生むものとして散々鉄器の豊富さに固執してきたんだろうが阿呆。

さっき注意したばかりなのにまたまた相手の言ったことを曲解する。どうしようもないね。
「鉄器の有用性は明白である。」というのは「石器時代から鉄器時代に歴史が動いた」事実から言ったことで、
これは貴殿の「鉄器は国力に無関係」論に対するものなのである。

「鉄器の豊富さに固執してきた」という表現も曖昧だねえ。どうにかならんかね。
696日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:07:14.77
deshabariみたいな、東遷説なのか、違うのか、はっきり自分の主張も言えないようなチキンが、
何を言っても説得力はゼロだね。

臆病者のくせに畿内説批判とは笑わせる。
697日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:07:45.64
そもそも「須玖岡本、三雲、平原などの王墓群」と言っても

強力な権力を持っていた王が強大な国の王であったとは限らない。

簡単に言ってしまえば現在に人口数十万程度の国に絶対君主がいても
億単位の人口を抱える国から見れば大した事は無いとw

実際そこから出てくる鏡にしても後の三角縁神獣鏡のように広範な地域に分与されたような跡も確認しがたいと思うが


698メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 23:10:02.77
ローガンさんが〜どっかで「平原の次はどこだ?」なんていってたが・・・
平原の次の王墓は・・・・豊前石塚山古墳ですよね。
豊前石塚山古墳の鏡は同じ金型から造られた同笵鏡入っており、京都の椿井大塚山古墳と同じで
その笵傷から椿井大塚山→豊前石塚山古墳の順に配られたなんて話があったはず。

鉄器は半島から仕入れたモノなのでどうしても初めは九州に入る。
近畿へはすこし遅れるんですが、地域による遠方差はどうしても考えないといけないんです。

699日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:13:28.04
井原や平原にしたって、副葬品は豊富で
王墓にふさわしいが、それほど大きい古墳じゃないね。

王墓は大きい古墳という先入観のほうが間違い。

宮崎を別にすれば、そもそも大きい王墓を立てるという
発想は北部九州にはないと思うな。
700日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:15:39.31
魏に貢献した邪馬台国は、当然、薄葬だからね。
701日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:18:18.78
「親魏倭王」や「南朝の臣下たる倭王」が、でかい墓を作るはずがない。
本家の皇帝たちが質素な墳墓(径数十メートル程度)なのに。

だから、近畿は邪馬臺国およびその後継政権ではありえない。
702太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 23:18:48.08
メ氏は箸墓に眼がくらんでしまったのさ。

これで彼は失敗したと言える。
また卑弥呼の時代を崇神のころと推定したのは、これは合ってはいるが、
どうしても百襲媛が卑弥呼に重なるのだろう。だから崇神のころだと
彼は考えるようになったようだな。箸墓が大きいから、どうしても卑弥呼
の墓に想えるんだろうが、この考えに陥ると失敗だな。

なお卑弥呼と百襲媛は別人であり、言えることは両女ともほぼ同時代の
人物だということ。
703日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:19:19.61
>>695 deshabariな縄文人

鉄保有による国力の優劣についてはギブアップ、トンズラするのかな?w

で結局、畿内ヤマトに古墳を築く地力が無かったと言う根拠は

>出土品も石器や木器など縄文時代からさほど進化していないような貧しいものしかない

と言うお前の主観と「王墓が無い」と言うことだけかな?

前者は話にもならない。石器や木器よりすぐれた鉄器もどれ程効果があったか分からず
現行のデータからすれば殆ど効果を上げていない。

後者は>>697でも言ったがそもそも王墓の存在とクニの大きさには実のところあまり関係が見られない。

まあ圧倒的な副葬品の内容に加え他の集団から隔絶した空間を占める(墳丘一つ独り占めしたり)という点で
単に舶載品溜め込んだ成金じゃなくて王であったのは間違いないだろうがwwww











704deshabari :2011/11/18(金) 23:23:17.84
>>693
>詐欺師みたいな言い方はやめてさ、東遷説じゃないなら、東遷説じゃないっていいなよ。
>そして、東遷説じゃないなら、九州の邪馬台国はその後、勝手に滅んだってことでいいんだよな?
なぜ東遷説であるとかないとか言わなければいけないのかね。
邪馬台国は倭人伝に出て来るが、その邪馬台国が壹與以降にどうなったかについては触れていない。晋書にも宋書
にも東遷したともしていないとも、また滅びたとも存続したとも書かれていない。

つまり、文献からは邪馬台国がどうなったかは判然としない。
一方、遺跡、出土物の考古学からは何もわからない。
分からないことは言えない。当然のことだと思うけどね。

>>696
文献や考古学というものを知らないご仁だと思われる。こんなヨタ者の相手をするほど私はバカではない。
705日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:23:21.33
同じく南朝の臣下だった
百済王・武寧王陵の規模が参考になる。
706メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 23:23:36.57
巨大な前方後円墳はヤマト王権の「権力のシンボル」なんて言われてますが、
前原市の三雲・いわら・平原の3遺跡は、倭人伝に載る「伊都国の歴代の王」ではなかろうか
といわれることが多いのでして、春日市の須玖岡本は弥生時代の「都市」なんて言われてますが、
奴国が当てはまり、金印にしても、倭の奴の国の王と読むのが正解らしく、
倭王ではないというか、弥生後期の九州は鉄器こそ豊富なんですが、墓がありませんね。
707日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:23:58.55
>deshabari

畿内説の人は、どんなに揶揄されようとも、畿内説だと主張してるよ。

君は東遷説なのか、違うのか、ハッキリさせたらどうなんだい?
708日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:27:31.52
>deshabari

君は、はっきり、九州の鉄器優位を前提に語ってるのだから、
鉄の無い畿内ヤマト王権が奈良に生まれたことと、矛盾が生じてるんだよ。

東遷説なら、君の論は矛盾しないが、
東遷説ではないというなら、君の論は矛盾する。いままでの議論は水泡だってことだよ。

自分の間違いを認めるのか、東遷説だと白状するのか、はっきりしたまえ。



709日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:28:09.13
| ┏━━━┓   従軍慰安婦は反日朝日新聞の捏造でした。
| ┃借収安┃    デマだらけの報道に注意しよう
| ┃三三婦┃
| ┃○○大┃
| ┃○○募┃
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| ┃圓以  ┃
| ┃迄上  ┃_
\┃可   ┃ \
  ┗━━━┛  \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
http://www.iza.ne.jp/images/user/20090810/574440.jpg
710日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:30:31.97
>>698 改めドツボ
>平原の次の王墓は・・・・豊前石塚山古墳ですよね。

単純に墳丘の大きさだけで上げていいのなら間に那珂八幡やその他の早期前方後円墳
吉野ヶ里の前方後方墳も上げられるかもしれないが

まあ何れにせよ九州の王墓はやはり平原で終わりだな。
711deshabari :2011/11/18(金) 23:33:52.04
>>707
>畿内説の人は、どんなに揶揄されようとも、畿内説だと主張してるよ。

それは畿内説者が(言葉は悪いが)アホだからじゃないかな。邪馬台国が畿内にあったという明確な証拠
が無いのによく言えるものだと呆れているんだけどね。
712日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:35:39.33
円墳で良ければ九州全域で数万はあるな。
その中から、割りと良い地に立ってて、
ちょっと大きめな古墳なら、王墓の可能性はある。
多分該当するのは数百はありそう。
713メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 23:36:06.21
>>702
卑弥呼の「鬼道」についてシャーマン(巫女)に繋がると上で書き込んだが、
卑弥呼と男王の関係は、神のお告げを告げる神託であり、巫女とかんなぎの関係に通じるものがアル。
九州の神のお告げを告げる神託では宇佐の「託宣」が最も有名と思う。
この宇佐の巫女(シャーマン)は、辛島氏・大神氏の巫女を出しており
これら辛島氏・大神氏は卑弥呼の時代よりずっと後なので日本書紀に載る
「倭迹迹日百襲媛命と祟神天皇の関係」や「神功皇后の神託」のほうが相応しいんじゃなかろうかと思う。
714日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:37:15.82
>>704 deshabari
>なぜ東遷説であるとかないとか言わなければいけないのかね。

ヨコからだが

そもそもお前は

>出土品も石器や木器など縄文時代からさほど進化していないような貧しいものしかないこと
>から在地の人々が1世紀や2世紀の短期間で箸墓などの大古墳を築けるような大勢力に育ったとは考え難いと述べたのである。

といっているのだから、じゃあ大古墳を築けるようになったのは如何なる理由か?についても当然意見を持っていると思うのだが
そしてそれはヤマトに地力が無ければ外部勢力によるもの=東遷説 だろうと言うのは当然の見方w

それとも単に「大勢力に育ったとは考え難い」まででその先の考えは持っていないと言うのか?w
715日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:37:45.54
>>711

畿内説をアホ呼ばわりするなら、

なぜ、鉄器の無い畿内にヤマト王権が生まれたか、説明したまえ。

説明できないなら、「鉄器がある九州のほうが有利」という議論は成立しない。

わかるかね?
716メ(スポーツスポーツ):2011/11/18(金) 23:39:20.39
>>710
>那珂八幡や吉野ヶ里の前方後方墳

あんた〜細かいねwww
717deshabari :2011/11/18(金) 23:42:49.80
>>708
>君は、はっきり、九州の鉄器優位を前提に語ってるのだから、
>鉄の無い畿内ヤマト王権が奈良に生まれたことと、矛盾が生じてるんだよ。

それは違うだろ。私は奈良の弥生遺跡の貧弱さを基に論じているのだ。その貧弱な奈良弥生人が巨大古墳
を築造できる大勢力に短期間で成長できたとは考え難いと言っているのである。

それから、貴殿も考古学に疎いようだね。鉄の無い畿内ヤマト王権とはどういうことだ?あの貧弱な弥生
遺跡を残したものを畿内ヤマト王権と呼ぶわけはなかろうから、巨大古墳を作った勢力のことだろうが、
その勢力は鉄器を持っていなかったとでも言うのか?
718日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:46:14.38
>>712
出ました「そんなもん九州にはいくらでもある」www

まあ実際には平原の後を継ぐような王墓となると九州には無くなるわけで…

ちなみに柳田が弥生王墓としてあげている条件
(1)他の集団から独立した一定規模をの墳丘を持つ特定個人墓
(2)隔絶した内容の副葬品を持ちなかんずく超大型・大型鏡を含む多数の鏡群を持つこと
(3)王墓とされる背景として、その地域に追うが存在する証明があること

…を挙げている。
まあ(3)はチト分かりにくいが
これに合致するのは九州でも伊都国三代特定個人墓と奴国の須玖岡本墓だけだとしている。


719太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/18(金) 23:46:36.16
あらため殿  夜が更けて来た。また明日に・・・。zzzzzz・・・
720日本@名無史さん:2011/11/18(金) 23:48:13.66
>>717
>それは違うだろ。私は奈良の弥生遺跡の貧弱さを基に論じているのだ。その貧弱な奈良弥生人が巨大古墳
>を築造できる大勢力に短期間で成長できたとは考え難いと言っているのである。

学問というものをわかってないね。
事実として、ヤマト王権が誕生してるのだから、事実から先に認めて理由を考えたまえ。

君は、「鉄器が優位」という前提で言ってるのだから、東遷説でないなら、他の理由を説明しなさい。
「考えにくいから畿内説は間違ってる」などと、子供じゃあるまいし。
721deshabari :2011/11/18(金) 23:54:48.92
>>714
>そしてそれはヤマトに地力が無ければ外部勢力によるもの=東遷説 だろうと言うのは当然の見方w

「ヤマトに地力が無ければ外部勢力によるもの」はいいが、なんでそれを東遷説と等号で結べるのかね。
東遷説以外の可能性を排除する根拠は何かね。
例えば、3世紀末か4世紀における半島からの渡来人が奈良盆地に入って支配権を握った可能性だって考え
られるだろ。
722日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:01:35.37
>>721 deshabariな縄文人

そりゃ他にも東遷ならぬ東海あたりからの西遷もあるだろうさw

外部勢力=東遷勢力 と言うのはこの板での傾向と言うかお約束だなwww

お前が自分は東遷説じゃないというのなら奈良に箸墓などの大古墳を築いたのはどのような勢力であったのかはっきりしてくれ。
一体何が言いたいんだ?

それとも「奈良の弥生遺跡の貧弱だ」止まりかな?

そんなものはお前の主観でしかない。
ヤマトにその地力が無かったとする根拠にも何にもならない。


723日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:01:54.67
>>721

>東遷説以外の可能性を排除する根拠は何かね。

のらりくらりと、何をかわしてるのだ?君は。

ヤマトは、外部勢力が鉄器を持って開発したと君は言いたいわけだろ。
それが九州でないなら、どこの勢力なのだね?

東遷説ではないなら、「九州以外の鉄器を持った勢力がヤマを開拓した」と言えばいいわけだろ?

今度こそ、はっきり答えを聞こうじゃないか?

724ローガン:2011/11/19(土) 00:05:22.73
>>683:deshabari
>硫化物濃度等とは具体的に何を指すのですかな。

硫酸塩還元菌による有機物の代謝ですよ。硫化物濃度の高さ の由来を硫酸塩還元菌の硫化物生成と捉える訳です。
725deshabari :2011/11/19(土) 00:06:56.29
>>720
>学問というものをわかってないね。
貴殿にはわかっているみたいですな。おめでたいことで。

>「考えにくいから畿内説は間違ってる」などと、子供じゃあるまいし。
「考えにくいから畿内説は間違ってる」とはどういう意味ですかな。この「畿内説」というのは邪馬台国畿内説
のことだと思われるが、私はヤマト王権と貴殿らが呼ぶもののヤマト自生説は考え難いと言っているのであって、
邪馬台国畿内説はまた別の話である。こんな混乱した内容の書き込みをするご仁が学問を語るのもどんなものかな。
726日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:13:16.26
と言うか より蓋然性のある仮説の提示 無しに文句ばかり言ってもねえw

無論その仮説自体の検証と言うのはされるべきだが

「奈良の弥生遺跡の貧弱だ」と言うだけで外部勢力による古墳時代の幕開けが肯定されるわけでもなんでもない。

この馬鹿は 相変わらず 理論的な思考ができない。





727日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:18:47.73
>>725

君、自分でも何を言ってるのかわからなくなってるだろ?

「ヤマト王権のヤマト自生説は考え難い」=「畿内説は考えにくい」

何が違うのが?詭弁もいいかげんにしたまえ。
728ローガン:2011/11/19(土) 00:20:34.16
>>723
いやまあ>>721にも
>なんでそれを東遷説と等号で結べるのかね。

とあるので、東遷説に積極的には賛同しないとという主張なんでしょう。神武が大和川の石を、ヨッコしたは取り下げたんでしょうね。
729日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:26:21.51
>deshabari

バカはバカなりに東遷説をくちばしると、論理破綻することは予想してるんだろうな。

でも、ヤマト王権の自生説は絶対認めたくないと。

吉備からでも東海からでも遷都があったとでも言えばいいのだが、それすら言えないのは、
人格破綻を疑うしかないな。

730日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:28:11.93
まあ縄文人も過去に何度も自爆を経験して少しは学習してるって事だなwwww
731日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:29:05.98
俺も何度同じツッコミしたかわからんわ。

ほんと、東遷説論者なんてちょろいぜ。
732deshabari :2011/11/19(土) 00:32:38.94
>>722
>お前が自分は東遷説じゃないというのなら奈良に箸墓などの大古墳を築いたのはどのような勢力であったのかはっきりしてくれ。
>一体何が言いたいんだ?

まだ分からないのかな。理解力のない人(失礼)を相手にするのは忍耐力を要するものだ。

「奈良に箸墓などの大古墳を築いたのはどのような勢力であったのか」を示す文献は無いし、遺跡考古学では何もわからない。
分からないものを明言するのはバカですな。若し、貴殿らの言うところの初期ヤマト王権が藤原京期の王権の前身であるならば、
高松塚古墳の壁画に見られるように半島(高句麗系)からの渡来人が支配層に居たと考えられる。こういうことがあるから半島
からの渡来人の作った勢力というのも可能性がないわけではない。
733日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:36:39.83

ヤマト王権は渡来人が作ったそうですな。

734日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:39:13.61
>>732 deshabari な縄文人
>可能性がないわけではない。

より蓋然性のある仮説を提示できない、しない。

>文献は無いし、遺跡考古学では何もわからない。

と言ういつもの「ちゃぶ台返し」

この馬鹿は理論的なものの考え方他人との議論の手段等々について何も分かっていない馬鹿。
この阿呆のやっていることはつまるところ

「畿内ヤマトの弥生遺跡の貧弱だ」

と繰り返しているだけのクレーマーのようなものwww


735deshabari :2011/11/19(土) 00:39:23.65
>>726>>731
私は真面目にレスして来たが、さすがにこれらのアホレス(失礼)には付合っておれない。
ではお休み。
736日本@名無史さん:2011/11/19(土) 00:40:38.53
>>735 deshabari な縄文人
>ではお休み。

そこは「ほなな〜」じゃなかったのか?www
737日本@名無史さん:2011/11/19(土) 01:27:28.92
これがマスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています

「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット

「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」

「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット

「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」 
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット

「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット

「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット

他にもカットシーンがたくさんあるので、元資料で↓確認してください
http://news.nicovideo.jp/watch/nw147415
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=FtxuPyRNszY
738日本@名無史さん:2011/11/19(土) 01:38:39.31
>>732
>「奈良に箸墓などの大古墳を築いたのはどのような勢力であったのか」を示す文献は無いし、遺跡考古学では何もわからない。

それでも考古資料から「元々の奈良の勢力では無理」だとい言うことだけは分かるんだなw

ご都合主義の塊。
739日本@名無史さん:2011/11/19(土) 02:35:11.10
日本書紀、箸墓作ったのは奈良の人だって書いてあるけどねえ。

まー日本書紀なんて信用しないとか言い出すんだろうな。
そのくせ神武東征は信じると。
74019歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 08:26:40.83
巻向は北九州筑紫や吉備、出雲、播磨、丹波、東海といった国々の
連合政権ですから、邪馬台国は九州にはありません。

景初4年の△鏡も大陸から流入した鏡職人がリアルタイムで近畿で作った
国産品説が極めて濃厚ですので、大陸から近畿にかけて技術が流入する
ルートが存在したはずです。北九州と関門海峡は押さえなければなりませんし、
鉄の流入も3世紀に入ると九州と畿内の差がどんどんなくなっていきますので、
邪馬台国が九州にあり連合国家体制をしいていたと考えるのは難しいです。
741日本@名無史さん:2011/11/19(土) 08:53:10.90
ヤマト王家の前身の葛城の高尾張政権を作ったのは
尾張氏の先祖たち。である、火明命。
高尾張王権の王族の出身で、九州南部に派遣されたのが、火明命の弟のニニギ。
このニニギの曾孫が、イワレ彦(神武)
74219歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 08:56:29.12
そんな妄想は聞きたくありませんw
743日本@名無史さん:2011/11/19(土) 11:32:15.72
昨夜はdeshabari氏一人に畿内説派の人達がよってたかって挑んでいたけど、
正直なところ、
ここの畿内説の人達は頭が悪いということがよくわかりました。
deshabari氏は理路整然とした文章で畿内説の人達のレスの間違いを指摘していたのに、
畿内説の人達は考古学資料で言えることと言えないことの判別ができないようで、
同じ内容の愚にもつかぬセリフを繰り返すだけ。

日本の考古学教室は文学部に属しているので、
自然科学的考察のできる優秀な頭脳は他の学部に行くので頭のよくない学生しか集まらないようです。
そんな程度の学生だった者が今の考古学会で幅を利かせているわけです。
そして、そんな程度の学者の書いた本を有り難がって頼りきっているのが
ここの畿内説の人達なのでしょう。
頭が悪いから判断ができないのだと思われます。
74419歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 11:37:00.08
九州説の人のほうがいくら間違いを指摘しても聞き入れないし
頭悪いでしょうにww
何言ってんだか。邪馬台国を盟主とした九州倭国が3世紀後半から4世紀まで
命脈を保ったとかありえませんからww
それこそ九州王朝を持ち出さないといけなくなるww
745日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:13:31.52
そもそもdeshabariなんてクズは

「考古資料でクニの大小、国力を測れない」

と言いつつ
結局は遺跡遺物といった考古資料で

「ヤマトは後進地域で自力で古墳を築けない」

としているのだから自己矛盾もいいところ。

馬鹿丸出し、クズの中のクズ。

知識の多寡の問題じゃなくて知能自体に欠陥がある。

746日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:19:27.94
>>743
>そんな程度の学者

それ以下が九州説という事だなwwww
747日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:22:18.20
>>744
まずは知ったかぶりをどうにかしてこいwww
748743:2011/11/19(土) 15:47:36.46
>>745
>そもそもdeshabariなんてクズは
>「考古資料でクニの大小、国力を測れない」
>と言いつつ

deshabari 氏の過去のレスをつぶさに検討してみましたが、「考古資料でクニの大小、国力を測れない」と言ったという
この人の書き込みは事実を述べていないことを確かめました。
deshabari 氏が言っているのは「国力に与える鉄器の影響を評価するには鉄器導入前の人口や耕地面積がわかっていて、
かつ導入後にそれらがどのように変化したかが判らなければならないが、そのような考察が可能な考古学資料はない」と
いうことです。それを「考古資料でクニの大小、国力を測れない」と言ったというのはなんということでしょう。
この人は嘘つきかまたは文章理解力のない低脳だと思われます。
749日本@名無史さん:2011/11/19(土) 16:12:35.48
>>748
>「国力に与える鉄器の影響を評価するには鉄器導入前の人口や耕地面積がわかっていて、
かつ導入後にそれらがどのように変化したかが判らなければならないが、そのような考察が可能な考古学資料はない」

何を理由に無いと言えるんですかね?


750日本@名無史さん:2011/11/19(土) 16:17:55.61
>>748
「国力に与える鉄器の影響」が、あるのかないのか、という話なら、
deshabariは、「わからない」と言ってるわけだから、
「国力に与える鉄器の影響はわからない」という前提に立たないといけないはずだが、
彼の論調は明らかに鉄器の乏しい畿内を九州より劣って伊いるとしている。

これは大きな矛盾ですな。

751日本@名無史さん:2011/11/19(土) 17:06:26.53
>>748 名無しゴミクズレベル九州説
>deshabari 氏が言っているのは「国力に与える鉄器の影響を評価するには鉄器導入前の人口や耕地面積がわかっていて、
>かつ導入後にそれらがどのように変化したかが判らなければならないが、そのような考察が可能な考古学資料はない」と
>いうことです。

なんかゴミ同士のかばいあいみたいだがwww

「人口や耕地面積」を「国力」に置き換えてみろ阿呆

 - 国力に与える鉄器の影響を評価するには鉄器導入前の<国力>がわかっていて、
 - かつ導入後にそれら=<国力>がどのように変化したかが判らなければならないが、そのような考察が可能な考古学資料はない

考古学では国力が測れない。
鉄器導入前後の国力も測れない。
故にそれが果たした役割も計れない

…で

(国力が分かる筈も無い考古資料を見て)ヤマトは遅れている古墳を築くだけの国力が無い

と断じているのがこのdeshabar(←何個目のステハンか知らないがw)iのアホ理論。

考古資料による国力の推測を否定するなら当然ヤマトは後進地域で古墳を築く国力も無い・・・と言う推測もできないはずだが
その自己矛盾・アホの自爆劇に気づかないdeshabari本人は馬鹿でそれを更に擁護しようとする>>748も馬鹿。

なんでゴミクズレベル九州説って国語能力がこんなにも低いのか?

おまえら国語の解説文の読解とか苦手だったんじゃないのか?wwwww
752日本@名無史さん:2011/11/19(土) 17:51:38.22
>>733
天火明命の末裔、天孫が作ったじゃないヤマト王朝。
753別格 :2011/11/19(土) 18:06:50.63
>>743
すばらしい。抜粋コピーして再掲。

日本の考古学教室は文学部に属しているので、
自然科学的考察のできる優秀な頭脳は他の学部に行くので
頭のよくない学生しか集まらないようです。

そんな程度の学生だった者が今の考古学会で幅を利かせているわけです。
そして、そんな程度の学者の書いた本を有り難がって頼りきっているのが
ここの畿内説の人達なのでしょう。

ん・かんぺきだ。
754日本@名無史さん:2011/11/19(土) 18:26:54.01


 ルサンチマンの見本ですな。



755太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 18:36:41.32
あの19歳の奴はジョーカーだな。w

二重にコテハンをやってたな。

19歳でとたんにこちらの悪口を言うほど純真性が薄くなってはいない筈
だろうし、文の内容がちょこちょこジョーカーらしい味が滲み出ている。

紀無い説が旗色が悪いので、二重をやったんだろう。w
756日本@名無史さん:2011/11/19(土) 18:39:57.03
ルサンチマンとは、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩である。

こうしたルサンチマンの表れの例として、敵を想定し、
その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーにある。
こういったイデオロギーは、敵が悪の元凶とし、だから反対に自分は道徳的に優れていると主張する。
「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」というわけである。

>日本の考古学教室は文学部に属しているので、
>自然科学的考察のできる優秀な頭脳は他の学部に行くので
>頭のよくない学生しか集まらないようです。


>そんな程度の学生だった者が今の考古学会で幅を利かせているわけです。
>そして、そんな程度の学者の書いた本を有り難がって頼りきっているのが
>ここの畿内説の人達なのでしょう。

畿内説を唱える日本の考古学会を悪の元凶とし、
その反対に九州説を唱える自分は道徳的に優れていると主張する。

社会的弱者が自分の境遇が悪いのは社会のせいだとすりかえ、
社会の象徴を畿内説に置き換え、畿内説を攻撃することで、社会的弱者が自己の正当性を主張する。
その結果として発現してくるのが九州説というわけ。
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 18:52:50.68
まあそういうことも少しはありうるだろう?

ただ臥海が畿内説を強く確信的に通り相場になっているとき、そこで反論
して九州説を打ち出しすぎると、臥海での煙ったい人物になる。
中には臥海にも人の悪い人物もいよう。

やはり出世には影響するし葬り去られるのを恐れる気配が臥海にあるのでは
なかろうか?w だから異説はものにもよるが、失脚の可能性がある程度
あるだろう? 臥海とはそういう場ではないだろうか?
758太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 19:05:39.18
〜つまり睨まれるというやつだ。

臥海とはどうしても保守的にならざるを得ないと想うが・・・?
ある程度証拠を集めてああだこうだと定説になっているものを否定
するその学説と証拠を大声で披露しても、臥海の上にはそれが都合の悪い
ものになりうる。取り仕切っている連中の威信が崩れるわけだからな。〜
(このごろ某スポーツ団体で、葛藤で降ろされるニュースが
あるようだが・・・。)

〜となれば彼らに危機感が脳内をよぎるだろう。そこでこっそり葬られ
てしまうという筋書きに至るだろう? 明確な証拠を出しても、まだ
彼らは否定して旧説にしがみつく。そこで押し切ろうとすると、葬られて
しまう手段にやられる?
759日本@名無史さん:2011/11/19(土) 19:15:36.14
つうか現代の学者が馬鹿の集団だとしても
その集団にが学会を席巻されぐうの音も出ない九州説は
それ以下の馬鹿だというだけ。

760太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 19:19:59.91
だから力関係だよ。
中には臥海のも腹の中は九州説者もいると思うが、のびのびとはモノが
言えないから、ボス集団に従属して本音は言わないでいるだろう。つまり
畿内説でいて逆らわないでいる。そうしないと失脚が待っていることとなる。
761唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/19(土) 19:24:16.48
>明確な証拠を出しても、まだ彼らは否定して

なるほどねえ〜。
762太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 19:25:20.08
この威信が崩れるということを、ボス集団が恐れているということだな。
彼らはそれを護るため旧説に砦をはる。

威信がゆらぐということのでかい利害が、証拠をうんと並べて明白に
それが正しいと見え見でも、徹底否定かやんわり否定で旧説を守り抜く。
悲劇の始まりだな。
763日本@名無史さん:2011/11/19(土) 19:27:19.95

旧説=九州説
764ローガン:2011/11/19(土) 19:31:37.96
>>743
>deshabari氏は理路整然とした文章で

そうだろうか?氏は
>>667
「私は九州には須玖岡本、三雲、平原など紀元前1世紀〜紀元2世紀の王墓遺跡が存在するのに対し、」と、
平原墓に2世紀という実年代を与えている。ここの周濠出土土器が西新古相。西新は庄内式併行ゆえ、氏の言に基づき庄内に実年代が与えられる。
よって「庄内末=布留0の古墳は3世紀の築造」これが氏の年代観である事は明らか。にもかかわらず、
>>721では
>例えば、3世紀末か4世紀における半島からの渡来人が奈良盆地に入って支配権を握った可能性だって考えられるだろ。

と、前言に否定的な書き込みをしている。これのどこが理路整然なの?
765太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 19:32:01.65
>>760 訂正
× 臥海のも
○ 臥海にも

>なるほどねえ〜

オマエもそれではないか?ww
オマエはオマエの名誉の糧の秀魔電での親分でいられる身分がそがれる。
そしてこのことは秀魔電の信用性の崩壊も招くに至る。
だから倍暦とか1年が365日でない暦法を明示しても、地球上にないと
在るものまで無いと言い、デタラメでも自説に頑張りしがみつく。

このままで行けば、オマエはもうオシマイ。秀魔の親分の座は守れても、
その説と内容はデタラメだからな。ww
オマエは座のほうが大事なんだろう?ww
766日本@名無史さん:2011/11/19(土) 19:39:10.09
>>756

違うんだよ。畿内説は、大前提として詐欺説があるってことだ。

△鏡、箸墓、年輪、桃の種等々、すべて畿内説の根拠が
全部ゴッドハンドによる詐欺の理論に由来してるってこと。
767日本@名無史さん:2011/11/19(土) 19:43:58.04
>>766

東遷説が詐欺ってことも認めるかね?
768日本@名無史さん:2011/11/19(土) 19:55:06.72
>>767

東遷なんてないでしょ?
各地の都市国家が宗主権を奪取しあって、ずっと九州が握っていたが
最後はついに畿内が独占したというだけ。遷都も国家の引っ越しもない。
769唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/19(土) 20:02:03.61
>このままで行けば、オマエはもうオシマイ。

飯のタネならそうはゆかないが、趣味だからいいんだよ。

たとえば、太国倍年は”正しい数字を太国倍年で書き換えたのが日本書紀と主張するんだろ?
であるならば、太国倍年から日本書紀の数字が再現できて初めて”あった”と主張できるわけだ。
で、太国倍年から、日本書紀の数字に変換できるのか?
不可能だろ。だから太国倍年は存在できない。
または、思考途中の数字でしかない。
770日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:04:26.21
>>767
東遷説は詐欺ではない。記紀にも出てくる、歴史としては仮説だ。
771日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:17:10.35
>>768

なぜ、鉄器の無い畿内が、九州を支配することが出来たのか、
貴方には何か考えがありますかな?
当然、「鉄器優位論」では無いですよね?


>>770
神武東征は紀元前ですが。なぜ邪馬台国と関係あるかのように、神話をねじまげて解釈するんですか?
772太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 20:22:32.04
飯のタネならそうはゆかないが、趣味ならばカルト板ヘ行け。

たとえば、宿主空年は”正しい数字を宿主空年で書き換えたのが日本書紀と主張するんだろ?
であるならば、宿主空年から日本書紀の数字が再現できて初めて”あった”と主張できるわけだ。
で、宿主空年から、日本書紀の数字に変換できるのか?
不可能だろ。だから宿主空年は存在できない。
または、思考途中の数字にもならない。
773日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:23:25.81
>>771

鉄器のない畿内が九州を制圧したことなど、全然ないでしょ?
海外進出する気もなく、兵器も充実していない畿内が
九州を制圧して、何か得するの?
774太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 20:24:30.47
宿主空年から、日本書紀の数字に変換できるのか?
不可能だろ↓。だから宿主空年は存在できない。

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?←どうやらここも空年はないww
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
775日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:26:38.87
>>773
東遷もなく、畿内が九州を制圧したでもないなら、
九州王朝説ですか?

776日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:27:18.60
畿内と九州が大戦争を行った形跡はない。
777日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:32:25.68
>>776

で?

「ゆるやかな連合」ということでいいのかな?
778deshabari :2011/11/19(土) 20:37:55.49
>>751
>考古学では国力が測れない。
>鉄器導入前後の国力も測れない。
>故にそれが果たした役割も計れない

まだ私の言っていることが理解できていないようですな。どうしてそんなに頭が悪いのかなあ。

「考古学では国力が測れない」とは貴殿が勝手に付け加えたことです。私は一度もそんなアホなことを言ってはいない。
遺跡の数や規模や出土物(王の権力を示すような物や文明の発展度合いを示すような物など)次第では大きな人口を抱える
有力なクニであったとか貧しいクニであったくらいの推定はできる。

「鉄器導入前後の国力も測れない」は正確に言うと、そのような解析ができるような調査資料が無いということである。

要するに、考古学資料というものは(過去に存在した全ての集落や墓や耕地について時代を追って調べ尽くした)完璧な
ものではないから、それらから判ることもあるが判らないこともあるということである。

>(国力が分かる筈も無い考古資料を見て)ヤマトは遅れている古墳を築くだけの国力が無い
>と断じているのがこのdeshabar(←何個目のステハンか知らないがw)iのアホ理論。

ヤマトの弥生時代の遺跡とされるものからの出土物の後進性を見れば、これが1〜2世紀という短期間で大型前方後円墳
を築けるような勢力に育ったとは考え難いというのが私の意見なのである。理論と言えるようなものではなく誰にでも浮
かぶ率直な疑問を述べただけのものである。それをそんなに大袈裟に歪曲して騒ぐとは。呆れた。

>おまえら国語の解説文の読解とか苦手だったんじゃないのか?wwwww
ははは。それは貴殿自身のことじゃないか と誰でも思うんじゃないかな。もっとも貴殿は読解が苦手だというだけではなく
物事の理解力がないということも加わるけどね。
779唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/19(土) 20:42:03.86
釈迦牟尼仏、盧舎那仏、…観音菩薩…
仏の世界を正しく認識すれば多くの仏がいる。
そしてその役目もそれぞれである。
観音像を作るのであれば、観音を正しく認識していないと作れない。

>成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
>成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す

仏獣鏡が350年ころと考えると、まだ仏の分類が出来ていない。
仏典の中国語への翻訳は400年ころである。
隅田八幡神社人物画像鏡.でわかるとおり、ろくに漢字を使えない。

成務48年に“観音”の認識があるか?
答えはノーである。
780日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:42:48.62
>>775

九州王権が「王朝風」だった時期は
「九州元号の時代だけ」だと思うので、
王朝は6世紀前半〜7世紀末しかなかったし、
大和朝廷は8世紀までなかったと考えるけど、
それって九州王朝説じゃないでしょ?
781743:2011/11/19(土) 20:46:09.41
>>756
>畿内説を唱える日本の考古学会を悪の元凶とし、
>その反対に九州説を唱える自分は道徳的に優れていると主張する。

私はそんなことは言っていません。私なら
畿内説を唱える考古学者は頭の悪い学生の成れの果て
くらいのことは言えます。善悪の問題ではありません。頭脳の良し悪しの問題なのです。
782日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:46:34.01
>>778 deshabariな縄文人

>「鉄器導入前後の国力も測れない」は正確に言うと、そのような解析ができるような調査資料が無いということである。

じゃあ鉄器が導入される前のヤマトの国力を解析ができるような調査資料が無いということになるが
おまえはそれを 「ヤマトの弥生時代の遺跡とされるものからの出土物」 から断じている。

馬鹿はこんな明確な自己矛盾にすら気づけない。

小学生からやり直せ馬鹿者。


783日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:49:05.64
>>778
>ヤマトの弥生時代の遺跡とされるものからの出土物の後進性を見れば、これが1〜2世紀という短期間で大型前方後円墳
>を築けるような勢力に育ったとは考え難いというのが私の意見なのである。理論と言えるようなものではなく誰にでも浮

実際にヤマト王権が生まれてるだろうが。
ヤマト王権を作ったやつらはどこから来たのか、おまえの考えを問うている。
渡来人だとか、根拠もない逃げは許さんぞ。
784唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/19(土) 20:49:50.87
>>758 >明確な証拠を出しても、まだ 彼らは否定して旧説にしがみつく。
太国の数字は古い。
>>772 >飯のタネならそうはゆかないが、趣味ならばカルト板ヘ行け。
太国は何を恐れているのだ?
>>762 >この威信が崩れるということを、ボス集団が恐れているということだな。

心配しなくていいぞ、太国に威信などはなから存在しない。
785743:2011/11/19(土) 21:05:07.40
>>764 :ローガン
>ここの周濠出土土器が西新古相。西新は庄内式併行ゆえ、氏の言に基づき庄内に実年代が与えられる。
>よって「庄内末=布留0の古墳は3世紀の築造」これが氏の年代観である事は明らか。

私はdeshabari氏がどのような年代観を持っているか知らないので貴方の上記の文章がよく理解できません。
2行目の「よって「庄内末=布留0の古墳は3世紀の築造」これが氏の年代観である事は明らか。」は1行目の
内容を受けたものでしょうが、
「よって」は「したがって、故に」で前文の内容から以下のことが言えるという意味の言葉ですよね。
そうすると、
「ここの周濠出土土器が西新古相。西新は庄内式併行ゆえ、氏の言に基づき庄内に実年代が与えられる。」
ということからどうして
「「庄内末=布留0の古墳は3世紀の築造」これが氏の年代観である事は明らか。」ということになるのですか?

786771:2011/11/19(土) 21:07:00.99
>>772
記紀は後世に作られた政治的な書物で神武東遷は紀元前とも邪馬台国頃とも時
代は特定し難い。おそらくは応神東征をモデルとしたフィクションの可能性は
高いが、しかし、神武東遷、応神東征と2回も東征譚が出てくるのは記紀成立
以前にこのような、九州出身勢力が近畿勢力を屈服させ支配するに至ったとい
う歴史上の事実が有ったに違いない。東征譚を決して軽く見てはいけない。
787筑紫の民:2011/11/19(土) 21:12:14.69
ねえローガン。年代観ってなに?個人ごとにもっていいの?それともある程度の定めがあるの?
土器年代とかC14とかあるけど?
その年代漢っていうやつの確実性はどんなもの?
788日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:16:34.44
>>786

ろくに日本書紀も読んでないくせに適当なこと言うな。
神武は紀元前の話、応神は、百済から七支刀をもらってからの話だろ。

しかも、神武の兄弟は東征で全滅。
応神の母親の神功は、近畿の豪族の息長氏の出だ。

どこをどう読んでも、邪馬台国東遷には読めないね。
789日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:18:31.77
>>782
>>「鉄器導入前後の国力も測れない」は正確に言うと、そのような解析ができるような調査資料が無いということである。
>じゃあ鉄器が導入される前のヤマトの国力を解析ができるような調査資料が無いということになるが
>おまえはそれを 「ヤマトの弥生時代の遺跡とされるものからの出土物」 から断じている。

あらら。ど〜してこうも理解力がないのかね〜。何回同じことを言わせれば気がすむのかな。
鉄器導入の前後で国力がどう変化したかを示す考古学的調査資料がないことと、遺跡、出土物の状況からその地域の文化文明
の程度がどれほどのものであったかを推定することとは次元の違う話なの。>>778を注意深く読み返してネ。
790日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:32:46.76
>>789

鉄器の多い少ないは、国力と関係ないと言いたいのかな?

そろそろ他人の読解力を疑うより、自分の文章力を疑えよ。


791日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:34:37.18
>>789 名無しとコテを使い分けているからハンドル忘れたのかな? deshabari

何処が違うんだゴミ。
下らない屁理屈言って抗弁したつもりか?ゴミ。

(1)「鉄器導入前」 で 「出土物の状況からその地域の文化文明の程度がどれほどのものであったかを推定」
(2)「鉄器導入後」 で 「出土物の状況からその地域の文化文明の程度がどれほどのものであったかを推定」
(3)(1)と(2)を比較して 文化文明の程度(当然、国力、国の規模も含む)の変容を計る。

何処がどう違うんだゴミクズ。

自分に都合のいい考古資料は喜んで使って都合の悪いものは「そんなもので分かるか!」とひっくり返していく。
一つ一つの事柄は自説に有利な部分と不利な部分がある。
それを弁えないからこんなアホな自己矛盾を引き起こし
それを殊しようとしてどんどんドツボに入っていくのが ここのゴミクズレベル九州説。

真っ当な理論の組み立て方も知らないゴミの中のゴミ。


792deshabari :2011/11/19(土) 21:35:07.81
>>783
>実際にヤマト王権が生まれてるだろうが。

生まれた年代はまだ明確でないが、遅くとも飛鳥時代にはヤマト王権が誕生していたと認めてよいだろう。
それがどうしたと言うのかね?

>ヤマト王権を作ったやつらはどこから来たのか、おまえの考えを問うている。
何時問うたん?なんで私に問うの?ひとに尋ねるには礼儀が必要ではないかな。
簡単に答えれば
「奈良盆地の外から来たんじゃないの」だね。

>渡来人だとか、根拠もない逃げは許さんぞ。
べつに許してほしいとも思わんけどね。許さんならどうするの?どうするか興味あるなあ。



793日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:41:53.29
>>792

とうとう、議論放棄か。

「ボクが、いつそんなこと言ったの? 何時何分何秒?」というおこさまの世界。

永遠に、相手の言葉尻だけ突っかかれば、そりゃ負けはしないかもしれんなあ。

>「奈良盆地の外から来たんじゃないの」

それでは、九州から来たわけではない、ということは、認めるかね?

794唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/19(土) 21:49:15.68
>>787
>その年代観っていうやつの確実性はどんなもの?

考古学と文献史学は表裏一体である。
だから、文献(日本書紀)は文献(半島、中国)と同期し、かつ、考古学と整合させる必要がある。

巻向遺跡が、2世紀末から箸墓までであるならば、ここに崇神・垂仁・景行を配し、他文献と
整合すれば良い。

昔の編年は、七支刀=369年で考えられたが、現在”半島占拠”は否定されている。
この状態は、初期の記事と整合しない。だから狂っている可能性が大きい。
今の編年は、纒向が2世紀末と約50年遡上した。であるならば、日本書紀も50年遡上せねば整合性が得られない。
七支刀=326年(ほぼ50年遡上)であれば、半島占拠は正しい出来事とできる。
この数字を考古学が独自に割り出したのであるから、文献史学はこれを認めねばならない。
なにしろ書記の言い分が正しいとできるのだから。
795日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:50:50.22
「科学とは様々な事象をより良く説明できるより蓋然性の高い仮説体系である」

…という考え方があるが少なくともこのdeshabariはそのより蓋然性の高い仮説の提示は放棄していると言うことだなw

ようするに
「ぼっくんが見るに畿内ヤマトはオクレテイル地域だから自力で古墳時代を開けない」
と繰り返しているだけ。

根拠も何も無い。非科学的、非論理的、アホの戯言。

796deshabari :2011/11/19(土) 21:54:13.89
>>791
>(1)「鉄器導入前」 で 「出土物の状況からその地域の文化文明の程度がどれほどのものであったかを推定」
>(2)「鉄器導入後」 で 「出土物の状況からその地域の文化文明の程度がどれほどのものであったかを推定」
>(3)(1)と(2)を比較して 文化文明の程度(当然、国力、国の規模も含む)の変容を計る。
>何処がどう違うんだゴミクズ。

だから理解できていないと言うのである。
(1)と(2)のデータが存在すれば評価できるよ。存在すればね。

奈良盆地の場合 そのデータはどこにあるかね。
先ず、鉄器が導入された年代は分かるかね。
その鉄器導入以前の状況はどう見るのかね。弥生遺跡の状況とするかね。
鉄器導入以後の状況は古墳時代の遺跡で見るかね。

もし上記のようなことで判断するなら鉄器導入後に飛躍的に国力が増大したという結論になるが、それでいいかね。

問題はそんな単純なものではないだろ。大型前方後円墳を築造した勢力が奈良盆地自生であったか外部から入って
来たものであるかが争点となっているのだ。在地の弥生人が鉄器を導入したのか外来勢力が持ち込んできたのかを
どのように判断するのだ?
797日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:01:16.35
一つ意地の悪いツッコミをするならばだw

畿内ヤマトがオクレテイルというのなら当然ススンデイル地域とかのモデルがあるはずだが
このdeshabariとか言う阿呆がここまで出してきた材料だと三雲平原あたりの「王墓」と言うことになるんだろうが

実際の話冷静に考えれば王墓の存在が強大なクニに必ずしも直結するわけじゃないw

極簡単に分かりやすく極端な例で示すと

現代において国民の多くが食うや食わずの貧困国で世界地図で見れば豆粒ほどの小国を
絶対専制君主・独裁者が統治してた場合
そいつの金銀財宝を溜め込んだ私邸や一族の墓を見て国力を測れば全然見当違いの話になるw

如何に豪華な副葬品があってもそれはあくまでその個人の権力財力の大きさの話で
国力の大きさとは限らない。

>>718で柳田が王墓の条件としてあげている(3)番目が多分そう言う意味のことを言っているのだと自分では解釈している

まあゴミクズレベル九州説はそんなことは考えていないだろうがwwwww
798deshabari :2011/11/19(土) 22:02:08.94
>>793
悪いけどアホの相手をするのはご免こうむる。
799deshabari :2011/11/19(土) 22:07:41.87
>>795 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:50:50.22
>「科学とは様々な事象をより良く説明できるより蓋然性の高い仮説体系である」
>…という考え方があるが少なくともこのdeshabariはそのより蓋然性の高い仮説の提示は放棄していると言うことだなw

科学的思考のできない貴殿がそのようなことを言ってもね〜。滑稽なだけだと思うよ。

800日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:12:52.22
>>799 deshabariな縄文人

負け犬の遠吠え、負け惜しみを言う暇があったら 「より蓋然性のある仮説の提示」 をやってみろ阿呆。





801筑紫の民:2011/11/19(土) 22:15:42.38
畿内説は、
<マキムク遺跡が「ヤマト王権」の発祥>であり<邪馬台国である>というのが定説らしいが、

殆どの古墳は山裾にあって、居住地が密集している所にはない。
あわせて、伊作氏の<王都に古墳は造らない>http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/6dc070f86a84b1fe0886dd63d08ed7d4 参照

次に、
王家の古墳には<墓守>が必ずいたはずだが、マキムクにはどこらあたりにいたのかい?
まさか、あの祭祀場が、<墓守達>の祭祀場だったのかい?

で、あれば、とても<マキムク遺跡が我が天皇陛下の御発祥と言えたものではない>

畿内説はみんな黙っているから<何でも言えばどうにかなる>と思っていたのだろうが
そうはいかなくなったな。
802日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:18:41.90
邪馬台国が畿内にあろうが九州にあろうが一般人の生活には何の変化もないんだけど、、、
なんでみんなそんなに必死になって主張してるの?
803筑紫の民:2011/11/19(土) 22:21:43.09
>>801 訂正
>畿内説はみんな黙っているから<何でも言えばどうにかなる>と思っていたのだろうが
 ↓    ↓     ↓
畿内説の人達は、国民みんなが黙っているから<畿内説に有利なことを何でも言えばどうにかなる>と思っていたのだろうが
804deshabari :2011/11/19(土) 22:21:52.49
>>800
あれ、なにをとち狂って「「より蓋然性のある仮説の提示」 をやってみろ」などと叫んでいるの?

>>796に貴殿の考え(これなんか「より蓋然性のある仮説の提示」とはほど遠いもの)の間違いを指摘
したのだが、これには答えられないのだね。だから話題の転換を図っているんだね。
805日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:22:41.20
>>802
だったらここに来るな帰れ
806日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:24:08.93
>>796

>在地の弥生人が鉄器を導入したのか外来勢力が持ち込んできたのかを
どのように判断するのだ?

めんどくさいやつだな。

鉄に、伝票が書いてあるわけじゃあないから、
こっちが、「吉備か山陰か丹波の人が持ち込んだ」と説明しても、このアホは証拠を出せと反論してくるだろう。


807日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:25:07.08
>>805
いや、利権で主張してる人が多いみたいだからさ
純粋な知的好奇心で主張するならそこまで断言出来る証拠は出てきてないだろ?
808日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:29:57.34
>>796 deshabariな縄文人

何を言ってるんだこの阿呆は。

「出土物の状況からその地域の文化文明の程度がどれほどのものであったかを推定」

・・・は既にお前が

「ヤマトの弥生時代の遺跡とされるものからの出土物」から大型古墳を築くに足りぬと判断しているんだろうがボケ。

既に自分が判断を下していることに関してデータの所在を聞いてどうするんだドアホウ。
アタマ大丈夫か?

>「鉄器導入前後の国力も測れない」は正確に言うと、そのような解析ができるような調査資料が無いということである。

と自分でほざいているにも関わらず鉄器導入前のヤマトの国力を判断している馬鹿さ加減。


809日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:31:15.78
>>796
>大型前方後円墳を築造した勢力が奈良盆地自生であったか外部から入って 来たものであるかが争点となっているのだ。

>在地の弥生人が鉄器を導入したのか外来勢力が持ち込んできたのかを どのように判断するのだ?

この2行は、どういう関係があるのか知りたいな。
鉄器を導入(導入ってなんだ?)した勢力が、大型前方後円墳を作ったみたいな言い方だが。
そんな議論はしてないだろ?

810筑紫の民:2011/11/19(土) 22:32:12.59
ローガンは見ているはず。

【再掲】
ねえローガン。年代観ってなに?個人ごとにもっていいの?それともある程度の定めがあるの?
土器年代とかC14とかあるけど?
その年代漢っていうやつの確実性はどんなもの?


811太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 22:34:15.38
宿主の数字は古い。
趣味ならばカルト板ヘ行け。
宿主は何を恐れているのだ?
オマエの論が崩れるということを、オマエ自身が恐れているということだな。

心配しなくていいぞ、宿主の論に整合などはなから存在しない。
812日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:34:50.79
>>802
はっきり言えば2ちゃんねるに良くある「煽りあい」にすぎないwwwwwwwww

こんなもの実際の学術的論争には何の関係も無い。

そもそもここのゴミクズレベル九州説とは(リアルでなされるであろう)邪馬台国論争にすらなっていないのが現実。


813筑紫の民:2011/11/19(土) 22:38:07.21
畿内説派の言っていること
巨大古墳はヤマト王権が作らせました。しかも邪馬台国時代と同時期です。だから
邪馬台国=大和王権なのです。

疑問
@突然できた大古墳、その土木技術は何処から得たのか?どうやって得たのか?
A突然できた大古墳、どうやって人を集めてつくったのか?
B突然できた大古墳、本当に時代とマッチしているのだろうか?
814日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:40:27.54
>deshabari

こいつの考えがさっぱりわからんが、もしかして、九州説の頭では、

「鉄器を導入した勢力が、大型前方後円墳を作った」

ってことが、疑いも無い大前提ってことなんだな。
そんな発想は思いもしなかったが。

だから、東遷説がはびこるわけなんだろう。
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 22:44:17.68
>成務48年に“観音”の認識があるか?
答えはノーとは言えない。

当時九州は朝廷の国ではない。別の国である。
よって朝廷の佛教伝来とは関係ない。
しかも非公式佛伝であるからして、不合理ではない。
おまけに椿油は佛をは無関係。

さらに平成3年7月、佐賀県東山田一本杉遺跡の甕棺から古代インドの
象形文字が発見された。調査に来たインド人の考古学者のポンナムバラム
・ラグパティ博士が発見したそうだ。これは紀元前3世紀までの南インド
の土器にあった古代文字である。つまり成務以前にインドの影響が九州に
存在している。

よって後代の朝廷の国でない九州に先に佛伝が非公式にあっても
おかしくはない。成務の年号は景行の熊襲征伐で九州の一部を把握し、
朝廷の拠点が出来たことからあるわけである。勿論まだまだ朝廷の日本
統一にはほど遠い。
816筑紫の民:2011/11/19(土) 22:47:18.21
鉄製の道具が無いと木工具も作れんわな。
しかも木製土工具が大量に必要なんだろう。
鉄を否定して古墳が語れるかね?

@そして、その「鉄」をコントロールできたのはどの勢力だったのかね?
Aそして、その「鉄」をコントロールできる勢力=倭国王ではなかったのかね?

「最小限の鉄で古墳をつくらせた」だから畿内において鉄の出土量が少ないのだよ。

817日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:50:51.22
畿内説は詐欺なしには成立しない。
だから畿内説からは詐欺師がゾロゾロと登場してくる。
たとえば>>812のように、「コミクズレベル」を連呼することで
畿内説優位を印象付けるような、そんな馬鹿な詐欺師も登場する。

>>802よ、君はこれを憂う気にはならないのかい?
利権に巣食う詐欺師が横行して、マスコミを巻き込んで
あたかも「畿内説が常識」「畿内説が優位」であるかのように
印象付けている。おかしいと思わないのかい?
818日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:53:38.47
>>817=利権厨=サイキバだなwww

巨大利権を貪る悪のキナイセツとネット上で戦うオレサマカッコイイ!!( ・∀・)

…って所か?wwww

819筑紫の民:2011/11/19(土) 22:53:59.75
「鉄」の有効性を否定しないと<畿内説>はなりたたない。
しかし、それは「天に唾」するもんだよ。
820日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:54:22.55
>>816
>@そして、その「鉄」をコントロールできたのはどの勢力だったのかね?

どこかの勢力が、鉄をコントロールって、どういうこと?
そんなことが可能なのですか?

>Aそして、その「鉄」をコントロールできる勢力=倭国王ではなかったのかね?

仮に「鉄」をコントロールできた勢力が九州にあったとして、
平原以後、王墓は作らなかったのですね?


821日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:56:33.48
>>819

「鉄」と「墳丘墓」の関係を否定しないと、九州説もなりたたないよ?

平原以後、王墓が作られて無いんだから。

822日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:58:10.40
>>819 見栄と嘘と知ったかぶりの塊  森村伊作 のポチ 筑紫のド民

クフ王のピラミッドが作られた時代、エジプトに鉄が潤沢にあったとか思っているのか?w

まあマヤでもインカでも良いんだがwwwwwww
823太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 22:59:02.86
マヤは鉄は少しだな。
824日本@名無史さん:2011/11/19(土) 22:59:12.96
>>818

お前も畿内説で、再就職先をもらえた元馬鹿文学部生だろ?
畿内説詐欺に加担していてよかったな〜w
825筑紫の民:2011/11/19(土) 22:59:39.10
平原の王墓って何?誰の墓?
どの程度の宝物が出たんだい?

九州には平原以上に「お宝物わんさか古墳」でごった返しているよ。
とても王墓に比定できないくらいにね。

だから、邪馬台国を比定するには「文献」でいいのさ。
826日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:00:19.10
何で王墓をいつまでも作り続けなきゃならないんですか?

古墳の終末とともにヤマト朝廷も滅んだとでも?
827日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:01:13.38
>>822
エジプトは風化しちゃってるから元の状態はわからんな
828日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:01:13.83
>>822

エジプトにはものすごく固い石が採れたから、それを使っていたのさ。
だが畿内にはそんな石がなかったなw
四国に行けば、サヌカイトが結構固いんだがな。
829日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:01:15.70
>>824

スゲエエエエエエエエエエエエエーッ!!

畿内説支持したら就職先も斡旋してもらえるのか?wwwwwwww

…少しはお外に出て現実ってものを見てこいよサイキバ君w
830日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:02:09.54
平原の後、王墓が無いのが痛いってことは自覚があるみたいだな。

あっはっは〜

831743:2011/11/19(土) 23:03:00.69
今夜もdeshabari 氏と畿内説の人の論争が見られましたが、正直に言って
畿内説者はdeshabari氏の書き込みの内容を理解する能力がないと思いました。
考古学的資料がどういうものであるか、それからどのようなことが判断できるのかできないのかを判別する
ことは非常に大事なことですね。

その基本的なところ、科学的に考察するとはどういうことかという初歩的な知識と言うか識見を
ここの畿内説の人達は持っていないということがよくわかりました。

面白いと思ったのは、
畿内説の人は「鉄器の豊富さが国力の増大につながる」という常識的には当然と思われることを極力
否定したいようです(「鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない」と度々言っ
ていました)が、
>>796を見て畿内説の人は困ったのではないかということです。

奈良盆地の弥生時代の遺跡からは鉄器の出土が極めて少なく、工具としては石器が殆どで縄文時代から
さほど進歩していないのではないかと思われるほどです(水田跡はありますからそれなりに進歩している
のでしょうが)。この時代を鉄器導入前の状態として
鉄器を出土する古墳時代を鉄器導入後として
両者を比較すれば「鉄器の導入によって国力が飛躍的に増大した」という考古学的資料からの推定が成り
立つ という危機的状況に追い込まれているのです。

「ヤマト王権自生説」を曲げずに「鉄器の豊富さは国力に無関係である」という論を維持出来るか注目
されます。


832日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:03:01.80
邪馬台国は、当時の最大規模国家ではない。
だから考古学で調べても、ほとんどわからない。
833筑紫の民:2011/11/19(土) 23:03:18.08
>>822

エジプトなんかしらね〜よ。
おれは「倭国」の話してるんだよ。

もう返す言葉もなくなったか?<中途半端なチンピラ>
834日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:03:38.54
>>829

おまえ、自分のこと言われてるんだぞ、この馬鹿がw
835日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:03:57.11
>>828
ん?古墳の場合相手は石じゃなくてもっぱら土だが?

まあ石と言えば葺石だが別に巨石を叩き割って作るものじゃないしな。

もう少し考えてから書き込めゴミクズレベル九州説w
836日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:05:14.28
九州説が捨てられたのは、平原以後、王墓が作られなかったこと。

平原の後が、邪馬台国の時代だから、卑弥呼が女王となって墓が作られたなら、
九州に平原以後も王墓が作られ続けないとおかしい。

平原以後、九州に王墓が作られてないのだから、九州説は消滅。
こんなにわかりやすい話がどうして理解できないのかな?


837筑紫の民:2011/11/19(土) 23:06:05.89
なんだ?畿内は<木製弩工具で石を削ってた>ってか?
今度見せてくれ。
838日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:08:21.31
>>835

ん?エジプトのピラミッドは土でできているとは、気は確かかな?
畿内説だから、気が確かじゃないことは百も承知してるけどなw
839筑紫の民:2011/11/19(土) 23:08:29.30
>>836
平ばルが<王墓>であった根拠教えてくれよ。
それって、畿内説の連中が勝手に言っていることだろ?
840日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:08:43.27
>>831

鉄器の多さと、王墓が作られるかどうかは、無関係。

平原以後、九州は鉄器は多いのに王墓が作られていない。

畿内は、鉄がわずかしかないのに、前方後円墳ができた。

こういう現実を見れば、「鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない」のは、自明だろう。

841日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:09:54.02
だから、漢魏は薄層なんだから、国力があっても巨大古墳なんか作らないってば。
842太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 23:11:12.98
遺跡は年代とともに消えることがあるから、心配はない。

多数の年号は九州王朝の存在をうなづかせる。
843日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:12:12.22
逆に何が出れば王墓かを定義する必要がありそうだ。
それと、王の定義だね。
844筑紫の民:2011/11/19(土) 23:15:19.03
ロールプレイングとなってきたので以下を<再掲>して寝ます。

畿内説派の言っていること
巨大古墳はヤマト王権が作らせました。しかも邪馬台国時代と同時期です。だから
邪馬台国=大和王権なのです。

疑問
@突然できた大古墳、その土木技術は何処から得たのか?どうやって得たのか?
A突然できた大古墳、どうやって人を集めてつくったのか?
B突然できた大古墳、本当に時代とマッチしているのだろうか?

鉄製の道具が無いと木工具も作れんわな。
しかも木製土工具が大量に必要なんだろう。
鉄を否定して古墳が語れるかね?

@そして、その「鉄」をコントロールできたのはどの勢力だったのかね?
Aそして、その「鉄」をコントロールできる勢力=倭国王ではなかったのかね?

「最小限の鉄で古墳をつくらせた」だから畿内において鉄の出土量が少ないのだよ。

平原の王墓って何?誰の墓?
どの程度の宝物が出たんだい?

九州には平原以上に「お宝物わんさか古墳」でごった返しているよ。
とても王墓に比定できないくらいにね。

845日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:16:25.59
>>831

>「鉄器の豊富さが国力の増大につながる」という常識的には当然

その常識は、どうして疑わないのかね?

九州説に有利な常識は、無条件に支持するってことですかね?

その常識に従えば、鉄器がずっといっぱいあった九州には、平原以後も王墓がわんさかできないとおかしい。

しかし、現実には、平原以後は王墓が作られていない。

鉄器と王墓の関係を否定しなければ、九州説も成り立たないんですけどね。

846日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:18:28.46
これが反日マスコミの編集による矮小化
176 :七つの海の名無しさん:2011/11/17(木) 21:57:56.45 ID:gClQt5ed
【重要】 ブータン国王の演説の報道は、重要な部分がことごとく反日マスコミにカットされて報道されています

「世界史において、かくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国、(その)国会の中で、」 →★全部カット

「ブータン国民は、常に、日本に、強い、愛着の心を持ち、何十年もの間、偉大な日本の成功を →★全部カット
心情的に分かち合ってきました。」

「日本は、当時外国の領地(植民地)であったアジアに、自信とその進むべき道への自覚をもたらし
以降、日本のあとに続いて世界経済の最前線に躍り出た数多くの(アジアの)国々に希望を与えてきました」 →★全部カット

「日本は、過去においても、現代においても、世界のリーダーであり続けます」 
「このグローバル化した世界において、日本は、技術と革新の力、勤勉さと責務、強固な伝統的な価値における模範
であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。」 →★全部カット

「世界は、常に、日本のことを、大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、
不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることに願望を持って、何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人、
ゆるぎない強さと気丈さを併せ持つ国民、であると認識してまいりました」 →★全部カット

「他の国であれば、国家を打ちのめし、国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に
日本国民の皆様は、最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、ここの強さを以って、対処されました」 →★全部カット

他にもカットシーンがたくさんあるので、 ブ−タン国王陛下の演説  をyoutubeで検索してください
847日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:20:05.28
>>844
>@そして、その「鉄」をコントロールできたのはどの勢力だったのかね?
>Aそして、その「鉄」をコントロールできる勢力=倭国王ではなかったのかね?

「鉄」をコントロールできた勢力が実在したとしても、倭国王とは言えない。

平原以後、鉄がわんさか出た王墓が無いのだから。


848日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:20:49.04
素朴な疑問だが、畿内に平原や吉野ヶ里並の
お宝が出た古墳にはどういうものがあるんだね?

総座遺跡でも大量の装飾品類が出てきているね。

何を持って王墓というのかな?
849日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:20:54.50
↑ 在日コリア企業電通に支配されたマスコミが、愛国のわけないじゃん。
   NHKも子会社筆頭株主が反日企業電通なんだから、愛国のわけないじゃん。
850日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:20:56.97
>>843
>>718で出した柳田の言う弥生王墓の定義を再掲する。

(1)他の集団から独立した一定規模をの墳丘を持つ特定個人墓
(2)隔絶した内容の副葬品を持ちなかんずく超大型・大型鏡を含む多数の鏡群を持つこと
(3)王墓とされる背景として、その地域に王が存在する証明があること

(1)(2)だけだと何処かにがめつい首長がいて必死に舶載品集めただけ…なんて可能性もあるwww

(3)については伊都国奴国王墓と言えど若干難しいのではないかと思う。

後の前方後円墳とかであれば鏡の全国的な分与分配関係が分かっていて前方後円墳も全国に広がっているが
じゃあ三雲や平原の王がどれくらいの範囲に影響力を及ぼしたクニの王なのかはかなり分かりにくいと思うが


851日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:22:05.00
畿内に平原や吉野ヶ里並のお宝が出た古墳はないでしょ。
桃の種ならあるかな?
852日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:22:25.43
仮に邪馬台国が畿内にあったとしても、
九州の王達は墓を作り続けていただろう。

九州にはアホみたいに墓がある。
どれが王墓だかは誰にも断定はできない。

日本の各国に首長墓と思われるものがあるのに、
墓の有無と邪馬台国の位置とどう関係があるのか
さっぱりわからん。

箸墓が完全否定された今、
墓が五万とある九州と違って、箸墓一点張りだった畿内説の方が
危機的な状態だと理解しろ。
853deshabari:2011/11/19(土) 23:26:00.22
>>808
>>「鉄器導入前後の国力も測れない」は正確に言うと、そのような解析ができるような調査資料が無いということである。
>と自分でほざいているにも関わらず鉄器導入前のヤマトの国力を判断している馬鹿さ加減。

ほんとに貴殿は物事の理解力も文章の読解力もないのだな。
「鉄器導入前後の国力も測れない」をよく見なさい。前後とあるだろ。前だけの資料又は後だけの資料しか無かったら鉄器導入
でどのように変化したかわからないだろ。私は前後双方の揃った資料がないと言っているのだ。

そのことが「鉄器導入前のヤマトの国力を判断」することとどう関係するのだ?少しは頭を使ったらどうかね。
854唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/19(土) 23:31:24.67
>>815
>当時九州は朝廷の国ではない。別の国である。よって朝廷の佛教伝来とは関係ない。

それでも、太国3倍成務歴で記録を取ったと主張し続ける。
あわれ
855日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:33:15.30
>>852

>墓が五万とある九州

ほう。それはどこの墓かな?
一個でいいから遺跡名を挙げてくれwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


856日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:34:35.38
結局のところ、平原以降、王墓が作られていないと言いたいだけで、
九州の遺跡のことなんて何にも知らないだけだろう。

あと、鉄器の意味合い云々よりも、
倭人伝に、鉄器のことが書いてあるから重要なんだということを
皆様お忘れなく。
その一つの記述だけで、畿内説は否定される。
857日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:36:11.72
>>850
>(1)他の集団から独立した一定規模をの墳丘を持つ特定個人墓

一定規模の墳丘というのが曖昧だが、まあ、一般庶民の墓よりは大きい
と解釈すれば、日本全国に該当する古墳があるだろう。

〉(2)隔絶した内容の副葬品を持ちなかんずく超大型・大型鏡を含む多数の鏡群を持つこと

これについては大型鏡が出土した平原くらいしか思いつかない。
通常サイズでダメなら、鏡が出土する古墳もほとんどが脱落する。

〉(3)王墓とされる背景として、その地域に王が存在する証明があること

ほとんどの古墳の被葬者が不明である以上、証明は不可能。
はっきりと王がわかるのは、磐井の岩戸山古墳くらいか?

なにかわかりやすい王墓の基準って無いものかね?
858唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/19(土) 23:38:00.49
>その一つの記述だけで、畿内説は否定される。

崇神世の任那建国は210年なんですけど。
859日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:38:37.60
>>853 deshabari な縄文人
>前だけの資料又は後だけの資料しか無かったら鉄器導入
>でどのように変化したかわからないだろ。私は前後双方の揃った資料がないと言っているのだ。

つまり鉄器の貧弱なヤマトに潤沢に鉄器が流入してきてもそれでどうなったか分かるすべが無いということだな?w

それが分かる為の「前後双方の揃った資料がない」のだから。

だったら鉄器の貧弱なヤマトを後進地域とする根拠が無い。

鉄器がどのように地域・社会を押し上げるのかを判断する材料が無いのだからw

それでも自分の与太を押し通す為「そこは常識で判断できる」と平気でほざくのがゴミクズレベル九州説wwwwww

まあ最初からやり直せ馬鹿者。

860太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 23:39:21.96
それでも、宿主空年成務歴で↓空年が有ったと主張し続ける。
あわれ

神武はどこから〜どこまでが空年なんだ?
綏靖はどこから〜どこまでが空年なんだ?
懿徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
安寧はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝昭はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝安はどこから〜どこまでが空年なんだ?
孝霊はどこから〜どこまでが空年だんだ?
孝元はどこから〜どこまでが空年なんだ?
開化はどこから〜どこまでが空年なんだ?
崇神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
垂仁はどこから〜どこまでが空年だんだ?
景行はどこから〜どこまでが空年だんだ?
成務はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仲哀はどこから〜どこまでが空年なんだ?
神功はどこから〜どこまでが空年なんだ?
応神はどこから〜どこまでが空年なんだ?
仁徳はどこから〜どこまでが空年なんだ?
861日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:39:29.60
>>855

九州内の遺跡全部
862743 :2011/11/19(土) 23:43:54.04
>>845
>九州説に有利な常識は、無条件に支持するってことですかね?
いいえ。九州説、畿内説に関わりはありません。歴史的にも石器から鉄器へ移り変わってきたのですから
鉄器の方が機能性が高く、生産性も高かった(現在実験してもそうでしょう)と見るのが常識でしょう。

>その常識に従えば、鉄器がずっといっぱいあった九州には、平原以後も王墓がわんさかできないとおかしい。
私は具体的には知りませんが、九州では平原以後は王墓が作られなかったということは本当ですか?
また、何を根拠に「平原以後は王墓が作られなかった」と言えるのでしょうか?
863日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:59:54.90
つうかねゴミクズレベル九州説のアホどもは
平原後の王墓を具体的に挙げてくれんかね?

>墓が五万とある

とかアホ丸出しのおためごかしじゃなくてwwwwwww

平原やその他の伊都国奴国王墓が王墓とされるのは
先ずもってその圧倒的な副葬品ゆえだが
それらに匹敵するものが他にあるのか?


864deshabari :2011/11/20(日) 00:01:29.04
>>859
>それが分かる為の「前後双方の揃った資料がない」のだから。
>だったら鉄器の貧弱なヤマトを後進地域とする根拠が無い。

やっぱりま〜だ理解できていない。ど〜しょ〜もない頭の悪さだ。
鉄器の影響を見るのであれば鉄器導入の前と後の資料が必要だ。前だけあるいは後だけの資料しか
なかったら「影響」は評価できない。これは影響の評価の話だ。

一方、鉄器導入前の資料があるならばその資料から鉄器導入前の状態は知れる。
ヤマトの場合、鉄器導入前の資料として弥生遺跡と出土物がある。その資料から見れば後進地域
だというわけである。な〜んにも問題はない。

それにしても貴殿らの相手は疲れる。同じことを何度も何度も繰り返すだけだから。

865日本@名無史さん:2011/11/20(日) 00:04:30.54
単体では出土品のランクはこんな感じだと思う
金印、穀璧>三角縁神獣鏡(舶載鏡)>三角縁神獣鏡(倭鏡)>他鏡類>鉄製鏃・鋤>他玉等
同一地域から鉄器が大量に発見されれば、生産力も高かったろうというのはその通りだと思います。
866日本@名無史さん:2011/11/20(日) 00:09:20.03
>>865
他の漢鏡は?

三角縁は舶載鏡が存在するかどうかですら、怪しいぜ。
867日本@名無史さん:2011/11/20(日) 00:13:32.66
>>864 deshabariな縄文人

うむだいぶカキコが「地」に近づいてきたなwwwwww

で、当然「後進地域」と言うのは「先進地域」と言う比較対照があっての話だよな?

それは具体的にどのようなモデルになるのかな?

鉄器が国力を押し上げると言うことが証明されれば
鉄器の乏しいヤマトは後進地域といえるだろうが

鉄器導入”後”の先進性を証明できなければ
そもそも鉄器導入”前”のヤマトを

オクレテイルだの評価がしようが無い。

「オクレテイル」と断じるに鉄器の不足を挙げるなら
鉄器によって「ススンデイル」となる事を証明しろ阿呆。



868日本@名無史さん:2011/11/20(日) 00:23:09.54
>>862
>また、何を根拠に「平原以後は王墓が作られなかった」と言えるのでしょうか?

平原以後の王墓をググって見つけきなよ。見つけられたら褒めてやる。




869日本@名無史さん:2011/11/20(日) 00:27:57.50
漢鏡ははじめ九州北部特に福岡県に集中して後に出土地域が畿内へ移動するな
邪馬台国九州説にとって都合が良い出土ぶりだ
870ローガン:2011/11/20(日) 00:29:17.40
>>810:筑紫の民
>ローガンは見ているはず。

ごめん呑んでて遅くなった。

>【再掲】ねえローガン。年代観ってなに?個人ごとにもっていいの?それともある程度の定めがあるの?

持ったらいいと思う。それに対する自分の中で生じた反論に、答えられるんであれば。
「ある程度の定め」とは、まず「層位に勝る形式無し」。という基本を忘れない事位かなあ。
あと、引き出しの数が多いに越した事無いように思う。

>土器年代とかC14とかあるけど?その年代漢っていうやつの確実性はどんなもの?

C14…基本的な理論上の問題は無いでしょう。ピンポイントの年代、確実かどうかは、さあね。
でも仮に「間違いだ!」と主張するなら、根拠のはっきりとした数値の提示が必要でしょうなあ。
さておき、レスの【再掲】なら誤字は訂正したほうが良いように思うけどね。
871日本@名無史さん:2011/11/20(日) 00:30:39.87
>>869
そう、鏡をキーワードに考えれば九州説は福岡平野が最右翼になるだろうw

が、そこは邪馬台国じゃなくて奴国と言うのが通説wwwwwww

872deshabari :2011/11/20(日) 00:37:12.93
>>867
>鉄器導入”後”の先進性を証明できなければ
>そもそも鉄器導入”前”のヤマトを
>オクレテイルだの評価がしようが無い。

どういう頭であればこんなピント外れのことが言えるのかな?(バカだからということは知っているんだが)

鉄器の有無は重要なファクターであるが、それだけで弥生時代のヤマトの後進性を語っているのではない。

ほぼ同じ時期の九州には須玖岡本、三雲、井原、平原など豪華な副葬品を有する墓が存在する。もちろん鉄器も鉄加工施設跡も出土する。大陸や半島
との交流も行われていて文化や技術が入って来ていたことが見てとれる。

それに対してヤマトの弥生遺跡には王墓と見られるようなものが無く、大陸や半島との交流を示す物品の出土もほとんど無い。工具は石器であり、縄
文時代からさほど進歩しているとも思えないほどである。

どうかね。分かったかね。
873日本@名無史さん:2011/11/20(日) 00:41:38.22
>クフ王のピラミッドが作られた時代、エジプトに鉄が潤沢にあったとか思っているのか?w

電池すらあったのに無かったと本気で考えているのかのい?
874日本@名無史さん:2011/11/20(日) 01:07:16.22
スキタイから少量、手に入れているようだね。
鉄は高価なので、ほとんどはシナイ山の硬い石を使ったらしい。
875日本@名無史さん:2011/11/20(日) 01:18:07.48
>>872 deshabariな縄文人

先にも言ったがそもそも圧倒的な副葬品を有する王墓の存在はクニの大きさには直接関係無い。
大陸半島からの舶載品の豊富さもそれを先進性としたところで巨大古墳出現に資する事の説明が無ければ意味が無い。

そもそも九州には結局、九州以東の四隅や楯築、そして前方後円墳といった大型首長墓は発生し得なかった。

それでも鉄器による生産性の向上、国力の増大が客観的データにより証明できれば
まだ物理的ファクタとして数えることもできるだろうがそれも無い。

要するにこのdeshabariとかいうアホの言っていることには何の根拠も無い。



876日本@名無史さん:2011/11/20(日) 01:29:45.28
>>872
>ほぼ同じ時期の九州には須玖岡本、三雲、井原、平原など豪華な副葬品を有する墓が存在する。もちろん鉄器も鉄加工施設跡も出土する。大陸や半島
>との交流も行われていて文化や技術が入って来ていたことが見てとれる。


自分でわかってると思うけど、平原以後、九州の王墓は作られなくなったよね?

そこんとこは、認めるのかな?
まだ、すっとぼけるのかな?
877メ(寝る前):2011/11/20(日) 01:29:56.29
>今夜もdeshabari 氏と畿内説の人の論争が見られましたが、正直に言って
>畿内説者はdeshabari氏の書き込みの内容を理解する能力がないと思いました。
>その基本的なところ、科学的に考察するとはどういうことかという初歩的な知識と言うか識見を
>ここの畿内説の人達は持っていないということがよくわかりました。
>畿内説の人は「鉄器の豊富さが国力の増大につながる」という常識的には当然と思われることを極力
>否定したいようです(「鉄器の豊富さは国力国勢=人口に直結するようなものではない」と度々言っていました)が、
>>796を見て畿内説の人は困ったのではないかということです。

あら、考古学専門のジョーカーさん〜言われまくってるじゃないでスかw
では、私から一言・・・

鉄器と国力の関係については、deshabari 氏のおっしゃる通りで関係あるでしょうね。
当時の最先端である「鉄」を制した者が国を征すというか、当時の国力にも直結する問題。

しかし、実際は九州ではなく、
その鉄器の出土が多い北部から約500キロ離れた奈良盆地において
「権力の象徴」、「国力の決め手」ともいえる巨大な前方後円墳の築造が始まったのであり
この「事実」から目をそむけるべきではないと思う。

又、鉄器は、大陸に近いほうが物資の確保には有利で、遠方の地域は手が届きにくいという地域差がある。
878日本@名無史さん:2011/11/20(日) 01:42:02.47
>>877 改めドツボ
>鉄器と国力の関係については、deshabari 氏のおっしゃる通りで関係あるでしょうね。
>当時の最先端である「鉄」を制した者が国を征すというか、当時の国力にも直結する問題。

因果関係を逆にして、国を制したものが最先端である「鉄」得ることができたと見た方が矛盾が無い。

鉄の保有数が逆転してヤマト王権が興ったわけではない。



879日本@名無史さん:2011/11/20(日) 01:47:54.78
>>878

>因果関係を逆にして、国を制したものが最先端である「鉄」得ることができたと見た方が矛盾が無い。


これは同意だな。改めドツボは、まだ前時代の常識を引きずってる。

880メ(寝る前):2011/11/20(日) 01:53:25.66
>>878
考古学者の間には鉄の利権を求めて九州と畿内との間に倭国乱につながる争いだあったなんて
話をたまに聞くが、北部九州は畿内の管轄下にあり、鉄器は、大陸に近いほうが制したという方が自然ではなかろうか。
私が上で言った南の貝製品が良い例で・・・・
881日本@名無史さん:2011/11/20(日) 01:56:30.01
>>880 ドツボ

は?国を制する強力アイテム「鉄」を押さえた部九州が畿内の管轄下?

ナニイッテンノカイミワカンネエYo
882メ(寝る前):2011/11/20(日) 01:57:54.46
それは飛行機や電車などで、物資を数時間で運べる現在人の感覚と思う。
人が九州から近畿まで移動するだけで1カ月以上かかった当時のことを考えると
「遠方」というのがテーマの一つになる。
883メ(寝る前):2011/11/20(日) 02:04:45.01
ん?マキムクにも朝鮮半島からの砂鉄は入ってきてるはずだぞ
884日本@名無史さん:2011/11/20(日) 02:05:50.59
>>880
つまり、一大率が後の大宰府の役目をしていたと言いたいのか
885メ(寝る前):2011/11/20(日) 02:06:56.71
まったく痕跡がないのならまだしも・・・・ 

では、遅いのでねるzzz
886日本@名無史さん:2011/11/20(日) 02:26:59.19
ええと、当時、砂鉄から製鉄が出来ていないでしょ。
あと、半島から鉄を持ってくるときは原料のままじゃ不便だから
半製品として持ってきてるでしょ。

まあ、畿内の人間じゃ、なかなか手に入れられないと思うけど。
887日本@名無史さん:2011/11/20(日) 06:09:32.82
メは新打法が良い
888日本@名無史さん:2011/11/20(日) 06:12:33.75
鉄が多いから強いって発想がアホだけどな。
鉄のあるヒッタイトは、エジプトに勝てなかったし
謎の民族に滅ぼされるしw
中国でも半島でも鉄のある産地と権力のある地域が違うだろう?
889日本@名無史さん:2011/11/20(日) 07:14:10.26
「竹箭或鐵鏃或骨鏃」

鉄が十分にあったわけではない
890日本@名無史さん:2011/11/20(日) 08:39:07.33
滅んだヒッタイトに例えるなら半島内原産地の国だろう。
邪馬台国は輸入国。
89119歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/20(日) 08:48:55.34
大学教授や学芸員みたいな歴史や考古学の専門職に就いてないような
素人が邪馬台国について勉強する意味わからんww
意味ないですよ。僕みたいな国立大の歴史学科の学生ならまだちょっとは
意味ありますが。論文書いたりしないといけないし。
普通の会社員のおっさんじゃあただのオタだし、専門家よりもはるか下の
レベルしか到達できないし全く意味ないw不毛な作業。
892日本@名無史さん:2011/11/20(日) 09:01:44.70
名大にやっと受かる程度で、
俺様だけが邪馬台国問題が分かってるという
傲慢さのほうが問題w
893ローガン:2011/11/20(日) 09:14:18.54
>>891:19歳邪馬台国畿内説論者
>僕みたいな国立大の歴史学科の学生ならまだちょっとは意味ありますが。論文書いたりしないといけないし。

へえ、今時の大学は1回生から論文ですか? 私らの頃は初年度履修は殆ど一般教養だったが…
89419歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/20(日) 09:31:00.46
いえ、ゼミのほうで発表しないといけませんよ。
でもまだ論文といっても原稿用紙2,3枚程度でまとめればいいんですがw

4年生になったら卒論もあります。別に歴史の仕事してない素人のおじさんなら
おじさんらしくゴルフか釣りでもしてればいいんじゃないですか?w
アマチュア素人の書いた論文みてもただただ呆れかえるようなのばっかですしw

鉄に関しましても2世紀後半はまだ圧倒的に九州優位な状況ですが、
3世紀半ばくらいからは九州と畿内の差がどんどんなくなっていきます。
ですので北九州〜瀬戸内ルートはすでに畿内マキムク政権がおさえてたと
考えたほうが理にかなっています。
895日本@名無史さん:2011/11/20(日) 10:45:49.62
>>891 >>865 19災

無駄と言うのなら凡そ趣味と言われる殆ど全てが無駄。
ゴルフにしてもプロになれるわけじゃないし
釣りも自宅の直ぐそばが釣り場という環境でもなければ食費を浮かして元を取れると言うわけじゃないだろう

邪馬台国論争に関しては(俺もリアルタイムじゃ知らないがw)かつてのブームの中で
素人がプロに伍して戦い、ひょっとしたら日本の古代史をひっくり返せるかもしれない
…という期待があったんだろうよw

宮崎の姿にシュリーマンを重ね(もっとも巷間のシュリーマンのイメージはかなり作られたものだろうがw)
本来推理作家で門外漢であった筈の清張がプロの歴史学者を向こうに論戦を繰り広げた…

で「その時の夢をもう一度」と死んだ子の歳を数えているのが九州説とwwwwwwww

俺でもいまだにそんなこと本気で考えている人間がいるというのは信じられないんだが
ここの連中を見れば結構マジモンっぽいwwwwwww

無論現実はそんな夢がかなうような気配の欠片すらないが
それを悪のキナイセツによる学会支配によるものだと陰謀論の妄想に逃げ込んでいるのが
ここのゴミクズレベル九州説w




896日本@名無史さん:2011/11/20(日) 10:51:57.68
この九州説のじいちゃん方は岩のようなもので
もう流れに取り残されてずいぶんたつ
これが平然としてできるように
見えません、聞こえませんの自己防衛術が極度に発達した
897太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 10:53:30.11
やはり19歳とかの野郎は、ジョーカーじゃないのかなぁ??w

子供のふりして生意気すぎるし、今までこちらのコテハンを毀損したのは
ジョーカーと宿主だけだと思ったな?
となると、19歳という野郎の化けの皮をはぐと、正体はジョーカーに
なるんではないのか?w
898日本@名無史さん:2011/11/20(日) 10:55:39.66
しかし、まあ>>824(おそらくサイキバ君w)によれば 19歳邪馬台国畿内説論者 も前途洋洋だな。

こうやって2ちゃんでキナイセツを流布する工作に関わっているんだから
そりゃもう学会を支配している 悪のキナイセツ が悪いようにはせんだろうwwwwwwww

899名古屋のサガミファン:2011/11/20(日) 11:03:56.81
どうもジョーカーだのサイキバだのと何言ってるのかわからない
気持ち悪い人が多いですねここw

素人で邪馬台国にはまるおじさんはやっぱおかしな人ばっかなんだな
900太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 11:07:01.81
オマエが書きこんでるとジョーカーも書きこんでいるではないか。w

オマエ、ジョーカーだろ? とぼけないで一本のコテハンにしろ。
〜そうしないと九州説に勝てないから、マルチで撹乱戦法をやって
るのか?w
901日本@名無史さん:2011/11/20(日) 11:07:21.52
>「2chを叩きつぶす」 起業を目指す19歳の名大生@tahomatx

ここでグダグダしているカスだろう
902名古屋のサガミファン:2011/11/20(日) 11:15:15.24
ジョーカーとかなんのことかわからないと言ってるでしょ。
くどいですね。九州説に勝てないも何も九州説などはなから
眼中にもないですのでw

起業を目指す19歳の名大生とかも僕じゃないです。
僕は起業など目指してませんw
903日本@名無史さん:2011/11/20(日) 12:04:11.46
おまえは名古屋の恥だ
904日本@名無史さん:2011/11/20(日) 12:11:53.92
九州説は日本の恥だ
905日本@名無史さん:2011/11/20(日) 12:16:26.91
四国東部ー畿内ー東海が結びついただけですでに北部九州では対抗できない流れになってる
さらに卑弥呼が倭王になったために各地の首長が争って纏向詣でに来た
それが早期に前方後円墳が広まった地域
906日本@名無史さん:2011/11/20(日) 12:55:51.19
そもそも画文を公孫氏との朝貢貿易で拝した鏡と考えれば
(公孫氏を飛び越して大陸とつながりがあったとは思いにくく 倭人が半島の市場で購入してきたわけでもないだろう)
すでに3世紀前半には北部九州から瀬戸内ー東海連合に日本の中心は移動していたわけだ
さらに公孫氏滅亡に際していちはやく魏に使者を送ったのも当然の動きで
九州は指をくわえて見ている状況だったろう
さらに帯方郡をバックにして瀬戸内連合から北部九州に人が流入していった
さらに4世紀に入って力を拡大させたヤマト王権は九州に軍事的に介入し各地の土蜘蛛を平らげた
907日本@名無史さん:2011/11/20(日) 13:06:28.85
景行天皇の九州巡幸の記事がどこまで史実を反映しているのかは不明だが
4世紀のヤマト王権における九州西征のようなものはあったろう
これは大々的に畿内から軍が入っていったのではもちろんなく
地元勢力を利用したり策略や交渉を用いたものが多かったろう
そのあたりのことを象徴的に描いているのがヤマトタケルの話ではないか
908日本@名無史さん:2011/11/20(日) 13:11:17.16
記紀は8世紀の書物だから3世紀の記憶や記録は失われていただろう
倭王であった卑弥呼の記憶も失われ(故意に隠している説はとらない)
偉大な巫女であったモモソ姫の伝承が載せられているのだろう
(書紀編者も神功の事績と誤解した これは神武を古くする年代操作のためか)
ただし箸墓が卑弥呼の墓である確証はないが
909日本@名無史さん:2011/11/20(日) 13:22:39.71
はたして三角鏡が舶載の卑弥呼の鏡であるかはわからない
しかし画文ー三角鏡の画像は同一の嗜好を表しているとは言えるだろう
三角の画像にある西王母、東王父は祭祀を司る巫女王と世俗を司る男王の双支配体制の現れだろう
これが卑弥呼と男弟、モモソと崇神なのかもしれない
そしてこの三角は九州から関東までの各地に分配され
その中心地は畿内だ
910日本@名無史さん:2011/11/20(日) 13:34:08.02
これが3−4世紀の大まかな歴史の流れであると考える
ただし邪馬台国は九州の小勢力であり 
公孫氏滅亡のどさくさにまぎれて魏へ遣使を果たしたという可能性は残る
この板の九州説諸氏は満足するとは思えないが

911太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 14:02:41.44
いずれにしろ△は舶載ではなく、卑弥呼の鏡にはならない。

また女王なんぞ、相当年代記紀に記事はなく、これは卑弥呼が畿内の女王
でないことを意味する。百襲媛は即位した事実の記事は記紀にない。つまり
卑弥呼は百襲媛ではないな。
912日本@名無史さん:2011/11/20(日) 14:13:35.16
>>910

>公孫氏滅亡のどさくさにまぎれて魏へ遣使を果たしたという可能性は残る

そんなもん、ただの願望でしかない。
このさき九州説が生き残れるのは、ド素人を相手にしたマンガや小説の世界しかないだろう。
913日本@名無史さん:2011/11/20(日) 14:33:45.07
| ┏━━━┓   従軍慰安婦は反日朝日新聞の捏造でした。
| ┃借収安┃    デマだらけの報道に注意しよう
| ┃三三婦┃
| ┃○○大┃
| ┃○○募┃
| ┃○圓集┃
| ┃圓以  ┃
| ┃迄上  ┃_
\┃可   ┃ \
  ┗━━━┛  \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
http://www.iza.ne.jp/images/user/20090810/574440.jpg
914日本@名無史さん:2011/11/20(日) 15:01:28.96
畿内説が生き残れるのは、詐欺師同士の間だけだろう。
915名古屋のサガミファン:2011/11/20(日) 16:18:22.70
邪馬台国が九州なら、マキムク政権創立100周年経っても
中国には朝貢しなかったことになり、邪馬台国は卑弥呼ートヨー男王と
朝貢し続け、倭国王として認知されてたことになります。
ありえないですねw中国側も九州の弱小勢力を100年も倭国王として認知するほど
情報リテラシーがないわけではないでしょうに。
916日本@名無史さん:2011/11/20(日) 16:34:20.61
>>915

何言ってんの?中継貿易って知ってる?
917太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 16:50:36.33
ナマイキなあの野郎はジョーカー

野郎はすでに論破されている。
918日本@名無史さん:2011/11/20(日) 16:51:11.02
>>915
朝貢してこない国を叙任するわけないだろ
91990才の青年:2011/11/20(日) 16:51:56.62
>>915 :名古屋のサガミファン
>マキムク政権創立100周年経っても

マキムク政権など聞いたこともないが、君の言によればそれは2世紀半ばには誕生したことになる。
その根拠は何かね。根拠のないデタラメだったら誰も君を相手にしないよ。
920日本@名無史さん:2011/11/20(日) 16:53:50.53
畿内纏向馬鹿って自意識過剰じゃね?
強国なら中国様の方から使いが来るんだと?
921日本@名無史さん:2011/11/20(日) 18:41:56.19
もう九州脳は悪態しかつけないんだねw
922日本@名無史さん:2011/11/20(日) 18:44:14.72
伊作も世間の厳しさをよく味わったろう。
923日本@名無史さん:2011/11/20(日) 18:44:55.46
相手の悪口かいてると気分が落ち着くんです。
自分のところに被害が来ないから

by.九州説
924別格 :2011/11/20(日) 19:02:54.37
>>922
俺のは最強の邪馬台国論だ。あとは勝手に一人歩きする。
世間のバカさ加減にあきれてるところだ。

ほれ。「ドンと来い」421 の投稿から抜粋コピーまた一つ、畿内説の詐欺が発覚した。

高島氏が近畿説の批評として発言されたことだが、
2年前に巻向で発見され話題を呼んだ木造大建築物は実は邪馬台国の時代のもの
ではなく、
200年ほど後の5世紀のものであるということである。
当時、近畿説びいきの関西マスコミが舞い上がって先走り報道をしたので、
すっかり邪馬台国当時のものと誤解されているが
(近畿説の者どもはひたかくしに黙りこくっているが)、
実は柱と柱の間隔や縦横の柱の立て方は5世紀の立て方なのだそうである。
925日本@名無史さん:2011/11/20(日) 19:05:28.60
関西人ってやり方が朝鮮人そっくりだ
詐欺やインチキはいかんでしょ
926別格 :2011/11/20(日) 19:07:24.04
真偽のほどは確認中。
確認できたら論考ノートの書き換えをしなくちゃならん。

あんな建物が、「鉄器なしでできるはずがない」といえば、
石器と青銅器でつくったなどと方便垂れる奴もいったけな。
そもそも、つくられた時代が200年も違うらしいぞ。

鉄のちょうな、やりがんな、とこれを使う技術がなければ、
復元図のような建築物はできまい。板一枚つくるのは無理だし。
927別格 :2011/11/20(日) 19:09:17.82
>>925
>関西人ってやり方が朝鮮人そっくりだ
あちら方面から組織的・計画的に誘致された
労働集団の末裔も少なくないし。
928日本@名無史さん:2011/11/20(日) 19:11:09.91
詐欺ネタの頂上にしか築けない畿内説って、もう犯罪の領域でしょ!
929日本@名無史さん:2011/11/20(日) 19:12:20.31
九州ってシナやチョンの上陸地だから多いよな
930日本@名無史さん:2011/11/20(日) 19:21:18.41
チョンの本場は、大阪鶴橋。九州じゃない。
931唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/20(日) 19:59:55.07
>木造大建築物は実は邪馬台国の時代のものではなく、
>200年ほど後の5世紀のものであるということである。

そこまで考古学を否定しないと成立しない九州邪馬臺國説。
木造大建築物は古韓尺で作られている。つまり3世紀前半にそれが可能な数字は
崇神(188〜216年) 210年任那建国 末任那より朝貢
垂仁(217〜239年) 朝貢団は、珠城宮の建築に関与 ホケノ山
景行(240〜261年) 九州、関東へ兵を派遣 箸陵

932日本@名無史さん:2011/11/20(日) 20:04:17.85
いや、ゴッドハンドは畿内説の専売特許。
933太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 20:12:58.05
崇神(×188〜×216年) 210年任那建国 末任那より朝貢
垂仁(×217〜×239年) 朝貢団は、珠城宮の建築に関与 ホケノ山
景行(×240〜×261年) 九州、関東へ兵を派遣 箸陵

垂仁末では239年鏡の多出する出来事がない。つまりインチキなり。
934日本@名無史さん:2011/11/20(日) 20:27:48.69
>>924

高島氏は東遷説を否定してるが、論敵の学者の言うことを信じてるのかね?
935別格 :2011/11/20(日) 20:43:04.55
>>934
ガキじゃあるまいし。
936メ(寝る前):2011/11/20(日) 20:58:48.46
名古屋駅前のジュンク堂書店のお姉さんカワイイ人いるべ。
以前、デートに誘ったら笑ってたが、もっと強く押しとけばよかなww

まあ、それはいいとして、

>素人が邪馬台国について勉強する意味わからんww

これは、たぶん趣味だろうねえ。
釣りが好きな人が釣りの話が出来るところに行けばいいし、ギャルが好きなら女の子をナンパすればいいw
歴史が好きなら、各時代ごとに掲示板があるだろうてな話で。。。。

だから、歴史の古い部分が好きな人が、2chの日本史板という専門の場所に行って話してるだけで
勉強とか意味とか、そういうもんじゃないと思うよ。
937日本@名無史さん:2011/11/20(日) 21:00:26.83
メは、栄のデニーズでおばちゃんの相手でもしていなさい。
938日本@名無史さん:2011/11/20(日) 21:07:55.95
>>936
メ  「ぼくと今度の日曜日、遺跡でも見に行きませんか?」

ジュンク堂のお姉さん 「○○○○・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

みんなで「  」に入るお姉さんのセリフを考えてみよう。


(例)「日曜日は日本ダービーの日ちゃうけ、頭おかしいんかワレ」
   
939日本@名無史さん:2011/11/20(日) 21:14:52.93
>>938
「まあ遺跡だって笑っちゃうわこの人、埴輪みたいな顔して」
940メ(寝る前):2011/11/20(日) 21:30:37.03
なんか変なのが混ざってるねぇ・・・

気分直しにどうぞ
http://www.flipclip.net/clips/c8ceac7d1c33cf7ab16b6fa452a1c209
941唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/20(日) 21:50:58.06
高島氏は2世紀前半の大型建物は、200年後の尺度とほぼ同等だとおっしゃっている。

だからこの大型建物の時点でミマナの関与を認めるということである。
942メ(寝る前):2011/11/20(日) 22:48:37.17
仕事で疲れて書く気になれん。。。
書き込みを読むだけというか...てことで誰か宜しく〜


zzz・・・・
943メ(寝る前):2011/11/20(日) 23:23:54.61
唐松山
deshabari
19歳邪馬台国畿内説論者
別格

ローガン
太国
筑紫の民
ジョーカー
サガミハラハラ
レス長たらし毘古
944日本@名無史さん:2011/11/20(日) 23:30:44.99
レスよみかえしてたんですけど詳しいですよね><

名無しさんに質問しますが、この中で誰が知識豊富と思う?
俺的にはジョーカーとdeshabariさんが手強いと思う(伊作も)どうなんでしょうね?

さて、名無しさんに人気投票してもらおうか
945日本@名無史さん:2011/11/20(日) 23:34:40.68
ああ、「手強いと思う」ていうのは議論したらやっかいだな(強そう) ていう事
まあ、みんなお詳しいんですが・・・

人気投票宜しく
唐松山
deshabari
19歳邪馬台国畿内説論者
別格

ローガン
太国
筑紫の民
ジョーカー
サガミハラハラ
レス長たらし毘古
946日本@名無史さん:2011/11/21(月) 13:41:59.62
>>945
訂正

人気投票宜しく
唐松山
deshabari
別格

ローガン
太国
筑紫の民
ジョーカー
サガミハラハラ
947日本@名無史さん:2011/11/21(月) 18:15:30.95
>>946
あー、そこのジョーカーのエントリーは止めてくれんかね?wwww

先ず少なくとも畿内説ではレベルとして取るに足らない名無しだ。
たまにディペーダーのように言われる事もあるが、元よりそんな技術は無いしやるつもりも無い。

こんなところのディペードゴッコの勝ち負けに現実的な意味なんか無い。
リアルでは邪馬台国論争自体が終わっている。それが現実。

ディペードというのなら今出ているdesabariとかいうアホの方が余程ディペードゴッコの屁理屈コネまくり厨だ。

ヤマトは後進地域ゆえ自力で古墳を築けないといい。
先進性の指標に鉄をあげ、九州の王墓群をあげ、半島に近いゆえの舶載品の豊富さ等をあげて…

ここまでくりゃ(九州)東遷説と言うのは見え見えもいいところだがそれも言わない(苦笑
より蓋然性のある仮説の提示、対案の提示をしない。

多分過去にボコボコにされてて少しは慎重になっているんだろうがw

まあ、それならそれで言質をとりつつ徐々に囲みを狭め、真綿で首を絞めるようにして追い詰めれば良いのかもしれないが
仮にやったところで暫くしたらハンドル変えて同じような事をまたほざく…という繰り返し。散々見てきた。
(「desabari」も一体何個目のステハンやら…)

他のゴミクズレベル九州説にしても大同小異。
それを否定するなら「悪魔の証明」をやって見せなきゃならないような単なる言葉遊びの与太話が殆ど。
無論リアルじゃそんなものは相手にされない。

下らない。
948日本@名無史さん:2011/11/21(月) 19:32:05.48
あと、ゴミクズレベル、ゴミクズレベルと連呼する、
ゴキブリ・ダニ・ゴミ以下畿内馬鹿は放置ということで・・・
949日本@名無史さん:2011/11/21(月) 20:32:59.30
>>905-910は縦目かな?
950日本@名無史さん:2011/11/21(月) 20:37:00.46
>>949
なるほど、言われてみればそれっぽいところがあるなwwwww(文体だの語彙とかじゃなくて主張内容で)
951日本@名無史さん:2011/11/21(月) 20:45:26.53
>>947 ジョーカー

deshabariとの議論ではボコボコにやられてたから、恨みつらみを書き込んで鬱憤ばらしか。寂しいね。
952日本@名無史さん:2011/11/21(月) 20:48:37.07
>>951
負け犬の遠吠えの代理かwwww

じゃあお前が代わって俺を更にボコボコにすべく追い討ちかけてみるかね?w
953日本@名無史さん:2011/11/21(月) 20:50:24.69
ジョーカーは卑弥呼時代の倭国は「ゆるやかな首長連合」説で「ヤマト自生説」の信者でいいかな?
954日本@名無史さん:2011/11/21(月) 21:21:00.09
>>947
おっとジョーカー君ごめんよ
意外とナイーブナヤツナノカナwww

議論してどっちが優位なのかっていうのは第三者が決めることだし
誰が知識がアルのか第三者が知ってるというか(最近来た奴で九州説の良さも知らない畿内説が居るだろw)

てことでジョーカーは仲間外れで。
955銀河 秋彩:2011/11/21(月) 21:22:39.22
卑弥呼の「邪馬壹国(30ヶ国体制)」は、《筑紫平野》。
卑弥呼の居城は、「不彌国」・《吉野ヶ里》


  ● 「55m/倭人里」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=a1vr2bbva1a6oabfmeaa1w9tdx5adbbv2rc0o&sid=1835208&mid=19558#under-deli

平安時代の日本国・大和朝廷(梨壺)に依って、『魏志倭人伝(通称)』にも、
【倒語(とうご)や「暗号」、「(新旧)二重式読法」などが、仕組まれている】。

『魏志倭人伝(通称)』は、「55m/倭人里」を使用。《加治木 義博説》を支持。

 【古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里】
……魏使の「到」は、「万五百里の伊都(伊豆)国」まで。

  七〇〇〇里 水行・帯方郡治〜狗邪韓国(倭人支配) 
  一〇〇〇里(約55km)狗邪韓国〜渡海〜対海国《対馬》
  一〇〇〇里(約55km)対海国〜一大国【壱岐・魏の直接支配地】
  一〇〇〇里(約55km)一大国〜渡海〜末盧(国)《まつら・唐津湾界隈、松浦川〜
        厳木川を遡り、末盧国《唐津市山本か相知町辺りまで、船》から陸行に転じ、
   五〇〇里(約27.5km)「(暗号)草木茂盛、行不見前人」=【多久の道】を《東南陸行》
        〜「★伊都(伊豆)国(いづら)」・《佐賀県小城市牛津町》
《計・万五百里》=「伊都国(いづら)」=《佐賀県小城市牛津町・港でもある・魏使到着常駐》。

  以降は、倭人の「至」   「(ガラス管と剣が副葬)1002号墳」径百歩が【卑弥呼の墓】
伊都国《佐賀県小城市牛津町》ーー東行百里・不彌国《吉野ヶ里▲卑弥呼(太伯後・物部氏)の居城》
《★放射状説を採る》  / ↓\ 東南百里・奴国《大川市亦は柳川市》》
           ↓有↓ 《邪馬壹国・筑紫平野=周旋可五千餘里(275km余) 
           ↓明↓   
           ↓海↓

【以上が、(旧)『魏志倭人伝(通称)』当時の「邪馬壹国・筑紫平野」情報】
956日本@名無史さん:2011/11/21(月) 21:23:37.28
>多分過去にボコボコにされてて少しは慎重になっているんだろうがw

で、今ボコボコにされてるのは君のほうかな?ww
957あらため:2011/11/21(月) 21:31:58.12
>>955

おっとヤフーの銀河さんお久しぶり

>卑弥呼の「邪馬壹国(30ヶ国体制)」は、《筑紫平野》。

なんですか?そのぉ〜邪馬壹国(30ヶ国体制)ってwww

>卑弥呼の居城は、「不彌国」・《吉野ヶ里》

卑弥呼の居る所は不彌国なんて倭人伝の何処にも書いてありませんよ。
それになんで不彌国=吉野ヶ里になるんでしょうかねw

>「55m/倭人里」

あんた〜デタラメばっかだぁ〜ヾ(*′∇`)ノ
958あらため:2011/11/21(月) 21:42:19.79
>【古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里】

北史か・・・樂浪郡と帯方郡が設けられた所は同一場所か、近くということだね。

>……魏使の「到」は、「万五百里の伊都(伊豆)国」まで。

これは意味不明。説明宜しく
959日本@名無史さん:2011/11/21(月) 21:44:57.78
>>954
>最近来た奴で九州説の良さも知らない畿内説が居るだろw

九州説の良さ?なんだそりゃ?

とりあえず九州なら何処でもOK!

年代観、歴史背景、大河ストーリーetc 思いのままにぶち上げてOK的な自由度の高さとかか?wwwww
960あらため:2011/11/21(月) 21:52:17.00
よーし 今度は私がこのヤフーの銀河さんと議論してやろう。

こっちでもk−さんとしてるんだが、彼はなかなか返信してこないしね・・・
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle

まあ、私はジョーカーとは違ってブザマにやられないのでw
ジョーカー君 畿内説の御手本を見せてやるからおとなしく観戦してなさいw
961あらため:2011/11/21(月) 21:56:46.36
>>959

ん?ジョーカーかな?
なんか君〜desabariさんにボコボコに言われて半泣きになってない?
大丈夫ぅ?w
962日本@名無史さん:2011/11/21(月) 22:12:55.85
>>961  改めドツボ

相変わらず外野から下らない茶々入れて小石投げるが如きつまらない事をする奴だなあ…

下らない野次を飛ばすならお前がdeshabariの後始末つけてみるか?w
deshabariのアホは鉄器による先進性の説明に窮して

>>872
>鉄器の有無は重要なファクターであるが、それだけで弥生時代のヤマトの後進性を語っているのではない。
>ほぼ同じ時期の九州には須玖岡本、三雲、井原、平原など豪華な副葬品を有する墓が存在する。

と弥生王墓を持ち出しているがそもそもこれが古墳の出現に如何に資するか説明していない。

弥生王墓のある九州に古墳は出現しておらず
弥生王墓のない畿内に古墳は出現した

前者から考えれば弥生王墓の自然発展的なものとして古墳を考えるのは難しいだろう。

何故に古墳出現の条件に弥生王墓を求めるのか?
(実は同じような質問を 森村伊作 にもしたが返答はなかったw )

東遷説というウルトラCでも持ち出すか?w

さあ鮮やかに論証して見せて俺如きはボコボコにして見せろwwwwww


963日本@名無史さん:2011/11/21(月) 22:45:13.27
邪馬台国には大古墳がたくさんあった、なんてどこにも書かれていないから、
必至に幾多の大古墳を論じても、邪馬台国は見つからないよ〜!
964あらため:2011/11/21(月) 22:54:41.93
>>962)↑何を言ってるのかさっぱりだがw

>下らない野次を飛ばすならお前がdeshabariの後始末つけてみるか?w

おk、おk(泣きながら僕の後始末を誰かしてってか?w)w

私は考古学専門ではないので彼と議論がかみ合うかわかりませんが、
横で観てるとローガンさんも彼とやりたがってるようで・・・
deshabariさん御本人に私とローガンさんどっちか御指名して貰いましょ。

なぜ御指名かっていうのは・・・
レスをみても分かるように畿内説のジョーカーさんもう半泣きだからwwwwwwwwwwwwwww
965日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:03:30.61
なんだ、deshabariの首に鈴をつけられる畿内説の鼠は居ないってかw
みんなで泣きべそかいてりゃいいじゃんw
966日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:04:35.67
>>964 改めドツボ

おいおいおい、結局他人任せかよ。

お前がdeshabariが優勢とジャッジを下したならそれなりの根拠があるはずだ。
それを出してくれば俺をボコボコにできるって理屈だぞ阿呆w

王墓の話が不味かったらもっと前に戻して鉄器の話にするか?

本当下らない奴だな。

これは畿内説とか九州説とか関係ない話。


967唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/21(月) 23:05:01.12
>須玖岡本、三雲、井原、平原など豪華な副葬品を有する墓が存在する。

この王墓?が3世紀前半までであるから、無主暦年が証明される。

>弥生王墓のない畿内に古墳は出現した

倭人伝その後で説明できればよい。
968太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 23:17:24.57
すでに宿主空年は以下↓から、ボコボコに論破されている。

<大中臣の下命>
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 Cπr**A=@13.09733552923255EDG」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
上式の○数字から〜
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は真物ではない。上が本物である。崇神即位年≠188年
969あらため:2011/11/21(月) 23:18:17.11
誰か〜涙目で後始末を頼むジョーカーと
最近存在感のあるdeshabariさんの議論をジャッジしてやれ〜w

公平にだぞ、公平にぃ〜〜〜wwwwwwww
970日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:20:17.99
また与太国が『天津金木』とかデタラメをほざいているようだが

オレサマが真実を教えてやろう

御間城入彦五十瓊殖…この名の中に数字が隠されている!

 御間=三巻き=3
 五十瓊殖=50

 合計53

これを文字通り「三巻き」で3倍する

 53×3=159

更に崇神が祀った天照大神と倭大国魂の二神にそれぞれこの数字を捧げる=2倍にする。

 159×2=318

そう、崇神の没年は318年が正しかったのだ!

ちなみに「53」と聞けば東海道五十三次を思い出す人間も多かろうが

江戸と京を、生と死、この世とあの世を分かつが如く
「53」と言う”魔の素数”とでも言うべき数字に合わせ、宿場を作ったのが実は天海僧正のプランだったと言うのは
知る人ぞ知らない事実だったりなかったりする!!

参考)『古代 秘数術 外魔鳥亞の神秘!』 民迷書房
971日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:25:14.48
>>969

「wwwwwwwwww」なんて書くやつから指図を受けたい奴はいないと思うぞ。
972太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 23:27:02.65
それじゃぁ、古代マヤ暦のほうが合うまいが・・・。ww
これがあわなきゃぁダ〜メ。天津神算木には古代ヤマトとマヤの基点年
がある。オマエのではそれがない。これから即興で創作するか〜?
[続き] 天津神算木(天津金木)

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**は冪、r=3)

天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097

B.C.3113年 9/7 マヤ文明元年 基点日 (天文暦)

と想われる?それは以下の事由による。

@説 B.C.3114年 9/8 マヤ文明元年 基点日(グレゴリオ暦)
   「マヤ文字解読辞典」047頁 マイケル・D・コウ著 創元社刊

A説 B.C.3114年 9/6 マヤ文明元年 基点日(グレゴリオ暦)
   「神秘の王朝 マヤ文明展」234頁 八杉佳穂述 TBS 国立科学博製作

天文暦のB.C.3113年は結局グレゴリオ暦のB.C.3114年であることから、
@とAと、分断の天津神算木の誤差は1日である。だから真の同元年
基点日は 9/7 であろう。      〜続く
973太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 23:29:59.02
>>972 [続き]
前説の場合
 9/7が着座の日(マヤ暦での0日)になり、9/8は1日になる。
 着座の日の翌日の1日が基点になっている。

後説の場合
 9/6が着座(同上)の日になり、同日が0日だということだな。だから
 1日は 9/7と なる。
 着座の0日を基点としており、翌日が1日となる。

いずれかが真ということだ。

天津神算木の等号の両辺をまたいで年代のB.C.3113年が成るが、
左辺のほうは3のみである。このことはこのマヤ文明元年が三輪(半径
3の円)に象って始原を決めたということを示唆している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前説(9/8説)は9/7をマヤ暦の着座(チュム)の日とした場合であり、
この日を0日とみなせば翌8日が第1の日となりこっちを基点日とする。
天津神算木のほうは着座の日(9/7)を示している。

後説(9/6説)は同日を着座の日として9/6を0日と為しこれを基点日
とするわけだが、第1日たる翌日の7日は0でなく第1日という始めの数
の日ともとれるから、天津神算木では第1日のほうを示して7日とし、
後説は0日基点なのである。 いずれかが真であるのだ。

天津神算木には古代ヤマトと古代マヤの基点年がある。だから権威が
あるんだ。
974日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:31:16.76
>>972 犬国

は?

なんで基本20進法のマヤの文明に10進法が出て来るんだ阿呆。

975太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 23:32:47.25
これを ↓ 見ろ。

マヤ(真矢)−D→−−−−−−−−−−−−−−−−→◎ヤマト(矢的)
976日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:33:55.76
>>975 犬

マヤ ヤマト ってしりとりか?w
977太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 23:34:38.58
10進だって20進だって、数字が合えばよい。
オマエ、知らないのか〜?
古代マヤ暦には20進でなく18進法のもあるんだ。能書きはけっこう。ww
978太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 23:36:14.41
オマエまだ知らないのか?ww

 エジプトマヤ⇔ヤマトフジエ(大和富士絵)
979ひとぶた:2011/11/21(月) 23:36:22.88
>>966

> おいおいおい、結局他人任せかよ。

私で好かったらお相手しますよ。

de・・氏の基本主張って、ヤマト王権外部主導説でしょ。
それ以上でも、それ以下でも無い。
それも、王権成立前の大和盆地の風情が貧相だってだけで仰ってるかのように見てましたが。
そこから導かれる結論が、「大和自生説は成立しない」、
連合説なんてものは、自生説の改造版くらいの認識で、ハナから眼中に無い。
つまり、具体的な論点が無いので、議論に為らなかったのかなと。

で、例えばですが、大型墳丘墓築造勢力の基盤は自生か?
技術だけが、外部から取り入れられて、
そこに祭られる人物は、地元じーちゃん、ばーちゃんだったで善いのか?
先ずは、お考えを。
980あらため:2011/11/21(月) 23:38:12.47
なるほど、なるほど・・・
今、ジョーカーとdeshabariさんの議論を読みなおしてるんですが
deshabariさんは〜畿内説の考古学的にみて、非常に痛いところを突いてきてるってことね。
981太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 23:39:37.14
ジョーカー
夜がふけて来た。質問があるなら書きこんでおけ。zzzzzzz・・・・・
982966:2011/11/21(月) 23:40:06.39
>>979 ひとぶた

良い。と言うか被葬者を外部から引っ張ってこなきゃならない理由が思いつかない。






983ひとぶた:2011/11/21(月) 23:41:01.88
>>980

> deshabariさんは〜畿内説の考古学的にみて、非常に痛いところを突いてきてるってことね。

いえ、連合説的には、痛くも痒くもありません。
今までのところ援護射撃だけです。
984日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:41:20.63
>>980 ドツボ
>非常に痛いところを突いてきてるってことね。

痛いところってどこかね?

985ひとぶた:2011/11/21(月) 23:43:05.02
>>982

>被葬者を外部から引っ張ってこなきゃならない理由が思いつかない。

いや、「地元の・・・」つーのは、三代前からのくらいの意味にしといて
986982:2011/11/21(月) 23:48:33.63
>>985 ひとぶた
それでも同じ。
要するに自分を三代前祖父母の代の人間を大型首長墓に祀るに何か障害があるのか?
987メ(寝る前):2011/11/21(月) 23:50:11.98
>>984
>要は「奈良盆地の弥生遺跡の状態を見れば後の時代の大型古墳を作れるような大勢力が自生できたとは考えられない」
>と私は言ったのである。(>>369)

あと鉄器W
988メ(寝る前):2011/11/21(月) 23:56:36.98
たぶんdeshabariさんは「共同墓地」ばかりの奈良盆地に対して
北部九州は4大王墓などがある てなことだろうが・・・・
989日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:58:02.50
>>962
なんか話がおかしいんじゃない。deshabari氏とジョーカー氏の論争の発端はdeshabari氏の
「王墓などの遺跡がある弥生時代の九州に比べて王墓もなく器具類出土品も縄文時代のものとさほど変わらない弥生時代のヤマト
に大型前方後円墳を築ける勢力が自生したとは考え難い(要約)」という書き込みではなかったか。

そして途中で鉄器の話になって、ジョーカー氏の
「鉄器の豊富さが国力につながったような事を示すものは無い。」に対してdeshabari氏は
「鉄器の国力に与える影響を評価するためには鉄器が入る前後の人口や耕地面積などの変化が分かるデータが必要であるが、その
ようなデータは現在の考古学資料には揃っていない。したがって、考古学資料を基に”鉄器の豊富さは国力の増大につながらない”と
言うのは間違っている。考古学資料では判断できないのである。となれば常識的に考察するしかない」と答えている。

最近ではジョーカー氏が
「鉄器が国力を押し上げると言うことが証明されれば 鉄器の乏しいヤマトは後進地域といえるだろうが
鉄器導入”後”の先進性を証明できなければ そもそも鉄器導入”前”のヤマトを オクレテイルだの評価がしようが無い。
「オクレテイル」と断じるに鉄器の不足を挙げるなら 鉄器によって「ススンデイル」となる事を証明しろ阿呆。」

と取り乱した(阿呆などとコドモの喧嘩なみの書き方)発言をしたのに対し、deshabarisi氏は
「鉄器の有無は重要なファクターであるが、それだけで弥生時代のヤマトの後進性を語っているのではない。
ほぼ同じ時期の九州には須玖岡本、三雲、井原、平原など豪華な副葬品を有する墓が存在する。もちろん鉄器も鉄加工施設跡も出土する。大陸や半島
との交流も行われていて文化や技術が入って来ていたことが見てとれる。
それに対してヤマトの弥生遺跡には王墓と見られるようなものが無く、大陸や半島との交流を示す物品の出土もほとんど無い。工具は石器であり、縄
文時代からさほど進歩しているとも思えないほどである。」と冷静に議論の流れと本筋を外さず答えている。

どう見てもジョーカー氏はdeshabari氏と対等に議論できる器ではないようだ。


990日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:58:09.17
>>987 ドツボ
何を出してくるかと思えば…
要するに言われて初めて読んだのか…

痛いところも何も最初からの争点そのものだが…

大勢力と言うのを具体的に国力=人口とするなら
そもそも畿内の人口が極度に低いと言うようなデータは無いし
逆に先進地域として想定しているであろう九州が他地域より抜きん出て人口が多いと言うデータも無い。
また古墳時代に入って大型古墳が築かれるようになった時点で人口が急増したような話も聞かない。

話を最初から説明させるつもりか?阿呆。

いずれにせよ何処も痛くも痒くも無い話だ。


991ひとぶた:2011/11/22(火) 00:05:37.26
>>986

> 要するに自分を三代前祖父母の代の人間を大型首長墓に祀るに何か障害があるのか?

つまり、畿内V期くらいのヤマト勢力が、自立的に前方後円墳祭祀等を取りれるとともに王権化したと言うことでしょうか?
せいぜい「特定家族墓」と呼ぶのが限界の墓制と古墳祭祀との激変は「気にはならない」と。

992日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:07:20.96
>>989
引用をダラダラ並べただけで何が言いたいのか分からないが

鉄器の影響を計る為の 資料=集落や田畑跡 が将来的にどうなるか分からない
今は判断できるものではないと言うのなら

鉄器そのものも同じ。

九州に大集落が相次いで出てくる可能性があるなら
畿内ヤマトからどっさり出てくる可能性もあるだろうと言う話だw

鉄なら大きなインゴットが何個か出てくれば統計数字も大きく変わる。

その点で既に自己矛盾、アホの地爆劇。

どの道リアルで鉄器が豊富だから人口に関して大きく下駄を履かせましょう…なんていっている奴はいない。

いたら教えてくれ。


993日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:09:25.23
たしかにこれまでの経緯は、
>>989さんの指摘どおりだったね。
994日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:12:01.89
倭人伝にも出てくる弥生期の鉄器は、九州のほうが圧倒的に多いな。
>>992は勘違いしてるね。
995日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:15:13.21
>>991 ひとぶた
じゃあその外部からやってきた被葬者の更に前
何れ何処かの時代で大型首長墓に埋葬された人間がいると思うが?

996ひとぶた:2011/11/22(火) 00:20:40.90
>>994

鉄器の話は水掛け論になりますね。

古墳時代になって鉄が畿内に集まりだすのは事実です。
富の集約が王権成立の前提だと仮定すると、鉄も富の象徴かな。
つまり、富の集中化のメカニズムの立証をと呈示されればそれまで。
鉄が先か、王権が先か、卵が先か、鶏が先か・・・か。
997992:2011/11/22(火) 00:23:30.89
更に「鉄器の量」についても豊富・貧弱なんてのはあくまで地域間で比べての相対的なもの

じゃあ九州の鉄の量が社会に大きく影響を及ぼすだけの絶対量があったのか?

その辺の検証が全く無い。


998日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:28:48.74
鉄器は、一般的に社会を豊かにするということまで、否定しちゃうわけね?
999メ(寝る前):2011/11/22(火) 00:30:13.03
>>990
馬鹿だね〜ジョーカーは・・・ハッキリ言って痛いよ
てか君は弱いw
同じ畿内説のジョーカー君が頼りないので、次スレでは私がdeshabari氏の相手をしてやろう
1000日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:31:16.19
>>998
豊かな社会に鉄器が多くあるということと
鉄器が社会を豊かにするということは違う。


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