歴代皇后で一番好きな方を教えて

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266日本@名無史さん:2011/12/21(水) 13:13:07.68
美福門院得子の肖像、角田氏の本で拝見したけど、あの時代だから肖像といっても
どうかと思うけど、すごい不美人だった。年とった清少納言みたいな

そして・・待賢門院璋子の肖像(法金剛院所蔵) が阿仏尼肖像と
そっくりなのはどう考えればいいの?
267日本@名無史さん:2011/12/22(木) 21:55:39.25
阿仏尼像は、日本女性の単独肖像画としては最古のものだよ。
美福門院や待賢門院の肖像は後世に描かれた想像画では?
268日本@名無史さん:2012/01/14(土) 20:51:56.92
>>1
神功皇后を忘れてはならんね。
269日本@名無史さん:2012/01/17(火) 14:45:33.44
>>263
今更ながら、雅子妃が外務省に入省した時は、国T試験ではなく
外務省独自にキャリア外交官試験をやっていたんだよ。
これに合格すると学歴関係なしに大使までの地位が約束されるから、
大学在学中に合格して中退して入省になった輩が多いし東大以外も
キャリア外交員にたくさんなっている。
しかし、コネ合格が多い(外務省は親子で入省しているのが他省と
比較してずば抜けて高い)と言う批判を受けて、現在は他省と
同じように国T試験からキャリアを採用している。
270日本@名無史さん:2012/01/20(金) 03:12:51.36
ちょっとだけ関係あるところから興味深いレスを拝借

>264 :日本@名無史さん :2011/12/20(火) 18:49:21.03
>堀河天皇中宮篤子内親王。
>19歳の年の差婚がどんなだったか気になる。後三条天皇の娘を嫁にすることにさほどメリットを感じないし、愛情があったんだろうな(と思いたい)。

>265 :日本@名無史さん :2011/12/20(火) 19:13:17.85
>>>264
>篤子内親王の入内は、堀河天皇の父で篤子内親王の兄でもある白河上皇の
>命令のようです。
>当時、天皇家で最も年長の尊属で、皇位継承に強い影響力を持った陽明門院が
>孫娘の篤子内親王を養女にして溺愛していたので、白河上皇が陽明門院を味方に取り込む
>ための婚姻だったともいいます。更に摂関家を憚って入内に当たっては藤原師実の養女となりました。
>
>ただ、堀河天皇は幼いころから四宮(篤子内親王)に憧れていて、是非に、と心に決めていた、
>と今鏡に書かれてあって、夫婦仲は良かったようです。

>266 :日本@名無史さん :2011/12/21(水) 13:13:07.68
>美福門院得子の肖像、角田氏の本で拝見したけど、あの時代だから肖像といっても
>どうかと思うけど、すごい不美人だった。年とった清少納言みたいな
>そして・・待賢門院璋子の肖像(法金剛院所蔵) が阿仏尼肖像と
>そっくりなのはどう考えればいいの?

>267 :日本@名無史さん :2011/12/22(木) 21:55:39.25
>阿仏尼像は、日本女性の単独肖像画としては最古のものだよ。
>美福門院や待賢門院の肖像は後世に描かれた想像画では?


271日本@名無史さん:2012/01/20(金) 03:13:33.55
>>270 について失礼しますた
272日本@名無史さん:2012/02/08(水) 16:36:59.16
ほしゅ
273日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:07:46.68
大河「清盛」に多子様が出てきたが、どうみても絶世の美女に見えないww
274日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:16:20.42
>>273
あれは武井咲演じる常盤を絶世の美女扱いするために
呈子と多子を不美人女優に演じさせる演出
待賢門院と美福門院は結構頑張った配役だったのにな
清盛側の建春門院や建礼門院は頑張るだろ
275日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:30:48.48
>>274
二代后のエピソード好きなのに。
あれじゃあ、二条帝も頑張る甲斐がなさげww
276日本@名無史さん:2012/04/21(土) 02:07:01.43
そらもう持統天皇よ
277日本@名無史さん:2012/06/02(土) 01:13:01.56
>>237
>>239
日本霊異記では「皇后」の読みを「オオミオヤ」としていたと記憶している。
淳仁天皇からすると孝謙上皇は「オオミオヤ」であり「皇后」だったということになる。
皇統を維持するという意味では、淳仁天皇は孝謙上皇の養子的な扱い。
しかし、実際のところ、孝謙上皇は淳仁天皇の皇后でもあった。
278日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:27:33.62
>>277
「日本霊異記」では淳仁天皇配流後、孝謙上皇が重祚して称徳天皇になった後も、
「帝姫阿倍の天皇の御世の、天平神護の元年の歳の乙巳に次れる年の始に、
弓削の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通し、天の下の政を相け摂りて、天の下を治む」
と「皇后」という言葉を「女帝」と同じ意味で使っている。
同じ文章の中で安倍内親王を差して「天皇」と「皇后」、両方の名で呼んでいる。
279日本@名無史さん:2012/06/26(火) 17:17:57.81
質問です。醍醐天皇の皇后、藤原穏子(父藤原基経 母人康親王女操子女王)
は3男1女をもうけています。
藤原穏子 885〜954

保明親王 903〜923
寛明親王 923〜952 朱雀天皇
成明親王 926〜967 村上天皇
康子内親王 919〜957 

保明親王と他の弟妹との年齢差が気になるのですが、どのように解釈したら
よいのでしょうか。教えてください。
280日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:38:20.81
>>279
何年も妊娠しなかった人が急に妊娠することもあるし
若い他の妃たちにかまけていた醍醐天皇が急に
やっぱり古女房がいいと穏子への愛が戻ったのかもしれない
深い意味はないのでは?

皇太子保明親王が死んだので古女房のお召し再開という説もあったが
康子内親王が生まれ、朱雀天皇が種付けされたのは保明親王存命中。
281日本@名無史さん:2012/07/04(水) 16:25:41.41
醍醐天皇の場合、
他の女御(源和子)や更衣(源周子)も、最初に産んだ子と最後に産んだ子の年齢差が大きかった

結局は、醍醐天皇とはそういうお人柄だったというしかない

282日本@名無史さん:2012/07/04(水) 17:58:38.40
>>280 >>281
レスをくださってありがとうございます。長く寵愛していたということなんですね。

源和子 光孝天皇皇女 885年賜姓 ?〜947

常明親王 906〜944
斉子内親王 921〜936

源周子 嵯峨天皇の孫、源唱の女 

時明親王 910〜927
盛明親王 928〜986
283日本@名無史さん:2012/07/04(水) 18:18:13.68
ふと思いつきましたが源周子は嵯峨天皇の曾孫で醍醐天皇の妻の一人です。
皇極・斉明天皇は敏達天皇の曾孫で舒明天皇の妻の一人です。
更衣と天皇、ずいぶん差がありますね。

皇族が妃となる時代とたとえ皇女であっても女御や妃どまりの時代。
鎌足と不比等の働きは日本の古代史を動かしました。
284日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:39:55.95
>>283
皇極:斉明天皇は皇曽孫女の女王だけど、舒明天皇の姪に当たる。(故庶兄の娘)。
舒明天皇自身が皇子ではなくて皇孫の王なので、まぁまぁ自然な配偶だろう。

あの時代には、次期天皇(大王)になれそうな皇族男子には、
即位後にすぐに皇后(大后)となれるような、皇族出の正妃が必要だった。
正妃は皇族なので皇女か女王で、自然と本人の男系の近親となり、
異母姉妹・姪・叔母・従姉妹などの場合が多くなる。

田村王(舒明天皇)には正妃として、田眼皇女(敏達と推古の娘)がいたが、
子女を生さずに早世したらしく、後添正妃として多分寡婦だった姪が選ばれたのだろう。
285日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:14:58.18
皇族出身の皇后が立てられなくなったのは文武天皇からだがこれも諸説ある
(年齢の近い皇女がいなかったとか紀皇女が文武皇后だったのに密通で省かれたとか)
まあ、藤原氏出身の光明皇后出現以降は一遍するよね
桓武天皇の代には早くも皇族出身の妃を退けて藤原氏が皇后に
(桓武天皇には酒人内親王(桓武天皇の異母妹)という皇族の妃がいたのに
藤原乙牟漏が皇后になった)
286日本@名無史さん:2012/07/05(木) 06:32:52.71
>>284
そうですね。おっしゃる通りだと思います。

>>285
文武天皇には藤原不比等の女、宮子が夫人となりました。このころ、天武天皇系の
皇族が大勢いました。天智天皇系を避けるのはわかるのですが、あえて
皇族を妃としていません。これは持統天皇の草壁皇子を正嫡とする考え方から
きているのでしょうか。そのため他の皇族を排除したわけでしょうか?
でも皇族を皇后としたほうが文武天皇の権威も高まると思います。

それから気になるのが元明天皇の時代にひんである紀氏と石川氏が位を
剥奪されていることです。石川氏は二人の皇子(広成、広世)を産みましたが
(この二人は一人という説もあります)元明天皇の母方の氏族である石川氏を
排除した理由がわかりません。理由としてひんにふさわしくない行動を
とったからとなっていますが、後付けのように思えます。
287日本@名無史さん:2012/07/05(木) 08:49:13.44
>>286
当時天皇の皇后として最もふさわしいのは異母姉妹だったでしょうが、
文武天皇には異母姉妹がいませんでした。
叔母の紀皇女が皇后だったという説を唱える方もいますが記録がありません。
あとは従姉妹に当たる女王たちといったところですが、ここからも妃は出ていません。

紀・石川氏は藤原氏との政争に巻き込まれたのでしょう。
文武が死んでも首皇子は即位できず、文武の母元明天皇が即位、
首皇子の即位がどんどん先延ばしにされ、藤原氏はやきもきしていました。
元明天皇は首皇子の即位に消極的であったとも言われ、即位と同時に外孫である長屋王らを
父方の3世王から母方の2世王に引き上げていましたから、
藤原氏の焦りは相当なものだったと思われます。
おそらくは紀・石川両氏の解位は元明天皇の意思ではなく、
藤原氏にはめられてのことだったのでしょう。
288日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:17:22.46
>>284
敏達天皇 538〜585 田眼皇女は585年以前の生まれですね。
皇極・斉明天皇 594〜661
舒明天皇 593〜641

舒明天皇は自分より10歳近く年上の皇女を妻としました。ここには推古天皇の
意思があるように思えます。

それにしても女と曾孫、2世代離れているのに10歳ぐらいしか年が違わないとは
一夫多妻制のせいでしょうかね。 
289日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:42:47.54
>>287
草壁皇子の妻は元明天皇のみで同母姉妹の氷高内親王と吉備内親王しかいないので
これは結婚できません。おっしゃる通り従姉妹にあたる女王はたくさんいたでしょうに
やはりその父である親王たちを警戒して結婚させなかったか、藤原不比等の力が
大きかったかなのでしょうか。

元明天皇が長屋王と吉備内親王の間の子を3世王ではなく2世王としたことが
かえってあとの悲劇を生んだ原因になったかもしれませんね。

長屋王の息子たちは母方の伯母、おじ、祖母が天皇、母、父方の祖母が内親王と
優れた女系の血筋を持っていましたからね。ここで男系がないのは草壁皇子が
男子を一人しか残さなかったからで、あとの皇族男子は女帝たちに警戒されて
いたのでしょうか。
290日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:49:54.41
>>288
舒明天皇も自身の地位を高める上で推古天皇皇女との結婚は有利だったかもしれません。
舒明天皇即位前に田眼皇女は亡くなっていたようですが(舒明の皇后になったのは宝皇女)

>10歳近く年上の皇女を妻
天皇が10歳近く年上の正妃を娶るのは結構あるようです
・円融天皇(959〜991)と中宮藤原媓子(947〜979)・・・円融天皇が12歳年下
・後一条天皇(1008〜1036)と中宮藤原威子(999〜1036)・・・後一条天皇が9歳年下
・堀河天皇(1079〜1107)と中宮篤子内親王(1060〜1114)・・・堀川天皇が19歳年下
291日本@名無史さん:2012/07/05(木) 10:25:55.47
>>290
宝皇女は曾孫ですから本来は女王です。それが皇女と表記されているのは
のちに天皇になったからと考えてもよいでしょうか。女王で皇后になっても
そのままの方もいますから。

円融天皇の中宮は子供がいません。そして中宮の父は当時の実力者で兼家女の
一条天皇生母詮子は女御でしたね。これは父親の力関係でしょうか。

藤原威子は道長女で後一条天皇の母方の叔母、これは道長の権力の為でしょうね。
しかし皇女が生まれました。

篤子内親王は堀河天皇の父方の叔母、これは陽明門院のバックアップでしょうね。
子供はいませんでした。

男性は年齢が高くても子供を持つことが可能ですが、女性の場合上限があります。
若い時は年上の女性が良くても年をとると若い女性に心が引かれることが
あるのでしょうか。こうなると早いうちに子供を産まないと正妃であっても
立場が弱くなりますね。
292日本@名無史さん:2012/07/05(木) 10:44:26.82
>>291
宝皇女は後に即位したことからの表記でしょうね。
文武天皇も本来ならば王のはずですが珂瑠皇子と表記されますから。
(母である元明天皇が即位するのは文武没後)

藤原詮子が入内したのは円融天皇の最初の中宮媓子が没した後です。
関白藤原頼忠の娘導子と中宮争いをして敗れました。

後一条天皇は9歳年上の中宮威子が生涯唯一の妃で他に妃はいませんでした。
(教通が娘生子を入内させようとしたが頼通に阻まれた)

堀河天皇は篤子内親王の他にも女御や典侍を持ちましたが
篤子内親王との夫婦仲はよかったと言います。

3人の天皇とも年上の正妃との仲は良かったようです。
若く結婚しても子供がいなかったり男子が生まれなかった妃はたくさんいるので
こればっかりは運でしょうがね。
293日本@名無史さん:2012/07/05(木) 11:05:19.50
>>292
詳しく教えてくださってありがとうございました。子供がいなくても、年上であっても
政略結婚であっても夫婦仲が良かったとお聞きしてホッといたしました。
歴史上の人物とはいえ少しでも幸福を味わってもらいたかったのです。
294日本@名無史さん:2012/07/05(木) 11:25:38.73
>>286
持統天皇・草壁皇子・元明天皇・文武天皇の信頼を勝ち得た、
藤原不比等と県犬養三千代夫妻による、全力を挙げての細かく隠微な策謀の数々によるものかと。

特に、最初は草壁妃時代の元明に出仕し、文武の乳母となった三千代による後宮采配と、
元明・文武母子の心と行動を操縦する手腕は、まだ力の弱かった不比等には使い所が大きかったのでは。

天武天皇の末娘と思われる田形皇女(紀皇女の同腹妹)でも、文武より9歳年上なので、
若き皇孫である文武の皇后には、文武の1歳年下である長屋王の妹達辺りが、少々幼いながら相応しそうだが、
やっと思春期の文武にいち早く、宮子から聖武天皇を出生させた既成事実は、立后話立ち消えには効果的。

余談だけど、長屋王の変の発案計画者は三千代だったのではないかと、自分は思っています。
295日本@名無史さん:2012/07/05(木) 12:17:21.34
>>294
15歳で即位した文武天皇には即位と同時に藤原宮子・紀竈門娘・石川刀子娘
がそれぞれ夫人・嬪に立てられたがそれまでの天皇と異なり皇后が立てられなかった。
藤原宮子が首皇子を産むのはそれから4年後のことで、この時点ではまだ誕生していない。
三千代が首皇子誕生を持って立后を阻止したというのは無理がある。

更には不比等は病弱な首皇子の予備として宮子に更なる男子誕生を願ったと思われるが、
宮子は出産のショックのあまり深い憂愁に入り文武天皇の後宮を退出してしまい
更なる皇子誕生は望めぬものとなった。
代わりに文武天皇の後宮で寵を受けていたのは紀・石川といった妃だと思われる。
三千代は聖武天皇の後宮に自分の親族である県犬養広刀自を入れているが、文武天皇後宮にそれがなく、
石川刀子娘は持統・元明の親族である蘇我氏系であることを考えると
どこまで三千代が文武の後宮に口出しできたのか疑問な部分は多い。
296日本@名無史さん:2012/07/05(木) 13:12:49.73
天武の皇女たちが、年齢他の理由で文武皇后となるのを見送られたのなら、
次には、氷高・吉備を除く天武の皇孫女たちの年齢が、問題となるよね。

いくら早婚の時代でも、いまだ初潮のない女子の形式立后なんぞは無理そうな時代。
文武即位が満で13〜14歳の時点ではまだまだ、対象年齢女王が皆無だったのでは。
そろそろの頃には、鶴の一声を発する持統上皇の崩御でうやむやに、とか。
297日本@名無史さん:2012/07/05(木) 16:07:52.76
天武皇女で当時独身だったとみられるのは紀皇女ぐらい
天武の皇孫女は相当数いたとみられるが年齢不明なのが多い
高市は天武の長男だが第一子長屋王を儲けたのが31歳の時と遅く
他の天武皇子が先に孫女を儲けていた可能性もある
また持統・元明天皇が天智天皇皇女であったことを考えれば
天智系の女王でも皇后に立つことは十分に可能だったと思われる
298日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:04:02.74
女王といえば長屋王の姉妹はどうなんだろう
河内女王と山形女王
年齢的にも文武天皇とさほど離れてないと思うんだけど
299日本@名無史さん:2012/07/06(金) 12:54:01.54
河内女王は長生きした
300日本@名無史さん:2012/07/06(金) 13:10:59.52
長屋王の姉妹については初めて知ったのですが、生母は高市皇子の妃で元明天皇の
同母姉の御名部皇女ですか?
301日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:10:23.08
>>300
河内女王・山形女王は生母不明(御名部皇女かもしれないし、違うかもしれない)。
河内女王は女官となり、天平19年(747年)に正四位上。その後正三位となり宝亀10年(779年)に没した。
「公卿補任」の年齢が正しければ680年生まれ(数え100歳まで生きた)で長屋王の4歳姉。
文武天皇より3歳年上で、年齢的には文武天皇とお似合いだったということになる。
河内女王の夫の存在は記録されていない。
山形女王も女官となった。神亀元年(724年)正四位上となりその後正三位に上り、
天平17年(745年)に没した(生年は不明)。
山形女王もまた、夫の存在が知られていない。
302日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:49:20.42
>>301
教えてくださってありがとうございます。本当にこのスレはおもしろくて
ためになります。

長屋王の変で長屋王と吉備内親王、そして二人の間に生まれた子供たち
(1人は母が違ったような)が殺されましたが、弟の鈴鹿王(母は長屋王と同じ)
姉妹の河内女王、山形女王が何事もなく宮中で働いていたことから
やはり長屋王とその子供が聖武天皇より血統が正しい皇位継承者と
みられており、そのため殺されたと考えてよいのでしょうか。

首謀者を県犬養橘三千代と仰っている方もいらっしゃいましたが、それにプラス
藤原4兄弟でよいのでしょうか。(時代があっているかな)
303日本@名無史さん:2012/07/06(金) 16:22:06.67
やはり元明天皇の姉の子である長屋王、
元正天皇の妹の子である膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王が
聖武天皇に代わる皇位継承資格者として警戒されていたのでしょう。
鈴鹿王は御名部皇女の子ではなかった可能性があります(鈴鹿王は生母不詳)。

藤原宇合は長屋王の邸を取り囲む軍を率いた張本人であり、
長屋王没後藤原四兄弟が相次いで出世したことなどから長屋王失脚に藤原四兄弟がかかわったことは事実でしょうが、
橘三千代の関与はどうでしょう。
三千代は長年仕えた元明太上天皇が危篤となると出家、長屋王の変の頃には宮仕えを辞していたようです。
藤原四兄弟は三千代の子ではなく、三千代の子である葛城王(後の橘諸兄)が企てに加わった形跡がないなど、
三千代の関与を直接裏付ける根拠はないように思います。
304日本@名無史さん:2012/07/06(金) 17:10:27.09
>>303
鈴鹿王は母が未詳だったのですね。

三千代について疑問に思うことがあります。当時異母兄弟の結婚は許されていましたが
同母兄弟の結婚はタブーでした。
三千代が先夫美努王との間に産んだ橘諸兄が後夫不比等との間に生まれた
同母妹の多比能と結婚したのはおかしいのではないでしょうか。多比能は生母不詳とも言われていますが。

また三千代が産んだむろ女王が房前と結婚したことによりこの血統が力を
持ってきたと言えるのではないでしょうか。まあ、京家は子供が少なく
式家は反乱で、南家も没落し漁夫の利を得た面もあるとは思いますけど。
305日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:54:46.90
>>304
多比能の母を三千代とするのは「尊卑分脉」らしいです。
異母兄妹婚は当たり前のようにたくさん行われているのに対して
異父兄妹婚は諸兄と多比能以外例がないようなので何とも言えないですね。

またこの時代の藤原北家はそれほど力を持っていません。
多比能の夫房前は不比等存命中に一時期兄武智麻呂より先に参議に昇進したことがありますが、
不比等の死後は武智麻呂が中納言に昇進、房前を抜いて不比等の後継者となり、
結局、武智麻呂が正二位左大臣で終わったのに対して房前は正三位参議で終わりました。
孝謙・淳仁天皇時代に政治首班であった藤原仲麻呂(恵美押勝)は
藤原南家(武智麻呂の子)の人です。
306日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:14:10.68
>>305
諸兄と多比能との結婚で生まれたため見下げられたという小説がありました。
永井路子さんか杉本苑子さんだったと思います。

そうでしたか。私は次男の北家が栄えたのはてっきり三千代の娘と結婚したため
と思い込んでいました。房前は光明子の異母兄で多比能は同じく異父姉でしたので
光明子が応援したと思ったのです。もちろん阿部内親王と仲麻呂が特別
親しい関係とは存じておりました。
しかしこの二人には男女関係はなかったと思っています。
307日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:20:04.36
>>306
房前と牟漏女王の長子である藤原永手は光明皇太后在世中、藤原仲麻呂と対立して退けられているので
光明皇后が北家支援だったということはないでしょうね。
南家支援だった理由ですが、やはり光明皇太后が仲麻呂を気に入ったのでしょう。
南家が藤原四兄弟の長兄系だったのは事実ですが、仲麻呂は武智麻呂の次男であり
兄を退けて出世していますから。
308日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
385 :名無しさん 〜君の性差〜:2013/01/25(金) NY:AN:NY.AN ID:wTELtc4r
恋しいタイランド(Akiさん自由帳)
ヒモ生活の私の友人
http://yuuri1006tomo0623.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_af8f.html

俺はタイには行った事ないけど、インドネシア・フィリピンに行った時に
上のブログに書いてあるような、現地の若い女性に経済的に面倒みてもらってる
しょーもないオッサン・爺さんをチラホラ見たけどな。中には戦争経験者も居た。
みんな一様に気質が楽天的で人懐こかった。いい加減な国(失礼)に住んでると、そうなるのか、
それとも元々そういう気質で日本に居づらかったのかは分からないが・・・・

386 :名無しさん 〜君の性差〜:2013/01/25(金) NY:AN:NY.AN ID:M1hUrnc7
>>385
すごく参考になる。

オジサマが、金目当て女に狙われるとは限らないんだな。
むしろ逆のパターンもあると。
309日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
恋しいタイランド(Akiさん自由帳)
ヒモ生活の私の友人
http://yuuri1006tomo0623.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_af8f.html

>これが、全くヒモ的な状態です。彼女(奥さん)は、物凄く別嬪さんで日本人受けして、
>そのお店でもNO.1かNO.2クラスなのになんで、こんなおっさんと一緒になって、
>何でこのおっさんの面倒を見ているんでしょうか?


>このお陰で、表面的にも見栄えのしないおっさんが、あんなに素晴らしい奥さんをゲットしているんですからね。
>日本のように3高とか、なんだとか言わないのがタイガールの良さかも知れませんし、助け合いの精神を常に持ち続けている、
>タイの長年の歴史の上に胡坐を書いているような感じですね。


>タイには、風采の上がらないおっさんがヒモの様な生活をしている外国人も沢山いますからね。
>私も、見習いたいと思っています。
310日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
女性に質問! マジレスしてくれ part890
http://sp.logsoku.com/r/lovesaloon/1366100416/301-400

348: 恋する名無しさん[sage]
2013/04/18(木) NY:AN:NY.AN AAS
私の知人にパチ狂いの輩が居ますが
その人は、最近テレビに出てたヒモショウヘイ(芸名)というヒモ師の知り合いで
彼の壮絶な腕前を聞きました。

ヒモショウヘイ氏(ブサデブ五十路、経験人数四桁)や
ウナちゃんマン(四十路、カツラ禿げ、間抜け顔のニコ生主)のような人間が
若い女性を何人も侍らせて、しかもお小遣いまで貰ってるという事は

女性の中には、男の金も地位も関係無いという人が一定数存在するのですか?
それとも女性にしか判らない魅力があるのでしょうか。

自分でいうのもアレですが、学生時代からイケメン扱いされているのに
チヤホヤされるのは最初の内だけで、いつもそれっきりなのです。
小汚い親父にすら勝てないなんて悔しいので、モテる為のアドバイスをお願いします。
グダグダと申し訳ありません
311310続き:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
351: 恋する名無しさん
2013/04/18(木) NY:AN:NY.AN AAS
まずそのプライドを捨てないとダメだね

352: 恋する名無しさん[sage]
2013/04/18(木) NY:AN:NY.AN AAS
>>348
自分に自信を持ってる男は逞しく感じるものです。
私はDQNは大嫌いですけど、DQNて自分に自信持ってる人多いでしょ。
それに付いて行こうとか頼りになるとか感じる女性は一定数いるんじゃんあないですか。

あなたの書き込みからも自分の自信の無さが読み取れます。いざと言う時に頼りになりそうにないですね。
312308〜311:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
俺もこういう技術を身に付けて、美人な皇后様のヒモになりたい( ;´Д`)
313日本@名無史さん:2014/08/22(金) 21:25:42.16
>>282
和子も周子ももっと上の内親王がいたはず

>>274
呈子役ひでぇww
現在の皇室に繋がらない人だからどうでもいい扱いだったかもしれないが
314日本@名無史さん:2014/08/24(日) 17:46:38.76
>>313
源和子 醍醐天皇女御 初子と末子の年齢差18歳
慶子内親王 903年生
斉子内親王 921年生

源周子 醍醐天皇更衣 初子と末子の年齢差24歳 
勤子内親王 904年生
盛明親王 928年生

大河「平清盛」は今の皇室に繋がる人でも配役酷かったよ
白河法皇役の伊東四朗の怪演といい…
315日本@名無史さん