福島浜通り・相馬街道の歴史

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101日本@名無史さん
双葉町は、天命の大飢饉で人口の激減した相馬中村藩が、越中、加賀、能登、 因幡などから農民の集団移民を受け入れて出来た町だった。
苦労して田畑を拓いた入植者たちは、多くは浄土真宗大谷派の信徒で、アカシンタチ(垢新立)と差別的に呼ばれたという。「津波と原発」(佐野眞一、講談社)。



相馬から双葉、大熊一帯は相双地区と総称されるが、その相双地区への集団入植は、相馬中村藩によって積極的に進められた。
それは天明の飢饉で藩内に大量の餓死者を出したためで、これにより人出不足による農地の荒廃が進んだ。

 これを打開するため、中村藩は北陸などの領外に労働力を求め、移民を集団で導入する政策をとった。
移住民は加賀、越中、越後、能登、因幡までおよんだ。
 当時、移民は幕府からきつく禁じられていたため、移住民たち、人目につきやすい日中は山林に隠れて夜歩き、
赤ん坊のおむつは笠にのせて干しながら歩いた。僧侶に化けて歩く者もいた。

 因幡から福島の「浜通り」までは相当の距離がある。
だが、平野が少なく耕地面積が狭かった因幡の農民は、新しい土地に行けば田んぼがもらえるという話に飛びついた。

 道筋は多く海路をとった。なかには、日本海沿いを越後まで歩き通す者もいた。
彼らは、越後から会津に出て、「中通り」を通って相馬に、そして「浜通り」に抜けた。

「他藩からの移民は、シンタチと呼ばれた。祖父たちに聞くと、"アカシンタチ"って言われて、ずいぶん差別されたようだ」

―"アカシンタチ"?

「アカは垢のことだ。垢だらけの乞食みたいな連中という意味だろう。
祖父たちは、だから、ここに住んだ人たちは、それぞれ歯を食いしばって頑張ってきたんだと、言っていた」

(佐野眞一が書く福島第一原発の罪と罰 封印された土地の「記憶」)

http://www.ntt-i.net/inspectorplus/sano_2.html