34 :
日本@名無史さん:
>>32 京都の底冷えといっても寒いのは一月くらいだろう。
年に一月のために高価な革ジャンなど必要なかったんだろうな。
紫式部みたいに火鉢にあたっていたら過ごせた。
35 :
日本@名無史さん:2011/06/21(火) 20:32:07.42
日本にとっては、中国の情報提供国だったけど、
海運が発達してダイレクトに行ける様になったら洋梨になった国ね。
161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 14:55:34.43 ID:EwwfpTWZ0
大政絢(だいせいじゅん,テジョンジュン)
↑
まるで渤海王家とみまがいそうな名前w
37 :
日本@名無史さん:2011/06/24(金) 09:19:16.55
あそこがジョンジュン(´Д`)
38 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 16:30:58.79
39 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 06:17:12.23
wikiは独自研究を載せない方針だろうが
41 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 19:33:12.40
>>38 保管知識が皆無だったら、虫やカビにすぐにやられる場所に置いておくだろう。
猟師か革屋だったら知っていることでも、ボンボンが知ってるわけ無い。
42 :
日本@名無史さん:2011/09/17(土) 19:35:08.65
往来の途中で新羅に襲われて拿捕か沈められた使船もあったはず。
Et@Wj"+JJq.:~GLr
44 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 02:50:22.94
◆◆渤海国について語ろう◆◆
http://unkar.org/r/whis/1043509346 358 :世界@名無史さん:04/07/17 22:09
日本経済新聞 朝刊 文化面 (2004年7月17日)
「渤海 ベール外す古代王国」
以下、重要部分の要旨。
当時の東アジア世界では、中国を「親」とする周辺国は互いに「兄」「弟」といった関係を
認め合うことがあった。
舅甥関係は兄弟関係より疎遠だが、「おじ」が「おい」より上位。
渤海の前に栄えた高句麗に対して日本は「兄」として外交。渤海と日本については
、どちらが「おじ」「おい」なのか従来、議論がわかれていた。石井正敏・中央大学教授は、
「続日本紀」「新唐書」の記述を分析し、日本が「おじ」に当たると結論。
中国と韓国・北朝鮮の間で歴史認識が対立。
渤海は朝鮮続とツングース系の靺鞨族を主体とした複合国家だったが、
中国の研究者が「中国辺境にあった数多い異民族国家の一つ」と位置付けるのに対し、
韓国と北朝鮮は「祖先が建てた国」とする。
日本の研究者にも、どちらの立場か迫ってくることがあり、論文の書き方次第では、
現地調査や共同研究などで協力が得られず、研究に支障を来たすこともあり得る。
「舅甥関係」でも、韓国や北朝鮮の研究者が「日本がおじ」と認めることは
まずあり得ないという。
45 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 09:47:40.00
渤海も高句麗も唐・新羅と対立する独立国だったからシナ人でも朝鮮人でもない異民族国家だったことは確かだろう。
:tng|#tjX($]b-^Q
>>30 大雑把にいえばツングース系だけど、詳しくいうとややこしい。
渤海の元になった靺鞨六部は西南の部族と東北の部族で文化がかなり違うから
少なくとも二つの民族の連合体だった可能性がある。
それがツングース系と古アジア系なのか、
それとも高句麗系と混血したツングースと純粋ツングースなのか、
そのへんはいまいちわからない。
ツングース系と古アジア系のハイブリッドって、ウィルタみたいだなw
49 :
忍法帖【Lv=8,xxxP】 :2011/12/21(水) 19:57:34.03
tes
>>13 その通り。朝貢それ自体に臣属の意味はない。
新羅と唐に挟まれる危機的状況だったので日本側の朝貢
扱いを黙認していたまで。状況が改善した後も経済的利益を
第一にして一方的に日本に使節を派遣し続けた。
文書の形式をみると渤海側は日本の臣称の要求にも関わらず
最後まで「啓」を貫いた。
51 :
忍法帖【Lv=5,xxxP】 :2012/02/11(土) 09:49:37.17
5 :世界@名無史さん:03/01/26 00:53
韓国では高句麗も渤海も韓民族の国、
ということになってるようです。
まあ、「日本も韓民族の建てた国」と
言ってるくらいですから。
藤原仲麻呂の官制改名は、渤海の官制の影響を受けてるのかやっぱり。
八省の名前に儒教的徳目を持ってくるあたり。
53 :
日本@名無史さん:2012/03/15(木) 17:19:58.12
54 :
日本@名無史さん:2012/03/15(木) 17:20:41.11
56 :
47:2012/05/27(日) 22:12:20.52
>>48 いや、別にハイブリッドとは言ってないが…
57 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 21:47:08.41
基本的に島津は戦えば必ず負ける軍隊なので毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ
例えば伊東崩れと呼ばれる伊東氏滅亡の時も圧倒的な大軍だった。
天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。
守りを固める伊東勘解由の高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差一戦も行えなかった。
これにより伊東崩れと称される伊東氏崩壊が始まり翌年には豊後へ逃避行をしている。
58 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 10:19:30.73
>>34 黒貂(ふるき)を源氏物語の末摘花が着てる
渤海からもたらされた物だったんだねぇ