♪邪馬台国 ドンと来い♪ 95

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1日本@名無史さん

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!

     出来るだけソースを出して後はお好きに!

    ∧_∧ ♪
. ((o(・ω・` )(o))
   /    /
   し―-J

   ∧_∧
 ((o(´・ω・)o))
    ヽ   ヽ ♪
    し―-J

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 94
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1317009533/


2日本@名無史さん:2011/10/10(月) 10:54:05.92
一支1st.→已百支last↓ 誤った解釈 http://ameblo.jp/y52yd/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄├───┐  ┏━──┐9.3
支(防)┌──┐  ┏末盧┏┓└→□金印  └─┐┌
      └┐  └┐┃↓┗┫┗━━┛委奴国  ┏┘└
.  北 .   └─┐┗┛    ┗━┓. (=筑紫)    ┃ ↑
. φ  ....┌┐│放■@  ★不┗┓ 斜陽     ┃海峡に疎い
 南   ┌┘││射■伊都→弥┏┛ 再掲 D  ┗┓
      │  ││式■┿┳↘ ━┛.██████.. ━━┻━━━┓
『伊都』└┐└┘┏■↓┃  奴←▉烏奴←██ 支惟← 巴利 ┗┓
飛地┌─┘遠絶┗■  ┗┳━━▋ ┫┏┓ ██ ┌躬臣┘  ┏┛
    └────┐■    ┃其南▍ ┗┛┃┌■邪馬┏━━┛→
『奴』非親女王┌┘■十  ┃ 有 ▎E   鬼奴■┐  ┃四国認識
    非反狗奴└─■日┏┛狗奴国 Kikuchi ■為吾┗━━━┓
      ┌──┐  ■  ┗┓      ┏━┛鬼■┘ C     ┏┛
    ┌┘┌─┘  ■  ┏┻━━━┛★┌┘■女王国以北┗┓
    │┌┘十    ■━┛      華奴蘇奴  ■戸数道里可得┛
    └┘  日┏━■一              ↑  ■略載(抄録)┗┓
      ┏━━┛  ■月    ┌蘇奴→呼邑  ■┏━━━━━┛
      ┃↓      ■↓★┌対蘇    Koyu. ■┛
    ┏┛投馬 A ■    姐奴←不呼┐┏━■夷守:卑奴の
    ┗┓Satsuma ■ ┌弥奴─→ 好古津┓■南下監視
      ┃         ██都支..Aya..Miya┏━ ██ 都支{城}:都護
    ┏┛    ┏┓  ██ └ 伊邪┏━┛ ██ 伊邪那岐
┏━┛  ┏━╋┛   ████████████
┃    ┏┛┏┛    B  已百支┃ 周旋五千余里
┗┓  ┃  ┃原  邪馬台  ↑┏┛
  ┗┓┃  ┃田○┏━●斯馬┃Kushima
    ┗┛┏┛    ┃  璧┏━┛次有
    ┏倭地温暖┏┛↓┗┛
    ┗━━━━┛南方に詳しい
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1105856.article.html
★「佐賀は南九州と朝鮮半島を結ぶ役割を担っていた」
3サガミハラハラ:2011/10/10(月) 19:04:11.17
邪馬台国について論ずる場合、次の基本をおさえなければなりません。
1 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
2 卑弥呼の墓は、小城公園内桜ケ岡です。
3 伊都国は佐賀県多久市中小路集落庄です。
4卑弥呼の都は久留米:2011/10/11(火) 05:50:12.51
  
卑弥呼の都は久留米南部
1 卑弥呼の城郭は、福岡県久留米市上津又は御井です。
2 卑弥呼の墓は、上津天満宮又は祇園山古墳です。
3 伊都國の城郭は、佐賀県大和町惣座遺跡です。
5サガミハラハラ:2011/10/11(火) 18:13:50.43
なるほど、松浦川をさかのぼるというのは私と同様ですね。
6前スレ857www:2011/10/11(火) 18:21:31.89
前スレ>988 老眼
>「同期とさせないと下がる」ですよ。私が述べたのは。

あ、その場合の同期と言うのは30年のタイムラグ込みという意味でw
ちょっとこちらも言葉の意味が統一できていないかな、悪ィwww

以下「同期」はタイムラグがほぼゼロ(精々数年)の意味で…

 1)「目録201番」と「景元四年(263)右尚方作銘鏡」を同期させず(現行の出土例から平均的な)タイムラグを30年ほど見込む。
  よって「目録201番」=263+30=293年頃副葬されたとなる。

 2)が、種々の鏡の様式変化でそれより数回の”前段階”がある。

 3)結論として30年のタイムラグを是としても三角の出現時期を4世紀に持っていくのは理屈として不可能。

 ・同期させた場合の三角出現時期    =263−α
 ・同期させなかった場合の三角出現時期=293−α 

「同期させず下がったところで4世紀は無いだろう」と言う話ねwww
7唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/11(火) 18:45:20.44
>2 卑弥呼の墓は、上津天満宮又は祇園山古墳です。

祇園山古墳の”畿内のにおい”をどう表現するか?

委奴国(倭奴国)女王卑弥呼の葬儀に、倭王(邪馬臺國、大和)がかかわる。
カンココロ かくぞをぼして カミまつリ ミヤコのソラを ながむミウタに
はしきよし ワキべのカタゆ クモいたち クモはヤマトの クニのマホ またたなびくは
アヲカキの ヤマもこもれる ヤマシロは イノチのまそよ けむひせば タタミコヲモエ
クノヤマの シラカシがヱを ウスにさせこのコ
8太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/11(火) 18:52:04.57
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜〜

 〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

秀魔電は危険史想の妄想毒の書。
9日本@名無史さん:2011/10/11(火) 18:57:53.10
>>6 ヨコから
> 三角の出現時期を4世紀に持っていくのは

前スレ >822 は
> 権現山51号などの古墳は下がる。つまり布留0は下がる。

という話じゃなかったっけ?
10日本@名無史さん:2011/10/11(火) 19:03:38.85
>祇園山古墳

つうか画文帯神獣鏡が出ている事になっているんだが…
11【朝貢】:2011/10/11(火) 19:15:48.09
前スレ>>993-994

なるほど、直接的に軍事支援したわけではない
というのはこういう背景が〜ということね。
初めて倭人伝を読んだ時、連合体制が脆弱なイメージがあった。


何かオラわくわくしてきたぞww
12日本@名無史さん:2011/10/11(火) 19:16:05.46
ホツマツタエって 一部の熱狂的なファン以外は誰も相手にしない 偽書にも該当しないトンデモだろ?
普通に秀真伝って書いたって普通の人なら知らないし読めないし読まなくていいし。
こんなもんを論拠にされても周囲は引くよな。
13前スレ857www:2011/10/11(火) 19:19:35.66
>>12
それでも唐松の持ってくる考古資料は結構まともなんだよなwwww

>>9
布留の開始=三角の出現と言う意味で
14太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/11(火) 19:22:13.32
>>12
偽書にも該当するトンデモだという。

しかし内容全部が偽書ではないようで、食べられるキノコと毒キノコの選別
の如き態度で臨み、日神が男神だとのデタラメ個所は完全に排除して記紀を
秀魔電の毒から守らねばならない。
15唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/11(火) 20:12:43.40
そしてこの戦いは、鉄鏃の出土する九州において行われた。
纏向3類(前) ホケノ山 綾部山39号墳  任那以後である。
纏向4類(後)箸中山・燈籠山、布留0の指標、 最初の第王墓。
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 軍人の時代?

弓矢による戦いは、ホケノ山〜箸中山の間である。
メスリ山には、大量の槍が副葬され、△縁鏡の時代である。

国内のみでこれだけの変化とするには、時空が足りない。
半島は、魏、晋により統制されている時代である。
であるならば、伊都国の一大率が半島で同様な任務に就く。
これで~功渡海以後の説明ができる。

4世紀の渡海とした場合、渡海の説明を聞いたことが無いが、この変化を
渡海なしで説明することはさらに困難を伴う。
グズグズの説明で渡海を乗り切っても、369年七支刀で半島占拠は、否定されている。
だから広開土王碑の文言を無視して巨大古墳を5世紀に築く。←この原資が無い。

16卑弥呼の都は久留米:2011/10/11(火) 20:23:19.19
>>5
>なるほど、松浦川をさかのぼるというのは私と同様ですね。

違います。
玉島川をさかのぼり、嘉瀬川をくだるルートです。

>>7
>祇園山古墳の”畿内のにおい”をどう表現するか?

祇園山古墳に畿内のにおいはありません。
方墳、甕棺、箱式石棺のどこに畿内のにおいがする?

>委奴国(倭奴国)女王卑弥呼の葬儀

委奴国(倭奴国)は1世紀から2世紀初頭
卑弥呼は2世紀末から3世紀初頭。
約130年ずれているが。
17唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/11(火) 20:34:58.12
ソヤヤヨヒ ミヤコかえりの ミユキがり いたるヒナモリ イワセガワ 
はるかにのぞみ ヒトムレを ヲトヒナモリに みせしむる かえりもふさく モロアガタ

卑弥呼の葬儀を終えた景行は、1度纒向に帰ってから、筑紫から松浦半島方面へ
軍を進め、モロアガタ(玄海町諸津)を押さえる。
ソヤヤヨヒ ミヤコかえりの←魏使の訪問(248年?)
諸津を抑えたことにより、狗奴国に鉄の供給が止まる。
ここからが、男王の死をはさんだ攻防戦となる。
18ローガン:2011/10/11(火) 21:01:19.00
>>6
>・同期させた場合の三角出現時期    =263−α
>・同期させなかった場合の三角出現時期=293−α 
>「同期させず下がったところで4世紀は無いだろう」と言う話ねwww

いや、そうじゃなく、
景元四年銘円圏規矩鏡と唐草文帯三神二獣鏡が、同期製作とした場合…
263年製作+地上での伝世期間(30年±α)で293年±α。
この「±α」は古墳編年、土器編年等により考慮。30年はあくまで目安。

仮に、この同期製作として得た「293年±α」に、華北の唐草文様が、倭鏡に反映されるまでの期間を加えたとしたら(つまり、同期製作ではないとしたら)更に時代が下がる。
下がれば、4世紀にかかる。という事です。
19唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/11(火) 21:19:13.77
>方墳、甕棺、箱式石棺のどこに畿内のにおいがする?

この方墳の作りに畿内のにおいがする。
方墳=前原より高く盛り土、葺石。
綾部山39号墳(画紋帯神獣鏡出土)あたりと同じかも?
20日本@名無史さん:2011/10/11(火) 21:52:12.46
>>18
んで、三角縁は1つ残らず全部が伝世したことはどうやって説明するの?

その後は伝世はせずに一時期にほぼ全部が集中して出土することはどう説明するの?

本気で舶載説なの?
21太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/11(火) 22:17:21.23
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜〜

 〜〜またもや、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

毒書 秀魔電に要注意!
22太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/11(火) 22:22:50.20
毒書 秀魔電に要警戒1

こんな事は、秀魔電に脳内蹂躙の宿主の創作。史実にあらずのデタラメ。
   ↓
>卑弥呼の葬儀を終えた景行は、1度纒向に帰ってから、筑紫から松浦半島方面へ
>軍を進め

23日本@名無史さん:2011/10/11(火) 22:48:23.83
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自身の事跡を誇るために海から見える場所にあのような大きな墓を作らせたのではないのか

24日本@名無史さん:2011/10/11(火) 22:55:59.81
東遷東征はあまり信じているわけではないが、
仮にあったとすれば、大型古墳を作るのが好きな、
宮崎の勢力じゃないかね。
瀬戸内海、豊後水道の水路と見れば、割と近いし。

その過去の記憶の名残が、神武東征神話だろう。
25前スレ857www:2011/10/11(火) 22:59:19.04
>>18 老眼
ええええっ?

要するに30年ちゅうのは純粋に国内での伝世期間だけの話で
(現物or工人による)意匠の伝来とかそれを採用した鏡の作成期間は別と言う話か?
仮に大陸に現れた意匠をほぼリアルタイムで取り込んだ鏡を作成しても
それが副葬されるまで30年はかかると…

>華北の唐草文様が、倭鏡に反映されるまでの期間を加えたとしたら(つまり、同期製作ではないとしたら)更に時代が下がる。

…と言うのは要するに国産の鏡をバージョンアップすべく入手した鏡が中国の最新の物ではなくて
”少し古め”の鏡であったから起きるんだよな?

しかしそれは舶載説でも同じじゃないのか?

舶載説なら布留を下げずに済む…というのは伝世の30年は必要としても
とりあえずは最新の物が輸入されているからと言う理屈だと思うが

舶載説なら最新の物が入手できて
国産説ならそれができない…という話なら全く理解ができない。





26筑紫次郎:2011/10/12(水) 00:18:34.70
御神輿と言うのは道順が決まっているそうだ。
と言うことは過去の何かを再現しているのではないのか?
また
人形を置いた御輿もあるし
ある所の御輿は丘へ登り、階段から投げ落として祭りが終わるそうだ。
もしかしたら
外国からの使節を乗せて運んだ御輿があったのかもしれない。
たいした使節でもないのに、傍若無人、無理難題を要求するなど我慢の限界を
越えたときには階段から投げ落とすことがあったのかもしれない。

また、
江戸時代の参勤交代もただ目的地へ急ぐだけではない。
華やかで威厳を示す、見せるという要素が速度よりも重視されている。

さらには
隋書東夷傳倭國で文林郎裴清が倭国へ来たときも
倭王遣小コ阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎 後十日又遣大禮哥多従二百余騎郊勞
とある。
人に見せると言う要素が強く、目的地へ急ぐと言う観念は全く無いようである。

魏の勅使が倭へ来たときはどうだったのだろう?
すぐ近くにある不弥国から投馬国、
投馬国から邪馬台国への日数が
やはり
人に見せると言うお祭り的な意味と、
勅使が倭へ来た目的を果たすと言う意味があったのではないかと考えている。
確かに、
何も目的がなければ
遙か離れた辺鄙な場所にある倭へ勅使を派遣することも無かっただろう。
では
勅使が倭へ来た目的とは一体何だったのだろう?
27筑紫次郎:2011/10/12(水) 00:50:41.46
先に説明したように

@魏帝は詔書の中で皆装封付難升米牛利と述べている。 
つまり、賜物を持ち帰ったのは勅使ではなく何故か難升米牛利である。

A太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦○刀鏡采物倭王因使上表答謝恩詔
「太守弓遵が遣わした建忠校尉梯儁等は詔書印綬を奉じて倭国へ行き倭王に拜假し、併せて詔をもたらした。金帛錦○刀鏡采物を賜り、
倭王は使者に上表文を託して、詔の恩に答礼の謝辞を述べた。」
〓〓〓〓〓
つまり、賜物は難升米牛利が受け取って帰国したのであり、
勅使が持参して卑弥呼に授けたのは詔書印綬だけなのである。
〓〓〓〓〓
また
王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯
(王が使者を派遣して京都・帯方郡・諸韓国に行く時、及び帯方郡からの使者が倭国へ来た時は、いつも港で検査を行い、女王に伝送する文書や賜物が間違うことは許されない。)
とある。
検査は伊都国の津で行われている。
つまり、
どういう事かと言えば難升米牛利が賜物を運んできたのは伊都国までであり、
伊都国で倭国が目録と賜物を確認して受け取っているのである。
28ローガン:2011/10/12(水) 00:50:56.89
>>25:前スレ857www
>仮に大陸に現れた意匠をほぼリアルタイムで取り込んだ鏡を作成しても
それが副葬されるまで30年はかかると…

荒っぽい捉え方なので取り敢えず±αとしときました。勿論、手に入れてからすぐ死んだ者もおれば、長生きした首長もいただろうけど、言うまでもなく個別の論証など不可能だからね。

さておき、三角縁神獣鏡国産説で、現行の古墳の実年代を支持するなら、景元四年銘円圏規矩鏡と唐草文帯三神二獣鏡が、ほぼ同期製作だと考えねばならんことはわかって貰えましたよね?
つまり、これ、誤解を恐れず云うと 舶載説も同じ。ただ舶載説の場合は「鏡が入ってきた」で済む話。

しかし、国産説の場合には、銘文の意味や金石の異体字、省略や、神獣像の背景が理解出来た工人群、つまり中国人の鋳造工が、日本にいて、
リアルタイム華北の文様を取り入れ提供した……かな。
じゃあその工人達は鏡製作以外に、どんな文化の流入に貢献したのか?
又、何故、短期間で鏡製作を止め、所謂 倣製鏡へと移ったのか?
なんて、余計な疑問に回答しなきゃならん。て事。
29筑紫次郎:2011/10/12(水) 01:14:47.05
魏帝は勅使ではなく難升米牛利に賜物を渡している。
一体何故なのか?
もしも
賜物を勅使に託し、勅使が卑弥呼に授与するのだとすれば、
伊都国で検査はできない。
卑弥呼に授与する前に封泥、包装を解く事などできないからである。
つまり、
賜物を勅使ではなく難升米牛利に託すという不自然な行為は
伊都国での検査を可能なするためだと考えられるのである。

しかし、
何故に金印と同時に勅使が卑弥呼に授与しないのだろう。
伊都国で検査をする必要があるのだろう。

魏帝は詔書の中で
皆装封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
(全部包装して難升米と牛利に託する。帰ったならば文書と品物を確認して受け取り、悉く汝の国の人々に示し、魏が汝を大切にしていることを知らせなさい。だから、汝に鄭重に好い品物を与えるのである)
と述べている。

もしかしたら
ことさら伊都国で検査したのは「悉く汝の国の人々に示し」を実行するためではなかったのだろうか。
しかし、何故そんな無意味なことをする必要があったのだろう?
いや
無意味な事など命令するはずもかかろう。
実は重大な意味があったのであり、
これこそが勅使がわざわざ倭へ来た目的を果たすためのものだったのである。
30日本@名無史さん:2011/10/12(水) 02:05:55.41
なんか、ローガンって視野狭窄なんだよな

>じゃあその工人達は鏡製作以外に、どんな文化の流入に貢献したのか?
>又、何故、短期間で鏡製作を止め、所謂 倣製鏡へと移ったのか?
>なんて、余計な疑問に回答しなきゃならん。て事。

鏡造り指導員が一人、派遣されただけだったら、魏の文化が大量に
流入してくるはずもないだろう。

鏡だって流行があるだろう。あの世の世界観だって変る。変われば
それに応じて作るものも変わる。それだけのことだろう。
31ローガン:2011/10/12(水) 14:38:22.80
>>30
>鏡だって流行があるだろう。あの世の世界観だって変る。変わればそれに応じて作るものも変わる。それだけのことだろう。

では所謂、倣製鏡へのシフト なんのどういう世界観がどのように変化したの?
具体例挙げて論証してごらん。 期待してますよ。
32sss:2011/10/12(水) 15:24:49.24
ひょっとして空気が読めていないかもしれないが…。

鏡はあちらの様子にも影響されているだろう。司馬氏の時代になってあまり日本のことを
かまってくれなくなり、交流が限定される。

そこで呉との交流が出てきたのか、呉の画文帯神獣鏡が出てくる。呉の影響を受けた三角縁神獣鏡が
出てくる。まあ、画文帯の年代については諸説あるらしいが、明らかに500年前後と見られる
江田船山古墳から三枚出ているし、埼玉県の稲荷山古墳からも出ている。
そんなに古いものとは思えない。
呉の鏡といえば、熊本県人吉市では鍍金獣帯鏡が見られる。

神獣鏡は、神仙思想の影響が強く、死生観が表れている。318年頃に書かれたされる抱朴子には
「九寸以上の明鏡を用いて七日七夕凝視すればすなわち神仙を見るべし…」と書かれていて、
不老不死を求める気持ちがあったことがわかる。

三角縁神獣鏡は、多くの場合、棺の周りに鏡面を内側に向けていることや大型鏡であることなど
この影響を受けていると考えられ、不老不死から転じて、死者復活の意味があるような気がする。

そういう意味では、三角縁神獣鏡も4世紀半ば頃と考えたほうが良いと思う。
33卑弥呼の都は久留米:2011/10/12(水) 15:31:14.86
>>27
>>29

上記には大きく異論があるわけではないが、
思い込みか根拠無き独断もあるようだ。

>ことさら伊都国で検査したのは「悉く汝の国の人々に示し」を実行するためではなかったのだろうか

伊都國で検査したとはどこにも書いていない。
港に臨んだところで検査したとは書いてあるが。
「皆臨津搜露」この津が伊都國にあるとどこに書いてある?

この津は、遣使郡使ルート上の海から陸への下船上陸地点と考えるのが適切だ。又其の逆も有り。
郡と女王國の通交ルートでは、末盧國(唐津)にこの津があったと考えられる。
末盧國に官不在であるのは、一大率が常置し、女王の直轄國であるからと考えられるからである。
34日本@名無史さん:2011/10/12(水) 16:15:24.77
>>31

>具体例挙げて論証してごらん。 期待してますよ。

世界観が絶対に変わらなかったという証拠を先に出してくれ。
35ローガン:2011/10/12(水) 16:52:05.71
>>34
君は「立証責任の転嫁」って言葉聞いた事ないか? 私は君の「>>30
>鏡だって流行があるだろう。あの世の世界観だって変る。変わればそれに応じて作るものも変わる。それだけのことだろう。」 という意見に対して 質問をした。
よって君が私へ返信すべき事は、幼稚な切り返しの質問ではなく、自身の意見に対して出された質問に答える事だ。

はい、どうぞ(笑)
36筑紫次郎:2011/10/12(水) 17:30:00.28
>>33
>「皆臨津搜露」この津が伊都國にあるとどこに書いてある?

自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯とある。
伊都国に一大率を置き諸国を検察させている。諸外国への往来の時は津で検査する。
とある。
何処の津か書いてない以上、直前の伊都国の津以外はあり得ないと考えます。


>郡と女王國の通交ルートでは、末盧國(唐津)にこの津があったと考えられる。
末盧國に官不在であるのは、一大率が常置し、女王の直轄國であるからと考えられるからである。

別に反論はしませんよ。好きに解釈してください。
但し、同意はできません。
前にも言ったように、
≪卑弥呼の都は久留米≫さんとは考え方に相違がありますので
論争は辞退致します。 
37前スレ857www:2011/10/12(水) 17:30:31.22
>>28 老眼

>じゃあその工人達は鏡製作以外に、どんな文化の流入に貢献したのか?

と言うが、そもそもその銅鏡製作の為やってきた工人達が他の文化の流入に貢献しなきゃならんのか?
例えば銅鏡以外に陶器の技術が欲しけりゃ、当然その技術を持つ工人を招くだろう。

例の須恵器の開始時期の”目安”になっているであろう雄略七年の記事にしても
新漢(新しい漢人=渡来人)に陶部の他に鞍部、画部、錦部、訳語卯…らの名が見えるわけで
要は「餅は餅屋」だなwwwwwww
(むしろ渡来工人達は持てる技術を日本に伝える以外では逆に当時の日本の文化に徐々に馴染んで行ったと想像するがw)

まあその家族を含め一大コロニーを形成するほどの大人数・集団移住を想定するなら話は別だが
現実的ではないだろう。鏡造りの為だけならぶっちゃけ単身赴任でもいいわけでwwwwwww

逆に最新式の鏡を入手できるほどに大陸と密に交流していたなら
何故鏡だけの輸入にとどまったのか?と言うツッコミもできるw

中華屋根、ここにきて、ちゃぶ台をひっくり返すような身も蓋も無い話やけど
現実問題として、国産説をとる者が否応無しに年代観において布留0を4世紀に持っていかねばならないような状況は生じとらんわけでwwww
38唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/12(水) 18:26:04.40
>新漢(新しい漢人=渡来人)に陶部の他に鞍部、画部、錦部、訳語

新漢(新しい漢人=新しい渡来人)である。
最初の渡来人の波は、323年~功49年 半島占拠。
楽浪など遼東方面が政治的空白となったとき、住民の不安(戦争による虐殺や奴婢として連行される)
この災いから避難すべく、住民は自分の意志での渡来決行である。

>何故鏡だけの輸入にとどまったのか?と言うツッコミもできるw
箸墓から大仙陵古墳まで、倭人のみで発展したと思っているの?
文字のない時代ですよ。だれかが全国を回って古墳を次々と作ったとか?

39卑弥呼の都は久留米:2011/10/12(水) 18:36:31.23
>>36
>≪卑弥呼の都は久留米≫さんとは考え方に相違がありますので
>論争は辞退致します。

私も論争する意図は全くありません。
単に問題点を指摘しているに過ぎません。
問題がある推測部分を根拠に、次の論理展開を進められても興味が湧かず面白くありませんから。

以前には、「從郡至倭」の「從」は、接続詞又は介詞の働きかで相違がありましたので、
論争になる手前で打ち切っています。
40筑紫次郎:2011/10/12(水) 18:41:28.52
南至投馬國水行二十日
南至邪馬台國女王之所都水行十日陸行一月
とある。
普通に考えれば
水行二十日水行十日陸行一月は所要日数である。
ところが
其餘旁國遠絶不可得詳と周旋可五千餘里、
自郡至女王國萬二千?里から
所要日数ではないことが判る。

所要日数でなければ普通は記載する意味がないので、記載する必要はない。
ところが記載してある。
と言うことは
水行二十日水行十日陸行一月には所要日数以外の何かの意味がある事になる。
それを考えることが倭人伝の謎を解く事になるのである。

皆装封付難升米牛利とあり
梯儁等奉詔書印綬ともある。
これらから賜物を持ち帰ったのは勅使ではなく、難升米牛利であること。
賜物を検査するのは伊都国の津であること。
魏帝が還到録受悉可以示汝國中人言っていることこと。
水行二十日水行十日陸行一月には所要日数以外の何かの意味があること。
勅使などが来日した場合などは、行程を急ぐのではなく、
お祭り、或いは人々に見せるという可能性が考えられること。
これらから
水行二十日水行十日陸行一月は
お祭りみたいに人前で行進したり、
賜物を展示したり、
何かの目的を果たしたりしたのではないかと推定した。
それを考えることが倭人伝の謎を解く事になるのである。
41唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/12(水) 18:45:11.43
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

↑この記事は、377年ではなく、317年の記事である。
伽耶(任那)は、倭王の娘を妻とし、316年西晋滅亡を受け、倭・金官伽耶(任那)は、軍隊の
引き揚げをしている。
新羅本紀  312年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず。
42卑弥呼の都は久留米:2011/10/12(水) 18:46:44.62
>>40
ごもっとも。
43日本@名無史さん:2011/10/12(水) 19:01:18.81
>水行二十日水行十日陸行一月はお祭りみたいに人前で行進したり、
>賜物を展示したり、 何かの目的を果たしたりしたのではないかと推定した。
>それを考えることが倭人伝の謎を解く事になるのである。

44太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/12(水) 19:05:38.02
>>38
>文字のない時代ですよ
これは何だ?  ↓

3 : 唐松山 : 2010/01/06(水) 22:23:53 ホ37202
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神武以前から 暦は在りましたが、崇神10年7月の条に『不受正朔』の文字が記録される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
45日本@名無史さん:2011/10/12(水) 19:05:54.71
魏の年号を有する紀年銘鏡
→ 青龍三年(西暦235年)銘 方格規矩四神鏡が3面(太田南5号墳、安満宮山古墳、出土地不明鏡)。
景初三年(西暦239年)銘 三角縁神獣鏡(神原神社古墳)と平縁神獣鏡(大阪府和泉市和泉黄金塚古墳)が各1面ずつ。
景初四年銘(魏の年号は景初三年の後、正始に変わり、「景初四年」は存在しないが西暦240年を指す。)斜縁盤龍鏡2面(広峯15号墳、伝・持田古墳)。
正始元年(西暦240年)銘 三角縁神獣鏡3面(竹島御家老屋敷古墳、蟹沢古墳、森尾古墳)。
呉の年号を有する紀年銘鏡
赤烏元年(西暦238年)銘 平縁神獣鏡が1面(鳥居原狐塚古墳)。
赤烏七年(西暦245年)銘 平縁神獣鏡が1面(安倉高塚古墳)。
晋の年号を有する紀年銘鏡
元康?年(291〜299年)銘 平縁神獣鏡が1面(伝・上狛古墳)。


238年 「景初二年六月、倭の女王は大夫の難升米を使わして郡に詣り、天子に詣りて朝献するを求む」(魏志)
「その年の十二月、親魏倭王の卑弥呼に制詔、五尺刀二口、銅鏡百枚を賜う」
240年 「正始元年(240)帯方太守・弓遵は、建中校尉の梯儁らを使わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣る」
243年  倭の女王・卑弥呼、再度魏に朝貢。


平原遺跡 方格規矩鏡 32面 他多数


記年鏡の年代が正しいとすれば、平原遺跡から大量に出ている方格規矩四神鏡も
卑弥呼の年代とかぶってくるかな。
平原遺跡の32面という大量の出土量と、他の遺跡からは数枚ずつしか出ない例から見ても、

平原遺跡の国が漢鏡を抱え込んで、何かあったときに近隣の国に配っているような
モデルができそうだ。いわゆる、鏡配布機関モデルかね。
46唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/12(水) 21:38:44.64
>243年  倭の女王・卑弥呼、再度魏に朝貢。

その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、

倭の女王でなく倭王である。
少しずつ修正して、何処へ導く?
47筑紫次郎:2011/10/12(水) 22:04:18.71
倭國亂相攻伐歴年と
婢千人自侍
大人皆四五婦下戸或二三婦婦から
倭国では半数を大きく越える男性が戦死するほどの戦いがあったようだ。
戦死した男性の妻子の中には力仕事、生活で困窮を極めた人もいただろう。

そのような状態の中
卑弥呼は魏帝に汝其綏撫種人と言わしめるほど倭人のことを心配していたようだ。

ところが
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人から判るように
倭国大乱は完全決着はしていなかったと思われ、
現実に卑弥呼の死後の乱は防げていない。

つまり、再度倭国大乱となる危険性を防ぐだけの勢力はなく、
卑弥呼にも防ぐ手段は無かった事になる。

倭人のことを心配していた卑弥呼は祈る思いで魏に助けを求めたのでは無いだろうか。
班布二匹二丈しか用意できなかった卑弥呼には軍事要請などできようはずもない。
だから、私の考えでは
卑弥呼は戦争を禁止させる魏帝の命令書が何か、
その程度のものを願って朝貢したのではないだろうか。
48筑紫次郎:2011/10/12(水) 22:04:38.26
魏帝は卑弥呼を優遇した理由として、
所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝
(汝のいる場所は遙かに遠いのに使者を派遣して貢献した。これは汝の忠孝であり、我は汝を非常に大切に思う。)と述べている。

当時皇帝の価値を判断する基準として
血統と支配する領土の広さがあったそうである。
血統に弱点がある魏帝としては相当に喜ばしいものだったのだろう。

しかし、もちろんそれだけでは特別に優遇する理由にはならない。
たとえ
大国で強大な勢力を持っていたとしても、辺鄙な場所にある蛮国など
魏からすれば取るに足らない。
もしも、卑弥呼が勢力の拡大とか自己の利益のために朝貢したのであれば
魏帝は無条件で拒否したに違いない。

難升米牛利は卑弥呼が倭人のことをどれだけ心配し、
どれだけ倭人に尽くしたか、相当上手く説明したのかもしれない。
49日本@名無史さん:2011/10/12(水) 22:06:47.45
>>46
コピペなんで、細かいところは確認してなかった。申し訳ない。
修正があれば適宜修正よろしく。

>少しずつ修正して、何処へ導く?

感覚が逆。情報をできるだけ加工せずに並べて、どこに進んでいくかを考える。
どこに行くかは情報次第。どこに行くかを先に決めてはならない。

一応佐賀大和伊都国説だが、鏡の推論では、怡土の方格規矩鏡
の大量出土は重要だと思う。

たしか平原だけではなくで、三雲か遣溝かどこかでも、大量の
方格規矩鏡が出ていたはず。

卑弥呼そのものではないにせよ、鏡の扱いを考える一例になるだろう。
50筑紫次郎:2011/10/12(水) 22:16:18.72
武力で他国を支配するには膨大な軍事費、兵員が必要で、
しかも、上手く支配できるとは限らない。
しかし、
卑弥呼の要請に応えで倭国の平和に貢献できれば
兵員の損失も、膨大な軍事費も、反乱の危険性もなく、
しかも、感謝されて支配できるのである。

魏帝は大量の賜物を卑弥呼に与えているが、
膨大な軍事費、兵員と比べれば
血統に弱点がある魏帝としては
実に格安の出費で遙か遠くの蛮国まで支配できた事になるのである。

しかし
だとするならば
還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
(帰ったならば文書と品物を確認して受け取り、悉く汝の国の人々に示し、魏が汝を大切にしていることを知らせなさい。だから、汝に鄭重に好い品物を与えるのである)
には魏帝の
とんでもない驚愕の意味が込められていたことになるのである。
51日本@名無史さん:2011/10/12(水) 22:19:58.09
>>35
倣製鏡の話だと勘違いしてるのか?では答えよう。
鏡制作指導者が魏に帰国したら、その後は模倣して作るのが普通だろ。
では、鏡制作指導者が魏に帰国した具体例をどうやって調べるのかを答えてもらおうか?
52日本@名無史さん:2011/10/12(水) 22:22:13.41
>>35
あ、それから、世界観が絶対に変わらなかったという証拠も出してくれ。
53唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/12(水) 22:24:05.30
方格規矩鏡、は難しいぞ。
まず、逆L字が正しい。
この鏡を横に置き、書き写すと、L字鏡ができる。
内区に干支が左まわりに彫られていた文字が、右回りとなる。とか
4神の位置が変わるとか
L字鏡になったのは、たぶん華北ではなかろうか?
であるならば、初期△鏡も楽浪方面であろう、この職人はほとんど文字を知らない者もまじる。
54日本@名無史さん:2011/10/12(水) 22:33:06.34
方格規矩鏡は卑弥呼時代より古いというのが
通説のようだが、青龍三年(西暦235年)銘鏡が出ていることから、
卑弥呼の時期、あるいはその後まで作られていた根拠になる。

踏み返しにせよ、倣製鏡にせよ、過去の年号を入れることはあっても、
未来の年号を入れることはない。
55太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/12(水) 22:39:41.33
×323年~功49年 
56鬼才天才偉材逸材大先生:2011/10/12(水) 22:49:49.05
>踏み返しにせよ、倣製鏡にせよ、過去の年号を入れることはあっても、
未来の年号を入れることはない。

54氏と論争するつもりはないが、
未来の年号を入れる可能性は有るのではないかと思う。青龍2年の時点で製作する鏡に翌年の年号を刻む
というような場合も有り得るのではないかな。したがって、「未だ決まっていない未来の年号を入れるこ
とはない」と言うのが正確だね。
57筑紫次郎:2011/10/12(水) 23:00:47.20
卑弥呼は再度倭国大乱にならないように魏帝に助けを求めた。
魏帝はそれに応じて
大量の賜物を卑弥呼に与え、わざわざ勅使を派遣した。

魏帝は詔書の一番最後に
細班華?五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤皆装封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
(帰ったならば文書と品物を確認して受け取り、悉く汝の国の人々に示し、魏が汝を大切にしていることを知らせなさい。だから、汝に鄭重に好い品物を与えるのである)
と述べている。
一番最後に書かれていると言うことからしても、一番大切な事らしい、と言う推定はできる。

卑弥呼には倭国大乱を防ぐ権力はない。
魏帝は、そのような卑弥呼に援助したのである。
と言うことは
「魏が汝を大切にしていることを知らせなさい。」とは卑弥呼が魏に大切にされていることを知らせるのが本当の目的ではなかったのだ。

本当の意味は
「卑弥呼の命令は魏の命令と同じだ。
卑弥呼は魏がこれほど大切にしているのだから、
間違っても卑弥呼に逆らったりしたら魏が容赦しないぞ。」
と言う、卑弥呼に不満を持つ勢力への完全な恫喝だったのである。

卑弥呼に与えた大量の品は、魏が卑弥呼を大切にしていることを証明するための物だったのである。
水行陸行は2ヶ月もかけて卑弥呼に逆らわないよう、恫喝したことを意味していたのである。

…一応完…
58日本@名無史さん:2011/10/12(水) 23:06:16.98
伊都国の「津」は現福岡市西区今津。
59唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/12(水) 23:10:45.95
>>37 >新漢(新しい漢人=渡来人)

古墳中期
布留式期IVころに洛東江河口地域の交易拠点も求心力を失い,代わって朝鮮半島南岸の各地か
ら西日本各地へ,移住を含む渡来が始まる。馬韓地域の集 団A・集団Bも渡来・居住し,主に生
産・開発活動に従事した。集団Aは和泉地域で初期須恵器生産に従事し,新たに渡来した集
団Bは,北部九州で初期須恵器 生産に,河内で土木事業に従事した可能性がある。

475年に百済の都・漢城が陥落して以後
百済典型器種は北部九州と畿内にみられ,特に筑後・佐賀平野や奈良盆地南部に百済人が居
住した可能性がある。いずれも,かつての集団A・集団Bの行動範囲 から外れ,百済人の行
動は集団A・集団Bの行動を前提としない。また,百済人はこの一時期に渡来し,須恵器の
一部器種に影響も残す(平底瓶)が,すぐまた その痕跡が確認できなくなる。

集団A・集団Bの渡来が先にある。←ここをどう説明するか?できるか?
書記の主張は、~功49年半島占拠。←集団A・集団Bの自由意思による渡来。
自由意思による大量渡来は、369年あたりには設定できない。
60ローガン:2011/10/13(木) 00:01:21.23
>>37:前スレ857www
>ぶっちゃけ単身赴任でもいいわけでwwwwwww

上で「鏡造り指導員が一人」とか、云っているのもいたが…(笑)
では、技術移転について考えてみましょう。「鏡造り指導員が一人」なんていうのも含めて、ごく僅かの渡来工人指揮の下、倭の職人達が製作した という考えですな。
つまり、「所謂舶載鏡」とされるものの製作者は倭人だという主張と承知。
ところが、これ、後に編年される倣製三角縁神獣鏡にその技術が継承されていない。
擬銘文帯とかわかりますよね。勿論、神像表現もしかり。僅かの間に極端な技術の低下。
当初は、僅かにいた渡来人の指導による技術移転がされているにもかかわらず、その後の短期間で劣化しちゃった。
この現象、敢えて国産説をとるなら、【僅かな技術者が倭人に教えた】とするよりも、「所謂舶載鏡」は渡来系工人群の手によるもの。倣製鏡は倭工人の製作。と解釈するのが自然じゃない?
又、湯口の向き等の解析から、複数の工房の存在が知れる訳だから、
「華北辺りからきた渡来工人群が競って短期間で亜種の斜縁神獣鏡を作った」というストーリーが穏当でない?国産説なら。
ところが穏当と思いきや、そうすると…
複数工房の渡来工人群は鏡以外の足跡をなんら残さず忽然と姿を消し、直後、銘文の意味どころか、「字」そのものを知らない鏡職人達に製作を委ねられたと…(笑)。
まあ、事実は小説より とか云うけれど、
「鏡は舶載された。その後、倭人が真似て倣製鏡を作った」と考えた方がスマート。

で、ずれたので戻すと…
華北製作鏡と国産△鏡、経年変化が同期であると主張している論文等あればご紹介を。
寺澤氏は、その事について渡来工人の通使のたびの交替を想像している様ですが…
61ローガン:2011/10/13(木) 00:13:45.88
>>51
>鏡制作指導者が魏に帰国したら、その後は模倣して作るのが普通だろ。
>では、鏡制作指導者が魏に帰国した具体例をどうやって調べるのかを答えてもらおうか?

全く意味わからん。君が「普通だろ」と思った事について、「具体例挙げてどうやって調べるのか」なんて、知らん。答えようが無いよ。
レス付けた私が悪かった。謝る。
>>52
>あ、それから、世界観が絶対に変わらなかったという証拠も出してくれ。

それは「世界観というものは絶対に変わらない」と主張している人に訊いてみてくれ。
62【朝貢】:2011/10/13(木) 00:21:26.90
>>57
筑紫次郎さん
お疲れ様です。ありがとうございました。
素人の素朴な疑問なんだけど、不弥国から
投馬〜邪馬台国までは里程を記さなくても
わかるため里程記載なしとありましたが、
そこは投馬国まで〜里、邪馬台国まで〜里
と記して、投馬国から邪馬台国までは水行
陸行二月かけて魏国の庇護をしらしめたと
か記載できなかったのかな〜と

あと、奴国や不弥国では同じようにしなかっ
たのはなぜ?
63卑弥呼の都は久留米:2011/10/13(木) 00:30:06.92
>>40
>水行二十日水行十日陸行一月には所要日数以外の何かの意味がある事になる。
>>50
>卑弥呼の要請に応えで倭国の平和に貢献できれば
>兵員の損失も、膨大な軍事費も、反乱の危険性もなく、
>しかも、感謝されて支配できるのである。

女王の遣魏使は難升米と牛利の2人である。
明帝は何故其々に率善中郎將と率善校尉及び銀印青綬を与えたのだろうか。
難升米は邪馬壹國の使者であり、牛利は投馬國からの使者であるからであろう。
彼等は、対狗奴國戦に魏の援軍を求めたのではないか。
それに対する明帝の回答が女王國内諸国の結束を固めよだったのである。
魏側は辰韓の反乱でそれどころではなかったのである。

魏軍を倭に派遣することはなかったが、
帯方郡から難升米の邪馬壹國と都市牛利の投馬國へ魏軍を派遣する場合の所要日数距離が、
其々、水行十日(10000里)陸行一月(1000里)と水行二十日(20000里)なのである。

景初の魏帝の贈物は邪馬壹國と投馬國及び倭の各国に対してのもの。
主要国に対しては錦と罽(毛織物)があり、小国に対しては赤と青の布、白い絹、銅鏡、真珠と鉛丹(おしろい)のみ。
正始の魏帝の贈物は倭女王に対してのもの。
64卑弥呼の都は久留米:2011/10/13(木) 00:43:35.50
上記>>63は、>>57及び>>62
65筑紫次郎:2011/10/13(木) 00:50:07.03
>>62
距離は直線距離ではなく勅使が踏破した距離。
不弥国〜投馬国
投馬国〜邪馬台国までの距離は
目的を果たすため
あちこち立ち寄っているので実際の距離よりも長くなっています。

実際の距離を記載すれば踏破した距離に対して嘘になる。
踏破した距離を記載すれば実際の距離に対して嘘になる。

どちらの距離も記載できない。
66日本@名無史さん:2011/10/13(木) 00:52:44.51
>>63
魏軍を倭に派遣することはなかったが、
帯方郡から難升米の邪馬壹國と都市牛利の投馬國へ魏軍を派遣する場合の所要日数距離が、
其々、水行十日(10000里)陸行一月(1000里)と水行二十日(20000里)なのである。

埋めることが不可能なほどに
見解の相違があります。
67日本@名無史さん:2011/10/13(木) 00:58:05.64
>>62
投馬国から邪馬台国までは水行
陸行二月かけて魏国の庇護をしらしめたと
か記載できなかったのかな〜と

日本人なら当然そう書くでしょう。
しかし
倭人伝は事実だけを記載して補足説明は一切していない。

補足説明は駄文と考えられていたようですが、
中国人にとっても難しすぎたようです。
68日本@名無史さん:2011/10/13(木) 01:15:31.78
>>60
△鏡を、卑弥呼がもらった魏鏡だという結論に持っていきたいから
そういう筋書きをかいてるわけだろ?恣意的なんだよ。
69【朝貢】:2011/10/13(木) 01:26:06.40
>>65
あ、なるほど。そういうことか。

説が正しい・間違いうんぬんでなく、話として
は面白く、楽しめました。
考え方の一つとして参考になりました。
考古学的に畿内説を主張する研究者が多いので
、九州説の主張も聞いてみたいと思っていたと
ころでした。
ありがとうございました。

70日本@名無史さん:2011/10/13(木) 09:43:13.65
行程論なら、短里千里=一月行で、矛盾なくすべてが説明できる。
ま、それだけだが。
71日本@名無史さん:2011/10/13(木) 11:24:02.20
一月行とか何の参考にもならないよな
途中寄り道したり泊まったりしてるわけだし
経路自体が不明。
まして伝聞なら尚更。
72日本@名無史さん:2011/10/13(木) 11:34:44.54
水行にしろ陸行にしろ進む距離は場所、気候、旅行者の人数、旅行の目的などによって異なる。こんなことは
誰にでも分ることだ。水行や陸行の日数を距離に換算するなどアホのやることだ。
73日本@名無史さん:2011/10/13(木) 16:14:21.71
>短里千里=一月行で、矛盾なくすべてが説明できる。
そんなことはどこにも書いてない。短里千里はせいぜい80キロ、1か月も
かかるわけはない。

>水行や陸行の日数を距離に換算するなどアホのやることだ。
正確な里数は書けなかったということだろうが、およその里数は自ずから
でてくるものだよ。里数の代わりに日数を書いたということは動かない。




74:2011/10/13(木) 17:40:49.99
一応「痔瘻説」の説明が終わったようだから一言。
細かいことほいえば、「周旋可五千餘里」や倭人伝の読み、
さらには倭国と魏との立場の見方の根本的な違いなどあるが、
「これだけはどうしても異論を呈しておきたい」点を取り出して提起する。

●水行20日、水行10日と陸行1月の押し込め工程
「伊都国(嘉瀬川沿い都渡城付近) 奴国(東名遺跡あたり) 不弥国(神崎郡吉野ヶ里)
投馬国(八女郡、筑後市、三潴郡) 邪馬台国(山門郡)」

上記の痔瘻説の比定地によれば、
不弥国(吉野ヶ里)から投馬国(筑後市)まで直線距離で17キロしかない。
たったこれだけの距離に収まるエリアを、水行だけで20日間あちこち立ち寄っているという。
投馬国は、ほとんど水行しか使えなかった所にあったのか?

投馬国(筑後市)から邪馬台国(山門郡瀬高町あたり)までなると、
直線距離はさらに短くなって7キロ程度しかない。たったこれだけの距離に収まるエリアを、
水行10日間と陸行1月をかけてあちこち立ち寄っているという。

>所要日数だとすれば倭地は周旋可五千餘里には収まりません。
狭いエリアを・舟だけを使って・堂々巡りに近い形で・やり過ごした・というわけだ。
75:2011/10/13(木) 17:42:03.99
●邪馬台国以降の4世紀に、なんで伊都国や投馬国の後進を女土蜘蛛が治めたことになるのか。
>伊都国を治めていたのは速来津姫、投馬国を治めていたのは八女津姫、邪馬台国を治めていたのは田油津姫、

この中の速来津姫と田油津姫は土蜘蛛といわれる辺境部族だ。
土蜘蛛は日本書紀や各地の風土記にみめかぎり九州だけではなく西日本各地にいた。
そうした中で、女酋長だ女シャーマンだと言われるものを拾ってみた。
大山田女・狭山田女(佐賀県佐賀市大和町東山田)  海松橿媛(佐賀県唐津市見借)
八十女人(佐賀県多久市東南部の両子山)  速来津姫(長崎県佐世保市早岐)
浮穴沫媛(長崎県彼杵地域)  田油津媛(福岡県みやま市瀬高町山門)
久津媛(大分県日田市石井)  五馬媛(大分県日田市天瀬町五馬市)

また、八女津媛(女神)=卑弥呼へと直結する傾向に、福岡出身の研究者が警鐘を鳴らしている。
http://inoues.net/yametuhime.html
古墳時代、何らかの大きな勢力が八女地方にあったのは間違いないし、
おそらくはそれが「筑紫の君・磐井」へとつながっていくのだろうと思われる。
しかし卑弥呼の時代に、その素地がこの地方にあったのかどうかまではわからない。
大きな弥生時代の遺跡もないし、何より、三十国を統治するにはあまりにも辺境で、
「奴国」や「投馬国」との交信すら不自由するのではないか。
筑紫の君の背景としての素地はあるが、それにしても、さかのぼって5世紀まで戻れたとしても、
4世紀には何もない。勿論3世紀の痕跡もない。
今のところ、ここを邪馬台国の候補にするには決め手を欠くと言わざるを得ない。
76前スレ857www:2011/10/13(木) 17:44:56.54
>>60 老眼

まあ別にこの板で国産説に立っているわけじゃないんで
(ゴミクズレベル九州説のみならず畿内説の連中からも「蝙蝠野郎」とそしりを受けようがw製作地に関しては国内外のどちらも採らず保留している)
国産説の否定に悉く反論して見せる必要は無いんだが(苦笑

で、舶載から国産になってからの劣化云々だが
ひっくり返して言えば渡来工人の指導を受けたのなら国産になってもクオリティは維持できただろう…という話なんだろうが

文字や神獣像の背後にある宗教観の理解なんていわば「ソフト」の部分はそう短期間で習得できるものでもあるまい。
(言語の習得もネイティブとしては10歳より前が限界なんじゃないかな?)
文化という血肉として吸収するにはそれこそ数世代必要だろうが、それも”受け手”に積極的に習得しようとする意思があってこそだ。

元々古墳に墓誌の無い日本は文字の導入にもあまり積極的でなかった節がある。
(稲荷山とか江田船山の鉄剣、あるいは隅田八幡の鏡は5世紀以降)
それを「言霊」の文化で説明しようとする学者もいるみたいだがw

果たして晋に入っても魏代の厚遇が続いたかも疑問だが
その魏も短命でそれどころか景初三年の10年後には司馬懿のクーデターが起きている。

複数回の工人渡来を想定してもかなり短期間で
技術を習得した熟練工としてきたのなら20歳前後は少し若すぎるか?
その彼らが帰国することなく日本に骨を埋めても活躍できるのは精々30〜40年。

文字や宗教と言った目には見えないソフトの部分を彼らに頼っていた日本の鏡は
渡来工人らが絶えた後は銘文も文様も形骸化の一途を辿る
そして3世紀末西晋の八王の乱から、4世紀五胡十六国時代へとなればもうグダグダw
オリジナルの中国鏡自体が質も量も低下の一途と…

別に国産説(初期の三角は渡来工人責任監修説w)で質の低下の説明に困るような事は無いと思うが?
77:2011/10/13(木) 18:02:57.46
『日本書紀』を見たところでは、
どうやら皇族につながる人物には「命」「尊」という尊称がつく。
とくに、兄弟・姉妹の中でも皇位につくような人物には「尊」がつく。
同じ「みこと」でも使い分けがされているようだ。

その視点でいえば、表記した土蜘蛛や地域の部族長には「命」がつかない。
そういう名をもつ女が、山岳などの辺境で地域部族を治めていたというのだろう。
少なくとも、倭国の一国を治めていたというのではない。

78太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/13(木) 18:55:30.07
>「蝙蝠野郎」
バットマンではなかろう。ジョーカーだな。w
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/13(木) 19:00:44.55
ブルース・ウェイン?

はは〜ん? ジョーカー氏ではないのか?
80日本@名無史さん:2011/10/13(木) 19:13:12.06
太国はペンギンだな
81唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/13(木) 19:57:01.20
>短里千里=一月行で、矛盾なくすべてが説明できる。

田道間守は、10ケ月で往復している。
であれば、洛陽〜大和間は1万里?
82日本@名無史さん:2011/10/13(木) 20:04:04.04
一月行は実質の日数ではなく、
距離の単位とすればしっくりする。

水行十日陸行一月や、水行二十日、
普通に移動すれば、南海上か、沖縄辺りについてしまいかねない。

遣唐使船で南航路だと、早いときには8日程度、普通は二十日程度で
上海についているようだが、倭人伝の水行二十日とは距離が違う。

水行陸行の日数表記は、実際にかかった日数ではなく
距離の単位である。
83日本@名無史さん:2011/10/13(木) 20:10:26.96
一月行=短里千里=約77キロ、という距離の単位である。

隋書百済伝で、済州島、百済間240キロ弱を三月行としている。
他の数値もあるので確実ではないが、この数値を採用する。

縦横が逆だが、縦横を逆に修正すれば、済州島や九州の
大きさの記録とも一致する。
逆なのは自分でも未解決である。
84日本@名無史さん:2011/10/13(木) 21:12:02.80
>水行陸行の日数表記は、実際にかかった日数ではなく 距離の単位である。

あほんだら。距離の単位は歩や里だ。得体の知れない距離の単位などあるものか。
85卑弥呼の都は久留米:2011/10/13(木) 21:18:09.42
>>83
>縦横が逆だが、縦横を逆に修正すれば、済州島や九州の
>大きさの記録とも一致する。
>逆なのは自分でも未解決である。

漢籍の成立年代が、750年頃に表現方法が反対になった。
北史以降は現代と同じ表現方法。
隋書以前は現代と逆の表現方法。

 「國境東西五月行 南北三月行」
=「國境長東西五月行 國境長南北三月行」
=「國境間東西三月行 國境間南北五月行」
86彌彌:2011/10/13(木) 21:48:22.12
>>74
>投馬国は、ほとんど水行しか使えなかった所にあったのか?

弥生時代から古墳時代には現在の柳川市などは有明海の満潮時には島であった。有力な集落を訪ね歩く
には満潮時の数時間だけ舟で行き来する以外にない。かなりの人数で行く場合、宿泊や食事などを島の
集落で行えば1日に移動できる距離は僅かである。
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htm を参照されたい。
87:2011/10/13(木) 22:07:37.75
>>86
神崎から柳川・筑後あたりまで水行20日などというバカげた話を、
誰か信用してくれる人がいるかね。どこへ入ったら通用するというんだ。

>満潮時の数時間だけ舟で行き来する以外にない。
柳川の水路交通が可能なのは満潮時だけかい?
それに、筑後の裏山遺跡や
柳川の弥生遺跡をもっと詳しく調べる必要があるんじゃないか?

それに。魏帝からの贈り物を見せながら回ったというが、
皇帝からの贈り物を開封できるのは贈られた当人だけだよ。
装封されたままの竹籠を見せて回ったとでもいうのかい?
88:2011/10/13(木) 22:22:09.92
>>86
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htm を参照したが、
そもそもあのあたりは、大小の浮き島と虫食い状に走る天然水路だ。
とてもとても、7万戸があったとは見えない。逆に陳腐さが丸見えだ。
89日本@名無史さん:2011/10/13(木) 22:26:31.82
○=伊作
90彌彌:2011/10/13(木) 22:29:23.05
>>87
魏帝からの賜物を見せて廻っただけではない。
魏の使節団は倭人達に魏の威光を示して廻ったのである。最新式の武具で身を固めた魏の護衛兵団に守られ
倭の護衛兵に先導されて各地の集落を巡ったのである。総勢数百人の華やかな行進である。
91日本@名無史さん:2011/10/13(木) 22:31:37.87
>>90
やめとけ、相手は伊作氏だ。
92彌彌:2011/10/13(木) 22:35:14.53
>>88
>とてもとても、7万戸があったとは見えない。

アホか。誰が邪馬台国だと言った?
投馬国は5万戸だ。http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htmに出ている図は投馬国
の一部だ。あの図に見られる地域の他に筑後川流域のうきは郡、久留米市などが投馬国に含まれ
るのだ。
93日本@名無史さん:2011/10/13(木) 22:41:21.76
>やめとけ、相手は伊作氏だ。

伊作て誰だ?
94日本@名無史さん:2011/10/13(木) 22:42:41.70
>>91
イサクVS縄文人。
95日本@名無史さん:2011/10/13(木) 22:42:59.72
いや「○」と言うハンネは以前にカキコミがあった記憶がある。
伊作の芸風とも少し違うような…
まあどうでも良い話だがwww

にしても素朴な疑問、遣使が相手国の王のいる都に行く前に各地で盛大な歓迎セレモニーで相当な時間を潰すというのはアリなんか?wwwwwww

今で言えば新たに国交を結んだ国の元首の下に親書を携えた外交官・大使が
その元首に会う前に各地でセレモニーに立ち会うみたいな話だぞ?

無論空港を降り立ったら歓迎式みたいなのはあるだろうが
歓迎式典の本番はあくまで国家元首に会って親書を手渡す等の仕事をしてからだろう。

それを大幅に遅らせるようなスケジュールって…普通に奇妙に思えるんだが他にそう言った事例があるのか?
96唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/13(木) 22:51:13.17
>遣使が相手国の王のいる都に行く前に各地で盛大な歓迎セレモニーで相当な時間を潰すというのはアリなんか?wwwwwww

239年6月、郡(帯方か?)に着いた卑弥呼朝貢団は、皇帝への面会を求める。
面会は12月に行われるが、大和への帰還は3月である。
郡で面会承諾を得るまで3ケ月程度を過ごす。
であるならば、帯方〜洛陽間は、2ケ月あればたどり着く。
97梯儁:2011/10/13(木) 22:51:18.11
>にしても素朴な疑問、遣使が相手国の王のいる都に行く前に各地で盛大な歓迎セレモニーで相当な時間を潰すというのはアリなんか?

歓迎セレモニーというより示威行事を行ったのだ。倭人達に魏の威光を見せつける目的だ。特に大国の投馬国と
邪馬台国の人民には念入りに見せつけたのだ。
98日本@名無史さん:2011/10/13(木) 22:55:21.55
>>97 
「歓迎セレモニー」を「示威行為」に変えても同じだ下らない。

むしろ「示威行為」というのなら最初に”トップ=アタマ”をガツンとやってから
いや、むしろ”トップ=アタマ”以外を相手するのは威信が低下するってもんだwwwwwwww



99卑弥呼の都は久留米:2011/10/13(木) 22:58:10.95
>>86
>有力な集落を訪ね歩くには満潮時の数時間だけ舟で行き来する以外にない。

1日に二回繰り返す干満の潮の流れを利用して移動するのだ。
大小の島と網目状の水路は、干満潮流を利用すれば、動力船のごとく高速で移動できる。

又、有明海東岸には常に北上する潮流があるので、
この潮に乗れば南から北へは高速移動できる。
又、北から南への潮流は有明海西岸にある。

有明海の東岸地帯にあったのは、海洋民の投馬國である。
100日本@名無史さん:2011/10/13(木) 23:02:31.65
縁起の悪い日は動かず 縁起の悪い方角にも動かず、ってのも誰かが唱えてたな。
101日本@名無史さん:2011/10/13(木) 23:07:04.14
>>93
旧奴国、邪馬台国、狗奴国が全部熊本にあったと言っている自称天才wwwww
102元祖 ○:2011/10/13(木) 23:12:18.44
>95
>いや「○」と言うハンネは以前にカキコミがあった記憶がある。

半年位前に二度程しか使ってない。
素晴らしい記憶力。
まあどうでも良い話だがmmmmm
103梯儁:2011/10/13(木) 23:17:43.77
>>98
>むしろ”トップ=アタマ”以外を相手するのは威信が低下するってもんだwwwwwwww

おまえみたいな政治音痴、戦略音痴には解らぬ話だ。
考えても見ろ。トップ(卑弥呼)には難升米を通じて話はつけてある。卑弥呼にとっても魏の使節団が
威光を見せつけながら来てくれることは好都合だ。何故だか分るな?
104:2011/10/13(木) 23:18:38.03
>>92
じゃ言い直そう。5万と7万が隣り合わせで12万戸だ。
弥生の遺跡をみればあるわけにゃーだろ。

吉野ヶ里から筑後まで、徒歩で2日もあれば足りるところ。
筑後から八女までなら、徒歩で1日もあれば沢山だ。
この間にある主要都市(集落)の数は知れたものだろう。
どうやれば。水行30日と陸行30日もかかる? 夢でも見てるのか。

土地の倭人が笑うだろうな。
「昨日はここだったばってん、まーだあぎゃん所でちゃらちゃらしとるばい」。
105日本@名無史さん:2011/10/13(木) 23:28:46.98
>>104
じゃ言い直そう。5万と7万が隣り合わせで12万戸だ。
弥生の遺跡をみればあるわけにゃーだろ。

こいつアホ丸出し。
人口が多いというなら有明海沿岸しかなかろうに。
106梯儁:2011/10/13(木) 23:32:42.70
>>104
>じゃ言い直そう。5万と7万が隣り合わせで12万戸だ。

筑後川以南の福岡県が投馬国でここが5万戸だ。そう言うとるだろが。何を勘違いしとるんだ?

>吉野ヶ里から筑後まで、徒歩で2日もあれば足りるところ。

現在とは道路事情が異なることが分らんようだ。有明海が干潮のときは干潟を歩いて行くと言うのか?

>この間にある主要都市(集落)の数は知れたものだろう。

主要集落10個をまわっても20日くらいはかかる。ただ単に通り過ぎるんじゃないぞ。
107日本@名無史さん:2011/10/13(木) 23:59:01.23
船の数艘だか数十艘でゾロゾロと行くわけだろ。
この船を、途中で乗り捨てたり新たに呼んだりするのは困難だと思う。
108:2011/10/14(金) 00:00:36.44
>>105
>人口が多いというなら有明海沿岸しかなかろうに。
一番多いのは熊本平野。しかも広いし生産力も揃っている。

>>106
>筑後川以南の福岡県が投馬国でここが5万戸だ。
それほどの遺跡はあるまい。とゆーとるのが分からんか?

>有明海が干潮のときは干潟を歩いて行くと言うのか?
大小無数の浮き島と虫食い状の天然の水路が走る土地だ。
干潟は極端だが、言い抜けるための方便だな。

>主要集落10個をまわっても20日くらいはかかる。
目的は何だといってたかな? そんなにのんびりしてていのか。
笑ってしまうが、
痔瘻説では吉野ヶ里からは投馬国も邪馬台国も目と鼻の先だぞ。

ともあれ、論理性の欠落した願望空論だ。ムキになることもあるまい。
109日本@名無史さん:2011/10/14(金) 00:03:55.88
>>104
どうやれば。水行30日と陸行30日もかかる? 夢でも見てるのか。

どうしても畿内まで行きたいらしいな
それは無駄な抵抗じゃ。
110日本@名無史さん:2011/10/14(金) 00:04:42.81
>>103 梯儁

くくっく、縄文人テイストだなwww

さも自分に政治軍略のセンスがあるように自惚れるところとかwwwww
こう言う所は伊作と同じwwwwww

まあ捨てハンを頻繁にとっかえひっかえ使うのも芸風wwwwwww

>卑弥呼にとっても魏の使節団が威光を見せつけながら来てくれることは好都合

国内の〆あげを外国の人間に頼ったら卑弥呼の面目丸つぶれだなw
無論「バックにある存在」として利用するのはあるだろうが、直でやられたら自身の存在価値がないw

まあお前の脳内ストーリー・オレサマ軍略理論はいいから
実際にそう言った事例があるのなら出せ。
111日本@名無史さん:2011/10/14(金) 00:06:14.88
>109
○は天災イサクだってば。
112:2011/10/14(金) 00:11:27.35
枝葉論議で放置されているもう一つの問題を再掲する。

>伊都国を治めていたのは速来津姫、投馬国を治めていたのは八女津姫、邪馬台国を治めていたのは田油津姫、
●邪馬台国以降の4世紀に、なんで伊都国や投馬国の後身を女土蜘蛛が治めたことになるのか。
この中の速来津姫と田油津姫は土蜘蛛といわれる辺境部族だ。
土蜘蛛は日本書紀や各地の風土記にみめかぎり九州だけではなく西日本各地にいた。
そうした中で、女酋長だ女シャーマンだと言われるものを拾ってみた。
大山田女・狭山田女(佐賀県佐賀市大和町東山田)  海松橿媛(佐賀県唐津市見借)
八十女人(佐賀県多久市東南部の両子山)  速来津姫(長崎県佐世保市早岐)
浮穴沫媛(長崎県彼杵地域)  田油津媛(福岡県みやま市瀬高町山門)
久津媛(大分県日田市石井)  五馬媛(大分県日田市天瀬町五馬市)

また、八女津媛(女神)=卑弥呼へと直結する傾向に、福岡出身の研究者が警鐘を鳴らしている。
http://inoues.net/yametuhime.html
古墳時代、何らかの大きな勢力が八女地方にあったのは間違いないし、
おそらくはそれが「筑紫の君・磐井」へとつながっていくのだろうと思われる。
しかし卑弥呼の時代に、その素地がこの地方にあったのかどうかまではわからない。
大きな弥生時代の遺跡もないし、何より、三十国を統治するにはあまりにも辺境で、
「奴国」や「投馬国」との交信すら不自由するのではないか。
筑紫の君の背景としての素地はあるが、それにしても、さかのぼって5世紀まで戻れたとしても、
4世紀には何もない。勿論3世紀の痕跡もない。
今のところ、ここを邪馬台国の候補にするには決め手を欠くと言わざるを得ない。
113:2011/10/14(金) 00:13:06.03
ほんじゃま。
114ローガン:2011/10/14(金) 00:23:26.87
>>76:前スレ857www
>文字や神獣像の背後にある宗教観の理解なんていわば「ソフト」の部分はそう短期間で習得できるものでもあるまい。

そういう事。理解出来ている人々の手によるものと考えるのが穏当。
さておき、可能性の有る無しを議論しても仕方ないので…
取り敢えずは「国産説の場合、経年変化を大陸と同期に捉えなければ、現行の土器の推定実年代は支持出来ない」
の主旨は理解頂けたものと承知。
畿内説で、国産説なら、踏み返しの花輪鏡を除外した、所謂マスター鏡は その製作時期が決して4世紀にはかからない。
よって、三角縁神獣鏡とは舶載 国産にかかわらず3世紀製作である。ということですな。
115日本@名無史さん:2011/10/14(金) 00:31:47.26
フジテレビデモ花王デモ要チェック
116筑紫次郎:2011/10/14(金) 00:32:44.69
>>112 イサクじゃないのか?
>邪馬台国以降の4世紀に、なんで伊都国や投馬国の後身を女土蜘蛛が治めたことになるのか。
>土蜘蛛は日本書紀や各地の風土記にみめかぎり九州だけではなく西日本各地にいた。

土蜘蛛の意味を知らないのか?
土蜘蛛とは大和朝廷に抵抗する勢力の総称だ。
特定の勢力を意味しているのではない。
伊都国、投馬国、邪馬台国は大和朝廷と対立していた勢力という事だ。

>古墳時代、何らかの大きな勢力が八女地方にあったのは間違いないし、
おそらくはそれが「筑紫の君・磐井」へとつながっていくのだろうと思われる。

4世紀以降この地方を支配しているのは大和朝廷の系列勢力だ。

>大きな弥生時代の遺跡もないし、何より、三十国を統治するにはあまりにも辺境で、

弥生時代に九州で最も人口密度が高く人口が多く、栄えていたのは筑紫平野だ。

>筑紫の君の背景としての素地はあるが、それにしても、さかのぼって5世紀まで戻れたとしても、4世紀には何もない。勿論3世紀の痕跡もない。

筑紫の君など4世紀以降は大和朝廷系列の勢力だ。
筑紫平野は縄文時代から人口密集地帯だ。
117前スレ857www:2011/10/14(金) 00:36:04.40
>>114 老眼
『シンポジウム三角縁神獣鏡』p68
>車崎:
>倭鏡説は昔から境目がないという立場で、逆に言うと、中国鏡説のほうが境目があると指摘してきたわけです。
>しかし、そう言いながら、中国鏡説の人も境目が必ずし明確でないということは常に言ってきたわけで

この状況は三角の形式分類が進んだ今でも同じで
連続していると見る者には連続して見え、していないと見る者には境界(ただその位置は論者によって異なる)が見えてくるとw

まあ結局は”藪の中”で、「境目のある・なし」で言い争っても水掛け論にしかならんのだろうねw

舶載説であろうが国産説であろうが如何なる学者の分類でも
「ここを境に前後では完全別物」と言う「断絶」とでも言うべきものがあれば分かり易いんだろうが・・・
118筑紫次郎:2011/10/14(金) 00:43:35.01
熊本は狗奴国。
投馬国、邪馬台国はその北にある当時の九州最大の人口密集地帯の有明海沿岸。
119日本@名無史さん:2011/10/14(金) 01:32:11.27
>>114
論理なんか何でもいいから

 「△鏡は卑弥呼時代だから畿内説は正しい」

            と言いたいわけだw 
120日本@名無史さん:2011/10/14(金) 01:41:57.66
>>112
出ましたねw
121日本@名無史さん:2011/10/14(金) 01:45:19.09
>>117
車崎が舶載鏡と国産鏡の区別はできないとした部分は、当たり前のことを言ったに過ぎない。
「王様は真っ裸だ!」と。

しかし、だからといって「全部舶載だ」という方向に向かうのはちとおかしい。
舶載説は「これはどうしても国産とするほかない」というものだけを国産としてきたのだからww

車崎は舶載説からも迷惑な存在じゃないの?
「全部国産だ」という明白なことを、あえて逆の主張をして皮肉っているんだろ。あれは。
122日本@名無史さん:2011/10/14(金) 02:32:03.36
>>121
舶載だろうが国産だろうがどっちにせよ3世紀。

ゴミクズレベル九州説が自分達が溜飲を下げるネタを提供してくれたとしてありがたがっているであろう王にしても
神獣鏡は3世紀といっている。

少なくともゴミクズレベル九州説の信奉している邪馬台国東遷説はないなwwwwwwww

123日本@名無史さん:2011/10/14(金) 02:57:03.74
>>119
>「△鏡は卑弥呼時代だから畿内説は正しい」

少なくとも有力な傍証にはなるw

全国に鏡をばら撒く勢力が出現しており
その範囲が肝心の北部九州玄界灘周辺地域にも及んでいるのだから
これで邪馬台国=首長連合の中心であったろう畿内ヤマト という想定が出てこないのがおかしいわけで
九州にはこれといった対抗馬がない。
事実上一択wwwww
124日本@名無史さん:2011/10/14(金) 03:43:18.19
神獣鏡は文化思想的にむしろ呉の系譜だから、
△鏡が三世紀だとすると、

畿内説がますます詐欺だった、という証明となるなw
125日本@名無史さん:2011/10/14(金) 05:08:15.72
傍国遠絶
傍国に伊賀や伊勢を比定するなら畿内説は成立しない。


126:2011/10/14(金) 07:34:54.53
>>116
>土蜘蛛とは大和朝廷に抵抗する勢力の総称だ。
はじめから大和朝廷に与する土蜘蛛も登場する。
大山田女・狭山田女(佐賀市大和町)、鬱比表麻呂(長崎県彼杵)、久津媛(日田市石井)、
五馬媛大分県(日田市天瀬町)、小竹鹿奥・小竹鹿臣(豊後大野市朝地町)速来津姫(佐世保市早岐)
土蜘蛛とは、大和朝廷の統一が行き届かなかった辺境の社会部族の総称のようだな。
熊襲、隼人といった特定の呼称をつけるほどでもない小規模部族だろう。
辺境だからこそ、そういった部族がいたのだ。

>伊都国、投馬国、邪馬台国は大和朝廷と対立していた勢力という事だ。
速来津姫、八女津姫は、大和朝廷と対立していた形跡はない。
いずれにしても、3世紀には伊都国、投馬国、邪馬台国があった国(土地)を、
4世紀になると大和朝廷に抵抗する土蜘蛛が治めていた(大和朝廷の時代に
朝廷に抵抗する勢力が九州北部を治めていた)という痔瘻説は筋が通らない。

なお、痔瘻のいう速来津姫は伊都国(嘉瀬川沿い都渡城付近)ではなく、長崎県佐世保市早岐の土蜘蛛とある。
痔瘻がいう「嘉瀬川(佐嘉川)沿い」にいたのは大山田女・狭山田女という土蜘蛛だ。
つくり話で邪馬台国比定地をでっちあげるにしても、詰めが甘い。
127:2011/10/14(金) 07:37:21.69
>>116 痔瘻への続き
不弥国(吉野ヶ里)から投馬国(筑後市)まで直線距離で17キロ程度。
たったこれだけのエリアを、 水行だけで20日間もあちこち立ち寄っているという。

そこから邪馬台国(山門郡瀬高町)まで直線距離で7キロ程度。
たったこれだけのエリアを、 水行10日間と陸行30月であちこち立ち寄っているという。

魏の使節団は、不弥国に到着して以来2ヵ月間も邪馬台国へは向かわず、
邪馬台国の目と鼻の先をうろついて回ったというわけだ。笑止

しかも、行程記事の中でこの部分だけは実際の距離・日数ではなく、
「見せびらかして通った日数と行程だ」という。それならば行程説明ではなく状況説明だ。
何度か来訪している中国人が、行程説明をするのではなく、
最初に通った「様子」を説明してるというわだ。

「女王国以北はその戸数・道里を略載できるが…」とあるが、
投馬国までの距離記載がまったくない。
ほんとうに続け読みでいいのか。問題は最初から山積だ。
128:2011/10/14(金) 07:44:37.49
●九州説の信憑性のバロメーターは、畿内説者たちの行動にあり。
彼らが無視同然に放置している説は、「たいしたことはない」ということ。
129日本@名無史さん:2011/10/14(金) 08:01:03.92
>>126-128
きた〜\(^o^)/
130筑紫次郎:2011/10/14(金) 08:53:12.46
>>126
熊襲、隼人といった特定の呼称をつけるほどでもない小規模部族だろう。
辺境だからこそ、そういった部族がいたのだ。

小規模部族しかいなかった辺境とはとんでもない認識不足。
筑紫平野は縄文、弥生時代を通して遺跡の宝庫だ。
辺境な地域の名が九州全体と同じ名で呼ばれる訳もあるまい。
辺境どころか古代九州の中心地だ。
〓〓〓〓〓〓〓〓
つくし【筑紫】
九州の古称。また、筑前チクゼン・筑後を指す。
【筑紫箙】【筑紫楽】【筑紫潟】【筑紫鴨】【筑紫館】【筑紫櫛】【筑紫鞍】
【筑紫恋し】【筑紫箏】【筑紫路】【筑紫次郎】【筑紫総領】【筑紫薙刀】
【筑紫の海】【筑紫の奥】【筑紫人】【筑紫琵琶】【筑紫船】【筑紫平野】
【筑紫弓】【筑紫流箏曲】
〓〓〓〓〓〓〓〓

>速来津姫、八女津姫は、大和朝廷と対立していた形跡はない。

速来津姫が佐賀大和と言う私の主張はこのホームページから
誤解したものであったので、撤回したい。
http://www.lifesasebo.com/99view/rekishi/Vol.170/rekishi170.html
速来津姫は大和朝廷に捕らえられている。
天皇が来たとき八女津姫は八女市から30q以上も離れた
とても人の住めない場所であったはずの山奥にいた。
私は
速来津姫が捕らえられ、田油津姫が濡れ衣を着せられ攻め滅ぼされると言う
情勢に、身の危険を察して山奥へ逃げたのではないかと推定している。
131筑紫次郎:2011/10/14(金) 08:53:46.91
>>127
>そこから邪馬台国(山門郡瀬高町)まで直線距離で7キロ程度。
たったこれだけのエリアを、 水行10日間と陸行30月であちこち立ち寄っているという。

やっぱり▲はイサクだったのか。
私は誤魔化し、捏造、曲解しかしないイサクは相手にしないと言っているはずだ。
自分では相手にしてもらえるようなまともな事をいっているつもりなのか?
駄説を主張したいなら勝手にすればよい。
まともな者は誰も相手にしないだろう。
132日本@名無史さん:2011/10/14(金) 09:36:59.46
だが、▲の言ってることはまともだな。
133日本@名無史さん:2011/10/14(金) 10:19:22.92
>>58
今津か。
平清盛の時代には唐人町があって唐の名医がいたとか、
江戸時代の北前廻船の九州における一大根拠地だったとかいうのも、
古代からの歴史的伝統がそこにあったからかもしれないな。
今津の対岸にある今山が石器工房だったんじゃないかってのはよく知られてるけど
この山は頂上からの弓で「夷魔」を退治したのが名前の由来であるとも言うな。
134:2011/10/14(金) 11:48:23.48
>>131
>誤魔化し、捏造、曲解しかしないイサク
観客の多くは、これまでの伊作の正義感溢れる投稿内容から、
痔漏のこの言葉がウソだということを知っているんだ。
自分が信用を落すだけだ。こういうウソを平気でいう根性が嫌いさ。

>まともな者は誰も相手にしないだろう。
まるで正反対のウソをついているが、育ちが知れようというもの。
追っかけ・グルーピーが多くて、「構うな」といってもからんでくるんだ。
そこが人気者のつれーところさ。

また2年ばかり潜んで、IQと学力が低いなりに、願望空論を練り上げることだな。
▲はウソつきが嫌いだから、また簡単にに潰してやるさ。
135横失礼:2011/10/14(金) 11:50:16.64
>>110
この人は「威光を示す」ということを「威嚇する」ことと思っているらしい。
脅すのではダメなのだ。反感を買う。
警護兵団の最新兵器や統率された行動などは畏怖を感じさせるかも知れないが、それに加えて高い文明、文化を
感じさせる行事が主なわれるのだ。
136唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 12:20:31.90
>>112 ▲ 邪馬台国を治めていたのは田油津姫、

仲哀天皇九年三月轉至山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛。
この田油津姫は、田平津姫の誤りである。
景行が諸縣(玄海町諸津)までを抑えるが、かわって台頭した田平を抑えることにより、以南の渡海の自由を奪う。
 
137筑紫次郎:2011/10/14(金) 12:49:25.44
>>134
九州説の恥。
人間の屑。
二度とレスするな。
138:2011/10/14(金) 13:10:25.27
>>110 >実際にそう言った事例があるのなら出せ。
外交使節というものは、色んな使命を帯ている。
交渉・交流・通商・偵察・視察・調査などのほかに、自国の威信を示すことも使命の一つである。
莫大な費用と手間ひまをかけた使節派遣だから、おおいに国威を誇示する。
そうしたことから、先進性や豪華さを見せつけながら鼓笛隊を戦闘に練り歩く。
鼓笛隊の先導は近隣住民を集める機能がある。
異国をおとずれた使節の行列は、先進国の誇りを見せつける機能がある。
遠来の賓客を迎える側にとっては内政面の効果も大きく、国をあげての政治的一大行事として国民に見せつける。
見るほうの庶民としても、一生に1度、見られるか見られないかという「珍しくも盛大なイベント」である。
だからこそ使節団は時間をかけて練り歩く。

(創作の必要がない部分、とくに制度やしきたりなどの記録は『日本書紀』の中でも見るべきものがある)
隋の使節団の様子みると、難波津の定宿から王都まで10日も要したようである。
隋からきた使節たちが、難波津から「見せびらかし」ながら輿に乗ってやってきたのか、
はたまた大和川を遡って海石榴市に上陸したのかは不明。(たぶん兼用だろう)
ここで、倭国王が派遣した額田部連比羅夫(『隋書』は哥多ベと書いている)は、
儀仗騎馬75匹を従えて客を海石榴市に迎えて「郊労の礼」を行なっている。
この「郊労の礼」もまた倭国側の見栄もあり、華やかで盛大だったことだろうと私は思う。
郊労の礼には複合目的があって、外来の客を王都へ入れる前の「最終チェック」と、
随行した護衛や随行員の「武装解除」があったものと私はみている。
ここから先は、王都警備隊や近衛隊が使節一行の安全を保証することになる。

ずっとのちのことだが、朝鮮通信使節の様子もまったく同じで、
わざわざ時間をかけて陸路を歩いている。
朝鮮通信使節の場合、庶民や知識層との文化交流が特徴的である。
とはいうものの痔漏言説のように、
目的地を目と鼻の先にして2ヵ月間もうろちょろしたとは常識はずれである。
139:2011/10/14(金) 13:13:14.68
>>137
>誤魔化し、捏造、曲解しかしない
>まともな者は誰も相手にしない
>九州説の恥。 人間の屑。

お前のこの発言はみな、お前のことだ。
よくもぬけぬけといえたもんだ。
こっちは、お前などとは質も格も違う。
身のほど知らずもいい加減にせい。
140鬼才天才偉材逸材大先生:2011/10/14(金) 13:34:29.01
>>139
>こっちは、お前などとは質も格も違う。
>身のほど知らずもいい加減にせい。

おぬしら この儂に比べたら屁のような存在じゃ。身のほど知らずもいい加減にせい。
141日本@名無史さん:2011/10/14(金) 13:52:06.51
名前:悲しい酒[] 投稿日:2011/10/13(木) 14:39:47.97
ヤフーでの出来事
tenchuukun
キミはもう放置されている。

これは メッセージ 166191 isaq0130 さんに対する返信です

どこに行ってもつれない返事。哀れを誘うな〜。
142日本@名無史さん:2011/10/14(金) 14:07:19.58
166191 投稿者 :isaq0130
「馬鹿で痴呆か脳病だった」
そこまでいう人間のことを放置できないお前らもびょーきだ。
傍目にも異常なやりとりが惰性化してる。

これは メッセージ 166189 tenchuukun さんに対する返信です
143日本@名無史さん:2011/10/14(金) 14:24:08.03
>>132
遺作自演男登場。
144卑弥呼の都は久留米:2011/10/14(金) 16:57:08.32
「水行二十日」と「水行十日陸行一月」

帯方郡⇔狗邪韓國 7000里=水行七日
狗邪韓國⇔對海國 1000里=水行一日
對海國 ⇔一大国 1000里=水行一日
一大国 ⇔末盧國 1000里=水行一日
             小計 水行十日

末盧國⇔投馬國 水行十日(倭人よりの伝聞)
帯方郡⇔投馬國 水行二十日

末盧國⇔邪馬壹國 陸行一月=1000里(海行一月=1000里 隋書百濟伝より)
帯方郡⇔邪馬壹國 水行十日陸行一月

目的地を絞ると、
邪馬壹國の目的地は八女・・・狗奴國との紛争現場(陸戦地)
投馬國の目的地は瀬高(矢部川河口)・・・狗奴國との紛争現場(上陸戦地)
145唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 17:29:20.36
對海國 ⇔一大国 1000里=水行一日
末盧國⇔邪馬壹國 陸行一月=1000里(海行一月=1000里)

このグズグズな理論を ”紛争現場”で説明したつもりかもしれないが
238年の魏使とは、斥候でもある。斥候は紛争現場に踏み込まない。
紛争の公孫氏の勢力の南に派遣される。紛争地は船便で回避している。

146梯儁:2011/10/14(金) 17:42:15.12
>>144 卑弥呼の都は久留米
>帯方郡⇔投馬國 水行二十日
アホな計算をしているな。

>邪馬壹國の目的地は八女・・・狗奴國との紛争現場(陸戦地)
>投馬國の目的地は瀬高(矢部川河口)・・・狗奴國との紛争現場(上陸戦地)

倭人伝の行程記事の元になったものは女王国と狗奴国の間での戦争時に来倭した魏の使者の報告による
ものだという認識かな。

正始元年の梯儁らの来倭が魏としては初めての倭への使節派遣である。最初であるから使節団は倭国の
地理や政治状況や風俗や産物などを調査し記録した筈である。つまり、正始元年よりのちの外交記録を
除いて倭人伝のほとんどの記事はこの梯儁らの来倭時の報告が元になっていると見るべきである。

それらの記事を見れば、そこには狗奴国との戦争を感じさせるものは何も無い。若し戦争状態があれば
必ず報告する。政情の観察ができなければ使節(外交官)として失格である。

張政らの来倭には狗奴国との争いが関係しているが、この張政らの来倭時の行程が倭人伝に書かれたと
言うのかな? そうであればその理由が知りたいものだ。
147唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 18:03:16.97
>倭人伝のほとんどの記事はこの梯儁らの来倭時の報告が元になっていると見るべきである。

これまで、だれも倭人伝の方向や距離で邪馬臺國を言い当てた人物が存在しない。
距離や方向に間違いがある。であるならば、狗邪韓国あたりで邪馬臺國の情報を仕入れたままである。
それを確認するために正始元年に魏使が訪れるわけであるが、ご存じのとおり
だれも言い当てていない。
ということは、距離や方向を無視せねばならないが、
1ケ月の距離であれば、筑紫〜大和程度である。方向は変更される。
方向のみで探せば、南に狗奴国の記述は正しいだろう。
148日本@名無史さん:2011/10/14(金) 18:30:46.67
>>124 恨み節東遷厨

先ず三角が3世紀の呉鏡だったとしても畿内説は成り立つ。
卑弥呼に下賜された鏡でなかったとしても有力な傍証にはなる。

仮に将来、三角が国産で決まるような証拠が出てきても、それは三角舶載魏鏡説が間違っていただけという話で
それでもその魏鏡説を「詐欺」だなんて言わない。
(そもそも現在「畿内説」と言われているものは三角舶載を前提とした小林説への批判から始まる部分が大きいのだし)

その昔、古谷清と言う学者は江田船山古墳を卑弥呼の墓としたが、無論、今じゃそんな事を言う学者もいないだろうし
ここのゴミクズレベル九州説でもいないだろう。
それでも当時の知見で導かれたその説を「詐欺」と言う馬鹿はいない。
(現在得られている知見を無視して自説を強弁するようなここのゴミクズレベル九州説のような連中は詐欺だがwwww)

このゴミクズの基準だと、あっちこっちの遺跡を卑弥呼邪馬台国に関連付けてきた九州説は詐欺の歴史と言う話になるw

又、現在九州説は比定地がいくつあるか知らないが
(異なる行程記事の解釈、異なる年代観、卑弥呼や邪馬台国の人物像や国家像も違えば、魏との関係と言った歴史背景の解釈も異なり、とてもじゃないが、単なる”ばらつき”で済む話ではない)
少なくとも一つを除いて将来全部詐欺になるのは確定しているという話だwwwww

…もっとも恨み節的には九州の何処であろうが構わず、畿内説が否定され積年の恨みを晴らせればそれで良いのだろうがwww

およそ学問においては漸進するたびそれまでの常識・定説とされてきた物の多くが旧説として打ち捨てられていく運命なんだろうが
それを詐欺という馬鹿はいない。
それすら分かっていないのがここのゴミクズレベル九州説。
古代史に関する知識の多寡とか以前のゴミの中のゴミ。

まあ、この恨み節全開のアホが
「畿内説に騙された謝罪と賠償を要求するニd(ry」
と訴訟でも起こすのは勝手だがwwwww
149太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/14(金) 18:40:35.62
500枚鏡は鏡作の日本製だな。つまり卑弥呼の鏡ではない。
以下の通り ↓ 鏡に於て皇紀569,570の事象が密着合致し、整合している。

皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神即位元年
565 -96
566 -95
567 -94 238
568 -93
569 -92    紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳 倭笠縫に鏡を祭祀
570 -91 239 景初3年鏡 銘文年
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅(←通常暦での干支)年
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社 戊寅七年(←通常暦での干支年)
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅(←倍暦での干支)没年
150太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/14(金) 18:43:10.03
>>149 補充
戊寅七年は、戊寅年の皇紀618年基点での7年です。
151卑弥呼の都は久留米:2011/10/14(金) 19:06:00.50
>>146 梯儁氏
>倭人伝の行程記事の元になったものは女王国と狗奴国の間での戦争時に来倭した魏の使者の報告による
>ものだという認識かな。

倭人伝の行程記事の元になったものは女王国と狗奴国の間の不穏な状況認識である。
狗奴國が、烏越等との相攻撃状況の様になることを懸念しているのである。

「女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯 烏越等詣郡説相攻撃状」

しかし、魏は、魏軍(帯方郡軍)の派遣はしないで、詔書と黄幢及び軍事顧問張政の長期派遣(247年〜265年)でお茶を濁したのである。
152唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 19:28:03.81
>500枚鏡は鏡作の日本製だな。

この”銅”をどう入手したか?
△鏡の前には、銅鏃の副葬がある。
メスリ山古墳 236本の銅鏃、50本の石鏃
椿井大塚 鉄鏃約200本、銅鏃17本、 ←このあたりで銅鏃の副葬は終了する。
つまり、椿井大塚以後の出来の悪さは倣製鏡と説明されている。その銅を確保するために
銅鏃は作られなくなった。とするならば、これ以前の△鏡は、舶載である。
153日本@名無史さん:2011/10/14(金) 19:51:34.91
>>152 唐松
>椿井大塚 鉄鏃約200本、銅鏃17本、 ←このあたりで銅鏃の副葬は終了する。

は?銅鏃の副葬されていた古墳なら
大阪・壷井御旅山
京都・園部垣内
奈良・佐味田宝塚

…等々があるぞ?(1999福永)
いずれも倣製と区分される鏡が出ているが?



154唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 20:13:52.80
 画像鎮には、三角縁の鎮体がほかにもみられる。たとえば、上海博物館蔵の既出とは別
の神入神獣画像鎮(車王公西王母・羽人・王女)も三角縁である。わが国のものでは、奈
良県北葛城郡河合町佐昧田宝塚古墳出土の神人車馬獣画像鋸も周縁が三角縁である。

鏡に伝世があるならば、銅鏃にもあてはまる。
だからきっちり区分することはできないが、△鏡より先に銅鏃は終焉する。
秋津遺跡から穴あきの銅鏃が出土しているが、編年では50年ほど差が出ている
秋津遺跡=4世紀初めから
穴あきの銅鏃=3世紀半ば
155太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/14(金) 20:20:40.90
>この”銅”をどう入手したか?
そんなことはオマエが考えろ。王さんの論が権威を持つ。500枚は日本製
だ。これは日本の鏡作が作ったと観て間違いはない。

ウィンドウズ95が発売された直後の95’頃、一般に多勢がウィンドウズ95を使用
するわけである。発売後50年も経過して多数が使うわけがない。せいぜい少人数
が古型ソフトを使用して懐かしむことはあるものの、多勢が使用するわけが
ないのだ。50年後の2045年にウィンドウズ95を多勢で使ったと主張して
るのがオマエ鏡脳内インチキ論だ。2045年じゃぁない。この場合は1995年
の直後に多勢で使用したのだ。景初3年鏡もかようなことから、>>149
通り238,239年ころなのは鏡作神社と倭笠縫の鏡の出来事から明白だ。

つまり景初3年鏡が500枚も畿内に出る根拠の年代は、そこの年代あたりに鏡の
重要な出来事が起こった時期に密接しするに違いない。つまりだ〜
>>149において、崇神6年の鏡作出来事と崇神の倭笠縫に鏡を神の祟りを鎮め
るために祭祀した年代が景初3年に近接して来ることが極めて整合していると
言えるものだ。だから、>>149の表は正解であり、これから237年が崇神元年で
ある確証を得る。景初3年が景行元年では、鏡の目がつく目利きの事象は
まるでない。つまり 景初3年≠景行元年 だと決まりである。
156唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 20:49:51.37
>そこの年代あたりに鏡の重要な出来事が起こった時期に密接しするに違いない。

正始元年東倭重譚納貢。しか魏の年号を知る機会が無い。
157日本@名無史さん:2011/10/14(金) 20:56:03.73
>>148
お前が何を喚いても、歴代の畿内説がどいつもこいつもみな詐欺だったことは、まったく変わらんw
158日本@名無史さん:2011/10/14(金) 21:04:25.00
>>157 恨(ハン)の人
まあ三角を呉鏡としても3世紀の鏡と認めるならとりあえず邪馬台国東遷説は詐欺・ペテン確定だなw

無論安本が世に出た当時はいざ知らず90年代から(年輪年代の事じゃないぞw)こっちに尚主張しているのは詐欺そのものと言われても仕方がないなwwww
159唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 21:14:49.55
274年 二月,分幽州五郡置平州。
咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
277年 咸寧3年 東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。
途中省略
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,文俶は惠帝(290〜306)に仕える。
晋の冊封を受けたこの時期に△鏡はもたらされる。
160梯儁:2011/10/14(金) 22:29:58.16
>>151 卑弥呼の都は久留米
>「女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」

上記は行程記事の中にあるが、「女王の境界の南に狗奴國があり、男子を王としていること、官に狗古智卑狗がいること、
女王に属していないこと」が述べられているだけである。梯儁らの来倭時には未だ戦争状態には至っていない。戦争状態
にあるならば重大事であるからそのことが報告される。

>「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯 烏越等詣郡説相攻撃状」

これは正始八年の記事である。正始八年(かその少し前)から相攻撃という戦争状態に入ったのである。

景初2年に司馬懿が公孫淵を滅ぼして魏が遼東から韓半島までを支配圏に入れたが、完全に支配権を確立したわけではなく、
不満を持つ部族も少なくなく正始八年にほぼ鎮圧されるまで大小の叛乱が起っている。韓の叛乱鎮圧に当たった帯方郡太守
の弓遵は戦死している。このような半島情勢を抱えた魏は卑弥呼に親魏倭王の位を与えて半島の叛乱制圧に参加させようと
いう腹づもりであったに違いない。

卑弥呼(邪馬台国)としては魏の後ろ盾を得ることで倭国内での権威を高めるとともに半島における利権も欲しかったに違
いない。

景初2年12月に難升米を率善中郎將に牛利を率善校尉に任じ、正始四年には掖邪狗等を率善中郎に任じ、六年には郡におい
て難升米に黄幢を授けている。このようなことは倭国に対する軍事援助というより半島での戦闘に倭国を参加させようという
魏の狙いによるものと考えた方が理解し易い。(つづく)

161梯儁:2011/10/14(金) 22:31:10.26
160のつづき

実際に倭国の軍隊が半島に派遣されたかどうかの記述はないが、上記の武官の位を授けられた連中と少数の倭国兵が半島での
叛乱鎮圧の戦いに参加した可能性は高い。なにしろ魏の武官に任じられ、難升米などは黄幢を授けられたのだから。

このように魏と倭国の間はうまく行っているかに見えた。しかし、狗奴国との争いが軍事衝突に発展し、魏からの張政らの派
遣という事態に至ったのである。邪馬台国が魏の後ろ盾を得たことで、それまでは傘下の国々を纏めるべく地道な内政努力を
重ねて来たものが、気のゆるみが出るとともに卑弥呼の老齢による衰えからくる求心力の低下も相まって倭国としての結束力
が低下していたのであろう。その結束力の低下を察知した狗奴国が攻勢に出たのであろう。

以上のようなストーリイも考えられるのである。
162太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/14(金) 22:33:00.66
>〜しか魏の年号を知る機会が無い。
一つあれば年号を知れる。鏡に年号があって王氏が日本製だと権威
ある論が出たということは、魏の年号を知っていたからだということに
なる。

ウィンドウズ95発売の1995年から50年後の2045年ころにウインドウズ95を
多数使用し1995年ころには使用がなかったとする論の型が、オマエの
インチキ論なのだ。50年も遅れて多勢が使用し出したというオマエの論
が一目瞭然でデタラメだというのが歴然とする。ww
163唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 22:37:37.30
>親魏倭王の位を与えて半島の叛乱制圧に参加させようと
いう腹づもりであったに違いない。

島に隔離されている状態から一足飛びに半島への出兵は無い。
まず、乱で乱れた地方もある倭国を統一して支配体制へ組み込む。
そのための後方支援として、黄幡授与などがある。
164日本@名無史さん :2011/10/14(金) 22:51:02.47
古代倭国語解釈その11

末盧国・・・マラ国 マラは村、里(さと)の意

解説 仮借の場合、数少ない例外を除いてほとんど漢字の一音を借りてきます。
   ですから、「末」の字は決してマツとは読みません。

マラ国の意味は「里国」というような意味になります。
松浦とはなんの関係もありません。
倭人伝にある「山と海の水際に住んでいる」とあります。その山とは博多湾の中にある今津湾の
長垂山のことです。今でも海に面した山の斜面に住宅が立ち並ぶ風景は弥生の原風景を残したものです。
余談ですが、その南五キロほど先に「高祖山」があります。、今津湾の長垂山東から東南に「大宰府」まで直線で約25キロもあります。
東南に陸行500里とはこの距離を言います。大宰府が伊都国になります。その先は南へ川下りの行程です。
地図上の直線距離はもちろん、古代の人たちが測った長さとは大きく誤差が生ずるということを頭に入れてください。

165唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/14(金) 23:06:23.86
、洛陽付近で出土した位至三公鏡19面のうち18面までが、西晋の時代のものであり、
洛陽晋墓から出土したものは、西暦295年と302年の墓誌が伴っていた。

卑弥呼の鏡は、位至三公鏡よりも少し前に盛行した長宜子孫銘内行花文鏡などの
後漢鏡であると考えている。
166日本@名無史さん:2011/10/14(金) 23:23:04.73
>>163 唐松山
>そのための後方支援として、黄幡授与などがある。

こいつの言うことは訳がわからん。漢文の読みは滅茶苦茶だし、日本語の文章もヘタクソ。
誤字にも気がつかない。黄幡とはなんだ〜?
167日本@名無史さん:2011/10/15(土) 08:22:11.32
>>148
半吉もウマシカだな、やっぱり。自分の書いていることが自分にも適用される
と解っていないらしい。
お前さんの言う畿内説もまた同じ。
168日本@名無史さん:2011/10/15(土) 09:37:00.08
まあ、邪馬台国東遷説や九州王朝説は詐欺・ペテン・トンデモ・カルトだけどなw
169太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/15(土) 10:26:55.88
九州王朝は年号が多出してるから、存在はもう間違いないぜ。
170日本@名無史さん:2011/10/15(土) 12:46:14.46
>>168
ここは学問板だ。その意見の論証をキチンとやってみせてくれ。
171日本@名無史さん:2011/10/15(土) 12:52:38.55
東遷説とか九州王朝説なんて循環論法の見本じゃないかw
172日本@名無史さん :2011/10/15(土) 13:40:49.85
無学な奴の煽りはウザいだけだw
173太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/15(土) 14:06:14.38
ユカタンのマヤ王朝は権威学者らが、マヤは安寧と平和で戦争のない文明
だと強く頑張ってこれを定説としてたものだが、マヤの壁面にある絵画等
には戦争らしき内容があり、捕虜を踏んでたり生贄とかのマヤの残虐性の
状況が画かれていたにもかかわらず、権威学者らはこれを認めず
否定し、マヤ文明は平和を重んじで暮らしていた民族だと頑強に定説を
曲げず主張して来たわけで、これがマヤ文字の解読が進み、この解読から
従来の平和だとかいう定説が大間違いであり、こういう心臓を抉り出して
摘出しチャック・モールの上に捧げ生贄を行い、沢山戦争をして捕虜を
生け捕りにし、残虐をやっていたことがマヤ文字文面から解読露呈され
たのであるそうだ。定説がお間違いだったのだ。それを正すのにえらく
長い年月がかかったのである。

現今の日本古代史もこれとあい似ており、年号が多数出ているのに私年号
だとか捏造だとかをかぶせて九州王朝を否定している奴がけっこういるん
だろうが、年号はマヤの壁画等同然にして、九州王朝を認めないで
頑張ることが出ている多数の年号を無視してるものだが、出ている結果は
いずれ九州王朝存在の氷山の一角の証拠であって、長期の年月の経過が
その存在を否定出来なくなってその存在を認めるにい至ることは、マヤ
の出ている結果に逆らう強行なインチキ定説が長い年月の後、否定され
て、マヤ文明の真相を知されるに至るのと同様のこととなろう。
174卑弥呼の都は久留米:2011/10/15(土) 14:15:59.45
>>160-161 梯儁

私の文意を理解できていないようです。
「女王境界所盡 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」 は、
女王國と狗奴國が隣接しており緊迫感があることを示す為に掲げたものです。

「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯 烏越等詣郡説相攻撃状」に、
何故「遣倭載斯 烏越等詣郡説相攻撃状」が挿入されたのかを理解できていませんね。
倭人伝に、郡と烏越等の関係についての余計な説明を、陳寿がわざわざ入れるはずがありません。

>難升米に黄幢を授けている。このようなことは倭国に対する軍事援助というより半島での戦闘に倭国を参加させようという魏の狙いによるもの。
>上記の武官の位を授けられた連中と少数の倭国兵が半島での叛乱鎮圧の戦いに参加した可能性は高い。
 指揮官2人だけの任命では上記のようなことはありえない。

「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」は、掖邪狗等8人に率善中郎將と銅印黒(or黄)綬を一時的に授け、
黄幢を掲げ魏軍として狗奴國と戦いなさいの意味である。
175唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/15(土) 17:54:19.72
帯方太守・張撫夷墓(西暦288年/348年?)
帶方郡都近郊で見つかった帶方太守の墓。墓碑銘に288年薨かるとあり、247年(正始8年)
壹與に見送られ帶方郡に戻った張政の後の姿と、森浩一先生は提唱される。
http://hiba.blog.ocn.ne.jp/photos/ayumodoki/100121__2.html

帯方郡は何処か
http://www.geocities.jp/taru638/page019.html
176梯儁:2011/10/15(土) 22:05:07.66
>>174 卑弥呼の都は久留米
>私の文意を理解できていないようです。

貴殿がなにを言いたいかは分っている。>>160-161はその貴殿の考えが間違い(単なる思い込み)で
あることを指摘したものである。

>何故「遣倭載斯 烏越等詣郡説相攻撃状」が挿入されたのかを理解できていませんね。
>倭人伝に、郡と烏越等の関係についての余計な説明を、陳寿がわざわざ入れるはずがありません。

何をいいたいのか分らない。他人に通じるような文章にして貰いたい。

>「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」は、掖邪狗等8人に率善中郎將と銅印黒(or黄)綬を一時的に授け、
>黄幢を掲げ魏軍として狗奴國と戦いなさいの意味である。

「掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」は正始4年のこと。このときは黄幢など授けられていない。正始6年
に難升米に黄幢が授けられたが、この頃までは半島では韓の叛乱が頻発していた。女王国と狗奴国の間
には未だ軍事衝突は起きていない。「黄幢を掲げ魏軍として狗奴國と戦いなさいの意味である。」など
貴殿の思い込みにすぎない。
177卑弥呼の都は久留米:2011/10/15(土) 22:29:11.83
>>175
張撫夷と張政は全くの別人だ。
178太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/15(土) 22:41:13.27
あいつは別人の応神と履中をイコールだと論じている大盲象野郎さ。
179おそ松山:2011/10/15(土) 22:53:03.28
>>175
>森浩一先生は提唱される。

魏の辺境守備の軍人たる張政が、晋の軍事基地か官庁に「帰還した」という話だろ。
臺與が派遣した使者たちも、張政らを送ったついでに晋の臺に行って、
魏による軍事支援のお礼の貢ぎものを晋の官庁に差し出した。というわけだ。
素人以下の妄想言説だね。

考古学者が文献に口出しするとろくなことはないという見本。
180唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/15(土) 22:57:33.57
張撫夷は384年ではないか?
帯方郡が漢城であれば、その北方は前燕の領土の一部として、帶方太守を置く。
この地が高句麗領となるのは、380年代に楽浪の”安”が高句麗と結託してから...。
181唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/15(土) 23:11:33.44
訂正 ×384年、○348年
何故、張撫夷は348年ではないか? となるのか。
まず魏は薄葬であるが、この墳墓は立派である。
そして342年に高句麗は前燕に大敗し、自立が困難なほど疲弊する。
百済本紀に書かれた369年は、両国とも前燕に帰順している。
もしこの地が高句麗領であったとしても、前燕の軍隊は丸都に常駐している。
その流れで、こちらに前燕の太守として常駐した可能性はある。

182太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/15(土) 23:20:29.33
五重在位←お粗末
183唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/15(土) 23:30:50.45
この時代の倭と高句麗の関係。
神功皇后 275年〜343年 326年~功52年七支刀
応神天皇 344年〜384年  倭に臣従するクニシン王までの記録

仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

この数字で読める位置でしか存在できない。
4世紀末高句麗は、百済漢城に兵隊を常駐させる。
その時、積石塚が造られるわけであるが、巨大になったわけとして
340年代に高句麗は倭国を訪れている。倭の大型古墳に対抗する意味もあって造られる。
高句麗に、百済と新羅を奪われた倭に大型古墳を造れる余力は無い。
184日本@名無史さん:2011/10/16(日) 01:05:28.69
137 :筑紫次郎:2011/10/14(金) 12:49:25.44
>>134
>九州説の恥。
>人間の屑。
>二度とレスするな。

次郎、これ、恥ずかしいよ
もう、この「筑紫次郎」ってHN使えんくらい赤面もの
自分勝手の物語を書きまくるから「ゴミクズ」っていわれるんだよ
185おそ松山:2011/10/16(日) 01:12:48.60
(2010年西日本新聞連載・森浩一氏「倭人伝を読み直す」)
「張政が倭へ来たのが正始八年だったから帰国まで十九年間滞在した。
泰始2年(266年)の臺與の晋への遣使は、同時に送政等還を兼ねていた。
つまり張政らの帰還も兼ねていたのである。
卑弥呼の死後に女王になった臺與は新しく成立した晋へ使節団を派遣した。
このとき晋へ男女の生口30人を献上し、白珠5千孔、青大勾珠2枚、異雑錦20匹を貢いだ」

「ぼくの推測だが、泰始二年の(臺與の)遣使で倭地の張政の功績を中国側に伝えただろう。
どうやら張政は帰国後に帯方郡太守に抜擢されたとみられる節がある。
帯方郡治とみられる土城跡の北方八キロの一方墳(あたりから)出土したレンガに
[帯方郡太守張撫夷]と型押しされていた。撫夷の二字は夷つまり東夷を鎮夷することである。
………ぼくが述べてきた張政の倭地での役割にはぴったりである。
このように考えると、張政の倭地での鎮撫夷の成功をワイや韓でも行なわせたく、
張政の抜擢となったのであろう。その頃に張政は自分の名を変えたというのがぼくの推理である」 

とんでもの見本。
186日本@名無史さん:2011/10/16(日) 06:16:26.23
いさくちゃーん
でてきてくれよ〜
はやくはやく〜
187日本@名無史さん:2011/10/16(日) 06:40:50.51
筑紫次郎はイケてる、パンチが効いてる
188筑紫次郎:2011/10/16(日) 07:33:08.71
>>184
>次郎、これ、恥ずかしいよ
もう、この「筑紫次郎」ってHN使えんくらい赤面もの

私を聖職者か聖人君子か名誉ある有力者と勘違いしていますね。
私は間違いを指摘されたり、意見が違うだけでは決して怒ったりはしないが、
毎回毎回、妄想を根拠に罵倒しかしない屑には容赦しない。

>自分勝手の物語を書きまくるから「ゴミクズ」っていわれるんだよ

どこが自分勝手の物語なのか根拠を提示いなければ貴方も屑の仲間だよ。

>>181
筑紫次郎はイケてる、パンチが効いてる

感謝致します。
私はたった一人のためにも説明します。
多くの人が簡単に理解できるならば邪馬台国論争はここまで紛糾していません。
もちろん
私の主張の全てが正しいと言っているのではありませんが、
全体の整合性の取れないその場限りの主張をしている人が
あまりにも多いと思います。
189日本@名無史さん:2011/10/16(日) 07:40:57.95
自演乙 こいつは前のコテ名時代からひどい自演をやった
190太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/16(日) 10:15:18.10
>>183
その数字で読める位置でなくとも存在できる。

オマエのそれでは梁署 永元元年=499年 の顕宗(乙祁=袁祁)の
記載が合わないんだよ。
応神が崩御する以前に仁徳が在位しているデタラメ強行は物笑いのタネ
だな。ppp www
191太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/16(日) 10:30:18.75
訂正
× 梁署
○ 梁書
192日本@名無史さん:2011/10/16(日) 11:13:56.30
>>189
>こいつは前のコテ名時代

昔のコテって誰?
193筑紫次郎:2011/10/16(日) 12:57:12.21
>>192
>>189
>こいつは前のコテ名時代

>昔のコテって誰?

そう是非とも知りたいものだ。
自演する奴も屑だ。
常習者もいるが
私は自演したことはない。
卑弥呼の都は久留米さんや梯儁さんの自演と言われたこともあるが
両名とも別人だ。
194日本@名無史さん:2011/10/16(日) 13:52:36.32
愛知県民
195日本@名無史さん:2011/10/16(日) 14:46:55.36
26 :筑紫次郎:2011/10/12(水) 00:18:34.70
>御神輿と言うのは道順が決まっているそうだ。
>と言うことは過去の何かを再現しているのではないのか?
>また
>人形を置いた御輿もあるし
>ある所の御輿は丘へ登り、階段から投げ落として祭りが終わるそうだ。
>もしかしたら
>外国からの使節を乗せて運んだ御輿があったのかもしれない。
>たいした使節でもないのに、傍若無人、無理難題を要求するなど我慢の限界を
>越えたときには階段から投げ落とすことがあったのかもしれない。

これ、何が根拠?思いつきだろ
196日本@名無史さん:2011/10/16(日) 14:54:01.14
26 :筑紫次郎:2011/10/12(水) 00:18:34.70

>また、
>江戸時代の参勤交代もただ目的地へ急ぐだけではない。
>華やかで威厳を示す、見せるという要素が速度よりも重視されている。

参勤交代とは、
@参勤交代の起源は鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕
A戦国時代には戦国大名の一部は自身の居城の城下町に服属した武士を集めるようになり、
 豊臣秀吉が大坂城・聚楽第・伏見城で支配下に服した大名に屋敷を与え、そこに妻子を
 住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがった。
B家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与え、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)
 を江戸に住まわせる制度を立て、当初は自発的な参勤であったが、次第に制度として定着
 していき、3代将軍・家光の時代に武家諸法度の改定によって義務付けした。
C紀州侯の大名行列は格式と威光を感じさせる大行列だったため、多くの農民が見物に訪れる
 ほどであった。それほどの財力の無い藩では、大きな宿場町を通過する際のみ、臨時雇いで
 家来の「水増し」を行い、行列の威厳を保ちつつ、経費を節約したといわれる。

197日本@名無史さん:2011/10/16(日) 14:54:44.26
>>194
>愛知県民

愛知県民など知らない。
愛知県民は山門郡説か?


>>195
これ、何が根拠?思いつきだろ

思いつきと判るように書いている。
198日本@名無史さん:2011/10/16(日) 15:00:55.05
>>196
差名金交代の起源とか目的については問題なしていないる。
経費を節約したか節約しなかったかも問題にしていない。

>また、
>江戸時代の参勤交代もただ目的地へ急ぐだけではない。
>華やかで威厳を示す、見せるという要素が速度よりも重視されている。

は間違っているのか?
間違っていたら訂正しよう。
199日本@名無史さん:2011/10/16(日) 15:01:40.53
>>197
九州説のあんたみたいなのがその思いつきや根拠のない憶測で書き込むから
九州説は「ゴミクズレベル」って言われるんだよ。
200筑紫次郎:2011/10/16(日) 15:08:54.06
>>199
九州説のあんたみたいなのがその思いつきや根拠のない憶測で書き込むから
九州説は「ゴミクズレベル」って言われるんだよ。

御神輿は
確かな根拠があるわけではないし
推定だと判るように書いているが
気に入らないのなら撤回したい。

他の根拠のない憶測とは何だ?
201筑紫次郎:2011/10/16(日) 15:18:56.85
>>194
私が初めてここへ来たときは
fsrを名乗っていた。

その後
書き込みの最後に筑紫次郎を何度か入れて
その後
fsrではなく筑紫次郎を名乗っている。

愛知県民を名乗ったことはない。
202日本@名無史さん:2011/10/16(日) 15:24:28.26
どんな学説でも、最初は思い付きだ。
さらに文系の学問は、証明するのが困難なものが多いく、
全体として良く説明が出来ているという説得力が、いわば学説の根拠だと思う。
だから、筑紫次郎氏は、思いつきだからという理由で撤回する必要はない。
203日本@名無史さん:2011/10/16(日) 15:32:42.54
「学説」というより単なる「仮説」だろう。
支持者が居れば「学説」、どんどん信者が増えれば「定説」。
204日本@名無史さん:2011/10/16(日) 16:11:11.73
筑紫次郎は、伊作に比べたら百倍くらいはマシ

まあ、この板で自説を主張する人々の大半は自己満足に類するものであることは
その通りだが、それはそれで良い。

一般社会人としての礼節さえ、わきまえていれば。
つまり、自説を最高のものとして礼讃するような非常識さえなければ、ということ。
205日本@名無史さん:2011/10/16(日) 16:13:46.70
いいよ、先ずは「ひらめき」や「思いつき」で始まったとしても
それを「立証」するための「根拠」を調べて書き込まないと
たんなる「根拠なき憶測」となり「ゴミクズレベル・・・」
などと馬鹿にされて終わり
206日本@名無史さん:2011/10/16(日) 16:24:45.47
おまえがな
207唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/16(日) 17:02:20.35
>>185
帯方太守・張撫夷墓(西暦288年/348年?)
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。
この時代に年号を入れないことは、考えられない。

前燕
1. 元璽(352年-357年)
2. 光寿(357年-359年)
3. 建熙(360年-370年)
この直前に葬られる。前燕は独立国家であるのに”年号”を持たない時代が存在する。
晉書卷一百九 載記第九  慕容皝慕容翰 陽裕 より
慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。三年,[五]三年 周校:三年上脫年號,按之當
為永和也。今按:永和元年十二月皝始不用晉年號,自稱十二年(見通鑑九七)。
年号を使用しない時代に帯方太守・張撫夷墓が来る。
208日本@名無史さん:2011/10/17(月) 16:12:33.18
筑紫次郎擁護派は九州王朝説ー派か?
九州王朝説こそ根拠なき憶測なのに
209日本@名無史さん:2011/10/17(月) 21:07:19.70
湯川博士は中間子が存在するという仮説を立てただけでノーベル賞を受賞した。
後に他の学者らがそれを立証したからだ。邪馬台国の研究もまた同じだろう。
古代の歴史は立証が難しく歴史上の事実を証明するには困難が伴う。しかし、
今、解る限りの資料を組み立てて、まず実際の歴史がどう動いたのか仮説を立
てることが大事だ。仮説を立ててその仮説の合理的な部分は評価し、不合理な
部分は訂正する。その積み重ねの上に実際の歴史が見える可能性が高くなる。
仮説を立てる能力も無く、他人の説の穴探しだけをしている半吉のような者に
は決して本当の歴史を解明することはできないであろう。
210卑弥呼の都は久留米:2011/10/17(月) 21:16:02.54
>>208

九州王朝は、「大倭國(タイ国)」として、517年〜700年の184年間存在した。

701年以降の「大倭國」は、奈良盆地に分派した九州王朝。
211日本@名無史さん:2011/10/17(月) 21:23:01.87
>>209 ゴミクズ
>今、解る限りの資料を組み立てて

これを無視するのがゴミクズレベル九州説。

九州説とて現在得られている知見に基づき漸進して然るべきだが
ゴミクズレベル九州説の頭の中は70〜80年代で止まっている。

環境の変化についていけないボケ老人の集団。

212日本@名無史さん:2011/10/17(月) 21:31:53.89
九州王朝説は循環論法と言うより「陰謀論」の構図そのもの。

例えばある殺人事件があって目撃者も現場の遺留品もなく
被害者の生前の交流関係を洗っても何も出てこない。

…で、分からずじまいの迷宮入りとなるが、何処ぞのアホが
「犯人はお化けだ」と言い出す。

お化けだから目撃者もいない、現場に痕跡も残さない。

一応はストーリーとしては完結するが
だからと言ってそれによりお化けの存在が証明されたわけでもなんでもない。

記紀の記述にしてもどうしても分からないところがある。

そこに謎の存在X=九州王朝を持ってきてストーリーを組み立てる。
ストーリーとしては成り立つがそれで王朝の存在が証明されたわけでもなんでもない。

日本の古代史を操る九州王朝をフリーメーソンやローゼンクロイツ、あるいはイルミナティと言った
世界を影から支配する秘密結社に置き換えれば陰謀論の構図が良く分かるだろう。

無論それを否定して見せるのは「悪魔の証明」で不可能。

もはや証明とか否定とか議論の俎上にも上らない。
詐欺ペテンの類。

213日本@名無史さん:2011/10/17(月) 21:47:24.22
>>209
>他人の説の穴探しだけをしている

これはそのまま九州説に当てはまる。
特に三角をめぐる銅鏡の話の場合特にだ。

九州説は三角は国産で卑弥呼の鏡ではないという。
ならば九州邪馬台国の卑弥呼の貰った鏡は何か?

「方格規矩鏡・内行文鏡・キ鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡…のどれか」で終わり。
そこから先の話が全く出てこない。

恐らく九州説の立場なら魏代の舶載鏡は九州がほぼ独占したと言うシナリオなのだろうが

じゃあ、卑弥呼の貰った鏡でなくても同時期に九州に輸入された鏡はどれか?
それは何によって証明されるか?
そして様式の変化等を編年して前後の時間の経過を示せるのか?…等々。

前スレから老眼が(タイムラグ等の問題はあるが)3世紀からの鏡の変遷を説明してきたが
こう言った話が九州説から聞いたためしがない。

九州説に立った3世紀の日本の銅鏡の状況は一向に見えてこない。


214日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:07:09.80
>>212
伊作くんと同レベルのようだが、
もう少し九州王朝の本を読んでから批判した方がいいぞ

九州王朝説論者も、「九州王朝」という名前の王朝が存在した
と主張してるんじゃないのよ。
正確に言うと「元々、倭国は九州に在った」と主張してるだけなのよ。
215日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:19:32.07
>>214
俺に言わせれば伊作も九州王朝説だw

元々皇国史観的な大和一元史観とでも言うもののアンチテーゼとして出てきた多元史観=九州王朝説が
「ミイラ取りがミイラに・・・」じゃないが九州版皇国史観になってしまったとww

本当は皇国史観が好きで好きでたまらないが
その主役がヤマトじゃ嫌で自分により近い九州にしたいと言うだけのお話www

伊作のレスの端々に国士気取りが見えるのが笑えるwwwwwwww


216日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:36:43.88
△鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡ではない。
だから現時点では邪馬台国畿内説の根拠となりえない。
△鏡を卑弥呼の鏡と言い張ること自体「ゴミクズレベル」だよ。
217日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:44:02.16
>>216
>△鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡ではない。

根拠がない。
お前はそれをどうやって証明するんだ?

恐らく80年代の王の論文以来(まるで振り子が反対側に振れるかのように)一挙に国産説の雰囲気になってしまった状況が未だに続いている状況をもって
国産説で決着したかのように喧伝しているのがここのゴミクズレベル九州説。



218日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:48:54.93
>>217
こいつアホ
今さら堂々と△鏡を「魏からもらった卑弥呼の鏡」と言い張るなんて
何でも行ってみるもんだ畿内説
219日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:51:48.11
反キチ語録「△鏡こそが卑弥呼の鏡説」
記録したぞ
220日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:57:04.81
>>219
>「△鏡こそが卑弥呼の鏡説」

…と、まあ脳みそ沸いているゴミクズレベル九州説は人の書いてないこともレスとして目に見えるらしいwww

つまりこのアホどもにとって畿内説は「三角舶載説」で「箸墓=卑弥呼の墓説」と言うものでないと理解の範疇を超えるとwwwwwwwwwww
221日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:59:33.65
209 :日本@名無史さん:2011/10/17(月) 21:07:19.70
>湯川博士は中間子が存在するという仮説を立てただけでノーベル賞を受賞した。
>後に他の学者らがそれを立証したからだ。邪馬台国の研究もまた同じだろう。

湯川博士の研究概要
原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる
 中間子の存在を1935年に理論的に予言した。
 1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見
 したことにより湯川理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、
 日本人として初めてノーベル賞を受賞した。

つまり、研究の段階で仮説を立てるに十分な理論があったために仮説を立てることができ
科学者達に認められたもの。
十分な理論や物的証拠がなければ仮説にもならないわけだ。

222日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:07:05.14
つまり畿内説は十分な理論や物的証拠のない<ゴミクズレベル>なのだ
223sss:2011/10/17(月) 23:07:27.88
宗像大社というのがある。航海の神様と言われる三女神を祀っている。

宗像から10kmほど沖に大島というのがある。さらに北西に航路を取ると50km〜60kmほどで
海の正倉院とも言われる沖ノ島がある。
宗像の三女神が、宗像大社と大島と沖ノ島に一柱づつ祀られている。これに何の意味があるのだろうと
思ったら、奈良時代あたりにはここが重要な航路だったらしい。

近畿地方から瀬戸内海をやってきて、宗像から大島、沖ノ島そして対馬から朝鮮半島というわけだ。
なるほど合理的な航路だと思う。近畿地方から朝鮮半島に行くには一番良いのだろう。
沖ノ島が聖なる島だった理由もわかるような気がする。

卑弥呼が近畿地方にいたら、やはりそのような航路を取っていただろうと思われるが、実際はそれとは違って
壱岐を通って末盧国に行っている。しかも、末盧国に到着した後、東南に陸行するとなっている。

卑弥呼は、やはり有明海を通って行くところにいたに違いない。
224日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:11:26.45
結局ゴミクズレベル九州説が三角舶載説にこだわるのは
自分たちが溜飲を下せるネタだと思って固執しているだけwwwwww







225日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:17:25.84
実際のところ3世紀に九州である様式の鏡が急増しているとなれば
それが九州説における「卑弥呼の鏡」なんだろうが…

そんなものがあるのか?

卑弥呼が貰った100枚で打ち止め?w

226日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:21:59.86
九州には古い後漢鏡しかないから、邪馬台国は無いね。

おわり。
227日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:24:37.95
邪馬台国は魏志倭人伝で「倭の女王が居る所」と明記されている。
すなわち倭国の首都でありその所在地は魏志倭人伝のとおりに
見ていけば、どう解釈しても畿内ではない。
その畿内説を説明する人は大抵大嘘つきで散々無理なことを並べる。
そして、九州説に対し反キチや同レベルのガキが汚い書き込みを繰り返す。
日本人として非常に残念な者達だ。
228日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:26:43.76
北朝鮮には祭壇を備えた積石塚墳が沢山あるが、これが 前方後円墳の原型であるという説がある。
前方後円墳は4世紀に朝鮮北部から畿内一帯に渡来した(逃げて来た)夫余系(高句麗系)が築造した
もので、石の少ない奈良盆地では石積みだけでは作れないので代りに土を盛って表層だけを石葺きにし
たのではないかと推定されている。
229日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:32:01.16
>>226
大雑把なうろ覚えなんだが…

九州で方格規矩四神鏡のピークは1世紀、内行花文鏡は2世紀で
3世紀はもっぱら弥生イ方製鏡でやがて神獣鏡が出てくる…って流れじゃなかったか?

仮に九州邪馬台国の卑弥呼が貰った鏡が方格規矩四神鏡、内行花文鏡だとしても
細部に1・2世紀からの変遷が伺えるようなものがあると思うのだが…

こう言った話は九州説から聞こえてこないんだよなあwww

230日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:40:15.09
畿内王朝は高句麗からの渡来人が建てたものである。倭人の王朝ではない。
231日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:40:19.49
卑弥呼がもらった百枚の魏鏡なんか、現在せいぜい1〜2枚しか出土してないだろう。
畿内説みたいに500枚出てくるという馬鹿話は論外だが。
232唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/17(月) 23:46:36.16
>邪馬台国は魏志倭人伝で「倭の女王が居る所」と明記されている。

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。又東行百里,至不彌國。又南水行二十日,至投馬國。又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,
即倭王所都。

北史では、倭奴国で乱があり、 歴年無主を経て 女王卑弥呼が共立され、
さらに1ケ月以上離れた場所に邪馬臺國がある。
233日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:47:18.03
>>231
いやだから「卑弥呼が貰った鏡」そのものじゃなくて
九州邪馬台国が輸入した魏代の鏡がどれか?という話ねw

3世紀(伝世により副葬はやや遅れるだろうが)に魏から舶載鏡が流入した痕跡があるのかと…

「三角は国産で決まり!畿内説をやっつけた!」で思考停止するんじゃなくてwwww
234日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:55:18.68
まあ、結局のところ三角が舶載だろうが国産だろうが
弥生末期に向けて九州の鏡は低下の一途。

これは年代観をどうこう動かして済む話じゃない。



235唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 00:05:55.34
前原王墓は、3世紀初めで終了する。[ 歴年無主]有女子名卑彌呼,國人共立為王。
女王卑弥呼は、後漢倭奴國王位の継承である。
邪馬臺國はここから1ケ月は離れているとすれば、畿内である。
女王国の南に狗奴国があり、247年頃より戦争がある。この遺物として”鉄鏃”がある。
筑紫と熊本に多い。筑紫に女王国があれば、南の熊本あたりが狗奴国である。
この時代に庄内式土器が北部九州に存在する。単純に庄内式を3等分した最後に九州
上陸。纒向が崇神・垂仁・景行の都であれば、景行時代にこれらの出来事が起こる。
236日本@名無史さん:2011/10/18(火) 00:28:13.60
>>233
魏は当時、銅の採掘が難しかったんじゃないか?
邪馬台国は鏡を独自ルートで輸入できない状況だから
わざわざ魏国から貰ったわけだろ。
237ゴミクズ畿内説:2011/10/18(火) 00:33:10.93
△鏡は中国で一枚も作られた形跡がなく、
卑弥呼は百枚しか貰ってないにもかかわらず△鏡は六百枚以上発見されていが
△鏡卑弥呼がもらった鏡。
多いことはいいことだ。

箸墓は大きさが全然違うが卑弥呼の墓。
大きいことはいいことだ。
238日本@名無史さん:2011/10/18(火) 00:35:51.41
>>237
まあゴミクズレベル九州説の理解とすればそんなもんだろうなw

>>220で言った通りの反応wwwwww
239ゴミクズ畿内説:2011/10/18(火) 00:38:26.60
>>238
ゴミクズ畿内説の負け惜しみ。
240日本@名無史さん:2011/10/18(火) 00:38:37.40
>>236
仮に魏代が舶載鏡の”底”だとして続く晋代には回復しないのか?

九州に邪馬台国があったら反転して増加する様が見える資料があると思うが

241日本@名無史さん:2011/10/18(火) 00:55:59.69
>>240
何年経っても、「鏡大好き」ってわけじゃないんだよ。
流行ってのがあるだろ。
242日本@名無史さん:2011/10/18(火) 00:57:12.76
>>240
畿内が突然、銅鐸を捨てたのは、どう理解してるんだよ。
243日本@名無史さん:2011/10/18(火) 01:02:11.42
>>242
で、暫くしたら神獣鏡をありがたく貰うようになるとw
何と言うか予想通りのご都合主義的回答だなwww

結局、「鏡」から九州の邪馬台国を描き出す術はない。
舶載鏡が増加した様子もなければ国産鏡をばら撒いた様子もないのだからwww


244日本@名無史さん:2011/10/18(火) 01:11:58.78
邪馬台国は鏡をありがたがって集めていました、
なんてこはもない。
245日本@名無史さん:2011/10/18(火) 01:12:53.83
鏡の多い少ないが邪馬台国の根拠にはならないわけだ。
246日本@名無史さん:2011/10/18(火) 01:14:00.92
畿内には鏡が多いから
鏡の多いところが邪馬台国と
根拠無くいいたいんだよ。
247ゴミクズ畿内説:2011/10/18(火) 01:28:37.75
鏡が多いから畿内だ。
でっかい墓が多いから畿内だ。

邪馬台国に鏡が多いともでっかい墓が多いとも書いてないんだがね。
248日本@名無史さん:2011/10/18(火) 01:54:32.26
>>243
舶載鏡が増加した様子もなければ国産鏡をばら撒いた様子もないのだからwww

邪馬台国で舶載鏡が増加したとか国産鏡をばら撒いたとか書いてあるのか?
ゴミクズ畿内説の倭人伝には。
ゴミクズ遺作と同じように勝手な法則を捏造する畿内説はやっぱりゴミクズ。
249日本@名無史さん:2011/10/18(火) 02:14:16.43
>>248
別に鏡に限定しないぞ?
邪馬台国云々以前に勢力と呼べるようなものが存在したかどうかという話だ。

少なくとも三角が国産であろうが大量にばら撒いた勢力が出現した事には変わりは無い。
畿内説にとって不利になるような材料でもない。

それを鬼首モノでわめき散らしているこの板の九州説はクズの中のクズ、ゴミクズレベル。

まあ結局「鏡」と言うファクタは畿内説にとってプラスになってもマイナスになることはなく
九州説にとってマイナスになることはなくてもプラスにもならないとw








250日本@名無史さん:2011/10/18(火) 02:24:47.11
>>249
>少なくとも三角が国産であろうが大量にばら撒いた勢力が出現した事には変わりは無い。

根拠にならないものを根拠にすることがゴミクズだと言っているのだが理解できないらしい。
ゴミクズ畿内説は。
251日本@名無史さん:2011/10/18(火) 02:31:35.14
>>250
まあ勢力としての実態を示す材料と言うことが理解できないのだろうなお前のようなゴミクズレベルはw

涙目で「ゴミクズ」と言ってもそれすらない九州説は結局「すなお読み」で九州の何処でもOKと言う様になるwwwww

252日本@名無史さん:2011/10/18(火) 02:35:40.99
ゴミクズ畿内説にとっては
ゴミクズ遺作同様根拠にならない物を根拠と言い張るしかない訳だ。
253日本@名無史さん:2011/10/18(火) 03:03:06.29
そもそも伊作とその他のゴミクズレベル九州説の違いって何なんだ?w

254日本@名無史さん:2011/10/18(火) 03:21:37.88
ゴミクズ畿内説は、そもそも詐欺の常習犯。

オオカミ少年のように

  「これぞ物証だ!」とわめくんだが

その証拠が嘘八百なので、ネタバレすると次々証拠を変えてくる。
255日本@名無史さん:2011/10/18(火) 03:45:41.27
>>253
単なる同族嫌悪
256征天皇大将軍:2011/10/18(火) 04:15:31.46
邪馬台国は南米にあり
ここは邪馬台国南米説。。。
257日本@名無史さん:2011/10/18(火) 04:26:03.66
普通に半島でしょ
大和に朝貢
258日本@名無史さん:2011/10/18(火) 07:41:23.37
>>254
アレは凄いですよね。
畿内説を守りとおすためならばいくらでも平気で嘘をつき捏造する。
あの厚顔無恥ぶりは九州説の人たちももっと見習ったほうがいいかもしれません。
259日本@名無史さん:2011/10/18(火) 08:40:32.08
>>258
>畿内説を守りとおすためならばいくらでも平気で嘘をつき捏造する。
あの厚顔無恥ぶりは九州説の人たちももっと見習ったほうがいいかもしれません。

九州説にも厚顔無恥な人はいますが、
九州にあったのだから無理に嘘をつき捏造する必要はありません。
倭人伝を正しく解釈すればよいだけの話です。

対して
倭国大乱で多くの男性が死に、
国が極度に疲弊していると思われるのに
数多の巨大墳墓や鏡を作り続けたことが
何故邪馬台国である根拠になるのか
畿内説の人に是非ともお聞きしたいものですね。
260日本@名無史さん:2011/10/18(火) 09:38:21.11
酷い自演だな
261日本@名無史さん:2011/10/18(火) 10:50:49.85
258ですが、259さんは別の人ですよ。
これしきのことさえ見抜けない洞察力のなさ、これぞ畿内説論者の特徴ですね。
物事の真実ひとつ見抜けないというのが模範的な畿内説論者です。畿内説のカガミですね。
262日本@名無史さん:2011/10/18(火) 11:02:39.58
自演に見えるという自覚はあったのかw
263日本@名無史さん:2011/10/18(火) 16:21:51.84
>>262
酷い自演だな

自演ではない。
九州説同士で同意見だとほとんど自演に思えるらしい。


倭国大乱で多くの男性が死に、
国が極度に疲弊していると思われるのに
数多の巨大墳墓や鏡を作り続けたことが
何故邪馬台国である根拠になるのか
畿内説の人に是非ともお聞きしたいものですね。
264ローガン:2011/10/18(火) 16:41:16.98
>>213
>九州説に立った3世紀の日本の銅鏡の状況は一向に見えてこない。

では、やってみましょうか?
方格規矩四神鏡… 方格が地を表現。四神、瑞獣の表現された円い天。
十二支を配した四角い大地から伸びた「T」が天を支える四極。
これは、皇帝の徳に満ちた政に対する瑞祥を表現したもの。
工房壊滅により、入手できる鏡が神獣鏡を主とした山陰鏡主体になり、鏡背の図像が神仙思想に基づいた現世利益的なものが中心となる。
漢の正式後継者を自認する魏は、この思潮を良しとせず、
後漢初の国家経営にならい、皇帝の徳を寿ぐ瑞祥をしるした漢の倣古鏡を
復活尚方において作成した。 当然、勅による下賜鏡もこれに同じ。
265日本@名無史さん:2011/10/18(火) 17:57:32.28
>>264 老眼

その手の言わば「神獣鏡は”国家の品格”にそぐわない」的なお話は大昔からあるわけでww

しかし王仲殊にしても彼のシナリオなら

>中国の南方地域、主として呉の会稽郡から、各種神獣鏡と各種画像鏡を中心とした中国南方系統の銅鏡を海路輸入した。

…とは別に北方・魏の領域から半島を経由して輸入された鏡群があるはずなんだろうが
日本の神獣鏡(や仏獣鏡)についての言及は多数ある王もその鏡についての言及はなかったと思う。

(俺が記憶違い・読み落とししているのなら指摘ヨロ)

結局、具体的に方格規矩鏡・内行文鏡・キ鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡…等々の中から
「これが卑弥呼の(時代の)鏡だ」と出してくる人間はいない。

こうなると、そもそも魏から半島を経由して入手された鏡が神獣鏡だったのではないか?と考えても良いのではないかと思うw

まあ、こうやって「三角は舶載か国産か?」と言う話に留まらず
銅鏡の出土状況から九州邪馬台国の可能性を考えてみる…みたいな事をすればゴミクズレベル九州説から
「鏡で邪馬台国が分かるもんか!」
とクレームが来るんだが、それも暫くしたら今度はゴミクズレベル九州説が
「弥生時代の鏡は九州が99.9%!」とか言い出すんだよなwww

266唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/18(火) 18:05:18.25
方格規矩鏡 左L字が正しい。
右L字鏡には、左文字や、神像の位置や、干支の配置の狂うものがある。
位至三公鏡には、270年前後の記年鏡が存在する。
267日本@名無史さん:2011/10/18(火) 21:41:42.03
>>265の指摘するような馬鹿は、畿内説だけだな。ていうか、自己紹介か。
268日本@名無史さん:2011/10/18(火) 21:47:38.33
九州説の人が畿内説を批判するには、鏡より東の海を使う方がいいよ。なにし
ろ畿内には東の海は無いからね。
269日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:23:26.42
〉〉268
畿内説の人は東を西と読んで「倭人伝」が間違っていると言うのさ
270日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:23:40.84
東海地方がどうかしましたか?

271ひとぶた:2011/10/18(火) 22:27:27.88
>>268

>東の海は無いから

倭人伝の邪馬台国は戸七万の超大国です。
東夷諸国では夫餘並の規模です。
なので、奈良盆地とかの矮小な地域では国土が納まりません。
だから、畿内説的には、近畿地方くらいが、その領域だとなりますから、その東に海は有りますでしょう。
海を越えて東千里先に陸地は無いですけどねw
ただし、これ、九州説さんにとっても同じような解釈(玄海諸国等を除く九州島のほとんどが国域!)が成り立ちますか。
272日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:38:39.41
>>271
根拠なき妄想所謂「ゴミクズ」
273日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:40:34.94
>>271
根拠なき妄想、所謂「ゴミクズ」
274日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:42:19.23
>九州説の人が畿内説を批判するには、鏡より東の海を使う方がいいよ。なにし
ろ畿内には東の海は無いからね。

方角が違う
自女王国以北其戸数道里可略載に合わない
自郡至女王國萬二千余里では機内まで行けない
周旋可五千餘里では畿内まで含むことはできない

これらのどれか一つで畿内説は完全消滅
しかし大丈夫
このくらいのことでは畿内説は決してめげないのだ

炭素同位元素、年輪年代、生ゴミ桃の種
など怪しげな武器を持ちだしマスコミ大発表して
畿内説を既成事実化しようと企む
275日本@名無史さん:2011/10/18(火) 22:57:45.83
いや、銅鐸が突然消滅した社会変動を説明できない畿内説は、
初めから成り立たないわけで・・・
276日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:06:11.72
>>275
>いや、銅鐸が突然消滅した社会変動を説明できない畿内説は、

ムラ社会の農耕祭祀から、人々の階層化が進み首長層が生まれ、
首長をカミと称える首長霊祭祀に移行して、銅鐸は廃棄されたんだけど。
学校で習わないのかな?
277日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:08:20.16
>>276
それが天下の笑いものとなった、ゆとり教育かよ?
278日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:12:52.82
>いや、銅鐸が突然消滅した社会変動を説明できない畿内説は、

とりあえず自主的変化で何の問題も無い。
明治になって急速に西洋化する日本は別に西洋に征服されたわけでもないw

まあこのゴミクズにとっての九州説は東遷説とコミなんだろうなwww

もういい加減「九州王朝説」と邪馬台国東遷説」の二大ゴミクズ電波は消えてくれないかな?

もっともそうなるとここの九州説の殆どは消え去るか?
コテで残るのはサガミハラぐらい?www


279日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:13:09.19
>>277

君は学校でなんてならったの?
神武率いる皇軍が東征してきたとでも?
280日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:15:34.96
>>277
>それが天下の笑いものとなった、

「笑いもの」ねえ、一体誰が笑ってるんだ?
この馬鹿っぽさはサイキバっぽいがw

とりあえず>>276を笑いものにできるほどの説を出せやゴミクズwww
281日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:18:01.06
>>279
昔買った「作る会」の歴史教科書の市販版でも神武の神話は
あくまで神話として頁を変えて紹介してたなw

流石に実際の歴史としては書いてなかったwww



282サガミハラハラ:2011/10/18(火) 23:25:49.73
>>281そうですか、私は、スサノヲノ命が高天原の姉のところに、出雲への出発にさいし、
挨拶にいったところからは、歴史としてみていいと思っています。
283日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:31:42.72
>>282

アメノオシホミミがスサノオの子だってことは知ってるの?
284日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:36:48.77
楽器から、宗教的なものに変化した銅鐸を、わざわざ破壊して埋めるのが、
>>278の自主的変化かよ。

 こんなこと言ってるから、畿内説は信用できないんだよ。
285日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:37:46.02
>>282 サガミ
>いったところからは

「からは」と言うのはそれ以後は歴史と言う意味かな?

はっきり言って崇神からようやく人間の臭いがしてくるレベル。
(それでも全部を史実と言うには無茶)

例えば日向神話なんか比較神話学のネタの宝庫だと思うぞ先生wwwww


286日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:40:32.64
>>284 サイキバ?
いやお前が 信用する・しない なんてどうでもいいから
>>276を笑い飛ばせるほどの仮説を出せよゴミカスwww

自分の脳内世界と世間一般をごっちゃにしたらあかんで?wwwwww


287日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:40:39.93
>>284

仏教を国教としたい蘇我氏と保守派の物部氏の抗争は中学で習うと思うが?

288日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:51:17.84
まあ歴史の教科書も随分変わってるんだろうな。

ゴミクズレベル九州説の頭の中には以前焼きついているであろう
日本列島の東西に銅矛と銅鐸の二大文化圏を示した図も、もう過去の話で

「聖徳太子」とか「大化の改新」なんてのも消えているのかな?

何れにせよ>>275の考えているオレサマストーリーなんかゆとりでもなんでもない
教科書の隅っこコラム欄にすら参考として乗ることすらない与太話だろうなw


289日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:00:04.59
>>284

「楽器から、宗教的なものに変化した」
それが、後段の主張と何か関係がるのか、よくわかりませんが・・・それは置いといて、
「破壊して埋める」はそれ自体は祭祀の一形態であって、銅鐸祭祀の終焉とは少し違うと思いますよ。
溶かして再利用したらしき事例(大福遺跡)などは、まあ、「終焉」の姿なんでしょうけど。
290日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:14:16.66
>>289
なんで、鏡は破壊して埋めないんだよ?
291日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:15:17.02
>>288
九州のどこで銅鐸を割って埋めた?
292日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:16:34.95
祭祀を便利に使いすぎ
293日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:22:20.30
…で
>>275 >>277 のゴミクズレベル九州説は
>>276 を笑いものにできるほどの説を出せずにトンズラかな?

結局、ゴミクズレベル九州説と言うのは話が「邪馬台国」だけじゃあ済まない。

歴史認識が根本的にあっち系の連中www


294sss:2011/10/19(水) 00:31:31.87
近畿地方というか、四国なども含め、この周辺で銅鐸は発達し大型化する。
しかし、庄内期の始まりあたりを境にして製造もされなくなり、祭祀も終わる。
古墳時代になると、銅鐸は全く登場しない。記紀にも銅鐸の記述は一切ない。

つまり、銅鐸の製造・祭祀が終わっただけではなく、古墳時代が始まり、棺の内部は
朱で染められ、鏡や剣が副葬されるようになるなどの様々な変化がある。

銅鐸の終焉と前後して、全体的に劇的な変化が認められるわけである。

銅鐸は集落の宝物、集落的な祭祀と言われるが、古墳は明らかに首長の存在が認められ、
社会のあり方にも激変が認められる。

一方で、記紀の重要なモチーフとして神武東征がある。文献からも、その劇的な変化が合理的に
説明できるわけである。

畿内説が銅鐸の消滅を単なる変化で済ませたい気持ちもわからないではないが、宗教的なものが
短期間で自主的に変化した例などないし、思考的にも無理がある。
外圧によるものと考える方がずっと現実的であり、考え方としても合理的。
295ローガン:2011/10/19(水) 00:35:45.29
>>292
>祭祀を便利に使いすぎ

あ、これは そういう指摘あって当然。
「何らかの祭祀」は遺物、遺構を解釈する際 使用頻度の多い言い回し。
296日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:40:14.06
それで理解した気になっちゃう
297日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:50:25.34
>一方で、記紀の重要なモチーフとして神武東征がある。

それで理解した気になっちゃう

298日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:56:48.51
>>290

> なんで、鏡は破壊して埋めないんだよ?

ハァ?
何も知らないで書きこんでるのかw
「破鏡」とかでググってごらん。
299日本@名無史さん:2011/10/19(水) 00:57:29.69
>>294 sss
>外圧によるものと考える方がずっと現実的であり、考え方としても合理的。

非現実的、非常識。

一気に改宗させたとなればそれこそ征服して有無をも言わせず…と言う話だろうが
そもそも九州自体の痕跡がない(鏡の副葬なんかは文化の伝播で十分説明が付く)と言われている現在

そんな征服劇なんか完全与太話。

そもそも九州には古墳のような巨大主張墓を造る文化は発生し得なかった。
鏡の副葬なんか文化の伝播で十分すぎるほど説明が付く。



300日本@名無史さん:2011/10/19(水) 01:07:12.05
結局この板のゴミクズ九州説と言うのは「東遷説」とか「九州王朝説」とか
そう言った壮大なお話に惹かれそれがモチベーションになっているんだろうが

当然アカデミズムと言うか世間一般の常識からも認められず

もはや歴史の教科書のレベルから真っ向否定する電波集団になるとw

現在得られている知見を取り込んでも一応九州説は成り立つんだろうが
この連中にとってはそんなもの爽快感もカタルシスも何も無い
それこそ「畿内説の亜種」なんだろうなwwww

301日本@名無史さん:2011/10/19(水) 01:17:45.24
まあ、銅鐸を破壊して埋めた畿内の激変を無視して、

「畿内王権は一直線に勢力を拡大して九州まで支配下に置いた」

なんて妄想は純粋詐欺だと云わざるを得ないな。

むしろ

「畿内王権はその中心から他勢力に侵略されて滅亡した」と云うべきだろう。
302sss:2011/10/19(水) 01:22:17.49
>>299
巨大な墳墓も征服を前提にしたほうがうまく説明できる。
強制的に労働を強いることができるから、巨大な土木工事には向いている。

神武東征のような出来事を前提にすれば、銅鐸の消滅も巨大な墳墓もうまく説明できる。
古墳も吉野ケ里のような墳丘からの発展と考えればよい。
甕棺の副葬品からも王のような権力者の存在は認められる。

大きな古墳は畿内説的な観点からの方が説明は難しいだろう。
303日本@名無史さん:2011/10/19(水) 01:28:21.66
>>302 sss
>大きな古墳は畿内説的な観点からの方が説明は難しいだろう。

別に自主的変化と言っても外部から刺激を受けてのことで
無から有を生み出す話じゃないが

大和に刺激を与え変化を促した大元として現在あがっているのは吉備。
後は出雲か?

まあ正直九州ウリナラ起源説はエントリー圏外だなw


304日本@名無史さん:2011/10/19(水) 01:33:28.04
>>294

> 畿内説が銅鐸の消滅を単なる変化で済ませたい気持ちもわからないではないが、宗教的なものが
> 短期間で自主的に変化した例などないし、思考的にも無理がある。
> 外圧によるものと考える方がずっと現実的であり、考え方としても合理的。

でも、九州の東遷は無いな。
古墳文化の要素としては、高塚、直弧紋、祭祀土器、円筒埴輪、精製土器等々、吉備からのものが一番多い。
東遷論者がよく主張する「九州からの影響」と言うのも、特定個人墓の発達、水銀朱による破邪などは、
既に2世紀までには吉備に伝播、承継されており、前述の吉備発生文化とともに畿内に持ち込まれたもの。
要は、もし東遷があったとしたら、それは吉備の勢力でなくてはならない。
305日本@名無史さん:2011/10/19(水) 01:34:23.51
>>301
>「畿内王権は一直線に勢力を拡大して九州まで支配下に置いた」
>なんて妄想は純粋詐欺だと云わざるを得ないな。

確かに妄想だな。
それには同意するw

勿論

「九州王朝は一直線に勢力を拡大して畿内まで支配下に置いた」

・・・かの如き妄想も詐欺・ペテン・基地外電波の与太話。

306日本@名無史さん:2011/10/19(水) 01:51:18.89
神武は吉備に留まって兵を募ったんだっけ。
割と辻褄があうんじゃないかな。
307日本@名無史さん:2011/10/19(水) 01:56:22.80
>>306
神武が吉備で”学習”したと言う話だろうが
だったら大和の人間が学習によって外部の文化を吸収できないとする理屈は無い。

308日本@名無史さん:2011/10/19(水) 02:03:29.11
>>306

特殊壺・器台から円筒埴輪までの変遷と畿内への移転は、神武jが吉備にいたと言う8年間では説明できないよ。
309日本@名無史さん:2011/10/19(水) 08:09:08.34
>>307
都合の良いときだけ理屈かよ。
310日本@名無史さん:2011/10/19(水) 11:08:48.72
>>308
どう説明できないのかな。
311筑紫の民:2011/10/19(水) 12:00:07.13
橿原研の河上邦彦氏談
「ハシハ力はもともと円墳かもしれない。後円部と前方部は微妙に
築造の様式が違うので前方部は後から継ぎ足した可能性がある。
1998年周壕と渡り提の状況等から当初より前方後円墳として築造
されたことが明確となる。

何でも言うよ畿内説
312日本@名無史さん:2011/10/19(水) 12:35:56.06
>>310

神武は紀元前の人だから。
313日本@名無史さん:2011/10/19(水) 12:38:16.42
>>311
俺自身、箸墓が卑弥呼の墓とは思わないが、河上邦彦氏の見解は正しいと思う。
314日本@名無史さん:2011/10/19(水) 14:18:15.39
宗教的な銅鐸を、わざわざ破壊して土に埋めた異常行為が、
内部的な変遷の結果だとは、断じて言えないね。

これは外部から侵略されて支配され、既存宗教が禁止された証拠だ。

こんな見え透いた大嘘をつくから、畿内説は信用されないんだよ。
315日本@名無史さん:2011/10/19(水) 14:28:51.89
>>314
それってもう「邪馬台国畿内説」とかいう範囲じゃないよな…

東遷説を認めないようなのは全部信用できないと言う話でw
316日本@名無史さん:2011/10/19(水) 14:50:50.32
>>315

そりゃ勘違いだよ。
「東遷」という語は、最低でも国家の中枢機能が引っ越ししないと東遷とはいえない。
たとえば米国も、イギリスが西遷してできた国じゃない。
317日本@名無史さん:2011/10/19(水) 15:07:15.15
東遷説とかトンデモは消えて欲しい
318日本@名無史さん:2011/10/19(水) 15:53:01.45
下っ端か、権力争いに負けた勢力が、
新天地を求めただけだろ。
319日本@名無史さん:2011/10/19(水) 17:34:47.87
ならず者が他国を侵略して乱暴狼藉をするって、中南米じゃ普通のことだったな。
320日本@名無史さん:2011/10/19(水) 17:34:49.46
>>314
で、征服勢力による強制的改宗劇を想定するなら
一体どれ程の破砕の事例があると確認しているのかな?
当然出てくる銅鐸が悉く叩き割られていると言う事態を確認して言ってるんだよな?
とりあえずその資料を出せ。

脳内ストーリーだけで言ってるならゴミクズレベル。

と言うか何故単なる「廃棄」じゃなくて『埋納』と言われてるのか考えたことあるのか?クズw

せめてwiki程度は当たろうや…

wiki「銅鐸」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
>埋納状況については村を外れた丘陵の麓、或いは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえた物が多い(逆さまに埋められた物も二例ある)。
>一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も五、六ある。

因みにそこのwikiにも書いてあるが

>埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。

これは複数の様式の組み合わせの埋納状況からも確認できることで
仮に3世紀、九州から神武無敵鉄器軍団(笑)がやってきたとしても肝心のヤマトじゃあ銅鐸祭祀のピークは過ぎてると言うとオチwwww

九州王朝だか騎馬民族王朝だか知らんが征服勢力に強制されて昨日まで拝み倒していた銅鐸を
泣く泣く叩き割りましたなんてのはゴミクズレベル九州説の脳内ストーリーに過ぎない。

こういったオレサマ脳内ストーリーありきでなんの資料の裏づけも無く
電波飛ばすのがゴミクズレベル九州説のゴミクズレベルたる所以。
321日本@名無史さん:2011/10/19(水) 17:47:43.60
こいつらは 古き強き九州 がほしいだけだろ 
学問的な整合性は二の次
322日本@名無史さん:2011/10/19(水) 18:34:56.59
>>321
>古き強き九州

そんな物存在しないからwww
323日本@名無史さん:2011/10/19(水) 19:06:30.12
>埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。

三世紀以降に侵略されたときは、たぶん埋めずに鋳溶かされちゃっただろうな。
324日本@名無史さん:2011/10/19(水) 19:38:44.07
>古き強き九州

ゴミクズレベル九州説どもにとってその願望を投影できるのが邪馬台国だとwwww

現在得られている様々な情報から考えれば九州に邪馬台国があったとて九州の中ですら最大勢力足りえず
考古資料に痕跡を残すような事も無く比較的短時間で消え去った…というのが妥当な線だろうが

そんなんじゃあここのゴミクズレベル九州説は満足できないw

まあたまにまともっぽいのが見えることがあるが極少数派。

殆どは大風呂敷広げたモン勝ちの与太レベル。


325日本@名無史さん:2011/10/19(水) 20:26:26.41
相変わらずウマシカをやっているな、半吉よ。それほど言うならお前の畿内説
をキチンと示し、その論証をやってみろ。それができない限り、お前の畿内説
こそゴミクズだわな。
326:2011/10/19(水) 20:34:22.70
>>325
とゴミクズが申しております。
327日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:14:03.16
古き強き九州とはやや不正解
昔から今までそしてこれからも強い九州が正解
328日本@名無史さん:2011/10/19(水) 22:17:21.97
九州マンセー!!
329日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:03:31.93
>>320
年代も場所も違うものを一緒にするなよな。ややこしくなる。
まあ、ややこしくしたいんだろうが。

銅鐸の中には三角縁神獣鏡になったものも多かったんじゃなかろうか。
330日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:12:12.60
>>329
破砕された三角の共伴事例を出せ。
話はそれからだ。

妄想を混ぜて話をややこしくするなw
331330訂正:2011/10/19(水) 23:13:30.28
誤)破砕された三角の共伴事例を出せ。
正)破砕された銅鐸と三角の共伴事例を出せ。

332日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:45:08.32
>>331
意味がわからないな。
石野センセがやったように、銅鐸を熱して木槌のようなもので叩くと小さく割れる。
それを溶かして、三角縁神獣鏡を作ることができる。

石野センセのようにただ壊しただけなら、もっと破片が出てもよさそうだが、出てくる量は
案外少ない。

こういう風に大切なものを壊されて溶かされるのが嫌だったから、銅鐸は人里離れたところに
ひっそりと埋められた。隠したと言ったほうがいいかもしれない。
333日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:52:14.40
>>332
>もっと破片が出てもよさそうだが

元々叩き壊された数が少なかったで何の問題もなし。

銅鐸祭祀のピークも過ぎてありがたみも薄れて叩き壊した事例が幾つかあるのを見て
「我が意を得たり!」とばかりに大はしゃぎして征服劇を描き出しているのがゴミクズレベル九州説。

334唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/19(水) 23:54:34.51
神武天皇 42年〜63年 弥生X様式の始まり、銅鐸の埋納。
崇神天皇 188年〜216年 5,6年の凶作、民の離散と食人。(新羅192,3年)
収束時にモモソ姫の葬儀に民が全員?参加する。祭祀の変わり目。2回目の銅鐸の埋納。
335日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:54:44.77
だいたい九州が甕棺をやめたり銅矛祭祀をやめたのも文化の切り替わりからだろが
336ローガン:2011/10/20(木) 00:40:31.55
>>329
>銅鐸の中には三角縁神獣鏡になったものも多かったんじゃなかろうか。

それは無いわあ。
337日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:10:50.69
なんで?
338日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:12:39.30
と言うか東征勢力がヤマトの人間に銅鐸叩き割らせて作った最初の鏡が神獣鏡なんか?

そこは九州軍団の人間にも馴染みのある(ゴミクズレベル九州説が卑弥呼の鏡としてあげる)後漢鏡じゃないんか?

意味分からんわwww
339338:2011/10/20(木) 01:14:01.34
更に言えばその意匠は何処から取り込んだんだ?

オリジナルを九州から持ってきたのか?
340日本@名無史さん:2011/10/20(木) 01:21:11.46
画紋帯を埋葬者の頭の近くにおいて、
神獣鏡を割って、周りに散りばめるというのは
結構あるやね。
341日本@名無史さん:2011/10/20(木) 02:00:37.73
>>335

>だいたい九州が甕棺をやめたり銅矛祭祀をやめたのも文化の切り替わりからだろが

九州じゃ、甕棺や銅矛を割って埋めたりしていないが・・・
割って埋めたのは、外部勢力に負けて支配された畿内だけだろ。
342日本@名無史さん:2011/10/20(木) 02:02:44.59
>>338-339

土着畿内人の銅鐸を鋳潰して、新支配者が使う日用雑貨でも作ったんじゃない?
343日本@名無史さん:2011/10/20(木) 02:12:15.27
東遷説あたま悪すぎ
344日本@名無史さん:2011/10/20(木) 10:19:38.30
邪馬台国問題に深入りするやつみんな頭悪いわw
こんなん新しい考古学上の発見でもないかぎりなんも進展しないし、
学問というよりオタの個人的妄想の領域だろうに。
時間の無駄だ。アホなオタしかこんなもんに首突っ込まない。
345日本@名無史さん:2011/10/20(木) 10:21:09.75
>>342
青銅器の日用雑貨ねんて出てきてないしwwwww
なんでも思い付きで言うなw
346日本@名無史さん:2011/10/20(木) 11:14:40.89
>>341

鏡を割ってるだろ。
347ローガン:2011/10/20(木) 13:44:26.30
>>337
>なんで?

鉛の量
348日本@名無史さん:2011/10/20(木) 14:54:58.89
スズの含有量が変われば、色や硬度が変わることくらい古代人も知っていただろう。
銅鐸は金色っぽいのが良いだろうし、鏡の場合は銀色の方が良いらしく、そういうのが多い。
というわけで、銅鐸から鏡を作る場合は、スズの量を増やせばいい。

ちょっと調べてみたら、銅鐸の場合、スズの含有量は3%から17%くらいらしい。
かなり金色というか銅色の要素が強い。
ちなみに、銅鏡の場合、スズの含有量は20%を超えている物が多い。

九州の銅剣は、非常にスズの含有量が高くて、中には60%を超えるものもある。
すずの量を増やせば硬くなるので、そのためにすずの量を意識して増やしたと考えられる。
武器としては硬いほうがいいわけだから、もろくなる欠点もあるが。
349日本@名無史さん:2011/10/20(木) 15:03:45.11
銅鐸を鋳潰して鏡を作るときに、錫を加えたということか?

ローガンは、当然否定する根拠を持ってるんだろう。それは何かな?

350ローガン:2011/10/20(木) 16:45:30.20
銅鐸と△鏡で鉛同位体比が違うから。
違うという事は、△鏡の原料が銅鐸とすると、他産の鉛を添加していなきゃおかしい。
しかし、明らかに△鏡のほうが鉛の含有率が低い。末期の純銅に近い銅鐸なら可能かもしれないけどね。
又、△鏡の銅含有率のバラつきは、銅鐸より小さい。
バラつきの大きな銅鐸を原料として、成分比など測りようのない時代に、銅含有率を揃える事など無理。
勿論、全てを巨大な坩堝で一括同時鋳造なら可能だけどね。
それにこの話の始まりは「東遷した無敵九州軍団が、畿内の祭器を壊させた」とか。
自分達が製造、使用しなかった祭器の成分比なんて当然、しるよしもなく、そんなものを原料として作ったとしたら、△鏡、もっと成分比にバラつきが出るんじゃないの?
351日本@名無史さん:2011/10/20(木) 16:49:13.50
なるほど、三角縁は少ない工房で大量に量産されたということが、裏付けられるわけか。
500枚以上出土、おそらくはその数倍が量産されているはずだからな。
352日本@名無史さん:2011/10/20(木) 17:11:07.14
132 : 横板に水 : 2011/02/18(金) 19:10:35
>>128
>本当にお勉強する気ならこんなところじゃなくてきちんとした書籍でも読んで自学自習したまえw

なんだかえらそ〜。ほんとは「ゆるやかな連合」のことよく分かっていないんじゃあありませんか?
以前、ここの畿内説の人のまともな答を聞けませんでした。分からなくていいんですよ。分かっていると言われるとお聞き
しなければならなくなります。

追伸
気が変わったら「ゆるやかな連合」の根拠を教えて下さい。明日また来ます。

に対し↓多分反キチ
353日本@名無史さん:2011/10/20(木) 17:11:54.53
136 : 日本@名無史さん : 2011/02/18(金) 19:27:44
>>132 二浪厨
>ほんとは「ゆるやかな連合」のことよく分かっていないんじゃあありませんか?

かもなw

恐らく元々がかなり曖昧な部分も多いのだろうし(それでもこれに変わりうるモデルはない)
俺如きレベルで現段階での全てを知るなんて無理だろうなw

そもそも、勿論俺個人が編み出した造語でもなければ、この板でしか通用しない概念でもない。
そんなものを一からお前に説明してやらなければ義理もないって話だよアホw

ある程度は自分で学習して、ツッコミどころでも探して、話をふって相手の意見を引き出すぐらいの手間をかけたらどうだ?
すくなくとも「自分が分らないから教えてくれ」だけじゃあ俺の 気は変わらない なwwwwww

突っ込むネタまで相手に出させようとは横着にも程があるって話、甘えるな馬鹿者wwwwwwww 
354日本@名無史さん:2011/10/20(木) 17:13:54.74

緩やか連合なんて無かったから説明もできないんだ
哀れなやつら
355日本@名無史さん:2011/10/20(木) 17:34:56.87
>>354

ヤマト王権が緩やかな連合でないなら、前方後方墳はどうして出来たの?

はい、論破終了。
356日本@名無史さん:2011/10/20(木) 17:38:45.86
>>352-354

ん?何だ?脈絡も無くポンと出てくるなw

まあ銅鏡だの銅鐸だの各論で具体的な話になると知識が追いつかなくなるから
なんとか食いつけそうな「緩やかな首長連合」の語に
サイキバレベルのアホが必死になっているのかな?www

まあ常識的お話でそれまでの弥生土器と違い広範な地域で斉一性を持つ土師器の登場
神獣鏡が畿内を中心に全国に分布するようになる。
そして前方後円墳の広がり…etc

この段階においてヤマト王権の萌芽を見るなんてのは畿内説とか九州説とか関係が無い。

リアルで九州説を唱えている人間でいいから「緩やかな首長連合なんてありえない」と言っている学者がいるのか?

もう邪馬台国論争以前のお話。

じゃあその「緩やかな首長連合」を否定するとしてそれに代わるヤマト王権の発生発展のモデルを出してみろ。
…つう話だなwww



357日本@名無史さん:2011/10/20(木) 18:17:52.68
畿内王朝は4世紀前半に高句麗の一部豪族が渡来して建てたものだ。
高句麗は前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝の侵略を受け首都を制圧された。このとき一部豪族は逃れて南下し、
縁戚の百済の豪族を巻き込んで列島の日本海側に入りこんだ。彼らは人口も少なく未開に近い奈良に定着し土着民
を丸め込んで支配者となった。

4世紀後半になると故郷の地を奪還すべく半島への侵攻を繰り返した。新羅や百済を制圧して高句麗を奪い返そう
としたが、広開土王の反撃に会い退却した。この間の戦死者を弔うために巻向地域に前方後円墳を多数築造した。
高句麗の積石塚を模して半島から連れ帰った捕虜を人夫として作ったのである。

358唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/20(木) 19:05:27.08
広開土王碑 辛卯年とは、331年である。

323年~功49年、政治的空白地帯となった、半島南部を倭領土とし、
百済に領土分与。
324年 高句麗は楽浪を襲うが慕容氏に蹴散らされる、その横から高句麗軍を襲う
百済、この軍事行動により、高句麗は王を戦死させる(百済本紀369年?)
慕容氏は、西の石碌、季龍への対応で目いっぱいである。
そこへ、百済が降って湧いてきた。百済は慕容氏と対峙しない。
少しずつ、高句麗のカンにさわる地域にまで進出する。←331辛卯年ころより。
340年頃には慕容氏対石季龍の対立も収束する。
342年 慕容氏は、これまで見過ごしてきた東方を隷属させるために
高句麗等を討つ。

高句麗軍を南下させようとしても、新羅、百済以下半島南部は倭の領地である。
359日本@名無史さん:2011/10/20(木) 19:18:02.83
なんか、サイキバって言えば九州説が全滅すると思ってる馬鹿がいるな>356
九州説にとって屁でもないこと言われても、詐欺畿内説の信用度はゼロだから
人のことは心配するな。
360日本@名無史さん:2011/10/20(木) 19:40:49.50
         ,___
       o'⌒)  `ヽ
        (i:i:i:i:i:☆i:i)     オイ!アホの九州説の人、
         ( ´・ω・)   
         (  ∽)つ       邪馬台国を九州にして欲しいか?    
           ) ノ            
          (_             ;'"´⌒`ヽ ハイ
          [il=li]            (ω・`  )
          )=(_           ⊂(:::::::∪)
         (-==-)             し─J
          `ー‐''  



      聞いてみただけだから
                 帰る
        |l|    |l|  シュ
         |l|   |l|  ゥ
               ゥ        
        o'⌒) `ヽ ゥ        
          (:i:☆i:i)       
          ) ノ_        ;'"´⌒`ヽ
          [il=li]        (ω・`  )あ…
          )=(_       ⊂(⊂::::::::)
         (-==-)         し─J ))
361日本@名無史さん:2011/10/20(木) 20:26:41.03
          `ー‐'' 
362日本@名無史さん:2011/10/20(木) 21:21:59.96
>>356反キチ
>まあ常識的お話でそれまでの弥生土器と違い広範な地域で斉一性を持つ土師器の登場
>神獣鏡が畿内を中心に全国に分布するようになる。
本当か?

人口の少ない奈良では古墳を造れないから各地方から人を集めた。
その結果、各地方の人々が奈良で生活するために土器を作って煮炊きを始めた。
これが土中から出てくる各地の土器で現代人はたいそう有難がっているが所詮
地方の人々が必要性があって作った土器、使い捨てが当前
古代そんなに価値のない土器を全国区で流通させたとかつまらん言い訳するより
信憑性あるだろう
363362:2011/10/20(木) 21:25:04.39
その巨大古墳の築造を命じたのは鉄も無い人口も少ない
畿内にいたショボイ権力者では説明つかんだだろう

反キチすでにアウトだな
364363:2011/10/20(木) 21:30:18.52
>じゃあその「緩やかな首長連合」を否定するとしてそれに代わるヤマト王権の発生発展のモデルを出してみろ。

お前の好きな古墳を造った人々は何処から集まったんだ?どうやって集めたんだ?
緩やか古代国家でそんなこと可能なのか?
鏡やら銅鐸なんかで年代ごまかしせずに回答したら?
365363:2011/10/20(木) 21:36:13.83
地方の土器が奈良に集中しているのは地方の人々が奈良に集められたと考えられないのか?
あんな重くて高く売れそうにない土器が広域流通したとは思えんよ。
366365:2011/10/20(木) 21:42:31.67
そして、奈良に九州の土器が見つからない理由
なんでだと思う?
そして、地方から人々を集めて巨大古墳を造らせることができる
権力をもったヤマトに忽然と現れた理由は?
これらをしっかり整理して説明しないと「ゆるゆる国家」など
信憑性などないね。
367日本@名無史さん:2011/10/20(木) 21:46:29.81
>>350
青銅器の鉛含有量に関しては、銅器の種類による特長的な差異はあまりないと思われ。
ただ、鉛の融点は低いので、鋳直すたびに鉛の含有量は減少していくらしい。
368唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/20(木) 21:50:12.22
ヤマト王権の発生発展のモデル
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜
懿徳天皇    〜93年 3章 安寧、懿徳は同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 3章−1年(増56年) 開化、崇神は同じ暦
崇神天皇 188年〜216年 2章+1年(増39年) (同5年を新羅192年に設定)
垂仁天皇 217年〜239年 4章 新羅209年が任那建国の指標。ホケノ山。田道間守の派遣。
景行天皇 240年〜261年 2章 正始元年邪馬臺國王に倭王位授与。大倭成立。箸墓。
成務天皇 262年〜265年 3章 成務、仲哀は同じ暦の可能性が有る。 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 274年から晋による東夷冊封体制
神功皇后 275年〜343年 326年~功52年七支刀
応神天皇 344年〜384年  倭に臣従するクニシン王までの記録

仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
履中天皇 400年〜405年 405年兄王捜索は、404年の事後処理である。兄王とは履中自身か?
369日本@名無史さん:2011/10/20(木) 21:52:51.59
>>362-365 ゴミカス

冗談抜きに小学生か?

例えば土師器の登場と纏向に見える外来系土器の比重の多さの意味するところ、問題をごっちゃにしてる?
「斉一性」って意味分かってるか?

>畿内にいたショボイ権力者では説明つかんだだろう

どう説明付かないんだ?
矛盾点は?
じゃあ(恐らく外部からやってきたと言うのだろうが)ショボクナイ権力者がそれをせしめたと言う根拠はあるのか?
イチャモンつけて反論した気になるなクズ。

本当ガキが何とか言い返さないと気が済まないとばかりに書きなぐっただけのケチレス。

ゴミクズレベル九州説によるゴミレス。

流石にこのレベルに付き合うのも馬鹿馬鹿しい。




370365:2011/10/20(木) 21:53:00.24
17:13の書き込み終了に対し17:38回答の反キチ
一日中2ちゃんにらみ続けているんだな御苦労
今も見ているんだろ、さっさと回答しろよ
371日本@名無史さん:2011/10/20(木) 22:00:30.64
369反キチ
きたか。
みんな見ている?これが半キチだよ。
質問に対して回答になっていないし汚れた書き込み。
そして2ちゃんをにらみ続けている日々・・・
何の目的があってこうやっているかは不明だけど
これが畿内説たちの実態(の一部)
372日本@名無史さん:2011/10/20(木) 22:05:58.36
そもそも >>341 の
>割って埋めた
と言われればむしろ破鏡を連想する人間の方が多いだろう?w

逆に銅鐸と言えば鰭を上下にして丁寧に埋納している様を写した写真を思い浮かべる方が多いと思うが…

>>341のアホは一体どれくらいの事例を念頭において言っているのか?

多分ネットの何処かに破砕事例が書いてあって
脳内で九州が畿内ヤマトを征服して銅鐸を悉く叩き割った絵が浮かんで定着。
そのイメージだけでしゃべってるんだろうなwww

373日本@名無史さん:2011/10/20(木) 22:21:15.00
まあ、どのみち、畿内は外部から侵略されて征服されたのは歴然としている。
374日本@名無史さん:2011/10/20(木) 22:23:25.51
本当「東遷説」とか「九州王朝説」のトンデモ・カルトと「九州説」を綺麗に分離できないもんかねえ…

375日本@名無史さん :2011/10/20(木) 22:35:28.63
>>374
「東遷説」、「九州王朝説」、「九州説」は分離できないよ。
全部関連しているんだから。
その中で邪馬台国が関係しているか、いないかは意見が分かれているんだよ。
376日本@名無史さん:2011/10/20(木) 22:57:01.06
倭人伝の記事によれば邪馬台国が畿内にあったとは言えない。
畿内の遺跡、出土物(前方後円墳、三角縁神獣鏡、掘立柱跡など)の年代の確定は難しく、また邪馬台国との
関連性を示すものがない。

こんな状況で畿内説を唱えるなど馬鹿げていると思うのだが、他に何か根拠でもあるのだろうか?
377日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:06:02.67
>>375

東遷ってのは別だろ。
378日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:07:03.14
>>376
気まぐれでマジレスすると

本当に身も蓋も無い話だがw
九州に対抗馬が無いから事実上一択状態www

これは何も纏向に対抗する遺跡を出せとか言う偏狭な話ではなくて
祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etcで3世紀頃に九州に魏と交渉を持ったようなクニの出現を想定できない。
邪馬台国云々以前に勢力としての実態を描き出すことができない。

そうなると「じゃあやっぱり初期ヤマト王権が邪馬台国だったんだなあ」と言うことに落ち着かざるを得ない。

この現状は
「すなおに読んだらピタリと分かる」
式のゴミクズレベル九州説の暗号解読ゴッコではどうにもならないwww

379日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:09:41.03

 ゴミクズレベル  とか

 サイキバ  だのと連呼しないと安心できない、詐欺畿内説
380日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:12:40.70
>>375
しかし実際のところここのゴミクズレベル九州説は別にして
リアルで九州で邪馬台国関連のイベントでもあって
そこに集まる邪馬台国九州説支持の人間(まあ平均年齢は高そうだがw)って
やっぱり「九州王朝説」とか「東遷説」の幻影を追いかけている人間が多いのだろうか?

実際の九州説の客筋ってどんなもん?w
381日本@名無史さん :2011/10/20(木) 23:16:26.50
>>377
東遷は別に考える人はいるね。確かに。
でも東遷したと考えている人もいるからね。それが邪馬台国に関係した国であるか、
いないかは分かれるとしても。

東遷はないと考えてる人は九州説でどのくらいいるか、わからないけど、
少数派ではないのかなあ。

とにかく、日本書紀にも東遷の記事があるのに、どうして、
なかったことにできるのか、畿内説派のそのずうずうしさにはいつも感心させられて
いるけれどね。
382日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:19:46.03
>>376
畿内説には根拠はいらない。ひたすら信じるだけで信者になれる。
信者になったら、その後も教祖の言う念仏を唱えるだけ。思考力なんて要らない。
思考力があったら畿内説なんか信じていられるわけがない。
383日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:20:36.99
>>381
>とにかく、日本書紀にも東遷の記事があるのに、どうして、
>なかったことにできるのか、

「あった」と主張する人間が立証の責務を負うのが筋だ。

馬鹿馬鹿しい。

384日本@名無史さん :2011/10/20(木) 23:21:05.24
>>380

わたしも知りません。どなたか詳しい方いませんか?

385日本@名無史さん :2011/10/20(木) 23:27:44.98
倭の五王でもそうだし、日本書紀でもそうだけど、
戦いにつぐ戦いで、やっと平定して領土としていったのだから、
いきなり、最初から畿内中心に始まるとは、ちょっと考えにくいですよ。
実際のところ。
386日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:33:55.78
>>385
>いきなり、最初から畿内中心に始まるとは、ちょっと考えにくいですよ。

ここでゴミクズレベル九州説連中から「畿内説」と言われている連中に
そんな中央集権国家が最初から出現したなんて考えている奴はむしろ少数派で

「ゆるやかな首長連合」と書けばダボハゼの如く食いついてくる
ゴミクズレベル九州説の方がそれを考えているwww

”偉大なる大九州王朝”が大和を征服、続いて日本を征服したとwwwwwww
387日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:35:13.35
>>381

>日本書紀にも東遷の記事があるのに

ちょっと待て!日本書紀のどこに東遷が載ってるんだい?
神武は九州の地で王様だったのか?
王様じゃない人間が畿内に定着したところで、それは東遷じゃないからな。
388日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:40:05.60
>>386

だから、いくつもの首長国があって、お互いに闘いあっていなければ、
「競争しないだけの首長国群」にすぎないだろ。

それをあたかも畿内大統一の前触れとしての「ゆるやかな首長連合」などと
無理矢理意味づけするから詐欺まがいなんだよ。
389sss:2011/10/20(木) 23:43:22.60
>>380
邪馬台国畿内説の考古学者さんたちがいったい何と戦っているのかを考えた方が
いいんじゃなかろうか。
彼らの頭の中にある仮想の敵、あるいはライバルとはいったい何なのか。
390ローガン:2011/10/20(木) 23:47:31.55
>>369
>>362-365 ゴミカス冗談抜きに小学生か?

まあ、そういう言い方は止めなされ。
>>362氏は
>人口の少ない奈良では古墳を造れないから各地方から人を集めた。その結果、各地方の人々が奈良で生活するために土器を作って煮炊きを始めた。

>>363:362
>その巨大古墳の築造を命じたのは鉄も無い人口も少ない畿内にいたショボイ権力者では説明つかんだだろう

と言っている。搬入土器の多さを「古墳作り」で解釈しようとしているんだから。
搬入土器が多く見られる庄内期、庄内は西新併行。北九州編年から寸法取りすれば、纏向での古墳作りが 3世紀中葉という主張をされている訳なんだから。
391日本@名無史さん :2011/10/20(木) 23:48:16.93
>>386

その九州王朝は九州にあったのだから、
中央集権国家が最初から出現したなんて考えている奴が、
ゴミクズレベル九州説の方だなんていう理屈は、へんだよ。
九州から、畿内へ移ったのだから、決して最初から畿内に出現したわけではない。
九州にあった王朝が畿内へ移って中央集権国家を作ったんだよ。それが日本。
大和を征服、じゃなくて畿内には大和はなかったよ。だから、畿内を征服したと
言ってほしい。
392日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:49:52.61
>>388
じゃあ神獣鏡の広がりも古墳の広がりもその他etc
後のヤマト王権の出現になんら資するところが無かったと言うのかな?

まあそんな事を言うのはここのゴミクズレベル九州説ぐらいだろうwwww

じゃあお前の考えるヤマト王権の出現とはいつで何をもって画期とする?

「イントロ無しのドン!」はいつだ?wwwww






393日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:54:18.66
>>391
>その九州王朝は九州にあったのだから、

九州のどこにあったんかね?

遺跡名のひとつもあげてみなさい。
394日本@名無史さん :2011/10/21(金) 00:01:44.28
>>393
あげてみなさいと偉そうだね。w

九州の倭奴国のあったところだよ。博多湾の内側の大野城跡、
ここに王城をかまえていたのが、「日本国」の前身の隋書にある倭国。

大野城だと特定したのも、訳はありますよ。
それは長くなるので、後で説明する。
395日本@名無史さん:2011/10/21(金) 00:02:04.45
396日本@名無史さん:2011/10/21(金) 00:09:13.36
そもそもゴミクズレベル九州説のアホどもって

九州からやってきた「無敵神武鉄器軍団」が征服するまで
ヤマトじゃあ銅鐸をガンガン作ってたとか思ってるのか?wwwwwwwwww
397日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:03:15.70
>>392

馬鹿いえ、文化は国を超えて波及するんだ。
イスラム教が諸国に波及していったからといって、イスラム教文化圏連合ができたわけじゃない。
自動車が普及した諸国に自動車国家連合が出来たわけじゃない。
398日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:04:02.69
>>393

纒向のどこに王宮があったんだい?
399日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:05:16.70
自説がボロボロの畿内説って

 ゴミクズレベル九州説
 ゴミクズレベル九州説
 ゴミクズレベル九州説  って吠えるだけなんだなw
400日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:08:14.97
>>399
>ゴミクズレベル九州説  って吠えるだけ

それくらいしか能がないんです。許してやってください。
401日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:14:01.08
>>397
鬱陶しいそんな事は言われなくても分かっている。
ゴミクズレベル九州説じゃあるまいしw

ただそのスピードや範囲がそれまでに考えられないようなものであったり
よく伊作とか言う馬鹿が言う弥生時代なら文化文物は「西から東」の大法則に逆らったり
…と単なる文化の伝播では済まないから

日本では  古墳の出現=古墳時代=ヤマト王権始まり  ということが常識になっている。
(もう小学生レベルだなマジで)

お前はこのレベルから否定するのか?

否定するなら一体ヤマト王権の発生時期をいつに、それを何に見るのか言ってみろカスがwwww

脊髄反射で噛み付いて自分が何を言っているのか分かってないんだろうなアホはwwwwwwwww







402日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:18:30.19
おいおい、ここの住民よ、

>>401を見てみろ

>日本では  古墳の出現=古墳時代=ヤマト王権始まり  ということが常識になっている。
>(もう小学生レベルだなマジで)
>お前はこのレベルから否定するのか?

こんな常識、いや非常識はどこにも存在しないぞ?気は確かか?

いやあ〜、ここまで低能な論客がいるとは知らなかった。
まあ、畿内説だから仕方ないか。
403日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:23:22.01
>>402
で、お前は学校でヤマト王権の始まりはいつって習ったんだい?w

一応は日本の学校なんだろう?www
404日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:45:12.94
>>403

まあ、まて。
>>402が戦前の教育を受けたじいさんなら、学校で神武東征を歴史として習ったかもしれんそ。wwwww

405sss:2011/10/21(金) 01:48:53.61
>>401
ヤマト王権という言葉は知らない人の方が多いと思う。
一般的には、大和朝廷が広く知られている。

畿内説の執筆者が多いウィキペディアによると、
大和朝廷とも呼ばれ、この呼称が広く認知されているが、近年は「ヤマト王権」
「大和王権」「倭王権」「ヤマト政権」「大和政権」などへの語の転換が進んでいる。

あるいは、
かつて広く用いられてきた「大和朝廷」の語は現在でも小学校・中学校の学習指導要領で用いられて
いるが、名称をめぐっては「大和」の表記や「朝廷」の定義と成立時期をめぐって学界のなかでも
見解が分かれている。

と書かれている。ヤマト王権という言葉の教科書化運動が進んでいるのがわかる。
一体どういう人たちが進めているのかは何気なくわかるような気がするが…。

まあ、邪馬台国のいわゆる「ゆるやかな(笑)豪族連合」から来ていることは間違いないところ。
こういう風に、何気なく既成事実化を進めているところに畿内説の危なさを感じる。
406日本@名無史さん:2011/10/21(金) 02:00:28.11
>>405

東遷説のSSSくん。

前方後方墳が共存してることをどう説明するつもりなのかな?

答えが無いなら、2度と出てくるなドアホウ。

407sss:2011/10/21(金) 02:12:38.17
>>402
ついでに言えば、古墳の出現についても怪しげな雰囲気がある。
例えば、出雲の西谷墳墓は古墳ではないのか?
吉備の楯築墳丘墓は古墳ではないのか?どうして古墳ではないのか。

弥生時代の墳丘墓だから古墳ではないなどととんちんかんな意見もあるが、
明らかに近畿地方を古墳の始まりにしたい雰囲気に満ち溢れている。

西谷や楯築は、近畿地方のものよりも古いから古墳にはならなかったわけである。
408日本@名無史さん:2011/10/21(金) 03:08:28.62
畿内説は
遺跡が特定されているわけでもない帥升の倭国は
どうして九州でオーケーなの?
それも畿内だと主張するやついないの?
邪馬台国と同じ二世紀だというのに。
409ひとぶた:2011/10/21(金) 03:53:05.37
>>405

> まあ、邪馬台国のいわゆる「ゆるやかな(笑)豪族連合」から来ていることは間違いないところ。
> こういう風に、何気なく既成事実化を進めているところに畿内説の危なさを感じる。

御説の本題とは関係ないのかもしれませんが、「ゆるやかな豪族連合」って言う表現が、耳にも目にも馴染まないですね。

王権とか豪族とか言う言葉の定義にもよりますが、例えば非生産層(王と豪族等の支配的階層及びその従者)が拠点集落に集住して、
他の自律的集団を配下として、これらの献納により社会を維持することができる段階、これを”王権制の社会”と定義とさせていただくと、
”王”とは非生産層の長であり、”豪族”とは王に従属する非生産的支配層と言うイメージになります。

古墳時代初頭の西日本には、こう言う”王権”制国家が、いくつか分立している、それが畿内説的な歴史観だと思います。
いわゆる「ゆるやかな連合」とは、このそれぞれが独立した状態の地方”王権”が、交易の利便性や安全保障的な理由で”連合”したもの。

なので、地域王権内部には、当然、それぞれに”王”と”豪族”の関係が存在するため、
「豪族連合」と言う表現であれば西日本全体の話では無く、吉備とか大和とか、どっかの一地域内での”連合”のように聞こえてしまいます。

これが、ヤマトの勢力が拡大し、西日本全体への支配(税の徴収、紛争の抑止等々)が確立する段階(ヤマト王権の成立)であれば、
ヤマトから見て、筑紫や吉備の旧・地方王権は、地方豪族と呼べるのでしょうけど。
410日本@名無史さん:2011/10/21(金) 04:32:38.90
シロウトで悪いが、マキムクは弥生の関連なしにいきなり出現したんでしょう。
しかも全国規模の土器まででる。
ということはそれを作った人たちはどこから来たの?
そこにいた?人たちではなかったということなんでしょう。
しかも古墳築造なんていきなりの知識や技術を持っていたのなら
かなり進んだ大勢力だったとは思うし、桃の種とか中国文化の
影響もありそう。
どういうように解釈されてるんでしょか。
411日本@名無史さん:2011/10/21(金) 05:53:08.72
386 :日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:33:55.78
>>385
>いきなり、最初から畿内中心に始まるとは、ちょっと考えにくいですよ。

>ここでゴミクズレベル九州説連中から「畿内説」と言われている連中に
>そんな中央集権国家が最初から出現したなんて考えている奴はむしろ少数派で

>「ゆるやかな首長連合」と書けばダボハゼの如く食いついてくる
>ゴミクズレベル九州説の方がそれを考えているwww

>”偉大なる大九州王朝”が大和を征服、続いて日本を征服したとwwwwwww

反キチあほ。

奈良に大和王権なんてものは無かったんだよ。
だから、すんなり東遷できたんだよ。

412日本@名無史さん:2011/10/21(金) 06:00:40.66
>日本では  古墳の出現=古墳時代=ヤマト王権始まり  ということが常識になっている。
(もう小学生レベルだなマジで)

>お前はこのレベルから否定するのか?

>否定するなら一体ヤマト王権の発生時期をいつに、それを何に見るのか言ってみろカスがwwww

>脊髄反射で噛み付いて自分が何を言っているのか分かってないんだろうなアホはwwwwwwwww

反キチこそ小学校の教科書レベルで思考停止状態だね。
天に唾して自分の顔に唾が返ってきているよ。
413日本@名無史さん :2011/10/21(金) 08:43:14.74
394のつづき
大野城だと特定したわけ。

隋書によれば、竹斯(ちくし)国の東に秦王国(ここだけ中華 他と異なる夷洲)そのまた東に
十余国で海岸(北部九州西岸)。竹斯(ちくし)国以東が倭に附庸。
戸数は十万ほど。戸数は十万。この戸数は附庸されている国を入れた全体数なのか、
都のある国の戸数かは不明。都の国もどこなのかも一応不明。おそらく中華文化を
取り入れて異彩を放っている秦王国。

王の号はオホキミ、小徳はオホド。オホは阿輩と書き、今風の音で読めば
阿部(あへ)。阿部氏の祖はオホヒコ。ここでもオホ=大。
大(オホ)は天皇に関係する。大兄、大海人の大もそう。
大阪の大もそう。大阪には阿部野区がある。九州から渡海。
阿部は昔の音で「オホ」、つまり大である。
太田天神山古墳のオオも大で天皇に関係する。天神であるから、天皇の子か

いろいろ例を出したが、大野城の意味もオホの城=大の城という意味で、
アマタラシヒコ(アマテラス彦)=オホ君=大君が居た城に違いないと。
その城は7世紀頃焼失したと見られる、現在、跡から仏教の経典の筒が出て来ている。
仏教を取り入れた隋書の記述にぴったり合う。
414日本@名無史さん :2011/10/21(金) 08:55:04.24
>>413
北部九州西岸×
北部九州東岸○
415日本@名無史さん:2011/10/21(金) 09:46:08.00
大野城=烏奴国
基肄城=支維国
416日本@名無史さん:2011/10/21(金) 09:58:06.03
北部九州東岸に出てさらに10日かかっているはずだが。
417日本@名無史さん:2011/10/21(金) 10:53:31.10
何回同じことループしてるんだよw
邪馬台国問題など出口のない袋小路なんだし
深入りするほうが馬鹿だとまだわからんのか。
418日本@名無史さん:2011/10/21(金) 10:56:52.06
邪馬国は八女、吉野ヶ里(旧三根郡)は弥奴国だろうな。
419日本@名無史さん:2011/10/21(金) 10:59:24.94
邪馬台国問題は、近畿で終結してるわけだが。

一部の頭悪いアホが、九州だと信じてるだけ。証拠も無く。
迷惑な話だ。
420日本@名無史さん:2011/10/21(金) 11:00:37.58
根拠無く言うだけなら何でも言える。
421日本@名無史さん:2011/10/21(金) 11:03:35.64
邪馬台国問題は、九州で終結してるわけだが。

一部の頭悪いアホが、邪馬台国と大和朝廷が同じだと信じてるだけ。証拠も無く。
迷惑な話だ。
422日本@名無史さん:2011/10/21(金) 11:12:34.72
>>421

じゃ、証拠出してよ。遺跡名だけでいいから。
423日本@名無史さん:2011/10/21(金) 11:59:53.60
畿内と違って九州は遺跡の宝庫。

一部の頭悪いアホが、邪馬台国と大和朝廷が同じだと信じてるだけ。証拠も無く。
迷惑な話だ。
424日本@名無史さん:2011/10/21(金) 13:14:24.46
九州は、山すその、昔海でないところならば、普通の住居跡も小型墳墓も
いくらでもある。
数キロまで範囲を広げれば、適当な環濠集落も範囲に収まるだろう。

大国が大勢力で王をたて、支配するのではなく、
三十カ国で卑弥呼を共立するくらいだから、
国の間でそんなに差は無かったんだろうとは思われるし、
またそれに沿った出土状況ではあるのだが、

おかげで、どこが邪馬台国かさっぱりわからない。
425日本@名無史さん:2011/10/21(金) 13:54:27.08
だから、邪馬台国の遺跡を一個でも挙げてみてください。

一個でいいんです。
426日本@名無史さん:2011/10/21(金) 14:20:10.69
>>425
邪馬台国の遺跡なんて全国何処にも見つかっていない。
だから中国の歴史書や、当時の文明の度が確認できる
出土物で概定するしかない。
427日本@名無史さん:2011/10/21(金) 14:23:24.71
>>425

その前に、畿内のどこから漢籍に載っている金印が出たか言ってみ。
たった一つでもいいからさw
428日本@名無史さん:2011/10/21(金) 14:40:44.31
どこまでいっても畿内に執着する浅はかさ。
ここまできたらもう本当に学説というより宗教だな。
429日本@名無史さん:2011/10/21(金) 15:09:29.62
九州全身是邪馬台国の塊なり!

九州マンせー!!
430日本@名無史さん:2011/10/21(金) 15:57:04.65
とうとう
負け犬の遠吠え仕始めやがった
431日本@名無史さん:2011/10/21(金) 16:13:33.41
>>430
畿内説なみだ目w
432日本@名無史さん:2011/10/21(金) 16:23:09.35
>>417

何回ループしてもいいんだよ 当人たちにとっては初めてのテーマのようにして話せるんだから
爺さんたちの唯一の楽しみなんだからさ
433日本@名無史さん:2011/10/21(金) 16:46:00.99
九州説に傾倒してるやつは人生の負け組み。
434日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:06:16.34
九州説だと、

涙目になって箸墓の年代判定をインチキ操作したり
涙目になって△鏡を魏製だと言いくるめたりなどと

ペテン師になる必要がないから、妄想に惑わされずに済む。
435日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:21:56.61
>>378
>本当に身も蓋も無い話だがw  九州に対抗馬が無いから事実上一択状態www
>これは何も纏向に対抗する遺跡を出せとか言う偏狭な話ではなくて 祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etcで3世紀頃に九州に
>魏と交渉を持ったようなクニの出現を想定できない。 邪馬台国云々以前に勢力としての実態を描き出すことができない。
>そうなると「じゃあやっぱり初期ヤマト王権が邪馬台国だったんだなあ」と言うことに落ち着かざるを得ない。

畿内には邪馬台国の祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etcが揃っているかの如く言っているが、具体的に説明できるのか?
邪馬台国の祭祀形態てどういうものだ?
邪馬台国に特有の威信財体系とはどういうものだ?
舶載品の流通てどういうものだ?

畿内の遺跡や出土品のどれが邪馬台国のものなのだ?答えられるものなら言ってみんさい。

こっちも気まぐれにマジレスすると、
436日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:39:41.77
>>435
>畿内には邪馬台国の祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etcが揃っているかの如く言っているが

言っていない。
要点を見事に外したクズレス。

それが邪馬台国と言う前に勢力としての実態を確認できるかどうかの話だが…

いい加減馬鹿の相手も疲れる。
437日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:40:34.09
>>408
>遺跡が特定されているわけでもない帥升の倭国は
>どうして九州でオーケーなの?

その頃には北部九州で圧倒的な面数の鏡や舶載品が出ていて
逆に他の地域にその王がいたと想定しうるような地域もないからだろうなw

勿論「帥升が九州以東の王」と言うのも
理論的可能性はゼロではないものの蓋然性の範疇で言えば、まあないとw
現在の九州説と同じ立ち居地になってしまうwww

志賀島の金印にしても大体同じ。
九州から金印が出たから九州に王がいたと言う単純な話ではない。
(須玖岡本遺跡の支石墓が奴国王の墓としてその甕棺からは30面もの前漢鏡や豪華な副葬品が出ているが
 これをその金印を受けた王の墓か、少なくとも同時代、その繁栄の中にあった有力な王の墓としてあげる事も可能だろう)

九州説と言えば「漢委奴国王」や「帥升」を出して、九州邪馬台国がその後裔である
…という展開が一つのパターンだが、逆にそれを強調すればするほど、3世紀の九州に昔日の栄光を取り戻した風が無いのが悲しいところw

仮に俺が九州説を立てて比定地を玄界灘周辺以外にするのなら
「漢委奴国王や帥升の後裔」なんて事は言わないwwww

438日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:42:09.32
で結局いつものように「ゆるやかな首長連合」に噛み付いているゴミクズレベル九州説のアホどもにとっての
ヤマト王権の始まりの時期、及びそれを何に見るのか?って事に関しては何の説明もなし。
(それこそ現在一億二千万の日本国民が常識としている
 歴史教科書の冒頭部分が全く書き換わるスンゴイ話なのに逃げるなよクズw)
いつものようにイチャモンほざくだけほざいトンズラして終わりw
(銅鐸叩き壊して最初に作った神獣鏡の意匠を何処から拝借したのかも答えて欲しかったが(当然ヤマトにはオリジナルは無かったんだろうし)w)

まあ本来まっとうな九州説なら邪馬台国卑弥呼の時代既にヤマトを中心とした首長連合が発生しており
北部九州もそれに参加していたことが伺える…というのは常識・共通認識で
その上で畿内説に対する反論としては…
「畿内説が提示している考古資料は単にヤマト王権の発生を説明しているに過ぎない」 
 当時の日本国内の最大勢力が魏と交渉を持った邪馬台国である保証は無い」
と言うことなんだろうが(この板でもたまに見かけるが極少数派)
如何せん、じゃあ九州側に対抗馬を見出せるような資料がない。

恐らく九州に邪馬台国があったとしても考古資料にその足跡を残さず消えていった
…ということになる(全体の枠組みとしては『偽僭説』に近い)
そうなると九州の何処か?と言うことに関しては答えを出しようが無くなる。
>畿内と違って九州は遺跡の宝庫。
とかで誤魔化すしかない。
(ゴミクズレベル九州説の「 すなおに読んだらピタリと分かる 」 なんてのは問題外)

結局のところその場合の九州説と言うのは
「当時発生していた初期ヤマト王権が邪馬台国で無いという可能性」
程度の話でそれは多分何処までもゼロになることはないものの
「九州に邪馬台国があった」と言う事を自立的に証明できるようなものにはならない。

要するに アンチ畿内説 の範疇に留まるとw
439日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:43:04.13
>>425
生目古墳群その他日向の遺跡は全て邪馬台国の遺跡だよ。
440日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:59:35.62
邪馬台国というより女王国の遺跡
441卑弥呼の都は久留米:2011/10/21(金) 18:16:32.17
>>440
>邪馬台国というより女王国の遺跡

邪馬臺國と女王國の違い及びその関係を述べよ。
442日本@名無史さん:2011/10/21(金) 18:17:43.98
まあ邪馬台国の遺跡をピンポインで考える他にその他のクニグニも併せて考えると…

とりあえず畿内説だろうが九州説だろうがその戸数二万と中々の国勢を誇る奴国は福岡平野というのが共通の認識定説。

普通なら比恵・那珂遺跡、九州説の独特の年代観だと須玖岡本遺跡になるのかな?

何れにせよこれらを凌駕するクニの邪馬台国を
3世紀頃には旧態依然の感がある環濠集落に求めようとするのが無理がある気もするがwww

例えば吉野ヶ里が邪馬台国で須玖岡本遺跡が奴国でバランス的にどうなのよ?とwwwwwwwwww
443卑弥呼の都は久留米:2011/10/21(金) 18:29:25.09
  
>>378,>>436,>>437は、霞みたいな奴だ。
遠目には何かあるかのごとく云うが、近づいたら何も見当たらない。

畿内邪馬臺國も霧みたいなものだ。

444日本@名無史さん:2011/10/21(金) 18:32:12.26
頑張れ<卑弥呼は久留米>たまには応援する
445卑弥呼の都は久留米:2011/10/21(金) 18:33:00.13
>>442
>とりあえず畿内説だろうが九州説だろうがその戸数二万と中々の国勢を誇る奴国は福岡平野というのが共通の認識定説。

それは、あんただけの思い込み。
446日本@名無史さん:2011/10/21(金) 18:34:27.50
>>438

畿内を連合へと向かわせた勢力はどこを想定してるのかな?

出雲?関東?半島?
447日本@名無史さん:2011/10/21(金) 18:35:52.47
>>443 卑弥呼の都は久留米=九州王朝大好き(他に名無しでも多く書き込んでいるのかな?w)

先ず畿内説と言われるものが曖昧模糊とした部分限界のようなものがあるのは事実。
がそれは元々邪馬台国論争そのものが持つものでもある。

グチャグチャ文句を言うのなら霞も霧も晴れてすっきりした邪馬台国を九州の地に出して来いゴミクズ。

448日本@名無史さん:2011/10/21(金) 18:40:32.55
>>446
最大に影響を与えたのならやはり吉備だろう(なんで吉備がエントリーされてないんだ?w)
が全てが外部による主導、要するに吉備東遷説というような話になるととても首肯できない。

無論九州邪馬台国東遷説なんぞゲテモノ・トンデモの範疇。

449卑弥呼の都は久留米:2011/10/21(金) 18:53:47.41
>>448
>無論九州邪馬台国東遷説なんぞゲテモノ・トンデモの範疇。

この部分には同意。

>>447
>グチャグチャ文句を言うのなら霞も霧も晴れてすっきりした邪馬台国を九州の地に出して来いゴミクズ。

卑弥呼と壹與の都は久留米。
3世紀から617年までの倭の都は久留米。
450日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:04:12.64
じゃあ、自分自身100%信じているわけでもないが、
自分は人吉盆地説を押しておこう。
邪馬台国の範囲自体は、宇土八代を含む。
451日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:05:13.03
久留米!久留米!久留米!

…ビョーキかお前はw
452日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:08:18.46
本書いたり、強い主張したら、変えにくいかもしれないけど、
先に目的地決めちゃうと大変だよ。
結構定説や出土で、今までの説が変わっちゃうから。

できれば、あくまでも仮説という態度を崩さないほうがいい。
453日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:13:14.78
あくまでも、

「今までに知られている解釈や発掘結果を前提として推論すると、
こういう結果になる。あるいはこういう場所になる」

というスタンスのほうがいい。

こういう書き方なら、

「前提条件がこう変わったから、このように修正する」

と言いやすい。普通学問ではこう言い方をすると思うよ。
454日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:18:52.40
>>448

どこの勢力に対抗するために連合を組む必要が生じてきたのかを質問したかったのだが、それが吉備ってこと?

だとすると西に対立勢力があって北部九州がゆるやかな連合に参加するっていうのはちょっと難しくないかな?
455日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:19:23.99
>>453
それは当たり前、少なくとも自分は
「今出ている考古資料で考えれば」なんてわざわざ付けなくてもそのつもりで言っているし
将来それが覆る可能性も言及している。

そもそも畿内説(と言われている現在の史学一般)で九州に邪馬台国があっても
「ああ、じゃあヤマト王権のほかに九州に邪馬台国と呼ばれた勢力が存在したんですね」
で済む。

「科学とは反証可能な仮説体系」と言う台詞があるが
九州説の余地を残している畿内説は余程健全www
456日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:23:20.44
畿内は九州国家東遷の結果ではなく、単に分国樹立にすぎないよ。
畿内が神武の少数部隊にあっさりやられちゃったのは記紀の通り。
457日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:27:30.91
纒向は、九州傘下の諸国に墓場として作らせた場所だ。
例えて言えば、エジプトの王家の谷のようなもの。
あそこに国家の中心があったなどと思う馬鹿はいないはずだが、
橿原考古学研究所には大勢、こんな馬鹿がいるのだから呆れる。
458日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:30:16.29
うーん、いまのところ、どう推論しても
畿内と九州の関係は見えないなあ。
459日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:35:59.68
九州から畿内ヤマトまでお墓参りも大変だなwww

もうこの手のゴミクズレベル九州説には晋で欲しいw
460日本@名無史さん:2011/10/21(金) 20:21:01.30
>>436
>言っていない。
>要点を見事に外したクズレス。

アホだなおまえは。
「九州に対抗馬が無いから事実上一択状態www」と言って「・・・祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etcで3世紀頃に九州に・・・」
とくれば言ったことになる。文意というものを理解できないアホは黙っとれ。ブアーカめ。
461日本@名無史さん:2011/10/21(金) 20:37:01.65
>>460 

いいか日本語の不自由なゴミクズレベル九州説

「九州に魏と交渉を持ったようなクニの出現を想定」する為の材料としてパラで挙げたのが

>祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etc

つまりどれか一つで良いし更に言えばこの他でも良い。

これら全てが揃ったクニが邪馬台国だなんて一言も言ってない。

ニホンゴワカリマスカ?

現実問題何か一つ3世紀頃の九州に一纏まりの勢力、王権構造、政治ブロック…のようなものが見えれば
それが九州説の大本命として一般にも認識されているという話だゴミカス。

結局「オレサマのすなお読み」で百家争鳴状態にあるというのが
邪馬台国を九州にリアルに想定する材料が無い事を雄弁に語っている。

なんでこうゴミクズレベル九州説って国語能力が低いのか?www




462日本@名無史さん:2011/10/21(金) 20:51:30.95
>>438
このアホは遺跡、出土物で邪馬台国の所在地を決めようとしているようだが、そもそも邪馬台国の存在が
知られるようになったのは倭人伝が書かれたからだということの意味をわざと無視している。

魏と通交した倭国の姿は倭人伝でしか分らない。その倭人伝に書かれている邪馬台国の位置は九州北部沿岸
から見て南になる。畿内で有り得ないことは明白だ。倭人伝の方角記事は間違っているとでも言うのか?

卑弥呼の墓についても前方後円墳をその候補にするなどアホなことを言う者がいる。
倭人伝には「其死、有棺無槨、封土作冢」とあり、棺を直接埋めて土で覆うだけのものだ。それは一般庶民
の場合だと言うアホも居るが、卑弥呼の冢が一般人のものと様式が異なるなら当然「異なる」と書いてある。
異なるのは「大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」というところだ。


463日本@名無史さん:2011/10/21(金) 20:56:13.59
卑弥呼の墓以外、記録すべき古墳がなかったのが邪馬台国だ。
要するに、畿内説は成り立たないってこと。
464日本@名無史さん:2011/10/21(金) 20:56:32.17
>>462
>九州北部沿岸から見て南になる。畿内で有り得ないことは明白だ。倭人伝の方角記事は間違っているとでも言うのか?

ああ、間違っていると見るべきだろうな。

それをドグマにして九州王朝説と心中するつもりは無いんでなwwww





465日本@名無史さん:2011/10/21(金) 21:05:33.98
>>461
>これら全てが揃ったクニが邪馬台国だなんて一言も言ってない。

460もチミが「これら全てが揃ったクニが邪馬台国だ」と言ったなどと言ってはいないんだな。
「畿内には邪馬台国の祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etcが揃っている か の 如 く 言っているが」
とは言ったがな。チミの文章から発散する腐臭が見る者にそう受けとらせたんじゃなかろうかな。

ところで、チミは逃げているな。「邪馬台国の祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通」とは具体的にどういうもの
なのだ?九州にそれを出せと要求しても中身の分らぬものを提出できるわけがないだろな。具体的に説明しろな。

466日本@名無史さん:2011/10/21(金) 21:13:18.44
>>464
>>九州北部沿岸から見て南になる。畿内で有り得ないことは明白だ。倭人伝の方角記事は間違っているとでも言うのか?
>ああ、間違っていると見るべきだろうな。

畿内にありきの立場では間違っているとしか言えないだろが、間違いであることを立証しなければ誰も納得させられないよ。
あ、「倭人伝の方角記事は正しいことを立証しろ」などと言うなよ。
それから、ヘンテコリンな地図を持ち出すなよ。
467日本@名無史さん:2011/10/21(金) 21:22:11.67
>>465 ゴミカス
>九州にそれを出せと要求しても中身の分らぬものを提出できるわけがないだろな。

まあ分からないなら分からないでよろしい。
九州説はこの先もずっと畿内説に
「さっさと比定地を決めてください」と皮肉を言われるだけだからwwwwww

と言っても良いんだが一つだけ例を挙げればだ…

たとえば舶載鏡。
分類編年して魏代に届きそうな鏡郡が3世紀頃急に玄界灘周辺地域以外(筑紫平野にでも)集まりだす。
こう言った舶載品の流れの変化があればそこに邪馬台国が出現したのだろうと見る動きは当然出てくる。

そんなものがあるのかと聞いているんだよお馬鹿さんw

俺が単にごまかす為に「祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通」とか出したとでも思っているのかクズw

以前、畿内説の人間でいろんな材料で九州邪馬台国の出現を説明しようと試みたスレもあったが…

まあ現実的にあればとっくに九州説の大本命を決める材料として認知されていると思うがwwwwwwwww



468日本@名無史さん:2011/10/21(金) 21:26:06.66
>>466
「間違いであることを立証」というよりそれが絶対間違って無いということにすれば

「則魏志所謂邪馬臺者也」で隋使が訪れたのも九州のどこかになる。

理論的にはそうならざるを得ない。

つまり九州王朝説にならざるを得ない。

それは御免こうむるという話だよwwwwww

469日本@名無史さん:2011/10/21(金) 21:37:24.19
>>462
>卑弥呼の冢が一般人のものと様式が異なるなら当然「異なる」と書いてある。

王の住居、身に着けているもの、食すもの、その墓…庶民のものと異なるのなら一々「異なる」と書かねばならないのか?

中国史書にそう言う決まりごとがあるのか?w

470唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/21(金) 21:52:55.02
>倭人伝の方角記事は間違っているとでも言うのか?

倭人伝の方角記事は間違っている。
最も正しいのは、北史であるが、北史も方向は間違っている。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。又東行百里,至不彌國。又南水行二十日,至投馬國。又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,
即倭王所都。

北史では、女王は、謂之倭奴國。倭王は、邪馬臺國
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
東倭とは、西の奴国(倭奴國)に対する東の”倭”であり、邪馬臺國である。
大倭は伊都国に一大率を置く。←庄内式土器が九州北部に上陸する。
471日本@名無史さん:2011/10/21(金) 21:56:30.52
>いいか日本語の不自由なゴミクズレベル九州説

>「九州に魏と交渉を持ったようなクニの出現を想定」する為の材料としてパラで挙げたのが

>>祭祀形態、威信財体系、舶載品の流通…etc

>つまりどれか一つで良いし更に言えばこの他でも良い。

>これら全てが揃ったクニが邪馬台国だなんて一言も言ってない。

>ニホンゴワカリマスカ?

>現実問題何か一つ3世紀頃の九州に一纏まりの勢力、王権構造、政治ブロック…のようなものが見えれば
>それが九州説の大本命として一般にも認識されているという話だゴミカス。

>結局「オレサマのすなお読み」で百家争鳴状態にあるというのが
>邪馬台国を九州にリアルに想定する材料が無い事を雄弁に語っている。

>なんでこうゴミクズレベル九州説って国語能力が低いのか?www

これのどこが日本語か?反キチ?小学校の3年の国語教科書やり直せ
472日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:00:44.43
>>471 日本語の不自由なゴミクズレベル九州説

…なんでそこまで無駄な引用するん?


473日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:06:42.48
あら、久留米いなくなった。無念の離脱か?
474日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:07:35.91
久留米=九州王朝 名無しでも結構書いてるからなあ
475日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:12:04.41
久留米頑張れ
476日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:21:34.78
>>467 腐れ畿内説
>たとえば舶載鏡。
>分類編年して魏代に届きそうな鏡郡が3世紀頃急に玄界灘周辺地域以外(筑紫平野にでも)集まりだす。
>こう言った舶載品の流れの変化があればそこに邪馬台国が出現したのだろうと見る動きは当然出てくる。

卑弥呼が魏帝から銅鏡100枚を貰ったからと言って、魏代に届きそうな鏡郡が3世紀頃急に玄界灘周辺地域以外(筑紫平野にでも)
集まりだす理屈になるのか?魏では銅鏡の作成が盛んで邪馬台国はそれを輸入していたのか?むしろ逆の状況だろ。魏では銅鏡の
製造が少なく、邪馬台国が入手困難だったため特別に計らって100枚だけ下賜したんだろ。

もったいつけやがって一例だけ示すなどと言っているが、おまえには邪馬台国の祭祀形態、威信財体系がどのようなものかの説明
ができないんだろ。どうせまともな答は期待できないが言いたいことがあったら聞いてやってもいいぞ。
477日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:27:37.48
>>476 ゴミクズ
なんか勘違いしているなこのクズはwwwww

俺が全部それらを畿内説に当てはめて説明しなきゃならんものじゃないぞ?w

だから別に他の何でもいい。
「倭人伝にあるのだからある」じゃなくて先ず日本国内にクニとしての実体を示せという話だカスwww

まあそれができない限り九州説は
いつまでも「とりあえず九州だったら何処でもOK説」だなw




478日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:37:41.00
>>468
ホウ。んじゃチミは倭人伝の方角記事は間違いだが隋書の記事は間違っていないと言うのかね。
九州王朝説が嫌いだからという理由じゃ話にならんわな。馬鹿を相手にすると疲れるわい。
479日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:44:49.44
>>477腐れ畿内説

遺跡、出土物で国の政治体制がわかるとでも思っているのかこの膿多鱗は。しかもこれまでに発見された
遺跡は当時存在したものの何%になるのかも分らぬ状態であることも知らぬようだ。
480日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:49:07.20
行程記事に限っては、短里と伊都国佐賀説でピタリ合うからねえ。
少なくとも里表記の不弥国までは矛盾なし。

逆に他の解釈では、どうやっても矛盾が出る。
481日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:53:53.25
>>477腐れ畿内説
>俺が全部それらを畿内説に当てはめて説明しなきゃならんものじゃないぞ?w

出来なきゃしなくてもいい。
こっちは邪馬台国の祭祀形態、威信財体系とはどういうものかチミ自身が理解しているかどうか聞いた
だけだ。
482日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:58:22.36
>>479 ゴミクズレベル九州説

じゃあ定説では玄界灘周辺地域にいたであろうとされる漢委奴国王や帥升も
どこにいたか分からない(あんな金印なんて懐に入れて持ち運び幾らでもできる動かない墓がましだw)でいいんだな?

無論、古墳時代にその古墳から政治の様子を垣間見るのもNGとw

まあそうやって最後に火病ヒステリー起こして考古学全面否定してちゃぶ台ひっくり返すというのはいつものパターンだがw

「考古学が示す九州の先進性」とかはホルホルして受け入れるが
自説に利用できない都合が悪いとなると全面否定するというのがゴミクズレベル九州説のパターンw

こう言うアホには自分ら九州説に何が足りないのか?
今の状況についてどうしてこうなってしまったのか?

…等々を客観的に見ることができない。

完全完璧なオレサマの説が受け入れられないのは悪のカナイセツが世界を支配しているからだと言う陰謀論に逃げ込むwwww

クズの中のクズ。



483日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:04:51.43
このスレの畿内説って一人しかいないのか。

それにしても邪馬台国は本当に不思議だ。
倭人伝に合致する遺跡を日本国内に見つけることは既に絶望的。
国内の文献にも一切出てこない。
幻度が高すぎる。
484日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:17:02.33
>>482腐れ果てた畿内説

とんでもない勘違いだな。

あのな、漢委奴国王印は後漢書という文献との一致が見られる出土物だ。どういう因縁のものであるかが
判断できる。

ところがある古墳から出た鏡はどういう因縁のものかそれ自身だけでは判断できんだろ。同じ種類の鏡が
あちこちの古墳から出ても、埋納の時期の判定も難しく、それらがある一人の首長から配られたものか各
自が独自に入手したものかも分らない。まして政治体制まで論じることはできない。

ということだ。

485日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:19:51.73
>>437
それが卑弥呼が共立された180年代頃にどう状況が変わったのか教えてください。
3世紀のことはどうでもいいです。
卑弥呼が共立された時点で邪馬台国は連合国内有数の国力が無ければならないわけで、
国がそこまで成長するまでには相当の年月がかかりますよね。
486日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:22:33.76
>>484 ゴミ
>あのな、漢委奴国王印は後漢書という文献との一致が見られる出土物だ。どういう因縁のものであるかが
>判断できる

頼むから分かりきった事を書かんでくれ。

だからその金印が元からあの島にあった保障はどこにも無い。
九州にあった保障もない。
そもそも光武帝から金印を授かったクニが九州だというのが文献から分かるのか?

それに帥升はどうするんだ?

都合の良い時だけ「考古学の常識」をつかうのがゴミクズレベル九州説。
487日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:30:07.42
>>486

437で自身で証明してることと矛盾してるし。
488日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:32:42.04
>>487
どこが?
489日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:33:03.38
>>486腐れ果てて骨も砕けた畿内説

おいおい。話の本筋は金印や帥升ではないぞ。479、484の論旨も掴めんのか?
チミのような痾多魔野倭婁夷ひととの議論は疲れる。もうお休み!
490日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:37:06.34
「遺跡、出土物で国の政治体制がわかるわけが無いだろう」というのは別に構わない。

考古資料に頼らず文献一本でやるというのはありうるというより
むしろそっちが本筋だ…とも過去何度も言ったが

ゴミクズレベル九州説は都合の良いところだけ切り取るクズ
491日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:37:08.47
犯キチは伊作がいないと元気だなw
いきいきしてるw
492日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:43:15.86
まあゴミクズレベル九州説がどれだけほざこうか
逆に俺が何を言おうが
邪馬台国云々の前に九州に大陸と交渉を持ったようなクニの実体を描き出せるようなものが無い限り

九州説は所詮「アンチ畿内説」でしかない。

しかもここのゴミクズレベル九州説の妄想ともなれば九州の大部分を支配した一大帝国で
やがて日本を〆るべく東征を開始するというのだから

もうアタマのおかしい連中としか言いようが無い。
493日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:48:11.71
ところで >>489 は縄文人じゃないのかな?
なんとなく芸風でw


494日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:50:56.89
2世紀末に畿内が九州を含めた西日本全てを配下に治め、
大陸とも交流した巨大帝国をつくっていた
という方がどうかしてる。
妄想にも程がある。
495日本@名無史さん:2011/10/21(金) 23:52:48.08
>>494
確かにそんな事を言う奴は頭おかしいな。
ゴミクズレベル九州説と同じだwww
496日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:00:23.65
畿内説終了でいいですか?
497日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:03:55.70
畿内説終了でいいです。
498日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:16:39.50
実は、正直な所、どういう根拠で畿内説が成立しているのか
俺はよく知らないのだ。

簡単にでも教えてくれるとありがたい。
どこを探しても、それらしいものがなくてな。
499日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:17:33.88
それは嫌だ。
お馬鹿な畿内説のたわごとをもっと見たい。
500日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:19:49.07
この板は自演が楽だな
501ローガン:2011/10/22(土) 00:23:29.56
>>483:10/21(金) 23:04
このスレの畿内説って一人しかいないのか。

いや、結構いるとおもう。私もその端くれ。
502日本@名無史さん:2011/10/22(土) 00:50:30.81
九州邪馬台国≠畿内ヤマト王権

これが一番矛盾がない
503日本@名無史さん:2011/10/22(土) 01:49:02.90
>>502

で、九州の邪馬台国は滅んだわけだね?
504日本@名無史さん:2011/10/22(土) 02:53:53.19
邪馬台国はトヨで終了。
505卑弥呼の都は久留米:2011/10/22(土) 02:56:24.57
>>503
>で、九州の邪馬台国は滅んだわけだね?

そうです。3世紀後期、邪馬臺國は狗奴國の侵略を受け衰退し、
4世紀初頭までに滅びました。

狗奴國(菊池盆地)は邪馬臺國(八女)に進出したのです。
その後、中西部九州(肥)から北西部九州(筑紫)を統一し、
半島南部まで影響を与えたのは、大倭(タイ)王"倭旨"です。
506日本@名無史さん:2011/10/22(土) 03:01:23.15
まぁ一部の人が言うように、
卑弥呼が九州で、トヨがヤマトとすると、
両地域をスムーズに繋げるような気がしなくもない。
507日本@名無史さん:2011/10/22(土) 05:14:03.42
あのさあ、畿内説って、すぐ

  「威信財」 とか

  「威信財体系」 とか言うけどさ

「これは威信財でございます」って誰がどんな根拠でそう断定したのよ?
でもって、威信とは「誰が誰に対してどういう効果を持ったもの」なの?
橿原考古学研究所が勝手に妄想しただけの空理空論じゃないの?
508日本@名無史さん:2011/10/22(土) 05:17:32.21
続き

で結局さ、「威信財」という概念を無理くり持ち出して
決めつけたい結論て言うのは見え透いていてさ、

「△鏡は卑弥呼の魏鏡だ」と言わんがための屁理屈にしか見えないわけさ。
畿内説のあさましい詐欺手法にしか思えないわけだ。
509日本@名無史さん:2011/10/22(土) 05:30:26.38
>>508
よく分かってらっしゃる
510日本@名無史さん:2011/10/22(土) 07:59:08.24
威信財と言う言葉が気に入らないのであれば
自分の好きにすればいいんじゃないか?(棒読み



511日本@名無史さん:2011/10/22(土) 08:04:37.29
しかし呆れるのは未だにここの九州説にとって
畿内説=三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡
…と言う図式でしか理解できないんだよな

まあ分かりやすいと言えば分かりやすいんんだろうが(溜息


512日本@名無史さん:2011/10/22(土) 08:41:22.27
>>505久留米
その根拠は何か?
しっかり答えられなかったら「ゴミクズ」だぞ
513日本@名無史さん:2011/10/22(土) 08:47:01.89
九州説は結局妄想や推論でしか存在出来ないんだよ。
514512:2011/10/22(土) 09:00:57.10
>>513
それは畿内説の皆さんのことでしょう。
515512:2011/10/22(土) 09:06:09.76
畿内説の皆さんは奈良から出土した土器なんかを邪馬台国の根拠と勝手に
言っているだけで実は根拠にならないのだよ。
516日本@名無史さん:2011/10/22(土) 09:06:45.25
威信財ってのは、「使い方がわからない」と同義なんだな。
だから、本当の「祭祀具」としての使い方と、「まったくわからない」ものを区別しないと
泥沼になる。

古墳の鏡は、葬送具だろうが、銅鐸に関しては本当に「わからない」
517日本@名無史さん:2011/10/22(土) 09:18:26.76
>>515
自分の無知をそんなに晒さなくても‥
だから九州説は妄想するしかないいだろうw
518日本@名無史さん:2011/10/22(土) 09:29:35.70
まあ威信財の定義なんかどうでも良いが

結局九州に邪馬台国が出現して周辺もたらしたもの、起きた現象等々を誰も具体的に材料を提示して説明できない。

別に無ければ無いでそれは九州邪馬台国はそれほどに大きな国ではなく
しかも極短期間で消え去ったとすれば説明に困るものでもなんでもない。

が、ゴミクズレベル九州説にすれば九州邪馬台国は「大きくて強い国」で無ければ気が済まない様で
やがて西日本のみならず東日本もにらんで大和に東征すると言う巨大国家を妄想しているものだから
そんなことも認められない。

あるいはもっと単純に畿内説に対し自分たちの今不足しているものを認めたくないと言う下らない虚栄心みたいなものか?




519512:2011/10/22(土) 10:32:54.49
威信財
いいね。委奴国王金印は威信財なんだろう?
この委奴国は倭国の古い国だと随書に明記されている。
つまり九州の委奴国から倭国へそして倭国動乱をへて
邪馬台国(倭国の首都)へと倭国連綿と繋がった。
そしてヤマト朝廷も倭国を名乗っていた以上古の邪馬台国
とヤマト朝延は繋がっているわけだ。どこかの民族が
倭国を併呑したという記録は無いからね。
520512:2011/10/22(土) 10:39:40.88
その邪馬台国の概定所在地はもちろん九州だよ。
なにしろ邪馬台国は倭人伝に記緑されており
これこそが最大の根拠だからね。
521512:2011/10/22(土) 10:56:54.04
九州説の根拠を覆すために畿内説連がやること
@とにかく奈良を掘り返す
A土器の年代を無理に遡る
BAを根拠に古墳を古くして
 あたかも邪馬台国時代に
 奈良に大国があったと言いはる
Cそして何でも言ってみる
522日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:11:04.19
>>521
D自分たちの説は積極的に展開せず、九州説の揚げ足を取って
いかにもそれが間違っているかのように印象付ける作戦をとる。
Eファビョると醜い人格攻撃に走る。
523日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:24:09.97
こんなん決定的物的証拠もないくせに、個人の妄想で
邪馬台国はここだと決めつけてるだけだろうw
全くもって無意味な作業だね。犯罪捜査とかだとお話にならないレベル。
524日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:26:31.64
Cそして何でも言ってみる

>九州説はこれしかないだろw
525512:2011/10/22(土) 11:44:02.54
>>523 >>524

ちょっと語っただけでカスどもがわいて出る。
仕事いってくるばい
筑紫の民
526卑弥呼の都は久留米:2011/10/22(土) 11:47:40.01
>>512

>>505久留米
>その根拠は何か?
>しっかり答えられなかったら「ゴミクズ」だぞ

"その"はどの部分でしょうか?
"その"を「狗奴國(菊池盆地)は邪馬臺國(八女)に進出したのです。」として答えましょう。

横穴式(装飾)石室墓の北進です。
横穴式(装飾)石室墓は、菊池川流域(狗奴國)から矢部川流域(八女)に進出しています。

横穴式(装飾)石室墓は南(小林)へも西(天草)へも広がっています。


"その"についての他項目をも詳しく書くと本になってしまいますの大幅に端折って返答とします。
527日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:51:24.39
物的証拠を提示してみろってw
じゃなきゃ主張に説得力などないってw
528日本@名無史さん:2011/10/22(土) 12:02:13.43
>>526
それは根拠といわないでしょw
横穴式(装飾)石室墓の年代特定と邪馬台国の関連が
妄想の一部にすぎないのに。
529sss:2011/10/22(土) 12:42:11.78
ちょっと一服。

倭人伝の卑弥呼について書かれている部分に、「以婢千人自侍」というのがある。
卑弥呼は、女の召使千人を侍らせていた。

この情景を彷彿とさせるのが、後世の「斎宮制度」。伊勢の斎宮跡では、斎王を中心に
500人程度の人間が生活していた痕跡があり、その規模は、東西2000m、南北700m。
相当にでかい。

斎王というのは、天照大神を祀るために天皇の代わりとして派遣されていた人物で、主に皇女が
その役割をになった。斎宮はその制度あるいはその役所を指す。
伊勢の場合は斎王を斎宮と呼ぶこともある。

卑弥呼の宮殿もこの斎宮跡に匹敵するか、それを上回る規模だった可能性もある。
斎宮跡が出てきたのは昭和48年頃。卑弥呼の宮殿も何かの拍子に発見される可能性がある。
530日本@名無史さん:2011/10/22(土) 12:46:02.92
>>518
そんなことないかと。
東遷説を取らずに、ヤマト勃興に連れて
九州で小さく納まっていた邪馬台国が弱体化していったと
考える九州説の方が殆どじゃないかな。
確かに著名で力のある方ほど、東遷説を取っているのは事実だが。
531日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:28:39.73
>>519

欧米人の哲学には、すぐ神の摂理なんかを持ち出して、
下手糞な説明をするので辟易する。

金印だろうと鏡だろうと、それを「威信財」と断定しておいて、
「威信財だから」と話を繋ぐとすれば、話が胡散臭いと思う。

「初めに畿内説ありき」という決めつけ中に「威信財」の語が
ひょいひょい出て来て、「神の摂理に説得力を依存した哲学」に
そっくりだ。
532日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:29:45.37
>>530
著名な人間ほど遷都説というのはどうか?
オーソドックスな邪馬台国東遷説なんてもう安本ぐらいしかいないんじゃ?

井沢なんかは奠都説に路線変更したみたいだし
(これなら九州邪馬台国と纏向が同じ時間に並存していても良い)

これが考古学者や史学者となれば自分には名前すら浮かんでこない。
(まあ”腹案”として持っているなのはいるんだろうがw あと柳田の伊都国東遷はちょっと毛色が違う)

で、2ちゃんのこの板じゃあむしろ東遷説がメインをはっている。
(確かに九州説でも”小さな邪馬台国”を主張する人間もいることは承知しているが如何せんゴミクズレベルが大声張り上げている中では極少数派にしか見えない)

要するに九州版ウリナラ起源説ってお話だがw

533日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:40:17.60
畿内説の人は、短兵急に

    「証拠物件」

を語りたがるし、論客に要求もしてくるが、
古代史は文献も遺物遺跡も決して十分ではない。
まして「物」からは読み取れない人間の営みが無限にある。

「証拠物件」のあるなしだけの古代史研究は、
「ジンギスカンの墓は見つからないから、彼は実在しなかった」
などと、「物件証拠主義」は高転びに転んでしまう。。

「物件証拠主義」をやめて、マクロとミクロの総合的な統合性に
論理の主軸を据えるべきだとおもう。
534日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:42:23.45
>なにしろ邪馬台国は倭人伝に記緑されており
>これこそが最大の根拠だからね。

じゃあ質問の仕方を変えてみよう。

「倭人伝に九州にあったと書いてあると言う邪馬台国は本当にあったんですか?」

… と

535日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:44:38.74
「東遷」の「遷」は、国家や支配組織が引っ越しすることを挿していると思うが、
畿内(の一部)を九州勢力が占拠・支配した事件はあったと思うが、
もし神武部隊のことを想定しているなら、それは「東遷」ではない。
神武軍は、九州勢力の中央権力ではないからだ。
536日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:45:19.61
畿内説は、倭人伝がない方がいいもんな。
537日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:48:05.31
>>535
基本的に同意。

だいたい、長い間に建国整備してきた国を、普通捨てるものではない。

いろいろなしがらみで、都を何度か引っ越しした桓武天皇みたいなのもいるけどさ。
538日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:51:25.88
>>533
>マクロとミクロの総合的な統合性に

なんだそりゃ?
観念遊戯言葉遊びに堕する前にてめえがそれをやって見せろ。

「証拠物件」

と言っても邪馬台国遺跡そのものを出せと言う話じゃない。

その程度の話なら九州説はここまで廃れていない。



539日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:54:44.97
>>533
>「物件証拠主義」をやめて、マクロとミクロの総合的な統合性に
>論理の主軸を据えるべきだとおもう。

要するに己の思いつきだけをダラダラと垂れ流したいということですねw
540日本@名無史さん:2011/10/22(土) 13:55:38.54
>>535
で、その本家九州王朝と分家だか支社だかの畿内ヤマトとの間に交流は無かったのかな?

普通なら他地域より濃厚な交流があって然るべきだと思うが?

541日本@名無史さん:2011/10/22(土) 14:00:45.68
日向かな。周囲を敵に囲まれたとき景行を呼んで退治させている。
542日本@名無史さん:2011/10/22(土) 14:04:50.50
ただ単に、非主流派の神武一族が、その地の豪族つぶして居すわっただけ。
九州主流派はあんまり関係がない。

敵対してるわけでもないが、濃厚な関係というわけでもない。

遠いから、情報くらい入っていたかもしれないが、基本的には放置。
543卑弥呼の都は久留米:2011/10/22(土) 14:05:45.09
>>527
>物的証拠を提示してみろって

横穴式(装飾)石室墓の形式

小林盆地:地下式
天草:地下式、半地下式
人吉盆地:地上盛り土式、半地下式
緑川流域:地上盛り土式、半地下式
菊池川流域:崖横穴式、地上盛り土式
矢部川流域:地上盛り土式


>>528
>横穴式(装飾)石室墓の年代特定と邪馬台国の関連が妄想の一部にすぎないのに。

邪馬臺國の領域は別途特定済みです。
北野平野及び筑後平野内陸部
邪馬臺國は、1世紀の北野平野勢力と筑後平野内陸部勢力が、2世紀に合同したもの。

なお、投馬國は、佐賀平野東部から大牟田までの有明海東岸沿岸勢力が合同したもの。
だから、投馬國は有明海東岸を北上する定常海流沿いの海洋民の国。
彼等の居住区は島々と沿岸低地部。内陸台地部は邪馬臺國民の居住区。
544日本@名無史さん:2011/10/22(土) 14:08:35.43
>>542
つまり九州との関係性は出せないが
大和を征服したのは九州勢力にしたいと言う中二病爆発な話だな下らない。
545日本@名無史さん:2011/10/22(土) 14:18:49.38
>>544
別に神武東征神話自体は、話半分であまり信用してない。
別に九州出身でなくてもいい。

記録があるから、それを信じるならそのレベルだろ、ってな程度。

自分自身は、「九州-畿内は関係がない派」である。
土器も鉄も、九州-畿内間で太いパイプがあるようには見えない。

それよりも、吉野ヶ里では、しょぼい小さい銅鐸と、その鋳型が出ている。
畿内出雲吉備あたりの広域銅鐸勢力があり、九州ともちょっとは
関係があった。わずかに交易があった程度だと思うが。

その広域勢力を、三角縁銅鏡文化圏が襲ったように見える。
546卑弥呼の都は久留米:2011/10/22(土) 14:23:28.77
>>529
>斎宮跡が出てきたのは昭和48年頃。卑弥呼の宮殿も何かの拍子に発見される可能性がある。

斎宮跡のような卑弥呼の宮殿が、久留米の二つの川が合流する地点の上流側で
二つの川に挟まれた台地で発見されると予測する。

斎王は、卑弥呼や壹與のような女性の兄王が天皇制後に変わったものと思われる。
547日本@名無史さん:2011/10/22(土) 15:08:11.57
久留米は豊比刀i豊姫)にゆかりの有る神社がたくさんありますね。
上津天満宮に入っている豊姫神社。
名前が変わったり、併合されたりしたそうですが、
豊姫神社は結構久留米周辺にたくさんあったようです。
548日本@名無史さん:2011/10/22(土) 15:09:50.61
>>536
>畿内説は、倭人伝がない方がいいもんな。

正確には「なくてもいい」だろうなw

仮に倭人伝なるものが無くても現在考えられている初期ヤマト王権が一緒に消えるわけじゃない。

逆に九州説は一緒に消えざるを得ない。

ここが大きく違うところ。

549ローガン:2011/10/22(土) 15:17:05.49
邪馬台国東遷説…
考古学的根拠が皆無なので、首肯出来るものは無いけど、
4世紀以降の東遷とやらがあったとすれば、それを所謂「神武東遷」にみようという主張ですな?
では、その論拠となる記紀の神武東遷、これは4世紀以降の事実の記載である、という部分の論証が先に必要なんじゃない?
紀にある大王系譜をどう考えるか?又、その系譜と、大王墓と目される巨大古墳の編年の整合を如何に論じるか?その根拠を何に求めるか?
という所からようやく、九州から来た初代王は4世紀以降の人物であるという主張が許されるんじゃない?
550日本@名無史さん:2011/10/22(土) 15:23:41.59
倭人伝が無くなれば、魏志倭人伝で書かれた邪馬台国は消える。
しかし、日本中で発掘されている勢力痕跡は消えない。

ということだな。まあ、それはそうだ。

漢倭国王含む、九州の大量の痕跡も消えるものではない。
むしろ、九州王朝を主張したくなるな。
551日本@名無史さん:2011/10/22(土) 16:27:27.43
>>543
>邪馬臺國の領域は別途特定済みです。以下〜

その説明が妄想の羅列以外何者でもないだろw
それらの根拠が全部推測でしかないのに。

しかし九州説なんて皆このレベルなのか???
552卑弥呼の都は久留米:2011/10/22(土) 16:31:22.13
>>547
>久留米は豊比刀i豊姫)にゆかりの有る神社がたくさんありますね。

豊比刀i豊姫)にゆかりの有る神社は、3世紀から617年までの、
女性兄王を祭った神社と推定しています。
久留米地方の最初の女性兄王は卑弥呼(豊比刀jですから、
卑弥呼の冢は久留米市上津町の豊姫を祭った神社の傍となります。
上津町の環境では僅か径23mの冢は残っていないと思われます。
卑弥呼の冢の痕跡は豊姫を祭神とする神社として残っているでしょう。
553日本@名無史さん:2011/10/22(土) 16:57:48.75
倭人伝も記紀も全部消してしまえ! そして一から創りなおそう。
554日本@名無史さん:2011/10/22(土) 17:07:51.57
>>552
上津天満宮の東側、一キロ弱、3号線沿いに浦山古墳群がありますね。
この中の浦山古墳は5世紀ということなので、年代が合いませんが、
この周辺にもたくさん古墳があったそうです。
また、この浦山古墳はかなり高度な装飾古墳でもあります。
刀剣、甲冑が出ているので男王の墓でしょうね。

でも、他の古墳と思われる場所から勾玉とかも出ているんで、
女性の墓もあったのかもしれません。

あと、場所的には自衛隊演習場の中にもたくさんありそうな気がします。
高台は自衛隊演習場、平地は住宅地で、発掘しにくそうな場所ではあります。

555日本@名無史さん :2011/10/22(土) 17:43:51.53
九州説の唱える東遷

@ 邪馬台国が東遷した。
A 邪馬台国とは無関係な九州王朝が東遷した。時代は7世紀。
B 東遷はなし。

他にあったら、足してください。
畿内説派は九州説のことをあまり理解していないようなので。
556日本@名無史さん :2011/10/22(土) 17:47:47.11
555
補足。
AとBは畿内王朝はヤマトの名を借用した、という考え。
557日本@名無史さん:2011/10/22(土) 18:12:37.34
と言うか東遷説とか九州王朝説とかは分けて欲しいなあ。

はっきり言って現在の学問の俎上に上る話じゃないんだから・・・
558日本@名無史さん :2011/10/22(土) 18:44:38.09
>>557

>現在の学問の俎上に上る話じゃないんだから・

それは思い違いだよ。文献をしっかり読む人ほど、
九州王朝とか、九州勢力の東遷というのはあったとみるよ。
だから、九州説の中にはこれも関連しなくては語れない人もいるから、分けて
考えるものじゃないよ。
559日本@名無史さん:2011/10/22(土) 18:55:43.50
>>558

>それは思い違いだよ。文献をしっかり読む人ほど、

文献を浅くしか知らない人のことだろ。
深く読み込めば、文献が信用できないことに気がつく。
560日本@名無史さん:2011/10/22(土) 18:56:19.96
実際に学問の場で真剣に取り出されることは無いわな
561日本@名無史さん:2011/10/22(土) 18:56:37.27
>文献をしっかり読む人ほど、
九州王朝とか、九州勢力の東遷というのはあったとみるよ。

単なる思い込みが大半じゃないの?
562日本@名無史さん:2011/10/22(土) 19:19:21.97
>>555

次の説は何番なの?

そもそも倭国は連邦国家であって、倭奴国や邪馬壱国、邪馬台国は
その一部に過ぎない。
神武は倭奴国か邪馬壱国のはぐれ部隊であったが、これが畿内に侵入し、
畿内の一部を占領・定着した。
563日本@名無史さん:2011/10/22(土) 19:33:38.18
ぶっちゃけた話

古田や安本の後継者って誰かいるのか?

できれば小説家・ノンフィクションライターとか以外の文献史学者・考古学者で。

結局は邪馬台国ブームの中で咲いたあだ花だろう?

564日本@名無史さん :2011/10/22(土) 19:45:13.02
>>562
神武が王朝を持っていれば、Aの九州王朝&東遷で、
神武が王朝を持っていなければ、C邪馬台国とは無関係な国を持たないある勢力が東遷した。
>>563
>古田や安本の後継者

古田氏や安本氏の説をそのまま、丸のみしている人もいるかもしれないけど、
一部だけ賛同する人もいるし、いろいろだから。
一概に似ているからと、古田、安本式の考え方だと早合点して、攻撃されると
困るんだよね。それにお二人の説にはなるほどと思わせるところもあるでしょうから、
もう少し、冷静に判断したほうがいいよ。
565日本@名無史さん:2011/10/22(土) 19:58:13.17
>>564
>もう少し、冷静に判断したほうがいいよ。

お前がもう少し冷静になってレスしろ阿呆。

結局後継者がいるのかいないのか丸きり分からない、何が言いたいのかさえ分からない文章だ。

いるならいる。
いないならいない。
そのままでなくてより発展させた学者がいるのならその名を挙げる。

ゴミクズレベル九州説はこう言う下手なお茶の濁し方を良くやるが・・・
566日本@名無史さん:2011/10/22(土) 20:15:26.90
古田は「師の受け売りはするな」というのが口癖だし
安本は季刊邪馬台国等で広くいろんな説をカバーしている。

偏狭な畿内説論者に、彼らの爪の垢でも煎じて飲ませたい。
567日本@名無史さん :2011/10/22(土) 20:17:38.53
>>565
その後継者がお二人の説をそっくりそのまま後継する人って学者にいるだろうか?

あまり考えられない。
やはり、どこかを採用して、どこかを改めているんじゃない?

だから、後継者といっても、どこか違うかもしれないから、
九州王朝説だからといって、中身も確認しないまま、切り捨てることは
やめたほうがいい。
最初のあなたの言い分は丸のみした後継者のことを言っていたから、
冷静に考えたほうがいいよ、といっただけ。

>そのままでなくてより発展させた学者がいるのならその名を挙げる。
知らない。学者じゃなくても歴史熱心な研究家とか、そのうちでてくるんじゃないの。

568日本@名無史さん:2011/10/22(土) 20:19:09.91
>>567

要するに何も知りません…だな。

569日本@名無史さん :2011/10/22(土) 20:24:39.35
>>568

それを知ったところで、あなたは、後継者をばかにするだろうし、
いなければ、仇花だといって笑うだけでしょ?
その質問になんの意味があるのかな?
ちゃんと中身を考える余裕を持つようになってから、質問すれば?
570唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/22(土) 20:26:06.37
西暦42年 神武元年 弥生第X様式のはじまり。
3世紀初め 前原王墓をもって、いったん九州王朝は消滅する。
238年 女王卑弥呼の協立、250年ころ男王も死ぬ。この後を継いだのは、景行の子女5百野姫である。
274年 神功の渡海、九州から関東・東北まで大和の管理下である。
571日本@名無史さん:2011/10/22(土) 20:28:55.66
>>569
何を言ってるんだ?

知らないのなら。
知っていても教えるつもりが無いのなら黙っておけばよい。

ただそのまま黙っておくのが癪だから皮肉の一つでも言ったつもりなんだろう?
馬鹿馬鹿しい。



572日本@名無史さん :2011/10/22(土) 20:41:30.30
>>571
だからね、ただ単に九州王朝があったという説をいうと、
すぐに、古田氏、安本氏に結び付けて、中身も確認しないまま、
切り捨てる態度が気になったから、注意したんだよ。

最初からわたしは質問の後継者を応えるつもりはなかったし、あなたにしても
質問したわけではなく、茶化しただけで、真剣に求めたわけではないしょう?
一つの印象操作の手法だよね。ひとりごとみたいなもの。
それと答えられる人だけがレスすればいい、という考え方は間違っているよ。
573日本@名無史さん:2011/10/22(土) 20:47:52.71
>>572
>注意したんだよ。

何が悲しくてお前に注意されなきゃならんのだ?
俺が切り捨ててそれが間違いだと言うのならその時に反論しろ阿呆。

>それと答えられる人だけがレスすればいい、という考え方は間違っているよ。

お前みたいに知ったかぶりして、あるいは答える気も無いのにケチレスよこす奴が一番鬱陶しい。
要するに「そんな質問はしてくれるな」ってことだろうが下らない奴。

574日本@名無史さん :2011/10/22(土) 20:57:18.53
>>573
あなたが最初にバカにするような書き込みをするからだよ。
そういう書き込みをすれば、自分にそれが返ってくるってことだよw。
575日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:00:18.79
>古田は「師の受け売りはするな」というのが口癖だし
安本は季刊邪馬台国等で広くいろんな説をカバーしている。

古田はゴッドハンドでミソをつけたし、
安本は地名相似説とか稚拙な論を平気で主張している点で論外だわ。
576日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:07:03.06
>>575

それがすべてじゃないから、心配するな。
577日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:16:54.60
>>574
要するに後継者を聞いただけで
「馬鹿にされちゃう」
と言う自覚があったんだな。

・・・で予防線を張ったとw

とことん情けない奴だが
馬鹿にするかしないかはその後継者と内容を聞いてからのお話だ。

昔図書館で借りた古田の本は行間から「サヨク的反体制の情念」とでも言うものが滲み出ていた記憶があるが(中身そのものは忘れたw)

ヤマト一元史観とでも言うべき物に対するアンチテーゼとすれば
それなりに時代的役割を果たしたのだろうと理解するだけの余裕は持ち合わせている。

そう言った評価できる部分を受け継いだ学者なら一方的に馬鹿にするようなことはしないし
したところで俺が馬鹿に見えるだけ。

逆に「歴史の影に九州王朝」式の陰謀論の羅列なら勿論馬鹿にするだけ。

要は是々非々。無論その評価が間違っていると言うのならやり返せばよい。

出す前からビビってどうすんだ?ゴミクズwww



578日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:25:08.84
>>576
確かに心配はしないな、既に終わった人達だし。
579日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:26:52.24
>安本は地名相似説とか稚拙な論を平気で主張している点で論外だわ。

どうもあの先生で分からない…というより胡散臭く思っているのは

無論、畿内説批判はあって良いし、それが特に九州説じゃなくても九州の特定の比定地を持論にしていなくてもいいんだが

そもそも邪馬台国東遷説なんだから兎に角スタート地点の邪馬台国を確定しなければ話が始まらない筈で
それが甘木というのは自分も知っているし「地名の一致空耳アワー」のネタも知っているが
それ以外畿内説を批判する時のような考古資料を持ち出して詳細に検証と言うのを知らない。

例えば甘木の早期前方後円墳、神蔵は安本の理屈なら4世紀も半ば以降になる筈だが
そんな明言があったのだろうか?

もしないのなら穿った見方をすれば畿内の遺跡の年代にイチャモンつけるのとは違って
九州の遺跡の場合相当難しい下手すれば自己矛盾を露呈してしまうから腰が引けているのではないかとも思うのだが…



580日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:28:18.73
>>563痾飜駄騾
>ぶっちゃけた話
>古田や安本の後継者って誰かいるのか?
>できれば小説家・ノンフィクションライターとか以外の文献史学者・考古学者で。
>結局は邪馬台国ブームの中で咲いたあだ花だろう?

「ぶっちゃけた話 」を日本語に訳してくれ。意味がわからん。
文献史学者・考古学者に古田や安本の後継者がいないことぐらい知っているだろ。何をくだらん質問
をして得意がっているのだ?アホやの〜。



581日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:34:53.45
>>580 ケチレス専門ゴミクズ

いや「いない」と断言できるまでにそっちの世界を知らないからな。

そうかゴミクズレベル九州説でも「そんなものはいない」と言うのが常識だったのかwww
582日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:37:06.06
>>577腐れきった畿内説
チミも情けない男よ。変な勘ぐりばかり書き連ねて優越感に浸っている。アホやの〜。
583日本@名無史さん :2011/10/22(土) 21:38:09.80
>>577
>ヤマト一元史観とでも言うべき物に対するアンチテーゼとすれば
それなりに時代的役割を果たしたのだろうと理解するだけの余裕は持ち合わせている。

あなたはヤマト一元史観なんだよね。東遷なしの。

それと時代的役割を果たしたのだろうと理解するというけど、歴史認識は時代背景で
左右されるもんじゃないよ。そういうことをする人は真の歴史家ではないよ。
宗教家と言っても差し支えない。


歴史の影に九州王朝」式の陰謀論の羅列って、意味不明。
なにが陰謀論になるのかな。

あなたの発言は宗教家の言、そのもののように聞こえる。
尤も畿内説は宗教だというレスもたまに見かけるし。

あなたはゴミクズ、wを羅列する人だったんだねw
584日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:39:30.45
>>582 ケチレス専門ゴミクズ
えらく絡んでくるが昔俺が踏み潰したゴミクズの一つなのかな?w

昔の名前で出てみないか?www


585日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:41:01.06
>>583
>あなたはヤマト一元史観なんだよね。東遷なしの。

おいおいおい俺皇国史観の人間にされちゃったよwwwwwwwww

586日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:42:24.79
>>583
なかなか冷静なレスですな。ゴミクズ、wを羅列する腐れ畿内説野郎とは一味違うね〜。
587日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:46:06.40
>>579

庄内式土器を九州発祥にすれば、なんとでも切り抜けられると思ってるんだろう。

それに騙される老人が哀れでならない。
588日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:46:22.61
>>583
>あなたの発言は宗教家の言、そのもののように聞こえる。

お前にそう聞こえるなら仕方が無い。

科学も原理を知らない者には魔法だからなwwwww
589日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:49:09.78
>>582
>庄内式土器を九州発祥にすれば

「すれば」と言うより「しなきゃならなくなった」と言うことではないの?w

畿内の年代弄って九州の年代弄らなければそうならざるを得ないわけでwww
590日本@名無史さん :2011/10/22(土) 21:49:30.47
>>585
そうじゃないなら、ここでいい機会だからみんなに教えてあげてよ。
はっきりと。俺はこういう説だよと。
591日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:49:59.85
>>583
>あなたの発言は宗教家の言、そのもののように聞こえる。

ヨコからだが、宗教と科学の違いをはっきりさせておこう。
科学は、証拠を第一に考える。
九州から東遷があったという証拠がないので、東遷説は否定される。

証拠も無いのに東遷があったと主張する安本のほうが宗教家だよ。
592日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:54:50.42
>>590
今更説明いらんわドアホw

「 ゆ る や か な 首 長 連 合 」ネタでいつもゴミクズレベル九州説どもに噛み付かれている人間が

なんで皇国史観なんだよ?w


593日本@名無史さん:2011/10/22(土) 21:58:41.29
>>591
証拠(君の考えているような証拠)を持ち出したら古代史の大部分は「分らない」ということになるな。
594日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:02:20.44
素人だが、安本説はそんなにおかしいのかな、地名相似とか。
九州、畿内説もお互いの主張を「そうは考えない」「そうは思えない」という
レベルで語ってるわけだし、考古資料での裏付けに欠ける、という否定の仕方は
お互い様じゃないんだろか。
鉄が出ない、大規模集落がない、というのも「これから出るかもしれない」「見つかってないことを
ないとは言えない」なんてすごい強弁じゃないかな。
他の時代ではなかなかこういう思考法も認められないだろうし
この時代の論争は結局安本も言ってるように、宗教でいいんです、
みたいに感じてしまう部分も多い。
595日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:07:27.97
>>592腐れゴミクズ畿内説
チミは590の言うことが分っていないのか?「俺はこういう説だよと」皆に教えてあげてよ と言って
いるだろが。それに対してなんだこのピント外れのレスは?

ほんにチミは徹頭徹尾、首尾一貫してアホよの〜。
596日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:08:49.35
>>591
>ヨコからだが、宗教と科学の違いをはっきりさせておこう。

じゃあ俺は「反証可能性」を挙げておこうかな?

「人も動物もこの世界は神様がお造りになった」と言われればそこから先もう進めようが無いわけでw

「南と書いてあるから南!」と言われて先に進まないのと同じw

科学は反証可能であっるのだから時に大きく前進する事があるが

ゴミクズレベル九州説にとってかつての三角舶載説が否定された事は畿内説が崩壊したことらしいw

この辺でもうこいつらが科学的(と言うか人文学の世界でもそうだと思うが)な思考ができないのが丸分かり。

むしろこっちは現在の知見に合わせた九州説を望んでいるのだが

597日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:10:40.79
不完全な情報を元に、体系を組み立てるのを推測という。
不完全なので、思いつき、アイデアを入れる余地がある。
広い構想を組み立てられるが、証明されなければあまり価値がない。

今ある情報をもとに、確実なルールを適用して、
体系を導き出すのを推論という。
確実なものしか扱わないので、独自アイデアは全く入らない。
結果もかなり限られたものになる、がその結果は信頼できる。

推測を推論のように書くのは詐欺という。

さらに、願望は推測でも推論でもない。

学問の世界において、推論結果というのは
自分の思い通りにはならないものである。
598日本@名無史さん :2011/10/22(土) 22:10:41.00
>>592
ゆ る や か な 首 長 連 合 も
ヤマト一元論じゃないの。
最初からヤマトは畿内にあって、王(天皇)もずっと一系だよね?
畿内説なんだから。違うの?
東遷だけ否定する新種の皇国史観じゃないの?
599日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:13:36.44
>>595 ケチレス専門ゴミクズ
えらく絡んでくるが昔俺が踏み潰したゴミクズの一つなのかな?w

昔の名前で出てみないか?www


>>590のは「そうじゃないなら」=「俺が皇国史観で無いのなら…」とその説明を要求しているわけだ
だったら>>592で事足りる。

何でゴミクズレベル九州説は国語能力がこんなに低いのか?
600日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:15:40.90
>>598
俺は小学生の先生でも幼稚園の先生でもない。

一回自分で調べて来い。

601日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:15:47.95
神武東征前660年というのはいくらなんでも古すぎる
畿内に弥生人が入ってくるのはさすがにそれより100年以上後だろ
602日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:15:59.91
少し話がそれるが、歴史学は人文学ではなく科学を目指そうとした結果
おかしなことになってるように思う。
史料絶対主義というか、推測とか人の考え努力能力、そういうのを軽視、以上に
まったく認めないぐらいガチガチに「史料を出せ」みたいに言う専門家も多い。
「粗茶ですが」というのを「まずいお茶をだした、本人が言うのだから間違いない」みたいな
考え方なんだよね。「お世辞とか社交辞令では」というと「それは恣意的だ」とか
「お世辞という証拠を史料で示せ」なんて言われる。

専門家が単に浮世離れしてるだけだからどうしようもないんだが、
これが学問の世界ですることか、というのも多くて困る。
その点古代史は、九州説から畿内にうつった、とか柔軟?で素晴らしいと思うわ。
603日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:17:52.93
>>596

畿内説の>>596みたいなアホが勘違いしているように、
数学や化学の証明みたいに、古代史の解明はできないのさ。
あらゆることをより少ない仮設で、総合的に矛盾なく説明できる総合力が
古代史の決めてなんだよ。

畿内説がすぐに飛びつくのが、△鏡とか箸墓とか年輪などと、単一論拠に
しがみつくのが大バカだったことに気づかなきゃ。
604日本@名無史さん :2011/10/22(土) 22:20:03.80
>>600
ここではっきり言えばいいのに。なんで出し惜しみするわけ。
あなたの立ち位置がわからなければ、議論できないですよ。
ただゆるやかな首長連合だけでは、さっぱり。
605日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:20:58.23
つーか わからないことはわからないとするのが正しい態度
推論が定説化する弊害を考えれば空白の方がよほどまし
これは確実という部分だけを定説化していくのが専門的態度であり
素人は何を妄想するのも自由だわな
606日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:21:32.83
>>596論理的文章を書けない腐れ畿内説

チミは句読点の付け方を知っているのか?
チミの文章に出て来るWはperiodの代りになるのか?

>科学は反証可能であっるのだから時に大きく前進する事があるが
>ゴミクズレベル九州説にとってかつての三角舶載説が否定された事は畿内説が崩壊したことらしいw

上記の一行目と二行目は一連の文だと見なせるが、論理的にはどうつながるのだ?
チミのレスを読むと疲れてかなわん。せめて筋の通った文章を書いてくれんかの〜。
607日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:22:24.40
>>603
>△鏡とか箸墓とか年輪などと、単一論拠に

畿内説がそれを単一の論拠にしていたなんてしらなかったよ(棒読み

つうかそれぞれの項目で批判者を持ってきても
その人間が畿内説だったりするわけだがwww

もう文系とか理系とかその思考方法とかはるか以前のお話。

馬鹿は新でやり直せと
608日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:25:47.49
>>606 ケチレス専門ゴミクズレベル九州説
>せめて筋の通った文章を書いてくれんかの〜。

じゃあお前が過去使っていたコテを出せば書いてやるよ。
交換条件だ。
一々説明してやる義理は俺には無い。

まさか「通りがかりの者です」とかほざかないよな?w
609日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:27:52.97
0239年 卑弥呼が魏にデリヘル嬢を遣わす
0672年 妊娠の乱
0710年 正常位京に都を移す
0794年 性感京に都を移す
1192年 源頼朝は六本木にキャバクラ幕府を作る
1205年 放尿義時が失禁になる
1221年 セクハラ探題設置
1232年 御性感色欲の制定
1274年 猛根襲来
1338年 足利尊氏が吉原に風呂町幕府を作る
1467年 オナニーの乱
1549年 クリトリス教の伝来
1600年 関ヶ原の合コン
1603年 徳川家康がエロ幕府を作る 
1841年 ティムポの改革
1853年 黒乳首来航
1868年 ボイン戦争
1871年 パイパン痴犬
1877年 性感論、性難の液
1904年 に遅漏戦争勃発
1914年 第一次性感体位戦勃発
1922年 関東大陰唇祭
1931年 マン臭事変
1945年 第二次性感体位戦終結
1970年 大阪でマンパク開催
1972年 腰縄変姦
1995年 阪神淡路大陰唇祭
2001年 アメリカ同時多発エロ
2003年 イメクラ戦争
2005年 愛・子宮博
2011年 東日本大陰唇祭
610日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:33:46.99
それからさ、畿内説っていつも見え見えなんだよ。

「ゆるやかな首長連合」があったことを前提にして話を進め、
古墳だの鏡だの、キーワードを撒いて見せ、
さあ、その連合の中心といったら100%畿内しかありえませんねと
誘導していく手法が、詐欺そのものなんだよ。

年輪年代判定法も、たった一人が密室で決めつけただけで、
間違っている確率が非常に高い、誰も検証していない判定法なのに、
箸墓の年代を卑弥呼にどんどん近づけられるからという理由で、
これぞ正確な判定法だと、大いに喧伝して回った。
これも相当な詐欺だぞ。
611日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:38:15.56
歴史学は厳しい学問だから自分が生きている間にわかることは多くはないと多くのプロは思っている
論文ではできるだけ堅実なことを取り上げあとは後学につなぐ
素人は自分一代で結論を出し、それが定説化しないのは陰謀だの何だのと文句をたれる
しかしいくら文句をたれても世の中は変わらない
せいぜいが2chを舞台にしての妄想合戦
むろん悪い趣味ではないが、これで精神に変調をきたすようでは本末転倒だわな
612日本@名無史さん :2011/10/22(土) 22:43:41.70
>>600
あなたのはゆるやかな首長連合で、邪馬台国が畿内にあったというのだけど、
それが大和王朝とどういう関係にあるか、そこまで、語ってほしいんだけどな。
大和王朝と同族ならば、ヤマト一元論といっていいんじゃない?
どこが、皇国史観と違うの?東遷のない新種の皇国史観じゃないの?
違うならちゃんと指摘してもらえるといいんだけどな。
ここまで言っても無理ならもうあきらめるよ。


613日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:48:13.71
>>612
じゃあもう諦めろ。

大体普通「緩やかな首長連合」なんていったらむしろ「サヨク」と言われるだろうに
(つうか実際某東遷厨はそれを連呼しているw)

さようなら。


614日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:49:16.42
>>612

東遷がなければ、大和王権は起こりえないと思ってるようだが、
その東遷が1世紀だとは考えないのかね?

615日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:53:19.00
神武東征は紀元前の話なのだから、神話を持ち出して東遷の証拠にするなら、
東遷都は紀元前と考えないといけない。

神武東征の実年代を補正したとしても、1世紀となる。
東遷があったなら、1世紀と考えるのが現実的。

4世紀に東遷があったという証拠は全くない。
証拠が無い&神話にも書かれて無い4世紀の東遷を騙るのは、論以前のヨタ話でしかない。

616日本@名無史さん :2011/10/22(土) 22:54:56.12
>>613
あなたが自分はヤマト一元論じゃないといったから、
変だなあ、おかしいなあと。
それとも邪馬台国は畿内で衰退して、吸収合併されたとでも考えているのかなあ、
だから、ヤマト一元論ではないと。
いったい。どういう論なんだろうって。
617日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:59:38.35
>>616

ヨコからだが、「ヤマト一元論」と「ゆるやかな連合」は全く違う。

あなたが、相手の論をまず理解すべきだが、理解できなくても、自分は理解力が乏しいことくらいは自覚したほうがいい。

>いったい。どういう論なんだろうって。

「ゆるやかな連合」

ヤマトの大王が強権発動して近隣の国を恐怖政治で統治したわけではなく、
ユーロ連合みたいなものだと思えばいい。


618日本@名無史さん :2011/10/22(土) 23:06:10.41
>>617
大和王朝の前身が邪馬台国と考えているのか?ってことを聞きたいんだけど。
ゆるやかな連合とは形態の話で、ヤマト一元論とは血統の話だから、
違うのは当たり前なのに。
わたしがヤマト一元論なのか?と
質問したら、俺はゆるやかな首長連合だよ、と答えが返ってきた。
全く、系統の違う話なのに。
619唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/22(土) 23:08:39.35
景行(240〜261年)箸墓築造まで。
この数字では、九州に邪馬臺國は存在しないが、畿内に卑弥呼を設定できない。
なぜならば、暦年無主の時空が存在しないからだ。
274年神功元年(布留式期)半島の土器が”管理された形”で出土する。
ここから、3世紀中は、舶載鏡の時代である。
620日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:08:44.04
>>618
>大和王朝の前身が邪馬台国と考えているのか?ってことを聞きたいんだけど。

そうですよ。

卑弥呼が共立されたのは、ゆるやかな連合そのものでしょ。

621日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:12:54.91
>>617
ゆるやかな連合なんてのがどっから出てきたのか。
少なくとも、記紀からはそんなことは全く読み取れない。
考古学という便利で、何でもありの、都合の良い箱の中から出てきたんだろうな。
622日本@名無史さん :2011/10/22(土) 23:14:37.03
>>620
そうでしょう?
だと思った。
じゃ、ヤマト一元論、というかヤマト一元史観といっていいんだよね?
最初は違うと言って否定されたから、おかしいなと思って確認したかったわけ。
623日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:17:40.99
>>622

大和王朝の前身が邪馬台国だったら、ヤマト一元史観になるのか?

君の言葉の定義はよくわからんな。

それならそれでもいいが、皇国史観とは全く違うからね?
崇神とか神武とかいう王がいたかどうかまでは関知しないのだから。
624日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:20:49.00
>>621

ゆるやかな連合じゃなければ、なんだというのか?

九州から鉄器軍団が攻めてきて近畿を支配したとでもいうのかね?
625ヒムカノボーレイ:2011/10/22(土) 23:22:07.67
私の国はちくしの島の中に有ったよ。
だから議論はみんな、九州から始めてちょうだい。
626日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:25:26.73
>>625

なんで九州から?

吉備や出雲や丹波や東海や東北にも人はいっぱい住んでたわけだが、
なぜ九州だけを特別扱いする必要があるのかね?

君らの好きそうな神話の話をするなら、出雲には10月に日本中の神々が集まってたそうじゃないか。
出雲の神話についてはウソだと決め付けるつもりかね?

627日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:27:18.73
畿内の中心から、徐々に銅鐸が廃棄されて広がっていったのは、
外部勢力による畿内の支配を考えざるを得ない。
628日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:30:49.60
1世紀頃には、九州は鉄器を独占して繁栄してたかもしれないが、
だからこそ、九州以外の地域の人々は、連合していったのだよ。

九州だけが優位だ優位だと主張することは、近畿のゆるやかな連合が結成される動機付けをしてくれてるわけだ。

結果的には、九州は相対的に小国となり、近畿の連合国は大国となった。
九州は大国の近畿に支配されるしか道は無かった。それだけのことだ。
629日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:32:20.54
>>627
>外部勢力による畿内の支配を考えざるを得ない。

そうかもしれないが、九州ではない。
630日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:39:05.23
>そうかもしれないが、九州ではない。

4世紀の前半に渡来した高句麗、夫余系の一団が奈良盆地に入って支配した。前方後円墳は高句麗の積石
塚が原型である。
631日本@名無史さん:2011/10/22(土) 23:58:54.52
畿内が大国になっていったのは事実だろうが、
大戦争が起こって、入れ替わった形跡が無い。

あえて言えば磐井の乱くらいだが、
記紀がわざと過小記録していて、
実態は畿内と九州の覇権をめぐる戦いという解釈も
できなくは無いが、ちと弱い。

九州王朝が白村江で壊滅したという説もあるが、
時代的に遅すぎるかな。
632筑紫の民:2011/10/23(日) 00:21:40.59
今晩は、伊作先生出てこんね。
邪馬台国奇跡の解法は最近更新してたから元気やろうけど。
たまには〇とか▲とかで出てきてほしいとよ。まっとるけん。
633日本@名無史さん:2011/10/23(日) 00:23:06.23
伊作?

さんざん論破されて泣きべそかきながらホムペの更新か。

自業自得だからしょうがないね。
634筑紫の民:2011/10/23(日) 00:51:03.45
だれも伊作氏を論破していない。
そして畿内説はこのままでは彼には勝てない。
635日本@名無史さん:2011/10/23(日) 00:57:52.94
伊作氏は、どっちでも良いやん、というところで
えらくこだわることがあるね。

短里と1/6.5、とか、
千里と、渡海一日とか。

全体の趣旨にあまり影響しない部分は、
緩めておけばいいのに、と思う。
636卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 01:00:35.96
>>631

磐井の乱は、筑後(久留米)の大倭王磐井(倭薈)に対する玄界灘沿岸勢力(筑前勢力)の反乱。
反乱に加担したのが物部。
反乱の原因は、玄界灘勢力が磐井の半島政策の負担に耐えかねて磐井に対して決起したもの。
筑前に同情的な肥君は磐井に味方せず。
北西南を囲まれた磐井は、筑前の連合反乱軍との戦いに敗れると、東方宇佐方面に逃げるしかなかった。
637筑紫の民:2011/10/23(日) 01:05:19.57
久留米さん頑張ってね。
基本は九州説として応援しとるとばい。
おやすみ
638日本@名無史さん:2011/10/23(日) 01:36:53.05
>>634 筑紫のド民
>だれも伊作氏を論破していない。

歴史ファンタジー小説を論破せよとは中々難しい注文だな、オイwww

それから「○」は伊作じゃないぞ。
639日本@名無史さん:2011/10/23(日) 01:48:01.71
所詮九州説は妄想、三文小説でしか成立しないんだよ。
誰だってわかる事、有り得ない話。
だから何時まで経っても夢見るアホが沸いてくる。
640日本@名無史さん:2011/10/23(日) 01:53:46.15
まあ、畿内説は妄想ですらないけどな。

 単なる 詐欺だけどな。
641日本@名無史さん:2011/10/23(日) 01:54:16.73
>>634

論破されたかどうかは知ったこっちゃないが、皆に憐れまれて御退場されたのだw
642日本@名無史さん:2011/10/23(日) 02:27:26.27
>>624
連合って、ネタとしてもつまらんね。
知能があれば逆立ちしても、連合なんて発想自体が出てこない。
643日本@名無史さん:2011/10/23(日) 02:31:29.91
ゆるゆる連合ってのも微妙で、
人によっていろいろ定義がありそう。

ゆるさによっては、実質連合してないとも言えるしなあ。
644日本@名無史さん:2011/10/23(日) 02:38:14.72
ゆるやかな連合ってのは、要するに天皇による支配の歴史を少しでも否定するために、
「マボロシの民衆勢力」とか「各地の勢力」が天皇の祖先と対等だったという歴史を
作りたいんだろうが、お花畑すぎて痛々しいね。

ところで、「ゆるやかでない」連合と「ゆるやかな」連合はどこがどうちがうのかな?



もうジョーカーの1人芝居を生暖かく見守るもの疲れたよ・・・
645日本@名無史さん:2011/10/23(日) 02:51:39.18
百余国のうちの三十国ぐらいだけが仲良くしてても、
ぜんぜん「ゆるやか連合」にならないわけだが。
646日本@名無史さん:2011/10/23(日) 02:59:19.24
>>644
>もうジョーカーの1人芝居を生暖かく見守るもの疲れたよ・・・

君がいなくなっても、いっこうにかまわん。
どうぞ消えてくれ。
647日本@名無史さん:2011/10/23(日) 04:13:25.83

恨み節東遷厨サマ 成仏してください 

           ナムナム (-人-)
648日本@名無史さん:2011/10/23(日) 04:48:28.27
>>632
伊作って死んだんじゃないの?
まあ、細部に拘るあまり大局を観れない伊作の論法は面白かったよ。随分楽しませてもらった。
存命なら出てきてほしいな。
649日本@名無史さん:2011/10/23(日) 04:50:29.13
                  . -‐- .,. '  ̄  ` .  _,.-―- 、__,,....ィ
             , ´            ヽ   i    ヽ   '-、
              /                    \ l   ,  ト 、 ~ヽ.___,,,...,.
          /                    ` 、‐ ' 'z__ l ,>-‐''     ,/
          i              人 l、     ヾ    `´      //
          /         ,ィ /  ヽi ヽ. l、   ,|         /   /
          "i     /^ヽ! / !,/ -―-  |,/ |   ハj         そ 人
         i    l ハ i/      ━    ヽ. l/ /           ゙ヾ. ヽ、
         ゙l.   ヽ_             { 、_ソノ   ,.. -  ..、      '; !~
         /ヽ! ,ィ/            `-  ;'    ;'      ` :,    ヽ!
       /  _Y     ヽ      t 、  /_     ':,  ━     ;      ヽ,
      〃´ ̄ 亠─----;:>- 、.  `´ /,,. ';  ,, _  ` 、 _ ,,, .. '         ;"
     i'´          ̄  __ ,,.. -`<´ ;: '",:' ,:'     `  -  、  ,,.. --‐ /
     /l         ,. - ´ /     ヽ`´,. '           ` ~    /l
    i  !         /    /       `'`i   ,.-‐ 、   , ,    ,. -‐'  |
.     l  i     /     l          !  ` -: '    '   ィ       i
    l    !   /       l          \   ,...、__,,.-'' /;'        l
    |   ヽ/         !           `-:イヽ-'  / /       ;リ
   |                i             ` ~ ´  /        ;'

       もうジョーカーの1人芝居を生暖かく見守るもの疲れたよ・・・
         何だかとても眠いんだ。パトラッシュ・・・         
650日本@名無史さん:2011/10/23(日) 05:27:34.29
奇跡の解法の更新した文を読んだ
感動して泣きそうになった
651日本@名無史さん:2011/10/23(日) 06:34:19.94
・・・・なんてな
652日本@名無史さん:2011/10/23(日) 06:39:31.66
>>636
有明海沿岸の王は敗れ去ると宇佐方面に逃げるのが定番だったのかもな。
卑弥呼も敗れて宇佐に逃げたんじゃない?
宇佐神宮の謎の祭神、比売大神と卑弥呼あるいは台与は無関係じゃないだろう。
653日本@名無史さん:2011/10/23(日) 06:40:41.88
自分はこう妄想する

神話どおり神武は日向あたりの地方勢力の長で高天原がそこ
神武は勢力拡大を始めたけど畿内まで東征なんてしていない不可能
その後の後継者の事まで神武がやったことにされてる
邪馬台国は中つ国より前の過程の九州北部に都する国で支配の及ばない敵対国の南の狗奴国は熊襲
肥後中部-日向中部を国境として北が邪馬台国で南が熊襲国
倭人伝当時の邪馬台国勢力下20国は九州各地に一都市名より大きい島とか半島とか郡の名で残ってるんだよねー
邪馬台国はヤマト国で王の在する中心地で移動する
魏志倭人伝当時は九州北部で時代が下って中つ国という言葉が生まれた当時は出雲あたりが邪馬台国
さらに下れば畿内の大和国が邪馬台国
大和当時に書けば中つ国は畿内ということで
まあ妄想だけどさ
654日本@名無史さん:2011/10/23(日) 06:44:17.07
つまり魏志倭人伝での邪馬台国は九州です
畿内での邪馬台国はずっと後
655日本@名無史さん :2011/10/23(日) 07:16:35.61
>>623
あなたのいうヤマト一元史観ってどういう意味?
それならそれでいいって、自分の考える意味を
ちゃんと説明しないの?
みんな意味を違う風に解釈したら混乱するでしょう?
わたしのヤマト一元史観って、近畿に邪馬台国があって、それが
大和王朝に繋がって現代まで至るという考え。その中には
細かな部分で、あなたのように、神武、崇神などは取り入れないなど、
いろんな説を含む。
しかし、ヤマトはずーっと同じ系統だという論だよ。

結局、あなたのは新種の皇国史観とかわらないと思う。
東遷は皇国史観だとか、攻撃するけど、自分自身も皇国史観だよ。

皇国史観じゃない人ってのは、邪馬台国と大和王朝は別物だと考える人だよ。
656日本@名無史さん :2011/10/23(日) 07:37:32.14
>>655
つづき
ちょっと書き方を訂正する。
わたしのヤマト一元史観って、
@九州に邪馬台国があり東遷して、近畿に大和王朝を建てる。
A近畿に邪馬台国があり、大和王朝を建てる。
その二点。
細かなところで、ひとそれぞれの説の違いがあるが、大きな骨組みは
これ。655では@の説明が欠けていたのでここで訂正。

大和一元史観ではない人
邪馬台国と大和王朝は別物。
657日本@名無史さん:2011/10/23(日) 07:54:36.78
邪馬台国とヤマト王権は繋がっていると
邪馬台国が畿内か九州かはどちらでも構わないと
658日本@名無史さん :2011/10/23(日) 08:00:38.58
655
のつつき

変わったところでは国学者の本居宣長でしたっけ、邪馬台国は九州で、
畿内はヤマト王朝が日本書紀のごとく連綿と続いているという論。
これは、ヤマト一元史観(邪馬台国と大和王朝は同じ)ではないけど、違う意味で、
ヤマト一元史観(邪馬台国は無関係ととらえる)である皇国史観者だね。

だから、ヤマト一元史観にはこれも加えるべきだろうね。近畿一元論者というべきか。

659日本@名無史さん :2011/10/23(日) 08:22:31.76
だから畿内説派にしろ本居宣長にしろ、分析すると邪馬台国を大和王朝に関連させる
かしないかの違いはあるけど、
その中で、東遷があった、なかったがあるわけなんだろうね。
@邪馬台国は大和王朝の前身 東遷あり
 さらに細分すると、一、東遷は3世紀以前 畿内説
          二、東遷は4世紀以降 九州説
A邪馬台国は大和王朝の前身 東遷なし。
B邪馬台国は大和王朝とは関係なし。東遷ありの日本書紀どおり。
C邪馬台国は大和王朝とは関係なし。東遷なし。

本居宣長がB、Cのどちらかは知らないので、近畿一元論といった658
の意見は一応訂正しておく。
660日本@名無史さん:2011/10/23(日) 08:30:05.55
つーか、九州に邪馬台国があったとしても小国がどさくさまぎれに魏に朝貢しただけで
すぐに滅んだという場合、平行してヤマト王権があったとしたらやはり大筋はヤマト一元論
というのになるんじゃないのか。邪馬台国は一瞬歴史に現れたものの全国的な大きな影響は
なかったとする説。
661日本@名無史さん:2011/10/23(日) 08:33:03.59
それに考古学的な「ゆるやかな連合説」はいろんなタイプがあって、都城は纏向に
置いたけれども、王は四国や吉備、丹後などから持ち回りで出ていたという場合も
ヤマト一元論になるのかな?
662日本@名無史さん :2011/10/23(日) 09:05:28.65
>>660
そういう考えは本居宣長風なんだよ。
大和は邪馬台国とは関係ないけど、畿内の大和は一元であるという。
邪馬台国九州説であり、畿内には3世紀にはもう中央集権的な政権があったという一元論。
だから、まぎらわしいんだよね。
一般にいう畿内説は邪馬台国は畿内にあったと思っていて、
邪馬台国が前身だとして、3世紀以前に東遷があったと考える人と、
東遷はなかったと考える人といる。

だから、本居宣長のは皇国史観そのもの、日本書紀そのものなんじゃないかな。
日本書紀には卑弥呼も邪馬台国も出てこないのだから。
一般の畿内説は邪馬台国を日本書紀に関連させたものだよね。
一種の皇国史観者だよ。日本書紀とは細かなところでは否定するけど、歴史を
遡るという点では。


663日本@名無史さん:2011/10/23(日) 09:10:53.73
>>662
本居宣長が皇国史観というのはそうだろ。天皇の中国への朝貢、臣従を認めたくない一心で
考えた説だろう。
しかし、歴史をイデオロギーで考えても何か益がある時代ではない。事実を明らかにしていく
上で結果的にヤマト中心だろうがそうでなかろうが、結果を受け入れるしかないんだよ。
664筑紫の民:2011/10/23(日) 09:23:55.41
今朝、筑紫は雨が降っていたけど今は晴天。
日曜日だし、ホークスの試合もなかけん、
久しぶりに邪馬台国探しに行ってくるばい。
665日本@名無史さん :2011/10/23(日) 09:26:47.63
>>663
だけど、ある畿内説の人は、夕べ、古田氏、安本氏をイデオロギーで考えてると
言ったんだよ。とんだ誤解だと思う。
彼らの真実を明らかにしようとする姿勢は真摯そのものだと思う。
それを畿内説のある人たちは、これらの人たちを
批判したり、仇花だとか言って悪口を言って簡単に切り捨てているんだよ。
そういう姿勢は事実を明らかにしていく上で障害になる。
そういう歴史に対する真摯な姿勢を肝に銘じなければならないのは畿内説の方なんだ、ということに
気付いて欲しいな。
666日本@名無史さん:2011/10/23(日) 09:27:11.18
>>644
ジョーカーの書いていること、マジで読んでいるの? 通称、半キチと言って
ーーー、わかるよね。読んでもまるで無駄。無視すればいいよ。
667日本@名無史さん :2011/10/23(日) 09:31:37.22
>>666
ジョーカーだけではないよ。他の畿内説者も同じ姿勢だよ。
668日本@名無史さん:2011/10/23(日) 11:08:16.73
>>665
>彼らの真実を明らかにしようとする姿勢は真摯そのものだと思う。

都合のいい解釈しかしない連中だぞ?笑う所としか思えないw
669日本@名無史さん :2011/10/23(日) 11:57:09.64
>>668
あなたは下に対してどう思う?
戦前の大和王朝一元論、及び皇国史観というのは、
九州に大和王朝の前身があって、一世紀ころに神武が東遷して、畿内に大和
王朝を建てた、だから、3世紀の邪馬台国は畿内であると。
これだよね。

それで、戦後の畿内説とは?何?
東遷を否定?最初から畿内にいた、だよね。

どうして邪馬台国は九州にあって4世紀以降に東遷て近畿に王朝を立てたと
いう九州説(伊作氏?)を批判するの?レスを遡ると汚い言葉で応酬しているよね。
根本は同じだと思うけど。
大和王朝一元論(邪馬台国が前身の)であるには違いはない。ただ、時代観が違うだけ。

今の畿内説の本当の敵?は邪馬台国は大和王朝とは無関係で、日本書紀も
でたらめだとしている説だよ。
畿内説は伊作氏や太国氏とは或る意味同類じゃない?片方は中国古文献を重視しているほうだよ。(伊作氏や太国氏)
二人には違ってたらごめんね。
670卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 12:32:43.68
>>669
>今の畿内説の本当の敵?は邪馬台国は大和王朝とは無関係で、日本書紀もでたらめだとしている説だよ。

畿内説の本当の敵?は私のことになるな。
671日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:33:08.92
>>669

あなたの言う「皇国史観」が一般とはズレがあるみたいだから、まぎらわしい。
一般の皇国史観は、邪馬台国=大和王権かどうか、どちらでもかまわない。
天皇家が紀元前から万世一系で、倭国の統治者だったというのが皇国史観。

畿内説は、邪馬台国=大和王権だとしても、天皇家の万世一系まで証明しようとするものではない。
邪馬台国=大和王権という考え方を「皇国史観」と呼ぶほうが、認識がおかしい。
万世一系でなければ、邪馬台国も大和王権も皇国ではないからだ。

>今の畿内説の本当の敵?は邪馬台国は大和王朝とは無関係で、日本書紀も
>でたらめだとしている説だよ。

それは違うね。邪馬台国≠大和王朝で、日本書紀批判するやつは、この板に論客がいないだけで、
いたとしても、罵りあうような敵にはならないだろうな。
672日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:35:36.12
>>644 恨み節東遷厨

やあ恨み節センセイ、俺もとうとう皇国史観の持ち主になれましたよwwwwwwww

>ところで、「ゆるやかでない」連合と「ゆるやかな」連合はどこがどうちがうのかな?

「相対的に中央集権的な性格が強いか否かによる」
…と言えばまた「わけ分からない」とヒステリー起こすかな?w

大体、時代のどこかに線を引いて
「ここから手前がゆるやか、先がゆるやかじゃない」
なんて区別できる話じゃない。
グラデーション描きつつ時に大きく中央集権に向かって進み時には後退する。

所謂 『 ヤマト王権の変質 』って奴だな。

緩やかな連合体的性格から先ず大きく変わったのが5世紀後半あたり。
その画期によく登場するのが雄略。
無論その後も中央集権を目指す勢力とそれに抵抗する勢力のせめぎあいは続く。

冗談抜きで中学生の教科書レベルのお話か?

こんなのは畿内説だから九州説だからと言って争点になるような話じゃない。
邪馬台国論争ですらない。

 一億ニ千万の日本人の常識 VS 極々一部のアタマおかしい連中の非常識

一体ゴミクズレベル九州説は何と戦ってるんだ?www


673日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:42:00.40
>>669

>どうして邪馬台国は九州にあって4世紀以降に東遷て近畿に王朝を立てたと
>いう九州説(伊作氏?)を批判するの?レスを遡ると汚い言葉で応酬しているよね。

「東遷」が事実ではないから、批判してるだけだ。
事実でないことを、事実であるかのように吹聴してるやつは、批判されて当然。

大和王権成立時の大和には、九州の影響力はほとんど皆無。
九州勢力が大和王権成立に関与したような証拠は全く無い。
大和王権成立が3世紀でも4世紀でも同じこと。

仮に、3世紀に九州に邪馬台国があって、4世紀から大和王権が出来たという事実が立証されたとしても、
九州の邪馬台国と大和王権は何の関係も無く、大和王権が九州に進出して邪馬台国を滅ぼしたという見解になるだけ。

九州の邪馬台国が、九州の中だけで生まれて4世紀には滅んだというのであれば、一つの論として言わせておけばいい。
674卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 12:44:36.95
>>671
>邪馬台国≠大和王朝で、日本書紀批判するやつは、この板に論客がいないだけで、
>いたとしても、罵りあうような敵にはならないだろうな。

日本書紀批判は罵りあうような対象になるものではない。

大和朝廷の史観によって捻じ曲げられた歴史的事実を修正しているだけ。
記紀には捻じ曲げられた歴史的真実が満載しているよ。
675日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:49:23.40
>>674
>記紀には捻じ曲げられた歴史的真実が満載しているよ。

まったくだ。そんなことは常識なのに、
いまになっても天照大神が天皇の祖という前提で、日本神話を丸呑みに信じて、
卑弥呼は天照大神だったとか言う論を吹聴し続ける詐欺師もいるしな。


676日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:50:38.11
>大和朝廷の史観によって捻じ曲げられた歴史的事実を修正しているだけ。

その修正に便利な存在が「九州王朝」とw


677卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 12:51:13.32
>>673
>九州の邪馬台国が、九州の中だけで生まれて4世紀には滅んだ・・・

九州の邪馬台国が、九州の中だけで生まれて4世紀迄には滅んだのだ。
678日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:55:26.35
>>674
>大和朝廷の史観によって捻じ曲げられた歴史的事実を修正しているだけ。
@誰かが捻じ曲げた歴史的事実を大和朝廷の史観によって修正したのか?
A大和朝廷が捻じ曲げた歴史を誰かが日本書紀で修正したのか?
679日本@名無史さん:2011/10/23(日) 12:58:27.36
>>678

B誰かが捻じ曲げた歴史的事実を大和朝廷の史観によって、さらに捻じ曲げた。

まず神代には、歴史的事実なんて無いね。
680卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 12:58:27.65
>>576
>>大和朝廷の史観によって捻じ曲げられた歴史的事実を修正しているだけ。
>その修正に便利な存在が「九州王朝」とw

その修正をしなければならなくなったのは、
九州王権の分派が畿内王権に紛れ込んだから。

681ひとぶた:2011/10/23(日) 13:03:11.02
>>671

> 一般の皇国史観は、邪馬台国=大和王権かどうか、どちらでもかまわない。
> 天皇家が紀元前から万世一系で、倭国の統治者だったというのが皇国史観。

それ「一般の」とは、ちょっと違うのでは?
皇国史観なら「邪馬台国=大和王権」は、偽僭説でも何でも使って絶対的に否定してもらわないと。
そうしないと日本書紀の正統性が維持できない。

特段の根拠も無く「何となく邪馬台国=大和王権かな」説とかなら「皇国史観の影響下に有る」くらいの表現になると思います。

682卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 13:08:17.34
>>678
>@誰かが捻じ曲げた歴史的事実を大和朝廷の史観によって修正したのか?

意味不明

>A大和朝廷が捻じ曲げた歴史を誰かが日本書紀で修正したのか?
>B誰かが捻じ曲げた歴史的事実を大和朝廷の史観によって、さらに捻じ曲げた。

大和王権が古事記で捻じ曲げた歴史を大和朝廷が更に日本書紀で捻じ曲げた。
683日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:12:08.89
>>672 反キチ
緩やかか緩やかでないかに対し
>「相対的に中央集権的な性格が強いか否かによる」
ゆるやか=ヤマト王権=中央集権的な性格が弱い
そんなショボイ豪族がどうやって人々を集めて古墳を造ったというのか?

>緩やかな連合体的性格から先ず大きく変わったのが5世紀後半あたり。
>その画期によく登場するのが雄略。
何をきっかけに緩やか連合体から大きく変わったんだ?

684ひとぶた:2011/10/23(日) 13:12:23.15
>>674

> 大和朝廷の史観によって捻じ曲げられた歴史的事実を修正しているだけ。
> 記紀には捻じ曲げられた歴史的真実が満載しているよ。

ところで、ありきたりのネタですが、王朝さんは、天孫降臨の「高千穂=高祖山」説について、どのような御意見ですか?
私、けっこう気にしている説(あのあたりなら好いなあくらいですが)なんですが。
685日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:17:29.97
>>682
ということは、大和王権が古事記を作成して、大和朝廷が日本書紀を作成したのか?
686日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:24:15.10
>>685

太安万侶が自分の史観で古事記を作成して、大和朝廷の中央豪族の史観をすり合わせて書かれたのが日本書紀。

687ひとぶた:2011/10/23(日) 13:31:05.14
>>683

横ですが

> ゆるやか=ヤマト王権=中央集権的な性格が弱い
> そんなショボイ豪族がどうやって人々を集めて古墳を造ったというのか?

とりあえず、それは3世紀前半の話として、ですよね。
「ゆるやかな連合」とは、現実に、その前から大和だけでは無く、吉備、播磨、讃岐などでも、
定型化前の大型墳丘墓が作られている、と言う前提で語べき説ですよ。
各地域の王権は、それなりに発達してきていて、その地域内では「集権的要素」をもっている、
卓越した権力の象徴(文化の受容について地域差があると思いますが)である特定個人墓が築かれるレベルで、
つまり、けっして「ゆるやか」では無い、「ゆるやか」だと言っているのは、各地域王権相互の関係です。
混同されませんように。

688日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:01:15.84
記紀は間違っているとか、捏造だとか、捻じ曲げられているとか、いろんな
ことを言われているが、では正しいのはどういうことで、それは何を根拠に
しているのか?

思うに、根拠なんてのはなくて、ただ自分の思っている畿内説と合わないと
いうだけのことだろう。要するに、畿内説が間違っているのだ。

畿内説は赤信号なのにみんなで渡っている状態で、つられて渡っている未熟なものは
それが危険であることに少しも気づいていないばかりか、それが正しいと思い込んでいる。
689日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:05:31.71
>>688

>思うに、根拠なんてのはなくて、ただ自分の思っている畿内説と合わないと
>いうだけのことだろう。要するに、畿内説が間違っているのだ。

悪いが、記紀をそのまま信じても畿内説と整合する。

九州説は、記紀を捻じ曲げないと成立しない。
690sss:2011/10/23(日) 14:11:05.56
>>689
おいおい、今までの流れは、記紀が間違っている、捏造だ、の連呼だろうに。
突然のように、記紀は畿内説と整合するでは身も蓋もない。

それに、記紀のように神武東征から大和朝廷が始まるとしたら、連合なんてのは
全く意味がないだろう。
691日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:16:34.48
>>690

神武が初代天皇だとか、信じるのはアホだっていうことだよ。

「天皇」号の成立は7世紀なんだからな。
明らかに間違ってる記述は信じる必要ないし。
692日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:16:45.26
>>688

> ただ自分の思っている

それって、ほぼ全ての説に言えることでしょう。
自説と整合すれば「正しい部分」、不整合なら「修正すべき部分」。
言い方を換えればつまみ食いだが、畿内説の場合、邪馬台=ヤマトの音の一致以外、別につままなくても立論できる。
ところが、これが東遷説では、神話部分のロジックは、ほぼ100%是認しないと成立しない、
さらに、九州王朝説になると、記紀の99.9%を捨てて、残りの0.1%を珍読・曲解することだけで成り立っていることから、
これは、記紀そのものを捨てては、九州王朝説自体が存在しえない。
693日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:19:59.41


たとえば、高天原は、天上にあって、ニニギは天から降りてきたことを信じるのかということ。

おそらく、九州説の人間は、高天原を九州のどこかと信じてると思うが、
高天原という語句が出来たのも7世紀以後だ。
確実に間違いだと証明できることは、自説と整合するかしないかに関わらず、間違いとしなければいかん。
694ひとぶた:2011/10/23(日) 14:20:02.82
>>689-690

とりあえず、>>689氏に「記紀と整合する畿内説」の概要をご開陳いただければよいのでは?
695卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 14:20:46.00
>>684
>天孫降臨の「高千穂=高祖山」説について、どのような御意見ですか?

この部分は古田説支持です。
日向峠の近くの海が見渡し易い山は高祖山ですから、「高千穂=高祖山」でOK。
696日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:23:48.03
>>694

記紀は、景行天皇が九州各地を巡幸することが書かれているが、
邪馬台国は、その後の時代だ。
つまり、邪馬台国の時代は、九州はヤマトがすでに支配していたというのが、記紀の史観。


以上。
697日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:28:01.91
>>684
>>695

風土記を見れば、天孫降臨が書かれてるのは日向風土記だけ。

北部九州は何の関係も無い。

北部九州に天孫降臨があったなら、どうして日向風土記に天孫降臨が書かれていて、
北部九州のクニの風土記に天孫降臨が書かれてないのか、きちんとした説明をすること。

説明できなければ、論説以下のヨタ話。
698日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:35:34.45
風土記はほとんど残っていないからな。
699日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:36:33.77
>>689

旧唐書と相いれないのが畿内説。
九州説なら完璧に符合するわけだが。
700日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:37:04.74
>>698

いい訳にはならないな。
残ってる風土記だけで見ても、日向風土記にニニギが出てくるのは事実。

それを無視して、北部九州に天孫降臨があったというなら、相応の根拠が必要。
701卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 14:37:19.22
>>685
>>686
>太安万侶が自分の史観で古事記を作成して、大和朝廷の中央豪族の史観をすり合わせて書かれたのが日本書紀。

大和朝廷成立前(九州王朝消滅前)の史観で古事記を作成し、
大和朝廷成立(九州王朝消滅)後の史観で作成したのが日本書紀。

九州王朝(九州王権として)が完全に消滅したのが、714年頃。
701年の大和朝廷成立後、九州王朝は九州王権として714年頃まで継続しています。
702日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:42:12.58
>>701

古事記の史観と日本書紀の史観が微妙に違うのは事実だが、
具体的に何が違うと言ってるのかな君は?
九州王朝と関係した記述ってどれよ?

703ひとぶた:2011/10/23(日) 14:42:51.86
>>695

> 日向峠の近くの海が見渡し易い山は高祖山ですから、「高千穂=高祖山」でOK。

お返事ありがとうです。
そうなると、高千穂宮の想定地は前原で、天孫降臨伝承の出自は、前原王権(私に言わせると伊都王権)のものと考えてよいのでしょうかね?
要は、後のヤマト王権の成立に、こんな伝承を受け入れさせるほど、前原が深く関与していると言いたいわけです「。
そんことはない、ただ、伝承をヤマトがぱくっただけと言われるかも知れませんが・・・・
704日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:44:24.67
0239年 卑弥呼が魏にデリヘル嬢を遣わす
0672年 妊娠の乱
0710年 正常位京に都を移す
0794年 性感京に都を移す
1192年 源頼朝は六本木にキャバクラ幕府を作る
1205年 放尿義時が失禁になる
1221年 セクハラ探題設置
1232年 御性感色欲の制定
1274年 猛根襲来
1338年 足利尊氏が吉原に風呂町幕府を作る
1467年 オナニーの乱
1549年 クリトリス教の伝来
1600年 関ヶ原の合コン
1603年 徳川家康がエロ幕府を作る 
1841年 ティムポの改革
1853年 黒乳首来航
1868年 ボイン戦争
1871年 パイパン痴犬
1877年 性感論、性難の液
1904年 に遅漏戦争勃発
1914年 第一次性感体位戦勃発
1922年 関東大陰唇祭
1931年 マン臭事変
1945年 第二次性感体位戦終結
1970年 大阪でマンパク開催
1972年 腰縄変姦
1995年 阪神淡路大陰唇祭
2001年 アメリカ同時多発エロ
2003年 イメクラ戦争
2005年 愛・子宮博
2011年 東日本大陰唇祭
705卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 14:51:00.09
>>697
>北部九州に天孫降臨があったなら、どうして日向風土記に天孫降臨が書かれていて、
>北部九州のクニの風土記に天孫降臨が書かれてないのか

現存する風土記は、大和王朝の方針に従って、九州王朝風土記を編集し直したので、
宮崎県地方を日向の名称で作成編集したもの。
706ひとぶた:2011/10/23(日) 14:59:22.47
>>696

つまり、邪馬台国の時代は神功の時代で、公孫政権崩壊のどさくさに韓国を攻めて、
国内的には非公開ですが、魏政権と外交関係まで結んだと言うことでお見事ですね。
もしかして狗奴国は、香坂皇子、忍熊皇子側ですかね。
707卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 14:59:58.33
>>703
>後のヤマト王権の成立に、こんな伝承を受け入れさせるほど、前原が深く関与していると言いたいわけです

前原(怡土)が神武の出身地だからです。
神武の父は、2世紀初頭に帥升との戦いに敗れた敗残難民だったからです。
708ひとぶた:2011/10/23(日) 15:04:19.13
>>697

> 風土記を見れば、天孫降臨が書かれてるのは日向風土記だけ。

ま、7〜8世紀には、そのように伝承されていたと言うことで依存はありませんよ。
後は、ヨタをヨタで無くす方便は、ずーっと思案中ですがw
709日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:05:06.91
>>702

九州の国が「王朝」だったどうかはわからんが、
「倭国」と「日本国」が別だとするのが旧唐書だ。
 
旧唐書によれば、日本国は倭国から出た小国であったが、
日本国がのちに倭国を吸収したとしている。
畿内説では、倭国と日本国の対立と併合の経緯が説明できない。
710日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:09:41.84
風土記には、古い「評」風土記と、新しい「郡」風土記がある。
新風土記は大和王権の立場を反映させて書いているから、
日向風土記の旧には載っていなかったが、新には書き加えられたんじゃないか?
711卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 15:10:40.26
>>702
>古事記の史観と日本書紀の史観が微妙に違うのは事実だが、
>具体的に何が違うと言ってるのかな君は?

古事記は、旧政権九州王朝の存在を無視できない大和朝廷の立場。
関が原戦後から大阪冬の陣の期間の徳川幕府の立場と同じ。

日本書紀は、大和朝廷が日本列島の唯一無二の政権である立場。
712卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 15:19:31.60
>>710
古い「評」風土記が九州王朝風土記
新しい「郡」風土記が大和朝廷風土記
ですよね。
713日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:22:10.11
>>709

> 旧唐書によれば、日本国は倭国から出た小国であったが、
> 日本国がのちに倭国を吸収したとしている。

もう、万年ループな九州説による脳内変換だね。
よって、指摘内容は省略するが、自己完結しておいてくださいねw
714日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:25:30.62
>>713

脳内変換じゃなくて、旧唐書にそう書いてあるんだから仕方がないだろ。
715日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:28:11.44
>>714

wwww
716日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:28:32.69
>>705
>現存する風土記は、大和王朝の方針に従って、九州王朝風土記を編集し直したので、
>宮崎県地方を日向の名称で作成編集したもの。

自説に都合の悪い伝承は、改竄されましたじゃ、お話にならん。
改竄された痕跡を先に示してから立論しろよ。


>>711
>古事記は、旧政権九州王朝の存在を無視できない大和朝廷の立場。

だから、古事記のどこの記述から、そういうことが言えるのかと聞いてる。
717日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:33:48.29
>>706

細かいことは知らんね。
記紀が、「邪馬台国の時代は、大和朝廷が九州を支配しておりました」と、
そういう風に書いてるということだよ。
718日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:34:17.71
>>714
じゃ、「日本とは倭国自らその名の雅ならざるを憎み改称したもの」で善いんだな。
旧唐書にそう書いてあるんだからな。
719日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:36:26.84
>>717

その考えって、畿内説じゃないんでないの?
720日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:38:33.18
>>718

そうだよ、列島側に、一国説と二国説を主張している人間がいて、
中国側としては一国説が疑わしいとしているわけだ。
なんで列島側に、こんな対立があるのかを、きちんと説明できるのが九州説。
まったく説明できないのが、畿内説だ。
721日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:38:58.87
>>719

なんで?

卑弥呼が、モモソヒメじゃなくて神功になるから?
722日本@名無史さん:2011/10/23(日) 15:53:20.89
卑弥呼の都は久留米さん
>>712

ご指摘の通りです!
723日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:09:56.47
邪馬台国の話をしようよ
724日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:19:27.13
>>720

何が「そうだよ」なのか判らんがw
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。」と言う記述が三説併記の結論なんだから、
これをどう縦読みしたら「中国側としては一国説が疑わしいとしているわけだ。」になるんだよ。
世では、これを脳内変換と呼ぶんだぞw
725日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:25:17.73
>>724

いやだから、畿内説だけがその矛盾を説明できないんだよ。
726日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:28:53.48
>>721
どっちだって同じだよ。
記紀信者なら大和朝廷の中国朝貢なんて事実を認めちゃいかんだろうw
だから、偽僭説(九州説)か、隠蔽説(畿内説)か、何れかの立場に立たざるを得ない。
>>720は、どちらの説か立場を確かにしていないが、隠蔽説に立つと言う意識だけは無いようなので、
記紀の記述を否定しない以上、偽僭説(九州説)まがいの結論になるのは間違いない。
727日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:30:08.27
>>687
>つまり、けっして「ゆるやか」では無い、「ゆるやか」だと言っているのは、各地域王権相互の関係です。
>混同されませんように。
その、ゆるやか連合は倭国動乱の時代をどう戦ったのか?
あるいは、邪馬台国とゆるやか連合は無関係なのか?
728日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:32:40.40
>>725

倭人の言うことは信用できないと言うのは中国人の考えであって、そこに矛盾も何もあったもんじゃないだろうw
自説にとって都合の悪いことが書いてあるから「矛盾」とか言って問題解決を図ろうとしているだけだな。
729卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 16:38:50.62
>>724
君は漢文が読めないの?

「日本國者、倭國之別種也
以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自悪其名不雅 改爲日本
或云日本舊小國 併倭國之地
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉。
又云 其國界東酉南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國」

初心に戻って漢文を学び直すべきと思います。
「其」は、其々何を指すの?
「曰」と「云」の主語は其々何ですか?
730日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:39:18.85
>>728

なにを勘違いしてるんだよ。
列島人がいろいろ矛盾したことを言ってきているのを、中国側が疑っている
ことまではいいだろ?
なぜ、列島人が人によって矛盾した主張をしているのか、
矛盾した主張それぞれが、列島側のどういう立場のものなのか、

それを説明できるのは、九州説だけだろ?
731日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:39:29.71
>>726
記紀信者じゃないよ。

記紀を信じても畿内説と矛盾しないと言ってるだけであって。



732日本@名無史さん:2011/10/23(日) 16:41:07.38
>>729

「日本」国号が7世紀の成立だからといって、
九州王朝があったという話にはならんよ。
733日本@名無史さん:2011/10/23(日) 17:43:14.51
239年の時点と280年頃では倭国の状況がだいぶ違ってたんだろうな
734荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 17:52:43.44
『隋書』にしろ『旧唐書』『新唐書』にしろ、
九州王朝説的解釈(古田武彦的)に基づいて議論しても無意味だから。
世に「曲解」という言葉があるが、あれこそ曲解の典型だから。

畿内説諸氏は、
いわゆる邪馬台国九州説と九州王朝説とは明確に分けてみるべきだから。
九州王朝説は、究極的には畿内説と異母兄弟みたいなものだから。
735唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/23(日) 18:04:16.67
>「日本國者、倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自悪其名不雅 改爲日本

ホ23044 ヤマトクニ マトのオシエは のぼるヒの モトなるゆえに ヒノモトや

日本(大和)國者、倭(倭奴)國之別種也

大和(大倭)の初見は、倭人伝の、大倭は伊都国に一大率を置く、である。

239年 大和から最初の朝貢である。
280年 軍隊が半島で、一大率の行為を行っている。
736筑紫の民:2011/10/23(日) 18:25:06.85
基肄城いってきたばい。
普賢岳が見えた。東南奥には九重連山が見えた。
天気が良ければ古代活発に噴火を繰り返した阿蘇山の噴煙程度も見れるだろう。
古代において阿蘇山の圧倒的存在は現地に近づかなくとも感じられるものだっただろう。
隋書にある倭国(首都)への行程を見ると裴世清は大和を目指したように見える。
新唐書には王阿毎氏は筑紫城にいたとあるのでこれは大宰府かと思う。
で、ここらあたりから九州の倭国が東遷の時期が見えてくるのではと思う。
阿毎氏は多利思比孤とも考えられるが、それ以前の倭の五王の可能性もある。
倭の五王のいずれかが大宰府に一時遷都した後またいずれかの王が東遷したのかと思う。
根拠は<隋書><新唐書><大宰府の遺跡群><基山からのロケーション>
737日本@名無史さん:2011/10/23(日) 18:44:08.31
>>734
>九州王朝説は、究極的には畿内説と異母兄弟みたいなものだから。

その例えが良く分からないw
738日本@名無史さん:2011/10/23(日) 18:47:58.45
>>734
じゃあ、古田説ではない君の説では、
旧唐書の「倭国」と「日本国」とはどの国を指すわけ?
739荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 19:20:09.24
>>738
『隋書』と『旧唐書』のいう倭国は大和。

太宰府の「府」とは、中央からみた地方の官庁を意味する。
ここが、ありもしなかった王朝の都だった可能性は200%ない。
都監府、将軍府。どれをとっても都につける呼称ではない。
740日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:21:02.70
>>737
そのうちに分かるようになるさ。
741日本@名無史さん :2011/10/23(日) 19:23:16.66
古田史学ってよく知らなかったけど、今、ちょっと見て来たところによると、
神武は九州の一派として東進して、畿内で王朝を建てたと。
九州には別の王朝があって卑弥呼から倭の五王、隋書の王はみな一系だと。
九州王朝が衰退して、畿内王朝に合併されたと。そういう論らしい。

これって、邪馬台国は全く別に九州にあって、畿内王朝と並行してあったという、
国学者の本居宣長論と殆んど変わらないですよね。骨組みとしては。


742荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 19:30:59.52
>>741
九州王朝説は、究極的には畿内説と異母兄弟みたいなもの。
わかったぁ〜?
743日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:38:45.95
>>739

じゃあ、日本国はどこ?
744日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:40:22.01
>>739

日本国はもともと小国で倭国を併呑したとはどういう意味?
745筑紫の民:2011/10/23(日) 19:42:40.94
ウィキ参照
「政庁」の意味
 王府: 漢代から明初にかけて、各地に王として封じられた皇族が軍事と行政の拠点として開いた政庁。
 税穀を備蓄するための蔵が並んでいたことが語
 王府: 明代から清代にかけて、都や主要都市の要所に置かれた皇族の大邸宅。こちらはただの邸宅に
 すぎないが、上記の王府の名残りでやはり王府といった。
 大宰府: 古代から律令制の時代にかけて、九州・壱岐・対馬を所轄し日本の外交・防衛にあたった機関。
 
 東京府は京都府、大阪府とともに三府の一つとされた。三府は、首都あるいはその代替地とされていた。

 大宰府は「府」だけどいろんな意味からしたらどうですかね?
 また、大宰府という名は白村江の戦い以降に設置されたとしたらどうですかね?


746日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:54:04.05
中国から倭の五王に与えられた称号は「都督」
都督のいる場所が都督府

都督府と呼ばれる称される遺跡は大宰府だけ。
747卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 19:57:50.93
>>736
>隋書にある倭国(首都)への行程を見ると裴世清は大和を目指したように見える。
隋書にある俀国(首都)への行程を見ると裴清は久留米を目指したように見える。
裴清が初めて上陸した俀國の海岸「達於海岸」は大川付近と思われる。

>阿毎氏は多利思比孤とも考えられるが、それ以前の倭の五王の可能性もある。
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤」だから、
俀王の姓名は「阿毎多利思北孤」で、時は西暦600年。倭の五王の可能性は全くない。

>倭の五王のいずれかが大宰府に一時遷都した後またいずれかの王が東遷したのかと思う。
多利思北孤が618年太宰府に遷都をした。
九州年号倭京元年は西暦618年。西暦618年は多利思北孤の在位期間中。

因みに、倭京(太宰府)から畿内副都(難波京)へ分都したのは大海人皇子。
先んじること中大兄皇子の大津京副都とも考えられる。
748日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:58:53.11
伊作が来ると、急に品が下がるな
749日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:01:37.59
臭作ってエロげーあったよねwしょっちゅうしこしこしてたけどw
750日本@名無史さん :2011/10/23(日) 20:04:35.50
じゃあ、本当の意味で、皇国史観否定、ヤマト一元史観否定は、
邪馬台国は九州で、倭の五王とは別系統で、倭の五王が東進して、
隋書の王も前二者とは別系統で、九州に後からやってきて、
その隋書王(日本)も東進して、畿内に王朝を建てたと。その際、
古い倭国を併呑していったと。その論こそ、古田氏よりなにより本当の意味での
畿内説の敵だね。騎馬民族支配説によく似た論だと思う。
騎馬民族支配説を言うと九州説伊作氏が真っ赤になって怒るんだよ。彼はヤマト一系なんだよ。
751荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 20:09:10.11
>>745 地元のことだし、もとべんきょせにゃー。

※「宰」を古代日本では「みこともち」と読んだ。
みこともちとは、天皇の詔によって政務を行なうことで、詔(勅令)を受けて地方に赴き政務を司どった役人(主に国司)を指す。
この「みこともち」を宰あるいは司と書いた。このことからみると、太宰府とは「太宰(偉いみこともち)が仕事をする府」か、
「みこともちが仕事をする大きな役所」というほどの意味だろう。
(大宰府という呼称からは、中央から派遣された官吏が地方の役所に赴く様子が伝わってくる)。

※太宰府という言葉が中国史書に最初に登場するのは『晋書』である。
この時代の太宰が三公と大将軍と同等の位階であれば、
三公と大将軍に許された開府(独自の公府を開く)資格を持っているわけで、
太宰が開いた公府のことを指しているものと思われる。

※大宰府が置かれた時代については、私は磐井の乱後だと見ている。
すなわち、磐井の乱で懲りた中央は(そちこちに直轄領の県を置くと同時に)、
内外の出入りが活発な九州を地盤・金盤なしの役人を配して管理することになる。
役人なら必要以上に力をつけることもないし、不穏な動きや不正をすれば首をすげ替えればよい。
それでも慎重を期して、のちには天皇家の人材(親王)を長官に据えている。

※『日本書紀』によると、527年に発生した磐井の乱を鎮圧したあと、536年に大和朝廷が那の津の那津官家を置いた。
那津官家は筑紫官家、筑紫太宰などとも呼ばれたが、これが太宰府の前身にあたる。
『日本書紀』に太宰が登場するのは推古紀の609年で、
筑紫太宰という常駐官を置いて隋や朝鮮との外交折衝に当たらせたと記されている。
752荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 20:10:21.35
『日本書紀』宣化天皇紀に太宰府以前の筑紫の話が載っている。

治世元年(磐井を倒した物部麁鹿火が健在だった)夏5月1日詔して曰く。
「筑紫国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関となる場所である。
このため海外の国は、潮の流れや天候を観測して貢を奉る。
誉田天皇(応神天皇)から今に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。
凶年に備え賓客をもてなし、国を安んずるのに、これに過ぎる物はない」。
「故に自分も阿蘇君を遣わして河内国茨田郡の屯倉の籾を運ばせる。
蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わして尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。
物部大臣麁鹿火は新家連を遣わして、新家屯倉の籾を運ばせよ。
阿部臣は伊吹臣を遣わして、伊賀国の屯倉の籾を運ばせよ。
官家を那津の口に建てよ。また、筑紫、肥国、豊国の三つの屯倉は、それぞれ離れ隔たり、
もしそれを必要とする時に、急に輸送することが難しい。諸郡に命じて分け移し、
那津の口に集め建て、非常に備えて民の命を永らえよ」。
 
「筑紫は応神天皇の時代から、遠近の国々が朝貢してくる玄関口であり、往来の関となる場所である」。
「このため海表の国は潮の流れや天候をうかがいながら来賓して(窓口たる筑紫に)貢を奉る」。
「誉田天皇(応神天皇)から今に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。
凶年に備え賓客をもてなし国を安んずるのに、これを怠ってはならない」。

海外との通行・外交の玄関口として、「食料備蓄を怠らないように」と号令しているわけである。
筑紫はなんと、継体天皇よりも遥か以前の応神天皇の代から地方の重要な役所だった。
753卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 20:10:24.91
>>739
>太宰府の「府」とは、中央からみた地方の官庁を意味する。
>ここが、ありもしなかった王朝の都だった可能性は200%ない。
>都監府、将軍府。どれをとっても都につける呼称ではない。

「太宰府」ではない。「大宰府」である。
「大宰府」は宮廷ではない。
「大宰府」は政庁の名前。
「大宰府」は倭國最大の行政府の意味である。
754筑紫の民:2011/10/23(日) 20:12:00.23
あら、久留米さん、元気になってきましたね。
質問します
@裴世清は、秦王国には陸路と海路どちらで行ったのですか?
A秦王国以降の「十余国」を筑紫から久留米の間にどの様におさめますか?
B「多利思北孤が618年太宰府に遷都をした。」その根拠は?
755筑紫の民:2011/10/23(日) 20:20:20.84
「嵐らしを呼ぶ男」先生、あ・り・が・と
756日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:20:52.35
すっかり九州王朝スレw
757荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 20:22:43.96
>>746
>中国から倭の五王に与えられた称号は「都督」
YES
>都督のいる場所が都督府
YES

>都督府と呼ばれる称される遺跡は大宰府だけ。
都督の意味を知ってるかい。地方の軍事を司る官名だよ。


白村江の敗戦で、「敗れました」「引き上げました」で終りではない。
倭国は百済支援軍国で直接の戦争当事国ではないにしろ戦後処理が控えている。
その戦後処理交渉にきた唐側は、対戦国への初訪問ということもあって
自己防衛のための数千の軍隊を伴ってきた。
その彼らのために、臨時に倭国側が設けたのが筑紫都督府。
(唐側が置いたとは彼らの歴史書にも書いてない)。
758筑紫の民:2011/10/23(日) 20:27:07.80
「荒らしを呼ぶ男」先生、もうみ〜んなに、ばれてます。
759筑紫の民:2011/10/23(日) 20:32:24.82
大宰府ですね、地元のことだし勉強しましたよ。
水城は記紀に記されている時期以前に築造された。
水城がそうであれば大野城も基肄城も宮地岳の神籠石も唐・新羅連合軍の
大宰府進行阻止が目的ではない。
これら大宰府を守る羅城の築城目的は何か?
もうちょっと勉強してきますたい。
760天才伊作大首領:2011/10/23(日) 20:33:12.78
ここも気触れが多くなったもんだ はひはひ
761虎馬旅団:2011/10/23(日) 20:36:16.18
ね。

「府」「都督」という意味解釈の基本的な間違い。
白村江以降に設けられた都督府と、武の都督という位階を、
200年ほどの時空を超えてくっつける間違い。
こうした基本的な間違い(歴史錯誤もしくは意図的誤解)で成り立っている。

それが、古田武彦の九州王朝説ということに気づいてほしいもんだわさ。
762虎馬旅団:2011/10/23(日) 20:40:55.10
>>759
>水城がそうであれば大野城も基肄城も宮地岳の神籠石も
>唐・新羅連合軍の 大宰府進行阻止が目的ではない。
唐の戦後処理団が帰国したあと急造したりしているし、
よくは意味の理解できん話。
少なくとも、唐軍の大宰府進行阻止が目的ではない。には少し同意。

>これら大宰府を守る羅城の築城目的は何か?
そもそも。
海外からの侵攻が現実的になってから、
慌てて防衛体制を敷く「ていたらく」の場所が、王都だったはずはなか。
こんなことは、なーんの証拠がなくても「分かる」常識ですたい。
763日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:44:42.85
おい>>734=荒らしを呼ぶ男よ

旧唐書に出てくる倭国はヤマトなんだろ?
旧唐書に出てくる日本国はどこなんだ?はやく答えろ!

これは九州説じゃないと答えられないだろ。
764卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 20:45:36.15
>>754
>@裴世清は、秦王国には陸路と海路どちらで行ったのですか?
>A秦王国以降の「十余国」を筑紫から久留米の間にどの様におさめますか?
〜〜〜〜┃◎┃〜〜《 隋書イ妥國傳 九州地図 》〜〜〜〜〜
→→┐C┗━┛都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜└→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜C↓┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━
〜〜〜〜〜〜↓┃◎┃一支國〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜↓┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜C↓┏━┓〜〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜↓┃竹┃〜〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┌←←┘┃斯┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓┏━━┛國∵∵∵∵∵竹斯國∵∵∵◇倭京(大宰府)
〜〜〜↓┗┓竹∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓〜┃斯∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓〜┃國∵∵∵∵∵∵∵∵∵E海岸∵∵D∵∵∵∵∵
〜〜〜↓〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏○→→→◎邪靡堆∵∵
〜〜┌┘┏┓┗━┓∵∵∵十E∵∵┃↑┃∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓┏┛┗┓〜┃∵∵∵餘┏━━┛↑┃十∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓┃∵∵┃〜┗┓∵∵國┃〜〜〜↑┃餘E∵∵∵∵∵∵
〜〜↓┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜┌┘┃國∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓〜┗┓竹┗━┛┗━━┓〜〜↑〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓〜〜┃斯∵┏━━┓十┗┓〜↑〜〜┃十∵∵∵∵∵∵
〜〜↓〜〜┃國┏┛〜〜┃餘E┃〜↑〜〜┃餘E∵∵∵∵∵
〜〜└┐┏┛┏┛〜〜┏┛國▲┃〜↑〜〜┃國∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓┃┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛〜↑〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓┗┛〜〜〜┗━━━┛〜〜↑┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜E└→→→→→→→→→→→→┘┃◎泰王國E∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜天草┏━┓〜〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
765卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 20:47:21.89
>>764の解説
@『其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』百濟伝
A『イ妥國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』イ妥国伝
B『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』イ妥国伝
C『度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國』イ妥國伝
  隋使は航行中で未だ上陸していない。
D『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』イ妥国伝
E『又東至秦王國・・・・又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於イ妥』イ妥國伝
  「達於海岸」で隋使は初めて上陸した。
766筑紫の民:2011/10/23(日) 20:48:38.82
>>763
ですたい。だから、記紀で書かれている築城の時期も目的も違うものですたい。
まだ発掘途中なので強気発言できませんけん、ちょっと待っててほしいたい。
767筑紫の民:2011/10/23(日) 20:53:02.70
>>764
ちょっ・っと苦しくなか?
「また竹斯国に至りC、また東に秦王国に至る。」
Cの東には大宰府があるばい。
768筑紫の民:2011/10/23(日) 20:56:29.07
>>764
あ、ごめんなさい。これはギャグですね?
769荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 20:57:10.36
>>763    ほい、さっそく荒らしがやってきた。

>旧唐書に出てくる倭国はヤマトなんだろ?
>旧唐書に出てくる日本国はどこなんだ?はやく答えろ!

●貞観二十二年(648年)新羅を介して、音信を通じた。
これが倭国と称していた時代最後の唐との通交。
●長安三年(703年)朝臣真人が方物を貢献した。
これが日本国と称して初めての唐との通交。
この間に倭国が日本国に改めたことは唐側も承知のこと。
どちらも、倭国中枢政権が大和にあった時代の話だ。

畿内説諸氏も、九州王朝説をたたくならば、
内容のない否定文言の連呼ではなく、実のある否定論証結果を述べることさ。
770卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 20:57:54.73
>>754
>B「多利思北孤が618年太宰府に遷都をした。」その根拠は?

@多利思北孤の在位期間 590年〜622年

A九州年号倭京元年 618年

B「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)
「此地帝都。近気於今。在一百餘歳。一百年竟。遷京北方。在三百年之後。」
771日本@名無史さん:2011/10/23(日) 21:02:47.28
>>729

> 「日本國者、倭國之別種也
> 以其國在日邊 故以日本爲名
> 或曰 倭國自悪其名不雅 改爲日本
> 或云日本舊小國 併倭國之地
> 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉。
> 又云 其國界東酉南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國」


何で、学力試験みたいなことをされなきゃならないいんですか?
まあ、一応、ありきたりの答えを投げたり二返しときますけど、ちゃんと久留米流の解釈も御披露いただけるんでしょうね?

> 「其」は、其々何を指すの?
一番目の「其」は日本でしょ、二番目の「其」も「日本國」。

> 「曰」と「云」の主語は其々何ですか?
「入朝者」
772日本@名無史さん :2011/10/23(日) 21:06:27.58
>旧唐書に出てくる倭国はヤマトなんだろ?
>旧唐書に出てくる日本国はどこなんだ?はやく答えろ!

これは、そのまま畿内説にも聞いてみたい。
773卑弥呼の都は久留米:2011/10/23(日) 21:07:46.68
>>770の@についての補足説明
法隆寺金堂安置・釈迦三尊像光背金石文
「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗余
・・・・・二月廿一日癸酉王后即世翌日法皇登遐」
法興元一年は690年……多利思北孤即位の年
上宮法皇=多利思北孤
774荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 21:08:53.03
『又東至秦王国・・・・又経十余国、達於海岸」
『日本書紀』のいうところを加味するとこうだ。

隋の使節団が筑紫に上陸した時点で大和から使者がやってきて迎えた。
倭国側は難波津の高麗館の上に迎賓館を増設する。
隋の使節団は筑紫で2ヵ月ほど待機させられる。
迎賓館が完成したあと、
秦王国以下十余国を経て、海岸(王都へ向かうための上陸海岸=難波津)に到着する。
ここで盛大な歓迎式典が行なわれたあと、難波津の迎賓館を定宿とする。
ここから鼓笛隊に先導され、沿道の庶民に絢爛豪華さをみせつけながら、
10日間をかけて王都の郊外に到達した。

「自竹斯国以東、皆附庸於倭』
筑紫から東へ航行してきたが、「竹斯国以東も皆、倭に附庸す」。
「竹斯国以東も」だから、「竹斯国以西も倭に附庸す」だ。
775筑紫の民:2011/10/23(日) 21:10:41.92
>>770<卑弥呼の都は久留米>
はい。仮に了解として、考古学的根拠はありませんか?
776虎馬旅団:2011/10/23(日) 21:20:27.80
「皆附庸於倭」
みな、庸(かわらず、普通に)倭に附す。

竹斯国以東もは竹斯国以西も含む表現だし、
みな、庸(かわらず、普通に)倭に附すというのだから、
みな大和倭国に属していたというわけだ。

これで、『隋書』読み方教室は、おしまい。
777日本@名無史さん:2011/10/23(日) 21:34:26.28
>>730

> なにを勘違いしてるんだよ。

あー、ちょっと取り違えてましたかね^^;

> 矛盾した主張それぞれが、列島側のどういう立場のものなのか、
> それを説明できるのは、九州説だけだろ?

でも「だけだろ」って言われても、何の説明も無けりゃ判りようが無いでしょうw

先に論点整理のために畿内説的解釈(御存じだろうが)を出しときますね。
ただの「解釈」なので、別に同意してくれなくてもよいですけど、畿内説的にはこんなところで説明できちゃいますね。

日本の使者Aは、「我々は倭国の別種である(漢〜晋への朝貢国であった政体への継続性に触れない)」と言った。
同じく使者Bは、「倭と言う名だったが、日本に改めた(旧朝貢国である政体の継続を主張)」と言った。
そして使者Cは、「日本は倭国を併合した(同じく政体の間接的継続を主張)」と言った。

あれこれ言ってるように(唐側の視点では)見えますが、こも三つに共通するのは、
旧朝貢国であった事実に触れない(否定もしていないが)と言う立場です。

これは、前王朝・随の時代には朝貢の立場を認めず、名目的には対等外交を維持した日本が、
日本書紀などの自国史にかかる唐側からの問いに、その出自をのらりくらりと明かさずにいる光景ですね。
煬帝を激怒させた国書を受け取り、さらには答礼使まで送ってしまった随朝並の待遇を受けようとする外交術。
対唐外交の当初は、白村江での敗戦処理もあり、押され気味だったと思いますが、まあ頑張ったと言うことです。

では、九州説的「だけだろ」の御説明もお願いします。
778日本@名無史さん:2011/10/23(日) 21:55:42.29
>>769

だから、そっちは一国説(倭国=日本国)説だろ。
そうではなくて旧唐書に記載のある「倭国と日本国が別だとする二国説」での
日本国はどこなんだ、と君に訊いているんだよ。さあ、どこだい?
779筑紫の民:2011/10/23(日) 21:55:43.01
>>437 多分反キチ
>志賀島の金印にしても大体同じ。
>九州から金印が出たから九州に王がいたと言う単純な話ではない。

簡明な話だろう。九州出土の<金印>を何処に持っていくつもりか?

何でも言ってみるもんだ畿内説
780日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:00:21.77
>>777

三つに共通する点など、ぜんぜん問題にしていないんだが。
旧唐書にでてくる列島側の「一つの」主張であるところの
「日本国が倭国を併合した」とする日本国と倭国はそれぞれどこか、と
君に訊いてるんだよ。

で、嵐を呼ぶ男によれば「倭国=大和」だというなら、じゃあ「日本国」はどこなのさ?
781日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:08:43.15
>>780

>日本国と倭国はそれぞれどこか

なんとでも答えられるだろ。そんなものは学問じゃない。お子様の推理ごっこだ。

782唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/23(日) 22:13:35.41
>>739
>『隋書』と『旧唐書』のいう倭国は大和。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中(178〜184年),其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。又東行百里,至不彌國。又南水行二十日,至投馬國。又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,
即倭王所都。

北史では、女王は、謂之倭奴國=倭国。
倭王は、邪馬臺國=大和=日本。
783日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:13:46.10
九州王朝説でも九州説でも、まず証拠を出すのが先だ。

証拠があって、それから文献の内容を云々できるのだ。

証拠もないのに、文献の内容を想像しても何の意味も無い。
784日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:23:07.94
>>783
畿内説の場合は証拠が無いのに、文献的根拠も無いという無い無い尽くしだと思われるのですが、
そう言ったら気を悪くされますか?
若しお気に障ったら証拠を挙げて下さいませませ〜。
785荒らしが嫌いな男:2011/10/23(日) 22:23:14.71
>>778 >>780
>日本国はどこなんだ、
>日本国と倭国はそれぞれどこか、
くだらない。

中国の歴史書が種族について別種と書いた場合は、その出自について言及しているし、
言語・習慣・風俗・気質などについて共通点と相違点を説明している。
『旧唐書』のいう「日本国とは倭国の別種なり」は、
あくまでも日本国という国号のなりたちについて言及した文節だ。
……「倭種」の別種、「倭地」の別種、「倭人」の別種ではなく、あくまでも「倭国」の別種だ。
「倭国の」は何をさすのかといえば、倭国の「呼称」だ。。倭国の「国種」や「人種」ではない。

●『旧唐書』
「その国、日の辺に在る故に日本国を以て名と為す」。
 これが中国側の認識。倭国が日本国としたと明言している。

以下がその他倭国使者などからの伝聞になる。
「あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み日本に改名した」。
「あるは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併合したという」。
国号について「別種」と書いた記録だから、
その他の倭国使者などから聞いた国号のいわれ・成り立ちについて紹介している。
中国側が把握したことと違うことをいうから、「中国はこれを疑う」といってるだろ。

●『唐会要』
「倭国は古えの倭奴国である。
……倭国が則天武后の治世に「日の出ずる所に近い故に日本国と号した」。
たぶん、倭の名が美しくないから嫌って改めたのだろう」。
ここでも古えの倭奴国から続く倭国が「日の出ずる所に近い故に日本国と号した」と明言している。

これ以上、くだらない曲解について話す価値はない。
786荒らしが嫌いな男:2011/10/23(日) 22:28:06.30
『隋書』のいう倭国は大和にあった。
『旧唐書』のいう倭国も大和にあった。
この大和の倭国が日本国と改名した。

わかったかね >>778 >>780 のぼんくらくん。
787梯儁:2011/10/23(日) 22:35:52.68
荒らしを呼ぶ男、虎馬旅団、荒らしが嫌いな男

充電を済ませてきたらしい。ここんところ正論を切れ味よく述べている。きばりなされ。
788日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:36:04.12
結局、畿内説では答えられないことがはっきりしたな。
畿内説では、くだらないと言い訳して、漢籍の解釈を放棄したわけだ。

旧唐書で列島側の一派が「日本国が倭国を併呑した」と主張しているのは、
畿内説では、何を言っているのかチンプンカンプンなわけだな。

>>781>>785は、回答放棄だ。
>>782は「日本国が倭国を併合した」場合のそれぞれの国を答えていないな。

九州説では

 倭国は九州の国

 日本国は畿内の国 なんだよ。何の疑いもない。
789日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:39:02.73
>>788

大和は古の邪馬台国だって中国人が証言してるじゃん。

それは無視なの?
790日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:43:50.52
1000年後に、古田の本が発掘されて、九州王朝があったと書かれてるから、
九州王朝があったと言うようなものだな。

文献がいかにあてにならないか。

文献バカは気がつかないのかな?
791日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:45:05.02
>>789

いいや、列島人の主張が人によってまちまちで、齟齬をきたしているという
そのなかの一つの主張だろ?

つまり一国説と二国説をとなえる列島側の人間が、両方いたというのが大事なことなのだ。
792日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:47:59.10
ここまできて、畿内説では、旧唐書の中の「二国説」つまり、

「日本国はもと小国だったが倭国を併呑した」という説が

全く理解できなくて、くだらないとか問題から目をそらすしか
出来ないということがはっきりしたな。

九州説なら簡単に解明できるんだがな。
793日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:48:12.40
>>791
>つまり一国説と二国説をとなえる列島側の人間が、両方いたというのが大事なことなのだ。

それは、竹島の領土は、日本か韓国か、両国が主張してるから、韓国にも分があると、そういう理屈だな。

794日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:56:00.54
北方領土にしろ、ロシアが領土を主張してるかぎり、日本領ではなくロシア領なんだと、
九州王朝説のロジックはそういう結論になる。

それも一つの論ではあるが、そういう考え方でいいのかな?
違うなら、自己矛盾だぞ。
795けっ!:2011/10/23(日) 22:58:47.67
>>792
>「日本国はもと小国だったが倭国を併呑した」という説が
くだらない。

これは、日本国の国号のなりたちをいう文節だ。
それにしても、はじめから大国だった国があるか。当然の話だ。
しかも、日本国の使者が、
中国が把握した「倭国が日本国に改めた」という事実と違うことをいうので、
「これを疑う」として不快感を露にしてるだろが。

こんな中から一行をピックアップして、
国の種類や支配系統の違いについて触れたなどとは、曲釈の極地だ。
異民族の支配系統やその出自にとくに関心の高かった中国人が、
いい加減な眼力しかなかったというも同然だぜ。
歴史破壊の反逆者ども


796けっ!:2011/10/23(日) 23:03:21.88
>>788  785 は、回答放棄だ。
そうかー。その785 を再掲しよう。ぐーの音も出まい。何の反論もないじゃないか。

中国の歴史書が種族について別種と書いた場合は、その出自について言及しているし、
言語・習慣・風俗・気質などについて共通点と相違点を説明している。
『旧唐書』のいう「日本国とは倭国の別種なり」は、
あくまでも日本国という国号のなりたちについて言及した文節だ。
……「倭種」の別種、「倭地」の別種、「倭人」の別種ではなく、あくまでも「倭国」の別種だ。
「倭国の」は何をさすのかといえば、倭国の「呼称」だ。。倭国の「国種」や「人種」ではない。

●『旧唐書』
「その国、日の辺に在る故に日本国を以て名と為す」。
 これが中国側の認識。倭国が日本国としたと明言している。
以下がその他倭国使者などからの伝聞になる。
「あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み日本に改名した」。
「あるは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併合したという」。
国号について「別種」と書いた記録だから、
その他の倭国使者などから聞いた国号のいわれ・成り立ちについて紹介している。
中国側が把握したことと違うことをいうから、「中国はこれを疑う」といってるだろ。

●『唐会要』
「倭国は古えの倭奴国である。
……倭国が則天武后の治世に「日の出ずる所に近い故に日本国と号した」。
たぶん、倭の名が美しくないから嫌って改めたのだろう」。
ここでも古えの倭奴国から続く倭国が「日の出ずる所に近い故に日本国と号した」と明言している。
797荒しを呼ぶ男:2011/10/23(日) 23:12:03.26
結局のところ。
「府」「都督」「太宰府」「慌てて山城を築くていたらく」、
『隋書』解釈、『旧唐書』解釈。
本日の九州王朝説潰しに対して、見るべき反論は一つもなかった。

なお当方には、さらに深度の深い九州王朝説潰しの材料が整っている。
798日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:15:56.70
>>780

>「日本国が倭国を併合した」とする日本国と倭国はそれぞれどこか、と
>君に訊いてるんだよ。

えー、何時の間にか、そんなことを訊かれたことなってるw(何番のレスでじゃw)
でも、答えときます。
ただし、こっちは中国人じゃないので、あくまでも唐側の認識に対する想像ですけど。

まず。倭国と言うのは晋の時代までの朝貢国(これは間違いないです)、漢の時代までは奴国で九州、
魏晋の時代は邪馬台国に代表される西日本(畿内ならだけど)とあちらさんはイメージしてるんじゃないんですか?
日本の方は、当然、現在の交渉相手である大和朝廷ですね。

あのー、私の方は、先手を打って考えを出したんですが、
あなたの方は、自説の説明を一切しないのですか?

>>720
>そうだよ、列島側に、一国説と二国説を主張している人間がいて、
>中国側としては一国説が疑わしいとしているわけだ。
と断言してますが、それは旧唐書のどこに書いてあるのですか?

>なんで列島側に、こんな対立があるのかを、きちんと説明できるのが九州説。
>まったく説明できないのが、畿内説だ。
前にもお願いしてますが、九州説での「きちんとした説明」と言うのも早く出してくださいw
799日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:19:53.64
なして旧唐書で倭国と日本国が別項目で書かれてんの?
800日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:29:10.34
倭の名が初めて出た時と日本の名が初めて初めて外国に認知されたときは400年の隔たりがある
それだけあれば東遷があったとすればじゅうぶんな期間で情勢も変わっている
かつて征服した土地に九州にも別政権が出来ていてもおかしくはない
670年に倭国が国号を日本と改めた、とはっきり記述してる外国の文献もある
801日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:40:01.95
九州説、圧勝でしたw
802日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:42:32.44
もと小国だった日本国が、倭国を併呑したといってるのに、
倭国と日本国が同一などありえない。
803日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:43:26.16
その倭国が大和だったら、大和はどの国に併呑されたのよ?
804日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:46:24.15
大和=倭国なら、大和を併呑した日本国ってどこの国?
805ひとぶた:2011/10/23(日) 23:50:20.34
>>727

> その、ゆるやか連合は倭国動乱の時代をどう戦ったのか?
> あるいは、邪馬台国とゆるやか連合は無関係なのか?

ハァ?
倭国動乱の時代って・・・もしかして、3世紀の設定なんですか?
中国史書の伝える「倭国の乱」なら、それは2世紀の話でしょう。
記述的には倭国王の継承をめぐる争いとされていますが、実際のところ、乱の内容は定かではありません。

また、弥生期を通じ、変動がありますが、いわゆる防御的高地性集落や環濠集落の発達は、それなりにキナ臭い社会を想定できます。
ですが、例えば、それが九州と畿内のような遠隔地の勢力間でのドンパチの証なのかと言うと、断言できるところでは無いと思います。
もっと、矮小な地域内紛争や、海賊・山賊の類への対応かもしれません。

いずれにしろ、「ゆるやかな連合」と言うのは、そのキナ臭い社会が一応の終結を見せた後に成立するものですから、
「どう戦ったのか」と言う問かけは意味がありません、争いをやめて、相互に安全保障を得るための手段が「連合」なんですから。

魏志倭人伝と結びつけるのであれば、連合の盟主が邪馬台国と言うことになります。
「ゆるやか」と表現される由来は、出来たてで、さほど強固な連携でもないと言うこと。
卑弥呼の後に、一度は崩壊するわけですからね。



806日本@名無史さん:2011/10/23(日) 23:51:20.50
結局、畿内説では、漢籍の解釈もできないわけだw
807日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:16:32.10

「ゆるやかな連合」っていうのは別に共通の敵が存在したからではなくて、矮小な地域内紛争に疲弊したから

そろそろ争いはやめようよってこと?  それ連合なの?
808日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:26:20.58
皆が集まって一つの物事を決めたのだから連合ですよ。


809日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:29:07.66
>>808

取決めた共通の利益ってどのようなことだったんですか?
810日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:36:16.90
>>809

鏡の配布とか鉄の買い付けとかだろ。

もっと重要なこともあるが、教えない。自分で勉強しろ。
811ひとぶた:2011/10/24(月) 00:38:52.97
>>807
>
> 「ゆるやかな連合」っていうのは別に共通の敵が存在したからではなくて、矮小な地域内紛争に疲弊したから
> そろそろ争いはやめようよってこと?  それ連合なの?

別に不戦だけが「連合」する目的では無いと思います。
例えば、海商の安全保障(海賊行為の防止とか、寄港地の相互提供とか)なども連合化の動機付けになるでしょう?
「連合」と呼ぶ呼ばないは個人の勝手ですが、この言葉の提唱者たちは、連合の下に集結する連合国軍みたいなものの存在は想定しません。
「ゆるやか」なるがゆえにですが。
812日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:50:53.52
>>811

とすると安全保障を得るための手段ではなく、主に商業活動のための複数国間での相互通商条約のようなものですか?

>>810

頭悪いなおまえ
813日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:54:14.52
「ゆるやか連合」論は、しばしば一人歩きをして、
畿内説だけが正しいという印象操作に使われやすいので、
よほどの注意が必要だと思う。
814卑弥呼の都は久留米:2011/10/24(月) 01:03:35.64
>>771
>> 「曰」と「云」の主語は其々何ですか?
>「入朝者」

主語が動詞の後に出てくる漢文なんかあるものか。
主語「入朝者」前に動詞「曰」と一回目「云」出てくることになるぞ。
815日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:12:13.91
>>807
じゃあ旧東側諸国も入っている「国際連合」ってのは何処と戦う為にあるんだ?

宇宙人と戦う為にでもできたのか?…馬鹿馬鹿しい。

緊張緩和=デタント と言う状態はいつの時代にでもある。

もう「ゆるやかな首長連合」に噛み付いてくるゴミクズレベル九州説もいい加減ウザイ。

こんなもの本来、畿内説・九州説の対立軸になるような話じゃない。

816日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:17:55.57
>>815

「国際連合」の設立目的知ってていってんのか? 

817日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:31:51.90
例によって例の如く
日本が倭国を併合した云々の話で万年ループしているが

「倭國自惡其名不雅改爲日本」

なら倭国=日本だ。

要するに中国にとって倭国の範囲について明確な基準も無かっただけって話だろうに・・・

なんならある時代のある書籍に書かれた倭国がもっぱら北部九州を指す…でも良い。
818日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:39:43.25
新唐書では日本書紀を参考にしたとみえ、
書記に書かれている天皇号が多数散見されるが、
これは、記紀成立後の大和朝廷の使者の主張が多く入った結果だろう。
神武以前の「古の倭奴の筑紫城」は大和州ではなかったこともわかる。


日本は、古の倭奴なり。京師から一万四千里、新羅の東南にあたり、
海中に在る島に暮らしている。東西には五カ月の行程、南北には三カ月の行程。

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、
彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。

彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、
大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、
次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、
次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、
次は景行、次は成務、次は仲哀という。

819日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:48:26.99
旧唐書の編者は、倭が改名して日本になったという主張は
日本側のついたウソだと考えている。

だから日本国と倭国を分けて書いたのだ。
820日本@名無史さん:2011/10/24(月) 02:09:23.60
神武の出発地点は、記紀では、日向だが、
新唐書では、筑紫城になってるんだな。

これは、大和朝廷が、九州王朝の関係者であることを
アピールするためなのかな。
実際に関係者かどうかはともかくとして、
なにか利点があったのだろうか。
821日本@名無史さん:2011/10/24(月) 06:50:38.78
>>799
>なして旧唐書で倭国と日本国が別項目で書かれてんの?
倭国と日本国が別項目で書かれているのではない。稚拙な質問をするな。
倭国と称していた時代と日本国と称する時代を分けて書いているだけだ。

唐王朝は618年から904年まで続いた。
倭国と称していた時代から、日本国と称する時代にまたがる。
貞観五年(631年) 貞観二十二年(648年)倭国時代の通交。
長安三年(703年)、日本国と称してはじめての通交。
この間に倭国が日本国と改名したのだ。

>>802
>もと小国だった日本国が、倭国を併呑したといってるのに、
>倭国と日本国が同一などありえない。
倭国の使者が語る日本という国号のなりたちの一つで、
「倭国は、日辺に在あることから日本という名にした」という、
中国側の認識とは違うことをいうので疑っている。
何度同じことをいわせるのか。

>>803
>その倭国が大和だったら、大和はどの国に併呑されたのよ?
大和倭国が日本国に改名しただけのことだ。

●畿内説諸氏に再度告ぐ。
この手のレベルの九州王朝説亜流と、純然たる邪馬台国九州説を一緒にしないでくれ。
きちんと区別して対応するように。
822日本@名無史さん:2011/10/24(月) 06:51:08.22
>>819
>旧唐書の編者は、倭が改名して日本になったという主張は日本側のついたウソだと考えている。
>だから日本国と倭国を分けて書いたのだ。
とにかく、この手の低レベルが幅をきかせるようだ。

「日本国とは、倭国の別種なり。その国、日辺に在あるをもって 故に日本をもって名となす」。
これが中国側の認識している日本という国号のなりたち。

「或は曰く、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす」。
「或は云う、日本き旧小国、倭国の地を併わせたり」。
これは、倭国の使者が語る日本という国号のなりたち。

↑↑↑
上記にかかる文章で、中国側の認識とは違うことをいうので疑っている。
「その人、入朝する者多く自ら矜大にして実をもって対えず、故に中国これを疑う」。
823日本@名無史さん:2011/10/24(月) 06:52:05.71
九州王朝説は、いわば二元王朝論だ。
その意味では畿内説と共通する面がある。
九州王朝説の提唱者はたぶん、
立案当初は畿内説と共存できると踏んでいたのではないか。
824日本@名無史さん:2011/10/24(月) 08:43:15.21
記紀にしろ、隋書、旧唐書、新唐書にせよ、
九州が発祥の地なのは間違い無さそうだ。
後は、チェンジの時期と勢力の変遷だな。
825日本@名無史さん:2011/10/24(月) 09:12:23.32
>>821
ゴミクグ
826日本@名無史さん :2011/10/24(月) 09:15:32.62
王朝とはいかないまでも大きな勢力は3元あったと思う。
一つは邪馬台国系。これは唐会要にある、阿蘇山が近くにある国、
一つは隋書の博多湾の秦王国、
一つは東へ列島へ移った雑多な集落の国。五王系も含む。

だから、7世紀に日本名にした秦王国のアマ氏がまず、
南の邪馬台国系を平定して、東に五王系(前方後円墳の元祖だと思う)
その他村単位の国を、戦乱もなく服属させて、大阪に着いてそこで、しばらく落ち着き、奈良に移って
藤原京を作り、しばらくして京都に遷都したんだよ。
大仙陵古墳はアマ氏系のもの。副葬品に唐と交流した結果の品物があるから。
モニュメントみたいな役割をもつ陵だろう。これは8世紀の造営だよ。
とりあえず、わかっているものだけ。
827ローガン:2011/10/24(月) 11:22:50.29
後漢から金印もらった倭奴国が、その後のちにいう日本という版図の構成員になったという意味だから、
別に九州王朝なんて発明しなくても 無問題。
828日本@名無史さん:2011/10/24(月) 14:37:40.31
邪馬台国はムー大陸だったって結論でたろ?
ムー大陸が沈んだことで、邪馬台国もなくなった。
829日本@名無史さん:2011/10/24(月) 17:04:23.42
まあ、九州「王朝」がなかったところで、
九州勢力が大和朝廷の基礎を築いたのは間違いないわけで。
830日本@名無史さん:2011/10/24(月) 17:21:00.86
ムー大陸からの渡来人が大和朝廷を築いた
831案微理罵暴:2011/10/24(月) 18:30:10.75
>>829
>九州「王朝」がなかったところで、
なかった。
4世紀頃まであった九州倭国を「王朝」と呼ぶのは歴史的に不適切。
7世紀まで九州に「王朝」があったというのは学術的にボツ。

>九州勢力が大和朝廷の基礎を築いたのは間違いないわけで。
間違いない。

隋書、旧唐書、新唐書の時代錯誤的曲解による九州王朝説。
それを真に受けているのがいるのもまた信じられない。
「私の文献解釈能力はこの程度です」と吐露しているようなものだ。
832唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/24(月) 19:26:12.45
>4世紀頃まであった九州倭国を「王朝」と呼ぶのは歴史的に不適切。

九州倭国の消滅は、3世紀半ば、大倭(大和)が伊都国に一大率を置いた時点まで。
833日本@名無史さん:2011/10/24(月) 19:28:47.84
畿内説では、旧唐書を誰も読めなかったのが笑える。
834日本@名無史さん:2011/10/24(月) 19:33:34.01
ムー大陸は?
835日本@名無史さん:2011/10/24(月) 19:34:47.43
純然たる邪馬台国九州説www
836筑紫の民:2011/10/24(月) 20:10:10.31
>831 :案微理罵暴
>4世紀頃まであった九州倭国を・・・
4世紀頃まで九州にあったとする理由を教えてください。
837日本@名無史さん:2011/10/24(月) 20:20:06.47
九州説は大きく分けて3説と亜流が一つだな あと畿内説の人間は質問しただけで九州説が噛付いてると思い込むようだな

自己防衛本能が強すぎるんだよ
838卑弥呼の都は久留米:2011/10/24(月) 20:38:35.40
>>381
>4世紀頃まであった九州倭国を「王朝」と呼ぶのは歴史的に不適切。
>7世紀まで九州に「王朝」があったというのは学術的にボツ。

その通り。
律令年号を制定した王朝と呼ぶに相応しい九州の王権は、
517年から700年までの184年間存在した。
839日本@名無史さん:2011/10/24(月) 20:40:35.63
「 旧唐書」ネタなんて所詮

 ・倭国が改名して日本になった
 ・小国日本が倭国を併呑した

…の2パターン出ているんだから
九州(王朝)説だから説明できる、畿内説だから説明できる、なんて話でも無いだろうに
こんなものに拘泥する奴の気がしれん。

恐らく中国側も理解に苦しんだんだろう。
万世一系をうたいながら(王朝の交代はないとしながら)国号を変えるというのは

「こいつら何言ってるんだ?モウワケワカメ」状態だったとw

まあその辺日本の「イエ」の思想と絡めて論じるのは些か強引かもしれないがwwwwww
840筑紫の民:2011/10/24(月) 20:40:39.83
ちょっと、昨夜の「大宰府」に関して・・・
@大宰府が「大宰府」と名付けられた時期(ウィキ参照)
 「大宰」の文字の初見が609年(推古天皇17年)であるが、既に見たように(536年の宣化朝の記事のこと)
 福岡県博多に官家を造るなどの記事から大宰府の起源はもっと遡るのではないかと考えられている。
 →以上のことから、推古天皇の存在はは隋書の「アメタラシホコ」から怪しいところもあるが、それでも
  600年頃からは「大宰府」とよばれていた可能性がある。
A水城の築造の時期(九歴の調査結果)
 水城の堤の下には地盤固め用の木の枝「敷きソダ」が幾重にも施されている。九州歴史資料館が一昨年(2002年)、
 この木の枝の14C測定をした。場所は水城を貫く三笠川の東側である。結果は上層部が六六〇年、中層が四三〇年、
 下層が二四〇年であった。
B @Aの結果から、大宰府が「大宰府」といわれる前から水城が存在した。水城が存在すればそれと羅城を構成する
 大野城・基肄城・宮地岳の神籠石も同時期築城されたと考えられる。
841筑紫の民:2011/10/24(月) 20:46:50.85
840の続き
では、600年以前の大宰府は何だったのか?
大がかりな城で守るべきものは何だったのか?
邪馬台国の所在は、「大和の揺籃邪馬台国」で比定したところと思う。
邪馬台国時代以降から倭の五王の間で大宰府に遷都した可能性は無いのか?
ちなみに、大宰府には古墳は無い。条坊制による都市の構成はあったようです。
842日本@名無史さん:2011/10/24(月) 20:55:09.73
>>839

そこまで断言するなら、畿内説の立場から

「日本国が倭国を併呑した」場合の
「倭国」がどこなのか、「日本国」がどこなのか、言ってごらん。
843筑紫の民:2011/10/24(月) 20:57:05.36
>>840 のA
ちなみに、<木の枝「敷きソダ」>は、樹皮つきのものなので、C14測定において
+−50程度の年代が出ていると思われます。土器の付着物とか樹皮の無い芯木をつかった
古墳の棺桶とはわけが違います。
844日本@名無史さん:2011/10/24(月) 20:58:12.01
>>831
>4世紀頃まであった九州倭国を「王朝」と呼ぶのは歴史的に不適切。

それもどうだろうねえ…

まあ現時点あくまで可能性の範疇の話だが

例の107年帥升”等”の生口160人を献ずる…の話。
もしこれが九州玄界灘周辺地域のみに留まらず中国地方にまで及ぶ朝貢団のお話なら
最初の実質的倭国王はやはり九州の王だった…という話になる可能性はあると思うw

大体160人なんて一カ国では無理だろうし百とか千とか言うキリ番でもない。
その上(邪馬台国論争でよく言われる)中国人の好きな陽数=奇数でもない。
結構リアリティがあると思うがwww
845デイビッド別格:2011/10/24(月) 21:05:49.35
>>844
「王朝」とは何ぞや。
この言葉を使うことが適切か否かの問題だ。


考えてみたことあるか?
846デイビッド別格:2011/10/24(月) 21:08:51.77
>>836
>4世紀頃まで九州にあったとする理由を教えてください。

しょのいち。
倭の五王の諸国平定旅が終わった頃に遷都。
しょのに。
遷都が終わったあとの九州を支配したのが装飾古墳の被葬者たち。

装飾古墳の発生時期と遷都は無縁ではないと思うから。
847日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:11:01.95
>>842
それを問うのなら、九州説の立場から

「倭国が改名して日本になった」場合の
「倭国」がどこなのか、「日本国」がどこなのか、言ってごらん。

それをそのままそっちに返せば良いだけだwし
まさか日本国=九州とか言うつもりなのか?w

質問するんだったらもう少し脳みそ使って
自説ではスムーズに答えられても相手には説明が困難になるようなものを選ぼうな?

ちなみに「日本」の元ネタは日下(東大阪)と言う説があるのはちょっとした豆かな?w
848日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:19:51.56
まあ、久留米(九州王朝大好き)=九州王朝説と森村伊作(デイビッド別格)=東遷説の喚きあいはこっちは蚊帳の外だがw

俺に言わせればどっちも九州王朝説。

伊作の方が何故九州王朝説に噛み付いているかと言うと
熊本にあったとか妄想している大九州王朝が東遷し畿内ヤマトを征服して後は
この列島に「偉大なる九州皇統」のみが存在して
皇統が複数存在していたかの如き説は気に入らないんだろうとwwwwww

どっちもゴミクズだからさっさと市んで下さいとw
849日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:26:55.69
そんなに九州は、日本を構成する一員になりたくないのかと。

さっさと独立して中国に占領してもらえよ。くだらん。
850デイビッド別格:2011/10/24(月) 21:30:41.70
>>840
>@600年頃からは「大宰府」とよばれていた可能性がある。
本質的には太宰府の名称が問題じゃなか。その発祥と実態の話を昨日したところ。

>A水城、場所は水城を貫く三笠川の東側である。
>上層部が六六〇年、中層が四三〇年、 下層が二四〇年。
みな水城だったかなー。
環濠集落全盛の3世紀に「水城を築く概念」があったかなー。
「三笠川利用の歴史」を詰めてみる必要は?

>@Aの結果から、大宰府が「大宰府」といわれる前から水城が存在した。
@Aからは3世紀から「水城」が存在したという確証はなかばい。

>水城が存在すれば
>大野城・基肄城・宮地岳の神籠石も同時期築城されたと考えられる。
飛躍的3段論法。

>>841 名前
>600年以前の大宰府は何だったのか?
>邪馬台国時代以降から倭の五王の間で大宰府に遷都した可能性は無いのか?
大宰府は、極論すれば四方を固める必要があるところ。
まして、侵略的開拓、攻撃的平定を展開していた王たちの都としては無防備すぎる。

統一がなって国内が安定したとき、はじめて王都は平地へおりてくる。
統一が徹底した大和盆地では、よほど安心できる要因があったとみえて、
堅固な城壁をもたない王宮がつくられる。なかなか類例がない。
倭国特有の「天皇絶対意識」が安心できた要因かな。
851日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:31:31.82
…で、次は阿蘇山のネタかな?w
852筑紫の民:2011/10/24(月) 21:33:04.44
ついでに、今日は杷木神籠石と女山神籠石にいってきたばい。
女山神籠石は「卑弥呼のお里は久留米」氏がこだわりを持つところですね。
853デイビッド別格:2011/10/24(月) 21:36:19.92
>>849 名前:
>日本を構成する一員になりたくないのかと。
考え違いをしちゃいかん。
倭国をつくったのも、大和国家の礎をつくって支えたのも九州倭人。
それを否定して「独自に自生」をのたまうテメーらこそ、なに様のつもりだ。
854日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:39:31.24
>>853 森村伊作
>倭国をつくったのも、大和国家の礎をつくって支えたのも九州倭人。

要するに 『 九 州 版 ウ リ ナ ラ 起 源 説 』 wwwwww

やっぱりコンプレックスか何かの裏返しなんかね?w
855筑紫の民:2011/10/24(月) 21:41:43.43
850 :デイビッド別格
>大宰府は、極論すれば四方を固める必要があるところ。
>まして、侵略的開拓、攻撃的平定を展開していた王たちの都としては無防備すぎる。

倭の五王時代は「祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。」
大宰府がちょうどいいばい。なんちって、もうちょっと勉強してくるたい。
856卑弥呼の都は久留米:2011/10/24(月) 21:42:46.72
>>847
>ちなみに「日本」の元ネタは日下(東大阪)と言う説があるのはちょっとした豆かな?w

関係が深い。
上町台地で、生駒山から太陽が上がってくるのを見て、
又その太陽の光が河内湖水面に反射するの見て、
その神々しさから、上町台地は日下(ひももと)、即ち日本(ひのもと)と見た。

上町台地:第一次難波京があった。8世紀の第二次難波京もあった。
第一次難波京:640年頃から680年頃までの九州王朝の副都。
副都難波京の最後の長は大海人皇子。
大海人皇子が、日本を名乗り、倭國からの独立を計る。
857日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:43:56.27
筑紫の民がようやく夢から覚めつつあるようだ(ウンウン
858筑紫の民:2011/10/24(月) 21:48:34.80
邪馬台国は熊本だよ、伊作先生の言うとおり。
邪馬台国以降の遷都は熊本〜筑紫〜もしかしたら宮古郡(御所ヶ谷)
〜奈良、かもと思って現在勉強中。
先生に質問したら勉強になる回答が返ってくるからね、楽しかよ。
859デイビッド別格:2011/10/24(月) 21:48:43.93
>>854
放置してりゃしつこいぜ・板ダニ。

テメーらがかつぐも卑弥呼は大陸から九州にやってきた。
テメーらがかつぐ大和の朝廷人たちはみな九州からきた。
テメーらが自慢する大和文化もみな西からきた。

この事実を嫌悪するテメーらこそ、ナニ人のつもりだ。
男らしさのカケらも見せないめめしい奴ら。
地に足のつかない増上慢もほどほどにせい。
860日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:49:10.34
>>854

九州版? 熊本版だろw
861筑紫の民:2011/10/24(月) 21:49:40.52
宮古郡→京都郡(誤り)
862日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:50:39.60
錯乱しはじめたぞwww
863日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:51:10.89
九州説の弱点は古墳
九州北部にも多数あるが畿内に比べて小規模で地域首長級の域を出ない
日向の西都原古墳群は数こそ日本最大だが最大のものでも全長200mに満たない
魏志倭人伝当時に近い古墳時代前期には九州では生目古墳群1号墳の136mが最大
それよれ若干後の箸墓古墳は278mである
古墳の全長ででも数でも九州の上位は日向が独占しているのも不可思議
日向から出発したとしてもその頃には邪馬台国は九州北部にあったのではないのか
年代的におかしい
炭素年代測定で早まらせた箸墓のように全部早まらせれば少しは矛盾も弱まるが解消はできない
864日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:55:13.97
>邪馬台国は熊本だよ

熊本は狗奴国だよ
勉強が足りんぱい。
865筑紫の民:2011/10/24(月) 21:58:26.73
狗奴国は人吉だよ
伊作先生が言っとった。
866日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:59:34.44
>九州説の弱点は古墳
九州北部にも多数あるが畿内に比べて小規模で地域首長級の域を出ない

王族だから巨大墳墓を造るとは限るまい。
巨大墳墓がなければ王がいなかったならば
古墳時代すぎたら畿内には王はいなかったことになろう。
867日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:01:00.94
熊本は人吉あたりが狗奴国の北端だよ。
宮崎では都城あたりが狗奴国。
それと鹿児島。
868日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:01:45.57
>狗奴国は人吉だよ
伊作先生が言っとった。

間違いばい。
勉強が足りんばい。
ククチは菊池のことばい。
869日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:06:00.19
狗奴国=熊襲
870日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:07:30.47
>>847

既出で悪いが、九州説(全部ではないが)では
「倭国」は九州で「日本国」は畿内だ。なんども出てるけどな。

で、何度も同じことをきくけど、畿内説の立場から

「日本国が倭国を併呑した」場合の
「倭国」がどこなのか、「日本国」がどこなのか、言ってごらん。
871唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/24(月) 22:08:30.11
>九州説の弱点は古墳

これ以上の弱点は、纒向年代である。纒向遺跡が2世紀末から箸墓までであれば、
ここに、崇神・垂仁・景行がくる。
問題なのは、240年代は景行の時代となる事である。
崇神時代任那建国は210年頃←崇神時代(箸墓・モモソ姫)を配しても、魏が半島を管理する
時代に「任那(狗邪韓国・金官伽耶)建国」が設定できない。
240年代に景行が来れば、邪馬臺國は畿内大和である。
872日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:08:36.58
東遷説…畿内ヤマトを征服した九州皇統の一本立て

九州王朝説…本家九州皇統と分家分流畿内大和九州皇統の二本立て

…って事なのかな?w

まあどっちにせよ「偉大なる大九州王朝まんせー」だなwwwwww
873筑紫の民:2011/10/24(月) 22:08:38.03
もう、どこでもよかよ。
筑後川で勝負してやるばい。
渡河してかかってこいたい。
874日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:09:02.90
都ネタだが、
都にある碁盤の目のような、町を区切る条坊制。
8世紀初頭に完成する藤原京からと言われている。

そして、6世紀から存在すると言われる大宰府。
これの発掘では、幾つかの層に分かれている。
第一期層では、条坊制のあとは見られないが、
藤原京と同じく、8世紀初頭と言われる
第二期層では、条坊制の痕跡が認められる。

藤原京と大宰府の条坊制を持つ都市建設は
現在の年代推定からはほぼ同時期である。

同じ勢力なら、本家の藤原京と同じくらい
大宰府を重要視していることになる。

別の勢力ならば、互いに競っていたのかもしれない。
875日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:12:29.15
>240年代に景行が来れば、邪馬臺國は畿内大和である。

仮定が間違っているから結論も間違うわけだ。
876日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:17:52.36
>まあどっちにせよ「偉大なる大九州王朝まんせー」だなwwwwww

と、出自が朝鮮の畿内大和朝廷が言っております。
877板ダニが嫌いな男:2011/10/24(月) 22:22:36.59
●畿内説の板ダニどもに要求する。
唐戸・鍵遺跡をつくったのはどこの政権・勢力か。

唐戸・鍵遺跡は初瀬川沿いにあって、当時の湖か湿地帯の際(初瀬川河口)に位置する。
弥生時代中期に周辺の3つの集落を統合して大環濠集落の形をとり、楼閣や大型建造物が登場する。
弥生時代中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが再開発され、
異なる土器を使用する3ブロックが並立する集落に膨れ上がる。
出土遺物は土器(外来系土器はほぼ全国のものが出土する)をはじめ、
農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、
炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物がある。

唐戸・鍵遺跡の性格と機能は、纏向遺跡とはまったく異なる。
生活必需品のほかに農工具が出土していることから、
奈良盆地中央部の開拓と開墾を担った開拓前線集落だったものと思われる。
かくして開拓が終了した弥生終末期、奈良盆地では古墳時代を迎えることになる。
纏向遺跡はこの前後の時期に登場する。

畿内説のど素人連が卑弥呼の都だとする纏向遺跡が登場する以前、
唐戸・鍵遺跡を統合して全国から開拓労働力を集め、
奈良盆地中央部の開拓・開墾と灌漑をさせた「政権・勢力」はどこにあったのか。

(ゆるゆるの連合などという詭弁いい)聞くに耐え得る良質の論理でもって・こたえろ。
878日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:24:23.57
>>870
説明になっていない。こっちが尋ねたのは
「倭国が改名して日本になった」場合の説明、で

>「倭国」は九州で「日本国」は畿内だ

を代入すると

「九州が改名して畿内になった」
…だぞ?何を言ってるんだお前wwww

まあ、はっきり言うが

日本(日下由来)=畿内が倭国=九州を併呑した で一向に構わないんだが何か問題があるのか?

こっちは最初から倭国の範囲なんか厳密なもので無いといっているんだが?

因みにその畿内は日本を名乗る前は自分たちを何と称していたのかな?
879日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:26:17.14
>>842を100回読み直せ。
880日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:27:33.66
古墳を大きくすることにあまり価値を見出さなければ弱点は弱点じゃなくなるね。
畿内でもそうなってだんだん小規模になって作られなくなるし。
九州ではそれが早く起こってただけかもしれないし。
そのころ東北ではさかんに作ってたけど。
881デイビッド別格:2011/10/24(月) 22:37:57.04
>>868
>ククチは菊池のことばい。
ん。「くくち」は山の麓の出入り口。
山鹿と菊池が両脇を固めた奥の「うてな台地」と、
その奥の高い台地が倭国王の都だった。

この菊池を基盤として倭国王に仕えた「くくち」氏が、
人吉盆地を本拠地とする狗奴国の男王に仕えている。
狗奴国は旧奴国で、倭奴国から続く旧臣が多かった。
「くくちひく」はその縁で卑弥呼ではなく卑弥弓呼を支えていた。

それだけのことだ。
882日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:39:07.61
九州説の弱点は古墳の大きさじゃなくて
大陸半島との交易窓口の玄界灘周辺地域に早期古墳(那珂八幡等)が出現してしまっていることだろうな。

まあこれに対しては年代論で文句をつけるか
「墓で政治が分かるか!」と言うちゃぶ台返しをするんだが
(じゃあ前原の王墓群で担保されている1・2世紀の九州の繁栄も無しにしろとw)

じゃあとうの玄界灘周辺地域以外の比定地で
何をもってその交易窓口たる地域に影響を及ぼした事を証明できるか?

イチャモンだけ付けて済む話じゃない。
883日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:46:41.20
>>877 知ったかぶりが十八番 ゴミクズレベル 森村伊作
またファビョって何処からか引っ張ってきたネタでボリュームだけはあるかに見せて
中身の無い意味の無い質問をしとるなwwwwwwwwwwwwwwww

(当然、引用したものの中身も十分理解消化できていない)

>唐戸・鍵遺跡をつくったのはどこの政権・勢力か。

は?唐戸・鍵遺跡が外部勢力によって造られた???????

何言ってるんだお前?
それを考える必然性が何処にある?

吉野ヶ里を造ったのはどこの政権・勢力か?
原の辻を造ったのはどこの政権・勢力か?

と同じ質問だぞ?

基地外電波飛ばすのはヤメロ阿呆
884日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:48:17.96
>>882
前方後円墳作った人もいれば、円墳作った人も居たってことじゃないの?
そういう祭礼手法が伝わり、その新ネタに飛びついた人もいた。
もちろん飛びつかなかった人もいたと。
885日本@名無史さん:2011/10/24(月) 22:57:58.76
権力の大きさは、古墳の大きさに比例しない、ってことだな。
アレキサンダー大王とチンギス汗の墓は、世界最大級じゃないだろう。
886筑紫の民:2011/10/24(月) 22:58:03.43
>>883 反キチ
>は?唐戸・鍵遺跡が外部勢力によって造られた???????
>何言ってるんだお前?
>それを考える必然性が何処にある?

ゆるゆる畿内説を説明するためにはそれを考える必然性があるだろ。
「ゆるやかだけども労働力を集めることができたのはどうしてか?」
887日本@名無史さん:2011/10/24(月) 23:01:07.52
八郎潟の干拓は、八郎潟の住民だけでは無理だな。
888日本@名無史さん:2011/10/24(月) 23:04:04.68
>>886 筑紫のド民

飼い主が馬鹿なら飼われているポチも馬鹿wwwwwwwww

なんで唐古鍵にそんなものを想定する必要があるんだ?

唐古鍵を造ったのは盆地に元からいた人間。
それで何か問題あるか阿呆。

奈良盆地には縄文時代の遺跡・遺物だってある。

大型拠点集落として全国の中で突拍子も無く巨大なものでもない。

こんなアホな質問自体出てくることにビックリw

889唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/24(月) 23:07:55.66
唐戸・鍵遺跡は神武東征(42年神武元年)以前から存在する。(弥生中期)
この勢力は九州方面から暫時東方へ移動してきた。(弥生後期の始まり)
神武東征時には、大物主は、近江に入植し、日本海側を主な勢力範囲としている。
後漢193年(新羅192年)冷夏凶作=崇神5年。
この凶作で唐戸・鍵遺跡等各地の居住遺跡で食人がおこなわれ、翌春に民の逃散が起こる。
崇神11年、異俗多帰。考古学:2世紀末。各地から人々が纒向に集まる。唐戸・鍵遺跡では、土器が環濠に捨てられ、衰退する。
210年頃(崇神58年後)任那建国。216年任那より朝貢。この鉄を求め、緩やかな連合となるが、
240年 正始元年 東倭重譚納貢。邪馬臺國王に倭王位授与。(景行元年)
250年代 大倭(大和)は伊都国に一大率を置く。
274年 ~功渡海。布留期九州北部に半島の土器。舶載△鏡。



890日本@名無史さん:2011/10/24(月) 23:08:50.49
>狗奴国は旧奴国で、倭奴国から続く旧臣が多かった。

天災殿
お気を確かに。
891筑紫の民:2011/10/24(月) 23:13:17.18
>>888 反キチ
君は畿内説であると公言しているが、その発言みんなが見ているぞ。
877 :板ダニが嫌いな男 は下記のとおり設問している。
>弥生時代中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが再開発され、
>異なる土器を使用する3ブロックが並立する集落に膨れ上がる。
>出土遺物は土器(外来系土器はほぼ全国のものが出土する)をはじめ、
>農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、
>炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物がある。
つまり全国から開拓のため人が集まっているがその人達を集めた権力者は誰か?
「ゆるやかだけども労働力を集めることができたのはどうしてか?」

>唐古鍵を造ったのは盆地に元からいた人間。
>それで何か問題あるか阿呆。
こんな回答では、つまらんばい。

892筑紫の民:2011/10/24(月) 23:15:12.47
反キチ相手にした俺が馬鹿だったか?
もう寝るばい。
893筑紫の民:2011/10/24(月) 23:18:37.33
あと、杷木神籠石と女山神籠石のレポートは明日提出します。
すごかこと発見したばい。
おやすみなさい。
894日本@名無史さん:2011/10/24(月) 23:20:28.37
>>891  伊作のポチ(∪^ω^)ワンワン 筑紫のド民

お前、伊作がアホな事を口走ってそれをフォローしたいが為に後先考えずにイチャモン付けてみただけだろう?w

なんで唐古鍵にそんな特別な労力をかき集めるシステムを想定する必要があるんだ?

それを考えなければならないほど唐古鍵は環濠集落として特異なのか?

その必然性を説明してみろカス。

…こいつ自分が何を言っているのか分かってるんだろうか?
895ローガン:2011/10/24(月) 23:21:36.04
「デイビッド別格」
ああ 可笑しい。ツボ入った。(笑) レスはまだ読んでないが HNが最高や。
こういうセンスがたまらん。

>>879
>>842を100回読み直せ。

横、ごめん。1000回書いても同じ事。無駄。
君が論点にしたそうにしている部分、今日、昼間にかいといた。 それで終わり。
896筑紫の民:2011/10/24(月) 23:22:37.53
あと、反キチは「奈良盆地には縄文時代の遺跡・遺物だってある。」って
力こめて書き込むところをみると、やっぱ奈良県民かね?
本当にお休み。
897卑弥呼の都は久留米:2011/10/24(月) 23:30:20.54
>>878
>>「倭国」は九州で「日本国」は畿内だ
>を代入すると
>「九州が改名して畿内になった」

その通り。
@畿内に倭(九州王朝)の副都があった。
A九州王朝の畿内副都は独立して日本を名乗った。684年
B日本は九州を併合した。

以上が「九州が改名して畿内になった」の内容

大和朝廷成立701年以降の大倭國(俀國)は奈良盆地地域を指すようになった。
読み方も、「たゐ國」を「やまと國」と改めた。



898日本@名無史さん:2011/10/24(月) 23:37:01.49
本日のお笑いどころ

ゴミクズ森村伊作 とそのポチ 筑紫のド民 曰く…

 唐古鍵は全国から労力を集めて造られた集落。

899日本@名無史さん:2011/10/24(月) 23:42:18.74
>>895

ローガンって、読解力が全然ないんだなw

列島側の中に
「日本国が倭国を併呑した」と主張している者がいて、
中国側がその主張を聞いている、その中に出てくる
「日本国」と「倭国」は、畿内説ではどこになるのか、と訊いてるんだよ。
900日本@名無史さん:2011/10/25(火) 00:00:44.81
0239年 卑弥呼が魏にデリヘル嬢を遣わす
0672年 妊娠の乱
0710年 正常位京に都を移す
0794年 性感京に都を移す
1192年 源頼朝は六本木にキャバクラ幕府を作る
1205年 放尿義時が失禁になる
1221年 セクハラ探題設置
1232年 御性感色欲の制定
1274年 猛根襲来
1338年 足利尊氏が吉原に風呂町幕府を作る
1467年 オナニーの乱
1549年 クリトリス教の伝来
1600年 関ヶ原の合コン
1603年 徳川家康がエロ幕府を作る 
1841年 ティムポの改革
1853年 黒乳首来航
1868年 ボイン戦争
1871年 パイパン痴犬
1877年 性感論、性難の液
1904年 に遅漏戦争勃発
1914年 第一次性感体位戦勃発
1922年 関東大陰唇祭
1931年 マン臭事変
1945年 第二次性感体位戦終結
1970年 大阪でマンパク開催
1972年 腰縄変姦
1995年 阪神淡路大陰唇祭
2001年 アメリカ同時多発エロ
2003年 イメクラ戦争
2005年 愛・子宮博
2011年 東日本大陰唇祭
901ローガン:2011/10/25(火) 00:11:18.54
>>899
>列島側の中に「日本国が倭国を併呑した」と主張している者がいて、中国側がその主張を聞いている、

それを述べた日本人は倭国=古倭奴国を何時頃併呑したと述べているの?

>その中に出てくる「日本国」と「倭国」は、畿内説ではどこになるのか、と訊いてるんだよ。

もう何度も書いた。旧唐書と隋書、後漢書の関係考えてごらん。 邪馬台国畿内説の立場とか関係無いから。普通に読んだらいいだけ。
既に議論済み。
902日本@名無史さん:2011/10/25(火) 00:36:50.48
横からで議論済みはないんじゃないw なら横しなきゃいいだけw
903日本@名無史さん:2011/10/25(火) 00:39:48.07
任那って言われてたのが実は倭国
北九州と任那にまたがる海洋国家
904ローガン:2011/10/25(火) 00:41:07.31
そらそやね。 引っ込みます。
905日本@名無史さん:2011/10/25(火) 00:41:11.71
>>901

その前に「日本国が倭国を併呑した」というそれぞれの国はどこかを、
ローガンは答えられないんだろ?畿内説だと回答不能なんだよ。

>それを述べた日本人は倭国=古倭奴国を何時頃併呑したと述べているの?
旧唐書には一切記述していない。そんなこと、読めばわかるだろ?

>既に議論済み。
冒頭の質問に、一度たりともローガンは答えていないな。
畿内説じゃ無理なんだよ。漢籍を解釈できないんだよ。
906日本@名無史さん:2011/10/25(火) 01:03:30.52
>>905

お前なんか、問いは出しっぱなし、逆に問われたことには、スルーしっぱなしじゃんwww
907日本@名無史さん:2011/10/25(火) 01:16:27.15
>>877
> ●畿内説の板ダニどもに要求する。
> 唐戸・鍵遺跡をつくったのはどこの政権・勢力か。

> 唐戸・鍵遺跡を統合して全国から開拓労働力を集め、
> 奈良盆地中央部の開拓・開墾と灌漑をさせた「政権・勢力」はどこにあったのか。

はて?
唐古に全国の開拓労働者が集まっていたとw
そう断定した根拠って、きっとWIKIに吉備、近江、東海系の搬入土器が存在するって書いてあったからですよねw
以前にも忠告したと思うけど、聞きかじりで考古のつまみ食いをすると、またまたまた大恥掻くだけですよwwww
908ローガン:2011/10/25(火) 01:34:29.72
引っ込むつもりが…
>>905
>その前に「日本国が倭国を併呑した」というそれぞれの国はどこかを、ローガンは答えられないんだろ?畿内説だと回答不能なんだよ。

>>827に回答済み。
それに旧唐書が書かれた頃の「日本」について はいいよね?言うまでもなく大和朝廷だ。
さておき、君も云うように、いつ併呑したか?なんてわからない。
で、 君の論調に沿って話を進めれば、10世紀に中国で、日本と認識された国。唐代のその国人の言を借りれば、
「日本(大和朝廷)は古倭奴国を 過去に併呑した」…つまり 後漢代の金印の倭奴国とは、過去に、今云う所の「日本」に併呑された。
これ、説明出来ないどころか、畿内説の主張に同じ。
909日本@名無史さん:2011/10/25(火) 01:54:53.60
>>853
>それを否定して「独自に自生」をのたまうテメーらこそ、なに様のつもりだ。

縄文土器も作れない九州の土人が何様のつもりや。
910日本@名無史さん:2011/10/25(火) 01:59:48.20
>>877

九州でないことは、明らかだな。
911日本@名無史さん:2011/10/25(火) 02:10:43.04
>>899

>列島側の中に
>「日本国が倭国を併呑した」と主張している者がいて、
>中国側がその主張を聞いている、その中に出てくる
>「日本国」と「倭国」は、畿内説ではどこになるのか、と訊いてるんだよ。

2世紀末に大和(日本国)が九州(倭国)を併合したってことだろ。
なにか問題でもあるのか?

2世紀末に大和が日本国を名乗ってたかどうかは知らんが、
日本武尊と書いてヤマトタケルと読む例もあるしな。
日本=ヤマトで問題ない。
912日本@名無史さん:2011/10/25(火) 02:11:36.79
>>905さんは九州説と畿内説では倭国の範囲がもともと違うのに、
九州説の範囲を前提として畿内説に答えを求めているように思う
913日本@名無史さん:2011/10/25(火) 02:31:10.22
九州の遺跡はちいさすぎて、集権国家があったとはいえまい
914日本@名無史さん:2011/10/25(火) 02:47:37.26
>>911さんのは畿内説でもゆるやかな連合説じゃなく畿内大和帝国説なのかな
915日本@名無史さん :2011/10/25(火) 07:38:35.84
新唐書の系譜は日本側が歴史を長くするためのウソだよ。

倭奴国を併呑した?(これもウソ 同じ場所にあるから)日本国とは隋書の秦王国のこと。
秦王国と呼ばれる通り、王は辰王の血縁のものだよ。
6世紀に新しく渡来した者の国だ。
アマ氏というだけで、天に関係があるし、大君、天照彦と読めるからだ、
高祖山も博多湾にある。高祖はこの隋書の王国の王が高祖で天皇の祖だよ。
916デイビッド別格:2011/10/25(火) 07:44:24.63
>>907
>唐古に全国の開拓労働者が集まっていたと………
抜き差しならなくなってきたろ。鏡もダメ、纏向もダメ。そして新たな問題だ
俺の論考ノートにはすでに追補してあるぞ。
土の下から出るモノばかり見ている田子どもにはドッキリものだろ。

ん?。纏向には全国の搬入土器があるから全国から人が集められたとか、
交易の中心だったとか。纏向に強力な王権が存在したとか。子供騙しをさんざん垂れてきたろう。
その遥か以前に唐古には大集落と全国の搬入土器がある。しかも明らかに労働と生活集落だ。
唐古のその位置からみても湿地開拓の前線集落だ。

@唐古に湿地開拓の前線集落をつくったのはどんな政権・勢力か。
A全国から労働力を集めて湿地を開拓させたのはどんな政権・勢力か。
Bその本拠地はどこにあったのか。
質問の本質的な部分にはまるで回答らしきものは見当たらんぞ。――嘲笑・哄笑。

さ。纏向に祭祀墓域ができる遥か以前に、奈良盆地の開拓をしたのはどこの勢力だ。
吉備か、近江か、東海か。これらの「ゆるフン連合」てか。  ――奥歯で失笑。
917日本@名無史さん :2011/10/25(火) 07:44:54.50
だから、畿内説は新唐書をそのまま信じて(いつもは無視するのに)
日本国が1世紀の倭奴国と一系であるとしたほうが都合がいいから、詭弁をいっているんだよ。
それに、それだと、東遷があったと認めなきゃならないことも
忘れて。
要するに畿内説というのは、総合的に考えることができず、
その都度、都合のよい詭弁を言って、いいのがれをする説なんだよ。
918デイビッド別格:2011/10/25(火) 07:51:23.82
感情的に・ヒステリックに畿内説を叫ぶ田子たちは、
いったい、己の先祖をナニ人だち思ってるのか。
己をどんな連中の子孫だと思ってるか。知りたいものだぜ。

何の根拠もなく、大和支配層の子孫だとでも思ってるのか。笑止
その大和氏支配層が、生理的に差別する九州人だということを認めたくないか。
お角違いの増上慢。しゃくしょ田子の自惚れ。

大和至上主義の人間らしく、男気・大和気質というものを見せろ。
もっとも、男気・大和気質というものも九州が本場だが。
919日本@名無史さん :2011/10/25(火) 07:51:50.59
それに倭奴国は邪馬台国とは無関係だからね。
そこのところも畿内説は忘れてる。
なにもかも畿内説はバラバラ。
920日本@名無史さん:2011/10/25(火) 09:30:46.97
支離滅裂でなければ畿内説とは言えません
921デイビッド別格:2011/10/25(火) 09:38:06.56
畿内説をほざく隼人の子孫たちへ。

「寸鉄を帯ず」が鉄則の宮城にあって、武器の所持を許されて王族の身辺警護をしていたのは隼人だ。
原初的には、王族の身辺警護は王族の親近血族が務めた。すなわち隼人は王族の血脈の種族だ。
かくして振り返れば、卑弥呼の宮城の不寝番をしていたのも隼人(の前身)だろう。
「もの(武器・武力・戦闘)」に関する専門集団が物部の発祥だが、推移からみればこれも隼人だ。
皇族から臣籍降下した武家の平氏・源氏といった軍事貴族も隼人だった可能性が高い。

大和朝廷時代、皇族・貴族の身辺の世話から警護まで、
宮城外にあっては渡来人集落に張り付くように隼人の集落がおかれていた。
朝廷の内外から有形・無形各方向から朝廷を支えていた。

そうした隼人たちの末裔も大和にはたくさんいるはずだ。
天武天皇ゆかりの熊野地方の伊賀・甲賀・雑賀、柳生などの特殊集団も隼人の末裔だろう。
むろん、数多の武将・武人が隼人の血を引く可能性も決して少なくはない。
明治時代まで、皇居警備隊は隼人出身者で占められていたというし、
平成天皇が皇太子時代の女官は「伊地知」さんといったらしい。
これは、紛うことなく隼人の地・鹿児島特有の性だ。

もしも、東西南北、上中下の一文字姓、あるいは東西南北上中下がつく姓、
伊地知、伊集院、などの3文字性や4文字姓がつく者は隼人の末裔の証拠だ。
もしや、己の中に隼人の血が通っていることも知らず、つまらん先入観で隼人を蔑視すると、
己との祖先を蔑視することになるかも知れんぞ。 
                   (隼人とはまた別格の熊襲の末裔)
922日本@名無史さん:2011/10/25(火) 11:04:24.44
完全にファンタジーの世界w
もはや個人レベルの勝手な妄想ばかりで学問でもなんでもない
923日本@名無史さん:2011/10/25(火) 11:53:31.03
妄想満載のゴミクズ説


前身)だろう。
可能性が高い。
いるはずだ。
末裔だろう。
らしい。
かも知れんぞ。
924デイビッド別格 :2011/10/25(火) 12:41:59.84
>>923
隼人の歴史が大和朝廷の歴史だ。ちっとはビクッとしたか。

で・弥生中期に唐戸集落を計画的・組織的につくった政権はどこにあったのか。
正面きって返答を求めたが、得意の考古事実からの返答がないぞ。

テメーらが黙殺して避けたがるのは見え見えだが、
皇族・貴族の民族的習俗たる「お歯黒」はどこから伝わったものか。
それを持ち込んだ民族はどこから来たのか。
卑弥呼が鬼道を倭地で習得した可能性はゼロだが、彼女はどこから来たナニ人か。

モノいわぬ遺物をいいことに、「土器だ・墓だ・柱穴だ」ばかり持ち出すが、
「民族的習俗」「信仰的精神性」というソフトの遺跡のほうが遥かに雄弁なんだ。
むろん、我が国の「土掘り考古学者」の誰一人として口にはしないところだ。

この別格が提唱した従来の史観を覆すほどの事実がいずれ独り歩きする。
「不潔で陰湿な公衆トイレの落書き」然とした掲示板とは違って、
陽のあたる表街道では子供騙しの否定方便など通用しないぞ。

925デイビッド別格:2011/10/25(火) 12:45:30.00
>>922
>完全にファンタジーの世界w
事実だが。ファンタジーの世界にしてしまうしか手がないか。哄笑・哄笑
ありもしない知恵絞って、「被せ否定」のセリフでも探せ。板ダニ
926日本@名無史さん:2011/10/25(火) 12:50:03.36
旧唐書の「日本国は倭国を併合した」という記述を、
畿内説では最後まで誤魔化すしかなかったな。

旧唐書では列島側の連中が人によって矛盾したことを
主張しているので、中国側が疑っているのである。
その矛盾した主張とは
@倭国が改名して日本国となった
A日本国が倭国を併合した
・・・の二つだ。

これを>>827と曲解したら、漢籍を理解したとは言えない。
畿内説では漢籍を理解できないのだ。

927日本@名無史さん:2011/10/25(火) 13:23:17.24
      彡.心心心心心      l彡 :圭         ノ聿_______________     llllllllllllllllllllllllll圭ム
     l聿  ̄ ̄聿 ゙̄l聿     l聿 :l聿聿lllllll聿   ゙゙゙聿゙゙聿゙゙゙l聿゙゙l聿~~    |聿 ̄~l圭 ̄ ̄聿
    _l聿 llllllllllll聿llllllll聿!   _lllll ,l聿 圭____   .  l圭a圭al圭al圭心    l聿llllllllll聿lllllllllll聿
    'll聿!    聿  聿   llル聿 广 l聿聿卅    ~~|圭´聿´|圭´|圭 ̄   聿   |圭   .|聿
     .l聿'llllllllllll聿lllllll聿     |聿   圭       llllll聿lll聿llll聿lll聿彡   l聿llllllllll聿lllllllllll聿
     .l聿   l聿        .l聿   .|聿聿卅    ,聿 |圭 l廴 l圭    |聿   |圭  ..|聿
     .l聿  聿广         l聿   l聿      ll聿  |聿  l聿  l聿  .l聿    |聿  .lll聿
     ~~               ^     ̄      ~~    ̄   ̄  ^   ^         ̄
928日本@名無史さん:2011/10/25(火) 13:25:33.23

    彡.心心心心心      l彡 :圭         ノ聿_______________     llllllllllllllllllllllllll圭ム
   l聿  ̄ ̄聿 ゙̄l聿     l聿 :l聿聿lllllll聿   ゙゙゙聿゙゙聿゙゙゙l聿゙゙l聿~~    |聿 ̄~l圭 ̄ ̄聿
  _l聿 llllllllllll聿llllllll聿!   _lllll ,l聿 圭____   .  l圭a圭al圭al圭心    l聿llllllllll聿lllllllllll聿
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   .l聿  聿广         l聿   l聿      ll聿  |聿  l聿  l聿  .l聿    |聿  .lll聿
   ~~               ^     ̄      ~~    ̄   ̄  ^   ^         ̄
929日本@名無史さん:2011/10/25(火) 13:26:29.38
>卑弥呼が鬼道を倭地で習得した可能性はゼロだが、彼女はどこから来たナニ人か。

狂っている。
930日本@名無史さん:2011/10/25(火) 13:41:29.02




「隼人」を持ち出したあたりで、終わってる。




学問ではない。


素人がよく陥る、ファンタジー。




931日本@名無史さん:2011/10/25(火) 13:50:38.22
畿内説がファビョってるってことは、
>>921はなかなかいいところを突いてるってことか。
にわかには受け入れ難い説ではあるが。
932日本@名無史さん :2011/10/25(火) 14:06:12.65
>>926
>@倭国が改名して日本国となった
 
その前に日本国とは倭国の別種なり。とある。
或いは曰くというのは、適切な訳し方ではなく、
或る人が言うには、と約すので、日本側が迷ってふらふらしているわけではないので、
誤解を受けやすい言い回しである。

倭国がその名の雅ならざるを悪しく思い日本と改めた、の部分の
倭国とは、古の倭国ではなく
文頭の倭国は古の倭奴国のことであり、倭国の別種のことを指すのです。
だから、邪馬台国の倭国と倭奴国を混同するとおかしなことになる。

文頭の倭国とは古の倭奴国である、とあり、王姓はアマ氏なので、
これは隋書の王と同じである。
つまり、隋書のアマ氏は古の倭奴国であると
自らをごまかしているのである。その方が日本国の歴史を長くすることができ、
日本書紀を編纂する筋立てがすでにできあがっていたから都合がよかったのだ。
933デイビッド別格:2011/10/25(火) 14:12:56.88
>>929 名前:日本@名無史さん :2011/10/25(火) 13:26:29.38
卑弥呼が190年頃女王になった時点では、鬼道を習得していたという。
大陸で鬼道が盛んになるのは190年頃だ。
時間的・空間的に倭地で習得した可能性はゼロだが、お前の知識不足と思慮不足が問題だ。

>>930
>「隼人」を持ち出したあたりで、終わってる。
宮内庁に行って、天皇が寝ている間も武器を所持して警護していたのは誰か。
聞いてこい。征服した民族に寝屋番をさせるバカがいるかも確認してこい。

>>931
歴史の裏側の事実であり、暗黙の了解の域の事実だ。
934日本@名無史さん :2011/10/25(火) 14:26:05.40
932つづき
であるから、
@倭国が改名して日本国となった
A日本国が倭国を併合した
の二文になんの矛盾もないのである。

@の倭国とは古の倭奴国のことであり、
Aの倭国とは古の倭国のことであるからである。

むしろ中国側が疑っているのは、倭国は古の倭奴国であると言ったところだろう。
おそらく、日本側使者のウソをつくような不遜な態度が怪しいと感じたに違いない。
935日本@名無史さん:2011/10/25(火) 14:28:06.60
思考力ゴミクズレベルには言うだけ無駄か。
936デイビッド別格:2011/10/25(火) 14:38:34.37
いつまでも邪(よこしま)論法を・しゃらくさい。

>>926
違うだろ・あんちゃん。
「倭国が日の辺にあることから日本国と改名した」という中国側の把握事実と、
倭人使者がいう「日本国が倭国を併合した」とがまるで違うので、
「倭人使者は尊大な態度で本当のことをいわない」と中国側が疑っているのだ。

>>932
倭奴国が倭国へと国力を拡大し、これが日の辺にあることから日本国と改名した。
(その時期は唐の則天武后の治世である)。これが新旧の唐書がいうところだ。

世間の良識には通用しない読みをいつまでも書き垂れるな。
そんなことまでしなくちゃ九州王朝説を維持できない「こと」に気づけや。
937デイビッド別格:2011/10/25(火) 14:43:50.63
>>935
弥生中期に唐戸集落を計画的・組織的につくった政権はどこにあったのか。

よけいなことをいわなくていいから、これに返答せんか。
陰湿な公衆便所の壁にシミをつけて歩くだけの便所虫。
938日本@名無史さん:2011/10/25(火) 14:57:01.07
>>936
何故尊大な態度で本当のことをいわないのかまでは頭が回らないようだな。
939日本@名無史さん:2011/10/25(火) 15:28:46.86
便所虫ってあんた・・・。
何もそこまで本当のこと言うこともなかろう。
940ローガン:2011/10/25(火) 15:58:37.71
>>926
いや、だから、君も云うように
>旧唐書には一切記述していない。そんなこと、読めばわかるだろ?

そう、これが仮に事実を伝えたものであったとしても、それが何時か?なんてわからない話だ。
そこで古倭奴国が 後世「日本」と呼ばれる権力に、いつ頃併呑されたか? を考える訳だが、その際の根拠に 「九州王朝」なんてのは使えないんだよ。
君が何を言おうと、議論の相手は「実態のない空想の産物」としか考えてないので、共有出来る根拠ではないのでね。
よって「史的実態が明らかである大和政権が、過去のある時期に北部九州を勢力下 においた。考古学的知見から、古墳時代初頭〜前期にその時期を求める事は妥当」
に対して、「九州王朝」ではいかなる対案も出す事が不可能なんだよ。
そこで君がまずする事は、客観的資料に基づいた九州王朝存在の証明だ。 頑張ってね。
941ローガン:2011/10/25(火) 16:06:20.54
>>937デイビッド別格>弥生中期に唐戸集落を計画的・組織的につくった政権はどこにあったのか。

「計画的・組織的につくっ」てから人が住みはじめた…というタイプの遺跡ではなさそうだから。
質問の仕方が悪いので回答がないんじゃない?
942デイビッド別格:2011/10/25(火) 16:19:31.43
唐戸・鍵遺跡は
弥生時代中期に周辺の3つの集落を統合して大環濠集落の形をとり、
楼閣や大型建造物が登場する。
弥生時代中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが再開発され、
異なる土器を使用する3ブロックが並立する集落に膨れ上がる。
弥生時代後期には大環濠はなくなり、集落の規模は縮小へ向かう。

この推移をみて、計画的・組織的ではなく自然発生的とか散発的というのか?
943デイビッド別格:2011/10/25(火) 16:25:55.64
政治的な力による組織的集落だろ。その目的は湿地帯の開拓だ。
それともナニ。
全国から物好きが自主的にあつまって、
シラサギでもあるまいに、湿地のどじょう獲りでもやったというのか?
944日本@名無史さん:2011/10/25(火) 16:31:19.27
>>943
>全国から物好きが自主的にあつまって、

もちろんそうでしょ。

物好きが最初に住んで、安全で暮らすのに問題ないとわかれば、徐々に人は増えていく。

とくに、奈良は台風被害が少ないわけだから、定住する人も増えていったろうね。
で、地方からきた人は、地方の親戚を呼び寄せたりもするだろう。
そうしてさらに人口が増えれば、物を売り買いする商人も立ち寄るようになる。

だからなに?
945日本@名無史さん:2011/10/25(火) 16:36:52.45
>>916

>@唐古に湿地開拓の前線集落をつくったのはどんな政権・勢力か。
>A全国から労働力を集めて湿地を開拓させたのはどんな政権・勢力か。
>Bその本拠地はどこにあったのか。

ようするに命題が間違ってるから、答えようが無い。

唐古は、湿地開拓の前線集落ではない。→物好きが入植しただけ。
全国から労働力が集まったわけではない。→わりと災害の少ない土地だったから定住する人が増え、故郷から親戚が集まってきた。
唐古を作った本拠地などない。→住人各自が思い思いに集まっただけ。
946日本@名無史さん:2011/10/25(火) 17:01:17.66
どっかの政権がつくらせた前線集落ってこたぁないし、物好きが勝手に集まってできるようなもんでもないwww
947日本@名無史さん:2011/10/25(火) 17:11:14.79
>>934>>936>>940

はい、不正解。
ついでに言っとくけど、九州王朝説が崩壊しても別に俺は困らないよw

@倭国が改名して日本国となった
A日本国が倭国を併合した
この二つが矛盾しているから、列島人の主張のどれが正しいのか
当時の中国人の判断として信用できないと言っているわけだ。

その中国人は>>934>>936>>940のような理解力ゼロの人間じゃないぞ。
948日本@名無史さん :2011/10/25(火) 17:19:05.32
>>940
>そこで古倭奴国が 後世「日本」と呼ばれる権力に、いつ頃併呑されたか?

併呑されたとはどこにも書いてない。
日本が倭国を併呑したとは書いてあるが。

きっぱりと倭国は古の倭奴国である。
日本はいに古の倭奴である。と言い切っていて、決して併呑したとは書いてない。

日本=倭奴国=倭の別種=王の姓はアマ氏=筑紫城から大和州へ遷都。
949日本@名無史さん:2011/10/25(火) 17:23:27.40
面白くなってきたな。
狂ってるとかファンタジーとか言う方がはるかに理解が少なくて
オウム返しにそれしか否定の言葉がないというのはどの時代でもそうだ。
950日本@名無史さん:2011/10/25(火) 17:23:38.18
>>916 大法螺駄法螺吹き 知ったかぶり 嘘八百口からでまかせ ゴミクズファンタジー作家 森村伊作

>その遥か以前に唐古には大集落と全国の搬入土器がある。

先ずそもそも唐古鍵にそんなものを想定しなければならないほど、そこまでの特異性は無い。
環濠集落と言えば、吉野ヶ里、唐古鍵、池上曽根、朝日、大塚…等々は直ぐにその名が挙がるだろうが大小あわせて全国に何百とある。
全面的に保存され全国的に名の知れるようになるのは、その中のほんの極々一握り(事実、吉野ヶ里だって工業団地になる予定だった)

このゴミクズは「搬入土器」(外来系土器)と言えば全国から人間をかき集めた勢力を想定しなければならないと脳内で直結してしまったようだが
そもそも纏向のそれは比重やその由来地域の分布が突出しているのであり他の遺跡にそれが全く見られないような話ではない。
(もっとも単に”外来系の比重”と言うことで言えば上には上w神崎遺跡のような移住を想定させるようなものもあるが…)

この知ったかぶり十八番のゴミクズが何も理解していないのが丸分かり。

外来系土器の比率が纏向で最大(ポイントにより異なる)30%ぐらいなのに対し唐古鍵なら3〜5%程度だったと思うが
一体何をもって唐古鍵にそんな突出した像を描いているのか?
「はんにゅーどき が でている から」 じゃあお話にならんぞ?
きちんとした根拠を出せゴミクズ。

この馬鹿はどうせネットの何処かで「唐古鍵に搬入土器がある」とか書いてあるのを見つけてはしゃいで飛びついたんだろうが
(「江戸の敵を長崎で」じゃないが纏向でかいた大恥を唐古鍵で挽回しようとしたんだろうなw)
小中学生レベルの基本の基本のそのまた基本すら理解していないから
ピント外しまくりのアホしか書けない。

知らなければ知らないで黙っていれば大恥かかずに済むが
自惚れだけは人の千倍も万倍もあるから、全く知らない考古学的なネタでも何とかリベンジしないと気がすまない

…で出してくる度に更に大恥をかくと言うエンドレス泥沼。
アホの身をはった連続自爆ギャグ、
馬鹿は同じ失敗を何度繰り返しても学習しない。
要は「死ななきゃ治らない」
951日本@名無史さん:2011/10/25(火) 17:25:11.71
>>921 大法螺駄法螺吹き 知ったかぶり 嘘八百口からでまかせ ゴミクズファンタジー作家 森村伊作

憧れの大和朝廷の周辺、それに加えて伊賀甲賀、雑賀(鉄砲鍛冶は無敵鉄器軍団からの流れデスカ?w)柳生その他諸々…全て隼人の末裔
…で、恐らく自分もその系譜の末席に与るとwwwww

もうここまで来るとコンプレックス丸出し。

九州熊本版ウリナラ起源説。

>「民族的習俗」「信仰的精神性」というソフトの遺跡のほうが遥かに雄弁なんだ。

ソフトの遺跡?何だそりゃ?w 比喩にしてももう少し何とかならんのかセンセイ?w

ボキャ貧で妄想に追いついていないんだろうが、もう少し日本語勉強しような。文献の天才だか鬼だか自称するんだったら(哀
ここがお前が一番ほざきたいところだろう?もっと気合入れろカスwwww

結局ここがこのドキチガイが邪馬台国古代史にこだわる理由なのだろう。

「ボクの考えた(偉大なる九州皇統を戴く)大和民族の精神性はこういうものだ!!」と言うのを壇上から叫びたい。

で、自分の脳内に描いた妄想に使えそうなものをドンドンくっつけてその妄想を更に膨らませる。
これがこの馬鹿が壮絶な勘違いしてドヤ顔で誇っている自説の厚み。

そんな物、他人から見たらいい所「歴史をネタにしたファンタジー小説」でしかない。

与太話はチラシの裏にでも書いておけゴミクズ。 

流石に2ちゃんねるでもこれは酷すぎる。
952日本@名無史さん:2011/10/25(火) 17:29:33.46
旧唐書の記事から、日本側の使者は使者として不適任者であったために主張が唐側に正確に伝わらずに、
誤解して受け取った内容を日本側の主張として書いているだけ
953日本@名無史さん :2011/10/25(火) 17:35:57.87
倭国と倭奴国の違い。

倭国は普通は帯方の東南の大海中に住み、邪馬台国を都とする国のこと。

倭奴国は1世紀に朝貢した、博多湾沿岸の一国の名。

倭国は古の倭奴国という表現はまぎらわしく、詳しく言うと、倭国の別種は古の倭奴国である、ということ。

そして、倭奴国が日本国である、ということ。
954日本@名無史さん :2011/10/25(火) 17:52:45.79
日本に改名したのは7世紀ころ。隋書にもまだ改名の記事はないから。

そして日本は小さかったが、倭国の地を併せた、と。
倭国の地を併せたのも7世紀以降である、理由は日本な名が出たのは7世紀以降だから。
955日本@名無史さん :2011/10/25(火) 18:02:21.17
倭国の別種は古の倭奴国である、ということ。 そして、倭奴国が日本国である、ということ。

これを約めれば、倭国の別種は日本国であるということ。
この文は、旧唐書にはっきりと出てくる。「日本国は倭国の別種なりと」

956日本@名無史さん:2011/10/25(火) 18:20:39.04
5世紀には九州から関東までひとつの国=倭国だったのに、
倭国がどこだの日本がどこだの、全く無意味な議論ですな。

雄略天皇の業績について、少しは勉強したら?

957唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/25(火) 18:35:18.58
>>948
>併呑されたとはどこにも書いてない。
>きっぱりと倭国は古の倭奴国である。

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、監督する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
景行20年(庚寅九〇)二月甲申《四》◆廿年春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神。
5百野姫を軍隊付きで、筑紫に派遣する。
五百野皇女=壱与。
250年代に、倭奴国は、大和(邪馬臺國)に併呑された。
958梯儁:2011/10/25(火) 18:36:05.65
デイビッド別格

このHNにしてからおかしくなってきたな。特に卑弥呼が鬼道をマスターしているとして大陸からの渡来人
(或は帰国子女?)だと主張するのは頂けない。

卑弥呼の鬼道が黎明期の中国道教と同じものであることが証明されなければその論は成立しない。倭人伝
には卑弥呼が大陸からの渡来人或は帰国子女だと思わせる記述がないが、魏は卑弥呼が渡来人であるとい
う情報を入手出来なかったのであろうか?親魏倭王に叙するには十分な調査が行われた筈だが。
959日本@名無史さん :2011/10/25(火) 18:36:45.36
>>956
そんなものを勉強するだけ、時間の無駄ですよ。

いまだに、日本書紀を信じている人っているものなんだね。
960日本@名無史さん:2011/10/25(火) 18:40:23.59

いやもとから言ってるからもとからおかしかったわけだがwww
961唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/25(火) 18:40:56.27
年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が少ない時期が続く=寒冷期である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。 金官伽耶 541年に建国330年で新羅に身を寄せる。

唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
青谷上寺地遺跡の人骨は、食人を表す。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。←考古学のこの数字は、年輪年代法により
割り出された。「年輪降水量」と同じく正確である。
この出来事を書紀に当てはめると
崇神5年 民の疫病=餓えの病、凶作、飢餓、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
寒暑失序。疫病多起。百姓蒙災。
962日本@名無史さん:2011/10/25(火) 18:52:45.63
旧唐書倭国伝

 倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、
山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。
  (略)
 貞観五年(631年)、遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、
勅旨で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史の高表仁を遣わして、節を持して行かせ
これを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。
 貞観二十二年(648年)、また新羅に付いて表を奉し、以て日常の音信を通じた。

日本伝

 日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、
小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして
不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、
西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
  (略)
963日本@名無史さん:2011/10/25(火) 18:57:17.47
>>955

その理解だと、列島人同士の主張に矛盾がなくなってしまい、
当時の中国側が疑う理由がなくなってしまうので、
955の理解は100%誤り。
964日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:02:54.89
>>958
出たな!縄文人
965太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/25(火) 19:03:27.57
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜と
コチラを口撃していた男が〜〜

 〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。><

規制中だったから手足を伸ばして書きこんでたのか。w たらふくか〜?

秀魔電
朝廷は落第暦たる秀魔暦など眼中にな〜い。
966日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:03:43.73
伊作と同じゴミクズレベル
967日本@名無史さん :2011/10/25(火) 19:10:02.30
>>963
矛盾がなくていいんだよ。
中国側が疑っているのは、あなたが思っていることと違うんだよ。
968日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:17:52.52
普通に旧唐書を読んだら、別国扱いだねえ。
国の表現も違うし。

しかし、倭国が648年まで通じてたのは驚きだ。
少なくとも7世紀中旬まで、倭国が存在していたことになる。

逸文だけど、九州年号も8世紀直前まで続いてたようだし、
逆に大和朝廷の年号は、7世紀中旬から始まるが、
8世紀になるまで、とぎれとぎれで不安定。
安定するのが8世紀になってから。
それを考えれば、九州年号と大和朝廷の年号は
ちょうど安定した時期でリレーすることになる。

勢力そのものは、早いうちに大和朝廷のほうが大きくなっていたかもしれないが、
それまで続いていた権威を背景に、九州勢力が名目を握っていた。
しかし、白村江の大敗北や畿内勢力の伸長で、ついに
名目の権威も明け渡した。

とみているのだが、どうだろうか?

条坊制をもつ初めての都、藤原京
それと近い時期に条坊制の都だった大宰府。

そんな大都市計画を、畿内勢力がわざわざ大宰府に作りそうな気がしないんだけどな。
969日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:22:40.37
>>968

あのねえ。「倭国」ってのは、中国から見た日本のことで、
「日本」てのは、日本が対外的に使い出した呼称。

君の論でいえば、
幕末に、「米利堅」「United States of America」という2つの国が北米にあったと言うことになる。

アホちゃうかと。
970日本@名無史さん :2011/10/25(火) 19:30:35.06
>>968
>それと近い時期に条坊制の都だった大宰府。

古の倭奴国だといった日本国、つまりアマ氏の国は大宰府の近くだったんですよ。
そこで、唐の条坊制を真似て造った。
そのアマ氏(天氏)が東進して奈良に藤原京を造ったと、そう理解できます。
ですから、今までの通説は謝りだということですね。

白村江の大敗北や畿内勢力の伸長で、ついに
名目の権威も明け渡した。というか、わたしは九州勢力のアマ氏が九州を離れて東進して
奈良に王朝を築いたと読みます。ですから、小さい日本が(大きな)倭国を併呑したという
文と一致するわけです。

971日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:31:37.71
またぜんぜん違う例だしてるしwww
972日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:33:15.53
大和朝廷が大和で「日本」を使いはじめたところで、
それが瞬時に九州とかに「国名は日本にしましたからよろしく」なんて伝達できるわけない。
一ヶ月タイムラグがあれば、一ヶ月の間は。倭国と日本が並存してたことにはなる。

それが、だから、どうしたというのだ?

くだらん。アホちゃうか。
973日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:34:18.21
もはや九州王朝スレ
邪馬台国スレじゃなくなっているな。

九州王朝語りたかったら別のスレでやれ
ゴミはゴミ箱に
974日本@名無史さん :2011/10/25(火) 19:41:57.06
邪馬台国だけを語って歴史など解明できないよ。
宋書以降は邪馬台国が都である倭国は過去の倭国として語られているだけで、
新しい倭国には邪馬台国のやの字も出てこないのだから。
975日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:42:09.94
倭国が九州って認めちゃってるしw
976日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:42:41.09
当時の中国人が列島人から聞いた話に矛盾があって、
あるものは「日本国は倭国を併合した」といい、
あるものは「倭国は日本国と改名した」といい、
それが矛盾しているから中国側では疑ったわけ。

それを、
「俺様は矛盾を感じない」「俺様の脳内では矛盾がない」
などと馬鹿を言っても旧唐書を解釈したことにはならないな。
977日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:45:35.50
>>976
>あるものは「日本国は倭国を併合した」といい、
>あるものは「倭国は日本国と改名した」といい、

併合した時期は不明。
倭国が日本国と改名したのは事実。

それがなんだというのだ?

くだらん。アホちゃうか。



978日本@名無史さん :2011/10/25(火) 19:46:28.85
>>976
それは違うよ。

この場合の倭国とは倭国の別種のことだよ。旧唐書をよく読んでごらんよ。

日本国は倭国の別種なりとあって、その次に倭国は日本と改名したとあるから、
二番目の倭国とは倭国の別種のことなんだよ。
979日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:46:50.65
九州王朝などが全くこの世に存在しなくても
列島人のあるものは「日本国は倭国を併合した」といい、
列島人のあるものは「倭国は日本国と改名した」といい、
これが矛盾しているから当時の中国人がそれを疑ったわけだ。

畿内説では「倭国が日本国と改名した」理解はできるけれども
畿内説で「日本国は倭国を併合した」理解ができないわけ。
それは畿内説が間違っているからなんだよ。
980日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:48:59.74
>>977-978

その解釈は詐欺論法。
全く違い時代の別な中国人のはなしではなく、
同一の中国人が別々な矛盾した話を聞いたから
矛盾を感じたわけだ。
981日本@名無史さん :2011/10/25(火) 19:49:08.76
だから倭国の別種=日本国なんだよ。
982日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:49:24.04
天皇ってのは、だいたい、権威は持つけど、兵力は持たない存在だ。
例外と言えば山ほどあるけどね。

だから、天皇を擁立する勢力が必要になる。

実質は、九州王朝の実兵力担当(物部氏???)から、
藤原京の実力者、藤原氏族にチェンジし、天皇一族である
天氏族を藤原京に移すというアイデアもある。

しかし、実質九州王朝から、大和朝廷に権力が移ったといえるだろう。
天皇という看板だけ変えたが、実質は勢力交代になるってわけだ。

正しいとは言わないよ。ただの妄想だ。こんな見方もあるってことで。
983日本@名無史さん :2011/10/25(火) 19:52:13.17
>>980
まったくわかってないね。
つまり、あなたは何がいいたいの?
日本=倭国でありたいわけ?
984日本@名無史さん:2011/10/25(火) 19:55:27.58
>>982

>実質は、九州王朝の実兵力担当(物部氏???)から、

物部氏が、九州出身とか、誰が最初にそんなバカな話を言い出したのかな?

なんにしても、くだらんヨタ話を真に受けて、妄想ふくらませて、アホ丸出し。

985日本@名無史さん:2011/10/25(火) 20:06:04.27
>>983

だ〜か〜ら〜、畿内説の立場で
「日本国が倭国を併合した」と主張している列島人の言う
「日本国」と「倭国」はそれぞれどこなの?って聞いてるわけ?
畿内説の立場で答えてね。
986日本@名無史さん :2011/10/25(火) 20:08:50.50
大宰府の水木城って、なんの為に造ったか。
唐の侵入を防ぐというのは謝り。

つまり、筑紫平野に広がる旧倭国勢力を防ぐためだよ。
だから、磐井の乱などで、説明できる。
磐井とはイワ、イとよめてイワはイ倭、御倭(みわ)と同じ意味。
そのイワイとは邪馬台国系、あるいは狗奴国系が邪馬台国を併呑したかもしれない
国のことだよ。邪馬台国と狗奴国の戦いの決着はわからないから。
987日本@名無史さん:2011/10/25(火) 20:10:21.66
>>985

倭国は2世紀の九州で、日本は7世紀の大和だ。

頭の悪いやつだな。

7世紀に改名した日本が、1世紀に倭国と呼ばれてた九州を、2世紀に併合したのだ。

わかったか。アホ。
988日本@名無史さん :2011/10/25(火) 20:12:05.42
>>985
わたしは九州説だから、畿内説がどういう答えかたをするかわからないけど、
わたしの立場では日本国とは博多湾岸の筑紫国の東だよ。
倭国とは南の旧倭国と、東の列島の倭の国々の場所のことだよ。
989改め(畿内説):2011/10/25(火) 20:22:57.11
>>985
横入れるよ

「倭」とは、いにしえの「日本」。
すなわち両方「日本列島」になる。
「倭」というのは、列島人が自らの事を「わ」「われ」と発言するのを聞いた
中国人が用いたもので、それをそのまま列島人は使用していただけで。
そのあとの天武天皇時代に「日本国」という正式な国名を改めている。
倭と日本の範囲的には、基本一緒だね。
ただ、三世紀当時の列島人には自らの国を「日本」とは呼んで無くなく
「倭」とかいて、「ヤマト」または「ヤマトの国」とか言ってたらしく、

基本、「日本国と倭国はそれぞれどこなの?」っていう質問自体が馬鹿げてるわけだ。
990改め(畿内説):2011/10/25(火) 20:28:07.19
・・・・・・・・

なんかレベルの低い議論が続いてるな(笑)
ドンコイって、いつもこんな感じなの???
991日本@名無史さん:2011/10/25(火) 20:34:36.29

いつもこんな感じだったんじゃないの???
992日本@名無史さん:2011/10/25(火) 20:34:57.55
物部氏の出身地は、天皇家と同じで
葛城地方だよ。
その後、河内の国の知事になっていた。
993日本@名無史さん :2011/10/25(火) 20:40:39.13
>>989
倭国と日本は別物だよ。日本は倭奴国だと言っている。
倭奴国とは倭の国々の中のたった一個の国のことを指すんだよ。
日本が倭奴国を併呑したという解釈はでたらめ。そんな文はどこにもない。
日本は倭国を併呑したんだよ。倭国と倭奴国は別ものだから。
994改め(畿内説):2011/10/25(火) 20:45:56.51
辞書で「倭」を調べてみなされ。
995日本@名無史さん:2011/10/25(火) 20:52:42.57
メ はこのスレに来ないでね。
996日本@名無史さん :2011/10/25(火) 20:54:07.30
993だけど、
わたしは九州説だけど、畿内説の立場になってみれば、
倭奴国→邪馬台国→倭の五王→日本と一系にしたいのだろうけど、
中国古文献を精査すれば、そういうわけにはいかないよ。
詭弁でどうにかごまかしても、東遷だけは否定できないよ。
だから、畿内自生説をどうしてもいいたかったら、本居宣長論か、古田式の畿内が九州を
併呑したという九州王朝説を採用するしかない。
今までばかにしていた古田史学を見直さなきゃならないって皮肉だよねw。
997日本@名無史さん:2011/10/25(火) 20:59:23.12
2世紀に、畿内ヤマト王権が九州を征服したと、ハッキリ言わないとダメなようだな。

畿内説は、九州に遠慮ばかりしててダメだ。
アホが増長するだけだ。
998ローガン:2011/10/25(火) 21:00:36.52
つまり↓がおかしいんだよ。

>>709
>旧唐書によれば、日本国は倭国から出た小国であったが、日本国がのちに倭国を吸収したとしている。

「日本国がのちに倭国を吸収した」と、日本という国号になってから倭国を吸収したと云いたいようだけど。
だから、昨日、「併呑した時期が何時だと書いてあるのか?」と尋ねた訳。勿論、書いてないので、上記はなんら根拠のない勝手な解釈なので却下。
当方の既に掲示済みの見解で何ら問題無し。
999デイビッド別格:2011/10/25(火) 21:00:48.89
>>996
畿内説と九州王朝説は異母兄弟。
俺の予見通した展開が見えてきたようだ。
1000筑紫の民:2011/10/25(火) 21:01:22.67
そろそろ、「邪馬台国は九州にあった。」を前提とした
倭の五王に関するレポートを話していいですか?
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