根拠1
2007年3月、徳島県鳴門市に、日本最古の前方後円墳が発見された。
「萩原2号墓」といい、石積式の前方後円墳。年代測定によると西暦200年前後と
なり、時代的には卑弥呼・邪馬台国の時代となる。当時、徳島に力のあった豪族がいた証拠となる。
解説は徳島文理大学教授 石野博信氏で、
「卑弥呼が登場するのに大きな役割を果たした一族の墓である」と語り、邪馬台国四国説を推す。
また、国史研究家・高校教諭 林博章氏の解説によればこのあたり一帯は古墳だらけだということ、
八人塚古墳は全長60mもあり、付近一帯には1000基の古墳がある。
古墳密集地だということ。
根拠2
邪馬台国があったとされる場所については様々な説があるが、有力なのは「近畿説」と「九州説」の2つ。
だが、ともに矛盾点がある。「魏志倭人伝」によれば、近畿説(一般的には畿内説というが、
番組では近畿説となっているので、近畿説で以下統一)は「方向が違う」、
九州説は「距離が合わない」といわれる。
そこで、古代史研究家 大杉博氏の研究によれば、朝鮮から出発した使者は、
上陸地が高知県宿毛町あたりではないかと推測(ここが投馬国)、
そこから距離的に見て、徳島に至ったのではないかということだ
根拠3
魏志倭人伝によると、邪馬台国について「その山には丹がある」と書いてある。
丹とは水銀のことで、邪馬台国に中には水銀丹(朱)の出る山があると、
書き残している。邪馬台国時代の水銀鉱山跡というのは、
徳島阿南市の若杉山遺跡でしか見つかっていない。水銀を生産している遺跡は、
他の場所から発見されていないので、ここだけらしい。よって「丹がある」という
一文からすれば、四国説はかなり有力となる。
根拠4
邪馬台国の時代から続く1800年続く一族「阿波忌部一族」がいる。
この一族は、古代から現在まで続く天皇家の宮廷の祭祀をしていたという。
儀式の中で、(大嘗祭のことか)、麻で作る織物(アワタエ)を献上する役割である。
現在の当主は三木信夫氏であり、番組内でインタビューに答えている。
その中身は「阿波には大きな先進文化をもった部族がいたことは確かで、
その後、この部族は阿波から近畿へ移動して日本の礎を築いた」と語っていた。
根拠5
近畿と四国の地名の一致。山城、伊賀、大阪、河内、勝浦など近畿にある地名は、
徳島にもある。
徳島や香川で作くられた壺などが、同じようなものが近畿でも出土している。
徳島と近畿に何らかの関係があるということか。
4 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 22:03:15.13
これから注目はされるだろう。
5 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 22:10:18.77
>九州説は「距離が合わない」といわれる。
北九州から南へ水行十日陸行一月行けばいいだろ。何で合わないとなるんだ?
6 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/07/10(日) 22:13:04.19
徳島県鳴門市萩原1号墳丘墓は3世紀中期の前方後円形積石塚で、この墳墓から一面の画文
帯同向式神獣鏡が出土しており、この鏡の文様と寸分違わない鏡が楽浪郡から発見されてい
ます。これら2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡
の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明しました。この事実により楽浪
出土鏡を原鏡とした踏み返しの鋳型より萩原墳丘墓鏡が作製されたことが明白となり、更に
3世紀代に造営された積石塚が楽浪郡と密接に関わっていることをも強く示唆するものとし
て注目に値するといえます。
斜縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡に最も類縁性の近い鏡として知られており、この鏡種にも
「吾作」銘のあるものが多く存在しているのは偶然ではないと考えています。斜縁二神
二獣鏡は神人龍虎画像鏡を母体により成立した鏡種であると言われていますが、神人龍
虎画像鏡は長江下流域の浙江省北部の海岸地域で集中して発見される呉系の鏡とのこと、
すなわち楽浪鏡の成立には呉系の鏡工人が深く関わっていたことが明確に示された訳です。
大和最古の古墳として注目されたホケノ山古墳からは非常に精巧な画文帯神獣鏡が出土しました。
徳島にB級楽浪鏡。
ホケノ山に1級楽浪鏡。
今まで注目されなかったのか逆に不思議な気が。
東征説でもここは重要地なのにな。
8 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 23:09:16.55
阿波踊りは卑弥呼の踊り。
9 :
水銀厨:2011/07/10(日) 23:12:49.30
隔離スレらしいですが‥おそらく過疎るでしょうが。
徳島説という訳ではないので念のため。
しかしホケノ山の例でもあるように、巻向周辺との関連性は
もう否定し難いとは思いますよ。
それをつなぐ要因の一つに水銀朱がある事は指摘出来るはずです。
はいはい
11 :
日本@名無史さん:2011/07/11(月) 08:06:50.81
金印はここにあるはず
12 :
日本@名無史さん:2011/07/11(月) 08:34:11.22
水行10日陸行1月は松山辺りに上陸して内陸を歩いたのかな?
13 :
日本@名無史さん:2011/07/11(月) 20:47:28.41
徳島はなぜもっと発掘しないの?
14 :
日本@名無史さん:2011/07/11(月) 23:09:11.60
未発掘の古墳も多そうだが。
それに古事記の最初の舞台はここだろうな。
15 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 00:27:31.02
高天原 神山町
オノゴロ島 穴吹町
ヒルコ 麻植郡
アワシマ 善入寺島
そして淡路島
古事記は徳島の神山町が軸
16 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 00:46:14.70
本当なの?
粟島は吉野川にある川中島だよね?
河川改良工事名目で何千もの人が移住させられたが、
それ以前は立派な神社もあった。
18 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 01:30:58.98
根拠あんの?
19 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 01:54:02.26
関西は下戸が多いから畿内説はムリぽ
粟島なら有名だろ。
21 :
水銀厨:2011/07/12(火) 09:00:37.07
粟島(善入寺島)には大正期まで浮島八幡宮が存在しています。
今は川島神社に移遷されていますが。
本来は忌部神社の伝承をもつ大社ですよ。
22 :
水銀厨:2011/07/12(火) 09:13:19.14
>>15 まあトンデモ論で解釈するとオノゴロ島は自ら回る島なので地球でしょう。
地道説が認識されるはるか以前ですがw
(逆に本当にそう認識していたのならそれは凄い事なのですけど)
オノゴロ島はオンガ島
24 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 21:49:00.93
高天の原は、現在の奈良県御所市高天。
ここの領主は、高天彦といった。
ちなみに、奈良県御所市高天には、高天彦神社ってのがある。
25 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/12(火) 22:10:50.00
自ら転がる嶋だという。谷口正春氏の説だと思ったな?
26 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/12(火) 22:22:56.51
>>25 訂正
× 谷口正春氏
○ 谷口雅春氏
自ら転がる嶋っていうのは自転島で、地球のことだという。
27 :
水銀厨:2011/07/12(火) 23:06:56.10
>>26 やっぱり同じような事考えてる人はおられますな。
調べたら宗教家さんですね?
記紀を一度読み直した時、二神が左回りと右回りで
国生みの結果が違うという点から、天体を連想して
妄想したのですが。
28 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/12(火) 23:13:47.39
谷口雅春氏の「古事記と現代の預言」という書に、その解説があったと
記憶してますが・・・?
29 :
水銀厨:2011/07/12(火) 23:19:19.25
その資料は私は未見ですね。また探してみます。
(記1300年関連で資料漬けなんですよ)
30 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/12(火) 23:30:17.90
カッコ書きの意味が分かりません?
オヤスミナサイ。また明日・・・。zzzz・・・
31 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 23:37:44.58
玄界灘にオロ島、博多湾にノコ島があってあわせてオノコロ島という説もあったな。
32 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 23:41:15.20
ヤマタノオロチ=吉野川
ヤマタノオロチ退治は吉野川の治水のことだ
暴れ川だからな
33 :
水銀厨:2011/07/13(水) 00:07:29.55
ヤマタノオロチについては河内〜大和の大和川説をとりますね。
枝分かれが多くて暴れる川です。
またどちらの平野にも八尾の地名があって、各地に伝承が
多く残ってる点や鳥髪山の存在も有りますが‥
34 :
日本@名無史さん:2011/07/13(水) 08:51:22.24
黄泉の国だから死国か。
35 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 07:08:27.74
さっさと八倉比売神社を掘削しようぜ
36 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 08:32:06.04
印があるって場所だね。
淡路ワールドパークONOKORO
38 :
水銀厨:2011/07/14(木) 09:43:47.66
でも徳島が邪馬台国そのものか?というと
それは違うはずですよ。
別スレでも指摘しましたが七万戸を持つ国が
このエリアだけ、というのは狭すぎですから。
同様な理由で巻向周辺のみが邪馬台国というのも無理でしょう。
3世紀の時点で大阪湾を中心とした周辺諸国がそうです。
39 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 17:22:47.37
七万戸なんて誰がどうやって数えたんだ?って話
伝聞の伝聞ですよ
40 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 18:50:06.99
少し本でも読めば、数え方はすぐ分かるよ。
41 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 18:59:54.26
九州には収まらないのは確か。
42 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 19:27:57.89
魏志倭人伝の数字はすべてデタラメ
43 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 20:07:37.46
そんな事はないよ、結構正確。
どの程度まで正確なんだろうか。
今の戸籍制度でも死亡届けが出てなかったりして、微妙な感じだけども。
今よりは適当でざっくりしていたイメージではある。
そりゃ今とは比較にはならんでしょ。
下男とかを数えてるとも思えないし。
46 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 21:14:52.36
>九州には収まらないのは確か。
少し本を読んでみたら。収まることはちゃんと説明されているよ。
48 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 22:52:18.40
九州東遷説の人って忌部一族をどう考えてる?
なぜ1800年も前に四国の山奥に天皇家の祭祀者がいるわけ?
49 :
水銀厨:2011/07/14(木) 23:41:15.99
九州東遷説や倭国九州島内説では、
2〜3世紀頃の四国徳島の存在をどうやっても説明出来ませんからね。
50 :
日本@名無史さん:2011/07/15(金) 01:47:42.25
説明を要するような状態があったかなあ。
51 :
日本@名無史さん:2011/07/15(金) 04:32:43.39
九州にあったとするなら記録が残ってるはずですよ。
52 :
日本@名無史さん:2011/07/15(金) 07:12:22.64
古事記の最初の話は徳島周辺だしな
53 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 05:52:31.62
ウィキに四国説がないぞ
54 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 06:05:13.48
畿内へ遷都したとき、なんで忌部氏も移住しなかったんだ?
皇室の最重要出入り業者なのに
55 :
水銀厨:2011/07/16(土) 10:08:14.07
>>53 邪馬台国ブームの後に注目され始めたので
殆ど浸透してないでしょ。
>>54 中臣氏と勢力争いして力失ったのでは?
56 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 19:21:27.05
やっぱり四国だな。
57 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 21:38:05.91
徳島は山と川ばっかりで平野部が少ないからね。
手狭になったから大阪平野に拠点を移したんだろう。
59 :
水銀厨:2011/07/16(土) 23:07:51.80
>>58 女王構成国だとは思うのだが、
投馬国かも?という部分もある。
もう少し出土物や遺跡発掘を注視したいのが本音だね。
伸びてるなと思ったら
スレ回しがいるのか
61 :
水銀厨:2011/07/17(日) 00:39:35.77
もうわかってる人も多いと思うが、
歴史が(意図的に?)消されている可能性が高いのが四国。
倭国が四国周辺だと考えたら、色々話が繋がる部分が多いからね。
結論 四国じゃないからだろw
間違いなく倭は四国だね。
無いね
65 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 02:59:21.85
ぱんどらで たかじん委員会 09.07.19
検索すると面白い動画がでてくる
四国説は思いっきりスルーされてる(笑
阿波忌部を無視できるの?ふーんw
67 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 18:56:36.04
馬がいなかったのに邪馬台国とはこれいかに?
徳がないのに徳島と呼ぶが如し
69 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 19:47:28.28
やっぱり倭国の中心は徳島だよな。
徳川も徳島から名前を付けたんだろう。
70 :
日本@名無史さん:2011/07/17(日) 20:57:42.94
邪馬台国は土佐ぜよ!
日本の夜明けとは、要するに、邪馬台国再興ぜよ!
71 :
水銀厨:2011/07/17(日) 23:42:23.25
倭国については倭人伝、倭国伝の記述に一番合ってしまうのが
四国東部としかいいようがないですね。
まぁ記紀の説話も普通に読むと、淡路島周辺を重視しているのは
一目瞭然なのですが。
>>70 土佐なんて元々名前自体波多国ですから。
隋書倭国伝には行程途中に秦王国という記述もありますが、
大分宇佐から瀬戸内を通らず土佐を経由して阿波に抜けた、
とも考えられますね。
十数国を経由して海岸線に出るとなると、四国を回って
阿波に抜けたという事でしょうか。
倭人伝の陸行1月という数字もこれが一番無難な感はありますが‥
四国説は少ないから有名になれるチャンス
お遍路さんのスタートが徳島からなのも
意味が有るって事かもね。
74 :
水銀厨:2011/07/18(月) 09:04:27.86
>>72 別に少ない訳じゃないんですよ。
過去の印象で邪馬台国論争といえば、九州説と畿内説の対決図式が
定着しているだけですから、企画等も組みやすいし。
でも結構以前から大和と阿波の関係が考古学的にも
深い事は言われてましたからね。
最近はTVでも紹介されたりしてますから、
これからは色々注目度は上がると思います。
75 :
日本@名無史さん:2011/07/18(月) 09:25:33.43
無理だろう。倭人伝の行程に合わない、遺跡もなければ伝説もない、
いいところなしだね。
77 :
水銀厨:2011/07/18(月) 10:04:38.18
>>76 本当は〜説というレッテル貼りはあまり好きじゃないんですが。
隔離スレとして立てて頂いたらしいので、ここで書いてますけどw
正直な話、ネット以外でまとめてくれと別からも話をいただいてまして。
それと倭国伝とセットでの話しだと、どうしても阿毎多利思比孤の話まで
となるので、もう少し資料を含めて整理したい部分があります。
奈良以前は阿波が舞台だね。
九州王朝説も終了ですw
九州に邪馬台国があり、制圧したのならば
武勇伝として大和史に残してるはずだよ
神武天皇のこと?
そりゃ九州に邪馬台国は無いからね。
記紀は、白村江の戦いで敗戦し、傷ついたプライドを回復させるための物語。
中国の属国であった邪馬台国のことなど書くわけない。
国産みで畿内ではなく四国・淡路島を最初に登場させたのは知識人としての最後の良心。
普通に解釈しろよw
戦争に負けると国はアイデンティティクライシスに陥る。
聖徳太子もこの時期に捏造されたんじゃないか。
自尊心を回復させる為、先祖にスーパースターの存在が必要だったのだ。
85 :
水銀厨:2011/07/19(火) 09:32:09.28
倭国伝や各風土記を読む限り、聖徳太子らしき人物は存在したと
思いますね、後年の脚色はあるのは間違いないですが。
最近見かけるようになった、阿波国の皇子が聖徳太子でしょう。
播磨灘に太子の逸話が多いのもその為です。
いまだに、聖徳太子非実在説があるように、情報が極端に少ない。
もっとも重要な、17条憲法や「日出づる国の天子」で、
別人という説が出る始末。
飛鳥朝と大和朝は断絶している別の勢力である可能性は高い。
黙ってうどん作ってりゃいいんだよ
88 :
水銀厨:2011/07/19(火) 23:44:48.54
>>86 聖徳太子非実在説は無いと思いますよ。
私は阿波方面に縁のある皇子で、当時の倭国の重要人物という認識です。
情報も他の同年代の人物に比較して少なくはないでしょう。
まあ超人的な逸話まで信じる必要はないですが。
>飛鳥朝と大和朝は断絶
私は完全な断絶は無い説ですね、豪族間の主導権争いは
当然あるでしょうが。
じゃあ
ヤマトと飛鳥は繋がってる?
90 :
水銀厨:2011/07/20(水) 12:15:24.87
まず飛鳥王朝といっても主な基盤は河内南部でしょう。
曽我も物部も。
91 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 18:39:42.48
徳島は銅鐸の出土数も実は多いよね。
候補としては九州なんかより余程可能性がある。
それは徳島のフォローになってないような...
93 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 18:58:38.10
なんで?銅剣や貨泉も出土してるし。
畿内は勿論北部九州とも交流があったという事。
いまのところ、銅鐸文化圏は断絶していて、
銅鏡文化圏に入れ替わったというのが定説
まあ、別の解釈もできなくはないけど。
95 :
伊作:2011/07/20(水) 20:47:33.35
そもそも銅鐸は天上界の音をかなでる祭器として中国に発祥したもので、
長江領域の民族が列島にもたらしものだ。
銅鐸に刻まれた「双極文」「わらび手文」といった、
典型的なへび信仰を示すうず巻き文様と、
蛇のウロコの象形である連続三角文(鋸歯文)が、
三角縁神獣鏡にも巫女型埴輪にも装飾古墳にも刻まれている。
へび信仰は縄文の土偶にも土器にもみられるもので、
縄文から弥生時代・古墳時代へと連綿と継続している。
「銅鏡文化圏」だ「銅鐸族」という造語で民族や勢力を区別したがるが、
実はみな同じ「民族的信仰心」をもった倭人なのだ。
縄文から弥生・古墳時代を通じて、倭人を構成したのも倭人文化を築いたのも、
長江流域からの渡来民族ということだ。
96 :
伊作:2011/07/20(水) 20:58:40.91
>>95の、ほ・そ・く。
『史記』を読んだはずのない倭人が、
「自分たちは呉の太伯の末裔」と自称したという驚異的な事実。
黥面・文身・お歯黒をし、苗族と同じまげを結うなどの事実。
稲作・横穴墓・船形木棺・環濠集落・高塚式墳墓など、
すべてが長江流域からもたらされた文化である事実。
こうした事実を踏まえた上で3世紀の倭人について考察しないと、
邪馬台国の所在にばかりとらわれて語ってもそれは歴史でも何でもない。
場所探しゲームのための倭人伝解読ゲームに終始するのみだ。
それがエスカレートすると「邪馬台国は四国徳島だった!」などという
バカげたことをぬかす野郎がでてくるわけだ。
こんなクソとぴっくは、放置して消してしまえ。恥ずかしい
銅鐸が祭器どうかも判明してないのに思い込みで能書き垂れる爺さんは哀れ
98 :
水銀厨:2011/07/20(水) 21:05:59.48
>>96 伊作さんは若杉山の辰砂についてはどう認識してるの?
99 :
伊作:2011/07/20(水) 22:20:15.75
>>97 >銅鐸が祭器どうかも判明してないのに
お前の知識として判明していないだけだ。
バカのアカ恥発言
わーい、名無しには反応しないと宣言してる爺さんからレス貰えたよ
よっぽどまずいとこ突かれたんだね、きっとw
101 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:32:48.16
なんでアブラハムの息子イサクがこんなところで油売ってるんだ?
102 :
伊作:2011/07/20(水) 22:39:23.80
>>98 >若杉山の辰砂についてはどう認識してるの?
辰砂とは中国の辰州で産する砂の意味らしいので、
ここではやはり倭人伝が書いたとおり「丹」としよう。
丹からとれる水銀は、微量ならば薬として使われたらしいことは周知の通り。
あとは朱色の原料になったくらいか。
死体や棺を丹朱で塗るのは、
腐敗防止と殺菌の目的もあったのではないかといわれる。
中国では朱色は特別な色で、
「朱戸」といって皇帝の臣下で高貴な人物や高官など、
特別に許された者だけが家の門を朱塗りにできた。
漠然とした質問でどういう意図なのかは不明だが、
こんなものは縄文時代からあるものでね。
産地と政権中枢とはまったく無関係だと考える。
103 :
伊作:2011/07/20(水) 22:42:16.83
>>100 >レス貰えたよ
嬉しがって・しょんべん漏らすな。
>よっぽどまずいとこ突かれたんだね、
ろくな勉強もせず軽はずみな発言をするから、
無知・無恥をさらけてやったのよ。
104 :
水銀厨:2011/07/20(水) 22:46:28.19
>>102 まあここが邪馬台国かは別にして、倭地の重要地だと
認識してる訳ですが。
現状でも前方後円墳の原形をはじめ、巻向との
関連の深さが指摘されているとかね。
そのどちらの近所にも丹の山が存在しますしね。
気延山古墳群や砂鉄も確認されている矢野遺跡とかもな、
調査が進めば何があるかはわからんよ。
記紀や神社伝承の類を入れれば、ここが倭の重要地なのは
言うまでも無い事でしょう。
爺さんから2レスゲット?
今日のところはこれくらいで勘弁しといてやるよ
あら、二重音符が?になってもうた
卑弥呼は武力ではなく呪術で統治してた。
丹は必要不可欠。
卑弥呼の神聖政治は天皇へ踏襲される。
邪馬台国はプレ大和朝廷なのです。
>>103 銅鐸って他の祭器と一所に出てきてるんですか?
阿波忌部氏の存在は、
九州東遷説や九州王朝説のネックだね。
畿内説だとしても四国くんだりに祭祀者を作る意味がわからない
112 :
伊作:2011/07/21(木) 08:02:09.01
●拡大解釈による誤解の拡大を矯正しておく。
忌部氏とは「祭祀者」だの「司祭」ではない。
祭祀に使う祭具の製造や神殿建築に関わってきた氏族的技術集団だ。
これが倭国の重要な祭祀をとり行なってきたといわんばかりの言説は
これっきりにしとけ。
>>109 >なぜ忌部の本拠地が四国にあるの?
どこを本拠地にしようがどうだっていい。
>>110 >阿波忌部氏の存在は、
別に歴史上大きな問題ではない。
>>111 >四国くんだりに祭祀者を作る意味がわからない
職業集団だからこそ「四国くんだり」なのだ。
113 :
伊作:2011/07/21(木) 08:10:50.25
>>108 >銅鐸って他の祭器と一所に出てきてるんですか?
しらねーな。
土地の神を鎮めるために青銅器を土の埋める行為は
遼寧式青銅器時代に始まったとか。
ほれ。巨大地震を体験したばかりだけろう。
古代人の土地の神に対する畏怖と畏敬のほどがわかろう。
「地鎮祭」、今でもあるよな。
土に埋める地鎮具のレプリカは、鏡・剣・矛・楯そして人形(ひとがた)だ。
建物や田畑の開墾や大規模水利土木工事などで、
土地の神を鎮めるために大切なものを埋めた心理もわかろう。
(人形は人柱の名残りか)。
銅鐸が、集落の端や田畑の畦などから出る意味も解けたというものよ。
住居趾の中心から鏡面を下に向けて水平に置かれた鏡も出土する。
で・何の話だったけかー?
114 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 08:35:27.80
忌部氏が対九州ではなく、対畿内に対して便利な場所に
本拠をしている点が重要なんだろ。
丹だって祭祀には必需品だからな。
115 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 08:52:41.11
九州では、金銀の装飾品が出ても、
鉄丹ですませてるところがあるから、
そんなにこだわってもいなかったんだろう。
このへんは水銀朱にこだわった文化なのかな。
116 :
伊作:2011/07/21(木) 08:52:46.57
>>114 氏族世襲時代の祭祀は、支配者とその一族の女性がとり仕切っていた。
祭祀を補助し演出したのは隼人であり、忌部氏ではない。
玉つくりや社づくりは祭祀をやる時期や場所とは無関係だ。
便利も不便もあるか。
四国は関門海峡を通過した内側にあって、
九州勢力の柔らかな監視と管理の下で、
渡来人が集団で計画的に住まわされた所だ。
『三国志』韓伝にある。
「鶏を飼って尾が長くなるのを楽しむ」とか。
四国にも「尾長鶏」を珍重する伝統があるだろう。
ちっとはこうした視点をもて。
>>116 じゃ君は倭国は四国にまで広がった国という考えだな。
忌部氏が誰に対して玉造りや社を作ってたと考えるのかね?
118 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 09:02:09.35
もう徳島でいいよ。
失われたアークまであるんだろ?
119 :
水銀厨:2011/07/21(木) 09:16:14.93
伊作さん、少し強引な解釈しすぎじゃないですか。
黒潮の流れを無視する訳じゃないですよね?
阿波忌部氏は中臣氏との勢力争いに負けて
所謂古墳時代以降大和では地位の低下が否めません。
祭祀を司る関連一族は当然その対象近くに本拠を置きますよ。
つまり弥生期阿波には祭祀の対象が近くにいた、という
捉え方をするのは当然の考え方でしょう。
>>116 あれ、田子作って
ゆるふん嫌いなんじゃなかった?www
祭祀関連の一族を国外に置くわけないよなw
供える食べ物を運べる範囲だよ。
それと阿波(粟)という名前を忘れてないかい?
オオゲツヒメの国でもあるからな。
忌部氏は海人族で房総の安房まで勢力伸ばすんだろ?
まさに女王国の東海の倭種だよな。
もう徳島で決まりです。
123 :
伊作:2011/07/21(木) 17:48:38.06
>>119 >祭祀を司る関連一族は
祭祀にまつわる「物づくり」氏族たる忌部氏を
「祭祀を司る関連一族」とする所は強引飛躍どころかウソだろう。
124 :
伊作:2011/07/21(木) 18:10:12.83
>>123ていせい
>>119 「祭祀を司る関連一族」は俺の読み違い。
水銀の原料たる丹がとれれば、政権中枢はその近くにあったというし。
祭祀用具づくりの忌部氏が四国にいれば、
祭祀を司る関連一族は当然その対象近くに本拠を置いたというし。
これを実際の画像として想定してみ。マンガ以下の直線的解釈だよ。
そちこちでさんざん書かれてきたことだが、
纏向の祭祀遺跡から出る土器は纏向でつくられたものかい?
土器づくり集団を近くに住まわせていたかい?
必要な物があれば産地から取り寄せればいい。
必要な技術者は必要なときに招集すればいい。それだけのことだよ。
どこぞのアホどもがゆってたっけな。
『隋書』が「その山に阿蘇山あり」と書いているのだから、
倭国の王都は阿蘇山が見える所にあった。……稚拙すぎる直線的解釈だよね。
「倭国の産物」といえば、広く当時の倭国の版図からとれる産物をいい、
「その山」といえば、当時の倭国の版図にある山をいう。
倭国王都が大和にあって、糸魚川でとれたヒスイも倭国の産物であり、
倭国王都が大和にあって、火を吹く珍しい山が九州にあっても倭国の山だよ。
125 :
水銀厨:2011/07/21(木) 19:17:14.00
>>124 結局それじゃ倭国=朝鮮半島から紀伊半島までを含む国という
主張と大差ないわけだがw
>祭祀を司る関連一族は当然その対象近くに本拠を置いたというし。
これは間違いないと思うけど、玉や丹の産地はともかくね。
食料はどう解釈しても近くでしか有り得ないから。
126 :
伊作:2011/07/21(木) 20:05:18.65
>>125 >食料はどう解釈しても近くでしか有り得ないから。
防衛・通交・気候・風水・食料などの面からもゆったっけね。
邪馬台国の都は、稲作と畑作が盛んな土地で、
ある大河川を遡った防衛上最も安全で、
一級道路としての大小の河川と水路が走る中上流部にあって、
海産物が腐らないうちにとどけられる所。
むろん、弥生の漁労水準に合った豊穣の内海があり、
その内海が外海からの津波や台風時の高波を緩衝し、
左巻き台風の風水害が少ない東高西低の(東と北を山に囲まれた)吉地。
天然の地形と立地環境を最大の防衛と防災構想に用いていた古代において、
「倭国」という大きなくくりの都にふさわしい土地は日本列島に2カ所しかない。
それが、熊本平野と大和盆地である。
水銀や朱の産地や土器の分布がどうこう、祭祀用具づくり集団がどうこうなど、
小さ過ぎて滑稽なほどに理路整然としてるだろう。
いうまでもなく、外からの侵攻が用意な海岸べりの前原や、
三方が開けた太宰府や久留米などは論外。
そんな所を都にするほど、太伯の末裔たちは知恵遅れ・知識遅れではない。
127 :
伊作:2011/07/21(木) 20:12:06.16
どや。天才の「戦略的王都構想論」は。
しかも、王都をかかえた熊本平野は土器づくりなどよりも、
最も重要な産物である鉄器製造の中心地だ。
土器づくりなどはその土地の女どもの仕事よ。
熊本に都があった弥生期は、
鉄器を流通統制しながら全国に配布していたのだよ。
128 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 20:15:21.71
ということは、吉野川の中流か?
129 :
伊作:2011/07/21(木) 20:16:49.53
四国の徳島がどうしたって? ん・んー?
これで、歴史から逸脱したバカ言説トピックも潰したぞ。
すでに幾つかみてきた通り、
しばらくは「びーすか」「ぎゃーすか」虚勢で騒ぐだろうが、
そのうちにシラけて過疎化する運命さ。
130 :
伊作:2011/07/21(木) 20:20:32.58
>>128 何でもいいから、
天才が提示した「王都の条件」を上回るほどの条件と、
王都があったと考えられる考古的痕跡などを含めて
現実問題として提示してからいうことだな。
水銀厨の知識を引き出すためには伊作のような存在も必要だな。
どちらかを一方的に完全否定するつもりもマンセーするつもりもないし、
ただ色んな話が知りたいってだけでさ。
>>130 書き込みを見てただけで、単に独り言をつぶやいただけだから。
以北の国々、取り敢えず、
斯馬國:斯馬の関=下関=馬関
これは確定
>>126 まてまてその条件には一つ問題があるぞ
それは、日本全国から自由に選んだ場合に限るということ
天然の要塞地域があればそれはみんな欲しがるわけで
既に別の勢力が居座っている場合は都にできない
135 :
水銀厨:2011/07/21(木) 21:14:58.93
>>126 私の邪馬台国想定場所は大和盆地〜河内〜徳島が中心で、
淡路島が瀬戸内の防御ラインですよ。
だから、大和盆地はその条件にあてはまるだろ?
阿波は防御上は少し弱い点、また、新たな大陸からの知識が入ると
共に大和へ宮を移転したともいえるでしょ。
丹の山もあるしな。古墳の共通性もある。
美馬地方から来たのがミマキイリヒコ、という事。
3世紀の時点での邪馬台国の宮が巻向だという事だね。
136 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 21:29:03.43
熊本平野が条件に当てはまるなら、河内も充分当てはまるな。
>>136 河内は耕作面積が少ないだろう。大阪平野は当時海だったし
また3世紀にどの程度治水事業が行なわれていたかはわからんが
すぐ川が氾濫するから都にするにはしんどいかもね
139 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 21:56:31.74
熊本平野は中国と近すぎだ。
邪馬台国は遠いし火山の記述もない。
140 :
伊作:2011/07/21(木) 22:19:10.67
よしよし。
これでこのトピックも、ほどなく閑古鳥だ。
甘いな
九州妄言説よりは本質に近づいてる
142 :
水銀厨:2011/07/21(木) 22:34:09.05
もう殆ど答え出てるでしょ?
少なくとも行程遊びしている段階ではない。
その行程も随書倭国伝で説明されてるし。
>>142 「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
を言いたいんだろうが
「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」
に矛盾するからな
他の記述や唐書との意見の食い違いを見るに
邪馬台と邪靡堆の名称の一致による混同でしかない
144 :
水銀厨:2011/07/21(木) 22:59:49.64
>>143 違いますよ、行程の事です。
秦王国は大分から四国という事で。痕跡なら山ほどあるでしょう。
何しろ波多国までありますから。
>>144 そりゃ飛鳥時代の都は、大和や河内や難波にあったからな。
弥生時代とは違うものだ。
「又東至一支國又至竹斯國」
ここまではいい。筑紫が九州のどの範囲を表しているかは疑問を生むところだが。
「又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又經十餘國達於海岸」
問題はここから東に行っていること。しかも十余国経由して海岸(おそらくは難波津)に到着している。
魏志倭人伝では伊都國から南に行っており、筑紫から東に行くルートとは完璧に異なる。
弥生時代の邪馬台国は、飛鳥時代の奈良の邪靡堆とは異なっているという証左である。
秦王国は広島
147 :
水銀厨:2011/07/21(木) 23:21:56.85
>>145 伊都の位置については、垂仁の世に
伊都比古が長門辺りに現れて王権を主張してるからね。
これをどう判断するかでしょう。
位置論争については水掛論にしかならないので認識のみを。
日田、大分、山口辺りからが女王国という認識で
投馬は九州南部中心。奴国は北部九州から
本州西部にかけての領土を持つのでは?
という推論です。根拠はあまりないけどねw
>>147 >伊都の位置については、垂仁の世に
>伊都比古が長門辺りに現れて王権を主張してるからね。
>これをどう判断するかでしょう
弥生時代の伊都國は末盧國から東南陸行五百里にある。
末盧國をどこに比定するかによるが、壱岐から千余里では少なくとも九州の北部。
そこから陸行なので、九州のいずれかにあることは間違いない。
垂仁天皇の世に伊都比古が長門に現れたのとは関係のないことだ。
149 :
水銀厨:2011/07/21(木) 23:43:50.11
>>148 >垂仁天皇の世に伊都比古が長門に現れたのとは関係のないことだ。
記紀のモモソ姫を3世紀の卑弥呼に比定すると、決して
無関係ではないですからね。
卑弥呼が死んだ跡男王が立つが、また国が乱れるという記述には
合いますから。諸国の王族がそれぞれまた王権を主張するのは
考えられる事でしょう。
>>149 >記紀のモモソ姫を3世紀の卑弥呼に比定すると、決して
>無関係ではないですからね。
伊都比古が長門に現れたから長門が伊都國だとするには論拠に乏しい。
それを主張するのなら
モモソ姫が卑弥呼であるという証明
伊都比古が伊都國王であるという証明
伊都比古が現れた場所が伊都國であるという証明が必要
千歩譲って長門が伊都國だとしても、魏志倭人伝ではそこから南に行くんだから
どうあがいても九州に邪馬台国があるということになる。
筑紫より東に行くルートとは異なる。
まあ
モモソ姫が卑弥呼であるという証明は大前提の仮定であるから、百歩譲っていいとしても
確実に邪馬台国時代のことを伝える魏志倭人伝を差し置いて、わざわざ時代考証も不確定で内容も不明瞭(伊都比古のところ)な記紀になぜ頼るのかという根拠が無い限り
衆人は認めないだろうな
152 :
水銀厨:2011/07/22(金) 01:27:43.89
>>151 >モモソ姫が卑弥呼であるという証明は大前提の仮定であるから
それがわかってもらえるならいいですよ。
まあ根拠は記紀や各種風土記、神社の伝承等という事です。
基本的に倭国大乱が1〜2世紀で瀬戸内が舞台だろうというのも
前提の一つです。根拠は高地性集落と、沿岸部の各種遺跡、
特に淡路島の垣内遺跡は重要でしょうね。
倭人伝の行程に関しては瀬戸内とみてませんよ、
戦乱後で危険だと思いますからね。
四国東部から上陸して土佐〜阿波をまわるルートです。
153 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 02:21:59.13
論を弄りすぎてるんで、
あとはそれにどのくらいの説得力を持たせることができるか
だな。
海を隔てた四国、それも山奥に忌部を置くなんて
当時の交通事情なら畿内から何日もかかっただろうし、
現在で言うとアフリカに皇室の出入り業者を作るようなもんだ
忌部は海人族だよ。吉野川口だな。
徒歩より船のほうが安楽で、物も大量に運べただろうけど。
157 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 07:23:53.24
巻向遺跡な魚の骨はタイやカツオの海水魚。
158 :
水銀厨:2011/07/23(土) 08:36:36.47
まず以前から多くの人が指摘されているように、現在の地形を
一旦リセットして、現在の平野部の観念は取り除く事が必要ですね。
巻向周辺部のみで七万戸なんて集落が可能な訳が無いのです。
(鍵唐古でさえ想定人口千から二千ですよ)
よって畿内周辺に想定しようとすれば、否応でも相当な範囲を
必要とする訳です。
邪馬台国の比定地としては、人工縁力からみても大阪城周辺が有力なんじゃないでしょうか?
大阪城の隣には、前期難波宮、孝徳朝の長柄豊碕宮(652年完成)がありますが、
その下に縄文時代から弥生時代の大規模な集落跡があってそれが邪馬台国だったのではないでしょうか?
大阪城を壊してその下を調べれば、そこが元々は卑弥呼の墓だったことがわかるのですが、
大地震でも来て大阪城周辺が焼け野原にでもならない限り無理でしょうね。
考古学ファンとしては、東海南海連動型地震の到来が待ちどうしいところです。
160 :
水銀厨:2011/07/23(土) 10:33:49.16
>>159 大阪城周辺は2〜3世紀頃まだ大半湿原、湖か海だろう。
上町台地周辺で若干可能という程度。
大規模集落可能な場所はもう少し内陸部じゃないと無理で、
現在のJR大和路線周辺より南位です。
(実際遺跡もその辺に多いでしょ)
161 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 12:28:34.91
162 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/07/23(土) 13:22:47.57
169年 大彦誕生
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年 ツノガアラシト(天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国。新羅、伽耶に援軍
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。(ホツマでは、田道間守は清日子の子と成って
いるがキヨヒコを長男とし、田道間守の親代わりと見た方がよさそう)
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守の渡海
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。
氣長足姬尊立為皇后.開化天皇兒-彥坐皇子命兒-山代大筒城真若王兒-迦爾米雷王兒-息長宿禰女-
氣長足姬命是
多遲摩母呂須玖。此之子。多遲摩斐泥。此之子。多遲摩比那良岐。此之子。多遲麻毛理。
次多遲摩比多訶。次清日子。〈 三柱 〉此清日 子。娶當摩之〓[口+羊]斐。生子。酢鹿之諸男。
次妹菅竈〈 上 〉由良度美。〈 此四字以音。 〉。 故上云多遲摩比多訶。娶其姪由良度美。
生子。葛城 之高額比賣命。〈 此者息長帶比賣命之御祖。 〉
163 :
水銀厨:2011/07/23(土) 13:33:18.27
神功皇后には年代比定以前に、「子供がいる」と
はっきりかいてあるので卑弥呼の候補にはならないでしょう。
164 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 17:03:48.56
それはともかく、卑弥呼は新羅から舞い降りた天日矛の流れをくむ渡来系の女王だったことは確かなようですね。
でなければ、遠く中国大陸の魏の国のことなど知るはずがありません。
大阪湾周辺、多分、十三の環濠集落が邪馬台国の中心。
これはほぼ確定のような気がします。
石垣をひっくり返せば、なにか文字が出てきそうな気配がしませんか?
卑弥呼は南方系だな、半島からではないね。
この前大阪に行ったとき、十三も回ろうかと思ったのだけれど、道に迷って時間がなくなったので断念しまいた。
もし、あのとき、十三まで行っていれば、歴史観が変わっていたかもしれません。
いずれもう一度行きます。
167 :
日本@名無史さん:2011/07/24(日) 06:48:52.44
>114 :日本@名無史さん:2008/04/05(土) 00:33:09
>邪馬台国は畿内の可能性が一番高いんだろうけど、奈良盆地説を唱えてた研究家
>のひとがかれのホームページでその時期は今より気温が低く、当時の奈良盆地の植生を
>地中の花粉で調べた結果、魏志倭人伝に詳しく書かれている邪馬台国に生えていたらしい植物と
>当時の奈良盆地の植生が違っていることがわかったと。
>つまり、科学的にみれば、邪馬台国はマキムク、奈良盆地ではないらしい。
↓かな
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/hanni.htm 大阪平野が有力
168 :
水銀厨:2011/07/24(日) 10:13:03.46
>>164 大阪十三?平野区の赤留比売命神社の事じゃないのかな。
弥生後期なら西淀川区辺りは間違いなく海でしょう。
良くて島が点在している、いわば漁場のような場所。
大まかな時系列では、赤留比売命は応神期の話です。
新羅国で生まれて筑紫大分の姫島から、摂津の姫島へ天日矛から
逃れる為にやってきた、という話ですから
卑弥呼とは比定するのは無理がありすぎます。
169 :
日本@名無史さん:2011/07/24(日) 13:45:11.58
十三といえばピンサロ
172 :
水銀厨:2011/07/25(月) 08:42:08.88
>>169 私とは文献資料の解釈が違うのでしょう。
天日矛の説話が2世紀というのは少々無理があるのでは?
という感がありますね。
173 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 17:09:26.14
四国が邪馬台国なら広島辺りまでが奴国でしょ。
174 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 11:03:55.97
徳島のどこに卑弥呼の墓があるの?
175 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 11:31:27.30
気延山古墳群
176 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 13:26:54.91
大杉 博
177 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 20:46:29.77
178 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 08:09:38.17
古墳自体は200位あるからな。
でも山頂部の墓は麓の神社に移設されたという話。
179 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 11:38:48.34
予算があるからすべては無理だけど
卑弥呼の墓と思われてる古墳をピンポイントで掘ればええですやん
180 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 14:10:42.36
今は高速や環状線予定地の調査で忙しいのです
今まで注目されてない所が一番怪しいね。
182 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 20:53:52.01
ほうほう、とういうと?
183 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 21:22:38.68
ま、、眉山か
184 :
水銀厨:2011/07/28(木) 22:02:43.60
この辺りはやっぱり徳島だけではなく、播磨、淡路島周辺から
河内、和歌山辺りを一体として考えた方がいいでしょう。
185 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 22:25:33.11
殯(もがり)についてなんだけれど、
遺体をただ道端に置いただけでは大型獣に引きずられてばらばらになって骨も残らない恐れがあるし、
やはり、周辺を囲って骨になるまで数年、警備死んじゃいといけないのではないでしょうか?
それは相当権力のある人でないと無理だと思いました。
当然そうだろう。
187 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 23:25:34.01
ああ、沖縄の琉球王朝の玉陵(たまぐすく)
を思い出した。
亡くなったら、石造りの建物(左、中央、右の部屋がある)
のフタのない石の棺に数年放置して、
骨になるのを待ってから、大きな骨壷みたいなのに入れて、
歴代の王の間に並べる。
建物の朽ち果て具合が不気味だった。
>>185 人口の多い所じゃ権力者に限られるだろうな。南は風葬し甕ツボつう可能性も有るが
189 :
水銀厨:2011/07/29(金) 11:11:23.22
仮に倭人伝の「卑弥呼の墓」があるとすれば、奈良だと思いますよ。
箸墓がそうかどうかかは断定しませんが、実はもう一つ
個人的に怪しいと思ってる場所はありますけど。
徳島周辺にも候補があるにはあるのですが、資料が
少なすぎるのが難点ですね。
190 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 12:48:40.88
卑弥呼は徳島で生まれて奈良で死んだの?
191 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 13:58:49.32
恥墓は4世紀後半の墓だし、徳島にはその頃何もない。
讃岐の方が古い墓がいっぱいある。
讃岐の方が可能性が高い。
192 :
水銀厨:2011/07/29(金) 14:19:48.87
>卑弥呼は徳島で生まれて奈良で死んだの?
生まれは徳島とは限らないと思う。
>恥墓は4世紀後半の墓だし、徳島にはその頃何もない。
それは流石に無茶な意見だねw
193 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 15:30:29.08
モモソヒメは蛇(先住民)にやられた事を恥じて死んだのだろ?
だから恥墓。
安本は4世紀後半と言っているし、九州説の大方も4世紀中葉以降と言っているんじゃないか?
安本や九州説の主張は願望だよw
考古学の連中でそんな主張の奴は皆無です。
モモソ姫は反射的に箸墓を連想する奴が多いが、
幼少から三輪神に嫁ぐまでは
播磨から讃岐で滞在してるんだよな。
196 :
水銀厨:2011/07/30(土) 00:32:20.67
モモソ姫が徳島生まれかどうかは判りませんが、
(眉山近辺じゃないか?という想定はありますが)
ミマキイリヒコに関しては四国東部の生まれの
可能性が高いでしょう。
197 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 09:30:22.72
やっぱりオオヒルメ様
198 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 17:54:29.07
>>194 いやいや、九州説は文献解釈に重点を置いた実証主義だよ。
考古学では何も分からないということを知ってるからね。
199 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 18:55:39.89
>>198 その実証主義の結果で箸墓が四世紀後半になるのか?
九州説って変な連中だねw
邪馬台国が四国にあったかはともかく
讃岐と阿波の古代は興味深いね
集落とか規模で言うと当時ではかなり大きいんですよね?
山上説とか面白いw剣山辺りに住んでたのは神官の家系なのかな
戦国土佐の本山(山田)とか態々四国の山手に住んでるし傾向はありそう。
阿波の有力豪族の本拠地は神領辺りだったんでしょうか。
四国説はロマンだらけですねwユダヤとかは行き過ぎだと思いますけど
邪馬台国説・大和の中の人説・ユダヤ説はそれぞれ別だよね?
互いに干渉しあうとかなり胡散臭くなるw
202 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 11:10:24.00
徳島周辺って、地理的にみて文明が発達しそうな条件(※)がそろっているので
外来者がここで力蓄えて、近畿に勢力を伸ばしていったというストーリーは大いに
ありそうだよね。
※大きな川が東西に流れ、東に海があって日当たりが良く
流域には大きな平野が開けている。
渡来人
阿讃(忌部)→中央政界から初期段階で活躍するが中臣氏と争い没落、四国に帰国
九州(物部)→九州に上陸後、西日本の大部分に分布、次第に勢力減退
大和(中臣)→藤原氏祖・勝組、ヤマト政権樹立
大和(蘇我)→物部・中臣と対立し衰退→後に没落(土佐へ逃げた?)
全部渡来人?蝦夷(アイヌ)が先住民だったのかね…
磐井の乱は残る有力渡来系の物部氏弱体化政策?
四国はその頃既に逃亡者のアジール(後の四国流刑地化)と化し山岳信仰が伸びていった
九州の渡来系豪族を討ち渡来系からの脱却を図った中央ヤマト
西方の不安が解消されたヤマトは次の目標を東北へと向ける
204 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 13:04:11.80
九州説の大好きな地名の類似性も、四国と畿内の方が
はるかに多いし必然性もあるからな。
畿内と阿波はセットで考えるのが正確。
九州が手狭になった渡来人が東へ勢力を伸ばす。
吉野川という巨大な川を見つけたので四国に定住。
倭国の大乱勃発。
徳島に居た卑弥呼がリーダーシップを取り上手く治める。
邪馬台国のプレゼンスが急上昇。
さらに広い平野を求めて紀伊水道を渡って大阪平野へ。
そして大和朝廷。
206 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 18:47:14.96
倭国大乱が瀬戸内海を舞台とすると
当然吉備や四国が重要だよな。
207 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 22:29:51.13
九州→阿波→畿内・・と2段階で移住したとすれば全て解決する。
阿波の国と安房の国、四国と房総半島の地名の類似性のほうが強い。
更に言えば、阿波は更に東北地方にも類似地名が多い。
阿波は全国展開をしていたことは確かだ。
208 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 22:40:48.45
まぁそういう事だろう。
だから九州王朝の東征とかは絶対成立しない話。
209 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 01:39:15.54
やっぱり海を渡った東に倭種有りというのは、
房総辺りに進出しつつある状況の話かも。
210 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 16:21:57.79
四国が倭の中心ですよ。
211 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 17:13:43.52
なぜ?
徳島って鬼が島って言われてる洞窟があるんですよね?
213 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 17:28:41.41
瀬戸内海には色々伝承多いよ。
214 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 18:57:34.33
鬼ヶ島って、下関じゃなかったっけ。
まあ、どこにあってもおかしくはないが。
215 :
日本@名無史さん:2011/08/09(火) 04:00:02.77
稲作社会なんだから川がない地域は論外っしょ?
四国に川が無いとでも?
香川は無いと思うけど他県はあるだろ
香川はどうしてたの?
当時は、
川の大きさ=クニの大きさ
四国に邪馬台国があるのなら吉野川周辺しか考えられない
国内最長となる河川橋 東環状大橋もいよいよ来年開通ですか
吉野川だけじゃなくて那賀川もかなりのものだ
四国住民じゃないオレが四国で知ってる川っていったら
吉野川と四万十川だな
地図見たら香川も川流れてるのな
規模や人工かは知らないけど
関係ないけど、川が少ないのに香川って結構不思議な命名
以前は讃岐だから明治以降なのかもしれんが
>>218 物部の里、土佐も候補だろう。
剣山の周辺部がヤマタイ国。
222 :
ひみか:2011/08/13(土) 00:14:02.21
倭人伝に書かれている銅鏡や矛、戈、絹織物など、四国で出土しているんですか??
223 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 08:57:05.22
絹は出てないかな。でも丹の山が確認されているのは大きいと思う。
224 :
日本@名無史さん:2011/08/13(土) 09:15:53.02
古事記の内容でも四国が重要なのは言うまでもないだろう。
225 :
日本@名無史さん:2011/08/17(水) 21:23:10.69
徳島に帰省してたけど板野の埋文センターには行けなかった
次は冬だ
讃岐富士を崩して、その底まで掘れ。そうすれば卑弥呼の石室が現れるはず。
ピラミッドも神武天皇陵も、その規模からしてあまりにもちっぽけな権力者でしかなかったことがわかるはず。
なぜなら、その当時、日本が世界の中心だったのだから。
227 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 23:28:06.33
徳島は無い
228 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 08:30:31.34
卑弥呼が生まれる前に九州から畿内に邪馬台国が引っ越してきたんじゃないの?
そうすれば、両方邪馬台国の存在場所になるじゃん。
229 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 08:39:17.18
豪族が一族の一部を派遣して、開拓して、第二本拠地にして勢力を拡大するなんて
普通にありそうじゃん。
邪馬台国もそれなんじゃね?
徳島も第三本拠地だったりしてw
70000戸もあるなら四国全土が邪馬台国でもおかしくない。
土佐って陸の孤島なんじゃないの?
232 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 19:48:42.56
船舶で太平洋(土佐湾)に出れば天下御免。
室戸岬を回り、伊島を抜ければ紀伊水道から畿内(大阪湾)、紀伊半島は指呼の間。
233 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 21:50:17.80
んなとこ地理的にありえないでしょう。
234 :
水銀厨:2011/09/01(木) 22:27:52.45
倭人伝の行程は太平洋周りで土佐(都佐)経由で
阿波へ至るという解釈だな。
瀬戸内は倭国大乱後だって安定してないので
行使が利用するにはリスクがあったはず。
そうとう後年だって海賊が多い場所だぞ。
235 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 22:48:57.58
どこに都を置くかは重要でしょう?四国が島であるかぎり倭国の中心地に
はなれない。無理。
島がダメならどこも皆ダメだろw
237 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 22:57:58.88
本州と四国では島の規模が違うでしょう?四国では中心地になれない。
238 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 23:11:46.19
そんじゃー狗奴国はどこ?狗奴国との争いはこちらからの朝貢時の情報ですよ
ね?この南の方角は間違いないよ思うのだけど?狗奴国はどこ?答えられるの?
239 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 23:45:57.62
徳島と和歌山と千葉に繋がりがあることを考えれば、太平洋上の往来はありえるね。
>>234 そうそう、上の方であきれて反論するのも忘れていたが
魏志倭人伝を信じるとか言ってるのに勝手に東に行くとかいう手前勝手な解釈の根拠はなに?
魏志倭人伝無視すればどこでもいける
241 :
水銀厨:2011/09/02(金) 00:05:06.76
>>238 倭人伝の書かれた3世紀末の認識だと、河内、奈良盆地北部の
ヤマタイ国の南、現葛城山系紀ノ川以南の紀伊半島が狗奴国だな。
丹の山を巡る主導権の争いだね。
>>240 東へは行かない、宇佐辺りから南へ水行、土佐方面を周るという事。
厳密には東へも行くが南とは単に位置関係だという解釈。
九州説でも方角のズレは必ず生じる。
242 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 00:10:57.56
>>241 倭人伝の書かれた3世紀末の認識だと、河内、奈良盆地北部の
ヤマタイ国の南、現葛城山系紀ノ川以南の紀伊半島が狗奴国だな。
丹の山を巡る主導権の争いだね。
え!あなた畿内説じゃないんでしょう?四国説ならどこ?って聞いているの
ですよ。それじゃー答えになっていないでしょう?
>>241 >東へは行かない
東に行ってるじゃねーか
そんな南に行ってから東に行くような場合はちゃんと「乍南乍東」なりなんなり書いてある
史書は南と書いたら南に行く
それ以外の方角へは行かない。倭人伝は八方位を取っているので、±22度程度のズレは生じることもあるがそれ以外は行かない
そんな例は他には無い。あるなら例を出してみろ
九州説の方角のズレとやらも教えてもらおうか
244 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 00:21:15.60
水銀厨さん、あなたの考えはもういいから、その徳島文理大学教授 石野博信氏
は、狗奴国はどこだ比定しているの?
245 :
水銀厨:2011/09/02(金) 00:21:17.67
>>243 >そんな南に行ってから東に行くような場合はちゃんと「乍南乍東」なりなんなり書いてある
でも里数がかかれてないだろ。
これは「倭人の伝聞説」としかとりようがないからな。
>九州説の方角のズレ
南へ水行云々だけでは河川や沿岸を水行しても、九州にも適地はない、
という事ですよ。
246 :
水銀厨:2011/09/02(金) 00:24:17.06
>>244 ご自身で聞いてみたらいいのでは?
まあ会う機会はあるのでまた聞いてはみるけど
あんまり邪馬台国の話なんてしないからね。
中国旅行や写真の話しならするけどw
>>245 >でも里数がかかれてないだろ
里数はなくても日数はある、方角までおかしいという根拠は?
あんたは北部九州も邪馬台国の一部だと主張してるんだろ?
それなのに、土佐経由で阿波に入って大和入りというコースで「至邪馬台国」だと矛盾が発生すると思うが?
そして伊都國との南北の位置関係もおかしくなるだろう
>南へ水行云々だけでは河川や沿岸を水行しても、九州にも適地はない
何を想定しているのかわからないから、具体的に書いてくれ
248 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 00:30:21.87
えーーーー、まさかその大学教授さんは狗奴国とがどこかも比定しないでの
お説なのでしょうか?ちょっと信じられません。
249 :
水銀厨:2011/09/02(金) 00:49:30.76
>>242 畿内説のつもりですがw
変わってるとは言われるけどね。
>>247 大分(日田を境目として)や山口辺りからが「女王国」だと
してますが、今の所は。
邪馬台国=四国の東部を含む淡路島周辺諸国という認識だね。
元は宮崎説だったがやはりここは投馬国だと思うようになった。
>>248 そりゃ内心は知らないですよw
私だって持論の半分もここでは言ってませんからね。
250 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 16:21:14.12
里程に注意。
中国の三国時代前後は[1里≒432メートル]です。
>>243 東夷の中の1つにそんなに神経すり減らして書くかな?
ある意味、追加付録で更にその中の1つで
重要度もそんなにあったのかね?
252 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 16:52:15.28
眉山・・・日(毘)山、弥山?
太古、徳島市街地は海中。
香川県の金刀比羅宮は、大物主神(フル〜オオトシ〜ニギハヤヒ大王)の近畿(ヤマト)攻略、四国瀬戸内経営の行宮跡の伝承があり、明治以降の金刀比羅宮の祭神を大物主神に変更。
(ニギハヤヒの東征/東遷)。
太古、琴平周辺まで海が迫っていた模様
後に播磨、摂津(神戸〜阪神)、河内に至り斑鳩峰を越えて大和盆地入りし三炊屋姫と政略結婚して在地勢力を従えて御名を「ニギハヤヒ」と号して大王に即位
(皇祖。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命/天照御魂大神)。
香川県のこの一帯のは阿波忌部が移住して開発した土地とか。
大麻比古神社/大麻山の真西に金刀比羅山と峰続きの大麻山と大麻神社が有ります。
金刀比羅本宮の真東には鳴門の金刀比羅宮。
大麻比古神社/大麻山の真南辺りが眉山。
大麻比古神社の真北には播磨の三大社の粒坐天照神社(天照国照彦天火明命)や伊和神社(播磨一宮)。
播磨と神戸(西摂津)は大歳神社の密集地。
253 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 17:36:36.20
眉山は剣山の夏至の日の出方向。(和歌山加太の淡島神社〜)
剣山は眉山の冬至の日の入り方向。(〜和歌山加太の淡島神社)
剣山の冬至の日の出は潮岬。
剣山の真東には伊島。熊野本宮大社。
(伊島はオノコロ島か?剣山と熊野本宮大社の中間点、北には伊弉諾神宮)。
剣山の真西には道後温泉(温神社)
・・・神話の各地での温泉発見譚はこれらのポイント探索の過程での副産物かと。
祖谷は古語ではクマノと同義。
祖谷は剣山の西、金刀比羅宮の南(金刀比羅宮の真北には児島の熊野大社)
日本列島を南西〜北東に貫くはるかな一筋の神路。
・・・宮古島、屋久島、(足摺岬)四万十川河口、「剣山」、「大麻山」大麻比古神社(一宮)、「伊弉諾神宮」(幽宮/淡路一宮)、石寝屋古墳/岩屋八幡宮、
五色塚古墳/(垂水)海神社(名神大社/日向大明神)・・・六甲山最高峰付近の「白山宮」(石の宝殿)・・・「有馬温泉」
能勢の「妙見山」、京都の貴船山/貴船神社、(白髭神社/本宮)、白山、糸魚川河口(弥彦神社/一宮)・・・出羽、月山・・・奥入瀬川河口・・・知床岬
>>251 東夷の一つだとかは関係ない
漢文はきちんと通例に従ったとおりに書く
このような意図的に間違えた読み方は、はっきりいって可能性は0
トンデモの類
255 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/02(金) 19:04:01.63
伊勢國五十鈴川ハ大神秘ナリ後世鶴ハ千年亀ハ万年ノ永キ間ニ智者
賢者顕レ此神秘ヲ開説スベシトノ大啓示ナリ
神前ニカゝルル鈴ヲ振レバ音ヲ生ズ鈴ニ似タル佛者ノ木魚ヲ叩ケバ
黙々トシテ談ラザルモ音ヲ發ス之ヲ以テ五十鈴ノ鈴ニ音ヲ入レ
替フル時ハ五十音トナル五十音ハ神サンノ作ラレタルモノナリ聖書ニ
コトバ即チ神ナリ神即チコトバナリトアリ又佛教典ニハ聲字即實相
トアリ
〜読ミ人知ラズ
256 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/02(金) 19:24:28.87
>>255 続き
朝熊岳ノ附近ニ音無山アリ神楽猿轡黙示ナルヲ以テ聖地ノ如ク見ユルモ之レ亦
啓示ニ過ギズ此音無山ニ関連シテ紀伊国ニ音無川アリ而シテ大和ノ国ヨリ流レテ
紀伊国ニ入ル吉野川ハ紀伊川ト称セリ紀伊ハキイニシテ鍵ナリ大和ノ吉野川ハ西
ニ流レテ紀伊水道ニ入リ阿波ノ吉野川ハ東ニ流レテ紀伊水道ニ入リ茲ニ両川合体
セリ故ニ伊賀伊勢志摩尾張ノ四国ハ表東陽ニシテ伊豫讃岐阿波土佐ノ四国ハ裏西
陰ニシテ両者ハ表裏陰陽相関連シテ相離ルベカラザルモノナリ而シテ前者ハ志摩
ノ国アルヲ以テ表島ニシテ後者ハ島国ナルヲ以テ裏島(浦島)ナリ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
霊峰富士山ノアル東海道ハ韜晦即チクラマシテアリ山陽道八ヶ国山陰
道八ヶ国八八ニ八十六ナリ最も難解トスル南海道六ヶ国ハ世界ノ鍵
ナルキイ紀伊国ト泡ト消エ失セル淡路国トヲ除ク時ハ伊豫讃岐阿波
土佐ノ四国ニシテシオンノ国ナリ阿波国ノ吉野川ハ河口ニ於テニッニ
岐レ一流ハ別宮川ト称セリ東ナル伊勢国ニ宮川アリテ西ナル阿波国ニ
別宮川アリ然ラバ別宮奥ノ院奥宮ノアル朝熊岳ノ如クニシテ陰トナレ
ル聖地ニ行カントセバ逢坂峠即チ大阪ヲ経テ神サンノ門戸ナル神戸ニ
至リ別宮川ノアル阿波国ヘ行ク路ナル淡路島ヲ経テ大鳴門小鳴門即チ
御成門ヲ過グレバ阿波国ニ至ルベシ夫レヨリ土佐ノ国ヘ至レバ浦戸湾
アリ浦戸ハ裏戸ニシテ神サンノ裏ノ門戸ナリ神戸ニ対応スルモノニ
シテ土佐ノ国ハ終リニシテ土佐ノ国ニ至ル必要ナカラン即チ死人ヲ
俗ニ土佐右ヱ門ト称スルニ見テモ明カナリ
〜読ミ人知ラズ
257 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/02(金) 19:27:59.93
>>256 続き
伊勢国ノ隣ニ志摩ノ国アリテ志摩ニ菅島(清島聖島)アリ又穴川及
賢島アルモ平地ニシテ朝熊岳ノ如ク高クナキヲ以テ之レ等ハ皆啓示ニ
シテ真ニ求ムル陰ノ聖地聖所ニアラザルガ如シ而シテ元伊勢ナル
伊雑宮ノ在ル附近ニ的矢村アリテ別ノ元伊勢ナル瀧原神宮ノ在ル所ハ
野後(ノジリ)ト称セリ野後ハ野尻ニシテ矢尻ノコトナリ此東西的矢
ト矢尻トハ弓矢八幡ノ弓矢ヲ以テ的◎日月一貫世界ノ中心点ヲ射ヨ
トノ啓示ナリ故ニ伊勢国五十鈴川ノ伊勢鎮座即チ此東表陽ヨリ反対ニ
西裏陰ナル阿波国ノ或ル地点ナル的矢矢尻ノ中心点◎ノ聖地ガ存在
スル啓示ナリ奥ノ院ガアリシ朝熊岳ノ如キ熊笹ノ繁茂セル御山ヲ探シ
求ム可キ啓示ナリ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊勢国聖地御料林ノ裏山ニハ注連指 藤坂峠 獅ヶ鼻 鶴坂峠 鍛冶屋峠
剣ヶ峠 逢坂峠 山伏峠アリテ朝熊岳ニ至ルベシ故ニ奥ノ院ニ的中スル
中心点ヲ見出スベキモノナリ
昔少彦名大神ハ粟ノ茎ヘツカマッテスルスルト空ヘ飛ビ上リタリト
云フ粟トハ阿波ノ国ニシテ茎ハケイニシテ渓谷ナリサレバ阿波国ノ
或ル御山ノ渓谷ヲヨジ登ラレタルコトヲ暗示セルモノナリ茲ニ於テ
阿波国ヲ検討スベシ
阿波国ハ十郡ニ分レアハハアワニ通ジアハ五十音第一行第一字目ニ
アリテワハ第十行ノ第一字目ニ在リテ伊勢国五十鈴川ノ鈴ヲ音ニ入レ
替ヘタル五十音ニ因メルモノナリ
〜読ミ人知ラズ
258 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/02(金) 19:30:43.29
>>257 続き
阿波国ノ中央西ヨリ東ニ流ル丶吉野川ハ一名四国三郎吉野川ト称スル
いろは歌留多ノヨシノズヰヨリ天ヲ覗ク吉野川ノ川上或ル地点ヨリ
天高ク剣山ヲ眺ムレバ頂上近クニ見越(見残)ヲ拝スベシ見越
(見残)ハ御神輿ノコトナリ御神輿ヲ見越セ見残シテハイカヌト教ヘ
玉フ所ナリ此剣山ノ別名ヲ石立山トモ四国太郎山トモ云ヘリ而シテ
頂上近クニ次郎牛(ジロウギウ)ト云フ所アリ四国太郎山牛及四国
三郎吉野川ハ太郎次郎三郎ト三スクリットヲ為シ三好(サンスク)郡
ヲ以テ啓示セリ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
剣山四国太郎山ハ別名ヲ石立山ト云フ如ク非常ニ巨石巖石多シ岩 巖
磐 嵒ハ何レモ皆イハ又ハイハホニシテ石立山ハ三ツ口山ナリ此石
又ハ岩ニ最大ノ注意ヲ拂フコトヲ要ス神戸附近ニ須磨明石アリ之レヲ
漢文流ニ読ム時ハ須ク磨クベシ石ヲ以テ明ニセリアカシハ燈明ナリ
而シテ大聖キリスト曰ク学者黙シテ論者談ラズ只石独リ叫ブベシト
伊勢国五十鈴川ノ河口二見浦海岸ニ夫婦岩アリ夫婦ト云フモ陰陽ニ
アラズ大岩ト小岩トノ二ツヨリ成ル然ルニ阿波国剣山ノ頂上近クニ
雌雄池(夫婦池)アリ之レ東西夫婦岩ト夫婦池トハ誠ニ陰陽ニシテ
伊勢国五十鈴川ト阿波国剣山トハ密接重大ナル関係ヲ持ツ証ナリ剣山
ノ麓ニ八間石ト太鼓田(岩石ヲ以テ成ル)トアリ頂上ノ附近ニ八剣
神社ト阿弥石トアリ之レ八間石ト八剣神社ト相対応シ八咫ニシテ八八
ニ八十六ナリト太鼓田ト阿弥石ト相対応シ弥陀ニシテ之レ亦八八ニ八
十六ナリ
〜読ミ人知ラズ
259 :
日本@名無史さん:2011/09/10(土) 13:47:20.21
260 :
日本@名無史さん:2011/09/11(日) 11:17:10.45
若狭湾に上陸して琵琶湖経由で大阪湾に出て、淡路島から四国に渡って邪馬台国に付いたというのが正解。
四国のどこか?という話になるとちょっと難しいけれど、淡路島とは阿波路島であり東京街道みたいなもの。
阿波の奥座敷の美馬が有力だと考えます。
>>2の根拠1に出てくる高校の先生はおれの恩師
ちょっと変わった人だった
おもしろかったけど
徳島と高知のラインに注目だね。
この説を支持するずら!
ずら?
265 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 15:18:11.95
266 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 22:58:36.23
さっき「世界ふしぎ発見」でやってたように、
かつおだしの高知から関東にかけての地域と、昆布だしの関西から日本海沿岸地域とは、経済圏も民族的にも別の国だったことがわかります。
さて、では、魏と交流があった国はどちらかといえば、日本海ルートではなく、松浦半島から朝鮮半島の西側に渡った勢力、
つまり四国から関東にかけての太平洋側氏支配していた勢力のほうだと考えます。
そして、邪馬台国は土佐山田にあった!と想定します。
いや、埼玉にあったらしいよ
邪馬台国いきたい
埼玉に来なよ
270 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 23:53:32.30
>>260 若狭湾から民族移入があったのは間違いないね。
関西だけ極端に下戸率が高いのはそれ
271 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 22:22:37.29
若狭だよ山ちゃん!
邪馬台国といえば若狭、決まってるよね?
272 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 13:20:23.04
徳島って、何故か女の力が強いんだよね。
阿波踊りの「よしこの」で有名だった
もと料亭女将のお鯉さんなんて100まで
長生きして、死ぬまで人間国宝みたいな
扱いされてたよ。
この女性上位の伝統は、邪馬台国の卑弥呼が
どこかで影響してんのかもな。
「うちの県は女が強い」
初期症状です。
274 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 16:25:15.31
>>266 >かつおだしの高知から関東にかけての地域と、
>昆布だしの関西から日本海沿岸地域とは、
北前船が活躍した時代の、物資輸送ルートの違いによるものだ。
軽薄な結論を垂れるでない。
275 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 16:28:21.19
>>266 んーなことよりも、北前船が江戸時代まで、
持斎(倭人伝では持衰)を載せていた事実を話題にしたほうが面白かろう。
276 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 17:35:24.66
そういや昔、香川だったか愛媛だったかにも「やまだい」って地名があるって日本史の先生が余談で話してた。その先生はそこが耶馬台国だと信じてるって冗談ぽく言ってたけど。
やっぱ九州とか四国説もいっぱいあるんだねー
その先生鋭い!それ正解や!!
278 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 03:44:47.47
方角は勘違いがあるが日数は間違えないだろ
陸行一月水行二十日といったらそのとうりなんだよ
つまり九州じゃありえない
船で二十日もいって陸を一月といったら青森まで行けそうだが
まあ関東から先ということだ
おそらく神奈川の大和市ではないだろうか
>陸を一月といったら青森まで行けそうだが
道がない時代じゃ絶対無理だよw
280 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 08:59:52.31
水行一日50キロも行けば、二十日で千キロ
日本海側で、秋田まで、
太平洋側で東京まで
もっとも、延喜式では、難波から筑紫まで、
細かく泊に立ち寄って、30日となっているそうだが。
海路実測距離で500キロ程度だから、
一日15キロと言ったところだな。
水路といっても潮加減や海賊の妨害、中継港の存在等もあるからな。
まして陸路は山岳縦走考えられて、夜は移動出来ないだろう。
282 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 12:21:15.74
北前船が、京都ー北海道を結ぶ定期航路として成立したのは江戸時代に入ってからだけれど、
渤海から朝鮮半島、下関(馬関)を経由して小樽から日本海を渡ってウラジオストックに達する周回航路は、古くから知られていた。
韃靼、粛慎も日本列島にたくさん渡ってきているからね。
もう、邪馬台国が四国だなんていう人はいなくなった。
こういう状況では、恥ずかしくていえないだろう?
金印が出れば決定的
それしかないよ
285 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 13:34:38.94
新情報ないの?
286 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 17:19:59.43
決め手になる新発見が無い以上、徳島が邪馬台国の候補で
何が悪い?
阿波踊り空港に、「ようこそ、邪馬台国かも知れない日本の古都へ♪」とか
垂れ幕かけとけよ。
287 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:11:58.47
邪馬台国は群馬県高崎市山田町付近にあった。
ここには、日本3大石碑の1つ山ノ上碑に書かれたある放光寺(山王廃寺)にほど近く、
このあたりが古代日本列島の中心だった。
松浦半島に上陸して水行10日、難波津にしろ若狭湾にしろそこから中山道を陸行1月で
たどり着くところは、碓氷峠を超えた安中、そして高崎です。
邪馬台国は、山田国として各地にその痕跡を残している。
全国80万山田さんも応援しています。
288 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 09:30:00.37
奈良〜平安期の博多から平安京への朝貢では海路30日あまりと定められてるよ
当時でもかなりキツイ航海だったらしいが
289 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 09:33:03.07
ちなみに京〜グンマーは律令体制で東山道が整備されてからでも29日かかる
>>287 つまり宇宙戦艦ヤマトは正しい発音では
宇宙戦艦ヤマダであると
ヤマタのオロチやヤマダのクエビコ=案山子=ヘビは関係ありますか?
ヤマダ電機は関係ありますか?
山田太郎(ドカベン)は関係ありますか?
294 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 14:42:17.84
>>291,292良いところに気づきましたね。
関東から東海地方を中心に香香背男を祭る神社は広く分布しています。
天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。
別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。
概要 [編集]『古事記』には登場せず、『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。
本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、
星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。
この人物こそ、経津主に敗れた邪馬台国の香香背男、つまり山田の中の一本足の案山子男なのです。
ヤマダ電機発祥の地は前橋ですね。
しかし、ヤマダ電機の創業者の山田昇氏は宮崎県出身なので関係ありません。
しかし、検索していたら、群馬出身の同姓同名の山田昇という登山家がヒットしました。
1985年 夏にK2(南東稜)無酸素登頂、秋はエベレスト(東南稜)無酸素登頂、冬にはマナスル(ノーマルルート)無酸素登頂。
邪馬台国の時代の中国大陸といったら月に行くようなもの。
こういう人でないと魏に行って戻ってくることは出来ないでしょう。
ふーむ、ヤマトは山人、=さんじんだとすると高山地帯にいた独自の民族なのかも・・・(゚A゚;)ゴクリ
妄想乙
>>294 カガセオのカガは「輝く」だね
蛇をカグ、カカというのも「目が光る」という意味らしい
日本神話の中で唯一の星の神様という辺り、興味深い
・近畿より古い前方後円墳がある
は確かに気になる
301 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 23:58:49.66
新ネタないの?
もういいや。四国説は飽きたよ。
303 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 16:26:14.31
304 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 11:47:26.57
淡路島という可能性は無いの?
305 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 15:27:50.70
川がないからなぁ。
当時は川の大きさ=クニの大きさだと思うし
畿内のルーツが四国なら邪馬台国も四国になるの?
おかしくないか?
全部読んでみたら?
308 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 17:38:21.40
卑弥呼って徳島人なのかい?
309 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 18:44:48.29
邪馬台国=ヤマト国で、畿内だろう?
ヤマト王権の発祥地である高天の原も、
現在の御所市高天周辺の地域。
310 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:50:48.59
高天の原とは、現在の奈良県御所市高天周辺。
高天の領主は、高天彦といわれる。
その神社が、高天彦神社として、御所市高天に残る。
近畿王権は、出雲を倒して、その直後
王家の一族であるニニギを、
この高天から、九州高千穂に地方官として派遣する。
それを後世、天孫降臨と呼ぶ。
311 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 15:05:57.74
信長が中部、東海地方を統一、京の足利幕府を事実上倒して、
その後を受けた秀吉が四国や九州を征伐し対抗勢力を潰し、
最後は政治力に長けた徳川が長期政権を樹立する。
大和政権成立までのシナリオもそれと同じように複雑な過程を辿ったはずだし、
初期大和政権と、前方後円墳を南九州から東北南部にまで作らせた全盛期の大和政権の支配者とは別と考えたほうがよさそうです。
ただし、信長の血を引く「江」を2代将軍秀忠に輿入れさせたように、女系で繋がっていることは十分考えられます。
312 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 06:17:36.74
>>311 どちらも出自は同じだとは思うが
二系統に分かれていたと思う。
つまり、中世でいうのなら、持明院統と大覚寺統みたいに。
初期大和王権というか、大和王権の前身となった高尾張王権(葛城王権)と、
纏向遺跡以降の王権は、
もともとは兄弟から分かれた出自だけど、
中世の南北朝時代みたいに、二系統に分かれていた模様。
313 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 06:28:29.19
高尾張王権は、火明命の後胤が倭王の地位にあり
この火明命が出雲を倒して天下を統一した。
この火明命には弟のニニギ命がおり
出雲国譲りの直後、火明命の命令で、
ニニギ命は九州高千穂の地方官に任命される。
これを後世、ニニギの天孫降臨という。
ニニギ命はワカミケヌ(神武)の曽祖父にあたり、天皇家の先祖である。
高尾張王権(葛城王権)時代は、
天皇家の先祖たちは、最初は日向の地方官の地位にあった。後世、日向三代と言われる。
しかし、高尾張王権(葛城王権)本国で、ナガスネヒコの謀反があったので
日向の地方官の地位にあったワカミケヌ(神武)は、
援軍として、宗家を助けるべく東征した。これを神武東征と後世では言われる。
その後、天皇家の先祖は、高尾張王権で、倭王だった火明命の後胤たちを助け
実際の政治を見ていたのだが
途中で、その正当な倭王の地位を奪おうとする。
それが、欠史八代のあたりであり、倭国大乱とされている時代であり、
やがて天皇家は纏向王権を創始する。これをヤマト王権という。
314 :
313続き:2012/01/08(日) 06:33:54.52
よって、大和王権とは、
葛城王権(高尾張王権)の分派みたいなもの。
また、葛城王権(高尾張王権)とは、
大和王権の元祖みたいなものである。
どちらも出自は同じ、兄弟から分かれた者同士だが
出雲を国譲りさせ併合して天下を統一したのは
葛城王権(高尾張王権)であり、
そこから分派したのが、大和王権である。
315 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 08:20:30.84
泡踊りは卑弥呼が起源
空海がこだわった場所だからな。
四国は邪馬台国だよ。
こんなスレいるのか?
勿論、邪馬台国は四国だよ。
320 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 08:18:14.24
結論から言えば、阿波が倭国の中心だろう。
淡路島は鉄工房&前線基地でその後大和へ以降してゆく。
その諸国に共立された女王が卑弥呼だね。
321 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 12:56:05.75
狗奴国一宮 (天照天国天火明命・アマテル・ホアカリ)
邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国の位置を、愛知県一宮市萩原遺跡群を
はじめとして伊勢湾岸一帯からS字甕が大量に発掘されていることから、
尾張平野一帯に大勢力が広がっていた。
322 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 23:53:00.89
尾張とは、大和国の終わり、つまり、その先は蝦夷地ということだ。
と考えれば、富士山麓に富士王朝が存在したことの傍証になろう。
323 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 13:31:00.68
>勿論、邪馬台国は四国だよ。
人前では言わない方がいい。
324 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 14:13:44.92
じゃ、ここならいよな?
邪馬台国は四国だ。気候風土も合うし丹の山もあるしな。
国生みの淡路島だってすぐ横だよ。
325 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:57:47.63
山海経よろしくハッタリの世界じゃない?魏志倭人伝自体。
「蛮国のことなんか適当に書いちゃえ!」
326 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 19:21:03.51
邪馬台国かどうかはともかく、麻植〜神山〜祖谷にかけての山分は何か神秘的で面白いよな〜。
平家が逃げ込んだり、南朝の支持者が暗躍したり、畿内の反体制派にとってはよりどころみたいな。。。
327 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:30:39.52
畿内の地名に類似してるのは四国だよな。
328 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 12:26:45.04
鳴門は撫養からのリポートです。
龍に食いちぎられた子を探し集めて、治療をしたようです。
龍の襲ってきた方向は北、東、中、裏側です。龍退治は倭武殿の
発案の元、龍の潜んでいる場所の水を堰き、水の代わりに龍に
酒を飲ませ、酔っ払わせ、やっつけたそうです。
酒を飲んだ龍の様子は“酔い よい 酔い”の状態でした。町の人は
連れ立って、喜び浮かれ、龍のまね踊りをしています。
「養:かい(倭、日本) 撫:む(武) 龍:渦:.。o○:泡:越」
以上
329 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 16:51:54.45
アワの国を泡や粟が由来なんて言ってる奴はとんでもない情弱。
アワとは二神の事、わかる奴はわかってるよな?
越の国の中心、二上こそが邪馬台国
331 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 11:36:54.18
徳島は阿波市からの緊急報告です。
案内神社の前から報告いたします。
この神社の呼び方は今で言うところの「姉、穴、縫、愛、木目、姫、甲斐、鍵、籠、阿波、惶根」のどれなのでしょうか。どう見ても裂け目を祀っているようです。
裂け目様が埋め立てられ、葬られたことに対する恐れのためでしょうか。穴の中で龍・鰐・越が暴れたようです。因みに、奈良は鍵の八坂神社で蛇巻行事が執り行われます。阿波はあほ踊りがはやっていますが、輪になって踊る “ぞめき” が正調です。
埋め立てられた場所は秋月、成当、土成、郡(こおり)の様です。つちを何処から運んだのか気になります。山を削ったのでしょうか。山の土を削った(食いちぎった)ことに対して祟りを治めるための神社(面足尊)が有ると思いますのでこれから探索します。
以上
332 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 12:28:39.55
くぼみ、裂け目や凹は女性の象徴だよ。
穴八幡の由来は阿弥陀如来ということだけど本当かね?
俺は徳島説を信じる。が、やっぱり鉄の流通ルートを見ると、北九州が妥当なんだけど、
それでも徳島説を信じる。
335 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 00:42:50.00
徳島つうか南海道だろう?
淡路(アワジ)島 → 阿波(アワ)へいたる路
もしや・・・イヤ何でもない(笑)
337 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 16:52:51.07
一番古いイザナミ神社って徳島にあるんだって?
なら古事記の舞台は徳島ぢゃん
338 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 17:51:19.80
邪馬台国徳島説を支持する
神武も徳島から東征に向かった
>>337 一番古いの前に、『現存する』とつければわかりやすい。
大きな町にある神社は、生き残るために八幡神社や熊野神社などを主祭神に迎えている。
しかし、むしろ、末社や合祀された神社のほうが主神なのかもしれない。
340 :
日本@名無史さん:2012/04/19(木) 20:14:07.25
うちの実家の近くにイワサカ神明神社がある。
五社三門の古風な神社なんだ。
邪馬台国に関連があったらうれしいな。
伊作とかいうキチガイ爺さんがいるスレがあると聞いてきました。
どうしても四国じゃないといいたいんでしょうが、
そんなこと言ってるとあんた、祟られますよwww
342 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 05:32:08.73
343 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 13:51:25.28
神武東征のルートも、瀬戸内海ではなく四国の吉野川沿いだった可能性がある。
344 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 08:34:41.56
松茂付近から、眉山方面を眺めて見ろ。
吉野川が何と雄々しい大河であることよ。
下流地域の川幅が半端なく広い。
その向こうに、眉山やその背景に剣山をいただく四国山脈がそびえ立ってる。
吉野川の沿岸には広い平野が広がり、東側が海に開けているから日当たりも抜群。
後の中心地となる、大阪・京都・奈良には内海を渡れば直ぐの場所柄。
こんな場所に、古代国家が栄えないわけないわ。
345 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 16:52:55.62
つまらん議論しなくても、倭人伝に答えは書いてある。
冬も温暖で丹の山がある、海人達が住む倭国。
条件に合致するのは四国東南部しかない。
しかもそこは海部、物部の里だよ。
346 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 17:00:30.04
四国か、行程はまったく合致しないな。
行程は合致する
四国の西端から徳島までは陸路一ヶ月ほどだ
348 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 17:45:20.44
基本的に水銀朱は中央構造線沿いに出るんだな。
四国でも無論出るだろうが、
熊本南部でも出るのだ。
佐賀嬉野の水銀朱は中央構造線から離れてるので、
ちょっと異質だが。
349 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 18:55:28.18
>四国の西端から徳島までは陸路一ヶ月ほどだ
それじゃ東北だろうが。南へ歩くんだよ。
350 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 06:46:27.27
>>348 水銀朱採掘跡、遺跡が無いとね。四国にはズバリ弥生期の物がある。
>>349 南へ歩き続けるなんて記述はないぞ。
大体水陸を南へ進み続けてたどり着ける場所なんか
大陸でも無い限り有り得ないw
351 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 07:24:49.60
水行も陸行も南だよ。そこをごまかしては駄目だ。
352 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 12:25:00.61
>>351 でもそのまま解釈すれば、たどり着く場所は日本にはないぞ。
九州北部や南部、畿内でもな。
353 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 13:00:04.64
では、ここで、里程、日程の1/6説はいかがですか?
里程を公里1/6の短里へ、おなじく
日程でも妥当な距離数の1/6へ(一月435キロ相当を1/6)
これで
距離、方向、
計万二千余里、
丹の出る中央構造体周辺
もちろん南国
地理的な陸行水行の違和感もなし。
1/6さえあれば、たいていの解釈に困りませんよ。
354 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 13:24:58.42
変なことをしない。そのままで、何も問題ないよ。
十分に九州の中で収まる。
355 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 14:48:44.81
九州は候補地としては既に失格だな。
記紀神話でも国産みは淡路島周辺だし。
奈良との地名の相似も九州なんかより多い。
いい加減現実から逃げちゃダメだよ。
356 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 15:04:20.78
記紀神話の読み方を知らんだけだろ。北九州から南へ行くのに畿内はないよ。
357 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 15:36:44.20
大体北九州からとも限らない。マツラに渡るのに「南」なんて記述も無いぞ。
それに記紀神話の国産みは淡路島周辺以外にあるのか?
358 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 16:08:29.72
それ以前に、記紀神話の国生みと、
邪馬台国に何の関係があるの?
記紀で重要な場所近くがアワ(倭)なんて名前なのにw
オマケに倭人伝の記述に最も近い。
誰でもわかるのに、どれだけ盆暗なんだ?という話だね。
阿波の対岸が紀和、貴倭国=女王国とする文献もあるしな。
気候や風土的にこの周辺が倭の中心だよ。
361 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 19:04:41.26
その程度で信じれるとはおめでたい。
362 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 19:14:50.69
機器によれば、泥海をかき回して作った最初の一しずくの島である淡路島。
まあ、地元民には重要な島だろう。
それと、魏志倭人伝に何の関係があるの?
363 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 19:26:50.03
ゴミ捨て場の桃の種とか、どうでもいいものを
無理やり邪馬台国につなげる連中が後を絶たないな。
364 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 23:18:31.61
桃の種からしても、大和政権は岡山から遷都したことは明白。
365 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 23:30:35.76
記紀に書いてるし>岡山から遷都
天孫族神武の本拠地は実は岡山であることは明白
気候温暖で丹の山がある、海人が多いという
倭人伝の風土記述に一番近いのが結局阿波だからね。
北部九州には一致する物が何もない。鉄器が多い?
それこそ倭人伝の記述にはないぞw
367 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 23:39:42.52
伊都の範囲が本州西部に及ぶと考えたらいいだけでしょ。
本州西部から水行十日陸行一日くらいで徳島
日と月は似てるし使者の報告書を見ながら書き写しす時に間違った…とか
369 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 05:21:12.94
末盧国から東南陸行五百里は有明海沿岸だ。
有明海沿岸から四国へ行くわけはないな。
それなんですが末盧国から東南陸行五百里(約38km?)の伊都国は当時の有明海沿岸だと思わます。
伊都国は糸島半島付近だとする説があるというか有力説になっているんですが…
唐津から見た糸島半島の方位は東南でなく東北で、しかも途中は山が海岸に迫っていて
当時陸行するのはかなり困難か不可能だったかもしれない。
陸行するメリットは全くなくて、糸島半島に向かうなら間違いなく水行するはず。
こういうこともあって伊都国は有明海沿岸と考える人は多いのですけどどうなんでしょうね。
邪馬台国を九州の外とするには伊都国は糸島半島としなければかなりやりにくくなります。
371 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 06:38:44.29
邪馬台国の東は海でなければならない
さらに渡海千余里で倭種の国がなければならないが徳島は合致してる
冬も温暖、丹の山、海人も多い、、、揃いすぎの徳島
372 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 07:51:59.79
ただ、肯定的にはまったく合わない。
他の候補に比較すれば、行程も別に問題無いと思うが。
九州は距離的に、畿内は方角に難があるのでちょうど中間。
それに貨泉の出土範囲は北部九州〜瀬戸内〜阿波、河内と流れる。
374 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 10:07:17.30
九州は距離も合っているよ。
九州は距離も合わないし倭を思わせる物があまり無い。
四国には唯一イザナミそのものを祀る神社がある。
しかもそこは丹の山も近い。
九州だと思いたいやつ、必死なのはわかったから
もうこのスレ来るなよ
邪馬台国は徳島なんだよ
377 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 08:32:38.87
>>371 こうして見ると徳島辺りにしか思えないな。
378 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 12:38:33.70
ちょっと常識があったら四国とはいわんな。
九州説には利権でもあるんじゃないの?w
常識を取っ払って冷静になったら四国しか無いという話だな。
阿波から河内、大和へ移る理由も九州より遥かに現実的だし。
381 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 21:32:28.76
邪馬台国は高知市の山田ですよ。これは間違いありません。
382 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 01:21:20.27
>>377 徳島だと言ってるようなものだな。
紀伊山地から大和を奇襲攻撃するのも南海が庭のようなものだった徳島なら有利だ
九州人がいきなり紀州の山越えをできるもんか
九州人というか主力は岡山人だろ実質
岡山に何年いたんだっけ
384 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 08:40:03.72
貴倭国が女王国なんだろ、普通貴倭=紀和と考えるよな。
そこには丹生の媛の神社もある訳だ。
3から4世紀、四国から紀伊に渡ったと考えるのが普通。
385 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 11:38:29.78
貴倭国なんてあったか?
386 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 09:07:06.27
キワものだな。
387 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 08:58:53.48
「周旋五千余里」→海岸から測量した場合、四国の山上の大きさと似ている
魏志倭人伝の記述から邪馬台国を知り、場所探しをしているのだから
記述内容がもっとも一致する場所を選定するのが先ではないかと?
後、徳島の最大の特徴として近くに「朱」が採掘できるのが上げられるが、
このあたりは見識はどうなんだろうか?
だから倭人伝の記述内容に一番近いのが四国だって。
記述で丹は鉄なんかよりずっと重視されてるよ。
389 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 19:26:01.51
>>371 >邪馬台国の東は海でなければならない
記述あるの?
本当なら徳島、大分、宮崎、鹿児島だけじゃん
390 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 19:48:13.30
女王国の東渡海千里とあるからね。
391 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 20:33:16.70
神武の先導をするのが速水の門で会った珍彦(ウズヒコ)
実質的に大和国主になる人物で、ウズヒコは当然阿波周辺の人物だろう。
神武東征もこれがベースの話だろうな。
392 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 08:41:13.60
>>385 神功記に倭の女王を貴倭の女王とする文献ならあるよ。
また百済記でも貴国(貴倭国)という表現もある。
393 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 19:11:44.95
邪馬台国かどうかは兎も角、阿波が倭の重要地なのは確定だろ。
つまりこの時点で宮崎辺りを除いた、大半の九州説は死亡だ。
394 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 20:33:51.68
理由もなしに確定と言われてもねえ
395 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 20:38:26.46
徳島って和歌山と地名が似ているらしいけど
和歌山から徳島へ移民した可能性はないの?
397 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 21:45:59.43
>>394 理由なんて沢山あるだろ。倭人の風俗内容の記述に
一番多く当てはまるのは四国、徳島辺りだ。
398 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 21:55:54.91
行程記事とまったく合わないのも四国だ。
399 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:44:20.66
行程もピッタリ合うけどね。
宇佐辺りから海を南へ下って土佐経由で阿波へ行く。
瀬戸内が内乱の舞台だから避けて当然。
400 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 02:55:18.66
>>396 紀伊水道はさんで近いから、漁師同士の交流は当然
あったのとちゃうかぁ? 方言がよう似とうわ。
401 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 03:01:10.37
瀬戸内海を中心とした、海側から陸を見ると、
日向と畿内は両端にある。
402 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 09:10:00.40
倭国大乱の舞台が瀬戸内だと、全て話が繋がる訳だな。
前方後円墳のルーツが宮崎、徳島、岡山にあるし。
403 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 09:19:01.94
日向から瀬戸内海を経て畿内までの
いわば瀬戸内海文化圏と、
九州北部の有明海玄界灘文化圏は、
あまり関係はない。
若干の交易程度は当然行われているだろうが。
404 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 09:23:54.90
神武東征のコースは、日向から畿内までの
まさに瀬戸内海文化圏をたどっている。
魏志倭人伝の行程は、肥前から肥後へと、
旧肥国の範囲を通っている。
襲われるかどうかもわからない、知らない他国の道を
そう簡単に通る訳にはいかないのである。
>>395 移民いるよ。
特に戦国時代あたりに和歌山と大阪からたくさん渡ってきたらしい。
西路見町という名前の由来も移民から。
406 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 15:08:48.54
やっぱり海人の里だよな。
407 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 08:06:51.90
もう強引に、徳島駅を「邪馬台国駅」に改名しちまえよ!
こりゃあインパクトあって全国ニュースになるぞ。
408 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 12:54:39.51
徳島が邪馬台国かはまだ?だよ、倭国の根源ではあるが。
徳島から奈良の田原本〜桜井辺りに中枢が移転したのは間違いない。
空海もそれを知ってて色々小細工したんだろう。
卑弥呼はうどんを喰ってたから、徳島よりもう少し北だろうな。
410 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:05:29.87
因みに、西路見はうどん(鬼連:ウーロン)河の様だよ
411 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 21:16:21.91
阿讃地域や木頭村みたく、県境(海岸)沿いの端っこが隣接異地域と多少交流あるのは当然で、さして傾聴する話じゃないね。
那賀は「地名を二文字に変えよ」という勅令でそうなったもので元々の名じゃない。
長(ナガ)国→那賀(ナカ)国 長川→那賀川 長国の重要地だから長生町
412 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 21:42:27.91
こんなん全部妄想ww
学問の領域じゃない
ところで邪馬台国は徳島だよねJK
414 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 00:00:14.43
長(なが)について
古事記中に出る「奈何」で表される場所だと推測。
即ち、奈は穴・空間、何は埋め立ての意味を持ち、土で埋め立てれば
土奈何。どなわ、どなり、はなわ、いなに
氾濫した川はうどんの玉の様な池が出来(上記;西路見)、之を埋め立てれば
立派な水田が出来ます。国造りは之の方法をも繰り返して全国展開。
415 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 03:18:20.44
那賀はナーガ、蛇信仰由来だな。
ヤマタノオロチ征伐は徳島(吉野川)邪馬台国の那賀侵攻の伝承を取り入れたものだろう
吉野川下流は枝分かれして蛇行して八股の蛇のようだ。
吉野川の治水に成功して国力を増した邪馬台国は東征に成功してヤマト政権の元になった。
と言う説。
418 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 07:46:45.06
自然と共存するというのは江戸時代まで続いた
日本の文化ですよね
だとすれば、古事記の出来事を営みに置き換えれば理解し安いと思うけど、
こういう解釈をした本はあるのかな
例えば、最初の国造りは
渦のある場所からおのころ島、そして四国
何かの経路を表していると考えられます
解り安い内容だけど、あまり掘り下げられないのは
タブーの領域にあたるのかなと?
邪馬台国も経路の肝心な部分は曖昧な表現になっているし、
特定されたくない意識があったのかも知れません(^^)
419 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 08:21:32.94
当たり前すぎて敢えてスルーされてる感があるからな、阿波説は。
新たな丹の山を求めてヤマトへ移行したと考えると、
阿波からなら何の矛盾がない。
420 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:23:11.16
卑弥呼は中国に朝貢していたから存在ごと消されたんだわ
421 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:17:56.94
>邪馬台国も経路の肝心な部分は曖昧な表現になっているし、
あいまいに読んでるだけだろ。
ところで邪馬台国見つかったのかね?
423 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 22:24:12.66
えっつ?知らなかったんだ?
三世紀末の邪馬台国は畿内周辺、徳島は倭人の本拠地だよ。
425 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 08:56:49.09
兵庫や愛知に弥生遺跡は多いが、
奈良は少ない。
弥生遺跡ってなんだ
427 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 10:13:27.19
奈良には大陸の影響が色濃い鍵唐古があれば充分。
428 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 08:19:59.13
唐古の連中はみんな奴隷になったんだろうな・・・
429 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 09:23:26.70
唐古というのは韓来、つまり朝鮮半島から渡ってきた渡来人の住む異人街ということだ。
431 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 18:25:40.29
大陸、半島経由の漢人を唐(カラ)と呼んだんだよな。
まぁ弥生後期には奈良盆地までは大陸人がやって来たのは間違いない。
432 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:41:35.67
そりゃシナ人は朝鮮を植民地にしていたくらいだから、日本へも渡ってきただろうな。
倭人も半島南部にいたから列島と往来していただろう。
すいません、ざるうどんの大盛ください。
434 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 20:03:49.26
邪馬台国は四国でFAだな。
そういえば最近高知辺りの神木が荒らされてるのは
何か関係あったりして。
435 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 10:17:23.36
吾倭すか。
そ、ア+ワ。もう解りやす過ぎる話。
空海も古事記編纂者も皆確信犯。
邪馬台国が畿内〜九州論者はどっちもこのスレには合わないよな
スレ主には気の毒だが邪馬台国云々が一番関係無いと思うw
バイアスかかってるからどうしても他の事跡を見落としがちで多角的な視点で意見言ってる人見た事無い。
そもそも彼等はその地域(北九州・畿内)が中心でそれ以外は
征服される存在としてしか見れていないってのが、それがかなり疑問だ
自分も四国阿波が邪馬台国だとは言わないが
古事記とか東征の記述関係に関しては阿波はかなり重要地域だと見てる。
四国阿波と地理で繋がる地域・地理名が和歌山・房総半島に似た地名多すぎ
阿波(勝浦郡)=和歌山(那智勝浦)=房総半島(勝浦市)
和歌山(白浜町)=房総半島(白浜町)
阿波=安房
阿波・和歌山→畿内+安房の国に海人族の一族が移り住んだのはもっと昔の話で
忌部や物部など有力豪族が『大和朝廷』に関する時代からが本番だと考える。
ただ大和政権樹立期辺りの阿波の部族、忌部とかは表舞台から消えて行ってるんだよな
だから四国が歴史の立役者としてどれ位の活躍をしたのかが一番知りたいんだよね。
白浜は徳島にもあるよ。
>>438 あるね、今ググったら阿南の方だね
あとこの辺は畿内の河内っつう地名も多いな
河内はどっちが本場なんだろう、河内湖があった畿内から逆輸入?
どちらにせよ四国の研究が進むと面白いだろうね。
今だと変な論者にかき回されてばっかりだからどうにもならん
ユダヤと繋げるとか現時点では論外にすぎないw
邪馬台国云々とその時代の四国もまだまだ未解明だし
大和朝廷とのキーワードを探す方がまだ楽な気がするな
河内=川内ってのは地形からくる地名なので、本場も何も無いと思うよ。
まあ徳島には「なんとか河内」って地名はやたら有るけど、
徳島だけに多い地名でもない。
佐那河内・星河内・宮川内・北川内・山河内・・・よみは「かわち」じゃなくて「ごうち」「がわち」だな。
441 :
日本@名無史さん:2012/06/21(木) 12:17:31.73
カワチ=コウチだろ。
ここでも土佐〜河内への人の移動が考えられる。
442 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 00:27:50.64
南国土佐と北のはずれ十三湖の十三湊(とさみなと)。
繋がりがあったといっても信じるものはいないかもしれないけれど、
縄文時代から、日本列島を一回りする航路があったのです。
443 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 17:58:10.80
とにかく、もう強引に「邪馬台国県」にしちまえよ。
「うどん県」よりは見栄えが良いわ。
444 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 19:20:57.62
うどん県は、香川じゃなかったか?
445 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 21:19:44.47
もう答えは出てる、邪馬台国は四国東南部一帯です。
それは投馬国
447 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 21:37:18.50
じゃあ邪馬台国は?
東海
四国独立アイランドリーグ邪馬台国県で独立しろよ
>>446 投馬は九州南部だよ。
水行で九州へ向うか四国へ向うかの差。
451 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 09:27:10.84
蒲生田:かばせのん:かわちの:カダチノ
河内の意味は茅が生い茂った湿原地:うその口:宇土口:伊勢原
ざる:讃留:ため池:玉池:ウロンの池(上出
>>410)即ち、ざるうどん
452 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 10:12:43.45
香川県の讃留の池は高速高松道府中湖PAの所にあるが
貯水性が悪く底抜けで、下流に災害をもたらした。
倭武命の双子兄の大碓命が突貫工事を行ったエピソードがある
有名な「ざる池」だった。水がすぐに干上がるので埋立てがし易く
埋め立てた池の箇所は王子・生子(うおんし)即ち「讃留王西」
隣接の九十原も同様、九十(くつ):池 ・・・と推測します。
453 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 11:10:09.03
地名には地形はもちろん人名、エピソード(歴史)がこめられており
興味深い。
奈良県にある唐古・鍵遺跡の話が出ているが
地形から見た地名が確認しやすいので、この場合
唐古:とんご:東郷、田子、太子 → 池のこと、
唐朝とは関係ない大陸としての唐(から)との関係ありか
地名からY−染色体O2b系統、四国はO3系統 韓(から)
と見なすせそうだ。
鍵 :くぁんぎ:くぁに:蟹:穴 → 池(鍵は穴)、韓岐(から)←私説
鍵神社の蛇巻神事は上出済、蛇・鰐・鮫が暴れたようだ・・・阿波踊り
454 :
名無し:2012/06/26(火) 11:13:04.64
455 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 11:45:37.47
徳島に中国人が多いとか聞いたが、1つ気づいた点がある。
地形や風土が中国全体の縮図みたいなとこあるわ。
吉野川から北は、冬などけっこう寒くて北京あたりお思い起させるかも知れん。
その吉野川が揚子江でその南に行けば、夏などは南国ムードが無いわけではない。
東に海が開けている点も同じ。 商売に熱心な華僑みたいな精神風土もある
456 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 21:01:23.23
まあ早い話、神武東征は四国の周辺国が畿内へ至る過程の事。
457 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 21:06:37.93
行程が合わせられるからな徳島は
四国の西に上陸して見物してもらいながらもてなしながら1ヶ月歩いて徳島にやって来たんだろ
水行で九州から山口、広島へ、その後松山。
四国の都佐を経由して阿波へという行程だよ。
倭国伝にあるように秦王国(波多国)から十余国を経て
海岸に達する、そこが阿波。
淡路島にわざわざ、阿波路と名付けたのが気になってた。
吾が倭国への路すか…。
460 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 07:26:32.12
淡路島は天地治島。
最初に伊弉諾将軍、伊弉冉将軍らが率いる勢力の領土となった国地域。
この時点では伊弉諾命、伊弉冉命は何等かの上位者から命令を受けた征討将軍。
天沼矛=軍権統帥の象徴
国王など上位者から剣や矛を下賜/仮託されるのは「敵をやっつけてこい」との命令。復命の際に返還。
海神族の習いとして本島、本土には直接向かわず手間の小島を本拠地としてから侵攻。
最初の橋頭堡は伊島。
・・・徳島県/剣山と熊野本宮大社の中間点、真北は淡路島の先山から伊弉諾神宮(剣山、大麻比古神社の鬼門)。大直角三角形が出来ます)、
沼島、友が島と北上して淡路島灘地区の土生や油谷(ユダヤ人上陸地点の伝説あり)、洲本市由良に上陸(渡来人遺跡あり)。
最初、武力に任せて力押しするも上手く往かず、善後策を打診した結果、
言向けして利害得失を説き、懐柔していく手法(背景には強大な軍事力)によりやっと事業が端緒についた。
・・・天地治(あわじ)
461 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 07:52:21.85
天浮橋に二柱の神等出立ち給いて天沼矛を脂漂える様の下界に差し入れて潮コオロコオロと掻き回し・・・
これはまさに藻塩製塩そのもの。
実際、焼成していくと坩堝の中でコオロコオロと音がするそうな。
462 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 08:06:38.71
中古、円融天皇の御代に中国に渡航した留学僧(チョウネン。後に比叡山延暦寺の大師)が中国側朝廷に提出した日本の国王の系譜/年代記(日本側が発給したパスポート、外交公文書)には
伊弉諾尊(イザナギ)の前代に沫那岐尊(アワナギ)の御名が見えます。
次代が素戔嗚尊。その次が天照大神尊、天忍穂耳尊・・・神武天皇・・・円融天皇、
記紀神話とはちょっと異なる認識が皇室と朝廷にあった事になります
因みに初代は天御中主尊。
463 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 08:07:35.74
淡路島北部にある五斗長垣内遺跡って何か関係あるかな?
464 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 08:41:48.23
>>460 淡路島にどのような抵抗勢力がいたのか?
古代ユダヤ人
やはり来ていたかユダヤ人
そうユダヤ人
468 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 10:02:58.99
倭国の中心が阿波だね。
469 :
蘇我入鹿:2012/06/28(木) 10:18:29.95
邪馬台国は阿波+淡路島
471 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 15:47:46.59
五斗長・垣内遺跡は紀元一世紀から三世紀頃にかけて長期間にわたり実稼働した近畿地方唯一無二の鉄器(武器武具ほか)の一貫生産工廠(コンビナート)
工廠(コンビナート)と言う所以は、当時の国内では余所にはあまり類例のない最大規模のもの。
多くの関係する工人や職人ほかが常駐して村を形成していた模様。
また、軍事地政学的には西(播磨灘、瀬戸内)からは丸見え、
しかし東側(大阪湾や畿内)からは「伊勢の森」こと津名丘陵の山地に阻まれて一切隠匿された秘密の工場。
これから、西からの何等かの勢力が畿内を攻略するために作ったと考えるほうが自然かつ順当な所。
時期的に倭国大乱と言われる頃にも微妙にかかるような・・・
因みにこのあたりの高台からの風景は琵琶湖東南岸の安土周辺と酷似しているそうです。
(故に、数年前に安土城を題材にしたドラマ「火天の城」がロケハンされました。下見にきた監督もあまりに煮過ぎていてびっくり)
淡路島は弥生前期中期までは南淡路に集落が多い
井手田遺跡から松菊里型住居と四隅の途切れる方形周溝墓(徳島の方形周溝墓に共通する特徴)が確認されている
後期に北淡路に集落が急増する
やっぱ阿波から渡ってきた海人族?
卑弥呼は海人族の女王
475 :
水銀厨:2012/07/02(月) 10:21:12.31
邪馬台国は大和。でも巻向周辺で七万戸は絶対有り得ない。
よって阿波周辺から畿内にかけてが邪馬台国とみていいはずだ。
それなら阿波と畿内に似た地名が多い点、
四国各地の風土記に、奈良の香具山は四国から別れたとする
伝承が残る点とも一致する。
476 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 10:23:35.86
方角も距離も一致しないけど・・・
477 :
水銀厨:2012/07/02(月) 10:49:41.17
宇佐、松山〜土佐経由で距離、方角も、
九州説や瀬戸内や日本海経由の畿内説より矛盾が無い。
478 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 13:13:18.49
飛鳥昭雄説の邪馬台国は列島逆立ち論!
479 :
水銀厨:2012/07/02(月) 14:21:18.28
四国というとどうしてもオカルト色が出て敬遠されがちだが、
考古学的にも非常に興味深いのは言うまでもない。
徳島から高知にかけては意外な発見が増えるかもね。
他スレにもあったが、個人的には阿波南部の芝遺跡に注目している。
ここは数少ないこの地方で発掘調査をした遺跡だが、
徳島や畿内との結び付きが強い事は、土器の種類で証明済みだ。
偶然だが箸墓の近所にも芝遺跡があり、箸墓に使われた石は
大坂山(芝山)の石だという事もわかっている。
では何故「芝」なのかと言うと、結構意外な事がわかります。
もう答えは出てるね、行程も場所も。
場所どこなん?徳島だったら行ってみる
482 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 10:45:53.81
伊と阿は同じ意味であり
伊豫とは 巖 (阿波)
二名とは 巖 (徳) を表し
伊豫の二名島とは巌の巖島、あるいは阿波の徳島である。
昔の四国って大体こんな感じ?
≪高地≫(四国カルスト・石鎚・剣山祖谷渓・那賀川)
・巫女(シャーマン系)
・高貴な人扱い?
・巫女なので最初は良かったが徐々に低地文化になっていったから役割が消えて行った?
≪河川≫(吉野川流域・四万十川付近・宿毛・安芸・海部)
・有力豪族の済む地帯
・高地系との交流が深い(吉野川流域・美馬・麻植)
・物流・交流の港、四国南部では栄えていた(海部・宿毛)
・工業地帯(海部)
・南方系侵入ルート?(宿毛・高地)
≪平地≫
・讃岐一帯
・備前との交易地で四国では最も活発な地域
・当時の四国でも先進地帯?
・豪族割拠
・他地域との関係が深い
こんな感じかな?
山岳信仰で巫女などが活躍し支持されていた時代
↓
(南方系・渡来系のモノ(物品)が入り始め文化の融合が始まる
↓
外国のモノが交わり変わり、それを利用した在地豪族(在来・渡来)が力を持ち始めた時代
↓
(渡来系の文化や人の力が本格的に生活に作用し始める)
↓
各地域との交流が活発になり畿内との関わりが始まる(物部・忌部)
484 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 12:54:11.72
阿波南部は海人の本拠地だしな。
中国人はまずここの丹が重要だったので拠点を設けている。
二名島とは男神と女神を表す。
485 :
水銀厨:2012/07/05(木) 13:29:30.52
国生みに際して島に名前が付けられてる訳だが、
これには当然意味があると考えないといけないでしょう。
倭国大乱が収まったところで記紀編纂
それは当然勝ち残り政権にとって都合の良いようにクリエイト
ところが中華の史書も入ってきてそれとの整合性が求められることに
卑弥呼の年代に神宮皇后を持ってくることは避けられない、なぜなら卑弥呼は神宮皇后だから
さぁ困った
長寿天皇量産でなんとなく騙せそうな歴史を作った
>倭国大乱が収まったところで記紀編纂
はあ?
神功皇后には子供がいるので卑弥呼には比定できないよ。
489 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:31:15.62
卑弥呼だってその実態はわからないからな
なにやらかしているもんだかさ
四国も邪馬台国云々の土俵には上がってないだろうが
九州・畿内を推す人って木を見て森を見ずなんじゃないかと常々思う
そもそも邪馬台国云々の前から色んな豪族が割拠してる事実がある事を考えたら
邪馬台国が何処だって良いだろと思う、どうせ大和朝廷に滅ぼされるんだし
魏の使いが四国に来てる可能性は高いだろ。
あの気候風土に最も近いのが四国東南部なのは
間違いないからな。
卑弥呼には夫がいないと書いてあるけど、婢が千人もいるのに一人の男が食事を給仕し出入している
子供はいるかもしれない
493 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:06:21.75
てかさ女装してもぐり込んで刺して褒められて名前頂戴したとかのもあったよね
巫女、鬼道を使うのに子がいてはマズいだろう。
卑弥呼は女王になってから人前にも殆ど顔出さないしね。
鬼道ってなに?
どういうことをやってたの?
496 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:34:44.57
30ヶ國の酋長さんのお子様ぽろぽろとかしてても中華のひとはそうゆうのは書き残したりしないわな
卑弥呼は女王蜂みたいなもんだ
498 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:39:40.57
卑弥呼は日食のとき不徳・無能だとされて誅殺されたよ。
岩戸隠れのヒントになったけど、真実の方は死んでた。
鬼道…中国人の視点だと初期道教だよ。
魏の使いの黄色の意味を理解してるし。
501 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:44:01.43
男弟に問診させてからにずばり病気あてとかしてあげて信者を増やしたりするのか?
卑弥呼は脱毛していたに違いない
>>498 日食と断定してる時点でカルト信者
俺は長雨だと思ってる
長雨による大凶作確定+248年9月5日の日食で卑弥呼と奴婢(巫女)100人がまとめて誅せられた。
川之江は、山を越したら徳島の池田辺りからは結構近いって
、池田の人に聞いた事あるな。
NHK で、卑弥呼の晩年に日蝕が起こってるってのも視た覚え
があるけどな。
天体の軌道を算出したとか言ってた。
507 :
水銀厨:2012/07/06(金) 09:29:30.17
四国は新幹線も走らない、開発もあまりされず
発掘調査も今まで少なかったからね。
徳島、高知辺りで何か重要な発見の可能性は結構あると思う。
508 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 11:30:47.66
阿波で新しいを発見しました。
阿とは「うどん」、波とは「丼」です。
509 :
水銀厨:2012/07/06(金) 12:47:03.83
アは当然物事の始まりを指す言葉です。
当然倭の始まりを意味してるのでアワですよ。
510 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:46:04.50
>>509 当時「あ」から始まる五十音表があったの?
511 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 22:04:28.17
あり得る。
あいうえおは重要な国の頭文字。
阿波、伊予、宇佐とかねw
吾妻・東(あずま)、安曇(あずみ)、泉・和泉(いずみ)、出雲(いずも)、内海(うつみ)・・
出雲族の居住地は、日本全国に広がっていますね。
514 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 23:20:30.65
国生み神話では、
ヒルコ、
アワシマ、
淡路島
以下略
の順なわけだが、アワシマと淡路島って似てるな。
全ての鍵を握ってるのは海人族
516 :
水銀厨:2012/07/08(日) 08:50:28.41
数に入れられなかったアワシマは吉野川の粟島。
日本最大の川中島で、元々神社もある居住集落だね。
水害被害も多くて居住地は明治期に強制移転させられてる。
その際神社も破壊され移転させられたというのが珍しい点。
忌部氏ともとても縁が深い場所だよ。
517 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:15:35.39
あの周辺は畿内との地名の相似も多いし、
何らかの関連性があるのは間違いないな。
518 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:31:55.93
>>479 いまNHKで東大阪の芝山古墳てやってたね。
西宮にも芝村ってあるね、西宮は恵比寿神社が有名やけど恵
比寿とヒルコと淡路島ってなんか関係あるとかでしょ。
淡路の石屋神社の御祭神は国常立尊(地球神?)。伊弉諾尊。伊弉冉尊。の三柱の根元の神様。
併せて、天地大明神と申し奉る。別名、絵島大明神とも。
元々は現在は城山と言われる三対山の山上に御鎮座(名勝、絵島の前の小高い丘)。
麓には岩屋恵比須神社(元エビス)。
後背の三対山下に深遠な洞窟に岩楠神社(蛭子大神)を祀るも、太古、伊弉諾尊の幽宮の伝承地として伊弉諾神宮の摂社。
東側の対岸には住吉大社。
春分秋分の朝日が神門から本殿を射抜くカラクリ。
拝殿の天井には全国的に非常に稀な巨大な方位磁石が設置される。
芝山古墳は千葉にもありますね、六世紀半ば頃の前方後円墳が。
ここも関東では結構有名ですが、特定集団が
徐々に東へ至るルートともとれます。
521 :
水銀厨:2012/07/09(月) 18:01:50.03
番組で芝山古墳が取り上げられてましたね。
石切さんのすぐ近所でしたが開発で破壊されたという。
私の田舎に芝さんと言って薬草に詳しい仙人みたいな人がいましたが、
前から色々興味深い話を伺ったりしてましたので、
また取材でもしてこようと思ってます。
522 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 13:09:45.94
伊豆神津島の阿波神社の「阿波の命」って女神なんすよね。
吾が倭の女王が
阿波の女神ですか。
523 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 13:45:45.85
房総あたりまでいるのなら、東に倭種がいるという表現にはピッタリ。
524 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:36:52.87
古代阿波から安房、その途中太平洋に神津島が…まさに海人
族。
潮流の知識は海人族 の名の通りすね。
津波の瓦礫が米大陸に大量に漂着してるのを考えたら倭人も
…んな訳ないか。
525 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:43:35.11
船行一年とか不可能
五ヶ月で全員死亡 つ 良栄丸
526 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 01:31:38.47
海人族の本拠地が海部、読んで字のままだね。
あそこが鍵になってた訳だよ。
確か平安の時代まで、海部と神戸の間の
交易運搬船の発着回数が多かったはず。
527 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 02:00:52.90
海部って丹後の海部氏と関係アリ?
勿論有る。で、丹後の籠神社には海部氏系図が
存在していてるのは有名だろう。
529 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 10:08:00.59
神津島には阿波神社があるという事は、倭人伝の
「東に倭種(関東の国)がいて南に島がある」という記述とも
ぴったり符号するじゃん。
阿波を倭国の中心とすると、話は全部繋がってゆく。
530 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 12:53:25.49
黒歯国へ航行一年つうのはあるみたいやけどね。
太平洋で寄港なしの航行一年つうのはやっぱり無理か。
しかし、倭寇や水軍とかみると古代から海人族の?航海術っ
て現代人の想像は超えてそうに思うな。
神戸〜徳島間って、淡路島の西側は渦潮で東側はナミハヤの
難航路のイメージあるのに頻繁に航行してるって、その一端かな。
531 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 13:14:05.29
淡路島の西側にある阿万って地名
阿波と何か関係あるの?
阿万はアマだよ、阿波というより海のアマ。
万を充ててるなら女性の意味を含めてるかも知れないが。
阿万(地名)
http://www.yumekaiyu.com/blog/log/eid224.html 「漁業や製塩のほか海運などに従事していた古代淡路の海人は、安曇氏が率いる海人部(あまべ)に属して朝廷に仕えていた。
日本書紀には、応神天皇が妃の兄媛(えひめ)を吉備へ送らせるため、水夫(かこ)として
「淡路の御原の海人八十人」を召したと記されている。
この海人は三原郡の海人で、南あわじ市慶野から福良、阿万、沼島近辺で活動していたと考えられる。
南あわじ市阿万の「阿万」は「海人」からきている。
平城宮跡出土の木簡の中に、天平宝字5年(761)に淡路国三原郡阿麻郷から調(税の一種)として
塩三斗を納めたときのものがある。
これによって阿万の地は奈良時代には「阿麻」と表記され、塩の産地であったことがわかる。
さらに2006年に同市阿万東町の九蔵遺跡から製塩炉数基と、
役所や倉庫と考えられる大型の掘っ立て柱の建物跡、銀製の和同開珎・硯などが出土した。
これらは奈良時代後半のもので、平城宮の木簡の時期と合致するところから、
製塩場に役人が駐在して塩の生産や貢納を管理していたのではないかと推測される。
和名抄には海人関係の地名が21カ所あるが、その一つに「淡路国三原郡阿萬郷」がある。
この地は陸地に定住して漁業や製塩に従事する海人や、また次第に農耕も行う人びとの多かった土地であったのであろう。
平家物語には、一時は平家に従っていたが、やがて背いて源氏に接近した淡路の国の住人安摩(あま)六郎忠景の話が出てくるが、
これは阿万付近に土着した海人の流れをくむ武士であったと考えられる。」
海人部=海部(あまべ)
賀集(地名)
http://www.yumekaiyu.com/blog/log/eid302.html 三原平野の西南部に位置し、淳仁天皇陵や護国寺のある南あわじ市賀集は、「和名抄」にでてくる「賀集郷」の地である。
1203(建仁3)年の「紀伊国司庁宣」には「賀志尾」と記されているが、その他のものは「賀集」と表記している。
「和名抄」には「加之乎(か・し・お)」と注があり、中世の「護国寺文書」には「かしお」、「かしう」とある。
また1586(天正14)年の「淡路国御蔵入目録」には「かしう」とあり、豊臣秀吉の蔵入り地となっている。
したがって「賀集」は、「かしお」、「かしう」、「かしゅう」と変化してきたのである。
この「かしお」の由来については諸説があるが、一般には「鹿塩」すなわち塩漬けにした鹿の肉からきているといわれている。
賀集地区には鹿子(かのこ)西谷、鹿子奥、鹿子北谷など字名のほか鹿の子池などがある。
「日本国語大辞典」によると、鹿子の語源は「鹿(か)の毛(け)」であり、鹿(しか)の子、転じて鹿そのものをさすという。
「かしお」の「か」は鹿であり、「しお」は塩だというのである。
このほか橿(かし)の木の生えている所という意味の「橿生」、「橿尾」説、神が集まるという「神集」説、
「橿丘」で土のよい所からきたなどの説もあるが、いずれとも決しがたい。
賀集八幡の集落に「印部」という小字があるのが注目される。1470(文明2)年の「護国寺結番定書」という文書に、
「忌部村」が出てくるし、「淡路常磐草」には「忌部は八幡村の旧名なるべし」とある。
「印部」は「忌部」が変化したものである。
忌部とは古代に朝廷の祭祀をつかさどった集団で、身を清めて神事に携わったことからきた名称だという。
諸国の忌部は朝廷の祭祀に必要な品物を整え、中央の忌部に送ったといわれるので、この印部の地に忌部の集団が存在した可能性がある。
海部氏
忌部氏
瀬戸内海東部は本来円形周溝墓なんだから、
やはり卑弥呼の墓とされるのはこの周辺に存在したんじゃないか?
538 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:22:15.89
>>537 その有力候補はありますか?となりの香川高松にはモ
モソヒメ縁の神社あるよね、確か。
観音寺市にある母神山
そこはおそろしいパワースポット
分かる人には分かるらしい
母神山古墳群て、聞いただけでいかにもやね。
「母神」は「はがみ」の当て字なんかも知らんけど…
はがみはアイヌ語なんかな。
541 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 09:51:27.61
倭迹迹日百襲(やまとつついもち)姫
筒水(鉄砲水)が倭の川を襲った。
鉄砲水の原因は大雨にもよるが、むしろ川の流木等により
所々に出来たわんどの決壊だった。
これらの物を取り除き、わんどは無くなり、姫は亡くなった。
水持ちの良い池を造ると共に姫を祀り「水主神社」とした。
筒井山(走井餅、足引山、垂井水)…。o○
542 :
水銀厨:2012/07/13(金) 10:12:32.43
瀬戸内東部と奈良の関係は非常に深いよ。
奈良盆地の水運自体は便利だが、海の怖さを知ってるこその
移住先選択だったのだろう。
薬となる薬草類に鉱石、水銀朱も存在するし。
543 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 12:31:26.17
541 追(私流の解釈)
ここで言う「倭」とは「山背・山台」のことであり
水主神社の上流にある山の背で、水が多く、湿地・池
となる場所だ。地名のほとんどが「みずやま」といえる。
入野山:いるの・水野山
上未国:さみくわ・狭山池
下山:ちゃやま、みとやま・狭山・池山・水山
末国:くつくわ・久津池・竃突池
与田山、寛四、五名・・・
つぎねふ山背とは..山(池→平地)山..とみる。
倭人伝において、倭人は海人として描かれてるよ。
阿波一帯、周辺部が邪馬台国、というか女王国なのは確定でいいだろう。
淡路、讃岐、土佐東部にそれぞれ女王の親族の国があったとか?
547 :
水銀厨:2012/07/13(金) 18:41:11.49
>>546 そういう事になると思うけどね。
瀬戸内を中心とした倭国大乱後、和平して
奈良盆地へ宮を立てるというのが
今の所大勢じゃないかなと思うが。
双方中円墳からすると、讃岐・吉備・大和の関係は深かったはず
>>548 モモソの伝承が残る範囲だしな。
でもモモソ母が「オオヤマトクニアレヒメ」という、
結構ヤマトのグランドマザー的な名が付いてるが、
誰に当たるんだろう?
550 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:10:27.21
意富夜麻登久邇阿禮比賣 = 蠅伊呂泥
蠅の子は蛆だけどな
551 :
水銀厨:2012/07/13(金) 23:26:28.90
淡路の御井〈みい〉の宮にいたのが和知津美〈わちつみ〉命。
二人の娘がいて、姉の名は「ハエイロネ=オオヤマトクニアレヒメ」
妹のハエイロドと共に孝霊天皇の妃となる。
もうここで淡路島とモモソ姫の関係は説明できてしまいます。
ちなみに「ハエ」とは私の解釈は風、速いという意味で。南風です。
552 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:31:20.04
古事記は不敬罪だな
蠅伊呂泥の蠅は
縣主波延之女 阿久斗比賣の波延だから知名だよ
553 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:38:31.49
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命の娘が阿波名方郡に
祀られている日子刺肩別尊。その姉の
倭迹迹日百襲姫は湯立て、玖珂玉で占いをし
青邇が出れば良とし、あおにが出たので奈良に
移ることとなった。あおによしなら
下種な言い方だが、モモちゃんは生粋の海人族の上玉。
三輪の神に嫁がせるには、やっぱりそれなりの理由があるね。
555 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 00:16:03.07
波延は映:埋立地
伊呂泥:依羅(よさみ)の泥、石見の貝(うどんの玉)に
投入する泥(石、土) 人麻呂が殺害された場所は鳴門は撫養の
花面と推測。
明日はとろ玉うどんを食べようっと
速水門に波速のハエだな、
淡路島だとやっぱり。
558 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 19:31:27.08
阿波・淡路島・讃岐・土佐東部・伊予東部(川之江辺り)‥
このエリアやったら七万戸もありですかね。
西からイヨ・アワ・アワジ・・・・
興味深いですね
四国だけで七万戸位になるだろう。
561 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 08:37:53.34
空海が細工するなら阿波、伊予、宇佐、愛媛、隠岐だな。
えとおは兄、弟の可能性もあるが。
四国の海岸沿いに88箇所の結界があるのも
なにかの理由があってのことですか?
歴史が隠された、と考えるなら九州より四国だからね。
四国八十八ヶ所は、丹の原材料の鉱脈を探したとこなんでしょ。
565 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 11:37:43.43
中央構造線は四国通って熊本南部まで続いているから、
そのライン上では、水銀朱の出る場所が点々と存在するのは事実だ。
四国出の空海は、その鉱脈ラインの存在を知ってて唐で採掘工法を学んで帰国したんですね。
空海の佐伯氏って朝廷の下級役人でしたっけ?
567 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 19:44:31.10
空海の本名は佐伯真魚(まお)だよね、なんかかわいいw
佐伯氏は豪族だが、鉱山の人夫手配師なので上級ではないな。
>>563 四国の歴史ってあんまり表に出てこないもんな
何度も歴史に絡んでるのに・・・
569 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:51:52.88
>>567 鉱山関係の役人かぁ、そら知っとるわね。
当時、丹の原材料は高価な代物やったらしいし。
570 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 08:29:23.95
>>568 歴史に出て来ないのに、国産みで4人の神名が付けられているからな。
他とは一線が引かれているのは確実だろう。
しかも風土記に奈良の香具山に別れたとある以上、
四国の海人族が大和へ入ったのは確実な話だ。
空海は四国以外でもいたるところで井戸掘ってるから、鉱脈の調査してたんだろうね
572 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 14:06:25.46
空海、日蓮は古代ユダヤ人説がある。
成田、西新井、川崎でも鉱脈の調査やったのかな?
573 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 22:41:50.73
寺を建てるにも金がいるから、真言宗も日蓮宗も鉱山発掘は組織的に行っていたことは確かです。
しかし、それはすべて布教の資金作りが目的なので、その辺を間違えると、本質が見えてこない場合もあります。
574 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:39:18.52
日蓮も、安房の出って言う因縁めいてくるかも知らんけど、
嵯峨天皇の庇護を受けた空海とは状況が全く違うし邪馬台国と関係ないでしょ。
倭人伝の記述内容に一番近いのは阿波〜土佐だろう。
倭人伝の記述は帯方郡に来た使者から聞いた経路を逆記したものだと思うんだよなぁ
政治的敵対関係で大っぴらに通れないところは間道を通ってきたってことかと
577 :
水銀厨:2012/07/18(水) 00:56:23.26
中国の使者で一番興味があるのは鉱山資源でしょう。
なので、倭の動植物紹介に先立って「その山に丹あり」と
かかれていたのです。
当然目指すのは当時の丹の搬出港である、海運の要所
海部の港です。牛馬等がいないと記述されるのは
そういう事だと考えます。
578 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 20:40:39.28
水銀厨さん、そろそろ「芝」の云われをお願いします。
卑弥呼はシバの女王の末裔だなw
ソロモン王の遠い子孫だね。
580 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 22:52:59.37
「岡乃反廻里乃主袁多豆奴連婆人者許多閉受山億呂芝廻風」
新古今和歌釋慈圓和歌
この歌の解説もお願いします。
581 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 23:11:31.89
>>580 岡上神社は板野町に有りますが
十八女は芝山のようで、阿南市に有ります。
理解に苦しむわ
どの点で理解に苦しむの?
岡上が陸で芝山が海?
583 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 19:04:54.48
芝と言えば水、岡と言えば土、歌は山上にて詠まれた。
歌にする必然性のある場所は何処なの。旧吉野川のほとりの蛭子?
それと戦った須佐之男が二名島の主人公なの?
鳴門のすさなきの潮流、あるいは蒲田岬のあたりの早い潮流なの
芝「シバ」は島「シマ」にも通じるよね。
蘇我が嶋大臣なんて呼ばれた所以もそうだろう。
585 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 13:01:17.28
福島、広島・・島とは関係なさそうなところに島の地名がある。
これは、島とは縄張りという意味だからだ。
どちらも島の多い地域だろ。
587 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 16:03:32.61
広島は広島と言う三角州地域。そこに城郭を築いき統治の中心地としたことが地名、県名の由来。
徳島市内?松茂?にも広島がありますな。
徳島も同様の砂州地域。概ね徳島城のある一帯が徳島。
徳島市内は吉野川などの氾濫原、沖積地。
縄張りは文字通り城郭等々を築く際に敷地、惣構えを示す縄を張り巡らし(結界)て土地割りをした事から。
さらに古くは神域、聖域等々を示す注連縄を忌み竹立てて張り巡らし結界としたことから。
紙垂は注連縄(結界)をより目立たせるためのアイテム
島(しま)が縄張り、領有地云々もあながち嘘でもありません。
因みに、古語では「ま、な、や、ら」には土地、場所とか領地、領土領域、国等々の意味が有ります。
徳島‥家康が変えさせたんだから徳川のシマだよ。
何か知ってたんだろう。
渭津は鎌倉時代以降か
その前は何て呼ばれてたんだろう?
石器時代以降、古代列島にはいろんな方面から海人族が来たと思うけど…
二名島のイ国とヨ国は元々は別種の人たち?
土佐・阿波と紀伊半島の海人族は近い親戚みたいな感じなんかな。
591 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:33:20.53
女王の国は元々同種じゃないかな。
何故二名島に神の名が付けられるかを考えると、
古代の有力氏族は何らかの形で縁があると考えるのが自然だろう。
山祇族は縄文系
595 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 21:10:35.31
虎は熊の子供、私は熊の子それとも虎の子?
天武の願いは熊の子。これが古事記の実体。
596 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 21:54:38.57
杉を枯らすのはやめてください
楠を枯れさすのもやめて下さい
何故半島人は四国や紀伊半島南部の神社を攻撃するのかね?
598 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 18:30:37.36
やっぱり年代的に円墳なら讃岐から阿波にかけて
卑弥呼の墓があったと考えるのが普通だよね?
やっぱり前方後円墳は円墳文化と方墳文化の融合の証だよね
600 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 11:44:46.43
601 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 12:38:43.68
前方後円墳は円形周溝墓があれば発生の候補地としてじゅうぶんじゃないの?
祭祀の場として造り出しを作ったのが前方後円墳の走りだろうし。
円形周溝墓も方形周溝墓もあればもっと考え得るんだろうけど。
>>600 >創建の年代は不詳であるが、社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。
何と書かれているのですか?
>>592 山祇族と海人族の関係は興味深いな
祖谷の犬神信仰とか古代土着信仰の名残なのかも知れない
604 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 20:52:16.86
円墳とは聖なる山「讃岐富士」の化身、つまりトーテムとして作られていたのだろう。
しかし、それが権力の象徴となったことから大型化、様式化が進み、ああなってしまったのだろう。
讃岐富士には無数の横穴があって、歴代の卑弥呼が埋葬されているはず。
605 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 23:14:19.10
讃岐富士と金毘羅や大山祇は近いの?
三好氏・久米氏は伊予⇒阿波ルートだろう
ほんと四国山中は別文化やでぇ・・・
三好氏関係絡みの人物は殆どが頭が回るというか
そういった人物が多いよね
堺を本拠地にし銭を有効に利用した三好氏
境港を開発した三好康長家臣だった横田村詮
その境港に移住した三好系の子孫である三好英之
三菱財閥(三階菱)の岩崎弥太郎
商人系・開発系の資質がある一族だよね
海沿いから山中に追いやられた邪馬台国の人々が祖谷に土着したのでは?
>>592 淡路の安宅氏も阿波小笠原氏の庶流を自称してるから三好氏と同じ系統かも
源姓を名乗っておくと色々と有利だからね
609 :
日本@名無史さん:2012/07/30(月) 16:20:35.12
おまえら夏休み?ネタ切れ?
611 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 21:37:52.58
水銀厨さーん!
生きてますかー!?
>>604 穴を掘らずに遺体を埋めたら
普通にこんもりするだろ
豪勢にしたら円墳の出来上がり
弥生時代末期の北部九州。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)国も、跡継ぎを巡る「大乱」で卑弥呼(アマテラス)に国を譲る。
これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、倭国は分裂。卑弥呼は戦争中に急死する。
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国
(後の熊襲)を滅ぼし、倭(和)国を再統一する。
その男系末裔であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東征(東遷)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の叔母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の子孫である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
一白
大王
邪馬台国は母神山な。
616 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 13:17:58.78
>邪馬台国の時代から続く1800年続く一族「阿波忌部一族」がいる。
嘘くせぇー。
617 :
日本@名無史さん:2012/09/14(金) 22:36:08.20
阿部氏は、貞観の大津波で去年の東日本大震災以上の被害を受けた。
その結果、阿部氏は衰退し、そのすきを突いて藤原氏や清原氏が入り込んだ。
数少なくなった阿部氏は、今も藤原系とは仲が悪いようです。
実は讃岐が邪馬台国だよ。
619 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 12:48:11.90
邪馬台国の風俗にうどんの記述がない。
讃岐でないことは明らか。
620 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 14:37:47.68
それに、東京でも大阪でも名古屋でも、当時の海岸線はもっと内陸部。
四国なんて松山市ほか、高松、徳島、高知の各市は、みんな海の底と
まではいが、もっと内陸に海岸線があた。七万戸(数十万人)は無理。
話半分としても、四国地域は残念ながら。
卑弥呼はうどんのような女だよ。
カツオ出汁、昆布出汁、そして究極のいりこ出汁
三種の出汁を操って民衆を惑わしたのかもしれない。
女王卑弥呼はうどん打ちの名人。卑弥呼のうどんを食べたくて民衆は列を作った。
香川県民なら、瀬戸大橋を渡って讃岐富士が見えた時、故郷に帰ってきたことを実感するだろう?
女王は讃岐富士に住んでいるいたし、卑弥呼の墓も讃岐富士にあったことは間違いない。
陳寿のうどん好きは有名
倭人伝には日本のうどんチェーン店のことが書かれている
>>620 当然九州を比定地にするのはもっと不可能になる。
>>620 海岸線は今より内陸部なのは分かってるが、
現在の海岸からたかが1kmとかのあたりに石棺やら古墳群やら発見されてる。
鳴門に日本最古の前方後円墳がある。
それに阿波国の元もとの本拠地は徳島市ではないんだ。蜂須賀がやってきて江戸時代に作られた街。
もう少し内陸の藍住のあたりになる。
ちなみに、石器時代のあたりは日本全国陸続き。
「アイソスタシー」
この言葉を知らない奴は海岸線の前進について語るな!
627 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 23:18:03.94
うどん(小麦)は弘法大師空海が中国留学から持ち帰ったもの。
瀬戸内気候で水に恵まれない故郷の讃岐に代替食として奨励云々。
また、往古には金毘羅さんの琴平辺りまで海岸線が入り込んでいたらしく高台にある海路の要地(日和山、旗振山)。
徳島の眉山は毘山。太陽(日=毘)の山の日和山(霊山)
神代から続く阿波忌部の本宗家は現代に連綿としてあり続けています
(現在はフツウの農家。当主はフツウの農家のオッチャン)。
但し、違うのは故事来歴から皇室の重事(大葬、即位礼など)には宮内庁(御墨付きあり)よりお召しがあり伺候し奉仕(衣冠束帯の正礼装)する慣わし。
倭王讃は讃岐、珍は阿波を基盤にしていた王だろう。
うどんについては、福岡起源説もあり。
起源のわからないものがあると、みんな弘法大師がどうのこうのと言いだす。
たとえば、百穴と呼ばれる横穴群。
これはみんな弘法大師が一夜で中に仏像を彫ったことになっている。
しかし、実際には、地方での古墳造営と関連がありそうだ。
地方豪族を監視するために派遣された中央官僚の墓と見るのが妥当。
忌部氏は、そういう役割を帯びた中央官僚として、地方に根を張っていったと考えられる。
しれっと阿南市に天照大神生誕の地の説があったりする。
マジか
633 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 02:36:23.11
>>625 徳島市に国府って地名あるけど、律令時代に役所があったんじゃねえの?
徳島に多いといわれる姓の久次米(くじめ)さんは
籤女ってことで卑弥呼の末裔にちげえねえ!
すごい俺!よく気づいた!
当て字っぽい姓はもともとそういう風に呼ばれてたんだろ
635 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 02:05:30.01
たぶん、徳島は「中国系」だろ?
ええ加減なB型が多いし、中華そば屋も多いし
とにかく人間がエエ加減やわ。
とても日本とは言えんわ。 ヘラコイし
日本人とわ違う人種やわ。 恥ずかしいわ!
たぶん、中国人でしょ? 世界で一番恥ずかしいです。
>>635 へらこいって (*´Д`*)
思いっきり阿波弁やないかー ( ^-^)_旦~
へらこいはたしかに阿波弁だが、東四国一帯で使われてる。
徳島云々よりも香川県民の代名詞的な感じで使われるイメージのほうが強いんじゃないかと思う。
逆に良いように捉えると、合理的だったり要領が良いとも言えるかもしれん。
「香川へらこい」で検索すると、地元民が自虐的に自分たちはへらこいと書いてるサイトがやたら出てくるが、
「徳島へらこい」だと単に方言の説明しか出てこない。
638 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 12:53:24.66
淡路島も地域に拠るけど言うよ。
639 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 13:03:55.87
阿波の国の国神、大宜都比売神(食物神・・・天照大神?)は記紀によると二回お産まれに成っています。
イザナギ、イザナミの国生みで四国の説明で一度。
神産みした後の子孫として一度。
眉山はビザン・・・毘山=日山/陽の山。
眉山を取り囲む形で数多の寺社が鎮座。
眉山=神奈備の山。御神体山
今の徳島市内(吉野川流域ほか)は神代から中古には海中が殆どかと。
640 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 17:49:58.82
ここに至って須佐之男尊の居住地を解明しました。
《神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)三月壬申朔》三月壬申朔
熊襲国征伐の令に先立ち占いをさせ、著名な方の御意見を伺った場面が有ります。
多くの神様が現れますが、最初の神は天照大神、次に現れたのが須佐之男命。彼、自らの紹介が有ります。
「幡荻穂出吾也 於尾田吾田節之 淡郡所居神之有也」
「我は大水主の王である。淡郡は郡(こおり)の郷のシノ原に居る神だ。」
大水主の王は須佐之男命で天照大神の次に登場した、偉いお方で
阿波市土成町郡シノ原(柿原ではない)に座しています。
641 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 13:50:09.81
わざとらしく本人が打ち明けなくても皆が知っているはずなのに、当時は
祭壇がうやむやにされていた証拠。日本書記の中で、藤原不比等が打ち明けたか。
因みに、坂野郡藤原は阿波郡柿原、シノ原、旧知恵島の隣村
節とは洪水で何回となく流されて移動している知恵島のことではないのか。
643 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 11:16:10.45
<<641
いや違う。
その隣の粟島が齋く島(伊月島)だった。
と言っても、時代によって島が変化しているので、どちらでもいい訳だ。
これらの島に形跡が残っている可能性は極めて少ないね。
社は別だが、そういう消えて無くなる所を選んで葬られたことは確かなようだ。
鳥葬は山の民、水に流すのは海の民。
九州説は文献の否定から入るところがどうも。
国の存在自体も無かったことにすればいいじゃんみたいに思う。
645 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 16:03:37.81
おれたちはとんでもない思い違いをしていたようだ。これを見てみろ。
まず「邪馬台国」を英字で表記する
『YAMATAIKOKU』
これを逆にすると、
『UKOKIATAMAY 』
そしてこれを更に日本語に直すと
『ウコキアタメイ』
魏志倭人伝の記述を考えれば末尾に『トクシマ』を加えるのが当然だ。
すると導き出される解は
『ウコキアタメイトクシマ』
そして最後の仕上げに意味不明な文字『ウコキアタメイ』
これはノイズと考えられるので削除し残りの文字を取り出す。
するとできあがる言葉は・・・・・・『トクシマ』。
つまり!『トクシマ』とは『まさに邪馬台国の場所』を表す言葉だったのだ
徳島という地名ができたのは、蜂須賀がやって来たあたりなんだけどね。
>>646 おまえ居酒屋でいきなりつまんないこと言い出すようなやつだろ
徳島の古名・渭津は伊都に通じる
651 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 11:02:57.84
土佐は都佐だしな、四国が元々倭の中心だろう。
倭人伝の記述にも一番合致している。
土佐は当て字で、十三と書く場合もある。
十三湖を中心に東北地方北部を支配していた津軽安東氏、
安東将軍、倭国王・・讃・珍・済・興・武のうち、讃は四国の王だったと思われます。
トサとは、鳥のトサカと同じ、とがった場所という意味でしょう。
海岸沿いにたくさん名の残る遠見山は、トミ山=トサ山と同根だったようです。
そもそも国産みで最初に生まれたのが淡路島と四国なのに
何故いままでスルーされてきたのかと
654 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 04:36:42.26
九州だと、淡路島すら否定されとるな。
655 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 10:21:35.71
最初に生まれたのは、ヒルコ、アワシマじゃなかろうか?
アワシマと淡路島はごっちゃになっているのかもしれないが。
656 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 13:58:19.37
淡路島は阿波路島じゃないのか?
阿波という国名が出来たのも神話の後の話だと思うし。
天照大神生誕地とされる付近に、淡島海岸というのはあるが。
657 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 14:23:39.05
淡路島とは、阿波へ行く路(道)にある島という意味ですよ。
目的地の阿波とはもちろん四国。
そのどのあたりが邪馬台国なのかというところが問題ですけれど。
四国全体だと思います。
658 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 23:41:18.76
オノコロ島
ヒルコ
アワシマ
そして淡路島
淡路島は4番目の島
659 :
日本@名無史さん:2013/01/02(水) 09:48:06.80
単純に島の小さい順からかしら?
小さいのから練習していって、最後に大きい本州を作ったと。
660 :
日本@名無史さん:2013/01/02(水) 09:49:53.77
記紀が書かれたのが8世紀だから、
そのころ、埋め立てられたりして消えた島があったのかもしれない。
それが、ヒルコ、アワシマかもね。
×オノコロ
◯エノコロ
エノコロ島=犬コロ島=犬島
662 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 19:26:09.74
エノコロ飯とかあるが、可愛(えの)山陵とかも関係してそう。
犬神信仰とか関係して来るのかな?
663 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 00:40:25.08
我の倭→吾が倭→吾倭→阿波…言語的に「あ」は「私」を意味してた?
阿波=私の倭。
阿波→安房→伊豆諸島の黒曜石の産地である神津島の阿波神社の祭神阿波姫神→卑弥呼?
海洋民の倭人は航海術に長け潮流を把握していて、東国まで黒潮を駆り意外な広範を領有していたのか。
天はAN語でawang
上代日本語でngは発音しないので、
awa < awang
665 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 01:58:42.95
ところでなぜ阿波から徳島に名前を変えたの?
徳川家と関係あったから?
666 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 10:44:07.13
阿波国へ来た蜂須賀が三角州の一つを徳島と名づけたんじゃなかったかな。
それをそのまま地名にしたと。
家康が阿波の由来に興味をもって、わざわざ「徳川の島」と
名づけさせたんだからな。
そういえば対岸の紀伊だって御三家になってる。
668 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 23:03:00.50
邪馬台国四国説で一番ひっかかるのが、邪馬台国の南にあると言う敵対国の狗奴国やね。
徳島の南に国なんか有ったのか、水銀厨さんは和歌山を比定地にしてたけど南じゃないもんな。
でも、房総半島や神津島までが邪馬台国の関係エリアとするなら、狗奴国=南にあたる小笠原諸島あたりとかどうなんかな。
5.500年前の八丈島には日本列島各地の土器があったとか。
高原山遺跡の発見により旧石器時代に外洋交易を行っていたことも明らかになったとか言うしな。
栃木県の高原山遺跡から房総半島辺りまで旧石器人が痕跡を残してる、とか言う話もあるけど。
其南有狗奴國 の「其」は邪馬臺國が尽きる所の奴國のことであり
阿波邪馬臺國の南に狗奴國がある必要はないのだ。
670 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 03:44:02.28
邪馬台國=日高見國
つまり、東北にあった
オシホミミも東北にいたし
671 :
水銀厨:2013/01/14(月) 16:57:37.90
>>668 私は正解には四国説という訳じゃないですよ。
中国人の目指したのが阿波、四国東南部で
そこの風土を倭人伝に記したという考え方です。
邪馬台国は瀬戸内東部、淡路島から奈良盆地北部を
含んでると思ってますから。
なので敵対してるのが紀伊半島南部の勢力という事になります。
北部九州から畿内にまたがる邪馬台国連合が連合中心のすぐ南の紀伊半島南部だけの勢力に手こずるやろか
敵対というか、異文化圏が畿内から遠い南九州だったから、恭順させるのが遅れたと考えるほうが自然な気がするけど
南九州の隼人の文化は「狗」に通じるしね
673 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 21:45:04.77
674 :
水銀厨:2013/01/15(火) 01:53:06.64
>>672 単純な対立構図とは思えません。
忘れてはいけないのは紀伊半島南部も丹の重要な産出地ですから。
例えば女王国連合国の中にだって抜け駆けしたい連中が
現れても不思議じゃないでしょう。
中国からだって闇でやってくる連中がいてもおかしくはない。
狗奴国も黄旗の意味を理解してる位だし。
>>674 対立してなくて、抜け駆けで中国人に辰砂をまわしていた程度なら、中国が黄幢を出す必要もないですよ
女王卑彌呼と狗奴国とは長い期間仲が悪いわけですから、連合の中心地のすぐ近くでそのような状態が長期間
続いていたなら、とても北部九州の監視ができるとは考えられません
紀伊半島南部で女王に従わず抜け駆けしていた勢力とは、具体的にはどの遺跡になりますか
>連合の中心地のすぐ近くでそのような状態が長期間 ‥
後年の蘇我と物部だって政権中枢で対立しあってるからな。
別におかしいことではないだろう。
677 :
水銀厨:2013/01/15(火) 20:58:52.42
>>675 どの遺跡か?と具体例を上げるのは無理ですよ。
強いて上げれば倭人伝の記述された時点で
現在の橋本、九度山辺りに本拠があったのでは?と想定する位で。
葛城山系より南側とでもします。
倭人伝の記述に従うなら、
まず邪馬台国というのは七万戸を誇る大国です。
しかも女王を共立した他の国々との連合国でもある。
その国と対抗出来るのだから、狗奴国自体も
相当の範囲を見るのが正解じゃないですかね。
瀬戸内沿岸部より北VS太平洋側の構図でもいいです。
吉野地方で「国樔」 「国巣」 「国栖」とか呼ばれてた集団か。
吉野は特殊ですよね、神武東征噺でも重要な場所です。
南北の対立軸は後々にも登場します。
遺伝子調査で邪馬台国はどこまで見えてくるのか、追跡可能だろうか?
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/3-10.htm ・「C1a」が多い徳島、沖縄が候補地域
・「O1a」が多い広島、岡山、鳥取の中国地方が候補地域
日本列島の中で楚系のY-DNA「O1a」特異性が高い中国地方の代表的な豪族だった吉備氏が邪馬台国の支配階級の末裔かもしれません。
「O1a」=楚とシャーマンの関係はまだわかっていませんので今後の調査次第です。
・「O2a」も「O2b」も多い徳島が候補地域
徳島は「C1a」も多く海沿いで遺伝子的には最も可能性が高い地域です、古文献を調査して古代にマグロ漁や捕鯨基地が盛んであった事が証明されれば邪馬台国の最有力候補地になります。
・現在の調査では「C1a」と「O2b」が検出され、古代から鯨漁が盛んだったらしい和歌山も候補地です。
海人族のことを言ってるのかね?
682 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 17:45:08.38
水銀厨さんの
> 邪馬台国は瀬戸内東部、淡路島から奈良盆地北部を
> 含んでると思ってますから。
香川や河内と奈良の境界二上山産のサヌカイト、中国地方発祥?瀬戸内技法とも国府型とも言う旧石器ナイフ…淡路島でも国府型見つかってるみたいやしw
この辺りは倭人伝どころか、旧石器の滅茶苦茶古い時代から相当縁が深いみたいやもんね。
683 :
水銀厨:2013/01/19(土) 21:17:43.79
二上山はやはり色々意味ある山ですよ。
サヌカイトもそうですが、研磨剤でもある
金剛砂やズバリ青玉であるサファイアも採れます(今でも)
瀬戸内海があらゆる意味で古くから倭の重要地なのは、
記紀においても確実でしょう。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/publication/remains/5tpuaj0000003t6y-att/5tpuaj0000003t76.pdf 西日本最大級の縄文遺跡 佃遺跡
佃遺跡は、神戸淡路鳴門自動車道の東浦インターチェンジランプウェイの建設に伴い、平成3・4年に発掘調査しました。
その結果、縄文時代後期(約3800年前)を中心とした集落が地中より姿を現わし、土器や石器などが容量28ℓの箱に900箱も出土し、
西日本でも最大級の縄文時代の遺跡であることが判りました。
今回の調査では、住居・墓そして貯蔵穴などの遺構が発見され、出土した多数の遺物から当時の生活の様子が復元できるようになりました。
住居跡は、中央がわずかにくぼんだ円形のものが見つかりました。
その他に、楕円形に点在する柱穴の並びも見つかりました。
この柱穴列からは、円錐形の住居が想定されます。
遺跡の南側には小さな崖があり、崖下は低湿地でドングリ(イチイガシ)を蓄えたと考えられる貯蔵穴が多数発見されました。
低湿地には歩きやすくするため、木道が敷かれていました。材質はクスノキで、丸木舟を転用しており、大変珍しいものです。
秋に収穫されたドングリは水浸かりの状態で冬を越し、秋までの食料として大切に保存されたのでしょう。
ドングリの他にクリやオニグルミなどの木の実やナスやニワトコ、ゴボウのように中国など大陸起源の植物の種も出土しました。
食料としては、動物も捕っていたようで、シカやイノシシの骨が多数出土しました。
その他に、タヌキやテン、カモやフクロウの骨も出土しています。
また、イルカ、クジラ、タイやスズキなど海の幸も見つかりました。
これらから4千年前の自然豊かな淡路島の様子が手に取るように見えてきそうです。
出土品の中には、食べ物を蓄える土器が多数出土していますが、その他に特徴的なものとして土偶や石剣があります。
これらは、自然と共に生きた縄文人達の祭りの時に使われたのでしょう。
佃遺跡の土偶の中で最も大きいものは、全身残っていれば25cmもある立体的なもので、西日本では最も大きい部類です。
この他にへその回りに放射状に線を付けるものや、背中に縦方向に突き刺した文様(刺突文)を付けたものがあります。
土偶を使った祭りには不明な部分が多いのですが、縄文人の祈りが目に浮かんできそうです。
石剣・石刀類はいずれも和歌山や徳島でとれる結晶片岩が使われています。
住居付近で発見された石剣は長さが52cmもあり、少し斜めに地面に突き刺しており、横には一抱えもある花崗岩の砥石が据え付けられていました。
これは住居跡が集まるところにあることから、日常生活に関係した祭りが行われたのかも知れません。
縄文時代には、土器や石器の材料が他地域との交流で集落に持ち込まれることが良くあります。
石鏃(やじり)や削器(けずる道具)の材料はサヌカイト(讃岐石)と呼ばれる安山岩で、地元淡路で採れるもののほか、
大阪と奈良の府県境に位置する二上山や四国(讃岐)の金山から採れるものが知られています。
佃遺跡では淡路産と金山産の石器材料が蓄えられていました。
出土した土器は、ほとんどこの集落で作られた土器で、粘土の中に石英や長石の粒が目立ちます。
しかし土器をよく見ると、形や文様、粘土の中の鉱物や色などの違いにより明らかに佃遺跡以外で作られたものがあります。
形や文様から東北・関東・東海・北陸・九州地方とほぼ全国からの影響を受けている土器が持ち込まれていることがわかりました。
以上のように、発掘調査から多くの成果を得ることができました。
しかし今回発掘調査できたのは、遺跡全体のわずか8%程度でしかありません。
佃遺跡の全容は、まだまだ謎につつまれています。
神戸淡路鳴門自動車道の東浦インターチェンジを入ってすぐのカーブの手前付近が発掘調査した場所です。
まるやま遺跡
まるやま遺跡は、神戸淡路鳴門自動車道の建設に伴う国道28号の改良工事に先立ち発掘調査した、縄文時代の遺跡です。
遺跡のある淡路町岩屋一帯では、石器の原材料となるサヌカイトが採集でき、縄文人たちは、この石を拾い集めて石器作りをしていました。
下の写真は丸山地点の石器群で、約10,000年前(縄文時代草創期)のものです。
代表的なものは槍先用の石器(有舌尖頭器)で、木製の槍の先に取り付け、シカやイノシシをしとめていたのでしょう。
そのほか、石鏃や削器も見つかっています(上段左端:5.3cm)。
上の写真は假田地点から出土した約6,000年前(縄文時代早期末〜前期前葉)の装飾品「垂飾り」です。
穴に紐を通し、ペンダントとして使っていたもので(左側長さ:7.0cm)、流紋岩質の結晶片石を素材としています。
この2点は、元々は切り込みをもった輪状の「玦状耳飾り」(現在のピアスのようなもの)であったと考えられますが、
破損したためなのか再加工し、ペンダントに仕上げています。
玦状耳飾りは、当時、北陸地方を中心に流行しており、近畿地方では、非常に珍しいものです。
『新修神戸市史』歴史編I(第7章 弥生時代、第一節 水稲農耕の開始と発展)に、石器の原産地推定の項目があります。
『神戸市内の各遺跡から発見されたサヌカイト製石器の石材産地分析は比較的多量に行われていて、
特に明石川流域においては弥生時代前期から中期末までの全期間の流れの概略が推定できる。』そうです。
そして『瀬戸内頭部のサヌカイト原産地』として、「石器原材として良質とみられる産地」を、1. 二上山地域、
2. (淡路島)岩屋地域、3. 淡路島中部地域、4. (香川)金山・五色台地域、5. (広島)冠山地域。
「あまり良質でないとみられる産地」を、6. (西宮)甲山、7. (鳥取)馬ノ山、8. (香川)豊島、9. 小豆島、
10. 屋島、11. 紫雲山、12. (愛媛)皿ヶ峰地域、と図で紹介されていました。
面白いのは、この本の405ページに図125として、『遺跡別サヌカイトの原産地推定比率(単位%)』というグラフです。
六甲山地南麓、明石川流域、神戸北部に大別された遺跡群のサヌカイトの仕入先の割合の変遷が%表示されています。
主な仕入先は二上山と岩屋と金山です。
688 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 09:41:54.35
讃岐から大和だとモモソ姫の伝承が残る範囲だね。
やはりこの範囲が邪馬台国になる訳か。
689 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 11:47:59.53
水銀厨さん、二上山は噴火を繰り返した死火山やから噴出した鉱物の宝庫なんやねwサヌカイト、金剛砂、青玉、他希少鉱物多数w
しかも二上山は奈良県香芝市w「芝」w
そして東大阪はその名も「石切さん」にも芝山古墳w
西宮エビス近くに芝村、淡路島ヒルコ、安房は蝦夷系?山武市にも芝山古墳群、京都でも奈良県寄りの向日市にも芝山古墳w
690 :
水銀厨:2013/01/20(日) 12:40:28.81
芝山の地名は注目に値すると思ってますが、
香芝は少し注意が必要でしょう。
私は近くに住んでいて、仕事で奈良の地名由来等も調べてましたが、
香芝は鹿島(かしま)神社からの名前だとなってます。
ですがシマもシバから転化もありだとすると、
例えば蘇我が島大臣と呼ばれていた事は
注目しても良いかもしれません。
土佐は芝遺跡が興味深いですし、蘇我とも縁があります。
中国の司馬とも関連が深いのかもしれません。
691 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 14:34:01.27
地名で言うと、千葉は「蘇我」「夷隅」「稲毛」千葉近くの茨城「佐貫(さぬき)」なんかが印象的なんですけどwヒルコ=蛭子=蝦夷か。
「しば」と「ちば」も似てるっちゃ似てるけどねw
土着と言うか古来と言うか大豪族と新来や新新来勢力が淡路島センターに大集合したんかなw
航海の難所ナミハヤって、解釈しようによっちゃ慣れたら快速やったやろしね。
それぞれ材料の鉱石や加工技法を携えて、鳴戸の鯛や明石タコの海の幸を国府型サヌカイト製石包丁で料理して天甜酒で宴会とかw楽しそうやね。
米原町域の縄文遺跡(滋賀県旧米原町)
http://www.gensetsu.com/03maibara/doc1.htm 所在地 米原町下多良
調査期間 昭和60年
概 要
旧入江内湖の北岸に位置する行司町地区の発掘調査ではスクモ層からではあるが、
前期の北白川下層Ib式、後期の一乗寺K式、元住吉II式、宮滝式、晩期の突帯文土器が出土している。
石器には石鏃、石錘、石錐などがあり、石材のサヌカイトについては二上山のほか
香川県金山や淡路島岩屋産のものが含まれていた。
金山─岩屋─二上山を結ぶサヌカイトロード
694 :
水銀厨:2013/01/20(日) 19:54:51.60
四国説からは遠くなった感がありますが。
私としてはやはり邪馬台国は七万戸の大国だという点から、
大和盆地ではとても収まらないと思います。
当然北部九州辺りに求めるのも不可能でしょう。
なので淡路島周辺から奈良盆地北部が邪馬台国だと思います。
海人族と山祇族が共存する社会
やはり瀬戸内海周辺が一番倭人伝の記述に合致してるな。
倭人伝の距離と方向が、完全に違うな。
方向はともかく距離はピッタリだよ。
倭人伝の距離のどこが?
倭人伝では距離が女王国までと記述されてるからな。
瀬戸内辺りから女王国だとピッタリだよ。
瀬戸内までの距離も方向も合わないだろ。
702 :
水銀厨:2013/01/21(月) 08:56:59.53
記紀の国生みの記述をみてみよう。
淡路島の次に四国が生まれてる訳だが、
女性の神の名が付いてるのは、四国の
瀬戸内側2国だけなのを無視してはいけない。
オノコロ島のあとのヒルコさんは?
そういえば、ヒルコ、卑弥呼。
かつてあった、今は消えた国。(記紀編纂時)
と考えるのは、考え過ぎか。
705 :
水銀厨:2013/01/21(月) 09:25:31.92
イヨ(伊予乃二名島)の前がヒルコだと出来すぎな感もありますね。
阿波国がオオゲツヒメ、伊予国がエヒメと女性名だ。
しかも四国全体で伊予乃二名島となっている。
深読みせず普通に考えると女王の国ですよ。
神武東征で四国がガン無視されてるのはずっと違和感感じてるわ。
というか国生みで明らかに淡路と四国って解りやすいキーワードがあるにもかかわらず
こういった専門のスレ以外だと話題にすらなってないのは何故なんだろ
やっぱ邪馬台国にしろ神武東征にしろどっちかに偏った考えは違うと思うんだけどどうなんだ。
特に邪馬台国問題に関しちゃ記述に狂わされてる奴多すぎじゃね?
707 :
水銀厨:2013/01/21(月) 10:05:05.77
ヒルコが流れついたとされる範囲は、よく考えると
私が邪馬台国ではと考える範囲と被ってますね。
神戸に西宮、和歌山にかけてですから。
しかもワカ姫でニフ(丹生)ノカミとなります。
四国の古代史に関するHPとか探すと秦氏の関係からか古代イスラエルとか
ちょっと毛色が違うのが沢山でてくるのが胡散臭さを醸す原因になってるんじゃ、と思うんだがw
それ以外だと四国の研究はちゃんと視野が広い研究してると俺は思うな
↑のDNA、水銀厨さんのように丹とか、過去の人物から推測される事とか
秦氏、物部とか芝遺跡とか、遺跡とかに関しても暴走ぎみになってないし
記述が不明な点が多いからか、ちゃんと現代の技術や物証に対する姿勢も悪くない。
なんで人気が出ないんだろね
邪馬台国は四国だ云々、何処かは置いといても
過去の記述に凝り固まって身動きとれない北九州説や畿内説なんかよりよっぽど進んだ分野だと思う
で、四国に5角形の建物や建築物が多い理由は本当は何なんだろ、ネット上だとイスラエルばっかりだけどw
710 :
水銀厨:2013/01/21(月) 11:07:37.27
四国に触れるとオカルト扱いされますよ。
なので私は基本的に考古学、出土品を基本に考察します。
四国で一番確実な物証は水銀朱だろう、という判断です。
鉱脈や採掘跡は移動や捏造しようがないですからね。
海部芝遺跡や巻向の隣、芝遺跡なんて
何故あまり皆注目しないのか?と思います。
司馬なんて名前はあからさま過ぎです。
結局、なんだかんだで利権でしょ。
九州や畿内説は一旦挙げた手を下ろすわけにはいかんと。
今までやってきたことを自らで否定するわけにはなかなかいかんね。
712 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 11:56:42.47
倭人伝が大陸、半島側からの視線で国譲りが出雲、大和朝廷が畿内って前提で四国に目がいかんしw
特に太平洋側。
国譲りと国生みてw
国生みは文字通り列島に流入した古古来の海人族(ポリネシア系?国つ神?)が土着化して集合体を営み始めたって事の示唆かも、淡路島で。
流入は各方面から絶え間ないんやろけどなw
超古来、古古来、古来、新来、新新来、、、、国譲りはそのどれかVSどれかって事は間違いないw
やっぱり古くから航海術に長けるポリネシア系?海人族が旧石器辺りの早い時期に来てるんやろな。
東大VS京大って論争の基本的な構図があるからか、九州、畿内説以外はトンデモ系みたいになってしまうん違うの。
石野さんは早くから徳島辺り着目してるでしょう。
大三島にある大山祇神社
関係大有りだと思います。
海人族と山祇族が共存する社会
伊予の山祇族はクメール族で後に阿波を拠点とする久米氏になったのだとか
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/awa/awa_10.html 高千穂峰(気延山)その7 天孫降臨の地に住む天津久米命
「 竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)のくじふる 嶺(たけ)に 天降(あまくだ)りまさしめき。
故(ゆえ)ここに天忍日(あめのおしひの)命、天津久米(あまつくめの)命の二人、
天の石靫(いはゆぎ)を取(と)り負(お)ひ、頭椎(くぶつち)の大刀(たち)を取(と)り佩(は)き、
天(てん)の波士弓(はじゆみ)を取(と)り 持(も)ち、天(てん)の 真鹿児(まかこ)矢を手挾(たばさ)み、
御(み)前(さき)に立ちて仕へ奉りき。」と「古事記」に書かれています。
ニニギ命が天孫降臨する際に、天忍日(あめのおしひの)命、天津久米(あまつくめの)命の二人が先頭に立ち高天原から出雲に天下ってきたのです。
天孫降臨の地、豊葦原水穂国は、これまでに何度も書いて来たように吉野川河口にある気延山周辺です。
徳島県名西郡石井町の故久米勝夫氏は、全国の久米姓の分布調査をされました。
その結果、久米姓の多い所は下記の通りです。
1. 愛知県(765戸)
2. 徳島県(540戸)
3. 大阪府(480戸)
4. 東京都(456戸)
四国(986戸) 東海(1146戸)
九州(617戸) 関東(1209戸)
中国(134戸) 北陸(21戸)
近畿(903戸) 信越(37戸)
【昭和55年度 全国電話帳より故久米勝夫氏調査】
徳島県内の久米姓の分布は、徳島市に208戸(国府37戸)、石井町に189戸です。
これまで書いて来たように、気延山周辺には久米姓の42%が集中して住んでいますから、
気延山は正に天孫降臨してきた高千穂峰です。
九州の宮崎県は、49戸。鹿児島県は46戸。大分県10戸。熊本県41戸です。
神武東遷の際に大久米命が、神武天皇を護衛して畿内に向かったのです。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/joukosi-nagare.htm (1) 日本列島の形成が一万年ほど前のこととして、その前後から原日本人が居住していたことが考えられる。
この主体を縄文人とか「山祇族」(やまつみぞく)と呼ぶとして、わが国では狩猟・漁労、焼畑農業をしていたものであろう。
この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、
本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。
この後裔諸氏の多くは、神別の天神に属したが、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造などを代表とする。
(2) 次に、中国江南沿海部の原住地から山東半島、朝鮮半島西南部(忠清南道南部の松菊里遺跡に関係か)を経て、
紀元前の時代(明確にはし難いが、前三〜前二世紀か)に日本列島に到来してきた種族がいた。
主として筑前・肥前北部の沿岸地域に居住し、水稲耕作農業を行い青銅器を使用して、
わが国の弥生文化前期の主力を担ったもので(「弥生人」は、前者(1)との混血の結果生じたもので、語の用い方に注意を要する)、
航海・漁労に優れた能力をもつ人々であり、「海神(綿積)族」(わたつみぞく)と呼んでよかろう。
この種族は、中国のタイ語族(現代の主要民族としてはチワン族など)やタイの人々に類似する要素が大きい。
注意すべきは、もとから江南に居たわけではなく、中国北方の高原地帯に居たもようであり、中国の最初の王朝とされる「夏王朝」の王族にも通じる。
この後裔諸氏の多くは、神別の地祇に属したが、出自を仮冒して皇別や神別(天孫)に分類された諸氏も、また多い。
阿曇連や和珥臣、尾張連、三輪君などを代表とする。
天孫族……熊野大神・五十猛神(八幡神)・角凝魂命・高産霊神(高木神)・天照大神・活玉神(伊久魂神)・天目一箇命・少彦名神などを祖神として奉斎。
粟・麻などの植物。熊・鳥(とくに白鳥・鷹・鷲)などの動物。安(夜須、安芸、安濃)・高(多賀)・三野(美濃)・鏡山・鷹取山・嵩山(嶽山、御岳山)などの地名。
巨石・石神信仰。温泉神、医薬神。妙見信仰。鉄鍛冶・製塩や土器・鏡・玉・剣・弓矢・衣類の製作。日置部・額田部・鳥取部・服部・玉作部。
海神族……大歳神・大国主神・大己貴神・大物主神・事代主神・建御名方神・猿田彦神・白山比盗_などを祖神として奉斎。
稲・葦などの植物。竜蛇・鴨(白鳥もあり)などの動物。長(那賀、長田)・葦(葦田)・志賀・竜王山などの地名。
虚空蔵信仰。青銅・銅鐸・銅矛の製作。海部・磯部(石部)・水取部・猪養部。
山祇族については、これほど明確ではないが、その特徴としては、火神迦具土(カグツチ。火産霊神、香都知命)・天石門別命・天手力男命・多久豆魂命、
武甕槌神、九頭竜神、淤加美神、丹生神などを祖神として奉斎。
犬狼信仰・月神信仰が見られ、山部・久米部・佐伯部などがある。なお、「安」の地名は、山祇族にも関連する。
なお、巨石信仰は、どの種族にも多かれ少なかれ見られるので、要注意。
>>720 ほー、松山は結構行ってるけどこんな由緒正しい遺跡があったなんて知らなかった
てかウィキペディアすらないんだな、この遺跡
久米氏は三好氏との繋がりで知ってたけど戦国時代でも名族だよね、地味だけど
松山にある縄文晩期の船ヶ谷遺跡では既に水稲農耕をしてた形跡が見られるんだとか
723 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 00:49:59.26
九州より四国の方がよっぽど候補地としては相応しい。
唐津の菜畑遺跡も、縄文晩期の水田跡だな。
倭人伝は兎も角、随処倭国伝なんて四国を
経由して行ってると思えるのだが。
秦王国=波多=都佐と読めるし。
726 :
水銀厨:2013/01/23(水) 01:32:23.30
土佐でしたら最近は奈良時代の役所らしき建築物が発見されてます。
この田村遺跡周辺、実は発掘が進んだ結果、
弥生期の集落としては全国最大規模にまでなってます。
太平洋ルートというのはもっと重視されていいと思いますよ。
500か800かそれだけの住居が3世紀に同時に建っていたならたぶんそこが邪馬台国の都
そんな遺跡は全国どこにも無い
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2009/08/16/4519654 ▼「居徳遺跡」で講演 松井章氏(奈良文化財研究所主任研究官)
弥生文化を先取りか 人骨に異常な傷 魂戻らぬよう損壊?
2002/04/23高知新聞朝刊
土佐市の居徳遺跡群から出土した獣骨を「傷あとのある人骨」と鑑定した奈良県・奈良文化財研究所主任研究官の
松井章氏がこのほど、南国市の県立歴史民俗資料館で「居徳人骨に見られる殺傷痕と損傷痕」と題して講演した。
平和な時代とされた縄文時代に戦争の可能性を指摘した同氏の講演要旨を紹介する。
■「異人」との戦いか
居徳遺跡は漆の製品や東北地方の土器が出てきたり、非常に特殊な遺跡だ。
たとえば、シカの角をくりぬいて工具の柄にした骨角器も出ている。
これは朝鮮半島で多く出ているが、日本では弥生時代に伝わり、縄文時代にはなかったとされる。
しかも、朝鮮半島の骨角器は石器ではなく、ノミやナイフがはまっていた。
鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡でも同様の柄が出土し、ノミのような鉄器がはまっていたとされる。
居徳の骨角器もそうだったのではないかと想像する。
出土した獣骨の中に犬の骨もある。ほかの獣骨の状況も考えると、食べていたのだろう。
弥生時代の遺跡には犬を食べた痕跡があるものもあり、その点からも居徳遺跡が縄文文化の伝統を受け継ぐものではなく、
弥生文化の先取りをしたものではないかと考えられる。
そう考えると、人骨の傷も、居徳遺跡周辺に住みついた弥生人の先駆けというか、
土着の縄文人とは異質の「異人」が土着の縄文人と戦い、付けたものではないかとの推測も成り立つ。
人骨の傷は歴史教科書を書き換えるほどの価値があるだろう。
ただ、居徳遺跡の時代から弥生時代が始まるまでには数百年の隔たりがある。その辺をどう解釈するか。
遺物の整理が進めば、石器や土器にこれまでの「縄文」の範ちゅうから外れる点が出てくるのでは、と期待している。
729 :
水銀厨:2013/01/23(水) 09:25:42.72
四国、土佐なんて今まで邪馬台国関連の議論からは
殆ど無きに等しい候補地ですよね。
ですが最大規模にまでなると、やはり注視せざるを得ません。
私は狗奴国の一部という想定をしてますが。
730 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 09:51:43.66
731 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 10:11:06.58
愛媛の政庁、高知の最大級遺跡発見の情報に…七万戸
やっぱり邪馬台国て瀬戸内東域、淡路島、畿内って水銀厨さんの説に、四国全域を足していいぐらい違うの?
列島各地に世界最古級の土器文化を持つ縄文人を原始人扱いするように、弥生時代の国を「ムラ」のちょっと大きいやつぐらいってイメージやったw
反面、旧石器時代から広範囲にわたって航海したり、石器材や製法技術交流の痕跡は認められてるしw
なんと言っても古くから、かなりの航海術を持った人類が集まったのが列島やもんね。
732 :
水銀厨:2013/01/23(水) 10:27:28.13
倭人伝の戸数表記を信用するなら、北部九州辺りに
邪馬台国を持ってくるのは流石に不可能でしょう。
どれだけの遺跡、食料調達可能な範囲があるのか?
という疑問を解決するのは不可能です。
マグロについては私も色々妄想があります。
シビという名前もシバに近いですからね。
南方由来の名前
クジラやイルカの骨などは既に淡路島の佃遺跡で見つかってるみたいですし
この周辺でマグロ漁の痕跡があれば淡路徳島辺りの可能性が出てきますね。
734 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 18:24:45.84
海上で、大型の鯨やイルカを捕獲するぐらいやから、戦闘力もかなり有ったんやろな。
「倭国大乱」て、次々と流入して来る部族間の抗争は入り乱れて複雑そうやね。
水銀鉱脈を狙い合う邪馬台国と狗奴国の黒幕に丹生の氏族がって感じかなw
狗奴国を和歌山に比定したらどっちにも水銀鉱脈有るんやもんね。
神武伝承話も土佐辺りから宮崎に下りたと考えれば自然だね。
そのまま四国の周囲、北部九州の勢力や瀬戸内を回って
大和へ攻め込むなら話は繋がるんだよなぁ
736 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 23:30:27.07
>>12 これは以外といい線ついてると思うw
ちょっと前までは水銀厨さんの見解含めこのスレだと
水行10日で宿毛→一月歩き→阿波 って見解だったけど
@水行10日で松山(久米政庁)⇒1月歩き(阿波)or(土佐)
A水行10日で宿毛→一月歩き→阿波・土佐
:宿毛から土佐だと途中で船でも使う方が早い
:宿毛から阿波だと辻褄があう
:松山上陸からだとすると(阿波・土佐)のどちらも整合性が合う・・・。
マグロ到来といいこれは四国も楽しみになってきたな。
やはり久米氏が関係しているのだろうか。
久米面白いな。天孫降臨の夢先案内人沖縄の方も久米島ハヤトも7世紀迄野放しで何故かその後宮廷警護。
瀬戸内に鯨…万葉集に淡海(琵琶湖)に鯨が出て来る歌がありますが、
これが瀬戸内や太平洋だと別に矛盾しない話になりますね。
741 :
水銀厨:2013/01/24(木) 00:57:48.85
ここは色んな知識を持ってる方が多いですね。
四国というとどうしてもオカルトに走りがちですが、
色んな角度から考察される方が多いので、結構参考になります。
742 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 11:17:27.37
「シバ」を検索してたらこんなんも出て来たw
「志賀理和気神社」が正式名称で、通称を「赤石神社」とするこの社は、岩手県紫波郡紫波町桜町川原一、にあります。ここの祭神などは、下記のようになっています。(参考:神社本庁・神社名鑑)
祭神:
経津主命、武甕槌命、猿田彦命、保食命、少彦名命、大己貴命、船霊命
末社:
6社
神紋:
16菊
本殿:
流造り、6坪 境内:4755 坪
この神社の所在地、岩手県紫波郡紫波町、の「紫波」に就いて考えて見ます。北海道上川支庁上川郡上川町に「シバ山」という標高1483mの山があります。この山は後背の大雪山の山並から、大雪湖周辺の平地に飛び出してきているように窺えます。
アイヌ語で「シ」は「本当の、大きい」などの意味があり、「パ」には「頭・崎・かみて・川下」などの訳があります。
最北端の式内社やとか。
743 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 11:19:12.30
「赤石」w「紫波山」w祭神もw
赤石て陽石やんねw
「chinbo」も「シバ」の転訛と考えたら芝山近くの鉱物の産地は「hoto」かいなw
744 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 11:46:04.76
忌部とは、
宗像教授が何年も前から指摘してる、、
746 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 20:12:14.97
やっぱり瀬戸内周辺の国々も、中国と交易してたのは相当古いようだね。
たぶん燕のものか
岡山って日本最古級の陸稲栽培の跡もあるそうだし先史の先進地だな
やっぱり倭国大乱は瀬戸内海が舞台なんですかね?
高知で犬食の形跡もある縄文末期の戦闘跡とか、
明らかに戦闘好きな人種が来てるはず。
752 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 00:24:10.51
四国の歴史はやっぱり何となくタブーなんだろう。
754 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 13:49:39.48
邪馬台国の範囲より、卑弥呼がどこで生まれてどこで死んだか
の方が関心ごと
755 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 14:50:53.95
卑弥呼がモモソならある程度解るだろ。
モモソは淡路島出身の母から生まれ、幼少時は讃岐辺りで過ごした。
聡明だと評判で瀬戸内辺りには伝承も多く残している。
後にヤマト三輪山の大物主に嫁いで箸墓に眠るとされている。
これだけ見たら卑弥呼の資格は充分ありそうだが…
徳島は人口あたりの女社長が日本一だって?
女が支配階層にあるのが阿波の風土としたら
邪馬台国とかぶる
讃岐は男が強いから、卑弥呼がトップだと反発しただろう
やはり久米姓が全国一多い石井町周辺があやしぃ
760 :
水銀厨:2013/01/29(火) 09:19:52.02
吉野川周辺は候補の一つでしょうね。奈良と地名み似通ってますし
ただ南にあるという狗奴国との関係や、
倭人伝の水行陸行行程との整合性を再考察する必要性があります。
761 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 15:55:46.56
狗奴国って徳島南部のことじゃないの?
あの地域って大化の改新までは別の国だったはず
吉備、播磨、阿波は、やがてヤマトでクニ作りをし、
日本海側、東海地方の邪馬台国連合以外の勢力と組んだ、
ということは狗奴国の系列を引くのかも知れない。
763 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 20:46:28.61
その吉備の岡山市が現職市長の肝いりで 「桃太郎市」にするとかww田舎者丸出しやろ。
豊富な古代遺跡の研究でもしたらいいのに…
764 :
水銀厨:2013/01/29(火) 21:20:02.11
すぐゆるキャラ作る傾向もいい加減ウンザリです。
あとご当地ヒーローもね。
他に予算回したら?と思う。
765 :
水銀厨:2013/01/29(火) 21:39:29.76
女王国と狗奴国の対立についてですが、
水銀朱に拘る私としては丹山を持たない女王国側と、
山を持つ狗奴国側という対立軸を基本に考えてます。
これなら東進してゆく理由も有るはずです。
阿波の鉱山である程度取ってしまったので、
新たな山を求めての移動と想定してます。
阿波は、古代は、北方の粟国と、南方の長国の二国に別れていて、
水銀が、出るのは、長国のえりあです。
http://kamnavi.jp/inari/awajisima.html 淡路の始源性
山地は比較的平坦でなだらかです。その割には山崩れが多い島です。こう言った所は焼き畑農耕に適しているそうです。
穏やかな気候で現在でも二毛作三毛作が行われている農業地帯です。
縄文海進時には三原平野の大半は海ではなかったか。現に平野の奥の安住寺の周辺までは海であったとされています。
三原平野から洲本平野へ船のまま抜けるような運河があったのではと、生田淳一郎氏は述べておられます。
氏は境に当たると思われる場所の発掘を行えば、運河用の杭等が出土するのではないか、と推定されています。
傾聴すべき意見だと思います。
照葉樹林地帯からの人々が阿波、紀伊、淡路等に流れ着き、ここで焼き畑農耕を行っており、その後三原平野が広がってきて、本格的な水耕稲作の時代に入りました。
この地の海人は力を蓄え、東西の交流に干渉し、航行に大いに活躍をし、やがては大和に王権を築くに至ったと考えられないでしょうか。
768 :
水銀厨:2013/01/29(火) 22:59:45.35
まぁ淡路島周辺が倭国の発祥に関わる重要地なのは、
記紀にも記述されたごく基本的な事ですよ。
この辺りと大和盆地辺りとの交流というのも
縄文時代以前からのモノですしね。
否定する理由が無い。
769 :
水銀厨:2013/01/29(火) 23:11:55.37
高知の田村遺跡は弥生末期に一挙に衰退した?とされてますが、
何が理由が解明出来ればよいのですが。
770 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 00:37:25.22
それ弥生時代にも来た、南海トラフ地震の大津波と違うんかな。
南国市て地形的にヤバそうな感じするもんね、地図しか知らんけどW
国内最大の鍛冶工房跡が淡路島にあるのは強い。
東渡海千里にしろ東征にしろ条件に合うところはそんなにない。
大阪で返り討ちに遭っても一旦退いて淡路島なり阿波なりで再度整えて和歌山に向かうこともできそうですね。
772 :
水銀厨:2013/01/30(水) 09:15:59.85
大地震の影響を考えると、当時なら建物倒壊より津波被害ですよね?
そうなると高地性集落なんて、実は津波被害から逃れた連中が、
対策上へ生活基盤を移したのか?と想像してしまいます。
でも大きな津浪なら土器等遺留品が現地に残る事も無いでしょう。
でも水銀厨さんの、邪馬台国の比定地と狗奴国=和歌山説やったら両者とも丹鉱脈有りでしょ。
「倭国大乱」言うぐらいやから丹の齎す利権を知り抜いた一族がマッチポンプ的に暗躍して‥‥探偵ごっこはやめとこw
高地性集落には鳴門なんか、平野部が少なくて切り立った地形が沿岸部に続いく、言うたら職住一致の利便性はバッチリやもんね。
鳴門は何回か行ったこと有るwwびんび屋とかw
瀬戸内海側は津波の被害は高知よりマシな気がするけど、実際はどうなんかな。
香川県は四国で一番平野部が広いし。
>>766 卑弥呼の時代は統一されていて、卑弥呼の死後
粟国と長国に分割されたのかい?
775 :
水銀厨:2013/01/30(水) 12:20:01.20
まぁ現状では7世紀以前の歴史なんて基本的に推理でしかないです。
狗奴国を紀伊半島南部に比定はしてますが、
やはり単純な南北対立構造とも思えません。
おそらく西日本の北部大半を占める女王国と対抗するのなら、
それなりの優位性を見いだせないと。
私の場合は鉱山の所有権という判断です。
>>771 熊本の遺跡は、北部九州よりも瀬戸内と関連が深いからね、
マキムクにも桃のタネをくれてやってるし。
モモソ母のハエイロネが元々九州の出身だとすれば
話は皆繋がるんだよ。
だから九州勢力が東にやってきたとしても
それは2世紀以前の話という事。
この時点で3世紀以降の東遷を主張する
九州説の大半は終了している。
東遷は4世紀。
九州から派遣されたのが古い時代というのは、
否定できないな。
それが何度かあったんだろう。
だから、ちょいちょい九州系の親戚が点在しているのかもしれない。
まあ、派遣というより勢力争いで負けたのが、
都落ちで地方に出てきたのかもしれないが。
これも一種の島流しかね。
780 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 16:46:16.73
今日だか昨日だかの新聞で、この6500年の内に少なくとも15回程の南海、東南海、東海トラフの巨大地震と大津波があったとか。
縄文時代や平安時代は現在より5〜10メートルは海面が高かったと言われるので
徳島や鳴門などの平野部は殆ど海中。
讃岐金刀比羅宮の琴平山の辺りまで入江。
淡路島の現在の平野部は全て海中。
・・・現在の伊弉諾神宮も海中(現在地は後世の修築の査証。)。
・・・大鳥居のオノコロ島神社は海中。//近代(古写真に映る全景は平地の社業林)に村おこしか何かで神話に肖って嵩上げした疑い。
・・・ハタ地区の高台に鎮座二宮の大和大国魂神社(磯城長尾市(崇神期、大和神社の創始者)による創建とも、倭宿禰命(神武期)の創始とも=淡路島は海部族の葛城高尾張(天火明命一族)の支配下)の直前まで入江。)
別件ですが、日本海側の宮津の元伊勢、籠神社や丹波風土記残欠には、
大昔、大地震で同社の神奈備で重要な二つの島(凡海島と沓島)が海中に没したとの記録伝承。
小島二つが跡形もなく海中に没するほどの地震って・・・
土佐に弥生最大級の集落が確認されたのが大きいねえ。
戸数500弱であの規模だと倭の大国なのには違いない。
70000万なんて戸数が事実なら、四国全部でも足りない位だわw
当然北部九州に比定するのは論外。
500戸が同時に建っていたなら集落というより都市だ
50戸200〜250人を養う土地がどれだけ必要か
弥生の稲作では後の時代のように1反1石とかとれない
数キロも通勤するのは時間と労力の無駄だから別の集落を形成する
785 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 17:39:27.97
倭宿禰命は珍彦/宇豆彦(うずひこ)とも椎根津彦とも天御蔭命とも。
時代は神武天皇の人。
崇神まで十代。一代の治世を平均12年(上古の平均値)とすると120年。
15年とすると150年。
第三十代とされる敏達天皇(別称、おさだ天皇/雄略朝の第三代)の崩御年が敏達天皇14年=585年とされます。
585年から逆算して三十代は
360年間(12年平均)、または450年(15年平均)
紀元225年〜135年頃に神武天皇(とされるかた)がいらっしゃった。
一説に神武天皇は四十代半ばの男盛りで大倭大国主にご即位。
崇神天皇は345年頃(四世紀)。ないしは285年頃(三世紀後半)には生存していたことになる計算。
大体の整合性は有りそうな感じ。
また、崇神天皇と同時代とされる
倭途々百襲媛命≒豊鋤入媛命(初代天照大神の斎宮?)
=大倭媛命(歴代、倭の女王の尊称)=八坂振天其辺命。
古系図(海部氏、尾張氏)では、天火明命(天之忍穂耳命の第三御子)の10世孫にその御名を観ます。
崇神と垂仁が遠ざけた天照大神さまの正体と理由までも浮き出てくるような・・・
786 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 18:52:08.97
倭宿禰が天火明命の三世孫(曾孫)と見え。
かつ神武天皇と同時代の人。
かたや、倭途々百襲媛命≒豊鋤入媛命が天火明命の10世孫に見え。(ヒミコ/大倭媛命さまですが所謂、卑弥呼やトヨとは別人)
第十代崇神天皇と同時代の人。
倭宿禰命と豊鋤入媛命とは7世代間の隔たりが有ることになります。
人の一世代を20年から30年とすると、
7世代分だと140年から210年の隔たりと計算され
先程の神武天皇と崇神天皇の隔たりとほぼ同じ時系列の間隔かと。
ここで籠神社の宮司。海部氏は天火明命から83代?を数えるそうですが
神武天皇と同時代の倭宿禰命までは79代。(兄弟相続、同族支配も度々有った模様。実質はもう少し世代は少なくなるかと)
一代30年としたら2370年前。
25年だと1975年前。
20年とすると1580年前。
また、崇神天皇同時代の豊鋤入媛命が69代前
それぞれ、2070年前。1725年前。1380年前
人生五十年有る無しの時代ですし、どうやら一代は25年平均より少し短い年限に落ち着くのが妥当な感じです
ここで仮に24年平均とすると、
神武天皇は1896年前。117年頃の人(二世紀)
崇神天皇は、1656年前。紀元357年頃(四世紀中葉)
787 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 19:01:19.27
卑弥呼女王(六世孫)やトヨ女王(八世孫)と思しきお方もこの系図に見えます
ヤマト(首府、首都の意味)は奈良盆地の葛城高尾張(奈良県御所市周辺)から磯城地方(三輪山麓)かと
天火明命の一族に葛城から嫁を迎える(入り婿する?)のが慣例化していたように見受けられます。
卑弥呼の頃は葛城地方がヤマト(首府)。
卑弥呼の古墳もこのあたりに比定可能な地(径百歩)があるそうな
また、高天原は延喜式(10世紀の律令//延喜元年は西暦901年)には葛城の高天地区と朝廷の公式見解として認定されています。
高天地区は土蜘蛛の住処
畏れ多くも高天を土蜘蛛とは如何なる了見か。
高天彦神社に近い高天に、千本の足を持った土蜘蛛を矢で射殺して埋めたと伝えられる土蜘蛛塚がある。
一言主神社の境内には、頭・胴・足の三つに切断して埋めたという三つの土蜘蛛塚がある。
791 :
水銀厨:2013/01/30(水) 19:54:22.56
金剛山の麓、高天はいい場所ですよね。
私もよく山麓線(地元民ならわかる名)を車で走りますが、
大和盆地から吉野・大台まで一望出来る場所です。
和歌山方面へ出る交通の便からも、
古来から重要地なのはすぐ理解出来ますよね。
蜘蛛窟の場所〜奈良県御所市から
http://takama.sakura.ne.jp/kumokutsu 蜘蛛窟〜先住の民・土蜘蛛伝説地
この高天の蜘蛛窟には次の様な伝説が残っています。『むかし、千本の足をもつ大きな土蜘蛛がすんでいた。
時の天皇はお悩みであったので勅使がきて、字 サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。矢の落ちたところを矢の段という。
土蜘蛛を高天彦神社の傍に埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛のいた窟は神社の前の並木の東にある。(御所市史より)
葛城の地名の由来も土蜘蛛から
日本書記によれば神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺した。
それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったと葛城の地名の伝承について記しています。
蜘蛛窟の石碑の場所には戦いに敗れた土蜘蛛と呼ばれた先住の人々が眠っているのでしょうか。
石碑には供養碑としての意味も込められているように感じます。
土蜘蛛に関しては、土蜘蛛(先住民側)の残した記録が無いためほとんど謎に包まれています。
葛城には高天彦神社社殿の脇にある岩をはじめ土蜘蛛に関する史跡がほかにもあります。
あと高天原エリアではありませんが葛城一言主神社境内に土蜘蛛塚があります。
天孫降臨伝説や神武東征神話が英雄神話として光の部分であれば土蜘蛛の伝承は英雄を引き立てる神話の影の部分を担っているのかも知れません。
高天原エリアや葛城では神話の光と影の両方をたずねることができる貴重な場所だと思います。
793 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 23:44:26.59
土蜘蛛とかひょっとしてアイヌ語由来で意味が全く違うかったり…と思って。
「ツ」尾根「チ」霊 「ク」影、悪魔(クルなら人)「モ」静か、眠る
簡単に検索してみたらこんな感じやけど。
尾根に霊の静かな影
やっぱり妖怪っぽいしw「尾根」なんかは山の民っぽいねw
794 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 03:44:31.33
土佐には龍河洞があるな、卑弥呼も入ったんかなw
南海大地震、2000年前位のが最大規模だったとか。
当然九州や紀伊半島にも影響あるはず。
796 :
水銀厨:2013/01/31(木) 09:16:57.43
土蜘蛛は穴掘って鉱脈等を探してた先住民でしょうね。
だから後発組にとって反発した連中を
蜘蛛(朱を知る虫)とした蔑称で呼んだのかも?
まぁ中国では蔑称と言い切れない部分もありますが。
協力者となった連中を出雲と呼んだのかもしれませんね。
797 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 12:13:29.64
しかし「海面上昇」と「国産み」ってビジュアル的なイメージが重なるわw
ちょっと検索したらやっぱり指摘してる人がいてるしww
西洋の古代人は大洪水を「人類滅亡」的に捉えてんのに倭人は「国産み」ww
もし、同じ事象に対しての発想なら既に、死生観が全く逆やから面白いなww
新方遺跡(しんぽういせき)
神戸市西区玉津町高津橋・西河原・新方・伊川谷町潤和明石川左岸の標高10m付近の沖積地上に立地する集落遺跡で、山陽新幹線の建設に伴って発見された。
以来十数次にわたり発掘調査が行われ、遺跡の範囲は東西1.5km、南北2kmに及ぶ明石川流域最大の弥生時代の集落遺跡あることが判明した。
弥生時代前期の石鏃が射込まれた人骨が残った木棺墓、中期の豊富な出土品など、
この地域で突出した遺跡として認識されるが、特に住居跡などから玉造りに関連する遺物の出土が特徴的である。
2010.11.22 特別展 明石の弥生人 明石市立文化博物館
http://blog.livedoor.jp/marbow_archeo/archives/51801264.html 新方遺跡で出土しているサヌカイトの原石の半数以上が金山(香川)産というのは意外でした。
陸上ルートで二上山(大阪)から運んでくるよりも、海上ルートで香川から運んだ方が効率が良かったのかなぁ。
縄文人と渡来人の遭遇
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/plala/dairya/encarta/nihonjin/souguu/souguu.html 渡来系弥生人が入植したムラと縄文系のムラの関係は、近畿の河内潟周辺でも見ることができる。
大阪府長原遺跡や八尾南遺跡の場合がそれである。長原遺跡が縄文ムラ、八尾南遺跡が弥生ムラである。
二つのムラの間は500m程度で非常に近接した位置関係にあり、「共生」(秋山 浩三氏)であるとした。
但し、同じ近畿でもムラ同士が対立関係にあったケースも十分に想定できる。
兵庫県神戸市の新方遺跡では、多量の石鏃を射込まれた縄文系弥生人の人骨が見つかっており、
最初期の環濠集落である神戸市の大開遺跡の存在とともに絡めて、相互に緊張関係があった可能性は否定できない。
このように、福岡平野で見たような状況が、岡山平野や近畿でも起きている。
ところで、近畿では渡来系弥生人が入植し始めると縄文晩期後半から弥生時代前期初頭に、結晶片岩製で粗製の大型石棒が突如増加し始める。
この石棒は、徳島県徳島市の三谷遺跡で生産され各地に流通していたことが中村豊氏により明らかになっており、「三谷型石棒」と呼ばれる。
このような石棒をもつ遺跡の多くは縄文系のムラであり、その多くは壊された状態で出土する。そしてこの時期以降、石棒は消滅する。
縄文系文化と渡来系文化が対立と融合を経て、縄文的要素を残す縄文系弥生文化が成立する過度期には、社会内部に様々な矛盾が生じたはずである。
その際に集団の結び付きを強化する必要から、東日本の影響を受けて石棒を採用し、祭りを執り行ったものと考えられる。
しかし、急速な変化に、縄文的スタイルから脱皮しようと決意したのか、石棒は粉々に破壊された。
縄文的神話世界を捨てて次の弥生的世界へ移行するためには、神話の象徴を次々に壊す必要があったのであろうか。
縄文人の心の葛藤をうかがい知ることのできる現象である。
香川県金山産のサヌカイト製の石鏃で殺害された縄文人とされる弥生時代の明石川流域の人々。
渡来人と縄文人による戦争跡か?
それとも弥生文化を受け入れた縄文人と受け入れなかった縄文人同士の内戦か?
謎である。
日本全体では弥生時代に稲作を行っていた遺跡出土の人骨は縄文的形質の人骨が圧倒的多数ですけどね
縄文人がそのまま弥生人wになったと考えて良いよ
縄文人弥生人なんてのは朝鮮中国に出自を求め民族意識を弱めようという戦後ステマでしょ
朝鮮ステマだろ。日本の不味い部分をごまかす為にそれに便乗した抜け作学者も居るが。
804 :
水銀厨:2013/01/31(木) 14:26:29.18
何でもすぐ半島由来にしたがる傾向は困ったものです。
航海術に長けた倭人は進んで大陸へも進出した可能性だってあるはず。
徳大の中村氏の他に誰も研究してないのかよw
809 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 21:21:19.21
四国88箇所は世界遺産にならないのかな。
奄美・琉球は暫定リストに追加するみたいだけど。
本当は京都・奈良の寺と同じくらい古いので、ちゃんと保護した方がいいと思うけど。
811 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 13:13:49.11
ニュース速報板で
【社会】卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土★3←3てw
みんな、邪馬台国とか卑弥呼好きやねんなぁw 伸びるん滅茶速いわ。
中に忌部氏等に言及してる人もいてはるけど、やっぱり九州説と畿内説が殆どみたいな感じやなww
旧石器から豊かな縄文時代を経て、世界トップレベルの生活力やったと思しき、倭人を過小評価する人が多いような気がする。
812 :
水銀厨:2013/02/05(火) 00:01:50.31
覗いたら何故か私の名前が出ていてびっくりしました。
畿内説を主張するなら瀬戸内東部や河内南部辺り込みだと
認識される方もおられるようですね。
徳島抜きはもはや成立しないはずです。
徳島の古名は渭津(イツ)
おそらく伊都(イツ)と同一でしょうね
814 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 19:07:26.87
水銀厨さん、名前出されるて一流ですやんかw
手掛かりが少ない中での推理は仰るように、この板の人たちみたいにいろんな事実を確認しな埒があきませんよね。
倭人伝に捕らわれたらあやふやな短里や日数で滅茶苦茶なりますわww
しかし、考古学て何かと「祭祀に使われた」とか言うけど実際はどうなんかね。
確かに、今でさえ漁師やマタギなんかは自然に対して畏敬の、宗教心みたいなんは強く残ってるみたいやけど、それは。
山の民が一本伐採したら一本苗を植える「お礼苗」みたいな山の緑を守ったエコ科学的な合理性のある。
「鬼道で惑わす」てなんやねんww 未だに惑わされてる人も多いけどw
それは、道教で人々を惑わしてた古代からの中国人の、発想やと思うけどなあ。
815 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 09:34:41.13
文献も考古学も全て考慮しなきゃダメなのにな。
従来の畿内説も九州説もそれがダメ。
倭人の風俗として最も合致出来るのは、
四国東南部か九州南部しかない。
特に四国については不自然に無視され過ぎだよね。
記紀では重要視されてるのに。
とりあえず説明しろ
四国説の趣旨はスレ読み直せば大体書いてるよ。
818 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 14:36:31.14
讃岐で菅原道真の政庁が見つかり四国で最初ってニュース出てたけど
上の久米遺跡とか全くガン無視されてる辺り話題性があればそれだけなんだろう
邪馬台国の畿内・九州の両方が四国や瀬戸内・日向・出雲の存在を無視するから滅茶苦茶になる
でも四国の存在がちらほら出てきてるのは良いことだね、古代史はもっと視野を拡げんとな。
今までのスレ内容からだとこのスレタイはほぼ詐欺だよなwインパクトはあるけどw
819 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 16:59:55.09
弥生末期で最大級の居住跡のある遺跡が
四国の高知にあるなんて、
殆どまだ誰も知らないよね。
そういうの無視して弥生時代語っては駄目ですね。
820 :
日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:03:03.58
http://www.topics.or.jp/localNews/news/2013/02/2013_136028676265.html 銅鐸片のペンダント 庄・蔵本遺跡、装飾に利用
徳島大学埋蔵文化財調査室は7日、徳島市蔵本町の庄・蔵本遺跡で、
ひもを通す小さな穴がある弥生時代後期後半(2世紀ごろ)の銅鐸(どうたく)の破片が見つかったと発表した。
加工された銅鐸片の出土は全国3例目で西日本では初めて。
県内でも銅鐸を農耕祭祀(さいし)に用いた後、装飾品として再利用していた集落があったことが裏付けられた。
調査室によると、銅鐸は突線鈕式(とっせんちゅうしき)。
破片は上部の飾り(飾耳(かざりみみ))の一部で縦7センチ、幅4・5センチ、厚さ7ミリ。
本体を復元した場合、国重要文化財の「矢野銅鐸」よりも大きい115センチ程度とみられる。
穴の直径は約2ミリで、権力者らが権威を示すために、ペンダントなどの装飾品として再利用していたと考えられる。
銅鐸は主に豊穣(ほうじょう)を祈願する農耕祭祀の道具として用いられた。
徳島など四国、近畿地方など銅鐸が多く分布する地方では使用後、そのまま埋められることがほとんどで、
破片が見つかるのも珍しい。
考古学板の
「日本と紀元前中国王朝の関係性」
スレの274氏は「有史以前の倭人の軌跡的」な書き込みしてはって、夏王朝は倭人の軌跡的ループに於ける一部分だ、と、再び列島に戻ったのが大和の神武と前後する時代なんだ、と言う説やったんやけどね。
伝説的な夏王朝云々はよく判らんから置いといても、人類が列島に定着してから倭人伝にて紹介されるまでの事に着目するのは邪馬台国時代を知る為に重要な事やと再認識しましたわ。
先住民?か列島から出んと長らく定住してた人たちは、貴重な鉱脈や鉱石がどこに有るか仮に知ってたとしても、
発掘したり精製、活用する技術など全ての事柄を知ってたとは限らんもんね。
なんでも大陸由来の半島経由じゃ話にならんと思うわww
823 :
日本@名無史さん:2013/02/08(金) 17:37:00.91
>>819 そうそれ知られてないよね。
あんなにたくさん出てるのにね。
水行十日陸行一月
糸島伊都国から水行十日で愛媛
愛媛から陸行一月で徳島
825 :
水銀厨:2013/02/11(月) 09:21:18.90
最近は四国も一応注目されてきた感があって何よりですね。
定着させるには、如何にもなオカルト色は避けながらも
今までスルーされてきた部分にも考証が必要かもしれません。
だけどひとまずは讃岐、阿波は歴史上重要な場所である事を
証明出来ればいいと思いますね。
まず畿内か九州に注目するけど行き詰って、ふと四国に目を向けると盲点だったことに気付く。
本とか出て世間の人四国の人だけでもそうなのかって思わせたら議論も盛り上がるよ。
827 :
日本@名無史さん:2013/02/12(火) 00:03:47.13
スパコンで特定出来んのかなw
弥生時代最大の鉄器工房を掌握していた徳島。
邪馬台国のエリアはズバリ四国。七万戸に手ごろなサイズ。
…て可能性ないのかな
奈良盆地と関連が深いのは九州勢力ではなく
東瀬戸内の勢力だったと証明されつつあるからな。
水銀さんの主張だと淡路島周辺の勢力が
邪馬台国だという事だが、戸数的には問題ないはず。
阿波、播磨は吉備とは別の勢力圏になっている。
東夷伝に出るクニでは、狗奴国の勢力と関係するのかも知れない。
831 :
水銀厨:2013/02/12(火) 10:12:53.09
忘れてはいけないのは卑弥呼は倭国大乱後に諸国が
共立して立てた女王だという事でしょう。
その死後には男王が立つがまた荒れます。
つまり女王国も常に一枚岩ではない国々だと言えます。
また狗奴国がどうなったかも倭人伝ではわかりません。
狗奴国が主体となって新たに女王を 立てた、
なんて推測も出来るかもしれませんよ。
832 :
水銀厨:2013/02/12(火) 10:23:33.90
何故私がそういう推測をしてるかというと、
中国へ持ってゆく品目の中に丹が現れるのはイヨになってからなのです。
卑弥呼は鉛丹を貰う側です(鉛丹は熱加工して造る物ですが)
つまり当初狗奴国は水銀朱を掘っていた国ではないか?という推測です。
硫黄分析によって確認された中国産鉛丹(朱)は、萩原2号の他、九州、丹後などでもある。
834 :
水銀厨:2013/02/12(火) 20:29:36.21
徳島の古墳から出る丹が中国産だとすれば、
阿波の水銀朱は普段の生活で使われていた、
と考えても良いでしょう。
四国東南部辺りの倭の海人は、倭人伝の記述にもあるように、
普段の生活において丹を使っていたと考える事が出来ます。
田村遺跡でも水銀朱の付着した土器は確認されてますしね。
835 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 18:19:57.70
836 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 00:01:22.81
【妖怪】土蜘蛛【国栖】スレで見たんやけど 土蜘蛛の 虫扁をとったら
蜘→知 蛛→朱
とかw こんなん面白いね
水銀厨さんの話にも符合する。
土穴に籠もって丹生を知る人たち かw
今、思ったけど
土蜘蛛→土籠も
くも → こも すか
語呂合わせもなかなか面白いね。
久米島、南西諸島は邪馬台国以前に、海洋民の初期倭人が初めの頃に見つけた列島の始まりやったんやろね。
838 :
水銀厨:2013/02/22(金) 12:27:11.74
漢字を充てる時には当然何か思惑があって行うはずですね。
記紀なり文献資料として残す場合、当然その当時の地理感や
価値観なりが反映されるでしょう。
蜘蛛に雲、狗奴と書いて葛、そして国栖。
葛はカツラでもありますね。
で、土蜘蛛は葛の弦(つる)で捕らえられる話がありますね。
つまり葛城は剣、鶴亀でもある訳ですよ。
なんで謎解きみたいな話を入れるかはよくわかりませんが。
>>839 四国住民の頭型については、小浜による戦後の生体計測において、徳島県人に長頭の混在があると言われていた。
また、島によって、6世紀古墳から1例の長頭の報告があるだけであった。
この問題については、本研究によって四国の古頭骨には、古墳期以後に多くの長頭があったこと、
特に徳島県の古頭骨に長頭の出現の高いことによって裏付けられた。
顔型については、四国出土骨は香川県の2例を除いて、概して低顔型かつ広顔型が優位である。
近畿の近代人頭骨では、低顔に高顔が均しく混在する。
また、鼻型についても、四国古人の広鼻型を主とするのに対して、
近畿近代人には狭鼻型も均しく混在する点について、差異を認めることが出来た。
次に、同じ四国内にあっても、地方差のあることが示唆されている。
研究例数が一層少なくなるという制約があるにも拘らず、長頭型は徳島地方に強く現われ、
愛媛には存在するが、中頭型が主流を占める。
低顔型は徳島に最も著しく、愛媛にも低顔型が多いが、香川の2例は共に高顔型であった。
したがって、徳島は長頭超低顔型、愛媛は中頭低顔型、香川は中頭高顔型の存在が顕著である。
厳密には、時代的にも、地方的にも、異る資料であるが、四国の現代人骨については、比較できる資料がないために、
四国の古人骨と近畿の近代人骨とを比較すると、四国古人の頭型は長頭を多く含み、低顔が強いことに対して、
近畿近代人では逆に短頭、高顔の傾向が強く、顔幅については、共にやや広顔の傾向である。
鼻型については、四国古人は広鼻型が主流であるが、近畿近代人は中鼻型と狭鼻型が著しく増加している。
これらの比較結果を、島と寺門の近畿古墳人頭骨の計測例と参照すると、近畿の近代人の頭顔とさしたる大きな変化がないようであった。
以上のような結果から、四国古人の頭顔型は、近畿近代人のそれとかなり異っていることを、
数種の形質を特徴づけている示数の上で推察出来る。
また、同じ四国古人について、地方別に、いわゆる地方差のあることが、
頭型と顔型、特にコルマンの上顔示数について推測された。
また、少数例に拘らず、時代別の比較において、注目すべき差異が推定された。
縄文期の頭型(中頭型)、顔型(低顔型)、鼻型(広鼻型)に、古墳期には長頭型、低顔型と高顔型の顔型と狭鼻型鼻型の集団が参加し、
未確認ながら、恐らく弥生期以来、これらの形質の参加があって、その後の歴史時代には、それらの形質の増強を招来し、
近畿の近代型に見られる型質に接近したものと推察される。
一般的に、日本人の祖先を均一な形質集団ではないとする見解がある。
それに対しては、均ーとすれば、その基盤となる形質が存在した筈である。
日本人を単一形質とする清野説など諾仮説がある。
中でも、モースによるプレアイヌ説に代表されるアイヌ原住説と、その亜流にはアイヌ孤島説、
移動説、混血説などを含めて、アイヌを基盤とした考え方がある。
アイヌ集団についても多様性が指摘されていて、縄文人としても不均一な形質集団が考えられている。
アイヌは概して北方局在と考えるものに対して、琉球集団とアイヌ集団の同系説(シーボルトによる)を容認する意見叫もある。
長頭を条件とした形質をアイヌとすれば、四国には古墳期に出現したことになる。
四国の縄文人の起源については、少なくとも中頭低顔広鼻型を入れて、東南アジアの先住集団、
および汎太平洋の長頭系集団との関連も考察されなければならない。
次に、古墳期以後の多様性については、先述のように同一形質集団の内因的変異とするには余りにも短い年代である。
したがって、他から異る形質の流入を考慮する必要がある。
日本列島を統ーして眺めると、九州と近畿、およびその中間の瀬戸内については、
少なくとも古墳期以後は大陸と交流し、基盤となる形質の独立性が失われて来た。
山田の述べたように、四国古墳人以前は、地理的に分離独立した集団として存在したと仮定すれば、
四国における古墳期の多様な形質の共存を説明し易いものと考える。
結論
四国で出土した古人頭骨を縄文時代から歴史時代にわたり世紀順に、
また、四国の地域別に、人類学的に計測比較研究した。
1. 四国の地域別に、徳島県より13例、香川県より2例、愛媛県より16例を得た。
その内約半数は損壊頭骨を復元したものである。
2. それらの形質については、頭長巾示数、コルマンとウィルヒョウの上顔示数、鼻示数、および上顎歯槽弓型の比較が効果的であった。
3. 近畿地区の近代人のそれと比べると、徳島の古頭骨は最も長頭型が多く、
その他の四国の古頭骨は中頭型が主であるが、近畿の近代人では短頭型が主体である。
4. 顔型については、四国古頭骨では低広顔型が主である。
5. 四国古頭骨の鼻型は概して広鼻型であった。
6. これらの形質について、同じ四国内においても地方差が見られ、さらに時代差も認められた。
7. これら顔型と鼻型については、近畿地区の近代人の頭骨と大きな差があった。
これらの形質を示数値によって特徴づけたこの調査研究に基くと、
四国の先住者の頭骨の形質は近隣の移住者の形質とはより独立したものと思われ、
四国の先住者へ近畿地区の住民の移住による混入も遅延されたものと考えられる。
>>840-843 古墳時代の四国、得に徳島で顕著に見られる謎の長頭集団
久米氏か?忌部氏か?
グーグルで地図を見てて思ったけど中国南部から日本に来るなら琉球伝って九州南部辺り
に辿り着く
↑の人種的な振り分けは面白いね
このレベルの話になると宮崎・鹿児島辺りの方も調べて見ると面白そうだ
中国南部の人らが最初に辿り着いたのが九州南部の可能性が非常に高いだろうし
卑弥呼は長頭だった。
当初、大和政権を纏わらぬからサヘギる→佐伯部とかなら…土蜘蛛系かも?
讃岐佐伯氏の空海が丹生朱鉱脈を熟知してんのも当然かw
むしろ唐へは関連製品か精製技術なんか手土産にしてたんかも判らんね。
青龍寺?の恵果阿闍梨もビックリするぐらいのw
空海を見て
「待っておったぞよ」とかw
何を待っておったんや、しかしw
849 :
水銀厨:2013/02/25(月) 02:08:56.33
佐伯氏性ならやはりヘキ、ヒキ(日置、疋田)を辿るのに
ハマりましたが、まだ中途半端な事しかわからないですね。
まぁ鉱山に関係ある一族なのは確かだと思うのですか。
日を知る、ヒシリ=ヒジリ(聖)という転化を考えていたりします。
高野聖、日知り、ひじり、すか、、、
雲水は行雲流水の略やから土雲、出雲とかは関係なさそうやねw禅僧に充てる事が多いみたいやし。
佐伯は字源では
佐→助ける、スケ
伯→長、オサ
で、大和政権支持に立った先住民の土豪って感じも有りますね。
851 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 18:26:22.74
南西諸島にも「安房」って地名あるんやね。
今でも屋久島の安房港は鹿児島⇔南西諸島の航路の拠点らしい。
太平洋側に点在する阿波、安房はなんとも興味深いわ。
852 :
日本@名無史さん:2013/02/28(木) 18:21:34.86
「サ」は謙譲語(尊敬語)的な使い方じゃないの?
捧げるとか、酒の事もササとも言う。
853 :
日本@名無史さん:2013/03/01(金) 09:39:05.42
まあ四国、特に東側が女王国なのにはもう間違いない。
大体記紀にも伊予二名国だと書いてあるでしょ、
トヨ=イヨの国という事だ。
854 :
水銀厨:2013/03/01(金) 20:32:50.41
伊予といえば愛媛に山田井村なんて場所がありますね。
ここが実は土佐へ向かったり徳島の吉野川方面へ向かう要所なんですよ。
なのでこの辺りが玄関口に当たるのではないかと、
最近は推測したりしてます。
結論から言うと‥
◎ポイントは山田井村〜土佐山田村〜阿波の美馬地方だね。
もう色々怪しいポイントだらけだよ。
広島安芸から高知の安芸へのライン
秋津島なんてそのものでしょう。
倭人伝の記述からだと、この辺りの風俗を記してるのが
一番条件に当てはまるはずだね。
856 :
水銀厨:2013/03/02(土) 09:40:33.71
島の名、国に女性神の名があるのは四国瀬戸内側だけですから。
何故単純にそこが女王国だと考えないのでしょうかね?
具体的に讃岐辺りで祀られた女性がモモソ姫です。
卑弥呼か伊予の可能性は高いと言えるでしょう。
857 :
日本@名無史さん:2013/03/03(日) 09:18:21.34
まだまだ阿賛には注目しても良い場所はありますね。
四国東南部には小麦文化圏の人間が入り込んで来てるが、
これは日本の主流派ではないだろう
こないだ夢でみたんだけど、今は伊予じゃなくて、昔伊予と呼ばれて、
母なる山がある市町村、該当するところある?
広島から高知に抜けるようなルート沿い。
たぶんそこが邪馬台国
言ったからな。
860 :
水銀厨:2013/03/04(月) 20:48:52.78
四国に限らず山田の名が残ってる所は疑ってもいいですよね。
そこが邪馬台国でなくとも、何らかの縁があるという事で。
山田というと、また蘇我には色々縁のある名前でもあります。
861 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 20:51:12.52
四国最東端に伊島というのがある。伊の国の島か。
近くの島には古墳群がある。なぜ小さな島に古墳群が。
四国全体で伊予の二名島だから、もし正夢とすると四国すべてが当てはまるんじゃないかと。
安房とか蘇我とか山田って千葉の人間に馴染み深い地名だな
山田の地名ならどの県でもあるだろうな
田は中国北部では水田より畑という意味の方が強い
864 :
水銀厨:2013/03/04(月) 21:41:01.31
まぁ山田と言っても確かにありふれた名ですが、
問題は結構要所を押さえた場所に多いのが重要でしょう。
例えば愛媛の山田井村は宇摩郡ですが、
(これも色々考えさせてくれるような名前です)
現在でも四国の交通の要所にありますね。
河内や飛鳥の山田も歴史的には勿論重要な場所です。
邪馬台国は八街
866 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 22:25:15.08
旧宇摩郡って四国の真ん中あたりやな。
宇摩、、、、確かになんか感じさせよるなw
山岳のプロは尾根を伝って驚異的な移動力をみせるとか聞くなぁ。海人族といい、山祇族といい倭人て凄いなw
あの辺は国見歌を詠むにはピッタリな場所だよ。
歴史は詳しく無いけど面白そうなスレなんで覗きに来た!
ところでうどん県にズバリ粟島という島があるけど、ここは神話とは関係ない?
869 :
日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:15:20.16
テスト。
うどん県の讃岐富士こそ卑弥呼の墓だ。
前方後円墳は、讃岐富士にミニチュア。
卑弥呼の墓をモデルにしたのだ。
871 :
水銀厨:2013/03/09(土) 17:28:44.92
最近は山田井村にこだわってますが、面白い事に
四国は九州寄りがイヨ、阿波寄りがトヨの地名が多いんですよ。
まぁどうって事のない話ですが、中央を境に
イヨとトヨの地名が別れるのは何か惹かれます。
872 :
日本@名無史さん:2013/03/10(日) 00:24:49.50
>>852 遅レスごめん、見逃してた。
「さ」は、確かに神事に捧げる「榊」とか「審神者」とか、地名でも「相模原」とか畏敬みたいなんを表してイメージあるね。
土佐や宇佐も重要な土地なんだろう。
丹波篠山もおそらくね。
874 :
日本@名無史さん:2013/04/02(火) 22:21:37.42
河辺村の山鳥坂、をヤマトサカ。アンパンマンミュージアムの近くに、日の御子ヒノミコって地名があるよ。
高知の須崎に安房アワがあるよ。朝倉の鴨部の南に蘇我山って小丘がある。
875 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 08:19:46.95
記紀にはヤマトの音は人名にしかついていない。
ヤマトの古地名は畿内には残っていない。
天氏とは別に、ヤマト氏ってのがいて、
旧来の倭、和をヤマトと当て字して読ませることで、
記紀で併合しようとしてたんじゃないかと、
最近は考えている。
876 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 12:40:35.18
畿内にも古地名は沢山残ってるよ。
○○銀座なんて感覚なんだろうな
878 :
日本@名無史さん:2013/04/12(金) 13:17:02.96
うちの近所だけど、2mくらい掘ったら銅鐸でたらしく、それからも土器がザクザクでたらしいが。。。
発掘終わって今度は地中にうまったコンクリートを掘り出すために20m掘る工事をするらしい。。。
コンクリートが地下20mの深さまであったのに、2m掘って銅鐸発掘する現代の技術ってすごくね?
879 :
日本@名無史さん:2013/04/12(金) 13:57:33.92
厳密にいえば土器が出た場所とコンクリの場所はズレてるんでしょう
880 :
水銀厨:2013/04/13(土) 06:09:38.30
また淡路島震源地の地震きましたね。
881 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 08:40:28.74
今のところひどいことには、なっていないようなので、なにより。
小さいので小出しで開放してくれりゃいいんだけどな
怒りを溜め込んで爆発みたいなのはよして欲しい
邪馬台国は地震で滅亡した
884 :
日本@名無史さん:2013/04/16(火) 15:55:16.65
国産みの順序は、泥津波の地震があった順序の口伝では?
885 :
日本@名無史さん:2013/05/04(土) 01:50:38.46
国産み順はある程度ランダムだろうけど
最初の淡路島だけは絶対に意味があるだろうね
うどん屋で、ざるうどんと、きつねうどんと、お子様セット注文するとき
順番にはあんまり気使ってないよ
887 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 00:24:27.12
四国の不自然すぎる歴史上からの隠蔽っぷりは明らかに異常
剣山アーク伝説じゃないが何かしらの謎を秘めていることだけは疑いないでしょ
隠蔽なのか気がつかなかったのかわからないけど
昔はもっとずっと南の方にあったとか
889 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 02:27:56.99
逆にくっついてたりしてさ。
広島湾のとこに今治が入りそうだし、佐多岬が大分の湾のとこに綺麗に刺さりそうだし。
和歌山から御坊に掛けても、鳴門から阿南の沿岸部が合いそうな感じがする。
縮んだのかな
891 :
銀河 秋彩:2013/05/06(月) 15:25:24.25
「邪馬台国は四国徳島だった!」とアホが貫かしております。(嗤)
見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋【投馬国(とまや←逆さまから読む倒語)】の
秋【蘇我大王家】の夕暮【没落】 藤原定家
投馬国(とまや←)トカラ列島の宝島……邪馬臺(→ やまと)
3-
892 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 21:27:56.43
>>891 西行や寂蓮秋の夕暮も蘇我大王家の没落なのかい?
893 :
日本@名無史さん:2013/05/08(水) 22:47:44.31
>>892 このスレじゃ最早、倭人伝が書かれた時代だけでも徳島だけの範疇でも無くなって来てるけどね…
四国全域、対岸の吉備など瀬戸内海東部畿内、紀伊半島、遠く安房房総半島辺りまで徳島、淡路島を中心に展開してるんやけどね。
丹生始め旧石器まで遡る希少鉱石やら石器の技術、土木的職能集団?土蜘蛛や国栖なんかの先住民との関わり合い、土佐南国市の住居の大遺跡とか。
ちょっと停滞中やからwあんまり読まんと書き込みはったん違うんかな
>>891さん。
と、新しい情報を待ちつつageてみる。
一人が言ってるだけでしょう
895 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 20:19:46.95
何でもエエから、早ようゆるキャラ作って
阿波踊り空港の玄関で観光客を出迎えさせろや。
たとえば、猫顔の巫女ふうで「卑弥ニャン」とか
巫女姿でスゲ笠かぶった「卑弥っ子」とかな。
896 :
水銀厨:2013/05/22(水) 21:19:29.01
色々、興味深い話は集めてたんだけどね。
芝遺跡、司馬、志摩に島とまあ繋がりそうで。
まだ本業が忙しくて‥掘り下げて聞きたい話も多くて。
発掘もまた色々と。
水銀厨さん、それは楽しみですわw興味深い話、また教えてください。
シバ、シマかぁ…面白そうやね。待ってます。
898 :
水銀厨:2013/06/07(金) 18:04:43.41
シバ、シマという名にはもっと注目しないとね。
島は縄張りでもありますから。
佐賀、松浦半島周辺に暫く滞在してました。
また奈良桜井の芝に巻ノ内の年配の人、にも色々取材中。
古くからの婚礼に関する話は面白いね。
絶対○○地区との婚礼は認めないとかね(同和問題ではなく)
でも世代が変わって古くからの話を知る人が
かなり少なくなってきたのも実感します。
以前話を聞けた人が鬼籍に入ってしまったとか多くて残念。
和歌山で地震が多いな、そろそろ動くか。
>>水銀厨さん
>また奈良桜井の芝に巻ノ内の年配の人、にも色々取材中。
>古くからの婚礼に関する話は面白いね。
面白いね、婚姻以外のお祭りとか葬儀なんかの交流はどうなんやろ。
西宮は戎神社が有名やけど、近くの芝村ってとこと戎の関係が気になるんですわ。
気になると言うと、
阿波→安房とか
シバ、SHIBA→チバ、CHIBA、ヒバ、HIBAなんかも転訛したっぽいしね。
901 :
日本@名無史さん:2013/06/28(金) 07:44:29.91
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。(『万葉集註釈』卷第三)
伝承としてはっきり大和に別れたと記述してる点が興味深いね。
いろいろ調べてみたら邪馬台国は、徳島以外考えられなくなった。
出雲神話は、イツモ神話だったんだね。
因幡の白ウサギは、稲葉の素うさぎ
八岐大蛇は吉野川だったんだ。
吉野川の治水説
吉野川の洪水の原因となったたたら製鉄での森林伐採者を討った説
単なる神話でしょ
The Legend of Mount Kanlaonとか似た話はある
906 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 09:03:37.57
八岐の大蛇て、単純に八つの民族グループの話でいいと思ってたわ。
新来の素戔嗚尊含む複数の民族が覇権争いする話と違うの。
ないわー
908 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 20:15:09.06
結局女王国というのは四国の瀬戸内側の国々だな。
距離も方角の矛盾も少ない。
太平洋側の勢力が狗奴国なんだろう。
高知の日本最大規模の集落跡の人たちは何処行ったんだろうね。
銅矛もあんなに出てる高知はいったいどうなったんだろう。
邪馬台国を絡めなくても四国に興味深いことはたくさんある。
高知の勢力はそのまま河内へ行くでしょ、物部の本拠地でもあるし。
911 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 09:07:58.54
高知の集落は現時点では弥生期で日本最大級なんだよな。
今後発掘作業次第で、宮崎や高知は色々鍵になりそうな気がする。
>>910 高知の辺りは物部とか地名もあるし、定住ルート考えると面白い
高知上陸ルート
高知→大豊→白地→阿波・伊予・讃岐
高知→海部
高知⇔四万十
瀬戸内→松山ルート
瀬戸内島定住組
松山⇔今治(しまなみ周辺の陸で住んで海にも繋がりがあった連中)
松山→阿波
吉備岡山ルート
瀬戸内→岡山
瀬戸内→岡山⇔讃岐
出雲→岡山
阿波は四国定住ルートだと最後だよね、どうしても、淡路島の存在も鍵だなぁ
四国はまじで邪馬台国云々抜きに謎が多すぎる
竹田恒泰は古事記阿波説について何と発言してるの?
914 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 20:04:38.24
倭王賛や珍なんて、どうみても基盤は瀬戸内海周辺だろ。
どうみてるのか説明しろ
讃岐は佐奈岐、讃の基盤となる土地だからな。
珍も渦なら阿波周辺の人物だろう。
神武の先導役でもあり倭(ヤマト)の国造となる椎根津彦=珍彦
色々と鍵を握る人物には間違いないでしょ。
母が井光姫という事から、元々吉野にいた人物ともとれる。
国神扱いされてるが本来天神じゃないとおかしい人物だし。
>>918 別におかしくはない。水軍の要所、瀬戸内海は倭の本拠地だからな。
中でも讃岐はその中心だ。
920 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 19:14:26.47
讃岐という地名は倭王讃に由来する地名だったのか!
>>916 ふと思い出したんだが、谷川先生が言うには、「サナギ」「サナキ」というのは
銅鐸の別名で、銅鐸文化圏に特有の地名らしい(谷川健一「青銅の神の足跡」)。
いや、讃岐がどうだかは知らんけど。
そう考えると、イザナギも銅鐸の名を冠した神っぽい気もするけど、
あの人、矛で海をかき混ぜてるもんなw
モモソ姫も幼少期を讃岐で過ごすからな。
讃岐、阿波〜畿内は一体で考えないと。
讃岐、大和の二上山はサヌカイトの産地でもある。
記紀で銅鐸についての記述が無いのは、当時の人が
銅鐸の存在を知らないからだ、とよく言われるが、
あれは知らないのではなく知らないふりをしてるだけだろう。
本当に知らないのは後年半島からやってきた連中だけで。
と言うか、当時の人々にとっては黒歴史だったのかな?
やはり四国民というか
南方(中国南部系・ポリネシア系)から来た連中が当時は日本で一番勢力大きかったんじゃ
(与那国→琉球→鹿児島→宮崎)⇒(高知)⇒(阿波・安房)
太平洋側は半島経由とは絶対ちがうっしょ。
丹後やら群馬・青森やらの人間はどっから湧いて出てきたんだろうか
926 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:59:08.13
海人はガンガン遠征してたんだろう
928 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:31:06.56
>ないわー
とか言われたけど‥頻繁に流入する海人族の事を考えたら、
古来の先住民部族がヤマタノオロチと隠喩されたとして出雲族の租?新来の素戔嗚尊一族と紛争になんのも充分あり得るやんか。
河川の治水よりそっちのがしっくり来ると思うわ。
天叢雲剣が青銅剣か鉄剣か知らんけど、ヤマタノオロチの尻尾から出て来たと言う伝承が暗示すんのは、青銅か製鉄技術を持ってたのが八つの部族の中で最強部族やったとか。
ヤマタノオロチ伝承は河川氾濫話を含んでるのは否定出来ないよ。
930 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 11:52:24.59
河川氾濫の話も否定してる訳と違うんやけどね。
931 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 12:11:53.32
ヤマタノオロチ=八つの部族が中二っぽい
まぁ伝承なんてのは色々組み合わされて伝わってゆきだろうからな。
ヤマタノオロチは出雲の伝承といいながら、
出雲風土記に載って無いのも変だよね。
徳島市の南部に大和(ヤマト)姓が密集している地域があるんだけど、大和国との関係はどう説明されてるのか知ってる人いる?
体感では人口あたりの大和率がかなり高いと思うんだが>徳島
その町は「石を投げたら猫か大和(ヤマト)に当たる」と言われてるらしい。
934 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 21:45:00.64
苗字ランキングサイトで調べると、多い苗字の上位200位までに大和が入っているのは徳島県だけだな。
驚いたのは徳島県小松島市は大和性が第六位にランキングされてること。
異常な大和ゾーンだな小松島w
徳島に大和っていう大字なり小字なりの地名はないの?
徳島に限らす四国なんて畿内の地名だらけだし。
937 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:38:39.19
畿内周辺にヤマトの古地名が存在しないことから見て、
ルーツは人名のヤマト氏かもしれない。
ヤマトトヒモモソヒメのように。
椎根津彦(ウズヒコ)が倭国造になる訳だからね。
大和に入植者として入ったのは実質瀬戸内東側の人物だろう。
鳴門の珍彦
「石を投げたら猫か大和(ヤマト)に当たる」と言われてるのは徳島市の津田のことだな。
日峯大神子広域公園の北にある。
津田町の北に徳島市大和町が有るが、大和姓が多いのかどうかは知らない。
日峯大神子広域公園の南が小松島市だが、徳島市より突出した大和密集地域だとは知らなかった。
日峯大神子を囲む徳島市南部〜小松島市辺りに日本一高密度なヤマトゾーンがありそうだな。
>>936 由来が証明されていたらの話だよ。
由来や地形的に共通のものがあれば、まず被る。
たとえば川内や河内とかだと全国にある。まず川が全国にあるしな。
個人的に津田は新田姓が多いイメージ。
たしかに小松島で大和さんはよく聞く。
阿南市で湯浅さんが多いけど、ちょうど対岸の湯浅から渡ってきた子孫だと言われてるが、
大和さんも戦国〜江戸時代にかけて奈良とかから渡ってきたのかもしれないし。
承久の乱以降、新補地頭と共に移住してきたケースも多いと聞く。
>>942 >大和さんも戦国〜江戸時代にかけて奈良とかから渡ってきたのかもしれないし。
徳島の大和さんは奈良の10倍くらい居るからそれは無いと思う。
>>941 九州説の根拠で地名相似説なんて言ってた大先生がいたが、
あれこそ何の根拠もなかったな。
946 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 12:09:24.51
>>932 そうなん…。
出雲国風土記に無いて出雲の話と違うやんな。
簡単に言ってしまうと椎根津彦(ウズヒコ)が
倭国王だったんだろう。
そうなると、ペアと言ってもよいウズメが実は?
948 :
水銀厨:2013/07/20(土) 10:09:12.80
阿波の重要性に気付いてる人が増えてきた気がしますね。
記紀や最近の遺跡、出土物の傾向を見る限り、大和朝廷の礎となるのは、
元々阿波や吉備辺りの人々であるというのは否定出来ない気がします。
まあ阿波(粟)なんて元々海人(アマ)の国が語源でしょう?
確か阿波風土記にもそいういう記述があったはずです。
この時点で倭人伝に書かれた倭国というのは、この辺りを
指していると考えるのは、まあ妥当な事だと思います。
水銀厨としては、粟=団粟(たんぞく)という、粒の揃った
辰砂(水銀朱)が採取出来る国という説も考えてはいますが。
949 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 15:56:35.47
阿波の語源は、インドネシア語などのオーストロネシア語族で天を表すAwangでしょ!
村山七郎曰く、天(あま)の語源がAwangらしいけど、どう考えても阿波のほうが近い。
アマ=海人=天=尼
もう女王の国は答え出てるよね?
問題は誰が卑弥呼なのかという点だな。
阿波(天)の国。阿波(天)に至る路、阿波路島か。
>>952 見てすぐn数が足りないことを思わせる分布
何十年も昔の昭和の調査は殆どn数も少なすぎてあれですよ
>>950 こいつの訳の分からない断定調はなんなんだ
956 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 19:30:58.22
>>955 これだけ状況証拠が揃って断言出来ないのもどうかと思ってね。
国生みではっきり女性神の国と認めてるでしょ。
四国の瀬戸内側の国は。
女神を祭る男王がいたっていいじゃない
ありふれた話だ
958 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 00:16:20.15
徳島県は瀬戸内側とは言い難いけどな。
四国の真ん中?山深い三好郡辺りにはアイヌみたいに黒眼の色素が薄くて青っぽい目の人たちがいてるとか何かで読んだ事あるわ。
土蜘蛛の子孫たちかも。
男の顔は履歴書 県民の顔は氏系図
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47429380.html 剣山に向かうルートの一つを車で走っていたとき、あれは何月だったかなぁ?
季節外れで「え?」と思うような月に、神輿を担ぐ地元の集団に会いました。
小さな神輿を担ぐ数人と、その前後を歩く全部で20人くらいの人たちです。
彼らを見てどきっとしました。
忘れもしません。そのとき、その集団の全員が外国人に見えました。
かつ、全員が親族のように見えました。
つまり、みな同じ“系統”の見慣れない顔立ちだったのです。
テレビなどで旅のドキュメント番組などを見ていると、モンゴルや中国大陸の少数民族が紹介されることがあり、
その顔立ちに「中国人やモンゴル人や朝鮮人とは明らかに違う。
むしろ日本人に似ているが微妙にどこかが違う」というような感想を持つことがあります。
そんな感じですね。
それで「山間部の狭い空間に作られた村で、何十代何百年と生きてくれば全員混血して親戚になるだろうし、
血統の濃さが保たれて外見的な特徴もはっきり残るんだろうな」と思ったことでした。
それはたとえば、天皇家の人々を見てもそうだし、沖縄県人を見てもそうです。
顔には一人一人個性があるのに、見ると(ああ、天皇家の顔だなあ)とか(どう見ても沖縄の人間だなぁ)とかいうことが分かる、
というような現実があることに誰でも思い当たると思います。
つまり長い歴史の中で、意図的に血統を保とうとしたり、限定的な生活空間で子孫をつくっていけば、
外見的特徴が生まれ、保たれていくのです。
天皇家の顔って特徴あるか?
今上の家系と三笠宮の家系でぜんぜん違う顔立ちに見える
961 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 00:34:52.22
>>959 そのサイトで邪馬台国で検索したら徳島関連の記事がいっぱいでてきた
次スレいるの?
いらない
いや、邪馬台国云々以外でも四国は面白い事ばかりだし
出てきてないものも沢山あるから次スレはいるよ
このスレの存在が邪魔な人間がいるんだろ
自分のとこが邪馬台国だと信じるあまり他を攻撃する郷土極右と化している人間がいるw
畿内九州に注視しすぎる流れに一石を投じるこのスレの次スレは必要
ネット上で暴れまわる郷土大好き人間もネトウヨなんかなw
畿内説を語るなら必然的に阿波周辺もセットだよ。
奈良だけに七万戸を入れるなんて馬鹿げた話だ。
970 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 10:31:47.82
東って「吾妻」「吾の妻」なんやろ。
それに倣って阿波は私の妻「吾倭」やと思うんやけどなあ。
>>961、知り合いの青森県恐山出身のアイヌ女性は薄い青が混じったようなグレーの瞳の美白美人で巨乳。その美人は
「アイヌに、こんな目の人いるんだよね、妹は黒いけど」つってたわ。
アイヌ白人説の名残
可能性を検討するってことなら興味持って読めるが
訳の分からん確信だけ宣言するだけのスレなら価値がない
まったくだ
974 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 20:02:13.10
と、価値ある御意見ふたつ頂きました。でも、四国、瀬戸内海、淡路島辺りにはロマンありますわ。
歴史にロマンを持ち込むな
976 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 21:52:38.78
はーい
977 :
日本@名無史さん:2013/07/22(月) 09:15:03.03
ロマンを求めるのは大事だよ。
が、余りに求めると暴走してしまうのでほどほどに。
978 :
日本@名無史さん:2013/07/22(月) 18:33:50.23
倭国造となる椎根津彦が鍵なのには間違いない。
徳島に大和姓が多いのも気になるね。
徳島市津田に猫が多いことのほうが気になる
まったくだ
邪馬台国は徳島だったのか!
乙です
984 :
日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:50:23.06
お疲れさまっノシ
死国
淡路國風土記
応神天皇が淡路島で狩をしたときに鹿が泳いできたが、これは実は人だった。その人は自分は日向諸県の君牛と名乗り、角のある鹿の皮を着ていた。
自分は年老いて仕えることが出来ないが、娘の髪長姫を献上したいと申し出た。
それでこの港を鹿子の港と言うようになった。
家島諸島の男鹿島、播磨の妻鹿と関係ありそうな話だな
988 :
日本@名無史さん:2013/07/24(水) 21:29:34.52
鹿は列島でも古代から食肉、皮革製品、角は釣り針からいろんな道具類に加工され滋養強壮の薬として…てな感じかな。
またまた、日向て丹生神社かな。
おのころ島=お(男)のか(鹿)の島 なんてのは無理があるか(-_-;)
自ずと転がる島なんで地球でしょ。
991 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) 10:56:05.77
虚見都山跡乃國は廃墟
992 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) 19:53:39.80
「飛ぶ鳥のアスカ」「春の日のカスガ」といった古地名の所謂「枕詞」は、プロト日本語時代に定着した地名が、語彙範囲の変遷によって日常語彙では意味が分からなくなった結果、確立期日本語の日常語彙によって解説しなおされた言葉とすると、
虚の上古音はxĭa
シャミツ→ヤミツ→ヤマト
993 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) 22:13:53.12
枕詞に関する解訳に始めて同感した。
「ヤマト」を記述するのにわざわざ虚とか跡の漢字を使用したのか
すなわち、そのとき既に都は消滅していたからに外ならないと見ることが出来る。
その消滅した都は現在どの様な漢字で「ヤマト」と表わされているのだろうかが
知りたいところだ。
枕詞といえば、
さざなみの近江
つぎのう山背
あをによし奈良
どう説明する?
あわわ
996 :
日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:33:40.90
次々と水が湧き出るので川のようだ :近江
山と山の間の沼地に次々と泥を流し込み造成した土地:山背
この土地に蕎麦をいつも植えるので春先には雪が積ったように見える香具山
池に土をふんだんに投入して造成した「わんど」和田:奈良
997 :
日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:18:13.72
そういえば、平城京って、30年くらい使ったあとで、他の都に移り、
再び戻ってきては、また三十年くらい使うってことをやってて、
用水の不足と、廃棄物の増大で放棄されたと言われている。
時間がたって、廃棄物が土に戻った所でまた利用したのかな?
旧奈良湖の湖底みたいなところなんで、排水が悪かったのかね?
ume
999 :
日本@名無史さん:2013/07/27(土) 18:09:40.51
梅太郎。
1000 :
日本@名無史さん:2013/07/27(土) 18:27:16.01
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。