南部氏(・><・)巻之七

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1日本@名無史さん
前スレ
南部氏(・><・)巻之六
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1284304055/
2日本@名無史さん:2011/10/08(土) 17:54:26.92
167 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 05:29:00
南部が列藩同盟側で参戦したとき、既に列藩同盟は敗色濃厚だった。
だから周辺も絶対反対だったし、誰からも論理のある参戦理由は示されなかった。

論理のない参戦をするために、あいつ(西郷隆盛)は悪い奴だ、こっちには味方(岩倉具視)がいる、と
出任せを言う必要があったと思われる。

実際の楢山の参戦理由は、仙台藩土佐からの強い要請に応じたというもの。
しかし南部の実力を考えていなかった。無謀だった。
3日本@名無史さん:2011/10/08(土) 17:55:27.36
174 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 18:29:31
楢山佐渡は嘘を並べて南部を負け戦に導いた。
何が武士道なものか。

175 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 19:00:13
当時、他の家老や殿様は止めることができなかったのか?

結果的にはそうならなかったが、殿様が切腹させられてもおかしくなかったぞ。

176 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/17(木) 19:01:27
佐渡を止められなかった藩士たちの責任も大きいね。
佐渡はきちんと責任とって武士道の作法に則って切腹してる。

花は咲き
桜は燃ゆる
春の世に
移らぬものは
もののふ道
4日本@名無史さん:2011/10/08(土) 18:40:56.13
佐渡を止めようとした目時隆之進をいじめ抜いて切腹させた盛岡藩士の体質が何ともいえず
酷いモンだと思えてくるのだが…

先見の明がある、勤王の志士だろ?
5日本@名無史さん:2011/10/08(土) 19:14:26.32
目時は戊辰戦争の後に調子にのって藩の家老になったのがまずかったんじゃないかなあ。
一回脱藩したんだから藩に戻らないで新政府の役人にでもなっときゃよかったのに。
6日本@名無史さん:2011/10/08(土) 19:21:21.98
目時は故郷を思っていたからこそ、南部藩主の朝廷への忠誠心を新政府に訴え続けたり、
停戦協定締結に奔走して、停戦時にわざわざ現場まで行ったりしたんだろ?

そんな人を切腹まで追い込むなんて…
7日本@名無史さん:2011/10/08(土) 19:48:54.21
停戦したまでは別に主義主張の違い、故郷のためでまあ良かったかもしれないが、問題はその後だと思う。
官軍の威光で帰藩して家老になったのがまずかった。ここは藩士の心情を考慮して固辞すべきだったと思う。

古い体質の日本航空を見限って全日空に行った奴が、会社更生法申請した後の日本航空に再建のため戻って、国交省の威光で重役になるようなもんだからな。
8日本@名無史さん:2011/10/08(土) 19:56:35.26
そういう古い体質を肯定しちゃうかのような態度が、いつまでも発展しない原因なんじゃないの?
9日本@名無史さん:2011/10/08(土) 20:04:19.27
錦旗を掲げた官軍に歯向かうのだから、殿様本人の許可が必要だったはずだが
殿様本人はなぜ開戦を認めたんだろ?

いくら殿様とはいえ、官軍が日本各地で優勢であることは知っていたと思うんだが。
10日本@名無史さん:2011/10/08(土) 20:06:13.50
>>9
ちょっと前まで鎮撫隊がいたのだから、そのトップあたりと話をして日本の情勢は
理解しているハズなにのね。
11日本@名無史さん:2011/10/08(土) 20:11:08.28
あと目時は国学者の平田篤胤を崇拝していたらしい。
http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/88/8891/8891onko/hirata/h01/h01-frame.htm

戊辰戦争前ならともかく、戊辰戦争後だと平田篤胤を尊敬していたことは久保田藩の内通者と疑われる理由にもなる。
いったん奥羽越列藩同盟に加盟した久保田藩を同盟から脱退させるために、
仙台・盛岡藩の使者をいきなり襲撃して斬殺したのは平田篤胤の崇拝者である吉川親子の一派。

まあ目時は先見の明があるというよりは平田国学の信奉者で、錦旗・官軍には絶対服従するのが勤王、
と言う感じの愚直な勤王の志士だったんじゃないかなあ。京都で官軍が掲げる錦旗を見て心底たまげたんだろう。
12日本@名無史さん:2011/10/08(土) 20:33:06.07
>>11
アフォかw

平田のおかげで国学は日本全国で「流行」していたんだよw だからこその、尊皇攘夷思想だ。
お前の言っていることは、尊皇攘夷思想があれば、久保田の内通者という暴論だなw

東も遠野南部も皆、久保田の内通者かよ。
13日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:04:21.41
まあ、八戸南部は実際に久保田に内通していたけどな。
14日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:11:18.89
>>11
そのサイトは、南部藩内(現在は秋田県だけど)の鹿角で地元史や南部史の大家の人のサイトじゃないか。

例の佐庄物語「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」を紹介して、南部藩主の悪逆ぶりをこれでもかって紹介
している人のサイトねw

結構お年なんだけど、まだまだネットに書き込みしていて元気そうだな。
15日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:18:18.41
一応紹介するが、「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」ってのは、南部氏によって、家をばらばらにされ、
財産をかすめ取られた花輪の元豪商の「佐庄一族」が南部家に対して訴えた慟哭の書。

内容は、南部家はの誹謗中傷。三閉伊一揆指導者からも取材してまとめた、南部家への悪口集。
16日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:32:15.92
南部家の伝統的勤王思想は、後醍醐天皇の命令で北畠顕家に臣従して戦って石津で死んだこと、
最後まで南朝側で戦ったと伝えられてることに由来していて、平田篤胤由来の勤王思想とは違う。

そのため南部家と天皇家の関係は他藩ともまた少し違っていた。
遠野南部が明治に男爵になったのは師行の功績だし、南部伯爵が大正天皇の学友になったり、
一条家から養子を迎えたり、靖国神社の宮司に指名されたりしてるのも、南北朝時代の話が影響してる。
17日本@名無史さん:2011/10/08(土) 21:48:21.11
目時はよー
官軍と一緒になって南部軍を攻撃してるからなー


官軍も酷なことをさせるよ
18日本@名無史さん:2011/10/08(土) 22:17:39.23
>>17
秋田戦争の時に目時を見たという噂が流れているが、ホントか?

和平交渉の時に、目時は盛岡藩家老三戸式部と一緒に交渉役として藩境に現れている。
どうやって危険な戦場を移動するんだ?超能力でもあるんか?
19日本@名無史さん:2011/10/08(土) 22:21:45.54
どこかのサイトの秋田戦争の物語には、楢山佐渡に部下が久保田藩側に目時がいます!って報告しているんだよなw
で、楢山佐渡が「おのれー裏切り者め!」なんて激怒するわけだw まるで、親の敵みたいに…

ねぇw それでどうやって和平交渉時に家老と一緒に現れるコトできるの?ww
20日本@名無史さん:2011/10/08(土) 22:41:40.19
http://www.kitanomori.jp/serialwork09-3.html

これねw

****
「佐渡どの、敵陣で采配をふるっているあの男……」
 蔵人が指ししめす、野砲隊の指揮をしている敵の将とは……。
「おのれ、あれは隆之進ではないか」
 どうして忘れることがでましょう、目時隆之進です。
 佐渡さま上洛のおりに同行し、帰国の途中に大坂の宿で、わが子貞次郎を
引き連れて脱藩し、長州藩邸に身を投じたあの男です。
 南部軍いま死闘をつづけ絶体絶命のさなかに……、東北遊撃軍の将として、
こともあろうにかつて上司であった佐渡さまの前に、あちらの軍服姿で立っているとは……。
 佐渡さま、これまでに口にこそだしませんでしたが、たとえ意見を異にして脱藩
したとはいえ憂国の士と信じその後の安否を気遣ってもいた目時隆之進……。
「絶対に許しがたい」
 当然でありましょう、いかなる事情があったにしても、佐渡さまを討つ前面の敵として
ここに現れるとは……。武士の風上になんとやらでございます。
 目時には目時なりの苦悩があったとは思います……。脱藩も盛岡藩(南部藩)の危急を救う
一念からでたもの、それは疑うべくもありません。しかし、いわば故郷(ふるさと)の将兵が、かつて
の同胞(はらから)が、いま悲風惨雨にさらされておりますときに、武士(もののふ)の道に照らして如何でありましょうか。
「おのれ、目時!」
 大声をあげて佐渡さま、太刀を抜かれて「きっ」と刃を敵陣に向けられました。
 あくまでも抗戦の意志です。

***

目時の扱いひでー。 大体なんで目時が新政府側のしかも砲隊の指揮できるんだよ。
物語はこの後、目時の切腹は当然かのような流れになってくるわけですな。
南部藩の体質がこの物語で分かる!w
21日本@名無史さん:2011/10/09(日) 09:29:10.76
>>18
グーグルだと、以下のがよく出てくるだが。

<戊辰戦争末期、九条鎮撫総督以下の東北派遣軍を助けるために編成された東北遊撃軍将府に随従して東北に戻り、

<目時は盛岡藩家老三戸式部と一緒に交渉役として藩境に現れている。>

このソースは?
22日本@名無史さん:2011/10/09(日) 11:12:45.94
>>21
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A4%A8%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
22日南部の軍使3名が袈裟掛口に現れ「停戦申し入れ」を行った。久保田軍もその申し入れを受け、戦闘を停止した。
25日南部の降伏談判が藩境の町、沢尻村で行われた。南部藩の重臣である三戸式部と目時隆之進ほかをともなって、
降伏条件を談判し、南部藩は降伏した。

23日本@名無史さん:2011/10/09(日) 12:33:41.57
>>22
http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/88/8891/8891onko/jinbutsu/j01/jinbutsu-03.htm

<隆之進主従は、戊辰の終戦を秋田で迎えた

とあるが?

あ言っときますが、私は目時を非難するものではありませんよ。
事実は事実としてちゃんとしたいものですからね。
24日本@名無史さん:2011/10/09(日) 12:39:15.15
>>23
降伏条件を談判したのは藩境の秋田藩内の沢尻村だからなー。

でも、実際どうなんだろ。ただ、南部藩側の物語に良く出てくる戦闘に参加したというのは眉唾なのでは?
25日本@名無史さん:2011/10/09(日) 14:35:43.61
まあ官軍側としては貴重な情報提供者だから戦場に連れてくることはありえる。
野砲のそばにいたとしたら、目標の識別だろうな。あいつはだれだれとかこいつはだれだれとか。
26日本@名無史さん:2011/10/09(日) 16:33:13.87
目時を切腹に追い込みたかった人の単なる見間違いでは?
27日本@名無史さん:2011/10/09(日) 16:35:03.50
仮に、そうやって協力してたら、和平交渉時に家老三戸式部と一緒に行動できるわけもなし。

目撃者多数が現地に残っているわけだしな。
28日本@名無史さん:2011/10/09(日) 19:24:27.87
降伏式のときの目時は脱藩してるわけだから、盛岡藩士としてではなく、
あくまで三戸と九条総督の間の、官軍側の交渉の仲介者として参加してるのではなかろうか?
本人確認とかも必要だし。
29日本@名無史さん:2011/10/09(日) 20:59:43.00
>>28
そりゃ、そうだろ。で?
30日本@名無史さん:2011/10/09(日) 22:19:09.61
つまり協力しててもおかしくはない。
31日本@名無史さん:2011/10/09(日) 23:43:42.19
だが、少なくとも目撃されたとかそういったコトのない状態でね。

それなのに、切腹させられた目時。
32日本@名無史さん:2011/10/10(月) 08:48:07.97
まあ少なくとも、三戸式部と一緒に交渉したという「ウィキペディア」は間違いだな。
33日本@名無史さん:2011/10/10(月) 09:20:38.07
>>32
根拠は?
34日本@名無史さん:2011/10/10(月) 12:27:12.67
「ウィキペディア」がソースならないのは、2ちゃんでは常識
35不比等:2011/10/10(月) 12:54:05.22
テスト
36日本@名無史さん:2011/10/10(月) 13:34:55.37
まあ目時が戦場にいたという確実なソースもないが、いなかったという確実なソースもないよな。
いなかったという確実なアリバイがないということはいたかもしれない。
37日本@名無史さん:2011/10/10(月) 14:45:41.75
>>32
横スレだが、目時と三戸式部が和平交渉の場に一緒に現れたということは、『大館市史』に明確に書かれている。
ご希望なら、ページ数や原文をここに書くが?
38日本@名無史さん:2011/10/10(月) 18:58:27.95
まあ普通に考えれば官軍は目時を戦場に連れてくるよね。
いざとなったら南部領内進攻作戦もあるんだし。
39日本@名無史さん:2011/10/10(月) 20:01:23.13
当時の盛岡城の防御力はどの程度だったんだろう?

籠城した場合、1ヶ月ぐらいは頑張れただろうか?
40日本@名無史さん:2011/10/10(月) 20:51:11.79
>>36
そして、目撃者という証拠すらない状態で、切腹にまで追い込む…と。

>>39
直ぐに開城になるんじゃないの?
41日本@名無史さん:2011/10/10(月) 21:27:22.15
>>16
興味があったので調べてみた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96

>更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現
>するようになる。その一方で朝廷では、前述のように永く現皇統につながる北朝を正統とする原則
>が守られ、祭祀もその方針で行われてきた。だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後、公家
>の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、幕末
>の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。

 これによると、江戸時代の朝廷での評価は基本的に北朝正当論だ。幕末にちょっと揺れただけ。そも
そも明治天皇を含めて当時の天皇家は北朝天皇の流れだ。
 なんでそんな状態なのに、南北朝の問題がからんでくるんだよw
42日本@名無史さん:2011/10/10(月) 21:39:32.32
>>37
長いと大変だろうから、ちょっとだけお願い。いつ?がわかればいいよ。


43日本@名無史さん:2011/10/10(月) 22:08:29.19
>>42
『大館市史』p.416によると、22日南部藩の軍使3名が正式に「停戦申し入れ」を行う。それによると、

>「当藩重役三戸式部こと、此の度至急和平せよとの朝廷の御内命を拝して帰国致した。
>よって直ちに停戦して御内命を奉じたい。当藩謝罪の実効は九月二十五日までに誓って
>相立てる。以後の進撃は停止されたい。

とある。三戸式部は京都から帰国して、藩主の南部利剛の説得を行った。そして…

p.417

 南部軍降伏
>二四日、総督府参謀長醍醐忠敬に従って、弘前にいた鍋島参謀前山精一郎が大館に到着した。南部の降伏談判
>は二五日、国境に近い十二所方の沢尻本陣となっていた組下中山仲助宅でおこなわれた。
>この朝、南部の重臣三戸式部は、目時隆之進ほか一名をともなって花輪を出発、国境からは十二所谷田部三
>吉・谷田部多吉両名が同道、士五人、卒二〇人が警護にあたった。

とある。目時隆之進は24日、南部領の花輪から三戸式部と一緒に和平交渉に向かったと記されている。
確かに、これだと終戦時には久保田藩にいることになる。
44日本@名無史さん:2011/10/10(月) 22:30:18.38
ん?目時隆之進って花輪から三戸式部と一緒に久保田藩まで移動したのか。

ひょっとして、目時隆之進って三戸式部と一緒に京都から帰国したんじゃないの?
45日本@名無史さん:2011/10/10(月) 23:46:04.62
もりおか歴史文化館見てきました、面白かったよ。
46日本@名無史さん:2011/10/11(火) 09:37:44.33
盛岡城が開城したとき、大砲186門、和洋小銃6638丁、弾丸1万918発、
があって、宮古には函館でフランス人のハーブルから買った新型小銃と弾薬が届いていたというから、
西南戦争の熊本城くらいは粘れるんじゃないだろうか。
47日本@名無史さん:2011/10/11(火) 10:07:46.71
>>46

熊本城と比べると、防御力はかなり劣るのではないか?盛岡城は。
48日本@名無史さん:2011/10/11(火) 13:49:54.53
熊本城には及ばないと思うがあの高石垣は攻撃側にはかなりの障害。
石垣は一ヶ月粘った若松城より大きい。火力に通じた楢山が城内で防戦を指揮すればかなり粘りそう。
49日本@名無史さん:2011/10/12(水) 02:29:42.85
盛岡城の石垣って県庁や石割桜のある裁判所側から見ると、ほぼ同じ高さにある。
防御を考えるなら今の裁判所あたりに石垣つんで高い石垣造ったほうが防御も強い城になると思う。
50日本@名無史さん:2011/10/12(水) 02:42:51.75
権威の象徴としての城造りだから、あれはあれでいいけど。

城を作る以上の労働力や財力を必要としただろうのは、北上川の流れを変えた事業。
現在の工業力をしても川の流れを変えて、それをいまでもそのままにしていられるなんてすごい!
いったいどんな工事があったのか想像もつかない。
51日本@名無史さん:2011/10/12(水) 09:35:34.82
むかしは裁判所のあたりも城の中だしね。内丸はみんな城の中。
お堀や門ももっといっぱいあった。高石垣の上には塀と櫓があった。
それに小銃と弾薬がいっぱいあった。
52日本@名無史さん:2011/10/13(木) 00:41:37.14
石垣の高さと内丸側の土地の高さがあまり変わらないよね。

戦う城を作るなら内丸側に築城するのが城造りの定石なはず。
戦う意志はないという形の小さなお城。
53日本@名無史さん:2011/10/13(木) 00:44:54.90
>>51
大砲や小銃、弾薬が多数みたいな事を書いた新聞あるけど、銃砲の数には弾薬の数があまりにも足りなすぎ。
54日本@名無史さん:2011/10/14(金) 19:35:53.98
盛岡城は北上川と中津川を障害として利用することに意味があるから内丸みたい川から遠いと意味がない。
それにあそこは戦国時代から福士氏の不来方城があった場所で、必ずしも平和な時代の城だからあそこにあるという訳ではない。
火縄銃の一般的な射撃距離は15間(27m)くらいだから、内丸の高さが石垣とあまり変わらないからといって不利になることもない。
見下ろして石垣の中の塀の中が見えるくらい内丸の方が高いなら確かに不利だが、そこまで高いわけではないしライフル銃でも中は撃てない。
55日本@名無史さん:2011/10/17(月) 01:42:49.11
スレ違いすみません
家のご先祖様は南部の殿様にくっついて東北に来たって親は言うんだけど
家紋は所謂キュウリ、明治くらいには土地を手放しただったかで
どう考えても百姓だと思うんだけど、農民でも殿様に付いて来れたんですか?
56日本@名無史さん:2011/10/17(月) 01:51:05.54
農民がいないと殿様は存在できないだろ
57日本@名無史さん:2011/10/17(月) 02:04:01.79
>>56
なるほど。
付いてくるのは部下の武士のみで、
農民は現地調達に決まってると思い込んでました。
ありがとうございました。
58日本@名無史さん:2011/10/17(月) 02:33:43.96
>>55
ついて来たのが鎌倉時代の事なら元々は武士だった可能性もある。
キュウリが木瓜紋の事なら農民とは限らん。wikipedia見ても武士も使ってる。
59日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:22:39.07
>>58
木瓜だからといって農民だったという証拠にはならないんですね。

とりあえず農民でも殿様について行けると知って
親のいうこともあながち嘘でもないということが分かりました。
ありがとうございました。
60日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:47:52.99
>>59
名字は?
全部言っちゃだめよ。ヒントだけね。
61日本@名無史さん:2011/11/08(火) 19:49:10.19
>>54
北上盆地は城造りには向かない地形だからな。
糠部みたいに標高の低い山が幾つもある地域と違う。
62日本@名無史さん:2011/11/09(水) 04:56:18.13
>>55
●●誠治やら、仮面ライダーフォーゼの○○蒼汰、長距離走の▼▲加代子と
同じ名字なら、南部の旧領の甲斐国から一緒に来たらしい。たしかそのとき
甲州から引き連れてきた譜代の家臣を、「甲州御譜代」というらしい、その名字と
三上、工藤、桜庭、安芸が、「甲州御譜代」の「四天の士」として認知されてる。
目時・対嶋・神・津村・岩間の五家を「家の子」というんだそうだ。

http://www.morioka-times.com/news/2007/0710/26/07102605.html
家系が古いせいか分家が多くて、南部氏の南下にともなって、代官もしくは
前線の指揮官として配置されていたらしい。
戦国後期に、なぜか一気に地位を剥奪されて、前線から後退させられて
家臣団の構成員になっている。

南部と同じ系統の甲斐源氏の出といわれているけど、家紋が
全然違うんだよな。鎌倉期の早期から臣下に降りたからだろうか?

九戸政実の乱でも、かかわっていたかな?そのへんは歴史書を確認しないと判らない。

明治になって、朝敵になったのと、四民平等で武士の身分を失って、北海道に
わたっていった南部藩士、津軽藩士(津軽も南部の支族だから藩士に○○姓は多い)
は多いようだから、帰農したのは充分考えられると思う。

あと胡瓜の家紋だと「伊東」の名字も胡瓜(キュウリ)らしい。
63日本@名無史さん:2011/11/09(水) 09:43:57.76
南部だって武士だけど馬牧場経営してたしなあ。武装した牧場主の集団とも言える。
キュウリの栽培してた武士がいてもおかしくない。
あるいは籠城してたときにキュウリで渇きをしのいで敵に勝ったとか。
64日本@名無史さん:2011/11/09(水) 18:19:23.59
>>62

ごめんごめん、工藤は違った。
工藤は鎌倉時代の、北条家の直臣(得宗被官)。伊豆か山梨から
移住してきた家系で、南部との主従関係は南北朝期以降だ。
65日本@名無史さん:2011/11/11(金) 00:29:19.97
ド素人ですが南部鉄器の南部とニューナンブの南部は同じですか?
66日本@名無史さん:2011/11/11(金) 00:32:06.17
>>55
士分にくっついてる中間とか小物ってのは普段は農作業やってたとか。
そういう半士半農のことなのかもしれない
67日本@名無史さん:2011/11/12(土) 11:38:58.44
あるいは特殊な技能を持っていたとかかも。
藩政の人材登用は家柄中心だったけどそれ以外の
広く受け入れてたみたいだしねえ。
南部鉄器も確か藩外からやってきた人によってもたらされてるし。
68日本@名無史さん:2011/11/12(土) 14:20:04.58
南部鉄器の南部は甲斐の国の南部から陸奥の国に領地もらって移住した御家人。
ニューナンブのナンブの南部麒次郎の南部は、甲斐の国の南部から薩摩の方の領地もらって移住した御家人。
源義光の子孫という点では同じ。
69日本@名無史さん:2011/11/13(日) 00:53:16.30
南部の領地内には一戸から九戸まで数字の地名がありますが、四戸が何処にあったのかさっぱりわかりません。
70日本@名無史さん:2011/11/13(日) 08:21:24.61
>>69

それは永久欠番だよ。
71日本@名無史さん:2011/11/13(日) 19:50:55.73
四戸については、青森県八戸市の櫛引と言われる。
その根拠は、同地にある櫛引八幡宮のかつての別名が「四戸八幡宮」であったことである。
一説には、青森県三戸郡五戸町浅水または同町志戸岸であったとも言われる。また、
四戸がない、もしくは消滅した理由として、「四」は「死」を連想するからとも言われる。
72日本@名無史さん:2011/11/13(日) 20:01:43.21
九戸は乱を起こして滅亡したしなw
73日本@名無史さん:2011/11/14(月) 00:36:02.87
>>71
四戸さんは大槌の実家の近所にいた。
74日本@名無史さん:2011/11/14(月) 17:21:10.78
282 :名無しさん@青森:2010/11/26(金) 10:43:57
北海道に行けば出身地が姓の人がたくさんいる。
八戸さんはもちろん四戸、三戸、近江屋、能代屋、秋田谷、
能登谷、越前谷、越後谷、松任谷、出羽、金沢・・・・

など貧しい北陸、裏日本が多い。
近江が多いのは近江商人が跋扈していたから。
http://125.6.172.27/bbs/read.cgi/travel/2887/1079640431/105n-
75日本@名無史さん:2011/11/14(月) 18:07:29.03
>>74
裏日本が多いのは、単に北前船の航路だったからだろ。

太平洋側だと、一旦遭難すればどこまで流されるか分からない。
日本海側は冬は荒れるが、季節によっては良い航路を選べる。
76日本@名無史さん:2011/11/14(月) 19:33:50.59
伊達市とか別に裏日本じゃないじゃん。
それに昔の裏日本は太平洋岸よりずっと豊かだぞ。
77日本@名無史さん:2011/11/15(火) 19:47:22.18
東回り航路はリスクが高いけどそれ以上に
成功した時の利益は多かったらしいね。
78日本@名無史さん:2011/11/20(日) 01:06:02.66
日本の内海航路は日本海側が主流であって。
79日本@名無史さん:2011/11/20(日) 20:44:39.61
だからこそ、南部氏はその航路の覇権を握っていた安東氏に戦いを挑んだわけで…

で、せっかく安東氏を追い出したのに、独立されちゃったから怒り心頭に達した…と。
80日本@名無史さん:2011/11/20(日) 21:15:37.90
>>79

南部は水軍とか海上交易をやる能力がないと思う。
81日本@名無史さん:2011/11/21(月) 00:20:08.04
>>80
水軍も聞いたことないし、交易のノウハウもないと思う。
豪商の前川善兵衛には御用金かけて結局潰してるし。

八戸とか下北とか地盤にしてたはずなのに、なんでだろう?
82日本@名無史さん:2011/11/21(月) 19:32:25.93
遠野南部に伝わる田名部御陣日記によると、
1475年の蠣崎一揆のときに八戸の南部政経が編成した水軍は、
船奉行:川野陸左右衛門
天文方:安守炊大
で、政経は後醍醐天皇のサイン入り菊花フラッグを掲げた「竜王丸」に乗船。
軍船7艘、早船32艘、兵糧船2艘、馬船7艘、合計49艘、1715人、馬88頭で八戸を出港。
大間岬を回って田名部に上陸作戦を敢行し、田名部城を制圧。蠣崎氏は松前に脱出したと言う。
83日本@名無史さん:2011/11/21(月) 19:45:11.32
>>82

南北朝時代には水軍あったのかもしれないが、肝心の戦国時代にはあったのだろうか?
84日本@名無史さん:2011/11/21(月) 22:43:26.32
>>83
水軍を使わなきゃならない敵がいないだろ。
85日本@名無史さん:2011/11/21(月) 23:08:13.04
だから、太平洋側は危険だからなんじゃ?
青森県岩崎の森山には、半分武士で半分海賊やってて、ガンガラ穴から海賊が出航して船を襲っていた武士団がいた。
小野茶右衛門率いる海賊団ね。戦国時代に交易船を襲っていたようだ。

http://chihoko777.exblog.jp/15289395/

で、この岩山の上に城を建てていた。小野の部下に久六という七戸出身の武士がいて、彼が発見したのが久六島だ。
そいや、この近くの民宿に泊まったことがあったが、その民宿の名前も「七戸民宿」何か関係あるのかな?

南部に縁がありそうな話ばかりなのに、なんで場所が津軽なんだろうな。
86日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:38:26.84
小野茶右衛門は津軽氏と敵対していたから、元は南部から送り込まれ津軽西沿岸部を根城に各種活動をしていた
部隊なのでは?

水軍とか海賊とか色々言われているようだが。
87日本@名無史さん:2011/11/22(火) 00:48:29.80
と思ったが、Wikipedia を見ると、小野茶右衛門は津軽為信の家臣だったのか。
で、津軽藩二代目を決める際に、為信の長男の息子側について、征伐されちゃったと書かれているなあ…。

まあ、為信も元は南部だし…
88日本@名無史さん:2011/11/22(火) 09:44:37.81
まあ津軽為信も南部の家臣だったからな。
江戸時代の盛岡藩は宮古に「虎丸」と「宮古丸」という大筒搭載の軍船を持っていたが、
普段は廻船問屋に貸してたらしい。ただ北海道に行く時は実際に使っていただろう。
盛岡藩はロシア海軍とも戦闘してるし。
89日本@名無史さん:2011/11/22(火) 21:52:13.25
松前もホントは南部なの?
90日本@名無史さん:2011/11/22(火) 23:52:56.82
>>89
南部氏系じゃない。家系が怪しげだから貿易商人の出でしょ。
91日本@名無史さん:2011/11/23(水) 23:14:18.94
あるいは安東系かもしれん
92日本@名無史さん:2011/11/23(水) 23:35:04.96
能代の檜山城で安東の為に、大館の浅利氏当主を暗殺までしているんだから安東系だろ。

これで、安東家内部でのし上がり、津軽と同じようにぎりぎりのタイミングで豊臣秀吉に
独立を認めさせた。
93日本@名無史さん:2011/11/24(木) 14:08:27.59
安東水軍も下北では南部政経に敗北したわけだな。
94日本@名無史さん:2011/11/24(木) 21:00:14.90
安東「水軍」なんて、キハチローの妄想。

水軍なんてナイナイ。北海道と津軽を往復してただけ。
95日本@名無史さん:2011/11/24(木) 23:40:38.05
この時代の水軍ってのは大抵が半漁半兵だろ。
まあ水軍を使う機会そのものが無かったみたいだが・・・
96日本@名無史さん:2011/11/25(金) 05:39:23.13
>>95
> この時代の水軍ってのは大抵が半漁半兵だろ。


そうなんだが、それでも将領は専業のプロだったと思う。
97日本@名無史さん:2011/11/25(金) 05:41:25.99
>>94

小規模ではあったとしても水軍はあった。あることはあった。
98日本@名無史さん:2011/11/25(金) 13:28:45.74
むしろ戦国時代は非武装の船主とか皆無。
船持ってる奴は確実に武装している。あとはそいつらを戦時に組織できるかどうか。
領地に港があって勢力大きい八戸南部や秋田の安東は当然できる。
99日本@名無史さん:2011/11/25(金) 13:42:24.82
佐竹の水軍は河川パトロール部隊並のしょぼい陣容だったのに
朝鮮出兵に駆り出されてしんどい思いをしたと聞いたことがある。
100日本@名無史さん:2011/11/28(月) 15:44:47.31
100です。
101日本@名無史さん:2011/11/28(月) 18:42:37.89
>>100

楢山 乙
102日本@名無史さん:2011/11/29(火) 22:23:27.64
搾取南部はとっとと消えてください
103日本@名無史さん:2011/11/30(水) 23:19:29.86
九戸の乱の時は、それまで反目していた北東北の大名がほぼ全員集合し、一同に会した。
想像するだに、わくわくするんだけどw

何を話したんだろうな。
104日本@名無史さん:2011/12/17(土) 08:21:14.99
波木井の末裔
105日本@名無史さん:2011/12/19(月) 08:48:19.50
南部藩時代の藩主、結構短命だなあ。直系にスムースに継承してなくて、結構何度も末期養子になりそうな危機に貧してる。藩運営自体がとても稚拙でよく続いたなという印象。
106日本@名無史さん:2011/12/19(月) 20:15:49.89
徳川将軍家だってそうだろ。あんだけでかい大奥つくっといてあの有様。
大阪の陣から幕末までスムースに直系継承してる大名家とかあんのかいな?
107日本@名無史さん:2011/12/20(火) 01:42:46.98
小藩の方が以外と
108日本@名無史さん:2011/12/24(土) 22:35:05.32
なんかよく知らんが日本に優秀な伝書鳩を普及させたのは南部伯爵家らしい。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/chihuahualife/public_html/sirayuki.pdf
109日本@名無史さん:2012/01/14(土) 04:11:42.31
鳩をテレビのネタにしたのは新沼賢治の功績だ。
110日本@名無史さん:2012/01/18(水) 20:26:07.92
今は、天皇家の男系。

男系派には、旧皇族より、重視される場合もある。
111 忍法帖【Lv=13,xxxPT】 :2012/01/22(日) 14:14:06.84
保守
112玄ム:2012/01/22(日) 15:51:41.56
本州の北の果てなのに南部とはこれいかに?
113日本@名無史さん:2012/01/22(日) 18:26:27.13
ガッチャマンに出てくる南部考三郎博士は岩手県出身で田中館愛橘博士の弟子。
114日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:35:30.15
>>106
島津家は幕末以外はスムーズだと思う
115蓮舫:2012/02/11(土) 12:10:22.66
>>112
山梨県南部町出身だから。
116日本@名無史さん:2012/02/27(月) 23:30:27.42
山梨には今も、福士という土地があるが福士さんはいないという。
岩手には福士さんってけっこういる。
117日本@名無史さん:2012/02/28(火) 06:37:15.01
落合の息子の落合福祉も甲斐源氏系ですか?
118日本@名無史さん:2012/03/01(木) 08:46:27.12
女子マラソンの福土さんっているよね
119118:2012/03/01(木) 14:32:39.41
訂正 福士
120日本@名無史さん:2012/03/01(木) 16:37:52.18
うむ
121日本@名無史さん:2012/03/02(金) 00:00:33.03
青森県出身の人だね。
122日本@名無史さん:2012/03/07(水) 20:32:33.93
小笠原も多い。

アントラーズの小笠原とか。
123日本@名無史さん:2012/03/12(月) 01:18:42.42
南部晴信に頑張ってもらい、東北を統一し、福島辺りまで領土を広げておれば、
縁の深い武田と同盟を結び、北條、佐竹、上杉を牽制し、武田と織田を争わせ、東北、関東を統一し、幕府を開くという筋もあったかもしれない。
124日本@名無史さん:2012/03/12(月) 01:21:29.37
歴史に「もし」はいらない。
125日本@名無史さん:2012/03/12(月) 12:04:04.86
戦国大名といっても、天下を取ることまで狙っていた人は少数でしょ。

信長がいかに天才でも南部とか房総里見の家に生まれていたら、天下は狙えなかったと思うね。
126日本@名無史さん:2012/03/12(月) 19:46:03.29
南部が天下取りに一番近づいた時といえば、南部師行が北畠顕家の腹心だった時ではないか?

北畠が足利尊氏打倒に成功していれば、その腹心である南部にも天下取りのチャンスがあったかもしれない。
顕家が尊氏を打倒すれば、陸奥将軍府の南部、結城、伊達が北畠将軍家の譜代の家臣になる。
127日本@名無史さん:2012/03/12(月) 20:12:07.87
北畠顕家は貴公子って感じなんで軍事面は南部師行が代行していたのかな
128日本@名無史さん:2012/03/12(月) 20:30:33.71
尊氏再起軍の中核だった少弐の末路を知らないのか
129日本@名無史さん:2012/03/12(月) 21:46:25.52
豊島河原合戦では新田・北畠10万騎(太平記)と足利軍16万騎(太平記)が、
激突し、楠正成が背後から襲い掛かって尊氏を包囲した。

このとき南朝方が尊氏を確実にしとめていれば、南部師行は中央政府の要職についていたことだろう。
130日本@名無史さん:2012/03/12(月) 22:08:50.51
仮に南部家が中央政府で高い地位を得ていたら
かえって戦国期には地侍などに追放されてたのではないか
(津軽為信の件もそうだろう)
中央で成功しなかったからこそ戦国期も守護大名として生き残ったのだろう
それがいいことかどうかわからんがね
131日本@名無史さん:2012/03/13(火) 11:18:21.42
すんまそん。
北部御陣日記(東北太平記)のことを書いた本をみつけたんだが
これどこまで信用してええの?
下北に大塔宮の落胤が国を作ったとか
南部信政の死に方が師行そっくりだったりとか
明らかにフィクションな部分はまあいいとして
北朝に最後まで降らなかった根城南部とか、
蠣崎の乱の後京都に凱旋した南部軍が喝采を浴びたとか、気になるじゃないか。
そういう中央で記録されてそうなところを検証した人っておらんのだろうか。
132日本@名無史さん:2012/03/13(火) 13:46:55.77
検証した人によると今のところ中央の記録はないようです。
http://www22.atpages.jp/kakibaku/yum_his0201.html

ただ田名部にいた甲斐源氏系の蠣崎なんとかが、八戸根城南部に討伐されて北海道に逃亡、あるいは移住?したという所は、
南部家、秋田安東家、松前蠣崎家の記録で共通するのでフィクションとも思えません。

応仁の乱以前は京都で勤番とか実際にあったようですし、京都に凱旋とかも在り得ない話ではありません。
根城南部は明治になってから師行の功績で男爵になるくらいですから、京都の方でも知名度は高かったと思います。
133日本@名無史さん:2012/03/13(火) 21:06:05.47
>>132
どもです。乱自体はあったというのが常識的な解釈なんですね。
しかし分からんのですが、
根城側の文書では、なにかしらの蜂起の前に
当の根城南部自身がのちの蜂起首謀者らに「田名部を知行に与えて」いる。
つまりもともと根城南部は田名部を領有していたととれるのだけれど
乱の後で「田名部を賜った」とわざわざ書いている。
もともと根城南部の支配下だったけど飼い犬が手を噛んだ、とも
どこともつかない連中をやっつけて、その支配地をせしめた、とも取れてすっきりしない。

東北太平記だと根城南部の武田修理と赤星五郎が遅くても南部信政の時代には
田名部を制圧していることになってるけど
いずれにしても「根城南部は政経の時代に下北半島を手中にした」という一般的な解釈が
成り立たなくなりますよね。
蠣崎(武田?)の素性は一般的にはどう取られてるんでしょう。
しつもんばっかで申し訳ない。
134日本@名無史さん:2012/03/14(水) 00:49:02.06
南部の本家筋は鎌倉幕府滅亡の時に絶滅。
135日本@名無史さん:2012/03/14(水) 13:33:22.28
賜るというのは土地所有の事務的な形式じゃないでしょうか?
荘園でも、実質私有地だったところを、税金逃れのために有力者に寄進して、わざわざ元の地主を代官に任命したりするわけです。

天皇家や朝廷がもとから田名部の所有権に関心があったとは思えませんから、実質、南部家の支配下にあった田名部を、
親戚・縁戚の武田(蠣崎)に与えていたのを、討伐を公的なものにするために、わざわざ天皇家から頂いたという形式にしたのではないでしょうか?

あるいは知行といっても実際は田名部は不毛の地だったのかもしれません。
あるいは先に安東の家臣がいたのか?
とにかく何の理由もなく、1456年前後に武田が田名部から松前に移るのは不自然ですから、
その後も田名部が南部の領地であることを考えれば力ずくで追い出されたんでしょう。

ただのゴロツキが甲斐源氏の南部を苦しめられるとは思えませんから、やはり蠣崎は戦闘技術に秀でた武田の流れじゃないでしょうか?
136日本@名無史さん:2012/03/16(金) 01:26:39.33
どの時代の事を語っているのか意味不明ですけど。
137日本@名無史さん:2012/03/16(金) 08:59:23.68
>>136

ちゃんと書いてるだろう。 あたま悪。
138日本@名無史さん:2012/03/16(金) 16:07:12.53
>>130
その場合、領地は南部だとあまりに遠すぎるので東海や機内に
土地を貰ったんじゃないかな?
そんで南部地方は息子の誰かが受け継いで、結局あんまり
変わらないこととなったかと。
139日本@名無史さん:2012/03/17(土) 01:09:51.49
>>138
斯波とか畠山がそういうパターンか?
140日本@名無史さん:2012/03/31(土) 13:59:28.75
南部は遠いけど、武士にとって大事な乗馬の貴重な産地だから手放しはしないだろうね。
141日本@名無史さん:2012/03/31(土) 14:04:32.45
しかし斯波氏ってのもよくわからんけど、足利家氏が今の紫波郡に土地持ってたから斯波なんだよね。

別に紫波郡の出身じゃないんだろうけど、なんか信長の野望みたいに紫波郡が全国制覇したとかと勘違いしそうになるよね。
142日本@名無史さん:2012/03/31(土) 15:01:03.67
>>125
戦国時代がもっと長く続いてたら、
日本はマケドニアや秦みたいな辺境で巨大化した国が統一してたかもね。
143日本@名無史さん:2012/03/31(土) 15:21:56.20
足利家氏は鎌倉時代やし。
ニュアンスとしては甲斐の南部氏が三戸に所領を得て三戸南部と称したのと変わらないんじゃねーかと。
ただ斯波家氏が血筋的に足利の中で宗家の血が濃かったせいか
室町時代の一時期は足利の中でもかなり偉い立場だったとかなかったとか。
室町(足利)時代に天下を取ってたと言ったらあながち間違いじゃないかも試練よ。
こいつらが没落したからこその戦国時代。
144日本@名無史さん:2012/04/01(日) 00:47:16.84
      ∩
  ( ゚∀゚)彡 万博!草餅!
     ⊂彡
   
145日本@名無史さん:2012/04/01(日) 12:24:10.31
そういえば信長ももともと斯波の家来なんだよな。

信長の野望のスタートが、岩手の紫波郡に由来する斯波を倒すところから始まるというのも不思議な話だ。
146日本@名無史さん:2012/04/24(火) 00:00:27.79
むかーしむかし、南部という領民見殺しのありえねー糞藩があったそうじゃ
江戸城で上座に座りたいために領民に税負担を押し付け餓死者まで出たそうじゃ

                 ||    ::::::::::::::::::::::::::::::
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   ( ´Д`)      i    (・д・) ∧∧::::::::::
  /::: Y i     ,-C- 、( y   (゚Д゚ ) ヒィィィ::
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 |::::: "   ゝ   ヽ__ノ   (__(Д` ) :::: 
 \:::::__  )//    //  っ⊂L∧ ∧ テラオソロシス
147日本@名無史さん:2012/05/03(木) 17:45:42.73
>>141
斯波氏初代の母親が、北條(名越)朝時の娘で、名越氏が所領にしていた紫波郡の所領を化粧(けわい)料として、足利泰氏に嫁いで、その所領を基盤に生活したから、斯波氏じゃなかったかな?
あとで、足利泰氏に、得宗家から正妻が入ったから、名越の娘は正妻の座から降りることになるが。
148日本@名無史さん:2012/05/03(木) 19:15:17.63
何という複雑な
149日本@名無史さん:2012/05/04(金) 02:04:40.50
根城南部嫡流説の根拠として
根城の家紋はただの向鶴だが三戸は丸の中に向鶴。
丸がつくのは分家の証拠、というのを聞いたんだけど、
>丸がつくのは分家の証拠
って、どこでもそうなんでしょうか。
150日本@名無史さん:2012/05/04(金) 19:51:18.15
三戸南部は分家というより、だいぶ後になってから甲斐の南部から陸奥の南部に移住して、
先住の八戸のお世話になって、南北朝では八戸の部下になった、という感じでは?
151日本@名無史さん:2012/05/04(金) 21:33:14.37
>>149
ある時期において、分家は本家の家紋に対して丸や蔓などの装飾を追加して使用していたようだが、
丸無しが本家で丸付きが分家とは一概に言えないようだ。
152日本@名無史さん:2012/05/05(土) 11:31:32.80
東海テレビの昼ドラ「夏の嵐」という番組の存在を知った。
この昼ドラって、主人公が南部家なんだよなw 史実と一致するのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E3%81%AE%E5%B5%90_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E_1989%E5%B9%B4)
153日本@名無史さん:2012/05/05(土) 15:34:24.07
そうだったかな。考えても見なかった。ドラマ自体は「嵐が丘」の翻案だしなぁ。
あっ!!「嵐が丘」は「愛の嵐」の方だった。
全くのスレ違いだが当時のその枠はレ・ミゼラブルの翻案で「愛 無情」(榎木孝明主演)とか
面白いドラマがいろいろあった。
154日本@名無史さん:2012/05/05(土) 19:52:46.05
南部男爵家は実在した。遠野(根城)南部家が南部師行の功績で男爵になった。

城北大学ってのは東北大学なのかなあ?海軍軍人とかいてもおかしくはないが。
155日本@名無史さん:2012/05/06(日) 00:10:33.21
>>150
いつ頃から、糠部にいたかははっきりしないけど鎌倉時代末期には後の三戸南部と言われる南部氏は
はいたと思われる。同じように政長もこの近辺にいたと思われるけど、これらを実証される文書類がない。

<先住の八戸<南北朝では八戸の部下になった、
これらは疑問。
156日本@名無史さん:2012/05/06(日) 03:03:59.21
>>149です。レスどーも。

>>151
そうなのか…。言った人わりと自信満々だったんで信じかけたよ。

>>155
南部氏スレの1で、南部政長が「奥州から」新田の鎌倉攻めに参じてることから
そのころには糠部でそれなりの勢力があった、みたいな話が出てましたね。(ただし根城南部)
いずれにしても光行が奥州合戦の恩賞で、というのは信用されてないわけか。
鎌倉末期、工藤氏がいたはずの三戸あたりに「三戸南部」がいたであろうというのは
どのあたりから出て来る見方なんでしょう。資料とかあるなら教えてくれると嬉しい。
157日本@名無史さん:2012/05/06(日) 09:21:21.27
東北大学は、略して、東大。
158日本@名無史さん:2012/05/06(日) 14:21:16.67
ようつべに夏の嵐あったけど。
http://www.youtube.com/watch?v=v9Gwq3c8Mvo

高木美保はどこまでも誇り高い根城南部の令嬢のイメージにぴったりだな。
根城南部は女の城主もいたからな。
南部=海軍っていうのは山屋他人、米内光政、及川古志郎あたりのイメージなんだろうな。
159日本@名無史さん:2012/05/07(月) 02:00:15.18
http://homepage2.nifty.com/kanke/index.html

ここの「かんけ書房」という古本屋に…

http://homepage2.nifty.com/kanke/huroku/1104/soumadaisaku3102.html

じだいまんが「相馬大作」が売られているw!
1枚落丁で値段は400円か。

漫画王 S’31年2月号付録 だから、リアルタイムでこれ読んだ人は、60代だな。
160日本@名無史さん:2012/05/07(月) 22:34:00.98
>>156

<三戸あたりに「三戸南部」がいたであろうというのは

実はこれが’さっぱり分からん状態’です。資料がないんですよ。「根城南部家文書」によって
ある程度鎌倉末期の糠部群の状況は分かるんですが、この文書群の中にもこれが三戸南部からの物だ
と言う文書はほとんどないんですね。これがそうだろうと言う物は数通ありますがね。
しかし その後(これもいつ頃かは謎)三戸を本拠としたことは間違いないことですので、
三戸と南部氏には何らかの繋がりがあったことはあったと思います。
三戸南部家の文書類は、晴政以前の物はほぼゼロに近いのですが、「これは三戸南部のことでないか?」
と言うような物をつなぎ合わせて三戸南部氏像を造ってる状況ですね。

「工藤氏」ですけど、糠部、津軽は強いですね。地頭代は工藤一族が多い。
ところが工藤一族はばらばらだったんでしょうね。一致団結して南部氏と対決してたら南部氏は
滅んでたと思います。
 
ちなみに、青森県で一番多い名字は「工藤」です。
161156:2012/05/08(火) 02:13:39.14
>>160
レスどもです。
要するに鎌倉から戦国までのことを語る三戸側史料は信用せんほうがいいってことですか。
ちょっと東北太平記でおなじみ蠣崎蔵人が天間五郎の子で
かつ天間五郎は三戸13代守行の6男行長だ、という話をネットでみかけたんで
おっかけてたんですが、その説の根拠は三戸南部史(南部史要)と三戸南部の系図だそうで…。
信用できるなら相当おもしろい話なんですが、やはりだめっぽいですねー。
162日本@名無史さん:2012/05/08(火) 22:47:42.90
<<161
>三戸側史料は信用せんほうがいいってことですか。

100パーセントそうかと言われれば、そうも言えない、としかいいようがないですね。
天間五郎にしても、否定することもできない(証明)し肯定することもできないわけですし。
ただ公式記録は眉に唾をつけて見るってことでないでしょうか。

「蠣崎蔵人の乱」は実際にあったと思われますが、詳細は南部側資料では、「八戸系図」
「八戸家系」に記載されてるものしかないのではないでしょうか?あと「下国伊駒安倍姓之家譜」
とか「新羅之記録」を参考にすればおもしろいかと。
武田信広、とか安藤政季とかでてきて興味は尽きません。
163日本@名無史さん:2012/05/10(木) 01:01:58.72
むかーしむかし、南部という領民見殺しのありえねー糞藩があったそうじゃ
江戸城で上座に座りたいために領民に税負担を押し付け餓死者まで出たそうじゃ

                 ||    ::::::::::::::::::::::::::::::
                 ||       :::::::::::::::::::::
   ∧_∧        ||    ∧ ∧コワイネェ::::::::
   ( ´Д`)      i    (・д・) ∧∧::::::::::
  /::: Y i     ,-C- 、( y   (゚Д゚ ) ヒィィィ::
 /:::: >   |    /____ヽ (___、|_y∩∩ :::::::
 |::::: "   ゝ   ヽ__ノ   (__(Д` ) :::: 
 \:::::__  )//    //  っ⊂L∧ ∧ テラオソロシス
164161:2012/05/10(木) 20:51:14.93
>>162
またしても詳しい説明どもです。遅レスすみません。
なるほど八戸の史料に三戸の存在を感じるものは結構あるですね。

>「下国伊駒安倍姓之家譜」「新羅之記録」

うわーまた知らん名が!と思ったら安東、松前の史料ですか。
しっかりメモっといた上で、まず南部から地道に行きまふ。
165日本@名無史さん:2012/05/15(火) 02:04:09.73
南部藩の領民にとっての良い話ってなにか残ってないのでしょうか?
166日本@名無史さん:2012/05/15(火) 10:18:28.88
>>165

幕府直轄の天領だったらどんなに楽だったか…。
167日本@名無史さん:2012/05/16(水) 01:11:25.57
浄法寺氏が畠山重忠の子孫てほんまかいな。
北条に謀られた重忠の末裔が、
北条に保護された甲斐源氏の末裔の家来やってたってなんか強烈
168日本@名無史さん:2012/05/16(水) 08:02:15.39
へえ知らなかった。末っ子の子孫が鹿角の大将、浄法寺氏なんだな。

南部の馬ッコを愛する精神はひょっとしたら畠山重忠の伝統なのかもな。
169日本@名無史さん:2012/05/16(水) 08:37:13.55
>>165
三浦さんたちの英雄話とかか。
今回の被災地にも三浦さんたちはいる。
170日本@名無史さん:2012/05/16(水) 11:16:29.73
>>169
そういう意味じゃなくて、南部藩でよかったなぁって
エピソードが皆無に近いってことだろ
171日本@名無史さん:2012/05/16(水) 13:29:50.64
でも白河藩に転封されたときは領民上げての復帰嘆願運動のおかげで、
半年で盛岡に13万石で復帰したんだよな。

八戸市や鹿角市はいまだに岩手県に編入して欲しいとかいうときあるし、
なんだかんだいって津軽や秋田よりは旧南部のほうがいごこちいいんだろうなあ。
172日本@名無史さん:2012/05/16(水) 16:32:31.49
>>171
ホントかw? と思いググってみると…

http://books.google.co.jp/books?id=Hx4QRN5-7X4C&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false

上のようなソースがあったな。

はあ?「飢饉の折に、藩主の政策に助けられた」???? 何これ?w
「尊敬できる藩主を持った領民の幸せ」????? はああああ?

ひょっとして、八戸藩の話を無理矢理に南部藩の話にしていないかこれw?
173日本@名無史さん:2012/05/16(水) 17:05:51.59
ほれ、お国自慢と格付けしかできない人を
スルーできないとこうなるわけよ >>ALL

そういうのが大好きな歴史好き?に限って
現代史になると「昔の話を今さら持ち出されても」とか
言い出すんだから、マトモな話は通じないと見た方がいい。

ここでまともなレスしてた人みな「郷土愛に燃えて」「南部様のために」やってるとか
勘違いすんなや。南部の歴史にねつ造はデフォ。みな「どこまで信用できるか」からやっている。
くだらねえ話で荒らすなら消えてくれ。
174日本@名無史さん:2012/05/16(水) 17:35:33.44
>>173
ここ学問板だぜw
学問的にあった/なかったでやらんといかんのじゃないの?
175日本@名無史さん:2012/05/16(水) 18:07:49.80
日本の歴史上最大の飢饉は、天明2年(1782)から7年にかけての「天明の飢饉」である。
最大の被害にあったのは南部藩で、藩内の餓死者が6万4000人を超えたたということになっている。
この人数は、幕府に対する藩の報告でも、当時の戸籍である「宗門改帳」でもほぼ同じなので、事実ということになっている。
ところが、地元の郷土史の専門家は地元ならではの資料を駆使して、この事実の信憑性に疑問を投げかけている。
「岩手県史」によれば、「藩日誌」という南部藩の内部資料、というより「裏帳簿」には、
毎年末の人口が一桁まで記録されているが、安永9年(1780)の人口が、35万7705人なのに、
10年後の寛政2年(1790)は、35万7029人となっている。
餓死者が集中した時期なのに、6万人どころか676人減っているだけだ。
わずか0.6パーセントの減少にすぎず、この程度の増減は普通の時期でも毎年のように起きている。
藩内の人口が20パーセント減ったということになっている1830年代の「天保の飢饉」のときも、
「藩日誌」によれば、1818年に32万6262人だった人口が、1838年には35万1332人になり、2万5070人も増えているのだ。
飢饉の風評に便乗した藩当局が、幕府に過大な被害届けを出したのではないかというのがもっとも有力な解釈らしいが、
天明の飢饉の少し前に、南部藩は幕府に7万両の上納金を仰せつけられて、財政危機に陥りかけていたという裏話があるのだ。
このままでは財政破綻するため、当分は上納金を仰せつけられないように予防線を張ったのである。
この時期に領内の商人の生活が特に混乱した様子もないということなので、
過大な被害届けがますます真実味を帯びてくる。
最大の被害者だったという南部藩がこういうありさまだから、他の藩はどうだったかわからない。

石川英輔「世直し大江戸学」(NHKカルチャーラジオテキスト)
176日本@名無史さん:2012/05/16(水) 18:18:28.01
ちなみに南部藩の人口調査と、餓死人口の解離については、
『盛岡市史』を執筆した森嘉兵衛が80年ぐらい前に研究していて、
南部藩が幕府に報告するための人口調査の方を捏造したのだろうという結論になっている。
最近になっても速水融らが南部藩の人口記録を調べた結果:

>もう一つ興味深いことは、この記録に、安永六年(一七七七)から寛政二年
>(一七九〇)の間、一年を除いて性比が一一二・九に固定されている。
>これは実際にはあり得ないことで、明らかに人為的な操作の結果である。
>ある意味では、性比まで考慮するかなり高度の人口への知識を持った者の
>仕業と言わざるを得ない。


石川英輔が言うところの郷土史の専門家が誰なのかは知らないが

>ところが、地元の郷土史の専門家は地元ならではの資料を駆使して、
>この事実の信憑性に疑問を投げかけている。

餓死人口の記録は、同じ南部藩の藩日記に書き記されており、
森嘉兵衛は餓死の記録から実際の南部藩の人口を推定したりしている、
むしろ岩手県の郷土史の専門家なのに、
石川英輔はさも最近になってこれらが嘘であることが分かったみたいなことを得意げに書いていることになる。
177日本@名無史さん:2012/05/16(水) 19:27:00.10
復帰嘆願運動は盛岡の話だろ。八戸とか関係ない。
178日本@名無史さん:2012/05/16(水) 20:30:38.91
>>171
> でも白河藩に転封された


転封された理由はなんだったの?
179日本@名無史さん:2012/05/16(水) 20:34:47.90
戊辰戦争・・・・

というか、白河じゃなくて白石
180日本@名無史さん:2012/05/17(木) 07:11:47.22
>>172
盛岡では善政を敷いてたのかな?
それとも残された藩ゆかりの連中の運動とか。

まあいずれにしても盛岡だけだな。
181日本@名無史さん:2012/05/17(木) 07:39:36.66
>>180

いわゆる暴君とか暗君も、城下町ではそれほどの暴政はやっていないんだよね。

まあどこの城下町にも幕府の隠密が潜入しているから
それを警戒していたのかもしれないが。
182日本@名無史さん:2012/05/17(木) 09:35:52.38
三閉伊一揆・仙台強訴のときの盛岡南部家の家老、田鎖左膳というのは、閉伊氏の本家、田鎖家。

つまり閉伊郡の領民にとってはむしろ親戚。むしろ領民が親戚だったから、内情をよく知っていて細かく課税できた。
そして閉伊郡の領民たちも田鎖の親戚・分家が多かったから、なおのこと許せなかった。
183日本@名無史さん:2012/05/17(木) 14:02:48.88
だいたい南部が和賀や閉伊を厳しく監視するのは当然だ。
和賀も閉伊も実際に伊達政宗と通じて反乱起こしてる。

和賀なんか小田原攻めの直後と、関が原の合戦と時に二回反乱起こしてる。
二回とも政宗が支援していた。和賀や閉伊は南部の領民といっても元武士の家ばかり。
184日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:01:12.10
税が高いなら、伊達と交渉するのはあるいみ当たり前じゃないだろうか。
185日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:20:47.48
仙台も盛岡以上に財政・税厳しいだろうし
農民はどこの逃げても詰んでるわ
186日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:37:26.13
南部よりはまし。
187日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:41:45.03
東北の農民はどこいってほ悲惨だなww
どこの藩いっても飢饉・重税
188日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:44:25.04
確かに飢饉はあるし、税は大変だが

江戸時代一番の一揆を起こした南部藩と一緒にすんなw
189日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:47:44.70
目糞鼻糞だっつーに
190日本@名無史さん:2012/05/17(木) 18:54:09.00
>>187
秋田と岩手が特にゴミ
例外的なのが庄内藩
191日本@名無史さん:2012/05/17(木) 19:42:28.68
薩摩藩とかは一揆の回数が少ないが、だからといって琉球や奄美の住民に慕われていたわけではない。
500万両の借金も250年の分割払いにしただけ。
192日本@名無史さん:2012/05/17(木) 20:13:37.18
あれこれ言っても城下町を農民立ち入り禁止にした所って
そうないんじゃないか…?

それにしてもホントにおまえら格付け好きな。
てめえが偉くなるわけでもなかろうによ。
193日本@名無史さん:2012/05/17(木) 20:24:52.70
>>190
岩手がやませでやられても、秋田は「まだまし」なコトが多かったよ。
奥羽山脈でやませがくいとめられるからな。
初夏に登山するとその様子がよくわかる。
194日本@名無史さん:2012/05/17(木) 20:46:27.52
ttp://www.geocities.jp/macshoji77/history/nanbu.html

ここに江戸時代の一揆数でてるけど
南部秋田がワンツーフィニッシュなのは納得として
仙台津軽がランキングはいってないのが納得できん
195日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:01:01.84
青木紅二『百姓一揆の年次的研究』だと

97 盛岡
69 広島
65 秋田
61 萩
57 金沢
56 宇和島
42 徳島
38 鳥取
36 松山
35 会津
32 庄内
31 仙台
29 高知・福山
27 名古屋・岡山
24 新庄
22 延岡・上田
21 熊本

らしいが、>>194のリンク先はどの本からの引用なのかな?

こういうのは誰がどうカウントしたのかで結果が変わりそう。
196日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:11:24.96
弘前藩
このカウントにも入ってないことは意外と一揆は少なかったのね。
197日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:13:24.40
「一揆」 「藩別」 「133」でググると、南部三閉伊一揆やwikipediaが引っかかるけど、
困ったことにこの数字はどの研究者が数えたかの情報が出てこない・・・

森嘉兵衛『南部藩百姓一揆の研究』では84件らしいが、この人は
>>176でも挙げられているように、地元で南部藩の研究をしていた人

ただ一揆発生件数が多いからと言って、税金が滅茶苦茶重たかったのかどうかというと、
中村哲の研究では、一番税金が安いのは東北北部地域で、
一番税金が高かったのは加賀藩という話もあるし
(但し加賀藩の住民の生活水準が特別低かったわけではなく、むしろ豊かな方)、
下級武士だらけでガチガチの警察国家だった薩摩藩なんて、
一揆の記録すら認知されてなかったろうから、何とも言えない。
198日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:17:24.48
>>185

あのあたりには天領がないからな。
199日本@名無史さん:2012/05/17(木) 21:18:28.49
あと>>195で気になったのが
東北の藩や大藩に一揆が多いのは理解できるが、

宇和島藩は中藩のくせに異様に一揆多いな
200日本@名無史さん:2012/05/17(木) 22:11:16.02
>>197
へー目から鱗
一揆て単純に圧制や重税で発生すると思ってたんで
201日本@名無史さん:2012/05/17(木) 22:51:05.23
ほとんどの一揆は暴動じゃなくて計画的で組織化された抵抗運動だからね
おとがめが軽いと一揆は起きやすくなる
結構多いのが土地の帰属をめぐる一揆
あと殿様の転封阻止一揆なんてのもある
202日本@名無史さん:2012/05/17(木) 23:17:20.51
>>201
久保田藩の場合、大抵の一揆はその転封反対の一揆だった。
横手地方や大館地方に一揆が多く、そのため横手城や大館城は、一国一城令にもかかわらず城を保持することが許された。

津軽藩の最大の一揆は民次郎一揆。これは、飢饉と重税に耐えかねた農民が起こした一揆だが、まあリンク先にあるように
順当に一揆は推移した。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/8757/gimin.html

南部の一揆は……
203日本@名無史さん:2012/05/18(金) 00:36:37.93
>>200
>>197の「東北北部は税金が安い。加賀藩は税金が高い」
と書いてるのに惑わされるな。
貧しい国は税金の額そのものは安く、富める国は額が高くなるってことだ。
問題は額高じゃなく、払えて生活できる水準かどうかって話だろう。
204日本@名無史さん:2012/05/18(金) 00:48:14.51
>>202
南部の一揆は特定地域への重税。

「三閉伊や和賀は敵性地域だから搾り取れ」
こんなのりだったんだろうな。
御用金申し付けのとき、吉里吉里善兵衛単独への
課税額は、盛岡城下の富商数十軒の合計額より
はるかに巨額だった。
205日本@名無史さん:2012/05/18(金) 01:16:10.08
近世大名の中でも特別経済音痴で、沿岸で上方との商売がうまくいっていると、横から取り上げて、うまくいってた商売をポシャらせるわ、
民間で立ち上げた洋式製鉄所を、いきなり取り上げて有効活用できないわ、
幕末は付く相手を見間違えて、ジリ貧の徳川残党につく。
先を見越せない、南部の殿様の毎度毎度のパターン。
206日本@名無史さん:2012/05/18(金) 01:22:06.21
>>205
その反省を生かして、幕末では鹿角で豪商にいきなり嫌疑をかけて、つぶし、お金をぶんどってますなw
207197:2012/05/18(金) 01:29:04.28
別に惑わすつもりはないが・・・・

それはともかくとして、今手元で文献を読み直したら、
>>197に書いたことは不正確だった。

明治初期の『農産表』・『府県地租改正紀要』などを元に旧国別、府県別で貢租率を計算すると、
天領が占める割合が多い地域は低く、大藩一円所領では高い。

ただし大藩一円所領であっても、青森・岩手(旧南部領)、水沢・宮城(旧伊達領)、
尾張(旧徳川領)、広島(旧浅野領)は高くない

というのが結論だった。
208日本@名無史さん:2012/05/18(金) 01:45:22.80
農産高に対する地租改正前の実質貢租率を旧国別で比較すると
(中村哲『明治維新の基礎構造』から)

53.7% 能登
45.9% 佐渡
45.0% 加賀
44.0% 長門
41.5% 若狭
39.8% 因幡
39.1% 越中
38.5% 大隅
38.0% 筑前
35.4% 岩代・日向
33.1% 土佐
---------
25.6% 全国平均(対馬、琉球、北海道を除く)
---------
21.8% 陸中
21.6% 阿波
21.3% 摂津
20.8% 常陸
20.3% 三河
18.7% 常陸
18.4% 飛騨
17.5% 甲斐
17.1% 相模
16.1% 信濃・但馬
14.7% 下野・讃岐
14.6% 武蔵
13.2% 隠岐
12.5% 上野
209日本@名無史さん:2012/05/18(金) 01:56:55.08
明治10年〜12年の農業労働生産性を比較すると:
26.8円 摂津
22.4円 河内
19.6円 近江
19.2円 淡路
17.7円 山城
17.6円 筑後
17.1円 讃岐
16.0円 大和
15.9円 筑前
15.7円 和泉
15.5円 備前
15.4円 加賀
---------
12.5円 全国平均(対馬、北海道を除く)
---------
10.1円 陸中・遠江・周防
9.8円 豊後
9.7円 佐渡
9.6円 飛騨・対馬
9.4円 備後
9.1円 安芸
9.0円 日向
8.8円 駿河・能登
8.7円 石見
8.4円 上総
6.3円 安房
6.1円 伊豆
5.8円 薩摩
5.1円 志摩
4.4円 隠岐
210日本@名無史さん:2012/05/18(金) 01:58:44.28
>>209間違えた

農業労働生産性の全国平均は、対馬を含むが琉球と北海道を除く
211日本@名無史さん:2012/05/18(金) 03:05:05.18
>>197
俺頭悪いからよくわからないけど、つまり南部の税が
重かったってことですよね
212日本@名無史さん:2012/05/18(金) 04:15:39.74
明治15年出版の『府県地租改正紀要』の旧封土及旧税の概況では、
旧津軽藩を「其法密ニシテ大卒苛斂ニ属ス」と評価しているのに対し、
旧南部藩は「畑方ノ多少寛税ナル」としていて、
少なくとも明治政府は南部藩の税制を重いとは評価していない。

なお秋田藩領については、帳簿上は苛税だが、地租改正で田畑が大幅に増えた(から増税する)
仙台藩については、苛税だという風評があるが、その実最も寛税だった(から増税する)

といった具合に、明治政府は大概の地で理由をつけて増税しているんで、
農家にとっては御一新よりも旧藩時代の方がマシという人が多いかも知れない。

『府県地租改正紀要』で重税を指摘されている旧藩は、
津軽藩、高崎藩、水戸藩、福井藩、彦根藩、福山藩、松山藩、宇和島藩など
213日本@名無史さん:2012/05/18(金) 04:58:52.61
ちなみに「津軽藩の税金が高い」とされたのは地租改正前の石高に対する税率(五割以上)で、
実際の収穫米に対する税率はその半分程度

府県地租改正紀要の数字を使って、収穫高に対する貢租率を東北地方について計算すると
35.8% 置賜県 旧米沢藩
32.8% 若松県 旧会津藩
29.6% 鶴岡県 旧庄内藩
25.9% 磐前県 旧中村藩+白河藩 等
25.6% 宮城県 旧仙台藩
25.5% 山形県 旧新庄藩+山形藩 等
24.6% 青森県 旧津軽藩+南部藩
22.7% 岩手県 旧南部藩
21.2% 水沢県 旧仙台藩
20.8% 福島県 旧二本松藩 等
17.6% 秋田県 旧久保田藩

税金が一番高かったのが米沢藩で、久保田藩が一番安い。

一方、農業有業者一人当たりの生産額では
15.3円 磐城
14.8円 羽前
14.3円 岩代
13.2円 羽後
12.0円 陸前
10.6円 陸奥
10.1円 陸中
で、南部藩のある陸中が東北地方の中では一番貧しいことになる。
214日本@名無史さん:2012/05/18(金) 05:56:23.45
>>205

> 幕末は付く相手を見間違えて、ジリ貧の徳川残党につく。


バンドワゴン現象の逆パターンだな。
アンダードッグ効果。
215日本@名無史さん:2012/05/18(金) 10:52:57.25
一揆率は判ったんで
こんどは飢饉の際の餓死率を藩別で知りたい
216日本@名無史さん:2012/05/18(金) 14:11:37.13
米沢藩の税金が高いのは藩士の数が石高に対して異常に多いからじゃないだろうか?

あと南部藩は農業・米以外の尾去沢・花輪に代表される銅鉱山や馬、砂鉄、木炭、漆、海産物、酒などの収入が多いから、
農産物の収入だけで貧しいとはいちがいにいいきれない。盛岡に豪商が集まったのもそういう特産物が多いから。
217日本@名無史さん:2012/05/18(金) 15:36:21.47
「南部はそれほど貧しくなかった」
「重税ではなかった」
という風に話を持っていこうとしてる人がいるが、では
一揆の頻発は何だったんだろうな?

俺はこんな感じと思ってる。
○南部地域や盛岡には手厚く、沿岸や和賀からは搾取
○色んな産業があったけど、振興策の前に税徴収するから伸びない

だからいまいち藩内が潤わず、虐げられた地域で一揆が起こったのかと。
盛岡や南部地域の人だと搾取の逸話がないから、南部藩が特に
悪いわけではないと思ってるのかも知れない。
218日本@名無史さん:2012/05/18(金) 16:13:50.37
江戸時代は商人町人は無税だろ
219日本@名無史さん:2012/05/18(金) 16:24:16.63
>>195 青木紅二『百姓一揆の年次的研究』から実際にデータを持って来てみた。
3804 収録件数
546 幕府領
126 旗本領
97 盛岡藩
69 広島藩
65 秋田藩
61 萩藩
57 金沢藩
56 宇和島藩
42 徳島藩
38 鳥取藩
36 松山藩
35 会津藩
32 庄内藩
31 仙台藩
29 高知藩・篠山藩
28 名古屋藩
27 岡山藩
24 新庄藩
23 水戸藩
22 上田藩・延岡藩
21 熊本藩
20 福井藩
19 米沢藩・彦根藩
18 白河藩・福山藩・大洲藩・津山藩
17 鹿児島藩・和歌山藩・郡上藩・高鍋藩
16 弘前藩・小浜藩・松代藩・龍野藩・徳山藩
本書は著者が横浜市内の図書館を拠点として、昭和41年までに様々な地方史の本から一揆の情報を引っ張ってきてまとめた本
だから実際の一揆はこれよりも多く発生したわけだし、史料が残っていても地方史の執筆者が拾い上げなければ全く認知されないことになる
220日本@名無史さん:2012/05/18(金) 16:48:21.43
>>215
餓死の定義が難しい(体の弱ったところで疫病の流行により死亡というケースが知られている)ので、
飢饉前後での藩の人口の変化を見ると、例えば

弘前藩 天明・天保の飢饉
41.9%減 246,822(1781年)→143,399(1790年頃) 領内総人口
28.6%減 239,311(1836年)→170,797(1840年) 領内総人口

久保田藩 天明・天保の飢饉
15.4%減 320,000(1781年)→270,706(1786年) 六郡領民人口
25.8%減 435,262(1833年)→322,999(1843年) 六郡惣人口

仙台藩 天明の飢饉
18.4%減 502,124(1781年)→409,632(1789年) 陸奥領郡方人口

佐賀藩 享保の飢饉
21.5%減 371,956(1731年)→292,110(1734年) 領内総人口

残念ながら南部藩は人口調査を捏造しているようだけど

ちなみに飢饉が起こると男性の方が死ぬ傾向があり、女性の人口比が上昇する。
221 忍法帖【Lv=22,xxxPT】 【東電 83.0 %】 :2012/05/18(金) 16:48:22.10
島津のによる奄美サトウキビ搾取にはかなわない
222日本@名無史さん:2012/05/18(金) 18:30:51.09
暗闇の歴史東北諸藩には負けるだろw
223日本@名無史さん:2012/05/18(金) 18:44:01.04
テンペストでの薩摩藩士…美化されすぎ。
224日本@名無史さん:2012/05/18(金) 19:15:20.62
藩政後期の財政混乱は北海道警備とそれとセットの20万石高直しの影響も大きい。

しかし南部利敬は能力主義の有能な殿様だから財政破綻はしなかった。

その次の南部利用は木登りしている最中に落ちて15歳で死んだbP(吉次郎)の代わりにその影武者のbQ(大膳太夫)が家督相続したくらいだから、
混乱して当然。しかも能力主義で干された連中が混乱を利用して復権したからなお始末が悪い。
というかむしろこんなんで幕府をごまかせたのが奇跡。
225日本@名無史さん:2012/05/18(金) 19:16:49.81
226日本@名無史さん:2012/05/18(金) 19:30:09.19
>>224

> というかむしろこんなんで幕府をごまかせたのが奇跡。


幕府は家康時代から伊達を警戒していたので、
いざという場合には、南部に伊達の背後を突かせようとしていたのではないか。
そのため幕府は南部に甘かったという説もある。


227日本@名無史さん:2012/05/18(金) 19:37:45.17
江戸後期になると改易させる方が面倒だからだと思う
228日本@名無史さん:2012/05/18(金) 22:12:09.63
>>227
普通これくらい混乱してたら国替えさせられるよな
>>221
あれも酷いが、財政建て直しと増収の目的意識があった。
南部のはただ課税や御用金申し付けるだけ。
229日本@名無史さん:2012/05/18(金) 22:53:10.84
>>224
20万石への石直しがよく引き合いに出されるけど、南部藩自体(支藩を含む)は

天保郷帳での内高は、28万8875石 (以下10郡で計算)
地租改正前の明治5年の石高は、35万5370石
明治初期の実際の米の生産高は、25万3663石 (明治9年) 〜 31万7240石 (明治12年)
他の農作物を含めた米換算石高は、約44万7875石 (明治10年〜明治12年3ヶ年平均)なので、

別に20万石というのは身の丈にあった石高のはずなんだがな
230日本@名無史さん:2012/05/18(金) 23:25:47.54
つまり飢饉のときは別として10万石時代の課税は実高に比べてヌルかったということだろう。

高直しになればただでさえ軍役増えるし、実際南部藩は北方領土でロシアと戦争してたから、
10万石時代より課税や御用金が多くなるのは、当然といえば当然。
231日本@名無史さん:2012/05/18(金) 23:28:36.34
>>229
実高より増収していたなんてよくある話。
自分から石高見直しを言い出すのがアフォ。

232日本@名無史さん:2012/05/19(土) 01:09:42.02
>>229
平成の世になってもやませが来れば米が全く収穫できない風土だ、
というのを考慮に入れず中央が導いたのがそういう計算だったんじゃねーの?
実際は頻繁に飢饉が起きたし、そういう年を乗り切れるだけの備蓄米なんて
おまいのその計算からも導き出しようがないわけで。
とにかくコメ本位でものを考えた幕府も問題だったし
そういうことを頭に置かずに藩運営した南部藩にも問題があった。
領民が飢えでバタバタ倒れてる中、
農民の入れない盛岡城下町でのうのうと暮らしてたのが藩のおえらいさん。
徳川体制全体の問題だからって、その担い手の罪が消えるもんではない。

要するに殿様とかの時代に妙な幻想を持ったやりとり自体が
特にこの地域ではナンセンスってことでしょ。
233日本@名無史さん:2012/05/19(土) 01:45:51.41
田舎なれども、南部の国はサー、西も東も金の山 だったんじゃ…

鉱山資源を有効活用できなかったの?
234日本@名無史さん:2012/05/19(土) 02:13:00.07
東北各藩の幕末表高と、明治初期の実際の農作物米換算石高との乖離を比較すると、
南部藩よりも会津藩や米沢藩の方が実力以上の負担をしていたことになる。

旧藩 表高 農作物高 比率
弘前藩 10万石 50.1万石 5.0倍
秋田藩 21万石 88.8万石 4.3倍
盛岡藩 20万石 44.8万石 2.2倍
庄内藩 17万石 38.0万石 2.2倍
仙台藩 62万石 116.4万石 1.9倍
米沢藩 15万石 27.2万石 1.8倍
会津藩 28万石 39.4万石 1.4倍

>>232
別に南部藩の失政は否定しないよ。
ただ、ネット上ではデフォで、「南部藩は実高は20万石以下」
「仙台藩は実高200万石」みたいなことが書かれている。
で、印象を排除するために実際にその辺の史料を漁って、租税率やら実際の内高やらを計算している専門書をあさってみると、
他藩と比較して南部藩は必ずしも重税の部類ではない、仙台藩の実高200万石はありえない、
弘前藩、盛岡藩も飢饉に左右されていたが、幕末の農民の暮らしの方は他の東北諸藩よりも余裕があった、
みたいなことが見えてくる。

で、盛岡藩の一揆や飢饉は事実としても、郷土史家の森嘉兵衛あたりが
南部藩の失政を断罪する研究を大正〜昭和初期に幾つも発表し、
それが江戸時代の一揆や飢饉に関する研究の発端の一つとなったことから、
実際は他藩でも同じような大飢饉が起こっていたのにも関わらず、
南部藩の失政振りが特に強調されるようになったんだろうという感じがする。

一揆の発生件数にしたって、あくまでも昭和初期の地方史における認知件数が元となっているわけで、
盛岡市史などには、飢饉と一揆の研究に重点を置いた森嘉兵衛が執筆をしており、
当然他の地方史よりも多く一揆のことが取り上げられている。
235日本@名無史さん:2012/05/19(土) 02:23:12.61
>>234
そこは不作になりやすい北東北と南東北を分けるべきだろ
秋田と弘前でかなり余裕が有ったのに盛岡藩では余裕が無かったとも取れる
236日本@名無史さん:2012/05/19(土) 02:45:23.32
>>234

>実際は他藩でも同じような大飢饉が起こっていたのにも関わらず、
>南部藩の失政振りが特に強調されるようになったんだろうという感じがする。


そうか?鹿角の鉱山持っている金持ち商人は、飢饉になると秋田の大館に来て大館の旅館に泊まっていた。
大館の人たちは「なんて贅沢な」なんて言っていたが、鹿角では米が高騰してて、そこで生活するより、秋田の
旅館に泊まっていた方が安上がりだったとか。
237日本@名無史さん:2012/05/19(土) 02:49:10.64
>>236
1830年代後半の天保の大飢饉では久保田藩、弘前藩、仙台藩で人口の1/4が喪失している。
238日本@名無史さん:2012/05/19(土) 02:57:18.13
>>237

確か、>>236って天保の頃の出来事だったはず。基本的に飢え死にするのは資産に余裕がない小作農家。
それでも、食料はあるところにはあるわけで…。
239日本@名無史さん:2012/05/19(土) 03:23:17.81
>>216
>あと南部藩は農業・米以外の尾去沢・花輪に代表される銅鉱山や
>馬、砂鉄、木炭、漆、海産物、酒などの収入が多いから、
>農産物の収入だけで貧しいとはいちがいにいいきれない。
>盛岡に豪商が集まったのもそういう特産物が多いから。

>>213のデータは、明治10年から明治12年の『全国農産表』の農産額を農業有業者で割った数字で、
いわゆる百姓農家の収入状況をあらわしたものこれだと、東北地方で最も貧しいのは陸中国ということになる。

一方明治6年から明治8年にかけて、明治政府は農林水産畜産業や鉱業・工業の統計をまとめた
『府藩県物産表』というものを作成している。この内全体がほぼ完成したのは明治7年度分のみで、
明治8年度分は西南戦争による混乱で完成せず、明治9年〜明治15年分は農業と畜産業などに限定した
『全国農産表』のみとなる。明治7年の『府藩県物産表』は府県別に総生産額(但し商業統計はまだ含まれない)
をまとめているので、これを明治8年1月1日調の本籍人口で割れば、各県別総生産が計算できる。
これで比較すると:

16.87円 置賜県 (2,225,464.068円/131,935人) 現山形県置賜地方
13.39円 磐前県 (3,342,448.063円/249,553人) 現福島県浜通り
12.15円 福島県 (3,417,262.855円/281,302人) 現福島県中通り
11.56円 水沢県 (4,399,118.228円/380,409人) 現岩手県南部(伊達支配域)+現宮城県北部
11.29円 若松県 (2,394,064.696円/212,052人) 現福島県会津地方
10.26円 酒田県 (2,132,641.810円/207,902人) 現山形県庄内地方
9.33円 宮城県 (3,911,137.534円/419,135人) 現宮城県南部
7.72円 山形県 (2,392,634.127円/309,837人) 現山形県最上・村山地方
7.57円 岩手県 (2,449,213.156円/323,434人) 現岩手県北部(南部支配域)
6.49円 青森県 (3,143,189.581円/484,428人)

岩手県は最下位ではないが、青森県が旧津軽藩+旧南部藩であることを考えると、
鉱工業生産額を加えても旧南部藩の住民が東北では旧津軽藩と並んで貧しいことになる。
240日本@名無史さん:2012/05/19(土) 04:30:48.53
参考までに明治7年の岩手県(旧南部藩10郡の内の6郡)の生産高の中身(単位は円)
米が生産高の44%、穀類が全生産高の68%を占め、
鉱山関係(金銀銅鉄類附金属地金)は1.3%に過ぎない。

1,662,801.815 穀類
(1,087,224.414  *米)
(*,*48,207.002  *大麦)
(*,*18,411.428  *小麦)
(*,508,958.971  *雑穀類(粟稗豆類蕎麦など))
*,**1,604.151 穀質並澱粉類
*,*26,590.167 園芸類附生乾
*,**5,860.982 種子並ニ果実類附生乾
*,***,580.969 菌箪類附生乾
*,***,624.450 海藻類
*,**1,457.840 薬種並製薬類
*,126,842.958 醸造物類
*,*18,882.820 油蝋類
*,*14,937.419 禽獣類
*,200,716.227 虫魚甲貝類附生乾塩
*,*17,484.825 飲料及食物類
*,*48,478.825 煙草類
241日本@名無史さん:2012/05/19(土) 04:31:25.35
*,*31,419.887 金銀銅鉄類附金属地金
*,**4,656.700 諸機械類附農耕具及金属細工
*,162,892.105 糸綿麻類
*,*42,031.895 縫織物類
*,**1,041.000 化粧具類附髪飾
*,**7,129.785 染料顔料並膠漆類附生乾
*,**2,735.000 漆器類
*,***,145.000 陶器類
*,**1,327.500 戸障子指物類
*,**4,723.930 桶樽類附曲物
*,**7,053.100 竹木類附植物及皮葉
*,*26,487.640 紙類附細工
*,**2,245.500 皮革類附羽毛類
*,*11,411.000 網縄類
*,*11,469.666 薪炭焚物類
*,**5,580.000 肥料類
2,449,213.156 通計
242日本@名無史さん:2012/05/19(土) 04:46:20.18
って、鹿角郡の鉱山は秋田県に加算されてしまっているな・・・

秋田県の場合は、520万2585円43銭1厘の内、
鉱山関係は16万2564円50銭7厘だから、秋田県の生産高の3%

**4,725.500 金
*24,365.736 銀
**2,351.910 鉛
104,602.792 荒銅
**1,385.939 荒鉛 
***,*91,125 荒金

ただ、旧久保田藩も院内銀山をはじめとしてたくさんの鉱山を保有していたはずで、
仮に1/3の5万円程度が南部藩のものとして岩手県の生産高に加算しても、
岩手県の生産高を2%しか押し上げない。
243日本@名無史さん:2012/05/19(土) 05:21:39.44
>>239
秋田県が抜けていた

16.87円 置賜県 (2,225,464.068円/131,935人) 現山形県置賜地方
13.39円 磐前県 (3,342,448.063円/249,553人) 現福島県浜通り
12.15円 福島県 (3,417,262.855円/281,302人) 現福島県中通り
11.56円 水沢県 (4,399,118.228円/380,409人) 現岩手県南部(伊達支配域)+現宮城県北部
11.29円 若松県 (2,394,064.696円/212,052人) 現福島県会津地方
10.26円 酒田県 (2,132,641.810円/207,902人) 現山形県庄内地方
9.33円 宮城県 (3,911,137.534円/419,135人) 現宮城県南部
8.61円 秋田県 (5,202,585.431円/604,114人)
7.72円 山形県 (2,392,634.127円/309,837人) 現山形県最上・村山地方
7.57円 岩手県 (2,449,213.156円/323,434人) 現岩手県北部(南部支配域)
6.49円 青森県 (3,143,189.581円/484,428人)

農業生産高だけで計算している>>213よりも数字が低い県があるのは、
>>213では農業労働人口で割っているのに対し、こちらでは総人口で割っているから。
あと西南戦争の影響で明治10年にインフレが発生したせいもある。
244日本@名無史さん:2012/05/19(土) 18:56:33.86
久々にいい流れw

これだけデータを集めて吟味してるんなら、2chじゃなくて
ちゃんとしたかたちにまとめてくれんかなー。
出す場所によっては「歴史が変わる」かも試練
245日本@名無史さん:2012/05/19(土) 19:59:20.60
戦前に法政大学を卒業した森嘉兵衛センセイは、
よくもわるくも当時流行していたマルクス経済学の影響を強く受けているので、
どうしても領民から「搾取」する南部と、それに一揆で抵抗する領民という単純な構図をつくりがちだ。

しかし商業にしろ農業にしろ漁業にしろ、当時は自由競争経済なんて概念はあんまりないし独占禁止法もないので、
藩がつくった専売制度でもうけている領民が非常に多い。
246日本@名無史さん:2012/05/19(土) 20:28:11.82
専売制度があるなら、それに漏れた多数の領民が貧困にあえぐだろうにw
247日本@名無史さん:2012/05/19(土) 20:58:40.93
>>235
すいません。読み返して気付いたが、

>>234
>弘前藩、盛岡藩も飢饉に左右されていたが、幕末の農民の暮らしの方は他の東北諸藩よりも余裕があった、
は、
弘前藩、「秋田藩」も飢饉に左右されていたが、幕末の農民の暮らしの方は他の東北諸藩よりも余裕があった、
の書き間違え

>>244
幕末・明治初期の経済統計については、古島敏雄、寺島六郎、中村哲といった人がもっと深い考察を色々している。
ただ最近は表計算ソフトも一般化したし、この辺の明治時代の統計を研究者がもっとまとめて欲しい気もする。
248日本@名無史さん:2012/05/19(土) 21:00:04.32
まあ食っていけてる領民ってのは何かしらの専売制度にひっかかってるはずなんだよ。
そもそも当時は商売の自由以前に職業選択の自由もあんまりないんだから。

御用商人とか御用職人とかは領民・町人とはいっても公職についてる家臣・地方公務員のはしくれみたいなもんだしな。
249日本@名無史さん:2012/05/20(日) 01:36:35.58
明治に入って以降も一揆が起こる土地柄ですから。
250日本@名無史さん:2012/05/20(日) 08:19:10.66
実は明治時代は江戸時代より一揆が多発し大規模だった
もちろん日本中で
米騒動とか地租税反対とか
251日本@名無史さん:2012/05/20(日) 09:30:03.33
埼玉の農民なんか猟銃数千丁で武装して軍隊編成して武装反乱起こしたからな。
三閉伊一揆の比じゃない。
252日本@名無史さん:2012/05/20(日) 11:27:59.31
秩父事件か。これって、単純な江戸時代の圧政型一揆じゃないと思うのだけど…。、

第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬
253日本@名無史さん:2012/05/20(日) 13:06:16.12
そもそも江戸時代の一揆からして単純じゃないだろ。
254日本@名無史さん:2012/05/20(日) 15:22:50.65
江戸時代の一揆はデモ
明治時代の一揆はクーデター未遂や暴動
255日本@名無史さん:2012/05/20(日) 18:57:35.99
三閉伊一揆は単純に、南部の殿様の圧政だろw
256日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:40:29.65
それなら秩父事件は単純に明治政府の圧政だろw
257日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:45:27.68
はあ?生糸の高騰と、自由民権運動での、民衆の政治的要求の重なりだろうに。
258日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:59:31.12
生糸の高等ではなくて暴落だろ?
259日本@名無史さん:2012/05/21(月) 13:44:50.06
つまり西南戦争のあとに薩閥の松方正義と岩倉具視が、佐賀の大隈を追放して、
政府予算を縮小して、増税したので、庶民の購買意欲がなくなって、
生糸の値段が下がって、借金して繭を買った埼玉の養蚕農家たちが、一斉に借金を返せなくなったのだな。

しかし当時は選挙も国会もないから議員に陳情もできない。そうしているうちに借り換え借り換えで借金は膨らむ。
土地も貸し金屋にとられる。そしてついに数千人が猟銃で武装して巡査を殺害・・・。
260日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:09:13.11
南部・八戸藩を構成した10郡と、旧津軽藩を構成した津軽郡について、
地租改正前の明治5年の郡別石高と、明治9年〜明治12年の実際の郡別米収穫(石)、
明治9年〜明治12年の4ヶ年平均米収穫高(石)、明治12年1月1日調本籍人口(人)、
人口1人当たりの明治9年〜明治12年の4ヶ年平均米収穫高(石/人)をまとめると以下の通り
米の収穫高は、水・陸のうるち米・糯米の収穫高(石)の合算値で、
石よりも下の桁については四捨五入して省略。

郡名 M5旧石 M9米高 M10米高 M11米高 M12米高 平均 人口(M12) 人口当たり米高
-------------------------------------------------------------------
鹿角郡 *20,965 *33,614 *15,844 *24,728 *28,398 *25,646 *27,091 0.947
岩手郡 *52,333 *39,614 *66,006 *49,266 *50,506 *51,348 *82,356 0.623
紫波郡 *54,631 *38,405 *45,971 *45,593 *60,064 *47,508 *36,439 1.304
稗貫郡 *51,690 *41,580 *30,804 *32,515 *48,794 *38,423 *38,392 1.001
和賀郡 *53,171 *44,272 *44,833 *48,685 *57,955 *48,936 *46,685 1.048
閉伊郡 *28,559 *18,514 *21,081 *17,459 *22,888 *19,986 *93,965 0.213
九戸郡 *11,908 **7,565 **7,195 **4,556 **7,185 **6,625 *45,697 0.145
二戸郡 *14,796 **7,473 *13,116 **6,258 **5,950 **8,199 *31,863 0.257
三戸郡 *43,793 *53,171 *50,161 *34,573 *47,007 *46,228 *89,781 0.515
北郡..  *23,525 *20,558 *17,771 *10,334 *17,516 *16,545 *69,223 0.239
十郡計 355,370 304,766 312,781 273,967 346,263 309,444 561,492 0.551
-------------------------------------------------------------------
津軽郡 340,987 385,917 361,432 344,601 533,714 406,416 309,513 1.313
261日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:10:42.22
また米、稗、大豆、粟、大麦、蕎麦、小麦の
人口当たりの明治9年〜明治12年の4ヶ年平均米収穫高(石/人)
は以下の通り。但し青森県内の二戸郡、三戸郡、北郡、津軽郡に関しては、
一部明治9年、明治10年の統計を欠くため、
粟、大麦、蕎麦、小麦の数字は明治11年と明治12年の2ヶ年の収穫高の平均値

郡名  人口(M12) 米  稗  大豆  粟  大麦 蕎麦 小麦
------------------------------------------------------
鹿角郡 *27,091 0.947 0.148 0.124 0.111 0.000 0.034 0.000
岩手郡 *82,356 0.623 0.247 0.110 0.106 0.085 0.091 0.018
紫波郡 *36,439 1.304 0.074 0.126 0.125 0.147 0.034 0.030
稗貫郡 *38,392 1.001 0.131 0.101 0.098 0.119 0.028 0.037
和賀郡 *46,685 1.048 0.130 0.113 0.107 0.130 0.024 0.038
閉伊郡 *93,965 0.213 0.324 0.139 0.121 0.185 0.047 0.028
九戸郡 *45,697 0.145 0.970 0.226 0.127 0.145 0.074 0.034
二戸郡 *31,863 0.257 0.767 0.169 0.126 0.158 0.087 0.041
三戸郡 *89,781 0.515 0.500 0.241 0.108 0.010 0.107 0.060
北郡,,  *69,223 0.239 0.268 0.232 0.124 0.005 0.123 0.009
十郡計 561,492 0.551 0.358 0.165 0.115 0.095 0.072 0.031
------------------------------------------------------
津軽郡 309,513 1.313 0.017 0.086 0.008 0.001 0.024 0.002

馬鈴薯、玉蜀黍の統計もまとめたいところだけど、青森県内の統計がないので省略。
262日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:11:15.17
米の収穫高に関しては南部藩は津軽藩に完全に負けている。
ただし米への依存度は津軽藩の方が高く、米不作時の影響は津軽藩の方が大きそう。
明治9年〜明治12年の米の収穫高は、南部藩が27万〜35万石、津軽藩が34万〜53万石と、
たった4年間でもそれぞれ±4万石、±10万石程度も変動がある。

また南部藩の中では紫波郡、和賀郡、稗貫郡が比較的豊かな土地で、
九戸郡、閉伊郡、北郡、二戸郡、三戸郡が比較的貧しい土地であることがわかる。
これらの土地では稗、大豆、蕎麦の栽培が盛んで、足りないカロリーが補われている。
閉伊郡・北郡はそれでも穀物の収穫が不足しているように見え、
おそらく漁業で補われてそうだけど、詳細不明。
263日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:23:13.73
なお明治11年の全国平均の物価では、

糯米1石:5.948円
(うるち)米1石:5.485円
大豆1石:5.261円
小麦1石:3.777円
裸麦1石:3.253円
蕎麦1石:2.796円
粟(アワ)1石:2.783円
大麦1石:2.466円
黍(キビ)1石:2.375円
蜀黍(モロコシ)1石:2.34円
稗(ヒエ)1石:1.4円
-----------------------------
玉蜀黍(トウモロコシ)1斤:0.025円
甘藷1斤:0.08円
馬鈴薯1斤:0.08円
264日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:27:49.28
>>262
一応、津軽藩にはやませを八甲田山が食い止めているからな。
八甲田山をやませが超えてくるなら、飢饉になるが、それでも白神山地があったから、
日本海沿岸部では米がとれた。
265日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:54:24.07
失礼

>>261では種々の農作物について一人当たり収穫高を計算したので、

>また米、稗、大豆、粟、大麦、蕎麦、小麦の
>人口当たりの明治9年〜明治12年の4ヶ年平均米収穫高(石/人)

の部分は、

 また米、稗、大豆、粟、大麦、蕎麦、小麦の
 人口当たりの明治9年〜明治12年の4ヶ年平均収穫高(石/人)
                       ~~~~~~~~~~~~~~~~
じゃないと意味が通らない。
266日本@名無史さん:2012/05/22(火) 21:29:34.19
しらなかったが、ヒエって、現代の岩手県の生産シェア91%、青森県の生産シェア8%で、
事実上日本のヒエのほとんどがこの2県で生産されているらしいな。

ついでにアワも岩手県の生産シェア73%
267日本@名無史さん:2012/05/23(水) 09:24:33.35
問題はソバ・ヒエ・アワはメシにはなっても市場価値が低くて江戸で換金できないことだ。

参勤交代・江戸藩邸での生活費用を工面するためには、米を江戸に送って換金しなくてはならない。
しかも当時の経済システムとして、ローン(掛売り)生活が一般的だから、ボーナスにあたる米がとれないと前の年のローンの返済ができない。
和賀郡の税金が重くなったのは市場価値の高い米がたくさんとれたこともある。

北の主要産業である馬牧場とか鉱山とかは藩営が多いから当然課税の対象にはならない。
268日本@名無史さん:2012/05/23(水) 17:49:10.54
その主要産業で藩の生活費を稼げば良いだけではw

何に浪費していたんだよ。
269日本@名無史さん:2012/05/23(水) 18:00:00.99
>>268

君は南部藩に何を期待しているんだ?
270日本@名無史さん:2012/05/23(水) 19:05:20.46
そりゃ北方領土を守っていたんだろ。
271北条時政:2012/05/25(金) 21:30:28.33
南部藩
家格を表す表高20万石 
実際の収穫が30万石

ふむ
年貢率4割として藩が手にする米が12万石


で、藩全体の人口が56万人!
これじゃ全然食っていけないじゃないかw
272日本@名無史さん:2012/05/26(土) 01:22:15.64
自分の死後、パソコンのデータを消去するソフト
「僕が死んだら」
273日本@名無史さん:2012/05/26(土) 02:17:48.98
>>271
旧藩時代の内高35.5万石(盛岡藩+八戸藩)に対し、
高に対する貢租率は陸中6郡で37.7%、
よって藩の収入は推定13.4万石程度。
(『新旧税額差引調』の原本には、もう少し正確な数字が載っているはず)

また米の収穫高は31万石でも、他の農産物を米換算石高で加算すると45万石。
さらに貨幣価値でなく、単純に質量で加算すれば、
米、ヒエ、大豆、粟、大麦、蕎麦、小麦、ジャガイモの収穫高だけで80万石に達している。
(収穫された穀物の質量の内、食べられる部分は米より少なくなるけど)

なお56万人というのは明治12年1月1日調の人口で、
農産物の収穫高の情報(明治9年〜明治12年度)にあわせたが、
多分旧藩時代の人口は幕末で約50万人。

52万6950人 明治6年1月1日調
56万1492人 明治12年1月1日調
274日本@名無史さん:2012/05/26(土) 13:40:38.72
そういえば下のスレで、明治維新時の南部(盛岡)藩(八戸・七斗藩を含む) の人口を42万人と見積もったけど、
『共武政表』記載の明治6年頃の人口(>>273, 共武政表の郡別人口の年次はバラバラだが、
陸奥国内の郡別人口を合計すると、明治6年1月1日の陸奥国の本籍人口と一致する)からすると、
推定50万人強が妥当だった。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1305980577/88-89

これだと南部藩は久保田藩よりも人口が多く、場合によっては佐賀藩、高知藩よりも人口が多いかも知れない
(いずれも支藩を含んだ場合)。

以前の推定人口42万人は1840年の盛岡藩の人口35万5548人からの計算だったけど、
宝暦の飢饉以降恒常化された紙上での人口集計の延長
(1752年から1840年まで、1816年の32万6262人と除き、人口は35万〜36万人の間で固定)で、
全く信用ならないことが再確認された。
275日本@名無史さん:2012/05/26(土) 20:53:36.93
自治領の多い地域の統計は単純に計算間違いしてるケースが多いのではないかと
276日本@名無史さん:2012/05/28(月) 13:45:38.50
下北半島〜釜石まで
南部藩は広大だからな

子細漏れなく調査というのはなかなか難しい
277日本@名無史さん:2012/05/29(火) 03:38:44.29
35万人と45万人(八戸藩の7万人を除いたとして)では人口が違いすぎる。
それに明治初期の壬申戸籍も、作成の元になったのは宗門人別改帳。
盛岡藩の人口集計は領地からの報告を元に江戸屋敷の方で集計を作成し、
それを盛岡藩雑書に掲載しているんだが、宝暦の大飢饉を境にまったく人口の変動がなくなる。

森嘉兵衛によれば、<盛岡藩は「水稲生産力が最も弱く、凶作発生率の最も高い地帯、
最も無制限に産児制限が行われてもなんの対策も講ぜられず、民力消耗し、
出稼・逃散・餓死者が出ても死人の処置もしない藩」、つまり仁政を完全に欠いた国家であった。
従って、為政者たちは人口に対する関心ももたず、対策も講じず、
総人口の増加も減少も「無修正」にして顧みなかったと結論づけている。>らしい。

278日本@名無史さん:2012/05/29(火) 03:41:19.91
東北他藩の人口変動はこんな感じ

宝暦の大飢饉
1757年 534,901→1758年 517,263→1761年 512,641(仙台藩陸奥領郡方人口)
1756年 146,546→1757年 142,165→1760年 131,808(会津藩郷村人口)
1756年 106,390→1757年 102,628→1760年 99,369(米沢藩総人口)
1749年 71,352→1755年 65,613→1765年 58,476(八戸藩)

天明の大飢饉
1784年 478,894→1785年 413,191→1789年 409,632(仙台藩陸奥領郡方人口)
1784年 126,998→1785年 117,937→1787年 116,421(会津藩郷村人口)
1784年 103,281→1785年 100,946→1789年 99,123(米沢藩総人口)
1781年 320,000→1786年 270,706(久保田藩百姓人口)
1781年 246,822→1795年頃 143,399(弘前藩総人口)

天保の大飢饉
1837年 114,983→1838年 113,404→1840年 112,968(米沢藩総人口)
1833年 435,262→1843年 322,999(久保田藩百姓人口)
1836年 239,311→1840年 170,797(津軽藩総人口)
過去帳の研究から、仙台藩もこの時期10万人単位で人口が減少している。

ただ、天明・天保の飢饉で仙台藩、久保田藩、弘前藩は10万人規模で人口が減っているけど、
その後の人口回復がかなり急で、天保の飢饉の直前の時点で、
天明の飢饉の前の人口水準を回復している。
また幕末には、天明の飢饉の前の人口水準を上回っている。
279日本@名無史さん:2012/05/30(水) 01:49:22.12
寛永期(1624年〜1644年)の『奥州之内南部領高郷村帳』(盛岡市公民館蔵)による石高

石高     田方(石)  畠方(石)  郡   村数
*12,162.215 10,435.310 *1,726.905 和賀郡 44
*12,867.788 11,291.782 *1,576.006 稗貫郡 52
*13,868.059 11,964.951 *1,903.108 志波郡 51
*10,429.807 *8,562.715 *1,867.092 岩手郡 55
**6,617.889 *5,231.389 *1,386.500 鹿角郡 33
*10,941.473 *5,273.036 *5,668.437 閉伊郡 94
**6,225.633 *2,790.585 *3,435.048 九戸郡 42
**6,213.398 *3,440.863 *2,772.535 二戸郡 48
*16,439.754 10,297.010 *6,142.744 三戸郡 67
**4,784.147 *3,125.717 *1,658.430 北郡  52
105,065.951 72,644.860 28,458.507 合計  538
(注:合計石高は一致せず)
280日本@名無史さん:2012/06/01(金) 20:12:27.26
しかし虚実を別にしても武勇伝華やかな南部家の歴史に比べると、
奥州工藤家は本当に地味で、武勇伝らしい武勇伝皆無。
有名な話はせいぜい初代が曽我兄弟に酔っ払って風俗嬢とセックスしたあとに爆睡しているときに殺されたことくらい。
281日本@名無史さん:2012/06/01(金) 21:54:22.23
>>280
工藤氏は曾我兄弟の仇討ち以降、子孫が北条得宗家の家来である、得宗被官になっているし、もともと武力や領地や家来の数よりも、事務能力や京都の貴族との交渉接待に長けた、「文官」的な武士だから武勲が無くてもしょうがないよ。
ちなみに工藤には2系統あり、伊豆を本拠地にした工藤は、名前の通字か、「祐」※工藤祐経
もう一つは、甲斐国を本拠地にしていた「景」を通字にしていた系統。
岩手青森秋田には前者の工藤が祖先と言われてる。

でも石川信直の系統が南部を乗っ取るまで、工藤氏は、南部宗家(通字が光の系統と、政を通字にする系統のどちらか)と縁戚だったらしいよ。
多分、石川信直らの本来傍流だった、今の盛岡南部家が九戸政実の乱以降、大勢をしめてから、脇に追いやられたんではないのかな?
同じころ、甲州譜代の福士一族も、九戸政実の与党として、盛岡南部家に領地や役職を放逐されて下級武士や、士分を放たれて、郷士に落とされている。
282日本@名無史さん:2012/06/01(金) 22:54:56.79
師行が八戸に来たあたりに、チャンスはあったのにだめでしたね。
曾我氏も津軽にいて、根城までせめこんでるのにね。結局南部に
滅ぼされてるし。
この時ときどうしてたんでしょうね。

結局、工藤宗家としてまとめられる人物がいなかったんでしょうね。
南北朝期から工藤氏は南部の軍門に下ってるということだね。
283日本@名無史さん:2012/06/04(月) 19:04:51.91
斯波や九戸や和賀稗貫みたいに無理に南部に抵抗せずに、最初からあきらめて一家臣になって満足して小さな幸せを守るというのも、
戦国地主の妥当な選択肢の一つなんだろうな。
284日本@名無史さん:2012/06/04(月) 19:15:48.25
南部だけは嫌だー てんで、独立戦争しかけて独立した津軽が一番よい選択だな。
285日本@名無史さん:2012/06/04(月) 19:38:22.62
>>283
つーか九戸も三戸も七戸も八戸も大同小異の同族連合。
どこが宗家とかあまり関係なかったのが、
秀吉サンの政策でアタマは一人にせよ、みたいな風潮になり、
その中でどさくさまぎれに代表格になったのが三戸と見た方がいい。
(実権を握るにあたってあらかじめ古い書類が「焼けてしまった」のは偶然じゃなかろ)
七戸はそれ以前に没落していたし、八戸は野心なく、
抵抗した九戸だけ取り沙汰されるが、家臣の下剋上なんかではなく
南部の代表をめぐる争いに敗れたってこと。

津軽も別に為信だけが野心家だったわけではなく、
あっちはもともと安東の風土の濃い地帯だったのを南部が抑えていただけ。
お家騒動のどさくさに南部の排斥に成功したってとこ。

斯波に至っては「最初からあきらめる」どころか南北朝以来の仇敵なわけだがそれ何の話?
286日本@名無史さん:2012/06/04(月) 21:08:21.94
馬鹿だな 為信は南部だろう。
287日本@名無史さん:2012/06/04(月) 21:50:32.33
南部、佐竹、松前:源義光の子孫
津軽:藤原秀衡の弟の子孫
安東(秋田):安倍貞任の子孫
288日本@名無史さん:2012/06/04(月) 22:16:06.62
>>287
なんつうか
伝統なんだな
289日本@名無史さん:2012/06/04(月) 22:20:56.58
>>286-287
どれも異説あるわ疑問出るわでかなり怪しい(特に松前、安東)
為信も久慈の出という以外にいくつも説がある。
(奥州藤原云々なんて徳川家康のアレより信用できんて)
まあ南部に仕えてたのは間違いないだろうけど、
石川城乗っ取りの際の悪名にも関わらず地元人気が高いのは
住民に「もともとここは南部のものじゃない」みたいな意識があったんじゃねーかと。
290日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:46:05.46
南部氏が主役の大河作らないかな
高橋克彦氏に原作執筆してもらって
291日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:55:04.96
>>290
んな、悪逆非道の藩主のどの時代を描くんだよw
292日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:04:17.31
戦国南部氏だよ
晴政信直利直三代で

九戸政実主役にと書こうとしてたけど
正直、政実一人だと一年も話持たなそうなんで、
「天を衝く」も原作の一部にして重要キャラとして出ていただくて事で
293日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:12:10.60
昔のNHKは東北が舞台で全国的には馴染みはなくとも
有名作家の原作あったら映像化してたんで(伊達騒動・伊達政宗・奥州藤原氏)
今一度挑戦してほしい
294日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:20:03.89
前九年から奥州藤原三代はウケそうな気がする
295日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:24:33.67
それは「炎立つ」だろ。
296日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:24:52.51
言いたかないが、天を衝くのデムパぶりを知ってなお、
そういうものを高橋克彦にやって欲しいという人の気が知れん。
また史実とどんだけ違うんだみたいな話でグダグダになるわ。
297日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:34:50.72
あの本て電波なの?
スゲー面白かったけど。
298日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:54:49.12
まあ、歴史小説だから、わからない部分は脚色して良いとは思うが…
299日本@名無史さん:2012/06/05(火) 01:45:16.53
>>292
戦国南部物語

○津軽に独立されてアタフタ
○斯波などの中小豪族イジメ
○大勢力をバックに九戸潰し
○遠野に手を突っ込んで阿曽沼氏を放逐
○大槌氏謀殺
○伊達氏との境界線選定でいいようにしてやられる
300日本@名無史さん:2012/06/05(火) 02:31:43.71
>>292

視聴率がとれないw

ちなみに後北条五代を大河ドラマ化した場合には、4代5代のところは視聴率が取れそうにないので
氏康時代を10月ぐらいまで引っ張ると思う。
301日本@名無史さん:2012/06/05(火) 09:07:00.95
>>296
とはいえ
他に岩手出身で有名な歴史小説家もいなさそうなんで
地元出身以外で南部氏題材にする作家もまずいないだろうし
302日本@名無史さん:2012/06/05(火) 09:29:50.13
朝の連続テレビ小説は一説に為信の出身地である久慈になったくらいだから、
復興特例アリなら可能性はゼロではない。

米沢上杉が景勝でなく愛の直江兼続を主人公にしたように、克彦の嫌いな北信愛を主人公にすれば、
晴政・信直・利直を通して描けるし、九戸、秋田、津軽、和賀、伊達の面々もまんべんなく登場させられる。
花巻城で鉄砲撃ちまくるメイドも出せる。

原作は盛岡南部大好きの浅田次郎で文句あるまい。
303日本@名無史さん:2012/06/05(火) 09:36:38.34
浅田次郎原作・復興支援大河ドラマ「北松斎(ほくしょうさい)」

主演:村上弘明(北信愛)、渡辺謙(伊達政宗)、山田ルイ53世(津軽為信)、
304日本@名無史さん:2012/06/05(火) 09:49:50.67
南部家て一般的な知名度つーか認知度ってどれくらいなんだろ?
歴ヲタでも名前知ってるぐらいなのか?
305日本@名無史さん:2012/06/05(火) 11:28:16.05
伊達政宗だって大河以前は人気も知名度もなかったんだろ。
なら、南部が大河でも良いがね。
306日本@名無史さん:2012/06/05(火) 12:20:27.03
>>305

人気はわからんが知名度は充分あった。
307日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:12:48.37
>>304
南部氏を知らないようなやつは歴ヲタとは呼べない。
308日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:18:57.39
知ってても南部氏=一揆が多いくらいしか印象ないだろ
戦国南部家でイメージアップ目指そうぜ。
309日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:24:32.53
戦国南部家より幕末南部家がいいよ。

鳥羽伏見で幕府が負けたのを見てから、幕府についたのは凄い。
310日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:27:31.97
戦前・戦後は相馬大作事件が何度も映画になっていたので、
南部・津軽は浅野・吉良のような扱いだった。

伊達は政宗より伊達騒動の方が有名だった。
311日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:52:39.75
幕末南部は壬生義士伝でよろしおます
312日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:56:09.86
別冊少年マガジンで連載中

久保田城を落とすつもりの総力戦です
313日本@名無史さん:2012/06/05(火) 15:53:02.77
>>302
沿岸と南部氏は相性悪いだろ。

>>304
九州の相良とか大村とか、ああいうイメージかな。
よくわからないがそれなりに勢力があって、たびたび名前を聞くけど
覇権を振るったわけでもない。
314日本@名無史さん:2012/06/05(火) 17:59:45.63
太平記の時代なら見どころはたっぷりだぞ。

・実継、大塔宮、楠木正成らの籠城戦を共闘の上梟首。
・師行、北畠顕家の右腕として北方に覇を唱えるも足利尊氏の独立を阻止せんと激闘の末憤死。
・政長ら、新田義貞らの鎌倉攻めに参加。
・信政、楠木正成の息子らの挙兵に付き合い戦死。
・南北朝合一の最後まで南朝で押し通した根城と早々に北朝についた三戸との相克。

どや
315日本@名無史さん:2012/06/05(火) 19:46:11.56
大河ドラマ「北松斎」みどころ
4月:晴政、政実、高信と南部の勢力拡大にはげむ信愛。美少女アイドル演じる泥娘が伏線。
5月:晴政の養子になる信直。しかし泥娘が晴政の子を出産。どうなる信直?
6月:信直暗殺を命じる晴政。それを阻止する信愛。そのうち晴政病死。どうなる信直?
7月:晴継即死。信愛クーデター決行。信直暗殺を命じる政実。それを阻止する信愛。
8月:秋田実季と結んで津軽独立をめざす山田ルイ53世。岩手郡奪回をめざす斯波詮直。毎週毎週合戦シーン。
316日本@名無史さん:2012/06/05(火) 19:47:19.58
9月:斯波に完勝したのもつかの間、秀吉が小田原征伐開始。九戸の妨害で津軽独立。
10月:政宗登場。葛西大崎一揆発生。ついに九戸が反乱。九戸城を囲む7万人をCGで再現。
11月:九戸の乱鎮圧。信直死亡。和賀稗貫の奪取を狙う政宗。どうなる南部?
12月:関が原の合戦。山形へ行く利直。そこで和賀が決起。南部へ攻め込む伊達軍。しかし信愛は花巻を死守。
利直も戻り岩崎城包囲。救援にかけつけた伊達軍も撃退。しぶとい岩崎城も火攻めで陥落。伊達へ逃げた和賀忠親も家康の呼び出し受けて切腹。
こうして幕末まで続く南部10万石の基礎をほとんど自力で揺るぎないものにした信愛は、波乱に富んだ南部武士としての生涯を終えたのであった。
♪チャンチャカチャーン
317日本@名無史さん:2012/06/05(火) 22:44:37.46
南部主役だと北東北戦国史カバーできて良いな。
南部晴政・信直&南部家臣団VS秋田愛季・津軽為信・九戸政実
難点は視聴率取れるか問題なのと、南部にあんまり絡まない戸沢盛安が影が薄くなる点
318日本@名無史さん:2012/06/06(水) 05:04:16.37
>>317

> 難点は視聴率取れるか問題

無理。
319日本@名無史さん:2012/06/06(水) 09:18:14.42
今はどんな人物やっても視聴率取れないんだし(まともな時代劇脚本書ける脚本家がいない)
ジェームス三木に最後の死に花だと思って南部氏頼むよ
320日本@名無史さん:2012/06/06(水) 15:24:24.00
何度目だよ大河にしてくれネタ
321日本@名無史さん:2012/06/06(水) 15:59:38.91
別にいいだろ
大して話題もない板だし
322日本@名無史さん:2012/06/06(水) 19:18:36.35
南部はコンパクトながらいかにも戦国大名のエッセンスが詰まってるし、最後は伊達から10万石守りきったってことでスッキリ終われるからいいんだよ。

大河ドラマ「秋田実季」だと、最後転封されて人形との語り合いで終わったちゃうし、
大河ドラマ「最上義光」だと、駒姫かわいそすぎるし、関ヶ原のときに直江にもやられるし、義光の死後速攻で改易されちゃうしな。
323日本@名無史さん:2012/06/06(水) 19:49:47.60
南部は合戦が地味だから全般的に無理。それより足利義満やれ。
324日本@名無史さん:2012/06/06(水) 21:03:48.52
大河ドラマの予算なんてこの先増えるわけないんだから、
安い予算で無理して大きな合戦の場面撮るより、南部の合戦くらいを丁寧に撮影した方が面白いと思うんだ。

九戸政実が九戸城の屋根の上を馬で歩くとか、信愛のメイド二人が花巻城で鉄砲撃ちまくるとか絵的にはなかなか面白いと思うんだが。
325日本@名無史さん:2012/06/06(水) 21:42:13.61
大河としては、津軽信枚がおもしろいと思うよ。

・伝説では美形。徳川家康の養女に見初められる。
・石田三成の娘を妻にしていたが、側室に格下げして別の領地に移動。
・キリスト教の洗礼を受けながらも、危険を感じ天海に弟子入り。一時キリスト教徒だったため、領内に追放キリスト教徒を受け入れ、外国人宣教師の慰問も許す。
・兄の子である大熊との確執。津軽騒動では忍者(早道の者)も活躍、大熊派を追い出し2代目に。
・津軽騒動で自分の味方になった重臣と、一人の小姓をめぐってとりあいをし(修道)、大騒動に。一時家臣団は半分に。(南部藩にも多数逃亡)
・石田三成には恩義を感じており、娘を妻にしている。(その子どもが3代目)また、弟も大阪から助け出している。
・安東氏に対抗して、海沿いの地に城を作ろうとすると、そこから妙な土人形や甕がざっくざっくと出土。(亀ヶ岡遺跡)
・領地の安堵を地方で祈祷している最中に、作ったばかりの天守閣に落雷。天守閣は炎上、地下にあった火薬庫に引火し、天守閣は木っ端みじんに。
・九戸の乱でも出兵しているんじゃないのかな?w

 話題にはこと欠かないと思うなあ。
326日本@名無史さん:2012/06/06(水) 21:43:25.64
この話題、もしかしてほとんど一人が喋ってる?
327日本@名無史さん:2012/06/06(水) 21:58:04.63
>>325
スレ違い
328日本@名無史さん:2012/06/06(水) 22:06:15.77
南部藩の話題も出てくるのにw
けちくさい。
329日本@名無史さん:2012/06/07(木) 02:07:07.63
徳川政権化では公家大名の扱いであったからな津軽は。
330日本@名無史さん:2012/06/07(木) 05:49:35.42
>>329

どう考えても公家出身ではないんだが、近衛家が「うちと血がつながっている」と言っちゃったからなあ。
331日本@名無史さん:2012/06/07(木) 05:51:29.34
>>323

> 南部は合戦が地味だから全般的に無理。それより足利義満やれ。


この人は皇位簒奪をマジで考えていた形跡があるので
ドラマ化すると右翼とかがうるさい。
332日本@名無史さん:2012/06/07(木) 07:25:20.17
>南部は合戦が地味

見てきたようなこのくだりに誰も突っ込まない件
333日本@名無史さん:2012/06/07(木) 07:34:29.94
合戦が地味というより、合戦名の知名度が低いってことでしょ。

知名度が低い激戦は耳川の戦いとか戸次川の戦いとかいろいろあるが。
334日本@名無史さん:2012/06/07(木) 07:57:32.94
でも大規模な会戦みたいなのもないよな?

九州だと耳川
中国だと厳島
四国だと中冨川

これぐらい派手なの頼むわ

335日本@名無史さん:2012/06/07(木) 09:39:33.90
中冨川?耳川なら島津のつり野伏とか聞いたことあるが、中冨川は全然聞いたことない。

九州なら大友宗麟はなかなか面白いと思うけどな。
南部で一番大きい会戦は岩崎一揆のときに伊達の白石宗直・鈴木将監と夏油川で戦った会戦だろうな。
南部の主な武将はほとんど参加している。鈴木将監を討ち取って伊達軍を撃退している。
336日本@名無史さん:2012/06/07(木) 09:58:56.25
中富川の間違いね。
337日本@名無史さん:2012/06/07(木) 12:15:58.57
大友宗麟で大河は無理という判断で正月ドラマだったんだろうと思ってるが。
2004年だったのか。ずいぶん経ったな。
338日本@名無史さん:2012/06/07(木) 13:59:01.52
中富川の戦いって2万3000対5000の勝瑞城の城攻めじゃん。

それなら6万対5000の九戸城の戦いの方が派手だよね。
339日本@名無史さん:2012/06/07(木) 14:28:34.82
3日で降伏したけどな
340日本@名無史さん:2012/06/07(木) 17:24:01.95
河越城の戦い
341日本@名無史さん:2012/06/07(木) 17:50:14.74
>>333-
>>314

戦国だけが歴史と思ってるやつは三戦板へどうぞ。
342日本@名無史さん:2012/06/07(木) 17:58:26.08
先祖が夏油川の戦いで討ち死にしてるから詳しく知りたいな
343日本@名無史さん:2012/06/07(木) 19:13:15.20
夏油川合戦の絵
http://jfb.myhome.cx/newpage3154.htm

現地に立ってる配置図の看板
http://homepage3.nifty.com/araebisu/a/kitakami/waga/wagasi2.htm

要約すると、食料なくなりそうになった和賀忠親が自ら変装して、水沢の救援要請。
政宗は水沢の白石宗直と登米の鈴木将監に救援を命令。
伊達軍はひそかに夏油川に接近。南部軍を阻止している間に米を岩崎城内に運びこもうとする。
ところがその前夜、伊達軍に従ってた岩谷堂(江刺)あたりの地侍が前々からひそかに世話になっていた北信愛に通報。
信愛の助言で利直は夜の内に川を渡って待ち伏せ準備。
白石宗直は後詰で、鈴木将監が夏油川を渡って岩崎城に向かった瞬間に南部軍一斉突撃。目の見えない信愛も音を頼りに突撃。
鈴木将監は奮戦するも川の中で南部の騎士に囲まれる。白石宗直は救援しようとするも囲まれそうになり退却。
鈴木将監は暴れまくるも富沢日向入道由斎との一騎打ちでついに戦死。

南部軍は鈴木将監の首を河原に埋めるが、伊達の足軽が掘り起こして首を奪い返そうとして捕まる。
南部の武士たちはさっさと殺すべ殺すべと騒ぐが、この行為に感動した利直は、鼻をそいだだけで釈放してやる。
344日本@名無史さん:2012/06/07(木) 19:27:03.92
>>343
ありがとー。
先祖は南部側で鈴木将監の軍勢と戦って討ち死にしたとしか伝わってないから、
色々想像出来てためになったよ。
南部軍は家老クラスが大勢出陣してて、この戦いに賭ける意気込みが伝わってくるようだ。
345日本@名無史さん:2012/06/07(木) 19:48:54.14
南部と伊達が直接対決した合戦は意外と少ないみたいだね。
346日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:00:03.56
大迫城とかは一時伊達軍に制圧されたらしい。

ここを伊達に制圧されると盛岡・花巻・遠野の連絡が遮断されて非常にヤバイ。
347日本@名無史さん:2012/06/08(金) 07:37:06.34
>>338
中富川は戦い自体はそんなに大したもんじゃないが、
長宗我部を四国の覇者になるのを決定付けた戦いとしては重要で意味があるんだよ。
348日本@名無史さん:2012/06/08(金) 13:38:17.63
長宗我部元親とか最上義光とか佐竹義宣とか明らかに南部よりすごいんだけど、

先祖伝来の土地を必死で守りきった感がある南部に比べると、長宗我部・最上・佐竹はその後の喪失感が大きすぎるんだよなー。
349日本@名無史さん:2012/06/08(金) 15:18:44.33
>>348

江戸幕府が南部に甘すぎ。

これは伊達が暴れたら水戸と南部で挟撃する予定だったらしいから仕方ないんだろうが。
350日本@名無史さん:2012/06/08(金) 18:23:29.14
そうなの?檜山事件じゃ、津軽のかたをもったような気がするのだが…
351日本@名無史さん:2012/06/08(金) 19:44:42.03
>>350

幕府は津軽氏にも甘かった。
352日本@名無史さん:2012/06/08(金) 20:55:41.68
重直が南部家わざとつぶすつもりで世継ぎ決めずにあぼーんしたとき、
藩士は転封されるよりは減封された米沢上杉と組んで幕府と戦うつもりだったらしいよ。


353日本@名無史さん:2012/06/08(金) 22:36:16.79
津軽厨 ウザイ ひっこんでろ
354日本@名無史さん:2012/06/09(土) 04:39:58.32
>>352
いや、向こうが組む気はないだろうに。
変な思考回路だなw
355日本@名無史さん:2012/06/09(土) 04:43:18.08
>>352

それはプロレス。

本気で幕府と戦うことを考えた人はいないと思うよ。
356日本@名無史さん:2012/06/09(土) 09:54:59.70
南部重直はなんで、わざと潰す気だったの?
357日本@名無史さん:2012/06/09(土) 12:56:10.63
>>346
大迫城は秀吉の奥州仕置で南部になったが
それまでは稗貫氏の大迫家のもの。
和賀、稗貫一揆のどさくさに大迫又三郎らが伊達の後ろ盾を得て奪還したが
すぐ南部に落とされた、とぃうだけの話。「伊達軍に制圧された」と言うとかなり違う。

なんか都市伝説ちっくなネタ振りがやたら増えたな。
358日本@名無史さん:2012/06/09(土) 13:30:56.62
大迫城主であった大迫右近の子、又三郎、又右衛門兄弟が南部方、田中藤四郎が守る大迫城をしたときは、
稗貫大迫旧臣の他に伊達政宗配下の猪倉伯耆の鉄砲隊も加わっていたから、
後ろ盾という表現よりは、大迫勢が伊達軍を大迫まで誘導して攻撃・制圧したという方が正しいのでは?
359日本@名無史さん:2012/06/09(土) 14:09:55.31
だいたいどさくさにまぎれて伊達の後ろ盾を得て、というのがおかしい。
最初から伊達のまーくんが和賀・稗貫・大迫の残党を計画的に利用して、和賀・花巻・大迫、あるいは遠野まで奪取しようとしたと考える方が自然。

360日本@名無史さん:2012/06/09(土) 15:36:18.90
>>351
基本的に東北の大名全般に甘い気が
改易にしても。古くからいた土着大名で改易されたの最上家ぐらい?
361日本@名無史さん:2012/06/09(土) 15:37:52.11
和賀らをそそのかしたのが伊達なのは確かにしても、
この一連を「伊達の侵攻」とするのは乱暴じゃねーかと言いたいのだが。
和賀らは旧領の回復を求めて決起したのであって、
伊達に領土を差し出すつもりで伊達様のために戦ったわけではない。
362日本@名無史さん:2012/06/09(土) 15:56:01.99
>>360

幕府は伊達以外は警戒していなかったと思う。
363日本@名無史さん:2012/06/09(土) 16:28:18.07
このスレ的にはどうでもいい話だ
最上氏が近世大大名として残ってたら。
山形市は仙台と並ぶ東北第2の都市になってたんだろうか
364日本@名無史さん:2012/06/09(土) 16:32:56.02
>>363

内陸部でしかも積雪地帯だから、そこまでは発展しなかったはず。
365日本@名無史さん:2012/06/09(土) 21:08:46.61
>>361
と言って、伊達の庇護無しに独立を保てると考えてたとしたらお目出度い。
366日本@名無史さん:2012/06/09(土) 21:55:03.34
>>365
位置づけに対するツッコミへの反論にも
釣りにもネタにもなってないので
こっちも思ったこと言うわ。
南部vs伊達にやたら話を持ってきたがる
ノブヤボ厨はどっかいけ。
367日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:05:38.02
実際には、伊達の恫喝に負けて秋田に攻め込むへたれぶりだったんだからなw
368日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:33:15.03
>>367
ハイ、ハイ
相も変わらず、根拠のないでたらめ。

369日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:47:09.72
>>366
いやだから、伊達様の為に戦った訳じゃなかろうが、
旧領回復したら伊達の庇護のもと、南部の支配から脱するんではなくて?
370日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:58:48.65
>>369
バックアップしたからといって「伊達が攻めた」とは言えないだろう。
371日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:10:54.63
「南部史要」の記事だと、
伊達政宗の家臣、藤田但馬は和賀郡毒沢城を攻撃して占領。さらに踏瀬城の守将・原台主膳を志渡森で討ち取る。
別の上郡山外記率いる伊達軍は、和賀郡田瀬城の守将・小田島肥前と嶽間沢で戦って、南部軍を退却させ田瀬城を包囲。

大迫城には猪倉伯耆の率いる伊達軍鉄砲隊を派遣して大迫又三郎・又右衛門と協力して占領。

1600年3月、利長が支援する家臣鱒沢広勝に遠野城を奪われた阿曽沼広長も伊達軍(葛西残党主力)と遠野を攻撃。平田で南部軍の鱒沢広勝を討ち取る。
しかしその秋、桜庭安房の350人と鱒沢軍残党が合流し、閉伊郡糀坂峠で伊達軍撃破。阿曽沼広長は仙台へ逃亡。
372日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:11:01.76
いくらまーくんでも煽動だけして兵隊は出さないで勝てるとは思わんだろう、さすがに。
373日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:11:57.57
あ、利長は利直の間違い
374日本@名無史さん:2012/06/09(土) 23:26:12.80
伊達の家臣が率いる浪人部隊(葛西残党)の行動についてはこのサイトが詳しい。
http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/f40b250f014f128d9075e06f7183ff67

ちなみにまーくんは斯波の残党にも声をかけていたが、斯波の残党は決起直前に慎重派の説得でやめたらしい。
375日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:15:47.79
>>369
南部の支配から脱することが第一義だったならそういう言い方もありかもだが、
伊達は「とにかく今は自分らの領地を持って中央に届け出れば領土は安堵されるから」
みたいな言い方で浪人たちをそそのかしたはず(すまんソースは失念)。
南部をやっつけるために伊達と手を組んで戦ったわけではなく、
旧領回復の悲願のために手段は選んでられなかったってことだろう。
和賀・稗貫一揆自体伊達の扇動によるものなのは自明だし、
扇動のために伊達が兵を送ったことは確かだろうけど、
こういう場合「伊達の占領」「伊達の侵攻」とは普通呼ばないよ。

余談だが、「まーくん(?)」のDQN眼竜ぶりがとっても際立つエピソードだとは思う。
376日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:24:02.09
しかし和賀忠親も阿曽沼広長もそろって仙台で死んでるところがなんだかなあ。

377日本@名無史さん:2012/06/10(日) 22:40:09.68
明治6年1月1日の東北の都市人口
51,998 仙台
38,118 秋田
32,886 弘前
24,964 鶴岡
24,945 米沢
21,306 盛岡
20,588 若松
18,619 酒田
17,631 山形
10,965 青森
10,435 二本松
10,325 石巻
9,518 八戸
9,174 能代
8,559 土崎
8,361 新庄
8,169 横手
7,687 大館
7,250 白河
6,587 谷地
6,516 黒石
6,423 本庄
5,814 湯沢
5,813 福島
5,513 寒河江
5,166 水沢
5,086 三春
5,070 天童
5,024 須賀川
4,782 郡山
378日本@名無史さん:2012/06/13(水) 01:10:48.54
南部藩の領地って面積でいえば江戸期では最大の面積だったのか?
379日本@名無史さん:2012/06/13(水) 02:38:26.89
最大は松前藩でね?
380日本@名無史さん:2012/06/13(水) 03:02:48.82
幕末なら、多分蝦夷警護地の領地割譲状況から、伊達の方が上
381日本@名無史さん:2012/06/13(水) 03:28:22.44
陸中国の内、3郡が伊達領、7郡が南部領
陸奥国の内、約半分が津軽領、約半分が南部領

よって、八戸藩領を含む南部領は
830.98(陸中) x 0.7 + 672.51(陸奥) x 0.5 ≒ 917 方里 (1万4100km2)

一方の伊達領は
磐城国1305村の内、104村が伊達領

よって、一関藩を含む伊達領は
525.92(陸前) + 429.83(磐城) x 104/1305 + 830.98(陸中) x 0.3 ≒ 809 方里 (1万2500km2)
近江・下総・常陸などの飛び地は多分合計しても10方里(154 km2)にも満たない

支藩を含めた前田領は、近江の飛び地を無視したとして、
147.83(加賀) + 122.72(能登) + 266.41 (越中) ≒ 537 (8300 km2)

また島津領は、日向483村の内175村が島津領とし、奄美を含むとして
511.40 (日向) x 175/483 + 247.36 (大隅、奄美101.02方里を含む) + 332.68 (薩摩)
≒ 765 (1万1800 km2)
琉球156.91方里を含むと 922方里 (1万4200 km2)

よって南部領は、加賀前田領や仙台伊達領よりも広いが、
琉球を加えた場合の薩摩藩と面積が互角で、松前藩には間違いなく負ける。

但し北海道の大部分を幕府が接収した幕末では、南部藩より広い警衛地・領地を北海道に与えられた仙台藩の方が面積が広くなったと推測される。
382日本@名無史さん:2012/06/14(木) 23:36:29.68
>>381
八戸藩は盛岡藩の支藩らしいけど他藩における支藩とは違うようにみえるけど。
383日本@名無史さん:2012/06/15(金) 09:43:17.41
それいったら一関藩とかも支藩かどうか微妙だけど。遠く離れた宇和島藩とかは完全に別なんだろうけど。

八戸藩とか一関藩みたいに名字同じ大藩に周りを完全に囲まれてる小藩は立場が弱い。
384日本@名無史さん:2012/06/15(金) 10:53:25.09
>>382

岩国藩も特殊なスタンスだな。

あとは佐賀藩の領地内に住んでいる龍造寺家の人の所領とかも微妙なスタンス。
385日本@名無史さん:2012/07/23(月) 20:40:17.31
あからさまな釣り
386日本@名無史さん:2012/07/23(月) 22:40:34.25
南部藩の商人って大津から来た人が多いんだよね。
今回の事件ってどう思っているんだろ。
387日本@名無史さん:2012/07/25(水) 14:38:05.77
>>386

遠祖が近江から来たというだけで、
現在は滋賀県に特に思い入れはないでしょ。
388日本@名無史さん:2012/07/25(水) 19:51:30.42
近江商人の子孫だけどちょっとは思い入れあるよ。

しかし大津って今も昔も完全に京都の植民地で、近江商人って実質京都商人なんだよね。
それに比べると盛岡は大都会ではないが、半径100km以内に大都会ないので相対的に大きく見える。
古い家柄と勤皇、忠誠が売りの南部家と、古くから京都の下請けだった近江商人が相性よかったのはわかる気がする。

伊達は近江商人より大阪商人の方が合う気がする。
389日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:48:49.59
以前、目時隆之進が秋田軍の中にいるという記述はおかしいと書いたが…

土曜日ちょっと遠出して遠くの図書館で書籍を調べてみると、目時はやはり秋田軍の側にいたようです。
具体的に何をやっていたかはわからないけどね。

でもまあ、間違ったことをかいていたので修正します。
390日本@名無史さん:2012/07/25(水) 23:56:59.91
目時ってあんな狭いのに300石もあるのは意外だ
391日本@名無史さん:2012/07/26(木) 01:14:30.08
南部は意外と進んでるからな。
晴政は三戸城の搦手門に当時としては最先端技術の石垣を使ってるし
拠点を聖寿寺館から三戸城に移すなど戦国大名として相当の先見性があったと思われる。
392日本@名無史さん:2012/07/26(木) 03:31:16.61
>>391

南部は軍事(水軍は除く)や中央政権との付き合いはなかなかうまい。

強兵はそこそこできるが、富国ができない。

393日本@名無史さん:2012/07/26(木) 03:36:34.66
身延の波木井実長は南部氏だっけ?
394日本@名無史さん:2012/07/26(木) 09:45:16.19
富国ができないので呼ばれたのが近江商人。

強兵の南部と近江商人が組めば相互に補完できる。
395日本@名無史さん:2012/07/26(木) 10:37:16.30
>>393
ggrks
396日本@名無史さん:2012/07/27(金) 06:33:28.57
下々が商才があっても、藩公が経済オンチのくせに、商業や海産物の利益が莫大になるとみるや
主導権取ろうとその道の責任者を排除、結果経済が疲弊して発展が中断される。
貿易(交易)はその道の才幹を持つ人の長年の勘と、交易する当事者間の信頼感で成り立つから、
源氏の古い血筋だけを寄りどころに古い価値観で同族政治をしてきた土侍には到底無理な話し。
この失敗の繰り返しが盛岡南部の歴史。
397日本@名無史さん:2012/07/27(金) 08:09:25.50
波木井実長は南部実長が本名で日蓮の有力壇越。
波木井郷が領地だったので波木井実長といわれてた。
(徳川姓だが水戸光圀とよばれてたと同じ)
398日本@名無史さん:2012/07/27(金) 14:22:13.11
重直や利済のような暗君だけなら幕末までもたなかっただろうが、
南部には8万石に減った表高を新田開発や銅山開発で10万石に戻した重信や、
徹底した倹約と人事刷新で蝦夷地警備と20万石高直しをうまくやりくりできた利敬のような経済通の名君もいたから幕末までもった。

利敬の倹約で回復した経済が、利済でグチャグチャになったのは、利敬のときに追放された藩士が利敬の死後に有能な藩士を追放したから。
399日本@名無史さん:2012/07/27(金) 14:26:43.49
楢山佐渡が一般の藩士や領民に信頼されていたのは、利敬に諫言して家老を罷免されているから。
400日本@名無史さん:2012/07/29(日) 00:32:03.26
今日の朝日新聞beうたの旅人は南部牛追唄
葛巻町と旧沢内村すごいっすね
401日本@名無史さん:2012/07/29(日) 21:25:22.34
葛巻は八戸藩だろ。
402日本@名無史さん:2012/07/29(日) 22:33:41.43
ここは南部氏スレ。南部藩スレならともかく
403日本@名無史さん:2012/07/30(月) 08:24:43.55
八戸藩は南部氏だろ。
404日本@名無史さん:2012/07/31(火) 01:29:19.58
繰り返しで。
無知来るたびに説明するの。
405日本@名無史さん:2012/07/31(火) 01:33:02.54
八戸は八戸藩スレでもつくればいいのに。
406日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:49:33.96
>>398
というか南部ってあまり新田開発に力を入れる藩主が現れなかったのが意外。
江戸初期の実高が20万石と言われてるのに南部藩の最大石高は
せいぜい28万石ってのがなんだかなあって気がする。
407日本@名無史さん:2012/08/08(水) 00:51:53.99
>>406
土地は広いが山ばかりのお国ですから。まして冷害で米の取れない年なども数年おきにあるわけで。
408日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:35:25.21
米以外にも色々と売れる物があったし幕府には石高を過小申告してたから
お手伝いもそれほど重いもんじゃなかったからだろう。
409日本@名無史さん:2012/08/08(水) 19:58:37.39
いやいや南部もかなり新田開発やってるよ。

南部重直は暴君だったが釜津田甚六の提案で、抗夫に四つの鹿妻穴堰を開削させ、
雫石川の水を引き、盛岡の郊外に三万石の新田をつくった。

次の南部重信は名君で、和賀郡村崎野に松前家の親族奥寺八左衛門が松前家から三千両を借りて、
囚人と抗夫を使うのを許可し、七千二百石の新田をつくる。

1682年には、重信の自腹で稗貫に二枚橋新田を開き、翌年に鍋倉新田を開く。
1683年、和賀稗貫の新田二万石を八万石に加増して表高十万石になる。
その六男、政信は二戸の新田五千石で旗本になる(のち盛岡新田藩になる)。七男、勝信は新田三千石で旗本になる。

幕末は新渡戸稲造の祖父、新渡戸伝が三本木(現十和田市)の開拓をやっていた。
410日本@名無史さん:2012/08/09(木) 16:56:03.66
>>406
江戸時代初期の南部藩の石高は10万5066石(田7万3千石、畑2万8千石) >>279
明治政府が地租改正直前の明治5年に把握した旧南部領(八戸藩領を含む)の内高は35万5370石 >>260
28万8875石というのは、天保郷帳として幕末近くの1835年頃に報告した内高で、
つまり幕府に対して南部藩は若干過小に石高を報告している。

だから江戸時代を通して増えた新田高は明治5年の石高35万5370石から江戸時代初期の10万石を引いた25万石。
新田高といっても、田と畑の両方を合計したもの

実際の米の収穫高は明治9年〜明治12年で約27万〜35万石(平均31万石)程度
他の農産物を加えると、明治10年〜明治12年で約45万石相当
明治初期に農家は3割程度収穫を明治政府に対して誤魔化していたという研究もあるので、
実際には米は平均40万石、他の農産物を含めて60万石ぐらいかもしれないが、
55万人という人口を考えると、決して多くない。

411日本@名無史さん:2012/08/09(木) 18:18:49.73
>>江戸時代初期の南部藩の石高は10万5066石

これってかなり過少申告した数字でしょ。
この数字が正しいとすると1万6千石を所有してた
根城八戸氏が北郡、三戸郡、二戸郡全てを所有してたことになってしまう。
412日本@名無史さん:2012/08/09(木) 19:07:38.77
>>411

>>279にまとめたように、
二戸郡、三戸郡、北郡を合計すると、2万7437石だから、
根城八戸氏のは三郡の石高の60%しか領有していないことになる。
413日本@名無史さん:2012/08/09(木) 22:41:12.40
>>412
なんていうか三戸郡の石高が多すぎね?
俺が見た飼料だと確か1万石にも満たなかったはずだけど・・・
414日本@名無史さん:2012/08/10(金) 01:33:22.52
>>413
それは八戸藩の所領を除いた、盛岡藩領分のみの数字では?

三戸郡の石高の変遷は以下の通り

1万6439石7斗5升4合 67村 正保郷帳 (1647年) 内高
 正保郷帳として報告した数字だが、中身は「寛永期 奥州之内南部領高郷村帳」で、
 この段階では八戸藩はまだ成立していない。

1万8874石0斗1升4合 67村 元禄郷帳 (1701年) 表高

3万8575石2斗5升9合 67村 天保郷帳 (1834年) 内高

4万2952石6斗9升8合 120村 旧高旧領取調帳 (1870年頃) 内高
 2万9282石0斗8升9合 67村 斗南藩領分
 1万3670石4斗4升9合 53村 八戸藩領分
 合計は1斗6升のズレあり

4万3792石9斗6升0合 120村 郡村石高帳 (1872年) 内高
415日本@名無史さん:2012/08/10(金) 01:55:45.82
寛永・正保期より前の郡別石高の史料は慶長郷帳だけど、多分南部藩に関しては記録が残っていない。
残っているとすれば拝領高だから、郡別石高なんか判るわけない。

参考までに天保郷帳における三戸郡の石高は、以下のサイトの68/77頁目に出ている。
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?XSLT_NAME=frame&NO=33&BID=F1000000000000011172
416日本@名無史さん:2012/08/10(金) 02:11:30.57
あ、郡別石高が分かるわけないというのは、慶長期の話ね

一応寛文5年(1665年)の八戸藩分立時の石高は

三戸郡 40村 1万0428石8斗9升9合
九戸郡 38村 6806石6斗1升3合
志和郡 4村 2764石4斗8升8合
合計 82村 2万石

http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3194/1/HirodaiKokushi_105_54.pdf

よって三戸郡約1万6439石の内、1万0429相当が八戸藩領分となるので、
確かに三戸郡内の南部藩領分は1万石を切った6011石となる。
(より正確な三戸郡内石高は、南部藩の領知判物を見れば載っていると思う)
417日本@名無史さん:2012/08/10(金) 02:46:15.76
南部藩の拝領高10万石が決まったのは寛永11年(1634年)の領知判物で、
糠部郡が北、三戸、ニ戸、九戸郡に四分割されたのもこの時。

角川地名辞典によると、寛永11年(1634年)の領内郷村目録では
北郡 1万320石余
二戸郡 1万2194石
三戸郡 3万6858石余
九戸郡 1万3026石余
鹿角郡 1万4882石余
岩手郡 2万2780石余
紫波郡 2万8323石余
閉伊郡 2万3284石余
稗貫郡 2万3680石余
和賀郡 2万0202石余
合計 20万5554石余

それが正保4年(1647年)の正保郷帳では>>279のように10万5065石なので、
こちらでは表高を申告していた。

詳しいことは角川地名辞典にのっているけど、三戸郡が成立した1634年以降、
三戸郡は表高、内高ともに1万石未満ということはない。
418日本@名無史さん:2012/08/10(金) 02:54:06.74
とりあえず南部藩(+八戸藩)の石高についてまとめると

1634年の段階で内高20万5554石
1872年の段階で内高35万5370石

よってこの238年間に増えた新田高は約15万石

「10万石」は拝領高で、
いくらなんでも30年間で10万石増えることはありえないので、
江戸開府当初も20万石を少し下回る程度の石高だったと思われる。
419日本@名無史さん:2012/08/10(金) 17:18:56.35
日本史板で出していい話題かどうかと思うんだが聞いてみる。

ある時代小説で
「南部藩と伊達藩の狭間にある海沿いの小藩」
というのが舞台なんだが、これが石高五万石の設定。
五万石ってどれくらいの面積になるんだろう。
閉伊と気仙を足したようなもんかな?
今で言えば宮古市から釜石や大船渡を経て
陸前高田くらいまでだろうか。
420日本@名無史さん:2012/08/10(金) 18:43:53.54
一関藩で三万石だからそれに大船渡と水沢あたりを足せばそのくらいかも。

421日本@名無史さん:2012/08/10(金) 21:40:50.98
>>429
内陸部は穀倉地帯だけど、沿岸部の藩って設定で五万石
って、物凄い面積を必要としません?
422日本@名無史さん:2012/08/10(金) 21:59:14.07
五万石って小藩なのか?
423日本@名無史さん:2012/08/10(金) 22:08:57.29
中藩と小藩の丁度境目くらいだな。
言い表すとすれば大きい小藩って感じ。
424日本@名無史さん:2012/08/11(土) 13:40:27.52
八戸藩は二万石だが、紫波に飛び地があった。
南部と伊達の間の海沿いと言えば気仙郡とかか。気仙藩とかかなあ。
425日本@名無史さん:2012/08/11(土) 23:37:08.00
南部の表高10万石は過少申告
薩摩、大隈、日向の一部、琉球諸島含めて表高80万石の島津は過大申告
426日本@名無史さん:2012/08/12(日) 00:33:05.08
>>425
薩摩藩の場合、江戸時代初期においては確かに過大申告だが、
幕末には薩摩・大隅・日向国諸県郡内だけで、80万石以上の農産高を実現している。

米の収穫は明治初期でも35万石程度だが、
サツマイモの収穫は20万トン、米の価格に換算して20万石相当。
427日本@名無史さん:2012/08/12(日) 06:34:42.98
よくわからんが一体なんのために過小申告するの?
428日本@名無史さん:2012/08/12(日) 10:24:08.42
税金対策で申告漏れするのと一緒。
429日本@名無史さん:2012/08/12(日) 10:35:00.37
なるべく軍役負担・普請手伝いしたくないからだろう。
幕府も伊達・佐竹を警戒してたから南部を優遇していた。
津軽は石田三成・豊臣のシンパだったからやはり警戒されてた。

ただ蝦夷地警備で本当に南部の兵力必要になると20万石に高直しさせられた。
430日本@名無史さん:2012/08/12(日) 16:44:24.34
表高と内高の解離は、家光の時代から既に認められていることなんだけどね。

島原の乱みたいなことがあったから、
一応内高を正直に申告させるようにし、
家格と普請を決める表高は、前例通りとしておいた。

ただ余りに内高と表高の解離が激しいと、幕府や幕臣連中から
変に目をつけられて領地換えの被害に会うから、
自分のところで把握できた内高を適当に削って報告する藩が増えて来る。
431日本@名無史さん:2012/08/12(日) 16:55:01.99
>>429
時系列が逆だ

南部藩は津軽藩との兼ね合いからずっと高直しを求めていて、それを幕府は認めていなかった。

蝦夷警備をこなした後に、功績を認められて高直しを認められた。

そんな南部藩も天保郷帳作成の時には、おそらく35万石近くの内高を有していただろうが、
申告した内高は28万9千石。
432日本@名無史さん:2012/08/12(日) 17:00:26.39
いわゆる隠し田があちこちにあったわけだな。

ちなみに南部を監視する幕府の隠密はみな馬買い役人だったらしいが、かなりなあなあだったらしい。
433日本@名無史さん:2012/08/12(日) 17:15:49.35
天保郷帳による1830年代の東北の石高

337,218.12750 陸奥国会津領
434,581.24807 陸奥国白河三春二本松領
300,419.55681 陸奥国磐城棚倉相馬領
203,825.84450 陸奥国福島領
992,057.26000 陸奥国仙台領
288,874.79300 陸奥国南部領
317,262.23000 陸奥国津軽領
216,161.22023 出羽国米沢領
366,147.13597 出羽国山形領
*62,387.45380 出羽国新庄領
234,302.35614 出羽国庄内領
416,325.35530 出羽国秋田領

陸奥・出羽は面積が広大なので、地区を郡毎に分割し、
それぞれの地域を治める有力大名に郷帳を作らさせているので、
「〜国〜領」といってもその領内を全て一つの大名が治めているわけではない。

仙台領は仙台+一関藩
南部領は盛岡+八戸藩
津軽領は弘前+黒石藩領
米沢領は米沢藩領
秋田領は秋田(久保田)+岩崎領

と、この辺は大体本藩+支藩の領地と一致しているけど(もちろん近江や関東にあった飛び地は対象外)、
山形県〜福島県の辺りは大名預所、天領、小藩、飛び地が入り乱れていて一致しない。
434日本@名無史さん:2012/08/12(日) 17:30:35.20
仙台領分の石高

*23,539.230 刈田郡
*30,527.780 柴田郡
*39,442.940 伊具郡
**7,019.880 宇多郡 (仙台領分のみ)
*23,581.810 亘理郡
*64,249.900 名取郡
*75,435.820 宮城郡
*43,611.090 黒川郡
*39,247.460 賀美郡
*24,906.980 玉造郡
*57,195.750 志田郡
*60,747.280 遠田郡
135,970.380 栗原郡
*40,372.090 登米郡
*14,927.350 牡鹿郡
*73,441.620 桃生郡
*21,682.680 本吉郡
*15,522.000 気仙郡
*83,017.320 磐井郡
*77,031.250 膽沢郡
*40,586.650 江刺郡
435日本@名無史さん:2012/08/12(日) 17:36:01.00
南部・津軽領分の石高

*38,362.692 和賀郡
*42,447.666 稗貫郡
*47,185.279 志和郡
*35,903.389 岩手郡
*18,983.063 鹿角郡
*26,725.210 閉伊郡
*12,891.971 九戸郡
*13,888.542 二戸郡
*38,575.259 三戸郡
*13,911.722 北郡
-------------------
317,262.230 津軽郡


海側だけで5万石は広大な領土になるけど、内陸にいくつか飛び地があれば、
一気に石高は増えるんで、一関藩+気仙郡でまあ公称5万石ぐらいになるな。
436日本@名無史さん:2012/08/12(日) 19:11:25.45
南部家は慶長時代には20万石近くを有してたけど
割と早いうちから豊臣政権に接近してたこともあって過少申告は黙認されてた。
逆に島津藩とかは秀吉に反抗したということもあって
懲罰的に石高を盛られてしまったと言われてる。
437日本@名無史さん:2012/08/12(日) 21:24:28.43
慶長時代って言っても、前半と後半じゃ話が違うんだけど

そもそも正確な検地というのは自前の領地だけではなく、
有力家臣の土地も把握できるだけの武力や権威がないと無理

根城南部氏が移された後に実施された寛永検地で
20万6千石と把握されたのは史料として残っているけど、
それ以前の慶長検地(豊臣時代にせよ徳川時代にせよ)で20万石とされた史料でもあるの?
438日本@名無史さん:2012/08/13(月) 10:20:09.32
兵力からの逆算だね。
遠征で率いる事が可能な軍勢は石高に正比例する。
20万石くらいないと5000の兵を引き連れて
山形までは遠征出来ない。
439日本@名無史さん:2012/08/13(月) 10:57:21.02
あと上の方にもあるけど20〜30年程度で石高が倍増なんて有り得ない。
それと盛岡藩で新田開発が盛んになるのは重直の時代から。それ以前は
鉱山開発や城下町の整備の方に重きを置いていたしな。
440日本@名無史さん:2012/08/13(月) 17:27:01.98
そもそも兵力数があてにならないのは突っ込んじゃダメなのか
441日本@名無史さん:2012/08/13(月) 18:46:22.27
南部って津軽より開墾に力を入れなかったってイメージがある。
津軽家は岩手県内陸部よりやませの影響がでかい東青地方と
北津軽でも無茶な開発やってるけど南部家はそういう話をあまり聞かない
442日本@名無史さん:2012/08/14(火) 00:13:27.49
1634年の時点で20万5554石
ここから逆算して、1595〜1600年頃の南部藩内の実際の石高は15万〜20万石と推測される。

ただし把握されていない石高には意味がない。

様々な史料(天正年中大名帳、太閤御時代一万石以上之分限帳、慶応三年大名帳、
慶長四年諸候分限帳、太閤秀吉公時代諸大名分限帳、伏見普請役之帳など)に現れる南部藩の石高は10万〜11万石

また続群所類従所収『東奥軍記』によると関ヶ原の慶長6年の南部氏陣立書に総勢4700人、高10万4720石とある。
『東奥軍記』はいわゆる軍記もので信憑性に欠けるが、
朝鮮出兵の時は近場の九州の大名に対して百石五人の軍役が課されており、
近場の大名に対して百石五人役が課されるのは無理な話ではない。

蒲生の場合は文禄の時に大規模な検地を実施しているけど、
最上などの東北有力諸藩で大規模な検地が可能となるのは、
徳川幕府の時代になってからで、徳川幕府という権威により
ようやくそれぞれの有力家臣の土地の検地が実施できるようになった。
443日本@名無史さん:2012/08/14(火) 13:00:00.90
南部が大規模な検地をやれるようになったのは大分後な気がする。
九戸の乱後に北部を。関ヶ原以降に南部をって感じじゃね?
旧和賀氏の残党を平定する前に検地なんてやれるわけないし。
444日本@名無史さん:2012/08/15(水) 02:48:07.81
毎年平均的にお米が収穫できる土地なら良かったのにね。
445日本@名無史さん:2012/08/15(水) 03:03:02.64
家臣(藩士)の人数の変遷が気になる。
奥州合戦に参戦した頃や戊辰戦争に参戦した頃じゃ大幅に違うだろう。
446日本@名無史さん:2012/08/15(水) 09:29:39.97
人口が増えたところで藩士株が増えるわけではないよ
447日本@名無史さん:2012/08/15(水) 16:06:42.94
九戸の乱での大身の没落と南部利直の所領没収や追放、改易で
他藩に比べて藩士は少なかったってのは本当なの?
448日本@名無史さん:2012/08/15(水) 16:27:17.66
>>446
奥州合戦の頃と比べたら明らかに増えてるだろう。
449日本@名無史さん:2012/08/15(水) 17:54:03.97
信頼できるかどうかは別として侍方人口(女子供を含む)は、

1683年:侍方人口2万1748人
侍手廻5666人、侍召使1万1430人、歩行353人、足軽3591人、その他708人

1700年:侍方人口2万5033人
侍手廻8418人、侍召使1万1686人、歩行336人、足軽3958人、その他635人

1750年:侍方人口2万8588人
侍手廻1万1028人、侍召使1万0690人、歩行434人、足軽6005人、その他431人

1803年:侍方人口2万8272人
侍手廻1万2385人、侍召使8312人、歩行469人、足軽6459人、その他647人

1840年:侍方人口2万8005人
侍手廻1万2298人、侍召使8226人、歩行459人、足軽6384人、その他638人

1870年:士卒族1万2851人 (帰農分不明)
士族1万0893人、卒族1958人
450日本@名無史さん:2012/08/16(木) 00:52:49.54
>>447
多くもなければ少なくもないというのが実情。
少なく見えるのは久保田藩、仙台藩、米沢藩の藩士の数が多い為。
451日本@名無史さん:2012/08/16(木) 21:08:57.75
信長の野望で優遇されてるとしか印象が無い。
452日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:27:03.70
>>451
北東北はろくな大名がないんだもの。
へたれ秋田、梟雄津軽、伊達の衛星の大崎と葛西、
弱いものには強いスネオポジションの南部。
こんなところか?
453日本@名無史さん:2012/08/17(金) 01:13:17.44
秋田氏は単に関ヶ原で選択を誤って転封されただけで、南部藩に何度やられても、新たな根拠地を乗っ取られようと、
大大名として復活できたのはすごいと思うよ。三春が現在放射能で大変なのは可哀想。

津軽氏は、いつの間にか朝廷のみならず徳川幕府とのつながりを作ったりと、独自の情報網を持っているのか結構
やり手なんだよな。元南部家臣だった過去を隠し気味なのも住民感情を考慮しているんでしょ。

戸沢氏は南部・秋田の間でしぶとく生き延びた印象。名君が次々に戦場で病死しているのが惜しい。

南部氏は住民いじめがあまりにも酷すぎるんじゃ…。
454日本@名無史さん:2012/08/17(金) 03:47:13.33
なんか印象論ばっかでしょーもないが、
戦国以降の南部氏ばかりで語るのは可哀想だしフェアじゃない「印象」だぞ。
南北朝の、あらゆる武家が自分の利益で北だ南だと付和雷同してた頃に
あれほど頑固に、率先して貧乏くじを引いた一族はないという「印象」。
津軽に出し抜かれたのも、その頃の伝で変に頑固だったのが足を引っ張った「印象」がある。

どうだ、印象がとっても恥ずかしくなってきただろう。
455日本@名無史さん:2012/08/17(金) 07:45:59.31
南部は和賀稗貫一揆のときに伊達軍を夏油川で徹底的に叩いているからスネオではない。
津軽と九戸はもともと親戚だから大変だった。戸沢・斯波は格下だった。
秋田は本当の意味で南部のライバルと言えるが、関が原後に最上にいちゃもんつけられて気の毒だった。
456日本@名無史さん:2012/08/17(金) 08:56:42.31
>>454
>あれほど頑固に、率先して貧乏くじを引いた一族はないという「印象」。

それってやはり馬鹿だと思う。
457日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:17:04.90
しかし白河結城氏みたいに、南北朝時代に付和雷同・日和見を繰り返しているうちに、
いつの間にかなんてことない領主になって、江戸時代には秋田藩・仙台藩の一藩士になったところもあるから、
どっちがバカはよくわからない。まあ最終的には結城の方がバカってことなんだろうけど。
458日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:18:15.34
肥沃な北上盆地を抱えてるのに和賀、斯波、戸澤があまりにも弱すぎたのが悲しい。
459日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:38:51.93
和賀は北信愛がいなきゃなあ。
460日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:47:34.79
北信愛もすごいけど、奥州仕置のあとにもかかわらず、
和賀ないし伊達が襲って来るのを予見して信愛を引退させなかった利直の直感が和賀再起のチャンスを潰した。
461日本@名無史さん:2012/08/17(金) 21:49:37.13
>>451
最初は糠部郡(北郡は除く)から始まって
最終的には北は大間、南は花巻、遠野、宮古まで領土を獲得してるし妥当だろ。
北東北の多くの大名が改易、転封された中で明治までずっと土着してた大名はそうはいない。
462日本@名無史さん:2012/08/18(土) 00:07:40.80
>>461
何であれだけ一揆起こして、ずっと居座れたんだろうな。
津軽との、幕府からしたら果てしなくどうでもいい揉め事も起こすし。

どっちか、出来れば南部をどこかに転封しちゃえばよかったのに。
463日本@名無史さん:2012/08/18(土) 01:29:43.49
津軽を川中島に転封する計画もあったんだけどね。
各種の手続きをして、移動経路の藩への根回しもすんで、これから移動するって時に転封撤回。
464日本@名無史さん:2012/08/18(土) 02:26:47.04
>>463
何で駄目になったんだろう。
そっちのがよさそうだが。
465日本@名無史さん:2012/08/18(土) 07:04:41.10
>>462
江戸初期は一揆の件数も少なく規模も小さかったからでしょ。
あと国替えってのは様々な利権が絡むから
幕府も中期以降はお家とり潰しや国替えをそうしなくなったし。
466日本@名無史さん:2012/08/18(土) 08:07:10.47
中期以降の南部は蝦夷地警備のためは便利でまとまった兵力だしなあ。北海道の寒さにも強い。
蝦夷地警備を考えれば一揆くらい目をつぶるだろ。
小藩乱立のとこはなかなかまとまって行動できない。要害だらけの仙台藩でさえそうだった。
467日本@名無史さん:2012/08/19(日) 11:04:06.86
>>464
佐竹から金を借りたりと準備はしてたところを見ると
福島正則側が幕府に働きかけて撤回させたと見るのが普通かと。
468日本@名無史さん:2012/08/19(日) 16:00:37.06
大幅に減封されて初期から財政が厳しい久保田藩に借金するってどうなんだろ?
469日本@名無史さん:2012/09/01(土) 14:15:46.00
院内銀山あるから領地は狭すぎ藩士多すぎでも金はあったのかも。
470日本@名無史さん:2012/09/01(土) 17:15:52.39
>>454
>>456
いまも頑迷で世の中の動きを読まない頑固な性質は、変わってないよ。
「地味サイコー」「文句言わないって素晴らしい」な状況。
471日本@名無史さん:2012/09/01(土) 17:20:20.23
北廻航路の寄港地も抱えてたし
秋田杉の輸出もあったからそれらが枯渇する前はそれなりの上手く回ってた
472日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:33:38.25
まああくまで融資なんだから、あとでガッポリ利息がとれるという計算があったのかも。
473日本@名無史さん:2012/09/04(火) 20:45:21.66
今の南部家にはこの両方の家の血統が入ってるんだよね。感慨深いね。
http://www.youtube.com/watch?v=cZD-8iDwfm0
474日本@名無史さん:2012/09/04(火) 20:54:27.52
片方は架空の人物だろうにw

ところで、水戸黄門って盛岡で殿様に頭を下げさせた?
475日本@名無史さん:2012/09/04(火) 21:03:52.87
なんか八兵衛がわんこそば食ってた回があったような・・。
476日本@名無史さん:2012/09/20(木) 03:06:48.87
盛岡八幡のお祭りに今の殿様が来ていたよ。
477日本@名無史さん:2012/10/03(水) 00:36:00.99
盛岡八幡のお祭りはみてきましたよ流鏑馬も見てきました。
馬上からとはいえ、あんな近い的なら百発百中でしょうにとなんて考えていたら。
全力疾走の馬上からの騎射!太刀も槍も届かない距離での弓の有効性なんでしょうね。
478日本@名無史さん:2012/10/03(水) 08:33:37.23
閉伊馬の貢馬、交易で南北朝〜戦国初期まで儲けていたようだが、今の信直系が当主になってからは、馬の需要がなくなったのか、経済基盤が変わったのか、あまり貢馬の記録が無くなってる。
479日本@名無史さん:2012/10/03(水) 13:46:00.24
幕府への南部馬の献上はずっとやってたはず。幕府の馬買い役人は隠密でもあった。
480日本@名無史さん:2012/10/03(水) 16:04:19.66
馬が隠密なら、牛方は百姓一揆の指導者ね。

何なんだw
481日本@名無史さん:2012/10/03(水) 19:47:30.24
南部重直が南部を潰すためにわざと世継ぎを残さないで死んだとき、
藩内は利直隠し子の七戸重信派と、遠野の八戸弥六郎派と、将軍家から養子もらおう派の三派に分かれ、
改易の場合は戦う準備をしていた。馬買い隠密はこれを報告した。

このとき水戸から養子が来て南部家を継がせるというウワサが流れた。
七戸派はもしそうなったら馬買い隠密を血祭りにして幕府に宣戦布告しようと決め、数百人が白装束で集合した。
さらに30万石から15万石に減封されたばかりの米沢藩と連合して幕府と戦うことも考えていた。

このとき江戸の上空に彗星が出現。江戸町民はこれを南部星と呼んだ。
482日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:21:31.07
そんな風説が流れたら米沢藩はいい迷惑だったろうな。
483日本@名無史さん:2012/10/04(木) 13:53:30.56
南部重直が世継ぎを残さず死んだのも、米沢藩の上杉綱勝が世継ぎを残さず死んだのも、
同じ寛文四年なんだな。
484日本@名無史さん:2012/10/04(木) 21:26:12.00
>>478
南部馬は専売品だったから自由な売買が規制されてたしねえ。
規制によって価格と品質の維持に努めてた。
485日本@名無史さん:2012/10/05(金) 00:03:51.99
聖徳記念絵画館には明治天皇が盛岡で県産の馬をご覧になった絵がある。
明治天皇の愛馬も岩手産(水沢産だけどね)
http://sukeikai.meijijingu.or.jp/meijitenno/2388.html
486日本@名無史さん:2012/10/05(金) 09:25:05.81
いい絵じゃのうううううううううう
487日本@名無史さん:2012/10/05(金) 19:29:07.60
これはこないだ流鏑馬やってたところだな。
488日本@名無史さん:2012/10/06(土) 06:18:07.81
貴人がのる乗馬が、ポニーみたいな伝統的和種から、アラブ馬になるのは、やはり明治からなのかな?
九州かどこかに野生の野馬(和種)がまだ生息してるんだよね。
荷物や材木を引くガッチリでかい番場馬も、やはり明治以後なんだろうか?
あれ見ると、ラオウの黒王号思い出す。
489日本@名無史さん:2012/10/06(土) 10:46:56.68
>>488
戦国時代は大きい馬がもてはらされ
武将は高さ150cmぐらいの馬に乗っていた様だ
普通の騎兵もポニーよりがっちりした逞しい馬に乗っていた
太く逞しい馬は重宝された
モンゴル帝国の馬も同じ大きさだったから日本の馬が特に小さい訳ではない

それが日本では江戸時代になり気の強い大きい馬が嫌われ小形化していった
対して外国では18世紀に競走馬に特化した大型のサラブレッドが誕生した
日本と外国の馬に大きな差がついた

明治以降に馬も大型化が国策となり
大型の馬が輸入され伝統和種は断種させられた
門灯の野生の馬も居ない、いるのは野良馬の子孫
490日本@名無史さん:2012/10/06(土) 10:51:57.44
>>489
誤 門灯の野生の馬
正 本当の野生の馬
491日本@名無史さん:2012/10/06(土) 13:56:38.42
青森東通の寒立馬はいちおう南部馬とブルトン種の混血らしいが。

あと十和田の桜流鏑馬で姫南部騎士たちが乗ってるのも和種らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=yO4DEcJezGY
492日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:57:53.33
ちなみに「南部馬」は江戸時代以後の呼称。
それ以前は、代表的な牧の名前ごとに呼ばれてたので、「南部万能信者」さんは戦国時代以前にさかのぼって、南部馬と呼ばないようにお願いします。
493日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:59:13.88
源平盛衰記の畠山重忠は鵯越のときに自分の愛馬を担いで下りたというが。
494日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:55:37.28
>>493
小さくとも200kgは有るだろうから無理だろ
しかも担いだら暴れると思うし
馬から降りて手綱を持って先に下りたって感じかと
それが担いでいる様に見えたのだろう

義経が乗っていた馬が141cmと伝わってるし
奥州藤原が献上した馬がみな150cmを超えていたともあるから
大きい馬も居たのは間違いないと思う
高額で取引されたんだろうな
495日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:39:25.31
盛岡南部藩12代藩主、利済の専用南部馬、国一は157・5cm(5尺2寸5分)あったらしい。
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-06.html
496日本@名無史さん:2012/10/07(日) 04:25:22.58
>>495
治承・寿永の乱〜文治の平安末鎌倉初期の時代の義経の乗馬のことを、「南部馬」と書いている時点で、歴史認識に問題のある書き手であることがわかる。
義経が乗ったのは藤原秀衡が送った奥州馬が正しく、まだ奥州に領地を拝領していない南部の名を馬に冠するなど、「南部上げ」の誤認が甚だしい。
497日本@名無史さん:2012/10/07(日) 09:30:25.90
江戸時代の刀は日本刀じゃないし、江戸時代の清酒は日本酒じゃないし、
フィリピンから琉球に伝わった甘藷はサツマイモじゃないみたいな論法だな。


498日本@名無史さん:2012/10/08(月) 00:28:28.44
言葉の使い方って難しいね
499日本@名無史さん:2012/10/24(水) 19:42:15.83
>>488

ラオウの黒王号の足の裏は、人間の顔より大きい。
500日本@名無史さん:2012/10/24(水) 19:57:26.82
明治天皇が乗っていたのはみんな在来馬だったそうだ。
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-48.html

つか今でも十和田乗馬クラブが皇室に馬を献上してるってさすがだな。
501日本@名無史さん:2012/10/24(水) 23:55:24.82
南部氏の一族に「津軽石氏」ってのがあるんだよな。

これって、江戸時代に差別されなかったのw?
502日本@名無史さん:2012/10/25(木) 01:20:52.15
>>501
名門津軽石家が差別される理由はない。
503日本@名無史さん:2012/10/25(木) 01:36:33.13
>>500
金華山号のはく製は正徳記念館でみたけど、おそらく当時でも小さな馬で日本在来種系の馬。
明治神宮宝物殿には明治天皇の衣服も展示しているから明治天皇の体格がわかるけど、細いちびっこだったみたい。
504日本@名無史さん:2012/11/04(日) 23:34:14.82
戦前の修身教科書の岩手の郷土資料を調べて見た。

楢山佐渡は載っていなかったw(そりゃそうだ)
目時隆之進は(至誠、忠義、公正)という徳目で載っていた。中島源蔵も載っていた。
目時は靖国神社に合祀されているようだ。でも何故w 合祀根拠が…

他には、新渡戸稲造や新渡戸伝、原敬、高野長英、後藤新平などが載っている。

南部氏関係では…南部利直と南部利祥が載っている。

石川啄木が「貞操・男女の務」って徳目のトコに載っているのは笑うトコ?w
505日本@名無史さん:2012/11/04(日) 23:35:18.60
ちなみに、修身教科書ってのは今の道徳の教科書。

学生たちがこの本を読んで、人間が正しくある為には?なんて勉強していたわけだな。
506日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:37:41.23
>>504
目時隆之進と中島源蔵は岩手護国神社に合祀されてるはず
507日本@名無史さん:2012/11/05(月) 18:08:23.75
というか岩手護国神社はその二人を祀るためにできたようなもんだからな。

しかし南部利祥はほとんど非のうちどころのない華族軍人の模範だが、
南部利直はけっこうDQNな伝説たくさんあるよな。
508日本@名無史さん:2012/11/06(火) 15:13:08.07
「島津に暗君なし」

「南部に名君なし」
509日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:05:42.39
500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前になって
商人脅迫して借金を無利子250年の分割払いにしといて島津に暗君なしとは笑わせる。
琉球搾取して清と密貿易までしておいてその有様。

薩英戦争では城下丸焼け。西南戦争でまた城下丸焼けになった上、賊軍。
しかも薩閥の中心だった海軍はいつのまにか山屋他人、栃内曾次郎、米内光政、及川古志郎の南部閥に取って代わられる。
510日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:13:09.17
だいたい島津重豪が掛け値なしの名君なら近思録崩れなんて事件も起こらないわけで。
511日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:23:44.01
島津出身の八戸南部藩主、南部信順とかはどうなるんだ?
512日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:24:07.62
南部藩は、「商人から借金」どころか、鹿角の鉱山等でやたら儲けていた豪商にあらぬ嫌疑をかけて
一家離散させ、財産を全て藩主のモノにしているんだけど何か?中風でろくに歩けない老人をひった
てて牢に入れるものすごさ…。

「旧盛岡藩華族南部氏兇悪大略」
http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/88/8891/8891onko/sashou/sashou21/sashou21-00.htm
513日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:30:56.17
>>511
戊辰戦争で列藩同盟側につかなかった名君ですな。
514日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:41:17.28
常識で考えて500万両の借金踏み倒して誰も金貸さなくなった藩主が名君とかありえねえだろ。
515日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:43:38.55
八戸藩は野辺地では盛岡藩と一緒に津軽兵を一方的にボコボコにしてるけどね。
佐賀藩が野辺地に侵入した津軽兵を官軍にあらずと判断したおかげで八戸藩は賊軍にならなかった。
516日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:55:43.76
>>515
津軽藩は秋田戦争への参加態度がモロ日和見で、大館城の官軍に参加表明する際にも
途中の南部軍の駐屯地をわざと避けて山道の間道を進軍して到着しているからな。

そりゃ、疑惑の目で見られる。
517日本@名無史さん:2012/11/06(火) 22:16:47.89
そもそも島津に名君なしって誰が言い出した?
沖縄からすれば島津の殿様とか全員暗君だけど。
518日本@名無史さん:2012/11/06(火) 23:20:26.53
>>517
暗君の使い方を間違ってないか?

島津が暗君なら沖縄はもっと暗君てこと?
519日本@名無史さん:2012/11/07(水) 03:09:50.60
表向き薩摩琉球太守政府だから島津的には琉球も島津家統治下
520日本@名無史さん:2012/11/07(水) 03:47:53.86
琉球と南部の結び付きをなんとなく検索してみて見つけた。

三陸で生産される昆布は薄いので,削ったり,その他の加工には不適である。生の昆布か,または
水戻ししたものを刻んで煮て食べる三陸型の昆布食類型ができ上った。その後,刻んだ昆布を海苔の
ように漉いてから必要な時に水戻しして食べるすき昆布考案のもととなった。昆布食類型三陸型は,
地前で採れた昆布を地元で消費するのであり,昆布輸送の時代的変化とは無関係で, 昆布史時代区分
とは直接結びつかない。
沖縄の昆布の食べ方は三陸のすき昆布の食べ方に酷似している。昆布の葉の薄いものを食べる点で
は共通しているが,それだけでとれほどの共通点を産み出せるものであろうか。
沖縄fC昆布が伝えられた頃,蔭摩藩と琉球固とは一体であった。薩摩藩主島津重豪の五男信頼が南
部八戸落の藩主となったので12),乙れが縁となり, クーブ・イリチーとすき昆布とが結びついた,と
いう資料はないが,推定可能である。
521日本@名無史さん:2012/11/07(水) 09:32:56.47
さんさ踊りもエイサーも元は念仏踊りが起源らしいな。
沖縄に念仏踊りを広めたのは福島の坊さん。
522日本@名無史さん:2012/11/07(水) 21:18:49.45
江戸時代の沖縄の国王は名ばかり君主だからな。江戸時代の天皇と同じ。
523日本@名無史さん:2012/11/07(水) 21:22:55.74
すぐそばにある【犬食】素晴らしい薩摩文化【衆道】スレ見ると、
島津に暗君なしの基準が他県とはまるでで違ったもののように感じられるな。
524日本@名無史さん:2012/11/10(土) 08:53:57.58
>>520
薩摩藩が密貿易に俵物を調達してた名残だろ。
525日本@名無史さん:2012/11/11(日) 07:08:36.54
>>520
清との交易に欠かせない昆布や海鼠だけでなく
銅も取れるから薩摩の商人たちが大勢いたかもな。
526日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:59:59.74
南部藩、特に三陸、閉伊郡と琉球王国のつながりといえば、琉球王国の正史を信じるならば、
琉球王国の初代国王舜天と、閉伊氏の家祖、島為頼は実の兄弟なんだよな。

保元の乱で敗北した源為朝は、配流された伊豆で男子を儲けた。これがのちに閉伊氏の家祖となる、島為頼である。
為頼は源頼朝に従いその命で佐々木高綱の猶子となり、佐々木十郎行光を名乗り佐々木氏を称して四つ目結を家紋とした。
頼朝が奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼすと、行光は閉伊郡、気仙郡の統治を任せられる。
建久年間、適地を求め気仙から閉伊に移った行光は、領地の名を取り、閉伊頼基と名乗った。このため「閉伊源氏」と呼ばれ、多くの地侍の信仰を集めた。
527日本@名無史さん:2012/11/11(日) 13:09:13.64
昆布はアテルイが滅ぼされる前から三陸の蝦夷によって朝廷に献上されてたと記録されてる
528日本@名無史さん:2012/11/13(火) 11:09:24.51
佐々木高綱の母が、源為朝の同母姉だね。為朝の子供と佐々木高綱はいとこ同志。
529日本@名無史さん:2012/11/13(火) 14:14:30.27
>>524
薩摩の場合、琉球船に積めば中国から見れば正規の貿易で、
幕府の長崎からの輸出の方が、中国の密輸業者を介した密貿易なのだが。
530日本@名無史さん:2012/11/25(日) 04:10:09.55
密貿易というが貿易に使っていた金貨は密貿易用に幕府が製造していた金貨だし。
531日本@名無史さん:2012/12/02(日) 22:36:40.67
>>530
何、それw
532日本@名無史さん:2012/12/03(月) 00:38:34.02
江戸期の海外貿易の活発さは鎖国とは言えない。
533日本@名無史さん:2012/12/22(土) 16:25:11.61
さて、そろそろ2013年。
長谷川伸の著作権が切れる年でもあります。6月11日ですね。
「瞼の母」や「沓掛時次郎」などがタダでよめる…。

で、なぜここに書くかというと…彼が、膨大な史料を元に書いた「ノンフィクション」ともいえる
相馬大作事件に関する本、『相馬大作と津軽頼母』もタダで読めるようになるからだ。

まあ、青空文庫に載るのはずっと後かも知れませんが、どんな内容か読んでみたいものだ。
普通の相馬大作モノとは毛色が違っているそうだからね。
534日本@名無史さん:2012/12/22(土) 20:36:00.60
wikiで岩瀬会戦見たら、南部藩はアームストロング砲らしいの2門捕獲してるんだね。
その前に佐賀大砲隊の隊長も狙撃して射殺してるし、凄まじいね。

岩瀬を退いた南部軍の本隊は、餅田村で抵抗を試みた。故郷を目の前にして、大館勢は餅田を突破し、
片山まで押し出し二頭山の南部軍を打ち破り土飛山に向かった。右翼隊は舟場まで突出し、
勝坂の南部軍を攻撃した。しかし、早朝から急迫してきた久保田軍には息切れが出て、
あまりに突出した形の部隊は次第に苦戦する形となった。
大館にいた南部側の部隊は伏兵となり攻撃してきた。久保田側は死傷者を出し敗退した。
南部側の記録では大砲3門を分捕ったとある。久保田側の記録でも、小城・佐賀の大砲各1門、
久保田の大砲1門が分捕られたとある。久保田藩は二頭山に本陣を置き休戦に入った。
535日本@名無史さん:2012/12/24(月) 21:12:40.30
先祖に南部潜龍という人物がいます。
536日本@名無史さん:2012/12/25(火) 02:23:50.97
藩主の敵打ちは徳川政権では美談になるけどね、まして津軽は南部から離反して公家大名。
本所七不思議に津軽の太鼓とあるではないか。
537日本@名無史さん:2012/12/25(火) 09:53:59.25
江戸では南部のほうが圧倒的に人気あったんだよな。
義理や人情を大切にする江戸っ子気質には南部の方が合うんだろうな。
538日本@名無史さん:2013/01/12(土) 13:59:55.79
相馬大作の映画とかどっかで見れないかな?
539日本@名無史さん:2013/01/12(土) 19:34:12.13
講談の音声はようつべにころがっているな。
聞いても理解が難しいけど。
540日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:46:33.04
むかーしむかし、南部という領民見殺しのありえねー糞藩があったそうじゃ
江戸城で上座に座りたいために領民に税負担を押し付け餓死者まで出たそうじゃ

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 |::::: "   ゝ   ヽ__ノ   (__(Д` ) :::: 
 \:::::__  )//    //  っ⊂L∧ ∧ テラオソロシス
541日本@名無史さん:2013/01/14(月) 20:34:41.61
>>539
まーたお前か
いいかげんあきた!
しつこいのはもてないぞwww
馬鹿の一つ覚えって言うんだよ。そういうの。
恥ずかしくないのかよ。
542日本@名無史さん:2013/01/21(月) 14:13:32.10
南部利祥伯爵は7歳のときから神田の邸宅から目白の学習院に乗馬で通学してたらしい。
まさに南部だな。
543日本@名無史さん:2013/01/25(金) 23:42:29.66
南部藩は志が低く卑劣な藩だ。
 その理由
  ・江戸城で上座に座りたいというのは南部家(藩)にとって私事。
  領民の生活を安定したものにするのが公事。
  ・南部の場合、私事が公事に優先されている。

 こんな卑劣な藩の話題など止めてこのスレにはもう書き込みしないことを
お勧めします。
544盛岡藩主・南部侍従利敬:2013/01/25(金) 23:48:58.09
南部家は勤皇砂漠の大藩で有るが。
だんねんながら、わしの死後は倅より津軽の官位が高くなる。さすればわが南部家が津軽の下風に立つのは悔しき至極で有り。
53000石の赤穂浅野家には大石内蔵助がいたが、20万石のわが南部家には大石はおらぬのか。
545日本@名無史さん:2013/01/26(土) 00:01:44.85
主君の仇討はかっこいい。
主家を上座に座らせたいはかっこ悪い。それが南部。
546日本@名無史さん:2013/01/26(土) 14:09:35.39
南部利敬は末期養子の禁に抵触しているのに、幕府は改易も減棒もしなかったのな。

幕府はどうしてこうも南部藩に甘かったんだろう?まあ伊達を背後から牽制するためなんだろうが。
547日本@名無史さん:2013/01/26(土) 15:45:16.73
伊一揆の処分もアマいよね。
まあ、幕府もそれどころじゃないけど。
548日本@名無史さん:2013/01/27(日) 00:20:57.42
夜鷹殿様津軽信順に対する処分も甘いよ
549日本@名無史さん:2013/02/13(水) 03:59:17.83
南部は奥羽きっての勤皇敬幕の夕飯。
550日本@名無史さん:2013/02/15(金) 14:07:38.55
南部の勤王は久保田藩の平田篤胤のような死後の世界から始まるニワカオカルト勤王ではなく、
南朝の後醍醐天皇、北畠顕家に忠誠を尽くしたことに由来する由緒正しい勤王である。
551日本@名無史さん:2013/02/16(土) 15:38:09.51
そのニワカカルト勤王に日本全国が熱狂し、それが維新の原動力になったんだからなあ。
552日本@名無史さん:2013/02/19(火) 22:52:33.80
>20万石のわが南部家には大石はおらぬのか。

 大石は赤穂藩の再興を最優先とし、再興の望みがなくなった後で
仇討ちに方針転換をした。
 お家再興を忠義の第一とするところに軽挙妄動ではない真の忠義
を感じる。

 それに対し南部藩の大石(笑)は津軽藩主を暗殺する計画を立てたが
失敗。これって南部藩が取り潰される可能性も十分にあった。この様に
近視眼的な忠義でお家を危うくするのが南部クオリティ。(心底情けない)

 本家大石とは比較する価値も無い。
553北町奉行・榊原主計頭忠之:2013/02/20(水) 00:24:54.81
さりとて江戸庶民が相馬大作に喝采を送った事実は否定できぬのですぞ。

人間、夢を忘れずに生きてえもんだ…
554日本@名無史さん:2013/02/20(水) 00:30:41.68
相馬大作事件って、歌舞伎も講談も評判になったのは明治時代からなんだよな。

南部藩出身者のステマでもあったんじゃないの?
555日本@名無史さん:2013/02/21(木) 13:09:08.36
津軽寧親は、田安卿、近衛家、老中水野忠成、水野家の土方家老などに多額の金をばら蒔き、
不釣り合いな姫を迎えたり官位をあげたりして、成り上がりぶりに眉をひそめる人もいた。
加えて幕府の老中青山忠裕は水野とその累の津軽をよく思っておらず、青山が榊原奉行に命じて、
死刑にこそなったが、大作贔屓のような判決文になった
556盛岡藩主・南部美濃守利敬:2013/03/08(金) 18:40:18.25
南部藩は勤皇砂漠の夕飯
557日本@名無史さん:2013/03/08(金) 19:04:25.04
あなたのそばで ああ くらせるならば つらくはないわ この勤皇砂漠♪

あなたがいれば ああ うつむかないで 歩いて行ける この勤皇砂漠♪
558日本@名無史さん:2013/03/12(火) 04:14:02.20
>>554
藤田東湖やら吉田松陰が相馬大作事件について肯定的な文章を残してるので
少なくとも江戸時代当時からそれなりに知られていた事件と思われる
松浦静山はボロクソ言ってるけどw
559日本@名無史さん:2013/03/13(水) 13:20:12.82
うむ
560日本@名無史さん:2013/03/14(木) 18:49:10.24
>>558
民衆への流行現象はけっこう後になるけどな。
561日本@名無史さん:2013/03/16(土) 02:08:01.69
歌舞伎十八番が完成したのは明治に入ってから。
南部地方での一揆は明治に入ってからも続いている。というか明治の一揆の方が激しいかも。
562日本@名無史さん:2013/03/18(月) 13:38:43.43
お由羅騒動で島津久光と対立し家督相続が絶望視された島津斉彬を救ったのは八戸藩主南部信順。
おかげで西郷隆盛や大久保利通も藩政に復帰できた。

それを知る楢山佐渡が西郷を見る目はやはり他藩の家老とは違うだろうな。
563日本@名無史さん:2013/03/18(月) 16:02:26.83
やはり八戸藩は「子分」なのかw
564日本@名無史さん:2013/03/18(月) 19:50:27.83
八戸藩は秋田討ち入りには参加しなかったので賊軍ではないんだけど、
野辺地では盛岡藩の指揮下に入って弘前・黒石藩兵と交戦して勝利してるんだよな。

一関藩は仙台藩の指揮下に入るの嫌がって庄内藩の指揮下で戦ったけど。
565日本@名無史さん:2013/03/19(火) 16:56:46.86
>>558
歌舞伎も講談も、相馬大作事件=檜山騒動が有名になったのは明治期だぞ。
566日本@名無史さん:2013/03/20(水) 13:54:13.20
だから別に歌舞伎や講談で藤田東湖や吉田松陰や江戸の庶民が相馬大作事件を知ったわけでない。
567日本@名無史さん:2013/03/20(水) 14:01:29.07
別に江戸時代に相馬大作事件が講談になっていないから相馬大作事件が当時の庶民に知られていなかったということではない。
講談を知名度の基準にするのは間違い。

老中もわざわざ相馬大作をひそかに呼んで話聞いているし、藤田東湖は本書いてるし、
盛岡藩は寺まで建ててるし、吉田松陰は現場まで行っている。
568榊原主計頭:2013/03/20(水) 15:17:30.83
★まとめ★

南部利敬は従四位下侍従美濃守で、津軽寧親は従四位下越中守であったが、近いうちに津軽寧親は、侍従に上がることが確実視されていた。
なんとなれば、寧親は多額の金をばら蒔いて息子信順の正室に田安斉匡の娘を迎えていた。

そんななか利敬が重病に陥り、
「余の死後、越中守は侍従に上がるであろう。しかしながら余の跡継ぎは幼少。官位でわが南部が津軽の下風に立つのは悔しき至極で有る」
「伍萬参千石の赤穂浅野家には忠臣大石内蔵助がいたが、弍拾萬石のわが南部家には、越中に辞官納地を薦める者はおらぬのか」
と言ったことが伝わり、実際に行動に移したのが、下斗米秀之進こと相馬大作である。
569日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:27:57.05
あれ?

津軽藩の記録では、これは南部藩家老南部九兵衛の計画によるもので、秀之進と関以外の
関係者は事件後情報が漏れないように、牢につながれた。

明治期のこの「物語の流行」も南部藩士のステマなのでは?
570日本@名無史さん:2013/03/20(水) 19:23:57.80
しかし老中青山下野守が秀之進を自邸によび、由来を糺したり、
本人が事件後に江戸で道場開いてるくらいだから、仮に関係者を投獄しても、
情報はダダ漏れもいいとこだろ。情報は幕府の老中から漏れる。
571日本@名無史さん:2013/04/04(木) 21:19:13.01
五葉山付近のヒヒイロカネってどんなの?本当にあるの?
572日本@名無史さん:2013/04/14(日) 20:10:51.47
津軽藩の記録が真実なら、相馬代作は事件後に南部藩の牢に投獄されたが、
その後脱獄し、江戸で道場開いて、老中に会ってたということか?
573日本@名無史さん:2013/04/14(日) 21:41:55.45
いや、大作に近い人たちが(例外あり)情報が漏れないように牢につながれ、

大作自身は江戸で道場を開いた。
574日本@名無史さん:2013/04/19(金) 07:59:28.89
南部家と津軽家の争いや

これぞ源氏の血筋て感じするな
同族相食む
575日本@名無史さん:2013/04/20(土) 02:33:23.19
主君の仇討はかっこいい。
主家を上座に座らせたいはかっこ悪い。
それが南部。
576日本@名無史さん:2013/04/21(日) 14:30:14.33
盛岡藩と佐賀藩は大館周辺で死闘を繰り広げたけど、
もともとはすごい仲良かったんだな。
天保の飢饉のときに佐賀藩はただで米三万石送ってくれたんだって。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/627015/528771/62644707
577日本@名無史さん:2013/04/21(日) 14:56:11.41
佐賀藩は騙されて、米を送らされただけなのではw
で、仕方ないからローンにしたと…。
578日本@名無史さん:2013/04/24(水) 20:44:12.91
横浜をつくった高島嘉右衛門は盛岡藩の勘定奉行の子か
579日本@名無史さん:2013/05/18(土) 02:32:57.15
盛岡南部の一家は昭和恐慌で破産するまでは日本有数の金持ちだったらしいけど。
580日本@名無史さん:2013/05/28(火) 17:01:01.29
>>236
一つの鍋を違う身分のもの同士でつつくという行為も当時の身分格式から言えば考えられない行為だ。
でも、そのような身分格式を因循として変えようとしてる新政府と身分意識が強い樽山は衝突して当然というわけ。
目時や中嶋のように親新政府的人物もいるけど。
581日本@名無史さん:2013/05/28(火) 22:55:07.49
>>580
安価間違えてないか?
582日本@名無史さん:2013/05/29(水) 23:06:04.78
当時は、国学が最新流行思想だった…。特に若手武士の。

とにかく、勤皇思想ってのがどこの藩にも一定の支持者がいて、攘夷と結びついて、国を変えてくれる何かを
若手武士中心に求めて居たわけだな。
583日本@名無史さん:2013/05/29(水) 23:08:17.29
ところで…どこかの質問箱に、相馬大作事件のコトを小説に書くと言っている人がいるのだが…。
今更どんな立場で書くのだろう。南部より?津軽より?第三者的立場?

下手に書くとこの題材は、後々までかなーり遺恨を残す気がする。
584日本@名無史さん:2013/05/30(木) 02:16:50.19
今現代で遺恨といわれてもな。

常陸宮華子様が言ってたとも思うけど
南部家のお嬢様と華子様の中で津軽と南部の諍いなんて笑い話になってるぐらいなのに

未だに遺恨だ同のこうの言うの歴ヲタぐらいで
たぶん青森と岩手の国民感情も大して気にしないと思うぞ
585盛岡藩主 南部美濃守利敬:2013/05/30(木) 02:40:02.34
野辺地、烏帽子山は、わが藩固有の領土でござる
586日本@名無史さん:2013/05/30(木) 03:25:03.76
気にしてないとか何寝ぼけた事言ってんだ
青森の業者は東京からの荷物が先に八戸に届くと、何で先に届けたって文句言うんだぜ

八戸に高専を持っていかれた恨み辛みで、未だに屋根付きスケートリンク無いしね
青森市に作ろうとしたら反発くらって目茶苦茶小さいリンクが出来た
青森空港はガッツリ弘前寄りだし

弘前市内走ってても、八戸ナンバーは1時間に1台見るかそこらでしょ
ほとんど交流ないからこうなる
587日本@名無史さん:2013/05/30(木) 03:28:59.24
八戸市内は逆に岩手ナンバーであふれてるな
588日本@名無史さん:2013/05/30(木) 14:08:12.66
靖国神社の宮司だった南部利昭氏はもともと三男で、
子供が女ばかりだった秋田の佐竹侯爵に養子にくれと言われていたそうだ。

南部家と佐竹家は源氏同士だからか知らんが遺恨はないんだな。
589日本@名無史さん:2013/05/30(木) 14:12:00.86
東北新幹線が弘前じゃなく八戸に行ったのはやっぱり南部の力か?
590日本@名無史さん:2013/05/30(木) 19:40:03.82
鹿角を通る奥大道から八戸を通る奥州道中へと主要道を変えたという意味では南部氏の力かもな。
591日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:59:44.27
>>588
へえそんな話があったのか
義光流の一族て内輪争いのイメージ強いけど

同属の意識あるんだな
592日本@名無史さん:2013/05/31(金) 01:12:24.89
薩摩のアホのせいで同じ県になってしまった
八戸藩はどう考えても八戸県になるのが自然な流れ
久慈とか子分だしね
震災でも久慈を全力で助けたのは八戸

青森県って無理あり過ぎでしょ 

そもそも天気予報の順番がおかしい
青森、弘前、深浦(どこだよ)、八戸 の順番で流れただけで八戸人は血圧上がるよね

冬は津軽は雪、三八上北は晴れ 以上天気予報をお伝えしました、でいいと思う。
593日本@名無史さん:2013/06/01(土) 00:13:13.62
南部氏も華族になって関係ない家から婿養子迎えたけど

佐竹氏も義光流の嫡流に誇り持ってる割に
血に関しては室町に上杉氏江戸には公家の高倉家から養子迎えたりしてるんだよな
家系続かせる為には血筋より家の存続が第一なのかも知れんが。
594日本@名無史さん:2013/06/01(土) 00:41:13.19
血に関しては、女性を通じて血統が続いていると考えればそんなに問題ないと考えたのかもね。
だいたい、生物学的に、統計的に、男系を延々続けさせるのは無理がありすぎ。

と書いたけど、天皇家はどーするんだろうな、今後。関係無いけど。
595日本@名無史さん:2013/06/01(土) 01:00:27.24
血統を考えると男系の方が有利
妾を取れるしごまかしも効くw
哺乳類見てろよ
ほとんどがボス(♂)を中心に纏まってるぞ
これが自然の摂理と言うもの
596日本@名無史さん:2013/06/01(土) 02:26:17.01
だから、固定するのはいかがなものか(ってのも妙だが)と言っているだけ。
597日本@名無史さん:2013/06/02(日) 21:59:26.02
南部も八戸藩は島津から養子を迎えている。
遠野南部家は新田から養子を迎えている。
598日本@名無史さん:2013/06/03(月) 21:53:24.91
三戸南部
北条幕府方
八戸南部
後醍醐方
599日本@名無史さん:2013/06/05(水) 14:20:22.18
伊達と津軽は同族意識あるのかな?一応藤原氏系のはずだけど。
600日本@名無史さん:2013/06/05(水) 22:23:11.06
南部佐竹もそうだけど同族と言っても血が遠すぎるだろ
601日本@名無史さん:2013/06/06(木) 21:51:40.13
津軽が藤原氏系?

アホか
602日本@名無史さん:2013/06/06(木) 21:57:48.97
「徳川家康の先祖はだれそれ様である」
「安倍晋三の先祖は安倍貞任」
くらい信憑性の薄い話ですがなどれも。
603日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:44:00.96
>>597
新田藩は盛岡南部の分家だが八戸藩は分家扱いじゃない独立した藩だから
604日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:49:30.44
>>601
実質がどうであれ秀吉に提出した家系図では近衛家の筋
605日本@名無史さん:2013/06/16(日) 00:08:51.16
江戸本所七不思議に津軽の太鼓があるけど何が不思議なのかよくわからない。
606日本@名無史さん:2013/06/16(日) 00:17:09.03
外様であろうとも大名の上屋敷は江戸城周辺にあるのだけれど、津軽の上屋敷は城から遠い川向うの本所にある不思議を揶揄ったんだね、
607日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:34:09.02
>>604
「実質がどうであれ」

ほんまにあほや。
608日本@名無史さん:2013/06/17(月) 14:06:39.62
まあ津軽家がウソつきなら近衛家もウソつきってこった。
609日本@名無史さん:2013/06/17(月) 14:21:17.02
ねぶたで坂上田村麻呂をやるのは田村麻呂が近衛家の武将だかららしい。
http://www.nebutayuraiki.com/history_2.html
610日本@名無史さん:2013/06/17(月) 15:33:21.18
嵯峨天皇の武将ではあるが近衛家の武将ではないがな。
611日本@名無史さん:2013/06/17(月) 22:45:22.61
>>609
そのソースには「田村麻呂が近衛家の武将」とは書いていない。
近衛家の先祖は藤原北家。
薬子の乱は藤原北家と藤原式家の戦いで、藤原北家の武将として戦ったのが田村麻呂。
藤原北家は田村麻呂のお蔭で勝利を収めた、と言いたいらしい。
612日本@名無史さん:2013/06/17(月) 23:26:14.49
北家と式家の戦いでもあるが嵯峨天皇と上皇も戦いでもあって、
田村麻呂は嵯峨天皇の命令で動いてる訳で。
613日本@名無史さん:2013/06/18(火) 13:22:10.78
まあ近衛家の中では恩人なんだろ。
614日本@名無史さん:2013/06/18(火) 17:51:41.69
>>612
嵯峨天皇と上皇の争いなどたいして後世の歴史に影響がなかった
だけど薬子の変で平城・嵯峨両天皇の外戚藤原式家が没落して
藤原北家が興隆することになったほうが意義が大きい
実際の命令系統のトップがどこだったかはあまり重要じゃないんだろ
田村麻呂と藤原北家が味方同士だったことは事実だから
615日本@名無史さん:2013/06/18(火) 18:57:52.34
でも従来、薬子の変と呼んで来たのに平城上皇が主体だから平城太上天皇の変と呼ぼうという
教科書もあるらしいぞ。
616日本@名無史さん:2013/06/19(水) 01:02:45.88
>平城太上天皇の変
そうなのか
しかしいささか長すぎるな
617日本@名無史さん:2013/06/19(水) 02:15:50.89
従来、上皇と略して来たけど略さない事にしようという流れなのかなぁ。
618日本@名無史さん:2013/06/27(木) 03:39:21.29
本所七不思議の津軽の太鼓の意味がわからない?
619日本@名無史さん:2013/06/30(日) 22:40:23.17
仮に南部藩の領域が一関辺りまでだったとしたら
花巻が県庁になってた可能性はありますか?
620日本@名無史さん:2013/06/30(日) 23:13:30.29
>>619
可能性なんて誰も否定出来ないだろう
621東京 ◆MMpkdCsJpw :2013/06/30(日) 23:48:52.22
あほ
622日本@名無史さん:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN
>>615
首謀者は平城太上天皇だろ
藤原式家は平城太上天皇側についたために没落した

勝った嵯峨天皇は藤原北家を重用し自身の皇女を北家に降嫁させ
北家興隆の基礎となった
623日本@名無史さん:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN
>>622
平城上皇は、嵯峨天皇と同母の兄弟だから、平城上皇を首謀者にするのを憚ったんでは?
なんて妄想。
624日本@名無史さん:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
東北二戸地域、何を血迷ったかマイナー武将九戸政実(謀反人)で町興し 素直に南部家にしておけよ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1375356914/l50

いざ観光振興へ 政実PRの「突撃隊」発足

戦国時代の悲運の武将九戸政実を地域おこしと観光資源に結び付けようと、二戸地域の関係者が「九戸政実プロジェクト突撃隊」を結成した。
政実をモチーフにしたポスター製作などの事業を展開し、政実の生きざまをPRするとともに、岩手県内外に同地域の魅力を広く発信する。(須田山裕太)
南部氏の跡目争いをきっかけとして6万5千の兵力を誇る豊臣秀吉の軍勢を相手に、約5千の兵力で最後まで果敢に戦った政実。
その姿は小説になるなど、一部歴史ファンには根強い人気がある一方で、世間一般の認知度は低いのが実情だ。
このため、県北広域振興局二戸地域振興センターが、管内の団体やゆかりのある二戸市と九戸村に呼び掛けて発足。
九戸城ボランティアガイドの会の会長を務める小保内淳さんが「隊長」を務めるほか、各商工会や観光協会の事務局長らが「助勤」としてメンバーに加わる。
プロジェクトでは、政実にちなんだお土産品の開発や「現代の政実コンテスト」などを展開。
政実をテーマにしたテレビ番組の放映要望や映画化を目指すほか、集客イベントなども企画しているという。
29日には二戸市の二戸地区合同庁舎で出陣式が行われ、メンバー9人がよろいかぶと姿で集結。
隊長の小保内さんが「政実公の志を継ぎ、地方を取り囲む全ての敵に立ち向かおう」と口上を述べた後、メンバー全員で勝ちどきを上げ、プロジェクトの成功を祈念した。

http://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/news/2013/07/31/new1307311401.htm
http://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/news/2013/07/31/img1307311401.jpg
よろいかぶとに身を包み、地域おこしに向けて気を引き締める「九戸政実プロジェクト突撃隊」のメンバー

九戸政実さん
http://iup.2ch-library.com/i/i0967688-1375355969.png
625日本@名無史さん:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN
九戸政実は信長の野望では騎馬適性Aだから騎馬突撃だと一発で敵倒せること多い。

烈風伝では南部霧、南部光、南部楓という三姉妹が出てきた。
626日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
>>624
> 東北二戸地域、何を血迷ったかマイナー武将九戸政実(謀反人)で町興し

いわゆる「マニア受け」を狙ったのだろうな。
627日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
九戸の乱から逃れた人たちは結構あちこちに移住している。
先祖捜しに訪れる人も多いんじゃないのかな?
628日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
>>627
そんなひとなんていないでしょ
629日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
東北の南部氏での名門は八戸氏だったけど。三戸氏が秀吉の朱印を受けて九戸氏征伐とか
八戸氏は遠野に追いやられる。
630日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
八戸の南部藩は盛岡南部藩とはまったく別な家であり、盛岡の分家でみたいな。
631日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
九戸政実がどうして反乱に踏み切ったのかよくわからないのだが。

戦国時代ならともかく、中央政権ができてしまってからでは
局地戦で連勝したとしても最終的には負けるに決まっていると思うんだが。
632日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
>>628
俺がそうだからw
633日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
>>631
4通り考えられるとおもう

1.そんなことも読めないほど判断能力がなかった
2.判断するだけの情報がなかった
3.情報は入っていたが信じなかった
4.負けるとわかっていたが意地で蜂起した
634日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
>>633

> 2.判断するだけの情報がなかった


田舎者の悲しさで、中央政権の強さを知らなかったような気がする。
635日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
九戸政実てマイナー武将の中では有名なほうだろ
高橋克彦の小説もあるし
636日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
秋田県には九戸の乱から落ち延びたって伝承のある家は結構あるよ。

大館市大葛地区や、藤里町根城岱地区なんかがそうだ。
637日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
単純に九戸の乱だけ見ると一人で戦っているように見えるが、
天正十九年、1591年には葛西大崎一揆も進行形で、実質煽動者だった伊達政宗の態度も曖昧だった。

津軽、安東は傍観していた。信直や信愛を瞬殺した後に伊達・津軽を仲介して秀吉と交渉するという可能性もあった。
秀吉は遅参した伊達やガチバトルした家康や秀吉を許したりしているし、いろいろと微妙だからな。
638日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
つまり政実の敵は秀吉ではなくて、あくまで最初から信直と信愛であり、
二人を殺して自分が南部政実となってから、伊達や津軽の仲介で改めて秀吉に服属しようと。
639日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
>>633
5.仮に臣従してもいずれ潰されるから

じゃね。座して死を待つよりは
大崎・葛西一揆や和賀・稗貫一揆に乗じて
挙兵するのは自然な成り行きだと思う
640日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
>>639

秀吉は敵対した島津も長宗我部も潰していないのだが。
641日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
いったん滅ぼした北条ですら
氏直早世しなかったら再興させる気満々だったからな
642日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
秀吉じゃなくて信直と利直に潰されるって意味。
実際、利直は浄法寺や阿曽沼、柏山、大槌といった
これといって落ち度のない家まで改易にしてる。
643日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
政実の弟の中野康実っていうのが斯波氏の滅亡では主役級で子孫は独立領主家老クラスなのに、
最後が謎なんだよな。戦国ちょっといい話でもオチがはっきりしないし。

しかし怪力の大男だというから戦闘力は高そうだけど。
644日本@名無史さん:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
外様の家臣を目の敵にしてた南部利直が手を出せなかったことから
病没だったんじゃないかな。
あれだけ世話になった根城南部を1万6千石から1万3千石にさせて
政情不安だった遠野に移封する鬼が、不手際を見逃すとか考えられないし。
645日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
大阪の陣で命を懸けて南部利直に嫌がらせをした北信景とか
千姫の救出で徳川家に士官できた南部左門とか身分は低いけどスケールが大きい感じだ
646日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
>>645
> 大阪の陣で命を懸けて南部利直に嫌がらせをした北信景とか


南部家が信景を大坂城に送り込んで、徳川氏との二股がけをしていたという噂も当時からあったらしい。

ちなみに毛利家の重臣である佐野なんとかも大阪城に籠城している。
647日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
その慎重さが何で戊辰戦争で無くなるんだ?
津軽藩だって、庄内藩と秋田藩に同時に援軍送っているのに。
648日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
これか。

慶応4年(1868年)9月2日岩瀬会戦で久保田藩は、一気に大館の手前にある二頭山まで回復した。
この日、津軽藩は久保田藩側に援軍の申し入れを行った。しかし、総大将の田村は「今は必要ない」と皮肉を込めて津軽藩の使者に答えている。
津軽藩の日和見を批判したものであるが、津軽藩は援軍を決定した。
649日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
利直は兜が鯰で、嫁がムカデで、愛人がブスで、ペットが虎で、好物がわんこそばで、ライバルが独眼竜と女大名だからな。
面白すぎる。
650日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
>>千姫の救出で徳川家に士官できた南部左門

前科持ちのフリーターが偶然にも令嬢を助けて
財閥に就職したようなもんか。
651日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
>>647
庄内藩に援軍だしたって?いつ出したの。
652日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
>>651
基本的には、本多庸一の独断で弘前藩兵の庄内藩内の捕虜部隊を編成して勝手に薩摩兵と秋田藩内で戦ったコトになっている。

ところが、野辺地ではこのことを利用して…「わが藩にも援兵を出しておき、いまも、ともに謀るところがあるので、津軽進撃の儀は
見合わせていただきたい」などと南部藩にお願いしてたりもしている。

同時に津軽藩は秋田藩にも援軍を出しており >>648 の他に、対馬鉄砲隊を庄内藩との戦い、南部藩との戦いで派兵している。
大館城の攻防戦では大館城南部を守備して、結構活躍している。

戦いが終わり大館城が南部藩の物になると、藩境に近く秋田藩内の陣馬になぜか布陣し、南部藩は「おいおい。さっきまで戦っ
ていたのにずるい!」と思ったけど仕方ないということで黙認。
653日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
>>645
嫌がらせのレベルを超えてる気がするが・・・
秀忠「おい、コラ。何の真似だテメェ。俺をコケにしてんのか。何?所領没収されたいのかテメェはよ」
利直「ち、違うんです。これにはワケがあって」
天下の将軍に詰問されるなんて末代までの恥だよ。
654日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
>>652

津軽藩は外交とか中央政権への取り入りとかが南部藩よりずっとうまい。
655日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
それは思い込みで実際は南部藩の方が中央政権に信頼されていた。

津軽藩は弘前城内に秀吉の像祀ったり、石田三成の子孫を家臣にしていたので信頼されていなかった。
江戸の藩邸も町外れの本所にあって江戸の町民からも不思議がられていた。

弘前藩は九条総督を矢立峠をふさいで追い返したので官軍からも秋田藩からも信頼されていなかった。
野辺地戦争も官軍は津軽藩の勝手な暴走とした。
656日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
>>軽藩は弘前城内に秀吉の像祀った
これ江戸幕府知ってたの?
秀頼側近だったためか三成の息子や小西に息子は罪に問わない態度だったでしょ家康は。
もっとも小西の息子は西軍首謀者にして暗君の毛利の元に行ったら捕縛され虐殺されたけど。
657日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
辰姫と満天姫といううまいバランスが働いていたからね。
658日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
>石田三成の子孫を家臣

それどころか、石田三成の娘を側室にしていて、その子どもが津軽家を継いだから、直接的に
石田三成の血が津軽家に流れているんだけど…。

それなのに、徳川家康の義娘を正室に迎えるなど破格の扱い。
659日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
しかし三代目の津軽信義が石田三成の孫で、乳母が宇喜多秀家の家臣の嫁なのは、
船橋騒動で幕府も知ってるからな。信義は正保の騒動で家臣から隠居要求されるし。

そもそも幕府以前に家臣に怪しまれてる。転封も決定して準備もしてたし。
騒動で脱藩した藩士は南部藩に取り立てられて貴重な情報源になった。
660日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
満天姫は津軽家が信頼されてた証というよりは逆に豊臣寄りの津軽を徳川に完全に取り込むための工作じゃないか?
661日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
というか、隔離政策。一種の島流しじゃない?
大名の子女で転ばなかったキリシタンも津軽に移住させられた

津軽にキリストの墓が有っても歴史的には
それほど不思議じゃない
662日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
島流しはどっいかと言えば南部藩って意識だろ。
なんせ逆賊会津が流されたのも南部の地だし。
663日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
会津は猪苗代転封でもいいって言われたのに山川が田名部にしたんだろ。

親藩大名の譜代リアル流刑地は実際は山形藩。12家が領主になってる。
しかし元の領主の最上家が減封で流されたのは近江だから、要は本拠地からの距離が問題なんだよな。
別に安東が三春に移ったのは幕府の信頼が厚かったからではない。
664日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
流刑地はいいすぎだった。左遷地だな。
665日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
でも住んでる人達からすれば極寒の地だとか不毛の大地とか
失礼極まりない話しだけどな。
666日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
下北半島は檜がたくさん取れるから金はたくさんあったらしいぞ。
飢饉のときは売り惜しみされるから金があっても米は買えないが。
667日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
松前藩なんかそもそも最初から米作ってないから米が不作で飢饉とかない。
同じように米を基準にして経済を考えても南部藩の経済は理解できない。
668日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
オーストラリアも流刑地だった
669日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
畑作と林業と交易港を生業にしてた土地で無理に稲作をやって
勝手に飢死しただけの話なのに全国的に
農産物が採れない土地ってイメージを植えつけたからなあ。
670日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
武士の最大称号が征夷大将軍であるから政権交代には常に征夷を実行しなければならなかったから。
戊辰戦争も征夷であるわけだ。
671日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
なら西南戦争はを征戎だな。
明治維新は征戎で完了したと。
672日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
律令法では静岡が流刑地だった。
頼朝が流されたのも静岡県。
673日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
菅原道真は京都から大宰府に流され、
大野治長は千葉に流され、
山鹿素行は兵庫に流され、
真田昌幸は信州から和歌山流された。
674日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
罪が重くなるほど都から遠くに流される
たしか離島が一番重い
675日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
家康が江戸に移ったのだって左遷みたいなもんだしな。
676日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
>>665
会津藩士の無計画さ(一度に1万7千人も送り込めばどうなるか分かりそうなもの)や
現地の調査不足(田名部や野辺地から得られる関税収入の見落とし)
そういった事情を誤魔化す為に過度に土地のせいにしてる感は否めないね。
仙台藩士は斗南以上に厳しい北海道開拓をやってたわけだし。
677日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
>>675
江戸はそれほど荒地じゃなかったみたいだけどな
678日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
大阪も江戸も戦国時代に発展した
どちらも海抜が低い土地
まあそれまで津波で人が住まない土地だったってこと
679日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
上町台地
680日本@名無史さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN
>>678

大阪は日本の首都だった時代もあるが。
681日本@名無史さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN
小田原〜河越が主街道で、日比谷の辺り、皇居の掘は海だったんだよな。
わざわざ潮留神社とかつくって津波がこないように祈った。
682日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN
>>663
猪苗代転封の話はデッチ上げだろうが。
>>676
3万石の収入があると騙されたからだろ。実際7000石だったのが原因。
そもそも藩士らも東京の高田藩にずっといられるわけもなく、
帰ったところで、もう会津にはいられないんだから
無計画もクソもないだろ。
683日本@名無史さん:2013/08/19(月) NY:AN:NY.AN
>>682
「3万石」は石高であって、収入ではない。

実際の税収は、石高の4割に相当する1万2千石

ただし斗南の地は元々南部時代から、米が取れない百姓は金銭での納税が認められていた。

「7000石」は、年貢米のみの収入で、これに金銭での納税分を加えれば、
1万2千石相当の収入はあった。
684日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN
開拓中の十和田を与えないとか新政府の嫌がらせにも程があるかと。
685日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN
新渡戸一族が無茶苦茶がんばって開拓したのに、それを取り上げろと…
686日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
幕末に七戸藩の地位を、南部藩からの蔵米支給から南部藩からの分知に格上げしたという
書類を新渡戸らがあわてて作成して、
なんとか十和田の土地を分家の七戸藩のものとして守ったんだぞ
687日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
そりゃ、あれだけがんばって開拓したのに、取り上げるってのはむごすぎる。
688日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
三本木ヶ原開拓って難易度はそう高くないのに
なんでずっと放置されてたんだろ。
689日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=141.11770583456&latitude=40.597954671049

おいおい。ここいらへんの地図を見て、当時の水路工事の厳しさを感じ取ってみろよw
十和田市を通っているこの稲生川って名前も凄いが全部人工の川なんだろ?

新渡戸一族すごすぎる。
690日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>688
南部藩は中期以降、何故か殖産や新田開発を制限してるからその影響じゃね?

>>689
でもそれらは江戸時代の技術でも可能だったんだよ。
南部藩は鉱山技術が進んでいたからトンネル工事や盛岡城の築城など土木技術は
江戸時代でもかなり先進的だった。
691日本@名無史さん:2013/09/01(日) 17:53:23.56
花巻は一時期、浅野長政の領地だったし、
南部利直の義兄の蒲生氏郷とはアンチ政宗で一致していたから、
近江の穴太衆や砂金や砂鉄目当ての近江商人が盛岡に移住していた。
692日本@名無史さん:2013/09/03(火) 21:50:58.84
>>690
工事は可能でもだだっぴろい平地でなにつくるん?
コメは当然無理だった時代だぞ。
693日本@名無史さん:2013/09/04(水) 09:15:47.13
一方井氏が安倍の子孫ということは、南部信直にも安倍の血が流れていることになるな。
694日本@名無史さん:2013/09/05(木) 22:53:31.07
大豆と米でいいんじゃないか。今の青森市でもやってたし
いまの青森市
695日本@名無史さん:2013/09/05(木) 22:57:57.74
>>692
実際、あそこら辺の気象ってどうなの?
米は、水が春から初夏にかけて大量にあって、8月前半頃に気温が30℃程度になってくれれば何とか実るんだよな。

春先寒くても、苗代技術の発明でなんとか乗り越えることができるようになった。
でも、8月の30℃にならない年は悲惨。
696日本@名無史さん:2013/09/06(金) 00:48:56.37
>>695
そりゃ今のコメだろ。盛岡以北でコメがとれるようになったのは大正昭和だと聞いたが。
697日本@名無史さん:2013/09/06(金) 00:50:14.62
そうかあ?だったら、新渡戸一族が >>689みたいな水路を作る必要性は無かっただろ。
698日本@名無史さん:2013/09/06(金) 01:12:16.43
>>696
2300年前の水田が
青森で発見されてる訳だが
699日本@名無史さん:2013/09/06(金) 01:55:57.04
まあ、あの頃は今よりも温暖な超温暖期だったから作れたとも言えるわけで…

江戸時代なんか、小氷河期だったしなあ。
700日本@名無史さん:2013/09/06(金) 07:32:15.93
近衛家や松前藩は弘前藩から米送ってもらって生活してたんだぞ。
701日本@名無史さん:2013/09/06(金) 18:17:47.53
>>695
東青地域と同じか少し気温が高い。
702日本@名無史さん:2013/09/06(金) 21:01:18.20
かつて源頼義が欲した陸奥奥六郡は豊かな黄金の国
703日本@名無史さん:2013/09/06(金) 22:39:44.83
>>698
何処の遺跡でしょうか?
704日本@名無史さん:2013/09/06(金) 23:02:48.55
田舎館村の道の駅にある遺跡だろ。
705日本@名無史さん:2013/09/06(金) 23:12:36.38
>>703
砂沢遺跡が弥生前期
近くから垂柳遺跡は弥生中期だがそこでも見つかっている

実は更に遡る可能性が有る
http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_46.htm
>出土した風張の炭化米は全部で7粒で、このうち2粒について放射性炭素年代測定が
>実施されている。計測値は■(右向き三角)2540±240B・P■(右向き三角)2810±270B・P―というもの。
>つまり、基準年の1950年から逆算して、約2500〜2800年前のコメというわけだ。
706日本@名無史さん:2013/09/06(金) 23:58:50.35
>>704,705
ありがとう。田舎館村が垂柳遺跡で砂沢遺跡が更に古いのね。
707日本@名無史さん:2013/09/07(土) 18:23:43.95
>>696
そんなわけないだろ。江戸時代には道南で
赤毛、白髭って品種の米が作られていたんだぞ。
708日本@名無史さん:2013/09/08(日) 01:05:31.52
江戸時代も中期から明治初期まで東北は寒冷でした。
農民にとっては搾取する側が藩から政府に変わっただけですから、明治になってからも一揆が盛んでした。
709日本@名無史さん:2013/09/08(日) 01:07:31.55
東北といっても広いですからね。
たとえば今年の夏は日本は猛暑といわれましたけど岩手は涼しい夏だったりしましたし。
710日本@名無史さん:2013/09/08(日) 05:05:43.18
いちいち農民を搾取とかいうのはマルクス経済学的史観で古い。
実際は一揆といっても代官や役人も参加しているお家騒動もからんだ非常に政治的なもの。

特に三閉伊一揆は利済派と利義派の相続争い、死に装束の楢山佐渡や新渡戸伝、八戸弥六郎なども巻き込んだ非常に政治的なものだった。
711日本@名無史さん:2013/09/08(日) 17:34:13.99
三閉伊一揆は経緯を見ると、政治的というより、南部の殿様を愚直に信用したい…って民衆の気持ちがあったんじゃないの?

南部利済は母である油御前の浮気の結果の子だから、南部の血が一切入っていない…とかね。
願望だよなあ。
712日本@名無史さん:2013/09/09(月) 09:35:04.92
百年戦争のときのシャルル七世みたいだな。
713日本@名無史さん:2013/09/10(火) 20:23:23.48
>>707
会津藩ってか斗南藩の与太話がそのまま浸透してるって感じだからな。
本当に米が採れなかったら、新渡戸一族が十和田開拓なんてやるわけないし。
714日本@名無史さん:2013/09/11(水) 16:47:45.32
盛岡藩と仙台藩がちょくちょく餓死地獄になってるから元々、米を育てるのに不向きな土地じゃん。
ノウハウなく会津藩の土地と同じやり方で育てようとすると死ねる。
まぁやませなど寒冷具合で一気に米壊滅もありえるしな。
与太とまでは言えない。そもそも開削による河川から水を引っ張ってくる流路整備が
最初から完備されていた土地じゃないだろ。
715日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:24:24.14
仙台藩と盛岡藩だけじゃなく
弘前藩や久保田藩も同じ。
北東北自体が稲作に向いてない。
716日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:42:04.20
それは江戸期の寒冷化が大きいな
あと凶作による餓死者は大阪でも出てるぞ
717日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:51:59.86
ところがどっこい、久保田藩は向いているんだよ。

水は確保したとして、とにかく夏に30℃を越す日があれば稲は実ってくれる。
日本全体が寒冷化した年はともかく、ヤマセも奥羽山脈を越すことは少ないから、日本海側では晴れたりする。

1993年の大冷害でも、作況指数は青森県28、岩手県30、宮城県37、秋田県83、山形県79、福島県61だった。

天明の大飢饉の時にはさすがに秋田も飢饉になったけど、津軽藩からは延々「〜の家に行くと飯が食べられる」
という噂を頼って人々が押し寄せた。

また、天保の飢饉の時には、久保田藩や庄内藩はそれほど石高は減らず(多分ヤマセが少なかった)逆に米を
売って儲けた人が沢山いたため、京都から芸者が来て連日どんちゃん騒ぎをしていたりする。(仙台藩から米の
買い付けに来た人が記録している)

夏の7月から8月初旬に奥羽山脈に登山すると、岩手県側と秋田県側の天気があまりにも違うからびっくりするよ。
焼石岳、乳頭山あたりだとそれがはっきり分かる。
718日本@名無史さん:2013/09/12(木) 20:58:00.75
俺は1993年には鹿角市に住んでいたけど、鹿角のスーパーには青森ナンバーや岩手ナンバーの車が押し寄せ、米を買っていった事を覚えている。
不作になるのを見越して米を確保していたのだろう。

その後、その流れは秋田県のほとんどのスーパーに及び、秋田県人も米を買えなくなっていった。それが全国に伝わっていったのはご存じの通り。

天保の飢饉の時には、鹿角の金持ちが大館市の旅館に泊まり、何もせず飯を食っていたとか。なんでそんなことをするか人々はいぶかったけど、
南部藩の鹿角で高い飯を食っているよりも、久保田藩の大館で旅館に泊まって飯を食った方が安く上がるためだとか。
719日本@名無史さん:2013/09/12(木) 21:25:43.80
気候には恵まれてるけど、秋田は土壌が悪く江戸時代以前には齶田とも言われていた。
周りの藩に比べ牛馬の使用が困難なため人手によって
多くの作業をしなくてはならないから平時は費用対効果が著しく悪かった。
720日本@名無史さん:2013/09/12(木) 21:38:45.80
牛や馬による耕耘は
江戸時代はほとんど行われていなかった
明治以降に積極的に導入された

なぜ江戸時代に家畜を耕起に用いなかったのか?
それは家畜が可哀想だったから
これはマジ
721日本@名無史さん:2013/09/13(金) 09:38:26.78
牛は山国では貴重な運搬手段だからな。金や鉄や塩を運ぶのに使った。南部牛追い歌とか有名だが。
あと寒さに強いが暑さに弱い牛を飼うのに適した場所は稲作に適さない。
722日本@名無史さん:2013/09/13(金) 22:05:49.96
>>719
水はけが悪い土地が多いせいで太平の時代に入ると
換金作物作りに農民は精を出したからなあ。佐竹氏も稲作を疎かにしないって
条件付きで渋々認めざるを得なかった。
723日本@名無史さん:2013/09/15(日) 20:27:24.59
南部藩は奥州随一の勤皇砂漠の大藩
724日本@名無史さん:2013/09/16(月) 09:33:38.90
忠臣の鑑・相馬大作
725日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:35:01.67
>>720
江戸時代に家畜を耕起に用いなかった理由は
小農の自立が理由だよ。ちなみにその先駆けとなったのは秀吉の太閤検地
それによって小家族経営が進んだため家畜の利用が減った
726日本@名無史さん:2013/09/23(月) 14:26:51.14
伊達が和賀煽って100万石棒に振ったのと全く同時期に、
南部は阿曽沼の家臣煽って遠野ゲットしてるんだな。
やったことは同じだが南部の方が上手かったか。
727日本@名無史さん:2013/09/27(金) 23:29:30.20
>>689
武田の金堀衆でもそれくらいはやれるんじゃないか
隧道工事なんて戦国時代にはとっくにやってたぞ
728日本@名無史さん:2013/09/28(土) 00:03:05.53
具体的にどの隧道?地形図で示してみて?
729日本@名無史さん:2013/09/28(土) 11:13:58.01
釜無川、黒川金山、富士金山、安倍金山、武蔵松山城
730日本@名無史さん:2013/09/28(土) 22:54:16.56
731日本@名無史さん:2013/10/02(水) 20:17:05.87
十和田は新渡戸伝が高級木材を江戸の木場まで流すために、
わざわざ河川工事をするほど南部の中でも未開の地だった。
732日本@名無史さん:2013/10/03(木) 19:44:58.22
>>十和田の開拓が遅くなったのは技術的な問題てはなく政治の問題だろ。
733日本@名無史さん:2013/10/04(金) 09:49:59.12
十和田は軍事的には特に重要な場所じゃないから後回しになったのいうのもある。

花巻あたりや盛岡あたりの開発が優先されたのは伊達・和賀・阿曽沼の復讐や侵攻に備えるため。
八戸南部が遠野に移ったのもそのためだし。
734日本@名無史さん:2013/10/04(金) 18:58:05.85
十和田はでかい魚が捕れるわけでも無かったし、寒いから作物もなかなか育たなかったしな。

ちなみに、現在の十和田湖観光の基地となっている、休屋を最初に家族そろって開拓したのは、栗山新兵衛。
秋田戦争の岩瀬会戦で活躍した人だ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E4%BC%9A%E6%88%A6

>高陣馬山を突破した部隊には、南部方の栗山新兵衛隊の70〜80名が奇襲をかけ難戦に陥り…
735日本@名無史さん:2013/10/04(金) 19:15:23.05
やっぱりいつの時代でもこういう奴が開拓の先頭になるんだな。
736日本@名無史さん:2013/10/04(金) 20:14:47.79
十和田湖のヒメマスの刺身は本当に美味しい。

冷凍技術が無かった時代には、安全に淡水魚で刺身を食べれるのってヒメマスぐらいだったのでは?
737日本@名無史さん:2013/10/07(月) 22:46:47.55
十和田湖のヒメマス養殖を初めて成功させた和井内貞行は、鹿角毛馬内の桜庭氏(南部家)の家老筆頭出身ね。
苦労して養殖事業と観光事業を成功させた。
738日本@名無史さん:2013/10/08(火) 20:36:46.19
新渡戸伝みたいな奴はいっぱいいたんだな。
739日本@名無史さん:2013/11/06(水) 14:10:07.00
こないだ大館市にいったけど、東の方は南部領だったんだな。
740日本@名無史さん:2013/11/06(水) 16:19:54.00
東の方って現在の鹿角市と小坂町ね。
741日本@名無史さん:2013/11/06(水) 19:00:55.97
いや秋田犬記念館で大館の老犬シロのダイオラマとか見たんだけど、
シロは南部信直から天下御免の巻物(狩猟免許)もらったとか書いてた。
742日本@名無史さん:2013/11/06(水) 20:02:28.60
老犬シロの飼い主は鹿角の大湯在住だから南部領だよ。そこで仕事をしていたのだけど、
主人が死んだので、未亡人と一緒に南部領の堺の秋田領に移住したんだ。
743日本@名無史さん:2013/11/06(水) 20:05:57.71
ちなみに、その老犬を祀った老犬神社があるあたりは、秋田戦争で
大激戦地(戦争の初めと終わりともに)になっている。
744日本@名無史さん:2013/11/07(木) 13:40:26.05
浅利氏もよく知らんかったからヤフってみたけど、
藤里町の浅利さんは今でも餅は食べないってすごいな〜。
745日本@名無史さん:2013/11/09(土) 20:24:46.62
浅利氏も鎌倉時代から続いて、南北朝期来てたんだ、南部氏と比内あたりで 争ったが戦国末期に
安東氏にやぶれるんだよなあ。
もともと甲斐源氏で南部氏と同じように甲斐から比内へ来てた名門だな。
746日本@名無史さん:2013/11/10(日) 11:03:35.97
浅利頼平は敗者だけど和賀忠親みたいに自分なりにベストは尽くした感じがあって面白いな。
747日本@名無史さん:2013/11/10(日) 17:09:38.79
浅利氏以前は、大館市あたりも南部氏の領域だったんだよな。
そこへ、南部氏と同じく甲斐から浅利氏もやってきて大館・比内に領域を確保するわけだ。でも、浅利氏も
群雄割拠しているようで詳細は不明。

浅利則頼は最初は明利又(赤利又)という本当に山の中の集落に山城を作って、そこで一旦力を付けて
それから大館・比内の他の浅利氏や南部氏を攻略したのだろう。これで、大館地区は統一された。

浅利氏の最後は浅利勝頼なんだけど、勝頼は安東(秋田)愛季に檜山城での酒宴に呼ばれて、そこで
柿崎慶広に殺される。柿崎慶広はこれで安東氏家臣団での発言力を増し、後に松前氏として独立。

まさに戦国の世ですねー。
748日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:51:43.08
浅利の殿様は合戦じゃなくて食事中に死ぬ奴ばっかりだな。
749日本@名無史さん:2013/11/13(水) 18:14:21.79
この安東氏も、田名部から北海道へ逃げた安東氏の子孫だし、同じように
柿崎氏も「柿崎蔵人の乱」の子孫だし、みんな南部氏が絡んでるけど
この時期の資料があんまりないからいろんな想像、推測ができるのが楽しい。
この南部氏も,根城南部」か三戸南部かどっちかもはっきりしてないんだよな。
750日本@名無史さん:2013/11/15(金) 20:14:08.74
>>690

> 南部藩は中期以降、何故か殖産や新田開発を制限してる


非常に亀レスですまんが、どうしてだろうな?
751日本@名無史さん:2013/11/17(日) 10:35:55.65
蝦夷地警備に集中してるからじゃないか?乱開発を統制するのは開発行政として当然だ。

しかし新渡戸伝や大島高任の例を見ればわかるように殖産も新田開発も完全に制限しているということはない。

特に硝石の生産量は幕末は佐藤信淵を藩士に取り立てて日本一になっている。
752日本@名無史さん:2013/11/17(日) 10:52:41.07
各論無視の断定調の総論には気をつけろってことだな。
753日本@名無史さん:2013/11/23(土) 02:30:45.62
大阪夏の陣で南部利直は真田家の真正面に陣取っているね。

ここでどんな活躍したの??
754日本@名無史さん:2013/11/23(土) 14:13:14.05
冬の陣の間違いだと思うが、真田丸に突っ込んだのは前田勢だけで南部軍5600は突っ込んでいない。

しかし片桐且元の居城である茨木城をぶっ壊してご褒美にカンボジアの虎二匹をもらっている。
755日本@名無史さん:2013/11/23(土) 18:08:57.45
真田丸の戦いって軍律違反の駆けぬきから始まった戦いだからな
756日本@名無史さん:2013/11/24(日) 10:16:34.58
南部信景は1500の兵を与えられ、三の丸の北方面を守備したというが、
けっこうな数だな。
757日本@名無史さん:2013/11/24(日) 11:53:45.74
大阪の陣での南部軍は強かったのか?
758日本@名無史さん:2013/11/25(月) 09:50:56.69
実はあんまり戦っていない。関が原で東軍だったからという話もある。
西軍だった佐竹やなんちゃって東軍の伊達は思いっきり弾除けにされた。
759日本@名無史さん:2013/11/25(月) 20:12:45.52
宮城の南部神楽ってやっぱり南部氏に由来するんだろ?
760日本@名無史さん:2013/12/11(水) 19:39:01.78
きりたんぽも発祥は南部なんだな。本場は佐竹だけど。
761日本@名無史さん:2013/12/11(水) 21:08:51.06
お互い発祥・本場を主張しているから、正確なトコは分からないんだよね。

鹿角でマタギが南部の殿様にごちそうしたとかの話もあるけど、秋田だと米が貴重なマタギがそんなことを
するわけは無いと批判もある。

いずれにせよ、最初にきりたんぽを文書で記録したのが菅江真澄。これが秋田じゃなくて、青森だったりする。
田名部できりたんぽを食べたとあるが、形状が違う。名称と形状が一致するのが、岩木山の木材伐採現場。
ここには、秋田出身の人もいたから、その人が作ったのか?
762日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:15:40.11
大館・比内は一時期南部領になっていたりするしますます微妙だな。
津軽にしてもともとは南部領だし。
763日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:26:24.78
きりたんぽを槍のタンポに見立てた南部の殿様が誰かが問題だな。
きりたんぽ食べた殿が南部信直なら北信愛が大館城の城代だった時代かもしれない。
764日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:29:25.84
マタギにしても沢内のマタギなんかは隠し田で潤った米どころのマタギなんだよな。
765日本@名無史さん:2013/12/13(金) 15:30:58.56
そういえば…秋田県北部は家系的には南部からの移住者が多い。
でも、能代氏などの沿岸地区は「だまこもち文化圏」で、「きりたんぽ文化圏」ではない。
二ツ井町あたりが境界線かな?

南部からの移住者がきりたんぽを伝えたんじゃないのかなあ。
766日本@名無史さん:2013/12/13(金) 19:21:58.45
だまこもちは安東の食文化なのかもしれないな。
大館は基本浅利でときどき南部・安東、最後佐竹だからな。

せんべい汁も八戸・二戸にはあるが、盛岡・花巻・遠野にはない。
それを考えると、せんべい汁は八戸藩ができてからの食文化と考えられる。
767日本@名無史さん:2013/12/14(土) 02:45:32.50
キリタンポも秋田発祥ではないってさ。
768日本@名無史さん:2013/12/14(土) 02:48:25.96
鍋に入れるとおいしい比内鶏を売りだすために、秋田の鍋料理を宣伝したと聞いた。
769日本@名無史さん:2013/12/14(土) 02:49:49.39
>>765
秋田県北の鹿角あたりは元南部藩ですから。
770日本@名無史さん:2013/12/14(土) 02:50:55.53
>>764
米が食えるなら猟などしない。
771日本@名無史さん:2013/12/14(土) 02:59:12.03
おかず無しは嫌だぞw
772日本@名無史さん:2013/12/14(土) 02:59:48.60
>>764
米は藩に収める為に作っていたので、自家消費のためではない。
773日本@名無史さん:2013/12/14(土) 09:49:20.93
だから南部の殿様に食わせたんだろ。

そもそも猟をやるのが貧しい猟師とは限らない。
昔は武士も猟をやる。馬を狼から熊から守るためにも猟をやる。
774日本@名無史さん:2013/12/15(日) 20:13:26.75
鹿角市のホームページではきりたんぽ食った南部の殿様が誰かを考証してるな。
http://www.city.kazuno.akita.jp/hasyo/30.html

しかし公式記録に食ったって記録がないから食ってないとも限らないと思うんだが・・。
775日本@名無史さん:2013/12/15(日) 20:37:25.17
>>774
中野・北・桜庭氏については言及されているが、
毛馬内・楢山氏などはなんでスルーしてるんだろう。
776日本@名無史さん:2013/12/15(日) 22:00:39.73
信直は鹿角のマタギに狩猟免状とか出しているから、
キリタンポをご馳走されても不思議ではない。
777日本@名無史さん:2013/12/21(土) 21:20:05.34
南部中尉は華原朋美にカバン贈った竹田氏の曽祖父の身代わりになって死んだらしい。
http://www.morioka-times.com/news/2013/1303/18/13031801.htm
778日本@名無史さん:2013/12/21(土) 23:07:07.51
宮城の熊作遺跡から1300年前の木簡出土 東北最古級 律令制度が東北に及んだ貴重な史料
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1387615781/

宮城で1300年前の木簡出土 東北最古級、製鉄従事者の名簿か

宮城県山元町の熊の作遺跡から、製鉄作業に従事していた人を管理する名簿とみられる約1300年前の
木簡が見つかった。調査した宮城県教育委員会によると、東北地方で出土した木簡の中では最古級という。

木簡は一部が破損しており、長さ31.9センチ、幅3.6センチ、厚さ0.7センチ。上に「信夫郡安岐里人」、
その下に「大伴部法麻呂」など4人の男性の名前が書かれていた。

信夫郡安岐里は、福島市と福島県川俣町の境界付近に当たる地名。大宝律令の郡里制に基づく表記から、
制度が施行されていた701〜717年の木簡とみられる。

遺跡では製鉄工房跡も確認されており、約40キロ離れた安岐里から製鉄作業に動員された人を管理する
名簿と推測されるという。

宮城県教委は「8世紀初めに、律令制度による支配がこの地域に及んでいたことを示す貴重な史料だ」と
している。

http://sankei.jp.msn.com/images/news/131221/art13122116210000-p1.jpg
宮城県山元町の熊の作遺跡から出土した木簡。製鉄作業従事者の名簿とみられる。
右は赤外線撮影(宮城県教育委員会提供)

http://sankei.jp.msn.com/life/news/131221/art13122116210000-n1.htm
779日本@名無史さん:2013/12/25(水) 02:59:31.08
南部瑞子タン
780日本@名無史さん:2013/12/29(日) 19:48:22.87
信長の野望ではかなり存在感ある。
781日本@名無史さん:2014/01/07(火) 11:05:31.33
黒田如水の兜は南部家に伝わったのだな。
福岡にあるのはレプリカとか。
782日本@名無史さん:2014/01/07(火) 11:32:21.14
栗山大膳が預けられたのが盛岡だからか。そのツテか?>黒田如水の兜
783日本@名無史さん:2014/01/07(火) 17:57:38.27
栗山大膳が南部の殿様に、
これでわんこそば食べてください
といってあげた。
784日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:58:41.41
山形にサ館という山城があって、小野寺の客将やってた佐々木典膳に追従して
秋田の仙北からやって来て佐々木氏と一緒に最上家臣になった岸氏の城だというけれど、
この岸氏というのは何者なのだろう。
中世のこの時代の仙北というと、領土ほぼ全て南部氏とか小野寺氏から独立した家臣ばかりの記述だけど。
785日本@名無史さん:2014/01/08(水) 17:45:18.25
>>784
上杉軍の直江兼続が鮭延秀綱軍が戦ったら武田信玄軍にも劣らない鬼のような強さだったと言ってるけど、
この岸氏というのはその佐々木典膳(鮭延秀綱)の軍団でも小野寺氏に対する、
また未だ最上氏の家臣じゃなかった頃には最上氏に対する要所と思われる
(神田)大館とかサ館などいくつかの山城に配されているから、仙北でもただの国人領主だったとは思えない。
小野寺氏から独立したのか或は強くて仙北でも元々独立守ってたのか、謎なんだけど調べるのに良い本知らない?
786日本@名無史さん:2014/01/12(日) 12:49:45.68
ネットで検索しても全く出てこないな。山形の市町村史にはあるかもしれないが。
787日本@名無史さん:2014/01/12(日) 15:14:51.04
>>786
ありがとうございます。
たまに東大とかが行ってあの辺も新庄藩・幕末資料とか調べてるみたいだけど南部氏関連といい、
まだまだ東北史研究は遅れてる感があるんですね。
788日本@名無史さん:2014/01/12(日) 18:41:00.61
南部は基本的にずっと同じ領地だから記録はけっこう残ってるけど、
最上地方は領主が猛烈に入れ替わったからなあ。
789日本@名無史さん:2014/01/12(日) 21:04:27.11
(神田)大館ってどこ?
仙北って言ってるから、
秋田県大館市のことじゃないよね?
大仙市か横手市か湯沢市にあるの?
790日本@名無史さん:2014/01/13(月) 04:03:21.12
>>789
大館市だろう
791日本@名無史さん:2014/01/13(月) 09:18:48.60
大館は基本浅利氏だろう。
792日本@名無史さん:2014/01/13(月) 09:51:29.73
そもそもサ館は漢字検索出来ずにカタカナ表記してるだけな
のか?違うのか?
館なのに山城?なのはなぜ?
などよくわからないことだらけだし、
出羽国最上郡の話のことを言ってるようにも取れるし、
漠然と岸なんて言われても情報量が無さ過ぎる。
小野寺家臣団なんてのはほとんど不明だし、
仙北の南部で岸なんて地名も聞いた事が無いから、
国人未満なんじゃないか?
なにで岸なるものを知ったのか出典を教えてくれ。
そんなよくわからんもんが気になるのは君の先祖か何かだからか?
793日本@名無史さん:2014/01/13(月) 13:38:04.44
私の住む茨城県古河地方には鮭延寺というお寺がありまして、
これが鮭延秀綱の菩提寺なのです。
そして岸氏というのは鮭延秀綱家臣の中でも南部氏が活躍した秋田仙北辺りから追従して来て、
現在の山形県最上郡のサ(佐)館や最上郡神田にある大館など取り分け強敵の居る北方への守りに配置されていたのです。
東北地方中世では山城を館と言い、それ以外の地方で館と言って平地の居館を指すのとは違うのです。

分かりました、もう良いです。お騒がせしてすみませんでした。
794日本@名無史さん:2014/01/13(月) 14:16:48.19
なるほど、仙北周辺に詳しい横手市史に岸に関する記述は無いな。
鮭延について詳しい南出羽の戦国を読むでも、
それらしい人名は出てこない。
そんなやつホントにいたのか?
ちなみに館=山城なんて話ははじめて聞いたぞ。
そもそも出羽の城は楯って呼んでるのが普通だぞ。
795日本@名無史さん:2014/01/13(月) 14:30:19.82
それと強固な防衛線は神室山麓の仙北地方から山形方面へ通るルート沿いの要衝に、
数々の城館群があり、
とりわけ強敵のいる北方なら、
ここらにあった金山町高堂楯、松山楯、魚清水楯、安沢楯、愛宕山楯、
新庄市小倉楯
落楯楯、片平楯、
最上町志茂の手楯、太郎田楯に配置されるだろう。
796日本@名無史さん:2014/01/13(月) 15:04:19.16
>>793
岸さんは最上郡に多いぞ
http://namaeranking.com/?search=同姓同名&surname=岸&tdfk=山形県

秋田県には大館と横手市に少し居るな
797日本@名無史さん:2014/01/13(月) 20:04:02.82
佐々木典膳(鮭延秀綱)まではすぐわかるがそっから先はわかんない・・・。

最上家は琵琶湖に強制移住になって家臣も散り散りになったから記録も散逸してるのかも。
798日本@名無史さん:2014/01/13(月) 20:12:38.33
出羽の幾志という地名は当時広い範囲でたくさん館を構えてた国人領主の岸美作守源朝臣義忠が居た所。
木曾義仲の後裔。
義仲朝日将軍に因んでか現在の村山郡朝日町辺り。
この辺の岸氏だと更に上山藩主(現、上山市)の清和源氏土岐頼行家系か。
799日本@名無史さん:2014/01/14(火) 10:40:51.64
はっ?仙北とか最上郡じゃなくて、
今度は村山郡とか、そのさらに南方の上山市?
木曾義仲の後裔は山形県朝日町じゃ無くて、
千葉県旭市に移封だぞ。
いよいよ怪しいな。
いろいろとウソ経歴だろ。
800日本@名無史さん:2014/01/14(火) 12:58:21.35
>>793 ですが >>798 は、私の書き込みではありませんよ。
義仲のご子孫なら岡山県では...
http://kyaro.nikita.jp/jinbutu/sinzoku/sison.htm
あと岸美作守義満・義忠は最上氏に従属した筈。

山形の金山という所の山を代々所有しているのも岸三郎兵衛氏ですね。
そういった数々の点から岸氏に着目しました。
801日本@名無史さん:2014/01/14(火) 13:51:19.83
山形県金山城

・・・丹氏の後は、鮭延秀綱の家臣・薗部彦右衛門が1,000石で入城した。続いて慶長末年までには同じ鮭延氏の家臣・川田三右衛門が城代となっている。

このへんじゃないか?金山町史には書いてそう。
802日本@名無史さん:2014/01/14(火) 14:14:17.75
書状などに名前が出てこないから、
武将、国人、豪族、土豪未満で、
郷土に住んでいた庄屋未満の存在くらいなもんじゃね?
なにかしら立場があれば由緒書きくらいは残り市町村史の史料編に収録されんだろ。
803日本@名無史さん:2014/01/14(火) 17:37:07.35
ご親切にありがとう皆さん。いろいろ勉強になります。
元武田家臣でありながら秋田に行った南部氏の興亡といい、
NHKドラマになっても良いんじゃないかとも思う、こじき大名と云われた鮭延秀綱といい、
木曽義仲の末裔を自称し最上家臣になった岸義仲の居た辺りに岸という名前が多い事といい、
東北史は私にとって面白いです。
804日本@名無史さん:2014/01/14(火) 20:21:43.41
南部は武田の同族ではあるが、家臣であったことはない。
北畠の家臣ではあったがな。
805日本@名無史さん:2014/01/14(火) 21:26:24.48
顕家 顕信 との関係なら それは家臣と言えないでしょう
806日本@名無史さん:2014/01/15(水) 13:30:06.72
まあ厳密にいうとそうなんだが。
807日本@名無史さん:2014/01/16(木) 00:53:00.78
南部氏の総領家は鎌倉幕府滅亡の時に滅びています。
808日本@名無史さん:2014/01/16(木) 20:05:58.91
>>807
それ太平記に出てくる南部茂時のことなら間違い。
北条茂時だからそいつ。太平記の作者が間違ってるわけ。
809日本@名無史さん:2014/01/22(水) 19:56:07.55
細川護煕の従伯父は南部利英なんだな。
810日本@名無史さん:2014/02/02(日) 02:47:38.43
神奈川県の三浦半島にある三戸浜って、三戸となにか関係あるの?
811日本@名無史さん:2014/02/02(日) 03:09:52.97
>>810
ないだろ。
812日本@名無史さん:2014/02/06(木) 20:39:47.21
>>793
ちょうど鮭延秀綱が話題に登ってるな。
http://sakemasu.sp.land.to/modules/weblogD3/details.php?blog_id=144
813日本@名無史さん:2014/03/06(木) 02:19:27.62
>>810
三浦半島の三戸浜は知りませんでした。
房総半島には南部の飛び地があるけどね。
814日本@名無史さん:2014/03/08(土) 20:36:05.62
>>813

> 房総半島には南部の飛び地があるけどね。


知らなかった。
815日本@名無史さん:2014/03/09(日) 17:32:18.00
今年は八戸藩立藩350周年です。
816日本@名無史さん:2014/03/23(日) 12:02:23.91
高輪のあたりは八戸藩の屋敷だった。
817日本@名無史さん:2014/04/14(月) 01:59:31.83
日比谷公会堂のところが盛岡藩の上屋敷があったところ下屋敷は元禄頃の江戸前期には赤坂の南部坂上の今はアメリカの施設があるところにあり、江戸後期の下屋敷は麻布の南部坂、今は有栖川宮記念公園。
明治以降の南部伯爵邸は靖国神社のとなり、今は白百合学園になっている場所。
818日本@名無史さん:2014/04/26(土) 09:40:23.02
秋田戦争で、鍋島藩が本当にアームストロング砲を使ったのか疑問だという説もあったのだが…

実際に大館城に残されている砲弾を見ると、実際に鍋島藩で作られたアームストロング砲弾なんだよなあ。

こんなのと良く南部藩闘ったよ。
819日本@名無史さん:2014/04/26(土) 10:54:24.56
戦ったのか?援軍来てからはほとんど逃げただけじゃない?
820日本@名無史さん:2014/04/26(土) 19:41:52.15
ばーか 何回も反撃してるよ。
821日本@名無史さん:2014/04/28(月) 15:36:21.79
というか、鳥羽伏見で薩長が勝ったのを確認してから
薩長に敵対したのはアフォ。
822日本@名無史さん:2014/04/28(月) 15:44:44.62
アフォでもいい。
武士道を貫いたのだから。
823日本@名無史さん:2014/04/28(月) 15:49:42.14
薩長には最初からイギリスとフランスがついていなかったっけ?
どういう繋がりよw
824日本@名無史さん:2014/04/28(月) 16:34:54.15
武士道貫いた?というより仙台藩の圧力の影響じゃない?2/3火の海になった秋田にとってはいい迷惑。
825日本@名無史さん:2014/04/28(月) 16:46:09.57
>>824

仙台藩を相手に戦争したとして。

盛岡城に籠城していれば、そのうち薩長が助けにきてくれたはずなんだが。
826日本@名無史さん:2014/04/28(月) 16:55:11.30
>>825
そうだね。南部の暴走はまったく無意味。結局寝返って北海道に兵出してるし。
827日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:02:56.09
結果としてはそうならなかったが、南部藩主が切腹させられた可能性も高かった。

ハイリスク・ローリターンな判断だった。
828日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:26:44.47
まあ、楢山佐渡が決断したとは言え、楢山佐渡に全責任を負わせたからな。

そりゃ、南部の人は楢山佐渡に頭が上がらない。
829日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:52:47.09
切腹して止めた家臣も南部藩にいたんだけどね。
830日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:56:34.51
南部藩主は明治36年まで生きた。

寿命が35年ぐらい伸びてよかったよ。  (ほのぼの)
831日本@名無史さん:2014/04/28(月) 17:59:05.00
すまん。明治29年没の間違いだった。
832日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:07:51.85
地域的にはどんな感じなの?

ちなみに、鹿角では「何?イクサだって!よし、朝敵の仙台と戦い勤皇の意思を見せてやるぜ!」ってな感じだったみたい。
八戸や遠野もそうだったんでしょ?

どこいら辺の地区の人が佐幕だったんだ??
833日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:11:33.69
>>826
「仙台藩の圧力の影響」と考えると無意味なだけ。
「武士道を貫いた」と考えると納得出来る。
834日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:13:44.86
>>832
八戸と遠野は乗り気じゃなかったはず。負けてきた南部軍をしばいたんじゃなかった?詳しい人解説頼む。
835日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:18:44.97
>>833
貫いてないから。さんざん秋田めちゃくちゃにして自国領がやばくなったら寝返って北海道に兵を出してる。武士道を貫いたのは会津、長岡、庄内くらいまで。仙台、米沢は・・・南部は???
836日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:33:23.72
>>835
<自国領がやばくなったら寝返って北海道に兵を出してる。
嘘つくな。
837日本@名無史さん:2014/04/28(月) 18:52:05.09
あれ?勘違いだったかな?
838日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:05:44.77
>>837
何が勘違いだ 頭悪い馬鹿野郎。
839日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:44:05.50
>>838
函館戦争南部藩戦ってなかった?
840日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:46:10.27
結局会津のようになりたくないから降伏。じゃあ秋田を火の海にしたのはなんだったのか?自分たちが火の海になるまで戦うのが武士道だろ。
841日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:50:09.66
<あれ?勘違いだったかな?
<函館戦争南部藩戦ってなかった?

このレベルで

<結局寝返って北海道に兵出してるし。
<自国領がやばくなったら寝返って北海道に兵を出してる。

と書き込むアホ。
842日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:52:27.44
>>841
お前も相当なアホ。なにが武士道だよ。
843日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:53:59.37
幕府が降伏してるのに武士道(笑)
844日本@名無史さん:2014/04/28(月) 19:56:20.41
結局は821が正解。アホにはわからんだろうが。
845日本@名無史さん:2014/04/28(月) 20:17:22.90
結局822が正解だな。アフォだってわかってんだから。
846日本@名無史さん:2014/04/28(月) 20:50:17.72
>>842
知ったかふりして恥じをかくガキ(大笑)
847日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:07:11.38
>>840

正論
848日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:10:06.89
譜代の井伊家や稲葉家まで寝返ったのに
そのあと外様の南部家が薩長にケンカ売るのは無謀。
849日本@名無史さん:2014/04/28(月) 21:33:16.03
秋田を火の海にしたのに、秋田をバカにする言葉「秋田の火付け」はあんまりだろw
850日本@名無史さん:2014/04/28(月) 22:47:21.95
津軽の手長(泥棒)
秋田の火付け
南部の人殺し

お互い様だろう
851日本@名無史さん:2014/04/28(月) 23:14:18.28
その悪口群って、秋田ほとんど関係無いだろw
852日本@名無史さん:2014/04/29(火) 00:46:33.75
現秋田市長の母は和井内貞二郎と結婚して佐竹敬久氏を産んでいる。

和井内貞二郎氏ってどう見ても南部藩の関係者だよね。
どんな人なんだろ?
853日本@名無史さん:2014/04/29(火) 01:48:48.56
南部にjは和井内の名字ないし
854日本@名無史さん:2014/04/29(火) 01:52:26.21
今は秋田県になっている鹿角あたりが和井内
855日本@名無史さん:2014/04/29(火) 05:33:41.54
名前からして
和井内貞行の関係者でしょ
856日本@名無史さん:2014/04/29(火) 07:36:50.79
和井内と十和田湖のヒメマスの話も知らない人たち
857日本@名無史さん:2014/04/29(火) 09:09:16.29
>>852
なんだ、あの人、本当は和井内さんだったのかよ。
のど飴かなんかのCMで殿様コスプレで、褒美を取らすみたいなセリフ言ってたけど、
本当は和井内さんだったのかよw
858日本@名無史さん:2014/04/29(火) 20:34:10.51
佐竹と南部って、源氏としてどっちが格上なの?
859日本@名無史さん:2014/04/29(火) 21:35:44.31
つ武田
860日本@名無史さん:2014/04/29(火) 22:52:24.94
佐竹に決まっとるだろ
861日本@名無史さん:2014/04/29(火) 23:12:17.41
>>854
南部の武士は、与えられた所領の地名を自分の名字にした。
そして、移転先でも同じ名字を通した人が多い。

和井内の地名は宮古市に現在あり、この地に所領を有していて、鹿角に移動させられたのだろう。
862日本@名無史さん:2014/04/29(火) 23:21:23.31
>>861
それは南部の武士に限った話じゃないぞ。
863日本@名無史さん:2014/04/30(水) 00:17:56.28
>>822
新政府側についていたら、青森県の下北から南部地方と
岩手県の北部中部を合わせて一つの県になったのかな。
ほとんど旧南部藩のままの領地で、名前も岩手なんてどっからか
引っ張り出してきた名前じゃなく、盛岡県と名乗れていたかと。

そう考えると幕末の南部はあふぉだ。
864日本@名無史さん:2014/04/30(水) 11:38:46.15
【訃報】慶応大名誉教授の鹿園直建さん死去

鹿園直建さん(しかぞの・なおたつ=慶応大理工学部名誉教授・鉱床学)が22日、
虚血性心疾患で死去、67歳。通夜は29日午後6時、葬儀は30日午前10時30分から、
東京都渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場で。喪主は妻みどりさん。

ソース
ttp://www.asahi.com/articles/ASG4T6V27G4TULBJ021.html

wikiによると、元男爵・鹿園直治の三男。祖父は南部利克


お前らも、ご冥福を
865日本@名無史さん:2014/05/02(金) 00:43:07.95
八戸南部の人達は盛岡と違うから。
866日本@名無史さん:2014/05/02(金) 14:24:30.93
武士に対して人殺し!って罵倒する津軽武士が江戸町民がバカにされるのも仕方がない。
867日本@名無史さん:2014/05/02(金) 14:29:00.12
南部利克氏は本家盛岡からの養子だそうで
868日本@名無史さん:2014/05/03(土) 08:40:36.54
関ヶ原のときに一揆煽って百万石を取り消された伊達に勝利して和賀を手に入れた南部と、
日和見で茨城から秋田へ強制移住させられた佐竹では、
同じ源氏でも南部のほうが優遇されていたのは間違いない。
869日本@名無史さん:2014/05/03(土) 12:59:32.24
>>868
「江戸時代において」という条件がつくけどな。
870日本@名無史さん:2014/05/03(土) 18:11:02.29
>>858

江戸時代の官位とか席次は記録されているが。
871日本@名無史さん:2014/05/03(土) 18:13:15.02
>>868

江戸幕府は南部家に甘かったなあ。

伊達家を背後から牽制してもらいたいというのもあったんだろうが。
872日本@名無史さん:2014/05/03(土) 20:23:37.35
利直が政宗に負けないくらいキッツイ性格の天然野郎だったからな。
873日本@名無史さん:2014/05/03(土) 21:24:16.02
そういうのをDQNいうんだよタタコ
874日本@名無史さん:2014/05/04(日) 00:47:35.29
>>871
あんなに一揆起こされても改易にならないものな。
江戸時代初期に一揆頻発なら改易コースだったろうけど。
江戸時代中期以降でも、和賀と閉伊を没収して天領にしてもよかったような。
875日本@名無史さん:2014/05/04(日) 05:03:49.15
>>874

幕府が南部馬(軍用馬)育成や寒冷地統治のノウハウを持っていなかったことも影響していると思う。
876日本@名無史さん:2014/05/04(日) 09:56:19.90
しかし同じ寒冷地でも秋田はあっさり三春に転封されて、津軽も川中島に転封予定だったんだよな。

中期以降は利敬が仙台藩がいやがった蝦夷地警備を頑張ったこともあるだろう。
877日本@名無史さん:2014/05/04(日) 14:30:26.84
南部藩は幕府にはひたすら従順だったからね。
878日本@名無史さん:2014/05/04(日) 18:21:43.65
というか、仙台藩が直接最大の敵だったからな。

仙台藩が和賀で謀略失敗したのと同時に南部は遠野で謀略成功させてた。
対伊達で幕府や蒲生、浅野と利害が一致していた。
蒲生や浅野は南部を信頼する一方で、伊達を心底軽蔑していた。
879日本@名無史さん:2014/05/04(日) 18:26:39.30
伊達は和賀で南部の隙を突こうとしたら、実は同じタイミングで遠野で南部に隙を突かれていた。

伊達は百万石をフイにして、南部は和賀と遠野をGETし、幕府も味方につけた。
880日本@名無史さん:2014/05/05(月) 00:38:04.59
南部は国内最後の内戦である九戸戦で東夷のスタイル
881日本@名無史さん:2014/05/05(月) 00:40:51.69
>>876
津軽は川中島に行けばよかったのに。
津軽より温暖だし、不倶戴天の敵の南部から離れられるし。
882日本@名無史さん:2014/05/05(月) 01:01:49.67
>>880
国内最後の内戦って西南戦争じゃないのか?
883日本@名無史さん:2014/05/05(月) 01:11:20.01
>仙台藩が和賀で謀略失敗したのと同時に南部は遠野で謀略成功させてた。

津軽に出し抜かれた被害者意識は強いが、それなら遠野を阿曽沼氏に
返してやれよっていいたい。
こういうところが南部は自分勝手。
884日本@名無史さん:2014/05/05(月) 12:41:30.48
>こういうところが南部は自分勝手。
この時期領土の切りと取り、切り取られは戦国大名なら自然な行動。
津軽は運がよかっただけだな。南部は津軽を失ったがそれ以上のものを
得ただけ。南部はこの時期とか明治維新とか運が良いよ。
885日本@名無史さん:2014/05/05(月) 13:02:33.12
南部藩の領民になった人は無茶運が悪いんですけど…
886日本@名無史さん:2014/05/05(月) 13:40:11.74
仙台藩は藩の中央が無力だったからな。

政宗以外の藩主はことごとく家臣から舐められ、領民からもバカにされる。
見た目は大藩だが、実際は藩主を信頼しない要害住まいの藩内小領主の寄せ集め。
戊辰戦争では一関藩からもバカにされて、進んで庄内藩の指揮下に入るほど。
887日本@名無史さん:2014/05/05(月) 13:49:52.91
南部にとっては和賀や阿曽沼それ自体より、後ろの伊達が常に問題だった。

実際、和賀や阿曽沼は伊達に逃げているし。
888日本@名無史さん:2014/05/05(月) 13:54:53.11
これに比べると津軽は高坂蔵人の乱で家臣が半分になるほどで、逆に藩士が大勢進んで南部の家臣になりたがるほど。

まっ、津軽は当分ほっといていいか、って感じだった。
889日本@名無史さん:2014/05/05(月) 16:59:06.08
>>888

高坂蔵人の乱には幕府が介入しなかったみたいだな。

当時は既に「ゴタゴタを起こすと、幕府に介入される」という危惧があったはずなんだが。
890日本@名無史さん:2014/05/05(月) 17:16:52.49
高坂蔵人の乱が1612年。
徳川家康の養女である満天姫を津軽信枚がめとるのが1613年。

うーん。関係無いなw 
津軽家も恵まれている。
891日本@名無史さん:2014/05/05(月) 19:37:29.61
根城南部氏を遠野に強制移住させたのも対伊達シフトだ。

津軽はすでに辰姫も群馬に追放して、家臣も半減して脅威ではなかった。
892日本@名無史さん:2014/05/06(火) 02:14:22.90
>>884
切り取り次第が自然な行動なら、津軽をいつまでも恨むのもおかしい。
津軽に負けまいと石高上げ申請して自分の首絞めてるアフォ。
>>885
南部藩は頭が上がらないお得意先大会社(幕府)にはいい顔して
頭なでなでしてもらい、反面自分ところの社員(領民)には
無茶なノルマを強いてストライキ(一揆)起こされる。
挙句に退職者(跳散や餓死者)多数出す始末。
現代でもある社員犠牲にするゴマすり会社の見本だな。
893日本@名無史さん:2014/05/06(火) 08:32:30.53
>>882
残念ながら為信は主殺しに等しい裏切り者。
これが、秋田氏とか阿曽沼氏なら仕方がないが、光秀なみの謀反人だから嫌われる。
石高上げは誉められたもんではないが、当時の武家社会だと死に値する侮辱を受け入れるわけには
いかんだろう。

一揆のない国があったとしたらそれを教えて欲しい。
幕府にぺこぺこするのは仕方がないでしょう。そうしないとやっていけtなかったんだから。
>お得意先大会社 から注文来なかったら会社潰れるよ。ガキか。
894日本@名無史さん:2014/05/06(火) 08:41:06.25
>>893

> 幕府にぺこぺこするのは仕方がないでしょう。

そこは同意。
895日本@名無史さん:2014/05/06(火) 11:14:21.12
>>893
はあ?戦国の世の習いに真っ向対抗するような意見w
この程度の裏切りなど戦国の世には当然のことだろ。

それから、一揆については、津軽最大の一揆「民次郎一揆」、秋田最大の一揆「北浦一揆」と
南部最大の一揆「三閉伊一揆」を比較してみれば、民衆の不満の程度がおのずと分る。
896日本@名無史さん:2014/05/06(火) 12:06:01.90
だからその「程度の裏切りが嫌われてるのよ。
毒殺魔為信の手口の陰湿さはとても好きになれないね。
こういうやつがよく畳の上で死ねたもんだ。
897日本@名無史さん:2014/05/06(火) 12:52:32.48
>>893
安価ミスってるぞ。
898日本@名無史さん:2014/05/06(火) 12:57:38.02
>>896
論旨がまとまっていないのだがw
899日本@名無史さん:2014/05/06(火) 13:35:45.74
三閉伊一揆は単なる民衆による百姓一揆ではなく、南部利済派と南部利義派、南部利剛派の政治的対立、
家老や代官、領民全部を巻き込んだお家騒動だからな。

楢山佐渡や八戸弥六郎、新渡戸伝は領民の側について一揆を成功させた。だから利済の隠居で幕府もカタをつけた。
領民や代官もそれらの派閥闘争を理解した上で一揆を起こしていた。

領民が戊辰戦争で楢山佐渡を支持したのもそのせいだ。
900日本@名無史さん:2014/05/06(火) 13:43:26.84
そもそも盛岡藩の一揆は、反主流派の家老、代官、肝入などがが参加した政治的な一揆が多い。

岩泉代官所などの一揆などは、肝入に対して代官が一揆を起こすという構図だ。
民衆と支配者というような単純な構図では理解できない場合が多い。
901日本@名無史さん:2014/05/06(火) 13:45:55.99
どういう史観だよそりゃw 
根拠あるの?
902日本@名無史さん:2014/05/06(火) 14:03:27.55
楢山佐渡は三閉伊一揆のときに白一色の死に装束で、盛岡城の大奥に入って、
利済に一揆の要求を聞くように諫言したんだよ。当然利済は激怒して、佐渡を謹慎にした。
しかし幕府の老中の阿部や、利剛の義父の水戸斉昭は佐渡を評価していた。
幕府は利済に謹慎を命じ、佐渡は家老になり、一揆の要求をほとんど受け入れた。

また一揆指導者の処分を一切しなかった。南部土佐は蟄居、石原汀、田鎖は身帯家屋敷等取上げの上蟄居
勘定奉行・大目付以下2百数十名が罷免して利済派は一掃される。

こんなことは領民の力だけでは当然できない。
佐渡が藩主や領民から絶対的信頼を得ていたのも利済派が一掃されていたためだ。
903日本@名無史さん:2014/05/06(火) 14:07:38.16
単に楢山佐渡が大局から物事見て、色々諫言したってだけの話だろ。
904日本@名無史さん:2014/05/06(火) 14:08:10.32
むしろ藩士と領民、士農工商を全く別のものと考えるマルクス経済学史観のほうが無理がある。

新渡戸伝を見ろ。藩の軍学者として生まれ、材木商になり、土木工事を指揮し、また藩士になり、
最後は金を集めて三本木の開拓農業をし、野辺地戦争では軍使になる。
士農工商全てが融合している。
905日本@名無史さん:2014/05/06(火) 14:11:32.96
ちなみに相馬大作を尊敬する吉田松陰はわざわざ長州藩を脱藩して、田鎖を殺しに盛岡まで来たが、
すでに田鎖は蟄居されていた。
906日本@名無史さん:2014/05/06(火) 14:27:24.59
>>904
それは単に新渡戸がエライだけで、南部は苦々しくおもっていて、新渡戸の行為を積極的に賛成していなかったのでは?
907日本@名無史さん:2014/05/06(火) 15:13:38.09
>>904

> むしろ藩士と領民、士農工商を全く別のものと考えるマルクス経済学史観のほうが無理がある。

この1行に限っては同意する。
908日本@名無史さん:2014/05/06(火) 15:24:26.57
よく分らんが、いずれにせよ南部の統治は民にとって陰惨極まるモノであったのは
否定はできんよ。
909日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:43:49.46
南部は表高20万石で裏高10万石だっけ?
米沢は表15万石のうら28万石なんだよな、、、
910日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:47:52.36
薩摩は表73万石の裏40万石くらい、毛利は表37万石だが裏50万石越えてなかったか?
911日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:50:19.30
なにが変わるかというと幕府に対して行う普請代が違う
912日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:52:21.80
沼田の真田氏なんてそれで滅んでるからなw
913日本@名無史さん:2014/05/06(火) 19:26:46.83
南部は、とか無理に一人称的に一くくりにするから認識に無理がでる。
実際は藩内派閥、党派によって政策も様々だ。

米沢は藩士の数が謙信時代のままだから、藩士大杉の絶対貧乏状態だ。
米沢こそ士農工商フュージョン状態の典型で、士農工商がほとんど藩士だったりする。
914日本@名無史さん:2014/05/06(火) 19:29:27.62
無茶言っているw
915日本@名無史さん:2014/05/06(火) 19:38:14.88
十和田市の三本木の中央を流れる川は稲生川というが、
命名者は藩主の南部利剛だ。もちろんアンチ新渡戸の藩士も大勢いたが、
利剛と楢山佐渡は新渡戸伝の後ろ盾だった。
916日本@名無史さん:2014/05/07(水) 02:41:31.08
南部の謀殺・謀略はきれいな策略ですw
917日本@名無史さん:2014/05/07(水) 02:59:12.59
東京護国寺南部家の墓周辺は石畳が敷いてあって他藩の墓所と違います。
918日本@名無史さん:2014/05/07(水) 09:03:30.30
>>917

南部家は江戸っ子からは褒められるように頑張っていたらしいな。

幕府対策の一環なんだろうが。
919日本@名無史さん:2014/05/07(水) 09:33:08.44
それに対して弘前藩は津軽の太鼓と本所七不思議にも数えられる始末。
920日本@名無史さん:2014/05/07(水) 14:07:59.95
まあ南部が津軽に対して感情的になるのは近衛家の親戚を名乗る点だろうな。

他家のことならいざ知らず、サケが南部家出身なのは津軽の領民でもわかってることだし。
921日本@名無史さん:2014/05/07(水) 15:22:34.70
>>920

近衛家のほうでそれを認可してしまっているからどうしようもない。
922日本@名無史さん:2014/05/07(水) 17:08:18.10
>>921
家系図粉飾がバレてる分、実はかなりみっともない話だよな
923日本@名無史さん:2014/05/07(水) 17:13:31.74
>>922

みっともないんだけれど、近衛家が認めちゃった以上、幕府も追認せざるを得ないんだよね。
924日本@名無史さん:2014/05/07(水) 17:54:23.53
>>923
公式に認められてるのは構わないけど、世間体というものを考えると……
925日本@名無史さん:2014/05/07(水) 18:19:40.55
>>920
サケって何?
926日本@名無史さん:2014/05/07(水) 18:59:46.35
最上義光
927日本@名無史さん:2014/05/07(水) 20:28:38.57
>まあ南部が津軽に対して感情的になるのは近衛家の親戚を名乗る点だろうな。

笑ってます。
928日本@名無史さん:2014/05/08(木) 12:45:33.05
>>909-910
それは色々な石高(米の収穫高か、幕府に報告した内高か、実際の藩内で把握していた内高か)をごっちゃにしている

南部藩は天保の時点で幕府に報告した内高は28万石で、
幕末の内高は32万石以上
米の収穫高は明治初期で28万石程度だが、
その他の農作物等を米価換算で加えれば50万石相当(林業等は加算されてない)だし、
幕末の南部藩の人口は50万人程度なので、米農家以外は石高の見積もりが甘かった


薩摩藩はよく税率8割とか言われているけど、田に設定された石高に対する税率であって、
二毛作が行き渡っていて実際の農家の収益はそれ以上
米の収穫高は明治初期でも30万石程度だが、他の農作物で充分それを補っているし、
実際の人口は江戸時代初期の40万人未満から80万人以上に増えている
薩摩藩は江戸時代初期に設定された石高を幕末まで内高だと言い張って
幕府に報告し続けているけど、少なくとも「籾高だから実体は玄米高の半分」という理屈は、
江戸時代後半には成立しない
929日本@名無史さん:2014/05/08(木) 13:40:38.91
幕末の盛岡藩の重要財源は、尾去沢の銅、久慈の砂鉄、釜石の餅鉄、
砂鉄を精錬するための木炭、鉄を運ぶための牛、馬、鉄瓶、漆、高級木材、煙草、日本酒、
三陸の俵物、そして佐藤信淵、大島周意が中心になって生産した硝石とか。

これらの専売、仲買で盛岡近江商人が全国的な経済力を持った。
930日本@名無史さん:2014/05/08(木) 15:06:26.89
幕府は薩摩藩・長州藩・伊達藩は警戒していたが
南部藩は警戒していなかったと思う。
931日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:47:32.53
>>926
義光の孫の義俊は南部から嫁迎えてるけど
最上家としては同族の高水寺斯波氏滅ぼした南部に対して含むところ無かったのかな?
932日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:00:50.72
い、おい、実弾はいらねえから。」
佐竹義宣「・・・」
義道「上杉と山形を南北から挟み撃ちだー!」
義光「チキショー、秋田は小野寺とグルだな!」
実季「おいおい、なに言ってんだよ!」
為信「いざとなったら石田の子孫はこの津軽に・・」!
義光「こうなったら南部に援軍を頼むしかない!」
利直「広長!最上を助けに行くぞ!花巻は信愛に、遠野には広勝にまかせるのぢゃ!(キラッ)」
933日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:02:57.58
すまん、上飛んだ。
934日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:08:28.80
つまり、関ヶ原のとき、政宗に例によって例のごとく、
小野寺はマジ裏切り、秋田は義光が勝手に裏切りと勘違い、
津軽は石田のポンユー、 佐竹はマジ日和見という中で、
家忠は反転という中で、
最上が本当に期待できたのは南部だけであった。
935日本@名無史さん:2014/05/08(木) 23:07:35.25
っていうか正宗もあんな悪戯してお咎めなしってのが凄いわ。
最上にしてみれば南部勢5000が引き上げたために
2倍程度の戦力差が一気に3倍近くまで開いたってのに・・・
仮に最上が早々に降伏したり、敗北してたら上杉勢が
関東に乱入して家康も関ヶ原どころじゃなかっただろうに
936日本@名無史さん:2014/05/09(金) 09:40:56.50
いやでも百万石の約束が62万石に・・。

しかしその後、最上が秋田以下の石高になってるのも皮肉だが。
937日本@名無史さん:2014/05/09(金) 17:02:11.15
>>935
鶺鴒の目に穴が、って部分で一本とられた感じじゃないかな?
一休さんのとんちみたいで、それに免じて改易のところを
先祖伝来の土地と引き換えに、戦乱で荒れた葛西と大崎の
旧領を与えるってことで収めてやったと。

結果的に肥沃な土地になったとはいえ、自分が利用した
葛西と大崎の旧領与えるのも、意地が悪い処置とも思える。
938日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:01:02.62
>>937
>鶺鴒の目に穴が、って部分で一本とられた感じじゃないかな?
秀吉は面白がってくれるが家康はそうはいかない。
>>935は関ヶ原の時の話だろう。
939日本@名無史さん:2014/05/09(金) 22:22:24.13
>>938
検索してみたら、関が原のときに今度は陰で南部に手を出していたのか。
つくづく懲りない人だなぁ。
普通に振舞っていたらもっと領地が増えたと思うんだが。
一か八かのギャンブラーみたいだな。
そして掛けた目が裏目に出ると。
940日本@名無史さん:2014/05/10(土) 06:15:16.37
>>939

> そして掛けた目が裏目に出ると。

裏目に出ても改易されないのだから、やっぱり勝ち組なんだろうな。
941日本@名無史さん:2014/05/10(土) 13:40:13.91
関ヶ原の後も政宗は遠野をあきらめていない。

阿曽沼広長は遠野城奪回と妻子の仇を討つため、気仙郡内の領主の支援を呼び掛けた。
それに葛西氏の残党が応えたことで、阿曽沼一党と南部氏の間で戦端が開かれた。
 阿曽沼勢は、浜田喜六を先鋒に進撃したが、鱒沢が気仙郡平田に逆襲して双方激戦となり、浜田喜六・鱒沢広勝のいずれも戦死して引き分けとなった。
その後、阿曽沼方は篠木丹後・横田大学・及川土佐・只野民部らが遠野城を攻めたが、広勝の子忠右衛門が堅守した。ついで冬の積雪のなかを、阿曽沼勢は出陣したが、南部氏の平清水駿河らが守備を固くしていて、及川土佐・只野民部らが戦死した。
ここに至って阿曽沼広長の遠野奪回の企ては挫折し、文治五年、源頼朝から閉伊郡を賜って以来、四百年続いた阿曽沼氏は没落した。広長は悲憤のうちに世田米で生涯を終え、阿曽沼氏の嫡流は断絶した。
942日本@名無史さん:2014/05/10(土) 22:19:45.45
シスコンの義光が速攻で家康に報告してることから
よほど頭に来たことが伺える。
可愛い妹の息子とはいえ怒髪冠を衝くくらいムカついたのかもしれん
943日本@名無史さん:2014/05/15(木) 01:07:22.55
>>918
護国寺南部墓所は明治以降のものです。
944日本@名無史さん:2014/05/15(木) 01:12:10.13
南部藩の石高が実高以上にあったなら蝦夷地警衛など行かずともよかったろうに。
945日本@名無史さん:2014/05/15(木) 01:17:47.49
明治以降も昭和大恐慌で家産倒産するまでは盛岡南部氏は日本でも有数のお金持ち。
946日本@名無史さん:2014/05/17(土) 02:00:47.55
黒田官兵衛のお椀兜の実物は南部家に伝わって盛岡にあるんだよ。
947日本@名無史さん
>>944
南部藩は特産が多いこともあって
開墾にはそれほど力を入れてなかったからなあ。
十和田開拓とか幕末になってからだし