前スレ↓
継体天皇について執拗に語ろう
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286422874/ 謎が謎を呼ぶ大王、継体天皇専用スレッドです。
応神五世孫って本当?息長氏なの?
なぜ何度も王宮を移したの?
そもそも出身は越前?近江?それとも河内?
なぜ任那四県を百済に割譲したの?
磐井が乱を起こしたわけは?
どの崩年が正しいのさ?
阿蘇ピンク石ってよく聞くけど?
安閑宣化と欽明の二朝並立説ってどうよ?
他にもいろいろ論点はあるけど、気軽に討論してね!
ただし学問板住人らしく分別あるレスを心がけましょう。
マルチやスレチやコピペはスルーで宜しう。
では、どうぞ。
現時点で前スレは986
全て埋まってから書き込みましょう
3 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 19:44:51.93
>>1 何度も王都を移動させたのは、継体天皇に限ったことじゃないよw
でも記紀による限り、5,6世紀の大王の多くが一代一宮だろう?
だからこそ、「○○宮御宇天皇」という呼称も成り立った訳だし。
五世紀までは将来天皇家になる資格のある王のようなものが日本の各地にいただろうな。
しかし、六世紀になるとはっきりといまの天皇家が超越的な姿をあらわしてくる。
天皇でいえば継体天皇ぐらいからだな。
しかしこの時代はまだ内乱続きだから天皇権が安定したというわけではない。
6 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 08:57:50.63
嫁さん尾張の女。
7 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 09:15:33.26
>>5 いや、天皇を神格化して一系に絞ったのは天智・天武あたりじゃないか?
それ以前、例えば蘇我氏なども天皇になる権利を持った王だった
>>1さん
乙です!
みんな、スレ立てしてくれた人にお礼くらい言えよ!
卑しくも学術板の住人だろ!
プライドくらい持てよ!
また糞スレ立てんな、カス
10 :
1:2011/10/19(水) 15:49:15.42
>8
いやあ照れます
ありがとさんです
>9
2chらしい謝意の表現だと曲解しておきます
ボクのような歴史のド素人でも取っ付きやすい
興味深い話題だと思いますよ
正統な継承なのか新王朝なのか
全くの新朝なのか旧勢力の巻き返しなのか
考えてるとワクワクしてきますね……
ではどうぞ
古代は有力豪族の輪番制だった大王の地位が
継体ぐらいの頃にはすでに、現天皇家の血統に
固化してしまっていたのではないだろうか?
応仁5代の孫と言う表現が、後代の朝廷による王統断絶のための保険のように思う。
5世王にまで即位の可能性を残しておけば、天災疫病争乱怖いものなしだから。
13 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 17:02:42.33
>>11 輪番制ではなく、祭政両統制な。
律令体制の時でも、その形跡が残っていたよ、
太政官と神祇官の祭政二元体制。
中臣氏はその両方を掌握し、太政官を握るものが藤原氏を名乗り
神祇官を握ったほうが大中臣氏を名乗った。
これは、中臣氏が、ヤマト王家を参考にしたと思われる。
ヤマト王朝初期も、祭政の二元体制で
尾張氏の先祖が祭祀を掌握し、天皇家の先祖が政治を掌握した。
しかしながら、途中、天皇家の先祖が尾張氏から祭祀の継承も奪おうとしたので
倭国大乱が起こった。ちょうど、欠史八代のあたり。
権威と権力がわかれていたってことはあるだろうな。
天皇は政治的権威、それ以上に宗教的権威だった。
なんといっても神主の親玉だからな。
天智天皇と天武天皇は例外的に中国的皇帝に近い人だったけどな。
15 :
13:2011/10/19(水) 17:13:16.24
その倭寇大乱を起こしたのが、
ミマツ彦(孝昭天皇)のだろう?
17 :
13:2011/10/19(水) 17:21:26.68
ミマツ彦の妃は、倭王だった天忍男命の王女の世襲足姫命で、
その間に産まれた長男の天足彦国押人命に
正当な倭王の祭祀を継承させようとしたとか。
つまり、母系継承。
それに対して、天忍男命の男系の親族が激怒し、倭国大乱が起こった。
怒ったのは、建斗米命あたりか?
彼は天戸目命の嫡子。
19 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 20:47:20.41
継体は大王の女系の子孫で、大王の外戚で、大王の娘を后にした。これは確実。
父系の子孫かどうかはわからない。応神の実在自体が怪しい。
20 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 21:15:47.80
とりあえず、
・オホト王は越前・近江一帯に勢力を持つ地方豪族。
・オホト王の母方の先祖はイクムネリヒコ大王(垂仁)。
・オホト王の父方の家系はオシサカオオナカツヒメ(允恭后)を出した前王家の外戚。
・ワカタケル大王(武、雄略)の死後、倭王権は実質空位状態の混迷状態。
もう、これで十分だろ。
つまり、
母方で4世紀頃の三輪王権の流れをくむ、近江・北陸の地方豪族のオッサンが、
河内王権との外戚関係を理由に、ワカタケル死後の大王位に推挙されたということ。
応神5世の孫?
んなわけねーよw
推測の域を出ない場合、文献を重んじるしかないね。
怪しい部分だけを重視し、きちんと
「五世の孫」と書いてある部分を軽視するのは恣意的だ。
同一文献の取捨選択の権利がいったい誰にあるというのか?
母系の血統は機能しないはずだよ。
それに外戚の血縁者など、それこそ無数にいただろ。
武列の死後、武烈の系譜の三世王、四世王がいないのは不自然だから
恐らくいたのだろう、だから継体はそれら武烈の系譜の王族を
滅ぼして王になったはずだ、という主張をした者がいたが
それなら外戚の系譜を引く者など、継体のほかに
星の数ほどいたはずで、そのなかで継体に王位継承が求められた、
というのは、彼が王族である場合以上に不自然ではないか。
やはり遠くとも継体が武烈の男系の系譜に
かろうじていた人物と捉えたほうが自然だ。
「母系相続があったはずだ」という発想は
継体が王家の男系であった、という発想以上に不合理なものだ。
その前提を崩した議論は説得力がない。
継体非男系論が奇異なのは
継体の男系相続を不合理だと主張しながら
(彼らが)男系の系譜を相続していないとする継体が
王位を継承することになった不合理を問わないことである。
日本語で
25 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:04:16.37
倭王武以前だって、男系の世襲王権が確立していたわけではないだろう。
4世紀の三輪王権だって、記紀の系譜どおり男系父子相続だったわけではない。
ミマキ、イクメ、オシロワケはともかく、ワカタラシやタラシナカツは架空の王だし、
大和地方の古墳群からも、複数の王家の存在が想定できる。
そのあとの河内王権にいたっては、明らかに別系統の王権。
河内王権内部だって、讃・珍の系統と済・興・武の系統は異なる家系と考えられる。
仮に大空位時代にオケ・ヲケの播磨王家があったとしても、これまた別の家系だろう。
要するに、継体以前の大王なんて、有力豪族の回り持ちだったってこと。
オホド王は母方の縁者だが
そうした血縁とか関係なく大王になった
その可能性を
>>22-23が勝手に無視してることは分かった
27 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 00:01:25.63
たしかに五世の孫では誤魔化しにくいなw
うそだと周りの豪族が納得しないだろ?
劉備玄徳は何世ってことになってたっけ?
28 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:00:44.44
>>25 おまえの論には、何の説得力もないよw
持ち回りなら、普通に持ち回りだったと書くわw
29 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:02:40.60
>>27 5世程度ではごまかしがきかない。
ちなみに有力候補は継体だけではない。
仲哀天皇の6世孫も有力候補だった。
でも、応神天皇の5世孫の継体が選ばれた。
30 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:05:05.13
倭彦王だな。
仲哀天皇の5世孫だな。
でも、家系の近さから言ったら、継体のほうが
応神天皇の5世孫だから近い罠。
31 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:10:05.85
>>27 家系図なんて勝者が勝手に書き換えられるものなのに
今の天皇家は神代から直系相続されてきたと思ってる?
兄である宣化天皇に男子があったのに前王権の血を女系で引く
欽明の系統に皇統が移ったのもそれを裏付ける
32 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:13:06.73
継体天皇が即位しても、近江や越前の豪族たちは
ヤマト王朝の中央政界に進出できてないんだよなw
相変わらず、大伴氏とか物部氏のような
ヤマト王朝の中央政界の豪族たちが実権を握っている。
完全に担がれ。
こんな状態で新王朝説なんて無理ありすぎだろうw
>>31 おまえの論理はむちゃくちゃだなw
33 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:25:29.41
>>31 直系相続されてきてないだろう?全然。
少なくとも、皇室の系図を見る限り
皇祖ニニギ命自体が、父親の天忍穂耳命の跡目を継承できていない。
天忍穂耳命の跡目を継承できたのは、長男の天火明命のほうだろう。
二男のニニギ命のほうは、九州高千穂に飛ばされたんだから、
ヤマト王朝の完全な傍系一族。
しかも、ニニギ命の男系子孫の中でも、現在の皇室は傍系一族。
ワカミケヌ命(神武天皇)は、ニニギ命の男系子孫の中でも傍系の出身。
ヤマト王朝の傍系の傍系の四男坊だよね、ワカミケヌ命は。
また、ワカミケヌ命(神武天皇)の男系子孫の中でも
現在の皇室の系譜は傍系の系譜。
特に注目されるのは、ミマツ彦(孝昭天皇)の子供で誰が本来の嫡流だったか。
どうみても、長男の天足彦。
ただし、彼はもともとヤマト王朝の宗家だった尾張氏の先祖の養子にしようとして
ミマツ彦は自分の跡目には、二男の倭足彦のほうを継承させたんだろう?
35 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 07:18:58.09
後世に足利尊氏が征夷大将軍になったのと似てるかも
足利家が源氏だから将軍になったわけじゃなくて
権力を握ったのが源氏の血縁だったというだけ
源氏じゃなきゃダメって意識は少なくとも徳川時代ほどはなかっただろう
36 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 08:23:36.29
>>32 逆に継体が本当の王族だったら一族郎党全員天皇の実の子孫なんだから
大和に一緒に連れてきて重要なポジションにつけただろ
継体が地方王だったからこそ手白香皇女への種付け馬扱いされてぽいされ
大和から遠い摂津に葬られたんだよ
手白香皇女の墓は大和にあるからね
37 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 08:24:46.31
38 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 08:28:23.13
>>35 征夷大将軍の歴史
大伴氏→坂上氏→文屋氏→源氏→藤原氏(摂家将軍)→皇族(宮将軍)→
護良親王→足利氏→コ川氏
この板の人間なら当然だと思うが鎌倉時代以前は征夷大将軍が源氏でない時代のほうが長かった
征夷大将軍が源氏だなんて徳川家康が捏造家系図作ってから始まったこと
39 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 08:29:05.06
40 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 08:38:49.42
>>35 河内源氏の宗家が鎌倉三代で滅んだ後、河内源氏の宗家的存在が足利氏であることは
衆目の一致するところで、北条氏もしきりに婚姻関係を結んで警戒しつつも敬意を持って処遇していた。
北条氏の政権が行き詰れば武士の統領としてかつがれるのは血統からして当然。
天下構想のさらに背後に、一種の信仰として用意されていたのが「源平交替思想」という伝統的な歴史観であった。
源氏と平家が交替して天下を取るという単純な史観であるが、武士のあいだではこれは『太平記』の頃から信じられていた思想であった。
清盛の平家、頼朝の源氏以来、北条は平家、足利は源氏であったから、次は伊勢平氏の早雲が天下を取るのは当然だという理屈になる。
彼がとくに北条を名のることにしたのも、この平氏のつながりが基礎にあったことはいうまでもなかろう。
この理論によれば、藤原氏の裔である上杉家など取るに足りない敵なのであって、早雲はことさらにそのことを家臣たちに聞かせて励ましていたという。
素朴な理論だがこれも一種の世界観なのである。
この思想はのちに信長や家康にまで引きつがれて行くのであるが、その際、誰よりも彼ら自身の行動がこの思想に縛られていたのである。
信長は平氏らしく、家康は源氏らしく自分自身の行動を枠づけていた。
そういう枠組みがなければ彼ら自身の決意が揺らぐのであり、そういう不安な時代が南北朝以来ふたたび武士たちのうえに忍び寄っていたのである。
42 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 11:43:47.87
>>38 徳川氏の場合は、源氏長者の地位がほしかったら
源氏だということにしたんだろう?
本来の家系は、陰陽道の名家だった鴨氏の末裔。
その先は、大田根子までつながる。
豊臣秀吉のほうは、近衛家の養子かなんかになって、藤原氏長者になっているし。
征夷大将軍=源氏ではないけど、足利家が天下を取るのに
清和源氏・河内流の最大勢力だったことは大きく影響しているだろう。
鎌倉幕府以降、河内源氏の家系の意味が増大していたから。
とくに、鎌倉幕府の経緯が、三代で源家が断絶、外戚の北条家が政権を掌握したから
打倒、北条家とする場合には、
河内源氏が旗頭にはうってつけだったわけで。
43 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 11:51:38.92
神功皇后、継体天皇、天武天皇
いずれの皇位継承に関しても
尾張氏の支援が大きく関係している。
尾張氏は、ヤマト王朝の始祖のアマテル(火明命)の嫡流の子孫であり
天孫の氏長者ともいえる家系だから。
政治的には、とっくに、ヤマトトトヒモモソ媛命の時に
神武皇統が倭王になっていたけど
あいかわらず、祭祀の継承からみたら、尾張氏こそが天孫の嫡流だったんだろう。
でも、最後の天武天皇が、それを葬り去ろうとした。
天孫につながる始祖については、言ったもん勝ちみたいなとこがあるからな。
権威づけのためのでっち上げなんだろうが、実力が担保されると本当になってしまう。
その程度のものだ。
古代史族の家系がどこからきているかという話しは、話し半分でいんじゃね。
46 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 12:19:33.39
47 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 12:48:05.17
>>44 でっちあげと主張するのは飽きたよ。
実力通りで家系を創作するのなら
記紀などで、藤原氏はもっと名家の家系にしただろうに。
藤原氏の先祖の記述を見たら、中堅クラスの出自だよ。
大伴氏、蘇我氏、物部氏などよりも、圧倒的に格下扱い。
記紀を編纂した時代、藤原氏の権力がすごかったが
記紀の内容で見たら、藤原氏の先祖たちは微妙。
藤原氏に有利な記述だといったら、大化の改新の解釈ぐらい。
記紀編纂時は、律令体制導入にすすんでいたが、
少なくとも、大化の改新の時は、蘇我氏が律令体制導入派でリベラル派
中臣氏が反律令体制導入派で守旧派。
それが、記紀では、なんとなく、中臣鎌足のほうが改革派みたいな論調になっている。
でも、よく読めば、どうみても、蘇我氏が改革派、中臣氏が保守派。
48 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 12:53:40.93
尾張氏というのは、中央政界では殆ど存在感がない。
でも、中央政界で皇位継承争いが激しくなると
かならず、それに介入し、重要な役割を示す。
三種の神器の天叢雲剣も、本物を保持していたのは、尾張氏。
神武皇統が保持していたのは、そのレプリカ。
>>47 藤原氏は先祖の出自より、天皇家と姻戚関係をがっちりつくってタイアップすることに興味があったんだろう。
てか、藤原氏が最盛期となるのは、もっと後代。
記紀編集のころは、大したものじゃない。
鎌足が有名になった程度。
51 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 13:25:24.80
>>47 鎌足は藤原氏の祖だろ
鎌足以前の系図なんてあるのか?
>>42 足利尊氏は源氏だったから旗頭になれて天下を取りやすい立場にいたことは確かだが
源氏だったから将軍の座が転がり込んだわけではない
もし別の人物が天下を取ってれば尊氏は将軍になって幕府を開くことはなかった
それと同様に継体帝も自ら実力をつけなければ大王の座が転がり込んでくるとは考えにくい立場で
その実力を築くのにもしかしたら皇統があってそれが間接的に役立ったという可能性はあるが
それでは皇統が直接的要因になったという意味にはならない
日本書紀、神代紀によると、中臣氏の先祖は天兒屋命。
藤原氏の先祖には記述がない。藤原氏の先祖は中臣鎌足なので。
中臣氏は、祭祀を仕切る家柄だったから
政治よりも宗教関係に近い家柄だった。
だからこそ、外来宗教の仏教に反対した。
しかしながら、のちにその方針を変え、仏教も認めるようになる。
また、中臣鎌足は家系的には神祇官になるはずだったけど、
それを辞退し、政治のほうに進出していく。
結局、中臣鎌足の子孫が藤原氏を名乗り政治の世界を掌握し
弟の中臣国足の子孫が大中臣氏として神祇官を掌握する。
56 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 13:55:49.01
蘇我氏の天下になってからは、蘇我氏がしょって立つイデオロギーが仏教だから、いつまでもこれに抵抗していられない事情がある。
そこで形としてはやむなく受け入れたのだろうが、これは天皇家のしたたかさの最初の証明だったといえる。
神道の親玉が仏教を受け入れたんだからな。
何度も言うが、倭国では祭祀と政治が分かれ、並立していた。
中臣氏というのは、祭祀を仕切る重要な家系で
実際の政治のほうからは遠い家系だった。
それを変えたのが、中臣鎌足。
一方、祭祀のほうでも中臣氏は神祇伯を握り続けた。
結局、兄の鎌足の男系子孫が藤原氏として太政官を掌握
弟の国足の男系子孫が大中臣氏として、これまで通り神祇官を掌握した。
ちなみに、この鎌足、国足の何代か前に分かれた一族に
鹿島神宮の大宮司家になった中臣氏がおり、
そちらのほうが、中臣氏本来の嫡流。
また、中臣氏の先祖で、モモソ媛命、崇神天皇時代に活躍した人物に
梨津臣命というのがいるが、
彼は、西暦240年代ぐらいに中国の洛陽に外交官として派遣されている。
中国の史書の魏書には、倭国の大夫の難升米として、記述されている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm
神祇官の家系だったが中臣氏が
太政官と神祇官の両方を掌握
兄の家系が太政官を掌握し藤原氏を名乗り
弟の家系が神祇官を掌握し大中臣氏を名乗ったが。。。
これと似たようなことが、ヤマト王権の創成期にもあり
その時は、官僚ではなく、トップの王自体が
祭祀を行う形式上の倭王と、実際の政治を行う男弟があり、
兄の火明命の家系が祭祀を、
弟のニニギ命の家系が政治を行い、一族で祭政を分担していた。
中臣氏も、それを参考に、祭政の両方を
最高位の官僚として掌握したように思う。
59 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 14:06:47.20
>>56 そのころになると日本の国としてもそろそろ仏教が必要になってきた。
東アジアの情勢をみると日本はいつまでもまとまりのない国のままではいられない。
東アジアのどの国もがそうであるように、中央集権国家を成立させなければこれらの国からの脅威をまぬがれない。
しかし、それぞれの部族がそれぞれの神様を持っているようでは、中央からの威令は行われないから、この際、
部族信仰を超えた普遍宗教である仏教を興隆させることにしよう。
こういうきわめて政治的な理由で、仏教の本格的な受け入れが始まったんだと思う。
これが聖徳太子の時代だ。
>>59 中央集権体制がどうかは、それは解釈の違い。
大陸諸国から見れば、島国である日本は、幕末まで連邦制国家だよ。
仏教の導入は、先祖の祭祀を重視する神道から
家系ではなく教義や信仰で普遍的に縛る仏教のほうが
ヤマト朝廷には好都合だったんだろうね。
それまでは、占いとかで政治きめたりしていたしねw
また、仏教の導入で、天皇家と尾張氏の関係も微妙になったと思うね。
尾張氏が天皇家よりも優越に立てるのは、
家系上の祭祀の面も大きかったと思うから。
でも、仏教思想では、家系とか祭祀とか関係ないしな。
61 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 14:57:47.53
>大陸諸国から見れば、島国である日本は、幕末まで連邦制国家だよ。
それはないな
62 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 15:09:21.53
古く継体天皇のときに北九州の各地に屯倉を置いたという記事が書記にある。
このころこそ、日本というものはまだ統一国家とはいえないけどね。
北九州にこうした施設を設けるのは、一種の国境意識ではないだろうか。
何で国意識ができるかといえば朝鮮、中国の状況だ。
たとえば新羅に法興王という王様が出て国家組織を整えた、それも原始的な形で境域を張るんではなくて、
ちゃんとした中国的理念による中央集権国家らしい、ということになれば、
いやでも国意識ができてくる。
聖徳太子時代はこうした前史をふまえての国家をつくりあげようとしている。
>>62 そういう話には興味がないね。
そんなこといったら、戦国時代、南北朝時代だって、
京都朝廷に、足利幕府が存在していたが
各地で諸侯たちが独立的な行動に出いていた。
>>62 モモソ媛命(卑弥呼)、三巻入彦(崇神天皇)の時代も
伊都国に、一大率を設置して、諸国(九州諸国)を監視していたって
魏志倭人伝に登場するだろう。
こういうことは昔からだろう。
65 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 16:49:00.12
>>64 邪馬台国とヤマト王権は何の関係も無いよ。
邪馬台国=ヤマト王権ならば、なんで記紀は、ヤマト王権の九州制圧を景行〜神功皇太后の時代としているんだ?
66 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 17:47:44.72
仏教よりも儒教の方が早くから入ってきている。
しかし儒教はつきつめると天皇制とは相容れない。
天皇制は世襲だ。
儒教思想は帝王に徳がなければ世襲を許さない。
ところが聖徳太子の時代になると憲法にしても冠位にしても基本的に儒教だ。
推古朝の政治は儒教の政治だったと思う。
>>65 >邪馬台国=ヤマト王権ならば、なんで記紀は、ヤマト王権の九州制圧を景行〜神功皇太后の時代としているんだ?
そんなことしてないぞ。
記紀を読めばわかるけど、何度も統一、分裂を繰り返している。
景行天皇の時に九州へ遠征しているが、その後、また、仲哀天皇・神功皇后の時も
九州へ遠征している。
また、その後、継体天皇の時も、九州の磐井が反乱し、また遠征だ。
定期的に遠征してる。
そもそも、ワカミケヌこと神武天皇は九州の日向の知事の家系だし。
文献が豊富な時代なんかでも、いついつ九州制圧したかなんて議論
無意味だろうがw
制圧しても、また反乱がおこって、、あた制圧、その繰り返しだ。
古代でも、その繰り返しが起こっていたなんて、誰でもわかる。
邪馬台国=ヤマト国であり、
狗奴国=許乃国、
投馬国=出雲国
卑弥呼(モモソ媛命)の死の直前に戦った相手は
狗奴国(許乃国)の王の卑弥弓呼(彦命=武埴安彦命)であり、
その副官の拘右智卑狗(河内彦)。
武埴安彦命の母方と妃が、河内彦の娘たちだった。
69 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 18:23:12.86
倭人伝を記紀の神話・伝説に安易に結びつけて妄想するのはキモイ
70 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 18:33:20.51
すれ違いになっているが、
纏向遺跡って邪馬台国という論調が強くなっているんだよね。
71 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 19:08:35.66
邪馬台国畿内説には同意だが、記紀神話を安易にあてはめる必要はない。
崇神=ミマキが実在だとしても4世紀の人物だしな。
72 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 19:13:51.58
>>71 その説は、だいぶん前の説でしょう。
いまだと、3世紀から4世紀と幅を持たせた説になっている。
73 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 19:45:40.50
早く武烈が悪く書かれている理由を教えて。
74 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 19:54:13.13
>>70 北九州産の土器がろくに出土しないのにね。
75 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 21:05:18.47
>>74 遠いからじゃないの?
でも北九州からのものも
普通に出土されるしな。
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_,-r一―゙゙て ゙̄个¬ゥ=a_ `聿
_ィ'´ `ー-__\ ll │ 个'-_ |聿
_ノ" __ノ~~゙゙`ー+上_ |! │ |!\ 〈聿
ノ ̄―'―''二丿 tllll聿a_ ゙̄ー-彳 丿 ム l聿
./,,_-一'''""丿  ゙゙̄l聿 、  ̄ー-ィ"|! ゙l聿
丿 `l ,__彳 -____,,,,__ ゙゙聿 _____上l! l聿
ノ ┌ ン'゙゙´亅 ゙ーa_l聿! 下 ィ聿宀聿廾 l聿
| 1 ´_ノ下 ゙゙゙千! 彳 !" |彳 |聿
'、 ィ‐'´ l! __l! ||-l庚心./’ l聿
ヽ___ _ノ‐^|| __ 广 ヘa ゙゙゙̄│ 〈聿
|! ̄丿 /│ /゙゙^ン `ー-..n_|〉 │ 〈聿
ノ’ 彳ノ",,、`/ ノ" _/^ ~~ │ ■!
_..............--^ _ノ" _ノ" 丿 ./" _ノ^+二ニ゙宀l_ 'lィ!_ l! !卅
'" 丿 _/´ |! ‖ ノ´ ュ  ̄ー-上广lユ ノ! ■|
l! 丿 l/ ゙ゝ│l! ー- 、_ │ |彳’ l聿
ヽ ヘ │ ォ ^ヽ亅 ! 厂下下'│ |彳 l聿
亅 ヘ l! l! r 彳 ! 亅 |! |! l! !|! |聿
∫ ヽrll `‖ │ ! ‖│ ∫ 亅 ノ ノ彳 |聿
|〕 ´ │ \ l! |} l! j! l! 〕−‐レ! l■
|〕 \ || l! ノ〃 〃 │」''┐ ヘ 圭__
│ \_ ゙ヘ〕 lll/ ノ゛ _/下 l! ヽx=宀' ̄ ̄ ゙゙゙̄ー-__
│ ゙彳 彳 `−’ ^ン'´_ノ゛ ヘ,,_-宀― ̄―'ー=心
継体天皇=男大迹大王(507-531年在位)
AAあったのかよww
<天皇系図>
1神武天皇─2綏靖天皇─3安寧天皇─4懿徳天皇─5孝昭天皇─6孝安天皇─7孝霊天皇─8孝元天皇┐
┌──────────────────────────────────────────┘
└9開化天皇─10崇神天皇─11垂仁天皇─12景行天皇┬日本武尊─14仲哀天皇─┐
└13成務天皇 │
┌──────────────────-────────────────┘
└.15応神天皇┬16仁徳天皇┬17履中天皇─市辺押磐皇子┬24仁賢天皇─25武烈天皇
│. ├18反正天皇┌20安康天皇 └23顕宗天皇
│. └19允恭天皇┴21雄略天皇─22清寧天皇
└─稚野毛二派皇子─意富富杼王──乎非王──彦主人王──26継体天皇─┐
┌───────────────────────────────────────.┘
│┌27安閑天皇┌30敏達天皇─押坂彦人大兄皇子─┬34舒明天皇┬38天智天皇┬41持統天皇
└┼28宣化天皇├31用明天皇─厩戸皇子(聖徳太子)│ └40天武天皇.├43元明天皇
└29欽明天皇┼33推古天皇 │.. ┌35皇極天皇 ├39弘文天皇
. └32崇峻天皇 └茅渟王┼37斉明天皇 └志貴皇子┐
. └36孝徳天皇 . │
┌───────────────────────────────────────┘
└49光仁天皇─50桓武天皇────(略)───今上天皇
>>14 それでも天武は神社の整備などをして、宗教的権威も大事にしていた。
>>38 源氏でなければ征夷大将軍になれないという決まりはなかったが
(平氏を名乗る信長が希望すれば、朝廷は将軍宣下するはずだった)
源氏のほうが望ましい、という雰囲気は濃厚にあった。
81 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 12:29:55.67
>>80 徳川家康に関しては、源氏長者の地位がほしかったと言われている。
これがあると、源氏を名乗る多くの豪族たちの任官の世話をする権利を得られる。
古代から、氏族制度、部族制度では、その氏族のトップである氏上が
同族の地位などを保証するみたいな慣習があった。
それが、律令制度の移行後、朝廷の管理のもと
氏長者制度へ発展していく。
それぞれの氏族の貴族の朝廷での任官を
その氏族の氏長者が世話をするのだ。
とくに、藤原氏、源氏、平氏、橘氏の四氏が勢力が強く、源平藤橘といわれた。
やがて、中世に進むにあたって、藤原氏と源氏の二大勢力に集約され、
この二氏の氏長者を得たものの力が大きくなった。
82 :
81続き:2011/10/21(金) 12:35:21.14
そして、近世、
豊臣秀吉は近衛家の養子になって藤原氏長者
徳川家康は源氏長者を得るに至る。
日本社会では、京都朝廷から官位を得ることは権威になり、政治的に有利だ。
日本の豪族たちには、自分の出自を藤原氏や源氏と名乗るものが多く
朝廷でも、この二氏を出自とする貴族が多かった。
当然、この二氏の氏長者の地位を得れば、それらの多くの豪族、貴族たちの
朝廷での任官を管理することができるわけだ。
秀吉も家康も、当然、それに目を付けた。
興味があるのは太子と馬子との関係。
馬子は政治的権力をにぎって実際政治をやっている。
太子はちょっと政治的中枢から離れて斑鳩宮に住んだりして、いわば精神的権威として立っている。
そうすると馬子は覇道、太子は王道を行なっているわけで、二人は分業関係にあるような気がする。
そして太子の歩んだ道は、後世の天皇の道になるような気がする。
権力でなく権威で生きていくスタイルだ。
天智天皇や天武天皇のような人は、日本史の中でも例外的な、中国皇帝に近い人だけどね。
そうすると聖徳太子のあり方というのが、日本の天皇のあり方のモデルとして、崇められたというような一面もあるような気がする。
そういえば、8世紀初めごろ太子信仰というものがあった。
ああした偶像化も一役かっていそうだな。
>>83 それ以前からあったこと。
というか、権威と権力の分化は、欧州なんかでも
権威としてのローマ教皇、
権力としての皇帝・国王って分かれていただろう?
また、権威と権力のそれぞれの中でも、権威と権力が分かれている。
つまり、相対的なものだ。
たとえば、徳川時代、京都朝廷は権威、徳川幕府は権力だが
京都朝廷内では、天皇は権威、摂家は権力
徳川幕府内では、征夷大将軍は権威、大老・老中は権力だろう?
同じように、ヤマト朝廷内では、天皇家は権威、
大伴氏・物部氏・蘇我氏などは権力かもしれんが
倭国全体では、ヤマト朝廷は権力、高尾張旧王家(尾張氏)は権威だったんだろう?
>>84 >それ以前からあったこと。
日本での話をしてるんであって、欧州とかは関係ない。
例をあげるんなら日本では太子、馬子以前で、誰と誰の例があると具体的に言ってくれよ。
>ヤマト朝廷は権力、高尾張旧王家(尾張氏)は権威だったんだろう?
それはないな
>>85 ヤマトトトヒモモソ媛命(卑弥呼)、三巻入彦(崇神天皇)
>>86 ヤマトトトヒモモソ媛命(卑弥呼)、三巻入彦(崇神天皇)
斎王のような役割をしていただけかもしれんし、はっきりしないことが多すぎる。
ヤマトトトヒモモソ媛命=卑弥呼というのも一つの説であってはっきりしないしな
したがって具体例としてあげるには説得力がなさすぎる
宮廷人には皇太子摂政という形式の方が政治がやりやすい、という知恵があったと思う。
日本ではこの伝統が強いな。
後醍醐天皇に対する大塔宮、足利尊氏に対する直義、というように副官みたいのがついて、
その副官の方が実際の政治を動かしたケースはいくらでもある。
そういえば中大兄皇子自身が天智天皇になると、大海人皇子が動き出す。
若いときは自分でやる。
自分が象徴的地位に立つと人にまかせる。
一種の隠居だな。
これは日本人の体質にあるシステムだ。
>>88 なぜ聖徳太子は権威だったのに中大兄は権力になったか、という問題がそれで説明つきそうだな。
中大兄は蘇我氏を倒した。
そして鎌足を蘇我氏の地位につけなかった。
もしつけていれば、聖徳太子が権威でその下に権力の馬子がいたように、
自分が権威になって、その下に鎌足を権力にするという図式が成立する。
ところが中大兄は天皇家の安泰を計って、その関係を成立させまいとしたわけで、
そうなると自分みずから権力をとらなければならない。
そうすると、孝徳天皇を立ててその下に自分がつく方が自然な形になる。
これで首尾がととのったというわけだ。
蘇我氏を倒した主役は、中大兄皇子ではなくて、
軽皇子(孝徳天皇)という説が強いけどな。
中大兄や中臣鎌足は脇役。
あと、蘇我氏を過大評価しすぎ。
それって、ちまたにあるトンデモ歴史読み物の読みすぎだ。
お前らの頭で考えたのではない。
歴史読み物(学術書ではない)の受け売りだよ。
>>90 >>89のようなことが書いてある歴史読み物とやらを具体的にあげてみろよ。
何ページに
>>89のようなことが書いてあるかも忘れずにな。
>>89は俺の思い付きを書いたまでだ。
同じこと考えてた人に興味があるからな。
>>88 >足利尊氏に対する直義
軍事担当が尊氏で、政治担当が直義、みたいなジャンル別住み分けはあったと思う。
>>92 政治も軍事も含めて、直義は味方の世論をつねに攻撃的で積極的な方向に導くことを任務としていたように見えるけどね。
蘇我氏を過大評価する奴は読みが甘い。
宗教としてのタブーはなかったのかな
聖職者は俗世(政治)に関わってはいけないとか
古代においては、祭政一致ですから。
「政」を「まつりごと」と訓ずるのもそのため。
古代において神権をつかさどる巫女王と、俗権をつかさどる男王がいたのは、
倭人伝の記事や記紀の伝承からも理解できるが、伝承の固有名詞は信用できない。
モモソヒメとか神話とか説話上の人物で、とうてい実在の人物とは思えない。
三輪山のヘビの神様とセックスしたとか、ヘビの正体知って箸で陰部突いて死んだとか、
どう考えても作り話だろ。
あのあたりの系図も不自然な父子相続ばっかりで、ミマキと世代が合わないし。
4世紀
ミマキイリヒコ大王→イクメイリヒコ(イクムネリヒコ)大王
オシロワケ大王=倭王旨(百済から七支刀を下賜された王)
5世紀
ホムタワケ=オオササギ?=倭王讃→イザホワケ=倭王讃→ミズハワケ=倭王珍
オアザヅマノワクゴノスクネ=倭王済→アナホ=倭王興→オオハツセノワカタケル=倭王武
6世紀
オホト王=継体大王→実名不明=欽明大王
>>98 おまえ、もしかして韓国人かw?
ミマキイリヒコは3世紀だな。
というか、古代の天皇の実年代なんて絶対にわからない。
でも、纏向遺跡が西暦2〜3世紀の遺跡で邪馬台国の首都ならば
ミマキイリヒコは西暦3世紀の人物な。
そうなることによって、大幅に土器編年時代による区分にも
狂いが生じる。
百済も新羅も、倭国の属国だな。
倭王は、百済や新羅などを軍事的に支配する官位を
中国に求めていたぐらいだから。
>>97 要するに、モモソ媛命は、神事に携わる女性だったということでしょう。
実在の人物だ。
神事に携わる巫女から思いついた説話上の架空の人物な>モモソヒメ
茅葺の屋根には、ヘビが多く住んでいる。
昔の日本人の常識。
神事は夜にするもの。
昼間は政治をおこない、夜に神事を行う。
モモソ媛命は、夜に神事を行っていたんだろう?
そうしたら、ヘビが出てきたと。
>>101 実在の人物だ、どうみても。
任那には倭人がたくさん住んでいたと思われる。
通訳はいらなかっただろう。
大和の連中が国内の統一をはかっていくという状況の中で、朝鮮の問題をないがしろにできない、
そういう形があの時代にはあったんだろうな。
後の天智天皇のときに、白村江に遠征して唐・新羅連合軍に徹底的に敗れ、九州に防塁をつくった。
そのときに日本人には、九州はあきらかに日本で、朝鮮は外国で、対馬海峡というものが国境だという意識が
ほぼ出来上がったんだろう。
>>103 倭人同士は通訳いないけど
伽耶諸国の国々は、弁韓人だから、言葉は通じない。
だから、漢文で書体で意思疎通をする必要に迫られた。
魏志倭人伝の記述には
明確に、倭国と朝鮮半島の違いを認識できている。
魏志倭人伝をよく読んでみい。
対馬は倭人の国で、
渡海した半島の南部は、倭人も多かったけど、
基本的に韓人の国という認識があった。
本筋からそれる指摘になるが魏志倭人伝の時点では「倭国」って概念は無かったのでは?
今の「アフリカ」「ヨーロッパ」のように「倭」は地域名でしかなかったはず
「倭国」というのは後にその「倭」と呼ばれた地方がほぼ統一国家になってから
>>105 魏志倭人伝以前から、倭国という概念があったよ。
ただし、同時に、倭国には
約100余国という区分があった。
これは、州みたいなもんだな。
>>104 つ 強烈な方言
例えば倭人言語が九州古語だと、本州西部の人間でもわからんから通訳はいただろ
>>107 魏書だと、倭人同士は普通に通じたんだろう?方言の差はあっても。
少なくとも、三韓人と倭人は言葉が通じないって
記載されている。
任那に住んでたのは倭人だけではあるまいに。
外国語ができる倭人もいれば、当時の日本語ができる外国人もいるだろう。
倭人同士以外でも通訳なしで話していたと考えるのはそう飛躍した話しではあるまい。
言語に関しての記述は、いろいろあるけど、
ひとつ面白いのは、三韓の反乱で帯方郡へ太守が殺されて
その反乱を制圧するために、魏が軍隊を派遣した時の記述な。
魏の軍隊は、朝鮮半島の南端まで軍隊を進めるのだが、
そこで、魏の将軍は、現地の三韓の住民に、海の向こうのことを聞くのだ。
そこから、倭に関する記述へとつながっていく。
その魏の将軍は、倭については無知だったから、興味津々に聞く話。
三韓の住民曰く、前に海の向こうにある倭という国から
漂流民がここに流れ着いて、
彼らの言葉は自分たちとは異なるから通じないから、何を言っているのか分からなかったんだけど
そのうち死んじゃったツー話。
そこから、魏の国の東夷に対する記述が始まる。
遣新羅使や遣高句麗使には通訳が同行していたという記録はあるが、
遣百済使に通訳が同行したという記録はない。
>>111 それは知らないけど
百済王家は扶余だから、高句麗と同族。
現在の満州族の系譜だろう?
>>111 ああ、それと百済の場合、漢族と倭人の官僚が多い国だったから
向こう側に倭語を知っている人が多かったんじゃないの?
高句麗には、漢族がいても、倭人はいない国だし。
新羅にも倭人もいただろうが、途中で倭人系が粛清されて
倭語が喋れる人間がいなくなったんじゃないの?
114 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 19:18:22.68
百済王からして矮の人質だったりしたしな
百済の言葉は日本語に近かったという説もあるが、
まあ、言語についてはわからないことが多すぎるな。
>>115 それ、韓国のトンデモ学者が言っているらしいな。
でも、百済の王家は扶余系だから、
普通にツングース系諸語の満州語だろうと思うのだがなw
ただし、百済の官僚の中には、倭人系と漢族系がいたから
倭語や中国語できる人がいても、不思議ではないけどね。
卑弥呼がモモソ媛命ならば、継体天皇までの代数や年代も
だいたい一致してくるんだがな。
西暦3世紀の卑弥呼がモモソ媛命ならば、
ヤマト王権の建国は、紀元前1世紀から紀元後1世紀ぐらいだろうね。
その時に出雲国譲りがあって、
出雲の大国主命が、娘婿だった高尾張の火明命に降伏した。
それで、火明命が大和王になる。
その時に、火明命が弟のニニギ命を九州高千穂に地方官として派遣する。
その後、西暦1世紀中ごろ、ヤマト王権で内乱があり
王家の九州分家だったワカミケヌ命(神武天皇、ニニギ命の曾孫)の東征などがあり
反乱軍が鎮圧され、火明命の後胤とニニギ命の後胤による、祭政並立体制になる。
形式上は倭王の正当な祭祀をおこなう火明命の後胤たちが倭王だが
実際の政治を行うのは、ニニギ命の後胤である神武皇統(今の皇室の祖先)の当主。
しかし、その後、西暦2世紀7なかごろ、
倭王(祭祀王)だった天忍男命がなくなり、次の後継者7をめぐって争いが起こる。
天忍男命の王女の旦那だったカエシネ命(孝昭天皇=時の神武皇統当主)が
その間に産まれた長男の天足彦国押人命に、倭王(祭祀王)の地位を継承させようとする。
つまり、母系での継承になる。
これに異を唱えたのが、天忍男命の兄の天忍人命の嫡孫たちだ。
>>116 けっきょく憶測だけで、はっきりしたことは分からんのだろw
中国の魏書に書いてあるだろう。
百済は、王族が扶余、住民には漢族と倭人が多い。
でも、あの地は馬韓があった地域だから、一番多いのは馬韓人たち。
つまり、百済は
王家が扶余(ツングース系=満州系)
貴族に漢族、倭人。
庶民が馬韓人の政権。
そういう意味では、新羅が一番、現在の韓国に近い。
高句麗と百済は王家が、現在の中国の満州族の祖先と同じ。
満州族が朝鮮半島を征服した征服王朝だったことがわかる。
>>120 百済の言葉は日本語に近かったという説があるから、
はっきりしたことは、わからんぞ
... _.._...
_イlll!lllllllllllllll爪lllll入_
イ!llllllllllllllllllllllllllllllll∧s 、
イllll夕千宀⌒^^弋巛llll!{!lll∧ 、.. l皿l
イ什 〔llllllllllll/∧.. l皿l
イ廴 -=///a_ !llllllllllllll∧.. l皿l
彳ヘ'' _/"""´ ヾlllllllllllllllllllレ. l皿l
/ftア.) ...イtオフ''' 'llllll弋llllllllllレ l皿l
イl / ` ̄´ ...''llllワ 丁llllllllレ.... l皿l
イ! / 彡 l6夂lllllllll辷,. l皿l
/彳(..... ヽ 彡彡_上llllllll巛彡彡l皿l
,,..,彡_ノ 彡iiillliiiiミヾ,, l彡lllllllllllllli!!llll彡ルl.. l皿l
彡彡.lllllllll彡⊂ニ⊃ミミ、... ,'lllllllllllllll巛彡ル l皿l
/彡.彡.lllllllliii人∩っ _/卅llllllll|lイl'´彡、.. l皿l
!/^ ̄ ̄ ,巛川,川l,川〆》´  ̄ ̄千U.  ̄、 ( ̄ ̄ ̄\
/ 〈lllllllllllllllllllll!イ .‖ ( ̄ ̄ ̄\
./ |l ''lllllllllllllllllllllイ ‖/ ( ̄ ̄ ̄..)
´ |l .辷!llllllllllllイ ノ‖ , .( ̄ ̄}
...|l 辷llllll广 、 ‖ ノ' ..... ̄
` レ┘ ‖゙
≪男大迹王≫
>>121 その説は、アカデミックの場では、力ないよ。
だいたいだな、その説の大半が、言語学の視点から
トンデモ扱いされているケースが多い。
有名なところが、サムライの語源をサウラビとかいってみたり
奈良の語源をウリナラにしてみたりw
これ、たいがい、トンデモ認定だよ。
百済王家は、扶余だから、ツングース諸語だろうけど
百済の政権の中に、倭人や漢族も多かったらしいので
そういう意味で、倭語や中国語、知っていた人もいただろうということ。
ドンドン、話が脇道にそれているけど、
邪馬台国=ヤマト国なんだよな。
卑弥呼の王権って、やはり、ヤマト王権だったんだなw
>>123 お前のくだらんトンデモ認定はどうでもいいよ。
百済の言葉は日本語に近かったという説があるから、
はっきりしたことは、わからんぞと言っている。
韓国の学者が言ってて日本の学者が言ってないことはトンデモです(キリッ
128 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 08:15:11.25
邪馬台国が東遷して大和朝廷になったかどうかの議論は大切だとは思うが、スレ違い、
129 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 09:48:41.50
応神五世孫なんて、当時でさえ既に検証不可能。
とてもじゃないが、そうですかとは、いかない。
130 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 10:30:12.49
榛名山の噴火が時期的に被るんだけど
王朝成立にどう影響したのかな。って考える。
饑饉に陥った東国民を連れて西進したのかな。とか。
噴火のことも記紀に記録が残ってもいいと思うが、なんで無いのか。とか。
>>128 説得力が有るように見えるから困るんだよな
132 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:07:23.47
邪馬台国が東遷した動機がよくわからないからね。
133 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:09:22.47
ていうか、継体スレで邪馬台国はスレちがいだろ。
長く引っ張る話題じゃない。
徳川吉宗のスレで信長秀吉を語るようなもんだ。
134 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:11:39.93
>>117 こういう神話や説話を史実と混同する手合いが一番迷惑だ。
記紀を無批判に肯定して、神話や説話を無理やり中国正史の年代や考古学にこじつけて妄想するから。
古事記によると、仁賢天皇の子供には、武烈と、その弟真若王がいたとされる。
武烈天皇の死後、この真若王はどうなったんだろうか?
日本書紀では、真若王はその存在を消されている。
やはり継体に殺されたと見るのが妥当なんじゃなかろか。
つまり、継体の王朝簒奪。
136 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:00:00.68
自分の妄想と整合性がとれない説はトンデモと決めつける輩も迷惑だ。
古代史に関しては、古い時代の説話・伝承は話半分かそれ以下くらいに考えて、
継体即位以前の記紀の記述には、できる限り禁欲的に接する方がいい。
継体紀からして、磐井の乱のときの詔の文章とか、漢籍の丸パクリなんだしw
138 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:21:08.86
今城塚古墳は本当に継体天皇の墓なのか?
>>138 たぶん、違うでしょう。だから、どことは言えないが。
継体天皇以降(新王朝)は前方後円墳を作らなくなったと思われるので。
>>139 継体天皇以降も200年くらい前方後円墳作られているぞ。
>>128 邪馬台国東遷説は、アカデミックの場では、力を失っているぞ。
そもそも、なんで、わざわざ、九州の地から
首都を大規模に移さないといけないんだと言われるぐらいだから。
そもそも、あの神武東征伝承だって、首都を大規模に移転する
ような大掛かりの物じゃないだろう?
>>126 百済王族の言語自体は、彼らが扶余系ならば
普通にツングース諸語だよ。
現在の中国の満州族の祖語に近かった可能性が高い。
ただし、百済の王権の内部には
中国人や倭人の官僚も多くいたみたいなので、
百済王権内部では、倭語や中国語も多く話されていた可能性がある。
>>139 継体天皇は前の天皇とも比較的に近い位置にある。
ヤマト王権が革命で政権を取ったのは
明確なのは、出雲国譲りからで、そこから今まで続いているのだろう。
百済に限らず政権の公の場で話す公用語はある程度統一するだろうけどね
まあ方言レベルの幅はあるかもしれないし
古代東アジア限定特殊事情として文書は中国語だろうが
百済の場合、王族は扶余だけど
原住民は馬韓人が多い、当たり前だが。
扶余語と馬韓語は異なる。
扶余語はツングース諸語(満州語とか)の可能性が高い、当たり前だが。
馬韓語は、今の韓国語に近いだろう。
しかしながら、中国の文献にも書かれているが
百済ってのは、漢族(中国人)と倭人(日本人)が多く
とりわけ、中国人が多い。
その中国人多くが、楽浪郡の崩壊で亡命してきた人。
楽浪王氏なんて有名だよな。
戦後の三王朝交代説ってのは、戦後の反皇国史観の延長で起こってきた説。
皇位継承がすんなりいかなかった天皇に対して、無理に疑った説に過ぎない。
そんなわけだから、その延長で天武天皇の即位まで疑って
四王朝交代説なんて生み出す始末。
その程度の代物だ。
でも、天武天皇が尾張氏との間にいざこざがあったということは、
すくなくとも、ニニギ命から天武天皇までの系譜は
事実だとして、その当時、何の疑いもなく、受け入れられてきたに他ならない。
本当に応神や継体が新王朝ならば、天智や天武が
わざわざ尾張氏ともめる必要などないわけだから。
ニニギ命からずっと一系で続いてきた事実があったから
天武天皇は尾張氏とけんかし、最後は謝らないといけなくなったわけで。
というのは、あの系譜見たらわかる、
ヤマト王朝ってのは、大きく分けて、二つの由緒ある系譜に分けられる。
それは、天忍穂耳命の長男の天火明命の系統
もう一つが、天忍穂耳命の二男のニニギ命の系統。
天火明命ってのは通称を天照国照彦といい、天津と国津の支配者って意味だ。
つまり、出雲国譲りをして、天津と国津の両方を統一し天下を取ったという意味である。
播磨国風土記にも、大国主命が娘婿の火明命降伏した話が出てくるわけだからに。
一方、ニニギ命のほうは、出雲国譲りがあったあと、なぜか、
九州高千穂のような辺境に飛ばされる。
尾張氏は、天火明命の嫡流の子孫で、
天皇家は、ニニギ命の傍流の子孫。
でも、天武天皇が勧めた古事記には、天火明命の活躍はほぼなく、
系図で登場するだけだ。
しかも、自分の先祖であるニニギ命の子孫活躍だけ語られ
なぜ、出雲国譲りから大分時間が経過して、
ワカミケヌ命が、天皇として登場するのだ。
>>149 ちょっと
難しすぎる話をして
ごめんなさい。
尾張厨が一人いるな
たしかに、継体天皇の即位にも、応神天皇の即位にも
天武天皇の即位にも尾張氏がかかわっているんだよな。
しかも、天武天皇が女神アマテラスを祭るまでは
ヤマト朝廷は、男神アマテルを崇拝していたという説がある。
その痕跡が、全国にある天照御魂神社。
邪馬台国で有名な纏向遺跡の中心部にも、天照御魂神社があり、
卑弥呼はそれを崇拝していたという説もある。
この天照御魂神社の主宰神が、天照国照彦で、天火明命のこと。
つまり、尾張氏の先祖にあたり、天皇家の先祖のニニギの兄にあたる。
なぜ、天武天皇が、この男神アマテルの存在を嫌がったのか。
その嫡流の子孫の尾張氏ともめまくる。
三種の神器の天叢雲剣。本物は尾張氏熱田神宮にある。
皇室にあるのは、そのレプリカに過ぎない。
>>150 おまえ、うざい。人をバカにするような言い方するな。
>>152 たしかに、尾張氏に関しては、注目している。
日本最古の系図で有名な丹波の海部氏も、尾張氏の傍系にあたる一族なんだってね。
律令体制以後も、氏長者制度ってあって、
氏長者が、同氏族の官位の任官や家督相続などの面倒をみるって制度があったよな。
源氏長者とか、藤原氏長者とか。。。
あれって、古代の氏上制度の名残だよな。
古代は私的に、氏上が同氏族の傍系一族たちの世話をしていた。
ヤマト王家の場合、尾張氏が面倒見ていたということか?
応神、継体、天武も。。。
ということは、ヤマト王家からみたら、尾張氏ってのは
自分たちの氏上みたいな意識だったのか?
公的には、崇神、モモソ媛命以降には、自分たちが倭王になったけど
あいかわらず、私的には、尾張氏のほうが氏上みたいなかんじ?
終わりの語源が尾張氏だもんな こいつらが出てきたら先はないっつう意味で
≪釈日本紀「上宮記一云」系図≫
伊自牟良君──久留比売命
│
中斯知命 ├─汙斯王(彦主人王)
洷俣那加都比古─弟比売麻和加 ├──乎非王 │
├───若野毛二俣王 ┌太郎子(意富富等王) │
凡牟都和希王(応神). ├────┼践坂大中比弥王 .│
母々恩己麻和加中比売 ├田宮中比弥 .│
└布遅波良己等布斯郎女 │
├─乎富等大公王
伊久牟尼利比古大王(垂仁)─伊波都久和希─伊波智和希┐ .│ (継体天皇)
┌────────────────────────┘ .│
└伊波己里和気─麻和加介─阿加波智君─乎波智君 │
├──┬都奴牟斯君 │
阿那爾比弥 └布利比弥命────┘
(振媛)
157 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 21:20:20.77
継体は天皇家一族出身であって、新王朝を建てたのではないと思うな。
もし武力でもって新王朝を建てたのならば、自分の一族の伝説を編纂し
それを国史にすればいいだけで、他家の伝説に紛れ込むなどという馬鹿な
ことをする必要はない。なのにそうはしていない。
何より王朝が交代したならば、何故滅ぼした他人である前王朝の祖先である
アマテラスを祭り続けるのか?自分の先祖を祭ればよい。
そうしていないということは、一族出身ということだ。
158 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 21:58:42.27
>>155 高尾張→尾張→尾治→大治→尾張
開墾した土地」という意味の「大治」「小治」(おはり)が転じたという意味合いの説。
端と言う意味合い。
尾張のホアカリ「天から降臨した神の末裔」を名乗る豪族。
159 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 22:58:55.98
オホト王の男系の先祖の「ホムツワケ」って、実はホムタ大王(応神)ではなくて、
垂仁王子と伝承されるホムツワケの方じゃないの?
>>159 そうそう、凡牟都和希王ね。ホムツワキじゃないか。
単なる「王」号なので、天皇とは思えんし、皇子ですらないかもしれん。
応神天皇はホム「タ」なので、ホム「ツ」とは別人だな。
161 :
世界@名無史さん:2011/10/27(木) 16:59:55.46
>>祟りを恐れて祀ったんだろ
個人で祀られてる人は祟が神が多い
>>157 ニニギ命の男系子孫である天皇家から見たら
男神アマテルとされている天火明命(尾張氏の先祖)は
微妙な存在だよ。
一族ではあるけども、先祖ではないというか。
男神アマテルを初代天皇にしたら、
現在の天皇家は、その一族ではあるけど、その男系子孫ではないので、
万世一系とは微妙に言えなくなる。
まったくの王朝交代とは言えないけども、半分、王朝交代といわれても
仕方がないというか。
163 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 01:30:26.85
>>162 それって矛盾していない?
ニニギと天火明命が兄弟で、天皇家はニニギの子孫で尾張は天火明命の
子孫だという点は信用するが、継体が応神の五世孫という点は
信用しないんだな。
自説に都合のいいところは記紀に沿って、そうじゃない所は
記紀はデタラメを書いていると。変なの。
>>163 そんなこと言ってないじゃんw
継体が応神の5世孫も信用しているよ。
で、継体が倭王に即位する時
一族の氏上である尾張氏の信任を得たと。
そう思う。
>>157 > 継体は天皇家一族出身であって
大王家とは血縁にあったとは思うが、血のつながりが薄く「一族」と言えたかどうかは微妙。
>>165 継体のおやじさんは、近江の傍系皇族な。
近江は、むかしから
ヤマト王権の重要地域で、有力皇族の所領とかおかれていたところ。
ヤマトからも至近距離だし。
167 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 17:07:14.84
尾張が氏上?
日本書紀のどこにそんなこと書いてあるんだよ。
日本書紀以外にも尾張が皇室より格が上とする証拠なんてあるの?
「古事記」の継体天皇の記述に、
「尾張連等之祖である凡連の妹を娶って生める御子は・・・」とある。
この凡連(おほしのむらじ)という人物は、「尾張連の祖」になってるけど、誰これ?
この尾張氏とは何だろう?
jinrui cyokkei
大和氏
171 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 08:38:18.90
葛城≡尾張
173 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 18:41:39.26
>>166 それ以前の近江は誰が統治していたと思う?
仁徳が前の近江王を殺害してわが子を送り込んだの?
違うだろ
息長氏ってそれ以前から近江を統治する豪族だったんだよ
174 :
日本@名無史さん:2011/10/31(月) 19:40:42.44
しばらく来ないうちに尾張厨というか尾張オタが跋扈するスレになってるなw
たまに暴れる反中国史料原理主義者と違って話がある程度は通じそうだが
息長氏はそんなに古くないよ
この時代を語る上で尾張氏は外せないだろ
だからさ、系譜に現れている以外に、何か尾張がしたという記述でもあんのかよ?
179 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 07:57:17.82
尾張氏とか和邇氏ばっかり語るマニアックな人がこのスレに常在。
>>178 記述は無いけど尾張型埴輪があるだろ。
それに断夫山古墳(名古屋市)は6世紀前半の古墳では継体の今城塚古墳に次ぐNO.2の規模だよ。
大王の杜古墳公園として整備された
石棺が三つあって産地が九州、播磨、奈良なんだな
>>181 比べ方を間違ってる。
信長が家系を仮冒したのを継体(天皇家)に当てはめれば、
それはアマテルの系統に天皇家の祖先を結びつけたという部分。
継体が応神5世孫を仮冒したのを信長(織田氏)に当てはめるなら、
それは信長が足利義満5世孫を仮冒したくらいのレベル。
184 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 09:00:40.39
継体自身は仮冒してなかったんじゃないのか?
息子の欽明の時点でも、まだ仮冒はしてないだろう。
おそらく聖徳太子の国史編纂以降に大王家の系譜をまとめる作業が本格化し、
天武以降、天皇権威を高める上で応神5世孫という位置づけられたんだろう。
185 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 09:13:57.79
186 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 09:22:37.42
やはり北陸の豪族ごときが
大和朝廷を武力で乗っ取ったってのは不自然だ
北陸時代の臣下がその後重要なポジションについたという話もないし
織田信長が京都に進出したあと
柴田や佐久間、羽柴、丹羽など尾張時代の家臣を無視して
細川や伊勢ばかり重用したくらい不自然だ
そうね、ちょうど織田信長と似てるかも。
違うのは、信長は天皇になる前に死んだ。
継体は天皇になってから死んだ、という点か。
188 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 12:09:08.81
>>186 継体越前時代に誕生した安閑・宣化の皇統が続けば
越前時代の直臣たちが活躍したかもしれない
しかし大和豪族たちがクーデターを起こして前王権に女系で繋がる
欽明天皇の皇統に代えてしまった
欽明天皇は母方で育ったために越前とはかかわりがほとんどない
母方に仕えてきた大和豪族をこれまで通り重用することに
>>184 じゃあ天武だとして例えを変えよう。
継体が応神5世孫を仮冒したのを徳川氏(10代将軍・家治の時のこと)に当てはめるなら、
それは家康が足利義満5世孫であることを仮冒したくらいのレベル。
190 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 20:37:27.96
天火明命の母
ヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、
単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。
なんじゃそりゃ???
192 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 21:48:49.68
栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する神である。
『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)
アマテル、ニニギ、の母。
まず他の血縁者を差し置いて越前の繼体が擁立された理由がなんらハッキリしない
ニニギ命から継体天皇までの系図は、大方、正しんだろう。
応神の5世孫ってのも本当だろう。
だが、正しいからといって、あの系図にある人物たちが
天皇の地位にあったかどうかは分からない。
そもそも、漢風諡号は、記紀が編纂されて数十年後に贈られた名称だから。
神武天皇、崇神天皇、応神天皇、継体天皇も、西暦8世紀中ごろに考え出された名前。
彼らが実在としたとしても、彼らが正式な倭王に即位していたかどうかは分からん。
その場合、正当な倭王の祭祀を継承していた一族に
天火明命の後胤の嫡流である尾張氏の存在がある。
天火明命とは、皇祖ニニギ命の兄にあたる。
繼躰
196 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 07:14:34.98
また始まったよ。尾張妄想。
神武以前なんぞ日本書紀の編纂者からして「神話」と言っている。
神話なんだから真実性などあてになるわけねーだろ。
197 :
日本@名無史さん:2011/11/05(土) 09:54:48.97
鎌倉公方が反乱起こして本家を乗っ取ったってのに近いんじゃね
198 :
日本@名無史さん:2011/11/05(土) 14:27:05.63
無理に男系でつながってるって考える必要ないと思うけど。
五王時代の外戚だった近江・北陸一帯の大豪族が擁立されたってことでいいんじゃないの?
199 :
日本@名無史さん:2011/11/05(土) 14:54:51.46
無理に男系で繋がってないって考える必要ないと思うけど。
応神天皇の五世孫である近江・北陸一帯の大豪族が擁立されたってことでいいんじゃないの?
>>198 允恭の姻族を念頭に置いてるのだと思うが、
逆に、5世紀中葉当時の近江(坂田・息長)の実力・勢力を考えると、
ただ純粋に「大王家に后を送り込んだ(送り込めた)」というのは些か不自然。
ほかの大王妃の出自である葛城や春日和邇、吉備等と比べても、言葉は悪いが見劣りがする。
やはり「允恭の姻族」じたいが、母方・妻方の出自を近江にもつ皇子から出ていると見た方が自然。
不自然なのはそれ自体が作為だからだろ。
息長氏が王族と関係を持ったのは敏達が最初。
つーか考え方の前提が違うように思う。
君は「允恭后が『息長氏』から出た」ということが作為的だ、と言ってるのだろうが、
私は允恭后の父(つまり稚野毛二派皇子)の本拠は太田茶臼山古墳の築かれた摂津三島だと思っているんだよ。
「近江の息長氏」じゃないわけ。皇子自身近江に所縁はあるわけだが、息長氏その他が派生するのは子の意富富杼王以降。
これは、允恭朝以降つまり5世紀後半から近江(坂田)地域に、
周濠や段築、埴輪、葺石を持った前方後円墳が築かれ、
円筒埴輪には畿内の技術提供が見られることとも決して矛盾するものではない。
203 :
日本@名無史さん:2011/11/05(土) 21:00:48.06
ヨーロッパ基準なら三王朝どころか七王朝じゃね
神武朝
↓
継体朝
↓
光仁朝
├────┐
↓ ↓
持明院朝 大覚寺朝
↓
伏見朝
↓
閑院朝
それがどうした?
>>203 いやいや、「実権十王朝」と比べりゃ大したもんですw
葛城朝→蘇我朝→藤原朝→平朝→源朝→北条朝→足利朝→織豊朝→徳川朝→薩長朝
>>203 ヨーロッパ基準といっても国によって基準は違う
フランス基準なら男系で続いてても王朝交代になるが、
イギリスは基本的には男系で続いている一区切りが王朝となるし、
ロシアは女系継承でもロマノフ朝が続いた
ただし、フランスでは王の三世孫や四世孫が王位を継承したのに王朝交代とならなかった例もある
後花園や光格天皇は三世王なので、フランス基準では王朝交代にはならないかもしれないし、なるかもしれない
光仁天皇は皇孫なので、ヨーロッパ基準でも王朝交代とはならないのではないだろうか
継体天皇はヨーロッパ基準では王朝交代になりそうな気もするが
前スレにもちらっと書いたが継体天皇の時代に
現代と同じ「王朝」の概念があったかというのは疑っていい
多分無かっただろう。王家の王家たるゆえんは力だから、
力ある王家を立てないと内乱になる。たまたま継体が
最高の軍事力を持っていたにすぎない。
継体が軍事力?
継体に軍事力があれば大和の豪族達が担ぐわけがない。近江や越前の取り巻き連中は政権内部から排除されているだろうが。継体に強力な軍事力があればこんなことがあるわけがない。
大和入りしてからも大伴金村のロボットとしてしか動いていない。
継体はあくまで神輿。大和のどの豪族とも関係が薄く(葛城のように特定の豪族が外戚として権勢を振るう可能性がないので大和のどの豪族も継体の擁立に反対しなかった)、
高齢で政治的野心が乏しく(武列のように「張り切りすぎる」こともなく)、
遠縁だが血統に間違いはないと考えられた(大義名分があった)、
これらの複数の条件に合致したからこそ継体が擁立されたのだ。
それでも第2候補でしかなかったからな。
「丹波の倭彦王を担ごうとしたら逃げられちゃった。しょうがないのでアンタを担ぐよ」(大伴金村)
>高齢で政治的野心が乏しく
菅直人とか小沢一郎とか麻生太郎とか亀井静香とか石原慎太郎とか渡辺美智雄とか
徳川家康@関ヶ原とか毛利元就@厳島とか松永久秀@晩年大暴れとかどうすんだよ
ていうか、高齢ってのはあてにならないけどね。
日本書紀では享年82歳だが古事記では43歳。
個人的にはふつうに壮年世代で即位したと思ってるけど。
それと、継体の時代はその前後と比べても特徴があることが分かってきて、
けっして中央豪族のロボットだったなんて評価は出来ないと思うんだけど。
>>211 つーか、古事記に従えば継体天皇は即位した翌年に死んでいるんだが
この一年にも満たない間に何ができたの?
どtっちにしろ欽明ちゃんのおっかあで繋がってるからこれでいいのだ
215 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 21:58:45.88
>>168 尾張氏は海部。凡連(おほしのむらじ)は、凡海郷が古代に籠神社の
近く、京都府北部にあったという伝承がある。籠神社はもちろん海部だ。
京都北部から名古屋にかけては、言語の特徴や方言が似ていると言われている。
216 :
日本@名無史さん:2011/11/10(木) 22:57:21.78
217 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 11:51:27.19
>>181 > 織田信長は忌部氏か?
当時は源平藤橘のいずれかを名乗らないと不便だったのではないだろうか?
218 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 11:54:10.51
>>198 黒岩重吾氏もその考えだったが、のちに「薄いながらも血はつながっていたのだろう」説に切り替えた。
薄いながらも本当につながっていたかどうかなんて考える意味ない。
資料ないんだから、そこは永遠の謎。
>>219 個人的にはそれが正論だと思うが
明治〜昭和初期の皇国史観の影響で
万世一系を絶対視する人達は納得しない
>>220 根拠もないオナニー。戦後史学の化石。
「日本書紀を否定する僕かっこいい」
血縁もない奴を大和の豪族がなぜ担ぐ?これさえ説得的に説明できないくせにw
学会でさえ傍系王族だったというのが多数派になりつつあるよ。
血が実際に繋がってたかどうかと
当時繋がっていたとみなされたかどうかは
無関係ではないがちょっと違う
継体は良く語られるけど仲哀→応神の繋がりはあまり語られないよな
三王朝交代説のもうひとつの要なのに
武烈・継体ほどは伝承に不自然な点が多くないのと
そもそも史料が乏しすぎるからでは
>>219-221から分かること
皇国史観に疑問を持つことと否定することを区別できない人がいる
>>224 神功皇后は仲哀天皇の子供を身ごもりながら三韓征伐本当に出来たのか?
無理じゃないか?
応神天皇を産んだあと、仲哀天皇サイドと戦争して勝ってるし。
>>221 上のほうでも言及されてるけど、継体天皇は織田信長のような人物であった可能性。
織田信長は血縁的に当時の天皇家と近くはなかったが、天皇になりかけた。
明智がいなければ、織田信長が天皇になっていた可能性が。
継体天皇の時には明智的人物がいなかったのだろう。
>>223 応神新王朝説にも最近では否定の向きが。
津堂城山古墳(日本武尊の空墓?)、仲津山古墳(仲哀陵?)など、
河内の大古墳が想定される応神の実年代より古くから築かれ始めており、
このことは記紀の伝承とも合致するため。
仲哀没後の争いは、妾(神功)派が正室腹(麛坂ら)派を倒した内紛とも見られる。
>>226 信長が天皇になってたなんてほんと可能性の問題。
仮に信長が天皇になってたとしても、先代(正親町天皇)に代数を繋げたり、
後小松天皇の五世孫あたりに系譜を繋げたりした可能性は低い。
228 :
224:2011/11/12(土) 11:59:04.51
>神功皇后は仲哀天皇の子供を身ごもりながら三韓征伐本当に出来たのか?
>無理じゃないか?
言われてみればそうだった
>>223 神武朝から崇神朝への交代論も継体にくらべいまいち盛り上がらないね
神話すぎるからかな?
>>226 マジックストーンパワーで冷やして出産を遅らせたのだよ
信長が天皇になろうとした、なんて信長を「破壊者」とするドラマや小説に感化されすぎw
織田家の系譜は、平資盛の子で、それが近江の津田家で育ち、越前の織田氏(藤原氏)の養子になった、というもの。
ホントかどうかは知らないが信長の生まれる以前からであり、信長が勝手に捏造したのではない。
で、信長は、「平氏」であることを意識した行動をとっている。足利義昭を追放したのも義昭が斯波氏の後継者として信長を扱おうとしたのに、
信長が、同じ平氏である北条氏と鎌倉将軍のように実質的権力者と名目的主君という関係を望み、折り合いがつかなかったからであり、
積極的に室町幕府を滅ぼそうとしたのではない。
義昭追放後は、官位を弾正忠から右大臣にまで昇進させた。朝廷の権威をバックに国内統一をすすめた。平清盛のやり方に習ったわけ。
だいたい、戦国時代は、朝廷の権威がこれ以上ないほど落ちぶれた時代であり、信長が伝統的権威をないがしろにする人物なら
こんなまどろっこしいことするかよ。
馬揃えも朝廷に対する示威行動などではない。閲兵式のようなもので信長が帝を守る覚悟と戦国の世の終わりが近いことを示す
デモンストレーションだった。京都の民には大評判で、正親町天皇もアンコールをしたぐらいだ。示威行動ならこんなことがあるわけない。
信長の政治行動は、伝統を研究し先例に倣い、活用している。無茶をしたのは比叡山の焼き討ちぐらいだ。しかし、これも将軍・足利義教が
僧侶を斬首して他の僧侶たちが中堂に火を放って焼身自殺したり、管領・細川政元が中堂を焼き討ちにした前例がある。
信長が天皇になろうとしたなんていうのは、信長の天下統一後の政権構想が不明なまま死んだのをいいことに歴史家や小説家達が
好き勝手に空想しているだけだよ。
部外者にとって皇位への就きやすさが古墳時代と戦国時代ではかなり違ってて
継体帝と信長ではその差もあるかと
天皇家は戦国時代の時点では確実に1000年以上同じ血筋で続いてきた王家で
道鏡を皇位に就けなかったといった実績も積んできたけど
古墳時代の時点ではまだそこまで歴史を積み重ねた王家ではなかった
>>231 >戦国時代は、朝廷の権威がこれ以上ないほど落ちぶれた時代
デマ乙。地方の大名が頻りに猟官運動に走り、修理大夫だの大膳大夫などの官職を買い漁ったではないか。
>>233 「相対的」という言葉のわからないバカ乙
朝廷の権威は戦国時代には復活しているよ。最も低下したのは南北朝期の北朝だろう。
例えば足利義詮が北朝を見捨てて遁走した結果、神器も先帝の宣命も無い後光厳が即位したあたり。
1400年代になると朝廷が治伐綸旨を出している。当然幕府の要請であり、権威があるから
依頼されたと見る。
やはり表面的な事例を見て本質を見ないのは危険だ。継体天皇にもこれは当てはまるだろう。
>>235 う〜ん、どうだろうか?
嘉吉の変の後花園の行動は、朝廷の権威復活というより公武合体の表れではないかと・・・
>>227 > 仲哀没後の争いは、妾(神功)派が正室腹(麛坂ら)派を倒した内紛とも見られる。
これはそのとおりだと思うけど、どう考えても応神は仲哀の血を引いてないw
>>238 どう考えても?
考え様によってフツーに父子関係と見れるよ。
240 :
日本@名無史さん:2011/11/13(日) 20:12:53.38
小塞神社、祭神〓天火明命、天香山命
>>239 仲哀の種だったら有り得ない時期に生まれたからこそ、例の説話ができたんだろ。
>>241 それは日本書紀の紀年を盲信したでしょ。
真のハツクニシラスたる崇神以降の系譜はおおむね信用でき、
王朝交代なんてのも無かったと思ってる保守的な私でさえ、
日本書紀の紀年(いわゆる神武紀元に基づくもの)は信じてないよ。
本来、古事記や風土記のように、「○○天皇(大王)の御世、〜の出来事があった」
と伝承されていたものに、架空の(引き延ばした)暦年月日を付し、
中国文献で文飾をしたのが日本書紀。
ご指摘の部分に関しては、神が「身籠っている神功」に対し御託宣をし、
それに従わなかった仲哀が不慮の死を遂げ、「腹の中の子」が国・財宝を得る、
といった話であることを忘れてはならない。
紀年を信じない奴が記述は信じると…
何か問題でも?当時は、中国のような数学的・天文学的に精緻な暦がなかったのだからズレが出て当然でしょ。
紀年が信じられないから記述も全部嘘と決め付けるほうがどうかしてる。
「まず否定ありき」の偏った思考だよ。
>>244 極端な話、古代エジプトとか中世の地方史とかそうじゃん?
紀年ははっきりしないけど、出来事とかある一族の系譜とか(多少の錯誤はあろうが)、
歴史として語られるでしょ?
また別の例を挙げれば、江戸時代なんかでもそうだよ。
徳川将軍の親子関係(系譜)とか主な治績は知ってる人も多いだろうけど、
個々の出来事が何年のことなのか、なんてのは文書記録でも無い限り残りにくいだろう。
今上天皇が昭和天皇と香淳皇后の子であり、皇子に皇太子や秋篠宮がいる、とは知っていても、
各々の生誕年とかってマニアでもない限り知らないもんだろ?
247 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 18:10:42.98
中国の暦が伝わっていなかったはずの時代の記述までピタリではかえって怪しいってことか?
倭王武=「雄略+武烈」と見るべき訳
「5世紀の倭の5王の元年・没年とは」で明らかにした通り、
倭王武の元年はX=477、没年はX≧502になります。
これに対して、日本書紀では、雄略の元年をY=457、没年をY=479としています。
ゆえに、 雄略紀における復元式を、「X=Y+20」とすると、
元年 Y=457のとき、X=457+20=477
没年 Y=479のとき、X=479+20=499
だから、「雄略の元年の復元値(477)=武の元年(477)」は成立しますが、
. 「雄略の没年の復元値(499)=武の没年(502以後)」は成立しません。
このことから、倭王珍=「履中+反正」という先例と同様に、
倭王武は雄略のみと対応するのではないことが分ります。
(以下はソースで)
http://www.geocities.jp/yasuko8787/2-21.htm
までも、
「記紀の年代はあてにならんが、系譜は信用できる」
という考えは、結構流布している考えだよな。
本当かどうかは知らんが。
250 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 19:11:54.40
>>249 そんなことないだろ
日本書紀が正しいなら
和邇氏(支流に春日氏・小野氏)、吉備氏、安倍氏、
物部氏、葛城氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、筑紫氏、和気氏、
伊賀氏、讃岐氏、土形氏他
この辺りは全部大王(天皇)家一門
継体でなくともその辺の豪族皆が皇位継承権ありそうだ
251 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 22:04:11.22
公家が藤原氏ばかりになってしまったように
豪族も大王家の血縁ばかりになってしまったのかもね
系図そのままではないにしろ
>>250 それに近い考え方はあるよ。
当時はまだ律令制の時代じゃなかったから、
皇族なんてくくりも無かっただろうからね。
しかし皇別なら誰でも良いというわけではなく、
大王(オホキミ)というだけにキミ(君=公)姓の豪族に
究極的には大王位の継承権があったのではないかと。
ここでいう君姓ってのは、崇神以降に分かれた皇別氏族のこと。
>>251 藤原氏が発生(藤原不比等の子孫)してから
公家が藤原氏ばかりになるまでにはかなり代を重ねている
平安時代初期にはまだ橘姓や伴姓、坂上姓や菅野姓など
藤氏以外の姓が公卿(参議以上)に入っているからね
崇神天皇が仮に実在したとしても(実在確実は応神か仁徳からだろうけど)
4世紀末の大王であって継体天皇の登場まで150年ほどだろう
畿内豪族が大王の子孫だけになるには早すぎると思われる
畿内に皇位継承可能者がそれだけいたなら
ますます越前から大王を連れてくる意味がないな
やはり継体は征服王朝なのか
征服王朝ではなく、畿内の豪族に無いものを持っていたので
喜んで迎えられたのだと思うよ。継体と畿内豪族の利害が一致した結果だろう。
それは経済力だと思われる。水運と交易。
257 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 07:02:49.65
征服王朝なのに支配層そのままはおかしい
>>257 例え信長が天皇になっていたとしても周囲の支配層にはあまり変化はなかたろうし。
でも純然たる征服王朝なら五世孫とか清寧皇女と結婚とかもいらないんじゃ?
その後に出身地の越系統が優遇されたわけでもなし、だいたい継体の拠点は越でも有力地域じゃなかったって話もあるし
>>259 征服王朝が前政権の息女を戦利品として妻に迎えるのは良くあるよ
戦国時代でも家は滅んだが領内統治のために娘だけが生かされ
家を滅ぼした男の妻になる例は多い
越から連れてきた豪族たちが大出世していないという点だが
宣化天皇は兄系で皇后腹の男子があったにもかかわらず弟の欽明天皇に
皇統を奪われている辺り、この辺りで畿内豪族の反乱があったせいかもしれない
欽明朝ではそれまで名前が見えない蘇我氏の突然の王権中枢における台頭など
欽明王権成立に何らかの多大な貢献をしたとみられる大豪族の存在が知られる
≪天皇系図 1代〜50代≫
1神武天皇─2綏靖天皇─3安寧天皇─4懿徳天皇─5孝昭天皇─6孝安天皇─7孝霊天皇─8孝元天皇┐
┌──────────────────────────────────────────┘
└9開化天皇─10崇神天皇─11垂仁天皇─12景行天皇┬日本武尊─14仲哀天皇─┐
└13成務天皇 │
┌──────────────────-────────────────┘
└.15応神天皇┬16仁徳天皇┬17履中天皇─市辺押磐皇子┬24仁賢天皇─25武烈天皇
│. ├18反正天皇┌20安康天皇 └23顕宗天皇
│. └19允恭天皇┴21雄略天皇─22清寧天皇
│ ▼▼▼▼
└─稚野毛二派皇子─意富富杼王──乎非王──彦主人王──26継体天皇─┐
│
┌───────────────────────────────────────.┘
│┌27安閑天皇┌30敏達天皇─押坂彦人大兄皇子─┬34舒明天皇┬38天智天皇┬41持統天皇
└┼28宣化天皇├31用明天皇─厩戸皇子(聖徳太子)│ . └40天武天皇├43元明天皇
└29欽明天皇┼33推古天皇 │.. ┌35皇極天皇 ├39弘文天皇
. └32崇峻天皇 └茅渟王┼37斉明天皇 └志貴皇子┐
. └36孝徳天皇 . │
┌───────────────────────────────────────┘
└49光仁天皇─50桓武天皇────(略)───今上天皇
この時代にケータイ天皇とは時代を先取りしてるな
263 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:20:09.05
>>258 それはないだろ
柴田とか明智が高位に上っただろうに
そもそも信長は機内の有力大名を叩き潰しにかかっていただろw
義満、義嗣の皇統簒奪がなされていたら、斯波や吉良が摂関家になっていたみたいな
結局、継体が仁徳の兄弟の子孫というのが嘘なら
なんで継体が「初代」を名乗らないのかって事だよな。
悪虐非道な武烈を神の血を引く継体が成敗して
初代天皇になったで問題無い訳だし。
>>266 欽明以降が手白香皇女(仁賢娘)の血筋だから。
268 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 06:50:11.02
>>265 権力としては管領家の方が摂関家より上だよね
>>266 天皇は神代から「万世一系」だから。
継体を初代とすると神代とつながらなくなってしまう。
だからといって記紀編纂にあたって収集した中国や朝鮮の史料に
継体以前の倭王の存在がはっきり明記されているから
継体以前を神代とするわけにもいかなかったんだろう。
崇神とそれ以前に血縁関係はないとか
応神とそれ以前に血縁関係はないとかも言われているよね。
あちこちの王譜をつなげてできたのが現在の家系図だと。
270 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 11:26:35.74
この頃の朝鮮との密接な関係からして、王朝交代があったなら朝鮮の史書にそう書いてあるだろ。
そもそも万世一系の思想なんてこの時代からあったのか?
272 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 13:14:44.62
>>270 朝鮮の史書なんて残ってないんだよ
百済記とか百済本紀とか日本書紀に引用が見られるだけで
当の百済が滅んでしまった後どうなったのか分からず
現在まで伝わっていない
だから、継体のところで
有名な「日本の天皇太子皇子ともに崩ぜり」(百済本記)
の記述があるんだろが。
これの解釈を巡って学会も紛糾してるんだよ
274 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 13:55:15.19
>>273 それは欽明天皇即位前の話だろ
継体天皇即位のことについては朝鮮史書からの引用がない
275 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 14:02:25.61
継体以前の歴史(応神から武烈までの河内王朝)について
日本書紀は「大伴氏家伝」を引用しているらしいからな
(大伴金村を「あがきみ(我が主君)」と呼ぶ記述がある)
それ以前の王朝の歴史を大伴氏の家伝に頼っている辺り
皇統の断絶がありそうだ
>>274 いいや、日本書紀の継体天皇紀の末尾に記されていることだよ。
書紀の編者は継体天皇と結びつけて挿入していることは疑いない。
277 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 14:25:48.40
>>276 何か勘違いしてるな。
書かれている個所は継体が死亡した時の話であって
天皇太子皇子ってそれぞれ継体、安閑、宣化に充てられてるだろ
どう考えても武烈が滅んで継体が立てられた個所の引用ではないが?
おいおい、大伴金村を我君と呼んだという記事は敏達紀だよ(宣化朝の引用。いずれにしても継体以後)
「河内王朝」で我君とされたのは清寧紀の大伴室屋。
つまり、君ふうの論理によると、清寧と敏達は王朝の歴史として繋がっている。
279 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 15:06:50.84
>>278 大伴家家伝が継体天皇に献上される→
以降の天皇家に代々伝えられて記紀に取り入れられる
何の矛盾もないが?
継体以前の歴史が大伴家家伝に頼っているという事実
用明以降は蘇我家の家伝だろう
で、継体から用明の間は?
>>277 うん。まー、その解釈は、ひとつの仮説に過ぎないだろ。
>>270 日本国内の話だからだよ。
同一民族間の問題だからあくまで王朝交代にはならない。
>>282 名目上のトップは源氏将軍→摂家将軍→宮将軍と代わっても
一貫して鎌倉幕府だったみたいなもんか
>>281 継体即位前期に入れたいなら「天皇皇太子皇子」を誰に当てはめたいんだ?
この3人のいずれかを武烈に充てる説は聞いたことがないが
>>284 いや特に自説があるわけじゃないんだけど、
この百済本記の記述をして、
継体が前王朝を倒した証文と見ることも、あるいは可能かな、と。
>>285 もっと単純に同時期に別の王朝があったで良い。
>>283 鎌倉将軍の例を見ても分かるように、
異姓の者がトップの座を継いだんならそう記して別に問題無いわけだよ。
それを正統性を担保するために男系に拘って系譜を改変しただの、
それが行われたのは男系原理が確立された百数十年も後の子孫の頃(天武頃)だっただの、
こちらの方が妄想も甚だしい。
>>285 可能っつったらまあいろんな見方が可能。
私なんかは、天皇太子皇子同時死の記事は、伝聞形をしているので必ずしも事実ではなく、
継体の対抗勢力(磐井を想定)が何らかの理由で流したデマ(或いは誤伝)なのではないか、
という考えを持っている。(私は磐井の乱勃発を日本書紀の527年とは考えていないので)
なぜ日本書紀があの記事を挿入したかと言うと、「実年代」を補強できる資料だったから。
6世紀の頃でさえ、日本の紀年は明確ではない(欽明朝の仏教伝来や記紀で食い違う敏達の崩年など)。
私の考えでは、日本側の資料に継体の崩年を(日本書紀が匂わせている)534年とするものがあったか、
在位年数の逆算とか百済王暦との比較とかによって、いずれにしても531年ではなく534年とされていたのだが。
紀年をそなえた百済の書物(すなわち百済本記)に例の531年の死亡記事があり、
確たる「実年代」がぜひとも欲しかった日本書紀編纂者としてはそれに飛びつき、当時在位と考えられる継体に当てはめた。
しかし日本側にはそもそも天皇太子皇子が同時死なんて伝承はなかったため、
だから結果的に日本書紀はあんな謎めいたような記述になったのだろうと思っている。
もう一つ。これも個人の感覚の問題になってしまうのだが、継体の真陵とされる今城塚古墳の埋葬・祭祀状況などからは、
その被葬者が「太子皇子と同時死した大王」というイメージにはどうも結びつかない、ということを付言しておこう。
>継体の対抗勢力(磐井を想定)
磐井じゃなくて、たぶん欽明だろう。
それ以外は概ね同意。
289 :
弩壺割:2011/11/16(水) 22:43:48.98
∧_∧ ∧_∧
( ・ω・)=つ≡つ ⊂≡⊂=(・ω・ )
(っ ≡つ=つ ⊂=⊂≡ ⊂)
./ ) ババババ ババババ ( \
( / ̄∪ ∪ ̄\)
がんばらんといかんば〜い
290 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 22:46:11.55
世界史的に打倒した前王朝に
系譜を無理やり繋げた例ってどれくらいあるんだろう?
前王朝の姫を妃にするってのは多いだろうけど
沖縄の第二尚氏は朝貢貿易の継続のために
王朝交代してないことを装って尚氏を名乗ったみたいだね
291 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 22:52:57.66
継体天皇が別王朝だとして
なぜ継体天皇は別王朝を名乗らなかったのだろうか
当時それほど万世一系に価値があったのか
>>288 御同意ありがとう。ただ、私は欽明だとは思っていない。
なにしろ資料が少ない時代なので、何を言っても想像に過ぎず妄想と紙一重になってしまうのだが、
一応このことについて私見を述べておきたい。
私は、継体紀の「一本」記事(磐余遷都)や重出記事の可能性、百済王暦との比較などから、
継体の即位年じたいを、日本書紀紀年に後れること約10年、西暦517年頃だと考えている。
一応記紀の記述伝承を尊重する立場の私としては、欽明は后・手白香の所生すなわち継体即位後の誕生であり、
531年当時はまだ少年であったろうという考え。
もちろん、欽明がすでに年長であったろうとか、或いは継体朝廷とは全くの無関係者であったろうとか、
何とでも考えられることは重々承知。その上で、こういう考え方もあるよということを知っていただければ幸い。
>>290 第二尚氏は第一尚氏と系譜は違うよね。
王朝交代してないといったら、日本の国王良懐と国王源道義(以下歴代)も同王朝。
継体天皇紀の末尾にある百済本記を訳すと、こんな感じ。
------------------------------------------
大歳辛亥三月、軍は進んで安羅に至り、乞乇城に屯営した。
ちょうどこの月、高句麗では、其の王である安を弑逆した。
又聞くところでは、日本でも、天皇及び太子、皇子がともに崩薨したらしい。
------------------------------------------
要するに、高句麗で王が殺された話を書いて、
「王が殺されたという話なら、そういえば、日本でも似たような政変があった」
という雰囲気。
事故または偶然に天皇・太子・皇子が死んだ、という文脈ではない。
いやあ如何なもんだろうか。
「そういえば似たような話が〜」的文脈で語るんなら、
なにより30年前に自国で同じようなことが起きてるじゃないか。
どの道劇的な王朝交代は期待できないよ
傍系が後を継いだってのが結論だよ
297 :
sage:2011/11/17(木) 06:01:21.40
298 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 09:35:24.00
>>296 それをいうなら源、足利、徳川はすべて天皇の子孫
「将軍は天皇一族」という認識なんだろうな
徳川の系譜なんて現在では信じられてないが
当時も継体が偽の系譜を提出してきても
(それこそ太閤秀吉が「俺は天皇の落胤だ」とうそぶいてたように)
誰も確認できなかっただろうし
権力者になってしまったら誰も否定できなかっただろう
それでも雄略天皇の落胤あたりじゃなくて五世王としたあたりに
良心の呵責が見られるな
>>294 の百済本記の記述が正しいとすると、
おかしなことが2つある。
日本 --- この当時「日本」の称号はまだなかったはず
天皇 --- この当時「天皇」の称号は大和朝廷では使っていないはず
301 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 11:18:54.85
>>299 確かにそうだ。
例えば同じ日本書紀の「魏志」の引用は正しいもんな。
「倭」「女王」といった魏志通りの引用がされていて
日本や天皇皇后といった文字に置き換えられてない。
現在残らない「百済本記」の成立過程も不明だしな。
>>298 良心の呵責なんてない。応神5世孫だったんだから。
逆に、秀吉が家康が当時公式に天皇や足利の5世孫に系譜を設定出来たかと言うと、
それは大いに疑問。
「天皇の子」とうそぶくことと、実際にそれが公式にまかり通ることとは別だよ。
うそぶくんなら現代にだって、偽有栖川とか明治天皇の孫とか色々いるじゃん。
だけど「自称明治天皇の子孫」と「竹田宮・北白川宮などの子孫(実際の明治皇女の子孫)」とでは同列に扱えないでしょ。
>>298 いや普通に源頼朝、足利尊氏、徳川家康は
前政権を乗り越えた新政権(幕府)の創始者を自認してるでしょ
周囲もそう認識してるし
旧体制を否定して革命でも起こすようなリーダーだったら
何より自分が新しい体制のパイオニアであることを強く主張するよ
継体がそうでないのは王朝交代ではなかったから
ある体制内に新しい風が吹き込まれたということ
江戸幕府でいえば創始者家康でなく中興の祖吉宗のほうが近いでしょ
>>299 百済本記という書物の成立は7世紀と言われてるでしょ
全くの創作というわけではなく
倭人の人名のなんかには古い書き方を遺してるが
やまとのことは「日本」と記しているので
日本国号を創ったのは百済人だなんて言われる所以
304 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 11:57:50.83
>>302 系譜がない古墳時代とあらゆる日記が残りまくってる戦国時代を比べてもw
秀吉は同時代の多くの史料が残っているから尾張の百姓出身だったとわかるが
もし「太閤記」しか後世に残らず冒頭「大政所は禁中で働く雑仕女である日天皇と交わりたまい
一子孕んで尾張で産んだ」という文章以外になければ全否定しようもないわけで
305 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 12:00:40.77
継体天皇は記紀でも息長氏であったことが明記されているし
せいぜい記紀に忠実に表現したところで
近江の豪族息長氏が采女として献上した女子が応神天皇に侍って男子を産み
里の近江で育てられて息長氏の男子が断絶したか出来が悪かったかで
女系相続で息長氏を継いだものの子孫だろう
継体の姓は息長氏であって皇族とはみなされてなかったよ
>継体天皇は記紀でも息長氏であったことが明記されているし
そういう誤解がさらなる誤解を繰り返す元となる。
>>305 継体天皇は"木曽"義仲みたいなものなのかな?
従兄弟の源氏棟梁は"源"頼朝だし。
>>304 いやあタラレバ論になってしまうけど、
書物として太閤記しか残らなかったとしても、
秀吉のプロフィールや事績みたいなのは、
その当時以降累々と多少の脚色を交えつつも伝承として残ると思いますよ。
あなたとは考え方が違うかもしれないが、
書物はどうあれ、国のトップにまで昇りつめた秀吉の人生ですから、
本来の出自が尾張の農村の出だったということが
全く伝承として消えて無くなってしまうとは思えませんね。
継体の場合、たしかに資料がほとんど残ってないんだけれど、
「記紀」の時代だから何でもアリで、書き換え三昧だったかっていうと、
必ずしもそうとは言えなくて、というのも、
傍系から継いだとされるだけあって継体の姻族や母系に関する情報って特徴的で、
尾張・三尾・息長・坂田・茨田・和珥といった継体妃や越前三国、江沼といったといった継体母系、
ちゃんとこれらに関する5世紀末〜6世紀前期の有力遺跡が確認できるし、
手白香の墓が西山塚古墳だろうってことは、これは記紀じゃなく10世紀の延喜式にまで伝わってる。
しかも、継体の墓である今城塚古墳は、古市古墳群の伝応神陵や伝允恭陵と相似形である、
非常に「河内王朝」色の強い太田茶臼山古墳のすぐ近くに築かれてるわけで、
継体の時代だから全く不明だとか、史実なんてどうにでも改められたとか、
そう簡単には言えないと思うね。
それと、
>>305さんの「皇族とはみなされてなかった」はある意味その通りと思う。
なぜなら当時は前律令時代で、制度としての皇親・皇族なんて無かったろうから。
ただし、継体の時に平安→鎌倉、戦国→信長、江戸→明治みたいな「王朝交代」があったかというと、
古墳の伝統的な築造状況などから見る限り、当時からしてそういう感覚は無かったんじゃないかと思う。
>>306 「意富富杼王」が息長氏初代であると書かれてあるよ
つまり意富富杼王の男系孫である継体が息長氏であることは疑いがない
意富富杼王が皇族だったかというと微妙だけどね
応神天皇妃に息長真若中比売という名前が見えるし
近江を支配する豪族息長氏は意富富杼王よりも古い時代からいたみたいだから
せいぜい好意的に解釈して息長氏の娘(息長真若中比売)が大王に献上されて
孕んだ男子に息長氏を継がせたということ
そうだとしても地方豪族の家を相続している時点でもう皇族扱いではない
中世以降的な「家」概念で語りなさんなって。
とはいえ、5世紀の「家」概念がいかなるものであったかは不明だけどねw
ただ、皇族が制度化されてなかろうが、地方豪族化した一族から大王位に迎えられようが、
文献、考古、整合的にこの時代の在り様を評価すべき。
なんでも他の時代と比較するなよ、との批判を覚悟の上で、
一般庶民と化した旧宮家が現皇室に婿入りし、生まれた子供が天皇位を継いだら、
それで「王朝交代」かというと、そう言う人もいるかもしれんがw、典範改正論議頃の意見を聞く限り、
多くの人々は王朝交代とは見なさないだろう。これは21世紀という時代の論理だが、
6世紀頃の論理を文献・考古面から推測するにどうかと言われれば、
私の意見は、積極的に「王朝交代」なるものを主張できる材料など今のところなんにも無い。
まあ徳川吉宗にしても、
松平頼方として地方大名家を起こしてるから、
その前歴をもって吉宗から王朝交代かっていうと、
そんなことはないからな。
木を見て森を見ず、にならぬよう気を付けないと。
いちおう、男系で見たら、王朝はずっと続いているんだろう?
ただし、継体天皇の曽祖父は、応神天皇の息子だったが
母方の息長氏の養子になって、息長氏を継承していた。
ちょうど、江戸時代の皇別摂家みたいなもん。
東山天皇の皇子は鷹司家の養子になり
後陽成天皇の皇子は近衛家の養子になった。
そこから、何代かたち、再び皇室に復帰して、天皇になるとしたら...
そういうケースに近いのが、継体天皇の即位。
また、記紀では、王朝交代の歴史を隠していない。
では、記紀では、どこで王朝交代したと言っているのか?
それは、出雲国譲り。
ただし、記紀では、出雲国譲りの内容を非常に曖昧にしている。
何を曖昧にしているのか?というと、
出雲を併合した当時の畿内王権の倭王の存在。
なぜなら、その人物こそが、真の初代天皇とされるべき人物だから。
現在の天皇家は、この人物の男系子孫ではないので、
微妙に途中で王朝交代したことになる。
>>235 >神器も先帝の宣命も無い後光厳が即位したあたり。
継体もそれらなしで即位したからOKかと
316 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 16:34:27.65
>>291 やっぱり別王朝ではないんだろうね。
龍造寺隆信が戦死したら、家が持たなくなってしまったので親戚にして家臣でもあった鍋島が担がれたようなものだと思う。
ただ、この後、光仁、桓武に至るまで、
天皇の系統も、重臣たちの勢力図も結構揺れているよね。
安閑、宣化、敏達、
舒明、皇極、孝徳、斉明と
何度か女系で古い血筋に戻そうとしているけど、
結局は継体と蘇我の系統になってしまっていて。
天智の蘇我離れも、継体と尾張目子媛の系統に帰ることでしかなかった。
大和の有力豪族が、継体を単に神輿として担ぐ形であれば、
もっと系統の揺り戻しがあっても不思議ではなかったと思う。
この辺の動きに蘇我が関係しているのかいないのか。
318 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 21:29:04.27
信長も弾正を名乗ったところを見ると長息氏系の尾張氏だったのではないのだろうか?
家康も、信長の姪の江を秀忠の嫁にしたのも、継体以来の正統だったからではないのだろうか?
それを根拠に全国の大名を束ね、天下を不動のものにしたのです。
信長は忌部氏じゃなかったか?
>>316 なるほど龍造寺・鍋島の例は分かりやすい
ただ鍋島直茂は確かに母親が龍造寺家兼の孫だが
もし血縁が無くてもあの地位にいたら担がれることはあり得たのでは
321 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 21:57:58.85
父系と母系があるんじゃないのか?
継体も母系が息長氏で父系は応仁天皇。
邪馬台国の時代から、日本は母系社会だったのではないでしょうか?
父系ばかり追っていると、歴史を読み違える。
継体の母系は三尾氏だよ
>>321 血統は父方からだが
養育者は母方の影響も大きい。
ちょうど、平安以降の藤原氏みたいなもん。
息長氏が応神天皇の父系の子孫なんじゃないの?
有名な葛城氏や賀茂氏なんかも、婿養子を迎えたところと
そうではないところで、父系で違うから
出自が違う葛城氏、賀茂氏が二系統できたんだよな。
>>321 継体は父系が近江の息長氏で、母系が越前の三国氏。
継体の母が近江の息長氏なら近江で育つはずで、
継体が越前で育ったという記紀の説明と矛盾する。
例えば、葛城氏ってのは、
タカミムスビ系の葛城氏が最初で
父系で見ると、大伴氏などと同族のが元祖だったはず。
しかしながら、途中、孝元天皇の子孫である武内スクネの末裔の人物が
葛城氏の一族の婿養子になって、皇別系の葛城氏が誕生する。
そうしたら、ちゃんと、両者は
天神系の葛城氏と、皇別系の葛城氏と分けて
新撰姓氏録に登録されていたはず。
忌部氏なんかも複数系統あるが、
それらも、婿養子が入って、複数の系統の忌部氏が誕生した。
>>327 継体天皇は、産まれは近江だったけど
途中、すぐに、越前に引っ越したんじゃないの?
と、息長氏ってのは、継体天皇よりずっと前は
皇別氏族ではなかったけど、
応神天皇の息子が養子になって、そこから皇別系のに入れ替わったはず。
>>325 たぶん、息長氏は、応神天皇前から存在していたけど
応神天皇の息子が婿養子で息長氏にはいって
そこから皇別系の息長氏が誕生して
その男系子孫が継体天皇だったはず。
≪釈日本紀「上宮記一云」系図≫
伊自牟良君──久留比売命
│
中斯知命 ├─汙斯王(彦主人王)
洷俣那加都比古─弟比売麻和加 ├──乎非王 │
├───若野毛二俣王 ┌太郎子(意富富等王) │
凡牟都和希王(応神). ├────┼践坂大中比弥王 .│
母々恩己麻和加中比売 ├田宮中比弥 .│
└布遅波良己等布斯郎女 │
├─乎富等大公王
伊久牟尼利比古大王(垂仁)─伊波都久和希─伊波智和希┐ .│ (継体天皇)
┌────────────────────────┘ .│
└伊波己里和気─麻和加介─阿加波智君─乎波智君 │
├──┬都奴牟斯君 │
阿那爾比弥 └布利比弥命────┘
(振媛)
332 :
日本@名無史さん:2011/11/25(金) 22:53:22.74
分家の一つの、さらに分家から将軍になった吉宗のようなもんだろ。
ただ、江戸徳川と違うなあと思うのは、徳川は男系のみだが、
古代天皇家は単に天皇の子ではだめなんだな。母方の血も良くないと。
母の身分が低い子>>母の身分が良い孫
鉛のせいだという説もあるが、徳川って本家に限らずあきれるくらい正室が
跡取りを生んでない(育ってない)な。
15代の慶喜なんか奇跡だな。
333 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 05:47:53.71
>>332 > 古代天皇家は単に天皇の子ではだめなんだな。母方の血も良くないと。
時代は下るが、六条天皇は母の身分が低かったがそれでも即位しているし
猛烈な反対運動があった記録もない。
>>333 そりゃ院政期だろ
豪族連合に推戴される意味合いが強い古代と
皇室の家父長権を背景にした治天の君が指名する院政期では
状況が全く異なるぞ
335 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 04:55:27.92
本朝皇胤紹運録の私斐王の表記は日本書紀の系図からきてるんだろうか?
家康が信長の姪「江」を息子の嫁に迎えて将軍を継がせたのと一緒じゃないか?
家康が天皇家の血を引く源氏長者を名乗ったのと同じじゃないか。
古の権力者の男系を名乗り、前権力者の女系を混ぜることで男系を維持するとともに権力基盤を確固なものにするやり方が、
継体の頃から続く男系社会での権力継承の正攻法となったのだ。
>>336 それだとな、当時の権力構造から見たら
大伴氏とか物部氏が、それをやっているんだよ?
当時のヤマト王権の中枢は、大伴氏が牛耳っていたから。
継体天皇の一家なんて、ただのかつがれだからな。
また、継体天皇は生まれは、ヤマトと至近距離で
昔から皇族の直轄地の重要な地域の一つだった近江だから
普通に遠い傍系皇族の出身だよね。
武烈を悪しざまに記述したのは、八世紀の時点だぞ
>>340 だが、各天皇の説話は大体次代次々代の天皇の視線からのものが多いんだよね。
特に正統性が絡んでくる場合が多い。
>>327>>329 古代史に詳しくない身ながらふと思ったが
当時は近江と越前の境界が曖昧で
同じ土地なのに記録によって国が変わったりしたという可能性は無い?
例えば今の敦賀は越前の他地域行くのにも山越えるから
近江扱いされることもあったなんてのは
>>342 越前は坂田氏という別の豪族が治めていた。この坂田氏が継体天皇の母方。
継体は近江の豪族息長氏と越前の豪族坂田氏の間に誕生した。
しかも、古代においては母方も重要であったためか、
日本書紀では継体の母振媛についても皇孫であり、垂仁天皇七世孫としている。
日本国中の豪族が天皇の子孫だということみたいだが、
まあ、継体の父方もさることながら母方振媛の家系図の信憑性もかなり怪しい。
>>344 まあ、怪しいとか言い出したら、きりがないけどな。
継体天皇は、その勢力基盤から見て
ヤマト王権の中枢から外れているし
完全に大伴氏や物部氏のかつがれだよね。
だから、継体天皇の即位前も即位後も、ヤマト王権の中枢部の
権力構造に何の変化もない。
346 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 20:19:45.32
継体と秀吉のイメージがダブるんだよな。
成り上がり、関白、朝鮮出兵、九州征伐・・
348 :
日本@名無史:2011/12/04(日) 11:02:40.47
驚きました! まさか2chに継体天皇のスレがあるとは.しかも,ほとんど毎日.
前スレもあり,まだ全部読めてません.
曽祖父が福井県坂井市出身と分かり,継体天皇のことを調べていました.
即位する前にも何人か子供がいたはずです.
その方達の資料は残っていないでしょうね.
即位する前の子が安閑と宣化でしょ
>>348 継体天皇は即位する前に妻子を持っていたことは記紀に書かれてあるよ。
即位前の正妻が尾張目子媛で、他にも越前や近江の豪族の娘が妻妾になっていた。
即位後の正妻(皇后)が前王権につながる手白香皇女。
他にも和邇などの畿内豪族の娘が妻妾に迎えられた。
目子媛の男子が安閑・宣化で、手白香皇女との子が欽明。
そんなに妻が何人もいたら大変じゃないですか?
体力的にも精神的にも。
即位後に手白香皇女を皇后にしてるのに、
なかなかヤマトには入れない。
変な天皇だよな。
353 :
日本@名無史さん:2011/12/04(日) 18:43:48.03
>>352 あえて大和に入らなかったのかもな
本拠地だったであろう近江との交通の便から
淀川水系の 樟葉宮 筒城宮 弟国宮
に都したのかも
手白香皇女が正室で皇后ってのも簡単に信じるわけにいかないな。
継体は中継ぎの天皇だ。
継体は信長に似ている。
オホドの大王位簒奪はついに大和の地に侵入することで達成されようとしていた
それに遠く九州から立ち上がった男がいた
磐井である
簒奪ではない。種馬だ。
継体天皇は殆どヤマトに入れなかっただろう?
つまり、ほとんど種馬的な天皇。
ヤマトの実権は、ずっと大伴氏と物部氏に握られていたしな。
あと、継体天皇は遠い傍系の皇族からの天皇だったけど
他にも傍系の一族で有力な皇族がいて、
仲哀天皇の6世孫というのがいた。
そいつとどっちかというふうになったけど、
結局、応神天皇の5世孫の継体天皇になった。
まあ、単純に前の天皇と家系が近いのは、継体のほうだからな。
>>359 それもあえて継体の正統性を出すためにあえて対立候補を6世孫とした可能性もある。
仲哀天皇は実在すら怪しい天皇。
そんなこと言い出したら応神天皇だって実在怪しいけどな
応仁は実在の可能性があると言われているが、
仲哀は実在の可能性がないと言われている
似たているようで全く違う
>>361 「倭の五王」の記述から仁徳以降は実在が確実視されている。
仁徳の父は存在したはずだから応神に該当する人物もいただろう。
しかし、それ以前とは王朝が異なっているという説は根強い。
つまり、応神以降の河内王朝と、崇神からの三輪王朝は異なっているという説。
仲哀も仁賢並みに影が薄い。
>>363 >しかし、それ以前とは王朝が異なっているという説は根強い。
というか、せんごのフウチョウがそういうせつ
をうみだしたんだけどな。
>>360 一応、言うけど
仲哀天皇には4人の皇子がいて、応神天皇は第4皇子なんだわな。
上の2人の皇子は、おそらく本来の正室の皇子だった。
その正室も皇族から分かれた家系の出だった。
一方、応神天皇の生母である後の神功皇后は、
今の年齢でいうと15歳くらいの幼な妻だったけど
これまた皇族から分かれた家系の出だが、前妻よりはやや遠い傍系で
格下の家系だった。
で、仲哀天皇の死後、神功皇后を支持する勢力が、応神天皇のほうに
皇位が行くように、上の二人の皇子と戦争やって勝利した。
応神天皇側が勝利したんだが...
で、これ以外に、地方豪族の生母から生まれた第三皇子がいた。
かれは、神功皇后が政権とった時には、まだ幼かったから
粛清されずに済んで、神功皇后らが面倒を見ることになった。
ただし、彼は皇位には就けず、応神から見たら庶兄だった。
で、仲哀天皇6世孫というのは、この庶兄の子孫。
>>348 継体天皇が即位する前には、尾張氏の娘の間に産まれた皇子だたちがいて
継体天皇の即位には尾張氏の力も大きく作用したと思われる。
で、継体天皇のの後をまず継承したのは、尾張氏の娘との間にできた皇子たち。
ちなみに、それよりもずっと前に神功皇后の戦争の時も
神功皇后は尾張氏の信任を得て、先妻の産んだ二人の皇子に勝利できた。
壬申の乱で、大友皇子と大海人皇子が戦争をした時も
尾張氏が大海人皇子を信任して、大海人皇子、つまり天武天皇が勝利できた。
皇室側で家督相続争いがおこると、かならず尾張氏が出てくる。
367 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:23:27.84
桓武天皇>高望王の5世孫、平将門は、新帝を名乗った。
しかし、その野望は日の目を見ることはなかったけれど、
将門も天皇となる資格があると意識されていたのだろう。
源頼朝も清和天皇の10代孫に当たるし、直系でなくとも
天皇の血さえ引いていれば天皇になる資格はあるだろう。
家康も、源氏長者を名乗ったし、天皇の血を引いていることが大事。
現代はDNA鑑定という手法が確立されているから、
歴代天皇陵と現在の天皇一家のDNAを調査すればいい。
あとは国民の中から、天皇の男系遺伝子を受け継ぐ者をリストアップし、
その中から適任者を天皇にすればよかろう。
368 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 22:46:56.47
やはり畿内に近く穀倉地帯でもある
濃尾平野ってのは重要なんだろうなあ
信長も濃尾平野を抑えたからこそ天下を狙えたんだろうし
>>359 > ヤマトの実権は、ずっと大伴氏と物部氏に握られていたしな。
結構期間は短いでしょ。
葛城氏、平群氏→大伴氏、物部氏→蘇我氏
平群氏の失脚は、継体の即位に影響しているんだろうね。
>>369 期間が身近とか言っても、数十年維持しているわな。
しかも、継体天皇は完全に担がれ。
>>368 まあ、それも重要だとは思うし
それより何よりも、尾張氏の祖先は、天照国照彦(天火明命)。
皇室の祖先のニニギの兄にあたる。
天武天皇が女神アマテラスを祭るまでは
この天照国照彦をヤマトの始祖の男神アマテルとして祭っていたみたいだし。
播磨国風土記の記述からも、出雲国譲りの時のヤマトの大王は、
この天火明命だったみたいだしな。
仕事の関係で昔仕事場の近くに継体天皇陵があって
今住んでいる所の近くに継体天皇の
像のある山がある俺が来ましたよ
また出てきたよ尾張厨。
もう別スレッド立ててそこで勝手に妄想全快してろ。
天皇家が尾張から「信任を得て」ってアホかw
どこに尾張が格上って証拠があるんだよ。
そんなに尾張が重要だったならば、越前から出た継体じゃなくて
尾張氏が大王に迎えられただろうに。
継体の嫁の実家にすぎんだろ。
しかも日本書紀によれば継体即位後は手白香皇女が正妃の座につき
糟糠の妻尾張目子媛は完全にハブられてる。
375 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 18:43:37.75
オイ尾張厨。疑問を呈しているんだ。何か答えろ
私も当時の大王家が尾張氏に一目置いてた的な意見には反対だけど、かといって過小評価にも反対。
というのも、いわゆる尾張型埴輪が継体朝の前代から周辺地域に普及し、
とくに継体帝ゆかりの土地から見つかっていることや、
5世紀後半から大型の古墳が尾張に築かれ、6世紀前期に至って今城塚古墳(真継体陵)に次ぐ規模の
断夫山古墳で全国No.2に達し、次ランクの古墳も多地域と比較して集中して造られていることなどから。
だから、
>>374さんの「尾張氏が大王に迎えられただろうに」ってのは、
大王が血統に拠らなかった説に立つならば大いにそのとおりなくらいで、
そうではなく継体が選ばれたのは、やはり「大王家の血筋」が基準にあったのだろうと私は思っている。
埴輪や古墳などの盛衰からも、尾張系がハブられる(影響力を失う)のは6世紀中期、すなわち欽明朝以降。
4世紀から7世紀まで尾張はキングメーカー
そうは言っても尾張目子媛の子供二人が即位してるし、
>>376のような事実もあるし、
> 手白香皇女が正妃
こっちが実体ないのでは?
欽明天皇以降の創作である可能性もある。
いわゆる「尾張厨」は中国史料排斥主義者と比べれば
はるかに実のある議論をしてるように思える
尾張とは因幡氏だろう?
三輪山の大国主に命を救われた因幡の宇佐氏。
信じることが大事なのとを悟って天皇に近侍したのです。
>>378 >尾張目子媛の子供二人が即位してるし、
即位しただけ。嫡流は欽明の系統に奪われる。幼い欽明が成長するまでの中継ぎだったと考えるのが妥当。
大和の豪族達にとって「正統」はあくまで仁賢天皇の皇女に血を引く欽明だった。
>>376のような事実もあるし
単に、「尾張に経済力があり、大和との交易も盛んだった」ことの証明になるだけ。
中央政治や皇位継承に介入し、主導権を握れたというような権力・権威があったこということにはならない。
実際、記紀にそんな記述はない。
> 手白香皇女が正妃
こっちが実体ないのでは?
欽明天皇以降の創作である可能性もある。
単なる妄想。「実体がある」からこそ彼女の血統が皇位を継いだんだろ。
>>379 >中国史料排斥主義者と比べればはるかに実のある議論をしてるように思える
「中国史料排斥主義者」なるものは存在しない。するとしたらアンタの脳内だけに存在するんだろう。
中国資料を「金科玉条」のごとく扱うな、と主張する人ならいるけどね。
382 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 22:41:15.31
>>376 同意
一定の影響力はあったんだろうね
でも中央が安定するとはぶられる
>「実体がある」からこそ彼女の血統が皇位を継いだんだろ。
こっちも蘇我氏に担がれただけではないか?
嘘吐き朝鮮、中国人がやってる報道機関 朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
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NHK放送センター、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
前スレ470なんて「中国史料排斥主義者」そのものだろ…
かつて後円部の墳頂以外は段々畑だった見瀬丸山古墳は、近年国有地化が着々と進み、
墳丘は完全に保護されるに至った。
次は周濠も買い進めようぜ
388 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 11:46:12.66
>>378 尾張目子媛の子、宣化天皇には皇子が3人もいたのに、いずれも天皇になれず、
皇統は手白香皇女の子である異母弟欽明天皇へ移っている。
尾張派が主張する正妃は尾張目子媛だったというのならば、
兄である宣化天皇に皇統は返されるべきだろう。
しかし、欽明天皇の子は4人も即位したのに(女帝を含む)
宣化の子は一人も即位できていない。
石姫皇女が、嫡妻だったというのも事実かどうかわからん。
蘇我堅塩媛が死んだ時、皇太夫人と言われたしね。
この頃は嫡妻かどうかの区別がはっきりしてない。
平安時代でも皇后や皇太夫人はかなりいい加減な使い方。
むしろ中国の史書を真似た記紀が皇后認定がはっきりしていて異例。
390 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 12:13:46.86
>>389 「皇后」という称号がなかったことは事実だが、「大后」はあったろう。
敏達天皇が没するとその正妃炊屋媛(後の推古天皇)の勅により用明天皇が即位している。
つまり、先代の正妃であった炊屋媛に天皇決定権があったわけで、
そのほか大后が政治に関与していた形跡があるなど、あきらかに突出した妃の存在はあった。
厩戸皇子は用明天皇の第二皇子で庶兄がいたが、用明天皇から上宮を与えられて跡取扱いされたのは
母親の穴穂部皇女が用明天皇の大后であったから。
妃たちが横並び一列だったのならば、厩戸は有力皇子にはなれない。
>>389 「皇后」と「皇太夫人」は別物。
皇后は天皇が退位すると皇太后になる。
皇太夫人は皇后以外の天皇生母の称号。
例えば、聖武天皇の母藤原宮子は文武天皇の夫人であるため皇太夫人だし、
聖武天皇の皇后藤原光明子は皇太后になっている。
皇太夫人は皇太后ではないよ。
かなり時代が下っても、皇太后は、尊称皇太后、贈皇太后とか色々種類があるんですよ。
素朴に理解されているほどは、厳密に使い分けられてない。
継体の時代にこの制度が整えられていたと考えるのは無理がある。
393 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 12:40:09.67
天照国照天火明命→天香山命→尾張氏こそ嫡流・尾張氏。
>>392 有力な王家の娘と、地方豪族の娘と、庶民の娘が妻になる。
これらの妻は皆横並び一列で差がなかったと考えるほうが無理がある。
つまり、日本書紀に描かれている尾張目子媛が
継体の突出した「元妻」だという記載も否定するんだよね。
尾張目子媛は継体の20人以上いる妻妾の一人にすぎず、
三尾稚子媛とか坂田広子媛と同列だったと。
アマテル神の正妻の瀬織津姫ってどうよ?
>>394 手白香皇女と尾張目子媛の二人は子供が天皇なってるから特別じゃないかと。
安閑と宣化の即位についてはいろいろと怪しいことがあるけど、
敏達が宣化皇女の石姫の子供。
だから敏達の血は1/4が仁賢の系統で、3/4が継体と尾張の系統。
そして敏達の系統が出自が葛城と考えられてる蘇我氏と
どんどん距離を置きながら、大化の改新で最終的に生き残ってる。
大化の改新では尾張の力が大きく働いたし、
継体朝で尾張の力を無視するのは難しいよ。
蘇我氏と違って距離を置いているけれども。
ただし蘇我稲目が宣化の時、飢饉の備えとして尾張の米を
運び込んでいるから、蘇我と尾張は協調していた可能性がある。
397 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 15:19:28.34
>>396 尾張目子媛は継体最初の妻で、所生の子は最年長だったために天皇になっただけともとれる。
むしろ、大勢いた異母兄たちを退けて天皇になった欽明だけが突出している。
そもそも、尾張氏を外戚とする天皇が誕生したのは安関・宣化だけ。
尾張氏が天皇家に次ぐナンバー2ならば、葛城氏や蘇我氏、藤原氏を退けて
歴代后妃を輩出するはず。
>蘇我稲目が宣化の時、飢饉の備えとして尾張の米を
>運び込んでいるから、蘇我と尾張は協調していた可能性がある
そのことも含め、稲目が日本書紀上では宣化朝から大臣になってることや、
安閑の宮が勾という曾我の地域と隣接する所に築かれていることから、
むしろ稲目の出世の遠因はそこにあるんじゃないかって考えがあるな。
のちの稲目宅が「オハリタ」に築かれたり、推古の子女に「オハリタ」皇女や「オハリ」皇子がいたり、
葛城の地域が尾張氏の故地であることなどとも関連して、考えすぎの感はあるが、
「紀」の安閑・宣化の享年によらず稲目・安閑・宣化とも西暦500年頃の生まれだったとすれば、
稲目の母が尾張氏出身、つまり安閑・宣化と稲目とは母方のいとこ同士だったのではないかという考えもある。
光孝天皇と藤原基経みたいにね。
399 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 15:51:22.84
蘇我稲目の母親が尾張氏で稲目が安閑・宣化のいとこならば
安閑・宣化に娘を嫁がせて支援するだろう
欽明に娘を嫁がせて支援する意味が全くない
400 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 18:18:00.00
朝日新聞は一時期300人のネット工作員をかかえ、反日工作を行っていた。
捕まった編集者は49歳ですが、こんなカスでも1500万円の年収がもらえるんですよ。
>>866 14時以降に何が起きたんだ
>>866 Domain Information: [ドメイン情報]
a. [ドメイン名] ASAHI-NP.CO.JP
e. [そしきめい] かぶしきがいしゃ あさひしんぶんしゃ
f. [組織名] 株式会社 朝日新聞社
これが規制されたからじゃねw
−「朝日新聞社は、とある思想やパラダイムに日本の世論を誘導する見返りに、中国から大量の資金を貰っている。」−
これはおそらく週刊誌さえ書けない。
「失語症躁鬱ニートは氏ねよ」【ネット】朝日新聞社員(49)ネットで荒らし行為、会社ごとアクセス規制へ 2009年3月
継体天皇は仁徳天皇の5世孫ということで皇位に就いたけれど、
それ以前は、複数の王族から適任者を選ぶシステムだった。
倭の5王には血縁関係はないし、卑弥呼の宗女トヨも実の娘ではない。
天皇に血を引かないものは天皇になれないという万世一系を決定付けるための出汁に使われた初の天皇。
そうすると万世一系の初代は仁徳ということになると思う。
402 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 20:53:10.70
プレ倭王、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(天孫系)こそ重要。
おれは、竹内文書に書かれているように、神武天皇からはじまる現在の皇朝(神倭朝)以前に上古25代、
それに続く不合朝73代があり、さらにそれ以前に「天神7代」があり、全て万系一世だったと信ずる。
日本人というか世界人類の9割9分は天皇の子孫。
不合朝の初代は西洋ではアダムと呼ばれている。
>>401 今の天皇から遡れる初代は欽明と言われている。
405 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 21:27:31.87
>>399 ていうか、稲目・安閑・宣化は500年頃生まれの同年代という考えだから。
540年頃安閑・宣化が亡くなった時に、ようやく稲目の長子(娘)が成長してくるといった年代観。
そもそも安閑・宣化と欽明の対立といった先入観を疑問視した考えであり、
宣化朝に大臣(的地位)になった稲目が引き続き欽明朝にも仕え、有能さを発揮し、年齢的にも娘を入内させることが出来たということ。
欽明には宣化皇女の石姫も嫁いでおり、石姫の御陵は蘇我氏とも縁故のある河内国石川郡に築かれる。
407 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 23:11:20.30
古墳とは何か?ずっと考えていただけれど、最近ひらめいたアイデアがある。
古墳の頂上が平でそこで何が行われていたのか?
野見宿禰との関係からも多分間違いないと思う。
>>397 > 尾張目子媛は継体最初の妻で、所生の子は最年長だったために天皇になっただけともとれる。
欽明は継体崩御の時、22歳だったから、
記紀にあるように本当に嫡子であれば、宣化、安閑をすっ飛ばして即位していておかしくなかった。
その上、宣化崩御の時、欽明は安閑の皇后、春日山田皇女に即位を薦めてる。
>>403 ウガヤフキアエズとは
上伽耶茅葺不合
であり古代韓半島南端国家「伽耶」と関係があると思う。
410 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 09:21:41.41
『日本書記』
天火明命とは天香山の父であり尾張連らの祖。
『古事記』
正勝吾勝々速日天忍穂耳命の子に天火明命とみえる。
『天孫本紀』
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。天香山命から続く尾張氏。
尾張氏は天皇家と同族となる。
411 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 09:28:54.74
>>401 倭の五王は讃の弟が珍、済の世子が興、興の弟が武
と血縁関係が書かれてあるよ
基本的には親子相続と兄弟相続であって
5世王が即位するのが一般的だったなんて中国史書にも書いてない
広く「王族」の中から大王を募るのが一般的ならば
卑弥呼と壱与の血縁関係が描かれない邪馬台国みたいな書き方になるだろう
なんで、難しく考えるんだよ、おまえらw
記紀にあることを、年代だけは無視して、ほぼ額面通り
受け取れば、何の謎もない。
無理やり独自解釈するから、まずます謎だらけになるんだよw
書いてないことを想像を膨らましすぎ。
想像を膨らませるにしても、文献にあるように想像ふくらませよw
>>411 卑弥呼と台与は同じ一族な。そういう風に魏志倭人伝にも書かれている。
>>409 そんなもん、語呂合わせだw
アホな解釈するな。
古事記にあるように解釈しろ。
>>403 竹内文書では、説明がつかないことが多すぎる。
おりゃ、後世の人間が考え出した偽書。
ファンタジーだよ、あれは。
415 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 12:25:58.49
>>376 尾張系の古墳って前方後方墳でしょうね。
平松邦夫/民主党
大阪市役所・自治労・大阪市労働組合・日教組・大阪市教育委員会・自民党・共産党・社民党・関西電力・住友グループ
・毎日放送・毎日新聞・関西経済連合・日本原子力発電株式会社 ・ 週刊文春・週刊新潮・NHK・朝日新聞・読売新聞
・部落解放同盟・朝鮮総連・在日本大韓民国民団・日本遊技関連事業協会・全日本遊技事業協同組合連合会・日本弁護士連合会・生活保護受給者・反日左翼・9条の会・革マル派・中核派
VS
橋下徹/維新の会
大阪市民・みんなの党・国民新党・亀井静香・石原慎太郎・東国原英夫
様子見:公明
417 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 16:23:23.15
>>412 >卑弥呼と台与は同じ一族な。そういう風に魏志倭人伝にも書かれている。
その箇所を抜き出してくれるかな?
419 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 20:03:46.45
「宗女」ってなんだ?
弟子みたいなもんか。
420 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 20:54:42.21
一族の中から巫女にふさわしい霊感を持った娘を選んだのだと思う。
自分の娘ではなく姪や又従姉妹あたりから選んだかもしれないし、
霊感の強い娘がいると聞けば自分の目で確かめにいって養女(宗女)にすることもあったろう。
要は血筋ではなく適任者を選んだはず。
豊与は幼くして巫女としての才能の片鱗を見せていたのだろう。
十三才になると成人とする伝統は、今も関西地区に残っている。
卑弥呼はスレ違いだろ。
>>421 継体帝の時代の皇位継承について考察する上での話だから
このくらいならスレチは言い過ぎ
巻向スレで、昔よく議論されていたことなんだけど、
奈良盆地南部の豪族(=のちの皇室)の西南日本制覇にとって、尾張というか、東海西部が
かなり重要な役割を果たしたというのは、弥生時代から奈良時代に入るまで、
考古学的にほぼ一貫して表徴が出てくる話だろうと思う。
ただ、気をつけるべきことがいくつもあって、
1 畿内と濃尾伊勢は、常に不均衡な関係にある。松本清張説(西遷説)はおかしい
2 濃尾側から見ると、何度も「畿内化の上書き」がされているように見え、一貫した固有文化集団がいたわけではない
3 どうやら濃尾との交通を大和が「独占していた」ことがポイントらしく、濃尾自体が唯一絶対の枢要ではない
以上をベースに、
>>1を見るとき、
継体朝というのは、「王権の重心が、大和盆地南部−大阪平野南部から、大きく離れた特異な時期」なんだよね。
尾張の力は減少すべき時期、と考えるのが、地政学的にも考古学的にも穏当なところ。
>>423 > 3 どうやら濃尾との交通を大和が「独占していた」ことがポイントらしく、濃尾自体が唯一絶対の枢要ではない (略)
> 継体朝というのは、「王権の重心が、大和盆地南部−大阪平野南部から、大きく離れた特異な時期」なんだよね。
> 尾張の力は減少すべき時期
ここの整理間違えてない?
この時代は独占してなかったでしょ。
継体と尾張の関係は伊賀経由じゃないから。
>>424 古地理的に、「名張ルート(今の近鉄大阪線)こそが、東日本太平洋側との交通上、唯一絶対に近い鉄板ルートだった」
ということなんだ。伊勢湾西岸に出たら、そこから尾張でも三河でも、一気に船で横断する。
これは、今となっては大変にわかりにくいが、「海(内湾)は、船で簡単に渡れるが、湿地帯の横断は大変に難しい」
という、近世初頭くらいまで続く普遍的な交通常識がある。
言い換えれば、関ヶ原ルートは、その先の大垣から安八(岐阜羽島)の大湿地のおかげで
行き来するだけでも大変に難しかったということ。
継体と尾張の関係は、間接的か、惰性的か、不利な条件のもとで何らかのクッションがある状態としか考えられないし、
文献は、普通に読めばそのように読める。近江越前が前面に出て、尾張は相対的に後景に退く。
>>418>>420 そのトヨの13歳ってのは
今の年齢でいう13歳なのか?
よく言われているように、春秋暦(半年で1年と計算)
で13歳(つまり、実質26歳)なのか、どっちだろうな。
その当時、倭国では春秋暦を採用していたみたいだが
一方で、中国ではとっくに四季で一年としていたみたいだし。
この暦の違いを当然、倭人も漢族も理解していただろうしな。
427 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 10:35:15.00
>>420 宗女って養女のことなのか?
魏志倭人伝にある「宗女」とは必ずしも直接的な血縁関係を意味しない。
壱与が卑弥呼と血縁関係を持つ同族(卑弥呼の姪や従姉妹の中から王を選ぶといった)
だったとは言い切れないわけだが。
つまり、邪馬台国で血縁相続されていたとは言い難いこと。
卑弥呼の後に立った男王と卑弥呼の血縁関係も説明されていない。
卑弥呼の弟が卑弥呼の世話をしていたことが書かれてあるので
男王が卑弥呼の血族ならそう書くだろうということ。
>>427 宗女とは、一族の女みたいな意味が、ほぼ通説だろう?
だいたい、どこでも、それで通っているよ。
(その通説が間違いだというのなら、仕方がないけど)
卑弥呼は独身で子供がいなかったので、卑弥呼の娘ではないが
卑弥呼の一族の娘だったのがトヨ。
卑弥呼=モモソ媛命ならば、トヨ=豊鋤入姫命だろうね。
>>427 >卑弥呼の後に立った男王と卑弥呼の血縁関係も説明されていない。
>卑弥呼の弟が卑弥呼の世話をしていたことが書かれてあるので
>男王が卑弥呼の血族ならそう書くだろうということ。
これは目に鱗。
卑弥呼の後に立った男王は、男弟で、崇神の可能性が高いとは思うが
また、別の人物が王になったのかもしれない。
記紀や新撰姓氏録で探してみる価値はあるな。
孝霊〜崇神時代の人物に注目してみる必要がある。
卑弥呼の弟とはスサノオノミコトだ。
432 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 12:20:35.94
>>428 「宗女」は直系という意味だから、必ずしも血縁を意味しないよ。
茶道や剣道で師の名前を継いで「宗家」を言うこともある。
壱与は卑弥呼の一番弟子で卑弥呼号を継承した程度の意味。
血族ならば「世子」という言葉が使われる。
中国での「宗」であることを忘れてはならんよ。
「宗族」とはおもに父系の一族のこと。
「宗人」といえば一族・一門の人間のことを指すし、
「宗子」といえば後継ぎ・嫡男を指す。
ゆえに「宗女」は一族の女子と考えるのが適当だが、
もちろん「後継ぎの女・嫡女」の意で、血縁に無い者がその地位になることも無いではない。
諸芸道における宗家ってのは、下手すると近代以降の用語ではなかろうか。
434 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 13:54:26.05
>>433 中国では古代から諸芸能において師と弟子で繋がる関係を「宗家」という考え方があるよ。
孔子と一切血縁関係にない教え子の弟子たちを指して「孔子百家」などと言って
一つの家のような概念で表すこともある。
ましてや、卑弥呼は鬼道を行う巫女であって、娘がいるわけではない。
群臣が相談して巫女を王に立てたという記述からも
世襲がうかがえる文面は何もない。
>中国では古代から諸芸能において師と弟子で繋がる関係を「宗家」という考え方があるよ。
ほんとかよ。じゃあ漢和辞典とか国語大辞典とかWikiとか結構意味が欠落してるな。
>>433 いいこといった。それだ。
魏志倭人伝を書いたのは中国人だから、中国人の価値が大きく入っている。
中国人から見て、卑弥呼とトヨは、父系で見て、同じ一族だったということ。
モモソ媛命も、豊鋤入姫命も、父系で見て、同じ一族だ。
つまり、両者とも、神武皇統の一族のもの。
>>434 おまえ、小説の読みすぎだ。
邪馬台国を題材にした小説では、わりと
トヨを、家系ではなく、一般庶民から霊力があるということで
巫女に祭り上げられたみたいな内容のものが多いw
そっちのほうが、ライトノベルの題材なんからしたら、もってこいだw
なんか、十二国記で普通の家庭から王が選ばれるみたいな感じで
ロマンがあってよいw
でも、実際は、トヨが女王に選ばれたのは
王家の家系だったにすぎない。
>>434 「宗」という字義には色々あるのであって、要は「宗女」という熟語になったときに、
「諸芸能・諸技能(あるいはその名義)を継いだ女」という意味・用例があるのか、ということだよ。
私はいささか拡大解釈なんじゃないかなあと思うんだけど。
やはり、宗族という概念上の「一族の女・あとつぎの女」を指すんではないかなあ。
439 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 15:45:28.36
>>437 いや、小説の読み過ぎはお前だよw
冷静に考えて「宗女」の意味を想定しているにすぎないが?
壱与と卑弥呼に血縁があったのならば、それを証明しろ。
ついでに卑弥呼と男王の血縁もだ。
卑弥呼の弟は即位していないよ。
魏の使者は卑弥呼の身辺の世話をしている弟のことを知っている、
これが王になればはっきりそう書くはずだから。
440 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 15:47:14.48
>>438 中国の世襲王家には「宗女」という概念がない。
世襲なので、世子、兄、弟、娘、姉、妹といった呼び名で済むからだ。
宗女と書いたのは説明できるような血縁がなかったということだ。
>>440 >世襲なので、世子、兄、弟、娘、姉、妹といった呼び名で済むからだ。
>宗女と書いたのは説明できるような血縁がなかったということだ。
一族だったけど、
上の関係では説明できなかったから、宗女と書いたんだろうがw
卑弥呼がモモソ媛命ならば、トヨは豊鋤入姫命のことだろう?
モモソ媛命の兄妹の曾孫が豊鋤入姫命。
一族だが、世子、兄、弟、娘、姉、妹のどれでもないから
宗女と書いたw
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(_ ' _^_ヽリ なんだ AKBって整形した反日朝鮮人だったのかァ
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/ \,ゝヽr' \
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|___l ノ ,イ !__,}
443 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 18:08:00.15
>>441 それは推測だろ。
どちらにせよ、卑弥呼と壱与は数等身離れればもしかしたら血縁があったかもしれないが、
それほど近い血縁にはなかったということだ。
そして、「宗女」とは卑弥呼と血縁が遠い、あるいは血縁がほとんどないが
卑弥呼が一番弟子にしていたからそう書いたのだろう。
あと、モモソとか妄想入れるのはやめてくれ。
444 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 20:11:43.30
宗女 は普通 同宗族の娘だろ
それ以外はまずないでしょ
カリスマである卑弥呼の後継を決めるため、
AKB48のように才能がありそうな若い娘をたくさん集めて、
最終的には一族の長老の総選挙で決めたのではないだろうか?
その結果、票を集めるために枕営業をするものも絶えなかっただろう。
それでモラルの荒廃し、国家大乱を招いたのだと思われます。
>>445 脱線しすぎ
でもそういうおばかな発想は嫌いじゃない
第一回じゃんけん大会優勝者: 卑弥呼
第二回じゃんけん大会優勝者: 壱与
第三回じゃんけん大会は他の地域からの横槍で非開催
>>445 邪馬台国を題材にした小説には、そういう内容が多い。
449 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 23:32:44.19
>>445 そういう内容はファンタジー要素満載だな。
451 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 07:38:38.19
モモソ媛命の死後、崇神は
四道将軍派遣戦争したんだよな。
452 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 11:55:55.57
454 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 22:41:20.85
455 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 00:24:05.67
三巻イリ彦だろう?
諱はイニエ命。
457 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 20:32:10.86
在日の戦略にひっかかり、全ての間違いが始まった2009年 夏
|:::::::::::::;;;ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|::::::::::( 」 < 民主になればこの世はバラ色、政権交代!
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| ┬ |それでも懲りない日本人、韓国民団総理支持率35%w早く目を醒まそう!
458 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 23:19:45.87
稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵(ワカタケル)大王とは、継体のことではないのか?
いやあ、それはない
460 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 09:10:56.16
大和朝廷と邪馬台国の関係は?
462 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 09:57:18.13
狗奴国一宮
伝欽明天皇陵って結局誰の古墳なん?
あそこおもしろくて好きなんだが。
現欽明陵=平田梅山古墳のことなら、あれこそ真の欽明天皇陵と思われ。
465 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 15:50:30.40
466 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 18:31:16.24
書紀の百済史料では武烈まで倭国、継体から日本
継体は日本の初代だと思う。
467 :
日本@名無史さん:2011/12/26(月) 23:41:25.80
明治天皇は斉明天皇と血の繋がりはない。
南朝の天皇の末裔。
系統で言えば・・・何世に当たるのだろう?
468 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 21:58:09.59
南朝だと斉明の血を引かないって何?
斉明の血はどうでもいいんだが、
私は継体に行く前に逃げ出してる王の子孫が気になる
血筋的にそっちの方が近いなら
どこかで娘が嫁に入ってるとかないの?
血筋的にそっちの方が遠い。
えーそうなの?
でも、丹波の桑田って元出雲あるじゃん。
酒呑童子も丹波だし。
なんか関係があるのかと思ってたよ。
472 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 19:53:26.33
>>469 いいや、そっちのほうが遠い。
応神の異母兄の子孫らしい。
だから、継体よりも一親等遠い。
473 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 19:55:14.99
丹波国に居住の仲哀天皇の五世孫・倭彦王
474 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 20:02:07.84
>>474 あと、継体天皇は、いちおう、越前から河内に引っ越しているから
いちおう、河内に一時期、遷都したのかもな。
>>477 うん、だから、それ以外の記事が糞と突っ込みw
でも、その倭彦王が一時期、即位というのも怪しい。
男大迹王がすぐにヤマトに遷都しなかったのは、大伴金村と路線対立していたからだろう?
このころ、大伴金村の専横で、他豪族と揉めまくっていたし。
男大迹王が遷都した場所も、河内と山背と転々としているが、
いずれも、それ以前に歴代の倭王の居住地だったところだし。
実際学者さんたちのあいだではどうなんですかね?
継体天皇の出自をめぐっては
最近は傍系でまとまりつつあるとか本に書いてあったんですけど
482 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 03:53:10.81
継体帝の頃は、天皇はお飾りじゃなく実力が要求されたんだろうな。
平安時代には五世孫まで数えると常時500人以上天皇家の末裔が京都周辺にいたらしい。
皇籍離脱しているが、平将門なんかも血統的には五世孫であり、
天皇の血縁がいかにたくさんいたかは容易に想像がつく。
天皇に実力が要求されなくなったのは、律令の仕組みが行き渡って以降。
継体帝の頃は、血の近さよりも、実力であり、皇統は、親子関係の擬制で、
やくざの親分子分と同じ(もちろん、実の親子で組長を継承する事も中にはあるが)。
483 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 03:58:51.70
なるほど
継体が本当に大王家の血筋だったのに
20世紀以降の否定論が定説化しちゃったおかげで
25世紀には完全に大王家の血筋じゃ無くなっちゃっているようなもんか
5世孫といえば、明治天皇から数えて愛子の世代だから当時の人にとっては現実の世界だ。
血統を誤魔化すなどということは出来ないのです。
486 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 09:34:24.51
継体が大和入りするまで、王朝並立があったという説。
雄略の治世は宋書・梁書から判断するに、478年以前〜502年以後と考えられる。
安康の治世は462年以前から478年以前であろう。
稲荷山古墳鉄剣銘文の「辛亥年」は471年でなく531年と見るほうがよい。
考古学的にも合うようだし、オワケがワカタケルに仕えたのは若いころであろうから。
506年ごろ清寧が死去し、顕宗〜武烈の倭国と継体の日本国が並立する。
531年に武烈が死去し倭国は滅亡。磐井戦争を経て、534年ごろ継体死去。
いやいや、考古学的にはイナリ山鉄剣の辛亥年=531年はもうない。
神武も嫁のおかげで大和入りできたので
継体が大和入りできなかったのはそういうことなんじゃないの?
結局は母系の血が大事な気がする。
489 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 11:21:25.40
鬼死骸
>>489 じゃあ「辛死年7月……」で読めば良いんじゃね?
俺にはとてもそんな馬鹿な真似は出来ないけど。
492 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 14:10:31.55
>>489 どう読めば「辛亥」になるのか不思議だ。
鍋蓋に羊と書いて何と読むのかわからないが、羊の王が死んだとしという意味だろう。
其の児、加「羌」按余だろう。
つまり、この銘文の内容は羊と呼ばれたツングース系遊牧民族月氏と関係がありそうだ。
>どう読めば「辛亥」になるのか不思議だ。
ここは一応文系学問板と銘打ってるんだから、不思議に思ったらすぐに調べる!
(時代は違うが)飛鳥時代の木簡などの文字資料、様々な字体が載っている漢字辞典を調べてみる!
軽々にデムパに走るな!
495 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 21:13:31.23
倭王武上表文の「奄喪父兄・・・居在諒闇不動兵甲」は昔から疑問とされてきた。
書紀の年代では、允恭・安康は20年以上前に死んでいるからだ。
だが、478年は書紀が記すように雄略の死の直前ではなく
雄略即位の直後で、雄略は502年のすぐ後に死んだと仮定すると
雄略の在位年数は書紀とほぼ同じで、時代がずれているだけになる。
年代の再検討が必要なことは言えるだろう。
年代の再検討が必要なのはそのとおりだが、年代のズレ方が違う。
「宋書」には、済の死が460年世子興の遣使の前に書かれており、
また武の上表文に「奄喪父兄」とあることから、
兄・興も済の死からそれほど年が経たないうちに没したことが考えられる。
それに、武の上表の前半には、長いこと宋に遣使できなかった言い訳が述べられている。
このことから、興が書紀の安康のように数年の在位だったとすれば、
460頃済(允恭)没、465年頃興(安康)没、
(その後書紀の伝えるような後継争いがあり、王位が空いた可能性もあるが)
雄略が約四半世紀在位したとすれば、490年頃没という年代を想定できる。
497 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 22:44:26.43
>>481 継体天皇新王朝説については、
結局、近代以降、本居宣長の国学思想の影響で
邪馬台国=ヤマト国を否定してしまってから
ヤマト王権の建国過程が、、あるで謎だらけになってしまい
その結果、新王朝説みたいなのが勢いを増した。
継体天皇を記紀のいうとおりに、傍系からの天皇というふうな
見方が強くなってきたのは、
纏向遺跡の発掘による邪馬台国論争の影響が大きいと思う。
傍系でも継体くらい離れてたら、フランス式では新王朝だね。
とちゃちゃを入れてみる。
499 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 09:47:01.41
>>498 ルイ16世は退位後ルイ・オーギュスト=カペーと呼ばれてるから
フランス人にとっては王家名は変わっても王統は変わったとは認識してなかったのかも
当人のルイ16世は「自分の先祖にカペーという人物はいたが自分はカペーではない」って言ってたが
500 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 10:54:50.65
書紀引用の百済本紀で、武烈までは「倭」または「大倭」
継体からは「日本」と呼んでいる。
当時は王朝交代という認識だったと思う。
501 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 11:19:40.68
>>500 それまでの皇位継承よりは、遠い傍系での継承だからな。
でも、国号に関しては、単純に嫌だったから
変えただけだろう?
502 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 11:21:45.05
白村江の戦いが契機となり国号が日本に変わったと聞いたことがある。
503 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 11:24:09.89
継体は簒奪者。応神と同じ。
気
あ を
の 付
朝 け
犯 鮮 .ろ
罪 人
者 .
圖
∧_∧
( ´∀`)
( ○ )
505 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 12:57:49.87
>>481 継体よりも以前の邪馬台国論争で
邪馬台国=ヤマト王権の可能性が高まってきて
ある程度、ヤマト王権の建国の流れがつかめてきたから。
だから、継体を新王朝と解釈する意味がなくなってきた。
506 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 13:02:30.25
五世孫と言う事は、同世代では10親等前後はなれていて、かつ住んでいる地域は全く別だから、
いくら大昔でも同族の意識は無いだろう。
先祖は共通だから、いわば中世ヨーロッパの王室間ぐらいか、それよりもちょっと離れたぐらいの関係じゃないか?
(ヨーロッパの王室間は、婚姻関係がもう少し密。)
血の論理は世界共通に見られる現象で、王の血を受け継ぐ者だけが王位に就けるしきたりは日本でもあったと思う。
ヨーロッパ流に言えば、征服王朝か少なくとも王朝交代だが、記紀の編纂者は、王系一統を主張したくて、
その点をぼやかして書いた、ぐらいが真っ当な解釈だろう。
>>498 フランス式なんて意味ないよ。あそこは男系のイトコ間だって王朝交代だからw
>>500 正確に書かないといけない。
「百済本紀」は継体・欽明紀に引用され「日本」を使用。
「百済記」は神功・応神・雄略紀に、「百済新撰」は雄略・武烈紀に引用され「倭」を使用。
異なる書物が、異なる時期において、異なる表記をしているのだから、正確な比較対象ではない。
つまり、「百済本紀」が武烈以前に「倭」を使用していたり、
「百済記」「百済本紀」が継体以後に「日本」を使用していてはじめて、
あなたの意見は意味を持ってくる。
>>507訂正 下から2行目
×「百済記」「百済本紀」
○「百済記」「百済新撰」
509 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 15:19:45.94
「百済記」「百済新撰」「百済本記」はみな扱う時代が違う。
古事記と日本書紀みたいなもの。
武烈以前を詳しく扱う古事記は「天皇」は使うが「日本」は使わない。
百済三書の記述は、それと矛盾しないとは言える。
「百済新撰」では「天王」という用語もあり、これも考えさせられる。
510 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 16:29:09.19
>>506 ただし、纏向王権みても思うのだが
江戸時代の参勤交代みたいに、たえず、ヤマト本国と
近江、越前あたりを行ったり来たりしていたんじゃないの?
近江とか越前って、大和山背から距離も近くて
京都に幕府があった足利時代なんかでも
越前は、足利一門で最も格式高かった斯波氏とか
近江は、外様の名門だった宇多源氏の佐々木氏(京極氏、六角氏)だったし
江戸に幕府があった徳川時代ですら
越前は、徳川親藩の超名門の越前松平氏
近江は、徳川譜代の超名門の井伊氏とだとか
その時々の中央政権の重要な近親者が設置されていた。
511 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 20:11:59.02
「天皇」が7世紀に定まった新しい称号であるなら、
なぜ漢音「テンコウ」でなく呉音「テンノウ」なのか。
それ以前に「天王」が使われていたという考えもある。
「天王」号は五胡十六国時代に華北に侵入した胡族の諸国で大流行したが、
北燕最後の天王・馮弘が438年に高句麗で殺されたことで途絶えた。
この称号が倭国で採用され、日本国の「天皇」に受け継がれたという説もある。
>>509 「日本書紀」の武烈以前の天皇の諡に「日本」て使われてるじゃん。
一方、「日本」成立以降の歴史が書かれている「続日本紀」では、
文武天皇の諡に「倭」が使われていたりするよ。
「倭」「日本」の違いをことさら強調するのはやめた方がいい。
どちらとも訓みは「やまと」であって、飛鳥と明日香、奈良と平城のような表記の違いだろう。
「天王」「天皇」の違いも「倭」と「日本」と同様、「王朝交代」的な意味合いでとらえるべきではない。
現に長屋王の時代、つまり日本において文書行政が本格的に稼働し、
漢字を日常的に使用するようになった時代、「長屋王」「長屋皇」
「竹野王」「竹野皇」など、王と皇の字が併用されている。
明確な書き分けは、天皇を中心とする律令政治が根付いていく段階でなされていったのだろう。
ちなみに王も皇も訓は「きみ」であり、「天皇」はよく言われるような唐由来のものではなく、
「あまつきみ」に漢字をあてたものではないか、という考え方も出来る。
513 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:09:16.78
>510
確かに文物交流はあったと思う。
しかしながら、江戸幕府や室町幕府のような強い支配力が大和側にあったとは
思えない。
まさに中世のヨーロッパと似たような状況で、弱い王権と治外法権の在地領主たちの混成で、
天皇の后も有力な在地領主の娘が多く、後世、天皇制が確立すると、身内や臣下の娘が多くなって行く事と対照的。
514 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 01:31:42.27
515 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 09:56:22.31
>>354 > 手白香皇女が正室で皇后ってのも簡単に信じるわけにいかないな。
ナポレオンもジョゼフィーヌと離婚している。政略離婚。
516 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 09:57:05.81
>>514 足利義満から義教までは強かったと思うが。
517 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 11:46:55.17
完全に中央政権として機能して、戦乱が全くなかったのって
徳川時代くらいだよな。
室町時代も鎌倉時代も平安時代も、絶えず、各地で大乱が起こっている。
>>516 足利義満や足利義教だって、各地の諸侯が好き放題だよ。
だから、わざわざ兵をあげて、何度も鎮圧している。
鎮圧できたから中央政権の足利幕府の力が強かったとは思うけど
何度も刃向われるということは、それだけ統制力が不完全だったと思われる。
>>517 室町幕府は難癖つけて討伐軍おくったりしてるからなあ
519 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 15:22:08.85
義満の時代は、弱体でも統制が欠如していたわけでもない。
反乱はほとんど義満が挑発したり内部対立を煽って起こさせたもの。
520 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 15:58:16.85
応神5世の孫で越前で育った継体の即位が、異例中の異例であったことは確か。
騎馬民族と直ちに結び付けることはできないと思うが、
それまでの王たちに比べて、新しい国際的な感覚を身につけた人物であり、
そういう人物が王になることが時代的な要請だったのだろう。
わかってると思うが、古代は日本海側が表日本だから。
521 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 16:02:54.69
それまでの王たちは没落する南朝の中国と関係を持ち、
日の出の勢いの北朝とは無縁だった。
のちに奈良の都が北魏の都と同じ平城京という名で呼ばれるのも
(構造も唐の長安でなく北魏をモデルとしているという説もある)
何かを暗示している?
なにも暗示してません
523 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 05:18:04.18
南北朝の影響はともかくとして、当時の日本列島は完全に朝鮮半島の影響下にあった。
継体帝を擁立した大伴金村はなぜか任那を百済に割譲し(そのため金村は失脚)、
次にその任那が新羅に取られたので兵を送ろうとしたら、
今度は新羅側に付いた九州の磐井に征韓を阻まれてしまう。
その後、継体帝の後継者たちは百済救済のために兵を送り大敗を喫している。
現代の感覚では、そこまでして、大和朝廷がなぜ百済を救援しようとするのか不思議だ。
(当時の朝廷の中でさえ疑問も声が上がっているほどだ。)
おそらく、新羅が九州勢に対して行なったように、百済は大和に盛んに工作を仕掛けていたのだろう。
大伴金村は百済の工作対象だった事は明らかだし、継体帝擁立に百済側の工作があったとしても不思議は無い。
524 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 07:43:42.03
日本の属国だった百済は必死だっただろうねえ
百済記は百済滅亡後に日本で編纂されたから日本に迎合して史実を曲げている。
百済が日本の属国だった証拠はない。むしろ、先進国である百済は一貫して
倭に対して優位に立っていた。
526 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 08:30:55.88
優位に立ってる国が王子を人質に出すかよwww
528 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:49:47.20
>>525 その時代に先進国も後進国もないだろうw?
農耕時代だぞw
>>527 はっきりと、朝鮮側の資料にも、人質だと書いてあるw
だいたい、両国の動員兵力で勝負にならないだろうw?
倭国は、百済よりも遥かに、動員兵力が大きい。
百済は、日本の四国程度の規模なのにw
529 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:52:15.29
新羅も百済も、人質を出していたんだよな、倭国に対して。
新羅のほうは途中で裏切ったので、人質が殺害されている。
戦国時代の日本でも
小豪族の松平家は、大大名の今川家に対して
嫡子を人質として、差し出していた。
______
r〃〃〃 f7⌒ろ)
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|儿儿儿._」⊥厶
〔__o____o_≦ト、
. i / ⌒ ⌒ ヽ )
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. / | ̄r少}¨ ̄〃 / /′ ヽ
〃 l | l| | l| 〃 / / └ヽ
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く, Y ! l」fレト! / | / 1
丿 | | 丿} じ’ / | / |
/ l | `¨ / レ′ |
真の思考停
(在位 2009年9月16日〜2010年6月8日)
民主朝の初代考停、言行不一致、虚言、脱税、
そして外交において巨大な負の遺産を築いた。
サイトやブログめぐりしてると継体天皇のことを継体大王とか書いてるとこがあるんだが
変な造語造らないでほしいわ・・・
せめて大王をつけたいならオホド王、天皇をつけたいなら継体にすればいいのに
532 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 12:59:36.25
>>531 あなたの世間の見方がキューくツなだけじゃないの。ある意味を隠してわざと
継体大王と表現している団体も有るらしいよ。
533 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:56:08.34
初めて天皇を名乗ったのは、天武天皇ですので、
その前の天皇は、天武の直系の大王に後になって諡号を贈ったに過ぎません。
したがって、継体も大王であって天皇ではなかったことは明白。
近つ飛鳥の博物館の特別展でも
継体大王だった気がします
535 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:57:30.73
大王ってのも、もろ中国的な名前だよね。
オオキミってのは、通称みたいなもんで
おそらく、スメラミコトが正式名称だろう?
536 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:59:05.62
諱はオホド。『日本書紀』では男大迹王(おおどのおおきみ)、
『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと)と記される。
また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、
『上宮記』逸文に乎富等大公王(おおどのおおきみ)とある。
なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の
人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は
継体天皇を指すとする説がある(詳細は「異説」の節にて後述)。
別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。
537 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 21:09:36.40
たぶん、オオキミと最初に言われたのは、継体天皇からでしょう?
それまでは、スメラミコトが正しい。
継体天皇だけが、オオキミとスメラミコトの両方の呼び方がある。
これは、継体天皇の即位に関して、疑問があったからでしょう・
なにせ、遠い傍系の皇族だったから。
他にもライバルがいて、権威がなかった。
538 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 08:41:33.36
>>537 オオキミとスメラミコトの呼び方の発生時期について典拠が有れば示して下さい。
ぜひ教えて頂きたい。
>>537 スメラミコト=天皇号の成立は推古朝説と天武・持統朝説の両説があるけど
それ以前から成立していたなんてどこのドンデモ学者の戯言だよw
少なくとも雄略朝では天皇号が使用されて無かった事は
稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に天皇という文字は一切無く
大王だった点で証明されてるわな
名無しでいいよ:2011/08/15(月) 23:20:15.53 ID:2fed4jwtO
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541 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 13:50:41.39
私見では4世紀の初め頃、崇神天皇とされる方は北九州、南九州、出雲、吉備、
近畿、尾張、北陸などの諸国が抗争を避けるための連盟を組んだ時、押されて
初代の盟主に就任した。この盟主をオオキミと呼んだのであろう。
しかし連盟化は日本列島統一のきっかけであり、盟主が次第に権力化していく
のは古今東西に実例がたくさん有るところで、完全に他の豪族・連盟国に対し
て上位の立場を占めるようになった時、オオキミはスメラミコトと称するよう
になったものと考えられる。
追伸、その初代盟主、崇神天皇とは北九州国代表で、イワレヒコ(神武天皇)と
台与女王との間の息子であった、邪馬台国はこうして中央に進出してヤマト王
権を打ち立てたと推測している。
542 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 15:39:20.20
>>539 スメラミコト=天皇は、後からのコジツケだろう?
スメラミコトってのは、漢字の意味で行くと
統御言 ってのが、ただしい。
天皇を名乗るようになったのは、天武からだろうが
スメラミコトってのは、ずっと前からだろう?
543 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 15:40:46.44
>>539 スメラミコト≠天皇だから。
スメラミコトっていう和名の官職に
あとから漢字で、天皇をあてただけだから。
544 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 15:42:54.89
>>542 天皇号天武・持統朝採用説はもう古いわな
最新学説の一つは天智朝説
物証は野中寺弥勒菩薩像銘文
古代史家の東野治之が銘文に因縁を付けてきたけど
美術史家の麻木脩平に完全論破されて東野は論戦から
一方的に逃げ出して麻木の圧勝
その麻木論文を根拠に京大教授で古代史家の吉川真司は
天皇号天智朝採用説を取ってます
もう一つは推古朝説
物証は天寿国繍帳図銘文
銘文を復元した飯田瑞穂や銘文内の家系図に注目して斬新な論文を
書いた義江明子の説を根拠に東大教授で古代史家の大津透は
天皇号推古朝採用説を取ってます
>>541 > 完全に他の豪族(略)に対して上位の立場を占めるようになった時
天智からじゃん。
大王である崇峻を弑逆したのに蘇我馬子は誰からも指弾されず
そのまま大臣の地位に居続けられたのだから大王の権威や権力なんて
大したモノではなかったって事だわな
崇峻は大王とは言え馬子にとって甥っ子だから
所詮は蘇我系王族だし蘇我氏なしには何も出来ない存在
その点は推古天皇や厩戸皇子も同じだけど
この二人も結局は蘇我系皇族の一員だし
>>547 蘇我馬子が用明天皇で、崇峻天皇は実は天皇ではなかった、という説は?
そして、蘇我蝦夷が聖徳太子ということは?
でなければ、天皇記・国記が蝦夷邸にあった理由がすんなり理解できないんだけど。
>>549 その説がどのような史料に基づいて構築されたものか
その史料がテキストクリティークに耐え得るものなのか
それが分からない以上は俺は通説を支持するしかないね
551 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 22:22:52.58
誰か天皇だったのか?ってのは人文科学の学問ならではの問題だよw
誰か天皇が即位したかなんてのは人間が決めるものであって
自然科学では証明できないものだからw
たとえば、幕末までは、南朝の天皇は
ただの親王号とされていた。
北朝によって統一されたわけだから、
南朝の天皇たちは即位されてなかったことにされたわけだ。
あと、大友皇子は弘文天皇として即位されたかどうかだとか。
こういうのは、それぞれの立場によって、違うわけで。
これらと似たようなことが、古代の天皇でもあったはずだ。
同じ王朝内部でも、皇位継承争いみたいなことは絶えずあったわけだ。
ただし、それらは同じ王朝内部での話だ。
王朝交代したのなら、ちゃんと、そう書いてある。
記紀では、出雲国譲りのところで、王朝交代の歴史が書いてあるわけで。
そこから、現在まで2000年くらい、ヤマト王権は続いているとみるべきであろう。
小学生の作文かよ。
民主党には朝鮮人など外国人のなりすまし、スパイが約90名在籍している
野田内閣は過半数が帰化人
野田はどうだろうか
韓国人から賄賂を貰い、韓国人の集いに出席している野田は
>>551 明治以前は北朝が正統と考えらていたから公卿補任では
後醍醐院と記述されて譲位した事になっいてるし
後村上、長慶、後亀山は天皇に即位したとは認められてない
明治維新以後、薩・長の教養のない田舎武士が基地害水戸学に
基づいて記述された「大日本史」を重んじて、大友皇子を天皇にするわ
南朝を正統にするわと滅茶苦茶をやっただけのお話し
そして大友皇子を天皇にしたから大海人皇子は天皇を殺して即位した
人物にされてしまったし、北朝の天皇は歴代から外されてしまった
従って薩・長水戸学史観を克服して、明治以前の歴史観に戻す必要がある罠
当然大友皇子の即位は否定の上に北朝の天皇を歴代に入れる事が必要だわ
当時の公卿の日記で後亀山は即位もしてないのに
足利義満の温情で太上天皇号を与えられた存在と記述されてる
まあ吉野の山奥に居た後亀山を京に残った公卿達が天皇に即位したなんて
認める訳ないわな
556 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 11:51:47.38
>>554 どうでもいいが大友皇子の即位は教科書にも書かれず「不詳」の立場だぞ
明治時代に「弘文天皇」の名前が贈られ天皇の代数に数えられるようになったが
それが絶対というものでもない
大海人皇子こそが天智天皇の皇太弟であったという日本書紀の記述とは異なり
大友皇子が天智天皇の皇太子であったということはかなり支持されている説ではある
この説に従えば大友皇子は天智没後ただちに即位していても不思議はない
壬申の乱に勝った天武天皇によって即位がなかったことにされたのだろう
557 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 12:27:32.34
>>556 そういう風な歴史はヤマト王権創設当初からあった話だと思う。
欠史八代のさたりなんかそうだよ。
ここは、魏志倭人伝でいう倭国大乱に該当する話だ。
>>556 大友皇子が皇太子だったなんて記述してる史料は
古代じゃ考謙(称徳)朝に編纂された言われてる懐風藻だけだろ
それに天智朝において大友が皇太子だったなんて説は学会の通説じゃないし
だいたい皇統が天智系に変わった平安時代初期に編纂が始まった公卿補任でも
大友を太政大臣とは記述しても皇太子とは記述してないわな
皇統が天智系に移った以上は天武に遠慮する必要は全然無いのに
それでも公卿補任が天智の皇子の大友を皇太子と記述してない以上
大友が皇太子だったと言う証拠はない(史料価値は日本書紀>懐風藻だからな)
懐風藻は日本最古の漢詩集ではあるけど
私撰の上にその撰者させ未だに特定出来てないものだから
はっきり言って胡散臭いわな
長屋王生年論争でも676年説を取る学者は懐風藻に頼ってるけど
それしか根拠が無いから684年説が学会の通説だし
三種の神器を擁していた南朝が正統。
561 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 23:57:15.99
三種の神器の保有で皇位の正統性が担保されるのなら壇ノ浦で水死するまで
安徳天皇が正統な天皇で後鳥羽天皇には正統性が無かった事になるな
それなら安徳を擁していた平家が官軍であり
後鳥羽が正統な天皇でなければ後白河の院政にも正統性が無くなるし
後白河の院宣を頂いて平家に戦いを挑んだ源氏の方が賊軍になるって事だわw
562 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 03:20:42.74
その三種の神器もレプリカだなw
563 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 10:50:53.99
>>558 日本書紀には史実しか書かれてない<キリッ
天皇は天照大神という女神の子孫だと信じている人ですか?
(日本の天皇家は男系一統といいながら、実は日本書紀では
天皇家の祖先は天照大神という女神で始まりは女系なんですね)
出家して吉野へ行った大海人皇子が皇太弟であり続けたというほうが
現在では支持されていないのでは?
近江の寺には大友皇子が皇太子だったという伝承を持つところがありますし、
「万葉集」の皇太子が額田王に詠んだという歌も
大友皇子だと解釈したほうが明快とされています。
(大海人皇子が40過ぎた額田王に求愛した歌ではなく、
娘婿の大友皇子が義母額田王を褒めた歌)
「茜さす〜」と「紫の〜」が義母・娘婿間の歌だって方が無理あるだろ
565 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 13:15:44.35
>>563 日本書紀に対しては先学達の綿密なテキストクリティークの結果
推古朝以降の記述は基本的に信憑性が高い事が分ってる
もちろんそれを100%鵜呑みにするは出来ないから
書紀より同時代性高い他の文献史料や金石文などを通して
歴史を再構成していく必要はあるけどね
566 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 13:26:43.73
出家して吉野に行った大海人皇子が皇太弟の地位も辞したとは思うけど
太政大臣の大友皇子が立太子されたと言う事を明確に示してる史料って
あるのかい?
大友が皇太子だったと言う史料は書紀より後に編纂された懐風藻が有名だけど
懐風藻を振り回して大友は皇太子に立太子されていたと言われても
古代史学学においてはその説は通説にはなり得ないわな
だいたい懐風藻自体の史料価値にかなりの問題があるし
__________ | 見ろよ! |
./::::::::::::::::::ノ、ヽ | 民主党支持者がいるよ!w |
./:::::::;;;-‐‐''"´ |:::| \____ ________/
|:::::::| 。 .|:::| ノ´⌒ V _____
.|::::/ ⌒ ⌒ ヽ:| γ⌒´ ヽ, / _____)
|:::| /・\ /・\|| // ""⌒⌒\ ) | / ヽ
げひひw .|´ ⌒_ ヽ⌒ | . i / ⌒ ⌒ヽ ) | 〉 ⌒ ⌒ |
.| :::⌒(__人_)⌒| !゙ /・\ /・\i/ |/. /・\ /・\ヽ
⊂ ̄ヽ___ ヽ \__| ⊂ ̄ヽ_ | :::⌒(__人_)⌒⊂ ̄ヽ_ | ::::⌒(__人_)⌒:: |
<_ノ_ ヽ_ _/ <_ノ_. \ \__| / .<_ノ_ \ ´ \__| ノ い〜ひっひw
568 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 15:18:25.72
>>563 いちおう、女神の天照から生まれたことにして、
そこから男系がスタートするってことにしたいんじゃないの?天皇家としては。
聖母マリアの処女懐胎に似ているでしょう・
しかしながら、天皇家と同じ天孫とされる一族の中には
天忍穂耳命を初代として祭り、女神天照を無視したり、
または、女神天照を天忍穂耳命の母親とせずに、ずっと前の先祖ぐらいの扱いにして
女神天照と天忍穂耳命の直接的な関係を事実上、否定している氏族もいた。
よってだ、女神天照を皇祖として祭るようになったのは、
大海人命(天武天皇)からだというのも、あながち間違いではないね。
もともともとは、天皇家の先祖は、天忍穂耳命を初代とする豪族だった。
ただし、出雲国譲りをして、天下統一したのが、天忍穂耳命の長子の天火明命だったから、
このことが、天皇家にとってマイナスだったんだろう?
天皇家は、天忍穂耳命の次男のニニギ命の子孫だったから。
569 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 15:37:06.85
>>566 天智朝に皇太子制度があったのならば、大海人皇子廃太子後、
誰も皇太子に立たなかったということはないだろう。
天智天皇は672年1月に没したが、壬申の乱勃発は同年6月、
天武天皇が飛鳥に入り即位したのは7月だ。
つまり、「日本書紀」では近江朝廷に成人した大友皇子がいながら
672年1月から7月まで天皇不在だったとしている。
これが不自然なことぐらいわかるだろう?
570 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 16:32:39.91
>>568 キリスト教では、神を父に持つキリストが、
一般女性マリアを仮の母体として生まれたとしてやはり父系重視なんだよ。
(父が神で母親は神ではない。リストは父系で神につながっている)
しかし、天照大神は母系の女性が神そのもの。
しかも天照大神の夫は書かれず父系が不明になっている。
唐突に出てくる「太政大臣」
「成人している大友皇子が大海人皇子に敗れ自害」
この一文の時点で既に史実と相違点があったりして
573 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 21:43:50.83
大友皇子が即位してた可能性は高いと思うな
北朝を正統にするのは賛成だけど
574 :
日本@名無史さん:2012/01/12(木) 00:57:33.01
ごく短期間にせよ、天智天皇の崩御後、近江の朝廷が機能していたのは間違いない。
当時は親政でない可能性のほうが高いし、
本当に立太子があったかも不明だし、
先帝崩御後、即位まで間があることにも問題ない。
>>575 一つ一つに根拠が必要。
皇太子制度は草壁皇子のときからという説もある。
とすると、大海人皇子が天智天皇の皇太弟だったという「日本書紀」の記述は
否定されることになる。
私見ですが、男大迹王の陵墓が太田茶臼山古墳に比定されている(異見も多い)ように、
関東最大の古墳である太田天神古墳の主、つまり、毛野氏との関係が深い大王だと考えます。
継体天皇とは関東出身の大王。隠された真実なのかもしれません。
妄説は病院でどうぞ
(´・ω・`)ショボン
>>577 オホドの陵は太田茶臼山のすぐ近くにある今城塚
皇太子位を秋篠宮様に移譲することを求める請願書
皇室を敬愛する私達は、日本の未来のため、皇室を崩壊より護り、
そして 国の安泰と国民の幸せを守るため、皇統の存続と皇室の繁栄を
求め、今上天皇陛下がご健在のうちに、下記事項の1.2.の
いずれかと 3.を実行していただくことを求めて 請願致します。
1.今上 平成天皇陛下がご存命中に、 皇太子位を 速やかに
徳仁殿下から 秋篠宮文仁殿下に 移譲すること
2.現皇太子 徳仁殿下は、シンプソン夫人との愛を貫き、エドワード8世としての王位を退位された ウィンザー公のように
皇位を廃嫡し皇籍を徳仁親王に戻す。 もしくは、皇太子妃のみを 廃妃とすること
3.希望の光である 悠仁親王に 一刻も早い 帝王教育をお授けし、皇位継承第三位であることを尊重し、
順位に相応しい 環境と処遇をもたらすこと
送り先: 〒150-0047 東京都渋谷区神山町31−1 日本の皇室をお守りする会
ご署名締め切り日: 2012年1月31日
*個人情報は事務局弁護士の許で厳重に管理し、署名提出以外の目的では一切使用しません。
(↓クリックすると、署名運動のブログを検索します。)
http://www.google.co.jp/search?q=%22%8Dc%91%BE%8Eq%88%CA%82%F0%8FH%8E%C2%8B%7B%97l%82%C9%22
悠仁親王が皇位継承第三位で何の問題があるんだこのコピペ。
583 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 19:02:15.66
>>581 皇位は今上陛下の「おおみこころ」によって決定されるべきもの。一平民が皇
位に関して口出しをすることは絶対に許さぬ。このようなふざけたレスを書い
たことをこのスレ上でキチンと詫びろ。許さんぞ。
>>583 陛下の意思が第一であることは言うまでも無いが
予め定められた典範や法律に従うべきであることもまた言うまでも無い
また、陛下の意思がもし万世一系の原則を崩そうというところにあるのなら
それはいかに陛下の意思といえども通らない
皇祖皇宗が守ってきたものを当代の事情だけで改変することはできないのだから
585 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 00:39:21.48
オホドのスレです
>>583 万世一系という物語を皆が信じるふりして尊重することが
日本という国の成立の根幹であるなら
おそれながら今上陛下であろうと
それをないがしろにする権利はありません。
万世一系には根拠がないし、信じない権利は当然ある。
>>588 信じない権利は当然ある
あくまで”信じたふり”な。
>>586 殿下って誰のことを指してるんだよ
天皇陛下が万世一系を覆そうとしているのだとしたら、不敬ながら天皇陛下の方こそ皇祖皇宗に対して不敬だ
Y遺伝子の話ならとっくに間男の遺伝子に代わってるだろ
明治時代の皇室典範にはじまった「万世一系」の文字も
当時は男子限定を指さなかったし
>>591 このスレに無理やり結びつけると、継体天皇と武烈天皇のY遺伝子が一緒で無い可能性は結構ある
継体天皇以降は天皇のY染色体が非常に広まっていったので、
間男になれるレベルの男のY染色体が天皇と同一のものであった可能性が高い。
通常、一夫多妻制では君主のY染色体は大きく広まるもの。
中国の明朝なんかではたった3百年足らずで皇族が万を越すほどになっていたという。
藤原不比等が天智天皇の落胤であるという説が本当だとすると
公家のなかで天皇のY染色体を持っていないのは菅原氏や大江氏、それに中臣氏くらいだったろうし、それもごく一部にすぎない。
それ以外はほとんどが藤原氏や源氏、一部が平氏や橘氏で占められていた。
まさか天皇の側室になるレベルの女性が下賤の男に股開くとは考えづらいし、そんな男がそう簡単に出入りできたか疑問。
だから間男になれたのはほとんどが天皇と同一のY染色体を持つ公家か皇族。
公家と言わずとも地下官人レベルなら天皇の血を引いてる人間は多かっただろう。
応神天皇の実在は疑わしい
いやそもそも今の天皇は万世一系が存在根拠ではない。
憲法上の存在。
で、憲法では皇位は世襲と言っているのだから、
世襲の解釈によるが、現在は認められていない女系や養子による相続は、
容認できるものと考えられる。
>>594 正統性の無い天皇を認めても南北朝状態になるだけ
>>595 今の天皇の正統性は「法」によって裏付けられる、ってこと。
だから「法」によって、現皇太子を廃太子にするとか、
内親王の子や養子を次期天皇にするとかが認められれば、
それは正統性があることになる。
熊沢みたいのがただ自分が天皇だと喚いているだけでは正統性は無い。
>>596 熊沢天皇が「法」で認められたら正統性を持つって解釈?
まあ別にそれならそれでもいいけどさ
>>593 応神が実在疑わしかたっら
応神5世孫であることを皇位継承の拠り所とする
継体の立場はどうなるんだ?
>>598 心配すんな。古墳が語ってくれる。
誉田御廟山(河内古市・5世紀第T四半期)被葬者 → 応神天皇
太田茶臼山(摂津三島・5世紀第U四半期)被葬者 → 稚渟毛二派皇子(応神の子。継体の高祖父)
市野山(河内古市・5世紀第V四半期)被葬者 → 允恭天皇(応神の孫。后は稚渟毛二派皇子の娘)
今城塚(摂津三島・6世紀第U四半期)被葬者 → 継体天皇
と、比定可能。
その墓調査してDNA鑑定できねえの?
もしくはもう墓荒らしで何もねえの?
それとも宮内庁ビビってる?
>>601 勝手に「実在疑わしい」などと切り捨ててしまうよりマシ。
文献資料と考古資料が破綻的に矛盾してるわけじゃないんだから。
>>602 DNA鑑定出来るほどのものが残っているかどうか疑問だが、
出来るものならぜひやってほしいもんだ。
日本の場合は土葬でも遺体が残らない場合が多い
遺骨が残るのはたまたま石灰質の土地に葬られた場合がほとんどで
大抵は酸性土壌で骨まで溶けてしまい
そうなるとDNAを取り出すのは困難
ちなみに日本の怪談で死体が動く話がほとんどなく幽霊が主流なのもそのせい
>>602 宮内庁は間違いなくビビってる
606 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:24:41.11
根拠もなくただ気に食わないから万世一系を否定したいがために断絶してたことにする
連中にはうんざりだな
断言してもいいが万世一系という証拠が出てくることはあっても否定する証拠はでてこないだろうね
だって万世一系は事実なのだから
>>607 応神の実在すら怪しいのに五世王が遠い越にいたとか不可思議な家系図が多いからだろ。
逆に万世一系を無理に主張したいがために継体は畿内大王家の男系子孫と
言ってる奴も本末転倒。
まあ実際問題継体からでも100代1500年続いてるんだから継体から万世一系と言っても十分凄いことだ
んなわきゃない
神武天皇から万世一系じゃないと納得しない人が存在することは事実
神武天皇から万世一系でない場合、歴史の教科書が変わるからな。
宮内庁と一部の狂信者は教科書批判してきそうだけど
継体新王朝説なんてのは昭和20年代のものでしょ?
しかしその後の発掘調査などで、例えば。
上宮記継体系図と酷似する系譜が稲荷山鉄剣として出てきたり、
古墳の年代想定が精密化して、上記のように誉田御廟山・太田茶臼山・市野山・今城塚に
応神・稚渟毛・允恭・継体を想定することに齟齬が無かったり、
継体の親族・姻戚関係にある越・近江・尾張・摂津などで、それ相応の「継体期」の遺跡が確認出来たり、
ウラを返せば、そんなに「記紀」などがデタラメや創作を施してるとも思えないわけで、
私なんかはある程度「記紀」は有用だと思ってって、逆に、
これらを全く切り捨てたり、継体の先祖だけをやたらに疑ったりって方が、
むしろ狂信的とも思えるけどね。
実際に「初代」だったら、そう書いたと思うよ。
だって、記紀なんて、神武以前のヤマト盟主の存在や、
ヤマトに先だって出雲が勢力を持ってたこと、神話的ではあるが書いてるんだもん。
それに、真の継体陵たる今城塚古墳。あれ、とてもじゃないけど「初代」の王墓なんて評価は出来ないなあ。
615 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 10:18:29.26
万世一系じゃない確たる証拠があるならいいけど
ないんだから「万世一系らしい」ってことでいいんじゃないの
万世一系ではないっていうのはどうしても否定したいだけにしか見えない
いや、万世一系が問題ではないんだ
歴史の真実を知りたいんだよ
んだ。
俺も真実を知りたい。
記紀が書かれた時は、万世一系を主張する必要がなく
任意の地点からの一系で良かったはず
多少の脚色はあるにせよ
史実に限りなく近いのでは
ウガヤフキアエズは?
620 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 10:57:50.84
アマテラスから万世一系でなければならないよ。
621 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 13:15:10.05
だが真実をしることは永遠に不可能
タイムマシンでもできない限りね
まあ、真実そのものというより、
より真実に近づきたいってとこかな
ウガヤフキアエズなんてまともに相手したら東南アジアまで遡らないとならんだろ
624 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 14:00:06.73
>>618 記紀は明らかに意図的に長い王朝に見せようと作為してるだろ
神代から血がつながってるとしたり、
古代の天皇が軒並み100歳超えの寿命だけど、
これは史実だと思ってるの?
625 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 16:42:48.56
そうだよ(便乗)
626 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 17:11:15.29
妄想を垂れ流すのは真実に近づくことではないな
所詮どれも仮説の域を出ないよ
せめて記紀以前に編纂された書物が出てくれば多少は議論もはかどるのにね
焚書坑儒
>>624 私は
>>618ではないが、神代から血を繋げたのは天皇家の正統性を演出するためだろう。
本来南九州の田舎出身だったニニギを、先行勢力である出雲やヤマトの天照系(ホアカリ・ニギハヤヒ)に繋げた。
ちょうど徳川氏が、武家の正統政権を指向して、また先行の足利氏に対するよう清和源氏の新田系に系譜を繋げたように、
出雲神話や天照の高天原神話に天皇家の先祖を入り込ませた。
それと、年代を古くし長い王朝であったことを「史実的」に見せるなら、
100歳長寿の年代引き延ばしではなく、架空の人物を間あいだに増やせばよいこと。
しかしそうした形跡は、少なくとも歴史記述(説話的だが)のある崇神以降には見られない。
記紀系譜と考古知見を世代的に比べていくと、ぴったり合うからである。
つまり御肇国天皇とされた崇神の実年代は、3世紀後期すなわち古墳時代の始まりと合致する。
年代が引き延ばされたのは、3〜5世紀に関する実年代の記録がそもそも無かったであろうことや、
魏志倭人伝の女王卑弥呼に4世紀の女傑である神功皇后を当てはめたりしたことが要因として挙げられる。
>>627 まあ出てきても難しいでしょうな。
記紀が脚色されてるなら、その書物もまたしかり。
630 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:11:04.41
保守
631 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 15:39:15.99
継体天皇の時点では王朝の歴史もたかだか数百年だし
歴史を捏造してまで前王朝に系譜を繋げる価値があったのだろうか
赤の他人が征服したのなら自前の神話を用意しただろう
祖先の伝説くらいあっただろうし
632 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 15:44:50.35
>>631 継体天皇から持統天皇までは150年ぐらいしかない(日本書紀)
古事記になると推古天皇までだからたかだか数十年だ
それを継体の前に数百年繋いでいるのだから
価値は全く違ったものになる
>自前の神話
記紀は中国史書や百済史書の倭国に関する記述を引用している
継体の前にも倭国王がいたことは明らかに書かれてあるからね
継体の前は神代とするわけにはいかなかっただろう
直のことおかしいんですよねえ・・・
自身の氏族、国、歴史・・・それを偽装して偽りの栄光に偽るのでしょうか・・・
634 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 18:11:29.50
>>631 欽明以降は女系で前王朝につながってるよ
継体は婿の出自が良かったように作為したんだろ
635 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 18:38:53.95
継体が征服したのに婿って扱いになるわけないだろ
636 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 18:40:31.10
>>632 単純に継体天皇が悪逆非道な前王朝を倒したってストーリーでいいじゃん?
中国の歴代王朝だってそうなんだし
五世孫を仮に虚偽と考えれば、征服かはともかく、女系継承だよねぇ。
>>636 武烈天皇は典型的な極悪非道君主に描かれてあるから中国史書に従えば
継体は十分「征服王朝」だよ
継体が正統な河内王権の嫡子であるならば武烈を悪く書く意味がないじゃん
ただし欽明の母方だから前王朝をそれほど悪く書くことはできないんだろ
継体に限らず応神とそれ以前、崇神とそれ以前も
王朝をつないだだけという説もあるよね
まあその「王朝を繋いだ」ということもどこまで事実かわからないけどね
王朝なんて概念自体が日本においては後付けなんだから
たぶん今の天皇家は息長氏で間違いないとは思うけど
当時は中華に毒されていたから、女系でなく男系で繋げたいだろうし、
そうすると、記紀を書き始めた頃は「継体朝」と言っていいしねえ。
記紀で継体を邪険に扱うわけにいかないわな。
641 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:03:40.76
>>638 無理があるなあ
継体を前王朝の男系子孫とした理由が薄いね
馬鹿だねおまえら・・・
普通に精神病だったんだよ武列さんはそれだけの話さ
歴史の事実ってもんは概して単純なもんさ
ろくに走ったことも普通の会社で働いたこともない浮世絵離れした学者様が
ない頭使うからわけのわからん結論が出てくるんだよ
おう少しは体動かせよ
その辺は「天武朝がなぜ万世一系という前提にこだわったか」の問題だな。
息長氏が絡んでくる皇統譜こそ後付けだよ。
犯人は、息長広姫を祖母に持つを舒明天皇
たしかに欽明朝(というか蘇我朝)と舒明朝の間に断絶がある、
もしくは全く別系統の血筋って可能性は否定しきれないな
646 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:50:59.56
全く別系統ってことはないでしょ。
蘇我直系の血は排除してるけど。
傍系である倉麻呂の血は天武朝の元明で入っているけど、
桓武で天智の血筋に戻って再度排除。
>>648 ん?
倉麻呂の血は持統天皇でも入っている
持統と元明は異母姉妹だけど持統と元明の母親同士も姉妹だからね
蘇我馬子あたりの血はかなり濃く継いでいるよ
藤原氏にも蘇我の血は流れてる
それから天智系に戻ったのは桓武じゃなくて光仁からね
一応、稲目―堅塩媛―桜井皇子―吉備姫王―皇極―天智でつながってるよ
>>647 別に明確な根拠のある発言じゃないので具体的な系図の書き換えまで
考えていないけど、もし別系統とするなら敏達かあるいは押坂が欽明朝と
つながらないって形になるかな?
厩戸皇子をはじめとして蘇我氏に近縁な有力候補がたくさん居た中で
蘇我氏が自ら蘇我の血を引いた皇族を殺したり排除していって
蘇我の血を引かず、先々々代の天皇の孫でしかない舒明をいきなり
天皇につけちゃうっていう記紀通りの流れはあまりに不自然すぎる。
>>651 舒明後宮に蘇我の娘入ってるから不自然という程でも…
>>652 そうかなぁ?
先々々代の孫が皇位についちゃうって時点でかなり違和感を感じるんだけど
ヨーロッパや中国の感覚ならそれだけ血が遠ければもはや立派な別王朝だろうし
当時の日本だって江戸時代のような遠縁でも形だけ養子すりゃOKみたいな文化は
成立していないんじゃないの?
>>653 中国、というか東アジアの感覚なら全然同一王朝だよ
南宋王朝とか継体もびっくりの大傍系の継承を2回もやらかしてるし、李氏朝鮮もかなりの傍系継承をやってる
傍系と男系の混同は一応ないけれどな。
594 名前:天之御名無主 [sage] :2012/01/22(日) 21:30:29.53
今年は古事記撰上1300年
657 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 23:46:46.63
天皇の系譜は、天皇を必要としている集団の継続性から考えた方がいい!
日本書紀にあれだけ「一書に曰く」が掲載されていながら、
それがまったく現在に残っていないってことは・・・・
どこかで焚書坑儒があったはずだ
押見宿禰。
竹内宿禰の子孫の苗字は竹内だ。
では、押見宿禰の子孫は?
で、欽明朝と舒明朝の間に断絶は無いってことでいいの?
661 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 02:39:41.18
662 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 07:25:32.72
こいつが闇日本に作り出した張本人
考えれば考えるほど継体天皇は怪しい人物
闇日本てなんだよwww
>>661 それ両方とも現在には残ってない書物だろ
665 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 09:04:00.04
ウエツフミ、ホツマツタヱ、竹内文書、冨士宮文書等々
ウガヤフキアエズ
上伽耶ふき不合
伽耶国
始祖・首露王
母親はインドから来た許后
古事記ですら、本来は表に出ないはずの書物だったからな
真福寺で古事記版本が発見されたのは、偶然の産物
669 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 12:48:46.17
>>658 上宮聖徳法王帝説とかか。
法隆寺で作られた本らしいけどな。
>>669 上宮聖徳法王帝説は12世紀以降の成立といわれてる。
671 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 13:13:34.59
>>670 上宮聖徳法王帝説は現在残っている最古の写本が12世紀というだけで
成立はそれより古い。
それを言ったら、現存する源氏物語の最古の写本は13世紀のものなので
源氏物語の成立は13世紀以降ということになってしまうよw
記紀に描かれていない事項を含み、帝紀・旧辞の一部が書かれてあるのではないか
という説もある。
ということで、
継体天皇の直系子孫である天武天皇らが、
日本書紀編纂にあたって、それまでの史書を焚書した
ことが決定しますた
>>651 舒明の長男古人大兄皇子は蘇我氏を外戚としている(母は馬子の娘)。
だから、古人大兄皇子を即位させるためにまずその父を即位させたんだろ。
山背王も母は馬子の娘で蘇我氏を外戚としていたが、
その正室は異母妹の春日大娘で、蘇我氏血縁が続いて行っていなかった。
そんな回りくどいことするぐらいなら太子の弟たちを皇位に付ける方が
先代の推古から血縁が近いし、蘇我の血も濃いから手っ取り早い
相続の方法としても蘇我氏の都合としても舒明が有力とは思えないなぁ
蘇我氏ではない別の勢力が強引に舒明を推して、蘇我氏はしぶしぶ譲歩
そのぐらいの事情があれば自然なんだけど
>>675 推古が死んだとき用明皇子厩戸同母弟って誰か生きてたっけ?
もし生きていても相当な爺さんだぞ
厩戸と蘇我氏の関係は曽祖父の代に遡る
いうほど血縁近くもないんだがな
舒明后の皇極女帝でも蘇我氏の曽孫になる
>>675 舒明って普通に当時大王位継承の有力者でしょ
押坂彦人の子として敏達系では最有力者
張りあえるのは用明系の最有力者である山背大兄くらいじゃないの?
ちなみに俺は明石育ちなんだが、二王子とか宗賢神社とかあるんだわ。
全然気にしてなかったけど、最近気になって調べてみたら、顕宗・仁賢の兄弟が王子時代に都から逃げてきて、牛馬の飼育をするまで身を落としてたらしい、
結局都に戻って天皇に即位する訳だけど、誰がその農民?にまで落ちた人を王子だと証明したのだろう?
史実だったら、継体のちょい前も結構アバウトだと思ってしまう。
679 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 02:07:37.43
イワイの乱の謎解きが、必要だな!
>>676 厩戸皇子は蘇我馬子の娘である刀自古郎女を妻に迎えてるから
馬子と厩戸は義理の親子関係だぞ
そして山背大兄王は馬子の孫だから完全な蘇我系皇族
馬子が生きてたら推古から皇位を継承したのは舒明じゃなくて
山背だったわな
つーか蝦夷が甥の山背大兄王を天皇にしなかった事が蘇我本宗家
滅亡への最初の分岐点
>>680 舒明だって馬子の娘法提郎女を妻に迎えていて
蘇我馬子の義理の息子だよ
法提郎女が産んだ古人大兄皇子は蘇我蝦夷の甥
どうも知識が浅いな
確かにw
舒明が馬子の娘を迎えていることを知らないこと然り、舒明が有力皇族じゃないとか言っちゃうこと然り、中国の感覚なら舒明から別王朝とか言っちゃうこと然り
主張してるのが同じ奴か知らんが、舒明即位がおかしいとか言ってる奴は知識が浅い
>>681 舒明自身には蘇我の血は直接は流れて無い上に
馬子の孫である古人大兄皇子が確実に皇位を継承する
保障が全くない無い以上、蝦夷が山背を皇位に押さなかったのは
政治的に大失策だったろう
舒明が皇位に就かなければ押坂彦人系皇族の力なんて
厩戸皇子系統の上宮王家に完全に押さえられ
その結果乙巳の変なんて起きずに蘇我本宗家が滅亡する事も無かった
政治家は結果責任で判断されるから、蝦夷は馬子と比べて政治的力量が
完全に劣ってたと言えるわな
>>683 山背の妻の中に蘇我氏がいなかったら将来のことを考えて舒明の方を優先するでしょ
685 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 14:26:31.44
舒明が皇后に宝皇女を選んだ時点で古人に皇位継承の可能性は殆ど無かったわな
皇位継承は皇后の産んだ皇子が優先されるからな
(史実でも宝が産んだ中大兄と大海人が即位してる)
宝皇女を抑えて法提郎女を皇后に出来なかった時点で蝦夷の政治力はダメダメ
自分に大した政治力が無いんだから上宮王家と蘇我本宗家は綿密に提携すべきだった
書紀を読む限り山背は伯父である蝦夷に対して尊敬心を抱いてたからな
686 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 14:35:52.26
>>685 山背王が即位しても皇后はその異母妹春米女王でしょ
山背王には蘇我氏出身の妻すらいなかった
父の厩戸は天皇になってないし、蘇我氏の嫁がいない山背は蘇我氏にとっては有力ではないだろう
だからと言って舒明〜古人が蘇我氏に良いかと言えば
>>683>>685の指摘通り全然良くない
他に候補が居なかったとも思えないけど、蘇我氏にとっては八方塞がりだったのかもね
>>685 山背が蝦夷に尊敬心を持っていたっていう文章どんな感じ?
689 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 16:07:56.72
>>685 そもそも山背王は蘇我氏よりも膳氏にべったりだったという論証もある。
そもそも斑鳩という土地は古代豪族膳氏の本拠地。
厩戸は最初こそ蘇我氏の本拠地飛鳥に住み蘇我馬子の娘を娶ったがおそらく死別、
その後は膳氏の娘膳大郎女を娶って斑鳩へ引っ越し、斑鳩に斑鳩宮や法隆寺を建てた。
膳大郎女は晩年まで添い遂げ、厩戸が死ぬ前日に死亡したという(一緒に死んだとする史書もあり)。
山背王は膳大郎女を母とする異母妹の春米女王を娶り、膳氏の本拠地である斑鳩に住み続けた。
日本書紀に春米女王が「国に二君なし・・・」と蘇我氏を痛烈に批判したことが記されており、
膳氏と蘇我氏はけして仲が良くなかった。
そして、膳氏の支援を受けていたのが山背王だった。
690 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 00:24:31.84
祖父の家が跡部という地名で大跡部神社があります。岐阜県です。
その昔、父(武烈天皇)の悪政を嫌った大跡部皇子が移り住み
この地で一生を終えたと言われています。
調べてみたら大跡部皇子は継体天皇なんですね。
跡部の地に天皇が住んでいたとは…。しかも骨をうずめてる…。
もしかしたら、僕のご先祖様は天皇に使えていたのかもしれない。
戦国時代には跡部城があり、跡部将監頼利という武将がいました。
もしかしたら、跡部氏は継体天皇の子孫ではないでしょうか?
とにかく、歴史の奥深さに感動です。
691 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 07:10:24.47
692 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 07:16:05.22
お財布ケータイ天皇
>>691 記紀には祓戸の神(瀬織津姫などの四柱神)すら出てこないが。
694 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 08:15:51.22
>>693 地方神の祭神なんかいちいち全部取り上げられるわけがないだろう
天皇家の正史である日本書紀に皇子の名が出てこないというのと
一緒にできない。
継体天皇からスマホ天皇ヘ権力は継承されるのですね?
実在も怪しい武烈の子で記紀に名前も載ってない人物なんて……
697 :
日本@名無史さん:2012/01/25(水) 14:25:39.45
>>690 武烈の子だから、武烈の次の天皇って解釈してるの?(笑)
いずれにしても、地方の伝承って作り話が多いんだよ。
息子はいたけど父と対立して地方に下ったから姉妹の婿を後継ぎにしたとか?
記紀に載らない時点で信じがたいよなあ
武烈天皇はわずか18歳で亡くなっている
日本書紀によれば妻は皇后春日娘子一人がいたが子はなかったとしている
(古事記には妻子共に記載がない)
仮に隠し子がいたところで親父が18歳じゃあ子供は相当小さいだろう
武烈と対立して出て行くような年齢に達していたはずもない
かの大成経だと、武烈には子供がいたそうだが、
発狂して早世したことになってる
701 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 00:46:15.17
>>690 戦国時代の武将に由来する地名なんじゃね?
で、後付けで余計な御伽噺が加わった感じ。
みんなが言うように、武烈云々は無理がある。
702 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 01:46:52.15
倭王武雄略で途切れたと見るべきかな!?
あとはヤマト朝廷の豪族集団統治体制に!倭王は象徴的になるが、それも邪魔になり武烈は殺される。
しかし、地方豪族の反乱の動きの為継体を擁立するが、磐井は独立に向かう!
ヤマト朝廷も蘇我が台頭しだし混乱状態。
>>702 雄略〜継体の間も大王はいただろ
いくら影が薄いからっていない扱いはあんまりだと思うよ
>>703 雄略天皇ー春日大姫皇女ー手白香皇女ー欽明天皇
雄略から継体までの間には架空の天皇が含まれていると考える人もいる
清寧天皇(春日大姫皇女の異母兄)でいったん途切れて手白香皇女の婿として
継体が迎えられたとか
顕仁、仁賢、武烈は在位期間も短く在位中の政策もほとんど書かれていない
雄略天皇は粛清大将だったからな。
その後は、南北朝時代のように、継嗣はあっても複数いて、混乱していたと思うよ。
継体に至るまでのことは、「だいたい、こいつのせい」
継体天皇の大傍系相続をアレコレいう人は多いが、
それなら徳川吉宗や藤原頼経は何様なのかと自問するべきだろう。
皇統でも、後世では似たようなことが何度もあった。
こういう局面になるとは、すなわち、不安定な時代だったということで
継承に際しても、血筋の遠近の重要性は格段に低下する。
少し日本語を勉強しようね。
>>704 流石に5世紀後半ともなるとねつ造は難しいな
それだと架空の天皇を挟む必要性が乏しいのでは?
雄略天皇ー春日大姫皇女ー手白香皇女ー欽明天皇
↑しかしまた大胆な説だなあw
>>707 その系譜の意味するところは、
まず、春日大姫皇女の婿として仁賢天皇(それ以前の大王と血縁はないかも?)が迎えられ
続いて手白香皇女の婿として継体天皇(それ以前の大王と血縁はないかも?)が迎えられるという
2代にわたる女系相続が行われている点ね(記紀共に仁賢も継体も大王直系ではないことは確か)
武烈架空説は根強いし、顕宗・仁賢創作説もあるよ。
顕宗と仁賢の兄弟で帝位を譲り合う話は神武の神話にもあるし
武烈の悪帝話は中国の説話によるともされているし
>>708 わざわざ解説ありがたいんだがやはり決め手に欠ける説だと思うよ
まああれだ証拠不十分で不起訴みたいな感じかな?
もっと直接的な証拠が欲しいねその手の説にはさ
>>709 それを言ったらあーた、そもそも応神天皇五世孫と言うフレコミにどれ程の証拠があるのか……。(´・ω・`)
「女系相続」とまで言えるかどうかは怪しいとしても、
それまでの天皇家筋と執拗に縁組した事これのみは、確かですわな。
>>710 まあそこら辺はね・・・
上宮記あたりの写本でもぽんと出てくればこんな議論せずに済むんだがね〜
>>710 妄想はいらない
発掘による考古学的な成果と文献による証拠
それだけがすべてだ
714 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 08:55:28.06
715 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 09:23:42.15
現代ですら官製資料やマスコミ報道なんてインチキだらけだからなぁ
文字を読み書きできる人間がほとんど居ない時代じゃもっとひどかったと思うよ
武烈のエピソードなんて紂王あたりからの借り物だし、
その紂王も本当に暴君だったかどうか…
>>710 前もって大和に影響力があると思われる尾張氏とも縁組みしてるしな
継体は呼ばれてやってきたというよりは明確な野心を持って大和に進出したように見える
>>713 わからないと言うことがわかるだけでも学問的には大切だ。
それと推測や想像や妄想で語って悪いというのは別の話だけど。
それを否定する根拠がない以上、記録を信じるべきって態度と、
それを肯定する根拠がない以上、記録を信じるべきではない態度。
まあどっちも考え方としては正しい。
むずーい
日本書紀を信じないヤツは国賊だ
719 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 19:54:26.74
>>718 継体の五世前の先祖応神の母親、新羅王子天日槍子孫の神功皇后は
本当に妊娠しながら出産を遅らせながら
三韓征伐出来ましたか?
神功皇后は本当に壱岐島で応神天皇を産みましたか?
720 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:10:40.88
武内宿禰は実際に200年生きたんだから仕方がない
武内はんは役職相続だったという話もあるね。
宿禰という役職が200年くらい続いたという説ね。
現代でも同じ名前を襲名するなんてあるもんね
盧武鉉と並ぶお笑い大統領のジョージブッシュとかか
>>713 継体が応神の五世孫という資料はある
しかし血のつながりがなく王朝交代という説には推測、憶測だけで文献、発掘等による確たる証拠がない
記紀や上宮記からの引用部分などが信用できないというならきちんと確たる証拠をそろえてから主張すべき
継体が簒奪者という
>>724 現在の天皇が天照大神という女神の子孫だという史料はある
しかし血のつながりがないという説には推測、憶測だけで文献、発掘等による確たる証拠がない
で、女系相続の例がないはずの万世一系の天皇家の先祖は、
何ということか女神の天照であると信じてる人ですか?
史料を資料とかw
>>725 ハハハッ神話にマジレスとは恐れ入ったよ
もう一度日本書紀を一から見直すといい神武以前を「ここまでが神話です」「ここから人の代です」と
書いている
大体始まりが女神なだけではないかねそれでは万世一系は崩せないな〜
そんなんじゃ甘いよ(棒読み)
>>727 さあ知らねえな
応神がどこで生まれたとか神功皇后がどこで生んだのかとか
729 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 19:15:57.18
>>724 史料をそのまま読めば天照の子供の父親は素戔嗚尊ととれるから、イザナギから万世一系だよ
730 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 19:30:38.80
>>724 邇邇芸命は両親、祖父不明。
天照大神が祖母であるとしか書かれていない。
史料をそのまま読めば天照の孫としか書いてないじゃん。
スサノヲと姉弟結婚したなんてどこにも書いてない。
731 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 20:04:50.84
>>730 で?何が言いたいの??もしかして安価間違いかな??
>>732 記紀も上宮記もちゃんとした史料だよ
否定するなら確たる証拠が必要だよ仮説や推測ではだめこれは絶対にだ
>神武天皇は実在しなかった。
ん?不毛な水掛け論でもしたいのかね??
ああ少し訂正だ
×仮説や推測
○妄想や電波
>> 730
>邇邇芸命は両親、祖父不明。
えっ!?
継体が応神の子孫かどうかは不明だ。応神の子孫でないなら
王朝交代の可能性が大きい。これは言えるね。
>>732 記紀も上宮記もちゃんとした史料だし、記紀は信憑性の高い史料だよ
738 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 23:22:03.30
逸文というのは、原文は伝わらないが、引用が残っているという意味だろう?
引用は、引用した人が都合よく抽出するので、元の文書を正しく伝えていない場合が多い。
上宮記なるものも、原書にあたらない限り信用することは出来ない。
「上宮記」自体が、
継体天皇の出自を正当化するための書物だった可能性もある
継体天皇の出自を正当化するための書物だったと説明すればよい
状況証拠でもなんでもな
日本書紀も上宮記も後世の編纂物だ。しかも、日本書紀は継体の子孫が編纂した。
また、かりに上宮記記載の系譜が継体当時のものだったとしても信憑性は別。
系譜に記載された人物の実在性すら不明。
上宮記は法隆寺僧が書いた聖徳太子の伝記だから
継体天皇の時代よりずっと成立は遅いよ
聖徳太子は継体天皇の曽孫だしね
>>742 くだんの記事は「上宮記」が引用する書物に書かれたものだから。
「上宮記」の成立時期とは無関係。
>>744 むろん不明だが、七世紀前半くらいだろう。
信用性ある書物かどうかも不明。
あんな時代の書物に信憑性を求める方が間違い。
大切なのはなにを主張したいか、顕彰したいかであり、
書かれたことが事実であるかなんてことは無意味。
事実なんてものより、有るべき真実の方が重要だから。
「ここそこは本当ですか?どうも間違ってると思うんですが」
などと、仮に記者に聞いたところで、次の一言でお終い。
「それがどうかしましたか」
記録なんてものは、他と矛盾することがない場合は、
まあ一応は信じておいてやるか。
その程度にとどめておくべきもの。
王朝交代厨が哀れ過ぎて涙が出てくる・・・
もう負けを認めてもいいんだよ;;
都合が悪いものは何であろうと黙殺して
都合がよいものはどんな怪しげなジャンクでも採用するのが
異端派信徒の異端派たる所以だよな
ホムツワケは誰なんだろう?
戦前の遺産にただ乗りするのは楽だよな
歴史探究としては間違ってるけど
上宮記は文字の使い方からして推古朝頃の成立が推測される。日本書紀より百年も前だ。
しかるに、日本書紀の記事によって「ホムツワケ」が「ホムタワケ」の誤記とされてしまった。
「タ」のどの字母が「ツ」のどの字母に誤記誤読誤写される可能性があるのか?
またその逆は?ホムツワケは垂仁天皇の皇子だから継体の五世の祖としては時代が
合わない。しかし、ホムツワケを垂仁の皇子とする系図はいつ出来たのか?上宮記より
後ではないのか?
現存しない蘇我馬子編纂の「帝紀」「旧辞」から
上宮記、日本書紀、古事記等が派生したと考えられてるんだろ
帝紀、旧辞で大王家系譜が定められたと考えられる
754 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 11:32:23.05
「天皇記」と「国記」がなぜ蘇我の私邸に置いてあったのだろう?
藤原不比等が怪しい。
>>754 公式書物が蘇我の私邸にあり
官位十二階に蘇我の棟梁の名が無く
これだけでも蘇我一族が本当にただの臣下なのか疑わしくなるな
蘇我が天皇を殺すことよりも皇子が蘇我を殺した方が大事のように書かれてるし
聖徳太子=蘇我入鹿説ってのもあったな。
継体天皇を初代と思えば、百王説で丁度終末期か。
天皇記も国記も私的に編集したからに決まってるだろ・・・
>「天皇記」と「国記」がなぜ蘇我の私邸に置いてあったのだろう
一回死んだほうがいいんじゃね
>>754>>756
蘇我馬子は用明天皇。
聖徳太子は蘇我蝦夷と考えると、
いろいろ疑問が解ける気が。
それなら、天皇記・国記の謎も氷解する。
崇峻天皇は実は、もともと天皇ではなかった。
蘇我馬子がずっと用明天皇をやっていた。
しかし、崇峻天皇はさかのぼって天皇だったこととされ、用明天皇は早くに死に、蘇我馬子とは別人とされた。
聖徳太子は蘇我馬子の息子の蘇我蝦夷。
親子なんだから、協力するのは当たり前。
まー、単なる自分の仮説だが。
762 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 19:35:12.71
>>759 確かに書記の記述によれば私的な編纂だな
馬子&厩戸が漢風かぶれしすぎてただけか
>蘇我馬子は用明天皇。聖徳太子は蘇我蝦夷と考えると
と言う流れだと、山背大兄王が蘇我入鹿ってことになってしまう。
殺された上に、一人二人役で自分を殺した犯人にまでされたんじゃあ、
まさに踏んだり蹴ったり。
むしろ山背が無抵抗で死んだのと蝦夷の最後が被ると言ってみる
摂政と大臣による私撰て
なまじな国家プロジェクトより大規模だよな
舒明没後の皇極のツレアイを入鹿に求めるのは分からなくはないが…
>>766 そして皇極が入鹿に譲位しようとしたから孝徳、鎌足らが入鹿を殺しちゃった
史料批判の正しいやり方も知らない無学の徒が何をほざいても妄想垂れ流しにしかならない
>>768 記紀を盲信するヤカラが史料批判を口にするとは片腹痛いわ。
記紀に抹殺改ざんされた史実の復元こそが古代史学。
皇国史観去れ!真の古代史甦れ!!
神武天皇は実在しなかった。
771 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 23:49:28.10
神武天皇=祟神天皇とするのが妥当。
実は祟神天皇が東征し、大和を征服したのだ。
おいおい程々にしとけよwww無知とは恐ろしい
奇説を弄ぶスレでマジレスいくない
継体天皇がそれ以前の機内政権の君主達と血縁があったかどうか、
あったとも、なかったとも、どちらも決定的な証拠はなく、
確定的なことは言い得ない。
とにかく、後の政権は血縁があるというのが公式見解だった。
確実なのはそれだけ。
だいたい、実の親子で公認されている後継者が継承しても、
なにがしかのごたごたはあるわけだし。
実際に史書のとおりの血縁なら、何かしら軋轢がない方が変。
公式見解はどうしてもそれを隠そうとするから不自然になる。
で、かえって本当の部分まで疑われることもあるし。
超能力者じゃないんだから、記録からできるのは推測と仮説だけ。
継体朝のころから急に現れた蘇我一族はそれ以前は何をしていたのか?
一方で継体朝になってからなりを潜めた旧大王家はどこへ行ったのか?
(王族が内輪もめで全滅しても郎党は大勢居たはず)
実は蘇我氏こそが旧王家なーんて可能性もあるのかな
>>775 誰かが、百済はもともと倭人の国で、高官、木満致が蘇我氏の直接の祖だよ、と語れというのか?
ついでに、継体天皇も半島からとか、
思っていても言えるわけないだろ!
木羅斤資(もくらこんし)の名をよくみると、新羅の文字が入ってるって知ってる?
うふふ
777 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 19:01:13.32
乙巳の変は豊璋と蘇我氏の百済王族同士の争いだったとでも言うのかw
継体天皇の前に比栄智衛須天皇がいた
欽明天皇もなんかそうすんなりと即位でもないようだけど。
継体欽明非親子説とかってのがあっても不思議はない気もするなあ。
>>775 その一族郎党のはしくれがオホドなんだろ
まー、このスレではこれまでみんな言いたくてウズウズしていたのに、
なんとなく黙っていた問題をいよいよ語るべきときが来たのかな。
百済はもともと倭人の国で、どこかで高句麗に乗っ取られたが、やはり倭人ベースの国で、
蘇我氏、応神天皇、継体天皇は高句麗によった脇へ追いやられた倭人系の百済王族なのでは問題なのだが、
誰か口火を切ってくれんかね?
先陣を切るのはイヤなのでwww
783 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 11:31:20.17
>>781 オホドは違う。
旧大王家と血の繋がりがあったとしても北陸を地盤に独自の勢力を築き上げている。
旧大王家とは別の勢力。
このひとって、契丹人の頭目じゃなかったっけ?
記紀をよく読むとわかるが、継体は女だ
しかもかなりかわいい
などと意味不明な供述をしており、動機は不明
787 :
昭和:2012/02/05(日) 15:17:40.12
自分のルーツをたどることは
自分を死へと導く事
788 :
昭和:2012/02/05(日) 15:20:46.10
天皇は渡来人でそれが日本に作る古墳を調べる事は不毛で意味のないこと
でもそれが幸せならそれでいい
でもソノ話の結末は悲惨だろう・・
789 :
782:2012/02/05(日) 16:11:20.13
すくなくとも俺は、
「半島の倭人が」と言ってるのであって、
エベンキ人が海を越えてやって来たと言ってるんじゃないんだが、
そこをいつも理解してもらえないんだよな。
で、結局、黙る。うーむ。時期尚早だったか。
しかし、そういう考えがあるのだとみな知っているのに、それに触れずに議論しても、
信実に迫ることはできないよ、とだき言い残し、去っていこう。
ふはははは。
790 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 16:18:34.15
兄貴がダメなら弟が天皇になって、弟もダメなら甥っ子を即位させて、
それでもダメなら娘に5世孫くらいの婿を取らせて女帝にした上で、
その男子を天皇にするというようなことは継体天皇の時代からよくやっていた。
愛子は推古天皇か斉明天皇のような歴史に残る女性天皇になるかもしれない。
越前から出たのなら半島からの密航者だろ。
792 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 16:28:15.07
それを言ったら、アマテラスもスサノオも密航者だし、
多利思比孤も聖徳太子も密航者じゃないか。
793 :
782:2012/02/05(日) 17:32:12.60
最後に、どうしてももう一度、書きたい。
「半島の倭人が」という意味は、「エベンキ人が」という意味とは、まったく違う。
終戦直後の満州からの帰還者は、日本人なのか中国製なのか、という問題と同じ。
応神天皇、継体天皇、蘇我氏が、高句麗によってその支配権を奪われてしまった
百済の倭人系王族だろうというとき、誰もエベンキ人の話などしていないんだよ。
「倭人系の」脇に追いやられた百済王族の話。だから、倭人なんだって。
いまの朝鮮人こそ、どこから来たんだよ。知らんよ、そんなもん。
そこが理解されない。ダメだ…
>>954 魏志倭人伝の内容がそうだから。
一方で、考古学的には巻向は否定できない。
どう調和させるか。
発掘結果からは、東征もなせそうだ。
しかし、九州色のない纏向の王は、千年以上たった今でも、九州王権のシンボルを持つ。
そのすべてを矛盾なく説明しないといけない。
すまん、誤爆。失礼した。
>>793 いやいやみんな分かってるよ
少なくとも、半島の南部と日本の西半分は同族だってのは
ここは糖質患者の隔離スレなの?もう少しまじめに語りたかったのにこんなんじゃあ・・・
>>771 東征したのは応神天皇だよ
元々畿内で発祥した邪馬台国→三輪王朝を九州から
東征してきた応神天皇が潰して新たに河内王朝を誕生させた
そして九州及び南朝鮮が基盤だった応神(河内)王朝は
倭国及び朝鮮の支配権の正統性を大陸に求めて南朝に朝貢した
それが倭の五王だわな
河内が何所にあるか知らんのかw
>>799 だからさ、逆に考えるんだよ。
神功皇后から応神天皇の話は、なんか変だ。
海を渡って行ったじゃなくて、百済の倭人系王族が、海を越えて戻ってきたと。
すると、継体天皇が越からじゃなく、半島が戻ってきた倭人系王族じゃないのか? という話と繋がる。
戻る理由はあった。
百済の王統が高句麗系に奪われた…
よく出来てるだろ? うふふ
804 :
802:2012/02/05(日) 23:13:09.88
そう考えてはじめて、なぜ百済の王族の人質を取るほど、列島が力を持てたのか、理解できる。
応神天皇の系統は、もともと百済の倭人系王族なんだから。
こう考えはじめると、ほかのことも解ける。
例の継体天皇のときの、大伴金村の領土割譲の件とか。まあ、そんな感じ。
805 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 03:26:17.43
じゃ、なぜ磐井は半島と組んで反乱を起こすんだよ!?
>>805 新羅はさ、あれもよく分からんよねー。
木羅斤資(もくらこんし)てさ、名前に新羅が含まれてるというか、隠されてるけど、
百済の将軍なんだよね。
いや、その子の百済の高官、木満致が蘇我氏の祖ともされてるけど、新羅との混血なんだっけ?
そこからさかのぼって親の名つけたんだろうけど、
いや、そんな話はどうでもいい。
なんだっけ?
ああ、イワイはよく知らんけど、新羅も元は倭人系の国と思えるけど、それは初期だけで、
百済とは違うんだよ、としかいいようがないな…。
>>802 息長氏が八色の姓で皇親とされたのは継体天皇を輩出したためだろ?
継体と息長氏が無関係なら近江の豪族にすぎない息長氏が
皇親になれなかったと思うぞ
>>807 逆じゃないの?皇別だから天皇になれたんだろ。
>>808 神話で彩られた応神が実在したと思ってる?
近江には古代からの断続的な古墳が多く
5世紀に急遽応神の息子が河内から出兵、
近江征服を企てて息長氏になったとは考えがたい
>>809 応神天皇が実在しなかったという史料を出せ。実在したという史料だけがあるのだから
実在を前提に話を進めるしかない。それを実証主義的科学的方法と言うんだよ。
非実在説は日本と天皇を憎む左翼の願望と妄想の他に根拠がない。
その論理だと例えば土佐日記の作者は女になるな
紀貫之が書いたという一次史料は無い
つか最後の一文は完全にお前の妄想
>>809 近江には古代からの断続的な古墳が多く
5世紀に急遽応神の息子が河内から出兵、
近江征服を企てて息長氏になったとは考えがたい
↑これこそソース出せって話なんだが
結局ただの妄想かよ・・・
>>811 ならない
もう少し言いたとえを見つけてこい
>>809 応神天皇は実在してるだろう
応神が神話に彩られた存在なのは
三輪王朝から王権を簒奪した簒奪者だから
神話で彩る必要性があったからだろ
まあ万世一系というフィクションの為には
王朝交代の事実を知られるのは非常に拙いからな
>>812 >つ 考古学
神功皇后の三韓征討とか仲哀天皇が天罰で死んだとか
信じてる奴?
仲哀は架空
神功も架空
応神は実在だけど仲哀と神功の子供ではない
そして4世紀における倭国に敵は高句麗なのに
新羅を敵にしてるのは斉明天皇及び中大兄皇子の
行動をフィクションのネタ元にしたからだろ
高句麗はエベンキ人なのか?
それが気になる…
三韓征伐が事実でないとしても、
後に、百済の王族を人質か国賓か分からんが、
列島に送らせるほどの影響力を持つことになった。
応神天皇は、半島からの出戻り…?
>>818 神功皇后の三韓征伐は史実じゃないけど三輪王朝(倭国)が百済、新羅、任那よりは
優位な立場にあったろうし半島における権益確保の為の朝鮮出兵も史実だろう
しかし高句麗には勝てずに何度も敗北してる間に三輪王朝の権威が大いに揺らぎ
朝鮮出兵の最前線である九州に駐屯していた応神をトップとする軍事集団が
東征して三輪王朝を滅ぼして応神が新王朝開き倭国王になった
その新王朝に対しても百済は恭順してたって事だわな
軍事集団と言うより豪族連合軍と言った方が正確かな
木羅斤資 はどう考えるんだ?
仮にも蘇我氏の祖とも言われる木満致の親だぜ。
ツヌガアラシト、ソナカシチ、これらはカヤの系統かと思うが、
(ツヌガアラシトは朝鮮の資料では倭国で王になったそうだよ。誰?)
応神、継体、蘇我氏は、半島こそ本拠の倭人とみた方がいいのでは?
もっといえば、崇神もそうかもしれない。ツヌガアラシトだとまではいってない。
倭人のルーツは半島で、彼らが戻ってくるたび、列島はなんなく半島の一部の領有権を得る。
取り敢えず、そんな仮説をぶちあげる。
822 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 18:03:40.58
普通に考えて国力の差だろ>大和豪族連合の朝鮮半島に対する優位性
半島全土と日本列島全土の時点で相当な差があるのに、その半島を三分割か四分割したぐらいの小国じゃな……
一方の日本は、三分の二ぐらいはすでに豪族のいずれかの支配かに入っていたわけで。
もし仮に半島の方が文明が進んでいたとしてもひっくり返せないだけの国力の差はあったはず。
応神も継体も簒奪者ではない。そんな史料はない。
王朝交替説には史料的根拠がない。すべての史料は
万世一系を裏付けている。
史料どうこう以前に史料無視して或は有ることを知らずに
飛躍に飛躍を重ねるトンでも電波だろうw
好太王碑文から4世紀の倭国が既に渡海・出兵出来る国力を
有していた事が分かるから、軍事的には当時の百済や新羅より
倭国が優位に立っていたのは史実だわな
しかし高句麗は南満州から朝鮮半島の半分まで領土化してた
大国だったから遠征軍の不利もある倭国軍は高句麗軍には勝てなかった
この高句麗に対する数度の敗北が三輪王朝(イリ王朝)の命取りになったと言える
827 :
昭和:2012/02/06(月) 20:39:18.89
亡霊が時給680円でコンビニでレジを打つ様w
あれは戦勝記念碑だから、敵は強大なほど良い。
ホントは半島南部か北九州あたりの海賊程度かもしれない。
高句麗は和国の使者を捏造したこともあるし。
服属国等の使者をでっち上げるのは高句麗に限った話じゃないけどね。
829 :
昭和:2012/02/06(月) 20:44:58.99
高句麗=朝鮮
コレで納得した
朝鮮人!
830 :
昭和:2012/02/06(月) 20:46:45.75
この国は宮内庁関係者の為の国でも
この国の為の国でもありません
何故なら
この国は
民主主義のくにだから
831 :
昭和:2012/02/06(月) 20:48:32.03
民主主義とはなんですか・・
832 :
昭和:2012/02/06(月) 20:49:59.23
古臭い自分の都合の悪い古墳を封印する
歴史学なぞ
くだらないとおもいませんか・・
>>829 高句麗と朝鮮は何の関係も無いし
朝鮮と朝鮮も何の関係も無い
支離滅裂だな
>>828 確かに好太王碑は戦勝碑だから敵を強大に描いた方が
都合が良いのに事実だけど7世紀に記述されて日本書紀よりは
同時代性が高いから史料価値は日本書紀より高いと思われる
従って4世紀の倭国の主敵は書紀が描く新羅ではなく
好太王碑文の通り高句麗だったと可能性が非常に高い
>>833 まあ高句麗に関してはその支配領域が朝鮮半島を越えて
遼東半島を含む満州南部にまで広がっていたから他の
朝鮮国家とはスケールが違うわな
高句麗と百済は元祖が檀君王倹であるという点で共通な兄弟国家。
しかし仲が悪く喧嘩ばかりしている。
おいおいおい。
なんで百済と高句麗は兄弟国となるんだ?
間違いとは言わない。でもちょっと。
倭と高句麗が戦う最大の理由は、百済のトップにどちらの系統をつけるかなんだぜ。
百済の王統争いで旗色が悪くなってくると、百済の倭人の系王族が列島に帰ってくるんだ。
応神天皇、継体天皇、用明天皇である蘇我馬子…、聖徳太子の蘇我蝦夷…。
ついでに、崇神天皇もいれるべきか?
馬子と用明くっつけたら世代ギャップが起こるけどいいの?
>>835 おまえチョンだなw
日本語が所々おかしい、それも日本人は絶対しない間違いが複数ある
>>839 大丈夫。天皇でなかったものをさかのぼって天皇にしたため、早く死んだことにされただけ。
馬子はずっと天皇だった。
>>840 4ヵ所かな?
>確かに好太王碑は戦勝碑だから敵を強大に描いた方が
>都合が良いの@に事実だけど7世紀に記述されAて日本書紀よりは
>同時代性が高いから史料価値は日本書紀より高いと思われる
>従って4世紀の倭国の主敵は書紀がB描く新羅ではなく
>好太王碑文の通り高句麗だったCと可能性が非常に高い
確かに好太王碑は戦勝碑だから、敵を強大に描いた方が
都合が良いの@は事実だけど、7世紀に記述されAた日本書紀よりは
同時代性が高いから、史料価値は日本書紀より高いと思われる
従って4世紀の倭国の主敵は書紀がB書く新羅ではなく
好太王碑文の通り高句麗だったC可能性が非常に高い
すべてのまともな史料に継体天皇は応神5世の孫と書かれている。否定する史料がないのだから
それが真実だ。記紀は嘘が書かれていると主張したいなら、真実が書かれた史料を出せ。
史学は史料がすべてだ。反日妄想は史学ではない。
半島から来た派も、別に血統の繋がりは否定していないが???
誰と戦っている?
半島倭人系王族も、みな一系。
日本書紀の記述を鵜呑みにしなければ朝鮮人扱いなら
実証主義歴史学者はみんな朝鮮人扱いって事だな
そして皇国史観に毒されてるから皇學館、国士舘辺りの
史学の学生か?
まあ皇国史観なんて古代史学においては完全に
マイナーな存在なのにネットでは声がでかいなぁw
>>843 日本書紀に対するテキストクリティーク無しに
そこに記述された事を妄信するのは学問ではなくて信仰だよw
そして水野裕が提唱した三王朝交代説は基本的には正しい
>>846 萬世一系にはちゃんとした史料があるが、王朝交代には史料がない。
日本の歴史と伝統を憎む左翼とチョーセン人の願望と妄想は史料じゃない。
日本書紀は史料だが、水野裕の著作は史料じゃない。史料を出せ。
849 :
844:2012/02/07(火) 08:32:32.70
半島から来た倭人系王族も、血統は一系だ。
いま出先で細かいことが書けん。
なるべく早く書きたいが、すぐには書けない。
だだ少しだけ。
天皇記を企画したのは誰か?
蘇我氏である。
いまは失われた天皇記だが、つまり、もともと半島の倭人系王族を含めた形で、
血筋の一貫性が記述されるよう構想されていて当たり前なのだ。
初代から蘇我氏繋がりて続いているよう書かれる予定だったのだ。
その痕跡が、紀記には残っている。
>>849 妄想はもううんざりだよ
確たる証拠とわずかな推測
それだけでいいもうアマチュア学者さんのねつ造ストーリーはうんざり
王朝交替説を唱える左翼学者はアマチュア以下。
>>850 それをいつまで妄想扱いしてられるかな?
まあいい。とりあえず退却。
うふふ。
戦後日本史学界は日本の伝統と文化の破壊を企む左翼によって支配され、記紀は虚偽の書として捨て去られ、
支那の書物が日本古代史の絶対的真理として盲信されてきたが、彼等が絶対視神聖視する支那の書物にも
王朝交代など書かれていない。
通説好き異説好きどちらであろうがイデオロギー優先で歴史を語る人はいらない
855 :
昭和:2012/02/07(火) 12:08:10.37
イデオロギーって何w
高句麗語≒日本語
高句麗語≠新羅語≒高麗語≒現代朝鮮語
数詞対照表
古代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語
1 Φi1to2 −− hっtっn hっtっn hΛnah hana
(一等) (河屯)
2 Φuta −− tu¨pっ¨l tuβっr tulh tu:l
(二尸) (途孛)
3 mi1 mil siet sei s∂ih se:s
(密) (悉) (洒)
4 'jo2 −− −− nei n∂ih ne:s
(廼)
5 'itu 'utsu −− ta∫us tasΛs tasっs
(于次) (打戍)
6 mu −− −− 'jul∫us 'jっsΛs 'jっsっs
(逸戍)
7 nana nanun −− 'ilkup nilgub 'ilgob
(難隠) (一急)
8 'ja −− −− 'jultap 'jっdщlp 'jっdっl
(逸答)
9 ko2ko2no2 −− −− 'ahop 'ahob 'ahob
(鴉好)
10 to2'wo t∂k −− 'jっl 'jっlh 'jっ:l
(徳) (噎)
※古代日本語の[i1]はイ列甲類、[o2]はオ列乙類。[っ]は母音[?]の代用。
高句麗語の数詞「5」については村山説を挙げたが、李基文や板橋義三は
再構語形を[uc]としている。
>>854 日本史学を左翼イデオロギーから解放せにゃならん。
津田左右吉の著書『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』
『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の四冊を政府が発禁処分にした事は
皇国史観が如何に日本の古代史学を捻じ曲げていたかを象徴する出来ごとだわ
そして日本の古代史学は津田の業績を国家権力の手を使って葬りさろうとした
皇国史観の復権をは絶対に許さない
その津田左右吉の弟子で三王朝交代説を提唱したのが水野祐
だから皇国史観の亡霊どもが津田、水野師弟を蛇蝎の如く嫌うのも
無理はないわなw(津田も水野も早稲田大学教授)
>>858 津田左右吉の著書『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』
『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の四冊を政府が発禁処分にした事は
皇国史観が如何に日本の古代史学を捻じ曲げていたかを象徴する@出来ごとだわ
そして日本の古代史学は津田のA業績をB国家権力の手を使ってC葬りさろうとした
皇国史観の復権Dをは絶対にE許さない
@×出来ごと○出来事、できごと
A×業績○主張
B×国家権力の手を使って○多くの史学者の見解に反するとして
C×葬りさろう○葬り去ろう、否定した
D×をは○は
E×許さない○赦さない、許すべきではない
語学は幼少期にやらないと不完全な水準に留まるね
細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
詭弁の一手法
つかミスと言えるのは@とDだけ
皇国史観の亡霊が何を言おうと津田左右吉が行った
紀記に対して行った厳密なテキストクリティークが
戦後実証史学の礎になったわな
司馬史観にも匹敵する津田史観だなw
美濃加茂市史では坪内逍遥と並ぶ偉人なんだよな。
今こそ皇国史観の復権を!!国体破壊を目論む左翼とチョーセンジンを
葬り去れ!!!
>>864 天武の近皇位簒奪を肯定する事を基本原則として
執筆された「日本書紀」を鵜呑みする事は出来ネーわw
日本書紀に天武紀の他に壬申紀がある時点で天武天皇の為の
プロパガンダなのは明白だしww
例えば日本書紀じゃ大友皇子は皇太子になってないけど
これは天武の行動を正当化する為に大友が皇太子になった事を
意図的に隠したんだろう
史料批判を行わない皇国史観は歴史学ではなく
単なる信仰者の信仰告白に過ぎないからダメなのさ
まあ皇国史観の古代史学者なんて今や皇學館か
国士舘くらいにしか生息してないけどw
唯物史観は科学じゃない。左翼学者を大学から追放しよう。
870 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 11:41:04.98
>>867 しかし天武を正当化するだけなら乙巳の変を起こした天智を大悪党にして
蘇我を正義の味方扱いしてもいいはずだよな
東漢氏や尾張氏との関わりから言って天武自身も蘇我に近い人間のはずだし
871 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 11:48:18.52
>>870 記紀では天武天皇は天智天皇の皇太弟として天智の政治に関与したと書いているのだから
天智を悪者にはできないよ
しかも天武の皇后、すなわち後の持統天皇は天智天皇の娘だ
自分の父親を悪く書くはずがない
>>870 大友皇子が即位したらその次は大友と十市皇女(天武と額田女王の娘)の
子供である葛野王が即位したろう
葛野王は天智と天武の両方の血を受け継いでるから即位に何の問題もないし
そうしたら持統の子供である草壁皇子に皇位を継承する事は無理だな
つまり大友即位は持統にとっては許せない事態って事だわ
そして大友の即位を目指した天智についても例え実の父であっても
持統にとっては許せない存在だったって事だわな
そうであっても実父を悪く言うわけにはいかないのが、
儒教的概念のつらいところ。
内心はともかく表向きは。
娘はつらいよ。さららちゃん二人旅。
>>872 夫が他の女との間に儲けた娘が産んだ葛野王を即位させたくないという気持ちと
実父天智天皇への情愛は別
一度は父のいる近江朝廷を捨てて夫と共に吉野へ籠った鵜野だけど
屈折しながらも父天智のことは好きだったんじゃないかな
母が早くに亡くなり祖母皇極や父天智の庇護を受けて育ったみたいだし
神武天皇の男系子孫が皇位を継いで来た史実は不動だ
>>867 日本書紀は歴史書だよ、歴史物語の三国史記や高麗史と違ってねw
つうか、明治維新までは主要な港は日本海側にあって
福井だか石川だかで大規模な遺跡が出たって話があっただろう
日本海側=田舎って現代人の感覚からはずれてるけど
そこを支配していた応神系の有力王族が継体として即位したんだと考えれば
問題は何もない
このスレにも湧いてる朝鮮人は文献資料の都合の良い部分だけ取り出して
物証を軽視してるから質が悪いわな
聖徳太子不在説とか、継体非皇族説とか歴史で飯食えないからって
簡単に捏造に荷担する今の学者どもは死に絶えればいいよ
>>876 明治政府及び明治天皇が日本書紀の記述を否定して大友皇子の天皇即位を認定
弘文という漢風諡号を贈ったのだから、その時点で書紀の信憑性は潰えてるわ
日本書紀の記述をいくら探しても大友皇子が天皇に即位したなんて記述は一切ないからな
つまり国家権力自体が日本書紀の記述には嘘がある事を認めたって事さ
>>877 大友(弘文)天皇の存在を否定した日本書紀だから継体が応神の五世の孫
なんて嘘も平気で書くだろうなぁ
そして武烈天皇の残虐行為の記述も継体の即位を正統化する為の虚偽の
記述の可能性もあるわな
日本中のありとあらゆる史学者どころか
北朝南韓以外の世界中の歴史学者から電波として一蹴される妄想を垂れ流し続ける
妄執の強さだけは大したものだなw
そういう作為的な部分を排除して真実を明らかにするのが歴史学だろ?
嘘で嘘を塗りつぶすのは歴史学ではないわな
記紀の記述は信用できないとしても、中央の応神系の直系が断絶した事実と
傍系の王族である継体系が大王に就いた事実は変わらない
もしも、近縁でなければ間違いなく尾張系か物部系か他の中央の有力豪族が
先に皇位に就いていたと考えないのか?
理由を考えるのが先決であって否定をするだけなら誰でもできるってことだ
少なくとも武烈帝の記述に関しては、応神系の王朝に中央を統制する力がなかったために
混乱が起きた事実は一致しているし
弘文帝の記述に関しては、即位を不服とした天武帝が打倒して天皇になったこと
後に検証すれば、即位を行っていた天皇を皇統から外す方が不自然であるから
諡号を贈るのは当然のことだろう
この時代は長子相続が完全に確立されていない時代であって
天武帝から見れば、自分こそが正統な皇位継承者であり大津側は反逆者なのだから
即位自体が無効と判断するのは極めて当然のことだろう
君達のやりかたは状況を検証せず、文献のアラを探して有利な結論のみを導き出そうとする
朝鮮史学そのものだな
自説に自信があれば朝鮮認定なぞ無駄な手間でしかないのにねえ…
>>881 ある皇族が天皇に即位してもそれに不服がある皇族は天皇を打倒しても
構わないのなら皇位継承なんて実力で左右させる事になるわなw
そして応神天皇五世の孫でも天皇になれるなら桓武天皇五世の孫の
平将門も勝ってれば天皇になれた訳だ(まあ将門は負けたけどw)
>>879 そもそも大王家にも他の豪族と同じように「○○氏」という氏族名がなければおかしいのにそんな基本情報すら隠蔽しているからな
後世へ向けた誠意が感じられない書だ
885 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 23:36:47.71
まあ将門が勝ってれば継体天皇の先例を持ち出して
正当化しようとしたかもしれんがね
>>883 それは前スレからよく言われてる問題。
将門が「京都朝廷とは別個の新朝廷の主」になったのだとしたら、
桓武五世孫であっても「新王朝の創始者(初代)」を名乗っていただろう。
京都朝廷に近親後継者がなく、関東にいた桓武五世孫が京都に迎えられたのなら、
普通に「先代の後を継承した将門天皇」ということになっていただろう。
で、継体の場合、強いて後者を否定する事実など何一つ見つかっていないということ。
887 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 05:34:27.92
継体天皇が応神五世孫という話だけ見ると確かに嘘臭そうだが、世界史まで見るとそんなに突拍子も無い話ではない。
フランスにはルイ9世十世孫のアンリ4世、中国南宋には北宋太祖六世孫の孝宗という実例がある。
いや、日本にも家康十世孫の徳川慶喜という実例があるね。
「五世孫なんて嘘だ」と感覚で言うのは誤りだと思うよ。
応神からの系図もちゃんと残ってるしね。否定する史料は皆無だ。
国体破壊を目論む左翼の妄想と願望だけが根拠だ。学問を
装った反逆罪だ。
889 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:01:06.39
>>887 問題はそれを裏付ける物証や大和朝廷以外のものからなる資料が皆無ということだ
そんな系図がただ「そう書いてある」というだけで認められるなら、世にあまねくインチキ系図がすべて本物になってしまう
慶喜の場合は前の代までが水戸藩主という重要地位にいたのと
記録の残り具合が古代の比じゃないのが大きい
継体天皇の場合は前4代の情報が乏しくて
不自然だと疑われても仕方ない
>>890 系図はちゃんと伝わっている。否定するならもっと確かな別の史料を出せ。
数百年後に何の出典も示さずに書かれた系図なんて資料価値がないよ
名目は、いくらでも後付けできる。
真実は薮の中てことじゃまいか。
歴史は「勝者の歴史」であり、勝者が改ざんするもの。
>>891 『上宮記』自体は散逸して『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に
逸文を残すのみだから史料価値の点で問題あり
それと「帝紀や紀記を書いた人がそのことを知っていたなら、皇統には
神経質なかれらが、それを書きもらすはずなかったであろう」(by井上光貞)
はい、論破
895 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 09:26:42.11
>>894 日本書紀って、元は系図付いてたよね、確か。
継体天皇の出自は現状では断定できないが結論でしょう。
応神子孫説を肯定できるだけの材料も否定できるだけの材料もともにない。
将来どこから決定的証拠が出てくるか、
科学技術の画期的進歩で現状の材料だけで結論が出せるようになる。
そのどちらかでもなければ永遠に結論が出ない問題の一つだと思う。
元々どっちでも良い問題だしね。
欽明朝あたりまでの政治情勢の検討には重要なファクターだけど、
それ以後の歴史にはほとんど影響しない。
ましてや現代人にとってはただの暇つぶしの種でしかない。
結局否定派は「疑わしい」「信用できない」
これだけで証拠を出せてない
まあ、議論する価値もないな
ということで糞スレ終了
継体の場合、発掘調査などの成果も踏まえると、
そう簡単に後付けだとか言えないってことでしょ。
上の方にも書いたが、上宮記逸文の系図書法が稲荷山鉄剣のそれと似ていたり、
継体の出自や姻族に関連する近江・越前・尾張・淀川流域等や
巨勢・物部・大伴・磐井・手白香ら継体朝人物に関連する有力遺跡が見つかっていたり、
最近の古墳の編年から、古市の誉田御廟山・市野山古墳が応神・允恭陵に、
摂津三島の太田茶臼山・今城塚が稚渟毛・継体の陵墓に想定出来たり、
継体朝のことが「後世に創作された」とはとても思えない状況証拠が色々出てきてるってこと。
そんな中、父系だけは記紀の伝承では絶対にありえない、と強弁してるのが、
昭和20年代以来の一部の偏執な学者や歴史家の方々。
「記紀は万世一系のために書かれた」との固定観念に逆に縛られてしまっている。
900 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 12:31:29.35
>>899 「都合良く捏造した」というけど、真実が好都合ならそのまま書くよね、当然。
901 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 12:43:02.49
>>899 継体新王朝説の学者にアンリ4世の話聞かせたら信じないよ、きっとw
僻地に続いていた王家の傍流が異教を奉じ、王朝混乱に乗じて内乱を勝ち抜き、挙句に改宗までして王位に就いた、なんて継体天皇よりよっぽど「嘘臭い」。
でも、それは全て真実。
902 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 13:00:47.97
ブルボン朝による史料でしか彼の出自を確認できないなら嘘だろうな
でもご安心をアンリ四世の出自に関しては、継体天皇や徳川家康のように不明な点はありませんから
そうそう、継体の出自が怪しいという人たちの常套手段に、
家康とか信長も先祖を粉飾してっるってのがある。
だけど、これは単純に比較できない。
なぜなら、継体は同じ畿内王権・ヤマト王権内部での分枝とされており、
たかだか百年ほど前の王から分かれたという系譜にすぎないのに対し、
(そしてそのことを示唆しているとも取れるのが太田茶臼山や今城塚の存在)
信長や家康や、その他多くの近世の新興大名たちは、
古代の英雄・名門名家に遠祖を求め繋げているのであり、
継体があの時代に系譜を詐称したというなら、
それを信長・家康に当てはめれば、足利義満の五世孫あたりを名乗っていることになる。
紙が伝来したかしないかの時代と
すでに定着した時代(現代よりは高価だったが)では
文書等に残すことのハードルが全然違う
ほんと、木簡資料皆無、古墳や豪族館からも文字資料出土がまず無いあの時代のことながら、
継体の家族関係や古墳の所在地、よく伝えられていると思うよ。
考古学的にもそれらが裏付けされていると評価できる。
なのに、継体の父系にはやたらに固執して異を唱えるのなw
あれ何なんだろ。
>>904 いや、「その時代」に実際に生きていた人たちからすれば、
人間関係という意味では同じだよ。
「オホドという北国の豪族が大王家の五世孫を名乗って天下を狙ってる」は
「信長(家康)という東海の豪族が足利将軍家の五世孫を名乗って天下を狙ってる」に相当するし、
「オホドは天下を治める正統性として、大王家の五世孫を称することにした」なら
「信長(家康)は天下を治める正統性として、足利将軍家の五世孫を称することにした」に相当する。
で、私の結論的は、おそらくそのようなことは無かった(つまりオホドは実際に大王家の末裔でヤマト王権に迎えられた)
>>905 藤原京や平城京の歴史学者の調査能力は化け物だな
文字資料なしであんなに完璧な系図を仕上げるなんて
>>895 記紀では応神から継体に至る間の系図に抜けがあるんだよ
記紀に抜けがあるって事は元の史料である帝紀の系図にも
抜けがあったって事だわな
だから井上光貞は継体を新王朝の開祖とした水野祐や直木孝次郎の説を
支持すると自著で述べたって事です
>>908 応神から継体に至る間の系図に抜けがあると認めてる学者はいないよ
水野や直木もそんな憶測はしていない
継体に関する記述だけじゃなくて記紀全体がおかしいだろ
大王家の名字すら書かない、イエスや紂王のエピソードを別人に挿入する、果てはむちゃくちゃな寿命
そんなむちゃくちゃな書物のなかで継体天皇だけは疑うのもいけないなんて、おかしな話だ
>>907 現在には残っていないが、その当時には「帝紀」のような文字資料が皆無ではなかったのでしょうな。
だから、
>>904のような文書に残すハードル云々の話も、逆に怪しくなってくる。
>>908 系図ってより、継体記・継体紀冒頭の続柄部分には応神五世孫としか記載されていないが、
日本書紀には系図一巻があって、それで補完したと考えられるってことでしょ。
「後世に加筆・捏造なんていくらでも出来る」なら、適当に先祖を書いちゃうって手もあった。
そうでないのは、本文で五世の系譜を羅列するのを避けたんだろう。
>>910 大王家には姓が無かったと考えられる。
継体天皇だけ疑うとか疑わないの話じゃなくて、
漢籍その他からの引用・参考・脚色はあるにしても、
記紀の大王家の親族伝承や古墳の所在地伝承などからすれば、
「ファンタスティックな内容が多いから記紀なんて有用ではない」
と簡単に切り捨ててしまう態度もおかしい、ってこと。
>>912 隋への国書ではっきりとアマ氏を名乗ってるじゃないか
それに古墳時代から飛鳥時代にかけて大王家に比肩しうる豪族がいろいろいて
みんな氏族名をもっていたのに大王家だけそれが無いっていうのは不自然だし
実務的に考えても不便だ
話を継体に戻すと例え大王家に氏が無くても、五代も下って独自の勢力基盤をもってる人間が
なんの氏族名も持たないというのはなおさら不自然
記紀に系図も載っていない氏も名乗れない人がかつての大王の子孫です、と言われて
「はい、そうですか」と納得するわけにはいかないよ
大王家以外が氏族名を当時名乗っていたかの方も疑うのがフェアだな
せめて姓の概念が違ってた可能性くらいは考えていい
>>911 継体天皇くらいの時代なら布・木簡・竹簡に文字を残すくらいは出来たが
使いやすさは紙よりはるかに劣る
さらに日本語と文字(漢字しかない)が後世のように対応していない時代だったから
識字率がほとんどゼロに近かったのは想像がつく
隋書での該当箇所は「アマタリシヒコ」で、
私は個人の実名だとは思っていない。
継体朝の頃はまだ、氏の使用に関しては流動的ではないかな。
例えば稲荷山鉄剣の父系系譜にも氏は出て来ないし、
上宮記の継体母・振媛の系譜も、三尾君のものと考えられるが、
氏の名は出て来ない。
>>914 少なくとも奈良時代初期には姓を名乗る慣習が成立していただろう
平城宮に入る門は当初それぞれ有力豪族の名がつけられていた。朱雀門は大伴門だったり小子部門があったりね
また、各地の私領に地名として姓を残している蘇我氏のような豪族かなり早期から姓があったと考えるべき
記紀の編纂時には姓を持つのが当たり前の時代(いまと概念が多少異なるとしてもね)
仮に継体朝のころはまだ姓や氏を使わない豪族が多かったとしても、大王家ほどの勢力が何の名乗りもないのは不便だから
姓氏に代わるなんらかの名乗りはあっただろうし、早期から中国に使いを送っているほどの先進的な勢力なら
姓氏の概念自体は継体なんかよりずっと昔から知っていたはず(本当に同族ならばね)
たとえ大王家自ら名乗らなくても他の豪族から勢力・氏族を示すなんらかの名称で呼ばれていただろう
個人的には大王家の姓・アマを記紀では「天孫」と言い換えているんだと思う
>>916 最高権力者が姓を名乗らないのは古代中国文化圏に多くみられる慣習。
戦国七雄や秦漢帝国の王や皇帝は姓を持ってはいたが、春秋時代から下り
戦国時代後期になると記載されなくなる。
エイセイではなく秦王政、他の姫姓や田姓などの王族も姓を名乗らない
始皇帝は始・皇帝で漢の皇帝も死後は廟号生前は尊称、姓や名を名乗っていない
つーか、その後の天皇家も現在に至るまで姓を持ってないんだから、
名乗りが無くて不便だの、だから姓が無くちゃおかしい、とかいった議論にはならんわな。
私は、プレ律令時代にあるこの時期、大王とその宗族は「君(キミ)」と称されていたと思う。
三尾君や身毛津君のように、氏に君姓をつけるという場合もあろうが、
乎波智君や伊自牟良君のように、名前につけて○○君といった場合もあろう。
だから、資料的な裏付けは無いのだが、私個人的には継体やその父も、
乎富等大公王・汙斯王などと伝わっているが、本来的には乎富等君・汙斯君だったのではないかと思っている。
王も君も日本語の訓みでは「キミ」で通ずる。で後世、継体の祖に関しては王の字で統一したのではないかと。
欽明・敏達紀に出てくる、坂田耳子郎君と坂田耳子王の例なんかが参考例になると思うが。
一般庶民は明治になるまで姓なし
原則朝廷の家臣だけが天皇から姓を受けることができたんだろ
苗字や屋号は別だしね
>>919 >原則朝廷の家臣だけが天皇から姓を受けることができたんだろ
>>916の言うように奈良時代以降ならその通り
(個人的には大化の改新まで遡っていいと思うが)
ただ継体天皇の時代くらいになると???
921 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 19:27:57.67
>>918 唯一無二の存在になったから姓氏が必要なくなっただけだろう
並び立つ豪族がいた時代には、姓氏であれ部族名であれ、自称であれ他称であれ、その勢力をあらわす名前があるはず
姓の無いモンゴルの草原ですら部族名で自他の勢力を区別していたように、中国的な姓や氏じゃなくても呼び名は必要
ところが、記紀には大王家が専制を確立する以前何と呼ばれていたか、あるいは何と名乗っていたかが書いていない
記紀を信じるならば他の豪族は継体朝のころにはほとんど氏族名ができていたのにも関わらずね
意図的に知ってて書かなかったとしか思えないな
>>899 そうなんですよね
物証でなく、文献のみを持って否定しようとするのが解せない
内戦による勝利で、皇位についた可能性は今後の発掘調査の成果次第ですが
父系で大王家の一族でなかったことを殊更に主張するのがおかしい
実際、彼らの言うように新王朝であったとしても
継体朝日本国は世界最長の歴史を持つ国家である事実は変わらないのですけど
万世一系を否定したいがために屁理屈をこねているようにしか見えないのが問題
天皇家は世界一長いとか急に議論に関係ない話を始められてもw
>>921 当時は中国の漢籍に大きな影響を受けているから
史記のように、並ぶものの無い権威者の氏姓を書かないのは不思議でもなんでもない
>>921 だから、大王家の宗族の呼び名は「○○君(キミ)」じゃないか、って書いてるだろ?
そういう推測の余地もあるのに、大王家にも氏があったはず、なきゃおかしい、区別できない、
いやあったけど知ってて隠したんだ……、あまりに了見が狭すぎると自分で思わないかね。
葛城氏だって和邇氏だって、氏の名を記さずに「葦田宿禰」とか「蟻臣」とか
「円大臣」とか「日触使主」とか書かれている例はあるぜ。
>>924 継体時代の大王家が本当に並ぶもののない権威と権力を保持していたのだろうか?
>>926 否定したいなら頑張って論拠を提出しなよ
928 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 20:32:56.99
>>925 いや、べつに君でもかまわないけど一族の数人の姓が省かれただけで他の文章や史料で容易にわかる葛城氏とかの例と大王家を一緒にするのはどうかと
924の答えが日本書紀に関しては一番妥当だろうけど漢文を使わない古事記や、官製ではないっぽい先代旧事本紀はどうかな?
まあ言いたいのはその辺ではなくて
奈良朝ぐらいならとっくに臣籍降下で姓を与えられているはずの継体家が旧大王家とは別の氏族名をもたず(あるいはどちらも氏族名がない)
あいだの四代の活躍記事も無いというのはちょっと違和感があるので息長など実は豪族として記されているのではないかということ
大王家の血を父系で継いでいるかどうかとは別問題ね、念のため
>>926 継体朝はともかく記紀を編纂した時期には列島内に並ぶものはなかっただろう
>>928 上にも書いたけど、三尾君とか身毛津君のような氏は後世的なものであって、
それ以前は乎波智君とか伊自牟良君とかで通じてたんじゃないか、ってのが私の意見。
律令時代の皇族制度では、天皇の近親者を親王、遠いものを王としたように、
律令などなかったこの時代、例えば大王の近親を○○ノミコ、遠いものを○○ノキミ、
とでもしていたのではないかと(古代豪族の系譜からの類推)。
5世紀段階ではむしろ、氏+姓という形は一般的ではなく、
允恭朝の氏姓を正す記事をターニングポイントに、雄略〜継体朝にかけて、
ゆるやかに氏+姓の形になっていったのではないかと。
931 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 21:23:27.32
しかし、継体天皇にしろ平将門にしろ、5世孫というのが皇位継承のギリギリの線だというのは重要。
明治天皇化や数えて、愛子や悠仁の世代。
明治生まれで、明治天皇から愛子の誕生まで、血統の正当性を証言できるものがいる。
それ以上の6世となると正統を証明するのが難しくなるのです。
>>930 それが成り立つにはそうとうな慣れ……というか互いの了解がいりそうだね
たとえば「〜ノミコ」とか「〜ノキミ」って名乗られて相手が「オオキミの一族か」と理解するには
オオキミの子をミコといい、有力親族をキミというってルールを理解してなきゃいけない
相当早いうちから大和朝廷が豪族たちの中心になっている必要がありそうだ
>相当早いうちから大和朝廷が豪族たちの中心になっている
という学者さんは今時分は少なそうだが、そういう意見の先生はいるよ。
その先生はむしろ地方の古墳を主に研究している人なんだけど、
一昨年の「継体大王の時代」シンポジウムで、
「各地域が独立した勢力であり、ヤマトもその一つとして捉えるべき」
という尾張専門の先生による「今ふうの意見」に対し、
「いや、ヤマト政権はもう古墳時代前期から他地方を圧倒している。
古墳の規格などから。多少ゆるめではあろうが、早い段階からのちの律令国家の萌芽はあった」
と反駁されていた。私もその意見に近い。
聖徳太子or用明天皇が名乗ったとおり天皇家はアマ(天)氏だろう
数まで調べていないがキミとつく地名はあまり多いようには思えない
蘇我氏を超える大豪族である大王家ならもっと地名に残っていてもいいはず
その点、アマなら問題ない
そして大王家や天孫系とされる和[王耳]氏や尾張氏の祖先神には「アマノ〜」とつくものがいる
これを尊称ではなく氏族名とすれば彼らの同族性を裏付けられるし、隋への国書とも矛盾しない
そして自分がざっと調べた限りだとたとえば武内宿禰の子孫には「アマノ〜」はいなかった
(異母弟に「ウマ」がつくのが気になるけど)
アマは基本的には天孫系の人物に付けるものだとわかる
ただ、今でいう苗字や中国的な姓ではなく、部族名に近いものだろう
レスの流れが速いから今のうちに言っておく
>>950 次スレよろしく
937 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 09:01:58.63
>>903 たしかに足利将軍家の五世孫ってのは無理があるなw
当時の人からも突っ込まれただろう
それこそ文字のある時代とない時代だから単純比較はできないけどね
文字がない時代にはそもそも系図が存在しない
939 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 10:32:11.92
例えば曹操の墓には墓碑が出てきて被葬者が特定できたのだというし、中国では墓碑を入れるのが一般的だ。
古墳時代にも文字は使われていたはずなのに、日本の前方後円墳からは墓碑一枚でてこないのはなぜでしょう。
大和朝廷は、墓の規格を決めていており、墓碑を入れると墓が穢れるとして入れてはならないとしていたのだろう。
言霊を石や粘土板に文字として封じ込めると災いが起こるとされていたのだ。
>>938 いや、このことに関しては文字の有る無しはあんま関係無いんじゃね?
実際の人間関係(先代や次代を含めて)が大事なのであって、
文字があるから(「俺は○○王の五世孫だ」という書付を持ってるから)、
本物だ、偽物だ、ってことではないんだろうと思う。
携帯天皇ってコンビニの前にいそうだな
携帯王子のおっさんバージョン?
アマノヒボコとオノノイモコって構造が似ているね。
曹操の墓は偽物で決着ついてたと思う。
たしか回転式ノコギリの跡が発見されたんだったかな。
墓誌に関しては太安万侶で発見されている。
曹操の墓は本物だと決着ついてるよ
遺骨の分析して1780年前頃の物だと結果出てる
>>940 おまいは系図もなしに自分の5代上の爺さんの名前を言えたり
その爺さんの子孫を全員知ってたりするの?
そんなわけないだろう
文字資料がなければ血統や系譜の確認なんてできない
日本も戦国時代にまでなれば武家やある程度の家にはみんな家系図があるから
他のいくつかの系図を対照することで嘘かどうかは見分けがつくけど
誰も家系図なんてもっていない、婚姻制度もととのっていない時代に
村の古老の記憶や口伝だけで5世代間もの血統の確認がとれるわけないだろ
>>946 文字がなければ身分制度はできないと言ってるに等しい暴論だぞ。それ
>>947 意味不明
サル山のサルは血統で判断して身分制度を作っているのか?
違うだろ
現実に能力や富の差があれば身分の差は生まれる
>>946 たとえば、室町時代の足利将軍家と一門(畠山とか細川とか斯波とか)の関係といったものは、
必ずしも「文字」によって結びついているわけでは無くて、
過去から未来へ、家人なども含めて実際の人間同士が築く社会関係の中で持続していっているのだよ。
たとえばそんな「足利王権」の中に、足利将軍家の五世孫を名乗って、信長や家康が入り込めるかっていうと、
それは疑問だろうってこと。
で5世紀後半とかを見てみると、決してヤマトと近江は没交渉だったわけではなくて、
近江の古墳の埴輪なんかには畿内の技術供与が見て取れるわけ。
でさらに、近江や越が、尾張と繋がりをもっているとか、
後世継体が宮を置いた淀川・木津川流域の遺跡にも、継体朝に特徴的な遺物が見つかるとか、
摂津三島の太田茶臼山と今城塚の間には100年近くの時期差があるとか、
記紀等の伝承が後世に創作された、などとはとても思えない状況で、
なんで継体の父系ばかりをそんなに一生懸命になって疑うのか、
よう分からんなあ、ってことなんですわ。
>>949ですけど、
ちなみに私の祖父・祖母の葬式には、
祖父の母、さらに祖母(つまり私の曽祖母や高祖母)の実家の当主が来ました。
その子孫とまでは親戚づきあいしてないし、ハッキリ言って知らないですが、
何かの機会に一族としての付き合いがあるとなれば、
そりゃあ普通に交際出来るんじゃないですかね。
で、そんな場合一々家系図だの文字による書き付けだのなんてのは、
必要ないと思うんですよ。実際、高祖母・曽祖母実家の当主の方のことを、
「書き付けて残す」ことなんかしなかったし。
>たとえばそんな「足利王権」の中に、足利将軍家の五世孫を名乗って、信長や家康が入り込めるかっていうと、
>それは疑問だろうってこと。
何でそこまで理解できてるのに継体天皇の血統に全く疑問を感じないのかが不思議
理解が出来ていないから、継体天皇の出自に難癖つける発想が抱ける。
社会にもよるけど近代以前の血統や家の価値は今とは比較にならないほど重い
男子直系が絶えれば女系や男系傍流から、近くに該当者が居なければ
遠くの親戚から引っ張ってくるのは、特に封建的だった日本やモンゴル、トルコ、西欧ではよく起きたこと
ん? どういうこと?
私は、信長や家康が足利五世孫を騙って足利王権に入り込めないように、
継体が応神五世孫を騙って(つまり詐称して)は、ヤマト王権には入り込めなかったろう、
すなわち、継体がヤマト王権の伝統を引き継いでいる以上、真に応神系の末裔だったのだろう、
って言ってるんだよ?
>社会にもよるけど近代以前の血統や家の価値は今とは比較にならないほど重い
>男子直系が絶えれば女系や男系傍流から、近くに該当者が居なければ
>遠くの親戚から引っ張ってくるのは、特に封建的だった日本やモンゴル、トルコ、西欧ではよく起きたこと
継体天皇の時代もそうだったというのは飛躍してないか?
>>949 系図も家臣団も古墳時代よりははるかに整っていた戦国時代すら秀吉が藤原氏になりその親類が有力豪族の後取りになりましたが何か?
後代の文字資料によれば古墳時代は頻繁に諸豪族が通婚していたし、身分制度なんて確立していなかったから権力者の入れ替わりもあっただろう
そんなややこしい状態でも口伝という記憶と表現力だけがたよりの伝言ゲームでしかものごとを伝えられないわけだ
当然、5代100年もすれば3次4次の資料しか無いし、さらにその数百年後の記紀編纂時には10次資料でもまだ良い方
その情報を疑うことなく正しいなんて言うのはもはや科学ではなく信仰
とりあえず自分でもどっかの名士の家系でも良いから5世代の家系図を完璧に仕上げてみたら?
今の時代ですらそうとう困難なことが解るだろう。
伝言ゲームでできるような仕事じゃない
>>956 天皇家は兄弟相続と長子相続の変遷はあっても
代々直系男子による相続を続けてきたのだから、血統や家が大きな価値を持っていたのは明らかで
何ら飛躍していない、むしろ無理な否定の方が破綻している、妄想。
>>957 文字を持たなかった時代の遊牧民の伝承というのは
口伝だけで数世紀以上に渡って実によく残っているよ。
周辺文明の文字記録と合致する言い伝えが十数世代を経てもそのまま残る
>>958 武烈天皇は25代目
応神天皇から数えると11代目
「血統や家の価値は今とは比較にならないほど重い」
「特に封建的だった」
とまで言い切るには説得力不足
>>958 日本の場合、その文字を持つ周辺国の記録に合致する事実というのが極めて曖昧じゃないか
推古天皇の時代に男性名で国書を送っているぐらいだからな
モンゴルにしたって各部族の出自にはっきりしたことが言えるのかい?
チンギスハンの長男が本当にチンギスハンの子かも分からない有り様なのに
次にお前は「支那の歴史書はいい加減だから」と書き込む
>>949だけど、
勘違いされてるかもしれないけど、私は「継体朝に文字記録はあった」派だよ。
継体朝の特徴的な親族関係や由緒地がよく伝わっていて、考古成果とも相反しないことからもね。
戦国時代と古墳時代は文字の差から系譜詐称のリスクが全然違う、なんて意見があるから、
いや基本人と人との関係性という意味では同じですよ、と書いたまで。
で、あなたの持ちだす例は必ずおかしいところがあって、
例えば秀吉が藤原氏になり、親類が有力豪族の跡取りになったってのは、
いわゆるここで言っているような「子孫を詐称しての乗っ取り」なのか?
家の乗っ取りと猶子・養子関係を混同するのこそ、時代背景を取り違えている。
それにあなた自身が言ってるじゃん。「とりあえず自分でもどっかの名士の家系でも良いから
5世代の家系図を完璧に仕上げてみたら? 今の時代ですらそうとう困難なことが解るだろう」
だから継体は当時、大王家の末裔として認識されてたってことさ。
猶子だの養子だのみたいな話だったなら、五世孫なんてめんどくさいことしないで、親子関係にしちゃうよ。
(秀吉とかその親類とかの例もそうだろう?)
今日は出かけるのでまた後刻。
>>961 ある意味中国の書はいい加減だよ。
信長は関白だし、秀吉は薩摩の奴出身で関白を詐称したし、
義満は良懐国王下の将軍だから。
>>962 「議論」をするつもりなら待ってるが
ここまであんたのやって来たことは万世一系の「布教」だ
966 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 12:40:41.05
>>946 昔どころか昭和40年代まで、本家に出産や結婚の挨拶に行くなど日常茶飯事だった。当然、一々家系図と突き合わせたりしなくても本家では挨拶に来たのが誰なのか把握してる。
そんな中に偽物が入り込めるかね?
継体帝の前4代がそれなりに大王家と親戚付き合いしてたという史料があれば納得できる
968 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:22:58.71
日本に文字がないのは、どこの村にもすべての出来事を記憶する稗田阿礼 のような人間レコーダーがいたからではないのか?
文字にすると正しく伝わらないし、代々口伝で引き継ぐものがいたのだろう。
だから石碑も家計図も必要なかったのだ。
969 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 14:53:59.54
>>967 継体の曽祖父の姉妹が允恭天皇の皇后となって安康、雄略帝の母となっているだろうが。
病弱を理由に即位を渋る允恭を必死で説得したというエピソードが伝えられている。
継体の一族は、皇后を出せる家格で、決して地方に引っ込んで忘れ去られた存在ではなかったんだよ。
970 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 15:09:11.09
あまりに古くて確認のしようが無いことに、なぜそんなに尖がって言い合いをしてるんだ?。君らの議論はまったく論証が無いだろう。水掛け論だ。
もっと資料や確証を探して来い。
971 :
967:2012/02/12(日) 15:59:46.24
>>969 それは知らなかったthx
でもその後は?
>>971 十分過ぎる縁戚関係の証拠だな
否定したいなら飛躍だらけの妄想じゃなく取るに足る論拠出せ論拠
>十分過ぎる
ここ突っ込まれることくらいは予想した方がいい
>>969 允恭天皇はそこそこ長生きだったにもかかわらず(77歳で没)
生涯皇后大忍大中姫ただ一人しか妃を持たず(ごく一時期皇后の妹を妾にしたが捨てている)
このたった一人の妃から安康・雄略を含む9人の子を産ませている
実際には複数の側室がいた可能性のほうが高い
すべて大中姫の腹だという保証はないよ
975 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 18:41:12.43
外戚として権力を持っていたことが父系の証明になるとは始めて知ったw
継体家は大王家に妃をだし、尾張氏の嫁をもらう家柄だよ
それで分かるのは全盛期の葛城氏に匹敵する大豪族ってこと
情勢次第では武力で天下を取れるし、諸豪族に盟主と仰がれるにも足るだけの大勢力だったんだろうね
大王家の分家であろうがなかろうが
5世紀に皇后はなかっただろうね。
978 :
昭和:2012/02/12(日) 19:25:48.63
くだらないぞ!
宮内庁関係者ども
もっと
面白い話をして呉れよw
見えない敵と戦われてもな…
>>976 実際、従う部民の数とか、遺跡から推測される規模とか考えてみると
大豪族であることは間違いないよね
>>964 今帰ったよ。
万世一系というのが何を指してるのかにもよるが、
そう言われればそうとも言えるし、そうでないとも言える。
スレ違いになるので詳しくは述べないが、私は箸墓以降(3世紀後半以降)の古墳時代は、
いわゆる大王家(のちの天皇家)が存在し、その一族の間で大王位が継承されてきたとは考えている。
そう言う意味では万世一系論者と言えるかな。
しかし、プレ箸墓期の前期纏向政権やそれ以前のヤマト、
いわんや弥生時代中・後期の北九州や出雲・吉備・東海・近江などの有力なクニや勢力、
こうしたものはのちの大王家・天皇家とは関係ないと考えている。
そういう意味では万世一系論者ではない。
ただね、「布教」はしてないよw
考古の成果と文献の読み、他事例との比較、その当時の人たちの立場に身を置いてみる、
こんなことから、自分なりに古代史を追究してるだけ。
じゃあ明日早いんで、お休み。
>>976 尾張氏なんて采女クラスの地方豪族の娘だろ
そんな媛を「元妻」として長年正室扱いしていること自体
継体はただの地方豪族
982 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 14:35:44.00
尾張氏は古墳時代は葛城氏や継体、飛鳥時代は蘇我氏や天武と常に各時代の勝者についていた豪族だぞ
つまりは尾張氏が味方につくかどうかで天下のすうせいが変わったってことだ
>>982 葛城や蘇我氏は大王家と対立して滅ぼされてるじゃんw
984 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 17:25:50.46
どちらも一時期随一の権勢を手にしていたわけで
大王家では尾張氏の娘が大后に立ったこともなければ
尾張氏を外戚とする大王が出たのも継体に続く2皇子だけで
すぐに欽明の皇統に代えられてしまっている
つまり尾張氏の正妃をもつことが大王に匹敵する地位だとは思えんな
大王家に妃を出すだけなら吉備氏や日向氏だってやっている
息長氏の娘が大王家に嫁いでいても大した問題ではない
986 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:19:04.45
>>974 何とも微妙だな。
享年77歳というのは古代でもあり得る(アウグストゥスと同じ)けど、子供9人産む女性だって実在する(マリア=テレジアは16人産んだ)。
それは決め手にならないね。
というか古今東西において子供9人を生んだ女性なんて山ほどいるし(少子化の進んだ現代日本ですら一定数存在するだろう)
一夫多妻が常識の社会に於いても一夫一妻を通す王侯なんて歴史をたどれば何人も見つかる
ただ側室がいなかったという根拠としては不完全
側室がいたという根拠が無い以上、側室がいないという記述に問題点がなければ側室がいなかったと言うしかない
それそこ側室がいたソース出せで終わる
で、その側室とやらはどこの誰かね?
子が9人もいながら武烈の代で絶えたというのも妙な話だな
藤原四兄弟全滅どころの騒ぎじゃないな
まあ何の証拠もないから「奇妙だ」と思う以上何もできないんだけど
ただ、武烈に暴君エピ付けてる辺り、記紀編纂者たちの感覚では
継体の相続には相当な抵抗感があったのだろう
9人全員男ということはまず無いし
女の割合や夭折も考慮する必要があるだろうが
その後男系全滅となると首をひねらざると得ない
994 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 12:05:31.79
>>990 同時代の他の大王(仁徳や雄略など)は大勢の側室がいるのに
允恭一人だけが側室不在だからだろ
摂関全盛期の後一条天皇が一夫一妻を貫いたのすら奇異なこととされて
頼通を出し抜いて教通が強引に娘を勧めたりしたのに(実現しなかったが)
なぜ允恭が一夫一妻を貫いたのか理由が書かれていない
>>991-993 允恭には皇子5人がおり、その内2人(安康、雄略)が即位。
その他3人は子孫の記録なし。ただし3人とも政争等で死んでいるため、子孫がいたとしても殺されている可能性が高い。
さらに安康は子がいなかったため、允恭の男系子孫としては雄略の子孫のみが残存。それが絶えたらお終い。履中系へと皇位は移った。
996 :
991:
そうだ武烈天皇は允恭天皇の男系子孫じゃないんだった
その点はアホなこと言ってしまった