ここは九州説を鍛え磨く道場です。過度の罵倒や個人攻撃は慎みましょう。
3 :
阿蘇山は移動した :2011/04/28(木) 20:56:24.12
しかし、洗脳は怖い。東征などの荒唐無稽な説を信じる人がいるとは。
>>1 なんだ?タイトルが違ってるじゃないか。
いかんな〜まずいな〜
5 :
日本@名無史さん :2011/04/28(木) 23:44:43.52
995 :ローガン >対海国と一大国が楽浪海中の倭人ではないとでも言うつもり? そうは言わんが、九州島について考えるだろ、普通は。 アメリカといったら ハワイのことはあまり考えんよな。 >>使者と関係なしに出てきた里数だと思っているのかな? >当然。 どうして? 魏使以前に万里という話があったかな? >>教えたつもりだが。会稽だってね。 >なるほど、それはどうも。 しかし、何故か?については言及出来ないと 言う事ね。 別に。だが、少しは自分で考えてみるのもいいんじゃないかな。 結論がわかったら筋書きを読むのは難しい話ではないしな。
6 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 01:11:16.44
>>2 >ここは九州説を鍛え磨く道場です
師範代は伊作さんですか?(w
8 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 01:29:33.05
で、ローガンさんが道場破りですね(w
九州説の邪馬台国比定地はどこになるのでしょうか。
11 :
サガミハラハラ :2011/04/29(金) 09:22:37.62
>>9 もちろん確定していますよ。ヒントをだしますから考えてみてください。
ヒント1 佐賀県です。
ヒント2 卑弥呼の墓は桜の名所です。
ヒント3 肥前国風土記に、「昔者、此の村に土蜘蛛あり、オキ(保の下に土)を造りて隠り、皇命に従わざりき。」とあります。
さあここまででどうでしょう。わかりました?
12 :
ローガン :2011/04/29(金) 14:34:08.46
>>5 >アメリカといったらハワイのことはあまり考えんよな。
なんじゃこりゃ。
「依山島為國邑」や「絶在海中洲島之上或絶或連」と認識された倭と、大陸が同じになるかね。例えが悪過ぎ。
>どうして? 魏使以前に万里という話があったかな?
当該関係州でない、その下の郡の次官がリアルタイムで倭の踏査報告を閲覧出来たとでも言うのかね?
>結論がわかったら筋書きを読むのは難しい話ではないしな。
はあ?漢文の読み方じゃないのか。 君の考えた「筋書き」など訊ねた覚えは無いぞ (笑)。
悪いが、馬鹿馬鹿しいので以後、レス不要。
14 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 15:45:53.63
>>12 >「依山島為國邑」や「絶在海中洲島之上或絶或連」と認識された倭と、大陸が同じになるかね。
こんな語句を持ち出すところをみると、まったく読めてないな。
>郡の次官がリアルタイムで倭の踏査報告を閲覧出来たとでも言うのかね?
ということは、魏使以前に万里という話はなかったということだな。
で、その次官とやらはいつ「万里」と書いたのかな?
>君の考えた「筋書き」など訊ねた覚えは無いぞ
ははは、私の考えた筋書きでは気にいらんかね。つまりは逃げだな。
私が言っているのは、倭人伝が言う「道里を計るのに」の筋書きだが。
15 :
鎮魂譜 :2011/04/29(金) 17:56:17.30
計其道里當在會稽東冶之東 この記事は倭人伝の著者が「自郡至女王國萬二千餘里」から見積もって會稽東冶之東に当たると見ただけのことで、 実際に會稽東冶之東に在ることを確認したものではない。倭人伝の著者は資料に記された里数をそのまま採用して 書いている。東夷の地の記録にある里が魏の公式里ではないことを知らなかったのかも知れない。 計其道里當在會稽東冶之東の記述から倭人伝の著者が女王国を南方にあるものと認識していたことが分る。これは すなわち倭人伝に記された行程記事の方角が誤りではない(書き間違いではない)ことを示している。魏使の報告 を記録した資料に書かれていた方角を信じていたのである。
これに関しては、紹煕本が 「其道里當在會稽東治之東」となってることもあり、 あまり論議し過ぎてもどうかな、と。 つまり原文がまだ確定しているとは言い難いので。
17 :
王仁老人 :2011/04/29(金) 19:14:48.35
>>15 鎮魂譜氏
大筋において賛同したいと思いますが、
魏使の来倭をいつの時期と想定されてますか?
また、魏使の来倭の記載がない事をどう解釈されてますでしょうか?
御教示よろしくお願いします。
18 :
阿蘇山は移動した :2011/04/29(金) 20:24:22.72
普通は、洛陽から西、大月氏の1万7千里に、対し、 司馬彪の『続漢書』には、「楽浪郡は漢の武帝が設置し、 洛陽の東北五千里にある」+12000里の1万7千里では。 あまり正確な距離とはいいにくいと思うが。
19 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 20:45:14.14
>>17 王仁老人氏
魏使の来倭についてはは正始元年の梯儁らと正始八年の張政らの記事がありますな。
儂は常識として皇帝の命を受けた使者は任務を果たしたことを(証拠となるものを添えて)報告するものだと
思っとります。旅行日程や会った要人の名前や会談の内容などは詳しく書面で報告したでしょう。
特に正始元年の使者は魏としては初めての来倭であり、倭国の国情をできるだけ調査したでしょう。そして、
その内容は、後日別の人物が使者として倭国を訪れる可能性もあることですから、嘘やいい加減な伝聞を含ま
ないように注意して書かれた筈です。倭人伝の行程記事は主として梯儁らの報告記録を基に書かれたものと儂
は思うとります。
張政らの来倭は狗奴国との争いに関係していて大急ぎのものであったし、地理情報収集の目的もなかったと思
われるので、その報告記録は正始八年以後の外交記事だけに採用されたと思うとります。
20 :
鎮魂譜 :2011/04/29(金) 20:47:45.14
ハンネを忘れていました。19は儂のレスです。
21 :
鎮魂譜 :2011/04/29(金) 20:58:59.07
>>16 なるほど。計が無い場合はどう解釈すべきかということになりますのう。
儂には其道里當在會稽東治之東でも似たようなもんだと思われるのですがの。
22 :
鎮魂譜 :2011/04/29(金) 21:09:25.80
>>18 万二千里を魏の公式里と言われるモノサシでは約5000kmになりますから、洛陽からにしろ山東半島からにしろ
マレーシア辺りまでの距離になりますな。とても計其道里當在會稽東冶之東などではありませんな。
直線距離でなく道なりの距離だと言うんでしょうかな。
23 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 21:47:15.51
>>22 どうやっても合わないでしょう。短里で考えればぴったりです。
24 :
王仁老人 :2011/04/29(金) 21:47:57.48
>>19 鎮魂譜氏
>特に正始元年の使者は魏としては初めての来倭であり
「郡使往來常所駐」
(郡使が往来し、常に駐する所である。)
郡使は、過去に幾度となく来倭していると思います。
25 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 22:10:41.73
>>24 238に公孫氏が討たれるまで、帯方郡は公孫氏の支配下にあったと理解するのが一般ですな。
ウイキから
帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏
の領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。
26 :
鎮魂譜 :2011/04/29(金) 22:53:09.87
>>24 王仁老人
そうですな。郡使往來常所駐ですな。ただし、これは正始元年以降のこととも考えられますな。景初2年秋までは魏は
帯方郡を押えておりませんでしたからな。卑弥呼の朝献の翌年1月に明帝曹叡の死去があり、跡を継いだ新帝曹芳は1
年間の喪に服したため卑弥呼の朝献に答える魏使の派遣は正始元年になりましたからの。正式に国交が行われるように
なってからは郡使は度々来倭したのでしょう。
27 :
サガミハラハラ :2011/04/29(金) 22:59:07.13
郡使は魏の帯方郡の使いばかりではありませんよ。 漢の楽浪郡の使者もきています。 公孫氏支配下の楽浪郡や帯方郡の使者が来たかどうかは不明です。
28 :
鎮魂譜 :2011/04/29(金) 22:59:41.82
>>23 そうですな。ローガン氏は魏の公式里(言葉は正確でないかも知れませんが)で書かれていると言うとりますが。
倭人伝だけでなく魏の公式里は怪しいですな。
29 :
鎮魂譜 :2011/04/29(金) 23:07:37.70
>>27 サガミハラ氏
>漢の楽浪郡の使者もきています。
それはどの史書に記載されておりますかな?不勉強にして儂は見たことがありませんでな。
30 :
サガミハラハラ :2011/04/30(土) 01:37:37.93
魏志倭人伝ですよ。 郡使往来常所駐がそれを表しています。 この郡使は魏の帯方郡使だけをあらわしているものではありません。 倭国と通交がはじまっていらい、郡から使いが来るととなります。
伊作はドン来いスレに逃亡? ヤフーを叩き出されて2ちゃんでもあっちこっちに逃げて…哀れな負け犬のような爺さん
32 :
阿蘇山は移動した :2011/04/30(土) 07:12:50.83
東征は、宮崎出発。邪馬台国は宮崎で決定と思うけど。他に宮崎出発と する理由考えられるかな?もし、近畿邪馬台国なら、天孫降臨近畿に したと思うけど。宮崎と近畿をつなげる必要何かあるかな?
33 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 07:36:34.25
邪馬台国は宮崎だが、その邪馬台国が九州を全て統一してから東征するわけだから、 東征が宮崎出発という色はあまりないんじゃないかな。 指揮官に宮崎の者はいるだろうが、兵の主力は熊本や北九州の者だ。それが中国地方 を征服してその中国地方の兵を使って更に東を征服していったということだろう。 とにかく、日向、近畿、東海、皆同じような古墳が造られている。 同じ勢力が造ったということだ。その勢力の都はどこにあったのか、考古学的には分 からないことなので、従来は大きいところかといってきたが、大小だけみてもだめだ ってことだね。
34 :
筑紫の民 :2011/04/30(土) 07:52:06.51
邪馬台国宮崎論は残念ですね。 古代の宮崎では発展する要素(広大な作付面積、鉄の輸入・加工、文化輸入) が北部・西部九州に比べ断然劣っています。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1302188236/895 >895 名前: 闘将・伊作 投稿日: 2011/04/27(水) 15:43:54.93
>ものは試しだ。その覚悟があるならば、
>不当な誹謗・侮辱・名誉毀損・妨害にあたる発言をしてみろ。
>よい前例を見せる開拓者になれるかもぞ。はははー
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) < 伊作の刑事告訴マダ〜?
\_/⊂ ⊂_ ) \_____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
| 愛媛みかん |/
36 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 08:02:45.65
宮崎だけを考えるからそんな考えしかできないんだよ。宮崎は鹿児島と手を結び 熊本、大分を勢力下に収めた。そして、宮崎、鹿児島、熊本、大分の連合軍で、 北部九州と戦ったということだろう。宮崎だけが北部九州まで出てきて戦うわけ ではない。
37 :
tsr :2011/04/30(土) 08:44:18.43
>>30 郡使往来常所駐がそれを表しています。
この郡使は魏の帯方郡使だけをあらわしているものではありません。
倭国と通交がはじまっていらい、郡から使いが来るととなります。
正始元年、正始四年、正始八年の来倭の時に
長期間滞在し
あちこち移動して滞在したのではなく
毎回、ほとんどの期間伊都国に滞在することになっていたのなら、
郡使往来常所駐と記載すると思います。
倭人伝の中だけのことを言っているのかもしれないし
倭国と通交がはじまっていらいの事かもしれない。
確かめようもない事を議論しても無意味です。
もしも
「倭国と通交がはじまっていらい」を根拠に話を進めればトンデモになります。
38 :
サガミハラハラ :2011/04/30(土) 08:45:15.58
宮崎県の地は投馬国です。 神武の故郷は福岡市の山門で、そこから東征に出発しています。 昔は記紀の通りに宮崎県出発と考えられていましたが、現在では記紀の舞台そのものが北部九州であることがわかっています。 記紀の編者の場所間違いであったわけです。
39 :
fsr :2011/04/30(土) 08:51:45.68
>>32 >東征は、宮崎出発。邪馬台国は宮崎で決定と思うけど。
日向の高千穂とは宮崎のことではないと言う説を読んだことがあります。
東征したのは
邪馬台国ではなく
倭国大乱で邪馬台国と戦った博多湾岸朝鮮系勢力だと思います。
40 :
fsr :2011/04/30(土) 08:58:11.59
>>36 >宮崎、鹿児島、熊本、大分の連合軍で、
北部九州と戦ったということだろう。
倭国大乱の当事国ならば卑弥呼を共立しています。
狗奴国は何処になりますか?
>>35 絵は見事だが
伊作を挑発するのはいただけない。
42 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 09:07:13.75
43 :
筑紫の民 :2011/04/30(土) 09:31:55.52
>>36 「宮崎だけを考えるからそんな考えしかできないんだよ。宮崎は鹿児島と手を結び
熊本、大分を勢力下に収めた。」
何を根拠に曰うのですか?
米なし→人口(兵隊)増えない。
鉄なし→武器増えない。
文化なし→政治・経済発展せず。
>>42 狗奴国は北関東の群馬と埼玉の辺りと言われていますね。
45 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 10:21:55.44
>>43 宮崎が九州を統一するとなればそれが当然の流れだ。
倭人伝によれば、女王国は万二千里から。ということは、熊本は女王国の一部に
なっていたことということだ。
46 :
王仁老人 :2011/04/30(土) 11:28:31.44
>>39 fsr氏
>倭国大乱で邪馬台国と戦った博多湾岸朝鮮系勢力だと思います。
1票入れときます。
ところで、「萬二千餘里」の発行元はどことお考えでしょうか?
魏志倭人伝の陳寿が最初と思っておられますか?
それとも・・・
47 :
筑紫の民 :2011/04/30(土) 12:00:12.40
>>45 「宮崎が九州を統一するとなればそれが当然の流れだ。」
米多く人多く鉄と文化を多く輸入できる熊本平野勢力を
米なく人少なく鉄と文化の無い宮崎がどうやって征服できるというのですか?
逆(熊本平野勢力が宮崎地区進出)は十分理解できます。
48 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 12:27:51.15
49 :
fsr :2011/04/30(土) 12:40:23.21
>>46 「萬二千餘里」の発行元はどことお考えでしょうか?
「萬二千餘里」については陸行水行の説明の後に補足説明が必要と考えています。
最初の発行元について正確な事は判りません。
しかし、
陳寿は倭の国について詳細な情報を記載しています。
距離も詳細な情報があったと考えのが自然でしょう。
その陳寿が詳細な情報をもとに「萬二千餘里」と記載したと考えています。
50 :
王仁老人 :2011/04/30(土) 13:01:54.26
>>49 fsr氏
>その陳寿が詳細な情報をもとに「萬二千餘里」と記載したと考えています。
実数であると理解しておきます。
私は、虚数説を支持しています。
【万二千里は観念的里数】 松本清張説
漢の直属国は、万二千里に達していない。
直属国になっていない国は、倍以上の距離があっても万二千里として
書き表している。 この「漢書」の書例にならって、陳寿が魏志に
応用したのであって、実数ではない。
つまり、「万二千里」とは、中国の直接支配を受けないはるか遠く
絶遠の彼方にあることを表す観念的な里数である。
色んな考え方が有りますね。
51 :
fsr :2011/04/30(土) 13:34:29.73
>>50 【万二千里は観念的里数】についての正誤は判りません。
しかし、
もしも距離情報があったのならば、その情報を記載したと思います。
中国国内で使われていた1里400b余りで計算すれば
万二千里とは約五千qにもなります。
「直属国になっていない国は、倍以上の距離があっても万二千里として書き表している。」は本当のことですか?
私は松本清張説を読んだことはありませんが
紹介された松本清張説にはほとんどの場合、とてもついて行けません。
52 :
王仁老人 :2011/04/30(土) 14:06:59.48
>>51 fsr氏
>「直属国になっていない国は、倍以上の距離があっても万二千里として書き表している。」は本当のことですか?
現在では間違いも有りますが、実例をあげている点で評価しています。
「邪馬台国」 P76 観念的里数 「漢書」の「西域伝」では、
多数の国名を出して、自説を唱えています。
邪馬台国論は、観念的里数と実数が近かったことで起きた
出来事と考えています。
53 :
fsr :2011/04/30(土) 15:19:20.33
>>52 私は読んだことがありませんから何とも言えませんが、
亀の甲以上のものをお持ちのご老人の読解力、判断を尊重して
その可能性があることだけは心に留めておきます。
54 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 19:18:52.21
>>47 >米多く人多く鉄と文化を多く輸入できる熊本平野勢力を米なく人少なく鉄と文化
>の無い宮崎がどうやって征服できるというのですか?
熊本平野の勢力と宮崎・鹿児島の勢力を比べて熊本に人が多かったという証拠はな
いよ。それに戦いの勝敗は、物量等できまるものではない。
更に言えば、私は、宮崎・鹿児島が熊本を征服したともいっていない。
北九州から圧迫されて熊本が宮崎・鹿児島と同盟を結んだという可能性だって
考えられる。物量等で簡単にどうこう言える問題ではない。
55 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 20:13:34.65
>>53 松本説について、謝銘仁は次のように言ってるな。
松本清張氏は、中国人は陰陽五行説に影響されて、奇数を好む思想をもっていたので
倭人伝にある数字も、陳寿が机上で、その思想に準拠して創作した虚妄の数字だ、と
主張している。しかし、史実を歪曲し「足し合わせ」までして、3、5、7を作り出
すという松本氏の奇数偏重の珍説には、笛ふけど踊る中国人はいないだろう。
56 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 20:21:33.33
邪馬台国は会津にありました!
57 :
王仁老人 :2011/04/30(土) 20:37:29.94
>>55 >、史実を歪曲し「足し合わせ」までして、3、5、7を作り出
すという松本氏の奇数偏重の珍説には、笛ふけど踊る中国人はいないだろう。
對馬國 有千餘戸
一大國 有三千許家
末廬國 有四千餘戸
伊都國 有千餘戸
奴國 有二萬餘戸
不彌國 有千餘家 計3万
投馬國 5万
邪馬壹國 7万
陰陽説 三・五・七 である。
58 :
阿蘇山は移動した :2011/04/30(土) 21:18:44.48
>>33 :日本@名無史さん
>邪馬台国は宮崎だが、その邪馬台国が九州を全て統一してから東征するわけだから、
>東征が宮崎出発という色はあまりないんじゃないかな。
日本書記の記述は宮崎出発だと書いてありますよ。確かに北部九州に
よってますが、九州統一するような記述はないのですが。まあ、邪馬台国が
北部九州でもいいですが、では何故、東征が宮崎出発なのですか?
>>34 :筑紫の民さん
>邪馬台国宮崎論は残念ですね。
>古代の宮崎では発展する要素(広大な作付面積、鉄の輸入・加工、文化輸入)
>が北部・西部九州に比べ断然劣っています。
劣っているのはわかりましたが、何故、その劣ってるとこから出発した
のですか?
59 :
阿蘇山は移動した :2011/04/30(土) 21:30:23.81
>>38 :サガミハラハラさん
>宮崎県の地は投馬国です。
>神武の故郷は福岡市の山門で、そこから東征に出発しています。
私も投馬国は西都市にしてますよ。妻などです。
ところで、私の読んだデキストは東征は宮崎出発でした。山門からは
どのテキストにありますか?
>>39 :fsrさん
>東征したのは
>邪馬台国ではなく
>倭国大乱で邪馬台国と戦った博多湾岸朝鮮系勢力だと思います。
思われるのは結構です。しかし、東征は宮崎出発です。博多湾とは書いて
ないのですが。何故宮崎出発なのですか?
60 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 21:57:05.71
>>58 >日本書記の記述は宮崎出発だと書いてありますよ。
私も宮崎説だから、別にあなたに異論をとなえたわけではないよ。
>確かに北部九州によってますが、九州統一するような記述はないのですが。
九州統一は倭人伝から読み取れることだよ。記紀に書いてあるというわけではない。
61 :
筑紫の民 :2011/04/30(土) 22:46:25.25
現代戦の戦場2km×2km=1個大隊(約500名)VS1個連隊(約1500名) 関ヶ原の戦場2km×2km=東西併せて約16万人 この差は射程(砲火力と火縄銃)と機動力(戦車と馬)によるもの 古代は銃もなく鉄も乏しいのでこれを超える広い戦場など支配できない。 倭国大乱などは現代で例えれば筑紫平野・佐賀平野あたりの小競り合い程度と推測できる。 ましてや九州山地を越えての征服戦などとても及ばない。 本当の征服戦を始めたのは鉄の輸入加工が安定してきたと言われる3世紀(邪馬台国時代) 頃からと考えますね。
62 :
鎮魂譜 :2011/04/30(土) 22:48:29.10
>>60 >九州統一は倭人伝から読み取れることだよ。記紀に書いてあるというわけではない。
横から失礼ですが、気になったもんでお尋ねしたいのじゃが、倭人伝に九州統一のことが書かれてありますか?
63 :
阿蘇山は移動した :2011/04/30(土) 22:49:54.13
>>60 :日本@名無史さん
>
>>58 >>日本書記の記述は宮崎出発だと書いてありますよ。
>私も宮崎説だから、別にあなたに異論をとなえたわけではないよ。
ほー珍しいですね。まあ、うれしいのですが、
>>確かに北部九州によってますが、九州統一するような記述はないのですが。
>九州統一は倭人伝から読み取れることだよ。記紀に書いてあるというわけではない。
倭人伝で読み取れるのはいいですけど、九州を統一して、何故、宮崎から
出発したか。指揮官だけ宮崎もわかりますが、何故、宮崎出発か?
というか、伊作先生みたいですが、私は、先生を尊敬はしてます。
研究方法、知識量等に。でも、説は異なります。投馬国や邪馬台国が
郡からとするのは無理だと思ってます。私の説の欠点指摘はうれしいですが。
他の人の指摘ですが、宮崎が僻地とか説明する人がいますが、それで、
東征の出発地がかわるわけでないのです。そして、それが出発の説明を
さらに困難にしてるのがわかってない。これでは近畿説なみですよ。
64 :
fsr :2011/04/30(土) 22:50:10.23
>>57 王仁老人、
申し訳ないが
やはり私は松本説、古田説にはついて行けません。
私は見捨てて王仁老人だけで邪馬壹國へ行って下さい。
test
66 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 22:53:07.54
神武 多賀(近江)→宮崎→大和 (ホツマツタエ)
67 :
筑紫の民 :2011/04/30(土) 22:57:39.44
3世紀以降九州を征服した勢力が宮崎の耳川から東征した可能性はある。 けど、宮崎勢力が九州を征服した後東征したと言うのは理解不能。 ちなみに私は宮崎県人
68 :
鎮魂譜 :2011/04/30(土) 22:58:32.15
>>62 尋ね方が適当でなかったかも知れません。九州統一として書かれていないことは明白ですからの。
どういうことから九州統一が読み取れるのかと尋ねるべきでしたな。
69 :
サガミハラハラ :2011/04/30(土) 23:15:29.75
>>59 私のオリジナルです。
福岡市西区の日向(ヒナタ)に神武が居たとの説は古田氏がとなえていました。
室見川沿い一帯が山門で、その一角が日向です。
神武は九州での活躍がうまくいかず、新天地を求めて東方にむかったのです。
卑弥呼の邪馬台国は北部九州のみです。大分県もはいっていなかったようです。
卑弥呼は魏から金印をもらったことから、倭国統一をもくろみ、本格的に狗奴国攻撃を始めたのですが、志半ばにして死去、後を継いだ壱与は一時狗奴国打倒に成功したのですが、宮崎の投馬国との戦いに敗れ、
九州征服に失敗したのです。
70 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 23:32:48.47
>>62 >>63 倭は30国、うち小国である狗奴国を除き、29国は女王国を中心にまとまって
いる。29国のうち、女王国以北は一大率に厳しく検察されている。
これらのことから、倭国の乱は女王国と以北の国々が戦って実質的に以北の国々
が敗れたことが分かる。狗奴国は残ってるが、実質的に九州統一がなったとみて
よい、ということですな。
71 :
fsr :2011/04/30(土) 23:43:31.88
>>59 何故宮崎出発なのですか?
私も不自然に感じていました。
昔は天皇家の祖先が宮崎に上陸していたのだろうと勝手に判断していました。
今は日向の高千穂とは宮崎とは限らないと言う説を読んでその可能性もあるのではないかと考えています。
畿内へ行くのに宮崎から筑紫経由で宇佐へ向かうのも不自然だからです。
確かなことは何も判りません。
宮崎との関係については
大変申し訳無いのですが
「阿蘇山は移動した」さんが真実を解き明かしたときは教えて下さい。
しかし
私が倭人伝を解き明かして当時の事件と照らし合わせる限りでは
宮崎は一切出てきません。
大和朝廷の祖先は前原〜博多湾岸〜甘木朝倉〜宇佐を勢力範囲にしており、
その勢力が
有明海沿岸地域を勢力範囲とする邪馬台国の国々と倭国大乱を演じたのです。
また私の想像では
大和朝廷の勢力は邪馬台国の勢力を制圧できなかったので、
邪馬台国勢力の卑弥呼共立に同意して平和条約のようなものを結び、
九州の本拠地の安全を確保してから東征したのです。
しかし
畿内大和朝廷と九州本拠地の間には何か大きなトラブルがあったようで、
畿内大和朝廷は九州を本拠地にしていたことを極力秘密にして誤魔化しています。
以上、私の勝手な想像です。
72 :
サガミハラハラ :2011/04/30(土) 23:44:18.94
となると、伊都国と邪馬台国の関係は? 伊都国は女王国の以北の国ですから、伊都国と女王国は戦争をしたことになってしまいますが。
73 :
サガミハラハラ :2011/04/30(土) 23:46:42.52
訂正します。
>>69 の古田氏は原田大六氏の誤りでした。
関係のかたがたにご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。
74 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 23:53:43.79
70の続き
>>63 >九州を統一して、何故、宮崎から出発したか。
神武東征は、しょせん物語。邪馬台国が宮崎にあったから、その事実を伝えるために宮崎出発という
設定にしただけでしょう。
75 :
fsr :2011/05/01(日) 00:37:35.55
76 :
阿蘇山は移動した :2011/05/01(日) 00:55:16.49
>>66 :日本@名無史さん
>神武
>多賀(近江)→宮崎→大和
>(ホツマツタエ)
近江って滋賀県あたりですよね?何故、飛んで宮崎へいくのですか?
多賀→大和
でいいのでは?それにこれなら、東(?)征は、多賀からにしたほうが
いいと思いますが。何故、宮崎出発なのですか?
>>71 :fsrさん
>私も不自然に感じていました。
>昔は天皇家の祖先が宮崎に上陸していたのだろうと勝手に判断していました。
まあ、わからないのなら、この質問は無理かも知れませんが、
宮崎に上陸して何をしてたのでしょうかね?
>>74 :日本@名無史さん
>70の続き
>
>>63 >>九州を統一して、何故、宮崎から出発したか。
>神武東征は、しょせん物語。邪馬台国が宮崎にあったから、その事実を伝えるために宮崎出発という
>設定にしただけでしょう。
この可能性があるのですよね。中国が認めた王、卑弥呼は、大和政権と
血がつながってるとすれば、近畿の王、つまり天皇が日本の唯一正統大王
になる。天子降臨でなく天孫降臨にしたのは、卑弥呼の後、宗女トヨ(イヨ)
がついたからでしょう。男王もいたけど認めてないからいいのでしょう。
78 :
日本@名無史さん :2011/05/01(日) 13:41:44.45
そうです。当時まだ日本などという国はなかった。 倭にあったのです。邪馬台国は倭にあった三十国の一つだったのです。
倭にもない。 その当時の大陸を、今の地図で考えても意味がない。
80 :
王仁老人 :2011/05/01(日) 20:21:42.30
>>64 fsr氏
私は、古賀、松本説ではありません。部分賛同です。
基本的には、岡田英弘氏「邪馬台国、幻影・フィクション説」です。
また、伽耶東遷説です。 私の事など気にせず持論を展開して下さい。
勿論、反論も致しますよ。
81 :
66 :2011/05/01(日) 22:55:10.19
>>76 神武 宮崎のウガヤの後を継ぐ
多賀(近江)→宮崎→大和
大物主(クシミカタマ)
多賀(近江)→大和
ウガヤ 大物主(クシミカタマ)がツクシヲシカ(勅使)をやめたのでその後
多賀(近江)→鹿児島→宮崎
>>80 >勿論、反論も致しますよ。
某天才氏のように
「自分がそう信じている」と言う根拠ではなく
まともな根拠のある反論は大歓迎ですよ。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/fsrfb814 説明不足の点があれば説明します。
>私は、古賀、松本説ではありません。部分賛同です。
私も大和朝廷の元々の本拠地が九州にあったというのは古田氏に賛同しています。
古田本も読んだことは無いのですが
伝聞で知る限りでは他の主張にはついて行けません。
(郡起点、韓国陸行、伊都国、壱岐対馬半周、傍線行程など)
83 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/02(月) 01:00:12.30
古田説に賛同 *大和朝廷は九州の分派 *郡起点 *壱岐対馬半周 *傍線行程 *陸行一月は韓陸行 古田説を否定 *魏使郡使の韓陸行 *伊都國の位置
84 :
阿蘇山は移動した :2011/05/02(月) 01:14:20.52
>>81 :66さん
>ウガヤ 大物主(クシミカタマ)がツクシヲシカ(勅使)をやめたのでその後
>多賀(近江)→鹿児島→宮崎
難しくて私には理解できないです。
日本の歴史は、日本書記に書けばそのとおりになる。でも、中国の史書の
記事を書き換えることは出来ない。だから、宮崎の地が中国の書物の
何処かに出てくるのでは?宮崎が日本の誕生に関係してるのでは?
どの書物かわからないが。
85 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/02(月) 02:02:18.45
@ 神武は倭奴國からの難民。 A 脱出第一目的地は日向及び豊 B 脱出第二第三目的地は阿岐広島と吉備児島 C 阿波鳴門海峡を通過 D 阿波の勢力圏である淡路島東岸・明石海峡・神戸南岸を通過 E 南方(南潟)新大阪から河内湾に侵入 F 日下東大阪の上陸戦で長髄彦に敗戦 G 南方から茅渟の海大阪湾に脱出し、時計回りの湾岸流に乗って南へ敗走 (大阪府南部和泉は親阿波勢力の地域) H 雄之水門紀ノ川河口に到着、五瀬命の死亡 (雄之水門は船戸岩出か?) I これからのルート不明 J 神武は宇陀奈良盆地東南部に現れた。
86 :
阿蘇山は移動した :2011/05/02(月) 07:38:17.34
>>85 :卑彌呼の都は久留米さん
古代史では宮崎を触れない説は間違いです。
卑弥呼の都は久留米さんは触れてるので条件クリアーですね。
合ってるか否かは別問題ですが。
87 :
筑紫の民 :2011/05/02(月) 09:16:26.05
阿蘇山は移動したサンは、宮崎好きですか。
88 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/02(月) 11:00:39.63
>>82 >まともな根拠のある反論は大歓迎ですよ。
質問1、「不可得詳。 次有斯馬國 〜 次有奴國。 此女王境界所盡。」
其南有狗奴國。
狗奴國の場所は、何処に想定されてますか?
質問2、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
どの様に、解釈されてますか?
89 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/02(月) 15:17:38.67
>>88 邪馬台国はフィクションではない
回答1
「其」は「女王境界」を指す。
「女王境界」の国は、投馬國と邪馬台国である。
投馬國は筑後平野海岸側、邪馬台国は筑後平野内陸側。
よって、筑後平野の南は菊池平野。
狗奴國は菊池平野となる。
狗奴國は女王15万戸を脅かす存在であるから、その領域は広くその戸数も多い。
よって狗奴國の領域は熊本平野ほぼ全域となる。
回答2
女王國の東の1000餘里の海を渡ると、また倭種の国々がある。
女王國の東部が海に面しているの意味はない。
女王國から倭種の国までの距離を計算してみよう。
侏儒國は倭種の国の南にある。
一方、侏儒國は女王の都から東南に4000餘里にある。
侏儒國の真東に倭種の国があり、倭種の国の真南に侏儒國があり、
女王の都から正確に東南方向4000餘里に侏儒國があるとすると、
倭種の国は女王の都の真東2857餘里(約3000里)に存在する。
故に、女王國の東の1000餘里の海の海岸は、
女王の都の東約2000里にあると計算できる。
90 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/02(月) 16:50:05.35
>>89 卑彌呼の都は久留米氏
【邪馬台国はフィクションである】
>回答1
「其」は「女王境界」を指す。
「其」は、境の尽きる所=境界所盡=次有奴國である。
すなわち、狗奴國の北に在る。狗奴國には同意。
では、其餘旁國は、長崎県でよろしいですか?
「遠絶」には当てはまらないと思いますが・・・
>回答2
女王の都の東約2000里にあると計算できる。
単なる帳尻合わせ。 説得力 0点
「女王國東渡海千餘里」 日数ではない。 里数である。
すべての描写が、有明海に集中し過ぎる。
91 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/02(月) 17:59:39.31
>>89 卑彌呼の都は久留米氏
福岡城城内に隣接する弥生時代の「鴻臚館」から大宰府清張跡まで
一直線の高速道路が眠っている。 幅7〜10M,両側に幅1M、深さ1M
の溝で出来ている。 出土した土器では、8世紀のが大量に出ている。
また、その後廃道になった形跡が認められている。
本格的な調査は行われていないが、いつの時代まで遡るか興味を持たれ
ている。
大宰府政庁跡から一旦南の二日市に下り、
前田遺跡〜水城西門〜九大筑紫〜春日公園→鴻臚館まで繋がっている。
二日市からは、何らかの道が筑後川沿い狗奴國まで、繋がっていたと考えられている。
当時の先進国は、室見川沿い「有田遺跡〜吉武高木遺跡〜須玖岡本遺跡」である。
奴国=福岡平野は動かないと考える。
92 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/02(月) 18:15:24.52
>>91 訂正 清張 → 政庁
松本清張の背後霊の仕業か?
93 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/02(月) 19:02:14.56
>>89 陳寿は、「壱岐」を一大国と表示した。 勿論、伊都国の一大率を意識してである。
歴史の流れ、地理面から想像すると、乱の大きな争点として壱岐の領有権がある。
「有三千許家」は、軍隊の存在を感じる。 「戸」とは違う。
「許」は、人口を制限されていたと思う。
溢れ出た人々が、向かいの福岡市西区壱岐団地に移住させられたのではないだろうか。
当時の最大の繁華街であり、八丈島から非難して来た人々が、東京銀座に住むのと
同じ感じである。しかも広大な土地であり、北に「生の松原」を有する。
壱岐に交易センターの存在すら、感じさせられる。
不彌國:有千餘家 住吉神社付近の海軍と共に防衛していた。
「特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國」から
伊都国は、壱岐からそう遠く離れてはいけないと思う。
94 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/02(月) 19:50:13.12
>>93 魏の来倭記事に張政があるが、戦争中であり原史料とは思えない。
梯儁の時は多大な荷物があり、「東南陸行五百里」は不自然である。
陸行しなければならなかった理由が必要だろう。
筑後川まで水行するのが当然で、倭国の地理に関しては身軽になって
逆行してくるのが普通である。
水行出来なかった理由が必要と考える。
95 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/02(月) 20:21:04.97
【松本清張・邪馬台国】より 漢の時代、夫余の王の埋葬には玉コウを用いた。 これは、あらかじめ 漢政府から玄菟郡に預けてあるもので、王が死ぬと夫余から人が取りに来て 王墓に入れていた。 現在でも伝世して宝としている。 倭国では、玻璃壁(ハリ)(ガラス製の五十円玉のようなもの)を用いた。 (京大・筑前須玖史前遺跡の研究) 王が死ぬと楽浪郡まで取りに行き、王の頭の上や胸に置いて埋葬した。 須玖遺跡から1個。三曇遺跡他前原市から6個出土している。 壁の副葬は魏の時代には終わっていた。 もう出土はしないだろう。 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 後漢書:孝安帝紀第五 冬十月,倭國遣使奉獻 王統の変化は感じられない。 王は、奴国=春日市、伊都国=前原市にいた。 【邪馬台国はフィクションである】
96 :
fsr :2011/05/03(火) 00:38:53.22
>>88 > 質問1、「不可得詳。 次有斯馬國 〜 次有奴國。 此女王境界所盡。」
其南有狗奴國。
狗奴國の場所は、何処に想定されてますか?
熊本です。菊池は昔はククチと言っていたそうです。
狗古制卑狗は菊池彦だったのかもしれないと思っています。
> 質問2、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
どの様に、解釈されてますか?
宇佐から東渡海千餘里で山口県でしょう。
又有侏儒國在其南の侏儒國は四国です。
去女王四千餘里と侏儒國(四国)は女王から四千余里離れているので
邪馬台国は九州東岸ではありません。
97 :
阿蘇山は移動した :2011/05/03(火) 06:45:26.13
>>87 :筑紫の民さん
>阿蘇山は移動したサンは、宮崎好きですか。
別に好きでも、嫌いでもないですが。文献と考古まぜないほうがいいとは
思います。
98 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 07:50:12.07
☆重要な出土物 玉 壁 → 宮崎県串間市(紀元前の物) 漢倭奴国王金印 → 福岡県東区 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 → 大分県日田市 ☆古代遺跡 環濠集落 → 筑紫〜佐賀(大勢力が存在した根拠) 太宰府・大野城・水城→ 福岡県太宰府市(大勢力があった根拠) うてな遺跡 → 熊本県菊池市(大勢力があった根拠) 神籠石 → 福岡県3か所 大分県2か所 佐賀県3か所 西都原古墳群 → 宮崎県西都市(4世紀以降の古墳?) ☆重要文献 魏志倭人伝 →素直に読めば筑後平野〜熊本平野に邪馬台国あり 記紀 →天孫降臨の地は多数の候補地あり この辺が文献と考古の代表でしょうか。 宮崎に倭国支配勢力を想定するのは極めて厳しいと思いますが?
99 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/03(火) 09:46:17.91
>>90 『 自女王國以北・・・・其餘旁國遠絶 不可得詳』
女王國以北にある国々以外の傍らの国々は遠絶で詳しいことは分からない。
よって其餘旁國は筑紫平野外の東西と北にある国々である。
其餘旁國の国々は、西は佐賀県西部と長崎県、北は福岡平野と遠賀川流域、
東は北野平野東部と日田盆地及び黒木(八女市東部)に分布すると推定されます。
「女王國東渡海千餘里」
女王國の東方にある千餘里の大きさの海を意味する。
大きさ千餘里の海の海岸までは女王の都久留米から東へ約2000里(約150km)であると計算できる。
>>91 >「鴻臚館」から大宰府清張跡まで 一直線の高速道路が眠っている。
この道路は、磐井の乱終了後に福岡平野の勢力(物部氏宗像氏他)によって、南は久留米にある都まで作られた。
大倭(イ妥)の都が久留米から太宰府に遷都後、この道路(太宰府-鴻臚館間)はより強化された。
>室見川沿い「有田遺跡〜吉武高木遺跡〜須玖岡本遺跡」、奴国=福岡平野は動かないと考える。
其の通り
これは倭奴國の流れを引く、其餘旁國リストのラストにある「奴國」のことです。
100 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/03(火) 09:47:48.65
>>93 ">陳寿は、「壱岐」を一大国と表示した。 勿論、伊都国の一大率を意識してである。
"
>歴史の流れ、地理面から想像すると、乱の大きな争点として壱岐の領有権がある。
> 「有三千許家」は、軍隊の存在を感じる。 「戸」とは違う。
私もそう思う。
又、不彌國千餘家も同様な軍事国家であろう。
この場合、敵は伊都國(帥升の王統国家)、守るは邪馬壹國と投馬國
>伊都国は、壱岐からそう遠く離れてはいけないと思う。
倭都國(伊都國)の対大陸窓口は末盧國。末盧國は伊都國王の直轄地。
女王國が倭都國(伊都國)から権力奪取後は、末盧國は女王の直轄地。(末盧國官不在)
>>94 >水行出来なかった理由が必要と考える。
水行出来なかったのではない、水行させなかったのだ。
水行は天草灘と島原湾での魏と狗奴國の接触を意味する。
陸行山越え500里は帥升が作ったルール。(唐津〜佐賀平野)
帥升も後漢と東鯷國(前狗奴國)との接触を避けた。
女王國時代になってもそのルールは継承された。
>>95 ">建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬 後漢書:孝安帝紀第五 冬十月,倭國遣使奉獻
"
>王統の変化は感じられない。
上記の続き『 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 』
王統の変化が認められる。
帥升は生口百六十人をも献上して、倭国王と認められても、請見もなし。
101 :
日本@名無史さん :2011/05/03(火) 09:48:26.37
>>98 玉璧は後漢時代という説もあるね。鉄器と共に出土したというし。
弥生時代の人口密集地は筑後川流域と都城盆地付近とされる。九州における二大密集地の
一つということは大勢力があったということだ。
墓は弥生時代から古墳時代にわたり切れ目なく存在している。纏向型古墳らしいものもあ
るし、手鏡型古墳など、3世紀から古墳が築造されていた可能性も十分にある。
倭人伝によれば、北九州から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一月で邪馬台国、いずれ
も北九州や中部九州ではなさそう、宮崎に想定するのが自然だと思うがいかがかな?
102 :
日本@名無史さん :2011/05/03(火) 10:59:58.31
>>101 倭人伝によれば、北九州から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一月で邪馬台国
北九州からとは書いていないよ。
魏志倭人伝では邪馬台国までの道程も重要点の1つなので、「水行二十日陸行一月」は
続き読みせずに、帯方郡から「水行二十日陸行一月」と読むんだと。
宮崎は残念ながら古墳しかなく重要遺跡も重要出土物も無く残念だ。いいところだけど
103 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 11:13:13.81
旧唐書倭国伝に「倭国者、古倭奴国也。」(倭国は古の倭奴国なり。)と書いてあって その金印は福岡県東区志賀島から出土したやん。 隋書倭国伝に、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」 (都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から 一万二千里)て書いてるやん。 倭奴国〜倭国(後漢〜唐時代)の首都は筑紫〜熊本平野にあったと考えるのが普通ではありませぬか?
104 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 11:19:18.02
さ、「どんたく」いってこよ。そのあとホークス応援しにいこ。
>>93 >陳寿は、「壱岐」を一大国と表示した。 勿論、伊都国の一大率を意識してである。
妄想
>歴史の流れ、地理面から想像すると、乱の大きな争点として壱岐の領有権がある。
妄想
>「有三千許家」は、軍隊の存在を感じる。 「戸」とは違う。
妄想
>「許」は、 人口を制限されていたと思う。
妄想
以下も全部妄想
106 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/03(火) 13:02:24.70
>>103 >倭奴国〜倭国(後漢〜唐時代)の首都は筑紫〜熊本平野にあったと考えるのが普通ではありませぬか?
倭奴國の首都は福岡平野(須玖岡本?)
↓
帥升の倭國の首都は佐賀平野(吉野ヶ里→惣座へ遷都[伊都國])
↓
女王國の倭國の首都は筑後平野(久留米)
↓
3世紀から617年までの倭國(大倭國・イ妥國)の首都は筑後平野(久留米)
(一時的に短期間、久留米外に遷都もあった。)
↓
617年から698年までの倭國(大倭國・イ妥國)の首都は北野平野(大宰府)
107 :
阿蘇山は移動した :2011/05/03(火) 13:43:39.45
>>98 :筑紫の民さん
韓半島の鬼神などは、山などはずれにある。卑弥呼は共立ですから、武力
で勝ったのではない。軍隊や文化、経済の中心である必要はないかも。邪馬台国は。
だから、遺跡や異物の中心である必要がない。つまり考古学ではわからない
という事です。これをごったにしてる人多い。
狗奴国は熊本県で確定してもよさそうな雰囲気ですね。
邪馬台国はその北なら吉野ヶ里?
108 :
サガミハラハラ :2011/05/03(火) 13:58:44.80
阿蘇山は移動したさん。あたりですよ。
>>107 まあ、宗教的な権威地だとすれば、案外地味かもな。
110 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/03(火) 15:59:51.31
>>107 >韓半島の鬼神などは、山などはずれにある。卑弥呼は共立ですから、武力
>で勝ったのではない。軍隊や文化、経済の中心である必要はないかも。邪馬台国は。
>だから、遺跡や異物の中心である必要がない。
その通りだが、卑彌呼等の宗教的権力者(王)は、世俗的No1大権力者(王or倭人伝の官)の近くにいた。
卑彌呼は世俗的権力者らによって共立されたのだから。
たとえば、邪馬壹國の世俗的権力者が久留米(三潴?)におり、卑彌呼は高良山(山麓)にいたと考えられる。
又、邪馬壹國には7万戸も有り官も4人もいるのは、数ヶ国の合併によるものと思われる。
111 :
サガミハラハラ :2011/05/03(火) 17:01:36.26
>>108 くわしく書くと、狗奴国は熊本県。邪馬台国はその北で吉野ケ里。
卑弥呼は吉野ケ里北内郭におったのです。
のちの230年代に西の小城甘木に遷都しました。
112 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 17:26:03.45
ただいま帰りました。 どんたく楽しかったばい。 ホークス勝ったばい。 どっちも人多かったばい。 古代の筑紫もきっと楽しかったに違いないたい。 こんなに楽しい筑紫やけん、卑弥呼さんも筑紫が好きで永住したにちがいなか。 なんちゃって
鬼神というのは、中国側からして「変な新興宗教」的な意味合いだよね。 卑弥呼自身は、決して鬼神に仕えていた訳じゃないと思うが。 例えば天神とか、○○の尊とか。 中国側の鬼神という記述に惑わされ杉じゃなかろか。
114 :
日本@名無史さん :2011/05/03(火) 17:53:43.31
>>102 >北九州からとは書いていないよ。
書いてあるよ。伊都国からってね。伊都国は北九州だ。
>帯方郡から「水行二十日陸行一月」と読むんだと。
トンデモ読みに付き合うつもりはない。まともな学者でそんな読みをする奴はいないよ。
>宮崎は残念ながら古墳しかなく重要遺跡も重要出土物も無く残念だ。
玉璧、古墳、住居址、鏡。重要遺跡に重要出土物だ。記紀も南九州を描いていたな。
>>103 >「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」て書いてるやん。〜倭奴国〜倭国
>(後漢〜唐時代)の首都は筑紫〜熊本平野にあったと考えるのが普通ではありませぬか?
女王国が万二千里から始まると言うことと、首都がどこにあったのかは全く別問題だな。
>>111 吉野ケ里で魏志倭人伝に出てくる人口を養えるの?
116 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/03(火) 18:49:20.46
>>110 卑彌呼の都は久留米氏
>邪馬壹國には7万戸も有り官も4人もいるのは、数ヶ国の合併によるものと思われる。
その見解に賛同したいですね。
ただし、数ヶ国の合併=女王国であり、邪馬壹國は卑弥呼の宮と思ってます。
女王国は、卑弥呼の宗教を信仰している国々ではないでしょうか。
117 :
阿蘇山は移動した :2011/05/03(火) 19:50:33.51
魏志みてると伊都国にも王がいて実質、この王が中心みたいですね。ここで 荷物おろしてるみたいだし。まあ、卑弥呼はいったい何ナノかな? 吉野ヶ里は、前線みたいですね。塀などは王を守るというより、攻められて 守ってる。卑弥呼はもっと奥? 狗奴国が熊本県なら、近畿説ないな。
118 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 21:03:59.91
伊都国が北九州?どの辺? 「末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。
好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。
千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」
末盧國=松浦付近(唐津含む。)とすれば「東南のかた陸行五百里」すれば
佐賀県の多久か三日月というところで北九州には程遠い。
>>114 残念ながら残念
119 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 21:05:02.79
隋書倭国伝に、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」
(都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から
一万二千里)と書いてある。繰り返すと「楽浪郡の境および帯方郡」と書いてある。
>>114 残念ながら残念
120 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 21:06:03.87
>>114 玉璧、古墳、住居址、鏡。重要遺跡に重要出土物だ。
これだけしかない。残念ながら残念
>>114 女王国が万二千里から始まると言うことと、首都がどこにあったのかは全く別問題だな。
同問題だよ。卑弥呼は「倭国王」です。国の中心部から遥か彼方九州山地のなお遠くに
いたら統治できんたい。
>>114 残念ながら残念
121 :
サガミハラハラ :2011/05/03(火) 21:07:34.33
>>115 戸七万は邪馬台国全体か、邪馬台国を宗主ト仰ぐ国々の戸数です。
吉野ケ里(都)だけの戸数ではありません。
122 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 22:07:19.57
伊作先生、そろそろ出てきませんか?最新の研究成果が聞きたいです。
123 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 22:17:06.31
>>107 阿蘇山は移動した様
卑弥呼は「倭国王」です。倭国を統治した王です。
魏志倭人伝に「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、
狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、
相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、
難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」
とあるではありませんか。軍事・文化・政治の中心で狗奴国との戦争指導をやっているではありませんか。
124 :
日本@名無史さん :2011/05/03(火) 22:25:39.44
>>118 私は九州を北、中部、南に分けただけ。私は伊都国を佐賀市付近に比定している。
>>119 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里と繰り返したところで、隋書は倭人伝と後漢書の記述を
追っているだけの話。それ以上の意味はない。いずれも、女王の都とは書いていない。
>>120 女王国は大国だ。万二千里で女王国の領域に入ったからといって、その付近に都がある
わけではない。女王の都は伊都国から水行十日陸行一月行ったところだ。
万二千里に惑わされていてはだめだね。
125 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 22:36:15.16
>>124 「私は九州を北、中部、南に分けただけ。私は伊都国を佐賀市付近に比定している。」
了解。
「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里と繰り返したところで、隋書は倭人伝と後漢書の記述を 追っているだけの話。」
隋は、裴世清を倭国に使節として送っているわけですので倭国の首都を正確に
おさえている。よって通用しない。
「伊都国から水行十日陸行一月行ったところだ。」は私はそう思えない。けど、
議論の分かれるところなので保留
ところで
>>124 は邪馬台国宮崎論ですか?
126 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/03(火) 22:40:17.89
>>116 邪馬台国フィクション説氏
>>邪馬壹國には7万戸も有り官も4人もいるのは、数ヶ国の合併によるものと思われる。
>ただし、数ヶ国の合併=女王国であり、邪馬壹國は卑弥呼の宮と思ってます。
>女王国は、卑弥呼の宗教を信仰している国々ではないでしょうか。
投馬國も5万戸なので、2〜4ヶ国(海岸沿いの国々)の合併と見做せます。
投馬國は海岸沿いで主に海の外敵(帥升の王統国と狗奴國)に対応し、
邪馬壹國は内陸で内陸の外敵(帥升の王統国、旧倭奴國と狗奴國)に対応し、
2国は共同防衛体制を組んでいたのでしょう。
不彌國(吉野ヶ里)は帥升の王統国(後の伊都國)に対する防衛最前線の軍事国家。
(「戸」ではない「家」制度に着目)
奴國2万戸はもうひとつ奴國(帥升に滅ぼされた旧倭奴國の後継国)の分国。
帥升王統の伊都國を監視する為にその領地を分割して置かれた。
一方、奴國と不彌國は帯方郡から12000餘里である。
以上により、女王國は邪馬壹國、投馬國、不彌國、奴國の4ヶ国であることが確定できる。
他にも女王國のメンバー国があるかもしれないが。
127 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/03(火) 22:41:28.06
>>117 阿蘇山は移動した氏
>魏志みてると伊都国にも王がいて実質、この王が中心みたいですね。
女王國時代以前の帥升王統倭國(倭面土國・倭米多國)の都は吉野ヶ里。
>ここで荷物おろしてるみたいだし。
荷物を降ろしていたのは官不在の末盧國。女王の直轄地、それ以前は帥升王統の直轄地。
>吉野ヶ里は、前線みたいですね。塀などは王を守るというより、攻められて守ってる。卑弥呼はもっと奥?
帥升王統国(伊都國)に対する邪馬壹國の最前線。卑彌呼は吉野ヶ里の東南の高良山にいた。
128 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/03(火) 22:43:19.84
伊都國の城郭は惣座遺跡佐賀市大和町
129 :
日本@名無史さん :2011/05/03(火) 22:52:34.45
>>125 >隋は、裴世清を倭国に使節として送っているわけですので倭国の首都を正確に
>おさえている。よって通用しない。
使節が倭国の首都を訪ねたことは、そのとおりだ。しかし、古云去樂浪郡境及帶
方郡並一萬二千里は、倭人伝と後漢書を追っただけのことで、それは都の話では
ない(隋の使節がそこまで理解していたかどうかは問題だけどね)。
>
>>124 は邪馬台国宮崎論ですか?
そのとおり、都城盆地と考える。
131 :
130 :2011/05/03(火) 22:58:04.33
たとえば、東が実際は北になってる場所。
>>77 ここは、すべての源だよね。
132 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 23:02:53.20
>>129 「使節が倭国の首都を訪ねたことは、そのとおりだ。しかし、古云去樂浪郡境及帶
方郡並一萬二千里は、倭人伝と後漢書を追っただけのことで、それは都の話では
ない」
裴世清を倭国に使節として送って見聞して魏書東夷伝倭人の条のとおり正確だったから
記録されたとみるべきです。
都城盆地、いいとこですね。私も宮崎に住んでいましたのでよくわかります。
古代であれば宮崎市に比べ自然に人口が増える(鹿児島・宮崎・熊本の中継点として。)要素があります。
しかしながら北部・西部九州に比して鉄・文化・宗教の中心地から程遠いと思います。
>>130 直隷派?とか書いてあるぞ
奉天も日本が瀋陽につけた名だし
明治時代の地図だと思うが
>>133 これは、一例であって今の地図と方角で語ってはいけないと言う事。
水行10日、陸行1ヶ月って言ったら、オーストラリアか南米だろ。
135 :
鎮魂譜 :2011/05/03(火) 23:16:23.49
女王国とは? 女王国については邪馬壹(臺)国であるとするものと邪馬壹(臺)国+α(αの内容も人によって異なる)とするものがある。 女王国の捉え方が違うと邪馬壹(臺)国の比定地も違ってくるので、ここで女王国とは何かを論じたらいかがでしょうかな。 なお、倭人伝には女王国に関して以下の5つの記述しかない。 世有王皆統屬女王國 自女王國以北其戶數道里可得略載 自郡至女王國、萬二千餘里 自女王國以北、特置一大率 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 儂はこのうち「自女王國以北其戶數道里可得略載」と「自女王國以北、特置一大率」がこの問題の鍵だと思いますがの。 自女王國以北は「女王国から以北」であって起点は女王国である。これからすれば「自女王國以北其戶數道里可得略載」 の直前に「南至邪馬壹国女王之所都・・・」と記述された「邪馬壹国」を女王国と呼んでいるいることになる。 なお、「自女王國以北、特置一大率」は同じ理屈により一大率は邪馬壹国を含む以北の国々を検察したことになる。
>>134 方角は合ってるだろ
経緯線のカーブが変だから左手に北極があるように見えるだけで
137 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 23:21:01.47
邪馬台国九州説論争たのしかばい。 でも明日ホークスの応援いくけんもう寝るばい。 明日は小久保400号でるよ。おやすみなさい
>>136 今の学者の説は、方角を45度ずらしてる。
そう考えてる。しかし、方角は合っていて水行〜を考えても。
日本じゃないのは確かである。
南方系のシャーマン(アボリニジニ系)。
もしくは、ナスカでもおかしくはない。
139 :
日本@名無史さん :2011/05/03(火) 23:26:09.91
>>132 >裴世清を倭国に使節として送って見聞して魏書東夷伝倭人の条のとおり正確だったから
>記録されたとみるべきです。
筑紫に上陸してそこからかなり南へ行ったところに都はあった。そのことはまちがいなか
ったので、その意味では倭人伝は正確だと感じたのだろうよ。
しかし、隋書の書き方を良く読んでみたかな? 隋の使節は、万二千里というのが短里で
書かれていることを理解していない。私にはそのように思えるのだが、どうかな?
> 北部・西部九州に比して鉄・文化・宗教の中心地から程遠いと思います。
北九州は朝鮮半島からそれらが入ってくるからね。その意味では確かに遅れている
面は多々あっただろう。しかし、回数は少ないとはいえ、直接、中国南部と交流を
もっていたのではないかな? 南九州には少ないけれど鉄は入っていた、また、玉
璧や貨泉、若干の銅鏡がそのことを示していると思う。となれば、どうせ当時の戦
いは人海戦術、白兵戦の勝負だ。南が勝ったからといって不思議ではない。
前にも言ったが、熊本は南へついたと考えられるしね。
>>138 そんな国じゃ
魏に朝貢する意味も無いだろ
要するに、北九州の松浦の位置関係は信用できるのである。 それを、学者が南を東南と偽って問題を長引かせてる。 予算がほしいのだろう。
142 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 23:37:46.77
まだ寝てませんでした。へへへ……
>>139 「どうせ当時の戦いは人海戦術、白兵戦の勝負だ。南が勝ったからといって不思議ではない。」
ふしぎですよ。戦力の厚み(縦深戦闘力)、機動力、兵站(衣食住)戦略・戦術どころか小隊規模の
戦法も度外視して勝てるものですか。
考えが浅すぎる。
143 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 23:41:27.30
あと、ついでに。 隋書倭国伝には「阿蘇山」はあるけど、「霧島」や「桜島」はないよ。
144 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 23:48:03.47
現代戦の戦場2km×2km=1個大隊(約500名)VS1個連隊(約1500名) 関ヶ原の戦場2km×2km=東西併せて約16万人 この差は射程(砲火力と火縄銃)と機動力(戦車と馬)によるもの 古代は銃もなく鉄も乏しいのでこれを超える広い戦場など支配できない。 古代、邪馬台国の戸数は7万戸でしょ。 1戸あたり平均5人家族として男子2.5人で約17万人
145 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 23:51:47.11
約17万人の男子のうち6万人(人生50年として15歳以上である2/3)が仕事できる男子 が兵隊につけるとしても、筑紫平野、佐賀平野、熊本平野、日田盆地で決戦できませんよ。
17万人×2反=3.4万町歩 奈良時代でも九州全体で12万町歩くらいだったと思うので 比定には慎重を要する
147 :
筑紫の民 :2011/05/03(火) 23:59:05.04
よって、古代に征服戦(たとえば朝鮮民族が九州来襲的な)は不可能と考えます。 当然、九州山地を乗り越えての征服戦もほぼ不可能です。 吉野ヶ里遺跡の「兵士の甕棺墓」も隣国との小規模戦闘での「名誉の殉職」と見積ります。
だいたい何万って遠征は兵站とか考えたら不可能だろ 収穫期を狙って敵国の米を当てにして攻め込むのか 無謀だな
149 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 00:15:47.52
現在の軍隊の1食/1人約500gですよ。1.5kg/1日ですよ。 10日で15kgで100日で…… 古代も「食の量」という面ではさほど変わりはないと考えます。 機動(行軍)〜戦闘展開〜決戦〜搾地確保を考えると…… 九州全域とか大和が制覇したとかほぼ不可能ですね
150 :
日本@名無史さん :2011/05/04(水) 00:18:29.38
>>142 >>144 当時の戦いがどんなものかご存じないようですね。私が人海戦術、白兵戦
なんて言ったのに引きずられているのかも知れませんが、要するに武器の
善し悪しは大した問題ではないということです。
九州山地を乗り越えての征服戦が不可能なんていっていたら、何で日本が
統一されたんですか? 何で倭の軍は朝鮮半島まで進出したんですか?
151 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 00:25:22.37
>>150 鉄の安定的輸入・加工ができたのは筑紫〜熊本において3世紀以降でしょ。 だから朝鮮出兵が4世紀ころからできたのですよ。 北・西部九州は米も沢山取れて人口大爆発で朝鮮に十分な兵力を送ることができた と見積りますね。 同時期頃から本州に対して征服戦を開始したと見積っています。
152 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 00:30:35.72
>>150 「当時の戦いがどんなものかご存じないようですね。」
知っているようですね?ぜひ聞かせてください、はんどるね〜むツキで♡
153 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 00:36:50.13
おわりですか。 明日(5月4日)ホークス対楽天 応援がありますのでここらで寝ます。おやすみなさい
>>149 それは勝敗が1回で付くような決戦に恵まれた場合の話ですね
関が原でも動員に数週間、布陣に数日掛かる訳ですし
輜重隊など兵制の整った時代だから可能だったんですよ
秀吉は兵站部門が得意だった
155 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 00:54:10.50
古代、車(荷駄)が通れる道もない。船で海路侵攻しても機動と兵站が乏しくて 深く進軍できない。 これらが達成可能になってから「邪馬台国東遷」または「倭国東遷」ができるわけですよ。 それまでは、倭奴国〜邪馬台国〜倭国は九州に首都をおいて強靭(したたか・しなやか)に 国家経営してたのですよ。
156 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 00:55:41.99
本当におわりですか。 明日(5月4日)ホークス対楽天 応援がありますのでここらで寝ます。おやすみなさい
>>155 つまり征服ではなくて懐柔による上下関係だな
共立の王を立てていたという点と合致する
158 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 06:41:25.00
おはようございます。 今日の筑紫は晴れております。 今日も「どんたく」行って、ソフトバンクホークス応援いくんダ 邪馬台国探しは一休み。
159 :
日本@名無史さん :2011/05/04(水) 08:14:42.83
>>155 >古代、車(荷駄)が通れる道もない。船で海路侵攻しても機動と兵站が乏しくて
>深く進軍できない。これらが達成可能になってから「邪馬台国東遷」または「倭
>国東遷」ができるわけですよ。
そんなことはないな。どんな時代だって、それなりの方法はあるよ。
山の中を移動し、夜襲をするといった方法でだっていくらでも攻撃できる。
160 :
阿蘇山は移動した :2011/05/04(水) 10:39:59.30
>>126 :卑彌呼の都は久留米さん
>以上により、女王國は邪馬壹國、投馬國、不彌國、奴國の4ヶ国であることが確定できる。
>他にも女王國のメンバー国があるかもしれないが。
邪馬台国が論争続くのはこういう人がいるからでしょうね。
161 :
既にその名前は使われています :2011/05/04(水) 11:16:25.16
162 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/04(水) 14:56:22.00
戦闘戦争の基本は飛び道具 現代戦ではミサイル 近代戦では銃・火器 古代戦では弓矢 接近戦は劣勢敗者側の戦法
163 :
鎮魂譜 :2011/05/04(水) 17:50:59.94
>>160 阿蘇山は移動した氏
卑彌呼の都は久留米氏は古田武彦氏の「對海国と一大国の半周島巡りによる1400里プラス」と同じ見解のようですな。
確かにこれは論争の的になりますな。
>>126 で「以上により、女王國は邪馬壹國、投馬國、不彌國、奴國の4ヶ国であることが確定できる。」と述べているが、
「投馬國も5万戸なので、2〜4ヶ国(海岸沿いの国々)の合併と見做せます。」から「 奴國2万戸はもうひとつ奴國(帥
升に滅ぼされた旧倭奴國の後継国)の分国。 帥升王統の伊都國を監視する為にその領地を分割して置かれた。」までの内容
は根拠とするには問題のある物語ですな。物語と根拠は区別して述べたほうがよいですな。
卑彌呼の都は久留米氏の考える女王国の根拠とできるものは
「自郡至女王國萬二千餘里」の記事と「半周島巡りの里数1400里加算で奴国および不彌国までの距離が万二千餘里となる」
ということだけですな。半周島巡りの里数1400里を加算できるかどうかと伊都国からの放射読みが正しいかどうかが論争点
になりますな。
164 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 17:58:34.23
今日も勝ったば〜い。ホークス1位復活ば〜い。
>>159 そんなことはないな。どんな時代だって、それなりの方法はあるよ。
山の中を移動し、夜襲をするといった方法でだっていくらでも攻撃できる。
できるけど、そんなショボイ攻撃では決定的な戦果はあげられない。
山中を移動?武器持って、宿泊資材持って、糧食持ってどれだけの規模の部隊が
どれだけの距離を行軍できるのか知っているのでつか?
165 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 18:25:47.81
夜襲って、真面目に目標を奪取するような攻撃じゃないので、どちらかというと じょう乱やら牽制やらが目的でこれをもって任務を達成できるものではありません。 非常に残ながら残念な攻撃だ。
166 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 18:32:24.12
戦闘は「火力」「機動」「防護力」 「火力」はその射程もさることながら物量と威力も重要です。古代に物量を発揮できる ようになるのは、鉄の安定生産が可能となった4世紀以降 「機動」は、基本徒歩でしょ。ただ、街道が整備されれば荷駄に物資を大量に積載して 行動できるので街道がいつごろ発達したかが征服戦を左右したと思います。 「防護力」は現代戦は装甲やら築城やらですね。個人の防具が一般的に支給される頃 (多分鉄の安定供給と同じころ)以降か?
167 :
字一和四喜和 :2011/05/04(水) 20:16:14.67
九州説の皆様、博学を示して是非お教え下さい。魏の使節団の上陸地について 壱岐より北九州沿岸への上陸は唐津付近と断ずる説が多いのですが、その 理由として距離が一番短いことと、松浦半島とマツロ国の音が似ていると 言うだけで証明にはなっていません。当時は既に「海中の道北」の航路が 確立していたと推測され宗像付近に上陸した可能性も強く考えられます。 どなたか唐津付近に上陸したことを証明した人はいますか。お教え願いま す。
168 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/04(水) 20:28:25.09
>>166 >古代に物量を発揮できるようになるのは、鉄の安定生産が可能となった4世紀以降
物量はさほど重要ではありません。
古代戦闘において重要なのは武器(弓矢)の質
@射撃しやすい弓(和式弓モンゴル弓等)舟や馬に乗っても射撃し易い。
A射程が長くエネルギーの大きい矢(コンパクトな矢にするには鉄鏃が有利)
B鏃に使う毒の威力
挹婁は@とBによって恐れられた。
>「防護力」は現代戦は装甲やら築城やらですね。
倭の甲冑は7世紀まで皮製。(隋書イ妥國条)
甲冑は重くて防護力があるより軽量で機動性が重要であった。
169 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/04(水) 20:36:28.04
>>167 一大國から末盧國への移動は南方向であると、文脈から読み取れます。
狗邪韓國から末盧國まで南方向だと書いてあることを、
どなたか字一和四喜和氏に説明していただけませんか?
170 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/04(水) 20:51:33.30
>>163 :鎮魂譜氏
知られた事実からの論証によって得られる結論を省いていますので、
物語風になってしまいました。
詳しく書くと長文の論文になってしまいますのでココでは省略しました。
奴國と不彌國が12000餘里であることについては古田説と同じなので、
鎮魂譜氏のご理解が得られたようですね。
171 :
日本@名無史さん :2011/05/04(水) 21:29:39.83
兵站は距離の2乗で困難になる。 ざっと言うなら、1の兵糧で戦闘可能な距離が、 4倍の距離になると、16の兵糧を必要とする。 兵糧を運ぶ人や牛馬にも兵糧が必要。 実際には現地調達も重要な要素だろうが、 大軍になればなるほど現地調達は困難になり、 この基本的な数式に近づいてくる。 一日に20キロ移動するとすれば、 200キロの遠距離に必要な兵糧は 100倍必要ということ。
172 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 22:07:13.42
>>168 卑彌呼の都は久留米
>物量はさほど重要ではありません。
必要ですよ、征服戦でしょ。
圧倒的物量が無ければ吉野ヶ里の環濠集落1つも奪取できるものか。ですよ。
卑弥呼のお里は久留米さん……残念
173 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 22:15:08.04
古代の戦闘はやはり射程の長い「矢」が脅威でしょね。 あとは、その「矢」の正確な射撃、敵を圧倒できる量が必要でしょうね。 防御側も当然その辺は理解して「盾を利用する」「築城する」で防御して 撃退したのでしょうね。 古代は、そう簡単に「征服」はできなかったでしょうよ。長く戦争を続けたでしょうよ。 長い戦争で疲れ果てて「卑弥呼の共立」なのでしょ。
174 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 22:18:36.62
「卑弥呼共立」後、時間がたって鉄の安定輸入・加工ができるようになった倭国は、 いよいよ日本東部の征服戦を開始したのでしょうよ。 ただ、その時期が何時なのか今の考古と文献では不明ですね。と思っています。
175 :
筑紫の民 :2011/05/04(水) 22:22:29.72
伊作先生、見ているのでしょ。 所見を下さい。
176 :
サガミハラハラ :2011/05/04(水) 22:54:18.20
卑弥呼は魏から金印を貰い、倭国統一の野望をもったのです。 そして、魏からその作戦のための詔書と黄幢をいただく矢先に死去したのです。 さて、この年代は何年でしょ。
177 :
日本@名無史さん :2011/05/04(水) 23:16:51.74
>>170 卑彌呼の都は久留米氏
三世紀前後の倭についての史料が少ないので倭国の成立の次第や各国の相互関係などについて述べようとすれば推測が入る
ことは避け難い。だから儂もそれに文句を言うものではないが、しかしながら、推測の根拠が示されないうちは物語として
見るほかござらんのでな、悪しからず了承下され。
また、儂は特にその傾向が強いと自覚しとりますが、後漢書の倭奴国王や倭国王帥升の記事と倭人伝の記事から想像を膨ら
ませて自分流のストーリーを作り上げるのも楽しみ方の一つだと思いますので、想像論だという前提のもとでそういう論を
戦わせるのもありだろうと思うとります。
>奴國と不彌國が12000餘里であることについては古田説と同じなので、
>鎮魂譜氏のご理解が得られたようですね。
この点は想像論じゃないのでまともな議論が必要でしょう。儂は貴殿の考えが分ったのですが、まだ正しいとして受け入れた
わけではありませんよ。半周島巡りの距離1400里を加算できるか否かの議論は決着がついていますかの?
178 :
鎮魂譜 :2011/05/04(水) 23:18:46.19
またハンネを忘れていました。177は儂の書き込みです。
179 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/05(木) 00:16:55.36
>>168 >>物量はさほど重要ではありません。
>必要ですよ、征服戦でしょ。
>圧倒的物量が無ければ吉野ヶ里の環濠集落1つも奪取できるものか。ですよ。
筑紫平野は小さな平野です。
筑紫平野の中心部にある邪馬壹國や投馬國の領域内からの出撃は日帰り戦闘です。
邪馬壹國投馬國連合にとって重要なのは大きな兵站能力ではありません。
重要なのは少人数で連日繰り返して攻撃し続けることができる機動力です。
モンゴル軍は兵站基地を移動させながら機動力のある少人数の出撃攻撃でヨーロッパまで征服したのです。
吉野ヶ里のような要塞並の城郭の場合は占領に手間取ったと思われます。
だから邪馬壹國投馬國連合は吉野ヶ里占領後は軍事国家不彌國(1000家)を吉野ヶ里に置いたのです。
吉野ヶ里は、すぐ南が有明海で背振山地南山麓の東西に伸びる地峡にあります。
邪馬壹國と投馬國の支援がないと満足に食べることもできないところに吉野ヶ里があるのです。
邪馬壹國投馬國連合は帥升王統の伊都國(倭都)を機動力の高い戦闘を繰り返すことにより追い詰めたのです。
一方、菊池平野の狗奴國には、矢部川の平地部と現福岡県熊本県県境の山岳地帯がある為、
機動力のある日帰り攻撃ができないので苦戦していたのです。
狗奴國に勝ためには大きな兵站能力が必要だったのです。
兵站能力については狗奴國の方が邪馬壹國投馬國連合より大きかったと考えられます。
180 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/05(木) 00:24:56.81
>>177 >まだ正しいとして受け入れたわけではありませんよ。
理解していただければ十分です。納得しなければならないことではありません。
181 :
阿蘇山は移動した :2011/05/05(木) 00:27:21.53
182 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 08:47:55.27
>>167 上遣文林郎裴清使於倭國が正規の外交ルート
又至竹斯國=博多湾しかない
末廬國は帰路の集合場所で出口表示
陳寿は入り口にこの漢字はつかわない
博多湾 80%
神湊 20%
183 :
阿蘇山は移動した :2011/05/05(木) 09:24:51.47
>>102 :日本@名無史さん
>
>>101 倭人伝によれば、北九州から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一月で邪馬台国
>北九州からとは書いていないよ。
>魏志倭人伝では邪馬台国までの道程も重要点の1つなので、「水行二十日陸行一月」は
>続き読みせずに、帯方郡から「水行二十日陸行一月」と読むんだと。
??? 「水行二十日陸行一月」解らない???
しかし、不彌国を行橋とかにすれば、北九州でいいのですが。
水行20日で投馬国を伊都国からとするのも、郡からにするのも、50歩
100歩だと思うけど。
連続式でなにかまずいことあるのかな?まずいことは読み方でなく距離の
換算にあるのでは?
184 :
サガミハラハラ :2011/05/05(木) 13:51:44.27
普通道の説明は、連続式ですよね。今でも。時間は最後につけますよね。 「あそこはああ行ってこう曲がってそう進んでつきますよ。5分ぐらいですよ」という具合に。
185 :
阿蘇山は移動した :2011/05/05(木) 18:16:22.81
>>184 >普通道の説明は、連続式ですよね。
おや、サガミハラハラさん すごい。意見があうとは。
まあ、最後でなくてもいいとは思うけど。
まっすぐ150m行って、左折して50m
でもいいけど。
186 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 18:41:49.16
>>184 だが、こうゆう説明もあるね。
九州から飛んで羽田に降りる。千葉まで1時間、横浜まで40分だ。
>普通道の説明は、連続式ですよね。
それは連続式で説明するのが適当な場合だろ。東京を中心として、千葉、横浜、
甲府までの距離を説明するときはどうするんだ?
187 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 18:51:57.54
>>164 >そんなショボイ攻撃では決定的な戦果はあげられない。
本能寺の変を知らないな。
188 :
167 :2011/05/05(木) 20:46:22.30
169さん、182さん、ありがとうございます。 ところで、182さんの説のように魏の使節団の上陸地が博多だとすると、佐賀 方向や熊本方向に邪馬台国が有ったと比定するのは苦しくなると思うのですが 、皆さん、どんなもんでしょう。
>>182 末廬國は帰路の集合場所で出口表示
陳寿は入り口にこの漢字はつかわない
そんなことカッパさんが決めることではありませんよ。
190 :
fsr :2011/05/05(木) 23:28:51.70
>>187 >それは連続式で説明するのが適当な場合だろ。
邪馬台国の場所を説明するのだから連続式で説明するのが適当。
>東京を中心として、千葉、横浜、
甲府までの距離を説明するときはどうするんだ?
目的地が幾つもあるわけではない。
本当の目的地は邪馬台国だけ。
191 :
○ :2011/05/05(木) 23:45:00.94
>>190 fsr
>邪馬台国の場所を説明するのだから連続式で説明するのが適当。
当然でしょうね。
「裴清使於倭國」、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
裴清は、邪靡堆に行ったとお考えですか?
192 :
fsr :2011/05/05(木) 23:58:11.35
>>191 >「裴清使於倭國」、「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
裴清は、邪靡堆に行ったとお考えですか?
裴清が行ったのは
卑弥呼の女王国、邪馬台国ではありませんよ。
邪馬台国は四世紀に神功皇后によって滅ぼされ、主権は大和朝廷へと移っています。
卑弥呼の邪馬台国が有名になったので
諸外国(中国、韓国)は邪馬台国しか交渉相手として認めないので。
神功皇后が邪馬台国を滅ぼして邪馬台国になりすましたのです。
193 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 00:15:03.91
投馬国は大分県の国東半島? 福岡の三潴(みずま)じゃないの?
194 :
阿蘇山は移動した :2011/05/06(金) 00:20:05.15
>>192 おや、また、難しくなってきたぞ。神功皇后は卑弥呼ではないの?
魏志などの引用があったような??・
195 :
fsr :2011/05/06(金) 00:50:06.33
>>194 >おや、また、難しくなってきたぞ。
大和朝廷としては邪馬台国を滅ぼした神功皇后を卑弥呼にしたいのでしょう。
>神功皇后は卑弥呼ではないの?
時代が違うはずですよ。
196 :
fsr :2011/05/06(金) 00:56:49.26
>>193 >福岡の三潴(みずま)じゃないの?
三潴、筑後、八女で間違いないですよ。
その南にあったのが邪馬台国です。
超大国に自国の位置を教える馬鹿がいるものか 魏志倭人伝に邪馬台国の正確な位置が記されているわけがない
>>198 ツイッターで断定的に語ってる人がいたので比定されてるのかなと。
あの人の妄想ね。了解。
200 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 02:03:21.02
>>188 >>167 :字一和四喜和氏
>>どなたか唐津付近に上陸したことを証明した人はいますか。お教え願います。
誰も説明してくれる人がいないようなので
@ 始度 一海千餘里 至對海國・・・
A 又南渡 一海千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・
B 又渡 一海千餘里 至末盧國・・・
@の「始度」の「度」は、「渡」の意味を掛けている。
@の「始度 一海千餘里」は、Aの「又南渡 一海千餘里」に
「又」とあることから@の「度」は「南渡」であることがわかる。
「始度」を「始南渡」とはできないので「南」を省略し、
「又南渡」とすることにより、「度」が南方向であることが解るようにしている。
Bの「又渡 一海千餘里」は、Aで「南渡 一海千餘里」とあるので、
Bの「又」が「南」であることが解る。
このようにして、重複表現を避け文を簡潔にしている。
このような簡潔な文体は、陳寿の筆法ともいわれている。
201 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 02:46:55.93
>>193 >福岡の三潴(みずま)じゃないの?
三潴は投馬國と言うより、邪馬壹國の可能性が非常に高い。
理由
@三潴と高良大社に古い関係がある。
A水沼(三潴)に都の官僚が歩いていると景行紀に書かれている。
B都は3世紀初頭から617年まで同じ場所であると聖徳太子伝説に書かれている。
C三潴には大きな古墳が2基あり、かつては古墳群のあったところです。
しかし、三潴が投馬國の東の端であったの可能性も残っています。
投馬國は久留米付近を除く筑後平野ほぼ全域です。
ちなみに邪馬壹國の領域は北野平野全域と久留米です。
広川と八女も含まれている可能性がある。
202 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 03:12:18.56
>>189 >>182 >>末廬國は帰路の集合場所で出口表示
>>陳寿は入り口にこの漢字はつかわない
>そんなことカッパさんが決めることではありませんよ。
末盧國の「末」は女王國の端の意味。
末盧國には官不在である。
女王の直轄地であるからだ。
だから女王宛の荷物の検査もしているのだ。
203 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 05:28:29.67
>>190 >邪馬台国の場所を説明するのだから連続式で説明するのが適当。
>目的地が幾つもあるわけではない。
>本当の目的地は邪馬台国だけ。
それが思い込みだね。使者は、邪馬台国までの行程のほかに、自らが訪れた倭の
国を説明しておこうと考えて、放射式で記載したとも考えられる。
文章を素直に読んで考えるべきなのに、「目的地は邪馬台国だけ」との思い込み
をもとに読むから正しく読めないんだよ。
204 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 05:38:26.09
>>192 >神功皇后が邪馬台国を滅ぼして邪馬台国になりすましたのです。
妄想の類だね。
>裴清が行ったのは卑弥呼の女王国、邪馬台国ではありませんよ。
では大和へ行ったというのかな?
あなたは邪馬台国は九州にあったという説だよな。邪馬台国が九州にあったのに
使者を大和に案内して、「邪馬台国になりすました」などということがありうる
かな。邪馬台国になりすますならば、従来邪馬台国があった九州に案内しなけれ
ばおかしいだろう。
裴世清が訪ねた先は九州の邪馬台国なんだよ。だからそこに男王がいたんだ。
205 :
fsr :2011/05/06(金) 07:31:11.06
>>202 >末盧國の「末」は女王國の端の意味。
松浦の松だと思いますよ。
206 :
fsr :2011/05/06(金) 07:36:20.34
>>204 >使者を大和に案内して
阿蘇山が出てくるし
方角も変。
大和に案内したと断定するには疑問もある。
>従来邪馬台国があった九州に案内しなけれ
ばおかしいだろう。
滅ぼした国へ案内するはずもない。
207 :
fsr :2011/05/06(金) 07:42:02.80
>>203 >自らが訪れた倭の国を説明しておこうと考えて
何のために訪れたのですか?
通過国以外は伝聞により行程記事とは別の場所で説明しています。
>放射式で記載したとも考えられる
「それが思い込みだね。」はお返しします。
>「目的地は邪馬台国だけ」との思い込み
をもとに読むから正しく読めないんだよ。
逆でしょうね、
208 :
fsr :2011/05/06(金) 07:51:29.20
>197 >超大国に自国の位置を教える馬鹿がいるものか 魏志倭人伝に邪馬台国の正確な位置が記されているわけがない 【南至邪馬台國女王之所都】 と書いてあるし思い込みだけでが根拠でしょう、 魏は友好国、 友好国にがわざわざ出向いたのに自国の場所も教えないとは失礼な話。 金・白絹・綿・刀・鏡などだけではなく 詔書、印綬も渡す必要がある。 以後あまりに馬鹿馬鹿しい反論は無視しますのであしからず。
209 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 10:02:42.37
>>205 >>末盧國の「末」は女王國の端の意味。
>松浦の松だと思いますよ。
音の近似性
松浦=マツウラ⇔マツラ⇔マツロ=末盧
漢字の意味
「末」は端の意
女王地域の端っこの意味
「盧」は油鮭等液体を入れる器
真ん中に湖(湾)があり周囲を陸地に囲まれた地形の意味
末盧國の上陸地点は、ほぼ閉じられた湾(久美浜湾、浜名湖)の中にあったことを示している。
古代の唐津には虹ノ松原南に湖のような湾があった。事実
210 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 10:05:06.14
古代の唐津には虹ノ松原南に湖のような湾があった。 ↓↓ 古松浦湾
211 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 11:24:23.85
まだこんな無意味なことやってんのかよww 証明できないんだし全部オタクの妄想のぶつけ合い。 時間の無駄だよ。正解の答えなんて絶対に出ないんだし。 ほんと頭わりーやつらだな。オタクはこれだからだめなんだよ。
212 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 11:27:59.84
3世紀の唐津 ∵∵┃〜〜↓一大國から 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵ ∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜○浜玉漁港 ∵∵∵┗┓↓〜〜〜〜〜〜〜唐津湾〜〜〜┏━━━━┛∵∵∵∵ ∵∵∵∵┃↓┏━━━━━━━━━━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵玉 ∵∵∵∵┃↓┃∵∵∵∵虹の松原∵∵∵∵∵∵┏━━━┓∵∵島 ∵唐津○┃↓┗━━━━━━━━━━━━━━┛〜〜〜┗━┓川 ∵∵∵∵┃└→┐○東唐津〜〜古松浦湾〜〜〜〜┏━┓〜〜== ∵∵∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━┛∵┗━━┛∵ ∵∵∵∵∵┗┓└→→┐〜┏┛∵鏡山∵∵┌→→→→→→→→→ ∵∵∵∵∵∵┗┓古〜↓〜┃∵∵∵▲∵∵↑∵∵∵∵∵伊都國へ ∵∵∵∵∵∵∵┃松〜↓〜┗┓(領巾振山)↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵高尾山∵∵┃浦〜↓〜〜┗━━━━┓↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵▲∵∵┏┛湾┏◎┐┓〜〜〜〜〜┃↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵∵┏┛〜〜┃中↓┃〜┏━━━┛↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵┏┛〜〜〜┃原↓┃〜┃┌→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵┏━┛〜〜〜〜┃遺↓┗━┛↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵┏┛〜〜〜〜〜〜┃跡└→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ┏┛〜〜〜┏━‖━┛∵▲夕日山∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ┗━━━━┛∵‖∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵∵∵∵‖松浦川∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵▲霧差山∵‖∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ 上記古松浦湾は縄文後期の最大範囲を記したものである。 13世紀元寇の頃でも中原遺跡は古松浦湾に隣接していた。
213 :
fsr :2011/05/06(金) 11:43:29.27
>>209 >「末」は端の意
女王地域の端っこの意味
「盧」は油鮭等液体を入れる器
その論法で行けば投馬国は馬を投げちゃうことになってしまうし
邪馬台国は邪な馬の国になりますね。
私は歯黒国とか裸国など国名が分からないかもしれないような国についてはともかく、
倭の国に着いては表音表示だと思います、
214 :
fsr :2011/05/06(金) 11:48:24.16
>>211 >正解の答えなんて絶対に出ないんだし。
畿内じゃなく九州にあったのは確かです。
>んと頭わりーやつらだな。オタクはこれだからだめなんだよ。
畿内説で
これからの季節が名前にある教授なんか
私に言わせれば詐欺師ですね、
215 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/06(金) 12:21:15.38
>>204 日本@名無史さん
>裴世清が訪ねた先は九州の邪馬台国なんだよ。だからそこに男王がいたんだ。
そう考えるのが普通ですよね。
裴清は、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也と訂正してる。
邪馬台国は国ではなかった。 卑弥呼の宮であった。
216 :
阿蘇山は移動した :2011/05/06(金) 12:26:41.46
投馬国 これから、スサノヲの、馬の皮をはいで投げ入れたという神話ができたとか 言われてますね。
217 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 12:48:07.66
3世紀の唐津(修正版) ∵∵┃〜〜↓一大國から 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵ ∵∵┗┓〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜○浜玉漁港 ∵∵∵┗┓↓〜〜〜〜〜〜〜唐津湾〜〜〜┏━━━‖┛∵∵∵∵ ∵∵∵∵┃↓┏━━━━━━━━━━━━┛∵∵∵‖∵∵∵∵玉 ∵∵∵∵┃↓┃∵∵∵∵虹の松原∵∵∵∵∵∵∵∵‖∵∵∵∵島 ∵唐津○┃↓┗━━━━━━━━┓∵∵∵∵∵∵∵‖∵∵∵∵川 ∵∵∵∵┃└→┐○東唐津〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵┗===== ∵∵∵∵┗┓〜↓古松浦湾〜┏━┛∵∵∵┌→→→→→→→→→ ∵∵∵∵∵┗┓└→→┐〜┏┛∵鏡山∵∵↑∵∵∵∵∵伊都國へ ∵∵∵∵∵∵┗┓古〜↓〜┃∵∵∵▲∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵∵∵∵┃松〜↓〜┗┓(領巾振山)↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵高尾山∵∵┃浦〜↓〜〜┃∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵▲∵∵┏┛湾┏◎━━┛∵∵∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵∵∵┃〜〜┃└→→→→→→→→┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵∵∵┃〜┏┛中原遺跡∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵∵∵┗‖┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ ∵∵∵∵松浦川‖∵∵▲夕日山∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
218 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 13:15:41.35
>>213 >その論法で行けば投馬国は馬を投げちゃうことになってしまうし
>邪馬台国は邪な馬の国になりますね。
>私は歯黒国とか裸国など国名が分からないかもしれないような国についてはともかく、
>倭の国に着いては表音表示だと思います、
倭の国については情報がある場合は、
可能な限り「表音+表意」表示になっていると思います。
投馬國
馬を投げ捨てて、馬を必要としない国。
即ち、交通手段は船で有明海沿岸の島々の間や水路を行き来していた。
邪馬壹國
馬のいない変な壹(ヰ・委・倭・一)の国。
倭語では「山のヰ國」と思われます。
壱岐は、「ヰ国」の本国、山ヰ国の出身地。
邪馬壹國の先祖は壱岐から渡って来た。
以上はシナ側の認識でしょう。
おう、なかなかだな
>倭の国については情報がある場合は、 >可能な限り「表音+表意」表示になっていると思います。 邪馬台国 卑弥呼 どこが?
222 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 17:44:41.29
>>221 邪馬台国
倭(ヰ)が大倭(タヰ)と自称するようになってたので、
音合わせの為、壹(ヰ)を臺(タイ)と変更し、邪馬壹國を邪馬臺國とした。
[タイ」音の場合には、イ妥、邪靡堆、邪摩惟等の表現法もある。
卑彌呼
人名の場合は事跡や人柄にちなんで字意の選択をするので難しい。
卑彌呼が宗教的アジテーター(神と交わる興奮状態で発声)であると考えるなら、
「卑彌呼」は「卑しく叫び続ける」の意味になる。
北九州から、船で10日。陸で1月。 日本じゃありません。ほんとうにありがとうございました。
邪馬台国=シャーマン国 オーストラリアのアボリニジと同じ文化
225 :
阿蘇山は移動した :2011/05/06(金) 19:21:51.35
狗奴国は、熊本県。投馬国は西都市で決まると、邪馬台国も絞れる。 邪馬台国は、吉野ヶ里周辺から以北のどこかか、西都市の南、宮崎県南部。 あと数日で邪馬台国の位置確定しそうですね。
226 :
167 :2011/05/06(金) 20:24:03.62
200さん、ご教示ありがとうございます。私は勤めをしているので御礼が遅く なって済みませんでした。 しかし、あなたが区切ったB、壱岐から北九州上陸地の方向についてはあなたの ような解釈をする人もいる反面、この航路については方向が記されていないので どちらの方向に進んだのかわからない、という解釈をする人もいます。 だから182さんのように博多または神湊に上陸したと考える人もいるわけです。 したがって私がもともと求めたのは魏の使節団が唐津付近に上陸したと証明した 人はいるか?ということで、結論、誰もいないようですね。 ならばどうして皆さんは唐津上陸は間違い無いという前提に立って邪馬台国探し をやっているのでしょう。
227 :
サガミハラハラ :2011/05/06(金) 20:51:24.29
でも他の所に上陸したという証明をした人もいないのですよ。 私は郡使は唐津市西唐津八幡町の川浪商会の前の海岸に上陸したとみています。 川浪商会のところに迎賓館があったのです。 発掘してみてください。証拠の遺物がぞろぞろ出てきますよ。
228 :
fsr :2011/05/06(金) 21:20:24.45
>>225 >狗奴国は、熊本県。
順当でしょう。
>投馬国は西都市で決まると
自女王国以北其戸数道里可略載とある投馬国を邪馬台国の南に比定しちゃ駄目でしょう。
>邪馬台国の位置確定しそうですね。
倭人伝無視の目星はほとんどハズレです。
229 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 21:20:54.97
>>227 >迎賓館があったのです。
それなら、官、副がいただろう。
カッパ流で言えば、官、副を書かなかったということが
外交筋じゃない、陳寿の筆法ということになる。だろ?
230 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 22:10:38.66
>>228 >自女王国以北其戸数道里可略載とある投馬国を邪馬台国の南に比定しちゃ駄目でしょう。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。を無視しちゃ駄目でしょう。
吉武高木遺跡、三雲遺跡、須玖岡本遺跡、立岩遺跡も其餘旁國遠絶なの?
231 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 22:31:32.68
>>228 >自女王国以北其戸数道里可略載とある投馬国を邪馬台国の南に比定しちゃ駄目でしょう。
女王国より以北については戸数道里が略載できるとあるだけで、其の余の国々について
略載できないとは書いてないよ。其の余にだって略載できる国があってもいいんだ。
232 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 22:33:01.53
>>228 >>狗奴国は、熊本県。
順当でしょう。
次有奴國。 此女王境界所盡。其南有狗奴國
其餘旁國は長崎県で決まりだな?
次有奴國が長崎市。その南に天草、宇土、熊本がある。
233 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 22:38:39.37
「シャーマン」という用語・概念は、ツングース語で呪術師の一種を指す「?aman, シャマン」に由来し、 19世紀以降に民俗学者や旅行家(探検家)たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、 その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語(学術用語)として用いられるようになったものである。 邪馬壹國には、「邪馬」(サマ)と入っているんだから、シャーマンの治める国という意味だと思う。
235 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/06(金) 23:26:06.39
>>233 >女王國東渡海千餘里
>里数ですが。
「里数ですが。」の意味不明
海の大きさが千餘里だがどうした?
236 :
fsr :2011/05/06(金) 23:27:56.46
>>230 >女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。を無視しちゃ駄目でしょう。
???
無視したつもりはござんせんです。
>吉武高木遺跡、三雲遺跡、須玖岡本遺跡、立岩遺跡も其餘旁國遠絶なの?
はい。
戸数もどこにあるかも知らないと書いてあります。
237 :
fsr :2011/05/06(金) 23:35:20.25
>>231 >女王国より以北については戸数道里が略載できるとあるだけで、其の余の国々について
略載できないとは書いてないよ
戸数道里が略載した以外の国については
其餘旁國遠絶不可得詳とあります。
>其の余にだって略載できる国があってもいいんだ。
もちろん、いいんですが
其餘旁國遠絶不可得詳と書いて略載してありません。
238 :
fsr :2011/05/06(金) 23:38:15.88
>>232 >其餘旁國は長崎県で決まりだな?
長崎県だけでなく福岡、佐賀の国も多くが其餘旁國です。
239 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 23:56:48.04
>>235 >「里数ですが。」の意味不明
海の大きさが千餘里だがどうした?
誰が確認したの? 倭人は日数だよ。
倭種は、誰が確認したの?
皆、倭人に聞いたの?
240 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 00:02:43.73
>>238 >長崎県だけでなく福岡、佐賀の国も多くが其餘旁國です。
其餘旁國は、【遠絶】の為に不可得詳と書いてある。
不可得詳の理由は、遠絶であり、距離である。
長崎、佐賀県は、其餘旁國にはなれない。
241 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 00:12:48.50
>>235 >海の大きさが千餘里だがどうした?
関門海峡、壱岐は、どこの勢力が防衛してるとお考えですか?
邪馬台国、伊都国、一大率も有明沿岸で、交易ルートは守れるの?
志賀島の安曇族は、3世紀に琵琶湖西岸のにすでに入植している。
山陰、瀬戸内海ルートもある程度発達している。この勢力も敵だ。
242 :
fsr :2011/05/07(土) 00:20:18.83
>>239 >誰が確認したの?
もちろん倭人。
> 倭人は日数だよ。
女王國東渡海千餘里
去女王四千餘里
周旋可五千餘里
卑弥呼、邪馬台国の倭人は里数も文字も知っていたようです。
243 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 00:26:16.73
>>242 fsr
関門海峡、壱岐は、どこの勢力が防衛してるとお考えですか?
邪馬台国、伊都国、一大率も有明沿岸で、交易ルートは守れるの?
>>243 防衛ってseaレーン防衛じゃないんだから常時巡視船を浮かべておくなんて、あの海流では不可能だよ
壹岐と対馬、この2島を守っていれば、中国船だって渡って来れない
245 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 00:43:44.29
>>244 紫さん
>壹岐と対馬、この2島を守っていれば
その考えに賛成ですよ。 特に、壱岐でしょう。
関門海峡には、和布刈神社があり、宗像、志賀島神社があります。
交易も、防衛もこの勢力と考えています。
伊都国、一大率は、博多湾沿岸を主張したいのです。
宗像の神って神様じゃなくて潮見の長の家の事らしいですね 海の道案内たるパイロットを乗せないと渡れなかったんでしょう
247 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/07(土) 01:34:34.27
>>241 >関門海峡、壱岐は、どこの勢力が防衛してるとお考えですか?
関門海峡は海峡の両岸の勢力のどちらか又は双方の制海権下あるのでしょう。
壱岐は一大國が自身の保身のため防衛管理しているでしょう。
女王は共立されているだけなので各国は自身で自国防衛はしているでしょう。
>邪馬台国、伊都国、一大率も有明沿岸で、交易ルートは守れるの?
一大率はいたるところを監察する体制であるので、対馬海峡をも監察しています。
一大率の役割は反女王の動きを阻止することでしょう。
>志賀島の安曇族は、3世紀に琵琶湖西岸のにすでに入植している。
>山陰、瀬戸内海ルートもある程度発達している。この勢力も敵だ。
九州以外は魏志倭人伝の記述範囲に入っていないので、
上記内容については魏が認知するところではありません。
248 :
阿蘇山は移動した :2011/05/07(土) 06:52:28.17
>>228 :fsrさん
>>225 >>投馬国は西都市で決まると
>>自女王国以北其戸数道里可略載とある投馬国を邪馬台国の南に比定しちゃ駄目でしょう。
ということは、宮崎県南部に1票ってことですね。
>>邪馬台国の位置確定しそうですね。
>倭人伝無視の目星はほとんどハズレです。
倭人伝に忠実ですよ。
狗奴国が邪馬台国の南なら、邪馬台国の記述のあとすぐに狗奴国を
書いたはず。しかし、実際は、21か国のあとにある。この21カ国は
次にと21こ、次がある。つまり21カ国の最後の奴国の南に狗奴国が
あるということ。この奴国はどこだがわからないが、逆に、狗奴国が
熊本県だから、その北に奴国があったとすればいい。
249 :
サガミハラハラ :2011/05/07(土) 07:54:34.86
奴をナと発音するからわからなくなるのですよ。奴は古来トまたはドと発音すべきもので、戦前まではナとは発音しなかったのですよ。 熊本県の北は福岡県山門です。このトが奴国の遺称です。 ちなみに、当時九州北部はヤマとよばれていました。そこのタイ国がヤマタイコクです。
250 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 08:11:05.54
>>238 >長崎県だけでなく福岡、佐賀の国も多くが其餘旁國です。
「女王国以北」とか「其の余」の意味が分かっていないようだな。
「女王国以北」というのは万二千里よりも北ということだ。そして、「其の余」は
それ以外の地域。
つまり、万二千里よりも北に戸数道里のない旁国を比定することはできないんだよ。
251 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/07(土) 09:17:46.17
>>247 卑彌呼の都は久留米氏
>九州以外は魏志倭人伝の記述範囲に入っていないので、
上記内容については魏が認知するところではありません。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」
九州以外でしょう。記述範囲に入ってます。
252 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 10:36:18.07
ここまで何年も邪馬台国はどこだと 言いあいしてるやつらみてると薄気味悪くなってくるなww
253 :
fsr :2011/05/07(土) 10:39:42.23
>>248 >狗奴国が邪馬台国の南なら、邪馬台国の記述のあとすぐに狗奴国を
書いたはず。
勅使が訪問した8カ国、
そして卑弥呼を共立した21カ国、
その後に卑弥呼共立に参加していない倭の狗奴国。
何の不自然さもありません。
>まり21カ国の最後の奴国の南に狗奴国が
あるということ。この奴国はどこだがわからないが、逆に、狗奴国が
熊本県だから、その北に奴国があったとすればいい。
奴国の南に狗奴国があるわけではありません。
【次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴国】
とありますが
奴国のすぐ南に狗奴国があるのなら【國此女王境界所盡】は必要ありません。
【次有奴國其南有狗奴国】でなければなりません。
簡潔を旨とする漢文において奴国のすぐ南に狗奴国があったのなら
【國此女王境界所盡】は蛇足となります。
254 :
fsr :2011/05/07(土) 10:49:58.12
>>250 >「女王国以北」とか「其の余」の意味が分かっていないようだな。
遠絶不可得詳の意味が分かっていないようだな。
>つまり、万二千里よりも北に戸数道里のない旁国を比定することはできないんだよ。
何処にあるか分からない、
つまり
「女王国以北」にあるかどうかも分からないような国は
「女王国以北」にあろうが「女王国以南」にあろうが其余旁國になるんだよ。
第一末盧国から東へ行っても西へ行っても国はあったはず。
しかしそれらは全て其餘旁國遠絶不可得詳。
つまり
「女王国以北」にあっても其餘旁國遠絶不可得詳。
255 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 11:14:58.54
>>254 あなたの言うような意味ならば、邪馬台国まで書いた上で、「以上の諸国は略載できるが、其の余の旁国
は略載できない」と書くだろう。あなたの読み方では、以北とした意味がなくなるね。
256 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/07(土) 11:16:31.69
>>253 fsr氏
>奴国のすぐ南に狗奴国があるのなら【國此女王境界所盡】は必要ありません。
【次有奴國其南有狗奴国】でなければなりません。
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
敵と従属国の境目です。陳寿は、はっきりと國此女王境界所盡と書いています。」
>簡潔を旨とする漢文において奴国のすぐ南に狗奴国があったのなら
【國此女王境界所盡】は蛇足となります。
なりません。
女王国の勢力範囲を示す為には、必要不可欠です。
その後の、戦争と続く理由を陳寿は説明しています。
257 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/07(土) 11:27:52.42
>>255 名無史さん
賛同。
「 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
以北の国々で、記載できなかった理由を「遠絶」の為と言い訳してます。
以北の範囲内の事と、解釈します。
258 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/07(土) 11:40:04.52
>>253 >【國此女王境界所盡】は蛇足となります。
日本、米国、韓国連合側から言えば、
「韓国其北有北朝鮮」では、説明不足です。
「韓国連合軍境界所盡」、「其北有北朝鮮」が適切です。
259 :
fsr :2011/05/07(土) 12:02:44.34
>あなたの言うような意味ならば、邪馬台国まで書いた上で、「以上の諸国は略載できるが、其の余の旁国は略載できない」と書くだろう。 倭人伝はくどくどと詳細な説明は一切していない。 「以上の諸国は略載できるが、其の余の旁国は略載できない」 等と日本人向けの懇切丁寧な文はない。 例えば 【女王國東渡海千餘里復有國皆倭種】から邪馬台国は九州東岸にあったと言う者がいる。 しかしこの文には続きがあり 【又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里】 つまり 千里海を渡って山口県があり、その南に四国があると言うことです。 女王はその四国から四千里離れているのだから九州東岸ではありません。 全体を読めば分かることです。 「三千里東へ進み千里の海を渡れば倭種の国がある」と書くだろう、 等と言っても無意味、 簡潔を旨とする倭人伝の記載方法を理解するしかない。 さもなければ 水行陸行の謎なんか永久に解くことができない。
260 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 12:03:47.19
>「女王国以北」にあるかどうかも分からないような国は「女王国以北」にあろうが >「女王国以南」にあろうが其余旁國になるんだよ。 女王国以北は略載できるといっているのに、そこに略載できない国々があったとする のは明白に記述に反した読み方だね。
261 :
fsr :2011/05/07(土) 12:07:34.33
>敵と従属国の境目です。陳寿は、はっきりと國此女王境界所盡と書いています。 狗奴国との境界とは書いてありません。 國此女王境界所盡が無ければ間違いなく狗奴国との境界です。 > なりません。 見解の相違です。 邪馬台国フィクション説さんには 以後返答しないことがあるかもしれませんが悪しからずお願いいたします。
262 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/07(土) 12:22:08.60
>>261 fsr氏
>以後返答しないことがあるかもしれませんが悪しからずお願いいたします。
了解しました。 私もレスを付けるのは止めにしましょう。
263 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 12:45:06.78
>>259 >【又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里】つまり、千里海を渡って山口県があり、
>その南に四国があると言うことです。
>女王はその四国から四千里離れているのだから九州東岸ではありません。
山口県を知る者が関門海峡を知らないはずはありません。せいぜい、渡海百里と書くはず
です。渡海千里の倭種の国は大分あたりから四国を言ったものでしょう。
侏儒国については、二つの考え方があるかと思います。倭種の国の南にあると読めば高知
県あたり。そうではなく、女王国の南だと読めば奄美群島あたり。私としては後者の読み
が正しいように思います。
264 :
アンギラスU :2011/05/07(土) 12:50:51.91
私は朝、目が覚めてお日様の出てくるのを見て、そこが東だと思っていた。し かしよく見ると、お日様が出てくる位置は毎日少しずつ変わっているらしい。 だから後の世に人間どもが星や磁石や地図などというもので東西南北を決める まで、私もマンモスも熊も兎も、お日様の出てくる方向が東だと思っていた。 これをどうも黄道修正説というらしい。----------アンギラスの独白 259氏の説は黄道修正説で考えると狂いが出るのではないかな。三千里の東の 地点は四国の東岸、女王国は九州東岸、てことも有りえるよね。
265 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/07(土) 12:52:32.86
>>251 >「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」
>九州以外でしょう。記述範囲に入ってます。
同じく九州外でも、邪馬台国フィクション説氏は、
関門海峡と「海千餘里」を同じものだと決め付けています。
関門海峡はせいぜい広く見ても100里の大きさの海です。
「海千餘里」は1000里の大きさの海ですから、
関門海峡ではなく、周防灘ではないでしょうか。
女王の都から凡そ2000里離れたところから始まる海が、
大きさ1000里なのです。
>>256 邪馬台国フィクション説氏に同意。
fsr氏は「餘旁國」が以北の国々であることがまだ解らないようです。
fsr氏は「其餘」で以北以外と思い込んでいるようです。
266 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/07(土) 13:31:32.68
>>265 卑彌呼の都は久留米氏
貴方とは、説を異にする立場ですが、時代感覚はよく似てます。
歴史家の血が騒ぐのかな? 頑張って下さいよ。
>fsr氏は「其餘」で以北以外と思い込んでいるようです。
分かってるんじゃないのかな?
>>217 中原遺跡
この場所は、500回以上参問致しました。
「中原遺跡以北有唐津競艇場」
267 :
fsr :2011/05/07(土) 14:52:38.47
>>265 >fsr氏は「餘旁國」が以北の国々であることがまだ解らないようです。
fsr氏は「其餘」で以北以外と思い込んでいるようです。
???‐‐‐
卑彌呼の都は久留米さんとは邪馬台国の話ではなく
ツツジ祭りの話でもしたいですね。
もうしばらくしたら始まるでしょうから。
268 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 15:01:16.41
>>三千里の東の地点は四国の東岸 馬鹿じゃね?
269 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 20:10:50.92
>>246 日の出は、東より南よりから出る陽は、西より南よりに没します。
日の出と日没の間が南ですが、季節により南がずれることはありません。
20日間南と東を間違えることは多々あるでしょうね。
270 :
迷文 :2011/05/07(土) 21:17:38.14
畿内へ行ったとでも言いたいのかな?
272 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 03:25:51.96
出でよ伊作
273 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 07:56:47.14
魏志倭人伝のあの距離感だと九州しかありえなくね
日本じゃない
275 :
アンギラスU :2011/05/08(日) 08:31:25.33
皆さん、黄道修正説がお分かりでしょうか。倭人伝に「会稽東冶の東」とある ので九州の南のはずれの太平洋上だ、という方がおられますが、黄道修正説を とるならば日本列島全部が会稽東冶の東にあたるのです。 そこから264で提議したことをもう一度お考えいただきたい。
276 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 08:40:30.05
四国だな。
277 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 10:03:44.79
日本語は朝鮮民族が発明したことが近年明らかとなり、 邪馬台国は朝鮮民族の国であるとの見解が大半を占めていることを勘案すると、 本国に最も近い九州にあったであろうことは容易に想像できる。
278 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 10:19:23.75
>>275 「会稽東冶の東」とあるのは、日本列島全部の話ではなく、女王国が会稽と東冶の東にある
ということです。つまり、北緯30度から北緯26度までの間にあるということですね。
実際は33度から30度くらいですから、実際よりもだいぶ南にあると誤解しているわけで
すが、それは彼らなりに計算した結果です。
使者は、どういう計算をしたのか? 女王国は万二千里から始まります。それで、郡から万
二千里というのはどの程度南へ行ったところかを考えたわけですね。万二千里のうち南へ進ま
ないのは乍東の部分と末盧国からの東南陸行五百里の部分のみです。あとは南へ進んでいるわ
けですから、郡からおよそ一万里南が女王国の始まる緯度と考えたのです。
郡の緯度から会稽の緯度まで約八百キロ、これが一万里という計算なのです。
女王国の始まりから終わりまでは何里か、彼らは良く分かっていなかった。だが、北九州から
かなり南下したところということで、万五千里あたりを考えたのでしょう。それが東冶の緯度
に相当します。
彼らの計算どおりにいかなかったのは、朝鮮半島の南の乍東が実際は乍東北だったことや対馬
海峡横断が東南でしかも三千里よりは短かったことなどのせいでしょうね。
とにかく、彼らの計算が分かると、彼らが女王国をどの程度の広さと考えていたのかおよその
見当がつくということです。
279 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 10:48:17.11
>>278 >使者は、どういう計算をしたのか?
陳寿が計算したのじゃないかな。
280 :
日本@名無史さん :2011/05/08(日) 11:15:03.24
>>279 陳寿はそんな計算はしないよ。彼は原資料をそのまま載せる主義。自らの
推理であれこれ書き加えることの危険性を知っている。
281 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/08(日) 12:20:27.54
「會稽東冶」は班固による改変。 班固が春秋代を後漢代と取り違えた為におきた翻訳ミス。 魏志倭人伝の「會稽東治」が正しい。 夏后少康之子(庶子)が會稽の東部に開拓し治めた新開地が「東治」。 東の新規開拓地であるから、班固は敢えて「東冶」としたのかもしれない。 又は、班固は後漢代の「東冶」と取り違えたとも考えられる。 會稽(紹興)の東にある「東治」は現在の寧波。 寧波の東は鹿児島県口之島付近、帯方郡の南12000餘里の緯度になる。
282 :
fsr :2011/05/08(日) 13:28:43.28
283 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/08(日) 17:51:25.00
1回も参問したことがありません。 見えるところを通過しただけ。 唐津競艇場 鏡山 壱岐から末盧國にやって来たとき、鏡山はいい目印の山になりますね。 あの山のそばに湊があり到着だと。
284 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/08(日) 18:50:42.42
>>283 >唐津競艇場 鏡山
奴国発〜有田遺跡〜吉武高木遺跡〜三雲遺跡経由〜東唐津
帰りは、北山ダムか三瀬峠
勝てば、宮浦唐泊で正面の金印公園を見ながら、魚で一杯。
この辺りは、煩いんですよ。 どうしても・・・
285 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/08(日) 19:24:16.92
>>283 久留米競輪氏
壱岐に行ったこと有りますか?
私は、3・4年に一度遊びに行きます。 鴨鍋が美味しいんですよ。
「原の辻遺跡」を見たら、吉野ヶ里は模型の様なもんです。
2倍以上あるでしょう。
陳寿が書いてます。 一大国なんですよ、ねっ!
286 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/09(月) 01:14:37.21
原の辻は行ったことがありません。 吉野ヶ里は、まだ南内郭だけの頃、泥道を歩いて行った切りです。 その頃北内郭はまだ発掘予定地でした。
287 :
日本@名無史さん :2011/05/09(月) 08:05:34.32
>>281 >「東治」は現在の寧波。
当時は寧波という地名はなかったの?
288 :
阿蘇山は移動した :2011/05/10(火) 00:02:59.84
>>269 確かに、20日も南と東間違えたは無理でしょうね。私は20日は20日間
とは思ってませんが。
隋書など見ると倭人に聞いたのではと思う。倭人からなら、天候や、海が
荒れたり、季節のズレは補正されてますね。この南の方位を変えるのは
100%無理ですね。この南だけでなく、以北は以西とかに5箇所変える
必要あるし。
289 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 00:26:15.26
>>288 >この南の方位を変えるのは100%無理ですね
そうですね。「会稽東冶の東」だって南へ進んだという認識を裏づけている。
>>278 おれはいわゆる九州説というのはまったく採用しないが
きみの意見は、科学的に解釈しようという姿勢があって面白いので
おれの意見を書くよ。
きみの意見はめんどくさすぎる。
キーワードは北極星だ。
なぜ、「会稽東冶の東」か?それは北極星の角度が同じだからさ。
どこと同じか?それは奴国の軍だろうと考える。
すなわち、万二千里は奴国軍が女王国から、どのくらいの距離にいるかを示している。
援軍要請準備の時間を考えても、そのくらいの距離は妥当に思えるな。
>290 計其道里 なんだから 「北極星の角度が同じ」かどうかは関係無い。
北極星の高度を測量したのなら、もっと確定的な記述になるだろ 倭人伝では「推定すると〜このあたりかなァ」という雰囲気なので、北極星は無関係。
九州が90度回転してた当事のことは織り込み済みですか
>293 九州が90度回転してた当事 妄想
295 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/10(火) 16:18:35.67
>なぜ、「会稽東冶の東」か?それは北極星の角度が同じだからさ。 3世紀には北極星はありません。 3世紀の北極の位置は、こぐま座の背中の上の方向約7度の位置です。
296 :
阿蘇山は移動した :2011/05/10(火) 20:01:16.02
297 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/10(火) 20:06:12.39
>>287 >>「東治」は現在の寧波。
>当時は寧波という地名はなかったの?
「寧波」の名前は何処まで遡れるか知らない。
遡れても千年は無理だろう。
「東治」の名前は、現代の地図で、寧波の西の内陸部に発見したことがあるが、
今は不明状態で確かめようがない。
「東治」が、「會稽」のごとく現代にも名前が残っていることを期待する。
298 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 20:36:07.33
●会稽東冶は越の領域をいう表現 ・会稽/郡名。現在の江蘇省東南部と、浙江省、福建省にまたがる。 ・東冶/県名。現在の福建省ビン侯県東北部。会稽郡に続していて、属に「会稽東冶県」といわれた。 この会稽東冶とは「会稽と東冶間」のことで、無余が興した越の領域をいう代名詞である。 その版図領域は正確には分っていないが、 『倭人伝』は銭塘江以南から福建省ビン侯県東北部あたりまで(会稽―東冶間)を、 かつての越の領域とみなしていたのである。 一連の文章は、無余に関する文身逸話とセットをなすものであり、 倭人の文身の習俗のルーツが無余を開祖とする越(会稽―東冶)地域にあるのではないか という編纂担当者の所感を述べたものである。 古田的解釈をすると、文章の前後の脈絡が失われて、何をゆっているのかが不明になる。 それは倭人伝に対して極めて無礼な読みである。 「その道里を計るに」の計るは、思いめぐらすという思考行動に使われる言葉である。 この「はかる」という言葉が、編纂担当者の机上所感であることを証明している。 むろん、この地理関係を厳密な視点で論じてはならないし、 当時の中国人は奄美列島から琉球列島あたりを倭国だと思っていたなどと解釈してはならない。 ゆめゆめ、文章構成を見失ってはならない。
日本で探しても見つからないよ、日本じゃないから。
>>298 そりゃぁ、当然そうだよ伊作先生。俺の所は琉球あーだこうだのダブルパンチで赤旗建てられてしまう。
そ云う話しは種子屋久から北の日本の領域で片付けてくれや。
なにもない箱の中を探しても、何もありませんよ。
303 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/10(火) 22:09:13.49
陳寿の執筆時 「会稽郡東冶県」はなかった。 それは、「建安郡東冶県」と呼ばれていた。
305 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 22:28:33.76
>>304 だから、会稽郡の東冶と解釈する余地はない。会稽と東冶、二つの地名と
解釈すべきものだ。
>>305 そういう表現方法の例が三国志にあるの?
通常は「会稽東冶」とあれば、「会稽郡の東冶県」を表すのが表記法だよね。
307 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 23:25:31.70
>>306 二つの地名を連記することはいくらでもあるさ。
二地点間なら「自会稽至東冶」だろうし 二地点を列挙して、その近辺を表すというのは、ちょっと苦しい。 三国志の中に用例があるならイイが、
309 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/10(火) 23:37:50.61
>>309 その考えが今のところ、一番合理性があると思うが、
「會稽東治」という表現が、他の書籍にあるのかどうか
(史記とか)
>>307 >二つの地名を連記することはいくらでもあるさ。
三国志の用例をいくつか書いてみて
312 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 23:48:01.68
>>308 頭が固いね。奈良京都の旅、意味は分かるだろ。
>>312 その場合、二地点を列挙する必要性がない。
「会稽の東」「東冶の東」のどちらかで良い。
314 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 23:56:48.43
>>308 「自会稽至東冶」だと「会稽が出発点、東冶が目的地」という意味合いが含まれるから、
「二地点を列挙して、その近辺を表す」という表現には相応しくないと思う。
>>309 >會稽東治=會稽の東の治政地
と考えるより、東冶の誤刻と考える方が自然。
315 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 00:00:59.10
>>313 意味不明だな。「会稽東冶の東」は「会稽の東」や「東冶の東」と同じ意味では
ないよ。
会稽は大きな領域(郡名)、東冶は小さな領域(県名)を表す。 二地点でその近辺を表すなら、「会稽の東」と書けば必要十分だ。 なぜ、そうしなかったの?
317 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 00:06:36.00
>>316 会稽は郡名ではない。東冶も県名ではない。いずれも単なる地名。
中国古代において、会稽と言えば「ああ、あの越王勾践の国」と分かる地域。 陳寿は「会稽の東」と書けば、何の問題もなかったはず。
319 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 00:12:57.66
>>311 孝武雖外事四夷,東平【兩越、朝鮮】,西討【貳師、大宛】,開【??、夜郎】之道,然皆在荒服之外,不能為中國輕重。
これの「兩越、朝鮮」とか「貳師、大宛」とか「??、夜郎」
後鮮卑大人軻比能復制御羣狄,盡收匈奴故地,自【雲中、五原】以東抵遼水,皆為鮮卑庭。
これの「雲中、五原」とかがそれに当たるんじゃないかな。
とりあえず烏丸鮮卑東夷傳の冒頭から探したけど、他にもたくさんあるはず。
それと「自雲中五原以東抵遼水」という書き方で、
地名並列と「自〜至(抵)〜」が違う表現であることがわかると思う。
320 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 00:18:23.45
>>318 >会稽と言えば「ああ、あの越王勾践の国」と分かる地域。
会稽山を思い出すだけの人も多いんだよ。だから、会稽の東では会稽東冶の東とは意味が
異なってしまう。
>>319 この場合「自雲中五原」で、「自」という領域を表す品詞があるので、
今論争中の「二地名列挙」のみでその領域を表すのには該当しないんじゃないかな
「貳師大宛」は、征服した二国であって、征服国を列挙してるもの。
>>319 ありがとう。 会稽東冶とは二点間を表したものでは無いと
323 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 00:38:35.39
>>321 自〜抵〜という構文で、
「雲中、五原自(よ)り以東、遼水に至るまで」
とうことだから、「自」は遼水のほうに呼応しています。
だから「雲中五原」とう二地名並列が領域あらわすということと、
「自」という文字は関係ないんです。
>>322 ?
会稽東冶は会稽と東冶の二点で代表される地域という意味で例を引いたつもりだけど。
325 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 00:45:00.50
バカどもをまとめて処断。
>>304 陳寿の執筆時 「会稽郡東冶県」はなかった。
会稽郡は晋代にも引き継がれている。
>>それは、「建安郡東冶県」と呼ばれていた。
呉の景帝の永安三年(260年)に会稽郡の南部に建安郡が置かれている。
三国時代の呉に設置されてい た郡名で、
むしろ晋代(陳寿の執筆時)には建安郡はない。
>>308 >二地点間なら「自会稽至東冶」だろうし
バカか? 偉そに勝手に決めつけるな。
>>309 古田的文字いじり解釈は無視パス。
>>313 >二地点を列挙する必要性がない。
>「会稽の東」「東冶の東」のどちらかで良い。
夏王朝の無余の時代の越の領域の話だ。
戦国時代の越の領域だって厳密には定かではないのだ。
>>314 こいつは、ちっとはまともだ。
>>318 >会稽と言えば「ああ、あの越王勾践の国」と分かる地域。
>陳寿は「会稽の東」と書けば、何の問題もなかったはず。
夏王朝の無余の時代の越の領域の話だ。
勾践の越の領域だって厳密には定かではないのだ。
326 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 00:48:04.47
問題は「会稽の東冶」と一つの地点に読むか、それとも「会稽・東冶」と二つの地点に 読むかだよ。二つに読んだ場合、「会稽から東冶」と読むか「会稽や東冶」と読むかが 次の問題としてあるわけだ。
327 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 01:05:57.79
>>326 問題は「会稽の東冶」と一つの地点に読むか、
それとも「会稽・東冶」と二つの地点に 読むかだよ
かかか。分からん奴が、したり顔で何をいうか。
会稽と東冶間の領域。すなわち無余の時代の越の「領域」を想定した表現だ。
328 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 01:17:37.87
>無余の時代の越の「領域」を想定した表現だ。 何の関係もないだろうな。
自謂太伯 之後 出雲のスサノオが公孫氏
330 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 01:54:19.15
●締め 会稽(紹興市)と東冶(福州市)は、九州の南北の距離よりも離れている。 しかるに。 「会稽と東冶の東」とか「会稽や東冶の東」とか。 そんな・漠然として・曖昧で・てきとーで・バカげた表現はない。 「倭人の文身は無余の越の習俗がルーツのようである。 たしかに、倭地までの道のりや距離を想定すれば、 かつての越地域(会稽から東冶に至るあたり)の東」にあるではないか」。 という程度のことだ。 こんな一文をとりあげて大げさに騒ぐ。素人ビギナーの悪いクセだ。
331 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 01:56:01.56
>>328 >何の関係もないだろうな。
歴史的に判然としない、無余の時代の越の「領域」を想定した表現だ。
関係あることが理屈でわかったか。タコ
332 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 07:03:29.35
>会稽(紹興市)と東冶(福州市)は、九州の南北の距離よりも離れている。 女王国の始まりを熊本県北部、終わりを屋久島と考えれば、350キロくらいになる。 会稽、東冶の距離と似たようなもんだ。 >無余の時代の越の「領域」を想定した表現だ。 何のためにそんな時代の領域を想定する必要がある?
>>325 感想を述べてるだけなのに「処断」とはこれいかに
334 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 09:20:49.99
>>332 無余の時代の越の「領域」を想定した表現だ。
>何のためにそんな時代の領域を想定する必要がある?
倭人の文身のルーツについて無余の越の逸話を持ち込んだ。
だから、歴史的にも領域が判然としない越の領域をそういう形で表現したのだ。
すでに何度も説明しているが、理解できていないのか。
いずにしても、愚かな質問だということを自覚しろ。
ついで教えてやろう。
『倭人伝』はは、文身に関するもう一つの有名な呉の太伯の逸話を意識的に避けている。
それはおそらく、魏の敵国たる孫権・呉の祖先が、
太伯・呉の軍師を務めた孫武(孫子)とされたことで避けたものと思われる。
倭人の刺青のルーツが太伯・呉にあるとはいいたくなかったらしく、
『倭人伝』には「倭人が太伯の末裔を自称した」という記録もない。
倭人の刺青のルーツに関する所感の文章だから、
文献的・歴史的には呉越を総称するのが正しかったろう。
もう一つ、『倭人伝』担当者はなぜ唐突にも「まさに会稽東冶の東にある」と書いたのか。
たぶん、「会稽の海外れに文身をする種族がいる」との情報を、
何らかの形で予備知識としてもっていたということだろう。
さもなければ、こういう感嘆文は生まれてこない。
「会稽東冶の東………」。
たった6文字の見えない行間に幾つもの「心理」が隠れているのだ。
どや。
里程・日程・方角・距離と、邪馬台国の場所ばかりに終着するタコは違って、
歴史を見ようととするスタンスと資質の違いが自覚できたか。
伊作先生の導きで目が覚めました。メキシコだったんですね。スゴイロマンを感じました。
336 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 09:37:23.53
すばらしいドヤ顔ですね。
337 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 09:49:51.46
もう一つ。 一連の文章には担当者の所感が混じっている。 「のちに刺青を飾りとしたが」とあるが、倭人の文身がずーっとのちに飾りとすることを3世紀の中国人が知るはずがない。 この当然の論理によって、ここに「(会稽東冶地方では)のちに刺青を飾りとしたが」で、「会稽東冶地方では」という一文が省略されていることが判明する。 会稽東冶一帯ではすでに文身が装飾的な機能に変っていたのだろう。「会稽東冶地方ではのちに文身を飾りとしたが、倭国諸国の刺青は国によって施す場所や大きさが異なる」ということである。 こうした理路展開を巡らすことによってはじめて、この一文も、調査記録官か『倭人伝』編纂担当者の所感であることがわかる。 むろん、「会稽東冶」が、あくまでも夏王朝時代に無余が興した越の領域であることも分かるわけだ。
338 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 09:53:20.10
どや。 積算的に、書いてあることしか読めない単細胞が、 わずかな文字数の『倭人伝』を「くみしやすし」となめてかかって、 とんでもバカ読みをしてとんでもバカ読みとすら自覚せず、 エラそうづらして吹くのと、エラい違いだろう。
339 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 10:02:37.63
すみません。みんなを代表してあやまります。
340 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 10:05:51.16
どや・どや。 ここまで読み切ってはじめて、 12世紀刊行の百衲本(古い刊本や版木の寄せ集め本)紹煕版『倭人伝』の影印の 「東治」が「東冶」の間違いであるとも断言ではきるし、 古田的解釈が、単なる文字いじりの無理くり・ゆやりくり解釈であるとも断言できるのだ。 どや。
341 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 10:07:41.12
>>339 >みんなを代表してあやまります。
代表せんでええ。
みなが個々に「恐れ入りました」といわんかい。
342 :
サガミハラハラ :2011/05/11(水) 10:19:12.49
けどね、この東冶問題がすっきりしない理由は他にあるのですよ。 例えば、アメリカカリフォルニアの方向をいってみましょう。 日本の東といいますか?それとも鹿児島の東といいますか?それとも千葉の東といいましか? 確かに方角としてはいずれもあっていますが、普通日本の東か千葉(野島崎を基準とする機関もあるらしい)の東といいますよね。 鹿児島の人以外は鹿児島の東とはいいませんよね。 こう考えるとき、なんで辺境の東冶の地名を持ちだしたのかという疑問となるわけです。 あの場合会稽の東だけででよいわけです。 それで、あるひとはあれはある本のとおりの東治ですっきりするといったわけです。
>>338 バカ読みとすら自覚せず、エラそうづらして吹く
344 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 10:37:06.84
>>342 >なんで辺境の東冶の地名を持ちだしたのかという疑問となるわけです。
もの分かりの悪い人だ。
相手が小学生とはいえ、いやしくも他人さまの子女に
何がしかのものを教えていたのなら、きちんと読み返せばわかるだろう。
少なくも
>>334 を読めば分かるはずだ。バっカバカしい。
345 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 10:49:39.79
>>343 どや・恐れ入ったか。
グーの音も出せず、ただ罵詈雑言を書くことしかできまい。
中身というほどの何ものもなく、ゴミ箱を徘徊するだけクソ野郎が。
346 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 10:49:41.91
重箱の隅をつっつきますが、会稽の海外には東鯷人がいると、後漢書にありますけど。
347 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 11:00:13.39
>>346 >会稽の海外には東鯷人がいると、後漢書にありますけど。
だから何だ。自分が何をいいたのか、自分でわかって書いているのか?
会稽古の海外れに文身をする種族がいるといった情報を、
調査記録官か『倭人伝』担当者が予備知識をもっていたのではないか。
それがなければ「まさに会稽東冶の日がシナにある」という感嘆文は書けない。
ただ、それだけのことだ。理路の整った推察だ。
それと、『後漢書』のいう東鯷人と何の関係があるか?
『後漢書』には東鯷人が文身をすると書いてあるか?
それで重箱の隅してるつもりか?
348 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 11:18:12.62
またていせい。 会稽古の海外れに文身をする種族がいるといった情報を、 調査記録官か『倭人伝』担当者が予備知識としてもっていたのではないか。 それがなければ、「まさに会稽東冶の東にある」という感嘆文は書けない。
349 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 11:36:32.31
>>347 妄想、妄想また妄想だな。使者は女王国を訪ねたんだ。使者自身が、その道のりから考えて、
ここは会稽東冶の東になりそうだと考えた、ただそれだけのことだろうが。
350 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 11:49:03.70
>>349 お前のは妄想どころか、赤面ものの・とんでも見当違いだ。
一連の文章は、あくまでも倭人の文身に関する記録だ。
倭人の文身のルーツを
夏王朝中興の英主少康の庶子・無余にひっかけて述べているところだ。
>使者自身が、その道のりから考えて、
バカたれ。
「倭人の文身のルーツは無余の越にありそうだ。
そう考えると、倭人の住む島はかつての越の東にあるではないか」。
と述べているところだ。
それが「まさに会稽東冶の東にある」だ。
ここまで説明されても分からんか・ぼんくら。
351 :
usumgal :2011/05/11(水) 12:41:27.32
>>334 >『倭人伝』はは、文身に関するもう一つの有名な呉の太伯の逸話を意識的に避けている。
>>350 >夏王朝中興の英主少康の庶子・無余にひっかけて述べているところだ。
>「倭人の文身のルーツは無余の越にありそうだ。
と、解釈することはほぼ有効だろう。
が、
「夏后少康之子封於会稽斷髪文身以避蛟龍之害」
の事件の会稽は北緯30度、
で
「今倭水人〜〜〜
計其道里當在会稽東治【冶】之東」
の
「今」の一字をもって魏の時制における倭国の南の領域が
「会稽」から「会稽東治」に迄、南下していたことを明確にしてあるのだ。
「会稽東治」は北緯26度である。
従って
『会稽之東は口之島・種屋久島』
で
『会稽東治之東は沖縄糸満市近辺。』
>>337 >倭人の文身がずーっとのちに飾りとすることを3世紀の中国人が知るはずがない。
もちろん、そんなことを言っているのではない。
大魚水禽の害を避けるという実用的要請から始まった刺青が、
次第に装飾性を帯びるようになって、
結果、諸国によって差異が生じ、身分の尊卑を表すようになったということ。
文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。
この文の主語は「文身」。直前の文、「今倭水人好沈没捕魚蛤」の主語は「倭水人」だから、
一旦文が切れ、主語が入れ替わっていることが解る。
だから、「今」の文身が「以厭大魚水禽」で、「後=未来」の文身が「飾」なのではない。
(倭の水人の)文身は、亦(=夏后少康之子の文身と同様に)それで大魚水禽をはらっていたが、
後から次第にそれを飾りとするようになった。
(それで)諸国の文身は各々異なり、左だったり右だったり大きかったり小さかったりしていて、尊卑によって差がある。
装飾性を帯びることで文身が身分の差を表す機能を持てるようになったわけだね。
だから、「会稽東冶地方では」などと補わなくても、ごく普通に読んで意味がすっきり通っている。
「会稽東冶地方では」を補って、
>「(会稽東冶地方では)のちに刺青を飾りとしたが」
などと読めば、夏后少康之子の説明と倭の説明がコロコロ入れ替わっていて、至極不自然な文章となる。
「今倭水人」の「今」に引っ張られて「後」の解釈を間違ったんだろう。
>「会稽東冶地方では」という一文が省略されていることが判明する。
結果として、こういうことは全然判明しない。
353 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 14:06:33.18
>>352 ご苦労様。だが、伊作は理解できないだろう。
354 :
卑彌呼の都は筑紫平野 :2011/05/11(水) 14:19:54.91
會稽の海外には東鯷人がいた。
會稽の海中にも島々がある。舟山群島である。
一方、會稽(紹興)は杭州湾の奥深い浅瀬の海の近くだ。
文身をして潜水漁法ができる場所ではない。
「斷髮文身以避蛟龍之害」の風習のある會稽は、
海中の舟山群島(東シナ海)に面した會稽の東岸である。
會稽の東岸は、會稽の東の治政地、即ち會稽東治である。
「會稽東冶」でも「會稽東治」と意味は同じ、「會稽の東の治政地」の意味。
その地域を支配するにあたり、
治水を伴う場合は「治める」、
治水を伴わない場合は「冶める」となるが本来の用法。
冶の例 「冶金」「冶歩」「冶容」
>>353 >>352 >ご苦労様。だが、伊作は理解できないだろう。
私もそう思う。
355 :
阿蘇山は移動した :2011/05/11(水) 17:11:11.66
356 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 17:20:00.26
>>352 ●ちみの読みは従来のこーいう奴か?
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。
諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
>大魚水禽の害を避けるという実用的要請から始まった刺青が、
>次第に装飾性を帯びるようになって、
>結果、諸国によって差異が生じ、身分の尊卑を表すようになったということ。
「後にややもって飾りと為す」の「後に」とはいつのことだ。
中国人が見たのは「後に」の時点で、倭人の文身はすでに飾りになっていたというわけか。
「今、倭の水人の文身は……もって大魚・水禽を厭う」の「今」はどうなる。
沈没して魚蛤をとる倭の水人の文身も、今では、大魚・水禽を厭うためではなかったのか?
「今」と「後に」の時間的スタンスが何やらおかしいというよりも、
「後にややもって飾となす」という一文が唐突で異質なのだ。
従来は、この一文の扱いがおかしかった。唐突で異質さを解消するには、
夏王朝時代にはじまった会稽地方の文身の変遷を挟んでいると判断するしかあるまい。
●天才の読み方はこーだ。違いが分かるか?
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。
(於会稽)後稍以為飾、(倭国)諸国文身各異、或左或右或大或小、尊卑有差。
357 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 17:51:14.63
>>356 奇跡の伊作
>「今、倭の水人の文身は……もって大魚・水禽を厭う」の「今」はどうなる。
「今、倭の水人の文身は……もって大魚・水禽を厭う」とは読めないね。今倭水人好沈没捕魚蛤だからね。
「書かれていないことを読み取る奇跡を起こす」ということで奇跡の伊作を名乗っているのか?
358 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 17:57:49.61
>>357 >「今、倭の水人の文身は……もって大魚・水禽を厭う」とは読めないね。
>今倭水人好沈没捕魚蛤だからね。
「今、倭の水人好んで沈没し魚蛤を捕うるも、文身は亦もって大魚・水禽を厭う」。
で一文だ。赤面もののバカ返答か。
どうだっていいから、「今」はどうなるか返答しろ。
「今」と「後に」の時間的関係とスタンスを説明しろ。
よけいなことを書くヒマがあったらきちんと始末をつけろ。
己が横ちゃりしてきた話だぞ。
359 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 17:58:20.98
>文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。 >この文の主語は「文身」。直前の文、「今倭水人好沈没捕魚蛤」の主語は「倭水人」だから、 >一旦文が切れ、主語が入れ替わっていることが解る。 そのとおりだ。352に1票。
360 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 17:59:39.57
●少しは理屈の通じる観客に。 こういう説明ではどや。 夏の后・少康の子、会稽を封じられ、断髮文身をもって蛟龍の害を避ける。 今、倭の水人好んで沈没し魚蛤を捕うるも、文身は亦もって大魚・水禽を厭う。 後にややもって飾りと為すも、諸国の文身は各異なる。 或は左、或は右、或は大、或は小、尊卑に差あり。 ここで、「後にややもって飾りと為す」がなければすっきりする。 それほどにこの一文は唐突で異質なのだ。ほれ 「今、倭の水人好んで沈没し魚蛤を捕うるも、文身は亦もって大魚・水禽を厭う。 諸国の文身は各異なる。或は左、或は右、或は大、或は小、尊卑に差あり」。 次に、「文身は亦もって大魚・水禽を厭う」の「亦もって」だが、 倭の水人の文身は、(会稽で蛟龍の害を避けたと)「同じように」大魚・水禽を厭う。というわけだ。 夏の后・少康の子、会稽を封じられ、断髮文身をもって蛟龍の害を避ける。 今、倭の水人好んで沈没し魚蛤を捕うるも、文身は「会稽と同じように」大魚・水禽を厭う。 (会稽では)後にややもって飾りと為すも、倭国諸国の文身は各異なる。 或は左、或は右、或は大、或は小、尊卑に差あり。
361 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 18:02:39.03
>>359 >そのとおりだ。352に1票。
文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。
この文の主語は「文身」。
直前の文、「今倭水人好沈没捕魚蛤」の主語は「倭水人」だから、
一旦文が切れ、主語が入れ替わっていることが解る。
こんなよくは意味の理解できない稚拙な説明が理解できるとは、
お前も「亦もって」あのタコと同じレベルというわけだ。
別に唐突とは思えないが
363 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 18:18:07.57
>>360 >●少しは理屈の通じる観客に。
>こういう説明ではどや。
そんなことどうでもいいよ。352の説明で十分じゃないの。問題は「計其道里當在會稽東冶之東」なんだから。
これは伊作さんの言うとおり会稽に封じられた夏の后・少康の子が断髮文身をもって蛟龍の害を避けたというその文身と
会稽の関わりで陳寿が書いただけで、倭国の位置を特定できるような記事ではないのだよね。
364 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 18:27:57.99
>>363 >問題は「計其道里當在會稽東冶之東」
>文身と 会稽の関わりで陳寿が書いただけで、
>倭国の位置を特定できるような記事ではないのだよね。
YES。
この理屈を容れると自論にそぐわないのがいるわけさ。
そいつらはたぶん、「計其道里當在會稽東冶之東」を、
倭国の位置を特定できる記事にしたいわけさ。矮小なのさ
THATS ALL
365 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 18:29:30.44
>>362 >別に唐突とは思えないが
そらおめ。よほどのバカだわ。
>>356 >「今、倭の水人の文身は……もって大魚・水禽を厭う」の「今」はどうなる。
まず、他の人が指摘しているように、「今倭の水人の文身は」ではなくて「今、倭の水人は」。
それで、この「今」は、「昔」の夏后少康之子に対しての「今」の倭の水人。
この「今」は、「後稍以為飾」の「後」と対応しているのではなくて、「夏后少康」の時代に対応して「今」と言ってる。
そして、魏使は、「諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。」と、
まさに倭人の文身が装飾になっているのを見て報告している。
つまり、倭の水人の文身は『亦』=(夏后少康の子の分身と同様)大魚・水禽を避けるためのものであったけれど、
【後に】次第に飾りとなってきて、身分を表す印となってる。
「今」と「後」の位置が近いからといって対応しているわけではない。
繰り返すと、「今」は夏后少康之子の時代に対しての「今」。
「後」は倭の水人が文身の習慣を取り入れた最初と比しての「後」
全然別個なのに、これを対応していると勘違いするから、唐突だとか異質だとか感じるんでしょ。
(於会稽)とか(倭国)とか挟まずに、すっきり読めるのと、
挟んで文脈がグラグラしてるのと、どっちが正しいと思う?
この話は、冒頭の「男子無大小皆黥面文身。」から繋がってるので、きちんと訳しておこうと思う。 ----------------------------------------------------------------------------------- 男子は大小となく皆顔も体も刺青している。昔から、その使者が中国に来ると皆大夫を自称する。 (注 中国に使者として来る者も刺青しているのだから、漁師のみならず支配階級も刺青してたことが解る。) 刺青について言うと、むかし夏后少康の子が会稽に封じられて、断髪文身することで蛟龍の害を避けるということがあった。 今の倭の水人は好んで潜水して魚や貝を採るので、倭人の刺青も、やはり最初は夏后少康の子の刺青と同様、 大魚水禽を避けるためのものから始まったのだろうが、後から次第に装飾になり、 もはや当初の大魚水禽を避ける役目は薄れて、身分の上下を表す役目になってる。 (注 漁をしない支配階級が大魚水禽を避けるための刺青をする必要はないからね) その表し方は国ごとに異なっていて、左だったり右だったり大だったり小だったりする。 ----------------------------------------------------------------------------------- 身分の上下にかかわらず、男は皆刺青しているわけだから、 これが単に漁師の刺青の話ではない事をはっきりさせとかなきゃいけない。 夏后少康之子との比較から、倭人の刺青もやはり漁業の必要性から発展した習俗だろうと 陳壽は推測して見せているが、倭人伝の時代には、もう漁師だけの習俗ではなく、 倭人社会全体の習俗になっている。
368 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 19:03:25.35
>>366 河童か木っ端か。
くだらねー横はやめとけ。
>>366 これほど分かりやすい説明でも奇跡の伊作には理解できんだろな。
よほどのバカだからさ。
>>368 河童か木っ端か。
くだらねー横はやめとけ。
河童さんはこんなまともな事は言いません。
理解できない貴方が馬鹿なだけ。
371 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 19:32:44.66
>>334 ついでに一言。
>『倭人伝』はは、文身に関するもう一つの有名な呉の太伯の逸話を意識的に避けている。
倭人伝では、倭人の文身の起源を、漁師が大魚水禽を避けるための習俗に求めてる。
一方で、太伯の断髪文身は、末の弟(後の文王の父)に位を継がせるために、
自分は刺青をして後継ぎに相応しくない体になってしまうのが目的で、
漁労とは無関係の逸話。
だから、意識的に避けるとかじゃなくて、引用しようがない。
>倭人の刺青のルーツが太伯・呉にあるとはいいたくなかったらしく、
もしこれが正しければ、本当は太伯の文身がルーツの倭の刺青を、
漁労目的がルーツだと陳壽が捏造したことになる。
そこまで言うのは穿ち過ぎと思うけどな。
>>369 >>366 >これほど分かりやすい説明でも奇跡の伊作には理解できんだろな。
>よほどのバカだからさ。
あれくらいの説明で理解できるわけないじゃん。
もっと砕いてやらないと。
まず、小さい文身じゃ魚驚かないから
魏使の見た文身は、すでに飾り。
わかるね。
で、
今倭人は潜って魚とってる。
(はじめ)文身は(無余の教化)と同じように魚を驚かす手段だったけど、
後に、だんだんと飾りになっていったみたいだ。
(だから今では)諸国間で文身も違っちゃって、
右だったり左だったり、でかかったり小さかったり・・・
と読むんだよ、ってね。
373 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 19:35:34.48
>>367 >この話は、冒頭の「男子無大小皆黥面文身。」から繋がってるので、
わかりきってることだ。ハナもちならねー入り方だな。
で・いうことはこれか。
>後から次第に装飾になり、
>もはや当初の大魚水禽を避ける役目は薄れて、身分の上下を表す役目になってる。
身分の高低を表すのは装飾ではない。れっきとした機能・用途だ。
大魚水禽を避ける文身にも諸国によって違いがあり、同時に身分の上下を表す機能がある。
というのだろが。
>倭人伝の時代には、もう漁師だけの習俗ではなく、
水人の文身の「まじない」機能が3世紀にはすでに薄れていたてか。
装飾タトゥーのはじまりは3世紀の倭人でしたてか。笑うぜ。
漁師も船乗りも百姓も武人も支配層もみな水人系種族だぜ。
>倭人社会全体の習俗になっている。
はじめからそうだ。あたり前の話だな。
それをあえて、「のちにはやや装飾となす」というのか。
「いいとこ取り」のつもりだろうが、勝手なことをしたり顔でいうな。
374 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 19:42:51.94
>>371 まーた、したり顔で知ったふりか。
こいつ。ほかのことで俺にやり込められた野郎かな?
思考程度と物言いが似ているが。
>倭人伝では、倭人の文身の起源を、漁師が大魚水禽を避けるための習俗に求めてる。
>太伯の断髪文身は、末の弟(後の文王の父)に位を継がせるために、
>自分は刺青をして後継ぎに相応しくない体になってしまうのが目的で、
>漁労とは無関係の逸話。
「文身のルーツの逸話」だとくどくゆってるのに、
勝手に「漁労とは無関係の逸話」とくるところは、どくだみ流だな。
>だから、意識的に避けるとかじゃなくて、引用しようがない。
だせらもへったくれも、いいがかり的に筋が違ってるぞ。
>もしこれが正しければ、本当は太伯の文身がルーツの倭の刺青を、
>漁労目的がルーツだと陳壽が捏造したことになる。
>そこまで言うのは穿ち過ぎと思うけどな。
さすがの天才も文の意味が理解できん。
「文身のルーツの逸話」だとくどくゆってるのに、
しつこく「漁労目的」の話にするところは、どくだみ流だな。
375 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 19:46:26.97
わはは。 「伊作の穴ぽこをみつけた」とばかりにバカどもが、 寄ってたかってきたようだ。 木っ端どもが、普段はいかほどに腰抜けかよーく分かるぜ。
376 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 19:51:49.42
>>369 >これほど分かりやすい説明でも
説明になっていないが、反応がないので自作自演の自画自賛か。
>>370 >河童さんはこんなまともな事は言いません。
反応しなかったので自作自演の自画自賛か。
377 :
どくだみ :2011/05/11(水) 20:01:06.24
>>374 最初どくだみと書こうかなあと思ったけど、
伊作さんが頭に血が上ってまともにレスが読めなくなるかもと思って伏せておきました。
これだけで解るとは、あの時の遣り取りがよっぽど印象深かったんでしょうね。
>「文身のルーツの逸話」だとくどくゆってるのに、
まず蛟龍が水に棲むってことは知ってますか?
つまり夏后少康之子は海で活動するから蛟龍の害を被るんですよ。
僕は、夏后少康之子の海での活動を漁労だと思うのですが、伊作さんは違うと言うのですか?
陳壽は、夏后少康之子が蛟龍の害を避けるために文身した例と、
倭人が潜水漁をしている例を挙げて、
両者は同じで、倭人の文身のルーツは漁のときに大魚・水禽を避けるためだったと論じてる。
太伯の文身は大魚・水禽を避けることとは全く関係ない。
だから、倭人の文身が大魚・水禽を避けることから始まったと論じるとき、
太伯の文身は無関係なのがわかりませんか?
>>372 あれくらいの説明で理解できるわけないじゃん。
もっと砕いてやらないと。
もっと砕いても馬鹿は全然理解できてないぞえ。
>>378 天才だから理解できないんだよ。
僕らの線まで降りてくれると助かるんだけどね。
>>377 >自分は刺青をして後継ぎに相応しくない体になってしまうのが目的で、
>漁労とは無関係の逸話。
そう言えば古代中国には鯨刑と言って刺青いれる刑罰があったな。
漢楚の戦いで鯨布と言う人物が出てきてたっけ・・・
>>379 僕らの線まで降りてくれると助かるんだけどね。
いらん。
遠いお山へ飛んでいけ〜。
382 :
サガミハラハラ :2011/05/11(水) 21:10:45.41
緊急速報 以前九州の北部のことを北九州と云わずに北部九州というわけをせつめいし、九州の南部には南九州市というのがないので、南九州としてよいと書いたのですが、今しがたTVでなにこれ珍百景をみたところ、現在南九州市という市が存在することがわかりました。 よってこれからは、南九州の遺跡などという表現は使わず、南部九州の遺跡というように、 南部という言葉をつけるようにしましょう。 しかし新地名が次々現れ、対応しきれない場合がありますね。いつになったらおちつくのでしょうね。
383 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:15:39.12
刺青の件は伊作先生の負けですね。
384 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:21:17.35
>>383 勝ち負けで見るのもどうかと思うけど、彼には勇み足が多いことは確かだね。
ていうか、九州説しかも伊都国を糸島としないとこを見ただけでも、はなから気違い電波でしかない。
日本じゃない
387 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:25:17.12
緊急速報 甘木で親魏倭王の金印が発掘される! マスコミは驚きを隠せない模様。 畿内説一辺倒だった考古学界は、今、なだれをうって全てが九州説に塗り替えようとされている。 実は魏志倭人伝に描かれていた風景は紛れもなく甘木周辺であった。畿内の情報は何かの間違いで混在されていたのだろう。 歴史的瞬間であった。
畿内から金印が出れば、安本は自殺すべきだな。学者たる者それくらいの矜持を持ってほしい。
389 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:28:50.50
太国さんが喜びそうな情報だね。
390 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:38:42.34
>畿内から金印が出れば、安本は自殺すべきだな。 安本氏は、「邪馬台国東遷説」だ。 問題ない。 私は、嫌いだが・・・
391 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:40:15.92
安本は自殺しないよ。畿内から金印が出る気づかいはない。 畿内説論者も自殺しないよ。誰もそれほどのプライドは持ってない。
392 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:40:53.16
誰でもいいから、甘木続報を頼む!
393 :
fsr :2011/05/11(水) 22:41:16.13
>>387 甘木で親魏倭王の金印が発掘される
あり得ない話。
大和朝廷が持ち去ったとしても畿内まででしょうね。
394 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 22:46:31.98
なんかさあ、つまんねえじゃん、陳腐な事いい合っていてもさあ。 場を壊さなければ、芸術は生まれない、感動は起こらない。
395 :
女王の都は久留米 :2011/05/11(水) 23:02:05.76
>安本は自殺しないよ。畿内から金印が出る気づかいはない。 >畿内説論者も自殺しないよ。誰もそれほどのプライドは持ってない。 畿内説論者は食う為の畿内説支持だからな。 自殺するのは本末転倒だからな。
396 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/11(水) 23:27:24.34
>>395 女王の都は久留米氏
>畿内説論者は食う為の畿内説支持だからな。
九州大学でも、半分くらいは畿内説だってさ。
大宰府高速道路でも掘ればいいのにね!
ところで、唐の長安(現西安)の郊外で墓誌が見つかった「井 真成」に
ついての著書を知りませんか?
玄宗皇帝が、その死を悼み葬儀を官給としたそうです。
「公の姓は井、字は真成。国は日本と号す。」
そもそも金印はどんな施設に保管されていたのだろう
398 :
奇跡の伊作 :2011/05/12(木) 08:40:50.06
>>383 >刺青の件は伊作先生の負けですね。
がははー。
「今」と「後に」にが、3世紀倭人の「現在」のことをゆってるってわけだな。
どくだみの筋違い野郎は、あい変わらず「ピリっ」としないへ理屈を並べて反対する。
「今……」は、3世紀現在の倭の水人の文身にかかるという。
「後に…」は、3世紀現在の水人以外の倭人が、身分の高低を表すの使う装飾文身にかかるという。
どっちも現在の話なわけだが、このへ理屈のへ理屈具合がわからんか?
「後にやや装飾となす」という一文はここでも浮くだろ。
バカバカしくて、まともにつき合ってられるか。
>>384 >彼には勇み足が多いことは確かだね。
バカなど素人にとっては目のさめるような問題提起ばかりだが。
399 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 09:07:45.65
卑弥呼の金印は日本にはないとの説があります。 晋が成立したとき、時の女王壱与は晋に賀使を立てた時、親魏倭王の金印を中国に持っていき、 新しく親晋倭王の金印を貰ってきたとの説があります。
400 :
伊作 :2011/05/12(木) 09:18:51.71
>>399 ハラハラしゃん
>親晋倭王の金印を貰ってきたとの説があります。
まさか。森なんとかという、タレント考古学者の意見じゃなかろうね。
そのボケ説の通りだとすれば、
中国王朝の慣例的習慣と歴史記録の原則からして、
『晋書』帝紀に必ずす書かれているはずだ。
そもそも、そういう害悪じみた説を吹くことが害悪だよ。
「こういうのがある」と紹介するにも無責任すぎる。
あーたも。ちっとは社会性というものを考慮したほうがいいよ。
がっこのセンセしてたんだろ。
>>399 常識で考えて、返納はしないでしょ。魏はもう存在しないから。晋も処置に困る。
晋からの印をもらった可能性は、当然ある。ただ正史の記載があるのかどうか。
402 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 09:27:18.47
別に晋は困らないでしょ。魏と晋は禅譲ですから。 だが旧王朝の印鑑はもう使用できません。使用したら反逆とうけとられかねません。 となると、自分とこで処分するか、確かに処分したとするならば、晋にもっていって処分してもらうのが一番でしょ。 森さんそういってるんですか。私は大庭さんだと思ってました。
403 :
遊撃的矯正教師・伊作 :2011/05/12(木) 09:52:12.59
>>402 >私は大庭さんだと思ってました。
そら失礼。あたしゃほら、邪馬台国を論じた人の本は読まない主義で、
ほんとうに誰がどんな論を述べているのか知らないもんで。
いざ「論じる」となると、どんな高名な学者でも、
欲望・立場・思惑・好み・身びいきというものが必ず介在するからね。
だから、客観的に「解説」している真摯な学者の本しか手にしたことがないのよ。
> となると、自分とこで処分するか、
金印・王印は、「原則として」呪具ではないから、墓に埋納されることは稀だろう。
(中国ではタマぁに王墓から出るらしいが、それでも稀だ)。
漢委奴国王印の場合、霊岩信仰の島の「神の懐(岩の間)」に預けられていた。
親魏倭王印の場合、卑弥呼の墓を掘り返して埋納することはなかろうし、
臺與の生前に処分されているから、彼女の墓から出る可能性もゼロだね。
>晋にもっていって処分してもらうのが一番でしょ。
禅譲とはいえ、滅びた前王朝が藩外の異民族国王に与えた王印を、
滅ぼした王朝に返すなんてバカげた理屈はないよ。
あっちでも「何を考えてるんだ?」となるのがオチ。
やはり、返品したのでもなく、墓に埋めたのでもなく、
どこぞの神の懐に預けたと見るべきじゃないのかな。
>邪馬台国を論じた人の本は読まない主義 よくこういうことを言う学者もいるが、その「卑しさ」に気づかないのかしらね。 こういう研究者は、いずれ世の人々から卑下されるのは当然だろう。
405 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 10:52:53.94
>>404 邪馬台国を論じた本でまともなのがあったら教えてくれ。
お前のいう「卑しさ」を感じさせない奴をな。
なんなら、安本氏が『倭人伝』 をどうやりくり読みして、
邪馬台国を甘木だか朝倉に押し込んでいるのかを・おしえろ。
俺がか、ここで分析して批判の遡上に載せてやるし。
406 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 10:57:06.79
誰か、安本氏の『倭人伝』読みを、コピペでいいからここで紹介してくれ。 たまには、まっとうな「安本説批判」を見るのもいいだろう。
つGoogle
408 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 11:15:04.11
氏はなんつーか、高天原神話を、地上界の話に変えてしまったんじゃなかったっけ? その他にもいろいろと、文献改竄が得意技のようで。 まぁ、文献をそのまま素直に読む気はないようです。 要は、へそ曲がりなんでしょう。
409 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 11:30:49.38
>>408 やはり、俺のいう「邪馬台国を論じた人の本」の類いというわけかい。
410 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 11:36:16.19
氏は、天皇家の親子継承の系図も改竄してしまったようですよ。 ホント文献改竄が得意技ですね。
夏后少康之子封於會稽断髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾 今は現在のことだが 後は夏后少康之子封於會稽断髪文身以避蛟龍之害を基準にしてその後と言う意味です どれだけ説明されても 今と後の基準が判らない馬鹿がいますね。
412 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 11:49:14.52
安本は時々畿内説の学者を呼んで論争するが、たいがい安本の圧勝だね。 畿内説の学者は自分の論の矛盾を突かれてたじたじになっている。
オーストラリアを探したほうがいい
414 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 12:06:01.15
>安本は時々畿内説の学者を呼んで論争するが、 見てきたのかよ? 露骨な嘘は見苦しい。最初からバレバレ。
415 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 12:32:47.78
416 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 12:33:32.24
私は
>>412 ではないが、事実ですよ。彼の主宰する邪馬台国の会の講演会とかであります。
呼ばれた畿内説の人たちって誰?
418 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 12:40:33.25
>>405 邪馬台国を論じた本でまともなもの、ですか?
ごとうゆきひこ
419 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 12:46:21.35
上の続き 後藤幸彦著の「神功皇后は実在した 明窓出版」をお薦めします。 この本の付録として、「メジャーで辿る邪馬台国」がついています。 今のところこれにまさる邪馬台国本はないでしょう。 是非およみください。 最寄りの書店に注文するか、ブックオフでおいているところもあります。 例えば吉祥寺店や八王子駅前店があります。
420 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 12:52:40.14
だから、安本に呼ばれた畿内説の人たちって誰?
421 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 12:56:26.29
422 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 12:59:38.56
邪馬台国の会のHPに過去の会のことがのっていますのでそちらでおしらべください。 邪馬台国の会の共催で7月16日に早稲田大学西早稲田キャンパスにおいて「邪馬台国研究大会」が開催されます。 安本先生と石野博信先生が基調講演を行います。おふたりでの論戦があるかもしれません。 特別ゲストは大塚初重先生です。
424 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 13:12:50.73
>>411 これ、見逃してたな。
>今は現在のことだが
>後は夏后少康之子……文身以避蛟龍之害を基準にしてその後と言う意味です
失笑・しっしょう。
自分でゆってること・分かってるよな。
ならば、「会稽地方ではのちにやや装飾にした」という意味でいいわけだな。
ほれ。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、
文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾
「後稍以爲飾」の前に「文身亦以」とあって、
ここに「会稽と同様に」という意味の文章があるだろ。
「後稍以爲飾」は会稽地方の話だよな。失笑
425 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 13:16:33.29
>>422 >邪馬台国の会の共催で7月16日に早稲田大学西早稲田キャンパスにおいて
>「邪馬台国研究大会」が開催されます。
彼らのは、なんかデキレースっぽい印象があるし。
従来と同じことをいうだけだろし。
426 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 13:38:02.71
>>423 インターネット歴史館のHPを検索し、新事業の部屋をご覧ください。
>ならば、「会稽地方ではのちにやや装飾にした」という意味でいいわけだな。 >「後稍以爲飾」は会稽地方の話だよな。失笑 こいつは途方もない馬鹿だ。
428 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 14:05:39.54
>>427 ここでもまた、バカをバカと自覚するところか、
バカなのに利口だと思ってる錯誤やろうがいる。
ちょっと揚げ足とって見せたら、真にうけてやがる。
てめえの考えてることをちゃんと書く練習からし直せ。
俺は天才だ、三味線も引くしカマもかける。
てめえなどとは別格だ。のぼせるな。
>>428 どうみたって、揚げ足取ってるんじゃなくて、揚げ足取られてるやんw
>>428 >ここでもまた、バカをバカと自覚するところか、
バカなのに利口だと思ってる錯誤やろうがいる。
遺作大先生のことですねwwwwwwwwww
431 :
どくだみ :2011/05/12(木) 18:30:31.32
>>398 >「今……」は、3世紀現在の倭の水人の文身にかかるという。
僕はこういうことは言っていないので、伊作さんが僕のレスを読み間違ってる。天才なのにw
むかし夏后少康の子が会稽に封じられて、刺青によって蛟龍の害を避けたという事例からの類推で、
陳壽は、「倭人の刺青も、その起源は水棲生物の害を避けるためだったのではないか」と考えた。
この推測は、倭人に水に潜る習俗がなければ、初めから成り立たない。
水に潜らなければ、そもそも水棲生物の害を被ることもないから。
そこで陳壽は、まず「今、倭の水人は素潜り漁をしている」と、その懸念を払拭して、
それから、「(だから夏后少康之子の場合と同様に倭人の)文身は大魚水禽を避けるために発生し、
後にだんだん装飾化して身分を表すようになったのだ」と書いてる。
「今」というのは、「沈没捕魚蛤という習俗」が「今」ある、ということで、
「文身」には全くかからない。
「刺青」の「今」とか「昔」とか「将来」と言う事では全くない。
「後」というのは、倭人に文身の風俗が発生した当初の時期と比べて「後」ということ。
>身分の高低を表すのは装飾ではない。れっきとした機能・用途だ。
漢書董仲舒伝に
「臣聞制度文采玄黄之飾,所以明尊卑,異貴賤,而勸有コ也。」
とある。飾は無意味なものではない。身分の高低を表す機能が飾。
432 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 18:36:03.81
>>416 サガミハラハラ
センセー質問でえ〜す!
安本先生がそんなに連戦連勝の快進撃続けているのなら、なんで
「やはり古墳時代は4世紀からだったんだな。昔の年代観が正しかったんだ!」
って事にならないんですかあ〜?
まあここで「悪の畿内説による学会支配」と言うこの板のゴミクズレベル九州説の定番以外の答えを期待しますがwwwwwwwwww
433 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 18:45:41.05
>>431 得意の勝手論だ。知ったふりの文章寸断説明には辟易するぜ。
>「今」というのは、「沈没捕魚蛤という習俗」が「今」ある、
>ということで、 「文身」には全くかからない。
「今、倭の水人は好んで沈没して魚蛤を捕うも、文身は亦以って(会稽と同じく)大魚水禽を厭う」。
今沈没して魚蛤を捕る倭人は「今文身をしている」。その文身は会稽と同じく大魚水禽を厭うのだ。
てめ。いったいどんなどたましてるんだ。
>(今は)「文身」には全くかからない。
>「刺青」の「今」とか「昔」とか「将来」と言う事では全くない。
この今は、魏の人間が目撃した「今」だ。
>「後」というのは、倭人に文身の風俗が発生した当初の時期と比べて「後」ということ。
ということは、夏代・無余から2000年ばかりのタイムラグがあるが、いつごろだ。
そんな超長いスタンスを「後にやや」というか・タコ
「身分の高低を表すのは装飾ではない。れっきとした機能・用途だ」。
>漢書董仲舒伝に 「臣聞制度文采玄黄之飾,所以明尊卑,異貴賤,而勸有コ也。」 とある。
>飾は無意味なものではない。身分の高低を表す機能が飾。
詭弁もほどほどにせい。「飾りにも機能がある」と抗弁したつもりか。
どくだみ。もう一度いうぞ。お前とのやりとりはつまらん。
いつもいつも、びりっとしない詭弁とまやかしによる抗弁だけだ。
不愉快だからあっちへ行け。
434 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 18:46:07.98
●何とかして天才をやり込めたい連のいい分は・こうだ。 夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。 今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。 諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 「今」は、倭の水人が大魚水禽を厭うために施す「3世紀現在の文身」にかかる。 「後に」は夏代・無余の時代から「3世紀現在の倭」に至るタイムラグをいう。 「後にやや装飾となす」は、水人以外の倭人が身分の高低を表すために施していた「3世紀現在の文身」にかかる。 「後に」とは、夏代・無余から2000年近くも経た(3世紀の)ことをいう理屈だが、 実際には「今」も「後に」も、3世紀に魏の人間が見た倭人のことである。 ありもしない悪知恵を絞って天才をやり込めようとしたところで・このていたらくだ。 笑うしかないだろ。な ●天才的な文才をもつ伊作の読みはこうだから。 夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。 今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以(会稽と同じく)厭大魚水禽。 (会稽では)後稍以為飾、(倭の)諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
435 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 18:50:09.97
会稽では後にやや飾りとしたが、 倭の諸国の文身は各異なり、或いは左或いは右、或いは大或いは小、尊卑に差がある。 文句あるか?
436 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 18:59:01.24
ヤジ馬評論しかいえないタコどもに問うぞ。 恐怖政治にも似た武力支配と厳格な階級制度でなる中国の官吏が、 身分を表す文身を「飾り」というか。倭人が身分を表す文身を「飾り」というか。 海中の肉食大型魚類の害を避けるための文身がいつ伝来したかは不確実ながら、 早くも3世紀にはその機能を失って飾りとなり、 身分を表す「飾り」になっていたとでもいうのか。
>>436 場所に拠ってはあり得るのよ。
海蛇がいるか?踏んづけて死ぬとかwその海域にどれだけ恐怖が存在するかで形骸化するんじゃ無いの?
438 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/12(木) 19:30:07.81
>>435 伊作氏
>会稽では・・・
私の尊敬する岡田英弘に言わせると、「計其道里、當在會稽東冶之東」
陳寿はこの文章を書く為に、魏志倭人伝を編んだといっても過言ではない、
と言っている。 陳寿の人生を考えると、よく理解できる。
>文句あるか?
ない。
439 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 19:32:41.45
>>437 あんちゃーん。
俺は、そんな抽象的で曖昧で夢物語を欲しているのではない。
海中の肉食大型魚類の害を避けるための文身がいつごろ伝わったもので、
それが3世紀には早くも形骸化していたという論こそ寄越さんかい。
あんちゃんにも分かるたとえで。
国会議員や弁護士の資格・身分を表すバッヂを「飾り」とはいわんだろ。
440 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 19:43:34.81
>438 文句あるか? >ない。 よし。 >陳寿はこの文章を書く為に、魏志倭人伝を編んだといっても過言ではない、 と言っている。 彼なりに、会稽の東に大型肉食魚類の害を避けるためにの文身を習俗とする人種がいる という情報を握っていたことを物語る感嘆文だよ。これを挟んだこと自体が異例といえる。 面白い話を呈しよう。 日本にはいつの頃からか6尺褌(ふんどし)があった。 私が天草の漁師から聞いた話では、海難などで海に放り出されたときにほどいて、 ヒラヒラと長く垂らすために長い布を「ふんどし」にしたのだそうである。 その理由を漁師いわく。 「サメは自分の体長よりも長いものは襲わないから」............。 天草から一歩西の外海に出れば、そこはもうシナ海である。 海とかかわる人たちが、ヘビや龍に見立てた文身を全身に施すのも、 サメよりも体長の長い生き物に見せる意図があったのかも知れない。 現代においても、蛇のウロコをかたどった編目模様の文身を、 手足にまで施した南方海洋民をテレビ番組で見ることがある。 これなども、人間の体を長い蛇や龍に見立ててサメから身を守ろうという着想によるものだろう。 これこそまさに、越の開祖・無余(於越)と呉の開祖・太伯の逸話とも結びつくものがある。 >私の尊敬する岡田英弘に言わせると、 先にもどこかで書いたが、邪馬台国・卑弥呼を論じた人の本はほとんど読まない。 客観的に「解説」したものしか手にしなすから、まったく知らない。
441 :
阿蘇山は移動した :2011/05/12(木) 19:51:48.99
442 :
サガミハラハラ :2011/05/12(木) 19:58:36.96
>>432 それは、各人それぞれの都合というものがあるからではないでしょか。
この世界、理数的にわりきれない世界のようですから。
443 :
どくだみ :2011/05/12(木) 20:03:13.78
>>439 男子無大小皆鯨面文身
男はだれでも皆、鯨面文身だと書いてある。
漁師以外も鯨面文身なわけだけど、
陸の上で海中の肉食大型魚類を避けなきゃいけないの?
卑弥呼の弟も鯨面文身なわけだけど、
海に潜って治国を助けてるわけじゃないよね。
>海中の肉食大型魚類の害を避けるための文身がいつごろ伝わったもので、
>それが3世紀には早くも形骸化していたという論こそ寄越さんかい。
3世紀に大型魚類を避けるという目的以外に刺青をした事を認めるだろう。
>国会議員や弁護士の資格・身分を表すバッヂを「飾り」とはいわんだろ。
伊作さんの言ってる「飾り」って、現代日本語でしょ。
444 :
432 :2011/05/12(木) 20:03:54.95
>>442 サガミハラハラ
要するにぼやかしているが「悪の畿内説の学会支配」「学者同士のしがらみ故」というお話だよな?w
まあ、いいや、この件についてお前さんの理解のほどは分ったw
とりあえず答えてくれてありがとうなwww
>>435 > 会稽では後にやや飾りとしたが、
凡人の読み方。
夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・・昔
今倭水人好沈没捕魚蛤、・・・今
対句みたいなもん。
以下(今倭水人)についての考察。
文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。
倭人の文身も(無余の教え)と同じく、魚驚かす手段だったろうけど
後に、だんだん飾りになっていったようだ。(軽い推測)
あと、気になってんだけど
無余は禹の祭祀を守るために会稽に封じられた王族。
断髪文身して漁師になったわけじゃないよ。
古田の言うように断髪文身は会稽における無余の事績(教化)とするのが妥当じゃないかな。
天才には理解しがたいとは思うけど。
446 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/12(木) 20:42:38.65
>>445 >後に、だんだん飾りになっていったようだ。(軽い推測)
「 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」
倭人は会稽と違って、鯨面文身を国別のIDカードの様に使っている。
身分の上下にも利用している。
飾りに反対。
447 :
日本@名無史さん :2011/05/12(木) 20:51:11.61
大宰府の前身は邪馬台国って本当?
>>446 >飾りに反対。
今の倭人の文身は、
もともと蛟龍之害を避けるためのもの、
という本来の用途が失われ、
単なる装飾になっているっていうこと。
それを倭人が尊卑の区別に利用してるってだけの話。
449 :
どくだみ :2011/05/12(木) 20:58:24.39
>>445 >古田の言うように断髪文身は会稽における無余の事績(教化)とするのが妥当じゃないかな。
もちろん夏后少康之子といっても一人で会稽に来たわけじゃないですから、
無余自身が漁師になったというのではなく、無余の郎党のことです。
無余の郎党が会稽に来て、漁業を生業としたときに、
水棲生物の害を避けるのに有効だと文身が広まったということでしょう。
>>446 邪馬台国フィクション説さん
>倭人は会稽と違って、鯨面文身を国別のIDカードの様に使っている。
> 身分の上下にも利用している。
それを「飾」というのです。「飾」は、現代日本語でいう「あんなものお飾りだよ」の「かざり」とは違います。
「臣聞制度文采玄黄之飾,所以明尊卑,異貴賤,而勸有コ也。」
「臣聞く、制度文采玄黄の飾は,尊卑を明らかにし,貴賎を異にし,而して有徳を勧める所以なり。」
「飾」というものの働き・役割を説明しています。
450 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 21:05:46.59
>>445 >無余は禹の祭祀を守るために会稽に封じられた王族。
>断髪文身して漁師になったわけじゃないよ。
百も承知。漢族の支配者が刺青なんかするものか。
龍の文身をまじないとして施すみとを教えたのだ。
誰にゆってるつもりか、のぼせるな。
太伯の場合、漢族であること(家督継承権)を放棄するために文身をした。
451 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 21:07:24.76
>>448 だから、3世紀の時点ですでに飾りだったてのか・テーの。
それを「後に」というのテーの。タコ
452 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 21:09:06.50
どくだみ。 汚らしいんだ。あっちいってろ。
>>449 貴方の言いたいことがよく飲み込めないんだけど、
無余の郎党が断髪文身を広めたのなら、無余の功績でいいんじゃないの?
僕は、無余自身が断髪文身したかのように解釈するのは
可笑しいんじゃないかといってるんだけど。
454 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/12(木) 21:25:21.02
>>449 どくだみ氏
>それを「飾」というのです。「飾」は、現代日本語でいう「あんなものお飾りだよ」の「かざり」とは違います。
だから、制度、システムとしても利用している。
同じでしょ?
>>448 >単なる装飾になっているっていうこと。
ファッションになってしまった。
という解釈に、反対してるのです。
>>450 >
>>445 > >無余は禹の祭祀を守るために会稽に封じられた王族。
> >断髪文身して漁師になったわけじゃないよ。
>
> 百も承知。漢族の支配者が刺青なんかするものか。
> 龍の文身をまじないとして施すみとを教えたのだ。
> 誰にゆってるつもりか、のぼせるな。
aD360
夏の后・少康の子、会稽を封じられ、断髮文身をもって蛟龍の害を避ける。
古田は断髪文身が無余の功績とハッキリ解るように「蛟龍の害を避けしむ。」と
使役に読んでて、天才の翻訳とは違うんじゃないかと思ったんだけど・・・同じ意味?
ほかにも、天才の翻訳と類似表現を目にしたもんでね。
>>451 だから、小さい文身じゃ魚驚かないんだって!
>>454 ファッションになってしまった。
という解釈に、反対してるのです。
ファッションになったと言ってるのは陳壽なの。
僕や、倭人には関係ないんだけど。
458 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 21:41:47.11
>>449 これを処断しておこう。
ごまかし解釈を使った「うす汚い」用例手法
>「臣聞制度文采玄黄之飾,所以明尊卑,異貴賤,而勸有コ也。」
>「臣聞く、制度文采玄黄の飾は,尊卑を明らかにし,貴賎を異にし,而して有徳を勧める所以なり。」
「臣は制度に聞く、文采(美しい色模様)玄黄(天の黒と大地の黄色)の飾り(など)は、
尊卑を明らかにし貴賎を異にし、而して有徳を勧める所以なり」。
これは、中国における「色彩に関する制度」について述べた文章だな。
その本題は「尊卑を表す色分け・色づかい」であって、
そうした色分けをした(衣服などの文様)を「飾」と述べているにすぎない。
>「飾」というものの働き・役割を説明しています。
こ汚いお前らしい、こ汚い「騙しのテクニック」だ。
まだまだ、ローガンのほうが誠実さがみえる。
てめえの手口にはヘドが出るぜ。
459 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 22:06:04.54
>>449 どくだみの常套手法。
もともと、ごまかし解釈を使った用例提示だから、
最初は恐る恐る原文だけを提示する。
誰も反応しないと「いける」と踏んで、さらに執拗に提示する。
この用例とてごまかし法の典型で、
色に機能があるという話を、飾りに機能がある話にすり替えている。
色に機能があるのであって、その色をつかった飾りに機能があるのではない。
460 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/12(木) 22:26:15.45
>>456 てめ。風邪をひいたら医者にかかるだろ。医者がいなかったらどうする。
祈祷師に頼むか? 迷信めいた療法に頼るか。薬草を飲むか?
地震があったときどこにいた。あの地震を体験すれば、
古代人の土地の神や地下の神に対する畏怖と畏敬のほどがわかろうというものだ。
最も大切な銅鐸や鏡を集落や田畑の開墾に埋めた理屈にも納得がいこう。
現代でも「板こ一枚下は地獄」という水人たちにとって、
効果を信じる信じないに関わらず古代人の文身に重大な意味があったことぐらいは、
精神的に弱さをもち合わせる人間ならば分かろうというものだ。
>だから、小さい文身じゃ魚驚かないんだって!
ふざけたことをゆってると承知しないぞ。浅薄ぼんくら
461 :
fsr :2011/05/12(木) 23:01:09.36
>>460 天才の理屈ってよく分かんないんだけど、
今(三世紀)の倭人の文身は飾りじゃなく、蛟龍之害を避けるためのものだ、っていってんの?
男はみんな黥面文身してるようだけど、難升米も漁師?
飾りっしょ。
463 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 08:44:12.95
倭人はもともと長江河口から直接渡来した、三苗・南蛮・荊蛮・南越・百越などと呼ばれた非漢族だ。 呉・楚・越を支えた構成民で、現在ではいわゆる少数民族とされる民族だ。 こうした民族は伝統的に文字をもたなかったし、断髪・文身・お歯黒をする。 日本の皇族・貴族・支配層も男女ともにお歯黒をした事実がある。 文身は肉食大型魚類の害を避けるまじないが始まりらしいが、「民族の習俗」として誰もが施した。 それでこそ「民族的習俗」というものだ。 有名な呉王・夫差も漁民ではなかったが文身をしていた。 ●夫差いわく。「我は身に文す。礼を責むるに足らず」(『史記』魯周公世家) 魯の哀公の治世7年に、呉王・夫差の兵力が山東まで攻め入り、魯に対して百牢の大饗応をするよう要求した。 魯は孔子の弟子で子貢という智と弁説に長けた人物を遣わして、周の儀礼を説いて要求に応じられないと拒絶した。 (牛・羊・豚を三牢あるいは太牢という。三牢を生け贄として祭祀を執行するのは天子のみで、 百牢の饗応とはそもそも法外な要求だったのだ)。 断られた夫差が、「我は身に文する(中原とは儀礼も習俗も異なる)ゆえ、 中原の儀礼を責めるわけにはいかない」といって要求を引っ込めた。 ●「断髪文身してうでを組み(非礼な姿勢)、左前の襟にするのは南越の習俗である。 歯を黒く染め額に黥を彫り、魚皮で冠をつくり、太針で粗衣を縫うは大呉の国なり」 (『史記』趙世家・武霊王が中原とは異なる南部の服飾・習俗に言及した言葉)。 >男はみんな黥面文身してるようだけど、難升米も漁師? 水人だけの習俗ではない、倭人という民族全体の習俗だ。 こんなガチガチにこり固まった柔軟性のない考え方を俺は「理系思考」とさげすむのだ。 「倭の男子はみな黥面文身する」。 「水人の文身は会稽と同じく大魚水禽をはらうが、倭人の文身は同時に身分の高低を表す」。 ここで書いたことが、コンマ数秒で頭を駆け巡る俺だ。 バカげた愚問を投げられる俺の立場になって考えてみろ。
464 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 09:00:29.74
ものの道理の分からんタコ衆ばかりで、いい加減腹が立つぞ。 3世紀にちょこっとやってきた中国人が、 「今はどうこう」「後にどうこう」というか。 いかにも、継続的に一定期間の推移を継続的にみていたような言葉だろが。 どうしても倭人の文身の機能の変遷につしいていうとなれば、 「後にやや飾りとなし……」ではなく「今やや飾りとなし……」と書くはずだ。 クソったれ。
465 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 10:18:56.38
こりゃ、紙ひとえだ 天才の反対側の
466 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 10:22:21.45
夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・・昔 今倭水人好沈没捕魚蛤、・・・今 「大魚水禽をはらうためだが、後にやや飾りとなし……」←全部が今の説明
467 :
usumgal :2011/05/13(金) 11:09:29.23
>>466 >夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・・昔
>今倭水人好沈没捕魚蛤、・・・今
「大魚水禽をはらうためだが、後にやや飾りとなし……」←全部が今の説明
@ 「夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害」・・・・過去
A 「今倭水人好沉沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽」・・・現在
B 「後稍以為飾 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差」・・・未来(現在から未来へ敬称される)
@ の過去の事件はロケーションが「会稽」。
A Bの事件のロケーションは「会稽東治之東」。
C 「計其道里當在会稽東治【冶】之東」
A、Bの文身が見られる地域は「会稽東治之東」から「東冶之東」
である。
会稽は北緯30度、会稽東治之東は北緯26度、東冶之東は北緯38度38分。
「之東」は列島になる。
468 :
usumgal :2011/05/13(金) 11:29:04.82
>>424 「後稍以爲飾」は会稽地方の話だよな。失笑
「後稍以爲飾」は「会稽東治之東」でのことですよ。
つまり。そこは沖縄だ。。。。
469 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 12:05:29.55
>>466 >夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。・・・昔
>今倭水人好沈没捕魚蛤、・・・今
>「大魚水禽をはらうためだが、後にやや飾りとなし……」←全部が今の説明
全部が今の説明ならば、「今」の場所が違う。こう書いただろな。
夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。
今稍以為飾、諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
「今ややもって飾となす」とすべきであって、「後にややもって飾となす」といわない。
なぜならば、「今倭の水人は好んで沈没し魚蛤を捕う……」としておいて、
同じ「今」の状況説明に「後にややもって飾となす」では文章になるまい。
彼らは倭人の文身について、「後に」というほど継続的に見てきたわけじゃない。
「今」しか目撃していないのだぞ。
お前たちのように満足な文章も満足にも書けず、
文章にならん文章を日常的に使ってるタコには理解できんだろうがな。
ほれ。お前もこう書くべきじゃなかったのか?
>「今は、倭の水人の文身は大魚水禽をはらうためだが、後にやや飾りとなし……」
こう書けば、「後に」の不自然さが自分でも分かったろう。なんで「後に」なのだ?
夏王朝の無余の話は3世紀当時から2000年ばかり前のことだ。これが昔で、
そこからのながーいスタンスを「後に」と書いたというが、
ならばなお「今ややもって飾となす」とするだろう。
正しく書けばおかしいことが分かるからこそ「今」を抜かして書いたのか?
それほどに狡猾な奴にも思えんが。
470 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 12:25:16.08
バカどもの時空を超えた理屈の絵解き解説。 「今」倭の水人は好んで沈没して魚蛤を捕えるが、 文身は会稽同様に大魚水禽を厭うマジナイのようだ。 無余から2000年「後ち」の「今」では、ややもって飾となす。 諸国の文身は各異なり、或いは左或いは右、或いは大或いは小、尊卑に差あり。 てかァ。
471 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 12:40:21.83
>>467 事件やロケーションの話ではないの。
かの文章が、どこの時間的経過を述べているのかなの。
倭国だけのことなのか、会稽のことが混じっているのかね。
倭国だけのことだとすると、最初からゆってる通り「後に」が余計なの。
ちゅこくから来たしとたちは「後に」というほどに、
倭国における時間的経過を見てはいない。「今」を見ただけだから。
とゆー話なの。
472 :
usumgal :2011/05/13(金) 12:47:54.49
>>471 それは、遊撃的論客・伊作 さんが
「計其道里當在会稽東治【冶】之東」
を
無視して解釈しているからです。
「今倭水人好沉沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽」
「後稍以為飾 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差」は
「会稽東治之東」での倭人の文身です。
473 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 13:02:43.96
実際問題として、大宰府もどこまでさかのぼれるのかねえ。 大宰府周辺から紀元前から7世紀位までいろいろ出土しているが、 もともと、福岡や佐賀なんて、その範囲の遺跡はいたるところにあるからなあ。 また、5世紀から6世紀に水城、4世紀以前に周辺に作られたとされる 神籠石古城群、大宰府付近を守る意思は感じられるのだが、 場所的には政治に便利な場所であっても、防衛に適した場所ではない。 その頃には、国内では敵がいなかったか、防衛する必要がないくらい まとまってたと見るべきか。 でも、6世紀位まで、周辺では、円墳、方墳、前方後円墳ばらばらで、 まとまってたような感じはしないね。 つーことで、どうもストーリーが立たねえ。
474 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 14:39:29.60
>>471 使者は、倭国の老人に聞いたんだろう。「みんな、入れ墨をしてますね」
老人は答えた。「サメよけになるってことでやってんだよ。しかし、最近は
ファッションだと抜かしてやっている奴もいるよ。」
昔家庭教師の先生が、邪馬台国は実は韓国にあったって言ってた。 大昔、中国の人が船に乗って辿り着いたのは日本じゃなくて朝鮮半島だったって。 んで当時の邪馬台国(韓国)の人が日本に渡ってきて、邪馬台国の事を広めたら、 いつの間にか邪馬台国は日本にあったって事になってたって。 その先生は理系だったから、どこまで信じていいのか未だにわからん。
理系でも底辺のバカ
477 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/13(金) 18:46:06.03
>>473 大宰府が都であったのは、618年〜697年である。
618年は九州年号「倭京元年」
多利思北孤による遷都令(617年)の翌年
697年は九州年号「大和3年」
九州年号「大長元年」(698年)の前年、薩摩遷都(698年)の前年
文武による大野城陥落(698年)の前年
478 :
どくだみ :2011/05/13(金) 19:41:18.12
>>454 邪馬台国フィクション説さん
>ファッションになってしまった。
>という解釈に、反対してるのです。
そういう意味でしたら、同じです。失礼しました。
479 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 20:07:05.25
>>477 九州年号を出してきましたか。
直接的な記録は載ってないにせよ、逸文で多数痕跡が見つかることからみても、
少なくとも九州が大和とは違う年号を持っていたのは確実だと思っています。
大野城は実質、ふもとに大宰府政庁跡がある四王寺山が大野城ですね。
そして、記録としては後世の道真が亡くなってから大宰府天満宮ができたことになっていますが、
大宰府天満宮周辺からも、王族を意識する出土物が多数出ていますので、
実質の王都は天満宮のほうではないかという気もしています。
久留米では高良大社(玉垂宮)から大善寺玉垂宮までの
久留米南西部一帯が領域でしょうか。
上津くらいまでは丘陵地で微高地もあって、いい場所ですね。
なぜか上津の西辺りを高良台と呼びます。
>>463 天才の意図がさっぱりわからない。
呉王夫差や越王句踐は、呉の太伯という先例があるんだから文身してても問題ない。
呉越の時代、文身はすでに飾りだったということがわかるだけ。
重要なのは断髪文身が、無余の創始かどうか。
天才伊作氏のように、蛟龍之害を避けるために断髪文身したと訳すと
無余自身が漁をしたとは読めるが、無余が広めた習俗という点がぼける。
古田のように、断髪文身させたと使役に訳すことによって
断髪文身が無余を起源とすること、無余の「教え」であることが明確になる。
三世紀になると文身の習俗は、一部の少数民族を除いて残っていなかっただろう。
すると本国中国では、すでに廃れた、その「教え」が今も倭人の世界に残っていることとなり、
中国に礼が失われたら四夷に求めるという孔子の言葉はうなづける
という東夷伝序文につながるわけ。
凡人は、ここまで考えるのに何年もかかった。(うそ、古田の説)
>>464 > 3世紀にちょこっとやってきた中国人が、
> 「今はどうこう」「後にどうこう」というか。
> いかにも、継続的に一定期間の推移を継続的にみていたような言葉だろが。
> どうしても倭人の文身の機能の変遷につしいていうとなれば、
> 「後にやや飾りとなし……」ではなく「今やや飾りとなし……」と書くはずだ。
天才の道理って、僕ら凡人の道理と違うんだよね。
ここは、倭人の文身の習俗について、一定期間(昔から今)の推移を考察してると凡人は考える。
それを踏まえ、文章の構成を考えると。
(昔)夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害
(今)今倭水人好沈沒捕魚蛤・・・(1)
次が(1)に対する陳壽の考察。「以」に注目すれば対句表現と解る。
(前)文身亦以厭大魚水禽
(後)後稍 以為飾
最後に倭人の現状を提示し、
諸国文身各異、或左或右、或大或小、(同一国内においては)尊卑有差。
先の考察と現状が合致してることが解る、って寸法でしょ?
「後稍以為飾」が会稽のことだなんて天才以外気づかないよ。
孫権も断髪文身してたってことでいーのかな?
他人の邪馬台国論は読まずに、自分脳で立論している天才には いろいろ問題点があるんだよ。いちいち言わせんな、恥ずかしい。
483 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 21:30:21.58
>>481 バカ野郎。
あくまでも今の話をしているというのなら、「今」も「後に」もあるか。タコ
484 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 21:35:25.47
>>481 >孫権も断髪文身してたってことでいーのかな?
バカ野郎。関係ないことだろう。
485 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 21:39:17.36
>>481 >一定期間(昔から今)の推移を考察してると凡人は考える。
バカ野郎。だんだん苦しくなってきたな。
推論を述べるのに、「後に」というか。そらホラと見え見えになるだろが。
お前らの苦しい「言い訳説明」と俺のすっきり・はっきり説明と、
どっちが無理が多いと思うか。 あっちいってろ・ぼんくら
486 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/13(金) 21:41:10.99
>>482 他人の邪馬台国論は読まない。だからこそ、
お前らみたいにクソ論を鵜呑みにして、
赤恥論の孫引きで・きーたふーなことを並べるという失態もないのだ。
487 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 21:42:07.99
>>486 ていせいしとこな。
お前らみたいにクソ論を鵜呑みにして、
赤恥論の孫引きで・きーたふーなことを並べるという醜態もないのだ。
488 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 21:52:10.27
伊作さんは、なぜヒステリックに汚い言葉を並べるのですか。 ヒステリックに罵っても、だれも「なるほど」と納得しませんから、無意味だと思うのですが。
よく吠える犬と同じ
だから 日本にはない
>>488 天才は、我々凡人と価値基準が違うのです。
居丈高に振る舞えば、凡人は恐れ入ると考えているのでしょう。
本人が申告しているので、天才には違いないのでしょうが、
他人を論理的に説得するという能力はないのでしょう。
その南に狗奴國有り から 有無する所、タン耳・朱崖と同じ までは 狗奴國の官、狗古智卑狗 の故郷の話だと思うがな。 すなわち援軍を依頼するに当たってのスパイの報告だね。 中国から見て」、どちらも倭人なんだろうが、 黥面文身して海中に生を求める水人と その後に書かれる、朱丹を塗り、また依り代をもって旅の安寧を願う倭人とは 習俗が違いすぎる。東北と沖縄くらい違う。 おそらく帯方群の軍人は、太平洋に広がる港のネットワーク、東北から沖縄まで 連なる文化圏を見たのだと思うな。
>>493 >
>>492 > 妙にクールだけど、
> 当たってるね
女の人の書き込みに見えるので、少し気取ってみました。
496 :
阿蘇山は移動した :2011/05/14(土) 00:19:40.51
イレズミは、中国では、最初、鮫の害を防ぐためで、後、飾りになり、 今は、イレズミはない。倭は、今(卑弥呼の時代)、イレズミがあり、 身分、地域で異なる。 ってことでしょ。問題になる点あるかな?
>>496 後、飾りになりというのは倭のこと。
飾りになって身分をあらわすようになった。
>>496 >問題になる点あるかな?
(中国の話)と(倭の話)をごちゃまぜにするあんたの思考能力。
夏后少康之子封於會稽断髪文身以避蛟龍之害(中国の話)
今倭水人好沈沒捕魚蛤(倭の話)
文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾(中国の話)
諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差(倭の話)
499 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/14(土) 00:54:07.16
>>479 >実質の王都は天満宮のほうではないかという気もしています。
私もそう思います。
天満宮が兄王(天皇テンコウ)の宮、
大極殿[都府楼・政庁(大宰府)・観世音寺]が弟王(法皇)の居所
>久留米では高良大社(玉垂宮)から大善寺玉垂宮までの
>久留米南西部一帯が領域でしょうか。
その様に思います。
兄王の宮は、九州年号定居までこのあたりを点々としていたのでしょう。
弟王の政務地は御井から三潴にかけての地域をやはり点々としていたと思われます。
陸上自衛隊駐屯地付近は、地形的に弟王の都がある時期にあったと思われる有力地です。
もし遺跡の痕跡があったとしても旧陸軍の時代に壊されていると思われます。
500 :
日本@名無史さん :2011/05/14(土) 02:28:35.34
>>498 × 文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾(中国の話)
○ 文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾(倭の話)
>>485 補足
後稍以為飾
稍・・・だんだんと
以為・・・おもへらく、〜と思う。
後にだんだんと飾りになったと思う。
明らかに推量なの。
502 :
阿蘇山は移動した :2011/05/14(土) 07:09:03.74
>>502 >
>>497 > 身分を表すのは、飾りではありませんよ。
卑弥呼・・・金印紫綬
難升米・・・銀印青綬
ひもの色が身分を表す。
ひもは単なる飾り。
504 :
どくだみ :2011/05/14(土) 08:04:00.97
>>502 阿蘇山は移動したさん
>身分を表すのは、飾りではありませんよ。
身分を表すものが「飾」です。
「臣聞制度文采玄黄之飾,所以明尊卑,異貴賤,而勸有コ也。」
飾=所以明尊卑
まず「臣聞」は「私はこう聞いております」という、皇帝に上書するときに使う常套句です。
「制度に聞く」ではありません。
「制度・文采・玄黄」は「飾」にかかる修飾語です。ですから主語は「飾」です。
「制度や文采や玄黄という飾は」が主部です。「所以」以下が述部です。
つまり、「飾」は「尊卑を明らかにする所以=方法・手段」であると言っています。
漢籍では、「飾」は「尊卑を明らかにする所以=方法・手段」を意味する文字として使用されるわけです。
手段・方法の具体的内容には、中国では「制度・文采・玄黄」、倭では「文身」と違いはありますが、
どちらも尊卑を明らかにするという機能は同じなので、同じ「飾」という文字を使ったのです。
505 :
どくだみ :2011/05/14(土) 08:06:40.35
>>502 >私とまったく同じではないですか。
男子無大小皆黥面文身。(中略)
文身(亦)以厭大魚水禽,後稍以為飾。諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。
こういう風に書くと解りやすいでしょう。
男子は大小となく皆鯨面文身で、その文身は、(最初は)それで大魚水禽をさけるものであったが、
後に次第に飾に変化していき・・・(今では)尊卑を示すものとなっている。
夏后少康之子封於會稽,斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤,
この部分は、倭人の文身の起源を大魚水禽を避けるものだという説の論拠を提示している部分です。
文身で蛟龍の害を避けていた夏后少康之子という過去の実例があるので、
現在も素潜り漁の習慣を持っている倭人の文身も、同様の目的だったと言えるというわけです。
だから、文身亦以と続きます。
「亦」があるのは、「夏后少康之子と同様に」という意味の「亦」です。
>>504 > 漢籍では、「飾」は「尊卑を明らかにする所以=方法・手段」を意味する文字として使用されるわけです。
> 手段・方法の具体的内容には、中国では「制度・文采・玄黄」、倭では「文身」と違いはありますが、
> どちらも尊卑を明らかにするという機能は同じなので、同じ「飾」という文字を使ったのです。
これは、458で天才が言うとおり、色彩が身分を表すのです。
倭人は、左右大小で身分を分けているわけではありません。
これは諸国間の違いです。
尊卑に差があるというのは、同じパターンの入れ墨(全て右にある小さな入れ墨だとしても)
であっても、その図柄や文言によって尊卑に差があるということでしょう。
つまり、倭人は身分の違いを示すのに、
単なる飾りである入れ墨を利用しているだけなのです。
>>502 >>498 私とまったく同じではないですか。
あんたと同じではないんよ。
あんたのアホな解釈を示しただけなんよ。
陳寿は中国の文身の話はしてないんよ。
508 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/14(土) 18:39:49.37
おほほーいタコども。 3世紀の倭人は文身をすでに飾りとしていたというのか。 こうなると、倭人の大魚水禽を厭うための文身がいつまで続いたかの問題だな。 「今倭の水人は好んで沈沒して魚蛤を捕る。文身は会稽と同じく大魚水禽を厭う」 というのに。「今」はすでに飾りになっていたというのか。 こうなると、どっちが本当なんだという問題なにるな。 ドクダミのクソ野郎が、またぞろ我流江独善を吹いてるな。 >身分を表すものが「飾」です。 皇帝は黄色、高官や皇帝の信の篤い臣下は赤というふーに、 厳格な色分けがあっのを知らないんだな。 >「制度・文采・玄黄」は「飾」にかかる修飾語です。ですから主語は「飾」です。 わははー。またぞろ我流独善のごり押しか。はったりか。バカなのか。 「制度」が飾りとは何だ。 毎度まいど・筋の通らないへ理屈を行く面もなく並べるやろうだぜ。
509 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/14(土) 18:41:16.22
行く面もなく→→→臆面もなく
510 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/14(土) 18:42:46.69
どくだみって奴。 あんな調子で今まで、いっぱしに知ったふりしてたんか。 となれば、ここの連中の程度にも問題があるな。
511 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/14(土) 19:00:40.26
おほほーい・どくだみ。「制度」も飾りか。 「制度に聞く」で不服ならば、「臣の聞く制度に」でもいいぞ。 >漢籍では、「飾」は「尊卑を明らかにする所以=方法・手段」を意味する文字として使用されるわけです。 ホラもいい加減にせい。 お前が持ち出したのは、尊卑を明らかにする色づかいの制度の話だ。 反論のために「こういう用例がある」と小引っぱり出してきたのはいいが、 自分の都合の良いように「子ども騙し以下の独善ひんまげ解釈」をしておいて、 それに依拠して反論するとうやつな。俺の言う「論拠ねつ造」だ。 前回とまったく同じ手口じゃないか。チンポがないな。チンポが。
512 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/14(土) 20:02:09.55
511のような書き込みをすると、我ら凡人には なんだ伊作って、ちっちぇ−男じゃん としか映らないということが、天才には理解できないらしい。
>なんだ伊作って、ちっちぇ−男じゃん 男のけーくされずら。
515 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/14(土) 20:57:20.47
>>512 >死と隣り合わせの海人の風習が、100年200年で変わるとは思えない。
そうした意識的前提があれば夏王朝中期から世紀の長いスタンスを「後に」と宣ったり、
3世紀時点ではすでに装飾的な機能に代わっていたなどと馬鹿げたことはいわんはずさ。
先にとっくにイヤミを書いたはずさ。
「現代の装飾タトゥーの始まりは3世紀の倭人てかー」とね。
516 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/14(土) 21:00:11.89
>>514 俺かー?
吹けば飛ぶよな「ひょうろく玉」よ。
びびることなんかないぞ。
吠えるなら、遠くの電柱の影からではなく、
場の真ん中に出てきて吠えろ。
人の仮説に頓着しないのは仕方ないとしても、 天才には辞書さえ必要ないようだ。
518 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/14(土) 22:09:03.73
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」 この倭奴國の勢力範囲は、九州北半分に達していたのではないだろうか。 初期渡来人達は、主に有明海に入植した。一部は博多湾にも至る。 国名は「奴国」であった。ほとんど、独占状態ではなかっただろうか。 その中心地として、倭の奴国と書かれた。 その後、独自に発展し別々の国になって「餘旁國」に多くの「奴」の字が残った。 最初の王は有明海にいたが、交易の発展とともに北上し福岡春日市に移った。 だが、57年の王は有明海にいた。
519 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/14(土) 22:27:04.23
>>517 >人の仮説に頓着しないのは仕方ないとしても、
橋ゲタに流れついて漂着ゴミのような説ばかりだが。
>天才には辞書さえ必要ないようだ。
値切って買ったのが1冊だけあるが。
高度なのになると、全12巻ほど揃った中国発行の
「中国語大嗣典」(とかいうの)を図書館に見にいくが。
これ以上、なんか・文句あるか?
>>519 後稍以為飾
485
>バカ野郎。だんだん苦しくなってきたな。
>推論を述べるのに、「後に」というか。そらホラと見え見えになるだろが。
僕の辞書には「以」に「・・・と思う」とあるんだけど、
値切った辞書見てないんだろ?
普通は、辞書見て誤読してると気づくもんだが、
情けないことに、これは会稽のことだっていうじゃん。
なんで、後に会稽では入れ墨が飾りになったって解るの?
孫権の入れ墨でも見てなきゃ書けないでしょ。
会稽のことに言及するなら、
後にだんだん飾りとなっていって、
今ではそんな習俗なくなったって書くんじゃねーの。
521 :
日本@名無史さん :2011/05/14(土) 23:42:26.47
>>520 >僕の辞書には「以」に「・・・と思う」とあるんだけど
後稍以為飾
どう訳せばいいのでしょうか? よろしく
のち、ややもって かざり と なす
523 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 00:05:14.67
今から後 近い将来 かざりに すると思う ???
525 :
阿蘇山は移動した :2011/05/15(日) 00:33:40.06
>>500 これは間違いですね。名無しさんでは話ができないですが。
伊作先生も言われてるかと思いますが、倭については1時期しかわからない。
だから、元とか、後とかは中国の事です。
526 :
どくだみ :2011/05/15(日) 01:22:54.35
>>459 >色に機能があるのであって、その色をつかった飾りに機能があるのではない。
色は布を染めるか器物に塗るかするわけですから、色と色を使った飾りは不可分でしょう。
天子の服は色だけが尊卑を別つわけではありません。
服の形や日月星辰や草やなども模様もあり、全てが一体となって天子の服なのです。
だから天子の尊さを別つのは色だけで、服という飾りに機能は無いというのは詭弁です。
「玄黄」というのは「天地玄黄」の場合のように「くろときいろ」の意味もありますが、
大漢和辞典は、「玄黄」の意味の五番目に、この董仲舒の言葉を引いて「美しい色」としています。
ちくま学芸文庫漢書も、美しい色取りという訳を採用していますので、僕も従います。
それで、この話は、武帝の
「倹約な者は美しい色どりの旗飾り(玄黄旌旗之飾)を作らないものだと思うが、
周王朝なっていろいろ派手になったのは何でだ」
という質問に対して、董仲舒が「尊卑を明らかにする所以です」と答えたものです。
「玄黄之飾」とは、もともとの武帝の制詔を見れば「玄黄旌旗之飾」とあり、美しい色の旗飾りのことです。
武帝も董仲舒も「旗飾り」の話をしていて、それを「尊卑を明らかにする所以」と言っているので、
やはり「色をつかった飾りに機能がある」ということでしょう。
>おほほーい・どくだみ。「制度」も飾りか。
「飾」が「尊卑を明らかにする所以」であることは変わらないけど、
「制度」が「飾」というのは間違いでした。
武帝の制詔を読んだら、「制度」「文采」「玄黄之飾」の三つが並列で主語と取った方が良いようです。
「制度」と「文采」と「玄黄之飾」のそれぞれが、尊卑を明らかにする所以ということです。
527 :
どくだみ :2011/05/15(日) 01:25:27.42
武帝の制詔を貼っときます。 蓋儉者不造玄黄旌旗之飾。( ←この文が玄黄之飾) 及至周室,設兩觀,乘大路,朱干玉戚,八イツ陳於庭, 而頌聲興。(←この文が制度) 夫帝王之道豈異指哉? 或曰良玉不テン, 又曰非文無以輔コ,二端異焉。(←この文が文采)
>>526 >「制度」「文采」「玄黄之飾」の三つが並列で主語と取った方が良いようです。
おそらく、「文采」がきれいな色の服のことだと思いますが、
漢文に強い人に聞いた方がよいですね。
問題なのは、「後稍以為飾」を「後に尊卑を表すようになった。」と解釈されていることです。
そう解釈すると、倭人は左右大小で身分を区別しているかのように解釈しがちになるのです。
ここで一旦、飾りと身分について考えてみましょう。
金印紫綬
銀印青綬
駝紐、蛇紐、亀紐
飾り・・・ハンコ、ひも、つまみ
身分に対応するもの・・・金と銀、紫と青、駱駝と蛇と亀
つまり、飾り自体は身分を決定するものではなく、
飾りの持つ属性が身分決定に利用されているのです。
そこで倭人伝ですが
入れ墨自体は単なる飾りで、その属性を用いて身分の高下を分けていると考えられます。
左右大小は、諸国間の飾りの違いであって、諸国間の上下を謳っているわけではありません。
入れ墨の持つ何らかの属性を利用しているのでしょうが、倭人伝には書かれていません。
おそらく、文様の違いかなにかで身分を分けているのでしょう。
>>521 のち、だんだんと 飾り になっていった
(つまり、本来の機能は意味が薄れていった、と)
この文面の意味は、これ以上では無いし、これ以下でもない。
530 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 11:53:36.55
>>529 >のち、だんだんと 飾り になっていった
郡使が見た時には、すでに飾りになっていた。
と、いうことですか?
532 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 12:51:42.06
>>531 夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。
今倭の水人、好く沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う。
しかし、今では飾りとなってしまって
文身し大魚・水禽を厭うことはしていない。
やっぱり、変。
道教のトンデモ本の辻褄を合わせるために書いた記述だから、あてにする必要も重視する必要もない。
>>532 夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。
今倭の水人、好く沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚・水禽を厭う。
しかし、今では飾りとしての意味が強くなって来ている。
ぴったりだ、ウン。
>534 后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く 后少康の子、会稽に封ぜられ〓し時〓、断髪文身、以て蛟竜の害を避く 后少康の子が断髪文身したのではない。 断髪文身したのはワ・ジ・ン。
536 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/15(日) 18:20:35.86
タコども。 今飾りとなっていたというのなら、 たとえタコどもでも、「今やや飾りとなす」と書くだろう。それだけのことだ。 何が面白くて文章にならん解釈をしてまでゴネるのか。
537 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/15(日) 18:30:02.22
タコども。 中国人が「後にやや飾りとなす」というほどに、 文身の変遷経緯を確認できているのは中国でのことだ。 彼らは倭人の文身は一瞬だけ見たにすぎない。 しかるに。「後にやや飾りとなす」などと、 どこかのホラ吹きみたいにきーたふーなことをいうわけがなかろう。
538 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/15(日) 18:42:44.80
>>520 >なんで、後に会稽では入れ墨が飾りになったって解るの?
中国人にとっては自国の習俗の変遷だ。
>孫権の入れ墨でも見てなきゃ書けないでしょ。
ガキか理不尽なモンスターペアレントレベルだな。
辞書もってるなら、理不尽てのも調べるといいぞ。
>会稽のことに言及するなら、 後にだんだん飾りとなっていって、
>今ではそんな習俗なくなったって書くんじゃねーの。
バカ丸出しだな。
「文身発祥の地会稽では後にや飾りとなったが、倭人の文身はかくかくしかじか」というのだ。
倭人の文身に関する記録はすべて「今」だ。「のち」もへったくれもない。
ぼんくら。てめえ見たいなバカ丸出しは無視かるから、
特定できるようにハンドルつくって書け。
「バカ丸出し」というハンドルがいいな。
539 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/15(日) 20:52:14.46
>>518 >だが、57年の王は有明海にいた。
「狗奴國」の狗=犬である。 犬野郎の国となる。
「犬吼え」といえば、隼人しかいない。
初期奴国王は、紀元前に隼人族を服従させていたと考えている。
「倭國之極南界也」が理解できる。
540 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 22:07:49.42
>>535 またまた、トンデモ解釈を。
前漢書地理誌粤(えつ)地の条に「其君禹後帝少康之庶子、云封於会稽、文身断髪以避蛟龍之害」という
文章がある。前漢書は倭人のことを書いているわけではないぜ。
541 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 22:10:20.15
>>538 伊作より「バカ丸出し」というハンドルがいいな。
542 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 22:36:50.14
九州にあったにきまってるだろう!
>>540 まぁ、中国は、宋にいたっても、同レベルの事言ってるから
いかに中国の記述がいい加減かってわかるよな。
倭人伝なんて、史実とはいえないとまで言われてるありさまだしね。
544 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 23:59:14.45
同じことを云ってるから正しいってことも云えるな。
>文章がある。前漢書は倭人のことを書いているわけではないぜ。 馬鹿に付ける薬無し。
>>544 嘘の記述を引用して、そのまま書き続けてるんだよ。
547 :
日本@名無史さん :2011/05/16(月) 01:39:30.42
今こそ竹内文献!ninja
548 :
日本@名無史さん :2011/05/16(月) 06:26:49.71
549 :
usumgal :2011/05/16(月) 11:00:08.31
>>508 >「今倭の水人は好んで沈沒して魚蛤を捕る。文身は会稽と同じく大魚水禽を厭う」
は、同意。
が、
>というのに。「今」はすでに飾りになっていたというのか。
は、
「後稍以為飾」の「後」の解釈に問題あり。
「後」といいのは、今を基点にして過去の範疇を表現する言葉である。
例えば、「太伯之後」の「後」も同じ。
「今倭水人好沉沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽」・・・@
と
「後稍以為飾」 ・・・A
を時間帯を持って分別すると
「後稍以為飾」という状況の始まりは、「今」から遡る事、数十年ぐらいから「飾り」へと移行して行った。
つまり、
「今」は、
「今倭水人好沉沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽」
と
「後稍以為飾」「諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差」
が
両立した状態にあるということだろう。
>こうなると、どっちが本当なんだという問題なにるな。
ではなく。
@ とAで、現在、過去、未来を合論して記述してある。
(このような手法は仏教の影響があったからだろう。)
550 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/16(月) 20:08:20.35
【 お歯黒 】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92 日本には、百済経由で入って来たのではないだろうか?
【 黒齒國・黒歯常之 】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%AD%AF%E5%B8%B8%E4%B9%8B 669年、享年60歳で波乱万丈の生涯を終えた百済人「黒歯常之」は、
洛陽忙山の地に埋葬された。 百済の将軍「黒歯常之」の墓誌名には、彼
の家系が詳細に記されていた。 山海経巻9、呂氏春秋巻22、管子巻8、
博物志、史記・趙世家などにも記録が残っている。 黒歯国とは現在でいう
広西壮族自治区巴寧県百済郷で、中国・越国境地帯で郷の人口は、
約二万二千人であった。 風俗は、男は髪が短く、龍を崇拝し入墨をし
米魚を食べる海洋性民族で、歯を黒くする習性があった。100数十年前
には、路上でも時々見かけることがあったらしい。
百済王国の候国、扶庸国の様で、その国名を姓としたものと思われる。
晋代の「文選」に黒歯之酋他5カ国が記録されている。 黒歯国は
海南島北部のかなり広い領域と考えられている。
そこの住民は、大百済(Daejbakcae)という韓国語で発音している。
百済がこの地で、その「威容」を轟かせたか海洋国家であった事を否定
することは、誰も出来ないだろう。
「白山学報」第六十八号 (2004年4月)に掲載
551 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/16(月) 20:31:57.35
>日本には、百済経由 日本最古の「お歯黒」は、古墳時代の人骨と埴輪にみられるという。 日本から百済に入ったんだよ。 つまらんヨタ論を、ろくな検証・批判もせずに垂れるな。 3世紀、馬韓人にの中には文身する者がいたというが、 倭の水人の文化がそれほどに浸透していたことを証明する。 倭人国家は百済の建国に関してもかなりのインフラ投資をしていると思うぞ。 3世紀には「ひざまづいて恭敬の意思をあらわす習俗がなかった」馬韓だが、 百済時代に漢人・高句麗人・倭人などが多く混在するようになると、 この儀礼が百済にも見られるようになる。 何でもかんでも半島由来とする考え方は間違いだと断言できる。 「白山学報」てのは何ものだい?
552 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/16(月) 20:34:31.43
>黒歯常之 Wikiをみると、 お歯黒とは無関係で、黒歯というただの姓なんじゃないかい?
半島由来の物なんか大した物はない。 単なる大陸からの経由点に過ぎないのにな。
554 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/16(月) 21:10:45.80
>>551 遊撃的論客・伊作氏
「海洋大国・大百済 : 百済武寧王の世界」 蘇 鎮轍/著
に数多く引用されていた。
韓国の 白山学会が、発行している雑誌のようです。
http://www.shc.usp.ac.jp/kawa/link/skor/kanko.htm 蘇 鎮轍
1930年(韓国)全北益山生まれ。53年ソウル大学法学部卒業。高等考試(行政科)合格。
57年(米)南イリノイス大学M.A.。63年(米)オクラホマ大学Ph.D.。
60~85年(韓国外交官として)シンガポール、アフガン、ヨルダン大使歴任。
64年(米)メリランド大学(ソウル分校)講師。86年(米)バークリー大学研究教授。
87年以来圓光大学教授、客員教授。97年以来アジア史学会(東京)会員
555 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/16(月) 21:55:47.84
>>518 :邪馬台国フィクション説氏
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
この倭奴國の勢力範囲は、九州北半分に達していたのではないだろうか。
初期渡来人達は、主に博多湾沿岸に入植した。一部は有明海北岸にも至る。
国名は「奴国」であった。ほとんど、独占状態ではなかっただろうか。
その中心地として、倭の奴国と書かれた。
その後、独自に発展し別々の国になって「餘旁國」に多くの「奴」の字が残った。
最初の王は博多湾岸にいたが、彼等と異なった独自の路線を歩む者が、
有明海北岸に現れ、博多湾の中心国「倭の奴国」を滅ぼした。
有明海北岸の新興国(米多國)の王は、107年に漢に倭王と認められた。
後世のシナの一部では、米多國を「倭の面土國」としての認識もしていた。
>>538 伊作さん。
「のちにややもってかざりとなす」
なんて読み下し文しか見ないし、辞書引かないから断定文だと思い込み、
文章の続き具合を考えないから
「文身発祥の地会稽では後にや飾りとなったが、倭人の文身はかくかくしかじか」
なんて読んじゃうわけ。
481で文章の構造を説明し、501で漢字の意味を補足したのに理解できないんだね。
僕は「後に…」は倭人の文身に対する「考察」だと言ってるんだよ。
「だんだんとかざりになってったんじゃねーの」と推定してるんだとね。
現在の倭人の文身は、恐ろしい魚除けの機能はなくなって「全て」単なる飾りになっちまってる、
なんて一言も言ってないし決めつけてないの。
後文に、現在の倭人の文身には、諸国間の違いが見られ尊卑の区別があると書かれているので、
倭人の文身の現状から、そう推察したんだと思うね。
厳密に言えば、入れ墨が三世紀でも依然魚除けに使われているのかいないのか、倭人伝からは解らないってことだね。
完全に飾りのみってことはないと思うけど。
557 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/16(月) 22:28:44.04
>>552 遊撃的論客・伊作氏
晋代の史書「文選」によると呉が管轄していた地域に
「烏許、狼荒、夫南、西屠、儋耳、黒歯之酋、象郡之渠等」
七カ国を挙げている。
「晋書」巻3 世祖宗武宰太康七年(286年)
「夫南」=裸国の可能性があるようだ。(UFO)
黒歯国は、ベトナムかな?
天才なら、考察できるだろう。 素人老人じゃ、無理だ。
>>538 伊作さん。
さて「後稍以為飾」を断定文だとすると、
「倭人は現在、入れ墨を恐ろしい魚除けに使ってるが、本国では後に飾りになった。」
となり、倭人の現在の文身と中国での文身とを比較していることになる。
倭人の「現在」の文身は魚除けだと言ってるが、
後文では尊卑の区別に利用してることになってて合わないし、
中国では飾りになったと言ってるが、「現在」に言及してない。
倭人の現在と呉越の時代と比較してるとでもいうわけ?
現在、中国に文身の習俗がなくなったってのが、
「夏の后・少康の子[ママ]」の文節の肝なんだぜ。
天才は、前に「後に…」の文章には違和感がある(異質)って言ってただろ、
それ、天才の誤読のせいだから。
ハンドルは仰せの通り、この板で唯一貴方のことを天才として扱ってるのに…
559 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/16(月) 22:35:00.19
>>551 の遊撃的論客・伊作氏は真っ当だ。
正気に戻ったようだね。
560 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/16(月) 22:42:34.49
>>555 卑彌呼の都は久留米氏
>後世のシナの一部では、米多國を「倭の面土國」としての認識もしていた。
「倭面土國」については沢山の見解を読んだが、消化不良です。
見解を述べるパワーはありません。 もっと、勉強しますよ。
>107年に漢に倭王と認められた。
今のところ、伽耶勢力かと想像してます。
生口は、陸送でないと無理では?
561 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/16(月) 23:42:43.96
>>560 >今のところ、伽耶勢力かと想像してます。
>生口は、陸送でないと無理では?
帥升の船団は100艘近くのものであったと思います。
倭王となる前の反乱軍の総帥としての帥升には100艘の軍船団が相応しい。
又、壱岐、対馬、半島南岸西岸の諸韓國の倭人の支援もあったと見てよいでしょう。
また帥升の捕虜にならずに逃げ延びられた集団のひとつが神武の難民軍団。
彼等の示威力戦力からみて、彼等難民落ち武者でも20艘を越える船団であったと思われます。
562 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 06:57:37.19
>>554 >韓国の 白山学会が、発行している雑誌のようです。
そんなところだろうと思った。
黒歯という姓と黒歯国を直結するところんなざ、
日本の「夢見るど素人」レベルのギミックだね。
563 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 07:10:05.17
>>557 >天才なら、考察できるだろう。
黒歯国、裸国については天才は一切感知しない。
そもそも、稲作を伝えた縄文倭人も火焔土器や遮光機土偶をつくった縄文倭人も、
銅鐸をつくった弥生倭人も、環濠集落をつくった倭人も横穴墓や装飾古墳をつくった倭人も、
みな長江河口からの直接渡来人。太伯の末裔を称する複数の非漢民族。
彼らの伝承・伝聞によると思われる記録を真に受けない。
赤道近辺の民族みな上半身は裸だよ。
こんなのにとらわれすぎるとカオスの世界に埋没する。
564 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 07:15:40.95
>>560 >「倭面土國」については沢山の見解を読んだが、消化不良です。
それがいい。
そもそも、倭面土なんて記録が登場するのは、二流か異聞とされる文献だろう。
そいつが『後漢書』から引いたことになってるようだが、正史『後漢書』には登場しない。
ということは、正史『後漢書』に先行する幾つかの『後漢書』にあったものと思われる。
素人によくある現象の一つだが、
自論に都合の良い記録はないかと文献漁りをして、二流・異聞とされる文献に行きついて、
その文献とその記録の信憑性について、正当な批判と検証もせず飛びつく。
ここでもまた自らカオスの世界に埋没するわけだ。
565 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 07:40:32.05
●決定的な習俗 長江流域少数民族との共通点でいえば、歯を黒く染める習俗がある。 これは百越と呼ばれた人たちや、南蛮・荊蛮と呼ばれた人たちに共通の習俗だった。 むろん、苗族のほかにも歯を黒く染める少数民族が現在も存在する。 現代でもお歯黒が見られる少数民族は、ミャオ族、ラフ族、ヤオ族、ハニ族、リス族などである。 この習俗が、日本にも古くから存在した。「お歯黒」といわれるものだが、これは別格の習俗といえる。 というのも、いわゆる庶民だけの文化習俗ではなく、皇族・貴族から朝廷人の習俗だったからである。 (一説によると聖徳太子もお歯黒をしてたといわれる)。 古代倭国支配層は、中国天子の天地神を祀る儀礼様式とこれに付随する作法や文物を取り入れてきたが、 どうしても捨てきれない習俗もあったようである。 たしかに、応神天皇が詠んだ女性のお歯黒の美しさを称える歌を『古事記』が載せている。 ということは、支配層の人にとって「慣れ親しんで久しい習俗」、すなわち民族的習俗とみるのが妥当なところだろう。 現在のところでは、お歯黒の形跡が確認できるのは古墳時代の人骨と埴輪といわれるのだが、 果たして今後、弥生時代のお歯黒の証拠が出るか否か。 もしも出なければ、古墳時代をもたらしたのは(朝鮮半島渡りの民族などではなく)、 長江河口域からやってきた「文字をもたず・黥面文身とお歯黒を習俗とする民族」だったとの論理に帰結する。
566 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 07:41:47.03
●お歯黒に関する検証課題はもう1点ある。 『三国志』倭人伝は、倭人の文身の習俗に触れているが、倭人が歯を黒く染めているとは書いていない。 そうして、女王国の東南の彼方に裸国と黒歯国があると書いている。 果たして、3世紀に中国人がやってきたとき倭人は白い歯をしていたのだろうか。 私はそうではなかろうと思っている。 というのも、先に触れたように倭人伝は倭人の文身のルーツを呉にあるとはしたくなかったらしく、 意図的に越だけについて触れていた。そこへ「倭人はお歯黒をしている」と書けば、 「歯を黒く染めるのは大呉の習俗である」というわけで、中国の知識人には分かってしまう。 そうしたことから、倭人のお歯黒について書くのを控えたのではないかと推測している。 (このあたりは資料に乏しい推測になるので断定するのは控える)。 もしも。 3世紀に中国人がみた倭地には文身だけでお歯黒いの習俗がなく、 古墳時代以降にもたらされたものだとすれば、 古墳時代はお歯黒をする民族にもたらされたという論理に帰結する。 さもありなん。 「空白の世紀」とされる3世紀末から4世紀末頃までの長いトンネルを抜けたら、 倭国には(中国から招かれた鬼道をやるリリーフ投手)女王の時代ではなく、 中国名を名乗る五王の時代だ。 たかだか文身とお歯黒だが、歴史を考える上で決して軽くはない。
567 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 07:51:34.10
●資料再掲 ・『史記』呉太伯世家(集解應劭注釈) 「(呉人は)常に水中に在り、故にその髪を断ちその身に文し、 以って龍子の像(かたち)をす、故に傷害を見ずなり。 ※「龍子の像(かたち)をす」とは、文身で人間の体を龍に模したものと考えられる。 ※どうやら、素潜り漁も呉が発祥らしい。韓国の済州島にも、日本と同じ海女の素潜り漁がある。 これが、九州をめざした呉人の中で五島列島をすり抜けて漂着して伝えたものか、 九州から伝わったものかは不明。 (これを書いている時点では済州島の海女漁がいつ発生したのかも不明ではある)。 ・『史記』趙世家(武霊王の言葉) 「歯を黒く染め額に黥を彫り、魚皮で冠をつくり、 太針で粗衣(あらぎぬ)を縫うは大呉の国なり」。
568 :
甘納豆 :2011/05/17(火) 09:17:25.75
はいはい九州九州ー邪馬台国は九州でしたよー九州九州ーきゅーしゅー(-.-)y- はい!おわりー
569 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 09:58:28.18
>>568 あまちゃん。
俺はそんなチンケなモチベーションで研究したきたんじゃないぜ。
570 :
usumgal :2011/05/17(火) 10:59:27.76
>>564 >そもそも、倭面土なんて記録が登場するのは、二流か異聞とされる文献だろう。
陰陽五行説から
黄帝=土徳(黄)、夏=木徳(青)、殷=金徳(白)、周=火徳(赤)、秦=水徳(黒)。
【如淳曰:「如墨委面、在帶方東南萬里。」
臣[王贊]曰:「倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。」
師古曰:「如淳云『如墨委面』、蓋音委字耳、此音非也。倭音一戈反、今猶有倭國。
の、
委は黒で水徳の秦の系。
魯の宣公の名が「倭であり委」だった。
左伝宣公元年(紀元前719年)の『経典釈文』に,
「宣公, 名倭, 一名接, 一名委。 文公子, 母敬『えい』。 謚法: 善問周達曰宣」とある。
魯の宣公は、斉の季歴の血筋にあたる。
倭面土國王・帥升は土徳で黄であるから黄帝の系と言う事に成るだろう。
夏后少康は夏の6代帝であり、禹は黄帝の玄孫にあたる。
571 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/17(火) 11:40:18.40
>>564 >ここでもまた自らカオスの世界に埋没するわけだ。
伊作氏の頭脳は、やはり紙一重の向こう側、混沌の世界にあったのか。
伊作氏は晩年のニーチェの頭脳状態なのか?
なお、私の頭脳も解析もカオスではない。
私の解析と組立は整頓されている。
>>570 usumgalさん
私にとって新しい見方の提示、ありがとうございます。
参考になります。
「倭面土國」の表記方法における文字選択において、
「土」を選んでいることについての考察。
>つまらんヨタ論を、ろくな検証・批判もせずに垂れるな。 イサクさん。 それは貴方に言えることですな。
573 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 15:26:41.10
>>572 じゃ・お前の高説をうかがおう。
ちゃんとした検証・批判の上でのやつをだぞ。やれ
574 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 15:28:57.91
>>572 名なしのがんたれ。
「倭面土」についての話だよな。
自分の発言に責任を持つ勇気があるなら、
ハンドルをつくって高説を足れてみろ。
俺が料理してやる。
575 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/17(火) 15:31:55.09
>>555 卑彌呼の都は久留米氏
>主に博多湾沿岸に入植した
初期奴国王は、狗奴國である。「倭國之極南界也」が説明つかない。
中国との交流が有ったからこそ、王と表記されている。
自称では、狗奴國王とは認められていないはずだ。
576 :
日本@名無史さん :2011/05/17(火) 16:21:37.25
>>573 どうせ聞く耳持たず、自分の説に反するのは、みんなちゃんとした検証じゃないことになるんだろう。
577 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/17(火) 16:46:57.77
>>575 邪馬台国フィクション説氏
>初期奴国王は、狗奴國である。
初期奴國は狗奴國ではありませんね。
女王國より南の中部九州の狗奴國は、
初期奴國との関係がないと考えるべきです。
関係性が考えられるのは女王國以北の奴國群です。
狗奴國がシナからの移住民だとしても、
博多湾の奴國との関連は薄いでしょう。
狗奴國とあえて関連するとすれば、
隋書の秦王國がその候補として考えられます。未検証
3世紀においては、狗奴國は呉との関係を疑っています。
魏・女王國にたいしての呉・狗奴國。
三國志では触れたくない會稽東治と狗奴國の関連。
會稽海外の東鯷人二十餘國・・・後の狗奴國を含めた肥地域の国々
(會稽海中は杭州湾沖の舟山群島)
なお、「樂浪海中有倭人分爲百餘國」は筑紫地域の国々
以上のかなりの部分は、今のところ物語ですが。
578 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/17(火) 17:36:48.97
>>577 卑彌呼の都は久留米氏
>初期奴國は狗奴國ではありませんね。
関係性が考えられるのは女王國以北の奴國群です。
では、「倭國之極南界也」をどう解釈されていますか?
南界を極めていますよ。
579 :
サガミハラハラ :2011/05/17(火) 18:30:35.79
倭と倭国と倭人があります。 倭人は種族であり、その居住地は原則倭以外にも存在します。中国人が横浜にもいるように。 倭とは中国から倭と認識されている地域のことですが、原則倭人がその大部分をしめています。 倭国とは、倭となのっている国のことです。倭や倭人以外も含むことがありますが、この場合は 倭国王の支配下にある国のことです。 つまり、当時の倭王のいた倭奴国は倭国全体の中の一番南に都していたということです。その南は同じ倭人のすむ領域で、狗奴国があり、さらにその南には 薩摩隼人やクマソがすんでいました。もちろんそこも倭に入ります。 倭奴国は倭国の極南界であって、倭の極南界ではないということであります。 ややこしいでしょ。
580 :
よう :2011/05/17(火) 18:36:13.55
はいはい!邪馬台国は九州でしたよー ハイ!おわり!
581 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/17(火) 18:56:20.95
>>579 サガミハラハラ氏
>当時の倭王のいた倭奴国は倭国全体の中の一番南に都していたということです
それでは魏が、狗奴国を王と認識した点が弱くないでしょうか。
「○奴国」の国名からすれば、倭奴国に含まれていたと考えた方が
合理的ではないでしょうか。
どうでしょう? 2ch大先輩! よろしく。
582 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/17(火) 19:04:26.07
>>578 邪馬台国フィクション説氏
>「倭國之極南界也」が説明つかない。
>では、「倭國之極南界也」をどう解釈されていますか?
後漢書の倭國の範囲は、対馬から有明海沿岸(筑紫平野・卑彌呼の国・帥升の国)まで。
韓半島南岸から1000里以上5000里(郡より12000里)以内の範囲。
後漢書では、倭奴國、帥升の国、卑彌呼の国をほぼ同じ場所とみているから、
南北4000里の倭國の範囲では、王の居所の国は倭國の極南界と見做せる。
583 :
邪馬台国フィクション説 :2011/05/17(火) 19:26:37.68
>>582 卑彌呼の都は久留米氏
>王の居所の国は倭國の極南界と見做せる。
【狗奴国は、倭奴国に含まれない。】ですね。
また何処かで論戦することがあるでしょう。
機会があれば、「極」の使用例をさがしてみます。
584 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/17(火) 19:30:53.20
>>581 邪馬台国フィクション説氏
横レスですが、
サガミハラハラ氏の説明方法を借りれば以下の様となります。
倭奴國や倭王のいる所は、倭國の極南界となり、
狗奴國は、倭の極南界となります。
「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王」
魏代になっても倭國外の狗奴國には、歴史の順序では、後漢書を引きずって王がいるのです。
編集時期からは逆ですが。
585 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 19:54:10.51
>>576 >どうせ聞く耳持たず、
俺が聞く耳をもつような意見いえばいいのだ。本末転倒のガキ論理も甚だしいぜ。
すでに見てきた通り、おかしな意見をいう奴、おかしな論を垂れる奴は、
どこかで必ず不正解釈・小細工解釈・論拠ねつ造・
ごまかし・まやかしという手段に頼る。
それが見えた時点で、どんなに巧妙なこといおうが勝負ありだ。
俺はそういう手段を使わないから、つねに勝負はやる前から見えている。
おかしな意見やおかしな論に対しては絶対に負けない自信がある。
だから、目先の利く奴はボロ暴かれるのを警戒して迂闊にはからんでこない。
俺にからんでくるのは、「めくら蛇におじず」の端下ものばかりよ。
名無しという奴は、群集の中からヤジを飛ばして、
こそこそと分からないように隠れる手合いと同じだ。
●今後は名無しでからんでくる奴はすべて無視する。
てめえら名無しには相手にする価値はない。
上等じゃねえか おまえこそ、名無しに反論するなよ
伊作、てめえこそ名無しに反論するじゃねえぞ
588 :
サガミハラハラ :2011/05/17(火) 20:15:58.94
>>581 出典は後漢書です。後漢書は南朝宋の時代に編纂されていますが、後漢時代のことがかかれています。
それも文章からいって、建武中元二年(西暦57年)の時点とみてもよいでしょう。(ただし、後漢書の原典の記録者は倭の極南界の年代を倭国統一以前の事と
とり違えて記録したようである。であるから、倭奴国が倭国を統一して金印をもらったのに、
倭国の極南界にあるとなっている。)
倭奴国が倭国を統一した際には狗奴国もその配下にありましたが、のちに(西暦70年代か)離反したようです。
589 :
遊撃的論客・伊作 :2011/05/17(火) 20:59:13.63
>>588 『後漢書』東夷伝のとくに「はちゃめちゃ倭伝」の信憑性について、
どの程度の検証を得て「信じるに足る」との結論が出ているのか。
あれは、笵曄が儀礼破りの不手際があって宣城太守に左遷された短い期間に、
太守職の片手間に先行する幾つかの『後漢書』を整理したものです。
史官たちの膨大な記録に基づいて一から書いたものじゃありませんよ。
(どれが禅譲を受けた正当王朝かも不確実な長い動乱の時期をくぐりぬけて、
後漢代の歴史記録が宋政府の文書金庫にあった可能性は薄いし、
よしんばあったとしても、歴史書編纂を委任された身でもない笵曄に、
膨大な歴史記録を宣城に持ち出すことすら許可されなかったろう)。
そうした「編纂現場」を推察したとき、かの倭伝は、
『倭人伝』を参考に助手か部下に書かせた節があって、
笵曄が書いたと思われる本紀や主だった列伝とはデキに雲泥の差がある。
(すでにほかでも議論したことで、あーたも覗いて知っていると思ったが)。
そんなのを、ここで無批判に引っ張り出すとは・どゆこと?
590 :
日本@名無史さん :2011/05/17(火) 21:27:28.01
>>585 >俺が聞く耳をもつような意見いえばいいのだ。
結局、判断基準は、俺が。
それ以外にないから、聞きたいことしか聞かない。
591 :
サガミハラハラ :2011/05/17(火) 22:43:04.31
なるほど、それでわたしが( )で評したようなことになったのですね、 ありがとうございました。これで古代史の謎がまた一つ解けました。
592 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/18(水) 00:19:52.66
>>588 >倭奴国が倭国を統一した際には狗奴国もその配下にありましたが、のちに(西暦70年代か)離反したようです。
これはないでしょう。
1世紀の墓制は、狗奴國(菊池盆地熊本平野)と北部九州(筑紫平野以北)では異なるので、
これら2つ地域は、異なった文化圏であって、統一されたことがないことを示しています。
593 :
日本@名無史さん :2011/05/18(水) 07:11:14.95
>>592 結論には同意するが、理由を文化の違いに求めるのはどうかな。
文化が違う所が戦うのはよくあることだ。戦えば強い方が勝つ、しかし、必ずしも文化
を共通するとは限らない。
倭人伝によれば、旧百余国、漢時朝見する者あり、今、使訳通じる所三十国とある。
百余国のときにはまとまっていた様子はない。魏代にはいってほぼまとまった。
そこから、北九州と狗奴国は統一されてはいなかったと考えるべきだろう。
594 :
サガミハラハラ :2011/05/18(水) 08:06:41.09
>>592 付け加えますと、同じ北部九州でも、三郡山地を境に西は甕棺墓、
東は箱式石棺墓となります。
立石に甕棺墓の大きな遺跡がありますが、これは西の甕棺族が三郡山地を超えて遠賀川流域に作った橋頭保です。
595 :
サガミハラハラ :2011/05/18(水) 09:56:19.06
墓制の統一はなされなくとも、政治では統一されることはあります。 魏代には北部九州はまとまっていましたが倭国はまとまっていません。三十国は邪馬台国を宗主とする連合国のことです。それ以外の、例えば狗奴国は今、使訳通じる 国ではなかったようです。
596 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/18(水) 10:34:26.58
>>593 >理由を文化の違いに求めるのはどうかな。
文化とすると概念の範囲が広すぎました。
宗教の違いです。
>>594 >>595 >同じ北部九州でも、三郡山地を境に西は甕棺墓、東は箱式石棺墓となります。
1世紀の倭奴國体制には、遠賀川流域地域は入っていません。
倭奴國体制は甕棺墓の地域だけとみてよいでしょう。
遠賀川流域が倭國体制に組み込まれて行くのは倭國乱の頃からです。
共立された卑彌呼には、箱式石棺墓の勢力の影響があるようです。
卑彌呼は箱式石棺墓地域の出身と考えられます。
597 :
日本@名無史さん :2011/05/18(水) 17:27:14.15
>>593 >戦えば強い方が勝つ、しかし、必ずしも文化 を共通するとは限らない。
後漢書にしろ魏志にしろ歴史の結果を知って記述してある。
黄色は黒に勝つ。
これは、陰陽五行道で決められている。
黒の委は黄色の倭面土國には勝てない。
黄色は青には勝てない。
卑弥呼は青、黄幢は黄色、
黄色は青に勝てないのが、陰陽五行道なのだ。
黄幢は勝てず青の壹【臺】與が立ったのだ。
但し、これも五年間だけの宿命だっただろう。
卑弥呼が五年、難升米が五年で壹與も五年かんだった。
>>596 >宗教の違いです。
狗の宗教は一つしかないだろう。
>>585 > ●今後は名無しでからんでくる奴はすべて無視する。
> てめえら名無しには相手にする価値はない。
名無しも無視、ハンドル作っても無視・・・みたい。
つまり、天才はお気に入りの人じゃないと相手しないんだね?
なるほど、案外賢明なんだなぁ。
じゃ、元気で・・・。
>俺が聞く耳をもつような意見いえばいいのだ。 遊撃的論客・伊作殿に気に入られるアホな意見を言えと言うことですな。 >どこかで必ず不正解釈・小細工解釈・論拠ねつ造・ ごまかし・まやかしという手段に頼る。 遊撃的論客・伊作殿は常に正解釈・小細工解釈・論拠ねつ造・ごまかし・まやかしという手段に頼ってますな。
600 :
日本@名無史さん :2011/05/19(木) 00:01:41.74
不抜けじゃあ。
601 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/19(木) 14:48:45.41
卑彌呼の葬儀 『 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬(殉葬)者奴婢百餘人 』 徇葬:自らの身を以て葬る、生きている限りを尽くして葬る、あまねく葬る 殉葬:自らの死を以て葬る、後追い死を以て葬る、生贄となって葬る 直径23m余の大きな土盛を作り、 卑彌呼の傍に仕えた奴婢100人余りが、 その冢の周りを囲み、祈りの合唱を数日間(数十日間)奉げた続けた。 (あああ〜・・・んんん〜・・・) 卑彌呼の遺体は冢の頂上に埋められた箱型石棺の中。 木棺や甕棺ではありえないから、箱型石棺しか考えられない。 3世紀の墓制の時代背景を考えると、卑彌呼の墓は、 直径約23mの円墳か一辺約23mの方墳の頂上に、 竪穴式で箱型石棺(竪穴式石室の様に)が埋められていた。
602 :
がめ煮 :2011/05/19(木) 15:49:40.08
そうだよ〜邪馬台国は九州にあったんだよ〜一番大陸に近いからね〜はい!九州説で一件落着ぅ〜o(^-^)o
603 :
サガミハラハラ :2011/05/19(木) 19:39:27.75
あんがとねー。
可哀想な人達だな
>604 可哀想な人達だな きっと あなたは幸せな正月頭な人でしょうね。
607 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/21(土) 15:22:27.86
>>601 間違い修正
× 直径23m余の大きな土盛を作り、
○ 直径23m余の土盛を特別に作り、
608 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 16:01:48.48
>>601 >直径23m余の大きな土盛を作り、
【卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩】
の
【徑百余歩】の【百余歩】を直径と解釈するなら、
二点間の直線距離ですから、『歩』ではなく『尺』で事足りるでしょう。
『歩』は曲線状の計測に使われたと解釈するのが正しい。
故に
【徑百余歩】というのは、
【冢】の円周が【百余歩】。
従って、 (一歩=6尺、一尺=24cmでの魏尺)
百余歩≒100×24cm×6尺÷100cm=144m (円周)
【徑百余歩】の直径は、
144m÷3.14(π)=45.85987m
卑彌呼の冢の徑百余歩は、 直径約45.86mでしょう。
609 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 16:36:35.88
>卑彌呼の冢の徑百余歩は、 直径約45.86mでしょう。 約という語を使うなら45.86mと4桁の数字を示すのはおかしいね。約46mか約50mだね。
610 :
サガミハラハラ :2011/05/21(土) 17:17:07.41
卑弥呼の墓の直径は約150mですよ。 中国の1歩は日本の歩の倍なのです。日本の1歩は中国では1足といいます。
直径150mだと箸墓古墳の後円部と大体同じだしね。
612 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 17:38:01.58
>>609 >約という語を使うなら45.86mと4桁の数字を示すのはおかしいね。約46mか約50mだね。
好きにしなさい。
直径約45.86mは徑百余歩を徑百歩で換算してあるし、
一尺も約24cmで計算した。
小数点以下の問題で約を使ったわけではない。あしからず。
>>610 >中国の1歩は日本の歩の倍なのです。日本の1歩は中国では1足といいます。
上記の様な解釈はあまり有効ではないでしょう。
【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩
以古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里】
から
一尺を24cmで計算して得た数値です。
613 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/21(土) 20:18:15.82
長さの単位を論ずるのに唐時代以後に編集された文献を そのままその根拠としてはなりません。 唐代は長さ単位の大転換期です。 6世紀以前の長さ単位系列では、 ● 里・歩 ● 土地の大きさ長さを表す単位。 1歩≒23cm、1里≒70m、(1里=300歩) 基礎単位は「歩」:その時代の成人男子の足(≠脚)の長さ(カガトから爪先) ● 丈・尺・寸 ● 身の回りの物の大きさ(高さ・深さも含む)を表す単位 1寸≒2.4cm、1尺≒24cm、1丈≒2.4m (10寸=1尺、10尺=1丈) 基礎単位は「尺」:その時代の成人男子の腕(≠手)の長さ(手首から肘)
614 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/21(土) 21:07:00.23
>>613 の間違い修正
長さの単位を論ずるのに唐時代以後に編集された文献を
そのままその根拠としてはなりません。
古代には長さの単位が2系列あったのです。
唐代は長さ単位の大転換期です。
6世紀以前の長さ単位系列の基本は、
● 里・歩 ●
土地の大きさ長さを表す単位系列。
1歩≒23cm、1里≒70m、(1里=300歩)
基礎単位は「歩」:その時代の成人男子の足(≠脚)の長さ(カガトから爪先)
● 丈・尺・寸 ●
身の回りの物の大きさ(高さ・深さも含む)を表す単位系列
1寸≒1.6cm、1尺≒16cm、1丈≒1.6m
(10寸=1尺、10尺=1丈)
基礎単位は「尺」:その時代の成人男子の手(≠腕)の長さ(手首から爪先)
1歩≒1尺の時期もありました。
615 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 22:34:39.35
>>570 そもそも「倭面土国」なんて国があったわけじゃなくて、邪馬台国や卑弥呼と同じく、あちらの人が
日本語音を漢字表記したもの。だから「ワメド」と読めば、なんとなく「ヤマト」とも近い。?
邪馬台国をヤマト国と読めば、同じ国という可能性もでてくる。
そうすれば、倭人伝の「その国元また男子を以って王と為す、住すること7,80年、倭国乱れ…」の
意味もわかるというもの。
ちなみに、ヤマトと呼べる地名が九州には延喜式の時にはすでに存在している。
新井白石が「外国之事調書」で邪馬台国に比定した山門郡。確か白鳥庫吉だったと思うが、彼が
邪馬台国に比定した菊池郡山門郷。共に地理的には近いのだが、このあたりの可能性もあるな。
616 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 22:59:32.00
菊池と旧山門郡が入るなら、 中心は大牟田荒尾のあたりかな。
>>614 そういえば、フィートも足(フット)の長さが元になってるらしいね。
618 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/22(日) 02:21:44.00
>>615 倭面土國の音について。
倭(イ)面(メン)土(ト)
倭(=委=壹=一[イ])
面土(=米多=目達=米田[メタ])
米多:旧事本紀 筑志米多國・上峰町上米多下米多・上峰町 老松神社 米多浮流
目達:吉野ヶ里町目達原
米田:肥前風土記 三根郡米田郷
委面:漢書地理志倭人条 注 如淳
619 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/22(日) 02:54:07.33
「尺取虫」は何故このような名前なのか? 手のひらで、一尺二尺・・・・と測る時の手の動きが、 ある種の芋虫の歩み方とそっくりなので、 その芋虫を「尺取虫」「尺蠖」と名づけた。
>>614 6世紀以前の長さ単位系列の基本は、
● 里・歩 ●
土地の大きさ長さを表す単位系列。
1歩≒23cm、1里≒70m、(1里=300歩)
基礎単位は「歩」:その時代の成人男子の足(≠脚)の長さ(カガトから爪先)
どうやったら確認できますか?
622 :
日本@名無史さん :2011/05/22(日) 14:39:24.97
>>620 官名と地名は関係ない。それはこじつけ。
対馬と壱岐の官は卑狗。伊都国の官は爾支、奴国は?馬觚、不弥国は多模、投馬国は弥弥、
邪馬台国は伊支馬。関係ないし。
それから熊本から狗奴国を連想する人もいるようだが、熊本の地名は新しい。江戸時代の
加藤清正から。
元々は火の国であり、肥後の国。クマと言えば、人吉付近の球磨だろうな。
新井白石は球磨地方を狗奴国に比定している。
623 :
日本@名無史さん :2011/05/22(日) 16:01:55.65
>>613 >長さの単位を論ずるのに唐時代以後に編集された文献を
>そのままその根拠としてはなりません。
>唐代は長さ単位の大転換期です。
【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩
以古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里】
に
古法六尺為歩三百歩為里
とある。
古法は魏時制を含むと解釈して問題ないでしょう。
故に
一歩は六尺で一里は三百歩であり千八百尺である。
一尺は約24cmで問題なし。
624 :
日本@名無史さん :2011/05/22(日) 16:02:34.39
>● 里・歩 ● 土地の大きさ長さを表す単位系列。 1歩≒23cm、1里≒70m、(1里=300歩) 基礎単位は「歩」:その時代の成人男子の足(≠脚)の長さ(カガトから爪先) >● 丈・尺・寸 ● 身の回りの物の大きさ(高さ・深さも含む)を表す単位系列 1寸≒1.6cm、1尺≒16cm、1丈≒1.6m (10寸=1尺、10尺=1丈) 基礎単位は「尺」:その時代の成人男子の手(≠腕)の長さ(手首から爪先) 上記の事項は漢籍の何処にありますか? もしあれば教えてください。参考にしたい。 又、上記を持って 【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩 以古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里】 を否定できないだろう。 「歩」の概要が記述されています。 腕の長さでも足の長さでもありませんよ。 【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩】 と、その委細が明確になってますよ。
625 :
日本@名無史さん :2011/05/22(日) 18:45:36.91
>>622 合理的な推論だと思うね。ただし、狗奴国がクマ国かとなれば、それは簡単に
同意はできないが。
>>622 官名と地名は関係ない。それはこじつけ。
官名と地名の関係など話していない。
菊池にはククチヒコがいたという事実を述べている。
官とか副といっているのは役職名なのか個人名なのか
629 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 00:57:22.97
役職名だよ。だから、対馬国と一支国は同じなんだ。 不弥国までの官名は、ある程度共通しているが、投馬国や邪馬台国は まったくちがう。投馬国や邪馬台国が北九州から遠く離れていたから 官名の付け方がちがったということだろう。
ああそれは違うな 王とはその地の伝統的なシンボル 官とはその地を実質的に管理する力のボスだな。 これは今の日本人には理解しづらい。 なぜならその地が長く平安なら王のしもべが官となるから。 中国においては、王とそれを支配する官という関係があったんだよ。
さらに言えば 狗奴国の狗古智卑狗について言えば これがいわゆる煽動家だたんじゃないだろうかな、 だから、遠く呉との関係まで暗喩した記述になってるんだろうと思う。
>>630 >中国においては、王とそれを支配する官という関係があったんだよ。
皇帝から地方に封じられた王と、王の行動を監視するために中央から任命された官という関係で、
官が王を支配するわけじゃない。
それに、それは中国の事情だろう。そのまま倭の事情と同じとは言えないんじゃないか。
30国の王を封じ、それを監視させる官を任命する皇帝のような存在は倭にはいないだろう。
633 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 06:21:47.93
>>630 >王とはその地の伝統的なシンボル
>官とはその地を実質的に管理する力のボスだな。
王と官の関係を知らないから、そんなトンチンカンなことを考えるんだ。
王とは主権者、その王が国政を分担させるために指名した者が官だ。
>中国においては、王とそれを支配する官という関係があったんだよ。
中国で、王を支配する官など置かれたことはないよ。
中国の官が被支配国の王を監視したとかいうのは、まったく別の話だ(中国と
その官、被支配国の王とその官をごっちゃにしてはいけない)。
634 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 08:02:24.09
菊池市に行ったら隈府という地名がありました。 隈府の隈はクマとも読むようです。南北朝までさかのぼりようです。 だから熊本はもともと隈本であったようです。 つまりクマの中心地となります。
635 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 12:20:36.84
奈良の橿原に倭国の副官ミミナリがいたことは確かだろう。ミミナリ>耳成山
636 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 12:23:06.51
ククチ・ヒコはフクチヤマ(福知山)にいたんではないか?
637 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 13:33:08.50
九州説が妥当でしょ。 だって中国や朝鮮半島に人が行き来してたんだから。 大陸ないしは半島から一番近いのは九州っしょ。 もし近畿に首都や防衛機能が集中してて、九州が手薄だったら とっくに九州は中国領もしくは朝鮮領になっとるがな。
639 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 15:28:46.62
西暦1世紀〜4世紀ぐらいまでの日本の古代史を 明確するに方法は1つだけあるぜ。 しかも確実にな。全ての事実が分かる。 それは奈良と九州全土の地面を無条件に全て掘り返す事だ。 確かに奈良の法隆寺とか歴史的建造物や普通に人が住んでるビルやマンションや 道路や鉄道のインフラも例外なく全部ぶっ壊す事になるから、もったいないけど、 それをやれば、ほぼ全部分かると思うよ。 かなり膨大な遺跡や出土品が出てくるはず。
邪馬台国は東京渋谷の慶応幼稚舎の下だよ。
642 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 16:19:24.14
子供の頃、実家の畑や庭を掘り返すと土器だか土偶だかの欠片とかよく出てきたんだけど。 こーゆーのは歴史的価値あるのかな? 一応そばに貝塚もあるし。 まあ、千葉県だから邪馬台国とかとは全く関係無いとは思うけど。
643 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 16:23:59.07
>>639 倭人伝という明確な史料があるのに、そこに書いてあることが理解できない連中だ。どんな証拠が
出てきたって理解できないってことは同じだろうよ。
644 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 16:38:45.45
日本史は4世紀の歴史が抜けてるらしいじゃん。 空白の世紀。 ココが分かれば邪馬台国から大和朝廷への変遷が分かるじゃん。
645 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 18:06:51.70
646 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 18:54:01.33
天才がいなくなると、レベルが極端に落ちるな やはり、必要悪かな?
647 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/23(月) 20:20:36.12
648 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 21:16:23.84
649 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/23(月) 21:20:02.17
>>623 >古法は魏時制を含むと解釈して問題ないでしょう。
夏〜戦国:短里時代、「歩」と「尺」が別系列の長さ単位
秦〜隋:長里短里の混在時代、「歩」と「尺」に「歩∝尺の関係」と「別系列単位関係」が混在した
唐〜近代:長里時代、1歩=6尺に統合
650 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/23(月) 22:09:14.92
>>624 >上記の事項は漢籍の何処にありますか?
隋以前の漢籍には断片が見られるだけですが、
上記の「尺」「歩」は、アジアの東の端の片隅の日本には1940年代まで残っていました。
私は子供の頃、その(
>>614 )歩尺を目撃できました。
私の目撃は1940年代の奈良盆地にて。
筑紫平野にも残っていたと思う。
筑紫平野の僻地の70歳以上の土着民の方は記憶の隅にあるのでは?
日本の片田舎の何処にでも残っているかもしれません。
651 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 22:26:16.23
いまでも、畑の畝を起こすとき、 足の長さいくつ分とかで測ったりしない? 地下足袋履いた足で、一足二足と測ってますね。
652 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/23(月) 22:56:58.60
>>651 >いまでも、畑の畝を起こすとき、足の長さいくつ分とかで測ったりしない?
>地下足袋履いた足で、一足二足と測ってますね。
「歩」は、それですよ。
昭和20年代の始めには、地下足袋や長靴ではなく、
裸足か素足にワラぞうりで、いっぽ、にほ、さんぽ・・・と数えていました。
でも、長里短里が混在してたら、えらい不便でないかい
654 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 23:50:12.26
とりあえず 誰かタイムマシーン、いや、せめて過去を撮影できるカメラを開発してくれ。 そうすりゃ全て謎が解ける。 従って我々が学ばなければならないのは文系では無く、まずは理数系だ。 話はそれからだ。
656 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 02:12:27.97
>>649 >夏〜戦国:短里時代、「歩」と「尺」が別系列の長さ単位
上記のようなことはありえません。
何故なら、
尺は長さの単位であるが、
歩は長さ単位ではありません。
歩は基本的には計測方法です。
計測の方法として、六尺=一歩と五尺=一歩の二系統がそんざいした。
歩の長さの単位になっているものは
あくまでも尺です。 一歩=六尺、三百歩=千八百尺のようにです。
何もない箱の中を探しても、何も見つからない。
箱の底には「希望」が残ってるんだよ
659 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 04:05:59.63
出でよ。偉作。
660 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/24(火) 05:58:50.10
>>656 >尺は長さの単位であるが、
>歩は長さ単位ではありません。
>歩は基本的には計測方法です。
「歩」も「尺」も計測方法です。
計測方法が基準となって単位となったのです。
現代の単位(長さ・質量・時間・etc.)も全て計測方法からきています。
「歩」は足の大きさと歩く形から。
「尺」は手の大きさと測る時のその動きから。(尺取虫・尺蠖)
661 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 11:16:31.13
>>659 話題性だよ。
天才が、カッとなって打ち消しに出てくる様な。
支線の話じゃ出て来ないだろう。幹線でなきゃね。
662 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 11:22:44.52
それでも邪馬台国は九州にあった。 涙を誘う哀しい物語であった。 さようなら、畿内説たち
663 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 13:30:21.04
「さようなら、畿内説たち」 と言いつつ九州説はあっちの世界に旅立ってしもうたんじゃよ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ O 。 , ─ヽ ________ /,/\ヾ\ |__|__|__|_ __((´∀`\ ) |_|__|__|__ /ノへゝ/''' )ヽ ||__| | | \´-`) / 丿/ |_|_| 从.从从 | \__ ̄ ̄⊂|丿/ |__|| 从人人从. | /\__/::::::||| |_|_|///ヽヾ\ / ::::::::::::ゝ/|| ────────(~〜ヽ::::::::::::|/
664 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 17:49:44.65
>>660 >「歩」は足の大きさと歩く形から。
恣意性の論旨には平行するだけ。
【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩
以古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里】
を
無視しての「歩」の解釈は無効です。
>>661 自称天才氏は
「歩」には触りたくないだろう。
665 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 18:11:41.87
邪馬台国は四国だ。
666 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 18:53:47.88
>>664 つーことは六尺で歩、だったという事なんですよね。
普通に読んでしまうと、誰でもそう読みますよね。相当にへそ曲がりでなければ。
以古法六尺為歩は……
667 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 19:39:37.45
>>664 >自称天才氏は
「歩」には触りたくないだろう。
「歩」じゃな。 せめて金、角くらいほしいね
668 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 20:18:44.72
>>664 そんなに簡単ではないね。
問題はこのような短小な里が、魏代では一般に使用されていたのか、東夷伝にだけ
見える特別な里か、である。一尺24センチとして360倍すると、86.4
メートルになる。360尺=一里という特別な里制があったのであろうか。
直木孝次郎氏が上のように述べているね。知ってたかな?
669 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 21:12:27.15
>360尺=一里という特別な里制があったのであろうか。 考え方が逆じゃないの? 仮説→実証はトンデモになってしまうんだよ。 実証→本論でなければね。 公に記されている・国家に認定されている事実のみで論を組み立てる、でなければ。 公認されてない思いつきは全て間違い。あやふやなものを論旨に取り入れても駄目。 厳格に行きましょう。 考察はなしで行きましょう。 事実と方程式があるのみ。
670 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 21:14:33.67
>360尺=一里という特別な里制があったのであろうか。 ない。 そんな記録はどこにもない。
671 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/24(火) 21:51:55.79
短里とか愚かなことを言っている人は中国人に嘲笑されていることを知っていますか? 伊都国からの放射説など間抜けなことを言ったら中国人の学者が大爆笑ですよ。
673 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 22:12:38.88
>公に記されている・国家に認定されている事実のみで論を組み立てる、でなければ。 で、あなたは邪馬台国をどこに比定してるの?
674 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 22:15:03.49
>>671 >伊都国からの放射説など間抜けなことを言ったら中国人の学者が大爆笑ですよ。
こりゃ、大爆笑だ。中国の学者が放射説をとってることを知らないのかね。
675 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/24(火) 22:15:25.76
>>664 >【足輪各徑六尺圍一丈八尺足輪一周而行地三歩
>以古法六尺為歩三百歩為里用較今法五尺為歩三百六十歩為里】
>を無視しての「歩」の解釈は無効です。
長里が定着し一本化した唐代以降に書かれた文献を基に、
隋代以前の長里短里混交時代を推測してはなりません。
秦代から隋代までは、長里と短里が平行して使われた時代です。
この時代に書かれた漢籍には、長里と短里の混在だけでなく、
長里表記数字と短里表記数字の和の数字が書かれていることもあります。
676 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/24(火) 22:24:48.46
>>668 >問題はこのような短小な里が、魏代では一般に使用されていたのか、東夷伝にだけに
見える特別な里か、である。
上記を書いたおっさんは過去の遺物。
隋書にも見られるように短小な里と長里が混交して使われています。
677 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/24(火) 22:31:54.12
>>674 「邪馬台国は九州にはない」と言った王金林教授ですね。またまた大爆笑。
678 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 22:51:50.30
>>677 なになに、その王金林教授は放射説を主張してるの?
679 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/24(火) 22:56:38.95
>>678 そのように愚かな九州説の人が主張していました。
680 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 23:19:51.00
王金林教授が九州説ではなくても、放射説を主張しているなら、
>>671 の
ようには言えないですね。
>>679 ググると
王金林の「古代の日本」134頁
「・・・私の見方は、榎一雄氏の観点と一致するものである。」
とあるんだが。
まだやってるのか わけのわからない単位を設定し、それを短里と呼び ほんらいの里を、それにあわせて長里と言い換える。 これは詐欺の手法だよ。いいかげんにしなさい。
畿内説の連中は邪馬台国が畿内にあったことにしたいだけです。 畿内は邪馬台国とは何の関係もない倭種の国にすぎないんですけどね。 邪馬台国に恋いこがれているけど 本当は 畿内は邪馬台国論争の候補地にすらなれないんですよ。 それでも どうしてもあきらめきれないんですね。 哀れですね。かわいそうですね。悲惨ですね。
>>684 420メートル強。これが現在の単位との換算。
80メートルだとかなんだとか、すべてまがいものであるということ。
>>671 > 伊都国からの放射説など間抜けなことを言ったら中国人の学者が大爆笑ですよ。
なんてー学者?
688 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 00:42:46.82
安田哲也「邪馬台国の暗号」は、次のように書いているね。 一支国は、実際には南北約18キロ、東西約15キロの島であるが、倭人伝では 方三百里とされる。長里で考えると130キロでまったく合わないが、短里で計 算すれば24キロで、これならば観察の誤差とみてよい。このように比較的小さ く海上からでも形や大きさを確認できる島について短里がもちいられているとい うことは、倭人伝が短里を使用している証拠といってよい。
689 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 00:58:53.42
だからさー、 早い話が、古代の天皇陵を全部発掘調査すれば済む事じゃん。 神功皇后 応神天皇 仁徳天皇 この辺りをさ。 そうすりゃ何で邪馬台国が無くなって大和朝廷ができたのか分かるって。
>>686 中国人に聞け。短里だ肇里だんてのは笑い話のネタでしかない。
691 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 01:09:58.22
>>641 福沢さんとこか、中津の八面山が怪しいな
692 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 01:10:18.99
公里をそのまま使うと 行先はパプアニューギニアかマリアナ諸島 畿内説のよく言う90度回転をすると ベーリング海峡
693 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/25(水) 01:11:44.20
694 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 01:27:05.51
王巍って考古学だろ。文献については素人だ。聞かれても分からんから 笑ってごまかしただけだな。
695 :
どくだみ :2011/05/25(水) 01:44:36.28
以前、三国志の距離の記事を丹念に抽出してくれた人がいて、 そのおかげで三国志に短里の記事は無いって判明しましたよ。 終止符スレだったかなあ。
696 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 01:52:52.84
>>695 確かに、短里という表現はおかしいと思うが、倭人伝でははっきりわかっているところの距離が示されている。
帯方郡から狗邪韓国までが七千里あまり。狗邪韓国から対馬までが千里あまり。対馬から壱岐までが千里あまりなど。
これから計算すると、魏の時代の一里は340m位だったかな?これではどうしても合わないというところがある。
697 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 01:58:17.03
東夷伝の距離は、1里=80メートルぐらいで書かれているとみてまちがいない。 違うところがあったらあげてみな。
698 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 02:26:35.58
一月行の距離から考えても、 一応きちんと距離体系はできていて、 中華圏では一里435メートル、一月行千里 辺境では一里80メートル前後、一月行千里(500里の説あり) ときちんと計算して書き分けられているような気がするんだけどな。 もちろん誤差はあるだろうが、5倍も違うと、常識的には参考にもならない データになってしまう。 また、一日の旅程距離は15キロ前後 公里千里なら一月の移動距離としては妥当。 これが辺境では同じく1/6程度の80キロとなる。 ちなみに東海道53次でも、宿間の距離で4里(16キロ)をこえる ことはない。 そして、老人や女子供ではそれさえもきょりがありすぎるため しばしば中間の2里程度のところにも宿場ができたりしている。
辺境の方が単位が細かいなんて変だよな。 普通は良く知らない所の方が大雑把になるはず。 単に古代人の知見の不足じゃないのか。 同じ辺境でも漢書西域伝では大体正確なんだし、 地域によって縮尺を変えるなんて不合理な事しないだろ。
オレは今三国志を素読してるけども、 里が出てくるたびに「短里か長里か?」って考えてる。(戦闘シーンでよく出てくる) どっちかっていうと、短里の方がピッタリくる気がする。
>>690 >中国人に聞け。短里だ肇里だんてのは笑い話のネタでしかない。
じゃーこれは、貴方の主張じゃないんだね。
685
> 420メートル強。これが現在の単位との換算。
> 80メートルだとかなんだとか、すべてまがいものであるということ。
で、これを本来の里といってる中国人って?
どんな笑い話のネタになってるって?
あと、肇里ってのも教えて。
>>693 > 王巍先生ですよ。
なんという著作に放射説が間抜けだとあるの?
あー、それと王金林は放射説でいいんだよね?
中国人の学者も間抜けということでいいのかな?
>>695 東夷伝の里数値全てが短里ではあり得ないと判明したの?
東夷伝の里数値から短里仮説が生じたんじゃないの?
704 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 06:51:32.54
>公里をそのまま使うと 行先はパプアニューギニアかマリアナ諸島 短里という公の記録に残されていない単位を使うよりは、素直読みだろう。 魏では、辺境の地の記録なんてどうだって良かったんだよ。 パプアニューギニアかマリアナ諸島だろうがそれでも良い。
705 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 07:00:16.65
>>699 >地域によって縮尺を変えるなんて不合理な事しないだろ。
西域では里は使用されていなかった。だから、西域に旅した中国人は、自分たちの
距離の単位である里を使用して旅程を表した。
しかし、東夷では古代周の英雄が移り住んで朝鮮などを開拓したという伝説があり、
古代の周で使われていた里を使っていた。当時の中国の知識人はそのことを知って
いたので、東夷の距離については現地の里を用いることがしばしばあった。てなこ
とが考えられるんだよ。
ぷっ、伝説だってよ〜。 ファンタジーの話してるんじゃないんだからさあ。
707 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 08:09:22.71
>>704 >短里という公の記録に残されていない単位
考え方がだめだねえ。倭人伝自身に残されている単位だよ。韓は方四千里、
郡から狗邪韓国まで七千里、狗邪韓国から九州まで三千里、それが東夷伝
に書かれている里だ。
長里という公の記録もないだろ つまり、魏志に「里とはこれこれなにがし」という規定はないよな #ここで「長里」とは仮に使ってる術語です
709 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 10:11:51.45
不弥国までで、合計10700里 一月行を1000里 10日行を330里とすると、 水行20日=660里で、10700+660=11360里で投馬国 水行10日陸行一月=1330里 11360+1330=12690里が邪馬台国。 つまり、万二千余里である。 で、ふとおもったんだけど、水行10日陸行一月=1330里と 不弥国までの10700里を足すと12030里となって、ほぼ万二千里なんだが、 水行陸行表記のところから。つまり不弥国からの放射説ってあるかな? 大抵放射説は伊都からだけどねえ。
710 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 10:38:24.32
>一月行を1000里、10日行を330里とすると、 対馬国から一支国まで1月もかかるはずはない。
712 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 12:59:49.39
>>708 そうだよ、「長里」という言葉は「短里」同様、つくり用語だよ、つまり妄想。
以古法六尺為歩三百歩為里の記録に従えよ。六尺為歩だよ。
713 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 13:01:27.34
長里という言葉、どこから出てきたの? そんな記録どこにもない。
714 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 13:03:44.56
ふーん。邪馬台国ねえ。 俺は、その空間の過去の光景を写真に念写する能力があるんだけど 邪馬台国っていつよ?何年前? 何枚か撮って微調整が必要だ。 念力が強すぎても、とんでもない古代になっちまうし、 弱すぎても江戸時代や明治が映っちまう。 まだ一発で正確に力をコントロールできない。 あと、何月何日何分何秒とか、そこまで正確なショットは収められない。 で、場所は何県何市のどこに行けばいいんだ? ただカメラを向けてシャッターを押すだけだが、直接その場所に行かないと撮れない。
715 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 13:07:03.10
ない、と断言できるわけなんだよなぁ……、畿内説は自信満々。 九州派は証拠集めから始めなければね。世の中、甘くね−ぞ。どんな裁判でも証拠がなければ信じて貰えんよ。 白黒はっきりしたいのなら、地道にいかなけりゃ。解釈ではなくて、証拠を探せよ。 苦しい後には栄冠があるよ。
716 :
サガミハラハラ :2011/05/25(水) 17:42:14.55
>>714 すごい力をおもちですね。邪馬台国の都は佐賀県の吉野ケ里です。ここに230年代まで都があったのです。
北内郭に卑弥呼様はおられました。
カメラで写して発表してください。期待してます。
717 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 20:44:36.19
九州説は九州説でも北部九州に持ってくる奴は畿内説と大して変わらない。 アホーの部類だ。 倭人伝をどう読んでも邪馬台国は、温暖な南九州にしかならないよ。 どうして北部九州に持っていくかなー??
718 :
やはり天才の伊作 :2011/05/25(水) 21:25:06.55
>>717 >どうして北部九州に持っていくかなー??
たぶん、畿内説よりもセコくて、ちいさな自我を優先するから。
…で結局九州説はどれが一番有力なんだ? それとも畿内で無ければオッケーなのか? だったら九州説じゃなくて単なるアンチ畿内説じゃんW
720 :
やはり天才の伊作 :2011/05/25(水) 22:18:16.88
>>719 九州説の特徴は、
●地元びいき●山師的一発狙い●功名狙い●独善我流●奇を衒う●強引ぐマイウエイ
そして●古田説・安本説などの亜流●古田説・安本説などの妄信。
>結局九州説はどれが一番有力なんだ?
そもそも・ろくなものがない。
とくに、北部九州に押し込める奴は畿内説よりもタチが悪い。
721 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 22:21:35.38
畿内説を叩くのに変わりないけど、 九州説って南と北で憎しみ合っているんだね。 サガミハラハラさんと天才の伊作さん、お互いに仲良くしたら? 同じ九州説だよ、分かり合えると思うよ。先ずは相手のいう事を受け止めよう。 正しい事もいっているさ。
722 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 22:24:23.98
まず、伊都国の比定について考えてみよう。 末盧国から東南五百里だよ。方角はわざわざ東南と細かく言っているんだから それがまちがっているとは考えがたい。五百里は対馬国から一支国、又は一支 国から末盧国の半分だ。となれば、伊都国は佐賀市付近だろうな。 伊都国が佐賀ならば、使者がわざわざ船をおりて陸行したことも理解できる。 南水行についてくどくど説明せず、あっさりと書いていることも理解できる。 はい、伊都国はきちんと比定できた。これで邪馬台国の範囲はかなり絞れる。
723 :
やはり天才の伊作 :2011/05/25(水) 22:28:24.67
>>721 俺は、畿内説よりも九州北部説が嫌いだ。
なぜならば、自ら目を三角にして批判する畿内説と同じ手口で
伊都国を前原に奴国を博多湾にするからだ。
そもそも邪馬台国を九州北部に押し込めるには、
さらなる小細工と欺瞞に頼る宿命にある。
俺にいわせれば、この手合いと畿内説の論争は、
「ムジナとムジナのバカ仕合」だ。
>>719 実際そう公言した先生いるんだよな。
畿内でなければ何処でもいいってw
それ聞いてさすがに呆れたけど。
725 :
サガミハラハラ :2011/05/25(水) 22:34:29.21
邪馬台国南部九州説がなりたつには次の問題を解決しなければなりません。 九州の大分県中部から熊本県中部にかけて高地性集落が帯状に続いています。(東アジアの古代文化を考える会のホームページの討論室の西都原古墳群のコメント2をご覧ください。図がのっています。) これはこの帯状の高地性集落の北と南とでは仲がわるく、戦いをしていたということをあらわします。 ところで伊都国は北部九州にあります。邪馬台国と伊都国は決して敵対関係にありません。 ということは、伊都国が北部九州なら邪馬台国も北部九州になければならないということになります。 さあ、いかがでしょ。 伊作さんとは仲良くやってるつもりですけど。結構論があうようです。
726 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 22:38:23.50
伊都国を何もない所に比定してもしゃーないだろう。 世間に通用するわけないだろう。 当たり前の事が理解できない奴には、あ・き・れ・る・ぜ。
727 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 22:45:21.12
遺作が一人でイカれてるだけ だから、皆心配すんな
やはり天才の伊作はいつものように 馬鹿にされるために出てきただけだっす。
730 :
天才伊作 :2011/05/25(水) 23:05:46.26
これでいいのだ。
天才バカボン
732 :
どくだみ :2011/05/26(木) 01:29:26.76
>>703 もちろん東夷伝以外で。
東夷伝以外でも短里があてはまる例があれば、
短里が使われていたと考えられるのですが、
そういう例はありませんでした。
ならば、短里といわれるものは、単に
「東夷伝の里数で実測値を割ったらこうなりました」というだけのことで、
短里が使用されていた証拠にはなりません。ただの計算結果です。
それでも短里が存在したのだと主張するならば、
東夷伝だけに通用する特殊な単位があったということになります。
正史に辺境独自の単位を掲載するというのも、おかしなことです。
しかも、一般に用いられているのとおなじ「里」という文字を使いながら、
それが違う単位系であることは断らない。
これでは、読者が混乱して情報として役に立ちません。
断る必要がないほど東夷での短里が他の地域でも周知の事実だったのでしょうか。
そうであるならば、東夷伝以外の文献に全く見られないというのが、あまりに不自然。
とすると、東夷伝だけに通用する短里が存在したと考えるより、
東夷伝の里数が正確な事実を伝えていないと考える方が合理的。
という理由で短里は無かったと考えざるをえません。
733 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 02:12:28.15
天才伊作さん 何故、一里は千八百尺なの? 何故、一里が二千里じゃいけなかったの?
734 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 03:55:17.07
>>732 言ってることはよくわかるのだが、公里では全く現実の地勢に合わせられず、
公里が使われていないのはほぼ間違いない。
また、公里と一月行の距離を1/6するだけでほとんど矛盾なく説明できるのも事実。
つまり、単位系が1/6というだけで、かなり正確に記載されていることになる。
公里で説明しようとすれば、その場その場で一貫性のない修正を続けなければならない。
1/6換算はそれだけで全てを説明できる。
735 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 04:10:12.52
末盧國から東南500里と書いてあるのに、伊都國が北部九州なわけないだろ。 方角を間違ったと言ってる畿内説者と一緒だな。
736 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 05:22:54.75
>>725 >邪馬台国と伊都国は決して敵対関係にありません。
これがまちがい。倭国の乱は北部九州と中南部九州の戦いだった。その結果、中南部
九州が実質的な勝利を収めたから、邪馬台国時代には伊都国が邪馬台国の支配下に入
っていただけで、それまでは、邪馬台国と伊都国は敵対関係だったんだよ。
だから、伊都国に一大率が置かれ、北部の国々をきびしく検察していたんだ。
737 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 05:37:13.13
>>726 >伊都国を何もない所に比定してもしゃーないだろう。
何もないなんて認識が大きなまちがいだな。
多久から久留米にかけて吉野ヶ里クラスの大集落がいくつもあったんだ。寺沢
の本でも読んでみな。そう書いてあるよ。しかも、佐賀付近は後の肥前国府に
つながるところ、北部九州の中心地であったことが分かる。
一方、前原あたりはそれこそ、小さい家と墓場の密集地、とても王族が住むよ
うなところではなかったね。
738 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 05:53:19.21
739 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 06:05:40.09
>>726 >伊都国を何もない所に比定してもしゃーないだろう。
>>737 >佐賀付近は後の肥前国府につながるところ、北部九州の中心地であったことが分かる。
>>737 を支持する。
肥前國庁跡のそばには、吉野ヶ里遺跡と同一構造を持つ惣座遺跡がある。
その惣座遺跡が伊都國の城郭跡である。
>>732 >
>>703 > もちろん東夷伝以外で。
> 東夷伝以外でも短里があてはまる例があれば、
> 短里が使われていたと考えられるのですが、
> そういう例はありませんでした。
なんで、東夷伝以外なの?
東夷伝には短里と考えられる里が、散見されるのだから
695
>そのおかげで三国志に短里の記事は無いって判明しましたよ。
は、「まちがい」だよね。訂正すべきだろ?
> ならば、短里といわれるものは、単に
> 「東夷伝の里数で実測値を割ったらこうなりました」というだけのことで、
> 短里が使用されていた証拠にはなりません。ただの計算結果です。
じゃー東夷伝以外の里数で実測値を割っても有効じゃないというんだね。
長里派は、篠原俊次の「魏志倭人伝の里単位」を使えなくなるけど、それでいいの?
> しかも、一般に用いられているのとおなじ「里」という文字を使いながら、
> それが違う単位系であることは断らない。
> これでは、読者が混乱して情報として役に立ちません。
司馬遼太郎の『龍馬がゆく』に「〜里」とあっても混乱しないし、
法顕や玄奘の旅行記はインドの一里195メートルという単位を
中国と同じ「里」で記していると読んだが。
>>732 > 断る必要がないほど東夷での短里が他の地域でも周知の事実だったのでしょうか。
> そうであるならば、東夷伝以外の文献に全く見られないというのが、あまりに不自然。
『江表伝』、『山海經』、『水経注』、『漢書』注など、ググればもっとあるんじゃないのかな。
知らないはずはないと思うが。
> とすると、東夷伝だけに通用する短里が存在したと考えるより、
> 東夷伝の里数が正確な事実を伝えていないと考える方が合理的。
「計其道里当在会稽東治之東」なんだから
中国国内短里と考える方が合理的だと思うけど。
> という理由で短里は無かったと考えざるをえません。
短里はなかったとすると、東夷伝の里数値はどう考えるの?
始めに戻る・・・と。
742 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 07:17:41.26
中国内では一里四百数十メートルだったんだろうが、東夷ではいわゆる短里が 用いられていた、そして当時の知識人はそのことを知っていて、読み分けてい た。そう解釈すると東夷伝の表記はすっきりと理解できるよ。 でなければ、万二千里なんていいながら会稽東冶の東だなんていってるのは全 く理解できない。万里とか万二千里を長里で考えたらニューギニアあたりのは ずだからね。
743 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 07:35:31.33
>短里はなかったとすると、東夷伝の里数値はどう考えるの? 始めに戻る・・・と。 筆者が間違った。 単純な事だろう。どうして当たり前の事をわかろうとしないの?不思議だな。
>>743 > 筆者が間違った。
> 単純な事だろう。どうして当たり前の事をわかろうとしないの?不思議だな。
一万二千里を計算すると、丁度会稽(東冶が正しいとしても)の東にあるはずだ。
帯方郡から東南に一万二千里の位置が、会稽の東になるといってるのに、
どうして、間違ったなどと考えるの?不思議だな。
陳壽は会稽がどこにあるのか知らなかったとでも?
>>744 会稽東冶の東っていっても、会稽東冶のすぐお隣とは限らない。
どれだけ東にむかって進むかは書いてないよ。
小笠原諸島だって会稽東冶の東と言えなくはない。
746 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 08:43:02.20
一月行を、文字通り一月移動するという解釈が多いようだが、 文脈では、誤差を含むものの、里に変わる距離の表現 と解釈して差し支え無いと思う。 一月行を千里とし、陸行水行を里に換算して割り当てれば きちんと万二千余里となる。 この里に短里を採用すれば、壱岐、対馬、松浦、佐賀大和、 そして水行表記に一致する。 そして、そこは会稽東冶の東に一致する。 もう、ほとんど矛盾はない。
747 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 08:45:22.02
公里を採用すれば、パプアニューギニアかマリアナ諸島となり、 これでは、かなり広くとっても 会稽東冶の東には当たらない。
>>745 ひょっとして、
会稽東冶から東に一万二千里で女王国に届くって読んでるのか?
749 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 09:12:31.91
>帯方郡から東南に一万二千里の位置が、会稽の東になるといってるのに、 どうして、間違ったなどと考えるの?不思議だな。 だって 会稽の東は、帯方郡から一万二千里の位置じゃないじゃん。 完全に間違ってるだろう。 パプアニューギニアかマリアナ諸島になるよ。
750 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 09:17:29.99
厳密に考えると合わないけど、 帯方郡から東南に一万二千里の位置が小笠原諸島だったとしたら会稽東冶の東と言えなくはない。 凡そ合ってるだろう。 陳寿はそのくらい遠方に邪馬台国があると思ったんじゃないの。
>>749 > だって 会稽の東は、帯方郡から一万二千里の位置じゃないじゃん。
> 完全に間違ってるだろう。
> パプアニューギニアかマリアナ諸島になるよ。
順序が逆だろ?
会稽の東が帯方郡から一万二千里なんだよ。
どこに帯方郡から一万二千里が
パプアニューギニアかマリアナ諸島になるって書いてあるんだい?
完全に間違ってるだろう?
>751 完全に間違ってるだろう? うん あなたの頭がね。
754 :
サガミハラハラ :2011/05/26(木) 09:50:13.63
>>736 倭人伝に、「世世王有るも、皆女王国に統属す」とありますが、これは敵対とはいえないと思いますが。
755 :
やはり天才の伊作 :2011/05/26(木) 09:52:38.58
海路距離は測定のしようがない。測定のしようがないものは記録しようもない。 だから、数多の歴史書がそうであるように日数単位か1000里単位で書くことになる。 1航海1000里、1日航海1000里だ。 むろん、風邪待ち・天候待ち・潮待ちで正午に出港して夕方に目的地に到着しても、 1航海1000里、1日航海1000里だ。 帯方郡から末廬国までの海路1万余里は、極めてアバウトな距離でしかない。 (三韓の陸地面積をいう「方4000余里」の二辺合計8000余里と、 帯方郡から狗邪韓国までの海路7000余里では、 実際距離は7000余里と書かれた海路距離のほうが長い)。 こうして書かれた12000余里をそのまま魏の公式尺度に換算するのはバカか詐欺師だ。 魏の公式尺度で12000余里いえば直線距離でインドネシアに届く。 だが『倭人伝』担当者は「会稽東冶の東」と、 その程度の距離と認識したうえで12000余里としているわけだ。 そらそうだ。海路距離を含む12000余里が極めてアバウトであることは、 書いた本人が一番分かっていることだから。 残るは陸路の2000里だが、 『倭人伝』と韓伝の陸路距離は魏の公式尺度の6倍から6.5倍の数値で書かれている。 (だが俺はこれを「短里」などとはいわない)。これも揺るぎない事実だ。 こうした事実を前提に議論しないと、陳腐な会話の連鎖に終わる。
>>753 > >751
> 完全に間違ってるだろう?
>
> うん
> あなたの頭がね。
反論できなくなるとこれ?
757 :
やはり天才の伊作 :2011/05/26(木) 09:58:48.07
尺度というものは、分・寸・尺・丈・歩・里と、最低数値の積み重ねからなる。 したがって、卑弥呼の墓の径100余歩も6倍から6.5倍で書かれている論理に帰結する。 これをそのまま魏の公式尺度に換算して、箸墓の円墳部の150メートル前後の寸法とぴったり。 なんていう詐欺論法を粉砕したのもこの天才だったっけなー。
>>757 > 尺度というものは、分・寸・尺・丈・歩・里と、最低数値の積み重ねからなる。
丈までは十進法だけど、歩から違うのはなぜ?
推論するのは構わないんだが、 その結果を確定したものと思いこんでしまうのが、 天才の悪いクセだな
760 :
やはり天才の伊作 :2011/05/26(木) 10:11:52.53
ついでにいえば。(異論続出だろうが)。 『倭人伝』は、邪馬台国至る全日程と行程では、 帯方郡から末廬国までの海路1万余里を日数表現にしている。 それが水行10日だ。
>>761 なるほど、帯方郡から東南万二千里のうち、
東方向の成分が解らないからということだね。
了解。
763 :
やはり天才の伊作 :2011/05/26(木) 10:32:19.82
>>759 言葉づかいの様子からみると、
自慢できるほどの学力でもなさそうだが、
推論の意味・分かっているのか。
>756 反論できなくなるとこれ? まだわからないの?
フミ国から南へどれだけ進んでも小笠原には行けないよ 。
767 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 11:02:39.68
>>757 >> 尺度というものは、分・寸・尺・丈・歩・里と、最低数値の積み重ねからなる。
>丈までは十進法だけど、歩から違うのはなぜ?
「分・寸・尺・丈」と「歩・里」は別の単位体系だったから。
「分・寸・尺・丈」は、身の回りの物の大きさを測る単位体系。
「歩・里」は、土地の大きさを測る単位体系。
度量衡の統一と共に、「度」の両者は統合されていった。
768 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 11:19:59.80
>順序が逆だろ? 会稽の東が帯方郡から一万二千里なんだよ。 そこが間違っているんだよ。 定規当てて、当時の公の基準値で計ってみろよ。 一目瞭然だろう。 >どこに帯方郡から一万二千里が パプアニューギニアかマリアナ諸島になるって書いてあるんだい? 完全に間違ってるだろう? そうだよ、倭人伝の記述は間違っているよ。
769 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 11:24:56.77
先ずは先入観を棄てて事実から確認しよう。 帯方郡からの魏代の一万二千里は凡そパプアニューギニアかマリアナ諸島になる。 これが現代の地図上で確認できる前提。 さて、倭人伝の記録はどうなっているのか? 間違っているのか?正しいのか?
伊作、てめえ、名無しに反論しないって たんか切ったのはどうなってんだよ! タコが
771 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 11:55:01.89
南も北もない。九州説は、本質はみな似たようなもんだ。個々の取り組み方に殆ど差はない。 他九州説の人を見て、自分がどう思われているのかを考えてみるのもいいだろう。
772 :
やはり天才の伊作 :2011/05/26(木) 11:59:02.16
>>770 俺は気分やで気まぐれだ。天才らしいだろ。
俺に相手されると、うれしくてしょんべん漏らすのがいるかと思ってよ。
でな。俺は名無しには「反応しない」とゆったのだ。
ほれ。かるーく間違ってるだろ。
反論するほどの上等な意見をを書く奴など名無しにはいない。
773 :
やはり天才の伊作 :2011/05/26(木) 12:00:23.81
>>770 それからな。
「タコ」てのは俺の専売だ。ボキャ貧丸だしでパクるな。
タコが
774 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 12:07:37.82
>>768 いいたい事はわかった。平行線だな。
先ずは、倭人伝の数字が間違っていない、という事の公認の伴う証明をすればいいのですね。
そうすれば、納得してもらえるのですね。
たやすい御用さ。
>>768 > そこが間違っているんだよ。
> 定規当てて、当時の公の基準値で計ってみろよ。
> 一目瞭然だろう。
どこで当時の公の基準値ってのが解るの?
その公の基準値ってので会稽東冶から西北に一万二千里ってどこ?
> そうだよ、倭人伝の記述は間違っているよ。
読んだことないんだね?
>>769 > 先ずは先入観を棄てて事実から確認しよう。
帯方郡から女王国まで一万二千里
女王国は会稽の東にある。
これが倭人伝から読み取れる事実だ。
777 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 12:56:32.89
>どこで当時の公の基準値ってのが解るの? 以古法六尺為歩三百歩為里 に当て嵌めて自分で地図で計ってみたら。 誰が計っても帯方郡から一万二千里は パプアニューギニアかマリアナ諸島になるって。
778 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 13:00:20.06
>>767 あのー、倭人伝の記述を信じていない人に何をいっても無駄だと思うんですけど。
信仰の問題ですから。
779 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 13:04:38.95
そもそも会稽の東って九州の南の際だろう。 北部九州と畿内はどちらも×
780 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 13:59:59.56
>>778 まあ、魏志倭人伝を無条件の信仰している人にも,
何をいっても無駄なように思えるが。。。
781 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 14:25:09.05
>>779 >そもそも会稽の東って九州の南の際だろう。
>北部九州と畿内はどちらも×
會稽の真東は帯方郡の真南12000里の道里となる。
故に、北部九州は○
782 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 14:27:22.66
>>754 それは倭国乱の後の話。倭国乱の時には対立していたんだよ。
783 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 15:01:28.20
>>777 「以古法六尺為歩三百歩為里」は、
秦漢代から隋代の時の王朝の税制の及ぶ地域に留まる。
及びそれに準じる地域。
しかし魏は短里。「尺≒歩」「三百歩為里」である。
一方、長里採用の蜀において、あぜ道の幅が短里で書かれている例もある。
畦道の幅が4歩
正史といえども厳密に長里と短里の使い分けが出来ていたのではない。
東夷については常に短里。東夷が長里に統一されたのは唐以降。
それでも新唐書には長里数値と短里数値の和が里数表示された例がある。
例文『日本 古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南 在海中』
784 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 15:09:30.68
>>782 >
>>754 それは倭国乱の後の話。倭国乱の時には対立していたんだよ。
同意
倭國乱の時代、伊都國は倭面土國(米多國)と称しており、
邪馬壹國投馬國連合と対立していた。
785 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 16:33:49.28
>しかし魏は短里。「尺≒歩」「三百歩為里」である。 なんで六尺為歩を自分勝手に尺為歩と読み替えるの? そういうのをインチキといいます。 素直も読もう。世の中厳しいのです。ごまかしは通用しません。 >一方、長里採用の蜀において、あぜ道の幅が短里で書かれている例もある。 畦道の幅が4歩 原文をあげてくれれば良いのだが、それは公里に準ずるずる4歩。 >正史といえども厳密に長里と短里の使い分けが出来ていたのではない。 東夷については常に短里。 なして? まだここでは解決していないんだけど。 解決させてから断言しよう。 気が早すぎだよ。
786 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 16:36:58.48
>>783 >一方、長里採用の蜀において、あぜ道の幅が短里で書かれている例もある。
畦道の幅が4歩
では、その文、貼ってご覧なさい。畦道じゃないから。阡陌は。
>>738 の引用サイトの
「 [言焦]周(しょうしゅう)曰く「歩は、人足を以て数と為す。独り秦制のみ然るに非ず」と。
(史記、秦始皇本紀、注)」
は誤訳だから。それに魏は景初で地統に変更してるんやし。当然、周制などではありませんよ。
王朝さん。
787 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 16:51:10.36
疑問! 人足がどうして一尺となるの? どこに人足が一尺と記されている? 歩は、人足を以て数と為す、としか書いてない。 アバウトすぎる情報で判断する人の神経を疑う。
788 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 17:17:16.11
そんな事いってたら一生解決しないよ。 だったら、どうしろ、というのだよ?無理難題を言うのは止めてくれ、 知恵をお貸し願いたい。 前向きな意見を求む。
789 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 17:31:25.46
>>749 >会稽の東は、帯方郡から一万二千里の位置じゃないじゃん。
>完全に間違ってるだろう。
>パプアニューギニアかマリアナ諸島になるよ。
まちがっているのではない。短里で計算しているんだ。
万二千里といったところで、朝鮮半島の南の乍東は南へ進んでいないからね。
それと東南五百里で斜めに行く分も考慮する必要がある。それらを考えると
郡から万二千里というのは、郡の南一万里ぐらいになる。それが会稽に相当
するということだよ。
790 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 17:51:42.70
>まちがっているのではない。短里で計算しているんだ。 だから、短里が証明されてから短里を採用してくれ。
791 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 17:56:10.38
>>789 つーことは、公里で計算すると倭人伝が間違っている、という事になるね。
あくまでも短里で計算した場合のみ、という条件のようだし。
短里は公里じゃないからそれは妄想になるね。
792 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 17:57:07.94
公里じゃないことは 割と容易に証明できそうだが。
793 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 18:00:33.67
公里を採用していなかったら、それは正式な文献とならない。 偽書となる。 野蛮国の書物と同じだよ。
ていうか、三国志のどこに「公里」の規定があるんだよ、教えてくれ。 「短里は公里じゃない」という場合、公里はどこにあるんだ? それが、例えば漢の里でもいいぞ。 「魏では漢里を公里と認定する」というような規定があれば、教えてくれ。
795 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 18:34:31.28
倭人伝は公里で説明できる行程がないんだから、 記録が間違っているか、 公里を使用していないか のどっちかしかない。 記録が間違っているとするのが畿内説 公里を使用していないとするのが九州説
短里って主に魏で使われたんだっけ? 魏使が実際に移動した行程は短里が使われた可能性があるが、 他の文献から引用した部分は公里になってるんだろうな
797 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 18:58:06.87
>>789 >郡から万二千里というのは、郡の南一万里ぐらいになる。
私の計算では、
郡から万二千里というのは、郡の真南8000里ぐらいになる。
會稽東治の緯度より4000里程北になる。
郡の真南12000里にあたる緯度が會稽東治の緯度と同じである。
798 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 19:02:38.01
>>787 >人足がどうして一尺となるの?
人足は一歩(静歩)です。
799 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 19:11:55.54
>>793 >公里を採用していなかったら、それは正式な文献とならない。
>偽書となる。
上記は誰がそのように決めた?
史書の編集者が引用した文献に短里で書かれてあれば、
編集者は出来るだけそのまま改変しないで引用するから、その史書のその部分は短里となる。
800 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 19:12:41.28
>>798 だから一歩(静歩)ではなくて、
人足がどうして一尺となるのかを文献の記録にて証明してくれ。
疲れる事はいわせないで。
801 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 19:14:20.64
>>795 野蛮国じゃあるまいし、当然に公里を使用しているだろう。
802 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 19:19:54.60
>史書の編集者が引用した文献に短里で書かれてあれば、 編集者は出来るだけそのまま改変しないで引用するから、その史書のその部分は短里となる。 だからもともと短里なんて存在しないから。引用も糞もない。
803 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 19:26:50.66
短里の存在を裏付ける記録はない、 という事に関しては、もはや断言レベルではないでしょうか? この先いつまでたっても出てこないですよ。
804 :
786のローガン :2011/05/26(木) 19:34:21.93
>>794 >「魏では漢里を公里と認定する」というような規定があれば、教えてくれ。
延康元年十月の詔。
805 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 19:44:56.35
>會稽東治の緯度より4000里程北になる。 北緯何度と考えてるのかな?
806 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 19:46:50.14
>>786 >「 [言焦]周(しょうしゅう)曰く「歩は、人足を以て数と為す。独り秦制のみ然るに非ず」と。
> (史記、秦始皇本紀、注)」
>は誤訳だから。
誤訳しているのはあなたでしょう。
それでは、あなたの正しいと思う訳を示して下さい。
「阡陌」
「阡」も「陌」も畦道
「阡」は南北方向の畦道
「陌」は東西方向の畦道
一説に、「阡」が東西、「陌」が南北。
「阡陌」の用例
『 秦孝公用商鞅 廃井田 開阡陌 』四書備考
807 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 19:50:31.71
短里を認めないならそれはそれでよい。 倭人伝の行程記録を認めないか、 無理な解釈を繰り返すか、 パプアニューギニアやマリアナ諸島に比定するしかない。
808 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 19:51:50.59
短里を認めるならば、大体の場所は決まる。 あとは細かい部分を詰めていく作業になる。
809 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 20:00:47.79
個人的には、短里使用を前提とした体系で 誤差はあるものの、記述自体はかなり正確なものと考える。 伊作氏の記述もかなりの部分で納得できる。 自分と違うのは、最後の水行陸行表記を全体の距離と見るか、 続けた延長距離と見るかだが、これはまた別の証拠が必要になるかもしれない。 自分は一月行=千里で換算する延長記録と見るのだが、どんなものだろうか。 これでいくとどうやら熊本県南部あたりになりそうなんだが。
>>777 > >どこで当時の公の基準値ってのが解るの?
> 以古法六尺為歩三百歩為里
三国志のどこに書かれてる?
それが陳壽の時代に採用されていたという根拠は?
811 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 20:03:48.82
>>805 >>會稽東治の緯度より4000里程北になる。
>北緯何度と考えてるのかな?
會稽東治の緯度より4000里程北は、北緯33度ぐらいになる。
女王國領域の私の推定範囲は、北緯33度から33.5度。
(女王國を緯度で示したのは始めて)
812 :
卑彌呼の都は久留米 :2011/05/26(木) 20:17:51.66
>>809 >自分は一月行=千里で換算する延長記録と見るのだが、どんなものだろうか。
隋書の時代では「一月行=千里」と思いますが、魏志では違います。
因みに隋書の「一月行=千里」は約70kmです。
魏志倭人伝の「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は、
距離を示しているのではなく、所要日数を示しています。
814 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 20:28:31.14
>>813 たしかにね。南部九州の投馬国から黒潮にのると、十日で南紀熊野につくという説がありますね。
距離に換算するとけっこうな距離ですね。
投馬=ツマ=薩摩?
816 :
ダブル・オー・ナイン :2011/05/26(木) 20:42:27.26
パプアニューギニア論争は意味が無いよ。倭人伝の方向は黄道修正説で書か れている。黄道修正説を勉強してから考え直してみて下さい。
817 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 20:51:06.16
>>807 仰るうちの、
倭人伝の行程記録を認めないか、
という事になるのでは。
短里の証拠がない限りは。
818 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 20:52:19.60
>>807 仰るうちの、
倭人伝の行程記録を認めないか、
という事になるのでは。
短里の証拠がない限りは。
819 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 20:56:49.23
短里の存在証拠があるのなら、 もうとっくに論争は終わっているよ。 ないから、みなここで説得に苦労しているんだろう。
820 :
本田 :2011/05/26(木) 20:57:46.81
>>804 >延康元年十月の詔
具体的には、どういう記述の部分ですか?
822 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 21:00:26.03
つーか、九州派は実は内心はもう証拠を出す事を諦めている。 薄々何かを感じ取っている。 そんな状況下で証拠なんて出てくるわけない。
823 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 21:02:43.12
ああ、幻の短里……
そっちのルートだと一大国=五島(石田)だったりする?
825 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 21:12:56.25
てか、九州説初心者は置いといて、 本心から邪馬台国が九州に有ったと思っているベテラン九州派っているの? 馬鹿じゃないんから、昨今の巻向発掘調査がいったい何を物語っているのかわかるだろう。
826 :
本田 :2011/05/26(木) 21:24:38.07
>馬鹿じゃないんから、昨今の巻向発掘調査がいったい何を物語っているのかわかるだろう。 巻向発掘調査で徇葬する奴婢百余人が無かったので巻向と女王國は無関係だと判明した。 卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
827 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 21:37:31.68
古代日本に殉死の習慣は存在しない。殺された100人は武埴安彦命の反乱時の捕虜です。
828 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 21:56:24.83
>>825 いや、みんな馬鹿だ。
畿内説はとにかく完璧なんだ、
と分かっているのは河童ぐらいだ。
>809 伊作氏の記述もかなりの部分で納得できる。 判断力に問題があり詐欺にあうタイプ。
831 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 22:56:31.73
>>812 >隋書の時代では「一月行=千里」と思いますが、魏志では違います。
一応、ここが肝なので、信頼できる反論があるまでは
ペンディングとしておきます。
たしかに隋書が根拠となっています。
魏志では一月行千里が必ず崩れるとなれば、
この考えも崩れることになります。
>因みに隋書の「一月行=千里」は約70kmです。
これは、短里を前提とすれば正しいでしょう。
自分は短里1里=80mとして千里80キロとしましたが、
短里が70mなら千里70キロでしょう。
ここは細かく詰める段階ですね。
832 :
やはり天才の伊作 :2011/05/26(木) 22:57:24.33
>>809 >これでいくとどうやら熊本県南部あたりになりそうなんだが。
場所的には・せいかい。
土地の歴史・地名・立地環境など諸々のファクターを満たす絶好の土地がある。
近いうちに、俺のサイトで詳しい俺の比定地を公開しよう。
みなが知らなかった所、踏み込みたがらなかったところだ。
そこには、弥生の大型掘っ立て柱遺構だってあるし。
海を渡って来る奴らが方角を間違うはずがない。 邪馬台国は九州!
834 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/26(木) 23:24:35.00
_,,...,_ r'" 〈╋〉`! 頭のお薬の時間だお♪邪馬台国九州説さん♪ ,'ゝ,,..-─-イ はい♪ i ノ レイ^iル〉 λイi ゚ - ゚ノリ .r┐ (ゝy´`Ξ`Tつ[薬] )ノiJ'´ T.´!´  ̄ レン'r_,ri_;┘
半玉 どうだ〜? オマエの津田妄想病の薬の余りか〜? 残ってるとなると、オマエ飲んでねぇ〜な? ww
836 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 23:49:20.52
>>832 ゴミ
>近いうちに、俺のサイトで詳しい俺の比定地を公開しよう。
当然それはお前が今まで散々ほざいてきた王都の条件に合致するんだよな?w
先ず支配者階層と一次産業先住者の住み分け。
周囲数百メートルには墓地はない。
二種の神器による祭祀。
…etc
さてさて邪馬台国論争を超えて日本の古代史がひっくり返るモノになるだろうが
熊本の何処にどんなものがあるか楽しみだ(棒読み
>>834 671
>伊都国からの放射説など間抜けなことを言ったら中国人の学者が大爆笑ですよ。
王金林は放射説でいいんだろ?
中国人の学者も間抜けなんだよね?
839 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/27(金) 01:02:07.18
>>838 王金林教授は反日主義者で日本の歴史を破壊しようとしている中国共産党の工作員です。
放射説を唱えている九州説の愚か者は極左暴力集団を支持している場合が多いですね。
マジかよ。
841 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 01:05:10.05
>>791 >短里は公里じゃないからそれは妄想になるね。
短里を認めたくないわけね。で、伊都国はどこに比定するのかな?
842 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 01:35:51.04
>>639 倭人伝の里程・日程をどのように解釈したら近畿地方に行き着くのかな。
845 :
本田 :2011/05/27(金) 06:19:41.39
846 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 06:22:15.80
>>841 つーか、その前に君は短里存在の証拠を探すのあきらめたんだろう。
それじゃ、認めたくとも認められないっじゃないの。
世の中ってそういうもんでしょう。
847 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 06:26:27.99
>>833 編者は膿を渡ってないよ。
いった事のない所を伝聞で書いたのだよ。
848 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 07:12:33.24
>>846 短里は存在したよ。倭人伝だけでなく魏略、その他にも残っている。
だが、それがいつからいつまで使用されたものか、なぜ東夷で使用されていたのか
などが十分には分からないだけだ。
それに、長里と称するものも公定里だという証拠はないね。上に公定里だと主張す
るものがいたようだが、何を根拠としているのか、教えてほしいものだ。
私は公定里かどうかなんぞ、重要視はしないがね。結局のところ、倭人伝がどの程度を
1里として書いているか、そのことを見きわめればいいことだ。
849 :
サガミハラハラ :2011/05/27(金) 07:28:18.69
魏志倭人伝における、魏の公式尺度より短い里数は、箕子朝鮮で使用されていた 周尺(1里=67.5m)です。 つまり、魏使は邪馬台国への里数ははかっていなかったのです。行程の記録は 晋の図書館にあった、半島系の書籍にのっていたのをチンジュはほぼまる写ししたのです。 ただし、邪馬台国は遷都していやので、それは魏使の報告で修正したのです。 ですから、投馬国からは日数(倭人は日をもってはかる)での表記なのです。
850 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 07:51:17.53
東夷で周尺が使用されていたということは十分に考えられるが、倭人伝の里数を 陳寿の作とするのはまちがいだね。魏略にも書かれている。 短里も日数も、原資料(魏使の報告資料)に書かれていたものだろう。
851 :
サガミハラハラ :2011/05/27(金) 08:35:25.43
チンジュの作ではない、他書からの引用だといってる。 魏略の件については、魏略の作者とチンジュは図書館の同じ資料をみたのですよ。 魏略には日数での記載がないでしょ、つまり、魏使の報告書をみてないからですよ。
>晋の図書館にあった、半島系の書籍にのっていたのをチンジュはほぼまる写しした そんな書籍があるわけない。 三国志東夷伝の序文をよく読んだ方がいいぞ 史上初めて「魏朝が東夷を極めた」云々と誇らしげに宣言してる。 それを記載したことを陳寿は誇っている
853 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 09:44:31.43
>魏略には日数での記載がないでしょ、 逸文だからね。魏略に日数の記載がなかったとは言えない。
854 :
サガミハラハラ :2011/05/27(金) 09:45:54.52
いいえ、半島系の書物が当時多数つまりまとまって存在していたことは種々の資料をつきあわせることによりわかります。 「魏朝が東夷をきわめたって、高句麗王を追って東海にたっしたということですか。 チンジュは魏にほろぼされた蜀の人ですよね。まあ、命拾いしてやとってもらって、魏には感謝してるでしょうが。
855 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 09:48:18.92
言っておくが、 「短里」という言葉も「長里」という言葉も現代人が創った言葉だ。 魏代に存在したのはその時に使っていた「里」という言葉だけ。
856 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 09:55:57.49
>>808 認めるならば、はよそうや。
仮説を使っての実証には何の意味もない。
安本の二の舞だ。
確かな事だけで実証しよう。
さあ、文献を調べろ、短里の証拠を探すのだ! それで終わる。
857 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 10:02:16.70
短里の証拠は倭人伝自体だよ。倭人伝をみれば、短里が使われていることは明白。 はっきりしないのはその短里が使われるに至ったいきさつ。
858 :
あ :2011/05/27(金) 10:12:33.08
邪馬台国ってのは当時日本列島にあった国々の1つで魏と唯一連絡を交わしただけの国なんでしょ? そんな国が畿内にあったらヤマト政権も憤慨すると思う 北九州だよ邪馬台国は
859 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 10:36:30.89
倭人伝は証拠にならないよ。 そこだけは特別に短里を使用した、ということわりがないから。
860 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 10:36:41.00
太国しゃんへの矯正。 (終止符トピックに投稿できないのでこっちで。他のアホどもは横ちゃり無用) ●『漢書』王莽伝・第六十九上(天才なりに分かりやすく翻訳) ▼莽既致太平。北化匈奴、東致海外、南懷黃支。唯西方未有加。 乃遣中郎将平憲等、多持金幣誘塞外羌、使献地願内属。 王莽、既に天下太平を致す。北は匈奴を教科し、東は海外を(教科を)致し、 南は黃支を懷(なつ)かせる。ただ、西方に未だ加せずあり。 すなわち中郎将の平憲等を遣わし、金幣を多く持して塞外の羌を誘う。 (羌の)使、土地(領土)を献じて内属を願う。…… ▼莽復奏曰:「太后秉統数年、恩沢洋溢、和気四塞、絶域殊俗、靡不慕義。 越裳氏重訳献白雉、黃支自三万里貢生犀、東夷王度大海奉国珍、匈奴單于順制作………」 王莽また奏じて曰く:「太后、秉統(へいとう=統べ束ねる)して数年、恩沢は洋に溢れ、 和気は四塞(に及び)、絶域の殊俗(異民族)は慕義せず靡(び=服従)す。 越裳氏は訳を重ねて白雉を献じ、黃支は三万里(の彼方)より生犀を貢し、 東夷の王は大海を度って国の珍(珍物)を奉り、 匈奴の單于は(中国の)制作(制度・文物)に順(従う・倣う)す。………」 「東夷の王は大海を度って国の珍(珍物)を奉り」とは、 漢末・平帝の元始5年に、王莽が天下太平を実現したとして、 いかにも中国人らしく大ぎょうに太后に奏上した文言である。 つづく。
861 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 10:37:04.34
・この時代の中国人のいう東夷とは朝鮮半島止まりであること。 ・この時代の中国人のいう大海とは渤海であること。(楽郎海が小海) ・前漢朝に対して列島の倭人が接触した事実はないこと。 ・王莽が接触した東夷の異民族とは高句麗が主であること。 倭人が朝貢していれば年月入りで帝紀に記録されなければならないが、 『漢書』帝紀には「東夷の王が国の珍物)を奉った」との記録はない。 ▼哀帝紀から ・元寿2年春正月。匈奴單于、烏孫大昆弥来朝。 ▼平帝紀から ・元始元年春正月,越裳氏重訳献白雉一、黒雉二 ・元始2年春、黃支国献犀牛 これらの事実から、王莽のいう「東夷の王」が朝貢したと譲っても、 高句麗あたりを指しているものと判断しなければならない。 この「東夷」を直線的に「倭人の王」とするのは安易・安直すぎる。 いじょ
862 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 10:38:32.21
だから、短里存在の証拠があれば論争はとっくに終わってる。 証拠がないから、今ここで意見が割れてるんだよ、そうだろ。
863 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 10:40:20.19
永遠に繰り返すのだろうな・・・
864 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 11:37:16.55
>>859 >倭人伝は証拠にならないよ。
>そこだけは特別に短里を使用した、ということわりがないから。
そんなことわりはいらんよ。読んだ人が理解できればいいんだ。
そう言うと、あなたは理解できないというかも知れんが、私は理解できるし、書いた当人も
読者は理解できるはずだと考えたんだろう。
865 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 12:00:15.50
俺はあくまでも魏代の正規の里で正規の書を読む。 当たり前の事をいうけど。そう考える人は他にもいるだろう。 だけど、混乱を招いた責任は陳寿にある!
866 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 12:06:33.14
横から失礼 昔の昔、短里はあったけど、 陳寿って短里を知らなかっただけじゃないの。 既存の史料をわけも解からなくただ写していただけで。 きっと、無能な役人だったんだよ。 今の混乱はその為だな。
867 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 12:29:08.02
距離論争は終わった感があるな。
868 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 12:40:27.49
陳寿に責任をかぶせる、という事で一件落着ね。 九州説、おめでとう。
869 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 13:03:14.43
くだらん終わらせ方をするな。 正規の里で読むというのは勝手だが、その場合、どう考えるんだ? 朝鮮半島が当時は大きかったというのかい? でなければ、正規の里と合わない ということは認めざるをえんだろう。となれば、わざと違う里を書いているとい うのか、それとも距離感を間違えて短里を書いたというのか、いずれかしかない はずだ。だが、それはいずれもとうてい筋が通らないね。
870 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 13:11:19.23
>>869 だから、
昔の昔、短里はあったけど、
陳寿って短里を知らなかっただけじゃないの。
既存の史料をわけも解からなくただ写していただけで。
871 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 13:19:30.90
とりあえず、短里は否定できないという結論でいいのかしらん
872 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 13:25:41.20
そういう終わらせ方、いけないな A級戦犯陳寿をどう処分するんだよ。悩みます。 引用した記録箇所はノーチェックだった。はどんな罪に当たる?
874 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 13:33:18.43
倭人伝の原資料は、魏使(梯儁又は張政)が書いた報告書だろう。 昔の昔なんて話ではないよ。陳寿の時代、知識人は短里を知っていたんだろ。 正規の里で読むという人はどうしたのかな?
875 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:20:52.62
タンリを知っていたにせよ、公式文書に書くときは公式里だろう。 そんなの常識だよ。今の日本でも。 尺貫方をしっていても百坪を公式文書に書くときは330uとかくでしょ。
876 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:21:15.35
当然、正規の里で読むよ。正規の書だからね。何が悪い? 合わなかったら、その数字が間違っているんだよ。
877 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:24:57.39
>>875 常識の通じない人を相手にしている事をお忘れなく。
相手は九州派ですから。
史料の記載事実を完全無視する畿内派に言われてもねー。
879 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:27:34.06
>>869 簡単だよ、距離感を間違えて短里を書いたんだよ。
誰にだって間違いはあるさ。
880 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:30:19.37
>>878 無視しているわけではない。
当時の公の基準に従って素直に読んでいるだけだ。
気味こそ当時の公の基準に従えよ。
短里は公の基準ではないよ。
881 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:33:23.77
こりゃ、駄目だな。 解決しそうもない。 陳寿も罪つくりだな……。
882 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 15:33:31.29
●天才の矯正 ・『後漢書』郡国志は、洛陽から遼東まで3600里とする。 これは郡国志だから極めて正確だと判断しなければならない。 ・『三国志』明帝紀は、洛陽から遼東まで4000里とする。 これは、登場人物の口頭発言だから、多少は端折っていると考えられる。 ・一方の『三国志』韓伝では、三韓の面積を方4000余里とする。 これは正方形の一辺の長さが4000余里であることを意味する。 ・『後漢書』郡国志は後漢代の公式尺度を用いていると思われる。 ・『三国志』明帝紀は魏代の公式尺度で書かれていると思われる。 ・後漢代の尺は魏代の尺よりも約1センチ短い。 『後漢書』郡国志のいう3600里と『三国志』明帝紀のいう4000里。 これらと韓伝の朝鮮半島の東西距離を4000余里とを比較すると、 後者は6〜6.5倍の尺度数値で書かれている。紛れも無い事実だ。 なぜそういう尺度で書かれたのかは、当事者でなければ分からない。 だが、事実を事実として議論しなければ、 その先はすべからく事実から遊離した・とりとめのない議論になる。 現実に、いまここで行なわれている議論がそうだ。
>>880 だから、何度も言ってるじゃん。
公の基準ってのがどこで解るんだよ。
884 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:41:58.36
以古法六尺為歩三百歩為里
885 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:46:49.28
>>876 >>879 少々のことなら間違いということもあるだろうが、倭人伝の記述は間違いを
考える余地はないね。魏は、朝鮮半島で戦っていたんだよ。韓国の大きさを
法外に間違えるはずはない。また、一支国は方300里とある。一支国は
渡っていくときにどの程度の島か見えるよ。20キロ四方ぐらいの島を13
0キロ四方に誤認するなんてことはありえない。
いいかい、公の基準値ってのも単なる仮説なんだぜ? 始皇帝が六尺を一歩としたという記録が 陳壽の時代にも適用できると仮想してるだけなんだよ。 歩や里は、尺のような「度(ものさし)」ではないので 実際に現物が残ってなくて確かめることができない単位なんだ。 だから、倭人伝が「公里」を想定して書かれているというなら 陳壽の時代でも六尺を一歩としていたと証明しなきゃならないんだよ。
887 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 15:52:48.42
だいたい公式の文書っていうが、陳寿は魏志を公式の文書として書いたわけではない。 できが良かったから、時の政府が公式の文書として採用しただけのことだ。
888 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 15:53:54.53
伊作からついしん。 『三国志』東夷伝が魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれているのは事実だが、 これは『三国志』東夷伝担当者の独断・誤解・間違いではない。 己の判断と解釈能力の欠落した部分を 『三国志』東夷伝やその担当者に責任転嫁するのは、最もイージーで怠慢な行為だ。 これが正史の記録として編纂させた晋政府の校閲を通過しているからこそ、 こうして俺たちの目に触れることになっている。この部分を正視すべきだ。 ここで口出しする輩の中で、本当に真相を極めたければ、 『漢書』や『後漢書』の志が、遼東や楽郎の距離・面積などにどんな数値を記録しているのかをみて、 それと『三国志』東夷伝の数値と比較するなどの頭脳労働することだ。 (短里だの周尺だのはどうだっていい。事実に基づいた意見をいうことだ)。 てめえでは何もせず、出された意見に対して思いつきだけで横づけして、 偉そな口調でおよそ歴史談義とはほど遠い書き込みばかり。 本当の失笑・嘲笑とは、そういう行為にふさわしいものだ。
889 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:04:20.28
>いいかい、公の基準値ってのも単なる仮説なんだぜ? 始皇帝が六尺を一歩としたという記録が 陳壽の時代にも適用できると仮想してるだけなんだよ。 その後、一尺為歩と改定された記録なんてないだろう。 六尺為歩のままなんだよ。事実を事実として議論しなければ、 その先はすべからく事実から遊離した・とりとめのない議論になる。
890 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 16:05:14.83
>>887 >陳寿は魏志を公式の文書として書いたわけではない。
>できが良かったから、時の政府が公式の文書として採用しただけのことだ。
「歴史書の書かれ方、歴史書の歴史」というものがまるで分かっていない。
無知・無恥発言だな。
正史とは、正統王朝で編纂された、最も正統と認められた歴史書。
正史編纂が国家の文化事業だったことを知る良い実例がある。
『隋書』の編纂経緯によると、唐の貞観3年(629年)に
太宗皇帝が秘書省長官の魏徴に『隋書』の編纂を命じている。いわゆる勅命撰である。
魏徴は中書省に秘書内省を置き、中書侍郎の顔師古、給事中の孔頴達、
著作郎の許恭宗らを撰者に任命して編纂をはじめ、7年後の貞観10年(636年)に、
帝紀5巻と列伝50巻が完成している。(倭国の遣随使派遣から36年後に完成)。
このように皇帝の命令を受けて、れっきとした中央官庁専門部署の管轄下で、
前王朝から禅譲で引き継がれ政府の金庫に保管されていた資料を用いたうえでの、
多くのスタッフによる組織的作業だったことが推察できる。
一介の市井の文筆家には、政府の文書金庫に出入りすることすら不可能だ。
膨大な記録文書の整理・官吏・出し入れだけでも相当なスタッフが必要なんだぜ。
滅びた前王朝の歴史書編纂に対して、現王朝は不介入・客観性をアピールするために、
「のちに周囲の勧めで正史に採用」という、儀式的な段取りを老むだけのことだ。
知ったふりして、つまらん表層論を垂れるな。
891 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:08:49.17
>いいかい、公の基準値ってのも単なる仮説なんだぜ? そんな事はないだろう。万人に通用するのを公の基準値というんだよ。 君の考え方が変。 >歩や里は、尺のような「度(ものさし)」ではないので 実際に現物が残ってなくて確かめることができない単位なんだ むしろ、大きなものさしの目盛りだ。規定されている以上は。 アホーな事いうなよ。 >だから、倭人伝が「公里」を想定して書かれているというなら 陳壽の時代でも六尺を一歩としていたと証明しなきゃならないんだよ。 一尺為歩の証拠は全くない。
892 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 16:10:39.61
怠け者たちへ。 努力の方法を自分で見いだすことに価値があり、それが努力のはじのまり。 スポーツの世界でも、鍛える方法を独自に見いだした人はたくさんいる。 だが、他人が考え出して成功した方法を真似ても、発案者ほどの効果はない。 努力する方法を自分で見いだすことに価値がある。 努力をしろといわれるまでもなく努力する才能が「天才」なのだ。 ここで口出しする輩の中で、本当に真相を極めたければ、 真相を極めるための検証方法を自分で探すことからはじめろ。
893 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:14:02.59
「東南陸行五百里 到伊都國」の起点は、「末廬國」であることは殆どの人が認めている。 が、 「南至投馬國水行二十日」 「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月」の起点も 「末廬國」であることを知る者は少ない。 ましてや、 「水行二十日」の距離が「五百里」であり、 従って、「水行十日陸行一月」の距離が「千里」であることを 知る者は皆無である。 投馬國の領域は、 「末廬國」から南へ五百里で、「伊都國」並びに「奴國」の境界と接し、 「末廬國」から南へ千里で、「邪馬壹國」の境界と接している。
894 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:14:08.86
>『隋書』の編纂経緯によると、唐の貞観3年(629年)に >太宗皇帝が秘書省長官の魏徴に『隋書』の編纂を命じている。 全ての史書が同じ手順で作成されたとは限らない。魏志について編纂経緯を 記した記録を示してくれ。
短里の証拠はあるんだよ。 晋司空・裴秀の方丈図ってのがあるんだ。 現物は残ってないが、『北堂書抄』に記載があるんだよ。 その縮尺が、「一分が十里、一寸が百里」なんだ。 つまり、方丈図ってのは一万里四方の地図なんだよ。
896 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 16:30:33.26
>>894 >魏志について編纂経緯を 記した記録を示してくれ。
あると思うならてめえで探せ。タコ。いちいち書いてなくても常識だ。
歴史談義というものは、個々に検証した経緯を論拠として、
個々に持ち寄って意見を出し合うものだ。
それれであれば、結論に至る背景説明もすぐにできる。
だがてめえたちは怠け者で、他人の受け売りか孫引きで、
その都度、断片的に知ったふりをしてるだけだから、
てめえが孫引きした論の背景説明などできるわけがない。
そもそも、てめえが受け売り・孫引きしする論の正否検証すらしていない。
>示してくれ。
なーにが示してくれだこり野郎。おとといこい
897 :
ローガン :2011/05/27(金) 16:32:46.23
>>821 >具体的には、どういう記述の部分ですか?
引用献帝伝 「同律度量、承土行、大赦天下」のところ。もう少し上から読んでみて。
898 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:36:20.89
>>888 >『三国志』東夷伝が魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれているのは事実だが、
そんなことはない。
三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人 (魏志倭人伝)
は、
六尺を一歩とし、 一尺を約24cmとして記述されている。
公式尺度の6〜6.5倍とするのは、對海【馬】國を対馬に一大國を壱岐に無理やりはめ込んでいるところに因がある。
899 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 16:38:35.53
>>894 >全ての史書が同じ手順で作成されたとは限らない。
自力で勉強もしないでいて憶測で断言するが、いっちょ首でもかけてみるか。
正史編纂は、前王から禅譲の一環として前王麻に関する記録文書を引き継いだことを意味する。
禅譲を受けたということは、正当王朝であることを意味する。
だからねこそ、歴代の王朝が倭国との施色もなかったのに、
紀伝体の体裁を保つために前史から写しただけの倭伝・倭国伝を付け足したりしている。
正史編纂は王朝としてのステイタスであり、王朝税不の文化事業の一環だ。
陳寿も司馬炎の下で著作郎という役職を得て、晋政府の禄を食みながら『三国志』ほ書いた。
これで・どや。
たまなは「さんこうになりました」「とか「ありがとうございます」とかゆってみろ。
名無しで出ているくせに、妙な見栄とプライドだけは保とうとするてめえの心理を恥じろ。
900 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:38:53.66
>短里の証拠はあるんだよ。 晋司空・裴秀の方丈図ってのがあるんだ。 現物は残ってないが、『北堂書抄』に記載があるんだよ。 その縮尺が、「一分が十里、一寸が百里」なんだ。 つまり、方丈図ってのは一万里四方の地図なんだよ 残念ながら、現物が残っていなければ確かめようがない。 証拠になるのか、ならないのかわからん。
901 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 16:40:02.12
>>898 次元が違いすぎる。ほかの相手を当たれ。
902 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 16:42:15.39
誤字が多いので訂正して再掲
>>894 >全ての史書が同じ手順で作成されたとは限らない。
自力で勉強もしないでいて憶測で断言するが、いっちょ首でもかけてみるか。
正史編纂は、前王朝から禅譲の一環として前王朝に関する記録文書を引き継いだことを意味する。
禅譲を受けたということは、正当王朝であることを意味する。
だからこそ、歴代の王朝が倭国との接触もなかったのに、
紀伝体の体裁を保つために前史から写しただけの倭伝・倭国伝を付け足したりしている。
正史編纂は王朝としてのステイタスであり、王朝政府の文化事業の一環だ。
陳寿も司馬炎の下で著作郎という役職を得て、晋政府の禄を食みながら『三国志』を書いた。
これで・どや。
たまなは「さんこうになりました」とか「ありがとうございます」とかゆってみろ。
名無しで出ているくせに、妙な見栄とプライドだけは保とうとするてめえの心理を恥じろ。
>>900 六尺一歩が陳壽の時代も変わらなかったという証拠もないんだけど。
倭人伝とよく似た里数値は、ほかにも見られるという事実をゆっくりと考えてもらいたいね。
904 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:48:51.96
>>901 >>898 次元が違いすぎる。ほかの相手を当たれ。
やはり天才の伊作氏の次元が低いということか?
905 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:54:00.86
>>903 つーか、何回もローガン氏がいっているんだけど。
漢代の事を。
906 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 16:55:11.98
>>899 >著作郎という役職を得て、晋政府の禄を食みながら『三国志』ほ書いた。
官職にあったからといって、その者の著作物が当然に公式文書になるわけではない。
そのぐらいは当然のこととして知っておかなければね。勉強になったかな?
>>905 漢魏禅譲の話が、西晋朝となんの関係がある?
908 :
ナクシ :2011/05/27(金) 17:13:45.89
>>897 これは「魏の支配する地域全体で、同一度量衡を用いる」という意味でしょうね。
@
「同與漢制」のように記述していない
A
これは、三公に対する詔なので、ここに書いてることは検討事項の意味。
施行された保証はない。例/「議改正朔」
909 :
ローガン :2011/05/27(金) 17:23:47.31
>>806 >「 [言焦]周(しょうしゅう)曰く「歩は、人足を以て数と為す。独り秦制のみ然るに非ず」と。(史記、秦始皇本紀、注)」
>誤訳しているのはあなたでしょう。それでは、あなたの正しいと思う訳を示して下さい。
まず「独り秦制のみ然るに非ず」ではない。「六尺為歩が秦だけの制度ではない」という意味です。
管子司馬法、皆が六尺為歩だという。ショウ周がいうのは歩を人足で数えたら六尺であるという事。
>阡陌
勿論、畦道の意味がある位は知ってますよ。小さな辞書にも載ってるしね。
じゃあこれはどう?
「天帝、布治房心、決政參伐。參伐則益州分野。三皇、乘祗車出谷口、今之斜谷是也。此便鄙州之[阡陌]。明府以雅意論之、何若於天下乎?」ショク書秦ミツ伝
畦道とは訳せないでしょ。だから短里の根拠にしたいなら取り敢えず原文を書いてご覧なさい。
どくだみさんが料理してくれるから…
910 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 17:33:52.48
>>906 >官職にあったからといって、その者の著作物が当然に公式文書になるわけではない。
文書記録に関する官吏がその職能として書いた文書が公式文書でなくて何だ・この野郎。
筋の通った日本語になるような理路で考えることができないらしいな。
そうとうに頭が悪いぞ。
俺がてめえみたいなことをいえば、やんやの非難と攻撃を受けるぜ。
てめえはその程度のことしかゆっていない。
自分の発言に責任が持てるならば、ハンドルつくってやれ。「タコ焼き」とかよ。
そうすれば、皆から総スカン食らうだろうよ。
やれるものならハンドル造って、俺みたいに孤軍奮闘してみろってんだ。
>そのぐらいは当然のこととして知っておかなければね。勉強になったかな?
何を遠吠えの逃げ口上をいってやがる。
学術カテゴリの歴史ジャンルに口だししているが、
勉強の仕方も知らない・勉強もしていない。
検証の仕方も知らないし・検証もしていない。
議論の仕方も知らないし・議論らしいこともいえない。
やれるのは、知ったふりの横チャリと程度施の低い揶揄だけ。
たまに論らしい意見をいえば、孫引き・受け売りのとんでも論。
名無しは便利でいいなあ。恥をかいても誰だか分からんし。
ほとぼりがさめなくてもトボケてまた書き込みできるし。
911 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 17:38:25.95
912 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 17:40:03.07
>>909 >どくだみさんが料理してくれるから…
かははー。
あいつの料理は「ライオンまたぎ」だ。
ライオンもまたいで通るほどのまずい奴。
きみと同じく、どこからか一つか二つの例外的な用例引っぱりだしをするが、
まず・都合のいいように解釈しておいてから、その間違った解釈を論拠として展開する。
「統一属なり」「制度は装飾」なんて、続けて二度もやってくれたっけなー。
きみ似たようなことをやっていたが、きみよりはデキがわるいぞ。
というよりも、きみのほうがまだ人間的に信用がおける。
これで・きみをほめたことにはならんか。わはは
913 :
やはり天才の伊作 :2011/05/27(金) 17:42:46.11
>>911 無理だらけだ。便居ぅして身にっけたものがないから、
何一つ、ためになるような内容の書き込みはしていない。
914 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 18:22:10.81
水行20日の投馬国と 水行10日陸行一月の邪馬台国が、 不弥国から放射式の可能性もあるのではないかと考えたが、 そうなると、有明海を南下するルートはいくつもあるわけじゃないので、 つまりは、筑後川河口付近から熊本方面への南下ルートしかないので、 邪馬台国方面が先に上陸して、 投馬国のほうが海路は遠くに行くことになる。 八女や筑後市あたりから上陸して、南関を陸路で超えるルートも あることはあるんだが、その先が熊本で、そんな面倒な道通るくらいなら、 熊本で上陸して、素直に向かえという話になる。 ということで、現状では不弥国から放射説で記録する理由も 利点もなさそうだ。
915 :
伊作 :2011/05/27(金) 18:31:08.23
>>914 >八女や筑後市あたりから上陸して、
>熊本で上陸して、素直に向かえという話になる。
「外海から天草を経て有明海へ入る海路が使えた」という前提かい?
916 :
ローガン :2011/05/27(金) 18:32:29.69
>>908 >これは「魏の支配する地域全体で、同一度量衡を用いる」という意味でしょうね。
いや「今朕承帝王之緒其以延康元年為?初元年,議改正朔,易服色,殊徽号,同律度量,承土行,大赦天下;自殊死以下,諸不当得赦,皆赦除之」だから、
前王朝と対になった書き方。「漢の正朔を改め、漢と服の色を変え、漢と異なる徽号にし、」なので、この「同」は漢と同じだという意味。
@「同與漢制」のように記述していない
何事でも、きっちりとした記述がないものは、一切信用しないとのスタイルのようですな
Aこれは、三公に対する詔なので、ここに書いてることは検討事項の意味。
施行された保証はない。例/「議改正朔」
件の詔勅があった事は、文献に明らか。ただそれを認めたくなければご自由に。
>>912 そうとう悔しかったみたいやね。(笑)
917 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 18:46:20.39
>>915 > 「外海から天草を経て有明海へ入る海路が使えた」という前提かい?
現状ではそういう前提は想定していませんね。
不弥国からの水行を筑後川中流から下流で始めたと想定しての話です。
壱岐から長崎方面へ大周りして熊本入りすれば、240キロ
自分の一月行80キロでいうところの三月行=3千里に相当しますので、
行程距離からはひねり出せません。
918 :
伊作 :2011/05/27(金) 18:49:55.39
>>917 昔から、王都は「背山臨水」の地につくられたものよ。
東高西低。東と北には山が控え、左巻き台風の害が少ない地形で、
外海への出入りに便利で一級道路に使える大小の河川が走るところ。
「背山臨水」の水は、外海からの津波の心配が少ない内海だな。
しかも、王都へは容易に入れないように、防衛網がしっかり敷けるところ。
天然の地勢・地形に多くを異存した古代において、
この条件を供えた土地は、日本列島には熊本平野と奈良盆地しかない。
太宰府のように「いざ」外国勢の侵攻が現実的になったら、
慌てて山城を築くていたらくの場所とか、
糸島だの吉野ケ里だの久留米だの甘木だの朝倉だのという連中は、
こうした王都づくりの「基本」がまるで分かっていない。
偏った知識と考察しかできない奴らのいうことだ。
>>916 魏は「漢の正朔」を改めてないけど
(明帝時の3年は例外として除く)
920 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 19:13:12.90
>>918 基本的には同意しますが、大宰府政庁付近は、
福岡の地元豪族の中心都市としては妥当な場所じゃないですかね。
政治の実作業には便利な場所ですし。
大宰府天満宮は道真死後に作られたとしていますが、
場所的には、福岡の豪族の王都としてはいい場所だと思います。
かなり条件を満たしていますね、海がないこと以外は。
政庁跡は台風には弱そうな場所だな。避けるものが北の山しかない。
921 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 20:18:23.93
あのね、有明海沿岸は大昔でも干潟が広がっていて、港などないのだよ。 ムツゴロウ漁の小舟ぐらいのものでも、引き潮で干潟にとりのこされたら、船の重みで泥にめりこみ、 でれないのよ。まして人が数十人も載るような船なら、一巻の終わりだね。
922 :
伊作 :2011/05/27(金) 20:24:26.53
>福岡の豪族の王都としてはいい場所だと思います。
「豪族の王都」なんてのあるの? 各地に王がいたの?
少なくとも2世紀からの「倭国王」の王都の話さなのさ。
>>921 >有明海沿岸は大昔でも干潟が広がっていて、港などないのだよ。
まーた・知ったふりか。
川筋と河口部は使えたってこと、知らないんだでよく吹くぜ。
あっちいってろ。ホラタコ
923 :
伊作 :2011/05/27(金) 20:29:36.51
>>921 俺は熊本の出自なんだぜ。
「遠浅干潟の海は沿岸航行ができない」てのは俺が何年も前に提示したことだ。
だが、長崎県側・島原半島よりの海は深いのだ。川筋から深みへ出れば出入りできる。
ただし、有明海の南半分を狗奴国勢が出没する時代は使えない。
とくに、中国からの賓客には危険な海を通ってもらうわけにはいかんわけだ。
>>916 横だけど、
「議改正朔・・・承土行」
「議」は、議以下の事柄を論議せよの意。
「同律度量」は、音律・度量の統一。
で、結局
「黄初元年十一月・・・行漢正朔・・・」
暦を改めることはなかったの。
ちくまぐらいは確認しようよ。
925 :
ローガン :2011/05/27(金) 20:54:20.62
>>919 >魏は「漢の正朔」を改めてないけど
だからね、上記詔勅は「議改正朔」でしょ? そのすぐあとに漢の正朔を継ぐとある。又それに対する注記
魏書曰:以夏数為得天,故即用夏正,而服色尚 と。
これは勿論、上記の議論せよという詔勅に基づいたもの。夏正が天に合うので引き続きの採用を決めた訳。
だいぶ話がズレたんで元に戻すと、「同律度量」とは
魏は漢と律度量を同じくするという意味。 短里など無い。
>>925 また横だけど、
所引『魏書』は黄初元年十二月の記事に対するものだけど。
927 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 21:11:30.54
>だいぶ話がズレたんで元に戻すと、「同律度量」とは 魏は漢と律度量を同じくするという意味。 短里など無い。 ありゃー、一遍に短里が吹っ飛んだ
かなり苦しいな
「行漢正朔」とある一方で、 「行漢律度量」とはないぞ
931 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/05/27(金) 21:16:59.54
「三国志・魏書」の巻三明帝本紀景初元年春正月の条に「太和暦を改めて景初暦とする」とあり 青龍五年三月を景初元年四月と改めたとの事。勝手に何度も暦を改めることは有りですかね。
932 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 21:19:29.16
でも魏代で短里がないんだろう。 既に決着ついたでしょ。
933 :
ローガン :2011/05/27(金) 21:22:23.99
>>926 それは、そこの注記の書き出しが洛陽宮に、関する記述だから。
今から帰るので又後程。
934 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 21:25:03.99
短里などない、という証拠が出てくるけど、 短里が存在する証拠がなかなか出てこない。 誰か一尺為歩の記録をどこぞから出して。
935 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 21:27:45.76
一尺為歩の記録ねえ、 そりゃ無理だわ 短里なんぞ最初からないんだから 何処探しても出てくるわけないよ
936 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 22:24:31.48
ま、短里が有ればそこで決着が付くまで絞りこまれたわけだ。 しかし、公里では、まだ当分決着は付くまい。 先は長そうだな。
937 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 22:30:56.98
一尺為歩 って可笑しくないか? 感覚的にだけど これじゃ、「尺」と「歩」を分ける意味がなくなるじゃん。 本当にそんなのあったのかよ? 九州派ってへんてこな事考えるよなぁ。すっきりしねー
>>925 めんどくさいな。天才と同じなの?
議が議論しろっていう意味だと言うことは理解してもらえたんだよね。
じゃーいったい何を議論しろと言ってるのかということが問題だろ?
議論するんだから、漢代に行われたことを改めるんだよ。
改変を議論するもの
暦、服色、称号、土行
で、間にある「律度量」だけ同じにするために議論するわけないんだよ。
当然、ばらついてる律度量を同じくするという意味だ。
だから、ちくまは「音律・度量を統一する」と訳してるんだよ。
939 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 22:32:42.55
940 :
伊作 :2011/05/27(金) 23:03:27.59
短里などない。
なことよりも、事実に即した議論をすればよし。
>>939 俺なんか、九州とも畿内とも、思考構造と思考回路と、
思考スピードの点で合わね。かったるいのばっかだし。
941 :
ナクシ :2011/05/27(金) 23:14:46.18
>>916 >「同與漢制」のように記述していない
>何事でも、きっちりとした記述がないものは、一切信用しないとのスタイルのようですな
「〜と同じ」という文は、
その同じとなる相手を記述しなければ意味を成さないのでは?
942 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 23:17:05.50
>魏は漢と律度量を同じくするという意味。 漢の時代だって里が統一されていなかったんだよ。東夷で魏代になってから 急に短里が使われたわけではない。
943 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 23:46:14.53
>>914 >不弥国から放射式の可能性もあるのではないかと考えたが、
書法が変わっているのは伊都国からだ。
>邪馬台国方面が先に上陸して、投馬国のほうが海路は遠くに行くことになる。
それでいいんだよ。投馬国は薩摩、邪馬台国は日向だ。邪馬台国へ向かう場合の
上陸地点は薩摩への半分あたりということだ。
944 :
ローガン :2011/05/28(土) 00:01:26.56
>>938 ごめん。遅くなった。
>めんどくさいな。
面倒くさいのは此方の云う事。「無い」と云ってるのにその証明を求められているんだからね。(笑)
>天才と同じなの?
そんな立派なもんじゃ無い。
>議が議論しろっていう意味だと言うことは理解してもらえたんだよね。
初めからわかってますよ。
>じゃーいったい何を議論しろと言ってるのかということが問題だろ?
いいや、問題なんか無い。そこに至る経緯はその詔勅の記述までに書いてあるから。そして、暦についても上で書いた通り。
>議論するんだから、漢代に行われたことを改めるんだよ。
でそれで、「度」を極端に前代と違うものに、「改めた」事がはっきり判る部分の原文を貼ってくれる?
「無い」って言っている者にあれこれ注文付けるんじゃなくに「短里だ!あるある。」と主張する人が、明確な史書の記述を貼れば済む事。
(それと、もう一点。私と貴方との議論の中では、流れからいって「同律度量」が「マニュアル通りの文言」てのは取り敢えず無しね。)
そりゃそうだ。 「ない」事を証明するのは非常に難しい。 魔女裁判、悪魔の証明ってやつだ。
>>944 >いいや、問題なんか無い。そこに至る経緯はその詔勅の記述までに書いてあるから。そして、暦についても上で書いた通り。
「同律度量」を「漢代の律度量と同じにする」と読むべく、いかなる経緯が記されてる?
947 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 00:26:14.28
>「無い」と云ってるのに で、倭人伝の里数が実態に合わないのはなぜなのかな?
948 :
ローガン :2011/05/28(土) 00:33:20.60
順番にいこう。 [でそれで、「度」を極端に前代と違うものに、「改めた」事がはっきり判る部分の原文を貼ってくれる?] よろしく。又明日。
949 :
どくだみ :2011/05/28(土) 03:54:28.53
変な時間に目が覚めてしまったので、気になってた
>>741 さんへのレスしておこう。
『江表伝』が短里の証拠だというのは、魏呉が対岸に向かい合わせに布陣していると古田さんが勘違いしたためです。
400〜500mの河幅があるとしても、魏呉の船団が南北両岸向かい合わせに布陣することなどないでしょう。
魏は上流から、呉は下流から進軍してますし、江表伝の記述を読んでも向かい合わせではなく、
上流下流で布陣をしていたと考える方が自然です。
このことは過去2回ほど2chで書いているので、詳細は割愛します。
『漢書』注というのが
「文穎曰:「 介山在河東皮氏縣東南。其山特立,周七十里,高三十里。」
のことなら、これも古田さんの勘違いで、短里の証拠には全くなりません。
古田さんの論は、後漢末から魏の人である文穎が、山の高さを海抜で表すというおかしな説です。
しかも、数値がアバウトです。
実際は、周七十里は介山の実測値に合致します。
高三十里は安本さんのいうように登山の道のりと考えた方が妥当でしょう。
以上、結論だけ。以下に詳細を書きます。連投になりますがすみません。
950 :
どくだみ :2011/05/28(土) 03:58:08.89
介山は、歴史地図集でみると、今の山西省の万栄県と臨猗県の中間あたりにあります。
グーグルマップの衛星写真で、その山容が確認できます。
ttp://iup.2ch-library.com/i/i0321916-1306522601.jpg 画像up初めてなので、見れなかったらすみません。
左下に1kmの長さが出ていますので、地図上で直径を測ってみると、
直径はおよそ6〜7km、7kmとして周囲は7×3.14≒21kmです。
新字源の度量衡表では、前漢代の一里は405mとあります。
周七十里は70×405=28350m=28.35km(実測約21km)
直径は 28.35÷3.14=9.028km(実測約7km)
実測値に近い値です。
2000年以上前の前漢代には今ほど耕作地が迫っていなかったであろうことを考慮すれば、
山体はもっと大きかったでしょうから、周七十里という数値はかなり正確だと言えます。
ちなみに中国のサイトを見ると、介山は孤山ともいい、海抜1411m、
四角形に近い形で、東西南北の辺がそれぞれ10km前後、つまり周囲約40km。
華里でいうと周囲は80華里だそうです。清代は一里576mなので80×576で46.08km。
一方、短里77mで計算すると
周囲 70×77=5.39km
直径 5.39÷3.14=1.7km
実測値にも中国サイトの数値にも全く足りません。周七十里が短里でないことは確かです。
とすると、高三十里も短里ではありません。しかし、標高となるとあり得ない数字です。
951 :
どくだみ :2011/05/28(土) 04:01:22.90
古田武彦さんは
「文穎は三世紀、後漢末から魏朝にかけての人だ。
ここ(山西省)は二〇〇〇メートル前後の高度だから、
短里(約二二五〇メートル)でほぼ妥当する
(汾山ふんさん。万泉県の東。また介休県の東南にも、同名の山がある)。
もしこれが長里なら、一三〇五〇メートルだ。
エレベスト(八八四八メートル)など問題にならぬ超高山となろう。
従ってここにも魏朝頃に「短里」の行なわれていた痕跡(こんせき)がある」
と言いますが、本当にそうでしょうか。
後漢末〜魏の人が海抜で山の高度を表現するというのはおかしな話ですね。
当時は海抜という概念はないでしょうから、山の高さは麓からの地上高でしょう。
地上高が2250mの山です。
山西省の海抜が2000m前後なら、介山は4000m級の高山になります。
ちなみに阿蘇山でさえ海抜の標高が1592mです。
ところが短里の主張によれば、富士山をしのぐ4000m級の介山の
周囲が5.39km、直径が1.7kmになってしまいます。
高三十里を標高だと考えると、短里でも全く説明がつかないのです。
しかも、中国のサイトを見ると、山西省の平均海抜は1000m前後だし、
介山の海抜は1411mで、古田さんの説の前提とする数字とは随分違います。
ttp://vip.book.sina.com.cn/book/chapter_159248_109010.html ですから、この文は短里の証拠にはなりえません。
こうなると、高○○里という表現は、標高ではないということになります。
安本氏の仰るように、登山の道のりという説が妥当かなと思います。
いまのところ他の可能性が思いつけません。何か思いついた方は教えて下さい。
以上、「高○○里」という表現は標高ではないということは、
他書においても同様でしょう。
だから、『これこれの書物に「高○○里」とある。
長里では高すぎるから短里の証拠だ』という論は成り立ちません。
セン中有天柱山,高峻二十餘里,道險狹,?徑裁通,蘭等壁其上
という三国志の例も同じです。
ないものを探すのは無駄。
953 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 07:02:18.43
>>950 >>951 横からだけど
古田のあげる例は、私もあてにならないと思う。おそらくはあなたの説明どおりだろう。しかし、
それがだめだから短里がなかったということになるわけではない。
東夷伝の数字が、長里で説明がつかないことには変わりかない。短里がなかったとすれば、わざと
説明がつかない数字を書いたのか、まちがってそんな数字を書いたのか、いずれかでなければなら
ないが、いずれの可能性もない。ということは、短里の存在は明白ということだ。
あなたは短里はなかったとして何か合理的な説明がつくと思っているかな?
954 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 07:20:46.05
>>947 簡単な事さ、陳寿が間違ったんだよ。
人間誰にでも間違いはある。
異国の膨大な情報、山のような資料を整理する上で
君は絶対に間違わないのか?
955 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 07:23:48.03
>短里がなかったとすれば、わざと 説明がつかない数字を書いたのか、まちがってそんな数字を書いたのか、いずれかでなければなら ないが、いずれの可能性もない。 ここがあんたの間違い。 間違う可能性は充分にある。 明史日本伝を読んで見いや。
956 :
五月雨 太郎 :2011/05/28(土) 07:26:12.24
他の文献がどうであろうと、倭人伝の場合はソウルからプサンの距離、プサ ンから対馬の距離、対馬から壱岐の距離を基に、陳寿がどれくらいの長さを 1里としているか考察すべきでしょう。
陳寿は参考資料を単に書き写してるだけで、陳寿の頭の中には魏代の公定里しかないよ。 倭人伝と三国志の他の部分で、知っていながら異なる単位を用いるわけがないだろう。 だから韓国内と倭地では異なる長さの一里が用いられており、原資料に記されていたのを 陳寿が同じ物と考えて転記している可能性がある。
958 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 07:50:27.31
>>954 >>955 間違ったで通るもんじゃないよ。倭人伝の原資料は、実際に倭国を訪ねた使者が
書いたものだ。行程記事などは、全部その原資料にあったものさ。陳寿が作文し
たものではない。短里は魏略にも出てきているし、後漢書なども踏襲している。
それに、陳寿がまちがえて書いたのならば、韓国を方四千里とか郡から万二千里
で至る地を会稽東冶の東としているのをみて、皆大笑いしたはずだが、現実はそ
の記述をとがめるものは誰もいない。三国志は傑出した史書とされている。
959 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 08:02:31.94
まちがえたと主張する論者は、もう一つ、難問があることも理解していないだろうな。 陳寿が距離の換算をまちがえて大きな里数を書いたとする。ならば、全ての里数の換算 を間違えているという可能性が大きいだろう。ということは、万二千里も、周旋五千里 もすべてまちがえている、実数を知るためにはそれを五分の一にする必要がある、って ことになる。不弥国から先については、急に陳寿が正しい里数で書いているなんてのは 全くのご都合主義解釈だ。
960 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 08:05:04.27
>間違ったで通るもんじゃないよ。 いや、現実に公定里に合っていないだろう。公定里にあっていなければ、公式文書として間違っているのだよ。 >皆大笑いしたはずだが、現実はその記述をとがめるものは誰もいない。三国志は傑出した史書とされている。 見てきたのかよ?
961 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 08:07:56.64
>ということは、万二千里も、周旋五千里 もすべてまちがえている、実数を知るためにはそれを五分の一にする必要がある、って ことになる。 なんで五分の一にする必要があるの? 間違っているものを元にしてもしゃーないだろう。
倭国の地理に詳しい中国人など少なかっただろ。大笑いも何もないよ。
963 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 08:12:07.64
戦国期に日本を訪れた外国人の話がチラホラ出てるので。 以下明史日本伝より秀吉について語られている箇所。 日本は古来より王がおり、臣下では関白という者が最も尊いとされ 山城州の頭目、信長がこれになっていた。 ある日信長が猟に出ると木の下で眠る者がおり、跳ね起きて衝突しそうになった。 何者かと問い詰めると、名を平秀吉と言い 薩摩州の奴隷で、雄健ですばしっこく口が上手かった。 信長はこれを悦び、馬の管理をさせ、「木下人」と名づけた。 後に重用され、信長のために策を尽くし、二十余州を切り取り、摂津州鎮守大将となった。 参謀に阿奇支なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。 にわかに信長は部下明智に殺される所となり 秀吉は阿奇支をまさに滅した時に変を聞き 部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅したので威名は益々振るった。 信長の三子を廃し、関白を僭称し、信長の衆をことごとく収めたのが万暦十四年である。 やっぱり実際に現場に行くことは大事だよネ!とか 伝聞まる飲みはホント危険だよネ!とか われわれ現代人にとっても色々耳が痛い話。
964 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 09:17:12.20
>倭国の地理に詳しい中国人など少なかっただろ。大笑いも何もないよ。 中国の地理、朝鮮の地理の問題を忘れているのか。
965 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 10:26:39.02
古代の外国での伝聞史料が所々に間違っているのは明らか。
<畿内説> ともかく「倭人伝の里」はでたらめにしたい→里程は議論しない方向にしたい。 <九州説> 「倭人伝の里」が従来の公里とは違うものの、およそ1/5〜1/6程度にすれば、 日本の地理状況に符号する→この里を、よく研究する必要がある <判定> どちらが、真摯な研究者の態度か?。。。明らかですね。
>>966 新聞のアンケートみたいにバイアスかけてるようでは
信頼されないぜ。
968 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 11:08:07.03
>>956 未だにソウルが帯方郡だと思っている無知がいる。
ソウルの風納土城は4世紀の百済発祥城だ。
帯方郡はもっと北の沙里院にあったと言うのが通説だよ。
969 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 11:43:10.55
>>966 ともかく「倭人伝の里」はでたらめにしたい、というよりも
短里が本当にでたらめなんだからしゃーないだろう。
里程は議論しない方向にしたい。いや違う、だから、早く「一尺為歩」の記録
を見つけてくれよ、こちらは物凄く里程の議論がしたいのよ。
970 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 11:50:21.10
陳寿は馬鹿で倭人伝の 距離も方角も絶対間違っているんだよ。 間違ってないなんて認めることはできない。 だって 距離と方角が呂絵ほえとも間違っていなかったら畿内説は完全消滅して ボクらは困るじゃないか。
今測ったら、沙里院とソウルの距離は150kmだった
973 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 14:44:42.45
><九州説> 「倭人伝の里」が従来の公里とは違うものの、およそ1/5〜1/6程度にすれば、 日本の地理状況に符号する→この里を、よく研究する必要がある という事は……、君、「倭人伝の里」が従来の公里とは違う、 と認めたんだね。
974 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 14:48:23.49
陳寿はなんで公定里を使わなかったか? という事だね。 わからんよ。わざとじゃないと思うけど。 単に、陳寿がチェック不足だったんじゃね。
>>947 >陳寿はなんで公定里を使わなかったか?
陳寿だけじゃないだろ?
倭で使われている距離が公定里で矛盾のない書物なんか一つもないよ。
東渡海千里も伊万里(一万里)も公定里じゃないね。
>単に、陳寿がチェック不足だったんじゃね。
會稽東冶之東も
到其北岸狗邪韓國七千余里からも
陳寿のチェック不足とは言えないだろうね。
976 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 16:17:14.97
実際に倭にきて記録した人物も 書物を残した人物も、 公里も公里での一月行も理解したうえで、 この地域は1/5〜1/6ということも理解しての 記録だと思う。 体系が整っているし、 いわゆる1/6で処理できるように公式化されているように見える。 地域ごとに里程の違いは当然あり、この地域はこういう公式だと 常識化されていたのではないか。
977 :
ローガン :2011/05/28(土) 16:18:42.92
んなもんがあれが、もめとらんだろ
客観的な証拠が無いなら 無いなりに意見を述べれば良いのに。 証明できもしない自説が正しさを論拠として 他説を攻撃するから荒れるんだよ。
探しても、なにもなかった。 最初から空だったから。
「短里」はむろんだが、「公里」でさえも、 その根拠となる規定は三国志には書かれていない。 あとは、個々のケースを帰納して、里の長さを確定するしかない。 ということだな。
982 :
ダニエラ・ビアンキ :2011/05/28(土) 18:14:34.18
979さんに賛成。 邪馬台国の研究はれっきとした学問だから、研究者の態度と論証でレスをして ほしいわよね。
983 :
キンガン :2011/05/28(土) 18:23:32.15
>>948 僕がコテハン作ってないからだろうけど
順番を理解してないのは貴方なんだよ。
会稽東治之東から中国国内短里、
晋司空・裴秀の方丈図の縮尺から
短里存在の可能性を説いたのは僕だ。
僕は貴方から直接レスされていないが、
905氏から貴方のレスを紹介されたので
907で「漢魏禅譲の話が、西晋朝となんの関係がある?」
と書いといた。
僕にとって紹介された貴方のレス自体、全く意味を持たないんだが、
その解釈が誤読に思えたので924で初めて貴方にレスをした。
908ナクシ氏の解釈が妥当と思ったが、916で貴方が反論しているので
924でちくまの解釈を紹介したという次第。
しかし、925でちくまの解釈を退けられたので938で解説した。
僕は貴方とは「同律度量」の解釈をめぐって議論してるとしか思ってない。
946に応えてもらって、その解釈を確定したいだけ。
ちなみに?周の解釈も誤読だと思うが、横レスはしていない。
中世に作成された世界地図をみると 朝鮮はインドと同じくらい巨大に描かれていたり、 日本は本当にちっぽけな諸島として描かれている。 3世紀よりも人の往来が激しい中世でさえこの程度だ。 3世紀において現代的な地理感覚があると考える方が おかしいのではないか?
985 :
キンガン :2011/05/28(土) 18:58:21.14
>>949 >実際は、周七十里は介山の実測値に合致します
自家撞着に陥ってるな。
732
>ならば、短里といわれるものは、単に
>「東夷伝の里数で実測値を割ったらこうなりました」というだけのことで、
>短里が使用されていた証拠にはなりません。ただの計算結果です。
つまり、東夷伝の実測値を里数で割った里単位は採用せず、
文穎注の実測値を里数で割った里単位は利用している。
一方のみ肯定する判断基準は何?
「三国志に短里なしが判明した」は撤回しないの?
結局、公里と呼ばわる人たちも、その存在を確認するためには
実測値を史料中に書かれた里数で割ることでしか確認できないということだね。
>>950 さて、介山に関する文穎注の里数値に疑問を持つのは当然だが、
即座に短里なしとすることはできない。
山高に関しては「里」と「丈」の二通りの表現がある。
「里」が「道のり」すなわち登攀距離で
「丈」が本来の「山高」を表すという考え方もできる。
ただ、「高三十里」が登攀距離でかつ長里であるとすると実状と合わない。
貴方の言うように介山は1400m級の山だ。
しかし、その麓は標高500mぐらいに見える。
つまりその高低差はたかだか900mぐらい。
900mの山を登るのに12kmも必要かな?
100m登るのに1.3kmもかけるほど急峻な山には見えないし、
それほどうねった登山道があったとも思えない。
時速3kmで登ると4時間かかる計算だ。
誤写や地殻変動も考えたが、妙案はない。僕は今のところ保留してる。
987 :
キンガン :2011/05/28(土) 19:08:27.75
>>951 介山はさておき、文穎注には長里で書かれたものがある。
高帝紀に、文穎曰「武関在析西百七十里。」とある。
調べれば長里であると了解されるだろう。
ところが、長里で理解できないものも存在する。
趙充国伝に、文穎曰「金城有三?、在南六百里。」とある。
金城から南に240kmも行くと隴西郡を超えて益州に届く。
とても、金城郡内の名所とはいえない。
いずれにしても、短里・長里の痕跡を調べるには
実測値を史料に書かれた里数で割ることでしか確認できない。
しかし、長里派は東夷伝の里数に関してのみ無視する。
いまのところ方丈図が、道のり距離を排除できる唯一の証左だと考えているが
長里派や畿内派が理解を示すとは思ってない。
彼らにできるのは、史料記載を否定するだけだから。
倭人伝から纒向に結びつける努力でもしてもらいたいもんだ。
986は、ハンドル書き忘れ。
988 :
どくだみ :2011/05/28(土) 19:31:51.84
>>985 >つまり、東夷伝の実測値を里数で割った里単位は採用せず、
>文穎注の実測値を里数で割った里単位は利用している。
>一方のみ肯定する判断基準は何?
それは全然違います。
1、介山の実測値と周七十里という記述から、一里が何mに相当するかを算出する。
2、現存する魏や呉の尺(今でいえばメートル原器みたいなもの)は23.5〜24.2cmであり、
一里=1800尺だから一里が423m〜435.6mとなる。
1と2から、両者が比較的合致するので、同じ単位を用いているとみなせる。
これが
>>949 に書いた理屈です。
つまり別系統の資料から出た数値を比較検討しているわけです。
一方で、短里を主張する人は、1の段階だけで、他に傍証がなくて短里の存在を主張しているわけです。
自家撞着どころか、全然確度のちがう議論です。
しかも短里は東夷伝以外、三国志の中でも存在が確認されません。
いわば司馬遼太郎の『龍馬がゆく』で、一章だけ里の長さが違うのに、読者に断わりがないというようなものです。
>>988 それを確定するためには、
六尺一歩、一里三百歩が採用されていたと確認してからだね。
短里派も、それが間違っていると証明できないので、
史書の里数が実際の地形の何メートルにあたるか計算しているの。
990 :
キンガン :2011/05/28(土) 19:46:15.51
>>988 長居するつもりはないので、ついハンドル書き忘れるが989もキンガン。
誤解されてもかまわないと思って、書くのを控えたが、
僕は、魏朝長里・西晋朝短里を想定してるの。
初めて外国伝書くのに、前代の地理記述ってあると思う?
短里派の言うところの「長里」は、現代中国でも使用されていて 日本にも律令で導入されてる。 過去に使用された事が確実で、現代でも実際に使用されている生きた尺度。 これは大きいだろうね。 裁判で言えば、立証義務があるのは短里説側で、証明に成功したとは言いがたい状況。
992 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 20:07:08.30
900mの山でも険しさを表現するなら12kmと表現されるんじゃないかな。 45度超えてる山だったら道のりは相当きつい距離になると思うが。 登山した事あるけど、標高と道のりは距離が全然違うからね。 標高の十倍は歩く事を覚悟した方が良い。
993 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 20:10:39.77
>初めて外国伝書くのに、前代の地理記述ってあると思う? 思う
994 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 20:15:18.32
よくかんがえたら、畿内派は長里であっても、 畿内には行き着かないんだから、 長里、短里、関係ないんじゃないの? 反対のための反対してるの?
995 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 20:18:03.94
九州説がゴールに飛び込みそうだから、 畿内説が自分のゴールも探さずに、必死で妨害してる図。 あ、ゴールはマキムクだったか。 いつたどり着くのかは知らんがな。
九州説のゴールってどこさ。 それとも九州だったら何処でもいいの?
997 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 20:25:05.44
>>996 発想が逆じゃね?
解釈した結果、どこかになるのであって、
どこかにしたいところにあわせるわけじゃない。
>>997 なら九州説内の結論は出ててもおかしくないよな。
自説で良いから開陳してみればいいよ。
誰か次スレ立てろ矢
1000 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 20:43:39.97
あ
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。