「それでも邪馬台国は九州にあった」その4

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1ローガン
立てました。
九州説頑張れ!
2ローガン:2011/05/31(火) 15:53:27.80
おっと、間違いました。
【激論】それでも邪馬台国は九州にあった4【道場】
の次スレなので 5です。失礼しました。
3日本@名無史さん:2011/05/31(火) 16:30:36.71

ローガン=隠れ九州説疑惑…
4日本@名無史さん:2011/05/31(火) 17:16:23.79
なんか、スレタイトルが微妙に変化して行くな。
過去ログ見るときどうすんだろ。
5サガミハラハラ:2011/05/31(火) 17:44:32.41
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
1991年8月12日にわたしが発見しました。正確にいうと、都の南端に到達ですが。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)です。
1991年12月30日にわたしが発見しました。
今年は邪馬台国発見20周年になります。
盛大な記念祝賀会等は予定されておりません。

実は邪馬台国の都は卑弥呼の時代に遷都されていたのです。
小城に遷都されるまでは、同じ佐賀県内の吉野ケ里が都でした。
吉野ケ里北の邸郭は卑弥呼の居住地として造営されたものです。
6日本@名無史さん:2011/05/31(火) 17:48:28.90
>>3
彼は最近になって畿内説に自信が持てなくなったようである。分るような気もする。
7日本@名無史さん:2011/05/31(火) 17:59:35.43
1乙

短里を採用し、文献のとおりに南東の佐賀大和方面へ移動
水行陸行の日数表記は、同様に短里換算で1/6程度とすれば、熊本県南部あたりでおさまり、
陸を水行したりといった矛盾もなくなる。

いまのところ、これで矛盾が出ない行程をたどることができる。
8日本@名無史さん:2011/05/31(火) 20:01:01.60
あとは掘るだけ!
9日本@名無史さん:2011/05/31(火) 21:03:34.02
>>6

ローガン…
10ローガン:2011/05/31(火) 22:43:37.04
>>6
なんやねん。スレ立て出来ないって泣くから、なんとかせねばと…
116:2011/05/31(火) 23:01:52.30
>>10
いや、それはありがたいと思っていますよ。しかし、まだ畿内説を信じているのかなあ と思ったもので。
三角縁神獣鏡にしても前方後円墳にしても年代の確定が難しくてそれらを証拠にできないことはわかっている
だろうから、困っているのではないですかな。
12日本@名無史さん:2011/06/01(水) 00:42:37.72
ドンこいスレ、使い終わってからこっちに来るつもりかしらん

ローガン氏、スレたてありがとう
13ローガン:2011/06/01(水) 01:06:00.71
>>11
>いや、それはありがたいと思っていますよ。

そいつぁどうも。結構、手間やったんですよ。

>しかし、まだ畿内説を信じているのかなあ と思ったもので。

「信じる」という言葉が適切なジャンルかなあ?と思いますがね。もっとも「陳寿を信じ通す」って人もいましたが…さておき、畿内説、
緩やかだろうがなんであろうが西日本の主な地域が、3世紀中頃には「広域の大王」政権下にあったという事でしょう。
だとしてもイコール邪馬台国となるかどうか(笑)(勿論、畿内説が最も蓋然性としては優れている事は否定しませんがね。)

>三角縁神獣鏡にしても前方後円墳にしても年代の確定が難しくてそれらを証拠にできないことはわかっているだろうから、困っているのではないですかな。

まあ、困りはしませんよ。金石文はやはり定点ですからね。
「年代の確定が難しい」は、それを認めたく無いという意味と理解しておきます。
14日本@名無史さん:2011/06/01(水) 06:28:45.02
>>3
ちょっとでも甘い顔すれば、コロっと騙される。
スレを面白くしたいだけ。
因みに、九州説のあんたには畿内説に成り切る芸当ができないだろう。
15日本@名無史さん:2011/06/01(水) 06:32:55.65
>「年代の確定が難しい」は、それを認めたく無いという意味と理解しておきます。

いや、単なる馬鹿かも知れん。
本気で言っているのかもよ。
16日本@名無史さん:2011/06/01(水) 14:04:44.07
どうやったら、土器で実年代(暦年代)がわかるのかな。
17日本@名無史さん:2011/06/01(水) 15:54:59.83
ほら、何もいってないのに土器で実年代とかっていっている。
本人も一応、世の中の流れは分かっているんだよ。
18ローガン:2011/06/01(水) 16:39:21.23
土器か…
土器は女性が作るものだと、昔モリコー先生だったかが言ってたけど。
土器の移動は女性の移動とね。最近そんな話をする人はいないような感じですな。まあ、どうでもいいか。
19筑紫の民:2011/06/01(水) 22:01:34.50
居心地の良いとこに帰れて幸せ。
「邪馬ドン」は稚拙なかき回し発言が多くて
正視できません。
ところで、ホークス10連勝ですよ!
九州説のみなさん。九州の球団の活躍うれしいですよね?
え?そうでもなか?
20日本@名無史さん:2011/06/01(水) 22:21:36.56
アビスパの8連敗も忘れちゃイヤ。
21日本@名無史さん:2011/06/01(水) 22:33:01.56
>>19

>「邪馬ドン」は稚拙なかき回し発言が多くて
>正視できません。

甘えるなゴミクズ。

「僕も、やっぱり九州説を支持しちゃいまぁす!」
みたいなレスが溢れるのが当然だと夢みてんのかね。
22卑彌呼の都は久留米:2011/06/01(水) 23:03:19.47
>>19
>「邪馬ドン」は稚拙なかき回し発言が多くて正視できません。
>ところで、ホークス10連勝ですよ!
>九州説のみなさん。九州の球団の活躍うれしいですよね?
>え?そうでもなか?


僕も、やっぱり九州説を支持しちゃいまぁす!

でも、ホークスに全く関心ありましぇん。
23大阪人:2011/06/01(水) 23:06:29.93
僕も、やっぱり九州説を支持しちゃいまぁす!

ホークス羨ましいですわ
タイガース勝ってくれな困りますわ
24日本@名無史さん:2011/06/01(水) 23:07:57.13
玄界灘原発が事故る前に発掘すべし
25佐賀原住民:2011/06/01(水) 23:18:51.60
これって、九州説の人間の義務なのか?
それじゃ、お付き合いで、

僕も、やっぱり九州説を支持しちゃいまぁす!

KBCで最近ホークス戦、聞いとらんなあ
26ローガン:2011/06/01(水) 23:24:54.36
ではお付き合いで。
僕も、まともな、九州説を応援しちゃいまぁす!と。
27神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/01(水) 23:30:22.94
          ┌┬┬┬┐
    ???┴┴┴┴┴?????、
   /.  ̄ ̄ ̄//. ̄ ̄| || ̄ ̄ ̄||| ̄ ||     __________
  /.    ∧// ∧ ∧| ||      |||   ||  /
 [/____(゚_//[ ].゚Д゚,,) ||___|||   || <  九州説の人を搬送するお
 ||_. *  _|_| ̄ ̄ ∪|.|.       |ヽ. _||  \__________
 lO|o?o|O゜.|二二 東|.|京 精神病院 ||
 | ∈口∋ ̄_l__l⌒l_|_____|_l⌒l_||
   ̄ ̄`ー' ̄   `ー'  `ー'   `ー'
28太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/01(水) 23:46:49.37
オマエは津田妄想病に脳内がしてやられてるんだよ。w
29神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/01(水) 23:58:57.88
        |::::::::| |::::::::┌ー  ー┐::::| |::!
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          l ヾ! l v'´ ̄  , ´ ̄`イク !    └─‐┐ナ┐┌┘ _  _____
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        ,レ'¨´ヽiへ. _ 、__,ノ ,.イ/|/ |        </   ̄L.l ̄ ̄L.lL.!         ┌┘」
        /{   ⌒ゝ_/ } ー‐<!Lソ ,'i !
        //ト、 ,/'´/、 〈、__,リ:::::!| `ヽ|ノ
.      // ! {ヾ、ハ ヽ Y`f~´::::::::::v  l
      ,'イ. //|l、 { ヽ_ゾノ::::::、ー、:::ヽ |
.     〃 .,'/./|lヽ`¨´ ヾ、::::__ゝ ヽ_::}!
    〃 iイ /,'.|i::ヽ.ヽ、_//∠_    _ノ !
.    {{  !l .!{ ::|i:::}  ! i;;_/  //.  !
   ヾ   {i. ヾ、jj二ニr┴-- `ーヾ'⌒ .|
.     `  .ヾ 〃/  マ二     }_,ノ
        //:;'   i !ー 一 '´l~::.
      ,','::/   ヽi !:::::::::|  i:::::::.ヽ
30日本@名無史さん:2011/06/02(木) 00:19:57.00
神無月、うるせーぞ
31神無月未婚:2011/06/02(木) 00:22:30.69
しあわせはどこにある? あのとおい空のむこうに
32日本@名無史さん:2011/06/02(木) 00:31:26.91
九州説スレの管理もできない九州説wwwwwwwwww
33神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/02(木) 00:59:50.94
      パーン!
 (#‘ω‘ *)
  ⊂彡☆))Д´) >>30
34神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/02(木) 01:07:09.46
             _,,..,,,,_        ビタァァァン!!
           / ;' 3 ヽヾヽ       ビタァァァン!!!
     〃     i     ,l           ビタァァァン!!!
 ‘  ,_,,..((,,_  〃ゝ U  j! _ )))_ ∴ ,“     ビタァァァン!!!
 ,J∵/ ;' 3  `ヽーっ )  ソノ'"   ヽ从/; ’
 ) : l   ⊃ ⌒_つ,..ェ‐'´  ⊂  j! ゞ・,‥¨ >>31
 .¨ ・`'ー---‐'''''"    ̄゛'''''‐---ー '¨・:‘ 
35日本@名無史さん:2011/06/02(木) 01:41:57.80
神無月荒れてんな、なんか嫌なことでもあったか?
36sss:2011/06/02(木) 02:17:20.89
>>18
いや、思うな。重くて壊れやすい土器を担いで、歩いて移動するなんてのはちょっと考えられない。
何かを入れて移動しなくてはならないなら、皮の袋のようなものが一番だろうと思う。

違う土地の土器が見つかれば、交易しか浮かばない考古学の常識も考え物。
土器の移動は人の移動と言った方がいいかも。
また、古代は、人そのものが交易品だった可能性も高いと思う。
37日本@名無史さん:2011/06/02(木) 04:15:29.62
>>36
液体なら、皮袋はグニャグニャ不定形で力が入れにくいから、量が多いと逆に不便だろう。
土器の方が扱いやすい。
漏れないように皮を縫い合わせる技術もあったかどうか。
土器は重いのが欠点だけど、舟で運ぶならそれもカバーできるだろう。

皮袋で運ぶのに適したものって何かあるかな。
38日本@名無史さん:2011/06/02(木) 11:13:55.87
革袋っていえば、砂金、貴石だろう。
39日本@名無史さん:2011/06/02(木) 11:51:32.63
土器の移動は人の移動だろ。

つまり2世紀終わり頃から、近畿から九州に大量の人が移動した。
一方、九州から外へ出る人はいなかったことがわかる。
40日本@名無史さん:2011/06/02(木) 11:59:11.58
畿内の人たちが九州に徴用されたってことか。
41日本@名無史さん:2011/06/02(木) 12:05:38.31
そういうこと。だから九州説を採用するなら、魏志倭人伝を否定しないとね。
42日本@名無史さん:2011/06/02(木) 12:09:52.24
???
43日本@名無史さん:2011/06/02(木) 13:52:24.76
まぁ邪馬台国論争既なんて既に終わったんだよ。
九州には無いって事だ。
44日本@名無史さん:2011/06/02(木) 14:17:56.61
九州で出てくる畿内型の土器の形状でも違いそう。

食器なら人が移動したことになるし、
甕、壺なら、なにか運んできたことになるだろう。
45日本@名無史さん:2011/06/02(木) 14:21:06.90
九州の邪馬台国は、後の景行天皇に征服された。
それでいいんじゃないの?
46日本@名無史さん:2011/06/02(木) 14:49:13.37
景行天皇の時代に、おとなしく九州勢が征服されるかどうか。
吉野ヶ里の時代だってあれほど激しくやりあっていたわけで、
余所ものが入ってくれば、磐井以上の戦闘になるだろう。
それが記録として残っていないはずはない。

だから少なくとも景行行幸の時に戦闘は起こってないと見る。

しかし、仮宮を築いた高良大社は久留米や筑後平野を象徴する
軍事的拠点の一つ。戦闘を意識する場所である。

つまり矛盾である。

個人的には、景行から神功皇后までの九州ネタは、
もともと九州の人物の事績が切り張りされたのではないかとみているのだが。
47日本@名無史さん:2011/06/02(木) 15:09:56.51
九州には景行天皇を歓迎しておでむかえしたお祭が残ってますが。
48日本@名無史さん:2011/06/02(木) 15:25:49.12
>>47
お祭りの神社とか、祭りの名前とかおわかりでしたら教えてください。
興味深い部分です。
49日本@名無史さん:2011/06/02(木) 16:00:12.02
>>48
ttp://kyushu-tabi-gourmet.seesaa.net/article/197831168.html

>天皇が菊池川を下流よりさかのぼられ、山鹿の火の口(現・宗方)に着岸されました。
>その折、一面に濃霧が立ちこめ進路をはばんだので、里人がたいまつをかかげて御一行をお迎えし、
>杉山(現・社地)へお導きしたそうです。
>その時の奉迎のたいまつの火が山鹿燈籠の起源と伝えられています。

九州熊本の民が、いかに丁重に景行天皇をお迎えしたかがわかる。
邪馬台国の圧制に苦しんでた九州の民が、
大和から進軍してきた景行天皇によって開放された喜びが溢れ出てるってことだな。

50日本@名無史さん:2011/06/02(木) 17:03:31.38
wikipediaより

景行12年(82年)熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。
周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。
筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。
豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅して、11月ようやく日向国に入る。
熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。
日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。
18年(88年)3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・
高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、
19年(89年)9月に還御した。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていない。

行程は、山口から始まり、行橋、大分、日向、そして
球磨、葦北、諫早、阿蘇、浮羽、となっていますね。

仲哀天皇も、下関から始まっていますので、同族として、
関門海峡から北九州に拠点があったのでしょうか。

神功皇后は福岡市周辺に拠点を持っていますね。

福岡と北九州の合体を示唆しているのかな、とも思います。
51日本@名無史さん:2011/06/02(木) 17:28:03.42
九州の邪馬台国が4世紀に滅んだことは間違いないな。
52サガミハラハラ:2011/06/02(木) 18:46:56.74
いや、もっとはやいです。290年代ですよ。
53日本@名無史さん:2011/06/02(木) 19:22:18.83
九州に邪馬台国はあったが、早い段階で消滅した、妥当な話だな。
54伊作:2011/06/02(木) 21:06:58.14
51 九州の邪馬台国が4世紀に滅んだことは間違いないな。
52 もっとはやいです。290年代ですよ。
53  九州に邪馬台国はあったが、早い段階で消滅した。

にひひ。
3世紀に日本列島で唯一、大陸の大帝国と外交を展開した「倭国」が、
どうしたら田舎の後進勢力に滅ぼされた理屈になる?
で?
邪馬台国の卑弥呼に始まった鏡とセットの国家祭祀・葬送祭祀だけが、
大和の田舎政権に継承されたったわけか。
民族・国家・勢力のアイデンティティの核ともいえる信仰的精神性だが、
滅ぼした者が滅びた者の「それ」を継承したてか。
現実離れしたバカをいうのもいい加減にせい。

魏の本格的軍事支援を得て先進の武器と戦い方を学習した邪馬台国が
九州の先進性と新しい政治知識を持って、
狗奴国を制圧したあと東に進出したのだ。
55筑紫の民:2011/06/02(木) 22:01:32.40
伊作先生、今晩は。
文献・考古・常識に基づき理路整然としたご発言
勉強させていただいてます。「大和の揺籃邪馬台国」も
引き続き勉強中です。

ところで、伊作先生が九州倭国の東遷が完全に完了したのは
いつ頃と考えていますか?
わたしは、二日市隘路にある防衛を目的とした大規模な遺構
とそれの築造時期(炭素年代法など)を踏まえると、7世紀
以降ではないかと考えています。
特に、大野城・水城・基山の遺構は大山古墳の築造能力を
超えています。

ぜひご回答頂きたい、お待ちしております。
56畿内説の終焉:2011/06/02(木) 22:08:17.64
「国内最古」の堂ノ後古墳 掘ってみたら5世紀後半
57日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:08:20.50
>熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。

>周防国で賊を誅殺
>豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅する。
>日向国で熊襲梟帥をその娘に殺させ、
>翌年夏に熊襲平定を遂げた。

あれ、熊曾って、山口大分宮崎の勢力のことかな。
なんだか、割とはっきり熊曾勢力の範囲がわかる気がする。

熊本は熊曾じゃなかったかもしれないね。
58日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:11:02.03
熊曾は、周防灘、豊後水道、日向灘の
九州東側の海に面した勢力のことかもしれないね。
59日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:18:09.20
熊曾を平定しての帰り道

18年(88年)3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・
高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、
19年(89年)9月に還御した。

球磨、葦北、阿蘇、浮羽、ちょっと寄り道だと思うけど、
行幸でに見回りならありなのかな。

浮羽から、久留米や太宰府のみやこに帰るのなら
しっくりくるんだけどなあ。
60筑紫の民:2011/06/02(木) 22:21:55.92
九州説のみなさん、御所ヶ谷神籠石については
検索して下さい。そして、御所ヶ谷神籠石
周辺をグーグルアースで見て下さい。
御所ヶ谷神籠石の遺構を踏まえるとそこに都があったはず。
その都は、御所ヶ谷北側に広がる田園にあったのではないかと・・・
東西南北しっかり整備されています。
邪馬台国のその後、倭国と関係の深い何かがあったと思いませんか?
61筑紫の民:2011/06/02(木) 22:35:59.74
あれ、回答が無い。みんな御就寝ですか?
明日は、甲子園でソフトバンク対阪神戦です。
大坂人さん対決ですね。楽しみですたい!
62日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:37:07.53
福岡平野側の国と有明海側の国

その間にある二日市から鳥栖の狭い部分が、筑紫という地名。
筑紫神社もちゃんとある。
でも、どうみてもここには都はない。ここはただの境目。

ここの地名が筑紫てあること、国名が筑紫国であること。
筑前の国と筑後の国がひとつになった象徴だと思うんだな。
63日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:42:17.04
>>60
見させていただきました。
福岡県行橋市大字津積周辺でいいのでしょうか。
たしかにこのあたりは東西南北があっているように見えますね。

景行天皇が神籠石山城建築技術を持っていた勢力なのでしょうか。
高良大社にも神籠石ありますから。
64日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:50:27.78

>>60

地元の人はわかるだろうけど・・・見つからなかったので やめた
ネットは こんな遺跡だ!の写真ばかりで 場所が書いてないからね
65日本@名無史さん:2011/06/02(木) 22:54:13.93
>>60
Google Earthで見たけど、よくわからんかったばい。
御所ヶ谷神籠石て書いてあんのかな。
見なれた人じゃないと、よくわからんみたい。
66日本@名無史さん:2011/06/02(木) 23:04:47.63
馬鹿歌詞
時代が違う遺跡じゃ根拠なならない。
67卑彌呼の都は久留米:2011/06/02(木) 23:58:17.77
>>60
>>65
>Google Earthで見たけど、よくわからんかったばい。

国土地理院の地図閲覧サービスで場所を確認しなさい。
次いでGoogle Earthで見ればよい。

しかし、
『御所ヶ谷北側に広がる田園にあったのではないかと・・・
東西南北しっかり整備されています。』の地域は、
広い谷間のべったりした平野なので、都を置くには不向き。
洪水で冠水しますよ。
二つの河川の合流点の上流側の台地が、水はけが良く水利が良く都の適地。
上記に準じた様な地形は、御所ヶ谷神籠石北側の地域には、残念ながら見当たらない。
68日本@名無史さん:2011/06/03(金) 00:22:41.16
邪馬台国の滅んだ時期は、台与の後10年以内だな。
朝貢が途絶えるのが証拠。
邪馬台国が続いていれば、定期的に朝貢があるはず。

すると、3世紀末には邪馬台国は滅び、
大和王権が九州を支配し、神功が朝鮮に進出したことになる。
69sss:2011/06/03(金) 02:31:57.19
>>57
景行天皇が築いて6年間を過ごしたとされる高屋宮がどこにあったかが問題かな。
高屋というと、瓊瓊杵尊の子である彦火火出見尊の墓、高屋山上陵が浮かぶのだが、これだとしたら
鹿児島県の霧島市になる。しかし、定かではない。

熊襲征伐の後、児湯郡に行き、この付近で遊ぶ。児湯郡とは西都市の付近。
その後、夷守(小林市)に行き、諸県君泉媛の歓迎を受ける。次に熊県(球磨郡・人吉付近)に行き、次に
芦北、八代県となる。これらの地域は熊襲に入っていないと考えられるので、熊襲の地域はかなり南の方と
思われる。重要な地域である都城が書かれていないので、ここが熊襲の本拠地ではなかったか…。
70sss:2011/06/03(金) 02:39:45.87
>>67
八女の人が、八女は明太子文化圏ではなく、高菜文化圏だと言っている書き込みを見たことがある。
どうも、福岡よりも熊本の文化に近いらしい。久留米はどうなんだろうかな。
71日本@名無史さん:2011/06/03(金) 02:45:30.42
高菜は筑後川沿いというのを聞いたことがあるような気がします。
明太子文化圏は筑前地域で、高菜文化圏は筑後だと思います。

もっとも、明太子自体戦後のものですがね。

筑前文化、筑後文化と読み替えてますが。
72日本@名無史さん:2011/06/03(金) 02:47:39.09
久留米を過ぎると、熊本文化圏に近くなりますね。

八女の岩戸山石人山古墳群の石人石馬は熊本に近いですね。
久留米まで来ると、石人石馬はなかったと思います。
73日本@名無史さん:2011/06/03(金) 02:58:08.95
>>69
持論ですが、大分宮崎と鹿児島は九州山地に阻まれて、交通は困難ですから、
福岡、佐賀、熊本とは別の文化圏でしょう。

逆に言えば九州山地を超えて軍を派遣するのは困難と言えます。
景行天皇が行橋、大分経由で熊襲退治をするのは、
船の利用があるのではないでしょうか。

九州北部勢力が東九州を抑えるために、船を投入するなら
当然関門海峡を通ります。これが周防の賊退治の話ではないかと思います。

関門海峡を抑えている勢力を叩いたのかもしれません。
74日本@名無史さん:2011/06/03(金) 03:00:04.40
>>70
高校生のときだけ久留米に住んでた。
久留米ネイティブじゃないから、正確にはわからんけど、
その当時の感覚では博多はけっこう近い、熊本は生活のなかで話題にのぼらなかった。
でもこれは西鉄電車の存在が大きいだろうから、古代の感覚は知る由もない。
75日本@名無史さん:2011/06/03(金) 05:47:28.05
偉作の説は理論的で非常に勉強になる。
76伊作先生:2011/06/03(金) 07:04:23.41
>>55 筑紫の人へ。
長くもないのに「本文が長過ぎる」といって受け付けないし、
何度もガチャガチャやれば「規制対象になりました」というし。
2ちゃんしわけのわからないところがある。みじかく切って返答。

東遷は1日にしてならず。
3世紀末には関東にも前方後方墳・前方後円墳が登場するから、
この時期にはすでに、そうした墓制と葬送儀礼と信仰的精神性を持った勢力が、
進出と開拓と定着果たし、安定した勢力基盤と生産を実現していた事をー示唆します。
ということは、3世紀半ばにはすでに進出の地ならしが始まっていたと考える必要があります。
関東の奥地に毛人勢力を押し込めたところで、本家の東遷の準備が始まります。
つづく。

77伊作先生:2011/06/03(金) 07:08:17.03
こうした段階を「倭の五王」にたとえると、
讃の時代には各地の征討がはじまり瀬戸内海へ進出します。
こうした仲で、瀬戸内海に幾つか拠点を置いてさらに勢力を進めます。
最終的には目的地・大和の近くに拠点を構えます。
神武談のような、九州から遠路はるばる「兵員と物資を帯同して一気に」は、
時代の成熟度(輸送力や機動力)の面からみても不可能で、
段階的なステップを経て拠点への兵員と物資の補給と備蓄をしたはずです。
最終的には「近隣同士の戦闘」という形になったと私は見ています。
これが私の考える東遷の手順です。
つづく。
78伊作先生:2011/06/03(金) 07:15:05.92
遅くとも3世紀半ばには(ニギハヤヒの逸話に見られるような)
進出の先遣開拓部隊を要所要所に派遣・配置して、
関東の平定が済んで毛人の脅威がなくなったあとで、
徐に大和への引っ越し準備が始まります。
土地の開墾・干拓・治水、そして王都づくり。
これだけの大事業が一人一代でできるはずはありません。

私のつたない考古知識とそこから見える歴史動向と、
幾つかの文献のいうところなどから勘案すると、
東遷事業が「完全に」完了したのは5世紀初頭でしょう。
東遷と統一事業は表裏一体で、統一を終えて半島へ出て行くわけです。

判断の決め手とするのは九州における装飾古墳の登場時期です。
装飾古墳は、引っ越し後の九州を任された皇別豪族たちの墓だと信じて疑いません。
(装飾古墳の被葬者たちはすべて天皇家の血縁血族です)。
これが最も早く登場するのが4世紀末頃からです。
79伊作先生:2011/06/03(金) 08:01:37.05
推論=遷都の動機。
3世紀半ばのこと。
大勢の人間を載せた魏の使節船((大型楼船)がやってきたとき、
倭人は大陸からの侵攻の現実性と脅威とを感じたと思います。

ほどなく、大陸は争乱の時代へ突入します。
司馬炎は統一後は色ごとにふけり政治を顧みず、
その子の代になると外戚のいいなりで、すぐに晋王家の8王の乱。
そして4世紀になると五胡16国が入り乱れての争乱となります。
これでは、いつ何時に侵攻してくる国があらわれるか分かりません。
そこで、瀬戸内海というさらなる天然の防壁の奥へ
引っ越すことを急いだものとみています。

かくして倭人は、中原がもめている間は貝殻を閉じた貝のように鎖国状態を通します。
それが倭人のプライドでしょう。
倭人の通交対象はあくまでも中原の覇者となった王朝ですからね。
80伊作先生:2011/06/03(金) 08:03:37.12
57 >熊本は熊曾じゃなかったかもしれないね。
大正解。(このあたりも俺の論考に詳しいが)
熊襲は、ほとんどが福岡県・大分県・宮崎県にいたことになっている。
熊本では玉名と球磨の2ヵ所しかいなかった。熊本平野はエアポケット。

もともと倭人とは、長江流域の(現在の少数民族とされる)三苗系統の
南蛮・荊蛮・南越といわれた民族で、
似てはいるが少しずつ文化の異なる民族の集合体のようなもの。
そちこちに色んな民族集団がいたと思われる。
これらを総称して熊襲と書いているわけで、
熊本の熊と熊襲の熊は何の関係もない。

むしろ熊本平野一帯には朝廷の血脈に近い勢力がいた。
これらが、東遷あとの九州を支配・管理して装飾古墳展開することになる。
81日本@名無史さん:2011/06/03(金) 09:11:25.14
このスレは伊作先生が来ると、途端にレベルが上がる。
82卑彌呼の都は久留米:2011/06/03(金) 09:48:34.92
>>70
八女が肥後文化圏に入ったのは3世紀末(270年頃)と思われます。
@八女地方(矢部川流域)に横穴式石室(装飾古墳も含む)を持つ墳墓の出現。
A倭(壹與)の晋への入貢は266年11月が最初で最後である。

久留米にいた壹與政権は、肥後勢力(狗奴國)の八女侵入と共に亡んだと考えられる。
狗奴國による筑後の支配。3世紀末から4世紀初頭
久留米に、倭王旨から始まる倭5王政権が4世紀中庸迄に都を置く。

久留米は4世紀以来、肥後と筑紫の文化が交錯する地域になったと見えます。
4世紀から7世紀初頭までの都として当然の現象
83日本@名無史さん:2011/06/03(金) 11:15:48.09
倭国の兵は矛・楯・木弓を使うとありますが、楯ってどんな物を使ってたんだろう
木へんの楯の字を使ってるから木製の盾だったのかな
魏から貰った刀で武力アップして狗那国征伐して東遷することになるわけですね
84日本@名無史さん:2011/06/03(金) 11:34:18.19
>>82
>@八女地方(矢部川流域)に横穴式石室(装飾古墳も含む)を持つ墳墓の出現。

えらいものを持ち出してきたがw、それはいつ?

九州説だと3世紀はまだ弥生時代で、横穴式石室、装飾古墳はおろか、
古墳そのものが未出現の筈だが。
85伊作先生:2011/06/03(金) 12:04:49.43
>>82
久留米だの………八女だのと。
久留米や太宰府は三方が開けて防衛上多大な努力を迫られる。
八女なんざ、墓場か茶畑ぐらいしか使い途がないところだぜ。

むかし。神様と偉いお人は高い所に住んでいたという。
「やま」とは偉いお人が住んでいるという意味でもある。
山門とは、その山の入り口。
九州西側を陸路で南下するには南関しかなかったが、
この入り口の先に「やま」があったのよ。
菊地はもともと「久々知(くくち)」といったが、
この「くくち」もまた「山から麓へ出る口」という意味さ。
山鹿と菊地が両脇を固めた奥に偉いお人が住む「やま」があった。
古代人たちはこの広大な「やま(台地)」を臺(うてな)と呼んだ。
北部九州説ストーリーなど、この現実を前にすればいかほどの説得力もない。
86日本@名無史さん:2011/06/03(金) 12:06:50.30
山鹿と菊地が両脇を固めた奥に偉いお人が住む「やま」があった。
古代人たちはこの広大な「やま(台地)」を臺(うてな)と呼んだ。
すなわちそこが邪馬台国だ。
わかったかね?凡人ども。
87日本@名無史さん:2011/06/03(金) 12:50:05.65
そういえば、久留米は高良山、大宰府は四王寺山と、
構成が似てるんだよね。また、ともに神籠石がある山城だ。
そして、三方が開けた場所にあるのも同じ。

筑前の象徴と、筑後の象徴

防衛に向かないというか、ともに戦争になれば激戦区必須の場所だけど
かなり発展したのも間違いない。

王都というよりは政都や商都なんだろうな。
軍事より交通や集客を目的とした都市だ。
88伊作先生:2011/06/03(金) 13:40:53.86
>>86
違うな。
ここには、帥升たち男王の都と居城があった。
海抜80メートルの臺(うてな)の広大な台地が王都。
周辺には弥生の大遺跡が幾つかあるだろ。

その奥にさらに100メートル高い独立台地が籠城用を兼ねた本城。
吉野ケ里の全盛期をかるーく凌駕する66ヘクタールだ。
ここが、弥生倭国の中枢拠点。

卑弥呼の王都はさらに別のところに設けられた。

>>87
あんたは・エラい。
89卑彌呼の都は久留米:2011/06/03(金) 13:44:29.78
>>84

横穴式石室を持つ墓ね。

崖を墓にすれば、横穴墓
平地に作れば、横穴式石室に土をかぶせた土饅頭
土饅頭を大きくすれば、横穴式石室の古墳

横穴岩盤や横穴式石室に彩色があれば装飾墓(装飾古墳)
90伊作先生:2011/06/03(金) 13:51:54.11
王都候補地は、風水でいう「背山臨水」の吉地。

北と東を山に囲まれ、左巻き台風の害が少なく、
洪水の心配がない台地の上。それが東高西低の地形。
内外の交通の便がよい大小の河川が走るところ。
それでいて、陸路海路ともに限られた要衝を抑えればる、
外からの侵攻の可能性が薄いところ。

目の前には、外海からの津波の心配が少なく、
当時の漁労水準に合った豊穣の内海がひろがる。

天然の地形・地勢に防衛構想の多くを異存していた古代において、
内外の通交・輸送の便利さと防衛構想という、
相反する要素を満足させるところは、
日本列島において熊本平野と山門盆地の2ヵ所しかない。

これまた、伊作先生独自の「王都論」であるぞ。
91伊作先生:2011/06/03(金) 14:00:51.45
王都というものは、無粋で野蛮な軍人・軍隊・軍事拠点とは一線を画し、
庶民の集落や商工業などの繁華地域からも隔絶された別世界のようなもの。
そうした別世界で、支配層独特の「都文化」が育まれる。

外国勢力(唐)の侵攻が現実になって慌てて山城を築くていたらくの太宰府など、
ただの一度たりとも王都であったことはない。
出入りの盛んな九州の玄関口を担当した官衙・政庁でしかない。
(そもそも「府」とは、中央からみた地方政庁につけるものだ)。
92伊作先生:2011/06/03(金) 14:07:08.67
>>89
>崖を墓にすれば、横穴墓
>平地に作れば、横穴式石室に土をかぶせた土饅頭
>土饅頭を大きくすれば、横穴式石室の古墳
>横穴岩盤や横穴式石室に彩色があれば装飾墓(装飾古墳)

これに、船形木棺、地面とおなじ高さに石室を設ける墓制。
文身・お歯黒・無文字文化。
みな、倭人の先人たちが長江流域からもってきた文化なわけだ。


>>90 一つ自分の投稿のていせい
日本列島において熊本平野と大和盆地の2ヵ所しかない。
93日本@名無史さん:2011/06/03(金) 14:11:07.52
よくある「ふるさとびいき」ね。
邪馬台国論はたいていこれだからな。
94日本@名無史さん:2011/06/03(金) 15:36:16.45
>>90
つまり畿内の河内の事だな。
95 忍法帖【Lv=5,xxxP】 :2011/06/03(金) 15:54:28.58
ん〜 ドンこいがたてられん。
96 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2011/06/03(金) 16:00:17.88
俺も無理だなあ
97sss:2011/06/03(金) 17:27:54.17
>>72
確かに、石人・石馬は岩戸山古墳が有名だが、熊本の江田船山古墳の周辺もかなり多く、
もっと南の八代近くの野津古墳群でも見られる。
磐井の乱の後、火の君が勢力を伸ばし、かなりの地域を支配したようなのでこれと関係あるかも。
ちなみに、火の君の本拠地は、宇土半島の付け根の城南町付近とされる。

宇土市付近も注目すべきものが多い。
女王の眠る向野田古墳もあるし。
http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/pro/kodai/mukounodakohun.html

宇土市には行った事があるのだが、この付近の古墳は、山か丘にしか見えない。どうも丘陵地を
利用して作られているらしい。向野田古墳も古墳には見えない。
未調査の天神山古墳を見たいと思ったのだが、探せなかった。
地元の人に尋ねたら、「つるじいの墓」ということで場所も教えてくれたのだが…。
98伊作先生:2011/06/03(金) 19:02:17.01
>>97
「○○の君」は皇別豪族が名乗った名だし、磐井の君も火の君も同族ですよ。
磐井の墓にも幾何学文様の装飾があったという説もあるし。

八女の山門は倭国王都への陸路の入り口で、ここを固めたのは当然熊本の勢力。
山門郡はもともと熊本文化圏ですよ。
99日本@名無史さん:2011/06/03(金) 19:20:33.62
>>97

>宇土市には行った事があるのだが
>地元の人に尋ねたら、「つるじいの墓」ということで場所も教えてくれたのだが…。


ほうほう。それで?

伊勢神宮に行って、
宮司の人や地元の人に、「天照大神は卑弥呼ですよね?」って聞いてみた?

どうして答えがすぐそこにあるのに聞かないの?
100伊作先生:2011/06/03(金) 19:21:13.65
ついでだsssさん。「ドンと来い」であなたが提示した
天照大神=卑弥呼(+台与)の根拠に対する異論をここでやろう。端折るよ

>一、女性を中心とする体制があったことを中国の歴史書、日本の記紀が裏付けている。
卑弥呼も臺與も長い扮装に困り果てた倭国首脳が合議の上にたてたリリーフ投手にすぎない。
中国の歴史書も「女性を中心とする体制」などに言及してはない。

>三、卑弥呼を日御子と考えれば、天照大神と共に、太陽に関係あることがわかる。
「卑弥呼を日御子」とはただのゴロ合わせ。卑弥呼と太陽神は関係ない。

>両者とも鏡に深い関係がある。
鏡を神宝・祭具・呪具とする精神性は中国由来のもので、
この場合の鏡は太陽とは無関係。 つづく
101伊作先生:2011/06/03(金) 20:03:11.63
>四、岩戸に隠れる前の天照大神は一貫して素戔鳴尊に苦しめられる。
>一方で、卑弥呼は狗奴国との争いに苦しめられる。
だから。卑弥弓呼を素戔鳴尊に比定するならば卑弥呼=天照大神説もいいが、
これをいわないところが男らしくない。卑弥呼と卑弥弓呼を兄弟としたくないのか。

>五、天照大神が岩戸に隠れると、高天原は真っ暗に成り、卑弥呼が死ぬと、
>跡継ぎをめぐって千人あまりが殺される。
>六、天照大神が岩戸を出ると、高天原は元のように明るくなり、
>台与が王になると国中が定まる。
手アカにまみれストーリー合わせ。
ではなぜ、卑弥弓呼と素戔鳴尊のストーリー合わせをしないのか。
102伊作先生:2011/06/03(金) 20:04:51.48
天照大神は3兄弟。
卑弥呼と卑弥弓呼が兄弟であることを主張するために卑弥呼を天照大神に、
卑弥弓呼を素戔鳴尊に、卑弥呼の政治を手伝っていたという目立たない弟をツキヨミに、
こう比定するのなら手法としても分かる。
だが、卑弥呼と卑弥弓呼が兄弟であることにしたくないために、
卑弥呼を天照大神に比定して卑弥弓呼を素戔鳴尊に比定しないのは、
論として片手落ち、ただの願望論で意味がない。

卑弥呼を天照大神にするのなら卑弥弓呼を素戔鳴尊に比定して、
卑弥呼と卑弥弓呼が兄弟であるとして倭国の歴史を語ってほしいね。
私は卑弥呼と卑弥弓呼を兄弟もしくは血縁縁者の可能性が高いと見ているが。
103日本@名無史さん:2011/06/03(金) 20:15:06.63
伊作先生が、卑弥呼と卑弥弓呼が兄弟(姉弟)であるとして倭国の歴史を語ってくれるそうだ。

先生、よろしくお願いします。
104伊作先生:2011/06/03(金) 20:33:16.41
>>103
そういうのを、「意味のない揚げ足切り返し」というのだ。
話の筋というもの見極めていえ。この野郎。
105日本@名無史さん:2011/06/03(金) 20:36:45.26
ていのいいオモチャだわな
106日本@名無史さん:2011/06/03(金) 20:39:42.03
>>104
卑弥呼と卑弥弓呼が血縁であることが、大和王権成立の重要要素と考えてるわけだろ?

そうでなければ、ただ名前が似てるだけで血縁だと思ったという程度の話になってしまうが。
107神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/03(金) 20:42:27.58
       ノ´⌒ヽ,,          ,. 、       /  ./
   γ⌒´      ヽ,       ,.〃´ヾ.、  /  /
  // ""⌒⌒\  )    / |l     ',
  i /   ⌒  ⌒ ヽ )   r'´   ||--‐r、 ',   伊作はペテン師だ!
  !゙   (・ )` ´( ・) i..,..ィ'´    l',  '.j '.
  |     (__人_)r '´         ',.r '´ !|  \
  \    `ー' l!     ....:.:.:.:.:.:ヽ、   ,l    \
  /       ゝ、.,_ ---‐‐‐----ゝ、ノ
 /         (  ミ
 |   \    ,r'´ i
108日本@名無史さん:2011/06/03(金) 20:55:04.76
>伊
>字源
> 会意形声
> 「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。

http://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8A 

当て字に邪・卑・狗が使われる中で、なぜ伊都国には侮蔑文字が使われてないのか、これでわかりましたよね?
当て字ではなく表意してたわけです。

唐津から古街道を通って500里(200km)のところで、大きな宗教的意味を持ってるところってどこでしょうか?
宇佐から瀬戸内海の南側を四国に沿って沿岸航行で行った後、明石海峡経由でで奈良盆地に入ると何里くらいになるでしょうか?
109筑紫の民:2011/06/03(金) 21:17:42.99
こんばんは、伊作先生回答ありがとうございます。
東遷の目的・時期参考にさせていただきます。

私も、東遷の時期については多少意見を持っているのですが
よろしいでしょうか?>>>伊作先生
110日本@名無史さん:2011/06/03(金) 21:26:26.24
筑紫(つくし)の名は「津(港のこと 今でいう博多湾)の出入り口」という意味で
「つくち」が訛って「つくし」のなったと思う。
津=博多湾ということになります。
なぜかというと筑後平野へ出るには、有明海に向って流れる川が
大宰府を通り、筑紫野を過ぎると筑後川が有明海に向って流れているので、
邪馬台国へ向うのに都合がいいのです。(山門方面)
唐津からだと、川の流れがみな唐津湾に向って流れているので筑後平野に出るには
不都合なのです。方角も南でピッタリ中国史書と合致します。
111筑紫の民:2011/06/03(金) 21:30:01.55
大仙古墳について
大林組調べ>>日あたりピーク時に2000人を動員したとして、
延べ6、807,000人、工期は15年8ヶ月、総工事費796億円になるという。
これに対し
日本書紀にある水城・大野城・基肄城の築城に1年
これは比定できません。

となれば、水城・大野城・基肄城の築城の目的・時期について
最高の必要があると思います。
112筑紫の民:2011/06/03(金) 21:35:19.92
では、水城・大野城・基肄城の築城の目的は・・・
私は、対隋の目的をもって築造されたものと思います。
その、対隋を意識したのは阿毎多利思比孤と考えます。
その阿毎多利思比孤が、太宰府の防衛強化を実施しつつ
東遷を進めたのかと思います。
113筑紫の民:2011/06/03(金) 21:44:25.06
倭王「武」の上表文の一部
「昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、
安んじる日もなく……」
つまり、伊作先生の王都の生活とほど遠い遠征に次ぐ遠征の生活です。
王は最前線で自ら指揮して国土を広げている状況であり
その指揮する場所として、「太宰府」は適時の場所といえるのではないか
と思います。
この時代は、南朝「宋」と懇意にしている時代なので北部九州で指揮を
執ったのかと思います。
その後、隋の時代に脅威を感じ逐次東遷準備を開始し、7世紀初めころ
までに完了したのかと考えます。
114日本@名無史さん:2011/06/03(金) 21:45:59.38
>>110
太宰府は御笠川の源流で、福岡側に向かいます。

分水嶺がやや南の朝倉街道、JR天拝山駅付近にあるので、
そこから先の宝満川に乗るまでは
歩かなければならないでしょう。

どこかで大規模運河の話も読んだことはありますが、
標高がそれなりにあるので、
難しいのではないかと思います。
115日本@名無史さん:2011/06/03(金) 21:48:48.70
太宰府は後の時代の話しで、この時代の西国平定の拠点は宇佐です。
116筑紫の民:2011/06/03(金) 21:51:52.24
「太宰府」は、「大和」の出先機関としてはその防衛施設が巨大すぎます。
また、「大和」を直接防衛するためには九州における位置がおかしい・・・
たとえば戦国時代、薩摩勢に抵抗し豊臣勢力を待つ大友勢は立花山に主力を
おいて防御しています。反対の太宰府で防御とは・・・

ここは、結論を出すのは待つべきかと考えます。
117日本@名無史さん:2011/06/03(金) 21:54:52.08
随書には倭王が大国惟新の化を聞かせて欲しいといっているので、これから
統一に向う意気込みが感じられる。
隋書の秦王国は竹斯(つくし)国の東で九州ですから、
この国が東遷したかもしれませんね。
118日本@名無史さん:2011/06/03(金) 21:58:12.82
>>114
津に上陸してから陸行きで五百里東南に進みますから、
これは歩いて行ったと思われます。ちょうど大宰府のあたりに到達しますから、
歩く行程はかなりあっての上のことです。
唐津からよりはずっと合理的です。
119神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/03(金) 21:58:22.92
         ノ´⌒`ヽ 
      γ⌒´      \ キリッ
     .// ""´ ⌒\  )   
     .i /  \  /  i )     東遷はなかった!
      i   (・ )` ´( ・) i,/     ウソをついてはいけない!
     l    (__人_).  |      
     \    `ー'   /       
.      /^〜" ̄, ̄ ̄〆⌒,ニつ 
      |  ,___゙___、rヾイソ⊃
     |            `l ̄
120卑彌呼の都は久留米:2011/06/03(金) 21:59:55.60
テンテルダイジンは倭奴國より遥か以前の女王である。

神武は倭王帥升の時代。

ちなみに、崇神は卑彌呼と同時代。
121筑紫の民:2011/06/03(金) 22:00:45.45
九州勢のみなさん
「大和の揺籃邪馬台国」よみましたか?
竹を割ったようなさっぱり理路整然とした文書、
素人にもわかりやすい内容、おかげで古代が近く感じられます。
わたしが最もびっくりしたのは建軍神社とその周辺のことが・・・
みんな是非読んで、そして議論しようね。
122筑紫の民:2011/06/03(金) 22:17:56.16
しかしながら・・・・・Hホークス負けてしまった・・・
大坂人さん、悔しいけど・・おめでとうございますばい
123日本@名無史さん:2011/06/03(金) 22:19:57.19
>>121
>竹を割ったようなさっぱり理路整然とした文書、
>素人にもわかりやすい内容、おかげで古代が近く感じられます。

そこがジレンマなんだよな。
素人にもわかりやすく歴史を語ろうとすると、どうしてもウソが混じる。
話が飛躍する。強引に結論を提示する。
たとえ根拠が脆弱でも、読者が、その結論を求めている場合、問題視されない。

一方、素人にはわかりにくい、完結には説明できない、話は込み入っている。
結論に至るまで、地道に根拠を積み重ねていく、そういう論文は、
それがたとえ真実であろうと、読者はついてこない。
結論が、読者の望むものでなければ、なおさら読んではくれない。

研究者は、読者のことは気にしなくて良いというスタンスでOKだし、
それでもわかりやすく歴史の真実を伝えようとする努力はすべきだと思うが、
わかりやすく、ということは、どこかで読者のレベルに合わせて結論を急いでウソをつくということになる。
論文というのは難しいな。

124日本@名無史さん:2011/06/03(金) 22:27:19.20
解り易くてウソがないのが一番いい。
解りにくくてウソがあるのが一番悪い。
解りにくくてウソがあるのは、ウソを見抜くのが難しいので、
だまされ易い。論文というのは難しいなー。
125筑紫の民:2011/06/03(金) 22:32:19.64
戦国時代の九州勢の戦いは本州に比して血みどろだし平気で町を焼くし
時期(農繁期)関係なく戦っている。
近代軍を編成する時九州の部隊は他の地方部隊に比し精強であった。
「九州男児」この源流は古代にあると見た。
126卑彌呼の都は久留米:2011/06/03(金) 22:38:25.29
東遷の時期
@第一次東遷 663年白村江敗戦 天智 
A第二次東遷 671年唐軍進駐 天武


神武は、倭面土國帥升との戦いに敗れた倭奴國の敗残難民集団の一派。107年
127sss:2011/06/03(金) 22:41:02.07
>>100
まず、卑弥呼が女王になった経緯は特に関係ないと思う。

倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」。
これは、跡継ぎに対する不満からの争い、女王の共立、倭国の安定という台与のケースが良く似ているので、
卑弥呼の場合も同じように、跡継ぎ争いが倭国の大乱と考えられ、卑弥呼が女王になることにより乱は収まる、
というケースを考えるのが妥当。

したがって、卑弥呼は帥升から続く王統に乗っていると思う。まあ、それは置いといて、

結果的に、卑弥呼は60年も70年も女王として君臨し、西暦266年に晋に遣使した台与の時代と合わせると
100年ほども女王の時代が続いたと考えられる。
これほど長期間の女王時代が、人々の記憶に残っていないとは考えにくく、それが伝承を経て天照大神として
結実したと考えられる、ということ。

天照大神が太陽神として捉えられていたのは、名前からも妥当だと思う。卑弥呼という名は、恐らく尊称だと思われるし、
「ヒノミコ」から来たと考えてもおかしくない。単なる語呂合わせといえなくもないが、日御子から天照大神が
生まれたのではないかと思う。

太陽と鏡を特に結びつけたわけではなく、記紀では、天照大神が岩戸から出るときに鏡が重要な役割を果たしていること。
卑弥呼は、魏から百枚の鏡をもらっていることなど、共に鏡に縁があるということ。
128日本@名無史さん:2011/06/03(金) 22:41:26.64
「九州に邪馬台国があって、東遷して、大和王権になった」

これが、真実なら、論文を書くのに誰も苦労しないだろう。
実に明快で弁舌さわやか、読者もみんな納得しする。
論文を本にすれば売り上げも期待できるだろう。

だが、学者というのは、もっとストイックだ。
「九州に邪馬台国は無く、東遷も無く、もっと違ったプロセスで大和王権は登場した」ということを、
考古資料が示している以上、読者に良い顔をして東遷説を吹聴することなどできない。
多くの素人読者から、論を拒絶されようとも、素人を相手に研究しているわけではないのだ。
しかし、いずれにしても、学問は素人に教え広めることで完結するものであるから、
素人に、わかりやすく、素人には受け入れ難い話しをしなければならない。
とても困難な作業だ。しかし、誰かがやらねばならない。


129卑彌呼の都は久留米:2011/06/03(金) 22:47:42.42
>筑紫(つくし)の名は「津(港のこと 今でいう博多湾)の出入り口」という意味で
>「つくち」が訛って「つくし」のなったと思う。

「筑紫」は、「つくし」ではなく、「ちくし」である。

現代現地音:ちくし
過去の表記例;竹斯、筑志
130筑紫の民:2011/06/03(金) 22:49:53.11
なにが、「学者というのは、もっとストイックだ。」だ。ですよ
ストイックなら「太宰府もっと深く掘れ、そして「親魏倭王の封泥見つけろ」
ですよ。
ストイックな考古学が、大野城に「礎石」があって、同時期の防衛される側の太宰府政庁が
掘立建柱であったとわけわからんこと言ってるんだよ。
おい、九歴、お前ら本当に研究者か?
131筑紫の民:2011/06/03(金) 22:53:25.27
ごめんなさい。取り乱しました。もう寝ます。
132日本@名無史さん:2011/06/03(金) 22:54:46.91
考古資料はまだまだ、結論だすには早急すぎる。
考古資料が示しているなどとのたまうのは百年早いですよ。
もっともっと掘り進めないと。
都合の悪いものには蓋しないでね。
学者ってひねくれ者だね、東遷がなかったとして
論を進めてしまうつもりなんだね。
そんな作業はどんなアホでもできます。
なんでも都合の悪いものは
詭弁でごまかしたり、無視したり。
難しいことを書けば、ウソはわかりにくいから、
難しい専門用語せっせと使って、ウソをごまかそうとしているんじゃないの?
133sss:2011/06/03(金) 22:55:56.40
>>128
考古資料は何も語らない。
例えば、纏向から各地の土器が出てきた。これは事実かもしれないが、考古学者として言えることは
その事実だけ。
考古学者が、考古学的な事実を元に歴史学的なことを語ると、戦国時代の覇権争いを土器で語るような
荒唐無稽なことになってしまう。
134日本@名無史さん:2011/06/03(金) 22:57:44.94
「九州に邪馬台国があって、東遷して、大和王権になった」

加えて、

「卑弥呼は天照大神のモデルで、神武東征は邪馬台国東遷のことで、神武と崇神は同一で、間の8人の天皇は架空だ。その他の神話は史実の繁栄だ。」

という、歴史を提示できたら、こんなに楽なことはない。
小学生にでも歴史の授業で簡単に教えられる話しだ。
神話を読み聞かせるのも、ただの御伽噺ということでなく、史実を絡めて話せるから教育的だ。

だが、やはり現実はそんなに甘くは無い。

神話は史実を含んでいるとは言えず、卑弥呼は天照大神でなく、神代の記述は7世紀の創作であるということを、
丁寧に、素人に読み聞かせるというのは難しい問題だ。
読者に、いちいち神話は創作だと付け加えながら、神話の話をし、
読者に、いちいち卑弥呼は天照大神ではないと付け加えながら邪馬台国の話をし、
読者に、いちいち、神武東征と邪馬台国東遷は関係無いと話しをすることの、つまらなさったらない。
そんな話しなど読者は望んでない。

だからといって、

「卑弥呼は天照大神のモデルで、神武東征は邪馬台国東遷のことで、神武と崇神は同一で、間の8人の天皇は架空だ。その他の神話は史実の繁栄だ。」

などという安易な話しができるほど、無責任にはなれない。
135日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:03:46.38
現代音のちくしは
筑紫の漢字よみを正しくしたからではないの。
筑紫野市はつくしの市と読みますね?違います?
136卑彌呼の都は久留米:2011/06/03(金) 23:06:07.90
  
大野城が大宰府防衛に役立つことはなかった。

798年、文武軍が大宰府に攻め込んだ時、
大宰府は、もぬけの殻だった。
大宰府は、九州王朝の帝「薩末比売」が既に薩摩に遷都した後だった。
137日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:08:43.86
ローガン氏が九州説を応援する気になったのは、
どういう心境からかは、おしはかれないが、
畿内説を語ることのなにかしらのジレンマを感じていたんじゃないかね?

思えば、この数十年で、ネス湖のネッシーは消え、宇宙人は消え、幽霊は消え、超能力は消え、
あらゆるオカルトは消えた。
科学の勝利とはいえ、つまらない世の中になったのも事実だろう。
この上、邪馬台国九州説も消えてしまったら?
という危惧は、多少なりとも感じるところはあるが。さりとて。

138日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:09:14.92
おおきなおせわだ。
139日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:11:33.04
水城は、この下に古水城の遺構が発見されています。
c14で、5世紀、遅くても6世紀初頭には
水城は存在しているようです。

神籠石も4世紀以前といわれますが、それほど
遅くない時代に水城の建設も始まっていたようです。
140筑紫の民の子:2011/06/03(金) 23:14:56.49
>>139
もっと詳しく
141卑彌呼の都は久留米:2011/06/03(金) 23:16:08.95
>>135
現代では地名の改竄が行われています。

筑紫野市は、畿内音「尽くし」に従った読み方です。
「尽くし」は「ちくし」の蔑称
ダザイフ市も最近「大宰府」から「太宰府」と畿内風表記に改竄されました。
142日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:16:40.35
神話など小学生に話してもなんの役にも立ちませんよ。
戦って勝ったり負けたり、だましたりだまされたりの話ばかり。
ちっとも道徳的ではない。
143日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:19:21.61
歴史観の本質ってなんだろう?

なぜ人は、ロマンをもとめて、現実から目をそむけようとするのか?
義経=ジンギスカンなどという説が流布されるのか?

息苦しい世の中で人が生きていくためには、ロマンが必要なのかもしれないな。
だが、学問とロマンを混同するのも、ほどほどにしないとな。
144日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:20:49.92
浪漫と妄想の九州説(笑)
145最木場:2011/06/03(金) 23:22:41.49
>>144
君の居場所ではない。やまどんに帰ろうよ。
146日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:23:03.67
人生にはちょっとした嘘が必要なのさ
147sss:2011/06/03(金) 23:23:14.30
>>101
天照大神と素戔鳴尊は、記紀では姉弟となっているけれども、実際にそうだったかは疑問で、
神話的な色彩が残っている中で、二人の関係を姉弟にしてしまったのではないか。
あまりうまくは言えませんが、それ以前が、イザナギ・イザナミの世界なので
そうせざるを得なかったとも言える。

したがって、卑弥呼と卑弥弓呼の関係についてはそれほど気にはしてません。

倭人伝は、紀行文書、報告文書をまとめたようなもので、要するに伝聞の色彩が濃い。
記紀の天照大神は、年代の脚色を受けている。ストーリーがある程度合っていることで
満足すべきで、完璧な一致を求めるのは、まず不可能。

批判するのなら、その人の代替案との比較で批判をすべきだと思う。
148日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:25:11.41
今はちくしと読んでも、昔はつくしに近かったかもしれませんよ。
竹は中国の現代音はチューなので、ツにも近いです。
くしは口のことで、確かうろおぼえですが、古代韓国語も
くしは口の意味であったとか。
149日本@名無史さん:2011/06/03(金) 23:28:59.93
水城について

水城で発掘された木樋では、つなぎあわせた跡や、関係ない穴が開いている
再利用材が多数発掘されている。

水城西門付近から、内部にもう一つ水城が発掘されている。この上にかぶせるように造成したのが
今の水城と思われる。
水城の下に古い遺構があるのは現地では常識であり、古水城と呼ばれている。

発掘された木材のC14炭素年代砲での測定値の一つ 430年前後、後に100年修正され
6世紀初頭とされた。が、事実がどっちなのかは自分にはわからない。

150最木場 :2011/06/03(金) 23:29:13.05
嘘で塗り固めた九州説(笑)
151最木場:2011/06/03(金) 23:31:10.92
>>150
お前の居場所は やまどんだって
早く帰れ
152ローガン:2011/06/03(金) 23:33:12.40
>>137

判官贔屓と理解下さい。
153日本@名無史さん:2011/06/04(土) 00:00:18.42
>>149
>発掘された木材のC14炭素年代砲での測定値の一つ 430年前後、後に100年修正され
>6世紀初頭とされた。が、事実がどっちなのかは自分にはわからない。

補足
ぐぐったら、最新のC14 補正曲線に当てはめると440年となるらしい。
また、発掘されたと書いたが、太宰府観世音寺に保管されていた遺構材
ということのようである。

この話はよく引用されているので、この話は割と簡単に出てくるようである。
154筑紫の民の子:2011/06/04(土) 00:02:44.98
さあ、真実に突き進もうぜ
155日本@名無史さん:2011/06/04(土) 00:33:30.46
どのみち三世紀の邪馬台国には関係がないな
156日本@名無史さん:2011/06/04(土) 01:48:19.80
>>152

なんだ。実社会で負け組みになったのかい?
157日本@名無史さん:2011/06/04(土) 02:18:55.88
>>156

通常ルサンチマンと判官贔屓は別物だが・・・
158日本@名無史さん:2011/06/04(土) 02:22:30.92
サンマルチノ?
159日本@名無史さん:2011/06/04(土) 02:51:58.88
サンタルチアはナポリの守護聖人
160卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 05:06:22.42
>>148
>竹は中国の現代音はチューなので、ツにも近いです。

現代中国語は古代中国語とは全く異なる言語です。
現代中国語の音は参考にできません。

隋書イ妥國傳
韓国の「珍島(チンド)」は「竹島」と表記されています。
ですからイ妥國の「竹斯」は「チクシ」と推定できます。

現代現地音「チクシ」が古来使われてきた正しい音となります。
161日本@名無史さん:2011/06/04(土) 08:25:32.60
>>160
チとツは近いですから、そうはっきりと言い切ることはできないと思いますよ。
162日本@名無史さん:2011/06/04(土) 08:30:16.93
太宰府が守りに弱い都市であるのは自明だが、
少なくとも5世紀には、水城の建造など、
多大なコストをかけるだけの価値のある都市として
認識されていたといえるだろう。
163日本@名無史さん:2011/06/04(土) 10:16:59.40
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)にから侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ?)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた王なのではないか
自身の事跡を誇るために海から見える場所にあのような大きな墓を作らせたのではないのか
164日本@名無史さん:2011/06/04(土) 10:33:40.33
>>160
>韓国の「珍島(チンド)」は「竹島」と表記されています。

現代中国語の音が参考にならないのと同じくらい、
現代韓国語の音も3世紀の半島の言語の音の参考にはならないと思うよ。
165卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 10:43:20.42
>>163
>大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた王なのではないか

九州から畿内にやって来た為政者
神武・・・畿内の為政者と言うより大和盆地の豪族程度
応神
欽明
天智
天武

応神・・・応神が九州から直接やって来たのではない。
      応神の何代か前(倭國乱の頃)が、阿波経由で、和泉に入り豪族となった。
166卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 11:07:28.83
>>164
> 現代中国語の音が参考にならないのと同じくらい、
>現代韓国語の音も3世紀の半島の言語の音の参考にはならないと思うよ。

珍島は元寇の前に三別抄がたてこもりモンゴルに抵抗した島。
チント(珍島)は13世紀に既にあった地名で、現代韓国語に残ったもの。
167日本@名無史さん:2011/06/04(土) 11:12:05.12
3世紀の話が13世紀の話になっとる。
168日本@名無史さん:2011/06/04(土) 13:14:51.75
万葉集では筑紫或いは竹斯 を都久志(つくし)と表記しているそうです。
なんでも古い時代はつくしと言っていたそうな。
169日本@名無史さん:2011/06/04(土) 13:42:32.74
やはり、国土の尽きるところだから「つくし」なんだな。
170卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 13:55:37.41
>>168
>万葉集では筑紫或いは竹斯 を都久志(つくし)と表記しているそうです。

万葉集は畿内文書ですから、「ちくし」の蔑称「つくし(尽くし)」を使うのです。
万葉集では九州王朝の痕跡を消すように編集されています。詠み人知らずの歌等
171日本@名無史さん:2011/06/04(土) 14:03:24.09
久しく倭国の都があるので
172日本@名無史さん:2011/06/04(土) 14:06:55.31
>>170
万葉集はかつてそこに住んでいいたことのあるひとが歌を読んだものが
多い。貴人たちはつくしと呼び、地元人はそれをちくしにしたのかもしれません。
つくしが尽くしに繋がり蔑称だと思われるのもその一つだと思います。
つくしは尽くしではなく津の口が元だと思います。
173日本@名無史さん:2011/06/04(土) 14:38:04.16
「つくし」が蔑称なら、なんで天津祝詞で「つくしのひむかのたちばなの」って言うの。
三貴神が生れたところでしょう。
174日本@名無史さん:2011/06/04(土) 16:48:45.44
>>173
>三貴神が生れたところでしょう。

日本書紀では、イザナギが九州で禊をして、右目や左目から三貴神が生れたとあるが、
この神話は、中国からの借用。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A4%E5%8F%A4
>斉(4世紀後半)のとき書かれた『述異記』によると、天地が形作られたあと盤古は亡くなり、
>その死体から万物が生成されたと伝えられている。
>例えば盤古の左目からは太陽が、右目からは月が、頭と体からは中国の神聖な山である五岳(泰山など)がうまれたという具合である
>(こうした神話の類似から、『リグ・ヴェーダ』の原始巨人プルシャが伝播したものだ、という学説もある)。

中国から伝播した説話を神話に取り込んだということは、
日本古来にアマテラス、スサノオ、ツクヨミを合わせて三貴神とする概念が無かったことを意味する。
もちろん、史実とは何の関係も無い。
175日本@名無史さん:2011/06/04(土) 17:34:59.35
なんか好き放題いってる奴がいるが
筑紫の地名の根源地は筑紫野市の筑紫
延喜式内社の筑紫神社が鎮座している
176日本@名無史さん:2011/06/04(土) 17:50:33.19
>>175
論拠は何?
177日本@名無史さん:2011/06/04(土) 18:30:41.45
>>174
三貴神の起源がどうあれ、古事記で三貴神の生れた場所として「つくし」と言っている以上、
>万葉集は畿内文書ですから、「ちくし」の蔑称「つくし(尽くし)」を使うのです。
というのはありえない。
178日本@名無史さん:2011/06/04(土) 18:32:37.82
そもそも、アマテラスとスサノオをペアにしたのは、
3世紀よりずっと後のこと。

スサノオは馬をさかはぎしてアマテラスを困らせたと日本書紀に明記してある。
これは、馬の文化が伝わった後のことで、
魏志倭人伝に、倭国に馬がいないと明記してある以上、
アマテラスとスサノオの逸話も、馬が伝来してきたずっと後と考えるべきものなのである。

179日本@名無史さん:2011/06/04(土) 18:49:38.40
>>178
アマテラスとスサノオの神話があって、
馬が入ってきてから馬のエピソードが付加された、
あるいは別の動物の皮を剥いだ話が馬に置き換わった、
という可能性は考慮せんのかなあ。
180日本@名無史さん:2011/06/04(土) 18:51:46.00
>>179

それなら、アマテラスが宇宙人だったという可能性も考慮して欲しいものだな。
181ローガン:2011/06/04(土) 18:54:31.92
前スレの悪魔の証明の続き。
>>941
>「〜と同じ」という文は、
その同じとなる相手を記述しなければ意味を成さないのでは?
>>946
「同律度量」を「漢代の律度量と同じにする」と読むべく、いかなる経緯が記されてる?

お題はこれ「献帝伝曰〜今朕承帝王之緒,其以延康元年為?初元年,議改正朔,易服色,殊徽号,同律度量,承土行,大赦天下;自殊死以下,諸不当得赦,皆赦除之.」
漢と正朔を変える。
漢と服の色を変える。
漢と称号を殊にする。 としか読めない。 ゆえに、
漢と度量を同じくする。である。
又、二日前のスケジュールの上奏に群官に議論させるのは、正朔と服色とあり、度量衡についてではない。
ちくま本は、「音律度量を統一し」と訳しているが統一自体は既に新莽嘉量でなされている。
統一自体が崩れるのは南北朝からであろう。もっとも市場における商人等の利益に絡む多少の乱れはあるだろうが。
ちくま訳はおそらく、嘉量銘を引いたものではないだろうかと思う。
いずれにせよ、6倍もの違う度が共存した史料など無い。太国倍年でも3倍までだろう? 短里など無い。 以上。
182日本@名無史さん:2011/06/04(土) 20:23:58.99
無いから無いんだというだけの論理のような。
183日本@名無史さん:2011/06/04(土) 20:34:33.14
周髀算経の話も興味深いけど、里がどのように定められたか書いたものじゃないからなあ。
尺と里の対応関係がおかしくなるので、何らかの勘違いや間違いがあったと結論する事も可能だし。
184日本@名無史さん:2011/06/04(土) 21:04:41.91
ぶっちゃけ台湾だろ。
地理的に見て正しい。
185日本@名無史さん:2011/06/04(土) 21:12:14.33
>>181
その三倍が正解だと思います。
以前、貴方は「方」は「周」の意味もあると、とんでもないいい加減な
説を言いましたよね。
例の古墳の件をもう一度検証してみると
光武原陵 山方三百二十三歩高六丈六尺

方というのは一方という意味で一は省略されています。
一歩を三分の一の50センチとすれば、周囲の長さは644メートル。
一歩を少なめに40センチとすれば周囲の長さは500メートル。
ほぼ実物の周囲に近いでしょう?確か470〜480メートル位でしたよね。
計り方で、四辺の誤差はかなり大きいですし、計った場所が内回りか外周りかで違って
きますし。時代とともに形が少し変化したかもしれませんし。
ですから三分の一でほぼ合っています。
これなら、「方」は「周」の意味もあるなどととんでもないことを
言わずにすみますから。
186日本@名無史さん:2011/06/04(土) 21:15:45.42
ほう
187卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 21:16:19.46
>>177@
>>175A
>>173B
>>172C
C貴人は畿内人
B畿内朝廷が8世紀に全国神社(特に九州に対して)に対して粛清をしているから、
 其処の祝詞は畿内文書に変えさせられている。
 粛清の証拠は神社の公式の始まりが8世紀以降になっていること。
A延喜式は畿内文書
@古事記は畿内文書
188日本@名無史さん:2011/06/04(土) 21:27:46.90
じゃあ、九州文書での論証に期待してるよ。
189日本@名無史さん:2011/06/04(土) 21:28:28.44

畿内文書wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


190日本@名無史さん:2011/06/04(土) 21:32:53.97
>畿内文書
すげーw
191卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 21:48:28.31

>>183
「里歩」と「丈尺寸」は別の単位体系
唐代に1歩=6尺と定められるまでは、両者に換算率があるとすればその王朝によって異なる。

「歩里」は統治の為の長さ基準
「丈尺寸」は統治の為の長さ基準ではない、身の回りの長さ基準
192日本@名無史さん:2011/06/04(土) 21:49:33.70
畿内文書とか言われると、一気に記紀がうさんくさくなるwwwwwwwwww


神武東征wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

wwwwwwwwwwwwwwwwww


193卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 21:55:26.73
>>188
九州文書は断片的にしか存在しない。
これは畿内朝廷による焚書の為
194どくだみ:2011/06/04(土) 21:56:30.24
>>185
>一歩を三分の一の50センチとすれば、周囲の長さは644メートル。
>一歩を少なめに40センチとすれば周囲の長さは500メートル。
>ほぼ実物の周囲に近いでしょう?確か470〜480メートル位でしたよね。

これは、通説の一歩=1.4472メートルではなくて、その三分の一程度の
一歩=40〜50センチが用いられていたという事ですか?
195日本@名無史さん:2011/06/04(土) 22:13:52.89
>>194
そうです、所謂長里の三分の一です。
足を右左それぞれ一つ前に出して一歩ですから、足裏2つ分と考えました。
196どくだみ:2011/06/04(土) 22:24:15.02
>>195
一歩六尺とする限り、それは無いと思いますよ。
高さ六丈六尺は、通説の一尺24.12センチで計算すると、およそ15.9メートル。
光武帝の原陵の高さは17.83メートルと紹介されているから、ほぼ合います。
長さを三分の一にすると高さ六丈六尺は5メートル程度になって低すぎます。
航空写真で見ると陵の周囲はかなり耕地になっていて原形をとどめていないようなので、
現在の周囲の長さが即「山方三百二十三歩」に合致するかどうかは判断がつきかねます。
しかし、陵の高さは、時代とともに低くはなっても高くはなりません。
六丈六尺を5メートルにしてしまうと、どこかで現在の17.83メートルまで
12メートルほど盛り土をしたことになっておかしいので、やはり三分の一はないと思います。
とすると、「山方三百二十三歩」は、現在の周囲ではなくて、もっと広い陵域を計測したのでしょう。
197日本@名無史さん:2011/06/04(土) 22:27:17.17
畿内文書?ダーメだこりゃw
198日本@名無史さん:2011/06/04(土) 22:29:33.49
>>196
何か勘違いされていると思いますが、高さは尺ですから、そのままでいいのです。
ところが歩は長里では6尺ですから、その三分の一ではないかと
言っているのです。
199日本@名無史さん:2011/06/04(土) 22:31:29.26
>>187
畿内人は天照大神を皇祖神としてあがめてるんじゃないの。
畿内人が畿内文書で皇祖神の誕生場所を蔑称で書くって矛盾してる。
200どくだみ:2011/06/04(土) 22:33:48.69
>>198
尺はそのままで、歩が三分の一になるということは、一歩=二尺だということですか。
201筑紫の民:2011/06/04(土) 22:34:13.24
太宰府のある二日市隘路は、攻撃するには狭すぎて防御側に有利な地形です。
両側を山で機動を制限され中央は制高点が乏しい防御側に有利な地形です。
だから此処に大宰府があったし、戦国時代岩屋城で激闘したりの連続だったのです。
倭の五王や阿毎多利思比孤が指揮を執った場所としてふさわしい場所です。
202日本@名無史さん:2011/06/04(土) 22:43:25.28
>>200
何か本当に勘違いしているのではないですか?
基礎からやらないとだめなんじゃないですか?

何から説明していいかよくわかりませんが、尺の長さを問題にしているのでは
なく歩の長さを問題にしているのです。
ですから、所謂長里、短里の問題が起こってきたわけですから。
203どくだみ:2011/06/04(土) 22:50:02.08
>>202
例えば時間と長さの単位なら比べようはありませんが、
尺も歩もどちらも長さの単位です。
だから、両者は換算できます。
通説では一歩六尺です。
尺はそのまま、歩は三分の一なら、この換算が一歩二尺に変わると言う事です。
お金に例えれば、一ドル=六円のところ、ドルの価値が三分の一なら一ドル=二円です。
なにか違いますか?
204筑紫の民:2011/06/04(土) 22:55:04.08
伊作先生、私は以上の考えで東遷は6世紀以降と見積っています。
ただし、邪馬台国(神技倭王の王都)は「大和の揺籃邪馬台国」であると
信じています。
伊作先生、ご回答を
205筑紫の民:2011/06/04(土) 22:56:24.90
神技倭王(誤り)→親魏倭王
ごめんなちゃい
206日本@名無史さん:2011/06/04(土) 22:59:23.05
わたしのいう歩は身体尺です。足裏2つ分と書きましたよね。
それが尺にしてみれば2尺分に近いということだけです。
そもそも一歩が六尺というのも、大またで歩いて計って
それが六尺分にあたるということなのですよ。
尺はいじってはいけません。
207卑彌呼の都は久留米:2011/06/04(土) 23:11:51.46
208キンガン:2011/06/04(土) 23:23:30.87
>>181
前スレ944>いいや、問題なんか無い。そこに至る経緯はその詔勅の記述までに書いてあるから。そして、暦についても上で書いた通り。

今回>又、二日前のスケジュールの上奏に群官に議論させるのは、正朔と服色とあり、度量衡についてではない。

何言ってんのか分かんないけど。
魏が漢代の度量衡を引き続き使用すると読む、どのような理由(経緯)が、それまでに書かれているか聞いてるんだけど。

>ちくま本は、「音律度量を統一し」と訳しているが統一自体は既に新莽嘉量でなされている。
>統一自体が崩れるのは南北朝からであろう。もっとも市場における商人等の利益に絡む多少の乱れはあるだろうが。

以上は貴方の推測で、『献帝伝』にそのような経緯は書かれていないと思うが。

漢代の度量衡をそのまま引き継ぐのに、議論せよと指示するのかね?
ひょっとすると、本来は王朝交代時に度量衡は変更するのだが、今回は同じにしようっていう読み?

暦に関しては、僕「も」誤読していたようだ。
前スレ924
イ>で、結局
イ>「黄初元年十一月・・・行漢正朔・・・」
イ>暦を改めることはなかったの。
と書いたが前後を読むと、「行漢正朔」は山陽公(献帝)に与えられた特権だ。
魏は「漢の正朔」を改めてないといった人は、所引『魏書』が夏正を用いたと記していることを根拠にしてたんだな。
誤読を認め、ここに訂正する。
209伊作先生:2011/06/04(土) 23:30:15.94
>>201
「府」とは、あくまでも中央(朝廷)からみた地方政庁の呼称です。
磐井の反乱に懲りた朝廷は、地盤・金盤なしの役人に九州の管理を任せます。
役人ならば、不穏な動きがあれば首をすげ替えれば済みますからね。
それでも安心できなかったとみえて、のちには親王を長官に据えます。

五王と阿毎多利思比孤が九州の王だったというスタンスですかね。
古田某の九州王朝説など「反逆者の暴論」とういう表現がぴったりでしょう。
これとの折衷ですか。
くり返しますが私の場合、
装飾古墳の展開する時期と東遷時期は関連していると見ています。
それから『隋書』の筆跡にみるかぎり、多利思北孤(たりしほこ)です。

たったこれだけ書き込むのに、「長過ぎます」といって受け付けない。
どなってるかんだ2ちゃんタコ。
210どくだみ:2011/06/04(土) 23:47:17.48
>>206
僕は尺はまったくいじってませんよ。

>>207
せっかく貼ってくれたので、一応読んでからレスしましょう。何時になるかわからないけど。
211日本@名無史さん:2011/06/04(土) 23:49:38.87
>>210
いじったではないですか。
帝陵の高さを三分の一にしましたよ。
212筑紫の民:2011/06/04(土) 23:50:51.12
伊作先生、ご回答有難うございます。
私は、太宰府の防御方向に一つ疑念を持って
研究を始めました。
そこで、伊作先生の「大和の揺籃・・・」や、
古田さんの「九州王朝・・・」と出会った次第です。
213どくだみ:2011/06/04(土) 23:55:40.32
>>211
なるほど、そのことをいってるのですか。
六尺為歩とする限りと断わっております。
六尺為歩が変わらなければ、歩が三分の一であれば尺も三分の一になるのは理の当然です。
しかし、あなたは六尺為歩ではないと主張しているのでしょう。
だったら、そもそも前提が違うわけです。
214日本@名無史さん:2011/06/04(土) 23:55:59.93
>>211
三分の一にすると低すぎる→こりゃ違うなって事でしょ
215日本@名無史さん:2011/06/04(土) 23:58:31.49
>>213
あなたはまだ理解できないのですか?
尺がなぜ三分の一になってしまうのですか?
その辺、ちょっと変に勘違いしていますよ。
216伊作先生:2011/06/05(日) 00:01:05.61
sssさんへ 
127の内容はストーリーが似ているという話から、
天照大神と卑弥呼をダブらせているだけです。
それではなぜ、天照大神3兄弟、卑弥呼3兄弟とはしないのか。

>>147 天照大神と素戔鳴尊は………実際にそうだったかは疑問で、
ずいぶん勝手ないい分だ。もともと作り話の神話を持ち出していながら、
「天照大神と素戔鳴尊は姉弟だったかは疑問」などと。

>神話的な色彩が残っている中で、二人の関係を姉弟にしてしまったのではないか。
そもそも、そんな記録のどこが史実を反映していると保証できますか。

>したがって、卑弥呼と卑弥弓呼の関係についてはそれほど気にはしてません。
勝手なことをいいなさんな。 つづく
217伊作先生:2011/06/05(日) 00:05:12.99
>倭人伝は、紀行文書、報告文書を……要するに伝聞の色彩が濃い。
創作神話の天照大神=卑弥呼だけ事実を反映しているといい、
史実の把握と記録に時には史官が命を賭けた歴史を持つ中国の歴史書の、
そのよき伝統を残した最後の歴史書をけなすとはね。

>批判するのなら、その人の代替案との比較で批判をすべきだと思う。
私は天照大神に誰かを投影したとはみていない。よって代案無用

創作神話が卑弥呼をモデルに天照大神を創作したからと、
それで現実の歴史が変わるわけじゃありません。
あなたは中国歴史書のいう史実を懐疑して、
創作神話のいう歴史を採用して史実のごとく語ろうとしている。

そのための卑弥呼=天照大神でしょう。
218筑紫の民:2011/06/05(日) 00:05:39.56
白村江の戦いの後、
大和を唐から防御しようとすれば、関門海峡の閉塞は当然のこと、
九州(筑紫)に上陸した場合は、立花山方向への攻勢を想定するはず・・・
なのに、逆方向に・・太宰府に重要施設をおいて大前古墳を超える
防御機能を付与するなど理由が不明・・・
関門海峡に防衛施設が存在しなかったのも・・・
この辺が私の研究の壁です。
219日本@名無史さん:2011/06/05(日) 00:07:49.19
歩と尺は性質がちがうのですよ。
六尺分が一歩(左右の足を前にだして要するに2歩で一歩)に相当するので、
一歩=六尺にしようということに統一したわけですよ。
わたしが言うのはその一歩は六尺分ではなく、かかとをくっつけて
左右の足を前に出して計った長さがおよそ2尺分になるので、
三分の一がちょうど、帝陵の周囲の長さを計るのに適しているのではないかと
言ったわけです。そうすれば、方が周囲のことを指すなどといいかげんな
ことを言わなくても済みますから。これだけ説明してもわからないだろうけど。

高さは丈、尺で示してあるので三分の一にしてはいけないのですよ。
220日本@名無史さん:2011/06/05(日) 00:14:28.86
>>218

>大和を唐から防御しようとすれば、関門海峡の閉塞は当然のこと、
>関門海峡に防衛施設が存在しなかったのも・・・

なあるほど。
九州から瀬戸内海に移動しようとしたとき、
関門海峡を通るはずだから、防衛のために閉鎖するはずだと。
伊作先生と発想が同じというか通じるところがあるわけね。

でも、現実には、関門海峡を封鎖した形跡はないと。
221どくだみ:2011/06/05(日) 00:18:44.57
>>219
>左右の足を前に出して計った長さがおよそ2尺分になるので、
>三分の一がちょうど、帝陵の周囲の長さを計るのに適しているのではないかと
>言ったわけです。

これの意味がわからない。
古今注には「山方三百二十三歩」と書いてあります。
古今注は晋の時代の著作だったと思うのですが、晋の時代には一歩=二尺だったのですか?
222ローガン:2011/06/05(日) 00:22:21.38
>>208返信ありがとう。長居はしないとか言ってたんで、どうかなあと思いつつ書きました。さて。

>何言ってんのか分かんないけど。魏が漢代の度量衡を引き続き使用すると読む、どのような理由(経緯)が、それまでに書かれているか聞いてるんだけど。

「久稽天命,罪在臣等.輒営壇場,具礼儀,択吉日,昭告昊天上帝,秩?神之礼,須?祭畢,会?寮於朝堂,議年号、正朔、服色当施行,上.」
が私が「スケジュールの上奏」とした記述。二日前の。 群官の議論の対象は正朔と服色。(同様の上奏は十九日にも有り)これが詔勅にいう議論せよの対象だという主張。

>以上は貴方の推測で、『献帝伝』にそのような経緯は書かれていないと思うが。

推測?かなあ?秦の度量衡の統一。王莽が真似た嘉量、南北朝以後の乱れによる度量衡の改変なんて定説だと思いますがね。

>漢代の度量衡をそのまま引き継ぐのに、議論せよと指示するのかね?

だから、「同律度量承土行」漢と律度量を同じくし、土行に従うと述べたもの。議論せよではない。
火徳→土徳は懸案事項ではなし。それに歳星の巡り合わせから、なにとぞ十月中に…とせかしているのに やっと受けたのは月末。
議論してちゃ月またぎ。
223日本@名無史さん:2011/06/05(日) 00:35:34.50
>>221
そもそもその一歩=二尺という考え方がおかしい。
一歩はおよそ二尺分ということですよ、正しくは。だからわたしのは
一歩はおよそ二尺ということです。尺で計ればね。尺は穀物の粒を基準にした長さ
と身体尺がありますが、両者はほぼ同じ長さです。
その所謂、歩為六尺の為は為そうという意味で歩=六尺という意味では正確には違うのですよ。
為すにはそういうことにしようという意味がある。
一歩歩いた長さが六尺分だよと。

あとの説明はまた暇があったら後で。そもそも方は周の意味もあると言ったのは
ローガン氏なんですけど、全くレスがありませんね。
224日本@名無史さん:2011/06/05(日) 00:38:05.01
関門海峡というと、非常に狭くて、船の往来も注意しないと衝突事故とかするから、
封鎖は簡単にできたはず・・・という発想なんだな。

だが、しかし、関門海峡の封鎖とか簡単に言うけれども、そんなことが実際に可能なのか?
過去に関門海峡が封鎖された事例があるのか?
壇ノ浦の戦いではどうだったか?関門海峡を封鎖して戦いを有利に進めるなんてことができたのか?

結論・関門海峡の封鎖なんて絵空事。

いったい、物理的にどうやって関門海峡を封鎖することができるのか?
よかったら誰か教えてくれや。
225どくだみ:2011/06/05(日) 00:45:15.19
>>223
>その所謂、歩為六尺の為は為そうという意味で歩=六尺という意味では正確には違うのですよ。

皇帝が六尺を一歩と為すと決めたら一歩=六尺ですよ。
三百二十三歩は323×6=1938尺ですよ。
226日本@名無史さん:2011/06/05(日) 00:50:57.06
六尺為歩は日本の律令にも輸入されてるし、どくだみさんに賛成かな。
227日本@名無史さん:2011/06/05(日) 00:55:00.80
>>225
ですから、始皇帝が一歩=六尺にしたかもしれませんが、それ自体
を疑っているということですよ。
徹底しなかのではないかと。つまり大またで計ると人によって誤差がでますから。
それは夏王朝の禹が大またで計った長さが一歩六尺分だったらしいですが、
それは禹以外の人では計れませんから。
右足を出して左足を右足につけて、左足を前に出して右足を左足につけて
一歩、という計り方です。それだと人によって違ってきますから。
身体を使った計り方としてかかとをつけて計る方法があったのではないかと。
それだと、帝陵の長さとつじつまがあうのですよ。
228日本@名無史さん:2011/06/05(日) 01:00:42.21
それで、後のある時代から一歩為六尺として計られたのであって
漢、後漢、その後数百年位は一歩は二尺分位ではなかったかと。
そうすれば、倭人伝の里数もしっくりくるのですよ。
所謂歩=六尺ではおかしいでしょ?魏志倭人伝を見ても。

229どくだみ:2011/06/05(日) 01:01:06.48
ローガンさん、キンガンさん

律は音程ですから、王朝ごとに変えるような性質のものではないでしょう。
律に乱れが生じているのを正しいものに統一するということで、
王朝が変わったから変えるということではないと思います。
同律度量だから、度量衡についても漢と違うものに変えたということではなく、
誤差が生じているのを統一するということでしょう。

これは尚書虞書の「同律度量衡」を典拠に踏まえている
改正朔,易服色と同じような決まり文句だと思います。
ですから、訳としては、「漢と同じにする」ではなく「統一する」だと思います。

同律度量衡は改正朔,易服色と同様、皇帝の特権であり義務であるわけで、
史書の中で違う度量衡=短里を使うということがあれば、
違う正朔を奉ずるのと同等の大逆罪ではないでしょうか。
230どくだみ:2011/06/05(日) 01:07:27.17
>>228
>始皇帝が一歩=六尺にしたかもしれませんが

漢書食貨志も六尺為歩です。
あなたの意見によれば、
「光武原陵,山方三百二十三歩,高六丈六尺。」
は、一歩=二尺で記述されたことになります。
先秦時代の資料なら或いはと思いますが、
晋の時代にそれはちょっと信じられません。
231日本@名無史さん:2011/06/05(日) 01:17:27.32
わたしは昔は一歩=六尺というのは古い時代は徹底していなかったと思います。
一歩は二歩分で300歩で一里、は定着していたと思います。
後のある時代に昔の禹、或いは始皇帝の定めたものを持ち出して
統一したのではないかと思います。
同じ時代に所謂短里、長里がまざっていれば、大罪ですが、
その時代、時代に於いては統一されていたので問題は少ないでしょう。ただ現代人に
とっては問題があるということでしょう。
232日本@名無史さん:2011/06/05(日) 01:21:05.58
>漢書食貨志も六尺為歩です
これはよくあることですが、後の時代に注釈したり
することがあります。
233ローガン:2011/06/05(日) 01:25:48.33
>>229
どくだみさん。どうもありがとう。
仰る通りなんですが 私自身
「前スレ944
(それと、もう一点。私と貴方との議論の中では、流れからいって「同律度量」が「マニュアル通りの文言」てのは取り敢えず無しね。)」
という前提の上ということで…
234日本@名無史さん:2011/06/05(日) 01:27:13.98
その帝陵の一方を長里で計れば、始皇帝陵より大きくなってしまいます。
そこで、方は周を意味することもあると、詭弁を言われたのです。
方は周をあらわすこともある、それこそ大罪も大罪だと思います。
同じ時代にそんな乱れた度量衡はありえません。
235ローガン:2011/06/05(日) 01:59:49.38
>>234
ごめん。スルーしてた訳じゃないんだけど、思い出せなくて…

>方は周を意味することもあると、詭弁を言われたのです。

漢旧儀に曰く:「長安城は方(亦)[六]十三里,経緯は各々長さ十五里,十二の城門があり,九百七十三頃(の畑)がある.城中は皆長安令に属する.

この事かなあ?
15×4≒63
236筑紫の民:2011/06/05(日) 06:32:28.08
>>224
軍事的に関門海峡を封鎖するのは簡単です。
国の海軍力(船)を門司・下関に集中し、
往来する船すべてを検閲場合によっては攻撃すれば
船舶は容易に通過できない。
広い海原では難しいが、狭い海峡であれば可能です。
ただ、古代そのように関門海峡に海軍力を集中した形跡
が見当たらない。(やっていれば九州の防人のような
記述もあるのではと・・・)
237日本@名無史さん:2011/06/05(日) 06:34:16.81
>>222
>群官の議論の対象は正朔と服色。

どうやら「殊徽号、同律度量、承土行」は
議論の題目ではなく命令だということらしいが、
それのどこが「漢と律度量を同じにする」と読む根拠になるの?

貴方自身も、嘉量銘の「同律度量衡」は「律度量衡を統一する」と読んでいるんだよね?
ダブスタ?

>>以上は貴方の推測で、『献帝伝』にそのような経緯は書かれていないと思うが。

>推測?かなあ?秦の度量衡の統一。王莽が真似た嘉量、南北朝以後の乱れによる度量衡の改変なんて定説だと思いますがね。

181>統一自体が崩れるのは南北朝からであろう。
南北朝以前には、度量衡がばらつくなんて事はなく、きちっと統一されていた、
という説でもあったんだろうか?
『献帝伝』のなかで、
魏に遷る直前まで度量衡に乱れがないことを窺わせる記述があるなら紹介して。
南北朝以後の乱れによる度量衡の改変ってのが、どんな定説かは知らないけど、
尺の長さに関しては、時代が下がるにつれて伸びていったってのが定説だね。
どの王朝でも度量衡の統一は重要課題だったんじゃないかと思うけど。

参考
後漢1尺23.75(安微省出土銅尺)
三国魏晋期24.2(江西博物館蔵銀乳釘竹尺)

遺物からは、後漢と魏晋じゃ「度」が違ってるって読み取れるんだよね。
どっちみち歩や里は「度」じゃないから関係ないけど・・・。

長居するつもりはない、めんどくさいし、もうあきた。
238日本@名無史さん:2011/06/05(日) 06:36:08.10
>>229
>同律度量だから、度量衡についても漢と違うものに変えたということではなく、
>誤差が生じているのを統一するということでしょう。

勘違いされつづけるのも面倒なので確認してもらいたいが、
僕は「度量衡を漢と違うものに変えた」などと言った覚えはない。
解釈に関しては、貴方と同じく「ばらついた度量衡を統一する」という意味だと言ってるんだから、
「どくだみさんの仰るとおり」などと訳の解らないレスしてるローガン氏にのみ解説してもらいたい。

そんなことより
「三国志に短里なしと判明した」というデマを撤回するのかしないのか、
はっきりしてもらいたいね。
前にも催促してるんだけど・・・。
239キンガン:2011/06/05(日) 06:37:16.98
237、238は、いずれもキンガン。
240伊作先生:2011/06/05(日) 07:03:11.00
>>218 >>220 >>224

九州勢力より先進的で強力なのはいない時代だ。
九州勢力が武力支配時代の「通交お断り」はどうやってやるのか。
現場の臨場感ある洞察ぐらいできるだろう。

通交を許されない奴らにとって形としては封鎖だな。通交できないんだから。
よって、九州勢力にくみするか「おこぼれ頂戴」しかない。これが現実だった。

日本列島は極めて特徴的な地形でなっている。
九州以東を最もリスク負担が少なく、
最も効果的にコントロールする手法として、
関門海峡の流量コントロールする。よくでせきてるぜ。

バカでも考えつくことだぜ。
241日本@名無史さん:2011/06/05(日) 07:27:23.00
>>237
その遺物からは度はほとんど変わっていないと解釈するのが普通でしょ。
誤差は2%以下だぜ?

聞く耳持たないのだろうけど、
極端な結論を導こうとして、冷静に資料を見れて無いよ。
242日本@名無史さん:2011/06/05(日) 07:56:13.86
>>235
レスしていただけましたね。
さっそくですが、[六]となっているでしょう、それは後から付け足したものですか?
それとも元からあったものですか?
元からあったものなら「方」は謝りです。
そんな特殊例一つを出してきて、方は周も意味すると言ってしまうのでしょう。
わたしにはその神経が理解できません。

縦横の長さが十五里でも面積は方13里ということはありえます。
長安城方十三里だったら、一里=150mで約二キロになります。
一辺が二キロ程度の長安城です。
地図をみたら、長安城のある大きな外郭の中に、
長安城がありました。その長安城の内郭と比べてみたらいいです。
確かほぼ一致した記憶があります。
243日本@名無史さん:2011/06/05(日) 08:11:00.44
>>242
何を見たか分からないけど、その長安城はおそらく明代の城壁だよ。
244日本@名無史さん:2011/06/05(日) 08:22:47.38
>>242
わたしは漢代の長安城を調べた記憶がありますが。
245日本@名無史さん:2011/06/05(日) 08:36:44.11
>>244
それなら何故「内郭」なのですか?
それは城ではなく宮殿でしょう。

>>235の「城中は皆長安令に属する」のは
むしろ城塞都市としての長安全体ではないかと思います。

長安全体ならば外周約23km。短里を持ち出す必要は無いでしょう。
246日本@名無史さん:2011/06/05(日) 08:58:58.03
>>245

宮殿ではありません。そばには宮殿がいくつかありましたけど。
長安城と書いてありました。
そういう基本的な誤りをすると思っていること事態、考えが貴方は甘いですね。

おそらくその外郭は後からできたものだと思います。当然ですけど。

ですからなぜ方を周に変えてしまうのですか。
帝陵にしても方と書いてあるのになぜ周として解釈してしまうのですか?
長里を用いるとそういう無理な操作をしないといけないから、
詭弁ばかりなんですよ。
247南部から来た男:2011/06/05(日) 09:11:42.18
>>236
書紀の異説に、ニニギノミコトの一行が高千穂に向かっている時に、これを
防ごうとする勢力が狭い航路の左右から矢を射掛けた、という記述が有った
と思います。これが関門海峡のことではないかと推測されます。
248日本@名無史さん:2011/06/05(日) 09:49:47.10
>>246
>>おそらくその外郭は後からできたものだと思います
それこそ詭弁ではないですか?
漢代の長安ははっきりしていますよ。
「十二の城門」はあなたの言う「外郭」の城門の数と同じです。

>>ですからなぜ方を周に変えてしまうのですか。
そういう解釈をした方がうまくあてはまるからではないですか?
認知されてない新しい尺度を考え出すより自然かと思いますよ。
249日本@名無史さん:2011/06/05(日) 10:17:54.46
>>248
長安城に十二の城門があったと書いてあるのですから、その通りとらなければ。
なにしろ一辺が二キロですから。
周囲八キロです。

>そういう解釈をした方がうまくあてはまるからではないですか?
認知されてない新しい尺度を考え出すより自然かと思いますよ。

その時代に同じ尺度で使用していれば、その時代の人には不便がないのですよ。
ところが歩為六尺に固執すれば、同じ時代に周、方、が両方乱れて
大変なことになります。罪深いことだと思います。

250日本@名無史さん:2011/06/05(日) 10:27:26.98
>>240

所詮、関門海峡の封鎖なんて、具体性の無い、現実性の無い、証拠も無い、絵空事ってことだ。

おまえの論も破綻したな。
251日本@名無史さん:2011/06/05(日) 10:34:21.22
>>240
>通交を許されない奴らにとって形としては封鎖だな。通交できないんだから。

さて、「通交を許されない」とは、どのような状態だろうか?

戦国時代なら、ある程度の軍船で通せんぼもできようが、
弥生時代では丸木舟しかない。
丸木舟をどれくらい用意すれば、関門海峡を封鎖できるのかね?

そうまでして、関門海峡を封鎖しなければいけない事情ってなに?

>九州勢力より先進的で強力なのはいない時代だ。

前段と矛盾しているわけだが?

また、関門海峡を封鎖する以前に、九州東側沿岸(宇佐とか)のどこかから上陸してしまえば、
関門海峡封鎖など、全く無意味だね。
252日本@名無史さん:2011/06/05(日) 10:37:41.70
>>249
「内郭」に十二の城門があったというのですね。
それは、あなたの理論が正しければ、という前提ですよね。
現実の遺跡の前にはあまりに説得力を欠くのではないですか?
253日本@名無史さん:2011/06/05(日) 10:42:31.36
>>252
内郭というと誤解があるかもしれませんが、城の城壁ですよ。
ネットで調べてみてください。いろいろ言う前に。
長安城があり、数キロはなれたところに外壁のある宮殿がいくつかあり、
その外周が23キロでしょう?
そうとう広い城塞都市ではないですか。
城中は長安令に属すると言っているのですから、
長安城は城塞都市の中にあったとかんがえられませんか?
254ローガン:2011/06/05(日) 10:51:19.73
>>237
>貴方自身も、嘉量銘の「同律度量衡」は「律度量衡を統一する」と読んでいるんだよね?ダブスタ?

新莽嘉量は権量のパクリ。ゆえ、これのコンセプトが「統一」なのは当然。 そしてこの嘉量原器が、西晋代まで使われたと見える記録が隋書にある。
つまり、漢魏晋は同様の度量衡。

>南北朝以後の乱れによる度量衡の改変ってのが、どんな定説かは知らないけど、

晋を追い出した北方民族達が重税を課す事に起因した、後世の大小制。

>どの王朝でも度量衡の統一は重要課題だったんじゃないかと思うけど。

統一された度量衡が存在するから、不当な利益を得よう者が現れる。升のサイズを少し変えたりとかね。
それを司市質人等が監視、是正。これは度量衡自体が統一されているからこそ。
255日本@名無史さん:2011/06/05(日) 11:12:18.71
>>253
別に「郭」と表現したからといって、壁がしょぼいとは考えてないです。

中国の城は日本の城と違って都市を丸ごと囲っているのはご存知でしょう。
調べたならば、巨大な城塞都市に城門が十二あることが確認できると思います。
少なくとも長安城に関してはこの事実を重視すべきと考えます。
256日本@名無史さん:2011/06/05(日) 11:19:49.68
>>255
長安城門が十二有ると書いてあるのですから、素直にとらなければ
ならないと思いますよ。
城塞都市に城門が十二あることが確認できたのなら、それはそれで
いいのではないでしょうか。
ただその外周の壁はかなりぼろぼろで掘りのようなものだったと記憶しています。
そんなところに門が十二確認できても、相手はつちの塊ばかりで、
確認できていない門も有る可能性は大きいです。
257ローガン:2011/06/05(日) 13:10:18.01
「中国都市研究の史料と方法」を読んでみてください。
「例えば発掘調査により漢長安城の城壁は周囲 62 里強と確定されたが,これは『漢旧儀』に記載された 63 里という数値とほぼ符合する。」
とあります。 又後程。
258伊作先生:2011/06/05(日) 18:35:44.89
>>251
>「通交を許されない」とは、どのような状態だろうか?
列島制覇という莫大な利権がかかった問題だ。

>丸木舟をどれくらい用意すれば、関門海峡を封鎖できるのかね?
エラそなタメ口で、封鎖の意味を誤解してるな。
他の勢力の船が通れば強力な水軍が攻撃する。これで完全封鎖だ・タコ。

なんだか知らんが、「文が長過ぎる」とう警告で受け付けない。
2分割して提示する。
259伊作先生:2011/06/05(日) 19:07:14.56
>>251  つづき
>そうまでして、関門海峡を封鎖しなければいけない事情ってなに?
現実に海を制した者が列島を制しているが。

>九州東側沿岸(宇佐とか)のどこかから上陸してしまえば、
そこも九州勢力の版図だが。
「よろしく・仲良くしてね」と挨拶でもして上陸するか。けらけら

自分以外の勢力が自分よりも抜きん出ないようにするために、
力がものをいう時代の支配力維持と拡大のための戦略・戦術…………
やめ。このタコは天才の思考を理解するレベルにない。
260王仁老人:2011/06/05(日) 19:20:15.67
>>251

 和布刈神社の祭神は、安曇磯良丸。その他は後付けだろう。
 山陰ルートも安曇族。琵琶湖西岸へ入植している。
 九州勢力下にあったと考えられる。

 関門海峡は、近畿側からでは4時間位しか通過できない。
 http://www.mirc.jha.jp/cgi-bin/online/w/w-tcp?AREA=kanmon


 
261日本@名無史さん:2011/06/05(日) 19:21:42.31
素朴な疑問
郡から伊都国までで9500里
邪馬台国までの残り2500里に、水行30日陸行一月を要している、しかも短里で。
つまり1日数キロしか進めない船で、海の難所である関門海峡の航行について語っている、
これって冗談にしか思えないんですが。
262玉 乱造:2011/06/05(日) 19:41:22.57
邪馬台国探しと関門海峡の航行の研究とは別問題ですよ。
263日本@名無史さん:2011/06/05(日) 19:48:12.36
いや、所詮は詭弁士だってことが証明されてる事象だと思う。
264日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:07:32.19
>>259

九州東岸の海岸線を全て封鎖して上陸させなかったのか?

何メートルおきに、何人の兵を配置していたのかね?

まあ、そんな戦術、現代でも無理だろ。

苦しくなってきたなあ。伊作先生も。
265日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:14:00.70
>>260

だからね。

当時の倭人は丸木舟しかもってないよね?

潮流に左右されるのは、大型構造船ではないのかね?

どうせ、丸木舟に載せるだけの物、人しかいないのだから、
どこでも上陸すればOK。
266筑紫の民:2011/06/05(日) 20:17:06.83
>>264
海岸すべてを閉塞する必要はない。
上陸適地は限られているのでそこに警戒部隊を配置する。その数は
警戒と報告が任務なので数はそれほど必要ない。
上陸を直接阻止する部隊は敵上陸部隊発見後行動すればよいので
日頃は農作業をしつつ急報に即応できる態勢だけあればよし。
だから何にも苦しくない。
267日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:25:57.47
関門海峡は潮流が最大で10ノットに達することもあるから、
通過できる時間は限られるな。
その時間だけ見張ってればいい。

丸木舟はもちろん、構造船だろうが準構造船だろうが、
動力をもってない船は、難所を越えるのにも時間がかかる。

タイミングを外せば失敗だ。

いまでも水先案内をのせるくらいなんだから、
現地で金でも払って協力してもらって、
通過させてもらうほうが現実的ではないだろうか。
268筑紫の民:2011/06/05(日) 20:29:15.12
つまり、関門海峡閉塞は十分可能だし、
上陸阻止も十分にできたというわけですね。
269日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:34:57.07
関門海峡はもともとが難所で、よそものは通過しにくい。
癖を知り尽くした地元勢力が圧倒的に有利だろう。

というか、よそ者はなかなか踏み込めなさそう。

巨大な川のように流れているのを見ると、
非動力船では覚悟が必要だっただろう。
270日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:37:06.39
そこまでして関門海峡を封鎖する理由がわからない
271日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:37:08.32
長里で2500里/30日で航行可能な船だったらどうなる?
272伊作先生:2011/06/05(日) 20:42:44.80
もう一度いうぞ。タコども。
「海を制する者が列島を制する」。
ここでいう「海」とは、朝鮮半島・対馬・壱岐・九州の通交ルート。
そして関門海峡だ。
このルートを最初に掌握した者が一元的に掌握してきた。
ここを使うことなく、ここを掌握した勢力よりも先進的で強力になる可能性は
200%ない。これが日本列島特有の立地・地形が規制するところの力学だ。

なーにが丸木舟だタコ。
>九州東岸の海岸線を全て封鎖して上陸させなかったのか?
>何メートルおきに、何人の兵を配置していたのかね?
こんな陳腐な思考と史観で俺にまとわりつくな。薄羽蜻蛉(うすバカ下郎)が。


273日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:46:32.38
偽者?
それとも転向したってこと?
274伊作先生:2011/06/05(日) 20:48:08.36
>>270
>そこまでして関門海峡を封鎖する理由がわからない。
そらお前がバカだからだ。
人間の狡猾さ・利己性・欲望・自我・戦略性・計画性というものは、
古今東西、何の変わりもない。
本来、何の利害も欲得もないはずの古代史を語るだけで、
こんなにも醜く我欲丸だしのクソ論議をしてる人間のことだぜ。

ちっとはツラをあげて現実をみろ。
275日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:49:03.73
関門海峡を通過しようとすれば
適当なところに停泊してタイミングを待たなければならない。

それが可能な場所なんて、地元勢力は百も承知なんだから、そこを叩けば良い。

タイミングが合わずに突っ込んでいく船は、ほっぽってみていれば良い。
いずれ流されて戻ってくるか、難破することになる。
276日本@名無史さん:2011/06/05(日) 20:54:55.67
上陸作戦に限って言えば、条件は関門海峡に限らず
本州でも四国でも九州でも、海岸なら同じ条件だから、
おなじような警戒状況で良いだろう。

あえて言えば、潮流の早いところは浜が少なく、
大人数の上陸作戦に適するところは限られる。
277筑紫の民:2011/06/05(日) 21:03:28.60
ホークス、広島に勝ったね。
明日も勝つばい。
ホームでの対G戦は当然応援に行くばい。
おやすみなさい。
278伊作先生:2011/06/05(日) 21:04:33.24
>九州東岸の海岸線を全て封鎖して上陸させなかったのか?
>何メートルおきに、何人の兵を配置していたのかね?

こんな稚拙な愚論にマジに反応する必要はない。
やれば程度の低い会話に終始することになる。
俺なんざ、失笑を抑えるのに苦労するぜ。
279日本@名無史さん:2011/06/05(日) 22:05:02.99
>>257
ですから、それでは簡単に納得などできません。
なぜ[六]となっているのか、また注釈として(亦)が入っているのか。
整合しないから、後から周囲ということにしてしまったのですよ。
長安城も、帝陵も。
とにかく、どうしても許せないと思うのは「方」が「周」を意味することも
あるという解釈で済ませようとするところ。
書き損じと解釈しても有りすぎです。(倭人伝も全く合わない事ですし。
対馬、壱岐の間の距離など)いろいろな疑問点が有りながら
どうしてだろうと考えず、数字合わせだけをして詭弁を言いながら、
簡単に済まそうとする人が本当に考古学者で良いのでしょうか。
わたしはそう思います。

280どくだみ:2011/06/05(日) 22:40:42.60
>>279
>なぜ[六]となっているのか、また注釈として(亦)が入っているのか。

それは中華書局の校勘の結果です。校勘記に以下のようにあります。

長安城方(亦)〔六〕十三里 據校補引錢大昭?改。按:史記呂后紀索隱引亦作「六十三里」。

後漢書注で 「長安城方亦十三里」となっていたものを、銭大昭の説によって「長安城方六十三里」に改めた。
史記索隱は同じ文を引いて
漢舊儀「城方六十三里,經緯各十二里」。
となっているということです。
これを見ても後漢書のほうが「六」を「亦」に誤刻したものだということは明らかでしょう。
方六十三里で経緯各十二里といっているのだから、この「方」は周囲と解する以外ないのではないですか。
281日本@名無史さん:2011/06/05(日) 22:53:02.02
>>280
納得できませんね。せっかくですけど。

なんとなく「歩為六尺」の意味がわかりました。
辞書をみると歩は土地の広さの単位とも書かれていて六尺四方の土地を
「歩」と言うそうです。
九章算術の方田を見るとわかりますが、
田の面積を「歩」で表しています。
今有圓田,周三十步,徑十步。問為田幾何?
打開字典 答曰:七十五步。

有田廣十二步,從十四步。問為田幾何?
打開字典 答曰:一百六十八步。
など。
つまり歩為六尺の意味は歩は六尺四方の面積を「歩」と為すということだと思います。
それを後世に、誤って理解して長さに統一してしまったのでしょう。
282ローガン:2011/06/05(日) 23:18:44.47
>>279
それ、心情の吐露って奴ですよね。どうぞご自由に、というしかありませんよ。
「自分の云う事が正しい。考古学者などが述べることは間違いである。」というなら、誰しもが首肯出来る根拠を挙げれば良い事。
ただただ納得出来ないって云われても…例えば
「西漢長安城西漢長安城的城牆,全部用土築而成。方向基本上作正南北向。東城牆和南城牆保存較好,雖已傾,仍連續不斷;西城牆和北城牆保存較差,有不少斷缺。
全城平面略呈方形:東牆平直,南西北三面牆都有曲折。四面城牆總長25700 米,約合漢代六十里強。與《漢舊儀》長安城周圍六十三里的記載基本相符。」(中國通史- 中古時代−秦漢時期1)
中国の人でもこのように。(笑)
283どくだみ:2011/06/05(日) 23:22:47.77
>>281
>納得できませんね。せっかくですけど。

どこが?


円田の面積をどのように計算したかは解りませんが、
円の周長も直径も歩で表してます。

二問目は、

広さ十二歩、たて十四歩の田がある。面積は?
答え、12×14=168歩

田のたてよこの長さを歩で表してます。
歩の基本は長さです。
面積を歩で表す場合、それは一辺が一歩の正方形の面積を歩と表しているわけです。
六尺為歩とは、長さの場合、六尺の長さが一歩の長さに等しいということで、
面積の場合は一辺六尺の正方形の面積と一辺一歩の正方形の面積が等しいということです。
自分で図を書いてみれば、すぐ解ると思います。
つまり、六尺為歩とは、面積でも長さでも、どちらにも通用する基準です。

>つまり歩為六尺の意味は歩は六尺四方の面積を「歩」と為すということだと思います。
>それを後世に、誤って理解して長さに統一してしまったのでしょう。

そんな間違いはありません。
284日本@名無史さん:2011/06/05(日) 23:26:11.73
>>272
>ここを使うことなく、ここを掌握した勢力よりも先進的で強力になる可能性は
>200%ない。これが日本列島特有の立地・地形が規制するところの力学だ。

だからね、貴方は、関門海峡より内側の勢力は、力学的に弱いって言ってるわけでしょ?

だったら、どうして関門海峡を閉鎖する必要があるのかってこと。

貴方がバカのために言ってる意味わからないのかもしれないけど。
285日本@名無史さん:2011/06/05(日) 23:28:35.82
>>280
俺は納得したぞ。
286日本@名無史さん:2011/06/05(日) 23:36:50.69
>>283
よく調べたら古代書に於いて步、と歩が両方存在するんですよ。
ですから、もとは別字で步は面積を表して、歩は長さを表していたのだと
推測します。そうでなければ、混乱しますから。
歩=六尺の步は面積で、それとば別に歩があり、そちらは
長さの歩で足裏二歩分だったのではないでしょうか。

ローガン氏もどくだみ氏も考え方がいい加減ですよね。
中国人もそうだけど。
でも元の字を全く変えずに括弧でくくったり、方を周に修正しなかった
ところは中国人を非常に評価しますけど。
287日本@名無史さん:2011/06/05(日) 23:51:47.83
>>286
つづき
ですから步の字は計算例をみると
長さとしても使用されているので、步=六尺の単位でもあり、
六尺四方の面積でもあったのだろうと思います。
288ローガン:2011/06/05(日) 23:52:52.59
>>286
忘れていたのが申し訳ないので過去ログ繰ってみた。去年の今頃のドンこい…
「196:日本@名無史さん:10/06/09(水) 20:14:28
>>45
>これらの古墳の大きさの実測が知りたいがググってもメートルが出てこない。
言われるとおりググってみたら、こんなん出ました。どなたか訳して下さい。
「原陵-介光武帝陵,古原陵,俗称陵,国皇帝――世祖光武帝秀(公元前6―公元57年)的陵,始建于公元50年,由神道、陵和祠院成。
光武帝陵南倚山,北黄河,近山傍水,蓊蔚穆。巍峨,气壮,神道,直陵前,石刻林立、碑碣参差。
陵呈方形,占地6.6万平方米,墓冢位于陵正中,土丘状,高17.83米,周487米。
光武祠,位于陵西,光武帝的祭祀祠院,面2万平方米,由、碑廊、二十八宿、光武殿等成,成一次比的代建筑群落。

<後漢書志第六 禮儀下>光武原陵,山方三百二十三,高六丈六尺。
ですから、 山方三百二十三が周487米なら、だいたい合ってる?」

辺りで終わってた話かと。
289日本@名無史さん:2011/06/05(日) 23:55:39.27
>286
書体の違いにまで意味があるとか、さすがに無理有り過ぎだって。
里だって長さの場合と面積の場合があるんだぜ。
290日本@名無史さん:2011/06/06(月) 00:04:19.07
286です。連投すみません。
でも変ですよね。計算例を見て。
步が長さも面積も表すというのは。

もしかしたら、底辺、高さ、円周、直径の長さも步の数を表しているのかもしれません。
つまり底辺に幾つの步があり、高さに幾つの步が有れば、全部で
步は幾つ?というように。
291日本@名無史さん:2011/06/06(月) 00:09:41.40
ふふふ
292どくだみ:2011/06/06(月) 00:53:27.36
>>286
篆書では步しか存在してなくて、歩のほうは俗字です。おそらく、楷書がつくられる過程で出来たのでしょう。
邪馬台国関連でわりと有名なように、右足左足の象形文字だから、下の部分が「少」なのは本来おかしいわけです。
僕の持っている現代中国語辞書に歩がなくて步しか載っていないのは、
現代中国でも、歩は俗字で正しい字は步だという認識があるのでしょう。

それで、步と歩で距離と面積の使い分けをしたという文献上での根拠はありましたか。
文献的裏付けはなくても、こう考えると都合が良いからそうだというのでは実証的な学問とは言えません。
短里そのものが、同様の思考の産物だと言えますが。
293日本@名無史さん:2011/06/06(月) 01:05:28.38
漢字でも地域によって意味が若干違う
単位なんて全然違っても不思議ではない
294どくだみ:2011/06/06(月) 01:08:52.16
>>238
>「三国志に短里なしと判明した」というデマを撤回するのかしないのか、
>はっきりしてもらいたいね。
>前にも催促してるんだけど・・・。

デマではなく事実です。
「同律度量」が話題になっていましたが、この語から考えても、
三国志の他の部分に全く登場しない距離の単位が使用されているというのは、
非合理的です。
皇帝が同律度量と命じているのに、正史で違う単位を用いるとは考えにくいことです。

三国志の他の部分で短里の記述があれば、
短里が存在した可能性がまだあると思ったのですが、
実際は短里の記事はひとつもありません。

結局、短里は存在しないという結論になります。
295どくだみ:2011/06/06(月) 01:34:29.94
連投になりますが、ついでに前スレ>>987のキンガンさんのレスについて。

>趙充国伝に、文穎曰「金城有三?、在南六百里。」とある。
>金城から南に240kmも行くと隴西郡を超えて益州に届く。
>とても、金城郡内の名所とはいえない。

「金城に(四望峡を含む)峡谷が三つある。南六百里にある。」という記述ですが、
どこの南なのかがわからない文です。
キンガンさんの言うように「金城の南」と考えるのが普通なのですが、それではおかしいのです。
四望峡がある湟水は、南北方向では金城郡のほぼ真ん中を東西に流れています。
だから金城郡の南部ということではありません。
都市の金城から見ると四望峡は西北西の方角にあり、やはり都市の金城の南でもありません。
結局、どこから見た南なのかわかりません。

それに、三つあるという峡谷のどこまでを指して六百里なのかもわかりません。
始点も終点もわからないので、この六百里を以て短里だ長里だという議論はできません。
296どくだみ:2011/06/06(月) 01:36:42.66
>いずれにしても、短里・長里の痕跡を調べるには
>実測値を史料に書かれた里数で割ることでしか確認できない。
>しかし、長里派は東夷伝の里数に関してのみ無視する。

文献上、存在が確定している里について、
出土した城址や実際の地理の実測値と文献上の数字を比較してメートルとの換算率を定めることと、
文献上、存在が全く言及されていない短里について、
倭人伝の里数と実測値の割合はこうなるから、これを短里と認めろというのは
次元の違いすぎる議論です。
せめて他に短里を示す資料でもあれば信憑性が増すのですが、
海抜の高度で考えると短里だとか、おかしな主張ばかりですから信頼できません。
297日本@名無史さん:2011/06/06(月) 01:38:49.26
どうかな?

同律度量と命じられているということは、
逆に言えば異なる単位が使われていたことを意味する。

そして、中原ではその単位が統一されたとして、
その範囲はどの範囲までなのか。

それは、どの程度強力に統一されたのか。
適当なる領域内において、ほかの単位はすべて駆逐されたのか。

柵封に入っていたとされる日本もその範囲なのか。
一度その単位で統一されていたのなら、日本の里程は
その名残が残っているのか。

答える必要はありませんが、こんな疑問がわいてきます。
今ですら尺貫法にポンドヤード、インチマイルとさまざまで、
そう簡単に統一できそうな気がしないのです。
298サガミハラハラ:2011/06/06(月) 02:31:28.70
何故文献上、短里が存在しないのか。
短里は秦が中国を統一するまでつかわれていた尺度なのです。
ですから周尺ともいいます。
さて、秦の始皇帝は中国を統一するや、其れまで使われていた諸制度を改革しました。
漢字の統一などもそうです。
度衡量についても同様です。里についてはそれまで使われていた1里=67,5mを6倍して新しい里としました。
そしてそれ以外の尺度を使用することを禁じ、違反した場合は、万里
の頂上なおでこき使い死にいたらしめました。もちろんまちがって使用しても容赦されませんでした。
そのけっか、人々はそれまでの物差し等をすててしないました。持ってるとばっせられたり、うっかりつかってしたりしまいますから。
その結果、周の時代の尺度が不明になってしまったのです。
299日本@名無史さん:2011/06/06(月) 07:40:53.86
>>292
文献上の根拠はありますよ。
右足と左足を両方だして一歩である、という文がありますから。

思ったことは、あなたの考え方では里のなぞを調べるのは無理だと思う。
調べようという気がないから。


二百四十步為一畝

廣一步、長百步,為一畝

方里為一井

千步而井

これが非常に疑問です。畝は算書によってばらつきがあるし、
井も計算が会わないし。
なにか、なぞがあるのだと思います。
では。
300日本@名無史さん:2011/06/06(月) 09:25:55.31
299です。
廣度: 跬,一舉足也。倍跬,謂之歩。 この字は普通の歩。

方里為一井については、方里ならば為す一里でよいはずです。
300步×300步が一里ですから。
そして1000個の步が一井ですから、計算があいません。
ですから、里にも面積と距離が元は、別字で表示されていたのかもしれません。
方里為一井、千步而井を利用して計算すると
長さの里(もとは別字として)は約130メートル位になります。
千步は31步×31步として、それが方里ですから、
6尺×31で里は約130メートル
これで結論だとはもちろん思っていませんけど。
いろいろばらつきがありますから。結局時代によって度は違うということですね。
簡単に言えば。
301日本@名無史さん:2011/06/06(月) 09:26:17.84
>>299
>右足と左足を両方だして一歩である、という文がありますから。

それ歩と步の使い分けの根拠になってない
302日本@名無史さん:2011/06/06(月) 10:13:41.96
>>299です。
6尺×31で里は約130メートル
計算違いでした。
里(別字として)は約42メートル。

303日本@名無史さん:2011/06/06(月) 10:48:17.47
>>261
>郡から伊都国までで9500里、邪馬台国までの残り2500里に、水行30
>日陸行一月を要している、しかも短里で。
郡から伊都国までなら1万500里だろ。そこから女王国までは残り1500里。
しかし、女王国と邪馬台国は異なる概念だよ。 1500里を水行30日陸行一月
という訳ではない。そこを間違えていたらめちゃくちゃだ。
304日本@名無史さん:2011/06/06(月) 11:37:15.88
もう文献解釈では九州説有利なんて話も終わったな。
305サガミハラハラ:2011/06/06(月) 12:23:16.33
考古でも九州説有利ですよ、
306日本@名無史さん:2011/06/06(月) 12:49:00.43
いろいろ考えるとやはり漢時代の一里は狗邪韓国ー対馬間千里、
対馬ー壱岐間千里、壱岐ー末ラ国間(北部九州沿岸)千里の
平均値でよさそう。これが一番信頼できる。
海外の情報を記すのですから、国内と度を別にするはずありません。
危機管理能力ゼロですから。大罪に当たると思います。
そうすれば、古代の国勢地図は定説を改めなけれならないでしょう。
常識で考えて、秦がベトナムまで領地としていたなど、ありえないですから。
みんな長里の弊害だと思いますけど・・・汗
307日本@名無史さん:2011/06/06(月) 13:27:52.77
注意しなきゃいけないのは、陸路だと歩測で距離を測定することが可能ですが、
水路だと直接距離を測ることは出来ないと言うことですね。
水陸両方で進行可能なところで陸路で測った距離と水行に要した時間を対応させる形になると思います。
穏やかな水面か波がある水面かでは、同じ距離でも所要時間は異なってくるでしょうから、
波のある外海では実際の距離より長めの距離で表記されていることになっているでしょう。
308日本@名無史さん:2011/06/06(月) 14:11:07.41
平安時代は土佐から難波の津までが海行一月、難波から京までが水行十日。
309日本@名無史さん:2011/06/06(月) 15:28:48.10
土佐から難波の津まで、風待ちや宴会などのぞいて、実質船で移動したのは十日程度。
310ローガン:2011/06/06(月) 15:59:01.45
>>299
まだ、言ってるんかいな?

>二百四十為一畝
廣一、長百,為一畝
方里為一井
千而井
>これが非常に疑問です。畝は算書によってばらつきがあるし、

ばらつきって何?これの事?
「歩百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井、井方一里」。(笑)
311日本@名無史さん:2011/06/06(月) 16:39:40.01
>>310
ローガン氏、コピペは正確にお願いします。
步が抜けています。だから理解できないのですよ。

二百四十步為一畝

廣一步、長百步,為一畝

方里為一井

千步而井

312ローガン:2011/06/06(月) 17:50:32.25
>>311
あ、ごめんなさい。携帯で見てるもので、その字が表示されない。そのままコピーしたらスペースが詰まっちゃった。
で、

>畝は算書によってばらつきがあるし、

ばらつきって何? には答えて貰えないのかなあ?
313日本@名無史さん:2011/06/06(月) 18:02:20.05
里について

ローガンやどくだみの諸君は短里は無かったと言うが、じゃあ、倭人伝の里は何なのだ?
帯方郡から狗邪韓国まで七千餘里とあるが、狗邪韓国を半島南岸に比定すれば1里は魏の公式の里
とされる約430mでは有り得ない。七千餘里を公式の里であるとすれば約3000kmである。それが
正しいとしたら、郡から海岸に沿って乍南乍東して辿り着くところは何処だ?
314日本@名無史さん:2011/06/06(月) 18:12:41.32
>>312
そうですか。失礼しました。
携帯ではわかりにくいと思いますよ。単位が表示されないと。
でも、まあ。

二百四十步為一畝 これは240步が一畝(面積)ですね。
步は6尺四方の面積のことですね。
240個の步が集まったものが一畝ということですね。

別の史書には

廣一步、長百步,為一畝と有ります。
これは百步分が一畝ということですね。

つまり一畝の面積が片方は240步、片方は100步、です。

井については
方里が一井ですから、300步×300步=90000步分が一井(面積)ですね。

ところが別の文献には1000步で井と有ります。
面積にすると約100倍、一辺な長さにすると約10倍になっているということです。

これをばらつきと表現しました。
以上、まだまだ言いたいことは有りますが、携帯では無理だと思いますので、
ここまでに。
315ローガン:2011/06/06(月) 18:15:31.65
>>313
>じゃあ、倭人伝の里は何なのだ?

「倭人伝の里」なんて無い。中華の普通の里があるだけ。

>1里は魏の公式の里とされる約430mでは有り得ない。

公定里しか無いので、そぐわないとしたら書かれた数字が誤りであるというだけ。
316ローガン:2011/06/06(月) 18:39:00.36
>>314
>つまり一畝の面積が片方は240、片方は100、です。

なんでそれがばらつき?普通そういうのは「変更」というんですよ。
BC349年の。
317日本@名無史さん:2011/06/06(月) 18:53:39.51
>>316

では井の方も解説をお願い致します。
318日本@名無史さん:2011/06/06(月) 19:16:12.51
過去数十年というか、百年単位で決着付いていないんだから、
長里短里のあるなしを議論するのは無駄だと思いますよ。

ここまで行くと信仰でね。

畿内説は公里を採用しているが、畿内には収まらない。
九州説は短里で九州に収まるが証拠がない。

永久に平行線だと思いますよ。
319伊作先生:2011/06/06(月) 19:25:36.91
>>284
>関門海峡より内側の勢力は、力学的に弱いって言ってるわけでしょ?
>だったら、どうして関門海峡を閉鎖する必要があるのかってこと。

誰が閉鎖しただの封鎖しただのとゆったか。この野郎
「たとえば封鎖すれば」瀬戸内以東は後進化するしかない。
現実には九州勢力にくみするか「おこぼれ」頂戴だったる。
「長いものにまかれろ」的発想は今に始まったことじゃないぜ。
逆らったところで潰されるだけだからな。
だからこそ、さほど戦わずして列島統一が実現した。
こうゆってるんだ。誤解した上でお角違いの反論なんて初歩的すぎるぜ。
誰とやってねと思ってるんだ。浅薄ビギナー

これを俺は「関門海峡の流量をコントロールしていた」と、
多様な意味を含んだ高度な表現で書いてきたんだがな。

>貴方がバカのために言ってる意味わからないのかもしれないけど。
マジかよ。
320伊作先生:2011/06/06(月) 19:39:23.67
>>284
>関門海峡より内側の勢力は、力学的に弱いって言ってるわけでしょ?
>だったら、どうして関門海峡を閉鎖する必要があるのかってこと。

鉄塊・鉄器・武器・金属器(銅鏡も含む)は国家統制最重要品目だ。
お前は、たかをくくって「人・もの・文化・知識・技術」の通交の統制管理もせず、
武器と人間をどんどん輸入していつの間にかいっちょ前になった後進勢力に、
抜け駆け・出し抜けを食らわされるんだろうな。

「無能役栽培脳」の持ち主に
「経営者的立場で考えろ」といっても無理だろうが・よ。
これ以上俺に寄り付くな。己のレベルにあったスレッドへ行け。
321伊作先生:2011/06/06(月) 19:45:38.64
>>318
>長里短里のあるなしを議論するのは無駄だと思いますよ。
『三国志』東夷伝のうち、少なくとも韓伝と倭人伝は、
魏代の公定尺度の6倍から6.5倍で書かれている。
「長里・短里」など、現代人がつくった造語など・どうだっていい。
これが厳然たる事実だ。

>>315 ローガン
>「倭人伝の里」なんて無い。中華の普通の里があるだけ。
>公定里しか無いので、そぐわないとしたら書かれた数字が誤りであるというだけ。
『三国志』東夷伝のうち、少なくとも韓伝と倭人伝が、
魏代の公定尺度の6倍から6.5倍で書かれている事実はどうやり過ごす気だ?
322伊作先生:2011/06/06(月) 19:50:50.00
>>315 ローガン
>公定里しか無いので、そぐわないとしたら書かれた数字が誤りであるというだけ。
魏代の公定尺度の6倍から6.5倍で書かれた調査記録が、
魏政府からさらには晋政府の校閲をそのまま通過して
正史中の伝に書かれている事実は「do throgh」

ただ「書かれた数字が誤り」では済まんぞ。
323日本@名無史さん:2011/06/06(月) 19:52:22.10
>>320

>鉄塊・鉄器・武器・金属器(銅鏡も含む)は国家統制最重要品目だ。
>お前は、たかをくくって「人・もの・文化・知識・技術」の通交の統制管理もせず、
>武器と人間をどんどん輸入していつの間にかいっちょ前になった後進勢力に、
>抜け駆け・出し抜けを食らわされるんだろうな。

よくわかってるじゃないですか。
そうやって、九州は1世紀以後、畿内に主導権を奪われて、2世紀末には近畿の卑弥呼を共立するまでに
落ちぶれてしまったということですよ。

324日本@名無史さん:2011/06/06(月) 19:54:52.99
伊作先生のいってることは、架空戦記と同じで、
日本がアメリカを占領できたらいいな、いや、占領したはずだ、と、そういうただの願望にすぎないわけです。

なぜって、証拠がひとつもないから。
325日本@名無史さん:2011/06/06(月) 20:15:00.49
九州説で最も有力なのは九州王朝説、東遷説、邪馬台国滅亡説のどれなんだ?
九州説同士で議論を戦わせて欲しいぜ。
326伊作先生:2011/06/06(月) 20:35:31.01
>>323
だからゆったろ。鈍いやろうだな。
「無能役栽培脳」の持ち主に
「経営者的立場で考えろ」といっても無理だろうが・とな。

「人・もの・文化・知識・技術」の通交の統制管理もしなかったてか。
そんな偏向史観が通用するスレッドへ行け。もう来るな
327伊作先生:2011/06/06(月) 20:39:26.52
>>325
俺は「邪馬台国・大和の揺籃説」だが。
もっとも手堅い東遷説でもある。

>九州説同士で議論を戦わせて欲しいぜ
「議論を戦わせる」というほどの高尚な九州説はないな。
それに、登場する輩のリベルが低いすぎる。
「九州説はタコばかりです」と宣伝してるようなもんだ。
328日本@名無史さん:2011/06/06(月) 20:46:11.27
うくく 伊作はたこつぼだな。
329日本@名無史さん:2011/06/06(月) 20:50:14.86
短里などない。
理由は分からないが、なぜか6倍で書かれた。
330ローガン:2011/06/06(月) 21:05:25.40
>>322伊作先生
>ただ「書かれた数字が誤り」では済まんぞ。

前から言ってるやん。軍事侵攻していない倭の情報は、通使の記録のみしかないから、その正誤はわからん と。
「評曰:史、漢著朝鮮,兩越、東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸,鮮卑、爰及東夷、使譯時通、記述隨事、豈常也哉!」
又後程。
331太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/06(月) 21:36:02.15
test
332伊作先生:2011/06/06(月) 21:55:22.92
>>330
まーた始めやかった。俺はハッタリめいた原文提示なんてことはせん。
評に曰く:曰『史記』・『漢書』は朝鮮・両越を著わし、後漢朝は西羌を撰録す。
魏の世匈奴遂に衰え、更って烏丸・鮮卑あり。ここにおいて東夷に及び、使譯時に通ず。
記述は隨事にして、なんで常にすべてを記録しなければならないことがあろうか」

これは、東夷伝序文で、漢朝の西域調査に匹敵する偉業(前史に欠けていた東夷の情報を補う)
として魏朝の東夷調査をうたったことを受け、
東夷伝の結びで「魏朝が調査した東夷の伝を立てた」と表現を変えて述べたものだ。
これがどーしたというんだ。ん・んー?

中国にとって伝説か未確認伝承でしかなかった大海の中の倭人と倭人の住む島の発見は、
民族学的・地理学的大発見なのだ。
大帝国が中国史上初めて公式に使節団と調査団を派遣して、
天子政府の文化事業の一環に位置づけた「事業」の成果だぜ。
東夷伝はその序文と結びでその自負を強調している。
で? その公式記録に基づく『倭人伝』の尺度数値が誤りだってかい。
『三国志』にかかわった膨大な数の人間はみなバカだったというわけだな。
333日本@名無史さん:2011/06/06(月) 22:43:15.46
>中国にとって伝説か未確認伝承でしかなかった大海の中の倭人と倭人の住む島の発見は、
>民族学的・地理学的大発見なのだ
これの出典を教えて頂ければ嬉しいです。
私はフィリピン・日本混同説なもんで。
334ローガン:2011/06/06(月) 23:04:41.02
>>332
まーた始めやかった。俺はハッタリめいた原文提示なんてことはせん。

わかってますよ。そんな事。でも、掲示板である以上、必要でしょ? 他にも見てる人がいるんだから。
(先日から私宛てに話しかけくる短里の御仁は、「ある史書」としか言わないし、忘れている話だったので面倒くさかった。)
さておき、久々にやるかあ〜。

>記述は隨事にして、なんで常にすべてを記録しなければならないことがあろうか

ほれみてみ。「事にしたがいて記述」だろうが。 事とは何だ? 通使だろうが。

>『三国志』にかかわった膨大な数の人間はみなバカだったというわけだな

いいや。先行史書を引いただけだと考えるから、バカだったかどうかまでは知らん。

335313:2011/06/06(月) 23:40:22.01
>>315
>>じゃあ、倭人伝の里は何なのだ?
>「倭人伝の里」なんて無い。「倭人伝の里」なんて無い。中華の普通の里があるだけ。

何をトボケたことを言っているのかね〜。「「倭人伝の里」なんて無い。」て アホか?倭人伝に書かれている里は
どういうものかと聞いているのだ。返事は「中華の普通の里です」だけでよい。

>>1里は魏の公式の里とされる約430mでは有り得ない。
>公定里しか無いので、そぐわないとしたら書かれた数字が誤りであるというだけ。

ということは倭人伝に出て来る里数は全て誤りとするのかね?それとも、一部は正しいとするのかね?
それから、
里数は間違っているが卑弥呼の冢の徑百餘歩の百餘歩は正しいのかね?

336日本@名無史さん:2011/06/06(月) 23:59:53.27
>>316
ローガン氏にお願いしたもう一つの質問の答えがまだですが。

また、重ねて質問。

西漢 - 東漢 (公元前206年 - 220年)]
方田 
今有田廣十五步,從十六步。問為田幾何?
打開字典 答曰:一畝。

漢、後漢時代に一畝240步に使われてます。

漢書 食貨志 二十四上 故必建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝
畝百 為夫 夫三為屋 屋三為井 井方一里
 
同じく漢書ですがこれは一畝=百歩となっています。

これはばらつきと言ってよろしいですか?
337神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/07(火) 00:34:09.85
   ☆         ∧_∧  +
            ((´∀` /^)
       +    /⌒   ノ    ☆
         γ (,_,丿ソ′
短里      i,_,ノ  |||
バンザイ  バンザイ        ヤッター  オメデトー
   ∧_∧ ∧_∧  ∧_∧  ∧_∧
 (^(,, ´∀`)) ・∀・)(ヽ    )')((・∀・ /')
  ヽ    /ヽ    ノ ヽ    ノ  ノ   ノ
   ノ  r ヽ /    | /  O | ( -、 ヽ
  (_,ハ_,),_,/´i,_,ノ (,_,/´i,_,ノ  し' ヽ,_,)
338ローガン:2011/06/07(火) 00:34:50.52
>>335
>ということは倭人伝に出て来る里数は全て誤りとするのかね?それとも、一部は正しいとするのかね?

さあ、どうだろう(笑)?
正しい部分もあるかもしれないけど、ハチャメチャかもしれない。あまりこだわらないのでね。
ただ言える事は、「史書に間違いは無い。よって特別の度があった筈だ。そのあった筈の度に従えば、邪馬台国は〇〇にある。」という思考が明らかに間違いであるというだけ。

>それから、里数は間違っているが卑弥呼の冢の徑百餘歩の百餘歩は正しいのかね?

これも同様。倭国の盟主墳に、径百余歩に及ぶものが 一切存在しないのなら、情報自体が眉唾。
339ローガン:2011/06/07(火) 01:24:30.46
>>336
>漢書 食貨志 二十四上 故必建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百 為夫 夫三為屋 屋三為井 井方一里
>同じく漢書ですがこれは一畝=百歩となっています。これはばらつきと言ってよろしいですか?

そこだけ切り取らずに前後も読んでみてね。自分で勉強しましょう。商鞅とかご存知ですか?
さておき、方と周については理解してもらえましたか?
340日本@名無史さん:2011/06/07(火) 01:26:54.40
>>1 九州説といっても九州のどこかについていろいろ分派があるな。
341日本@名無史さん:2011/06/07(火) 02:11:02.40
知能レベルによって、九州説もいろいろ。

日向説>神武東征を絶対視する記紀原理主義者

宇佐説>宇佐神宮のヒメ大神=卑弥呼とする 後世の天皇が宇佐に託宣したことにだわる人

山門説>邪馬台をヤマトと読むことは理解するが、大和ではないとする、音韻学を知らない人

甘木説>地名の一致にこだわり、九州の地名がオリジナルだと思い込んでる人

佐賀説>吉野ヶ里ブームの時に邪馬台国だと、すりこまれちゃった人
342日本@名無史さん:2011/06/07(火) 02:31:52.02
ローガン氏もうさんくさいなあ。
要はいつもの、

公定里こそ絶対、倭人伝の記録こそ間違っている

という結論にひきずりこみたいだけだろ。
だが、何をどう解釈しようと公定里を使用した形跡はない。
まず、公定里が正しいと主張するなら、公定里が
倭人伝で使われた形跡を教示してくれないかね。
343日本@名無史さん:2011/06/07(火) 02:35:20.61
短里を認めてしまえば、ほぼゴールに達するところまで来ているので
短里を葬り去ろうと必死だな。

それより、長里で畿内説までたどり着くことを
証明して欲しいものだ。
344日本@名無史さん:2011/06/07(火) 03:08:11.43
すくなくとも、倭人伝の中では現実の地勢と合わせれば
短里でこそ里程の体系を構築できるが、
公里では里程の体系を構築できないトンでも説なのである。

345日本@名無史さん:2011/06/07(火) 03:48:40.26
>>336
それ、確か、歩には影響ないよ。
一畝の面積を100歩(周の時代)から240歩(秦or漢)に大きくしてる。
歩の長さや面積を小さくしたのではなく、畝の面積を大きくした。

税は一畝当たり○斗という計算なので、減税になるの。
346日本@名無史さん:2011/06/07(火) 04:37:33.03
>>344
木を見て森を見ずってやつ
倭人伝の中だけでうまいこといっても、三国志全体や他の文献で合わないんだから。
347サガミハラハラ:2011/06/07(火) 07:16:30.10
@魏志倭人伝の里は、周尺であり、1里=67.5mです。
Aソウル漢江南岸から一時海上に出て、群山に上陸、陸路を進み南岸の固城に到着。
固城を船出して、鴻島を経て小茂田浜に到着。豆酸崎を回って壱岐かつもとに到着、島の東をまわり西唐津八万丁に上陸、
松浦川にそって東南方向へ松浦川にそってすすみ多久市中小路庄集落に到着。そこから東へ進み、(東南に奴国という大国があるのでよってみてもいいが、行程にははいらない寄り道である)
小城市不二町に到着。その南の小城市甘木が邪馬台国の卑弥呼都城址です。
ここまで地図でこのコースの距離をはかり、それを67.5でわってごらんなさい。
約1万2千になるはずです。
よって、行程記事はかなり正確であるといえます。かつ、倭人伝の1里は、67.5mであることがわかります。
Bこの周尺は半島にあった箕子朝鮮に由来するものであります。倭人は漢に朝貢する前に、
箕子朝鮮と通交があったのです。
Cこの行程記事は、箕子朝鮮時代に計測されたものか、または、漢の時代になっても、
聖人である箕子に敬意を払い、箕子治下の地域については、漢の時代でも特別周の制度を認めていたともかんがえられますが、
確証がありません。
D魏使は計測していません。チンジュは晋の図書館にあった東夷関係の史料から抜き出して記述したのです。
漢の文献では、西方では万2千などはよく書かれていたのでチンジュはおかしいとはおもわなかったのでしょう。

以上倭人伝は周尺だということが証明できたかと思います。
348日本@名無史さん:2011/06/07(火) 09:05:24.83
>>339
同じ漢時代のことでしょう。
貴方がたはいつも、それを漢時代のものとして引用するではないですか。
こういう時は、違うというのですね。
いつもウソ、はったりばかり。
畝の変更にしても貴方の言ったことは時代がウソでした。

方が周と同じなどと、とんでもないことを平気で言える神経が疑われます。
 
だから長里に固執するからそうなってしまうのですよ。
別の里(長さとしての)存在があったと思わないからです。
後の時代に里も、歩も統一されてしまったから、不整合が起こっているんですよ。
わかりましたか?
349伊作先生:2011/06/07(火) 09:43:13.13
>>333
出典は俺だ。
『史記』をはじめとした中国の歴史書から読み取った事実だ。
お前らみたいに書いてあることすら満足に理解できんくせに、
「書いてない」といって否定するようなタマとは格が違うのだ。
350日本@名無史さん:2011/06/07(火) 09:43:44.54
畿内説論者は、短里を否定しようと必死。しかし、当時の史家は誰もそれを
不自然だとはとがめていない。短里は問題なく理解できる単位だったんだよ。
351伊作先生:2011/06/07(火) 09:48:11.41
>>334 :ローガン
>事とは何だ? 通使だろうが。

違うなー。この「事」が意味する範囲は広い。
出来ごと、調査したこと、判明したこと、知らされたことなど多岐にわたる。
で・「事あるごとに」記述すればいいのであって、毎回、先史が書いた事を書く必要はない。
魏朝は東夷の情報を把握したので新たに東夷伝を立てた……。
『三国志』の隠れた目玉ともいえる東夷伝の結びで、誇らしげにこうゆうとるわけ。

これを倭地訪問調査・公文書校閲・管理(整理・保管・管理)・歴史書記録・完成原稿校閲
木版原稿揮毫・原稿校閲・彫版・刷版校閲・印刷・製本格段階で多くの人間がみているわけ。

さて、きみのいい次の通りだ。畿内説者の特徴たる欺詐に溢れている。
つづくし
352伊作先生:2011/06/07(火) 09:50:45.28
>>334 :ローガン
▼「倭の情報は通使の記録のみしかないから、その正誤はわからん 」。
(皇帝じきじきの命令で派遣された官吏の仕事を個人レベルの作業に過小評価した欺詐)
▼特別の度があった筈だ。そのあった筈の度に従えば……という思考が明らかに間違いである。
(歴然たる事実を前に「はずだ」と推論を述べているかのような欺詐)
▼倭国の盟主墳に径百余歩に及ぶものが 一切存在しないのなら、情報自体が眉唾。
(今出ているものがすべてで、今出ていなければ「ない」として語る欺詐。
これには、掘って確認したわけでもないのに箸墓が有力という欺詐が背景に潜む)

で?  その大帝国の公文書に基づく『倭人伝』の尺度数値が単なる誤りだってか。
そらきみ、大帝国の当事者をバカにした話だ・とゆってるわけだ。
それにほれ。きみらの得意な反論材料の一つ。
『三国志』に細かい注釈を入れた「松之すら何も注釈も訂正もしていないが、
彼も距離尺度については無知か無関心だったというわけだよな?
353350:2011/06/07(火) 09:57:13.43
>『三国志』に細かい注釈を入れた「松之すら何も注釈も訂正もしていないが、
>彼も距離尺度については無知か無関心だったというわけだよな?
伊作もときにはまともなことを言う。


354日本@名無史さん:2011/06/07(火) 09:58:50.28
348です。
>>339
商鞅が法を変えたからといっても、それは秦国内の法ですね。
まだ秦は諸侯の身分で、周は同時進行していて、天子は周にいたのですよ。
商鞅が周の法まで変えたという記述がありますか?
だからその畝の変更年代はおかしいでしょう?違いますか?

それともう一つの質問には答えられませんか。回答不能ということで処理していいですよね。
355サガミハラハラ:2011/06/07(火) 10:13:21.22
歩百余歩の墳丘なら、小城市小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)
それにあたります。
これで、九州説には歩百余歩に該当する丘がないという否定根拠がなくなりました。
すべての証拠は邪馬台国北部九州を示している。
356伊作先生:2011/06/07(火) 10:22:07.69
よーするにローガンくん。
畿内説もまた「自論に合わない記録は文献の間違い」という、
幼児性まるだしの手法で維持されているわけだよな。

文献に依拠しては畿内説推進不可能と悟った先達たちが、
考古資料中心に依拠することを選択した。
その結果出てきたのがコンチキ図を持ち出した欺欺であり、
呉地方特有のデザインの神獣鏡を魏がつくったという欺欺であり、
批判百出の年輪年代法でありC14炭素法であり、
これらによって年代を操作された箸墓=卑弥呼の墓であり、纏向遺跡=邪馬台国であり、
ここにある大型建築物遺構は卑弥呼の宮城なわけだ。欺欺にまみれてるだろ。
土器編年(土器偏年か土器変年といったほうが当たっている)もしかり。
これで、フルだのショウナイだの土器編年を信じろといって誰が信じるかね。

ボケの山古墳しかり。5世紀築造の堂ノ後古墳の周濠を削って、
3世紀に築造されたというミステリー談も、すっきり解決しわけでもあるまい。
こうなると、纏向にある12基の大型古墳の年代も怪しいもんだ。
ま・箸墓を掘れば装飾が施されている可能性が高いし、きっと馬具が出るさね。
357伊作先生:2011/06/07(火) 10:26:05.25
>>353
>伊作もときにはまともなことを言う。
俺は常に中庸・不偏だ。
オタク・気違い・妄想家・ウソつき・ごまかし屋、
身びいき願望論者、都合勝手野郎・山師的一発狙いなどなど。
ゴミクズ九州説を批判するときだって、
まともなことばかりゆってるがな。
358伊作先生:2011/06/07(火) 10:30:59.47
>>357
オタク・気違い・妄想家・ウソつき・ごまかし屋、
身びいき願望論者、都合勝手野郎・山師的一発狙い、
独善我流、論拠ねつ造野郎ばかりがいる中では、

こういう人間がたったの一人でもいることが奇跡だがな。
359日本@名無史さん:2011/06/07(火) 11:10:45.66
>>356
>ま・箸墓を掘れば装飾が施されている可能性が高いし、きっと馬具が出るさね。

理由は?
360伊作先生:2011/06/07(火) 11:20:42.68
>>359
そうたずねる理由は?
361日本@名無史さん:2011/06/07(火) 11:23:44.62
>>354
食貨志本文を読めばわかるだろ
362日本@名無史さん:2011/06/07(火) 11:36:02.24
  
畿内説者はどこかの国の総理大臣と同じだ。

「詐欺師」「空き缶」「あかんなおとっと」

どこかの国の総理大臣と同じと言われてうれしいか?
褒めてるんだぞ。
363日本@名無史さん:2011/06/07(火) 12:46:59.77
>>354
周法を言っているんでしょ?
ちゃんと何時のものと断ったほうが親切ってものじゃないの?
それも読みにくい漢文なのですから。
なげやりな書き方ばかりしてないで。
あなた方はいろんな資料集めて、反論材料として
すぐに出てくるでしょうけど、こっちは一から検索しなくてはならないのですから。

それに正確にはそれは、周時代のものを丸写ししたものではなく、
後の時代で、整合させたものだから、方里=一井ということに
なってしまった。方里=一里でも同じことですから。
井の単位など必要ないのに。
本当は里、井は周時代は別だったのですよ。

364日本@名無史さん:2011/06/07(火) 13:01:48.21
素朴な疑問なんですが、塚の径をどうやって測ったんでしょうか?
塚の上を歩いて渡ったんでしょうか?
そうすると、歩いた距離は直径ではなくて小山の表面ってことになりますよね。
そもそも墳墓の上を歩いて渡るってことは宗教的に許される行為だったんですか?
365日本@名無史さん:2011/06/07(火) 13:46:31.36
>>364
>塚の径をどうやって測ったんでしょうか?
>塚の上を歩いて渡ったんでしょうか?

科学技術バカ。
冢の付近を歩くだけで、誤差2%以下の精度で測れる方法がいくつもある。

それに、円周率(π=3)も知られていた。
366伊作先生:2011/06/07(火) 14:24:50.67
>>364
俺もさほど計算が得意ではないが、親切に説明してやろう。


円周が直径の3倍より少し大きい程度だと言うことは古くから知られていたそうだ。
中国でも古くから円周の長さは円の直径の3倍あまりとしてきた。
で・「円周の3分の1が直径」というわけだ。(円周なら縄でも回せば計れる)。

3世紀の中国で発明された記里鼓車(きりこしゃ)の話は河童が大好きだが、
これは、車輪の1回転が車輪の直径の3倍という古来の知識からなりたっている。
たとえば直径6尺(1歩)の車輪の記里鼓車をつくったとすれば円周は3歩だ。
これが100回転した時に太鼓が鳴る仕組みにしておくと、
太鼓が鳴ったときが300歩で1里の計算になる。

車輪の回転から直線距離を求めるには、
表記したようなおおまかな円周率を知らなければできない。
5世紀になると祖沖之という学者が、
正確な円周率を小数点以下7桁まで突き止めたとされる。
367日本@名無史さん:2011/06/07(火) 14:32:40.33
つまり、箸墓が卑弥呼の墓というわけだな。

368日本@名無史さん:2011/06/07(火) 14:39:44.87
東遷説の哀れで将来性の無いところは、
九州の邪馬台国が東遷して、畿内に大和王権を作ったと、
そこまでは言いっぱなしで、その後の歴史が語れないところだな。

大和王権がマキムクから始まったことは疑いようが無く、
記紀にはヤマトトトヒモモソヒメが、他の天皇よりでかい箸墓に埋葬されたと書いてある。

つまり、九州から東征したきたのはいいが、うまく畿内を治められずに、
ヤマトトトヒモモソヒメに祭祀をゆだねてやっと政治が安定したと。
だから、他の天皇よりも巨大な墓を作ってもらったわけで。

畿内からしてみれば、九州から乗り込んできた勢力ってのは、民主党政権そのもの。
はやく退陣してくれってことだ。
369日本@名無史さん:2011/06/07(火) 14:40:59.07
ちょっと苦しいかな
370日本@名無史さん:2011/06/07(火) 14:44:28.05
ほんとに九州説は苦しいよな。
371伊作先生:2011/06/07(火) 14:45:29.17
>>366
なお、念のため。
中国の度(寸法尺度)は6尺1歩、300歩1里ということになっている。
古代の中国にも色んなことをいう学者・知識人がいたらしく、
ここでの議論に登場したような歩は長さではなく円周だ外周だと、
いったような意見が例示されていた。
歩は長さであり、円周も外周も、しょせん長さの数値である。
むろん、
先の例でいう記里鼓車の車輪の円周が3歩とういうのも、
もともと直線の長さに基づく、円周の「長さ」の数値にすぎない。
372日本@名無史さん:2011/06/07(火) 14:47:23.29
東遷説の伊作先生へ。

箸墓が、九州から東征してきた王の墓よりも巨大な理由を教えてくださいね。

答えられないなら、2度としゃしゃりでてくるなボケカス。
373伊作先生:2011/06/07(火) 14:50:43.23
>>367
>箸墓が卑弥呼の墓というわけだな。
てめ。どこを見て誰にゆってるんだ?
倭人伝の距離数値が魏の公式尺度の約6倍で書かれていることは事実だから、
卑弥呼の墓の経100余歩も同じく役6倍で書かれている。あたりまえの理屈だ。

で? (いつも失笑させられることだが)「箸墓の円墳部の直径」は、
魏の公式尺度の約6分の1の寸法にぴっり合うのか。ターコ
374日本@名無史さん:2011/06/07(火) 14:51:47.41
東遷説の伊作先生へ。

箸墓が、九州から東征してきた王の墓よりも巨大な理由を教えてくださいね。

答えられないなら、2度としゃしゃりでてくるなボケカス。
375卑彌呼の都は久留米:2011/06/07(火) 14:52:22.34
>>366

円周率を知らなくてもよい。
器具なし目視の三角測量でも冢の直径はわかる。
その方法は「周髀算經」にも北極樞の測定で使われている。
376日本@名無史さん:2011/06/07(火) 14:54:00.50
ローガン氏

孔子家語 より
夫布指知寸,布手知尺,
舒肘知尋,斯不遠之則也。周制,三百步為里,千步而井,三井而埒,埒三而矩,五十里而都,封百里而有國

漢書 食貨志の周制を語ったもの

歩百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井、井方一里

上では
三百步為里,千步而井といっているのに、下では井方一里と言っている。

同じ周制を語ったもので、これほど食い違いがあるのに、
畿内説者は反論不能。
377ローガン:2011/06/07(火) 14:56:47.02
>>352
>それにほれ。きみらの得意な反論材料の一つ。
>『三国志』に細かい注釈を入れた 松之すら何も注釈も訂正もしていないが、彼も距離尺度については無知か無関心だったというわけだよな?

うふふ。「5世紀の段階では、先史にある邪馬台国までの里数は明確であった。それが三国志と違っていれば注記に言及がある筈。
それが無いのは、三国志の記述に誤りが無い証拠である。」という展開ね。
という事は、職貢図はその当時の 倭に対する新しい知見に基づいて書かれものである。でいいね?伊作ちゃん。
378伊作先生:2011/06/07(火) 15:02:21.93
>>368
>その後の歴史が語れないところだな。
ちゃんと語ってるだろう。
九州から引っ越してきて、九州の「やまと」の名をそのままに大和政権を樹立した。
一方の九州は、代理が激しく放っておけば力をつけるから、
領地を細かく細部化して「○○の君」を名乗る皇別豪族に管理させた。
これらの豪族が装飾古墳を展開したとなー。

>大和王権がマキムクから始まったことは疑いようが無く、
いやいや。纏向は九州勢力が築いた初期大和政権の公式墓域だ。

>九州から東征したきたのはいいが、うまく畿内を治められずに、
九州から「東征」してきたほどの勢力が何で、
征伐された場末の弱小「治めきれない」理屈になる?

>だから、他の天皇よりも巨大な墓を作ってもらったわけで。
『日本書紀』のてきとーな墓の割当てを信じてるわけだな。わらわら
箸墓は有力な男王の墓だ。それは「御馬」と称する神馬にまたがっていた人物だ。
掘れば、半島からの戦利品や手みやげのキンキラ馬具が出るに決まってる。

>>372
これでなっとくできた・ボケカス。
379日本@名無史さん:2011/06/07(火) 15:03:31.21
>>364
>素朴な疑問なんですが、塚の径をどうやって測ったんでしょうか?

>>365
>それに、円周率(π=3)も知られていた。

>>281に書かれていることだが、
>九章算術の方田を見るとわかりますが、
>田の面積を「歩」で表しています。
>今有圓田,周三十步,徑十步。問為田幾何?
>打開字典 答曰:七十五步。

この問題と答は円周率を3として出題し解答されている。
(周三十步)÷(徑十步)=3
(半径:5歩)×(半径:5歩)×(円周率:3)=75(歩)
380伊作先生:2011/06/07(火) 15:10:58.86
>>372
>箸墓が、九州から東征してきた王の墓よりも巨大な理由を教えてくださいね。

箸墓こそが、九州から東征してきた王系統の男王の墓だ。
しかも、纏向にある他の10基ほどの100メートルを超える墓よりものちの築造だ。
漢魏晋宋代の歴史を消して神話時代のこととしてしまった創作的書き物の、
創作の最たる部分の記録を史実でもあるかのように解釈して、
なーにが「箸墓はモモチャン姫」の墓だ。この野郎
モモチャン姫は、なんとか天皇の第2妃の娘、すなわち庶子だぜ。それが、
怪しげな予言めいたことを2度ばかりしただけで、恥部をつついて死んだんだと。
作られた神話の恥部を照らし出すような恥ずかしいことはやめとけ。
381伊作先生:2011/06/07(火) 15:14:37.53
>>377
>という事は、職貢図はその当時の 倭に対する新しい知見に基づいて書かれものである。
でいいね?伊作ちゃん。

ずいぶん話が飛ぶなー。俺の職貢図批判をみてのことか。
それとこれと、どういう論理的なつながりあるか。
やり込められて逆襲するにも手段を選べ・ターゴ
382伊作先生:2011/06/07(火) 15:17:28.76
>>375
>>379
ごちゃごちゃいうが・どうだっていいことだ。
俺が説明してので充分だ。知ったふりのヤジ馬が。
383日本@名無史さん:2011/06/07(火) 15:18:31.53
>>380
いいぞいいぞ、そのとおりだ。畿内説のアホどもはいい加減に目を覚ませ。箸中山古墳は4世紀以降、下手すると5世紀
の築造だ。嘘だと思うなら掘ってみろ。
384364:2011/06/07(火) 15:28:26.72
教えて下さった方々、ありがとう。
記里鼓車、勉強になりました。
徑=小路の意味もあるようなんで完全にはスッキリしてませんが、もう少し考えてみます。
385日本@名無史さん:2011/06/07(火) 15:45:05.17
>>384
>徑=小路の意味もあるようなんで完全にはスッキリしてませんが、もう少し考えてみます。

卑弥呼の冢の徑百餘歩について、墓の周りに設けられた小さな道の長さが百餘歩だという解釈も有り得ますね。
386伊作先生:2011/06/07(火) 15:47:51.12
>>384
>徑=小路の意味もあるようなんで………もう少し考えてみます。

考える必要などない。
漢字というものは、ほぼ例外なく複数の意味をもつ。
どの意味を採用すべきかは、文章をみればバカにも分かるはずだ。

(ときに文字の意味にこだわりすぎて、
とんでもない意味を適用して文章をむちゃくちゃにする奴もいるが)
387日本@名無史さん:2011/06/07(火) 16:04:24.60
>>274
単純に5世紀以降だからじゃないかな。
大体後世になるほど大きくなる傾向にある。
388日本@名無史さん:2011/06/07(火) 16:06:34.38
大きいということは、それだけで、初期型の可能性が薄れてくるというものだ。
王の権力が固定されてくるほど、前の墳墓よりは大きく作るようになっていくからね。
389伊作先生:2011/06/07(火) 16:07:01.49
>>385
>墓の周りに設けられた小さな道の長さが百餘歩だという解釈も有り得ますね。
ほら。ゆった先からこいうのが現れる。そらー・バカの典型だ。
390伊作先生:2011/06/07(火) 16:11:40.44
>>387 >>388
銅鐸・銅鏡・素環頭太刀・墓。
みな拡大への段階的ステップと、エスカレートへの意識の慣れというものがある。

………倭迹迹日百襲媛命。
「紀元前」の実在が不確実な孝霊天皇の第2妃である倭国香媛の娘。
同母兄弟に、倭迹迹稚屋姫命、彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)。
(吉備津彦命のほうが大きな墓をつくるにふさわしい働きをしている)。

こんな庶子の墓が巨大な箸墓で、その後につくられた
「ハツクニシラス」といわれた崇神天皇の墓はこれよりも小さい。
こんなバカげたことが、
階級と序列と格式と威厳を重んじる古代の皇室であり得るはずがなかろう。
箸墓が本当に前方後円墳の登場期の築造であれば、
崇神天皇の墓はさらにこれよりも大きくつくられたはずだ。

箸墓=卑弥呼の墓説はこうした歴史的不条理に配慮しない恥知らず。
箸墓は、九州からやってきた倭国王の系統で、
大きな墓をつくるにふさわしい実在した男王の墓だな。
391ローガン:2011/06/07(火) 16:16:59.25
>>381伊作ちゃん
>それとこれと、どういう論理的なつながりあるか。

「裴松之は倭国への正確な里数を把握していた。」が貴方の言い分の前提。
なら、宋、斉、梁に使えた沈約も同様の認識を持っていて当たり前。
当然、蕭繹がそれを知らない訳が無い。よって「梁職貢図」のソースは魏志倭人伝ではなくその後の新たな知見に拠るものである。となるよね。
ホームページ訂正する?
392伊作先生:2011/06/07(火) 16:32:30.90
「畿内説のやることはコンチキ図以来伝統的にマンガなり」

箸墓から出た土器に付着していた炭素だか炭を
C14炭素法で分析したら3世紀半ばの築造だと分かったという。
「土器に付着していた炭素だか炭」てのはまるで信じられないし、
C14炭素法による分析てのも怪しい。
怪しいことの積み重ねでなり立っているというわけだ。

そうやって、箸墓を3世紀半ばの築造だと欺詐しておいて、
ほかに適当な規模の墓がないからと、
「前方後円墳の箸墓の前円部」の直径に直結して欺詐し、
なおかつ、約6倍の数値で書かれている経100余歩を
そのまま魏の公式尺度に換算しておいて、
「卑弥呼の墓にぴったりだ」と叫んで欺詐し、
「九州には3世紀半ばの経100余歩の墓がない」と欺詐を連呼する。

いったい幾つ欺詐を積み重ねているか計算してみてくれ。
393伊作先生:2011/06/07(火) 16:49:44.59
>>391 ローガン
>「裴松之は倭国への正確な里数を把握していた。」が貴方の言い分の前提。
違うなー。
「裴松之は、魏の公式尺度の約6倍で書かれている里程について
何の注釈も訂正も加えていない」という事実を提示したのだが。
畿内説者得意の「相手の論旨を意図的に誤解して」それを論拠にした反論か。

>なら、宋、斉、梁に使えた沈約も同様の認識を持っていて当たり前。
相手の論旨を誤解するかと思えば、何をいう気なのか分からんことを書く。
誰にも分かるように書け。クソ
これは『梁書』倭伝のはちゃめちゃぶりについて言及したほうがよさそうだな。
正史を編むことが正統王朝の証しともいえるが、紀伝体の体裁を保つことが形骸化して、
つけ足し的に弟子か助手に書かせた伝などは惨憺たる状況を呈している。
されがどうしたというのだ。
時代と状況と次元のことなる事象を同じ次元で比較する論法は俺には通用しないぞ。

つづく
394日本@名無史さん:2011/06/07(火) 16:49:47.34
>>378
>『日本書紀』のてきとーな墓の割当てを信じてるわけだな。わらわら


>>390
>箸墓=卑弥呼の墓説はこうした歴史的不条理に配慮しない恥知らず。
>箸墓は、九州からやってきた倭国王の系統で、
>大きな墓をつくるにふさわしい実在した男王の墓だな。


つま〜り、記紀は信じないが、魏志倭人伝は信じると。


つま〜り、おまえは、3世紀前後の日本の歴史は雄弁に語れるが、
4〜6世紀の日本の歴史は全く語れないというスタンスでいいだね?

ぷぷ。
395日本@名無史さん:2011/06/07(火) 16:51:30.23
自分の知ってる文字が出てきたら反射的に自分の知ってる意味で理解してしまう、これって問題あると思いますよ。
例えば、東南至奴國百里、これも再考の余地があると思います。
この文の主語は那国です。
那国が東南に至ってる訳で、その場所までが100里ということです。
つまり那国の最東南端(最南端・最北端的な意味で)が100里のところまで迫ってきてる訳です。
100里の起点は伊都国でしょう。
そうなると那国と伊都国の位置関係はどうなりますか?

ちなみに狗那国は「有」と表現されてます。
396伊作先生:2011/06/07(火) 16:52:13.98
>当然、蕭繹がそれを知らない訳が無い。
俺のサイトに詳しいように、倭国が梁に朝貢使者を派遣した事実はない。
なのに武帝の第七子・蕭繹が、梁にやってきた倭国の使者を写生したのだという。
万歩譲って武帝紀にいう502年に朝貢したとしよう。
すると、蕭繹はこの時の倭国の使者を描いたことになるが、
蕭繹は502年当時はまだ6歳にしかなっていない。

いったい何の話をしてるんだ?

>よって「梁職貢図」のソースは魏志倭人伝ではなく
>その後の新たな知見に拠るものである。となるよね。
いいや。
倭人の職貢図にある添え書きは倭人伝からの写しの域をでていない。
「その後の新たな知見に拠る」といったい何をゆってるんだ?。

もう少し誰にでも分かるように書けんか?
397水銀厨:2011/06/07(火) 16:54:31.41
仕事で先週から松浦半島から佐賀周辺を色々調査中です。
やっぱり意外と涼しいですね、この辺りは。
398伊作先生:2011/06/07(火) 17:06:36.01
>>394
>つま〜り、記紀は信じないが、魏志倭人伝は信じると。
そらそうだ。
歴史記録は公明正大を建前とする天子・王朝の責務の小一つであり、
史実の把握と記録に時には史官が命をかけた歴史をもつ中国の歴史書だ。
倭人伝はそうした「よき伝統」を色濃く残していた時代の歴史書だ。
比して、「臣」とへりくだって朝貢していた漢魏晋宋代・三韓時代の歴史を消して、
いきなり隋と百済・新羅・任那が登場する時代の創作物語など信じられるか。
歴史に真摯な者ならば当たり前の理屈だ。この野郎

創作された物語の部分を信じて語る歴史が混沌と妄想にみちて
惨憺た。状況であることは、あらためていうまでもなかろう。
つづく。
399伊作先生:2011/06/07(火) 17:08:32.55
>>394
>4〜6世紀の日本の歴史は全く語れないというスタンスでいいだね?
4世紀の見えない歴史を見てきたかのように語るのに、まともなのがあるか?
歴史に真摯な者ほど論拠に乏しい推論はいわないものだ。

>4〜6世紀の日本の歴史は全く語れないというスタンスでいいだね?
宋代・隋代の歴史もお前よりも正確に語れるが。

ただし、大和政権樹立後の歴史に興味などない。お前らに譲る。
政権が安定すると人間のやることは知れている。
政権争いと色事だ。日本書紀をみろ。近親結婚の山たい国だ。
そんな爛熟した大和時代のことなどまったく興味なし。
400伊作先生:2011/06/07(火) 17:10:08.29
>>395
誰に対する書き込みは不明だが。
この種の議論はパスする。疲れるから。
401日本@名無史さん:2011/06/07(火) 17:34:00.03
国の領域についての記載方法について
以前から疑問に思っていたのだが、

国名と距離を示したとき、その地点にあるのは一体何か?
国境なのか、中心都市なのか?、ということだ。

中心都市であれば、点として指定できるが、
国境では線としてしか指定できない。

常識的にはランドマーク(目印)となる中心都市を
示しているのが妥当と思うがどうなのだろうか。
402日本@名無史さん:2011/06/07(火) 17:37:49.89
昨年10月以降、たばこ3〜4カートンを個人輸入する例が増えています」
と明かすのは、東京税関成田航空貨物出張所だ。
個人輸入であっても、紙巻きたばこには1本当たり約12円が課税される。
例えば、あるサイトで売られていたマイルドセブンは1箱330円。
課税されると570円となり、国内より割高となる。
しかし、税関は全ての郵便物を開封しているわけではなく、別の品目と偽って
輸入し、徴税を免れようとする例が後を絶たない。
「タバコ 輸入代行」とか「タバコ 激安」とかで検索すると出るわ出るわ、、、
 中には送料込みで1箱90円とかの激安サイトもある。
403日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:21:05.13
>>376
>同じ周制を語ったもので、これほど食い違いがあるのに、
>畿内説者は反論不能。

周制に食い違いがあると短里があったことになるの。
ぜんぜん関係ないんじゃないの。
404日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:26:14.49
>>399

はい、君の論は破綻しました。

「大和政権樹立後」っていつ?
4世紀じゃないよね?
4世紀に大和政権出来たなんて記録は、どこにもないから。

よくて、継体天皇以後かな?
それ以前は、「倭の五王」の政権であって、大和政権という証拠はないよね?

つまりだ。
邪馬台国が東遷して、大和王権になったなどという結論は、導き出せないわけよ。
4世紀〜5世紀に大和王権が存在した証拠がないわけだからね。
405日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:31:57.13
伊作先生が、こんなに簡単に墓穴を掘るとはなあ。

もうすこし頭いい人だとおもったけど、
しょうがないね。
記紀を全否定するから、こうなるんだよ。

大和王権の誕生は、はやくて継体天皇から。

4〜5世紀の日本の歴史を語れないということは、
つまりは、そういうことなんだよ。

邪馬台国が大和王権になれなくて、残念だったね?
九州勢力がマキムクを作ったとしても、それは大和王権のことではないんだよ。
4世紀のマキムクの王権が、そのまま7世紀まで続いたなんて、誰も証明できないしな。

もしかして、マキムクが大和王権でなくても、東遷が事実なら、どうでもよかったかな?
だったら、HPの表題も変更しないとね。ぷぅ。
406日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:34:27.47
大和王権がないのなら、その後東遷するのも
比較的容易になってしまいそうな気がするのだが。
いいのかしらん。
407日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:38:26.35
自分は古墳が作れるくらいの大勢力がいるから、東遷、東征は難しい。
あっても、せいぜいごく少数の豪族が場所を見つけて落ち着いたという立場なのだが、

大勢力がいないとなれば、九州王朝が東遷した可能性もでてくるな。
408ローガン:2011/06/07(火) 18:41:42.72
>>393伊作ちゃん
>>352
>で?  その大帝国の公文書に基づく『倭人伝』の尺度数値が単なる誤りだってか。
>そらきみ、大帝国の当事者をバカにした話だ・とゆってるわけだ。それにほれ。きみらの得意な反論材料の一つ。
>『三国志』に細かい注釈を入れた 松之すら何も注釈も訂正もしていないが、

ここで云わんとしているのは、倭人伝が正しい、の論拠が「裴注が無い」という事。
まず、裴松之の認識が魏代を超えるものでなければ、注記がなくて当たり前なので当然論拠にはならん。
これを論拠として述べるとすると「5世紀に至って何らかの新しい知見を裴松之は得ていた。 これと倭人伝が整合するゆえ、注がつかなかった。よって倭人伝の数値は正しい。」となる。
さて、その裴松之、没年は451。彼が新たな情報を把握していたとすると、没後約百年 即位する蕭繹(508〜554年)が把握出来ていない筈が無い。
よって、550年の職貢図にはそれが必ず反映されていなければならない。
しか〜し。職貢図のテキストは魏志倭人伝以外には無い。という事で論の前提となった「裴松之が倭人伝以降の倭に関する新たな情報を把握していた。」は、ボツ。
なので、裴注が無い事が「倭人伝の数値が正しい」の論拠にはならない。 以上。
409日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:41:50.80
>>406

考古学的には、3世紀には、マキムクに前方後円墳が作られてるから、
東遷は否定される。
しかし、マキムクに前方後円墳をつくったのが大和王権という保障はない。

東遷したというなら、マキムクに前方後円墳をつくった王権になったというだけで、
邪馬台国が大和王権になったという主張は成立しない。

よって、伊作の論は根底から破綻するわけよ。ぷぷ。
410日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:47:05.44
そうだな。前方後円墳は継続されているものの3〜5世紀のヤマトの王統は何度も
入れ替わっているとみるのは妥当だろう。ただし、4世紀末の半島出兵が史実なら
王権に力があったことは間違いない。
411日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:52:39.82
半島出兵は、倭の五王であって、
畿内の王権が派兵したという証拠が何かあるの?
412日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:56:08.91
>>4世紀末の半島出兵が史実なら

これ、神功皇后かね?

413日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:58:02.89
あほか 好太王だろ。
414日本@名無史さん:2011/06/07(火) 18:58:28.79
神功皇后の半島出兵ネタは、そもそも出兵してない可能性が高いし、
出兵してても、九州勢力だろう。

景行から神功まで、九州の豪族のエピソードを取り込んだと
見ているんだけどな。
415日本@名無史さん:2011/06/07(火) 19:00:50.87
>>413
ああ、あれか、それに該当する日本側の勢力って誰?
416日本@名無史さん:2011/06/07(火) 19:33:06.12
>裴松之の認識が魏代を超えるものでなければ、注記がなくて当たり前なので当然論拠にはならん。
どうゆう意味だ?
417日本@名無史さん:2011/06/07(火) 19:49:59.96
>>416
裴松之が倭地の距離について別の情報源を持ってなかったら、倭人伝の数字が正しいか間違ってるかわからん。
当然、注を付けるわけがないということ。
418キンガン:2011/06/07(火) 20:06:17.61
>>254
下のような説明しきゃなんないんで面倒だって言ってんだけど。

「議改正朔、易服色、殊徽号、同律度量、承土行。」の「同律度量」を

僕とちくま:ばらついた度量衡を統一する。
貴方:漢と同じ度量衡を使用する。

と解釈しており、僕は
「同律度量」は議題の一つであり、前代の度量衡を継続使用するのに議論する必要はないので、
ばらついた度量衡の統一を議論しろという意味だ、と説いた。
対して貴方は、漢代と同じ度量衡を使用すると読むべき経緯が、それ以前に書かれていると発言した。
いかなる経緯かと訊ねると、「同律度量」は議題ではないからと返答している。
議題でなく命令だとしても、「ばらついた度量衡を統一せよ」と読むことに何ら問題はない。
すでに他の人が指摘しているが、同じくする対象が記されておらず、漢と同じと読むのは恣意的だ。
それをあえて、「漢と同じ度量衡を使用する」と読まねばならない、いかなる経緯が記されているのかと再三聞いてるんだけど。

>この嘉量原器が、西晋代まで使われたと見える記録が隋書にある。
>つまり、漢魏晋は同様の度量衡。

どこにそんな記録があるのかな?
『隋書』のどこを読んだら、漢魏晋の度量衡が同じと判る?
西晋の荀勗が古周尺を復元した話は読まなかったんだ。
あとで、漢の正尺(始平銅尺)が見つかり阮咸の指摘が正しかったという話も見過ごした?
つまり、普通の人は『隋書』から、漢と西晋では尺の長さが違ってたって読み取るんだけど。

なんか、その場しのぎばかりにしか思えないな。
前にも言ったが、漢魏禅譲の際の尺(度)の変化は、僕にとってなんの意味もない。
歩や里は「度」じゃないって、前に言わなかったっけ。
だから確定したいのは、「同律度量」の読みだけなの。
419キンガン:2011/06/07(火) 20:14:03.49
>>294
前スレ732
>もちろん東夷伝以外で。

貴方自身が、東夷伝を除外してると認めてるじゃん。
東夷伝に関しては、係争中ってのが共通認識のはず。
それを、そんな懸案事項はないかのように装った、

前スレ695
>以前、三国志の距離の記事を丹念に抽出してくれた人がいて、
>そのおかげで三国志に短里の記事は無いって判明しましたよ。

という発言は、明らかにデマ。
撤回しなさい。

>三国志の他の部分で短里の記述があれば、
>短里が存在した可能性がまだあると思ったのですが、
>実際は短里の記事はひとつもありません。

断言するんだから貴方は、三国志の里数値全て確認したんだよね。
ケ艾伝:冬十月、艾自陰平道行無人之地七百餘里。
このあと、先陣が江油に到着してるので、七百余里は長くても陰平から江油の間の距離となるんだが、貴方の工具書で確認してみるといいよ。
ただ、これが仮に長里だとしても、僕の立論に問題ないってのは理解してくれてないんだね?

>皇帝が同律度量と命じているのに
確認だけど、これローガン氏の解釈に鞍替えするって意味じゃないよね?
音律、度量を統一するという解釈は変わってないんだろ?
議論の内容ではなく命令だという点では、ローガン氏の解釈に与するってこと?
420日本@名無史さん:2011/06/07(火) 20:15:35.42
>>295
>「金城に(四望峡を含む)峡谷が三つある。南六百里にある。」という記述ですが、
峡谷が三つあって一つしか場所を示してないとでも言ってるのかな?
黄河三峡って調べなかったんだ。
甘粛省永靖県にあるんだけど、位置も距離も記述通りで短里確定・・・かも?
黄河三峡のひとつ、炳霊峡景区にある炳霊寺は、魏晋の時代の建立だそうな。

>四望峡がある湟水は、
工具書持ってるなら話は早いが、その四望峡ってのは
魏晋の時代は西平郡に属していたということも確認してほしかったな。

>結局、どこから見た南なのかわかりません。
たとえ金城郡の北界が起点でも長里だと金城郡内に収まらないのは確実・・・残念。
421アンギラスU:2011/06/07(火) 20:28:13.35
>>404 >>405 >>409
人の説を批判するなら自分の論拠を示しなさい。邪馬台国研究者じゃない。
422日本@名無史さん:2011/06/07(火) 20:32:24.02
>>421

よほど悔しいらしいなwwwwwwwwwwww

423日本@名無史さん:2011/06/07(火) 20:38:19.35
研究者って?ただの素人愛好家だろw
424伊作先生:2011/06/07(火) 20:58:05.60
>>408
>ここで云わんとしているのは、倭人伝が正しい、の論拠が「裴注が無い」という事。
違うんだな。どうしてそう執拗に誤解するんだ?
倭人伝は明らかに魏の公式尺度とは異質な尺度で書かれている。
このことは『三国志』に関わった人間の誰もが認めている。ということだ。
裴松之が注釈しなかったのも、このことを受容していたということ。
正しいの間違いのとは次元が違う。俺はもっと高度な判断を説いているのだ。

『三国志』に関わる裴松之と蕭繹の話は別物だ。くだらない。
ぼんくら特有の「悦に入った3段論法」など、かんべんしてくれ。
425日本@名無史さん:2011/06/07(火) 21:08:49.38
中国大好き伊作先生は、
「日本旧小国、倭国之地を併す」って知ってるよね〜

せっかく、九州から東征してきても、あとから「小国日本」に併合されちゃったんだよね〜

九州勢力なんて、所詮その程度っすよ。
426伊作先生:2011/06/07(火) 21:14:18.60
>>425
旧唐書の「倭国が日本国に改めた」という文節からの局部抜粋か。

「小国日本に併合されちゃった」などとは、
騎馬民族説の江上波夫と、九州王朝説の古田武彦が、
揃ってバカげた解釈をしてくれてたっけな。
427伊作先生:2011/06/07(火) 21:17:55.41
>>425
>中国大好き伊作先生は

見損なうなよ。
俺たちは、絶対専制時代の帝国の歴史書に基づいて、
帝国時代の歴史を研究し論じているんだぜ。

「帝国の歴史を知らずして何が語れるか」という
俺のスタンスと研究姿勢に対して、
表層的な誤解による揶揄をいう気なら板外の「表」で相手になるぜ。
428伊作先生:2011/06/07(火) 21:35:13.11
さてローガンくん。話をもどそう。

国家レベルの公文書に基づく『倭人伝』が、
魏の公式尺度とは明らかに異なる尺度で書いている。
この事実からは逃げられないから認めるよな。
で・先に提示したように
『三国志』に携わった国家規模の組織と、膨大な人間がいたが、
みな、魏の公式尺度とは明らかに異なる尺度を容認している。
その一例として「松之という希代の知識人すら容認している事実をあげた。
だからこそ俺たちは「それ」を目にするに至っているのでもある。
きみは、「畿内説に合わない記録は文献の誤り」というのだから、
「『三国志』に携わった膨大な人間はみなバカだったというわけか」
という皮肉を最初に述べたわけだ。

天才の大容量回路と驚異のハイスピード回転と計算づくのほどが、
ちっとは分かったことだろうな。
429日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:17:33.82
>>426

>旧唐書の「倭国が日本国に改めた」という文節からの局部抜粋か。

「倭国が日本国に改めた」と解釈した根拠は何ですか?



430日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:39:58.21
>>417
>裴松之が倭地の距離について別の情報源を持ってなかったら、倭人伝の数字が正しいか
>間違ってるかわからん。当然、注を付けるわけがないということ。
ローガンがそんな馬鹿なことをいうとは思えませんが。
裴松之が韓国の大きさを全く知らないなんてありえないですね。方四千里とあるのをみれ
ば、それが公式里の長さでないことはすぐに察したはずですよ。
また、郡から万二千里のところが会稽東冶の東だというのも、公式里とまったく合致しな
いことぐらい一目で分かるでしょう。
倭地の距離について別の情報源を持ってなくたって、公式里でないことははっきりしてい
るわけで、当時そのような里が使用されていなかったら注をつけるべきところですよ。
431日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:46:28.59
>>424
>このことは『三国志』に関わった人間の誰もが認めている。ということだ。
>裴松之が注釈しなかったのも、このことを受容していたということ。

と思ったっていうだけだ。
えらい飛躍だなあ
432伊作先生:2011/06/07(火) 22:48:42.14
>>429
わからないことは自分で調べて極める、これが勉強の基本だ。
旧唐書と唐会要が、「小国日本に併合されちゃった」とか、
「小国が他を併合して日本になつた」とか、
誤解したくなるようなことを書いた文節をよく見てみ。

あれが国名の変更に関する記録に見えたら正常。
俺は正常な人間を相手にする人だ。
433伊作先生:2011/06/07(火) 22:52:12.01
>>431
このことは『三国志』に関わった人間の誰もが認めている。ということだ。
裴松之が注釈しなかったのも、このことを受容していたということ。

>と思ったっていうだけだ。 えらい飛躍だなあ
整った理路とりっぱな論理に基づく洞察だ。
これが飛躍に見えるのは・お前が能足りんだからだ。
434日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:56:41.34
郡から狗邪韓国まで以外は公里に拠ってると思うんだけどなぁ
435日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:56:42.91
>>432

邪馬台国は、昔の大和だとも、書いてあったよね〜?

やっぱり、邪馬台国は大和でいいんじゃん。
436日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:09:19.45
>>403
一)

わたしはなぞが解けましたよ。きちんと整合しました。
やはり長里は無かったです。周から後漢まで。
一編には説明が多すぎて書けませんので、
順をおって少しずつ書いて行きます。
番号をふりますから、興味があったら読んでみてくださいね。


@夫布指知寸,布手知尺,
舒肘知尋,斯不遠之則也。周制,三百步為里,千步而井,三井而埒,埒三而矩,五十里而都,封百里而有國

A歩百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井、井方一里

両方見比べて、Aの井方一里はなぜ井も里も同じ意味なのに単位を変えたのか、
それは方里=一里という認識がなく、里は今のように面積も長さも表していた
わけではなく長さだったのだろうと判断。

@を見ると文の流れからみると、どうも里、井は長さのようだ、
しかも井は丸い面積を表し、千步はその円周の長さだと検討をつけました。

「井」というのは一つの井戸を共用して八軒がまわりに集まったので八軒に家を
一井とするのだそうです。

二)へつづく
また明日。
437日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:18:19.07
孔子?何故?
438日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:20:05.63
ドナドナ
439日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:30:51.83
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KangnidoVsFraMauro.jpg

この地図みても、日本とフィリピンの混同してたっぽいんだよな
日本がもっとフィリピンっぽく書かれてたのも見た記憶があるんだけど見つからない
440日本@名無史さん:2011/06/07(火) 23:40:13.99
朝鮮、大陸級にデカイな。
441ローガン:2011/06/08(水) 00:09:37.58
>>418よう、おかえり。
>すでに他の人が指摘しているが、同じくする対象が記されておらず、漢と同じと読むのは恣意的だ。

じゃあ「改正朔,易服色,殊徽号」についても漢と異なるものとすると読むのは恣意的だと主張するんやね。
では服の色は何から何に変えると読めばいいの?答えられないでしょ。(笑)

>どこにそんな記録があるのかな?

あるだろう?改めて聞かれると不安になるけど…「晋武庫中漢時王莽作銅斛其銘曰律嘉量斛」って。違ったかな。

>西晋の荀勗が古周尺を復元した話は読まなかったんだ。

そんなの、数年前から書いている事。ここにはサガミ先生という 「周尺は短いんだあ、周里だあ、九州だあ」って人がいるんですよ。貴方は知らないかもしれないが。
その方に何度も言ってる。3%程の誤差だって。反論は貰えないけどね。
さておき、そもそも度の乱れを指摘って事は、その時既に度が統一されていた事がわかる事例。
たとえが悪いかもしれんが、原始時代にアウトローはおらんやろ。
442日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:17:19.18
>>425
まったくもって同意です
九州王朝=倭は百済と運命を共にし、東の小国である日本に併合されたのですよ

443日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:20:44.60
>>442

よくわかってるじゃないか。

それにくらべて伊作の愚かなこと。
444日本@名無史さん:2011/06/08(水) 00:30:52.95
伊作大先生って縄文時代からすでに日本という国が形成されてたと考えてるんじゃなかったっけ?
そこへ青銅器・鉄器が入ってきてパワーバランスが崩れてちょっと混乱が起きた、ってだけの話しでしょ
445ローガン:2011/06/08(水) 00:32:02.40
>>428
>国家レベルの公文書に基づく『倭人伝』が、魏の公式尺度とは明らかに異なる尺度で書いている。この事実からは逃げられないから認めるよな。

いや、天子の度と乖離が認められるというだけ。その乖離した部分だけをとらえ、新たな度を発明する行為を笑っちゃうだけ。

>その一例として 松之という希代の知識人すら容認している事実をあげた。

何もなかったふりして取り繕っても駄目。さっき、滑ったやん。

>天才の大容量回路と驚異のハイスピード回転と計算づくのほどが、 ちっとは分かったことだろうな。

……。お休み。
446日本@名無史さん:2011/06/08(水) 06:51:07.95
>>445
>天子の度と乖離が認められるというだけ。その乖離した部分だけをとらえ、
>新たな度を発明する行為を笑っちゃうだけ。
どうして乖離しているのか、その理由はどう考えるの?
それに乖離した数字は、東夷伝のあちこちに出てくるね。それを誰も咎めな
いのはどうしてかな?笑ってごまかすしかないかね?
447伊作先生:2011/06/08(水) 06:51:27.13
>>444  おはよう。
>伊作大先生って縄文時代からすでに日本という国が形成されてたと
「縄文時代から日本という国が形成されてた」などと発言するバカはいまい。
そういう誤解をすることは自らの程度をさらすも同然だな。

(文字数制限の都合で端折って)●これが伊作大先生説だ●
縄文土偶から弥生の銅鐸、銅鏡、埴輪、古墳に至るまで、
長江流域で各時代ごとに三苗・南蛮・荊蛮などと呼ばれた
「文身・黒歯・無文字文化」をもつ民族の形跡が連綿とつづいている。

それが、彼らが神と崇める蛇神(伏義と女媧)にまつわる幾何学文様だ。
人首蛇身を形どった(双極文、二頭うず文、蕨手文、双脚輪状文)。
玉璧を描いたと思われる円文・同心円文。蛇のウロコを形どった連続三角文(鋸歯文)・菱形文などだな。
稲わらでつくった「しめ縄」も人首蛇神の伏義と女媧がからんだ象形に由来するというぞ。
自分の身の回りをよく見わたしてみれば、神社仏閣に限らずこの種の文様が息づいているはずだ。
つづく。
448伊作先生:2011/06/08(水) 06:53:32.59
それだけじゃない。
稲作、棚田づくり、銅鐸、環濠集落、横穴墓、船形木棺、
地面と同じ高さに石室をつくる高塚墓、そして、黥面文身・黒歯・無文字文化………
何から何まで長江河口から継続的に渡来したものだ。
とくに稲作は煮炊きを必要とすることから土器文化が発達する。
縄文の土器文化も列島がオリジナルではなく、長江文明が先駆だ。

初期の稲作は大がかりな開墾を必要としない「谷戸」で行なわれた。
人びとは谷戸(わさび田のような山間の天然水田)を求めて列島各地へ散った。
これが稲作とともに人々が列島各地に広がった最大の理由だ。

日本列島に縄文時代をもたらしたのも弥生時代、古墳時代をもたらしたのも、
みな長江流域から直接渡来した人々だ。すなわち縄文人も弥生人も元は同じ。
これが「倭人のルーツ」でもある。

海浜の水の民、河口部や中流部の民、上流部から丘陵・山岳の民。
人種・民族的には同じだが、少しずつ文化の異なる色んな民族がやってきて、
それぞれの文化をもって集団ごとに住み分けていてた。
そうした社会部族の中で(現代の中国における少数民族のように)
大勢への同化を嫌った集団が、のちに熊襲と呼ばれることになる。
つづく
449伊作先生:2011/06/08(水) 06:54:27.35
長江流域から「人・もの・文化」が時代ごとに継続して渡来したが、
元が同じなので受け入れるにも融合するにも抵抗は少ない。
熊襲と呼ばれることになる集団のように例を除けば、
基本的には大した混乱も争いもなく「列島倭人」が形成された。
これもまた、世界に類をみない日本列島特有の現象だ。

本当のところは、日本列島の勢力に畿内も九州もない。元はみな同族なのだ。
だが、幼稚園で習う加減計算程度の単純さで歴史をみると、
こういうバカげたことを平気でいうことになる。
>そこへ青銅器・鉄器が入ってきてパワーバランスが崩れてちょっと混乱が起きた

青銅器・鉄器はどこから入ってきたと思ってるんだ。
地図でみた距離的関係だけで「何でも朝鮮半島由来」とするのは間違い。
何をゆっても通じないものは通じない。これっきりにしよう。

ちみに拒絶宣言をするのはこれで何度目になるかなー? はは
450伊作先生:2011/06/08(水) 06:55:53.36
>>445
>天子の度と乖離が認められるというだけ。
公式尺度とは異なる尺度数値で書かれている事実を認めたことに変わりはない。

>その乖離した部分だけをとらえ、新たな度を発明する行為を笑っちゃうだけ。
「新たな度を発明」などしない。「周尺だ・短里だ・長里だ」もどうだっていい。
事実をみなが確認できればそれでいい。

『三国志』関係者も知識人も公式尺度とは別の尺度数値で書かれていることを看過した。
その一例として 「松之という希代の知識人すら容認している事実をあげた。
理由は不明だが「公式尺度とは別の尺度数値」は生き残った。筋の通った話だろ。

>何もなかったふりして取り繕っても駄目。
俺のほうは最初から同じ主旨で一貫しているが。

>さっき、滑ったやん。
具体的にはいえずにポーズだけか? 卑劣だな。
もともとは、己が意味不明のことを書いたことに起因する話か?
それとも、得意の「異次元事例持ち出し独善」の話か? わらわら
451どくだみ:2011/06/08(水) 08:04:06.69
>>419
ケ艾伝について。
その直前の部分にケ艾の言葉が載っています。
「(前略)陰平より邪徑によって漢コ陽亭を経てフウ(倍のニンベンではなくサンズイ)に趣き,劍閣の西百里出れば,
成都を去ること三百餘里,奇兵 其の腹心を衝く。(後略)」
漢徳陽亭と剣閣とフウと成都の位置関係は、短里では全く足りません。
だから、わずか三行後の「艾自陰平道行無人之地七百餘里」が短里な訳がありませんよね。
では七百餘里とはなにか。
君はこれを都市の陰平もしくは陰平郡の南辺から江由までの距離と思ったんでしょうね。
しかし、陰平郡は蜀の領土です。東には武都郡・漢中郡と蜀領が続きます。
魏軍の行軍がいきなり蜀領のなかからはじまるわけはありません。
ケ艾は、魏領である北の雍州から陰平郡に入ったのでしょう。
北から南に郡内を縦断して南の梓潼郡の江由に至ったのです。
「艾自陰平行無人之地」ではなく「艾自陰平【道】行無人之地」と
「道」がついているのはそういう意味です。
しかも人目については奇襲に失敗しますから、陰平郡内の無人の地を選んで
「邪徑」を通ったわけです。普通に街道を行軍するより距離がかかったでしょう。
だから七百餘里=300km以上になります。
それに、君の引いた直後に「又糧運將匱,頻於危殆。」とあります。
短里では700里×76m=53kmにしかなりません。
兵糧が尽きかけて危殆に瀕するほどの距離ではありません。
452どくだみ:2011/06/08(水) 08:12:31.97
>>420
黄河三峡は四望峡ではありません。
黄河三峡は、炳霊峡、劉家峡、塩鍋峡の三つの峡谷を指しています。
一方、四望峡のほうは明清期に八盤峡と名を変えていて、
グーグルマップでは今の蘭州市の西北西、当時の都市の金城の近くにあります。
google日本で検索するときは簡体字でやってください。
google中文だと繁体字でもヒットします。
黄河三峡は、この八盤峡の南の方になります。
黄河三峡の名前だとグーグルマップでは他の地域の三峡しか出ませんが、
劉家峡で検索すると位置が確認できます。
歴史地図集では四望峡は、魏晋時代の西平郡に相当する位置に書かれています。
グーグルマップでは、もっと東の金城(都市)付近になります。
つまり、四望峡とは西平郡から金城(都市)までの湟水沿いの
長大な峡谷だった可能性があります。

つづく
453どくだみ:2011/06/08(水) 08:18:40.34
>峡谷が三つあって一つしか場所を示してないとでも言ってるのかな?

その通りです。黄河三峡が三つの峡谷の総称であるように、
「金城有三キョウ」も四望峡と他に二つあわせて三つの峡谷があるということです。
三峡と三キョウで、両者は同じものの固有名詞だと思ったのかもしれませんが、
三つの峡谷であって固有名詞ではありません。
そういうわけで、文穎によると、金城郡にはあと二つ峡谷があります。
ところで、君が黄河三峡を提示してくれたおかげで、ようやく文穎の注の意味がわかりました。
湟水は西平郡内から金城(都市)付近まで、金城郡内を東流して黄河(黄水)に合流します。
黄河は金城(都市)付近から南→西にのびています。
つまり湟水と黄河は金城郡の南半分でコの字をえがくようにつながっているのです。
湟水だけだと金城郡内の南北方向の真ん中あたりを流れているので、
在南六百里というのが理解できなかったのですが、
文穎は黄河まで入れて南と書いているんですね。
文穎のいう「金城有三キョウ」には、君のいう「黄河三峡」が
ひとつの峡谷として含まれているのでしょう。
金城郡の南部にある湟水と黄河からなるコの字の流域で、全長六百里=260kmにわたって
峡谷群が三つ点在しているということでしょう。
二点間の直線距離だと思い込んでいたので、文穎の注の意味が読めていませんでした。

連投になりますので、他の質問は、また夜か明日にでも。
454日本@名無史さん:2011/06/08(水) 10:07:53.83
二)

三百步為里、千步而井、これが長さを表すと見当をつけました。
そこで步は長さの単位として別にあったと考えて、Xに置き換えます。

300X=里、1000X=井、としてXを求めれば里の長さ、井の円周の
長さが求められます。
次に周代の步の面積を求めます。
周代は六尺ではなく八尺分だったようですが、とりあえず
周でも六尺為步は一貫していたと思われます。
周尺(約20cm)×6=1.2メートル
周代の步は1、2メートル四方の面積ということになります。
つづく
455日本@名無史さん:2011/06/08(水) 10:08:41.94
三)
A歩(步)百為畝、畝百為夫、夫三為屋、屋三為井、井方一里 より

次に周代の畝(うね)の面積を求めます。
步が百個で畝(うね)ですから、步がたて10個、よこ10個の面積です。
ですから畝(うね)の面積は12メートル四方になります。

次に夫の面積を求めます。ここで一考。
畝(うね)の広さは12メートル四方でけっこうな広さがあります。
その次にまた百倍すると、その間の単位が存在しなかったことになります。
それと全体を眺めて見ると、百、百、三、三となっています。
順当に考えれば、百、十、三、三、が適当です。
ですから畝百為夫を畝十為夫に置き換えてみました。
つづく
456日本@名無史さん:2011/06/08(水) 10:09:28.14
四)
A歩(步)百為畝、畝百(十)為夫、夫三為屋、屋三為井、井方一里より

次に畝百為夫を畝十為夫に置き換えて、夫の面積を求めます。
畝(うね)の面積は12メートル四方ですがメートル四方を使うと
複雑になりますので、(步)を使用します。
畝が100步ですから、夫は1000步になります。
次に屋は3000步になります。次に井は9000步になります。
つまり井の面積は9000步ということになります。

つづきは 連投は無理なので、どんこいの方へ移動します。
457転載:2011/06/08(水) 10:35:37.59
五)

井は円の面積でこれが9000?ですから、
?の面積は1、2m×1、2m=1、44
井=9000×(1.2×1.2)=12960の面積で
これを平方メートルに直すと
約113メートル四方の面積となります。
これが円の面積ですから
半径×半径×3.14=12960
半径は64メートル、直径は128メートル
円周は402メートル。これが井の円周の長さになります。
1000X=井に代入して、X=40cm
300X=里に代入して里=120メートル

井方一里ですから、方里は120×120=14400
で井の面積12960とほぼ一致します。
これで方里=井が証明できました。
つづく
458転載:2011/06/08(水) 10:36:48.52
六)

X(長さとしての単位)=40センチということになりました。
これが古文献でいう足二歩で一歩の「歩」という単位になり、
長さを表します。?とは別字になります。
古文献にも二足分の歩は「歩」という字を使っています。
ですから、元は歩と?の字が存在したということになります。
足二歩で40センチは20cmの足の大きさですから非常に小さいです。
これは元にになる周尺が小さいからです。
いろいろ誤差を考えて40センチ〜50センチの間が適当だと思います。
ですから、わたしは里の長さは120メートルと150メートルの
中間値の135メートルが適当かと思いました。

ですから100歩の卑弥呼の墓はおよそ40メートル〜50メートルの
間ということになります。
つづく
459日本@名無史さん:2011/06/08(水) 11:23:57.19
460日本@名無史さん:2011/06/08(水) 13:03:02.18
転載ありがとうございます。

>>459
井田法では一つの井戸を共用して八軒がまわりに集まったので八軒の家を一井とする。
これから、井は丸いものだと考えました。
これが、正方であっても周囲の長さはあまりかわりません。
ところが長方形や、台形だったりすると、同じ八軒があつまった井としても
井の周囲の長さは1000Xでは示されません。
ですから、井は円か正方だと思います。井字の形や意味から言っても
それでよいのではないでしょうか。円でないとするならば、正方でもかまいません。
数字はそれほど変わりませんから。

なぜ、里と井を別に考えたかというと、里が面積、長さを共有するならば、
300步為里、1000步而井と別に表記する必要がないからです。
461日本@名無史さん:2011/06/08(水) 13:04:08.94
七)

里=120〜150メートル、歩=40センチ〜50センチとすれば、
春秋、秦〜後漢、その後、度量衡の統一までこれが
単位となっていたということです。これで
すべて倭人伝、中国国内のその時代の長さが整合され、方を周にしたり、数字を
変えたりしなくても、済みます。
従来の短里の二倍になりますが、古代は思ったより道のりが長いです。
ですから現代地図の2倍〜3倍の長さち考慮する方が現実的です。
これで倭人伝の距離も歩の長さも合致します。以上
462ローガン:2011/06/08(水) 15:31:56.04
>>446
>どうして乖離しているのか、その理由はどう考えるの?

間違いだから。

>誰も咎めないのはどうしてかな?

正確な数値を把握していなければ訂正など不可能。 以後、幼稚なレス不要。
463350:2011/06/08(水) 16:34:25.30
>>462
>間違いだから。
韓国の面積は公里で言えば方800里くらいだな。実際に旅した使者らが800里を
4000里と間違えた?ありえないね。ローガンだけじゃなく痴呆症になったか。

>正確な数値を把握していなければ訂正など不可能。
正確な数値を知らなくても、疑問があるって指摘はできるよな。

>以後、幼稚なレス不要。
虚勢は見苦しいぜ。素直に、返答に困る指摘はしないでくれって言えばいいんだよ。

464ローガン:2011/06/08(水) 16:48:35.57
>>463
>実際に旅した使者らが800里を4000里と間違えた?ありえないね。

頭は大丈夫か? 「実際に旅した使者らが800里を4000里と間違えた」と主張している者がいるならそいつに言え。
ゴミクズ君。
465伊作先生:2011/06/08(水) 18:11:31.13
>>462
>正確な数値を把握していなければ訂正など不可能。
ほいきた。ルアーに食いついたブラックバスだな。わはは

誰が正確な数値を把握していなかったんだって?
漢の武帝が4郡を置いたのが紀元前108年だった。
後漢末になると遼東郡太守の公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を置く。
こうしたことを承知のはずの中国人も魏政府の要人も知識層も皆か?
だから「バカばかりだったというのか」とゆってるのだよ。

地理情報は軍事情報であり、版図情報であり、年貢の基礎となるものである。
実際の距離よりも6倍強で書かれたのでは、面積は何倍になるか。
とち計算してみてくれや。
そんな数値に従って法外な年貢徴収を求められたのでは、
郡太守もたまったものではあるまい。バカげた詭弁をいうな。

参考までに確かな版図情報としての『後漢書』郡国史/幽州の記録。
・遼東郡:洛陽の東北3600里。・玄菟郡:洛陽の東北4000里。
・楽浪郡:洛陽の東北5000里。
466伊作先生:2011/06/08(水) 18:21:49.37
>>462
「間違いだから」とゆっておきながら、
「誰も正確な数値を把握していなかった」などとは、ほとんどヤケクソだな。

誰もが明らかに異なる数値で書かれていたことを承知していたが、
これを誰も訂正も注釈も加えなかった。
それはなぜか。
どんなへ理屈・詭弁を弄してもつじつまの合わない推測に終始するから、
分からないことは分からないとするしかないのだ。
467日本@名無史さん:2011/06/08(水) 18:28:19.94
魏の水軍の母港ってどこにあったんですか?
468伊作先生:2011/06/08(水) 18:36:39.59
俺のサイトをみてコンタクトしてきた中国人研究者がゆったものよ。
「軍人が方角や距離を間違えては笑い者ですよ」。

知的な中国人らしいいまわしだ。(彼は中国で古文を専攻した男)。
まともな中国人学者・研究者は邪馬台国問題には口をださない。
日本の歴史に対しては極めて慎重で自粛している感さえある。
それだけに、日本における研究の動向を冷徹にみているようだ。
469キンガン:2011/06/08(水) 19:52:58.64
>>441
>じゃあ「改正朔,易服色,殊徽号」についても漢と異なるものとすると読むのは恣意的だと主張するんやね。
>では服の色は何から何に変えると読めばいいの?答えられないでしょ。(笑)

そんな主張してないし、言葉遊びがしたいの?
漢と異なるんじゃなく、以前と異なるんだよ。
以前が、AであれBであれCであろうとも、今回がDなんだから以前を特定する必要はない。
ただ、「同律度量」の場合、以前が「漢」なのか「新」なのか「秦」なのか「古制」なのか特定しないと意味がない。
今回に合う同じものは一つしかないから。
ま、これはお遊びだが、「同律度量」を貴方のように読むのだとしたら、
畿内説の面々がもっと喧伝しているはずだが聞いたことはない。
つまり、貴方のような読み方をしているのは、貴方だけだ。
しかも、そう読む根拠を提示できない。

何度聞いても返答しないんだから、
「同律度量」を「漢と同じ度量衡を使用する」と読むべき経緯など書かれていないということでいいね?
でたらめだったということで決着?

>あるだろう?改めて聞かれると不安になるけど…「晋武庫中漢時王莽作銅斛其銘曰律嘉量斛」って。違ったかな。
適当にいってんの?律暦上・審度は読んでないよね?
歴代の尺の長さを荀勗が定めた晋前尺と比較して記してあるんだが、
漢官尺・魏尺・晋後尺いずれも異なる値だ。
法定尺は別だったんだろうね。
もう一度訊ねるが、『隋書』のどこで「嘉量原器が、西晋代まで使われた」事が解る?
470神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/06/08(水) 20:00:10.36
まだ1里がどれくらいの距離か不毛な議論をしているの?
晋書宣帝紀に「宛は洛陽から八百里の距離にあり、新城郡から千二百里の距離にあり」と
太和2年(228年)魏に反乱をおこした孟達が言ったことを検証しましょう。
471キンガン:2011/06/08(水) 20:00:42.28
>>451
>漢徳陽亭と剣閣とフウと成都の位置関係は、短里では全く足りません。
>だから、わずか三行後の「艾自陰平道行無人之地七百餘里」が短里な訳がありませんよね。
もちろん長里、しかも直線距離の可能性が高いね。
ただ、これは会話文。三行後の「七百餘里」は地の文。

>君はこれを都市の陰平もしくは陰平郡の南辺から江由までの距離と思ったんでしょうね。
貴方の挙げたケ艾の会話から起点が陰平なのは自明だけど。

>魏軍の行軍がいきなり蜀領のなかからはじまるわけはありません。
>ケ艾は、魏領である北の雍州から陰平郡に入ったのでしょう。
すでに、蜀領内で戦闘を繰り返してるとケ艾伝には書かれてあるが・・・読まなかった?

>短里では700里×76m=53kmにしかなりません。
>兵糧が尽きかけて危殆に瀕するほどの距離ではありません。

すげー難所って書いてあるんだけど、これもスルー?
472日本@名無史さん:2011/06/08(水) 20:02:15.23
>>452
>一方、四望峡のほうは明清期に八盤峡と名を変えていて、
これの情報ソースを教えて。

>つまり、四望峡とは西平郡から金城(都市)までの湟水沿いの
>長大な峡谷だった可能性があります。
すると趙充国は、金城から西平郡まで少なくとも百キロ以上物見させてから、落都に着いたということ?
『歴史地図』だと落都を楽都近辺に比定してあるんだけど、貴方の落都はどこにする?
473キンガン:2011/06/08(水) 20:03:25.36
>>453
>三つの峡谷であって固有名詞ではありません。
固有名詞と言った覚えはないな。
三峡とあって所在地が一つなら、三つかたまってると普通は思うね。

>湟水だけだと金城郡内の南北方向の真ん中あたりを流れているので、
>在南六百里というのが理解できなかったのですが、
>文穎は黄河まで入れて南と書いているんですね。

すげー力わざ。
金城の南六百里という位置情報を湟水から黄河までの川の長さに変えちまったぜ!
でも、西平郡治から黄河三峡までの川の長さを測ったとして、200キロにも届かないんじゃないかな?
600里には到底合わないと思うけど、畿内説だからにしないよね。

>文穎の注の意味が読めていませんでした。

自由自在に読めてるし、デマ発言には一切触れないし、徹底してるじゃん。
474キンガン:2011/06/08(水) 20:11:41.44
>>471
訂正
誤:ただ、これは会話文。
正:上奏文

だな。
475日本@名無史さん:2011/06/08(水) 20:44:36.26
結局、短里の証拠なんて無いってことだな。
尺の長さはほぼ確定で、歩と里との比率が決められてるのだから、
もう覆し様が無いよな。。
476アンギラスU:2011/06/08(水) 21:21:05.59
>>463
>正確な数値を知らなくても、疑問があるって指摘はできるよな。
そう、馬鹿でもできるよね。
477ローガン:2011/06/08(水) 22:01:39.36
>>469キンガン
>漢と異なるんじゃなく、以前と異なるんだよ。
>以前が、AであれBであれCであろうとも、今回がDなんだから以前を特定する必要はない。

何をアホな事を…
天統から地統なんだから夏正を改めるに決まっているだろうが。(議論の結果、夏暦続行)
他も同じ。漢と魏が対になった文。

>ただ、「同律度量」の場合、以前が「漢」なのか「新」なのか「秦」なのか「古制」なのか特定しないと意味がない。

却下。そういうのを恣意的というんだ。

>ま、これはお遊びだが、

此方も「無い証明」というお遊びだ。本来「無い」だけで済む事。 「ある」と主張する者がその証拠を出せばいいだけ。ところが一向に出てこない。

>しかも、そう読む根拠を提示できない。

だから、何度もいう通り、この詔勅は漢と魏が対になっている。漢と同じと読めば良い。わずかな乱れはあったとしても度量衡自体は統一されている。

>「同律度量」を「漢と同じ度量衡を使用する」と読むべき経緯など書かれていないということでいいね?

今度はレスの改竄かあ?上で「経緯が前述されている」といったのは、「議」が同律度量にはかからないという話だ。そして、それが2日前の上奏だと書いた。

>漢官尺・魏尺・晋後尺いずれも異なる値だ。

時代によって多少変化しているのは言わずもがなだ。小さな辞書の巻末にさえ載っている。
「晋武庫中漢時王莽作銅斛其銘曰律嘉量斛」
隋書のあると言ったのは間違いだった。ごめん。 今日は飲み会ゆえ後程。
478日本@名無史さん:2011/06/08(水) 23:01:39.52
>>477
>「ある」と主張する者がその証拠を出せばいいだけ。
なるほど。東夷において公里が使用されていたという証拠はあったかな?
証拠だしてね。
479伊作先生:2011/06/08(水) 23:02:11.59
>>475
>結局、短里の証拠なんて無いってことだな。
そうだ。短里など現代人の造語だろ。
俺は、騎馬民族・短里・冊封などという現代人がつくりした造語が大嫌いだ。

だが、『倭人伝』の尺度数値が魏の公式尺度数値とは
かけ離れた数値で書かれていることは事実だ。それは短里などではない。
短里などという造語を否定したからといって、
この事実まで覆すことはできない。それは事実から目を背けることになる。

心してかかることだな。
480伊作先生:2011/06/08(水) 23:16:08.40
>>477
ローガンくん。返ったら読めな。

王朝が替わるとやることはワンパターンだよな。
親近血族への封拝・功臣の進爵・恩赦・大赦、
そして検地と度量衡の整理もしくは改訂だ。

検地と度量衡は王朝への身入り(年貢)に直接関係するからな。
支配地の地理・面積や石高(生産力)をより正確に把握することは定石だ。
そんな地理・面積を間違ったまま放置することはなかろう。

ということから導き出される結論は、
『三国志』に携わった当事者たちも知識層もみな、
魏本土で使っている公定尺度とは異なる尺度で書かれていることを承知で、
そのまま正史の列伝の末尾に残したのだ。ただの間違いではないぞ。

では、この件は「勝負あり」とする。
481日本@名無史さん:2011/06/08(水) 23:50:13.21
短里派、長里派とは別に
短里二倍派がいることもお忘れずに。

たとえば、阿房宮の大きさですが、
阿房東西五百步,南北五十丈,より

これを短里二倍派で計算すると東西250メートル、南北125メートル
で、きれいに2:1の比率になって、黄金比率に近く建物として美しい姿。

ところが長里を使うと東西700メートル前後、南北125メートルで、
7:1に近い。建物としては限りなくきたない姿。

短里を使うと東西125メートル、南北125メートルで
これまた限りなく貧弱な姿。

となります。

482日本@名無史さん:2011/06/09(木) 01:04:37.10
ば〜か。
483日本@名無史さん:2011/06/09(木) 01:21:28.96
今日の名人戦は素晴らしい将棋だったな。
484日本@名無史さん:2011/06/09(木) 02:13:15.06
>>481
あんたの美的感覚なんかどうでもいいんだよ。
中国様がせっかく現代に再建して下さってるのだから、
我々はありがたくそれを受け入れなきゃならんよ。
485日本@名無史さん:2011/06/09(木) 03:38:34.89
>>471
上奏文は長里で地の文は短里って無理矢理だな
486日本@名無史さん:2011/06/09(木) 07:28:58.10
>>484
わたしも中国様の国内のことは言いたくないですけどね。
中国様が日本の歴史のことを口出ししないように。
本当は中国が残した古文献には最大に敬意を払っていますから。

でも、本当のことを知ってなんで不都合があるんだろう。
古人はそんなことを微塵も考えず、
記録を残したのに。
人間の文化的発展記録を見て、これからの人間のあり方を見ることは
大事だと思うな。中国はなんとすばらしい記録を残したのだろうと
感嘆しきり。
487日本@名無史さん:2011/06/09(木) 07:32:21.61
今週の週刊文春に三角縁神獣鏡が中国で生産された特注品である文献
証拠が発見されたとあるね。また景初四年という年号も当時は
中国で使われていた記録が晋書天文志という古代の公式天文記録
に使われているなど三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に
高くなったようだ。これで九州説の大きなな畿内説への反論
が見直さざるを得なくなることになりそうだ。
488日本@名無史さん:2011/06/09(木) 09:30:39.35
>>464
>「実際に旅した使者らが800里を4000里と間違えた」と主張している者がいるならそいつに言え。
あれ、ローガンはそうゆう主張じゃないのかな?
では、郡から狗邪韓国まで7000里はどっから出てきたのかな?


489伊作先生:2011/06/09(木) 09:49:37.48
>>487
>三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に 高くなったようだ。
街頭香具師みたいなことをいうな。
この天才が現れたからにはそういう手口は通用しない。
問題の本質は中国産か倭国産かではなく、
中国産ならばどこで作られたである。
魏の尚方(官製鏡工房)で卑弥呼に贈るためにつくられた特注品か否かだ。

>畿内説への反論 が見直さざるを得なくなることになりそうだ。
バカ野郎。
神獣鏡は当時の魏の敵国たる呉地方の特産で、
魏の尚方(官製鏡工房)では絶対につくられない様式の鏡だ。
(わかるかなー。王朝とは威厳・格式というものにこだわるものだ)。

魏の尚方(官製鏡工房)では絶対につくられるはずのない神獣鏡に、
あろうことか魏の年号が入っているという、この「超不条理」。
天才がはじめて指摘した盲点をどう処理するか。

どうせ投稿するならば、知的香りのする内容にむろや。がんたれ
490伊作先生:2011/06/09(木) 10:18:37.41
>>488
>郡から狗邪韓国まで7000里はどっから出てきたのかな?
おや・俺の説を知らないのかい?

海路距離は正確な測定が不可能だ。測定できないものは正確に書きようがない。
で・数多の歴史書がそうであるように「1航海1000里」、「1日航海1000里」と、
1000里単位か日月単位でアバウトに書くことになる。
それが、郡から狗邪韓国まで(7日間航行)7000余里だ。

たとえば、潮待ち・風待ち・天候待ちなどで正午に出発して、
夕方に目的地に寄港したとしても「1航海1000里」、「1日航海1000里」となる。
つまり『倭人伝』の海路距離は、実際の距離とも陸路距離とも無関係だ。
(『倭人伝』はこの海路の10000里を日数に替えて再表記している)

そもそも、三韓の方4000余里の二辺の合計は8000余里だが、
三韓の領域らりも北にある帯方郡から狗邪韓国まで7000里のほうが
地図上でみても距離的には長いだろ。

海路距離と陸路距離を同じ尺度でひっくるめて「12000余里」がどうこうと、
バカづらさげて垂れているのが多いこと・多いこと。
491伊作先生:2011/06/09(木) 10:21:39.83
しかも。
魏の公式尺度の約6倍強で書かれているものを、
バカづらさげて魏の公式尺度にそのまま換算して、
色々と吹いてきたのが多いこと・多いこと。
492日本@名無史さん:2011/06/09(木) 10:22:09.18
邪馬台国がどこかなんてそんなもん
考えたって答えは絶対に出てくるわけないだろw
そんなこともわからん馬鹿どもが。
こんなん歴史オタが妄想で語ってるだけ。
意味ない作業だよ。
493伊作先生:2011/06/09(木) 10:34:44.93
>>489のつづき

神獣鏡がみな、中国も中国「呉」で作られたと分かったら面白い。
魏が卑弥呼に贈った鏡とはまったく別の、ただの流通鏡という論理に帰結する。
文春にのっかったセンセはどういう結論なのか。
またぞろ、「畿内説のやることはマンガ以下」の轍を踏むんじゃなかろうな。

わらわら
494日本@名無史さん:2011/06/09(木) 10:39:34.37
>>492
これも畿内説がよくやる、文献は信用できない、
のパターンの一種かねえ
495日本@名無史さん:2011/06/09(木) 10:52:55.34
>>490
陸に比べて海の距離は測定しにくい面があることは確かだが、だからといって距離が分からない
わけではない。見通しがきく距離は通常80キロ前後だ。沿岸距離ならば陸路を歩けば何日、海
路ならば何日と経験から距離は分かるものさ。生活の歴史に基づく情報はいくらでもある。

>「1航海1000里」、「1日航海1000里」と、1000里単位か日月単位でアバウトに書くことになる。
上に書いたとおり、距離はだいたい分かる。したがって、「1日航海1000里」とかいうわけではない。

>三韓の領域らりも北にある帯方郡から狗邪韓国まで7000里のほうが
>地図上でみても距離的には長いだろ。
西側は少し距離があるが、南側は短いよ。乍南に5000、乍東2000とみたんじゃ
ないかな。

>海路距離と陸路距離を同じ尺度でひっくるめて「12000余里」がどうこうと、
>バカづらさげて垂れているのが多いこと・
海路距離と陸路距離は同じ尺度だよ。海路距離の方が不正確になりやすいかも知れんが、
尺度がちがうわけではない。
496日本@名無史さん:2011/06/09(木) 10:53:18.55
>>489>>493伊作先生

こういうときは、まず書店かコンビニに行って、週刊文春を買ってきて、問題の記事を読んでみる、・・・そうしろよ。w

俺はお昼になったらコンビニへ行くつもり
497伊作先生:2011/06/09(木) 11:02:52.08
>>495
俺は、ここでは提示しきれないほどの検証経緯と資料があってゆってるんだぜ。
何の論拠も示さない反発意見は聞く耳をもたない。 ♪勝手にしやがれ〜。
498伊作先生:2011/06/09(木) 11:06:28.89
>>496
>お昼になったらコンビニへ行くつもり

ああ。そうしてくれ。で・結果を教えてくれ。
どうせ畿内説のやることだろうから知れている。

ところでちみ。「お昼になったら」て、職場のPC覗いて書いてるのか?
にひひ
499日本@名無史さん:2011/06/09(木) 11:08:31.19
伊作先生
>魏の公式尺度の約6倍強で書かれているものを

先生、その6分の一の短里を棄てて、二倍の三分の一にしてみてください。
中国国内も韓国も倭国もみんな整合しますから。
本来、中国の古人は同じ尺度を使っていたのに、
後世混乱して数字が合わなくなってしまっただけですから。
500伊作先生:2011/06/09(木) 11:24:51.06
>>499
分かるように書くか計算事例を提示せい。ったく

それから、俺のは「短里」などではない。よしてくれ
記録事実から比較計算して導き出した実数だ。
501日本@名無史さん:2011/06/09(木) 11:27:33.21
短里二倍説を立てますから、よろしく。

歩=45センチ
里=135メートル
(歩 面積の)=6尺四方

論拠は一昨日に計算で示した通りです。

周の井田制にしても、長里は非現実的、短里では小さすぎで、
二倍短里が最適です。
502日本@名無史さん:2011/06/09(木) 11:33:54.19
>>501
訂正×(歩 面積の)=6尺四方
○(歩、本来は歩の別字 面積)=6尺四方



503伊作先生:2011/06/09(木) 12:20:26.26
>>501
さっぱり分からんし、なぜそうするのかも分からん。
まず度量衡の確認。度は長さ(寸法)、量は体積、衡は重さ。
ここで問題なのは、長さの度とこれを2乗した面積の話だろ。

度は分寸尺丈引キ歩里と、最小単位の積み重ねからなっている。
歩は面積の単位ではなく、あくまでも寸法・長さの単位である。
周代の面積でいえば6尺(1歩)平方×100が1畝で、「100歩平方」が1畝だ。
「100歩」が1畝なのではない。ここのところを混同してはいけない。

さて、魏代の尺度いえば1尺は約24センチ、1歩は144センチ。
1里は300歩だから432メートル。
この6分の1で、1里は72メートル。
●これが不思議なことに、魏の公式尺度でいう「50歩」にぴったり。
●換言すれば魏の公式尺度でいう「100歩の半分」だ。
このあたりに何かがあるんじゃないのか。

いずれにしても、公式尺度の6倍で書かれているのならば、
公式尺度に換算して6分の1にすればいい。
卑弥呼の墓もせいぜい径2〜30メートルの円冢というところなわけだ。
504日本@名無史さん:2011/06/09(木) 12:29:56.18
>周代の面積でいえば6尺(1歩)平方×100が1畝で、「100歩平方」が1畝だ。
「100歩」が1畝なのではない。ここのところを混同してはいけない

伊作先生、違いますよ、六尺平方の土地が100個あって一畝です。
100歩平方にしたら、10000倍になってしまいます。


505伊作先生:2011/06/09(木) 12:50:47.30
>>504
1歩平方が100あって1畝。
ということは10歩平方が1畝か。いけね・ひとケタ多すぎた。
いずれにしても歩は面積ではないし、「100歩」が1畝なのではない。
506伊作先生:2011/06/09(木) 13:05:03.19
ところで、50歩1里。100歩2里………。
「魏の公式尺度の50歩が倭人伝の1里」という数値に、
何か関係めいたものは感じないかい。ただの偶然かのぃ。

妙な計算をしてる人には無理な相談か。
507日本@名無史さん:2011/06/09(木) 13:12:03.48
>>505
>いずれにしても歩は面積ではないし、「100歩」が1畝なのではない。

100歩は一畝です。
歩は土地の面積です。
ただ歩は一辺が6尺平方の土地なので、基本単位ので一辺の長さとしても
用いられます。


したがって100歩は六尺四方の土地が100個という意味ですから
10歩平方で、一畝は60尺四方の土地です。
畝は長さでは普通表されません。もしも長さを共有するならば一辺の
10歩のことで60尺=15メートルということです。
これを勘違いして一辺を100歩にすると150メートル四方の土地にいきなりなってしまいます。
508日本@名無史さん:2011/06/09(木) 13:14:31.26
伊作先生
>魏の公式尺度の50歩

これはどういう意味でしょうか。
509日本@名無史さん:2011/06/09(木) 13:19:59.71
週刊新潮の衝撃の一石はとんでもないまぬけな話。
10世紀ころに「昔、魏は倭国に酬するに銅鏡の鉗文を止め」と言ったとか。
倭人伝を読んだ奴が言った言葉だろうが、それを聖徳大学名誉教授とかが
「鉗文を止めとは特鋳を意味する」とかこじつけて舞い上がっているらしい。
何とあほらしい。
510伊作先生:2011/06/09(木) 13:43:21.76
>>508
今日の俺の書き込みの・どこかに書いてあるはずだが。
511伊作先生:2011/06/09(木) 13:48:32.26
>>509
>週刊新潮の衝撃の一石はとんでもないまぬけな話。
返球ベリーマッチ。思った通りだたらしいな。
畿内説やろうの汚い言葉を借りれば、
そんな「ヨタ話」に頼るようじゃ畿内説も危篤状態だな。
512伊作先生:2011/06/09(木) 14:29:50.53
>>507
>100歩は一畝です。
どうも・ゆってる意味が理解できないなー。
1歩平方(1辺が1歩の正方形)を100個が1畝だろ。
ならば10歩平方(1辺が10歩の正方形)の面積が1畝ということだろう。
これをただの100歩とはいわんだろう。100歩とは誰しも距離だと思うぞ。

>歩は土地の面積です。
俺の常識じゃ歩は長さの単位だ。
1歩平方(1辺が1歩の正方形)の面積を何というのか知らんが。

そろそろ・かんべんして。
513日本@名無史さん:2011/06/09(木) 14:52:03.50
>>487
週刊文春は週刊新潮の間違いです。
514日本@名無史さん:2011/06/09(木) 15:25:41.71
>>512

100歩=100×(1.5m×1.5m)=225

10歩四方=(10×1.5m)×(10×1.5m)=225
515日本@名無史さん:2011/06/09(木) 15:28:22.64
10歩×10歩=100歩
516ローガン:2011/06/09(木) 15:38:11.03
>>489伊作ちゃん
>バカ野郎。
神獣鏡は当時の魏の敵国たる呉地方の特産

例えば、元興元年(105)銘環状乳神獣鏡「広漢造作尚方明鏡」
延喜二年(159)銘環状乳神獣鏡「広漢西 造作明鏡」
神獣鏡が、呉の名産品という訳ではない。持説に合わないものを否定したい気持ちは判るが、ノーガード過ぎる。(笑)
517日本@名無史さん:2011/06/09(木) 15:40:22.31
10歩四方=(10×1.5m)×(10×1.5m)=225

正確に言うと
10歩四方=10×10×(1.5m×1.5m)=225
518どくだみ:2011/06/09(木) 16:08:18.80
漢書食貨志の「六尺為歩,歩百為畝」の歩は面積。
一歩四方の正方形が百個が歩百。
一辺が長さ十歩の正方形の面積に等しい。
平方メートルのmの右肩についてる2のような記号を漢文では書けないから、同じ歩になってるんじゃないかな。
昔の中国人も、さすがに紛らわしいと思ったのか、方歩という言い方もあるみたい。
519日本@名無史さん:2011/06/09(木) 16:27:20.42
>>518
歩(正確にいうと別字)は元々は面積だけです。

後代には面積は表さず、長さだけになってしまいました。
もし方歩という言い方があれば後代のものです。

長さの歩は別にありました。
字書 後漢時代
廣度: 跬,一舉足也。倍跬,謂之歩。

れっきとした<広度>の度の単位です。二歩分で歩という意味。
ですから6尺四方の面積に歩(別字)とは意味が違います。
520どくだみ:2011/06/09(木) 16:49:03.82
>>419
>音律、度量を統一するという解釈は変わってないんだろ?
>議論の内容ではなく命令だという点では、ローガン氏の解釈に与するってこと?

律は、王朝ごとに改編するような性質のものではありません。
前王朝と違うものにする正朔、服色、徽号については、
改、易、殊という明確に変更を意味する言葉を使っています。

晋書律?志に、泰始九年に荀勗は音律の調和がおかしいということから、
後漢から魏にかけての尺は古尺より四分あまり長いことに気付いたとあります。
おなじ律?志に、魏の劉徽が九章算術に注して
王莽の時の尺は、今の尺より四分ほど短いことを指摘したとあります。
つまり、後漢から魏にかけて、尺は変わっておらず、王莽の時より少々長くなっているが、
その変化は意図的に変更したものではなく自然に長くなったということです。
そうでなければ、荀勗や劉徽が発見したという話にはならないからです。
また、秦の商鞅の変法で二百四十歩が一畝となりますが(通典)
漢書食貨志に「漢時二百四十歩為畝」とあり、晋書にも「今以二百四十歩為一畝」とあります。
これらのことを考えれば、漢から魏に王朝が変わるときに度量衡を弄って変えたということは無いと思います。

律度量については、前王朝と違うものにするのではなく、前王朝と同じ基準に統一するのです。
今とちがって、当時は律度量には次第に地域差が出来てきます。
その乱れを統一せよということが、この「同律度量」だと思います。
ただ、この「同」字の訳が、尚書の言葉を踏まえているので、
「漢と同じにする」ではなく「統一する」と訳すべきだというのが僕の意見ですが、
内容は、漢代と同じ律や度量衡の基準を踏襲して、全国をそれで統一するということです。

>>473
>デマ発言には一切触れないし

上記のような説明を書くのには、一応、どうだったかなと原文にも当たるし、面倒くさいんですよ。そんなに次々答えられません。
次はいよいよ、お待ちかねのデマ発言云々にレスですが、今日は無理かな。気長に待っていてください。
521どくだみ:2011/06/09(木) 16:55:28.59
>>519
>廣度: 跬,一舉足也。倍跬,謂之歩。

こういうものは、邪馬台国スレでは、何度も何度も貼られています。
ところで<広度>とは何だと思いますか。
522日本@名無史さん:2011/06/09(木) 16:57:16.31
>>521
廣度: 跬,一舉足也。倍跬,謂之歩。

廣度: 四尺,謂之仞;倍仞,謂之尋。尋,舒兩肱也。倍尋,謂之常。

廣度: 五尺,謂之墨;倍墨,謂之丈。倍丈,謂之端。倍端,謂之兩。倍两,謂之疋。疋有五,謂之束。
523卑彌呼の都は久留米:2011/06/09(木) 19:01:41.59
>>519
>歩(正確にいうと別字)は元々は面積だけです。

別字の「歩」って何?
俗字の「歩」とかあるの?
七画の「歩」しか知らん。
524卑彌呼の都は久留米:2011/06/09(木) 19:26:21.20
>>521
>ところで<広度>とは何だと思いますか。

<広度>は、広い方、大きい方と言う意味。

長さの「歩」の場合(短里の場合)

@
短い「歩」は23cm位(静歩)
長い「歩」は70cm位(動歩)

A
短い「歩」は23cm位
長い「歩」は、短い「歩」の2倍の46cm位

以上と思いますが。
525伊作先生:2011/06/09(木) 19:28:59.30
>>516
ほいまーたそま手か。しみついた行儀と手法はすてられならしいな。
>元興元年(105)銘環状乳神獣鏡「広漢造作尚方明鏡」
>延喜二年(159)銘環状乳神獣鏡「広漢西 造作明鏡」

俺は神獣鏡は呉式鏡とゆっているが、実は天師道(初期道教)・太平道の精神思想を反映した鏡だ。
(以下は引用文も含めで俺のサイトから)。
張陵は142年に天師道を興し、もともと巫鬼道の信仰があった巴蜀の地に持ち込んで布教した。
巫鬼道の巫覡も天師道の祭酒・道民になり、天師道は四川に次第に根をはっていった。
子の張衡の死後、巫鬼道の巫覡だった張脩がこれを乗っ取って巫鬼道と合体して五斗米道と呼ばれる。
孫の張魯は張脩を殺害して天師道を奪い返し、漢巴の地を基盤として布教を続けた。
つづく。
526ローガン:2011/06/09(木) 19:31:51.81
おっと見逃してた。
>>246
>ですからなぜ方を周に変えてしまうのですか。帝陵にしても方と書いてあるのになぜ周として

桓帝宣陵山方三百歩高十二丈
後漢書孝靈帝紀李賢注「周回三百歩」
もっと調べなさい。
527伊作先生:2011/06/09(木) 19:33:15.53
神獣鏡はこれらの民間信仰が盛んだった「広漢西蜀」と呼ばれる地域で盛んに作られている。
張角の太平道は、山東省の青州に主力を置き、徐州から長江流域の揚州から荊州まで広く信徒がいた。 
その影響もあって呉でも盛んにつくられる。
こうしたことから、神獣鏡の形式・図案・模様などは呉式鏡の特長とされる。

さて。
広漢西蜀の「広漢」は四川盆地の成都平原の中に位置する。
どや。広漢でつくられた神獣鏡があって当然の話だってことが分かったか。
元興元年(105)銘の神獣鏡があるのは広漢の地に古くからあった巫鬼道の関係だろう。

>神獣鏡が、呉の名産品という訳ではない。
話の本筋は、黄河中流部の洛陽でつくられたものではないということだ。タコ

>持説に合わないものを否定したい気持ちは判るが、ノーガード過ぎる。(笑)
懲りもせずわずかな事例を持ち出して揚げ足して勝ち誇って…………、
お里が知れる所行だなん。わらわら
528伊作先生:2011/06/09(木) 19:40:37.89
魏朝が帝室ご用達の外交用贈答鏡に、
民間信仰の精神性を反映した神獣鏡をつくったいうのであれば、
ガキのなじり合いにも似た拙劣な反論はいいから、
大人が納得する筋の通った「理由」を提示するこっちゃな。
529日本@名無史さん:2011/06/09(木) 19:50:10.44
>>526
ローガン氏、
なにを悪あがきしているのですか。
李賢(り けん、永徽2年(651年) - 文明元年(684年))
の人の注釈です。
もっとお調べなさい。
530日本@名無史さん:2011/06/09(木) 19:58:32.23
過去の人の注釈を否定するなら
裴松之の注釈も引用出来ないじゃないか。
531日本@名無史さん:2011/06/09(木) 20:05:13.35
>>530
時代を見てご覧。

つまりは、数字が合わないから、方を周に替えて解釈したという証明。
532日本@名無史さん:2011/06/09(木) 20:10:33.60
>>531
現地を歩いてるに決まってるじゃん。
見苦しいぞ。
533日本@名無史さん:2011/06/09(木) 20:15:27.60
>>532
はあ〜。決まってるじゃん。
現地を見たからこそ、計った数字が違っていたので、
方を周に変えたってこと。
534日本@名無史さん:2011/06/09(木) 20:19:38.56
>>455
ここは明白に間違ってるな。
畝ってのは畑で見たことあるだろう。一列の長い奴だ。
だから正方形にするのではなく、縦一列に並べるんだ。
夫はその畝を100並べて正方形にする。
535日本@名無史さん:2011/06/09(木) 20:27:25.08
>>534
そんなことないですよ。
土地の広さですから。形は関係なし。
いきなり畝を100並べたら中間の広さの単位がなくて
困ります。次は畝の十倍。
536日本@名無史さん:2011/06/09(木) 20:40:56.23
伊都国は宇佐、邪馬台国は大和。伊都国は大和の出先機関。
那国は出雲。那国の勢力域は河内から北部九州まで及んでいる。
ちゃんと読み取ればこれしか結論はないのに、皆さんは何で無益に言い争ってるんだい?
537日本@名無史さん:2011/06/09(木) 20:47:08.98
>>535
井田制は形を気にしてるんだよ。聖人の理論だから。
それに、畝百為夫が自分の理論に合わないからといって
畝十為とに解釈してる様じゃ他人を非難出来ないだろ。
538ローガン:2011/06/09(木) 21:06:34.39
>>527伊作ちゃん
>その影響もあって呉でも盛んにつくられる。
ほら、「呉でも」ってトーンダウンしてるやん。(笑) その通り「呉でも」作られた後漢鏡。
後漢末、洛陽焼かれ、広漢壊され 鏡の流通を支えたのが山陰。よって、当然半肉彫鏡が当時の流行。
又、壊され、工人が離散した工房を立て直すには現役の技術者が必須。よって復活尚方で神獣鏡が作られてなんら問題は無い。
否定するのは、ただ認めたくないだけ。さて、帰るか。
539伊作先生:2011/06/09(木) 21:21:22.87
>>538
小細工がバレて小細工の尻ぬぐいもせず、
さらに細かい言葉尻するしかないわけだ。

呉は太平道の拠点だ。
長江上流まで遡れば漢巴に至る。ここは天子道の拠点だ。
長江流域の信仰宗教を邪教扱いした体制側が、
自ら邪教扱いした信仰宗教のデザインモチーフを
トップ外交の贈答品に使うてか。

当事者心理を度外視した歴史錯誤も休みや休みいえ。
540伊作先生:2011/06/09(木) 21:23:49.55
>>534
みろや・こいつ。
中国でいう畝(ほ)を日本語の畝(うね)と勘違いして、
知ったふりでほざいてるぜ。ひでーもんだ。
541日本@名無史さん:2011/06/09(木) 21:41:19.10
>>487

>今週の週刊文春に三角縁神獣鏡が中国で生産された特注品である文献
>証拠が発見されたとあるね。また景初四年という年号も当時は
>中国で使われていた記録が晋書天文志という古代の公式天文記録
>に使われているなど三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に
>高くなったようだ。これで九州説の大きなな畿内説への反論
>が見直さざるを得なくなることになりそうだ。

週刊新潮ですね。というわけで、読んできましたよ。

この記事のキモは三角縁が中国で作られた証拠として、
「景初4年は実在した」ことをつきとめたことですね。
長年の研究ご苦労様というわけです。

「景初4年は実在した」ということなら、国産だから間違えたという論は消滅します。
そして、景初4年は実在したということが、間違いなく「景初4年」の時代に三角縁が中国製だったという証明になるわけです。

つまり、卑弥呼のもらった鏡に間違いなく、その鏡が近畿を中心に広まってるので、
邪馬台国は近畿、奈良ということで決着したというわけです。
考古学的には答えが出てましたが、
長年の論争もこれでやっと本当に終止符が打たれたわけですね。


542日本@名無史さん:2011/06/09(木) 21:42:52.98
>>537
井田制とは別次元の話ですよ。
井はわたしは円だと思ったけど、正方だと辞書にはあると思う。

十倍にするのが順当だから。畝自体が広いから、それをまた100倍したら、
計算が大変、その中間の単位がないと。現実的なところ。
543日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:03:58.30
>>541
マジ?景初4年鏡って見つかってるのは福知山と西宮の2枚だっけ。
ともかく、畿内周辺に卑弥呼の鏡が2枚あるのか。
544日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:09:05.76
>>543

「天文志」という中国の文献には、「景初四年」という記述があるそうです。

天文学の本ですから、これは当たり前のことで、
今年の年号が変わるか変わらないか、前もって知ることなど出来ないのですから、
「景初三年」の翌年の記録は「「景初四年」と記述するのは当たり前のことです。

天文学以外でも、年号を扱う各所であっても、
「景初三年」の翌年に行った事は「景初四年」と記述するのは当然です。
お上のほうから、「年号が変わったよ」と通達されて、はじめて新しい年号を使うようになるのですから。

したがって、「景初四年」とある三角縁は、
「景初四年」だった中国で作られたことは疑いようがありません。
後年になれば、「景初四年」は使われない年号になるわけですから。
545日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:12:23.77
今までの歴法では景初3年までと考えられてきたが、
実際は景初4年まであって、以降の暦は一年ずれるという意味なのか?

それとも景初3年までだが、それが分かっているのは中央だけで、
よく知らない地方や辺境は4年まで使い続けていたという意味なのか?

なんだか、このあたり、太国氏や唐松山氏の得意分野になりそうだな。
546日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:15:56.64
景初4年に景初4年鏡が作られたとすれば、
景初4年が存在したことになり、
今まで知られていた中国の暦が修正されることになるが、
大丈夫なのかな?
547日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:18:07.88
>>545

暦法が変わるのは、政変があったときで、
1月1日じゃないし、前年から「来年から暦法が変わるよ」と知らされるわけがないので、

暦法が変わったと通達があるまでは、前年の暦法を使い続けるわけです。
548日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:24:56.02
景初3年でチェンジするか、景初4年でチェンジするか、
景初4年の極初期だとしても、
暦年が一年ずれることには代わりがない。

昭和64年=平成元年というようにクロスするのは当然で、
それは暦法に入っている。

クロスする年代が景初3年か景初4年かに変わるのは
暦法を扱う場合、かなり重大な問題ではないだろうか。
549日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:25:40.43
>>546

1989年は、和暦では年始から1月7日までの7日間が昭和64年、翌1月8日以降の358日間が平成元年で ある。

1989年初頭は、「昭和64年」で記録された文書が残るけど、
そのあとは、平成元年で統一されます。
「昭和64年」は平成元年と読み直され、平成元年として記録されなおされるわけです。
550日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:26:54.67
>>548

>暦年が一年ずれることには代わりがない。

ずれるわけじゃありません。


551伊作先生:2011/06/09(木) 22:26:56.36
厳密には景初4年はあった。ただし1ヵ月間だけ。
景初4年があったというだけなら、
浮き足だって大騒ぎすることはない。

それが三角縁が魏の尚方で作られたという証拠にはならない。
552日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:27:48.42
>>551

今夜は悔し涙で枕を濡らすのかい?

>それが三角縁が中国で作られたという証拠にはならない。

中国製であっても動じないフリをしてたようだが、
やっぱり中国製じゃ困るわけか。
553日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:30:03.30
>>546
これまでの学者が馬鹿なだけだよ。商品を造る場合、それが市場にでるころを
考えて作るんだ。だから、三年のうちに四年の銘を入れたのをいくらでも作る
のさ。でなければ、四年の当初その年の年号入りのものがないということにな
るじゃないか。帝がなくなって四年が実在しなくても、四年の銘が入った物は
廃棄されるわけではない。それが出回るのさ。
554太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 22:31:39.43
当時ころの運転免許証で、「昭和65年まで有効」というものがあったはず
だが? それが昭和天皇が崩御して平成になったんだが、免許証の昭和65年
は平成の相当年代まで有効に使えたはずだ。

景初4年号というのは、そんなところではないのか?
555伊作先生:2011/06/09(木) 22:34:59.01
>>552
おや・こっちでも害宣中か。

困らんな。
ただ中国製というのと、魏の尚方でつくった中国製とは意味が違う。
呉でつくられた中国製ならばただの流通商品。
すでに先に述べたことだが。ぼんくら

もう一度いうぞ。
厳密には景初4年はあった。ただし1ヵ月間だけ。
景初年号と正始年号では暦法が違う。
明帝の喪あけに正始元年となるのだが、その空白の時期が1ヵ月。
あえていえばこれが景初4年だ。

どうってことはない話だ。軽々しく浮き足だつな。芥どもが
556日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:39:33.50
wikipediaで見る限りでは、明帝が景初3年1月に崩御して、
次から曹芳が測位して、正始に変わっているようだ。

つまりチェンジしたのは景初3年の初頭である。

情報が届かない地方辺境で景初4年が存在するのは、
ある程度仕方がないが、

正式に景初4年が存在することはありえない。

つまり景初4年鏡は中央の知らないところで作られたのが確実である。
557日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:39:37.01
>>555

トヨが266年に朝貢してるので、景色4年が使われなくなったのを知ってるはず。

すると、景色4年とある三角縁は、それ以前に作られたことになる。

中国で作られようが、日本でつくられようが、同じこと。

日本でつくられたとしたら、3世紀に、神獣鏡を作れて、魏の年号を知ってる鏡職人が近畿にいたということだ。

558日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:42:22.75
×景色
○景初

つまり、3世紀には、九州よりも優れた鏡職人が近畿にいたということを認めるしかないわけだな。
559太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 22:44:54.40
いま、それがしも文字制限があって、充分な長さで書きこめない。
8行くらいまでか? とにかく不自由なのだ。管理者はどういう
考えでいるんだろう? 迷惑だね。><
560日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:50:37.17
>中国で作られようが、日本でつくられようが、同じこと。
どこだって実在しない4年の鏡を作ることはいくらでもある。そして、いったん
それが作られたら、その銘は単なる模様だ。後年、それから型をとって同じような
物が作られることはありえる。

561日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:52:30.01
>>560
詭弁だな。
562日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:55:44.30
九州には、ヤタノカガミとウワサされる大型内行花文鏡があるが、
九州の国産鏡レベルは、あの程度。
幾何学模様を彫るのが精一杯。

神獣鏡のように中国の思想を習得した鏡職人の仕事とは思えない。
563日本@名無史さん:2011/06/09(木) 22:57:06.37
つまりは、今までの見込み生産説を
覆すものではないということかな。
564日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:01:53.65
>>561
詭弁なものか。鏡の銘というのは、そうゆうもんだ。
鏡銘の基本的なことを知らずに何を論じても無駄だよ。
565日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:06:12.31
>>561

景初4年に記念的意味がなければ、わざわざ踏み返したりしないよ。

帝が死んだ縁起の悪い年号&新年号でないものを踏み返すんだよ?
566太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 23:09:34.38
古代マヤの出土の土器には帯状にマヤ神聖文字が書かれているが、これも
単なる飾りだとする説と、歴史等の何らかの出来事が記載されたものだと
する説との対立があったと聞いた。前者は古代マヤ研究で保守的側の
頑張る主張ではなかったか? むこうでもこんなことがあるようだが、
いまや後者に研究家の指示が指向してるんではないか? コウの説では、
マヤの神話での地下世界の神話が多いとかの話だと思ったが・・・?

鏡の銘文も飾りで、後代にて過去の年号をいれたと言うのが前者に相当
するようだな。
567日本@名無史さん:2011/06/09(木) 23:21:40.07
景初4年の銘入りなんてのは、珍品として買い手がついたんじゃないか?
人気があれば、偽造品も出てくるだろうよ。
568伊作先生:2011/06/09(木) 23:24:46.68
>>562
>九州の国産鏡レベルは、あの程度。 幾何学模様を彫るのが精一杯。
作風が漢式の鏡だし。神獣のデザインモチーフが登場する以前のものだし。

>神獣鏡のように中国の思想を習得した鏡職人の仕事とは思えない。
技術の問題ではないし。三角縁神獣鏡はとくにお粗末だし。

大きなところで何か錯綜していないか?
569太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 23:32:29.01
景初3年あたりが崇神6年の倭笠縫邑に日神とそのを祭祀した時代
だということだ。だから△が多出するのだと想える。

>>566 訂正
× 研究家の指示
○ 研究家の支持
570どくだみ:2011/06/10(金) 07:02:57.55
>>524
>>519とは別の方のレスのようですが。
どうも、>>519の人のレスを見ていると、漢籍の扱いに慣れてなくて、
引いてくる用例の意味を間違って解釈していることが多いように思えたので、
試しにひとつ聞いてみました。

>>519の人が引いたのは小爾雅という字書の電子テキストで、広度はその字書の篇名です。
広詁・広言・広訓のように広○という篇名が続きます。
ttp://ctext.org/zh
これがそのサイトなのですが、もともとは篇の冒頭に一回だけ「廣度」とあるのを、
一項目ごとに、冒頭に<広度>と篇名を挿入するのが、このサイトの仕様のようです。
571日本@名無史さん:2011/06/10(金) 07:33:23.35
>>570
どくだみ氏
あなたこそ、漢字の意味もわからないし、計算もできない。
長くこの板にいる割りには短里派の主張も理解できず、
歩を三分の一にすると言ったら、尺まで三分の一にしました、
それが漢籍を理解できる人のようにはとても思えません。
歩の別字が存在すると言ってもそれはないといい、
後から、私がコピーしてくると、それは何度も貼られているものだととか
言う。歩と歩の別字も判別できなくてどうするんですか。
だから、わたしら九州説派のように短里、長里のなぞを解こうとするする
気がないのだから、はじめからあなたにはなぞは解けないのです。
572日本@名無史さん:2011/06/10(金) 07:45:49.57
>>571
わたしが引いてきた519のレスの意味、わかりませんか?
漢文ばかりで。
下の尺度を読んでごらんなさい。
みな、度の単位。つまり長さの単位です。
わかると思って敢えて何も日本語を書かなかったけど、
やっぱり、理解できてなかったんだね。
573日本@名無史さん:2011/06/10(金) 07:47:48.17
>>572はアンカーミス正しくは>>570
どくだみ氏あて
574日本@名無史さん:2011/06/10(金) 08:10:28.91
倭の領域に入ってからの行程はすべて長里で説明がつく。
おかしいのは郡から狗邪韓国までの距離だけ。
そうなるとまず疑いの目を向けるべきなのは郡の位置。
本当に帯方郡でいいのか?
魏の水軍は内陸水軍。その本拠地、母港のあるところをここで言う処の郡と解釈すべきでないのか?

575日本@名無史さん:2011/06/10(金) 08:15:37.45
平原の大型内行花文鏡は技術者呼んで作ったのかな。
中国では標準サイズしか作らないそうだから、
一応作り方を習得した倭人が、標準から外れて、オリジナルで作ったのかな。

魔改造好きの習性からみると倭人が作った可能性は高いな。

平原は、紀元前後から一世紀くらいの弥生中期だよね。
576日本@名無史さん:2011/06/10(金) 08:17:13.40
>>574
とりあえず、君の長里行程論を拝聴したいな。
577伊作先生:2011/06/10(金) 10:00:14.37
>>574
>おかしいのは郡から狗邪韓国までの距離だけ。
海路は正確な測定が不可能だから1000里単位か年月日単位で書くし。
陸路でいう距離とはまったく尺度が違うし。

>魏の水軍は内陸水軍。
王莽の時代には楽郎郡から辰韓へ1500人もの奴隷の奪還に船を寄越しているし。
魏代には公孫淵討伐に先駆けて4郡に大型海船をつくらせているし。
楽郎・帯方の2郡に魏の太守を任命して船で派遣して2郡を平定している(魏へ帰順させている)し。
578日本@名無史さん:2011/06/10(金) 10:00:51.33
<広度>とは以下のとおりです。広度=度の範囲
全部長さの単位です。

例えば
廣度: 跬,一舉足也。倍跬,謂之歩。

について言えば、 跬、一つ挙げた足。二倍は歩という。

注)(跬)も単位。

廣度 四尺,謂之仞;倍仞,謂之尋。尋,舒兩肱也。倍尋,謂之常。

について言えば、
四尺が仞、仞の倍が尋。尋とは両うでをゆったり広げた長さ。尋の二倍は常という。

廣度: 五尺,謂之墨;倍墨,謂之丈。倍丈,謂之端。倍端,謂之兩。倍两,謂之疋。疋有五,謂之束。

五尺は墨という。墨の二倍は丈という。丈の二倍は端という。
端の二倍は両という。両の二倍は疋という。 疋が五有れば、束という。

つまり、手足を使った度の単位の一覧です。
したがって、歩はれっきとした長さの単位。




579卑彌呼の都は久留米:2011/06/10(金) 13:56:59.95
>>578
出典は何ですか?
580日本@名無史さん:2011/06/10(金) 14:09:30.23
><広度>とは以下のとおりです。
その広とはなんぞや? 貼り付けだけではなく説明してくりゃれ。
581日本@名無史さん:2011/06/10(金) 14:12:33.38
もう結果は出ています、邪馬台国は畿内ですよ。
582日本@名無史さん:2011/06/10(金) 14:20:35.46
>>576
すまん、狗邪韓国から末盧国までも説明がつかないな、取り消してお詫びする。
>>577
>陸路でいう距離とはまったく尺度が違うし。
そうなんだよな、そう考えると一番しっくりする。
でもそうなると短里を主張する根拠がなくなるけどいいのかい?w
>魏代には公孫淵討伐に先駆けて4郡に大型海船をつくらせているし。
その4郡がどこなのか知りたかったが最早無意味になった。
>楽郎・帯方の2郡に魏の太守を任命して船で派遣して2郡を平定しているし。
派遣したからには派遣元があったということで、そこがどこだったのかを知りたかったがこれも返答無用。

>陸路でいう距離とはまったく尺度が違うし。
これがすべてですな。

思うに赤壁の戦いが可能になったのは荊州水軍を吸収できたから、これ所謂ところの吸収説。
これにより技術革進が起こり魏の船の航行速度が上がり、
船の航行時間からしか距離を割り出しているのなら、例え当初は陸里と海里が一致していたとしても、
船の速度が上昇するに連れて両者の解離が起きていくことになる。
船の速度が三倍になれば海里は陸里の三倍で表示されることになる。
583ローガン2世:2011/06/10(金) 14:32:58.20
>>574
>おかしいのは郡から狗邪韓国までの距離だけ。

韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里 の方は周だな。

(参考)
桓帝宣陵山方三百歩高十二丈
後漢書孝靈帝紀李賢注「周回三百歩」

584日本@名無史さん:2011/06/10(金) 14:42:50.44
>>583
船の技術革新が起きる前の話しですね
585ローガン2世:2011/06/10(金) 14:43:41.60
>>582
>すまん、狗邪韓国から末盧国までも説明がつかないな、取り消してお詫びする。

始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、

これらの方も周だな。うん。
586日本@名無史さん:2011/06/10(金) 14:56:45.79
海里を採用して、他に動詞がなくて主語が国になってる文の「至」の解釈を395にすると、
すべてがうまく当てはまって、紀の川経由で大和に到達しますね。
587日本@名無史さん:2011/06/10(金) 15:01:48.03
>>586
漢文は主語+述語の語順。
東南至奴國百里
これで奴國が主語にはならないよ。
588日本@名無史さん:2011/06/10(金) 15:09:22.79
「那国が東南に至った」わけではなくて、
「那国が東南に至っている状態」なわけです。
589ローガン2世:2011/06/10(金) 15:32:29.81
>>588
>「那国が東南に至っている状態」なわけです。

それならば 奴国至東南百里 じゃん♪
590日本@名無史さん:2011/06/10(金) 15:41:17.41
>東南至奴國百里
これで奴國が主語にはならないよ。

そんな当たり前のことが判るなら
畿内説などやってない。
591日本@名無史さん:2011/06/10(金) 16:55:22.89
例えばさ、「渡る」って単語が出てきたとする。
皆さん、何が何を渡ったのかって考えない?
渡ったのは人なのか鳥なのか、海を渡ったのか川を渡ったのか谷を渡ったのか、、、
主体と対象がなければ渡るという動作はできないんだよ。
文中で省略されてても文脈から無意識のうちに推察している。

「至」についても同じこと。
語源は土に矢が刺さっている状態。
矢にあたる存在と土にあたる存在が前提。
土にあたる存在は、三次元ならば境界面、二次元ならば境界線、一次元ならば終着点が必要。
矢に相当する「至」っている主体も必要。

渡海〜至〜国、という文ならば、渡という行為は海も国も不可能だから、
渡った主体は人で至った主体も人だと推察できる。
じゃあ、東南至那国だと、至っている主体は何なのか、何に対して至っているのか、そういう話だ。
592日本@名無史さん:2011/06/10(金) 17:04:12.92
東南、奴国に至るには百里。これは距離を表しただけの文章なんだよ。
伊都国までの記事と異なり、進んだとは書いてない。そこが問題なんだな。
593日本@名無史さん:2011/06/10(金) 17:07:07.08
>>591
ひとりで一所懸命考えても、知識が足りなければ空回りするよ。
594日本@名無史さん:2011/06/10(金) 17:10:41.47
東南に奴国に至るところ百里
595日本@名無史さん:2011/06/10(金) 17:11:10.61
東南に奴国が至るところ百里
596日本@名無史さん:2011/06/10(金) 17:17:59.04
常識的に考えれば、集落都市の中心を示すと思うが。
国境だと線となるし、対象が広すぎてランドマークにならん。
597日本@名無史さん:2011/06/10(金) 17:28:43.69
至という語は動作も含んでる。
那国が侵攻してきている状況だろう。
だからその前線の位置は重要になってくる。
598日本@名無史さん:2011/06/10(金) 20:24:50.02
>>477
>今度はレスの改竄かあ?上で「経緯が前述されている」といったのは、「議」が同律度量にはかからないという話だ。そして、それが2日前の上奏だと書いた。

前スレ944
>>じゃーいったい何を議論しろと言ってるのかということが問題だろ?

>いいや、問題なんか無い。そこに至る経緯はその詔勅の記述までに書いてあるから。そして、暦についても上で書いた通り。

ふつう、曹丕が詔勅を以て以下のことを議論せよと命じるに至った経緯が、それ以前に書いてあると読むと思うが、違うんだね。
僕は、「同律度量」が議論の対象だと思っていたから、最初は「同律度量」が議論に上った経緯だと思ってたが、
これは議題じゃないというので、命令を出すに至った経緯が記されていると言ってると判断したんだけど。

議題が、年号、正朔、服色だけだというのは、「経緯」ではなく「解釈」じゃないの。
そこに至る経緯って、どこに至るどのような事情?

貴方は、貴方の読み方が正しい(「同律度量」に対する)とする根拠を提示しようとしてるはずでしょ?
漢代と同じ度量衡を引き続き使用するのに、わざわざ改変項目と並べて命令する理由ってのが、きっとどこかにあるんだと思って聞いてるんだけど。

>此方も「無い証明」というお遊びだ。本来「無い」だけで済む事。 「ある」と主張する者がその証拠を出せばいいだけ。ところが一向に出てこない。

以前にも念押ししてるが、貴方とは「短里の存在」について議論しているつもりはない。
『隋書』に話が及んでいるのは、度のばらつきが有ったか無かったかを検証してるんだと理解してるよね?
統一自体は既に新莽嘉量でなされているというのが、貴方が「同律度量」を「漢と同じ度量衡を使用する」と読む根拠の一つなんだろ?
もちろん時代ごとに法定尺は異なってるってのが、『隋書』から読み取れる事実だけどね。
漢魏晋の尺も現物が結構発掘されていて、長さがばらばらだったという資料をどこかで見た記憶があるんだが、見つかったら報告するよ。
599キンガン:2011/06/10(金) 20:26:00.02
>>520
>晋書律?志に、泰始九年に荀勗は音律の調和がおかしいということから、
>後漢から魏にかけての尺は古尺より四分あまり長いことに気付いたとあります。
>おなじ律?志に、魏の劉徽が九章算術に注して
>王莽の時の尺は、今の尺より四分ほど短いことを指摘したとあります。

上記の事実を受けながら

>つまり、後漢から魏にかけて、尺は変わっておらず、
という正反対の結論と、

>王莽の時より少々長くなっているが、
>その変化は意図的に変更したものではなく自然に長くなったということです。
という事実に即した推論を併置している。

>次はいよいよ、お待ちかねのデマ発言云々にレスですが、今日は無理かな。気長に待っていてください。

デマを撤回できない理由が、信条ではなく別にあるようなので、もう気にしなくていいよ。

四望峡のほうは明清期に八盤峡と名を変えている、の情報ソースについては是非教えてほしいな。
あれば・・・だけど。
600日本@名無史さん:2011/06/10(金) 20:36:03.38
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1307701813/

中国から金印をもらうのは、属国のしるし。
みなさん、わかってらっしゃる。
601どくだみ:2011/06/10(金) 21:48:10.25
>>471
とりあえず先にこっちにレスをしておきます。

>ただ、これは会話文。三行後の「七百餘里」は地の文。
>誤:ただ、これは会話文。
>正:上奏文

上奏文では長里で記述し、地の文では短里で記述するというのですか?
たった三行しか離れていない一連の文章で、しかも何の断りもなく?
これだけで、以下の議論は必要ないと思うのですが、せっかくなので。

>すでに、蜀領内で戦闘を繰り返してるとケ艾伝には書かれてあるが・・・読まなかった?
御存じのように、蜀の領内で戦闘を繰り返しているのは、ケ艾自身ではなく、ケ艾が派遣した武将たちです。
彼らが北の雍州から陰平郡に侵入して、南北に侵攻したり退却したりして姜維と戦います。
そして、姜維が剣閣に退却した時、後ろにひかえていたケ艾が、
前線を迂回して姜維の後背に出て成都を突くという奇襲作戦です。
それを上司の司馬文王に献策して実行に移しているのです。
ケ艾が前線の陰平(都市)にいては、そういうことにはなりません。

ただし、ここで七百餘里を直線距離と思いこんで、ケ艾が居たのを雍州だとしたのは僕の間違いでした。
山道は直線距離の2倍から2.5倍になるのを忘れてました。
陰平郡は全体が山間地なので、そうなると七百餘里では江油から雍州までは届きません。
ケ艾がどこに駐屯していたのか書いていないので特定できませんが、
陰平郡の北部に駐屯していたのではないかと思います。

>すげー難所って書いてあるんだけど、これもスルー?

兵糧を持って行軍している魏の正規軍が、53kmで飢え死にしそうになる難所って、どんなすげー難所なんでしょ。
602どくだみ:2011/06/10(金) 21:49:11.71
>>472
>>一方、四望峡のほうは明清期に八盤峡と名を変えていて、
>これの情報ソースを教えて。

ググったら普通に出てきます。

>すると趙充国は、金城から西平郡まで少なくとも百キロ以上物見させてから、落都に着いたということ?

歴史地図集は落都付近に四望峡を比定しているし、グーグルマップは金城付近だとしている。
これが両方正しいとすれば、四望峡はえらく長大な峡谷になるねというだけの話です。
四望峡の長さにかかわらず、「充國常以遠斥候為務」とあるのだから、金城から落都まで、
常に遠くまで斥候を出していたのでしょう。


>三峡とあって所在地が一つなら、三つかたまってると普通は思うね。

黄河三峡のように○○三峡ではなくて、金城に三つの峡谷があると言ってるだけですよ。
それに金城三峡だったとしても、金城郡の中に三つあるということであって、
かたまっていなければならないなんて普通は思わないのじゃないですか。
三峡というと瞿唐峡・巫峡・西陵峡の三峡が有名らしいですが、
瞿唐峡と巫峡30km、巫峡と西陵峡は125km離れてます。

>すげー力わざ。
>金城の南六百里という位置情報を湟水から黄河までの川の長さに変えちまったぜ!

別に僕の解釈に従う必要はないですよ。
四望峡のほかの二峡の場所が解らない以上、水掛け論にしかなりませんから。
ただし、趙充国は金城から四望峡を通って落都に行ったんだから、
四望峡は、金城と落都の間の湟水流域にあることだけは確か。
湟水は金城から西北西に伸びていて、南とは方向違いだから、黄河三峡は無関係。
僕の解釈に従わなければ、結局「南六百里」の「南」が意味不明のままです。
603日本@名無史さん:2011/06/10(金) 21:56:59.82

疑問なんだけど、

九州説の人は、九州の属国になるのがそんなにうれしいの?

604どくだみ:2011/06/10(金) 22:02:51.52
>>599
>上記の事実を受けながら
>>つまり、後漢から魏にかけて、尺は変わっておらず、
>という正反対の結論と、

「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の時の尺」を比べているのだから、
後漢の尺と魏の尺は同じもです。

それが新の王莽のときの尺より四分ほど長いと言っています。
ただし、王莽の尺と後漢=魏の尺の変化は、王朝が変えろと命じて変えたものではなく、
使っている間に自然に伸びてしまったものです。
命令されたものなら伸びたことは皆知ってます。それなら荀勗や劉徽が気付いたという話にはなりません。

つまり、新→後漢→魏→晋の王朝交代で、
一度も尺の長さを前の王朝と変えろという命令は出されていないということです。
605日本@名無史さん:2011/06/10(金) 22:11:56.80
整備された街道で一日15キロくらいが移動距離だから、
難所50キロなら3〜5日はかかる。

単独で山岳走破に慣れてるならもうちょっと行くだろうけど。

ちなみに兵糧三日分は、水を別にして、兵士個人で携行する
兵糧の目安。
606どくだみ:2011/06/10(金) 23:20:26.63
>>419
>断言するんだから貴方は、三国志の里数値全て確認したんだよね。

以前、ドン来いだったか終止符スレだったか忘れましたが、
三国志中の里数値全て確認して、短里の証拠と思われるものを拾い出したという人が
それを列挙したことがあります。
その人は、かなり短里に思い入れがあったようで、漢書などにも調査を広げようと考えていると仰ってました。
短里否定者ではなく、短里肯定者が選んだ例を、2chという一応公開の場でひとつひとつ検証しました。
これはかなりフェアなやり方だと思います。
その結果、短里の例はひとつもなかったという結論になりました。
その時点までは、僕は短里は疑わしいけれど否定はしきれないという立場でしたが、
このことがあって、短里否定派になりました。

>東夷伝に関しては、係争中ってのが共通認識のはず。

倭人伝と韓伝のなかで考えられた短里なるものが、
三国志の他の部分にも複数見られるのなら、一里=76mという数値に意味があるのではないかということになり、
それなら、確かに係争中といえるでしょう。
しかし、三国志にもなく、他の文献にもあったという話は聞きません。

「倭人伝の数値でこうなるから短里は存在する」というのは、
証明すべき事柄を証明に使用しているということになりませんか。

短里が存在するなら、区々たる邪馬台国問題のみならず、中国学全分野にかかわる問題です。
しかし、度量衡を専門に研究している人がいるにもかかわらず、
短里の形跡があるという話は聞いたことがありません。
中国学の学会では相手にされていないのが現状だと思います。
こういう状態は係争中とは言わないのではないでしょうか。
607日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:32:26.29
互いに証拠がないからねえ。

どうやっても長里では比定出来ないし、
短里は資料がない。

此処から先は信仰のレベルだろう。

互いに相手を尊重して、我が道を行けばいいんじゃないかな。
608日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:54:18.76
短里に変えたなら、漢書みたいにその由来みたいなのを書いて
三国志の中でその正当性を主張してるはず。
609ローガン:2011/06/11(土) 01:03:26.80
>>598
何度言ってもわからん人だなあ。それとも認めたくないがゆえ、揚げ足をとらんがための質問攻めかいな?(笑)
北斗の柄の方向の吉祥から十月中の即位を、との臣の再三の上奏や、即位を促す皇帝の詔。
辞退し続けたが月末にようやく受け入れる。その直前の上奏がこれ
「輒営壇場,具礼儀,択吉日,昭告昊天上帝,秩?神之礼,須?祭畢,会?寮於朝堂,議年号、正朔、服色当施行,上.」
貴方と私の当該話題はこれ
「議改正朔,易服色,殊徽号,同律度量,承土行」
月末近く、儀礼を急ぎスケジュールを上奏する臣。しかし「同律度量」は、その朝堂における群臣による議論の対象ではない。これは「解釈」ではない史料事実。
即位了承に至る上奏文に見える再三に渡る「火徳から土徳」への話からも「承土行」が 議論必要な懸案事項な訳でなし。
よって詔勅に言うところの、議論対象は正朔と服色。
610ローガン:2011/06/11(土) 01:08:53.84
>>598
>漢魏晋の尺も現物が結構発掘されていて、長さがばらばらだったという資料をどこかで見た記憶があるんだが、見つかったら報告するよ。

6分の1の尺、見つけてあげてね。数%の差は却下だから。理由は既述。
611日本@名無史さん:2011/06/11(土) 04:35:27.18
短里に変えたんじゃなくて、もともと
辺境で短里が使われていたところに
中央が長里を使い始めたんじゃないかな。

景初4年鏡みたいに、
中央と辺境では、時間差があったんだと思うよ。

そして、記録でもそれは常識として、記録されていたと。
612日本@名無史さん:2011/06/11(土) 08:04:46.07
>度量衡を専門に研究している人がいるにもかかわらず、
>短里の形跡があるという話は聞いたことがありません。
東夷の度量衡を専門に研究しているなんて人いるかな?

613卑彌呼の都は久留米:2011/06/11(土) 08:18:39.80
>6分の1の尺、見つけてあげてね。

バカにするな
6分の1の尺なんか無い
1尺≒15cm〜25cmの範囲しかない。
614日本@名無史さん:2011/06/11(土) 08:25:29.74
>>613
頭の固い爺さん相手に怒っても無駄だよ。一里=360尺なんて
発想はまったくできないんだから・・
615卑彌呼の都は久留米:2011/06/11(土) 08:33:12.65
>>614
>頭の固い爺さん相手に怒っても無駄だよ。

老眼は爺さんではない、まだ青年
616日本@名無史さん:2011/06/11(土) 08:39:58.49
ふーん、青年なのに老眼で頭も固いのか、気の毒に・・・
617日本@名無史さん:2011/06/11(土) 10:35:43.84
やはり、短里をいうには発想が必要なんだなあwww
618日本@名無史さん:2011/06/11(土) 10:51:44.16
10尺1丈というようにだいたい十進法なのに、
一間6尺なのは、何か意味があるのかな。

6尺×6尺で一坪(1歩?)だし、6尺系の単位と
10尺系の単位があったのかな。
619日本@名無史さん:2011/06/11(土) 10:59:39.79
一間を一尺と読み替えれば、そのまま1/6換算できるかな。
620日本@名無史さん:2011/06/11(土) 11:57:11.81
歩為六尺なら、尺が基本になっているのだから、
歩測などしなくてもいい。
中国には歩測が存在しなかったのか、っていうことになってしまう。
いつでもどこでも歩は六尺だと。そんなことは考えられない。
足を用いて計った単位があるはず。それが足裏二歩分で一歩という
単位です。そもそも方里という言葉があるってことは里は長さであって
面積ではありえない。例えば方畝という言葉がないように。
もともとは里は直線だけを表していた。
周制の300歩=里(周代は里は長さしか表さない)に代入すれば、
約二倍里になる。この里は後漢の後もこれを使用されていました。
だから魏書は古い短里型で書かれているのに、新しい長里で計る人がいる
ものだから、不整合が起こるのですよ。
621日本@名無史さん:2011/06/11(土) 12:00:28.32
いろいろ論理の飛躍があるやろ
622日本@名無史さん:2011/06/11(土) 12:36:56.59
勝手論さんへ

一里は千八百尺を無視しちゃいかんよ。

一里、千八百尺だから
  一歩、六尺なら一里は300歩であり、
  一歩が五尺なら一里は360歩である。

で、
千八百尺は何処から出現したか?

追求してる奴はいないのか?

これが、解けないから勝手論が竹の子の芽のように発芽するのだ。
623日本@名無史さん:2011/06/11(土) 12:38:09.23
>>620
>中国には歩測が存在しなかったのか、っていうことになってしまう。

手ではかる尺と足ではかる歩の換算率が決まって、二つの単位系が統合されたってことで、
歩測が存在しなかったことになんかならない。

>いつでもどこでも歩は六尺だと。そんなことは考えられない。

政府の権威で、そう決めた。

>そもそも方里という言葉があるってことは里は長さであって
>面積ではありえない。例えば方畝という言葉がないように。

里は長さの単位であり、同時に一辺一里の正方形の面積でもある。
紛らわしいので後世方歩という言い方が出来たのだろう。
624日本@名無史さん:2011/06/11(土) 12:41:24.09
尺は時代によって長さのばらつきがある。
けれど足の大きさはそれほど変わらない。
何も持たなくても自分の身体が計測器になる。
これほど便利なものを利用しない手はないと思います。
625日本@名無史さん:2011/06/11(土) 13:14:00.49
>これほど便利なものを利用しない手はないと思います。

そんな便利なものが何故メートル法原器として採用されないの。

古代人は貴殿よりもっと科学的な思考をもって尺、里、歩を決定したんだよ。
626日本@名無史さん:2011/06/11(土) 13:35:55.70

歩測というものは存在するのが普通。
歩測ならば、いつでも、どこでも、誰でも
手軽に計れますから。
古代であればこそなお。
627日本@名無史さん:2011/06/11(土) 13:52:47.03
>>626

>古代であればこそなお。


古代人は貴殿よりもっと科学的な思考をもって尺、里、歩を決定したんだよ

歩測する人によって、一定間の距離の歩数が違ったんではこまるじゃろう。
628日本@名無史さん:2011/06/11(土) 14:07:28.76
>>624
> 尺は時代によって長さのばらつきがある。
> けれど足の大きさはそれほど変わらない。
> 何も持たなくても自分の身体が計測器になる。
> これほど便利なものを利用しない手はないと思います。

「尺」も足が指に替わるだけで発生の原理は同じなのですが・・・
629日本@名無史さん:2011/06/11(土) 14:30:49.79
なんどもいいますが歩測は存在しました。
無いというのが無理があります。
歩の形は足裏のかたちの歩くかたちが基です。
六尺だと時代によっては大きく一歩を前に踏み出して歩かなければなりません。
そういう歩測の仕方は、それこそ、時代によって
ばらつきがありますし、大きく前にふみださなければ
ならないので疲れます。とても不自然です。
ですから、六尺為歩は田の面積などを決めるときの
基準法だったということだけではないでしょうか。
だからこそ六尺と限定されているわけで。それをだれでもいつでも
どこでも便利に計れる歩測にあてはめては
ならないのではないでしょうか。
630日本@名無史さん:2011/06/11(土) 14:32:58.48
>>628
もちろん知っています。
手よりも足のほうがばらつきが少ないです。
631日本@名無史さん:2011/06/11(土) 14:38:21.54
>「尺」も足が指に替わるだけで発生の原理は同じなのですが・・・

「尺」と「歩」の関係は、「尺」の発生原理だけでは解決しない。

1歩=6尺 と1歩=5尺の二系統だけが存在した。
二系統とも一里は1800尺である。

一尺は約24cm。

歩とは
、直径X尺の車輪を一回転させて進んだ距離を3歩とした。

3歩は円周率πである。
三歩を3.1416歩と置いても一歩は6尺ないし5尺の二系統を採用したこと理解出来る。


632日本@名無史さん:2011/06/11(土) 15:04:20.32
◎ 歩とは
  直径X尺の車輪を一回転させて進んだ距離を3歩とした。

3は円周率πである。
3歩を3.1416歩と置いても一歩は6尺ないし5尺の二系統を採用したこと理解出来る。
例えば
直径6尺の車輪を一回転させるとその進む距離は円周率を3とすると
6尺×π(3)

6尺π(3)=3(π)歩 としてのであるから、
両辺を3で割って
6尺π(3)÷3=3(π)歩÷3

6尺=歩

という数学の問題だ。
633日本@名無史さん:2011/06/11(土) 15:23:32.40
先につながるならいいけど、
このままじゃ、答えが出ない議論になりそうな気がするな。
634日本@名無史さん:2011/06/11(土) 15:26:56.91
後は、

何故、
一里を千八百尺としたか?
だ。

十進法でも十二進法でもない。ぜ。

635日本@名無史さん:2011/06/11(土) 15:50:24.52
井田制という政治思想の産物だからでしょ。
数学とは違った概念が混入してる。
636日本@名無史さん:2011/06/11(土) 16:12:11.11
>>629
歩測が存在しないなんて、誰も主張していない。いったい何と戦ってるんだ?
最初は歩測によって定義されていた歩が、個人差のばらつきがあっては不便だから、
より一般的な定義がなされるようになった。
歩測から変化しただけで、歩測が存在しなかったなんてことにはならない。
637どくだみ:2011/06/11(土) 16:30:37.15
>>605
「又糧運将匱」とあって、
「糧運」は、個人携行の食料ではなくて、輜重隊が運搬している糧秣でしょう。
だから、50km、3〜5日で飢え死にしそうになることはないと考えてます。

それと小爾雅の<広度>について、板本の画像を貼っておきます。
早稲田大学の古典籍総合データベースから持ってきました。
かなり色々な漢籍を画像で全ページ見られる良いサイトです。
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/index.html

ttp://iup.2ch-library.com/i/i0335578-1307717427.jpg
ttp://iup.2ch-library.com/i/i0335579-1307717427.jpg
ttp://iup.2ch-library.com/i/i0335580-1307717427.jpg
638日本@名無史さん:2011/06/11(土) 19:15:05.70
六尺為歩は田の面積などを決めるときの
基準法だったということ”だけ”ではないでしょうか。
だからこそ六尺と限定されているわけで。それをだれでもいつでも
どこでも便利に計れる歩測にあてはめては ならないのではないでしょうか。

よく言われる、中国国内は長里、東夷は短里でというのは謝りです。
別々に表記するなどありえません。
古代の中国人をばかにしてはいけません。すべて二倍里で書かれています。歩測(二足分)×300=一里です。
なにか、例があったら、探してきます。

639日本@名無史さん:2011/06/11(土) 20:07:21.12
尺や歩をどう弄くろうと『短里』なんて事実は導き出せないことは確定ですね。
後は『周里』なるものが韓地に存在したか否かしか論点は残っていません。
640日本@名無史さん:2011/06/11(土) 20:15:08.35
対馬壱岐間と壱岐九州間を同じ千里で表現するようなザックリ感では
とても実数算定の対象には成り得ないからな。
問題は韓地の方四千里だけだ。
641伊作先生:2011/06/11(土) 20:38:19.74
>>640
海路距離は1日航海1000里、1航海1000里。または日数単位で表記した。
事例を出すまでもなく、歴代の歴史書がこの書き方をしている。
(何ごとに例外があって、目視が可能な場合は稀に百里単で記録している)

何度か書いたはずだが、俺の投稿を見ていないのか。
642日本@名無史さん:2011/06/11(土) 21:15:20.15
>>639

長里だと狗邪韓国すらたどり付かないからな。
短里を否定すれば、自動的にパプアニューギニアか
マリアナ諸島になる。

里程論議に意味が無いと主張するなら、
長里短里論争も意味が無い。
魏志倭人伝の邪馬台国論争をすること
そのものにも意味が無いかもしれない。

長里でどこを比定するのか、まずは
それを表明して欲しい。

より説得力のある意見に流れるだろう。

ダシに使ってすまないが、伊作氏の意見には、
口は悪いが、一定の説得力がある。

それをひっくり返すのはなかなか大変だと思う。
643日本@名無史さん:2011/06/11(土) 21:45:05.61
>>642

韓地の方四千里は、文字どおり四千里、
短里を否定するなら、当時の韓土が
過大に表現されていたと言う結論が出てくるだけ。
倭人伝での距離表記は、韓土の四千里が解決すれば、
自動的に解決する話でしょう。
それを置いといて、路程論議なんかしても話が循環するだけ。
644日本@名無史さん:2011/06/11(土) 21:49:25.76
>>643
>倭人伝での距離表記は、韓土の四千里が解決すれば、

あなたのアイデアとしてはどのように解決しますか?
645日本@名無史さん:2011/06/11(土) 21:57:00.80
韓伝で使えないなら、倭人伝での距離解釈にも短里は使えないと言うことだよ。
そんなこと、いちいち尋ね返さなくてもよいんじゃないの?
646日本@名無史さん:2011/06/11(土) 22:25:56.00
>>643
韓地の方四千里、郡から狗邪韓国の七千里、狗邪韓国から対馬国→一支国→末盧国の各千里、
対馬国方四百里、一支国方三百里は、いずれも相互にバランスがとれた数字だ。
1里=80メートル前後ということで理解できる数字だ。
いわゆる公里とどうゆう関係かはともかく、倭人伝の里はそうゆうものだと考えて、読み解
けば倭人伝を読むのには何の問題もない。
647日本@名無史さん:2011/06/11(土) 22:32:25.22
出処の定かでない怪しげな『里』が使われていたと言う問題が残るなw
648ローガンV世:2011/06/11(土) 22:57:14.50
>>641
つまり、水行の距離はあてにならないということですな。
649日本@名無史さん:2011/06/11(土) 23:08:41.19
1キロでも1万キロでもよければ、記事としての
情報は皆無である。

従って一月行の距離は誤差が多いといえど
一月行という記事を読んでイメージされる
ある程度の範囲の距離はあっただろう。

でなければ、距離の記事の意味が無い。

対馬−壱岐間と、壱岐−松浦間は1.5倍位の差があるから
そのくらいの差は、水行陸行距離の誤差の範囲だったのだろう。
650伊作先生:2011/06/11(土) 23:24:26.34
>>649
一月行は陸行の話だろ。
「対馬−壱岐間と壱岐−松浦間」て
海路距離の話をしてたんじゃないのか。
651伊作先生:2011/06/11(土) 23:27:27.81
>>648
>水行の距離はあてにならないということですな
そう。距離数値はまったくアバウト。正確な距離ではない。
1000里単位は1日航海単位だから、
1000里単位で何日間航海したかをさぐることしかできない。
652日本@名無史さん:2011/06/11(土) 23:35:07.04
海路を10000里行ったといえば、10日間航海のことである。
それが、邪馬台国に至る水行の10日であり、
投馬国に至る水行20日のうち、郡から末廬までの10日である。

わかるかなー。
653日本@名無史さん:2011/06/11(土) 23:39:49.86
>>650
正直言えば水行陸行に差があったのかなかったのかわからないですけどね、
特に変換公式がなければ、一月行は同じ距離としてます。

でも一月行と書かれれば、実際に一月かかっても、かからなくても
ある程度の距離を想定できなくては、情報の意味が無いので、
654ローガンV世:2011/06/12(日) 00:09:17.65
南至投馬国水行二十日 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 の水行二十日、行十日陸行一月は距離を表す
ものではないと思うよ。距離を表したければ里数を書く筈だからね。
655キンガン:2011/06/12(日) 00:22:23.46
>>601
>上奏文では長里で記述し、地の文では短里で記述するというのですか?
>たった三行しか離れていない一連の文章で、しかも何の断りもなく?

我々が、明治江戸の人物伝を書くとき、その人物の言葉を変改するだろうか?
坂本龍馬が「横浜まで後○里じゃ」と言った、とあるのを「横浜まで後○キロじゃ」と直すもんかね?

>ケ艾が前線の陰平(都市)にいては、そういうことにはなりません。

このとき姜維はすでに剣閣に立てこもっており、ケ艾の献策は姜維を陰平からおびき出すものだ。
ケ艾の上奏文では明白に「自陰平」とあり、
冬十月の条では、ケ艾自身が毛氈にくるまり転がって進んだと記してあるんだから、
ケ艾自身が陰平から出発したことに疑いなど無い。

>ただし、ここで七百餘里を直線距離と思いこんで、ケ艾が居たのを雍州だとしたのは僕の間違いでした。
>山道は直線距離の2倍から2.5倍になるのを忘れてました。

なんで、山道だと直線距離の2倍から2.5倍になると具体的に言えるのかな?
前例でもあるの?
ケ艾の上奏文は、作戦の具申であり実際の行動記録ではない。
つまり、そこに書かれた距離は地図上のものだ。
冬十月の条は、実際の行動記録のようにも見えるが、戦時下において態々行軍距離を計測しているはずはないし、
転がり落ちた距離やよじ登った距離をいちいち加算するわけがない。
つまり、こちらも地図上の距離、すなわち直線距離である。

>兵糧を持って行軍している魏の正規軍が、53kmで飢え死にしそうになる難所って、どんなすげー難所なんでしょ。

飢え死にしそうって読むのか?
兵糧って江油に着いてからも必要で、補給路に難所があるなら輸送困難は当たり前だけど。
山に穴開けたり橋架けたりしてるのに三日から五日の行程だから携行食で事足りるとしか考えられないとは・・・。
656キンガン:2011/06/12(日) 00:23:44.31
>>602
>ググったら普通に出てきます。

なるほど、青海史家・李文實氏の考証というわけか。
趙充国伝の記述に照らせば、『歴史地図』より蓋然性は高いかも?

>歴史地図集は落都付近に四望峡を比定しているし、グーグルマップは金城付近だとしている。
>これが両方正しいとすれば、四望峡はえらく長大な峡谷になるねというだけの話です。

両方正しいなんてあり得ないし、長大な峡谷になるなんて貴方以外考えない。

>それに金城三峡だったとしても、金城郡の中に三つあるということであって、
>かたまっていなければならないなんて普通は思わないのじゃないですか。

金城郡内にあるんだから、どこを起点としても「在南六百里」は長里では理解不能。
一つしか位置情報がないんだから、南六百里近辺に散在してると、普通は考えると思うね。
ばらばらに存在する三つの内の一つに絞って位置を示したとか、
実は位置情報じゃなくて川の長さだなんて、
普通の人は考えないと思うけど。

>別に僕の解釈に従う必要はないですよ。

あたりまえでしょ。
位置情報を川の長さに変えてまで短里否定に走る畿内派の頭の固さに、
ほとほと、あきれてるだけ。
657キンガン:2011/06/12(日) 00:25:08.52
>>604
>「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の時の尺」を比べているのだから、
>後漢の尺と魏の尺は同じもです。

原文は「漢至魏,尺長於古四分有餘。」なので、
時代が漢から魏になると、古尺より四分半長くなってるという意味で、
「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の時の尺」を比べているわけではない。
劉徽が莽嘉量と魏尺を比較したという話だ。

変わってないのは魏から晋までで、
王隱が「今尺者,杜?尺也。」と言ってるので晋が魏の杜?尺を使用していたことが解る。
これが、莽嘉量より四分半長かったので荀勗が制尺したわけ。

問題は後漢から魏だが、荀勗の制尺以後に始平銅尺が発見されて、
阮咸の指摘が正しかったとされるのだから、
後漢の尺と杜?尺とに寸法差があったのは歴然。

>つまり、新→後漢→魏→晋の王朝交代で、
>一度も尺の長さを前の王朝と変えろという命令は出されていないということです。

そんなこと言った覚えはない。
「同律度量」は「音律、度量衡を統一せよ」と読むべきと指摘してるだけ。
漢魏禅譲の際、後漢の正尺を引き続き使用したわけではないから、
「同律度量」を「漢と同じ度量衡を使用せよ」と読むのは可笑しいと言ってるの。
658日本@名無史さん:2011/06/12(日) 00:26:09.45
ローガン(老眼)に対するキンガン(近眼)か…今気づいたwww
659キンガン:2011/06/12(日) 00:26:39.32
>>606
>その結果、短里の例はひとつもなかったという結論になりました。
>その時点までは、僕は短里は疑わしいけれど否定はしきれないという立場でしたが、
>このことがあって、短里否定派になりました。

つまり、よそ様の検証結果が正しいと考えたので、貴方の脳内では短里が無くなったということだろ?
あくまでも自分の考えであると明確にすることがフェアな行為だとは思わないのかね。

>「倭人伝の数値でこうなるから短里は存在する」というのは、
>証明すべき事柄を証明に使用しているということになりませんか。

なぜ、デマを振りまく。
記載事実をどう解釈するかが問題なのであって、
その解釈の一つが短里仮説というだけの話。
短里派は「倭人伝の数値でこうなるから短里は存在する、のではないか。」
と言ってるんだよ。

>しかし、度量衡を専門に研究している人がいるにもかかわらず、
>短里の形跡があるという話は聞いたことがありません。
>中国学の学会では相手にされていないのが現状だと思います。
>こういう状態は係争中とは言わないのではないでしょうか。

谷本茂氏は度量衡の専門家だし、中国人の学者が日本人の学者ほど、この問題に興味を持つとは思えない。
短里仮説の存在は認知されているし、今現にこの板では活発に論争されている。
こういう状態を係争中と考えないのは畿内派だけ。
660キンガン:2011/06/12(日) 00:28:09.68
>>609
>何度言ってもわからん人だなあ。それとも認めたくないがゆえ、揚げ足をとらんがための質問攻めかいな?(笑)

質問攻めなどしてないし、貴方が「経緯」の意味を知らなくても関係ない。
聞いてるのは一点だけ「同律度量」を「漢と同じ度量衡を使用せよ」と読む根拠。
現状を認識していないのは貴方なんだけど。
貴方がちくまの権威に挑戦してるんだって事忘れたの?

>よって詔勅に言うところの、議論対象は正朔と服色。

「同律度量」ってのは「同(律、度、量)」なので、
動詞「同」の「同じくする、いっしょに揃える」という意味を踏まえ、
「度を統一する」と読むのが普通の人たちの理解なの。

それと同じく、「議改正朔、易服色、殊徽号、同律度量、承土行」も
「議(改正朔、易服色、殊徽号、同律度量、承土行)」と読み、
文型から「同律度量」も議題の一つと読むのがちくまや僕等のお約束。
臣下の上奏文に「議年号、正朔、服色」とあるから「同律度量」は議題じゃないというんだから、
「其以延康元年為黄初元年」は当然「議題」なんだよね?
仮に「同律度量」が議題でなくとも「漢と同じ度量衡を使用せよ」と読む根拠にはならない、
と何度言っても理解できない?

漢文は往々にして重要な語句を省略することがあるので、
無下に一蹴することなく、辛抱強く貴方の読み方の根拠を聞いてるんだけど
僕のような素人の言を受け入れるつもりがないのなら、
漢文に強い人に訊いてみるといいよ「ちくま間違ってますよね」と。
661キンガン:2011/06/12(日) 00:41:35.34
>>610
>6分の1の尺、見つけてあげてね。数%の差は却下だから。理由は既述。

こういう所に思い込みの強さが表れてるな。
僕が「6分の1の尺がある」と言ったと思い込んでるんだろうな。
たぶん、「歩と里」を「度」だと誤解してるんだろう。
基本的認識の問題だ。

さて、発掘された尺の現物だけど、ここで見れる。
http://ci.nii.ac.jp/els/110002345651.pdf?id=ART0002608204&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1307803834&cp=

p8〜p13に、新から晋までの尺の長さが書いてあるだろ。
岩田氏は、その数値に対しての見解をp35の「おわりに」で
「東漢から尺度は伸張しはじめ、バラツキは三国時代に極大になった。」
とまとめてあるわけ。
どくだみ氏に説明したように、新莽嘉量「平均23.07p」と後漢尺(始平銅尺)「平均23.84p」と魏尺(杜?尺)「平均24.20p」の違いが数値で解るだろ。

つまり、嘉量原器が西晋まで使われ続けたなんて、とんでもない妄説だし、
後漢と魏では、意図するしないにかかわらず、異なった法定尺を使用してるというのが事実。
662伊作先生:2011/06/12(日) 00:50:13.61
>>554
>水行二十日、行十日陸行一月は距離を表すものではないと思うよ。
見れば分かる。ここでは海路行程を日数で表記しているのだ。

>距離を表したければ里数を書く筈だからね。
倭人伝はまず1000里単位の海路行程説明できた。
次に1000里単位の10000里を日数に変えて書いた。
最後に帯方郡から邪馬台国までの総距離で結んでいる。

1000里単位の10000里を日数に変えて書いた内訳がこれ。
・帯方郡から末廬国まで水行10日。(邪馬台国まではあと陸行1月)
・この水行10日と、末廬国から投馬国までの水行10日で合計20日。
663伊作先生:2011/06/12(日) 00:51:58.55
俺の返信ナンバーは
>>654 の間違いだった。
664キンガン:2011/06/12(日) 00:58:45.23
>>661
リンク先がおかしいような。

ciniiで
「中国における尺度の変化」
を探してみて。
665日本@名無史さん:2011/06/12(日) 01:11:39.69
短里wを無理やり当てはめてるから無茶苦茶になってんなwww
666 ◆4EqWP5uJSs :2011/06/12(日) 08:06:30.74
いいねえ、里論争が盛り上がって。

ただ、「尺度の変化」と「里の変化」とは連動するとは限らないので、
尺度の変化を話題にしてもあまり有益ではないかと思うが。
つまり、尺は変化しなくても、歩の長さが変動し得るということ。
667ローガン:2011/06/12(日) 08:16:53.33
>>660
>臣下の上奏文に「議年号、正朔、服色」とあるから「同律度量」は議題じゃないというんだから、 「其以延康元年為黄初元年」は当然「議題」なんだよね?

そう、決定前は当然議題。しかし皇帝自身が既に述べているので、議論の必要無し。よって上奏させる議題は「正朔服色」。
件の詔勅に至る経緯で、度量衡に纏わる議論を示唆するような上奏は無い。又、即位を促す上奏に土行について、くどい程言及されており、今更、「承土行」など議論の必要無し。
又、此方の主張は、こう。
「議改正朔,易服色,殊徽号,同律度量,承土行,大赦天下;自殊死以下,諸不当得赦,皆赦除之.」
「改、易、殊」全て直前のものからの変更だ。承土行も火徳から土徳への変更についてのもの。
全て漢と魏が対になっている。「同」もそう。漢の度量衡を変更しないという意味だ。
以下は貴方のレス
>>469
>漢と異なるんじゃなく、以前と異なるんだよ。以前が、AであれBであれCであろうとも、今回がDなんだから以前を特定する必要はない。
>ただ、「同律度量」の場合、以前が「漢」なのか「新」なのか「秦」なのか「古制」なのか特定しないと意味がない。今回に合う同じものは一つしかないから。

じゃあ、貴方がいうところの「ABC」を 「新」「秦」「古制」に置き換えてごらんなさい。まともに読めんだろう。(笑)
出掛けるので又、いずれ。
668日本@名無史さん:2011/06/12(日) 10:01:16.35
>>662
末盧国から投馬国までが水行十日ならば、何で一万里と書かないんだ?
だいたい、千里=1日ってどこから出てきたんだ?区切りがいいから、きっと
そうに違いないというだけかな?
669卑彌呼の都は久留米:2011/06/12(日) 11:14:22.81
千里=一月行
670日本@名無史さん:2011/06/12(日) 12:01:23.55
>>662
>倭人伝はまず1000里単位の海路行程説明できた。
>次に1000里単位の10000里を日数に変えて書いた。

流石は自称天才、鋭いが満点ではない。

>倭人伝はまず1000里単位の海路行程説明できた。 は◎
>次に1000里単位の10000里を日数に変えて書いた。は没。

次に日数20日を500里に置き換え、従って、水行10日陸行1月で1000里とした。

671日本@名無史さん:2011/06/12(日) 12:02:54.84
670の続き

従って、
狗邪韓國⇒對海【馬】國・千余里
對海【馬】國⇒一大國・千余里
一大國⇒末廬國・千余里
末廬國⇒邪馬壹【臺】國・水行十日陸行一月(千余里)

末廬國⇒伊都國・五百里
末廬國⇒投馬國水行二十日(五百里)

故に、
邪馬壹【臺】國の南限は
末廬國⇒邪馬壹【臺】國・水行十日陸行一月(千余里)⇒千余里。

よって、
狗邪韓國⇒邪馬壹【臺】國の南限までは五千余里。


672日本@名無史さん:2011/06/12(日) 12:15:13.43
里が歩くことから成り立っているという証明

<荀子>
<勧学>
故不積蹞步,無以致千里,不積小流,無以成江海

ゆえにひとあしを積み重ねなければ、千里を成し遂げることは無い。小流が積み集まなければ、江海に成ることはない。

つまり里は長さ、步は歩く意味。歩為六尺は普通半分にしないし、尺が元になっているので、足で測る必要なし。


673日本@名無史さん:2011/06/12(日) 12:37:55.97
水行十日陸行一月って陸行だと一月かかる距離を水行で十日で行ったってことじゃない?
400kmを十日だと一日40kmで妥当な速度になるよ
674日本@名無史さん:2011/06/12(日) 12:54:00.47
言うだけなら何でも有りだな。
675日本@名無史さん:2011/06/12(日) 13:02:50.24
文献に頼るしかなかった昔と違って
今は豊富な発掘物や科学的分析が出来るのだから
暗号解読にこだわらなくてもいいでしょ。
676日本@名無史さん:2011/06/12(日) 13:11:00.90
とにかく邪馬台国は九州ですよ。
倭国乱の戦った跡がありますから。
677日本@名無史さん:2011/06/12(日) 13:35:44.16
高地性集落は瀬戸内メインだろ
678ひとぶた:2011/06/12(日) 13:55:08.54
>>668

「水行」ではありませんが「舟行千里」と言う慣用句があって、「遠隔」の意で使われるようです。

ただし、李白の詩に

 朝辞白帝彩雲間   
 千里江陵一日還   
 両岸猿聲啼不盡   
 軽舟已過萬重山

 あしたに辞す 白帝彩雲の間
 千里の江陵 一日にして還る
 両岸の猿聲 啼 いて尽きざるに
 軽舟已に過ぐ 萬重山

と言うのも有ります。
これは長江三峡の入口白帝城から下流の江陵まで千里で一日と言うわけですが、
余りに高速過ぎて(増水期にアグレッシブにやれば可能かも)、文学的世界の話でしょうか。
実際の距離は千里もないので、この「千里」も「千里眼」や「千里馬」のように「遠隔」を表すのでしょうね。
679日本@名無史さん:2011/06/12(日) 14:09:19.26
九州に邪馬台国なんか有る訳ないだろ。
今時そんな事言ってる奴は半島の工作員位だよ。
680卑彌呼の都は久留米:2011/06/12(日) 14:13:23.38
「千里眼」:千里(70km)先が見える目、 視力6の目

「千里馬」:一日に千里(70km)を移動できる馬、 人間より長距離移動できる優れた馬

1日の移動可能距離が最大の動物は人類、渡り鳥は除く
681才木場:2011/06/12(日) 14:14:05.59
おい、>>679、お前日本人としての民度極めて低いな
682日本@名無史さん:2011/06/12(日) 14:23:31.34
>>681
何言ってんだ?
卑弥呼を半島由来にしたいのとセットで事実だろ。
683才木場:2011/06/12(日) 14:40:59.77
九州説=卑弥呼は半島由来・・という短絡的考え
九州説=半島工作員という九州説陥れ
つまらんガキだ。程度が低すぎる。
もう一度小学校から道徳習い直すか日本人やめろ。
684日本@名無史さん:2011/06/12(日) 14:45:36.62
そんなにファビョるなよw
685どくだみ:2011/06/12(日) 15:00:25.51
>>655
とりあえず、これについて。

>なんで、山道だと直線距離の2倍から2.5倍になると具体的に言えるのかな?

三国志に出てくる駱谷は、地図上の直線距離は100kmに満たないのですが、
中国のサイトの紹介によると谷長200余kmとなっています。
道のりは直線距離の2倍以上です。

わかりやすい例え話をすれば、日光いろは坂で、馬返から第二いろは坂を通って中禅寺湖まで行くと
およそ9kmかかります。地図上の直線距離では3kmです。
「馬返より中禅寺湖まで9km」という記述を見て、
「馬返から直線距離で9kmだと、中禅寺湖を通り越して対岸まで行ってしまうので、
これは『長km』の記述ではない。三分の一の『短km』の単位が行われている証拠だ」
と言っているようなものです。

山道全部がいろは坂並みに3倍ではないだろうと思うので、駱谷の場合のように、おおよそ2倍から2.5倍と考えます。
686筑紫の民:2011/06/12(日) 15:03:38.25
いける、摂津。今日も完投でたのむ。
687日本@名無史さん:2011/06/12(日) 15:35:50.94
三国志の地名比定など通説はみな長里で膨張しているからそんなものを
基にして考えたって無駄。
688卑彌呼の都は久留米:2011/06/12(日) 16:03:03.75
才木場って何それ?
689日本@名無史さん:2011/06/12(日) 16:50:16.45
私はいつも地図上の直線距離の2、3倍にして考える。
今まで口をすっぱくして言っていたのに誰も反応してくれなかった。
伊都国より女王国まで1500里なので、短里の場合120キロ、
直線距離でいうと60キロ〜40キロ、
長里の場合、670キロ、直線距離でいうと335キロ〜220キロ、
二倍短里(歩測短里)で言うと270キロ、直線距離でいうと
135キロ〜90キロということですね。
690日本@名無史さん:2011/06/12(日) 17:08:33.02
大好物な里歩ネタに、あいつが参加していないは淋しい景色じゃわい。
691日本@名無史さん:2011/06/12(日) 17:37:03.79
>>686
あんたが余計なことを言うもんだから!
692筑紫の民:2011/06/12(日) 17:43:01.79
>>691 ごめん
693どくだみ:2011/06/12(日) 18:03:18.60
>>689
僕も、昨日からそれ考えてました。
福岡平野、直方平野、筑紫平野、菊池平野、熊本平野は
わりと真っすぐ進めると思います。
それ以外の山間地は、九州説も近畿説も、移動距離は直線距離の2,3倍と考える必要があるでしょうね。
694どくだみ:2011/06/12(日) 18:08:20.91
>>655
>我々が、明治江戸の人物伝を書くとき、その人物の言葉を変改するだろうか?
>坂本龍馬が「横浜まで後○里じゃ」と言った、とあるのを「横浜まで後○キロじゃ」と直すもんかね?

他の部分では地の文も普通の里で書かれているのに、
ここだけ地の文だから短里というのは理屈が通りません。
他で「セリフは長里、地の文は短里」というような例を複数提示できなければ、
これ以上の議論は無意味です。

以下はおまけ。
>ケ艾の上奏文では明白に「自陰平」とあり、
>冬十月の条では、ケ艾自身が毛氈にくるまり転がって進んだと記してあるんだから、
>ケ艾自身が陰平から出発したことに疑いなど無い。

陰平「郡」から出発したのであって、「都市」の陰平からではないでしょう。
冬十月の条は、ケ艾が、姜維の後背に出るために前線を迂回して行軍している様子です。
>ケ艾自身が毛氈にくるまり転がって進んだと記してあるんだから、
それが都市の陰平である理由になるんでしょうか?

>冬十月の条は、実際の行動記録のようにも見えるが、戦時下において態々行軍距離を計測しているはずはないし、
>転がり落ちた距離やよじ登った距離をいちいち加算するわけがない。
>つまり、こちらも地図上の距離、すなわち直線距離である。

そんなことでは遭難しますよ。
どれだけ行軍したか計測していないと、現在地がどこか、目的地まであとどれだけかわかりません。

>山に穴開けたり橋架けたりしてるのに三日から五日の行程だから携行食で事足りるとしか考えられないとは・・・。

輜重隊が糧秣を運んでいるから3〜5日では軍隊は危殆に瀕しないと言っているのですが?
成都を目的に進軍しているのに、携行食だけで出発するわけないでしょう。
695どくだみ:2011/06/12(日) 18:09:57.45
>>656
>趙充国伝の記述に照らせば、『歴史地図』より蓋然性は高いかも?

僕も、歴史地図集より信頼できるような気がします。

>両方正しいなんてあり得ないし、長大な峡谷になるなんて貴方以外考えない。

歴史地図集の考証過程がわかりませんので、こっちが間違いと決めつけるわけにもいかないでしょう。
グーグルマップの衛星写真を見ると、湟水は全流域が峡谷というくらい山の間を流れていますよ。

>金城郡内にあるんだから、どこを起点としても「在南六百里」は長里では理解不能。

直線距離にこだわってるからでしょう。
これも、「いろは坂の短km」ではないですか。
696日本@名無史さん:2011/06/12(日) 18:17:41.12
>福岡平野、直方平野、筑紫平野、菊池平野、熊本平野は
>わりと真っすぐ進めると思います。

私の説は水行は大宰府の何キロか先の宝満川を下り、筑後川に乗る
って行く行程なので、真っ直ぐどころか、3倍位を想定してます。
筑後川の川筋は今の川筋どころではなく激しく蛇行していましたから。

697日本@名無史さん:2011/06/12(日) 18:33:34.04
那国は出雲
那の津は那に向かうための港。
唐津が唐にあるとでも言うのか?
698日本@名無史さん:2011/06/12(日) 19:08:28.98
里を考えたところで、邪馬台国が何処って分かるの?
そこはこう解釈するんだよって文献が出てくるか、
邪馬台国と特定出来る遺跡出てこない限り
延々答えは出ない気がするんだけど、大丈夫なの?
699日本@名無史さん:2011/06/12(日) 19:14:36.46
それは九州説には禁句だよ。
700日本@名無史さん:2011/06/12(日) 19:17:15.30
>>698
唐津に上陸して東南五百里が伊都国、そこから南に水行したところに投馬国
があり、水行陸行したところに邪馬台国がある。ある程度の範囲を考えれば
いいことだろう。
701日本@名無史さん:2011/06/12(日) 19:22:12.46
つまり2大仮説はどちらも外れる。延々答えが出ないはずである。
702日本@名無史さん:2011/06/12(日) 19:31:37.44
南至投馬国水行二十日
ある地点では投馬国が南に至っている、その地点とは水行二十日行ったところ、
こういう構文だ。
どこにも南に水行したとは書いてない。
703日本@名無史さん:2011/06/12(日) 20:06:55.66
>>969

曲がりくねった道を行けば、倍くらいになることは認めるが、

一応、唐津から佐賀大和(伊都?)とか、
筑後川中流下流域から水行とかは、
わかる範囲で曲がりくねった道なりに沿って計測した。

その結果、短里そのままで、倍設定にする必要はなかった。

唐津から佐賀大和にいたる唐津街道なんて、
山と山の間の谷道なんで、そうそうコースは変わらない。

どんなコース設定したのかがわかれば、
こちらでも追試できると思うのだが。
704日本@名無史さん:2011/06/12(日) 20:11:48.79
>>703の追加

短里で九州内に収まると主張しているが、
その根拠となる里程計測は、
直線で計測してるわけじゃないよ。

そりゃ、現在とは細かいところは違っているだろうけど、
無理なく街道が成立しそうな道を設定してるつもり。

そういう条件だと、昔も今も、そうでたらめに変化するはずはない。
705日本@名無史さん:2011/06/12(日) 20:12:50.72
ごめん、 >>696 ね。
706日本@名無史さん:2011/06/12(日) 20:47:25.68
>>702
南の国に行くには、水行も南でなければならないよ。それに、東に水行するとか西に水行すると
いうなら、そのことを書いてるはずだ。
707日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:01:53.45
南に水行って、この時代隼人と仲良かったの?
クマソはあまり水上出ない?
708日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:15:45.68
景行天皇の熊曾退治によると、
北九州の中津、大分、宮崎の順で攻めて行く。

宮崎までで、熊曾退治は終了。
709日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:19:19.83
>>707
クマソなんて物語にすぎない。実際にそんな種族がいて対立していたとは
思えないな。古代から、南の貝輪が北九州まできている、交易は普通に行
われていたんだよ。
710日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:31:49.95
>>709
クマソは熊本南部に住む人達の事じゃないの?
この時代、対立していたかは分からないけど
711日本@名無史さん:2011/06/12(日) 22:04:23.19
>>710
人種的に違いはなかろうという意味かな?いずれの説もあるね。しかし、私がいうのは、クマソと
呼ばれた人々がいた事実すらないということだよ。クマソは記紀が大和朝廷と対立していた人々が
いたように描く上で創作した名称にすぎないだろうとね。
712日本@名無史さん:2011/06/12(日) 22:48:37.45
>>706
の国なのになんで南に行かせようとするのかねぇ
713日本@名無史さん:2011/06/12(日) 22:50:39.71
ありゃ、、、
東夷の国なのになんで南に行かせようとするのかねぇ
714日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:04:34.12
小学生は書き込みなんかしちゃだめだよ。はい、ネンネ。
715日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:06:43.15
>>703
コース設定ですか?
博多湾のめいのはまあたりに上陸ー東南五百里で大宰府(伊都国)ー東南百里ー
東百里で宝満川に乗るー南水行20日で投馬国(久留米)ー南へ水行十日
で三潴(みずま)を下船−南へ陸行1ヶ月で瀬高町女山(邪馬台国)

道のり約270キロ、地図上の直線距離にして大宰府より女山まで90キロ
716日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:10:19.21
伊刀島から興った邪馬伊都国が糸島まで支配してた状況、これがこの時代の前段階
717日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:28:51.57
>>715
計算違い
道のり約202キロ、地図上の直線距離にして大宰府より女山まで67キロ
718日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:30:22.17
>>715
>地図上の直線距離にして大宰府より女山まで90キロ

道なりに行っても、45キロもありません。
719日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:31:53.20
>博多湾のめいのはまあたりに上陸
一支国まできて、瀬高町女山へ向かうのに姪浜では不合理だ。

>宝満川に乗るー南水行20日で投馬国(久留米)ー南へ水行十日
>で三潴(みずま)を下船−南へ陸行1ヶ月で瀬高町女山
いくら難でもかかりすぎだろう。

30国をどう配置するのかな? 周旋五千里は? 東渡海千里は?
720日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:51:15.36
>>719
伊都国が大宰府であるのと、邪馬台国に行くには宝満川、筑後川に乗ればよいから。
道のり200キロで二ヶ月だから、それほどでもない。

傍国は邪馬台国の南で、筆頭の斯馬国(しめ)は今の清水(しみず)町のこと。
瀬高女山のすぐ南に清水町があります。
一番最後の奴国は玉名あたりまで。
以上30国。その南が狗奴国のクコチヒク(菊池市)。
721日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:54:22.46
姪浜から太宰府まで道なりで、25キロ
この間が500里なら、一里あたり50メートル

直線距離なら20キロ
この間が500里なら、一里あたり40メートル

今までの短里より短くなっちゃうよ。

この直線距離を、2倍〜3倍にするのかな?
722日本@名無史さん:2011/06/12(日) 23:57:10.11
もはやカルトの世界だな
723日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:02:11.42
>瀬高女山のすぐ南に清水町があります。

というか、女山は現地では清水山と呼ばれていますね。
感覚としては、清水山が瀬高町周辺集落の象徴で
中心になりますね。
724日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:02:14.15
>一里あたり50メートル
>一里あたり40メートル

そ〜んな里は、おまへんやろ
725日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:03:22.66
>>721
>この直線距離を、2倍〜3倍にするのかな?
3倍にしています。

726日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:12:00.96
>>723
清水町ではありませんでしたか。訂正します。
清水小学校、清水保育園など、清水の名がその名残りでしょうね。
727日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:19:04.55
もともと、平野部は低湿地帯で、山らしいものは
清水山が目に付く程度ですからね。

昔、お隣りの三橋町(現柳川市)に住んでいて
清水山までマラソンなんてのが
運動部の練習メニューだったものです。
728日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:20:26.22
そんなに何でもありなら、邪馬台国の場所を決めて逆算すればいいのでは?
それに該当しそうなのは無いの?
729日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:27:09.20
やる気になれば邪馬台国を名古屋あたりにして逆算することもできる。
水行十日で大和、陸行1月で陸路を東海へ。
730日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:28:48.50
>>729
ここ一応九州スレだから
731日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:36:03.33
「それでも九州にあった」って言い張る人をプギャーするスレでしょ
732日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:50:52.51
と、思ってたら着々と根拠を固めてきたもんで、
畿内説が右往左往してるところ。

妨害しようとつっこみが入るが、九州説の批判はしても
畿内説の補強がないのが、ちょっと楽しい。
733日本@名無史さん:2011/06/13(月) 00:53:44.65
>>732
纏まってからにしようよ
それにここで畿内説はスレ違い
734日本@名無史さん:2011/06/13(月) 07:57:48.17
九州説の根拠なんて何も出てないじゃん。
皆妄想ばっかりで。
735玉 乱造:2011/06/13(月) 09:26:37.64
九州説も近畿説も、近江説も四国説も、吉備説もエジプト説も、みーんな、根
拠は無いよ。自分の支持する説は根拠が有ると錯覚し、他の説は根拠が無いと
歯牙にもかけないで、言い争いをしているだけさ。
もっと基本的なこと、確実なことから積み上げて行かないと邪馬台国は見つか
らないだろう。
736日本@名無史さん:2011/06/13(月) 11:49:46.80
根拠が全く無いのは東遷説だけだよ。

あとは、畿内説も九州説もまだ可能性はある。
737日本@名無史さん:2011/06/13(月) 12:03:14.96
九州説はどこの遺跡が邪馬台国のある場所だと考えてるの?
畿内説は大和の纏向辺りなんでしょ?

何か最近のこのスレは場所の特定より、数字並べが主の感じがする
738日本@名無史さん:2011/06/13(月) 12:07:34.26
>>736
東遷説も考え方しだいじゃないかな?
例えばだけど信長だっていきなり堺を押さえた訳じゃないし
徐々に勢力が拡がったって解釈すればいいのでは
739卑彌呼の都は久留米:2011/06/13(月) 13:43:02.79
>>736
>>738

私も東遷説。

ただ東遷の時期は7世紀なのです。
740日本@名無史さん:2011/06/13(月) 15:01:16.53
>>738

おまえだけの解釈が根拠になるわけないだろ。
741日本@名無史さん:2011/06/13(月) 15:51:40.92
>>740
記紀に神武東征が書かれている。紀元前7世紀という年代は作り物だが、ああいう歴史的事実が物語的に
書かれている。
742日本@名無史さん:2011/06/13(月) 16:13:14.56
>>740
神武東征の話は、紀元前660年。
神武が東征してきたのは、橿原。大和王権の遺跡はマキムク。
神武の兄弟は皆、東征中に死亡した。
九州から連れてきた神武の長男は、大和で殺された。

およそ、王家の東遷という話しではない。
743日本@名無史さん:2011/06/13(月) 16:52:25.53
>>741
記紀だと国の始まりは淡路島ですよ。
744日本@名無史さん:2011/06/13(月) 16:54:03.26
始祖の神武天皇が日向で、
皇祖神を祭っているのは伊勢ですがね。
745日本@名無史さん:2011/06/13(月) 17:01:52.13
>>744
たしか、斎宮が天照大御神にここがいいって言われて伊勢に決まったような気がする
嘘だったらゴメン
746日本@名無史さん:2011/06/13(月) 17:51:19.86
天照大御神が始めて天より降りたのが伊勢と日本書紀にありますよ。
747キンガン:2011/06/13(月) 21:52:44.28
>>667
>そう、決定前は当然議題。しかし皇帝自身が既に述べているので、議論の必要無し。よって上奏させる議題は「正朔服色」。
>件の詔勅に至る経緯で、度量衡に纏わる議論を示唆するような上奏は無い。又、即位を促す上奏に土行について、くどい程言及されており、今更、「承土行」など議論の必要無し。

方や議題に載ってても命令で問題ないと言い、此方議題に載っていないから議題ではないと言う。
軍配さえも意のままか?
[各隹]陽を洛陽としたのは土行を承けてのものだけど、これも議論しなかったんだな、きっと。

>全て漢と魏が対になっている。「同」もそう。漢の度量衡を変更しないという意味だ。

たとえ命令だとしても、その時点の状況を考えれば「後漢と同じ度量衡を使え」という解釈が、いかに不自然か解らないかな?
曹丕が将に帝位に就こうかというその時点で、使用されていた度は当然後漢の尺だ。
つまり、今使ってる尺と同じ尺を使用せよと、詔書に載せて命令したことになるわけ。
禅譲なんだから後漢からそのまま引き継いだものは他にも沢山あったと思うが、不自然なことに度量衡のみ特筆されたということになる。
漢の度量衡を変更しない、と特筆し注意喚起するのは、王朝交代時に度量衡を変更するといったようなお約束でもあったのかと揶揄してみても知らんぷりだったし、
そう読む理由として唯一提示された、このとき既に度量衡は統一されていたという妄説は退けた。
他になんか理由はないの、ちくま訳を排除するほどの重大な理由?

尺の長さのバラツキが、後漢末では結構大きかったとその筋の専門家が言うんだから、
「ばらついた音律、度量衡を統一する」と読むほうが資料事実に合ってると思うんだけどな。

>じゃあ、貴方がいうところの「ABC」を 「新」「秦」「古制」に置き換えてごらんなさい。まともに読めんだろう。(笑)

「言葉遊びがしたいの?・・・これはお遊びだが」が目に入らぬか。
「ABC」に 「新」「秦」「古制」が入ると思ってんだ…。
748キンガン:2011/06/13(月) 21:55:28.32
>>685
>三国志に出てくる駱谷は、地図上の直線距離は100kmに満たないのですが、
>中国のサイトの紹介によると谷長200余kmとなっています。
>道のりは直線距離の2倍以上です。

で、ケ艾の進軍ルートは何qとされてるの?

>わかりやすい例え話をすれば、日光いろは坂で、馬返から第二いろは坂を通って中禅寺湖まで行くと
>およそ9kmかかります。地図上の直線距離では3kmです。
>「馬返より中禅寺湖まで9km」という記述を見て、
>「馬返から直線距離で9kmだと、中禅寺湖を通り越して対岸まで行ってしまうので、
>これは『長km』の記述ではない。三分の一の『短km』の単位が行われている証拠だ」
>と言っているようなものです。
>山道全部がいろは坂並みに3倍ではないだろうと思うので、駱谷の場合のように、おおよそ2倍から2.5倍と考えます。

日光いろは坂は世間周知の名所で、道のり距離の案内が無ければ不親切。
ケ艾の進軍したルートがその後も使われ続けて、陳壽の時代では既に、
道のり距離が知られるほど有名なルートだったのなら、七百余里が道のり距離でも問題ないと思うけど。
その後も江油までのメインルートだったのかい?
「直線距離だと長里に合わないのは山道だからで、道のり距離と考えれば直線距離の2倍以上で合う」なんて、
「韓の方四千里が直線距離だと長里に合わないからといって、入り組んだ海岸線をキルビメーターで測ると長里で合う」と言ってるのと同じじゃないか。←(本当にこう言った人が存在した)
749キンガン:2011/06/13(月) 21:58:34.31
>>694
>他の部分では地の文も普通の里で書かれているのに、
>ここだけ地の文だから短里というのは理屈が通りません。
>他で「セリフは長里、地の文は短里」というような例を複数提示できなければ、
>これ以上の議論は無意味です。

東夷伝は地の文なんだけど。それに勘違いしてないかい?
貴方が東夷伝以外で短里と思われる例が一例もないから短里はないと言ったんだぜ。
僕が示した例を検討したことがあるのかとの問いかけだったんだがね。
今度は複数じゃなきゃ認めないし、デマも撤回しない、か?どこまで身勝手なんだろ。

>陰平「郡」から出発したのであって、「都市」の陰平からではないでしょう。
>冬十月の条は、ケ艾が、姜維の後背に出るために前線を迂回して行軍している様子です。

郡治は陰平だし、「自」は起点を表す文字だけど。陰平郡から出発って、面が起点なのか???
ケ艾が作戦を打診したとき姜維はすでに剣閣に退いていて、陰平は魏軍が押さえてるんだから
「艾自陰平道行無人之地七百餘里」の起点が陰平なのは、文型からも状況からも確実だと思うけど。
陰平郡の前は雍州が起点だったし次はどこかな?。

>そんなことでは遭難しますよ。
>どれだけ行軍したか計測していないと、現在地がどこか、目的地まであとどれだけかわかりません。

軍記物とか読んだことない?不案内な山では、大概道案内を雇うんだよ。
まさか、測量しながら行軍すると本気で…。

>輜重隊が糧秣を運んでいるから3〜5日では軍隊は危殆に瀕しないと言っているのですが?
>成都を目的に進軍しているのに、携行食だけで出発するわけないでしょう。
なるほど、これは僕の誤読だな。他の人のレスと同じ意味かと思ったよ。悪かったね。

さて、鍾会でさえも兵糧輸送に行き詰まり帰ろうかと考えてたくらいなんだから、
人が転がり落ちたり、よじ登ったりするほどの難所を抱えたケ艾軍が、危殆に瀕しても不思議はないんだよ。
だって輜重隊は魏領から長距離輸送してんだから。
750キンガン:2011/06/13(月) 21:59:30.69
>>695
>>両方正しいなんてあり得ないし、長大な峡谷になるなんて貴方以外考えない。

>歴史地図集の考証過程がわかりませんので、こっちが間違いと決めつけるわけにもいかないでしょう。
>グーグルマップの衛星写真を見ると、湟水は全流域が峡谷というくらい山の間を流れていますよ。

趙充国伝では、四望峡の内に敵がいないのを確認して落都山に着くんだ、って前に指摘してるだろ?
四望峡が100キロ以上に及ぶわけがないだろ。
全く度し難い。

>>金城郡内にあるんだから、どこを起点としても「在南六百里」は長里では理解不能。

>直線距離にこだわってるからでしょう。
>これも、「いろは坂の短km」ではないですか。

僕がこだわってるのは史料事実。
貴方が長里にこだわってるんだよ。
何で位置情報が、川の長さに変わっちゃうの?
ましてや金城の南に、それらしい峡谷が連なってるってのに。

これは「韓の方四千里」よりたちが悪いと思うね。
751どくだみ:2011/06/13(月) 22:40:51.35
>>657
キンガンさん
尺についての議論は噛み合っていないのかなあ。

1、尺の長さは、時代によりばらつきがある。
2、尺のばらつきは、王朝の側が意識的に命じて変更させたものではない。
3、服色は五行により五色、正朔は三正により三通りあり、王朝交代の際に、そのなかから選択される。
  しかし、律はどの王朝でも変わらない。
  音程の計測機器が無く、人の耳で判定する以上、現実にはばらつきは避けられないけれど、建前・理想としては、律は変わらないもの。
  律と関連する尺も、理想的には変わらない。
  今のように厳密な原器はないので、現実にはばらつきがしょうじるけれど。

こう考えているけれど、違いはありますか?
752どくだみ:2011/06/13(月) 23:01:20.90
>>748
名所は道のり表記で名所でなければ直線距離だって、よくわからない理屈です。

>僕が示した例を検討したことがあるのかとの問いかけだったんだがね。

この例は提示されていなかったので、短里派の人も、君以外はこれを短里の例だとは考えなかったという事です。

>今度は複数じゃなきゃ認めないし、

三行前しか離れてないのに前者は長里で後者は短里だという。
その理由が上奏文と地の文だからだという。
ならば、他の部分も上奏文(セリフ)と地の文は長里・短里で書き分けられてるはずでしょうという問いです。
ただ一回だけ、セリフと地の文で長里・短里を書き分けたというのはおかしいですから。

>郡治は陰平だし、「自」は起点を表す文字だけど。陰平郡から出発って、面が起点なのか???

「自陰平道」となっていますが、この「道」をどう解釈しているのですか?

>不案内な山では、大概道案内を雇うんだよ。

その日の行程が何里程度かわからない道案内はいないでしょう。

>だって輜重隊は魏領から長距離輸送してんだから。

君の説に従えば、都市の陰平にケ艾が来た時、すでに糧秣が乏しくなっていたってことですか?
それで成都は目指さないでしょう。
753sss:2011/06/13(月) 23:02:10.78
>>744
天照大神は高天原→孫の瓊瓊杵尊が日向に降臨→そのひ孫の神日本磐余彦(神武天皇)が東征。

天照大神は当初、宮殿に祀られていた。あまりにも威光が強すぎるということで豊鍬入姫命に託され宮殿を離れる。
垂仁天皇の時代に倭姫に託され、鎮座されるところを捜し求め、天照大神の意向で伊勢に決まる。
754どくだみ:2011/06/13(月) 23:07:23.32
>>750
>趙充国伝では、四望峡の内に敵がいないのを確認して落都山に着くんだ、って前に指摘してるだろ?
>四望峡が100キロ以上に及ぶわけがないだろ。

それは思いこみです。
「遣騎候四望キョウ中、亡虜」としか書いていない。これからは、峡谷が長いか短いかは知りようがありません。
現地を知らない以上、グーグルマップも歴史地図集も、どちらも間違いとは決めつけられないということです。

>ましてや金城の南に、それらしい峡谷が連なってるってのに。

もしかして、文穎の「金城有三キョウ」の「三」のなかに四望キョウは含まれていないとでも考えているんですか?
755日本@名無史さん:2011/06/13(月) 23:12:25.44
各時代の尺について

一尺物差は結構出土していて、商の時代は15.8cm。
戦国〜前漢・新ぐらいまでは23cmぐらい。
後漢〜西晋は24cmぐらいかな。
この頃は天文尺、調律尺、常用尺は同じ。

その後常用尺は長くなり続けて、
唐代になると小尺と大尺(小尺で一尺二寸)の二つの制度が出来る。
天文尺や調律尺は小尺、常用尺は大尺。この頃の大尺は29.6cm。

この後は概ね唐の制度に準じているが、
常用尺はそれでも長くなり続け、明代、清代には35cmぐらいになった。

常用尺が長くなり続けたのは税の搾取が原因と考えられている。
農民から多く取り上げるため、時代が下るほど
度量衡は長く、大きく、重くなっていっていった。
756日本@名無史さん:2011/06/13(月) 23:29:47.57
>農民から多く取り上げるため、時代が下るほど
>度量衡は長く、大きく、重くなっていっていった。

??? 長さの尺度が大きくなれば課税対象の田畑の面積は数値としては小さくなるんじゃないの。
100平方メートルの土地を1尺20cmの尺で測れば2500平方尺だが、1尺50cmの尺で測れば400平方尺となる。
面積当りの税率が一定であれば、面積の数値が下がれば減税になる。
757日本@名無史さん:2011/06/13(月) 23:35:45.32
>>756
布帛の長さを測った。
農作物の場合は枡の量を増やす。
758756:2011/06/13(月) 23:38:16.72
>>757
了解。
759ローガン:2011/06/13(月) 23:55:34.38
>>747
>方や議題に載ってても命令で問題ないと言い、

詔勅で「黄初元年となし」と言っているのにあらためて何を議論するの?

>此方議題に載っていないから議題ではないと言う。

ご推奨のちくま訳「すみやかに壇場を築き儀礼を整え、吉日を選び、昂天上帝にはっきりと報告し、群神に対してそれぞれの格に応じて祭礼を行い、祭礼の終了を待って群官を朝堂に集め、施行すべき年号正朔服色を議論させ、上奏させられますように」
ほら、承土行について議論があるとは書いて無い。逆に「火徳から土徳」なんてくどい程書かれているんだから、その「承」が議題に挙がる訳が無い。

>[各隹]陽を洛陽としたのは土行を承けてのものだけど、これも議論しなかったんだな、きっと。

おや、その注は12月だから、関係無いと主張したのは貴方じゃなかった?

760ローガン:2011/06/14(火) 00:26:34.65
>>747続き。
>漢の度量衡を変更しない、と特筆し注意喚起するのは、王朝交代時に度量衡を変更するといったようなお約束でもあったのかと揶揄してみても知らんぷりだったし、

知らんぷり?見落としたかな?度量衡が、天子の専権事項だとは以前から何度も書いたけど。
清の皇帝も黍を横並びに変えたりしてるやん。変更するもしないも天子の専権事項。

>「言葉遊びがしたいの?・・・これはお遊びだが」が目に入らぬか。「ABC」に 「新」「秦」「古制」が入ると思ってんだ…。

貴方のレス内容は、ABC=以前だという主張と承知。なら「新とは服色を変えるぞ!」とも読める文章だというのが貴方の言い分。
私は「昨日まで、着ていた服の色を変えるぞ」と読む。他も同様。漢と魏の事。

>尺の長さのバラツキが、後漢末では結構大きかったとその筋の専門家が言うんだから、「ばらついた音律、度量衡を統一する」と読むほうが資料事実に合ってると思うんだけどな。

経年による数%の違いからなんで「短里」が導き出せるの?
魏よりも漢は幾分、短里だったとか?(笑)
761日本@名無史さん:2011/06/14(火) 01:17:18.56
「短里」は、倭人伝自体から導き出せるんだよ。
762日本@名無史さん:2011/06/14(火) 01:35:42.68
どうやって?
763卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 02:11:09.56
>>761
>「短里」は、倭人伝自体から導き出せるんだよ。

「短里」は、隋書以前の東夷傳全体から導き出せるんだよ。
764日本@名無史さん:2011/06/14(火) 02:20:48.14
帯方郡から狗邪韓国まで七千里。狗邪韓国から対馬国まで千里。対馬国から一支国まで千里…。
実際の距離と照らし合わせると、ある程度の目安になるかも。

末盧国から伊都国までの東南陸行五百里もある。
765日本@名無史さん:2011/06/14(火) 02:57:23.93
>>764
>実際の距離と照らし合わせると、ある程度の目安になるかも。
なるわけないだろ。

実測値じゃないんだから。
昔は、1日で海を渡れる距離を千里と換算してたんだよ。そんなの常識だろ。
766日本@名無史さん:2011/06/14(火) 06:13:22.43
ということは、有明海南下説は消えたか。
767日本@名無史さん:2011/06/14(火) 06:22:08.38
>>765
>昔は、1日で海を渡れる距離を千里と換算してたんだよ。
どっからそんな数字がでてきたんだ? だれもそんな換算してないだろ。
768日本@名無史さん:2011/06/14(火) 08:12:01.94
>どっからそんな数字がでてきたんだ? 

白雉のイサクから。
769日本@名無史さん:2011/06/14(火) 09:44:49.55
>>762
倭人伝は公里を使ってるはずだとか何だとかの一切の思い込みを捨てて、
倭人伝の書く里がどの程度の距離かを考えればいいんだよ。
770卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 10:10:44.69
>昔は、1日で海を渡れる距離を千里と換算してたんだよ。

私もそのように思うところがある。

移動に要する時間の概略換算(距離の絶対値を表すものではない)
  陸行1000里(短里)≒水行1日≒海行1月
771卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 10:14:27.02
私も、白雉を献上すべきかな?
772卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 10:26:03.10
>>770の修正

>昔は、1日で海を渡れる距離を千里と換算してたんだよ。
私もそのように思うところがある。

移動に要する時間の概略換算(距離の絶対値を表すものではない)
  1000里(短里)≒水行1日≒海行1月≒陸行1月

773日本@名無史さん:2011/06/14(火) 10:51:38.03
換算出来るなら全部初めからそうしてる。
地形によって単純に換算出来ない場所があるから日数で表したんだろ。
774卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 11:22:49.63
郡→狗邪韓國
7000里(水行)=水行7日

狗邪韓國→對海國→一大國→末盧國
3000里(水行)=水行3日

末盧國→伊都國→不彌國→邪馬壹國
1000里(陸行)=陸行1月

郡→半島西海岸→対馬海峡→九州西海岸→天草灘→島原湾→有明海→投馬國
20000里(水行)=水行20日

百濟→[身冉]牟羅國(済州島) 隋書
海行3月=3000里[210km](水行)

百濟→狛國(小黒山島) 隋書
水行3日=3000里[210km](水行)
775日本@名無史さん:2011/06/14(火) 11:23:16.70
晴れた日の壱岐からならば対馬も九州も見えますからね
古代人は風や潮が良く、晴れた日に1日がかりで渡海したでしょう
実測ではなく1日で移動できる海路を千余里と記したという意見に同意です
風待ち潮待ちでそれぞれの島に10日ほどは滞在したかもしれません

776日本@名無史さん:2011/06/14(火) 11:23:40.29
魏志の方位は南、東と東南の三種しか記述されていない。
全て、直角三角形に関連させて天文測量で緯度計測をしている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KangnidoMap.jpg
の様な地図が存在すれば、
南、東そして東南何里と国々を記述することができるだろう。
777日本@名無史さん:2011/06/14(火) 11:28:18.29
九州説は相も変わらず未だに距離合わせですかw
778卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 11:30:00.98
>>773
>地形によって単純に換算出来ない場所があるから日数で表したんだろ。

その通り
だから、水行1日≒海行1月≒陸行1月は、概略換算であり、距離の絶対値を表すものではないのです。
779日本@名無史さん:2011/06/14(火) 11:57:15.78
水行二十日を五百里とするなら

狗邪韓國⇒對海【馬】國・千余里⇒一大國・千余里⇒末廬國・千余里
{⇒投馬國・水行二十日(五百里)}
及び
末廬國⇒邪馬壹【臺】國・水行十日陸行一月(千里)
並びに邪馬壹【臺】國の領域が千里。

着点は狗邪韓國から五千里の着点と重なる。
780日本@名無史さん:2011/06/14(火) 12:07:35.41
行軍時の一月行の目安、公里千里=435キロ、一月=30日として一日あたり14.5キロ
旅の日程や軍を動かす場合、非常に無理のない距離である。

ちなみに東海道53次では、最長の宿間距離が15キロ程度であり、
往来の多い場所や、難所が始まる前後では、足の弱い女子供や老人には
長すぎる場合もあるらしく、しばしばそれ以下で宿が設けられている。

倭人伝では一里を70〜80mとして書かれていると実測距離から推測される。

中央ではすでに公里が使用されている可能性があるが、地方辺境まで、
強権で一致させるのは難しい。そもそも、そんな命令が地方辺境まで
届いているかどうかすらあやしい。

そのため、簡易に地方辺境での実測距離を把握するため、1/5〜1/6程度で
統一されているとみられる。
このとき、一月行千里も同様に1/5〜1/6され、80〜90キロ程度に換算される。

不彌國までは里程表記でこのあとから日数表記になるのは、
ここまでは何度も行き来している場所であり、
記録がはっきりしているからだろう。
そこから先は正確ではなく日数表記にせざるを得なかったのだろう。

しかし、日数表記で誤差が大きいといえど、目安となるだいたいの距離はあるはずである。
781日本@名無史さん:2011/06/14(火) 12:16:22.62
季節や天候には左右されんの?
舗装された道でもなし
元々が目安か、話の種程度だろうに
782卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 12:22:40.49
>>775
>実測ではなく1日で移動できる海路を千余里と記したという意見に同意です

郡から狗邪韓國の行程も、沿岸水行で実働7日であったので、
7000里と距離表記にしているのです。
783卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 12:35:13.69
補足説明

百濟→[身冉]牟羅國(済州島) 隋書
海行3月=3000里[210km](水行)

距離の起点:錦江河口沖海上
距離の終点:[身冉]牟羅國(済州島)海岸


百濟→狛國(小黒山島) 隋書
水行3日=3000里[210km](水行)

距離の起点:錦江中流の百濟の都の河岸
距離の終点:狛國(小黒山島)の海岸
784日本@名無史さん:2011/06/14(火) 12:40:48.16
>>780

>行軍時の一月行の目安、公里千里=435キロ、一月=30日として一日あたり14.5キロ
>旅の日程や軍を動かす場合、非常に無理のない距離である。

魏志に行軍の記述はない。
二点間の距離表示のみである。

道なき道を歩んめるんかい。
天文測量か既存の地図の描写なら魏志の記述表現は可能。
785日本@名無史さん:2011/06/14(火) 13:28:15.33
三国志東夷伝の距離記述について

こういう考え方はどうでしょうか。里を約430mとすれば、

韓を方四千里としている→実際より5〜6倍に大きく書かれている。
半島南岸にあったと考えられる狗邪韓国から九州北部にあったと考えられる末盧国までを三千餘里としている→
実際より6〜7倍大きく書かれている。

つまり、里をいわゆる公式の里とすれば東夷の地の距離は6倍程度過大に書かれている。

そうすると、水行二十日や水行十日陸行一月という日数が距離を表すものであればこれも6倍程度過大に書かれて
いるのではないだろうか。つまり、水行二十日は実際は水行3日程度であり、水行十日陸行一月は実際は水行2日
陸行5日程度ではないだろうか。



786日本@名無史さん:2011/06/14(火) 13:47:31.28
>>785

>韓を方四千里としている→実際より5〜6倍に大きく書かれている。

「方四千里」は一辺が千里の正方形です。

千里≒432km として
ソウルから 済州島まで
454km です。

百済の境界が明確ではないので一応、ソウルとしました。
787日本@名無史さん:2011/06/14(火) 14:02:49.03
不彌国までの合計里程は10700里
これに、一月行=千里より、投馬国までの水行20日を、666里
邪馬台国までの水行10日陸行一月より、1333里

合計すれば、ほぼ12700里となり、万二千余里となり、矛盾はない。

ひとつ気になっているのは、不彌国から先を放射式にすれば、
10700里に不彌国からから邪馬台国までの1333里を足して、
ほぼ12000里になるということ。

現時点では、投馬国と邪馬台国の連続式を支持するが、
不彌国からの放射説も考えたほうがよいのかもしれない。
788日本@名無史さん:2011/06/14(火) 14:03:40.95
魏志倭人伝では人が移動した行程には、渡と行、人の移動を表現する動詞が使われている。
従って実際に人が移動した経路は以下のようになる。
郡→狗邪韓国→對馬国→一大国→末盧国→伊都国→不彌国→水行二十日→水行十日→邪馬壺国。
不彌国は水行の起点でなければならず、不彌国を内陸部とした仮説は全てウソっぱち。
789日本@名無史さん:2011/06/14(火) 14:14:03.53
一月行を千里とし、短里とした場合の条件は、
編纂者、あるいは記録者が、いわゆる公里も短里も
よく理解しているという前提が必要なことである。

理解しなければ、正確な換算はできない。
790 忍法帖【Lv=16,xxxPT】 :2011/06/14(火) 14:42:46.71
>>789
>一月行を千里とし、短里とした場合の条件は、
>編纂者、あるいは記録者が、いわゆる公里も短里も
>よく理解しているという前提が必要なことである。



それと、読む側も理解してないとね。
791日本@名無史さん:2011/06/14(火) 14:54:25.94
>合計すれば、ほぼ12700里となり、万二千余里となり、矛盾はない。

狗邪韓國⇒對海【馬】國⇒一大國⇒末廬國⇒伊都國
                末廬國⇒奴國⇒不彌國
                末廬國⇒投馬國水行二十日
                末廬國⇒邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月


魏志には記述されている。


792日本@名無史さん:2011/06/14(火) 14:59:43.84
松浦からの放射説か...
793日本@名無史さん:2011/06/14(火) 15:01:24.69
渡・行で記されてる行程は一本道だよ
794日本@名無史さん:2011/06/14(火) 15:10:06.85
>>792
>松浦からの放射説か...

「行」を日本語の「行く」で解釈している者が多い。
日本語の「行く」は「去」だ、従って「去」の反語は「来」だ。

魏志の「行」は「行列」を意している。
漢籍の慣習のとおり、
「方位と行」が「一節」に有る場合は、その「行」を持って一連の行程が終了していることを意味する。

以下
「『東南』陸行五百里 『到』伊都國」
「『東』『行』至不彌國」
「『南』至投馬國水『行』二十日」
「『南』至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水『行』十日陸『行』一月」


如し。
795ローガンもどき:2011/06/14(火) 15:27:56.72
>>786
>「方四千里」は一辺が千里の正方形です。

あなたも方を一周とするのですね。
796日本@名無史さん:2011/06/14(火) 15:34:59.97
>「方位と行」が「一節」に有る場合は、その「行」を持って一連の行程が終了していることを意味する。
漢文というのは、同じ文字でもどこにあるかによって意味はまったく違うんだよ。
797ローガンもどき:2011/06/14(火) 15:39:43.13
>>786
>>「方四千里」は一辺が千里の正方形です。

ついでに教えて下さい。
一大国の「方可三百里」は一辺がいくらの正方形でしょうか?
798日本@名無史さん:2011/06/14(火) 16:14:47.02
方可三百里=約300里^2
方=二乗の2のこと
799日本@名無史さん:2011/06/14(火) 16:58:42.06
で、邪馬台国は九州のどの辺りにあったんですか?
遺跡はすでに発見済み?
800日本@名無史さん:2011/06/14(火) 17:44:38.46
位置もだんだん決まってきてるようだし、
どこにしようかね。

商都、政都ならともかく、卑弥呼のいる場所という意味しかないなら、
必ず一番大きい都市である保証はない。
それなりに大きい遺跡であることは想像できるけど。

それで、該当する遺跡は結構いたる所にあるのが現実。
伊作氏の主張するような王都の条件かもしれないし
そうでないかもしれない。

いろいろと決めてみて、検証作業かな。

801日本@名無史さん:2011/06/14(火) 18:06:15.73
また妄想かよ…
802日本@名無史さん:2011/06/14(火) 18:43:05.56
とりあえず半分の人が自分の主張してきたことが、ヘ理屈、になるわけだよね。
そうなった時の事は考えてるのかなぁ。
どんな証拠を示されても、やってません、という人がいっぱいいるのと
同じ理屈なんだろうけどね。
803sss:2011/06/14(火) 18:59:30.14
>>799
遺跡の中で、間違いなく倭人伝に登場する国に比定できるものがある。
壱岐の「原の辻遺跡」で、一支国の環濠集落ということになる。
環濠集落であることが重要。

唐津市の柏崎遺跡も、末盧国である可能性が非常に高い。

佐賀平野の惣座遺跡や吉野ヶ里遺跡も環濠集落。平塚川添遺跡も環濠集落。
熊本平野の方保田東原遺跡やうてな遺跡も環濠集落。

このあたりが倭人伝に出てくる国と考えられる。他にもはっきりと見つかっているわけではないが、
機会があれば出土するものと考えられる。
邪馬台国に比定できる遺跡が特定されているわけではないが、はっきり特定するためには金印とかが出てくる必要が
あるわけで、これはどこでも同じ。

しかし、倭人伝の記述からも、実際に出てきた遺跡からも、邪馬台国は環濠集落であると考えられる。
804日本@名無史さん:2011/06/14(火) 19:08:17.03
>>802
学術研究でたくさんの仮説が出てて、それが違ったという結論がでても気にしないよ。

その推論、検証過程で積み上げられたものは互いに有用なんだよ。

畿内説、九州説というだけじゃなくて、そこに行き着くまでの過程が大事なんだ。
互いにいろいろな発掘成果や手法、方法論が編み出されているじゃないか。
それが無かったら結論が出ないんじゃないかな

結果の白黒だけを気にしても意味が無いんだよ。

あと、個人的には、詐欺みたいに言葉で議論をけむに巻くのは有害だと思う。
どう解釈されても、反論されても構わないけど、きちんと情報や意見を、
論理的に表明するのが大事。

そこで論破されてもいいじゃないか。本当に正しければいつかはまた、
もどってくるものだよ。
805日本@名無史さん:2011/06/14(火) 19:12:46.53
私は邪馬台国は一つの環濠集落ではなくかなり多くの集落から成るものだと思う。戸数七万餘は誇張されたもの
かも知れないが、一つの環濠集落では数百戸しか収容できないだろうから、集落が百くらいあったのだろう。
806日本@名無史さん:2011/06/14(火) 19:16:27.44
>>805
環濠集落自体は、もっと広域の集落や国の中心部を示すものじゃないかな。
明らかに環濠集落外から、たくさんの住居跡も出ているし。

そして、環濠集落のない集落は、仰せの通り、たくさんあっただろう
807卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 19:26:15.57
>>799
>邪馬台国は九州のどの辺りにあったんですか?
>遺跡はすでに発見済み?

7万戸の領域国家としての邪馬壹國は北野平野と筑後平野北東部の範囲です。
(佐賀平野東部・筑後平野北西部・筑後平野中部南部の有明海に面した地域は投馬國の領域である)

共立された祭祀王(兄王)である女王卑彌呼の居住址は、
高良山中腹から高良山麓(現在は神社)と推定されます。
邪馬壹國の官である世俗王(弟王)の居場所は、
久留米の平地部にあったと推定されます。

遺跡としては、祇園山古墳が卑彌呼の冢です。

5万戸の投馬國は、徐福がもたらした低地水稲作と水運によって発展した国と思われます。
故に投馬國の中心部は佐賀平野東部となる。
808日本@名無史さん:2011/06/14(火) 19:30:27.66
高良大社に依然行ったことがあるけど、
車でも意外と距離があったな。

そして、ここから筑紫平野が見下ろせるんだ。
ちょうど筑後川が目の前に走っていてね。

確かにここは王様の気分になるねえ。
景行天皇が仮宮を作ったのがわかる気がするよ。
809日本@名無史さん:2011/06/14(火) 20:43:18.32
神話によれば、イザナギイザナミによって、最初に生まれたのが淡路島。

一方、日本書紀には、壱岐島や対馬は、海の泡が固まってできたと書かれていて、
イザナミの産んだ島ですらない。

この国産み神話が、九州発祥ではなく、瀬戸内海発祥なのは明らか。

国家の創世神話が瀬戸内海のものなのに、東遷説ってバカじゃないの?

810卑彌呼の都は久留米:2011/06/14(火) 21:27:34.71
>>808
>確かにここは王様の気分になるねえ。
>景行天皇が仮宮を作ったのがわかる気がするよ。

景行天皇の九州行幸話は、4世紀の九州世俗王(弟王)が
九州東部地域を遠征征服したことのパクリです。
その弟王が高良山の兄王(祭祀王)に遠征報告したことを、
景行天皇が仮宮を作ったとしたのでしょう。

世俗王(弟王)の都は三潴(水沼)から久留米の付近にあったことも、
景行九州行幸話から読み取れます。
811日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:44:51.12
>>808
高良→コウラというと河原のことですね?
我が地元である中国山地のとある盆地にも高良神社というのがあります。

個人的に大社って取り込んだ大和が、取り込んだ後でもご機嫌とりするよな有力地方国家の所にある気がする。

スレ汚しでサーセン
812日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:51:43.40
>>809
大和という国家の神話および付随する国産み神話が

邪馬台国の位置と関連するとか意味が解りませんw
813日本@名無史さん:2011/06/14(火) 21:58:01.51
>>812

国産み神話の成立は、いつだと思うのかね?
8世紀なら、無論、邪馬台国とは関係ないがな。
814日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:01:07.18
国産み神話が8世紀なら、天照大神その他もろもろ、8世紀の創作であり、
東遷説は大きく根拠を失う。

国産み神話が3世紀以前の成立なら、
瀬戸内海の創世神話が日本の創世神話として残ったわけであり、
これまた東遷説は大きく根拠を失う。

東遷説はこのように矛盾だらけでお話にならない。
815日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:32:09.47
>>814
同じ史書から見るのに
国産み神話は認めるけど東遷神話は認めないとかアスペの人ですか?
どちらにせよ自論以外は認めないとか意味が解りませんw
816日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:35:40.51
>>814
東遷してるけど同族が畿内(ニギハヤヒ)にいたあたりは勿論スルーするからこその論でしょw
817日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:43:16.82
>>810
弟王について、なにか根拠がありますかね?

あれば、高良玉垂宮(高良大社)に対して、
大善寺玉垂宮の関係も視野に入ってきますので。

あの横にある御塚権現塚古墳と大善寺玉垂宮は
一体だろうなと考えてます。

そして大善寺は広川と上津荒木川の合流する場所でもあります。
広川の上流は、岩戸山古墳群に通じます。
上津荒木川の上流は高良大社に向かいますね。
818日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:43:19.62
>>815
痾鐚痔痣痲病という難病を患われている方ですからそっと見守るだけにしましょう。
819日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:44:27.60
>>815
神武東征は紀元前なんですがね?

どうして神話から東遷説が導かれるんですか?
820日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:44:58.85
記紀って平城京時代に作られんじゃないの?
脚色もあるでしょうに
821日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:47:00.85
東遷説諸君は、国産み神話の成立時期を明確に提示すべきだね。

3世紀前なのか、4世紀以後なのか?

なぜ、九州が産まれた順番が、四国より後なのか?

神話でものを語るなら、逃げずに答えてミロやゴミクズども。
822日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:50:14.19
>>821
まず自分の意見を言ってからにしようね。
ネタが無いと遊べないよ。
823日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:56:41.35
>>822
東遷説は矛盾しててお話にならない。
824日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:59:44.30
国産み神話が4〜8世紀の成立なら、淡路島から始まる創世神話に矛盾は無い。

しかし、国産み神話が3世紀以前のものだとして、
かつ、九州の王族が東征したとしたなら、
淡路島から始まる創世神話が残るわけがない。

したがって、九州の王族が東征した根拠は全く無い。

825日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:02:53.09
>>824

ほんとだ!確かにその通りですね。
目からウロコでした。
826日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:08:57.24
記紀を語るなら九州からの東遷なんて有り得ない話。
単に国の中心である畿内へ入った、という話だろ。
国の始まりは淡路島、つまり畿内だよ。
827日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:20:37.97
伊作のボケにも言える事だからな。

国産み神話が3世紀以前の成立なら、東遷説なんてありえないんだよ。バーカ。
国産み神話が8世紀の創作と認めるなら別だけどな。
828日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:20:52.49
大陸もしくは半島からまず淡路島に拠点をとって畿内に攻込んだって
いってるの?それとも淡路島にもともといた人たちが人口が爆発的に
増えて畿内を征服したっていってるの?
829日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:26:11.72
国生み神話が種族のルーツを示すならば、淡路島の人が
畿内を占拠したということだろう。
そしてその後、日向から来た神武が
畿内を占拠したと言う事。

自分は、東遷があってもなくても良くて、
仮にあったとしたら、極少数の豪族が
たまたま弱体化した豪族を倒して、
畿内の隙間に割り込んだ程度だと思っているが、

記紀をそのまま信じるならそうなるな。
830日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:47:16.92
東進してきた勢力は淡路島を拠点としてまず河内を勢力下に置いたのですよ
831日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:55:26.46
>>830

九州が四国より後に産まれてるので、それは無いですね。

残念でしたね。

国産み神話の答えは、8世紀の創作。=神武東征も創作。

なぜ、国産み神話が8世紀の創作なのか?
朝鮮半島が出てこない(任那日本府があるべき場所を産んでない)という、すでに倭国の領域が定まった状態が前提だからですよ。

ちゃんちゃん。

君らの夢を壊して悪いけど、このように日本神話は全部8世紀の創作だから。
832日本@名無史さん:2011/06/14(火) 23:59:42.40
淡路島とか四国なんぞは、いわばカモフラージュだよ。
問題は九州と畿内とどちらが先に生まれたのか、古事記をよく読んでみな。
九州が先に生まれて、最後に畿内だ。それは九州こそが中心だったという
ことを表しているのさ。
833日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:02:19.19
>>832
>問題は九州と畿内とどちらが先に生まれたのか、

すげえ!何というか「何がなんでも畿内にだけは負けてはならん!!」という執念だなw

コンプレックスの裏返しか何かか?wwwwwwwww
834日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:09:07.88
言われてみてようやく畿内がさびしく語られていることに気づいたってことか。
835ワッカ:2011/06/15(水) 00:12:20.92
国生み神話に、畿内の記述はない。

国生み神話の範囲は、九州北半分、四国、瀬戸内の島、対馬・壱岐であって
これは1世紀後半〜2世紀初めの九州勢力の範囲だ。
836日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:12:46.20
古事記だろうが、九州は四国よりも後ですな。

はい、東遷説終了。
837日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:14:18.74
>>835

淡路島が最初に生まれてるんだけど。
そこは無視ですか。
いやいや、よほど都合が悪いのねん。

ぷぷ。
838日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:29:28.11
国産みは古事記と日本書紀本紀と一書1から5、計7つの説が出てくるが、
大日本豊秋津州を最後にしてるのは古事記だけ。
多数派の順番だと、淡路→大日本豊秋津州→四国→筑紫→隠岐・対馬→佐度→大州→吉備小州
って感じだな。
西へ行って東へ戻ってきてる。
ちなみに佐度=西都原(佐土原)=クマソな
839日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:32:32.74
九州は、朝鮮半島と交易してました。

しかし、国産み神話は朝鮮半島に全く言及してません。

国産み神話が九州起源ではない証拠。
840日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:37:53.73
必死なのはわからんでもないが、
ここまで必死に主張しても、

もうどうでもいい話になってるんじゃね?
841日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:52:17.72
邪馬台国が九州にあったとしても、
その後、近畿の大和王権に併合されたってことを認めればいいんだよ。

東遷したとか全ての起源が九州とか言い出すから、いろいろ矛盾が出て論説そのものが破綻するわけで。
842日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:55:25.81
いや、8世紀に併合されるのは認めてるぞ。
そのあたりからだろ。
対外的に大和朝廷が記録に出てくるのは。
843卑彌呼の都は久留米:2011/06/15(水) 00:59:18.63
>>817
>弟王について、なにか根拠がありますかね?

『倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟』

倭王は二人で一組。
兄王(天王)は夜に理務を司る。弟王(日王)は昼に理務を司る。
兄王の夜の理務とは祭祀、弟王の昼の理務とは世俗実務を意味する。
多利思北孤は、隋と外交(世俗実務)をこなしているから、弟王である。
卑彌呼は鬼道(祭祀)を司るから兄王である。
卑彌呼の男弟は、国を治めるのをたすけているので、弟王である。

故に、九州東部地域を遠征征服するのは世俗実務担当の弟王となる。

日本の二元政治は卑彌呼以来の伝統です。
天皇(祭祀)と実質支配者(世俗的権力者)
中国と朝鮮は歴代の世俗的権力者を常に日本の王と見做しています。
祭祀王を日本王と見做されたのは卑彌呼と壹與だけです。

九州歴代の人物(王)で弟王でなかったのは、卑彌呼、壹與と薩末比売の3女性だけです。

高良玉垂宮と大善寺玉垂宮の関係には私も着目しています。
844日本@名無史さん:2011/06/15(水) 01:02:40.61

イヨタン・・・・・・・・・・
 
845日本@名無史さん:2011/06/15(水) 01:13:58.57
>>831
自分は河内の人間ですし、九州などどうでもよいのですよ
東進してきた勢力は九州のものではなく朝鮮半島南部から渡来してきた勢力だったでしょう
景行天皇、神功皇后がそれです
朝鮮人は嫌いです、皇室の祖が朝鮮半島にあるといっても
当時、倭人は対馬海峡をはさんで九州北部と朝鮮半島南部に居住していたでしょう
皇室の祖も朝鮮人でなく倭人であると考えます、少なくとも今の朝鮮人韓国人とは何ら関係がありません
高い文化を誇った百済を滅ぼした蛮族新羅の末裔が今の朝鮮人でしょう
846日本@名無史さん:2011/06/15(水) 01:17:29.64
>>845

>東進してきた勢力は九州のものではなく朝鮮半島南部から渡来してきた勢力だったでしょう

で、それがどうして4世紀って話になるの?

紀元前なら、普通にありうるけどね。

847伊作先生:2011/06/15(水) 02:10:41.42
>>827
>国産み神話が3世紀以前の成立なら、
神話はあくまでも創作だ。
創作神話を信じる前提の話だなバーか。

>国産み神話が8世紀の創作と認めるなら
創作神話は8世紀の創作だ。
それを信じる前提の話だなバーか。
848日本@名無史さん:2011/06/15(水) 08:12:43.96
現在の朝鮮人はモンゴル人にレイプされてうまれた人達の末裔ですよ。
849日本@名無史さん:2011/06/15(水) 08:26:57.01
記紀の一番最初に国土は淡路島から出来たと
記述されてんだから、素直に認めなきゃな。
だから九州説論者は半島の工作員か?と言われるんだよ。
850日本@名無史さん:2011/06/15(水) 08:31:51.97
畿内説だけど
記紀の成立が奈良時代なんだから、淡路島でも不思議ないのでは?
さすがに奈良時代の都は九州にあったとか言う人は九州説にも居ないだろうし
851サガミハラハラ:2011/06/15(水) 08:32:32.21
いや、淡路島からとあるが、どうもこの淡路島は現在の兵庫県の淡路島ではないようなのです。
まだくわしく考証していないのであるが、志賀島あたりではないかと思っています。
852伊作先生:2011/06/15(水) 08:33:27.63
>>849
8世紀につくられた創作神話の創作部分を史実とした上での発言だな。
バーか。
853日本@名無史さん:2011/06/15(水) 08:51:20.20
単に日本の真ん中辺にある島だからじゃないの?
854卑彌呼の都は久留米:2011/06/15(水) 09:26:39.47
兵庫県の「淡路島」は「阿波路島」である。
阿波現徳島県と攝津現神戸市をつなぐ阿波への路の意味が阿波路である。

前方後円墳で祭る人達が阿波のヒルコ神(日子神・蛭子神)を引き連れて、
3世紀までに現神戸市に来ていたのだ。乙女塚等・蛭子神社
彼等にとって故郷阿波への路がアワジ(淡路)なのだ。

「阿波路」を「淡島」にちなんで「淡路」と変更したのは8世紀以降と思われる。
855日本@名無史さん:2011/06/15(水) 09:39:26.82
創作神話なら尚更九州を重視するよ、東遷なんてあったらねw
記紀を認めないなら神武東征を根拠にするなよ。

現実は淡路島が国の始まり、中心だという事だ。
いい加減妄想ばかりしないで現実を認めなきゃな。
856日本@名無史さん:2011/06/15(水) 09:41:54.76
もう、国生み神話の順番くらいしか
畿内を優位にするネタは無いのかな。

正直言って、神武東征ですら話半分でしか
考慮してないのだが。

そんなに気にしなきゃいけないネタなのか
よくわからん。

専門家で淡路島にこだわってる人っているのかね?
857日本@名無史さん:2011/06/15(水) 09:43:04.01
わりと、どーでもいい話だよな。
858日本@名無史さん:2011/06/15(水) 09:54:54.50
淡路島発祥説は>>855さんの新説なんだよ。
これで日本の歴史が大きく変わるんだよ。
859日本@名無史さん:2011/06/15(水) 09:56:38.44
>>856
今は九州説優位のネタなんて皆無だよ。
何たらの会信者さんですか?
860日本@名無史さん:2011/06/15(水) 09:59:23.08
新説っつーか、珍説っつーか、

おー、えらいえらい
861日本@名無史さん:2011/06/15(水) 10:04:53.24
ま、最大の珍説は九州説なんだけどなw
862日本@名無史さん:2011/06/15(水) 10:07:36.48
>>851
博多湾東部(和白潟から香椎のあたりまで)の古称は「近淡海(チカツアフミ)」と言いますね
863サガミハラハラ:2011/06/15(水) 10:11:20.38
>>854 アワジシマの命名の由来はそのように聞いています。
それを聞いたときにふとおもったのですが、おなじ兵庫県の姫路の由来はなんだろなと思いました。ごぞんじでしたら、教えてください。
864sss:2011/06/15(水) 10:38:17.45
淡路島が記紀において重要な役割を果たしているというならともかく、その後全く登場しない。
高天原神話にも、もちろん日向神話にも出てこないし、神武東征においても素通り。

それに、記紀神話においては最初に生まれたのはあまり重要視されていない。
海幸彦、山幸彦の争いで勝つのは弟の方。神武天皇は四男だし、第二代・綏靖天皇も四男。
むしろ、後から生まれたほうが重要視されている。

淡路島よりも先に生まれた水蛭子と淡島は出来が悪いということで流されている。
最初に名前が書かれていることに特に意味があるとも思えないが…。
865sss:2011/06/15(水) 10:44:28.80
>>841
そういう感情論で歴史を語るのはおかしい。
東征は許せないが、逆なら許せるというのは地元意識か?
866日本@名無史さん:2011/06/15(水) 11:17:22.11
記紀の一番最初に書かれている事を重要でないと?
九州説の人って本当に都合のいい解釈しかしないなぁ…
867日本@名無史さん:2011/06/15(水) 11:29:25.99
>>795
>>786
>「方四千里」は一辺が千里の正方形です。

>>あなたも方を一周とするのですね。

二点間の距離なら「四千里」ですから、
「方四千里」は「一周」が「四千里の方形」ということでしょう。
「方可四千里」なら「一辺が千里の正方形に相当する面積」です。

>>797
>>一大国の「方可三百里」は一辺がいくらの正方形でしょうか?

「方可三百里」は「一辺が75里の正方形に相当する面積」です。
メートル法にするなら
1里=432mで75里は32.4km
「方可三百里」は32.4km×32.4km=1049.76平方km
となる。


868日本@名無史さん:2011/06/15(水) 11:36:27.00
あの時代に奈良の山の中のことまで知ってたとは思えない。
知る必要もないような遠方なことだろうし。
だから普通に九州にあったと思うのだけどなぁ。
もちろん奈良の山の中にも集落はあったろうし
そこへ九州から落ち延びてきたみたいなのならわかるけど。
あんなとこにいきなり朝廷みたいなのが出来るのも不思議だし
それなりの集落に少し進んだ人たちがやってきて征服
それが記紀神話の祖ってのは時代があわないのかな。
銅鐸破壊儀式も否定する人が多いけどなんらかの権力交代が
あったのならそういうことがあってもおかしくはないだろうし。
シロウトですまんが。
869日本@名無史さん:2011/06/15(水) 11:44:39.08
>>864

神武東征を信じるというなら、その中身を吟味したことがあるのかね?

神武の兄弟は、東征中に全員死んだ。
神武の九州生まれの長男は、大和で殺された。

これが九州勢力の東遷の証拠なのかね?
870日本@名無史さん:2011/06/15(水) 11:47:10.26
>>869

大和盆地に、人が集まってきたのは事実だよ。
しかし、大和に集まってきた人で、一番多いのは東海、そして、山陰、吉備、河内などだ。

九州から人が来てムラを作った形跡など全く無い。
871日本@名無史さん:2011/06/15(水) 12:18:06.69
まあ、九州から来たとしても数ある種族の一つにすぎないだろうな。
その種族が何らかの理由で大和王権の一部にうまいこと納まったという程度だろう。
872日本@名無史さん:2011/06/15(水) 12:47:20.89
天皇の男系の祖先を遡ったら、たまたま九州から来た人だったというだけのこと。
そんなの、弥生人の子孫なら誰でも当たり前。

873卑彌呼の都は久留米:2011/06/15(水) 14:27:27.12
>>863

姫路の由来については知りません。
874日本@名無史さん:2011/06/15(水) 16:35:57.53
神武東征って書くと、短期間に東征したような感じだけど
記紀を読むとそれぞれ途中の場所で長ければ数年過ごしてると読めるけど
何が言いたいかっていうと、神武東征はかなり長期間にわたる勢力圏の広がりを意味してるのでは
そして、最終的に都を畿内に移したと
只、あくまで物語としてはって事ね。事実かどうかは知らん
875日本@名無史さん:2011/06/15(水) 18:01:38.79
>>874
都を移したなんて何処にも書いてないけどね。
876日本@名無史さん:2011/06/15(水) 18:11:39.08
>>875
>都を移したなんて何処にも書いてないけどね。

「都」とは過去の都(みやこ)
で、
現在の都(みやこ)は「京」です。

故に、
「邪馬壹【臺】國 女王之所都」
とあるから
「邪馬壹【臺】國」には「卑弥呼」は居ない

いうことになる。

877日本@名無史さん:2011/06/15(水) 19:14:33.93
九州に京都郡(みやこぐん)って知名があるけど、割と最近付けられた名前なのかね?
878キンガン:2011/06/15(水) 19:47:58.37
>>751
>キンガンさん
>尺についての議論は噛み合っていないのかなあ。

ごまかしてんの?
「同律度量」を「音律、度量衡を統一する」と読む点では僕と同じで、
「同律度量」を議題ではないとする点ではローガン説に与するのかと聞いたら、

>「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の時の尺」を比べているのだから、
>後漢の尺と魏の尺は同じもです。

などというトンデモ読みに走るから、史料事実から誤解であると指摘したんじゃないか。
別に訊いたこと全てに応えろと言ってる訳じゃないが、
こっちの質問を無視して、とくとくと誤釈を披露するから釘を刺しただけだよ、
ぬかだったけど。
879キンガン:2011/06/15(水) 19:49:45.12
>>752
>名所は道のり表記で名所でなければ直線距離だって、よくわからない理屈です。

ただ一度の戦時記録に行軍距離が書かれていたとでも?

>この例は提示されていなかったので、短里派の人も、君以外はこれを短里の例だとは考えなかったという事です。

短里派は魏晋朝短里、長里派は東夷伝のみどこか変という思い込みから、どちらも触れられなかったんだと思うね。
近接して書かれた里数値で、起点終点がほぼ推測できる例なんだから。
やっぱり、東夷伝やこの例を検討することなく人の説に迎合し
「三国志に短里がないと判明した」というデマを飛ばしたわけだ。

>三行前しか離れてないのに前者は長里で後者は短里だという。
>その理由が上奏文と地の文だからだという。
>ならば、他の部分も上奏文(セリフ)と地の文は長里・短里で書き分けられてるはずでしょうという問いです。
>ただ一回だけ、セリフと地の文で長里・短里を書き分けたというのはおかしいですから。

単純だな。列伝全てを陳壽が書き下ろしたんじゃなかろう?
まとめたのは陳壽だが、元ネタは書かれた時期が異なるんだよ。
董卓伝とケ艾伝の元ネタが同じ時期に書かれたと思うかい?
董卓の没年は初平三年(192)、ケ艾の没年景元五年(264)は西晋成立の一年前。
つまり、ケ艾伝の元ネタは西晋時期成立の公算が高いんだよ。
問題は陳壽が元ネタにどれだけ手を入れたかだが、これが判らない。
会話や詔書などを変改したとは思えないので、そこに書かれた里数値は当該時期の里単位の目安にはなるだろう。
ただ司馬氏を追号で記しているように、
西晋以前に成立していた元ネタの里数値も読み手に合わせて(西晋公里に)書き換えられたとすれば、
全ての地の文が短里という可能性はある。
全て書き換えたかどうかは他に検討可能な例が見られず未だ結論に至っていないというのが現状だ。

ケ艾伝の二つの里数値は両方とも直線距離の蓋然性が高く、
これを整合的に解釈するには、魏朝長里・西晋朝短里と考えるのが合理的だと思っているわけ。
あーあ、まじめに説明しちまった。続く・・・
880キンガン:2011/06/15(水) 19:50:49.57
>>752
つづき
>>郡治は陰平だし、「自」は起点を表す文字だけど。陰平郡から出発って、面が起点なのか???
>「自陰平道」となっていますが、この「道」をどう解釈しているのですか?

陰平道は広漢属国時の古名のようでもあるが、陰平と同義ととると陰平を出た直後に無人の難路に入った事になるので、
ちくまに従い陰平の街道(途中)から斜めに逸れたと読むべきだろう。
陰平道は陰平から江油にかけての街道のことらしいし。

>その日の行程が何里程度かわからない道案内はいないでしょう。

道案内:あの山並みの右から三番目の谷を越えると、どこそこに出るんですが、まともな道はありません。
「何時まで」のご到着がご希望で?

>君の説に従えば、都市の陰平にケ艾が来た時、すでに糧秣が乏しくなっていたってことですか?
>それで成都は目指さないでしょう。

誰の説に従ったのか知らないが、起点が平面(陰平郡)の理由になんか関係あんの?
881日本@名無史さん:2011/06/15(水) 19:52:15.32
>>754
>>趙充国伝では、四望峡の内に敵がいないのを確認して落都山に着くんだ、って前に指摘してるだろ?
>>四望峡が100キロ以上に及ぶわけがないだろ。

>それは思いこみです。
>「遣騎候四望キョウ中、亡虜」としか書いていない。これからは、峡谷が長いか短いかは知りようがありません。
>現地を知らない以上、グーグルマップも歴史地図集も、どちらも間違いとは決めつけられないということです。

趙充国軍が黄河を越え陣を構えると羌族がちょっかいをかけているので、
その先物見を出したが100キロ以上敵に遭遇しなかったなどとは考えられない。
思い込みと道理の区別もつかないんだな。

>もしかして、文穎の「金城有三キョウ」の「三」のなかに四望キョウは含まれていないとでも考えているんですか?

含まれていないと考える。
この場合、本文の語句と一致していないうえ、文穎の時代の呼び名が記されていない。
文穎が本文の場所の位置を記す時は、その地名をそのまま使っているか、書き出しが「在〜」である。
文穎の時代と異なる呼び名の時は、「今〜也」と断っている。
そのうえ趙充国伝の記述では、黄河を渡った後に西方を討伐しようとしているので、
四望峡が顏師古の言うとおり峡名なら湟水沿いにあるはずで位置情報と一致しない。
882日本@名無史さん:2011/06/15(水) 19:54:22.06
>>759
>>方や議題に載ってても命令で問題ないと言い、

>詔勅で「黄初元年となし」と言っているのにあらためて何を議論するの?

>>此方議題に載っていないから議題ではないと言う。

>ご推奨のちくま訳「すみやかに壇場を築き儀礼を整え、吉日を選び、昂天上帝にはっきりと報告し、群神に対してそれぞれの格に応じて祭礼を行い、祭礼の終了を待って群官を朝堂に集め、施行すべき年号正朔服色を議論させ、上奏させられますように」
>ほら、承土行について議論があるとは書いて無い。逆に「火徳から土徳」なんてくどい程書かれているんだから、その「承」が議題に挙がる訳が無い。

やっぱり理解できないんだな。
臣下の奏上に年号審議の要請があっても、曹丕が黄初元年と指定したと考えるのに、
臣下の奏上に土行を承ける為の審議の要請がなくとも、
曹丕が審議項目に加えたとは考えないのかと皮肉ったんだが・・・。

通じるくらいなら、あんなおかしな解釈もしない、か。

>>[各隹]陽を洛陽としたのは土行を承けてのものだけど、これも議論しなかったんだな、きっと。

>おや、その注は12月だから、関係無いと主張したのは貴方じゃなかった?

自ら誤読を認め、(他の人が)魏が正朔を改めていないと言っているのは、
その12月の注に夏正を採用しているとあるからなんだな、とその人の説に納得している、
つまり主張の訂正さえしてるんだけど。

史料ばかりか、人のレスも自分の都合優先か。
883日本@名無史さん:2011/06/15(水) 19:56:27.25
記紀イコール東征 否定すれば天皇の歴史自体糞みたいなもんだよ。
884キンガン:2011/06/15(水) 20:15:13.28
>>760
>>「言葉遊びがしたいの?・・・これはお遊びだが」が目に入らぬか。「ABC」に 「新」「秦」「古制」が入ると思ってんだ…。

>貴方のレス内容は、ABC=以前だという主張と承知。なら「新とは服色を変えるぞ!」とも読める文章だというのが貴方の言い分。
>私は「昨日まで、着ていた服の色を変えるぞ」と読む。他も同様。漢と魏の事。

僕の言い分は、こいつは単なる言葉遊び・・・だけど。
誰が読んでも「度量衡の統一」なのに何時までもダダこねるから、
からかってみただけなのに、明後日の方向向いちゃって。

>>尺の長さのバラツキが、後漢末では結構大きかったとその筋の専門家が言うんだから、「ばらついた音律、度量衡を統一する」と読むほうが資料事実に合ってると思うんだけどな。

>経年による数%の違いからなんで「短里」が導き出せるの?
>魏よりも漢は幾分、短里だったとか?(笑)

史料事実から目を背けるばかりか、
僕が尺の長さから「短里」が導かれると言ってると考えてるなんて、
十分すぎるほど痛いな。
尺は時代を経るほどに長くなっていってると言ったんだけど・・・見ても見えず言っても届かず。
885日本@名無史さん:2011/06/15(水) 20:56:08.38
僕ちゃんは他人をからかったり皮肉ったり忙しいな。
886日本@名無史さん:2011/06/15(水) 21:17:31.45
>>877
景行天皇が熊襲平定するときに行宮を設けたところだね
887日本@名無史さん:2011/06/15(水) 21:25:32.92
すぐ近くには仲哀峠
888ローガン:2011/06/16(木) 00:08:18.58
>>884
貴方の主張らしきものは、前スレのこれ
【938 : 2011/05/27(金) 22:31:47.25 : AAS
>>925
めんどくさいな。天才と同じなの?議が議論しろっていう意味だと言うことは理解してもらえたんだよね。
じゃーいったい何を議論しろと言ってるのかということが問題だろ?議論するんだから、漢代に行われたことを改めるんだよ。
改変を議論するもの暦、服色、称号、土行
で、間にある「律度量」だけ同じにするために議論するわけないんだよ。
当然、ばらついてる律度量を同じくするという意味だ。
だから、ちくまは「音律・度量を統一する」と訳してるんだよ。】

根拠は「ちくま」だと連呼するだけで あとはお遊びだとか皮肉とかばかり…
もとより、「お遊び」承知。「短里など無い」というだけで済む事なのに、お遊びで悪魔の証明ゴッコから派生した話。
この話に横付けてくれた どくだみさんのレスが至極真っ当なもの。それももとより承知。 前スレの私のレスがこれ。
944 : 2011/05/28(土) 00:01:26.56 : AAS
「短里だ!あるある。」と主張する人が、明確な史書の記述を貼れば済む事。
(それと、もう一点。私と貴方との議論の中では、流れからいって「同律度量」が「マニュアル通りの文言」てのは取り敢えず無しね。)



わかった?(笑)
889どくだみ:2011/06/16(木) 00:36:47.23
>>878
君に限らず、常々思う事だけど、議論をするのになぜ感情的になるのかなあ?
意見が違うからこそ議論になるし、議論するのは楽しいはずなのに、これでは楽しくないでしょう。
僕はそういうのが嫌で、なるべく挑発的にならないように、
馬鹿丁寧な言葉でレスをするようになってしまいました。
本当はもっとラフにやりたいけど、たまに激怒する人がいるから。

相手が自分の意見を否定すると、まるで自分が否定されたように感じるのかなあ。
人間、誰だって間違います。
僕の意見が正しいところ、君の意見が正しいところ、両方あるでしょう。
お互いの見解を示し、議論をして、より良い結論に達すれば良いこと。
例え最終的に合意に達しなくとも、議論の過程で得るものは有るでしょう。
それで良いのではないですか?

短里が存在しなくたって、君がダメ人間な訳もなし、
短里があったとしても、僕がダメ人間な訳でもないでしょう。
相手が間違っていると思うと、まるで道徳的な罪を犯しているような罵倒するのでは、
殺伐とするばかりですよ。
890日本@名無史さん:2011/06/16(木) 00:43:34.45
五十里百里
891どくだみ:2011/06/16(木) 01:03:07.98
>>890
僕も木石ではないのでw
罵倒されるてムッとすることはありますが、
なるべく五十里で踏みとどまるように頑張ってます。
892日本@名無史さん:2011/06/16(木) 09:59:20.06
>>854 神戸から淡路の洲本へ行く航路では昭和30年代にもクラゲの大群がいてクラゲなす漂へる島というのは淡路島のことだと実感した。
893 ◆4EqWP5uJSs :2011/06/16(木) 10:36:42.46
伊作もそうだが、
論争内容から離れて、もっぱら誹謗中傷に走った段階で
そいつの負け
894卑彌呼の都は久留米:2011/06/16(木) 10:50:32.58
>>892
>神戸から淡路の洲本へ行く航路では昭和30年代にもクラゲの大群がいてクラゲなす漂へる島というのは淡路島のことだと実感した。

クラゲの大量発生は昭和30年代の高度成長期の頃からでした。
大阪湾岸の人口急増で、沿岸各都市が大阪湾中央部の海上投棄していた糞尿が増大し、
海水の栄養富化でクラゲが急増したからです。
海岸にはウンコが流れ着くこともありました。
昭和30年ころまではそれほどクラゲは多くはありませんでした。

昭和30年代中頃には、生活排水と工場排水が増大し、
栄養富化がより進行し、赤潮が発生するようになりました。
赤潮の発生の頃からクラゲは減少しあまり見かけなくなりました。


ここで言いたいのは、大阪湾沿岸には時計回りの沿岸海流があり、
その海流が神武船団の侵入と敗走に大きな役割を果していたことです。
(有明海では反時計回りの沿岸海流がある)
895日本@名無史さん:2011/06/16(木) 14:04:30.35
>>894 へえ、そうでしたか。てっきり古代からクラゲが大阪湾、瀬戸内海で大量に漂っているものと思って歴史ロマンにひたっていたんですが、ウンコのせいですか。

896卑彌呼の都は久留米:2011/06/16(木) 14:41:06.24
『阡陌』について

『陌』は畑の中の東西方向の道。
その道の東西両端には里(農家)がある。
その里(さと)の間には畑の畝(うね)が100本ある。
里と里の距離は1里。
畝の幅は3歩(約70cm)である。

『阡』は畑の中の南北方向の道。
その道の南北両端には里(さと)がある。
その里の間の距離は畑の畝(うね)1000本分である。
南北方向の里と里の距離は3000歩、10里となる。

畑の畝の大きさは東西3歩、南北3000歩(10里)。
畝(うね)が占める広さは3歩×3000歩=9000方歩
これが土地の広さ単位の「畝」の広さである。
1畝=9000方步(≒5アール)

里(さと)あたりの農地の面積は、1里×10里=10方里(≒5ヘクタール)
1戸あたりの農地の面積は50アール(≒10畝)程度と考えられるので、
里(さと)あたりの戸数は10戸となる。
1戸あたりの農地の面積が12畝(60アール)程度であれば、里(さと)あたりの戸数は8戸となる。

イ妥國では8戸で1里を構成していたようだ。
イ妥國の最小行政単位は10里80戸・・・・後世の「郷」
897ローガン:2011/06/16(木) 15:47:49.61
>>659
>つまり、よそ様の検証結果が正しいと考えたので、貴方の脳内では短里が無くなったということだろ?

いや、そうではなくて去年に短里とやらを主張した人が、その根拠にと、出してきた三国志の記述が悉く「短里とやらの根拠にはならなかった」という事。
出してきたのは以下の記述。それに対して短里など無い事を、あらためて確認してくださったのがどくだみさん。
【謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!49.5】
760:taro
「短里は存在しない」という人とか、「短里は東夷伝のみに存在する」とかいう人に訊きたいんだけど、、、
三国志の以下の記事をどう解釈するんでしょうか?
長里で計算して、実際の地図に当てはめると、とんでもないことになるんですけど?
思いっきり中華中原のド真ん中に"短里"が出てくるので、「錯覚」「何かの間違い」では済まされないんですけど?
1) 杜畿伝
若二賊遊魂於疆,飛芻輓粟,千里不及。究此之術,豈在強兵乎?
2) 文帝紀
閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!
『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」后七日,破備書到
3) 夏侯尚伝
尚自上庸通道,西行七百余里,山民蛮夷多服従者,五六年間,降附数千家
4) 済伝
船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中。
5) 文帝紀
冬十月,行幸広陵故城,臨江観兵,戎卒十余万,旌旗数百里
6) 賈逵伝
明帝即位,?邑二百戸,并前四百戸。時孫権在東関,当豫州南,去江四百余里。毎出兵為寇,輒西従江夏,東従廬江。国家征伐,亦由淮、
7) 満寵伝
盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致
8) 満寵伝
至八月,寵以為田向收熟,男女布野,其屯衛兵去城遠者數百里,可掩也。
続く。
898ローガン:2011/06/16(木) 15:57:42.68
9) 明帝紀
秋七月壬寅、帝は親しく御龍舟に乗って東征した。孫権は新城を攻めるも、將軍の張穎等が力戰固守し、帝の軍が未だ數百里に至る前に遁走した。
10) 明帝紀
初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。帝曰:「四千里征伐,雖雲用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。
及宣王至遼東,霖雨不得時攻,群臣或以為淵未可卒破,宜詔宣王還。帝曰:「司馬懿臨危制變,擒淵可計日待也。」卒皆如所策。
11) 胡質伝
請假還家,陰資裝百餘里要之,因與為伴,事佐助經營之,又少進飲食,行數百里
12) 高柔伝
至如陽左右,周數百里,歳略不收
13) 高柔伝
今禁地廣輪且千餘里,臣下計無慮其中有虎大小六百頭,狼有五百頭,狐萬頭
高堂隆伝
今視崇侈,彫妙,忘有虞之期,思殷辛之室,禁地千里,足投网,阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也
14) 曹真伝
正始五年,爽乃西至長安,大発卒六七万人,従駱谷入.是時,関中及??羌転輸不能供,牛馬騾驢多死,民夷号泣道路.入谷行数百里,賊因山為固,兵不得進
15) 陸遜伝
諸將並曰:"攻備當在初,今乃令人五六百里,相銜持經七八月,其諸要害皆以固守,之必無利矣。"
16) 胡綜伝
將晉宗叛歸魏,魏以宗為春太守,去江數百里,數為寇害。權使綜與賀齊輕行掩襲,生虜得宗。加建武中郎將。魏拜權為王,封綜、儀、詳皆為亭侯。亭侯。
17) 朱桓伝
黄武元年,魏使大司馬曹仁騎數萬向濡須,仁欲以兵襲取州上,偽先揚聲欲東攻羨溪;桓分兵將赴羨溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。
18) 朱桓伝
今人既非智勇,加其士卒甚怯,又千里,人馬罷困。桓與諸軍、共據高城,南臨大江,北背山陵,以逸待勞,為主制客,此百戰百勝之勢也。
19) 徐盛伝
文帝到廣陵,望圍愕然,瀰漫數百里,而江水盛長,便引軍退。
899ローガン:2011/06/16(木) 16:22:39.24
おっと、まだあった。
20) 諸葛恪伝
丹楊地勢險阻,與郡、會稽、新都、陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,其幽邃民人,未嘗人城邑,對長吏,皆仗兵野逸,白首於林莽。
21) 諸葛恪伝
建得渡江,欲北走魏,行數千里,為追兵所逮。
900キンガン:2011/06/16(木) 20:41:44.91
>>888
>貴方の主張らしきものは、前スレのこれ
>根拠は「ちくま」だと連呼するだけで あとはお遊びだとか皮肉とかばかり…

●「同律度量」を「漢と同じ律度量を使用すると読む」と言うが、なんと同じか特定されていない。
●「同律度量」は議論対象なので、漢と同じ度量衡を引き続き使用するのに議論が必要とは思えないので不自然。
●漢末では尺長に大きなばらつきが見られるので、「律度量を統一する」と読む方が自然である。
●貴方の読み方が正しければ、長里派が魏朝長里の根拠として、すでに誰かが挙げているはずだが、聞いたことがない。
●ちくまの解訳が僕と同じであり、前項と考え合わせると「漢と同じ律度量を使用する」と読むのは貴方意外にいない。

以上は全て、僕の読み方が正しいと考えられる根拠として提示済みである。

貴方は『献帝伝』にある臣下の奏上文に「同律度量」が載っていないから議論の対象ではないという主張を繰り返しているが、
それが事実であっても、「漢と同じ律度量を使用する」と読む根拠にはならないとくどいほど説明した。
文型からも、貴方のような読み方はしないと付け加えもした。

他に貴方の読み方が正しいという根拠として挙がったのは、新莽嘉量が後漢から晋代まで使用されていたので
漢末にはすでに度量衡が統一されていたというのがある。
それが、『隋書』の記述からも発掘された考古資料からも妄説であることは論証済み。
その際「『隋書』の記述に新莽嘉量が使われ続けたと見られる文章がある」と言ったことは間違いだと認めてくれたが、
「新莽嘉量が後漢から晋代まで使用されていて、漢末すでに度量衡が統一されていた」というのは間違いである、と未だ認めていない。

僕は、僕のような素人の言い分に信がおけぬなら、専門家に聞いてみたらどうかとも提案している。
はたして、どちらの言い分に道理があるだろうか?
これでも僕が遊びや皮肉に走った理由が解んないの?
つづく・・・
901日本@名無史さん:2011/06/16(木) 20:42:52.07
>>888
つづき
>「短里だ!あるある。」と主張する人が、明確な史書の記述を貼れば済む事。(中略)>わかった?(笑)

わかってないのは貴方だと何度も説明したはずだ。
−−−−−−
僕の主張
前スレ983
僕は貴方とは「同律度量」の解釈をめぐって議論してるとしか思ってない。
946に応えてもらって、その解釈を確定したいだけ。
237
遺物からは、後漢と魏晋じゃ「度」が違ってるって読み取れるんだよね。
どっちみち歩や里は「度」じゃないから関係ないけど・・・。
418
前にも言ったが、漢魏禅譲の際の尺(度)の変化は、僕にとってなんの意味もない。
歩や里は「度」じゃないって、前に言わなかったっけ。
だから確定したいのは、「同律度量」の読みだけなの。
598
以前にも念押ししてるが、貴方とは「短里の存在」について議論しているつもりはない。
『隋書』に話が及んでいるのは、度のばらつきが有ったか無かったかを検証してるんだと理解してるよね?
−−−−−−
貴方の解釈
610
6分の1の尺、見つけてあげてね。数%の差は却下だから。理由は既述。
760
経年による数%の違いからなんで「短里」が導き出せるの?
魏よりも漢は幾分、短里だったとか?(笑)
888
「短里だ!あるある。」と主張する人が、明確な史書の記述を貼れば済む事。
−−−−−−
いったい何時になったら理解してくれるの?
902日本@名無史さん:2011/06/16(木) 20:43:54.63
>>889
>君に限らず、常々思う事だけど、議論をするのになぜ感情的になるのかなあ?
>意見が違うからこそ議論になるし、議論するのは楽しいはずなのに、これでは楽しくないでしょう。
>僕はそういうのが嫌で、なるべく挑発的にならないように、
>馬鹿丁寧な言葉でレスをするようになってしまいました。
>本当はもっとラフにやりたいけど、たまに激怒する人がいるから。

>相手が自分の意見を否定すると、まるで自分が否定されたように感じるのかなあ。
>人間、誰だって間違います。
>僕の意見が正しいところ、君の意見が正しいところ、両方あるでしょう。
>お互いの見解を示し、議論をして、より良い結論に達すれば良いこと。
>例え最終的に合意に達しなくとも、議論の過程で得るものは有るでしょう。
>それで良いのではないですか?

>短里が存在しなくたって、君がダメ人間な訳もなし、
>短里があったとしても、僕がダメ人間な訳でもないでしょう。
>相手が間違っていると思うと、まるで道徳的な罪を犯しているような罵倒するのでは、
>殺伐とするばかりですよ。

身に覚えがないんだが、いったいどのレスで貴方を口汚く罵ったかな?
今後の参考にしたいので罵倒されたと感じる表現を教えてもらいたい。
常に婉曲な非難にとどめたつもりなんだが。

さて、僕は論争相手を「君」とは呼ばない。
由緒ある表現ではあるが、社会一般では上司が部下に対するとき使われる事が多く、
掲示板でもそうだが、どんな丁寧な書き方をしていても、相手を見下している印象が拭えないからである。
僕の場合は「貴方」と漢字表記し引用するときは「〜氏」と論争相手に対し一定の配慮をしている。
また、「バカ、アホ、間抜け」という安直(率直)な表現を使ったことも、それにより相手の発言を遮ったこともない。

自分の意見が間違っていると思えたなら、人に指摘される前に自から正したいと常々考えており、ローガン氏との論争では、すでに実践して見せた。
僕の考えるダメな人間は、間違いを指摘されても訂正できない人間だからである。つづく・・・
903キンガン:2011/06/16(木) 20:44:35.89
>>889
つづき

倭人伝に短里論争があることを知りながら「三国志に短里なしと判明した」とデマを流すので撤回しろと言ってもその気配なく、
倭人伝以外に短里と思われる例が一例もないと断言するので、
ケ艾伝を挙げれば他の人の検証結果になかったといって自ら全例検証していないことを弁解したうえ、
反論に行き詰まると複数じゃなきゃ認めないと言う。
四望峡は三峡の内の一つだが、位置が違うから南六百里は特定できないとしていたのに、
新しい比定地があると知ると旧説の位置から新説の位置までが四望峡で川の長さが六百里だと言い始めるとか、
「自陰平」とある明らかなケ艾の出発地点について、戦闘状態の蜀から始まるはずがないから起点は雍州だと言っていたのを、
陰平郡に訂正したので、面が起点かと問いかけても答えないとか、
『隋書』『晋書』の記述を「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の尺」とを比較していると解釈していたが、
原文からも発掘された考古資料からも誤読だと指摘しても知らんぷりとか、・・・

明らかな間違いを複数指摘しているにもかかわらず、
どの一点をとっても間違いと認めるどころかほったらかしである。

つまり、貴方は僕の発言を否定するために、自分の主張を場当たり的に変更し、間違いを指摘されても訂正する様子など見られないし期待できない。

こんな道理の通じぬ論争相手に感情的になるなという方が無理だと思わないのか?
それでも直接的な表現は避けたつもりだったんだがね。

結局、罵倒されたんだから僕が加害者なんだということで終わりか・・・?
やってらんないよ、まったく。
904キンガン:2011/06/16(木) 20:45:16.78
>>897
長々書いてもらって心苦しいんだけどね、
どくだみ氏は、東夷伝の里数値を検証してないと認めているのに
「三国志に短里がないと判明した」と断言したんだよ。
明らかにデマだろ。
それに、貴方の提示した全里数値が短里でなくとも、
僕の立論には関係ないんだってことさえ理解できないんだろ?
貴方は「同律度量」の解釈のみ応答してくれればいいんだって。
できれば、僕より信頼できる人に訊いてくれ。
切に祈る。
905日本@名無史さん:2011/06/17(金) 00:06:43.32
■邪馬台国はどこにあったのか■
作成日:2011年03月21日 21時12分 終了日:2011年06月19日 21時12分
ttp://sentaku.org/etc/1000029396/

1 九州 108票
2 畿内 107票
3 吉野ヶ里(佐賀) 32票
4 愛知県 7票
5 四国 6票
6 その他 3票 1件
7 九州から畿内へ遷都 2票 -
8 五島列島 ...0.4% 1票 -
9 任那 ...0.4% 1票 -
10 存在しない ...0.4% 1票 -
11 関東 ...0.4% 1票 -
12 済州島 ...0% 0票 -



競ってるね
906どくだみ:2011/06/17(金) 00:51:18.82
>>902
>さて、僕は論争相手を「君」とは呼ばない。
>由緒ある表現ではあるが、社会一般では上司が部下に対するとき使われる事が多く、
>掲示板でもそうだが、どんな丁寧な書き方をしていても、相手を見下している印象が拭えないからである。

それは失礼しました。
僕は、むしろ「貴方」や特に「〜氏」に違和感があるので、いつも「君」か「〜さん」のどちらかでした。
今後、「君」はやめます。

>身に覚えがないんだが、いったいどのレスで貴方を口汚く罵ったかな?

デマ・ごまかし・度し難い・たちが悪い・トンデモ・とくとくと誤釈を披露する
拾い出すのが面倒になったのでこれくらいにしておきますが、
これらは充分不穏当な言葉だと思いますよ。
まあ、こんな単語以上に、レス文から「うわ〜、怒ってるわ」という雰囲気がビンビン伝わってくるのが、
読む方としてはけっこうシンドイですが。

>『隋書』『晋書』の記述を「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の尺」とを比較していると解釈していたが、
>原文からも発掘された考古資料からも誤読だと指摘しても知らんぷりとか、・・・

別に知らんぷりではなく、>>657で、
>そんなこと言った覚えはない。
>「同律度量」は「音律、度量衡を統一せよ」と読むべきと指摘してるだけ。
>漢魏禅譲の際、後漢の正尺を引き続き使用したわけではないから、
>「同律度量」を「漢と同じ度量衡を使用せよ」と読むのは可笑しいと言ってるの。
というレスがあったので、ならば、まず論点を整理した方が効率的だと思ったまでです。
いきなり「ごまかしてんの?」と言われると驚きますし、
えらく感情的で議論しにくい人だなと思います。

907どくだみ:2011/06/17(金) 01:08:12.42
>>903
>明らかな間違いを複数指摘しているにもかかわらず、
>どの一点をとっても間違いと認めるどころかほったらかしである。

キンガンさんが指摘したなかで、なるほど僕の間違いだと思ったのは、
>「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の尺」とを比較していると解釈していたが
のところだけですよ。
これについても、あとの議論と絡むから、まず論点を整理する必要があると思ったのですが、
キンガンさんからすれば、それはごまかしになるのですか?
(ついでに言うと、原文は、やはり「後漢」になってます。)

たとえば、

>反論に行き詰まると複数じゃなきゃ認めないと言う。

「ひとつもない」というのは「複数あってしかるべきところ、ひとつさえもない」ということであって、
「ひとつあれば十分」という意味ではないでしょう。
普通、この日本語はそういう意味のはずですが、また僕が主張をすり替えたように思うのでしょうか。
これで「どこまで身勝手なんだろ。」というのも不穏当ですよ。
それから、僕はまったく反論に行き詰ってるとは感じてないですし、
逆に、キンガンさんは奇妙な主張をするなあと思ってますよ。

明らかな間違いが複数あると思っているのはキンガンさんだけで、
僕はそう思ってないから、議論になるのでしょう。
なのに「間違いを認めない」「ほったらかし」というのも変な話です。

>陰平郡に訂正したので、面が起点かと問いかけても答えないとか、

これは、本気で聞いているとは思わず、皮肉で言ってるんだろうと思って、もう忘れていました。
そういう場合は、怒らずに再度問いかけてもらうと有難いです。
明日にでも、陰平道についてレスするときに合わせて答えます。
908ローガン:2011/06/17(金) 01:11:17.23
>>900>>901
>●「同律度量」を「漢と同じ律度量を使用すると読む」と言うが、なんと同じか特定されていない。
>●「同律度量」は議論対象なので、漢と同じ度量衡を引き続き使用するのに議論が必要とは思えないので不自然。

10月19日の上奏「年の始めの月を改め、衣服の色を変え、国号を正されますように」(ちくま本p.169)
ご承知の通り、再三に渡る即位を促す詔と上奏。固辞する魏王。
そして27日の上奏「すみやかに壇場を築き(略)群官を朝堂に集め、施行すべき年号正朔服を論議させ、上奏させられますように」
に対して態度を軟化させた魏王。10月も終わり近く、焦る尚書令らが29日にセッティング。壇場での文帝の詔勅は、この式次第にのっとったもの。
さて、論議の対象とはなんなのか?27日の上奏に書いてあること。「改正朔易服色」。
では新王朝の正朔を〜から〜に改めるのか?新王朝の服色を〜から〜に変えるのか?言うまでもなく漢から魏。
その後に続く文も同じ。称号は異にし、律度量は同じくし、土徳に従う。 新王朝は漢と違う称号を用い、漢と律度量衡を同じくし、土徳をもって漢の火徳を受け継ぐ…。
というのが、「短里は無い」という所から始まった「悪魔の証明ゴッコ」に派生したお題についての当方の主張。
「晋武庫中,漠時王葬作飼料,其銘日,」については、隋書と言ったのは間違いだといは言ったけど、何も私が作った文でなし。ggれば出てくる文。
経年変化による数%の違いは「乱れ」。 そんなのを是正する行動がみられるという事は「統一」されている証拠。
「統一」されなくなるのは南北朝以降。
909日本@名無史さん:2011/06/17(金) 02:24:55.73
王莽の嘉量銘には「同律度量衡、稽当前人」とあるな。
「度量衡を同じくし、前人に稽当す。」
これは秦の権量銘の真似だから、度量衡を統一したってことだろう。
ただ、前人=漢のものを踏襲してる。

魏の「同律度量」の「同」も統一したって事だと思うね。
ただ、出土物からは前王朝(後漢)とほとんど変化無いから
当時通用しているものをそのまま受け入れたのじゃないかな。

王朝発足時の景気づけの言葉で事業としては実行されなかったか、
標準となる原器をちょっと作ってみたぐらいでは。
910日本@名無史さん:2011/06/17(金) 02:48:54.01
「統一」ってのは語弊があるか。
「基準を定める」ぐらいのイメージで考えてる。
911日本@名無史さん:2011/06/17(金) 02:57:41.42
とにかく、文章的には、今、いくつかに分かれているのを一つにせよってこと
にしか読めないな。漢と今とを同じにせよって読むのはこじつけだろう。
912日本@名無史さん:2011/06/17(金) 02:58:17.52
>>905
吉野ケ里は九州に入っていないんだな。
913日本@名無史さん:2011/06/17(金) 04:02:03.63
>>905

なんで「九州」と「吉野ケ里」で票を割ってるんだ?

914五月雨 太郎:2011/06/17(金) 06:35:10.38
吉野ケ里が邪馬台国である可能性は低いから票を割っていてもおかしくない。
自分は九州説だが近畿説の人達が指摘するように、九州の内で邪馬台国はと゜
こかを議論すべきだと思う。
915日本@名無史さん:2011/06/17(金) 07:50:39.75
吉野ヶ里=弥奴国
916日本@名無史さん:2011/06/17(金) 07:55:08.92
どこまでの版図で統一されたのかが問題だな
少なくとも倭国は、その後でも魏の度量衡に統一された形跡はないだろ

冊封されたからと言っても、そういう命令は倭には来なかったんだろうか
917サガミハラハラ:2011/06/17(金) 10:19:03.47
吉野ケ里=邪馬台国旧都
遷都後は小城甘木→倭人伝の都はここです。
918日本@名無史さん:2011/06/17(金) 10:28:32.55
直接、度量衡の統一令が出せるのは
基本的に魏の国内だけだろ。

柵封体制は相互安全保証みたいなもんで、
国の支配自体はそれぞれの国王がやってるから。

朝鮮半島も柵封に入った独立国にすぎない。
919日本@名無史さん:2011/06/17(金) 10:58:10.82
絶対に答えなどでないんだし、自分の頭の中で
こうだと自説を構築して力説したとこで意味がないのもわからんのかww

答えはでないということをもう少し認識しろ。これだからオタクはダメだと
言われるんだよww
920日本@名無史さん:2011/06/17(金) 11:00:08.04
>>918
そのとおりだろうね。だから、東夷には東夷の単位があったんだよ。魏の史書に
その東夷の単位をそのまま書くことはないってのが、公里主張者の言い分だが、
東夷の里をいちいち公里になおすのは面倒な話だし、やたら端数がでてしまう。
そこで、東夷の里をそのまま使った、それがいわゆる短里だよ。
921日本@名無史さん:2011/06/17(金) 11:23:26.64
唐津から前原に向かうときに、唐津湾を横切らないのなんで?
唐津〜前原間と前原〜福岡(or春日)間で、5倍違うのはなんで?
それとも根本的に比定地が違うの?
922日本@名無史さん:2011/06/17(金) 11:32:09.50
比定地が違うんだよ。前原ならば末盧国で上陸する必要はない。船でそのまま
行けばいいんだ。それに前原に行って、いきなり南水行はないだろう。
923日本@名無史さん:2011/06/17(金) 11:35:16.25
>>921
糸島市の伊都は伊都で重要な史跡なんだが、
倭人伝の伊都国ではなさそう。

南東ではないし、あそこの地形では山が海ぎりぎりまで出てて、
およそ陸行するのは困難。

厳木多久方面へ佐賀に行くほうがしっくりする。


糸島から唐津に向かう筑肥線。ここで最初に開通したのは二丈浜玉間、
ここは難所で、ここのトンネルが開通するのは現地の悲願だったのです。

こんなところを陸行で通るくらいなら、
糸島まで直接船で行くというものです。
924日本@名無史さん:2011/06/17(金) 13:49:02.17
>>923 それは現代の話だろう。古代に海岸線がどうだったのかが問題だ。

 大阪でさえ当時は河内湖という海だったからな。
925日本@名無史さん:2011/06/17(金) 13:54:07.15
むしろ、いまでこそ海岸の切り立った崖を切り崩して道がありますが、
当時、大幅な地殻変動でもない限り、道ができるような場所じゃないですねえ。

いまでも玄界灘の波に洗われるような場所なんで。
926日本@名無史さん:2011/06/17(金) 14:09:24.97
測量を考慮したページがあったので

http://home.c07.itscom.net/sampei/wijin/wijin.html


周髀算経では、日から落ちる影の長さを利用した測量法が出ていて、
それを根拠にした一里67.5mというのが、短里の根拠として広く利用されています。

8尺の棒を立てて、15寸の影ができる。これが15寸、あるいは17寸と、1寸変化するごとに
千里とする、という計測法のようです。

これは、北緯を求めて、距離を計測するものですが、当然ながら、
北緯が変わると、だんだんずれてきますので、南にいくにつれて
だんだん長くなってきます。

北部九州に入ると一里77メートル台になってしまうそうです。

持論の一月行千里として、連続読みにすると、熊本県人吉盆地あたりになってしまいますが、
それとは別に、

北緯による当時の測量で万二千余里だと、やはり人吉付近になるそうです。

927卑彌呼の都は久留米:2011/06/17(金) 14:14:45.37
>>914
吉野ヶ里=倭面土國
吉野ヶ里=不彌國
吉野ヶ里=筑志米多國

吉野ヶ里=肥米田国=目達国
928日本@名無史さん:2011/06/17(金) 14:21:33.28
「目達原」

よそもんだと、なかなか、「メタバル」とは読みにくいねえ。
「めだちがはら」なんて読んでタクシーの運転手さんに悩まれちゃったよ。

あと、大和町の「尼寺」、
タクシーであまでらまで、と言って「はあ?」と言われた。
ほんとうは「にいじ」です。


929卑彌呼の都は久留米:2011/06/17(金) 14:26:27.21
>>921-923
糸島市の伊都は伊都で重要な史跡なんだが、
倭人伝の伊都国ではない。
倭奴國以前の史跡である。

南東ではないし、あそこの地形では山が海ぎりぎりまで出てて、
およそ陸行するのは困難。

観音峠越えで佐賀平野に出るほうがしっくりする。

糸島から唐津に向かう筑肥線。ここで最初に開通したのは二丈浜玉間、
ここは難所で、ここのトンネルが開通するのは現地の悲願だったのです。

こんなところを陸行で通るくらいなら、
糸島まで直接船で行くというものです。


以上同意部分はコピペ
930サガミハラハラ:2011/06/17(金) 14:26:44.67
>>926
一里67.5mというのは私の主張とおなじですね。
931卑彌呼の都は久留米:2011/06/17(金) 15:38:02.08
>>926
『周髀算經』の読み間違いをしているよ。

周髀算經原文部分
「周髀長八尺 夏至之日晷一尺六寸 髀者 股也
 正晷者 句也 正南千里 句一尺五寸 正北千里 句一尺七寸」
932日本@名無史さん:2011/06/17(金) 17:00:13.36
16寸プラスマイナス1寸ですね。
で、それぞれ、南千里と北千里と。
933sss:2011/06/17(金) 17:23:10.89
>>921
前原に行くのが目的だったら、壱岐から直接、舟で行けば良いわけで、わざわざ末盧国を経由して、しかも船を降り、
重い荷物をかついで険しい陸路を行く必要はない。

佐賀平野に向かったと考える方が理屈に合うし、方向も距離も合う。その後の南への水行もうまく説明できる。
根本的に比定地が違うということだろうなあ。
934卑彌呼の都は久留米:2011/06/17(金) 17:23:44.76
>>932
夏至の正午に限られます。
なお、計測場所は北緯35°付近(中原淮水流域)に限られます。
935日本@名無史さん:2011/06/17(金) 17:36:24.34
>>934
そのため、南にいくと一里あたりが長くなってしまいますね。
936日本@名無史さん:2011/06/17(金) 18:38:16.47
周髀算經は理念上のものだろ。
実際に使用されていれば
北回帰線まで版図に入った時点でおかしいと気付くからな。
937日本@名無史さん:2011/06/17(金) 19:03:48.31
>>936
北回帰線上では影がゼロとなることを知っていたんじゃないかな。
938卑彌呼の都は久留米:2011/06/17(金) 20:00:11.35
>>936
>周髀算經は理念上のものだろ。
>実際に使用されていれば
>北回帰線まで版図に入った時点でおかしいと気付くからな。

北回帰線の位置は知っていた。
中原(北緯34.8°)の南8000里

周髀算經が書かれた頃では未だ北回帰線はシナの版図に入っていない。
939キンガン:2011/06/17(金) 20:30:52.66
>>906
>>907
>>身に覚えがないんだが、いったいどのレスで貴方を口汚く罵ったかな?

>デマ・ごまかし・度し難い・たちが悪い・トンデモ・とくとくと誤釈を披露する
>拾い出すのが面倒になったのでこれくらいにしておきますが、
>これらは充分不穏当な言葉だと思いますよ。
>まあ、こんな単語以上に、レス文から「うわ〜、怒ってるわ」という雰囲気がビンビン伝わってくるのが、
>読む方としてはけっこうシンドイですが。

古田や谷本が短里に関する本を出版してることは知ってるよね。
このスレや他の掲示板で、短里に関する論争があることも周知の事実。
しかも貴方自身東夷伝の里単位を検討外においてると認めているのに、
「三国志に短里なしと判明した」という事実と異なる情報を発信してる。
これは明らかに「デマ」の定義に当てはまると思うが、「充分不穏当な言葉」なんだね?

僕の質問と異なる問題を論述し、その解釈の不当性を指摘したにもかかわらず、
その時点では尺の議論がかみ合わないと言って「誤読を認めることなく」矛先をかわしたんで、
ごまかしてんのかと非難したんだが、間違った発言かい?
それに対する応えが罵倒されたとの被害者宣言。
それに返信して初めて、先の解釈を誤読と認めたが、その内実は未だ明確にしていない。
間違いと認めるのを先延ばししてる、つまり未だごまかしてるとしか思えないけど。
また、僕の質問と関係ない謬説を長々と説明され、この先論点が拡散するとめんどーになるから
とくとくと誤釈を披露したと釘を刺したんだが、これも「充分不穏当な言葉」なんだね?
つづく・・・
940キンガン:2011/06/17(金) 20:31:41.84
>>906
>>907
つづき
度し難いというのは、いくら道理を説明しても解らないと憤慨してるわけで、
度し難いやつだとか、度し難いわからずやという表現を使わないことで、
直接相手を侮辱しないように配慮したんだが、これも「充分不穏当な言葉」なんだね?

たちが悪いと言ったのは、三峡の位置情報が川の長さに変わったという貴方の「説」に対してのもので、
750:これは「韓の方四千里」よりたちが悪いと思うね。
韓の方四千里も海岸線をトレースすれば長里に合うという「説」と対比したものなんだけど。
これも「充分不穏当な言葉」なんだね?

トンデモは、「後漢から魏にかけての尺」と「王莽の尺」を比較したという謬説を
「トンデモ読み」と言ったのであって、貴方自身を指してる訳じゃない。
貴方自身誤読を認めたのに「充分不穏当な言葉」になるんだね?

で、いつから「道徳的な罪を犯しているような罵倒」が「充分不穏当な言葉」と同義になったのかな?
これを「すり替え」って言うんじゃないかと思うんだが、どうせまた「僕の奇妙な主張」ととるんだろ?
このやり方って、いままでの貴方の論争態度そのものだと思わないか?

怒ってるととられたのは、僕の筆力が未熟だからであり、
僕としては、あきれてるんだというニュアンスを強く伝えたかったんだけど。
2ちゃんでキャラつくってんだから、解ってくれると思ったが・・・

>いきなり「ごまかしてんの?」と言われると驚きますし、
>えらく感情的で議論しにくい人だなと思います。

僕も議論にならない、こちらの意図が正確に伝わらないと考えているから、これで失礼するよ。
結構負担になってたんで、離脱時期を考えてたからちょうどいい頃合いだ。
「それは誤読だ」と書いただけで、「道徳的な罪を犯しているような罵倒をされた」と言われるんじゃ、とてもかなわん。
じゃ元気で。
941キンガン:2011/06/17(金) 20:32:27.14
>>908
壊れたレコードのように、同じことを繰り返すのかい?
もはや、僕の能力でちくまが正しいと論証することは難しいようだ。
貴方の解釈が正しいという「信念」は十分伝わったよ。
じゃロムに戻るね。

あっ、一点だけ。

>経年変化による数%の違いは「乱れ」。 そんなのを是正する行動がみられるという事は=「統一」されている証拠。
ってのは、
=度がばらついていて(乱れ)是正する(統一した)行動がみられる、って認めてるじゃん!

語るに落ちたと言うことで・・・
942日本@名無史さん:2011/06/17(金) 20:40:33.20
パチパチパチ
いい勉強になりましたよ。
943日本@名無史さん:2011/06/17(金) 20:41:43.84
ものすごく勉強している人も多いみたいですが、ヤマトの当て字であって、ヤマタイではないと思う。
944日本@名無史さん:2011/06/17(金) 20:43:22.35
>>937>>938
スマンが何の反論かわからない。
北回帰線まで版図に入ったのに、何も気付かなかったというのは
天文上の理念のみで、実生活には使用されていなかったという事ではないか
と考えてるのだが。
実際、5世紀になって計ってみて、こりゃおかしいぞってわかるわけで。

周髀算經には影がなくなるのは、夏至のときは周の陽城から南に16,000里、
夏至のときは南に135,000里の地点とあるよ。
945日本@名無史さん:2011/06/17(金) 20:46:56.45
松本清張の影響で九州だと思っていましたが、今は近畿だと思っている。中国の書物も遠い所の記述はいい加減な部分もあったのでは。
946日本@名無史さん:2011/06/17(金) 21:03:39.99
まあ、水行十日、陸行一月では北九州という線はないだろう。

 水行十日+陸行一月なら奈良のヤマトだろうしな。
947日本@名無史さん:2011/06/17(金) 21:18:29.20
 『ジョーカーの1日』

.   |___
.  /   (^ν^ )  さてと、今日も一日ドンコイスレで悪口雑言カキコしまくろうかな
/    /    \  
     | |48歳 | |   ←ジョーカー(別名:サイキバ、ウンコマン、ビチグソ畿内論信者)
___/ ./無職 .| |___
   //   //
 /(Ξ´幵幵‘ミ)幵/


.   |'ー`)し   今年はお仕事見つかるといいね・・・
.   と ノ
.  | /___
.  /   (^  )彡  !?
/    /    \
     / |童貞  , / ))
____/ /| _/ /___
     ̄(⌒_/
       ̄

.   |
.  |彡サッ
.  |__
 /  (    )  勝手に入ってくんなよ!ババア!頃すぞ!!
/    γ⌒\
7``)  / /  \
.`ヽヽ / X  ミ ヽ   ガタッ!
  ヽ___ノミ\ 包茎\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
948日本@名無史さん:2011/06/17(金) 21:21:31.94
>水行十日+陸行一月なら奈良のヤマトだろうしな。
どこからどこまでが十日で、どこからどこまでが陸行一月なの?
949日本@名無史さん:2011/06/17(金) 23:05:13.80
>>947
>ウンコマン、ビチグソ

子供ってうんこネタ好きだよなw

950日本@名無史さん:2011/06/17(金) 23:13:45.01
>>905
重複除くと・・・
951ローガン:2011/06/17(金) 23:36:06.48
>>941
>=度がばらついていて(乱れ)是正する(統一した)行動がみられる、って認めてるじゃん!
>語るに落ちたと言うことで・・・

「ばらついた」という表現は、「複数の度量衡が同時存在した」という印象操作。
私は「経年変化によるズレとか、違い」と言ってるの。そのズレを是正するんだから、規格が有るわけ。これを統一された度量衡だと言うのが当初からの主張。
という意味で「原始時代にアウトローはおらんやろ」と前に書いたんだけどね。
わかりにくかったなあ。では又いずれ。
952日本@名無史さん:2011/06/17(金) 23:39:08.68
>>944
影がなくなるのは、
夏至のときは周の陽城から南に16,000里
冬至のときは南に135,000里の地点
だった。すまぬ。

周髀算經自体、成立した年代がよくわからない。
3世紀初頭じゃないかと言われてるけど、
それまでの伝承や知識が含まれているらしい。
953日本@名無史さん:2011/06/17(金) 23:52:38.15
<Wikiジョーカー>
相手がいなくなったあと負け犬の遠吠えレスを入れるのも特徴的。
最近はサイキバを避けるため、別スレにコピペをしてそこで
負け犬の遠吠えレスを入れるという手を使っている。(>>947&>>949

この項目は書きかけです。
954卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 00:07:59.26
>>944

>>938の間違い修正
北回帰線は南8000里では無く、南16000里でした。
因みに太陽の高さは80000里。

>北回帰線まで版図に入ったのに、何も気付かなかったというのは
周髀算經はBC200年頃の編纂ですから、
北回帰線はまだ前漢の版図に入っていません。

北極の位置測定の内容から判断して、
周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃になります。
955日本@名無史さん:2011/06/18(土) 00:15:23.51
<Wikiジョーカー>
相手がいなくなったあと負け犬の遠吠えレスを入れるのも特徴的。
最近はサイキバを避けるため、別スレに逃げ出しそこで コピペをして
負け犬の遠吠えレスを入れるという手を使っている。
(「それでも邪馬台国は九州にあった」その4スレの>>947&>>949参照)

この項目は書きかけです。
956卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 00:33:12.94
>>954の補足説明

>北極の位置測定の内容から判断して、
>周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃になります。
原文
『正極之所游 冬至日加酉之時 立八尺表 以繩繫表顛 希望北極中大星
 引繩致地而識之 又到旦 明日加卯之時 復引繩希望之  首及繩致地而識其端
 相去二尺三寸 故東西極二萬三千里 其兩端相去正東西 中折之以指表 正南北
 加此時者 皆以漏揆度之 此東西南北之時 其繩致地所識 去表丈三寸 故天之中去周十萬三千里』

上記『大星』と正北極(北極樞)の為す角度は、5°であることの意味が書かれています。

『大星』は小熊座のβ星です。(地軸の歳差運動から特定できる)
小熊座のβ星と正北極がなす角度が5°の時は、BC1000年頃です。
957日本@名無史さん:2011/06/18(土) 00:33:54.71
>>954
秦の時代には版図に入ってたのは無視?
ハノイの辺まで行ってたハズ。

北極星の話は知らね。
ただ、周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃ってのは少々変な話だ。
その頃は西周の時代だから首都は陽城じゃなくて鎬京だからね。
958日本@名無史さん:2011/06/18(土) 09:04:20.77
天照大神が隠れるシーンは「皆既日食」ともいわれているけど
近畿地方で皆既日食が観られたという記録ある?
959日本@名無史さん:2011/06/18(土) 09:14:53.71
天照大神は実は月読だったのだ。
月食なら6月16日にもあったし、よくあることだ。
960日本@名無史さん:2011/06/18(土) 09:57:15.59
>>958
ない
961卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 10:10:36.69
>>957
>秦の時代には版図に入ってたのは無視?ハノイの辺まで行ってたハズ。
>周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃ってのは少々変な話だ。
>その頃は西周の時代だから首都は陽城じゃなくて鎬京だからね。

もう少し詳しく書きます。
大星(小熊座β星)と北極樞(正北極)のなす角度が約5°であったのは、
BC1000年からBC2000年の1000年間です。

周髀算經の引用文の内容を知見し、
これを正しいと確認できて記述できるのは、上記千年間だけです。
上記知見があったのは夏の時代から、
数学書として書かれたのは周の時代だったのでしょう。

その数学書を『周髀算經』として編纂したのがBC200年前後の期間なのでしょう。
編纂者(蓋天説の思想家)にとって、一瞬である秦代の北回帰線にかんする知見は、
知らなかったか無視したのでしょう。
962日本@名無史さん:2011/06/18(土) 10:15:36.16
>>958
時代によるのでは?
963日本@名無史さん:2011/06/18(土) 11:24:33.93
>>958

皆既日食なんて、縄文時代から何度も起きてる。
964日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:12:06.14
>>961
観測誤差が無いという前提を置くと、計算は正しいのでしょうね。
中国天文学の発達を考えると、もっと後代、春秋戦国時代の知識と思いますが。

>『周髀算經』として編纂したのがBC200年前後
この根拠がわからない。
著者の趙君卿は三国志と同時代、3世紀頃の人と推測されているのだが。
965日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:17:47.49
>>956

>北極の位置測定の内容から判断して、
>周髀算經が書かれたのは、BC1000年頃になります。

>『大星』は小熊座のβ星です。(地軸の歳差運動から特定できる)
>小熊座のβ星と正北極がなす角度が5°の時は、BC1000年頃です。

「『大星』は小熊座のβ星です。」のベーター星とはコカブ(Kochab)のことですか。
コカブ(Kochab)は紀元前1500年から西暦500年頃までの北極星です。
ですから、紀元前1000年頃なら
「正北極」は小熊座のβ星のコカブ(Kochab)で
『大星』はそれ以前の北極星であった
りゅう座アルファ星(α Draconis / α Dra)のトゥバン(Thuban)です。
トゥバン(Thuban)は紀元前2790年頃から
小熊座のβ星のコカブ(Kochab)が北極星になる紀元前1500年以前迄
北極星だった。
966日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:18:40.69
続き
小熊座のβ星のコカブ(Kochab)の後の北極星は
小熊座のα星・ポラリス(Polaris)です。

>小熊座のβ星と正北極がなす角度が5°の時は、BC1000年頃です。
もし、
正北極が小熊座のα星・ポラリス(Polaris)で、
『大星』が小熊座のβ星のコカブ(Kochab)なら、
その角度が5°あるなら、西暦140年頃でしょう。

もし、
正北極が小熊座のβ星・コカブ(Kochab)で、
『大星』がりゅう座アルファ星(α Draconis / α Dra)のトゥバン(Thuban)なら、その角度が5°あるなら、紀元前1140年頃でしょう。



967日本@名無史さん:2011/06/18(土) 12:22:32.82
紀元前1100年頃なら
↓を・・・・・・・・・

http://web.utanet.at/mahain/Pyramiden_in_China.htm
968日本@名無史さん:2011/06/18(土) 13:04:53.09
>>961
>大星(小熊座β星)と北極樞(正北極)のなす角度が約5°であったのは、
>BC1000年からBC2000年の1000年間です。

大星と北極樞の位置関係が「BC1000年からBC2000年の1000年間です。」
固定された、といことは歳差が有る以上不可能です。
1000年間に約13.9度の位置移動が歳差によって起こるからです。

因みに、一度ズレを起こす年数は72年です。
969日本@名無史さん:2011/06/18(土) 15:48:24.84
地球が太陽の周りを回る公転軸と月が地球の周りを回る回転軸が揃ってきたのはつい最近ことです。
それまでは、月食も日食も起きていなかったのです。
今までの天文学の常識は間違っていました。
970日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:05:20.79
黄道(太陽の軌道面)と白道(月の軌道面)が平行である必要はない。
交差していれば、食は起こる。
971sss:2011/06/18(土) 16:22:21.16
>>969
日本書紀にも日食の記述はあるし…。

推古天皇36年、2月、天皇、病に伏す。
3月、日食が起きる(日有蝕尽之)。
3月、天皇崩御。

どうも日食は女帝や皇后にとって縁起の悪いことと見られていたらしい。

天武天皇九年(西暦680年)十一月、日蝕之。皇后体不予
というのもある。

日食が女帝にとって縁起が悪いというのは後漢のケ太后から来ているとか。
(元初)六年(西暦119年)十二月戊午朔日有蝕之幾盡 地如昏状 在須女十一度 女主悪之 後二歳三月ケ太后崩
日食の二年後に、ケ太后が亡くなっている。
972日本@名無史さん:2011/06/18(土) 16:29:09.34
>>971
2年後なのに?
2chでよく見かける人達と似てるな
何か1度でも事が起きると、何十回も起きてるように騒ぐオカルトな・・・
973sss:2011/06/18(土) 16:42:39.84
>>972
というか、ケ太后の頃にはそういう風潮(迷信?)があったということだろう。
日食が起きて、「女主悪之」となり、2年後に崩御ということで。
974日本@名無史さん:2011/06/18(土) 17:33:24.48
日食で卑弥呼が死んだ=天照大神の天岩戸隠れ

みたいな、小学生並の話を信じないでくださいね。

975卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 17:58:53.40
>>965-966
>>968
周髀算經に描かれた時代には北極星がありません。
天の北極の周りを星が回転していたのです。
天の北極のことを「北極樞」と、回転している星のことを「大星」と書いています。

コカブ(こぐま座 β星)が「大星」として、最も天の北極点(北極樞)に近づいたのは、
BC1100年頃で、その角度は5°を切っています。

りゅう座アルファ星(α Draconis / α Dra)のトゥバン(Thuban)が、
天の北極点に最も近づいたのは、BC2800年頃です。
このとき、りゅう座α星(トゥバン)は北極星と見做してよいほど天の北極点に接近しています。
その角度は1°以下です。

BC2000年頃の「大星」は、りゅう座α星(トゥバン)です。
BC1100年頃の「大星」は、小熊座β星(コカブ)です。
つまりBC1800年頃には、「大星」はりゅう座α星(トゥバン)と小熊座β星(コカブ)の2つがあったことになります。
またBC900年以降には、天の北極点と小熊座β星(コカブ)のなす角度は遥か5°以上になり、
観測された大星に相当する星はなくなります。

ところが周髀算經の記述では「大星」は一つです。
商代に知見した「大星」と周代に確認した「大星」は別の星であったのです。
もし殷代の記録があれば「大星」が二つ描かれていたに違いありません。

一方、観測時間が夕方6時頃と朝6時頃であることから、「大星」は小熊座β星(コカブ)となります。
商代に知見された大星(りゅう座α星(トゥバン))は、周代に錯誤の再確認をされて、
それ(小熊座β星(コカブ))を大星として周髀算經に書かれたといえるのです。
976卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 18:09:42.75
周髀算經で使われている平面幾何を使って説明しましょう。

『正極之所游 冬至日加酉之時 立八尺表 以繩繫表顛 希望北極中大星
 引繩致地而識之 又到旦 明日加卯之時 復引繩希望之  首及繩致地而識其端
 相去二尺三寸 故東西極二萬三千里 其兩端相去正東西 中折之以指表 正南北
 加此時者 皆以漏揆度之 此東西南北之時 其繩致地所識 去表丈三寸 故天之中去周十萬三千里』

「大星」が正北極(北極樞)を回る時の直径は二萬三千里である。
一方、8尺棒の先端を支点として、「大星」の描く円周上の点が地上に描く軌跡の円の直径は、二尺三寸である。
これらは即ち、地表上の軌跡から「大星」までの距離と「8尺棒」までの距離の比は10001:1である。
測定地(周地)から「大星」(北極樞・天之中)迄の距離は勾丈三寸(勾十萬三千里)であるから、
弦丈三尺(弦十三萬里)となり、「大星」が正北極(北極樞)を回る時の直径二尺三寸(二萬三千里)を見る時の視角は10.0°となる。
よって、「大星」が正北極(北極樞)となす角度は5.0°である。

参考
弦を臨む角が90度である三角形。
弦:勾:股=5:4:3
弦:勾:股=13:12:5
弦:勾:股=130:103:80
977日本@名無史さん:2011/06/18(土) 19:34:08.17
>>976
「周髀算經」に出てくる里はすべて短里なの?
あるいは、部分的に短里?
978卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 19:46:32.95
>>977
周の短里、1里=76〜77m、です。

谷本茂氏が周髀算經から平面幾何の計算によって導き出しています。
979日本@名無史さん:2011/06/18(土) 19:59:20.43
>>977
別の者だが、基本的に比の話なので長里も短里も関係なく議論できる。
ただ、1寸千里を正しいと仮定すれば全て短里で語られている事になる。
1寸千里は何の検証も無く天文上の定数として使用されていると思われるので
里程論争には意味は無いだろうが。
980日本@名無史さん:2011/06/18(土) 20:06:59.27
影の長さが1寸変化する距離を千里と規定する計算法は、
尺や歩を積算する方法と根本的に異なる。
メートル法の子午線距離の1/10000、地球一周の1/40000
を一キロとした地球を元にした計算法と同じである。

もっとも、影の長さではなくて棒の頂点からの影の角度で
算出すれば、場所により誤差は出なかったのだが
そこまでは考え難かったのだろうか。

尺や歩を根拠に用いてないわけだから、
いくら、尺の大きさなどを論争しても
コジツケ以上の結論は出ないことになる。

偶然にも何かが一致すれば別だが。
981日本@名無史さん:2011/06/18(土) 20:29:53.33
ピタゴラスの定理がギリシャから300年程度で中原にまで伝わっていたというのは、すごいね。
982卑彌呼の都は久留米:2011/06/18(土) 20:42:23.66
>>981
周髀算經の内容から推論すると、
BC2000年商代には、ピタゴラスの定理や円周率は既に知見されていました。
983日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:38:15.76
地球の自転は周期的な変動を繰り返している。
原始的な生物の体内と計は1日25時間だ。
しかし、実際のところ、縄文時代には地球の自転速度は遅れ1日は30時間程度になった。
しかも、地球の公転速度は上がったので、1年は182日程度まで短縮されたのだ。
それが倍暦の真相だ。

これで全ての謎が解けた。
984日本@名無史さん:2011/06/18(土) 22:54:53.70
>>981
確か3平方の定理は元々エジプトでナイルの氾濫後の土地測量の中で見つけられたんじゃなかったか?

エジプトから直輸入という線はどうだろう?wwwwww

985思金 久延毘古:2011/06/18(土) 22:59:23.61
>>958

158年 7月13日 皆既日食 琵琶湖 京都 大津 津
元伊勢(籠神社)、伊勢遺跡、伊勢神宮 のライン
(日食・月食・星食情報データベース 等)(ΔT= 8042.58 等)

天岩戸隠れの時の宮
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江
(ホツマツタエ 7アヤ)

天安河=野洲川 説 
近江高天原説

滋賀県守山市 伊勢遺跡
弥生時代後期 二世紀初めから半ばが最盛期
東西750メートル、南北400メートル
大型建物が半径約100メートルの円周上に並んでいる


---------------
七夕のついでに、天岩戸日食祭り とかやらないかな

伊勢神宮が毎年7月13日に鏡を公開してくれるといい


986日本@名無史さん:2011/06/19(日) 09:22:40.63
もはや歴史学というより、オタの勝手な妄想だなw
古代史など歴史学の領域から外してかまわん。
987日本@名無史さん:2011/06/19(日) 10:14:22.36
確かに文献の拡大解釈が過ぎるよな。
めぼしいものが発掘されないから仕方ないけど。
988日本@名無史さん:2011/06/19(日) 10:56:00.34
吉見百穴、あれを古墳時代の中級官人の集合墓とする説は納得できない。
あれは土蜘蛛と呼ばれた原日本人の集合住宅である。
彼らは入口に戸板か暖簾を吊るしてその中で寝泊りをしたのだろう。
古墳時代にやってきた出雲系の渡来人は、土蜘蛛を追い出し、その穴を墳墓として再利用したのだ。

土蜘蛛で思い出すのが、古代日本の礼式である匍匐礼のことだ。
『日本書紀』には大化3年(647年)、孝徳天皇が難波の小郡宮で「礼法」を定めたということが記されている。
冠位を有する官人は、毎朝午前4時ころまでに朝庭南門の外にならび、日の出とともに庭にはいって天皇に再拝し、そのあと正午まで朝堂で政務を執ることとした。
つまり、朝廷とは朝の庭で執り行われる儀式のそのものなのだ。

遣隋使が派遣されるまで日本では匍匐礼が辞しされており、大和朝廷は土蜘蛛系の原日本人だったことがわかる。
989日本@名無史さん:2011/06/19(日) 12:12:14.70
>>988 朝廷では毎日朝礼をやっていたのか。すまじきものは宮仕えだな。
990日本@名無史さん:2011/06/19(日) 13:04:29.11
朝礼の前に掃除とラジオ体操もするよ
991 忍法帖【Lv=17,xxxPT】 :2011/06/19(日) 14:44:47.01
今のスレが実質5で、次のスレが6だよね。
スレ立てした方がいいかな
992日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:16:57.32
993日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:18:14.04
埋め
994日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:18:25.82
>>991
お願い!
995日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:24:43.17
宇目
996日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:26:25.85
生き埋め
997日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:27:34.38
た、助けて!
998日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:27:37.28
スレたてだめだった orz
999日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:30:06.65
>>991
邪馬台国関連スレは乱立してる。
もう立てなくてもいいと思う。
1000日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:30:50.71
1000なら九州説は死亡
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。