福島浜通り・相馬街道の歴史のスレです
非会津地域
4 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 09:15:13.04
2011年3月11日に終了・・・ (-人-)ナムー
5 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 10:10:54.97
日本史上初の地震、津波、原発の3重被災地域です。
気の毒だ
石城国
伊達vs佐竹
決戦の地
文字通りの勿来の関に・・・
10
12 :
ら:2011/06/02(木) 08:47:12.42
浜通り地方と中通り地方に次々と天罰が下ってるね
13 :
忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2011/06/02(木) 08:54:37.71
放射能通り
14 :
会津独立:2011/06/02(木) 15:58:23.62
集団ヒステリー総理大臣いじめ通り
キーキーっ目が尋常じゃない目付き通り
15 :
たま:2011/06/02(木) 18:30:24.60
これまで原発の恩恵を存分に受けてきたのに事故後は一転して原発と政府を悪辣に罵る浜通り中通りの愚民ども!これからも天罰くだるぞ!
日本人の手のひら返しはみていて気持ちがいいな
ちょっと前に原発の危険性のことや安全性に不備がある事や
もんじゅの事故の事を書いたら
「共産の工作員」「在日」「左翼」と罵られたのに
17 :
日本@名無史さん:2011/06/03(金) 10:27:36.04
福島廃県か
18 :
日本@名無史さん:2011/06/04(土) 02:28:23.22
相馬地方と岩城地方に分ける
19 :
まき:2011/06/04(土) 10:54:58.06
浜通りはもう駄目だね土地が使い物にならない!あと30年は駄目!
20 :
日本@名無史さん:2011/06/04(土) 12:52:39.06
21 :
日本@名無史さん:2011/06/04(土) 14:17:35.96
岩城一族は滅亡
22 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 06:25:25.15
相馬一族は滅亡
これだけ放射性物質がまきちらされたら
C14年代測定法できないんじゃ
>>19 本当にその通りだと思う
安全性が確認できるまで
住民は避難したほうがいいな
避難できる土地なんてないけど
25 :
しかし:2011/06/07(火) 13:37:34.04
農業で生計立ててた人たちはどうすりゃいいんだ?
26 :
日本@名無史さん:2011/06/07(火) 21:56:07.30
北海道に
標葉一族
>>26 土地はタダで差し上げますとかいう所があったよね、確か。
29 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 19:40:28.96
千葉県の相馬地方に帰る
30 :
日本@名無史さん:2011/06/08(水) 21:34:27.01
標葉一族は岩城家の支族?
31 :
い:2011/06/09(木) 08:53:19.39
これまで原発の恩恵を存分に受けてきたのに大津波後は悪辣に東京電力と政府を罵る福島の愚民ども!これからも天罰下るぞ!
32 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 12:49:38.61
相馬の殿様の農場は、十勝の大樹にある。
家は首都圏にある。
大樹と相馬市は、姉妹都市。
33 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 11:04:57.69
集団ヒステリー総理大臣いじめ通り!
キーキーっ目付きが尋常じゃない通り!
>>25 かつて炭鉱で働いてた人たちは
エネルギー転換の時に違う道を歩んでもらった
今度の農民たちも違う道を歩んでもらうしかないな
田村、相馬、岩城、結城
36 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:36:40.42
37 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 23:47:02.33
38 :
日本@名無史さん:2011/06/11(土) 11:26:01.27
夜ノ森公園はどこの藩領だったの?
39 :
は:2011/06/12(日) 15:23:56.46
郡山はどんな状態?
40 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:31:31.27
「放射能汚染だから公園で長く遊ばないように」
41 :
日本@名無史さん:2011/06/12(日) 21:33:31.02
いわきや郡山から避難してる人西日本にも多く来るようになった。
歴史街道 2011年7月号
【総力特集】岩手、宮城、福島 東北戦国武将伝 「故郷を守るために…」不屈の英雄たち
「理不尽なるものには断固として戦う。それが所領を預かる武士の務めであり、人としての信義でもあろう」。
東北地方は古来、中央政権による侵攻を度々受けますが、その都度、郷土を守って戦う英雄が現われました。
そして戦国の世にも、天下統一を目指す上方の将の度肝を抜く男たちが現われます。十万の秀吉軍相手に
一歩も退かなかった九戸政実。独眼竜を凌ぐ豪勇無双の将・伊達成実。平将門の血脈を誇りとし、大敵相手に
ついに屈しなかった相馬義胤…。震災により東北三県が未曾有の困難に直面する今、復興へ向かう人々の
心を後押しすべく、かつて郷土を守るために敢然と戦った武将たちの魂を甦らせる特集です
http://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/
>>上方の将の度肝を抜く男たちが現われます。
九戸政実 三日で鎮圧された人
伊達成実 主な相手は奥州の大名、上方とは目立った戦果なし
相馬義胤 主な相手は伊達
違う人をマンセーしたら?
岩城氏は皇室並みに古い家柄だそうで
>>43 じゃあ他に誰紹介するよ?
政宗・義光・盛氏・為信・利直もほぼ東北限定だぞ
だから戦国時代の人間なんてマンセーする必要ないだろ
米内光政でもマンセーしてりゃいいんじゃないの
阿弖流爲マンセーとか
49 :
た:2011/06/16(木) 21:33:24.35
福島愚民やがて皮膚がただれてくるだろう
50 :
日本@名無史さん:2011/06/16(木) 22:19:57.96
あそこって、もともと地震多かったの?
震災後にやたらと浜通り震源地の地震があったけど。
51 :
岩城の住人:2011/06/16(木) 23:50:10.60
>>50 地震自体は以前から群発性の地震も有った(家に残っていた幕末の記録にも地震の記事あり)
でも、規模はそれ程大きくなかった。
正直、今回の地震での最初の感想は「やられた!」だった。
52 :
たあ:2011/06/17(金) 01:14:02.89
どうせまた同じ土地に家を建て町をつくり…そしてまた100年後に地震&津波で壊滅…
100年単位じゃ来ないよ、福島の海は本来穏やかなことで有名だから
54 :
な:2011/06/18(土) 18:56:46.87
↑100年後に地震がこないっていいきれるの?三陸だって明治時代に大津波で壊滅したのにまた今回もだよ!
喉元過ぎれば熱さわすれる
江戸の北東はやはり鬼門であった。
56 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 15:50:02.43
名老中のおぼえよろしき、安藤信正公について
教えてください。
57 :
ら:2011/06/20(月) 14:39:27.73
福島人が死んだくらいでマスコミは大袈裟なんだよな〜それより原発予断許せないな
58 :
日本@名無史さん:2011/06/23(木) 17:01:05.82
これからどうなっちゃうんだろうね?
坂上田村麻呂が来た時をしのぐ大事件になったことには間違いないな
60 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 21:31:45.54
福島原発も世界遺産登録間近ですね (´・ω・`)
61 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 23:51:13.48
>>60 世界遺産も、今や、奥州平泉や小笠原諸島ですら登録される
大安売りの大バーゲン状態だからなあ。
あのチェルノブイリを越え、今後世界中の歴史の教科書に載るであろう福一を
そんなものと同列に扱うのは失礼にあたるのでは?
62 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 14:13:51.97
坂上田村麻呂に兵站、動員されたのが福島住民
63 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 10:55:45.77
529 :日本@名無史さん:2011/06/27(月) 14:12:44.39
いわき市の白水阿弥陀堂も平泉中尊寺と同等の値打ちがあるはず
64 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 13:24:26.65
↑ないない!
相馬氏は、幕末まで残った桓武平氏だからな…
同じ別系統、桓武平氏末裔としては寂しくな…
鶴翁公、なんで会津に味方しちゃったのかねぇ?
67 :
日本@名無史さん:2011/07/05(火) 00:49:04.85
史書には残ってないけど
いわきの海は、鉄砲で撃たれた仙台兵の血で真っ赤になったんだよ。
仙台藩は、それを恥と考えて隠ぺいしたが。
たから、津波のくる前から新舞子の松林とか幽霊スポットだった。
いわきの奴らは歴史にうといからそれが幕末の怨霊だと気がつく奴もいないだろうが。
幕末の浜通りは、元老中の安藤信正公が指揮して血の激戦になったのだが
他の地域と違うのは、敗戦を恥として史実に残さない部分が多かったこと。
白河や会津と違い、小競り合いしかなかったのが
正史だと思ってる人が多い。
68 :
日本@名無史さん:2011/07/05(火) 14:18:10.89
官軍が幕軍捕虜を大虐殺し阿武隈川に捨てた
69 :
日本@名無史さん:2011/07/05(火) 19:52:59.74
>>67 そう言われて思い出したのですが、
後に禅僧となり、歌人として知られる天田愚庵は
戦の混乱で父母や妹と生き別れとなってしまい、その消息を尋ねて
諸国を行脚したといいます。
今まで「なんで小競り合いなんかで生き別れに?」と思っていましたが、
実際はかなりの激戦だったのでしょうね。
71 :
70:2011/07/05(火) 22:04:01.99
ついでに、
家のすぐ前の小道の土手に彼岸花の群落がある、
親父が言うには「俺の祖父さんから聞いた話だと、ここで官軍が一人死んだんだよ」
との事だった。
市史等に拠れば佐土原隊がうちの村を抜けて城下に攻め込んだようですが、
話半分として、良く出来た作り話と言うところでしょう。
>>72 浜通りを削除した改訂版が出る予定だったりしないか?
74 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 22:23:02.77
浜通り=岩城・相馬両地域のノスタルジア写真集がもうじき出るだろう・・・
>>74 写真集「思い出の相馬・両葉・岩城の百年」とか?
76 :
日本@名無史さん:2011/07/11(月) 00:55:39.77
バイオレンス・ジャックのような世界になりそうな気がする
77 :
日本@名無史さん:2011/07/11(月) 00:58:47.10
流れ者が世界中から原発作業員に集められるいわき市が
烈風伝で相馬家でプレイして、ああこのあたりがああなっちゃったんだと
79 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 00:35:20.54
写真集「思い出の相馬・両葉・岩城の2000年」とか?
>>61 世界遺産はすごいから面白いから登録するわけじゃないし
お前が満足しようがしまいがあちらさんからすればどうでもいいだろうよ
>>79 相馬郡といわきは除染さえおさまればあとはとりあえず大丈夫だろ
今現在放射能噴出してるわけじゃないし
双葉郡のクズ共は歴史抹消ぐらいしないとおさまりがつかんが
双葉郡あたりの戦国武将って誰だったっけ
83 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 07:52:30.36
図書館で福島大百科事典を読んできたけど
このへんは天明の飢饉で人口が激減したらしい
85 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 14:48:13.65
そこで相馬藩では北陸から浄土真宗農民を入植させて、二宮尊徳をよんで労働強化の洗脳。
維新に際し士族が困窮しないように農民の土地を強制収用し、士族に分配する。士族は比較的うまくソフトランディングするものの、殿様は狂気になる。
相馬事件で後藤新平が巻き込まれ投獄される。
86 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 14:49:42.59
報徳教に関する史料・伝承も失なわれてしまっただろう。
87 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 22:19:00.52
福島は気候がいいのに
白河以北一山百文に
白河以北選挙区百票
90 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 10:14:47.09
>>86 今回の地震と津波でどんだけの史料が失われたんだろうね・・・。
原発で立ち入り禁止のせいで生き残った史料も保存や修復もままならないようだし
92 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 01:22:03.19
相馬、岩城の2藩地域の歴史が日本から消えた。
>>91 そのかわり双葉町が平成日本のタイムカプセル的に保存される
94 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 12:24:58.87
95 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 23:09:21.01
相馬地方全体が無人化かも?
日本のポンペイと呼ばれるわけか
97 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 18:43:31.15
>>98 虫が報せたんだろうか・・・
>2010年11月27日に発足記念講演会を実施して産声を上げたばかりですが
100 :
日本@名無史さん:2011/11/06(日) 20:38:12.31
\(^o^)/オワタ
101 :
日本@名無史さん:2011/11/07(月) 04:34:48.59
双葉町は、天命の大飢饉で人口の激減した相馬中村藩が、越中、加賀、能登、 因幡などから農民の集団移民を受け入れて出来た町だった。
苦労して田畑を拓いた入植者たちは、多くは浄土真宗大谷派の信徒で、アカシンタチ(垢新立)と差別的に呼ばれたという。「津波と原発」(佐野眞一、講談社)。
相馬から双葉、大熊一帯は相双地区と総称されるが、その相双地区への集団入植は、相馬中村藩によって積極的に進められた。
それは天明の飢饉で藩内に大量の餓死者を出したためで、これにより人出不足による農地の荒廃が進んだ。
これを打開するため、中村藩は北陸などの領外に労働力を求め、移民を集団で導入する政策をとった。
移住民は加賀、越中、越後、能登、因幡までおよんだ。
当時、移民は幕府からきつく禁じられていたため、移住民たち、人目につきやすい日中は山林に隠れて夜歩き、
赤ん坊のおむつは笠にのせて干しながら歩いた。僧侶に化けて歩く者もいた。
因幡から福島の「浜通り」までは相当の距離がある。
だが、平野が少なく耕地面積が狭かった因幡の農民は、新しい土地に行けば田んぼがもらえるという話に飛びついた。
道筋は多く海路をとった。なかには、日本海沿いを越後まで歩き通す者もいた。
彼らは、越後から会津に出て、「中通り」を通って相馬に、そして「浜通り」に抜けた。
「他藩からの移民は、シンタチと呼ばれた。祖父たちに聞くと、"アカシンタチ"って言われて、ずいぶん差別されたようだ」
―"アカシンタチ"?
「アカは垢のことだ。垢だらけの乞食みたいな連中という意味だろう。
祖父たちは、だから、ここに住んだ人たちは、それぞれ歯を食いしばって頑張ってきたんだと、言っていた」
(佐野眞一が書く福島第一原発の罪と罰 封印された土地の「記憶」)
http://www.ntt-i.net/inspectorplus/sano_2.html
= 完 =
ソドムとゴモラは、享楽と不道徳に身をゆだねて破滅したが
さだめし相馬・浜通りは原発マネーと原発誘致に身をゆだねて自滅といったところか
あと何千年か後に、似たような話で残るだろうな
地政学的に発展しそうな場所だったとおもうが、
「東北のチベット」とまで過疎化した理由はなぜ?
白河地方に産業・交通をうばわれた理由はなぜ?
東北地方の太平洋側は、航行に適した場所ではなかったんですよ。日本海側しか通年交易ルートがなかった。
江戸時代は、仙台藩が海岸のすぐ脇に、わざわざ並行して運河を掘って悪天候時の交通の途絶を防ぐ手立てを講じています。
明治になれば、明治新政府が仙台市近く、野蒜に近代港湾を設置しようとして、悪天候で港湾は崩壊しています。
それに引き替え、中通は疎水事業と鉄道とで開発が進んでいった。
結局浜通りは、海岸縁でありながら常磐炭田を中心とした内陸に産業を立地させてゆくことになるわけです。
これも戦後のエネルギー革命で崩壊した。
なるほど季節風の影響か・・
そういえば日本列島のみならず、
朝鮮半島・台湾・マレー半島と、
モンスーン地域は東海岸があまり商港として
発展してないな
銚子・野島崎はいまだに船の難所
野島崎は黒潮の影響で船が遭難したので、
銚子→関宿→江戸川の回廊ができたが、
銚子に入港する事自体江戸時代むずかしかった
「千人塚」というのも当時の遭難事故の名残
鬼怒川・江戸川の付替工事も、
もとはといえば、船輸送のためだったんだよな
とうじ海運が輸送の主だった時代、
江戸と大坂の優劣というのは、あきらかだったんだな。
110 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 22:42:57.67
海運の時代はともかく昭和以降の陸路の時代なら相馬は炭坑、工業のいわきと商業地仙台の中間ってことで決して悪い立地とも思えないんだけどな
仙台からの距離が同じくらいで実質的に行き止まりの石巻よりも条件的には良さそうなんだけど・・・。
相馬と原町に分散してるのが不味かったのかな
那珂湊でわざわざ荷物を載せかえて
霞ヶ関でまた船にのせ、関宿経由で江戸に回送していた
銚子は海の難所だったので
双葉郡の北陸からの移民いじめはすごかった
113 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 01:34:11.67
東北の太平洋岸はいまいち発展してませんから。
航路として危険だったほかにも、津波のせいもあったかもね。
今ではパチンコ有閑貴族 税金で食っている
115 :
日本@名無史さん:2013/04/19(金) 01:34:57.20
およそ800年、3度の幕末を乗り越えた相馬氏が旧領民数十世帯と広島移住だって
116 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 08:02:54.11
実態は。。。。破綻しそうな相馬家が、胡散臭い人の口車にのったという説も。。。。
まあ今の所は、構想に過ぎないらしいけど。セシウムシイタケが出て地震がある広島は、場所選び的に失敗!
ただ、村おこしをしたい田舎や組織と、利害が一致しただけの事ではないかと。。。。
117 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 08:24:19.37
広島の椎茸からセシウムが検出されたのは、安易に東北の原木を使った業者の判断ミスで、例外といえば例外だけど、汚染された原木が流通可能な環境にあることはマイナス要因かもしれない。
相馬で椎茸栽培をしていた「お殿様」としては、似たような場所がいくらでもあるのだから、よりよい移住先を探すほうが賢明だろうとは思う。
神石高原町はあまりにも田舎すぎる上に広域交通網から外れているため移住した後が厳しいだろう。病気や怪我の時にも医療水準が低い場所では安心して生活できない。
よりよい場所を模索した後に移住を計画したほうがよいのではなかろうか。汚染され息をするだけで被曝する東日本から逃げられるだけでもマシだが、より安全でより便利な場所を慎重に検討したほうがよい。
東日本大地震に引き続いて発生した福島第一原発の事故は、日本の歴史に巨大な爪痕を残した。当時、菅直人首相の下で官房副長官を務めていた
福山哲郎氏は、本書において当時の官邸の動きについての克明な記録を残している。これは、後々まで参照されることになる一級の資料となるで
あろう。政治家は過去ばかりでなく、未来にも責任を持つ。それでは、震災後の官邸は、未曽有の原発危機にどのように対応したのか。われわれ
国民が想定していた以上に、官邸は原発事故の深刻さに緊迫していた。最悪の事態へと発展すれば、東京にまで被害が及んでいただろう。3月11
日の深夜、「燃料被覆管破損」と「燃料溶融」、いわゆるメルトダウンに至る深刻な危機が発生した。張り詰めた空気の中、現場は直ちにベント
をして、爆発を避けるために圧力を逃がす決断をした。しかし、東電本店はそれを許可しない。菅首相は直接現地に赴き、吉田昌郎所長に指示を
出す形で、ベント実施へと動かしたかった。菅首相の現地視察が、仇となった。それだけではない。海水注入により冷却化を目指していた所長の
指示に対して、本店は官邸に配慮してなかなかその決断ができない。本書によって、官邸にいた東電元副社長の武黒一郎フェローが、その中断を
求めていたことが明らかとなる。現場が重要な決断を行いながら、本店が幾度となく壁となる。菅首相は、困難な状況で決死の対処を続ける現場
に厳しく指示を出し、責任を持って事故に対処するよう告げた。それはまさしく、政治主導であった。しかし同時に、現場は繰り返し「政治主導
の混乱」に苦しむ。官邸の外にいると、その実態がよく分からない。分からないまま、東電・保安院に対する批判が続いた。本書はそれに対する
有効な証拠となる。後の歴史は、いくつかの重要な決断を行った東電や当時の野党に対して、より正しい評価を与えるかもしれない。