1 :
日本@名無史さん:
京都守護職会津中将様御預新撰組
好評につき第2弾です
2 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 00:48:30.42
ゲシュタポ
3 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 00:58:10.10
4 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 09:32:52.20
>1乙!
6 :
日本@名無史さん:2011/08/23(火) 11:18:48.94
7 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 10:28:19.27
孝明天皇御陵衛士
8 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 11:40:58.29
会津士族藤田五郎
9 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 12:13:54.33
尽忠報国の士芹沢鴨
10 :
一日野市民:2011/08/24(水) 12:33:22.58
>>3 自分のHPというが、市会議員としてのHPですか。
純然たる自分のHPならば、自分の信仰することを書いて何が悪い。
別に不動様の境内で商売やっているわけではなかろう。
11 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 17:08:18.58
士道不覚悟
12 :
日本@名無史さん:2011/08/26(金) 20:07:32.38
何も悪い事しとらんわ
あらあらw
14 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 21:24:18.28
歳さん...
歳さまぁ
16 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 09:21:17.27
時代は沖田
17 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 10:58:26.38
18 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 11:42:58.37
沖田総司房良
惜しいかな病没す
19 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 13:52:23.57
沖田の顔の真相
20 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 14:45:53.20
そら豆だーのお多福だーの散々な言われ様だが
ええじゃないか、人間だもの
21 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 20:22:55.96
ヒラメ沖田の時代なのか?
22 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 22:08:35.30
ヒラメ説は佐藤彦五郎長男俊宜が孫にせがまれて話して
その孫がテレビで紹介したことで知られるようになった
お多福肖像画は沖田の姉貴が孫が似てるつって書かせた
ところが具体的になにが似てるのかは一切不明だったり
別に沖田家には色白で小柄な男だったって話もあったり
はっきりいって沖田親戚筋の証言は今一あてにならない
ある程度参考になるのは八木為三郎が語った思い出話や
沖田のおじさんにあたるヒトの写真かな、共通点多いし
剣術の達人、冗談好き、感情的で短気ってのは確実だな
23 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 08:55:57.40
八木為三郎談
「沖田は女遊びはしてなかったようです」
近藤勇五郎談
「沖田は余り女遊びをしなかったかわりに、
ある医者の娘と恋仲になった」
24 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 10:35:46.10
沖田総司が清純だからとかってよりも
近藤や土方ほど力がなかったから
囲える相手も少なかったってだけだろう実際
助勤以下の連中は大概似たり寄ったりな感じ
大体手近な町娘と恋仲になってる
島田にせよ原田にせよ
>>22 別スレからの受け売りでスマソなんだが
ヒラメ説を言ったのは
TVに出た時に司会者の強引な誘導尋問で言わされたそうだ
沖田家は目と目の間隔が比較的狭く、沖田だけは他の一族の人よりかは離れてたそれを無理矢理ヒラメ表現されたって流れだったそうな
自分の記憶では、TV出演したのは沖田ミツの子孫だったと思った
26 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 14:45:32.80
>>23-24 こちらも受け売りでスマソだが、詳しい人曰く
「沖田と医者の娘との淡い恋バナ」は子母澤&司馬発信だそうだ
つまり、創作の可能性があるグレーゾーン
あの沖田家縁者ネタも怪しいらしい
あと、新撰組ピーク時は
幹部以上は大抵の生活費は経費で落とせたそうだ
妾の生活費全般も含むそうで、決して妾が持てないとかじゃなかったみたい
記憶違いだったらゴメン
27 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 15:20:52.96
>>25 度々スマソ
ヒラメ発言は佐藤彦五郎の曾孫だったそうだ(Wikiより)
28 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 17:39:20.73
有名どころで血が続いてるのは斉藤と原田くらいか
近藤は養子だし
29 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 19:24:42.56
永倉さんはどうなんだろ?
30 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 19:59:10.43
>>28 幹部だと永倉新八とか三木三郎の御子孫も存在するようだ
どちらも代々先祖について精力的な執筆活動とかしてるから
色々語り継げることとかもあるんだろうけども
普通は四、五代以上前になると赤の他人も同然だよな・・・
家はなんでも仙台藩士だか仙台浪人の子孫らしく刀とかある
しかし現代に何かストーリーが伝わっているわけでもないし
勿論、山南敬助がどうのこうのなんて話は無いwww
31 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 12:24:48.79
回りの人間は元新撰組の幹部って知ってたのだろうか
佐幕派の英雄として扱われるのは明治中期以降だし、斉藤が警部補してた初期なんかは元日本軍憲兵見るような扱いだと思うが
32 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 13:28:49.22
新撰組の子孫もだろうけど佐藤彦五郎さんの家族も戦々恐々だっただろうね
支援者だし、おのぶさんの旦那さんだし
33 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 21:55:22.87
>>32 佐藤家が追求されたのは近藤や土方の主要な後援者いうよりも
農兵隊を率いて薩摩藩浪士の弾圧したり甲陽鎮撫隊に参加して
直接的に新政府側に抵抗したことが理由だな。
もっとも彦五郎は案外簡単に元の地位に復帰してたりもするな
実際問題として明治政府は旧体制側の手を借りなきゃにっちも
さっちもいかないことばかりだったろうし当然といえば当然か
34 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 07:25:19.51
昨日本屋をのぞいたら斎藤一にかんする単行本が平積みになっていた。
立ち読みしてみたけど、かなりの長生きだったようです。
西南戦争にも参加というからすごいものです。
35 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 03:31:27.09
同じ新撰組結成メンバーで組長だった永倉新八と同じ年に亡くなるのは何か因縁めいてるね。
36 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 09:44:06.49
>>33 ありがd
彦五郎さんもなかなかやる人なんだww
近藤勇があっさり投降したのは彦五郎の代わりに首を差し出すためだったという説もあるな。
38 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 06:37:35.24
>>38 近藤と土方が親友として描かれることが多いが、本当は近藤と彦五郎が親友で、土方は親友の弟って感じなんだよな。
多摩の大物で、新選組のスポンサーで、近藤の親友である彦五郎が官軍に処刑されそうになれば、近藤が責任を被って身代わりに死ぬことがあってもおかしくない。
土方の最後の手紙が彦五郎あてだったのと考え合わせると、もしかしたら新選組の中心人物は彦五郎だったのかもしれない。
40 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 06:20:18.21
>>39 自分もそういう話は聞いたことあるなぁ
新撰組が多摩郡と天然理心流のネットワークで支えられてるのは事実だし
近藤や土方の手紙が大抵佐藤に充てられてることから彼の存在感が大きいってのは間違いない。
少なくとも大河ドラマのキャラみたいなすっとぼけたおっさんじゃなかっただろうね
興味深い視点ではある。
ま、菊地明系の研究者だとまた余計な脚色やら妄想がはいるんだろうけどwww
彦五郎ってあまり注目したことなかったから意外だ
なんで一緒に浪士隊に入らなかったんだろう?家の事情かな?
菊地さんってあんまり良くないの?オススメの研究者が居たら教えてほしい
42 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 09:28:28.76
山南さんが切腹した報告も沖田さんが彦五郎さんにしてるしね
彦五郎さんは隊士じゃないが、中心にいた事は有り得る
>>41 代官直属の多摩の名主だからね。
今でいえば多摩の郡長みたいなもん。
自分は参加できないから義理の弟の土方を名代として参加させたとか。
>>39 遅らばせながら解説ありがとう
>>43 群長が不在になる訳いかないもんな
そりゃ京都には行けないわw
45 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 18:02:29.16
>>41 新撰組研究者っていうと菊地明や釣洋一、山村竜也、伊東成郎・・・って名前が出てくる。
彼らの地道な研究活動で膨大な情報が明らかになり更新されてきたし高く評価はできるね。
全く参考にならないってことはない。
ただあの人たちは大学で専門教育をうけて研究機関に就職した学者とは全然違うからねぇ。
学問の世界では決して本流な存在ではないし、歴史学研究の基礎を理解してない人もいる。
菊地明も史実重視とかいうわりに大雑把な仕事って印象が強い。
最近は歴史学者が政治史や社会史のなかの研究対象として新撰組について論じてるけども、
基本にはやっぱり宮地正人の『歴史のなかの新選組』(岩波書店、2004年)があるね。
勿論、全てが正しいとはいわないけど本来ならばこの本こそ基礎文献とすべきでしょうね。
特に卒論で新撰組書きたいとかいう大学生とかは必読かな。
自分としては彼のような政治集団的性格を中心にもってくる新撰組の評価には疑問だけれども
それ以前に歴史学研究はどうあるべきかってことを説明し実践してくれてるし参考になった。
46 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 18:09:53.14
ちなみに深谷克己『江戸時代の身分願望』とか平川新『開国への道』とかも興味深い。
今のところ大きなテーマとして身分論があってそのなかで新撰組や浪士組を論じることが多いみたい。
「幕末維新新撰組」って本に興味がある
密林なら中古でゲト出来そうなんだが、ガセネタばかりじゃなければいいなぁ
48 :
41:2011/09/08(木) 07:57:24.04
レスありがとう
宮地さんや松浦さんの本は読んだけど、リアル視点で新鮮だったな
>>47 サイトが本になったやつ?
自分も欲しいけど、なかなか見かけないんだよね
>>48 サイトもあるね
絶版してるから新品は買えないけど、密林なら入手可能だよ
黒鉄ヒロシの本も買えたw新撰組関連の本は多数あるから
ガセネタをドヤ顔で出してる本にぶち当たりそうで…w
自分は『一気に読める新撰組』は買う気は無いな
50 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 22:02:48.24
大学で卒論書いたものの感想として、
永倉新八『新撰組顛末記』新人物往来社、1998年
木村幸比子『新選組戦場日記』PHP研究所、1998年
平尾道雄『定本新撰組史録』新人物往来社、2003年
宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年
古賀茂作・鈴木亨『「「新撰組」全隊士録』(講談社、2003年
新人物往来社編『新撰組史料集(コンパクト版)』新人物往来社、1995年
新人物往来社編『続新選組史料集』新人物往来社、2006年
菊地明ほか編『新選組日誌(コンパクト版)』上下、2003年
が、あれば新撰組自体の事実関係を調べるには十分だったね。
有名な新撰組始末記以下の三部作は内容が時代小説的なので意図的に参考にはしなかった。
51 :
日本@名無史さん:2011/09/08(木) 23:41:42.50
>>50 松本良順の自伝『松本順自伝』東洋文庫が抜けているのが痛い。
あれを読むと近藤勇の思考が劇的に変化する史料的根拠が解る。
52 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 00:22:56.69
続新選組史料集はアマゾン評価で最悪だよ。
新選組史料集も手紙類は読み間違いが多く、歴史の中の新選組で批判されてるね。
53 :
日本@名無史さん:2011/09/09(金) 10:28:19.31
>>51 ここにあげたのは、あくまでストレートに新撰組と銘打った本ってことで。
説明不足ならスマン。
卒論全体でみればより多くの史料や論文を引用したし氷山の一角って感じ。
松本順自伝はテーマに直接関係なかったので使わなかったね。
>>52 実際に宮地がそうだったように『史料集』に頼らなきゃいかん部分は多々あったし、
使い勝手がよく便利だったってのが、自力で論文を書いてみての正直な感想かなぁ。
ただ、解読ミスや解説不足以前に史料全文の掲載は最低やってほしかったと思うな。
あんなに書簡をブツ切りにされては何がなんだかわからない。
54 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 09:27:26.03
>>50-53 参考にします、ありがとう「歴史の中の新撰組」って確か、別スレでも推奨してる人がいたなぁ
新撰組顛末記は必須みたいだが、未だ未購入…スマソ
以前から思っていたんだが当時の手紙や史料館にある文献やらを読める人を尊敬する
何故、あんな達筆過ぎる文面を読めるんだw
全く読めない自分には
一生かかっても解読は出来ん
55 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 11:32:43.93
>>54 古文書解読の教本はわかりやすいの沢山売ってるから読んでみたら?
学者ですら辞書片手に読むのが普通だし。
気楽にマイペースで挑戦すればいつのまにか読めてるものだよ。
56 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 13:52:35.42
▲▲▲
57 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 23:57:08.20
菊地明の斎藤本ってどう思う?
58 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 04:04:50.28
伊東成郎の本って参考文献になる?
マクロなのと参考文献書いてないから使えないと思うのはオレだけかな?
59 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 09:33:58.54
>>55 古文書解読本なんてあるんだ!w
知らなかった、ありがとう一応チェックして買ってみる
60 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 10:36:16.38
>>58 伊東の研究を全否定するつもりはないけど、
確かに引用方法が雑で実証性という点で学者の書くものに比べて劣るね。
伊東にせよ菊地にせよ史料名だけポンと出して終わりということをよくするけど、
本格的な学術書を読んだことある人ならわかるだろうけど、あれでは出典を明らかにしたことにはなってないしね。
また史料だけでなく研究成果についても他人のものは、
肯定するにせよ批判するにせよちゃんと出典を記すべきなのは常識であり礼儀。
例えば菊地明は『新常識』で大和屋事件をめぐって暗に宮地正人の説を否定したり、
宮地が紹介したといっていい「彗星夢雑誌」を引用してるのにあたかも自分が新発見した史料のように紹介している。
研究者として無礼というか卑怯な印象すらうけた。
いわゆる「新撰組研究者」のなかには人の研究成果をまるで自分のものように書く人が多い。
新撰組本でしっかり研究史整理をしてる本なんて学者が書いたもの以外みたことないし。
連中には解読とか解説の誤りよりも先ずはその辺の態度を改めて欲しいよな。
61 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 10:38:42.83
宮地の意見が全てとは言わないが
彼が『歴史のなかの〜』で指摘したことはまったく活かされてないようだ。
62 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 17:43:01.06
伊藤哲也やあさくらゆうは?
63 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 20:20:56.08
>>62 伊東哲也は評判悪いな。あさくらゆうはよく知らん。
>>57 立ち読みしたけど(買えよ!)よくも悪くも菊地さんらしい本だったな。
細かいようだが無理やり斎藤一を3番隊組頭と書く意図がよく分からん。
一貫して4番隊組頭なのは史料から明らかなのにね。
64 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 20:34:39.83
>>63 自分で調べてないから本人も知らないんでしょ。
菊地は屁尻火の会長だから会員が調べたことをまとめてるだけ。
その美味しさに気付いたのが星亮一で、戊辰戦争を歩くや新選組を歩くを出して印税をひとり占めしている。
65 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 21:20:02.93
>>64 ほうほう。その辺の裏事情?はよく知らなかったから参考になった。
原田左之助も9番隊組長とかデタラメ書かれてたし。
ざっと読んでの感想だけど職制関係で違和感のある記述が目立ったなぁ。
66 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:56:11.87
山村竜也の本って参考になる?
著書で参考文献一切書いてるのを見たことないが。
67 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 00:42:31.20
松浦令の『新選組』これ読まなければモグリでしょ
68 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 02:03:21.42
>>67 松浦玲の『新選組』と宮地正人の『歴史のなかの新選組』とあわせて間違いなく研究史上画期となる本だろうな。
あれで新撰組のことだけ語る時代から歴史の大きなテーマのなかで論じる時代へ本格移行したって印象をうける。
ただ、松浦や宮地への反論がなかったらなかったで問題なわけで、
近藤勇の政治思想で全てを説明するような論調には実際「それは違うだろ」って思わないでもなかったな。
69 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 03:57:43.26
というか…いままで新選組を政治で捉えた本って平尾道雄の新撰組史録くらいしかないでしょ。
戦前だと尾佐竹猛が一部出してるが量的には足りない。
いままでの研究家と称する作家はそういう感覚は知識的にないのではないだろうか?
70 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 11:45:00.64
>>69 昭和8年に服部之総が新撰組のコラムを書いてるけど、これも新撰組を思想性から理解しようとしたものだったね。
確かに新撰組研究家とされる人は殆ど作家だから歴史学者たちの書くものと比べて正当な歴史学の知識は乏しいな。
具体的にいえばここで散々指摘されてるような引用方法の不備なんかにそれは現れてる。
ただ逆にいえば、
学問よりも創作に近い新撰組研究が氾濫してファンに支持されてる今の状況っていうのは歴史学者の責任でもある。
そういう状況を長年放置して受け入れてきたわけだしね。
まあ、結論として新撰組ファン自体がもっと関心を広げて歴史をみない限り、
一部の歴史学者なんぞがいくら頑張っても時代劇の延長線みたいな新撰組論こそ主流って状況は変わらないだろう。
71 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 17:02:28.13
秘密警察
機動隊→使えなかった
72 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 18:28:36.48
新選組研究家は出典の明示→自分の秘密と考えている。伊東の講演を聴くと「口外禁止」が多い。あと菊地のようにわざと出典名がわからないように書く場合がある(所蔵者の表題と違う等)。
73 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 21:53:49.70
>>70でも書いたがファンのなかでそういうやり方を支持しない人が増えれば、
民間研究者も変わらざるを得ないんだろうけどねぇ・・・結局は。
こことか他のサイトみてると従来研究に違和感もつ人は増えてるようだし、
ディープなファンの考えってのは10年前より大分変化してるようだな。
こういう話題ってのは煙たがられることも多いからできてよかった。
74 :
日本@名無史さん:2011/09/13(火) 23:30:33.39
最大の問題は近藤勇書簡集が市販されていない事だよ。
新選組を思想的背景を探ろうにも、これが無いから誰もできない。
できるとすれば研究家の肩書きをもつ人達だが、作家が多いという都合で売れる本=チャンバラ活劇本になるからね。
思想は無視されちゃうのさ。
噂では、書簡集を出すだけの準備は整っているが、利権絡みで足踏みする事数十年だとさw。
これでは、今後も世には出まいよ。
京都博物館だっけかなぁ、「史料から見る新選組」という本で、近藤勇の書簡多数が紹介されている。
俺はコレを見てるけどね。
75 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 03:26:16.50
近藤書簡は小島資料館が多く持ってるからね。ここが出さない限り出ないでしょ。
それよりか、新選組研究家は古文書が読めないから彼らに期待しても無理。
76 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 03:38:12.40
>>74 近藤勇書書簡があれば近藤個人を理解する助けにはなるけど、組織としての新撰組の動きを理解する助けには左程も貢献しない。
書簡集つくれといったのは松浦玲だけど、あの人は政治思想史専門だけに理論先行集団って考えに固執し過ぎてるきらいがある。
あの先生の論考では実力組織としての新選組について多くは見えてこない。
『新選組』は核心をついてるようでついてない。もっと現実的で歴史的に深い問題まで突っ込むには至らなかったって印象だな。
近世史で蓄積された江戸時代の社会や軍事に関する研究成果がさっぱり反映されてないしね。
そもそも近藤勇や新撰組を生み出した歴史の大きな流れとはどんなものだったのかについては松浦みたいな近代史の学者よりも、
近世史の学者が書いた論文に多くのヒントが詰まってる。
どうせ出すなら近藤勇、土方歳三、小島鹿之助、佐藤彦五郎の関係文書を一冊にするくらいしないと意味無いと思う。
でないと菊地明の出した土方と沖田の書簡集と同じで、新撰組を組織レベルで理解するというところまではいかない。
この「経営者四者組」が各自の役割のなかで書き残したことを付き合わせていくことが可能な本こそ価値があるはず。
ま、既に新撰組に大きな商業的価値がついてる以上、刊行まで一筋縄ではいかないのは誰もが分かり切ってはいるだろうけど。
そういうなかで、
日野市立新選組のふるさと博物館は胡散臭い民間研究者ではなく宮地正人なんかの歴史学者と連携して頑張ってる印象がある。
問題の近藤勇書簡集編纂の中心にいるであろう小島家資料館も実際は十二分に努力してる印象が強い。
77 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 04:24:15.02
ちなみに菊地明は古文書が読めないからどこが間違っているのかがいまだに分かっていない(誰かから翻訳してもらったのを載せてるだけ)。
日野も宮地さんの名前を借りているだけで実際は藤井和夫と西脇康が書いている。
政治史を勉強するなら国立公文書館の文書を探ると面白い。刀槍しかやらないと紹介されてる新選組がゲベール銃を下賜して欲しいという文書がある。これを山崎丞日記(続新選組史料集でカットされた部分)で見ると、そのゲベールを使って調練していたことが解る。
78 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 10:52:47.59
>>77 >>76書いたものだけど、
藤井さんと西脇さんの仕事では何か決定的不都合があるのかな?
日野市(一部マツノ書店でも)で販売してる『史料フォーラム』や『歴史館叢書』を読んだけど、
宮地さんともども中心的にしっかり仕事してるし。
我ながら偉そうなこと書くけど、松浦さん同様に彼らの学説も全部同意というわけでもないが、
有言実行で積極的にアクションをおこしてくれた宮地さんは自分のなかでは評価高いな。
取調日記(内容的には雑記帳)という史料は自分も部数限定で印刷されたのを所持してるよ。
今じゃ入手困難ってことで今考えたらラッキーだった(笑)
洋式調練の個所は「生兵」とあるから新兵の教育法を何かの書物から写し書きしたんだろう。
新撰組=古臭い剣客集団って解釈が難しいのは軍事史を理解してれば分かるし自分も同意。
ただ、幕府の文書類だけでは実際どれくらいの数の銃砲が支給されたのか特定はできない。
伊藤哲也の「取調日記は名簿以外価値がない」というような書き方は支持できないけども、
あれだけの調練をそのまま実行してたと言い切れる史料がない。
近世軍隊的な第一次・第二次行軍録の内容、西洋嫌悪派の存在、調練日数削減の事実とか、
むしろ、洋式化にとってはネガティブな事実を伝える史料が多いことは無視できない。
勝海舟が幕軍関係史料をまとめた『陸軍歴史』に新撰組が確認できないのも気になる。
79 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 11:01:47.23
ってことで自分は取調日記についてはもう少し慎重に扱うべきだと考えてる。
史料提供者の意向もあって背景がいまいち説明不足っていうのも少しひっかかるし。
そもそも字体からしてどこからどこまで山崎の筆なのかも曖昧。
80 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 11:09:07.31
やはり陸軍歴史は幕府直轄軍が対象だから京都守護職支配の新選組では直接支配が出来ないから掲載されてないでしょね。
内閣文庫では確かゲベールや雷管、火薬の量も書いてたような…遠い記憶では無理か?
あくまでも推測だが新選組の幹部あたりはこうした調練は嫌がったような気がしている。
伏見の戦いでも白兵戦が確認できるしね。だから知識があっても使用に躊躇した気がする。
あと俺も宮地さんは好きだ。ただ日野の関係者が図録の件で問い合わせた際、自分は監修で書いてないことをカミングアウトしてた。
藤井&西脇は批判好きだが対案がしょぼくて批判対象と五十歩百歩だったりする。
日野で新選組かじっている人と知り合いだとこうした話がよく聞ける。
81 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 11:27:07.96
宮地さんが好きな理由は東大時代に暮地家文書(早川文太郎)や庄内藩関係文書を写真撮影して昔よく東大で利用したこと。宮地さんがいなかったら一般利用は結構面倒だった。
実際宮地さんの講演聞いたことがあるが人あたりは良い。
82 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 12:27:30.47
伊藤哲也の書きごとは一番。皆が見れない史料を発表する研究者で私しか見れない史料を歴史春秋に発表した。
83 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 14:49:18.90
>>80 藤田さんと西脇さんは「学者の悪い癖」が目立つってことね(笑)
『歴史館叢書』に関しては監修という役割は書いてある通りだしね。
宮地さんが一連の特別展示に関係してること自体には変わりないし、
そういうことで直接的な執筆者のチョイスや構成もかなり良かった。
何れにせよ必携書か。
近藤勇と土方歳三は洋式化賛成派で嫌いってことはないでしょうな。
特に土方の関係文書からはかなり主体的で熱心な姿勢が確認できる。
二人の兄貴分の佐藤彦五郎と小島鹿之助が洋式銃砲採用に熱心だし。
あまり目立ってはいないけど近藤勇の短筒なんてのも残っているし。
永倉新八は松前藩帰参後にフランス式調練を教えてたとも語ってる。
主流派の洋式化に対する関心自体は高い。
ただ、彼らを政治的にサポートした参謀メンバーは洋風嫌いな人だった。
剣客に人材を求めてるからあからさまに銃砲に抵抗感を示すのも多かった。
そういう反洋式化の部下たちに幹部が時に妥協し時に弾圧しながら対応し、
どうにか調練を実施したって構図の方がしっくりする。
そういった戦闘手段に対する意識不統一が鳥羽伏見の戦いで顕在化して、
的確に銃撃戦で対処してたかと思うと無茶な白刃突撃をやってしまう、
そういう戦術の中途半端さを晒す一因になったんだろう。
鳥羽伏見の戦い時点で、
幹部に洋式軍隊の運用スキルが徹底的に備わってなかったとうなら分かるよ。
ただ幹部が調練を嫌がっていたというのは少し大雑把な意見じゃなかろうか。
84 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 21:26:20.43
鳥羽伏見敗戦以前に新選組には銃砲の調練が薄いのが原因だな。
近藤土方に統制が取れてないから伊東脱退等の一件も絡むかもしれない。
ただ、伏見での敗戦が新選組に銃砲の大事さを教えたのは事実だ。
85 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 22:16:25.17
86 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 22:36:04.95
要は鳥羽伏見までは新選組は銃砲に関して軽んじてたってことだろ。
旧幕府に掲載された新選組隊士の格好が甲冑という時点で洋式軍隊でないことは解る。
87 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 22:38:49.86
88 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:01:45.99
一番人斬った奴ってやっぱり沖田かな
89 :
日本@名無史さん:2011/09/15(木) 23:27:25.55
>>88 微妙。捕縛目的で斬る訳だから誰もが何人斬ったかは覚えてないでしょ。
沖田の時だけたくさん斬るべき人が現れるのもおかしいし…。
90 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 08:56:18.55
>>89 沖田は元気だった時
脱走した隊士の粛清なんかも担当してたからな
人斬り率が高いのは仕方ない
斎藤も同様
91 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 14:03:02.51
>>86 永倉新八が鳥羽伏見の戦争で着用した羽織が残ってるけど黒羅紗筒袖の陣羽織つまり幕府軍の洋式軍装そのものな件。
新撰組から紺色の筒袖と股引、剣付鉄砲を支給され大砲の運搬を手伝わされたって桑名藩士の証言もある。
明治初期に描かれた遠藤蛙斎の鳥羽伏見戦争の絵図では新撰組が小銃隊となってるし。
隊士の心理までは知らないが外観は同じく剣客を洋式銃隊に編制した幕府遊撃隊のようになってたと考えるのが妥当。
92 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 15:29:14.00
>>91 あれは後年加工したもの。回想録にも白兵戦が確認できるから伏見戦争中に銃へ切り替えたと考えるのが妥当。
93 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 16:02:05.08
>>91 羽織(勝沼戦争後チョッキに加工された)の裏書に元々黒羅紗筒袖陣羽織だったことが書かれている。
また背中に家紋入りという使用からして慶応二年秋に幕府が直轄軍を全面的に洋式銃隊化した際定められた服制と一致する。
新撰組が戦争で白兵戦をしてるとかしてないって話はしてない。
文久以降の幕府軍制改革に合わせて新撰組も段階的に一定水準まで銃隊化されていて当然ということをいってる。
94 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 17:03:02.18
銃隊編成を組む意欲は慶応年間にゲベール等を会津藩経由で下賜できるよう動いているので確認できる。
しかし銃隊の調練光景を述べたものはあっても反映されたかは微妙。
銃砲の知識はついたとは思うが銃隊としての機能は薄いな。
95 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 20:53:45.17
慶応年間まで待たずとも、
既に元治元年10月付の土方歳三書簡で全員参加の調練が報告されてるよ。
壬生寺の記録には慶応元年九月以降一月12回境内で調練していたとある。
つまり、活動期間の大半を通じて月の三分の一を割いた調練に努めていた。
それでも戦場では活かされなかったとするのは不自然。
敵味方の記録を整理すると新撰組の戦闘は白兵戦に依存したのではなく、
銃撃戦のなか隙あれば白兵突撃に転じる戦法だったという点で共通する。
つまり調練の成果は反映されていた。
ところが、あまりにも突撃の判断基準が曖昧というか大雑把に過ぎる印象。
例えば敵が少し引いたら銃を捨てて追撃したが伏兵を確認しなかったため、
逆に返り討ちにあったといった記述が永倉や島田の手記に度々出てくるし。
敵味方異口同音に彼らの闘志の強さを伝えるがそれが裏目に出たみたいだ。
戦争の不慣れもあるだろう。
何にしても、
鉄砲より剣槍が好きだから調練は反映されず無駄になったって事実は無い。
妄想は要らん
97 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 21:25:59.42
銃撃戦の記録がない限り認められないね。
甲冑着て白兵戦した記録はあるけどね。
新選組が本当に銃隊になったのは甲州鎮撫から。
斉藤ーは会津戦争で部隊を指揮してたみたいだけど、指揮官としても優秀だったんだろうか?
99 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 00:39:56.25
最後は如来堂で部隊は壊滅している。
市中警護では銃は意味無いからなぁ。
101 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 17:43:18.68
▲▲▲
102 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 22:40:23.82
>>97 永倉新八の『浪士文久報国記事』や島田魁の『島田魁日記』に銃撃戦について書いてあるだろ。
それこそ有名な西村兼文の『新撰組始末記』にも銃撃戦で戦っていたことが記述されているし。
佐藤彦五郎の戦後直ぐの書簡からも新撰組敗因を銃器自体の有無ではなく銃器の性能に求めて、
近藤と土方が報告していたことが分かるし。
新撰組周りだけでも確認すると白兵戦だけでなく銃撃戦も展開していたことを伝える史料は多い。
それでも「銃撃戦の記録がない」と言い張るなら、それこそ妄想の域だな。
103 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 23:33:29.51
>>89 少なくとも中隊長くらいまでなら無理なくこなせる人だったみたいだ。
土方みたいに参謀の役割はしてないからあくまで現場指揮官向きかも。
彼の最終的な進路選択からして理論や計算を物差しに動くというより、
自分の信念を物差しに動くような熱血漢って勝手な人物像があるwww
維新後会津藩士と徹夜で戊辰戦争のこと熱く語ってたって話もあるし。
クールていうより山賊見たいに豪快(失礼!)な印象すらあるなぁ。
104 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 23:39:01.58
西村兼文を使った時点でダメ。藤井和夫はおもいっきりフィクションと謳ってる。
>>103 沖田と誰を語ってるん?
すまん読み取れん
家近良樹が一会桑と新撰組っての論文書いてたはずだが
まだ書籍化されてないのか見れなくて残念
107 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 01:18:57.76
>>104 西村の始末記だけならまだしも他の史料にも
書かれてるんだし一定の信頼性はあるだろ?
俺も今新撰組と鉄砲の関係で卒論書いてるけど
似たようなこと考えてる人もいるもんなんだな
108 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 03:44:57.40
>>104 そもそも『新撰組始末記』なる史料にフィクションという性格はないし。
もし藤井和夫という人がそう言い切ったのなら明らかに誤解をしている。
あれは馬場文英ら同時代の歴史家らの史料提供にも助けられて成立した、
あくまでも史書というべき書。
明治時代前半という近代史学が未完成で研究環境も劣悪な時代のなかで、
むしろ新撰組のみ対象にしてよくああまで調べたという印象すらうける。
無論新撰組と接触する慶応元年以前の記述は誤解に要注意ということや、
明治人らしい偏見にも注意っていうのは多くの研究者が散々言ってきた。
それはその通りだろう。
鳥羽伏見の戦いは情報には困らなかったようで特に詳しい項目の一つだ。
銃撃戦の一事については敢えて歪めるような理由も状況も確認できない。
新撰組を貶めるならひたすら白兵戦に徹して死なせるのがしっくりくる。
繰り返しになるが殆どの史料が白兵戦のみ銃撃戦のみって記述はしない。
新撰組は両者を組み合わせた戦闘方法だったと判断するのが無理は無い。
にしても西村の著作を引用したら全部「ダメ」なんて判断こそダメだろ。
全部正確な史料なんて存在しないし、全部間違ってる史料も存在しない。
そういう史料をじっくり読み解いていくのが歴史学のはずなんだけども。
それじゃ確実な史料って曖昧な単語で全部解決しようとする連中と同じ。
109 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 08:00:34.26
>>108 誰もフィクションとは言ってない。
ただ全編を通して著書の思い込みが強く人名の誤りは当たり前、何を根拠にしてるかも不明。
こういうものを論文の根拠にするなら菊地明の本を根拠に使うのと一緒。
110 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 08:30:21.61
確かに西村の作品は何を根拠にしてるかわからない。京都の文書なんかはのちに高橋正意が修正してる。
111 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 05:46:48.99
>>109 おいおい、藤井って人がフィクションっていってるんでしょ?
だいたい史料っていうのは書き手の考えが色濃く反映されるのが普通なわけで。
だから一つの史料のなかには事実を伝える記述もあれば誤った記述も存在する。
また引用するなら他の史料なり研究成果で裏付するっていうのがルールだしね。
一つの史料でなんでもかんでも判断できたら歴史研究なんて必要ない。
例えば銃隊化という事実関係を明らかにするための史料群の一つに始末記があって、
同じように「浪士文久報国記事」以下敵味方様々な関係者が伝え残した史料がある。
永倉の書く「暫ク炮戦故ニ勝負ツカス依テ会津新選組不残鉄炮ヲ捨テ切込ム」とか、
西村の書く「僅カ一重ノ竹柵ヲ要害ニ備へ此間ヨリ小銃ヲ以テ応発スレトモ」とかね。
それらの記述は時に一つの事実の肯定材料にもなるし、時には否定材料としても貢献する。
第一、何を根拠にしてるか分からないから調べるって作業から歴史研究が始まる。
その史料は何を根拠にしてるか分からないからこの史料は使ったらダメだだとか、
そんな史料をちょっとでも引用していたらばその意見は出鱈目という言動は厳禁。
歴史研究のスタート地点にすら立ってないってことを意味する。
また、菊地明という人の研究に読んでいて納得がいかない記述が多いと考えてる。
だから彼の本は使わない。だけど菊地の書いてる内容は間違ってますよとは書く。
そんな怠惰・無作法は論文書く場合は通用しない。
どんな学者の学説や史料の記述でも否定するならするでちゃんと引用しなきゃならない。
112 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 16:27:42.88
「浪士文久報国記事」では大砲の打ち合いで銃撃戦ではないね。
永倉が白兵戦から戻って来た際、鉄砲を使って中に引き込んだ記述だ。
西村兼文は基本的に思い込みが中心で同時代の人間にしては知識がなさ過ぎる。
現在西村の記述を思いっきり使う奴はいないね。恥掻くから。
113 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 20:35:52.72
斉藤は何で会津で降伏したの?
新撰組の保護者たる会津が降伏したんで従った?
土方と喧嘩した?
114 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 21:03:25.88
>>112 先ず新撰組始末記をフィクションといっている人がいるの?
藤井というひとが言っているとか誰もそんなこといっていないとかどっちなの?
史料の本質は現代人も書く日記や手紙などといった文章と同じ。
筆者の性格・所属や世相さらには他者の加筆・修正など様々な成立事情がある。
同時代人だから全てを知っているとか正直丁寧に書くなんて可能性も殆ど皆無。
現代の物差しで単純に思い込みが中心だ知識がなさすぎるだということは簡単。
歴史研究はそれを他の史料や先輩の研究成果による知識で洗練して活性化する。
よって史料を「思いっきり使う(引用するの意味か)」行為自体に問題はない。
それをしなきゃ肯定材料にも否定材料にもできない。歴史研究が始まらないよ。
現在西村の記述を思いっきり使う奴はいないとか恥をかく状況があるというが、
ならば始末記を分析して随所で引用している平尾道雄や宮地正人らは何なんだ。
やはり彼らは研究仲間から馬鹿にされる存在ということか?そんなことはない。
歴史研究の世界にはある史料を丸々鵜呑みにする人物を非難する状況はあっても
その史料を利用すること自体に非難が生じる状況は無いし恥をかくこともない。
第一、根拠が分からないといって最初っから匙投げてる人に言えた義理はない。
ところで前回挙げた文久報国記事の記述は有名な永倉と島田の個所とは違うよ。
大砲だけで撃ち合ったなんて記述もないし読んだら分かっていそうなものだが。
君にとって新撰組が鉄砲で戦っていたらそんなに不都合なの理由はなんなのか。
その保谷徹の研究で銃撃戦の事実自体については最早疑う余地は無いわけだし。
115 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 21:14:17.46
>>114 その保谷徹×、あの保谷徹○
保谷徹は近世特に幕末の軍事史に詳しい研究者で「新撰組と戊辰戦争」という論考もある。
新撰組のみならず幕府直轄軍全体の動きを理解するなら保谷さんの著作は必見だろう。
116 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 04:13:27.72
>>114 藤井さんの考え=フィクション
オイラの考え=事実もある。
わからなかったかな?実在して会ってる人間の名前は間違えないだろう。その程度。また大砲の調練もしてたからこれも事実。
ただ、銃については扱い方は習っても実践したことなかった。伏見でとりあえず持ってみた。
こんな程度だろう。白兵戦は銃は使わない。邪魔だから。待機してたのだけ銃を持ってる。刀じゃ届かないから。
伏見行ったことあるの?御香宮の高台から集中砲火受けてる訳。鉄砲じゃ届かない。
で、兵站も考えたことある?弾があっても火薬がなけりゃ撃てない。
伏見の竹中丹後守は鳥羽と違い持ち直したけどそうした兵站がない。手紙出しても無視されたから直接行った。
この時点で伏見の防戦で撃った弾がなくなってるから銃は殴るくらいにしか役にたたない。
その銃もゲベールだろうから相手のミニエーには叶わない。
なにも一切新選組が銃隊にならなかったとは言ってない。甲州からは銃隊になってる。なおかつゲベールが役に立たないことを知ってるからミニエーを調達している。
ちなみに保谷さんは多摩農兵隊関連が多い。多摩農兵隊は代官管轄。新選組と一緒にしてはいけない。
また、西村のはドレを参考にしたか一切記述がない。参考には出来ても引用は危険。
第一どのくらい西村が新選組に詳しかったかも疑問。
117 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 14:15:17.33
>>116 先ず始末記についてだが参考になっても引用は危険なんて言葉の使い方はない。
それにいきなり従軍体験話し始めてたがどうした。幕末からタイムスリップしてきたとかなのか?
史料にある記載を無視して鳥羽伏見では鉄砲は手に持ってただけの飾りでしたって言い張るんだな。
永倉は土方が御香宮に新撰組の鉄砲や大砲が届かないことにしびれをきらして白兵戦を命じたと書いている。
つまり銃撃戦→白兵戦というプロセスで戦闘が展開している。鉄砲は決してお飾りで持ってたものではない。
また攻撃は御香宮にむけたものだけではない。
>>111で書いた記述も淀周辺での戦闘についてのもだしな。
そこでも銃撃戦→白兵戦→返り討ちという構図が確認できる。常に白兵戦と共に銃撃戦の選択肢があった。
西村がどれくらい新撰組に詳しかったかは三井両替店奉公人の日誌である「新選組金談一件」に詳しい。
それによれば西村が三井側に幹部の人物像から編制・給料事情まで細かい情報を提供していたことや、
幹部にかけあって金談撤回の根回しをしたりしていたことが分かる。
また馬場文英の『元治物語(元治夢物語)』からも分かるが西村は京都周辺の事情通らと緊密な交際があった。
西村が「金談一件」が開始する慶応二年九月時点で新撰組内部に入り込めるほど深い関係になっていたことや、
確かなネットワークをもち畿内周辺の情報を入手しやすい立場にあったこと自体は疑う余地は無い。
あと、自分は保谷徹「新撰組と戊辰戦争」については触れたが多摩農兵の話題なんて一切してないんだけど。
それに保谷さんは近世軍事史の専門家といえるけど多摩地域の農兵について多いというほど成果は無いだろ。
118 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 14:57:49.78
銃撃戦ではなく砲戦。この時点で誤り。それに史料って何?
西村に関しては危険な思想だな?先入観ありすぎ。それなら西村の傍証取れる?間違いだらけなのは確認できるけど。
史学に先入観は禁物。西村の作品の成立時期も考えよう。オイラには子母沢寛の始末記の方が傍証取れるから好きだ。
119 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 20:52:28.71
>>118 突然こっちが触れてない話題をこっちが言ったみたいに書くし。
そういったこっちの指摘したことへの弁解は何故かしてこない。
自分の言いたいことだけ史料なしに並べられても納得いかない。
いきなり傍証とれる?って何についての傍証のことなのだろう?
史料って何?とはどの部分のことについて言ってるのだろうか?
成立時期を考えよう→昭和の時代に「歴史をかくつもりはない」
って小説家の書いた本が好きだって流れになる理由も意味不明。
あなたが『新選組始末記』好きなのは勝手だけどだから何なの?
西村がどのくらい新撰組について知ってるか分からんというから
「金談一件」や「元治物語」から分かる新撰組との直接的交流や
畿内の知識人との交流をもつ西村の人物像をこっちは紹介した。
加えて報国記事以下の銃撃戦についての補強となる史料も紹介した。
こっち側がそういった行為を一切無視で西村の書くことが全てという
態度をとったというならまだしも態々歴史学研究の基礎方針まで紹介
させときながら「先入観は禁物」とか。言われる義理は無いんだが。
また「砲戦」という語句について誤解しているようだが「砲戦」とは
基本的に大砲と小銃の撃ち合いを意味する。先にあげた永倉の記述も
そう。大砲で決着がつかないから鉄砲を捨てて切り込んだなんて文章
は意味が通らない。
120 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 21:08:38.72
砲戦なんだから勝手に銃撃戦にしちゃダメだよ。
子母沢を小説家と言うけど、子孫からの聞き書きやら、古文書の紹介がある。その古文書は現存しているから確認は可能。これも先入観の強い証拠。
逆に西村のは大和屋砲撃をでっち上げ、安富才助を殺したり等、言い訳聞かない誤りがある。前にも書いたが西村作品がおかしいからと高橋正意が調べ直してる。京都府立総合資料館でそういった文書が確認できる。
結論として新選組は伏見戦争の教訓で銃隊を意識し、甲州戦争で実践したということ。西村の話でも大砲の調練が嫌だから屯所を移ってもらったとはあるが銃の調練のことは載ってない。第一誰が教えてたのかも重要だ。
そうした指導者もあやふやということでもおかしい。
121 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 21:11:25.51
なんなら西村や永倉の記述だけでは物足りないなら他にも紹介するぞ。
薩摩藩本府一番大砲隊長中原猶介は伏見奉行所門前の戦いについて報告書に
「先手は会兵・新撰組と相見え鉄砲・槍刀相携えはや四・五十間の処まで」
接近してきたので反撃すると今度は敵が「柵門へ畳数十帖立て並べ楯に取り」
「互いに大小砲戦さらに寸隙」も無い激戦に発展したと報告書に書いてる。
桑名藩兵士の大塚九兵衛が「新撰組勘定方(小荷駄)」から「紺筒襦袢・袖細」
の軍服を着させられ「剣付鉄砲」を支給されて「大筒引き役」を手伝わされたが
薩摩藩と新撰組が激しい銃撃戦に発展したので脱走したという記録も残っており
保谷さんはこれらを引用して「新撰組と戊辰戦争」を書いている。
また島田魁の「日記」には「我軍橋本入口ニ胸壁ヲ築キ置キ互ニ砲撃ス」とある。
この「砲撃」の使い方もまた銃撃戦を伴うものであることは文脈からして明らか。
122 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 21:18:13.38
>>120 当時の文字の使い方として「砲戦」は大砲および小銃による戦闘を意味するって知らないのか?
その子母沢が始末記をそのまんま引用しているどころか編制表部分をはじめ脚色していることは何も感じないのか?
また他の史料なら始末記のように情報の裏付けはとらなくてもいいと?なんだか明らかにそういう書き方だけど。
土方の元治元年十月の手紙や壬生寺の文書や「金談一件」に銃隊調練が記録されてることは無視するのか?
123 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 21:26:20.03
>>120 また
西村が知りようのない大和屋のことや安富の末路と
精度の高い情報が入手可能な鳥羽伏見の戦いや調練
の記述を一緒くたに考えるのはおかしい。
また西村は「日々大砲小銃ヲ連発シテ調練」とハッキリ書いているが?
高橋正意という人物の情報ソースは隊士近藤芳助であり彼の証言と
西村の書いたこととの矛盾を指摘したことは分かるが、
その近藤芳助の証言だって別の史料で裏付けも必要ならば間違いもある。
124 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 21:52:18.82
>>123 京都府立総合資料館と書いたのは近藤書簡に限っていない。高橋は維新史料の編纂をしていて西村作品を典拠としているのを修正している。
ちなみに橋本って伏見なの。おいらは最初から伏見までは刀槍部隊だと言ってる。
あと会津と一緒なら会津藩が銃隊だろう。甲冑着た銃隊なんか聞いたことがない。
125 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 21:56:25.88
それと調練については認めるよ。山崎日記にあったから。ただそれが定着しなかっただけ。ゲベールだから複数に固まった攻撃方法だろうが知識があったから伏見以降、銃の大切さが分かったのだろう。
126 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 22:36:37.54
>>124 新撰組が甲冑着てたとする史料の名は?また銃隊調練が定着しなかったとする史料の名は?
私見だと少なくとも同時代の新撰組周辺からはそのような記録は確認できないのだけど。
鎖帷子や剣術防具を部分的に着用する隊士は想定されるがガチガチの甲冑は考えにくい。
山崎日記(取調日記のことか?)くらいの情報量で調練があったことを認めるのならば、
鳥羽伏見戦争で新撰組が銃砲+刀槍で戦っていたという事実を認めることもできるだろ。
銃隊調練の事実自体だったらこっち側が上げ続けてきた史料だけでも十分証明が可能だし
鳥羽伏見における銃撃戦関係の諸史料中の記述についてもそれと同程度以上挙げてきた。
それで納得しないのはおかしいだろ。
具体的記述のある史料群ではなく不明瞭な記述の雑記帳一つで信じるという判断基準を疑う。
それに新撰組が大砲使ってたと書きながら刀槍部隊と書くのは矛盾しているんじゃない?
小銃は使わないが大砲は使う理由は何なんだ?それを証明する方がむしろ難しいんだが。
また、佐藤彦五郎が近藤・土方の戦争体験について触れた井上松五郎宛の手紙にもあるが
銃撃戦を経験したからこそ新式銃の必要性を感じて大量購入に動いたと理解したほうが、
よっぽど現実的だと感じるのだが。
127 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 22:42:56.91
>>124 あと伏見は橋本→おいらは最初っから伏見までは刀槍部隊だといってる
って記述の意味が分からないんだが。何が言いたかったんだろうか?
そして、
大昔の高橋の研究については重視してさらに昔の西村の文章については
軽視する矛盾はどう説明するんだ?
何れにせよ同等に検証が必要なことは変わりないはずだが。
128 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 23:21:35.14
〉〉124はまず国語を勉強しろよ
〉〉127も外にがんばることあるだろwww
長文の応酬はこういうとこじゃウザいだけじゃん
129 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 23:50:00.81
>>128 >>127だが、
なんかめんどくさい感じになってすまん。暫くはまた傍観者に徹するとするか。
一応弁解しとくが断じて無職さんではないぞwww
自分が結論として言いたいことは
@新撰組は鳥羽伏見戦争の段階で既に銃砲部隊としての性格も備え確かに機能してた。
A西村兼文の『新撰組始末記』は長らく基礎史料であったからこそ詳細な検証が必要で
決してあれが違うこれが違う→だから考慮には入れないと判断するのは間違っている。
ってこと。Aは常識として。@は頑なに拒まれたように受け入れ難い風潮は根深いか。
それだけも知れただけで満足だった。
130 :
日本@名無史さん:2011/09/22(木) 04:38:42.30
>>129 ウザい。
>>124と同レベルにウザい。
どっちもどっち。互いに憶測と推測ばかり。
どちらも評価できないね。
土方のライバルって誰かな?山南か伊東甲子太郎?それとも長州か薩摩の誰かだろうか?
多摩の農兵隊発起人と、近藤らの間に結びつきがあったとすると、
新撰組が志士の集団だったとも言い切れなくなるのかな
近藤派が新選組を最終的に支配したことは必然だったのかも知れない
個人的には沖田林太郎が義弟を京に残して江戸に帰ったあたりが分からない
普通は行動を共にするでしょ。江戸帰府が当然の行動として期待されていたんでは
>>131 土方が山南や伊東についてどう思っていたかははっきりとした
史料がないので分からんな
そもそも分離の時点で伊東らと近藤らの溝はどれだけだったのやら
御陵衛士結成の時点では平和的な分隊としか思えないな
少なくとも近藤と伊東の間では…
幕薩対立が決定的になってから(特に大政奉還以降から)不倶戴天の敵になったんでは
斎藤一が間諜だった説も、8か月も思想的な感化を受けずに間諜を勤められるものか、
と言う疑問があるんだよね。当初は連絡役くらいの意味合いではなかったのかしら
そういえば近藤や土方は農民出身だけど、いつから名字帯刀を許されてたの?
>>135 斎藤って伊東の建白書を仲間らと一緒に運んだり、伊東や藤堂と共に
要人に会ったりしてるよな。少なくとも伊東からは同士と認められてたのかもしれんね
138 :
日本@名無史さん:2011/10/01(土) 15:09:24.98
斉藤に関して言えば、伊東一派分離時に女性問題を起こし、土方に睨まれそうになったためにこれ幸いと伊東一派と共に離脱。
その後、伊東一派についていけなくなり土方側に立ってスパイへ転身。
伊東一派粛清後は、山口次郎と名を改め新規隊員扱いで新選組へ復帰という説もある。
そんな人間に臨時とはいえ隊長代理にするか?
140 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 01:21:55.61
斎藤一の書き事は伊藤哲也がいちんば
141 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 03:07:59.08
会津藩=親衛隊
親衛隊=ゲシュタボ
142 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 22:08:35.62
143 :
日本@名無史さん:2011/10/04(火) 22:31:15.80
>>142 近藤は浪人だから苗字付き。土方は苗字どころか名前も歳蔵。偽称してる。
144 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 06:06:18.35
>>136 封建領主から公的な苗字帯刀を許されてるかいなかの違いはあるけど、
どの身分の家にも苗字はあったし多くは刀槍鉄砲など武器を所持した。
既に書いている人がいるけど近藤勇は農民から浪人になったタイミング
つまり道場主の養子になって公的な苗字帯刀が許される存在になった。
土方が公的な苗字帯刀し始めたのは浪士として浪士組に入ってからだけど
それ以前から帯刀していた可能性が高い。
というのも江戸後期の幕領は非常に治安が悪く自衛のために有力者層の子弟は
帯刀してしばしば治安維持に協力させられる状況が日常茶飯事になっていた。
土方の実家は豪農であり義兄の佐藤彦五郎は地元の治安を預かる名主だった。
そういう土地だからこそ当然武道の需要があったし士分願望が定着していた。
近藤勇とか土方歳三のように身分に関係なく苗字帯刀して稽古に励む青年は、
公式か非公式かはともかく江戸時代後期には既に関東中に存在していた。
145 :
142:2011/10/05(水) 12:18:55.64
146 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 16:11:18.83
近藤が書いた掛軸が新しく発見されたが
何て書いてあるのかな
147 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 20:15:31.56
>>144 土方の家は貧農。宗門人別をみれば明らか。だから奉公にだされてる。この時代裕福な農家は奉公に出すことはあり得ない。
豪農話は昭和の時期に作られた嘘。論より証拠に佐藤家には借金証文が多く残されてる。
あと刀は運ぶのはOKだけど腰に差すのは領外はダメ。また帯刀御免以外は2尺を超える刀は法に触れるので長ドスを差す者が増えている。
148 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 21:20:55.43
>>147 貧農というのは水呑百姓のことをいってるのか?
近世において奉公人に出すっていう行為は貧富には関係ないことだよ。
むしろ奉公人として商家にやり出世させてそこで身につけた教養人脈で
地元に帰って行政・経済・文化などで活躍させるとかその商店において
出世させて何れ独立させるとか確かな将来設計に基づいて活用されてた。
いわば富裕層ないし中間層子弟の修行の場だった。
現代の高給取りの親が有名私大学に子供を入学させるような行為だった。
貧困層の人たちっていうのは都会に子供を奉公人として出す伝手もなく、
普通は帰ってこられても困るから人身売買の業者にうっぱらってしまう。
また誕生時点で早々に間引いてしまう(多くの神社に関係の絵馬が残る)
一家で「非人」(身分的な「非人」ではなく一時的無収入者という意味)
に落ちて領主が設けた非人小屋で救済をうけるっていうのが現実だった。
刀については何故そのような法令が出たかということは考えれば早い。
つまりそれだけ長刀や二本差をして武士のように外出する「心得違い」
が多く存在していた。それを完全に防ぐ手立ても幕府には無かった。
そもそも黙認せざるを得ないほど関東で盗賊が横行し一揆は多発する。
一揆は一揆で一揆の作法もなくなり明らかな暴力集団に変わっていた。
それでも幕府は身分差別で成りたっている社会なものだから帯刀行為を
在地の有力者層を除く農民たちには建前上禁止せざるを得なかった。
佐藤家と土方家は親戚関係にあるが当然金銭面のいきかいも多かったろう。
単に借用証文の束をどっさりだされても土方家が貧農だったとはいえない。
あなたの読んだ本がどれだけ土方家を大金持ちのように表現していたかは
知らないが少なくとも中間層以上の経済力をもった家柄であることは確実で
貧農というには周辺環境が立派すぎる。
149 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 00:20:18.14
>>144 渋沢一族もそうだな
こっちは攘夷豪農→一橋家家臣→佐幕派残党勢力とこれまた凄い動きだが
150 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 03:58:56.53
>>148 根本的に間違ってるね。
貧農とは書いたが水呑とは書いてない。隼人家は伍長。約30石の年貢高の百姓。
貧農だというのは佐藤家に借金証文が多く遺されてるから。これは隼人家の移転理由となった川の氾濫が起因している。
あと奉公に出すという概念を勘違いしている。
基本的に奉公に出すのは家計が苦しいから。裕福なら持参金付けて養子扱いにする。
多摩地域の宗門人別(多数)で伍長までやって奉公に出してるのは隼人家のみ。
また非人までドロップアウトするのはおかしいぞ。基本的にいまは宗門人別に掲載される身分の人間を問うているんだから。
ちなみに近藤の実家は豪農までいかないがそこそこの農家。コッチは貧農じゃない。
だから近藤周助が養子に貰い受けている訳だ。
土方家の話は捏造が多いのは事実。日野市立新選組のふるさと歴史館叢書読んだ方がいい。
151 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 04:03:59.86
>>148 ちなみにこうした史料を所蔵しているのは土方資料館の隣に住んでいる土方智家文書。
ここの家に聞いてごらん?
ちなみに土方智家は石田村の組頭の家格(伊十郎家)。隼人家とは格が一段上。
152 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 04:12:34.46
>>148 もひとつ。
百姓が帯刀して江戸の御府内に入れると思ってるの?
江戸市中はアチコチに番屋があり、刀でも差していようものならしょっぴかれるぞ!
いくら町奉行の同心が少なくても番太や岡っ引きまで混ぜればけっこうな人がいる訳だ。
近藤勇は浪人だから帯刀が許されてるが土方はOUT!博打したのと同様の罰を受けるから下手をすると島送りだな。
まぁ、裏技とすれば百姓マゲを辞めて偽の人別を作って他人のフリすると言う手はあるが、いくらなんでもそれは有り得ない。
もうひとつは金を番太に掴ませるかということもあるが、そこまで金持ちではない。
TVの時代劇を見過ぎるとこういった基礎知識がないのが現れる。代官領と違って御府内をナメちゃいけない。
ちなみに試衛館は御府内。道場の近くに番屋もあるでよ。
これらに関する法令は江戸町触集成に載ってるから。
あと反論するなら見逃されていたという根拠を明示してくれな。想像はダメよ。
153 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 09:36:05.58
>>150-152 でた謎の上から目線の長文www
やたら上から目線で証拠連呼やつにロクなやつはいないな
変な体験談とか問題のはぐらかしとか煽り文しか書いてないし
その宗門人別帳に土方家の持高は39石7斗8合と書いてるが
これのどこをどうみたら貧農になるのやら。釣りっしょ?
155 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 14:51:10.84
>>153 まぁ調べてからモノを言ってちょ。ニートくん。
156 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 15:02:30.91
147から153へ。お前らいらないよ。特に147=153消えな。お前がこなきゃもうひとつの変な奴も湧かないよ。だから148から152も来るな(ノ><)ノ
157 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 17:34:17.31
158 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 20:06:48.97
バカばっか
160 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 23:05:30.02
161 :
日本@名無史さん:2011/10/07(金) 11:54:55.33
自演乙
162 :
日本@名無史さん:2011/10/07(金) 11:57:20.73
163 :
日本@名無史さん:2011/10/07(金) 12:04:51.44
164 :
日本@名無史さん:2011/10/07(金) 14:32:37.55
@子供の頃、天保山で十数人の海賊の頭を見つけて成敗する
A歳十四にして上方一の槍の使い手と言われる(江戸にも伝わっていた)
B剣術の修行で江戸に下るも(剣でも)負けしらず
C大人になり天保山でまたまた海賊(仇討ちらしい)と出くわすが一人で30人の海賊を捕縛
D隠れキリシタンを名乗る浪人衆100人相手に丸太を持って大暴れ
E内部告発で上司を捕縛(江戸時代ではまずありえない事)
F破戒僧退治の時傭兵20人を滅多刺しにする(30人逃亡)
G陽明学者としても当代一といわれた
H決起の時に命を預けるものが300人もいた
I跡部(水野忠邦の弟)は大塩捕縛の為鉄砲隊を派遣するが、弾を詰める度に大塩の槍の餌食になっていた
J潜伏後の大塩対策で跡部(水野忠邦の弟)が持ち出したのは大砲だった
K大塩は散々暴れまくった上で爆薬を体に付けて自爆(松永久秀・織田信長以来)跡形もなくなっていた
L跡部(水野忠邦の弟)は黒こげた遺体を見て「(もう)これでいいだろ大塩の遺体は・・・」と投げやりになった
M彼の死後、大塩は健在と全国で同様の乱が起きる(有名なのが生田万の乱)
N幕末の時、新政府軍に大塩がいるといい新撰組の原田(槍の名人)が平隊士に「(出会ったら)逃げろ」と指示を出す
O大塩の身長は7尺2寸(今で言うところの217センチ)髷を除いた身長でもゆうに200センチを超える偉丈夫
165 :
日本@名無史さん:2011/10/07(金) 15:18:10.12
166 :
日本@名無史さん:2011/10/07(金) 15:37:00.52
>>165 え?
ちがうけど
左之助のエピソードがあるコピペを探して張っただけ
167 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 16:30:57.68
会津小鉄と連携して、近藤・土方を金で口説いて
水戸派から会津派へ転向させたのは、斉藤一。
会津小鉄は京都の大親分となり、斉藤一は特高警察の産みの親と成った。
原田や相馬を斬ったのも、斉藤一。
見廻組・今井を坂本暗殺犯に仕立てたのも斉藤一。
御陵衛士の上司・伊東甲子太郎を殉難者として靖国合祀させたのも斉藤一。
きゃーかっこいい!?
新撰組の身長って、どうやって調べられたの?記録残ってる?
171 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 22:28:14.89
>>170 永倉や斉藤は衣服が残ってるので推測できる。
172 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 02:51:39.90
[3290]土方君とウミネコ by:近藤@日野新 10/11 17:35 返信
何故か、第十六陸中丸の土方君の周りにウミネコが集まってきました。
「副長!お久しぶりです!と新選組隊士・野村利三郎の声が聞こえた気がしたのは私だけでしょうか(笑)
イタい……イタ過ぎる………(−_−メ)
173 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 15:22:06.72
博徒厨
174 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 13:29:32.14
175 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 16:43:04.68
博徒厨の暴言は怖い怖い。
博徒って凄いよ凄いよ(笑)
176 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 23:06:58.29
博徒(笑)
177 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 03:40:41.93
久々に覗いたが一気にガキのたまりばになってしまったな
このスレある意味あんの?
178 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 11:50:23.27
近藤勇は七人の屈強の部下を引き連れ京都へ行く。
そこで伝説の任侠、会津小鉄の取り持ちにより
会津候の御預りとなり新撰組を確立したのである。
近藤勇は尊王攘夷をやり抜く。
まずは隊列に紛れ込んだ日和見主義者供の粛清だ。
そして、冒険主義者供の巣窟、池田屋に突入。
敵を膾に斬って捨て、尊王攘夷の正しい道を確立したのである。
我々はここから多くの事を学ぶことができる。
近藤勇の明神剣が炸裂し、公武の二統が汎化され、
尊王と攘夷とが汎化され、七生報国、破邪の剣と成った。
新撰組ファンの心理が皮肉じゃなく不思議なんだが
内輪揉めばっかのDQN集団によく夢見れるね?
好きな集団と全く同じ事をスレでやってるのか・・。
おお、もう・・・。
北斗の拳も聖闘士星矢も内輪もめばっかりのDQN集団だぜ。
182 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:56:58.67
>>167 伊東甲子太郎の子孫として、怒りを覚える。
幕府の糞犬に成り下がった殺人、建造物侵入、強盗、逮捕監禁、監禁致死、現住建造物等放火犯どものせいで御陵衛士は散々な目にあったのだ。
斎藤の子孫と話をさせろ!!
183 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 13:57:59.74
184 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 17:05:53.00
藤田五郎は斉藤一の逆名跡。
明治七年頃、西郷隆盛食客として
相変わらずやりたい放題やっている斉藤一を
会津きっての正統派剣豪が斬り、名跡継承した。
会津藩の恥部を消し去る為である。
芹沢派浪士組のNO2は斉藤一。
近藤派新選組の監察部長も斉藤一。
伊東派御陵衛士の資金管理責任者も斉藤一。
185 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 14:44:51.54
>>150 でも土方家って近所からお大尽って呼ばれるほど裕福だったんでしょ?
明治になって苗字の自由がもたらされたら、近所の人がこぞって土方にして、あの辺り土方だらけだよ。
>>185 どっかのブログだかサイトだかで読んだ記憶があるけど
日野の土方家が多いのはガチだが、読み方は「つちかた」か「つじかた」ばかりらしい
「ひじかた」読みは土方さんの子孫家だけって聞いたけど、本当かな?w
近藤さんの実家(宮川家)が豪農じゃないって、初めて知った…
ずっと豪農だと思ってたw
187 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 18:23:55.46
普通に豪農だよ。釣られんな
188 :
日本@名無史さん:2011/10/29(土) 19:26:39.13
189 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 13:28:41.84
>>164 完全にネタとはいえ上方のヘッポコ剣法が江戸で通用するとは思えんな
190 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 21:30:09.07
御陵衛士って実は伊東たちの専売特許的名称じゃないのね。
191 :
日本@名無史さん:2011/11/09(水) 04:44:11.33
明治になって明治天皇が二回も
佐藤彦五郎宅で休息してるのは本当?
192 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 23:45:46.20
193 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:25:31.82
昭和の新撰組は役立たずで終わり、平成新撰組はすぐ消えた
近藤勇の処刑は不当だったね
195 :
日本@名無史さん:2011/11/22(火) 16:35:06.51
王政復古政府の信用は国内的にも国際的にも当時極めて薄弱なもので
そもそも天皇を絶対権力とする思想すら学者や志士を除き理解が薄い
徳川宗家はまだ機能していて事実上江戸時代の延長状況が続いている
というか明治という元号すらない。
実際権力の空白状態は日本列島各地のいたるところに広がっていた。
そのなかでの近藤処刑にしても当事者たちの人数だけの言い分があり
それが状況次第でまかり通る混沌とした国内状況が現実にはあった。
それでも結果論で無理やり正当不当の色分けをするのはちと苦しいか。
近藤が自ら投降をしてもそれでも彼一流の理論を敵方に説き続けたのは
彼の「草奔の志士」としての理論が天皇に弓引いた事実を反省せざるを
得なかった一方で復古政府に対する懐疑心抵抗心を捨てきれない心理も
強いという自己矛盾に対する複雑な心境からの行動だったのかもなぁ。
難しい話しないで
197 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 11:01:52.09
大抵の新選組ファンに共通してる特徴って史実気にする割に
いざ専門的なはなしになると難しい話しないでって逃げるとこだよな
ここで長文連発して議論するやつも呆れるが
そもそも学術的な話が理解不能なら学問版にスレたてなきゃいいのに
198 :
日本@名無史さん:2011/11/23(水) 14:35:45.81
ここや別スレの専門的な話は、個人的に凄く参考になるから有り難い
自分も史実を気にする新撰組ヲタだけど
専門知識のある人の話なんて、周りにいないし
本出してる自称専門家なんて、ここの人達に比べたら参考にもならんよ
199 :
日本@名無史さん:2011/11/24(木) 10:05:34.25
同意
200 :
日本@名無史さん:2011/11/28(月) 23:14:40.89
>>194 新撰組を坂本中岡暗殺犯と決め込んでいた土佐もだが
新政府と協調路線派の旧幕府側にとっても目の上のたんこぶだっただろうから
近藤の処刑は避けられなかっただろうな
近藤の処刑というか死に対して、後藤は何か反応って起こしてる?
203 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 20:17:59.94
戊辰戦争期には既に体制批判や士分意識が強い志士たちは新しい政権や軍隊の厄介者だったしな
近藤勇と新選組の徳川宗家からの体の良い追放は大局的にみれば草莽排除の一環だろうし
本人たちも自分らの居場所がもう多くはないことは京都幕閣の解体あたりから気付いてたかもね
204 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 20:29:02.06
>>202 近藤が土佐藩の様子を窺いに一方的に後藤に接近してたって感じだからなぁ
全く感知してないことも感想を抱かないこともないだろうけど
そもそもその頃は神戸とか西日本にいたはずだし
地理的にも役職的にも口出しとかできる状況ではなかっただろうね
>>204 やっぱりそんな感じなんね
ということは、近藤の死後というか死んだ事に対しても
黙して何も語ってないのかな?
206 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 23:00:49.23
>>205 後藤は近藤の財界に対するコネクションに驚かされたという話はあるようだよ
新撰組は会津藩を治安活動だけじゃなくて資金収集でもサポートしていた
そしてその任務の中心が近藤だった
下っ端の土佐藩士たちは新選組となかが悪いいから猪武者みたいに卑下するが
会ったら意外と如才ない男で意外だったようだね
逆に言えばそれくらいの印象しかもっていなかったようだ
207 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 23:23:46.99
以上、民明書房からの引用でした。
208 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 23:33:20.51
>>206 やっぱ佐藤彦五郎経由の多摩ネットワークが強かったのかね?
210 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 07:30:11.76
>>209 近藤勇が財務管理ひいては組織管理の能力に長けていたのは
自分が現実に道場経営者だったってこともあるし
佐藤彦五郎たち交流のあった豪農商層の仕事に学ぶところは
もちろん多かっただろうね
ただ大坂財界とのネットワーク自体は
近藤勇独自の周旋活動によって構築されたものだった
志士になることで武士の身分を自己否定した脱藩浪士芹沢鴨の金策は
一方的に殴りこんで大義名分をおしつけるものだったけど
志士になること=武士になることと考えてた豪農層出身近藤の金策は
礼節を重んじて先ずは商人を屯所か旅館に呼びつけて丁寧に交渉した
つまり利害の一致を優先した
応じなければ時には恫喝や嫌がらせって強硬手段もとったようだけど
そういう計算のきいた交渉で大名なみの資金源の獲得に成功している
しかしお金が消えていったのは新選組ではなくその預かり主の会津藩
結局どこのお武家もそういうアウトローな力にでも頼らない限りは
軍事的にも財政的にもやっていけなかったって現実が見えてくる
例え幕府権力相手でも豪家が素直に金を出さなくなるくらい
民衆生活は逼迫したものになっててかつ大きな社会不安で動揺してた
その時代の閉塞感と改革希求の感情の狭間に新選組みたいな連中が生まれた
211 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 10:23:32.35
212 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 01:32:16.83
近藤の実家は豪農というほどの家でもない。
213 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 10:28:17.51
214 :
日本@名無史さん:2011/12/09(金) 12:02:21.43
>>211 山村竜也はここまで整理された文章は書けませんwww
板橋でさらされる近藤勇の首の写真が発見されたよ。
216 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 07:01:16.89
嘘つくなソース出してくれ
近藤も土方も武田騎馬隊の末裔で庄屋。だから旗本になれた。庄屋と旗本は
もともと同格だからね。
218 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:41:23.79
幕府直轄軍は基本的に旗本を指揮官にする決まりだから
局長の近藤勇は唯一旗本身分を付与されてる
士分付与では幕府軍制との対応が意識されているわけで
隊士の出自が問題にされてるわけじゃないし
浪人近藤家を遡って中農宮川家で評価するのも不自然だ
貧農出身の伊藤俊輔は上士になれなかったが名門武士の家柄の近藤勇は旗本になれた。
220 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 14:11:46.12
>>219 伊藤博文は親父が農家から足軽家に養子に入って武士のはしくれになった
近藤勇は農家から剣術家に養子入りして仮にも武士となった
スタートラインは大して変わらないな
ってか伊藤さんは旗本どころか総理大臣になってますってwww
221 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 14:23:52.94
これらのソースは民明書房刊
「今夜の志士は鍋」
多摩の豪農層はもともと上級武士だったから召抱えられれば必ず上級武士になった。
もともと同格なんだ。
223 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 06:42:19.24
同じ多摩の豪農・中農なのに新徴組連中は庄内藩の足軽格ですやん
幕府は「尽忠報国之有志」って資格で近藤勇らを採用してるわけで
そもそもそれ以前の出自ってものは関心にはしてなかったし
その傭兵集団を正規軍に組みこむにあたって
身分制軍団の職制と齟齬ないように役職に応じて身分を与えただけ
224 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 01:10:18.84
NHK-BS時代劇ドラマ『新選組血風録』
幕末という変革の時代。その大きな流れに逆らって、「武士」であることに異様ともいえる情熱を傾けた男たちがいた。
剣の腕ひとつでひとかどの武士に成り上がった男たちは、新選組として日本の行く末を左右する苛烈な戦いの最前線に身を投じたのである―――。
司馬遼太郎原作「新選組血風録」は、混乱の時代を懸命に生きた新選組隊士たちの激しく切ない人生を、毎回読み切りの形式で描く<新選組外伝>。
時代劇初主演の永井大が、新鮮かつダイナミックなヒーロー土方歳三を演じる!
[ 2011年4月〜6月 NHK BSプレミアム放送 ]
DVD-BOX好評発売中
http://www.toei-video.co.jp/DVD/sp21/shinsengumi.html
225 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 01:15:20.69
NETの『新選組血風録』 は傑作なんだがなぁ…
227 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 10:09:09.76
新撰組がアウトローだのヤクザだのと扱われてるのは何か違う様な気がするけどさ。
基本的には民兵農兵義勇兵志願兵の類だと思うんであって。やっぱり内部粛清や一部一時期の乱行が悪いのか?
>>209 >多摩ネットワーク
今から見るとどうもその辺りの事情についてはピンと来辛いね。だいたい多摩は何が悪くて田舎扱いなんぞに……
228 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 00:30:54.83
多摩はいまでも田舎です。
229 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 11:40:08.48
>>227 通俗的にヤクザと表現されるのは単純に内部抗争や乱暴狼藉など表面上の行為でだろうさ
ただ実際に探索活動や兵卒・陣夫の人材源としてアウトロー集団が活用されてたね
通常の軍役体制外の軍隊だから人員集めは剣術家の人脈やアウトローの人脈に頼ってた
まあ国自体が近世兵営国家なんて呼ばれる武闘組織の理論で組みたてられてたわけだしね
武士=戦士が民衆生活の平和保障してんだから年貢だせだの御用金だせと強要し
そのくせ下っ端であれば下っ端であるほど人命は軽視され逸脱者は容赦なく処分されてた
新選組はそういうヤクザより怖い支配の末端を担った
そんでもってそういう国家のあり方は現代までも繋がってたりする・・・・・・
長々失礼
>>227 明治政府が徳川の気風が強く、民権運動も盛んだった多摩を疎んじて、
開発を後回しにしたため周囲より遅れたと言う説があるな。
>>230 それでも山口県・鹿児島県の大部分よりは都会ですが、何か?
>>227 新選組、というか京都守護職が新設される前、
京では天誅名目で攘夷志士が好き勝手に暗殺しまくってたのに
明治政府に都合が悪かったせいかその辺りが曖昧にされてた気がする
所司代だったかの武士4人が数十人がかりで嬲り殺しにされたり、
当時の攘夷志士なんて人殺しばかりしててろくなもんじゃなかった
それを考えれば新選組や見廻組の治安維持の功績は大きいと思うんだよね
連中は暗殺もむやみやたらにはしてなかったみたいだしw
233 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 11:37:24.88
>>232 無秩序の暴力は怖いが公権力による暴力も怖いな
新撰組は新撰組で天下国家の名のもとに虫けらみたいに民衆を拷問死させたり
近藤局長御自ら先頭にたって無理やり軍資金や屋敷地を取り立てたりしてるしさ
権力者にとっては邪魔者をズバズバ殺してくれるから治安維持の要だろうけど
世の中の大多数を占める民衆にとってはどうだったろうなぁ・・・
飲んでないのに飲酒運転の罰金とられるならまだしも命までとられちゃたまらん
>>233 悔しかったら剣で相手をねじ伏せればいいだろ?
それができないなら命と金を差し出せ
徳川の為だ
235 :
日本@名無史さん:2012/03/09(金) 15:32:22.01
新撰組ってのは元々世直し勢(暴徒化した窮民層)を斬ることにはじまって
天下国家を乱す異人や浮浪を斬ることで地域社会の秩序回復を志すようになった
在地の有力者層とその取り巻き=草莽層集団が脱藩浪士集団と並ぶ人材源だったしな
いわば時代劇でいえば悪代官サイドの人間たちで構成されてたわけだから
もともと庶民に対しては手厳しかろうね
リーマンショックも食い止められなかった糞日本史フリークども
原発ごときで二分して
なんかお前らの存在意義ねえな
新撰組って京都だっけ?
児童に車突っ込ませまくれよw
てんかんとか理由つけず新撰組にいた
糞京都とか、しねよ
237 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 00:34:57.56
?
238 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 13:41:57.01
「新選組に長州の間者が」っていうのは本でよく見るけど
新選組側の史料には出てきても、長州側の史料では見たことがないんだよな・・・
自分が知らないだけかもしれないが
そもそも、新選組の知名度ってどのくらいだったんだろう
史料だと新徴組と間違えられてる例をいくつか見たことあるけど・・・
239 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 00:23:06.60
>>238 江戸幕府が浪士組および新撰組や新徴組を編制した主たる目的に浪士対策があった
幕藩権力の統制外で活動する在野の志士を一隊にまとめて教化するのが課題だった
つまり募集対象者は必ずしもガチガチの佐幕派だけでなかった
実際に浪士組の募集予定者名簿に坂本龍馬とか宮部鼎三とか反幕的志士が名を連ね
新撰組もまた然りで様々なイデオロギーの人間を殆ど無条件で受け入れていた
そういう背景を考慮すると「長州の間者」とされてるメンバーは
けっきょく幕府の教化を受けつけなかった人たちって考えるべきかも知れない
長州が意図的に潜り込ませたというより幕府の命令に従順な兵隊になり切れず
長州はじめ西南雄藩勢力に流れた人たちというか、、、
もっともスパイ活動のことが公の記録に残ること自体また珍しいっちゃ珍しい
殆ど誰にも悟られることなく潜入し任務を遂行したか消された人間もいたかもね
新撰組でも公文書に殆ど名前を出さない密偵が何人か確認されてるし
240 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 22:15:13.70
白色テロリスト
>>239 レスありがとう
浪士組については知ってたけど、なるほどそういう考え方もあるわけか
243 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 18:43:24.80
>>233 >新撰組は新撰組で天下国家の名のもとに虫けらみたいに民衆を拷問死させたり
具体的にどういう事件の話よ?
ちなみに、池田屋事件の古高俊太郎は純粋な民衆とは言えないよ
古高は公家の近習を勤めていた人間だから
244 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 00:14:38.21
>>243 横レスですみませんが学者により近世の武士や民衆の定義は十人十色なので
先ずどのような身分や職能の人間を「純粋な民衆」とするかは難しい話題ですな
自分の読んだ宮地正人氏の『歴史のなかの新選組』によれば
市井のあいだで新撰組の屯所牢が恐れられていたそうで大坂商人の藤井藍田など
慶応元年5月の京坂大手入れ事件で拷問の末死亡してしまった人もいたそうです
芹沢鴨愛妾お梅のように巻き添えを食らって殺された人もいましたね
ちょっと違った観点からいいますと当時の軍隊は「人狩り」をやるのが常でした
雑務にあたる陣夫や小者として百姓・町人を無理矢理動員する行為のことですね
大嶽浩良氏が調べた下野の記録のなかには土方歳三の率いる旧幕府脱走の軍隊が
村々の若者をみつけしだい武器で脅し強制的に使役したことや
人足に使われた男性たちを心配して寺社に千度参りする人々がいたことなどなど
生々しく悲惨な「カッコいい戦い」の現実も伝えられています
国家のためという大義の下に市井の人々の命がモノのように使い捨てられる
そんな光景は大戦下のみならず幕末社会にも存在し
新撰組もその「加害者」であり「犠牲者」でもあったと言えるでしょうかね
245 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 07:10:33.97
246 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 21:13:21.32
洋装だったら逮捕されなかったということか・・・
何故新選組で近藤や土方、沖田ばかりを贔屓して
伊東や芹沢、山南を貶す人って多いんだろうね?
新選組は近藤や土方、沖田の私設部隊じゃないし
伊東達も居てこその組織だと思う。
新選組が好きという人と話をすると理不尽なまでに
後者の3人を貶す人が多くて非常に気分が悪い。
そもそも本当に新選組が好きなのか?と疑いたくなる。
249 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 03:24:31.52
>>248 一般に歴史学としての新撰組と時代劇としての新撰組がゴッチャになりやすいしな
ふつうは高校の暗記勉強くらいの歴史教養しかないわけで
どうしても勧善懲悪的だったりトンデモ説的な評価に流れやすいんではないかなぁ
芹沢らを悪人と論じる人が多い理由も単純にそういうことだと思う
芹沢と山南は最近では人気者だろう。
芹沢は個性派悪役として魅力があるし
山南は大河の影響が大きい。
伊東が不人気なのはウラギリ者だからだろう。
新撰組モノの作品ではまず良く描かれない。
ヒトカドの人物だったのは間違いないんだが・・・
251 :
日本@名無史さん:2012/05/16(水) 22:59:53.32
自分は強いて言えば伊東甲子太郎のオカマキャラが定番化してることに違和感があるかな
ピスメとか風光るとか薄桜鬼とか
史実に基づいて〜とか強調する作家に限って適当な仕事するってのが残念でしょうがない
伊東好きなんだけど、イマイチ扱いが悪いよね
大河の伊東は役者は良かったのに嫌なキャラで残念だった
衛士視点の作品も見てみたいな
253 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 23:40:53.22
近藤勇も伊東甲子太郎と同じく酷い扱いだな
敵味方を問わず気真面目で文武両道の人物だったと高く評価されてるんだが
必要以上に土方に頼りっぱなしな人物設定が残念だ
実際は土方が近藤出張中に仕事が処理できない早く帰ってきてと手紙だしたくらいで
近藤の組織内外での役割は司馬小説で描かれてるよりもっと大きかった
近藤と土方が、「あいつ気に入らない」で殺しちゃった人間だから、
二人を崇拝する人間は、無理やりにでも伊東を悪人にしたいのでしょう。
それでは記述自体が嘘まみれということになるのですけど。
近藤は、組を掌握してから隊士に臣下の礼を強要したり、
要人貴人を気取って政見を表したり、あまり良い記述がありませんな。
前から疑問だったんだが、土方を「鬼の副長」というのは
何がソースなんだろうか?
256 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 20:41:47.60
>>255 たぶん土方歳三のことを鬼の副長と書いた史料は存在しない
新選組ブームのなかで何時しか生まれた架空の渾名だと思う
史料中では異口同音に利口だが気が強いとして紹介されてる
例えば新選組と接触した京都三井両替店の奉公人の日記には
近藤勇は穏やかな人物で土方歳三は秀才だが短気な人間だと
その印象が綴られているね
フィクションで知られる性格に近いところはあったみたいだ
ちなみに近藤勇の人物は文武両道で気真面目とされながらも
同時にリーダーになるだけあり強情な性格という評価が多い
彼も本質は気の強い秀才肌で敵を多くつくったのも納得かな
伊東甲子太郎は一般に知られる様な薄っぺらい人物じゃなく
やっぱり大物然とした気真面目な人物だったそうだけれども
少し真面目過ぎてやはり敵を増やすところはあったようだね
まあ三人とも総じて相当に我の強いところはあったみたいだ
そうでなきゃ武闘組織のリーダーなんてやってけないわけで
そもそも世に出る野心も抱かなかっただろうからね
>>254 伊東を悪者にしとかないと近藤土方ヲタには都合が悪いもんなw
258 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 02:34:31.93
副長と参謀はどっちが偉かったんやろか
ここ見てると勉強になる
どうも新撰組関連は捏造が多くてどこまで史実なのかよく分からないことが多くて困る
近藤は調べれば調べるほど、最初はともかく途中からこの人のどこにそんな人望が…と思うし
土方は多重人格か?って思うくらい言われてることバラバラ
永倉にさえ性格よく分かんないって言われたって本当なんだろうか…?
>>258 副長の方が偉いと何の疑いもなく信じてきたけど、これで違ったらショックだ
260 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 12:13:48.82
たまには殿内や家里の事も思い出して下さい。
山南さんは格としては副長より偉いけど、ラインから外されてて実権がなかった、ってのは本当?
262 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 16:22:30.62
>>261 西村兼文の史書『新撰組始末記』に芹沢粛清直後の人事として山南敬助の総長就任が唯一確認できるね
ただしそれ以外の史料では全て副長と書いているから山南の総長就任それ自体については疑わしいかな
ある時期から山南が近藤勇と衝突して意見が採用されなくなったとする史料は確認できる
>>259 副長は序列第二位で参謀は序列第3位だね
まあ近藤も土方も実在の人間だからね普段会ってる人間ですら分からないことだらけだし
相手によって接し方が異なればもたれる印象も違ったろうしね
百年以上前の人間を僅かな史料だけで理解するのは正直不可能に近くて
だからこそ面白いとは思う
>>256 ありがとう
史料で見たことないと思ってたけど
やっぱ誇張?されたもののようだね
伊東も好きなんだよなぁ
264 :
261:2012/05/20(日) 21:07:21.11
>>262 ありがとー。
山南さんもいろいろ言われるね。
尊王攘夷派だったから新選組についていけなくなったとか、大怪我して剣を振るえなくなっていたとか。
265 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:35:03.39
服部武雄最強説って根拠はなんなんだろ?
266 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 00:11:14.93
服部武雄が油小路で二刀流を遣い暴れまわったことは話題となり
その獅子奮迅ぶりを称える記録が数多く残された
たぶん服部最強説はそれらを根拠に何時しか定着したものかもね
もちろん強い弱いは主観のはなしなので沖田や永倉より強かった
とかはどうやったって分かりようもないことなんだけど
いわゆる達人と呼んでもいい剣士だったことは間違いないみたい
新撰組での序列は上位で慶応元年の7月つまり入隊一年足らずで
諸士調役の次席に任ぜられていて伊東一派ではナンバー2だった
そういうとこからも実力者だったことが分かるね
御陵衛士の人が明治に入って服部最強って言い残したんじゃなかったっけ
268 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 02:31:04.10
子母澤寛の『新選組始末記』には「京都浪士中第一の剣者などと言われた服部もいるし・・・云々」という一節があるね
もちろん子母澤は前に紹介されているような同時代を生きた人たちの手記だとか証言を前提としてそう書いたはずだけど
服部を直接「最強の剣士」と書いたのは子母澤がはじめてじゃないかなぁ
でもそこまで強いなら撃剣師範になってそうだけど、そうじゃないんだよね?
270 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 22:26:41.23
>>269 服部武雄の師範就任が確認できる史料は無いね
ただし教授(師範)っていう職制自体よく実態が分かっていなかったりする
例えば西村兼文の『新選組始末記』にある有名な十番組編制表が多々勘違いを含むものだと確認されていて
それと併記されている撃剣や柔術などの師範人事もどこまで実態に近いのか分からない
また元隊士近藤芳助の書翰に「撃剣教授心得」が確認できるから教育担当のスタッフ職制はあったようだけど
その就任者には始末記の人事表にはない鈴木直人や真田四目之進の名前があったりする
人事の詳細はもちろん何時から設置されていたのかとか心得というからには教授にも階級があったのかとか
諸士調役や勘定方のように独立した職制なのかそれとも兼任だったのかとか謎が多い
たしか司馬も著作のなかで服部が一番強いと断言していたな
272 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 23:14:40.26
逆に一番弱かった隊士は誰なのかっていうね
273 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 01:42:15.51
ソース司馬(笑)
274 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 10:01:29.26
>>270 >有名な十番組編制表が多々勘違いを含むものだと確認されていて
これは初耳。どういうこと?
伊東って近藤を暗殺しようとした訳じゃないよね?
伊東本人が暗殺された11月18日も近藤を説得するつもりで
醒ヶ井まで出向いたみたいだし。
何にしても近藤や土方、総司ばかりが過剰なまでに
贔屓されて伊東や山南、芹沢、武田が理不尽な形で貶されるのは
我慢ならない。
話は変わるけど御陵衛士の中で一番強かったのは
新井忠雄だという話を聞いた事がある。
それについて触れている資料や書籍はまだ読んでないんだけどね。
277 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 18:52:18.69
>>274 山崎丞の雑記帳とみられる『取調日記』なる史料が数年前に発見されてたんだけど
それによれば1865年6月頃つまり十番組編制が採用されていたとされる時期は
8番組までしかなかったことが確認された
まあ率直な疑問として島田魁『英名録』の1865年7月で134人という人数に
10番組編制をあてはめると20〜30人の隊士不足だったことになっちゃうしね
第一次や第二次の行軍録との整合性もとれないし一応前から疑問視する声はあった
>>277 ありがとう
そいうえば、山崎の日記って活字化されてないんだろうか
279 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 19:08:47.58
>>244 >自分の読んだ宮地正人氏の『歴史のなかの新選組』によれば
>市井のあいだで新撰組の屯所牢が恐れられていたそうで大坂商人の藤井藍田など
>慶応元年5月の京坂大手入れ事件で拷問の末死亡してしまった人もいたそうです
藤井藍田が開いていた私塾は勤皇の志士達のアジトになってたんだから、完全に
無関係な人間を拷問死させたわけじゃないじゃん
>芹沢鴨愛妾お梅のように巻き添えを食らって殺された人もいましたね
”巻き添えで殺してしまった”というのは、拷問死させたのとは全然違う
280 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 05:46:15.19
逆賊
281 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 06:11:18.32
tesuto
282 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 01:10:13.53
>>278 日野市が原文写真と翻刻文&解説文つけた冊子を発行したけど今は購入不可
現地の図書館などでコピーなら入手可能
名簿部分は『続新選組史料集』にもあるけど詳しい人には評判は悪いようだ
幕長戦争当時新撰組が幕府からどんな機能を求められ変化しつつあったのか
その辺が断片的にだけど分かる面白い史料だと思うよ
>>282 ありがとう!
「新選組史料集」も絶版みたいだし、新しく史料集出してもらいたいなー
284 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 00:58:56.83
朝敵
285 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 08:57:34.91
永倉さんが55歳の時に日清戦争が起きて抜刀隊に志願したが断られたみたいだね
今日は沖田さんの命日ですね。
って事は日露戦争の時はもう70歳くらいか
288 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 12:59:42.04
日清戦争と日露戦争の時は陸海軍の将軍や提督に永倉新八と同じ世代が沢山いたんだよね
土方歳三と一緒に北関東や東北で戦った立見尚文とか逆に宮古湾海戦で敵として対峙した東郷平八郎とか
もちろん職業軍人でもない老兵に用意された席はなかったけど
永倉はかつての攘夷志士として対外戦争には参加したくてしょうがなかったんだろうなぁ・・・
斎藤一の息子が確か海軍だっけ?
やっぱ誇らしい気持ちになったかねェ
斎藤一と永倉新八が旅順要塞に突撃してれば
もっと簡単に陥落させてたなだろうな
この前、山南の墓を久しぶりに拝みに行ったら寺の人と話す機会があった
曰く、伊東とかも最初はここに埋葬されてたんだけど、
後に200名もの人が押し寄せて、伊東や藤堂の遺体を掘り起こして持って行ったらしい
よく改葬されたって本とかには書かれてるけど、正確には改葬ではなく力づくで持ってかれたみたいだ
山南とかの墓石もその時の騒動で大分ヒビとか入ったらしい(乱暴に扱われた)
寺自体も賊軍に協力したといわれて色々大変だったらしい
沖田の縁者も眠ってるけど、名前が記録帳からわざわざ削り取られたのって
やっぱり関係者だと分かると、その女性の家族が大変だろうだから配慮したのかな?
沖田関連の知識は全くないんだけど、やっぱり内縁の妻か何かだろうか?
292 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 21:31:26.21
>>290 新撰組隊士ではないけど、伊庭八郎も加わっていればカオスだと思う。
緋村抜刀斎も加えよう
294 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:45:59.90
>>291 沖田氏縁者の正体は永遠の謎かもねぇ〜
光縁寺はけっこう狭いところにあってびっくりした思い出がある
そこにボロボロになってひっそりと佇む山南敬助のお墓をみたら
同郷としては何か悲しくなったなぁ
永倉新八の手記によれば山南は伊東グループと親しかったとあり
現に伊東甲子太郎も山南の切腹を弔う和歌を残しているんだよね
それでも乱暴な扱いをうけてしまったのか・・・
>>291 寺の人は「明里の墓」って言ってなかったかい
>>294 伊東たちの遺体はまだ死んで数か月で新しかったから、他の新選組の人たちの遺体と区別出来たみたい
で、中身確認したりするのに邪魔だから墓石を引っこ抜かれたりしたんじゃないかと想像してる
自分はむしろよく山南たちの墓石残せたなと感動した
当時の住職がかなり出来た人だったらしい
独身の隊士は基本墓石一緒の合葬だったらしいが、山南は一応正面に単体で名前がのってるよね(横には他隊士の名もあるけど)
河合とか金持ちの例外除けば、芹沢でさえ正面に二人以上で名前がのってるのに、山南やっぱ慕われてたのかな?
そして真ん中にあった大石造酒蔵がほぼ単体?の墓なのに兄・大石鍬次郎の愛情を感じる
沖田縁者は単体の墓だけど、あれは昭和の末に問い合わせ多かったから建てたみたいなんで別物だな
>>295 明里とは言ってなかった
話ずれるけど、明里って作り話じゃなかったっけ?
297 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 00:47:28.14
埋葬方法の違いは武士としての序列の違いからきていると考えられるね
山南敬助の厚遇は単純に光縁寺の埋葬者のなかで一番格上だったことが理由で
芹沢鴨と平山五郎の合葬は二人が同じ隊長だったって説を信じれば説明できる
ただ個人的には芹沢と平山の同格説はちょっと疑わしくもあるけど・・・
自分も光縁寺の住職に明里って言われたな
山南厚遇は、そもそも光縁寺と壬生浪士組の繋がりが山南と家紋が一緒っていうのが
起点だったはずだから、関わり方の差じゃないのかね。
それ以前の隊士は壬生寺の方に埋葬されてるし
そもそも墓が当時あった場所ってすぐ隣にある線路の下あたりで、大正だかぐらいに
墓移動させたって聞いた気がする
御陵衛士の改葬は朝廷の命令で行われたはず。
衛士の一人が「死んだら泉湧寺に葬って欲しい」と言ったとかもあるけど
資金は公家あたりから出てたと思う。
299 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 23:10:26.30
>>298 壬生浪士は8月18日の政変直後に新撰組の隊名と市中取締りの任務を与えられた
つまり幕府の京都出先機関(京都守護職)の末端組織として正式に位置付けられた
あくまで自論だけどもこの一連の役所化・京都定住化にともなう変化の一つとして
新撰組の菩提寺を光縁寺に設定したのかなぁ・・・と考えている
当時は身分を証明するために必ずどこかの寺院の檀家さんになることが必要だったけど
近藤勇は「拙者関東発足の時より忠天朝に奉し躬は幕府致し候」という思想だったから
自分たちの幕府役人としての身分が定まっていくにつれて勅願寺の壬生寺に葬るよりは
幕府所縁の知恩院末寺光縁寺が自分たちに分相応であると判断するようになったのかも
すなわち朝廷−幕府−新撰組という順序をただすための意図があった
そして人柄も良くて家紋が一緒という話の掴みをもつ山南敬助がその交渉役に抜擢され
万事話が上手くまとまった・・・そういうことだったんじゃないかなぁ
>自分も光縁寺の住職に明里って言われたな
自分が行ったときは住職さん出かけてていなくて、家の方に対応された
だから言われたことが違うんだろうか…?
>そもそも墓が当時あった場所ってすぐ隣にある線路の下あたりで、大正だかぐらいに
墓移動させたって聞いた気がする
これは自分も聞いた
墓石自体は多分、当時の物なんだろうか
下手な本読むよりここの方がよっぽど勉強になる
長々チラ裏書いて申し訳ない。ROMに戻ります
301 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 01:45:34.86
本は読んだほうがいいだろうけどなwww
新撰組本つったって菊地明さんや山村竜也さんだけじゃないし
302 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:59:29.41
新選組の見廻りってどんな感じだったの?
やっぱりダンダラ羽織でガン飛ばしながらゾロゾロあるく感じかね?
>>302 ダンダラ羽織は実際はほとんど使われなかった
4人1組で見回りしてたはず
ところであの有名なダンダラ衣装って発注したの結局誰なんだろうか?
本によって芹沢だったり近藤だったり…
304 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 06:27:25.20
>>302 新徴組では一日二組が昼夜に分かれて江戸市中を見廻った
一組は肝煎以下25人で合印の袖章をつけ袴の股立ちをとり陣笠を被った本隊15人が二列に並ぶ
肝煎は馬上でそれに槍持や突棒・サスマタ等々捕物道具や雨具籠を持つ小者たちが何人か付属した
本隊に前後し変装した忍び廻り10人が一丁に1人づつ変装して従う
出発前に庄内藩屋敷の新徴組総括松平権十郎に挨拶して庄内藩警邏隊との合流などを打ち合わせた
見廻りの順路は決まっていて途中休憩する場所も指定されていた
正午出発組は午後八時に屯所帰営で午後六時出発組は午前一時に屯所帰営ってスケジュールだった
新撰組も似たような見廻りの仕方をしていたらしく2、30人一組で京都市中を見廻ったようだよ
たぶん馬上の局長か副長のもと二組26人ほか小者なんかが付属って編制かな
そのほか
>>303のいうような少人数の警邏隊が町々に散らばって目を光らせていたのだろうねぇ
>>304 そんな詳しい情報初めて知った!
どんな本に載ってるの?
306 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:41:15.57
>>305 小山松勝一郎さんの『新徴組』(絶版)っていう本に書いてあった
新徴組はまとまった史料もけっこう多くてハッキリしたことが分かっているみたいだ
子母沢寛さんの『新選組遺聞』にある八木為三郎翁の証言によれば
隊服を着て槍をかついだ20人くらいの隊士が市中見廻りに出かけて行ったほかに
数人一組がブラブラと平服ででかけていったというから
新徴組と新撰組の市中見廻りは殆ど同じ内容でマニュアル化されていたみたいだね
また八木翁によれば近藤や土方はダンダラバの隊服を嫌っていたようで全然着ずに
だんだんと廃れていったと話しているね
近藤は赤穂義士の大ファンだったといから近藤も少なかず関わっていたかもだけど
個人的にはド派手なデザインは芹沢の発案じゃなかったかなぁと思う
ま、当時にしてもキバツなセンスだったんだろうな。
だから近藤も土方も着なかった・・・
>>306 ありがとう
その本、読みたいんだけど見つからないんだよね・・・
赤穂浪士の時代って何気に幕末より大分前だしデザインが古臭かったのかも
まあ、目立って仕方ないからダメだったみたいだけど
新徴組の人たちは何気に大半が生き残っているから、新撰組の幹部連中も上手いことやれば生き残れただろうか?
会津お抱え&京都で実際に薩長と戦った、だしやっぱり無理か…
310 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 01:05:20.37
>>309 新徴組もけっこう亡くなってるよ・・・・・・
新撰組と同じく戦死や規律違反で命を落としたヒトは勿論多いけど
現代でいうPTSDのために発狂して仲間殺して自分も自殺したり
維新後の過酷な開墾事業に耐えきれず一家全滅等々
もちろん新撰組だって戦争終わって厳しい処罰をうけたわけだけど
彼らは基本的に独身者で戊辰戦争以後は幕府や会津からも解放され
刑期を終えたものも生き方を自由に選択することができた
けど新徴組は10年以上も家族ぐるみで権力に拘束されたぶんだけ
軍隊組織における消耗品としての絶望や悲しみに苦しみ続けていた
こちらもやはり生き残るには大変な境遇だったようだ
都内で毎年恒例的な新撰組のイベントとかやってます?
313 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 13:05:05.42
今夜はヒストリー見忘れた
315 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 21:08:30.47
ハッピ買った
良い色ですね
俺は30代男だが薄桜鬼のアニメはおもしろいよ。
乙女ゲ原作と思って侮るなかれ。
イマドキの40代から下の世代は
歴史に興味を持ったきっかけが
マンガやゲームだったヤツが多いだろう。
若者のことを笑えないよな。
夢枕獏か誰かの伝奇小説で新選組が吸血鬼って設定はあったような気が
>>317 三国志なんかは光栄と横光から入ったヤツが多いだろうしな
俺もそうですが
320 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 10:56:01.64
あと大河から入る人も
好きな役者が出演してたら見るよね
ドラマの俳優でどのキャストが好き?
俺的には、近藤は原田泰造が一番顔が似てると思う。
322 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 22:37:18.46
山本耕史の土方歳三
323 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 22:41:17.04
歳さんは美しい
長州グロ肝キムチーナとぜんぜん違うもの!!
歳さんを返してほしい。
コンプ面長州
324 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 22:55:51.01
書き事は伊藤哲也が斎藤一の一番の書き手
325 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 02:04:29.19
「新選組血風録」永井大の土方歳三
326 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 04:09:52.35
458 人間七七四年 sage 2012/07/16(月) 15:33:44.79 ID:/z881tdx
変わる時代に逆らって 燃えてみようぜ二人して
愛よ恋よも良いけれど 命のやりとり 男じゃないか
近藤 土方 さむらいよ
粋な羽織をなびかせて 男男と風をきる
廓雀がさわぎます
誠の御旗が夜風に揺れりゃ 正義と正義の血の刄
武士だ誠だ近藤は 燃える男だ土方は
月も惚れますさむらいに 時代の流れはわかっちゃいるが
徳川守るは男意地 徳川守るは男意地
327 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 11:52:53.12
328 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 19:56:57.33
堺雅人の山南敬介
オダギリジョーの斎藤一
329 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 20:01:20.49
330 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 22:23:13.41
長塚京三の土方もなかなか
山本耕史の土方歳三
オダギリジョーの斉藤一
なんだよ、結局、新選組!大好きだな、お前ら。
放送中は歴史ヲタがグダグダ言ってたが。
333 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 14:11:44.57
沖田は草苅正雄
334 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 09:55:39.96
当時、手記を読んでみると
新選組は悪知恵ゴロツキ集団としか思えない
ゆすりたかり乱暴狼藉、見せしめの切腹
何でもアリ
役所こうじの土方が好きだけど
低い姿勢からなぎはらう殺陣がワイルドで
でもちょっとかっこよすぎるんだよなー
山本耕史はいいかも
永井の土方はどうにもゴツ過ぎると血風録を見て思った。
山本耕史のが土方のイメージに合ってると思う。
燃えよ剣の栗塚土方の死に顔は結構トラウマww
中川勝彦の沖田
340 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 18:48:47.43
341 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 19:30:37.55
永井はどうしても
只野仁、サラリーマン金太郎のイメージ強すぎ
るろ剣映画の江口洋介の斎藤一は?
悪くないとは思うんだけど、
344 :
脱藩浪人:2012/08/12(日) 10:52:49.20
ほほ〜う幕府の犬が沢山おるわw
それはともかく、時代が読めなかったよな彼らは。
345 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 12:03:39.43
>幕府の犬が沢山おるわw
ポシンタンにしてやるわ!・・・て世界世論が・・・
346 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 12:19:43.98
大河ドラマ新撰組のキャスト以外受け付けなくなった
三谷版のキャストが一番だ
我らが犬なら貴様らは影を這いまわるゴキブリだ。
ゴキブリが犬に敵うかー!
石川賢の漫画より
348 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 12:47:53.60
ザ・ブームの近藤勇が結構良い味出してた
>>342 試写会で見てきたけど良かったよ
剣技も迫力あったし、結構自分の中のイメージ通りだった
>>349 それはるろ剣の斎藤一のイメージか、新選組の斎藤一のイメージかが気になるなw
何故新選組ファンの大半の人は近藤や土方、沖田ばかり
過大評価して芹沢や伊東、武田達のような粛清されていった
人物を過剰なまでに蔑み、悪人扱いするのだろうか?
新選組って近藤や土方、沖田だけの力で成り立っていた
わけじゃないと思うんだが。
それより何より芹沢や伊東のようなカリスマ性のあり、リーダー
シップ能力のある人物が蛇蝎の如く嫌われるのが非常に納得できない。
近藤や土方、沖田ばかり贔屓する人達って本当に新選組が好きなのかな?
引き続き書き込んで申し訳ない。
伊東って御凌衛士を編成してから近藤を
殺そうとしたわけじゃないよね?
何とか説得して自分の味方にしようとしていた
という話を聞いた事があるし。
土方が伊東達御凌衛士を壊滅したのも近藤の暗殺を
察知したからではなく、薩長だけではなく御陵衛士まで
敵になったら手に負えないからだよね?
無学な人が伊東を非難しているのを見ると気分が悪いな。
>>352に釣られてみるが・・・
>土方が伊東達御凌衛士を壊滅したのも近藤の暗殺を
察知したからではなく、薩長だけではなく御陵衛士まで
敵になったら手に負えないからだよね?
察知したからじゃねぇの?
そのためのスパイ斎藤だったわけだし。
伊東が立派な人物だったのは間違いないが
土方の立場だったら伊東を斬ろうとするのは当然だろう。
結局、相容れない仲でした・・・
>>353 御凌衛士から金を持ち逃げして、帰る場所が
新選組しかない斉藤が「伊東が近藤を暗殺
しようとしている」とでっち上げただけじゃないの?
勘違いしないで欲しいが、俺は斉藤が好きだ。
土方も好きだが自分と相容れない人間は消すという
考え方は理解できない。
新撰組の内情知ってる伊東に薩摩に近付かれちゃやばかったから暗殺とも考えられる
ずっと情報流していたならともかく、いきなりでっちあげ言っても信じて貰える組織じゃあるまいて
斎藤は直後に三浦のとこに匿われたり改名したり、やっぱり間者のほうがしっくりくるよ
356 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 15:05:14.65
>>355 自分も同意
斎藤一が持ち逃げした金の正体が
水野弥太郎から高台寺党に提供された軍資金というのもポイントだね
油小路直前の高台寺党は水野の博徒集団を軍隊に編成する動きを見せ
実際に高台寺残党が赤報隊2番隊を編成するにあたり水野は加勢した
この伊東の高台寺党と水野の博徒集団の連合軍の形成は
反幕激派の武装蜂起に敏感になっていた新撰組にとって脅威な訳だし
間者の斎藤はこれを察知して直ちに新撰組に情報を流す
斎藤一は意図的にか元来そういう人柄だったのか分からないけど
女遊びに使う金欲しさで軍資金を持ち逃げしたという印象操作を行い
高台寺党に警戒されずに脱走に成功した
って考えるほうが突発的に遊ぶために金を持ち逃げして帰る場所が無く
新撰組に嘘八百で戻ったと考えるよりは自然だと思うけどなあ
>>351 薄桜鬼・黎明録の芹沢鴨はやたら格好良いぞ。
土方や近藤を軽く上回っている。
新撰組腐女子の犯しがちな誤りを言うと、
・伊東甲子太郎は薩摩の子分ではない
彼は新撰組から独立する意思を示していたが、あくまでも円満な自立であり、近藤勇も(心中は別として)了解していた。
薩摩は、対話を呼びかける伊東をあまり相手にせず、伊東横死の時点までは新撰組の一派として警戒を解いていない。
これが変化したのは、新撰組による伊東ら高台寺残党暗殺と高台寺残党の薩摩への駆け込み、
そして高台寺残党による「坂本龍馬を殺したのは新撰組である」という証言以降の話。
この証言すら、伊東を近藤勇に殺された高台寺残党が、薩摩へ身柄保護を要請する際の口上だったと考えられ、
近藤勇が坂本龍馬暗殺魔として新政府軍の標的にされたのは、近藤の身から出た錆という面がある。
腐女子が語る「坂本竜馬サマを殺したのはあのにっくきカマ伊東なのよー」説には根拠がない。
まず時系列整理しようや
話はそれからだ
伊東を貶めるのは、伊東を罠にかけた近藤や土方の行動があまりに悪辣だから。
361 :
日本@名無史さん:2012/08/28(火) 23:37:31.43
新撰組ゆかりの地、日野市の高幡不動の名物、高幡まんじゅうは創価まんじゅう
法敵のはずの高幡不動尊の境内で饅頭を売る高幡まんじゅうのオーナーは
池田大作のことばを自分のブログで紹介する創価学会市議!
http://www.komei.or.jp/km/hino-minegishi-hiroyuki/ 東京都日野市の市議会議員 みねぎし弘行 「ことばの道しるべ」
新しい仕事は自分の枠を破ることから始まる 2011.4.9
青春の失敗とは、失敗を恐れて挑戦しないこと。2011.2.23
人間として、確かな目的をもって、生き抜く人こそ、偉大であり、幸福です 2011.2.16
挑戦なくところに青春はない。あくなき挑戦の気概にこそ、青春は脈動する 2011.2.5
これ全部 池田大作先生のお言葉だ。政教一致の違憲政治結社、
この市議は高幡まんじゅう「松盛堂」の オーナーでもある。
http://www.syoseido.co.jp/ こいつが創価に入ったきっかけは、自分が消防団員であるにも
かかわらず実家が火事になり先代社長の父親が焼死した。
落ち込んでいるところを創価に折伏されたんだ。
362 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 01:49:19.53
「るろ剣映画見てきた。
プロローグシーンの斎藤一はくわえ煙草で切りまくりーの、新撰組隊士達は銃で撃ちまくりーの
砲弾が落ちまくる中での切りあい撃ちあいの、鳥羽伏見の戦いシーンはなかなか楽しめました。
363 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 03:08:15.85
>>360 近藤は悪ってしちゃったら
結局伊東は悪と決めつけてる連中と変わらないがな
かつて芹沢鴨にしたように自分らも何時寝首を掻かれるかも知れず
来るべき将来も見通し難い現実に生きてた近藤と土方がとった正攻法を
悪辣呼ばわりする必要はないし
史料的根拠に欠けるフィクションのイメージで伊東を貶める必要もない
どうして片方上げたら片方下げなきゃ気が済まんのかと
こういう無駄な色分けの好きなのが大学教授とかにもいるから性質が悪い
>>363 友好を装い酒をたらふく飲ませてよってたかって惨殺
正攻法じゃありません
その上、土佐の犯行として上司に報告し事件の隠蔽まで行う悪質さ
昔は、新撰組の扱い自体が悪役のイメージだったらしいからねえ。
悪口を言われて取り上げてもらっていれば、そのうち花咲くこともあるw
366 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 04:50:08.37
>>364 人道的に正しくないってことを言いたいんか?
自分もごっついエグイやりかたしよるな〜とは思うけどな
歓談&酒食で相手の心身に油断を作り
夜陰に紛れ被害を最小に抑えた大勢での攻撃で確実に斬る
高台寺残党も報復戦で夕闇に紛れ
僅かな共を従えた近藤勇を物陰から狙撃して多人数で奇襲をかけ
また病床の沖田総司を狙って多人数で強襲を図った
どっちも戦いになれば自分らが死んだり怪我しない戦法を追求している
どっちも経験豊富な兵隊らしく軍事的な正攻法ですわな
幕末から平成に至る歴史の「結果」を知ってる俺らが「結果」を知らん
幕末のヒトらのやらかしたことを正義か悪か裁定すんは
俺は何かシラケちゃうんだけど他の人らはそうではないんかなぁ
どっちの立場にたっても共感できることがあるからなおさら
>>366 同意。新選組が好きだけど、自分もそう思うよ。
新選組は好きだけど近藤と土方、沖田
の過剰な贔屓振りは好きじゃない。
370 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 14:14:54.64
11/9(119番の日・太陽暦採用記念日・ベルリンの壁崩壊・Firefox1.0リリース)生まれの有名人
1818年 ツルゲーネフ 1834年 近藤勇
1840年 黒田清隆 1876年 野口英世
1950年 梅沢富美男 1960年 石田えり
1962年 高倉あつこ 1974年 アレッサンドロ・デルピエロ
1984年 えなりかずき
371 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 02:19:43.48
油小路事件の日age
矢鱈と近藤、土方、沖田を過剰に持ち上げて
御陵衛士、芹沢一派、山南、武田達を貶める
輩を粛清する人が現れて欲しいな。
>>372 近藤は過剰に持ち上げられてないだろ。
どっちと言うと毀誉褒貶の対象で、良いようにも悪いようにも書かれている。
賛美賞賛しかない土方が一番過剰なんじゃ?
新撰組ライターって、基本、土方ファンしかいないし。
土方マンセーのあの雰囲気は凄いよな
近藤も研究自体は言うほどされてないわけでもないけど、
土方や沖田の取り上げに比べて、局長である近藤がそれ以下ってのがなあ。
この間見た剣豪ランキングでも、
土方→沖田→斎藤→近藤の順だったし。
376 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 10:15:46.25
新撰組がWIKIで秘密警察に分類されていた
そんな立派なものではありません。
町奉行所が無給で使う(その代わりに十手を光らせて町の住民からみかじめ料を脅し取る)ヤクザ、つまり岡引の一種ですよ。
___ ━┓
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. /´ ___/
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新選組って、幕府直参になるまでは会津藩が私的に編成した武装集団にすぎないから
秘密警察っていうよりは民兵だよね。
南米で金持ちとかが自衛用に組織してる。
法的根拠がないのに逮捕権行使とか取り調べとかしてるから京都の町人から何をするかわからない集団と恐れられた。
奉行所ならルールに従って公権力を行使するとわかるけど、新選組は行動基準がわからないから。
381 :
日本@名無史さん:2013/01/02(水) 00:46:33.97
東京都日野市の高幡不動尊に初詣に行ったらご用心!
仏敵のはずの高幡不動尊で饅頭を売る創価学会市議!
http://www.komei.or.jp/km/hino-minegishi-hiroyuki/ 東京都日野市の市議会議員 みねぎし弘行 「ことばの道しるべ」
新しい仕事は自分の枠を破ることから始まる 2011.4.9
青春の失敗とは、失敗を恐れて挑戦しないこと。2011.2.23
人間として、確かな目的をもって、生き抜く人こそ、偉大であり、幸福です 2011.2.16
挑戦なくところに青春はない。あくなき挑戦の気概にこそ、青春は脈動する 2011.2.5
これは全部 池田大作先生のお言葉だ。池田大作の言葉を自らのブログで紹介するような
創価学会員で公明党の市議が、実は高幡まんじゅう「松盛堂」のオーナーなのだ。
高幡不動の境内で 饅頭を売っているのは、仏敵のはずの創価学会員なのだ。
http://www.syoseido.co.jp/
俺も土方は好きなんだけど、彼は正しい事を
何一つしていないと思う。
383 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 20:32:07.21
ジュテ━━━ム(゜∀゜)━━━!!!
384 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 18:00:50.89
土方総受
385 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 20:16:56.11
先月ラジオで歳三のことやってた
386 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 08:31:58.92
創価のもとの日蓮宗は本来他の全ての仏教を否定しているからじゃね?
388 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 04:09:57.85
日蓮宗と創価はまったく別物だろ、創価はカルト。
389 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 08:05:44.15
kど、この間の白虎隊、なんであんなに土方をとりあげたんだろう?
>>389 この間見た剣豪ランキングでも、
土方→沖田→斎藤→近藤の順だったし。
そういうことだ
人気ランキングだね
永倉いないし
392 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 20:32:08.09
新撰組といったら、サガミハラハラの居住地。サービスですよ。
幕末の介さん=佐々木只三郎
幕末の格さん=粕谷新五郎
のコンビは譲れない
NHKのヒストリー見てて思ったんだが、会津国境防衛戦って大鳥圭介の部隊に斉藤率いる新選組が参加だよね?
土方は仙台だよな?
母成峠が破られるまでは土方も会津でふんばってたはず
あれ? 宇都宮で足をけがしてからは前線で指揮してないんじゃなかったっけ?
「新選組100話」を読んでいる途中なんだけど、
油小路事件における近藤と土方のやり方は如何考えても
人間の所業とは思えんな。
芹沢暗殺のやり口も最低だったけどな。
>>397 命のやり取りに最低もへったくれもありませんが?
397はアルジェリアへ行って「人名は地球より重い」と
戦後日本民主主義教育の精神を彼の地へ伝えるべき逸材
まぁ撃ち殺されるだけだと思うけどw
全く同じ人が薩長は卑怯だと言うのは不合理
>>397 それを卑怯だ何だといい始めたら奇襲側は常に卑怯という事になると思うんだが
池田屋事件も長州人はろくな武器も防具も身につけてなくて
新撰組は武器も防具も準備して討ち込んでるだろ
逆に天満屋事件は海援隊が準備万全の状態で新撰組に討ち込んでるから
剣術全然習った事が無い人が総大将なのに新撰組の方が死傷者多く出してる
どうしても襲われる側は不意打ちやだまし討ちになるだけ。
>>402 奇襲側が有利だから正しい!間違い!という発想自体がおかしいと思う。
単純に、「襲撃する側が有利になるなのはごく普通の事」というだけの話
ちなみに自分は官軍オタだがそう思う。
スマソ誤字訂正
「襲撃する側が有利になるのはごく普通の事」でした
>>402 味方の犠牲を最低限に抑えるという点で言えば
正しい指示だと思う。
>>401 >剣術全然習った事が無い人が総大将
それどこの土方?
もうさ、
>>397とか
>>402は新撰組にかぎらず歴史ジャンル自体
に興味持たないほうがいいと思うぞ。
人間には向き・不向きがあるからな。
歴史という分野で正しいとか正しくないとか現代人の価値観
で語る奴は今現在の事だけ見てればいいんだよ。
人間の歴史なんて人殺しの連続なんだからさ、ぬるい思考しか
出来ない奴には向いてない。
酒で酔わして仕留めるのは神話の時代からだからな。
スサノオ、ヤマトタケル、頼光、皆似たようなもの。
>>406 悪いけど海援隊の総大将に比べたら、土方レベルでは10人居ても適わない。
いくら鍛えようが筋肉のつかない体躯、その類稀なる病弱さ、ひ弱さ、しかも結核まで併発
攻撃されたら痛いので武術は習わずジョギング(という名の逃げる練習)を極め
こちらが何一つ危害を加えずとも自主的に気絶し倒れてくれる時も。
もはや新撰組が束になってかかっても適う相手ではないな…
>>407 そもそも「暗殺」というのは、スパイを送り込んで動向を探らせたり
油断しているタイミングを狙ったりする一連の駆け引きや作戦を含めた長期戦の勝負であり
剣術の腕を証明する場ではないという事を理解しない事には話が進まないもんな
>>409 それから君は言っている事が極端だ。
何故近藤や土方のやり方を非難するぐらいなら
歴史に興味を持つべきではないのかよく分からない。
近藤や土方のやり方を非難してはいけないの?
>>412 ど見たら
>>409が近藤や土方のやりかたを非難してるように見えるのよw
単に陸奥が凄すぎて土方とは雲泥の差だという話しかしてないだろw
>>411 ごめん、官軍ファンから見ても「え…?幕末ではこれくらい普通の手法ですけど…?」としか言えんわ
新撰組で卑怯と騒ぐのであれば薩摩とかどんだけ卑怯扱いされるのか逆に怖いわw
>>413 分かり難かったか。
何故俺が近藤や土方のやり方を非難するなら、歴史に
興味を持ってはいけないのか?と聞きたかったんだ。
>>415 「分かり難かったか」とかではなく、君は大きく誤解してるw
自分=
>>409は、
>>407とは別人なんだけど
レスする相手をまちがって怒られても困るw
>>411=
>>412 だからさ、要は君は新撰組のことをちょっと知ってる程度なんだ
ろう?君が出した書籍名からして、新撰組に興味を持ってそれ程
経ってない人間が読む本だよね。
はっきりと言えることは、君が現代の価値観をもって正義感を
振りかざし、近藤や土方を批判したところで、歴史は変わらないと
いうこと。だから、本当に歴史が好きな人間はそんな無駄なことは
しないわけ。
それを敢えて学術板でやってる君は、単に自分の正義感に同調
する人間が現れるのを待ってるだけでしょ。
それって、歴史が好きなわけじゃないよね。道具にしてるだけ。
他の場所でやれば?
ここにいる連中は新撰組だけしか知らないわけじゃないから、
君の意見に賛同する奴は現れないかもしれないよ。
>>417に完全同意
むしろ官軍ファン(
>>414は自分の書き込み)目線から見ると新撰組は卑劣どころか愚直の域だと感じる
薩摩みたいにあちらと協力し、裏ではこちらと工作し、一応念のためあちらとも工作し…ぐらいまで
手をまわすと「卑劣」とか言われてもまあ「でも賢いでしょ?」としか言い返しようがないけど
新撰組ぐらいの手回しだと「普通」とは思うが「卑劣」という感情自体が出てこないわw
>>416 大変失礼しました。心よりお詫びします。
>>417 勝手に他人の人間性や考え方を決め付けないでくれるか?
その言い方だと喧嘩を売っているようにしか思えない。
それから君は俺が持ち出した書籍は読んだ事はあるのか?
>>419 >>417では無いが、とりあえず一度新撰組以外の幕末本とか読んで見ると良いかも。
自然と「あ、むしろこれが普通の時代なんだ」と思うかと。
ちなみ他の事件では、殺した後もフンドシに首を包んで辱めたり、
殺した美男の死体にバイセクシャルが萌え萌えしたりと
中々カオスな時代にござりまする
>>419 じゃあ、どういう意図でああいう書き込みしてるのか?
>それから君は俺が持ち出した書籍は読んだ事はあるのか?
あるよ。随分と前に。
はっきり言って、現在では内容的に古いと言えるだろうな。
君は、その古さに気付いていない風なので、要するに新撰組に関する本でさえ
内容を吟味できるほどの読書量を確保していないという事が判る。
>>421 だから決め付けるなって!!
いちいち腹立たしい奴だな。
反論せず、感情をぶち撒けているだけの時点で…
そもそも近藤や土方は殺す必要がない人間を躊躇いもなく
殺し過ぎなんだよ。
芹沢や新見、山南、伊東、藤堂と俺の好きな人物が大した理由も
なく殺されているのが腹が立つ。
俺女腐女子ウザイ
>>424 そんなこといったら倒幕派なんて死んだらダメな人間殺しまくりだw
>>426 アホな伊東腐女子はマジで自分のブログに引っ込んでホスィ
>>428 黙れ。近藤と土方ばかり擁護しやがって。
ハァ?擁護なんてしてないわw
言い掛かりとか、卑劣ダネ、俺女はww
結論:伊東腐ガキ(俺女)が一番卑劣
乙女ゲームのスレか何かと間違えて来ちゃったんでしょうかね
>>422 人には質問しておいて、自分は質問には答えない、と。
それでいて、他人を断罪しているとは!
新撰組大嫌いな俺は伊東甲子太郎先生が大好き。
伊東一派に最期まで着いていった藤堂は素晴らしすぎる
斎藤一死ね
>>372 同意すぎる
沖田の美化も嘘だからな
写真見てみろオタフク顔のからくり人形だぞ
伊東甲子太郎と武田かんりゅうさい大好きだ。
武田さんは時代遅れの武学に堪能だったが、まだ刀を持った兵隊が戦争するギリギリの時代に必要な男だったと思う
松原忠次も好きだな
俺女が学校から帰って来たようです
これからここは、俺女伊東腐女子の個人ブログになります
写真??w
>>435 節子、それ写真でもなければ沖田の顔でもない
血縁者の絵や
そもそも沖田美男子説は何がきっかけで浮上したんだろう?
八木家の方々も沖田は美男子だとは言ってないしね。
司馬じゃないの
なんかやたら可愛い可愛いと書いてたような気がする
>>439 いやいや沖田の顔あるでしょ
下膨れみたいな顔してるやつを言ってるのだと思う
あれだけど結構マイナーなんだよな
>>436 え?女で自分の事を俺呼ばわりしていて新撰組好きで、なおかつ学校に行ってる女がいるの?
マジでタイプだわ
ベッドの上で女にしてやりたい
「ほら俺の村正で刺していい?」
「俺…そういうの苦手…」
「うるせえよほら痛くしてほしくないなら丁寧に舐めろよ」
「ん…あぐぁ…んん…」
「へへへ尊皇攘夷ぜよ尊皇攘夷ぜよおおお!!」
>>443 だからそれが439の言ってる親戚(甥だっけ?)をモデルにした絵なんだって
>>445 そこまで熱弁するならソースを出すものだぜおぼっちゃん
局中法度の八を読め
熱弁を奮う者はsauceを出す事
>>446 いやふつうにWikipediaにも書いてるけど
こないだからかまってほしくて煽る子がいるねー
ひまだからいいけど
俺女見てたら捨てアドほしい
マジでタイプ
一緒に尊皇攘夷しようぜ
法学部の先輩に一人すごい美人いるんだけど、俺女をそいつの顔と想像して抜いてくるわ
写真もあるし
「尊皇攘夷しようぜ?」
「…いやだ…」
「どうしてだよ」
「…痛くするもん…」
「うるせえ!御用改めだ!おら服脱げよ!」
むんずと腕を引き寄せ、バリバリと服を剥ぎ取る
「へへへ可愛い乳房してんじゃんかよ、まずは座位で尋問してやるよ」
「…あ…あん…」
「ほら白状しろ!どこが気持ちいいんだ?」
「そんなこと…言えない…」
思いっきり牙突で突き上げた後、四つん這いにさせる
「ほら言えよ!」
「ああ!祇園祭の夜ぅ…もっと身体中に火をつけて…淫乱に情事て…万子が血祭りにいい!」
「ああ!ついに逝ったぜ…」
>>450 不覚にも立った。
やっぱり法学部って思考力半端ないな
こういう情事を一度経験してみたくなった
>>450 さすがチン道無念流の使い手だな
本目録の俺では足元にも及ばない
本スレの主旨から大きく逸脱するが続きを是非読みたいので適当なスレで引き続き頼む
俺女さんも一緒に移動してやってくれ
見られてると本人もやる気が湧くだろうから
>>443 節子、それマイナーやない。めちゃくちゃメジャーや。
しかもそれが写真でもなければ沖田でさえない別人の絵や。
つまりあんな下膨れの化物が近親にいるってことはブサは確定だな
姉のお孫さんに対し失礼じゃね
そういう発言に歴史への敬愛の無さを感じるわ
>>459 実在した歴史上の人物を貶すような発言は駄目だよ。
>>460 はあ?壬生浪嫌いの立場で来てんだよアスペかお前
時勢を見れない殺人集団のくせに
俺女と部屋で尊皇攘夷したい
捨てアド晒してよ
>>462 あのー、アスペでもなければ壬生浪嫌いでも新撰組オタでもない倒幕派オタなんですけどw
>>464 よっ!!征夷大将軍!!
なんじゃおんしも倒幕派でござったか
てっきり中川宮朝彦親王に洗脳された幕府の間者かと思った
これはすまぬ言いがかりをした
めんぼくない
此処のスレを見ていると龍馬のような心境になるな。
喧嘩なんかせずに薩長同盟しようぜ。
攘夷しようぜ!
生麦事件起こそうぜ!!
ぐうとないと
まさか流れが絶たれるとはな…。
もう少しコミュニケーション能力を培ってくれ。
近藤勇にような最期を迎えたい。
>>471 辞世の句は格好良いと思うけど、その前の
動揺ぶりが情けなくないか?
永倉がいいな
我が生涯に一片の悔いなし
っていって死んだんだろ?
ところで、原田左之助が馬賊の首領になってた話って、ソースはなんなんだろ?
子母澤寛の新撰組始末記だと思われ
>>472 同意、流山にて投降する際に糞尿垂れ流して駄々こねたらしいよな
壬生浪のクズどもも大人しく伊東先生に従っていれば良かったものを。
剣だけ達者で学がない単細胞バカは簡単に洗脳されるからな。
会津のサイコパスカタモリの良いおもちゃだろこいつら。
壬生浪に先祖を殺された遺族として一生こいつら否定する。美化するなよ畜生
>>476 まあここは新撰組マンセースレじゃないし語るスレだから肯定派否定派どっちも歓迎するけど、先祖って有名な人?差し支えなければ
>>477 有名じゃないから知らんと思う
錦織有無之助
池田屋で逃げのびて水戸藩邸に駆け込んだのに門前払いされて、会津の糞に捕縛された。
それで、拷問されても素性を明かさずに頓死。
当時、妻が妊娠中で子どもが生まれる寸前だったのに壬生浪のクズどもが池田屋に不法侵入したせいですべてが狂ったんだよ
最近の壬生浪美化が本当にむかつく。
壬生浪のクズが美化される裏ではあいつら頭のおかしいカルト暴力団に殺された尊皇派が何人もいて、遺族は悲痛な思いをしているというのに。
会津の白虎隊も美化されすぎなんだよ
会津の人間はいまだに嫌いだ
先祖のことでそんな怒れるのか…庶民にはわからん
会津てか福島はあまりにも悲惨な境遇が今も続いてるからせめて関係ない人まで嫌わないであげてw
水戸藩邸?
ずいぶん遠いとこまで逃げたもんだな
つーか、天狗党が潰された後の水戸が志士を匿うわけ無いじゃねーか
>>480 錦織有無之助は水戸藩の武田耕雲斎や会沢正志斎と面識があったから駆け込み訴えたんだと聞いてる。
水戸藩の情勢が不安定だったのは理解しているから水戸藩には恨みはないが、
会津の時代遅れなクズ連中と洗脳された壬生浪の知恵遅れどもは許すつもりはない。
田舎もんの大根百姓風情が侍に憧れて狂ったのが壬生浪の連中。
清河八郎や伊東甲子太郎が壬生浪をコントロールしていれば隊士も無駄死にが減ってただろうに。
あんな糞みたいな鉄の隊規で隊士を束縛しすぎて殺して、まるで体罰するやつの脳ミソと一緒だな
暴力で人を服従できると信じてるのが頭の弱い証拠
見廻組の佐々木ともども地獄で泣き叫ぶ姿が目に浮かぶね
>>481 何も知らないくせに声が大きいんだよ壬生浪脳
>>479 怒れるというかうちの家は昔から先祖を敬う気持ちが強いのと、
親戚が集まったときに壬生浪のクズどもがのたれ死んでいく没落ぶりで盛り上がるのが毎年恒例だから普通だと思ってる。
正直、会津若松あたりは今でも閉鎖的な地域だなとこの前友人と行って思ったよ
よそ者に対する警戒心が強すぎるし、母親殺しや災害みたいな事が続くのも尊皇志士らの呪いじゃないの
会津のバカ先祖の悪行の数々のせいで可哀想なものだと同情するよ
それよりも壬生浪どもの墓が地震で粉々になればいいのに。
>>424 あなたみたいに冷静な人が増えると嬉しいよ
本当に同感だね、結局、シエイカンとかいう三流道場の身内が一過性の権力を得て暴走しただけ。
芹沢の悪行がどうのこうのと理由をつけるが、
シエイカンの連中も大概だから。
芹沢なんてあれで結構良い人物談も多いのに、壬生浪美化のせいで芹沢、伊東らは特に悪くされすぎ。
それを短絡的な無知バカが簡単に影響されて喜んでるのが実状だからな。
壬生浪あの世で苦しめよ
お前の墓なんて一生行くことないわ
これは酷い釣りwww
487 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 12:10:53.74
錦織有無之助は子孫がこんな馬鹿に育ったのを草葉の陰で泣いてるわ
話が逸れるけど永倉と近藤って矢張り不仲だったのかな?
永倉と斎藤が全く喋らなかったてのも気になる
490 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 17:57:19.73
>>488 『浪士文久報国記事』や『新撰組顛末記』を読む限りでは
永倉新八は身分制度の縛りを超えた同志関係を何より尊重していた
近藤勇は新撰組を身分に基づき組み立てようとしていった
その組織論の違いが対立を生んで
近藤勇糾弾事件や永倉脱退騒ぎという事態に繋がっていったようだ
>>490 ありがとう。
二人の考え方は根本的に正反対だったんだね。
新選組に上下関係はないという考えの永倉から
すれば大名気取りで白馬に乗ったり、武田の
おべっかを真に受けて調子になる近藤を苦々しく
感じていたんだろうね。
しかも甲州勝沼の戦いの後では近藤から「俺の
家来になるなら意見を聞いても良い。」なんて
言われたら腹が立つのも当然だよな。
確か松平容保に近藤の非行五箇条を提出
した際には、近藤が言動を改めなければ
近藤の切腹を要求していたような気がするし。
近藤の人間に反感を抱いていなければ、ここまで
やらないよね。
となると板橋に近藤と土方の慰霊碑を建てたのは
義理みたいなものだろうね。
伊東から斉藤と共に声を掛けられた際には本気で
新選組を脱退するかどうか迷ったんじゃないかと
さえ思えてくる。
>>486 なにが釣りなの?
家系図も残っているし、縁戚周知の事実ですが?
というか錦織有無之助知ってるのか?ありがたいが。
こんなバカが子孫にいるなら斬られても当然の人物だったんだろう。
親戚周知の事実ってwアホだろこいつw
>>495 日本語読めないの?どこに親戚って書いてるの?日本人じゃないの?壬生浪のゴミ好きなの?
風雲に出てた
予想通りの反応でワロタw
>>499 あと釣り宣言と同じでヘタレがよく言う事
>>498 その小説教えて!風雲ってタイトルなの?
>>499 子孫も痛いのかも知れんがこいつはかなりの痛さだな
後からでは何とでも言えるし卑怯すぎる
>>499 子孫も痛いのかも知れんがこいつはかなりの痛さだな
後からでは何とでも言えるし卑怯すぎる
大事なことだったんだろ
506 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:10:32.01
>>491 >>490です
補足的に言えば
永倉は近藤を先述の諸史料で剣豪、志士として高く評価しているし
なにより彼の顕彰活動にリスクを負いながらも尽力した事実があるわけだし
近藤の人間性はやはり敬っていたのだと思うよ
剣術修行の邪魔になる藩重役の家柄を嫌い脱藩して身分下降した永倉新八
逆に剣術の腕で百姓から浪人と身分上昇した近藤勇
考え方に剣術への向き合い方のレヴェルでズレが有ったのは確かだね
新撰組という組織を同志関係で組み立てるのか主従関係で組み立てるのか
この対立も両者の「剣士としての生き方」の違いの延長線なのだろうね
幕末社会は自由に対する欲求と身分に対する欲求が複雑に交差していた
永倉は「自由」を求めながらも「武士」という身分に終始拘りを持っていたし
近藤は「武士」としての出世に拘りつつ肩書に左右されない「自由」な人間関係を重んじ
旗本取立以降も身分の貴賎を問わず多くの人間と広く交際した
永倉と近藤の不仲には新撰組や幕末社会の複雑性の矛盾の象徴みたいなところがあるね
大河で描かれてたかつては信じてたし、今も信じたいけど
信じきれない的な関係だったってことか。
>>506 丁寧に有難う。
お互いの考えは正反対であっても、一目置いていなければ
あそこまで長い間付いていく事もしないだろうし顕彰碑も
建てないよね。
ただ、ここまで明確にお互いの目指す方向性が違っていれば
真の同志という関係には至らなかったのかなと感じるね。
客観的に見るとどちらが間違っているわけでもないし、どちらの
気持ちも分かるから非難できないな…。
考え方や目指す方向性が違っていても、同志として取り纏めれる
人物が隊内に居てくれたら良かったんだけどね。
伊東が新選組に居た時は隊内の粛清を諌めたりはしていたようだけど、
幹部や隊士同士の関係を取り持ったりしたというエピソードは残って
いないよね。
新選組隊内の人間関係を改善するべく力を尽くしてくれる人が
居てくれたら良かったなと思う。
錦織有無之助って存在するの? ググったらゲームの攻略サイトしか出なかったけど。
グーグルブックスでもまったく出ない。
池田屋事件を熱心に調べてる中村武生の本にも書かれてた記憶はない気がする……。
>>507 小説だったか資料だったか忘れたけど、俺の読んだ書籍
では非行五箇条の一件以来近藤と永倉は気まずい関係になったと
記されていたような気がする。
1867年の元旦から3日続けて角屋で伊東、永倉、斉藤の3人が
門限を破って飲み続けた一件では、確か近藤は永倉一人を切腹
させたがっていたような覚えがあるんだよな。
何もかも曖昧な記憶で申し訳ない。
>>509 ゲームに出てるのは別人設定すぎるよ…
宝蔵院流槍術の使い手で実家に
免許皆伝の書類まで残ってるのにそんなの一切触れられていない
それに幕末には珍しい尾張藩士なのに尊皇攘夷派で脱藩し、
水戸藩邸に世話になってたと伝わっている。
まさか自分の先祖がゲームに出ている事に驚きだし、ましてや実在を疑われているなんて寂しすぎるよ
壬生浪のゴミばっかり取り上げる社会が悪いんだがな
荒木又右衛門にしても赤穂浪士にしても復讐という人間のおぞましい陰湿さが美化される国だから仕方がないけどさ
戦争時にも自決を美化したりこの国も大概おかしいが、それが当たり前になりすぎていて誰も疑問をなげかけない
釣りくさいけど
新撰組は元々悪役じゃん
>復讐という人間のおぞましい陰湿さが美化される国だから仕方がないけどさ
実在するかどうかもわからない先祖の恨みを未だに持ち続けて悪口雑言を吐く
やからが言っても説得力がないけどな。
話が逸れ過ぎ。
事実かどうか分からないし、新選組とは無関係な
内容が重視されて、新選組に関する書き込みが無視されるのは
良い気持ちはしないよ。
そもそも新撰組は美化なんかされてないしなあ
恨みつらみをここに書き綴られてもねえ
>>516 結構最近まで京都では嫌われていたよね。
518 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:13:15.32
>>509 ただのゲームのキャラです
普通に考えてファンが知識を交換したり語り合う場所でだ
>>512みたいな罵詈雑言トーンの書き込みってのは場違い感が半端無いでしょ
この手は無視するに限る
何にでも極端なアンチもいればファンもいるってのがこの世の中
それをマジで一々騒ぎたてることほど非生産的なこともない
好きなら好きでいいし嫌いなら嫌いでいいけど
自分の居場所くらいは分かれよってこと、ただそれだけやね
>>512 奇遇ですね。私の縁者に水戸藩のものがおりまして、当時在京しておりました。
錦織有無之助が実在の人物であるとすれば、知り合いであったかもしれません。
諱など現在伝わっているのでしょうか?
当時、それほど様々な志士が京都には集まっておりましたから、名前の残されていない志士がいてもおかしくはない、と考えています。
ゲームはどこかに名前が残っているものを取り入れたのでしょうか。
水戸藩邸といいますと上長者にあったものか本圀寺かと思われますが、尊攘派の根城として名高い後者でしょうか。
尾張藩で錦織といいますと、美濃国ではあるものの尾張藩の領地であった箇所に錦織という地名が存在するらしく、
そちらの出身の方となりましょうか。
自演してもだめ・・
>>518 この手は無視に限るって言っておきながら出来てない貴様は壬生浪のファンなのか?
宣言通り以後スルーでよろしく頼むよ無知
>>519 知り合いだった可能性はありますよね、水戸藩の方は大好きですのでとても嬉しい
諱は実家に帰れば分かるかも知れませんので、帰郷した際にもう一度詳しく聞いてみますね
あと水戸藩邸=本圀寺の方です!
さすが知識のある方は話が早いのでありがたいです
また錦織の名字に関しては、有無之助が当時出生した近隣に錦織という名が多いと聞いてます。
そのゲームについてはプレイしたことがありませんが、調べた限り確かに錦織有無之助の名が出ており驚いていました。
>>513 人を心から信用しようとできない人間は不幸だと思うまで読んだ
>>514 バカかよ、実在するかも分からないのは第3者のお前らだろ
うちには代々伝わっている由緒があるのだから実在の有無について論じる次元の話ではない
お分かりかね?頭の足りない人だまったく
>>522 本圀寺でしたらその縁者も一時在住していた場所になりますね。
お墓は現在残っておりますか。もしかしたら参られたことはあるかも知れませんが。
贈位記録はもしかしたらあるも知れません。記録が少ない人物でも実は贈位されていたということはあるようなので。
特に殉難された人物の場合は、何か見つかる可能性はあります。
東京の国立公文書館とかに調べれば何か出てくるかも。
そのゲームは福岡裕次郎とか西条幸次郎とか鈴木四郎とか、かなりマニアックな実在人物は実名なのに、
広岡波秀とか望月亀弥太とかそこそこ知られてる人物はなぜか変名になってる不思議さがありますね。
子孫か親族に連絡とれる人物がいるので配慮したのかも知れません。
>>525 ありがとうございます。
お墓は大阪の一心寺というお寺に今はあるのですが、私の曾祖父の代前までは京都の竹林寺という場所にあったと聞きます。(私が生まれてからは既に移されたあとでした)
そこのゲームを作ってる会社は結構調べておられるみたいですね
貴方の話を聞くまで誤解していたと思います。
もし協力出来ることがあるなら有無之助の情報提供をこちらはいつでもさせていただきたいです。
贈位があるかも知れないなんて夢のまた夢の話でとても恐縮いたしますが、少し調べてみたいと思います。
あと紳士的な対応をしてくださった方がいて、ここでの己の醜態に気づかされた思いです…
不快にさせてしまった方々、本当に申し訳ありませんでした。
壬生浪と会津を今後とも好きにはなりませんが、もう少し柔軟に捉えていこうと思います。
また水戸藩と対馬藩を先祖に持たれている方々がみておられましたら、有無之助に代わり深く感謝申し上げます。
特に対馬藩の勝井五八郎さんの子孫の方は見ておられませんでしょうか。
528 :
519:2013/02/05(火) 20:20:21.12
私も会津藩側の史料は役に立っていることが多いので、そこは感謝しますけども、
ここ最近の過度な会津・新撰組押しは作為的なものが感じられてどうも好きには慣れませんでした。
幕末といえば戊辰戦争だ! みたいな偏重も感じられるように思え、「八重の桜」以降もっと酷くなっていくのではないかと危惧しております。
そういう中で子孫の方が声が上げられるのは悪いことではないと思いますよ。
529 :
519:2013/02/05(火) 20:44:43.54
>>526 一心寺といえば行けなくもない距離なので、機会があればいってみようと考えております。
会津藩墓所としても有名なところということですが……。
竹林寺は六角獄舎の殉難者が祀られている場所でもありますね。
私は六角獄舎の事件に関しては国家=幕府が行った白色テロだと考えておりまして、未決囚を斬首したわけですから、重大な事件だと考えております。
対馬藩のことはあまり存じ上げないですね。先日亡くなられた大島渚さんのご先祖が有名ですが。
勝井騒動というのも初耳でした。
落ち着いたようでひとまずよかった
日本人は元々先祖を敬う気持ちが強いからな
あんたみたいな人も昔は結構いた
だけど今は先祖の墓参りもしやしねえ
>>529 よくご存じですね
うちの家が先祖を強く敬うようになった一番の原因は曾祖父がそういう人だった影響なのですが、
曾祖父は有無之助の死語、会津や幕府、壬生浪どもが倒れ、有無之助もこれで浮かばれただろうと言うことで敢えて会津の者が多く眠る一心寺に墓を移しました。
生前やられっぱなしだった有無之助も死語の墓地では立場関係が逆転ですからね
元々は有無之助は明智光秀の家来の出ということで耿之介という名から「世の流れは有無を云わさず」という意味から変名を名乗りました。
その背景には尾張藩士の出なのに脱藩し、尊皇攘夷活動に身を投じたことを父の茂平から責められ
その後、勘当同然で家を飛び出しました。
そういう意味でも姿を眩ましたかったのは幕吏だけでは無かったのでしょうね。
>>528 まったくの同感です。
かに雑炊を食べ終わりましたら再度来ます
533 :
519:2013/02/06(水) 01:51:51.91
実家に協力を願って書簡とか整理されてみてもいいかもしれませんよ。
史料が残ってるところがあるというのは大きいです。絶家になっていると残るものも残っていなかったりしますから。
幕末の志士で現在正当な評価を得られていない、あるいは評価を受けても忘れられている志士も大勢いると思われるのです。
そういう人々は後代の人が顕彰しないと、わからないままにされてしまう。
長州とか土佐のトップクラス、あるいは新撰組幹部クラスだけですからね、ほとんどの人が興味を持つのは。
仮にまとめても発表するところがないという状況はなかなか大変だと思われますが、形にすれば得られるものはあると思います。
新撰組と一口にいっても造反隊士とされている人には不当な理由で敵役にされて忘れられてしまっているものもいるわけで、そういう人の子孫や関係者の方が語って頂けると面白いと思われますね。
535 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 15:59:05.67
>>509 唯一確かなことは、ここで「錦織有無之助」なる人物の存在を飽きずに熱弁してるヤツが、幾ら屁理屈こねても
証拠を一切示せてない時点で、それは虚構と判断するべきで、それが常識的にも学問的にも正しいこと
ネット上に口先だけで「うちには証拠があるから信じろ!」ってさ、これ森口尚史と同じやからね
一ミリも説得力ないですやんか
>>535 信じない奴はスルーしとけば済む話をどうしてできないの?
>>535 せっかく本人もへりくだって和やかなムードに戻ってたのに、空気読めよ低脳
一々これが証拠ですとか画像うPされ続ける方がうざいだろ
お前みたいな空気を読まないことを言い出すやつがいると、次から有益な情報を書きこむ人も減るだろ考えろ
そもそもスレとほぼ関係ない話題
539 :
519:2013/02/07(木) 21:06:49.62
ところで勝井五八郎といえば尊攘派を弾圧した人物、ということに現在なっているようですが、
尊攘派の錦織有無之助と交流があったのでしょうか。ちょっと興味深いですね。
そろそろ新選組に関する話をしようよ。
新選組関連以外の話は幕末総合のスレッドですべき。
止まってますな。
546 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 12:37:23.75
ここはゲームキャラを先祖といって盛り上がるスレ
新撰組はクズ集団に心から同意しました
会津は昔から村社会だったんですね
バカばっかり
バカ以下に相応しい物言いだことで
お恥ずかしい質問ですが。
東北転戦後や北海道転戦後に新撰組に入った人って、どういうルートで入ってきたんでしょう?
求人しても今更負け組に入ろうって浪人や町人はいませんよね?
結局は敗走して北上する途中で
諸藩藩士とか幕臣とか幕軍に属していて指揮系統を失った人たちを
編入していったんだと思うよ
桑名藩とか水戸藩とか
会津藩士も若松城に戻れなくなってやむなく新選組と共に
仙台を目指した人たちが編入されてた記憶がある
>>548 それに一々構うお前は最早生物以下の存在だな
以下ループと予測
相馬主計って新選組最後の隊長として語られるけど、
隊長ってつまり局長の事だよね?
>>553 その人って確かうろ覚えだけど、新撰組には珍しい示現流の使い手ではなかったか?
他に間者も含めると新撰組で示現流の使い手を三人知ってる
富山弥兵衛と度忘れしたがもう一人とその相馬主計。
富山はモノホンの薩摩藩出身で示現流の達人。
新撰組入隊時に、カルト壬生浪副長の土方らに「薩摩藩士はちょっと…」と引かれてた際に、
聡明な伊東甲子太郎氏が広い大きな心で「構わないでしょう」と後押ししてくれたお陰で入れた人。
結果として伊東甲子太郎氏が御分隊されてから、バカでマヌケで恥知らずな土方とかいう人でなしに疑われすぎて居づらくなって間者になってしまった不憫な人。
相馬主計は水戸の出身だったかで、元々の示現流の宗家は水戸にあったんだよね。
調べればすぐに出てくるが。
>>547 あ、私も同意しときます。
ここは新撰組をマンセーするスレではなく、あくまでも新撰組を語るスレで昔からきてるのに、
理解できない頭の弱い一部が「よそでやれ」と追い出しにかかるあたり、新撰組と同じく閉塞的ですね。
だから有益な情報も途絶えて孤立(過疎る)する。
時流を読めない新撰組と似てるのに苦笑いしました。
それで反論も論理的ではなく、短文的外れな泣き文句の類いで哀れすぎます。
賢い者が淘汰され、バカばかりのさばる新撰組は現代社会の縮図のように映ります。
さようなら。
>>554 なんだかんだ言っても有益な情報をくれる貴方に感謝
富山って御陵衛士に参加したんだっけ?
朝鮮人のごとき自演ぶりに驚いた。
>>558 肯定派ってそんな煽りしか出来ないから頭が悪いだの弱いだの笑われるのでは?
このスレで新選組信者ぽいの書き込みってほとんどみないよな
新選組マンセーを叩く会話したいなら、大河板とか時代劇板のほうが
いると思うんだ
>>554 富山は御陵衛士が分離するときに一緒にいってるはず
うろ覚えだけれど、新選組に入る前江戸で伊東や篠原らと
面識があったような説もある
561 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 19:04:35.28
来週の大河に新撰組出るね
流れが止まったから下ネタでも言っておくか。
おっぱい。
ちっぱい
でっぱい
新選組研究の主な系統
│
├ 寺社の過去帳や当事者が遺した記録等の一次資料が必要だよ(一次資料原理主義)
│ ├ 寺社の過去帳以外は事実と認めないよ(超急進派)
│ ├ 過去帳が一番、当事者の主観が入った記録等が二番だよ(序列主義)
│ ├ どっちにしても一次資料があれば史実だよ(王道派)
│ ├ 一次資料は歴史研究の夢だよ、ロマンだよ(浪漫派)
│ ├ 昔は一次資料も少なかったよ(懐古派)
│ ├ 新しい一次資料がどこかにないかなあ(夢想派)
│ └ とにかく自分は一次資料が好きなんだよ(利己主義)
│
├ 一次資料はあった方がいいよ(現状肯定派)
│ ├ だって実際みんな史実が知りたいじゃん(単純理論)
│ ├ 一次資料がないと何ひとつわからないよ(悲観主義)
│ ├ ○○もそのうち一次資料が発見されるよ(楽観主義)
│ ├ ○○も一次資料があればいいなと願ってるはずだよ(心情派)
│ ├ 一次資料が発見されると話題になるから有利だよ(計量主義)
│ ├ 一次資料があれば論戦に勝てるよ(戦術論派)
│ └ 当事者からの伝聞などの二次資料でも実際は史実にされてるよ(功利主義)
│
├ 一次資料はどっちでもいいよ(中道派)
│ ├ 一次資料に有益な情報があるとは限らないよ(懐疑主義)
│ ├ 史実として一貫性があるならいいよ(完璧主義)
│ ├ 個性豊かなのが新選組研究の良さだよ(個性派)
│ ├ それより土葬の墓所の発掘許可申請だよ(難度重視主義)
│ └ とにかくかっこいい新選組が知りたいんだよ(審美主義)
│
├ その前に一次資料を検証してみるよ(実証主義)
│ ├ 一次資料の発見確率はこうなってるよ(確率論)
│ ├ 寺の過去帳だけが事実じゃないよ、主観の入らない記録類も遺されてるよ(古文書学派)
│ └ 一次資料の科学的分析を重視すべきだよ(科学主義)
│
├ これからの新選組研究を進めるには…(指導論)
│ ├ 関心を持ってもらうために土方歳三の写真を活用すべきだよ(宣伝主義)
│ ├ 沖田総司の人気はこのまま大事にすべきだよ(保守派)
│ ├ 斎藤一のことは赤間氏の記述が正しいよ(守旧派)
│ ├ 永倉新八の言い遺したことは矛盾が多すぎるよ(混乱派)
│ ├ 御陵衛士にももっと注目すべきだよ(アンチ新選組派)
│ └ 学術的なアプローチも必要だよ(改革少数派)
│
├ 一次資料は必要ないよ(一次資料否定派)
│ ├ とにかく絶対必要ないよ(超乙女主義)
│ ├ 伝聞等の二次資料だって苦労して取材されたものだよ(人道主義)
│ ├ 一次資料だけが新選組研究の全てじゃないよ(要素主義)
│ ├ 他にすることあるだろう(基礎原理主義)
│ ├ 一次資料見てても面白くないよ(快楽主義)
│ ├ でももし一次資料が出てきたら○○かも(虎視眈々派)
│ └ 一次資料の話だけしてたら研究者が喧嘩するよ(融和派)
│
└ 今の新選組ブームの中で一次資料だけ重視しても・・・(古典学派)
└ 昔からの研究者達の知識は凄いよね(新古典学派)
567 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 20:53:09.07
錦織有無之助とかいう雑魚ゲームキャラの自称子孫が発狂しているスレはここか
呼び込むなよ。
一心寺いってみたいんですがねえ。
かなり大きなお寺さんのようで、殆ど記憶はありませんが子供の頃いった事があるとも聞いてます。
有無之助の墓はどこにあるか分からないでしょうか。
自称有無之助の子孫()が墓穴を掘ってるという意味では、ここだろ。
571 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 18:11:49.11
銃を使っていたのは確実と言うより近藤などの農民出身説が事実ならそちらの方が
使い慣れていたはず?
農民が選んだ武器は火縄銃であり長柄(長さ5〜6m)の槍だと思う。
秀吉の刀狩で農民が剣を持たなくなったとは思わない。
しかし槍のほうが横一列に並んで持って走ったり射撃するだけで効果抜群で簡単だからだ。
畑を荒らす猪を退治するのに剣を選ぶ馬鹿はいない。
しかし彼らは剣を学び池田屋では恐らく短槍までを使っている小説などでは
弓術も操るこれはおかしい。
弓術は武士の最上の嗜みとされ短槍を学ぶ武士は上流のみである。農民なら杖術を操る可能性はあるが
”突き通す”など文献に見られこれの表現は明らかに短槍術の”繰り突き”の威力だ。
百戦錬磨の騎馬武者が短槍片手に”走って”突進し振り下ろす長柄をかいくぐり
瞬時にして数人の足軽を突き倒す。
戦国時代の武士のイメージだが彼らは騎馬武者の方のイメージに近く足軽ではない
恐らく帰農した武士さらには何か”使命”を持った”乱波”など影の軍団的要素も
十分あると思う。
まァ、土方も刀と槍を持って戦ったけど洋モノには勝てませんでしたと言っていたからね。
槍も使ってたんじゃないの?
ちなみに芹沢暗殺のときなんかは本差ではなく脇差を使っていたのかもしれない。
573 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 21:32:30.64
兵農分離後の武士が持つ弓や短槍と農民が持つ長柄や半弓は違うものと考えていいでしょうね。
現在でも農家などに伝来います使用例ですが
長柄は陣形を組み打ちつけたりなぎ払ったり使う物。
短鑓はある藩の御留流を例に出すと短鑓術は左手で鑓に通した管を持ち右手で螺旋を描き前後させる繰り突き
穂先の形状も宝蔵院流の片鎌やなど十文字など斬ることもでき諸派に形が違います。
弓術も神事の礼射と実戦の武射があります。
鏃でも刃があって大きい軽装甲用
生け捕ったり骨を砕く鏑矢
刃がなく小さい貫通重視の征矢
接近戦になれば弓をはず鑓として使い手で投げるダーツのような打根
術を使うのが武士であり。
現在では失伝している流派も多数ありその術は普通は披露することもありません。
披露すれば対策されます。
剣は補助武器で剣術しかできないのでは武士とはいえません
剣は合戦では敵を討てば急いで抜いて首を刎ねるもの
大石鍬次郎は何を考えて加納道之助を
頼ったんだか…。
殺されるに決まっているだろうに。
>>571 脇差は町民や農民でも所持できたよ。
それに西の備えとしての土地柄、武蔵国は天然理心流の他、甲源一刀流、柳剛流など剣術が盛んな土地でもあった。
槍もマタギが使うような熊槍があるけど長さは森の中で使いやすいようにせいぜい7尺ほど。
>>573 >剣は合戦では敵を討てば急いで抜いて首を刎ねるもの
鈴木史感はお腹一杯。
576 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 23:50:11.73
あの場所で殺されるのもおかしい八坂神社や坂の下など歴史上定番とされる暗殺現場は
事実ならや当時あの場所は世の中の混乱で生活困難者である野非人、幕府の下部警察機構の非人手下
の受刑者、神人などなど目撃者だらけのはず、警察署の前で暗殺するだろうか?
死体があったなら死穢を恐れない彼らが死体を運んできた。
失踪した場合は犬神人に変装すればよい。彼らは白い布で顔を隠している
どちらにせよ犯人は知っているのは間違い。
借りに知らなかったら職務怠慢であり。
彼らの上司であるサムライに皆殺しにされだろう。
賤民とされた人々は知ってるだろうがその後の部落差別などの問題で
歴史の闇に葬られた、または封印されている。
賤民とされた穢多や非人その民たち以外に死体を扱える人がいない。
歴史を担っているのは彼らと言える。
577 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 00:04:00.69
鈴木史感というのを今日はじめて知ったんだが”具足と剣のみで敵に立ち向う”
これはまさに勇者の行いだ!
矢玉が尽きても剣一本で戦う士道に満ち溢れた侍が日本に溢れているのは非常によろこばしいと思った。
彼の説明が悪いと思う投石とあるが印字打ち術で使用する石は加工してあるので生身なら刺さる。
彼は知らないのか?
正しくは鈴木史”観”だな。
579 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 01:10:23.27
史を観るって意味か。なるほど勉強になった
580 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 03:04:18.09
跋
説明が足りないしかしおしい武士道は時代によって違う
弓は弓を射れば分かる。
剣は剣をふれば分かる。
簡単に答えがわかる。
582 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 23:42:06.27
>>574 大石鍬次郎は加納鷲尾を頼った訳では無くて一緒に脱走した三井丑之助が裏切ったために捕縛された。
三井は加納鷲尾を介して大石の情報を売る見返りに薩摩藩の探索方に取り立てられたようだ。
俺も新撰組はあまり好きじゃないけど冷静に考えると、彼らも酷だよな
時流がそうだったんだから必死に己の信念と向き合ったんだろうな
大石は人切り鍬次郎と言われるだけ憎まれてたんだろうね
あと小学生の頃に専門書で読んだのだが、永倉新八が維新後に橋の上で新政府側の誰かとスレ違った時、殺されるとひやひやしたって話があったな
>>683 両国橋での出来事かな?だったら鈴木三樹三郎(三木三郎)
だな。
甲子太郎の弟だよ。
>>584 書き込むスレ間違ってる?まだ600まで行ってないよ。
>>584 ごめん。スレ間違ってるわけじゃなかったのね。
チンパン組
チンパン有無之助
新撰組は俺の青春
大河ドラマで影響受けて調べまくって風雲シリーズやりつくして小説読み漁ってた中学時代が懐かしい
谷右京ってナンバー3だったのかな
591 :
日本@名無史さん:2013/05/10(金) 22:11:30.20
中村半次郎に勝てる新撰組は誰すか? タイマンで。
>>591 そいつ金切り声あげて刀振り回してただけじゃん
永倉さんの相手じゃない
593 :
日本@名無史さん:2013/05/11(土) 07:16:15.53
中村半次郎は、示現流の達人だからな。集団殺法の新撰組とタイマンなら
そんなに勝てるやつは、いないと思う。
594 :
日本@名無史さん:2013/05/17(金) 11:54:56.26
示現流最強
595 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 01:50:10.80
新撰組は相手1人に対して3人で向かうのが基本ですから。
勝てなんぼの傭兵部隊だから。
596 :
日本@名無史さん:2013/05/18(土) 02:00:51.19
映画版るろ剣の最初のシーンで斎藤ー率いる新撰組が銃で戦ってるの好き。
昨日燃えよ剣を読んでから新撰組に興味持ったんだけど
ほかにこれ読んどけって本ある?
壬生義士伝
新選組三部作(遺聞、始末記、物語)
600 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 13:35:07.85
近藤勇白書
ありがとう
>>590 どうも胡散臭いね。研究者が一人主張してるだけでしょう。
新徴組の本に登場するし。
仮に短期間でも隊長だったら、他の本で出てこないということはまずないです。
それでも居たといいたいなら主張した人が証明する方が先でしょう。でもそういう証明は行われてはいないようですね。
>602
なんでも、マスゴミが捻じ曲げて報道したんだとか
その研究者のサイトも参照しました。読んでもあんまり頷けない内容でした。
むしろ、自説の粗をマスコミのせいにして責任転嫁しているような印象を受けました。
なんでも正しいという訳では勿論ないですが、新聞は多くの人を相手にしているので、一人の研究者の発言を全部受け入れた形で記事にするのは無理があります。
それ故他の研究者にも話を聞いてみた、そしたら実際に否定的な評価が多かった、というだけの話のようにに思われますが。
なんでもマスコミが悪いという方向に誘導しようとしている意図が透けて見えました。相手は反対することができませんからね。
問題は幾ら文章を読んでも元の史料がどのような記述になっているのか全く分からないことです。
「同じ本の他所の記述が傍証になっている」だけでは説明したことにはなりませんからね。説明者だけに分かる内容ということでしょうか。公表者にはそうする義務があります。
今まで注目されていなかった知られていない史料を持ち出してきたのにもかかわらず、この図書館にある、読んでください、だけで済ます訳にはいきませんよ。
結局一つの史料を参照していることには違いがないのです。
八月十八日政変時点だと谷が余計居たという確証は薄い。誰でも読むことが出来る物を提示すると、七年史七十九頁所収の鈴木丹下「騒擾日記」は見逃してはならないでしょう。
実地見聞した会津の人間の記録ですから、谷右京が「大将分」としていれば書くのが当然のはず。ですがここには谷の名前はありません。
居たことを臭わせる記述も一切ありません。
複数の史料で在京を確認できていないのに、いたと判断することは難しい。
しかし、これはそういう状態で記事公表されたことには間違いがないでしょう。新聞が問題なのではないですよ。公表者に問題があるのです。
著者が誰なのか、どういう種類の史料であるのか分からない。所蔵場所だけ示して、それを説明する努力をしない。史料を隠してるのと大差ないですよ。
607 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 18:18:56.70
へっけつ碑さま、ご苦労様です♪
608 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 22:27:02.98
あさくらゆうさま、ご苦労様です♪
609 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 07:11:26.67
新選組友の会さまご苦労さまです。
っていうかこれ、マジでどうするんでしょうね。
大問題でしょう。こういう調べの加減な状態で新聞公表なんかするとは。
研究者というのは脇を固めて発表するものだと考えておりましたが、ご自分のツテで情報公開しておいて新聞が悪いと言い張り、ミスを見返そうともされないのは問題です。
謂わば悪魔の証明です。反証するには谷右京がその短期間に絶対にいなかったという記述を博捜する膨大な労力がかかります。
ですが「頭分」としてはいなかったというぐらいならば可能です。
ttp://www.pref.kyoto.jp/net-tenran/image/k11yakutyu.html こちらの役中日記を見ても「大将分両人」とあり鈴木丹下の記述と変わりないですね。
永倉新八も二人だと書いてます。一つは二次資料といっても、三点もあれば「頭分」だった、という御主張の一角は崩れますね。
611 :
日本@名無史さん:2013/06/18(火) 02:28:21.35
大河板には「川崎尚之助」の専用スレがあるが、
そこでのあさくらは「尚之助の新事実を発掘してくれたあさくら先生!」と
尊敬のまなざしをこめて崇められているようだ。
大河放送まで川崎尚之助の贔屓が居るなんて聞いたこともなかったので、
多くは役者の長谷川博巳ヲタが中心のスレとは思うが
幕末史研究家なんぞ知らない人びとのようなので、
もう「あさくらセンセイさまさま」なのだろう。
612 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN
谷右京は文久3年9月12日現在、新徴組。
幹部連中が土方のことを悪く言うことはなかったみたいだね。
コワモテで通している創作モノの土方像とは異なるのか?
い
新撰組の中では土方は一歩下がって近藤を立ててたわけだしな。
最近の創作で土方が自己主張しすぎなだけ。
616 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:09:42.47
ニュー速から戻ってきますた
「行方観光史学」にはならないようにね、あさくらさん。
>>616 有栖川宮家に奉公しようとしたからってなんで暗殺につながりその理由が秘匿されているのか理解できない。
飛躍しすぎ。
441 :名無しさん@13周年:2013/09/18(水) 23:20:13.80 ID:5u2eG8BL0
あ、ていうかこれあれですね。「文久浪士報国記事」文久三年六月頃にの大原卿が東下するから横浜で云々とかいう。今原本がないので引用出来ませんが。
大原卿の東下は前年のことなのでおかしな話だなと思ってましたが、よく考えたら有栖川宮の副使は大原重徳でした。
永倉は九月と六月を間違えてしまったのでしょう。その件に関してはちゃんと永倉が記していて、新選組ファンにもよく知られている事実です。
特にそれで問題になった、芹沢暗殺に繋がったというような記述もないので、恐らく公的なものだったのでしょう。ということで、芹沢鴨の独断行動だという説は間違い、という事になりますね。
442 :名無しさん@13周年:2013/09/18(水) 23:44:33.55 ID:5u2eG8BL0
補則すると、大原は文久二年の六月に実際に東下していまして、中止とはなっていません。
有栖川宮の時も大原が副使になっていることから、永倉は一年勘違いして、文久三年九月なのを六月としてしまったんでしょうね。
恐らくは近藤勇も有栖川宮と共に東下する気は満々だったんですよ。
しかし、既に書かれていて、二十世紀の内に発表されていた事柄なのに、今から見つけ出して大はしゃぎするのもどうかという気がします。
その辺りをまともに検討した人もいなかったのは新選組研究の停滞を現していますが。
思想の不一致とか、会津中将の利害と芹沢暗殺は関係ないでしょう。十月十五日の建白を見たら分かる通り、近藤と芹沢は同腹です。
暗殺犯といわれる土方らと芹沢は初期の時点で不仲であり、その辺りが動機でしょう。
近藤が後ろで指示した、という決定的証拠もありませんしね。
443 :名無しさん@13周年:2013/09/19(木) 00:15:48.99 ID:EO1Z6lxM0
攘夷というのは当時殆どの人がそう思っていて開国を唱えるのは人でなしというぐらい公然とした世論だったのは周知の通りです。
八月十八日を境に公武合体派が台頭して、攘夷の火が消えた等というのは幻想です。
勿論会津中将も攘夷派です。あくまで幕府を立てたいので、苦悩したのでしょう。
だから別勅使随行を辞退し、結果として壬生浪士の東下も幻に終わったというのが、この話の実態です。
あと文久三年と元治元年で政治情勢が大きく変わりますので、池田屋前後の有栖川宮と長州の流れからこの話を見るのも正しくないように思われます。
という事で、この件はトンデモで終了で。
445 :名無しさん@13周年:2013/09/19(木) 02:16:14.25 ID:EO1Z6lxM0
>>442 捕捉の捕捉で恐縮ですが、文久二年六月の下向時の勅書改竄の件で、大原は文久三年二月二十三日から文久三年八月二十九日まで落飾蟄居処分になっています。
つまり文久三年六月下向なんてそもそも出来ない話で、永倉の間違いはこれで定まったも同然でしょう。文久二年に永倉等は江戸にいました。
大原復帰後第一の仕事が有栖川宮の副使なのです。壬生浪士が公的な御警衛として下向する話になっていた可能性は更に高まりました。
ですが、会津中将などの周旋で幕府が横浜鎖港談判しますのでとうことになり、下向自体がない事になってしまったんですね。
もっとも長州間者と呼ばれた人々の殺害がこの大原と関わっている事を永倉が記しているのは気になりますが。
この件に関して内ゲバが起こったのかも知れませんね。「新選組顛末記」にもこの話は載っています。
それで芹沢が殺された可能性もありますが、史料が無く(長州間者も多く経歴が謎)あくまで仮説ですし、その場合も会津中将は関わり知らぬところでしょう。
兎に角これだけこの記事が広まってしまったという事は、新選組研究史上でも極めて稀な、一大椿事だと言えましょう。
これほど多くの人が信じ込まされてしまったのですからね。
446 :名無しさん@13周年:2013/09/19(木) 03:20:29.53 ID:EO1Z6lxM0
これは推測の域を出ませんが会津公自身は勅使に随行出来ないので、守護職お預かりの壬生浪士を代わりに下向させると言う話にまでなっていたのかもしれません。
近藤勇の十月十五日の建白に以下のような一説があります。誰にでも知られている箇所です。
「既に去月(註九月)中関東におゐても鎖港之趣承知罷有候間左候得は漸々攘夷期限被仰出候其節蒙尊命当醜虜御馬前御奉公夫而已相待候」
だんだん攘夷期限も仰せ出されるので「尊命を蒙り醜虜に当たる」、則ちご命令を受け夷狄と戦う、とことんまで攘夷実行派ではないですか。
しかもそれが会津公の命令で、と言っている。そこまで話は進んでいたんです。
有栖川宮に会うというのが不逞だ、という意見も出るでしょうが、文久三年十月二十日のものだと推測されている近藤の佐藤彦五郎宛書簡には、
「会津公役所亦者御所町奉公等江日々御用ニ付罷出」とある。これを持っても比較的出入り自由であったと見るべきです。
しかも芹沢鴨暗殺後と思われますので、なお攘夷を唱えつつ、問題行動を起こした筈の(因子を消しても同種の団体と思われるのは日本の常です)団体が普通にしかも「御用」があって出入りできるのはおかしい。
つまり芹沢の件は問題にされていないと見た方がいいと思われます。同じ書簡の中で近藤は関東に帰ったらと仮定の話をしています。これはただ友に会いに行く訳ではなく、攘夷実行の暁には、という事でしょう。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/bakumatsu/bakumatsu-sinnsengumi.htm 447 :名無しさん@13周年:2013/09/19(木) 17:51:02.98 ID:EO1Z6lxM0
>>446 「御奉公夫而已相待居申」でした。訂正しておきます。
さて、「浪士文久報国記事」の該当の記述、以下に引用します。
448 :名無しさん@13周年:2013/09/19(木) 18:42:57.56 ID:EO1Z6lxM0
文久三亥年六月頃の㕝
既ニ大原左衛門督殿、御勅使トシテ相州小田原迄御下向コレアリ、
当所江徳川家茂公呼出シ、皇命ヲ相背依テ将軍職召上ケ、此時大原公御警衛、新選組江被仰付、
新選組ノ存意ハ小田原迄御警衛イタシ、夫ヨリ欠抜ケ横浜鎖湊イタス。
夫ヨリ攘夷ノ魁トモ相成、就テハ徳川公ニヲイテモ朝敵ノ罪迯れヘクト存、
此事件ヲ聞キ、一ツ橋中納言殿驚キ速ニ上京、御所表ヲ取繕、
対ニ御勅使御差止メニ相成ル。
引用元の本では句読点がつけられているのが気になりますが、それは置いておいても、重要な記述です。
解説の菊池明氏も有栖川宮の御警衛として下向する話になっていたのでは、と推測されていますね。
勿論この本の記述を全て信用するのは危険です。芹沢鴨が「御所表より召捕可申様」会津藩公用方から言われたという記述は実証しようがないので、採用するのは厳禁でしょう。
会津側の記録にそのような記述は残っていません。
ですが新選組の下向がどうも命令あってのものだった、というぐらいは可能です。芹沢鴨等が有栖川宮の元を訪れるのは格別奇妙なことではありません。
新発見の史料を丹念に考察せず公表されるからこういうことになるのです。新史料ばかりを用いずに既出の史料と照らし合わせる作業がないと事実を糊塗してしまうことになります。
もっともこの人物は以前もこういうことを何度か行っているものと存じますが……。
山南敬助は堺雅人が演じる前から好きな人はいた。
96年頃の歴史雑誌に山南のイラストが投稿されていたのを覚えている。
新撰組幹部には珍しい穏やかな性格で、且つ剣の達人という点が好まれたのではないだろうか。
穏やかというより優しい、かな。
親切者は松原・山南と言われてたみたいだしね。
626 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 21:56:21.16
ところで
>>623って新選組研究家というよりも学習研究社のライターのようにも見れるね。
どのみち研究家同士の内ゲバで2ちゃんに書き込むような奴はろくでなしが多いというのは
定説だがな。
627 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 22:00:03.33
因みに過去にこの2ちゃんに書き込んだバカとして伊藤哲也、あさくらゆう
桐野作人、河合敦、藤堂利寿か。
桐野作人って、どのスレに何を書き込んだの?
昔だがニフ板での抗争が2ちゃん日本史板に波及。
このときにyahoo日本史板で極左を煽ったバカがいて、その極左のドキチガイ
と会津キチガイの富岡史郎が抗争を激化させたとか。
内ゲバは置いといて今回のは説的にどうなんよ、妥当性は。
631 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 23:36:34.78
説的にって……新聞記事だけで必死になるのってどうよw
まっとうな奴なら学術論文でしょw
でもこの発表者、基本的に新聞公表ばっかりだよね。
稀に書いてもかなり想像はいったもので信用ならん。学術的な分野で認められる説なんかね。
そうそう、ここに書き込んでいる研究者さんはどうもその研究者に私怨があるみたい
だけど、その新聞発表とやらがうさんくさいと感じる以前に「なぜ新聞発表できるコネクション」
を持っていること自体を「疑」に思わないのかな?
つか、共同通信にコネを持っている時点で只者ではないと思うのが普通だと思うぞ。
>内ゲバは置いといて
あんた?新選組友の会?それともヘッケツヒ?常磐会のヤクザ屋さん?
「只者ではない」、ってあんたw
ここに書き込んでいるのは妬み嫉み僻みのルサンチマンです。
「只者ではない」、ってあんたw
どうも関係者が書き込んでるスレのようですね。その割には歴史には興味なく、派閥闘争大好きな人ばかりなようですが。
639 :
sage:2013/09/21(土) 05:11:50.48
なんだ新撰組関連の内ゲバ。つまんね。
640 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 06:36:02.93
なんだか論文がどうのとか書き込んでいるから今回は菊地・釣関係者と大学関係者
のみみっちい抗争が始まったか。
わーい 本人登場
病院ガー体調ガーと愚痴る前に昼夜逆転の生活習慣改めたらどうですか?
新選組だけが好きな人って薩長土佐について
大して知らない癖に矢鱈非難するよね。
新選組がどれだけ非道を繰り返したかは棚に上げるしね。
643 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 08:01:19.34
>>642 マジレスすると、組織体である以上は新選組に限らず残酷であり、それが
変革期の組織体であれば猶更。
>>643 そうだよね。それにも拘らず、新選組擁護者は新選組
が残酷な事を棚に上げて、薩長土の行為が残酷だと
非難するのが理不尽。
645 :
勉強しないとむずかしそうですね。:2013/11/09(土) 15:38:45.07
天国の近藤勇先生、検索したところ、西暦による本日がお誕生日、おめでとうございます。
また、九州佐賀県東部生まれの私、偶然ですが、本日、
ついに51歳になりました。
局長近藤勇先生は、少し孤独だったかな?
しかしながら、私たちの今日があるのは、 皆々様のおかげです。
里<サト> 慎一郎(元東京都町田市民:若いころは民権資料館にも行かず、
反省しております。今、この年齢で世の中のありようを資料検索しながら考えたいものです。
何かネット検索し、得るものあれば、こちらに記します。)
646 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 16:00:09.65
『今宵の虎徹は血に餓えている。』局長のおことば
647 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 23:55:35.01
まもなく11日か。
648 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 03:29:29.32
近藤局長の刀がコテツだったというのってガセでしょ。
「新発見」はオタクの一人相撲ということでFA
651 :
慎:2013/11/28(木) 19:20:20.13
エー…
虎鉄じゃないのー?(こてつ:正式な漢字、忘れた。)
なにかないか捜しながら、仕事してきます。
652 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 03:56:50.00
▼▼▼
653 :
日本@名無史さん:2013/12/19(木) 22:50:28.27
死者の大半が内部での粛清とか組織としてどうなの?
報道のご意見だけで反論するのも失礼だと思い、「新選組を探る」購読しましたけど、酷いですね。
どこが「谷がこれ以上新徴組に在隊することはあり得ない」ないのでしょうか。
病気で脱退と言ってるのを三行半(おかしな表現ですね、離縁ではないんだし)だと書いてますが、ほんとに病気かもしれないでしょう。
しかもこの記述の根拠となっている史料を、参考文献から巧妙にオミットなさってるのは作為を感じます。
新徴組に関して御自身の不都合な史料を隠蔽なさってるのも、見る人がみれば丸分かりなのですが。
「柚原日記抄」知ってて記載なさいませんでしたね? もちろんこれは鶴岡市郷土資料館で普通に入手できる資料ですし、
小山松勝一郎も著書に於いて使用しています。
文久三年の九月十二日に、
「谷右京前同断〔新規御宛行〕三人扶持二十五両被下置且従来防御之術致鍛錬居候趣に付
攻守の利害火砲の得失等佐野三郎申合新徴組兵勢相立候様可致依之小頭過人被仰付別段二人扶持金十五両被下置云々」
というように防御(恐らく海防でしょう)の腕を買われて三人扶持二十五両+二人扶持十五両の新知行を与えられていることがハッキリしています。
あさくら氏の仰っている七月新徴組脱退説はどう考えても辻褄が合いません。不在の人間に給与支給という事も考えられませんし、随分と好待遇を受けていた事が分かるでしょう。
新徴組では砲術の腕が使えなかったという記述からして謎です。新徴組には砲術師範が早くから置かれていますし、小林登之助等砲術家も多く用いられていました。
文久期に置いては壬生浪士はそういう方面では出遅れていたといってもいいでしょうね。
新徴組、正確に言えば「砲術教授方」として谷右京の名前はちゃんと書かれているわけです。
この時点では江戸に居たと見た方がいいでしょう。当時江戸と京を往復するのには二週間近く掛かります。
単身かそれに近い人数で上京するならばもっとかかるでしょう。
谷の江戸出立を証明出来る史料はない訳ですから、これを史実だと言い立てのはどう考えても無理があります。
憶測に憶測を積み重ねたものは妄想でしかありません。
谷の在京を裏付ける証拠として出されている史料には「由」等の言葉が二ヶ所使われており、これは実見者が書いたものというよりも、
伝聞を書き記した風説書に性質が近いものではないでしょうか。
それでは何故谷の名前が記されたのか。あさくら氏が新史料として提示された「有栖川宮日記」の名簿からよく分かるでしょう。
「谷万太郎」の名前が既に現れています。浪士組(壬生に泊まったわけで、壬生浪士と混同されていた)の丹波の谷から、
ああ谷というのはあの谷だと誤記されたのではないでしょうか。万太郎は道場持ちですから隊内で優遇されて居てもおかしくはない、
だから大将分として記されたのだと見れば全てがしっくりいきます。勿論これは推測にしか過ぎませんが。
芹沢鴨に関しても随分憶測に憶測を積み重ねた記述でつっこみどころが多いのですが、
他の方が眩惑されないようにあらかじめ言って置きますと、「有栖川宮日記」は「ただそれだけことしか言わない史料」です。
付随して書かれている諸々のことはあさくら氏の考えにしか過ぎないということです。
「御警衛
御用之義御座候ハゝ(てと翻刻されておりますが)何事ニ不限被
仰付下度奉願候」
そう言って名簿を差し出した、ということが書かれているだけの史料なのです。宮側は厚遇したようですがそれも都合良く解釈しておられる。
宮が抗議した会津公側が起こったというのは全てあさくら氏の(根拠不明の)主張であると明記しておけば充分でしょう。
菊池明氏、山村竜也を批難されますが、それに近い憶測の積み重ねで物を言っておられる方だということ言っておかねばなりません。
テスト
悪・即・斬
>>655 この史料の性質を説明して置きましょう。
文久三年九月一日、大和の乱鎮圧の為、吉野下市村に着陣した郡山藩主松平甲斐守柳沢保申の営所に現れた会津藩士、
松坂三内と平向熊吉は軍監藪田極人より間者と疑われ、抵抗した結果殺害されます。死後会津藩士らしいと判明したので、
黒谷へ藩士大谷記八郎を寄越し、守護職へとその事実を報告したという次第です。
これは「七年史」上巻癸亥記四の七〜八頁にある記述ですが、八頁の方に次の一節が見えます。
「会藩の留守居手代木直右衛門、目付野村円蔵及び松坂が縁者、香坂右内等、
郡山に至りて、其の死屍を検すれば、果たして其人也けり」
あさくら氏が示された史料「文久元治亥子太平録」の記述はこの人員の名簿に当たるものなのですが、説明は一切ありませんでしたね。
確かに「三内身寄」として香坂の名前が見えますし、野村の役職も同じです。
ところが、この「太平録」によれば「御用仰せ付けられまかり越し候」という事ですから、
芹沢、近藤、谷はこの調査団のメンバーとして下市までくだった事になります。末尾に「壬生浪士頭」とある訳ですね。
ところがこのメンバー、調査団としては矢鱈と物々しい。「取鎮方」には畿内の諸大名が控えています。
しかも「二十六日爰元起」とありますからこの事件とは無関係で、八月に大和へ出陣していた大名という事ではないでしょうか。
事実これらの各大名家は維新史料綱要のデーターベースの八月晦日の件で引用されている会津側の「維新史料階梯雑誌」に、
「一揆出動に付き出兵仰せ付けられ候国々」として記されています。
とすると「壬生浪士頭」は調査団とは別個の記述だという可能性も出てきます。孤立した、脈絡不明の記述となってしまいます。
仮に調査団のメンバーとして壬生浪士頭が選ばれたとしましょう。(これ自体が未出情報で、要検討であることを予め記して置きます)
すると谷右京のアリバイは絶対に壬生でなければならない。でないと出動出来ませんからね。
調査団が何時黒谷に帰還したのか、それは不明ですが、「会津藩庁記録」の「公武御達并見聞集」には、
九月六日に手代木と野村、七日に香坂と河原善右衛門の書簡(百五十九〜百六十、百六十六頁)が転載されています。
(香坂と河原に関しては以前から大和へ出向いていた形跡が窺われますね(百十四頁))
それらを合わせると、六日に黒谷を出立後、同晩に伏見に宿を取り、七日に五条に到達している事が分かります。
そこから下市までだとさらにかかるでしょうし、書簡によれば別件の探索もやっていることになりますから、ある程度の日数は向こうにいたと見るべきです。
前述の通り、谷右京は九月十二日に新徴組から新知行を与えられている訳ですから、この日は絶対に江戸にいたでしょう。
数日で江戸と京を往復出来るのは当時でも超人です。あさくら氏は谷右京がギリアムの「バロン」のように大砲の弾に跨がって江戸に戻ったとでも仰るのでしょうか?
この程度の史料批判といえば烏滸がましいですが、史料検討ぐらいはなしてしかるべきであるのにも関わらず、
あさくら氏はご自分の発見を正しいものにしたいがために、検討の足りなさを露呈されました。
無名人物、悪名のある人物の復権を謳っておられますが、それが未検討なものであっては故人にも失礼になるでしょう。
参考文献として所在施設の明記などはされていますが、それがどれをどのように使って記述に反映させているか、多くが不明なので参考出来ません。
662 :
日本@名無史さん:2014/01/04(土) 01:01:02.12
>>654 どうなのって、珍しいことではないと思うよ。
いわゆる御家騒動といって江戸時代の武士社会で血を見る機会は内部抗争が大半だった。
そこに幕末の内憂外患が絡んできて藩内での抗争が一層激化する。
薩摩藩のお由羅騒動、長州藩の元治の内戦、殿様と家来が城を奪い合った結城戦争とかが有名か。
「徳川の平和」の裏で幕府や諸藩は数百年も内部抗争を繰り返してきた。
なるほど現代目線では異常なことかも知れないが
江戸時代しかも幕末の京都っていう特殊な空間に生きた新撰組のそれは
同時代的にはむしろ僅少な事例だと思う。
663 :
日本@名無史さん:2014/01/04(土) 01:39:47.15
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【示現流】
薩摩地方で盛んであった、剣術の流派。
先制攻撃を重視する流派であり、
相手が戦闘態勢に入る前に一刀で撃ち倒してしまうことを旨とする。
京都では、かの新選組も示現流の一の太刀を恐れたと言われる。
一方で日本史上もっともセコい流派であるとの評価もある。
剣術の試合はお互いに黙礼の姿勢をとってから始めるのが作法であるが、
大名も観覧する交流試合でのこと、薩摩藩の剣士が
黙礼をしている相手の頭をいきなり撃ち込んだというのだ。
会場は騒然となったが、薩摩藩士はドヤ顔だったという。
ルール上は問題なしという裁定で薩摩藩士が勝者になったが、
観覧していた大名たちは嫌な顔をして帰ってしまったそうである。
664 :
日本@名無史さん:2014/01/08(水) 00:28:56.08
「新撰組で男色が盛んだ」
という事実を手紙に書いたのは誰だったっけ?
666 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 01:58:49.38
>>663 その御前試合がいつどこでかは解りますか?
667 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 23:22:30.79
>>664 近藤勇が武蔵国日野宿の名士で懇意の中島次郎兵衛に宛てた手紙の一文だね。
時期は元治元年5月20日つまり池田屋事件直前のこと。
その直前に新撰組は将軍警護やそ将軍滞京の周旋などに大忙しだった。
その多忙さを理由に「女遊びの暇も無いので男色が流行ってるよ」と近藤は述べている。
本当だった可能性もあるけど、少しの事例を大袈裟に伝えた可能性もある。
ほんの冗談のつもりのホラだった可能性もある。
何れにしても裏付ける史料も無いので真否は分からない。
668 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 21:23:43.62
単に極く普通に男色が流行っている事実を報告した迄のことでは?
669 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 00:32:41.19
(*`д´)♂"オイたぢはこげぃなコツをする為に剣の腕を磨いて来たとか?
(*`д´)♂"新七ドン、君命に背けば上意討ちじゃ
670 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 01:42:02.57
>>668 文章としては以下で一まとまり。
一、さて先年府中宿において御同様始楼登り、妄遊つかまつること時々思い出し申し候。
就いては当節婦人戯れ候こといささかこれ無く、局中しきりに男色流行つかまつり候。
なお帰府の上申し上げ度。以上。
実際は単に男色流行を伝える文章じゃない。
女とやりたいけど最近は御無沙汰で男で代用してるやつもいるって話題。
つまり本来はみんな女とやってて男とはやってない。
http://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館データーベース(以下国公
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html 維新史料綱要データーベース (以下維綱)
旗本近藤隼人国用(以下近藤国用)が、新撰組に加わった浪士近藤隼雄であったとする説がありますが、あれは全くのデタラメですので、皆様取り違えなき様お願い致します。
一人の研究者が唱えているならいざ知らず、相川司氏の「新選組隊士録」にまで記載されてしまっていると言う、どう考えても由々しき自体なので、これを機会に訂正しておきましょう。
説を要約するとこうなります。旗本近藤国用は表向きは新政府軍に恭順していたが、一人二役を演じ、近藤隼雄と名前を変え新選組に身を投じ、歩兵隊を率いた。その後「新選組之頭」として戊辰戦争を戦い、仙台で官軍に投降した。
一人二役ですか。いやあ、小説の中ならともかく、実際に有り得る事なのでしょうか? 以下はその辺りの検証です。
「近藤隼人勤王願」という明治元年九月三日付、弁事御役所提出書類が国公で閲覧できますので、皆様確認下さい。「旧旗下ノ者本領安堵ヲ乞フ 近藤隼人」と同文のものですね。
勿論主張者の方は参照して居られます。その上でこれを家臣の偽造文書だと言い張って居られる訳です。まず内容を検討しましょう。
続きます。
慶応四年二月二十五日、近藤国用は江戸を出立し、同三月四日藤枝駅に着、大総督有栖川宮に勤王証書を送ります。
その後同二十一日家来が呼び出され差し出した所、舞阪駅から掛川駅まで官軍通行の際の兵食輸送警衛役に同姓近藤登之助とともにあたるように命令を受けました。
この辺りは維綱などでも確認出来るところであります。
もっとも、前者は家臣の名前で提出されています。主張者はそれ故に家臣が主君になりすましていた、というトンデモが形成されたのでしょう。
ところが後者はちゃんと近藤国用名義の登之助と同文請書が残されており、維綱同三月二十一日の件でも引用されてますね。
それからのことは、同じく国公の「旧旗下ノ者本領安堵ヲ乞フ 近藤登之助」とあわせて考えますと、賊軍が横行することを危険視した登之助は「其筋へ申立」、
五月中に同姓国用、力之助、分家の邦太郎に金指関門守衛の命令が下された事が分かります。
以上から考えて、登之助の意図を受けて国用は動いていたと考えられます。
二人は当然面識がある訳ですし(主張者は何故か隠しておられますが、近藤登之助は組合銃隊頭です。維綱慶応三年九月二十六日所収「陸軍歴史」のその縁で国用は銃隊に加わっていたと考えると妥当でしょう)、
登之助の文章中に出てくるという事は家来がなりすましていた、とするのは相当無理があります。
あるいは登之助が国用と示し合わせていた、か。しかし、それはあまりにも小説的であって、主張者の好きな「史学」的には認められませんよねえ。
第一「勤王願」には印鑑が使われているのが分かりますし、本人が提出したものであるという事は明白です。家臣が勝手に使っていた事がばれたら重罪です。
しかもこれは役所を通して提出された書類でありますから、間接的であっても有栖川宮や天皇を欺いたも同じ、当時の一般常識として到底許すべからざる事なのですが、その辺りは理解しておられるのでしょうか?
主張者が同例として出している加藤平内の場合はその類いの書類がなく、存在するのは家来が提出した物だけであり、しかもその書類の中にもあきらかに含みのある表現がされています。
加藤平内で、維綱、復古記など参照。
続きます。
http://www.archives.metro.tokyo.jp/ 東京都公文書館データーベース(以下都公)
さて、この後近藤国用のアリバイはどうしょうか。纏まった史料がないため、断片で説明しなければならないのが辛いところですが、
状況から考えて、京都に到着した、と見るべきではないでしょうか。維綱で確認出来るところでは同年十月二十三日に兵食輸送の護衛は罷免されています、
実はこの時期に近藤国用と交流を持っていた公家がいます。正親町三条実愛事、後の嵯峨実愛です。この時期はまだ京都で留守をしていました。
「嵯峨実愛日記 原題続愚林記」第二巻p392 明治元年十一月二十六日の件、
「近藤隼人江過日音物答礼蒸菓(五十入)一折賜之」とあり、以前のお礼に蒸し菓子を送ってる事が分かりますね。交流は前からあったと見えます。
これだけでは面識はあったか分からない、と言われるならば、翌十二月一日の件である、p394〜395を御覧下さい。長いですが、重要なところなので引用します。
「戸田熊之丞同三郎四郎同直之丞(以上大垣末家)同松三郎(宇都宮末家)等来面賜熨斗昆布末広一本ツゝ各進上太刀馬代(有差)等
此次近藤隼人(有由縁者也)同上賜又同前同人太刀馬代太刀進綾一反鯛一掛等以上皆此度大夫席被 仰付候輩也」
との事で、確実に面会していることが分かります。「大夫」というのは中下大夫のことでしょう。早期帰順した旗本が選ばれています。
続きます。
都公を参照して頂ければ、「中下大夫上士名簿・全」に「コ之部 近藤隼人」という記述が見つかります。
大垣分家戸田熊之丞、三郎四郎、直之丞も同じく見つかります。宇都宮分家戸田松三郎は見つかりませんが、主張者が依拠している「士族家来之儀申出候控」の中に見つかります。
つまり、この人々は旗本仲間という事になりましょう。勿論顔を知った者同志ですから、代理人が立てられる筈がありません。正親町三条実愛は疑ってもいません。
顔がそっくり同じ替え玉がいたのだなどと言い出そうものならそれこそ「影武者徳川家康」の世界になります。
東京に移動した後も、近藤国用と正親町三条実愛は交流を続け、「嵯峨実愛日記 原題続愚林記」三巻にも、一度面会し、一度面会しようと思ったが合えなかった記述が見つかります。
そして、この巻のp209を御覧下さい。明治三年二月十日に「遣使於近藤隼雄許先達類焼ニ付賜手焙一口中達奉書二帖等」とあり、初めて「隼雄」の名前が現れます。
国用の家が焼けたらしく、寒中の心遣いをしていることから、それなりに親密だったのではないかと言うことが伺われますね。この後、近藤国用が引っ越ししたのもこれと関係があるのではないでしょうか。
そうして、これをもって旗本近藤国用が浪士近藤隼雄だという説は崩れ去るわけです。
続きます。
ところで、浪士近藤隼雄とはどういう人物なのでしょうか。これが全く分かりません。
川村隼人、近藤芳助の兄という説も眉唾(というか芳助の出自も怪しいのですが)で断片的なものしか存在しません。
諱すら分からないのですから、近藤国用と同一人物だなどと言いようがない。加瀬俊一の例のように、同時代に同姓同名の人などいくらでもいます。
慶応四年二月三日に飄然と原某と共に新選組の金を借りに来たという記録が維綱のデーターベースでもヒットする「新撰組金銭出入帳」に残されているのが最初です。
新徴組のように体系的な名簿が残っていないかぎり、幕末の浪士の出自は多くが謎です。探し出せる部分はありますが、それを無理にこじつけてしまうと今回のような愚行をしでかすことになりますね。
ましてや今回の主張者はその体系的な記録が残っている新徴組のメンバーですら誤解したのですからねえ。
平潟口官軍に降伏したことは確かですが、この際の新選組残党がどの藩兵に捕まったか等という事も探せる限りでは見つかりませんでした。
明治元年の十月十七日以前には降伏したものと見るのがよろしいのではないでしょうか。
少なくとも分かるのは、その時から静岡藩御預になって、謹慎させられていることです。
主張者は国公にある「宥典録」だとしておりますが、これは正確には間違いです。
「記録材料・御宥典達書・下案・其三」が正式なタイトルなのですが、「下案」となっており、また正月ということしか分かりませんが、明治三年あたりではないでしょうか。
ttp://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?REFCODE=A07060043100&IS_STYLE=default&image_num=84 47コマ
とにかく、暫くの期間は身動きがとれなかっただろう、ということは確かです。近藤国用はその間確実に西京-東京間におりました。
「徳川旧藩無宿浪士」復古記十三巻「平潟口戦記」 p545と書かれているにも関わらず、身分を隠していたからだと断定するのは無理があります。
維綱でヒットする「新撰組中島登日記」の「歩兵頭取」は新選組の軍制化と見れば納得できます。
「御預引渡降人名簿」も見ましたが、「旧幕臣」扱いはされていません。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?REFCODE=A07060041700&IS_STYLE=default&image_num=106 19コマ
続きます。
また家督相続に関しては噴飯物です。常識的に考えて、倅がいるのですから隠居し、完全に名前を隠した上で参戦するならわかります。しかし、エア自分から家督相続など前代未聞の珍説としか思われません。
普通に改名したのでしょう。しかもその改名時期は明治三年とは断定できない。二年中の可能性も高いです。
動機推察の土佐藩士の天誅せいで〜とかはこじつけの最たるものです。依拠されてる史料が先ず不明ですし、土佐藩は東海道軍ではなく、東山道軍なのは常識でしょう。
また、家臣の帰農を近藤家だけの問題としておられるのも、非常に歴史観の狭さを感じさせられます。
同じ板倉小次郎の触下士族でも、武蔵国江戸久松家のような例がある訳ですから、旗本家来の帰農というのはもっと大きな当時の社会問題でしょう。
近藤国用は自分と同名の浪士がいることなど知りもしなかったでしょう。逆は必ずしも真ならずで、浪士近藤隼雄の方が旗本の縁類を名乗った可能性ならば残されていますが。
そういえばこれは五兵衛新田のご説の核となるものでしたね。身分を隠している筈なのになぜ率いれるのだという訳で前提からおかしいのですが、歩兵隊を率いた旗本の参加はありえない以上、大きく検討する必要が出てくるでしょう。
主張者=あさくら氏は、この文の最後で「史料批判もされずに」と書かれてました。
ところが、検討してみればよく分かるように、ご自身が史料を見て考えることを怠っておられました。
「幽霊の代人」と仰いますが、実在した近藤国用を「幽霊」にしてしまったのはあさくら氏です。
現代人が古人の事を考えてみても、多くは妄想ですが、これは非常に失礼な妄想といえるでしょう。
今まで上げた史料は全てネットで閲覧が可能なものです。物によってはコマ番号まで記しました。
それだけでも近藤国用については多くが分かるのに、史料批判の名の下に先行研究者を罵倒する人物が、このようなトンデモ説を唱えておられたとは恐れ入りました。
そう言う状態のまま、数年も放置され、隊士名簿にまで記載されてしまうと言う有様が、新選組研究の現状なのでしょうね。
677 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 09:15:03.70
>>671 なんか知らんが、雑誌か然るべきサイトに書けよ
ここで長文オナニーすなや
どうせ過疎スレですし、紙媒体で公表するほど建設的なことでもないのでね。
「然るべきサイト」に書けば富岡氏のような目に遭うことでしょうて。
ネットでは全てが閲覧できると言うのも強みでしょう。「嵯峨実愛日記」も「復古記」も近代デジタルライブラリーで容易に見れますよ。
ええな
なんだ、キムチの方が騒いでいるのか。
あれほど山村ガー、菊池ガーと騒いで叩きまくっていた割に、情けないっす。
板橋や大和屋の件なんかより酷いですよ。珍説を作り出し流布しているわけですから。
おそらく氷山の一角でしょう。
最近新撰組の勉強をしだしたものなのですが、
どうして新撰組は、会津藩預かりになったのに
京都見回り組に新撰組を入れる事を、会津藩は拒絶したのですか?
会津藩と新撰組の関係がよくわかりません。
ここは質問コーナーではなく、キチガイ研究家とバカファンとが
いがみ合うウジ虫スレです。
>>683 幕府側からの最初の申し出は、幕府の目明し程度として新選組を引き抜きたいというものでした。
会津側として、貴重な実働部隊(というか汚れ役)の新選組を引きぬかれてはたまらないですから、
断るのはむしろ当然でしょう。
なお、新選組が正式に幕臣になった際には、幕臣であるにもかかわらず引き続き会津の指揮下に
入っています。会津側が新選組を配下にとどめておきたいと考えていたことがわかりますね。
>>685 なるほど。ありがとうございます。
会津の動きってどうも読めない。
幕末は難しいですね。
学生時代日本史勉強しそびれたので今更独学してます。
見回り組は代々続く生粋の武士。出の分からない浪人たちと同列は無理だったんでしょ
永倉さんの出自を忘れないでください
689 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 02:06:09.89
新撰組のオーナー的存在と言えば京都守護職の会津藩主・松平容保を連想し易いけど
京都町奉行や大目付を歴任した旗本・永井尚志も初期の頃から近藤勇を可愛がっていたみたいだね
新撰組とは函館戦争でも一緒に戦って降伏している
690 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 18:57:14.45
新撰組は京都憲兵隊だ
秘密警察だろ。市民の活動を弾圧するのが仕事で、革命時には真っ先に標的にされる。
芹沢鴨が暗殺された時、平山と同部屋に女を連れ込んでるのが不思議だったのですが
当時は遊郭などで相部屋で別の客同士がついたて一つ隔てて寝るのが割と良くあることだったようで
芹沢らもそういう感覚だったのでしょうかね
とばっちりをうけたお梅さんはかわいそうでした
あと、江戸時代は素人女と恋愛するよりも玄人女と遊ぶ方が粋で男らしいとされていたようなので
沖田あたりは当時の感覚でいうとあまりイケてない男だったのかもしれないですね
「江戸の下半身事情」って本に江戸時代の性倫理が書いてありましたが
当たり前の事とはいえ現代とは全然感覚が違いますね
>>671 あさくら氏、重ねてとんでもないことをしてますね。
こうなれば文章名も公表するしかない。心ある方がいらっしゃれば是非参照ください。
「慶応四年新撰組隊士伝―下総流山に転機を迎えた男たち」所収、「近藤隼雄―五兵衛新田に現われた旗本、幽霊の代人」の頁129〜130に当たる箇所になります。
「京都在任時代の是用の動向を少し追ってみると、京都大学付属図書館に長州の志士でありスポンサーでもある岡本三右衛門との書簡の存在から、
京都状勢についての相当な役割を担っていたことが想像できる」
いやはや。とんでもない事実誤認です。史料も碌に読めていないことが証明されました。
これは以下のURLにある書状です。
ttp://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/shaku/764180.html 近藤遠江という名前から恐らくは遠江守である近藤是用を連想されたのでしょうが、
この書状の主とは全くの別人です。
詳細は不明ですが「下官」、「当地者神職之愚老を始」、「当社」などの言葉からこれは旗本ではなく、豊後国国東郡草地村在住の神官であったことは分かります。
また「主税」という名前の倅もいたことが分かります。どうみても近藤是用とは繋がらないのにもかかわらず、書状の内容も確認せず、同一人物認定を行った――これは由々しきことです。
歴史に携わる人間としては許しがたいことです。到底熱心にやって間違えた、というようなレベルではないこじつけが行われている事が分かります。
こういう状態で人のことを悪くはいえないですよ。山崎日記で記号を使った、でしたっけ? これはそれ以上に悪質かつ重大問題ですよ。
しかも今までそれをまともに検討する事が行われていない、こういう状態で本当にいいのでしょうか。
研究者の内ゲバとか言われる人もいましたが、それだけで済ましては行けない気が致します。
695 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 21:35:51.64
またオナニーか。
どうもあさくら氏が実証的で、学問的な研究者だということにしたい人は多いようですねえ。
私から言わせれば実証とは正反対の、菊池明氏以上に問題がある(なぜなら菊池氏は珍解釈はしますが、それは本の中で留まってるので)人物です。
このスレとか研究者スレの最初に膨大な富岡氏こと伊藤氏に対する誹謗中傷が書かれていたのに、
いざあさくら氏が批判されると、しかも史料に「ちゃんと」あたって批判されるとこの有様ですからねえ。
698 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 22:10:37.37
699 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 22:57:42.68
なんだかねえ
>>697 そこはあさくら同様に、でしょう? ははあ、なるほど。
701 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 22:04:00.18
と、私怨君ががんばるのであった
「事実の指摘」と「私怨」の区別も付かないらしい。やれやれ。
というか、この勢いでレス流ししようとしてる方がいるんですかね。
どう読んでも私怨だろう
おやおや、上手い具合に擁護する方が出てくるわけですなあ。
悔しかったら
>>671-676、
>>694を論破すればいいだけでしょう。
出来もしない訳ですから話になりませんなあ。
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
705 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 06:11:42.72
709 :
日本@名無史さん:2014/04/09(水) 22:45:29.77
>>708 胡散臭さ窮まりないな。
二人とも創作物の影響を受けた成りきりに過ぎんだろ。
711 :
日本@名無史さん:2014/05/29(木) 22:45:36.17
保守age
712 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 13:44:55.54
松山幾之助と松崎静馬って同一人物なんですかね?
BS11とことん歴史紀行見た人いる?無駄も多かったけど結構良かった
中村武生って人の解説良かった。次の山南忌で講演してくれないかな
あげ
手代木直右衛門勝任の私兵部隊A
716 :
里〔サト〕慎一郎(歴史研究は趣味レベル…。):2014/11/08(土) 23:59:27.63
天国におられます新撰組の皆々様、21世紀も元気ハツラツのファンの皆々様、
本年も近藤勇様(身長190cmくらい、らしかった。)
の生誕日が参りました。西暦換算でもって、
1834年11月9日誕生。よろしければ、確認のための再検索をされますと、
いっそう理解が深まると思います。
なお、京都市内、僕の記憶によれば『K6』 様において、京都育ちとお見受けするご年配男子の来店客さんと、
従業員さんが、わたくしの前で、親指・人差し指を用いて「ヨヨヨイ…」をやって見せて下さいました。
その節は、たいへんありがとうございました。
突然でビックリしましたが、新撰組さんに、ちなんだ「お囃子」みたいなものらしい。
勉強不足でめんぼくありません。
717 :
日本@名無史さん:2014/11/12(水) 08:42:31.82
近藤や土方も手代木だけは怖かったろうな
718 :
日本@名無史さん:2014/11/26(水) 20:55:58.67
龍馬の内通者だった伊東甲子太郎が油小路で近藤一派に暗殺されたのって近江屋の3日後の慶応3年11月18日だしな
新撰組も見廻組に仕事いって焦ったやろ
しかも、近藤さん
うっかり反手代木派の山本覚馬と会食中だったりと色々ヤバい事に
719 :
日本@名無史さん:2014/12/04(木) 19:42:44.50
なるほど。山本覚馬さんと、ですか。
720 :
日本@名無史さん:2014/12/18(木) 12:03:32.81
なんで一介の会津藩江戸詰藩士の手代木&佐々木ブラザーズ に清河暗殺の依頼が来たんだ?
よっぽどコネが太かったのか
>>720 逆だろ
あまり幕府との関わりが無い+腕っぷしが強い
>>721なる程
そりゃいかにも幕臣がやったら発覚したとき問題になるしな
それを見越して腕を売り込む辺り 頭良いな〜
佐々木ブラサーズ
>>722 俺、毎日出勤で赤羽橋とおるんだけど
あーここで清河が殺られたんかと思うと
なんか感慨深いよ
内縁の妻だった人も可哀相だったよな…
>>723清河の死で発足した
新撰組
見廻組
新潮組が 池田屋 近江屋 薩摩藩邸焼き討ちをやらかして、戊辰戦争が勃発するんだから、正に清河の死が導火線だよな
>>724 そもそも浪士組を作った時点から戦犯確定なんだがなw
仲の良かった山岡鉄舟なんかにはもっと色々と語って欲しかったな
>>725 しかも認可を出した幕府にしたら政府公認のボランティアが外国人居留地を焼き討ちしようとしたんだから、そりゃ暗殺せねばと思うわな
てゆーか、本当は芹沢と近藤が清河暗殺を指示されたのに
山岡の鉄ちゃんが葵の代紋を振りかざしたからビビって取り逃がすとか
実際暗殺した手代木兄弟と違って 殺し屋にはなれなかったか
>>726 一応その後に芹沢も近藤も立派な(?)暗殺者に成長してるじゃないか
まあ身内殺しのほうが得意だったけどな
しかし同じ超貧乏でも生まれが良い山岡はやっぱ考え方が違ったんかね
新選組の中でも永倉なんてずーっと浮いてる感じだし
728 :
サンプル1:2014/12/23(火) 13:47:08.48
https://twitter.com/ius8sui/status/264334142181879808 よく見たら、あさくらさんのブログは2006年の記事!未だにいるってことか!おそろしい! 伊藤哲也なる名前でコメントしてくる人がいるらしい。このメアドに注意。VEU00076◎niftyどっとcom (◎は@に置き換え)
https://twitter.com/tukaohtsu/status/285728728850518016 すい @ius8sui 2012年12月30日
伊藤哲也という方は斎藤一の単語に反応して微妙な書き込みをするようですね……。微妙というのは、情報をちらつかせつつ、確実な部分は明言しないというところ。
大塚@歴声庵 @tukaohtsu
老婆心ながら、彼とは関わらない方が賢明です。一言言えるのは「私には見れない史料」などと言うのは、存在しないと同義語ですね。@ius8sui 伊藤哲也という方は斎藤一の単語に反応して微妙な書き込みをするようですね……。
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4:46 - 2012年12月31日
すい @ius8sui 2012年12月31日
@tukaohtsu そうですね……不快な印象を与える方のように見受けましたので、以後気をつけたいと思います。ありがとうございます。よいお年を。
729 :
サンプル2:2014/12/23(火) 13:49:01.32
http://ameblo.jp/new8-1915/entry-11808517990.html 9. 広津家の住所
岡山での広津家の住所が2箇所。1回、転居したのでしょう。と、活字化済。京都で廣津家が八重と記念写真を撮っています。
岡山転居時に3回。うち、1回は転居後に撮影されたようです。
伊藤哲也 2014-04-04 02:37:57 >>このコメントに返信
10. Re:広津家の住所
>伊藤哲也さん
除籍謄本も取得していますし、把握していますが、講演の時間内で、余り細部までは触れる時間は有りません。
それについては何人もの方とも相談の上、こういうないように致しました。あまりコマコマ言われるのも、とても不快です。他にも知っている人が居ることを、認識されたし!
岡山から新八参上 2014-04-04 07:14:55 >>このコメントに返信
11. Re:広津家の住所
>伊藤哲也さん
広津が岡山に住んでいた事だけで充分でしたが、神戸事件にもチョット触れるために、日置下屋敷の場所に触れただけです。
親切心も度を過ごすとお節介や、嫌味に成りますので、発言にはお気を付け有られたし。
岡山から新八参上 2014-04-04 07:44:06 >>このコメントに返信
12. Re:広津家の住所
>伊藤哲也さん
活字にしたから、そんなに偉いのか?上から目線は失礼すぎます。物の言い方を考えろ!
岡山から新八参上 2014-04-04 20:08:14 >>このコメントに返信
13. Re^2:広津家の住所
>岡山から新八参上さん
講演の時間が限られていたこと。
その関係で詳細なことに触れることが出来なかった部分があるのも致し方ないと思います。こちらは、不愉快な思いをさせてしまい失礼しました。
伊藤哲也 2014-04-05 01:20:51
御覧になれば分かるように、
>>728と
>>729で行われている伊藤氏批判にはあさくら氏の存在が背景にいます。
あさくら氏とリアルで仲のいい、言ってみればあさくらシンパ(大塚@歴声庵氏、岡山〜氏)が利害関係で伊藤氏への攻撃を行った例でしょう。
すい氏に関してはそこまでではないようですが、ツイッター辞められていなかったらまあ似たような感じになっていたのではないでしょうか。
あさくら氏と伊藤氏の中が犬猿であるから、この両名は伊藤氏を白眼視する行動を行った、という事になります。
特に岡山〜氏の謎の逆ギレは理解できない。伊藤氏は謝っているにも関わらず、それに対する返信もなしです。まあ党派性で動くと言うのはこういうことでしょう。
ネットではまあこう言う感じですが、このスレを見れば分かるように、曲解、誤解に満ちた意見をいかにも正しいという風に広めておられるのはあさくら氏ですね。
参考文献を提示しても後追いできないように書くのも、あさくら氏のやり方ではあります。
例えば「平田宗高従軍日記」を平田九十郎と表記するのを批判しておられましたが、なんと「探る」では九十郎表記をやっておられる訳です。
それと比べれば伊藤氏は、地味ではありますが大庭久輔を発掘したり、色々仕事はしておられるのに、ネットでこう言う連中が幅をきかせてる事もあって、意図的に無視される。
あとついでに付記しておけば、このスレでは何故かあさくら氏を批判すると場違いだと叩かれ、場違いであるにもかかわらず、伊藤氏を批判すると同調者が増加するという流れになるようです。
面白いですね。
どっちもまともな学術的バックグラウンド持った専門の研究者(大学教授とか)じゃないからな
ただのアマチュアという点では漏れらや喪前らと同レベルだよ
目くそ鼻くそ
内山彦次郎暗殺に関しては、新撰組はシロなのか?
動機もあるし、関係者の証言もあるしだが、無関与説が有力だよね。
永倉の顛末記は、そんなに脚色多かったのか。
あれは永倉の現存しない手記の中で、やったという記述があるらしい。
そのページだけの写真が残っているとのこと。
736 :
日本@名無史さん:2015/03/04(水) 16:36:21.87
しかしよくよく考えて見れば、公文書好きのかの御仁が、上記文書を知らない訳がないのです。
これはやはり、都合が悪いので意図的にオミットされたと考えて宜しいでしょうな。肝心な谷右京の新徴組在隊中に脱退届を提出した云々も巧妙に「史料隠し」を行っておられました。
意図的にない事にする手法です。
近藤隼雄の一件についても、ここで指摘したにも関わらず、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14137450649 >実際は新選組と言うより近藤隼雄率いる組合銃隊が大部分の部隊で
という風に未だに信じ込んでいる人がいます。近藤国用は仙台で近藤隼雄が捕まっていた前後の時期に京都にいた訳で、別人であることは明白です。
>「オカルト」な新選組史
と人のことは笑えないですよ。