1 :
日本@名無史さん :
2011/06/19(日) 17:17:07.86 立ちました
2 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 17:22:15.62
3 :
日本@名無史さん :2011/06/19(日) 17:32:37.85
225 :日本@名無史さん:2011/06/19(日) 16:55:42.95 ヤマタイの「マタイ」って「もたい(水や酒を入れる器)」のことだという説ある? なければ俺が最初だ。それじゃ「ヤ」ってなんだと言われると困るが。 土器製造所遺跡の近くに「馬渡」という地名が目立つ。 九州北部の苗字に「馬渡(もーたい)」もある。
4 :
サガミハラハラ :2011/06/20(月) 08:15:32.45
邪馬台国九州説の中には、南部九州説をとなえる方がおられますが、これがなりたつにはつぎの課題を 克服しなければなりません。 九州の中央部大分県中部から熊本県中央部にかけて、高地性集落が帯状につらなっています。 これは、この線を境に南と北で武力衝突が繰り返されていたことをあらわしています。 つまり、この線の北と南とでは仲が悪かったということです。 ということは、北には伊都国があります。邪馬台国と伊都国とは仲がよかったのですから、 邪馬台国がこの線の南にあるという説は成り立たないということのなります。
5 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 08:48:12.89
大分県から宮崎県が熊襲のいる地域みたいなので、 そのあたりが最前線だったのでしょうか。 晩期の卑弥呼が先頭に立ち(とは限らないが) 亡くなるほどの戦闘ですから、卑弥呼のいた場所から 比較的近い場所だったのかもしれません そんな年寄りが遠路はるばる遠い場所の 戦線にでるのはむずかしいでしょうから。 だいたい滅多に人前に出ないはずですし
6 :
サガミハラハラ :2011/06/20(月) 10:20:54.00
九州の高地性集落の分布図を東アジアの誇大文化を考える会のHPの討論室にあげておきました。 西都原古墳群の項の最後に入れました。
7 :
サガミハラハラ :2011/06/20(月) 13:27:23.42
上記の誇大文化の誇大は古代の変換間違いでした。 なにか誇大妄想ならぬ古代妄想みたいになってしまいました。
8 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 13:29:11.36
熊襲は景行天皇の征伐が有名で、その後も仲哀天皇や神功皇后のときにも征伐が登場する。 しかし、最終的に大和朝廷の軍門に下ったかどうかは不明。 となると、後の隼人に繋がると考えてもよさそうな気がする。 隼人ならば、大和朝廷の完全な支配下に入るのは8世紀に入ってから。 そうなると、古墳文化に属さない独自の文化を持っていたと考えられる。 だから、西都原など九州屈指の古墳文化が花開いた宮崎平野、同じく肝属平野は熊襲とは考えにくい。 人吉・球磨地方も文化的に熊襲とは異なる。 これらの地域よりも南西側あるいは南側が熊襲と思う。 古墳時代よりも前は、熊襲の勢力圏だった可能性はあるが。
9 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 21:16:30.11
>>4 >邪馬台国と伊都国とは仲がよかったのですから、邪馬台国がこの線の南にあるという説
>は成り立たないということのなります。
南と北とが戦って南が実質的には勝利したんだよ。だから、北に一大率を置き、厳しく検
察しているんだ。邪馬台国と伊都国が最初から仲が良かったら、そんな厳しい検察をする
はずがないさ。倭人伝の伝える時代が、倭国の乱が一応は終息し、戦った国と国とが表面
的には共存関係にあることを忘れた主張だね。
10 :
日本@名無史さん :2011/06/20(月) 22:22:08.40
サガミハラハラさんは宇佐神宮弐の御殿に祀られている 「姫大神」は誰だと思われますか?
11 :
sss :2011/06/21(火) 00:34:13.78
>>10 横レスだけど、比賣大神は宗像の三女神。卑弥呼という人もいるが…。
面白いことに、神武天皇が東征のときに立ち寄った宇佐、筑紫の岡水門、安芸には
それぞれ有名な神社、宇佐神宮、宗像大社、厳島神社があり、全てに宗像の三女神が祀られている。
なので、宗像の三女神は航海の神様とも言われる。
12 :
筑紫の民 :2011/06/21(火) 06:21:11.40
おはようございます。 私も横レスします。 宇佐神宮はたしか、飯塚市の大分神社を分祀されたと聞きます。 また、福岡の箱崎宮は飯塚市の大分神社を遷座したものだそうです。 いづれも神功皇后と応神天皇が関係しています。 そして、宇佐神宮は比売大神、箱崎宮は玉依姫命が祀られています。 玉依姫命は、トヨタマヒメノ妹で後に神武天皇をお産みになりました。 比売大神は、不明ということですが、神代の玉依姫命と関連するのでは と思います。
13 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 08:34:51.69
東征後、日向の人たちは移住の際、宇佐から山口に渡ったと考えます。 宇佐神宮は海北の道中主とされています。 筑紫平野の人たちも、日田を経て宇佐から海を渡ったかもしれません。
14 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 08:51:17.65
宇佐神宮のあたりは、海の視点で見ると 瀬戸内海や関門海峡を越えるための 準備をして一息つける場所だからね。 九州東部の航海の拠点でしょうね。
15 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 10:51:52.27
周防灘は字では難所であるが、海峡部より海が広いため海流が遅い。 また宇佐から山口は真北に当たるため方向を取りやすい。 50km位の距離だから古代の人も1日で渡れたのではないだろうか。
16 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 11:08:48.35
灘(なだ)は広々と広がる海の意味 「難」に意味はない。音を借りているだけ。 潮(しお)に「朝」の意味がないのと同じ。
畿内説の生ゴミジョーカーと九州説の生ゴミ遺作だけは来ませんように。
18 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 11:49:37.08
>50km位の距離だから古代の人も1日で渡れたのではないだろうか。 その通り、1日で渡れる距離 50kmは約700里 古代舟の移動距離は1日に1000里 @ 帯方郡〜狗邪韓國 7000里:舟で7日 A 狗邪韓國〜對海國 1000里:舟で1日 B 對海國〜一大國 1000里:舟で1日 C 一大國〜末盧國 1000里:舟で1日 D 女王國東渡海〜復有國皆倭種 1000里:舟で1日 帯方郡〜邪馬壹國 水行10日陸行1月:@+A+B+C+1000里 陸行1月=1000里 海行1月=1000里 1月行=1000里 帯方郡〜投馬國 水行20日:@+A+B+C+水行10日 =7000里+1000里+1000里+1000里+10000里 =20000里
>16 九州説のぼんくら(遺作)と同じ説。 むろんデタラメだ。
20 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/21(火) 17:23:25.61
to 伊作さん
質問が2つあります。できればお返事をお願いします。
質問1.
>灘(なだ)は広々と広がる海の意味
>「難」に意味はない。音を借りているだけ。
>潮(しお)に「朝」の意味がないのと同じ。
に対して、
>>19 は、「九州説のぼんくら(遺作)と同じ説。」
と書いてますが、その通りでしょうか?
質問2.
住吉神社の前に広がる海は、○○灘である。
上記についてはどの様に見ていますか?
21 :
Ref. :2011/06/21(火) 18:14:23.13
>>20 >
>>19 は、「九州説のぼんくら(遺作)と同じ説。」
>と書いてますが、その通りでしょうか?
>>19 の引用の間違いだろう。つまり、>16は
>>18 の間違いだろう。
22 :
伊作先生 :2011/06/21(火) 18:36:18.41
>>20 俺は灘について言及したことはない。
「九州説のぼんくら(遺作)と同じ説」というのは、
18の「古代舟の移動距離は1日に1000里」というのを指していると思う。
82でもここでも他の板でも、
「1航海1000里」「1日航海1000里」を明確に提唱したのは、
この俺が最初だと思う。だとすれば、
厳密には「伊作と同じ説」でなく、「伊作の説」が正しい。
せかくだからWiki見て要点を抜粋。
灘は、沖合の中で波が荒く、潮流が速い所を指す。
さんずいに難という字の如く、古くから航海が困難な場所とされ、
そのため沿岸には避難港が発達している。
黒潮(日本海流)が流れる太平洋側に多灘が太平洋側に多いのは
主に黒潮(日本海流)の影響である。
相模灘、遠州灘、熊野灘、日向灘はこれらに該当する。
一方、日本海に面する玄界灘や響灘は対馬海流の影響である
瀬戸内海や豊後水道にも灘が多く分布する。
これは、陸地の沖合で島が少ない地域を指すことがあるためである。
>住吉神社の前に広がる海は、○○灘である。
灘の原義から察するに、そうと一元的にはいえないものがある。
それほどに灘のつく海域は多いようだし。
23 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 19:16:18.68
鹿島灘以北の太平洋側には灘がないとwikiで特筆していた。 灘の名付けには、海流、地形のほか歴史・文化的な影響があるのだろうか。 説をお持ちの方は投稿してください。
24 :
サガミハラハラ :2011/06/21(火) 19:17:19.22
>>10 ヒメオオカミですから、女の神様という意味で、なんという呼称なのかは不明です。
宗像三女神の可能性が一番高いでしょう。卑弥呼であることはありません。もっと古い時代です。
25 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/21(火) 20:28:06.17
>>22 見解も書いてくれてありがとう。
>「1航海1000里」「1日航海1000里」を明確に提唱したのは、この俺が最初だと思う。
誰が最初なのかはわかりませんが、私は3〜4年前から下記の仮説を持っていました。
初めて書いたのはどこだったのかは忘れましたが。
陸行一月=1000里
海行一月=1000里
一月行=1000里
水行一日=1000里
伊都国((オオ)イトゥ=大分)、投馬国(=高松)、邪馬台国(=奈良)、共通項は猫塚、つまり巫女の塚
27 :
伊作先生 :2011/06/21(火) 22:02:55.07
>>25 >陸行一月=1000里
>一月行=1000里
天才は、こういことはいわない。
「1航海1000里」「1日航海1000里」は論拠があるが、
「陸行一月=1000里」「一月行=1000里」は論拠がない。
28 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 22:38:27.61
どっちも根拠がないよ。
29 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 22:41:00.66
>>27 里を使わずに日数を書いてある事自体、
あまり正確ではないことは間違いないでしょうが、
一月行が1mでも、1万キロでもOKということにはならないはずです。
一月行と聞いて、だいたいこれくらいだな、
という距離はあったはずだと思います。
周髀算經での短里千里=77km前後
隋書による三月行と実測距離より一月行=約80km
公里千里=435km=一月行として、
一日あたり14.5km=一般的な旅程距離
短里/公里=77/435=1/5.65 ≒ 1/5〜1/6
これより一月行を短里千里と等距離と判断しました。
ただし、陸行、水行、海行が同じという前提ですが、
これは必ずしも同じという確証は得られていません。
30 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 22:55:50.38
水行二十日や水行十日陸行一月を距離に換算するのは無意味ではないか。 若し、1日航海=1000里という換算則があったのであれば、郡から末盧国までの行程距離が全て里数で示されて いるのはおかしくないか?同じ表現の繰り返しを避けるために里数と日数をうまく塩梅して使うんじゃないか?
31 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/21(火) 23:01:59.65
>>29 そうですね。
隋書記事を付けたすと、
@「南海行三月」から約80m/里
A「(国境)南北三月行」から約80m/里
B「国境東西五月行」から約80m/里
C「西行三日至狛國」から約1000里/水行1日=80km/千里=80m/里
32 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 23:03:24.94
一航海千里はともかく、一日航海=千里は、根拠があるのか疑問です。 実際には対馬海峡は潮が早く、一日で通りすぎないと危険な場所ではあるでしょうけど。 また、一月行の根拠として、九州島、南北三月行、東西五月行、もあります。 東西南北が逆になっているのは理解に苦しみますが、 東西南北が逆になっていれば、一月行はほぼ80km そのまま解釈しても、一月行は最低50km,最高100kmの範囲内 であることの根拠にはなります。
つーか、隋書を九州島にしてる時点で論証は破綻してる。
34 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/21(火) 23:32:11.58
>>32 東西と南北を今と逆に読むのが正しい読み方です。
「國境(長)東西五月行 (國境長)南北三月行 各至於海」
百濟伝の[身冉]牟羅國(済州島)も現在と逆にして読まなければなりません。
「有[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里」
35 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/21(火) 23:38:50.68
>>33 イ妥國の範囲
東西:五島〜九州東海岸
南北:対馬島〜薩摩南岸
隋書によると、屋久島がイ妥國であるとの認識はありません。
36 :
日本@名無史さん :2011/06/21(火) 23:48:11.04
>>34 ありがとうございます。
縦横の国境線を意味するので、東西と南北は逆で読んでいいということですね。
百済-済州島間ではまともに距離が出ているのに、
島の記述だけ、東西が逆なのは不可解でした。
また、一日と一月行、
一日、は実際に掛かった日にち、
一月行は決まった距離、という解釈ではどうでしょうかね。
一日千里なら、80km,
水行二十日なら、1600kmで、またとんでもないところに行っちゃいます。
畿内方向に向けても、通りすぎて北海道ですね。
37 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 00:13:58.32
>東西と南北を今と逆に読むのが正しい読み方です。 普通に読んでいいんだよ。済州島だって普通に読んでいいんだ。
38 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 00:19:00.83
「ポチ才器場=筑紫の民」と分ったので 今後この馬鹿とはこのスレでやりあうことにする。 まあ本人も一つのスレにまとめた方が楽だろうしw >749 名前: 筑紫の民 投稿日: 2011/06/22(水) 00:06:50.14 >ジョーカーの仕事教えてくれたら >伊作先生の邪馬台国の場所教えてやるよ。 >それよりもあまり夜遅くまでカキコしていると >仕事に影響するよ。また明日ね、お休み ポチの分際で条件つけるなクズ。 つうかそう言う馴れ合い好まないので(故に基本名無しでやっている)断る。
39 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 00:58:08.67
能書きはいいからさっさと金印でも見つけてこいw 物的証拠がないならただのオタの妄想で終了だぞ。
41 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 01:39:40.73
>>34 よく嫁。
イ妥國伝では[身冉]羅國、百済伝では[身冉]牟羅國。
済州島まで六ヶ月もかかるかよ。
酒が強かったらしいから南九州だろうね邪馬台国
44 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 04:42:33.08
九州にあったのは邪馬壱国だろ
45 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 07:18:10.19
伊都国は、末盧国から東南五百里だ。その伊都国を佐賀市付近に比定すれば、倭人伝 どおり、水行十日で熊本に上陸、陸行一月で宮崎だ。 その宮崎は、3世紀後半から九州随一の古墳文化を花開かせ、古墳時代を通じて繁栄 を続けている。邪馬台国があった何よりの証拠だろう。
46 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 10:44:50.08
熊本に5万戸、宮崎に7万戸もあったわけないでしょw 3世紀に九州にどんだけ人口がいたんだって話ww
47 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 11:50:33.37
>>27 :
>「1航海1000里」「1日航海1000里」は論拠があるが、
確か、一日千里の古代船を建造したが、
『南斉書』祖沖之伝に、「又造千里船於新亭江試之、日行百余里」だ、
一日百里しか行かなかった 、、、、、て。
日に千里行く船は存在しない。。。と、いうこと。
>「陸行一月=1000里」「一月行=1000里」は論拠がない。
「投馬國水行二十日」と「邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月」
から、
「二十日」が五百里、「十日と一月」が千里
の、論証は可能であろう。
48 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 12:07:21.70
>>34 >>32 >東西と南北を今と逆に読むのが正しい読み方です。
日本列島最南端の与那国島を支点として日本列島を時計方向に90度回転させると、
日本列島の東西南北はほぼ180度反転する。
過去の歴史を潜って見ると、
紀元前3000年頃から紀元前2500年頃においてのシュメール文字は反時計方向に90度反転させた史実がある。
反転させるに至った根底には歳差理論が存在したからである。
49 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 12:09:58.97
90度回転させると、180度反転する? 意味わからん。
50 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/22(水) 12:18:05.47
>>41 よく嫁。
イ妥國伝では[身冉]羅國、百済伝では[身冉]牟羅國。
済州島まで海を南に「三月行」だよ。
海行三月=三月行 「○月行」は海上の舟による距離単位。時間を意味するものではない。
「其南海行三月 有[身冉]牟羅國」百濟傳
「行至竹島 南望[身冉]羅國」俀國傳
竹島は珍島。
[身冉]牟羅國[tammura]と[身冉]羅國[tamra]は、ほぼ同じ発音。
耽羅國[tamra]とも表現される。
執筆者が異なることから生じた異差。
51 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/22(水) 12:37:46.23
>>36 >一日千里なら、80km,
>水行二十日なら、1600kmで、またとんでもないところに行っちゃいます。
そんな事ありません。
帯方郡⇔狗邪韓國 7000里=水行7日
狗邪韓國⇔對海國 1000里=水行1日
對海國⇔一大國 1000里=水行1日
一大國⇔末盧國 1000里=水行1日
小計
帯方郡⇔末盧國 10000里=水行10日
末盧國⇔平戸⇔佐世保⇔瀬戸(西海市)⇔角力灘⇔野母崎
⇔天草灘⇔島原湾⇔有明海⇔投馬國(大川)
水行10日(10000里)と倭人からの伝聞により不正確な推定がされた。
(隋使のルートとほぼ同じです。)
合計
帯方郡⇔投馬國 水行20日
52 :
伊作先生 :2011/06/22(水) 13:16:03.55
>>47 >『南斉書』祖沖之伝に、「又造千里船於新亭江試之、日行百余里」だ、
正攻法を貫く天才のサイトから。
南斉の科学者・祖沖之は、1日に1000里進むという船をつくって、新亭江に浮かべて実験をした。
その結果は1日に100余里しか進まなかったというのである。
ここでいう新亭江がどこかは定かではないが、その名からみておそらく河川か入り江だろう。
海路でいうアバウトな千里を、河川に船を浮かべて試したのだとすれば、
航行速度も航行距離も比較にはならなかったろう。
また、河川距離は陸地に沿って計測できる。ある程度は正確に把握できるから、
極めて現実的な数値が出たというところか。
千里船とはいっても、実際に船が1日に1000里進むというのではない。
早いことの「たとえ」にすぎないのである。
つまり海路距離の場合は、日数で表記するか千里単位で表記するしか方法がなかった。
『倭人伝』の場合は、1日航海分を1000里単位で表記している。
このことを一大国と末盧国、
それぞれ明らかに異なる海路距離を一律1000余里としていることで告げている。
事例を出すならフェアに考察してフェアに定時することだ。
こそ泥根性もいい加減にせい。
53 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 15:49:49.40
>>52 >つまり海路距離の場合は、日数で表記するか千里単位で表記するしか方法がなかった。
そんな事はないよ。
倭人伝の方位記述から、
緯度計測があったことは明確でしょう。
日本列島で千里=432kmにピッタンコ重なる場所は、
緯度29度58分29秒の会稽、その東の口之島北緯29度58分00秒
と
北緯26度04分28秒の福州市(会稽東治)、その東の糸満市(北緯26度07分25秒)。
糸満市を支点に半径432km(千里)の円を描くと
方位・北の半径432kmの位置のほぼ緯度上に口之島がある。
54 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 15:53:14.89
>>52 続
福州市は 「秦の征服後、秦の支配下にあった閔越国は、
漢代になってから、漢の服属化で、前202年から110年までの間独立を
維持していた。この時代、現在の福建省省都である福州に都があったとされている。
前110年、漢に征服されて、会稽郡の東治県となり、治所が置かれた」
ですから此処が、
会稽東治です。
「会稽之東」である口之島と「会稽東治之東」である沖縄糸満市の緯度差はほぼ432km=千里
にあたる。
55 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 15:53:53.07
>事例を出すならフェアに考察してフェアに定時することだ。 >こそ泥根性もいい加減にせい。 何をねぼけたことをいてるの 陸路と海路の距離尺度の南斉の科学者・祖沖之は、1日に1000里進むという船をつくって、新亭江に浮かべて実験をした。という記述は2011-01-04のことかよ。 某掲示板のふうらいぼうは自称てんさいか? で 新亭江は現在の南京市西南だと といわれていることも、知って能書きをこいているのか? 祖冲之をchina.com.cn を調べりゃ解ることだ。
56 :
伊作先生 :2011/06/22(水) 15:56:30.32
>>53 歴代の歴史書が海路距離については千万単位、
あるいは年月日で書いている事実をどうする。
厳密に測った結果が、偶然にもすべて
千万単位・日月単位になったとでもいうのか。
いったい、どこまで深く検証してほざいてるんだ・この野郎。
57 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 16:04:34.24
58 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 16:18:20.95
あほ〜〜〜! 何処から何処までの距離が知りたいのだ! 「扶桑在大漢國東二萬餘里」 か? 「扶桑」は植物で「地在中國之東」は「「扶桑國」のこと。 >あるいは年月日で書いている事実をどうする。 二十日を五百里で積算すれば全てOKだ。 この野郎 解ったか?
59 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 16:19:31.13
>>52 天才伊作は千里馬という言葉を知らんらしい
60 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 16:22:15.66
>>49 >90度回転させると、180度反転する?
>味わからん。
大変失礼しました。
↓の如くです。
C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\Resized
61 :
伊作先生 :2011/06/22(水) 16:42:51.04
>>55 >新亭江は現在の南京市西南だと といわれている……
しらねーな。
でー? 南京市の西南でどこだ。
俺の推測通り入り江か河川か河口か。
そこまできちんと書いてからほざけ。タコ
>>58 血迷うなはなたれ。
ぼんくらどもが「ああでもない・こうでもない」と
空想・妄想でバカづら計算議論してるところへ、
明確な回答をだしてやったのだ。くだらん距離談義はこれでおわる。
>>59 お前たち、レベル低いうえに時代遅れもはなはだしい。
こんな所で千里馬を知ってるだの知らんだのちは拙劣な。
千里眼も千里馬も千里船も実態とかけ離れた言葉でしかない。
それがどうした? 腐れタコ。
62 :
伊作先生 :2011/06/22(水) 16:52:59.43
>>55 >新亭江は現在の南京市西南
南京の西南には、少なくとも海はないな。新亭江てのは河川か湖か。
いずれにしても俺の推測通りだな。わらわら
お角違いの食らいつきは迷惑というものだ。
63 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 16:53:13.47
64 :
伊作先生 :2011/06/22(水) 16:57:28.47
>>52 を再掲する。
>>47 >『南斉書』祖沖之伝に、「又造千里船於新亭江試之、日行百余里」だ、
正攻法を貫く天才のサイトから。
南斉の科学者・祖沖之は、1日に1000里進むという船をつくって、新亭江に浮かべて実験をした。
その結果は1日に100余里しか進まなかったというのである。
ここでいう新亭江がどこかは定かではないが、その名からみておそらく河川か入り江だろう。
海路でいうアバウトな千里を、河川に船を浮かべて試したのだとすれば、
航行速度も航行距離も比較にはならなかったろう。
また、河川距離は陸地に沿って計測できる。ある程度は正確に把握できるから、
極めて現実的な数値が出たというところか。
千里船とはいっても、実際に船が1日に1000里進むというのではない。
早いことの「たとえ」にすぎないのである。
ほれほれ。こそ泥根性。
これがフェアな考察によるフェアな提示だ。見習え。
65 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 16:58:21.03
日本列島90度反転比較地図 C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\Resized は C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\縮小専用板\90度反転.jpg に 訂正。
66 :
伊作先生 :2011/06/22(水) 17:02:11.57
>>63 ]
だから・南京西南に海はなかろう。
千里船とう奴を、河川か湖で実験した。
それじゃ極めて現実的な距離しか出まい。
しかも、この実験結果は海路航行距離についてはなーんの関係もない。
こんなのをきちんと詰めることなく海路距離を考える談義に持ち出すのを
アンフェアな「くらまし手法」だというのだ。
俺は騙されなかったがな。
67 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 17:07:11.11
>>65 あなたのパソコンのファイルの場所を示しても意味はないと思うんだ。
僕のパソコンの中にこのファイルは無いから。
68 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 17:12:42.43
そこで金玉ウィルス
トンボ?1268ってどんな意味が?
70 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 17:36:49.01
>>66 名前
>は騙されなかったがな。
おりこうサンでちゅね。
71 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 17:46:04.03
C:\Documents and Settings\tombo1268\デスクトップ\縮小専用板\90度反転.jpg を アドレスバーに貼り付ければ、誰でもexplorer で作図を見れるけど。
73 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 17:50:11.74
74 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 18:05:37.46
清々しいじゃないか。
75 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 18:08:41.99
>>73 名前
>>65 >俺の頭の中でちょっと衝撃が走った。
反転地図で千里=432kmとした場合、
「東南陸行五百里 到伊都國 」に嵌る場所は九州には存在しない。
76 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 18:11:25.29
>>75 地図適当にひっくり返せば、それはそうだろう。
77 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 18:24:07.03
俺は地図を裏返してみた。 日本が見えなくなった。 つまり、邪馬台国は日本ではないのである。
78 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 18:58:19.05
ローガンさんやどくだみさんが主張するように、一つの史書の中で使われる里は同じ長さでしょう。三国志では魏で 公式に用いられていた里(約430m)が使われているとするのが妥当な見方でしょう。 半島南岸やや東寄りに位置する狗邪韓国から對海国(対馬)、一大国(壱岐)を経て九州北岸の末盧国までの 距離を三千餘里としていますが、これは魏の公式の里では約千三百kmとなり、実際より約6倍に誇張されてい ることになります。また、韓について方四千里とありますがこれも約6倍に誇張されています。 なんらかの理由があったのでしょうが、倭人伝の距離は約6倍に誇張されています。このように距離が誇張さ れているのであれば、日数もまた同じように誇張されていると見るべきでしょう。 水行二十日は実際は水行3日、水行十日陸行一月は実際は水行1日半陸行5日なのです。
79 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 19:06:18.40
>実際より約6倍に誇張されてい ることになります。 誇張はされていません。 比定地が史実とことなるからです。
80 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 19:29:47.00
まあ、公里ではどこにも到着しないというか、 パプアニューギニアとか、ベーリング海峡とか とんでもない所についてしまうんで、 里程の話は信用できないとするのが畿内説の定番だったんだが、 もし、公里で説明できるという意見なら、 公里を使ったルートをまず提示してくれれば、 いろいろと議論しやすいと思うのだが。
81 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 19:39:40.33
帯方郡から畿内まで1600キロ 公里、万二千里で、5000キロ この距離をどう埋めるかが問題だ。
82 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 20:32:50.39
>>80 >もし、公里で説明できるという意見なら、
>公里を使ったルートをまず提示してくれれば、
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」
郡を從(通り過ぎ)て倭に至る......其北岸狗邪韓國の到る 七千余里。
の
基点は魏の国都洛陽です。着点は狗邪韓國。
其北岸とは倭の北岸でそこが狗邪韓國です。
洛陽→郡→韓国→狗邪韓國(与那国島)まで7000里 ということです。
83 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 20:39:28.08
>>82 続
洛陽(北緯34度37分05秒 ,東経 112度27分16秒)
↓ 927.013km
威海市 (北緯37度30分47秒 , 東経122度07分14秒)
↓ 362.013km
平壌(北緯38度57分41秒 , 東経125度49分41秒)
↓ 184.959km
ソウル(北緯37度34分00秒 , 東経126度58分41秒) (一応、帶方郡)
↓ 454,530km
済州島北緯(33度29分59秒 , 東経126度31分52秒)
↓ 1,063.879km
与那国島(北緯24度27分22秒 , 東経122度59秒分29) (狗邪韓國)
洛陽〜与那国島は2,992.394 km≒6926.8379里です 。
84 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 21:24:55.65
>>78 >距離が誇張されているのであれば、日数もまた同じように誇張されていると
>見るべきでしょう。
何の合理性もない、恣意的な解釈だな。そんなことをいくら言ってみたところで
誰も相手にしてくれないよ。
85 :
大阪人 :2011/06/22(水) 21:32:17.67
>>82 後漢書には「樂浪郡徼去其國萬二千里」こう書いてありますからそれはないですね
それに萬二千里だけをなんとか埋めても、対馬や壱岐が「方可四百餘里」「方可三百里」「渡一海千餘里」
と書かれているのは埋められないでしょう
86 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/22(水) 21:36:23.44
>>82 では下記はどの様に説明するの?
「倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中」旧唐書
87 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 21:42:56.64
>>84 >何の合理性もない、恣意的な解釈だな。
そうかなあ。日数を距離に換算できるとするのであれば、つまり、里数の代わりに日数で書かれていると
すれば、里数が誇張されているのに日数は誇張されていないではつじつまが合わないだろう。陳寿がその
ような粗雑な間違いをするか?
88 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:06:14.90
>>87 投馬国や邪馬台国への距離を日数で表示したのはなぜかな? 理由として考えられるのは、里数がよく分からなか
ったということしかあるまい。三日や1日半の距離ならば、おおよその距離を書けないはずはない。
日数を短くしようなんてことを考えること自体が間違ってるんだよ。
89 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:09:40.34
現在サイキバは「ポチ才器場=筑紫の民」とよく同時に出てきているが こっちのスレには現れるのかな? ちょっと呼び出しに餌をまいてみようwww >576 名前: 日本@名無史さん >考古学じゃ巻向は市場だって明らかなのに、畿内説は必死だな。 >畿内説では祭器場がないので 巻向では 古 墳 が祭器場になるんだと。 >なんせ考古学板逃げてきた奴らだから仕方ねーw
90 :
そう言えば今九州説専用スレ二つもあったんだなw :2011/06/22(水) 22:14:18.83
何やら謝罪の言葉を要求しているアホの ポチ才器場=筑紫の民 へ うるさいぞポチの分際でw 朝から晩まで2ちゃんで与太飛ばしているような伊作まで可哀相な被災者として気遣ってやれと? 馬鹿馬鹿しい 現在サイキバは「ポチ才器場=筑紫の民」とよく同時に出てきているが こっちのスレには現れるのかな? ちょっと呼び出しに餌をまいてみようwww >576 名前: 日本@名無史さん >考古学じゃ巻向は市場だって明らかなのに、畿内説は必死だな。 >畿内説では祭器場がないので 巻向では 古 墳 が祭器場になるんだと。 >なんせ考古学板逃げてきた奴らだから仕方ねーw
91 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:16:26.32
不弥国までは、使節が過去になんども来て比較的情報が正確だった。 そこから先は、魏使一行自身が計測したから日数表記である、 と思ってるけどね。 記録した人間に聞かないとわからないけど。
92 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:18:09.97
>>90 うぜえ、関連スレにゴミ投稿しやがって。
ジョーカー失せろ
93 :
筑紫の民 :2011/06/22(水) 22:22:08.88
>>90 ジョーカー
大震災をネタにする羞恥心・道徳心の無い「ばかやろう」
お前の居場所は無い。
日本人に対して反省を述べるまでお前を誰も許さんよ。
94 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:23:28.03
>>92 まあ基本九州説専用スレにはあまりタッチしないで来たんだが…
サイキバとか「ポチ才器場=筑紫の民」とか随分熱心に金魚の糞の如く付いてくるんで
こっちからも出張ってやろうと思ってさwwwwwwwwww
>87縄文人 >88日向厨 この二人は自然と議論になるみたいだな。唐太みたいなものか。
96 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:30:06.58
>>94 ジョーカー
人間のカスめ。
玄関、鍵閉めてるか?
97 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:30:55.86
>>88 郡から女王国(邪馬台国)まで万二千餘里、郡から不彌国まで万七百餘里だから、不彌国から邪馬台国までは千三百里。
この千三百里の間に投馬国がある。不彌国と投馬国は(筑後川を挟んで)接している。投馬国と邪馬台国もせっしている。
千三百里は魏の公式の里では560kmほどになるが、6倍に誇張されているとすれば94kmほどである。これは曲がりく
ねった道なりの距離だろうから直線距離にすれば30〜50km程度であろう。そこを水行で4〜5日、陸行で5日くらいで
行けるというのではないかな。
98 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:31:16.39
まあ縄文人、日向厨、伊作と熊本・宮崎を比定地とするやつは話が大きくなる傾向があるなwwwwwww 要するに交易の窓口たる北部九州を押さえなければならないので 「九州統一王座決定戦」みたいなのに勝利する必要があるとwwwwwwww まあそれでなくてもここのゴミクズレベル九州説のお話は壮大になりがちなんだがwwwwww
99 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:39:19.94
<今夜のポチジョーカー> \从/ ∧_∧ ___ ___ 「(`Д´; )/ ./ うわー!このスレにもゴキブリジョーカーがでてきたー! |XXX| |( つ r==lニニニニl |xxxx| l二二二二二二二二二l .  ̄ ̄ (((( < |_| (;;;;;;;;;;;;;;;;) |_| \ / \ / /ナマゴミジョーカー(^ν^ ) <40代、無職、童貞です! 親の年金で生活してます! 〜 ̄> ̄> ̄> ヽ 、サ、サ、サ、サ、サ、、、、、、
100 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:41:42.37
wwwwwwwwwwwwwwwww
101 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:43:33.10
<生ゴミジョーカーの真実> =≡.i≡ミ 、 ,|《ソ⌒⌒ヾ.|| .||||| 〜 〜 |||| ||||,! ` .. ´ !||| .|||( ノ 3ヽ )|||. <こっちからも出張ってやろうと思ってさw 巛||,ヽ--- イソリ ∧_∧ / \ ( )出張ってるんじゃなくてドンコイスレから逃げて来たんだろwww .__| ポチジョーカー|_ / ヽ ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | | ||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./ ||. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧ / ヽ このゴミクズw \| ( ) 今夜はこのスレにトンズラこいてたのかwww | ヽ \/ ヽ | |ヽ、二⌒) / .| | | .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
このAA貼ってる人の中の人って九州王朝大好き?
103 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:46:14.92
<退治されたゴキブリジョーカー> _-へ____ .\ / ____) ・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・' \ / / \| ┝ .::.::.::.::.・・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・:。 :; :.:: :;。。;;; ^;;゚;(^ν^ ) <オレノ ノウミソハ ゴミクズレベルー! ( /_\ ・'゚。.::。.::・'・'゚。.::。.::・・'゚。.::。.::・'' > > \ \| .| プシューッ \_ ) | |キンチョー.| | .|
104 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:49:15.11
>>97 女王国=邪馬台国とすること自体がまちがい。史書は断りもなしに国の名前を
言い換えたりはしないよ。
考えてもみろ。邪馬台国までが万二千里だというならば、何で投馬国までが何
里、そこから邪馬台国までが何里と書けないんだ?
それに、誰が見たって、水行二十日、水行十日・陸行一月がわずか千五百里の
はずはない。常識を忘れてはいかんよ。
105 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:52:01.33
>>102 多分違うw
九州王朝大好きは現在 「卑彌呼の都は久留米 」じゃないのか?wwwwwww
AA貼っているのは自縛霊の本家サイキバ君。
ピンで討論も叩きあいもできないからAA貼り付けという手口に逃げているwwwww
こいつが畿内説おろか九州説とさえまともに議論とかしたところを見た記憶が無いwwwwww
まあ単発のネタを拾い集めると多分「福岡平野」あたりを比定地に置く九州王調説っぽいがwwwwww
106 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:53:47.36
>>84 それなりに根拠は書いたつもりだけどね。
基本的には仮説だよ。
今のところ行程と実際の土地で矛盾がないのと、
最後の万二千余里にも収まるだけさ。
少なくとも行程記事においては、
いまのところ一番矛盾がない仮説だと思ってる。
ただ、もっと説得力のある仮説があったら
そっちに転向するかもしれないよ。
107 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 22:54:47.76
しかし九州説専用スレなんでサイキバも少しはAA貼り付けを遠慮するかな?とも思ったが …いらぬ心配だったな、サイキバ君はブレない!!流石だwwwwwww
>>105 行動パターンからして九州王朝教の人間ってのはわかったけど、以前画文帯の論争になった時から
九州王朝大好きが姿を消して、コピペ荒しが現れたから中の人は九州王朝大好きじゃないかと思ってたw
109 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:01:24.38
>最後の万二千余里にも収まるだけさ。 そんなものに拘泥するのがまちがいだ。万二千里が邪馬台国までの距離だったら あなたは倭人伝のような書き方をするのかね? 私だったら、水行十日陸行一月に続けて、郡より其の国まで万二千里って書くよ。
110 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:03:16.37
>>104 >女王国=邪馬台国とすること自体がまちがい。史書は断りもなしに国の名前を
>言い換えたりはしないよ。
女王国は国名なのか?(女王が都(居所)を置くところの)邪馬台国の代名詞だろ。
111 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:04:10.58
<Wikiジョーカー> ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった 恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。 本人は畿内説を唱えているつもりのようだが「ゴミクズ◯◯」と連呼するだけで議論になっておらず、 それゆえゴミグズ畿内論信者と呼ばれる。 (この項目は書きかけです。)
112 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:07:17.78
>>109 >私だったら、水行十日陸行一月に続けて、郡より其の国まで万二千里って書くよ。
自郡至女王國、萬二千餘里
なんか、そう書いてあるように見えるけど。
113 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:09:21.21
<ポチジョーカーの真実> =≡.i≡ミ 、 ,|《ソ⌒⌒ヾ.|| .||||| 〜 〜 |||| ||||,! ` .. ´ !||| .|||( ノ 3ヽ )|||. <議論したところを見た記憶がないw 巛||,ヽ--- イソリ ∧_∧ / \ ( )議論してないのは「ある意味根拠も糞もないw」お前だろwww .__| ポチジョーカー|_ / ヽ ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | | ||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./ ||. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧ / ヽ このゴミクズw \| ( ) この馬鹿まるで自分は議論してるようなこと逝ってるぜwww | ヽ \/ ヽ よく他のスレに逃げてるしwww | |ヽ、二⌒) / .| | | .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
114 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:10:20.54
>>109 >私だったら、水行十日陸行一月に続けて、郡より其の国まで万二千里って書くよ。
水行十日陸行一月が郡から女王国までの所要日数だったらこんなところでなく自郡至女王國萬二千餘里の後に
続けて水行十日陸行一月と書くよ。
結局、邪馬台国に来た奴は相当不真面目か能力が低かったのだろう。 張騫なんて紀元前に西域の正確な知識をもたらしてるし、 時代は下るが玄奘の大唐西域記なんかも素晴らしい。 翻ってみるに、張政なんか倭国に二十年も滞在したとか 主張する奴もいるのに、ほとんど何の成果も上げてない。
116 :
大阪人 :2011/06/22(水) 23:10:57.00
>>104 >史書は断りもなしに国の名前を言い換えたりはしないよ
○○國を其国、国、大国、属国、九夷之國、中国
また、女王國→女國など国名を言い換える例はいくらでもありますよ
>水行二十日、水行十日・陸行一月がわずか千五百里のはずはない
『晋書』粛慎伝
「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
『三国志魏書』挹婁伝
「挹婁在夫餘東北千餘里」
なんて記述もありますからね。
これを信じるなら六十日行=千余里ということ
117 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:12:03.44
<ポチジョーカーの真実> =≡.i≡ミ 、 ,|《ソ⌒⌒ヾ.|| .||||| 〜 〜 |||| ||||,! ` .. ´ !||| .|||( ノ 3ヽ )|||. <逃げているw 巛||,ヽ--- イソリ ∧_∧ / \ ( )逃げてるのは生ゴミジョーカーだろwww .__| ポチジョーカー|_ / ヽ ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | | ||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./ ||. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧ / ヽ このゴミクズw \| ( )ドンコイスレで恥かかされてるからなwww | ヽ \/ ヽ | |ヽ、二⌒) / .| | | .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
118 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:12:41.92
>>111 自縛霊 サイキバ
> 「ある意味根拠も糞もないw 」と
アホが噛み付きやすかった文言がそれか?wwwwwww
「ある意味根拠も糞もないw 」…我ながら名言至言だwwwwww
そもそも九州説なんて物がまともに存在しないのだから二択じゃなくて一択なら
それこそ 「ある意味根拠も糞もないw 」だw
「すなおに読んだら場所が分る!」それもまあ文献のみを頼ると言う姿勢としてよしとしよう。
が、だったら最低「これが正しいすなお読み」というものを出せよとwwwww
方角や距離でばらついて比定地が乱立するのならともかく
連続式放射式、膨大な日数は郡からのトータル所要日数、魏使は伊都国停まりで卑弥呼にはあってない、…etc
そんな物を選択肢に入れる方がおかしいわwwwwww
119 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:16:58.09
<Wikiジョーカー>
ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった
恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。
努力して書いてみた文章(
>>118 )もアホを晒しているだけなのだが本人は気がついていないようだ。
(この項目は書きかけです。)
120 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:18:40.46
<Wikiジョーカー>
ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった
恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。
努力して書いてみた文章(
>>118 )もアホを晒しているだけなのだが本人は気がついていないようだ。
(この項目は書きかけです。)
121 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:20:52.43
>>114 >水行十日陸行一月が郡から女王国までの所要日数だったら
誰も、そんなことは言ってないよ。水行十日陸行一月は北九州からの話だ。
だから、万二千里には「郡より」をつけてるだろ。
122 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:21:01.23
『ジョーカーの1日』 . |___ . / (^ν^ ) 「ある意味根拠も糞もない‥」我ながら天才的な文章だなw / / \ | |48歳 | | ←ジョーカー(別名:サイキバ、ウンコマン、ビチグソ畿内論信者) ___/ ./無職 .| |___ // // /(Ξ´幵幵‘ミ)幵/ . |'ー`)し あなた最近スレの笑いものよ・・・ . と ノ あ、笑いものなのは前からだったわねえ。 . | /___ . / (^ )彡 !? / / \ / |童貞 , / )) ____/ /| _/ /___  ̄(⌒_/  ̄ . | . |彡サッ . |__ / ( ) 勝手に入ってくんなよ!ババア!頃すぞ!! / γ⌒\ 7``) / / \ .`ヽヽ / X ミ ヽ ガタッ! ヽ___ノミ\ 包茎\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
まあ既に九州説専用スレ2つあるんだから サイキバのコピペで埋まっても安心だなw
124 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:24:25.08
<Wikiジョーカー>
ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった
恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。
努力して書いてみた文章(
>>118 )もアホを晒しているだけなのだが本人は気がついていないようだ。
(この項目は書きかけです。)
125 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:29:44.82
<Wikiジョーカー>
ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった
恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。
努力して書いてみた文章(
>>118 )もアホを晒しているだけなのだが本人は気がついていないようだ。
(この項目は書きかけです。)
<Wikiジョーカー>
ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった
恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。
努力して書いてみた文章(
>>118 )もアホを晒しているだけなのだが本人は気がついていないようだ。
(この項目は書きかけです。)
<Wikiジョーカー>
ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった
恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。
努力して書いてみた文章(
>>118 )もアホを晒しているだけなのだが本人は気がついていないようだ。
(この項目は書きかけです。)
128 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:32:33.46
>国名を言い換える例はいくらでもありますよ 指示代名詞ぐらいは覚えようね。 >『晋書』粛慎伝「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」 >『三国志魏書』挹婁伝「挹婁在夫餘東北千餘里」なんて記述もありますからね。 時代がちがえば国の形もちがうんじゃないかな。
129 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:34:43.51
<Wikiジョーカー>
ドンコイスレで畿内説の根拠を尋ねられ、 「ある意味根拠も糞もないw 」と自らの無知をさらけ出してしまった
恥ずかしい過去を持つ。 無知であるがゆえ、議論ができず相手を罵るレスしかできない。
努力して書いてみた文章(
>>118 )もアホを晒しているだけなのだが本人は気がついていないようだ。
(この項目は書きかけです。)
130 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:36:50.14
<ポチジョーカーの真実> =≡.i≡ミ 、 ,|《ソ⌒⌒ヾ.|| .||||| 〜 〜 |||| ||||,! ` .. ´ !||| .|||( ノ 3ヽ )|||. <「これが正しいすなお読み」というものを出せよとw 巛||,ヽ--- イソリ ∧_∧ / \ ( )その前に「正しいかもしれないし、間違っているかもしれないし」 .__| ポチジョーカー|_ / ヽ ってほら貴様の算数の答案みたいなあれ、も一回やれよwww ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | | ||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./ ||. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧ / ヽ このゴミクズw \| ( )そもそもてめえが素直読み出してねーだろがボケwww | ヽ \/ ヽ | |ヽ、二⌒) / .| | | .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
131 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:44:00.23
<ポチジョーカーの真実> =≡.i≡ミ 、 ,|《ソ⌒⌒ヾ.|| .||||| 〜 〜 |||| ||||,! ` .. ´ !||| .|||( ノ 3ヽ )|||. <「これが正しいすなお読み」というものを出せよとw 巛||,ヽ--- イソリ ∧_∧ / \ ( )その前に「正しいかもしれないし、間違っているかもしれないし」 .__| ポチジョーカー|_ / ヽ ってほら貴様の算数の答案みたいなあれ、も一回やれよwww ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | | ||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./ ||. ( ) 〜\_____ノ| ∧_∧ / ヽ このゴミクズw \| ( )そもそもてめえが素直読み出してねーだろがボケwww | ヽ \/ ヽ | |ヽ、二⌒) / .| | | .| ヽ \∧_∧ (⌒\|__./ /
132 :
大阪人 :2011/06/22(水) 23:47:30.70
>>128 指示代名詞?使い方おかしくないですか?
まあ言いたいことはわかりますよ。其国が指示代名詞と言いたいのでしょう。
しかし、他の表現はどうですか?普通名詞を代名詞として使用しているでしょう。
つまり何が言いたいかというと、国名を別名で置き換える例が多々あるので
女王國が代名詞である可能性は高いということ
また、○○国という固有名詞を無闇に書き換えることはないというのなら
女王國を女國に書き換えた例はどう説明するのですか?
女王國が固有名詞ならこれ程不可解なことはないでしょう。
日本国の正式名称を勝手に日国だとか本国だとかにするようなものですからねえ
しかし、女王國・女國がただの代名詞とするのなら納得のいく話ですが
>時代がちがえば国の形もちがうんじゃないかな
ならその証拠を出してくださいね
133 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:56:49.80
>女王國を女國に書き換えた例はどう説明するのですか? 誰が書きかえたの? 故意に書きかえたのかい? >>時代がちがえば国の形もちがうんじゃないかな >ならその証拠を出してくださいね 時代によって国が大きくなったり小さくなったりすることはいくらでもあるだろ。 そんなことも知らないの?
134 :
日本@名無史さん :2011/06/22(水) 23:59:06.73
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135 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 00:01:57.47
倭人伝の拡大解釈ばかりでこんな作業やってるやつらは ほんとに馬鹿だw
136 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 00:07:28.26
>>134 本家本元お家元 サイキバ
>そもそもてめえが素直読み出してねーだろがボケwww
え?俺が『すなお読み』出さにゃならんの?
おいおいおいwwwwwwwwwwwwww
137 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 00:13:49.28
しかし日頃から「すなお読み」を否定している俺に対し 「すなお読み」を出せと言ったのは流石に このサイキバ が初めてだわwwwwww 流石サイキバ君、天然モノは一味も二味も違うw 発想がレベルもラベルも他の連中とはダンチだなwwwwwwwwwwww
138 :
大阪人 :2011/06/23(木) 00:24:09.52
>>133 三国志より後の『太平御覧』には女國とありますから
『太平御覧』の作者が書き換えたのか、又はその参考にした資料にはすでに書き換えられてあったのか・・・
それは解りかねますね
まあ何度も出てきますから誤りで王が欠落したとは考えずらいですね
また東女國なんかも女國と書かれていたりしますから、
女王が統治した国を一般的に、女王國だの女國だの書いている可能性も多々ありますね
>時代によって国が大きくなったり小さくなったりすることはいくらでもあるだろ。
>そんなことも知らないの?
確かに常識ですね。
しかし、出発点と到達点がかわるというのなら根拠を出してくださいと言っているのです。
倭も領地が変わりますが、萬二千里(或いは萬四千里)という「認識」はかわらないですしね
139 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 00:46:02.15
>>13 女国ってそんなに何回も出てくるかな? それに写し間違えた奴がいるからといって
そんな話は参考にならんぜ。
>出発点と到達点がかわるというのなら根拠を出してくださいと言っているのです。
それよりあなたが先に変わらないってことを証明すべきなんだよ。
140 :
大阪人 :2011/06/23(木) 01:13:15.52
>>139 なんで勝手に写し間違えにしてるんですか?
ここでは『太平御覧』を例に出していますが、『魏略』逸文『翰苑』にも女國と書いてありますからね
つまり女王國は自由に書き換えても差し支えない=固有名詞ではないという証左でしょう
>それよりあなたが先に変わらないってことを証明すべきなんだよ
根拠出せないんですね?
上でも書いてありますが、倭も領地が広がれど認識はかわってないですからね
これが挹婁にも当てはまるかどうかはわかりませんが、
少なくとも出発点の扶余は晋の時代も魏の時代も玄菟の北に千余里からかわってないですから
それに粛慎伝・挹婁伝・扶余伝・沃沮伝あたりを比べるにあまり地理はかわってなさそうしね
これを根拠として受け取ってもらえるかはわかりませんが、とりあえず一応の根拠は述べたつもりなので
次はあなたの証明をお願いします
141 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 06:21:37.52
御覧の「女国」は「魏志曰」とある文章の中にある。魏志には「女王国」とあることが 分かっているのだから、誰かが写し間違えたと考えるのが当たり前だろう。仮に意識的 に削ったとすれば、それは「魏志曰」に照らして正しくないね。 あなたは女王国は邪馬台国の代名詞だ、女王國は固有名詞ではないというが、私も固有 名詞だなんて言ってるわけではないよ。裸国や黒歯国と同じように、特長を使って国を 表しているだけだということは分かる。だが、女王国がほかの名前で書かれている国と 同じかどうかは示されていない。私がいうのは、そこだよ。 史書は正確性を重んじるから、代名詞ならばそれが分かる形で使用されているだろうって ことだ。あの国とか其の国とかあれば、それがどこかに出てきたほかの国をさしていると いうことが分かる、しかし、女王国は他に出てきた国をさしていると分かる言葉ではない。 だから、裸国や黒歯国と同じように固有の国名は書かれていない国だと考えるわけだよ。 >一応の根拠は述べたつもりなので とても根拠とは思えないよ。千余里と六十日はまったく別の話かもしれんね。
142 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 08:02:24.89
付け加えれば、千余里の出発点は都か国境か、六十日の出発点・到達点はどうか といった問題もあるということね。
143 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 08:07:33.67
国境は線なんで、明らかにここから出発すると わかるような点じゃないと情報源になりにくい 国境線にそれなりに有名な都市がある場合を除いて 記載されている場所はたいてい国の中心部じゃなかろうか 工程記事はランドマークを辿るように書くものだよ
144 :
:2011/06/23(木) 08:47:49.77
確かに、普通東京にいくといったら東京23区をさしますよね。 八王子にいくのに東京にいくとはいわないですね。
145 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 09:40:47.42
○○市まで何キロ、と言ったときには、 市庁舎のある場所をさすね。
146 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 10:01:50.53
21歳で旧帝国大学文学部で史学を専攻してる若輩の私が言うのもなんですが、 魏の使者が来たのは伊都国までであり、あとは伝聞ではないかと考えます。 なのでその後は日数表記の曖昧な表現になってるのです。 で当時の中国人の日本に対する地理感覚は、日本は南に伸びてる島国という 感覚だったようなので、方角も南になっているのです。 もしくは伊都国の外交担当者がわざわざ自国の都の正確な場所を 他国に教えるのはリスキーだと考え、都は南にあると言ったのかも しれません。邪馬台国は十中八九は畿内で間違いないです。 魏志倭人伝の解釈を議論するのはあまりよい方法だと思いません。
史学科なんてのは、いまだにレベルが低いんだねえ 昔からちっとも変化しとらんじゃまいか
148 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 10:21:19.01
>>146 魏志倭人伝の解釈を議論しないという立場なら、
そのまま読めばいいのでは?
単位を短里にするだけで、どっかを回るとか面積だとか、
変な解釈をしなくていいし。
149 :
大阪人 :2011/06/23(木) 10:29:29.66
>>141 >>142 「魏志曰」に正しくないって、御覧を見ればわかるだろうけど魏志とは「女國」以外にも
ずいぶん書き方が違うでしょう。それを持って全て「魏志曰」に照らして正しくないというのか?
郡よりや京師よりが時代によって出発点が中心か国境かがかわるのか?
それは否でしょう。
正確性を重んじる史書が到達出発の統一基準を持たず時期によって違うなどというデタラメは書かないし
書いた例もないでしょう。
>千余里と六十日はまったく別の話かもしれんね。
後の時代の史書は前の時代の書物を参考にして書かれている場合が多い
かなりの確率で六十日行と千余里は互換性を持つと思われます。
出発点の扶余は玄菟郡からは千里、北は弱水、方形二千里、戸数八万などの情報は魏志と晋書でかわってないです
晋書の粛慎(挹婁)は扶余から六十日行で北は弱水、東は日本海ですのでこれ以上広がりがようがない。
魏志の挹婁(粛慎)は扶余から東北千余里で北は極まる所はわからず、東は日本海。
挹婁は北限はわからないと書いてありますが、粛慎は北は弱水ですので、領土が拡張しているとは言い難い
つまり六十日行が千余里を大幅に超えて何処かに行くということはないということ。
仮に数百里程度の誤差があっても日行がかなり遅いペースで進んでいたことにはかわりがない
150 :
大阪人 :2011/06/23(木) 10:32:33.19
>>142 あと○○からという表記で出発点が都か国境か変わる例があるのなら
その例を提示してくださいね
>>146 >21歳で旧帝国大学文学部で史学を専攻してる若輩の私
にしては、相当の馬鹿ですね。
>魏の使者が来たのは伊都国までであり、あとは伝聞ではないかと考えます。
危険を冒して渡海したのに卑弥呼に会わずに金印を渡したのか?
馬鹿馬鹿しい。
> で当時の中国人の日本に対する地理感覚は、日本は南に伸びてる島国という
感覚だったようなので、方角も南になっているのです。
日本は南に伸びてる島国という感覚と方角を間違えるというのは全く別の問題で関係のない話だ。
論理のかけらもないな。
>伊都国の外交担当者がわざわざ自国の都の正確な場所を他国に教えるのはリスキーだと考え、都は南にあると言ったのかもしれません。
友好国として来た勅使に場所も知らせ嘘を言うとはとんでもない妄想だ。
>魏志倭人伝の解釈を議論するのはあまりよい方法だと思いません。
距離も方角も全くあわない畿内説が魏志倭人伝の解釈を議論されたら確かに困るな。
畿内説など瞬間消滅してしまうのだから。
貴方は史学を専攻するには明らかに能力不足です。
152 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 11:46:01.13
>>85 >後漢書には「樂浪郡徼去其國萬二千里」こう書いてありますからそれはないですね
「樂浪郡徼」とは魏志の「帶方郡」の位置ですね。
行く(去)其國萬二千里、其國とは邪馬臺國 。
「樂浪郡徼」を起点と解釈できるか否か?
「自郡至女王國萬二千余里」も同様。
「自郡」とは「樂浪郡と帶方郡」の集合。
で、「樂浪郡徼」も「自郡」も通過点にすぎない。
153 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 11:49:49.27
>>85 >対馬や壱岐が「方可四百餘里」「方可三百里」「渡一海千餘里」
>と書かれているのは埋められないでしょう
「方可四百餘里」は「一辺が百里の正方形に内存する面積です」
メートル法に換算すると百里≒43.2kmで、
43.2km×43.2km=1866.24平方キロです。
154 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 11:55:04.46
>>153 「沖縄本島・合計面積1241平方キロ。徳之島・面積247.66 平方キロ
[加計呂麻島][喜界島][与論島][伊平屋島][伊是名島] [家島・栗島・久米島][慶良間列島・家島・栗島] 面積合計603.53平方キロ
1242平方キロ+603.53平方キロ=1845.53平方キロ
方可四百里は約1866.24平方キロですから沖縄・徳之島の合計面積は對海【馬】國の面積・方可四百里に近似値である。
[方可三百里」「渡一海千餘里」も論証できます。
155 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 11:56:55.69
156 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 12:58:41.01
>>86 >>82 >では下記はどの様に説明するの?
>「倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中」旧唐書
行く(去)京師。 唐の京師は長安ですね。
長安から陸路で新羅にでます。後の行程は狗邪韓國(拘邪韓國)
そして、倭國之極南界の倭奴國に至る。
長安から倭國之極南界の倭奴國まで一萬四千里あります。
論証をやりますか?
157 :
忍法帖【Lv=18,xxxPT】 :2011/06/23(木) 14:17:59.21
>>151 >日本は南に伸びてる島国という感覚と方角を間違えるというのは全く別の問題で関係のない話だ。論理のかけらもないな。
幼稚だなあ。我々が目にする事が出来る三国志は、陳寿という編者が記したもの。
陳寿が来倭したわけで無し。南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。
まともな教育を受けたものは「全く別の問題で関係のない話だ。」などとは考えないし、また、そんな事、絶対に言い切らない。
158 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 16:10:46.73
>>156 横からだけど、なかなか面白そうだね。
一萬四千里、
公里で6090km、短里で1120km
長安(西安)-帯方郡
直線距離で1600km
道なりは、知識が無いので不明、3000kmくらいか?
帯方郡経由じゃない場合もありか?
帯方郡から女王国までは過去の議論に準ずる。
九州説と畿内説で異なる。
九州説の場合で1000キロ程度?
北畠親房が言ってたように邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同じもの。 こういうのは連想ゲームみたいに話が膨らんで行くから昔の人が言ってることが正しい。
160 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 16:24:04.05
>>158 の続き
旧唐書は、もう大和朝廷になってからの話なので、
行先は畿内でいいのかな?
それとも、貿易を管理する大宰府か?
帯方郡からの一万二千里と
京師からの一万四千里は同じ単位なのか?
同じ単位なら差し引いて、帯方郡―京師間は二千里なのか?
あるいは別ルートなのか?
なんかいろいろ考えることがあるねえ。
161 :
忍法帖【Lv=18,xxxPT】 :2011/06/23(木) 16:51:51.06
海路やんか。 「送祕書晁監還日本國」
162 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 17:01:02.39
>>158 先ずは
「其地大較在會稽・東冶之東」から摺り合せ。
「其地」とは「其大倭王居邪馬臺國」とありますから、
「大倭王」の統治地ですね。「會稽は北緯30度でその東は口之島」、
「東冶は北緯38度38分に漢の時制に置かれた東冶鎮があり
その東は山形県鶴岡市当たり」。
この北緯30度から北緯38度38分迄が「大倭王」の統治地であり倭国ということです。倭国は女王国です。勿論「大倭王」も女王でした。
163 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 17:26:02.61
>>162 >「東冶は北緯38度38分に漢の時制に置かれた東冶鎮があり
>その東は山形県鶴岡市当たり」。
この部分は初見ですが、解説か何かありますか?
164 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 19:14:24.72
>>163 まともな学者がそんな話にかかわるわけがない。
今日は調べものしてたら、伊作さんのHPに行ってしまった ちょっとだけ見直した
166 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 22:03:55.62
九州は日本のアフリカ
167 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 22:36:16.08
>>149 >「魏志曰」に正しくないって、御覧を見ればわかるだろうけど魏志とは「女國」以外にも
>ずいぶん書き方が違うでしょう。それを持って全て「魏志曰」に照らして正しくないというのか?
「魏志曰」と書いた以上は、魏志をそのまま引用するのが正しい方法だろう。
>時代によって出発点が中心か国境かがかわるのか?
時代によってではない。書く人によって、また、書く状況によって、変わることが考えられる。
>正確性を重んじる史書が到達出発の統一基準を持たず時期によって違うなどというデタラメは書かないし
>書いた例もないでしょう。
ほう、常に同じ基準で書いていると思ってるのかな? ということは、距離の表示などで国名がでてきたら
必ずその国の都を表示しているはずだとでも?
>六十日行が千余里を大幅に超えて何処かに行くということはないということ。
この千余里は、いわゆる長里で考えてるのかな? それとも短里で考えてるのかな?
168 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 22:36:46.92
>>157 忍法帖【Lv=18,xxxPT】
こういう難しい議論にバカが口を挟むもんじゃないよ。キミに難しい話はムリだから・・・
>幼稚だなあ。我々が目にする事が出来る三国志は、陳寿という編者が記したもの。
そう、三国志は陳寿が編纂したものだよ。んなことは誰でも知っているざんす。
>陳寿が来倭したわけで無し。南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。
そう、陳寿が来倭したという記録はない。正始元年に梯儁らが来倭したとき陳寿は7才、正始八年の
張政らの来倭時でも14才にすぎなかったし、その身は魏ではなく蜀にあった。蜀の滅亡(263年)後
しばらくしてから晋に仕えたので、魏の時代に陳寿が来倭していないのは確かだろう。
したがって、陳寿は魏の時代に書かれた資料を基に三国志を書いた。倭の地理に関する資料は倭を訪
れた使者達によるものと考えられる。その資料に書かれた方角、距離は使者達の判断によるもので、
陳寿のそれによるものではない。史書を書く人間は原資料を改竄したりしない(すれば侮蔑の的になる)。
原資料が誤りだと思えば注釈の形でコメントを書くくらいのものである。
仮に「南に延びる列島という感覚」が陳寿の時代にあったとしても、陳寿がその感覚でもって勝手に原
資料を改竄することは極めて考え難いことである。つま〜り
「南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。」などとは浅はかなキミにしか
言えない恥ずかし〜いタワゴトざんす。
169 :
伊作先生 :2011/06/23(木) 22:54:39.12
>>168 いいこというじゃないか。
「歴史書の書かれ方」というものを知らないで、
己が足下にもおよばない国際G1クラスの編纂者をコケにして、
己の都合のいいように解釈する小市民が多すぎる。
170 :
伊作先生 :2011/06/23(木) 23:01:52.96
>>165 いことをいうじゃないか。
クセがなく外連味がなく、中庸不偏で正攻法を貫いてるだろ。
82がカテゴリ登録に載せてくれたのも、
Wikiのリンクに早々と載せられたのも、ダテじゃないわけだ。
>>157 まともに教育を受けてないなんて真正面から指摘しちゃダメだよ。
戦後の混乱期で仕方なかったのだからね。
172 :
ローガン :2011/06/23(木) 23:22:13.06
>>168 >仮に「南に延びる列島という感覚」が陳寿の時代にあったとしても、陳寿がその感覚でもって勝手に原資料を改竄することは極めて考え難いことである。
はて? 「編者が原資料を改竄」と私がいつ言ったかね?記憶にないが…
言ってもいないことを懸命に否定しているのをみると又、「幼稚だなあ」ってつい思ってしまう。
ごめん。
173 :
ローガン :2011/06/23(木) 23:33:04.08
>>165 >今日は調べものしてたら、伊作さんのHPに行ってしまった ちょっとだけ見直した
「ちょっとだけ見直し」じゃないでしょう。伊作ちゃんはよく調べておられますよ。
勿論、全て首肯できる訳ではありませんがね。私はファンです。
174 :
日本@名無史さん :2011/06/23(木) 23:38:40.86
類は友を呼ぶっていうからなあ。
>>172 >はて? 「編者が原資料を改竄」と私がいつ言ったかね?記憶にないが…
馬鹿じゃないのか?
耄碌しているのか?
>>168 氏は貴方が言ったとは一言も言っていない。
所詮畿内説の連中のレベルはこの程度と言うことだな。
176 :
ローガン :2011/06/24(金) 00:34:38.47
>>175 あはは。しっかりしてね。
『陳寿がその感覚でもって勝手に原資料を改竄することは極めて考え難いことである。
つま〜り「南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。」などとは浅はかなキミにしか言えない恥ずかし〜いタワゴトざんす。』
が読めないんやね?
これは、私の書いた「南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。」に対して、
彼は「原資料を改竄することは極めて考え難いことである。」という理由で、戯言だと断定しているわけ。
つまりそれは「原資料の改竄など無い」と書けば、相手の言い分を否定出来ると考えた上でのレス。
しかしそれは当方にすれば、当然ピント外れ。だから「原資料の改竄」など主張したおぼえが無いと 私が書いて当たり前の事。
こんな所って割と短文のやりとりが多いからね。誤解は往々にしてある。とはいえ ある程度理解出来るようになってから、レス付けてくれたほうが…とか思います。
177 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 00:36:29.78
「御覧」ねえ… あれには「又〜」として連続式の読みを強調していて、そのへんもあって 「ひょっとしたら魏略にも先行する史料を基に書かれたのでは?」 と思われた時期があったらしい。 が学者らが検証して結局はそう言った”幻の先行史料”なんて物は無く (その研究に榎センセイも絡んでいたらしいがw) 御覧引倭人伝も大元としては魏志のものからとってきて梁代の知見を加味した…というものに落ち着いたんだよねえ。 結局文献屋さんとしても新たな(先行)史料なんて物も見つけられず かと言って後代の物は殆どが倭人伝の改変コピペとなれば もう倭人伝だけをもって位置論争をするのは無理…という当たり前の結論になってしまった。 「いやいやオレサマ流の”すなお読み”ならそれは分るんだ!」と言うのは 傍から見たら正気のサタデーナイトwww まああくまであえて歴史に「if」を持ち込むゲームとして楽しむのなら 高尚な趣味にはなるかもしれないがwwwwwwwwwwwwwwww
コテ消したの?
179 :
ローガン :2011/06/24(金) 00:54:43.92
hn消して、!ninjaって入れた。レベルが知りたくて zzz…
180 :
sss :2011/06/24(金) 00:58:41.68
>>177 >もう倭人伝だけをもって位置論争をするのは無理…
結局、畿内説の行き着くところはそこだろうな。
倭人伝のどおりに進めば、東シナ海に出てしまうから『南』は『東』の間違いから始まり、
混一疆理歴代国都之図を持ち出して陳寿の地理感を決め付けたりしたけれども、
行き着くところは倭人伝の否定か。
しかし、邪馬台国までの里程・日程が書かれているのは倭人伝だけなので、倭人伝を否定したら
何でもありになってしまう。
畿内説の主張する邪馬台国は、倭人伝に書かれている邪馬台国ではないのだろう。
181 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 01:02:38.51
>>180 sss
>畿内説の主張する邪馬台国は、倭人伝に書かれている邪馬台国ではないのだろう。
だったら、さっさと倭人伝に書かれている通りの邪馬台国を出せと言うだけの話だなwww
厩戸の皇子ではなくて超人聖徳太子
日本国ではなくて黄金の国ジパング
を出せと言うのと同じ話だと思うがwwwwwww
182 :
sss :2011/06/24(金) 01:06:40.86
>>181 少なくとも近畿地方はありえないということ。
「東に海を渡るとまた国がある。」この海が伊勢湾なんて良く恥ずかしげもなく言えたもんだ。
183 :
水銀厨 :2011/06/24(金) 01:10:52.09
>>180 私は倭人伝をもって位置を説明してますけど。
女王国の入り口が大分周辺という事です。
>>179 hn消して、!ninjaって入れた。レベルが知りたくて zzz…
畿内説にはこんな馬鹿しかいないのか?
185 :
大阪人 :2011/06/24(金) 01:16:15.80
>>167 >「魏志曰」と書いた以上は、魏志をそのまま引用するのが正しい方法だろう。
では、魏志とは書き方が違うところは全て写し間違いであるとでも言うのかな?
大体引用してる文献を一言一句正確に写している文献などあるのか?
あるのなら例を出して頂きたいですね。
>時代によってではない。書く人によって、また、書く状況によって、変わることが考えられる。
晋書と魏志で同じ出発点から同じ到達点において、里数・日数が変わった例はあるのか?
状況によって変わるというのなら変わった例を出していただきたいですね
>ほう、常に同じ基準で書いていると思ってるのかな? ということは、距離の表示などで国名がでてきたら
>必ずその国の都を表示しているはずだとでも?
必ず都だとは言ってませんが、ある程度の基準はあるでしょう。
何度も言いますが、同じ出発点・到達点で基準が変わる例があるのなら出して欲しいですね。
>この千余里は、いわゆる長里で考えてるのかな? それとも短里で考えてるのかな?
中原から非常に離れていることを考えると短里の可能性もあるでしょう(東夷伝倭人条の短里と同一でない可能性もあるが)
沃祖の墓の丈の表記からも、実際より短い単位が使われている可能性は十二分にあります。
また、これといった根拠はありませんが、長里の可能性もなくはないですね。
基本的には短里で考えていますが、長里である確たる証拠が出てくれば自分の見解を見直すことも考えています。
てすと
187 :
21歳旧帝国大学古代史専攻 :2011/06/24(金) 01:34:40.46
申し訳ない。なにぶんにも邪馬台国論に関しましては 自分の研究テーマではないのでw 専門は大化の改新と蘇我氏ですから。 邪馬台国論争は出口のない泥沼ですから学徒の立場としては 息抜きに本数冊読む程度にしています。皆さんも深みにはまらぬよう お気を付けをwで邪馬台国は畿内でほぼ間違いないです。 私の教授も知り合いの博物館勤務の研究員の方もやはり畿内だと おっしゃっています。
188 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 01:38:53.68
まあ素人の見立てだが 「邪馬台国論争が畿内説で決着してしまった」 …というのも間違いではないんだろうが、より正確には 「邪馬台国論争自体がとうの昔に終わってしまった」 なんだろうなとwwwww 恐らく九州説側にしたら論争を再燃させるだけの材料を持ってこないとどうにもならないとw
189 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 03:50:52.26
根拠なき勝ち逃げ宣言? まあいつものことだが
>>189 権威主義に凝り固まった人たちなんだから相手にしなさんな。
偉い人がこう言ったからってのが根拠なんだから。
その偉い人の根拠が文献じゃないっていう事実を理解できない人たちなんか
相手するだけ無駄でしょ。
191 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 07:28:10.25
相手にしないではなく出来ないんでしょ。 そしてまた延々と根拠もない妄想話が続くと。
192 :
帝大古代史専攻OB :2011/06/24(金) 07:51:34.09
>>187 21歳旧帝国大学古代史専攻
ぼんくらのなりきり演技。
普段から、日常勉学の数倍も読書をしなきゃ入るのは無理なはずだが、
句読点も正確に打てない文章力では無理だな。(from天才)
>魏の使者が来たのは伊都国までであり、あとは伝聞ではないかと考えます。
本物の「生学」ならゼミってるはずだが、どんなぼんくらセンセについてるんだ?
>当時の中国人の日本に対する地理感覚は、日本は南に伸びてる島国という感覚だった
コンチキ図を持ち出した欺詐一派の受け売りを教わったのか?
それはとっくに破綻しているのだが、知らないらしいな。遅れてるぜ。
>伊都国の外交担当者がわざわざ自国の都の正確な場所を 他国に教えるのはリスキーだと考え、
生学の分際で「見てきたような憶測空論」をいうようじゃ、先が思いやられるぜ。
193 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 07:58:50.92
もともと、道程記載記事が合わないので無かったことにするのが 畿内説。 で、論争も都合が悪くなってきたんで、論争も無かったことに したいらしいな。
194 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 08:05:52.62
えっ、都合が悪くなってるのは九州説ですがw 吉野ヶ里ブームの頃の20年前とは状況が違いますよ。
195 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 08:09:02.33
ブームがあったら都合がいいのかい? ブームが無かったら都合が悪いのかい。 君が言っているのは、グッズを売る商売の話かな?
196 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 09:11:12.17
邪馬台国ブームを牽引したのは紛れもなく九州説。 畿内説はブームに関係なく巻向遺跡を始め 発掘による成果を上げてきたという事だよ。
197 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 10:15:14.16
巻向が170回掘って、いろいろ発掘成果は上がっているが、 邪馬台国とつながるものはなにもないからな。
そう思うのは一部の特定思想集団だけです。 いつまでも九州の中で夢見てたらいいよw
199 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 10:36:38.81
おいおい、ここは、「これがある」、「これもある」と、提示する局面だろう。
200 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 11:06:23.83
いまどき古代史など専攻してても就職ないよ。 よくて学校の先生。
>>200 小中学校の先生なら十分だろ。公務員だし
院まで行く価値があるのかって問われるとなんだけど
学校配属も院卒だと有利?
202 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 12:09:42.54
>>158 >道なりは、知識が無いので不明、3000kmくらいか?
911km 609km 376 km 51km 150km
西安市 ⇒ 天津 ⇒ 沈阳 ⇒ 平壌 ⇒ 沙里院 ⇒ ソウル
481km 1,033km
⇒ 済州島 ⇒ 与那国島(狗邪韓國) 総距離約3,610.176km≒8357里。
長安(西安市)〜帶方(沙里院)までは約1,947km≒4507里
203 :
サガミハラハラ :2011/06/24(金) 12:20:42.70
小学校の先生で十分ですよ。 夏休み40日間研究に没頭できるし。 考古ならともかく、文献史なら何ら不便ありませんよ。
204 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 12:32:47.40
205 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 12:52:25.22
>>204 調べてたら、台湾の近くにも東冶という地名があるようなんですが、
いくつかの東冶のどれかが該当するのでしょうか?
それとも、東冶がある領域全体をさすのでしょうか?
なんだか、東の端を意味する一般的な言葉のような気がしてきました。
206 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 13:31:29.89
207 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 13:32:33.99
208 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 13:32:43.02
209 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 13:34:04.06
>>207 続
五台県東冶鎮(北緯38度38分36秒)の東は、
魏志の「自郡至女王國萬二千余里」の「女王國」にあたり、
陽城県東冶鎮(北緯35度21分53秒)の東は出雲(北緯35度22分01秒)で
魏志の「伊都國 」です。
210 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 14:37:45.55
>>206 >後漢が成立すると冶県は東冶県に改められ県西部には候官県が設置された。
が「計其道里當在会稽東治【冶】之東」ですね。
後漢が成立すると「会稽東治」で前漢は「会稽【冶】」ということですね。
211 :
sss :2011/06/24(金) 16:18:16.08
郡使が伊都国に常駐していて、奴国や不弥国までは行ったが、それから先には行っていないというのは一理あると思う。 理由は、まず、伊都国についてわざわざ「常駐」という言葉を使っていること。 不弥国から先が里程ではなく日程になっていること。 次に、卑弥呼に会ったとすれば、これは一つのクライマックスで、かなり詳しく書かれていてもいいはずなのに、 会ったと明言されてもいないし、そのときの卑弥呼の様子の記述もないこと。 また、倭人伝には「及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」と書かれている。つまり、 「港に臨んで皆、調べを尽くし、文書や賜り物を女王のもとに伝送する。間違えることはない」。梯儁や張政が直接卑弥呼に 届けたとすれば、このようなことを書く意味がなくなる。 郡使が文書や賜り物を積んだ船が出て行くのを見送っている風景が浮かぶ。 不弥国の港(筑後川の北岸)から有明海を南下していく船を見送っているというわけである。
212 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/24(金) 17:56:50.62
>>211 「及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
「臨津」は何処と考えているの?
官不在の末盧國の「津」ですよ。
官の代役として一大率が「搜露」「不得差錯」していたのです。
「津」は古松浦湾の湊
213 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 18:25:41.66
>>192 帝大古代史専攻OB
ちょっと待て。
「ぼんくら」「天才」「コンチキ」…使用語彙その他どう見ても『 森村伊作 』だが
本当に帝大で古代史専攻なのか?
正直にわかには信じられない話。
旧帝大で古代史専攻してそれであの知識で、それ以前にあんな日本語なのか?
ぶっちゃけこいつが
「家庭の事情で実は中学にも行ってませんor中退です」
…という話の方が余ほど得心が行くレベルだw
「いえ古代史といっても邪馬台国をやったわけじゃありません」
「もう卒業して何十年も経ちますから」
「文献が専門で考古学には暗いんです」
「2ちゃんなんで思いっきり手を抜いてラフにやってますw」
…etc の様な言い訳で済むようなレベルじゃないぞ?いやマジで・・・
214 :
sss :2011/06/24(金) 18:39:37.61
>>212 末盧国までま郡使も同じ舟に乗ってやってきたわけで、自分たちが管理していたわけだから
特に調べる必要はない。
陸行することにより、人夫が荷物を運ぶ、その後、再び舟に乗せて運ぶから下賜品が揃っているかどうかを
確かめる必要があるわけで、それは不弥国の港だと思う。
215 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 18:41:40.01
216 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 18:47:39.71
一大卒が伊都(佐賀大和)ならどっちにあってもいいわけか。 輸入品を調べる税関のような役目なら、 唐津のほうが可能性は高いんじゃね? 民間レベルで女王国じゃなくて、別の国に行くものもあるだろうし。 女王国を差し置いて、独自に魏への外交文書を送ったり、 勝手な武器の輸入は唐津で抑えなけりゃならんだろうから。
217 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/24(金) 19:30:38.93
>>214 >末盧国までま郡使も同じ舟に乗ってやってきたわけで、自分たちが管理していたわけだから特に調べる必要はない。
正当な郡使か偽者かをチェックしていたのだ。
文書と文物に異差があり、偽者と判れば上陸拒否。
218 :
213 :2011/06/24(金) 19:34:06.81
とりあえず、この伊作がとても大学で歴史を学んだと思えない発言の一例を数ある中から挙げるとだ… かつてこの伊作とか言うアホが言った事で 所謂「纏向型前方後円墳」の年代で纏向の(ホケノや石塚といった)物の3世紀という年代は信じられず 関東のもの(神門だったかな?)はその3世紀という年代は信じられると言い放った。 で、その理由を聞いたら 「畿内の物は邪馬台国論争に絡んでいるから信用できない、関東のものは絡んでいないから信用できる」との事。 もう馬鹿丸出し、ド素人の俺でも恥ずかしくてこんな事は言えないw 素人・玄人以前に頭がおかしいとしか思えないレベルだwww ゴミクズレベル九州説の中には理解できないアホがいるかもしれないのであえて言っておくが 「匿名の掲示板だから普段腹の中に溜めている畿内説あるいは考古学全体に対する疑義・不満を吐露してしまった」 …なんてお話ではなくて 一体3世紀頃の遺物遺跡に関東が独立単独で絶対年代の数字を与えるような指標なり方法があるのか?という話 じゃあ、前方後円墳は関東発祥か? それともこの馬鹿は東遷説をほざいていたから九州発祥で 一度畿内をすっ飛ばして関東に伝播、その後Uターンする形で畿内に伝播とか?…ワケワカラン 一体こいつが古代史を学んだ帝大って何処だ?
アクセル全開
220 :
伊作先生 :2011/06/24(金) 19:44:29.36
>>211 >郡使が伊都国に常駐していて、奴国や不弥国までは行ったが、それから先には行っていない
普段は伊都国どまりで、詔書と金印届けるときは入っている。
>伊都国についてわざわざ「常駐」という言葉を使っていること。
だから、普段は伊都国どまりだった。当然のことなんだよ。
使節は王都から離れたところに定宿を提供される。
隋の使節の時、難波津に迎賓殿をつくって定宿としたのは周知のこと。
彼らが4ヵ月ほど駐在した中で倭王に接見したのは
国書を渡すときと饗応晩餐の2回たけだよ。それが倭国王の威厳というものさ。
そんなちょこちょこ入京できるもんじゃない。
>不弥国から先が里程ではなく日程になっていること。
こんなことはあなたの表記の推論の論拠にはならない。
>卑弥呼に会ったとすれば……かなり詳しく書かれていてもいいはずなのに、
>会ったと明言されてもいないし、そのときの卑弥呼の様子の記述もないこと。
詔書と金印を「倭王に拝假し」とある。別途に持参した贈り物をもたらしている。
これらを代理人が持参したり、代理人が渡せると思ってるのかい。
使節が訪れたときの卑弥呼の周辺状況も書かれている。
221 :
伊作教授 :2011/06/24(金) 19:45:29.14
>>211 つづき
>「及郡使倭国、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」と書かれている。
>梯儁や張政が直接卑弥呼に 届けたとすれば、このようなことを書く意味がなくなる。
まず、梯儁や張政がとどけたのではない。皇帝代理の節を持した使節がとどけている。
書いてなくても歴史の常識だよ。宮内庁に入って確認してみ。
さて。「及郡使倭国、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」だ。
これは、俺が最も軽蔑する「文章寸断提示法」というやつだ。
このぶつ切り文章の前に、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓国」とあるだろ。
妙なところでぶつ切りするんじゃなく、こうだよ。
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓国、及郡使倭国、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
これは、一大率の仕事ぶりに関する説明文で、別に魏使の往来のときに限ったことではない。
倭王が使わした使者が洛陽、帶方郡、諸韓国へ往来するとき、
「および」郡太守が派遣した使者が倭国へやってきたとき。
すなわち倭国から諸外国へ、諸外国から倭国へ往来する人・文物はみな津に臨んで搜露する。
それだけのことだよ。
これが何で、魏の使節が詔書と金印を卑弥呼に届けたことと関係があるか。
ずいぶんむちゃくちゃな論法だな。
>魏の使節が詔書と金印を直接卑弥呼に届けたとすれば、このようなことを書く意味がなくなる。
関係ない話だよ。
もちっと、筋の通った思考をする人かと思ったが。かいかぶりか。
222 :
伊作教授 :2011/06/24(金) 19:48:42.07
>>213 >>218 こいつ、ほんもののバカだな。
ジョークも理解できないジョーカーか。
俺が芸術系だってことは、そちこちでゆってることだ。
分裂的自己陶酔型自家中毒風味の単細胞め
223 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 20:03:40.13
>>222 鉄クズ紙クズはリサイクルできてもそれができない人間のクズ=森村伊作
ジョーク?何処が面白いんだドアホ。
日本語の「てにをは」すら怪しいレベルの馬鹿が句読点の打ち方云々を意見して
体張って”ピエロの笑い”を誘っているところか?w
知ったかぶりで大きく出て引っ込みつかなくなって
「ジョーク」で誤魔化すのかこのゴミは…
まあお前が本当に旧帝大で古代史を専攻した人間なんていったら
日本の教育に絶望しなくちゃならないところだったからなその点はひと安心だがw
224 :
伊作教授 :2011/06/24(金) 20:05:46.55
>>213 >>218 ジョーカーよ。
お前の得意なこれな。↓↓↓
「不当な人物像でっちあげ・連呼刷り込み害宣作戦」。
82でも畿内説連が盛んにやってきた手口だ。
畿内説ゴリ押しと存続のための手口も多くはないとみえて、
行き着く所はまったく同じだな。
そういえば、畿内説推進のための手口も進歩せず、
人と時代は替わってもやることは欺詐から脱却していないようだな。
嘲笑・嘲笑
225 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 20:25:42.71
>>185 >大体引用してる文献を一言一句正確に写している文献などあるのか?
ごまかしている文献が多いとしても、それが正しいわけではない。
>晋書と魏志で同じ出発点から同じ到達点において、里数・日数が変わった例はあるのか?
何を言いたいのか、分からんな。私は同じ表記で書かれていても、同じかどうかが問題だと
言っているんだ。
>必ず都だとは言ってませんが、ある程度の基準はあるでしょう。
違う可能性があるなら、それを解明しなければ比較なんぞ無意味だろうが。
>短里の可能性もあるでしょう
短里だったら、六十日に対応するのが千里か、二千里か、もっと大きい数字か
わけが分からんじゃないか。
226 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 21:03:35.34
>>212 >「臨津」は何処と考えているの?官不在の末盧國の「津」ですよ。
現代の常識にまどわされているな。一大率がわさわざ末盧国まで出かけるか?
津は伊都国の津だよ。
227 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/24(金) 21:24:31.86
>>226 >現代の常識にまどわされているな。一大率がわさわざ末盧国まで出かけるか?
官不在の末盧國においては、官の業務を代行する一大率は常駐。
228 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 21:28:21.77
>>172 ,
>>176 忍法帖はローガンだったのか。どうりで駄文を書いたわけだね〜。
それにしてもバカはバカなりにプライドを持っているもんだね〜。別hnでバカ認定されたのが口惜しくて耐えきれなかった
のだろうが、hnを切り替えるのを忘れて馬脚を現したのね。黙っていれば忍法帖が静かに消えることで済んだものを。
>これは、私の書いた「南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。」に対して、
>彼は「原資料を改竄することは極めて考え難いことである。」という理由で、戯言だと断定しているわけ。
念を入れての恥の上塗りざんすね。
「陳寿が原資料を改竄することは極めて考え難いことである。」ということは魏の使者達が判断した方角や距離が原資料
に書かれていたということである。そのことは陳寿が「南に延びる列島という感覚」を持っていようがいまいが関係ない
話であるざんしょ。
ついでに言っておこうかな、
中国の王朝の中で最初に使節を倭に派遣したのは魏である。つまり、公式に倭の地理を実地に調べることができたのは魏の
使節団が初めてだとされる。その魏の使節団が初めて自らの目て知り得た地理情報が倭人伝の原資料である。それ以前にお
いては倭は「楽浪海中有倭人」とか「倭在韓東南大海中」というくらいの大雑把な認識しかなかったようだね。
短里の人は、 高句麗在遼東之東千里 をどう考えてるんだろう。 遼東郡の役所から高句麗の都の丸都だったら250kmくらい。 千里は長里で400km以上。短里で76km。 短里じゃぜんぜんだけど、長里でもながい。 おなじ東夷伝なのに、倭人伝の六分の一とはちがう、いわば二分の一短里。 それとも距離をはかる起点が違うのかな。
230 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 21:47:03.77
>>229 出典と論点を明確にしていただければありがたいですね。
前後にもう少し情報があるかもしれませんし。
大和朝廷の人々に邪馬台国の記憶がないのはおかしいって とっくの昔に滅亡した九州の政権だったから 誰も覚えてなかったんだろ って色んな研究者が言ってるね
232 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 22:06:51.53
そういや、どこで読んだか記憶にないんだけど、 空海が博多に上陸したときは自国に帰ったという認識がなく、 畿内まで帰って、国に戻ったと詠んだとか。 まあ、まだ九州まで含めた全域を 自国と認識していなかっただけかもしれないが。
>>229 こういう例は議論しても意味ないよ。
郡庁の所在地を起点にするか、国境を起点にするか
とかとかで議論百出→結論でない。
これがいつものパターンでやんすから。
235 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 22:26:19.04
太宰府は「遠の朝廷」と呼ばれていたが、 ほかの朝廷の出先機関で、この名前で呼ばれた例はない。
236 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 22:38:35.01
>>229 東夷伝には、扶余方二千里、高句麗方二千里、東沃沮千里(方千里)などが
でてくる。これは長里ではまったく理解できないが、短里ならば理解できる
ところだ。高句麗在遼東之東千里も長里ではだめだ。短里ならば、丸都には
届かないが、遼東郡の役所から千里で高句麗の領域に入るということならば、
理解できる。したがって、その可能性が一番大きそうだな。
237 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 22:52:29.12
>>236 短里じゃ遼東郡の役所から遼東郡の外には出られないよ
短里じゃ説明がつかない
長里でも説明がつかない
238 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 23:02:39.68
>短里じゃ遼東郡の役所から遼東郡の外には出られないよ 遼東郡がどこまでか知ってるの?
239 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 23:15:49.61
そもそも頭よければ邪馬台国問題など華麗にスルーする。 こんなん出口のない迷路で、推論だらけになり不毛だからね。 というか歴史学などという過去を振り返る後ろ向きな学問を 専門にすること自体頭悪いがなw 全く役に立たないし。趣味程度で軽く歴史の本読むのが一番。 頭良ければ理系の実学分野専門にする。 古代史なんて一番馬鹿がやる分野ww
240 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 23:15:50.81
>>237 なんか、思ってることがありそうだけど?
241 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 23:20:50.15
>>239 まあ、そうかも知れんが。そう言うお前さんはなんでここに書き込みをするんかね。馬鹿の仲間入りを
したいからじゃないんか?
>>240 なんもない
ただ説明がつかんけど、短里の人はどう考えてんのかなあと思っただけ。
243 :
sss :2011/06/24(金) 23:34:05.74
>>221 >皇帝代理の節を持した使節がとどけている。
そのような重要人物の名前も書かれていないし、そのような存在をうかがわせるような記述もない。
にもかかわらず、「歴史の常識」で済ませるのは非常におかしい。
何かを主張するのなら、それなりの根拠を示すべき。
「臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」この文章で最も重要なのは、「傳送文書賜遺之物詣女王」
の部分で、文書や賜り物を女王の下に送り伝えるという部分。
文書や賜り物は、明らかに魏の皇帝と関係する部分なので重要。これを送り伝えるというのがキーポイント。
郡使が自分で持っていくとしたら、このような書き方はしないだろう、ということ。
毛沢東の長征が2万五千里である事を考えると 少なくとも20世紀半ばまで短里は存在していたと言えるだろう。
245 :
大阪人 :2011/06/24(金) 23:36:16.89
>>225 >ごまかしている文献が多いとしても、それが正しいわけではない。
後代の文献が先代の文献を写している例は山ほどあるが、一言一句変わらぬものはあまりないでしょう。
それらは全て正しくないと言うのですか?
>何を言いたいのか、分からんな。私は同じ表記で書かれていても、同じかどうかが問題だと
>言っているんだ。
いやだから、同じかどうかわからないって、同じじゃない例をあなたが出せば済むことでしょう。
私が調べたところそんな例はないです。
同じじゃない例があるのなら出してほしいですね。
>違う可能性があるなら、それを解明しなければ比較なんぞ無意味だろうが。
私は統一基準があると言っているのです。
なぜなら、同一出発点・到達点において里数・日数が変わった例がないから。
その基準点が変わる(つまり、同一出発点・到達点において里数・日数が変化する)ような例があるのならそれを出せと言っているのですよ。
これだけくどく例を出してくださいと言ってるのに一つも出せないということは
そのような例はないと考えてもよろしいのですか?
>短里だったら、六十日に対応するのが千里か、二千里か、もっと大きい数字か
>わけが分からんじゃないか。
何を難しく考えているのですか?
もし短里だとしたら、短里の千里にそのまま六十日行が適用されるんでしょう。
もちろん長里の千里だった場合は長里の千里に六十日行が適用されるんです。
246 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 23:52:46.61
>>243 sss氏
そうですなあ。貴殿の言い分び方がまともですな。
247 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 23:54:01.99
246 訂正 そうですなあ。貴殿の言い分の方がまともですな。
248 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 00:42:54.48
>>245 >同じじゃない例をあなたが出せば済むことでしょう。
何を言いたいのか、よく分からないが。
漢書の西域伝には長安から各国までの距離が記されている。
ケイヒン国までは万二千二百里、ウヨクサンリ国までは万二千二百里とあるそうだ。
ケイヒン国よりもウヨクサンリ国は明らかに遠いにもかかわらず、同じ距離が書か
れているという。ということは、ウヨクサンリ国までを万二千二百里と報告した人は
ケイヒン国まではもっと少ない距離と判断したんだと思うよ。
249 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/25(土) 00:46:47.52
>>229 >「高句麗在遼東之東千里」をどう考えてるんだろう。
「高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮 濊貊 東與沃沮 北與夫餘接」
「夫餘在長城之北 去玄菟千里 南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑接」
高句麗と夫餘はその領域で南北に接しているとある。
高句麗と遼東郡が接しているとは書いていない。
遼東郡の領域の東千里に高句麗の領域があるの意味だ。
遼東郡の領域と高句麗の領域の空白地域(隙間)が千里の意味である。
高句麗の都と遼東郡庁の距離が250km(3300里)とするならば、
遼東郡の領域と高句麗の領域の空白地域(隙間)が1000里であるから、
高句麗と遼東郡の其々の領域部分の和が2300里(175km)となる。
位置関係に何の問題もなし。
250 :
大阪人 :2011/06/25(土) 01:03:56.18
>>248 急になぜその話が出てきたのかはわかりませんが、今その話は何の関係もないでしょう。
あなたはレス番
>>167 から
>>>時代によって出発点が中心か国境かがかわるのか? by大阪人
>>時代によってではない。書く人によって、また、書く状況によって、変わることが考えられる。
同じ出発点・到達点でも書く状況によって基準がかわる可能性があると言ってるのでしょう?
例えば、帯方郡から女王国まで萬二千というのが時代(史書別に)とともに出発・到達点の基準がかわるのなら
郡の境界から女王国の境界を基準とする場合であれば、群の中心と女王国の中心を基準とした場合より距離は縮まるはずです。
つまり、基準が変わった場合、里数や日数に変化が及ぶ可能性があるということ。
しかし、そう言った例はないのですから、時代と共に出発点・到達点の基準が変わることはないはずです。
もし、基準点が変更された例があるのならその例を出して下さいと言っているのです。
後漢書では楽浪郡の境界から萬二千に変わってるとか?
252 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/25(土) 01:19:08.46
>>23 >鹿島灘以北の太平洋側には灘がないとwikiで特筆していた。
>灘の名付けには、海流、地形のほか歴史・文化的な影響があるのだろうか。
>説をお持ちの方は投稿してください。
東北に「灘」がない。いや、富山東部以北茨城北部以北に灘がない。
「灘」が確認できるのは、東は鹿島灘、北は富山湾の灘浦まで。
「灘」の分布地域は、海洋民九州倭の進出地域に限るようだ。
鹿島灘は倭武天皇の逸話により、灘浦は富山平野の地名により、海洋民九州倭の進出が裏付けられる。
「灘」がある若しくはあった海域と、「住吉神社」がある若しくはあった地域には密接な関係がある。
住吉神社と灘の関係からも海洋民倭の進出が考えられる。
茨城県北部以北、富山平野東部以北の海には「灘」がない。
これらの地域には7世紀末に畿内勢力(大和朝廷)が関東平野と西日本の人々を侵略移住させたのである。
時代背景
7世紀末には浜通りの鉄資源を求めて畿内勢力(大和朝廷)の侵略があった。
ヒタカミ国(日高見國)への畿内勢力の陸路侵攻である。
253 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 01:23:18.53
>>250 >急になぜその話が出てきたのかはわかりませんが、今その話は何の関係もないでしょう
同じ地点間で距離がちがう例をだせと言ってるのかと思ってだしたまでだが・・
>同じ出発点・到達点でも書く状況によって基準がかわる可能性があると言ってるのでしょう?
「同じ出発点・到達点でも」という意味が分からんのだよ。
同じ表記がなされていても、一方が都で、他方が領域の端ならば、同じ出発点・到達点ではない
ってことだからね。
>そう言った例はないのですから、時代と共に出発点・到達点の基準が変わることはないはずです。
254 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 01:28:31.29
書き忘れた。 >そう言った例はないのですから、時代と共に出発点・到達点の基準が変わることはないはずです。 万二千里で至る女王国と東渡海千里にいう女王国とは別の地点だろうね。 女王国を去る四千里の女王国も上の二つとは別の地点だ。これらは同じ表記でも地点がちがっている ということになると思うが。
255 :
大阪人 :2011/06/25(土) 01:49:51.37
>>253 >>254 >「同じ出発点・到達点でも」という意味が分からんのだよ。
>同じ表記がなされていても、一方が都で、他方が領域の端ならば、同じ出発点・到達点ではない
>ってことだからね。
>万二千里で至る女王国と東渡海千里にいう女王国とは別の地点だろうね。
>女王国を去る四千里の女王国も上の二つとは別の地点だ。これらは同じ表記でも地点がちがっている
>ということになると思うが。
いやいやそんなことを言いたいのではない。
「同じ出発点・到達点でも云々」とは
出発点(郡)、到達点(女王国)が史書によって基準がかわるのかということ
つまり東渡海千里にいう女王国だとか、女王国を去る四千里の女王国と比較しているのではなくて
魏志における郡と女王国、晋書における郡と女王国、随書における・・・などなど同じ区間を書物別に比較しているのです
そして、なぜ同じ区間を史書別に比較しているかというと、あなたが
>>時代によってではない。書く人によって、また、書く状況によって(基準が)、変わることが考えられる。
と言ったからです。
256 :
大御所・伊作 :2011/06/25(土) 07:11:06.87
>>243 「皇帝代理の節を持した使節がとどけている」。
歴史の事実だよ。
>そのような重要人物の名前も書かれていないし、
>そのような存在をうかがわせるような記述もない。
「私は歴史のイロハを知らないで論じてる」と告白するも同然の発言だね。
>「歴史の常識」で済ませるのは非常におかしい。
常識で納得できなければ「しきたり」。
しきたりで納得できなければ宮内庁に行って聞いてくること。
漢誌を知ってるか。きみなどはまったく理解できまい。
文字数少なく比喩・故事が多用されていて「書いてない」ことばかりだからな。
わらわら
>>24 こいつ、もはや俺に対しては反感しかないようだな。
よほど育ちが悪いらしい。
257 :
大御所・伊作 :2011/06/25(土) 07:13:50.52
>>247 こいつ、何かを根にもってるらしく、
もはや俺に対しては反感しかないようだな。
よほど育ちが悪いらしい。
258 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 08:16:19.17
>>255 >あなたが>>時代によってではない。書く人によって、また、書く状況によって(基準が)、変わる
>ことが考えられる。と言ったからです。
かってに「基準が」などと補わないでくれ。私は基準が変わると言っているわけではない。書き方が
変わるといってるんだ。基準なんてものはないってことだよ。
>出発点(郡)、到達点(女王国)が史書によって基準がかわるのかということ
郡と女王国の問題とすれば、幾つかの史書に書かれているといっても、元は一つ
の資料から出ている話だろう。だから、同じような書き方になってるだけだ。
まったく別の資料から出ている記事はなかなかないぜ。それを同じ出発点・到達
でも云々」と言われてもね。それよりは、国名が記載されていても、都を意味す
るもの、領域を意味するものがあるかどうかが問題だろ。
あなたは、両方あることを必ずしも否定してはいないようだ。ならば、問題の扶
余・ゆうろうについても簡単に同じ地点間の話だなんて言えないってことだよ。
259 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 10:27:30.06
伊作の「皇帝代理の節を持した使節がとどけている」というのはトンデモだけど 「臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」から使者が邪馬台国へ行って いないなどというのも間違いだ。 わざわざ詔書や印綬を奉じてきた使者が倭王に会わないわけはないし、倭王に拝仮 しと会ったことは明記されている。伝送というのは、使者を案内する連中が途中で 交替し、一行の荷物を引き継いで行く様を書いたものだよ。
260 :
水銀厨 :2011/06/25(土) 12:00:48.35
倭王と女王は別物でしょう。
261 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 12:03:09.84
>>256 さすが大御所伊作
正始元年太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國・・・
倭人伝には正始元年に帯方郡太守の弓遵が建忠校尉梯儁等を派遣し詔書印綬を奉じて倭国に詣らせ・・・
と書いてあるが、詔書を届けるのは皇帝代理の節を持した使節であり、その使節を派遣できるのは皇帝
であり帯方郡太守如きが派遣できるものではない。だから、上記の文はそのとおりに読んではいけないと
言うわけだね。また、
皇帝の詔書や下賜品を携えた使節一行については代表者として使節その人ではなくお付きの武官の名前を
載せるのがしきたりだと言うわけだね。
262 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 12:33:26.97
>>257 大御所伊作
>
>>247 >こいつ、何かを根にもってるらしく、
>もはや俺に対しては反感しかないようだな。
>よほど育ちが悪いらしい。
なるほど。「そうですなあ。貴殿の言い分の方がまともですな。」という文の行間を読むとそういう
ことが判るのですね。さすがですね。勉強になります。今後もよろしくご教示下さい。
263 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 12:49:01.42
>>260 >倭王と女王は別物でしょう。
倭王は女王です。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
男王が倭王を称しても、中華はそれを認めないから、「願請見」で終わりだった。
264 :
大阪人 :2011/06/25(土) 13:25:51.99
>>258 >書き方が変わるといってるんだ。基準なんてものはないってことだよ。
書き方とは、境界か中心かどちらを基準(出発点・到達点)にして書くかってことでしょ?
まあ基準という言葉がお嫌いなら、その書き方が違う例を出して欲しいですね
いちいち細々と反論しなくても例を出せば一発で私は黙りますよ
例はないんですか?
>ならば、問題の扶余・ゆうろうについても簡単に同じ地点間の話だなんて言えないってことだよ。
だから、簡単に言えないというのなら同じ出発点・到達点において史書によって変更されてる例があるなら出せと言っているんですよ
もしそんな例が出てきたのなら、確かに一概に同一ではないと言えるでしょう
しかし、そんな例がないから同一である可能性は極めて高いと言っているんですよ
そして仮に扶 余・ゆうろう間の地点に魏志・晋書で差異があったとしても
そこにどれほどの差異があったとお思いですか?
265 :
大阪人 :2011/06/25(土) 13:37:02.45
>>260 魏志倭人伝中の倭王と女王を言ってるのですか?
それなら
「詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼」
「今以汝為親魏倭王」
から同一であることが覗えますよ
266 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 15:13:11.74
>>265 「正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王・・倭王因使上表荅謝詔恩
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人」
『正始元年の倭王、其四年の倭王』は女王であることは間違いありませんが、
『親魏倭王卑彌呼=正始元年の倭王、其四年の倭王』だとは、疑義がありますね。
267 :
水銀厨 :2011/06/25(土) 15:13:36.21
>>263 >>265 普通に考えると倭王=卑弥呼で全然問題ないのだが‥
厳密に考えると倭人伝の他の文中で何故倭王と
倭の女王卑弥呼と表現を変える必要があるのか?
という疑問です。
268 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 15:40:45.38
>>267 魏が景初2年に卑弥呼を親魏倭王に制詔するまでは倭女王としている。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻
その後は正始八年のところで一回だけ倭女王卑彌呼とあるが、
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
これは卑弥呼が親魏倭王となる前から狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であった(素不和)ために倭女王
としたものか、あるいは狗奴国男王卑弥弓呼との対比上倭女王卑彌呼としたものであろう。
些細な表現の差だが気になる部分かな。
270 :
ローガン :2011/06/25(土) 16:58:18.22
>>228 >「陳寿が原資料を改竄することは極めて考え難いことである。」ということは魏の使者達が判断した方角や距離が原資料に書かれていたということである。
それは「陳寿が改竄したんじゃ!」と主張してる人に言ってね。それと、「魏の使者達が判断した方角や距離が原資料」とやらを提示してごらん。出来ないでしょ。(笑)
>そのことは陳寿が「南に延びる列島という感覚」を持っていようがいまいが関係ない話であるざんしょ。
云うところの原資料とやらに、あたれないんだから、その主張自体が無意味。
271 :
大御所・伊作 :2011/06/25(土) 18:14:16.49
>>261 ●詔勅の吟味・出納を行なう門下省
●詔勅の記録・伝達を行なう中書省
れつきとした専門部署が置かれて担当していたほどだ。
また。外交使節に軍人は起用しない。これが事実だ。
↓↓↓これはまんま・育ちの良くない下賎者の皮肉か。
少なくとも、歴史の真相をみようとう殊勝な態度じゃないわな。
>皇帝の詔書や下賜品を携えた使節一行については代表者として使節その人ではなく
お付きの武官の名前を載せるのがしきたりだと言うわけだね。
詔書は節を持した使節が持参する。
この厳然たる「しきたり」は、中卒程度の知識しかない日本人ではなく、
中国の知識層には「いわずもがな」の常識だ。
使節の名がないからいなかったのではない。いたが常識ごとだから省略したのだ。
省略するかしないかは、書いた当事者の選択による。
1700年ものちの中卒程度の知識しかないバカがどうこうとうことじゃない。
で・どうだ。加えて「外交使節に軍人は起用しない」という儀礼の常識があるのに、
まーだ「名が書いてある軍人」が使節代わりに持参したというか。
無知をさらけた無恥ぶりももいい加減にせい。
正論で真相を提示してもらってるという謙虚さもないタコどもが。
272 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 18:17:19.43
>>270 ローガン
まだ拘っているのか?往生際が悪いねえ。
>>157 を読み直してごらん。
そこでキミは陳寿が南に延びる列島という感覚を持っていたと匂わせ、そういう感覚で書いたものだから間違いがあっても仕方
ないと言っている。普通の人が読めばそのように受けとれるのだが違うか?
だから、キミのそのレスを読んだ人が呆れてキミをバカと認定したんだろ。違うか?
キミをバカだと呼んだ人は理由を挙げている。
>幼稚だなあ。我々が目にする事が出来る三国志は、陳寿という編者が記したもの。
というキミの発言は「誰でも知っていることを得意げに述べただけの幼稚園児並みの無意味な内容である。」
>陳寿が来倭したわけで無し。
陳寿が自分の目で見て書いたものではないということはそのとおりだが、そんなことは史書を編纂する上で何の関係もない。
このようにキミは無駄なことを書き込んだ。それも得意げに。だからバカと呼ばれたのだ。
それから270の
>それと、「魏の使者達が判断した方角や距離が原資料」とやらを提示してごらん。出来ないでしょ。(笑)
バカにつける薬は無いんだねえ。「魏の使者達が判断した方角や距離が原資料」って何だ?
「魏の使者達が判断した方角や距離=原資料」か?文章の書き方を知らんのか?
陳寿は原資料に書かれていた方角や距離をそのまま書いたと考えられる。魏の使者達の報告書類が晋の役所に残されていたのだ
ろうが、その書類に書かれたことを曲げて書くわけにはいかんだろうからね。
で、その原資料にある方角や距離は勿論陳寿が書いたものではない。使者達が判断して書いたものでしか有り得ない。
だが、その原資料は現存しない(未だ発見されていない)。そんなものを出して見せろとは アホか!!
273 :
大御所・伊作 :2011/06/25(土) 18:26:34.89
>>262 >「そうですなあ。貴殿の言い分の方がまともですな。」
>という文の行間を読むとそういうことが判るのですね。
>さすがですね。勉強になります。今後もよろしくご教示下さい。
やはり図星だったな。俺に対する反感をもってることが見え見えだ。
俺の「書いてない字間・行間を知識で埋めて読む」という文献読みの当たり前のことを、
無恥ゆえにしてこなかった悔しさが残っている奴の姑息な根性がみえみえだ。
で・てめえも、儀礼を重んじる大帝国が
倭国へ詔書を持参した使いに帯方郡の軍人を起用したてか。
無知まる出しの無恥意見を言う奴に
「そうですなあ。貴殿の言い分の方がまともですな。」というわけだな。
無知まる出しの無恥意見の上塗りだ。あっちいってろ・けがらわしい
274 :
大御所・伊作 :2011/06/25(土) 18:47:15.35
ダメ押しだ。 「梯儁が持参した。張政が持参した」。 こういうイージーなバカげた投稿が横行している。 塞曹掾史の「掾史」は禄高300石の下士官だ。 建中校尉というのも、帯方郡で働く中級警察官吏だろう。 こんなのを、国家間の重要なトップ外交の使節には起用しない。 ついでに。 禄高300石の張政が、 天子が認めた禄高2000石の率善中郎将や倭国王に対して、 何かを告諭したというのもバカげた言説だ。 お前ら半端素人は、我を張る頑固さと態度だけは一人前だが、 やってることはガキのなじり合いに等しい。 もっと基本的な所の知識と考え方からやり直せ。 巨大帝国の外交の歴史を見ていめのに、 個レベルレのマイナーな古代史空間しか想定できないクソ野郎ども。
275 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 19:06:06.95
>>264 >例を出せば一発で私は黙りますよ
例をだせばというが、あなたの求める例というのが奇妙な話なんだよ。
何で「同じ出発点・到達点において史書によって変更されてる例」なんだ?
都を出発点・到達点にして書く例と国境を出発点・到達点にして書く例があれば、
それで十分じゃないか。書物を書く人物が、自分の書こうとする国と国とについて
過去に都をもって示した例があるか、国境をもって示した例があるか、なんてこと
をいちいち調べるわけはないんだよ。
あなたの「例をだせ」って要求は、同じ国と国の間を取り上げた記事は簡単にはみ
つからないだろうということで、無理難題をふっかけているだけにみえるがね。
陳寿がどうこう言っても仕方ないだろ。 所詮、魚豢の「魏略」を引き写しただけなんだから。
277 :
サガミハラハラ :2011/06/25(土) 19:19:59.29
>>276 安本美典をはじめとして、魏略まる写し説が横行しているが、では、魚カンはどのようにして、魏略をまとめたというのであろうか。
是非おききしたい。
278 :
ローガン :2011/06/25(土) 19:58:07.57
>>272 >>幼稚だなあ。我々が目にする事が出来る三国志は、陳寿という編者が記したもの。
>というキミの発言は「誰でも知っていることを得意げに述べただけの幼稚園児並みの無意味な内容である。」
ほら、読めてない。(笑)言わずもがなの事をわざわざ言っている…ということに気付かないと。
つまり、あくまで「陳寿が記した」という事実だけがあって、そのテキストがなんであるか?を指し示す資料は無いという事。普通に読む人は理解出来る。
>陳寿は原資料に書かれていた方角や距離をそのまま書いたと考えられる。魏の使者達の報告書類が晋の役所に残されていたのだろう
来倭した使者がもたらした一次資料を、陳寿がテキストに用いた と、あたかも既成事実のように述べているところが、痛い。
>>277 外交記録、伝聞やら伝説をぶち込んで書いてみたんじゃない?
魏使自身はほとんど記録をを残さなかったと思うね。
倭国については、帰国後に聴取されたものだろう。
280 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 20:26:53.92
>指し示す資料は無いという事 だから、何をいってもいいだろうってのが畿内説論者の論理なんだね。 合理的に考えていくことを否定して論を立てようってわけだ。
九州説で合理的な説なんてあったかな?
282 :
ローガン :2011/06/25(土) 20:43:14.80
>>280 仮に、貴方が「短里」とやらの昭和の発明を指して 「合理的」だと考える御仁なら
>合理的に考えていくことを否定して論を立てようってわけだ。
については、否定しませんよ。
283 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 21:25:08.22
>>278 ローガン
ローガン氏もそろそろHNを変えたほうがいいんじゃないかい。ずいぶんと恥辱にまみれたローガンは静かに
消えたほうがよさそうだね。
>あくまで「陳寿が記した」という事実だけがあって、そのテキストがなんであるか?を指し示す資料は無いという事。
そんなことは誰でも知っているだろ。資料なしで書いたら創作記事になるから、原資料にあたって書いたと考えるのが当
然だが、陳寿はその原資料について言及していないからね。
そもそもこの議論はキミが陳寿が「倭は南に延びる列島だという感覚を持って書いたのであれば錯誤があっても致し方ない」
と書いたことから始まっているのだが、ここに来て論点があらぬ方向に逸れている。これはキミの常套手段である論点ずらしだ。
潔く非は非と認めなさい。
284 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 21:36:47.62
纒向はニギハヤヒの都。神武は滅んだ(滅びかけていた)九州の邪馬台国から 近畿勢がハイヤーした雇われ店長。初代天皇とは、近畿に邪馬台国のカリスマを 移植してくれたありがたい雇われ店長第一号という意味。 実務に優れたニギハヤヒに神武のカリスマがプラスされて無敵になった近畿勢が 一気に西日本を統一した。 こういうことじゃね?どうよ。 近畿説は腐ってるから、ここで聞くんだけど。
285 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 21:39:07.80
>>271 大御所・伊作
>使節の名がないからいなかったのではない。いたが常識ごとだから省略したのだ。
ほう。使節の名前も常識ごとだから省略されたのか。たかが軍人の名前は書かれているのに皇帝の代理である
使節の名前は書かれないとは奇妙だね。
286 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 21:41:22.49
>>281 記紀はなぜ神武以前では九州の話ばかりをやっているのかを、近畿説で合理的に
説明してみてくれ。
287 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 21:51:07.04
>>273 大御所・伊作
>で・てめえも、儀礼を重んじる大帝国が
>倭国へ詔書を持参した使いに帯方郡の軍人を起用したてか。
倭人伝には 正始元年太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國 と書いてあるからねえ。魏は儀礼を重んじる
大帝国とは言い過ぎじゃないかな。外交というものは国益を考えて行うもので、儀礼も相手次第だろう。東夷と呼
ぶこと自体が見下した態度であり、その東夷の倭だから軍人の使者で十分と考えたのだろうよ。
288 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 21:59:54.08
>>282 短里の考えで辻褄が合う箇所が現に沢山ある以上は、何が悪いのかイミフなんだが。
>>286 >記紀はなぜ神武以前では九州の話ばかりをやっているのかを、近畿説で合理的に
説明してみてくれ。
答え:九州の話ばかりしていない。
290 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 22:04:07.54
>>289 そういうのいいから。近畿のことが殆ど出ずに、九州や出雲のことばかり記事に出てくることを
近畿説で合理的に説明してみてくれ。
>>290 記紀か、一番最初に出てくるじゃん。
淡路島は近畿だよw
292 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 22:08:28.31
>>291 なんかデジャブ。
一番はオノゴロ島。んで、順番がそんなに重要なら、本州は最後なんだから
近畿説は無い。
293 :
大御所・伊作 :2011/06/25(土) 22:10:10.20
>>292 本州の秋津島で国がまとまったとさ。
それで高天原が葛城山(現金剛山)という事で終了。
295 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 22:13:32.05
>>293 大御所・伊作
痛い所を衝かれたようだな。
296 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 22:14:03.70
>>294 それは近畿に邪馬台国があることの証拠に全然全くならない。
本州が一番でかい島だから本州で仕上げということでしかない。
どうやったら近畿説の根拠になるんだ?
297 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 22:17:14.50
>>294 本州が最後でそれでまとまったんなら、本州が中心では無いってことだわな。
298 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 22:21:26.72
>>296 お前は頭が悪いのか?
記紀で神武以前に畿内の話が殆どないのは何故だ?
という質問だったはずだがw
国産み神話は淡路島が生まれて次に四国、そして九州だ。
畿内で産まれて他をまとめて畿内に戻る、それだけの事だよ。
何でそんなに順番に拘るの? 別に3番目だろうが7番目だろうが、何も変わらないだろ 神話なんだから それとも1番目だと税が安くなんの? 2番目だと兵役免除とか?
301 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 22:53:42.09
いや、言わせてやろうよ。 今や、畿内説の論拠はその程度しかないんや。
>>301 正直、両方気にしすぎ(一部の人達だけかもしれないけど)
まだ、神話の有無なら話はわかるが
順番では・・・・
反論できなきゃマヌケなちゃちゃ入れか。
>>300 半島の方の援護射撃ですか?
>>301 大口叩くならまず候補地絞ろうな。
>>302 そうかな?一応国の始まりの事の記述だぞ。
何処からの視線という意味で順番は重要だと思うけど。
安本なら仮に九州がトップに書いてあったら
スゲー強調しそうな気もするがw
305 :
遺作自演 :2011/06/25(土) 23:11:45.37
>261 トンデモが認められずに自作自演。
国産み神話で淡路島が重要な地位にあることは、その通りだが、 だからと言って、邪馬台国畿内説とは無関係。 かつて九州が中心だった時代(邪馬台国を含む)の、さらに前の時代に 瀬戸内海を中心とする文明圏があったという話。 それと大和朝廷とを結びつけるなんていうのは、さすがに津田左右吉もびっくりだろ
307 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 23:13:46.76
>>303 >大口叩くならまず候補地絞ろうな。
別に絞らんでもいいだろう。1〜3世紀の倭国は九州(南部の一部は除く)で、王の居た所は福岡平野、
筑紫平野、筑後平野、熊本平野などであったという程度でよかろう。
つまり津田左右吉を越えたなw
>>307 マジメな話それでいいんじゃないの?
委奴国に王がいて伊都国が重要と大半そう言ってる訳で。
ただ畿内説の場合、女王国が畿内の方にも伸びているという
違いだけだよ。
309 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 23:23:01.61
>大口叩くならまず候補地絞ろうな。 一つ一つやってみるか? まず、伊都国だよ。 末盧国から東南陸行五百里。怡土では方角・距離ともだめだな。 佐賀市付近ならピッタリだ。
310 :
ローガン :2011/06/25(土) 23:41:39.23
>>283 >そもそもこの議論はキミが陳寿が「倭は南に延びる列島だという感覚を持って書いたのであれば錯誤があっても致し方ない」
>と書いたことから始まっているのだが、ここに来て論点があらぬ方向に逸れている。これはキミの常套手段である論点ずらしだ。
>潔く非は非と認めなさい。
「そもそも」とか言い出したにもかかわらず、わかってないねえ。では再掲
【157:忍法帖【Lv=18,xxxPT】 06/23(木) 14:17
>>151 >日本は南に伸びてる島国という感覚と方角を間違えるというのは全く別の問題で関係のない話だ。論理のかけらもないな。
幼稚だなあ。我々が目にする事が出来る三国志は、陳寿という編者が記したもの。
陳寿が来倭したわけで無し。南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。
まともな教育を受けたものは「全く別の問題で関係のない話だ。」などとは考えないし、また、そんな事、絶対に言い切らない。 】以上コピー
このレスは、三国志に記載された「倭」について、編者の実体験で無い以上、テキストがあったと述べている。
それが、「陳寿が来倭したわけで無し。」という部分の書き込みから読み取れる。
そして、なにがテキストなのかについては、色々、論ずる事、可能な部分。しかし万人を首肯させるには、いかんせん物証が不足。
つまり様々な状況の可能性を認めつつも、どう考える事がその「蓋然性」を主張出来るか?という作業の欠かせない、いわば、一番楽しい部分。
にもかかわらず、「全く別の問題で関係のない話だ。」と、ほんの入り口で思考停止してしまう。
それを幼稚だと指摘したのが、
『まともな教育を受けたものは「全く別の問題で関係のない話だ。」などとは考えないし、また、そんな事、絶対に言い切らない。』
という書き込み。「そもそも」の私が書いたものはそういう意味。普通の人はこんな説明せずとも理解出来るもの。
しかし、貴方には理解出来ないようなので、書いた。わかって貰えたかなあ。
適当だけどな 663年に白村江の戦いでの敗戦 672年壬申の乱発生 701年の大宝律令の制定 712年古事記の作成 白村江の戦いにおける敗戦を受けて、大和王権は変革の必要が出てくる 版図最大になっている唐の侵攻を恐れ、防人を九州北部に配置したり、古代山城を作ったりもする 大規模な乱も経験し、大宝律令を制定して日本になる とはいえ、唐の影響が無くなった訳でもないのに反抗的な隼人に寝返られ、侵攻されたら目もあてられない (隼人の位置的に背後をつかれる事になる) そこで古事記において、元は日向、隼人とは兄弟なんだよとした 神武神話発生の理由はこんなもんでどう?
312 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 00:03:58.34
>>310 ローガンの主張
陳寿が来倭したわけで無し。南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。
168氏の主張
倭の地理に関する資料は倭を訪れた使者達によるものと考えられる。
その資料に書かれた方角、距離は使者達の判断によるもので、陳寿のそれによるものではない。
史書を書く人間は原資料を改竄したりしない
これに対するローガンの再反論は? あくまでも陳寿による錯誤を主張するのか、それとも原資料を
書いた奴の錯誤だったというのか、肝心な反論をださず、ごまかしてるみたいだな。
313 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 00:15:26.61
>>311 >反抗的な隼人に寝返られ、侵攻されたら目もあてられない〜そこで古事記において、
>元は日向、隼人とは兄弟なんだよとした
この考え方には、不自然なところがある。
何で、南九州の人々をクマソとして描いたのかということだ。隼人を怒らせたらまず
いというのならば、例えどんな歴史があったにしろ、南九州人を馬鹿にしたようなこ
とをいうはずがない。もともと兄弟なんだなんて言ったところで、一方でクマソと言
ったのでは全てぶち壊しだろ。
明史だったか?豊臣秀吉が鹿児島の生まれでって やってたの 三国志の時代なんてもっと記述適当でしょ 倭なんて興味ないだろうし
315 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 00:21:52.25
クマソは北九州から大分宮崎の勢力で 鹿児島熊本は関係なさそう。 クマソ退治の景行天皇は、宮崎でクマソを退治し終えてから、 7年宮崎に滞在し、後はゆっくり行幸して北部九州に帰ってくる。 しかし、どうもそこから畿内に帰るには、 いささかワープしすぎな気がするんだよなあ、
大和朝廷と邪馬台国に関係性は無いでしょうね 後裔とか滅ぼすなりしたなら 記紀にもっとしっかり記述されただろうし
九州についてはもっと関係性がないという事です。
>>313 クマソは正確には良く分かっていない
実在するって人もいれば、実在しないって人も居る
神功皇后もクマソ征伐とかいっても居たのは九州北部(神功皇后自体も実在疑われてるけど)
只、宇佐神宮で隼人の為の放生会が開かれているのは事実
蝦夷と比べるとかなり優遇されてると思う
そういや別に出雲や吉備でもいいなw 畿内だけは無いってだけ 地理的経済的に大陸と交流あるとすれば 北九州が最適だが
320 :
大阪人 :2011/06/26(日) 00:37:01.87
>>275 「同じ出発点・到達点において史書によって変更されてる例」を出せば
同じ出発点・到達点が史書によって変わる可能性があることを示唆できる。
(あくまで可能性があるだけで、必ずしも変わっているとは限らないが)
「都を出発点・到達点にして書く例と国境を出発点・到達点にして書く例」
があったとしても、同一の出発点・到達点が史書によって変わる可能性を示唆できない。
(示唆できないだけで変わっている可能性もある。が、そのような例は他に見当たらない)
もちろん、別個の地点間の出発点・到達点が変わる可能性があることは示唆できる。
これだけの話です。あなたが変わる可能性があると言うんですから、それを証明すればいいだけの話。
仮に例を見つけるのが難しいなら、何か別の方法で証明すればいいだけでしょう。
>>319 出雲や吉備地方なんて弥生以前から畿内との交流が
実証されてますけど。
瀬戸内海なんて石の流通で相当交流が盛んだよ。
322 :
ローガン :2011/06/26(日) 00:48:33.41
>>312 質問もいいが、その前に310 で書いた
>>151 のレスの意味は理解出来たのかね? 「そもそも」なんて云いだすから 元に戻ってわざわざ書いたんだけど。
今までの相手さんは、もっと理解が早かったので、どうも君は面倒くさい。まだわからないようなら時間の無駄だしね。
まあ無理に返答しなくてもいいけど…
323 :
ローガン :2011/06/26(日) 00:52:42.86
324 :
ローガン :2011/06/26(日) 01:19:35.11
>>312 これだけ答えといて寝るか。
>ローガンの主張
> 陳寿が来倭したわけで無し。南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。
こんなの「主張」でもなんでもない。現実に列島は南に延びて無いんだから、南に延びる列島という感覚で書いたなら「錯誤」。当たり前。
いいたかないが、こんな事すら理解出来ないのが、君。
>あくまでも陳寿による錯誤を主張するのか、それとも原資料を書いた奴の錯誤だったというのか、
「あくまでも陳寿による錯誤を主張」などした事が無いのにね。相手が何を云わんとしているのかを理解する…という事をまず学ぼう。
とりあえず返答しておくと、テキスト自体が間違っていたようには思う。理由はもう、以前に何度も書いた。
325 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 04:20:30.55
326 :
大御所・伊作 :2011/06/26(日) 06:38:41.81
●詔書は皇帝代理の使節しか持参できない。
●使節には軍人は起用しない。
●皇帝からの贈り物は贈られた人間しか開封できない。
以上の知識があって読む者と、
何の知識もなく大それて倭人伝に手をつけた増上慢………。
後者は書いてないことこと以外は「なかった」と言い張る。
それが無知をさらす恥辱的言動であることにすら気づかない。
情けないが、このレベルのビギナーばかりだ。
>>295 恥さらしの援護か。恥さらし。
>>298 理解力が欠落してるのだ。恥さらし。
327 :
大御所・伊作 :2011/06/26(日) 06:46:43.40
>>271 から再掲
●詔勅の吟味・出納を行なう門下省
●詔勅の記録・伝達を行なう中書省
れつきとした専門部署が置かれて担当していたほどだ。
また。外交使節に軍人は起用しない。これが事実だ。
詔書は節を持した使節が持参する。
この厳然たる「しきたり」は、中卒程度の知識しかない日本人ではなく、
中国の知識層には「いわずもがな」の常識だ。
使節の名がないからいなかったのではない。いたが常識ごとだから省略したのだ。
省略するかしないかは、書いた当事者の選択による。
1700年ものちの中卒程度の知識しかないバカがどうこうとうことじゃない。
で・どうだ。加えて「外交使節に軍人は起用しない」という儀礼の常識があるのに、
まーだ「名が書いてある軍人」が使節代わりに持参したというか。
無知をさらけた無恥ぶりももいい加減にせい。
正論で真相を提示してもらってるという謙虚さもないタコどもが。
俺が書いた説明文から正論のほうはスルーしてる負け犬ども。
否定するなら(倭人伝には書いてないしきたりだから)
宮内庁に問い合わせた上で正論のほうを比定してみせろ。
てめえら、ゴミクズといわれれてきただけのみとはあるぜ。
まったく。我を張ることだけ一人前のむひねくれ育ちばかり。
「恐れ入りました」と正直にいう奴の1人や5人はいていいはずなんだぜ。
328 :
大御所・伊作 :2011/06/26(日) 07:11:54.56
ゴミクズを、 「ゴミクズ」といわれないよう矯正しても、 根にもつ反感をもつ野郎ばかり。 バカは、己がバカだとは自覚しないものだが、 まさに、己を利口だと思ってるバカほど始末の悪いものはない。
329 :
309 :2011/06/26(日) 07:26:18.21
末盧国から東南陸行五百里。怡土では方角・距離ともだめだな。 佐賀市付近ならピッタリだ。 この伊都国の比定に誰も反論はないのかな? そろそろ締め切るぞ。 あとでごちゃごちゃいうなよ〜。
何が「常識」だよ、 何が「中国の知識層」だよ こういう権威にすがるのが一番危ない 「おかしいものはおかしい」 こういう素人の発想こそ大事 それが、邪馬台国論争史が教えてくれたもの
>>324 ローガンてのは頭も性格も悪いクズだな。
>ローガンの主張
> 陳寿が来倭したわけで無し。南に延びる列島という感覚で書かれたものなら、錯誤も致し方なし。
アホ!!
332 :
水銀厨 :2011/06/26(日) 08:39:14.81
間違えてるというより、列島の形をはっきり 認識してなかっただけでしょう。 遠方はよく判らないと記述されてますから。
333 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 09:21:24.37
>>331 ローガン説が錯誤を前提にしたものなら、
矛盾なく移動できることを説明すれば
自動消滅するよ。
ローガン氏とイサク氏は倭人伝に書かれている事柄を決めつけによって 簡単に否定してしまう所がそっくりですね。 どこかの大学教授で同じ主張をしている人でもいるのでしょうか? もしも大学教授で同じ主張をしている人がいたら笑い者でしょうけど。
>>331 自分の意見と合わなければクズでアホかよ。子供か。
336 :
309 :2011/06/26(日) 09:49:47.24
>>324 >いいたかないが、こんな事すら理解出来ないのが、君。
君の書いたことを引用したまでのこと。読んでみておかしいとおもったのならば、
君の文章がおかしかったということだ。天に唾するとはこうゆうことだね。
>「あくまでも陳寿による錯誤を主張」などした事が無いのにね。
誰も、君が「あくまでも陳寿による錯誤を主張」したなどと言ってないのに、何を
勘違いしているのかな。
>現実に列島は南に延びて無いんだから、南に延びる列島という感覚で書いたなら「錯誤」。当たり前。
どうでもいいけど言っておこうか。現実に列島は南に延びていない。南に延びる列島という
感覚で書いたものでもない。倭の地が実際より少し南にあると思い込んで書いてるだけ。
思い込んで最初に書いたのは陳寿ではなく、原資料を書いた人間。
このぐらい、きちんと書けば読み手も間違えないよ。わかった?
>>333 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國
と東に四国と本州の国々があると方角も東へ続く地形があることを正しく認識してますね。
自女王国以北其戸数道里可略載
自女王國以北特置一大率
など、ちんじゅがに方角の錯誤があったと考えられる箇所はありませんしね。
>>334 いや、倭人伝に書かれている事柄を決めつけによって
簡単に肯定してしまう方が変だと思うぞ。
340 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 10:28:05.83
不自然なところがなかったら、書かれていることを信用して考えを進める。 これは当然のことですね。
341 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 10:32:46.36
>>339 決めつけによって簡単に否定するのも肯定するのも同じように変だろ。公平に見ようや。
342 :
3 :2011/06/26(日) 10:39:15.14
倭人伝は、狗邪韓国〜対馬国、対馬国〜一大(支)国、一支国〜末盧国を、それぞれ 千里とする。また、対馬国を方四百里、一支国を方三百里とする。 これらから、倭人伝の千里がどの程度の距離かが分かる。 また、337氏が言うように、方角に錯誤があったとみるべきところもない。 となれば、末盧国から東南五百里が佐賀市付近になることは必然。 で、昨日からのこの板をみても、これには誰も反論できなかった。 伊都国が佐賀となれば、畿内説を論じる余地がないことは明白。そこで、次は 伊都国から先を放射式に進むべきか、それとも連続式に進むべきかだね。
343 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 10:40:16.55
>>327 大御所・伊作
>使節の名がないからいなかったのではない。いたが常識ごとだから省略したのだ。
>省略するかしないかは、書いた当事者の選択による。
単なるお付きの軍人の名前は書いてより重要な任務の使節の名前を省略するとはね。それが本当なら陳寿は
物事の軽重を知らぬ馬鹿だったということになる。それでいいのかい。
344 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 10:44:20.45
>>328 大御所・伊作
>バカは、己がバカだとは自覚しないものだが、
>まさに、己を利口だと思ってるバカほど始末の悪いものはない。
そうだね・・・・
当時の九州にゃ奴国より大きな国は 無かっただろう事が判明しつつあるからなあ。 現実の壁は突破できんよ。
346 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 10:56:40.30
>>342 少し可哀想なんで相手してあげるw
まず隋書倭国伝にははっきり倭人伝いう所の
ヤマタイはヤマト、と書かれています。
また倭国は東西5カ月、南北3ケ月、
西高東低の地形で九州列島には該当しません。
阿蘇が出てくるから九州だと主張するなら、
倭人伝にはなぜ火山の記述が無いの?という矛盾も発生します。
これは熊本説に大きな矛盾点にもなりますね、はい。
347 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:01:16.01
とりあえず、連続読みでも放射読みでも 九州内に収まる解釈はできることは間違いない。 どっちか正当かは文献の解釈によるので 俺は知らん。
348 :
水銀厨 :2011/06/26(日) 11:05:41.09
畿内説でも方向の間違い説をとらなくても、 文献資料のみで矛盾なく説明出来るという事ですよ。 まず倭人伝を邪馬台国伝と思い込ますような、 一部の先生方には困ったもんです。
349 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:08:16.35
>>348 きちんと皇帝が説明できれば畿内説復活だが…
興味津々。
たぶん畿内説、九州説両者にとっても。
350 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:10:26.58
351 :
3 :2011/06/26(日) 11:16:12.87
>>346 本当に可哀想なご意見だけど。答えてあげるね。
隋書には、倭国の都(隋使の訪問先)が倭人伝に言うところの邪馬台だというだけで、
邪馬台がヤマトだなんてことは一言も書かれていないよ。それより、竹斯国以東は倭
に附庸すると明記されている。つまり、九州よりも東は倭国にくっついている国々で
倭国ではないと明記されているわけだ。ごめんね、夢を壊して。
>倭国は東西5カ月、南北3ケ月、西高東低の地形で九州列島には該当しません。
九州列島なんて妙なことを考えるから理解できないんだよ。
九州島そのもの。それでピッタリじゃないか? 理解できないのかな。
>阿蘇が出てくるから九州だと主張するなら、倭人伝にはなぜ火山の記述が無いの?
魏使は阿蘇に登らなかっただけだろ。まあ、登ったとしても書くとは限らないが。
>これは熊本説に大きな矛盾点にもなりますね、はい。
矛盾という言葉を研究してから使った方がいいよ。
352 :
水銀厨 :2011/06/26(日) 11:19:21.98
何度か別板でも説明しましたが、私は女王国=瀬戸内連合国説です。 行程に関しては伊都からの放射説ですね。 投馬が九州南部説で、女王国は大分の日田から 瀬戸内を中心に広がっています。 これで後の倭国伝とも矛盾は無いはずです。
>>351 ワザと突っ込んで欲しいのかと疑うレベルw
それに納得する九州説の人もまず居ないな。
354 :
3 :2011/06/26(日) 11:28:25.93
>>353 あらあ、突っ込んでみたら? できるなら。
355 :
3 :2011/06/26(日) 11:34:09.34
>>352 伊都国をどこに比定してるの? 怡土ならば、方角・距離があってないよ。
伊都国からの放射説はいいけど、女王国が大分の日田から瀬戸内というのでは
方角があってないじゃん。周旋五千里も合わないね。
356 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:34:26.41
>>352 とりあえず。糸島まで、公里4500キロ
どう消化する?
357 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:34:30.75
>>342 名前:3 :2011/06/26(日) 10:39:15.14
>倭人伝は、狗邪韓国〜対馬国、対馬国〜一大(支)国、一支国〜末盧国を、
>それぞれ 千里とする。また、対馬国を方四百里、一支国を方三百里とする。
>これらから、倭人伝の千里がどの程度の距離かが分かる。
狗邪韓国(与那国島)〜対馬国(沖縄・久米島)は直線で432.418 km≒1000.968里(一尺24cm)
方可四百里の事。
沖縄本島の総面積は1241平方キロ。徳之島(247.66平方キロ)・加計呂麻島・喜界島・
与論島・伊平屋島・伊是名島・[家島・栗島・久米島]・[慶良間列島・家島・栗島] 合計603.53平方キロ
◎ 1241平方キロ+603.53平方キロ=1845.53平方キロ
方可四百里は43.2km×43.2km=1866.24平方キロですから(1里=432m 長里)
沖縄・那覇市の面積は對海【馬】國の面積・方可四百里に近似値である。
まず東西に長くて移動に5カ月、 東高西低の九州島を説明してもらえるかなw
359 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:38:59.18
本州はどう解釈しても、5:3ということはない。 四国ならともかく、本州は真っ先に除外してよいだろう。
隋書については日本書紀があるのを無視するわけにはいかんよ。
361 :
3 :2011/06/26(日) 11:47:27.94
>>358 東西に長いとは書いてないね。移動日数が南北よりも長くかかるとされている
だけだ。
九州の場合、東西ってどこからどこまでのことかな。隋使が訪れたのは、九州
の東にあった倭国の都、すなわち日向だろう。当然、その日向が東の出発点で
あることが予想できる。西の終点は、どこかな? 長崎ということになりそうだ。
日向から長崎へのルートを考えてごらん。日向から北上して大分を通り、日田を
通って筑紫へ抜けるか、もっと北上して中津から筑紫へ抜けるか、とにかくそれ
からも延々と歩いて長崎に行くわけだ。当然、福岡から鹿児島へまっすぐ行ける
南北よりもだいぶ日数は長くなるんだよ。
東高西低は九州を知ってる人ならば、誰でも分かっていることだ。九州山地は東に
偏っているからね。
362 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:50:44.24
>>342 名前:3
>倭人伝は、狗邪韓国〜対馬国、対馬国〜一大(支)国、一支国〜末盧国を、
>それぞれ 千里とする。また、対馬国を方四百里、一支国を方三百里とする。
>これらから、倭人伝の千里がどの程度の距離かが分かる。
対馬国(沖縄)〜一大(支)国(トカラの悪石島)迄、直線で445.112km (千里=432km)
方可三百余里の事。
種子島・屋久島の総面積は、合計951平方キロ。トカラ列島の総面積. 101.35. 平方キロ。
合計1087平方キロ。
◎「種子島・屋久島・トカラ列島」の総面積と方可三百里(32.4km×32.4km)=1049.76平方キロとは近似値で魏志倭人伝は距離も面積も可也正確に記述されている。
この事実は、対馬国及び一大国の可也正確な測量地図が存在したことを物語っている。
363 :
水銀厨 :2011/06/26(日) 11:50:52.37
まず行程に関しては他の九州説の方と大差ありません。 よって方向の誤差も似たような物ですね。 伊都国の場所に関しては北部九州の何処かというレベルです。 元々邪馬台国は私も九州南部の宮崎辺りだろうという説ですから。 倭国伝にもあるように倭人は里数を知らないというのなら、 その行程はやはり伝聞による情報と思います。 よって5000という数字も実際倭国を回った距離でしょうね。
364 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 11:51:09.28
済州島も同じようにタテヨコ逆なんだな。 東西に接する国境線の長さという解釈もあるようだが。 そして、タテヨコをぎゃくにすれば、一月行は80キロ 逆にしなくても、一月行は50キロ〜100キロの 範囲内にあることは証明できると言える。
>>351 >それより、竹斯国以東は倭に附庸すると明記されている。
>つまり、九州よりも東は倭国にくっついている国々で倭国ではないと明記されているわけだ。
つまり、九州ですら「倭」では無いと言うことですねw
366 :
3 :2011/06/26(日) 12:02:08.15
>>365 以東って書いてあるから、竹斯国も附庸国になるってかい?
以東というときに、基準の国が入るか入らないかは、どちらの使い方もあるんだよ。
昔の用語では、基準を入れない場合が多い。女王国以北ってのと同じで、竹斯国以東も
竹斯国は入れない。つまり、竹斯国は附庸国じゃないってことさ。
367 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 12:08:11.82
>>366 端から見ても君、恥ずかしいだけだからもう止めたら?
368 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 12:14:02.75
いや、
>>365 のほうが痛いツッコミだろう。
こういう時には、「なんで?」、って聞き返すだけでいい。
369 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 12:14:25.47
>>362 >対馬国(沖縄)〜一大(支)国(トカラの悪石島)迄、直線で445.112km (千里=432km)
沖縄・久米島を中心とする432km(千里)の円を描くと、その頂点である緯度線は
屋久島・浦崎を切っている。
一支国(種屋久島)〜末盧国(下関)は、直線で414.560km(432km=千里)である。
370 :
ローガン :2011/06/26(日) 12:35:19.30
>>336 >誰も、君が「あくまでも陳寿による錯誤を主張」したなどと言ってないのに、何を勘違いしているのかな。
「あくまでも」という日本語すら理解出来ないのか…
「畿内説は倭人伝が間違っていると主張することによって成立している。」と 暴露した馬鹿な畿内説者がいた。 ジョーカーやローガンなどみれば判るように畿内説者には馬鹿な卑怯者が多いが 倭人伝を間違いとしなければ成立する余地のない 畿内説そのものも屑説、ゴミ説なのだ。
我々はこの現実を生きているのであって、 現実を無視しないと成立しない九州説は 小説でしかない。
373 :
3 :2011/06/26(日) 12:53:21.02
>>370 君が使った言葉をそのまま引用しただけだよ。自分の使用法が間違いだったって
反省することが必要だろうね。
そいえば、ジョーカーのストーカーはどしたの? もうおしまいかな?
暑いよ〜 魏使が南下してると思ったのも分かる
376 :
3 :2011/06/26(日) 13:19:06.21
>>367 少しは理屈らしいことを言ってみたら? やっぱ、無理かな。
そりゃ脳内でしか成立しない説には反論なんて出来ないな。 なんで九州説の人からも相手にされないのはそういう事だ。
378 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 13:34:55.85
>>370 ローガン
この男の辞書には「男らしさ」や「潔さ」は載っていないらしい。載っていても意味を理解できないのかな。
>>387 邪馬台国のあった地域では
「おなごのけー腐れみたいな奴」と言います。
>>372 馬鹿は現実と小説の区別がつかないらしい。
382 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 13:47:39.10
そういえばジョーカーこそどうしたのかな? もうおしまいかな?
383 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 13:48:54.46
384 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 14:47:34.67
13世紀の元寇の時、元の使者が何度も日本にやっていているが、これは日本の地理を探るため でもあった。地理がわからなくて、大軍を派遣するような馬鹿な国があるはずがないわけで…。 航海の技術も進んでいたんだろう。江南から間違えず博多湾までやってきている。 こういうことから考えて、元が間違った地理感を持っていたというのはありえない。 にもかかわらず、15世紀の混一疆理歴代国都之図がああいう風になっているのは、出来損ないの 地図としか言いようがない。 その出来損ないの混一疆理歴代国都之図を根拠に、三世紀の陳寿の地理感を語る畿内説も相当におかしい。
385 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 14:57:37.73
>>384 歳差を知らぬ者の言い分にすいない。
歳差を差し込むと「混一疆理歴代国都之図」や「東夷伝の方位」となる。
地図描けなくても目的地には着くからなあ 心理的な地図と現実の地理はちがうものさ。
>385 本物の馬鹿が来た。
てか、あの時代にまともな地図は他にいくらでもあったぞ
389 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 15:20:20.05
>>388 わざわざ出来損ないの地図を探してきたということかな。
390 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 15:30:37.70
地図はそれなりにあるだろうが、 畿内説の方向に合うのがそれだけだったということだろう。 じつは、それでも距離は説明できないんだが。 …それは、みんな知ってることか。
391 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 15:33:38.04
>>366 東ドイツ以東はソ連に附庸するというと、
東ドイツより東の国はソ連ではないということになるのかい?
392 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 15:34:17.81
>>387 >本物の馬鹿が来た。
>>389 >わざわざ出来損ないの地図を探してきたということかな。
伏羲の先天図・八卦図も方位の位置がちがうが、
これも、伏羲という本物の馬鹿が書いた図?
393 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 15:38:59.72
>>384 隋の時代大業四年608年に裴世清が倭に来てるのに、
唐の時代貞観十年636年に編纂された隋書の記述は、あきらかに地理がおかしいよ。
明年,上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟,行至竹島,南望身?冉羅國,經都斯麻國,迥在大海中。
又東至一支國,又至竹斯 國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。
又經十餘國,達於海岸。自 竹斯國以東,皆附庸於倭。
394 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/26(日) 15:40:28.21
スーパー・ロボットなら倭人伝の記載の距離では南九州を抜けて 大海に入りこみそのまま沖縄とかジャワあたりまで到着しちゃうの だろうが、人間は生身の身体だから道にも迷うし疲労もする。途中観光 気分で停留もしたろうし、前方に山賊海賊の待ち構えてる雰囲気を察知 すれば大きく迂回もするだろうし、一行に病人も出るかも知れず、また 台風とかの風雨災害とか前方に地理的危険個所があってそれを渡るに いろいろ論議もしたろうし、そういうことから倭人伝の陸行一月とかは 妥当な時間だったということであり、九州説に不合理とは言えない。
395 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 15:41:49.92
396 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/26(日) 15:42:34.14
>>394 訂正
× 倭人伝の記載の距離では
○ 倭人伝の記載の月日では
スーパー・ロボットでちょっと和んだ。
398 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 16:56:42.19
399 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/26(日) 18:00:40.23
>>393 >隋の時代大業四年608年に裴世清が倭に来てるのに、
>唐の時代貞観十年636年に編纂された隋書の記述は、あきらかに地理がおかしいよ。
「明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹島 南望[身冉]羅國
經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國
其人同於華夏 以爲夷州 疑不能明也 又經十餘國 達於海岸
自竹斯國以東 皆附庸於俀 」
地理の何処がおかしい?
素直に読めばおかしいところは何処にもない。
400 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/26(日) 18:01:50.47
>>393 〜〜〜〜┗━┓高句麗∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┬──┴∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵新羅∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓───────────┬┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛竹島(珍島) 〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏↑∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┝┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛│∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└┼┐一支國〜〜〜〜┏━┛∵│∵┏┓
〜┻───┏━┓ タンラ國 〜〜〜〜│↓┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵∵│∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜〜│↓┗┛〜〜┏━━╋━━━┿━┛〜
東西方向千里×南北方向数百里〜〜│↓〜┏━━┛∵∵┗━┓〜│〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜五〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓月〜┗┓
タンラ國 :[身冉]羅國 :イ妥國伝〜〜〜│↓┗┓┃┗┓∵『イ妥國』 ┃行〜〜┗
〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝 〜〜│↓〜┗┛┏┛∵∵∵∵┏┛│〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│└→┏┓┃○泰王國┏┛││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗╋┛∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←───三月行───→┨〜〜〜〜
401 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/26(日) 18:08:55.37
>>393 〜〜〜〜┃◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜《 隋書俀國傳 地図 》〜〜〜
→→┐〜┗━┛都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜└→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜↓┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜
〜〜〜〜〜〜↓┃◎┃一支國〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜↓┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜
〜〜〜〜〜〜↓┏━┓〜〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓
〜〜〜〜〜〜↓┃竹┃〜〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗
〜〜〜┌←←┘┃斯┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓┏━━┛國∵∵∵∵∵竹斯國∵∵∵∵◇倭京(大宰府) ∵∵
〜〜〜↓┗┓竹∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓〜┃斯∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓〜┃國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵海岸∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵┏○→→→◎邪靡堆(久留米)∵
〜〜┌┘┏┓┗━┓∵∵∵十∵∵∵┃↑┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓┏┛┗┓〜┃∵∵∵餘┏━━┛↑┃十∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓┃∵∵┃〜┗┓∵∵國┃〜〜〜↑┃餘∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜┌┘┃國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓〜┗┓竹┗━┛┗━━┓〜〜↑〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜↓〜〜┃斯∵┏━━┓十┗┓〜↑〜〜┃十∵∵∵∵∵∵∵∵△ 阿蘇山
〜〜↓〜〜┃國┏┛〜〜┃餘∵┃〜↑〜〜┃餘∵◇熊本∵∵∵∵∵
〜〜└┐┏┛┏┛〜〜┏┛國▲┃〜↑〜〜┃國∵∵∵∵∵∵∵∵∵▲:普賢岳
〜〜〜↓┃┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛〜↑〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜↓┗┛〜〜〜┗━━━┛〜〜↑┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜└→→→→→→→→→→→→┘┃◎泰王國∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜天草┏━┓〜〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
402 :
ネ申無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/26(日) 18:24:02.23
〜〜〜〜┗━┓高句麗∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 →→→→→┐┗━┬──┴∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜隋使進路↓〜〜┃∵∵新羅∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜↓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┫∵│∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜↓┗┓◎居抜城┃∵┃新羅◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜┳───↓〜┃百濟∵┏┻━┛∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜↑〜〜〜↓┏┻━━━┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜三〜〜〜↓┗┓∵∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━ 〜月〜〜〜↓┏╋━━━━┛〜〜〜┏┓───────────┬┛∵∵ 〜行〜〜〜↓┗┛竹島(珍島)〜〜〜┃┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜┏↑∵∵∵ 〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┝┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛│∵∵∵ 〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜隋使進路〜└┼┐一支國〜〜〜〜┏━┛∵│∵┏┓ 〜┻───┏━┓...タンラ國〜〜〜〜│↓┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵∵│∵┃┗ 〜〜〜〜〜┗━┛(済州島)〜〜〜〜│↓┗┛〜〜┏━━╋━━━┿━┛〜 東西方向千里×南北方向数百里〜〜│↓〜┏━━┛∵∵┗━┓〜│〜〜┏ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜五〜┏┛ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│↓┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓月〜┗┓ タンラ國 :[身冉]羅國:イ妥國伝 〜〜│↓┗┓┃┗┓∵『イ妥國』゙.┃行〜〜┗ 〜〜〜〜:[身冉]牟羅國:百濟伝〜〜│↓〜┗┛┏┛∵∵∵∵┏┛│〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│└→┏┓┃○泰王國┏┛││〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗╋┛∵∵∵∵┃〜││〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←───三月行───→┨〜〜〜〜
403 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 18:51:40.66
あー、解りかけてきた。 以北の国々の斯馬國は都斯麻國だったのか。で、己百支國は一支國。 次の伊邪國はどこになるんだろ?
実にゲージツ的なマップだ
405 :
筑紫の民 :2011/06/26(日) 19:13:39.90
ソフトバンクホークス 今日はかったば〜い ドーム盛り上がったばい
406 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 19:26:14.17
竹島が珍島って通説なんですか。 どういう経緯で誰が比定したんですか。
泰王國は竹斯國の東だろ
409 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/26(日) 20:14:35.06
>>408 >講談社の文庫本だと絶影島になってる
絶影島(現釜山広域市影島区)は間違いである。
南方に[身冉]羅國(済州島)を望める島は珍島である。
故に竹島=珍島となる。
410 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/26(日) 20:16:58.09
>>409 の追加
竹島(chik)と珍島(chin)は音が近い。
412 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/26(日) 20:24:21.65
>>406 >竹島が珍島って通説なんですか。
>どういう経緯で誰が比定したんですか。
竹島=珍島は通説ではない。だから正しい説です。通説は間違い。
>>409-410 を読んでください。
誰が最初に言い出したのかは知りません。
私は10年くらい前から独自に書いています。
413 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/26(日) 20:30:49.23
>>411 他の古文書に見る済州島は
tanra(儋羅國・耽羅國・耽牟羅國)と書かれている。
414 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 21:51:20.15
>>401 邪靡堆(久留米)ならば、竹斯國で上陸して邪靡堆へ直行するのが簡単じゃないかな。
415 :
大阪人 :2011/06/26(日) 23:12:29.30
まず邪馬台国論争について、客観的事実を書き進めていきましょう ・魏志倭人伝というテキストがあること 内容の正誤は別として、魏志倭人伝に書かれた文章は事実存在します ・出土した遺物、遺構 邪馬台国に直接結びつくか否かは、議論の的ですが、弥生時代に出土した遺物・遺構は九州・畿内共に存在します まず一度、倭人伝を客観的に読んでみましょう。 ここで客観的に読むにあたって、まず大前提として立ちはだかるのが @倭人伝中の「里」が「公里(長里)」か「短里」か。 A放射式読みか連続式読みか。 まず@ですが、公里で素直に読むとRPGの裏技のように海の上を歩いてどこかへ行ってしまうので、九州・畿内共に不適でしょう よって@はとりあえず短里を使います。(ちなみに短里は東夷伝以外にも使われてる箇所がままある) Aは後の史書によって読み方が変わったりするので判別が難しいところです。 ですからとりあえず両方使って一度読んでいきましょう。
416 :
大阪人 :2011/06/26(日) 23:17:31.87
とりあえず倭人伝の道程を一言一句その通りに読んでいきます 狗邪韓国〜対馬国〜一大(支)国〜末盧国〜伊都國ぐらいまでは普通に読むと九州の北岸のどこかにたどり着きます 問題は伊都國から放射式で読むか連続式で読むかですが、とりあえず放射読みをした場合は 「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」 伊都國から邪馬壹國まで南に進みます。 また問題になるのが「水行十日、陸行一月」という表記です。これが短いか長いかが論争の的になっていますが これを短いとした場合は北部九州に収まります。長いと読んだ場合は南九州に行くでしょう。 連続読みで読んだ場合も少々距離が増えますがほぼ同様の結果です。
417 :
大阪人 :2011/06/26(日) 23:20:43.14
しかし「自郡至女王國萬二千餘里」との表記があります。これは普通に考えると北部九州のどこかに落ち着きます。 女王国を連合国家と考えるか邪馬台国の代名詞と考えるかで、女王国の範囲に違いはありますが、「萬二千餘里」で女王国に着くのは確かです。 そして「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の表記です。 普通に読んだ場合は四国や本州西部に当てはめられます。 そして倭の地の大きさですが「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」とあります。 これを捻った解釈もなく素直に読み、イマイチ掴み難い「周旋」の意味を数通りに解釈すると 最小では北部九州を覆う程度の広さ、最大でも九州全体を覆う広さ程度になります。 普通に読めば、九州のいずれかに落ち着くでしょう。
>>412 豊臣秀吉の朝鮮出兵時は釜山の対岸に竹島城ってのがあるぜ。
kとnが転訛するとも思えないな。
419 :
大阪人 :2011/06/26(日) 23:24:50.54
しかし、邪馬台国を畿内に求めるとなると、普通ではない解釈が必要となります。 伊都國から邪馬壹國までを南ではなく東に進む必要があります。 「自郡至女王國萬二千餘里」では畿内までたどり着けません。 「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」を当てはめるのに苦労します。 「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」これも九州から畿内まではとても当てはめられないでしょう。 以上のことがら以外にも、何かしら捻った解釈が必要となることが多いです。 しかし、捻った解釈自体は何の問題もありません。 文献や出土する遺物に整合性が見られなければこういった解釈も必要となります。 ただ、問題なのは、素直に読めば九州に収まるものをわざわざ捻った解釈をして畿内に当てはめているという点です。 畿内が九州を遥かに優越する根拠がなければ、わざわざ記述を無視してまで畿内に邪馬台国を当てはめる意味はないでしょう その辺りのことを踏まえて、畿内説の方は、一般人はおろか九州説の連中すら納得のいくような根拠を出す必要があると思います
読みについては、正直な感想として、むしろ九州説の方々の 主張する正しい読みの方が捻っていて、技巧的過ぎるというのが 一般の感想だと思うよ。 結局、発掘が進展して、どうも九州内におけるNo1国家は 福岡平野の国家であろうことが分かってきたのが問題。 奴国が福岡平野の国というのはあまり異論のないところで、 邪馬台国が奴国を凌ぐ大国だとするなら、九州には無さそうだな という事になる。 となると、俄然畿内が有力視されてくる。
421 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 00:42:28.85
末盧国から東南五百里の伊都国を佐賀市付近に比定するのは、全然ひねって いないと思うけどね。
一国の規模は後世の郡程度?もっと大きい?
423 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 01:12:00.55
>>420 伊都國が、末盧國(唐津)の東南500里(38km)なら、
素直に考えれば、伊都國は佐賀市(佐賀平野)になる。
現在カムイ14位
424 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 01:19:14.79
邪馬壹國、投馬國、狗奴國を除けば、一国の規模は後世の郡より小さい。
425 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 01:51:14.43
文献ではもう答えはでないよw 何回似たようなことループして議論してんだって感じ。 考古学上の新しい発見待つしかないんだよ。 それ以上深入りするだけ馬鹿だ。 ちなみに万二千余里も遠くを指し示す抽象的表現で、 女王国と邪馬台国は別物っていう可能性ある話は とっくの昔から言われてきてることだろ。 何回同じこと掘り返してんだよw たしかなのは3世紀に日本のどこかに卑弥呼がいた 邪馬台国があり、考古学的には畿内が優勢。 それだけの話だよ。倭人伝読んだとこで 答えは絶対にでないのは江戸時代にわかりきってたことだろw
426 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 06:41:41.92
これまでは、伊都国は怡土だと思い込んで、そこから考えていたからな。 伊都国が佐賀だと分かれば、まったく違った展開になるんだよ。 佐賀から近畿へ向かうわけがない。熊本か南九州か、候補はそれだけに絞られる。 となれば、記紀の神話が、邪馬台国の所在を裏づけていることも分かってくるさ。
427 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 08:04:35.52
相変わらずまた同じ事言ってる。ボケ老人だなw 邪馬台国は200%九州にはねーよ。
428 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 08:47:45.89
糸島の伊都国や福岡奴国に行くのに、 唐津から水行じゃなくて、陸行なのは 誰でも一度は疑問に思う点だと思う。 しかしまあ、陸続きだし、定説が糸島なので、 つい刷り込まれてしまってるわけだ。 しかし、陸路はとんでもなく険しい山道になるし、 唐津に向かう唐津街道は鳥栖、佐賀経由である。 また、唐津は独自の文化圏を持っていたわけだが、 後に佐賀県に併合されるのも、距離、文化圏共に近かったからである。 歴史的にも、唐津は佐賀と繋がる地域なのである。 糸島とは繋がっていない。
429 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 09:15:39.30
それで、答えが出ると思うの? 結局、八女の「や」は邪馬台国の「や」で、女は卑弥呼を表しているんだってのと たいした違いはないよ
まあ熊本辺りに邪馬台国があったなら、 倭人伝には阿蘇山、火山の事が書かれるのはガチだな。 あれだけ詳細に山の情報書かれてあるのにw つまり熊本方面には無いって事です。
431 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 09:34:38.98
阿蘇は重要ポイントじゃなかったの 岡山の阿曽女につながるんだろ? 何故か岡山の阿曽は無視な上、三重にも阿曽はあるけどwwwww
432 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 10:00:58.27
>>414 >邪靡堆(久留米)ならば、竹斯國で上陸して邪靡堆へ直行するのが簡単じゃないかな。
「度百濟 行至竹島 南望[身冉]羅國 經都斯麻國 迥在大海中
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國・…又經十餘國 達於海岸」
シナ本土を出発してから、『達於海岸』まで、全行程が船でです。
途中寄港はあったかも知れませんが上陸はしてません。
余談
魏志倭人伝「至投馬國水行二十日」と隋使とはほぼ同じルートです。
筑紫の民さんと卑彌呼の都は久留米さんは 同一人物なの?
434 :
水銀厨 :2011/06/27(月) 10:16:01.85
本当に使いが熊本辺りまで行ってたのなら、 噴煙を上げる火の山の描写がないと変でしょう。 その時点で噴火はしてなくても、山自体は目にはするだろう。 可能性としては伊都から先は伝聞という事位か。 (敵対する国なので行けなかった、という可能性もあるが) 対して倭国伝には記述があるのは それだけ長く各地を周遊出来たという事でしょう。
>>431 鬼ノ城と造山の千足塚とから考えると、吉備の阿曽は5世紀以降で倭人伝のころ
とは無関係だと思うけど。
436 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 11:42:54.17
>>395 >>392 >これは占い用の図で、地図じゃないよね
占いというのは未来を占うもの。
現在の方位と未来の方位は72年で1度ずれて行く。
だから、未来を占う占い図は未来の方位を与えて占うのである。
方位がずれるのは歳差の影響をうけるからである。
歳差を知るものだけが作れるのが先天図の占い図だ。
同じように、歳差を知るものが作図した地図が東夷伝が描く地図である。
東夷伝も与那国島を起点として90度時計方向に反転させた地図になっている。
故に、東は北、北は西、南は東、東南は北東と読みかえればよい。
437 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 12:13:23.38
>>432 >シナ本土を出発してから、『達於海岸』まで、全行程が船でです。
船は水の上を走りますが、
「度百濟 行至竹島」の「度」には、「海、河、湖」を渡るという意はありません。
「百濟」へは、船で「海、河、湖」を渡らずどのようにして行ったのでしょうか?
438 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 12:16:53.30
>>436 やっぱり馬鹿だ。今から12960年前では大陽は日本海の方から登って太平洋の方へ沈んでいたってか?
439 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 12:40:01.41
438 名前:日本@名無史さん :2011/06/27(月) 12:16:53.30
>>438 >>436 やっぱり馬鹿だ。今から12960年前では大陽は日本海の方から登って太平洋の方へ沈んでいたってか?
誰が、太陽の話をしているのだ。
春分の日の真東にあるA星は2160年後の春分の日には真東から30度ずれたところにみえるだろう。
方位東にあったA星を東星とするなら2160年後の東星は真東から30度ずれすでに東星の使命を失っている。
それは、紀元前2800年頃の北極星がトゥバン(りゅう座α星)で
紀元前1100年頃にはコカブ(こぐま座 β星)が北極星になった、と同じ意だ。
わかりましたが、無知の塊さん。
440 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 12:47:19.64
>>439 基準は太陽ではない。
春分の日に太陽と同じく真東にあった星(東星)が基準ななっている。
だから、12960年後には東星は太陽方角より180度ずれた位置にある。
このような理論で図解したのが八卦図だ。
441 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 13:59:36.16
神宮皇后を卑弥呼としている書紀の記述 ・この時点では当然近畿に大和朝廷が存在する事になる ヤマト王権=邪馬台国としている隋書 ・神宮皇后を卑弥呼だとしてるのなら必然的に近畿であると言う事になる 神武以後は敵地として出て来る九州 ・皇室の故地と言うには余りにも不自然な話 この辺りから考えると近畿と言う事になるな まぁ俺はどっちか派じゃなくて「確定した資料ないから分からん派」だけど
故地は九州ではなく、日向。 敵地として出て来るのは日向以外の九州。
443 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 14:13:52.12
神武天皇は九州をなめるよう移動してる ついでに天降って100万年その地を治してきたという記述がある まぁ誇張もあるだろうけど記紀の記述を考えるなら 神武天皇の時点で九州がちゃんと支配下にないとおかしいんじゃないかね でも後になっても磐井の乱も含めて南北が全然おさまってない 九州がヤマト王権の根拠地だったとするのはなかなか難しい気がする
444 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 14:23:58.69
神話なんて信じてるやつはアホだろw 藤原不比等が都合のいいように改ざんしてるだけなのに。 邪馬台国は大和。支配下とかそういう見方をするからおかしくなる。 倭国大乱を収拾すべく、とりあえず卑弥呼を中心にまとまった 連合国家体制を作ったというだけの話。
445 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 14:25:30.60
記紀の構成的にも九州がスタートって不自然なんだよね 九州→近畿→四道将軍派遣(東海、北陸、中国) →日本武尊→九州、東国(蝦夷、熊襲)制圧って流れだし なんか一度九州に戻ってて順番がおかしい 個人的な考えでは白村江や磐井の後で 九州を朝廷に強く結びつけるために設定したという意図もあるんじゃないかなと思う
>>443 大して支配力がなかったから、数年かけて少しずつ仲間を増やしていったってことだろう。
神武の時点で九州はまとまっていなかった。
>>445 王の出自を卑下してまで日向を持ち上げるのはやり過ぎ。
447 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 14:42:55.87
>>439 >>438 の
>から12960年前では大陽は日本海の方から登って太平洋の方へ沈んでいたってか?
の意味は12960年前では方位が現在と比較して180度ずれていたのか?という意味だろう。
歳差により春分点(地球の赤道と大陽の黄道が重なる点)が西にずれて行くが、それにより東西南北の
方位が変わるものではない。だから、
>>436 の主張はナンセンスなのだ。つまり 馬鹿。
448 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 14:44:43.00
古事記は氏姓を明らかにするために作ったと冒頭に書いてあるからな ただの神話や歴史の書ではないから本当の順番通りで書く必要はない むしろ辻褄を合わせる形で作るのが筋 それなのにわざわざ筋書きがおかしくなる九州スタートを採用したのが良くわからない 無ければ普通に筋が通るのにね どういう意図があったのか気になるところ
ヤマダ電機の九州1号店が宮崎なのと同じ理由。
450 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 14:50:55.19
神話の時代では九州を故地として描き 歴史の時代では九州は今更地名を付けたりしてまるで初めて統治したかのような記述をしている 記述に矛盾がある不思議な話 九州の方が後で物語に押し込まれたような気がしないでもない
邪馬台国連合構成国30ヶ国って少なくない? どうも大国って感じしないんだよな
452 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:02:10.19
邪馬台国と大和王権を同じに捉えるからおかしい まず別物で見て成立を考察すべきなのに無理やり大和王権に封じ込めようという考えが浅はか過ぎる 邪馬台国の記述が記紀にないのは異なる部族のクニであったからであり 大和王権の神話は近畿から九州までを勢力化に置いた際に 各地方にあった口伝伝承の都合のいい部分を自らの国造りの神話として取り込み その地方地方を治める正当性を謳ったものに過ぎない さて何故そのような記紀に九州の記述が圧倒的に多いのかを考えれば 歴史的に九州が大和王朝以前は日本の中心であって 内乱が起こり弱体化した九州のクニを結果的に制圧したのが大和王権であるからだ 広域を支配するためにその地方地方にあった神話を奪い取ったがために その大元の地方のクニの名や支配者の名をあえて書き込めなかったのである
453 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:07:34.58
記紀に邪馬台国の記述がないのなら、 むしろ扱いが少ない場所が邪馬台国なんじゃないの? という気がしますけどねw
454 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:09:40.49
もう九州説は神話にしか拠り所がないのか?
基本は倭人伝冒頭の地理説明だな
456 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 15:12:04.06
>>437 >「度百濟 行至竹島」の「度」には、「海、河、湖」を渡るという意はありません。
動詞「度」には動詞「渡」の意味があります。
「度」の用例
「渓谷不通以縄相引而度」漢書西域傳 (渓:偏渓右旁谷)
火の鳥のありゃ九州説か 土着の宗教政権だったね 大和朝廷の先祖の騎馬民族に征服されてたw
もうそんな所でしか憂さを晴らせない
459 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:24:16.03
>>454 このノウタリンのうすら馬鹿、少しは過去レスを調べてからものを言え。
九州説の大部分は倭人伝をもとにものを言っているだろが。
卑弥呼も邪馬台国も倭人伝が初めて伝えるものだ。倭人伝が無ければそれ以降の大陸や半島の史書にも
我が国の記紀にも卑弥呼や邪馬台国は登場しないだろう。その倭人伝を何と思っているのだ?
畿内説に都合が悪いから無視か?
460 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:25:22.47
日本書紀に邪馬台国の記述はちゃんとある 神宮皇后39年の段 そして隋書 この記述を見る限り日本、中国の邪馬台国の統一見解は近畿ということになる 中国は正史の継承をしているわけだから、魏志の邪馬台国も同様に理解してないとおかしい
461 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:25:43.22
今月の「私だけの邪馬台国」大賞は何処に決まりそうなの?
奈良
463 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:27:33.51
記紀に邪馬台国が登場しないとかいってたら信用も何もなくなるぞ
支配した部族の神話を取り込みその地域の支配の正当化を行い支配の円滑化を図った 高千穂の天孫降臨・神武の東征神話はその表れ
そして自らの王の出自を変えてしまう。
466 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:33:07.41
>>463 加筆の文を根拠にするようなアホは信用しませんが
つか記紀は当然三国志や後漢書を参考にしてすり合わせようとしただろうが いくらなんでも神功皇后の事跡と卑弥呼は違いすぎなくない? 卑弥呼が三韓征伐なんかしたのかい?皇位継承も全然あってないし
468 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 15:33:32.04
>>437 >「度百濟 行至竹島」の「度」には、「海、河、湖」を渡るという意はありません。
動詞「度」には動詞「渡」の意味があります。
「度」の用例
「渓谷不通以縄相引而度」漢書西域傳 (渓:偏渓右旁谷)
同く「度」を「渡」の意味にも使っている用例
「始度一海 千餘里至對海國」魏志倭人伝
この場合の「度」は、「始度」と「度一海」と二つの意味を持たせています。
469 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:36:14.11
大和王権と邪馬台国とは別物 同じ時機に存在していたいわば存在を消すべき存在 別のクニを支配下に置くため神話を取り込み記紀に記述しなかった考えるのが合理的
470 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:39:08.18
他の資料がでてない以上これを根拠とするのは当然 「信じられない」だけで理論を立てているのではその時点で破綻してる 書記の記述を否定するならそれ以上の根拠が必要
471 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:40:14.90
記紀っていつ頃成立したか知ってるの? 卑弥呼の頃からどの位後かも
ということは文献はあらゆる意味で九州を指しているので 邪馬台国は九州ということですな
473 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:44:27.88
474 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:46:08.28
475 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:48:35.86
少なくとも当時の日本の政権が自らと邪馬台国に関連性を持たせていたのは史書から明らか 外交を正式に結んだ隋もおなじ見解 中国の史書というならこれを無視するのは乱暴すぎる 九州説はこれらの史書の記述を無視して 人によって解釈の違う魏志の行程のみを根拠にしているので弱いといわざるを得ない
476 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 15:59:30.87
九州説、三種の神器 魏志倭人伝の解釈多彩な行程 地名の語呂合わせ 卑弥呼の400年以上後に作られた神話
九州説は"行程のみを根拠にしている"かな?
478 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/27(月) 16:03:19.71
女王(女天皇)が相当年代に畿内にいた記述はないことから、卑弥呼は 畿内の女ではない。ということは、卑弥呼は九州の女王だということだ。 つまりその当時、日本は畿内と九州との2極支配だったということを 意味し、これは諸葛亮の大陸の天下3分支配に対して、日本は2分支配 だったということなのだ。当時の半島でさえ多極であったわけで、日本も 例外ではなく1極ではなかったということだ。これが真である。 九州王朝は卑弥呼以後も危機にさらされながら風前の灯状態で継続し、 これが文武、元明のころあたりまで存在し、そのころに滅亡したのだ。 ということは、景行の代に日本統一がなったとかいうはデタラメの大ウソ であり、景行世ではまだまだ日本全支配にはほど遠かったという事だ。w
こんな意見はどうなの?
837: 婆 ◆HKZsYRUkck 2011/06/24(金) 20:47:46.26 K2z0tVWt0 ID検索
>>807 ,
>>813 騙す騙さんの話はよくわからんが、方角に関してはひとこと言いたい。
中国の方角決定基準は北極星。道教で言うところの大上老君だよな。
かたや日本では太陽。「日向かし→東」とあるように、日の出の方角を
基準としていた。つまり、季節によって方角が変わるのだ。
これは現代の我々から見れば不思議に思われるかも知れないが、
そもそも日本では不変の方位というのは条里制の輸入まで意識されて
いなかったのだ。草原の民にとって、方角を間違えることは死活問題だが、
森の民にとっては、「あの山のちょい左」、「この河を下ったとこ」で
ことが足りる。もちろん現代語の「東」に訳される「日向かし」という
言葉はあったが、それはあくまでも「日の出の方向」に過ぎない。
しかし魏の使者は、倭人の言う「ひむかし」をユニバーサルな「東」と
受け取った。彼らの地獄の数ヶ月は、こうして幕を開けたのだった。
<つづく>
記紀の元ネタって天皇家や豪族の祖先伝承とかでしょ 大和政権の支配階層が5世紀には存在したとして 偉大なる女王と祖国の歴史が大切な祖先伝承から消えるものだろうかと
481 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 16:31:42.88
ああだこうだ言ってないでさっさと箸墓でも盗掘してこいよ。 ここであれこれ議論してても1年後もなんの進展もないよw
犯罪をすすめてどうする
483 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 16:45:28.04
>>467 確かに神功皇后の逸話の伝説性、魏志とのつじつまの合わなさ、
邪馬台国の権威を利用した可能性など史実としてはあまりにも不確かな点が多すぎる
個人的にもこれを必ずしも事実だとは思っていない
ただし、これを嘘であると退ける資料は無いのも現実
>>477 他に九州説を裏付ける資料は無い
とどのつまり九州説の根拠は魏志の行程か、それこそ神功皇后なみに伝説的な神代や神武東征しかない
他にもっと資料が見つかればいいんだけどな
484 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 16:50:19.77
無いものは見つからんよ
485 :
水銀厨 :2011/06/27(月) 16:54:33.64
倭人伝他の文献解釈でも、今は畿内の方が 合う部分多いと思いますけどね。 まぁ私は東遷説、もっとも四国東部=阿波から大和への東遷説ですが。 そして西の都が西都原という事で。
486 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 16:55:42.10
垂仁天皇紀に朝鮮半島から渡って来た人に「自分が王だ」と自称した地方豪族の話が出てる 当時は各地に半独立しているような強大な豪族がいたことが推測される 地方に中国と交渉して王号を得た国がいてもそこまで不思議ではない そのあたりの混乱があるのかも知れない あくまでも推察だけどね
>>483 「裏付ける資料」としては使える。↓
倭地温暖、冬夏食生菜、〜有屋室父母兄弟臥息異處
畿内か北部九州か南九州か、と問われれば南九州が最も適切。
何れにせよ行程のみで十分。ピンポイントの比定地はまた別の話。
488 :
水銀厨 :2011/06/27(月) 17:27:37.03
行程でも気候条件も丹の山があるのも 一番条件に近いのは四国東部という事ですね。
風土記を見ても伝承は神功皇后や景行天皇が大半 神功皇后が卑弥呼だとするならば、 九州は魏志の時代から中央のヤマト政権(邪馬台国)の影響下にある地域であったと考えられる 出雲のように神代の時代にさかのぼる神話などは殆ど出てこない ヤマト王権の影響を受けて歴史に登場する形 だから九州から起源とするとつじつまが合わなくなる
490 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 17:37:05.94
>>488 九州北部(末盧国、伊都国、奴国、不彌国)から南に行けば四国東部に着くのか?WWWWW
491 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 17:40:21.92
>>489 風土記は記紀を参考にして書かれたのと違うか?
>>491 どのみち九州は景行天皇や神功皇后以降の歴史しかないと言うことになるだけ
493 :
水銀厨 :2011/06/27(月) 17:52:21.03
>>490 放射説と倭人里数知らずという考え方ならね。
距離的には何の問題点もない。
南九州だって何処かで方向を変える必要がありますから。
494 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 17:54:06.82
景行天皇も神功皇后もやたらと北部九州の事績が多いな。 景行天皇は、北九州から始まって大分宮崎と、熊襲退治して。 7年間落ち着いたあと、天草や熊本を巡行して筑後まで帰ってくる。 筑後はもちろん、筑後の象徴高良大社にも滞在している記録がある。 神功皇后は、筑前側、糸島から福岡早良区、東区、宇美町と、 筑前エリアのほぼ全域。宇美町は応仁天皇を神功皇后が生んだとされる 宇美八幡宮があるね。 仲哀天皇は香椎廟から遠賀川沿いの北九州エリア 成務天皇はよく知らない。 さらに景行天皇以降に使えたとされる、武内宿禰は 高良大社に祀られている。 まあ、300歳以上とか言われているから、 個人というより一族の代表の名前だろうと思うが。
>>493 方向を変える必要はない。
八方位で書かれている以上、「南南東」を「南」としても誤差の範囲。
南を東とするのとは根本的に異なる。
つまり記紀神話、風土記の編纂の姿勢から これを示したヤマト王権は邪馬台国=近畿の政権と意識していたことが分かる これが即座に史実であるとは言わないが 当時の最大の資料がそれを示している以上これを上回るものが出ない限り九州説は難しい
畿内説語る奴ってどうして↑みたいに論理破綻してる奴ばかりなんだ?
498 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:02:26.01
今、wikipediaをみたら、仲哀天皇の皇居は 穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地) 筑紫橿日宮(つくしのかしいのみや、福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地) だけで、畿内にはないんだな。 畿内に帰ったことなかったんだろうか?
499 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:02:33.69
>>496 史実も何もお前の頭の中の妄想だろそれw
500 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:05:53.37
九州説は記紀に邪馬台国が載ってないとか 風土記も読んだことが無い人が主張してる話だしな 資料の話しても読んだ事も無いなら話にならないよな
501 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:11:13.78
記紀が九州の景行、神功、仲哀の事跡を組み込んだだけだろ。 神功とその子供の応神の話は、無理がありすぎて、 ストーリーを無理に繋げたいのが見え見えだ。 景行の九州巡行に対して、畿内にはどのくらいの事跡がある? 神功の事跡はどのくらい? あるのは、被葬者がわからない古墳だけだろ。
502 :
水銀厨 :2011/06/27(月) 18:12:14.13
もうはっきり答えなんて出てると思いますけどね。 名前の通りアワが元々倭の中心だという事で。
503 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:14:12.26
畿内古墳にに卑弥呼と関連する証拠は出てないじゃん
504 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:19:02.16
>>503 九州にもないな
その上で史書が示してるのが近畿なら近畿と言わざるを得ない
くどいようだけど別にこれが全部史実とは思ってないし
言うとおり筋の合わないところもたくさんあるしね
ただ九州説はどうやっても資料は魏志の行程のみ
(それも全部言うことが違うような)であることは変わらない
これを第一の説になど置けないのは仕方ない
505 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:21:40.14
魏志倭人伝にある委奴国は後漢皇帝から金印を授かった「漢委奴国王」の倭国 そして、この金印は、博多湾の志賀島から発見されている このことをもってしても九州なのに 何の証拠もない出てこないのは畿内のほうだろw
仲哀天皇は仲哀天皇二年二月に笥飯宮(敦賀気比)をつくって北の守りを固め、 同月淡路に屯倉を定めてから、南国巡狩に出発してる。 本拠地は畿内。
507 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:28:18.84
>>505 つまり漢倭奴国=邪馬台国だと主張するわけだ
大胆な話だな
508 :
水銀厨 :2011/06/27(月) 18:28:46.35
そりゃ奴国は九州ですからw 誰も否定しませんよ。
509 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:29:37.21
倭国はかつての倭奴国なり、は旧唐書だったっけか。
場所を探してるんだから行程(地理)に重きを置くのは当たり前。 資料は行程だけではないし、相対的判断になるのは当然のこと。
511 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:32:51.65
オマイら九州説をイジメるな 九州説はなー、日夜巨大な何かと戦ってるんだぞ
512 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:34:41.84
つまり後代金印を受け取った 委奴国の後裔倭国が存在する場所周辺が 邪馬台国があった場所でそれは九州の博多だ
で、畿内説にはこのような物証はあるのか?
514 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:38:07.98
大宰府がどういう位置づけかだなあ。 かなり重要なはずなんだが。 「委奴国」って書かれると、イト国って読みたくなるね。 実際、平原古墳見ると、一時期かなりの勢力を誇ってたのは 間違いなさそうだが。 ただ、あそこは本質的に福岡の属国になってしまう場所なんだよなあ。 奴国の祖の場所、とか墓所的な場所かもしれないが。
九州なんて金印の時代で終わってるよな
516 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 18:41:55.68
6世紀の古水城、8世紀の水城の再構築 その頃、太宰府はなんとしても守らなければならない 場所であったことは間違いない。 ただ、北九州本州方面に守りを固めたようには見えない。 そっちに大陸が攻めいるのはあんまり気にしてない。
517 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/27(月) 18:46:39.86
>>500 どの風土記のどこの個所に、相当年代に畿内に女天皇がいた記事が
存在するのか?
旧唐書では倭国と日本国の記述は明確に分かれている 倭国 「倭国者、古倭奴国也。」 倭国は古の倭奴国である 日本国 「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。 或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。」 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いは言う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。 或いは言う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。 つまり倭国=旧邪馬台国と大和王権(日本)は別国 邪馬台国を上書きするかのような畿内説にはゴリ押し感が漂う
519 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 19:22:11.29
まず魏志倭人伝の時点で奴国と邪馬台国が並立してる
そして柵封は前代の印綬を返すのが慣わし
奴国としての印綬が見つかる時点で邪馬台国との連続性がないのが分かる
金印を持って邪馬台国の証拠などとはならない
九州で見つかれば何でも邪馬台国などというのは強引過ぎる
神功皇后は明治以前は日本でも女帝扱いだったし、中国の宗史でも女帝として扱ってる
>>518 そこは倭と日本が別と言うだけで日本と倭、邪馬台国の関係なんて書いてないけど?
520 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 19:25:03.25
なぜか倭、奴、まで邪馬台国だと言う前提で話してる不思議
>>514 大宰府設立の経緯も史書にないんだよな
まるで初めからそこにあったかのような
522 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 19:29:53.69
523 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 19:34:14.66
太宰府から紀元前の土器が出てくるそうだから、 その頃から集落くらいはあったんじゃないかね。 まあ、北部九州、どこにでも何かしら集落くらいはあっただろう。 九州各地そんなもんだから、邪馬台国の場所なんて決まりやしねえ。 住居跡なんか、掘り崩すなら調査するが、掘り崩さないなら、 杭打ちの制限して、場所の記録だけして終わり。 ソース、うちと隣近所
524 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 19:41:29.82
>>519 >まず魏志倭人伝の時点で奴国と邪馬台国が並立してる
そらそうだろ委奴国は邪馬台国連合とも言うべき連合体を構成した一つの国だ
>そして柵封は前代の印綬を返すのが慣わし
>奴国としての印綬が見つかる時点で邪馬台国との連続性がないのが分かる
邪馬台国を構成した委奴国の後裔の倭国が後漢から金印貰って何がおかしいのか?
構成国家に卑弥呼の金印が伝わったかは不明だが
そもそも卑弥呼の金印は魏から貰ったものだぞ返す必要はないだろ
>奴国としての印綬が見つかる時点で邪馬台国との連続性がないのが分かる
>金印を持って邪馬台国の証拠などとはならない
「倭国者、古倭奴国也。」
倭国は古の倭奴国であるって書いてあるだろ
そして金印も博多で見つかった
つまり委奴国は福岡周辺にありそれが構成する邪馬台国も九州というのが当然の考察
お前のようなわけわからんことを言い出して無理やり否定しようとするのが畿内論者
525 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 19:47:05.77
弥生土器が湿地帯との境目に近いところで、 縄文式は山の麓から丘陵地帯という微妙な違いはあるが、 福岡佐賀は縄文式もよく出る。 縄文時代と言われる支石墓と小型円墳が同居しているような場所も 幾つかある。 墓にする場所は昔も今も似たようなもんなのか。 ネタとしては、現在墓場になっている小さな丘。 図書館で調べたら、古墳だった(笑)。
>>524 旦那言いたいことは分かるが卑弥呼の金印があとですぜ
ところで卑弥呼の墓は円墳らしいけど 何で円墳探して調査しないんかね
528 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 20:09:30.92
だって九州には存在しないから・・・
529 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 20:21:41.34
円墳なら九州にもいっぱいあるが 卑弥呼の墓が円墳だとどうして分るの?
>>529 魏志倭人伝教は円墳と考えててそれ以外認めないんじゃなかったけか?
>>529 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴碑百餘人
徑:直径の解釈で円だろ
ただ、冢は古墳とは違い自然の山や丘陵を指す可能性がある
古墳とは違う人口築造物を探す方法が案外近道かもしれない
卑弥呼がシャーマンである可能性が高いため巨石建造物などが組み合わされた山や丘陵の可能性もある
そんな場所はあるだろうか?
鬼道を行った卑弥呼の墓はドルメン(支石墓)であった可能性もあるな
533 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 20:38:12.39
そもそも旧唐書を持ち出すあたりがセコイw それ伝がいくつもたったりして内容が混乱してるやつじゃん ついでにその倭と日本の差って壬申の乱だとされるやつだし ちょうど日本の国号を倭から日本に変えた事と一致するし それを持ち出して邪馬台国がどうのと言い張るあたり
>>532 直径150mの石造りの墓とかないんじゃないのかね?
>>518 >倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。
この部分は、倭国が日本になったと書いてあるよ。
537 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:01:24.19
>>531 >徑:直径の解釈で円だろ
徑:径は端から端までの直線距離の意味だから円とは限らないだろう
四角や三角でもよいのではないか?
538 :
サガミハラハラ :2011/06/27(月) 21:05:53.35
当時の九州では墳のかたちは卵型だそうですよ。
その辺の形のいい山に卑弥呼の墓が眠ってるかもな
540 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:19:48.06
徑百餘歩の歩も短里と対になった歩なら 短里は一里約75m 一里は三百歩 一歩は25p 百では25mだろう。
541 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:20:40.29
旧唐書は日本がいつ日本と名乗ったか、壬申の乱を客観的にどう見たかの資料なのに 九州説なんてネタに嬉しそうに引っ張り出すとかもう 必死だな としか
542 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:23:35.12
>>531 甘木にある金比羅神社と天神社が祀られてる丘陵は地元では何て言われてるんでしょう?
甘木の人見てたらよろしく
>>540 いくらなんでも25m四方に100人も奴隷埋めんだろ
544 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:25:24.42
結局100人が100人違うことを言う距離解釈以外の根拠なし
545 :
サガミハラハラ :2011/06/27(月) 21:26:53.28
>>531 佐賀県小城市の小城公園内の桜ケ岡(サクラオカ)は、自然丘を卵型に
整形したものです。
ピラミッドの構造に似ていると言われるトンカラリンもあるな
547 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:33:12.04
>>543 25m×25m=625u
一人分の遺体スペースは2uあれば十分だから
100uあれば100人埋められる。
25m四方あれば100人の奴隷は十分埋められる。
548 :
訂正 :2011/06/27(月) 21:34:03.19
200uあれば100人埋められる。
549 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:36:41.90
>>543 倭人の言い分は「水行20日」とか「7万戸」とか「百人」とか
虚勢を張るためなのかずいぶん大袈裟だからねえ
殉死の代わりに置かれた埴輪とか間隔に決まりとかあったのかな もしそういう決まりごとがあれば、人間をその間隔に比例して円状に100人立たせてみれば 大体大きさ出るんじゃないのか?
551 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:40:05.02
大宰府は律令国家の中のひとつのシステムとして作られてるし その前から地方の行政区として似たようなのがいくつもある 九州の前線基地としての拠点として残っただけ 九州説にかかるとなんでも太古の遺跡だな
機能が問題じゃないんだろ そこにもともと何があったかだな
553 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 21:53:37.16
ところが、日本書紀に「太宰府を○○に建設した」という記述がないんだよ 最初から存在している前提の記述になってる
555 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 21:56:43.22
魏志倭人伝に書いてあるのは「徇葬」。 「殉葬」とは書いていない。 「徇葬」と「殉葬」の違いがわからんのか? 「徇」と「殉」をまともな漢和辞典で調べてみろ! ボケ!
556 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:02:03.51
つまり九州説の人に言わせると大宰府は邪馬台国と なんかもうすごいね 何でもありだな
お前もすごいよ
九州説キモい
559 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:05:13.71
>>555 久留米さんて、筑後平野にお住まいの方ですか?
560 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:06:18.68
畿内説キモい
561 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:07:28.81
金印が奴国で見つかっても邪馬台国 大宰府も邪馬台国 日本の国号が決まった資料も邪馬台国 近畿の巨大古墳は全部なしで九州の遺跡は全部邪馬台国 無敵だな九州説w
562 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 22:08:32.76
「谿」をPC内で発見により、書き直し。渓:偏右渓旁谷と書いた。
>>437 >「度百濟 行至竹島」の「度」には、「海、河、湖」を渡るという意はありません。
動詞「度」には動詞「渡」の意味があります。
「度」の用例
「谿谷不通以縄相引而度」漢書西域傳上
谷じゃん!ちゃんと探せよ!
564 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:15:06.15
まあ、さすがに、柱の穴が見つかって邪馬台国 ゴミの穴が見つかって邪馬台国 桃の種が見つかって邪馬台国 畿内説さすがだな。
歴史の古さこそ栄光の証 邪馬台国は大和政権だし、当然畿内だよ
566 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:19:57.96
567 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/27(月) 22:20:25.87
>>559 >久留米さんて、筑後平野にお住まいの方ですか?
奈良の某天皇陵の墳丘の上で遊びながら育ちました。今は墳丘内に入れない。
今は兵庫県在住。
某天皇陵とは、前方部と後円部のつなぎ目に瘤が2つ並んでいる古墳です。
568 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:29:24.44
>>564 人間本当につらいものは無視したがるものだ
日本書紀や隋書の明確な記述は触れたくないらしい
まぁ九州説によると全部捏造だそうだから安心だよね
569 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:33:24.18
>>565 ネタだと思うけど両者は別物でしょ?
神武一行をマキムクに送り出した母体が魏志倭人伝にある国々
神武一行を受入れた大国主を王とする巻向にあった畿内政権が後の大和政権
ちなみに大国主は神武の子孫にクーデターでその盟主の座を追われてしまった(国譲り神話)
570 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:34:54.88
>>569 普通に史書読んでればそんな解釈でて来ようが無いんだけど
どこのMMRが出展?
571 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:39:23.82
本居宣長は邪馬台国を嫌って別物だと言い張ってたな わざと読みを間違えたり 大人気ないですよ先生と
573 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:42:25.82
時代がかぶってしまうが、 案外神武って宮崎の熊曾出身なんじゃないか。 大型古墳、前方後円墳好きもかぶるし、 なにより、環瀬戸内海文化圏の端から端という見方もできる。 そして、余り大型古墳に興味のないのが、有明海玄界灘文化圏 かなり後の方にならないと、大きな古墳は少ない。
574 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:43:41.30
狗古智卑狗ってどこにいたと思う?
狗奴国
>>573 宮崎は熊襲じゃないよ日向だ
それに神武が日向出身の設定はデフォじゃないのか?
>>574 熊本の菊地以南だろ
いわゆる熊襲
577 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:47:52.30
わかったわかった もう間とって宇宙人でいいよ 距離を光年とかに解釈すれば宇宙も邪馬台国だ 都合によってフレキシブルに距離変わるのが特徴だし 相対性理論なんやなw
578 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:49:27.16
いや、景行天皇は北九州、大分、宮崎と熊曾退治してるし。 で、神武が景行天皇以前なら、熊曾の可能性もあるかなと。
579 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:53:04.09
>>573 倭国大乱後、トヨが立った後は九州は以外と平和でお互いに交流があったんだと思うんだよね。
天孫降臨も高千穂の峰に降り立った神々が東の日向に向かうという話だけど、人間が天から降って
くるわけないから、九州山地の西側に住んでた人が高千穂の峰を越えて日向にコノハナサクヤ
を嫁にもらいに行ったと言うのが本当の話だろうし。まあこの辺は神武の系譜の説明なんだよね。
580 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:54:19.46
熊曾退治は宮崎で終わって、 日向高屋宮にとどまること6年。 帰り道は天草、芦北、熊本経由で、九州巡幸している。 熊本方面は、少なくともこの時期は熊曾じゃないようだ。
というより、敵に包囲された日向を助けに行ったってとこだろう。 命令されて行ったのかもよ。
以外に九州で重く見られていないのがレイライン 阿蘇もそうだが不知火伝説のある八代海を抜けて天草に至る そして実は矢岳巨石遺跡群というドルメンもある この辺りもチェックする必要があるな
583 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:59:23.64
神武天皇と以下欠史八代の解釈は難しいね 崇神天皇は四道将軍のオオビコに関する鉄剣もあるけど それ以前は資料に乏しいから何かの根拠とするのは困難
全国の神武を祀った神社でかなりの数が天草にあるそうだ
>>580 なぜ熊本を回る必要があったのかも不思議
それより南の隼人に海幸彦山幸彦の伝承があるのも
九州中部から南部も大和政権に何らかの関わりがある事を示唆しているのでは?
586 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:09:42.27
そういや、熊本で景行祭った神社は多いし、 福岡佐賀は神功皇后多いな。 うろつき回ったんなら、確かにゆかりのあるものは多かろう。 もっとも、どの時代にそれが祀られたのか、あるいは勧請されたのかは 不明だが。
587 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:13:45.15
まぁ古事記に卑弥呼=神功皇后の記述は無く対外用とされる書紀にのみあると 大乱と言うか天皇の突然死やクーデター未遂はあったけど、 その後に即位したのは幼女じゃなくて応神天皇だし 魏志とのつじつまも合わない そう考えるとまぁ政治的に過去中国と交渉した国の権威を利用したとも取れる そうなると邪馬台国はヤマト王権と無関係に過去にどこかにあった国ということも十分に考えられる
588 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:17:02.11
>>583 神武は大阪で阻まれ、和歌山で阻まれ、ついに吉野の獣道を通ってなんとか畿内入りしてる。
その後、大国主の娘をもらってその庇護を受けたみたいだけど、その後の数代は、
葛城あたりに所領をもつ大国主の子分だったのだろう。
その大国主は垂仁天皇の時は祟り神になっている。という事は欠史8代の間にクーデター(国譲り)
があって出雲出身の大国主は失脚したと考えて良いと思う。
「大国主の子分だった」とか「大国主をクーデターで葬り去った」と逝った事が「天皇」の業績として
記せるわけもなく、この8代は欠史となったのだろう。
距離的に大和と同じか近いくらいの出雲と九州の繋がりがあまり出てこないな 何かある?
590 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:25:37.75
>>588 面白い話だけど根拠がない
物語としては良いけど歴史語るには足りない
まだ崇神天皇の出雲神宝事件と、大物主の祟りの方が国譲りを連想する
邪馬台国と出雲の関係なら スサノオと邪馬台ノオロチだろ 出雲と邪馬台国の一部がぶつかっていた伝承
592 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:33:45.02
>>587 神功皇后の摂政時代は、神武天皇の即位が紀元前660年という年代観で、西暦201年〜269年になる。
うまい具合に、台与が西晋に朝貢したとされる266年も含んでいる。
日本書紀では、卑弥呼と台与の二人分が神功皇后一人でまかなわれていることになる。
しかし、日本書紀はどうして魏志を引用したのだろうか。
西暦107年に後漢に朝貢した『倭国王・帥升』は無視している。後漢書のことは知らなかったのか。
ちなみに、西暦107年は日本書紀の年代観では、景行天皇の時代になる。
後に国譲りの神話があるのに 邪馬台国がヤマタノオロチなら、出雲が勝った記録が記紀にあるとしたら 邪馬台国と大和王朝が別物ということか
594 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:37:16.39
出雲、吉備、両野、葛城 記紀は大王に匹敵する豪族が解体されていく過程が事細かに書いてある
595 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:42:11.37
>>592 書紀は中国の古典を大量に引用してる
当時最高の知識人が編纂にあたってる
正史を知らないはずが無い
そうなると言うとおり最古の史書にある日本人をスルーして卑弥呼なのは不思議だな
596 :
訂正 :2011/06/27(月) 23:51:58.05
書紀は8世紀に創られた歴史風神話の書。 中国の古典を大量に引用して史実らしくしただけのこと。 書紀を史書なんて見たら大間違い。
597 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:55:04.87
朝鮮半島に関しては崇神天皇から記述があるから対外政策の権威として師升が出ても良いのにね 奴国じゃなくてあくまでも邪馬台国なのかな 王位をもらってないからか?
598 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 23:59:02.38
>>596 古事記の冒頭に編纂の理由がかいてある
同時期に命を受けて作られた書紀も同様
それをそんな風にただの歴史や神話と見てる方がおかしい
はっきりとした意図がある
古事記開いて即書いてあること見てないとか
百済に出兵したのは大和王権ではなく邪馬台国 破れて弱体化したのを乗っ取ったのが大和王権
600 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 00:00:35.28
>>597 後漢書は、帥升のことを『倭国王』と書いている。
日本書紀の編纂者がこれを読んだとしたら、あっ天皇だ(大王でもいいが)、と思っても不思議はないと思うのだが。
601 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 00:05:39.74
>>600 選別にも意図があるはずだからなー
なんだろうな
やっぱりヤマト王権と邪馬台国は関連があるのかね
同時期にあったはずのなのに何故か邪馬壹国が出てこない不思議 九州にあった政権基盤を乗っ取ったのか もしくは大元の派生が天孫族で同じ流れの主流傍流の争いだったのかもしれん
603 :
ローガン :2011/06/28(火) 00:22:05.21
書紀編纂時は、唐を見習った小中華思想。過去に天皇が他国に朝貢していたとは書きたくない。 されど、唐を意識して書かれたものである以上、あからさまな改変は不味い。よって、倭の五王も開皇20年の記事もスルー。 引用魏志については、欲しかった年次の定点ゆえ、スルーせずに記載。ただ、注記という形をとり、しかも神功が朝貢したとは明言を避けたもの。 と思う。
605 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 01:03:12.76
>>420 >読みについては、正直な感想として、むしろ九州説の方々の
>主張する正しい読みの方が捻っていて、技巧的過ぎるというのが
>一般の感想だと思うよ
基本こういう奴らはなぜ技巧的なのかとか、根拠提示や説明を一切しない
というか近畿説の連中はなぜ近畿なのかを説明せず、
近畿にあると声だけでかく主張してる奴ばっか(同じ奴がレスしまくってるだけかもしらんが)
まるでどこかの民族のようだ
>>584 天草の語源は天の両屋
ドルメンと関係がある
そして海人族のいたところでありトヨタマ姫やタマヨリ姫の故郷ワタツミ
故に天草にタマヨリの息子である神武を祀った神社がある
天草-高千穂結ぶレイライン
鬼道で国を治めた卑弥呼の邪馬台国や墓はレイライン上にあるかもね
>>603 そこまで理論を展開しても、天皇家万世一系としたいか?
世界でも珍しいぞ。同血族がそんな長期間トップに君臨するのは?
609 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 07:57:05.35
ほんとアホやなww こんなとこで延々ぐだぐだ言っててもなんも進展しないことも わからんほど馬鹿なのか?全部推論でしかないだろ。
610 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:35:40.36
九州に存在しないのはもはや明白なのにね。
>>605 半島では卑弥呼は半島人で邪馬台国九州説が主なんですけどw
思考回路が似てますね。
612 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:44:34.47
九州説批判は、反論にもならない根拠の無い書き逃げばかりになってしまったようだな。 その反面、畿内説を補強する書き込みも無い。 半信半疑で、いつ有力な反論が出てくるか、正直ビクビクもので見ていたが、 こりゃ、本当に九州説で決定かな。 議論の転換点に立ち会ったのかもしれないな。
613 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:48:55.71
まずまともな九州説を提示して欲しいなw 大半が妄想では説とさえ言えないレベル。
614 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:51:10.23
反論ですら無いと。
615 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:51:29.36
邪馬台国などもはや歴史学の範疇にあらず。 オタの妄想のネタでしかない。
616 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:53:06.13
畿内説になる見込みがなくなったから、 邪馬台国議論は終了と。
617 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:56:05.98
そうだね、元々邪馬台国はヤマトなんで議論の必要性すらない。 現に江戸以前はそういう認識だよなw
618 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 08:58:25.20
議論で勝てないからねえ
やっぱり九州説は韓国人の工作な気がしてきた。
620 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 09:02:02.02
と、レッテル張りしか出来ませんでした。 さ、お仕事しよ。
621 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 09:21:56.05
だいたい邪馬台国が九州にあったとしたらそれがなんになる? そんな1800年も昔のこと少ない情報で今更ほじくり返しても なんにもならんだろ。
邪馬台国の時代に近畿から九州まで支配下に置いた勢力なんてない 中国まで行くのに途中のライバル部族に邪魔されないわけないだろ 畿内説など常識で考えればバカみたいだ 一番近い九州の国の連合とみるのが常識
レイライン上の熊本を徹底して探してみれ 必ず繋がりのある何かが出てくるから
624 :
水銀厨 :2011/06/28(火) 09:43:32.69
北部九州から瀬戸内にかけて大陸からの痕跡がある以上、 そこが倭国のエリアとみるのが常識だと思いますよ。 何しろ阿波(ワ)の国や淡(ワ)の島まで有りますから。
625 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 10:25:56.29
頭悪すぎるww 倭国大乱が収拾つかなくなり、やむにやまれず 西日本一帯の首長が話し合って、 卑弥呼を王とした連合国家体制を構築したと 倭人伝にそう書いてあるじゃないかww 別に近畿から九州まで支配した勢力なんてなかったんだよ。 倭国大乱が高知集落性の分布状況から鑑みて 西日本全域に及んでることから、やはり巻向に卑弥呼がいたと みるのが妥当なんだよ。あたりまえの話だがw
おちつけ
627 :
水銀厨 :2011/06/28(火) 10:59:47.97
東遷は徳島(倭)から奈良の(大和)で何の問題も無いでしょう。 前方後円墳のルーツもその事を示します(つまり西都原は西の都) 新たな丹の山を求めるという、はっきりした理由も有りますからね。
628 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 11:01:52.01
↑だからそれ全部個人的な妄想でしょw そんなごたくいくら並べたって意味ないよ。 証拠もないのにこいつが犯人だと言ってるようなもんで。
629 :
水銀厨 :2011/06/28(火) 11:05:41.57
前方後円墳のルーツは証拠の一つにはなりますよ。 淡路島の垣内遺跡も裏付けの一つにはなります。 まぁ証拠については今後に期待しといて下さいね。
邪馬台国の墳墓は前方後円墳じゃないだろ
631 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 11:43:59.87
>>447 >歳差により春分点(地球の赤道と大陽の黄道が重なる点)が西にずれて行くが、
を何処から拾ってきたかしらないがこの文面を理解していないようだ。
「春分点が西にずれて行く」という意は東の方角が確定しているから「西にずれる」という表現が可能。故に、「現在の春分点の方角を東」と置くなら、その春分点が「現在の西」
までずれるのに12960年かかる、その春分点の方角は「現在の西」であるが、そこは12960年後の東である。
理解できるかな?
632 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 11:45:56.73
>>468 :卑彌呼の都は久留米:2011/06/27(月) 15:33:32.04
>>437 >>「度百濟 行至竹島」の「度」には、「海、河、湖」を渡るという意はありません。
>動詞「度」には動詞「渡」の意味があります。
「海、河、湖」を渡るという意はありません。 の意は、「水を渡るという意はありません」
ということです。ですから、
「度」の用例
「渓谷不通以縄相引而度」漢書西域傳 (渓:偏渓右旁谷)
は、水を渡ったという例文ではありません。
「船が綱渡りができるならOK」ですが、または、船が地図の上を渡ったのなら「始度一海 千餘里至對海國」という記述ができるでしょう。
「度の船旅は水の上ではなく地図上の船旅ですよ」
水銀厨さんへ あんたは根拠にならない根拠ばっかりいつも提示する まずあんたはこれらの疑問を全て解消しなければならない ・阿波や淡が邪馬台国時代からの名称であることを証明しなければならない ・倭と波や淡の関連性を示さなければならない 倭はワ(ワレ)の意味から来たとする説があるが、淡路は阿波への道、阿波は暴るから来たという説が強い また阿波は古来の表記は粟であり、ますます倭と離れる ・波や淡の中古音・上古音の読みは倭と異なる。同一である根拠を説明しなければならない ・波は万葉仮名でも本来(ハ)と読み、ワと読むのは前の文字との複合による音韻変化であり倭との関連性は見られない ・邪馬台国以前にあった倭奴国は九州にあるのが確定している つまり、淡路島や四国に関係のないところで「倭」の名称は既に使われている ・記紀で淡島が初めに産まれたとしても、何故淡路島での物語の記述がないのか説明が必要 ・同じく淡島が初めに産まれたからと言って、それが邪馬台国時代のことであるということを証明しなければならない
634 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 13:02:01.89
>>621 邪馬台国が九州にあったことを前提として古代史を考えなくてはならない。
つまり、大和朝廷誕生の過程。
635 :
水銀厨 :2011/06/28(火) 13:15:35.31
>>633 まあそう思うならスルーしてもらった方が‥
そのうちどっかでまとめて発表しようかな?
とも思ってますよ、それらの根拠も含めてね。
(まだまだネタは沢山ありますから)
じゃあ「根拠にもならない根拠」をもう一つw
ミマキイリヒコは徳島のミマ(美馬)地方から、
新たな丹の山(ミワ山)の麓に宮を求めて
やってた、という論はどうかな?
となると半島南部のミマナ(任那)という意味も
変わってきますね。
奴国に任せた国だったりしてねw
>>606 天草の姫戸の矢岳巨石遺跡群には鮫の頭のペトログラフがある
豊玉媛の正体は鮫=海神族をあらわしている
姫戸という地名も何らかの関連性が伺える
>>635 水銀氏のサイトってないの?
まとめたのをブログにうpして
大和王朝の出自が九州にある可能性が高いな 天孫降臨時に東に移動したニニギの一族と九州に残った一族は同属で その末裔の神武の一族自体が邪馬台国を構成した中心勢力にあったのではないのか? それであれば邪馬台国の勢力と大和王朝が戦った記録がないのも頷けるし 神武が東に至って天皇に迎え入れられたことも説明がつく 天草の海人族が果たして関係があるかはわからないが 海幸彦の末裔が隼人であるという点からも無視できない
640 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/28(火) 14:02:00.03
>>632 >「度の船旅は水の上ではなく地図上の船旅ですよ」
その通りです。
「度」は、抽象的に「わたっていく」「こえていく」の意味ですから、
対象のものは、水、谷、物品、物事、決まり事、何でも良いのです。
「渡り鳥」は本来は「度り鳥」でしょうか。
????
上記の返答を書いていてふと思いました。
>>632 は、河童虫さんじゃありませんか?
641 :
バカを憎む :2011/06/28(火) 14:13:26.35
ヤマタイなんてその発音が日本語らしくねーじゃん ヤマは分かるがタイってなんだよ ヤマトなら岩戸を開けるのイワトと同じで良く分かる
642 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 14:22:04.24
>>631 >「現在の春分点の方角を東」と置くなら、
またまた馬鹿をさらしているな。春分点の方角を東と置けるわけないだろ バーカ。
春分点は地球の赤道と大陽の黄道が交わる点だ。東は大陽が登る方向だ。
なお、知らないようだから教えてやるが、大陽が地球の赤道の真上に来た時が春分(秋分も)だ。
643 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 14:25:31.19
>>638 畿内説の場合は、邪馬台国が大和朝廷になったというわけだろうが、イメージほど簡単ではなくて、
この関係にはけっこう苦労している。
東遷説の方がわかりやすいし、現実的だし、文献の記述にも合っている。
>>643 現実的と考える根拠は何?
後、文献って?記紀?
645 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 14:49:22.56
>>642 >春分点の方角を東と置けるわけないだろ
「おひつじ座」に春分点があった時、春分の日には「おひつじ座」と同じ方角から太陽が昇る。
つまり、春分点がある星座と太陽が昇る方角は重なるの。
「魚座」に春分点がある時の、春分の日には「魚座」の方角から太陽が昇るの。
解ったかかね。
646 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 14:51:43.74
>>640 >河童虫さんじゃありませんか?
河童でも虫でもありませんよ。
647 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 15:39:12.91
>>645 真正馬鹿のくせに理論めいたことが好きなんだね。だけどしょせん馬鹿はバカ。
具体的な例で説明しなければ分らないようだね。
天の赤道と黄道が交わる春分点(秋分点でもいいが)から地球に向かって垂線を下ろすと地球の赤道上の
どこかに届く。今、その地点をインドネシアとしよう。このインドネシアでは大陽はパプアニューギニアの
方から登る。その方角が東だ。パプアニューギニアから見ればインドネシアは大陽が沈む方角、つまり西に
なる。
さて、12960年後に春分点が移動してそこから地球に下ろした垂線が南米ベネズエラの辺りに届くとしよう。
このベネズエラでは大陽はアフリカのギニアの方から登る。その方角が東だ。
さて、このときインドネシアではどうか。やはり、大陽はパプアニューギニアの方から登る。東が西になる
ことはない。地球の自転の向きが変わらぬ限り東と西は変わらないのだ。歳差は回転軸の方向の僅かな揺ら
ぎであって、回転方向とは無関係なのである。
648 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 15:45:34.51
>>644 武力で支配を広げていくという構図が現実的ということ。
畿内説のような、各地の豪族の仲良し連合なんて非現実的。
649 :
ローガン :2011/06/28(火) 15:59:17.40
>>608 >世界でも珍しいぞ。同血族がそんな長期間トップに君臨するのは?
確かにね。創作だろうとは思う。
ただ稲荷山鉄剣銘に「奉事の根源」とある。自身が仕える事…の源は上祖にあると。5〜6世紀には既に諸家の旧辞の中に大王との血縁が口伝されていた。と考えられるんじゃない?
651 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/28(火) 16:17:51.24
>>646 >河童でも虫でもありませんよ。
私の知る限りでは、
文章地図(河童虫氏が言い出しっぺ)論は、
>>646 さんで3人目となります。
文章地図論の根拠:「度の船旅は水の上ではなく地図上の船旅ですよ」
652 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 16:32:33.60
漫画の卑弥呼すげー美人だわw 日食の時に日御子失格として 王殺しされてたけど
655 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 17:32:42.04
天草とかw ちょっと近過ぎじゃないの?
日向三代の御陵が鹿児島にあるんだから熊本にも関連する遺跡があってもなんら不思議ではない
657 :
玉 乱造 :2011/06/28(火) 20:46:12.96
>>652 具体的に言うと、今の日本のどの地域、どれくらいの範囲かな?
658 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 20:48:15.73
記紀は国号やら中国への記述やらから対等であろうとする意図が見える 白村江の戦い以後の外交的な理由もあるんだろうな そう考えると漢倭奴国王の金印、師升、倭の五王と言った重要な事績を敢えて無視しているのも分かる 引用から考えて編者が中国の書籍、それも正史を知らないなんてありえないしね わざとであると理解するのが自然 で、そうなると書紀としてはあんまり書きたくない 「朝貢と冊封」の記事のある卑弥呼の記事を敢えて載せたと言う点が際立つ つまり卑弥呼とヤマト王権は都合の悪い記事でも載せなければならない程の関係があるとみられるんじゃないだろうか
659 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 20:55:13.24
そうなると書紀の神宮皇后=卑弥呼とする記事は単なる権威付けと考えるのは難しい むしろかなりの密接な背景があるんじゃないだろうか
>>659 倭人伝の内容は権威付けにはならんだろう
大和朝廷はは半島の政権と違って、中国の下について満足するようなメンタリティはないから。
661 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 21:16:16.81
まぁ邪馬台国がどこにあったかはともかく ヤマト王権と邪馬台国は書紀の上からも何か不可分の関係性があると考えられる 氏姓を明らかにするという古事記の編纂理由は、 同じ時期に天武天皇の命で編纂を始めた書紀にも通じるはず 大王の背景に邪馬台国を入れるってのは重要な意図があるはず 邪馬台国は無関係な地方政権などではなく、 ヤマト王権の成立の過程になんらかの重い役割を果たしていたと言えるんじゃないだろうか
単に無関係過ぎて書く材料が無かったとは考えたら駄目なん? 後は自分たちより先行する権力の存在を認める訳にはいかなかったとか 記紀がそこまで国粋ぽいかなあ?半島に対してはあれだけど
そりゃ記紀は中国に対して対等意識あるだろ。
664 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 21:59:53.72
金印も伝承すら残ってなかったんだろうな。 中国の書籍見れば、過去にどこかがもらったことくらいは わかるだろうけど、資料不足で書くに書けず、 そんな事実はなかったことに。
邪馬台国とヤマト王権とは無縁、それだけのこと いいかげん気づけや
神功皇后って持統天皇の為に作ったんじゃね まるっきり架空人物とも思えないけどさ
667 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 22:10:01.20
神功皇后に相当する人物は筑前でいろいろやってるけどな。 卑弥呼とつなげるつもりは毛頭ないが、筑前地方の女王だったのかも。
668 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 22:15:26.84
関係も何も単にライバル国だったから記紀に何も書いてないのだ 高千穂を発したニニギの勢力が東に至って古代大和王朝となり、残った勢力が日向を中心とした勢力となった これがウガヤ王朝 位置的に言えば魏史倭人伝の邪馬台国に従わない九州の南半分のクナ国で 隼人もその勢力下にあり 日向三代の山陵があるのも不自然ではない 邪馬台国が朝鮮で唐に大敗し弱体化していく中でウガヤ王朝から神武の勢力が東征し、古代大和王朝と融合した なぜ受け入れられたのかは派生が同じでありウガヤ王朝が本家だからか クナ国が熊襲であるという通説は間違いで、朝鮮での大敗と倭国大乱によりバラバラになった邪馬台国の残党こそが熊襲 その後大和王朝により行われた熊襲征伐は邪馬台国の残党狩りであったのではないか
クナ国をウガヤ王朝とすれば後世の学者がプレ大和王朝を邪馬台国と結びつけるのは愚の骨頂であり 消え去った邪馬台国の卑弥呼の墓などは崩された可能性さえあるの
もし大和朝廷が直接邪馬台国を滅ぼしたなら 熊襲やイワイみたいに大和の偉大さを示す為に 取り上げられたと思う
>>663 僧や学生送り出して勉強させ、
都の造りまで真似てるのに、何で対等なんだ?
672 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 22:33:51.20
ウガヤフキアエズのミコトは、 吉武高木遺跡に隣接する飯盛神社で祀られてる。 主神はイザナミだが。
倭の五王から100年そこらで継体でしょ それで詳細不明っておかしなことだ 中国史書のでっちあげじゃないとして 書記が色々と隠してるとしか思えない
674 :
sss :2011/06/28(火) 22:41:06.05
>>652 確かに倭人伝には、卑弥呼は共立したと書かれているが、詳しく言うと、
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」
その国、元また男子を以って王と為す。住まうこと7,80年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち
一女子を共に立て王と為す。名を卑弥呼という。
こういう風に見ると、畿内説の共立では意味が通じないことがわかる。倭王の後継者をめぐる争いと
考えた方が辻褄が合う。
また、卑弥呼が死んで、男王が立ち、国中がこれに不服で千人が殺され、台与が女王になったケースと
良く似ており、これからも倭国の大乱、卑弥呼の共立は後継者をめぐる争いであったと考えられる。
>>672 鹿児島(昔の日向)に
宮内庁が認めた山陵があるよ
そこには巨石遺構らしきものもある
676 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 22:48:03.65
>>674 そうそう
畿内説ではヒミコをヤマトモモソヒメとしてるらしいけど、彼女って全然女王じゃないだろ?
ヒミコは火の国の巫女、火巫女でしょ
トヨはトヨの国の巫女でしょ
677 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 22:53:06.03
肥巫女、豊巫女か。 可能性はないこともないな。 卑弥呼には日向(ヒムカ)説も昔からあるな。
>>673 倭と大和が別物だとしたらあらすっきり
全部解決
日本国王征西将軍宮みたいに 九州の連中が倭国王を名乗ったか
つまり邪馬台国も大和政権の元もそれぞれ九州にあったということか
681 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 23:07:10.53
やはりこの板では「九州王朝説」こそ王道ということだなw
682 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 23:10:34.43
あ、間違えたw
九州は歴史的にも被征服地扱いだから 神武個人の出身がどうのは別にしても 九州が本拠で東征したってのは理解できん
九州王朝じゃないな 九州に邪馬台国とウガヤ王朝があって ウガヤと兄弟関係のプレ大和王権が畿内にあったと言うわけだ いわば大和王権の日向から畿内に至る部分ができつつあった時代
誰か神の手使って親魏倭王の金印埋めてこいよ
>>676 海部氏系図はどうするの?
モモソは日女命で大神で神大市姫だぞ。
>九州に邪馬台国とウガヤ王朝があって 九州に邪馬台国と倭国大乱で戦った勢力があった。 >ウガヤと兄弟関係のプレ大和王権が畿内にあったと言うわけだ 神功皇后などは畿内人ではなく九州人だったようだ。
神功皇后は葛城地方生まれですよ。
まあウガヤ王朝の実在は神代三代の山陵が認められてる事ではっきりしてるし クナ国がウガヤ王朝の国と考え邪馬台国と別物と考察しないと 隼人の地に山陵がある説明がつかない
690 :
日本@名無史さん :2011/06/28(火) 23:55:20.70
倭人伝に従えば、どうみても邪馬台国は九州だ。 邪馬台国時代までの本州は、銅鐸を祭る時代遅れの民がいたにすぎない。 邪馬台国時代以後、本州は急激な変化を遂げた。 銅鐸の民は姿を消し、武力に長けた鏡をかざした勢力があっという間に 列島全体をその勢力下に収めた。ヤマトを基地として列島全体を支配して いったのであーる。
その書き方だと卑弥呼が女王になったとき本州は銅鐸を祭ってたか止めてたかがアイマイだよ
692 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 00:37:48.73
そんなことは考古学者が考えればいいことだ。考古学者が分からんのならば無理に 結論を出すべきではない。なぜなら、銅鐸がいつまであったか、そんなことを書い た文献はないからな。
>>690 20年前ならまだ通用したんだけどね、今じゃ無理だな。
694 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/06/29(水) 01:15:33.01
>>692 銅鐸がいつまであったかを書いた文献を昔読んだことがある。
和泉で銅鐸が消えたのは2世紀、2世紀のいつ頃かは書いていなかった。
摂津西端(神戸市)で銅鐸が消えたのは3世紀初頭まで。2世紀中葉と思う。
摂津中央部東部で銅鐸が消えたのは3世紀後半の頃。垂仁が滅ぼしたと思う。
近江では4世紀になっても銅鐸文化が生きていた。亡んだ時期は書いていなかった。
その本が書かれた頃には、畿内の前方後円墳の直接の発祥地が阿波だとは未だ知られていなかった。
日本では縄文後期に至る間に入植した勢力が巨石文明に何らかの関わりを持つ集団で 彼らは日本全体に巨石遺跡を残して忽然と消えている それは世界各地にある巨石遺跡にも共通していて、6500年〜1000年前に、ペトログラフという文字を持ち何トンもの石を積み上げ作ったあと忽然と消えている もし天草のドルメンが世界最大なら、巨石文明に連なる系譜がウガヤ王朝にあるかもしれない 天岩戸や天の浮舟は巨石文明との繋がりを連想させる 9500年前から鹿児島にあっ上野原遺跡の一大集落は6300年前の鬼界カルデラの噴火で全滅している 南九州も火砕流でやられている つまりその後の勢力は生態系が回復する6000〜5000年ほど前に入植したはずで天草の巨石遺跡の成立予想年代に符号する 巨石文明の謎の解明が邪馬台国や大和王朝の謎の解明に繋がるかもしれない
書き忘れたがヨーロッパにある数多くの巨石遺跡 その文明を統治していたのは女王だったらしい
697 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 01:57:35.19
東に海があり皆倭種。 末盧國に着いてからは海を渡った形跡がない。 邪馬台国は九州以外考えられない。
>神功皇后は葛城地方生まれですよ 本当ですか? 神功皇后は 九州で活躍し 九州で兵を集め 九州で出産し 神功皇后の妹は佐賀大和の女王になったので 九州人だと思っていたのですが。
700 :
ダニエラ・ビアンキ :2011/06/29(水) 06:48:56.12
>>676 「邪馬台国」も「卑弥呼」も3世紀当時、どう発音したのか解らないので、学
問上やむをえず「やまたいこく」「ひみこ」と仮読みすることになっている。
たとえば平安時代になっても清少納言が仕えた定子皇后は「ていし」とお呼び
する。本当はなんとお呼びするお名前だったのか現代となっは解らない為だ。
やまたいこくもひみこも仮読みだよ。もっと勉強しなさいよ。
701 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 07:14:51.34
>>694 >銅鐸がいつまであったかを書いた文献を昔読んだことがある。
そりゃ後世の学者はいろいろ書いてるだろう。しかし、いずれも確たる根拠がない
推測にすぎない。私がいうのは、3、4世紀当時の資料がないということ。
702 :
訂正 :2011/06/29(水) 07:28:30.52
神武東征は何らかの史実を基に記されたものだろう。 大和朝廷の先祖は九州から畿内に入植し、 畿内の先住民を征服して再び九州の故地をも服属させたのだ。
703 :
訂正 :2011/06/29(水) 07:31:28.72
704 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 09:23:21.04
>>703 君は暑さで脳をやられたんだな、可哀想に。
>704 脳が傷んでいるのはあなたでしょうね。
706 :
訂正 :2011/06/29(水) 09:36:15.85
707 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 09:36:29.28
九州説なんて妙な宗教みたいなものかw 質問中突然切れ出す変な奴ばっかりだし。
質問のレスってどれだ?
突然切れて相手にしなかったら勝利宣言だからな。 そりゃ学者は大半邪馬台国をスルーするよ。 特に九州説には何言っても無駄という認識だからなw
勝利宣言てどのレスだ? まともな根拠なしに九州説否定して叩くお前の方が余程基地外だろ
711 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 09:57:25.80
九州説は短里で説明できるが、 畿内説は短里でも長里でも説明できない。 ゆえに畿内説は、行程議論を放棄するしか無い。
712 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:00:44.96
九州説にまともな根拠どころか候補すらねーなw 勝利宣言なんてこのスレだけでもどんだけあるんだww
村おこしと三文文筆家の自慰、それと半島工作員。 これが九州説の全てで、本来は昔から 畿内で誰も疑問視してないんだけどね。
714 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:10:21.35
機内説の方が何の根拠も無く、候補地だってコロコロ変わってる。 九州説の根拠は有りすぎるほどあり、北部九州が有力な候補である。
715 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:11:47.57
畿内説は行程議論を放棄するしか無い。 したがって、他説を否定することしか出来ない。 しかし、畿内説が肯定されているわけではない。 要は自説を高めるのではなく、他説の足を引っ張っているだけである。
716 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:13:22.95
>>713 畿内説を本気で信じてるのは極少数派。
日本人の殆ど70%は九州説支持が現実。
畿内説で、行程がどうやっても辿りつかないのはもはや定説だし、 出土物も大したものは出てないし、まだ、吉野ヶ里のほうが絹やら柵やら 倭人伝にあったものが出てるくらいだ。 なんで畿内説なんてものが出てきたのか、よくわからない。
718 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:31:28.81
日本書紀や隋書にバッチリ書いてあるからな むしろそれを全無視して行程なんて誰も言う事が違う方だけ支持するのが不思議 まぁ「どっちか分からん」以上いう事なんてないレベル
719 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:36:26.12
畿内説の候補地も複数あるが、巻向が 重要という点は既に共通認識だよ。 それと奴国と伊都は重要としている点もな。 それに倭人伝なので九州の風俗が書かれてるのも 何の問題点も無い訳です。
720 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:36:26.50
今月の締め切りは明日 六月の「私だけの邪馬台国」大賞は、目下何処が有力なの?
721 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:36:36.26
>718 >日本書紀や隋書にバッチリ書いてあるからな これは、いろいろと突込みどころが多そうだな。
722 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:39:01.44
>日本書紀や隋書にバッチリ書いてあるからな どちらも九州だって書いてあるね。
723 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:39:28.85
>>721 まぁね、議論の余地は大量にある
ただ中国と日本の両方の共通認識として史書に描かれてるわけだからな
これを無視するわけにはいかない
個人的にこれが無ければ邪馬台国は
ヤマト王権と関係ないどこぞの地方政権だったと思うんだけどね
724 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:39:42.09
九州説おじいちゃんの妄想は今日も全開であった 孫におじいちゃんが九州説で恥ずかしいとか言われんの?
725 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:43:03.42
3世紀にヤマト王権なんてまだ存在しないしね。
726 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 10:52:04.92
神功皇后はまだ幼い応神天皇を連れて帰還する際に 近畿にいた皇子の反乱を鎮圧してる話があるな その前の段に大伴、物部、中臣、大三輪の協力を得て都に戒厳令を引いたりしてる このあたり九州に縁のある勢力が、 近畿の勢力と何かしかの政治闘争をした反映じゃないかという気もする
727 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:01:54.44
3世紀の日本で地方政権も中央政権もないわな。 地方政権が幾つもあったと考えるのが正解でしょう。
728 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:06:30.48
倭が広範囲にわたる連合政権なら辻褄が合う 九州から近畿にいたる範囲の王国が連帯して大王を選んでいたっておかしくない 後の出雲、吉備などの強大な地方豪族の話とか見てもその辺がうかがい知れるし 中央集権が成り立つのは雄略天皇のころだろうし
729 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:08:47.52
その中で力を持っていたのが 九州の委奴国と畿内のヤマト国だな。
730 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:12:24.44
記紀の記述はその地方の王達を大王家に集約させる物語だと考えると合点がいくな だから地理的にあっち行ったりこっち行ったりすると
731 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:19:40.49
3世紀の倭で広範囲にわたる連合政権は無理でしょう。 西日本全体に及ぶような広範囲にわたる連合政権は文字が広く普及してからですね。 せいぜい地域毎の地方政権ていど。 記紀は400年後に創られたものですから参考にはならないでしょう。
>>720 マキムク(努力賞)9ヶ月連続。おめでとう。
この時代、集権国家でない限り広域な連合は不可能 九州島の範囲と考えるべき
神功の記述に関しては甚だ疑問点が多い 身重で海を押し渡ったりしてるし
735 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:48:17.07
文字が無いこの時代、広域国家など不可能。 文字が無いと重要人物が国中を走り回って支持や命令をだしたり 全国を見て回らないと統治ができん。
736 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:49:12.15
神功なんて99%作り話でしょう。
畿内説の連中は根拠を提示してみろよ 九州説を否定したからといって、自動的に畿内が候補地になるわけじゃないんだぞ? あと先にお前が出せというのはなしだぞ。お前らそればっかで自分の説はださないからなw 仮に畿内説の根拠を先に出したらいくらでも出してやるからな
738 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 11:54:48.54
記紀と隋書、魏志の記述が成立するように考えると広域政権になる これは史書として残ってるわけだからこれをまず第一に考えるのは当たり前 むしろこれ以外の政権の形は何の記録もないわけだから想像にしかならない つか稲荷山にも文字が出てるし文字が無いわけがないし 広範囲って言ってもこのくらいの距離なら特に問題あるとも思えない インカにだって文字なかったわけだし
739 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 12:01:21.89
インカは縄の結び目で記録を作ったというから日本の記述に似てるしな ついでに太安万侶が「日本語を漢字で書くのが大変」と言ってたわけで 日本語記録方式がないから使える人の少ない漢語を使ってたんじゃないかね 文字も読み書きできない状態で使者も何もないだろうし
740 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 12:01:39.68
景行天皇が北九州から大分、宮崎と熊襲退治をし、 その後熊本諫早と巡幸するのが、当時の統治の仕方でしょう。 秦の始皇帝も、そんな感じで各地を回ってますね。
741 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 12:04:32.89
神功に該当する人物が筑前にいたのは確かなようだが、 海を渡ったというのは、個人的には半信半疑
742 :
邪馬台国フィクション説 :2011/06/29(水) 12:18:21.46
>>700 ダニエラ・ビアンキ氏
こりゃまた、お懐かしい名前で・・・・大ファンでした。
卑弥呼ちゃんも、これくらい美貌とスタイルならいいのにねぇ・・・
743 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 12:37:14.65
>>738 魏志の記述からは広域政権なんて読み取れない。
8世紀に創られた記紀の3世紀の記録は全く信用できない。
隋書は時代が違う。稲荷山も時代が違う。
インカの縄の結び目で記録を作ったようなものは日本にはない。
広域政権なんてどこからも出てこないな。
744 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 12:42:54.78
倭人伝には、諸国を検察し、諸国が畏れ憚る一大率が出てくる。 近畿地方の国が、九州にこのような役人を置けるとしたらかなり強力な体制が出来上がっていることになる。 しかし、3世紀当時にこのような強力な体勢があると考えることは出来ない。 だから、畿内説も「ゆるやかな連合」といっているわけだが、これは一大率の存在と大いに矛盾する。
>しかし、3世紀当時にこのような強力な体勢があると考えることは出来ない。 出来ない理由が無いけど。
746 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:01:18.24
>3世紀当時にこのような強力な体勢があると考えることは出来ない。 本州の状況から考えるからだよ。九州ならば何も問題はない。
>>746 九州ならどう問題ないのか教えてくれるかな?
瀬戸内では少なくとも縄文時代から石の流通過程で
交易の存在は確認出来るのだが。
748 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:07:27.98
広域政権なんて妄想を垂れているようじゃ畿内説もおしまいだな。
749 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:07:54.62
>>743 史書二つの記述が成立するように考えると言ってる
単独の記事だけじゃ逆に信憑性の裏付けにならない
日本、中国両方の記事を見て判断する方がより正確になる
当然の話
751 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:12:34.17
「日本書紀」 ・神功皇后と卑弥呼、ヤマト王権と邪馬台国の明確な同一視 ・この時点でのヤマト政権=近畿の政権なので魏志の邪馬台国もそう見ていたことがわかる 「隋書」 ・ヤマト王権=邪馬台国と明記 ・中国は正史を継承する立場なので魏志についてもそのように判断していた事がわかる 「魏志」 ・推戴して卑弥呼を首長に選んだ この日本中国の正式な史書を裏付けに考えればヤマト王権=近畿 近畿から九州に至るまでの広範囲の勢力圏であったことがうかがえる 別におかしいことは何もない
752 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:12:48.79
>>741 神功皇后の相手は新羅だが
実際には倭と戦っていたのは高句麗。
神功皇后が実在したかも疑問。
倭が朝鮮半島に進出していたことぐらいが僅かに真実だろう。
753 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:15:52.58
九州だという説は魏志の行程しかない それも九州だという人ですら全員が違う事を言う内容 しかも下手すると近畿どころか日本通り越しちゃうくらいの距離でたりする それから出る結論は「行程を解釈することはできませんでした」という事 唯一のよりどころの行程がすでに破たんしてる
754 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:18:02.16
>>749 「日本書紀」を史書と考えるのが誤り
「日本書紀」は史書風に書かれた神話の書。
大和朝廷が成立した時に自己の正当性を宣伝する為に創作された建国神話を史書風に書いたもの。
神功皇后の母は葛城高額姫だしな。 畿内から新羅まで足跡を残してる以上、 倭国=九州単独説なんてお話にもならんでしょw
756 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:19:42.23
>>745 好太王碑文によると400年ごろに日本が高句麗と戦ってる
で、それによると新羅が朝貢を怠ったことが原因とある
だからそれ以前から半島に影響力があったとみることができる
しかし卑弥呼の時代にまでさかのぼるかどうかは不明
魏志にも倭の半島進出について触れてないし
その辺は議論の余地が山盛りだな
757 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:20:46.19
行程の解釈は解決している。
>>751 日本書紀は逆に「大和王権=邪馬台国」を明確に否定しているんだよ。
何故かと言えば、
・倭人伝を引用しながら、卑弥呼と壹与の二人を神功皇后にあてるという誰にもわかる矛盾を犯した
・倭人伝を引用しながら「邪馬台国」や「卑弥呼」に触れることができない。つまり比定できる材料がない
759 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:22:40.04
そして上でも書いてあるけど他にも大陸と関係を持った王が他にいるのに (しかももっと古いのが) 「敢えて」邪馬台国の卑弥呼を持ち出す点が興味深い 邪馬台国とヤマト王権の深い関係を連想させる
760 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:23:26.64
>>755 「日本書紀」に書かれているだけで裏がとれないので話にならん。
761 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:25:14.63
762 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:25:58.83
行程を距離(里数)と時間(日数)で二度説明していると九州説でピッタリだよ。
763 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:27:35.15
>>758 言ってることが全くおかしい
なら一言「書かなきゃいいだけ」
なんでワザワザ触れたくないのに書いてるのか意味不明
師升、金印、倭の五王と立て続けに無視してるんだから書きたくないならそれで済むはず
それも大王家の正当な血筋にやりたくない物入れるわけがない
古事記は「氏姓を明らかにする」方針なんだから変なもの入れる方がおかしい
むしろ正確な部分が失われているけども無理にでも入れたとみる方が自然
764 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:29:26.04
九州説の人、錯乱してるぞw
765 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:32:38.14
歴史書じゃないというが当たり前 古事記の編纂者が冒頭で目的を述べてる 日本書紀も続日本紀で天武天皇の命で書かれたと示してる つまり同じ構想のもとに書かれたと考えるが普通 そうなるとむしろ大王家の根幹にまつわる大切なところを意地でも書くはず そして逆に都合が悪いなら一切無視するのが当然 そんな中で書いてるってことは欠かすことができない関連があると解釈するのが自然
766 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:35:15.82
>>764 が都合の悪い事に付いては考えたくないのか、無視している。
畿内説の人は思考が停止していて
自説に都合のいいことしか見えないようだ。
767 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:37:53.07
この史書の記述が全面的に事実であるとは思っていないが 今残っている正式な資料が近畿を示している以上、 九州説はこの史書の全てが「間違いだ」と言い切れるだけの証拠を提示しなければならない 全員が違う事を云う行程だけではとてもじゃないが足りない そういう事
768 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:39:36.63
769 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:41:28.56
>>766 それは畿内説以上に九州説に言える事ですから。
都合の悪い部分を無視どころかねじ曲げて解釈するし。
770 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:44:08.78
分家が本家に取って代わった島津や織田家などの自家の記録書でよくあることだが 自家を分家とせず初めから本家だったと虚偽が書かれている。 記紀も天皇家が始めから日本を統一したとしているが 信用できない。 別に本家がありそのことを隠す為に記紀が造られたと考えるのが自然だ。 都合が悪いことは書き換えてあると思われる。 明らかな年代の入れ替えもある。
771 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:44:50.55
九州説の人が学者を恨む気持ちも分かるけどね 吉野ヶ里なんて当初から邪馬台国じゃないの知っておきながら マスコミには邪馬台国発見って感じで報道させたから
772 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 13:59:34.06
だいたい行程なんて普通に見たら最初の時点で日本はるかに通り越してるし これを色んな独自解釈を混ぜまくって無理やり九州に「収めてる」わけだしな あの距離じゃ行こうと思えば日本中全部邪馬台国になる
方向を無視すればね
774 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 14:18:55.15
半島から日本に行くだけで7000里 そのあとも1000里海を行くだの20日海をいくだのどんだけ遠距離 仮に半分にしたって太平洋だな それともジグザグに進む修行でもしてるのか ハワイにでも行く気かと 記紀も隋書も何も信じられないけど魏志のこのわけわからん行程は絶対だという
775 :
九州説者 :2011/06/29(水) 14:21:16.64
>九州説の人が学者を恨む気持ちも分かるけどね 恨んではいない。 哀れんでいるだけ。 脳の病気を。
20日は水行。海は渡らない。
777 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 14:28:31.21
・記紀に邪馬台国が出てないとか言い出す ・旧唐書の日本号の成立を邪馬台国と混同 ・レイラインだのトンデモでしかないネタを連呼 ・俺解釈の行程 この辺が「根拠だ」というようなのが支持してる説だからな 逆に益々信憑性が薄れる
畿内説は記紀を信用するようになったんだな。
779 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 14:37:59.04
実際の地理に基づく行程距離より、公里の1/5〜1/6の距離であると推測 周髀算經での千里=77km前後 より短里の可能性を補強 公里千里=一月行=435km、一日あたり14.5kmより一月行を補強 卑彌呼の都は久留米氏の記事より >隋書記事を付けたすと、 >@「南海行三月」から約80m/里 >A「(国境)南北三月行」から約80m/里 >B「国境東西五月行」から約80m/里 >C「西行三日至狛國」から約1000里/水行1日=80km/千里=80m/里 より、短里一月行は公里一月行の1/5〜1/6であることを補強 以上により、 行程記事をすべて短里で計測し、一月行を短里千里と換算することで、 すべてを九州内に収めることができる。 つまり、すべて短里に換算しただけで行程記事は全て説明できるのである。
780 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 14:39:49.95
最古の歴史資料を無視し、存在しない根拠にすがる九州説さんマジ我が道を行ってる そこにシビレもしないし憧れもしないけど 見えない何かを信じすべての事象をそこに向けるとか信仰そのものだね 宗教じゃしょうがない 信仰の自由は日本で保障されてるしね
>780 九州説を畿内説に置き換えたらその通りだね。
782 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:11:22.95
距離の解釈もせめて統一してからもってこい 九州説同士でまとめてこいよ イチイチ個人個人の読み方とか聞かされても議論にならん
783 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:12:43.36
ふふふ儂の距離解釈は108(どころじゃない数)あるぞ
784 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:14:20.31
普通に歴史書に書いてあることを読み上げられただけで言い返せない九州説の論拠の薄さ
785 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 15:51:52.66
畿内説の恨み節ばかりだなwww
瓊々杵尊の御陵も彦火々出見尊の御陵も鵜茅草葺不合尊の御陵も かつて日向の一部だった現在の鹿児島にあって宮内庁が管理し 鵜茅草葺不合尊の吾平山上陵には昭和天皇や今上天皇も参拝されている 大和王権の出自は日向高千穂であって、瓊々杵尊の勢力が畿内に至って治めたのが古代の大和政権であり 残った勢力が構築したのが後にウガヤ朝と呼ばれる南九州の勢力 また西都原古墳群の存在もそれを裏付ける その中から神武の勢力が畿内に向けて移動したのが東征 出自が同じ部族なので、瓊々杵尊から年代が離れ抵抗する勢力もあったが、結果的に融合したのが大和王権 つまり大和王権の源流は九州にあり、ニニギとウガヤは血縁の部族 海幸山幸の伝説が隼人の部族によってなされたのも道理 さて、邪馬台国だが、これは南九州の勢力と敵対していた九州北部の勢力で 大陸に朝貢を行い国の体裁を整えていたが、朝鮮での大敗やその後の大乱で弱体化 南九州のウガヤ勢力と既に出雲まで手中にしていたニニギ勢力が塗り潰したと見るべき 景行天皇の熊襲征伐は実は邪馬台国の残党狩りで その後南九州を回ったのは自らの祖先の地を巡行されたわけだ 神功皇后については非常に疑問な点も多く、実在した場合でもその業績については作られた可能性がある 九州の地を平定するために卑弥呼に比して邪馬台国の業績を摩り替えた政治的意図があるように感じる いずれにしても大陸からの海の玄関であった九州に邪馬台国と大和王権の勢力が並立していた可能性は充分にあり 記紀の神代からの記述に邪馬台国がないのはもともと敵対していた別物だったがためと推し量ることが出来よう
九州説w ホントに半島工作人な気がしてきた。
>>787 まともな反論も出来ないのか畿内説というのはw
とりあえず涙拭けよw
789 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:05:12.70
ウガヤ王朝とか脳内の物語を長文で書かれてもどうしたもんやら せめてまともなソースのある論を聞かせてくれんかねぇ 議論にすらならない MMRはもうたくさんだし
>>788 反論なら何度出てるけどね。
でも「我々の認識はこうだ!!」と
根拠も糞も無い脳内物語を聞かされるばかりだしw
791 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:11:06.34
神代三代の御陵は宮内庁公認ですが何か?
畿内説は無知ばかりなんだなw
793 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:13:31.76
方角は万国共通だけど、距離の単位は国によりあるいは地域により違うことが少なくない。 東夷には東夷の里があるということを知らないと、倭人伝の距離が奇妙に見えるんだろう。
>>791 必然的に神功皇后は畿内の人になりますね。
795 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:16:46.45
九州の陵墓が宮内庁管理 ↓ 超ウルトラ自分脳内解釈 ↓ ウガヤ王朝があった 凄まじい理論の飛躍 これを言い張る超回路には流石に開いた口がふさがらない これを本気で言ってるあたりが凄い つか九州説の人もこの類のを野放しにしてるから信頼されないんだろうな
そもそも畿内説は一体何を根拠にしているのか 記紀の記述も尊重しない 現実にあるものも見えない 脳内妄想で自分たちの都合の良いものにしか目がむかず その論拠が屁理屈であることさえわからない その繰り返しばかり
798 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:26:47.58
「あなたはなぜ、(畿内説、九州説)なのですか」、と聞いたら、 九州説の連中は、人によって違うだろうが、それなりの考えを述べることができるだろう。 が、畿内説の連中でそれに答えることができるのは、そう多くはなさそうだな。 まあ、コテさんたちは答えられるだろうが。
>>797 記紀の記述だとの神代の基本は畿内だってw
淡路島から出来たんだろ?
800 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:30:03.59
>>797 >>751 読め
ちなみにこれ俺解釈とか一つもはさんでない史書そのまま読んだ内容な
どっかの九州説みたいに記紀も中国史もガン無視で、みんなで適当な距離を叫ぶだけと違ってな
たったの40レス前も読んでないのが主張してるのが九州説
801 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:31:43.52
そもそも邪馬台国の話してんだろ? 大王家が九州にゆかりがあるのはまぁ良いとする でも邪馬台国についてはこれ以上誤解ないくらい日本書紀に書いてあるんだけど? 何が言いたいのかわからんな
803 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:33:58.39
>>800 俺解釈そのままじゃん。
日本書紀のどこに邪馬台国が書いてあるってんだ。
そんなものがあったら、原典込みで出してくれな。
>>800 >ヤマト王権=邪馬台国と明記
どこにも書いてないが。「ヤマタイ」=「ヤマト」となる証明を頼む
805 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:37:12.64
>>803 うわぁ・・・恥ずかしい・・・
こっちのほうが辛くなってきた
>>777 でわざわざ指摘してやってるのにやっちゃったよ
日本書紀読んだこともない奴がこんなに頑張ってんだ
本当に九州説の人たちは仲間選んだ方が良いぞ
806 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:39:50.10
>>805 は原典付きで証明できるようだから、証明をお願いしたい。
まあ、まぜっかえすか、トンでも解釈が関の山だろうが。
または、そのまま逃げるかだな。
807 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:40:10.85
え、マジで言ってんの?この人たち 神功皇后の三十九年のところ読めよ・・・
>>802 畿内から産まれて本州に戻った訳か。
つまり天孫降臨もそういう事w
809 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:42:00.66
>>807 どうぞ、出していいよ
コピペくらいならできるだろ。
疑惑が指摘された加筆部分だなそれ
811 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:44:32.45
あーなんかもう可哀そうになってきた 九州説ってここまでアホだったんだなぁ
812 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:46:46.76
証明待ってるぞ
813 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:47:16.91
>>807 まず、日本書紀の年代観が間違っている。
神功皇后の時代は卑弥呼の時代とは異なる。
例えば、七支刀などを百済王から献上されたとあるが、百済の建国は西暦346年頃。
三韓征伐と好太王の碑を同一視すれば、神功皇后の時代は4世紀終わり頃だろうな。
卑弥呼より140年くらいは後になる。
814 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:51:32.38
空白の4世紀とか5世紀って言うもんな。 景行から神功までは、その辺りから引っ張ってきたんだろう。 そうすれば、景行と高良大社創建の時期がつながる。
じゃモモソ姫が3世紀だね。
816 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:54:12.57
日本書紀の証明出せずに、ぼちぼち切れて、支離滅裂なことを言い出す頃合いかな。 それとも畿内説はそのまま逃げるかな。
817 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 16:59:59.17
岩波の日本書紀二の127ページにあるよ つかマジで読んでないんだな日本書紀 これで邪馬台国がどうのとか言ってんだから凄いな
818 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:02:05.91
>>817 そんなもん出されてもな。証明する気がないのは見え見えだ。
ぐぐれば、日本書紀の全文くらい、いくらでも出てくるだろ。
姑息だな。
819 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:07:40.86
>>800 >「隋書」 ・ヤマト王権=邪馬台国と明記
・中国は正史を継承する立場なので魏志についてもそのように判断していた事がわかる
おめでたいな。ヤマト王権ってどこのことだい? 隋使が訪問した先は、魏志の邪馬台国と同じだと
いうだけで、訪問先が大和王権だなんてことは一言もいってないよ。
隋書がいうのは、倭国の主要部分は大きな一つの島にあるということだ。
当時、本州については、それが島であるという認識はない。→旧唐書
一つの島だってことは、南北3月行、東西5月行で各々海に至るとあること
から明白、その島には阿蘇山がある。従って、隋書が書いている倭は九州
だけなんだよ。
820 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:09:04.81
晉書卷一百九 載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕 より 咸康(342年)七年,皝遷都龍城。率勁卒四萬,入自南陝,以伐宇文、高句麗,… 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。 342年時点で、百済はそれ相応の国として存在する。 だから、七支刀=369年では、神功49年半島占拠は否定される。
821 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:10:00.24
>>817 邪馬台国の証明を日本書紀から行うなんて、なかなか野心的だが
過去数十年、あるいは数百年にわたって無理だったということを知っておけ。
畿内説派でさえ、ある程度知識があれば、それが無理なのは知っている。
その学問の蓄積の上を行こうというのだから、並大抵の話ではない。
証明したいのなら、かなりの覚悟が必要だ。
逆に言えば、そういう発想そのものが無知だということだ。
まあ、無知だからこそ、思わぬアイデアも無いわけではないが、
99.9%は瞬殺だろう。
>>800 よ
俺が無知なお前に
>>571 を反論して教えてやるわ
「日本書紀」
・神功皇后と卑弥呼、ヤマト王権と邪馬台国の明確な同一視
ただ同一視してるだけで別物。日本書紀は天皇の寿命を伸ばして独自の年代観を持ってるのは有名だが
その年代観の神宮皇后と魏志の卑弥呼の時代が整合したから当てはめてるだけ。
矛盾は多数ある
・古事記にはこのような記載がない
・神宮皇后と応神帝は同世代、仁徳帝は親子の世代だが、古墳の造営時代にあわない
・推測される10代崇神天皇の時代より以前に神宮皇后の話がある
・卑弥呼は三韓征伐などした事績は書かれていない
・夫がいたり子がいたり、家族構成が違う
・ヤマト王権=邪馬台国と明記
ちゃんと読んでない。「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
魏志の説を採用するなら邪馬臺と言ってるだけ。
「しかも「自竹斯國以東、皆附庸於倭」の記述を無視している。
ついでに唐書には「倭國者、古倭奴國也」「日本、古倭奴也」とある。
824 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:17:37.35
あーわり ページ数間違えた岩波の日本書紀2の172ページだ
825 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:21:36.11
まぁこのアホレスの羅列
特に
>>803 以降のレスは九州説を代表するものとして保存しておく
それだけは収穫だったよ
826 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:23:42.84
また唐書上げてるバカがいるし・・・わざわざ指摘してやってるのになんでやるかね それは日本国号の成立と壬申の乱の記事だと見るのが普通だ 国号変更の理由や、時期からおのずから分かる むしろ邪馬台国につなげる方がおかしい 本当にここの人ってどうなってんだろうな
まず短里も知らずに書き込んでる畿内説の馬鹿は来るなよ なんか急に畿内説の内容のない書き込みが増えだしたけどあれか? なんか都合の悪い反論不可能なレスでも出てきたから早急に落としたいのか?
828 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:27:27.19
そろそろ九州説は、行程や地名合わせでない根拠出してよ これなら「ここ」を想定しても仕方ないよなっていう 間違っててもいいじゃん。
>>828 まず畿内説が出せよ
ちなみに九州説は何度も出してるが機内からは全然出てないよ
831 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:29:14.43
832 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:31:06.29
九州説がどんだけ資料読んでないか分かったのが良かった まさか日本書紀すら読んでないとはねぇ これは魏志倭人伝すら読んでない可能性が高いな
833 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:31:18.92
>>828 以前九州説の人が根拠出したんだけどな
そうしたら畿内説の奴らファビョりだしてさ
反論せずに、九州説は朝鮮人だのなんだの言い出して困ったもんだよ
断言する。
また畿内説はファビョる。今もファビョってるけどねw
834 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:31:49.02
>>830 畿内はもう出てるだろ。九州説の人達が十分批判してるんだから
で、九州は何処?根拠とあわせて
>>822 卑弥呼に夫婿は無いとは書いてあるが子供が無いとは書いてない。
神功皇后の夫は早逝してるし矛盾はない。
九州厨って何でこんなデマばかり吹聴するのだろうか?
836 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:34:27.58
>>835 自分に都合のいい部分だけ抜き出して反論するのなw
反論も反論になってないがw
837 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:35:34.35
>>800 は、もう支離滅裂だな。
まあ、想定した範囲だ。
838 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:35:42.86
まぁ多分トンデモ本の見出しか、ウィキでも読んでたら凄いくらいのレベルだなこの様子だと 第一資料の記紀すら読んでないんじゃ(しかも邪馬台国の記事を)他の資料なんて推して知るべしだな コピペしろとか喚いてた辺りとか察しが付く
839 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:36:57.97
コピペしろって書いたのがそんなに難しかったのか?
840 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:38:16.33
擁護する訳じゃないけど、場合によっては著作権が絡むよ
841 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:39:47.43
>>838 コピペのひとつもせずに、証明できるって連呼したところで
だれも相手にしないだろう。嘲笑はするだろうが。
>>836 横レスすまなかった。
取り敢えず目についた明らかな誤りを指摘しただけだ。
またロムに戻ってニヤニヤしながら楽しませてもらうことにするよ。
843 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:40:47.42
>>839 あーウィキしか見てない奴と違って本から書き写すのなんて死ぬほど大変だからな
それが分からない辺りがそこが知れる
本持ってないでネットの鵜呑みだろってのが良く分かる
いまでもよく分かってないみたいだし
だいたい本持ってるならページの指摘で済む話だし
844 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:41:06.27
アホだろ古事記日本書紀に著作権とか 原文で書けつってんだろうがよ 論拠の部分さえ書き出せないとか馬鹿か
845 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:42:59.52
日本書紀で邪馬台国が証明できるってトンデモ説を頭から否定するわけではないが、 それを説明できなきゃ、何を言っているのかすらわからない。
>>835 あほ確定だな
夫は仲哀天皇だろ?暦年主なくて卑弥呼が立てられたのに、同年代の夫が倭の王ってどういうことよ?
で、神宮皇后はいつの時代の人だと思ってるんだお前は?
まさか日本書紀の年代をそのまま持ってきて3世紀の人物とするのか?
847 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:45:09.25
本当に意味分からんわ 本持ってないんだろ?岩波だけじゃなくてどんなものも 神功皇后の三十九年っていえば当たり前に引ける 言えば言うほど 「ぼくはしりょうをひとつもみたことありません、ほんをもっていません。でもきゅうしゅうにやまたいこくがありました」 って喚いてたのを証明するだけ まぁ面白いから良いけど このスレ2ちゃんだから何十年も保存されるから丁度いいわ まぁ恥の記念碑だと思って大切にしな
848 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:47:06.24
>>847 だから根拠を書けよ
根拠も示さず他を否定とか基地害かw
849 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:48:11.40
自分で主張する事のソースも示さないとか議論以前の話
850 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:48:34.56
>>847 ちゃんと残しとくんだぞ。
あほな説を吹聴したくなったら、見返して
思いとどまるように努力しような。
851 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:48:36.10
信憑性をくおかない以前に邪馬台国の話をしてるスレで、 邪馬台国の記事が書いてある第一資料を知りもしないとか もう開いた口がふさがらないわ 議論とか内容についての突っ込みとか以前の話だわ
852 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:50:15.66
ああ、これは、岩波のどうとかいう資料を、
>>847 自身持ってないな。
まあ、わかってたけど。
853 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:50:38.24
「日本書紀の神功皇后三十九年の記事」 これがソースにならないと言うあたりもう腹抱えて笑ったわ もうお前ら最高だな なんか楽しみ方を勘違いしてた あと200くらいレスつけられるからもっとやれ
854 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:52:02.04
ここまできて、
>>851 が一度も持論の説明すらしてない件について。
>>846 俺は神功皇后の没年は太歳紀年法で269年、グレゴリオ歴だと265年で、
翌年の台与の朝貢に繋がっていったと考えてるから。
856 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:54:26.76
>>822 >魏志の説を採用するなら邪馬臺と言ってるだけ。
「所謂」は、「採用するなら」というような仮定の意味じゃない。
「魏志で邪馬臺と言っている者だ」と邪靡堆=邪馬臺を明言している。
>「しかも「自竹斯國以東、皆附庸於倭」の記述を無視している。
竹斯國より以東が倭に附庸しているからといって、倭が竹斯國より東に無いという意味じゃない。
>>391 を参照
857 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:54:47.02
加筆部分を信じる馬鹿がまだ暴れてるのかw
858 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:55:21.49
>>853 自説の説明もせずに延々と続ける畿内説
まあ、他の畿内説の面々も、これと一緒にされたら困るだろうけど。
859 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 17:56:51.65
加筆としてのネタももうとっくの昔に退けられてるのに笑えるなぁ それも岩波の補注にワザワザ書いてあるよ
860 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:01:52.61
「加筆だから嘘」とか毎度言い出すのがいるけどテンプレなのかこれ? 岩波の補注417ページ読んでみ
861 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:03:51.16
よく分からないけど、これの事かな? 三十九年是年也大歳己未魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝献太守ケ夏遣使将送詣京都也
書記の神功のくだり自体が書記自体の年代に狂いを起こさせていることがわかっていないアホがいるな 何か他人の業績をむりやり取ってつけるとこのようになるw
863 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:14:04.84
>>861 日本書紀の年代観は、神武天皇が紀元前660年に即位したことを前提にしている。
それでいくと、神功皇后が摂政だった期間は、西暦201年〜269年になる。
卑弥呼の時代に重なるから、魏志を引用している。しかし、前提そのものが間違っているから。
>>856 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里
とか
漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國〜
から連続して大和の歴史を書かれているところから見ると
九州と大和を混同してるだけ
また随書は女多男少などから古い情報と新しい情報が錯綜して書かれている
随所に混乱が見られる証拠
次の唐書等では混乱がある程度収まっているが
>竹斯國より以東が倭に附庸しているからといって、倭が竹斯國より東に無いという意味じゃない
これは倭の主体が筑紫国だと言っているのだろ。
(その時王朝は間違いなく大和や難波、河内にあるので、つまりは九州と大和の混同)
別に倭が東にあるとかないとかはどうでもいい
これも日本書紀を読んだ旧唐書や新唐書では認識がかわっている
865 :
大御所・伊作 :2011/06/29(水) 18:27:07.50
>>861 「明帝の景初三年六月」とあるが、この年は明帝は死亡していて明帝の治世ではないこと。
景初3年は新帝の斉王芳が即位しており、年号をそのままに喪に服しているだけのこと。
即位の国内お披露目もしない服喪中の斉王芳に(即位祝いなどの)朝献することは絶対にないこと。
以上をもって、しかと歴史記録の批判をして、採用するに足ると結論した上で
この手の記録の取捨選択をしなければならない。
日本書紀の「魏志云」という記録はすべて後世に書き加えられたものである。
しかも、誤字もあるようだし、文章全体的に倭人伝よりも稚拙でヘタクソである。
866 :
ローガン :2011/06/29(水) 18:38:18.53
>>819 横レス失礼。
>隋書がいうのは、倭国の主要部分は大きな一つの島にあるということだ。当時、本州については、それが島であるという認識はない。
本州が島でなけりゃ、大陸から陸続き? 仮に、九州島のみが「倭」としたら、大陸との間にあるのは関門海峡。
そんなものを
「倭人在帶方東南大海之中」
「倭在韓東南大海中」
「倭人在帶方東南大海中」
「於大海中依山島而居。」
「倭國、在帶方東南大海島中」
「倭國在高驪東南大海中」
「於大海之中依山島而居」
大海の中とは表現せんだろう。
魏志倭人伝の卑弥呼に関するする記述 年、巳に長大なるも夫婿なし これで充分だろ
>>867 それだと現在居ない事しか分からないのでは?
関係ないけど夫と婿って違うのかね?
869 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:44:43.92
>>866 その理屈だと、本州も大海中ではなくなり、
沖縄かどこかにならないか?
本州も九州と隣接し、北海道と隣接している。
870 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:50:18.18
畿内説は屁理屈ばかりで末期的な症状だな。
871 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:53:40.53
>>865 これは岩波馬鹿に対するトドメだなw
歴史の操作というのは必ず齟齬をもたらすからなw
神功のくだりをもって邪馬台国を語るなど、まさにマヌケの頂点www
872 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 18:53:53.75
>>864 >これは倭の主体が筑紫国だと言っているのだろ。
そういうことは一言も書いてない。
竹斯國より東の国は倭国に附庸しているという、それ以上でも以下でもない内容。
>>865 魏志云々の書き出しをしないと編纂した当時の人間からは捏造がモロバレだっただろうからなw
オリジナルにはなかったのかもな
875 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:00:22.70
岩波くんサンドバック状態www
876 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:05:48.29
>>866 倭人伝を読んでも、使者が関門海峡を認識している気配はないね。だから、東渡海千里
と書いているわけだ。千里離れているところが一番近いと思っていたんだろ。
そう考えれば、「倭人在帶方東南大海之中」という表現はぴったりだね。
877 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:08:33.34
御都合主義
878 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:12:42.79
岩波馬鹿はここを見ろと繰り返すだけで、 持論も理屈もなかった。
879 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:14:24.37
九州説も関係ない俺が原文出すまで文句のみだったけどな
>>872 附庸とは宗主国と属国を表す言葉だが
ここで表記される倭が竹斯國つまり九州だと考えた場合
→本州や四国は九州の属国つまり竹斯國が倭の宗主である
倭が竹斯國を含む広域の場合
→やはり本州や四国は九州の属国という認識
倭が竹斯國を含まない別の場所として認識している場合
→前後の文脈から意味不明
つまり倭の主体が竹斯國(筑紫国)だと言っているんだろう
みんなわかってて原文迫ってたんだが あんたが出したから消えちまっただろ岩波くん
883 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:18:28.76
>竹斯國より以東が倭に附庸しているからといって、倭が竹斯國より東に >無いという意味じゃない。 附庸国というのは、天子に直属せず、大国に附属する小国をいうんだよ。 倭国は、冊封を受けた大国だ。それに附属する小国は、倭国ではない。
884 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:18:38.22
>>879 ぐぐって目は通していたんだけどね、
本人から出させるのがおもしろかったのに。
倭国はこの時代、太歳を使っていた。 魏もこの時代に太歳をつかっていて、後の世の歴法変更の際に、 遡って書き換えられたとすればこの辺りの混乱の理由は理解できる。
>>882 どう曲解してるのか?
色々解釈できるところを何通りも書いたつもりだが・・・
887 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:25:39.17
何で本州を島と認識出来ていないと思うのかが不思議
888 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:29:51.23
津軽海峡が発見されるまでは本州が島だとは分っていなかったからだろう。
889 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:31:38.67
>>887 旧唐書の日本国伝を読んでごらん。西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山
があって限りをなし、山外はすなわち毛人の国とあるよ。中国人は唐時代になっても
本州の北がどうなっているのか知らなかったのさ。
890 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:32:56.31
関東の向こうの蝦夷地は平安時代でも、 まだ認識してないよね。
891 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:36:33.19
892 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:43:27.15
明確に本州を島と書いた漢籍は宋史かららしい。 それ以前は大山の先は不明状態。
893 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:45:25.35
日本ですら、明確に蝦夷地が調べられるようになったのは、 坂上田村麻呂以降のことだから。 それ以前は未開地扱い。
894 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:46:36.67
神功皇后紀の年代のズレとかドヤ顔で言われるとか お前ら讖緯説も知らないのか それで神功皇后の年代の話するとか大概だな どんどんこのスレの程度が暴露されて面白いな ・日本書紀を読んだこともないと暴露 ・讖緯説も知らずに年代のずれを語る ・唐書の記述の意味も知らない 次は何かな
895 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:47:30.78
896 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:52:48.31
>>893 自分達で調べた事意外は信用しないのかな?
>>894 で讖緯説を採用すると年代のずれがなくなるとでも思ってるのかな?
まああんたの意図がわからんから、そこんとこ説明してね
898 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:53:20.56
坂上田村麻呂は青森までは行ってないぞ。 津軽海峡の認識はそれ以降の可能性もある。
899 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:55:14.71
>>897 無知を指摘されて必死に見当違いのレスするのが面白い
やめとけ
みてて可哀想になってきた
900 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:56:05.20
901 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 19:57:49.89
>>803 がスレをはやくDAT落ちにしたくて必死な件について
まぁ気持ちは分かるよ
902 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 20:17:21.98
>>880 >ここで表記される倭が竹斯國つまり九州だと考えた場合
自竹斯國以東,皆附庸於倭。
どこにも竹斯國は倭だとは書いていない。
竹斯國より東、つまり竹斯國も倭に附庸している。
>倭が竹斯國を含む広域の場合
竹斯國は倭に附庸しているのであって、倭が竹斯國を含んでいるのではない。
>倭が竹斯國を含まない別の場所として認識している場合
>→前後の文脈から意味不明
竹斯國とそこから東にある国々が倭に附庸しているということで、意味不明どころか意味明瞭。
意味不明というのは、自分が解釈したい方向に解釈できないということじゃないのか。
903 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 20:19:09.80
>>883 そういう意味で言ってるんじゃない。
もういちど読み直してみて。
もとより理解する気が無い奴には何言っても無駄。
905 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 20:27:39.22
>>902 以は起点を含まない
「自單單大山領以西屬樂浪自領以東七縣都尉主之皆以濊為民」
の例からも明らか
>竹斯國は倭に附庸しているのであって、倭が竹斯國を含んでいるのではない
>竹斯國とそこから東にある国々が倭に附庸しているということで
なら倭はどこにある?あんたの書き方だと日本以外にあるんじゃないのか?
907 :
ローガン :2011/06/29(水) 20:43:12.80
とりあえず、裴清来倭の目的地を、九州の中に求めるのかどうかを 九州説派で統一されたし。
>>899 その無知でカワイソウな俺に説明してくれよw
できんのだろ?w
隋の頃、九州で都っぽいのは大宰府だけ。
910 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 20:47:39.44
距離の無理やりさに自らも気がついて最近は大宰府を邪馬台国だと言い出すのがトレンド
911 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:00:35.84
女王国以北も女王国を含まなかったな。
912 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:06:47.49
おまえらマジで日本書紀にイヤになるほど出てくる太歳の意味を理解してから語れ。 そうでないとアホな声闘が繰り返されるだけで、議論が全く進まない。
913 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:14:24.09
>>888 >津軽海峡が発見されるまでは本州が島だとは分っていなかったからだろう。
こんな突拍子もない意見は初めて聞いたぞ。w
誰がいつ津軽海峡を発見したって言うんだ?
914 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:19:08.35
>こんな突拍子もない意見は初めて聞いたぞ。w おいおい、畿内説論者は、列島が南へ垂れ下がっているとか言ってたんじゃなかったかな。 そんな状態なら、津軽海峡なんぞ知らんで当たり前だろ。
915 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:22:27.56
現代的な地理知識として知ってるのと、 島として認識するのは別の話だぜ。
そうじゃなく、原始の日本人に「大陸」などという認識があったかどうか
918 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:34:43.36
だいたい倭人伝が書く倭の地に毛人なんて出てこなかったよな。 本州ならば、それが出てこなければいかんわな。
釣れないだろ、それじゃ
920 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:52:58.39
921 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:55:05.94
佐賀経由だと、行程記事の整合性はほぼ完璧と言っていい。 しかしそれでは、糸島、福岡が空白になってしまう。 旁国扱いでは済まないくらいの大国じゃないかと思う。 もっとも、好古都国なんて、博多を彷彿とさせるし、 対蘇国なんて、鳥栖を彷彿とさせるから、 それでいいのかなあ。
倭人伝に阿蘇山の記述が無い時点で、熊本説は終了しました。
923 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 21:57:39.39
阿蘇の文字もどっかで見たが、 倭人伝じゃなくて隋書とか旧唐書だったかなあ。 覚えてないや。
924 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:00:53.63
好古都国が博多で、対蘇国が鳥栖なら、 行程ルート外の国なので、 旁国という別扱いなのは、一応矛盾がないと言えるか。
925 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:02:54.36
隋書には阿蘇山(火山)の記述があるので その時点では回れる範囲という事。 倭人伝の時はそっち行って無いんだろうなw
926 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:03:42.14
>>922 熊本市からは、あまり阿蘇山はみえませんよ。霞がかかっていて。
そもそも阿蘇山は平野から相当遠いですよ。
927 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:04:25.96
>>921 奴国は2万戸の国だ。奴国の領域はかなり広かったと考えるべきだよ。
倭人伝が伝える奴国は、筑後川流域だとしても、その領域が福岡方面まで
広がっていたと考えるべきだろうな。
以北の国々をはぼ解読し終わった俺がいうが、 ア・リ・エ・ナ・イ
929 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:04:58.81
倭人伝の時は外輪山の中に入らなかったのかねえ
930 :
ローガン :2011/06/29(水) 22:06:47.84
で、九州説のみんなどうなん? 裴清の訪れたタリシヒコの都って、どこと考えるのが「邪馬台国九州説」の 主流の見解なの?
931 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:06:49.75
外輪山の外からは、煙みえない感じだな。
932 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:09:56.18
>>911 >女王国以北も女王国を含まなかったな。
アホか・・・あ、聞くまでもないか。
倭人伝にでてくるのは「自女王國以北」だろが。
933 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:10:44.72
934 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:13:06.37
935 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:16:20.63
ローガンがまた顔を出してるな。散々馬鹿にされた痛手は癒えたのかな?今度は突っ込まれないように用心して質問ばかりか。
>>930 そこは普通に難波だろう
書記にはそう書いてるし
937 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:20:26.40
>>934 投馬国は筑後地域だ。女王の都からは阿蘇山は見えね〜よ。
938 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:20:59.24
>>922 阿蘇の記述がないって、『その山に丹あり』は阿蘇の可能性大。
ところで、近畿地方の記述はあるのか?
939 :
ローガン :2011/06/29(水) 22:23:11.38
940 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:23:52.07
941 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:26:18.55
丹ねえ、たしかに阿蘇は鉄丹の宝庫ではあるらしい。 個人的には松浦の水銀朱を推す。 少なくとも九州ではどこかのように病的に丹を必要とはしていないので、 露頭鉱脈で事足りるし、必要なら輸入できる場所だ。
942 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:26:49.07
943 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:27:07.33
944 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/29(水) 22:27:35.32
。 ゚ | i ゜ 。i 。 ゚l 。 i ┼┼`` 。 ゜i ゚ i ! | ゜ i / ア ア ア ア ア ア ア ア ア ───‐─ ─ i l i ! ゚ ゚ 。 ゜ i ゜ i | ゜ i | ゜ i l ゜ i 。 i l i l | l ゚ ;゜ ゜ : ; ; i l l ! : ゜ i ゚ i 、i;,| i, ゚,゜ ゜ i l ゚; l 。i | 。i l l ゜;/ ̄u ̄;j\。´ i ゚ | ! ゜ 。 .| i i :。/ :j :::::\:::/\;゚ !゜ ゜ i l | ゜ l ゜ ゚ 。゜ i / u 。<一>:::::<ー>。 ! ゚九州説は滅亡した………………! i ゜ | |:j ° .:::。゚~(__人__)~゚j ゜ ゚ l 。i |。 ! i ! \、 u ;゜.` ⌒´,;/゜ ゜ i l ゜ i l ! l 。i /゚:j⌒ヽ゚ '"'"´(;゚ 。 ! ゜ 。i 。 ゚: ! ゚ l / ,_ \ \/\ \゜ ! ゜ i ゚ 、i;, 、|; 、i;, 。 ゜ ;゚ 、i;,と___)_ヽ_つ_;_ヾ_つ.;._ 。 l 。i ゜ ;゚ 、i;, ゜ ;゚ 、i;, ´´ ゙ ´ ゙ ´ ``" ´ ´ ` ~ " ゙ ゙" ゙ ´ `" ゙ ´´ " ´ ' ´ ´ ´ ' " " ゙ ゙ ´ ゙ ´ `" ´ ゙ "´´ ゙ ゙` ´ ' ´ " ´ ´
945 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:27:59.11
しかし、スレの進み具合が驚異的な速さ。しかも、「その6」も併行していると来ている。
伊都国(女王国)は宇佐もしくは別府のどちらかで確定だから
947 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:29:13.03
筑後の大牟田に近いエリアは投馬国かな。 個人的な意見だが。 筑後も広いし、単里説では100里は8キロほど。 筑後の中でも、筑後川の西側と東側でも違うだろうし。
ぬるぼ
949 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:31:32.36
阿蘇説は消えたなw
950 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:32:05.17
筑後川の西側は筑後じゃない。
951 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/29(水) 22:35:15.12
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ || 間抜けな邪馬台国九州説の糞スレが || 2つもあるのは違法だ!撤去すべき! ||. Λ_Λ ||.. \ (´∀` )<分かりましたね。 ||__________________⊂⊂ | ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | .| 〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)<ハ〜イ 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
952 :
邪馬台国フィクション説 :2011/06/29(水) 22:35:40.97
>>928 名無史さん
>以北の国々をはぼ解読し終わった俺がいうが、
ほぉ、それは素晴らしい! 良かったら御教示お願いしたいですね。
786も、貴方ですか?
953 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:39:16.56
筑後川は日田から久留米まではほぼ東から西に流れている。久留米から有明海へはほぼ西南方向だね。 まあ、筑後川の西側と東側で違うと言うよりも北側と南側で違うと言ったほうがいいかな。 筑後川の北側の筑紫、筑前地域が奴国、南側の筑後が投馬国だね。
( ・∀・) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >__Λ∩
_/し' //. V`Д´)/ ←
>>948 (_フ彡 /
955 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/29(水) 22:46:50.26
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ || 短里などと言う愚かなものはなかった。 || 愚かな九州説の人に宅建の資格は取れない。 ||. Λ_Λ ||.. \ (´∀` )<分かりましたね。 ||__________________⊂⊂ | ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | .| 〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)<ハ〜イ 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
>>952 ヤダ。暇が出来たら本書いて印税稼ぐんだ♪
っていうか最後の烏奴國がまだ未確定。支惟國からどちらに進むのか?
後半…違う
957 :
ローガン :2011/06/29(水) 22:51:06.51
>>943 >それを執拗に聞く意図は?
まあ、そんなに構えなくても。(笑)
邪馬台国の所在地はまあ、さておいたとして…
もし隋書にある倭の記述を読んだ事があるなら、裴清の訪れた先を邪馬台国九州説の諸氏がどう考えるのか聞きたいだけ。
そして見解を統一してもらったら、話がしやすいように思ったんでね。
話の流れを見ての印象なんだけど、お笑い王朝説信者が混じっているにもかかわらず、まともな九州説の人が、首肯しているように感じたんでね。
2ちゃんなんで仕方ないけど…みんな名無しなんで区別しにくいし。
958 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:55:14.72
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ || 間抜けな馬姦無月巫女が邪馬台国スレに || 出入りするのは違法だ!禁止すべき! ||. Λ_Λ ||.. \ (´∀` )<分かりましたね。 ||__________________⊂⊂ | ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄| ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ ( ∧ ∧ | .| 〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄ ̄ 〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧ 〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)<ハ〜イ 〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
959 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 22:55:40.23
次スレがあると、スレたての心配しなくていいな。 次も早めに建てられたら建てよう。
960 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/29(水) 23:05:25.05
>>958 . , - ' ´ ̄ `` 、__
..__,ィ ヽ. `ヽ.
.'⌒Y / 、ヽ ヽ ヽ.
../ i /l/|_ハ li l i li ハ
. /l i|j_,.//‐'/ lTト l、l j N i |
./ l li //___ リ_lノ lル' lハ. ソ ___◎_r‐ロユ
.l l l v'´ ̄ , ´ ̄`イ !| ll, └─‐┐ナ┐┌┘ _ ヘ____
..ハヽ ト、 '''' r==┐ '''' /l jハ| ll ll /./┌┘└┬┘└┼────┘ロコ┌i
.レ'¨´ヽiへ. _ 、__,ノ ,.イ/|/ ノ ll l| </  ̄L.l ̄ ̄L.lL.! ┌┘|
.{ ⌒ヽ_/ } ー‐<._
.ヽ, /、 〈 |:::::::| ,, -──- 、._ ____
..{. ハ ヽ Y`‐┴.-"´ \. ._ノ ヽ、_\
. |iヽ{ ヽ_ゾノ‐..:/ _ノ ヽ、_ ヽ.:.●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
. |i:::::`¨´-- :..:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ: _人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
. |i::::::ヽ._:::_:::::::| (__人__) |: ┬-| | (⌒)/ / / //
. |i::::::::::::i___:.:l ) ( l: | | / ゝ :::::::::::/
..jj::::::::r┴-- :` 、 `ー' /: .| | \ / ) /
..jj::::::::r┴-- `.:, -‐ (_). / ..`ー'´ ヽ / / バ
.〃 :::::::マ二 ...:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´.l||l 从人 l||l l||l 从人 l||lバ ン
.//::::::::::::i ー 一 '´ ̄::.:ヽ :i |:.一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン
.,','::::::::::::::i::::::::::::::::::::::i:::.:/ :⊂ノ|: _(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
961 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 23:10:43.67
\ プギャー‥‥っと /  ̄ ̄ ̄\( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ // ̄ ̄ ̄ ̄\ 〜プーン. 彳丿ノ( \,,,,,,,,/ ヽ 〜プーン これがおぞましい真実の神無月巫女だっ! 入丿⌒ ─◎-◎-ミ 〜プーン.. (6:::.:::u.::.:.(●:.:●):| 〜 カタカタカタカタ ヽ::.:.:::.: ∴) 3 (.:| ブツブツ カタカタカタカタ ヽ::. .:.:u.:::.,___,.;.ノ ______ ヽ. ___;;;;;;;;;;.ノ | | ̄ ̄\ \ __ 神無月巫女\... | 低機能 | ̄ ̄| |:::::::/ \___ \| 2ch専用 |__| |:::::::| \____|⊃⊂|__|__/ / |:::::/ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
962 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 23:27:19.03
つかなんで並行してスレ立ってんだ? 分かれてないでサッサと埋めろよ
963 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/29(水) 23:38:52.79
i l l ヽ ヽ\\ ヾy ‐- ̄ ̄ ̄ ヽ、 \ ヽ ヽ ィ ヽ ̄\ ヽ ヽ `、 / ー-、 \ `、 / ヽヾヽ\ ヽ\ ヽ、 、 // / |\ ヽ、 ヽ ヽ | l`、 / | | l , 、\\\\ \ | l 丶 | l |. 、! \ \ ー '''' ヽ、ヽ l | | ` ま た つ ま ら ん 糞 ス レ を . |.l | r'} 、 \,,、 、__,,、-‐''`ヽ | | | | l.l | ( { `ー''丶 '''ー- '´ |/ヽ | | | ii | 切 り た く な っ た の だ が … … l | ヽ; | |' i| l | | | i ヽ .l `i. i ノ, / / /// / \. l ヽ. ヽ /`" / // / ヽ. ヽ _,,,,,,_ /r、 / / | \ /llヽ ' /-、`' /1| ヽ / / / ||∧/ / | | \-‐' _ ,、 -/l ||{. /ヽ,,,,,,,,/ .| | |ヽ、、 _,、- ' ´ |. ||{ | | |ヽ、 ゛'-、,,_
阿蘇阿蘇言ってるやつは何なんだ 阿蘇が邪馬台国の訳なかろう 高千穂の峰が目の前なんだぞ 阿蘇は日向の勢力下だ 後に神武を輩出する勢力のな 故に大和政権成立直後に阿蘇氏の管理になった
965 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 00:25:16.93
あっそー
阿蘇山だけ現代の用法と字が同じなのはおかしい。 現代の阿蘇山とは別の山だろう。
どこに阿蘇に代わる火山があるんだよ トンデモはやめろ
で、倭人伝には阿蘇らしき火山の描写はありませんと。 そっちへは向ってませんね。
969 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 01:35:45.91
開皇20年といえば西暦600年か。 その頃、阿蘇山が大爆発したんだろうな。
970 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 01:39:24.36
>>968 倭人伝に書かれていないものはたくさんある。
書かれていないからないと言っていたらきりがない。
日本書紀から隋書の相手国が大和政権なのは明らかだからな。 この時代、日本の史書と中国の史書と登場人物が一致するのは 本当に貴重だ。 まあ邪馬台国とは関係ないけど。
>>968 別に北九州説なら行ってなくても矛盾はないな
それに銅鐸の記述はないし瀬戸内海の記述もないから、畿内にも行ってないということでいいよな?
973 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 03:18:27.65
>>971 >日本書紀から隋書の相手国が大和政権なのは明らかだからな。
日本書紀には隋から使者が来たとは書かれていなかったな。
974 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 04:48:38.05
隋書に阿蘇山の記述があって、 噴火して困ってるらしいことが書かれているんで、 そのへんの国の記述だろ。
考えてみると、阿蘇山の記述が無いというのは、 熊本説にとっては致命的だな。 水行して行って阿蘇の雄姿を見ないということはないもんな。
976 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 06:45:52.97
>>972 銅鐸は普段埋葬してあるからと解釈できますね。
火の山が阿蘇の象徴ならまず書かれて当然。
丹の山のように書かれてなければいけないね。
銅鐸は“現役時代”も埋葬されてたのか? じゃあ、なんのために作ったんだよ 華麗な装飾は何のため
銅鐸は何かあった時の魔除けみたいなもんか。
979 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 08:05:08.70
銅鐸は2世紀までで、3世紀には突然作られなくなった、 というのが普通の定説だな。 ごく一部の地域で残ってたかもわからんけど。
全国で一斉に作らなくなったとしたら、恐ろしい事態だな 宇宙人の征服があったのか
981 :
水銀厨 :2011/06/30(木) 09:09:10.44
原因はともかく、きっかけは現代の普通の解釈だと 瀬戸内海を舞台にした倭国乱でしょう。
982 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 10:19:15.74
邪馬台国?俺の横で寝てるよ
983 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 10:49:10.18
邪馬台国は九州に決まってる 邪馬たいですたいと九州弁が混ざってるのが証拠だ!
984 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:00:51.21
>>975 とりあえず、熊本に行って阿蘇を見てくることだな。
985 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:00:58.22
熊本市内からだって、外輪山が遠くにかすかに見えるだけで、 ただの山地にしか見えんぞ。 煙噴いてる中岳は外輪山の中に入らないと見えないし。
986 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:02:57.65
最早オラの地元に邪馬台国を誘致しよう運動 2011年熊本に邪馬台国を!
987 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:07:02.69
>>986 こいつ畿内説だろう。
畿内説は地元意識丸出しだから、九州説もそうだと思っている。
988 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:08:31.21
乗るしかないこの邪馬台ビッグウェーブに! 我が大群馬県も邪馬台国誘致に参戦する!
989 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:10:25.13
持ち回りで邪馬台国決めようぜ 4年に一度世界規模で 南アフリカ邪馬台国とか
熊本市に行っちゃったら、阿蘇は見えにくいよ 有明海の海上から見なくちゃ。
991 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:13:34.55
もう何十年も日本に邪馬台国が来ないという事態に!
992 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:17:29.86
古代にも頭がいい奴はいたはずだ。 ここが邪馬台国だという証拠を後世に残してくれてるはず
993 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:22:16.01
ゴッドハンドなら ゴッドハンドならやってくれる!
994 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:29:46.02
じゃあ後世のために今地元に記念碑ぶちたてて置こう ここが邪馬台国ですと
995 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:37:16.36
熊本に邪馬台国があったと思ってる熊本の人は余りいない(たまにいるが^^;) でも、はほとんどの人が邪馬台国九州説。
996 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:42:25.65
九州説ってそういうところあるね。 まさかうちの地元にはなかろう、 九州のどっかだろうけど、 って感じで
997 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 11:46:16.82
投馬国は朝鮮半島南端。 邪馬壹国は北部九州。 狗奴国は南部九州。 倭種は山口県あたり。
熊本は天草が重要
999 :
日本@名無史さん :2011/06/30(木) 12:06:00.96
majide?>>1
邪馬台
1001 :
1001 :
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