その時はその時じゃないの?
>>134 年号がつく寺の発願者が天皇とは限らない
天皇関係なしに大学名でも年号を大学名にしているところはある
慶応義塾大学=慶応3年慶応義塾となる(前身塾は10年前からあったが、この年に慶応義塾と改めた)
明治大学=明治14年創業
昭和大学=昭和3年創業
寛永寺は徳川家光が発願だしな。
138 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 14:51:15.60
>>89 八条院は美福門院の皇女たちの中でも別格
特に鳥羽院から愛され「朝に夕に」可愛がられていたらしい
鳥羽院と美福門院の荘園はほぼこの八条院一人が相続したことからも
その寵愛の深さが伺える
上西門院は鳥羽院存命中に准三后に叙せられて賀茂斎院も勤め、
鳥羽院から冷遇はされてなかったが特別な寵愛を受けていたわけでもない感じ。
同母弟の後白河とは賀茂斎院になっていた時期を除けばほとんど生涯を通して同居
(後白河が即位したときにも准母として皇后となり一緒に内裏に住んでいる)
特に仲が良かったけど
139 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 12:36:38.73
数ヶ月書き込みがなかったのでアゲ
140 :
忍法帖【Lv=39,xxxPT】(1+0:5) :2013/02/17(日) 17:45:30.07
賀正
ほしゅ
場当たり狐
143 :
日本@名無史さん:2013/08/14(水) NY:AN:NY.AN
>
>>111 でも八条院は以仁王を養子にしてたから、そこで結構もめている。
以仁王が反乱で死んだ後も、やっぱり養女にしていた以仁王の娘を内親王に
してくれとか無理言ってるし。(結局九条兼実に却下されたらしいが)
ちなみに上西門院とその姉の禧子内親王は、どちらも待賢門院の娘だけに
大変な美人姉妹だったとか。
特に長女の禧子内親王は鳥羽天皇も溺愛していたが、12歳で病死した。
美福門院が鳥羽院後宮に入ったのはその後のことらしい。
145 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 23:40:09.81
>>144 12歳で大変な美人、ってのもなあ……。
現代の感覚で考えるから違和感あるだけかな?
146 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 06:29:12.90
>>145 >
>>144 > 12歳で大変な美人
まいんちゃんみたいなものと考えればいいのではないか?
147 :
河野淳:2013/09/03(火) 14:46:33.31
>
>>144 以仁王は八条院の養子ではなく「猶子(遺産相続権のない義親子関係)」
上西門院と禧子内親王が美人って何の史料にあった?
待賢門院も男好きな感じのする色っぽい女性だったとは思うが
同時代史料に美人だとは書いてないような。
>>148 幼少時の上西門院を見た貴族の日記に書いてある。
>>149 『長秋記』で前斎院(上西門院8歳)について「端正美麗非所眼及」と書いてるね。
さらに一品宮(禧子内親王12歳)はそれ以上の美形だそうな。
ただし気の毒に、一品宮はそれからすぐ病気で亡くなってしまった。
御簾越しにしか見れないのに、何で美人で有名になれるんだ…
家族ぐらいしか、かおみたことないんだろ。
>>144 >>148 まだ、平安時代は猶子と養子の相違はかなりいい加減。
むしろ、以仁王以上に忘れてはならないのは、八条院は二条天皇の准母として女院になった事実。
最近出た栗山圭子女史の本だと、
後白河が上西門院を自分の准母&未婚の皇后にして更に女院にしたのは、美福門院―ワ子内親王―二条天皇を正統化しようとする動きに反発したことによるもので、
二条がワ子内親王を女院にしたのは美福門院没後に准母である彼女を盛り立てて自己の後ろ盾にすることで後白河と対抗しようとしたからだと解説している。
>>151 漢文日記でわかりにくいんだが、待賢門院が筆者(源師時)をわざわざ
御簾の内に招き入れて姉妹を見せたということみたい。
禧子内親王は既にかなり病が重く、病状を見てほしかったらしい。
>>152 上西門院の場合、1歳しか違わない上にとっくに成人済の弟の准母って
さすがにちょっと強引だからなあ。
まあそれを言えば、そもそも最初の郁芳門院の例自体が相当無茶なんだが。
院政期の准母立后や不婚内親王は、最近色んな論文があって面白い。
>>152 上西門院は後白河と大変仲の良い姉弟だったから
(賀茂斎院に任じられていた時期を除いてほぼ生涯同居している)
皇后や女院にすることによって御封も増えるし天皇の准母となれば格も上がる
後白河が大好きな姉のためにやった面が大きかったと思うよ
二条天皇の母親は後白河の親王時代の妃で死後贈皇后されたとはいえ
正式な中宮でなければ女院でもない(後白河の中宮は藤原欣子)
二条天皇自身、帝位を安泰なものとするには女院である八条院を准母とする必要があったと言える
一方、後白河は中宮腹の皇子で母親は待賢門院、特に准母をたてなくても身分血筋に問題は何もなく
特にワ子内親王に張り合う必要は何もない
それに八条院准母の件は美福門院の入れ知恵もあっただろう
二条天皇自身は八条院の実妹いも子内親王を中宮に立てていたにもかかわらず
近衛天皇后藤原多子を後宮に入れて后2人とし美福門院といも子内親王を怒らせいも子内親王は出家
当然八条院もこの処置に怒ったとみられ二条天皇はそこまで美福門院一派を大事にしてなかったからね
155 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 21:40:20.75
賀正
156 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 10:50:58.72
梁塵秘抄は後白河。白河ではない。
ここが入試のポイントだよ
157 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 16:36:28.06
♡
☆
160 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 15:40:21.17
後白河を「暗愚である」と痛烈に批判していた上級公家は九条兼実」だっけ?
で、「後白河には美点が2つだけある。記憶力が非常にすぐれていることである」
と言っているが、もうひとつの美点はなんだっけ?
161 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 03:55:34.41
ぶつぶつ、つぶやきながら、きれいに拾い終わって、定家らにローソクと線香を立てて、
藤原頼長の墓を掃除しました。
頼長様が話してきました。
「ありがとう。面白いことを教えてやろう。後白河天皇は隠し子だ。」
え?そうなんですか?
「けっこう、隠し子ですげかえる。」
書物にはいいことしか、書きませんからね。
そうだとしたら……。
>>160 仏教への傾倒を梁の武帝に擬えて皮肉ってたような
まあ色々軋轢あったからな
163 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 18:07:46.00
保守も兼ねて
>>154 >二条天皇自身は八条院の実妹いも子内親王を中宮に立てていたにもかかわらず
>近衛天皇后藤原多子を後宮に入れて后2人とし美福門院といも子内親王を怒らせいも子内親王は出家
>当然八条院もこの処置に怒ったとみられ二条天皇はそこまで美福門院一派を大事にしてなかったからね
近衛天皇(母親は言わずもがなの美福門院)の皇后だった多子を後宮に入れたのは、
「鳥羽院-近衛天皇ラインこそ正嫡」とい二条天皇の意識の反映でもあっただろうから、
決して美福門院一派を軽視している訳ではないかなぁと個人的には思う。
164 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 18:10:00.28
165 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 18:22:58.81
>>163 自分の娘が中宮に立ってる二条天皇のところへ
皇太后が入内してきて二后並立になったら普通に怒るでしょw
それに美福門院が近衛天皇の後宮で支援していたのは
関白藤原忠通の養女中宮呈子
内覧藤原頼長の養女皇后多子は当時から美福門院と
対立関係にあった
(多子は途中で里に帰り、養父藤原頼長は保元の乱で敗れて
流れ矢に当たって死んでいる)
166 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 18:29:18.25
>>165 確かにそうだねぇ。
ということは、二条天皇は鳥羽院−近衛天皇の正嫡ラインをアピールしつつ、
それと同時に美福門院一派からの自立も画策していたってことかね?
167 :
日本@名無史さん:2014/11/25(火) 19:36:43.25
>>166 平治の乱に勝利した二条天皇は自信を深め
後白河院政や美福門院による女院政を否定して天皇親政を行おうとした。
これを後押ししていたのが二条天皇の伯父の大炊御門経宗や側近の葉室惟方らだった。
しかし姝子内親王が出家して二条天皇の後宮を去り、美福門院も死去すると周辺が心もとなくなり
后の座に藤原多子がいるにもかかわらず関白藤原忠通の娘育子を入内・立后させている(再び二后並立)。
二条天皇は平清盛の正室平時子を従三位典侍に任じて側近女官とし清盛の武力を自分につなぎとめようとしていたが
二条天皇の存命中に平清盛は後白河法皇に蓮華王院を献上するなど次第に二条天皇から離れ始め
二条天皇の死をもって後白河が復権する温床になっている。
平治の乱の後に、権大納言の徳大寺公能が藤原重通・藤原宗能(両名とも中御門流)を超えて
いきなり右大臣になってるのがよく分からない。公能は忻子(後白河中宮)と多子の父だけど
美福門院に近い中御門流が割を食ってるから、後白河による引き立てと見るのが妥当かな?
左大臣の藤原伊通(中御門流)も、同時期に名誉職の太政大臣に棚上げされてる。
169 :
日本@名無史さん:2014/12/03(水) 19:00:19.40
>>168 平治の乱の翌月に二条天皇は多子を後宮に入れているから
その実父徳大寺公能を右大臣登用したのは二条天皇だろう
(多子の二条入内が1160年正月、公能右大臣昇進が1160年7月)
伊通の代わりに左大臣となった関白近衛基実は二条天皇の中宮となる育子の兄だし
二条天皇に近い立場にあったとみられる
>>169 うーん、藤原経宗・惟方が配流されて親政派が弱体化してる時期なんだよね。
二条天皇が政治の主導権を握るのは、この翌年に院近臣を解官してからだから
この時期の人事は、後白河の意向を二条が受け入れたような感じがする。
閑院流は待賢門院の実家で、後白河にとっては身内だし。
171 :
日本@名無史さん:2014/12/05(金) 14:57:08.50
>>170 徳大寺公能は後白河のいとこの一人とはいえあまり後白河に近くない
後白河が公能に近いなら後白河は中宮忻子をもっと珍重しただろうが
忻子は里にあることが多くずっと後白河と不和だった
もともと後白河は二条天皇を推す美福門院にわずか2年で退位させられたこともあり
二条天皇とはあまり仲が良くない
後白河排斥と二条天皇親政を狙う経宗・惟方が配流されていた時期ではあるが
二条天皇が後白河院政下に組み敷かれていたわけでもない
後白河が不和な皇后忻子の父を優遇したというよりも
二条が二代の后の批判を恐れずに再入内させた多子の父を優遇したとみるべきだろう
もともと二条天皇が公能を味方に引き入れるための政略結婚だったともいわれている
多子の再入内と共に姝子内親王が遠ざけられ、中御門流が冷遇されてるのを
見ると、平治の乱で権威が傷つけられた二条天皇は美福門院の影響下から
抜け出して、新しい支持勢力を構築しようという思惑でもあったのかな。
最初は閑院流だったけど公能が急逝してしまい、育子を入内させて
摂関家を頼ることにした。
でも、後白河と閑院流って疎遠かな?後白河の妃って成子(季成の娘)、
忻子(公能の娘)、j子(公教の子)と閑院流ばかりじゃん。
惇子内親王の母(忻子・多子の姉妹)もいるし、公能にしてみれば
後白河の皇子誕生も期待してたんじゃないかと思う。
>>172 この時代は母系相続で親王は母方一族が養育するから
幼少期から後白河の傍に侍る女房達も多くは母方一門の女で
その中から後白河のお手付きになった者もいるのだろう
しかし後白河は外戚の思惑をよそに中宮忻子、女御j子とは別居状態
外戚一門ではない平滋子を寵愛しその子を即位させる横暴ぶり
晩年の寵妃丹後局も高階氏であって外戚一門ではない
成子は閑院流出身で唯一後白河の男子を産んだ女だったが
後白河は成子の2人の男子をいずれも寺に入れて出家させ成子を女御にもしなかった
(成子の2人の男子のうちの一人が勝手に還俗し令旨をばらまいた以仁王。
木曽義仲が以仁王の王子の即位を後白河に要求したが後白河は却下した)
>>172 そういえば女朱子って上西門院に近かったという説があるね。
もう一つ気になるのが美福門院薨去の後
出家済なのに八条院が「天皇の母代り」という立場で立后を経ずに女院号宣下を受けている。
このあたりはどういう事情があるんだろうか?
>>174 172ではないが…
女朱子内親王は後鳥羽院存命中に上西門院の猶子になっている
美福門院唯一の男子近衛天皇の早世で待賢門院系に皇統が移ることが避けられない中
美福門院系と待賢門院系の融合のためであるらしい
八条院は後鳥羽院と美福門院から莫大な荘園を受け継いだ大富豪であり
また本人は生涯未婚であるためにその荘園の行方は当時の人たちの関心事で
後白河なども親しくこの異母妹の御所に出かけて親交している
即位の可能性すらあったあき子内親王を准母として味方に取り込むことは
うまくいけば八条女院領を二条系の相続とすることもでき
二条天皇にとって大きな意義があったとみられる
176 :
日本@名無史さん:2014/12/22(月) 17:08:04.42
177 :
日本@名無史さん:2014/12/22(月) 17:09:09.62
>八条院は後鳥羽院と美福門院から莫大な荘園を受け継いだ
鳥忠@でない?
姝子内親王が上西門院の猶子になったのは、待賢門院の所領を姝子が相続し
いずれは夫である二条天皇に引き継がせるという計算もあったのかな。
八条院領も二条天皇に譲られたら、待賢門院と美福門院に分割されていた
荘園を一つにまとめることができる。
でも二条天皇の早逝で予定通りに事は進まず、待賢門院系(長講堂領)と
美福門院系(八条院領)の分裂が固定化し、持明院統と大覚寺統の対立に
つながっていった。
179 :
日本@名無史さん:2015/02/18(水) 16:04:08.11
>>178 鳥羽院が亡くなった時、遺領は鳥羽殿で同居していた美福門院や八条院には分配され
鳥羽院領と美福門領の双方を八条院が相続して八条女院領となったが
別居の身だった待賢門院には分配されなかったので待賢門院領というのは規模が小さい
しかも待賢門院が晩年に創建した法金剛院に寄進していたはず
長講堂領は待賢門院領が前身になっているのではなく
後白河法皇領が前身になっている
これは後白河法皇自身が保元の乱に勝利した時に
藤原頼長の没官領を手に入れて形成されたもの
後白河法皇の死後はその皇女・宣陽門院に譲られている
待賢門院領荘園は白河院政期から形成されているから、
相当な規模だったんじゃないかな?法金剛院領はその中でも
最大のもので、娘の上西門院が引き継いだ。
建長4年(1252年)に宣陽門院領が後深草天皇に伝領された際に
宣陽門領の一部である旧上西門院領が鷹司院に譲られているけど
これが、かつての待賢門院領だろう。
昇子内親王(春華門院)は八条院の猶子となって八条院領を
譲られているから、猶子関係は所領の伝領を目的に設定された面が
強いと思う。長講堂領は待賢門院が設定したものではないけど
後白河院は待賢門院の所生で、上西門院領とセットで宣陽門院に
伝領されているから、ルーツを辿れば待賢門院系に分類できると思う。
181 :
日本@名無史さん:2015/02/26(木) 19:02:50.28
>>180 待賢門院は白河天皇の即位を見ることなく没しているため
白河院政期に待賢門院領が形成されたというのは誤り
待賢門院の幾ばくかの荘園は法金剛院に寄進され
法金剛院を相続した娘の上西門院領の一部となった
上西門院没後はその同母弟後白河法皇が相続
後白河の広大な荘園群・長講堂領と共に宣陽門院に譲られた
ただ上西門院領と長講堂領は明確に区別されている
関白近衛家実は未婚の宣陽門院が所有する広大な長講堂領に目をつけ
これを摂関家が相続しようと娘の近衛長子を宣陽門院の猶子とした
宣陽門院が没するとき猶子の近衛長子が相続しようとしたところ
もともと後白河法皇が形成したものであるから皇室に返上するよう後嵯峨上皇から横やりが入った
結局、長講堂領は宣陽門院死後、後深草上皇が相続し、
近衛長子は上西門院領を相続できたのみだった
>>181 内容の妥当性はわからんけど、180にあるのは「後白河」
ではなく「白河院政」だよね?
>>182 そう。荘園公領制の確立は鳥羽院政期からと言われているけど、
大治3年(1128年)に円勝寺領質侶牧の立券を待賢門院が命じた
文書があり(『平安遺文』2122)、その前の白河院政末期から
待賢門院領が成立していた。
女院別当・源師時の『長秋記』大治4年3月24日条には、
「最近は諸国の荘園領地を待賢門院の女房や侍が
何かにつけて押領している」とあり、待賢門院領が
女房・侍を通じて急速に膨張していた模様。
法金剛院も広さ十町を超える超巨大寺院だったそうだから
(普通の寝殿造は一町)、荘園が幾ばくかなんてことは
考えられない。
184 :
日本@名無史さん:
>>183 >待賢門院系(長講堂領)と美福門院系(八条院領)
これはどの研究者が言っているの?
後白河法皇領が形成した長講堂領は主に待賢門院のものであるという説