1 :
神奈川県民 :
2011/02/13(日) 22:09:45
トヨタン・・・・・・・・・・
3 :
巨匠・伊作 :2011/02/13(日) 22:28:13
だめじゃないか。 せっかくのスレッドが見えなくなる。 も・いっぺん・コピーするよ ┌─────────┐ │ 伊作、カッコイイ! │ └──∩───∩──┘ ヽ(`・ω・´)ノ あとに続く声援を期待してるから。
4 :
文献の鬼・伊作 :2011/02/13(日) 22:58:46
997 名前:文献の鬼・伊作 : こっちに移したから。 >卑弥呼が魏に使いを出して成功したのが狗奴国との不和を結果的にもたらしたか。 のおー。 卑弥呼が魏に使いを出したのは軍事支援要請が目的ね。 皇帝の詔書の文言は、軍事支援承諾宣言。 狗奴国との紛争は、それ以前から続いていたということさ。 まーたゾロ・攻撃専門のタコ野郎どもは「証拠をたぜ」というだろうが、 天子・皇帝というものは神格化された存在だからね。 公式発言には人間くさいストレートな言い方はしない。遠回しにいうのさ。 かつての日本天皇もそうだった。 これ。文献の鬼がいうのだから・まちがいない。
5 :
日本@名無史さん :2011/02/13(日) 23:03:39
>>4 文献の鬼さんへ
>卑弥呼が魏に使いを出したのは軍事支援要請が目的ね。
別に卑弥呼さんは「軍事支援要請」なんてしちゃいないよw
倭人伝の何処に書いてるんですか?私は見えん
卑弥呼が遣いを出したのは、あくまでも「報告」であり「支援要請」という
言葉のが相応しく思える。
「アクセス禁止解除記念」 やっと解除されたぜベイビー 解除記念の足跡を残しておくぜベイビー 祝いだ祝いだ〜酒持ってこい。樽酒持って来い。
>>4 伊作さんどうしたの?2ch嫌いじゃなかったの?
ま、どうでもいいことなんだけど
伊作さんがここで頑張ってるなら、自分が出しゃばって邪魔する事もないわな
伊作さん。ここでしっかりきばってや・・・・・・・ガンバ
9 :
日本@名無史さん :2011/02/13(日) 23:38:03
>>7 河童
解除されたと思ったら直後に規制
なんて事も良くあるから言いたい事があったら
すぐに書いておくがヨロシ
>>976-978 >『三国志』は、後漢朝の献帝から禅譲を受けた正当王朝を魏とみなし、
>これに対して呉の孫権と蜀の劉備を「天子=王」とは認めなかったとみえて、
>呉主(孫権)、先主(劉備)としている。(実際には孫権も劉備も天子を号していた)。
>この場合、『三国志』本紀の担当者は、古来の考え方で王を天子・皇帝とみなして
>魏と呉蜀とを書き分けているものと思わなければならない。
>こうした例みる限り、「書いた本人にとては」主と王は違うことになる。
う〜ん 伊作氏は知識ありそうだな・・・・
晋の仕官で、三国志の著者でもある陳寿さんは三国志(「魏書」「呉書」「蜀書」)の中で
魏を正統として扱ったが、表向きは三国を対等にしてますよね。
これは「魏」「呉」「蜀」の中でも圧倒的な力を誇る当時の政治状況も反映されており
その魏国の強さは、周辺諸国にも届くほどとよくききますよね。
11 :
日本@名無史さん :2011/02/13(日) 23:41:02
伊作さん言葉が足りませんでした。僕もそう思います。 邪馬台国の目的はズバリ「入植」だったのではないかと思います。 今まで大事までには至らなかったが魏の後ろ盾を得て軍事行動を大々的に 起こしてしまった。と勝手に想像している次第。 伊作さんはどうみます?
>>9 >解除されたと思ったら直後に規制
なんて事も良くあるから言いたい事があったら
すぐに書いておくがヨロシ
ありがとさん。
昨年解除されたら3日ですぐ規制があったよ(昨年はほとんんど書き込みできなかった)
書いておきたいことは山ほどあるんだが
いま本間宗九について少し勉強しているから、もし調べがまとまったら2chに宗九のスレたてようかと思ってる
もしスレ立て実現出来たら遊びに来てくれ
実現できるかかなり難しいけれど もし出来た場合という事で
>>12 あら、改め君おひさしブリブリ。
>規制になった時は代行スレで代行してもらうのがベストですな。
めんどくさそうだし、俺のレスいちいち代行してたら大変だよ
で、ひさびさに登場した河童さんは 何か新しいネタを持ってきたんでしょうね? 一つ、手土産にネタを投下して下さいな。
九州説の伊作さん、河童さん、あと太国さんとかに聞きますが、 九州には、近畿の巨大な前方後円墳に対して、卑弥呼の墓の候補になりうる 古墳はありません。 九州の弥生時代後半から古墳時代に入るまでの間の、もっともらしい卑弥呼の墓の候補地を あげてくれませんか。
>>15 ネタなんてないよ。
今の材料でいいんじゃない。主と王、有王と無王を続ければいいじゃん。
私だったらもう一つ
「倭人(在)帯方東南大海之中」と「倭人(不在)帯方東南大海之中」を加えてみたいね
在と不在の違いなんかも面白い。
たとえば吉野ヶ里ですが、これは邪馬台国九州説の候補地の一つとされており、 ここの吉野ヶ里のみでいうと北墳丘墓があるんですが、これは弥生中期のモノと判明されてます。 又、吉野ヶ里では、倭人伝のいう「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛」内の 居處・宮室・樓觀、あとそれと・・・厳かに設けてるものがありますよね。 又、市や、倭人伝に「殉葬」と記載されたポピュラーな墓がまわりにありますよね。 九州で、歩丘の候補地と言えばヒラバルの古墳ですか? これらについて各じ(おっさん達)はどのように考えてるんでしょうねえ・・・
>「倭人(在)帯方東南大海之中」と「倭人(不在)帯方東南大海之中」の違い なんですか?それ また〜〜トンデモ暗号解析かなんかですか?ww
>>16 >卑弥呼の墓の候補になりうる
候補地だって?そんなのあげてどうするんだい?
候補地なんてどこまで行っても候補地でしかないよ
それに現在まで卑弥呼の墓が残っていると言う保証でもあるのかい?
あると断言できるならその作業も有効に働くだろうけど、とにかく出てきてからじゃないと
話にならないのが現実じゃん。
勝手に想像膨らませてあ〜じゃないこ〜じゃないなんていうのは
考古学的な物を対象に語る事じゃないよ。考古学は出てきて初めて銭になる性質のものじゃないのか?
文献的資料なら、現実に目の前に晒されるんだから
あ〜じゃないこ〜じゃないかと試行錯誤するだろうけど
卑弥呼は中国の皇帝から「親魏倭王」に任命されてますよね。 これは特別なことであり西暦229年の「親魏大月氏王」もそうですが、 この2例しかないわけで、これはもう特別な事ですよね。 現在では、世界をリードする国はアメリカと決まってますが、 その近年では、イギリスがそうでしたよね。 卑弥呼の活躍した三世紀の古代においては、中国がそうでしたよね。 当時、この中国は、「魏」「呉」「蜀」と三国にわかれており、 上で投稿した通り、魏国が実質的にナンバー1だったわけで、 倭国はというと魏国の冊封を受けた。
22 :
メ(寝る前) :2011/02/14(月) 00:35:33
「親魏大月氏王」ですが、これは非常に大きな国で、同じく「親魏倭王」とされる 倭国の範囲よりも数倍大きいのは確実だろう。 当時の魏国は周辺の「呉国」「蜀国」をけん制したい為に外国である 「大月氏王」、「倭王」と手を組むというんですか、支配下に置くのですが ここで両国に金印を与えてますよね。 この金印というのは、何万戸以上というような「人数」で決まるものでして、 何万人以下ならば「銀印」、何万人以上ならば「金印」となるわけで、 魏国からみた倭国とは、大月氏の国と同等か、それ以上と思われてていたフシがある。 で、九州説論者が言うのは、倭国の範囲は九州内で収まると・・・ 親魏倭王・大月氏王・金印からみると、九州内で収まりきるのか?と思う。
>>19 がっかりしたよ。
私がいなかった一年間、いったい何をここで学んだのかい?在と不在
を投げ掛けたんだよ、このくらいあっさりとコメントぐらい出せないもんかね?
いまスレはそういう流れで新しいスレに移ったんじゃないのか?ポキール君とか言ったね
折角そういう流れを作ってくれたんだから、大事にしてあげなよ。
と、いうことで
久しぶりにお邪魔しました。
24 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 00:49:39
あとは、ポキール君に任せた〜ww さて、ねよっとw
25 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 00:52:57
;====================||___________ :--------------------||___________| :====================|| ◆指定文化財 【戦国式系銅剣】 弥生時代 立石遺跡出土 ↑こんなAAを別の板で見つけた。 九州では中国式銅剣などの貴重な遺物や青銅器の工房みたいなのも みつかったり魏志倭人伝に載ってる地名も同じらしいが畿内からは 大量の剣なども発見されてるし・・終止符はつくのだろうか。 そういえば日本全体を邪馬台国と言ってる説もどっかで聞いたな。
26 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 00:53:07
今度は、在と不在とか言い出したよw みんな〜真面目な顔して河童君と議論出来る人おる?w ポキール君 vs 河童君 だな・・・あとは、ポキール君に任せたぜwww
27 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 07:16:22
<登場人物紹介> 唐松山氏 :九州/畿内説、日本書紀・古事記、卑弥呼は九州で邪馬台国は畿内、ホツマ・年代論、景行天皇、最近では考古学 ローガン氏 :畿内説、考古学、考古学者の本を基礎に、論文、三国志、遺跡調査 メ氏 :畿内説、倭人伝、倭人伝から古代史をみる、神社、古代史の旅、宇佐、古代史全般 太国氏 :九州説、日本書紀・古事記、邪馬台国九州中部論、倍歴、古神道、卜事、天津金木、年代論 レス長たらし毘古氏 :?説、日本書紀・古事記、記紀から邪馬台国を、日本神話、記紀分析、天照大神、スサノオ ポキール氏 :?説、教科書?、皆のレスから邪馬台国を、古代史を始めたばかり、倭人伝の記事 ひとぶた(元・うましか)氏 :畿内説、幅広い学問、畿内説王道派、三国志、高学歴?、高レベルを好む? 名無し(ジョーカー)氏 :畿内説、考古学、考古学者の本が基礎、考古学からみる邪馬台国、九州説論者批判、畿内vs九州 水銀厨氏 :畿内説、考古学、水銀からみる邪馬台国論、朱、宇陀、ベンガラ 神無月巫女氏 :畿内説、海部氏系図、籠神社の海部氏に伝わる系図から古代史を観る、日女命、九州説は許せない
28 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 09:32:08
>>16 アラタメ殿
遺跡は崩壊、滅失する宿命のものです。表見的に地上を見てるだけでは、
真の把握は出来ません。
現今の建造物の多い九州の地下地中の実体は地上からでは、その把握は
困難です。目先のことで判断するのは失敗の因ですよ。
遺跡は盗掘(今回のエジプト騒動でも博物館から賊に盗まれていますぜ)
とか取り壊し、火災、噴火、台風、地震等々により壊滅します。出ないから
見当たらないから存在しないにはなりませんよ。クレオパトラの墓も現今
では発見されてません。発見されないから痕跡がないからそこにはないと
する即断は真を見捨てるやり方です。
人間の体表を見て異常がないからガンではないと診れば、これはヤブ遺捨
ですね。体内の精密検査が少なくとも必要ですよ。これでもガンの見落
としが無いとは完全には言えないはずですな。
貴方が箸墓を卑弥呼の墓だというなら、壱与の墓も、自信あるべき遺跡は
どれなのか明確に言って下さいよ。
イヨタン・・・・・・・・・・
前スレで有王と無王の書き込みがあったので 私も足跡をのこします。 ここは在王ではなく有王としているので、王の存在の有無を語っているのでは ない、ということ。 では何か? この有王は、社会制度の有無を表現したもので、王という階級社会の存在を表している。 王は天子などの尊称ではなく、権力を持った位置付けにある そう、ピラミッド型の組織社会の高位。 世をどう解釈するかは今だに議論しているので、ここでは新に一石を投じないつもりだが 世有王とは、世、階級社会有り。と和訳したい。 そして皆、この皆は階級社会に組み込まれる者。統属女王国と。
女王国の管理下で、王を頂点とし運営されていた。 女王国からみれば、王も律令制度の中の一貫で、制度の中の一つの地位にしかすぎない。 この事を裏返せば、女王国が成立する以前は 階級制度という律令的なものはなく、社会を維持するのは管理社会ではなく、グループ的な合議制度ではないかと見ることができる グループの中から代表を決め、その代表の支持の下に動く つまり主的存在。 それがこの世有王皆統属女王国
だから范曄は、その書の中で歴年無主とし、 女王国が誕生する以前、王(代表者)同士のグループ運営は、リーダーの座をめぐってのお家騒動の結果、 長年リーダー不在だった。と、書いた。 だから無王ではなく、無主。 リーダーは、今で言う議長か?
へんな理論
>>33 へんな理論でもなんでもいいんだよ。
とにかく記す事が大事なんだよ。
君は、へんな理論とコメントすることは出来ても、それ以上に話をすすめる事は出来ないだろ?
それとも出来るのか?
出来るんならここに書いてみなよ。
掲示板は有効に使おうぜ。な!
35 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 13:23:40
>王も律令制度の中の一貫で、制度の中の一つの地位にしかすぎない。 文字が発達していない社会に、律令制度は存在出来ない。 だから30国とか百余国に分裂している。 ではどの様な社会であったか? 例として天皇家をあげると 天皇家のシノギは種貸し屋、その武器として、農事暦の配布。だから暦は秘匿された。 景行は魏から「屯倉手法」を取り入れる。 その手法とは、領地の経営を認める代わりに、調、や兵役の義務を生じる。 簡単に言えば江戸時代、将軍は藩主に領土の経営は任せるが、藩主は兵役の義務がある。 つまり景行から江戸時代まで、それ程変わらずに続いた手法である。
>>35 >文字が発達していない社会に、律令制度は存在出来ない。
当の倭人に整備された律令なんて必要ないよ。それに近い制度や概念が存在していれば
書を記す帝国の人が色を付けて、律令の整備されてる華人に理解されやすいように書く。 すべては帝国中心の書物。
ただ、倭人がまったく律令を知らないわけではなく
金印の意味も倭王の意味も知っていただろう。
帝国に朝貢する事も知っていたようだし
上位の者を怖れる気持ちがあればそれでじゅうぶんだし、
37 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 14:05:50
前スレ997 >卑弥呼が魏に使いを出したのは軍事支援要請が目的ね。 あり得ないな。 卑弥呼が共立された、共立の目的は、魏に対するものであり、無主歴年でも、倭人の社会は成り立っていた。 ただしこの状態では、対魏外交に問題が生じる、だから、対立を棚上げし、卑弥呼を共立する。 当然、卑弥呼共立に加わらない、国も存在する。 魏としては、半島と同じく、倭を領土としたい。その場合、倭国内が統一されなければ、 手間ばかりかかり、意味が無くなる。 そこで、魏は、倭人の手での倭国統一を支援し、統一倭国を領地とする方策にでる。 ここで目を付けたのが、まだ後漢に朝貢した事は無いが、狗邪韓国(任那)建国に関与した 実績のある、邪馬台国(大和)である。 倭から魏への頻繁な朝貢は、その為の方策を、大和が魏から方策を伝授されるための行き来であり、 大和は、戦争の進め方から、その後の治世方法までを伝授される。 その間に、大和では、武器の製造や軍事調練が行われ、九州倭国(奴国男王)と協力して 九州平定に乗り込む。 ここまでに使用した期間が、239〜247年?となる。 魏は卑弥呼生前中に、黄旛授与を決める。
卑弥呼共立の目的は、事鬼道能惑衆と書いてあるように 民への影響力であり、民を束ねる力。 国が乱れて一番困るのは民であり、その民は貧困に窮すれば、どんな支配をもっても国定まらず 国を治める事は、民を治める事 混乱する民を鎮めるために一番いいのが宗教の力であり、信仰心。
39 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 14:53:55
>国を治める事は、民を治める事 これが解っていても、相攻伐を重ねるのが、その上にたつ治世者である。 国を守るのは治世者の役目。であるから、相攻伐=乱。となる。 乱の始まりは、寒冷化であろうが、国を守るためには、民の胃袋が肝要である。 であるならば、隣の領地も手に入れたい。 後漢書 193年 寒風冬の如し。 後漢は翌年の蝗害から大乱と成る。
40 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 15:10:40
後漢書 志15 183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。[一]袁山松書曰: 「是時羣賊起,天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法, 又殺無罪,其寒必暴殺。』」 193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」 養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。 183年頃から 韓に民が流入する。 青谷上寺地遺跡の人骨がこの頃に流入した民であれば、九州にはさらに多くの 民が流入している。 対処を誤れば乱は必死。
>>40 >183年頃から 韓に民が流入する。
青谷上寺地遺跡の人骨がこの頃に流入した民であれば、九州にはさらに多くの
民が流入している。
韓は地続き。九州は海を挟む。まったく地勢環境がちがうよ。
しかもこの場合は計画的ではなく、緊急性の高いもの。
いったい何人が渡航可能と考えてるの?そりゃあ微々たる数の渡航は可能でも、体制を揺るがすほどの事はないと
考えるのが妥当的。
しかもまだタラレバの段階でしょ?
42 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 16:06:48
青谷上寺地遺跡の人骨は、それまでの弥生人とは違う特徴を備える。 ここが193年で崇神6年であれば、ツノガアラシトはさらに前に渡来している。 ツノガアラシトと同時代に製鉄が始まったとすれば、それは、韓に流入した人々 が始めたと考えられる。 魏書によれば、新羅は無文字で木刻通信。漢字は流入していない。 女王国 図書伝送に誤りは無い。漢字の存在。 民の流入は考えられる。 タラレバの段階ではあるが、文字の出土が無ければ仕方が無い段階である。
43 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 16:25:05
ホツマを信じれば ホ34130 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり コトバきゝゑず ハラのトミ ソロリヨシタケ よくしれば これにとはしむ 崇神58年 崇神とツノガアラシトの面会 通訳にソロリヨシタケを呼び寄せる。 ソロリは韓国?ヨシタケは吉武高木遺跡?。ここに通訳の出来る存在がある。 新羅と同じ言葉であれば、他にも通訳は存在したであろう。 タラレバの段階か? ツノガアラシトの渡来は、新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪であろう ここから19年程度で世継ぎをすれば、274年応神誕生に繋がる。
44 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 16:33:53
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とコチラを口撃していた男が 〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。
45 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 16:48:00
173年は、魏書のいう七,八十年前の段階である。 この辺りから乱れ始めたとするならば、 凶作と新たな渡来人は外せない。
46 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 16:53:36
それで、なんで河童さんはポキールなんてコテで書きこんでたの?
47 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 16:59:41
>偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。 偽書とするのは、書紀を太陰暦に直せない連中の常套句である。 太国もその一人として存在し、考古学にも文献にも整合しない数字を主張し 「倭は韓国より全てを下された」と云う主張に迎合する。
48 :
巨匠・伊作 :2011/02/14(月) 17:11:36
>それで、なんで河童さんはポキールなんてコテで書きこんでたの? 見る目がないというか洞察力がないというか。 いつまでも下世話なテーマに固執するんじゃないよ。 「私はバカです」とゆってるようなもんだぜ。
>>46 >それで、なんで河童さんはポキールなんてコテで書きこんでたの?
ん?見てただけで参加したくてもできなかった。
ま、掲示板なんだから私が伊作さんでも改め君でもポキール君でも
唐松山さんでも太国さんでも何でもいいけどね。
その前に伊作さんが私だって分かるはずだし、分かれば絶対伊作さんは私にレスなんか入れない
あの人そういうところにプライドバリバリだから。
ま、近いうちにまたアク禁になる儚い命だしね。
50 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 17:16:12
>>48 >「無王」という存在(対象)があるから「有王」という存在が成り立つと言うのが私の考えです。
これって、お馴染みの河童節ですよ。
>>50 >>「無王」という存在(対象)があるから「有王」という存在が成り立つと言うのが私の考えです。
>これって、お馴染みの河童節ですよ。
伊作さんがいるのにワザワザ世有王の話題に触れると思うかい?
そんなことしたら直ぐに伊作さんにバレちゃうよ。
特にこの世有王に関しては。
52 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 17:27:11
>>47 オマエこそ太陰暦に直せない筆頭男なんだよ。ww
えらそうなことを言うなら、まづオマエから見本を示して、具体的に
どのように整合するのかやってみろ。
いまだかつて太陰暦に直せてる具体的説明が全く無いのがオマエだという
ことだ。えらそうなことを毎回正朔だとか抜かして言い張るが、その
くせ一度たりとも無説明がオマエの書きこみで、毎回1〜2行程度の飾り
の書きこみでいかにも説明したふりをしてくらましている訳で、そんな
飾りなんか全然具体的説明にはならな〜い。
53 :
765 :2011/02/14(月) 17:31:32
>>51 ばれないように虫説を封印するのに我慢できなくなって河童虫でしょ。
54 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 17:32:39
いくらえらそうに太陰暦だとか正朔だとか言っても、それを言って るオマエこそ説明無しで説明が出来ないんだということだ。 具体的説明をしない限り、納得するスレ民は出来ないぜ。餌をつけ ない釣りでは、大魚(納得者、論説指示者)はいつになっても出や しないのさ。
55 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 17:42:18
>>52 ここは、卑弥呼、邪馬台国を考える板である。
>オマエこそ太陰暦に直せない筆頭男なんだよ。ww と太国は吠える。
思考方法とそれから得られる数字は、日本書紀考察スレに書きこんである。
で太国は何が云いたいの?「倭は韓国より全てを下された」と云う主張に迎合する。
これ以外に 卑弥呼や邪馬台国の考察は無いの?
まあ無いのが当然、倍年なる暦法が存在し得ない書紀の考察であるからな。
>>53 >ばれないように虫説を封印するのに我慢できなくなって河童虫でしょ。
虫説っていうけどさ、それ気にしすぎじゃん。
それに、封印して他の説や考えが思いつくほど器用じゃないこと
一番分かっているのは君らじゃん。
仮に虫説を封印し我慢できなくて河童虫で出てきたとしようか、その河童虫は
その虫説を大上段に構えて投稿してる? してないと思うけどね
>>56 さっそく在不在って、同じ趣向の話題振ってるじゃん。
まあ、あまりスレちの話を続けても不毛なんで。
そのうち河童vsポキールもやってくれると期待してます。
58 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 18:04:51
開化天皇 184年〜187年 3章 暦に1、2年の異常?開化、崇神の暦を同じとするのが妥当。 崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。後漢193年冷夏。 唐古、鍵 弥生後期後半(大和第Y−3)に大量の土器の投棄をもって、大半の環濠は埋没する。 異族多帰は、各地の土器。 209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国。 この数字であれば、今の考古学が主張する纒向遺跡に整合する。 韓国の歴史も正しいと出来る(新羅本紀)。 考古学も文献も一致する場所は、他にない。 それが解っていて、太国は、「倭の文化は全て韓国より下賜された」を容認する数字のみを連呼する。 任那、渡海、占拠を数字で主張することは無い。
>>57 それは無理じゃない。
どうせまた一週間もしないうちにアク禁なんだろうし
60 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 18:48:04
大祓祝詞に曰く 「天津菅曾 を本刈り断ち末打ち切りて」(』は20桁目) 〜天津神算木(天津金木)は 4πr**3/3=113.09733552923255658』4655・・・(半径r=3:**ベキ) ↓ 3.09733552923255658』46 ←天津菅曾(右辺)の全20桁での分断 本が11、末が55・・・を分断して外す。こんどは後続二桁増加。 「八針に取り裂きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ」 20桁目の強調が天津祝詞の二十(フト)祝詞事。分断前の20桁目は 8。 針とは小数の狭小部分となる先頭よりずっと後続の桁で、八針はこの 20桁目だった 8 を取り裂く。よって 3.0973355292325565 46 詰めると 3.097335529232556546 から、先頭三数と末尾三数 309 546 で 546−309=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
61 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 18:54:32
ほお〜ら、クソの役にも立たない数字のみの主張。 その数字で任那建国を主張出来るのか? 出来なければ、クソの役にも立たない数字と決定する。
62 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 19:01:35
空白年とマシww まあ無いのが当然、マシなる暦法が存在し得ない書紀の考察であるからな。 古代南バビロニアでも古代マヤでも2倍暦の行使があった。 古代マヤ暦ではルナー・シリーズにより月暦を使用しており、マヤ学者ら はこれを C の文字で呼称しておる。この暦法は6ヶ月が単位であり、 片手の上に魔神頭のある絵文字で C を表す。この暦法は 1年で2周するのだ。マシなんかの不正注入なんかやれば暦が混乱し メチャクチャになるわけで王の怒りを買い、そんなことをすれば チャックモールの上で心臓をえぐられて殺されてしまう。マシなんか 在るわけがな〜い。唐松山のマシはインチキなのだ。
63 :
巨匠・伊作 :2011/02/14(月) 19:02:15
河童と太国しゃんと唐松っちゃんが入り乱れると、 なにが何だか・わーけわかんなくなるなー。 にげろー。
64 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 19:06:40
いくら頑張ったって、オマエの編年はデタラメだ。ww 天津神算木はオマエがいくらケチをつけようと、数式であるから独裁者 でも破壊は出来ない。これこそ出来な〜い。 これはオマエが死んでも未来のまた未来まで残り、真の古代史の年代を 完全に防御する。金剛不壊の宝器なり。
65 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 19:20:54
太国:237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年 この数字は昔、文献史学が主張した数字とほぼ同じであり、考古学もその数字を使用していた。 しかし、今考古学が50年遡上した、という事は、文献も50年遡上せねば、整合性が 得られない。というのが事実である。 だから私は、50年遡上した書紀の読み方を披瀝している。 太国はその事実に反し、古い数字の連呼を繰り返す。何の為かを考えれば 太国は、「倭の文化は全て韓国より下賜された」を主張する為であろう。 だから50年遡上した私の編年に対案も提示せず 非難中傷を繰り返す。 対案といってもたいした量では無い。 任那、渡海、占拠。この3点だけだ。 もしこの主張が出来なければ、出来ない理由を書き込めば良い。
66 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 19:25:10
崇神五、六年は192,3年には対応しない。 当時センタク板の胸部の渡海未経験の農民が、千人もの多勢で若狭湾から 半島への渡海は出来な〜い。湾に着く前に.野垂れ死がいいところだ。ww 船舶が初めて製造されたのは紀の崇神17年であり、崇神5,6年の 10年余後である。いまから10年前に windows7 を使えないのと同様に、 ジャンボ船舶の無かった崇神5,6年に千人ものメシが食えない農民が 渡海なんぞ出来っこな〜い。つまり唐松山の論はデタラメなのである。
67 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 19:31:46
太国さんと唐松山さんは、碁敵じゃなくて邪馬台敵だね。 お互いの健康長寿の為に欠かせない相棒になってるんじゃないか。
68 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 19:31:47
>>65 考古なんていう「ぼかし」はやめて、キチンとその人名を連ねたら
どうだ? どうせまた数年とか経てば、また年代が大変動だろ。ww
69 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 19:50:30
>、また年代が大変動だろ。 文献と考古学が合致する限り移動は無い。 太国の主張する数字で、任那、渡海、占拠が提示出来ない事実は 齟齬のあることを表す。 つまり、文献の提示を正確に歴史の数字と出来なかったのが、太国の主張する数字である。 だから、考古学は、文献史学を見限った。 古い文献史学の数字で得られる歴史の見方は、「倭の文化は全て韓国より下賜された」程度であり 韓国のラジオ氏も主張するように百済本記と新羅本紀には、大きな開きがある。 だから、百済本記に書紀を合わせても整合性が得られず、新羅本紀に合わせれば整合性が得られる。 この事実を無視して百済本記に合わせた数字を連呼しても、書記の主張は数字に出来ない。
test
71 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 20:23:40
>考古学は文献史学を見限った 考古学は人間か〜? 見限るのは人間だろう。学問の名称ではない。 ぐた人名 移動のない保証がどこにある? どこにもなかろう? 1/28のでも、人類発生が6万年から12万5千年に変更遡上だ。ppp これで保証になるか? ウワッハッハ! 毎回遡上だ下降だで、これが船ならコチラは船酔いをしてしまうぞ。ww
72 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 20:25:17
>>71 訂正
× ぐた人名
○ 具体的に人名を出してものを言え。
>>30 > 前スレで有王と無王の書き込みがあったので
> 私も足跡をのこします。
>
> ここは在王ではなく有王としているので、王の存在の有無を語っているのでは
> ない、ということ。
相変わらずピンボケたことを。
「有王」なら王の存在を、「在王」なら王の所在を表すだけ。当たり前の話だろう。
いちいち河童語に変換しないとなにごと何事も斟酌できないのか?
今晩から、恒例の悪禁になるんだろうから手拍子の合いの手は入れんでええぞ。
74 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 20:57:05
75 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 21:04:13
紀の年代論は年月日まで書かれてあるから、デタラメではない。 仁徳以前の古代天皇の超長寿も古代マヤ、古代南バビロニア同様、 2倍暦法を行使していたとなると現代人と同程度の寿命であったわけ で、特段におかしくないことが分かる。マシは古代マヤでも 古代南バビロニアでも行使された形跡は見当たらず、やれば王を激怒させ て、とたんに捕まって命が無い。つまりそんなマシなどをやる危険を する奴などいない。マシはインチキなのである。
>>73 >今晩から、恒例の悪禁になるんだろうから手拍子の合いの手は入れんでええぞ。
入れてほしいからレスしたんだろ。 恥ずかしがるなよ
77 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 21:19:53
【紀の欠史八代日数統計表】 1日 4 15日 0 29日 0 2日 2 16日 0 30日 0 3日 3 17日 0 4日 3 18日 0 5日 6 19日 0 6日 3 20日 0 7日 2 21日 0 8日 3 22日 0 9日 3 23日 0 10日 1 24日 0 11日 4 25日 0 12日 3 26日 0 13日 3 27日 0 14日 7 28日 0 倍暦がちゃんとあったから、1日〜14日間に全記事が収まっている。 当時の1ヶ月が14日間の2週間であった時代が存在した事を示している。 このように空白日(15〜30日)はあったわけで、空白年など西暦0年以外 は存在せず、マシなどというものは唐松山の脳内の盲象の産物なので あ〜る。
78 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 21:20:55
>>76 主語+在+場所 だから、在王なんてないだろ
有王に対応するなら王在
>>73 あはははは
>相変わらずピンボケたことを。
あ、ほんとにピンボケだ
「ここは在王ではなく有王としているので、王の存在の有無を語っているのではない 」
所在が存在になっているわ
いやいや間違い間違い。いままでまったく気が付かなかったよ
あんがと。あんがと
>>73 さん。 サンクスです。
>>78 >主語+在+場所 だから、在王なんてないだろ
有王に対応するなら王在
倭人在帯方(主語+在+場所)・・・・ だからね
いやいやそういう所に論の趣旨を持って行くわけじゃないから
便宜上(有王)に対して(在王)という形にしたまで
進行が異様に早い。遅ればせながら
>>1 乙!
>>7 > 「アクセス禁止解除記念」
ホントにアク禁だったんだ。
株で身を持ち崩して路頭に迷ってるかと思ってた。
ご健勝そうでなにより。
82 :
巨匠・伊作 :2011/02/14(月) 21:47:05
アクセス禁止てなんだ? どんな奴がそうなるんだ?
83 :
ローガン :2011/02/14(月) 22:11:57
なんかぐちゃぐちゃやん。 伊作ちゃんもすっかり、ねらーやし。 改めちゃん。はよ、仕切ってやらんと。
>>81 >ホントにアク禁だったんだ。
株で身を持ち崩して路頭に迷ってるかと思ってた。
一年間で書き込みできたのはほんの数週間。
ま、おかげさまで昨年はプラスで終了出来た。
> ご健勝そうでなにより。
身体はなんとか大丈夫ですが、最近は目がだんだんと馬鹿に
>>81 > アクセス禁止てなんだ? どんな奴がそうなるんだ?
2chは自分が荒らしてなくても、同じホスト局を使っている人が荒らすと
ホスト全体やその近似がアク禁の対象となって巻き添えを
昨年特にひどかったのが携帯アクセスで、これも一年で1ヶ月ぐらいしか使えなかったんじゃないかな?
2chは特にニュー速なんかで幼児ポルノ画像なんかを貼りつけた馬鹿がいるらしくて
多くの人がその巻き添えとなりました。
86 :
ローガン :2011/02/14(月) 22:37:42
>>23 >私がいなかった一年間、
河童さん、一年になりますか? お元気そうでなにより。
東日本には再葬の習慣があり、たとえば関東内にある弥生中期の天神前遺跡では 壷の中に成人の頭蓋骨や腕骨等が入っていた例がある。 この壷の入口は直径100mm程度でそのまま遺がらを納めることは出来ないので 一度遺がらを土の中で白骨化させたのち、拾い集めて壷の中に収めたのだろう。 まあ、邪馬台国は九州から近畿にかけての話で、再葬が直接に邪馬台国問題に関係ないだろうが、 とりあえず、本に載ってたので勉強がてらに覚えとくのも悪くは無い。
さて、帰りましょう・・・・あとは皆さんで オチ
89 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 23:24:33
青谷上寺地遺跡の人骨といえば100人分以上の人骨が出土されて その中には殺傷の痕がある。 青谷上寺地遺跡て中国地方なのですが、よく名前の聞く遺跡ですよね
90 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 23:34:32
>なんかぐちゃぐちゃやん。 うん、ぐちゃぐちゃだねえw 太国のおっさんとかリーダーていうよりも リーダーを困らせてる暴れ牛ってかんじだしw リーダーの老眼さん 頑張ってまとめて下さいwww
91 :
巨匠・伊作 :2011/02/15(火) 00:00:50
92 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/15(火) 00:27:55
邪馬台国なんて考える前に、明日の通勤通学の心配した方がいいぞ 茨城は既に10cm超えてる。 マジヤバイ。
93 :
765 :2011/02/15(火) 00:42:30
前スレの990さん。
>で、後漢書のどの部分を読むとこの定義に適うと読めるのかな?
>その部分を提示してほしい。「三十許國」と言うところがミソだからね。そこのところ理解してね。
何をそんなに息巻いてたのか、理解できんなあ。
ポキール君が、王と主で視覚が云々というから、なら同じ王なら全て同じ存在になるのかと、
正史中に王と書かれてたらみんな冊封された王なのかと、
そりゃないだろという思いがあって議論してた。
その流れで、そういう立場に立てば、後漢書の記述は、
王と書いてあるから、30人の王が冊封されていたということになる。
けれど、後漢書は大部分倭人伝の焼き直しだろうし、
30人の王に別の情報源があったか疑わしく、
後漢書の編集者の倭人伝解釈かもしれない。
倭人伝にはっきり書いていない。
これが、レスの遣り取りのあらまし。
だから、僕は後漢書の記述を
「三十許國の王が皆冊封を受けてる」と断定してるわけじゃないけれど、
そのように主張する人がいても、
1 冊封と言う言葉の意味を知らない
2 漢文が読めない
3 日本語が読めない
とまで徹底的に否定する根拠があるとは到底思えない。
中国と使訳が通じてる国の首長を王と書いてるのに、
その王号に何も承認がなかったと言い切れるんなら、
僕が何か見落としてるのかもしれない。是非
>>990 の意見を聞きたいのでよろしく。
>>93 後漢書のどこを読んだのか提示できないのは漢文読めない証拠。
>王と書いてあるから、30人の王が冊封されていたということになる。
こんなこと書けるのは「冊封」と言うことばの意味を理解していない証拠だ。
ついでに理解の基はWIKIだと言うことだから日本語も読めきれない証拠だなw
>>94 >後漢書のどこを読んだのか提示できないのは漢文読めない証拠。
わかりきってることを提示しないと読めないことになるの?
>こんなこと書けるのは「冊封」と言うことばの意味を理解していない証拠だ。
それは、もう聞いたから、次はその理由を書いてもらいたいな。
96 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 01:12:51
ヤダ これだけ言われて気付かない奴には何を言っても理解できないだろう。 理解する気がないとしか思えない。 俺は前スレの指摘者とは別人だが、他の人たちも前スレを見れればそう思うだろう。 もう寝る。 あとは任せた、逃げた、論破したとか言って勝利の雄たけびを上げるのも勝手だぞw
97 :
765 :2011/02/15(火) 01:31:19
議論してないから論破したとは思わないけど、変な人だなとは思う。
98 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/15(火) 10:40:39
國皆称王って、当時日本ではまだ國の概念がなかったと いう事じゃないかな? 支配している土地の範囲はあっても、それを國とする概念がなかった。 帝国側から見れば「それが國だ」と突っ込みたくなる場面なんだが。 皆称王と書いてあっても、倭人が王だと言ったわけじゃなく、別な表現を華人が王と解釈した。 だから皆称王と記述された。
99 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/15(火) 10:45:04
秋津遺跡の発掘現場 橿考研が作成した見学資料によると、宮山遺跡は古墳時代前期(4世紀前半)に活動の 中心があったという。この遺跡が葛城氏に関係するものであるなら ば、遺跡の西南に位 置する宮山古墳よりも古い時代に葛城氏はこの地域に勢力圏を拡大していたことになる。 そのため、 和田萃・京都教育大名誉教授は、4世紀 前半の大和盆地に“東の纒向、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。 塀に囲われた建物を表した埴輪が大阪府八尾市の心合寺山古墳(しおんじやまこふん)から 出土していて、囲形(かこいがた)埴輪と 呼ばれている。見つかった3つの方形区画施設を それぞれ復元すれば、この埴輪に示されたのと類似の施設になる。しかも、これらの施設は いずれも同じ方位を している上に、いずれも数十年間で建て替えていたようだ。 4世紀前半には、二大勢力があり、その建物は、大陸から持ち込まれた形である。 この時代の二大勢力。 神功皇后 275年〜344年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山、メスリ山の時代、佐紀楯列までの 70年間。 応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。 及び 仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
100 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/15(火) 10:48:31
メスリ山古墳 この副葬品は、軍隊編成を表し、例えば、1個大隊に付き、兵士100人。 武器として、槍200本(予備を含む)、弓10本に対し矢300本 など 大隊として、斧、鎌、鋸などを揃える。 つまりこの軍編成は、渡海後に東夷校尉の指示で行われたと思われる。 箸墓から15年ほど後が渡海の274年であり、308年永嘉の乱勃発。 308年永嘉の乱は、武器の需要があるから、この時期の副葬では無い。 ホケノ山古墳=鉄剣2本→箸墓、黒塚、 箸墓は最初の大王。直後の黒塚に大量の武器の副葬。乱の後であるから、大量副葬が出来た。 メスリ山古墳の少し後には、秋津遺跡が築かれる。 弥生末(200年)から100年でこれだけ変化するには、渡海(274年)が無くては これ程の変化は無い。
101 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/15(火) 10:56:36
王の解釈は主という抽象的な表現とは違って 実に解釈範囲が狭い言葉で、王と書けば対象となる人物の別称か、身分を表す以外に使い道がない。
102 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 12:57:27
>>101 そう言うことじゃなくて
>>97 は、倭の三十人の王様は後漢書認定の冊封王だって主張してるみたいだよ。
103 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/15(火) 13:37:53
後漢書は後漢時代の事までしか書いていないから 何とも言えないが 少なくとも魏の時代には官位まで下賜されているんだから、冊封どこじゃないだろう モロ臣下。 ただ、許国と書いてあるので、大陸からの圧力による三十人の息のかかった王達だろうね。
勉強不足の俺にはついていけないっす。
105 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 21:08:53
>>104 ポキール君
いいから、いいから、向かって池
君ならいい勝負するよ
106 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 22:45:18
AGE
107 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 23:13:07
おれ的には ポキール君は古代史歴1年未満レベル 河童君は古代史1年〜2年レベル と予想。 ちなみにお二方に古代史に関わるQuestion(クエッション)をだしてみようぜ〜w 何問まともに答えれるだろうかね(ここにいる誰でも知ってる問題だぞw) Question1 縄文時代ってな〜〜に? Question2 古墳ってな〜〜に? Question3 『倭』とはな〜に? Question4 卑弥呼の鏡について答えよ Question5 ホケノ山古墳って何で有名なの? さて、ちゃんと答えられるか・・・みなさんで採点してみようw
108 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 23:19:17
ちなみに、「メ」とか「ロ」とか「ジョ」とかの3人なら 上のQuestion なんて、教壇の上に立って講演できると思うぞ。 さて、河童くんはまともに答えられたかな?(・〜・)??
109 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 23:27:56
「二」はおめぇ〜 ニォンゴ ワカァリマスカ?? て奴だろww
110 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 23:43:14
「ポ」とか「河」とか あとそれから・・・美濃の〜「モ」の3人は いわゆる、「ポ」「河」「モ」の3人というか・・・くやしければもっと強くなれ としか言いようがないな〜 さて寝る。
111 :
ローガン :2011/02/15(火) 23:43:55
>>93 どくだみさんこんばんは〜。
>>その部分を提示してほしい。「三十許國」と言うところがミソだからね。そこのところ理解してね。
> 何をそんなに息巻いてたのか、理解できんなあ。
横失礼。貴方の話相手の人の「ミソ」は、冊封なのにアバウト30 国とは、おかしいぞ。
という事ではないでしょうか?
>>107 >さて、ちゃんと答えられるか・
そんな難易度の高い問題出されたってわかるわけないじゃん。
「無担保コール」「新長期プライムレート」「国債格付け引き下げに関する問題点」とかなら
スレジャック出来るんだけどな
113 :
日本@名無史さん :2011/02/16(水) 00:38:24
>>107-108 この「古代史歴○年」と言うのを好んで使うのは当然ドツボだなw
「ジョ」と言うのはひょっとして「ジョーカー」のことかね?
だったら無理、辞退させてもらうわw
ちなみに「Question1」 に絡んで聞くが
「縄文土器」と「縄文式土器」の違いって分るかな?w
あんまりはしゃぐと怪我すんぞwwwwwwwww
114 :
765 :2011/02/16(水) 01:15:46
>>111 こんばんは。
>横失礼。貴方の話相手の人の「ミソ」は、冊封なのにアバウト30 国とは、おかしいぞ。
そうかもしれませんね。
いずれにせよ、僕にとっては、まったく賛成ではないけれど、
「日本語が読めない」というほど完全否定はできないなという程度の話だったのが、
自分が賛成してない説を擁護するような、変な感じになるので、
これ以上は推測しないようにします。
それにしても、伊作さんがヤフー掲示板の荒々しい空気を運んできたような。
前は、特定の人を除いて、こんな威丈高なレスは無かったように思うんだけど、
気付かなかっただけかな。
ちと、寝れない。そこで、参考までに。 この板は、ほぼROM専の通りすがりなのですが、私的に違いが分かったので解答してみます。 間違っているのであれば訂正してください。また異なった見解もあり、縄文時代の文化定義の 表徴として日本列島の土器群を包括的に語るとき、「口縁部文様帯」をもち続ける土器群こそ が縄文(式)土器なのであるとか、あるいは、「降線文土器」こそ縄文時代の始まりを表徴するもの である等々、学者の見解を提示しながら対話するとより建設的な議論につながるのかと。 "縄文土器"とは 『E・S・モースが貝塚遺跡出土に代表される縄目文様をもつ土器を総称して"cord marked pottery" と呼んだのに対して、1886年白井光太郎が「縄文土器」と訳したことに由来。』 ---「縄文時代研究事典」を参照 "縄文式土器"とは 『さらに、この縄の文様が縄文原体を回転して押捺することによってつけられた文様であることを明らか にし、弥生時代以前の先史時代の日本列島に存在している土器群のことを「縄文式土器」としたのは、 山内清男である。モースは縄目のついている土器をcord marked potteryと呼びはしたが、日本列島 の石器時代の土器全般を包括した名称として呼んだわけではなかった。』 ---「文化としての縄文土器型式」 川崎保著 P29より一部抜粋 上記のことから、一般的に(世俗的に?)、単に"縄目文様をもつ土器"のことを「縄文土器」。 そして、弥生時代以前の日本列島の土器群の代表として"縄文原体を回転して押捺した" 土器群を「縄文式土器」という。 ということになるのかと。
116 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/16(水) 10:02:45
一つだけ意見を述べると 時代の分け方、あるいは区分の仕方というのは 政治的背景をもった区切りとしての分け方以外の、文化的な背景をもっての区分の仕方の場合 それは学習対象者によって異なると思う。 小学生なら小学生向けの学習指導内容の範囲があるし、中学生なら中学生向けと、その指導内容は変化して行く。 改め君が問うた縄文時代という設問は いったいどのレベルでの答えを望んでいるのだろうか? ま、一つのヒントとして壇上講義が可能という文言があったので、論文としてたえうる内容を求めているのかもしれないと想像するが。 当の本人は、自分の発言を理解しているのだろうか?という根本的な疑問もまた湧く。
117 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/16(水) 10:29:43
「古墳」もまた縄文時代と同じ事が言えるし、「倭」はその設問環境から考えれば、漢語として扱わなければならないし 「卑弥呼の鏡」は、先ず鏡の所有権設定から始めなければ、鏡がそこにあっても、卑弥呼のと固有名詞を鏡に与えるわけにはいかないだろう。 最後にホケノ山古墳だそうだが、これはマスメディア(情報)によって有名になったと断言できるのではないかな。 ま、設問の仕方じたいがあまりにも幼稚過ぎるというか、設問者じたいが幼すぎるとしか言い様が無い。 このままだと 単なる知ったか選手権大会と化すだけだと思う。 もう少し設問のための環境整備を十分配慮してそこに至ってもらいたいものだ。
118 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 11:30:36
114 名前:765 >伊作さんがヤフー掲示板の荒々しい空気を運んできたような。 俺は大人しく入ってきた。 それに対して、無礼な文言投げた奴が多い。 「敬意表するに値せず」と踏んだ奴には、その態度にふさわしい態度で接する。 きみも俺が最初に指摘した通り、開口一番、大変無礼な文言を一番投げた。 しかも、認識不足による誤読を頑迷に主張するていたらくだ。 気づいた時には自己正当化不可能で、俺に外道扱いを受けたいた。 これが正しい経緯だ。文句をいう筋合いでもなかろう。 >こんな威丈高なレスは無かったように思うんだけど、 きみを含めて、「敬意表するに値せず」の野郎が多すぎるということだ。 いうこと・やることが低いレベルで無礼なのに、下手に出てくれとでもいうつもりか。 論理性の欠落した投稿をくり返してようだが、確かに論理的思考がてきないタイプのようだな。 河童の「わーけわかんねー我流説法」で、けむにまかれてるのが似合ってるぜ。
遺作大明神さまが降臨されたら誰も反論せず、気持ち良く 丁重に対応し、心安らかなまま、速やかにお山へお戻り願いましょう。
120 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 13:06:51
>遺作災害対策委員会 かかかー。けむたくなったか。 低レベルで衒学してたところへ、本物が闖入しては迷惑か。 >誰も反論せず、 反論は大歓迎さ。反論にならない抽象的中傷と誹謗にたよらなければいい。 >気持ち良く丁重に対応し、 別に俺に対する態度に限らず、みなが互いにそうすればいいことだ。
いやいや、伊作はなかなかイイ。 面白くてためになる。 ちょっと単純ナルシストぎみだが、 こういうのに悪い奴はいない。
122 :
ローガン :2011/02/16(水) 14:27:20
>>118 >きみも俺が最初に指摘した通り、開口一番、大変無礼な文言を一番投げた。
まあ、あんまり気にしなさんな。ここは2ちゃん。
>>121 >ちょっと単純ナルシストぎみだが、こういうのに悪い奴はいない。
同意。
123 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 14:53:20
>いやいや、伊作はなかなかイイ。 面白くてためになる。
よーし。俺の力量のほどが分かるのが、また一人増えたぞ。
「ためになる」てのはいいなー・謙虚さがにじんでる。
>ちょっと単純ナルシストぎみだが、
だ・か・ら。
第一印象でこさえた固定観念で補足できるタマじゃないとゆってるに。
単純というのは目測違いだな。単純で複雑、繊細で大胆。
回転と思考スピードはgoogleの超エリートなみ。
>こういうのに悪い奴はいない。
よーし。
小細工解釈・意図的誤解・不正解釈・詭弁方便まやかしなし。
これ以上、歴史に対して誠実で正直ものはいない。
なにしろおめ。
畿内説論敵のローガンが惚れ込むほどの男なんだぜ。
太国・河童・唐松山。みな俺のファンなんだ。じつわ
俺サイトもてほれたら、電子書籍購読するといい。
1200円だ。コンビニ決済もできるし。損はさせないぜ。
いけー。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear
124 :
九州ですが :2011/02/16(水) 14:56:15
このスレまだやってんの?
125 :
ローガン :2011/02/16(水) 15:01:06
126 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 15:12:28
え? 自分の著書宣伝もダメなんかね。 厳密には、 ただ、自分のサイトを紹介しただけだがな。わらわら
127 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 15:14:19
125 ローガン >この投稿は、あかんのと違う? といいながら、再掲してくれる念の入りようは、なに。 加担してくれてるわけか。いいやつだなー・おんめ。
128 :
日本@名無史さん :2011/02/16(水) 17:54:00
>>118 今日日「ブログの炎上」なんて言葉をニュースで耳にする事も珍しくないが
そう言う状況では「誰が先に言った、後に言った」なんてのは意味がない。
自身の発言は絶えず特定の相手のみに限らず不特定多数に向かって発せられていると認識すべき。
しかも「畿内説は〜」と散々悪態をついておいて今更お前は何をほざいているんだ?って話。
「煽り叩き上等のキャラ」でやるか
それとも忍耐を自身に課してある程度は自分の望むような場を形成する事を選ぶか…
まあ何処まで言っても女々しい情けない奴だなこの伊作とか言うクズは。
129 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 18:43:07
どこかでみたよな勝手論をここでも見せるか。 >「誰が先に言った、後に言った」なんてのは意味がない。 重要だ。品よく礼儀正しくしていれば何も問題はない。 相手次第ってこともあるんだぜ。勝手なことをいうな。 >自身の発言は絶えず特定の相手のみに限らず不特定多数に向かって発せられていると認識すべき。 違うだろ。「不特定多数の前で一対一の会話」になっているのが板だ。 >しかも「畿内説は〜」と散々悪態をついておいて今更お前は何をほざいているんだ?って話。 俺に悪態をつくのがいなければ、俺もそいつに悪態をつくことはない。 九州説への悪態は、俺が闖入する前からの現象だろが。『 』つけてもムダだ。 >まあ何処まで言っても女々しい情けない奴だなこの伊作とか言うクズは。 こういうバカげた自己正当化と攻撃文言をいうのが女々しいのだ。 俺はとても柔軟なしとだから、見ての通りだ両方に対応しているだけ。 yahooでは、俺の方法で5〜6年間改善努力をし、それなりの成果がでた。 むろん、普通の会話・常識が通用しないのは依然としているがな。 いまでは、そいつらが散々汚している。あきれたもんだ。 だが、ここを「どうこう」改善しようなどとは思わない。 郷にいって郷にしたがってるだけだ。 考え方の順路する自己整理できていない攻撃投稿だな。 >伊作とか言うクズは。 こういう罵倒を投げて、円満な会話ができると思っちゃいまい。 ということは、「煽り叩き上等のキャラ」でいくわけだな。ちみわ
・・・長いアク禁であった。
131 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/16(水) 20:11:31
伊作さんと縦目さんの議論が楽しみだ。
132 :
ローガン :2011/02/16(水) 20:19:26
>>130 > ・・・長いアク禁であった。
おや、お久しぶり。もう旅立ったかと思ってました。
>>130 >・・・長いアク禁であった。
わっ〜ここにも仲間がいたぞー
私も最近出所したばかりでして。
でもまた直ぐに、馬鹿が幼児ポルノ貼りつけるだろうから
近々また服役の予定です((笑))
>>133 あ、どうもお久しぶりです。復帰できてよかったです。また賑やかになりそうですね。
>>131 > 伊作さんと縦目さんの議論が楽しみだ。
ポキールくんと縦目の議論が楽しみです。
>>132 ローガンさんは「九州ですが」さん、覚えてますか?
確かこのスレ始まったばかりの常連の
137 :
ローガン :2011/02/16(水) 21:12:15
>>136 ええ。確か、河童さんと3人で、「棺槨」をワイワイやったように覚えてます。
>>137 今日、久しぶりに顔を出したようですね。
またワイワイと参加すればいいのにと思いまして
139 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/16(水) 21:54:29
秋津遺跡の発掘現場 橿考研が作成した見学資料によると、宮山遺跡は古墳時代前期(4世紀前半)に活動の 中心があったという。 和田萃・京都教育大名誉教授は、4世紀 前半の大和盆地に“東の纒向、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。 皆さんは秋津遺跡をどの様に見ますか?
140 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 21:59:53
>伊作さんと縦目さんの議論が楽しみだ。 アク禁てのは、スレッドを覗くこともできないのかね。 閲覧が可能なのであれば、俺の論旨もお見通し。でのがふつーだろ。 達人は達人を知る。 どんな論旨の人か知らないが、利口な人なら模様眺めを通すだろうさ。 ま・記紀談義と一字談義だけはスルーさせてもらうが。
141 :
日本@名無史さん :2011/02/16(水) 22:26:13
なんでそんなに好戦的なんだ
142 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/16(水) 22:28:12
>>140 伊作さーん!
まだここで頑張るの?
だったら自分は、本間宗九の旅にでも行ってきますわ
頑張ってね!
143 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 22:47:50
>なんでそんなに好戦的なんだ なんでそんなに敵対的にとるんだ? そうやって、敵対してくる奴はきちんと受ける性格なだけだ。 おかしな論を吹く奴は、かならずどこかで、不正・まやかし・詭弁に頼る。 俺はそれをしないから、歴史解釈議論なら絶対の自信があるからな。 議論の相手としては、最も手を焼く難敵というわけだ。 俺は、よほど間違った見解を質すことはあっても、俺から論戦をいどむこともない。 お前ららは、議論とは無関係の横ちゃりするのばかりだ。だいぶ蹴散らしてやったぜ。 そんな俺だが、友好的な人もいるし隠れファンもいる。 間違った見解を質すことはあっても、俺から論戦をいどむこともない。 >頑張ってね! ほれ。河童やローガンなんざ俺のそこんとを知り尽くした男だよ。 >まだここで頑張るの? いやいや、はじめから長居する気などない。 ただ、yahooがきちがいに荒らされて惨憺たる状況だから、 議論らしいことができるかと思ってきただたさ。 もあ、あいつらのハンドルネームがあるだけで、あけて覗く気にもならねー。
>>143 >もあ、あいつらのハンドルネームがあるだけで、あけて覗く気にもならねー。
同意。
145 :
日本@名無史さん :2011/02/16(水) 23:10:15
>>143 >おかしな論を吹く奴は、かならずどこかで、不正・まやかし・詭弁に頼る。
まんまお前の事だなw
>ただ、yahooがきちがいに荒らされて惨憺たる状況だから、
類は友を呼ぶ。
キチガイな事を言っている奴にはキチガイな奴が寄ってくるってだけ。
で叩き出されてここに来たと?
146 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 23:28:00
145 俺を叩きだせる奴はyahooにもここにもいないぜ。 せいぜい、お前みたいなゴミ投稿するのが関の山よ。 てめえのやってることの不甲斐なさを恥じろ。」この野郎
147 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 23:42:28
145 つづきだ。 スポーツでも喧嘩でも、やった本人が一番・相手の力量は分かるものだ。 1〜2度議論すれば、バカでもそれが分かる。 俺は、どんな論でもとことん潰す必要はないという「やさしい男」だから、 勝負が見えたところで引く。執拗に追いつめることをしない。 相手は体裁をつくろうために「逃げた」「勝った」とわめくが、 誰もが内ににもつ正直さで悟って暮れるのを期待して放置する。 これが論的に好かれる要因だな。 事実、俺のファンには、かつて激しく議論したのが少なくない。 俺の論旨は、既存のすべての邪馬台国論とは違う。 ●前原・博多へ歩くのは論外。 ●佐賀平野へ出る中で、九州北部に邪馬台国を押し込めるのも欺瞞。 この種の論を吹く奴は、かならずどこかで、不正・まやかし・詭弁に頼る。 それが見えた時点で「勝負あり」だ。 そんなわけで、お前らが目にしたことのない論をひっさげている。 だから周囲は敵ぱかりだ。 敵ばかりの所へ乗り込んでの孤軍奮闘だ。弱虫とは違って勇気あるだろ なさけない投稿などいらんから・寝れ
『邪馬台国はなかった』という題名は、古田武彦がつけたのではなく、 編集者がゴリ押しして付けた題名だ、ということを知らないで、 その題名を見て拒絶反応しちゃった伊作のレベルの低さよ。
>>112 >そんな難易度の高い問題出されたってわかるわけないじゃん。
え?おめぇまじで?w
>>113 >「ジョ」と言うのはひょっとして「ジョーカー」のことかね?
>ちなみに「Question1」 に絡んで聞くが 「縄文土器」と「縄文式土器」の違いって分るかな?w
>あんまりはしゃぐと怪我すんぞwwwwwwwww
自分でジョーカーて言ってるんだw 世話ないな(馬鹿だなおまえ)w
で、「縄文土器」と「縄文式土器」の違いぐらいで〜なに意気がるなってはなしでww
「日本考古学用語辞典」と「新日本考古学小辞典」の「縄文土器」の欄には
>縄文土器ともいわれ、また縄文式土器の名も用いられたが、
>現在、縄文土器に定着している。
とあるとおり、名称による違いだろう。
>>115 さんのレスで「E・S・モースが貝塚遺跡」の話がでてるが、
明治時代の考古学ていうのは、古学だか古物だったか忘れたが
このE・S・モースによって考古学という分野が広がってるよな(先駆者?)。
縄文土器は「縄文」模様の土器という事から「縄文式土器」と呼ばれ
弥生土器もそうだ。
有坂氏らによって「弥生町」から出土した土器からとって「弥生式土器」と呼ばれたんだが、
学者らによって縄文土器、縄文式土器又は、弥生土器、弥生式土器と呼び方がまちまちだったのを
近年では佐原氏?によって縄文土器、弥生土器と呼ばれるようになってるみたいだね。
この佐原氏の意所は少しググらせてもらったがw まあ意味は同じだろうよ。
151 :
113 :2011/02/16(水) 23:51:16
ドキチガイ伊作の周りにはやはりキチガイが寄って来たというのが本人の言で裏が取れたなwwwwwww
まあアホの相手ばかりも何なんでw
>>115 ほぼROM専の通りすがり
そんな突っ込んだ話が来るとは思わなかったwwwww
まあ正解と言うものでもないが俺が>113の質問をした意味を言わせてもらうと…
75年に佐原が縄文土器と弥生土器と土師器は技術上明確な区別ができないとして
土器によって時代を区分するんじゃなくて先ずその時代の文化を定義
その時代に使われた土器を「〜土器」と呼称すべきと言った。
「土器の様式」じゃなくて「時代区分」が先に来るんだから「式」をとってしまえと…
「土器の様式」が先に来るか?それとも時代区分が先に来るか?
結構「鶏と卵」みたいなところがあるw
無論俺とて普段そこまで神経使って書き分けてもいないんだけどwww
しかもその時代の文化や社会構造の理解も常に変化している
(三内丸山で縄文時代のイメージが一新されたように)
まあその辺を全て網羅するとなると、とてもじゃないが俺如きが壇上から講義するなんてとてもとても…
と言うお話ねwwwwwwwwwwww
※受け売りの元ネタw 「土器の考古学」学生社
152 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 23:53:56
148 >編集者がゴリ押しして付けた題名だ、ということを知らないで、 当時は知らなかったな。 「編集者がゴリ押しして付けた題名だ」とは、 当人がいつ吐露した話か知ってゆうてるのか。 うす汚いねつ造投稿するな。この野郎 俺も20年前に本を出版したことがあるが、 タイトルも表紙のデザインも自由にさせてくれなかったぜ。 売れ行きに大きく左右するところはすべて編集者が関与する。 じょーしきだ。恥書きやろうが
>>151 正式には、「縄文式土器」、「弥生式土器」が正式名だったのを
近年では「縄文土器」「弥生土器」と呼ぶようになった。
正式名称は、「縄文式土器」、「弥生式土器」だけどどっちでもいいんだよw
154 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 00:00:40
>>150 ドツボ
>自分でジョーカーて言ってるんだw
そりゃコレだけ言われれば自分がそう呼ばれているってのはバカでも気がつくさw
おまえだって「ドツボ」が自分のことだと認識しているんだろう?wwwwwwwww
まあ今は考古学的な知識をドンドン吸収している最中で
新しい知識を得ている高揚感?みたいな物があるのかもしれないが
あんまり飛ばすと大恥かくぞ?
まあそこがドツボのドツボたるゆえんなんだろうがwwwwwwww
>>149 >え?おめぇまじで?w
あ〜マジだぜ
事はそんなに単純じゃないんだぜ。ま、小学生には小学生の学習指導内容があるから
複雑なことは学ばなくていいし
知る必要もない
156 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 00:04:05
148 古田シンパが俺を叩きにきたのなら、正論勝負だ。 ここでで受けて立つぜ。 古田説が、いかに歴史的事実から遊離した 机上の文献いじり・文字いじりで成り立っているか。 俺が証明してやろう。 おれの古田説に対する反論は、そこいらのとはわけが違うぞ。
>>154 たしか〜おめぇは考古学が得意なんだっけ?
じゃその得意な考古学てやつをここに書き込んでみろよw
<登場人物紹介>
唐松山氏 :九州/畿内説、日本書紀・古事記、卑弥呼は九州で邪馬台国は畿内、ホツマ・年代論、景行天皇、最近では考古学
ローガン氏 :畿内説、考古学、考古学者の本を基礎に、論文、三国志、遺跡調査
メ氏 :畿内説、倭人伝、倭人伝から古代史をみる、神社、古代史の旅、宇佐、古代史全般
太国氏 :九州説、日本書紀・古事記、邪馬台国九州中部論、倍歴、古神道、卜事、天津金木、年代論
レス長たらし毘古氏 :?説、日本書紀・古事記、記紀から邪馬台国を、日本神話、記紀分析、天照大神、スサノオ
ポキール氏 :?説、教科書?、皆のレスから邪馬台国を、古代史を始めたばかり、倭人伝の記事
ひとぶた(元・うましか)氏 :畿内説、幅広い学問、畿内説王道派、三国志、高学歴?、高レベルを好む?
名無し(ジョーカー)氏 :畿内説、考古学、考古学者の本が基礎、考古学からみる邪馬台国、九州説論者批判、畿内vs九州
水銀厨氏 :畿内説、考古学、水銀からみる邪馬台国論、朱、宇陀、ベンガラ
神無月巫女氏 :畿内説、海部氏系図、籠神社の海部氏に伝わる系図から古代史を観る、日女命、九州説は許せない
158 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 00:06:45
148 へついしん。議論の条件提示だ。 不正解釈・意図的誤解に基づく論拠造作・小細工解釈論議・ご都合詭弁。 互いに、これが見えたところで勝負ありとする。 よかったらかかってこい。
159 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 00:09:36
判定基準が主観のみwwww
160 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 00:11:33
148 へ、さらについしん。 俺の手にあまる「口頭議論テクニック」が出るようなら、 名うての反古田説の論客にご登場願おう。ブロ顔負けの文献研究者だ。 彼が応援にくる可能性は5分5分だが、 くるようなら、たぶん、2ちゃんねるの奇跡といえるだろうな。
161 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 00:11:52
>>157 ドツボ
>たしか〜おめぇは考古学が得意なんだっけ?
まさかw
そんな事を言った覚えは一度もないwww
初歩の初歩、精々中高生の教科書レベルと言うのは常々自分で言っているわけだが?w
2ちゃんとは言え仮にも学問系の板なんだから知識はあるほうが良いに決まっている。
がそれも用い方を誤ると
「最初から知識が無かったほうがまだ救われるんじゃないか?」
と思わせる奴がこの板に多いことよw(主にゴミクズレベル九州説連中の事ねw)
最近のお前にもそれを感じるんだが
まあ「転んでも泣かない」のは2ちゃんのお約束だからなwwwww
>>155 の河童君は、小学生の学習指導レベルで
>>161 のジョーカー君は中高生の教科書レベル なのか、
おめーら何年古代史やってんだってwwwwwwwwwww
さて、さて、スッキリしたところで寝ようかな(満足) (^-^) zzz...
>まあ今は考古学的な知識をドンドン吸収している最中で >あんまり飛ばすと大恥かくぞ? だって? 誰が大恥かくんだ?誰が?あーーーはは (高笑)
大恥かくのは自分だって真っ先に反応した。
>スポーツでも喧嘩でも、やった本人が一番・相手の力量は分かるものだ。 >1〜2度議論すれば、バカでもそれが分かる。 >俺の論旨は、既存のすべての邪馬台国論とは違う。 >●前原・博多へ歩くのは論外。 >●佐賀平野へ出る中で、九州北部に邪馬台国を押し込めるのも欺瞞。 >この種の論を吹く奴は、かならずどこかで、不正・まやかし・詭弁に頼る。 >それが見えた時点で「勝負あり」だ。 どうも伊作さんは私を意識してるように感じるな・・・ なんなら、私が議論の相手をしてもいいんですが、 伊作説というのをいまいち理解してないので〜なお、ホームページを読むのも面倒 なのでここに書き込んで下さいよ。 ちなみにどんコイに書き込んでも私はたまにしかよんでないので、出来ればこちらへ。
伊作さんが知識ある人というのは、私だって感じてますよ。 で、考古学よりも文献の鬼でしたっけ? 私もどちらかというと文献派なので、その文献の鬼といわれてる 伊作さんの邪馬台国論とやらを聞いてみたいんですがねぇ・・・
168 :
115 :2011/02/17(木) 00:53:51
>>150 >このE・S・モースによって考古学という分野が広がってるよな(先駆者?)。
その通りです。
>>151 なるほど、了解致しました。
まぁ、「縄文土器」の定義自体が未だに"あいまい"というところなのでしょう。
「縄紋土器」に関してもしかり。
縄文時代の始まり、あるいは縄文時代の時代区分も弥生時代の始まりに
関連して非常に混迷しているようですね。
ただ、縄文時代の始まりに関しては、これだけは言えると思います。↓
「縄文草創期を縄文時代の移行期と捉えたとしても、"遅くとも"、最終氷河期が完全に終わり、
大陸から海によって隔てられ、現在の日本列島に近い形になった約一万一千年前には縄文時代
と称するに値する時代は始まっていた。」
邪馬台国に関連しての議論に対して、私は、基本ROM専なので、
ここらで失礼致します。ではまたの機会を。
169 :
ローガン :2011/02/17(木) 02:00:35
どくだみさん見てるかなあ。初歩的な質問です。 倭人伝に黄幢とあります。何故「黄」なのでしょう?明帝時の改暦では次のようにあります。 景初元年春正月壬辰、山?縣言?龍見。於是有司奏、以爲魏得地統、宜以建丑之月爲正。三月、定?改年爲孟夏四月。服色尚?、犧牲用白、戎事乘首白馬、建大赤之?、朝會建大白之旗。 改太和?曰景初?。其春夏秋冬孟仲季月雖與正?不同、至於郊祀迎氣?祠蒸嘗巡狩蒐田分至啓閉、班宣時令中氣早?敬授民事、皆以正?斗建爲?數之序。 軍事用には大きな赤い旗と。又、裴注では、土行ゆえ服の色は黄を尊重し 大きな赤い旗を軍事に使用とあります。 では、黄幢とはどのような性格のものなのでしょう? 黄幢は三国志には、倭人伝の正始の記事に見えるだけです。 正始に夏正に戻した時、軍事用の旗を変更したとも思えないし… どうも基本的な事が理解できていない、お恥ずかしい限りですが。ご教示を。
170 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 05:38:14
干支と方角みたいなもんじゃないの?
171 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 07:59:10
卑弥呼は公孫氏
172 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/17(木) 08:00:15
>>169 横からごめんなさい。
>黄幢
黄色い旗じゃなくて、黄色い幢(ホロ)と考えればわかりやすいのでは
黄色い幢が頭上にあって移動する。
それを外人の官に授けるわけだから
黄幢が何故、黄色か? おもしろい。 古代中国のことだから、必ず意味があるはずだ。 (と言いつつ、去ってゆく私であった)
174 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 09:49:26
●黄幢の実態 軍旗というものは、軍隊や兵士を伴ってこそ機能するものである。この黄幢は詔と非常に密接な関係でつながっている。 後漢の光武帝が軍事指揮権を皇帝の直轄にした。これ以降、軍の出動命令を出せるのは皇帝だけになっている。 このことから察すると、斉王芳じきじきの命令もしくは許可を得て倭国にやってきた黄幢は、 これとセットの援軍兵士を伴っていたと判断する。 中国の研究家・任晏東氏によると、やはり「黄幢は軍事指揮権の印し」ということだった。 ただし、無機質な軍旗(軍事指揮権の印し)だけがやってきても、女王国側の実質的な戦力増強にも強化にもならない。 指揮権のついた軍旗には兵士・兵団が附随する。指揮旗だけ持っても指揮に従う者がいなければ指揮はできない。 その意味でも、『倭人伝』のいう黄幢は、兵士を伴った軍旗だと考えるのが現実的だろうと私は思う。 事実、中国歴史書が「印綬を与える」とか「斧鉞を与える」といえば、しかるべき任務を与えて、 任務遂行必要な兵士・軍隊を委ね、兵士の生殺与奪の権利と指揮権全権を与えることを意味している。 こうしことは、天子制度のシステムとしてあたりまうのことである。 だからこそ、歴史書もあたりまえのことは省略して書かない。 天子政府の儀礼やシステムの常識を知ってこそ、自ずと字間や行間を読むこともできるのである。
175 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 09:53:20
●黄幢の実態(巨匠の読み) 旌旗(せいき)類は風になびく旗で、三角形や正方形に近い薄手の布帛でできた旗である。 一方の幢は、タテに長く垂れ下がる「のぼり」をいう。 これは主に、金銀糸や色糸を使った厚手の錦織りでなっており、天子やその直属の皇軍が掲げるもので、 いわゆる旌旗類の旗とは性格が異なる。私は倭国の率善中郎将に与えられた黄幢とは、 この「のぼり」の類いだったのではないかとみている。 景初2年の朝献の目的が緊急軍事支援要請であること。 これに応えた皇帝の詔書の文言が、明らかに軍事支援承諾宣言であること。 さらには、率善中郎将は親衛隊高官として天子に接見できる資格と、天子が与えた軍隊を指揮する資格を持つこと。 こうしたことから、魏が率善中郎将の官位を倭国の使者に与えた裏には、 「いざ援軍派遣」というときに、 黄幢と兵士を委ねるにふさわしい資格与える意図があったのではないかと推察する。 ちょっと高尚すぎる論考情報だったかな。 ま・こういう質の高い話を仕入れるのに、罵倒・誹謗は無用ということだ。
176 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 09:58:46
黄幢は黄色の旗だよ。飾りがついた旗を幢という。黄屋という言葉を知っているかな? 天子の車の屋根のことだ。黄は天子を表す色。つまり、黄幢は、それを示すことで天子 が支持しているぞと分かる旗ということだよ。
177 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 10:05:32
178 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 10:10:19
166 あらため >どうも伊作さんは私を意識してるように感じるな・・・ のぼせるな。 >なんなら、私が議論の相手をしてもいいんですが、 長年、意識的に避けてきたくせに、ええ『 』するな。 お前は典型的な野次馬だ。遠巻きに黙ってみてろ。デバ亀
卑弥呼と対する国も黄色の意味を理解してないと無意味な事だな。
180 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 10:24:47
天皇家の先祖は卑弥呼につらなる者ではなくて、キクチヒコにつらなる者なのではないだろうか キクチヒコが東遷とか
率善中郎将は親衛隊とはちょっと役回りが違うかと 四品官、降伏した蛮夷の統率が仕事では 黄色は天子を表す色とだから言う解釈よりも この場合は土徳、つまり魏を表す色と考えた方が良いように思います 曹丕が魏を建てた時に黄初と改元したように
182 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 10:32:59
●とくに強調しておきたいこと。 西嶋氏の造語「冊封」「冊封体制」は、 藩外(天子の支配領域の外)にある異民族が、名目的・形式的な上下関係によって作られる 中国を中心とした国際関係のことである。(いわば外交手段) これを、実施的な服属関係(倭国が中国王朝ら臣従した)と誤解したり拡解釈する人が非常に多いが、 言葉の意味というものをしっかり認識してから使ってほしい。 さもないと、黄幢・檄・告諭を180度間違った視点で解釈することになる。 それは、正当的歴史を語る者にとっては非常に煩わしい現象である。
183 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 10:34:45
179 >卑弥呼と対する国も黄色の意味を理解してないと無意味な事だな とにかく、俺が提示したページで勉強してくれ。
184 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 10:36:40
181 各論は総論と有機的に関連する。 断片論はいいから、構造的に詰めることだ。 きみも、提示したページをみて勉強してくれ。
185 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 10:43:56
>天皇家の先祖は卑弥呼につらなる者ではなくて 卑弥呼も臺與もリリーフ投手だよ。 倭国王家につらなる可能性もあるし、ぜんぜん違う可能性もある。 中国の森羅万象の哲学ともいえる道学(黄道学)を基礎とした鬼道(天師道)をマスターするには、 高度な中国語素養と豊富な知識が必要になる。 となれば、生粋の土着倭人には伝授も修得も不可能だ。 しかも、大陸で最も盛んだった時期に卑弥呼はマスターしており倭国にいたという。 いったいどういうことだったと思うかね。 倭人伝はすべてを語っているわけじゃない。 この点を重視すれば、卑弥呼は新来の渡来人だった可能性もある。 古代史に首を突っ込むならに、やるべきことが山ほどある。 誰にでもできるというものじゃない。まして理系思考の人には無理だ。
186 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 11:03:48
倭奴国王から帥升まで50年、帥升から卑弥呼まで130年、 20年もしないうちに晋が興きて臺與が朝貢したあとは、大陸は争乱の時代に入る。 大陸が落ち着かないうちは、倭国は鎖国状態で音信不通になる。 見えない歴史が150年ばかり続き、 トンネルを抜けたら中国名を名乗る男王たち(五王)が登場する。 欲望盛んな人間たちが、葛藤と抗争と政略とかけひきの中でたどった足跡は、 俺たちが考えるほどにシンプルでもなければ滑らかでもなかったろう。 ●巨匠語録 日中の歴史書に書いてある事象や名称だけを拾って、 土器の破片をつないで復元するようなことをやっていては、 いつまで経っても本当の歴史が見えることはない。
昔の日本は昔の中国の属国。 誰がどんな論で言い繕っても、属国だった歴史は変えられないわね。
188 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 11:18:21
属国の意味も知らないのか、気の毒に。
189 :
水銀厨 :2011/02/17(木) 11:19:02
鬼道、道教を語るには丹、水銀朱は不可欠だろう。 それの採掘跡が古くからある四国、紀伊半島は 少なくとも倭国のエリアでないと矛盾するな。
190 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 11:23:38
>昔の日本は昔の中国の属国。 >誰がどんな論で言い繕っても、属国だった歴史は変えられないわね。 いったい、どんな論拠資料があって断言するのかね。 たまには相手の高説を拝聴しようか。
191 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 11:28:57
>>189 九州の弥生墳墓からいくらでも朱が出ているが。
九州に採掘場がなかったとでも思っているの?
192 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 11:34:49
佐賀嬉野や、背振山系(吉野ヶ里の周辺の山)で水銀朱鉱石の露頭が確認されている。 ただ、ここから採取されたかどうかは分かっていない。
193 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 11:39:41
181 見逃してたな。 >率善中郎将は親衛隊とはちょっと役回りが違うかと >四品官、降伏した蛮夷の統率が仕事では 「光禄勲」という部署の「中郎将」という官職を調べて出直したほうがいい。 結果が分かったら、とぼけてフケないで、事後処理をきちんとすること。
論拠じゃないでしょ、事実でしょ。論拠なんて悠長に構えているから 尖閣狙われちゃったわね。次は沖縄、そして九州。 宗主国に逆らうのって感覚でやってくるわね。 今日は楽しかったわ)^o^(
195 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/17(木) 12:13:49
黄幢を中郎将の難升米が受け取り 国内に持ち帰るということは、皇帝を国内に招き入れるということじゃない? 黄幢は皇居であり、皇帝そのもの 皇帝は黄帝だそうで。
196 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 12:37:30
黄色いショーツ >尖閣狙われちゃったわね。次は沖縄、そして九州。 >宗主国に逆らうのって感覚でやってくるわね。 以前にも書いたが、「歴史錯誤を逆手に」というパターンだな。 だからこそ、正しい歴史を語る必要がある。歴史でケリのつく問題だ。 中国という国は、体面と建前と段取りで成ってきた国だ。 大義名分が立てば「開拓的侵略」はお手のものよ。 そこを読んで対応するセンスこそ政治家に求められる。 歴史というものは、けっこ・役に立つんだなー。ばいばい
197 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 12:39:52
195 カツパも、ヤキが回ったらしいな。 それとも偽物か?
198 :
水銀厨 :2011/02/17(木) 12:46:36
>>191 畿内説の場合、採掘跡が既に確認されているわけで。
九州の場合は確実な採掘跡は未確認ですから。
記述を重視するなら、倭国の山に丹が有るのだから、
現状では紀伊半島までは倭国としか言いようがないのです。
199 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 12:52:10
遺作の存在ってなに。
201 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 13:03:15
>記述を重視するなら、倭国の山に丹が有るのだから、 九州にまちがいなくあるよね。分かってる?
202 :
水銀厨 :2011/02/17(木) 13:07:39
>>201 鉱脈は勿論有るが、弥生期の採掘跡の事ですよ?
仮に確認されても紀伊半島までは倭国、という解釈に
全く影響はしないんだけどね。
203 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 13:21:09
>仮に確認されても紀伊半島までは倭国、という解釈に全く影響はしないんだけどね。 倭国の範囲と採掘跡がどこにあるかはまったく無関係だよ。
204 :
水銀厨 :2011/02/17(木) 13:40:00
有る物を無関係と判断する理由が無いですからね。
205 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 13:56:08
>遺作の存在ってなに。 巷間に流れる、誤解と認識不足による言説を質すこと。 銀蝿どもに対する反撃以外は徹底してそうしてるだろ。 空気と流れを読めや。 >ホームページと出版物の宣伝だろ ここに・こういのがいるってこと・知らしめているのだ。 素人研究空間の希少なスターだぜ。 下世話というか、品格を疑われるようなことをいうな。 それにしても、ほんとうに知性と品性の欠落した、 精神的貧乏人ばかり集まってるようだな。
206 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 13:58:37
207 :
田子作 :2011/02/17(木) 14:22:59
天に向かって唾する
208 :
田子作 :2011/02/17(木) 14:24:08
俺は偉いから ひっかぶらないもんね
209 :
訂正しておきますね :2011/02/17(木) 16:15:01
>>205 >ここに・こういのがいるってこと・知らしめているのだ。
>素人研究空間の希少なスターだぜ。
>下世話というか、品格を疑われるようなことをいうな。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
ここに・こういう痛いのがいるってこと・知らしめているのだ。
素人研究空間でさえ希少な存在だぜ。
下世話というか、品格をなんか持ち合わせていないぜ!げへへへへ〜
210 :
反省中 :2011/02/17(木) 17:07:14
>>177 伊作さん
ちょっと質問させて下さい。
177に示されたブログを見ていたら金印(漢委奴国王印と親魏倭王印)の話が出ていました。漢委奴国王印が志賀島から見つかったのは
「倭奴国王の後継者(卑弥呼を含む可能性も示唆しておられるようですが)が漢が復興する場合に備えて霊岩の下に隠して保管していた
と推測されていますね。また、親魏倭王印は墓からは出土しないだろうと推測されていますね。
まあ、推測の話ですから人によっていろんな内容のものがあるのでしょうが、こういう話は「伊作の想像話のページ」みたいなものを設
けて書かれたほうがよろしいのではないでしょうか?シロウトが伊作さんのような大家にこんなことを言うのは失礼でしょうが、若者は
権威を恐れず進まなければならないと思って敢えて申し上げます。
伊作さんが言及されている「広陵王璽」は揚州市外の千江県甘泉2号墓から出土したものですよね。これは極めて例外的なものだと言われる
のでしょうが、「滇王之印」と書かれた金印も古代滇国の国王および王族の墓地(石寨山滇国王族墓)から出土しています。また、これらの
金印より時代は古いのですが、「文帝行璽」が西漢南越王墓から出土しています。したがって、例外的であるとは思えませんが。
211 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/17(木) 17:42:46
>黄色い旗じゃなくて、黄色い幢(ホロ)と考えればわかりやすいのでは 黒塚古墳出土のU字型鉄器はまさに、このホロだな。
212 :
ローガン :2011/02/17(木) 17:50:57
皆さん、ありがとう。巨匠は皇軍ののぼりである。176氏は天子の意志を表す旗である。181氏は黄は魏を表す色である。河童さんは皇帝そのものであると。 確かに黄は五色の中央。皇帝の色であり、黄屋 黄鉞は天子が動く際、用いられるもの。 黄幢がそのような性質のものだとすれば、その使用目的が東夷の果ての内紛にまつわるものとは考えにくいような。 又、上で書いたように、魏は土行ゆえ衣服の色に黄を尊重。軍事用の旗は赤である。 軍旗が赤で指図旗が黄だったのかな。幢は幢麾であり、幢麾は謂セイ旗指麾衆也(一切経音義)とあり幢麾とは指図旗。 又、辞書によると幢幢と幡幡で揺れるさまの表現が違う… 三国志魏書管輅伝に 「輅至列人典農王弘直許、有飄風高三尺餘、從申上來、在庭中幢幢回轉、息以復起、良久乃止。」と。 ゆらゆらと回転するようなのが幢としたら、巨匠の言うのぼりよりは、吹き流し… 旆(でいいのかな)のようなものか?
まずは、通常の幢の色を調べるべきだな 黄幢だけが黄色なのか、幢そのものも黄色なのか(魏王朝の場合)
214 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 18:11:44
210 反省中 広陵王璽、滇王之印、文帝行璽。 中国において天子以外の人間が王を号するようなるのが周王朝下の楚が最初だが、 それ以降、中国全土に何人の王がいたものやら。 考古学というものは悲しいかな、今あるもので語らざるを得ない面がある。 現在、王印が3例墓から出土しているが、 これだけしか持ち主の墓に埋められたわけでもなかろうし、 持ち主の墓に埋めるのが「通例」だったともいえない。 だが、現時点で2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数からみれば、 この3例は例外というべきだろう。 >これは極めて例外的なものだと言われる のでしょうが、 そうだね。 >したがって、例外的であるとは思えませんが。 例外をもって通例のごとくいうのは帰納法の間違った使い方だね。 >漢委奴国王印が志賀島から見つかったのは >「倭奴国王の後継者(卑弥呼を含む可能性も示唆しておられるようですが)が >漢が復興する場合に備えて霊岩の下に隠して保管していた と推測されていますね。 俺が当事者だったら当然そうする。いざという時にはすぐに取り出せるよう。 玄界灘の島々は、海人たちの霊岩信仰の島だった。 >こういう話は「伊作の想像話のページ」みたいなものを設 けて >書かれたほうがよろしいのではないでしょうか? 論拠に乏しい推論は極力いわないようにしているが、これも、論拠に乏しい水路ではない。 たしかな状況判断に基づく推論だよ。 >親魏倭王印は墓からは出土しないだろうと推測されていますね。 親魏倭王印は臺與が継承している。卑弥呼の墓からは絶対に出ない。 臺與の墓からも出ない。漢委奴国王印同様に「神の懐」にあずけてあるはずだよ。
215 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 18:19:46
212 ローガン なんだい。黄幢の形状談義かい、色談義かい。 ほれ。またぞろ原義からはずれた例外的事例を持ち出して、 限定的狭義解釈で「定義」のようにいう。これがほんとに得意だな。 >巨匠の言うのぼりよりは、吹き流し… 旆(でいいのかな)のようなものか? 幢はのぼり。旗柱につけるのではなく、吊るして垂れるのぼり。これが原義だ。 吹き流しも旗柱に付けるのではなく吊るして垂らす。 むしろこれが幢の範疇というところだろう。どんな解釈思考してるものやら。 つかれるやつ。
216 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 18:31:16
ヨコから、と言っても二浪厨とタコ作師匠の議論に割って入るつもりもないんでスルーしてくれw どうにもこうにも 気持ち悪い展開 なのでカキコさせてもらうが・・・w >現時点で2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数からみれば、 >この3例は例外というべきだろう。 >例外をもって通例のごとくいうのは帰納法の間違った使い方だね。 特に広陵王璽は鈕の魚子文やその外形サイズや印字のフォント等から漢委奴国王印と同一工房での製作すら推定されるもの。 (これで真贋論争にほぼ決着がついた) 少なくともデザイン的にはコレを例外とするなら漢委奴国王印も例外的なものになるだろう。 その3例を例外的なものと言うのなら”例外的じゃない原則に則った”事例を相当数出すのが筋。 まあ傍で見ていて「インチキ・誤魔化し」にしか見えないのだがwwwwwwww
217 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 18:39:37
>3例を>例外的なものと言うのなら >”例外的じゃない原則に則った”事例を相当数出すのが筋。 何百人・何千人いたかわからない王の王印が、 3例のほかに出ていないのが、例外的という理由最大のだが。わかるか?ちゅーそつ >”例外的じゃない原則に則った”事例を相当数出すのが筋。 わくは意味の理解できないことをほざいてるが、中卒程度の日本語はよしてくれ。 他人に四の五のいうほどのタマじゃないことすら自覚がない。
218 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 18:42:16
>まあ傍で見ていて「インチキ・誤魔化し」にしか見えないのだが 精神的未熟児だな。
219 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 18:44:43
>まあ傍で見ていて「インチキ・誤魔化し」にしか見えないのだが しかも、精神的田舎っぺだな。 強制的に収容するほどでもなく野放しされる程度に、 ほどよくイカれた奴なんだわな。
220 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 18:52:28
お前の文章読んでて気分わるくなる
221 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 18:53:35
>>217 要するに伊作にしてもその3例以外は出せないんだよな?w
出土した事例としては希少=例外的であっても
金印の保管埋納場所として推測する材料はその3例しかない。
その他何十何百あるか知らないが
金印は殆どが墓にあるかもしれないし
聖地のような場所に埋められているかもしれない。
「親魏倭王印は墓からは出土しないだろう」と言うのはお前の脳内ストリーで全く根拠がないお話。
(俺は二浪厨みたいに遠回しに(嫌味に)言わないw)
俺が中卒でも別に良いが(歴史を専攻したのでもなければ学歴なんかほぼ関係ない話だからなw)
お前はそれ以下だと言う事を自覚した方が良いぞwww
それとも加齢によりボケが進行して自覚も何もできないのかな?wwww
222 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/17(木) 18:56:28
223 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 18:57:13
田子作 お前が受け入れられないのは内容ではなく態度だ いい加減に気付け
王印は正当な所有者の死語は争いの種になるから、返納されて鋳つぶされるんだろ。 あるいは正当な後継者が受け継ぐか。副葬されるのは希有な例だろ。
225 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 19:03:07
逆に、印綬が残っているということは まともな終わり方をしなかったということかもしれぬ。 平和裏に印綬の返還ができなかったと。 張政が卑弥呼の死後に帰ったとしたら 持って帰ったのかもな。
226 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 19:25:05
>要するに伊作にしてもその3例以外は出せないんだよな?w それしか知らないな。 >金印の保管埋納場所として推測する材料はその3例しかない。 しっかりしろ。墓に埋められていた例しそれしかしらない。 >その他何十何百あるか知らないが 金印は殆どが墓にあるかもしれないし >聖地のような場所に埋められているかもしれない。 これを、根拠のない推測という。 俺はそうはいわない。読んでいないのか・理解できないのか。ほれ 現在、王印が3例墓から出土しているが、 これだけしか持ち主の墓に埋められたわけでもなかろうし、 持ち主の墓に埋めるのが「通例」だったともいえない。 だが、現時点で2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数からみれば、 この3例は例外というべきだろう。 筋の通った説明だろ。自分の考えが伝わるよーにちゃんと書いてある。 >「親魏倭王印は墓からは出土しないだろう」と言うのはお前の脳内ストリーで全く根拠がないお話。 漢委奴国王印が墓ではなく霊岩に抱かれていた事実はゆるがない。 それが倭人の処置法だった可能性は低くはなかろう。 玄界灘の島々は、海人たちの霊岩信仰の島だった。 少なくとも、親魏倭王印は卑弥呼の墓からは絶対に出ない。 親魏倭王印を継承した臺與が死んだとき、卑弥呼の墓を掘り起こした埋める理由など皆無だ。
227 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 19:27:36
220 >お前の文章読んでて気分わるくなる よくある文章酔いだ。 論理的な文章をみると眠くなるタイプと気分悪くなるタイプがある。 いずれも、本能的な拒絶反応だ。 脳容量が受けつけないという意味での拒絶反応な。
228 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 19:29:56
223 田子作 お前が受け入れられないのは内容ではなく態度だ いい加減に気付け 田子作だの、罵倒文言を最初に投げたのはお前らだ。 文句があるなら、お前こそ言動をあらためろ。 ガキじゃあるまいし、そんな勝手な言い分と理屈がどこに通るか。
王印というのはだいたい個人の所有物ではない。皇帝からの貸与品。ま、現在でいう職印だな。 所長の職印は所長の地位を外れると置いていかなくてはならないのと似ている。
230 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 19:34:16
>>226 リアルボケ老人 伊作 爺
>だが、現時点で2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数からみれば、
>この3例は例外というべきだろう。
分らん奴だな。
出土例として例外的であっても
だから墓から出てきたのが例外的、には結びつかないってお話だよw
「3例と言うのがサンプル数として少ないから全てが墓に入れられたと言うのは早計」
と言うのらともかく
「3例と言うのがサンプル数として少ないから墓から出てきたのは例外的」
と言うのは理屈が通らない(あるいは他も殆どが墓に入れられた可能性もある)
ちゅーそつでも十分分かる話だぞ爺さんwwwwww
231 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 19:35:19
どうでもいいが。 巨匠攻撃連が揃ってこっちに「お引っ越し」か? 畿内説波゛等攻撃連の「党賤」てか。 俺はどこへ入っても客を呼ぶ男だからなー。
232 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 19:37:28
>>231 みんなのオモチャ 伊作 爺
まあアホを見たらみんなでよって集って叩いて遊ぶのが2ちゃんねるだからなwwwwwwwww
233 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 19:39:42
そもそもどのくらい出土してるのか、 あるいは出土してないのかわからないや。 王対象者に比べてとても少ないの?
234 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 19:43:56
>王印というのはだいたい個人の所有物ではない。 >皇帝からの貸与品。ま、現在でいう職印だな。 逆だろうね。 軍人・官吏たちは「雇われ」だから 職印は職を離れたら変換したの「かも」知れない。 だが、王は印まで変換することはなかったろう。 王墓から稀にでることが、そのことを示唆している。
235 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 19:50:44
230 >分らん奴だな。 ジョーカーとかいったな。 お前。基本的にだな。 筋の通った思考をする論理性、 相手の文章の読解力、 相手のいわんとすることの理解力、 自分の考えをまとめる整理力、 自分のいわんとすることを文章にする著述力。 あらゆる面でなっとらん。 ちょっとした作文を書く入社試験も受からんだろう。 文章力は知能の鏡だ。 いったい、どんな職分にあるかなー。 俺なんかとやりとりするレベルにないぞ。
236 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 19:51:00
>>233 伊作 爺に ちゅーそつ と言われた人 w
そもそも漢委奴国王印が最初、偽印の声が上がったのは
それまでの漢代の金印に蛇鈕がなかったからと言うのがあったはずで
漢代の金印自体は幾つか知らんがあったはずなんだけどな。
誰か詳細知っている人がいたらヨロ。
237 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 19:51:30
>>226 >だが、現時点で2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数からみれば、
>この3例は例外というべきだろう。
王たちの数と比べても意味が無い。
未盗掘状態で発掘された王墓の数と比べないと。幾つあるのか知らんけど。
未盗掘の王墓に王印が副葬されてなければ、そういう習慣が無かったと推測しても良い。
盗掘された王墓に金印が無くても不思議はない。むしろ当たり前。
238 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 19:54:56
233 名前:日本@名無史さん >そもそもどのくらい出土してるのか、 >あるいは出土してないのかわからないや。 >王対象者に比べてとても少ないの? あんた。 俺の投稿をちゃんと読んで吟味した上での投稿かい。 俺は言葉と表現を選んで説明している。 むろん、こういうバカげた質問が出ないようにだ。よくみてくれ それにしても、幼稚園で古代史の講義している気分たぜ。
239 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 20:00:36
>>235 ボケ老人 伊作 爺
そう言えばかなり昔だが受けた知能検査だか適性検査で言語・文章能力はかなり良かったんだがなw
まあボケ老人のリハビリに付き合ってやるがw
仮に母集団を1000としようか?
そこから3個取り出してみたら何れも「墓から出てきたもの(以後”タイプA”とする)」だった。
まあサンプル数として3/1000は少ないとして元の母集団の殆どがタイプAとするのは早計と言うのは話の筋が通るが
サンプル数が少ないからコレを例外的なものとするのは理屈が通らない。
元の母集団においてタイプAが例外的なものである事にはなんら繋がらない。
お爺ちゃんワカリマスカ?w
卑弥呼が死んだら親魏倭王の金印は返納するのが筋だろう。改めて台与が冊封された ときに次の金印が来ることになる。 ・・・中国のコレクターは個人蔵として金印・銀印いろいろ所有してるよ。出土品が博物館に だけあると思ってはいけまへん。
241 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:04:33
中国において天子以外の人間が王を号するようなるのが周王朝下の楚が最初だが、 それ以降、中国全土に何人の王がいたものやら。 考古学というものは悲しいかな、今あるもので語らざるを得ない面がある。 現在、王印が3例墓から出土しているが、 これだけしか持ち主の墓に埋められたわけでもなかろうし、 持ち主の墓に埋めるのが「通例」だったともいえない。 だが、現時点で2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数からみれば、 この3例は例外というべきだろう。 ●「現時点で」とことわっているのを気づかなかった。 ↓↓↓バカさ加減丸だしじゃないか。 >王たちの数と比べても意味が無い。 >未盗掘状態で発掘された王墓の数と比べないと。幾つあるのか知らんけど。 >未盗掘の王墓に王印が副葬されてなければ、そういう習慣が無かったと推測しても良い。 >盗掘された王墓に金印が無くても不思議はない。むしろ当たり前。 この程度のことは想定内の盛り込み済みだ。 それが「現時点で出ている範囲で」だ。 なにか、おかしなことをゆってるか?。 まったく、理解力が発達途上の幼稚園で、ものの道理と考え方を講義している気分たぜ
242 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 20:06:09
>>240 伊作 爺に ちゅーそつ と言われた人 w
拓本もコレクターアイテムだっけ?
結局、出土状況がはっきり分っているものは殆どないと言う事なんだろうか?
243 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 20:10:58
>>241 >それが「現時点で出ている範囲で」だ。
>なにか、おかしなことをゆってるか?。
何を批判されてるのか理解できてないんだな。溜息が出る。
244 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:12:13
>卑弥呼が死んだら親魏倭王の金印は返納するのが筋だろう。 >改めて台与が冊封された ときに次の金印が来ることになる。 親魏倭王を継承すれば王印も継承する。 おっと、ここでも「冊封された」が出たが、「冊封」を誤解してるんじゃなかろうね。 >中国のコレクターは個人蔵として金印・銀印いろいろ所有してるよ。 >出土品が博物館に だけあると思ってはいけまへん。 百も承知だ。 色んな官位の銅印、鉄印などが、日本の古物商でも取り扱われている。 (印や鏡など安物のほうで、玉製品や金製品など、驚くほどに出回ってるぜ) それらがどこから出土したものか、密かに伝世されたてものかは分かるまい。 きちんと分別せずに、一緒くたにするな。 どうにも半端知識と半端思考で偉そに書くのが集まってるな。 これが2ちゃんのレベルってわけだな。
「既而共授印綬為将軍」これなーんだ?
246 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:17:42
つづきだ。論理破綻の証明 >卑弥呼が死んだら親魏倭王の金印は返納するのが筋だろう。 そうゆっておいてこれだ。 >中国のコレクターは個人蔵として金印・銀印いろいろ所有してるよ。 下っ端官吏の職印すら、個人の所有物でもあったかのごとく出回っている。 完璧に相反するが、どゆドタマしてるんだ? みな墓から出た盗掘品か。 一概に断定できない事実がおおいなー。ぼんくら
247 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:19:32
>何を批判されてるのか理解できてないんだな。溜息が出る。 俺はこういう投稿が嫌いだ。 「いうべきことはちゃんと発言しなさい」と 親から教わらなかったんだろ。
>>247 言うべきことは、さっきのレスに書いてある。
自分が理解できないのを他人のせいにするな。
>>244 しかし何なんだお前は?こっちが書いていないことをかってに想定して批判するという
わけのわからない手法。
日本の中国古物など由来がわからぬものがほとんどで、観光土産レベルのものやら
戦時中にガメ獲ってきたものなどさまざま。
中国のコレクターは人を雇って盗掘を指揮するほどの力がある金満家ばかり。由来・由緒が
コレクションとして最も重要な部分で、金銭的価値は些末。・・・おいおい何の話をしてるんだ俺はw
250 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 20:24:44
アラタメが遺作に名無しで必死に抵抗か?
251 :
日本@名無史さん :2011/02/17(木) 20:24:48
印綬も、数としては、結構出回っているわけだな。 とすれば、必ずしも返却する義務はなかった可能性もあるな。 まあ、政権が武力で倒されたのなら、返却などできようはずもないが。 漢倭奴国王印も変なところから見つかっているところから見ても、 後の政権にはおとなしく渡したくはなかった。 墳墓からはほとんど見つかっていない。 これからどういう位置づけが導きだされるのかねえ。
252 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:27:23
>言うべきことは、さっきのレスに書いてある。 百も承知で、「現時点で」と書いたが。 ちみがいう程度のことは想定内の盛り込み済みの表現だ。 >自分が理解できないのを他人のせいにするな。 バツが悪くて取り乱してるようだが。
>>252 現時点と未来の時点で
「2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数」
が変わるんか。
254 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:34:24
251 >政権が武力で倒されたのなら、返却などできようはずもないが。 これはいい視点だよ。 王朝の混乱期とか交替した時点で、所持されたままだったのも少なくなかろう。 で・新しい王朝に召し抱えられれば新たに印授がもらえる。 249 >日本の中国古物など由来がわからぬものがほとんどで、 れっきとした本物ばかり扱ってる古物商の話だがな。 しかも本物ばかり膨大な量だぜ。 脇道にならん程度しとこう。古物商の話じゃないし。
255 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:36:32
253 >現時点と未来の時点で >「2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちの数の絶対数」 が変わるんか。 ダメだこりゃ。どうにもならねーや。
256 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:39:10
>名無しで必死に抵抗か? このていたらくだもの。 恥ずかしくてハンドルネームなどつくれるわけがないわなー。 よくわかったぜ。
本来中国は冊封した相手が危機に落ち入ったら救援する義務があるのだろうが これは建前上のことで実際は不可能な場合が多い。張政の派遣も軍事行動とは いえないレベルのもの。印綬の返納だってあくまで建前であって、実際できた例は 少ないだろうね。 本来、冊封というのは遠すぎますよ、というくらいの意味。近場なら中国は領域化を 試みる。領域化というのは周辺地に本土と同様の州県を設置し、官僚を送り込んで、 中国法下で直接支配を試みるというもの。これは成功したり、しなかったり。
>>255 結局、何を言われてるのか分からんかったみたいだね。
259 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:43:06
258 >何を言われてるのか分からんかったみたいだね。 わからないから、バカにも分かるように書いてみ。 いいから、『 』つけるなよ。小市民
260 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 20:45:17
●名無し・いくじなしの小市民諸君。 寄ってたかってどうにもできずにいるが、 立場を変えて、俺の代わりをできるのがいるか。 少しは巨匠の凄さを認識するのもいいぞ。
ところで何の反応もないので
>>245 に自レスするが、「既而共授印綬為将軍」は
日本書紀で、崇神天皇が大彦をはじめとする始め四道将軍に印綬を与えた部分。
しかし、当時倭国製の印綬などあるはずもなく、実際これ以降書紀にもほとんど出てこない。
なぜこの場面で「印綬」の語が出てくるのかはすこぶる興味深い。
>>261 日本書紀の作者(α群とβ群があるようだが)の作者とも関わる問題だね。
263 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/17(木) 20:58:57
巨匠、ご教示を!! 私如き小市民にとって、遺跡から出土する鉄鏃は、敵対する勢力から射込まれた遺物 としか理解出来ないのでありますが…。
>>262 まあそうなんだろうねえ。印綬という語になじんだ漢文使いが書いたと考えるのが
妥当な解釈なんだろうね。
>>259 >>239 さんが説明してるんだけど、理解できないみたいだから、別の言葉で説明してみよう。
2000年間におよぶ王号乱用時代の王たちが、印を墓に埋めたか埋めてないか分かってないのに、
どうやって埋めてある3例は例外って判断したの。
王たちの墓が全部特定できていて、盗掘された墓も、盗掘される前の副葬品が分かっているなら、
王たちの絶対数と3例の3という数を比較することにも意味がある。
でも全部の王の墓の状況なんかわかりようがない。
今後、新たな墓が掘られて印が出なかったとしても、
盗掘されてたら印が副葬されたかどうかわからん。
だから、王たちの絶対数なんて持ち出しても意味が無い。
印を副葬する習慣があったかどうかは、未盗掘墓で印が出る割合をみるしかないだろう。
おぉ国ヌシ一族ぁ 北へーーーーーーーーーーーぇ 又、また北へーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぇ また、また、北へぇーーーーーーーー 「と」やって行ってしまいました。 蝦夷(あおもり)!!!(⌒ε⌒)。 おれもカッパ君や原付虫君みたいに卑弥呼が一人(先代=太郎)、二人(次代=次郎)で 卑弥呼はオッパイおるぅぅーーー て言おうかな〜ぁ↑ 。。(((((゚−゚)ミ(。−。)彡(゚−゚)ミ(。−。) 。(((((゚ー゚)
>のぼせるな。
>長年、意識的に避けてきたくせに、ええ『 』するな。
>お前は典型的な野次馬だ。遠巻きに黙ってみてろ。デバ亀
ひぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>>174-177 のレス見たけど
この人なんか強そうだね!ビビって〜本当に逃げてようかな (((><)))w
>>197 伊作さん
>カツパも、ヤキが回ったらしいな。
それとも偽物か?
本物です。
いたって正気で申しております。
270 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 21:49:45
>当時倭国製の印綬などあるはずもなく、 ここでいう「当時」とは崇神天皇時代という意味だろうか。 法統のしるしとしての印璽・玉璽の受け渡し。 将軍任命のときの印綬の受け渡し。 絶対的な軍事指揮権をあたえるときの鉞(まさかり)の受け渡し。 いずれも中国の制度に倣ったものだが、 『日本書紀』が書かれた時点での知識というか、 その当時の倭国の作法で書かれているとも思われる。 神話とて、8世紀に書かれたものに違いはないし。
と言いたい所なんですが、伊作ゴトキ〜大した奴じゃないので
皆さんにみてもらいましょうかねぇ・・・
>>174 巨匠・伊作さん
>黄幢
体育祭の赤組、青組、黄組ってあったべ。
きっとそれの「黄組」てしるしだろう。
>軍旗というものは、軍隊や兵士を伴ってこそ機能するものである。この黄幢は詔と非常に密接な関係でつながっている。
>後漢の光武帝が軍事指揮権を皇帝の直轄にした。これ以降、軍の出動命令を出せるのは皇帝だけになっている。
>このことから察すると、斉王芳じきじきの命令もしくは許可を得て倭国にやってきた黄幢は、
>これとセットの援軍兵士を伴っていたと判断する。
東夷にある倭ゴトキになんで皇帝じきじきの「命令」もしくは「許可」を得なくちゃならんのだね?ん?
倭人伝をよくみてごらん、
魏志倭人伝
其八年、太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状
何処に伊作さんのいうことが書いてあるんでしょうか?
「命令」を出したのは、皇帝の分身である太守の「王頎」であり、
これは正治八年記事であって、いちいち、「倭」から報告を受けて「郡」が承諾し
「臺(皇帝)」に詣でて、皇帝が承諾し、郡へ行き、倭へ行って「黄幢」を授けたなんてありえません。
1年の内にそんなに歩いてたら疲れますってw
東夷の倭の代表がですよ、郡の太守になった「王頎」へ報告し、
その王頎が命令を下したんです。オk?
272 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 21:53:46
>遺跡から出土する鉄鏃は、敵対する勢力から射込まれた遺物としか理解出来ないのでありますが…。 墓に副葬された鉄鏃ではなく、居住遺跡から出る鉄鏃という意味だろうか。 それにしても、「出方」がかんじんだね。 俺は考古が得意じゃないから分からんけど、規則性がなく存在するばあい、 おっしゃる通りのことも考えられる。むずかしい質問だわ。
>>174 >中国の研究家・任晏東氏によると、やはり「黄幢は軍事指揮権の印し」ということだった。
>ただし、無機質な軍旗(軍事指揮権の印し)だけがやってきても、女王国側の実質的な戦力増強にも強化にもならない。
>指揮権のついた軍旗には兵士・兵団が附随する。指揮旗だけ持っても指揮に従う者がいなければ指揮はできない。
>その意味でも、『倭人伝』のいう黄幢は、兵士を伴った軍旗だと考えるのが現実的だろうと私は思う。
「黄幢」のパターンがどんなものか私はみたことが無いのでよくは分かりませんが、
「黄幢は、兵士を伴った軍旗」というのはどうかと思う。
て言うかそんなことどこに書いてるんですか?伊作さんの妄想ですよね?
ですから、軍旗のみが来た〜と解釈するべきで、倭人伝にだってそう書いてるでしょ。
>事実、中国歴史書が「印綬を与える」とか「斧鉞を与える」といえば、しかるべき任務を与えて、
>任務遂行必要な兵士・軍隊を委ね、兵士の生殺与奪の権利と指揮権全権を与えることを意味している。
これはそうでしょうね・・・。
>>175 >これは主に、金銀糸や色糸を使った厚手の錦織りでなっており、天子やその直属の皇軍が掲げるもので、
>いわゆる旌旗類の旗とは性格が異なる。
どういう作りになってるかは知りませんね。
でも伊作さんが言ってるようなことはここ2chでよく耳にしますよ。
>景初2年の朝献の目的が緊急軍事支援要請であること。
>これに応えた皇帝の詔書の文言が、明らかに軍事支援承諾宣言であること。
何処にそんなことが書いてあるんだって?
どこ?皆知ってる?おれ知らんw
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a003-02.html >ま・こういう質の高い話を仕入れるのに、罵倒・誹謗は無用ということだ。
ハイハイ 妄想ってことですねww
275 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:06:48
●メ(スポーツスポーツ) きみに対応するのはこれっきりとする。ちとひどい内容だ。 >「命令」を出したのは、皇帝の分身である太守の「王頎」であり、 「皇帝の分身である太守」。返答する気力なし。 >これは正治八年記事であって、いちいち、「倭」から報告を受けて >「郡」が承諾し 「臺(皇帝)」に詣でて、 ここまでは書いてある通りだ。 >皇帝が承諾し、郡へ行き、倭へ行って「黄幢」を授けたなんてありえません。 皇帝が行くものか。 皇帝の詔書を携えた「特使・使節」と黄幢を伴った塞曹掾史を派遣した。 皇帝の詔書は皇帝代理の印である「節」を与えられた使節しか持参できない。 こんなことは中国人にとっては常識だからいちいち書いてはいないだけ。 >東夷の倭の代表がですよ、郡の太守になった「王頎」へ報告し、 その王頎が命令を下したんです。 郡太守風情が使節を立てることはできない。 俺たちは、天子を頂点とした大帝国の歴史書で、 その大帝国の国際外交上の対応について考察している。
276 :
反省中 :2011/02/17(木) 22:08:13
うわ〜、僕の書き込みで蜂の巣をつついたみたいになったな〜。それにしても怒鳴り合いはいやだな〜。
>>221 >(俺は二浪厨みたいに遠回しに(嫌味に)言わないw)
先輩方に失礼のないようにと気を使って恐る恐る書いたのを嫌味と見られたようですね。う〜ん、難しい。
>>185 >古代史に首を突っ込むならに、やるべきことが山ほどある。
>誰にでもできるというものじゃない。まして理系思考の人には無理だ。
「まして理系思考の人には無理だ。」は余計なことではないでしょうか。古代史に首を突っ込んでいる理系の人も大勢
いるかも知れません。理系の人をどれほどご存知なのですか?
>>275 馬鹿だな〜伊作さんってw
なんで東夷の倭にそこまでするんだね?
朝鮮半島にある「郡」で門前払いされてるんだよ。
278 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:12:29
>「黄幢は、兵士を伴った軍旗」というのはどうかと思う。 >て言うかそんなことどこに書いてるんですか?伊作さんの妄想ですよね? >ですから、軍旗のみが来た〜と解釈するべきで、倭人伝にだってそう書いてるでしょ。 もうやめてくれな。 無機質な軍旗(軍事指揮権の印し)だけがやってきても、 女王国側の実質的な戦力増強にも強化にもならない。 指揮権のついた軍旗には兵士・兵団が附随する。 指揮旗だけ持っても指揮に従う者がいなければ指揮はできない。 その意味でも、『倭人伝』のいう黄幢は、 兵士を伴った軍旗だと考えるのが現実的だろうと私は思う。 きみが引用してくれた文章に、このよーに理由をのべているが。 それを歴史的に・軍事制度的に・論理的にロンパすることだよ。 >どこに書いてるんですか? >軍旗のみが来た〜と解釈するべきで、 勝手にしてくれ。
279 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:14:51
>何処にそんなことが書いてあるんだって? 一番愚かな言葉だな。
>俺は考古が得意じゃないから分からんけど で、「文献の鬼」でしたっけ?その〜得意な文献とやらで そんなレベルなん? ヤフーの実力ってこんなもんなん?少しガッカリだな・・・
281 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:20:03
>理系の人をどれほどご存知なのですか? きみがそうだというわけじゃない。 やりとりをしていれば分かるんだよ。 倭人伝解釈に手を染める人は、圧倒的に理系思考の人が多い。 ひどい事例だと、パズルか乱数表のように扱う人もいる。 同一文字をあげては意味をもたせてくっつけるとかね。 で・行間・字間・文意・文脈が読めないから、 二次元紙面に書いてあることだけを追う。 ちょっと文系の読みを提示すれば、 「何処にそんなことが書いてある? 」という。 ごらんの通りだよ。
282 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:22:18
●メ なんだか、また新手の「ぶっ飛んだ」のが現れたな。 このタイプは、たぶん・説明しても何も分かってはくれんだろう。 別にはじめてじゃないが、つかれる。
当時の帯方には軍もいたし大船もあったと考えられるが、文官であろう 塞曹幢史張政の名しか出てこないのは解せないところ。
私は
>>27 で
>メ氏 :畿内説、倭人伝、倭人伝から古代史をみる、神社、古代史の旅、宇佐、古代史全般
て「倭人伝」がベースだってあるじゃん。
で、文献の鬼さんにソノ倭人伝ってやつを教えてヤルけど(君、文献でも駄目じゃん)
君の言ってることは倭人伝のどこにも書いてなぁ〜〜〜〜ざんすよ。
その八年に書いてることは私がレスしたとおりで、そういうこっちゃw
285 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/17(木) 22:28:26
>>281 天津神算木(r=3:**はべき)
4πr**3/3=113.09733552923・・・
は数式で、理数関係。
主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位
副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
助値 B.C.130年 印恵命(←
>>261 )(崇神天皇)立太子
助値 A.D.130年 景行天皇 没年
>>282 『メ=改め=あらため=ドツボ=神奈川県民』 すべて同一人物
>文献の鬼・伊作 さん
ほれ〜どこに書いてるん?
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:
「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。
汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。
其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。
今以絳地交龍錦五匹【臣松之以爲地應爲[糸弟]、漢文帝著saup衣謂之戈[糸弟]是也。
此字不體、非魏朝之失、則傳冩者誤也】、絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張、sen[冠艸脚倩]絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。
又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、
眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」
正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、
帛、錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、
上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、hu[扁犬旁付]、短弓矢。
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人。
更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#wajin
288 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:36:13
>メ=改め=あらため=ドツボ=神奈川県民すべて同一人物 ありがとうね。道理でいうことが支離滅裂だと思った。 いわれれば・あおり方が似ている。そんなもんだろ。
289 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:38:26
>文官であろう塞曹幢史張政 援軍と使節がきていることは、 中国人には、いちいち書かなくても分かるほどの常識なのだよ。 >文官であろう 塞曹幢史張政 塞曹は辺境担当職分。掾史は禄高300石の位階。 ページのURLまで提示して「見れ」というに見ない怠け者・横着者ばかり。 『後漢書』志・百官一に、太傅・太尉・司徒・司空・大将軍らの公府(行政府)で政務・軍務を支えた長吏、 掾、属という官について書かれている。端折って提示する。 ●太傅:漢官に云う:太傅は長史一人、扶持は千石。掾と属は二十四人、令史と御属は二十二人。 ●太尉:長吏は一人千石。本注曰く:諸曹に事を署す。掾史と属は二十四人。 本注曰く:漢旧注に東西曹掾は比四百石、余の掾は比三百石。属は比二百石とある。 西曹は府史の記録を主とする。東曹は二千石の長吏の遷除及び軍吏を主とする。 戸曹は民戸、祠祀、農桑を主とする。奏曹は議事の奏上を主とする。辞曹は訟事の辞を主とする。 法曹は郵駅・科程ごとを主とする。尉曹は卒徒轉運ごとを主とする。賊曹は盜賊ごとを主とする。 決曹は罪法ごとを主とする。兵曹は兵ごとを主とする。 金曹は貨幣、塩、鉄ごとを主とする。倉曹は倉穀ごとを主とする。 つづくから。
290 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 22:39:30
つづく。 三公や大将軍の独自の行政府の役人の長を長吏といい、 長吏の下には掾(300石)・属(200石)といった役職位階があって、 それぞれに長吏を補佐していたようである。 『後漢書』志・百官五には、州刺史・尹(州長官)・郡太守・長史・ 都尉・諸曹掾史らの官職序列が記録されている。 ・郡で辺戍(辺境守備)に当たる丞を長史となす。 ・属国ごとに都尉一人を置く、比二千石、丞が一人。※皆、諸曹掾史を置く。 後漢朝と魏朝の官職制度に大きな違いはないので以上の資料を参考に測れば、 『三国志』倭人伝に登場する塞曹とは辺境守備が職務ポジションだったらしい。 (塞は国境・辺境の砦を意味する)。そこから類推すると、 帯方郡下で辺境守備を担っていた塞曹掾史の張政は、 倭人から倭国大変の報告を受けた帯方郡太守の命令で洛陽に飛び、 その足で皇帝の詔書を携えた特使とともに倭国に黄幢をもたらしたものか。 あるいは帯方郡以外の辺境守備を担っていて、魏本国から派遣されたものかは断定できない。 だいぶ端折ったけど、要点だけ見てもらえばいい。
塞曹・・・辺境はそうだろうが軍の物資その他を担当する役所だと推測する。しかし、掾史 は文官職だろ。
292 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 23:04:09
291 の日本@名無史さん >掾史は文官職だろ。 端的にいえば軍人ですよ。実例をみてもまだそんなことをいいますか。 打ち切りにしましょ。
>帯方郡下で辺境守備を担っていた塞曹掾史の張政は、 >倭人から倭国大変の報告を受けた帯方郡太守の命令で洛陽に飛び、 >その足で皇帝の詔書を携えた特使とともに倭国に黄幢をもたらしたものか。 >あるいは帯方郡以外の辺境守備を担っていて、魏本国から派遣されたものかは断定できない。 ヤフーの実力ってマジで〜こんなもんなん? これも倭人伝に書いてるでしょ・・・。 魏本国から派遣されたものではなく、 実は、遣使っていうのは「魏使」なんだけど正確に言ったら「郡使」やねん。 ヤフーさん、一つ勉強になったかな? では、そろそろ犬の散歩へ行ってきますね〜See you again!~☆
294 :
巨匠・伊作 :2011/02/17(木) 23:07:04
・ ・ ●ぼんくら猟犬の教訓。 俺の義兄が鹿児島で呉服商をやっていて、狩猟を趣味としている。 有害鳥獣駆除の免許を身っていて、商売はカミさんに任せて 畑を食い荒らすイノシシ追って3日とあけずに猟に出る。 猟犬は、紀州だ甲斐だののハイブリッドで、野生だけを抽出する。 できのいい犬は、イノシシをみつけたら、飼い主が狙撃しやすいように、 安全な距離を保ちながらイノシシの注意を引きつける。 そんな犬の子は、猟銃よりも高価だったりする。 そうやって育てた犬を山に4〜5頭連れていけば、2年未満のイノシシなど、 寄ってたかって食い散らす。銃などは無用だ。 一度そういう経験をした中で、ぼんくら犬は犬なりの経験則で、 どデカいのにもおなじように食ってかかる。 と・牙のひと振りで腹を裂かれてちょんだ。 はみ出した内蔵を詰め込んでその場で縫い合わせ、 運良く一命をとりとめた犬もいたそうだが、 もうその犬は猟犬としては使い物にならんという。 俺は、何ごとにも上には上がいらっしゃることを知ってるしとだ。 君たちはどだ。ぼんくら猟犬と同じよなことをしてはいないか?
>>292 > >掾史は文官職だろ。
> 端的にいえば軍人ですよ。実例をみてもまだそんなことをいいますか。
えっ?実例ってどこを見るの?
> 打ち切りにしましょ。
切れちゃうのか?
この話では勝てないんだよ。ww
でも無茶苦茶無理筋の「統ぶるに属す(笑)」は、ネタも無いのにけっこう粘ってたじゃないか。
. -‐- .,. '  ̄ ` . _,.-―- 、__,,....ィ , ´ ヽ i ヽ '-、 / \ l , ト 、 ~ヽ.___,,,...,. / ` 、‐ ' 'z__ l ,>-‐'' ,/ i 人 l、 ヾ `´ // / ,ィ / ヽi ヽ. l、 ,| / / "i /^ヽ! / !,/ -―- |,/ | ハj そ 人; ;:;:;:.:.:.:. : . パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。 : :.:.:::;:;:; i l ハ i/ ━ ヽ. l/ / ゙ヾ. ヽ、:;::;:;::.:.:.:. :. .何だかとても眠いんだ。パトラッシュ・・・ : .:.:.::;::;::; ゙l. ヽ_ { 、_ソノ ,.. - ..、 '; !~ /ヽ! ,ィ/ `- ;' ;' ` :, ヽ! / _Y ヽ t 、 /_ ':, ━ ; ヽ, 〃´ ̄ 亠─----;:>- 、. `´ /,,. '; ,, _ ` 、 _ ,,, .. ' ;" i'´  ̄ __ ,,.. -`<´ ;: '",:' ,:' ` - 、 ,,.. --‐ / /l ,. - ´ / ヽ`´,. ' ` ~ /l i ! / / `'`i ,.-‐ 、 , , ,. -‐' | . l i / l ! ` -: ' ' ィ i l ! / l \ ,...、__,,.-'' /;' l | ヽ/ ! `-:イヽ-' / / ;リ
>>193 率善中郎将は三署などとは違いますよ
常設ですらありません
率善中郎将は中国に味方する蛮夷の長に与えられる臨時の将軍位のようなもの。
301 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:01:49
>えっ?実例ってどこを見るの? 無礼じゃないか。
いや、実際、どこのレスのことかわからないから。
303 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:06:46
283 :日本@名無史さん >当時の帯方には軍もいたし大船もあったと考えられるが、 >文官であろう塞曹幢史張政の名しか出てこないのは解せないところ。 こんな恥かきごたく並べておいて、 誠実に説明したのに「実例ってどこを見るの? 」て、もうろく野郎。腹たつぜ。
304 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:11:46
つづきだ。283 :日本@名無史のもうろくくん。 激しい内紛の状況を説明して軍事支援を求めたのに、 詔書と文官と幢だけ馳せ参じて・どうなるというんだい。 歴史を何だとおもさてるんだ。そのバカさ加減に腹がたつ。
305 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:13:25
302 名前:日本@名無史さん >いや、実際、どこのレスのことかわからないから。 だから、もうろくしすぎてるんだろ。 もっとふさわしいトピックでバカゆってくれ。
「晋率善羌中郎将銀印」というのがあって、これは晋に貢献した羌人に与えられたもの。 難升米のは、この形式なら「魏率善倭中郎将」になるか? 難升米にこの官位が与えられたのは、魏英引見前のことと推測する。無官の蛮人に会うわけ にもいかないから。w
つまりは、 ・メが張政文官説を主張している ・メの考えは全て間違いである( ・よって、張政は文官では無い つーことか。 うーん、それは「論理的推測」であって「実例」とは言わないな。
308 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:21:02
2ちゃんねるは・本当にレベルが低い。ビギナーチャンネルだな。 理解力もないし、生意気にも理解しょうという意思もない。 わずか2文字の意味を論証するにも膨大な背景説明が必要なジャンルにツラだしていながら、 「かくかくしかじかだから・こうだ」という初歩的な手順も踏まず、 2〜3行で「こうだ」と思いつきの結論を並べる輩ばかり。 ほとほと・あきれてるぜ。
309 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:23:58
307 あっちいってろ。
魏英→魏帝 曹は役所のこと、臨時に置かれる場合もある。軍関係のものもあるが軍そのものではない。 掾史は文官、中国の論文をあたれ。檄を張政が作ったのかはなんともいえないが、いずれ 軍人はそういうことはやらない。 当時韓地の支配だけでも大変なのに、魏が倭国に積極介入するとは思えない。遠絶の蕃地 から朝貢があったことが皇帝の威徳を示すために重要なのであって、蕃地の支配者にそこまでの 義理はないだろう。黄幢と檄文だけでお茶を濁したと見るのが妥当なところ。
張政が軍勢を引き連れてきて華々しく活躍したのなら、倭人伝ももう少し書きようが あるだろう。このあたりは メ の言うとおりかな。倭人伝では対狗奴国戦争の帰趨すら わからない。
312 :
ローガン :2011/02/18(金) 00:38:07
>>278 >無機質な軍旗(軍事指揮権の印し)だけがやってきても、女王国側の実質的な戦力増強にも強化にもならない。
幢麾を渡すというような話は三国志にもある。
呉書周魴伝に「其七曰「今舉大事、自非爵號無以勸之、乞請將軍、侯印各五十紐、郎將印百紐、校尉、都尉印各二百紐、得以假授諸魁帥、獎其志、?乞請幢麾數十、以爲表幟、使山兵吏民、目瞻見之、知去就之分已決、承引所救畫定。又彼此降叛、日月有人、闊狹之、輒得聞知。」
山兵を味方に率いれる為に幢麾数十を乞うている。これって別に軍隊の要請をしている訳じゃないでしょう。
なら、幢の下賜=軍の派遣という貴説とは合致しない訳で。
幢麾のみの移動というような事例がある以上、「軍旗のみがやってきても女王国の戦力増強にはならん。よって幢=軍隊である。」は自身の勝手にたてた前提に基づいたものと判断される。
君は、いつものようにそんなのは例外と切って捨てるだろうけどね。
313 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:55:50
ローガン いつもの得意の手口だがな。まるで状況が違うだろう。 >別に軍隊の要請をしている訳じゃないでしょう。 そうだ。この場合は、正規軍ではない山兵を軍隊に組み込んだから、 軍隊に必要な幢麾を要請したというのだろう。 ほれほれ。 軍隊には軍旗がつきもの。軍旗には軍隊がつきものを証明してるだろが。 きみ。相変わらず手口に進歩がないな。 相手の見解を否定するための材料持ち出しにも、やり口が汚いぜ。 そのきみがここじゃスターだというのだから、知れてるわな。 チャリーン!! ↑↑これ。投げたサジの音だから。
314 :
人豚 :2011/02/18(金) 00:56:10
>>310 >黄幢と檄文だけでお茶を濁した
時系列で見ると
@正始六年、詔賜倭難升米黄幢,付郡假授。
A正始×年、倭載斯、烏越等詣郡。
B正始八年、太守王?到官。
C正始×年、遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢,拜假難升米為檄告諭之。
つまり
まず、初めに難升米への黄幢假授の詔が出され、
次に、載斯、烏越等の来郡、国内情勢の報告があって、
更に、王?による官へのその伝達
最後に、張政派遣により難升米への假授。
と言う流れです。
文脈的には、黄幢假授の決定と倭国の国内事情は、全く関係ないように思えます。
なので、黄幢假授の目的は、狗奴国対策では無かったんじゃないでしょうか。
315 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 00:57:34
・ ・ 念のため。 チャリーン!! ↑↑ 投げたサジの音だ。 あばよ。
>>301 > えっ?実例ってどこを見るの?
> 無礼じゃないか。
>>290 あたりで官名や役所の説明(コピー)はしているが、肝心の掾史の説明はすっとぼけている。
伊作は、ホントに無礼で不誠実な人だったと思う。
もう、二度と来るなよ。
何だ結局逃げ出したのか まあどうせしばらくしたら違うコテ名乗って出てくるんだろうけど
318 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/18(金) 02:10:19
伊作氏は旗色が悪くなって逃げ出した。脳ミソを消毒してからいらっしゃい。
>>314 カン丘倹と合して半島戦略に使えると思ったが、実は使えない奴で見切られたということかな?
320 :
ローガン :2011/02/18(金) 09:06:46
>>314 > @正始六年、詔賜倭難升米黄幢,付郡假授。
> A正始×年、倭載斯、烏越等詣郡。
> B正始八年、太守王?到官。
> C正始×年、遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢,拜假難升米為檄告諭之。
AとBは逆ではないでしょうか?
訴えた相手が、王キだったので、王キの着任が八年だと言う書き方をした。
編者はAが何年であったかを知らなかったのではないでしょうか。
> 文脈的には、黄幢假授の決定と倭国の国内事情は、全く関係ないように思えます。
> なので、黄幢假授の目的は、狗奴国対策では無かったんじゃないでしょうか。
同意。
321 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/18(金) 09:40:05
>>320 いやー@とAが逆なんですよ
正始三年(二年?)にA
そして
正始四年 倭王復遣使
正始三年の郡訪問は、正始元年の上表に対する趣旨説明。
322 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/18(金) 09:53:52
正始元年に倭王は、使者に対しお礼を述べ さらに意見書を提出したが、待てど暮らせどその回答が得られない。 痺れを切らせた倭王は、正始三年に郡に使者を送る。これがA 倭王は正始四年にも使者を送る。だから復遣使(また来たよ!)と
何が正しいのか?
せめて
>>314 を解決してもらいたいな。
324 :
日本@名無史さん :2011/02/18(金) 09:54:42
325 :
ローガン :2011/02/18(金) 16:13:59
>>324 >為檄告諭之
魏書張既伝に「其後西平?光等殺其郡守、諸將欲?之、既曰「唯光等造反、郡人未必悉同。若便以軍臨之、吏民羌胡必謂國家不別是非、更使皆相持著、此爲虎傅翼也。
光等欲以羌胡爲援、今先使羌胡鈔?、重其賞募、所虜獲者皆以?之。外沮其勢、?離其交、必不戰而定。」
乃【檄告諭】諸羌、爲光等所?誤者原之。能斬賊帥送首者當加封賞。於是光部黨斬送光首、其餘咸安堵如故。
とあります。反乱した麹光等を、将軍達は攻めようとしたが、張既はそれを止め、キョウ族に襲撃させるべく【檄告諭】します。
賊を斬る者には恩賞を与えると。
賊に同調せず、自軍に加担せよという「集兵の木札」が檄。
倭人伝に置き換えたら、檄は自軍に加担せよと言う魏の「集兵の木札」。上で書いた幢麾の下賜…つまり、兵を募る行為と合わせて考えると、
詔の出た六年当時は、魏は韓地が戦場。そこへの出兵依頼が、黄幢下賜であり、檄告諭であると思いますが、いかがでしょう。
326 :
日本@名無史さん :2011/02/18(金) 16:24:52
召集し出兵したら終わってるし、海峡を渡る船や船頭は用意してくれるの?
>>319 だが、
時間かかったね。
さすが世間一般とは時間のスケールが違う。
328 :
日本@名無史さん :2011/02/18(金) 17:05:45
>「集兵の木札」が檄。 檄の意味は、単に「ふれぶみ」。 檄をもって集兵する場合もあるだろうが、 檄が「集兵の木札」を意味するわけではない。
>>324 >為檄告諭之は何のためにしたことかな?
卑彌呼以死
330 :
ローガン :2011/02/18(金) 18:08:13
>>328 >檄が「集兵の木札」を意味するわけではない。
書き方が悪かったのかなあ。勿論、檄とは全て集兵の木札だと言っている訳じゃない。
例えば武帝紀引用魏書にこんなんあるし。賊乃移書太祖曰「昔在濟南、毀壞神壇、其道乃與中?太乙同、似若知道、今更迷惑。漢行已盡、?家當立。天之大運、非君才力所能存也。」
太祖見【檄書】、呵罵之、數開示降路。遂設奇伏、晝夜會戰、戰輒禽獲、賊乃退走。
ただ、檄、幢麾が兵を集める為のアイテムと捉えても、あながちトンデモではないでしょう?
そして、倭の訴えより以前に黄幢下賜の詔が出ている。ということは、倭の事情ではなく、魏の事情によるものと考えていいのではないかなあ。
331 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/18(金) 19:24:27
>自軍に加担せよという「集兵の木札」が檄。 魏国内ならともかく、倭に当てはまらんだろう。 その場合の >魏の事情によるものと考えていいのではないか。とは、 卑弥呼は乱の中で共立されただけであり、魏が冊封出来るほど安定していない その為、魏は、倭人による乱の平定を後押しする。 その中で、女王、男王が相次いで死に、残った倭王が倭国統一を果たす。 景行による九州平定とそれに続いて関東へ日本武尊を派遣し、その後に 景行自身が関東へ下向する。 まあ、関東が背いていた事実は無い、だから冬の初めに出立し、春に帰着できた。
>>304 > 激しい内紛の状況を説明して軍事支援を求めたのに、
> 詔書と文官と幢だけ馳せ参じて・どうなるというんだい。
ふと思う。
「詔書と文官と幢だけ馳せ参じ」たのなら「激しい内紛」はなかったということ
>>306 > 無官の蛮人に会うわけにもいかないから。w
同意。縦目乙!
334 :
日本@名無史さん :2011/02/18(金) 19:54:57
宗主国の中国としても、信じて良いかどうか分からない日本まで大軍を送る余裕はない。 九州と畿内でさえ大軍送るのは困難なのに、中国はもっと遠いんだから。
335 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/18(金) 20:04:43
>>331 九州平定?
オマエは239年が景行初年だと言っているが、狗奴国と卑弥呼の国が水と
油の状態でいがみ合っているらしい状態で、九州平定になるのか?ww
336 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 20:06:14
333 >無官の蛮人に会うわけにもいかないから。w >同意。縦目乙! だから。 皇帝に接見する資格のある「大夫」を名乗ってるわけでね。 そういう知識をもっていた弥生倭人の凄さこそ察知すべきところだよ。 恥さらしの「浅い」会話がおおいなー。 ああ、筑紫さんにお礼の投稿ををしたついでに立ち寄った。
337 :
巨匠・伊作 :2011/02/18(金) 20:07:56
ついでの・ついでだ。 >宗主国の中国としても、 冊封だの宗主国だのと、間違った史観で語る人がおおいねー。
これぞゆるやかな連合
339 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/18(金) 20:14:03
鉄鏃の出土は、大分県南部から熊本県にかけてが多い。 つまりこの地が戦場となる。 北九州女王国の南部に狗奴国=熊本方面。 黄旛は黒塚に副葬=邪馬台国は大和。 この設定が可能なのは、景行時代。
ゆるやかな連合の対義語はなんだろう?強権支配かな。・・・だとすると3世紀倭国の 軍事や官僚機構で、どの程度の領域までが支配可能か?・・・これは九州説が明らかに すべきお題だと思うがねえ。
315 名前: 巨匠・伊作 投稿日: 2011/02/18(金) 00:57:34 ・ ・ 念のため。 チャリーン!! ↑↑ 投げたサジの音だ。 あばよ。
>>336 >皇帝に接見する資格のある「大夫」を名乗ってるわけでね。
なんですか?そりゃ〜
「大夫」というのは代表で分かり易く言うと長官の意味なんですが、
倭は古より、献上する際は「大夫」がおこなってたのであり、
この「大夫」というのは、倭の内の正四位、正五位だったかは忘れたが・・・
そのぐらいのポジションの人が ってことよ。
黄旛神社って中国地方〜瀬戸内に多いんだね。 風水関係からだろうけど。
344 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/18(金) 20:19:24
>>339 狗奴国の存在から、オマエの主張での当時、九州平定はウソ。
345 :
日本@名無史さん :2011/02/18(金) 20:21:07
>大分県南部から熊本県 これ、どのあたりですか? 阿蘇の東側とか、そうとう山奥になりそうなんですが? 下手したら人がいないくらいの。 昔、高速ができてないときは、熊本から阿蘇超えて、 大分に行ったなあ。 遠いんだな、また。
>>340 広範囲を統制したとすると、ゆるやかな連合とせざるお得ない。
かつての鏡の特鋳、しばらく保管してからの古墳への埋納と同一パターンの
関西の願望から発生した説。
347 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/18(金) 20:42:59
阿蘇の東側の山中は鉄鏃が沢山出土する地方である。 この山奥は、景行12年に巡幸した土地。
348 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/18(金) 20:46:01
狗奴国の存在で、唐松山の主張での景行当時、九州平定は出来ない。
349 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/18(金) 20:52:23
書紀では景行12年の戦の内容がよくわからない。そこでホツマを見ると ホ38148 イクサせん こゝにスメラギ すゝみゑず クタミムクラの カリミヤに はかりていわく モロうたば クモらをそれて かくれんと ツハキをとりて ツチとなし タケキヲえらみ ツチもつて ヤマをうがちて クサをわけ イワヤのクモを うちころす イナバカワベは チタとなる まだウチサルを うたんとて ツハキイチより ネギヤマを こすときアダが ヨコヤいる アメよりしげく すゝみえず キワラにかえり フトマニみ ヤタをネギノに うちやぶり こゝにウチザル くだりこふ ゆるさずゆえに クニマロも タキえミをなけ ことごとく ほろびおさまる 大量の矢が射られ、滝へ身を投げられる地方。である。
350 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/18(金) 20:54:16
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とコチラを口撃していた男が 〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。><
351 :
日本@名無史さん :2011/02/18(金) 21:00:21
>>349 なんだか、これを見ると、大分耶馬溪の風景が浮かんできますね。
熊本側というよりは北九州側になっちゃいますが。
耶馬溪周辺も遺跡、出土物が多いところです。
352 :
日本@名無史さん :2011/02/18(金) 21:03:39
>ツチもつて ヤマをうがちて 耶馬溪のイメージはこれですね。 まあ、阿蘇から流れでた溶岩で構成される九州山地は どこでも川沿いは似たようなものかもしれませんが。
山国川流域はヤマ国。
354 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/18(金) 21:14:20
熊本側での戦は、四方を打ち負かしてから。 男王が死んでからだな。
>>263 唐さん
>巨匠、ご教示を!!
>私如き小市民にとって、遺跡から出土する鉄鏃は、敵対する勢力から射込まれた遺物
>としか理解出来ないのでありますが…。
「ご教示下さい」て言葉を使った方が『負け』です。
それに鉄鏃の出土は祭祀用として・・・という見方もできるわけだし〜
メ は人カマドウマ。
357 :
765のどくだみ :2011/02/19(土) 08:41:53
>>169 ローガンさん。
もう黄幢の話はひと段落のようで、遅レスですみません。
黄幢の性格は、ローガンさんが
>>312 で例示された呉書周魴伝の幢麾と同じで、
邪馬台国の軍事行動に魏のお墨付きを与えるということだと思います。
水戸黄門の印篭のように、戦場で見せつけて敵を畏まらせるのではなく、
黄幢をもらったという外交的な意味が大きいのでしょう。
大赤之キや大白之旗は、一流ということはなく、
軍中にたくさん立てられたのではないでしょうか。
たとえば「キ」は「諸侯所建」とありますし。
それに対して、黄幢のような幢は司令官用で、一本あるいは一ヶ所だったのではと思います。
色ですが、晋書では、「晉氏金行,而服色尚赤,」で、「赤幢曲蓋」が何度か出ますので、
一応、「服飾尚黄」から黄幢だと考えています。
ただ、後続の王朝で五行なり三統なりの色の幢って出てこないのは気になります。
黄幢は三国志だけだし、赤幢は晋書くらいかな。
青幢は詩文に見かけるけど、軍事とはあまり関係なさそう。
白幢は太平御覽の旗の項目で
「聞雷鼓音挙白幢絳旗大小船皆進戦、不進者斬云々」というのがあるくらいです。
白幢絳旗は赤白の旗だから、この白幢は特別なものではなく単なる指揮用の旗みたいです。
黒幢はなさそうです。
形については、爾雅釈天の「注旄首曰旌(旄を首に注くるを旌と曰う)」の郭璞の注に
「載旄於竿頭如今之幢 亦有旒」とあるのが参考になりそうだと思います。
郭璞は東晋の人で、三国志と時代が近いです。
その郭璞が旌を説明して「竿のてっぺんに旄(牛の尻尾)を付けたもので、
今の幢のようなもの、それにプラスして旒がついてる」と言ってるので、
逆に、その時代の幢はそういうものかとイメージしています。
ここからは全くの僕の想像です。 韓伝に南與倭接とあり、其?盧國與倭接界とあるので、邪馬台国は半島に進出していた。 それを面白く思わない半島の勢力が狗奴国と通じ、邪馬台国の背後を脅かすように仕向ける。 物資や人の援助もしてたかもしれない。 倭国は、その対抗措置として帯方郡に訴える。 帯方郡や魏本国のお墨付きをもらえば、半島勢力への牽制になる。 あとは実力で狗奴国を抑えればよい。 そこに黄幢が来て全面戦争に突入。 卑弥呼以死を「卑弥呼もって死す」と読めば、その結果、卑弥呼は戦死したということになります。 「卑弥呼すでに死す」と読めば、「すでに」は場面転換の意味になります。 話題は飛んで、時は流れて卑弥呼死後のことですが、という意味合いが「すでに」です。
359 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 09:41:31
357 だからゆってるだろ。 黄幢は皇帝直属の精鋭兵団(禁軍)がかがげる別格のもので、 節(旄・ぼう=からうしの尾)をつけた「のぼり」だ。旗じゃない。 これを所持してこれに付随する兵団を指揮できるのは、 塞曹掾史などという禄高300石の下士官ではない。 皇帝の身辺警護を務める親衛隊の高官である中郎将だ。 魏は最初の朝献の時すでに、「いざ援軍派遣」という時を想定して、 倭国の使者に中郎将の官位を授けている。 もうちっと、大帝国の国際対応という現場の臨場感をもってみれ。 書いてない行間を読むための大帝国の天子を頂点とした制度・作法・常識といったことを 勉強を何もしていないから、バカげたことで右往左往するんだ。 >黄幢をもらったという外交的な意味 >帯方郡や魏本国のお墨付きをもらえば、 倭国が魏の属国として臣従していたという短絡誤解史観による発言だな。 358 中国で古文を専攻した中国人のアドバイスによれば、 卑弥呼以死の「以」は、「已に」の古語用法だそうだ。 >半島の勢力が狗奴国と通じ、邪馬台国の背後を脅かすように仕向ける。 またぞろ、何の根拠も示さず空想を展開するが、 それよりも、卑弥呼と卑弥弓呼が血縁関係にあったことを空想するほうがまともだぜ。 二人の名は支配層の命名パターンのようだし、「素不和」だ。 種族や勢力や主義の違いならば素とは書かない。 これはもっと根源的なものが原因による不和だ。二人は同族かもな。 倭人伝は大国の歴史書だ。さりげなく書いているが、実態はドラマチックだぜ。
360 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 10:05:01
・ ・ 勉強不足のまま思いつき空論を垂れるしょくん。 「頼るは拒まず・服わずは討伐」が王道の不文律だ。 魏は、王道精神を発揮して倭国に軍事支援をした。 みてみ。 魏の対倭国政策は一貫して軍事支援だ。しかも友好国としての対応だ。 張政等とあるが、 これは当時の常識として、詔書を持参した特使・使節が同行していることを示唆している。 彼らが帰国するとき20名の送迎団を編成しているが、 何度か与えた黄幢が示す通り、援軍につぐ援軍でかなりの人数になっていたことを示唆する。 倭人伝は大人(たいじん)の国の書物らしく恩着せがましいことを述べず、 さりげなく結んでいるが、当時の知識層には容易に読めたはずだ。 「我」をつっぱらかして空想を主張するばかりが能ではない。 己らより遥かに勉強した人間のいうことを素直に聞く度量をもて。
361 :
765=どくだみ :2011/02/19(土) 10:46:10
>>360 伊作さんは、他の問題に首を突っ込むのは、前スレの
>>834 >>835 に、論理的な反論をしてからにしてください。
あれ以来、感情的な罵倒はあっても、論理的反論は皆無です。
それから
>何度も要求したが、己の解釈に後めたさを自覚しているとみえて、
>とうとう最後までいわなかった。要するににこうだろう。
>▼「伊都国の歴代の王はみな女王国の系統に属す」
>こういう解釈を吹きたかったわけだろう。
これは僕が誤読といった伊作さんの読みと同じ構造だ。
伊作さんの読みを誤読と言った僕が、こんな読みを提示するはずがない。
なんで僕に誤読と言われたか、まったく理由を理解してないですね。
理解してそれに反論するんじゃなくて、訳のわからないまま、
とにかくオレサマが正しいと言い張ってるだけじゃないですか。
少なくとも相手の論旨は理解してください。
僕が「あなたの読みは誤読だ」と言ったのは、理由があってのこと。
理由もわからずに罵倒している貴方の方が、無礼極まりない。
付言すれば、世世伝統は「統べるを伝える」じゃなくて「王統を伝える」です。
362 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 10:56:50
>世世伝統は「統べるを伝える」じゃなくて「王統を伝える」です。 どくだみとやら。 まーた。わけのわからない独善をふく。 俺は「国みな王を称し世世統べるを伝う」と呼んだが、 別に問題はなかろう。最も自然で分かりやすい読みだ。 どこから王統の王をもってきたら「王統を伝える」になるんだ。 己のレベルを考えて、食いつく相手をえらべ。邪魔くさい。
363 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 11:02:51
己の非を棚に何をいうか。 低能レベルの解釈をかかげて無礼な文言で入り。 己の間違いに気づいても謝罪一つせず。このごに及んでも執拗に この場での立場を維持するための観客を意識した体裁文言をならべる。 失態は失態だ。それをつくろうために醜態をさらすか。めめしい >あれ以来、感情的な罵倒はあっても、論理的反論は皆無です 当然だろ。 >論理的反論は皆無です 論理的な話をする相手じゃない。 きみはつまらんと・早々に断をくだしてやったろ。忘れたのか
364 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 11:16:14
どくだみ。お前さんのバカさ加減を分析してやる。 お前は先に、俺が「統属」の統は「統治・統率の統」だといったら、 「統属」の統は「系統の統」だといった。わらいものだ。 その尻拭いもせず執拗に、 今度は俺が「国みな王を称し、世世統べるを伝う」と訳して 「代々統治権(王権)を伝える」といったら、「王の系統を伝える」という。 横紙破りのいいがいりをつけて俺を非難・誹謗することで、 自分の立場をつくろう気だな。 俺とやり合って信用をなくした奴は数知れないが、 信用を高めた奴は皆無だぜ。
365 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 11:17:19
はい。昼飯前に・また一人蹴散らした。
366 :
どくだみ :2011/02/19(土) 11:29:25
>>364 「みな女王国の統ぶるに属す」という読みは、「皆統屬女王國」を「皆屬女王國統」に改竄して読んでる。
だからやってはいけない。それが理解できませんか?
367 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 11:40:39
>だからやってはいけない。それが理解できませんか? バカか。 はなっからいってきたことだが、「統属」という相反する動詞をくっつけたまま 「とうぞく」と読んでは日本人には意味判断がつかないから、 分かりやすく翻訳読みを提示したと。これがミットも分かりやすい読みだ。 俺はこれに限らず翻訳読みをほかにも多用してる。何が間違いだこの野郎。 文句あるなら、全部中国語の古文発音で読んでみせてからいえ。 統を「すべる」と読むのは日本語だか、それをいえば、倭人伝読み下しはほとんど日本語読みだタコ むしろ、知ったふりして下らん意味解釈を主張して恥をかいたんだ。 すごすごと消えるにもいいタイミングたぜ。
368 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 11:43:51
な・どくだみ。 お前さん、その程度の見識で・ここでデカいツラしてきたのか。わらわら なーにが「統属の統は系統の統」で、「世世伝統の統は王統を伝える」だ。 他人に四の五のいう前に、てめえのバカさ加減を恥じることだ。
369 :
どくだみ :2011/02/19(土) 11:44:52
>>367 >「統属」という相反する動詞をくっつけたまま
これが伊作さんの思いこみだって、前スレの
>>834 835で論じたでしょうが。
読んでないの?
議論が白熱してますね。 「国みな王を称し、世世統べるを伝う」と訳して 「代々統治権(王権)を伝える」 ―私もこの解釈に賛成します。 王の権力は「世襲」だったといういことでしょう。 鎌倉幕府や徳川幕府の時代の各地方の豪族や大名達と同じですね。 そして邪馬台国とそれらの周辺の小国との関係も似たようなもの だったのではないでしょうか。 各地の小藩である国々は皆、邪馬台国という徳川幕府に従っていたと みれば分かりやすいかも。 時代は変わっても支配の仕組みは似たようなものかと。 ―わかりませんけど。
371 :
どくだみ :2011/02/19(土) 12:18:02
もう一度説明しますが、 1、「統は、属なり」に従えば、「統」を「すべる」とは訳せません。 2、「統は、本なり」に従っても(こっちが系統と同じ方向でしょう)「もとづく」であって「すべる」ではありません。 どちらを採用するにせよ、「統」と「属」は「相反する動詞」ではなくて、 「意味の類似する動詞」です。 「統は理なり」「統は治なり」あたりを取ってきて「すべる」と訳すから 「相反する動詞」などと悩まなければならなくなるのです。 すんなり意味の通る解釈が存在するのに、わざわざ意味の通らない解釈を採用して、 原文を改変しなければならない読みをする必要はないでしょう。
372 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 12:34:12
どくだみ。てめえ、相当なクソ野郎だな。 >論理的な反論をしてからにしてください。 >あれ以来、感情的な罵倒はあっても、論理的反論は皆無です。 今日の開口一番はこれだ。 みながバカづらさげて、意味不明のまま統属と読むから、 同じ魏書の中から10例ほど用例をあげた上で、「〜の統率に属す」「〜の指揮下に属す」 という解釈を論理的に提示した上で、「〜の統ぶるに属す」としいうのが分かりやすかろうと提示したんだぜ。 それを、論理的じゃないの「反論しろ」だのと、 さも俺が議論を回避したようなポーズをつくって見せやがる。汚いぜ。 うだうだいうから、 「10例じゃすべてを○○系統に属す」と訳して見せろといえば、グーの音もださず話題をすり替えて逃げやがる。 てめえ失態の尻拭いをしろといえば、スルーして、ちんけな逆襲をしやがる。 そんなにここでのメンツが大切なのか。さもしいぜ。 てめえこそ、何か理屈に合った背景説明をして 「統属の統は系統の統だ」「世世伝統」は「王統を伝える」だとほざいたか。 恥かきもののバカげた結論を並べただけだろが。 ●クソ野郎に問題を出す 「世世伝統」をてめえのいう「王統を伝える」という読みでどういう読み下しになるのか。こたえろ。 「伊都国の歴代の王は女王国の系統に属す」とかなんとか、 うわごとみたいな解釈を推進したい「下心」あってのことだろう。お里は知れてるんだ。
二重動詞は珍しいことではないですね。 「食べ始める」とか「やりかえす」とか結構多いです。 古代中国語の記述方式でも普通にあると思いますよ。 また別に二つの動詞の意味が似てる必要もないです。 逆も「踏み潰す」のように似ててもOKですけど。
374 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 12:35:45
>議論が白熱してますね。 議論じゃありません。 こそ泥をつかまえた警官が、 供述がころころ変わる犯人に手を焼いてるのに似ています。
375 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 12:37:39
無識爺さん。 だから。じゃ・統属をどういう意味に取りますか。 読みがどうこうではなく、本論は意味解釈なんですよ。 あのクソ野郎は、俺の翻訳(意味説明を兼ねた読み)にいちゃもんをつけている。
>>375 そうですね。結局は意味解釈が重要でしょうね。
読みはいろいろやろうと思えばできますから。
貴方の解釈が妥当だと私は思います。
377 :
どくだみ :2011/02/19(土) 12:45:36
>>372 「○○系統に属す」だって、
「統属」を「属○○統」に改編してるでしょう。
それが違うって言ってるのに。
「伊都国の歴代の王は女王国の系統に属す」
この読みは、伊作さんの読みと同じように、「属女王国統」と改変してるでしょう。
だから、僕がこんな読みを推進するはずがない。
同じことを
>>361 に書いたでしょう。
あなた、僕のレス読んでますか?
378 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 12:46:05
●どくだみを潰す。俺は怒った。 >もう一度説明しますが 独善我流解釈など無用だな。 >「統は、属なり」に従えば、「統」を「すべる」とは訳せません。 に従えばて・それに至る掃いて荊を説明せんか。タコ >「統は、本なり」に従っても(こっちが系統と同じ方向でしょう)「もとづく」であって「すべる」ではありません。 に従ってmてなんだ。 >どちらを採用するにせよ、] どちらも意味不明で採用できないな。論理で説明せい。 >「統」と「属」は「相反する動詞」ではなくて、 つまらん揚げ足するしか手がなくなったか。 >「意味の類似する動詞」です。 つき合いきれない独善我流だな。 「世有王皆統属女王国」この場合の用法には状況の限定というものがある。 とごが「意味の類似する動詞」だ。 てめえ。どこでどんな教育を受けた。河童以下だぜ。 >すんなり意味の通る解釈が存在するのに、わざわざ意味の通らない解釈を採用して、 >原文を改変しなければならない読みをする必要はないでしょう。 それはてめえだろ。 もういいから。 「統属の統は系統の統」で、「世世伝統の統は王統を伝える」 を論理的に説明しろ。
379 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 12:49:08
ほれ。どくだみ。 「統属の統は系統の統」で、「世世伝統の統は王統を伝える」 すんなり意味の通る解釈が存在するならば、論理的に説明しろ。 ほどほどに勝負が見えたから放置してたが、 それを弱みとみてつけ込んできたようだから、徹底的に潰してやる。 先にもいったことだが、ふにゃふにゃと逃げるんじゃないぞ。
380 :
どくだみ :2011/02/19(土) 12:55:32
「統は属なり(統=属)」なら、統の意味は属する。 つまり統も属も意味は属なんだから、統属の意味は「属する」以外にないでしょう。 説明しなくてもわかると思ってた。 「統は属なり」や「統は本なり」を採用すれば、なんの問題もなく「属する」で解釈できる。 なのに、それは採用せず、「統は理なり」「統は治なり」を採用して「すべる」と訳する理由はなんですか。 意味解釈が間違ってるから、変な読みになると言ってるんですよ。
381 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 12:58:22
>「伊都国の歴代の王は女王国の系統に属す」 >この読みは、伊作さんの読みと同じように、「属女王国統」と改変してるでしょう。 >だから、僕がこんな読みを推進するはずがない。 逃げるなよ。 「統属の統は系統の統」とバカげた発言をしたから、それならば、 「伊都国の歴代の王は女王国の系統に属す」 とでもいいたのだろう とは俺がてめえの心理を先読みしたものだ。 てめえがいったとはゆっさていない。つまらん枝葉に時間を費やすな。 「統属の統は系統の統」といわれれば、 件の一文は「伊都国には歴代の王がいて女王国の系統に属す」 としか読めまい。 違うか? それよりも、俺が出した問題に答える作業が残ってるだろ。 お前のいう「論理的」がいかほどのものかみてやる。 攻撃される気分も、同時に「もうええ」というほど味あわせてやる。
382 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 13:09:29
>「統は属なり(統=属)」なら、統の意味は属する。 河童の独善我流以下だ。陳腐だな。 どこからもってきたへ理屈だ。俺の辞書にはないが。 もってきた用例だか説明が、どのような状況でそういう説明をしているのかも提示しろ。 そうすれば、それが例外的なのか通例なのかも分かるだろう。フェアにやれ。 >つまり統も属も意味は属なんだから、 一方的な二段論法だ。 統属の統の原義も一般的な意味も「属する」と決定してから進むことだな。 >統属の意味は「属する」以外にないでしょう。 >説明しなくてもわかると思ってた。 初耳だ。説明しろ。 >「統は属なり」や「統は本なり」を採用すれば、なんの問題もなく「属する」で解釈できる。 くどい。堂々巡りになったぞ。 「統は属なり」や「統は本なり」を採用する論拠を提示しろ。卑怯者 >「統は治なり」を採用して「すべる」と訳する理由はなんですか。 「統は理なり」「統は治なり」などいった覚えはない。 統属の統も伝統の統も、統治の意味だと繰り返しているが。 >「すべる」と訳する理由はなんですか。 漢和辞典をみてみろ。 >意味解釈が間違ってるから、変な読みになると言ってるんですよ。 てめえ。いわゆる一つのイカれた「オタク」なんか? 論理的という言葉だけは知ってるようだが。
383 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 13:11:31
>「統は属なり」や「統は本なり」を採用すれば お前の「論拠」のつもりでいるようだが、 どこから持ってきたものか提示しろ。 くだらねー野郎にからまれたもんだぜ。
384 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 13:12:39
ほれ。どくだみ。 ぽんぽん・ぽんぽん返さんか。 俺は気が短くて回転が早いんだ。 かったるいぜ。
385 :
どくだみ :2011/02/19(土) 13:18:56
>>378 >に従えばて・それに至る掃いて荊を説明せんか。タコ
前スレの834、835に書いたのですが、もう一度。
三国志魏書の管輅伝注引く輅別伝
1、「彖曰:『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也,」 → 統の訳は「属す」
2、易の彖伝の同毋部分に対する鄭注は「統、本也」 → 統の訳は「もとづく」
3、「すべる」の訳の文献的根拠は要らないでしょう。
この三つの訳が存在するのは、文献に書いてるからとしか言いようがない。
では、この三つの中からどの訳を採用するか。
本文を改変せずに素直に解釈できる訳語を採用するのが論理的でしょう。
「すべる」は、伊作さんも仰ってるとおり、そのままでは日本人には理解できない。
「属す」は、全く問題なく理解できる。
「もとづく」は、「統属」を「もとづきぞくす」と訳すのは、意味は通るが日本語としてこなれてない。
ということで、「属す」と訳すのが一番いいでしょう。
1と2の意味での訓読みは伝わってないので、「とうぞく」と読みます。
倭人伝のこの条は倭国の王たち(各国)と女王(邪馬台国)との政治的な位置関係を 述べたくだりだと思われます。 抽象的、形而上的な解説ではなく直截的、具体的な 関係を記した報告だと見るのがすんなり腑に落ちる気がします。 ですので「統属」ですが属は動詞ではありますが英語の「in」と同じような 使われ方をした語として解釈してよいのではないでしょうか。 つまり、女王国の「中にあって」それぞれの地域を王が治めていますよ、と。 今でいう県の中の市のようなものと考えると分かり易いかと。
そして、その各市長さん(国王)は代々世襲で国を治めています。 ーという倭人伝報告書のくだりだと思うのですが。 −わかりませんけど。
>>386 無識爺さん
以前、ポキールさんという人が、統をallの意味で解釈できないかと言ってました。
現代語の統には、そういう用法があるので、漢文でも用例があれば、
無識爺さんやポキールさんのように動詞とは取らない方向も在り得るかと思います。
allやinのような用例があるか、今後、気にかけて見てみます。
389 :
どくだみ :2011/02/19(土) 13:36:16
大体、説明し終えたと思うので、今日はこの辺で。 何か抜けてるものがあったら、また後日でお願いします。
世世伝統は「統べるを伝える」じゃなくて「王統を伝える」です。 >>お疲れさまでした。 降りられた後でその方のカキコにレスするのもなんですが どくだみさんの >世世伝統は「統べるを伝える」じゃなくて「王統を伝える」です。 との解釈はかなり無理筋のような気がします。 倭人伝は地誌であり仏教経典や学問書の類ではないので、「王統」といった ような王にまつわる形而上的概念は、報告者の頭にはなかったと思われますし そのような意味の語を用いたとも考えにくいですね。 それにこの条はそれぞれの国の説明箇所ではありますが、全体としては倭国の 説明ですので、周辺国の小国の王たちの出自や王統を記す必要性はそもそも無いと思えます。 もし、王統といった概念を使って説明する国があるとすれば、それは邪馬台国 そのものでしょう。邪馬台国の王統について何も記していないのに小国の王統について 説明していると解釈するのは難しいです。 統は統治の意味で良いと思います。
すみません、初めの2、3行が変にかぶっちゃいました。
392 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 14:10:18
●どくだみの馬脚をとらえた。 >三国志魏書の管輅伝注引く輅別伝 >「彖曰:『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也,」 > → 統の訳は「属す」 笑うしかないな。タコ 管輅はどうやら、天文学とか易学に通じた人物らしく、 色んな人物と天文や易について議論しているが、 これは平原太守の劉邠という人物との会話の中で、 六卦という天文に関するたちえ話として登場するパートだな。 よくもまあ、こんな所から拾ったものだ。 管輅伝の内容は全体に難解なのだが、 とんでもない我田引水を見せてくれるもんだ。 ●巨匠の読み 「大哉乾元、萬物資始、乃統天。夫統者、属也。尊莫大焉。 「大いなるかな乾の元(もと・かしら)、萬物は資(ここ)より始まる。 乃ち天を統(す)べる。統べるとはそれ属さすなり。尊きは莫大」。 ●巨匠の翻訳文(六卦のうち乾と坤は天地をあらわす)。 乾の元は大いなる存在であり、万物はここから始まったもので、 天をも統(す)べる。 統べるとはそれ(天地のすべてを)属さすなり。その尊きは莫大。 日本でも名のある「真摯な文献学者」の訳文をみたが、 ちゃんと「統べる」と読んでいる。 これで。とんでもない例外中の例外資料から持ち出したことと、 それが勝手な誤読によること。 すべて明白になった。あとはもういいだろう。 あとは推して知るべしだ。クソ野郎
393 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 14:11:36
どくだみを追撃する。 ●「統は、属なり」「統は、本なり」とか異説した資料を提示しろ。 どういう状況でどういう場合につけられた説明か注釈かわかるように提示すること。 ▼これはいま潰したところだ。 ●「統」と「属」は「相反する動詞」ではなく「意味の類似する動詞」を 統という文字の原義から一般論として論理的に説明しろ。 ●俺が提示して統属が使われている10例ほどを「すべて○○系統に属す」と訳して見せろ。 ●「統属の統は系統の統」で、「世世伝統の統は王統を伝える」 すんなり意味の通る解釈だというならば、論理的に説明しろ。 ●世世伝統」を「王統を伝える」という読みでだとどういう読み下しになるのか。 すべて明解に回答しろ。紋切り口上で俺にいちゃもんっけだんだ。 簡単なはずだな。 勝負はとっくについてるが、撤退的に潰す。
394 :
日本@名無史さん :2011/02/19(土) 14:14:17
> 巨匠・伊作さん あなたは 「相手が罵詈雑言をあびせるなら自分もそれをやりかえす」 ではなかったのですか? どくだみさんへの態度ははたから見ていて醜悪そのものです。
王統の続きですが、この伝を編纂した陳寿にとって邪馬台国に服属する、あるいは 連立している有象無象の小国については邪馬台国を説明するためにそれまでの 各種の倭国についての報告書からピックアップして載せたに過ぎず、小国の王たち そのものには何の興味もなかったと思われます。 その意味からも、各国の王の「王統を伝える」というような解釈は成り立たないように 思えるのですが。 −わかりませんけど。
396 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 14:26:56
394 ことのいきさつを知ってのことかい。知らずかい。 あんなバカげた解釈ひっさげて、無礼な発言をしたのあいつだよ。 「相手が罵詈雑言をあびせるなら自分もそれをやりかえす」の鉄則通りだ。 だから最初から「敬意表するに値せず」と対応している。 一連のやりとりをもなみてからいえ。 とんでもないいいがいりだ。もういいと放置したが、 己の誤読と誤解釈にも気づかず、執拗に食いつくから蹴散らしてやった。 誤解と誤読に基づいて反・攻撃されたことはあるかい。腹がたつぜ
397 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 14:47:34
394 日本@名無史さん 半端者は半端者なりに自論・空論・妄想を並べるのはいい。 だが、それにそぐわないからと、他人の意見を開口一番「間違いだ」 ということほど無礼なことはない。 意見をいうならば「かくかくしかじかだから・こうだ」と、 意見として主張するにふさわしい手順を踏んでからやれ。 きちんと経緯と正否を見極めしないで横チャリするあんたも失礼だぞ。
統と属じゃ主体と客体の力関係が逆でしょって一言説明してあげればそれで済むでしょうに
399 :
横板に水 :2011/02/19(土) 15:06:35
>>390 、
>>395 無識爺さんさん
ご老体に対して若輩者がこのようなことを申し上げるのは失礼かも知れませんが、
國皆稱王、世世傳統 は後漢書にあるものですね。陳寿の倭人伝にはありません。
>>395 を読んだ人は世世傳統が陳寿の倭人伝にあるかの如き誤解を受けそうです。
400 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 15:17:37
>統と属じゃ主体と客体の力関係が逆でしょって だ・か・ら。 俺なりに、統と属という相反する動詞二つがくっついたのは 熟語ではなく古語用語だろうと述べてやった。 そうしたら、動詞ではないい張るし。 60例以上も使われているから用法じゃなく熟語だというし。 (用法は多くは使われないという勝手な予断でものをいうし) 魏書でほかに統治・統率の意味で10例ほど使われていることを提示しても、 統は系統の統だというし。しまいには管輅伝のバカ読みで「統は属す」だというし。 辞書にも目を通したことがないのだろう。 バカバカしいから放置してきたが、回避してると見たらしく、 勝ち誇った気になって食らいつくし。 キャンキャンうるさいポメラニアンを追い払うがごとく対してやったが。 なんか・まだ文句あるかい。
401 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 15:24:59
>統と属じゃ主体と客体の力関係が逆でしょって それもな。魏書の中の統属が登場する事例を10個ほどあげて説明してある。 みな身分や位階の低いほうが高い方の「統率に属す」「統治に属す」 と解釈すべきであることも論理的に提示してある。 その俺をつかまえて、己は何一つ論理的なことをいうわけでもないのに、 今日は、俺が論理的な反論をできないかのようほざいて見栄をきったんだぜ。 怒って当然だろう。
402 :
ローガン :2011/02/19(土) 15:26:17
>>357 どくだみさん。ご教示ありがとう。
>一応、「服飾尚黄」から黄幢だと考えています。
> ただ、後続の王朝で五行なり三統なりの色の幢って出てこないのは気になります。
「黄色ゆえ中央(=皇帝)を表す」というものではないという事ですな。五行もしくは、三統の考え方に起因したものであると。
ただ、正始の改暦で夏正に戻した際、五色に触れていないという事は、五行に基づいたものと考えたほうがいいようですね。
>白幢絳旗
倭人伝に置き換えたら 「君たちの軍旗に付ける幢をあげるから、頑張ってね」みたいなかんじ…(笑)。
これに詔が必要なのだろうか? 又、色々考えてみます。
403 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 15:37:40
>これに詔が必要なのだろうか? だから。援軍派遣の命令か許可をくだしたんだよ。 軍隊は皇帝が詔(公式の詔告)を発しなくちゃ動けんの。 禁軍の精鋭を300石の掾史が党卒できるわけがない。 軍人たる掾史が詔書を持参できるわけがない。 詔書だけでも、へたすれば4担ぎの輿に乗ってくるんだ。 これを持参できるのは、天子代の印したる節を与えられた使節だけ。 使節と詔書と、黄幢とこれに付随する兵士と、 帯方郡から洛陽に報告に飛んだ掾史と。 これらを称して「張政等」と書いているわけだ。 むろん、300石の下士官が2000石の中郎将に命令したとか、 倭国王に死ねと告げたとか。そんな国際外交はない。 マッカーサーが占領下の日本国天皇に何か命令でもしたかね。 国際外交というものにもきちんとした礼儀がある。
404 :
ローガン :2011/02/19(土) 15:55:45
>>385 >三国志魏書の管輅伝注引く輅別伝
> 1、「彖曰:『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也,」 → 統の訳は「属す」
これ、従来の「乾が西北、坤が西南」にいちゃもんをつけた管輅が、乾の卦とは他と同列ではない。
との主張の際に引用したものですね。「おおいなる乾の元、万物はこれより生まれた。天をも統べるもの」と。
統=屬とすれば、文意からいくと「属させる」と訳さないといけないように思います。
「…を属する」とはあまり言わないような…。
405 :
ローガン :2011/02/19(土) 16:02:20
>>403 >軍隊は皇帝が詔(公式の詔告)を発しなくちゃ動けんの。
うん。貴説は以前より承知。ただ軍隊派遣にしては、事の顛末を記していない。
何故でしょうねぇ?
406 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 16:15:30
>事の顛末を記していない。 何故でしょうねぇ? 天子を戴く国家の制度は当時の中国人にとって「いわずもがな」の常識だから。 簡潔にして饒舌をもって「よし」とする歴史書の編纂者が、ムダな説明をするものか。 絵画にたとえよう。 描き方を知らない人は、隅々までおんなじ調子で書き込む。 達人はポイントだけ抑えて、ボカしたり省略したりする。 できばえの違い歴然だ。 何でもかんでもいちいち書くと考えてるからそういうことになる。 で・書いてないことにはまったく意識がいかない。 文意・文脈・行間を読むには、中国の歴史・制度・習慣・しきたり・価値観などなど、 を仕込む必要があるのだが、それに気づいて勉強したのは素人では俺ぐらいのものだ。 こんどは漢詩にたとえようか。 歴史・地理・人名とその人の歴史・風俗・習慣・故事などなど、 多様な知識がなければ、そこに書いてある比喩・故事・人名などさっぱりで、 何をうたっているかさっぱりだろう。 中国の歴史書は、文学性とドキュメント性を包含した書き物だよ。 「書いてない」なんて発言を目にするたびに、「こいつバカか」と俺は思うぜ。
407 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 16:21:18
>統=屬とすれば、 統=属てなんのことだい。 この場合の統は、天地を統べる。属は、天地を統べる者に属す。当然の理屈だ。 天地を統べる者に天地のすべては属す理屈だ。 その文意の前提があるから、属すでも属させるでもいいが、 意味は「それ統べる者は天地のすべてを属させる」だ。 ちまちま・ちまちま。大意をほったらかして・どうだっていい所にからむな。
408 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 16:29:34
何度フェアにやれと言えば分かるんだ。 >「おおいなる乾の元、万物はこれより生まれた。天をも統べるもの」と。 俺が開示したのはそれだけじゃないぞ。ちゃんと文末までだしてある。 都合のいい所だけ見せる習性がしみついてしまってるようだな。 「大哉乾元、萬物資始、乃統天。夫統者、属也。尊莫大焉。 「大いなるかな乾の元(もと・かしら)、萬物は資(ここ)より始まる。 乃ち天を統(す)べる。統べるとはそれ属すなり。尊きは莫大」。 ●巨匠の翻訳文(六卦のうち乾と坤は天地をあらわす)。 乾の元は大いなる存在であり、万物はここから始まったもので、 天をも統(す)べる。 統べるとはそれ(天地のすべてが)属すことなり。その(乾の)尊さは莫大。 「属す」に直したがこれでいいか。 いずれにしても文意は変わらない。 まったく、「夫統者属也。 → 統の訳は属す」だって。 聞かされるほうが赤面するぜ。
>>399 そうでした。ご指摘ありがとうございます。
410 :
ローガン :2011/02/19(土) 16:37:39
>>406 >簡潔にして饒舌をもって「よし」とする歴史書の編纂者が、ムダな説明をするものか。
いや、建前が例えそうであれ、戦の様子、顛末はこと細かに記載されてる。巨匠も三国志読んだんだから判るでしょ?いちいち例を挙げずとも。
>「書いてない」なんて発言を目にするたびに、「こいつバカか」と俺は思うぜ。
いやまあ、それは好きにして。ただ書いていないのは事実。勿論、後世の注記もなし。
411 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 16:49:35
>ただ書いていないのは事実。 書いてあることも満足理解できず、書いてあることだけで解読した気になって、 あとは好みに併せて妄想空論だ。目をおおうような惨状だぜ。 >建前が例えそうであれ、戦の様子、顛末はこと細かに記載されてる。 そこが王者を自認する天子政府の威厳・格式というものだ。 王朝を樹立して久しい時代の 「天子を頼ってきた周辺異民族国家へ軍事支援」なんだぜ。 「やってあげましたから勝ちました」なんて、書くわけがなかろう。 了見が狭くて恥ずかしい。わらいものだ。 そんなことは書かなくても分かるような、静かな結び方をしてる。 きみに分かるようにいえば、 真の大物は細かいことにこだわらないのと同じだ。 「書いていない」という発言は実のところ。 私は「読み」のできないバカです。とゆってるも同然だな。 説明してやる気には絶対にならない。
412 :
ローガン :2011/02/19(土) 17:02:00
>>408 > 俺が開示したのはそれだけじゃないぞ。ちゃんと文末までだしてある。
>「大哉乾元、萬物資始、乃統天。夫統者、属也。尊莫大焉。
何でやねん。「乃統天」までが引用部分。夫は発語。
>統べるとはそれ(天地のすべてが)属すことなり。その(乾の)尊さは莫大。
> 「属す」に直したがこれでいいか。
だから、違うって。夫統者屬也 統とは屬なり。 統と屬が同じなら、文意からは統べると読めるから「属させる」と訳すべきじゃないの?って言っているの。
413 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 17:06:04
あれ。もう終わりか。ローガンくん。 黄幢と書けば、中国人には援軍兵士送ったと分かる。 倭人伝はこと細かに書いてないが、書いてある以外にも もっと細かいやりとりがあったはずだ。 狗奴国との戦争の最中に卑弥呼の後釜争いだ墓づくりはなかろうから、 は狗奴国との戦争は決着した。ということは女王国側の勝利だ。 で・卑弥呼の後釜の女王は、張政たちを(彼の所属基地か帯方郡まで)送りとどけたあと、 洛陽の宮城へ入って朝貢管轄窓口に貢ぎ物を提出した帰った。 この程度のことが、書いてなくちゃ読めないか。
414 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 17:15:28
しつこい奴だなー。 >夫統者屬也 統とは属なり。 意味がわかんねーよ。ちゃんと説明しろ。 >統と属が同じなら、 同じ「なら」て何だ。いつから統と属が同じになったんだ。 >文意からは統べると読めるから「属させる」と訳すべきじゃないの? ますます意味がわかんねーよ。何がいいたいのだ。 あのな。これは宇宙規模の天文に関する会話だぞ。 そもそも、こんな所からたった一つの例を持ち出すことがクソ帰納法だろが。 まいい。 「乾が天地を統べる」というのだから、「天地のすべては乾に属す」という話だ。 たとえ書いてなくてもそういう意味だ。 ここでも「皆」という文字ほ使わなくちゃ「読めません」か? 洞察という自発的頭脳労働エンジンはついていないのか。
415 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 17:24:18
>「夫統者屬也」 統とは属なり。 天地を統べる乾が何に属すことになるのだ? 詐欺めいた例外的用例提示と「騙しの解釈」が、今までここでは通用したのだろうが、 yahooじゃ何年も前にやめさせたぜ。知らないんだろ。 その意味で畿内とおなじで・ここは後進国だな。
416 :
田子作 :2011/02/19(土) 17:30:30
天に向かって唾する
417 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 17:32:56
●ローガンくんと「どくだみ」に課題をもう一つ。 中央研究院の検索に「統」という文字の用例が100例ばかりあるようだが、 その中で、「統」が「属」という意味に使われている用例をあげなさい。 そうすれば、たまたま一例だけ難解なテーマを書いた伝の中にあった「夫統者、属也」を きみたちが都合よく誤読して「 統とは属なり」と頑張ってることも判明するし。 かんらかんら
418 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 17:35:23
>天に向かって唾する 天とはこの場合、誰のことだ。ここにそんなのがいるのか? ことわざ一つ、意味と使い方が一致してないぞ。下郎
419 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 17:44:30
あ・それから「どくだみ」 ●課題がも一つあったぞ。 日本の高名かつ真摯な中国文献の学者が「統べる」と読んでいるが、 この件はどう始末をつけるか。返答せい 中国語どころか、自分の考えていることすら満足に日本語で書けない お前さんの我流ホラとは比較にならんぞ。
420 :
ローガン :2011/02/19(土) 17:50:32
>>414 >意味がわかんねーよ。ちゃんと説明しろ。
だから、これは管輅が元の太守劉?への話のなかで、乾の卦についてタク伝を引いて
「大哉乾元、萬物資始、乃統天。」と述べたわけ。そして、その引用文に出てくる統を統者属也。尊莫大焉。 と説明したもの。
天を統べるような乾が何故西北なん?という問題提起なんですよ。後に乾は南に配当されてる。
統とは屬であると説明している訳で、ここの文意では統を「統べる」と読むんだから、屬は「属させる」と読むべきだと言っているのですよ。
「大哉乾元、萬物資始、乃統天。夫統者、属也。尊莫大焉。」 は乃統天までが引用文。だから都合のいいとこだけ書いたんじゃなく、そこで切れるのです。
又、後程。
卑弥呼なら俺の隣で寝てるよ
422 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 19:35:38
「大哉乾元、萬物資始、乃統天」までが引用文で、 「夫統者、属也。尊莫大焉」までが管輅の発言文。んなことは分かってる。 乾は天下を統べる。天下のすべては乾に属する。当たり前の筋だが、 「属させる」でも「属する」でも太極に関係はない。 ↓↓↓この意味がまーだ分からん。 >統とは属であると説明している訳で、 >ここの文意では統を「統べる」と読むんだから、 >属は「属させる」と読むべきだと言っているのですよ 「夫れ統とは属さすなり」 文意では統を「統べる」と読む。属は「属させる」と読む。 それが何で 「統とは属であると説明している」になるんだ? 俺がみた文献学者は「統とは自分に属させること」と読んでいるぞ。 これを「統は属の意味である」と短絡したのが「どくだみ」だ。 ところで「どくだみ」てのは何者だ。 どんな論旨のタマか、誰か教えてくれんかなー。
423 :
ポキール :2011/02/19(土) 19:35:45
>>413 >黄幢と書けば、中国人には援軍兵士送ったと分かる。
分かるか分からないかなんて、現代の想像でしょ。
それはイサクさんの決め付けだし、当時の人がそう解釈したなんて、当時の人は誰も証言していませんよ。
へのへんどうお考えなのでしょうか?
424 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 19:40:11.38
なーローガンくん。 「統とは属であると説明している」ではなく、 「統とは属させることであると説明している」 というべきなんじゃないのか。 これだとすっきりするがなー。 相手に自分の考えをきちんと説明できん奴は もどかしいかぎりだなー。
425 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 19:52:29.29
ポキール さん。 あなたへの対応はこれを最後とさせてもらいます。 もうすでに説明したことだが。 一定規模の兵団・軍隊にはその規模にふさわしい指揮官が置かれ軍旗が付随する。 軍旗にはその軍旗があらわす規模の兵士が付随する。これが常識だよ。 軍旗だけでは壁飾りにしか使えん。 むろん、軍旗の1〜2本では実戦場ではハッタリにもならん。 黄幢を出すときは必ず皇帝が詔を発しているが、 この時代(後漢以来)、軍隊発動命令や許可が出せるのは皇帝だけになっている。 皇帝じきじきに命令か許可をだしてもたらされたものが、 旗だけだったとは中国人は誰も考えない。 皇帝が詔をだした回数だけ、黄幢は倭国にもたらされている。 これを指揮できるのは率善中郎将だよ。 >現代の想像でしょ。 >それはイサクさんの決め付けだし、 >当時の人は誰も証言していませんよ。 先に忠告したはずだけど、申し訳ないが、 私はこういう発言を無礼と感じる人なので、今後の接触はご免をこうむります。
だそうだ、ポキール。 きゃつは自分の考えを否定されたり、矛盾を指摘されるのを もっとも嫌がる人種だ。 最初は、さも物分かりのいい人物を装うが、一度自分の意に従わない物言いをされると、その人格を豹変させる。どくだみとの会話が最近の一番いい例だろう。 ちょうど良い機会だから、これを最後にきゃつに近づくのは控えるほうが懸命。
427 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 20:23:57.04
参考までに。 『漢書』王莽伝によると、王莽が安漢公として平帝から九錫を受けたが、 この時に彼を補佐する官吏(宗官、祝官、卜官、史官、家令丞各一人)が割り当てられている。 天子が封拝と同時に与えるさまざまな物や人材の中に、 祭祀や占いを司る官吏とともに史官が割り当てられている。 「誰だれを◯◯侯に封ず」と書かれたら、 こうした諸々一式が厳粛な授与儀式を経て渡されたと考えてよい。 軍事指揮官たる将や将軍には、まずは使命があって使命にふさわしい権限がついて、 使命遂行に必要な兵士や旗や、印綬・斧鉞・割り符などがセットで与えられる。 だが歴史書などは、印綬・斧鉞・軍旗など一つを象徴的にとりあげて簡潔に表現する。 完成された階級制度社会にあって、印綬は位階をあらわし、 軍旗が使命と指揮権と兵団の規模をあらわし、これに相応の軍隊・兵士がつく。 斧鉞が絶対的命令権をあらわし、割り符は出征現場と中央とのやりとりに機能し、 鼓吹(鼓笛隊)が将軍の出塞・入塞・行軍の先駆を務める。 こういった諸々がセットであることは、天子制度のシステムとしてあたり前のことである。 だからこそ、歴史書もあたりまえのことは省略して書かない。 天子政府の儀礼やシステムの常識を知ってこそ、自ずと字間や行間を読むこともできる。
>>425 >一定規模の兵団・軍隊にはその規模にふさわしい指揮官が置かれ軍旗が付随する。
軍旗にはその軍旗があらわす規模の兵士が付随する。これが常識だよ。
軍旗だけでは壁飾りにしか使えん。
むろん、軍旗の1〜2本では実戦場ではハッタリにもならん。
黄幢を出すときは必ず皇帝が詔を発しているが、
倭人伝の他に黄幢を用いた用例なんて存在するのか?
「
」
430 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 20:31:40.48
426 日本@名無史。 マスコミの命は、質の良い批判精神だ。 だが昨今のマスコミの政治番組などをみると、 注目度・話題性・視聴率重視で野次馬と化している。 正当な批判は発展や変革や改善をもたらすものだが、 ただのヤジはなにももたらさない。 きみたちがよくいう「マスゴミ」というやつだ。 同じ日本人でも社会のためとか 人のためになることに頑張ってる人もたくさんいらっしゃる。 そうした中で、いかに暇つぶしとはいえ、 クソの役にも立たないヤジ・揶揄・なじり文言を書きたれるきみ。 野次馬以下だな。つまらん時間を費やしているぞ。
431 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 20:33:36.07
正当な批判・紳士的な議論・紳士な質問には、 いかほどにでも誠実に対応する容易あり。 426日本@名無史。きみも、それにふさわしい言動をとれば。
432 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/19(土) 20:36:35.33
ww
433 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 20:39:00.46
428日本@名無史 >倭人伝の他に黄幢を用いた用例なんて存在するのか? なんだーそのケンカ腰は。ほんとに礼儀を知らん奴ばかりだな。 黄幢(皇帝直属の禁軍兵団)をおくった例がほかになければ、 それだけ対倭国政策が特例だったのだ。 魏も委も倭国も発音は「wei」だから、 近親感をもったのかも知れんぞ。わらわらーー
434 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 20:41:29.81
太国しゃん教えてくれ。 文末によくみかける「ww」てのは何の意味があるんかね。 少なくとも相手に喜ばれるような意味はなかろうが。
435 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/19(土) 20:43:22.11
なに、そんな説明をしろと言うのか? wwとかは、「笑う」という〜2ちゃん等の略語だろ。
436 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 20:58:22.49
>そんな説明をしろと言うのか? 返球ベリマッチ。 俺は氏と育がもよすぎて、 しもじもの流行りごとにうとくてね。 どおしょもない。
437 :
ポキール :2011/02/19(土) 21:13:44.31
>>425 イサクさん。
>先に忠告したはずだけど、申し訳ないが、
私はこういう発言を無礼と感じる人なので、今後の接触はご免をこうむります。
そうですか、残念です。 これまで返信して下さりありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここから本題っす。
>無礼
おじさんそれはないっすよ。
自分の無礼はいいけれど他人の無礼は許さないって、どんだけ都合で生きてるっすか?
もう何日も前からおじさんには、住人さんから「アンカーぐらい覚えろよ」
って何度も注意されているのに、一向に改善しようともしないしっす。
これって掲示板の住人達に無礼もいいところっすよ。
二チャン利用者としては常識的な事を指摘されてもそれを改善しないというか、
まったく無視する人が人に説教とは
二チャンで「アンカー」すら理解できない人が何を偉そうなこと語っているの?って話っす。
おじさん。掲示板で偉そうな事言いたかったら、最低限の事ぐらい覚えてから出直してね。って話っす。
もう返信なんいらないっすからwwwwwww
太国やら唐松山やらローガンやらのお仲間には、今まで言えなかったと?!
439 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/19(土) 21:52:56.97
黄旛の下賜。 もし、これに軍隊が付属した場合の隊長を捜しているが、適任者がいない。 最良は、文欽であろうが、 時吳將諸葛恪圍新城,以孚進督諸軍二十萬防禦之。孚次壽春,遣毋丘儉、文欽等進討。 毋丘儉、文欽とも半島にはいない。
440 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/19(土) 22:17:03.35
東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,[五]文俶 見卷三校。 繇慮俶為舅家之患, 是日亦以非罪誅俶。 東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉, (東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。 公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。 文王(俶)生於東夷。東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、291年 文俶は惠帝 (290〜306)に仕える。 卑弥呼の時代に魏軍が倭国に渡来していれば、東夷校尉に変化が生ずるだろう。
441 :
日本@名無史さん :2011/02/19(土) 22:29:24.86
「黄幢」に軍隊はつきものですが、軍隊そのものではありません。
「黄幢」を授けると言うことは、軍隊を授けると言うことではありません。
「黄幢」とは、軍隊に授けるものなのです。
或る指揮官に軍隊と「黄幢」を同時に授けることは出来ます。
又、既に軍隊を指揮する者に後から「黄幢を授けることも可能でしょう。
こんなの当たり前の話だけど。
ちなみに「幢」がどんなのものかは、下のサイトで絵が見れるので紹介しときます。
http://bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_09_15.htm
442 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 22:36:23.08
437 ごきげんよう。
443 :
巨匠・伊作 :2011/02/19(土) 22:57:22.71
>「幢」がどんなのものかは、 「のぼり」だと思うよ。 「形状」は、幕末に官軍がかかげた錦の御旗を連想する。 ちょっとずれる話だけど、 現代でも、由緒ある神社の祭礼で掲げるところがある。 日輪の中に三本足のカラスをあしらって日像幢と 月輪の中にヒキガエルをあしらった月像幢がある。
444 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/19(土) 23:29:58.50
「黄幢」とは十種神寶の蛇比禮と蜂比禮のことでしょう。
445 :
どくだみ :2011/02/20(日) 08:15:33.08
昨夜は盛り上がったようですね。 伊作さん まずは、漢文は語順を変えると意味が変わるということを徹底してください。 漢文の基礎です。恣意的に語順を変えて読むというのは、河童さんがよくやってますが。 それから、「夫統者属也」ですが、漢文で「A者B也」は、「AはBである(A=B)」という文です。 そういうわけで「統は属である」「統=属」です。 基本的な構文の直訳で、なにも難しいことは無いのですが、 なんで分からないのかが分かりません。 伊作さんが昨夜僕に投げ掛けてる質問は、ほぼ前スレの834と835に書いてあります。 普通なら過去スレ読めという状況ですが、伊作さんは2chに慣れていないようなので、もう一度貼っておきます。
446 :
どくだみ :2011/02/20(日) 08:17:01.00
834 名前 :765[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 22:14:28 伊作さんが「しょうちせんぞ」なんて凄むから、ちょっと真面目に調べてましたw なんだか伊作さんがしびれを切らしてるようなので途中経過を書いておきましょう。 まず、三国志魏書の管輅伝注引く別輅伝に 「彖曰:『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也,」 とある。易の彖伝の言葉を引き、「乃統天」について、「それ統は属なり(統=属)」と言ってる。 日本人の一般的な意識として、「統」は上から下を統率する。 「属」は、下の者が上の者に所属する。 ところがそれが統=属だと言ってる。 すると、統と属の意味に上下関係は無くなってしまう。 これに飛び付いて結論としてしまえば、何のことはない、 同じ意味の統と属を重ねて熟語化したもので「すぶる」も「系統」も関係ない、 たんなる所属という意味の単語でしかない。 僕も伊作さんも考えすぎだったということになる。 ただ、これは易説にかんする発言なので、 額面通り訓詁小学の説と受け取って良いか慎重になる必要がある。 そこでもう少し、考察。 さらに同じ周易の言葉について、説文の段注は「鄭注云う、統は本なりと」を引いてる。 今の易の訳本は王弼注によってるので「天をすぶるなり」と読んでるけど、 後漢の鄭玄に従えば、「統天」は「天にもとづく」ということにある。 上位から下位への「統」が、逆に下位から上位に「もとづく」意味になる。 ここまでで、「統」に、「上から下へ」「下から上へ」「上下関係無し」の 三種類の意味用法が存在することがわかる。 いままで「統属」の意味でもめていたのは、 「統」は上位者から下位者だけと思われていたからで、 そうではないとなれば「統属」は所属の意味でなんの問題も無い。
447 :
どくだみ :2011/02/20(日) 08:17:51.02
835 名前:765[sage] 投稿日:2011/02/11(金) 22:15:10 これで、結論と行きたいけれど、まだちょっとひっかかってる。 例えば、禮記の曲禮の注に 「臣統於君」 という文がある。調べてみると、こういう「統」の使い方はけっこうある。 三國志 ?書 權詔有司諸事一統於恪,惟殺生大事然後以聞。為治第館,設陪衞... 後漢書 董卓列傳第六十二 拜卓破虜將軍,與盪寇將軍周慎並統於?。 これらも「下から上へ」の「統」の用例かもとおもうが、 歴史的な訓読法がわからないので、もう一つ自信もって断言できないでいる。 わかれば判断しようがあるけれど、だれか知ってる人いないかなあ。 それから領属という言葉があって、統属と同じ意味で使用されている。 メモしわすれたが「領は統なり」だか「統は領なり」だかの語があって、 領属と統属は同じと思われ、領属の用法にも目を配る必要があるでしょう。 最終的に、統と領の用法を綿密に調べて、「下から上へ」「上下関係無し」について ゆるぎない証拠がそろってから、はじめて結論とすべきだと思います。
448 :
どくだみ :2011/02/20(日) 08:32:17.23
補足です。 >日本の高名かつ真摯な中国文献の学者が「統べる」と読んでいるが、 >この件はどう始末をつけるか。返答せい 漢代に易の注が何種類も作られましたが、魏の時に王弼(おうひつ)という天才が出て易注を作って以降、 他の易注は王弼注に駆逐されて、ほぼ滅んでしまいました。 「統は本なり」という注を付けた鄭玄の注も一旦滅びましたが、宋代の王應麟が輯佚しています。 残念ながら、体系的に全体像を掴めるほどには残っていないようです。 それで、十三経注疏の周易も王弼注を採用しており、周易を翻訳する場合、ほぼこの王弼注に従って訳します。 ですから、当然「すべる」と訳しているはずです。 他の注が王弼注に駆逐されたのは、易注として王弼注が優れていたからで、 「統は本なり」という訓詁が存在しないことにはなりません。 特に鄭玄は後漢経学の泰斗で、五経全般、今文学古文学兼修の人ですから、その説はいい加減なのもではなおと思います。
449 :
どくだみ :2011/02/20(日) 08:57:35.19
>>404 ローガンさん
>「…を属する」とはあまり言わないような…。
「おおいなる乾の元、万物はこれより生まれた。天をも統べるもの」というのは王弼注に沿った解釈で、
鄭玄注をみると、王弼以前には、どうも、そうではない解釈も行われていたように思います。
すると管輅がどういう易説だったか分からないので、ここは「夫統者,屬也」を機械的に直訳して
「統は属である」にとどめています。
ここで重要なのは上下関係の問題です。
「AはBを統べる」といえば上から下へのベクトルはA→Bです。
「AはBに属す」といえば、ベクトルはB→Aです。
このベクトルが逆だというのが統属の問題の発端です。
しかし「統は属である」ということは、上下関係のベクトル自体が存在しないということです。
統属を見て、ベクトルが逆の動詞がくっついてると違和感を感じていたのは、
実は日本語の「すべる」と「ぞくす」のベクトルであって、
漢語の「統」「属」の場合、原義に立ち返れば、上下のベクトルは本質的ではないということです。
伊作さんやローガンさんのように、「天を属させる」と「ぞくす」であるはずの「属」一語を使役に訳せるのも、そのためです。
上下関係のベクトルの問題が解消されれば、「統属」は「所属した」「服属した」と訳して問題なくなります。
というのが、今のところの僕の結論です。
他にポキールさんの提示した「all」や無識爺さんの提示した「in」など、
動詞とは見ない可能性も、まだ完全に否定はできないように思います。
連投失礼しました。午後に時間があれば、また覗きにきます。
450 :
サガミハラハラ :2011/02/20(日) 09:16:00.11
>>441 黄幢についてであるが、角川漢和中辞典の幢(p330)をみてみると、
別な絵が載っておりますが?
戊辰戦争の錦の御旗のような感じですが?
単に「属する」と読むか「属せしむ」と読むかの違いじゃないの。 古代中国語においては、受動・能動の読みは、臨機応変。前後関係によって読み替えるもの。 日本語のような助詞・助動詞がないので。
452 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 09:57:40.17
『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也,」 >「それ統は属なり(統=属)」と言ってる この誤訳がそもそもの発端だよ。 たった一つ「(統=属)」と誤訳できそうな事例をもちだして、劣悪な誤訳をした上で、 その誤訳に依拠してまっとうな解釈を非難する。しかも頑強にだ。 >「統は属である」にとどめています。 統べるとは(すべてを)属させることである。 天下を統べるということは(逆の視点でいえば) 統べる者に他の天下が属すこと、あるいは、天下を属させることである。 きみが提示した「たった一つの事例」ですら、文脈はそう述べている。 魏書の他の100例中に「統を属と読める」「統を属と解釈できる」事例が幾つあるか。 この宿題をスルーして言及しないのは、 「たった一つの誤訳できそうな事例」を持ち出した証拠だ。 きみはただ頑迷なのか、よほど悪質なのか。 たった一つの事例が通例でもあるかのような論法を推進するが、それは古典的な邪道だ。 この件はもう終わりにしろ。いくら頑張ったところできみの論法は通用しない。
453 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 10:07:37.51
部分ていせい ●天を統べるとは(天下を)属させることである。 ●天を統べるということは(逆の視点でいえば) 天を統べる者に他の天下が属すこと、 あるいは、天を統べる者が天下を属させることである。 これが文脈からみた正しい翻訳である。 断じて、「それ統は属なり(統=属)と言ってる 」ではない。
それ統とは、属せしむるなり
455 :
ローガン :2011/02/20(日) 11:22:55.03
>>449 詳しい解説乙。
>「統は属である」にとどめています。
なるほど。でも、『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』
の文で、統と屬の互換性があるなら『乃屬天』でも良いって事ですか?
なら「大哉乾元,萬物資始,乃屬天。」 は、「大いなるかな、乾の元、万物はこれより生まれ、すなわち天をも【屬させる】。」と訳さないと文意が変わるでしょう?
454氏の訳、「それ統とは、属せしむるなり」が正解かと。
>上下関係のベクトルの問題が解消されれば、「統属」は「所属した」「服属した」と訳して問題なくなります。というのが、今のところの僕の結論です。
つまり、A統屬Bに上下関係のニュアンスを求めず、例えば「参加した」のような意味に捉えるべきだ。と言う事でしょうか?
生意気言ってすみませんが…
456 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 11:45:04.04
勝負はついたな。ローガンくん。 それにしても、自分の間違った解釈を間違いと認めず、 これほど頑迷にバカげたことをやる奴も初めてだぜ。ほとんど前後不覚の体だ。 >「統属」は「所属した」「服属した」と訳して問題なくなります。 だから最初から。 統属のままでは「統べる」のか「属す」のか判然としないし、 AB両者のどっちが「統べる」でどっちが「所属した」かも分からんから、 「〜の統べるに属す」と、バカにも分かるような読み解釈を提示しているだろ。 何をこれほどにごちゃごちゃいうことがあるかね。 どうだっていい些細な意見の相違をネタにゴネてるだけだろが。
457 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 12:18:49.56
・ ●どくだみの総括 管輅伝は、古代における天文学と易学に関する人物の伝だから、 『三国志』魏書の中でも極めて難解な文章だ。 『三国志』魏書の中で統という文字表現を使った用例は100を超えるのに、 たった一つ、その難解な伝にある「誤読できそうな部分」を持ち出して、 「統=属」だと都合よく誤読しておいて、それが統という文字の意味だという。 私が誰にも明確に分かるよう提示した「〜の統べるに属す」という 意味解釈を兼ねた翻訳読みを否定するためだ。 文献のいう意味を意図的に間違った解釈をしておいて、 その間違った解釈を論拠や反論に使う手法は別段珍しいことではない。 邪馬台国に関わる古代史を論じた論説の圧倒的大多数が、 多かれ少なかれその手法に頼っている。 私が批判の俎上にあげている江上波夫氏、古田武彦氏、森浩一氏も例外ではない。 私はこうした手法を「意図的誤解による論拠ねつ造」と呼ぶ。 だが、どくだみの「それ」は論拠をねつ造する巧妙さと知性を感じさせない。 考古学者の文献解釈はお粗末なのが多いが、こいつはそのレベルに近い。
でも「統べるに属す」といのも、誉められた日本語じゃないな。 だから誤解を招く。 すなおに「統属する」で、すっきりくっきりする。
459 :
どくだみ :2011/02/20(日) 13:17:05.35
>>455 ローガンさん
>統と屬の互換性があるなら『乃屬天』でも良いって事ですか?
そうです。
>文意が変わるでしょう?
その文意というのは王弼注にもとづく文意であって、鄭注だとそうではないらしいというのは説明したとおりです。
それで、管輅の易説の詳細が分からないので、判断せず直訳のままにしました。
要は統や属という動詞が、主語と目的語の上下関係をどう規定するかの問題です。
統は主語→目的語、属は目的語→主語という上下関係が絶対なら、そもそも統者属也ということが成立しないということが主眼です。
統者属也と書いてあるそれだけで、統が主語→目的語、属が目的語→主語という上下関係は絶対ではないことがわかります。
文脈によって属を「ぞくする」とも「ぞくさせる」とも読めること自体、
属の意味に「目的語→主語」という上下関係は絶対ではないということになるでしょう。
>例えば「参加した」のような意味に捉えるべきだ。と言う事でしょうか?
統属の用例では、目的語が上位、主語か下位で固定しています。
統の原義は、繭をほどく糸口から「ばらばらなものをまとめる」くらいの意味で、そこに上下の観念はありません。
それが、上に立つ者がばらばらな民衆をまとめるというところから、上下の観念が入ってきます。
最初は主語が上位、目的語か下位という決まりはなかったのでしょう。
>>451 さんの言うように、漢文は臨機応変ですから。
しかし、どちらかはっきりしないと誤解が生じて不便なので、
主語か下位、目的語が上位になるときは、
「臣統於君」のように目的語の前に「於」をつけるようになったのだと思います。
統属は用法が確定しているので、そういう目印は必要ないということだと思います。
460 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 13:23:48.59
>すなおに「統属する」で、すっきりくっきりする。 だ・か・ら。 「統属する」と読んで、誰かが誰かの統治に属すと、 意味を脳裏に描ければいい。 みな、漠然とした意味解釈しかしてこなかったろう。 それだけではない。 伊都国に王がいて、卑弥呼の女王国は伊都国王に属したなどと、 地元びいきの妄想を垂れるのがいるから、 わざわざ10例も出して上下関係をきちんと説明してやったのだ。 もっと深く思考をめぐらせて、慎重に意見を述べろ。無礼者 いい加減な野次馬とはわけが違うんだぜ。
461 :
どくだみ :2011/02/20(日) 13:28:10.55
>>395 無識爺さんさんというのも変なので、無識爺さんで勘弁してください。
漢書 諸侯王表に「國統三?」と出てきますが、
師古注は「謂成、哀、平皆早崩,又無継嗣。」です。
成帝・哀帝・平帝は皆若くして崩御したため継嗣が無かったことを國統三絶と言っています。
また、ぐっと時代は下がって明史ですが、
「漢成帝以私意立定陶王,始壞三代傳統之禮。」
漢の成帝が自分勝手に甥の定陶王を皇太子に立てたので、
夏殷周三代の統を伝えるという礼を壊したと言っているのだと思います。
つまり、三代傳統とは父子相続のことだと思います。
後漢書の世世傳統も同じ用法だと思います。
大陸では小さい国ほど滅んだり君主の血統が入れ替わったりしますが、
倭ではそれがなかったと書いているわけです。
万世一系と言いますが、3世紀のころから、わりと君主の血筋を保とうとする民族だったんでしょう。
ちなみに、皇帝なら皇統。王なら王統。通じて國統だと思います。
462 :
どくだみ :2011/02/20(日) 13:31:19.98
>>460 伊作さんが提示した三国志の中の統属の例。
10例ほど、ひとつも「すべる」と訳してうまくいかなかったんでしょう。
普通は、上手くいかないときは訳語を変えるものですよ。
それが常識です。
訳語にあわせて原文を改変するなんて、おかしなことです。
それから、伊作さんが「属」を「ぞくさせる」と訳した時点で、議論は終わってると思うんですが。
そもそも、何を議論してるのか、論点をよく理解されていないようなので、
僕のレスを読み返して、しっかり理解してください。
463 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 13:42:34.28
どくだみ。 この場のメンツ大事でふにゃふにゃつくろってるな。 ●総括再掲 管輅伝は、古代における天文学と易学に関する人物の伝だから、 『三国志』魏書の中でも極めて難解な文章だ。 『三国志』魏書の中で統という文字表現を使った用例は100を超えるのに、 たった一つ、その難解な伝にある「誤読できそうな部分」を持ち出して、 「統=属」だと都合よく誤読しておいて、それが統という文字の意味だという。 私が誰にも明確に分かるよう提示した「〜の統べるに属す」という 意味解釈を兼ねた翻訳読みを否定するためだ。 文献のいう意味を意図的に間違った解釈をしておいて、 その間違った解釈を論拠や反論に使う手法は別段珍しいことではない。 邪馬台国に関わる古代史を論じた論説の圧倒的大多数が、 多かれ少なかれその手法に頼っている。 私はこうした手法を「意図的誤解による論拠ねつ造」と呼ぶ。 だが、どくだみの「それ」は論拠をねつ造する巧妙さと知性を感じさせない。 考古学者の文献解釈はお粗末なのが多いが、こいつはそのレベルに近い。 やりとりを始めた早々に「つまらん」と断じてやったが、 典型的な断片衒学タイプで、俺の嫌いなタイプだ。俺に近づくな
464 :
どくだみ :2011/02/20(日) 13:44:59.56
伊作さん 伊作さんのブログの、後漢書の器用俎豆について、ちょっと申し上げたいことがあるので、 議論のための余白スペースを書き込めるようにしておいてもらえませんか。 時間のある時に書き込みたいので、しばらく書き込めるようにしておいてもらえると有難いです。 今日はこれくらいにします。 気が向いたら、夕方にのぞくかもしれません。
「統べるに属す」て、へんてこな日本語
466 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 14:02:49.76
>「統べるに属す」て、へんてこな日本語 と思うようじゃ古代史などやめとけ。
467 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 14:04:40.11
>後漢書の器用俎豆について、ちょっと申し上げたいことがあるので、 拒絶する。 歴史を知らない断片論者は、ここでほかの人と断片論を吹けばよい。
468 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 15:12:19.50
私が「統属」を「〜の統ぶるに属す」と読むに至った経緯を提示したが、 再度ここに提示する。(文字制限の都合で簡潔に整理した)。 ▼統属の用例 ・『魏書』夏侯淵:夏侯淵が征蜀護軍となって、征西 (征西将軍)に統属した。 ・『魏書』桓範: 桓範が冀州牧に転属になる時点では、冀州は鎮北将軍の呂昭に統属していた。 ・『魏書』梁習: 建安十八年、議郎・西部都督從事は冀州に統属した。 ・『魏書』恭子: 衡弟が禄高2000石の京兆虎牙都尉になって郡に統属した。 ・『蜀書』黄忠: 曹操に取り立てられた行裨将軍は、長沙太守・韓玄に統属した。 ・『蜀書』費詩: 牙門将の王沖は江州督の李嚴に統属した。 ・『蜀書』楊戲 :蜀の将軍・士仁は関羽に統属した。 ▼「皆統属◯◯」の用例 ・『蜀書』李嚴: 前将軍の李嚴が江州に駐屯したが、護軍の陳到らはみな李嚴に統属した。 ・『晋書』逖伝:董瞻、于武、謝浮等十余の部隊は、みな豫州刺史・張平に統属した。 これらで分かる通り、主語たるものが「◯◯に統属した」という受動的表現である。 つまり、地位の低いほうや権力・権限の小さいほうが、 地位の高いほうや権力・権限の大きいほうの統率に属したという用法である。 ●従来は「統属する」「統属した」と読まれてきたのだが、これでは日本人には意味が通じない。 ●そこで、私は「〜の統ぶるに属す」と読むことにしている。 ●これがいちばん分かりやすい読み方だろうと思う。 『三国志』の用例から得られたところを翻訳すれば、 「〜の統治下に属す」「〜の統率下に属す」「〜の指揮下に属す」という意味である。 ここまでフェアにやったのだが、私が何の論拠も論敵説明もしていないようにいう。 これらの用例を「どくだみ」のいう統は属という語句解釈で、 どういう読みになるのか読んでみせろと要求したが、何の返答もせず、 最新の462 のスレッド自分のメンツ確保のためにこういう見栄をいう。 >伊作さんが提示した三国志の中の統属の例。 >10例ほど、ひとつも「すべる」と訳してうまくいかなかったんでしょう。 どくだみがどういうタイプを演じてきたのかは知らないが、私はもう彼を信用しない。
>・『魏書』夏侯淵:夏侯淵が征蜀護軍となって、征西 (征西将軍)に統属した。 これはどういう事? 夏侯淵ではなくその子供の夏侯覇の記事ではないん? 夏侯淵は征西将軍であってその下で征蜀護軍をやってたことはないはず
470 :
ローガン :2011/02/20(日) 15:37:14.62
>>459 >その文意というのは王弼注にもとづく文意であって、鄭注だとそうではないらしいというのは説明したとおりです。
> それで、管輅の易説の詳細が分からないので、判断せず直訳のままにしました。
ええ。読みました。理解出来ているつもりです。
> 要は統や属という動詞が、主語と目的語の上下関係をどう規定するかの問題です。
私は易など何もわかりませんが、ここの記述は、古くからある乾は西北、坤を西南という後天方位に、管輅が異を唱えた話ですね。
何故、西北などというマイナーな配置なのか。他の卦と同列なのか!と。
その主張の根拠にタク伝を引いた訳ですから「乃統天」を、天に属すと訳したのでは主張するところの「乾は尊莫大焉」と 矛盾しませんか?
A→B,A←Bどちらとも取れる用例とは思えないのですが…
(それともこの管輅別伝の書き方自体が、王弼の解釈に基づいたものと考えた方が良いのかな??)
471 :
ローガン :2011/02/20(日) 15:44:35.79
>>469 >> これはどういう事?
> 夏侯淵ではなくその子供の夏侯覇の記事ではないん?
> 夏侯淵は征西将軍であってその下で征蜀護軍をやってたことはないはず
しかも、魏略やし。
472 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 15:54:46.32
>夏侯淵ではなくその子供の夏侯覇の記事ではないん? 今確認した。俺の勘違いだった。ありがとう。 サイトも訂正しなくちゃ。 ローガン >しかも、魏略やし。 これは別に問題なかろう。夏侯淵伝の中に引かれた注釈というだけのことだ。 てきとーな用例引っぱりだして都合良くてきとーに解釈して見せるわりには、 他人にはちまちましたことをいうな。わらわら
>>465 >「統べるに属す」て、へんてこな日本語
その通り。
陳寿の筆法を論ずるのに、 平気で「魏略」から引用する人は信用できんな
476 :
人豚 :2011/02/20(日) 16:43:02.66
>>449 横と言うか質問です。
> しかし「統は属である」ということは、上下関係のベクトル自体が存在しないということです。
では、統と属の「違い」は何でしょうか。
一般的な「属」のイメージとは、或る存在(A)が、既知の集合(B)に加わる(身を委ねる)というようなものです。
一方の「統」は、或る存在(A1)が、他の存在(An)等とともに未知の集合(B)にまとまると言うところでしょうか。
どちらも単位体が、集合体の一部と化することに違いはありませんが、それによって集合(B)のままでいられるか、
新たな成分の増加により未知の集合(B’)と呼ぶべきものに変化したかなどでも使い分けができるでしょう。
(今の民主党会派に与謝野馨が加わってもそれは「属」であって「統」では無い。国民新党が加われば「統」と感ずるかもですが)
どくだみさんの「統」「属」論は、いずれこのようなニュアンスに帰結するような感じで読ませていただいております。
で、本題の『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,属也,についての質問ですが、
「統」の方を「すべる」と読むのに異論はありません(和語「すぶ」の本義は「おさめる」と言う意味では無く、
棲む(権利に基づき存在する)の敬語表現、つまり、「受動的な存在そのものが尊い」かなと思うところで、
能動的な統治への訳には若干の違和感が有りますが)。
次は「属」です。
属の扁、「尸(しかばね)」は、それ自体で「おさめる」と言う字義が有ったと思うのですが、
旁の「禹」は水神を表すとして、治水、転じて統治の意味から「おさめる」と訳せるのではないかと思うのです。
漢文読めない人なので的確な文例を示せませんが、
魏書逸文の文帝紀にある「年八歳,能属文。有逸才,遂博貫古今經傳諸子百家之書。」
の「属」がそう言う意味だと思います。
この解釈であれば「統者属也」「統=属」の数式が成立するのかと思うのですが。
477 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 17:06:01.41
>陳寿の筆法を論ずるのに、 >平気で「魏略」から引用する人は信用できんな まーたほら。本論とは無関係だろ。 「統属」という用例をひっぱり出したことについて、 魏書にあった魏略からの引用注釈をもフェアに拾ったのだ。 むしろ、魏略も魏書も「統属」を同じ意味に使っていることが分かる。 逆にケガの巧妙だな。つまらん方法で攻撃するな。 なーにが「陳寿の筆法」だ。ただの語句用法、古語用法だ。 たった30字足らずの投稿に認識不足がのぞいてるぞ。
478 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 17:11:42.18
474 日本@名無史さん >2chを永くやるなら ありがとね。ほんとうに長く居る気はない。 俺はMacだし、家で仕事にも使ってるからね。 2ちゃんの使い方もよう分からんし、あれこれいじりたくないんだよ。 なんだか管理者の説明も不真面目な感じだし。
ここは便所の落書きとも言われる恥ずかしい場所だから、長居しないのは正解だな。 ちなみに、ホームページを持ってるやつが2chに来ることは、堕ちるというんだ。
>>476 横から
>統と属の「違い」は何でしょうか。
属=同種が連なる
統=同種とは限らない複数が絡み合う。
481 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 17:22:50.73
479 >ホームページを持ってるやつが2chに来ることは、 あまりにも不勉強と認識不足と独善我流と妄想で溢れていたので、 矯正しに立ち寄ったのよ。 素直に聞き入れるとは思わなかったが、予想通りだった。 ま・横からなじってた連中が多かったということは、 内心では指摘されて動揺してる証拠だろう。
統属= 同種が連なり絡み合うサマ。
483 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 17:24:55.36
480 河童虫 まーたわけわかんねーのがきたぞ。
あらま、本の宣伝に来たのかと思った。ww ・・・ヤフーの掲示板はシステムがよくないね。基地外が居座りやすい形だ。
485 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 17:43:16.95
>ヤフーの掲示板は基地外が居座りやすい形だ。 まったくその通り。 バカ呼ばわりするだけのイカれたのが席巻している。 さすがにのぞくのも嫌になるよ。 そういうのを10年も放置してきた参加者の責任も大いにあると思う。
486 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 17:46:16.20
>あらま、本の宣伝に来たのかと思った きみのこれまでの経験則では把握できないタイプということさ。 きみが接触したどのタイプとも違うわけだ。 俺は、そんな単純な固定観念で捕捉できる人じゃないよ。
伊作さんは、DTPの仕事かな Web制作じゃないよね
488 :
日本@名無史さん :2011/02/20(日) 18:10:18.36
>きみのこれまでの経験則では把握できないタイプ 伊作氏の先達としてはサガミ先生がいらっしゃいますね。 あと、名無しですが、やたらと安本会のHPのURLを貼り付ける使徒も潜伏中です。
489 :
どくだみ :2011/02/20(日) 18:11:31.52
>>476 人豚さん
統には、繭の糸口という原義があり、そこから意味が派生して
「統は理なり」とか「統は治なり」とか「統は領なり」とか表現される色んな意味の集合体になります。
属の方も同様に、原義から沢山の意味が派生して、意味の集合体になります。
数学の集合で使うベン図のイメージです。
二つの円が一部重なりあっていて、一方が統の意味の集合で、他方が属の意味の集合です。
「統は属なり」という訓詁があるので、二つの集合に共通部分があることがわかります。
そして、統属と二つの漢字が結びついたとき、統の集合と属の集合の共通部分が意味として確定します。
それが統属という言葉の意味になります。
統治という言葉も、統の意味の集合と、治の意味の集合があり、「統は治なり」という共通部分があるので、
統治という言葉が生まれます。
僕はこういうイメージを持っています。
属なんですが、大漢和を調べてみましたが、「おさめる」という訳は載ってなかったです。
まあ、大漢和とて、漏れてる漢字・用法は沢山あるので、無いと決まったわけではありません。
属文は、伝統的に「ぶんをしょくす」「ぶんをつづる」と読んで、文章を書くことを意味します。
易論については、そのうちローガンさんにレスすると思うので、そのとき読んでください。
490 :
どくだみ :2011/02/20(日) 18:18:23.16
>>468 伊作式 訳語に合わせて原文を改変
常識 しっくりこなければ、訳語を変更
至極簡単に言えば、こういうことです。
文例を何十例引いてこようと、原文を改変する読み方をしてよいことにはなりません。
491 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 18:35:56.20
どくだみ 。これが最後だ。 不的確な引用例示をしてそれを不正解釈をした始末をつけろ。 不正解釈をかかげて、それで俺を不当に批判した始末をつけろ。 どうだっていい見解の相違に属するちまちま議論がしたければ、 それからのことだ。 なにやら利口ぶって振る舞ってきたようだから、 その程度優先順位の判断ぐらいつくだろう。 あまり執拗にすると、「承知せん」ことになるぞ。
492 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 18:39:59.51
487 >伊作さんは、DTPの仕事かな WEBだのDTPなどいった現場作業の、 ずっと上のほうで一流の仕事をしてきたしとさ。 武道をたしなんだ人であり、戦略家であり、文才に長けた人であり。 まるで曹操みたいだなや。わははー。 はずかし
493 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 18:41:40.43
>伊作氏の先達としてはサガミ先生 彼はここじゃ先生かい。 俺が出てきたらすっかり引っ込んでしまったようだが。 彼も俺の力量は十分に分かってると思うよ。
494 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 18:42:37.74
ついしん。 ハラハラしゃんは俺の先達じゃないよ。
495 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 18:51:11.25
もおしばらく、こんどは 「それでも邪馬台国は九州にあった」に お邪魔しようかなー、と思ったら、 SSSさん以外の人は 俺が顔をだしたら引っ込んじゃったみたい。
496 :
日本@名無史さん :2011/02/20(日) 18:54:18.14
>彼も俺の力量は十分に分かってると思うよ。 小心者と思ってる。
465 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 13:53:04.48
「統べるに属す」て、へんてこな日本語
469 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 15:35:21.24
>・『魏書』夏侯淵:夏侯淵が征蜀護軍となって、征西 (征西将軍)に統属した。
これはどういう事?
夏侯淵ではなくその子供の夏侯覇の記事ではないん?
夏侯淵は征西将軍であってその下で征蜀護軍をやってたことはないはず
473 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 16:17:04.74
>>465 >「統べるに属す」て、へんてこな日本語
その通り。
475 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 16:38:42.72
陳寿の筆法を論ずるのに、
平気で「魏略」から引用する人は信用できんな
479 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 17:18:00.31
ここは便所の落書きとも言われる恥ずかしい場所だから、長居しないのは正解だな。
ちなみに、ホームページを持ってるやつが2chに来ることは、堕ちるというんだ。
484 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 17:26:28.42
あらま、本の宣伝に来たのかと思った。ww
・・・ヤフーの掲示板はシステムがよくないね。基地外が居座りやすい形だ。
496 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/02/20(日) 18:54:18.14
>彼も俺の力量は十分に分かってると思うよ。
小心者と思ってる。
ローガンさん(50才前後)>『人豚』じゃなくて『どくだみ』さんがいい! どくだみさん(25才前後)>はいはい、ワガママですね。 の巻
>「統べるに属す」て、へんてこな日本語 確かに「属する」と言うのは目で見て確認できるようなもの(国家や集団、組織)であれ 概念上の分類であれ何かの集団(グループ)に所属帰属するのだから 「統べる」と言う動詞に属すると言うのはおかしいな。
500 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 20:32:53.53
バカな連中の間で、「統べるに属す」だけが一人歩きか。 すべて「〜の統ぶるに属す」という読みを提示したはずだがな。 「伊都国には代々王がいて、みな女王国の統治に属す」だ。 俺が提示した用例は「〜の統治に属す」 「〜統率に属す」〜の指揮下に属す」と説明したろ。バカかきみたち 統治することを「統べる」「統ぶる」と表現するのは、 れっきとした学者がゆってることだ。俺の漢和事典にだってあるぜ。 統治を「統べる」「統べる」というのはれっきとした日本語だ。 ブンブン・ブンブン。やかましわい銀蝿
501 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 20:34:58.50
「〜の統ぶるに属す」という意味解釈翻訳が気に食わなきゃ てめーらはつかわなきゃいい。 バカづらさげて「統属す」と読んでろ。そっちこそおかしいんだ。
>>495 おー、伊作が丁寧語つかってるぞ。
あ--驚いた。
丁寧な日本語、知ってたんだ。
まあ、百歩譲っても「統ぶるところに属す」だろうな。 こんな日本語使うのは、 くもの巣の張った学者くらいだろうがね。
504 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 20:42:12.67
>丁寧な日本語、知ってたんだ。 知ってるぜ。礼儀もわきまえてるし、 どこへ出ても対応するセンスも持ちあわせてる。 だが、礼儀を知らず、揶揄・なじりしかできんお前たちには、 お前たちにふさわしい態度で相手してるだけだ。反面教師だ。 俺の態度はお前たちの態度というわけだ。 俺に丁寧語で相手される資格がないということだな。ぼんくら
505 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 20:46:18.00
>百歩譲っても「統ぶるところに属す」 どうだっていいちまちま問題だ。 もともと中国語にはなかった、比較的時代がさがって辞書に掲載された「統属」を そのまま日本語「とうぞく」と読むか、 日本語読み下しで「〜の統ぶるに属す」と読むか。 バカづらさげた連中は前者を選べばいい。それだけのことだ。
506 :
日本@名無史さん :2011/02/20(日) 20:49:02.86
要するに自分の「高尚で美的な」訓読のセンスを笑われたので怒り狂ってるわですね。
507 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 21:03:47.60
>自らハードルを上げて自縄自縛に 鉄や武器などは統制もせず野方図にしていた国家が、ずるずるの連合てか。 出入りの統制もせずゆるゆる頭で原始共同体にケが生えた程度にいうかと思えば、 大和から瀬戸内海・関門海峡・九州 ・半島へのルートは遠隔支配てか。 ずいぶん国家観に一貫性と節操がないな。 都合に併せて節操のないことをいうのが畿内説の特徴ではあるが。 何でもいいから、畿内説以外はこきおろせばいいと思ってるんだろうな。 「事実なんてどうでもいい。畿内にあったことになればいい」か。 そういう気持ちが畿内説にはみえみえだものな。 自国の歴史をこれほどに殺伐としてしまう国民はほかになかろう。 日本国の歴史を、畿内という限られた地域を優先する矮小さ・姑息さ・さもしさよ。 ●久しぶりに巨匠語録 事実なんてどうでもいい 「邪馬台国は畿内にあった」と言い続けることに意義がある。
508 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 21:05:29.51
>怒り狂ってるわですね。 バカども相手にクールに対応してるが。
509 :
どくだみ :2011/02/20(日) 21:05:32.35
ローガンさん 伊作さん 管輅の易説について、僕の考えを一応、ご説明します。長くなるけどゴメンネ。 ただ、末尾の一句「何由有別位也」が解釈できず、まだ途上です。 >「おおいなる乾の元、万物はこれより生まれた。天をも統べるもの」 これは大体現行の易彖伝の解釈だと思います。 乾の元と天を別の物と捉え、乾の元は天より上位の形而上的原理であると捉えるわけです。 ところが管輅はそう考えてなかったようなのです。 夫乾坤者天地之象,然天地至大,為神明君父,覆載萬物,生長無首,何以安處二位與六卦同列? 乾之象彖曰:『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也,尊莫大焉,何由有別位也?」 「それ、乾坤は天地の象(かたどり)」と、乾坤と天地を同一視しています。 そして「しこうして天地は至大、神明君父たりて、万物を覆い載せ、 成長してはじめなし(ここは版本によって異同あり)」と天地の優れているところを力説します。 そして「天地がこれだけ優れているのに、なんで乾坤の二位を六卦と同列に置くんだ」 といちゃもんをつけてるわけです。 乾坤と天地を同一視しているから、こういう論理展開になっているのだと思います。 ならば、乾と天が同一なのに乾が天を統べるではおかしいです。 ローガンさんも伊作さんも、『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』を解釈するのに、 乃統天の主語は乾元と考えておられます。 王弼注を踏襲した易の解説本はみなそうでしょう。 でも、管輅の言い方からすれば、乃統天の守護も万物と取らないと矛盾するのではないでしょうか。 「大いなるかな乾元。万物とりて始まる、すなわち(万物は)天に「統」する」 ここで「統」の解釈に管輅は「統は属である」と説きます。 だから「万物は天=乾に属す」となるわけです。 ちなみに、「尊莫大焉」は「尊きこと焉(これ)より大なるは莫(な)し」と訓読するのが普通だと思います。つづく
510 :
どくだみ :2011/02/20(日) 21:06:14.25
ちょっと憶測を差し挟めば、漢代の象数易が乾坤を具体的に天地の象と捉えたのに飽き足らず、 魏代以降の義理易は乾坤と天地を切り離し、 乾坤を天地をも統べる形而上的原理に昇華したのではないでしょうか。 それをやった王弼は、やはり天才だったと。 まあ、ここまでは、すんなり行くんですが、最後が分からない。 管輅の発言は「何由有別位也」までですが、普通に読めば「何に由りて別位あらんや」と反語になって、 前の文意と真逆の発言だと思うんです。 それで、ここが解決できなくてどうにも困ってます。以上です。くたびれた。
馬鹿は何べん言っても馬鹿 ●そこで、私は「〜の統ぶるに属す」と読むことにしている。 ●これがいちばん分かりやすい読み方だろうと思う。 ↑分かり易いどころか、異常な訳だな。
512 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 21:10:23.16
つづけなくていい。 黄身が提示した原文を「にわか解読」したものだ。 そこに今さら細部ほどうこうゆってどうする。タコ それから、自分が提示した原文はどうだった。 『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』夫統者,屬也, ここだけだったろが。 今さら管輅伝のこのパートがいわんとすることを解読してどうなる。 お前さん。ほんとに倫理観の欠落した奴だな。 しかも、往生際がわるすぎる。みぐるしいぜ。
513 :
巨匠・伊作 :2011/02/20(日) 21:13:03.41
どくだみ。バカバカしが過ぎるぜ。 「管輅伝は魏書の中ても難解だ」とゆったろが。 くだらないあがきをするな。
どこがクールな対応だ?顔真っ赤じゃないかw
>>512 巨匠・伊作
>しかも、往生際がわるすぎる。みぐるしいぜ。
コレハ イワユル 自虐芸 ト イウヤツデスカ ?w
魏書高句麗電 子莫來代立、乃征夫餘、夫餘大敗、遂統屬焉。 この遂統屬焉は ここについに統属す。 と読みませんか?
517 :
ローガン :2011/02/21(月) 00:11:47.61
>>509 >ならば、乾と天が同一なのに乾が天を統べるではおかしいです。
彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成。時乘六龍、以御天。乾道變化、各正性命、保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧。
「以御天」とあります。乾=天なら、何が竜に乗り天を御すのでしょう?
(ネットで拾った文なので正解なのかどうかはわかりませんが…)
518 :
巨匠・伊作 :2011/02/21(月) 00:29:25.82
517:ローガン 管輅伝は3世紀の天文学とか易学の話ばかりで、いわば哲学問答みたいなパートだよ。 日本語で書いてあっても、細かい注釈なしではおそらく理解できないだろうな。 これをどうこうと解釈議論しても、うまく着地できないんじゃないのか?
519 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/21(月) 10:15:19.61
統屬とは 統=支配・治 屬=主典・左
うーん 「承和縁起」か〜 いま、明治時代の国学者で渡辺重春著の「豊前志」を読んでるんだけど 承和縁起・・・これ〜やっかいだな・・・ もう少し調べてみないと分からねえやw
>>519 もんた君が一番気楽でいいよね〜
適当なこと言ってればいいんだしw
倭人伝の「皆」=王と官 魏略の「皆」=官
河童さん、よくそんなこと言えるな〜 恥ズかちぃ〜www
wikiにある卑弥呼・宇那比姫説って独自研究ですか?
526 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/21(月) 17:33:22.01
曲学の徒さんの説だな。彼の掲示板で、彼に聞けばいい。
あの時代 邪馬台連合国とはどの様なものだったのだろうか。 言語についてはどうだろうか。会話はほぼ問題なかっただろうが読み書きについてはどうか。 当時かなは発明されていなかったし漢字の読み書き・意味など一般庶民が理解できたとは到底思えない。 筆記用具はどうか?筆や墨・木簡などあったのだろうか?いずれにしよ国々の官吏レベルでないと難しい。 下々への伝達は難しいもんである。 暦や時間はどの様なものだったのか?暦は一説によると推古天皇が初めて暦の頒布を行ったと記録がある。 それ以前にも生活、特に稲作に関して重要な暦の様なものはあったと思われるが統一されたものではなく 地方によって違っていたであろう。国々で集まっての細かい日程あわせなど難儀だったのではないか。 時間についても同様だろうと思われる。 交通網に関してはどうだったか。日本における道路建設は5世紀頃からだといわれている。それ以前は 道はあれども獣道。馬や駅伝制度も無く主な交通は船だったのだろう。潮待ち・波待ち・天気待ち。 交通インフラは充分に発達していなかった。国々が遠く離れれば離れるほど、情報の伝達 意思疎通は大変。 邪馬台連合は中央集権とはほど遠く、後の大和朝廷に比べると国としてのレベルは未成熟だったと思われる。 学習雑誌でいえば「めばえ」「よいこ」ぐらいで「小学一年生」にはまだ早い。 このような状況下にあってともすれば直ぐ離散・反乱してしまう国々を武力という国力を低下させる方法を取らずに まとめ邪馬台連合の傘下にいる事を意識させるのはどうしたら良いのか? それが宗教であり鬼道なのかも。昔の人は科学的知識が乏しく目に見えないものや 逆に視覚的に分かりやすい珍しいものに畏怖していたんでしょうね。
528 :
527 :2011/02/21(月) 18:31:50.80
続き これは2ちゃんねらーが鬼奴国の若者2人の会話を電波キャッチした時の記録である。 「ったくホントむかつくよな〜大倭マンの奴。なにが”お国の為”だ。上から目線でよー。 ”お国”ってなんの事だよ。出雲の阿国の事か、バカじゃねえの。」 「あいつ働け働けうるせぇんだよ。変な角はやしてホントむかつく。」 若者2人は邪馬台連合の一員としての意識が薄いようである。 数日後各国ごとに最低一人はいると云われる野呂さんから、卑弥呼様のお告げを2人は聞いた。 「マジ感動した。”倭を以って尊しと為す” ”one for all,all for one” だってよ。もうヒミ姉最高! 大倭マンとは大違いだぜ。俺もうヒミ姉についていくぜ」 「お前も俺も立派なヒミコ組の一員だな。この邪馬台バッジお前のぶん。」 「なにコレ!金色に輝いてんじゃんよーチョーマジやば。」
529 :
どくだみ :2011/02/21(月) 20:36:57.89
>>512 >今さら管輅伝のこのパートがいわんとすることを解読してどうなる。
伊作さんとローガンさんのリクエストがあったので管輅の易説を説明したのですが。
もともと、この部分は、管輅の易説の結果として「夫統者属也」が証明されたのではなく、
管輅が自説を開陳するために前提として「夫統者属也」と言ったのです。
発語の辭「夫」が付いているのは、そのためです。
だから、管輅の易説が難解だろうがなんだろうが、関係ないのです。
管輅が前提として提示したので、それは管輅の易説とは関係なく成立するもので、
そうでなければ、議論の相手が、「その前提はおかしいぞ」と異議を唱えるでしょう。
そして、経学で用いられる「A者B也」は「A=B」という意味です。
易学者である管輅も、それは承知の上です。
ですから、最初から申し上げているように、「夫統者属也」だけを引用すれば十分だと思います。
無理に管輅の易説を理解する必要はないですよ。
530 :
どくだみ :2011/02/21(月) 20:50:17.79
>>517 ローガンさん
>「以御天」とあります。乾=天なら、何が竜に乗り天を御すのでしょう?
経学では、師匠から経典を授けられるとき、同時にどう解釈するかの口伝を受けたものと思います。
後に口伝の部分が記録されるようになり、それが注と呼ばれます。
注がないとテキストの解釈はできません。
それで管輅が「以御天」をどう解釈していたか、彖伝のテキストだけではなんともわかりません。
531 :
どくだみ :2011/02/21(月) 21:13:43.26
一応、管輅の易説について考えましたが、上にも書いたように、 「統者属也」は管輅の易説の前提条件ですので、本当は管輅の易説まで考える必要はありません。 「A属B」は、日本語では「AはBにぞくす」と訳し、上下関係のベクトルはA←Bで、Bの方が上位です。 ところが同じ「A属B」を「AがBをぞくさせる」と訳せるのなら、上下関係のベクトルはA→Bとなります。 「A属B」に、A←Bの場合とA→Bの場合があって、文脈で読み分けるということです。 もともとの統属問題を整理しましょう。 「A統B」の上下関係は「A→B」で、「A属B」の上下関係は「A←B」。 だから「A統属B」となると、「A→B」と同時に「A←B」となる。 上下関係は文脈からBが上位と分かっているから、「A→B」の「統」が浮いて処理に困る。 これが問題でした。ところが上の属で分かるように、矢印の向きは一定ではなく、文脈によって反転します。 属が反転する例は僕は探してませんが、統が反転する例は、 「臣統於君」や三国志のいくつかの例文を挙げました。 「統」を「ぞくす」と訳せる例です。(提示してあるのに伊作さんは、読み落としておられるのかな。) ただし、「統」が反転する場合は、目的語の前に目印に「於」が付くようです。 だから「統者属也」は、統と属の矢印の向きがそろうことがあると言っているわけです。 矛盾だと思っていたのは、日本語の訳語「すべる」と「ぞくす」の上下関係の矢印が反転しないことが原因でした。 漢文では「統」も「属」も反転して使用できますので、「A統属B」は、「A←B」の方向にそろっていると考えて、 「AはBに属す」と訳していいわけです。 異常を一応の結論として、今後別の事実が分かったら、また検討すればいいと思います。
532 :
日本@名無史さん :2011/02/21(月) 22:01:20.16
元安本派 数理統計による手法は感心したなあ。 今老教授派 俺には少し難しかったけど、説得力あったなあ。 最近、ヤマタイスレ面白くないなあ。
>>531 羽敗屬呉(蜀書13)
「関羽は(敗れて)呉に属す」
奉邑四縣皆屬焉(呉書9)
「四県は皆これ(魯肅)に属せしむ」
「統属」の問題が続いているようですね。 どくだみさんのご主張もわかりますが、統と属のそれぞれ一字の用例を以って だから統属も…というのはどうでしょうか。 他の用例を以って「統属」の意味解釈を詰めるならば、やはり「統属」という 二字続きでの用例を集して参考とすべきでなないでしょうか。 陳寿が三国志で「A統属B」として統属の語を用いた件りは、すべてAはBに 属するとされるもので、その逆は無いようです。
536 :
日本@名無史さん :2011/02/21(月) 23:49:02.08
ていうか、どくだみさんは本気モードらしいな スイッチオンしてる(笑) 伊作のやつ逃げ出すなよ
537 :
日本@名無史さん :2011/02/21(月) 23:51:03.98
おめー等ぁ 勝った方が上に行けるぞ 負けた方はさっさと下がれww
メ は人フンコロガシ
それから「統属」の読み下しですが 巨匠・伊作氏の「〜の統ぶるに属す」という読みもなるほどとは思いますが 伊作氏も仰られているように統属の用例では主語はすべて受動的ですので 私はむしろ「属し統べらる」とした方がよいように思うのですがどうでしょうか。 つまり、統属するという読みをとらないのであれば「皆、女王国に属し統べらる」と。
540 :
どくだみ :2011/02/21(月) 23:58:24.28
>>533 >「四県は皆これ(魯肅)に属せしむ」
たしかに、これは「ぞくせしむ」と使役に読むべき場面ですが、
「皆」に対して目的語の「焉」が上位なので、反転している例かというと迷います。
>>534 無識爺さん
>陳寿が三国志で「A統属B」として統属の語を用いた件りは、すべてAはBに
>属するとされるもので、その逆は無いようです。
「統属」が「AはBに属する」という意味であることは、
ローガンさん伊作さんが用例を並べてくれていますので、異論はないと思います。
問題は、
>>531 にも書いたように、上下関係は文脈からBが上位と分かっているから、
「A→B」の「統」が浮いて処理に困るということです。
伊作さんは、「A→B」のままで統を処理しようとして、結果として原文改変をしていたので、
「この場合の統はA←Bの用法ですよ」と言ってるわけです。
541 :
巨匠・伊作 :2011/02/22(火) 00:02:45.69
>伊作のやつ逃げ出すなよ 俺は一度も逃げたことはない。もう勝負はついてる話だ。 未練がましく・めめしく、つくろい作業をしてるだけだろが。 安い発言をするな。がんたれ
【A統属B】の用法は、Aの「統属」という二重動詞の使法というより 「A統」と「属B」が合体した用法と解釈すれば無理なく理解できるような気がします。 【Aは統べらる+Bに属して】です。 −わかりませんが。まぁ爺さんのたわごとですけど。 「
543 :
どくだみ :2011/02/22(火) 00:06:28.58
>>539 >「皆、女王国に属し統べらる」
それはそれで良いと思います。
語順のままでいくと「皆、女王国に統べられ属す」となりますが。
リズム的に「とうぞく」の方が気持ちよいです。
「〜の統ぶるに属す」
「統ぶるに属す」 → 統は属の目的語になってるから漢文に直せば「属統」
「女王国の統ぶる」 → 女王国は統を修飾してるから漢文に直せば「女王国統」
「皆女王国の統ぶるに属す」 → 「皆属女王国統」
結果的に原文を改変した読みになっています。
最初はスルーしていたのですが、ネット時代ですし、
沢山の人が読んで、それが正しい読みだと思い込むのも困ると思います。
もちろんAが属するに二重にかかっているということも言えるでしょうが。
545 :
どくだみ :2011/02/22(火) 00:08:37.57
>>536 伊作さんがブログで、後漢書の編纂者を無知だの誤読だのと
不当に貶めているのを読んで、少々スイッチが入ってしまいましたw
もともと別の語の合体と考えれば、どくだみさんの悩まれているAの統が どうBにかかるのかという処理の問題も解決します。 もともと統は目的語を必要とはしていない「A統」という独立した語なのですから。
548 :
巨匠・伊作 :2011/02/22(火) 00:14:39.70
>後漢書の編纂者を無知だの誤読だのと 正しくいえ。 『後漢書』倭伝のパートを書いた者が、 歴史記録のイロハを修得した者ではないということだ。 本紀を手がけたと思われる笵曄とは雲泥の差があるぜ。 そのことを『後漢書』倭伝ひはんとして提示している。 どうしてそう、誰かの発言を「こういった」という時に、 でたらめな脚色を付けるのかな。 >不当に貶めているのを ならばお前も、論説の一つも組み立ててみることだ。 こんなところで衒学して何が面白いか。やれるものならやってみろ。 ただし、俺の論説からの引用は許可しない。
そう。あえて解釈しなければならないなら、Aの系統はBに属するなんでしょうね。
550 :
どくだみ :2011/02/22(火) 00:24:37.53
>>548 >『後漢書』倭伝のパートを書いた者が、
だから范曄とは書かず編纂者と書いています。
伊作さんのブログの「『後漢書』倭伝の検証と批判」について
「議論のための余白」に書こうと思っていたのですが、
拒否されたので、他の人に申し訳ないのですが、この場をお借りして書かせてください。
引用は許さんということなので、伊作さんのブログに書いてあることは引用しません。
論点がよくわからんという方は、そちらで読んでください。
東夷率皆土著,憙飲酒歌舞,或冠弁衣錦,器用俎豆。所謂中國失禮,求之四夷者也。
この文、率〜或〜の構造になってます。
東夷は、おおむね(=率)みな土著で飲酒歌舞を喜ぶという蛮夷らしい生活をしているけれど、
なかには(=或)冠をかぶり錦を着て、祭祀には俎豆を用いるという礼にかなった風俗を持っている人もいる。
中国で礼が失われたなら、これを四夷に求めるというものだ。
こういう意味ですから、後漢書編纂者は倭人伝を誤読していません。
伊作さんの言うように、後漢書の編者が倭人伝を誤読して俎豆を飲み食いのことと勘違いしているのなら、
なぜ率〜或〜とうい構文なのか説明がつかないんじゃないでしょうか。
また、冠を付けるというのは、ビジネスマンがネクタイを締める以上に当然の礼の規定ですから、
憙飲酒歌舞と書いてあるからといって、冠弁衣錦の後の俎豆を飲み食いのことと勘違いしようがありません。
確かに後漢書は三国志東夷伝を下敷きにしてますし、文章もちょっとアレですが、
無知だの誤読だの罵倒されるほどではありません。
不当に後漢書編纂者を貶めてることになるし、
知らない人に間違ったイメージを植え付けるのは良くないので、
訂正したほうがいいですよ。
系統ですか。 「統」の字義は大きく分けて何かを「まとめる」と何かが「続く」の 二つだそうですが、この場合は続くの意の系統はどうでしょうか。
552 :
どくだみ :2011/02/22(火) 00:32:47.12
>>547 「A統」がひと塊で「属」の主語になるということでしょうか。
>>549 僕も、最初、そういうイメージを持っていたんですが、
領属という言葉が、統属とほぼ同様の意味で使われていて、
そうすると領と系統は、ちょっと遠いかなとなったんです。
553 :
ローガン :2011/02/22(火) 00:55:57.82
どくだみさん。遅まきながら、やっと理解出来ました。
>>509 の「夫乾坤者天地之象」ですね。乾坤とは、天地の「外に現る姿」であると。
漠然と「乾坤>天地」みたいなイメージしかなくて…
「夫天地者乾坤之象」とは書いていませんものね。 昨日は貴レスが全く読めていませんでした。馬鹿ですね。
幼稚な反論をお許し下さい。又、只で勉強させてもらいました。
554 :
巨匠・伊作 :2011/02/22(火) 01:47:13.13
550 どくだみ またとぼけて逃げたな。 「『後漢書』倭伝のパートを書いた者が」を 「後漢書の編纂者を無知だの誤読だのと」という。 「勝手に言い換えるな」といえば、 「だから范曄とは書かず編纂者と書いています」という。 後漢書編纂者と、『後漢書』倭伝のパートを書いた者の違いなのに、 「だから范曄とは書かず編纂者と書いています」てなんだ。 素直に勘違いとか何とかいって訂正すれば済むものを 方向をすり変えて自己弁護する。 お前。終始一貫そればっかだな。
555 :
巨匠・伊作 :2011/02/22(火) 01:56:01.34
550 どくだみ お前は最初「統は属という意味である」と豪語して、 俺の解釈翻訳を間違いだといったんだぞ。忘れたわけじゃあるまい その根拠となる用例として出してきたものを俺が読んだら、 お前のいう「統=属」ではなく「統は属させる」という意味だったことが判明した。 その尻拭いもせず話をずらして、こにごに及んでまだつくろい作業をやってる。 お前。ほんとうに終始一貫そればっかだな。 それところか。切り返しに、今度は俺の後漢書倭伝批判に対するいちゃもんで 反撃しょうて魂胆か。 尻拭いをするのはメンツが邪魔するし、黙って消えるわけにもいかんのか。 どうにもならん奴だな。
556 :
どくだみ :2011/02/22(火) 02:22:22.10
>>555 >その根拠となる用例として出してきたものを俺が読んだら、
>お前のいう「統=属」ではなく「統は属させる」という意味だったことが判明した。
伊作さん、
>>509 を読んでないんですか?
1、伊作さんの『大哉乾元,萬物資始,乃統天。』の訳は、伊作さんが考えた伊作易説であって、
管輅の易説ではないことは
>>509 を読めばわかります。伊作易説をこの議論に持ち出してきても意味はありません。
2、管輅の易説を読んでも、「統は属させる」にはなりません。
3、輅別伝の文章は、「夫統者属也」を前提として管輅易説を説いています。
管輅の易説とは無関係に統=属は成立します。前提条件とはそういうものです。
4、A者B也とあればA=Bです。統=属で、他に誤読の仕様がありません。
5、そもそも「属」を「ぞくさせる」と読むなら、むしろ僕の意見を強化することになりますが、気付きませんか?
557 :
どくだみ :2011/02/22(火) 02:35:16.77
>>554 >素直に勘違いとか何とかいって訂正すれば済むものを
伊作さんのあの文章読んで、勘違いするわけないでしょう。
最近のIMEは編纂者を一発変換しないのに、
范曄と書かずに、わざわざ編纂者と書いたんですよ。
558 :
どくだみ :2011/02/22(火) 02:46:52.00
>>553 >幼稚な反論をお許し下さい。又、只で勉強させてもらいました。
いえ、僕もローガンさんの突っ込みがあったおかげで、
王弼以前の象数易ってこんな感じかなとイメージできました。
「夫統者属也」は易説の前提条件になっていて、「統属」の議論には易説の部分は重要ではないですし、
「ぞくする」でも「ぞくさせる」でも大差がないですので、簡単に読み流していただけでした。
なんだか、伊作さんは「属させる」と読むと「統=属」ではないように思ってるようですが。
こうして議論すると、一人では流すところも、ちゃんと調べるので良いですね。
伊作さんも、怒ったり罵倒したりしなければ楽しいのに残念です。
559 :
巨匠・伊作 :2011/02/22(火) 08:53:46.38
どくだみ。おまえは女だな。 けっきょく「統」が「属」であるという意味ではなかったう。 数ある中からたった一例だけ持ち出して、 それがすべてでもあるかのような論法は悪しき帰納法だ。 古代史論では常套的だが、学問の世界ではやってはならなす手法だ。 それほどに古代史論の世界は質が悪い。悪習に頼る卑怯者。 めめしいといったが、おれのにらんだところお前は女のようだ。 気色わりーから・あっちへ行け。悪しき手法が得意なローガンと遊んでろ。
560 :
巨匠・伊作 :2011/02/22(火) 09:14:48.12
558 名前:どくだみ >伊作さんも、怒ったり罵倒したりしなければ楽しいのに残念です。 「統属の統は属という意味である」 「世世伝統の統は系統の統である」 こういう我流解釈で不当ないいがかりをつけたことを素直に認めて謝罪し、 一つ一つ始末をつけてかかるタイプなら許すが、 自分の非を認めず抗弁するか話をすり替えて切り返す。 腹を立てないでどうするか。 お前の「つくろいの手法」にみる思考回路は女のものだな。気色わりーぞ
561 :
表六玉 :2011/02/22(火) 12:23:10.50
身分的周縁と近世社会8:朝廷をとりまく人びと」高埜利彦編:吉川弘文館所収の 「朝廷をとりまく人びと」高埜利彦著によると、 元禄2年(1689年)の「新撰公家要覧」の議奏5
後漢から三国時代にかけてと范書の時代とその写本の時代でそれぞれ言葉の使い方が変わっちゃってるから面倒臭いね 大元の東観漢記や漢書や後漢書は在書目録に載ってて記紀成立に前後して日本に入ってきてるはずなのにね と言うか日本書紀なんかは明確に影響を受けてるらしいのに なぜに中国の史書に出てる邪馬台国の記述が無視されてるのかしらん
范書→後漢書 すまぬ
とうとう伊作、相手が男だ女だいいだしたヨ〜 ('A`)
565 :
日本@名無史さん :2011/02/22(火) 21:36:35.24
おお どくだみさん すげえぇぇー とったかな? >どくだみ。おまえは女だな。 >めめしいといったが、おれのにらんだところお前は女のようだ。 >気色わりーから・あっちへ行け。 負け濃厚になると発する言葉だもんね 如何でしょう?
566 :
日本@名無史さん :2011/02/22(火) 21:39:40.33
どくだみさん 対 伊作さん 伊作さん相手に〜とったかな? どくだみさ・・・WIN 伊作さん・・・Lose ?! 判定するのは第三者である皆さんだよ!どうなん?
ノーリアクションでフィニッシュです
どくたみは、使役と受身の区別ができてない
569 :
日本@名無史さん :2011/02/22(火) 22:53:08.27
田子作って頭悪いな
570 :
日本@名無史さん :2011/02/22(火) 23:15:28.21
基本的にゆるゆる説支持だが、 統属に関しては伊作かなあ。
伊作って「イゾー」と読むんだろ、北京語で読んでも同じだな 魏の時代は呉音かな、何て発音するんだろう 倭人伝では、倭人固有の言葉(國名や人名など)は魏人が耳で聞いて漢字をあて、 意味のある言葉(役職名や普通名詞)は帯方郡付きの韓人が意味を解釈して吏読で書き記したと思うがな
572 :
人豚 :2011/02/22(火) 23:52:59.44
>>566 「統者属也」の例がある以上、「統」と「属」が同じ意味で使われる場合があるは。そうなんでしょうが・・・
どくだみさんの「ベクトル」云々と言うのは、よく理解できなかったですね。
「統」にも「属」にも「ベクトル」と言う概念は不要で、訓読する場合には、或る時は自動詞として、
また或る時は他動詞として使いわける必要があると言うことでしょうかね。
ただ、何故、「統属」が一般的には、そのまま音読されるのか、
無理に訓じようとすると、「統べるに属す」とか、耳にも聴き慣れず、口にも出し難いことの理由の考察については、
いくらかは参考になりました。
でも、本来は、異義として使い分けられることの方が普通かと思いますので、
レス数を大量に消化した割には、本題であった「統属」の訓読方の決め手には成りえない例だったかと思います。
ま、お相手さんが居る事なのでいたしかたないかと思いますが。
私は、「統」に対してよく用いられる「すぶ」と言う訓について、和語としての原義からも強く異和感がありまして、
どうしても訓ずるなら「統べる」以外のコトバがあればと言う観点から御高説を拝聴させていただきました。
「統」自体には、人が人を支配する、と言うような意味は無いんでしょうね。
統 音 【呉音】【漢音】トウ 訓 すべる, いとぐち, すじ, おさめる, すべて 字 会意兼形声。 充(ジュウ)は、子どもが充実して育つこと。 全体にゆきわたる意を含む。統は「糸+音符充」で、糸すじが端から全体へとゆきわたること。 ▽通(トウ)・(ツウ)(全体にゆきわたる)と縁が近い。 (1)いとぐち。全体につながる糸のすじ。もとづな。 《類義語》⇒紀。「統紀」 (2)すじ(すぢ)。全体につながるすじ。「系統」「伝統」 「君子創業垂統=君子は業を創め統を垂る」〔孟子・梁下〕 (3)すべる(すぶ)。おさめる(をさむ)。全体をひとすじにまとめる。 《類義語》⇒治。「統一」「統治」「統率」 「統楫群元=群元を統楫す」〔漢書・児寛〕 (4)「一統(イットウ)」とは、ひとすじにまとまったもの。 「大一統也=一統を大ぶなり」〔春秋公羊伝・隠元〕 (5)すべて。全体で。とりまとめて。 《類義語》⇒全・総。 (6)「三統(サントウ)」とは、世界をつくるという天・地・人の三つの系統。 「三統暦(サントウレキ)(前漢代末期に劉向(リュウキョウ)がつくったこよみ)」 家 族 道・寿・条・育・充・虫(細長く伸びる) 統領の「統」は「導」の対転に当たるコトバで、先に立ってひきい導くこと。
どくだみは、学究者。 伊作はやくざ。 よって、どぐだみの勝ち。
575 :
日本@名無史さん :2011/02/23(水) 04:12:23.60
伊作の奴逃げやがったなw
576 :
どくだみ :2011/02/23(水) 07:03:15.01
>>555 みんなも飽きてきてると思うので、そろそろ終わりにしよう。
>その根拠となる用例として出してきたものを俺が読んだら、
>お前のいう「統=属」ではなく「統は属させる」という意味だったことが判明した。
「俺が読んだら」って、伊作さんが占い師なら、易経の真理を俺様が解き明かしたでも良いけど、
文献学は先人が易経をどう読んだかを理解するわけだから。
ここは管輅の易説に従って読まないといけない場面。
王弼注に従ってる今の訳本は参考にはなるけど、全面的に頼ってはだめ。
まして伊作易説は無用。
>数ある中からたった一例だけ持ち出して、
>それがすべてでもあるかのような論法は悪しき帰納法だ。
「夫統者属」は、管輅が議論の前提として提示したもの。だから発語の辭「夫(それ)」がついてる。
だから、この訓詁は、当時の皆が普通にうけいれられるもの。
ものすごく特殊なものを前提にしたら説得力が無いから。
こういうのこそ「行間・字間・文意・文脈を読む」でしょう。
伊作さん、いつも「行間を読め」とかいって、書いてないことまであったことにするのに、
書いてあることは、特殊な例で無かったことにするんですか。
>魏書の他の100例中に「統を属と読める」「統を属と解釈できる」事例が幾つあるか。
>この宿題をスルーして言及しないのは、
>「たった一つの誤訳できそうな事例」を持ち出した証拠だ。
「A統於B」の例をいくつか挙げてるでしょう。挙げてるのに言及しないってどういうこと?
577 :
どくだみ :2011/02/23(水) 07:05:23.49
>「女王国の統ぶるに属す」
名詞化の「こと」が省略されることは訓読ではよくある。
「見るに堪えぬ」は「見ることに堪えぬ」で「見ること」の「こと」が省略された形。
「統ぶる」という動詞に「属す」のは日本語としておかしいので、
同様に「統ぶる(こと)」が省略された形。そう考えざるを得ない。
つまり「女王国の統ぶる(こと)に属す」というのは、
本来動詞だった「統」を名詞化して「属」の目的語にし、
目的語だった「女王国」を「統」の修飾語にしている。
「統属女王国」という原文を「属女王国統」と改変している。
どうしても訳せないような特殊な文でない限り、こういう原文を改変する読みは控えるべき。
>「とうぞく」と読んでは日本人には意味判断がつかないから、
明治の日本では軍人勅諭に
一 軍人は礼儀を正くすへし
凡(およそ)軍人には上(かみ)元帥より下(しも)一卒に至るまで其間に官職の階級ありて
統属(とうぞく)するのみならす・・・
と使っている。
江戸・明治の人の漢文の素養は僕たち現代人の比ではなく、その人たちが、「とうぞく」でよいと考えた。
一方で、「世有王」は「(伊都国が)よよ王をゆうする」であるのを「よよおうあり」と王が主語であるかのように読み、
「A曰B」は「AはBという」を「AをBという」と二重目的語風に読んだ。
日本語に馴染みやすいように、変えるべきは変えてきた先人が、
「統属」は変えなかったのは理由のあることで尊重すべき。
世世傳統の「統」は
>>573 さんが挙げてくれている意味の中で、
(2)の「君子創業垂統=君子は業を創め統を垂る」〔孟子・梁下〕の統にあたる。
創業は多くの場合建国のことで、開祖が建国して垂れた統を絶やさずに伝えるということ。
この孟子の例も「とうをたれる」とは読むけど「すぶるをたれる」とは読まない。意味がずれるから。
血統とか天統地統人統の三統とか、「すぶる」ではない「統」は少なくない。
578 :
どくだみ :2011/02/23(水) 07:10:40.73
>>568 他の方にもレスしたいので、連投すみません。
>どくたみは、使役と受身の区別ができてない
A統於Bで「AはBにすべられる」と訳すと、これは受身。主語Aが目的語Bより下位の場合。
A属Bで「AはBをぞくさせる」と訳すと、これは使役。主語Aが目的語Bより上位の場合。
>>546 で、
>受身と使役がごっちゃになってるような
という指摘があって気付いたんだけど、受身と使役って、
文法では別の話題として分類されるのかもしれないけど、
上位下位が入れ替わる話で同時に出てくるのを見ると、
本質的には同一か類似の言語現象かもとしれん。
まあ、これはもう漢文の範疇ではなくて、文法学か言語学の分野に属する話題で、
僕にはこれ以上わからんけど。
それと、A属Bを「AはBをぞくさせる」と訳すのは、伊作さんが輅別伝の訳でやってみせたけど、
あそこは「ぞくさせる」とは訳せないところだし、本当にそういう例があるかは、僕は検証していない。
>>533 さんが提示してくれた例
>奉邑四縣皆屬焉(呉書9)
>「四県は皆これ(魯肅)に属せしむ」
これは、「C使A属B」で「CはAをしてBに属せしむ」の「C使」が略された形で、
「四県は皆(A)これ(魯肅=B)に属せしむ」だから、
「AはBをぞくさせる」の例ではないです。
579 :
どくだみ :2011/02/23(水) 07:13:42.37
>>572 人豚さん
>どくだみさんの「ベクトル」云々と言うのは、よく理解できなかったですね。
すみません。
なんとか文字数を減らして上下関係を表現できないかと思って使った譬えなんですが、
かえって分かりにくかったですか。
統と属の上下関係が逆だという思い込みは日本語の訳語のせいで、
漢文の中で統と属は同じ上下関係の場合に使うことがあるというだけのことです。
要するに上下関係のことなので、ベクトルという言葉は忘れてもらってかまいません。
「A+動詞+B」という文があって、主語Aが上位で目的語Bが下位の時A→Bと書くことにする。
逆に主語Aが下位で目的語Bが上位の時A←Bと書く。(矢印の向きが逆になってます)
そうすると、A→BとかA←Bと書くだけで、いちいち「主語が」とか「上位で」とか書かなくていいので便利かなと思ったんです。
それで、これが数学のベクトルABとベクトルBAに似てたので、ベクトルという言葉を使ってしまいました。
>レス数を大量に消化した割には、本題であった「統属」の訓読方の決め手には成りえない例だったかと思います。
結局、訓読は「とうぞく」意味は「しょぞく」という従来の説を確認しただけになりました。
レスの大量消費は申し訳なかったけど、従来説で良いんだと確認できたことは僕としては収穫でした。
以上です。
580 :
希代の天才論客・伊作 :2011/02/23(水) 09:06:11.85
574 >伊作はやくざ。 ならばお前らはゴロつきだ。自律も誇りもない無頼の雲助徒党と同じだ。 575 >伊作の奴逃げやがったなw 俺は逃げたことはない。勝負を見極めたらおしまいにする。 あとは時間が解決する。現実に、こうやって外野が色々いいだしたろう。それでいいのだ。 「分かりやすい親切な読みの提示」と「これをやみくもに否定するための無理筋論」 いずれ、どちらかが淘汰される。はじめから見えているがな。 掲示板でうろつくだけのバカどもに、いまここで結論をだしてもらうなど必要はない。 器が違うぜ。 どくだみ。またはじめたな。 >明治の日本では軍人勅諭に 3世紀に書かれた時点では古語用法だったものが、 伝世的に使われて時代の経過とともに熟語的に使われるようになったものだろう。 いわば熟語形成の一つのパターンともいえるものだ。 今の用法からさかのぼって大昔の用法を解釈するか。 今の用法でもって太古の用法にあてはめるか。 自分のやってることを客観的にみる習慣もないらしいな。 次元の異なるものを同列に並べる手法も古い。 そういう手法や詭弁をいくら羅列してもお前の弁護にはならん。 「言い訳めいたつくろい」は見苦しいだけだ。 武者修行・道場破りのつもりで掲示板に参加して色んな奴をみてきたが、 お前はその中でも真の外道だ。 不正な論拠資料活用(意図的誤解をした上での論拠造作・例外的論拠資料の活用)。 ローガンも同じ手を使うが、お前はこれが実に多い。 これらに頼った時点ですでに勝負がついている。
581 :
日本@名無史さん :2011/02/23(水) 09:09:25.10
結局、統に、属の意味はかぶっていないという解釈でいいのかな?
582 :
希代の天才論客・伊作 :2011/02/23(水) 09:25:28.75
●雲助どもよ。 「統=属。統は属といういみである」。 「世世伝統の統は系統のいみである」。 大上段にこういって不当ないいがかりをつけいきた「どくだみ」が、 訂正も撤回もすることなく、いま、どういってつくろってるか。 その無様な様子をみてみ。 お前らの目は節穴か。
細けーことは イインダヨ ∩ ∧_∧ ⊂⌒( ・ω・) `ヽっ⌒/⌒c ⌒ ⌒
584 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/23(水) 16:03:04.59
>あとは時間が解決する。 この調子で100年論議しても、何の進展も無かった。 その間に 考古学は、文献史学を見限って、50年も遡上してしまった。
585 :
ローガン :2011/02/23(水) 16:33:18.15
>>531 >「A属B」は、日本語では「AはBにぞくす」と訳し、上下関係のベクトルはA←Bで、Bの方が上位です。
(中略)
>属が反転する例は僕は探してませんが
魏略曰。明帝既嗣立、追痛甄后之薨、故太后以憂暴崩。甄后臨沒、以帝屬李夫人。(魏書文徳郭皇后伝引用魏略)
余談かもしれませんが「帝屬李夫人」…
屬が「託す」と訳せる場合は、反転と考えて良いでしょうか?
586 :
どくだみ :2011/02/23(水) 17:08:50.59
>>580 伊作さん
>3世紀に書かれた時点では古語用法だったものが、
伊作さんが、自分の知らない言葉を勝手に古語用法だと決めてるだけでしょう。
そもそも古語の古いって、どの時代を指してうんですか?
用法と熟語を分けてるようですが、古語用法って、どういう定義で使ってるんですか?
>不正な論拠資料活用(意図的誤解をした上での論拠造作・例外的論拠資料の活用)。
不正でもなく誤解でもなく例外でもないことは、
>>576 、
>>577 に具体的に論じてあります。
論客を自称するのなら、漠然と不正だ外道だと言ってないで、
ひとつひとつ具体的に取り上げて論理的に反論すればいいのに。
>>585 ローガンさん
論理的に、こうだとは言えませんが、直観的に違うような気がします。
訓読は、
甄后 没するに臨んで、帝を以て李夫人に屬(しょく)す。
でしょうか。主語は甄后ですね。
身分の上下にかかわらず「頼む・委ねる」ということはあるので、反転とは違うような気がしています。
「夫統者属」の属を @受身に解釈するなら「それ統とは属さるるなり」 A使役に解釈するなら「それ統とは属せしむるなり」 @は×、Aが○でしょう。 属をはさんだ単語間の→は、この際無問題。
588 :
伊作だけど :2011/02/23(水) 20:31:57.88
586 うだうだはもういい。 「統=属。統は属という意味である」。 「世世伝統の統は系統の意味である」。 これは論理的に証明できたのか。 間違いだったと認めたのか。 間違いに基づいた反論だっと詫びたか。 俺は関東にいるが、よければ直接会ってやるか。 板上の人間と合ってやるのも初めてじゃないし。 連絡をとり合う方法はあるぜ。もっともお前が女ならよすが。
589 :
伊作だけど :2011/02/23(水) 20:35:18.20
584 唐松山 あとは時間が解決する。 >この調子で100年論議しても、何の進展も無かった。 このばあい。統属の議論に限定している。 誤解とか拡大解釈でからまれるのはつかれるぜ。
590 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/23(水) 21:09:19.27
”大倭”の如く、読み方により大きく歴史が変わる場合もあるから 無視するわけでは無いが、私の出番は”統属”には無い。 つまり 倭人伝には20年近い時空がある、しかし時空どおりに書かれているかは疑問がある。 その見方によっても”統属”の認識にもづれが生じる。 共立された女王に各国ににらみをきかす力は無い、何故ならば、睨まれる大王を共立出来ない。 と認識すれば、乱の平定(終息時)以後の出来事と成る。 黄旛の下賜を決めた後で、この戦いが行われる=男王の頃。 崇神世ころの大和に乱は無い。=女王共立の透き間がない。 乱に疲弊した九州に平定出来る武力があるか?=無いから7,80年続く。 これを平定したのが九州勢力であれば、その後の鉄と前方後円墳が説明出来ない。 時空に狂いが有る。これが私の結論。 任那建国、渡海、半島占拠が無い今の設定に疑問を持つ。 考古学は、文献を無視して50年遡上する。 百済の土器も各説あり決定していない。
ごめんください。 つかぬことをお伺いしますが、邪馬台国の本スレはここなんすか? 日本史板はよーわからん。
592 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/23(水) 21:17:15.04
いずれにしろホツマは昔のそんじょそこらのただのオッサンが書い た〜妄想を多分に含む不完全な詩文の書で、欠陥があり、朝廷から離れ たような否枯れ木が載っており、朝廷の暦法と関連つけるのは危険で ある。 ホツマのこの暦法も巷の亜流のものでり、天津神算木(天津金木)には 全く刃が立たない。
593 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/23(水) 21:19:05.34
>>592 訂正
× 亜流のものでり
○ 亜流のものであり
594 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/23(水) 21:22:18.39
久留米 祇園山古墳 これが、最初の畿内形古墳であれば、景行の仮宮を置いた場所に近い。 葬られた人数も多く、奴卑100人の殉葬では無くとも戦争は想定される。
>>591 特に本スレが決まってるわけじゃありません。好きなスレへどうぞ。
ま、いちおう「邪馬台国、ドンと来い」が伝統的には中心的かな。
>>595 ありがとうございます。
つか、斜め読みしたかぎりでは、どのレスでも同じ人らが同じ感じでケンカしとるなとw
597 :
人豚 :2011/02/24(木) 01:58:38.21
>>579 > >どくだみさんの「ベクトル」云々と言うのは、よく理解できなかったですね。
> かえって分かりにくかったですか。
いえいえ、ベクトルと言う表現を使った説明で言わんとされたことは理解しています。
わからなかったのは結論の方でして(乾坤とか天地とかに疎いので)、
> 「A+動詞+B」という文があって、主語Aが上位で目的語Bが下位の時A→Bと書くことにする。
> 逆に主語Aが下位で目的語Bが上位の時A←Bと書く。(矢印の向きが逆になってます)
この上位、下位と言うのは能動、受動と言うことと同義かなと思うので、まあ、もう何度か読み直してみます。
>>588 伊作
>俺は関東にいるが、よければ直接会ってやるか。
>板上の人間と合ってやるのも初めてじゃないし。
>連絡をとり合う方法はあるぜ。もっともお前が女ならよすが。
もう、なんか、最低だな…。
599 :
どくだみ :2011/02/24(木) 07:45:03.99
>>588 伊作さん
>俺は関東にいるが、よければ直接会ってやるか。
せっかくですが、お断りします。僕はオフ会とかやったことないです。
>>597 人豚さん
>わからなかったのは結論の方でして(乾坤とか天地とかに疎いので)、
>>509 の「でも、管輅の言い方からすれば、乃統天の守護も万物と取らないと矛盾するのではないでしょうか。」
変換ミスで、主語が守護になってました。
目の前で絵を描きながらでも説明すれば、「なんだ、そんなことか」となると思うのですが、
言葉だけで説明するのは難しいです。
>この上位、下位と言うのは能動、受動と言うことと同義かなと思うので、まあ、もう何度か読み直してみます。
単純に、例えば君主と臣下で、君主が上位、臣下が下位という意味で良いと思います。
受身と使役のところは、漢文の範疇を超えるので、ここでは考えなくていいと思います。
>>587 「夫統者属」に関して受身・使役を言っているのではなくて、
「統」では「すぶ」が反転すると「すべらるる」で受身になり、「属」では「ぞくす」が反転すると「ぞくさせる」で使役になるという話です。
それから
>>509 に書きましたが、三国志の文脈では、「ぞくさせる」と訳すと矛盾するので「ぞくす」が正解です。
>>587 考えてみれば、「属される」っていう日本語は有るのかな。
無いと思うけど、どうだろう。
「属せられる」 「属せしめられる」 かな。ま、あまりこだわってもどうなんだか もともと「属す」という言葉自体が受動的意味だからね
602 :
伊作 :2011/02/24(木) 09:30:53.34
599 どくだみ オフ会の誘いじゃない。 誰も見ていない所で互いに顔をみて目をみてやれば、簡単に議論の決着はつく。 俺と議論したかったら1対1でやるしかなかろう。 それができなかったらもうやめとけ。 「つまらん」と、接触がはじまった当初に断を下してやったが、 お前みたいな恥知らずはさすがに初めてだ。じめじめとまとわりつくな。 少し時間がたてば、お前を信用する者はいなくなるだろう。 (それでも図々しく板に居座るのだろうが)
イヤーなヤツ
604 :
日本@名無史さん :2011/02/24(木) 11:39:00.16
どくだみさんと伊作さんのやりとりを見ていると、人間の度量について考えさせられる。
605 :
ローガン :2011/02/24(木) 18:12:36.10
>>586 >反転とは違うような気がしています。
そうですね。上で言われた属するが持つ「上下の観念」は、屬を「託す」と訳す文には当てはまらない。と言い換えます。
さておき過疎ったので話題を変えて…
>>358 >ここからは全くの僕の想像です。韓伝に南與倭接とあり、其?盧國與倭接界とあるので、邪馬台国は半島に進出していた。
「倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。」なので、半島に邪馬台国が進出していたという設定は首肯出来ません。
「南與倭接」…接は間が砂漠や海で隔てている場合でも使用例があるので、地続きの隣り合わせとは言い切れないでしょう。
又、倭人伝に狗邪韓国とあり、韓伝には弁辰狗邪国とあります。
韓伝としては弁辰の狗邪国であり、倭人伝的には韓の狗邪国という意味に捉えて良いと思います。
大海の中に居る倭へ渡る起点が「韓」である以上、半島に倭国の領域が存在したとは、考えにくいように思います。
>卑弥呼以死を「卑弥呼もって死す」と読めば、その結果、卑弥呼は戦死したということになります。
>「卑弥呼すでに死す」と読めば、「すでに」は場面転換の意味になります。話題は飛んで、時は流れて卑弥呼死後のことです
場面転換で良いのではないでしょうか?
「遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之。」までが、六年詔に従った行動を記述した部分。ここまでが年表記のある通行記事。
その後の記述は、二度目の使者による倭の情勢の記録。前者と後者は別資料ではないか と考えますが、いかがでしょう。
>>605 厳密にいえば、倭国が半島南部に軍事介入するようになったのは、
中国皇帝を頂点とした冊封体制の下で
倭国王が、中国皇帝の臣下として
半島の安全保障の一翼をになうことを任されていたつーことだろう?
この中国を頂点とした冊封体制のことを理解してない奴が多過ぎる。
>>606 >倭国が半島南部に軍事介入
3世紀当時、軍事介入するほど大勢が海峡渡れるの?
608 :
日本@名無史さん :2011/02/24(木) 23:18:55.50
のちの遣唐使でも1/4が難破する体たらくだが、 白村江では数万人運んでるんだよな。 白村江の時は、玄界灘を知り尽くした勢力が 良い時期、良い天候を考えて運ぶだけの 技術と知識があった。 遣唐使船は玄界灘を知らない勢力が運んだ。
609 :
sss :2011/02/24(木) 23:50:26.89
>>608 遣唐使の場合は、朝鮮半島を新羅が支配していて通れなかったから、東シナ海を
渡る方法しかなかったんじゃなかったかな。
そういう意味じゃ、卑弥呼時代に日本の舟が当たり前のように往来していたのは
やはり朝鮮半島にそれなりの足場を築いていたからだろう。
>>608 だからさ〜3世紀に軍事介入なんてするほどの人数や物資を送れるのかって話
これがとてもじゃないが無理な状態なら
魏からの軍事要請なんて絵空事になるよね
だいいち輸送用の船数の問題もあるよね
軍事的に有効な人員と物資を送り込むのに何年もかかった日には
輸送終了した頃には、最初の船を送り出してから数年間経過した事態じゃ
シャレにもならない
>>608 円仁の遣唐使記録なんか読むと、ちゃんと新羅海岸づたいに航行してますよ。
ただ、風向きとかの気候条件によっては、東シナ海にだいぶ張り出して航行してたようだけど。
612 :
日本@名無史さん :2011/02/25(金) 00:21:31.66
>>611 航海に自信がない船ほど、沿岸沿いを航行するほうが安全でしょう。
むしろ、新羅を避けて航行しなかったということは、
それを理由に、無理に東シナ海をいく必要はなかったと
考えて良いのかもしれない。
>>610 3世紀に可能かどうかはわかりませんね。
ただ、少なくとも7世紀には運べる技術はあったということで、
それ以前、どの段階でそれだけの技術を獲得するに至ったかは、
また別の資料が必要でしょう。
船数に関しては、大型船を製作するには、少なくとも
準構造船の建造技術まで待たなくてはなりません。
それ以前では、それほど大きくない船を使うしか無いでしょう。
そのためには、小型船を大量に動員する必要があります。
613 :
日本@名無史さん :2011/02/25(金) 01:42:49.42
魏からの軍事要請とは漫画だな。
誤爆
616 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/25(金) 01:50:26.18
海部氏勘注系図によると息長帯比売命の新羅征伐の時代に丹波国造建振熊宿袮が 「丹波・但馬・若狭の海人300人を水主として率い、仕え奉る」という記録が あります。つまり、外洋航海型の船300隻は動員可能だったわけです。
617 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 11:29:21.22
後漢時代の日本代表は”倭の奴国"である。 つまり、魏使が伊都国まで来たことは間違いが無い。そこで奴国代表に合う。 ここから見解が分かれる。 そのまま九州で解決したか、畿内大和が呼ばれたか。 畿内大和が呼ばれる為には、狗邪韓国は任那である。魏使は半島にいる内に畿内邪馬台国を知る。 場所は良く理解していない。しかし 朝貢団に大和の同行を要請し、正始元年には、大和を訪れる。 だから 「東倭重譯納貢」と記録される。
618 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 11:54:54.91
>「丹波・但馬・若狭の海人300人を水主として率い、仕え奉る」という記録があります。 この時の記録が 日食であり、神功元年にあづないの罪として記録される。 273年の日食は、北陸で完全食(計算上)である。
619 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 12:02:32.51
黒塚の 矢(鏃)、剣と黄旛が”倭乱”を表すならば メスリ山の大量の槍は、渡海と徒軍編成を表す。 渡海から110年後に誉田御廟山。
620 :
日本@名無史さん :2011/02/25(金) 12:04:15.66
>>617 倭奴国を倭の奴国なんて日本語読みしない。
621 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 12:11:05.89
>>620 ではどの様に理解すれば良いの?
倭奴国と読んでも、伊都国の近方であれば、難升米の”難”と同じ”奴”
であり、博多か福岡になる。
622 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 12:26:49.46
難升米とは、書紀に書かれた”難斗米”である。 難のトベ=難の太夫である。 ”升”と”斗”は、筆遣いが似ている、倭人伝もこの程度の書き間違いは存在する。
>>622 難升米とは長島、つまり長島茂雄に似ていたのでしょう。
624 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/25(金) 14:53:33.85
神功元年前年の記事は日食には全然ならない。 この男はあずないとか言ってゴマ化しているが、ここの記事は日食では ない。日食ならここんところの記事は「時を経て」あるいは「刻を経て」 とかの数時間の意味の記述になるはずであるが、原文のほうは 「日を経て」という数日間も暗黒が継続した旨の記述であり、日食は たかが1〜2時間程度のものであるから、現代天文学の鉄則からみて 同年の記事はあずないがどうのこうのくらましても、日食には到底なら ない。しかしながら熱帯ジャングルの原住民の部族連中なら、こういう 科学的鉄則を軽く否定するものであり、唐松山酋長も熱帯ジャングルから でもインター・ネットをやってるのではないかと、嘲笑されても仕方 あるまい?wwwww ただのオッサンの書いたホツマを誇張して賞賛し、こういう妄想を 造作、宣伝するようになるのだろう。 同年の記事は一見して日食のようにみえるが、よく読めばこういう点の 記述でこれが日食ではないことの判別が出来る。これは現今の九州火山の 大噴火からの大噴煙が長期に渡って噴出され、これが天空を広くおおい 暗黒状態が続いたとか、こういう類の自然現象であり、日食にはならず、 酋長の言い分はニガクリタケをクリタケと言うも同然であり、まともな 賢脳人物は奴の言葉に騙されない。奴は論説の重大な過失を犯している。
625 :
日本@名無史さん :2011/02/25(金) 15:09:26.77
アスキー社製のステラナビゲータによれば、201年3月22日に和歌山県御坊市において 皆既日食が見られたという。 これは神功皇后元年の3月朔日である。 つまり、日本書紀では神功皇后元年は201年であり、3月に日食があったことも確かめられる。 ちなみにその時皇后が居た小竹(ササ)は今の御坊市です。
626 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/25(金) 15:25:32.53
>>625 貴殿の主張が正しいと仮定すると、神功の代以降の神功、應神、仁徳の
皇后及び天皇は百数十歳の寿命だったということになり、確実に不合理
となる。つまり201年の日食の記事を神功紀に当てるのは間違いである。
201年が神功摂政元年とするのは見かけ上そう見えるだけであって、実際
の真の年代は201年ではなくもっと後の年代なのだ。その差は120年以上
ある。
627 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 19:38:19.01
( =_=)長い規制を終えると、そこは邪馬台国であった。。。 「統属」論議には正直あまり興味が無いのが、甲論・乙論、それぞれ頑張って る姿には感銘しました。個人的感想を言わせてもらえば、高校の漢文の教科書 と、当時同時代の文献の漢文文法の照合だけで済むような気もしました。あく までも個人的感想ですが、A統属Bなら「Bに属しているのは統べてのA」と 解釈する方が、俺個人としては自然な気ガスた。ま、門外漢で議論当事者で ない俺としては、個人感想に留めて、断定する事は避けるが。
628 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 19:39:36.89
>>616 >海部氏勘注系図によると息長帯比売命の新羅征伐の時代に丹波国造建振熊
宿袮が「丹波・但馬・若狭の海人300人を水主として率い、仕え奉る」と
いう記録があります。
巫女様の貴重な情報提供ありがとうございます。感謝の上でですが、その結論
が「300隻動員可能」と言うのは少し飛躍と思いました。動員水夫(水兵)が
300人とした場合、外洋航行船一隻につき水夫(もしくは水兵)一人というの
は、少し違和感。俺が先述にて架空提案したワニ船だとしても水夫は最低3名は
必要なので、況や外洋航行船なら最低でも10人前後の水夫が必要な計算になり
ます。この計算の場合動員水夫300名・正規軍兵士300名と、多く見積もっても
外洋航行船のみなら、60隻前後の船団規模となります。先述ワニ船との混合船
団でも、200隻行かない規模の船数までしか上昇しません。
規模については以上の感想ですが、「丹波・但馬・若狭の海人」と言う点、
つまり「どこから動員をかけたか」が、俺的には重要な気がします。そう。
それらの地方は、タケハニヤス王の乱〜沙本の乱にて「最終勝利者」に成った
地方からの動員なのです。そしてそれは息長帯比売(神功皇后)のお膝元でも
あります。従って記紀に描かれた以下の歴史事象は記述順と考えるのが妥当。
@タケハニヤス王の乱&沙本の乱
A外洋航行船団の自国生産完成
B神功皇后の外征
魏志倭人伝の頃の「倭人」が上記のうちのどこらへんであれば一番シックリ来
るか?そう、俺個人は@か@以前(かつ、少名毘古の一件以降)と考えます。
この最も重要な二つの命題は、どちらも正しい。我々は共に結論に近づき
初めているようです! ( =_=)ノ キリッ!
629 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 19:47:47.34
>神功元年前年の記事は日食には全然ならない。 この太国の主張を太国倍年では主張しない。 2枚舌太国の主張である。 七支刀は、領土分与のお礼として倭国にもたらされる。←書紀の主張 七支刀を369年に設定しても←百済本記に近づける為。半島占拠は否定される。 それでも、古墳時代を鑑みれば、それ相応に認めねば成らない。 そこで、広開土王碑(北朝鮮方面にある)はほとんど否定され、最小限の容認に留まる。 金石文を重要視する太国の見解やいかに。
630 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 19:52:13.40
>>625 神功元年の日食は、神功自身が出会わねばならない。
神功は今の福井方面から九州へ行く。
帰りは瀬戸内海。
ここで見られなければならない。
631 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/25(金) 20:07:41.49
昔の〜ただのそこいらのオッサンの書いたホツマの誇張妄想脳内被支配者 の優先主張より、現代の天文学の鉄則が優先となる。
632 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 20:11:30.54
( ・_・) もし石屋戸逸話が、天照様が自ら閉じこもったのでなく、誰か に突き落とされて閉じこめられたなら。。。そう、実は卑弥呼様は貞子様でも あったワケです。信じるか信じないかは、オカルト好きの貴方次第でつ。 ちなみに、イザナギさんがスサノウさんに淡路島に(他所でも可)幽閉された 時に、天照さんも「閉じこめられたのではないか?」と考えると、ツジツマ は合います。そして、その場合も「石屋戸逸話の時期」が、やはり「記紀 どおりではない」と言う結論になります。ハイ。(あくまでも架空の上での 結論ではありますが) 天照はすぐに救出されたワケですから、一日で終わる日食に例えられます。 しかし、結局救出できなかったイザナギさんは、果たしてどうなった事で しょう。卑弥呼さんより貞子さんより、イザナギさんの方が怨みは大きい かもしれませんねぇ。。。従って出雲が大規模大社をもって怨霊鎮魂をされた ように、「淡路島」は「誰か」によって「聖地(怨霊鎮魂地)」となります。 それが河内の青玉と呼ばれたモモソ毘売であるかはどうかは、それこそ、神の 味噌汁なのです。嗚呼、忘れられたイザナギや哀れ( =_=)ズズズ。 (オーイ、ダシテクレー!!!ドンドンドン!)
633 :
日本@名無史さん :2011/02/25(金) 20:26:43.45
古事記と魏志倭人伝と竹内文書と日本の古代に関する記述内容が違いすぎるんですが何故なんでしょう?
634 :
どくだみ :2011/02/25(金) 20:35:09.01
>>605 ローガンさん
>「南與倭接」…接は間が砂漠や海で隔てている場合でも使用例があるので、
具体的には、どんな例でしょうか。
榎一雄がその説を唱えていたというのが話題になった時、僕も調べてみたのですが、
砂漠や海で隔たっていながら接を使った例は見つけられなかったもんで。
それから、「其?盧國與倭接界」とあります。
「接界」というのは、勢力範囲を接しているということじゃないでしょうか。
海を隔てている場合の表現とは思えないのですが。
>>610 〜
>>612 「國出鐵 ,韓、?、倭皆從取之。」とあるので、
鉄の売買をする倭人が住んだ倭人街があったとは考えられないでしょうか。
有る程度の数の倭人が住んでいたとすれば、一時に兵員を輸送するわけではなく、
常時駐留ということもあったかもしれません。
考古学はさっぱりなんで、よくわかりませんが、その辺、どうなんでしょう。
以前、NHKで前方後円墳が半島南部に分布していてというような番組をやってたんですが。
635 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 20:42:51.90
伽耶建国 三國遺事卷二 より 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之 降于當國也. 位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國. 新羅本紀より 209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。 仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。 新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。 魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカンコク、伽耶、任那)は存在する。 239年頃倭人により得られた鉄は何処へ供給されたか?
636 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 20:51:59.99
>>633 ( =_=) 殷王朝が易姓革命で周によって滅ぼされ、その周が分裂し、
更にその後の秦によって焚書坑儒された辺りで、結果バラバラになったと
思われます。ハイ。従って、その頃のシナ大陸と倭人諸島を一貫する歴史
解釈が、一旦不可能になります。ハイ。邪馬台国を探すワレワレとしては
残念でかつチャレンジングな歴史現象がそこに生ずるのです。
個人的にはその頃の倭人分布域は周王朝との縁が強いと想定してます。
また鬼道と言えば道教臭いので、漢の儒学者が漢代(BC2世紀〜AD2世紀)
における「倭人分布域」を「取るに足らない蛮族域」と規定してしまった事
も起因してますね。従って、それぞれ「立場解釈」が強い事象伝記となって
しまったのでしょう。
魏志倭人伝が倭人分布域を明らかに卑属野蛮と卑下しているクセに、その
倭人の女酋長(卑弥呼)に「動員を要請する」なぞが、その立場論の珍妙さを
自ら暴露しているような物です。つまり、魏志倭人伝における倭人の卑下は
立場論からの過小矮小評価の可能性が高い。
「倭人は野蛮で低文明だ!だが助けろ!」と言うのが、プライド高いシナ人の
古今変らぬ妙なプライドなのかもしれませんね。
竹内文書の方は、当方あまり良くは知りませんが、目立った記述違いを幾つか
紹介していただけると、今後の思索の上で助かります。
【 其涜廬國與倭接界】 界=社会(文化・風俗・・・etc) 弁辰とは三種の一つであり、弁辰人とは違います。(弁辰人は登場しない) だから、ここでの弁辰は、弁辰社会 弁辰社会と倭の社会が、ここ涜廬國で接触する 接触とは、離れているものが移動し、交わる(触れる)こと ここは弁辰なので、移動するのは倭社会。 倭社会が、弁辰を訪れ弁辰社会と触れる(交わる)から、其涜廬國與倭接界 涜廬國と倭が最初から触れた状態だったら、「接」にはなりません。 「涜廬國」と「倭」が離れた状態だから、「接」という状態が生まれるのです。 離れた状態だから「其涜廬國(與)倭接界」 と「與」が二つの間に介在し 、日本語でも(と)という接続詞が二つの名詞の間に介在します。 これが「與」を日本語で(と)と訳した理由です。
638 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/25(金) 21:11:13.52
>「倭人は野蛮で低文明だ!だが助けろ!」と言うのが、プライド高いシナ人の 古今変らぬ妙なプライドなのかもしれませんね。 倭人伝の記事とおおいに齟齬が有る。 倭人は上下関係があり、よく守られている。そして、訴訟事も少ない。 酒を好むとは、それだけの穀物の収量がある。 ただ惜しむらくは、乱の為全国が一つにまとまっていない。 共立とは一時凌ぎの方策。 この中の最も安定した朝廷に倭国統一をさせ、その後冊封する。 その為の後方支援。その為には任那からの鉄の供給量も増やす。
639 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 21:31:47.06
( ・_・)さて、ここでそれぞれの「立場論」の解析です。 魏志倭人伝が価値観のベースとしているのは、当然三国時代分裂直前の、所謂 「古き良き時代の漢王朝」である事は疑いアリマセン。従って、後代魏晋の 筆記官(魏晋のエリート)も、当然「漢(の頃)から見た倭人分布域」を 「お手本」とするワケです。つまり、倭人に対する彼らの先入観は、「漢の 時代の物」と、こうなるワケです。 漢から見て、倭人分布域は、ではなぜ「卑下」されなくてはならないので しょうか?それは、漢が上位学問として規定した「儒学」ではまだないから です。つまり、儒学者から見て、漢代の倭人分布域は「未開だった」と、こう なります。 しかし、時代はもう、漢王朝も三国志も終った時代であり、「倭の奴の国王」 以降、「外交も意識し始めた」倭人分布域が「いつまでも当時のままである」 筈がありえません。卑弥呼に「動員を命令(要請)」しているのが、その 何よりの証拠です。魏志倭人伝の「倭人分布域卑下」の傾向は、この面でも 大いに可能盛大です。 そして、先述した俺の架空、即ち「当時倭人分布域が周王朝と縁があった」と するならば、どうなるでしょうか?そう、単なる「卑下過小」だけでは足り なくなりますし、「卑下過小」な所に「動員を命じ要請する」と言う行為が 非常に矛盾になりますが、しかし「かつての周王朝の権威をかさに着ている」 倭人分布域なら、この矛盾は、シナ人域・倭人域のどちらにおいても「可能」 になります。
640 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 21:40:13.33
つまり、こうなります。
シナ人から見て:倭人分布域は儒学も知らない未開の蛮族であるが、かつての
周王朝のテクノロジーを独自発展させて、我々が想像しないようなやりかたで
「ある程度の発展をした」
漢代の最盛期を価値観・文明観のベースにしている魏晋のエリートにとっては
この詭弁が「必要」になります。
従って、卑弥呼は「鬼道(周時代の失われたテクノロジー)を駆使する蛮族の
怪女王」となり、「プライドも文明も高いシナ人が卑弥呼に助力を命じ(要請
)」してもおかしくないと、こうなります。
これが立場論から考えた場合の一つの架空です。
但し、周も春秋戦国時代に分裂しているワケですから、倭人分布域も「周の
権威の一枚岩・一枚看板」ではありません。従って、倭人分布域でも古事記と
古事記以外で、それぞれの「立場論」がそれぞれ「独自発展」するワケです。
>>638 >ただ惜しむらくは、乱の為全国が一つにまとまっていない。共立とは一時
凌ぎの方策。
それが、所謂儒学的文明論から見ての「卑下」なのです。ま、被支配者感覚
では「卑下された感想」は抱き難いですが、支配者層にとっては「君ら倭人
は小国分離して、国を一つにもまとめられないのね」と、あくまでも彼等の
儒学的文明観解釈ではこうなります。
ましてややっと三国「分裂」時代を終えたばかりの魏晋の官僚ですから。
彼らにとっては「分裂したままの状態」は、よそ事としては「幼稚」ですが、
それを「幼稚」と規定したいのは、むしろ、三国乱世を終えたばかりの彼ら
にとっては、「今・ここの価値観・文明観」だったのです。だから、総じて
「卑下」となるのです。
但し、その卑下が、ご当地「倭人分布域」で、そのとおりリアルに忠実な
伝聞であったかどうか?は、是、全くの別物なのであります。
641 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 21:49:58.76
( ・_・)ノ つまり魏志倭人伝の基本コンセプトはー(日高レポート風) @大陸は分裂を終えたが、倭人はまだ分裂している。(理由は恐らくA) A倭人の支配者は、まだ周王朝や春秋戦国時代の方法論に頼っている。 Bだが、倭人達は、皆、いい人たちだ。モラルも高い。 これ、古今変らぬ、シナ人さんの対日二元論なんですね。ハイ。立場論として の魏志倭人伝も、当然、この上記@ABを踏襲しているワケでして、これは 基本構造は、やはり二元論で、それは根本は蔑視の概念から演繹されます。 ま、是非は兎も角として、立場論からの解釈・立場論フィルターを一旦排除 しなければ、いつまでたっても「真実」は見えてきません。と思います。
>>636 >個人的にはその頃の倭人分布域は周王朝との縁が強いと想定してます。
ここんとこがわからん。かつて偉大な周王朝の版図は
日本列島まで及んでいたってこと?
あと、他人を「卑下する」という使い方は、どうも違和感があるなあ。
いや、これは論とは関係ないけど。
643 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 22:03:59.22
>>642 鋭いご指摘ありがとう。( =_=)まさしくそこが痒かったの。。。
>かつて偉大な周王朝の版図は日本列島まで及んでいたってこと?
断定はする気は無いですが、倭人分布域の一勢力が「周の権威を傘に着た」
と言う架空想定です。ハイ。勿論いつものように根拠はありません。実際に
版図が及んでいたかどうかより、「いやうちは周王朝と関係があるんですよ」
と言い出す可能性が、当時のシナ人にとって「警戒すべき外交」であったと
言う話です。もしそれを声高に言われたら、真偽はどちらであれ、彼らに
とっては「困った事」になりますからね。だから、卑弥呼を「道教的怪人」
としたかった。
>他人を「卑下する」という使い方は、どうも違和感があるなあ。
倭人そのものや、倭人全体を卑下している構造ではなく、倭人の支配者達
(酋長達・王達)をピンポイントで卑下している構図である事に注目して
いるだけの事です。
>>643 ううむ。死んだ偉大な祖父の縁者が現れると
遺徳を独り占めできなくなる、みたいな考え方なのかしら。
そうだとしたら、そりゃ考えすぎな気がするな。
歴代の中国王朝にとっては中原こそが天地の中心で、
周縁の民はどこまで行っても蛮族なんだから、東夷ごときが
「いや、うちは周王朝とはマブダチっすから」とか言っても
鼻で笑う気がするw
645 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 22:25:00.22
>>644 >ううむ。死んだ偉大な祖父の縁者が現れると遺徳を独り占めできなくなる、
みたいな考え方なのかしら。
上手い例えですな。まさしく、そんな感じです。但し、魏志倭人伝が書かれた
頃は、「東夷ごときが」と鼻で笑えるほど、充分に中国大陸を治安回復できて
いたかどうかも考慮すべきだと思うのです。
遺産相続人が「誰から見ても問題無い場合」なら、妾の子が現れてもそれほど
動揺しないかもしれませんが、まさしくその相続人が「本当に問題無い?」と
皆から疑われている場合なら、笑ってられないかもしれません。
その違いです。
で、その時期に書かれた書物が魏志倭人伝ね( =_=)ノ太田遺産
646 :
レス長たらし毘古 :2011/02/25(金) 22:39:53.78
( ・_・)ノ この架空を図にすると、こう。 [倭人分布域] ・周王朝の権威をカサに着て、周王朝(や春秋戦国諸国)の方法論によって、 充分な支配と治安と国力を構築していた。奴国金印時代から卑弥呼金印時代に かけて、大陸人支配層が一目置くレベルでの発展飛躍を見せていた。 [魏晋の官僚] ・儒教に則ってもいない倭人分布域が、なぜに発展したか甚だ疑問だが、大陸 が三国乱立の時代にうまくヤリクリしたんだろう。東夷を認めたくないが、 卑弥呼の女王国の発展は認めざるを得ない。「動員援助」もしてもらいたい。 だが、下手に頼んで、晋の体制や歴史的権威に傷が付くのも困る。 ⇒結果[魏志倭人伝の表記に落着く]
う〜ん、大陸とのおつきあいの濃さはどのくらいだったんでしょうね。 ところで、3世紀に多くの軍船を送れたのか? −ですけど 私の感じからするとそれなりの準備をすれば送れたと思います。 私、若いころ小型ヨットを趣味でやってたんです。博多湾をクルージング してました。父は一級船舶の免許を持ち、魚探もつけた漁船をなんと個人で 所有して沖合いまでよく釣りに出てました。 福岡からー朝鮮半島の釜山までの距離ってどのくらいだと思います? 直線距離で200kmほどなんです。 山陰の沖合を航行した福岡ー松江や瀬戸内海を通った博多湾ー大阪湾よりも近いんです。 もちろん荒波で有名な玄界灘を越えないといけませんけど。
あ、それからご存知かもしれませんけど、地球上の2点間の距離を
一発で計れる便利なサイトです。 どうぞ。
↓
http://www.benricho.org/map_straightdistance/ これ便利ですよ。古代史をやられる方には必携ツールです。
話を戻して、軍団渡海の可能性ですが、数万というのはどうかわかりませんが
在る程度の規模なら十分に可能だと思います。
日朝の海の真ん中には休憩地点の対馬がありますし、緊急避難もできます。
中国への直接渡海となると話は全然違いますが、朝鮮半島ならば凪を狙えば
熟練した操舵手たちであれば古代の小船でも比較的容易に渡海できたはずです。
>>648 >それなりの準備をすれば送れたと思います。
タラレバですか?
>>634 ヨコから
> 具体的には、どんな例でしょうか
僭越ながら、ローガン不在のようなので・・・
王國北接契丹、女直,而南接倭,(明史;朝鮮)
龜茲國…南與精絶、東南與且末…西與姑墨接。(『漢書』西域傳下)
北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接。(唐會要)
651 :
日本@名無史さん :2011/02/26(土) 07:24:09.26
>>634 >砂漠や海で隔たっていながら接を使った例は見つけられなかった
榎一雄の本は読んだの?
652 :
どくだみ :2011/02/26(土) 08:05:14.53
>>637 >界=社会(文化・風俗・・・etc)
三国志孫権伝に
「權乃參分天下,豫、青、徐、幽屬?,?、冀、并、涼屬蜀。其司州之土,以 函谷關為界」
函谷関を以て界と為すとありますので、界は国境線でしょう。
国境線の内側の土地と解せる文もあります。
いずれにせよ界は社会ではないと思います。
>弁辰社会と倭の社会が、ここ涜廬國で接触する
原文の主語は涜廬國です。
>>637 さんの解釈では、主語が弁辰社会になっていて、主語であるはずの涜廬國が「ここ涜廬國で」に変わっています。
原文の訳はあくまで「其の涜廬國は倭と界を接す」であって、弁辰社会が接するのではありません。
>涜廬國と倭が最初から触れた状態だったら、「接」にはなりません。
接壌という言葉があります。土壌の壌です。土地は動きません。
三国志倉慈傳「京兆與馮翊、扶風接界」
京兆・左馮翊・右扶風は三輔で、付いたり離れたりしません。
だから涜廬國と倭が離れた状態である必要はありません。
653 :
どくだみ :2011/02/26(土) 08:11:48.98
>>650 おー、ありがとう。
少しゆっくり検討させていただきます。
ちなみに、この例は榎一雄の本からですか。それとも650さんがご自分で探されたんですか?
>>651 恥ずかしながら、読んでないです。
榎一雄の件の本を持っている方がいたら、例を教えていただければありがたいです。
654 :
637 :2011/02/26(土) 09:28:24.29
>>652 >主語が弁辰社会になっていて、主語であるはずの涜廬國が「ここ涜廬國で」に変わっています。
原文の訳はあくまで「其の涜廬國は倭と界を接す」であって、弁辰社会が接するのではありません。
部分的に抜粋独立させ、その箇所を訳すればそうなるかもしれませんが、しかしここは部分解釈する部分ではなく
弁辰韓の記事の一部として決して弁辰韓と切り離して説明する部分では無いと思うからです。
涜廬國は弁辰種圏内の一つであり、弁辰種から涜廬國を切り捨てることはできても
涜廬國が弁辰種圏内から独立させることはできません。
そのように考えると、弁辰の説明文の一部として明記されている涜廬國は弁辰社会の一部を担っているといっても
決して過言でも拡大解釈でもないと考える次第です。
>弁辰社会が接するのではありません。
涜廬國社会でも同じだと思います
ここは風俗・文化記事であって、地理的な位置関係を説明した部分ではありませんから
>接壌という言葉があります。土壌の壌です。土地は動きません。
三国志倉慈傳「京兆與馮翊、扶風接界」
京兆・左馮翊・右扶風は三輔で、付いたり離れたりしません。
だから涜廬國と倭が離れた状態である必要はありません。
風俗・文化で捉えたものに不動産関係の「接壌」を取り上げるのはいかがなものでしょうか?
しかし折角取り上げられたものですからここも説明しなければなりませんので
「接壌」とは
Aという土地はBという土地と飽くまでも近接であって、接触している状態ではありませんし、そもそもAという土地もBという土地も
その区分は人が作り出した概念的な区分。
土地じたいは最初から存在するもので動きませんが、そこにA範囲とB範囲は人が重ねたも
その範囲は人の思惑でどうにでも移動できるものです。それとも土地には最初から区分けされたものが存在し、人はその区分けに従っているのでしょうか?
京兆・左馮翊・右扶風は三輔もそうですね、人が定めた行政区域
人の思惑でどうにでも動かせるものです。 土地を動かせるのは自然の力だけです。
656 :
637 :2011/02/26(土) 11:06:30.58
>>652 >三国志孫権伝に
「權乃參分天下,豫、青、徐、幽屬?,?、冀、并、涼屬蜀。其司州之土,以 函谷關為界」
函谷関を以て界と為すとありますので、界は国境線でしょう。
国境線の内側の土地と解せる文もあります。
いずれにせよ界は社会ではないと思います。
その文章は境界線という意味ではなく、関を設けた事によって制限を加えたと言う事でしょ
関は人の流れに制限を加えるものでその結果が境界という概念に発展するもの
その意味の根底にあるのは人の流れであり、その人が築く文化や社会です。
その勢力範囲を明確にする境界線ならば、それは関所という一点ではなく線として表現しなければその意味はありません。
関は勢力範囲を遮断するのではなく、人の流れに制限を加えるのが役割です。
だから「以 函谷關為界」と書かれているのだと思います。
657 :
日本@名無史さん :2011/02/26(土) 11:29:23.16
>>653 榎「邪馬台国」9頁
支那書の外国関係の記事の「A国がB国に接す」とか「A国はB国に界を接す」とかいう表現は、
必ずしも常に両者の領域が文字通り接続していることを意味しない。それはA国とB国との距離に
関係なく、A国とB国との間に支那人に知られている第三国のない場合にも用いられる記述の形式
である。このことは、漢書西域伝などについてみれば明瞭で、崑崙山脈の北のいわゆる南道にあっ
た扜弥や于闐などがタクラマカン砂漠を隔てて北道(天山南路)の亀茲・姑墨と接すとあるのなど
はその一例である。
658 :
人豚 :2011/02/26(土) 12:08:35.63
>>657 要するに「接触」と言う熟語の場合、「接(つながる)」と「触(ふれる)」と言う組合せで「着っつく」と意味になると言うことでしょう。
これは単純な話なので置いておくとして、
「涜盧國與倭接界」の場合、「接」では無くて「界」の方に焦点を当てた方がよいかとおもいますけど。
「界」自体は、領域と領域の「さかい」を示す機能(多分、これが本義)と
「領域そのもの」を示す場合(訳すべき適格な和語が見当たりませんが、冥界の「界」とかの例)がありますよね。
本題の場合は「さかい」の方に当るわけですが、「界」とは線的な区切りだけを表すのか、
はたまた、砂漠や海のような面的な存在が「区切り」と為り得るのかと言うことだと思います。
現代社会においては、サウジアラビアとオマーンの国境が単に「砂漠」と認知されている例はありますけど、
漢字の世界ではどうなんでしょうね?
659 :
日本@名無史さん :2011/02/26(土) 12:24:32.43
本題が「さかい」なら、それは面の部分でしょう。 「さかい」を漢字を使って意味を表せば坂の囲であり、坂の範囲となります。 土地は大きく平らな面と坂の面に区分けでき、サカイはその坂の部分が言葉となり、 平らな部分と坂の部分の別れ部分が区分け部として 界という言葉の意味・概念が出来上がったと考えるからです。
660 :
人豚 :2011/02/26(土) 12:53:18.44
>>659 >本題が「さかい」なら
私の書き方が拙かったようで・・・・
少し書きかえると”私が和語「さかい」と訳した方の漢字「界」の意味の場合”ですね。
漢字の意味を考えるにそれを訳した和語の字義を問うようなことは考えておりません。
ちなみに「界」の字自体は、田んぼの仕切りをイメージするので本来は線的なものだと思います。
あと、これはスレチになるので流していただきたいのですが、
>土地は大きく平らな面と坂の面に区分けでき、サカイはその坂の部分が言葉となり
和語「さかい」の由来にかかる「新説」ですね。
一度、別板で御教示いただきたいと思います。
661 :
日本@名無史さん :2011/02/26(土) 12:58:59.82
× さかい ○ さかひ
小学校のとき同じクラスに「境目」くんがいました。家が近所でした。 「面白い名前のやっちゃなー」と思ってましたね。…どうでもいいですけど。 境界とか隣接とか、まぁ区別・線引きの表現はいろいろですね。
ま、普通に考えて韓国南端部には倭人の領域があったと見るべきだろうな 前方後円墳や甕棺などの存在が証拠 三国志東夷伝の境を接するの記事も証拠と言ってよかろう 日本書紀に引用する韓国系資料にもそれに類した記述があるし
字義は重要ですけど、(固有)名詞として用いられる文字熟語と 一般文章で用いられるそれとは議論すべき定義づけの重要度が違うと思うんです。 接触とか統とかの字義用法を厳密に定めたところで、記録した人がその通り厳密に 用いて記述したかは実際のところ大いに疑問だと思うんです。 倭人伝の方位なんてまぁ最後は出鱈目ですよね。でも嘘をついたわけではなく 不正確に記述しただけで、間違ったかというとそうとも言えないという微妙なところ だと思います。
また自分のことで恐縮ですが、私、不動産売買の仲介資格の宅建資格持ってるんですが (不動産屋じゃないです)、現地で関係者と話したりするとき、相手の方が言うんですよ。 「あっちが南ですね」−自分の影と反対方向のお日様の方を指さして。 こっちは「そうですね」って答えるわけです。相手は、うんと頷いたりしてます。 でもね、実際は夏の夕方近くだったりすると、ほんとはうんと西寄りなわけです。 わざと否定しないんじゃなくて、方角がたいした意味を持たないような物件なr 面倒だからまぁ大きく違ってなければ、はいはい…てなもので。 おなじ感覚で「大通り挟で向かいには…」とか言っても実際はかなり斜め方向だったり するわけです。だからホントの向かいは「真向かい」と表現したりしますね。
なんで魏の役人が海をえんやこら渡って邪馬台国に来たかというと地理誌作成も あるでしょうが、なんといっても柵封調査が目的ですよね。 こいつらうまいこといっとるがホンマに王国として我が魏国の爵位を与えて いいんかいな、調べたろーということでやってきてますよね。 ですから、卑弥呼の王宮や住戸数なんかもその目で確認して本国に報告してると おもうから「何万戸…ウソだべ」とは多少の政治的誇張はあってもだいたいに おいて信用できると私は思うんですよ。でもその報告書を書いたのは一般役人で 学者じゃないし、まぁリーズナブルに字を使ったんじゃないかと。 ー爺の世迷言ですが。
「何万戸…ウソだべ」とは ↓ 「何万戸…」ウソだべとは必ずしも言えず
役人ってなにが嫌いって責任を取らされるのが一番嫌なんです。出世に響くし。 順繰りに定期交代で派遣される役人達が一番嫌がるのが、後任者に自分が やった仕事(報告etc)を否定・訂正されることなんです。 だから、伝聞でない魏の人間が直接記した報告内容はかなり信憑性が高いと 爺さんは思っているんですが。 話が流れちゃいました。すみません。
669 :
ローガン :2011/02/26(土) 15:09:04.20
>>653 どくだみさん。遅くなりました。ちょっと忙しかったので…
>>650 氏に追加。
其年十月,駿等自南海郡乘舟,晝夜二旬,便風。至焦石山而過,東南泊陵伽鉢拔多洲,西與林邑相對,上有神祠焉。
又南行,至師子石,自是島嶼連【接】。又行二三日,西望見狼牙須國之山,於是南達籠島,至於赤土之界。(隋書南蛮伝)
訶陵國,在南方海中洲上居,東與婆利、西與墮婆登、北與真臘【接】,南臨大海。(旧唐書巻197)
どちらも地続きではない例でしょう。
又、「同意」という訳ではありませんが、魏書崔エン伝引用司馬彪九州春秋に
「後徙徐州、以北海相自還領青州刺史、治郡北陲。欲附山東、外【接】遼東、得戎馬之利、建樹根本、孤立一隅、不與共也。」とあります。
>>654 氏(河童さん?)の主張するところを後押しする記述ではないですかね?
>>663 >ま、普通に考えて韓国南端部には倭人の領域があったと見るべきだろうな
では、韓国南端部も大海の中ですね
>>664 >倭人伝の方位なんてまぁ最後は出鱈目ですよね
具体的にどの部分でしょうか?
出鱈目ではなく、個人的に出鱈目と判断したに過ぎないのでは?
671 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/26(土) 16:17:13.56
>>663 前方後円墳や甕棺などの存在が証拠
甕棺は、縄文時代から存在するから、証拠にならない。
前方後円墳を半島占拠の後とすれば、323年以後。半島占拠は百済立国。
323年以前の前方後円墳が半島に存在するためには、伽耶(任那)の承認の元
伽耶地域を出ない。
400年前後の高句麗の南下で、百済は高句麗の属国となり、高句麗軍がソウルに常駐する。
百済の影響を受けずに、弱小国家群の馬韓は倭国の領土として存在する、その証拠が
前方後円墳。
馬韓が百済域でないことを、韓国考古学は認めている。
半島占拠が369年七支刀で説明されるなら、この時点で百済は大国として存在している。
この状態で、馬韓が独立している説明が出来ない。
倭国が高句麗による百済、新羅の領有を認めるのは、413年の東晋への朝貢であり
允恭天皇三年(甲寅四一四)正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。の記事で百済に対する
不遜な態度は姿を消す。
この記事は、414年で齟齬は無い。
台与は卑弥呼の大姪だったのか。卑弥呼と台与の関係について良く考え(妄想)します。 卑弥呼が女王になってから外との接触をほとんどしません。神秘性を保つ為には仕方ありませんが 高齢になってからの外部の接触のなさ・引き篭もりは寝たきりの原因にもなります。 相当鬱だったのではないでしょうか?そんな時たまたま台与が遊びに来ました。 「台与が婆に晩御飯持っていく」 「まあ!! 台与いつ来たのー大きくなったねぇ。ちゃんと良い子にしてるかい?」 「うん台与ね、幼稚園で褒められたんだよ絵が上手だって」 孫との話は尽きない。 卑弥呼は台与が可愛くて仕方がなかったのではないか。暗い部屋でほとんど誰とも話さない環境に あって台与はまさしく太陽、目に入れても痛くない。孫は可愛いよね。 慣れなれしく卑弥呼様に接するので業を煮やした召使の一人が台与を引き離す。 「台与を最近見ないけど、どうしたのかしら?」 「目障りなので里に帰しました」 「あの娘が戻ってくるまであたしゃ絶対占いしないから(怒)」 「嘘ぉ〜」 介護拒否ならぬ占い拒否。
>>670 >では、韓国南端部も大海の中ですね
まあ、そういうことになっちゃうのかな・・
「韓在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接」の文で、「西與中国」とはなってないし。
674 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/26(土) 16:26:24.33
あづないの罪。
あ=日、づ=月 無い。
晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。則日暉炳。日夜有別。
昼暗きこと夜の如し。すでに日を多く経る。時の人曰く、常の夜の行なり。
即ち日のカゲがきらめく。日を夜(闇)が別ける有り
日夜有別。とは
“日(昼12時間)”の中に“晝暗如夜”があり“已經多日”となる。
“日(昼12時間)”が単体であるから“日々”とすることは出来ない、
すでに日を多く経る(複数日)。と解釈した場合、“日夜有別”を
“日(昼12時間)が夜にバケル有り“とでも訳さなくてはならない。
日々を夜が別けても記事にならない。書紀は“日が夜に化ける“とは主著していないが
日が夜に化ければ、太国の主張する複数日の暗闇と成る。
>>624 太国:大噴火からの大噴煙が長期に渡って噴出され、これが天空を広くおおい
暗黒状態が続いたとか、こういう類の自然現象であり、
大噴煙であれば、地表から降灰が確認出来なければならない。
太国倍年がこの思考を使う限り、神功元年の歴年、暦日は得られない。
太国は、数日の暗闇が続くと主張する以上、太国倍年上の神功元年に
“日が夜に化ける“ をどの様な出来事であったかを分析し、主張しなければ、
太国の主張が正しいとできない。
675 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 17:10:54.54
どうして ア と ヅ が日と月になるのか? 暗雲だって日も月も見えなくなる。インチキだ! すでに多くの日を経るなら、当然日食にはならない。 オマエの強引に考えたデタラメの説明書き。
676 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 17:19:10.42
オマエのインチキ手法を真似れば、 ア は暗雲のア ヅ は噴煙の粉塵のジの詰まりで、これを ヅ という。 ↑ こんな解釈だ。つまりやろうとすれば、いくらでもインチキ論をゴリ押し が出来る。所詮妄想。これだと噴煙の降灰の説明がオマエの方法で抗弁 出来たことになる。インチキ・イカサマは、.モノは言いようだという ことだ。bbb ww
677 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 17:31:59.70
逆だというなら ↓ でもいい。 ア は明るい ヅ はヅッと続くことの意味 だから アヅ無い とは、 明るくなくヅッとだということになり、 天体の日も月も関係なく説明が出来たことになる。 所詮こういう手法は、なんとか説明が出来ないかといろいろとオマエが 脳内で盲象防衛のためアレコレ考えた工作からの論であり、こういうのは うっちゃり、スレぬけで盲象の基盤をがんばってるだけの言い訳に すぎず、そのウラも取ってまい。 つまりデタラメのがんばりの言い訳であり、説得力は全く無い。 長年研究して吟味、検討、ウラ取りをしてから組み立てた論ではなく、 妄想のシッポを即興に近くあれこれ工作して不合理でないようにいいわけ をオマエの脳内を絞って不自然に抗弁を滲みだした産物であり、そこには 言い訳のインチキの基盤反論が頑張り押したまでの不合理クラマシが 根底にある書きこみにすぎない。
678 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 20:43:09.55
ホツマツタヱとは昔のそんじょそこらにいる『オッサン』の書いた書で 妄想を多分い含んでおり、かつ当時の学術経験者のチェックを受けて ないところが多数のチェックを受けてる日本書紀と異なるわけで、 こういう書を記紀と同格あるいは記紀以上に格上げすることは出来ない。 少しは価値ある点が見られるが、記紀以上の優先は失敗の盲象に沈むこと から、ホツマ優先論は軽く一蹴、棄却するのが常道であ〜る。 勿論ホツマの暦法は田舎暦であるからして、朝廷の暦法以上にこれを 強調すると真の年代が撹乱される事から参考程度にして、しつこく使用 する考えは〜えらくマズいとされてよい。
679 :
どくだみ :2011/02/26(土) 21:22:21.35
>>657 わざわざありがとうございます。お手数をおかけしました。
ただ、榎一雄の論証がこの短い文だけだと、ちょっと納得できません。
史記匈奴列傳のボクトツ単于のエピソードのイメージが強いもので。
今日は、きちっとしたレスを書く余裕がないので、また後日レスします。
>>669 ローガンさん
お忙しい中、例文を要求してすみません。ゆっくりで良かったんですが。
それに、ちょっと僕の書き方が誤解を招いたようです。
絶対土地が連続していなければならないというわけではなく、
島嶼連【接】くらいだったら、僕も接でOKだと思います。
「九州と本州は接している」くらいはありでしょう。
ただ、始度一海千餘里の距離をへだてて、両岸の国が接するというのに首をひねるわけです。
それで接してるのなら、山東半島民と遼東半島民も接してるのかとか
台湾と大陸は接しているのかとか、
日本列島は樺太から台湾まで、全部接してるじゃないかと思います。
そういうかなりの距離の海を隔てて接と表現している例文があったらお願いします。
砂漠については、どうも漢書西域伝がメインのようなので、これは、また後日レスします。
680 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/26(土) 21:36:22.92
歴史読本2011年4月号ここまでわかった!邪馬台国の巻頭のガラス装飾品写真を見て 邪馬台国九州説の人が「大丹波王国」の存在に涙目になり恐怖する。
681 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 21:37:50.95
別に恐怖なんかしない!
682 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/26(土) 22:46:14.93
>>681 デブ国!勇気があるね。リビアが日給16万円で傭兵を募集しているから行って来い。金持ちになれるぞ。
683 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 22:55:59.19
半玉 そんなところに金印なんか出ないぜ。bbb
684 :
日本@名無史さん :2011/02/26(土) 23:08:30.21
太国さん 神無月巫女に金玉なんかあるわけないよ。 あ、間違えた。半玉と金印がごっちゃになった。ははは。
685 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 23:16:13.42
あいつは以前、曲学の徒さんの板で舞妓は〜んというコテハンを名乗って いたのさ。だから半玉と読んでるのだ。盲象は唐松山よりはマシだが、 かなり強いやつだぞ。w 半玉って、舞妓さんらのことだよ。玉代が半分だからさ。
ノノノハo∈ 从‘ 。‘) <神無月巫女は、いつもこのAA使って発言してほすぃ。
687 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 23:18:23.96
あっ、そうそう忘れたが、 読み方は ハンギョク って読むんだよ。
688 :
縦目仮面 :2011/02/26(土) 23:23:39.53
玉代が半分ですね。
>>680 丹国→近江→
東瀬戸内→
の合体による西日本制覇は、神功と仲哀の関係に象徴的に顕されている
と思う。
690 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/26(土) 23:30:38.29
691 :
日本@名無史さん :2011/02/27(日) 09:16:22.34
榎一雄の本なんて古本屋にいかないと購入できないからな
692 :
日本@名無史さん :2011/02/27(日) 09:47:06.27
そんなもの、ネットですぐ購入できるよ
ヤフー掲示板ってアホばっか集結してるよな 「バカ」「カス!」とかよく相手に向かって言えるな・・・・ 九州王朝歴40年だか、あのおっさんも2chではついて行けないようで まあ、いずれにしてもアホはあっちという事かw 比較的に甘ちょろいヤフー掲示板に逃げ込んだようだ。 鬼も黙る、恐怖の2ちゃんねる が合言葉の甘ちょろい、ヤフー掲示板 の図だな。
誤字すまん
695 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 12:29:20.83
>>676 妄想とは、この書き込みである。
ここは、渡海が何時であったかを決定する決め手として存在する。
任那建国が210年であれば、今の考古学と違和感が無くなる。
魏使は狗邪(カヤ=任那)で邪馬台国(大和)の存在を知る。
倭国統一を果たす(古墳の全国展開)
渡海(晋の時代)
半島占拠(晋の滅亡)
文献史学は、何一つ 整合性を得られていない。
魏が半島を管理する時代に 任那建国は無い。
しかし 箸墓の作られたとき大和に大量の”鉄”が存在する。
七支刀=369年。百済が前燕に帰順した時代に東晋の年号は使わない。
その証拠に 16日丙午は、存在しない。
最大の間違いは、半島占拠が肯定されない。
696 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 12:53:38.23
>ホツマツタヱとは昔のそんじょそこらにいる『オッサン』の書いた書で 大成経の事だろ? この程度なら、旧事記に妄想を盛るだけで出来る。
697 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 13:36:45.66
210年が正解だとの保証はどこにもない。オマエのご都合によって恣意的 表見的論説に偽装した取捨選択から〜新羅文献を勝手に肯定してるだけ で、百済文献がダメで新羅文献だとかの理由の説明が抽象的であり、 全然なってない。これは42年の解説を怠けている(←説明出来ない)こと からだろう。120年前後の年代差があって、半島の年代を軽く特定出来 ると言ったら、眉にツバをつけていい。ww オマエ、ホツマツタヱとコチラが書きこんでるのが見えないのか? ホツマツタヱは大成経ではないんだよ。よく書きこみを読め。 ?は〜 いやホツマのことだよ。こちらは大成経をオマエのようにカルト式賞賛も していな〜い。大成経も確かにただのオッサンが書いたもので、内容には 誇張と年代設定記述の誤りがあり、まぁホツマは5級、同経は3級程度 だな。ホツマより同経のほうが記載がずっと長くしかも詩的七五調で ない通常の記載方法だから欠が少なく、程度は大成経のが幾分上だ。 いずれにしろこの二つは独り免許的古文献であるから、その扱いは 多数の学者らがチェックして編とした日本書紀とはランクがかなり下で あり、特にホツマツタヱは詩的文献で表現性が七五調のワクにはめこまれ ている欠陥から、えらくランクは下降する。
698 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 13:49:25.14
大成経なんて、大して評価はしていないんだよ。それは例の超新星の記事 はだいぶ評価できるが、他の点でもまだいい面もあるもこの書もオマエ のよくやる誇張が幾分あり、やはりホツマ同様独り免許的書であり、 3級史料だな。ホツマは記載が同経より劣り景行までのトカゲの尻尾切り でかつ詩的拘束の七五調記述方式がさらに点数を下げるわけで、おまけに ホツマは女性の日神を男神と妄想を書きこんだことが莫大に点数を下げ るわけで、これでは少し評価できる点があるも、せいぜいただのオッサン の妄想付加で書いた5級なる史料だということだ。ww
699 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 13:53:06.56
>文献史学は、何一つ 整合性を得られていない ははぁ〜そうかwww 文献ホツマが不整合だということだな。ppp
700 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 14:04:42.60
>ははぁ〜そうかwww 文献ホツマが不整合だということだな。ppp その通り 太国倍年に整合する文献は存在しない。 その証拠として、太陰暦で書かれた日本書紀は、太国の主張する倍年で書紀の干支を得られない。
701 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 14:30:52.07
任那建国=大和に鉄が流入する=箸墓以降の古墳=大量の鉄器副葬。 箸墓は卑弥呼の時代に作られる。 しかし卑弥呼の死亡時は、乱の最中であり、人足も集められない。 作られたときには倭国統一が成っている。 だから考古学は、箸墓を最初の大王と表現する。 この時点で九州王朝は存在出来ない。 文献編年の齟齬で、九州王朝は存在しているだけであり、その存在位置も確認出来ない。 神功渡海で渡海ルートは大和が管理する。九州王朝に鉄が流入することは無い。 だから、神功渡海を否定する。書紀の主張を否定したならば、書紀で編年出来ない。 そこで、書紀の太陰暦を否定する”倍年”なる思考方法が開発されたわけであるが、 書紀を否定して出来た倍年に、書紀を正しいとする主張は出来ない。 210年 伽耶(任那)建国。 274年 渡海、 273年 日食。 323年 半島占拠、 326年 七支刀。 これが、正しい書紀の主張である。 太国は駄文で否定しても、書紀の主張するこれらを編年に組み込めない。 否定するときは、駄文でなく これらを数字で示す必要がある。
702 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 15:24:06.12
>>700 抽象的否定はけっこうだ。その具体性がまるでない。単に否定の超抽象的
御託を並べたに過ぎない。否定のための否定だから、まるで具体性が
みられな〜い。
ホツマは昔のただのオッサンの妄想書きを入れた記述の5級史料。
703 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 15:27:12.39
>>700 >その通り
はは〜ん。認めたわけだ。ww
そうか〜、ホツマは不整合文献だとオマエから言うんだから、手間が
省ける。ppp
ただの『オッサン』が書いてノー・チェックなんだから当然だな。
704 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 15:43:07.60
>>701 そんな編年は無説明同然であるから、ただのこうだ〜〜と強行結論
だけであり、これでは誰も信じる間抜けはどこにもいな〜い。せいぜい
脳内が精神病等でいかれている奴ならば乗ずるだろうが、賢脳の常人には
信じてもらえな〜い。そんなものは書紀の主張ではない。また5重在位
なんかも書紀主張ではなくオマエの日本一クラスのキング・妄想論で
あ〜る。嘲笑されるのがオチ。
705 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 15:43:34.84
ホツマ≒書紀 数字的には両書ともほぼ同じである。 主張の違いは、見解の違いまで。 だから、ホツマを否定すると、書記の主張を認めないことになる。 だから、任那、渡海、占拠の無い場所を正しいとする主張まで現れる。 両書とも、任那建国は崇神時代である。 その前の崇神5年 書紀:疫病、ホツマ:凶(エ) どちらの主張も同じである証拠が、崇神6年の民の離散。 逃散は凶年(エトシ)の年から翌年春にかけて起こる。 書紀の云う民の疫病とは、餓えの病であり、朝廷に及ばない(朝廷には食料の在庫がある) この年を記念して鏡に彫る事はない。
706 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 15:52:03.41
食料の在庫があるなら、食人なんかする必要もな〜い。つまりオマエの 言うことは自語相違のいい加減な即興反論で、なんら相手へ、こういう 矛盾にて説得力が全く無い。在庫があるなら離散もする必要もなく、 畿内に留まっていればいいことだ。ブワッハッハ! もうインチキは よしてくれよ。wwww 書紀とホツマが似た者同士だと言ってもそれは誇張で似てると言って るにすぎず、似てるなら景行より後代のホツマの文を出してみろ。ww
707 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 16:04:20.67
唐松山よ ホツマは昔のそんじょそこいらにいる〜ただの オッサン が書いた素人 人間同然の者の記載の書物であるということを早く自覚することだ。 当然無チェックであるから日神を男神などとひどい妄想が書かれて いるわけであり、おまけに七五調は美麗性があるもそういう制限ワク内 にての記載である関係上、記紀には詳細に至る説明においてだいぶ劣って いるのだ。日本書紀は朝廷の学識経験豊富な連中が多数の原書を調べ つくして成った書であるからしてバックには多数の文献の後押しが確実 にあるわけで、到底ホツマは記紀に刃が立たない。 それにホツマの暦法は田舎暦の正確をぬぐえず、それはそれで当時 いろいろな暦の存在があったことを認められる根拠となりえて参考 にはなるが、これを朝廷の暦法を覆してこうだ〜〜〜と塗り替えるのは 確実に失敗が待っている。そういう書を賞賛するのは悪くはないが、それ を超えて記紀以上に権威あるようなまたあるようにゴリ押し賞賛するのは ダメだということなんだよ。wwwww
708 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 16:12:49.83
>>707 訂正
× それにホツマの暦法は田舎暦の正確をぬぐえず
○ それにホツマの暦法は田舎暦の性格をぬぐえず
709 :
日本@名無史さん :2011/02/27(日) 16:39:08.98
太国さんと唐松山さんの争いは倭国乱の期間に合わせて終るのかな?
710 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 16:45:17.03
>ホツマの暦法は田舎暦の正確をぬぐえず、 書紀の太陰暦とホツマの太陰暦はほとんど同期する。 であるならば、書紀の暦法もホツマも同じ。 ホツマを田舎の暦法とすれば、書紀の暦法も同じである。 太国がこんな思考だから、太陰暦に直せない 太国倍年が生まれる。 太国倍年は、どんな田舎にも存在しない暦法。朝廷ではさらに使い物にならない。 そこで、書紀の主張も認めない太国倍年の実態。 他国の文献を否定し、考古学の主張も認めない。 箸墓の作られた3世紀中葉から後半以後、大和が倭国の盟主である。 纒向の3世紀中葉の大型建物の時代以後、大和が倭国の盟主である。 ここに崇神を配しても、纒向遺跡の説明が出来ない。 ここに九州王朝を設定しても九州王朝の実態を出来ない。
711 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 17:18:32.93
オマエこそ太陰暦に直せない張本人なんだよ。それだけ言うなら、まず それを言うオマエが具体的なる見本を示しただどうだ。 いま一度言う。オマエはそんな思考だから、太陰暦に直せない。当然 だな。なにせ数日間も日食が続くなどという奴が、日がどうの月が どうのなんぞ言える資格なんぞ無いと言っていい。ww これこそ ニガクリタケをクリタケで食せるとか言う危険な話同然の論で あり、いくらオマエが薦めてもこちらも各スレ民も食しやしない。>< 考古学の主張も認めてる所はある。崇神6年に倭笠縫で日神とその重大 御霊代の『鏡』を祭祀している。このため畿内から多出する『239年鏡』 の年代が崇神6年あたりに近接することが当然だ。 つまり 237年=崇神即位元年 は整合している。同年ころ在庫があるの に、食人してという自語相違の不整合とは大違いだな。ww
712 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 17:56:58.50
正始元年鏡の方が景初3年より多い。 これは、正始元年 東倭重譯納貢,を表す。
713 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 18:12:45.36
じゃぁ数字を見せてみろ。具体性がまたまた無い。 オマエ、なんでいつも具体的説明をしないんで誤魔化のか?
714 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 18:18:28.42
倍暦計算から、正始元年だって 紀の崇神10年(正始元年)=240年=239年+1年 だから、239年の翌年であり、翌年ならまだうんと出るのが当然だよ。 何らおかしくないぜ。
715 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 18:47:58.00
景初4年でなく正始元年を知るためには、魏と連絡が取れていなくてはならない。 書紀から見れば、朝貢の確認出来る景行元年。 ホケノ山に田道間守(半島系)の殉葬。考古学の主張と齟齬を生じて居ない。 民の大量死した崇神6年に設定出来ない。 古墳が鉄の流入後であれば、210年伽耶建国を設定出来る。 そして240年頃ホケノ山、ここから箸墓までに古墳築造の空白。この空白が”倭国乱” 260年頃箸墓の作られた時代には、大和に大量の鉄があり、大量の人民を動員して築造される。 纒向遺跡を説明するためには、2世紀末から説明出来なければ成らない。 ここに崇神を配すと、辻の大型建物も、垂仁、景行で説明出来る。 237年崇神元年とした場合、書紀の記事は無視される。 書紀の記事を無視して編年された太国倍年は、書紀と整合性を得られない。 だから、任那、渡海、占拠が主張出来ない。 書紀の主張を信じるなら、鏡より重要である。 しかし鏡は3世紀後半の大型建物と同期する。鏡で主張出来るのは、東倭重譯納貢である。
716 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 18:55:42.19
>>712 正始元年 ↓ は240年だから近接で239年の翌年であり、不合理は無い。
皇紀 西暦 倍暦
564 -97 237 崇神天皇 即位 景初元年
565 -96
566 -95
567 -94 238
568 -93
569 -92 倭笠縫に日神とその御霊代の『鏡』を祭祀する
570 -91 239 景初3年(←景初3年鏡 銘文の年代)
571 -90
572 -89
573 -88 240 正始元年
574 -87
575 -86
・・・・・・・
631 -30 259 崇神天皇 崩御(古事記崇神没年干支 258年に1年ズレ)
717 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 19:07:42.19
古代からの贈り物たる真の年代を計測する天下の宝器→天津神算木 大祓祝詞に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」 天津神算木(天津金木)とは三輪(半径3の円)の球化の数式をいう。 4πr**3/3=113.09733552923・・・(r=3: ** はべき) 分断の天津神算木(天津金木)は 3≠113.097335 三輪山に因み、右辺数列を3分すれば 113 097 335 から 113←崇神即位の月日数 1/13 097←崇神即位の見かけ年代 B.C.97年(先頭0は西暦元年を示唆し除去) 335←崇神即位の真の年代への誘引ジョーカー数 335年 -97+335=238年 西暦0年を除くから1年分マイナスとなり 238−1=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年 の真の年代が得られた。他の編年はデタラメである。
718 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 19:30:05.81
崇神が魏の暦を知っている≠倍暦。 暦≠倍暦=太国の思考。つまり太国の思考≠暦となる。 だから太国倍年は、書紀の暦に変換出来ない。 考古学の数字を否定しても、書紀を信じれば 崇神6年民の離散=唐古・鍵遺跡の放棄=弥生後期と末期を別ける。 唐古・鍵遺跡の放棄を240年頃で説明出来なければ成らない。 倭人伝に記載された年代に、戦はあっても住居区放棄は無い。 ここへ九州王朝の進出を入れようとしても、畿内安穏でチョン。 九州王朝は箸墓以後に存在しない。 太国が数字を列記しても、後代に作られた景初3年銘しか割り当てられない。
719 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 20:06:50.63
オマエは忘れたふりが下手だな。ww 曲学さんの板で勘注系図で、成務の編年を倍暦でやって反論しあったのを 忘れてはいまい。景初3年だけでなく、こういう編年をもちゃんとやって るぜ。乙祁即位の499年だってそうだろう。成務とかなんか、やろうと 思えばいくらでもまた書きこめる。
720 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 20:14:47.41
>>718 上段の批判なんか相変わらず抽象的で、否定のための無味乾燥な否定文句
で、これっぽっちも具体性の無いインチキ反論の詭弁であり、こんな正規
の反論でないメッチャクチャを書きこんでるオマエの脳内には、もう
持ち駒の持ち合わせがないことが滲み出てるのが自明。ww
九州王朝は年号が出てるから、オマエがほざこうと葬れないね。つまり
景行の代に日本統一なぞ、オマエの創作のデタラメだ。
ホツマは昔のそこいらにいる〜ただの おっさん の書いた妄想交じり
の書なんだよ。
721 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 21:12:55.44
景初3年から499年迄は270年もある。 この間で幾つ時代設定をできるか? 渡海、半島占拠、高句麗の南下、武寧王の誕生も説明出来ていない数字である。 弥生後期後半 銅鐸は捨てられる。唐古・鍵遺跡が捨てられるのと同期する。 これが、景初3年であるとするには、かなりハードルが高い、高すぎるしかし説明は必要である。 193年頃の凶作であれば、整合させられる。 >九州王朝は年号が出てるから、 書紀に書かれていない年号を、何年に特定する?そして何処で使われた? 北九州は、景行以来大和朝廷が管理し、熊本はピンク石を畿内に運ぶ。
722 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 22:16:02.72
管理なんかしちゃいないぜ。 何ならどこに管理と書いてあるんだ? オマエが何かの鉱石を拾ってくると、オマエが拾った場所を管理したこと になるのか? ならない。そういう強引さが妄想に拍車をかけるんだよ。 オマエ精神病院へ行って診察してもらったほうがいいよ。こんなんで 管理に飛躍してしまうんだから、もう相当精神的に脳内がどうかして いる?
723 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 22:19:55.80
石を運んだことくらいで、管理したことには全然ならない。 天皇が日本統一したのは景行ではなく、文武、元明の頃だ。景行は崇神 のお助け役、引き立て役の天皇様で、天津金木を見れば一目瞭然だ。
>>723 >天皇が日本統一したのは景行ではなく、文武、元明の頃だ
そうすると文武、元明の頃に半島人は日本を統一したわけですね
725 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 22:36:04.56
いや、そんなことは言ってませんよ。
天皇が朝鮮人でもいいじゃない
そうだな。朝鮮はもう一度日本の属国となるべき。
729 :
どくだみ :2011/02/28(月) 02:03:04.87
>>650 とりあえず、明史の記述についてのみですが。
まず契丹・女直は実際に地続きで接してますので除外して、南接倭について。
僕は明史のことは良く知らないのですが、明史では、倭と日本は区別しているようですね。
国を指して言う場合は日本と書いて、倭は倭寇のように思います。
ですので、この場合、接している倭は日本ではなく倭寇勢力と考えるべきだと思います。
倭寇について、ウィキペディアに書いてあったことですが、
「倭寇の正体について、村井は、当時国家概念が明確ではなく、
日本の九州、朝鮮半島沿岸、中国沿岸といった環東シナ海の人々が
国家の枠組みを超えた一つの共同体を有しており、
村井は彼らを「倭人」という「倭語」「倭服」といった独自の文化をもつ「日本」とはまた別の人間集団だとし、
境界に生きる人々(マージナル・マン)と呼んでいる。
村井によれば、倭寇の本質は国籍や民族を超えた人間集団であり、
日本人、朝鮮人といった分別は意味がないと述べている。」
村井という人のいう倭人が、「南接倭」の倭だと思います。
そして、三国志韓伝の「南與倭接」の場合も、民族構成は違うかもしれませんが、
倭人の勢力の在り方として、列島のみではなく、対馬海峡と半島の沿岸も含んでいたのだと思います。
對馬國も一大國も船に乗って「南北?糴」しています。
後年の遣唐使のせいで渡海は命がけのようなイメージが強いですが、
3世紀の倭人は日常の食料を手に入れるために、日常生活の一部として対馬海峡を渡っていたのでしょう。
>>729 > 国を指して言う場合は日本と書いて、倭は倭寇のように思います。
十九年十一月奏,倭酋關白平秀吉聲言明年三月來犯,詔兵部申飭海防。
平秀吉者,薩摩州人,初隨倭關白信長。
會信長為其下所弑,秀吉遂統信長兵,自號關白,劫降六十餘州。
朝鮮與日本對馬島相望,時有倭夷往來互市。
どうなんでしょう? けっこうテキトーな気がしますが。
>>729 どくだみ氏のこの分析は、なかなか興味深い。
三国志には「倭人在帯方東南大海之中。依山島為国邑。」とあるし。
倭国は海人国家なので、海岸沿い一円を支配していたのかも。
天=海=あま、なのか。
732 :
日本@名無史さん :2011/02/28(月) 07:05:22.82
倭地温暖。倭=倭寇では意味が通じないかな。
733 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/28(月) 09:34:49.41
倭とは、帯方郡から見た 東南大海之中にある地名。 そこに住む人を倭人、倭種といい、その地を倭地という。 その中にあって外交関連での政治的な括りを倭国という。 だから倭国は倭地全体を指すわけじゃなく、倭地の中の外交的に関係する括りを指す。
734 :
日本@名無史さん :2011/02/28(月) 17:28:40.75
>>733 >だから倭国は倭地全体を指すわけじゃなく、倭地の中の外交的に関係する括りを指す。
いまいち、イメージがつかめないな。
>>734 >いまいち、イメージがつかめないな。
倭地とは倭人が住まうとされてる帯方東南大海之中。つまり大海の中に存在する島
その島の中で王朝と交流がある地域を倭国と言ってるわけ
王朝から見れば、島の中の一部を支配する地域であっても、その地域が倭地の代表地域であるから
その地を倭国と外交上称するわけなのよ
736 :
ローガン :2011/02/28(月) 17:40:11.39
>>729 >村井という人のいう倭人が、「南接倭」の倭だと思います。
> そして、三国志韓伝の「南與倭接」の場合も、民族構成は違うかもしれませんが、
> 倭人の勢力の在り方として、列島のみではなく、対馬海峡と半島の沿岸も含んでいたのだと思います。
>>358 の「韓伝に南與倭接とあり、其?盧國與倭接界とあるので、邪馬台国は半島に進出していた。 」との主張と整合しないように思いますが…
さておき、勿論、半島に倭と呼ばれた人がいた事については、議論があるでしょう。
三国遺事は、紀異第二南夫余前百済北夫余条で、旧唐書を引用「東北新羅西渡海越州南渡海至倭」と。
又、新唐書を引いて「百済西界越州南倭皆?海」(皆、海をこゆる)としながら、
塔像第四皇竜寺九層塔条では「我国北連靺鞨南接倭人」と記述します。
金海城婆娑石塔条では、金海での創寺により「以鎮南倭」。
又、三国史記新羅本紀実聖尼師今七年二月条では「王聞倭人於対馬島置營貯以兵革資?以謀襲我」
新羅攻めの拠点が対馬にあるという事は、倭の主体が日本にあると捉えて良いと思います。
737 :
どくだみ :2011/02/28(月) 20:16:32.86
>>730 朝鮮出兵のことを記した部分ですから、秀吉は倭寇の親玉みたいな扱いなんじゃないでしょうか。
>>650 の例文は、太祖が高麗の使者に「軍備はちゃんとやってるか」と問うと、
「仏教を信仰してますが、軍備までは手が回りません」と答えました。そこで書を送り、
「仏教を信仰しても軍備が御座なりじゃ国は守れんぞ。北は契丹・女直と接していて、
南は倭と接しているだろ。しっかりしろ。」という勅書を送ったという話です。
太祖即位二年とあるので西暦1369年で、このころ日本は南北朝に分裂して争ってます。
秀吉の文禄・慶長の役より250年くらい昔で、とても日本が朝鮮半島に攻め入るような情勢ではありませんが、
前期倭寇が盛んな時期にあたります。またウィキなんですが、
「1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。」
とあります。
高麗が軍事的に備えなければならない相手と考えると、この倭と接すというのは、やはり倭寇だと思います。
738 :
どくだみ :2011/02/28(月) 20:23:12.74
>>732 >倭地温暖。倭=倭寇では意味が通じないかな。
倭=倭寇は、あくまで明史の話で、倭人伝の倭人が倭寇のように海賊行為を働いていたとは考えていません。
>>736 ローガンさん
>主張と整合しないように思いますが…
僕は同じ主張のつもりで書いたのですが、なんで整合しないと思われたのかなあ。
>倭の主体が日本にあると捉えて良いと思います。
接の話ではなく、明史の倭が倭寇だという話でしょうか。
だとしたら、明史の編纂者がそういうつもりで書いたのだろうということですので、
他の書物では自ずから違う観念で言葉が使われていてもおかしくないと思います。
<登場人物紹介> 唐松山氏 :九州/畿内説、日本書紀・古事記、卑弥呼は九州で邪馬台国は畿内、ホツマ・年代論、景行天皇、最近では考古学 ローガン氏 :畿内説、考古学、考古学者の本を基礎に、論文、三国志、遺跡調査 メ氏 :畿内説、倭人伝、倭人伝から古代史をみる、神社、古代史の旅、宇佐、古代史全般 太国氏 :九州説、日本書紀・古事記、邪馬台国九州中部論、倍歴、古神道、卜事、天津金木、年代論 レス長たらし毘古氏 :?説、日本書紀・古事記、記紀から邪馬台国を、日本神話、記紀分析、天照大神、スサノオ 人豚氏 :畿内説、幅広い学問、畿内説王道派、三国志、高学歴?、高レベルを好む? 愛知県民氏 :九州説、日本書紀・古事記、九州東部を邪馬台国とする、宗像三女神、伊吹山、三輪山、森 浩一の本 河童虫氏 :九州説、魏志倭人伝、魏志倭人の解析から、言語学、漢字学、虫論、行程記事解析、中国史 ポキール氏 :?説、教科書?、皆のレスから邪馬台国を、古代史を始めたばかり、倭人伝の記事 名無し(ジョーカー)氏 :畿内説、考古学、考古学者の本が基礎、考古学からみる邪馬台国、九州説論者批判、畿内vs九州 水銀厨氏 :畿内説、考古学、水銀からみる邪馬台国論、朱、宇陀、ベンガラ 神無月巫女氏 :畿内説、海部氏系図、籠神社の海部氏に伝わる系図から古代史を観る、日女命、九州説は許せない 無識爺さん氏 & 伊作氏はよく分からないので誰か宜しく。
741 :
日本@名無史さん :2011/02/28(月) 21:08:20.75
<登場人物紹介> 唐松山氏 :漢文を自在に読む(無茶苦茶読み)。 ローガン氏 :論点そらしに長ける。 メ氏 :マメだが軽薄。 太国氏 :人畜無害の域に達した。 レス長たらし毘古氏 :妄想に生きる。 人豚氏 :普通の人になりたい人 愛知県民氏 :温厚な紳士 河童虫氏 :冗談に命を懸ける。 ポキール氏 :旧名は?目?面。 名無し(ジョーカー)氏 :畿内説、考古学、考古学者の本が基礎、考古学からみる邪馬台国、九州説論者批判、畿内vs九州 水銀厨氏 :水銀中毒。 神無月巫女氏 :老人性オカマ。
742 :
日本@名無史さん :2011/02/28(月) 21:09:59.13
名無し(ジョーカー)氏 :ゴミクズ。
743 :
どくだみ :2011/02/28(月) 21:13:35.07
>>650 唐会要の例文ですが、これも証拠としては、ちょっと難点があります。
サイトを見て回っていて、訳が間違っているのが2,3あったので、まず念のため訳します。
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。
仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。
(仍云の後から)
王国(倭国)と新羅とは接近している。新羅は以前から高麗百済から侵略されている。
もし危急のことがあったら、倭王よ、兵を遣わして新羅を救え。(書の内容はここまで)
倭国の東の海の島の野人には耶古・波耶・多尼の三国が有り、みな倭に附庸している。
北は大海に限られ、西北は百済と接し、正北は新羅に抵(あた)り、南は越州と接する。(後略)
「新羅素為高麗百濟所侵」は、新羅が主語の受身表現です。新羅が攻めていたのではありません。
「倭國東海嶼中野人」は、「倭国は東海嶼中の野人」と訳したくなりますが、それだと文脈がおかしくなります。
それに、倭人伝の「帯方東南大海之中」という表現と比べても、
「倭国の東の〜」と読むべきだろうと思います。
つづく
744 :
どくだみ :2011/02/28(月) 21:15:15.89
本題ですが、倭国の東にあって、北が大海で、しかも西北で百済と接し、 真北が新羅で南が越州(杭州の付近)というのは物理的に不可能な配置です。 (板本によっては越州と接するのは西南となっているものも有るようですが、 どちらが正しいかはわかりませんし、どちらにせよ物理的に不可能です) あるサイトでこの三国は屋久島・隼人・種子島だとありました。 通説かどうか知らないのですが、そうだとすると、やはり実際と文章が食い違います。 この部分、新唐書では 其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州,有絲絮、怪珍云。 となっています。 正北抵新羅→北距新羅 西北接百濟→西北百濟 南與越州相接→西南直越州 と改変しています。 抵→距は、「ふれる・くっつく」の抵から「はなれている」の距に変わっています。 新唐書の編纂者が唐會要を見たのか、その元資料を見たのか分かりませんが、 唐會要の記事はおかしいと思ったのかもしれません。 そういうわけで、唐會要編纂者の頭の中にどのような地図があったのか分かりませんので、 海を隔てても「接」を使う証拠とするには、ちょっと厳しいと思います。 漢書西域伝については、また後日レスします。
745 :
縦目仮面 :2011/02/28(月) 21:16:13.84
誓って(さんざん工作をしたので信用度はないでしょうが)ポキールではありません。w あれ、河童さんじゃないの?
746 :
日本@名無史さん :2011/02/28(月) 21:19:08.33
え?縦目って今リビアで戦っていると聞いたが…
747 :
縦目仮面 :2011/02/28(月) 21:20:52.77
もうすぐあっちに行くことは確か。ま、メソポタミアを見てきますね。
748 :
ローガン :2011/02/28(月) 21:30:14.80
>>738 >僕は同じ主張のつもりで書いたのですが、なんで整合しないと思われたのかなあ。
>>729 >村井によれば、倭寇の本質は国籍や民族を超えた人間集団であり、日本人、朝鮮人といった分別は意味がないと述べている。」
>村井という人のいう倭人が、「南接倭」の倭だと思います。そして、三国志韓伝の「南與倭接」の場合も、
と書かれていたので。半島の「倭人」を指して、列島の盟主国に所属しない人々の事だ。という見解をお持ちなんだと読みました。
とすると「邪馬台国は半島に進出していた。」 とは、合わないなあと思ったんですが。
誤解ならごめんなさい。
>接の話ではなく、明史の倭が倭寇だという話でしょうか。
いえ。三国遺事、三国史記に出てくる倭が半島に住む倭人なのか?日本に主体を持つ倭人なのか?
上に挙げたような文面から、日本列島の倭と考える訳です。
その三国遺事に「南接倭人」とあるので、海を隔てていても「接」と書かれて良いと思います。
又後程。
まあ現在の国境線だの民族だのと言った概念は取っ払う必要があるのは確かなんだろうなwww
>>739 >河童虫氏 :九州説、魏志倭人伝、魏志倭人の解析から、言語学、漢字学、虫論、行程記事解析、中国史
最近になって分かったことだけど、河童さんの得意な分野は経済学。
751 :
日本@名無史さん :2011/02/28(月) 21:54:38.66
てかデイトレだろう?w あと言語学とかじゃなくてあくまで言”意”学なwww
>>741 >河童虫氏 :冗談に命を懸ける。
座布団10枚
>>570 >得意な分野は経済学。
経済学なんて学んだことないし、必要な事以外知らない
>>751 >てかデイトレだろう?w
一日中張りつけないし、持ち越しも結構あるのでデイトレじゃないよ
どちらかというとスイング
>>737 > 秀吉は倭寇の親玉みたいな扱い
倭酋關白平秀吉 倭關白信長 は「倭寇の親玉」ですか。確かに“倭酋”は卑称でしょうが、
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。
と評した相手を「倭寇の親玉みたいな扱い」なのでしょうか。
同書「外国三 日本」をみると
日本故有王,其下稱關白者最尊,時以山城州渠信長為之。
とあるので、“倭關白信長”は「倭寇の親玉」ではなく「日本の関白」という認識があることは明白です。
この場合の“倭”は卑称もしくは敵視するゆえの卑称であり、国を指すとみてよいと思われます。
ひるがえって太祖即位之二年の記事。その前段に
其國北鄰契丹,西則女直,南曰日本,
とあり、書諭之曰、の
王國北接契丹、女直,而南接倭,
の“倭”は、この“日本”に対応する卑称であり“倭国”を表すものかと思います。
【新エース】 オピニオンリーダー・どくだみさん 【旧エース】 スレをまわすのは俺の役・河童虫さん 【中途半端なエース】 考古学の鬼・ローガンさん 邪馬台国スレの三人のエースに頑張ってもらおうよ(笑)
とよたん厨は?
>>744 > 唐會要編纂者の頭の中にどのような地図があったのか
現代のわれわれと同様の地図が(頭の中に)あったと想定する必要はないでしょう。
であれば「物理的に不可能」と悩む必要もないのではないでしょうか。
『魏志』倭人伝の記述からは中国人の倭に対する地理認識が“南北に長く連なる島嶼”であることがうかがわれ、
混一彊理歴代国都之図からはそれが後世まで受け継がれていたことがうかがわれます。
いずれにせよ、百済、新羅、越州と接している陸地が(彼の頭の中にも)存在することはないと思います。
757 :
ローガン :2011/02/28(月) 23:57:23.88
>>754 >【中途半端なエース】考古学の鬼・ローガンさん
とんでもない。今の流れにはついて行けへん。
わたしゃ単なる、仏教美術オタク。 ちなみに昨今の仏像ブームでモテモテ。熟々女に。
758 :
仏像 :2011/03/01(火) 00:08:56.58
ケッ (泣)
ローガンって、大正か昭和一桁生れにしか思えないが、 自称戦後生まれ(昭和30年代)だというのが信じられない。 たぶん本当は尋常高等小学校→旧制中学だろう。
760 :
日本@名無史さん :2011/03/01(火) 11:47:55.97
俺も昭和三十年代生まれだからわかるけど、 基本的学力と教養が、二十代から三十代の人から見ると 信じられないくらい「学者」に見えるらしい。
>>760 でも例外はどこにでも転がっていて、ほら
河童は馬鹿の代名詞だ。
無知識、無教養。知性の欠片もない。
誰か 延喜式の主計寮の上・下(巻24・巻25)を 現代人にもわかる様に(現代語訳)してあるホームページを 知りませんかのう?
>>761 >でも例外はどこにでも転がっていて、ほら
河童は馬鹿の代名詞だ。
無知識、無教養。知性の欠片もない。
おい、それってラブレターか?
age
765 :
日本@名無史さん :2011/03/01(火) 21:35:58.74
今夜のNHK歌謡コンサート、生放送で、園まりちゃんが、「逢いたくて逢いたくて」を歌ってくれる・・・・・筈だった。
ところが・・・・・・・・。
番組冒頭で小田切アナ、なんと無情にも、「園まりさんは病気欠場です、悪しからずご了承を」・・・・・・。
うわあああああああああああああ〜〜〜〜ん(泣)
まりちゃ〜ん、逢いたいよおおおおおおお〜〜〜〜〜!!(絶叫)
http://www.youtube.com/watch?v=2zaAvdjrPTM
766 :
どくだみ :2011/03/01(火) 22:22:10.48
>>748 ローガンさん、言葉足らずですみません。
明史の「而南接倭」という部分の倭は、日本の朝廷の目を逃れて海賊行為を働いている倭寇と思っていますが、
倭人伝の場合は、そうは思っていません。
30国の中には内陸国もありますが、對馬國や一大國は海洋国家でしょう。
だから倭人の中には海の民としての文化を持つ集団もいて、
そういう人々は、九州沿岸から對馬海峡を挟んで半島沿岸まで勢力範囲に納めていたのではないかと考えています。
その勢力範囲の地理的在り方が、後代の倭寇の勢力範囲から中国沿岸を除いたものに似ているのではないかということです。
「民族構成が違う」と書いたのが、和人と朝鮮人の混成だとか言われる後代の倭寇のように、
列島の権力の外にいる人ということではないというつもりだったのですが、言葉が足りませんでした。
>その三国遺事に「南接倭人」とあるので、海を隔てていても「接」と書かれて良いと思います。
了解しました。他の方からの宿題もありますので、ひとつずつ、検討したいと思います。
ぼちぼちやってますので、忘れたころのレスになるかもしれません。
>>762 延喜式の主計寮の項にあがっている各国稲束数って、生産量じゃ無いんだろうな
その数字は式で定めた正税・公廨・雑稲の定額であって、いわば国ごとの会計額というか予算額
つまり税として取る稲束数だから、全生産量の何パーセントかに過ぎない値になる
762さんは、その数字で邪馬台国の7万戸が九州内に存在可能かどうか調べたいとかですか?
769 :
どくだみ :2011/03/01(火) 23:00:42.87
>>753 これも言葉足らずだったかなあ。おそらく、
>>753 さんの持ってる倭寇のイメージと
僕が言った倭寇ではギャップがあるのでしょう。
倭寇という言葉のもとは「倭寇○○(倭○○を冦す」だそうです。
これは匈奴についても同様に「匈奴冦○○」と書かれます。
匈奴は、漢の高祖劉邦を白頭山で破り、以降武帝の時まで、
漢の皇帝に匈奴単于を兄と建て毎年貢物をすることを強制しました。
それでも、中華秩序の立場からは、匈奴という蛮族の冦でしかないのです。
倭寇についても、その実態が、海賊集団であろうと秀吉率いる国家であろうと、
中華秩序に挑戦する者は、みな蛮族倭の冦だということです。
朝貢し大人しくしている限り、国は日本王国であり、その長は日本国王です。
しかし、中国に服属している半島を攻めるということは、中華秩序に対する挑戦であり、
それはもう中華世界の王ではないし王国でもありません。
ただの蛮族の酋であり蛮族の国です。
太祖のころは日本の朝廷は南朝にしろ北朝にしろ、中国・朝鮮と事を構えていませんので、
朝廷は中華秩序の中の日本国であり、九州あたりに住んで海賊行為を働いているのが倭だったわけです。
それが秀吉の朝鮮出兵で、日本全体が中華秩序を乱す蛮族倭という扱いになったというわけです。
つまり、明史では状況によって倭が日本のことだったり海賊だったり、意味が変わるのです。
蛮夷も礼を備えれば中華の一員となり、中華の一員も礼を忘れれば蛮夷となるというのが春秋の思想で、
歴代王朝で、ずっと受け継がれています。
>“倭”は、この“日本”に対応する卑称であり“倭国”を表すものかと思います。
冬十一月丁巳,?囚。十二月丁酉,沐晟及簡定戰於生厥江,敗績,
劉儁及都督僉事呂毅、參政劉c死之。是月,柳升、陳?、李彬等率舟師分道沿海【捕倭】 。
是年,鬼力赤為其下所?,立本雅失里為可汗。
?泥國王來朝。瓦剌,占城,于?,暹羅,撒馬兒罕,榜葛剌,馮嘉施蘭,
【日本】,爪哇,琉球中山、山南入貢。
同じ年のことで、一方は「倭を捕う」で他方は「日本入貢」です。こういう感じで、倭と日本は使い分けているようです。
770 :
どくだみ :2011/03/01(火) 23:20:01.72
>>756 >現代のわれわれと同様の地図が(頭の中に)あったと想定する必要はないでしょう。
>であれば「物理的に不可能」と悩む必要もないのではないでしょうか。
混一彊理歴代国都之図のように“南北に長く連なる島嶼”でも、
この記述のような配置は物理的に不可能です。
もちろん、現実の地理でも物理的に不可能です。
つまり、唐會要編纂者の頭の中には、現実の地理でもなく、混一彊理歴代国都之図系統でもなく、
全く別の地図があったわけで、それがどのようなものか知りようがありません。
こういう曖昧なものでは、千里の海を隔てた地理を接と表現できる証拠とはなりえないでしょう。
771 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/03/01(火) 23:41:15.94
邪馬台国の卑弥呼は中国道教の神話に出てくる九天玄女とか言う女性仙人の影響を受けている。
>>768 さん
今邪馬台国(倭国)の産業について興味がありまして農産物、漁獲物、特産物など知りたいなって。
延喜式には載ってないですかね。所で
倭人伝の中で ”卑弥呼が人前に姿を見せている” 可能性がある箇所が一箇所だけ、あるのではないかと考えています。
それが ”其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而ト似占吉凶先告所ト其辭如令龜法火拆占兆” です。
つまり ”その風俗に事を行なう際、行き来する時、何かある時は〜占う”
の「行来」に注目してみると魏使が邪馬台国に到着した際”卑弥呼自身が兆を占った”、可能性です。
そして文は続きます。
”其曾同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當跪拜”
この記述は時系列なのでしょうか。つまり魏使が日中邪馬台国に到着して占いを目撃し
夜、魏使が倭人に歓待を受けた。その際に目撃した倭人たちの姿ではないか?倭人は酒好きです。
豪傑の難升米は大酒のみで「博多の女」
(畿内説の人ゴメンナサイ、あくまで想像です)でも魏志の前で歌ったのではないかと思うのですが。
一つの可能性ではありますが768さんどう思います?
773 :
772 :2011/03/02(水) 00:21:25.14
魏志⇒魏使 間違いです。すいません。
九天玄女の初出っていつなんよ 卑弥呼の時代にはもう知られてた存在なのかい?
775 :
ローガン :2011/03/02(水) 00:27:01.99
>>770 こんばんは。仰せの通り、ボチボチやりましょう。
> つまり、唐會要編纂者の頭の中には、現実の地理でもなく、混一彊理歴代国都之図系統でもなく、
> 全く別の地図があったわけで、それがどのようなものか知りようがありません。
これに横レス。唐会要編者の「脳内地図」の出来映えの採点云々ではなく、
「百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海。因號百濟焉。大海之北、小海之南、東北至新羅、西至越州、南渡海至倭國、北渡至高麗。」(唐会要百済)
という地理のイメージを持ちつつ
「倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。」と記した事が、ポイントだと思いますが。
つまり、「百済から南渡海にて至る倭」に附庸する三国は、倭国の東の島である。
そしてその三国は、西北の百済と接している。と書いているのですから 「大海」を隔てていながら「接」という表現を用いている というのが、当方の主張するところです。
776 :
768 :2011/03/02(水) 01:11:37.06
>>772 「但搏手以當跪拜」、つまり跪いて拍手を打って拝礼する作法のようですね。
のちの朝廷でも、朝拝(みかどおがみ)というのがあります、4拝1拍手というそれを連想します。
元旦の日には天皇が太極殿にのぼり、普段は地下の文武百官もその日は天皇を拝めるわけです。
殿上人の前でさえ天皇は御簾を下げているとか、「自為王以来少有見者」を連想します。
777 :
日本@名無史さん :2011/03/02(水) 06:15:36.55
>三国は、倭国の東の島である。 >そしてその三国は、西北の百済と接している。と書いているのですから 倭国は中国の東の島、倭国の西北は百済と接している、だよ。 三国の話は「有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。」だけだ。
778 :
772 :2011/03/02(水) 11:40:28.48
779 :
日本@名無史さん :2011/03/03(木) 01:06:34.16
780 :
772 :2011/03/04(金) 01:50:32.40
>>768 さん
”其曾同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當跪拜”の後に
”其人壽考或百年或八九十年其俗國大人〜”と続き通常ですと、その国の人々は長生きで
100年或いは8,90年生きたりする、と続きますが768さんの文章を受けてずっと考えてました。
”其曾同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年”
と解釈できるのかな?と。
つまり特別の日に(ここでは魏使を招いての会合)卑弥呼(大人)が出席し普段は地下の文武百官が
「但搏手以當跪拜」した。続く文で、その人(卑弥呼)は長生きで100歳或いは8,90歳である。
と解釈できますか?トンデモ解釈でしょうか。漢文が不得意なのでご教示頂けると有難いです。
781 :
772 :2011/03/04(金) 02:32:37.79
卑弥呼(大人)⇒卑弥呼(大人所敬) 訂正です
782 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 07:59:44.67
■記紀には、銅矛文化圏の象徴である鏡剣の記述はあるが銅鐸はかかれていない 銅鐸文化圏は畿内であったが300年頃にいきなり消滅し邪馬台国ができ、鏡剣に変わったことは西からの侵略でしか説明出来ない ■邪馬台国はヤマト国とよめる 邪馬台国はのちの大和朝廷と連続性と同一
>>782 というか、銅鐸が、当時
何と呼ばれていたのか分らないからw
記紀にその根拠を見つけることは困難だろう?
784 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/04(金) 10:18:57.97
間違いを認識しているのにも拘わらず、修正されていない時代観。
百済本記と新羅本紀の間には、50年の齟齬が有る。
曲学の徒氏の邪馬台国掲示板 ラジオ氏
[218] 婆娑尼師今記 32년, AD157년 Name:radio 2010/01/05(火) 21:40
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html その直訳。
*新羅本紀ジマイサグム元年, AD112年. *AD159年- AD112年= 47年偏差.
*三国史記 蓋婁王(ゲルワング)の元年記事は 仇知王(旧地王)の元年記事だ.
*AD188年- AD128年= 60年偏差.
百済王記(百済王気) 仇知王(旧地王) 27年,AD214年 二十七年 甲午 四月 田氏生王子素古
*素古(小太鼓)= 肖古王(草稿王)
百済王紀(百済王気) 肖古王(草稿王) 29年,AD254年.
二十九年 甲戌 正月 王禅位於太子仇首
[1378] 基臨尼今紀 3年=AD366年-1 Name:radio2010/05/26(水) 02:45
三年 正月 行火虎大祭 山権伊伐〓 般氏稟主 時有狗徒安国之説 帝信愛従□軟凰 復取其薦
皆与□己同狗也 与倭復和親 3年(AD366年) 1月, 火虎(ファホ, 丙寅, AD366年)大祭(大帝)
を行った.
三月 近肖古遣使入貢 3月, 近肖古(グンチォで)が使臣を送るわで供え物をあげた.
新羅本紀 基臨王即位(助賁王の孫)298〜310年が正しければ
306年に近肖古王が登場する。
314年 王禅位於太子仇首
326年 七支刀
329年 神功五十五年。百濟肖古王薨。百済本記375年。46年の齟齬が有る。
半島の記録と整合性を得なければ、纒向遺跡の説明も出来ない。
785 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/04(金) 12:06:45.94
時平州刺史、東夷校尉崔自以為南州士望,意存懷集,而流亡者莫有赴之。意 廆 拘留,乃陰結高句麗及宇文、段國等,謀滅廆以分其地。太興初318,三國伐廆, 與數十騎棄家室奔于高句麗,廆悉降其眾,徙Z及高瞻等于棘城,待以賓禮。 明年,高句 麗寇遼東,廆遣眾擊敗之。 318年に崔は墓容廆を滅ぼそうと企むが、露見し、失敗する。 崔は、残軍數十騎で高句麗に逃げ込む。翌年遼東に攻め込むが、廆に破れる。 この時遼東に残された軍に百済肖古王が存在すれば、 百済本記、366年の高句麗との戦いと成る。 遼西県の領有もあり得る。 *百済本紀近肖古王 21年, AD366年 五月 帝次于牛頭州 受楽浪帯方等貢物 時句麗与夫余争地 皆順于我 故二国皆順于我也 帝乃率仙巫 親祭于太白山 休礼奈勿宴狗徒于蚊川宅 命稟主賜□? 扶余からの流民を千熊長彦が受け入れる。 近肖古王 21年, AD366年−46=320年 342年高句麗が攻められて以後、前燕の軍が高句麗に駐留する。 そして、高句麗、百済は前燕に帰属する時代である。 疲弊した高句麗が復活するのは370年前燕が滅びてから20年ほど後と成る。
786 :
768 :2011/03/04(金) 12:39:51.32
>>780 「大人」や「其人」が特定の人、卑弥呼を指すのかは判然としませんが、
上位階級の人でないと8、90歳もの長寿は無理でしょうね。
平安時代も、朝拝のあとに豊楽殿に移って酒宴があったし、イメージとしては重なります。
「其会同坐起父子男女無別 人性嗜酒」の部分も、庶民一般の事では無いでしょう。
朝廷と言うか、王宮における饗宴の光景だと思います。
唐松山は荒らし。 そのソース元が、偽書と名高い書物を基にしている。
788 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/04(金) 15:18:34.42
あいつの言うことは、殆どデタラメだよ。w
789 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 15:30:23.75
>>788 そういう判断は、人様から言われなくても自分ではんだんするよ。
790 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/04(金) 15:36:43.63
>>780 >>786 半島の長寿王だとかエジプトのラメシス2世だとかは90歳以上の長寿
だったというから、卑弥呼のこの年齢は真の可能性はありうる。
ただし当時卑弥呼の国あたりで2倍暦等をやっていたとすれば、その半分
あたりの40〜45歳程度ということになり、この可能性も残る。
武内宿禰は当時日本一の長寿だと仁徳天皇が謳っていることと(神功を
含め)五帝につかえて来たところから、相当の長寿だったということだ。
>>787 なおホツマは昔のそこらのただのオッサンが書いた書で、いささか価値は
あることは確かだが、この書がオッサンの脳内の〜妄想のひどい吐露を
含んでおり、その取捨は重々用心が必要である。さもないと景行が日本
を統一したとか日神が男だとか、強固の妄想漬けとなりうる。
卑弥呼はモモソ媛命
792 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/04(金) 17:28:20.00
卑弥呼をモモソ媛命としたとき 任那建国が解らなくなる。
793 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 18:09:12.43
>>780 横からですが、「其人」と、すこし後の「其俗」が対なので、
「其人」を卑弥呼と解することはできません。
あと曾は曽ですが、倭人伝の文は会の旧字体の會だと思います。
其會同坐起
794 :
772 :2011/03/04(金) 18:42:26.26
>>768 さん >>大国さん
>>793 レスありがとう御座います。
弥生人の平均寿命は約30歳〜40歳位だろうと言われていますのでそんなに人々は
生きられたのか?という疑問(二倍暦なら問題ないですけど)と文の繋がりが変だと感じましたので
現在でも神社に参拝する際”拍手”します。後の時代も王や天皇以外の上司にもしたんですかね。
”ト骨”も有名所では壱岐のカラカミ遺跡がありますね。壱岐には大陸から伝わった「ト術」を使いこなす
優れた「ト術者」がいて後に朝廷のト部に採用されたと。
こうみると鬼道は後の神道の原型なんですね。
>>793 さん >「其人」と、すこし後の「其俗」が対なので
もう少し詳しくご教示頂くとありがたいです。
795 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/04(金) 19:57:46.91
崇神、垂仁、景行とも寿命は40才程度。 それでも推定すれば、崇神が35才か? 垂仁、景行は40才。 長寿はタタネコの78才程度 磐鹿六雁が55才?か。
796 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 23:32:11.28
>>794 横からだけど
>「其人」と、すこし後の「其俗」が対なので
同じ調子で書かれているだろ。「其」には同じ言葉を入れる必要があると
いうことだよ。卑弥呼の寿命はと解釈するのならば、次を卑弥呼の習俗は
と解釈することとなる。だが、それでは意味が通じない。
「其」は「倭」か「女王国」というような言葉が入るに違いないと言うこ
とだな。
797 :
772 :2011/03/04(金) 23:52:52.03
>>796 さん わかり易く説明してくれて有難う御座います。
少し後の”其俗”が対になっているという事ですね。
「其人」は「大人所敬」には文法上、絶対つながらないと言う事ですよね?
798 :
日本@名無史さん :2011/03/05(土) 00:25:44.83
文法的にはつながらないね。大人は単に身分の高い人という意味だろう。
799 :
772 :2011/03/05(土) 00:29:58.23
漢文は難しいですなー ありがとさんです。
当時は、身分や階層によって寿命も違うでしょう? あと、当時は、思いっきり早く死ぬか、長生きするかのどっち。
801 :
日本@名無史さん :2011/03/05(土) 04:16:10.54
802 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/05(土) 11:37:39.13
>空白の100年が存在するけど解明したらまずいことでもあんの? まずいことがある。それは、任那建国、渡海、半島占拠が事実と成る。 つまり、半島の主張は受け入れられない、韓国と日本の友好にヒビが入る可能性が有る。 正しい歴史書は、新羅本紀であり、百済本記は、高句麗の南下50年を欠く。
803 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/05(土) 11:45:46.44
解明したらまずいこと その2 空白の100年が存在するから、卑弥呼を大和に住まわせることが出来る。 反対に、九州に邪馬台国を設定出来る。 だから纒向遺跡最初(2世紀末)の王朝が解明されることを拒む。 纒向遺跡は2世紀末の崇神から3世紀後半に箸墓が作られる迄、ここで3代。
>>801 解明してもまずいことはないです
まともな歴史研究家はただ真実が知りたいだけ
でも残念ながら資料がほとんど現時点で存在しないのです、知りたくても探れない
805 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/05(土) 13:40:11.93
西暦0年以外、空白年は存在しない。
806 :
768 :2011/03/05(土) 14:39:54.24
>>794 中国の拝礼には、立礼も座礼もあると思います。
「跪兩手據地為之恭敬」の、土下座の姿は珍しいとは思わなかったでしょう。
でも“拍手”は大陸には無く珍しく思った、それが後の日本朝廷の礼法に繋がっている所に、文化の一貫性を感じます。
それに、「見大人所敬但搏手以当跪拝」の大人とは、王宮の酒宴に参加した貴族階級でしょうね。
彼らが拍手を打って拝した対象、これは卑弥呼ではありませんか?
卜占で占いをするのは庶民ではありませんから、「其俗擧事行來〜」は卑弥呼の王宮での風習という事になります。
「其会同坐起〜」も卑弥呼の王宮での集会のこと。
その付近の「其」は全て、「卑弥呼の」(所有格)だと思います。
だから、「其人壽考〜」も卑弥呼の年齢でよいと思います。
>>806 倭には30国あるのに、王宮が卑弥呼のだけのはずもなし、
占いをするのが卑弥呼だけのはずもない。
「其」が全て「卑弥呼の」なわけがない。
808 :
772 :2011/03/05(土) 16:28:08.84
>>768 さん なるほど勉強になります。
>>807 さん 自分は漢文は苦手ですが魏使が邪馬台国にいって実際に卑弥呼にあっていると思います。
魏に朝貢し「梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王〜」とあり倭王に実際あっているからです。逆に邪馬台国まで
行かない理由が分かりません。であるならば、「其俗擧事行來〜」や「其会同坐起〜」の現場を目撃したのは
首都である邪馬台国の可能性が高いと思います。王宮の酒宴に参加して「見大人所敬但搏手以当跪拝」の様式が
後の日本朝廷の礼法に繋がっている所に、文化の一貫性を感じますと768さんが言われたことが魏使の目には
独特に写った、正にその通りと思います。
思います。魏は難升米等を京都に着いた際、手厚く酒宴でもてなした筈です。同様に魏志の梯儁等が
邪馬台国に到着した際も手厚く酒宴でもてなした筈です。であるならば「其会同坐起〜」の記事がその際の記事である
事の方が妥当性が高いと思います。
卑弥呼に関しては長寿だった可能性が高いと思います。食事も栄養が摂れていたでしょうし「自為王以来少有見者」から
外部との接触が少ないので伝染病・感染症のリスクも低い、兵役に取られない 女性であるし
倭国乱の後に共立された、年已長大などの記事から総合的に判断するとやはり長生きだったのでしょう。
>>808 卑弥呼が長生きだったことは否定しないが、其人が卑弥呼だというのは不自然な解釈。
「郡使往来常所駐」とあるので、郡の使者は複数回倭に来ており、
邪馬台国以外のところでも倭人の生活に十分触れている。
其俗や其会同坐起を「卑弥呼の」に限定するのも不自然。
>>808 倭王に会ってることとが、卑弥呼に会ってることの理由にはなりません。
811 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/05(土) 17:08:46.97
>資料がほとんど現時点で存在しないのです、 現時点の資料をどう使うか?の選択でもある。 現在の時代設定は、七支刀で百済本記に合わせる。七支刀=369年。 この数字を使う限り、半島占拠は否定される。つまり 古墳時代に50〜100年の空白。 纒向の最初の王朝も解らない。 そこで 新羅本紀 192,3年を弥生後期後半 唐古・鍵遺跡の放棄、ここが崇神5,6年であれば 崇神11年異族多帰=考古学:2世紀末、纒向遺跡に各地の土器が集まる。 纒向は2世紀末に崇神から始まり、210年伽耶(任那)建国。 273年日食、ここが神功渡海の目安。 323年神功49年、半島占拠。 326年神功52年 七支刀=東晉明帝太寧4年○月16日丙午。○が3月なら暦日。 渡海から110年後が誉田御廟山。 仁徳紀は神功39年太歳から、西暦313年から399年迄。秋津遺跡と同期する。
812 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/05(土) 20:01:44.55
192,3年≠崇神5,6年 この年は船舶のアリバイが無いから、千人も多勢のメシも無い農民が到底 渡海は出来ない。つまりこれは整合しない。 日食は数日間継続しないから、日を経てと言う神功紀元年前年の記述は 日食にはならない。これもインチキである。 古事記の崇神没年干支「戊寅」は258年が正解であり、当然ここのコテハン のアラタメ氏の見解はほぼ正解であり、また那珂博士、菅政友、橋本増吉、 原秀三郎静岡大学名誉教授の説が同様にほぼ真であったことを意味する。 このことから 崇神即位年は237年 あたりになるわけで、これで239年鏡 の畿内多数出土が、崇神天皇のアマテラス・オオミカミと御霊代の『鏡』 を倭笠縫に崇神6年に祭祀した出来事とほぼ整合する。崇神6年=238年 に相当して来ることになり、これが真なのである。
日本書紀の年代を細かく調べても意味ないと思うぞ。 古事記でもわかるように、大まかな過去の出来事しか分らなくて 細かい年代など当時、残されてなかったでしょうにw 古事記でも分るよおり、大まかな過去の天皇の先祖の干支没年ぐらいしか 西暦8世紀の時点では分らなかったけど 中国との外交に、細かい年代記が必要だったから、無理に具体的な 年代を書いた。それが、日本書紀の記述。
814 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/06(日) 09:14:53.07
そんなことはないですね。 中国との外交のため必要とは言えないでしょう。まぁ日時が特定でき たほうが、利便性は高いでしょうが、必ずしもなければならないという ものではありませんよ。 そうならば、逆に当時の中国側が日本との外交に必要だから、むこうが 細かい年代を作ったという論も言えて来ますぜ。貴方はおそらく、貴方の 論のウラ取りなんかやってないでしょう? 即興でロクスッポあらゆる 調べを重ねて検討したことからの論ではないように、この書きこみから 感じますぜ。 細かい年代が必要だったからではなく、細かい年代までキチンと紀の原書 に載ってたから、その中で信用あるものを紀の記事としたまでですよ。
なるほど
816 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/06(日) 10:53:12.78
>日本書紀の年代を細かく調べても意味ないと思うぞ。 日本書紀は太陰暦で書かれている。つまり 季節と朔は正しい。 ただし日々の数まで引き延ばされている。 これが可能なのは、正しい太陰暦に空白の太陰暦を差し込んだ場合のみだろう。 太陰暦は19年7閏の積み重ねと認識すれば、現実の暦も差し込んだ空白の暦も19年の 積み重ねである。 書紀の季節と朔日を正しいと認識出来れば、各天皇紀から1章(19年)*n回の空白を差し引く。 まず正しい認識 纒向は、崇神から3代である。 昔は、纒向は3世紀半ばからと認識されていた、現在は2世紀末からである。 昔の認識のままでは纒向遺跡の説明が出来ない。 崇神世=崇神6年民の離散、崇神11年異族多帰、任那建国。 垂仁世=末に田道間守の派遣、西暦239年とする。 景行世=九州、関東までを平定傘下とする。←卑弥呼の時代。 274年 渡海、晋の要請による渡海、東夷軍の編成。 323年 神功49年半島を占拠、→これだけの軍事力を持たねばならない。 その為には、誰よりも早く東夷軍として組織される必要が有る。 326年 七支刀。 引き延ばされた書紀の太陰暦から、空白年(19年*n回)を差し引いてこれらの数字を得られる。 崇神世には、1,2年の齟齬が有る。これは、崇神が庶母の子供であることを表し、開化と同一の暦であることも表す。 崇神5年は、新羅192年か後漢193年の冷夏凶作である。 ここは一応半島の記録を信認して、188年=崇神元年 68−38(2章)30年であるが、1年の齟齬を開化に宛がうと 崇神治世29年、垂仁 99−76=23年、景行 60−38=22年、成務61−57=4年、仲哀から差し引くことが出来ない。 纒向遺跡はこの思考で整合性が得られる。
817 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/06(日) 13:38:43.72
崇神5年≠192年 左辺は船舶のアリバイがなく、千人もの空腹者の渡海は不可能である。 つまり整合しないから、デタラメである。 船舶の製造が初めてなされたのは、紀の崇神17年であるから、その10年余 前に現今の世界最大客船の1/5〜1/6もの多勢の渡海なぞ、若狭湾から 日本海へ出て半島になど到達出来ない。
818 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/06(日) 13:45:35.43
纒向遺跡をどう説明するかだ。 崇神世に任那建国を入れるなら、文献は50年遡上せねばならない。 240年以降に崇神の任那建国は無い。 纒向遺跡が2世紀末からであれば、崇神もその時代になる。任那建国は210年 これで纒向遺跡の説明が出来る。 崇神=240年では纒向遺跡も任那建国も説明出来ない。 説明出来ない数字を正しいと主張するから、古墳時代が全く説明出来なくなる。
819 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/06(日) 13:48:33.10
どう説明するって言ったって、その説明が太陰暦、正朔とえらそうなこと を書きこんでるだけで、その実、説明を1回もしてないのが唐松山という 男。これでは信じる大魚はかからない無餌のまま。
820 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/06(日) 14:11:40.77
太国が任那建国210年を否定するならば、それに変わる数字を主張する必要がある。 当然纒向遺跡の説明も出来る数字で無くてはならない。 半島占拠は七支刀で決まる。しかし七支刀369年では半島占拠は否定される。 何故否定されるのか? 書紀の記述が信用出来ないか、設定の誤りがある。 太国が神功52年を369年頃に配置している限り、書紀の記述に誤りがあるとしなければ成らない。 であるならば、書紀を編年に使えない。だから倍年を主張するのか? どちらにせよ、任那建国が崇神世で説明出来ない以上太国倍年は存在しない、ただの妄想歴年である。 崇神17年迄船が存在していないとする他の根拠が無い。青谷上寺地遺跡は船の存在を肯定している。 この様に日本の歴史を曲げてでも、韓国、朝鮮人の心の安寧を得なければならない これを乱すと、太国等の錯乱と成る。
821 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/06(日) 14:25:18.93
説明もクソもな〜い。任那建国がいつだったか、そんなものは120年もの 年代差が真の年代の撹乱をさせてるのだ。任那建国210年が真だとの保証 なぞいまのところ存在しない。そんなものはアテにはならない。だから そんなものに目を向けず、じっとして放置してればいいのだ。向こうが 120年も動き、日本が天皇の超長寿で真が不明確のところ、半島文献まで ああだこうだと持ち出せば、もう真の年代はなおさら分からなくなる。 オマエはそういう状況を下手くそに軽視していて、オマエの脳の判断は 軽率そのものだ。いつまでもやってろ。ww 錯乱はオマエのほうだぜ。こちらのセリフだな。
822 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/06(日) 14:26:34.58
>>820 その船は当然紀の崇神17年以後のものだよ。ww
823 :
日本@名無史さん :2011/03/07(月) 00:25:21.19
>「郡使往来常所駐」とあるので、郡の使者は複数回倭に来ており、 常に駐したところと過去形に読んではいかんね。常に駐すべき所と 読むべきだろう。
824 :
日本@名無史さん :2011/03/07(月) 02:04:05.04
>>823 >常に駐すべき所
「駐すべき」の「べき」だけど、どの漢字からそういう意味が生じるんだろう。
825 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/07(月) 09:23:39.80
>>822 その船
その船とは、どの船かな?
青谷上寺地遺跡の船でよろしいか?
826 :
日本@名無史さん :2011/03/07(月) 12:50:17.60
>>823 漢文無視ですか?
所は名詞だから、常を副詞では扱わないし
程度副詞にもならない。 常は名詞として扱う
827 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/07(月) 14:30:54.71
>>825 おとぼけが下手だねえ。ほかの事でも書きこんだらどうだ?
828 :
日本@名無史さん :2011/03/07(月) 15:04:45.16
>>824 「常」は、「いつまでも変わらない」とか「きまり」という意味がある。
「べき」としたのは、その意を分かりやすく言ったまでのことだ。
829 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/07(月) 15:32:43.74
お、太国が 任那建国、渡海、半島占拠を語ることが出来る様になったか。 青谷上寺地遺跡の船舶と崇神6年は重なる。 理由は、崇神11年の異族多帰は、2世紀末であり。 崇神世に任那建国が無ければならない。 これを提示出来ない年代感は間違いであり、 間違った年代感を根拠にすれば、全てが否定出来る、しかし この3点を主張する事が無い。
830 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/07(月) 16:03:15.50
デタラメをほざいても、崇神6年にはジャンボ船舶の製造はないと する紀の崇神17年に、始めて船舶の製造を紀の編者らは記載している。 その遺跡のものは当然同17年に拘束され、同17年以後の意味となる。 つまりオマエの論説はデタラメの塊りで、まるで恐竜の大糞同然だ。ww
831 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/07(月) 16:24:55.82
紀の三輪山の説話に秘められた真の年代を測る天下の宝器→天津神算木 三輪(半径r=3の円)の球化の体積=表面積の数式を天津神算木という。 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はベキ) 大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 3≠113.097335 (主値)1/13 B.C.97 崇神天皇 即位 (副値)1/3 皇紀973 仁徳天皇 即位 (助値)B.C.130 ミマキイリヒコ(崇神天皇)立太子 (助値)A.D.130 景行天皇 崩御←崇神即位引き立て役 助値は崇神即位年月日のお助け年数かつ引き立て役年数である。 113←崇神即位の月日数 1/13 097←崇神即位の見かけ年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年で除去) 335←崇神即位の実年代誘引のジョーカー数 335年 -97+335=238年 西暦0年を除く為 1年分差し引かれて 238−1=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年
832 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/07(月) 16:53:05.40
>>831 続き
崇神即位年=237年 にて、3倍年暦行使から年代を下降。
皇紀 西暦 倍暦
564 -97 237 崇神天皇 即位 景初元年
565 -96
566 -95
567 -94 238 景初2年
568 -93
569 -92 紀の崇神6年 倭笠縫に日神と御霊代の『鏡』祭祀
570 -91 239 景初3年 景初3年鏡年代
・・・・・・・
573 -88 240 正始元年 紀の崇神10年 百襲媛没
・・・・・・・
579 -82 242
580 -81 紀の崇神17年 【初めて】『船舶』を製造する
・・・・・・・
594 -67 247 この頃 卑弥呼没
・・・・・・・
630 -31 259
631 -30 崇神天皇 崩御(259年内)
・・・・・・・
779 129 322
790 130 景行天皇 崩御←天津金木助値 崇神即位のお助け年
以上、編年が定まった。
833 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/07(月) 17:00:58.17
なお、ホツマは昔のそんじょそこいらのタダのオッサンが書いた妄想交じ
りの書で、その扱いには重々用心が
>>832 238年末に近いころ、倭笠縫に『鏡』を祭祀し、
239年は『景初3年鏡』銘文年で、
〜両者の『鏡』記事は近接し、整合している。編年は正解だということだ。
834 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/07(月) 17:03:36.58
>>833 追加訂正
× 重々用心が
○ 重々用心が必要であり、シッカリ誇張誇大視を抑圧せねばならない。
835 :
日本@名無史さん :2011/03/07(月) 18:57:48.39
>>828 彼は常に酒を飲む。
彼は酒を飲むべきなのか。
836 :
鎮魂譜 :2011/03/07(月) 22:51:53.68
>彼は常に酒を飲む。 >彼は酒を飲むべきなのか うん、あきらかにおかしいの〜。彼でなくて儂に「酒を飲むべき」というのなら許してもよいがの〜。
常に、飲む、酒を 常所駐がこんなならびになっているかい?
838 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 00:23:09.37
NHKで“邪馬台国”を掘るをやってるよ
840 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 02:18:01.31
>>837 三國志/ 魏書/ 王脩
墓前有一柏樹,?【常所攀援】,涕泣所著,樹色與凡樹不同。讀詩
「べき」じゃないよ〜
841 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 07:54:30.72
>>840 私は「べき」などと言ってない。
そもそも、常に駐する所などと訓じる事が間違っていると
842 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 08:05:07.46
>>841 >>826 の人かい。
なら聞きたいんだけど、
>所は名詞だから、常を副詞では扱わないし
>程度副詞にもならない。
こんな決まりあったかな。
>常は名詞として扱う
って、どんな訓読になんのかな。
「冬も生野菜を食べる」って漬物のことかな?
844 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 10:15:31.66
>>840 「べき」と訳すのが適当でない例を一つみつけたからといって、「べき」という
訳が成り立たないなんてことにはならないね。これ常識。
そうそう、常識とは、普通の人がもっているべき知識と辞書にあるよ。
845 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 10:33:30.80
>>842 >こんな決まりあったかな。
六法にはなかったよ
>>常は名詞として扱う
>って、どんな訓読になんのかな。
訓読する必要はないだろう
常所駐と視覚で確認出来ればいいんだし、昔の中国人だって
わざわざ訓読を意識して書いているわけじゃないよ
846 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 10:36:01.18
言ってはみたけれど読めないってことか。
>>846 読みなら、常つ所に駐する。でいいんじゃない
>>845 常に所駐する。でいいと思うし、この時の常は程度副詞として所駐に付く。
郡使往来常所駐で大事なところは 郡使往来と書かれていること。郡使に限れば韓使とは違い、伊都も往来の地点であり、韓使のように終着地点ではないということ。 しかし、常所駐と書いてあるので たとえ郡使といえども、必ずここには駐しなければならないわけ それがこの郡使往来常所駐
伊都の一大率は、邪馬台国の出先機関。 のちの大宰府や九州探題みたいなもん。
851 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/08(火) 15:46:34.89
>239年は『景初3年鏡』銘文年で、 正始元年鏡が翌年。 つまり大和は、魏の改元も知っている。 晋書 正始元年 東倭重譚納具。 大和が始めて朝貢したのが、垂仁末の田道間守から。 纒向遺跡は、崇神から始まり、3世紀中葉の大型建物が造られた時代になる。 箸墓は最初の大王ならば、景行により倭国統一が成された後の墳墓であり、鉄は大和に捨てるほど (古墳に大量副葬)ある。 鉄の流入は 210年伽耶建国以後になる。 歴史はピンポイントであれば何処にでも設定出来るが、それだけでは正しいとできない。 歴史とは時空で繋がれたもの。時空の経過と共に設定が出来なければ、正しいと出来ない。 だから太国も設定の対案を出して議論する必要がある。 崇神元年を237年に設定するなら、纒向遺跡と整合性から主張しなければならない。 弥生後期後半 唐古・鍵遺跡が放棄される。 2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。 210年 伽耶建国 正始元年 東倭重譚納具 273年 北陸で全食 326年 七支刀 400年前後 高句麗の南下により、新羅、百済は高句麗の属国と成る。
>>850 >伊都の一大率は
伊都に一大率なんてない
853 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/08(火) 17:35:43.09
>>851 >東倭
これは九州の可能性のもよう。朝廷とは無関係らしいから、これでは
ダメ。
景行の倭国統一なんぞ、オマエの夢。そんなものはオマエの脳内だけ。ww
ホツマとは、昔のそこいらのただのオッサンが妄想を入れて書いたもの。
これにかぶれては、もうオシマイww
考古なんで、四六時中ではオーバーだが、四六年中年代が上下する。これ
ではインチキ学というトンデモのレッテルを皮肉にも考古がかぶることと
な〜る。そんなんでは役に立たない。><
854 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/08(火) 18:15:06.97
何故、考古学が50年遡上したか?答えは簡単。これまでの文献の年代が否定された。 太国の数字は、考古学から否定された年代である。 考古学を否定した場合 文献で整合性を得なければならない。 210年 伽耶建国。 魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。 >東倭 これは九州の可能性のもよう。 ”もよう”で何故?崇神が全く関係の無い 景初3年、正始元年を使うのか? 当然改元も知らなくては成らないし、笠縫に日神を祀っただけなら、ミマキ6年と刻印すれば済む。 魏の年号を正しく知り、刻んだ意味を朝貢と捉えること以上の意味を見つけられるか。 東倭重譚納具=田道間守の派遣から始まる。 箸墓築造時には大和に大量の鉄がある。←モモソ姫に設定出来ない。
855 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 19:00:59.89
みんな唐松山は無視した方が良いよ。
856 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/08(火) 19:13:23.87
唐松山はカルト・ホツマに脳内が蹂躙されてるから、ことごとくが景行 の代を必要以上に超誇張し、2ちゃんにその妄想をたらふく書きこんで いる。勿論これらの主張はデタラメであり、シッカリと正史の防衛を 図らなければならない。 したがって、逐一その妄想病にしてやられた脳内を正常化させるため 毎回に妄想をつついて、その不合理を射止める必要があ〜る。 奴は考古から否定され〜千葉歴博班の鑑定基準値から50年も逸脱して デタラメ性を具現している。東倭は大陸からのことだ。問題な〜い。
857 :
どくだみ :2011/03/09(水) 00:39:19.45
>>844 「べき」と訳すのが適当でない例が存在するということは、
「常所○」という【語形】が「べき」という意味を表すのではないことがわかります。
>常識とは、普通の人がもっているべき知識
常習という言葉は、普通の人が習うべき事という意味にはならないので、
常という【字】そのものにも「べき」という意味は無いです。
つまり、語形にも字にも「べき」という意味がないのに、
「常」のからむ文に「べき」という訳語を入れるのは、
文脈からそう訳せるという訳者の判断による意訳であることが分かります。
倭人伝の文脈に、「駐すべき」と意訳したほうが良いといえる理由はありません。
だから「常所駐」に、勝手に「べき」という判断を差し挟むのはよくないと考えます。
もうひとつ
>>823 >常に駐したところと過去形に読んではいかんね。
とありますが、過去形は関係ないでしょう。
仮に「常に駐すべき所」であっても、過去にも駐したしその後も駐します。
「常に駐すべき所」に過去は駐していなかったという意味は生じません。
それは「常に駐する所」と読んでも同じです。
両者の違いは「べき」という価値判断が付随するかどうかだけであり、
記述時点から見た過去現在未来の駐留の状況は変わりません。
>>847 >常つ所に駐する。
これは「駐常所」になります。
原文から変化してますし、常は所を修飾しているので名詞ではないでしょう。
859 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 01:41:53.27
>>857 >常習という言葉は、普通の人が習うべき事という意味にはならないので、
>常という【字】そのものにも「べき」という意味は無いです。
>>844 をみてもう一度考えよう。
>文脈からそう訳せるという訳者の判断による意訳であることが分かります。
文脈ではなく文字のつながりだが、言葉の意味というのはすべて意訳だよ。
>常という【字】そのものにも「べき」という意味は無いです。
あるからそうゆう訳がでてくるのさ。識にはべきという意味がないだろ。
常からしか出てこない。
>倭人伝の文脈に、「駐すべき」と意訳したほうが良いといえる理由はありません。
これが問題。あなたはそう解釈したのだろうが、理由がないとどうして言えるの?
>「常に駐すべき所」に過去は駐していなかったという意味は生じません。
過去に駐していなかったという意味は確かにないが、過去に駐していたという意味もないのだよ。
> 過去に駐していたという意味もない いや常には普通に過去に〜〜だったという意味はあるだろ
861 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 10:10:00.90
駐車場をつくりました。みなさん、いつも車はそこにとめて下さいね。 過去にとめた事実はないが、駐車場だね。
普通にってのは漢文の用法として、てことだよ 何が駐車場だボケ
863 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 10:24:36.33
漢文の用法も同じだ。小学生でも分かるように説明してやっただけのことだが。
864 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 10:26:41.10
>>861 日本語としてもおかしいな。
「いつも」じゃなくて、「今後」とか「これからは」とかだろ。
しかし、魏志倭人伝は、晋の時代に魏の歴史を綴った書物だ。
魏からの使者が過去に駐留したことのない場所について、
晋の時代になって、これからは魏の使者が常に駐するところですって書いてるわけか。
865 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 10:30:05.21
「常に」に、時間を特定する意味はない。
866 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 11:27:09.95
その事柄が「常」のことであるという判断は、過去に何度も繰り返されたという経験から生じる。 ある事柄が、過去には無かったが、これから「常」のことになるというならば、 「今後」とか「以降」とか、それに類する明示がある。
867 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 12:00:10.20
>「今後」とか「以降」とか、それに類する明示がある。 そうとは限らないな。
868 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 12:09:56.10
>>866 >その事柄が「常」のことであるという判断は、過去に何度も繰り返されたという経験から生じる。
それは常ではなく、「常〜」となったときに、常ではなく「常〜」全体に時間が関連する。
決して「常」に時間をもたせているわけじゃない。
869 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/09(水) 16:56:45.40
>>821 >説明もクソもな〜い。任那建国がいつだったか、そんなものは120年もの
年代差が真の年代の撹乱をさせてるのだ。任那建国210年が真だとの保証
なぞいまのところ存在しない。
>>856 >唐松山はカルト・ホツマに脳内が蹂躙されてるから、ことごとくが景行
の代を必要以上に超誇張し、
太国は崇神世の任那建国を認めないのか? であれば、半島の主張の庇護者である。
考古学は、箸墓を最初の大王と表記する。
つまり 箸墓築造にはそれまでの古墳(ホケノ山古墳)とは桁違いの労働力が費やされている。
当然、崇神5,6年の出来事で疲弊したその崇神の12年以前には造れない。
理由として、まだ鉄を持たない。船舶無しでは、人足とその食料も手当てできない。
書紀の景行紀は、九州から関東までを大和の領土とした記録である。
治世方法として、魏の屯倉手法を取り入れる。
魏書倭人伝とは、倭国を冊封する前段階の倭国統一譚である。
魏は東夷を9種に別けて対応したその1種に倭種が入る。
晋は、その9種を9国とし、小国をそれぞれに付して管理する。
日本に当てはめれば、東北の毛人国(種)は、倭国の一部になる。
870 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/09(水) 17:04:26.57
東夷の中で生まれた文俶は東夷校尉となり、276年には馬韓(倭国を含む)で軍を編成したと思われる。 東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉, もしこの中(東夷九種)に倭国が含まれなければ、渡海の機会は失われる。 266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。 274年 二月,分幽州五郡置平州。仲哀9年 渡海。 277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。 278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。 280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。 281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。 282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。 286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。 287年 太康8年 八月,東夷二國內附。 288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。 289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。この11月に 晋は、軍を再編する。 是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。 290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。琅邪王覲薨。 291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。 東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。 291年 文淑は恵帝に使える。それを尋ねる東夷。
871 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/09(水) 17:11:12.41
任那建国はオマエ主張が真だとの保証はどこにもない。それはそうだ ろう〜。未だ具体的解説をせずに1〜2行程度の書きこみでさも説明 したふりをしてるだけで、晦ましでありこれでは説明したことには全然 ならない。なお考古は年代上下が毎回であり、当てにならない。 景行紀は領土とした記録とは言えない。それはいくばくかはありえよう が、他国、他地方の朝廷に逆らう集団を退治したわけであり、領土なんか これまた別の話である。天津神算木には景行は崇神の引き立て役であり、 重要なのは崇神のほうなのが一目瞭然である。ww つまりオマエの主張は 大ウソだということを天津神算木の計測が示している。 蝦夷は別として朝廷が日本統一を果たしたのは記紀成立の直前の九州王朝 滅亡によるのだ。全然景行にはならない。
872 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/09(水) 17:22:42.41
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進, 308年 永嘉の乱始まる。 田道間守派遣が、278年以降であれば、大和は倭(九州)に付属する。 つまり、九州に倭国の実態がなければ成らない。←実態がない。 大和が巨大古墳を築く実力が形成されなければならない。永嘉の乱で得る為には、 神功渡海がそれ以前でなければならない。 渡海、半島占拠を遅くできない理由である。 応神天皇三年十月。東蝦夷悉朝貢。即役蝦夷而作厩坂道。
873 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/09(水) 17:26:53.41
古代史文献の狂詩曲そのものといえるホツマは、当時のそこいらに いるただのオッサンが書き留めた妄想入りの要警戒必要書であり、これを 無警戒に信じて誇張の主張をしたのが、景行日本統一というデタラメ論で ある。
874 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/09(水) 17:39:07.12
景行天皇四〇年 爰日本武尊則從上總轉入陸奥國。 この時点で、東北の差配を決めている、後は、任された連中の実力しだい。 魏の屯倉手法とは、 領土の支配を認める代わりに、兵役の義務を負う。 各地に封じられた領主は、自領の経営権がある。したがわない者を実力で従える ことが出来る。 つまり、朝廷が関与しなくても、領土を広げられる。 古墳もそれと共に広がる。
875 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/09(水) 18:56:48.28
まるで東京スカイ・ツリーを着工して、たかが数日経ったらもう〜完成 したとか言ってるようなもので、大麻・覚醒剤にやられた脳内のように〜 狂詩曲文献の妄想にしてやられた脳内から滲み出たインチキそのもの。ww 日本統一したのは九州王朝滅亡のあたりの、記紀成立の直前だ。景行と いうのはデタラメ也。ppp 天津神算木の計測では、景行は崇神即位年の引き立て役年代。
876 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/09(水) 19:54:07.95
天津神算木の計測では、崇神世に任那建国は無いってか。 これがないと 神功前紀の渡海もない。 神功49年の半島占拠も無い。 七支刀はまぼろし。 高句麗の南下もたいしたことはない。だから百済も高句麗の属国とは成らないってか。
877 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/09(水) 20:43:02.87
こちらは半島の編年をやってんじゃな〜い。 @ オマエは120年前後等の年代差のある半島文献 A 百数十歳もの超長寿を誇る日本文献 B 編年法の365倍もの精度が必要な編日法 この三つを当てようと虫のいい態度でいるわけで、それでも詳細具体的 説明をするのかと見ているが、どれもこれもそういう説明を書きこん だためしが無く、いつも1〜2行の書きこみをして、さ〜も説明したよう に表見を装っているが、その実1〜2行のは説明してのカモフラージュ であって、何ら説明の実体は無い。こうやって各スレ民を騙してケムに まいて説明してますとの大ウソをおこなっている。 ここらのスレ民はボンクラじゃぁないんだぜ。この3つの説明をキチン と出来てからそういうモノを言え。>< 到底こんな厳しい三つをこなせると思ったら、大間違い。二兎追って 二兎逃げられるんでは大失敗。お前は三兎を追うと豪語してるんだぞ。 そんなマネが出来ると想うのか?〜〜 ちょっとやそっとでは出来っこないんだぜ。説明が全然出来ないオマエが 大ホラを吹くなよ。
878 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/09(水) 20:51:14.10
言うことだけはデカいけど〜今の今まで見本となるその具体的説明は 1〜2行の修飾書きこみで、さ〜も説明を執り行っているようなことを マイの毎回やってはいるが、その実体は何ら具体性の無い餌をつけない 釣り同然であって、だれもうんとは言ってはくれない。 言うことだけは〜デカい。ww しかし見本を見せることが全然出来ない。 この3つ揃えて持ってこい。3つの要求だけはデカい。だが3つの見本は オマエが説明したことはまるでな〜い。つまりオマエこそ出来ない張本人 なんだよ。
879 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/09(水) 21:01:32.11
狂詩曲文献ホツマとは、昔のそんじょそこいらにいるただのオッサンが 書いた書でその者の妄想がだいぶ注入されており、重々用心してその 妄想に脳内が蹂躙されないように警戒しなければならない。それをせず これにとり憑かれると、景行が日本を統一したとか猿が人間だとばかり 強引に言う〜覚醒剤の如き恐ろしい妄想を植え付けられる脳内に同化変貌 してしまう。あたかもエイリアンに同化する如きである。奴の脳内には 妄想支配のホツマ・エイリアン虫が寄生している。
こんばんは 最近は仕事疲れで、古代史の方に時間を費やせないのが現状。 イベントではやはり、九州のが盛んだね。 3月は吉野ヶ里で、邪馬台国・卑弥呼の宝探しラリー 5月は宇佐で邪馬台国論争大会行われるのかな? さて、もう寝ようかな・・・zzz
>崇神没年干支「戊寅」は258年が正解であり、当然ここのコテハン >のアラタメ氏の見解はほぼ正解であり、 そうそう、258年説が正解でしょうね。 198年説、218年説はチト厳しいと思われる。
882 :
日本@名無史さん :2011/03/10(木) 01:16:50.46
>崇神没年干支「戊寅」は258年が正解であり 宝賀寿男氏の説を読んだことないのか?勉強が足りんな〜。崇神は4世紀に活躍したんだよ。没年は少なくとも318年以降だ。
883 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/10(木) 11:07:50.77
>>882 2回も読んでるぜ。あの人のはいい線行ってるが、その辺は間違いだぜ。w
884 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/10(木) 13:15:43.64
>崇神没年干支「戊寅」は258年が正解であり、 この年代では、巻向遺跡の説明が出来ない。 任那建国が想定できない。 210年 カヤ(任那)建国。ここに崇神をあてがえば、巻向の説明も出来る。 考古学の巻向の年代は正しい。
885 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/10(木) 13:32:25.01
宝賀寿男氏の墓標を使い且つ書紀と同じ長さを得る 天皇 治世 西暦 古事記干支(出雲干支) 孝昭天皇 93年〜118年 93 丙寅 書紀の即位年より伸長されることなく使われる 孝安天皇119年〜144年 145 (戊午) ()内は墓標に付き使用する必要なし 孝霊天皇145年〜163年 163 (丙子) 孝元天皇164年〜182年 180 (癸巳) 開化天皇183年〜187年 190 (癸卯) 崇神天皇188年〜215年 225 戊寅 垂仁天皇216年〜238年 景行天皇239年〜260年 265 (戊午) 成務天皇261年〜264年 262 乙卯 仲哀天皇265年〜273年 269 壬戌 神功皇后274年〜323年 応神天皇324年〜366年 361 甲午 仁徳天皇313年〜399年 394 丁卯 履中天皇400年〜405年 399 壬申 反正天皇406年〜411年 404 丁丑 允恭天皇 412年〜453年 421 甲午 安康天皇454年〜456年 451 (甲子) 雄略天皇457年〜479年 456 己巳 ここより489年己巳とすると年齢の説明が楽になる そして崇神崩御年より数えると書紀と古事記は同じ長さになる。
886 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/10(木) 14:26:06.46
古代人が未来へ教示した古代の真の年代計測の天下の宝器→天津神算木とは 崇神紀の三輪山説話の三輪(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。 4πr**3/3=113.0973355292・・・ 主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位 助値 B.C.130年 ミマキイリヒコ(崇神天皇)立太子 助値 A.D.130年 景行天皇 崩御←最重要年月日 崇神即位の引き立て役の年数 大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 3≠113.097335 右辺を三輪に因み三分し 113 097 335 から 113←崇神即位の月日数 1/13 097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し、除去) 335←崇神即位の実年代への誘導ジョーカー数 335年 -97+335=238年 ここで西暦0年を除くから1年分マイナスとなり 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年 上以外はニセ編年 任那がどうのこうの言うインチキ論の振り回しに騙されない事。
887 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/10(木) 14:36:23.15
> 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年 逆も真なり。 237年からその式で 崇神天皇元年(甲申前九七)が割り出されなければならない。
888 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/10(木) 14:42:24.55
>>886 続き
崇神即位年=237年=景初元年
から、3倍年暦で年代を下降させれば 崇神没年=259年 を得る。
これは古事記の同没年干支の解釈が258年とするのがほぼ真だということなのだ。
このことから、崇神没年 258年説 を提唱した那加博士、菅政友、橋本増吉、
原秀三郎静岡大学名誉教授と、アラタメ氏の主張が正解だったのである。
ということは、唐松山の崇神没年が215年との説はデタラメだったということが
露呈して来る。つまり奴の主張がインチキだということなのだ。宝賀氏の
主張はいい線を行ってるものの即位年代を少し短く考えていたことが、この
ことから判明して来る。いずれこの方も修正論説を主張して来るだろう?
唐松山の半島年代主張が真である事由の説明はいまのところまでただの一度も
無く、抽象的1〜2行の書きこみで説明したふりをしてカモフラージュして
誤魔化しているだけのことであり、その具体的詳細の半島年代解説などいまだ
奴はしたことがないわけで、これでは全く信用は無い。さらに考古などと具体的
学者名とせず学名の権威をちらつかせて抽象的言いまわして虎の威を借りて
おり、どうせ毎回年代が上下して決められない考古では、名前は立派だが編年
にはいまのところ有効にはならない。
889 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/10(木) 14:50:10.91
>>887 >逆も真
ははぁ〜237年を認めたということですな。
それはそれはけっこうなことで・・・。wwwww
>>886 天津神算木の第二助値の景行没年は、最重要の崇神即位年月日のお助け役
たる引き立て役の年代であり、景行が主値にはなりえない。
890 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/10(木) 14:54:20.00
>>886 訂正
× 景行天皇 崩御←最重要年月日 崇神即位の引き立て役
○ 景行天皇 崩御←最重要年月日の主値たる崇神即位の引き立て役
891 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/10(木) 20:50:25.35
>237年を認めたということですな。 逆も真なり 崇神元年1月13日から273年を得る。 273年=崇神即位年=景初元年 =崇神元年1月13日。 どうやったら237年から崇神元年1月13日が算出出来るのか? わからん??
892 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/10(木) 22:55:54.40
273年ではない。崇神即位は237年だ。><
893 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/10(木) 23:54:58.41
じゃぁ 818年もそうなのか?pp
894 :
どくだみ :2011/03/11(金) 00:57:53.43
過疎ってるようなので、「接」についての宿題を消化します。
>>777 >倭国は中国の東の島、倭国の西北は百済と接している、だよ。
このように解釈しているサイトがいくつかありましたが、これはおかしいと思います。
>>777 さんが、どういう句読の切り方をしているか、くわしく書いていないので、よくわかりませんが、
少なくとも、「倭国東海嶼中」では「在」などがなく文末が「中」になるので、ここでは切れません。
最低でも「倭国東海嶼中野人」まで続きます。
これでは、高宗が倭に「新羅が高麗百済に攻められているから、もしもの時は救え」という書を降した
という記述の直後に倭は野人だと言っていることになり、文脈的におかしいです。
いやしくも中華の皇帝が新羅を救えと詔書を降した相手を直後に野人と書くでしょうか。
第二に、地理情報は、冒頭で古倭奴國也のあとに「在新羅東南居大海之中」とあります。
突然、途中に別の地理情報が挿入されるのは不自然です。
第三に、新唐書には類似の内容で
「其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州,有絲絮、怪珍云。」
とあります。
「倭国は中国の東の島」ではなくて「倭国の東の島・・・」と解しています。
895 :
どくだみ :2011/03/11(金) 01:16:11.46
>>657 で、榎「邪馬台国」9頁を引用して下さった方、ありがとうございます。
>必ずしも常に両者の領域が文字通り接続していることを意味しない。
>漢書西域伝などについてみれば明瞭
この文で榎一雄がいう「両者の領域」とは、居住農耕牧畜に利用する領域であって、
漢書西域伝が「接」と表現したのは、居住農耕牧畜に利用しなくとも、
国家が排他的に支配する領域だと思います。
史記と漢書の匈奴伝で、冒頓単于は東胡王に匈奴の宝といわれる名馬や妃の一人をゆずれと言われて、
臣下が怒るのを抑えてどちらも唯々諾々と譲っています。
ところが、匈奴と東胡の間の千餘里の無人の棄地について、
東胡王が「匈奴は来れないだろうから東胡のものにするぞ」と言ったら、
冒頓単于は「地は国の本だ」と怒り、
「そんな土地ゆずってかまわない」という臣下を斬り殺して戦争に踏み切り、
東胡を滅ぼしてしまいました。
千餘里という距離は、榎一雄が例に挙げたシルクロードの北道と南道の距離とほぼ同じです。
たとえ人が住んでいなくとも、無主の地とは考えていないわけで、
そうである以上、A、B両国間にどれほどの広さの無人の土地が広がっていようと、
そこはどちらかの国の実効支配が及んでいると考えたのではないでしょうか。
それから、砂漠については、このように領有権を巡る戦争があるわけですが、
制海権を巡る戦争は、3世紀の段階で中国社会で行われていないのではないかと思います。
そうであるなら、仮に西域伝の「接」が、砂漠を無視して二国の生活圏が「接している」と表現したのだとしても、
それを敷衍して海を挟んだ状態でも「接」を使えるというのは飛躍ではないかなと思います。
896 :
ローガン :2011/03/11(金) 16:13:29.48
>>894 どくだみさん。こんにちは。御地は先ほどの地震、どうもなかったですか?当方(大阪)でも少し揺れました。
さておき
>「倭国は中国の東の島」ではなくて「倭国の東の島・・・」と解しています。
私もそうだと思います。その上で
>>775 に書いたんですが、それら倭国の東の島が、海を挟んで西北方向の百済と接している。と。
地理説明でしょうから、交流があると云う意味には訳しにくいので、海を挟んでいても位置関係の表現に「接」は用いられる
という事例ではないでしょうか?
897 :
どくだみ :2011/03/12(土) 06:56:35.31
>>896 ローガンさん。
こちらは九州なので多少揺れた程度でしたが、すごい災害になってしまいましたね。
常連さんたちは無事だったんでしょうか。
テレビを見ているだけで、何が出来るわけでもないのですが、
とても議論という気持ちになれませんので、
レスは、もうしばらくして落ち着いてからにさせてください。
ローガンは大阪人だから畿内説か。所詮は我田引水なんだなw
899 :
日本@名無史さん :2011/03/12(土) 15:22:36.57
>>894 倭國東海嶼中野人。有耶古、波耶、多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
倭国は東海の嶼(小島)中の野人。耶古、波耶、多尼の三国あり、いずれも倭に附庸す。北は大海を限りとし、西
北は百済と接し、正北は新羅と抵し、南は越州と相接す。
耶古は屋久島、波耶は甑島(ハヤは隼人=甑隼人の意味であろう)、多尼は種子島と解される。これらを除いて、
「倭國東海嶼中野人。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。」と読むことは文章的にも何ら不自然
ではないし、意味も十分に理解できる。なお、倭国人を野人と呼ぶはずはないというのは、野人を粗野な人という
侮蔑的意味の言葉と理解したのかと思うが、野人には、素朴な誠実な人という意味があり、倭国人を侮辱した言葉
ととるのは当たらない。
新唐書に「其東海嶼中又有耶古波耶多尼三小王」とあるのは、倭の東海という趣旨のようであるが、それは「唐
会要」などを襲った際に誤解したものであろう。
900 :
日本@名無史さん :2011/03/12(土) 18:07:40.34
前から思うんだが、倭国という名称が嫌いだから 卑弥呼という漢字名が嫌いだから 邪馬台国が天皇家の国と同じだと言うのは、けしからんとかいう アホな右翼がいるけどさ 魏志倭人伝における倭国の扱いって、 異民族の国家としては別格扱いなんだよ。 あそこに書かれている戸数からして、倭国はかなりの大国として扱われているし 金印をもらったり、親魏倭王の称号をもらったり 他の北東アジアの異民族国家なんて、ここまでの待遇の国家など存在しないわけだから。
901 :
どくだみ :2011/03/12(土) 18:49:47.25
>>899 報道番組で忙しいので簡単に。
>野人には、素朴な誠実な人という意味があり、
論語先進篇とその関連以外で、この用例ありますか?
論語にしても、解釈の問題で、語の根本の意味が異なるわけじゃあありません。
902 :
日本@名無史さん :2011/03/13(日) 07:48:05.11
>論語先進篇とその関連以外で、この用例ありますか? 論語の用例は、用例にならないの? 次の用例も別に侮辱的な意味はないと思うけど。 無君子莫治野人、無野人莫養君子
903 :
どくだみ :2011/03/13(日) 08:50:04.94
>>902 論語の用例は、用例になりませんよ。
詳しく説明すると長くなるので、報道番組が落ち着いたらまたレスします。
すみません。ローガンさんへのレスもまだなもので。
>無君子莫治野人、無野人莫養君子
政治を執る者がいなければ農民を統治する者がいない。
農民がいなければ政治を執る者は食べていけない。
この孟子の例文では、君子=政治を執る人 野人=農耕に従事する人 でしょう。
まさか皇帝が農民に新羅を救えとは言いませんし、
倭王は朝貢して認められているから、どちらかといえば君子の側の存在です。
しかし、アナウンサーのヘルメットは必要なんだろうか。
904 :
サガミハラハラ :2011/03/13(日) 10:18:58.48
倭国東海嶼中野人有波耶古波耶多尼三国皆附庸於倭北限大海西北接百済 正北抵新羅南與越州相接。 これは倭国は東海嶼中。野人。波耶古、波耶、多尼有り。三国は皆倭に附庸す。 北は百済に接し、真北は新羅と、南は越州と相接す。 と読むのがよろしいのではないでしょか。 野人とは三国(屋久島、隼人?種子島)の住民です。 倭国の東の海にと解釈しますと、三国は太平洋のさなかとなります。 古代において日本は南北に細長いとおもわれていたとすれば、この三国は倭国の西にあったことになります。 百済新羅の方角はしっかりかかれているのですから、倭国(九州島)の東にこの三国があったとはかんがえられません。 よって倭国東海嶼中、であって、倭国は中国の東の海嶼中。となります。 野人は三国の住民のことです。この三国は奈良時代あたりにようやく倭国中央政府にくみいれられた地域です。 紀をみても、異属の人のように書かれています。
>しかし、アナウンサーのヘルメットは必要なんだろうか。 CIAが電通経由で「わざとヘルメットをかぶり、大げさに演出しろ」と指示を出しているから、仕方がなくやっている。
ホワイトデー中止のお知らせ
>>906 非常時なんだから、当然、自粛すべきだろうな。
しかし、俺は義理返しすら必要の無い状況ですがね。
今年のVDは、まるで邪馬台国インドネシア説並の支持率であった。
908 :
日本@名無史さん :2011/03/14(月) 20:42:58.09
age
縄文時代に起きた南海大地震で大津波が発生し、海岸の集落が全て壊滅し、 わずかに生き残った人々は決して海岸には近づかなくなったのだと思われます。 縄文時代の大規模集落は全て盆地にある理由がそれで説明できます。
910 :
日本@名無史さん :2011/03/14(月) 21:50:21.09
>CIAが電通 おまいら社会の負け犬にとって、自分に手のとどかないものは 全部「悪」なんだよな。
縄文時代でも人の集まるところ広告代理店(のようなもの)があったはずだ。 狼煙を上げて通信する専門業者がいたし、三角縁神獣鏡は光通信の道具だった。 戦国時代にはそれに非合法活動をする組織と結びついて伊賀や甲賀となった。
>>910 そんなものに手を届かせたい馬鹿は、お前以外ここにはいない。
913 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 07:58:21.42
前提として ・3-4世紀の有力族長は女王国(九州or機内)の存在は理解していた。 ・△鏡は贋物である。 ・但し、贋物は原品の価値が皆に理解されているから出回る。 ゆえに、 贋物の△鏡が機内から地方に配布されている事実があるため この意味では機内説が有利となる。九州邪馬台国で貰った △鏡を機内ヤマト族が配布しても笑われるだけ。
914 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 08:22:35.62
卑弥呼が畿内の女王なら、とうに記紀に記載がある。それがないん だから、畿内に卑弥呼の国はなかったということだ。となれば、九州に 卑弥呼の国があったという考えになるのが相当である。 これくらいで畿内か九州かが判断出来るわけで、別に勉強をうんと詳細に しなくても、ここの判別まではハッキリ出来る。
915 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 08:31:56.41
だからここで都合が悪いから記載しなかったとかの〜うっちゃりを 軽はずみに考えて畿内だとか、俗世王と祭祀王の二王がいたとかの 奇抜な考えに移行することをスッパリと捨てて、畿内だとか〜さらに 頑張る説を放棄するのが賢察なのだということだ。
916 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 09:45:12.25
九州に上陸した。それから、南にかなりの日数舟で行く。温暖で冬でも野菜を 食べることができる。これらをみれば、別に勉強をうんと詳細に しなくても、九州だって判別まではハッキリ出来る。
917 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 09:48:17.02
ついでに二倍暦なんて馬鹿な考えも放棄するのが賢察なのだということだ。
918 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 10:20:03.78
ピョンヤンにくらべれば、日本はどこでも温暖。とくに瀬戸内海。 九州北部と近畿は緯度も同程度で気候的にそんなに大差ない。 九州は山がちで海抜が高く、内陸は近畿より圧倒的に寒い。 倭地温暖を主張するなら沖縄じゃないとね。
魏使が内陸まで行ったとは思えんが
920 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 13:47:40.24
>>915 というか、天皇制度というのは、律令体制導入後の制度であり
都市計画からして、天皇制導入後は、南北を軸としたものだったが
卑弥呼の時代は、東西を軸としたものだった。
記紀の原文を読んでも分るが、神武天皇などという漢字の名前は出てこない。
これは、記紀が誕生して数十年後につけられた名称。
天皇の先祖に適当に、天皇号を付けたすぎない。
だからこそ、
イワレ彦(神武天皇)とミマキイリ彦(崇神天皇)という二名の初代天皇がいるという
曖昧な記述になってしまったわけだw
どこからが天皇で、どこからが天皇でないのか、明確に区別できなかったから。
ただ、確率が高いのは、イワレ彦とかミマキイリ彦という先祖がいたことは正しいのであろう。
921 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 13:53:39.55
>>917 二倍暦という考えより、春秋歴のほうが正しい。
古来の人は、一年ごとに、農耕が出来る年と
農耕が出来ない年が来ると考えていたと思われる。
だから、その考えは間違いではない。
ただし、日本書紀の編年は、あれは中国の外交文書として提出しなければいけなかったので、
無理に具体的に年代を出そうとしたんだろう?
だから、あそこから愚直に年代を割り出そうとしても意味がないと思われる。
おそらく、西暦8世紀の時点で伝承していた年代というのは
古事記に書かれているような大ざっぱな天皇の干支没年と寿命だったんだろう?
あそもでも、天皇の寿命は生物学的にない長いものだけど
あれは、春秋歴だった証拠だと思われる。
実際に魏志倭人伝には、「倭人は春耕秋収で1年とし高齢の人が多い」という記述は
そのことを匂わせている。
922 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 14:43:44.41
>>917 馬鹿とは言えないでしょう。
古代南バビロニアでも古代マヤでも2倍暦をやってたんだから、朝廷も
2倍暦法を採用しててもおかしくはないですな。ほら、下表は1日〜14日
までしか日数がない。これは当時の1ヶ月が、現今の2週間しかなかっ
たことを ↓ 物語っているのさ。
【紀の欠史八代の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
いやでも、これは当時2倍年暦を行使していたということだな。
923 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 14:54:59.67
>>921 3倍暦もやってまよ。だから言い方は春秋歴でもいいだろうが、2倍暦
とかのほうがいい場合もあります。
924 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 15:03:51.99
>>923 訂正
× もやってまよ
○ もやってますよ
-----------------
>>922 続き
古代マヤの2倍暦はルナー・シリーズにありますね。月暦というもので、
欠史八代での朝廷の場合は半年を12ヶ月としての一ヶ月が14日間という
方法のようで、マヤの場合は半年を6ヶ月での、学術用語でこのマヤ文字
を C で表現しています。だから1年で2周します。
このマヤ文字は右片手の上に人頭を乗せた絵文字で、これを C と
読んでいます。
925 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 16:35:09.40
祭祀王と俗世王の二元体制について... 中世日本では、天皇と征夷大将軍 中世欧州では、ローマ教皇と皇帝 おそらく、西暦3世紀の日本でも... 律令体制後の日本でもその痕跡が残る。 律令体制下での日本の官僚組織では、神祇官と太政官というふうに 祭祀と政治を行う機関が分かれていた。 中臣氏は、この両方を一族で独占するようになり、 神祇官を支配した者が大中臣氏、太政官を支配した者が藤原氏を名乗った。
926 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 16:57:34.87
中臣氏による太政官と神祇官の支配体制は 古来の倭王家(天皇家)による 祭祀と政治の一族での独占体制を見習ったものである 可能性が高い。 中臣氏は倭王(天皇)にはならなかったが、その下の臣下の最高位として 神祇官と太政官を一族で独占するにいたったと思われる。
927 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 18:27:14.55
そういう二王がいたんなら、双方記紀に載るのが当然だろう。 だからそういう二王的状況は日本の南北朝、大相撲の王が横綱ならいま は白鵬の独りだが通例では東西に横綱がいるわけだし西遊記でも金角 大王、銀角大王の二大王が小説だがあるわけで、肯定は出来るものの、 記紀にないんじゃぁ〜〜王(ここではオオキミ 天皇)は独りだよ。 だから畿内説はうっちゃりとか奇抜な考えを無理に入れて頑張り通す 妄想だと、早く打ち切ったほうがいい。
928 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 18:48:59.27
>>927 否定しながら、実は結構、認めているなw
魏志倭人伝によると、倭国では
祭祀を女王卑弥呼が行い、実際の政治を男弟がやっていたつー話だから。
929 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 18:59:27.67
だから当時の日本は畿内と九州とが別国だったんだよ。だから一国で一王 ずつだということだ。 これは諸葛亮の天下三分の系で分かるように当時の大陸は魏、蜀、呉の 3極で一国でなかったように、そのころの日本も一国ではなく二極の状況 だったということだ。半島でさえも一国ではなかっただろうが・・。 そして九州には九州王朝があり、畿内には朝廷があったということさ。
魏志倭人伝だと邪馬台国の支配地域にも邪馬台国王と伊都国王の二人の王がいるな
931 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 19:04:34.35
>>924 訂正
× 半年を6ヶ月での
○ 一年分を6ヶ月での
932 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 19:05:28.83
933 :
「太国さんのお気に入りの表」 :2011/03/15(火) 20:55:29.26
紀の干支表記をいったいどの暦(四分暦、景初暦、元嘉暦・・・はたまた更なる古暦)の日数表記に当てはめたのか? 何度 問いかけても回答が返ってこない。 何故答えられないのか(「暦」の意味を知らないのかもw)わからないが。 【紀の欠史八代の日数統計表】 1日 4 15日 0 29日 0 2日 2 16日 0 30日 0 3日 3 17日 0 4日 3 18日 0 5日 6 19日 0 6日 3 20日 0 7日 2 21日 0 8日 3 22日 0 9日 3 23日 0 10日 1 24日 0 11日 4 25日 0 12日 3 26日 0 13日 3 27日 0 14日 7 28日 0
934 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 22:08:06.50
>>929 なんだよw その半島さえもってw
半島だからだろう?今でも二つに割れているわけだしw
邪馬台国=ヤマト国のことであり、
卑弥呼=モモソ媛命だし、この王権は畿内にあり
北九州には一大率を設置して監視していた。
ただ、この王権は全国規模に影響力がありながらも、やや西日本に偏っていて
まだ、完全には日本全土を統治できてはいなかった。
おそらく、東日本には、卑弥呼と対立する勢力があり、
それは、現在の名古屋に落ちのびていたはず。
コノ両者は、もとは兄弟から分かれた家系であり
卑弥呼(モモソ媛命)は弟のニニギの子孫
濃尾平野にいた勢力の王は、兄の火明命の子孫であり
もともとの初代近畿王は、この火明命だった。
935 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 22:10:45.21
>何度 問いかけても回答が返ってこない。 倍年なる暦法は存在出来ない。 その証拠として、書紀の太陰暦に変換出来ない。 有るはずだ、では答えにならない。 変換方法を明示すべきである。
936 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 22:26:05.15
うちらのやるのは紀年法ですよ。倍暦と言って暦の語を使ってるから そういうあなたの言う暦法がどうのこうの関連してどうなんだ?と設問 するのは表見的にはそのとおりですが、同じ暦の語を使っても異質のもの です。紀日法ではないわけで、日数をやっても年代確定には影響力は 少ないですよ。しかし、じゃぁ使うことないだろうというものでもないと いうことです。日数のほうは編年での補助ですからこのような表で使用 することは必要ですが、編年より編日は365倍の精度になるということで、 元嘉暦でも四分暦でも年代のほうはそれがどうだこうだと言っても変わり などあんまりないから、そういうのは別の研究分野ですね。 倉西女史も編日法をやってる唐松山を別ものだとして、他で論を張ったら どうでしょうと忠告してますし、美濃もん太氏も編年のほうには誤差の 影響は少なく不要だと言っています。 崇神の代には、すでに後代の李淳風の編纂の儀鳳暦の扱いを知ってたので はないのかという考えを持っています? これを見て下さい。↓ 儀鳳暦の一朔望月=39571/1340日 右辺の数字は B.C.97年1/13 =崇神即位年月日と残りが0の他は 4 5 3 なんですよ。結合すると通説で 453年=安康天皇即位年 であり、崇神から安康没年までは儀鳳暦を朝廷が使っていたという意味 と把握します。この分数は崇神と安康の即位年の組み合わせなんですよ。 始点のため崇神のほうは月日付きです。 安康没年の通説年代は安康3年ですね。
937 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 22:29:15.95
邪馬台国は巨大地震で海の底に沈んだ。 鹿児島から沖縄にまたがる大きな島があったとするのが最も信頼性のある切です。 今回の巨大地震が予想できなかったように、自然の猛威は時として歴史の真実さ変えてしまうのだ。
938 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 22:30:33.77
>>935 ←こいつは唐松山の無コテ。よくこの手をこいつは
使うんだ。ww
こいつは具体的説明は一度もしたことがなく、よく無コテで
ツー・フェイスをやる。ww
両面宿儺かアシュラ男爵
940 :
日本@名無史さん :2011/03/15(火) 22:36:09.96
>うちらのやるのは紀年法ですよ。 太国倍年が紀年法でないことは、書紀の太陰暦に直せないことで確定している。
941 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 22:36:58.71
>>933 何度問いかけても 42年 の回答が返ってこない。
他人への要求は無コテでもやる。ppp
942 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 22:39:43.48
>>940 直せないのはオマエだ。ただの一度も説明がない。bbb
出来ないわけだと確定している。無コテで戦わないほどオマエには
持ち駒がない。wwwww
943 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/15(火) 23:00:08.83
欠史8代の思考をそれ以後の歴年に当てはめられない。 この事実を無視して、倍年を当てはめる。 42年 の回答が返ってこない。 8代×20年=160年 崇神5年≒193年冷夏。 190−160=50年 弥生中期と後期の境目。 この辺が神武東征だ。 西暦4年甲子から数えた58年=神武元年。 西暦になおすと 58−19=39, 39+4−1=西暦42年 西暦4年甲子に導入された暦は、1ヶ月早い(西暦3年12月)。つまりオウモウと同じ正月になる。
944 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/15(火) 23:05:51.24
>持ち駒がない。wwwww 210年 伽耶建国=任那建国。 193年の冷夏凶作が指標 239年 田道間守を派遣 都市牛利(たしうり)=田道間守 274年 渡海 273年 日食が指標 323年 半島占拠 326年 七支刀が指標 これらの数字を太陰暦で表記出来る。
945 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 23:06:33.38
崇神5年≠192年 上は成立しない。千人ものハラペコ農民が72時間以上もメシを喰わずに 離散すれば、もう命は風前の灯であり、今回の大地震でも食料確保の 重要性が報道機関で論議されているので、スグ理解出来る。 つまり崇神5,6年、千人もの渡海は不可能なのが東北大地震で明確に判明 するのだ。><
946 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 23:11:26.29
>>944 オマエのは太陰暦で表記出来ない。その証拠に、今の今まで説明を
したことがタダの一度もありゃしない。
なお神功元年前年の神功紀の記事は 日を経て という日数経過
の継続性を説明してるから、日食にはならない。ただ熱帯ジャングルの
蛮族の酋長はこれを否定する。ww
947 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 23:15:10.40
>>943 紀の欠史八代の日数統計表を見れば、月の後半が空白日だということを
強く示している。つまり空白年ではなく、【空白日】が真なのである。
空白年など西暦0年以外存在しない。マシはオマエのひどい妄想。
948 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/15(火) 23:21:45.97
>崇神5年≠192年 上は成立しない。 任那建国、渡海、半島占拠を認めなければ、どんな数字でも割り振れる。 対案が示せない数字は、歴史として認める事は出来無い。 書紀の主張を否定して成立する歴史は、日本の歴史では無い。 季節、日付、正朔を否定しても、書紀の太陰暦が再現出来なければ ただの妄想。
949 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/15(火) 23:23:14.40
オマエは太陰暦に再現出来ない。今後はこちらがこれでつつく。ww
950 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/16(水) 11:40:08.54
>>949 書記紀年法に日数まで書込んだろ。
ただ太国は、それを認めたくない。
その場合 考古学か文献に数字を合わせねば成らない。
考古学:2世紀末各地の土器が巻向に集る=崇神11年異俗多帰。
後漢: 193年6月寒風冬の如し。=崇神5年 疫病(凶病=えやみ)、餓死、
崇神6年離散(逃散)=考古学:弥生後期後半 唐子・鍵遺跡が放棄される。
考古学、文献と書記の主張を合致させねば”真”とは成らない。
崇神5,6年の慰霊碑として、モモソ姫の墓を皆で築く。
民を命令で動かしたのなら、当然のことであるから記事に成らない。
民が自分の意志で行動したから記事となる。
952 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/16(水) 14:44:57.71
古代の真の年代を測る天下の宝器→天津神算木(天津金木)
これ以外の編年は何を能書きを
>>951 のように垂れようと、デタラメである。
天津神算木は金城鉄壁であり、数式であるから原水爆でも暴君でも破壊
することは出来ない。
>>951 はツー・フェイス 唐松山の裏コイン〜ppp
天津神算木は三輪(半径r=3の円)の球化 体積=表面積 の数式をいう。
4πr**3/3=113.0973355292・・・ (*は べき)
主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位←お助け役の景行即位年ではない。
大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335=113.097B350←Bは三輪に因む。
B.C.97年 崇神即位年の真の年代は 右辺 097年 の左右の3桁数値〜
113 350 から
350−113=A.D.237年=崇神天皇即位元年=景初元年
天津神算木から景行は崇神のお助け引き立て役年代だと明確になるのだ。
953 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/16(水) 14:49:03.16
192,3年≠崇神5,6年 メシという糧食がなければ、到底畿内から半島へなど千人もの漁師未経験 の農民が飢饉渡海は出来ない。これは今回の東北大震災でも糧食の未確保 が深刻であることから、軽く唐松山の主張がデタラメであることが 分かる。つまり唐松山の編年は妄想にて崩れたということになる。ww
954 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/16(水) 15:05:27.56
欠史8代は、共和制邪馬台国時代。 崇神の時代から帝政邪馬台国。 帝政ローマの成立と同じような歴史をたどっていることは確実だ。
956 :
日本@名無史さん :2011/03/16(水) 21:16:33.95
詠み人:被災者 寒いから 燃やしてもいいか 天津神算木
957 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/16(水) 21:38:49.88
>太陰暦に直せないオマエは黙ってろ。 太国倍年は太陰暦に直せない。 崇神元年1月13日が西暦237年に存在した証拠が無い。 崇神世には、任那建国がある。 崇神5,6年には民が大量死している。 考古学の云う、この時代は2世紀末である。 太国倍年とは不都合を説明しないから存在している。 崇神5,6年の出来事を1年で説明した事が無い。 崇神5年 疫病(凶病、えやみ)餓死 崇神6年 民の離散(逃散) 逃散は冬から始まり翌年の春にピークを迎える。 崇神7年冬 民はなんとか冬を越す食料を得る。 3年の記事で1年とすることは出来ない。 つまり書紀の1年の記事は太陰暦の1年にあたる。 この状態で書紀を圧縮するには、空白年を差し引いて、正常な太陰暦とする。 数字の書き換えは、後の改元に相当する。
958 :
忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/03/16(水) 22:00:45.87
a
959 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/16(水) 22:36:31.71
>>957 トゥー・フェイス
崇神紀の三輪山の説話は、三輪(半径r=3の円)を強示したものだぜ。
その球化の数式 天津神算木 をこの説話で未来の我々に古代の朝廷が真の
年代を壊さずに保全する最善の方法たる数式でもって以後の未来へも伝達
させたかったものだ。オマエのホツマよりよっぽど確かなんだぜ。
大祓祝詞に曰く 大中臣天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335
主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位←☆お助け役の景行即位年ではない。
副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
助値 B.C.130年 ミマキイリヒコ(崇神天皇)立太子年
助値 A.D.130年 景行天皇没年←★主値の崇神即位年のお助け引き立て役年
☆★マークに注目のこと
960 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/16(水) 22:43:03.52
>>957 トゥー・フェイス
空白年はないことが、欠史八代の日数統計表からも自明である。
同表には【空白日】が在り、空白年ではないことを遠回しに示唆している。
2倍年暦は古代マヤの太陰暦法 C文字 にて、その存在が確認出来る。
古代南バビロニアでも2倍年暦の行使があり、古今の世界で行使されて
いたことが判明する。空白年は西暦0年以外存在しせず、デタラメである。
961 :
日本@名無史さん :2011/03/18(金) 15:12:23.54
仁徳以前は1年が4年として書かれている。だから、崇神は4世初、神武は2世紀末になる。
962 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/18(金) 18:23:30.61
書紀に書かれた記事が、考古学や文献と一致せねばならない。 崇神5年 疫病(凶病えやみ)、民の死。同6年 民の離散(逃散)。 後漢書193年 6月寒風冬の如し。中国では冷夏凶作。 考古学:弥生後期後半 唐古・鍵遺跡が放棄される。 崇神11年 異俗多帰。 考古学:2世紀末纒向遺跡に各地の土器が集まる。 崇神世 任那建国。 210年 伽耶建国。 >空白年はないことが、欠史八代の日数統計表からも自明である。 太国は書紀の暦は後付けで有るから、日にちは無視出来る。と主張する。
963 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/18(金) 18:41:14.24
仁徳天皇四年(丙子三一六)三月 課役並免。 (仁徳天皇四年(丙子三一六)九月◆九月。諸國悉請之曰。課役並免。既經三年。) 317年 西晋滅亡 新羅 364年 倭兵が大挙して侵入。 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)◆五十三年。新羅不朝貢。 372年2月 東晋の使者が百済を訪れる。 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。 書紀の仁徳朝は、他の文献と整合性を得られる。 ただし 1、2年の齟齬が有る。1年違いの暦の使用は考えられないから、 編纂者が編集段階で1、2年間違えたとしたら、仁徳紀は正しい記録とは言えないが 努力の跡がうかがえる。
964 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/18(金) 18:53:51.75
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。 317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之 316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。 317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?) 323年 癸未 神功49年3月 再度渡海 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。 326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■ 331年 辛卯年(広開土王碑) 楽浪方面へ領土を広げる。 342年 高句麗は前燕に大敗し、高句麗に前燕の軍が駐留する。 342年以降 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。 高句麗、百済は前燕に従属する。
>>962 ツゥー・フェイス
>一致せねばならない
オマエの放射脳は、例の千葉歴博班の鑑定基準値から50年も逸脱してると
あきれて、分かったではないか。
紀では五重在位などの記述などあるわけがなく、これもオマエのは一致
などしていない。つまりデタラメだな。ww
紀の欠史八代の空白たる日にちを無視して空白年にしているオマエこそ、
日にちの大無視だな。pp
966 :
日本@名無史さん :2011/03/18(金) 19:57:37.67
暇人番付 東横綱 太国山 西横綱 唐松山 以下については審議中につき不記載
だからこれ、同一人物だって。
多重人格者との説も…
969 :
日本@名無史さん :2011/03/19(土) 15:44:18.06
このスレあぼーんだらけでワロタw 糞コテが妄想をはき散らかすスレになったな
AGE
明日とりあえず休み〜 最近仕事の方で休日出勤があり、日曜日なかなか来れない。 今日、明日はココで遊ぶか
今回、北日本で災害があり ニュースをつけるたびに地震、津波がどうのやってるよね。 災害にあわれた方には申し訳ないが、私はあいにく、そっち方面に住んでないので テレビでやってる事ぐらいにしか映ってないのかもしれない。
973 :
日本@名無史さん :2011/03/20(日) 19:46:35.59
古代人が共同で王様立てるわけないだろ 戦いに疲れた伊都国や出雲や吉備が話し合いで新しい宗教を作って 大和に都を作ったとかありえないだろ 話し合いで新しい宗教なんか作れるわけないだろ 古代史の先生ってアホばっかりなんじゃねえの
>古代史の先生ってアホばっかりなんじゃねえの 太国のおっさん〜アホって言われるよんWWW
>>973 >話し合いで新しい宗教なんか作れるわけないだろ
大祓詞に
「八百万神等を神集へに集へ給ひ 神議り(かみはかり)に議り給ひて」
とあって、神様も話し合いをする国柄だからね。
976 :
日本@名無史さん :2011/03/20(日) 20:23:11.94
>>973 古代においては共産主義ユートピアが達成されたというのが、
戦後に流行った考えなんだな。
これに対して、天皇が中心となって国家を作ったなんて翼賛主義は
唾棄すべきものとされてきたんだな。
神武東征なんて軍国主義そのものだから、弥生時代の九州優位という
事実を認めようとしないんだな。
977 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 10:59:39.02
あと、反皇国史観の考えから
やたら、女王卑弥呼の記述や共立したという記述をもとに
古代は女系だったとか、共和政的だったみたいなことをいう風潮も
戦後の左翼史観の風潮だなw
>>976 最初のには同調するが
最後の神武東征のくだりだけ
間違いだよw
よいしょ よいしょ よいしょ(↑) 弥生時代の九州優位というのは九州のが大陸に近いからだろう。 しかし、首都は別とみるべき
979 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 21:04:53.70
なにをもって優位と見ているのかも分らんしなw 九州優位って何だよw? 外国からの交易品が多く出土するとか その程度のことだけで、そういうふうにみているのか? だとしたら、あほでしょうw?それってw
980 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 21:48:35.46
>>979 だな。九州で弥生時代の遺物が多いのは大陸に近いからに過ぎない。
本州の農業生産力や人口を考えたら、本州の方が上に決まっている。
鏡とか鉄とか絹とかの出土が九州に集中しているということだけを強調して、
人口構成を無視したらだめだね。
だから、誤解を招くような統計は公表を控えるべき。
とにかく邪馬台国は畿内なんだから
981 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:13:21.67
邪馬台国が畿内にあったとできる証拠は皆無である。文献にしても考古学的資料にしても畿内説を支持するものは何も無い。 口惜しかったら証拠を挙げてみなさい。出来ない? 当然だね。にひひ。
982 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:20:09.04
北部九州は大陸への玄関口で要の土地ではあるが、首都は置けない。 常に支配下への争奪戦がなされ危険な土地柄である。 九州東岸部(宇佐〜西都原)が女王国だな
983 :
sss :2011/03/21(月) 22:32:34.20
984 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:33:23.34
通信手段も交通手段もない時代に、機内と九州の部族間抗争って考えられない。 山一つ向こう側の国、川一つ隔てた向こう側の国となら、危機感もって抗争大乱 が認められたかもしれないが。 戦国時代ですら、他国に遠征する場合は、自国の背後国に攻められる恐れがたって、 なかなか外に打って出ることは困難でした。(北条、武田、今川など) よって、邪馬台国とは北部九州のささやかな国々のことを示したものが、誇大化され たものに過ぎません。
985 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:36:39.34
九州の有明海沿岸部だろう。海からは豊富な魚介類、川沿いの水田からは米、野原からは野菜、山野には猪、鹿、兎、 狸などの獣やヤマドリや雉などの鳥類が豊富だ。弥生遺跡は掘れば何処からでも出て来る。鉄器の出土も多い。
986 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:37:26.13
>>983 その推定数値自体、胡散臭い。
というのは、その数値というのは、
長年の定説だった、日本の農耕開始時期を2300年ごろと計算した場合の数値だから。
でも、最近の説だと、遅くとも5000年くらい前には
日本で農耕が開始されていたとみる説が有力になっている。
だとしたら、その推定値も全く異なるものになる。
現に、魏志倭人伝の邪馬台国の戸数からみたら、
日本の農耕開始時期は、それくらい前にはじまってないと、
ありえないくらいの戸数の多さ。
987 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:38:20.20
>>984 おいおい・・・
通信手段も交通手段もないって、現に邪馬台国の使者は3世紀に魏の首都まで行ったんだぞ?
畿内ー九州間と日本ー中国間ってどっちが遠いと思ってるんだよ。
魏の首都までの移動手段を持つ邪馬台国がその程度の距離を軍を率いて移動できないはずはなく
全く見当違いだよ。
988 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:42:43.92
>>987 そうだそうだ。984 みたいな考えがどこから生まれるのか、理解に苦しむな。
989 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:44:42.60
>>983 弥生時代の機内と南九州が3万人と6.5万人
戸籍で把握し始めた奈良時代で、同45万人と21万人
なにか作為的では?
990 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:46:01.89
縄文時代とか、古墳時代とか、弥生時代というネーミング自体 当時の歴史の実態を推測するのに適切じゃないだろう? 単に、弥生時代って、弥生式土器の時代というところから スタートしている。 でも、いつのまにか、農耕全体が開始時期の時代とされ 最近では、「水稲」農耕が開始されてきた時代という風に 解釈が変更しまくっている。 ここまでくると、当初の弥生式土器の時代というイメージから そうとう、かけ離れてしまっている。
991 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:52:54.44
世界中どこでもそうなんだけど、 過去に人口がどの程度いたのか確かになってくるのって かなり最近になるんだよ。 日本だと、江戸時代くらいに、ようやく人口が明らかになってくる。 太閤検地だって、隠れた人口がありまくっていたぐらいだし。 そういうわけだから、卑弥呼の時代にどのくらい人口がいたのかどうか 実のところ分らん。 ただ、前から言われているんだが、農耕開始時期2300年前説から算出した人口と 魏志倭人伝から推定する人口とでは、大きな開きがあるとは言われていて 古代史の謎とされてきたんだな。 前者をもとにすると、古墳時代に急激に人口がアップしたことになる。 でも、後者を基にするのなら、古墳時代に人口はさほどアップしてなく、 緩やかな人口増加だったことになる。
992 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:55:07.01
ちなみに、俺が興味を持っているのは 魏志倭人伝に書かれている倭国の国々の戸数。 あれがそうならば、倭国は当時、自国の戸籍を取っていたことになるし、 中国的な漢字の概念もかなり知っていたことになる。
993 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 22:58:04.69
>最近では、「水稲」農耕が開始されてきた時代という風に 解釈が変更しまくっている。 弥生土器は縄文土器に比べて焼成温度が高く、薄くて火の通りがよく、米の調理に適している。恐らく稲作と一緒に 入って来たものであろう。弥生時代とは「「水稲」農耕が開始されてきた時代」だけではなく、弥生土器が使用された 時代で、古墳時代とされる時代の前の時代という認識でよかろう。
994 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 23:03:05.17
>>992 倭人伝には「收租賦、有邸閣」とある。税を徴収するには国勢調査みたいなことを行っていただろう。
995 :
日本@名無史さん :
2011/03/21(月) 23:08:18.13 >>993 つーのは、土器の種類を細かく見ていったら、縄文土器と弥生土器の中間くらい
ってのも多く存在し、また地域によって、バラバラなんだわな。
縄文土器の遺跡にも、水稲の形跡があったりしているし。
あと、日本では、長い間、陸稲がメインであり、
水稲は、日本の農耕の一部にすぎなかった。
また、小麦など他の農作物から多くカロリーとっていて、
稲はその一部に過ぎなかったことが分っている。
数年前言った、奈良県の弥生時代の博物館でも
そういう記述に変化していたよ。