1 :
日本@名無史さん:
来年の大河ドラマも平清盛だしこの際語って行きましょう(^-^)/
清盛の父さんって結局誰なんですか??
3 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 16:12:40.15
平忠正
白河落胤説には与しない。院にまいないを贈る見返りに
落胤説を吹聴することを黙認されていたのだろう。
事実平家の財力が無ければ、院の政治も続かないからだ。
当時の河内源氏の力は弱い。
別スレから誘導されてきました。
来年の大河に備えて源平モノの本読んでいるのですが、
保元・平治の乱に対する河内氏と元木氏の説について興味をもちました。
素人で判断できないのですが、学界的にはどちらが妥当とみなされているのでしょうか。
6 :
日本@名無史さん:2011/10/11(火) 18:00:59.45
>2
実父平忠正、養父白河法皇だろうな
清盛が白河法皇寵妃祇園女御に養育されたのは事実らしい
清盛ナンドガヘロヘロ矢ハ何事カ候ベキ
来年は盛り上がる
>>3>>6 平忠正が実父ってネタじゃなくてマジですか?
実父を自らの手で処刑って・・・・・・
軍神清盛公
大輪田泊
忠正が実父というのは間違いだろうけど、源義朝は父親の為義を処刑
しているね。
14 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 20:54:53.53
白河法皇ご落胤説は、同時代史料にはない。
ただ、来年大河ドラマは、白河ご落胤との設定でやるらしい。
清盛母は、不詳。強いて言えば白河の祇園女御の妹。
15 :
会員の皆様へ緊急連絡:2011/10/25(火) 21:49:19.05
緊急連絡!!
緊急連絡!!
会員の方は直ちに近隣の文化会館…平和会館へ集合!!
緊急連絡!!
緊急連絡!!
会員の方は直ちに近隣の文化会館…平和会館へ集合!!
繰り返す!!
緊急連絡!!
緊急連絡!!
会員の方は直ちに近隣の文化会館…平和会館へ集合!!
繰り返す!!
緊急連絡!!
緊急連絡!!
会員の方は直ちに近隣の文化会館…平和会館へ集合!!
尚会館ないで先生のご健康に関しての重大発表があると思われますが、絶対に他言無用の事。
会員の皆様は以上の件につき拡散願います。
以上です。
本日は大変ご苦労様でした!!
平家恨民族史
源氏恨民族史
平家落人伝説
そういえば平家みちよどうしてるんだ?
21 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 05:03:48.73
マツケンの棒セリフと、女脚本家のオナニー大河ももうすぐだね。
22 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 10:38:18.63
来年の大河の脚本家は男だよ
23 :
帝徒:2011/11/09(水) 11:23:55.44
平清盛は源頼朝の父。源平合戦は親子喧嘩が派手だから。中臣鎌足の嘘っぱち! 中臣鎌足は豊臣秀吉の事。藤原鎌足と言う呼び名は無かった。鎌足は凋山人。崋月出身の戒である。
25 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 19:30:02.05
五味文彦の「平清盛」と元木泰雄の「平清盛の闘い」の二冊を読んだ。
両著を比較すると色々違う部分があるけど、共通してるのは
清盛は、父祖からの政治的な遺産を引き継ぎ、気配り上手で時流に乗って
権力を握ったのであって、決して積極的に権力を取りにいくタイプの
人間ではなかったという事。
ちょっとがっかりだなあ。来年の大河見る気しなくなったわ。w
26 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:52:11.44
>>25 保元平治の乱で有力者がバタバタ倒れ(頼長、信西、信頼、経宗、惟方)
生き残った有力者が平治の乱の直後に自然死(美福門院、忠通、公教)
というラッキーな部分もあったしね。
ただ二条vs後白河とか複雑な政争を渡り歩いたり、
やっかいな寺社勢力とも渡り合ったりと清盛もそれなりの政界遊泳術をもっていたんじゃないかな?
人の意見で左右されるのかw
確かに最初からラディカルにがんがんいったわけではない
だが、ただ既存の枠内で世渡り上手で権力にぎったわけでもない
かなり型破りではあった
28 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:04:43.16
>かなり型破りではあった
どこが?
宗教勢力をけんかしたこととか
30 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:45:26.19
清盛は宗教勢力とは出来るだけ摩擦を避けてたらしい
後白河の方が比叡山攻撃に積極的だったとか
制度が整った鎌倉時代になると、いうこときかん興福寺を屈服させるために
大和に守護地頭をおいて糧道を封鎖してぎゅうぎゅうとしめあげた
たまらず興福寺がおとなしくなると、すぐ元にもどした
いうこときかん南都をやってしまえーとやったのは当時は清盛ぐらいだ
平家は桓武=半島の子孫。=弥生系
源氏=清和とは言われるが実際は東国の東夷=縄文系
日本の精神は東国縄文にある。
33 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 02:09:53.44
懲らしめる程度で焼き打ちまでは考えてなかったらしい。
折からの強風で南都が全焼し清盛は驚いたんだって。
ハプニングなんだよ。
清盛と後白河の対立も後白河の意固地な性格が災いしているようだし。
大河ドラマはまあ、あれでしょ。
有名な歴史上の人物はあらかたやりつくしたんでその妻とかその敵とかそんなに凄くない人を凄い人だったようにドラマで祭り上げるってやつ。
今年の江もそんなんだったよね。
>>33 強風なのに放火したら町が全焼しちゃってビックリしました
って政治家っぽい言い訳にすぎないのではないか。
それがどうしたと開き直らないところが一筋縄ではいかず却ってやっかい。
36 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 16:20:59.27
>>33 九条兼実の「玉葉」には平家に武力対抗した興福寺に対して
「暴徒取り締まりのために坊舎を焼き払う」という記述があるよ。
始めから坊舎(興福寺僧兵たちの住まい)を焼き払うことが目的であって
松明を寺に向かって一本二本投げ入れたという程度の「脅し」などではない。
37 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 20:16:11.91
「坊舎」って反平家行動をしてる坊さんが住んでる家のこと。
敵の家を焼き払うのは合戦の常道。
清盛は金堂や講堂や大仏殿まで焼き払えとは命じていない。
家なんて焼いたってたいしたことないよね
それこそ糧道をたつぐらいのことはしないと
火をつけるのは家の中に隠れてる敵を焼き殺すためじゃないの?
40 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 20:42:39.98
というか、武士や僧兵の家には刀・矢・弓などが
沢山ストックされてるからそれを使えなくするため焼き払うらしい。
武器は消耗品だからね。
いくら焼いたってまた補充すればいいだけ
つまり効果が薄くて目立つという意味以外はない
だからあまり効率的な手段とはいえん
42 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 21:51:23.04
補充し直す前に潰すだげ
だから合戦してるわけじゃないんだからそういう戦略は無駄なんだよ
44 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 22:22:07.55
清盛は保元の乱以前にも戦の経験はあるのでしょうか?
45 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 22:43:25.48
>>41 そんなに簡単に補充できないよ
工場で大量生産してるわけじゃないし
46 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 22:49:11.31
武士が敵の家に攻め込んで火をかけずに帰ってきたら切腹もの
現代にたとえれば
清盛はTPP賛成派
鎌倉武士は反対派
清盛の死因は外国の病気に感染したせいだろう。貿易立国も大変だ。
>>48 え?
鎌倉武士は清盛以上に中国大好きですが・・・。
鎌倉は銭も陶磁器も絵画も仏像も中国からの舶来品でいっぱいですが。
>>44 鎮西八郎に清盛なんか敵にならんとか言われて実際戦ったら簡単に郎党がやられて
怖気づいて北門に進路変えたくらいなんだから大した経験してないでしょ。
実のところ清盛が出世する前から都武士化してて戦に弱い。
北条氏は港をしっかりおさえて交易してたからな
あの時代に海の感覚や海外貿易の感覚ないやつなんてまじに田舎もんぐらいだ
平家の武士は消して弱いと言うわけではないようだ・・・。
ただ、源氏と違って平家は清盛と主従関係を結ぶような広範囲な御家人体制を
作ってないから、小規模な反乱の時はまず清盛直属の家臣団を投入して
敵を粉砕し、そのあとに朝廷の命令で動員したあまり戦意の無い駆り武者が
敵を制圧するというシステムだったらしい。
だから頼朝が作った御家人体制よる大規模な動員力には歯が立たなかったようだ。
宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、
ウキアガリウキアガリシテ、
イカント思フ心ツキニケリ。
サテイケドリニセラレヌ。
(『愚管抄』)
55 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 22:30:03.05
松山じゃ期待できんけどw
56 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 14:52:45.99
田中文英著 平氏政権の研究(思文閣史学叢書)を読み終わった。
正直言って清盛って退屈な人間だね。優等生タイプなんだな。
戦前は朝廷に反逆した極悪非道の人間とか言われたようだが、そのほうが個性的でいいね。
戦後の研究では極悪非道ではなく普通の優等生的な人間だったという学説が主流になったようだ。
NHK大河の予告では海賊王とか言ってるが、本当は180度対極の人間じゃん。w
頼朝や尊氏のようなダイナミズムはまるでない。
逆説的に言えば清盛はスケールの小い人間だから朝廷内部であそこまで出世できたわけだが。
清盛は一言で言って出世するサラリーマンタイプの人間だな。
>>56 清盛
祖父、父が築いた地盤を引き継いで出世。
保元、平治&自然死で有力者たつが勝手に退場して自然に主導権握るようになる。
ただし複雑怪奇な政局を泳ぎ切って、軍事権を独占。
頼朝
流人スタート。挙兵後しばらく反乱軍扱い。
マイナスからのスタートで鎌倉政権樹立&軍事警察権獲得。
タイプ違うね。
てか
よく人の書いた文献読んだだけでえらそーに判断できるよね
自分ならそんなこととうていできん
自分の目で史料を読むな
59 :
日本@名無史さん:2011/11/26(土) 22:55:37.56
>>58 56ですが、、、ただ今玉葉読書中。
読み終わったら感想書きます。
一応その次は明月記を予定してます。
平家物語は以前読んだからパスします。
要するに清盛は世渡り上手
61 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 18:25:27.61
清盛の家庭環境は複雑だよな。父・忠盛存命中は正室の子・家盛と家督を争ってるし、
家盛の死後は弟・頼盛と終生複雑な関係だし、義弟・時忠ともなんかなあ・・・。
ところで清盛の実母って結局誰なのかな?祇園女御?またはその妹か?
実父は忠盛なのか白河法皇なのか?
62 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 08:19:33.02
>>61 清盛の母が白河寵妃祇園女御で白河の落胤だというのは
鎌倉時代成立の「平家物語」にあることで同時代史料にはない。
ちなみに、祇園女御は白河没後も法皇の法要を行っており、
平家物語にあるように平忠盛に下げ渡され妻になっていたとは考えられないことから
清盛の母が祇園女御である可能性は現在では否定されている。
尚、「中右記」に忠盛室が清盛2歳の時に死亡している記事があり、
清盛が忠盛嫡男であったことと考え合わせてこの時没した室が清盛母だと考えられている。
このとき没した忠盛室の出自については中右記には記載がないが、
滋賀県「胡宮神社」の古文書によれば祇園女御の妹と書かれてあるそうだ。
ちなみに宗子(後の池禅尼)はそれ以降に迎えられた忠盛の後室。
63 :
日本@名無史さん:2011/12/05(月) 14:38:39.13
関連ムック本でオススメ教えてくれ。
数ありすぎてわかんね。
64 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 02:07:02.09
>>56 清盛は四方、海に囲まれた日本を経済力のある海洋国家にしたかっただけ。
農耕民族の田舎者が知ったかぶりするなwwww
65 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 08:43:19.07
あ
>>64 お前典型的な、俗悪ビジネス歴史書に洗脳されたタイプだな。お大事に。
67 :
日本@名無史さん:2011/12/06(火) 13:22:19.31
清盛の落胤説とかって、
実は始皇帝あたりがネタ元だったりして
>清盛は日本を経済力のある海洋国家にしたかった
初めて聞いた
福原遷都と絡めてよく言われてるだろ。
海洋国家を目指すんだったら博多に遷都しろよ w
清盛さんには後白河院というライバルがいた。これが清盛さんの最大の不幸だったと思う。
清盛どころか平氏にとって最大の不幸だったな。
後白河院の利権に手出ししたことが平氏没落の原因。
>>71 ライバルどころか後白河は当初、清盛最大の理解者で政治のパートナー。
後白河がいなければ清盛は太政大臣になることも徳子を入内させることもできなかった。
清盛が、後白河政権を形作る重臣の一人という枠を飛び出して、
摂家の所領を搾取したりとオンリーワンになろうとしたことで
後白河からの大きな雷が落ちることになった。
74 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 11:41:04.13
治承以前の清盛は八方美人でだれとも仲良し。
治承に入ったころから巨大化した平家を後白河が目障りだからとつぶし始め、
逆上した清盛がクーデター。単純すぎて笑える。清盛はたいした人間ではないよ。w
75 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 14:54:09.86
お前の発想が単純すぎて笑えるw
クズにかかるとどんなものも大したものじゃなくなるっていう見本だなw
故重盛が20年来保ってきた越前国の受領の地位も没収されて、
流石に清盛も怒って洛中に武者を繰り出した。
77 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 17:58:37.48
まんまと後白河の挑発にのってしまった
ホンマ清盛は馬鹿な男よなあ
78 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 18:30:09.41
>>77 清盛存命中は後白河に勝ってたんだけどね。
後白河を幽閉して院政を停止し、
孫の安徳天皇を即位させ娘婿高倉天皇に院政を執らせている。
79 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 19:05:11.58
後白河に追い詰められてからだからな。
やることが全て後手に回ってる。
80 :
日本@名無史さん:2011/12/07(水) 20:12:30.69
>>73 あれは松殿・九条から近衛を保護する為では?
平家ペルシャ説はどうなった?
鼻で笑ってやれ
83 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 17:46:35.39
>>80 松殿は平家を西国へ追って入京した木曽義仲が立てた関白。
九条は木曽義仲を追った源頼朝が立てた関白。
本来、近衛が長男系であり、松殿、九条は傍流。
松殿も九条もいずれも近衛の弟であり、本来摂関になるはずがない連中だったよ。
84 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 17:49:06.85
「摂関家領をかすめ取るいい方法がありますよ」と清盛に入れ知恵した藤原一族がいる
清盛はへろへろ矢の優男
86 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 18:31:53.48
清盛は娘が大勢いたから摂関家がやってきた外戚政策を踏襲した
天皇家に娘を嫁がせ天皇の外戚になることは勿論
摂関家にも娘を嫁がせ摂関家の外戚にもなってしまおうとした
ただし清盛にとって予定外だったのは
娘婿の高倉天皇・近衛基実がいずれも若死にだったことだ
本来ならばこの清盛の義理の息子たちが平氏の親者として
もっと平氏のために動いてくれる予定だった
87 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 21:57:04.77
清盛には「武家政権をつくろう」という構想はなかった。
ただ、なんとなく権力が転がり込んできただけ。
政治家としては二流だね
88 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:16:58.95
>>83 近衛流は謀反人の甥だからな
清盛を善人視するのも賛同しかねるが基通の立場は叔父に摂関取られる危険はあった
89 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 09:38:02.62
>>87 お前が会社でどんな窓際に追い込まれどんな愚痴を言ってるか
ありありと目に浮かぶなww
佐殿でさえ娘を入内させようとしたんだ。
それ以前に政権を担った清盛が朝廷べったり
なのは仕方のないこと。
91 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 10:15:14.71
>>90 源頼朝、足利尊氏、徳川家康、
幕府初代は武家でありながら全員天皇に娘や孫娘を入内させようとしているな。
まあ、源頼朝と足利尊氏は娘早世で実現しなかったが。
佐殿の怪死は朝廷にすり寄ろうとして御家人の反感を買ったからという説もある。
清盛の政治は現代の象徴天皇制を目指していたのではないか?後白河が食えない奴で手に負えなかったのが誤算。
後は清盛の生年が意外と早く崇徳と同年。せめてもう10年の時か後継者があれば。
清盛の最大の失策は後継者を用意できなかったことだ。
93 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 16:33:26.07
>>92 東国武士たちは頼朝を「都から来た貴種」ということで崇めたからそれはない。
東国武士たちが朝廷を嫌ったならば、土豪か何かを将軍と呼んで崇めてればよかった。
頼朝自身はさほど高官に上っていないし、娘の入内も頼朝自身は鎌倉から号令かけているだけで
都に上り後白河寵愛の丹後局に逢って根回しに奔走したのは専ら妻の北条政子のほうだった。
清盛が象徴天皇制を目指したなら、自分の女系の孫である安徳天皇を即位させる意味もない。
>後継者を用意できかった
意味不明。頼朝と違い、清盛は子供の数だけは異常に多かった。
94 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 16:56:45.13
清盛が素晴らしい政治家だなんて言うは
鳩山や菅が素晴らしい政治家だと言うのと同じ
95 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 17:02:40.71
>>94 鳩ぽっぽは世襲だろ。
祖父が内閣総理大臣、父も衆議院議員。
清盛が親の代より破格の出世をしたことは事実だからそれは違う。
長文で嬉しそうに書き込んでる人が居るけど
普通にありふれた知識を並べてるだけのような・・・
97 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 14:43:40.17
平家御家人てどんなんいる
上総介忠清
源大夫判官季貞
伊豆の在庁官人北条時政
>>98 北条は平氏を自称してたけどただの土豪だろ
>>99 その自称土豪に佐殿を監視する重大な役目を与えるとは思えん。
>>100 北条頼政が源頼朝監視の命を受けたわけじゃないよ
頼朝の監視役を命じられたのは伊豆の目代山木兼隆だろ
だいたい北条は朝廷の何の役職にもついてないだろ
102 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 14:26:59.15
山木兼隆が伊豆に来たのは頼朝の旗揚げの一年前だと思うが
>>102 頼朝が流されたときの伊豆目代が史料がなくて分からん。
ちなみに、頼朝挙兵時、伊豆国司は平時兼(清盛の妻従二位平時子の兄時忠の養子)であり、
現地に赴任しない時兼に代わって伊豆を統治していたのが目代の山木兼隆だった。
この時代の国司は遙任が多くて自分は都にいて目代を派遣しているのが多い。
しかしまあ、頼朝が流されたときの伊豆国司や伊豆目代が北条時政でないことは確か。
104 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:23:42.79
とりあえず中央は頼朝を伊豆国に流刑することだけ決めて、
監視人や配所などの詳細は国府で決めたのではないだろうか。
105 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 17:29:56.55
>>83 この頃は嫡男相続が定着しかかった感があるけど
道長はじめ嫡男じゃなかった三男以降が結局嫡流になるケースが
平安中期まで多かったよね。
平清盛をそこまで過小評価する気には、正直なれないけどなあ。
中世武家都市のプロトタイプを作ったのは、実は頼朝ではなく清盛で、これは神戸に行けばよく分かる。
地形の使い方として、鎌倉は、神戸(福原)の完全なコピーに過ぎない。
都市の構造からすれば、中世武家都市の最初は福原(神戸)で、その最終形が静岡(駿府)だろう。
平清盛の痛恨の失敗と言えば、強烈な乾燥化を伴う温暖化が進行していた院政期の日本で、
「一番旱魃に弱い地方に、よりによってつんのめってしまった」ことだろうな。
神戸から岡山や高松にかけては、日本でも有数の乾燥地帯で、ここを拠点とした段階で、政権基盤の弱体化は明らかだった。
「伊豆頼朝」の台頭には、伊豆半島周辺が、有数の多雨地帯であることが背景にある。
東海&南関東の御家人の強さの背景には、院政期の旱魃の影響が僅少に抑えられたことがあるのだろう。
もし、この時代、乾燥化より温暖化が顕著だったら、天下を取ったのは東北平泉だったかもしれないw
107 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 20:50:03.23
>>106 いやいや、清盛晩年は温暖化から寒冷化に変わりつつあったのでは。
鎌倉期は完全に寒冷期に入っている。
ともあれ白河院政末期からは天候不順が続いて慢性的な食糧難に陥っていたという説もある。
108 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 22:19:51.73
>>106 >平清盛をそこまで過小評価する気には、正直なれないけどなあ。
当時の武士は清盛を「過小評価」してたから平家打倒に立ち上がった訳か?
109 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 22:39:25.51
>>106 >伊豆半島周辺が、有数の多雨地帯である
初めて聞いた
110 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 23:01:37.82
>>108 そういう話じゃなくて、清盛は守旧的な宮廷政治家なんかじゃないよということ。
他方、日本史上異端的な商業政権の嚆矢のように語るのも、ずれていると思う。
俺の見解では、平清盛は、
「非常にオーソドックスなタイプの中世武家政権の持つ、さまざまな要素の真の発案・創始者」
と言ったところ。
一般に頼朝や鎌倉政権の創始とされる事柄の、かなりの部分は清盛のプロトタイプであるように見える。
その典型例が都市建設で、鎌倉の地形の使い方は、どうみても福原のコピー。
また、ややスレ違いだが、「頼朝・鎌倉・関東武士!」という発想も、かなりミスリードだ。
頼朝政権は、本来的には東海政権というほうが正確で、関東関東関東というと、かなり話がずれる。
これ、この板で数年前にレスしたら、「関東は一つ!関東武士文化は一体!甲信静岡が関東的なの!!!!!」
と火病られて大変だったw
>>111 頼朝は熱田神宮の宮司の娘を母に持つ。
東海地方にシンパがいるのは当然だと言える。
そういえば義朝終焉の地も尾張だとか。
嫌へども命のほどは生き(壱岐)の守
身の終わり(美濃尾張)をぞ今は賜る
113 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 01:43:12.14
>>111 >鎌倉の地形の使い方は、どうみても福原のコピー
頼朝は福原の地形を知らずに鎌倉に居館を構えたと思うが
114 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 02:14:34.88
レスを見てもやはり平家物語以来の影響の大きさを感じる
実像は情に厚く柔軟性に富んだ人物
晩年は強権的になっていくけど(政敵との対抗上)・・・
>>113 館を定めた先の整備の方向性の話だよ。館を定めただけでは、まだ「都」ではない。
頼朝の場合は、清盛と違って、地の利を冷徹に判断したわけではなく、ゆかりの地を選んだだけだけど、
その後、ほぼ福原と同じ方法論で防御を固めることになる。
家康の江戸もよく似た経緯で、もともと織豊城下町としてふさわしい地を家康が探し当てたのではなく、
秀吉に指定された土地を、大坂や伏見を参考に、京を遠いモチーフにしながら、整備をしたということ。
>>111>>112 富士川の頃には、駿河、遠江は甲斐源氏の武田信義、安田義定、一条忠頼に占拠されてた。
彼らは同盟者であっても最初は頼朝には臣従していたかった。
1184頃木曽義高残党征伐を名目に甲斐、信濃出兵が行われた(by吾妻鏡)
このことどう説明する?
それと当時の用法は
関東 不破の関(岐阜県)より東
坂東 足柄山より東
という意味。
117 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 08:22:55.58
平 忠盛の『忠』の字は、源義家の嫡男、源義忠の由来のようだね。
源義家の弟、義光の画策で、賀茂次郎義綱の系統と、義家の嫡男、義忠が謀殺されてしまったけど、義忠は、平正盛と縁戚関係を結んでいて、河内源氏のなかで更に頭一つ抜きん出た存在になろうとしてたようだ。
義忠の子孫は、一部が平家の家の子化して、平家と命運を共にしている。
118 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 11:32:44.18
源義忠は平忠盛の姉の夫、すなわち義兄で、忠盛の烏帽子親を勤めているからだろ
平安時代には母系や妻の親族系も重視されていたから
父系だけを見て平氏、源氏の区分だけで説明できない部分がある
119 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 16:38:03.83
上の源大夫判官季貞のことっすな
120 :
日本@名無史さん:2011/12/14(水) 21:03:22.78
>>111 >非常にオーソドックスなタイプの中世武家政権の持つ、さまざまな要素の真の発案・創始者
だったら何故多くの武士達は平家に味方しなかったんだ?
>>116 武田氏と頼朝の関係は、文献を読む限り、成り行きの結果の「ボタンの掛け違い」のようなところがあったように見える。
頼朝は、どうやら本当に性格が猜疑的というか、了見の狭いところがあったようで、
こういう牽制や場合によっては粛正はあちこちでみられる。
ただ、武田氏に関しては、本貫=茨城説(いまの通説だと思う)との関係が鍵かもしれない。
茨城(ひたちなか)は、今の利根川(古利根川&途中から古鬼怒川)の「向こう側」で、
東海と一体の「関東南西部」とは全く異質の、東北南部に連なる「関東北東部」の典型的地帯。
甲斐源氏は、この時代には、まだこの「北関東(東関東)の気質・統制体質」をそのまま山梨に持ち込んでいて、
東海的な伊豆の頼朝とは、そりが合わなかった可能性がある。
この「関東平野は、真ん中の大湿地で分断された2つの別々の地方からなる」というのが、俺の立論の根幹なんだけどね。
122 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 04:39:17.90
義光流の甲斐、常陸源氏と、義家→(義忠)→為義の系統は、義光の義忠の暗殺の件があるから、同じ源氏というより、遺恨ある近くて憎い近親者だよ。頼朝の代だとある程度は憎しみも薄まって、御門葉として幕府に組み込んだんだろうが。
治承、寿永の乱の頃は、甲斐(武田、安田)常陸(佐竹)なんて頼朝の出方次第では、取って変わろうとしただろうし、
佐竹は実際下野や下総の豪族から危険視されて、頼朝の判断もあり一度討たれてるし。
源氏の場合は、単純に同族だから討つのは了見が狭いとは言えないよ。
源義国(義家の息子、足利、新田の祖)も、常陸在住だった義光と直接合戦を起こして、勅勘被ってる遺恨の相手だし。
義家の系統と、義光の子孫は、一筋縄で源氏でくくってはいけない。
>>121 治承寿永の頃の東国の状況は、戦国時代における
武田、北条、今川、上杉の関係に似ている。
版図が少しずれるけど
頼朝=小田原北条氏(南坂東)
義仲=武田氏(信濃部分)+上杉氏(越後、北坂東)
甲斐源氏=武田氏(甲斐部部分)+今川氏(東海三国)
となる。
無論時代も違うし、戦国時代と違って家臣統制が利いていたわけではないから
同一には語りきれないけど
頼朝が最初からの東国の盟主だったわけではなく、同レベルの武家棟梁が存在していて
頼朝はその武家棟梁の一つに過ぎなかったというわけ。少しだけ他よりは有利な条件だったけど。
小田原北条氏が猜疑心やボタンの掛け違えで今川氏を討つかね。
東海地方に頼朝の勢力が全く及ばなかったとは言わないけど
甲斐源氏は同盟者であると同時にいつでも敵になったり
自勢力下にある御家人を切り崩してしまうかもしれない危険な存在でもあった
甲斐源氏の方が東海においては有力だった。
そういった状況で頼朝の本質が東海政権だったと本当に言えるのかな?
小田原北条氏の本質が東海戦国大名だったといっているのと同じことになるよ。
124 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 13:07:10.84
義親流と義忠流は別に考えるべきでは
125 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 19:18:59.08
「平清盛」出演確実! 新キャストに生田斗真、中山優馬ら
今回、生田が演じるのは松山ケンイチ演じる主人公・平清盛と加藤あい演じる
高階明子との間に産まれる嫡男・重盛。清盛に後継者と認められ平家一門にお
いて重要な役割を担う重盛は清盛の生涯を描く上で不可欠である。
また源義経を演じるのは中山優馬。重盛の嫡男・維盛には中島健人。
126 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 19:24:31.37
>>122>>123 うむ。反論?を試みたいのだが、ネタが、俺の「頼朝東海政権説」と、ほぼ完全にモロ被りなので、
逆に悩んでしまう。それらの話こそが、関東の分断性、頼朝政権の「東海体質」を示していると俺は解するんだけどね。
まず、反論らしき所から。近親憎悪だったのを、時の経過とともに「許した」という話なんだけど、
そう理解すると、逆に頼朝はフラフラと甲斐源氏を、「信任しすぎ」の時があるように見えやしないかい?
常にではなく、時々ということだけど。変なムラがあるんだよ。
駿河守護に据えてしまうなんて、父祖の敵ならばおよそあり得ない。駿河は伊豆の隣国にして、交通のボトルネックだからね。
こういう時は、大抵は「個人的な気分の問題が大きい」とするのが、一番当たっている。
あと、ここからがモロ被りの本論なんだけど、
戦国時代の、後北条・今川・武田・長尾(上杉)の関係の比喩は、まさに今回の源氏政権の成立でも用いたいところ。
俺に言わせれば、後北条は、「東海勢力そのもの」なんだ。関東平野の従来の支配者とは、何もかもが全く異質の連中。
むしろ、「より畿内近国的(西日本的)すぎる」という意味で、東海勢とは言いがたいと言えるくらい。
後北条は、完全な「箱根の向こうへの【出張政権】」と言ってもいいもので、
これは、鎌倉幕府、足利政権鎌倉府、堀越公方、後北条氏、徳川氏(江戸幕府)と、何度も何度も繰り返されてきた、
「関東平野南西部に普遍的な支配構造」のひとつの現れとみることも出来る。
(古河公方は、最初は南西側政権だったのに「北東側に追い出された」動きと理解できる。どこか藤原秀郷と似ている。)
で、これがいつ生まれたのかという答えのヒントが、
>>122にあるように思う。
頼朝は、茨城の佐竹と、どうにもそりが合わず(武田の比では無い)、とにかく嫌で嫌で仕方なかった。
そして、栃木や千葉の土着勢力が、時に、頼朝側に付くこともあった。
神奈川と茨城は、武士の組織体質としてハッキリ対照的で、間に中間地帯が挟まっていることが示唆される。
少なくとも12世紀前半には、地域体質としてできあがりつつあったのではないか。
関東の西と東で武士のあり方が違うというのは峰岸純夫以来の定説だろう。
西では三浦党、房総平氏、武蔵七党、秩父平氏などの中小武士団の上に大きな権力が位置し
東では佐竹、小山、宇都宮といった大豪族が割拠した。
鎌倉悪源太義平と義賢の対立はまさに西関東の中小武士団に擁立されたもの同士の対立で
頼朝の挙兵は平家の支配に対抗する伊豆相模上総武蔵の在庁官人系の武士の支持を受けてのものだった。
しかし駿河の場合は武田氏が平家の目代を駆逐して占領しているんで頼朝の地盤になった西南関東とは違うよ。
だから西国の武士は弱かったのか
131 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 21:15:05.16
頼朝と比べたら清盛はクソ
>>129 房総平氏の上総氏は関東でも最大兵力だぞ。
また三浦党や波多野党だって大勢力だ。
そこに挙げている中では武蔵七党だけが小勢力で、むしろ武蔵国勢力の特殊性として学者研究者が挙げているのなら見たことがあるような気がするが。
本当に峰岸氏は関東をそういった具合に東西にスパッと分けて論じているのか?
>>129 その説が共有されているなら安心したよ。
昔俺が書いていたスレを、魚拓化した他サイトにあったので読み返してみたが、
「関東縄文狩猟民武士起源説?」に凝り固まった変な奴が暴れていて、しかも迷物コテも暴れていて、改めてカオスすぎて吹いたw
俺の説自体が、当時とかなり違うので、ここにはそれは転載しない(混乱を招くので)。
ともかく、この時代の話をあまり「領邦領主的」に捉えるのは誤りなんだけど、
駿河と伊豆に関しては、「三島は伊豆、沼津は駿河」という、地理的に繊細な問題がある。
令制伊豆国と、令制駿河国との間には、地理的障壁は全く無い。(まあ経緯からは当然と言えば当然)
伊豆は頼朝&北条氏の真正の根拠地、しかも北条氏の根拠地は伊豆脊梁山塊の西側。
駿河と伊豆は歴史的経緯が別だ、とザックリ言うのは危険すぎる。
>>120 なぜそこでそういう発想が出てくるのか、理解できないね。
そもそも平家に味方した武士たちも大勢いたというのは否定しがたい事実だろ?
で、目の前の利害関係の対立の方が、抽象的な話なんぞよりよほど「敵味方」
を分ける要素として重要なのが通例だろうに。
135 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 22:42:47.51
>>134 >平家に味方した武士たちも大勢いた
敵に回った武士の方がはるかに多かった件
>>127 >駿河守護に据えてしまうなんて、父祖の敵ならばおよそあり得ない
2000年以降出版の学術書読んでる?
駿河守護に据えたというのは「吾妻鏡」の歪曲で
実力で武田信義が駿河を占拠しているのを頼朝が単に黙認していただけ
という見方が最近は有力だよ。
つまり頼朝は武田信義や1180年当時の安田義定を守護には据えていない。
のが本当のところ。
>>128 >頼朝は、茨城の佐竹と、どうにもそりが合わず(武田の比では無い)、とにかく嫌で嫌で仕方なかった。
感情的な問題もさることながら、もっと深刻な問題が頼朝の御家人にあったんだよね。
相馬御厨問題で佐竹氏と揉めていた上総氏や千葉氏がどうしても佐竹氏を放逐したかったんだよね。
佐竹攻めには御家人の利害の問題点が多い。
それから、頼朝の仮想敵でもあった奥州藤原氏と佐竹氏は婚姻関係等で深く繋がっている。
頼朝の佐竹敵視には奥州藤原氏の存在も無視できない。
>>135 平家が不利になった後ではね。
挙兵当初の頼朝と平家方では、お話にならないほど平家方の方が
多かったんだけど。
>>136 そういう話は、まあどっちでもいいんですよ。
問題は、頼朝が駿河国を、武田氏一派に委ねて(黙認含む)しまったということ、それ自体。
これは地政学的な問題で、「太平洋側の糸魚川」である駿河国府(静岡)を塞ぐだけでも、西へのルートは遮断されるし、
駿東郡を塞いでしまったら、半島である伊豆国は、湯河原ルート以外全部塞がれて、一国丸ごとそのまま詰んでしまう。
しかも、駿河>>>伊豆という地政学的関係(いわゆる半島理論)が出来て、直ちに力関係が逆転してしまう。
本当に信頼していないなら、全力で甲府盆地に追い返すはずなのだ。
>>137 細かい話は、もう少し待って欲しい。まずこちらだけ。
>奥州藤原氏と佐竹氏は婚姻関係等で深く繋がって
これは大変に重要な話。関東北東部は、歴史的に東北南部の延長。
平泉から見れば、宮城福島県境より南側は、やや複雑な中間地帯となるが(ただし海道平氏)
同じような状況の地域は、浜通りをそのまま茨城まで続く。
140 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 23:41:42.38
>>138 え?関東・甲斐・信濃・四国・九州はもとより
近江・美濃・尾張まで反乱の火の手が上がってますが
富士川の合戦でも源氏が圧倒的に多数だったんですが
141 :
日本@名無史さん:2011/12/15(木) 23:44:06.35
>>141 ははは。淡々と説明しているだけなんだけど、妄想にみえちゃうんだよねー。
いかに、日本地図の関東平野の緑色の塊と、首都圏の天気予報のテレビ画面が、人を騙しているかということなんだ。
みんな頼朝は「関東平野の政権」だということで、騙されてしまう。
伊豆半島は、東京からの伝統的保養地だから、関東地方のおまけみたいに思っている。
例えば、著名な保養地である修善寺というのが、「関東地方のおまけ」と呼ぶにはどれほど異様なところにあるのか、
ちょっと考えれば分かりそうなものだが…
>>139 >本当に信頼していないなら、全力で甲府盆地に追い返すはずなのだ。
1184年に本当に全力で甲府盆地に追い返しましたよ。
頼朝の実力は実はその頃まで不安定。
一旦追い返した佐竹氏は奥州藤原氏の後援を受けてゲリラ活動を繰り返し
1183年には志田氏と野木山合戦をする始末。
そして常に奥州からの圧力を感じていた状況。
それまで頼朝は甲斐源氏を甲府盆地に追い返したくても追い返す実力も無かった。
それと平家と交戦中だったから、西から責めてくるであろう平氏と対抗するのには
甲斐源氏がいてくれたほうが好都合。
甲斐源氏が戦っていてくれる間に自分の地盤固めができるからね。
それからその間に加賀美遠光、武田信光などを厚遇して甲斐源氏の内部分裂を進めていたしね。
あと安田義定にも接近して武田信義、一条忠頼を孤立させておいた。
一の谷戦いに勝利して平家の脅威がなくなり、
坂東の地固めが済み、甲斐源氏の分裂工作が進んでから
一条忠謀殺、甲斐信濃侵攻を行なって、武田信義を甲斐に封じ込めた。
>>132 峰岸氏の説は室町時代の上杉と白旗一揆に関するものでかつ東西の線は利根川だから
上のような書き方は不適切だった。
西南関東のこういった傾向は既に義朝、義平と義賢の頃にあった、ということ。
>>133 北条氏は頼朝挙兵時点ではそうたいした勢力ではなかっただろう。
義朝、義平、頼朝を担いだ武士の本場は明らかに武相房総だよ。
>>144 こんな説も最近提示されているから一応書いておくね。
頼朝を最初に担いだのは工藤茂光
本当は源頼政の孫の源有綱を担ぐつもりだったが、
有綱が奥州に逃亡してしまった為やむを得ず頼朝を代理に担ぎ出した。
茂光は頼政知行国主時代の伊豆在庁有力者で、頼政敗死後かなり在庁での立場が悪くなっていたらしい。
(永井晋『鎌倉源氏三代記』)
担いだのが北条にせよ、工藤にせよ
石橋山の軍の主力は中村一族で、援軍予定の三浦の方が頼朝軍より数が多かったよね。
ちなみに細川重男氏の試算によると山木攻めの人数は40騎位との事。
頼朝を担ぐ一派が最初は伊豆だったとしてもそれに乗ったのは相模の旧在庁系と房総武士たちで
彼等の支持なしには頼朝が成功しなかっただろうね。
146 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 00:39:48.27
本郷和人さんも鎌倉幕府は南関東を基盤にしていたと言ってるね
レスをしてくれた皆々様、ありがとう。
意外かもしれないけど、見解にあまり離隔が無くてほっとしたよ。そもそも俺の最初のレスは
>>106で、
風土論的・文明論的あるいは植物学的観点を加味しながら、
>>1の話を、遠くから眺めてみようという話。
乾燥地帯の清盛、湿潤地帯の頼朝という、対立軸の妥当性を試みたんだ。
関東域内における大きな対立構造も、概ね共有できているし、
頼朝の政権基盤が、植物学でいう「富士・伊豆植物相」周辺の高温多雨地帯にあったことも、
概ね共有されていると思う。この植物相は、相模沿岸や房総南岸も共通する(ガクアジサイやオオシマザクラの分布)
149 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 03:03:50.93
鎌倉に拠点を置いた頼朝が、清盛の武士支配のあり方をどうやって吸収したのかは、 都下りの下級官人(中堅事務官僚)の詳細な動きが把握できないとわからんよ。
後に幕府の事務官僚になる、三善や大江や中原は、平家に近いとは言えないし。
鎌倉の町作りをどういった人脈の人がやったとか、史料的にも納得出来る説明もしないと、推論→推論→結論ではちょっと納得しかねるよ。
150 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 12:31:34.66
>>149 平氏は朝廷の権限を持って武士を統率してただろ。
外孫を天皇にして、天皇の名を持って武士を支配した。
頼朝は朝廷に直属していない在地武士たちを部下に取り込んで用いており、
当初、朝廷から官位を得ている武士たちは取り込んでなかった。
大江や中原など、鎌倉へ下った公家たちはいずれも朝廷ではまともな仕事にありつけなかったいわば失業者で、
朝廷の中枢にいる高級官僚が鎌倉へ下って頼朝に味方した例はない。
鎌倉幕府が全国支配に乗り出すのは承久の乱の後で、すでに源氏将軍三代が滅んだあと。
>大江や中原など、鎌倉へ下った公家たちはいずれも朝廷ではまともな仕事にありつけなかったいわば失業者
中原親能と大江廣元は兄弟だろ
親能は青年期に相模の波多野氏の所にいたらしいから頼朝と
面識あったんじゃないか。広元は兄の誘いで鎌倉へ下向したんだろう。
三善康信は乳人だし。
頼朝側近の京下り官人は旗上げ以前から縁故のある人が多いようだ。
中原親能は源朝長が生きていたら側近として朝長を引き立てていくつもりだったんだろうな。
またそれが庇護者である波多野義通の青写真でもあった。
そんな朝長があぼ〜んしたので都ではウダツが上がらないし、頼朝に接近したんだろう。
頼朝も京下りの吏僚は喉から手が出るほど欲しかったし、ライバルの朝長兄イも死んで居なくなってるので危険度は無いしで親能を側近に組み入れたと。
>>149 鎌倉の「城塞都市論」というのは、最近ぼちぼち研究が進んでいるところなんだけど、
鎌倉の分析それ自体が、なかなか見通しの立たないところがあるからね。
中世以来、みんな「鎌倉」「鎌倉」連呼する割に、鎌倉の類例となる都市が見当たらない。特に東国に無い。
だから比較研究が出来ない。比較ネタがいきなり京都になってしまう。
実は福原が似てないか?というのは、俺のささやかな問題提起なんだけど、先行研究らしきものをとんと見かけない。
福原は首都構想があったので、西日本の研究者はそちらばかり気にする。和田京と福原京の違いなんて、
ひどく細かいことに、神戸の研究者は執着するんだけど、もっと他にも問題はあるだろうと…
鎌倉は室町時代に燃亡してしまって遺構が無いのが痛い。
156 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 04:49:31.84
治承寿永の乱、奥州征伐後の戦乱収束期から頼朝晩年まで、大江、中原、三善以外にも、京下りの官人や文人墨客はいたらしい。
戦乱収束にともなって、徳川幕府でみられた武断派から文治派への転換が図られていて、頼朝の周りにはむしろ京都の匂いが強い状態。
武士も、側近には工藤祐経、梶原景時などの、京都での生活経験(平家政権下での大番役の経験など)があり、文物も解する能吏的武士を重用したようだ。
武断の頃に少年時代を過ごした、二代頼家と、
京風の幕府御所内で育った実朝の性質の違いでも幕府内の雰囲気が乱収束後で変わったのがよくわかる。
頼朝はもともと、院近親家の熱田宮司家の影響下で育ったから貴公子然としているほうが性に合っていただろうし。
清盛の異母弟、池大納言頼盛も、鎌倉で避難生活してた。
吾妻鏡をみると、もしかしたら京から下ってきた人たちはもっと確認できるかもしれないね。
将軍家の家政機関を信頼のける能吏に任せる必要があったからじゃね?
清盛スレなのになんで鎌倉の話ばっかりしてるんだ
そりゃ清盛より頼朝のほうが重要人物だからね
160 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 19:15:11.36
北条って頼政被官?
違うよ
風土論とか植物学とか面白いけど少し拡大解釈しすぎてないだろか。
例えばそういう要因がいくつかあったとして頼朝がいなくても
誰かが同じように鎌倉周辺を幕府存在地にできたかどうか。
つまり当然なんだが人間の「意志」みたいなのを中心にすえた方が
いいんじゃないかということね。
じゃないと、歴史は必然である、みたいな一昔前の史観もどきに
また戻ってしまうような気もする。
個人の恨みつらみとか源平がどうのみたいな話は軽視されて
一見上位レベルに思える部分を分析するのも必要だろうが
いかにも木を見て森を見ず的な陥穽に陥ってしまうと言うかね。
頭のいい学者さんほどそういう罠にはまったりしないかとか。
今の頭のいい学者さんは歴史的必然など絶対に言いません。
伝承やら物語やら軍記物に夢中です。
古文書による分析が限界に来てるからだそうです。
164 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 22:54:51.26
そうかもしれんね。
昔の人は全ての出来事を後世の人間のためにと書き記しているわけではないし、仮に書き残していたとしても戦乱などで焼失したり散逸したりしてしまって全てが現在に残るわけもない。
そうなると軍記物や説話集に頼ったりするしかないのかもしれないね。
あとは他の史料と比べて矛盾が無かったり類例が似通っていれば、その本人に関する記録は残っていなくともおおむね是とすることが多くなっている。
>>162 >>106だけど。ここでいう風土論や気候論などは、別に決定論ではないよ。少なくとも十分条件ではない。
だが、必要条件の一つではないか?として、変わった視点ではあるが、提起してみた、ということ。
どんなに勝ち組の自然条件があっても、そこにやる気を持った政治的人物が輩出されないことには、何も起きないのは当然。
だが、傑出した政治的人物が出てきても、
周辺の自然条件などが、彼の活躍に制約を課してしまうということは、十分に考えられる。
清盛と平氏政権は、案外そういうパターンで、政権の展開が大きく縛られたのではないか?ということ。
この発想は、一時期はやったんだけど、最近の30代くらいから下の年代の研究者はお嫌いみたいで、
「歴史とは、100%【人間物語】である。怪しい他分野ネタを持ち込むな。歴史は【人間の人間による人間の意志の物語】なのだから。」
という人が多いみたいだね。2ちゃんでも、この板でも、ニュース系板でも見かける論調なんだよなあ。
一応分かっている人が、「そんな議論は、戦前ではペテン師の議論だった。切り捨てるべき。」なんていう。
典型例が、田沼意次の【再評価批判】なんだけどね。(世界史だと、秦檜の再評価、曹操の再評価なども含まれるらしい)
(奇妙な世代論的展開は、90年代に私立文系入試が数学を廃したから?などと邪推したくなるw)
続き。
もう一つの問題提起は、前提となる風土論の内部で、
実態は、かなりステレオタイプと違うんじゃね?という話。これは頼朝側に顕著だったので、
もっぱら東日本の話になったが、清盛政権にフィードバックすれば、やはり同じようなことが言える。
あくまで問題提起だけどね。
ややネタっぽく書くと、(このスレの住民達が、下のような戯画的な理解をしているとは思わないけど、この板で実際あったんだ…)
「西南日本の亜熱帯稲作農民をベースとした律令政権に対して、武士が台頭してきたわけだが、
西南的な平氏政権はこれに十分に対応できず、西国政権として自滅した。
代わって、関東平野の草深い広大で平坦な草原において、縄文狩猟民の末裔として勃興してきた騎馬軍団としての東国武士が
我々の都として、鎌倉をはじめて築き、いざ鎌倉と、大平原を駆けていつでも集結できる体制を整え、
ここに、偉大なる縄文東国狩猟民文化の結実としての中世が、ここに幕を開けるのである。」
というステレオタイプが、どこか致命的におかしいということ。
167 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 06:46:56.20
頼朝が鎌倉拠点をおいたのは三方を山にかこまれ、敵からせめられて、迎え討つのにちょうどいい要害だったから。
という定説通りではダメですか?
日宋貿易に相応しく、大輪田泊を建設し、宋船を招き入れて、新しい経済活動の下で平家政権をさらに盤石にする福原の都では、やはり説明的にはダメなのでしょうか?
>>165 ほ〜、そうなのか。
自分はよそで一人でそういうこと言ってたけどそういう
論議は多いのか、参考になるねぇ。
自分としてはマークシート受験の影響が大きいとは思ってた。
つまり論文式の自分で考える勉強から丸暗記型への移行と言うことね。
ここでは意思とか欲望とかそういうのは軽視よりも無視されていて
史料中心主義の固まりみたいになる。
個人の意思なんて妄想でありファンタジーであり証明不可能だろ
なんて何度言われたことか。
だから若い研究者は逆に「非人間物語派」のように思ってたな。
ただこれはそちらの言うのとは矛盾していない。
史料に現れる人間派、とでもいうか推測部分を極端に軽視し
確実なことのみを「丸暗記」するというか。
そうなるとそちらのいう必要条件の一つなんて、2段階違った他分野ネタ
だから問題外みたいなね、どうだろう。
>>166 続き。
で、風土論なんだけど、それは昔はやった騎馬民族説みたいなのが
背景にあるのかな。
あのぐらい広範囲で3世代あとに征服してやる、みたいな巨視的視点で
そういう〜民とか東西の違いは理解するものと思ってたから
関東平野を広大とか西は稲作とかそういう局地的な狭い範囲で
その差異を語ると言うのが少しよく理解できない。
狭いから逆にわかりやすいと言うのもあるだろうが
それならば逆に「歴史の背景」として用いるのには少し不適当じゃ
ないんだろか。
武士の台頭というのは狭い論議のようで実は長いものでしょう。
それと頼朝個人の幕府開設というのはとても部分的なものだから
これらの関連についても根本を整理しておかないとちょと混乱する。
なかなか楽しい話だからまったり教えておくれ。
>>162 >歴史は必然
歴史の動きの原因を社会経済に求めると歴史的必然になるんじゃないの?
武士は国の制度、つまり律令には何の規定も無い存在。
そのくせ貴族同士の争いが起こると真っ先に矢面に立たせられる。
しかしあくまでも私兵として。だから戦が終わると用無しにされてしまう。
その積年の不満が鬱積し、武士たちの武士たちによる武士たちのための政権
の確立を考えたのだろう。頼朝はその頭目に担がれた神輿に過ぎない。
有名な曽我兄弟の敵討ちの場面は、実は反頼朝勢力のクーデターという説もある。
その証拠にそれ以降範頼の消息が東鑑から消える。失敗して抹殺されたのだろう。
>>170 それは背景であって、必要条件ではない、という
答え方でいいかな。
大地震があって社会経済的に混乱して政権がかわったとする
ただ、保守になろうが革新になろうが、その要因はあくまで背景であって
確定するのは、意思、ということを言いたいのだけど。
それと、単なる結果論、という言い方もできるし
ま、原因を社会経済に求める、という手法自体がすでに一種の
「史観」であるということなんだ。
つきつめると、社会、や、経済、がない状態にはどこに「主体」を
持って行くかなんだけど。
人類史からはじめるしかないかな。
ソ連はなぜ崩壊したのか?
それは国民が社会主義に幻滅したから
では何故幻滅したのか?
それは経済が停滞したから
では何故停滞したのか?
それは官僚的な計画経済で経済活動が硬直化していたから・・・
と歴史の動きは社会経済と連動している
>>173 寿永年間の大飢饉も平氏政権の障りとなったか?
175 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 01:45:50.20
来年の大河には平家家人は何処まででるだろ
伊藤景清や平宗清は確定として平田家継や源季貞もでるのか
そこは勘違いしやすいんだけど
大地震が起きるとか大不況が来るなんて事前にはわからない。
だから結果論的な背景としては正解なんだけど
それが歴史を動かしたというのはやはり独特な史観だし
その中で「誰が」「何を」「どうした」の方がやはり大事だろう。
177 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 07:48:35.38
話しの進め方の『クセ』がひどく自己愛的であきてきちゃったよ。
あまりに傍証だらけで納得させる手法がない。
つまらない。
「何故」を追求していくと「必然」に行きつく
若い人は人間中心という意見があったけど
レス読んでるとやはり必然派が多いのか。
新書レベルでもそういうのが多いし
楽でいいとは思うけどな。
理系の方で言うとノーベル賞取った人に対し
たまたまとか運がよかったとか誰かがみつけてたよとか
そういう評価をする人も多い。
なんか悪いが公園の砂場レベルの発想で
自分の平凡さをひがんでるようにしか思えなかったりね。
あくまで理系の話だよ。
180 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 02:05:47.90
必然論は大勢的にはそう言えるかもしれないが
個々の事例に適用するのは無理
歴史はifが有り得る
清盛が家督を継いだ時、源平の勢力差、つまり経済力の差は歴然としていた。
もう「源平」と一括するのが非適切なくらい。清盛は例えるなら大王製紙の三代目。
だけど親の遺産を食いつぶさずに政界で成上がったのは評価できる。武人より官僚
タイプだったと思われる。
清盛って頼朝には会ってるのかな。
さんきゅ。頼朝と法皇はかなり後になって初対面みたいだけど
清盛とはいつなんでしょう。
会ってないよ
>>149 吾妻鏡には、追捕使・地頭を献策したのは広元とあるけど
まあ吾妻鏡は顕彰も多いらしいから、別の誰かかもしれないけどね
>>185 山塊記によれば、保元四年(1159年)二月十九日に都三条室町上西門院御所で
清盛含む上西門院の殿上人各人に一回目のお酌をしたのが上西門院の蔵人をやっていた頼朝
>>187 ありがと。
まだ頼朝今なら12才かぁ。なんか良からぬ方向が
入ってそうだなぁ。
189 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 09:49:38.25
武家の中で検非違使別当宣下を受けたのは
唯一、平清盛だけ。この補任の意義は大きいが、
よくもこの宣下を受けることが出来たと思う。
保元の乱は意外と小規模なんだね。
法皇側は1000人ぐらいのもんか。
>>190 ほとんど小競り合いと言う感じ。ただ洛中でドンパチした前例が無いから貴族層の印象に残った。
平時の乱から20年後に清盛が軍を率いて洛中に入り法皇を鳥羽殿に幽閉しているが、
この時の平氏の武者は2,000だから、こっちの方が大規模だ。
戦国の記録で千とか三千とかよく出てくるがどうも信用
できないのが多いのだよね、万なんてのは問題外。
だから中世の洛中の数字と言うのはある程度の実見談だろうし
かなり信用できそうでね。頼朝の兵なんか何十単位のもあるし。
実は京都、つまり平安京こそ大軍の展開に不向きで、都市住民がいるから兵糧の奪い合いになってしまう。
京都で軍事をするなら寡兵で短期決戦に持ち込まないと、兵が住民に乱暴狼藉を働くことになる。
木曽義仲が大軍で入京した事実は日和見の豪族がくっついてきた不幸な側面もあったが、義仲の
戦略眼の無さを如実に示している。京で軍事をするなら清盛のように寡兵で
目的を絞り、成就後にはさっさと撤兵するのが正しい。清盛には軍事と言うより
補給の才能があったといえる。やはり将というより能吏のタイプだろう。
義仲に関しては、乱取御免、にしないと兵がそこまで集まったかどうか
わからないしね。
信長が京での狼藉を取り締まったってのは給料をちゃんと支払ってた
というのもあるだろうし京の価値をしっかり理解してたということか。
白川殿の火災の跡とかは発掘されてるのかな。
1000もいたら相当大規模だ
というのが自分の印象だ
狭い京都だとそうだろね。
解放空間だとパラパラッという感じもするしな。
足軽なんかがいた時代とは数の印象はかわるんでは
京は守るに難く攻めるに易い地。後年楠木正成が後醍醐天皇に、
「叡山に退去し足利の軍勢を洛中に入れよ」と献策している。
ゲリラ戦で京都の七口を塞ぎ兵糧攻めにして干し上げる戦略。
清盛と楠木に日本陸軍の将校をしてほしかった。
火気飛び道具ありではまた違うでしょうけどね。
清盛がかかった病気って大陸から来たマラリアらしいけど
日宋貿易のせいで罹ったんじゃ…
>>14 っていうか、記録を突き合わせると、
白河が妾を清盛の親父にやって、その7か月後だかに生まれたのが清盛ってことになるんでそ?
だもんで聖子の妹の一恵ちゅう設定になるんかの。
204 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 16:47:56.90
平家も源氏も天皇家の血筋で遠い親戚なのに争うって殺伐とした時代だね
>>201 白河が妾を忠盛にやったという一次史料がないよ
一次史料で確認できるのは清盛2歳の時に忠盛の先妻が死んだということだけ
先妻が清盛の母であるという可能性はある
(清盛は忠盛後妻宗子の子ではない)
能吏って言うけど、清盛だって当時の武士なんだから
武芸は出来たんでしょ?
1118年生まれだっけ。白河法皇はあと10年生きるのか。
白河が天皇家弱体化の引き金を引いたな。
>>206 一騎討ちなんか武門の棟梁はしないし、そもそも現実の交戦が
保元の乱しかないので個々人の武の技量なんて評価できないね。
208 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 03:32:41.03
NHK大河の話では
・崇徳は白河の子
・清盛も白河の子
という事になる様だがさすがにやりすぎでは?
(故竹内先生の論に影響されたか?)
>>208 大河はフィクションとして楽しんでくれ
日本史板で考証するべきことでもない
崇徳の叔父子の話ってまともな史料にはのってないの?
>>208 この2つ(とくに後者)は昔から言われている話だし、べつにいいんでないかい?
叔父子の話は鎌倉時代の『古事談』に出てくる話だけど、当時から待賢門院の素行に関しては
良くない噂があったみたいだな。
有名な『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』では、実際にどっちの胤かを考察したりも
してるね。
崇徳が「叔父子」だと鳥羽が信じ込んでなければ、重仁ではなく近衛が即位したことを説明しにくいんじゃないかな。
似絵集である「天子摂関御影」などからの考察も面白い。
もちろんあんまり科学的ではないが。
この肖像集によると、鳥羽院と崇徳院はソックリだね。
もちろん叔父と甥でよく似てるなんてケースもあるんだろうが、
この肖像集のほかの近親者、源有仁や覚法法親王(?)、覚性法親王(?)などと比較してみると、
やっぱ鳥羽−崇徳は父子なんじゃないかなあと思ったりもするね。
後白河像が老体に入ってからのものなので、比較しにくいのが残念だが。
ちなみにこの似絵解析でいくと、清盛は当時の天皇家血筋じゃないね。
「天子摂関御影」も「公家列影図」も、全然当時の皇族たちと容貌が違いすぎる。
天子摂関御影の天子の部は後光厳でおわってるんだよね。
清盛と逆の立場の御落胤の噂のある後小松の顔を見たかった。
清盛が白河の御落胤か否かは歴史的にあまり意味が無い。
あれだけのスピード出世の理由づけにされただけで、
出世して政界に影響力を行使したのは誰の胤であっても事実だから。
>>212 崇徳が忠通の息女聖子を蔑にし、側室に現を抜かしていたせいで、
摂関家が崇徳を見限ったからだよ。もし崇徳と正室の聖子の間が
良好なら、重仁を聖子の養子にすればいいだけ。そうすれば躰仁
(近衛)の即位は無くて済んだ。正室の(義理の)息子が即位するに決まってる。
崇徳はあまり賢くなかったということ。自身の後見である摂関家を怒らせてしまったから。
雲龍院の後小松天皇画像は江戸時代の作らしいけど、
衣装の構図やシワの寄り方が「天子摂関」の後光厳像とそっくりなんだよね。
だから後光厳と同じような「今上」としてのスケッチが、
もともと後小松にも存在し、江戸期に複製されたのではないかとも考えられる。
「天子摂関」の鎌倉時代など、顔が違うだけで、首から下はほとんど「型」と化しており、
後光厳・後小松の画像も、そのような手法によったのではないかと。
ていうか、後小松院の誕生って、例の後円融院の厳子峰打ち事件より6年も前だよね?
217 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 12:03:41.34
悪いイメージしかないという人が多いけど『日本の歴史』(竹内理三)読んでたからそんなイメージはない。
貿易に力を入れた先進的な人物だろ。
大河効果で信長並の扱いになってもいいはず。
>悪いイメージしかない
その後政権から転落したばかりか、壇ノ浦で沈んでいるからね。敗者に歴史は冷淡なのもある。
>貿易に力を入れた先進的な人物
清盛の模倣が義満だと思う。宮中を牛耳り高位に昇り、対外貿易に走る。
清盛は日本国王の冊封こそ受けなかったが。要は日本が貧乏国家だと
この二人は分かっていたのだろう。農業収入しか無いのだから。
足利は直轄地の少なさも原因だが、平家は日本秋津島の半分の受領だったのに
貿易船を出している。そうやって蓄積した富を何に使うつもりだったのか?
219 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 13:15:56.52
農業こそあらゆる富の源泉だがな
ゆとり世代はきっと、
米は無尽蔵に涌いてくると思っているんだろうなあ
220 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 13:30:35.51
>>218 平清盛の悪いイメージは「平家物語」によるものが大きいと思うよ。
冒頭から「おごれる者久しからず・・・(自分の権力におごったせいで自業自得で滅んだ)」だからね。
同じく子の代に政権から転落した人物でも織田信長や源頼朝は英雄だからね。
清盛は日宋貿易で得た富を福原建設に注ぎ込んだ。
当時国衙領は僅かしか無く、太政官も荘園からの上がり、
つまり私費で運営されるありさま。政治改革をするなら
荘園制度の見直しだと思うけど、清盛自身が荘園制度に
べったりのっかっているわけで、ここが彼の行動の限界だろうね。
>>221 源頼朝も荘園領主を地頭に任命してそこからの収益で
鎌倉幕府を運営していたがな。
荘園べったりだったという点では鎌倉幕府も同じ。
>>221 朝廷の制度内に留まったままか
朝廷外に独自の武家制度をつくれるか・・・
の違いじゃね?
単に地理的な問題だと思うが
京にいて朝廷外に独自の武家政権なんて頼朝でも無理無理w
>>220 自分の子どものときは信長は悪者イメージだった
家康も悪者イメージだった
頼朝も悪者イメージだった
信長のイメージはいつかわったのかなあ
やっぱマンガとかドラマの影響大でないか
頼朝は今でも悪者イメージだが
>>224 すでに清盛は作り始めていたじゃん
内乱に突入してからの泥縄だけど
227 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:54:45.76
清盛→奢れる平家
頼朝→兄弟殺し
信長→虐殺者
家康→狸
でいずれも評判悪い
228 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 08:29:25.25
それは古いイメージだろう。今は違う。
信長は古い慣習にとらわれない改革者だし
家康は数百年の太平の世を作ったすごい人というのが一般的
229 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 08:37:11.43
>>228 数百年の泰平の世を作ったのは家康ではなく家光あたりだろうがな。
家康本人は最後まで戦に明け暮れた狸親父。
自分も家光を評価するほうだけど案外そうでもない
ようなのもよく見かける。スレチごめん。
おごれる平家、とは普通に言われるけどこれはなにを指して
いうのだろう。絶頂から滅亡までがはやかったということか。
この後、頼朝、信長、秀吉、と実力トップあたりはみな同じような
感じなんだけど「おごれる」というキャッチがつくのは初代だけだもんな。
おごる平家はよくみるが、おごれる平家ってのは自分も見ないな
どこでいわれてるんだろう
秀吉はただの成り上がり
信長と頼朝はおごりがどーのというほどトップにのぼりつめていない
>>231 「おごれる者も久しからず(平家物語:原文)」
おごる平家というのは平家物語のこの部分から
後の時代に作られた造語だよ
ああなるほどね
おごれる平家なんてほとんど見ないからおかしいと思った
>>234 おごれる者(=平家)と当てはめればおごれる平家という言葉が先かもしれん
大した問題ではないがな
236 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 19:01:32.24
清盛の妾関係もきちんと大河では描いて欲しいものだ。
清盛追討の院宣はほんとうにあったのなかったの?
白河上皇と堀川天皇の死んだ時期が逆だったら良かったな
>>233 「おごれる」は文法的には、
おごれ:ラ行四段活用「おごる」の已然形
る:存続の助動詞「り」の連体形だよ。
奢り続けた平家(存続の助動詞「り」があるから)という意味。
つまり「一時的な傲慢さ」だったら滅びなかったということ。
「傲慢な状態が連続して継続したから滅んだ」と平家物語は言うのだ。
現代人には存続の助動詞に馴染みが無いので、「おごる平家」と簡略化して表現している。
これだと厳密には慢心した期間が不明なので誤り。
例えば「ほんのちょっとの期間だけ慢心したあと改心した平家」かもしれない。
いずれにせよ「継続して慢心すること」が滅亡につながったと平家物語は言うのだから、
「ちょっとの間慢心してすぐに反省すれば滅びない」ということです。
慢心したら反省して改めましょう。
清盛って元服で従五位下なんてすごいよな
普通は親王で無いと無理だぜ
因みに清盛の初任の官位ってナンだ?
なんだかんだで平家物語のイメージは根強く残ってると思うけどな
古くから親しまれてきたし、有名なエピソードもやっぱり平家物語に多い
まあ義経みたいに平家物語の人物像と現代人のイメージが乖離してる人物もいるけど
おごれる平家ってなんだ?
おぼれる平家なら知ってるが・・・壇ノ浦で
>>239 違う違う。「おごれる者久しからず」の一節は抽象的普遍的に真理を語ってる部分。
その後に「秦の趙高、漢の王莽」「承平の将門、天慶の純友」等の具体例を挙げ、
最後に清盛を登場させる。「おごれる者久しからず」とは「一時はおごっている者も長続きしない」の意味。
246 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 03:46:10.29
忠盛のエピソード、「伊勢の瓶子は素瓶なりけり」は、やってほしいよな。清盛が政権中枢を握った場面も、それがあると更に活きてくる。
今日から放映だね。個人的に崇徳院の演技に興味がある。
近衛天皇も出るかな?最初に貴族界の人間関係を覚えられないと
一般の人には厳しいと思う。
>>240 参照がウィキだけど平清盛は
12歳で初叙。位階は従五位下。官職は左兵衛佐(左兵衛府の次官)
まあ当時の武士としては破格の待遇を受けた事になるわな
249 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 23:21:46.57
>>248 頼朝の前例か
(平治の乱時、13歳で右兵衛佐)
>>211 「椒庭秘抄」持ってるわ。
何がびっくりって、当時の記録で
お妃の生理の周期まで分かっちゃうのがな(苦笑)
それだけ待賢門院の「物忌み時」の不審な行動が露骨だったわけで。
そこから推定すると、崇徳院と第一内親王(早世)の胤は白河院で
院本人もそのつもりで居たみたい。
251 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 07:09:40.35
>>250 白河法皇との不義の子を産んだ、待賢門院だけど、鳥羽天皇はわかっていながらも、内親王や雅仁(後白河)など、自分の子女を産ませているから、よっぽど容貌が勝ってたんだろな。
美福門院が現れるまで、一身に鳥羽の寵愛を受けつづけてる。
252 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 07:29:26.99
>>250 あの書物は男が書いただけあって、「女性の生理周期は一日もずれない、
出産予定日も一日もずれない」前提だからあまりいただけない。
100年後成立の「古事談」をもとに崇徳を白河の子とするために多少強引。
(崇徳天皇の出産日から受胎日を逆算、璋子が数日間程度里帰りしている間に孕んだとする。
また璋子の里帰り日はすべて受胎可能日で、逆に性交できない生理日にはあえて宮中にいて
鳥羽天皇との性交を拒んだとしている)
そもそも鳥羽天皇は12歳で夭折した第一皇女が危篤となると駆け付けており、
本当に叔母子だと思っていたかは疑問。
>>251 待賢門院の五男二女はすべて白河法皇存命中に誕生しており、
角田文衛氏の「待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄」ではすべて「どちらの胤か分からない」
としている。
253 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 07:31:44.30
うるさい
犬畜生共
254 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 07:32:33.38
いい時代だった
>>249 清盛の長男である重盛も13歳で従五位下に叙爵されてるから
頼朝の前例なるわな
だた重盛の場合は初官職が令下官にあたる鳥羽天皇の蔵人
蔵人は現代風に言えば秘書官に当たるから
初官職が武官だった清盛や頼朝とは違って武士としては
珍しいわな
(蔵人は上流貴族の子弟が最初に任じられる事が多い官職)
崇徳の白河胤説は歴史本などに度々書かれ、むしろ「定説化」してしまった感があるが、
これに異を唱える状況証拠として、
>>252さんの論説に加え、2点挙げておこうと思う。
1つには崇徳の生まれた時期。
白河院(1053生まれ)公式の子女はそのほとんどが11世紀中の生まれで、
生年が伝えられている一番年下の行慶大僧正が1101年の生まれ。
とすると、1119年生まれの崇徳(清盛がその前年生まれ)までの間、
実に18年も(公式には)子供が無かったのに、60代後半になって
突然歴史に名を残す2人の人物を儲けたことになり、いささか不審。
60代で子供を儲ける例は、家康・後水尾・霊元など多々あるが、
これらの面々はそれまでにもコンスタントに子作りを続けており、
一方白河院は1074年以来およそ四半世紀に渡って子を儲け、そこで一旦子作りが止んでいるので、
20年近く経っての子供の誕生には、なおさらの違和感を覚えるのである。
なお、一説には白河崩御の前年(76歳)1128年生まれとされる円行法眼がいるが、
外祖父の源有宗の実年代などからして、やはり実際は1100年頃の生まれでしょう。
もう1つは上にも述べてある似絵肖像画からの分析。
「天子摂関御影」「天皇摂関御影」の崇徳院と、同母弟の後白河院、(推定)覚性法親王、
この3人は額から頬、顎までの顔のラインが、驚くほど一致している。
まあ、崇徳がどちらの胤かなんて永遠の謎かもしれないが、
巷間の白河胤説の横行に対しては、上記の2点も注目されて良いと思う。
落胤説を専門家が採用するということは
義満皇位簒奪説はどのくらい認められているのだろう。
本郷や高橋は何か言ってるのかな。
少しスレチで悪いが戦国の専門家よりかは
話がわかりそうな気がする。
>>223 頼朝だって早く王朝に認められたかったことには変わりない。
ただ自前の配下が少ないしかも反乱軍という経緯と、たまたま法皇と義仲がケンカおっぱじめてしかも後白河がオルタナティブを残さないアホだった
という経緯からタナボタが転がり込んできただけの話。
バーゲンダッシュで子供にしがみ付かれて出遅れたら、
前の主婦とその前の主婦と店員が掴み合いを始めて、はいお行儀よく待ってた次の人どうぞと言われた感じだなw
タナボタが転がり込んできてもそれを入手できるかどうかは
また別問題だろうけどね。
しかし実際、為政者が後白河でなければこの時代あんな大騒ぎになってないわけで。
その後白河だってピンチヒッターがそのままレギュラーになったようなもんだからね。
義仲の上洛判断が間違ってるかと頼朝に聞いたら、上洛したくて歯をぎりぎり鳴らしてたのは確実だよ。
ほんと頼朝以外に残ってる人間がいなかったからなあ。秀衡は完全な日和見もしくは関東との融和路線だし
頼朝だって完璧超人ではないよ。90年代までの研究はどうも頼朝が完璧超人だったことを前提にして説を組み立ててるが、
実際はアドホックな決定が大半。
>>257 皇位簒奪なんて、真面目に考えるまでもないアホらしい妄想なので相手にされてない
>>257 南北朝時代の研究で大きな業績を残した佐藤進一は足利義満は
日本において天皇を超える存在なろうとしてたと解釈してる
義満は日本における最大の権力者にはなったけど権威の面では天皇に劣っていた
したがって天皇を超える権威に自分の身分を定めて貰う事を必要とした
当時の東アジアで天皇より遥かに権威・権力も有していた明の永楽帝の臣下
となり日本国王に封じられた事で義満の権威は明の冊封体制下にある
東アジアの国際政治の中で天皇の権威を超えたという説を展開してる
>>257 足利義満は後円融天皇の従兄弟(母親同士が異母姉妹)。
そのため天皇の身近に育ち自分で皇族のようにふるまっていたいきさつがある。
太政大臣になったり、息子を天皇の前で元服させたりな。
しかし、皇位簒奪というのは違うだろう。
天皇に敵対するどころか、義満は自分をむしろ天皇の同族だと考えていた。
それが後円融天皇の癪に障ったようだけどね(義満との密通を疑って妃を峰打ちしたり)。
>>261 まあ義仲の上洛判断が間違ってるかどうかは置いといて
寿永二年十月七日の返信で頼朝は上洛しない理由として
「数万騎を率いて上洛すれば京がもたない」というのも挙げていたよ
まあ「秀衡に攻められる恐れがあるから」の方は今更それはないだろうと思うけど
二条や高倉が後白河より先に死んでなかったらとは時々思う
色々思うところはあるけど、実際に起こったことでもないのに
「実際、為政者が後白河でなければこの時代あんな大騒ぎになってない」と言い切るのはどうかと
頼朝一人が凄いとか後白河一人が馬鹿とかじゃなくて時代の流れだと思うけど
>>265 例え二条が後白河より長生きしたしても清盛の地位は万全だった
清盛は院政行うとする後白河より親政を目指した二条寄りの立場に立っていたからね
それだから後白河派の時忠や成親が謀った高倉立太子運動に一切関与せず
むしろ二条の皇子である六条の立太子を支持する立場だった
そして二条は高倉立太子を謀った時忠や成親を解官・流罪に処したけど
清盛の事は信用してたから息子の重盛も参議に登用して清盛・重盛親子を
親政の及び六条の藩屏とし重用してたわな
二条は信西と美福門院が決めた正統な天子だったから当人にもその自負が強かった。
それが父の権力を抑制する親政を目指すことに繋がった。結果として22歳で死んでいるが
毒殺じゃないのかね?
十月七日じゃなくて九日だった
高倉が死んで一年で清盛も死ぬし、清盛との関わりで言えばあんまり変わりはないかな
>>256 出生にこんな疑惑がついてる時点で詰んでるも同然
一条帝と定子にしたって閨記録は全てとられているのだから
確実に帝の子であるか?というのは重要なんだよ。怪しまれるだけのネタが揃うと噂が残る
そうだよね。閨の記録は採ってる。だからまともな行動をしていれば噂すら出ない。
噂が立つこと自体、後ろ暗い行動があることを意味している。
262〜264、さんきゅ。
天皇を超える存在というのは少し面白くて
堀新が信長は「中華皇帝を目指した」というのと
少しにている。
ただそれは皇位簒奪とは違うものというニュアンスで
信長ー朝廷は友好関係にあったという立場。
義満もそうで264さんが言うようにやってることはかなり大胆なんだが
皇位をどう思ってたかはまた別ということだろうね。
信長も暗殺されたが義満も死のタイミングがすごいから
かえって暗殺説みたいなのが出てきてしまうのだろねぇ。
皇位簒奪とだけ言うとアホみたいだが義満や信長みたいに
強力なワントップになるとその時点で何をどう考えたかは
一般人から見た妄想レベルの段階になるのかもしれない。
>>270 閨記録なんて取られてないってw
修子内親王が一条天皇の胤でないと言われているのは
中宮定子が失脚して内裏に一切上がれない状態の時に妊娠したから
一方、璋子は基本的に内裏にいて時々数日間里帰りしていたのであり
明らかに里帰りしたときの子と断言できない
274 :
↓スレ推奨:2012/01/13(金) 13:41:14.48
【皇室】チャンネル桜の姫?高清水有子【秋篠宮】9
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/mass/1323652918/ 260 :(NHK大河ドラマ) 「平清盛」で本当に汚いのは人物描写:2012/01/13(金) 03:14:01.68 ID:RK442VnOP
(URL略)
NHK大河ドラマ「平清盛」に対し、兵庫県の井戸敏三知事が「汚い」と噛みついて物議を醸しているが、
本当に汚いのは作中の人物描写であり、そこかしこに「反皇室」的な要素が滲み出ていることである。
これまでもNHKの反日偏向プロパガンダに抗議してきた者として、その点を指摘しておきたいと思います。
※産経 1月12日:大河ドラマ「平清盛」画面 兵庫知事「汚い」発言に批判殺到
・兵庫県の井戸敏三知事が、松山ケンイチさん主演のNHK大河ドラマ「平清盛」について「画面が汚い」と発言したことに対し、
批判する電話やメールが多数寄せられたことを11日、県が明らかにした。
・朝廷の法皇にしろ、天皇にしろ、上皇にしろ、皆政治でもうぐちゃぐちゃになって…法皇が“エロ親父”みたいな描き方とか、
とにかく朝廷・皇室をマルクス主義的な唯物史観論で“権力争いの権化”みたいな…
出てくる人皆、とんでもない形で描くというね、そういうものが汚いんです!
・“平清盛が白河法皇の子供だった”これも未だ「説」なんですよ!
それがハムレットのごとく悩むみたいな…とんでもないところがありますから、抗議とかしていきたいと思います!
>>273 璋子が法皇御所に行啓したのが元永元年9月20日、
内裏に還啓したのが9月25日。
月経周期28日、最終生理日の14日後に受精という『平均値』で計算してみると、
「白河胤の崇徳」の出産予定日は元永2年5月20日〜25日なんだよね。
で、実際の崇徳の誕生日は5月28日。まあ、あくまで平均値だから、
「どちらの胤かは分からない」と言うならまだしも、
「白河院の胤に違いない」と言うとかなり恣意的だよな。
一つ大事なことが抜けてる。宮中で璋子が鳥羽と性交しなかった可能性だ。
月経周期云々言っても、性交しなきゃ子は出来ぬ。鳥羽は故意に宮中に
戻ってきた璋子と性交しなかったのではないか?それで腹が膨らんできたので・・・。
>>276 「鳥羽天皇は璋子と性交しなかった」という根拠がない。
同時代史料で崇徳天皇の出生を疑う記述はない。
この時期の鳥羽天皇は璋子を連れて頻繁に行幸しているし、
夫婦仲の悪さを思わせるものは何もない。
後から璋子の容姿が衰えてくると若い得子を召し出して寵愛したが、
10代の鳥羽天皇は2歳年上の璋子にぞっこんだよ。
278 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 21:26:58.90
age
279 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 19:47:29.02
大河ドラマ「平清盛」、メインテーマの歌は「初音ミク」になるかもしれなかった
NHKで絶賛放送中の大河ドラマ「平清盛」。ご覧になっている方も多いかと思いますが、音楽を担当している
作曲家・吉松隆氏はブログで、メインテーマの一部に「初音ミク」を起用する予定があったことを明らかにしました。
「平清盛」の舞台となっている平安時代末期の流行歌を集めた「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)。その中で
もっとも有名な歌である「遊びをせんとや生れけむ」は今回の大河ドラマ全体のイメージの根幹にもなっていると
吉松氏。そこで、オープニングで流れる壮大なメインテーマにもその「歌」を取り入れることになったのだそうですが、
当時どう歌われていたかは想像するしかなく、吉松氏は平安の雅楽の香りを残しつつ、現代でも演奏し易く、
歌い易いメロディーを制作しました。
そのメロディーの試作に「初音ミク」を使用しているとブログで語っている吉松氏ですが、当初は試作だけでなく
本編にも「初音ミク」を起用することを計画していたというのです。
http://www.inside-games.jp/article/2012/01/17/53948.html
280 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 07:31:22.48
平清盛 東大寺興福寺僧兵焼き討ち
織田信長 比叡山僧兵焼き討ち
亀井静香 創価学会撲滅
カルト宗門と戦った三人の英傑を称えよう
>>273 閨房記録は必ずとるよ。一条関係なく。当たり前じゃん。
>>281 そんなの残ってないしw
定子の妊娠が不可思議なのは閨房記録のせいでもない。
閨房記録が仮に平安時代にあれば、枕草子や源氏物語に出てくるだろうがそれもなし
源氏物語では藤壺が月数ずれた源氏の子を桐壷帝の子として
何事もなく産んでいる
>>282 ?なんで帝のお召しお渡りと密通を一緒にしてるの?
なんで同衾時には女房が閨に張り付いてると思ってんの?
不義云々でなくても妃の体調を徹底熟知するプロが何人もいなきゃ
あの世界は回らないよ
記録については外戚同士の争いに利用されまいと
(例えば対抗馬の当たり日を阻止すべく工作したりとか)
どの壺も秘密にし合ったかもでしょー。物忌みでバレそうでもあるが
>>283 ・実物が残っている
・そういったものがあったという記録が残っている
証明できないものを妄想で書いてもな
>>284 お前は古今東西の王族・皇族が同衾記録をとらないと
本気で思ってるの?常識で考えたらそれはないんじゃない?
まあ好き放題にさせた結果生まれた不義の子達は
宿命的に皆確実に滅ぶけどね。それはなぜか?
後世に残る記録がなくてもリアルタイムで周囲が真相を知ってるから
286 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 08:30:50.97
>>285 で?
崇徳天皇は不義の子なの?
記録があるなら分かるだろう。
ついでに璋子が産んだ後白河など五男二女は誰の胤?
>>286 「不義の子だと疑われる状況」
これが大大大問題なんじゃないの?
璋子の里帰り記録なんかと照会して崇徳不義の子説を割り出した人はいるけど
反対派にも否定するほどの説はないしね
あと鳥羽とも仲は良かったらしいし何より鳥羽が疑念抱いてないし
後白河も知恵遅れ達も鳥羽の胤なんじゃない?
崇徳が白河胤ってのは日本史上一面では定説化してるんだし今更そこだけ否定しても意味がない
異説は歓迎だけど立証不可能なら不義の子説も覆らないだろうね
289 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 10:14:06.97
>>287 >>288 定説化してないってw
崇徳誕生の100年後の説話集「古事談」にあるだけだろ?
お前は「平家物語」に平清盛は白河院の胤とあるからこれは史実
だというのかよ
(平家物語では崇徳天皇の父は鳥羽院になっている)
崇徳は不義の子じゃありません説が文献資料として残っていればそれも通るが。
清盛が白河ご落胤か否か
ご落胤だから即位の儀も超豪華
しかし生母の身分的にご落胤の意味自体特になし
つか平氏で既に生まれに不足無しだし
白河胤もあるあるで誰も困らない
>平家物語では崇徳天皇の父は鳥羽院になっている
そら系図上ではそうなんだし当たり前かと。清盛やらがご落胤でもそうでなくても特別問題ないし
>>290 だよねえ
やっぱ、似絵肖像画でしょう。決定打にはならないが。
どっちでもいいけど母が同じなら似てても普通じゃないかな
まあギリギリの所で永遠の謎というのもあった方が面白いよ
ま、崇徳の場合、目元が父・鳥羽にそっくりなのであって。
同母弟の後白河、覚性(推定)と似てるのは、顔のライン。
で、(比較的)白河近親の覚法(推定)、源有仁とは、
鳥羽・後白河・覚性ほどには似ていない。
白河胤と周囲も本人も思っていて、何より白河さんが信じてたわけだから
どちらかというと似絵は時代が下って鳥羽さんに配慮したんだと思うよ
ついでにいうと、清盛は論外。
重盛も含め当時の皇族顔ではない。
宗盛はちょっとボンボン貴族の気味はあるが。
>白河胤と周囲も本人も思っていて、何より白河さんが信じてたわけだから
これだって時代が下ってから(鳥羽・崇徳が不仲になってから)の話だろ?
>>296 白河は、自分の治世のうちに曾孫の誕生を見るとは! といって喜んだんじゃなかったっけ?
そもそも白河胤だと疑惑が立った事が発端であり問題なのであって
こればかりは後付けで否定できないし、やっぱ不義の子だよなーと暗に思う
別にどっちでもいいわけだから
301 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 11:08:58.70
>>290 同時代史料は鳥羽院の子と書いている
逆に崇徳院不義の子説が同時代史料に描いてある?
>>297 母親が下々なら全然有り得るよ。別に盛り話と分かってて聞けるレベルだし
>>299 便宜上でしょ。自分の治世のうちにタマコと子作りできたとは!とは言えないだろw
>>301 系図資料に実は誰それの子なんて書くわけないと思うが。
>>297 そりゃ清盛は仮にご落胤だとしても皇族じゃないし。
それくらい区別しなきゃまずいだろう。
>>300 鳥羽・崇徳の不仲から、実はあの二人父子では無いのでは? の噂が出たってことだろ。
しかし、白河生前にそんな記録はないし、白河の子作り傾向からして、
あの時期(67歳)に子供がポコンと生まれるのもちょい不自然なんだよ。
>>305 璋子との関係前提で考えないと意味ないんじゃね
>>302 いや、あり得ないくらいに似てないレベルっす。
重盛も当時の皇胤顔とは似ても似つかない。
肖像画って何を基準にして語ってる?
>>309 欲情溢れる養父と早熟娘の間柄だな
なんか二条みたいだな
>>308 「天子摂関御影」「天皇摂関御影」「公家列影図」など。
いや問題は、不義の子噂が白河院当時には見つかってないことだろ。
鳥羽・崇徳の不仲が原因であって。
で、そこから生じた「噂話」が独り歩きしてしまったと。
こういうゴシップはみんな好きだからな。
お家騒動の影に必ず不義の子ありという感じ。
鳥羽さんは白河胤と思ってたフシがあるんだよね
>>312 なぜ璋子の素行の噂が事細かに残ってると思う
>>314 それがいつで、何の史料によるものなのか。
>>315 素行の悪さと、婚姻中に不義の子を生むかはイコールではないぜ。
ヤリマン女が結婚して生む子は絶対に夫の子供じゃないと言えるか?
>>316 文献が絶対と思ってるようだけど
後世記された事柄も周辺一族による伝聞がもとかもしれないのだし
リアルタイムで見聞書きされたものがその後すぐの戦乱の世に完全版で残る保証は無いからなあ
てか白河胤否定の場合大概の保元ものやこの大河はどういう視点で見てるんだろう
だな。
好き物の璋子なら、白河院と愛し合いつつ、鳥羽院とも愛し合ってた、
と考えることも出来る。
>>317 養父との肉体関係が事実っぽいじゃん。そういうのが流行ってた時代なんだし
だから当時も噂されてたと思うよ
>>318 ああいう時代の節目みたいな戦があると
それについての原因やら勝因敗因やら相当語られてた筈だよね
>>318 だから、その後世の「噂」から生じた白河胤説に対して、
実際当時の一次史料ではこうです、肖像史料ではこうです、
と見ていくと、必ずしも白河胤とはいえない部分が多々出てきます、ってことでしょ。
むしろ、その後世の「噂」から生じた説を、史実に違いないと前提してしまう方がどうかしてるんよ。
>>322 とりあえず一説として考えるとして、よりにもよって何故そんな噂が生じたか?
火種が揃ってたからだと思うよ。それこそ後世で着床計算までされてしまうほどには
確執には「その他」の理由も色々あったと考えるのは当然だけど
真っ向からガチンコするからには挙がってくる全てを踏まえてると思うな
内乱て速攻で研究され消費されるから
>>325 初心者なので、具体例でおねがいします。
日本史板で初心者とはこはいかに
しかしまあ学説?みたいなもんは
異論を唱えてなんぼみたいなところはあるからなあ
頼長さんところとかだって結構骨肉の争いに薄暗いものがあるよね
>>327 大河ドラマで興味を持ったので、
関連するところを色々覗いているのですよ。
それなので、具体例を挙げていただければ後学の為になるかなあと。
>>328 色んな勢力の内乱の同時総決算みたいなのがまず保元の乱だから
まずはそれについて調べてみたらいいと思う。横レスだけど説明へたくそなんで。でもとても面白いですよ
わかりました。
王家も平氏も源氏も藤原氏も御家騒動のウラには不義の子あり。
清盛なんかも実は平氏じゃないって言われてますから、おんなじですね。
調べてみます。
>>311 あれって、書いた人が同じだから似て来るんじゃないのかな。
特定の誰というよりみんなにているように見えるが。
いやいや各貴族ともみんな特徴ある顔で描かれてますよ。
その中で血縁が近い人同士はやっぱり似ていたりする。
歴代天皇が似ているのもそのせい。
「天皇摂関御影」の天皇部と摂関部の間の僧侶たちが、
歴代仁和寺門跡だろうという有力説も、
近親者(と考えられる人)との肖像比較が大きく作用している。
「叔父子」
ただの噂でこんな具体的なキーワードが炸裂するわけがないんですよ。
歴史の醍醐味というやつですな…
>>333 そら今年の大河は叔父子設定の創作ドラマなんだから
そのキーワードで探索かける馬鹿もいるだろ
>>332 もちろん特徴はいろいろあるんだが
顔の輪郭とか目の大きさとかやっぱり同一の画家って
感じがするんだよね。
だから本人たちが似てるのもあるんだろうけど
そこをあまり強調するのも難しいと言うか。
違う人たちが書いて似てるのだったらいいのだけどね。
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいわ
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだ
その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やな
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやで、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やな?
2ちゃんねるやってるやつならこの情報でもう大儲けしてるわな
叔父子は特別大河関連だけでなく前々から言われてきた事
叔父子はわりとメジャーな説だと思うけどリアルに考えるとやはりエグイ
ところで清盛よりも後白河主人公の大河が見たい
皇族・貴族の男女関係の懶惰さなんて古代からずっと続いてたもんだからなー。
飛鳥・奈良の時代だと同母姉妹との婚姻もあったわけだし
それ以降も、同母は不味いけど、異母姉妹と通じようとした天皇だって居たわけだろ。
間人「お兄さま・・・」
343 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 14:03:06.10
>>315 藤原忠実が中外抄で璋子は男癖が悪かった事を暴露してるからな
そんな女が息子の忠通の嫁になっては困るから白河に
璋子を摂関家の嫁には出来ないと内々に断ってる
白河は璋子を忠通の嫁にする事に失敗したから結局
自分の孫の鳥羽の嫁にしたのさ
つまり璋子の男癖の悪さは鳥羽の元に入内する前から
既に公家社会では有名でした
344 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 15:20:27.16
>>343 璋子に結婚前密通の噂があったことを記すのは藤原忠実の「殿暦」だろ
藤原季通という若者が通っているという噂があった
ちなみに崇徳を白河の胤とする100年後成立の「古事談」では
璋子の結婚前の密通相手は季通ではなく白河院になっている
どっちとも関係あったとしか
346 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 17:10:56.77
>>344 訂正、乙です
時系列的には「殿暦」「中外抄」「富家語」の順だったかな
当時の貴族なんてせくすしか楽しみがないんだから仕方ないよ。
100年後くらいに書かれる歴史書って結構多い気がするけど
当事者同士の利害関係が一旦おちついて、
且つリアル世代から当時を生々しく聞かされた世代から情報収集できる
ちょうどいい頃合いだからだと思うんだ
>>348 「古事談」は歴史書じゃなくて説話集
伝説とか風説の類も多く載せている書
昔のことは他からの孫引きも多く一次史料とは言えない
それ言ったらほぼ全ての書が歴史書ではないぞ。
執筆勢力サイドの脚色なきものは皆無。
陵墓を発掘してDNA鑑定すりゃ一発なのにな。
>>350 公家の日記といった一次史料があるだろ。
平清盛の時代なら、「殿暦」「玉葉」などは一次史料。
つーか、古事談が一次史料だと思ってたのに驚いた。
353 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 19:48:46.06
未だに崇徳天皇が白河法皇の胤でないって人がいるのか。
そういう人は、なんで鳥羽上皇が崇徳天皇を苛めたのか説明できるのかね?
自分の子供でないから苛めたって説が一番しっくりくるだろうに。
それ以外の説があるなら、披露してもらいたいよ。
354 :
日本@名無史さん:2012/01/20(金) 20:24:59.27
>>353 苛めてないだろw
・白河法皇が死んだあと、鳥羽院政になっても崇徳を退位させず、
崇徳天皇は鳥羽院政下で13年間も在位した。その間、上皇と天皇に対立なし。
・崇徳が退位させられたのは鳥羽の晩年の寵妃美福門院に男子ができたため
(天皇家は兄弟相続が多く、弟に位を譲らされる例は崇徳に限らず多い)
・崇徳院政を鳥羽が阻止し、自分の死後は美福門院女院制を確立したことから
崇徳は鳥羽を恨む。このことから100年後の古事談に「父親が違うから」と描かれるようになる。
煙の立つだけの火があったとしか思えないんだよね
崇徳自体はどう思ってたんだろう。
やはり弟に実権取られるのはイヤだったんだろうか。
院政という構図の限界なんでは。いつまでも爺がのさばって後続の人生潰してちゃあね。
まあ出自も運も暗くない後白河さんくらいの覇王っぷりだとまた違うんだろうけど。
>>352 人口を介して伝わる話は文書には残らない。
質問
天皇は在位中は「今上」とか「当今」と呼ばれていて、崩御したらおくり名がつく。
だけど退位して上皇になったら、天皇時代の呼び名をどうするの?
例えば後白河は晩年、二条、六条、高倉、安徳に先立たれた。今上の後鳥羽も入れて
6代前の天皇の名前が決まっていない状態だったのだろうか?
2ちゃんねるのログも、「昔はこういううわさがあったらしい」
「火のないところに噂は」と強弁する奴が出てくるんだろうな。
>>353 同母兄弟として不遇時代には仲が良かった崇徳・後白河兄弟
がどういう間柄になったか考えてみれば?
鳥羽・崇徳に限らず、父子の不仲・相克なんて権力者の一族
には珍しくもなんともない。
関係者達の真相暴露が漸く適うのに丁度いいんだよね。>百年後
出自がどうのこうのってのはやっぱりあったと思うよ。
正四位下刑部卿 これが忠盛の極位極官。
あとちょっとで公卿になれたのにね。
死なずに出世したら何になったのだろう?
>>361 関係者って・・・
璋子も御付の女房もとっくに死んでいる
しかも古事談の作者って何も知らない男性官僚だろ
璋子本人以外に真実を知る人がいるはずないし
本人と御付きの女房しか事実を知らないとかどんだけメルヘンワールドなんだよアホかw
事実を伝え聞いてる連中が語り出したから記事にして
結構アリだったから反論書も出なかった、ついでに某一族には呪いの伝説がガチで残った
百年後には、こういう調子で東スポの記事あたりが「隠された真実」として伝えられ
るんだろうな。
醜聞説を消せるだけの物証もないし
中庸に浮かべておけばいいものを
>>365 タブロイド程度の取扱内容ならもっと骨のある反論記事も同時代に出てるだろ
>>366 そもそも醜聞自体、裏付けが一つもないただのゴシップだろ?
「同時代に、『父子だ』と強調した記事がないから〜」とかいう
奴がいるが、そもそも「当たり前の事」は記事にならないのが
普通だ。
むしろ、同時代にそんな記事がある方が疑わしいよ。「弁明
の必要がある」と思っていたんだろう、ということでね。
どちらかというと、たった100年前の人物つかまえて
孫の嫁とデキてる
このゴシップネタを思いつく方が難しいんでは
根拠があったと思われる
日本史上最大の呪い。ミステリアスですな…。
白河没後に崇徳を降ろさないことが真の親子の証と言えるかどうか?
その時点では鳥羽の子は崇徳以外に三人だがそのうち二人は身体障害者。
まともなのは四の宮しかいないし、まだ褓に包まれている。
崇徳を在位19年の後に退位させるとき、崇徳の院政の途を閉ざした鳥羽のやり方が
痛烈に過ぎると言う見方も出来るしね。近衛帝没後に崇徳重胙の線は無かったのか?
清盛って虐げられてた民のために権力と戦って
平和な国を作ろうとした人なんですね、あの時代にすごーい(棒)
>>372 なんか製作ビジョンが植民地目線なんだよな…
>>371 白河法皇が没した時後白河は3歳だったが、兄の崇徳も5歳で即位していることをみれば
成長はすぐだろう(元服しないと即位できないわけではないしむしろ院政期には幼帝を好む傾向があった)。
鳥羽上皇は多くの皇子をほうぼうの女性に産ませていたし、スペアはいくらでもあった。
崇徳院政を閉ざしたのは寵愛する美福門院への配慮だろう。
美福門院唯一の男子であった近衛天皇が子もなく早世したのは崇徳やその周辺が呪詛したためだという噂がたち、
美福門院と崇徳の継母子仲は修復不能、美福門院を愛する鳥羽と崇徳の仲も険悪になった。
自分亡き後、崇徳が治天の君となれば、美福門院やその皇女八条女院ら、
晩年の鳥羽の寵愛を一身に受けた者たちが不遇になる。
鳥羽上皇が崇徳を捨て、愛后の美福門院を取った結果だろう。
>>374 >鳥羽上皇は多くの皇子をほうぼうの女性に産ませていたし、スペアはいくらでもあった。
母親の身分があるからどの皇子でも即位できるわけじゃない。
四の宮が出家せずに温存されていたのもそれが理由だろう。
事実、同母弟の五の宮は仁和寺に出家させられているし。
鳥羽自身は四の宮を「即位の器量に非ず」と見ていたようだが、
摂関家あたりがスペアとして残せと進言したと思う。
そうそう
つか即位即位って権力のインフレだね。下女腹の子供なんてスペアにすらならんが
>>375 六条天皇母の出自を考えたら石清水八幡宮別当の娘なんてかなり上等だと思うが。
院の養女にまでなった待賢門院に比べれば美福門院はかなり身分が下で
父も亡くし当初下女のような扱いでこっそり鳥羽に召されたにもかかわらず
近衛天皇は待賢門院腹の皇子を超えて即位したりしてるしな
378 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 19:29:57.17
>>377 六条天皇の例をここで出すのはバカ。
二条帝が時の権力者の本命だったし、
その本命が病気で死にそうだから
卑母所生の順仁が天子に立ったのだ。
>>379 高倉天皇は?
滋子も父親は微官だw
都合悪いやつはあれも駄目、これも駄目はなしだぞ。
382 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:44:18.96
>>362 正四位下×
正四位上○
高橋昌明氏の考察通りあと数年生きてれば忠盛は
官職無し(散位)の従三位に昇れたろう
武家平氏初の公卿は清盛じゃなくて忠盛になったはず
散位じゃぁつまらないね。三位の中将くらい行けばいいのにね。
まあ後ろ盾の鳥羽さんが死んじゃうとどうしようもないんだけどね。
普通正四位上ってのはスルーされるんではなかったでしたっけ?
シロウトですいません・・
386 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 01:20:32.49
当時の例で言えば正四位下から従三位に叙されて公卿の列に
加わるのが普通だったけど忠盛の場合は正四位下から
正四位上という不利を被った(従三位に叙されなかった)
忠盛は家格が諸大夫の上に武士だから公卿の列に加えるのは
鳥羽院でも流石に難しかった
忠盛を形部卿に任じる時も鳥羽院は左大臣藤原頼長に相談してる位だし
まあ武士で太政官八省の長官である卿になったのは忠盛が初めてだったからね
そして八省の長官まで行けば刑部卿を辞職した後に従三位に叙されて
散位公卿になる可能性は大いにあったけどもう寿命の方が持たなかった
387 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 01:36:55.66
平忠盛が死んだ時に傲慢な左大臣頼長が
「数国の吏を経て、富は巨万を累ねたり。奴僕は国に満ち
武威は人に軼る。然れども人となり恭倹にして、未だ嘗て
奢侈の行いあらず。時人之を惜しむ」
と、自分の日記に書きとめた位だからその存在感は抜群だったわ
源義家(正四位下)とか
源義信(従四位下)とか。
四位の下クラスの武士はまあいたわけだ。
平家の始祖は将門の兄でOK?
>>389 武家の平家の始祖は桓武天皇曽孫高望王だろう(平姓を受けて臣籍降下)
平清盛が出たのは将門の兄の系統じゃなくて将門の叔父平国香の系統
>>386 ありがと。
特例って感じなのかな。他の正四位上がどのぐらいいたかは
自分で調べろ、ですな。
>>390 高望王か高棟王か、という論があったけど始祖は
どっちということになってます?
>>391 平清盛を輩出した武家平氏は高望王の系統
その妻平時子らの堂上平氏が高棟王の系統
>>392 ども。
源氏でもそうなんだけど武家と公家に分かれていったりしますよね。
これは降嫁した直後から公家さんたちに上手くとりいった一派と
地方の国人なんかと結びついた一派の差がずっと続いた
みたいな理解でいいのでしょかね。
394 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 02:06:03.73
崇徳が白河の子だとか清盛が落胤だとの説が広く知られるようになったのは
'60年代に出た中央公論社の日本の歴史(当時のベストセラー)第六巻「武士の登場」(竹内理三)の影響か?
偉い先生だがこの辺の考証はあっさりしすぎている(むしろ紹介に重きを置いたか?)
平家物語でも落胤説は或る話との記述で断言していない(しかも母は祇園女御)
同書では他にも清和源氏は実は陽成源氏との説に加担しているが・・・
何か必死な人がいるけどそれなりに根拠がなかったらこんなに根強く残らないって
396 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 03:53:06.88
根強く残ったのかな?
397 :
ミッドナイトの渡り鳥:2012/01/26(木) 04:16:21.13
清盛はスゲー奴だぜ
頼朝なんか比較にならん
398 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 04:23:24.97
まあ保元の乱が時代の転換期のホッスポなんでわりと。
近年「広く知られる」ようになった故事、
戦後の情報解禁でメジャーになった歴史上の人物、こうしたものはざらにある。
誰かが書き残す・広める時点に至るまでに子々孫々・師弟間の記憶の伝達が完了してる。
>>391 忠盛の場合は
>>386の説明で良いと思うけど、
確か玉井力氏の本だったと思うけど、正四位上については下記のような説が。
当時の正四位上は実はある程度優遇だった説。
すぐに三位にあげるわけにいかない場合、正四位上に上げることで、
有象無象の正四位下との差を明示し、三位昇進の優先権があることをも示した。
とか、そんな感じだった。
摂関家とか上級貴族を別とすれば、正四位上を経ている方が、
後々出世しているんだそうだ。この前後の時期の特徴らしいけど。
401 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 13:18:18.95
平清盛が太政大臣従一位の極位極官になったのだから
父の故忠盛に対して贈位(三位以上)も出来たはずだが
その形跡がない。
402 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 16:55:03.89
平家の家人ってどんなんがいる?
伊藤忠清
伊藤景清
平田家継
>>401 死人に贈位など無意味なことを清盛は分かっていたと思うよ。
位を貰ったら拝賀式などでカネもかかるしね。そもそも当時の
贈位は怨霊鎮魂の意味で行うことが多く、忠盛の場合文句のない
大出世と一門内でも受け止められていたと思う。
忠盛自身の外孫が即位してれば贈位贈官があったんだろうな。
息子の外孫だからやや弱い?
>>399 へ〜さんきゅ。
正四位はスルーで普通はつかないと書いてあった
記憶があるんだが特別な時代と言うか例だったのかもしれないな。
何の本だったか忘れてしまったわ・・
公卿の「公」とは三公、即ち太政大臣、左大臣、右大臣を指す。
公卿の「卿」とは三位以上の貴人と参議の職にあるものを指す。
ということは、参議には官位相当が無いんだな。四位の参議や
三位の参議があり得るから。「宰相中将」と言えば参議兼左右
中将だけど、中将は四位相当だし。
参議はそもそも官じゃない、本来は職でさえなかったかも。
朝政に参加できるという資格みたいなものだったとようだ。
まあ奈良時代のうちに職には転じていると思われるし、
だんだん官との区別も曖昧に。
それでも最後まで官にはなり切れていない。
令外の職ではあり得ても、令外官ではないってことらしい。
資格だった当初は、大・中納言との上下関係もはっきりしない、
と言う説の研究者も居るようだ。
奈良時代初期を別とすれば、正四位上は通常飛び越すというのはその通り。
ほとんどの場合は、三位にできない場合の優遇として使われたようだ。
概念上三位になれない蔵人頭とか、出自が悪くて三位にできない場合。
それよりましだけど、一気に三位にはなれない程度に低いとか。
>>399の例は、その通常飛ばされることを逆手にとって、
特別な存在と言うことを示していたらしい。
409 :
日本@名無史さん:2012/01/27(金) 13:10:13.71
参議はもともと中納言廃止の時に大納言に昇任出来ずに
太政官の議政官から外れた大伴安麻呂を朝政に参加出来るようにした令外官
まあ中納言は直ぐに復活したけど安麻呂自身は中納言を経ずに参議から
大納言に昇任したけど
>>408 ども。確かに普通はつかないとあったけど
すぐ後についた例も出ててよくわからなかったので。
義昭が将軍になった時が四位だから清盛なんかの
異例さはすごかったってことか。
律令位階制度は実施当初から、
五位以上は原則として一階ずつ昇進、
六位以下は数階昇進がわりと普通にある。
と言う運用だったらしい。
もちろん、出自がいいほど飛ぶ階数が多い傾向が。
恩典として五位以上で時々一階飛ばすようになってきて、
それが正四位上と正五位上に定着してきた。
上のランクである三位、四位への最後の関門である、
正四位上、正五位上を省略するこが喜ばれたんじゃないかとか。
黒板伸夫氏の「平安王朝の宮廷社会」だったかな。
確かそんなことが書いてあった。
足利将軍家は従五位下左馬頭、従四位下中将で参議、従三位大納言
と飛ばして昇進することが多い。
まあ正五位下は経る場合も多いけど。
この時期は周知の通り位階インフレ状態で、
従三位の大納言や従四位下の参議はまれ。
なお低い位階で高い官に就任するのはエリートの証っぽい。
位階は上がるけど、いつまで経っても官は据え置きと言うのは、
摂関家若年の二位中将とかは例外で、普通は非エリート。
エリートとは、出自が良いか、寵臣、時期により外戚、学者も。
412 :
日本@名無史さん:2012/01/27(金) 16:57:36.43
源有仁は最初から従三位権右中将で翌年には権大納言だよ。スゴイね。
413 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 03:46:51.69
>>409 大宝令施行前後の安麻呂の人事に関する不可解な事の一つ
・直前に兄の大納言大伴御行が病死、中納言任命はその後か?(議政官は一氏から一人が慣例)
・中納言が廃止され議政官の地位を失うが程なく参議として復活
・大納言の定員を減らし中納言が復活した後大納言に任命
大河は見てないから解らないけど平清盛をヒーロー扱いするのは無理ない?
政治家として優れてるって言ってもさ権力争いに勝っただけで
なんか実績あるの?貴族から武士の世にしただけで民衆は無視されてる感じするんだけどな。
大伴宿禰安麻呂(元大伴連:?〜714:長徳の六男)
小錦中(683時点:正五位下又従五位上相当?)→大伴宿禰(684)→直広参
(686時点:正五位下相当)→直大壱(701時点:正四位上相当)→従三位(701)→式部卿
(702)→参議(702:この時点では職名ではない)→兵部卿(702)→大納言(705)→大宰帥
(705)→正三位(708?)→大納言(708)→正三位大納言・大将軍(没時)→贈従二位(714)
補任によると
従三位中納言(701)→中納言停止(701)→式部卿(702)→中納言(705)→大納言(705)→
大宰帥(705)→正三位・大宰帥停止(708)
中納言:大宝元年(701年)3月21日の大宝律令の施行で廃止されたが、慶雲2年(705年)4月17日に令外官として復活
※補任の701年の中納言就任&停止(この間わずか二日)については真偽不明としておく。
安麻呂が準大納言格ないし、時期大納言候補者筆頭であることを明らかにしておく為に
あえて二日後に消滅する中納言に任命された可能性もあるが、そうでなければ不自然。
※続紀による705年、708年の再度の大納言就任は、705年の方は中納言だったのではな
いだろうか?この間大納言であったことが確認できる記事はないようだ。
病気などで一時活動できず辞任していて再度就任したと言う可能性もあるが。
生年については645年説もあるようで、経歴的には自然だが、兄とされる御行の生年が補
任での逆算だと646年になり、兄弟順と生年が矛盾する。
少なくともどちらかの生年が誤りか、あるいは兄弟順が違うのだろう。
あるいは、母の出自などの問題で、年少でも御行の方が兄とされた可能性も?
672年の壬申の乱時点で年齢的に既になんらかの冠位を持っていたとは思われる。
そしてこの時の功績で小錦下(従五位相当)あたりに昇進していたものか?
スレ違いだけど前に大伴氏について愚考したときのメモ。
>>414 もちろん天皇に逆らったと言う点のみを抽出
それでヒーロー像を描いてるのだけどそれは
民のためであったということにしておかしな史観に
結び付けてるね。
最初は「武士」連呼だったけど「面白きなき世」になって
次は「貧しい民のため」にしてくんじゃないか。
結局朝廷たちが搾取してる悲惨な中世だから
そこからの解放は民衆のためという思想なんだろう。
貧しい民のために何かしたのかな?
朝廷が搾取してたのを民衆に還元したんだろうか?
ていうか民衆がちゃんと保護されたのって何時からなんだろうな。
江戸時代だと町人文化とかあったと思うけど
鎌倉や室町だとあんま前面にでてこないよね。
>>417 一応秀吉、家康の「惣無事令」を上げる人が多くて
家康の場合は特に「民を守る」というのが明確になってる。
ただ食料の生産者である農民さんたちはそんなにひどい扱いは
受けてなくて搾取したのを還元と言うよりは
収穫物をこっそり隠してりちゃんとそのまま食べてたりしたはず。
これは古代からそうだし人口が増え続けていることからも確実だろう。
清盛がどうしようとしたかはすぐに死んでしまったから謎だが
後の頼朝がしたことの「先鞭をつけた」というのはやはり結果論で
両者を武家社会の先駆者というのは難しいところ。
このあたりはなんとでも描けるからなぁ。
まあ常識有る人間ならよほど追いつめられない限り、
再生産不能なほどの搾取はしないよね。
幾ばくかは余剰を残して生産意欲向上に努めるだろう。
際限ない収奪は結局は自分の首しめるだけだし。
時たまそれがわからんバカが、たまたま権力を握っちゃったりするのが怖い。
民衆が一番苦しんだ時代っていつだろう?平安もそれなりにきつかったのかな?
室町幕府は酷かったみたいな文章を見た覚えがあるんだけど。
室町は飢饉のでっかいのがあったからその話じゃないかな。
京に流入してきて餓死多数とかそういう記録があるから。
一番苦しんだ時代・・今現在だったりして。
422 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 08:30:36.91
神社作ったからってなにかプラスになったわけでもないし。
あの神社のおかげで町が発展したとかあるのかな?
けど強引な遷都とかもしてるからなあ。
423 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:15:20.50
政治家として評価高いの?清盛って。頼朝とか時宗とか尊氏とかの方がすごいんじゃないの?
424 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:56:35.93
ここホントに日本史板か?
よその板でバカにされて泣いて逃げ出してきたドラマのアンチが
よりによって日本史板で非国民級の無知を晒してるだけ。
まっとうな日本人はお前らほど馬鹿じゃないってことが理解できず
「韓国ドラマで王家って言ってるぞ!だから大河は反日ドラマ!」
てなことを言えば賛同してくれる奴がいると思ってるんだな。
日本史板の住人がそんなバカと一緒にされて嬉しいはずないだろ。
日本人をなめるなと言いたいわ。
426 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:18:44.55
ていうか具体的にどこが素人発言なの?玄人なら訂正してみせてよ。
427 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:36:21.93
>>425 ここよりも、ヤフコメは、もっとひどいよ。
何度、論破されてボコられても、「王家は反日」、「犬HK」などという書き込みがされる。
しつこさは、半島人のそれに似ている。
ステマ部隊が、書き込んでるとしか、思えないぐらい。
きゃつらの目的はなんだろね。
428 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 03:25:39.44
タイラノキヨモリは琉球語で言うとテーラヌ・チュームイになるのかな?
430 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 14:54:46.85
神戸・清盛隊について。
431 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 00:19:39.62
大河は史実と比べればメチャクチャだな
同時代資料では
・天皇家を王家と言う例は無い
(王氏という言い方ははあるがこれは賜姓源氏等のこと)
・落胤話も古くは藤原不比等や近くは豊臣秀吉と同様な単なるヨタ話
竹内説などが広く流布したためかここのレスを見ても無批判の人が多いようだが
学問的には定説でも何でも無い
所詮フィクションだから個々のエピソードの創作は可だが
歴史の骨格は崩して欲しくない
> (王氏という言い方ははあるがこれは賜姓源氏等のこと)
?
まあ、在源平等を含む用法もないわけではないようだが、
王氏爵等、本来の用法では臣下は王氏に入れないのでは?
大河も視聴率落ちてきてるみたいだなあ。
平将門とかの方が解りやすくて面白くなりそうだが。
434 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 19:30:37.17
>>333 既にドラマでは怨霊になりかけてるけどな
四国に流されたんだっけ
崇徳さんのターン巧かったな
「皇…太…弟…!?」
大河は清盛出さなければわりと面白い
というか清盛のシーンがただひたすらにつまらない
あのキャラ設定はあまりにもひどい。ただの汚い馬鹿やん
436 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 16:53:34.07
>>435 哀れにしか見えなかったけどな。
まぁ戦争になる前に伏線としてはいるんだろうな
あのEP
437 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 20:17:42.31
清盛の福原京だがなぜ貴族たちに不評だったか
438 :
日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:05:52.31
>>437 平安文学で、誰だったか、須磨に隠遁生活する羽目になったのを、
この世の果てにやってきてしまった、ってな乗りで描写してるのが無かったっけ。
当時の貴族たちには、摂津の南部すら、もう大辺境って感覚だったんだろうな。
今じゃ、京都〜神戸 とか 京都〜須磨 って、電車で何分だ?
・・・源氏物語のこと言ってるのか
>>437 ヒント:六甲颪
これは、平家物語にも記述があったはず。
京都育ちの人は、平安の昔から強い風がとにかく嫌い。神戸は風が強いんだよね。
明治初期に、江戸改め東京に引っ越した公家も、しばらくブツブツ文句を言っていた。
ていうかこの時代とかは大河でやりづらそうだね。義経とかは
天皇と敵対しなかったからいいけど。頼朝とか清盛なんてのは敵対しまくりだからなあ。
将門とかも大河でやったらしいがどうやったんだろう?
>>441 朝廷関係のややこしさでは源平合戦の比ではない南北朝時代も、
大河で扱っていましたが。
>>442 昔はそういうのおおらかな時代だったんじゃない。
もしくは戦後って事で反皇室みたいな風潮だったとか。
今たとえば平将門で反権力で皇室に抗うヒーローみたいな描き方は
できないだろうし。
南北朝なんて楠正成も足利尊氏もどっちも出来なさそう。
両方の主義がうるさいからね。
いっそ更にさかのぼってスサノオとかやればいいのに。
>>443 なんで出来ないという風潮にもっていこうとするんだろう?
ほんの24年前はこんな在日エセウヨのなんちゃって治安維持法みたいな空気は無かった
神話扱うなら日本国最高神天照大神をやるべき
>>444 441や443を読む限り、彼はそういう「出来ない事」を肯定しているのでなく、単に「出来ない」と指摘しているだけだと思うけど
風潮というか、皇室アンチが増えそうな時代は描きにくい、という空気が今の日本社会にあるのは厳然たる事実
国民が非常に保守化してきているので、リアルに描くと「怪しからん!」とかって抗議が山のように来そうなんだよね
人は加齢により保守化する生き物だが、少子高齢化社会という事は、高齢者の比率が増える事を意味する
またグローバリズムに対する反発としてのナショナリズムの高まりと、経済大国化した事による保守化がそこに合わさり
史上空前の保守化、右傾化、伝統主義者の復権といった現象が起きてる
ただ、将門を
>平将門で反権力で皇室に抗うヒーローみたいな描き方
くらいなら流石にセーフだとは思うけど
これは史実だから
たとえば、白河天皇の男色や、次々と女性に手を出した事を清盛で忠実にやったなら、どんな反応が来ただろう?
それこそ右翼団体の街宣車がNHKを取り囲むとか、保守派の国政政治家が「怪しからん」と公然と批判した気がする
そしてまた、国民自体が、余りの醜態に、これはやりすぎだよねと(主に史実を知らない人を中心に)
右翼や保守政治家を支持するような空気ができたと思う
正直なところ、男色や好色を描かれたって、気持ちの良いものじゃないし、吐き気がする可能性だってある
そもそも男色について日本では伝統的に普通の事だったと言っても、それを知らない国民が非常に多い
そういう状況で男色を取り上げたら、下手したら白河天皇が変態だったと誤解や勘違いする人だって出てくる
また当時の貴族はバイセクシャルが滅茶苦茶やってたので、史実を忠実に表現したら、とんでもない事になる
扱うのが非常に難しい時代だというのは、事実でしょう
>>445,446
その声のやたらでかい保守派っていうのは
保守を騙る外国人(今なら半島系が主だね)じゃないかな?
ちょっと危険な風潮だよね。異常なので今からでも矯正すべきだ。
だって武家主役の過去大河にだって
いかにもひ弱っぽくて変態傾向気味に描かれる天皇は
いくらか出てきてるし
歴代天皇はキャラ立ちしてて色々いたよね〜ってのは
日本史オタクでなくてもどこかで頭に入ってる常識だもん。
一体何を騒ぐのかっていう。
皇室というものを過剰に崇め大声で叫ぶ事で
自分を日本国民と偽りたい輩であるか、
いちいち騒ぎたてる事で皇室をアンタッチャブル領域にして
あわよくば犯罪の温床にでもしたいか。どちらかだよ。
今回の大河は武家貴族の解釈がめちゃくちゃだけど
白河の好色はまあ普通に描かれてたし(主に大賢門院関係で)
男色は天皇ではないが頼長さん界隈で避けては通らんだろうし
(犬HK的には他番組の頼長特集見てもタブー視してないし)
だいたい戦国時代があれほど大河その他で映像化されてるのに
男色知らん国民なんているの?
もろに描写しないでも仄めかす程度なら
何も問題なく過去作でもやってきてる。
結論としてギャアギャア騒いで不敬ごっこする奴はがいこくじん。
訂正です。
×大賢門院
○待賢門院
>>446 どんだけゆとりなんだ>街宣半島人に保守気取りの政治家
清盛のあのありえないキャラ設定にすら呆れて無視するのが日本人だよなあ
>>447、449
う〜ん、それは違うと思う
ナショナリズムが高まって右翼・右派が増えてるのが事実なわけだから
一昔前みたいな893の似非右翼が喚きまくっている状態じゃなくて
日本人の右翼や右派(潜在右翼って言い方をするけど)が非常に増えてる
街宣右翼に平気で死ねとか国賊とか罵る若者が普通にいるからね
正確にカウントを取ってるわけじゃないのではっきりした数字は不明だけど
今、日本人の占める右翼・右派の割合は2〜3割はいると思う
(90年代終わり頃か00年代初め頃の天皇制のアンケートで右派が15%越えてた時が
あったので、今はもっと増えていると考えて然るべき)
これが1990年代くらいなら1割強程度で殆どいない状態だったわけだから物凄い伸び方
しかもその増えた右翼・右派は40歳以下の若い世代だから
はじめは小林よしのりやマスコミの影響で右傾化する若者から始まった流れだけど
今は完全に定着していて、若者は右翼や右派になるのが常道化してる
逆に左翼・左派は減少傾向が続いていて、今は恐らく2割いない
若者達が左翼・左派になるのでなく、右翼・右派になってるから
新たに左翼・左派になる若者が殆どいなくて、新陳代謝が止まってる
左翼・左派の高齢化が進んでいるような状況だな
40歳以下の若い世代に限定したら、ほぼ壊滅状態じゃないかと
段々、戦前に近づいて行っていると考えた方が良いんじゃないかな
歴史における皇室の扱いが腫物に触るものに変わっていくのも時間の問題
まあネットの影響も大きいだろうけどね。
批判は拡散しやすくなったし。
物語とそういう主義主張は別物であるべきなんだけど。難しいわな。
イギリスとかだとどうなってるのかな。向こうは王朝が変わったりしてるから
大丈夫なのかね。キリスト教とかもどうなんだろう。かなりヤバイ時期あったと思うが。
そういうのって映画化できてるのかね。
>>450 だからそれが半島疑似右翼の煽動に無知層が乗っかってるだけの
似非ウヨだって話では?
なんでも不敬罪だなんだと火病る連中、あれは右翼などではないよ。
>>451 悪徳司祭や不貞修道院のトンデモ史実、伝承は事細かに残ってて
殆ど映画化されてるけど知らないの?
英国王室も色んなスキャンダルごと映像化されてますけど。
ガチウヨなら平成両陛下についてはまず不支持の筈で・・・まあ右翼だからこそ表明しないだけだ
今更右だの左だのと言いだす時点で確実にそれすら理解できてない
ゆとりをだまくらかす事から国家侵略がはじまってたんだなあ。馬鹿を担ぎあげて腫れ物扱いにすればやりたい放題できるからな
ペテンに乗せられちゃったヒットラーユーゲントみたいなもん
昭和帝でさえ映画化されたのに今更インモラル王朝時代がアウトとかありえんわ
世界的大ロングセラーの源氏物語で
主人公がおのこ遊びしてるというのに
源平代表格が稚児上がりだというのに
ちょっと言ってる意味がわかりませんね
>>445
>たとえば、白河天皇の男色や、次々と女性に手を出した事を清盛で忠実にやったなら、どんな反応が来ただろう?
単に白河天皇が主役じゃないから描写が限られたものの
当時としても超タブーだった白河×たまこもやってるし清盛自身が白拍子腹設定だし
これでなんか抗議でも来たんでしょうか
来たとしてもこんなのに抗議するとかいくらなんでもバカジャネとしか思えない
しかし折角の保元平治の乱もあの清盛視点が混ざるとなると萎えてしまう
清盛氏はなるべく控え目に出てきてほしいな…
大河やるなら後白河主役がいいよ。
>>453 連中にとって必要なのは国家元首としての天皇であってあやふやな存在の天皇
ではない。個人の人格は問題ではない。過去の歴史同様天皇を支配者の神器
にするのが目的なんだから。
このスレ、現実を認めようとしない、あるいは見ようとしない極左が多いな
街宣右翼が左翼を偽装してネガキャンしてるのかと思うくらいに現状認識が酷い
ただ左翼が多く集まるスレに行くとこういう論調の人も多いので
必ずしも偽装してネガキャンしてる人達とは言い切れない所があるのも事実だが
本気で書いてるなら、左翼が受け入れられず、社会から拒絶されるのも当然だと思う
まずは半島がどうのっていう街宣右翼並みのロジックをやめる事からだな
462 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:35:22.61
源平関係を知りたいんですがどのへんの時代から
調べればいいですか?
源派英初心者にお勧めの本とかありますか?
まずお手元にあるだろう高校の日本史教科書で通史の勉強したほうがイイ
大河『平清盛』にて
「王家」にヒスったのが半島人とナンチャッテ右翼
武家貴族描写と池沼清盛と汚い画面に違和を感じたのが日本人
左翼も糞もない
466 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 03:32:07.70
史実では平清盛は歴史を一こま動かした政治家、武将
大河の様な矮小な人物では断じて無い
この番組のプロデューサーの見識を疑う
もっと言えばNHK自体の問題かも・・・
>>466 同意です
あの清盛・・・マツケンもやってて疑問に思わないんだろうか
NHK含めて現メディアは不自然なまでに偏向気味だけど、歴史バラエティあたりを見ていると
あんな清盛ならまだ民放特番か民放ドラマの方がまともにアプローチできる気がする
468 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 05:13:15.65
個人的な見解だと清盛って政治的な能力に長けた人物ってイメージだしドラマの清盛には違和感を感じる
それと白河の隠し子だって決めつけるのも好きじゃないな
白河の隠し子説をドラマ版に組み込む試み自体は構わないと思う
でもまるで活かせてないね
ドラマの清盛に引き摺られて西行も義朝もなんかおかしい
江も酷過ぎて驚いたが清盛も肝心の源平が酷過ぎる
これで突然来年の大河だけマシになったらそれもそれで胡散臭く感じるだろうな…
結局権力争いに勝っただけだもんな。清盛。
なんか国民のためにしたの?ていうか当時国民って概念はないのか?
一部特権階級の権力争いが全てといってもいい時代だろうに
国民の為に〜なんてピンとこないなぁ。
そんでその最終的覇者は後白河じゃないかと思うが…頼朝でもいいけどさ。
>>469 義経の大河もラストは義経伝説をある程度汲んだ形になってたね。
>>464 普通に見苦しい
ってかやっぱあんたらの正体って左翼を偽装した街宣糞右翼か
左翼にしては言動が変だと思ったんだ
>>465 >「王家」にヒスったのが半島人とナンチャッテ右翼
そうでもないよ
やっぱ皇室を王家って呼ばれたら違和感があるし、正直いい気もしない
ただ取り扱う時代が皇室が乱れ公家達も滅茶苦茶やってる時代なので
あえて王家と呼ぶ事でファンタジー感を持たせているのだと解釈する人は多い
そもそも皇室を王家という権力者=王権の保有者って感覚で見てる日本人自体が少ない
象徴天皇制の影響もあるが、日本人の感覚的には、皇室は神主さんの家系であって
宗教家と王室とを兼務する特殊な家系って認識が強い
だから王権の保有者という「剥き出しの権力者」を意味する王家には強い違和感を覚える
普通の日本人であればね
>武家貴族描写と池沼清盛と汚い画面に違和を感じたのが日本人
王家を連呼する事に不快感を覚えた人達と顔触れはどっちも同じだぜ?
あと王家を連呼した事に国民が不快感を表明した事については
右とは全く逆に、皇室を権力とじかに結び付ける呼称への反発・心理的抵抗感もある
皇室を権力者や王家の家系と認識してる人ばかりじゃないんで
だから右からも普通の国民からも批判される事になった
とりあえず、ドラマ解釈の大論議を延々やりたい人たちは、
テレビ関連かどっか、よそのカテでやってくれ。
このスレは、基本的に史実上の清盛を扱うところだから。
478 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 19:50:53.93
脱線させてしまいすまん
清盛って戦争強かったんかな?
貴族ってイメージしかないわ
>>477 まあテレビの影響は大きいからね
視聴率は11%かも知れないが、録画して見てる人も含めれば数字は上がるし
それに10%あれば単純計算でも1200万人だからねw
>>473 だからどこから左翼が出てくるのか。言ってる事むちゃくちゃですよ。
それこそ在日ネトウヨの似非愛国厨が必死だなとしか思えない。
>>474-745 日本人として義務教育を受けてきてる層がそこまで無知にはなれないよ。
清盛は戦争というか戦略勝ちの切れ者のイメージだった。
一門の最終ターンは平安貴族を模した栄耀栄華のイメージ。大河はブシブシ言ってるけど…。
481 :
日本@名無史さん:2012/04/04(水) 00:30:35.28
清盛坐像の顔つきからしてあれは出来る男
この期に及んで大河の話になって非常にすまんのだが
大河ドラマ義経では安徳帝を弟とすり替えて守貞親王が沈んだ設定になってたのを今知った
ついでに渡清盛が個人的にはイメージに近かった
>>480 さすがに五月蠅いわw
左翼に成りすまして暴れんのもその辺にしとけよ
>在日ネトウヨの似非愛国厨
左翼がこんな事書くかボケ
だから左翼なんてどこにもいないって話じゃないの?
何故
>>483に日本語が通じないのかの方が純粋に疑問だが他所でやってくれ
どこかで互いに誤解してね?w
でもスレ違いでおねがいね
>>484 480は
>在日ネトウヨの似非愛国厨が必死
と書いてるんで、必死と書かなければならないところまで、心理的余裕が失われ、追い込まれてる事が読み取れる
つまり左翼を偽装した右翼で、左翼が嫌われる様にわざと陰湿なレスを書いていたという指摘が当たりだったんだろう
また程度の低い街宣右翼が常駐してネット上で政治活動してるのはよく知られた話
慌てて中道や政治色のない一般人を偽装しようとしたが、それにも失敗して無様な醜態をさらしただけ
日本語が通じてないのでなく、真意を読み取って対応してるだけ
街宣右翼というのは頭の悪い奴が多いので、こういう馬鹿な真似をするんだよ
最近は借金苦で首の回らない人を構成員にスカウトしたり、人材の枯渇が酷いらしいからな
誰が右派だか左派だか知らないけど
スレとまるで関係ないイデオロギー論議したい人たちは
よそのカテでやってくれっての。
売り言葉に買い言葉でお互い引くに引けないのか知らないが、
ここはそういう議論するためのスレじゃないんだってばよ。
どうしてもこのまんま続けたいってんなら
どっかよそのカテに移ってからやってくれ。
まるで空気読まずに申し訳ないが長文の人は一貫して何が言いたいかさっぱりワカラン
思うに
>>486さんは
街宣右翼の中の人達=在日と部落民で構成された反日集団
というもはや大前提な実態認識が無いのでは…だから延々食い違ってあらぬ方向に暴走してるw
現大河はスタッフがあまりに不勉強でどうかと思うけど
伊東白河〜三上鳥羽〜ARATA崇徳〜松田後白河ラインは面白い。
もっと脚本演出に恵まれてたら良かったのにね。
了解。
493 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 02:43:17.05
俺の見解(ほとんど通説と同じだが)
伊勢平氏は白河によって先に摂関家との結びつきで独自の軍事貴族に成りあがった清和源氏
との対抗上引き立てられた(正盛、忠盛)
その後皇室、摂関家、院近臣などが分裂抗争に向かい取り敢えず安定させたのは清盛
しかし折角手にした権力を継続させる事までは出来なかった(従来の藤原氏的やり方では)
孫の代で滅んじゃうしね
最後なんで目を瞑ってくれw
>>489 それは違う
『右傾化が進行して、ごく一般の国民が右翼紛いの発言をするようになってる』
これは論客として知られる一水会の鈴木邦男の言葉
筋金入りの右翼だった鈴木から見てさえ日本の右傾化は驚きを隠せない水準にある
他の日本人右翼(街宣系じゃないガチもん)も同様の発言をしている
『国民が右翼よりもっと強烈な発言をするから、右翼が埋没してしまう』
(ソースは数年前にネット配信された右傾化に関する新聞記事)
公安警察が潜在右翼を問題視し始めたのも、それだけ右翼が増えているから
小林よしのりにせよマスコミによる拉致問題を利用した右傾化煽動にせよ
煽動は一過性に過ぎないのだから、右傾化煽りが減った今、右翼の増加に歯止めの掛からない現状の説明がつかない
先進国化してジャパン・アズ・ナンバーワンという言葉が流行った頃から
欧米崇拝の退潮と日本と欧米を対等視する姿勢(=欧米コンプレックスの解消)
日本の文化や伝統、価値観や歴史を優れた物であると考え再評価する風潮が強まり
日本という国にプライドを持つ国民が増加した
こういう現象がバブル以降発生し、時代時代で強弱はあったにせよずっと続いている
国民の右傾化の下地は、日本が経済的に成功する事によって日本は優れていると考え
文化や伝統、価値観や歴史を優れたものだと自負し始めた事で形成された
そういう土壌にグローバリズムによるナショナリズムの高まりが発生した
結局小林が出なかったとしても右傾化は進んだんじゃないかと思う
右翼が増加している件について認めない人は
グローバリズムによるナショナリズムの高まりについてスルーしてる
その上で街宣右翼が暴れているだけだ、騙されているだけだと主張してる
スルーしている事が、認めたくないという証であると思う
また政治的には無関心な層や中道派であればこういうスタンスは取らない
しかしその手のガチ左翼が街宣右翼は在日とか部落とか書く事は絶対にない
だから左翼に成りすました奴が暴れてたんだろうと看做したわけ
思うに↑は典型的なコミュ障だな
497 :
日本@名無史さん:2012/04/06(金) 11:41:48.27
清盛を経済面から斬る。歴史観まあまあ面白かったな
すまん歴史館
愛国心即右翼とか…。
この思想の無さが怖いね。
しかしよ、考えてみると平清盛と今上天皇って血の繋がりあるんだよな・・・
なんか感慨深いわ
それこそバリバリ女系だからネトウヨの出番だねw
宋銭が鎌倉の大仏に
>>501 源頼朝の血は3代で完全消滅だしな
(男系孫まではいるのだが曽孫は男系女系とも0人)
平清盛の血は女系のみ残った
>>496-497 どうして一人で二つもレスつけてるんですか?
しかもageとsageの使い分けで、別人っぽく見せる偽装までして
>思うに↑は典型的なコミュ障だな
これは中身(反論)なき中傷だし
>浅いね。
これも似たようなものか
まあ成りすましだったとわかったのはよかったですが・・・
長文の人は何が言いたいのか本気で分からないのだけど。果たしてこの人の話が通じてる人はいるのだろうか?
しつこく暴走して自己完結したならしたで、もう退場したらどうか。成りすましって一体何と戦ってるんだ。迷惑だよ。
自国を愛する気持ちぐらい皆大なり小なり持っていると思うが
それは右翼だ左翼だで語るような皮相なテーマではない
だから
>>446さんには同意できない
日本史に向き合うならもっと冷静なスタンスがあってこその筈
>>505さんが中傷と受け取ったその指摘は妥当だよ
変人白河やネオ変人後白河に限らず
歴代天皇物語の映像化くらい別にいいじゃんね
賢帝は賢帝に描き愚弟は愚帝に描く
気持ちの悪いタブー化やアンタッチャブル化の方が問題
509 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 22:42:59.87
清盛の時代ってさ中国とかが遠くなってるよね。なんでだろう。
大化の改新の頃ってさ。白村江の戦いとかで。もう中国とか韓国とかと
戦いまくって、交流とかもはげしかったのに。平安にはいるととたんになんか
落ち着いちゃってるんだよね。
清盛は宋と貿易してたらしいけど。どれくらいの交流だったんだろうな。
数件上のレスの人たち、もうやめろって。
スレ趣旨と関係ないイデオロギー論争蒸し返すなよ。
他カテでやってくれ。
>>509 国内流通に宋銭を起用するくらいの交流かの
他国とバトルじゃなくて貿易してる時は基本落ち着いて見えるんじゃないかな
513 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 13:45:12.95
中国文化とかって清盛は取り入れたりしてたのかな?
主に軍事関係の。あの時代はまだ中国の方が軍事的にかなり上でしょ?
514 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 22:28:36.78
365 :日曜8時の名無しさん:2012/04/09(月) 05:22:20.13 ID:7reyXJbg
>>360 ちなみに史実だと
熊野詣の護衛についていった家盛は
伏見の南あたりまできたところで「馬上から崩」れて「突っ伏し袴血塗ら」れて「しつまい(意識不明)候」
腸管が破れて下血して袴を汚すほどだったらしいw そのまま失血死した。
前日は鳥羽に泊って、藤原頼長の酒宴に招かれており、未明に平家の輩のもとに戻ってきている(二十四段 熊野詣記)
その時点で出血していたが、穢れを忌み嫌う熊野詣の護衛ということもあり、出血を隠していた。{伏見森宮記}
また、神社への参詣途中での女性との性交は固く禁じられていた。(女性は生理があるため穢れとされていた)
・・・・・・・・・・・って、ホントなの?
515 :
日本@名無史さん:2012/04/11(水) 22:05:24.90
, -───-= 、
___ / \ どうだ?藤原摂関家流「折檻」を受けてみないか?
ノ.し ̄ ̄ ̄ ̄ ' ‐ 、 / \ あああん?
/"⌒ \ / ヽ 口ではどう言っても
/ ; 家盛 、 \ / 頼長 ヽ 身体の方はもうその気だろ?
/ ,,、 ∪ )(_ ヽ 丶 常識的に考えて・・・
/ `\、ノ ⌒ ` ヽ 、 l
l ( ● )" (、_ニ-‐ ̄"´ , i _ノ'′ `、 |
| "⌒゙ ( ● ) _ノ( | ● ) "ー-- /
\ (__人 )"⌒゙` ⌒ヽ l (● ) /
,>、 ヽ `"ソ′ ; / j ///// /
/ \ )r‐r‐/ ∪ /´⌒`゙ヽ-‐'"ヽ. ) /
/ ヽ `ー-'′ ' i` ー-`ー-一'′ /、
/ `゙ー-- l /ノ.:.\
/ 、 ``ー- 、, -一 " 、 |! ,//.:.:.:.:.:.:.\
/ ,⌒) /" |! -= - /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.\
/ /r⌒) j、 / l!`ヽ /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::ヽ
/ / { ⌒) ノ、 / |l!---‐一´.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::|
>>513 清盛代ではないけれど、壇ノ浦では宋の大船を実戦投入
御座船などには使ったけれど、それは必ずしも実戦に投入したとはいえないんじゃないかね。
ま、青盛の海賊船みたいに艪もこがずに風もないのに動く大船なら別だがw
518 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 03:27:28.58
在日やら同和はあまり歴史に詳しくないからな。すぐボロボロになる。
「あんたら」www
史実の清盛ファンは大河に不満ないのか
不満だらけだよ
あんなの清盛じゃないし時代考証の酷さは目を覆うばかり
ただ大河でも歴史ドラマでもなくて歴史バラエティなのだと考えれば
時系列の見直しくらいには役に立つかなあ
でもたまに見かける民放の歴史バラエティ番組の方がよほどお勉強してる気がする
扱う時代がちがうけど神奈川ローカルの戦○鍋を思い出したw
523 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 22:36:30.28
ていうか歴史バラエティとかみたいのをDVDにしてほしいなあ。
ツタヤレンタルとかで「その時歴史は動いた」」とか見てみようかと思ったら置いてないでやんの。
VHSの時はあったと思うんだが。
まだテレビ局に金があったときにCGで再現したりしてた豪華な歴史検証番組みたいのを
もう一度みたいもんだ。
あーそれ見たいね
>まだテレビ局に金があったときにCGで再現したりしてた豪華な歴史検証番組みたいのを
>もう一度みたいもんだ。
平安貴族社会や戦国武将たちの男色までリアルに再現!
その時歴史は〜に比べたら格段にゆとり風味のヒストリアだが
頼長特集で結構念入りに頑張ってたよ>平安貴族の男色
戦国大河だと有名どころの小姓役は代々美形俳優が演じてるし
それほどタブー視はされてないと思うんだけど
流石にドラマ内の人物評で蛍侍などの単語出したら物語が偏ってしまう
527 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 08:31:34.93
しかし、大河の頼長はチトショックだたよ
よりによってモーホーとは・・・
平安貴族は女房の元に通って詩読んで、もっと気高いものだと思ってた
頼長のは有名だよ
源氏の側から、庶民の女を宮廷に入れたようですが、
手塚治虫も「火の鳥」の中で、庶民の女が鳥羽上皇の嫁?に側女みたいな感じで
鳥羽上皇近くに置く、というのを描いてます。
これって、平家物語とかに出て来る話なのですか?
531 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 21:42:43.09
>>528-529 最近知って、カルチャーショック受けた
私事だけど
中高生のころ、同性(男)に変なところ触られたり押し倒されて抑え込まれたことあるんだけど
掘られはしなかったけど、あれも冗談じゃなくかなりヤバかったのかな?背筋が凍る
ラッシュ時、都内の電車内でケツ触られた経験もあるんだが、あれって本当に声も出せなくなるよな
ケツの割れ目なぞる様に触りよった・・・
電車内で触ってきたのは男か女か分らんが混雑時合意もなく触るのは卑劣だ、やられる方は本気で怖い思いをしている
マウスを狭いケースにたくさん入れて、ストレスを与えるとオス同士で交尾しだすらしいな
533 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 07:59:24.89
>>530 常盤の話?
「平家物語」では中宮藤原呈子が入内する際、
一般庶民千人の中から一番の美女として常盤が選ばれ
雑仕女(下働きの下女)になったと書かれてある
大河ドラマのように源義朝が愛人を差し出したわけじゃないよ
(義朝の妾になったのは宮仕えを始めてから)
大河では常盤は綺麗な袿を着て宮仕えをしているが
実際の雑仕女は掃除、洗濯、炊事をした下働きなので
宮仕えをしていても服装は庶民と変わらない。
一般庶民が乞食レベルの描写で、しかもそこに受領階級がうろうろしてるから何か変
大河義経の時、見かけはこざっぱりとしたいかにも良家の下働き風の綺麗な常盤が
子連れで往来を歩いていて通りかかった馬上の義朝と話す場面があったけど
あれが実際の身分に近いんだろうなーと思ってた
義経冒頭の常盤は袿姿
義朝の側室になってからはそこそこいい暮らししてただろ
そうそう
「義経」は平治の乱から始まってたから
常盤は最初から三人の子供連れて軽く移動中って感じで住まいは映らなかったが
第○夫人程度の装いはしてたね。
大河話で悪いけど「清盛」は相当豊かな筈の平氏がいつまでも小汚いし貧乏臭いし
物売り女を蒸し風呂にも入れずメイクアップさせるし
頼むから過去大河くらい見てくれー。ミキプルーンさんが頼朝やってたばっかやんけー。
539 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 17:19:25.00
>>538 清盛以外の平氏はこざっぱりした格好してるので、
清盛は「格好に無頓着な無頼気取り」という演出という理解でいる。
親切じゃのう
>>539 そうかー…小汚く感じるのは煤ドーランの所為かなあ。
承久の乱あたりを大河でやってくれよ。
「草燃える」でやったお
別に虐げられてるわけじゃないのに
なんで朝廷敵視してんだろね大河の清盛は…
ああいうルサンチマンの塊みたいな感覚を抱く武家なんて変だ
父忠盛&義母宗子は二条天皇の乳父・乳母だったのだし
むしろこの頃の平氏は天皇家にゴマすりまくりだよね
清盛だって義妹の滋子が宮仕えに出てくれたおかげで
出世の糸口つかむのに
546 :
日本@名無史さん:2012/04/17(火) 21:53:55.06
547 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 15:30:41.75
>>544 この時代は王家がまだ権力持ってて貴族との利害関係がナマで絡んでるくるから、
無条件で天皇や親王、上皇、法皇を敬愛してる奴の方がよっぽど少ないだろうな。
いるとしたらかなりの田舎者だ。
大体、藤原摂関家でさえ天皇利用して権力掌握することしか考えてないし、
院の近臣だって出世がしたくて仕えてるのだろう。
>>547 もしかして外国人乙なのかもしれないけど
朝廷が政治の中枢だった時代に無条件の敬愛なんかあるわけないだろうが。
朝廷はずっと利害絡みの権力闘争の場だったんだから
それこそ朝廷の後ろ盾で出世して一門繁栄の基礎も作ったばっかなのに
まるで一向一揆の百姓がお上を敵視してるみたいな下賤臭い清盛像がおかしいんだよ。
>>544>>545が正しいよ。
突っ込み所満載
>藤原摂関家でさえ天皇利用して権力掌握することしか考えてないし、
>院の近臣だって出世がしたくて仕えてるのだろう。
あたりまえじゃん・・・
バリバリ飛鳥奈良平安時代の続きなのに・・・
大河の半島スタッフちゃん達は平清盛ちゃんを貴族なのに民衆側で打倒王制に立ち上がるベルバラヒロインかなんかと混同中
ファンタジーすぎるw
平安→鎌倉が貴族から武士の世になっていくと聞いて
その語感だけで力関係図を思いっきり勘違いしたんだろうな
無論無条件の敬愛wとか抜きの次元で
>>548,549
当たり前のこと言ってる奴なに叩いてんの?
>>548 朝廷の後ろ盾で出世して....X
院を利用して出世して......○
朝廷のシステムで平家ごときが出世できるわけないだろ。
555 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 18:25:09.43
>>552 無条件の敬愛とかネットウヨか?
院政は女性つながりか男色つながりで政治が行われてる
それはドラマの通りだろうがw
愛国もいいけどもっと勉強しような
558 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 18:37:34.99
>>556 武士の祖先は武装した納税拒否者が摂関家や皇族に取り行って
できたものと言って過言ではない。
平家はそれが天下取った最初の例。
559 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 18:44:16.45
>>558 武士は納税拒否者ではないよ
武家平家や武家源氏は院や摂関家の用心棒が始まりだし
そもそも平氏も源氏も元をたどれば天皇の子孫で貴族の一員
・・・分かってるよね?
大河清盛のルサンチマン描写がありえないって話だろ
なんか最近話が通じ難いのは王家厨が紛れ込んでるから?
>>559 だよね
このちぐはぐさは一体何なんだっていう…
>>561 王家厨って詳しく知らんけど
レス付いた時にはまるで違う話になってて点目になるよ
>>559 納税拒否者だろうがw
そんなの常識だろ。
なんでわざわざ京都までいって用心棒やるようになったと思ってるの?
565 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 19:01:02.08
>>547 清盛は自分が桓武平氏であること、頼朝は清和源氏であることを誇りにしていたから
天皇家に対する敬愛がなかったというのは嘘になる
そもそも自分の出身母体なんだから
天皇家は腐ってる!俺が庶民代表として正してやる!というよりは
天皇家は憧れの対象でありその地を曳いていることを誇りにしていた。
義朝あたりが地方へ行ってちやほやされあちこちの豪族から是非にと娘を差し出されて
そこらじゅうで女をつまみ食いができたのも、義朝が「清和源氏」高貴な人だったから。
>>564 平氏や源氏は国司をやりながら用心棒もやってたわけだが
国司って納税拒否者なの?
国司が納税しなかったら、朝廷はどうやって税を集めてたの?
>武装した納税拒否者
半島脳でいくとこの捏造から武士VS朝廷という事になったんか・・・
捏造拡散はちょっと危険だなあ
公共放送で馬鹿やると色々面倒だね
>>566 もうね、高校入りなおして勉強してきなさいって感じ。。
多分日本史を学ばない文化圏の人だと思う
消防時代に通る道の歴史漫画さえ読んでないと思う
何か日本語が通じないんだよね
>>559さん
>>565さんに同意だけど
清盛についてじゃなく荘園について語るスレにした方が多分話が早い
573 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 19:45:02.45
>>563 王家廚ってのは大河ドラマで「王家」という単語に反応して今年から日本史板デビューした人。
ネトウヨも兼任してて「韓国、朝鮮、半島」という単語にも反応する。
概して大学教育を受けてないので、論理的な会話が成立しにくい。
大河で目くじら立てるべきポイントは王家呼びじゃあないと思う
575 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 19:51:38.42
思い切り男色描きすぎだろ
税がお金じゃないってことも知らないレベル?
577 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 19:59:25.94
お前らの方が大学出てないんじゃないのか?
般教についていけないレベルだろw
>>575 史実にくらべたら全然
しかしまた火病でごまかすのか
何度目だ
579 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 20:01:49.58
>>578 史実では白河法皇もバイなんだよね…
実況がホモ板になるわけだ
鳥羽さんも崇徳さんも後白河さんもです
581 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 20:19:12.67
>>577 その「お前ら」って誰よw
いや、わかってるけどさ。そういう論理性のなさが学歴の低さを露呈してるんだよね。
漫画でいいから読んでからこの板においでよ
583 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 20:23:47.36
>>581 という具合に清盛も高貴な方々に馬鹿にされてきたわけだ。
ムカつくだろ?
現実なんてそんなもんだ。
>>577は王家厨コリアンですといきなり自己紹介から入ったな
半島人は自分らがルサンチマンの塊だから
馬鹿にされてきた恨(ハン)以外のテーマが思い浮かばないんだろう
武家の魂からは最も遠いメンタリティ
586 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 20:41:48.32
>>585 武士道は1000年かかって出来たもの。
室町時代には皆武士は悪党とかす。
お前らの方が朝鮮人だろw
歴史には真摯に向きあうべき。
公家と武家にはっきり別れる前だと思うのです
民衆ってのが形成されるのなんて江戸時代からでしょ?
源氏でも平氏でも武家の家に生まれないと武士になれないんだから
誇りはあったと思うね
どこから武士道だよw
ほんと日本語通じないなあ
どうも時代を間違えてる人がいる
>>587 武家貴族という認識
いつもそう表記しないけど
593 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 20:56:19.25
馬鹿を晒してるのがいて結構面白い。
さらに面白いのは馬鹿は自分が馬鹿なこともわかってない。
>>588 大河に「民衆」という概念が持ち込まれてるからちゃかされてるんだよ
戦国鍋おわた
平安末期のバラもあればいいのに
>>559 元々家人を蓄えて暴力沙汰を繰り返していた連中が、用心棒として仕える
ようになっただけだろ?
「用心棒」でなかった連中も含め、どこの貴族も荒っぽい下っ端を抱えて
いた時代だし。
597 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 22:09:09.78
598 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 22:17:25.42
>>596 鎮西八郎の母親は遊女。
源義経の母親は白拍子
そしてその家人は荒法師に山賊。
平忠盛も海賊討伐で討伐した海賊を家人にする。
貴族といっても底辺だよ武士。
>>597 勝手に武士道と読み間違えて曲解した奴がお前じゃないの?
600 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 23:22:54.07
>>599 じゃなんだ良心的に武士道と理解してあげたのに
武家魂なんて造語作りやがってアホが
>>600 武家魂なんてログに無いが○○の魂と○○道って意味が全然違うよ
>>598 義経の母親じゃなくて側室が白拍子の静御前で
常盤御前は女御のところの下女じゃないすか
604 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 00:22:52.41
>>596 細かい経緯があるが、ざっとこんな感じ。
開墾して荘園領主になる。
↓
受領が租税を求めてくる。最悪の場合、荘園を奪い取りにくる。
↓
でも租税を払いたくない。荘園を奪われたくもない。
↓
受領より権力のある勢力(院、摂関家、その他)に寄進して、荘官に任じてもらう
↓
形式上権門の荘園なので受領は手が出せなくなる。脱税うまー。
↓
お礼に権門に物品を献上し、用心棒として奉公する(侍のはじまり)。
↓
常態化して権門との間に主従関係ができる。
中学校でも教える日本史の常識だぞ。
確かに保元の乱以降はかなり物騒な時代に突入するけど
>>596はどこのルクセンブルグだw
606 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 07:45:04.17
>>598 母親の身分が低いから理由だけで武士が底辺とは言えない。
だいたいあの時代は後白河法皇すら遊女に子供産ませ
生まれた子は法親王宣下を受けて皇室ゆかりの大寺院に入っている。
天皇や上皇といった高貴な人の前で白拍子という名の遊女たちが舞を披露するのが
当たり前だった時代。
607 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 09:10:44.16
>>604 中学校もろくにいってない低学歴に何言っても無駄だよ
法親王というのを考え出したのは、他ならぬ白河院なんだよね。
この制度が出来たおかげで生まれた子の行き先が確保され、
安心して子作りに励めるようになった。
609 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 09:14:11.76
>>606 白河法皇は例外だろw
あいつがやりたい放題やったから
叔父子で検索したらいっぱい出てくるみたいなことになってる。
当時母親の身分も重視されてた。これは江戸時代の武士太刀にも共通する。
8代将軍の吉宗の母親が漁師もしくは農民の娘だったので
将軍の座には不利だった。賄賂でなんとかしたけど。
610 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 09:24:00.69
>>609 江戸期以前の売春婦の地位って低くないよ?
>>606 社会的な「底辺」ではないけど
母親の身分が低いと「高貴」な人にはなれないよ
落胤としての高下駄とか扶助はあるけど
614 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 10:44:57.36
>>612 底辺の人を組織化してるのが武士たちだから低い身分扱い。
検非違使の下っ端どもは非人とかだし。
そろそろ清盛について語ろうよ
といってもコーンスターチ画面が浮かんじゃって萎えるなあ
617 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 10:57:26.25
>>615 犯罪者の摘発に犯罪者使うのは常套手段
お前なにいってんの?
検非違使は武士の官位持ってる連中がつく職で
身分は高くないよ。
誰が検非違使の身分を高いと言ったんだよ
王家厨はほんと日本語通じないな
大体こいつは最初からどういう括りで身分の話をしてるんだ
朝廷内での下層と社会全体での下層を一緒にするんじゃない
大河スタッフが言い訳しにきてんじゃないだろうな
619 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 11:44:22.58
>>618 お前ネトウヨかなんでそんなに必死なんだ?
お前が朝鮮人なんじゃないのか
三国史記読んで出なおせ。
>>534 うおお。
ありがとうございます。
常盤の話、ですかね。
手塚治虫のそのキャラ、何て名前だったか忘れてしまいましたが、
平家物語のその話からキャラ起こしたのかもしれません。
>>612 平清盛の母は庶民出身とされる祇園女御の妹とされるが
平家嫡男で従一位太政大臣までなった
平時子の母も半物というほぼ庶民だがこちらも従二位
いずれも安徳天皇の外祖父母
母親の身分が低くても天皇の祖父母になれる
検非違使はその長官である「別当」の身分が高いだけで、
実動部隊は四位の院の近臣が率いている。
別当は現場に出ないので、三位大納言あたりの高官が、
太政官と兼任している。
>>606 源氏や平氏は元皇族だったとしても皇族からリストラされたからこそ源氏や平氏になったわけで
法親王というのは皇子でありながら天皇にもなれず親王扱いされるかどうかも怪しく
臣籍降下しても貴族として栄達が望めないから俗世間からリストラされ法親王になるんだよ
それが嫌なら以仁王のように親王宣下もされず一生部屋住みのまま
>>622 院政を行うには母親の実家の力が大きすぎない方がいいからな
天皇生母の妹(義妹)や娘のおかげで高位に就くことができただけで
鳥羽天皇の暗殺を企んだ謀反人である僧・仁寛の妹ですら正一位になってる
美福門院の母・源方子のことな
626 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 15:46:59.47
>>534 大河ドラマ的にもまだ愛人になってないと思う。
今後の展開は義朝が常磐御前目当てに藤原忠通の屋敷に出入りして、
常磐御前とデキたりしてるうちに後白河ー忠通勢力に取り込まれていくと予想している。
ちなみに近衛帝は里内裏の忠通邸にいたので常磐御前もそこにいるはずで、ストーリー的に無理がないと思う。
>>602 女御じゃなくて中宮っすよ
そんな義経が「平家にあらずんば人にあらず」と言った平時忠の娘を妾にするんだから諸行無常っすね
父は頼長の愛人、母は遊女、松殿基房の娘を妻を持つ義仲ってのもなかなかのもんですが
>>624 法親王は十分に親王扱いだよ
親王としては最高位の一品に上った者も多い
親王になれなかった以仁王や臣下に下った平氏源氏よりずっと格上
平氏や源氏なれないから法親王になるのではなくむしろ逆
平氏や源氏になって国司程度の地位に就くより
法親王になって天台座主や御室となって一品、二品親王になるほうが
生涯皇族として安定した生活を贈れた
>>622 それは何でもありの時代に平家が栄えたから可能だった事。
安徳天皇なんていないに等しい存在だしな…。
630 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:00:55.91
>>625 「母親の実家の力が大きすぎない」ということで
平氏を外戚とする高倉天皇が選ばれたなら
高倉天皇の叔父を従一位太政大臣で執政者にした時点で意味ないわな
しかも平家一門軒並み出世、高倉天皇の中宮は清盛の娘
そりゃ平家だって常に画策してるから全て院の思い通りというわけにはいかんよ
632 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:17:05.25
話がどんどんズレていくが、
>>624は格の話じゃなくて能力の話じゃないかな?
そら臣籍降下して源氏になった皇子より法親王の方が格上なのは当然だけど、
大臣になって朝廷を切り盛りできる器量と自信があるなら、臣籍降下を望む皇子も普通にいただろう。
633 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:17:49.08
>>629 外戚の権力がすべてだった摂関時代だって
摂関の母親の両親(摂関の祖父母)なんて名前もわからない例が多い
母親の身分が高くなければ天皇の外戚に慣れないなんていうこともない
634 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:20:01.02
>>632 後三条源氏などもいたのだし普通に臣籍降下させても良かった
しかし院政期には巨大になった仏教勢力を抑えるために
自分の息子を大寺院のトップに据えて強訴を押さえようとはかった
むしろ能力を買われての法親王登用だよ
能力がないから国司にすらなれずに法親王にさせたなんて本末転倒
>>633 畑違いながら
確かに稀に天皇外戚にも豊臣さんみたいな家が出てくるけど
滅ぶよね
>>633 摂関の祖父母の名が分からないから身分が低いだって?w
637 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:29:26.78
>>635 豊臣家を外戚とする天皇は出てないよw
豊臣秀吉養女の近衛前子のこと?
前子はもともと摂家の出身だし前子が産んだ後水尾天皇は
豊臣家を自分の外戚として優遇してないし
(豊臣を滅ぼした徳川から正室は娶ったが)
>母親の身分が低くても天皇の祖父母になれる
それは権力変動の超過渡期に清盛自身が異例の大出世を遂げたからで普通はなれない
640 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:33:58.35
>>635 氏素性不詳の母方を持つというなら明正天皇だろうな
徳川家自体無理矢理清和源氏に系譜をつなげてる
平氏など、遡れば男系は天皇に行きつくのだからまだまし
641 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:34:56.87
642 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:36:30.78
>>639 院政期は清盛に限らない
高倉天皇の外祖父平時信など、生前、正五位下検非違使が極官。
643 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:37:47.37
低ーい低ーい出自の母親が産んだ子供使って天皇祖父母の座を狙ってる老人がリアルにいそうだな
この話のズレっぷり
644 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:38:41.03
>>639 後白河法皇が安徳天皇の代わりに即位させた後鳥羽天皇の外祖父は
従三位修理大夫。
藤原道長によって失脚させられた藤原隆家の系統。
646 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 16:41:21.79
やっぱり崇徳の呪いは生きてそう
非人とチョンのハーフ息子なんかが天皇になったら嫌だなぁ
>>647 ハーフ?クォーターかと思った
むりやり典範変えて皇太弟もしくは皇太甥とかやりだしたりして・・・
大河で崇徳さんの五部大乗経の写経シーンくるかね
>>622 太政大臣は名誉職で実権握っているのは左大臣
従二位なら天皇の乳母でもなれる
時子は二条天皇の乳母になって従三位になり清盛は乳父となって権力を握った
池禅尼も乳母だったから重仁親王が即位していたなら従三位になっていただろう
清盛は悪い人だよ。重盛はいい人だよ。
俺知ってるもん。
>>644 土御門天皇の外祖父は法勝寺執行能円(平時子の異父弟)
順徳天皇の外祖母は平教子(平教盛の娘)
654 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 18:17:49.77
>>646 皇太子妃雅子様のお祖父様はチッソであらせられる。
チッソの呪いとか言われてるし。
>>654 その人は要事の雇われ社長だったに過ぎないので呪いも糞もないが
美智子皇后の妹さんの婚家は未解決公害企業の昭和電工だよ。
656 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 18:51:37.14
>>646 北朝鮮関係者との癒着が連綿と記録される紀州被差別部落民のお父様と
静岡駅南在日朝鮮人部落出のお母様を持つ某宮妃殿下が息子さんで国会潰してクーデター中ですね
母親の身分が低くても天皇の祖父母になれるなれるとあまりに連呼するからすぐわかったよ
チョンB君は1/4なんだ
>>656 その方と親しい朝鮮系インドネシア人売春婦が集めた国賊リスト
あれどうしたんだろうw
訪朝ついでに拉致候補名簿として売ってたりしてww
21世紀ともなると謀反工作も国際的ですねー
松本智津夫以来の国家反逆行為だから当然か
話が清盛からそれすぎじゃないか?
朝鮮系インドネシア人売春婦てデヴィ?
平成はともかく平安末期に流れ戻しといてね
清盛はもっとぱっとしてていいのにな
でも保元敗者側の方が何気に濃い気がする
清盛は存在感を厳島神社に吸い取られました
664 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 20:01:46.86
そもそも清盛自体が地味なんじゃないの?
戦国武将で言うと徳川家康みたいな手堅い感じ。
清盛本人に期待するのは止めてキャラ濃い脇役を見た方が大河ドラマ楽しめるかも。
松山ケンイチも面白くしようとして無理しなくていいよ。
清盛自体は結構規格外で面白いけど
政治の場よりまず経済界の人っぽいなと勝手に思ってる
忠通vs頼長とか後白河のトンデモぶりなんかをがっつり描いてくれたら
ドラマも楽しめそうだね
俺は清盛は良くも悪くも大政治家だと思ってるので
大河みたいに馬鹿キャラにされたのが残念
あんな厨二病の性格じゃなくて
最初からダークヒーロー的な野心強い狡猾なキャラでも良かったと思うけどね
>>666 めちゃくちゃ同意
いくらなんでも幼稚すぎる
アカギ配役のやる夫版清盛の方がイメージに近いよw
>>664 清盛は家康よりずっと華やかでしょ
若いころから北面の武士として活躍
政治の第一線に出た年齢も家康より若い
華やかさがないといえば清盛周辺の女性の描き方が
ただの身内のもめごとの話だけになってるのがなあ
天皇の乳母となって権力を手にした義母宗子や妻時子みたいに
女性が政治中枢に入っていく時代だった
平氏が権力を持てたのは一門女性の力も大きい
>>668 皇子の乳母と言ったて3人位付くし
皇子の乳母をしていたからってその皇子が天皇になれるとは限らない
池禅尼が乳母を務めていた重仁親王は天皇になっていない
しかも保元の乱では平家一門の大半は重仁親王の父である崇徳上皇方に付かなかった
二位尼が乳母を務めていた二条天皇は建春門院腹の憲仁親王(後の高倉天皇)を後継者にしたがらなかった
平家的には黒歴史なんだろうしドラマなどでもなかなか取り上げられない
人質生活送ってた人よりは派手だろうな。
>>669 「天皇になれそうな皇子」に自分の妻を乳母として送り込むのが政治手腕だろ
時子が乳母を勤めた二条天皇は平家に背いたというが、
そもそも二条天皇の乳父は平家の棟梁である夫の清盛で、当初、平家は二条天皇寄りに行動していた。
平家が二条天皇に背いたのは時子の妹滋子が高倉天皇を産んでからだろ。
乳母は複数いたが乳をあげるだけの乳母、性指南をするお姉さん的乳母もいるため、
実質的な教育係の乳母は一人だよ。
平清盛は安徳天皇の乳母も一門女性で固めているしね。
お乳の人(おちのひと)
実の親である後白河の言うことを聞こうとしなかったのが二条だからなあ
憲仁を皇太子にしようとしたとして時忠が解官流罪になった時も清盛は静観していた
二条の死後六条を廃してようやく高倉が即位できたわけで
>>671 天皇や天皇になれそうな皇子の乳母をしていてもそのカードを思ったよりは生かせなかったということなのでは
小説やドラマ、歴史関連番組では太政大臣、天皇や摂関家の外戚という華やかな面しか取り上げられないし
>>673 二条帝は自分が鳥羽院ご指定の正統天皇だと分っていたからね。
同じく清盛も、鳥羽院の遺志を尊重せざるを得ない。特に美福門院在世中は。
頼朝とか義経を生かしておいたのはなぜなの?
まさか本当に母親に頼まれたからなの?
そこは後白河の力じゃないかなあ
>>673>>675 時忠配流は二条天皇の被害妄想だろ。
父の寵妃に弟が生まれて退位させられるのではないかと焦った二条天皇が
早めに憲仁の外戚を排除したとしたという。
この時期の二条天皇は平清盛を味方として側に引き付けておくために
清盛・時子夫婦の官位を引き上げるなど、しきりに清盛夫婦の感心を買っている。
二条天皇が鳥羽や美福門院の遺言に守られた絶対的天皇であったために
清盛も従わざるを得なかったわけではない。
679 :
日本@名無史さん:2012/04/23(月) 17:51:06.06
平安京の遺構調査で、城内に100以上の平安時代の井戸が見つかってて、京都盆地は砂岩層の下に礫層があり、良質の地下水がふんだんにあり、加茂川の水利もあった。
にもかかわらず、洗顔していない汚い人が出てくるんだけど、文化史的にみて、当時の人に洗顔の習慣はあったのでしょうか?
自分は地質屋なのでおもいっきり違和感を感じるのですが。
>>679 藤原道長の祖父にあたる藤原師輔という人が書いた「九暦」という書物の中に
貴族の心得として朝起きたら顔を洗い、口を漱ぎ、と書いてあるよ
そもそも貴族は男でも白粉、引き眉、鉄漿のばっちりメイクで参内しなければならなかった時代
>>679 >>680 そもそも京都は大きな川に巨大な池(巨椋池)のある地形に構想されてる。
今は小さいけど神泉苑は今の8倍近くあったという。
寝殿造りの貴族の邸宅には水を引き入れた池泉式回遊庭園がつきもの。
鴨川は暴れ川で頻繁に氾濫した。
右京地区は湿地帯が多く湿気が多かったため、平安中期には廃れていた。
未だに京都は地下水脈が豊富である。
大河板では未だに「でも昔の平安京は埃っぽかったんじゃないの」って
アホな擁護スレがつくこともあるので
そのたびに上記のことを解説してやるんだが、一向に理解しないヤツが多い。
きっとコイツらはソーカ婦人部の人々かただの馬鹿なのだろう
干天の年には井戸が全部涸れたりもしているね。
辛うじて水が残っていた土御門第の井戸から、人々が水を
くんでいた云々という記事が御堂関白記にあったように
記憶している。
なんであんな小汚く汚れた乞食集団みたいに描かれてるんだろう
えーーそんな理由じゃないだろ
不勉強で時代をきちんと描けてないからだろ!
正盛、忠盛とすでに資産を築いていた平氏を無視した脚色。
だがNHKはうそぶく「史実に忠実」とwww
京都はじめじめしていたんだな。
湿気が多けりゃ、疫病も出るわな。
庶民は泥だらけで、貴族は臭い。
そういう汚さを描けば、忠実だったw
宮中も地味すぎると思うなあ…
689 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 12:06:43.44
>>686 資産持ってりゃいい服着れたというわけでもないよ、この時代は。
位にあった服装してないとなにかとトラブルになる。確かに清盛は汚すぎるがな。
もういい服とかそれ以前の問題
691 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 15:51:55.71
服が汚ねえから気に入らねえって話じゃなかったのかい?
じゃあなんだ?
692 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 15:58:54.64
>>681 「平安京が実際に埃っぽかったか」といえば、そうだろう、
アスファルト舗装もされておらず土道だったんだから。
映画で昭和30年代を撮るときにもコーンスターチをまく。
そうじゃなくて、映像としてどうかという問題だろう。
視聴者は清盛が生きた時代の華やかな貴族文化が見たいのであって
泥臭い貴族社会が見たいのではない。
NHKは忠実にしただけというが、着物のストーンウォッシュや透ける烏帽子など
明らかに当時の人が身に着けていなかったものも分かっていて採用している。
だったら、何も土埃など再現しなくてもいいのに、って話。
平安貴族が月に一回しか風呂に入らなかったからって、
役者に月一回しか風呂入らせずに撮影しているわけじゃないし。
>>692 平安貴族が月に1回しか風呂に入らなかったってのは、どこからの知識?
藤原忠実・忠通・頼長親子の御先祖である師輔の『九条殿御遺誡』によれば、基本的に入浴は5日に1回はしてたようだけどね(忌日はある)。
無論、当時の風呂は今のような湯風呂ではなく、スチームバス形式の元祖「風呂」だけど…
694 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 17:15:36.16
清盛は悪人、重盛は善人、宗盛は愚人。
これでいいでしょ?
入浴っていうか沐浴の習慣があったし
髪を洗う日、爪を切る日と全部決まってたから毎日ではないけど
一応身を清める文化があった
>>691 泥だらけで髪ボサボサってやっぱ変だよ
埃はついたらその都度払う気配りや努力くらいするし
髪だって梳かせばいいだけじゃんか
696 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 17:58:35.43
>>693 言葉尻とらえるな。
俳優が5日1回しか風呂に入らず撮影してたらお前は満足なのか?
697 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 18:00:19.85
▽都人からみた吾妻男
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじと云ひて、君を一心に護るものぞ(聖武天皇/続日本紀)
あずまをのこは いでむかひ かへりみせずて 勇みたる 猛き軍卒(大伴家持/万葉集)
相模国鎌倉は、下界の鹿渋苑、天朝の築塩洲也。武将の林をなす、万栄の花よろづにひらけ、勇士の道にさかへたり(海道記)
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや(吉田定房/吉田定房奏状)
▽江戸っ子から見た京女
水 水菜 女 染物 みすや針 御寺 豆腐に 鰻鱧 松茸(大田蜀山人/一言一話)
京によきもの三つ 女子、加茂川の水、寺社(滝沢馬琴/羇旅漫録)
京は石地小砂利のみ多く、土気すくなし。故に人きれゐなり。女などはいにしへより美人多きぞ(二鐘亭半山/見た京物語)
京地は婦人よし(司馬江漢/西遊日記)
>京は石地小砂利のみ多く、土気すくなし
698 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 18:07:52.18
>>697 砂利は寺社仏閣などが土埃を避けるためにわざわざ敷いてるんだけどな
それ、江戸時代の話だろう
>>697 都側にいた平氏の話なのになんで東国の話出してんの?
大河の源氏描写だってかなり微妙
>>696 はあ?wここは日本史板なんですけど?
歴史的知識も踏まえずにドラマの撮影云々の話がしたい輩は大河板へどうぞ。
>>700 大河の話につけたレスだろ?
大河の話はご法度ならここで大河の話してる全ての人に
いちゃもん付けて回れ。
>>701 お前のように、史実を蔑ろにして適当なレスをする阿呆以外には、
特に文句をつける必要はないなw
じゃあ平安京は埃っぽかったのが「史実」ということでいいんだな。
はい、次の人。服が汚くて、埃っぽい他には何が問題だ?
いい加減に事件の話がしたいんだが、そっち方面の話題はふれないの?
704 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 21:26:34.16
史実と違うというなら、家盛は本当に摂関家に近づいたのかとか、
忠正が兄の屋敷に出入りしてるのはおかしいとか、
殿上の闇討ちで刺客が為義のわけがない、とかそういうところを指摘して欲しいところだな。
平安京が埃っぽいとか服が汚いとか、そういうレベルの低い話じゃなくて。
というか埃っぽい=見た目がもろ乞食となるのが短絡的過ぎて受け付けない
まあ大河に関しては宮中の序列描写が全然なってなくてびっくり
706 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 22:53:49.48
少なくとも羅城門のあたりの九条は相当穢かっただろうな。今でもアレだが。
707 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 23:18:50.43
>>702 どうしても埃っぽくないってことにしたいから反対するレスには
言葉尻とらえて文句付けるっていうのはよく分かったよw
平安京は砂利と石と沼でできてて土はなかったとかw
>>704 家盛は本当に頼長に掘られてしまったの?
懸命に「土埃もうもう」を弁護したい人がいるみたいだけど、
地質学的・気象学的に無理だ。
京都盆地は北山の古生層の堆積土で、火山灰土でもなく、風化花崗岩でもないから、土埃が舞いにくい。
また、昭和初期の加茂川河川改修と、地下鉄開通までは、地下水位が極端に浅く、土は湿っていた。
しかも、衛星上の観点から、側溝にはできる限り水が流されていた。
ついでに、京都は、地形の関係から比較的降水量が多いところで、
冬もお湿り程度の雪がよく降るし、真夏も雷雨が多く、旱魃状態になりにくい。
そういう、畿内どころか、西日本全域を探しても稀な地域だったからこそ、千年の都になったのに。
奈良盆地は水が足りず、難波と長岡は丘の上で、京都のような湿潤な都を築けなかった。
清盛ネタで言えば、これは都の貴族が、神戸を嫌った理由のかなりの部分でもある。
>>709 京都に埃が立たないんだったら、寺院は年に一度のすす払いなんてしないよ。
…こんな不毛な議論は止めよう。第二部からの清盛は「きれいな清盛」になるんだし。
大河スタッフも大変だな。
ドラマの興味を削ぐから冒頭の解説を省いたのに、
視聴者がその時代の知識を持っていないからと、
解説を復活させることになったように、
数々の意欲的な演出が空回りしている。
煤って土ぼこりじゃないでしょ
>>711 土ぼこりだけではないね。
しかし、京都では土ぼこりがたたない湿潤な土地で云々と
無理やり主張している人がいるけど、そんなじめじめした
土地には住めないよ。右京なんかは、じめじめしていると
いうことで早々に放棄されているくらいだし。
すごくはっきり言うと、土の質が異なる国の汚れ方に見えるんだ
ベトナムとか台風時の台湾とかなんかそんなかんじ・・・
>>710>>712 意欲的ねえ…w
「京都洛中で、なぜか、タクラマカン砂漠もびっくりの、砂塵朦朦・黄塵万丈がデフォ」というのは、
明らかに、京都の描写としては、何時の時代であっても完全に致命傷だわ。
あの土質と地下水位では、砂塵朦朦なんて、よほどの特殊な条件でしか起こりえない。
右京の衰退は、湿地だったからではなく、地形の関係で(左京と違って山麓から緩衝地帯がない)
小さな土石流&洪水が頻発したためであることが分かっている。
王家云々は、概念解釈の問題だが、これは物理的な問題で、磯Pの解釈でどうにでもなるものではない。
よほどの無知か、あるいは、特定の害意を疑われても致し方ない。
これは、「濃尾平野の真ん中、清洲城のすぐ裏に、なぜか巨大な裏山が聳えているwwww」
という、中京地方1000万人の視聴者を、数分おきに絶句させまくった、
92年の「信長」以来の大失態だよ。
そういえば、あのドラマも「意欲的」だとか何だとか、言われていた気もするなw
>「濃尾平野の真ん中、清洲城のすぐ裏に、なぜか巨大な裏山が聳えているwwww」
思い出して軽く泣けた
特に戦国時代なんて武将の地形把握は基礎の基礎なのに
あんな青緑な土砂色の汚れをくっつけたまま
日々洗顔の習慣もないお勤め人なんていねーよ
>>708 頼長を掘ったのは源義賢
家盛は関係ない
>>710 平家の邸の名前が池殿なんだけど
白河院の天下三不如意の一つが鴨川の水ってことも知らなそう
義経の時も視聴率的にはそんなよくもなかったんだよね。
やっぱ戦国か幕末じゃないと視聴率とれないのかも。ていうか幕末も
視聴率悪いんだよな。
時代のせいじゃないと思うw
義経はほぼ一通りまあまあ嵌りどころのキャストなのに常盤がそれかよ!!と
すごい反感買ってた覚えが
あとジャニ主演が反発されてたり
そのまま内容にも厳しい目が向けられたが、今思えばそこまで酷くもなかったな
大河のメイン視聴者っておばさんとかでしょ。幕末とかより
大名に憧れてる感じするけど。シンデレラ幻想というか。身分が↑の所に混ざりたいみたいな。
いっそ源氏物語とか大河ドラマでやればいいのに。
大奥と御所、史実と物語の区別がつかないおばさんはそうかもしれんが
藤原道長をやるならわかる
上手く創作できないなら幼少期もカットでよし
725 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 06:02:27.45
>>714 京都は沼の中にあった都で土埃は立たないと繰り返し連投してる人がいるが
さすがにそれはないよ
沼地が多い右京はすまずあえて貴族たちは左京に住んだ位だしね
現在も京都市の地下には豊富な地下水があふれているが
地上は沼地ではないから
往来で土埃が立つこと
屋内で砂埃まみれの汚れた衣類をまとったままでいること
全然イコールじゃない
727 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 08:46:02.20
>>726 常に屋外で乗馬や相撲の練習してたんだろ
728 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 09:29:29.29
>>719 「義経」は視聴率悪くはなかった。
過去10年では、10作品中視聴率は4番目。視聴率が高い順に、
篤姫(幕末)>天地人(戦国)>功名が辻(戦国)>義経(平安)>風林火山(戦国)>
龍馬伝(幕末)>江(戦国)>新選組!(幕末)>武蔵(戦国〜江戸)>清盛(平安・暫定)
>>725 沼地を造成した都市なら、逆に土埃に悩まされることになるんだけどなw
これは、沼地は水が停滞するので、細かい泥(シルト)が沼底に沈殿する。
沼地を干して作った都市は、そのシルトが風で舞い上がることになるからだ。
田んぼのように、掘り起こすことが比較的少ない土地の場合は、シルトでも土埃は立たないが、
都市のように、細かな部分に裸地が増えると、シルト質の土壌の都市は土埃だらけになる。
京都は、緩やかな扇状地の斜面上にあって、土壌を構成する粒子の粒径はそれほど小さくない。
しかも、加茂川上流は、風化花崗岩のように大量の砂を排出する地質では無い。
西日本で最も砂埃の立ちにくい場所なんだよ。こんな理想的な都市で、
わざわざ黄土高原の春か、サハラ砂漠の夏のような黄塵万丈の演出を、
これこそリアル京都である!なんてホルホルして得意になってやってるなんて、どうかしているw
730 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 11:22:06.61
>>729 いや、京都御所や京都の寺社では土埃が立たないように
石畳や砂利を敷いてるだろ
京都市内は扇状地じゃなくて盆地だしw
あの程度で
> わざわざ黄土高原の春か、サハラ砂漠の夏のような黄塵万丈の演出を、
なんて言い出すような感覚の奴が高度成長期以前の京都に行ったら、
卒倒するだろうな。
いずれにせよ、現代の京都にすら行ったことがなさそうだということは
良くわかるな。
733 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 02:58:34.06
>>728 風林火山はものすごく面白かったが、(亀次郎の歌舞伎演技除く)ジャニーズ&ホリプロ義経の方が視聴率高いのが意外。
女作家の悪いとこが出たストーリーと、タラコ唇と噛みそうなタキツバがダメで、見るのを途中で止めた作品だったから。
風林火山は両津姫以外は良かったよな
義経は饅頭御前以外はまあ良かったかな
芝居面はさほどじゃないが、石神国子さん以外は
ビジュアル面で日本人が勝手に抱いてる人物像に適うキャストが多かった
ああ、風林火山は面白かった。
脚本のみならず画面まで渋すぎたが。
>>720 常盤じゃなくて静御前じゃないかな?
稲森いずみの常盤御前は絶賛されてた。
確かにミス平安京の説得力はあった。
736 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 10:53:08.53
>>733 義経は平安絵巻見ているようで画面が綺麗だった。
主演タッキーも義経のイメージを壊さなかった。
義経主役なのに女性の平時子がやたら出しゃばっていたのは何も
男性主役でも女性を主体に描く女作家の悪いところが出たのはなく、
もともと平時子主役の原作(宮尾本平家物語)をNHKが底本に選んでいたから。
「風林火山」は準主演の亀とヒロイン役の両津姫が地味すぎた。
画面も暗く、主演内野の身なりも汚かった。
龍馬伝より視聴率良かったのが不思議なくらい。
義経は平均19.5、龍馬伝、風林火山は平均18.7
コーンスターチ色フィルター大河の元祖は龍馬伝
738 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 08:46:52.34
大河ドラマと言えば、架空の謎の女が登場するが、ジャニ義経は、妖怪美輪様の独り舞台だった気がする。
龍馬伝はほとんど見た
風林火山は初回だけ見た
義経は一度も見ていない
清盛は3、4回ほど見た
その結果の評価として
龍馬伝>平清盛>風林火山>義経
>>738 原作のある大河は架空の女が出てくるんだよね
義経のうつぼとか天地人の初音とか武蔵の通とか
原作の歴史小説の中に架空の人物がわんさか出てる
逆に原作なしオリジナル脚本だとあまり出ないね
いい加減スレ違いだカスども
専用スレが立ってるんだからそこでやれ
ごめん、俺もスレ違の一発
架空の人物っていえば巴御前だけど、実在での人物ではなかったのではないかってあった。
吾妻鏡に出てこねえし、平家物語と源平盛衰記だけに登場する。
考えてみても、無理あるよな。如何にも話を面白くするためってのがみえみえで
要は平家物語の昔から歴史小説には架空のキャラがつきものなの
NHK大河ドラマ『平清盛』寸評
映像は美しくて、登場人物も重い演技でよかった。
王家という語も、当時はそんなもんか、くらいしか思わなかったが
ただ確かに、皇室の祖先を扱っている、という配慮が
感じられなかったのも事実。
あの衝撃的な白川(伊東四郎)の演出は
もはやこの国において、皇室(の祖先)が
戦国武将と変わらない「単なる題材」に過ぎないという
満天下への宣言に等しい。
多くの視聴者が好奇の目で白川を眺めたはず。
とくに孫の鳥羽天皇の后に手を出すシーンは
茶の間には衝撃。。。
大河専用スレが2本も立ってるんだから該当スレ池
しかもテメエ個人のオナニー感想など、スレチどころか板チレベルだ。
ここは日本史板であってドラマ板とかじゃございません。該当板探してそこへ書き込め
何回も言わすな
746 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 19:33:13.78
,-─ 、
/愛 国\
/|/-O-O-ヽ|\
/ .6| #)'e'(# |9. \
/ |\`‐-=-‐ '/|_\
/_ト このスレには ∠_\
/ \ ネットウヨクの / \
/ < スイッチが入る表現が> ヽ
| / 含まれています。 \ |
\ ^7 /| ,、 /\  ̄ /
`ー─────────── ´
>>743 白河上皇はリアルで好色だったんだけど
よくある話で、愛妻家で、中宮賢子とりの仲が非常に良かったんだが
賢子崩御の後、その喪失感を埋め合わせる為、不特定多数の女性達と関係を持った
その中の一人が、清盛の母である祇園女御の妹
>>742 まあ坂額御前をモデルにした架空の人物だろな
兄弟と共に戦ったり、御家人の嫁になる下りとか被りまくり
743はあちこちに貼られているな。
>>747 白河上皇は中宮賢子存命中から女御藤原道子
典侍藤原経子あたりに手を出してるけどね・・・
一番悲惨だったのは源師子
中宮賢子の妹なんだが白河は密かに手を付け女御ともせず捨ててしまった
皇子も寺に入れられ傷心の師子は叔母の源麗子(関白師実室)のもとへ預けられる
そこで麗子の孫藤原忠実の目に留まり忠実は8歳年上の白河愛妾に結婚を申し込む
この源師子が関白藤原忠通(頼長の異母兄)の母親
祇園女御あたりは庶民の娘なのに白河上皇に厚遇された例
>>751 血縁関係が複雑に入り組んでるね・・・・
>>747 清盛母を祇園女御妹としているのは「胡宮神社文書」のみだが
付け足しであり近年では一次史料ではないとされているらしい
今各地を巡回している「大河平清盛展」で現物が見れるのだが
その横についている注釈(主催者がつけたもの)に
これをもって清盛の母を特定できないと書かれてあった
>>753 清盛については非公式ながら時の朝廷が御落胤に準ずる扱いをしていた史実があるので
御落胤だった可能性については、極めて高いと言わざるを得ないよ
まあ、火のないところに煙は立たないものだって
>>754 落胤には特別待遇という例はないよ
後冷泉天皇の落胤は受領のところへ下げ渡されてそのまま受領として終わったからね
(関白藤原頼通の長男〜三男も受領に下げ渡され受領待遇で終わった)
清盛の大出世は落胤だったせいではないよ
>>755 まあ御落胤説を認めないと言うのであれば見解の相違ですね
>清盛の大出世は落胤だったせいではないよ
断定はできません
非公式ながら時の朝廷が御落胤に準ずる扱いをしていた史実、これ自体は覆りませんし
757 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 20:45:48.95
>>756 >非公式ながら時の朝廷が御落胤に準ずる扱いをしていた史実
ソースは?
> 御落胤に準ずる扱い
と
> 特別待遇という例はないよ
は矛盾はしていないな。落胤であろうがなかろうが、
単に普通の院近臣の武士の子として扱われていた
というだけだから。
政治的動機から清盛がご落胤だと困るって人もいるしな
この問題は触れない方がいいのか
760 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 09:10:04.98
>>758 >>757は?
清盛以外にも天皇落胤で「落胤に準じた扱い」を受けた人はいるの?
清盛一人だけならば落胤に準じた扱いも何もないじゃん。
>>760 落胤の特別扱い自体が存在していないなら、「落胤に準じた扱い」という
ものを考えること自体が無意味だろう、ということなんだけど。
それはともかくとして、清盛よりはるかに前の摂関期だと、花山院の落胤
である女房が惨殺されたときに大騒ぎになったという例等がないわけでは
ないね。
762 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 19:08:10.82
>>761 殺された花山院の姫宮(上東門院女房)は落胤じゃなくて、
花山法皇が認知済み。
姫宮の同母兄は親王宣下を受けているしね。
姫宮は内親王宣下を受けてなかっただけで法皇の皇女だったから。
763 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:42:37.40
>>760、761
清盛は太政大臣にまで昇り詰めてるよ。
太政大臣は摂関家か清華家でなければなれない為、清盛の例は、公家として見た場合ですら異例。
ただし皇族であれば、太政大臣になれたとしても、まるで不思議はない。
武士としての異例のスピード出世とも併せれば、御落胤だったと考えた方が妥当だろうね。
異例中の異例である武家平氏の太政大臣就任だけは、論理的な整合性が取れないよ。
764 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 22:26:59.82
>>763 後白河が寵妃建春門院の義兄である清盛を高倉天皇の後ろ盾にふさわしいように
していただけのことであって。
本当に平清盛が白河院落胤で天皇になる可能性があるならむしろ
出家させられるか粛清されるかで消されてただろ。
765 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 22:51:58.05
>>763 この時代は五摂家も清華家もまだないよ(創設期)
道長流によって虐げられていた閑院家はもともと何代も大臣など出せない家柄だったのに
白河・鳥羽・崇徳・後白河の外戚になったことで太政大臣にまでのぼれる家柄になった
鳥羽天皇の叔父は天皇の外戚であることを持って白河院に対し関白の地位さえ要求したから
まだまだ摂関も不動の地位とは言い難かった
清盛は後白河の義兄・高倉天皇の義父として天皇家の外戚にふさわしい
閑院流家並みの地位を与えられただけ
落胤で太政大臣になったわけじゃないだろ
768 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 08:02:58.56
真偽は別にしてもご落胤説を利用したのは間違いないな
>>768 清盛存命中に落胤説があった記録は一切ないよ
藤原璋子の結婚前の密通を記録する「殿略」、
高松院の密通出産といった秘事を記録している「玉葉」にすら
どこにも清盛が落胤だとは書いてないから
清盛を落胤だとするのは100年後に成立した軍記物のみ
逆に同時代に堂々とご落胤を吹聴したのが豊臣秀吉だなw
771 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:47:00.52
>>765 武家で太政大臣って異例中の異例だろw
ご落胤説が貴族の中ででたとしても不思議じゃない
772 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:55:11.36
>>771 清盛の頃には「武家」という言葉はなかったけどな。
現実に史料として清盛存命中に清盛落胤説があった記録はない。
本物の記録に残る天皇御落胤は
>>775にもある通り全然出世できなかった。
だから、御落胤説を流布したから出世できたというのも眉唾もの。
>>772 まあ、そういう意味じゃなくて、ご落胤が武家平氏の棟梁になったので
それで武家平氏の棟梁が異例の出世を遂げられた、という話なんだけどね
ご落胤+武家平氏の棟梁の地位のコラボで出世できたとする説だから
>>763 総じて考えれば当時においてご落胤認定されていたとするのが一番妥当
>>774 清盛は生まれながらの太政大臣にしては苦労しすぎだろ
保元・平治の乱で命を落とす可能性だってあったのに
それに清盛が太政大臣になったときは後白河院政下だよ
後白河との血縁はあまりに遠すぎる
なんで後白河が生まれる前に死んだ祖父の弟を大出世させてやる必要があるんだ?
清盛が御落胤だったから異例の昇進をしたと主張する人は、
豊臣秀吉が異例の出世をしたのもやはり御落胤だったからだと思ってるの?
>>777 お前が2ちゃんの糞運営である事は明白なので死ねばいいんじゃね?
屑運営のせいであちこちのスレが死んだよ、この糞野郎
清盛の落胤説も崇徳上皇の別胤説も、上杉謙信女性説とか徳川家康は二人いた(後半影武者)とか、
ああいうオモシロ論かと思ってたらちゃんとした本にも乗ってるぐらいありうる話みたいだね
でももちろんほんとかどうかはよくわからんし、両論があるようだ
全部つくり話だよ。本に乗ってりゃなんでも信じるのかお前は。
そもそもお前の「ちゃんとした本」の規準がおかしい。
清盛落胤じゃ困る奴がいるみたいだよなあw
後白河がホモな事にも同じ奴が火病ってたしなあw
>>779 比較的近い時代の史料で言及されており、まともな研究者も一応言及している
ようなネタと、最近の三文作家が適当にこじつけしてのたまっているネタを同列には
扱えまいて。
783 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 21:06:18.92
>>781 ていうか、あの時代の貴族は基本ホモだし。皇族も例外じゃない。
白河法皇の乱行は有名で平清盛が落胤であったとしてもおかしくないくらい。
784 :
日本@名無史さん:2012/09/07(金) 15:53:26.05
清盛落胤ネタは当時からあったみたいね。
遺伝的に本当かどうかはともかく、清盛の異常な昇進を正当化するため本人か平家一門のだれかか、
平家シンパの公卿が広めたネタだと自分は思ってるけど。
豊臣秀吉のときも結構無理して落胤説ながしたり、足利将軍や五摂家の養子になろうとしたりしてたが、
多分同じようなことだと思う。
785 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 12:00:51.62
白河院は後白河院の曾祖父、祖父は堀河院。
清盛が落胤である必要なんてあるの。
どのみち桓武天皇の子孫なわけだろ。
>>786 今回の大河ドラマには格好のネタっだったかも・・・。
ただ、それを含めて全体的にスベッた感はあるなww
役者さんは頑張ってるけどね・・・。
788 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 14:21:03.91
>>786 身分上昇を正当化するにはその必要がある。
桓武天皇の子孫なんて地方でくすぶってた千葉氏も北条氏もそうだし。
今回、羊のせいで疫病がはやったというもっぱらな噂がばらまかれたわけだけど、
平家物語にそういう記述の箇所はあるのかな?
清盛にならってTPPを推進しよう!
791 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 02:58:25.60
シャープやパナソニックは良く理解すべきだな!!
792 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 08:29:13.81
>>784 当時清盛の落胤ネタなんかなかったよw
清盛が落胤だと描かれるのは鎌倉時代成立の「古今著聞集」や「平家物語」からだから。
早くても清盛が没してから100年後だ。
当時の一次史料「中右記」では忠盛の昇殿を未曽有のこと、と批判しているが、
忠盛が白河院ご落胤を跡取りに据えていたならばご落胤養父への褒美と解釈されただろう。
793 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 21:07:49.47
794 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 23:32:44.21
清盛のやった、日宋貿易は、「朝貢貿易」なんだっけか?
ドラマで、マツケン清盛が「朝貢」って言ってて、なんか引っかかってたんだが、
宋は、貿易を国家間の貿易じゃなくて、「私貿易」の延長で、朝貢的な統制手順を省いた簡略化した貿易を黙認する(規制をあまりかけない)方向だったとよんだことがある。
清盛の日宋貿易は、天皇が臣下の礼をとった形だったのか、判る人いたら教えて下さい。
795 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 12:09:27.49
>>794 日宋貿易に天皇は絡んでいない
平忠盛が私貿易として始めたものを平清盛が拡大したもので
やり取りした品はすべて清盛のもとに集められていた
私貿易の一種だから国書のやりとりもなく
宋の皇帝が天皇或いは清盛に日本国王の称号を与えたこともない
>>795 後白河院に「日本国王」号が下されている
>>793 政敵は解任か左遷すれば済むものを、治承政変で残虐非道に及んだ相国入道が、
「とても優しい人」だって・・・・何故このとき入道は、残虐処刑したの?
6 :日曜8時の名無しさん:2012/11/18(日) 21:54:46.76 ID:yY/bD001
・・・・・・・治承三年の政変は鹿ヶ谷なんて非じゃない。
手首切り落として川に流したとか物凄い残虐非道な私刑を行っている。
鹿ヶ谷はまだ反乱に対する防衛でありギリギリ法に基づく刑だったけど
治承三年の政変は法は関係なく完全なる私刑に過ぎない
【治承三年の政変】
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1352791495/
>>795 日宋貿易において中国皇帝と後白河法皇の間に国書のやり取りは一切ない。
しかし、後白河法皇が清盛の勧めで宋からの使いに福原で面会したことで
知明州兼沿海制置使(宋の皇帝の兄)から日本に贈り物が届けられた際
日本国王(後白河を差す)太政大臣(清盛)に宛てた送り状が添えられてきたことがあった。
しかし公家たちは送り主が宋の皇帝ではないこと、後白河を日本国王とする朝貢形式であることに反発。
結局、後白河の名は入れず、清盛だけが返礼を書くことで私貿易を貫いた。
800 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 07:12:55.73
>>794 >>799 ありがとう。やっぱ結果として「朝貢」にはならなかったんだよね。
たしか、日宋貿易は、宋の側も、朝貢は返礼の皇帝側の負担も大きいから望まなかったと記憶してるから、大河の清盛の「宋に朝貢する」はとても違和感があったのですっきりしました。
清盛のプロデューサー、脚本、歴史考証は、「王家」に続き、また事実とちがうミスリードを行ったわけですね。
仏御前をあんなババァにやらせたことのほうが問題
>>800 何を視ていたんだ ?
ドラマで「宋に朝貢する」なんて言ってないし、
>>799の書いた説明は全部ドラマの中で
触れられていたんだが ?
本当に視た上で書いてるのか ?
こんなことをたかが大河で結構緻密に触れたもんでびっくりした
逆に言うと置いてきぼり食らう人続出
ストーリー上は後白河のバックアップで清盛が日宋貿易を始めて大儲けした。というのさえ解れば問題ない。
『玉葉』原文では「賜国王」が「頗奇怪」としか書いてないから
これだけで「国王」という表現に対する不満と解するのは早計じゃね。
「国王」は「治天の君」くらいに訳しておけば別に大したことないから、
小役人ごときが賜なんて言葉を使ったのが相互主義に反するとして気に障っただけだろ。
だいたい、使者も送らない朝貢ってどういう朝貢だよ。
>>805 日本の天皇が「日本国王」と名乗って朝貢形式をとったのは倭の五王までで
推古朝の遣隋使では自国の天皇を「天子」と称し遣唐使では「天皇」と称して
日本国王の称号は受けなかったんだよ
後白河を中国側が日本国王と呼ぶことに抵抗があって当然だし
国王とは中国皇帝の臣下を差す言葉で中国側に治天の君という意味はない
これ以降日本国王と呼ばれたのは足利義満・義教・義政と良懐親王ぐらいで天皇が呼ばれたことはないし
豊臣秀吉は明の皇帝に日本国王と呼ばれて激怒し慶長の役を起こしたくらいだ
(徳川将軍は日本国大君という称号を用いた)
>>806 えー、後白河は天皇ではないんですけど。
国王がイヤなら、一体なんて呼んでもらえれば許容できるんですかね?
臣下がどうのも考えすぎでしょ。
現代日本は他国の王族に対して「殿下」という敬称を使用しているけど、
他国政府が「殿下」は臣下に対する呼称だから天皇と主従関係を結んでいるようで不敬だ
なんてクレームをつけてきたなんてことは聞いたことがない。
大体天皇はガーター勲章もらっているけど、ガーター勲章ってガーター騎士団員の徴だから、
もらうって事はガーター騎士団の団員になることで、すなわちイングランド王の臣下になることだし。
811 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 17:14:48.15
>>807 「殿下」という言葉に天皇との主従関係はないから起こらないのは当たり前でしょ
しかし中国皇帝は歴史的に他国の首長を皇帝の家臣として国王認定してきた歴史がある
倭の五王の貰った日本国王の称号は、中国皇帝との冊封関係によるものでなかったとでも?
教科書レベルの話が分かっていない、あまりにも勉強不足。
812 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 18:30:52.03
かなり昔、
平清盛が汗だらけになって
怨霊に呪い殺されるアニメがあったんだけど
タイトルとか知っている人いません?
あれで清盛悪玉の印象が決定的になってしまったのですが、
813 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 21:09:29.79
814 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 19:38:51.21
大河全然盛り上がらないな。
今年の大河は史上最低だろう。もう二度とこの時代はやらないな。
「武士の世をつくる」とか若いころから言っているけれども、
この時代は院政だったのでしょう。
北面武士は院を警護するものたち。
その者たちが、こんなことを公言すれば、謀反人なのではないの?
>>815 新平家物語は大ヒットだし、タッキー義経もそれなりだったから、この低視聴率は
単にプロデューサーと脚本、さらには王家とかいう学会用語を台詞に提言した考証が
アホ過ぎただけだと思うぞ〜
清盛はダークヒーローとして、ガンダムで例えればwギレン・ザビみたいなキャラで
やれば良かったのよ。
それだと、皇室を貶めようと策動する悪党が主人公の大河ドラマってことになるのだが。
それはそれでネトウヨが黙ってないと思うぜ?
>>816 当たり前だろ。平清盛・源頼朝が王家や摂関家から権力を奪い取っていった流れが、謀反でなくてなんだというのか。
>>819 だからドラマ中での鹿ケ谷の陰謀のように、深夜に密室で言うべきこと。
若者三人が真っ昼間に笑いながら言うようなことではない。
また清盛父が子にむかって言うはずもない。
この大河は御歯黒や眉を描いた貴族、埃まみれの都などリアルさを追求したはず。
「武士の世をつくる」こんなことを公言してしまってはリアルさがなくなる。
ドラマの組み立ての根本部分が間違っているのではないか。
>>820 武士の若者3人だけの会話ならそれは武士の内輪の話だし、清盛父が子に向かって言うのも内輪の話だぞ。
一門内の談義の場で「武士の世を目指す」と宣言するのも内輪の話だ。
あんなものを「公言」と言うのは見方がおかしい。
822 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:11:11.17
高橋昌明氏の新著「平清盛と六波羅幕府」(東京大学出版会)が出ていますね。
皆さん、既に購読中ですとか?
氏の研究の集大成とも言うべきもの、そして清盛論の決定版でしょう!
823 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 00:41:00.19
大河終わって人が来なくなったのを良いことに汚盛信者が好き勝手言いやがるな
824 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 07:39:10.70
825 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 19:47:02.72
826 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 19:47:40.80
827 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 19:48:17.58
ほしゅ
829 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 10:42:35.41
ちらし寿司梅
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過疎