歴代皇后で一番好きな方を教えて

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1日本@名無史さん
大后・中宮・皇后etc…
幾つか呼び名がありますが、天皇の正妻であるなら皆同じということで

歴史に名を残している方、時代背景等の都合で影に隠れているような方…あなたが日本史に関わる何かを目にしてきて心に残った方はいませんか?

私自身は、一条天皇の皇后、藤原定子様が好きです
特に何かの足跡を残したわけではなくても、薄幸な人生、枕草子から垣間見える人柄に惹き付けられました

理由も合わせて書き込んで頂けるといいかもです
2日本@名無史さん:2011/02/14(月) 00:03:34
昭憲皇太后 明治神宮の御祭神 日本の伝統・大織冠中臣鎌足後裔・藤原家最後の皇后さま。
3日本@名無史さん:2011/02/14(月) 13:32:16
神功皇后。


あ、実在の人物じゃなきゃ駄目か。
何、神功皇后は実在の人物だって?いややっぱり伝説と主張?ワケワカメ。
何はともあれ、ロマン溢れるお話でございますこと。
4日本@名無史さん:2011/02/14(月) 16:20:07
スレ立てた人です

伝説認定されてる方でもいいと思いますよ。ロマンがあっていいじゃないですか


ついでに
一番…ではないけど印象的な方は、待賢門院ですね
白河上皇の孫である鳥羽天皇の中宮で、自身も上皇の養女
入内前から妙な噂があったとか、産んだ第一皇子が叔父子と言われてしまったりとか…

ロマンとはほど遠いですが、関心しきりです
5日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:25:00
定子皇后  
6日本@名無史さん:2011/02/15(火) 03:12:41
ならヒミコ(日美后)
7日本@名無史さん:2011/02/15(火) 14:16:55
建礼門院。
8日本@名無史さん:2011/02/16(水) 13:05:45
源和子
9日本@名無史さん:2011/02/16(水) 17:37:10
阿佐殿
10日本@名無史さん:2011/02/16(水) 23:01:32
>>9えーと…
どなた様?どの帝のお后ですか?
11日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:22:27
みよし野は 見しにもあらず 荒れにけり あだなる花は なほ残れども

12日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:29:38
皇后伝なんて得に粉飾だらけだから、
誰が好きとかわかんないよ。

ってか、ココって「定子厨」がつくったスレだろ
13日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:20:02
日本史にいた有名な専業主婦「なまみこ婆(=定子厨)」。
史料無視の定子讃美で一日中2ちゃんねるに貼りついてたが途中で相手にされなくなり、
漫画板の「あさきゆめみし」に移動。
ここで一日中嫌いな登場人物を叩き続けてた。
しかし、あさきスレもID表示となったために連投を繰り返せなくなり
日本史板に戻ってきた。
しかしかつてのスレがないので自分でスレ立て、ってところだろうな。
14日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:57:20
古事記上巻の記述によると
垂仁天皇の后は、かぐや姫(伽具夜比売命)だぞ
155:2011/02/18(金) 22:22:56
ごめん、>>1をよく読んでなかった、1とは別人です。
16日本@名無史さん:2011/02/18(金) 22:57:08
>>13
えーと>>1ですけど…ID出ないから不便だな…
定子皇后好きだというだけで厨扱いされても…
ていうか、私はその方じゃないし。確かに円地先生の「なまみこ物語」好きだけど

昔発行の「歴史と旅/歴代皇后総覧」という冊子があって。実在の信憑性問わず公式文献の歴代皇后正妃を記述したその本が大好きだから、様々な時代を好きな方々がいるこの板で聞いてみたかっただけなんです
長文すみません
17日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:03:56
せめて皇族女性一般スレにしたらよかったのに
18日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:07:47
前の板に「后妃・女院(だっけ?)」みたいなスレがあったけど
あれみたいなのが良かったな。
誰が一番好きという人気投票ではなくてね。
19日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:39:58
>>16
自分もその歴史と旅の増刊号をもってて重宝してるけど
わざわざスレ立てて語ろうとも思わないけど。
20日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:52:16
>>11
>新待賢門院(後村上天皇の生母阿野廉子)が後醍醐天皇の死を悼んで詠んだ歌 …ウィキ新葉和歌集より
21日本@名無史さん:2011/02/19(土) 00:10:27
>>14
さすが平成。発見者あらわる!一般ピープルで 実在「かぐや姫」名を知る人は1%以下でしょう
第11代垂仁帝 后皇は ひはすひめ日葉須姫さまだと思います。
女御のひとかたが 迦具夜(伽倶夜?)姫さま お子さまは、おさべ(長部?)王です。
22日本@名無史さん:2011/02/19(土) 10:49:09
ほう、「かぐや」が人名とは知らなかった。
光源氏と同じくニックネームの類とおもっていた。
まあ、源光って貴族もいたしな。
23日本@名無史さん:2011/02/19(土) 12:04:22
伯父の名前が「讃岐垂根王」だから、かぐや姫本人なんでしょうな
24日本@名無史さん:2011/02/19(土) 12:10:42
...とすると、開化天皇の親族として「天上(殿上)」から来た姫様が
再び天上に戻ったワケですな

...ロマンですなぁ...
25日本@名無史さん:2011/02/19(土) 16:47:46
春日娘子
26日本@名無史さん:2011/02/23(水) 17:26:57.79
名前すら伝わらなかった長慶天皇の中宮
かわいそうです(´;ω;`)
27日本@名無史さん:2011/02/25(金) 04:54:30.45
やっぱり慈悲深い光明皇后ですね。
28日本@名無史さん:2011/02/25(金) 06:39:44.18
>>25
ヰキ>春日娘子(かすがのいらつこ、生没年不詳)は武烈天皇の皇后。但し、古事記には記載が無い。父母共に未詳で、子女無し。父が未詳の皇后は、史上春日娘子ただ一人である。

武烈男系遺伝子は絶え 女系遺伝子のみ現皇族に伝わる
春日は 皇族系の可能性大 武烈のマイナスイメージを恐れた春日に連なる藤原氏などが削除させたか
29日本@名無史さん:2011/02/25(金) 12:43:04.00
父母共に未詳なのに藤原氏が出てくるのは?
30日本@名無史さん:2011/02/25(金) 15:11:55.70
>>28
武烈の母は春日大娘皇女(父は雄略天皇。母は春日深目の娘童女君)。
普通に考えれば武烈の妻春日娘子は、武烈の母方の血筋に連なる
春日氏の娘という意味でとおるが?
春日娘子が皇族(皇女)だったという証拠に乏しい。
この頃、皇室は男子も女子も絶滅の危機にあったし。
31日本@名無史さん:2011/02/25(金) 15:59:56.71
>>29

古事記も日本紀も 藤原光明子聖武帝皇后や弟太政大臣藤原仲麿のころ? 念入りに御検閲m(__)m(お上の権威の計2冊、天武天皇&長屋王派閥1冊、天智天皇派閥作1冊)
32日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:07:10.33

春日家の祖敏達天皇と 小野家(小野妹子)などとの繋がりを排除し 外戚を藤原一家にしてゆくため?
33日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:12:49.02
ゐき>手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年(489年)以前-没年不詳)は古墳時代の皇族で、継体天皇の皇后。仁賢天皇の皇女で、母は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。欽明天皇の母。
きんめい天皇て現皇室や聖武天皇の祖だし 春日娘子武烈皇后が別系なら直につながてない?
34日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:32:54.53
>武烈のマイナスイメージを恐れた春日に連なる藤原氏などが削除させたか

中臣氏は連だから天皇の嫁なんてほとんど出してないんだが。
35日本@名無史さん:2011/02/27(日) 10:44:42.47
>>32
現代の天皇家は雄略天皇の妃春日童女君(欽明天皇の曾祖母に当たる)
の血を母系で引き、どのみち春日氏の血を引いているよ。
春日氏の血を排除するならば武烈妃ではなく雄略妃の出自を
改めなければならない。
小野氏は春日氏の傍系で天皇妃になった娘の存在は知られない。
平安時代の小野小町が仁明天皇の更衣だった可能性がある程度だね。

36日本@名無史さん:2011/03/04(金) 11:36:42.52
>>35
難波小野王がなにやら小野氏関係臭いが、
武列継体政権交代期の前後、和邇氏関係
(春日、小野)の女性妃人名が多いよね。
37日本@名無史さん:2011/03/04(金) 15:16:56.06
>>36
顕宗天皇后の難波小野王は難波王ともいい、
「王」の名がつく通り、皇族。
難波王の父は丘稚子王(日本書紀・古事記では石木王。
雄略天皇の皇子磐城皇子の子)と明記されている。
難波王が小野氏の血を引く妃だったというよりも、
難波王の養育に携わった氏族が小野氏だったっぽい。
葛城皇子と呼ばれた中大兄皇子(天智天皇)が葛城氏出身だったわけではなく、
養育にかかわったのが葛城氏だったみたいな感じ。


38日本@名無史さん:2011/03/04(金) 19:30:36.00
いずれにせよ 曾我家外戚以降 小野春日系統が 後宮から減ったなら 藤原母系は曾我家だし 実際は曾我家をカバーアップ(^^)
39日本@名無史さん:2011/03/08(火) 21:20:27.47
光明皇后の兄、大織冠の初孫
http://small-life.com/archives/10/09/2520.php
40日本@名無史さん:2011/03/09(水) 15:38:52.05
>>39
藤原不比等の長男武智麻呂と長女宮子(文武天皇夫人)は
どちらが年上だったのか分からない。
武智麻呂の長男豊成よりも宮子の長男聖武天皇のほうが年上であるため、
宮子が第一子だった可能性もある。
41日本@名無史さん:2011/03/10(木) 19:53:28.75
上東門院藤原彰子
42日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:23:44.58
ねえね よく嵯峨天皇後宮とか田中氏とかいるけど 橘氏末流か何かなの? それとも古代の皇胤?
43日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:28:46.08
>>42
田中造という古代豪族がいたからその系統じゃないの?
44日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:30:58.93
身分から考えたら田中朝臣だろ。蘇我氏の分かれ。
45日本@名無史さん:2011/03/10(木) 21:17:48.57
>>44
やぱり そういふ血筋でないと いきなり百済貴族みたく 外部から後宮入れないし 平成みたく 土下座してでも 奈良平安伝統の世界に来てくらはいとか
46日本@名無史さん:2011/03/10(木) 21:30:23.71
>>42
おなじく 嵯峨後宮で 更衣秋篠高子て土師氏(菅と同じ国つ神系)だからいいとして
更衣山田近子はどうなのかなて思ふ
47日本@名無史さん:2011/03/10(木) 23:11:13.03
>>46
ヰキより
>古代の山田氏 古くは渡来系氏族が称したウヂ名であり、『新撰姓氏録』には、右京の山田宿祢氏(やまたのすくね、周霊王の太子晋の子孫と称する)
>同じく山田造(やまたのみやつこ、山田宿祢と同祖)、河内国の山田宿祢(魏の司空王昶の子孫と称する)、
>同じく山田連(やまたのむらじ、山田宿祢と同祖)、同じく山田造(山田宿祢と同祖)、和泉国の山田造(新羅の天佐疑利命(あまのさぎりのみこと)の子孫を称する)が記録されている。
>平安時代初期の能吏として知られる山田古嗣(やまたのふるつぐ)もこの山田氏に出自していると見られている。

結局 渡来系 壬申勝ち組中華思想導入貢献サイドの力関係?
48日本@名無史さん:2011/03/11(金) 01:45:04.47
山田近子は宿禰姓(『続日本後紀』承和9年(842)正月戊戌条)
49日本@名無史さん:2011/03/11(金) 18:09:26.21
>>45
皇后、妃、女御、更衣あたりはある程度の身分が要りそうだけど、
田中氏やらは宮人で名前も伝わらず、一概にそうも言えなさそう。
在位中も本来はお目見え以下だと思われる女嬬
(宮中で炊事洗濯に携わる下働き女中)にも手を出している。
これ以外にも、嵯峨天皇は48歳で退位して67歳まで生きており、
どうやらこの上皇時代に宮中には召せないような身分の低い女のところへ通って
源氏姓の皇子女を大量生産してる。
嵯峨天皇の宮人たちは内裏の後宮に正式に召した女たちばかりではなく、
かなりこうした身分の低い女性たちが含まれている。
生母不詳の皇子女も多い。
50日本@名無史さん:2011/03/13(日) 16:07:32.98
ここって非妻皇后(郁芳門院(堀河中宮)とか)はスレ違いになるのか??
51日本@名無史さん:2011/03/18(金) 12:52:21.39
奈良時代までの后については古代王権研究の分野で論じられた本が結構ある
平安時代中期の后については当該期の王権研究や源氏物語研究の中で論じられた本が結構ある
でも平安時代後期〜鎌倉時代(所謂中世前期)になると女院も含めて后について論じた本はなかなかないね
52日本@名無史さん:2011/03/18(金) 23:35:57.27
推古天皇は駄目?
53日本@名無史さん:2011/03/18(金) 23:44:16.76
敏達天皇の皇后だからおk
54日本@名無史さん:2011/03/26(土) 09:41:16.62
>>50
たしか郁芳門院って堀河天皇の養母として「入内」したよね?
55日本@名無史さん:2011/03/26(土) 10:10:38.34
>>54
非妻皇后でも入内し宮中に住んだ例は多くある。
ただし、未婚であるため、スレタイにある「天皇の正妻」という定義からは外れるよな。
56日本@名無史さん:2011/03/29(火) 13:56:36.86
>>51
野村育世『家族史としての女院論』校倉書房、2006年
57日本@名無史さん:2011/03/31(木) 03:14:37.61
持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)の間の結婚の3組が気になる。
夫と父や兄弟の争いの日々で、どちらに加勢したんだろうか。
みんな親王を産めてないよね。産んでれば歴史は変わったんかな。

姈子内親王
(後宇多天皇(大覚寺統)妃で後深草天皇(持明院統)の娘)

c子内親王
(後醍醐天皇(大覚寺統)中宮で後伏見天皇(持明院統)の娘)

懽子内親王
(光厳天皇(北朝)妃で後醍醐天皇(南朝)の娘)
58’,:2011/04/01(金) 23:14:50.19
初代神武皇后…姫たたらいすず姫さま。〜お父さまは、ことしろヌシ様m(__)m,
二代スイゼイ天皇(神武天皇3男)后…イスズより姫さま。〜お父さまは、ことしろヌシ様m(__)m,
ニポンを守りたまへm(__)m。
59日本@名無史さん:2011/04/02(土) 09:43:42.95
>>57
後宇多天皇妃は確か恋愛感情が伴う結婚じゃなかったっけ
もちろん政略的な意味合いもあったんだろうが
60日本@名無史さん:2011/04/02(土) 10:05:56.91
>>57
姈子内親王・・政略的な意味合いもあっただろうが双方同意の上で駆け落ちしたとも言う
        後宇多上皇は姈子内親王が亡くなると悲しみのあまり出家しており
        大変上皇から寵愛された后であったは間違いがないらしい

c子内親王・・・夫後醍醐天皇が吉野へ行った後も夫に同行せず、
         都で兄弟の光厳上皇や光明天皇の庇護を受けている。

懽子内親王・・・父後醍醐天皇が吉野で南朝を開くと、こっそり夫の元を脱出して
         仁和寺で出家。夫の元に戻らなかった。
         夫光厳上皇は懽子内親王を悼む歌を残している。

姈子内親王は夫寄り、c子内親王、懽子内親王は実家寄りなんだろうか。
ただし、姈子内親王が駆け落ちしたのは父後深草が亡くなった後。



61日本@名無史さん:2011/04/02(土) 12:05:53.05
遊義門院は夫が上皇になった後の妃だから
女御でも后でもなく公的なランク外の「後宮」として
書類上は扱われている(ていうかそれ以外の表現のしようがない)
実質は皇后に準じるような扱いを受けたと思われるが
院号宣下を受けた内親王でこれは異例なこととしか言いようがない
62日本@名無史さん:2011/04/02(土) 20:57:00.34
檀林皇后

63日本@名無史さん:2011/04/02(土) 21:17:55.00
>>16
歴史読本の歴代皇后全伝とは別?
そっちなら持ってるんだけど。

皇后じゃないけど垂仁天皇の御世に、丹波から五人召された后の内
一人だけ不細工だから帰れって言われて帰り道に自殺した竹野媛カワイソス
磐長媛の話思い出す
。・゚・(ノД`)・゚・
64日本@名無史さん:2011/04/02(土) 21:22:36.88
別物。読本のなら、おいらも持ってる。
65日本@名無史さん:2011/04/02(土) 21:38:56.37
>>64
そうなんだ、ありがとう

皇后なら貞明皇后、橘嘉智子様、建礼門院様かなあ
お辛くても気丈で優しいお方がいいな
66日本@名無史さん:2011/04/03(日) 09:47:48.25
新清和門院(欣子内親王、光格天皇中宮)かな
親王を2人も生んだのにどちらも夭折してしまい
直系たる後桃園系の血筋を残せなかったのはおつらかっただろう
67日本@名無史さん:2011/04/03(日) 16:47:21.70
>>61
遊義門院は独身時代に後宇多の後継後二条天皇の準母として
独身時代に皇后になっている
その後、独身のまま女院となった
後宇多上皇の后になったのは女院号宣下の後
6861:2011/04/04(月) 01:34:56.91
>>67
自分もその認識で書いたんだが…

院号宣下を受けた北朝の后腹の内親王が
上皇でしかも政敵の南朝方に嫁ぐのはかなり不自然
釣り合わない訳ではないが、夫は譲位してるから立后の見込みなしだし

あ、ちなみに後宇多天皇に皇后はなし
若くして譲位したので妃のほとんどは上皇になってから
お側に召された人ばっかり
69日本@名無史さん:2011/04/04(月) 10:01:16.22
美智子が一番嫌い。その他は興味ないしどうでもいい。
70日本@名無史さん:2011/04/04(月) 16:41:25.27
>>69
じゃなんでこのスレにきたの?
ここは「好きな」お妃さきさんを語るスレなのだが
71日本@名無史さん:2011/04/04(月) 17:44:04.82
>>70
ageる奴がいるから。
こんなマニアックなスレは普通の人が入ってこないようにsageたほうが良い。
日本は自由な価値観の国だからマニアにとって聞きたくない自由な意見も当たり前に出てくる。
72日本@名無史さん:2011/04/04(月) 18:22:01.78
単純に>>70は「スレ違いだろ、皇后批判は別スレでやれ」
って言いたかっただけじゃないのか?
マニアとか一般とかじゃなくスレ違いはフツーにダメだろ
73日本@名無史さん:2011/04/04(月) 20:26:46.51
>67
遊義門院立后の経緯については下記の論文が詳しく触れてますよ

三好千春「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541、2007年)
山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年)の第1部第3章
74日本@名無史さん:2011/04/04(月) 21:12:19.71
逆境でいえば陽明門院(後朱雀天皇皇后、後三条天皇母)だな
三条天皇の后腹の内親王で道長の孫娘なのに前半生が不遇すぎる
皇后なのに新しい后入内するから宮中追い出されるとか…
皇后定子みたいに思わず出家(髪切っただけか?)しちゃった訳でもないのに
75日本@名無史さん:2011/04/07(木) 15:35:06.34
>>74
禎子内親王は気性の激しい后で
叔父の頼道が自分をはばからずに夫後朱雀天皇に養女を入内させると
これに立腹して勝手に宮中を出ちゃったみたいだ(栄華物語参照)。
一帝二后はこの頃定番になりつつあったけど許せないということで。
これにつけ入ったのが高松殿系の能信だけど・・・

76日本@名無史さん:2011/04/07(木) 15:39:30.63
>>73
遊義門院は後二条天皇の実母だという論文まで見たことあるなw
持明院統の遊義門院が大覚寺統の後二条天皇の准母として立后したのには
不可解なことが多い(普通は自分の兄弟や甥の准母になるのに血縁が遠い)
実は立后時すでに遊義門院は後宇多の妃であったという説だな
77日本@名無史さん:2011/04/08(金) 23:10:11.21
>>76
思わず遊義門院の年齢を確認してしまったが
年齢的には不可能ではないな<実母説
まずありえないだろうがw
78日本@名無史さん:2011/04/09(土) 21:38:24.43
>>77
遊義門院=1270年生
後二条天皇=1285年生
不可能ではない
後二条天皇にとって遊義門院は祖父の兄の娘と血縁が相当遠いにもかかわらず
遊義門院は後二条天皇の准母とされた
後宇多天皇が在位中一度も中宮を立てなかったことも遊義門院妃説を後押しするらしい
たとえ遊義門院が後二条天皇の生母ではなかったとしても
遊義門院が後宇多妃ならば後二条の嫡母として立后することは不思議ではないから
79日本@名無史さん:2011/04/13(水) 16:20:01.76
後二条天皇の生母である西華門院もなぜか不遇
太政大臣の養女であり孫であるのに叙位が遅すぎる
ここら辺の事情に詳しい人いる?
80日本@名無史さん:2011/04/15(金) 20:10:22.95
遊義門院の存在があるから実母の存在はなおざりにされたのかな?
1307年に遊義門院が没した後、翌1308年、
後二条天皇が没したこともありようやく従三位准三后女院号宣下。
後宇多の後宮では後醍醐生母なども後宇多からはほとんど厚遇されてない。
81日本@名無史さん:2011/04/15(金) 23:23:02.62
談天門院か<後醍醐生母
実父参議・養父内大臣で、後宇多天皇には皇族出身の
妃多いし、寵愛がなければ辛い立場だっただろう…

皇族いっても遊義門院以外は扱いがあんまり
良くないような気もしなくはないがw
82日本@名無史さん:2011/04/16(土) 09:36:10.86
83日本@名無史さん:2011/04/16(土) 10:13:34.30
>>81
後宇多の後宮ではとにかく遊義門院だけが突出した扱いだった。
高貴な上に(後深草天皇の后腹の姫宮)、後宇多からの寵愛もずば抜けていたらしい。
後宇多は遊義門院が没すると出家までしてしまった
(寵妃の死により出家したのは後宇多と花山ぐらい)。

後宇多の後宮には掄子女王(宗尊親王の娘・後嵯峨天皇孫)
という皇族の女王もいたが、こちらもあまり良い待遇を受けていない。
84日本@名無史さん:2011/04/16(土) 18:19:35.16
神功皇后
85日本@名無史さん:2011/05/08(日) 12:18:08.37
さんさんと
86":2011/05/08(日) 18:31:18.27
藤原家さいごの皇后さま 明治神宮のネ申であらせられる 貞明皇后さまは 親王内親王さま いらしゃらなかったの? 水戸徳川や島津系の女系に負けて 皇室から 藤原家を終わらせようとされたの? (・_・、) 詳しい人
87日本@名無史さん:2011/05/08(日) 18:36:00.48
>>86
まちがえた 昭憲皇太后さまです(>_<)
88日本@名無史さん:2011/05/10(火) 12:31:13.41
昭憲皇太后には御子いらっしゃらないけど(体弱い的な意味で)
貞明皇后=九条家=藤原氏の血筋は今上に入ってるから
昭憲皇太后は皇后としての役割をきちんと果たされた方ですし
89日本@名無史さん:2011/05/10(火) 18:00:30.06
>>86
藤原家最期の皇后は大正天皇の皇后九条節子(貞明皇后)ですよね。
昭憲皇太后は一代前、明治天皇の皇后で、名前を一条美子といった方です。
美子皇后には子はいなかったけれども歴代天皇の半数は皇后腹ではありませんしね。
ちなみに明治天皇の皇太子(大正天皇)を産んだのは側室の典侍柳原愛子ですが、
柳原愛子は公家の末裔で藤原氏出身ですよ。
90藤原皇后さま懐かしい子:2011/05/10(火) 20:36:27.14
じゃあ良子皇后のように 皇族系の方は何世代ぶりでしたか
あと武士の徳川の血は 今の皇太子さまに 伝わりましたか
すくなくとも薩摩武士の島津の血は伝わってしまいましたよね


つまり足利(先祖清和天皇さま)など由緒正しい武士の血は引かれてもと思いますが 他は 氏素性が(T_T) 日本の不幸なのか未来への幸運なのか悩んでます(・_・、)
91日本@名無史さん:2011/05/10(火) 22:34:28.72
>>90

豊家の血を引く子孫の定義
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1297579537/37

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 12:48:03.07 ID:XUzZQKuJ
>34
追加
徳川家康 → 徳川秀忠 → 徳川家光 → 千代姫 → 徳川綱誠 → 徳川吉通 → 千姫 → 二条宗基 → 二条治孝 → 九条尚忠 → 九条道孝 → 貞明皇后 → 昭和天皇 → 今上天皇


幸教と千の結婚で
二条宗基が生まれて完子ルートと合流


92日本@名無史さん:2011/05/14(土) 09:29:07.55
あと 藤原一條家藤原九條家と 江戸期の得河将軍による外戚工作 以外は 淳仁天皇のころ 以来 すべて藤原家皇后でした
檀林皇后は 敏達天皇後裔橘との繋がりありましたが犬養? 例外中の例外

さて昭和のかたは 薩摩武家の血筋による海軍閥の圧力なのか 一応 当時の皇族でしたが
藤原家皇后のラインを 中断させ 以来 あと2代も 非藤原家 この流れはあと千年続くのでしょうか どうすれば日本の文化伝統は 守られますか
93日本@名無史さん:2011/05/16(月) 05:30:15.53
そもそも何故藤原氏の皇后にこだわるのか
もともと皇后は皇族しかなれなかったものが
時代の流れで皇族→藤原氏もOK→制限なしと変化していっただけ
長い時間受け継がれた結果、時代にあわせて皇室制度が変わっていった
皇室そのものが変わった訳ではないし、伝統自体が失われたわけでもない
94日本@名無史さん:2011/05/16(月) 13:17:49.95
古代には葛城氏出身の大后もいたし大后の出自なんてきまりもなかった。
皇后は皇族からというのは持統天皇あたりが始めた。
しかしそれも藤原氏出身の光明皇后の登場で崩れた。
それ以後は、橘、平、源、徳川、藤原(五摂家に西園寺)と皇后の出自は様々。
しかも天皇家は長らく一夫多妻であり皇后が天皇母である例は半分ほどしかない(残る半分は側室腹)。
天皇の実の生母となればさらに皇后よりも出自が下の者があらわれる。
江戸時代の光格天皇の母親はすでに庶民の出。
そもそも天皇家は男系相続であって女系に関して藤原に限るという規則はない。
95日本@名無史さん:2011/05/17(火) 21:11:21.64
三條天皇皇后:藤原すけ(女+成)子…おじいさま藤原師尹→娘藤原芳子は村上天皇女御
三條天皇中宮:藤原きよ(女+井)子…父道長
あれ三條て皇后3人…@藤原やす(糸+妥)子皇后・父兼家→A藤原原子皇后・父道隆→B藤原すけ(女+成)子・父藤原済時
うわ複雑な3人の皇后さま1人の天皇さま
96日本@名無史さん:2011/05/18(水) 02:25:42.69
三条天皇の皇后は済時の娘・すけ子(漢字出ず)で中宮は道長の娘・妍子
後は尚侍とか女御だよ
三后並立になったのは後冷泉天皇
天皇崩御の直前だけどね
97日本@名無史さん:2011/05/18(水) 16:45:50.55
>>95
藤原綏子(関白藤原兼家三女)と藤原原子(関白藤原道隆次女)
の2人は東宮妃で夫三条天皇の即位前に亡くなっています。
皇后、中宮、女御などは天皇の妃の位で東宮妃では名乗れませんので。
三条天皇が即位後、天皇妃であったのは
皇后藤原娍子(贈右大臣藤原済時長女)と中宮藤原妍子(左大臣藤原道長次女)だけです。
98日本@名無史さん:2011/05/19(木) 00:44:58.14
何か最近変な人きてるな

あ、自分は東福門院好きです
皇子が成長なされなかったことが残念
99日本@名無史さん:2011/05/26(木) 01:27:24.28


得河和子の母 藤原達子て誰? あと水尾=清和帝で 後をつけ 清和源氏を仮冒する得河を みかどは牽制なさろうとされた
100日本@名無史さん:2011/05/26(木) 01:54:28.00
藤原達子=シエ
101日本@名無史さん:2011/05/26(木) 07:51:04.82
>>98
親王と内親王の数が逆だったら歴史変わってただろうな
后腹の親王が5人もいれば成人する皇子がいるだろうし
外戚も徳川宗家でしばらくは安泰
明正天皇だけでなく霊元天皇系の後桜町天皇も即位せず
江戸時代の女帝の数がゼロになってたかも
102日本@名無史さん:2011/05/26(木) 09:20:31.59
>>101
和子入内後後水尾天皇が女官に手をつけて子を産ませると
徳川秀忠の命ですべて出産直後に殺されていたことが当時の公家の日記に見える(ほぼ史実で間違いない)。
和子の男子が2人とも夭折しているのはこの報復らしい。
つまり、和子が男子を5人産んでもすべて殺害された可能性があると言うこと。
江の子は二男六女が夭折せず皆成人するまで育っており(江も男子は2人だけだったが育っている)、
この時代の乳幼児の死亡率はそこまで高くない。
103日本@名無史さん:2011/05/26(木) 09:49:57.09

和子母堂〜浅井…平民系大名系?→藤原家?に養女→皇家へ?


非清和系得河和子は、明正女帝(興子内親王)が生誕なさったお陰で 中宮=事実上の擬似皇后の公職公称 を名乗れたのだから後水尾帝に感謝して(・_・、)
後水尾(後清和)帝には、藤原(四辻)繼子さま・藤原(御匣)隆子さま・藤原(園)國子さま・藤原光子さま(110代後光明天皇皇太后さま) 各女御さま方おられたのに。非藤原平民系得河の 権力維持に一時期おしきられた江戸時代国民あわれ(T_T)
104日本@名無史さん:2011/05/26(木) 09:50:07.55
仮に和子の男子が複数残ったとしても当時は天皇になれない男子はすべて
寺に入れて出家させるのが通例。
宮家で跡取りが断絶した場合は養子に入れることがあるが、
入れた可能性があるのは高松宮家(実際に後水尾皇子が養子に入っている)ぐらいで
子だくさんの伏見宮家は無理っぽい。
朝廷弾圧に乗り気だった徳川秀忠が朝廷のために宮家大量増設を図るとも思えず(全部幕府の負担になる)、
もし和子に複数の成人した皇子がいたとしても、俗世に残れる皇子は1人、2人だったろう。
105日本@名無史さん:2011/05/26(木) 10:05:10.21
>>96

後冷泉天皇後宮
@皇后章子(母藤原威子、後一條天皇の娘、前内親王さま)
A皇后藤原歓子(御堂関白道長の孫娘、父次男教道)
B皇后藤原寛子(御堂関白道長の孫娘、父長男「五摂家始祖」頼道)

C女御菅原… 菅原天神傍系? 菅家あないとおそろし(天皇のお気に入り)
106日本@名無史さん:2011/05/26(木) 10:20:22.75
>>103
江の生家、浅井家が藤原姓を公称としていたから藤原達子らしい。
どこかに養女に行って藤原姓になったわけではないらしい。
107日本@名無史さん:2011/05/26(木) 10:27:02.48
>>105
同時期に皇后を皆が名乗ることはできないから、三后立后時には
@皇太后章子内親王(最初に立后。後一条天皇第一皇女)
A皇后藤原寛子(二番目に立后。前関白藤原頼通(道長長男)の次女)
B中宮藤原歓子(三番目に立后。関白藤原教通(道長五男)の三女)
だけどね。
後冷泉天皇の寵愛を受けた菅原氏は女御ではありません。ただの女官。
108日本@名無史さん:2011/05/26(木) 11:39:38.89
ウィキ江さまみると
>位階は従一位。浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。

結局宇多天皇末裔京極家か藤原鷹司の遊女か養女になたのかな?



ウィキ和子みると
>元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始…が、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子(お与津御寮人)が皇子賀茂宮を出産していたことが判明…翌元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流…お与津御寮人事件)。
→うわ関ヶ原に勝った一介の武家による皇家篭絡政略皇后の下準備w
>元和6年(1620年)6月18日に後水尾天皇の女御として入内する。このときは二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』にはその様子が描かれている。
→これは国宝級→ニポン美術史に貢献されました


>…延宝6年(1678年)6月15日、崩御。亡骸は京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。→うわ 現陛下も参詣されるつきのわのみささぎに 埋葬される皇家藤原家以外は この人だけ? もはや後世記録は破られない現皇室に得河と織田キリシタン大名の血筋は直接伝わらなかったけど?

109日本@名無史さん:2011/05/26(木) 11:59:18.39
>>108
鷹司孝子は江が息子の家光の正室にするために猶子として京から呼び寄せた。
江が鷹司家の養女になったわけではない。

ちなみに徳川家の血は和子の姉千姫を通して女系で、
織田の血は千姫と和子の異母姉豊臣完子を通して現在の皇室に流れている。
(大正天皇皇后九条節子は千姫と豊臣完子の血を引いている)

月輪陵に限らず、天皇の后妃が死ぬと陵墓が築かれ、宮内庁が管理。
后妃の出身は皇族と藤原氏だけではない。
110日本@名無史さん:2011/05/26(木) 13:21:33.00
>>93
菅原土師系 皇后さまもこんご夢みてまつ

7代孝霊天皇 妃倭国香姫の出自は土師氏?

52代嵯峨帝 女官?菅原やすこ(閑子)さま…土師氏
55代文徳帝 女官?菅原…定有親王(源定有)母→土師氏
58代光孝帝 女官?菅原ともこ(類子)さま 父従三位参議菅原是善…土師氏 59代宇多帝 やっと「女御」!菅原のぶこ(衍子)さま…父 北野天神・湯島天神・太宰府天神 他天神 御本体従二位右大臣〜贈正一位太政大臣菅公菅原道具さまm(._.)m→おっと土師氏だった
70代後冷泉 やっと復活でも名前は親王なく外戚危うくなた藤原北摂関から記録控えさせられる 女官 菅原…さま(皇子為行の母、皇子は高階家養子〜連れ子、高階為行になた(ノ_・。)高階もいい家柄やけど、父は菅原増守→土師氏
第77代後白河(法皇) 女官?大江… 父は大江信重 →土師氏 菅原さん後宮入りたいへんなので 別導隊??
82代後鳥羽院 女官?更衣? 丹波局少納言典侍 て土師氏? 平氏なら記録されるし
92代南朝始祖後醍醐 女官 菅原… 父は菅原在仲 →土師氏
このころを最後に土師氏の後宮入りは途絶えました。と思いきや
第111代後西天皇 後宮 に 土師高辻系から 入内復活!!! 菅原…さま 父は高辻豊長 →土師氏
第113代東山天皇 更衣? 菅原?→父は高辻長量 →土師氏
第114代中御門天皇 女官 菅原寛子…父五條為範 母方祖父園基勝→→→五条は清原一族?なら天武天皇末裔系
第119代光格天皇 後宮 菅原和子 父東坊城氏→高辻庶流なら土師氏や WWおわり
つまり摂関家は天神さま以来、菅原系皇子は 困るわけでもなく外戚になれなかたこど、やっはり菅家はすごぃな。こんなにがんばたのに、現今までに土師氏血筋は考証考古学的には皇室に入ってない(多分??)のだった?でも宰相がんばてまつ_(._.)_
新人物往来さま本参照させもらてまつm(._.)m
111日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:26:00.66
はじ土師一族て 天皇家の 古墳(御陵墓)作ったり ミササギ埴輪を 作っていた一族?
112日本@名無史さん:2011/05/26(木) 21:00:06.50
>>111
そのとおり。
113日本@名無史さん:2011/05/26(木) 22:01:17.56
ニシオツツジって皇族知ってる?
調べようにも手立てがなくて困ってる

スレタイなら美智子様
114日本@名無史さん:2011/05/27(金) 01:21:29.70
>>109
それは「千ちがい」じゃない?
千姫は千姫でも、尾張の千姫(三千姫)では?
115日本@名無史さん:2011/05/29(日) 16:38:01.20
>>111
おみ臣の位は、蘇我一族、土師一族、膳一族の 3族のみでつか?
蘇我は藤原不比等妃を通して、藤原家皇后にすべて女系で伝わり、土師からは皇后さまはまだ。
なら膳一族からは、聖徳皇太子が推古女帝の後継に成れたら、せりつみ芹摘姫さま(斑鳩を選ばれたのは、母の為に芹を摘んでいた斑鳩村の姫さまに出逢えたから?)が、聖徳天皇の皇后さまになれたかもなぁ
116日本@名無史さん:2011/05/29(日) 21:19:13.67
神功皇后、光明皇后、香淳皇后
117日本@名無史さん:2011/05/29(日) 21:26:54.94
>>115
臣姓の氏族はほかにいっぱいいるよ。
それと土師氏は、臣姓ではなく連姓。
皇妃はあまり出ない家柄。
聖徳太子が即位していたら、皇后はたぶん
橘大郎女になる。
118日本@名無史さん:2011/05/29(日) 21:57:32.70
>>115

垂仁天皇の御代で土師職<はじのつかさ?>から土師臣<はじのおみ?>で仁徳天皇御代に土師連<はじのむらじ>てネットにあったけど…


あともしかして高野にいがさ皇太后の先祖に土師氏がいて女系で現皇室にてことわないとおもふけど。

あと土師和麿〜大江健三郎 土師宇庭〜菅直人 て家系圖だけでは証明ないよねdnaないと
119日本@名無史さん:2011/06/09(木) 17:26:03.60
>>102 江戸時代の乳幼児の死亡率は70〜80%だよ。
将軍家、大名家でさえ例外ではない。
当時の慣習としてだいたい5〜6才以前に亡くなった子供は神仏の元に戻った
という考えから、将軍家ですら墓すらないし戒名もなく系図からも省かれて
しまうので、江や和子は夭折や流産や死産など、もっと多くの子供を
失っている可能性は非常に高い。
120日本@名無史さん:2011/06/10(金) 16:10:01.40
>>119
それはいくらなんでもありえない。
将軍家では5〜6歳までに死んだ子供は墓もないし戒名もないし記録も残らないなんてどこからの引用?
現実に、1年もたたずに夭折した秀忠の夭折した長男長丸は系図に残っている。
121日本@名無史さん:2011/06/10(金) 16:22:03.39
江は23歳で秀忠と結婚し、25歳〜35歳の間に秀忠との間に7人の子を産んでそのすべてが系図に載っているが、
夭折、流産、死産で20〜30%の子しか生き残らず系図にも載らないというのならば
江はこのたった10年ほどの間に20人以上の子を産んだとでもいうのか(物理的に無理だが)?
子供の死亡率が最も高かった江戸時代中期ですら11代将軍家斉の子は半分生き残っているし、
夭折した将軍の子の墓も記録もきちんと残っている。
122日本@名無史さん:2011/06/12(日) 19:04:12.69
藤原定子さま
123日本@名無史さん:2011/06/13(月) 20:57:21.81
皇后定子は髪切っちゃったことが、後に自分の首をしめちゃったよね…
124日本@名無史さん:2011/06/13(月) 21:02:28.83
香淳皇后さま
125日本@名無史さん:2011/06/13(月) 23:09:12.63
>>123
兄弟を流罪にするなら仏門に入ってやると一条天皇に抗議して髪を切った割には
後からひょこひょこ髪切ってなかったのと言って参内したり結構評判悪かったみたいだね
126日本@名無史さん:2011/06/14(火) 05:52:43.59
確か参内した時も皇后職を局にしたんだよね

兄弟配流時に妊娠してた修子内親王の出産時期もズレたようだし
どんだけストレスにさらされていたのかと思うと胸が痛む
127日本@名無史さん:2011/06/14(火) 11:13:45.55
修子内親王は種が違うと以前あったスレに書かれてたな
強いストレスで流産、早産するなら普通にあることだが
定子の場合は出産が早まったのではなく逆で2カ月も遅れている
2か月も長く胎児が母親の腹の中にいれば
普通は間違いなく胎児は腹の中で死ぬそうだ
しかし修子は何の異常もなく生まれて長生きだった
128日本@名無史さん:2011/06/14(火) 15:39:19.06
遅産というより懐妊の時期を勘違いしてただけのような気がする
今みたいに医学が発達してたわけでもないし
ストレス等からくる体調不良を懐妊と勘違い
→後に実際に懐妊したため産み月の計算がズレた
の方があり得そう
懐妊前年から既に定子の地位は不安定だったし
129日本@名無史さん:2011/06/14(火) 15:45:43.51
閨入りも克明にチェックされてるのにそれはないんじゃないかなあ
130日本@名無史さん:2011/06/14(火) 17:16:16.17
>>128
違う、違う。
修子は996年12月16日に誕生しているが、定子はこの年996年正月の花山法皇射撃事件に兄弟関与のため
996年3月に宮中を退出したっきり、修子誕生まで一度も一条天皇に会っていないんだよ。
ちなみにこの年は閏月があるので逆算すると修子の受胎時期は996年4月下旬。
定子は里にいたことが確実で、一条天皇と交わることが不可能。
131日本@名無史さん:2011/06/14(火) 19:23:41.72
一条天皇が定子様にお忍びで行幸したんやろ
132日本@名無史さん:2011/06/15(水) 00:30:33.50
>>119
秀忠長男の長丸とか家康娘の市とか墓も院号もあった気がする

長丸が秋徳院で墓が増上寺
市は清雲院?で墓は華陽院だったか

133日本@名無史さん:2011/06/15(水) 09:58:42.21
>>131
どこでもドアーなんてないからさ・・・
134日本@名無史さん:2011/06/22(水) 12:45:41.44
今上皇后が一番好きですね
135日本@名無史さん:2011/06/22(水) 13:45:06.82
昭和両陛下が最高
今上皇后が一番嫌い
136日本@名無史さん:2011/06/23(木) 00:34:38.31
中宮「女原」子が親王生んでれば皇后定子の血統が残った可能性が高い
院政が始まるのが今より遅くなってそうだけどw
137日本@名無史さん:2011/06/23(木) 10:13:16.85
たとえ嫄子が男子を産んでも後一条や後冷泉みたいに後が続かないことはいくらでもあるし
血統が残るかどうかなど分からない
定子=25歳で難産のために死亡、嫄子=24歳で難産のために死亡
嫄子が産んだ皇女のうち片方は精神障害があったみたいだし
138日本@名無史さん:2011/06/24(金) 00:56:12.93
それを考えると円融の一粒種の一条の血統が今に残ってるのはスゲーよな
東三条院は一条出産以外にも伊周の没落に関わってるし
139日本@名無史さん:2011/06/24(金) 01:00:12.11
>>137
だから「可能性が高い」と書いてるのでは?
言葉尻捉えて難癖つけてるようにしか見えないんだが…
140日本@名無史さん:2011/06/24(金) 09:27:13.96
一条朝の皇統は短命だよね。
血が近すぎたんだろな。

彰子は87才迄生きたけど。
141日本@名無史さん:2011/06/24(金) 09:44:26.74
>>139
だから、仮に嫄子に男子があったとしても現在までその血統が残ったかというと
可能性は低いんじゃ?
よく定子厨が「○○様にお子様があったら・・・」という仮定の話を書くんだが、
日本史板でそんな仮定が必要なのかという話。
142日本@名無史さん:2011/06/24(金) 11:09:19.99
可能性が高いか低いかでいえばそれこそケースバイケース
一概にいうことはできない
上にもあるように子供が一人しかない円融や
子を残せる男子が一人しかいなかった後朱雀の血統が残ってたりするし
子沢山でも最終的に残らなかった例もある

IFを前提に話が進んだ訳でもないのに目くじらたてすぎ
もしこうだったら…ってのは誰しも思うことだし
その感想を書き込むことまで否定することはないと思うが
143日本@名無史さん:2011/06/24(金) 13:46:14.54
87才って凄いな

叔父子とか存在した時点で血なんてメチャクチャだろうな
嫡出と庶子の権利を法できっちり分けてる現代よりも
当時の方が周りの目が厳しかったってのはありそうだが
144日本@名無史さん:2011/06/24(金) 16:29:36.77
>>139>>142
そっちが言葉尻捕えてるんじゃね?
「子孫が残った可能性が高い」→「いや残らなかった可能性も高いが」
可能性の話をしているんだから、可能性が高いが正しい、
可能性が低いなんて書くな!
ifの話をした場合には絶対否定するなと言いたいのか。

145日本@名無史さん:2011/06/27(月) 01:12:31.00
彰子の母親の倫子はたしか90過ぎまで生きたよね。長生きの血筋だったのかな。彰子の妹たちは短命だったけど。
彰子の異母弟も誰だったか長生きしたよね。
聖徳太子なんて確か、爺さんは1人しかいないし、婆さんは姉妹同士じゃなかったっけ?すごいよね。
146日本@名無史さん:2011/06/27(月) 01:14:09.92
わかりにくかった。要は聖徳太子の両親が異母兄弟で、それぞれの母親が姉妹という。気持ち悪いわ。
147日本@名無史さん:2011/07/05(火) 17:49:47.54
一条美子
148日本@名無史さん:2011/07/14(木) 20:36:57.71
聖武天皇の長女、十市皇女は皇后じゃなかったの??
149日本@名無史さん:2011/07/17(日) 23:05:38.41
壬申の乱時の十市皇女の立場としては近江朝廷側の「皇后」であったものと見られるが、
『日本書紀』では大友皇子を天皇として認めていないので、十市皇女のこともあくまで「大友皇子の妃」の扱いで
「皇后」とは書いていない。またそれ以後に編纂された諸史料でもこれを踏襲しているので、十市皇女を「皇后」と
称している史料はない。
天武天皇即位後も時の天皇の皇女としての地位しかなく、状況から言えば当然だが皇太后のような待遇も受けていない。
(父は聖武天皇ではなく天武天皇)
明治時代に大友皇子に弘文天皇の諡号が贈られ晴れて歴代天皇の代数に入った際も、十市皇女に「皇后」「皇太后」と
いった称号が追贈されることはなく、「弘文天皇の妃」以上の何かになることはなかった。
150日本@名無史さん:2011/07/17(日) 23:09:58.53
>>149
お前皇太后の意味分かってないだろ・・・ダセェ
151日本@名無史さん:2011/07/17(日) 23:56:52.72
>>150
ん、どのように分かっていない?
贈皇后・贈皇太后などの話を始めるともの凄く長くなるが。
152日本@名無史さん:2011/07/18(月) 00:35:13.74
天智天皇・天武天皇の姉妹で孝徳天皇の皇后であった間人皇女は、『日本書紀』の
孝徳天皇の死後の記事には「間人大后」と出てくるので、皇太后の待遇を受けていた
ことが分かる。また天智天皇の皇后倭姫王も、天智天皇の死後には皇太后になって
いる。これらはいずれも先帝の皇后つまり嫡妻であったからである(間人皇女も倭姫王
も皇子女を生んでいないので、子供が天皇になることはない。つまり天皇の母親だった
から皇太后と呼ばれたのではないということ。実際間人皇女が大后であった時代の天皇
は自身の母と兄であり、天皇の母ではありえないが)

十市皇女は大友皇子の嫡妻であったであろうから、大友皇子が天皇であったならば
その死後皇太后の待遇を受けることの出来る立場に居たことになるが、>>149で書い
た通り天武天皇の時代に大友皇子の皇位継承を認めることはないので、十市皇女は
当然のことながら皇太后のような処遇もなされなかったということになる。

ここまで説明すればひとまず十市皇女のことは分かるか。
153日本@名無史さん:2011/07/19(火) 19:33:52.71
え〜でも天上の虹で十市皇女が「私が皇后?」とか言ってたよ
154日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:48:47.99
>子沢山でも最終的に残らなかった例もある

20人以上子供がいながら孫が1人もいない徳川家慶を思い出した・・・
155日本@名無史さん:2011/07/21(木) 06:51:57.78
>>119
江はわからんけど和子は30代の頃、久しぶりに妊娠したけど流産したらしい
それと千姫は何回か流産している
まあ最強は珠姫だが
156日本@名無史さん:2011/07/21(木) 10:21:41.47
>>155
でも千と和子は長生きしたけど
珠さんは早死にしちゃったから
157日本@名無史さん:2011/07/21(木) 11:09:29.64
このころの乳幼児の死亡率の高さは異常だよね。
家慶もそうだけど、天皇家も子供がほとんど成人していない。
光格天皇も二十人近く子供がいて成人したのは仁孝天皇一人、
仁孝天皇も十五人中、成人したのは三人てのは異常。
158日本@名無史さん:2011/07/21(木) 16:47:51.54
明治天皇でもある意味異常
159日本@名無史さん:2011/07/21(木) 18:58:08.58
江戸時代の死亡率は毒説があるけどね
・当時は白粉に水銀が混じっており、
赤子が乳母が胸まで塗りたくった水銀を飲んで水銀中毒で死んだ
・本当に毒殺だった
まあ、お家騒動に毒殺(毒殺未遂)はつきものなので
比較的毒は手に入れやすかったみたい
160日本@名無史さん:2011/07/21(木) 21:55:52.38
天智天皇の皇后の倭姫って、壬申の乱のあと、大海人方に粛清されたの?
161日本@名無史さん:2011/07/21(木) 22:56:25.24
>>159
白粉に水銀が入るようになったのは江戸時代から?
162日本@名無史さん:2011/07/22(金) 10:38:01.05
>>161
日本に初めて白粉がもたらされたのは飛鳥時代の白鳳期、遣唐使などによってらしいけど、
当時から白粉には水銀が入っていた(それ以前の化粧法は入墨や赤土を頬に塗ってたらしい)。
ちなみに、日本では男女ともに貴人は白粉を付けたが、
当初は勿論、顔に塗るためのものだった(そのために素顔は相当荒れたと推測されるらしい)。
江戸時代には美意識の高まりから、顔だけではなく、着物から出ているすべての個所に白粉を塗るようになった。
手や首、胸にまで白粉を付けたために、乳を吸う赤子が一緒に飲み込むようになったらしい。
163日本@名無史さん:2011/07/22(金) 19:50:34.44
悲劇の井上皇后って高齢出産だよね
164日本@名無史さん:2011/07/22(金) 20:19:36.29
>>160
確か大海人皇子は、倭姫皇后を天智の後継天皇に推していたはずだが、
結局、大友皇子が近江朝廷のトップになったんだよな。

壬申の乱後、先帝の未亡人である倭姫皇后の動向が一切出てこないのは、
近江側の戦犯として粛清された可能性アリだな。
165日本@名無史さん:2011/07/22(金) 20:21:16.34
>>163
井上といい不破といい、孝謙天皇の姉妹は幸薄すぎる。
166日本@名無史さん:2011/07/23(土) 01:06:23.24
>>153
日本書紀には日本書紀がよって立つ歴史観があるように、天上の虹にも作者の解釈や歴史観が
示されているんだろうから、別にそういう描写があってもいいと思うが。
167日本@名無史さん:2011/07/23(土) 13:30:03.41
>>162
ありがとう
体に塗るようになったことが影響してるんだね
168日本@名無史さん:2011/07/23(土) 22:12:23.44
>>165
というより、聖武天皇の子供は薄幸だな〜
169日本@名無史さん:2011/07/24(日) 22:09:44.32
建礼門院
170日本@名無史さん:2011/07/26(火) 00:44:13.43
>>164
倭姫は古人大兄皇子(母は蘇我馬子の娘)の娘だけど母親は誰なんだろうか?
171日本@名無史さん:2011/07/26(火) 13:58:36.42
倭姫王の母親は記載なし

倭姫王が近江朝廷で政治的な働きをした形跡はないので、さすがに粛清はないと思う
天智天皇の皇子たちは大友皇子以外、天武朝で官僚として重用されているし
天智天皇の皇女たちも天武の皇子と結婚するなどして優遇されている
倭姫王の墓と伝えられるものが近江にあるため天智の没後病没したとされるらしいが
172日本@名無史さん:2011/07/26(火) 23:09:07.20
記載なしなのか・・・
当時は母親の血筋も重視されていたから馬子の孫あたりが倭姫の母親だとおもったのだが・・・
173日本@名無史さん:2011/07/28(木) 06:30:31.62
キララちゃんって可愛い名前だよな
アイドルみたい
174日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:14:50.42
定子皇后
175日本@名無史さん:2011/07/31(日) 12:14:32.35
>>173
キララってだれよ?
176日本@名無史さん:2011/07/31(日) 14:58:50.90
>>175
ひょっとしたら
さらら
を読み間違えちゃったんじゃない?

でも、実際きれいな響きだね、「さらら」って。
この名前も由来は地名なのかな、
だとすると、どのあたりだろ?
177日本@名無史さん:2011/07/31(日) 15:12:59.65
旧地名に河内国讃良群があり
持統天皇の名はこの地名にちなんでいるそうだ
現在の大阪府大東市・四条畷市・寝屋川市の一部に該当
178日本@名無史さん:2011/07/31(日) 15:34:30.06
なるほどねえ、ありがとう。
うの というのは、この さらら も含まれる地域ってことになるのかな。
179日本@名無史さん:2011/07/31(日) 20:16:22.51
鸕野讃良の名は「日本書紀」欽明記に登場する「河内国更荒郡鸕野邑」という
地名がもとになっているとされるそうです
ちなみに更荒は「さらら」と読み、更占、讃良とも書かれました
この更荒郡鸕野邑は現在の大阪府四条畷市岡山周辺だそうです

この地域は当時、欽明朝に来日した新羅の王子金庭興の子孫、宇努氏が勢力を持った地で、
持統天皇の乳母が宇努氏出身であったためという説があります

180日本@名無史さん:2011/07/31(日) 20:38:02.03
とても詳しい解説ありがとう。
勉強になった。

古代の河内周辺は、大陸系の人が大勢いたんだよね。
羽曳野には百済王族の昆枝が滞在していたという話も残ってるし。


以前、神田うのさんが自分の名乗りで使ってた「うっのでーす!」の言い回しに、
こんなに壮大な国際的由来があるとは、予想外だった・・・。

(「神田うの」の氏名はもとから本名だったんだそうで、
 実際、持統天皇こと鸕野讃良皇女の名にあやかっての命名だったんだとか)
181日本@名無史さん:2011/07/31(日) 21:34:04.65
皇子・皇女だけでなく王・女王なんかの皇族の実名は、
嵯峨天皇の子供達ぐらいの時代より前までは、
乳母の出身氏族名に因む事が多かったみたいだよね。
(命名法は別にそればかりではないが)

この習慣の初例・草創期というのは、いったいいつ頃の時代なんだろうか。
182日本@名無史さん:2011/07/31(日) 23:40:12.51
>>172
全くの推測ですが、倭姫王の生母は皇族の可能性がありますね

大王になれるかもしれない可能性のある皇族男子は、いざその時のために
大后となれる皇族出身の妃を、まずは確保しておく必要を考えるものです

古人大兄皇子は若死になので、妃や子女の数もそう多くはないだろうし
皇子の第一妃と目される傍系皇族辺りの出身の妃が、倭姫の生母である可能性が高いのでは
183日本@名無史さん:2011/08/01(月) 02:06:55.15
>>180
そして讃良皇女が、百済一辺倒の父側を支持せず、新羅寄りの夫と行動をともにした
背景もそこにあると見ています。
184日本@名無史さん:2011/08/01(月) 21:43:29.74
鸕野讃良皇女
185日本@名無史さん:2011/08/02(火) 00:05:50.89
古人大兄の正妃が異母妹だった可能性もあるのでは?と思いますね。
ある意味究極の純血婚ともいえるのが兄妹婚でしょうが、
記録に残っている限りでは、やはりかなり主要な皇子(いわゆる大兄)においてその例が見受けられます。
すなわち、欽明朝、兄・箭田珠勝大兄の早世後世子となった敏達(皇女腹)が蘇我氏腹の額田部皇女(推古)と、
敏達の異母弟で「大兄皇子」といわれた用明(蘇我氏姉腹)が穴穂部皇女(蘇我氏妹腹)と婚姻してますし、
敏達の長子たる彦人大兄(息長腹)は皇女(推古)腹の小墾田皇女(或いは桜井弓張皇女)及び采女腹の糠手姫皇女と、
斑鳩の山背大兄(蘇我氏腹)も舂米女王(膳氏腹)と婚姻しています。
ひょっとすると、勾大兄こと安閑(尾張氏腹)と同じ墓に合葬されているという神前皇女(坂田腹)も、
その後宮にあったのかもしれません。
古人大兄の異母妹には間人皇女と、日本書紀には名前が欠落している押坂皇女、箭田皇女がいますが、
古人在世中に孝徳后となったとされる間人を一応除くとすれば、押坂(粟田氏腹)か箭田(蘇我氏腹)で、
古人自身の母方である蘇我氏の縁から箭田かなあとも思ったりもしますが、
倭姫の母ということを考慮に入れるとなると、想定される年代からは押坂の可能性が高いかなあと思ったりもします。
(古人は610年代中後半、倭姫は640年代前半の生まれ、蘇我蝦夷は586年頃、その娘・手杯娘が610年頃とすれば、
さらにその娘である箭田は舒明朝初頭・630年頃の生まれと想定。押坂は序列から箭田の姉と想定され620年代の生まれ)
まあこの想定自体が不確実だし、年代の動かしようによっては箭田が倭姫の母である可能性もあるわけだけれどもw
ていうか、古人大兄の正妃が異母妹だったってこと自体が不確実なんだけれどもww
ていうか、倭姫の母が王族だったということ自体が不確実なんだけれどもwww
186日本@名無史さん:2011/08/02(火) 02:12:34.33
>>185
>古人大兄の異母妹には間人皇女と、日本書紀には名前が欠落している押坂皇女、箭田皇女がいますが、

追加皇女の分は、平安後期以後などの後世の資料による仮想追加なのではと思います。
舒明の子女は『日本書紀』では、古人大兄皇子・天智・天武・間人皇女・蚊屋皇子だけで、采女腹の蚊屋までも記載。

皇極・孝徳朝頃には皇女は払底していて、間人皇女・長寿の糠手姫皇女(舒明母)ぐらいだけだったと自分は思っています。
中大兄皇子にもし異母姉妹がいれば形だけの正妃に据えるには、姪の倭姫王よりも異母姉妹の方が数段相応しいかと。

『本朝皇胤紹運録』には舒明皇女として紀よりも更に、布敷皇女・押坂錦間皇女・箭田皇女を載せ、この三皇女は、
『一代要記』では皇子とあり、『皇代記』・『帝王編年記』では皇女とあるとの事で、揺れがあります。

まあたしかに不確実な推論・水掛け論だけどね。でも楽しい。w
187日本@名無史さん:2011/08/02(火) 10:24:19.08
>>183
鸕野讃良皇女が夫と行動を共にしたのはただ単に自分に有利になるからだろうけどね
夫が勝てばわが子草壁皇子が帝位につく
一方、父について異母弟大友皇子を応援すれば、
やがてはその正妃である十市皇女が産んだ葛野王が即位
十市皇女は夫が他の女(額田王)との間に設けた子であり著しく不利

夫の元妻額田王の孫が即位するか、わが子が即位するかと言ったら
わが子が即位するほうがいいに決まっている
188日本@名無史さん:2011/08/02(火) 23:12:44.25
持統天皇の人生は姉太田皇女の死というタナボタの上に成り立っている
189日本@名無史さん:2011/08/02(火) 23:55:46.93
>>188

  × 太田皇女  →  ○ 大田皇女
190日本@名無史さん:2011/08/04(木) 14:44:46.68
大田皇女が生きていたら、天武の皇后は大田?皇太子は草壁?大津?
うのは妃のままで天皇になれず、律令制も整わなかった?
191日本@名無史さん:2011/08/06(土) 07:48:22.90
順番としては、大田皇女 で 大津皇子
192日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:48:40.14
持統天皇だからこそ父を捨て夫を取り、父に殺されるかもしれない大海人と運命を共にして
吉野へ行く決断ができただけで歴史の判断はどうなったかわからないけどな。
大海人皇子が吉野で挙兵した時、傍にいたのは鸕野皇女と草壁皇子だけ。
他の大海人諸皇子は皆近江にいて後から近江を抜け出し大海人のもとへ駆け付けている(大津皇子も近江にいた)。
大田皇女が生きていてもたとえ彼女が吉野へ同行せず大津とともに父弟のいる近江にとどまっていたら
命を懸けて夫に従った妹に大きく差を付けられてしまっていたかもしれない。
193日本@名無史さん:2011/08/11(木) 19:36:51.45
うののさららの皇女
194日本@名無史さん:2011/08/11(木) 20:01:41.16
持統天皇はいいけど
あの漫画は全然ダメ
195日本@名無史さん:2011/08/24(水) 18:47:22.48
一条美子サマ
196日本@名無史さん:2011/08/25(木) 21:46:49.21
うののさららの皇女の政治能力は凄いね。

神田うのの名前の由来は持統天皇かえあだよね。
子供には「さらら」とかつけて欲しいな。
197日本@名無史さん:2011/08/30(火) 00:20:21.09
歴代の皇后で才色兼備と讃えられている方は
どなたなのでしょうか。
198日本@名無史さん:2011/08/30(火) 00:24:35.98
神功皇后(ワラ
199日本@名無史さん:2011/09/03(土) 17:36:41.05
一条美子皇后 才媛です
200日本@名無史さん:2011/09/07(水) 13:58:47.98
建礼門院徳子
201日本@名無史さん:2011/09/07(水) 15:25:55.26
美子様
202日本@名無史さん:2011/09/07(水) 22:44:15.94
美福門院
悪女っぽい
203 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 :2011/09/08(木) 06:13:26.33
204日本@名無史さん:2011/09/08(木) 12:00:49.84
証券皇后
205日本@名無史さん:2011/09/09(金) 17:48:15.00
定子さま
206日本@名無史さん:2011/09/13(火) 15:31:15.55
うののさららの皇女
207日本@名無史さん:2011/09/15(木) 06:47:05.39
定子皇后
208日本@名無史さん:2011/09/17(土) 11:05:31.71
悲劇の井上内親王
209日本@名無史さん:2011/09/21(水) 10:55:11.16
>>202
美福門院といえば来年の大河で松雪泰子がやるのが納得いかない
待賢門院役の金麦と同年代じゃん
実際は美福門院のほうが15、6若いのに
210日本@名無史さん:2011/09/21(水) 11:57:13.31
>>209
大河なんか兄弟親子で年齢ひっくり返ってることも普通なんだから
いちいち突っ込んでたらキリがない
211日本@名無史さん:2011/09/21(水) 19:28:12.88
宮沢りえちゃんが11歳で上野樹里が7歳やってたりしたしな。

皇后としては、一条美子がいいね!
212日本@名無史さん:2011/09/21(水) 20:17:52.85
ソープ嬢の元祖の光明皇后
病人の膿も吸いとる究極プレイ
213日本@名無史さん:2011/09/23(金) 22:11:13.11
一番嫌いなのは入れ墨ビッチ。
214日本@名無史さん:2011/09/24(土) 14:53:17.97
一条美子さま
215日本@名無史さん:2011/09/24(土) 20:48:00.12
>>209
へー!そうなんだ。
もうここでコケたら(変な大河ドラマ作ったら)大河は終わりだと思う。絶対コケられない、一番作りやすい、比較的知られている清盛で勝負するからには頑張ってほしいと思ってたから、まぁまぁなキャストだと思った。

待賢門院も悪女っぽくて好き。
216日本@名無史さん:2011/09/26(月) 09:54:34.18
一条美子皇后 (美宮様)
217日本@名無史さん:2011/09/26(月) 13:57:39.65
待賢門院といえば、数ヶ月前に出た渡辺淳一の小説は
角田御大の『待賢門院璋子の生涯』にエロシーンを書き足しただけのものだというのは本当ですか?
218日本@名無史さん:2011/09/26(月) 20:25:13.14
昭憲皇太后
219日本@名無史さん:2011/09/26(月) 21:48:31.09
俺もやっぱり昭和天皇の奥さんかな
若い時の体操してる写真とかあの時代にこんな活発な皇族とは…
とおもたよ
220日本@名無史さん:2011/09/26(月) 23:05:15.69
伊須気依比売命。
神倭磐余彦瓊瓊杵尊(神武天皇とされる御方)は岳父ニギヤヒ大王の末姫(惣領姫)と結婚する事により初めて統一大和大王(大国主)の資格を得ました。
221日本@名無史さん:2011/09/26(月) 23:13:22.06
今上国母陛下。
報道などでお姿を拝見するにつけ最近とみに神々しく在らせます。
ご成婚の砌、天照大神の御魂で在らせられると云わしめたのもさもありなんの風情にて。
(謹拝)
222日本@名無史さん:2011/09/27(火) 07:09:30.41
一条美子さま
223日本@名無史さん:2011/09/27(火) 09:14:03.68
昭憲皇太后
224日本@名無史さん:2011/09/27(火) 19:56:01.64
昭憲皇太后
225日本@名無史さん:2011/09/28(水) 16:27:24.25
新清和院
226日本@名無史さん:2011/10/03(月) 19:26:41.42
定子さま
227日本@名無史さん:2011/10/11(火) 00:33:55.43
東福門院和子
228日本@名無史さん:2011/10/12(水) 15:21:05.36
>>227
江の末っ子だよね
229日本@名無史さん:2011/10/14(金) 21:20:06.72
>>219
今の天皇家が特に長男系があのお目目になったのは、その皇后のせいだよ。
昭和天皇までは、少年時代の写真を見たら美少年だったのに、それ以降は
愛子まで、あの顔になってしまった。
230日本@名無史さん:2011/10/16(日) 15:59:44.20
良子は、候補者の中で一番ブスだった。

朝子が現代的美人、方子は性格よさそうな美人。
231日本@名無史さん:2011/10/16(日) 16:41:54.01
皇太子は少年時代はよかったけど・・・
232日本@名無史さん:2011/10/18(火) 14:47:53.92
233日本@名無史さん:2011/10/18(火) 17:22:41.16
朝子にしとけばよかったのに
234日本@名無史さん:2011/10/19(水) 02:15:11.70
永福門院。
歌が好きだから
235日本@名無史さん:2011/10/21(金) 19:13:36.83
ルックス
朝子>>万子>>>>>良子

性格
万子>>>>>>>朝子=良子

236日本@名無史さん:2011/10/24(月) 21:57:58.15
鸕野讃良皇女
237日本@名無史さん:2011/10/25(火) 01:17:42.58
日本霊異記によれば、道鏡が皇后と交わり、政権を握ったという。
本質を突きすぎてんな。
238日本@名無史さん:2011/10/25(火) 02:20:44.24
かぐや姫も史実では、お妃さまだよな
239日本@名無史さん:2011/10/25(火) 16:24:40.63
>>237>>238
なんかおかしい。
日本霊異記で道鏡が交わったとされる相手は皇后ではなく天皇(女帝)だし
史実のかぐや姫ってなんだ?
「伊勢物語」の二条后(藤原高子)と間違えてる?
240日本@名無史さん:2011/10/29(土) 18:27:00.24
>>229
残念だよね。そのことを知らない人が、天皇家は平安時代の顔の感じが残ってる、とか言うし。
いや、明治天皇、大正天皇皇后、昭和(若い頃)天皇の写真を見ろよ、といつも言いたくなる。みんな現代的なパッチリ目だから、って。

>>219
昔の皇族って結構活発だった。
今上陛下の妹の島津貴子さんとかも、結婚相手(タイプの男性だったっけ?)について聞かれて「自分が好きになった人」みたいに答えたり(要は自分で選びます、ということ)、
結婚したときには橋を渡った時の感慨を聞かれて「特にない」みたいな。記者は降嫁する寂しさとか新しい生活への期待とかを聞きたかったのに、ドライに応えて周りを笑わせてたよ。
今の皇族のしとやかイメージは、美智子皇后からだよ。意外と知られてないけど。
島津貴子さんは皇族時代も普通スピードで話してたし。
241日本@名無史さん:2011/10/29(土) 22:44:06.78
>>239
史実のかぐや姫ってのは、垂仁天皇后の迦具夜比売命じゃないかと
242日本@名無史さん:2011/10/30(日) 13:23:56.46
>>240
「私の選んだ人を見てください」だっけ?
243日本@名無史さん:2011/10/30(日) 20:46:28.50
>>242
そうそう。今の皇族のイメージとは全然違って、なんとなく微笑ましい。
244日本@名無史さん:2011/10/31(月) 11:21:46.55
>>240
島津貴子さんは末娘で特に活発だったような?
姉たちはいずれもおっとりしていて大人しかったよ。
今の天皇も学生時代は無口で変なあだ名付けられて苛められていたと言っているし。
(戦前なら不敬罪ですな)
内親王はおっとりしていて大人しく、従順というのは黒田清子さんのイメージだろう。
清子さんと同年代の紀子妃も秋篠宮同席の記者会見で
はにかみながら何度も秋篠宮のほうを見て話すのでこの印象を助長した。
美智子さんは結婚記者会見の時も単独だったけど割とはきはき喋ってたよ。
245日本@名無史さん:2011/10/31(月) 18:43:13.24
>>244
美智子様は皇太子妃時代はハキハキしてたよね。
何処かに公務で行った時、キリンだか象だかと写真を撮るって時に、「あなたもいっしょにうつってくださいよ」みたいなことを天皇陛下(当時皇太子)に言ってた。普通スピードで。
あなた、って呼んでることが新鮮だった。

雅子様が独身時代はちょっと毒舌?で「皇室に入って自由がなくなるなんてあり得ない」みたいな事を言ったけど、あの雅子様がしとやかになっちゃったことを考えると、まぁ、何らかの圧力はあるんだろうね。
246日本@名無史さん:2011/10/31(月) 19:56:36.33
定子さま
247日本@名無史さん:2011/10/31(月) 21:21:55.69
>>211
小川真由美、波乃久里子、岩下志麻の3姉妹と
宮沢りえ、水川あさみ、上野樹里の3姉妹のギャップがありすぎ・・・
248日本@名無史さん:2011/10/31(月) 21:30:40.68
ちなみに千姫は大河内奈々子、和子は酒井美紀
249日本@名無史さん:2011/11/01(火) 20:30:08.37
美智子さま。観音様みたいな女性だ。
250日本@名無史さん:2011/11/02(水) 21:29:11.89
江の血が今上天皇にも流れてるのか・・・。

昭和天皇の皇后は朝子がよかった!
251日本@名無史さん:2011/11/04(金) 18:23:52.11
明治天皇以降の皇妃たちは写真が残っているから容姿で叩かれまくって気の毒だな
歴代天皇の皇妃たちの写真が残っていればもっと不細工もいただろうが
良子女王は貞子皇后が自ら学習院女子部に赴き妃候補たちを盗み見て容姿で選んだらしい
貞子皇后はパッチリ二重の目だったが当時貞子皇后の容姿は劣ると言われていた
そこで自分とは正反対の「お雛様のよう」と比喩された一重瞼の良子女王を選んだらしい
252日本@名無史さん:2011/11/05(土) 10:22:48.13
檀林皇后

自分の死体を道端に放置させ、
腐乱して蛆がわき、白骨化していく様子を
絵に描かせたという伝説がいい。
253日本@名無史さん:2011/11/12(土) 19:36:22.06
良子:キツネ

朝子:少女漫画
254日本@名無史さん:2011/11/13(日) 18:23:40.55
朝子の子供は、かわいかった。
朝子が皇后になっていたら・・・。
255日本@名無史さん:2011/11/15(火) 22:59:43.99
>>219 その写真みたい!
256日本@名無史さん:2011/12/09(金) 00:12:15.47
皇后jyないといけないのかな。
皇后、中宮はあまり個性がなくて好きな人がいない
父親が権力者かどうかだから。

好きなのは、女御で延子、斎宮女御、
皇后なら二代后多子かな
257日本@名無史さん:2011/12/18(日) 22:20:25.52
建礼門院徳子
258日本@名無史さん:2011/12/19(月) 18:29:32.23
さすがにここまで
ネクスト皇后雅子さんの名を挙げる人皆無か・
259日本@名無史さん:2011/12/19(月) 18:36:00.57
>>258
歴代って皇后・中宮に「なった」方だから、雅子妃はまだ資格がない。
当たり前のはなし。
260日本@名無史さん:2011/12/19(月) 19:32:23.61
ハーバード大学卒業、東京大学学士入学、
国家公務員一種外務省合格のキャリア官僚出身と、
雅子妃は歴代皇后中最も高学歴。
だけど、叩く人が絶えないのね。
261日本@名無史さん:2011/12/19(月) 19:50:37.98
雅子妃は一種合格じゃなくて、コネ入省→父親がキャリア外交官だったから。
262日本@名無史さん:2011/12/19(月) 21:15:49.78
なにかと話題になっている「たばこ税」ですが、
昨年値上げしたばかりで、喫煙者側は結構深刻な状況。
本数を減らしたり、禁煙に踏み切ったりと対策も人それぞれです。
でも個人輸入すれば大丈夫。日本語の輸入代行も多数。 
「たばこ 通販」とかで検索するとあるある、、、 
送料込みで1箱90円とかの激安サイトもある。" 
263日本@名無史さん:2011/12/20(火) 16:18:37.09
>>261
一次試験のペーパーは公平な筆記試験ですよ。
二次試験の省庁ごとに行われる面接試験は多少のコネがあるとしてもね。

まあ、あなたにかかるとこの国の500万人の公務員は
全員コネになりそうですけど。
264日本@名無史さん:2011/12/20(火) 18:49:21.03
堀河天皇中宮篤子内親王。
19歳の年の差婚がどんなだったか気になる。後三条天皇の娘を嫁にすることにさほどメリットを感じないし、愛情があったんだろうな(と思いたい)。

>>261
コネだったとしても、今は容姿も健康も運もコネも実力の一部。
265日本@名無史さん:2011/12/20(火) 19:13:17.85
>>264
篤子内親王の入内は、堀河天皇の父で篤子内親王の兄でもある白河上皇の
命令のようです。
当時、天皇家で最も年長の尊属で、皇位継承に強い影響力を持った陽明門院が
孫娘の篤子内親王を養女にして溺愛していたので、白河上皇が陽明門院を味方に取り込む
ための婚姻だったともいいます。更に摂関家を憚って入内に当たっては藤原師実の養女となりました。

ただ、堀河天皇は幼いころから四宮(篤子内親王)に憧れていて、是非に、と心に決めていた、
と今鏡に書かれてあって、夫婦仲は良かったようです。
266日本@名無史さん:2011/12/21(水) 13:13:07.68
美福門院得子の肖像、角田氏の本で拝見したけど、あの時代だから肖像といっても
どうかと思うけど、すごい不美人だった。年とった清少納言みたいな

そして・・待賢門院璋子の肖像(法金剛院所蔵) が阿仏尼肖像と
そっくりなのはどう考えればいいの?
267日本@名無史さん:2011/12/22(木) 21:55:39.25
阿仏尼像は、日本女性の単独肖像画としては最古のものだよ。
美福門院や待賢門院の肖像は後世に描かれた想像画では?
268日本@名無史さん:2012/01/14(土) 20:51:56.92
>>1
神功皇后を忘れてはならんね。
269日本@名無史さん:2012/01/17(火) 14:45:33.44
>>263
今更ながら、雅子妃が外務省に入省した時は、国T試験ではなく
外務省独自にキャリア外交官試験をやっていたんだよ。
これに合格すると学歴関係なしに大使までの地位が約束されるから、
大学在学中に合格して中退して入省になった輩が多いし東大以外も
キャリア外交員にたくさんなっている。
しかし、コネ合格が多い(外務省は親子で入省しているのが他省と
比較してずば抜けて高い)と言う批判を受けて、現在は他省と
同じように国T試験からキャリアを採用している。
270日本@名無史さん:2012/01/20(金) 03:12:51.36
ちょっとだけ関係あるところから興味深いレスを拝借

>264 :日本@名無史さん :2011/12/20(火) 18:49:21.03
>堀河天皇中宮篤子内親王。
>19歳の年の差婚がどんなだったか気になる。後三条天皇の娘を嫁にすることにさほどメリットを感じないし、愛情があったんだろうな(と思いたい)。

>265 :日本@名無史さん :2011/12/20(火) 19:13:17.85
>>>264
>篤子内親王の入内は、堀河天皇の父で篤子内親王の兄でもある白河上皇の
>命令のようです。
>当時、天皇家で最も年長の尊属で、皇位継承に強い影響力を持った陽明門院が
>孫娘の篤子内親王を養女にして溺愛していたので、白河上皇が陽明門院を味方に取り込む
>ための婚姻だったともいいます。更に摂関家を憚って入内に当たっては藤原師実の養女となりました。
>
>ただ、堀河天皇は幼いころから四宮(篤子内親王)に憧れていて、是非に、と心に決めていた、
>と今鏡に書かれてあって、夫婦仲は良かったようです。

>266 :日本@名無史さん :2011/12/21(水) 13:13:07.68
>美福門院得子の肖像、角田氏の本で拝見したけど、あの時代だから肖像といっても
>どうかと思うけど、すごい不美人だった。年とった清少納言みたいな
>そして・・待賢門院璋子の肖像(法金剛院所蔵) が阿仏尼肖像と
>そっくりなのはどう考えればいいの?

>267 :日本@名無史さん :2011/12/22(木) 21:55:39.25
>阿仏尼像は、日本女性の単独肖像画としては最古のものだよ。
>美福門院や待賢門院の肖像は後世に描かれた想像画では?


271日本@名無史さん:2012/01/20(金) 03:13:33.55
>>270 について失礼しますた
272日本@名無史さん:2012/02/08(水) 16:36:59.16
ほしゅ
273日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:07:46.68
大河「清盛」に多子様が出てきたが、どうみても絶世の美女に見えないww
274日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:16:20.42
>>273
あれは武井咲演じる常盤を絶世の美女扱いするために
呈子と多子を不美人女優に演じさせる演出
待賢門院と美福門院は結構頑張った配役だったのにな
清盛側の建春門院や建礼門院は頑張るだろ
275日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:30:48.48
>>274
二代后のエピソード好きなのに。
あれじゃあ、二条帝も頑張る甲斐がなさげww
276日本@名無史さん:2012/04/21(土) 02:07:01.43
そらもう持統天皇よ
277日本@名無史さん:2012/06/02(土) 01:13:01.56
>>237
>>239
日本霊異記では「皇后」の読みを「オオミオヤ」としていたと記憶している。
淳仁天皇からすると孝謙上皇は「オオミオヤ」であり「皇后」だったということになる。
皇統を維持するという意味では、淳仁天皇は孝謙上皇の養子的な扱い。
しかし、実際のところ、孝謙上皇は淳仁天皇の皇后でもあった。
278日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:27:33.62
>>277
「日本霊異記」では淳仁天皇配流後、孝謙上皇が重祚して称徳天皇になった後も、
「帝姫阿倍の天皇の御世の、天平神護の元年の歳の乙巳に次れる年の始に、
弓削の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通し、天の下の政を相け摂りて、天の下を治む」
と「皇后」という言葉を「女帝」と同じ意味で使っている。
同じ文章の中で安倍内親王を差して「天皇」と「皇后」、両方の名で呼んでいる。
279日本@名無史さん:2012/06/26(火) 17:17:57.81
質問です。醍醐天皇の皇后、藤原穏子(父藤原基経 母人康親王女操子女王)
は3男1女をもうけています。
藤原穏子 885〜954

保明親王 903〜923
寛明親王 923〜952 朱雀天皇
成明親王 926〜967 村上天皇
康子内親王 919〜957 

保明親王と他の弟妹との年齢差が気になるのですが、どのように解釈したら
よいのでしょうか。教えてください。
280日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:38:20.81
>>279
何年も妊娠しなかった人が急に妊娠することもあるし
若い他の妃たちにかまけていた醍醐天皇が急に
やっぱり古女房がいいと穏子への愛が戻ったのかもしれない
深い意味はないのでは?

皇太子保明親王が死んだので古女房のお召し再開という説もあったが
康子内親王が生まれ、朱雀天皇が種付けされたのは保明親王存命中。
281日本@名無史さん:2012/07/04(水) 16:25:41.41
醍醐天皇の場合、
他の女御(源和子)や更衣(源周子)も、最初に産んだ子と最後に産んだ子の年齢差が大きかった

結局は、醍醐天皇とはそういうお人柄だったというしかない

282日本@名無史さん:2012/07/04(水) 17:58:38.40
>>280 >>281
レスをくださってありがとうございます。長く寵愛していたということなんですね。

源和子 光孝天皇皇女 885年賜姓 ?〜947

常明親王 906〜944
斉子内親王 921〜936

源周子 嵯峨天皇の孫、源唱の女 

時明親王 910〜927
盛明親王 928〜986
283日本@名無史さん:2012/07/04(水) 18:18:13.68
ふと思いつきましたが源周子は嵯峨天皇の曾孫で醍醐天皇の妻の一人です。
皇極・斉明天皇は敏達天皇の曾孫で舒明天皇の妻の一人です。
更衣と天皇、ずいぶん差がありますね。

皇族が妃となる時代とたとえ皇女であっても女御や妃どまりの時代。
鎌足と不比等の働きは日本の古代史を動かしました。
284日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:39:55.95
>>283
皇極:斉明天皇は皇曽孫女の女王だけど、舒明天皇の姪に当たる。(故庶兄の娘)。
舒明天皇自身が皇子ではなくて皇孫の王なので、まぁまぁ自然な配偶だろう。

あの時代には、次期天皇(大王)になれそうな皇族男子には、
即位後にすぐに皇后(大后)となれるような、皇族出の正妃が必要だった。
正妃は皇族なので皇女か女王で、自然と本人の男系の近親となり、
異母姉妹・姪・叔母・従姉妹などの場合が多くなる。

田村王(舒明天皇)には正妃として、田眼皇女(敏達と推古の娘)がいたが、
子女を生さずに早世したらしく、後添正妃として多分寡婦だった姪が選ばれたのだろう。
285日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:14:58.18
皇族出身の皇后が立てられなくなったのは文武天皇からだがこれも諸説ある
(年齢の近い皇女がいなかったとか紀皇女が文武皇后だったのに密通で省かれたとか)
まあ、藤原氏出身の光明皇后出現以降は一遍するよね
桓武天皇の代には早くも皇族出身の妃を退けて藤原氏が皇后に
(桓武天皇には酒人内親王(桓武天皇の異母妹)という皇族の妃がいたのに
藤原乙牟漏が皇后になった)
286日本@名無史さん:2012/07/05(木) 06:32:52.71
>>284
そうですね。おっしゃる通りだと思います。

>>285
文武天皇には藤原不比等の女、宮子が夫人となりました。このころ、天武天皇系の
皇族が大勢いました。天智天皇系を避けるのはわかるのですが、あえて
皇族を妃としていません。これは持統天皇の草壁皇子を正嫡とする考え方から
きているのでしょうか。そのため他の皇族を排除したわけでしょうか?
でも皇族を皇后としたほうが文武天皇の権威も高まると思います。

それから気になるのが元明天皇の時代にひんである紀氏と石川氏が位を
剥奪されていることです。石川氏は二人の皇子(広成、広世)を産みましたが
(この二人は一人という説もあります)元明天皇の母方の氏族である石川氏を
排除した理由がわかりません。理由としてひんにふさわしくない行動を
とったからとなっていますが、後付けのように思えます。
287日本@名無史さん:2012/07/05(木) 08:49:13.44
>>286
当時天皇の皇后として最もふさわしいのは異母姉妹だったでしょうが、
文武天皇には異母姉妹がいませんでした。
叔母の紀皇女が皇后だったという説を唱える方もいますが記録がありません。
あとは従姉妹に当たる女王たちといったところですが、ここからも妃は出ていません。

紀・石川氏は藤原氏との政争に巻き込まれたのでしょう。
文武が死んでも首皇子は即位できず、文武の母元明天皇が即位、
首皇子の即位がどんどん先延ばしにされ、藤原氏はやきもきしていました。
元明天皇は首皇子の即位に消極的であったとも言われ、即位と同時に外孫である長屋王らを
父方の3世王から母方の2世王に引き上げていましたから、
藤原氏の焦りは相当なものだったと思われます。
おそらくは紀・石川両氏の解位は元明天皇の意思ではなく、
藤原氏にはめられてのことだったのでしょう。
288日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:17:22.46
>>284
敏達天皇 538〜585 田眼皇女は585年以前の生まれですね。
皇極・斉明天皇 594〜661
舒明天皇 593〜641

舒明天皇は自分より10歳近く年上の皇女を妻としました。ここには推古天皇の
意思があるように思えます。

それにしても女と曾孫、2世代離れているのに10歳ぐらいしか年が違わないとは
一夫多妻制のせいでしょうかね。 
289日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:42:47.54
>>287
草壁皇子の妻は元明天皇のみで同母姉妹の氷高内親王と吉備内親王しかいないので
これは結婚できません。おっしゃる通り従姉妹にあたる女王はたくさんいたでしょうに
やはりその父である親王たちを警戒して結婚させなかったか、藤原不比等の力が
大きかったかなのでしょうか。

元明天皇が長屋王と吉備内親王の間の子を3世王ではなく2世王としたことが
かえってあとの悲劇を生んだ原因になったかもしれませんね。

長屋王の息子たちは母方の伯母、おじ、祖母が天皇、母、父方の祖母が内親王と
優れた女系の血筋を持っていましたからね。ここで男系がないのは草壁皇子が
男子を一人しか残さなかったからで、あとの皇族男子は女帝たちに警戒されて
いたのでしょうか。
290日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:49:54.41
>>288
舒明天皇も自身の地位を高める上で推古天皇皇女との結婚は有利だったかもしれません。
舒明天皇即位前に田眼皇女は亡くなっていたようですが(舒明の皇后になったのは宝皇女)

>10歳近く年上の皇女を妻
天皇が10歳近く年上の正妃を娶るのは結構あるようです
・円融天皇(959〜991)と中宮藤原媓子(947〜979)・・・円融天皇が12歳年下
・後一条天皇(1008〜1036)と中宮藤原威子(999〜1036)・・・後一条天皇が9歳年下
・堀河天皇(1079〜1107)と中宮篤子内親王(1060〜1114)・・・堀川天皇が19歳年下
291日本@名無史さん:2012/07/05(木) 10:25:55.47
>>290
宝皇女は曾孫ですから本来は女王です。それが皇女と表記されているのは
のちに天皇になったからと考えてもよいでしょうか。女王で皇后になっても
そのままの方もいますから。

円融天皇の中宮は子供がいません。そして中宮の父は当時の実力者で兼家女の
一条天皇生母詮子は女御でしたね。これは父親の力関係でしょうか。

藤原威子は道長女で後一条天皇の母方の叔母、これは道長の権力の為でしょうね。
しかし皇女が生まれました。

篤子内親王は堀河天皇の父方の叔母、これは陽明門院のバックアップでしょうね。
子供はいませんでした。

男性は年齢が高くても子供を持つことが可能ですが、女性の場合上限があります。
若い時は年上の女性が良くても年をとると若い女性に心が引かれることが
あるのでしょうか。こうなると早いうちに子供を産まないと正妃であっても
立場が弱くなりますね。
292日本@名無史さん:2012/07/05(木) 10:44:26.82
>>291
宝皇女は後に即位したことからの表記でしょうね。
文武天皇も本来ならば王のはずですが珂瑠皇子と表記されますから。
(母である元明天皇が即位するのは文武没後)

藤原詮子が入内したのは円融天皇の最初の中宮媓子が没した後です。
関白藤原頼忠の娘導子と中宮争いをして敗れました。

後一条天皇は9歳年上の中宮威子が生涯唯一の妃で他に妃はいませんでした。
(教通が娘生子を入内させようとしたが頼通に阻まれた)

堀河天皇は篤子内親王の他にも女御や典侍を持ちましたが
篤子内親王との夫婦仲はよかったと言います。

3人の天皇とも年上の正妃との仲は良かったようです。
若く結婚しても子供がいなかったり男子が生まれなかった妃はたくさんいるので
こればっかりは運でしょうがね。
293日本@名無史さん:2012/07/05(木) 11:05:19.50
>>292
詳しく教えてくださってありがとうございました。子供がいなくても、年上であっても
政略結婚であっても夫婦仲が良かったとお聞きしてホッといたしました。
歴史上の人物とはいえ少しでも幸福を味わってもらいたかったのです。
294日本@名無史さん:2012/07/05(木) 11:25:38.73
>>286
持統天皇・草壁皇子・元明天皇・文武天皇の信頼を勝ち得た、
藤原不比等と県犬養三千代夫妻による、全力を挙げての細かく隠微な策謀の数々によるものかと。

特に、最初は草壁妃時代の元明に出仕し、文武の乳母となった三千代による後宮采配と、
元明・文武母子の心と行動を操縦する手腕は、まだ力の弱かった不比等には使い所が大きかったのでは。

天武天皇の末娘と思われる田形皇女(紀皇女の同腹妹)でも、文武より9歳年上なので、
若き皇孫である文武の皇后には、文武の1歳年下である長屋王の妹達辺りが、少々幼いながら相応しそうだが、
やっと思春期の文武にいち早く、宮子から聖武天皇を出生させた既成事実は、立后話立ち消えには効果的。

余談だけど、長屋王の変の発案計画者は三千代だったのではないかと、自分は思っています。
295日本@名無史さん:2012/07/05(木) 12:17:21.34
>>294
15歳で即位した文武天皇には即位と同時に藤原宮子・紀竈門娘・石川刀子娘
がそれぞれ夫人・嬪に立てられたがそれまでの天皇と異なり皇后が立てられなかった。
藤原宮子が首皇子を産むのはそれから4年後のことで、この時点ではまだ誕生していない。
三千代が首皇子誕生を持って立后を阻止したというのは無理がある。

更には不比等は病弱な首皇子の予備として宮子に更なる男子誕生を願ったと思われるが、
宮子は出産のショックのあまり深い憂愁に入り文武天皇の後宮を退出してしまい
更なる皇子誕生は望めぬものとなった。
代わりに文武天皇の後宮で寵を受けていたのは紀・石川といった妃だと思われる。
三千代は聖武天皇の後宮に自分の親族である県犬養広刀自を入れているが、文武天皇後宮にそれがなく、
石川刀子娘は持統・元明の親族である蘇我氏系であることを考えると
どこまで三千代が文武の後宮に口出しできたのか疑問な部分は多い。
296日本@名無史さん:2012/07/05(木) 13:12:49.73
天武の皇女たちが、年齢他の理由で文武皇后となるのを見送られたのなら、
次には、氷高・吉備を除く天武の皇孫女たちの年齢が、問題となるよね。

いくら早婚の時代でも、いまだ初潮のない女子の形式立后なんぞは無理そうな時代。
文武即位が満で13〜14歳の時点ではまだまだ、対象年齢女王が皆無だったのでは。
そろそろの頃には、鶴の一声を発する持統上皇の崩御でうやむやに、とか。
297日本@名無史さん:2012/07/05(木) 16:07:52.76
天武皇女で当時独身だったとみられるのは紀皇女ぐらい
天武の皇孫女は相当数いたとみられるが年齢不明なのが多い
高市は天武の長男だが第一子長屋王を儲けたのが31歳の時と遅く
他の天武皇子が先に孫女を儲けていた可能性もある
また持統・元明天皇が天智天皇皇女であったことを考えれば
天智系の女王でも皇后に立つことは十分に可能だったと思われる
298日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:04:02.74
女王といえば長屋王の姉妹はどうなんだろう
河内女王と山形女王
年齢的にも文武天皇とさほど離れてないと思うんだけど
299日本@名無史さん:2012/07/06(金) 12:54:01.54
河内女王は長生きした
300日本@名無史さん:2012/07/06(金) 13:10:59.52
長屋王の姉妹については初めて知ったのですが、生母は高市皇子の妃で元明天皇の
同母姉の御名部皇女ですか?
301日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:10:23.08
>>300
河内女王・山形女王は生母不明(御名部皇女かもしれないし、違うかもしれない)。
河内女王は女官となり、天平19年(747年)に正四位上。その後正三位となり宝亀10年(779年)に没した。
「公卿補任」の年齢が正しければ680年生まれ(数え100歳まで生きた)で長屋王の4歳姉。
文武天皇より3歳年上で、年齢的には文武天皇とお似合いだったということになる。
河内女王の夫の存在は記録されていない。
山形女王も女官となった。神亀元年(724年)正四位上となりその後正三位に上り、
天平17年(745年)に没した(生年は不明)。
山形女王もまた、夫の存在が知られていない。
302日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:49:20.42
>>301
教えてくださってありがとうございます。本当にこのスレはおもしろくて
ためになります。

長屋王の変で長屋王と吉備内親王、そして二人の間に生まれた子供たち
(1人は母が違ったような)が殺されましたが、弟の鈴鹿王(母は長屋王と同じ)
姉妹の河内女王、山形女王が何事もなく宮中で働いていたことから
やはり長屋王とその子供が聖武天皇より血統が正しい皇位継承者と
みられており、そのため殺されたと考えてよいのでしょうか。

首謀者を県犬養橘三千代と仰っている方もいらっしゃいましたが、それにプラス
藤原4兄弟でよいのでしょうか。(時代があっているかな)
303日本@名無史さん:2012/07/06(金) 16:22:06.67
やはり元明天皇の姉の子である長屋王、
元正天皇の妹の子である膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王が
聖武天皇に代わる皇位継承資格者として警戒されていたのでしょう。
鈴鹿王は御名部皇女の子ではなかった可能性があります(鈴鹿王は生母不詳)。

藤原宇合は長屋王の邸を取り囲む軍を率いた張本人であり、
長屋王没後藤原四兄弟が相次いで出世したことなどから長屋王失脚に藤原四兄弟がかかわったことは事実でしょうが、
橘三千代の関与はどうでしょう。
三千代は長年仕えた元明太上天皇が危篤となると出家、長屋王の変の頃には宮仕えを辞していたようです。
藤原四兄弟は三千代の子ではなく、三千代の子である葛城王(後の橘諸兄)が企てに加わった形跡がないなど、
三千代の関与を直接裏付ける根拠はないように思います。
304日本@名無史さん:2012/07/06(金) 17:10:27.09
>>303
鈴鹿王は母が未詳だったのですね。

三千代について疑問に思うことがあります。当時異母兄弟の結婚は許されていましたが
同母兄弟の結婚はタブーでした。
三千代が先夫美努王との間に産んだ橘諸兄が後夫不比等との間に生まれた
同母妹の多比能と結婚したのはおかしいのではないでしょうか。多比能は生母不詳とも言われていますが。

また三千代が産んだむろ女王が房前と結婚したことによりこの血統が力を
持ってきたと言えるのではないでしょうか。まあ、京家は子供が少なく
式家は反乱で、南家も没落し漁夫の利を得た面もあるとは思いますけど。
305日本@名無史さん:2012/07/06(金) 18:54:46.90
>>304
多比能の母を三千代とするのは「尊卑分脉」らしいです。
異母兄妹婚は当たり前のようにたくさん行われているのに対して
異父兄妹婚は諸兄と多比能以外例がないようなので何とも言えないですね。

またこの時代の藤原北家はそれほど力を持っていません。
多比能の夫房前は不比等存命中に一時期兄武智麻呂より先に参議に昇進したことがありますが、
不比等の死後は武智麻呂が中納言に昇進、房前を抜いて不比等の後継者となり、
結局、武智麻呂が正二位左大臣で終わったのに対して房前は正三位参議で終わりました。
孝謙・淳仁天皇時代に政治首班であった藤原仲麻呂(恵美押勝)は
藤原南家(武智麻呂の子)の人です。
306日本@名無史さん:2012/07/06(金) 19:14:10.68
>>305
諸兄と多比能との結婚で生まれたため見下げられたという小説がありました。
永井路子さんか杉本苑子さんだったと思います。

そうでしたか。私は次男の北家が栄えたのはてっきり三千代の娘と結婚したため
と思い込んでいました。房前は光明子の異母兄で多比能は同じく異父姉でしたので
光明子が応援したと思ったのです。もちろん阿部内親王と仲麻呂が特別
親しい関係とは存じておりました。
しかしこの二人には男女関係はなかったと思っています。
307日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:20:04.36
>>306
房前と牟漏女王の長子である藤原永手は光明皇太后在世中、藤原仲麻呂と対立して退けられているので
光明皇后が北家支援だったということはないでしょうね。
南家支援だった理由ですが、やはり光明皇太后が仲麻呂を気に入ったのでしょう。
南家が藤原四兄弟の長兄系だったのは事実ですが、仲麻呂は武智麻呂の次男であり
兄を退けて出世していますから。
308日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
385 :名無しさん 〜君の性差〜:2013/01/25(金) NY:AN:NY.AN ID:wTELtc4r
恋しいタイランド(Akiさん自由帳)
ヒモ生活の私の友人
http://yuuri1006tomo0623.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_af8f.html

俺はタイには行った事ないけど、インドネシア・フィリピンに行った時に
上のブログに書いてあるような、現地の若い女性に経済的に面倒みてもらってる
しょーもないオッサン・爺さんをチラホラ見たけどな。中には戦争経験者も居た。
みんな一様に気質が楽天的で人懐こかった。いい加減な国(失礼)に住んでると、そうなるのか、
それとも元々そういう気質で日本に居づらかったのかは分からないが・・・・

386 :名無しさん 〜君の性差〜:2013/01/25(金) NY:AN:NY.AN ID:M1hUrnc7
>>385
すごく参考になる。

オジサマが、金目当て女に狙われるとは限らないんだな。
むしろ逆のパターンもあると。
309日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
恋しいタイランド(Akiさん自由帳)
ヒモ生活の私の友人
http://yuuri1006tomo0623.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_af8f.html

>これが、全くヒモ的な状態です。彼女(奥さん)は、物凄く別嬪さんで日本人受けして、
>そのお店でもNO.1かNO.2クラスなのになんで、こんなおっさんと一緒になって、
>何でこのおっさんの面倒を見ているんでしょうか?


>このお陰で、表面的にも見栄えのしないおっさんが、あんなに素晴らしい奥さんをゲットしているんですからね。
>日本のように3高とか、なんだとか言わないのがタイガールの良さかも知れませんし、助け合いの精神を常に持ち続けている、
>タイの長年の歴史の上に胡坐を書いているような感じですね。


>タイには、風采の上がらないおっさんがヒモの様な生活をしている外国人も沢山いますからね。
>私も、見習いたいと思っています。
310日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
女性に質問! マジレスしてくれ part890
http://sp.logsoku.com/r/lovesaloon/1366100416/301-400

348: 恋する名無しさん[sage]
2013/04/18(木) NY:AN:NY.AN AAS
私の知人にパチ狂いの輩が居ますが
その人は、最近テレビに出てたヒモショウヘイ(芸名)というヒモ師の知り合いで
彼の壮絶な腕前を聞きました。

ヒモショウヘイ氏(ブサデブ五十路、経験人数四桁)や
ウナちゃんマン(四十路、カツラ禿げ、間抜け顔のニコ生主)のような人間が
若い女性を何人も侍らせて、しかもお小遣いまで貰ってるという事は

女性の中には、男の金も地位も関係無いという人が一定数存在するのですか?
それとも女性にしか判らない魅力があるのでしょうか。

自分でいうのもアレですが、学生時代からイケメン扱いされているのに
チヤホヤされるのは最初の内だけで、いつもそれっきりなのです。
小汚い親父にすら勝てないなんて悔しいので、モテる為のアドバイスをお願いします。
グダグダと申し訳ありません
311310続き:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
351: 恋する名無しさん
2013/04/18(木) NY:AN:NY.AN AAS
まずそのプライドを捨てないとダメだね

352: 恋する名無しさん[sage]
2013/04/18(木) NY:AN:NY.AN AAS
>>348
自分に自信を持ってる男は逞しく感じるものです。
私はDQNは大嫌いですけど、DQNて自分に自信持ってる人多いでしょ。
それに付いて行こうとか頼りになるとか感じる女性は一定数いるんじゃんあないですか。

あなたの書き込みからも自分の自信の無さが読み取れます。いざと言う時に頼りになりそうにないですね。
312308〜311:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
俺もこういう技術を身に付けて、美人な皇后様のヒモになりたい( ;´Д`)
313日本@名無史さん:2014/08/22(金) 21:25:42.16
>>282
和子も周子ももっと上の内親王がいたはず

>>274
呈子役ひでぇww
現在の皇室に繋がらない人だからどうでもいい扱いだったかもしれないが
314日本@名無史さん:2014/08/24(日) 17:46:38.76
>>313
源和子 醍醐天皇女御 初子と末子の年齢差18歳
慶子内親王 903年生
斉子内親王 921年生

源周子 醍醐天皇更衣 初子と末子の年齢差24歳 
勤子内親王 904年生
盛明親王 928年生

大河「平清盛」は今の皇室に繋がる人でも配役酷かったよ
白河法皇役の伊東四朗の怪演といい…
315日本@名無史さん