茨城県牛久市久野町鹿島山 鹿島神社
茨城県取手市椚木鹿島前
茨城県かすみがうら市下土田鹿島明神 鹿島神社
茨城県下妻市見田鹿島 鹿島神社
茨城県鹿嶋市宮中鹿島山 鹿島神宮
茨城県稲敷市須賀津鹿島 鹿島神社
茨城県土浦市飯田鹿島
茨城県つくばみらい市福岡鹿島東 鹿島神社
茨城県つくば市君島鹿島 鹿島神社
茨城県常総市鴻野山鹿島窪
茨城県北茨城市磯原町豊田 鹿島 鹿島神社
◆日本海側
島根県浜田市三隅町湊浦鹿島
島根県出雲市大社町日御碕かじま
島根県松江市嫁島町嫁ヶ島
兵庫県豊岡市竹野町竹野賀島山
京都府京丹後市大宮町周枳鹿島田
石川県加賀市塩屋町鹿島の森
石川県白山市鹿島町 鹿島神社
石川県羽咋市鹿島路町鹿島路
石川県鹿島郡中能登町鹿島
石川県七尾市香嶋津
石川県鳳珠郡穴水町鹿島
富山県富山市鹿島町 鹿島神社
富山県下新川郡朝日町宮崎鹿島樹叢 鹿島神社
長野県大町市鹿島槍ヶ岳
長野県大町市平鹿島
新潟県柏崎市北条鹿島
福島県会津若松市大戸町小谷鹿島前
http://bunkasi.com/?page_id=65
>>195 スレタイ海人族
>>1の意味を、誤認しておられるのでは?彼らは、
漁民であるだけでなく海上交通・交易、更には水軍活動も担っていた。
海洋民
>>79>>70と表記するのが適切な存在。
だから陸の民の対馬海峡
>>195縦断輸送はむろん、政権と半島・大陸諸国との
交易・外交にも従事。この分野に従事していたから、記紀に登場しておるわけだ。
200 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 11:00:30.66
日本の支配者階級の文化といえばお歯黒
海人もお歯黒はしていたんだろうか?
201 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 12:15:34.06
お歯黒は朝鮮伝来だが
いつの時代の朝鮮のどこから伝わったの?
キチガイと白痴も朝鮮伝来だな
>>201 お歯黒も海外から伝来したものには違いないが南方系の習俗だぞ。
百済に黒歯氏ってのがあるからウリナラ起源ニダ、かw
>>196 茨城の鹿島は当て字だけど、志賀島の語源が鹿島ってのはありうるんじゃないか?
魏志倭人伝には黒歯国が東南の海中に有りと書いてある
黒歯氏も日本経由で半島に渡ったんでね?
卑弥呼も神武も安曇族とした場合、さらに徐福も日本に来たとした場合
時系列からするに先に徐福は静岡、愛知の辺りを統治していて
ならば、九州勢の邪馬台国は徐福の後継?
207 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 16:15:13.82
なぜ大伴氏の話題が・・・
軍事貴族で朝廷から軍を編成するのが任務の一族だろうが
>卑弥呼も神武も安曇族とした場合、さらに徐福も日本に来たとした場合
なんの論証もなくそんな突拍子もない前提ダブルで話すすめて
しかも結論も自前で用意w そんな独り言されてもなw
>>194 え?何のためのって、初期の弥生遺跡って海とか川とか湖の近くばかりじゃん。
今の地図では内陸になってるけど、当時なら。
稲作もしてるけど、漁労もし、もちろん狩猟もどんぐりも。
そんで交易もしてる海人。
>>209 >弥生遺跡って海とか川とか湖の近くばかり・・・・・・・・・・・・・・・・
例えば島根県荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、福岡県板付遺跡、岡本遺跡
これらのどれが、海べり・川べり、湖べり立地だというのかね?
これらのどれから漁撈用具が出土したというのかね?
コナラの実の通称どんぐりは落葉樹だが、弥生先進地の北部九州に
落葉樹林帯が当時あったというのかね?
>>210 「初期の」を意図的に無視してバカみたい
>>211 例示した遺跡は、弥生時代でも初期の遺跡なんだがねえ。
>>212 へえ弥生前期に青銅器が全盛だったのかw
>>204 鹿島「カ・シマ」の「シマ」はヤクザのシマと同義なのだろうが、
「カ」ってどういう語義なのだろう?志賀の「カ」と類縁なのか?
>>212 すまんが、弥生初期って加茂岩倉が入るのか?
オレは突帯文土器様式〜遠賀川式土器の時代だと思ってたよ。
妻木晩田遺跡も素晴らしいが、初期なんていう専門家がいたかなあ。
>>210 どんぐりは落葉樹ばかりではない。
西日本の神社近辺の照葉樹のどんぐりはここ数年大豊作だ。
>>179 >久米と大伴は同族でしょ・・・・・・・・・・・・・・・・・
同族もなにもサヌ(後の神武)一行の親衛隊久米族の族長大久米命こと
天櫛津が、大伴氏の始祖だろう。
天皇家の近臣(伴)中の最有力者だから、「大伴」。だからこそ家持が、
> 「大伴の 遠つ神祖の その名をば
> 大久米主(おおくめぬし)と・・・・・・・・・・・・・・・
と、一族に向けて言上げした。
記では、大久米命と大伴氏の始祖天忍日と両人が登場するが、
これは記編纂時の大伴氏の地位の反映だろう。野卑な久米唄を
持つ久米氏とは別系統にさせたのだろう。
神武東征
http://ku1924.obunko.com/souran-0010.htm
219 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 06:01:53.05
五島について肥前国風土記曰く、
「値嘉島の白水郎は馬・牛に富めり。此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、 恆に騎射(つねにうまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。」
三国志中の州胡は、済州島のこととされるけど、
五島列島のことを指している可能性はあるのかな?
当邑(木坂村) 産に臨んで 俄に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上りと曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也
『対馬紀事』(1809)
江戸時代にも、神話みたいな風習が残っていたんだな。
〔だだが鼻〕
男が訪れてきた見知らぬ女を妻にむかえた。女は、出産のとき決して産屋をのぞかぬようにと男に頼んだ。
だが約束を破って産屋をのぞいたところ、大蛇が子を産んでいた。
女は、見られてしまってはもう一緒には暮らせないと去っていったが「もし子供が泣いたら岬へ出てわたしを呼んでください。」と言った。
男が、子供をだいてだだを踏むと、女は男木島から帰ってきて乳を飲ませたという。
大蛇は男木島の玉姫神社におまつりされ、安産の神様になっている。
『新編 香川叢書 民俗篇』
これも日向神話が民間で蛇女房の話に変わった例として面白い。
『ムラユ王統記』@
マケドニアのアレクサンダー大王は、東方に遠征し、インドの王ラジャ・キダ・ヒンディと戦い、これを制した。
大王はラジャ・キダ・ヒンディの娘と結婚し、息子をもうけた。
大王はその後、マケドニアに帰還したが、その子孫は、インドに残った。
その子孫の一人、ラジャ・チュランは全インドを支配下におさめ、中国を征服するために遠征に出かけた。
シンガポールまで進軍したラジャ・チュランは、遠征を阻止しようとした中国の船乗りに、中国はまだ遠いことを聞かされた。
王は中国遠征を止め、その代わりにガラス箱に入って、海に潜った。
海の底には海中の王国があり、王は海の王と出会った。
ラジャ・チュランは、自分が地上の王であることを告げると、海の王に迎え入れられその娘と結婚することとなった。
それにより、三人の息子をもうけた。
ラジャ・チュランは、息子たちが成人したら地上へ送ることを頼み、インドに帰って行った。
『ムラユ王統記』A
成人したラジャ・チュランの息子たちはパレンバンのブキット・シグンタンに降臨した。
三人が降臨したとき、その丘の頂上は黄金となり、稲穂は金粒となり、稲の葉は銀、茎は金銅となった。
パレンバンの首長ドゥマン・レバル・ダウンはアレクサンダー大王の子孫と称する三人を迎えいれた、
やがて、うわさを聞き付けた周辺各地から、人々が三人に表敬訪問に訪れた。
これにこたえて、長男はミナンカバウの王に、次男はタンジュプラの王に、三男はパレンバンの王となった。
三男はスリ・トリ・ブアナ(三界(水界・地上界・天界)の王)と名乗り始めた。
スリ・トリ・ブアナは海辺に町を作りたいと考え、レバル・ダウンと一緒にビンタン島に赴いた。
ビンタン島の女王は、ブギット・シグンタンに降臨したスリ・トリ・ブアナを遇し、彼を養子として迎えいれた。
スリ・トリ・ブアナはビンタン島の女王の支援を得て、シンガポールへ至ろうとした。
海は嵐が起きて荒れていたが、海の王の子孫であるスリ・トリブアナは荒ぶる海を静め、シンガポールに上陸した後、町をつくった。
このスリ・トリ・ブアナのひ孫がマラッカに移り、建国したのがマラッカ王国である。
マラッカ王国の神話って、日向神話と構造が似てる気がしたので、書き起こした。
・絶対的な王者 アレキサンダーの子孫-天孫
・海底の海の王の娘と結婚
・三界の王
・降臨地と建国地は異なる
・ひ孫が建国
>>32 信濃國更級郡の論社氷金+色斗賣神社の主祭神「宇都志日金拆命」(うつし
ヒガナサクのみこと)は穂高見命の別名、社名「氷銫斗賣」(ヒガノトメ)は
穂高見命の妃か妹説があるから、安曇族は中信の安曇郡だけでなく北信の
更級郡にも植民したということか?
>>30 「和名抄」には、以下の沿海諸国の「アマ」地名が、
収載されております。
豊後國海部郡
安芸國佐伯郡海郷、安芸郡安満郷
土佐國高岡郡海部郷
阿波國那珂郡海部郷
淡路國三原郡阿萬郷
紀伊國海部郡
伊賀國河曲郡海部郷
尾張國海部郡
武蔵國多摩郡海田郷
上総國市原郡海部郷
肥後國天草郡天草郷
筑前國 土郡海部郷、那珂郡海部郷、宗像郡海部郷
隠岐國海部郷
伯耆國合見郡天萬郷
丹後國熊野郡海部郷、加佐郡凡海郷
越前國坂井郡海部郷
信濃國小県郡海部郷
>>98 >「瀬戸内海文化の系譜」・・・・・・・・・・
宮本常一の1977.5愛媛大での民族学会講演だね。
第1系統は、長く定住せず「波市性移動」していた北部九州から来た
宗像・宗方・宗形神社を祀る人々。
第2系統は、南方から北上してきた大山祇を祀る人々。瀬戸内海から
さらに東進し、伊豆三宅島、伊豆三島にも足跡を残し、三島大社、
浅間神社を遺した。
第3系統は、古くからの半農半漁定住民で遠浅磯での貝漁が得意で
住吉神を祀る人々。
という分類を氏はされたが、第3系統も大昔に当地に移住してきたはずで、
住吉神を祀るということは、やはり北部九州出身になるのか?
有名な因島の家船居住民は、第1・第2どちらの系統なのか?
>>222 >海部氏・尾張氏同様に天火明命を祖とする伊勢神官家度会氏も、海人族と
いうことか。
おいおい宝賀寿男の妄想を垂れ流さないでくれ。
度会氏の先祖は、太田亮説の通り伊勢国造としていい。尾張氏とは全然別系統。
伊勢国風土記逸文にある通り、神日本磐余彦天皇(諡神武)の東征で、
天日別命は天皇の命令で伊勢を平定して国造になった。
ここから鈴木真年は、東征の経路を、伊勢から大和に侵攻したと考えた。これは卓見だ。
皇軍が生駒山で負けた時、天皇が日を背にして戦おうと言った事と附合するし、
久米歌に、神風の伊勢の海の… と歌われた事が説明出来る。
また度会氏系図で祖神の中に天曾己多智命がいるが、
これを天底立命と見て、度会氏の発祥地は阿波と考えた。これも鋭い。
勝浦などの地名は、阿波から熊野、そして安房へと移っていったのではないだろうか。
渡会氏自体は海人族的な色彩は強い。
太田亮博士によれば、海人を支配する部は、西日本は海部が多く、
東日本は磯部が多い。磯部は伊勢氏の部民だという。
伊勢氏の主張によれば、天日別命は日臣命に並ぶ将軍だったとあるが、
実際は阿曇氏に対抗する有力な海人族だったと見ていい。
宝賀寿男は鈴木真年を尊敬するとか言ってるが、
鈴木真年説の最良の部分は全く継承してない。
なお東征軍の有力者に日が付く人名が多い。
上の2人の他にも、建日別、天日鷲翔矢、天日方奇日方がいる。
最後の最後に皇軍に寝返った饒速日もいる。
阿曇氏も宇都志日金析だ。これは偶然ではなかろう。
全部ではないだろうが、神日本磐余彦天皇(諡神武)が与えた名ではないだろうか。
天皇は日に対して思い入れの強い人だったようだ。
ただ宇都志日金析や饒速日は天皇より1世代上の人だから、
これらは元々の名前かもしれない。
おっと、宇都志日金拆が正しい表記だった。
>>230 「神風の伊勢の海の大石にやい這い廻る細螺の・・・・・・」と歌い細螺に
親近し、「鴫は障らず いすくはし鯨障る・・・・・」とも歌う久米族も、
九州のどこかの漁撈民でよいのかな?
>>231 穂高見命こと宇都志日金拆(うつしひかなさく)命の「ひかなさく」とは、
いかなる意味なのか?
信濃国更級郡の氷銫斗賣(ひかなとめ)神社と何か因縁があるのか?
「うつし」は形容詞で、「正気だ」「意識が確かだ」という意味。
現代語だと「うつつ」などと同じ語幹。
たけし、いきし、にぎし、など人名に形容詞が付くものの1つ。
日金は金属の一種(青銅とか)かもしれないが何とも言えない。
銅矛と関係があるかもしれない。
「さく」は「咲く」か。万葉集で波頭が砕ける光景を咲くと表現した例あり。
氷銫斗賣神社は日金拆の名からだろうが、
戦後史学では氷銫斗賣や佐久郡の地名から日金拆という神名を作ったなどと言われたりする。
久米歌は、熊襲や球磨川と関係があるとすると、元々は山岳民ですね。
東征の途中で作った歌というのが本当だったら、内容はおかしくないけれど。
>>234 >東征の途中で作った歌・・・・・・・・・・・・
山岳民なら岩を這い回る巻貝を見ても、浅海に棲息する「細螺」と特定せず、
単に「貝」と呼ぶのでは?
後日、神武が大和で迎えた正妻が族長大久米命の刺青入り眼を見て
異風と驚いたという記事からしても、久米族は倭人伝の記す魔除け
刺青風習のある海人族では?
球磨川の下流域まで支配してたら海人族も含んでいたかもしれませんね。
>>232 九州で「久米」地名があるのは以下だが、鯨が障るような沿海地は
糸島郡志摩町と沖縄県の2か所。神武東上に参加した久米族の在所は、
志摩町久米だったのか?
福岡県糸島郡志摩町久米
佐賀県小城郡三日月町久米
熊本県菊池市泗水町豊水久米
熊本県球磨郡多良木町久米
宮崎県西都市藤田久米田
沖縄県島尻郡久米島町
238 :
日本@名無史さん:2014/12/13(土) 09:31:31.90
大久米命が刺青をしていたことが古事記に載ってるけど、
魏志倭人伝の倭人の特徴は、久米氏をみて書いたのかもね
ハヤトだろ大和朝廷も遅い時代迄野放しで異民族土人を畿内呼ぶ事もないだろ
魏志倭人伝の時代にハヤトとかw
前方後円墳だろう。那珂八幡古墳を見ろ。
>>243 日本海側に連綿と所在する下示「青」地名は、海人族が対馬海流に
乗って移動した居留・居住地らしい。
長崎県対馬市青海
長崎県壱岐市の青島
長崎県松浦市の青島
山口県下関市粟野
山口県長門市青海島の青海
山口県萩市青長谷、萩市青海
島根県隠岐の島町の青島崎、海士町青谷
島根県浜田市青浦
島根県浜田市の青川
島根県江津市青山、江津市青波
島根県出雲市青野
島根県松江市の青島と青木島
鳥取県米子市粟島と粟島神社
鳥取県琴浦町粟子
鳥取県鳥取市青谷、鳥取市の青島
京都府伊根町の青島
京都府舞鶴市青井
福井県高浜町の青葉山、青戸入り江、青郷
>>244 同じく日本海側に連綿と所在する下示「海部」地名との違いは、何か?
海人族の部族が違うのか?
福岡県糸島郡 元 筑前国伊都郡海部郷
福岡県福岡市博多区 元 筑前国那珂郡海部郷
福岡県宗像市 元 筑前国宗像郡海部郷
島根県隠岐郡海士町(あまちょう)元 隠岐国海部郡海部郷
兵庫県美方郡香美町香住区余部 元 但馬国城崎郡餘部郷
京都府京丹後市久美浜町海士 元 丹後国熊野郡海部郷
京都府舞鶴市 元 丹後国加佐郡凡海(おおしあま)郷
福井県三方上中郡若狭町海士坂(あまさか)
福井県福井市尼ケ谷町 元 越前国丹生郡尼ヶ谷村
福井県福井市白方町 元 越前国坂井郡海部郷
石川県加賀市美岬町尼ゴジ
石川県羽咋郡志賀町海士岬(あまさき)
石川県輪島市海士町(あままち)
富山県高岡市太田雨晴(あまはらし)
>>244 日本海沿海には、おう・おお・あお・あわ地名が、以下例にみられる。
福井県大飯郡阿遠郷 青海(おうみ)神社
福井県旧敦賀郡粟野(あわの)村
福井県福井市大味浦
福井県あわら市 芦原(あわら)温泉
石川県小松市粟津(あわづ)町
石川県能美市粟生 (あお)町
石川県河北郡内灘町向粟ヶ崎(あわがさき)
石川県羽咋郡大海(おうみ)郷
石川県羽咋市粟生 (あお)町 羽咋郡粟ノ保(あわのほ)村 羽咋市粟原(あわら)町
石川県輪島市町野町粟蔵(あわぐら)
富山県旧氷見郡阿尾 (あお)村
新潟県旧西頸城郡青海(おうみ)町大字青海
新潟県旧西頸城郡青海(おうみ)町大沢(おおさわ) 青澤(おおさわ)神社