1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 13:38:44
何気なくやったら、一発でスレ立った。信じられん。
1 乙
4 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:11:15
972 :伊作ちゃんなのさ:2011/02/09(水) 10:18:44
>一月陸行はせいぜい150から200キロぐらいだろう。
いい話をしてやろう。
司馬懿の4万の軍隊が公孫淵討伐に向かう日程は、
片道4000里を行きに100日・帰りに100日・戦闘に100日で休息が60日だ。
行き帰りと戦闘に均等に休息日を割り振ると、100日に対して20日が休息費。
休息を入れた100日で計算するか、実行日数80日で計算するかは任せるとして、
1日に何里歩くことになるか。
注●『三国志』のいう洛陽から遼東までの4000里は登場人物たちの口頭文言だから、
端数を端折っている可能性あり。
『後漢書』郡国志の地理情報によると洛陽から遼東まで3600里。
後漢代の尺は、魏代の尺よりは1センチばかり短い。
注●司馬懿の行軍は、戦車・馬車が通交可能な大陸の道を、討伐戦いに急ぐ行程である。
前人未踏の「臨時の山道」を歩いた魏使とはシチュエーションが異なる。
いじょ。
空想推論ではなく、事実に即したことをいうには、こういう計算をするといいよ。
5 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:13:51
960 :伊作ちゃんだけど:2011/02/09(水) 09:07:39
つづきだから。
>「水行二十日」とか「陸行一月」という情報だけでは、距離を算出することは不可能。
いいことを教えてやろう。
海路は距離測定が不可能だ。それをどうやって表記する? 考えてみたこともなかろう。
歴代の中国歴史書が、1日航海・1000里単位で表記している。極端な例でいえば、風待ち・潮待ちで昼に出港して夕方寄港しても1日航海だ。距離は1000里だ中国人らしいところだな。
例外的に、陸路測定で表記可能な河川水行と、目測が可能な程度の海路を百里単位で表記した例があるが、圧倒的大多数は日月単位か千万単位表記だ。釜山・対馬・壱岐・唐津と、明らかに異なる海路距離を一律1000余里としていることでそのことが分かるだろう。
で・帯方郡から唐津までの10000里が水行10日だ。この、現実距離とは無縁の海路距離表記の「10000里」を含む12000里を、まともに距離感算するバカが溢れているが、これが文学とドキュメントの中間に位置する文献の読み方なのだ。
6 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:16:19
986 :日本@名無史さん:2011/02/09(水) 11:58:16
舟で1日かかる海路を1000里と表記することは知ってたか。
朝鮮半島から、対馬まで1日、壱岐まで1日、九州上陸まで1日ってことが書いてある。 ここまでは常識だろう。
で、
>帯方郡から唐津までの10000里が水行10日だ。
魏志倭人伝には、 ”郡より、海岸に循って水行し、狗邪韓國に至る七千余里。”=7日という計算になる。
狗邪韓國から末盧國まで3000里=3日。
郡から九州上陸まで、海路(水行)が10000里=10日で、となる。
よって”水行十日、陸行一月”とは、
郡から九州上陸まで、”水行十日”であり、九州上陸から”陸行一月”で邪馬台国となる、
と、文献を解釈しているわけだ。
一方で、邪馬台国まで12000里ともある。 2000里は、”陸行一月”の部分。
つまり、1日で歩く距離は、約66里となる。
>>972 4000里を80日と計算するなら、1日で歩く距離は、約50里となる。
つまり、大陸での里数の計算と、倭国内の里数の計算は誤差の範囲であり、
短里とか長里とかの議論は成立する余地が無い。
ここで、1里を500メートルとし、1日で歩いた距離を60里とすれば、1日で30キロ歩いたことになる。
これは、距離が長いようだが、古代人の足では不可能な数字ではない。
つまり、九州北岸から、南へ30日歩いた距離=900キロ地点が邪馬台国となる。
ということで、よろしいかな? 皆様。
7 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:34:00
>『後漢書』郡国志の地理情報によると洛陽から遼東まで3600里。
魏志倭人伝によると、末盧國から邪馬台国まで2000里。(徒歩で30日)
さて、地図を広げて検討してみようか?
8 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:38:33
前スレ1000
>約束通りもう来るな
彼はドン来い1000スレまで居るって。
>983 名前:伊作ちゃんなのさ[] 投稿日:2011/02/09(水) 11:42:47
>1000スレッドになったら俺も終わりにするから。
>>4 >>前人未踏の「臨時の山道」を歩いた魏使
そんなら邪馬台国はどうやって納めていたというのだ
道がなく、人の往来もなく、物資経済もない、そんな孤立した国々を統率する必要がそもそもあるのか
10 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:51:46
どのみち、邪馬台国北部九州説は、これで終了したということだろうな。
30日も歩かないと女王に会えないんだから。
残る可能性は、熊本、日向、鹿児島、沖縄(笑)か。
もちろん、東に歩いていったとすれば、畿内・大和が距離的にピタリと一致する。
11 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 14:54:08
日向は、現在でさえ不毛に近い、だから養牛や養鶏をやってる
石高的に戸数七万はむり
13 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:04:47
>>12 しかし、日向には古墳がある。古墳的な観点から行けば、九州でもっとも
進んだ土地ということになる。
地理的にはかなりきついな。有明海あたりから日向まで行くとしたらまさに
一ヶ月以上かかってしまうかも。道なき道を山越え山越えとなってしまう。
邪馬台国九州説をとった場合、やはり邪馬台国の場所は西側が妥当だが、
日向の可能性としては、何らかの理由での遷都が考えられる。
14 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:22:21
>>11 それは先入観。
瀬戸内海沿岸には高地性集落などあり、
海賊が出没してたとなると、安全を考えるなら高地のムラを経由していったほうが合理的。
15 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:22:45
みんなが思っている以上に古代のたびは困難だし反面のんびりもしていると
思う。思ったよりはるかに短い距離に一ヶ月を要していると思う。
100キロ(道のりで 地図の直線距離ではかってはだめ)が妥当。
16 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 15:45:35
これは見えなかったことにしちゃったみたいだな。
さすがだwww
974 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2011/02/09(水) 10:34:18
たしか、以前の議論でこんなのもあったよ。
>根拠は隋書百濟伝
>百濟と済州島間は「海行三月」、実際は「250km」
>済州島の大きさは「南北千里東西数百里」、実際は「東西70km南北50km」
982 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2011/02/09(水) 11:40:43
其國東西四百五十里、南北九百餘里、南接新羅、北拒高麗。
其南、海行三月有耽牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多?鹿、附庸於百濟。百濟自西行三日、至貊國千餘里云。
百済国と耽牟羅國(済州島と解釈されている)がほとんど同じ大きさで、百済って小さい
わりには同じくらいの大きさの国を
附庸しているんだね。それに南に新羅がある。
これは再考の必要ありますよ。通説を。
17 :
ローガン:2011/02/09(水) 16:11:32
991:日本@名無史さん 2011/02/09(水) 12:12:34 AA
>つまりですね、畿内説でいえば、九州から畿内、大和に行くまで、 実は、瀬戸内海も日本海も船をつかわず、
>歩いて向かったということがわかるわけです。 舟で行くはずだ、というのは、先入観でしかない、ということですね?
>ローガンさん、どう思います?
行程ですかあ…
まあ、陸行一月といえど中国山地から瀬戸内海へ流れる川を渡るのに舟は使ったでしょう。
さておき、以前書いたんですが、森之宮の弥生貝塚からセタシジミが出ています。弥生後期にはすでに河内潟は淡水化していた考えられますね。
なら、現上町台地の北端はすでに対岸に届いていた。そして堀江開削まで舟ははいれません。
弥生末〜古墳初、邪馬台国時代は瀬戸内海を東進した舟は、河内へは入れない。
投馬国から兵庫のどこかの寄港地までが水行。そこから徒歩中心の1ヶ月。
1ヶ月は長いようですが、「景初三年説」をとるので詔勅が三年十二月。使者来倭は翌年。
難升米等が使者に先立って帰国したとはいえ、同年の事。迎賓施設の整備などなど、使者の待ち時間を考慮すれば、目くじらをたてるほどでもなし。
まあ、想像ですけどね。(笑)
18 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 16:13:34
>>12 日向は九州最大の人口密集地域だってことを知らんな。
しかも、膨大な古墳がその裏付けになっているぞ。
19 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 16:22:30
>>18 弥生時代後期の日向は、鉄器も銅器も鏡も無い、畿内よりもめぼしい遺跡が無い僻地だが?
20 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 16:48:04
992 :伊作:2011/02/09(水) 12:13:59
だんだん、いい話になってきたね。
>4000里を80日と計算するなら、1日で歩く距離は、約50里となる。
踏破距離は休息日も含む通算日数だろうね。
しかも、後漢書郡国誌の数値のほうが実数に近いはず。
3600里を100日ならば、1日36里。しかも戦車・馬車・大軍が通れるような道だ。
>九州北岸から、南へ30日歩いた距離=900キロ地点が邪馬台国となる。
司馬軍は5勤1休のペース。(おや、ここでは魏使は休みなしの計算?)
あくまでも司馬軍を基準にすれば36里×30日
●倭人伝の陸路距離数値は魏の公式尺度の6倍として、出た数値の6分の1が実際距離
●おまけとして。卑弥呼の墓の100歩も時差懿には6分の1に換算しなければならない。
いろいろと都合の悪いことばかりゆって・すまんねー。これが事実だから。わらわら
993 :日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:16:14
>>992 >●倭人伝の陸路距離数値は魏の公式尺度の6倍として、出た数値の6分の1が実際距離
>●おまけとして。卑弥呼の墓の100歩も時差懿には6分の1に換算しなければならない。
根拠は何ですか?
21 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 16:49:56
998 :伊作:2011/02/09(水) 12:21:45
ていせい。こっちのほうが正しいかな。
陸路の2000里を6分の1にして、これを30日で割った数値が、
魏使が1日にあるいた平均距離になる。
>根拠は何ですか?
ここでは、すぐにこういう質問になるね。すでにあらまし説明したはずだが。
説を述べるのに、「まやかし」なしで根拠を提示して 展開してみせたのは俺だけ。
999 :日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:23:24
結論を、勝手に作り変えてるのは貴方でしょ?
22 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 16:55:12
>>20-21 このへんは、推論に推論を重ねてるから
どうでもいい話だねえ。
23 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 16:58:47
少ないが鉄器はあるよ。玉璧もね。
24 :
2浪中:2011/02/09(水) 17:01:47
>>17 ローガンさんはいろんな事にお詳しいようですね。
17を見ますと、ローガンさんは行程の読み方は連続式のようですね。放射読みをする人もいますが、僕は放射読みの理屈が理解できません。以前に到と至の
違いや方位、距離、国名の書き順などについての議論を見たことがありますが、どうも納得がゆきませんでした。ローガンさんはどのように思われますか?
それから、里数表記と日数表記の問題ですが、
日数表記は前経由地からの所要日数を示すと考える人もいますし、帯方郡からの所要日数だと考える人もいます。ローガンさんは前者のようですね。僕も帯
方郡からの所要日数であれば何故あんなところに記述するのか不思議に思います。記述するなら「自郡至女王國萬二千餘里」の後に水行十日陸行一月とした
方が理に適った表現になると思います。この点ローガンさんはどう思われますか?
ところで、倭人伝では帯方郡から女王国まで万二千餘里とあって、末盧国までで1万餘里ですから残りは二千里です。これは帯方郡から末盧国までの距離の
5分の1でしかありません。水行だと1日千里だそうですから、二千里だと水行2日分にしかなりません。とすると、投馬国のところの水行二十日、邪馬台国
のところの水行十日陸行一月はおかしなことになります。
僕は日数表記のところ(投馬国と邪馬台国への行程)はそれより前に出て来る国への行程とは異なる資料によって書かれたものではないかと思います。
不彌国までは里数で示された資料をもとに、投馬国と邪馬台国への行程は魏使の梯儁の旅行記録のようなものをもとに書かれたものではないかと思うのです。
ローガンさんはどう思われますか?
25 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:03:15
伊作の論の問題点は、ここ。
>[陸路の2000里を6分の1にして]
邪馬台国までの距離を論じるのに最も重要な記述を「6分の1」にしてるわけだから、
その根拠を提示してもらわないとお話にならない。
ただの推論なら、魏志倭人伝の距離、方位、日数など、あてにならないデタラメな数値ということを、自分で認めることになり、
伊作の論は破綻する。
26 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:11:01
短里と一月行80キロで、全部辻褄合うんだけどな。
27 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:16:46
>>26 [短里]が使われたという証拠を提示してからの話ですね。
”[短里]が使われていたと仮定するなら、自説に都合が良いから、[短里]が使われていたと結論する”ことを、「循環論法」といいます。
わかりましたか?
28 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:21:24
>[短里]が使われたという証拠を提示してからの話ですね。
うーん、それが難しいんだな。
公里が使われていないことは証明できるんだけど。
29 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:41:58
短里は松浦までの行程距離からの計算値ということでよくないか?
まあ、それこそ過去から何十回もぐるぐる循環している話だが。
30 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 17:42:25
また、魏志倭人伝には、「周施五千余里」とも書かれている。
これは、九州島一周ということで見解は一致してると思う。
伊作の論法で言えば、九州を一周するのに、舟で5日かかったという記述となる。
が、玄界灘を渡るのに3日かかってたものが、九州を一周するのに5日で行けたとは、
考えにくいのではないかな?
では「周施五千余里」とは、実測距離なのか?
伊作の論法で言えば、九州内を徒歩で実測したなら、
里数は6分の1換算だそうだから、実数は、800余里となる。
いずれにしても、いささか、正確性に大きく欠ける記事ではないだろうか?
31 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:00:30
九州一周じゃない、四国だよ。
32 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:19:16
>>1 乙
やっぱ電波さんが降臨するとスレの消化も早いなwwwwwww
で、ヌケ作だかタゴ作だかいう人は前スレで言いたいだけ言ってトンズラ?
33 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:26:07
まあ、本州見れば、周施なんて発想も出てこないだろう。
周施が通用するのは九州か四国だろうよ
34 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:28:16
伊作さんは、まだ83スレッドなんで、しばらくは出てくるでしょう。
1000スレッドまで出てくるらしいから。
35 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:29:54
>>17 老眼
>投馬国から兵庫のどこかの寄港地までが水行。そこから徒歩中心の1ヶ月。
まあどの道水掛け論にしかならないんだろうし
行程記事の解釈なんて個人的には殆どどうでもいい話なんだがw
畿内ヤマトの”売り”の一つは大和川水系を利しての交通で
いや、その前にほんの少し歩けば湖上の舟を利用できるのにわざわざ歩き中心にするというのにも違和感を感じる
…って、まあ自分が内心日本海ルートを想定しているってこともあるんだがwwwwwww
36 :
ローガン:2011/02/09(水) 18:36:06
>>24 >僕は放射読みの理屈が理解できません。
まあ、できるだけ距離を縮めたいと考えるからでしょう。
> 記述するなら「自郡至女王國萬二千餘里」の後に水行十日陸行一月とした
> 方が理に適った表現になると思います。この点ローガンさんはどう思われますか?
そうは書いてないのでね。なんとも…
>水行だと1日千里だそうですから、二千里だと水行2日分にしかなりません。とすると、投馬国のところの水行二十日、邪馬台国
> のところの水行十日陸行一月はおかしなことになります。
いや、もともと修辞であった筈の「北部九州まで萬里」に、使者による新たな情報、二千餘里が付加されたもの。
> 僕は日数表記のところ(投馬国と邪馬台国への行程)はそれより前に出て来る国への行程とは異なる資料によって書かれたものではないかと思います。
同意です。
行程文というより、地誌でしょう。
37 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 18:41:32
俺も、大和までのルートは、日本海か瀬戸内海を船でと思ってたけど、
アホ作のおかげで、「陸行一月」は、九州〜大和まで陸路でいったケースについて考えるようになったよ。
誰かが言ってたが、大荷物をかかえて100人余りが旅行するのに、
中国人の不慣れな土地を、倭人の案内で丸木舟に乗るって、考えてみればリスクがでかすぎる。
陸路のほうが、はるかに安全だし、俺でも「自分で歩くから」と言うわ。
38 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:11:20
ただいま。今日の筑紫は朝は雨だったけど昼からは晴れたよ。
小春日和だった。でも夕方はちょっと寒かった。
魏志倭人伝にある南の国を連想させる記述からすると、筑紫はやや寒いかな?
今度は南に下って邪馬台国を探そうと思います。
39 :
ローガン:2011/02/09(水) 19:16:55
>>37 > 誰かが言ってたが、大荷物をかかえて100人余りが旅行するのに、
> 中国人の不慣れな土地を、倭人の案内で丸木舟に乗るって、考えてみればリスクがでかすぎる。
大荷物?何のこと?
40 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:26:43
>>39 旅程のための食料を大量に持参していたということらしい。
卑弥呼への貢物という意味もあったかもしれんな。
41 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:35:10
>>40 >卑弥呼への貢物
素朴(初歩的)な疑問なんだが
あのリストの品々を卑弥呼の目の前に耳を揃えて出したのかな?
とりあえず目録だけ…と言う見方はできんもんなのかな?
42 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:37:36
そういや、朝貢貿易って、持ってきた貢物よりたくさんの貢物を持たせて返すんだよな。
結果的に、喜んで周辺国は中国の冊封体制に入った。
43 :
ローガン:2011/02/09(水) 19:46:35
いや、だから…皆裝封付難升米、牛利還到録受
魏使が届けた訳では…
44 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:47:44
古代の旅人はどこでどのように食事をしただろう?
朝飯食って、昼飯は朝食時におにぎりか?もしかしたら野宿も考えられるので
もう1飯予備を携行か……1食あたり400g×2
水は、途中の川で補給するかもしれないけど念のため5l程度は携行、これだけでもう6kg近くなります。
さらに、着物(普段着のほかにも正装用など)1着当たり1kg×2
武器は携行したのかな?剣1本1kg?×2
相手国へのお土産はどのくらいだろう?
あと、野宿のための野外宿営セットや鍋・非常用糧食……
結構な量です。
旅道は、村近くなら整備されていてもそれ以外はけもの道程度かあるいは、
山の稜線沿いあるいは河川沿いの荒れ地、海岸沿いもあるけど浜辺は割と少なく
岩場が多い。
45 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:52:35
>>44 普通は必要出需品だけ持って現地調達でしょうね。
それに庶民はほとんど旅をしませんでした。
庶民が旅に出るようになったのは江戸時代。
街道が整備され、宿場町や茶屋ができ、
お伊勢参りなどに赴くようになりました。
それまでは旅ができるのは上流階級だけだったでしょうね。
奈良時代には租税を都に納めに行った農民が
食料調達できなくて餓死してましたし。
46 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:52:59
47 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 19:57:44
>>45 現地調達、具体的には?
動物以外とつかまりませんよ。飛び道具でもないと…
古代に宿屋はが整備されていたとは考えにくい、だって街道が整備されていない。
そのような条件下で20日徒歩行進ですよ。
>>1乙 .┌壱┐ 北
└岐┘ φ
放射説 ┃ 南 y52ydgvBDGHx 8.0
┃ ┌───┐
┌───┐ ┌末┐┌┐ ┌┘ 奴 └─┐
└─┐ └┐│盧└┘└─┘ / ┌┘
『伊都』 └─┐└┘┃ / 20,000 │ 『奴〈筑紫〉』
従属国。 ┌┐│ 伊━不弥 / │ 非親女王。
奴国ヲ.┌┘││1000都 \★ / └┐斜陽。
牽制。 │ ││ ┌╂┐ 奴━━‖━烏奴┓ └───┐
└┐└┘┌┘┃│ ┃ 支惟━巴利┓ └┐
┌─┘ └┐┃└┐狗 邪馬━躬臣┌┘
└────┐│10 │奴 《旧奴》 ┃ ┌──┘
放射説 ┌┘│日 │ 鬼奴┛ └┐
└─┘┃┌┘ × ┗━━為吾└──┐
┌──┐ ┃└┐ ★華奴━鬼━┛ ┌┘
┌┘┌─┘┏━┫┌┘ 蘇奴 └┐
└─┘10日┛┌╂┘《旧奴》 ┗━━━┓ ┌┘
┏┛┌─┘┃ 対蘇━蘇奴━━呼邑 └┐
┌╂─┘ ┃姐奴━━┛ ★┌───┘
│投 ┃★┗━━━━━━不呼┌─┘
┌┘馬. 1 弥奴━━━好古都┛┌┘『以北20国』
└┐50,000 月┃ ★┌─┘ (女王傘下故、)
│ 『馬』┃┗都支━┓★ │ 戸数道里も得ら
┌┘ ┌─┐ ┃70,000 【伊邪】┌┘ れるが略載
┌─┘ ┌桜島│ 邪 ┏━┛┌┘
│ ┌┘│└┘ 馬 已百支┌┘ ★花弁状住居=屋室有
└┐ │ │ 台 ┃┌┘ 伊 父母兄弟寝所異にす。
└┐│ │ ★┌┐斯馬│ │奴┐
└┘┌┘ ┌┘●┌─┘ │↓北
┌─┘ ┌┘ └┘ ↓狗↑
└────┘ 穀璧 投→邪 周旋五千里
49 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:06:28
50 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:15:55
>>49 そういうこと。
だから神武東征も空想だし、邪馬台国東遷もない。
51 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:17:44
東征か東遷か誰か行ったかもしれないが、
現地調達が可能な極少数に限られるだろう。
大軍は無理。
一人で行こうが100万人で行こうが、20日は20日
一人でも20日、100万人でも20日
53 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:24:37
邪馬台国畿内も空想
54 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:30:06
20日間?それ以上?の旅をしようと思ったら、
当然補給が必要。
その補給が出来る場所が、松浦であり、伊都国であり、奴国である。
その距離は10キロから20キロ程度。
佐賀方面かもしれないが、そちらでもそれくらいで受け入れられる集落はある。
ウミ国から投馬国、邪馬台国となっているが、だいたい同じくらいの
間隔距離にあると思ってよいだろう。
それ以上に長くなると、必ず補給ができる規模の集落で補給するはずであり、
記録される可能性は高くなるはずである。
55 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 20:34:10
56 :
2浪中:2011/02/09(水) 20:41:18
>>36 ご返事有り難うございます。
>いや、もともと修辞であった筈の「北部九州まで萬里」に、使者による新たな情報、二千餘里が付加されたもの。
ああ、そうなんですか。つまり、北部九州までの万里は実距離ではなく、それ以降の行程里数は魏時代の公式の里ということですね。
そうしますと、末盧国から東南陸行五百里にあるとされる伊都国は北部九州の沿岸からおよそ230kmのところにあるということになりますね。
東南という方角が正しく、距離は直線距離でなく道なりの距離だとすると宮崎県辺りになると思われますが、これでは女王国以北にあり一大率が
置かれたという記述と合いません。ローガンさんはこの伊都国は何処だと思われますか?
57 :
ローガン:2011/02/09(水) 21:08:37
>>56 伊都国は通説通り糸島です。魏使のルートは壱岐→伊都でしょう。上で地誌としたのは、そういう訳です。
末盧国はどこかわからないけど、当時の海岸線を考えたら呼子に行くにも、徒歩なら長野峠越えになるのでは?まあ、行った事が無いのでよくはしりませんが。
ただ、末盧国は「行不見前人」なので、先に来た自国の人が居ない。つまり通使のルートからは外れた地であると、勝手に解釈しています。
これがピンぼけの返信である事は承知してますが。あまり拘らないので。(笑)
58 :
2浪中:2011/02/09(水) 21:36:32
>>57 >伊都国は通説通り糸島です。魏使のルートは壱岐→伊都でしょう。上で地誌としたのは、そういう訳です。
なるほど。魏使は実際には壱岐から糸島の伊都国に直行したというわけですか。末盧国には上陸しなかったわけですね。
ところで、地誌として末盧国が記載されているのだとしまして、その末盧国と伊都国の位置関係が(末盧国から)東南陸行五百里
と記載されているわけですが、これはどうなりますか?伊都国から見れば西北に陸行で五百里のところに末盧国があることになり
ますが、糸島に伊都国があったとすれば末盧国は存在できませんね。この点はいかがでしょう。
59 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 21:40:25
>>54 そうだと思う。
旅の途中、野宿しつつも途中で補給して旅していたんだろうか?
その、補給はどうやってしていたんだろう?物々交換か?であれば、
お宝と交換に食事And宿(温泉付き)だったのか?
意外と、老舗温泉宿の神社の縁起に何か残っているかも?
60 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 21:49:51
伊都国前原説は王墓らしい墓が沢山ある事と、名前が理由だろうが、紀に名前の由来として
もとは伊蘇であったが訛ってイトになったと書いてある。
五十迹手の出身地であるから伊蘇国と呼ばれた。
伊蘇の方が古い地名であったと思われる。
61 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 22:21:30
伊作殿、もう帰ってこられないのですか?
伊作殿のお話、それはもう勉強になりました。
また、おかげ様で畿内様方からの「ごみくずレベル九州野郎」などの暴言も
なくなりつつあったところであります。
もし、ここを監視されているのであれば、是非ご発言をお待ちしております。
62 :
ローガン:2011/02/09(水) 22:30:08
>>58ごめんなさい。飯食ってて遅くなりました。
>糸島に伊都国があったとすれば末盧国は存在できませんね。この点はいかがでしょう。
そういう事です。 人間が書いたものに対して、「絶対に間違いなど無い」という前提を設けると、当然そうなります。
63 :
ローガン:2011/02/09(水) 22:38:29
>>61 > もし、ここを監視されているのであれば、是非ご発言をお待ちしております。
同意。私は伊作ファンです。
64 :
筑紫平民:2011/02/09(水) 22:41:51
伊作殿、こんけんもうねるたい。
おやすみなさい。
65 :
伊作:2011/02/09(水) 22:44:05
なにやら呼ばれたよーな気がしたけど。
>是非ご発言をお待ちしております。
はははー。リクエストにお応えして。
俺が「港から港へ陸行など山ザルなみの行動」だと主張して20年。
やっと対処詭弁が出はじめたらしい。
わらわら
66 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 22:55:09
末盧国には上陸しなかったか。なるほど、そして奴国、不弥国も単なる地誌、行った
わけではないって説明する訳ね。
67 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 22:56:45
旁国30国に一日一国づつ泊まり歩いて
畿内までたどり着いたに違いない。
陸行一月、旁国30国 ぴったりだ。
九州から畿内まで30国が
並んでいたんだろう。
68 :
2浪中:2011/02/09(水) 23:03:17
>>62 >人間が書いたものに対して、「絶対に間違いなど無い」という前提を設けると、当然そうなります。
なるほど。人間は神ではないから間違いもあるということですか。
ところで、ローガンさんは倭人伝の地誌のどこが間違いだとおもわれますか?質問攻めにしているようで申し訳ありませんが、
僕は若年の新参者ですので分からないことが多くて皆さんの議論について行けないものですからお尋ねしているわけです。よろ
しくお願いします。
あ、それから、前スレで水行1日は千里という話が出ていましたが、この里を魏の公式の数値であるとすると1日に約430km
ということになりますが、これはいかになんでも考えられない数値ですね。この点はどうお考えですか?
69 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 23:03:47
おやタゴ作君前スレでトンズラじゃなかったのか?w じゃあ…
>前スレ 935
>魏の尚方でつくるはずのない神獣鏡に魏の年号てか。
>とんだ古代史があったもんだ。(伊作の畿内説潰しの新説)。
うわああああ('A`)これが新説…まあ本人にとっては新説なんだろうが(苦笑
要するに神獣鏡なんてのは魏からの下賜品にしては品格がないと言うお話で
「銘文の稚拙さ云々」なんてのもこの手の話で大昔からあるお話だが
まあ馬鹿が鬼の首でもとったようにはしゃいでいても
現実にはそれで決定的な否定材料になりえないのは
そもそも魏代洛陽の道鏡事情がよく分っていないからだ。
(むしろ後漢末からの戦乱で洛陽の銅鏡製作組織も壊滅。
荊州あたりから工人が入ってきてその時に南方系の意匠も入ってきたとすれば
話としてはスンナリ行くwww)
個人的にはある程度の説得力を持つ話だとは思うが
本当に魏が鏡の意匠にまで神経を使わなければならなかったのか?
については何ら確証を得る話ではない。
例えば今の皇室が海外の王室に記念品として(江戸時代の大衆文化である)浮世絵を贈ったところで
皇室の威信に傷がつくものでもあるまい…とw
ちなみに「尚方」の銘があったとてそれは必ずしも洛陽の直轄機関工房で作ったとは限らず
外注して他所に作らせたものでもその銘が入る事もある。−ド(大弓)の部品にその実例がある
(「尚方製造」じゃなくて「尚方企画販売」と言ったところか?)
70 :
日本@名無史さん:2011/02/09(水) 23:05:18
まあヌケ作だかタゴ作だか知らないがこいつがどう言う種類のアホなのかは分ったwww
元ネタを集めてその量を自説の正確さとか緻密さあるいは高尚さと勘違いしている馬鹿なんだろうなw
前スレ915 では散々「地理情報は貴重な軍事情報である」と言う旨を繰り返しているが
そんな事は当たり前で、現代でもチョット前なら政情不安定な途上国あたりじゃ
グリッドの入った地図は出回っていなかったり
(まあ今は衛星からバッチリ撮影されていてそんな規制も意味がないんだろうが)
空港も潜在的軍事施設として撮影が禁止されていたりする。
今更、地理情報の重要性をダラダラ語られてもツッコミようもイジリようも無い話、下らない。
じゃあ倭人伝がそこまでの内容なのかと言うことこそが問題であって
例えば前を行く人間が見えなくなるほど草が多い茂り
「蛤」ではなくて「鰒」のシーズンともなれば夏場の季節感もバッチリwな記述が
目的地に近づくほど曖昧模糊になるなんて
凡そこのポン作君が言っているような性格のものにはなりえない。
(そんなものを基に軍を進めたらあっちこっちで部隊が遭難するだろうにw)
まあ倭人伝を金科玉条としそれに必要以上の情報を求める
(事実上単一史料なら尚の事過大評価も過小評価も禁物だろうに)
ゴミクズレベル九州説のいつものパターンだなwwwwwwwww
しかしこいつはどうやらローガン翁を辿ってここに来たご様子。
ローガン翁には責任をもって処分して頂く様強く要請したいwwwwwwwwww
71 :
あらため:2011/02/09(水) 23:08:40
72 :
伊作:2011/02/09(水) 23:09:50
>もとは伊蘇であったが訛ってイトになったと書いてある。
厳密にいえばこうだね。
五十迹手(いそとて)を伊蘇志と呼んだことから、伊蘇国と呼ばれた。
これが訛って「伊覩」になり、 怡土になったという。
この逸話を書いた『日本書紀』が、実は「都」をことごとく「つ」と読ませている。
怡土のもとになった「いと」は伊覩と書いているわけで、これは伊都とは違う。
7世紀の隋書ですら、対馬を「都斯麻」と書いているんだし。
そもそも、3世紀に書かれた伊都を「いと」と読むところから洗い直す必要がある。
それが考察というものだと思うよ。
73 :
伊作:2011/02/09(水) 23:21:02
>要するに神獣鏡なんてのは魏からの下賜品にしては品格がないと言うお話で
>「銘文の稚拙さ云々」なんてのもこの手の話で大昔からあるお話だが
まーた・半端理解でほざき回るか。
呉式の神獣鏡を魏の直方ではつくらない。ところがこれに魏の年号が入っている。ここだ。
ここが新説だ。ほかでゆてるのがいたら教えてくれ。
>そもそも魏代洛陽の道鏡事情がよく分っていないからだ。
>(むしろ後漢末からの戦乱で洛陽の銅鏡製作組織も壊滅。
>荊州あたりから工人が入ってきてその時に南方系の意匠も入ってきたとすれば
知ったぶりもいい加減にしろ。戦乱で中断した洛陽の鏡工房は明帝の青龍年間に復活してる。
>本当に魏が鏡の意匠にまで神経を使わなければならなかったのか? については何ら確証を得る話ではない。
王朝としての皇帝としての威厳と威信と格式というものがある。バカげた想像否定など無用だ。
どこのタコが呉の職人に呉式鏡をつくらせるか。
>浮世絵を贈ったところで皇室の威信に傷がつくものでもあるまい…とw
たとえがまるでピントはずれだぜ。
魏が呉式の神獣鏡を「他国に誇れる自国の文化」としていたのなら、同じ目線でたとえてもいいがなー。
ま・偉そな態度でタメ口は20年ばかり早そだぜ。
74 :
伊作:2011/02/09(水) 23:24:48
>相手は私がしてやろう思ったけど、
いつまでも避けてないで、正面から相手をしてくれ。
縄文人とそっくり、太国が間違えるわけだw
76 :
伊作:2011/02/09(水) 23:36:56
>そんな事は当たり前で、
そーかー。
地理情報が軍事情報である根拠を出せとわめいていたのがいたろう。
で・根拠をだしたら「そんな事は当たり前」てか。
で・知ったふりして大口叩くか。
>ヌケ作だかタゴ作
こんな文言並べるしか手があるまい。タコが
77 :
伊作:2011/02/09(水) 23:40:56
>縄文人とそっくり、
もう少し、中味をじっくり比較検討してからいてくれ。
>>70 ヌケ策の天敵は河童だって知ってた?
河童がいない今、ヌケ策はここで結構粘りそうだwww
79 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:03:29
伊作くん。
6分の1の根拠はまだかね?
逃げるつもりなら、わざわざこのスレ来なくていいよ。
80 :
伊作:2011/02/10(木) 00:10:36
>6分の1の根拠はまだかね?
くだらねー横チャリするな。
とっくに提示してるが、てめえで過去ログ調べて読め。
81 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:19:52
>>80 どこで提示されていますか?
提示されていたとしても、根拠に値しない内容ならば見落としてるでしょうけどね。
82 :
ローガン:2011/02/10(木) 00:32:05
>>68 では、ちょっと書いてみます。ご承知とは思いますが東夷伝序文に
「而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子爲其域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。
長老有異面之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。」とあります。
平たく云えば…、公孫氏がいるので東夷の事はわからなかった。淵を斬り、高句麗の位宮を追った事により、東夷の事がわかるようになったと。
つまり軍事進行にリンクした情報収集であった訳です。
又、末尾の評に「史、漢著朝鮮、兩越,東京撰西羌。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉」とあります。
「使訳通じる時、事に従いて記述するが、果たしてこれが常態であろうか?否である」と読みました。
「軍事進行した所の情報は得た。しかし軍隊を派遣していない所は、通使がもたらしたものに限られる。その情報の真偽は定かではないがとりあえず列記しておく。」
これは、東北大の井上秀雄氏の言。(全くそのままではない)
倭は魏の軍事進行を受けていない。倭については、訳を伴った使者の往来によりもたらされた裏のとれない情報に基づいたもの。
よって多方面からのアプローチによる批判に耐えれる部分を自分なりに積み上げられたらいかがでしょう?
83 :
伊作:2011/02/10(木) 00:37:20
神獣鏡に魏の年号が刻まれている不条理の件といい、
箸墓のサイズは6分の1だという件といい。
畿内説者の反論も反論の形をなしていないぞ。
もっとマシなのを連れてこい。
●ついでにバンカーバスターを落としてやる。
纏向遺跡の1.5×2.0キロ四方が邪馬台国だという。
ここには、卑弥呼の時代を匂わせる古墳時代前期初頭などという
都合のいい時代区分の大古墳が12基あるらしい。その他大小の無古墳が無数。
ほてからに。そこにある建造物が卑弥呼の宮城だという。
●同時代の王都に同時代の王の墓はつくらない。これが歴史的事実だ。
●墓まみれの王都など・どこにもない。
古来、王都と墓域は信仰的に別もので、墓は王都の郊外につくられる。
ところが纏向邪馬台国説によると、女王の宮城と女王の墓が目と鼻の先だ。
纏向周辺は、三輪山を中心とした墓域・葬送祭祀の「都」だろう。
この爆弾がいずれ大きな破壊力を発揮する。潰せるものなら潰しにこいな。
84 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 00:49:31
>>83 おい、卑怯者。
993 :日本@名無史さん:2011/02/09(水) 12:16:14
>>992 >●倭人伝の陸路距離数値は魏の公式尺度の6倍として、出た数値の6分の1が実際距離
>●おまけとして。卑弥呼の墓の100歩も時差懿には6分の1に換算しなければならない。
さっさと、根拠を述べたまえ。
85 :
伊作:2011/02/10(木) 01:02:47
>「史、漢著朝鮮、兩越,東京撰西羌。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、
鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉」とあります。
>「使訳通じる時、事に従いて記述するが、
果たしてこれが常態であろうか?否である」と読みました。
ローガンくん。横するよ。
「史、漢は朝鮮、両越を著し、東京は西羌を撰じた。
魏の世、匈奴遂に衰え、更わって烏丸、鮮卑あり、
ここにおいて東夷に及び、使譯時に通ず。記述は隨事にして、あに常也るや」。
「史記、漢書は朝鮮、両越を著し、東京(後漢朝)は西羌を撰じた。
魏の世になって匈奴の勢いが衰え、更わって烏丸と鮮卑が台頭し、
ここにおいて(中国の知るところは)東夷に及び、使譯時に通ず。
歴史書の記述は隨事に記録するもので、何でつねにすべたを記録する必要があろうか」。
私の翻訳では、こういうことですよ。
東夷伝は序文で、漢朝の西域調査に対する魏の東方調査という「事業」をうたっており、「前史に欠けていた部分を補うものである」と述べている。
これと対比した文章というよりも、序文で述べたことを換言しているのです。
86 :
伊作:2011/02/10(木) 01:05:49
>さっさと、根拠を述べたまえ。
くだらねー。
俺みたいに、新鮮かつ勉強になる書き込みはできないか。
87 :
ローガン:2011/02/10(木) 01:10:46
>>83 > 神獣鏡に魏の年号が刻まれている不条理の件といい、
黄初四年対置式神獣鏡は?
> 箸墓のサイズは6分の1だという件といい。
何のこっちゃ?落ち着きなされ。
> ●ついでにバンカーバスターを落としてやる。
> 纏向遺跡の1.5×2.0キロ四方が邪馬台国だという。
誰が?7万戸は無理。
>●同時代の王都に同時代の王の墓はつくらない。これが歴史的事実だ。
> ●墓まみれの王都など・どこにもない。
だから…前にも言ったけど飛鳥へ行ってご覧なさい。
天武・持統天皇陵なんて宮跡から歩いていけるから。
88 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:13:05
>>86 根拠が出せないってことは、負けを認めるということだよね?
つまり、魏志倭人伝の距離、方位、時間などは、あてにならない記述だということを認めると。
だって、6分の1になる根拠が示せないんだものね。
89 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:15:44
>6分の1になる根拠が示せないんだものね。
倭人伝の伊都国までの距離(里数)が魏里に合わない根拠は何?
その根拠を示して欲しいな。
90 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:18:45
>>89 >倭人伝の伊都国までの距離(里数)が魏里に合わない根拠は何?
いい質問だ。
さて、「魏里に合わない」というが、当時の人はどういう測量技術を持っていたのか聞かせてくれ。
測量技術がお粗末ならば「だいたいこんなもんだろう」と、記録したことはありうるからな。
事実、海路は、1日千里とさばを読んでるのだから。
91 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:21:49
>事実、海路は、1日千里とさばを読んでるのだから。
その証拠は何?
92 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:27:30
>>91 >>事実、海路は、1日千里とさばを読んでるのだから。
>その証拠は何?
伊作に聞けば?
倭人伝には、壱岐島から九州上陸まで「千里」と明記してあっただろ?
実測で千里なのではなく、1日で海を渡ったから、千里なんだ。
それくらい、いいかげんなんだよ。
壱岐島から九州上陸まで千里という、その距離感をひきずっていたなら、
伊都国までの里数のを魏里に合わないながらも適当に書き残したことはありうるだろう。
93 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:30:08
>1日で海を渡ったから、千里なんだ。
そんなことはどこにも書いてねえぞ。
94 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:31:40
>>93 壱岐島から九州上陸まで「千里」なのは間違いないね?
では、壱岐島から九州上陸まで、何日かかった?3日?1週間?まあ、半日もかからないだろうが。
それが、どうかしたかね?
95 :
ローガン:2011/02/10(木) 01:32:36
>>85 >歴史書の記述は隨事に記録するもので、何でつねにすべたを記録する必要があろうか」。
「全てを記録する必要が無い」とわざわざ断り書きする、その心はなんでしょう?
> 東夷伝は序文で、漢朝の西域調査に対する魏の東方調査という「事業」をうたっており、「前史に欠けていた部分を補うものである」と述べている。
> これと対比した文章というよりも、序文で述べたことを換言しているのです。
「前史の不足を補う」の換言が何故「全てを記録する必要が無い」になるの?
又、明日来ます。お休みなさい。
96 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:35:16
>>94 1日=千里が根拠がないことを認めるんだな?
97 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:36:48
>>73 ヌケ作
>ほかでゆてるのがいたら教えてくれ。
神獣鏡が敵対していた呉系の鏡で魏がこれを作ったわけが無いなんて古典も古典だろうに…
毎度おなじみ「邪馬台■の会」w
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku290.htm >わが国の近畿(とくに奈良県大和)を中心とする勢力は中国の華南とつながる形をしている。
>倭人が洛陽に都する魏王朝から、「三角縁神獣鏡」や「画紋帯神獣鏡」をもらったとすれば、
>神獣鏡のほとんど出土しない地域の皇帝から敵国呉系の神獣鏡を多量にもらったことになる。これはおかしい。
>どこのタコが呉の職人に呉式鏡をつくらせるか。
王仲殊は魏年号の神獣鏡を呉が魏に臣従していた時に作られたものとしているがw
(黄初四年銘の対置式神獣鏡が湖北省から出ている)
>戦乱で中断した洛陽の鏡工房は明帝の青龍年間に復活してる。
だからだなその中断により工人の系譜が変わった可能性があるって話だよドアホ。
先に挙げた黄初四年銘の鏡のように鏡の生産組織が立ち直るまで
それが維持されていた地に生産を委ねていたなら
その地から工人を招いて生産を再開した・・・と言う話になんら無理は無い。
じゃあ例えば明帝太和元年(227)に銅鏡製作組織が復活して
そこで方格規矩四神鏡だの内行花文鏡だの後漢の鏡が作られたと言う証拠があるのか?
98 :
伊作:2011/02/10(木) 01:36:48
きみたち。
「冊封」などと真意を誤解したまま分かったようなことをいってみたり、
半端知識をふりかざしていないで、
俺の論説を隅々まで読んで、そしてから参加したほうがいいよ。
そうしたら、いままでの自分が蓮が敷くなるだろうさ。
いちいち。ぼんくらあいてに説明するよりはそのほうが早い。
証拠だ、論拠だ、逃げたと。ボキャ貧丸だしで3つを連呼するしか能がないんだろ。
俺はここで述べていることは、堂々と発表してるんだ。
相手に即した的確な書きこみをしろや。バカバカしい。
ぼんくらども。
99 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:42:47
>>96 それは伊作に言ったらどうかな?
どのみち、測量技術が乏しい時代の記録なんだから、いいかげんなものだよ。
短里だ長里だのと、ばかばかしい。
なにが6分の1だ?
笑わせるな。
100 :
伊作:2011/02/10(木) 01:45:02
>何故「全てを記録する必要が無い」になるの?
分からんふりしてあがくなよ。
101 :
伊作:2011/02/10(木) 01:48:42
>神獣鏡が敵対していた呉系の鏡で魏がこれを作ったわけが無いなんて
古典も古典だろうに…
理解力のなさ丸だしだな。
「呉式鏡を魏朝で作るわけが無い」はいわれてきたことだ。
その、魏で造るはずのない神獣鏡に魏の年号が刻んであるミステリー。
これがわからんほどのぼんくらになのか。
それにしても、日本語の書き方さえ・てきとーな男だな。わらわら
102 :
伊作:2011/02/10(木) 01:51:07
>1日=千里が根拠がないことを認めるんだな?
>なにが6分の1だ? 笑わせるな。
えーど・ええど。
畿内説どもがムキになってきた。やばいことが理解できた証拠だな。
ほとんど論理放棄の書き込みだもの。あははー
と
103 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 01:51:13
伊作を追い込むのはなかなかテクニックがいる。
こういう手合いは、過去に何度か相手をしたけど、
まあ、とにかく追い詰めたと思っても話を切り替えて逃げ切ろうとするからね。
細かく、相手の考え方、根拠、言説を捕まえて、矛盾点を暴きだすしかない。
伊作は、思ったより口が軽いようだから、初めに忠告しておくよ。
うかつなことをしゃべると、墓穴を掘るぜ。
104 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 02:01:03
>>101 ポン作
そもそも「呉式鏡を敵対していた魏朝で作るわけが無い」で魏鏡を否定しているのであって
そこに魏の年号が刻んであろうがなかろうが、それは魏鏡では無い。
これの何処が畿内説をたたき伏せる新説なのか?
新説とほざきたいのなら、それが魏鏡でありえない新しい根拠を示すのが筋。
散々過去に言われていた事を根拠にそこから出てくる矛盾をくっつけたところで新説にはならない。
ニホンゴワカリマスカ? ゴミクズクンwwwww
105 :
伊作:2011/02/10(木) 02:02:02
>うかつなことをしゃべると、墓穴を掘るぜ。
ありがとよ。
>話を切り替えて逃げ切ろうとするからね
これが得意なのは畿内説連だ。
だけど、俺は論旨を振り回されたいしないしとだから。
>細かく、相手の考え方、根拠、言説を捕まえて、矛盾点を暴きだすしかない。
簡単なことだよ。論破するには相手の論拠を潰すこと。 教えたぞ。よゆうで
>伊作は、思ったより口が軽いようだから、
いつも脇を甘くしてる。ある程度は計算づくさ。
俺は穴をつつかれるのを警戒するほど臆病じゃないし。
おかしな論をぶつ奴は、どこかで必ず、不正・小細工。まやかしをやる。
それが出た時点で勝負ありだな。
俺はそういう手法に頼らないから勝負やる前からみえているのさ。
何人かかってきたも・お・な・じ。
106 :
伊作:2011/02/10(木) 02:09:24
ローガンくん。見落としてた。
>だから…前にも言ったけど飛鳥へ行ってご覧なさい。
>天武・持統天皇陵なんて宮跡から歩いていけるから。
桧隈とかいう所ね。奥まった山の中だろ。郊外だ。
どこへだって歩いていけるさね。
仏教がはいってきて、町中に寺をつくるようになった時代も除外。
墓のあった所に王都をつくったのも除外。
古い王都に墓をつくったのも除外。あとはれいがいしか残らんだろうな。わらわら
それからね。
文献を都合のよいように解釈して自論に「活用する」手口。
きみの得意分野だろうけど、俺には通用しないよ。
おやしゅみー
107 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 02:32:22
>>105 あらためて追求するけど、6分の1になる根拠は何かな?
偉そうにしてるけど、ちっとも根拠を提示してくれないよね〜。
108 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 02:46:59
>>83 タゴ作
>纏向周辺は、三輪山を中心とした墓域・葬送祭祀の「都」だろう。
>この爆弾がいずれ大きな破壊力を発揮する。潰せるものなら潰しにこいな。
しかし…コレ、この板ではおなじみの九州説論者による「無人都市論」「纏向ネクロポリス説(仮)」だなwwwwww
じゃあ纏向が葬送祭祀に特化した場所だとしたら、そのお墓地の持ち主オーナーさんは何処にいたのか?って話だがw
単に畿内ヤマトの全体像が益々大きくなるだけだと思うのだが…?
むしろ畿内説論者からしたら万々歳の気がするw
いつもいつもゴミクズレベル九州説さんの言う事は意味が分らないw
あと墓と宮の距離云々だが
吉野ヶ里の場合、高島センセイの言う弥生後期(1〜3世紀)で
環濠集落と、北(の志波屋四の坪地区辺り)の墓地でも500m前後だと思うが
(間違っていたら指摘ヨロ)
今日、纏向遺跡と言われているエリアなら十分に収まると思うのだが?
109 :
水銀厨:2011/02/10(木) 04:42:33
巻向が祭祀に特化した宗教都市という説は
私も全く同意見なんですけどね、一応畿内説ですが。
しかしあの辺が邪馬台国だと主張するつもりはないです。
あくまで瀬戸内海沿岸周辺部が所謂倭国、もしくは女王国。
奈良を含んだ淡路島周辺が邪馬台国、という畿内説ですけどね。
確かに。
吉野ヶ里遺跡では墓と宮は近接しているね。
111 :
筑紫平民:2011/02/10(木) 06:09:32
おはよう。
伊作殿、帰ってこられたのですね。
しかし、伊作殿がログアウトしたとたん畿内説様による「ごみくずレベル九州」発言……
畿内説様、これを日本では「卑怯」と言います。
今日の筑紫は寒いみたい、昼以降雨だって。仕事行きたくない……
112 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 07:24:44
吉野ヶ里は3世紀まで続いたんだろ。3世紀の墓は近くで見つかってるか?
113 :
伊作:2011/02/10(木) 07:54:29
>ちっとも根拠を提示してくれないよね〜。
長いはなしさ。面倒だから、説明図つきで掲載してる俺のサイトをみれとゆってる。
堂々と公開してるんだ。別に逃げも隠れもしてないぞ。じゃがいも
「みれ」とゆってるのに、おそれてみないのは逃げだ。
もう一度いう。論破するには相手の論拠を潰すことだ。
こういうところで、見栄の強がり文言並べるのがロンパじゃないぞハンパもの。
114 :
伊作:2011/02/10(木) 08:04:04
>吉野ヶ里の場合、
墓まみれの王都などない。甕棺だらけの吉野ケ里とて同じだ。
吉野ケ里が邪馬台国だとゆってる学者・古代史業者もいるようだが、
「墳丘墓だ甕棺墓だ」というわりには、墓域がどういうものかを知らんのだ。恥
さてさて。
「卑弥呼の都に卑弥呼の墓はつくらない」。
纏向の大型建物が卑弥呼の宮城ならば、箸墓は卑弥呼の墓ではない。
箸墓が卑弥呼の墓ならば、纏向遺跡は邪馬台国ではない。
この事実が業界で一人歩きして、古代史研究の底辺から徐々に広がっていく。
はっぴょうしたからには、もう止められない。天才伊作が仕込んだ時限装置だ。
おれの勝ち。
せいぜい。びーすか・ぎゃーすか、ここでむなしい抵抗をしてろ。じゃがいもども
115 :
伊作:2011/02/10(木) 08:22:57
箸墓が卑弥呼の墓だー、纏向遺跡が邪馬台国だー
という声が「新たに」あがることはなかろう。
引っ込みがつかなくなったごく一部の「畿内説ヒエラルキー依存組」だけが、
セコセコと纏向を掘り続けることによって食いつなぐだけだ。
116 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 10:43:02
>>113 >長いはなしさ。面倒だから、説明図つきで掲載してる俺のサイトをみれとゆってる。
見たけど、なんの根拠にもなってない。
この話を続けても苦しいのは君のほうだろ?
まだ800レスも書き込めるんだから、ここでゆっくり論証してみればいいものを、
「サイトみれ」としか言えないくらいなんだから。
117 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 10:49:16
伊作の手法は、わかってるんだよ。
攻撃は最大の防御とかいうからな。
自分で自説の論証を始めても、相手に攻撃のスキを与えるだけだから、しない。
かわりに、畿内説を攻撃して挑発する。相手が乗ってきたらこっちのものだ。
冷静さを欠いた相手は、必ずボロを出す。
一回ボロを出したら、その傷口を攻め立て、相手の論が全て間違ってるかのごとく印象操作する。
これで、お互いの手の内を明かしたわけだが、さて、次の一手はどうするね?
118 :
伊作:2011/02/10(木) 11:10:06
・
次の一手はとどめの一撃。
●節操なき畿内説者たち
卑弥呼の鬼道は鏡と剣を・祭具・呪具とした天師道(初期道教)だといえば、
纏向から桃種が出ただけで卑弥呼と道教ををくっつけて大騒ぎするという、
畿内説の節操のなさがあるのに、「卑弥呼の鬼道が道教である証拠を出せ」という。
発掘中の建築遺稿から竹ザルがでれば、
(遺物考古学として必然の)竹の繊細さや編み方の違いには着目せず、
皇帝の贈り物を装封した竹ザルであると騒いでは、
装封に用いた皇帝の「封泥」があるのではないかと、穴を堀りつづける節操のなさだ。
畿内説が邪馬台国だという纏向遺跡の中に卑弥呼の墓がある不条理を指摘すれば、
1.5×2.0キロ四方としてきた遺跡の規模を置いて、王都の範囲を狭くしようという魂胆をのぞかせる。
卑弥呼の宮城だと騒ぐ建築遺稿と箸墓は600メートルの距離だし、かっこつかんわなー。
卑弥呼の時代を刷り込むべく「古墳時代前期初頭」という一時期に、12基もの大古墳が纏向にある。
だが、王を含めて12人もの有力者が一時期に葬られる状況について言及した学者は皆無だ。
考えてもみろ。
いったいどんなことがあって、12人もの有力者が同時に死んだというのだ。
じさっさい、マンガ以下のストーリーだ。
畿内説考古学のいう年代など、土器にしろ墓にしろ、まったく信用がおけない。
これを九官鳥もので受け売り衒学する者こそ、ゴミをあさる銀蝿だ。
119 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:23:21
>>118 まず、畿内説は、全員、同じ論だという印象操作はやめないか?
こっちは「ハァ?」としか思えないから。
畿内説といっても、箸墓を卑弥呼の墓という人もいれば、台与の墓という人もいる。
吉備国東遷という人もいる。
俺は、畿内説だが、纏向遺跡に卑弥呼の宮殿があるとは、まだ信じてない。
纏向遺跡の宮殿発掘報道には疑問を持つが、畿内説まで間違いだという論にはつながらない。
>畿内説考古学のいう年代など、土器にしろ墓にしろ、まったく信用がおけない。
だから、畿内説が間違いだ、と、考えるところに論の飛躍がある。と指摘しておく。
>攻撃は最大の防御とかいうからな。
>自分で自説の論証を始めても、相手に攻撃のスキを与えるだけだから、しない。
>かわりに、九州説を攻撃して挑発する。相手が乗ってきたらこっちのものだ。
>冷静さを欠いた相手は、必ずボロを出す。
>一回ボロを出したら、その傷口を攻め立て、相手の論が全て間違ってるかのごとく印象操作する。
これ、畿内説のいつもの手でしょう?
121 :
伊作:2011/02/10(木) 11:31:17
>畿内説が間違いだ、と、
はいわない。「信用がおけない」というのだ。
他人の意見をかってにねつ造するな。
>纏向遺跡に卑弥呼の宮殿があるとは、まだ信じてない。
いいね・いいねー。俺の主張でこのように変わるさ。
「纏向遺跡に卑弥呼の宮殿があるとは信じられん」と。
>>120 いやいや、それは九州説コテハンの常套手段ですw
123 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 11:42:22
>>121 >いいね・いいねー。俺の主張でこのように変わるさ。
変わってませんよ。
勝手に仮想敵をつくって勝利宣言はやめようか?
本質は、3世紀の倭国の状況として、
A.九州説=九州だけの国によって、九州の中で女王が共立された。
B.畿内説=九州〜近畿までの国を、ある国(大和とは限らない)の女王を共立して連合した。
だからね?
伊作は、上記2つのケースでは、前者であり、俺は後者。
立場は、明確に違う。
変わったりなどしない。
124 :
伊作:2011/02/10(木) 11:57:25
・
これ。おもしろい発言だねー。
>箸墓を卑弥呼の墓という人もいれば、台与の墓という人もいる。
台与の墓という人は、箸墓の年代を3世紀末までくり下げるわけね。
畿内説同士で意見が違うわけね。
で・その場合、卑弥呼の墓は「どこに」あるというわけ?
これ。バカげた発言ね。
>吉備国東遷という人もいる。
57年の光武帝への朝賀、107年の安帝への朝貢。
この時点で朝鮮半島との通交ルートを握った国はどこにあったのかね。瀬戸内海かい?
朝鮮半島との通交ルートを使わずして、
どうやって瀬戸内海や大和の勢力が先進的で協力になれるん?
いつの間に、九州まで遠隔支配して朝鮮半島との通交ルートを使うようになったん?
武力時代の「支配」は「独占」だよ。
朝鮮半島との通交ルートを仲良く使ったとか、「緩やかな連合」とか。
寝言めいた空論をいうんじゃなかろうね。
いいかい。卑弥呼が畿内にいたというのならば、
2世紀初頭、107年の時点ではすでに畿内勢力が九州と朝鮮半島との通交ルートを
遠隔していたことにならないと、歴史のつじつまが合わないよ。
時代の成熟度と考古事実とを照らして、そんな証拠こそなかろう。
(この日本列島特有の地形と地理が規制するところの力学的道理こそ、
伊作が唱える「列島支配一元論」の根幹さ。これが天才の所持する最終兵器さー)
この機会に、畿内説を捨てたらどう?
125 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 12:05:17
>>124 >武力時代の「支配」は「独占」だよ。
まず、ここに論理の飛躍があるね。
「武力時代」「支配」「独占」
これらが、どう関係してくるとお考えなのですかな?
126 :
伊作:2011/02/10(木) 12:14:07
・
>九州説=九州だけの国によって、九州の中で女王が共立された。
なんの・なんの。卑弥呼の時代には、
大和はおろか関東にまで進出準備の先遣部隊が派遣されている。
さもないと、3世紀末に(毛人を関東以北に押し込んだあと)
関東に前方後円(後方)墳が登場することの説明がつかない。
唐戸鍵遺跡などは、明らかに九州隼人の祭祀形跡がある。
とびなどは、ニギハヤヒという先遣部隊の拠点だったかも知れないし。
>畿内説=九州〜近畿までの国を、ある国(大和とは限らない)の女王を共立して連合した。
だと譲ったとして。「それ以前」が問題なんだよ。大和地域が「そうなるまでに」力をつけるには、
朝鮮半島との通交なしでどうやってなれたのか、説明がつくまい。
裏日本のマイナールートを使ったことにするかい。それで九州と対等の勢力にになれたてかい?
何度もいうけど、畿内説はどこかで、
マンガ以下のストーリーが展開したことにしないと成立しないのよ。
俺がやんやと攻撃されるも分かるだろろろろろろー。
127 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 12:15:33
九州も畿内も、
当時互いに相手を支配するのは無理。
128 :
伊作:2011/02/10(木) 12:20:13
武力時代の「支配」は「独占」だよ。
>まず、ここに論理の飛躍があるね。
なんていうんだから、古代における武力支配の形を提示して、
実際はこうだっと述べてから。
だからあなたの意見は飛躍してる、というべきであって。
「論理の飛躍があるね」などと、断定的否定文言だけ先にならべて
>「武力時代」「支配」「独占」 が、どう関係してくるとお考えなのですかな?
なんて質問を返すんじゃない。
それで、まともな返事がもらえるとでも思ってるのかい?
議論の形になっていないからと、相手にしなければ「逃げた」というつもりかい?
129 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 12:26:21
>>126 >なんの・なんの。卑弥呼の時代には、
>大和はおろか関東にまで進出準備の先遣部隊が派遣されている。
あれ?
そうなの?
だったら、伊作くんは、実質的に畿内説なんだね。
>B.畿内説=九州〜近畿までの国を、ある国(大和とは限らない)の女王を共立して連合した。
九州の卑弥呼は、九州〜近畿までの国を支配してたんだね?
130 :
伊作:2011/02/10(木) 12:48:10
>九州の卑弥呼は、九州〜近畿までの国を支配してたんだね?
厳密には、その過渡期だろう。
倭人伝に登場する30ヵ国も九州の国だけとは思わないし、
倭人伝も東にも倭種の国があったことだけは把握している。
いよいよ佳境に突入だね。
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/ 俺の『民俗の指紋』という論考をみてくれるとありがたいが、実は。
縄文の土器・土偶から、銅鐸、銅鏡、埴輪、古墳に至るまで連綿と、
民族的信仰に根ざした共通の文様がみとめられる。
そのルーツは間違いなく長江流域にある。横穴墓も長江流域にもある。
つまり、銅鐸族とか銅矛圏といった従来の知見を超越して、
ある共通の信仰をもった民俗が、縄文後期から継続的に大陸からやってきている。
それらは、やってきた時代に新旧はあっても同じ民俗で、
●文身とお歯黒を周は属として●文字をもたない●大陸からの渡来民俗●
これが倭国支配層の民族なんだよ。お歯黒は皇族・貴族の習俗だからね。
しかも、古墳時代の人骨や埴輪に認められるというし。
まずはここを抑えてかかれば、ぜんぜん違った列島の歴史動向になるよ。
131 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 12:52:09
>>130 貴殿が「九州説ではない」なら、同胞だから、無駄な議論はしないよ。
卑弥呼の時代に、九州〜近畿〜関東まで、卑弥呼を女王とした、一定の勢力圏内にあったということでしょ。
132 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/10(木) 13:03:09
>畿内説考古学のいう年代など、土器にしろ墓にしろ、まったく信用がおけない。
考古学が50年遡上したことにより。
崇神世 210年伽耶建国が任那建国と成る。
崇神が250年頃では任那建国は無い。
書紀の主張は正しい
210年 任那建国
274年 渡海
323年 神功49年 半島占拠
133 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 13:05:47
話を整理しようか?
「卑弥呼の時代に、九州〜近畿〜(関東)まで、卑弥呼を女王とした、一定の勢力圏内にあった」
これが、考古学を主体とした畿内説の本質。
女王がどこの都にいたか、は、大きな問題ではない。
狭義の畿内説ではもちろん大和に女王がいたという説であるが、
女王がどこにいようが、3世紀初頭に「倭国の範囲」が定まったことが歴史的に重要。
九州説では、「倭国」はあくまでも九州一島だけの話なので、全く次元が違う。
俺は、卑弥呼は九州で共立された可能性は限りなく低いと見るが、
それは可能性の問題なので、深く立ち入るつもりはない。
134 :
水銀厨:2011/02/10(木) 13:08:16
私も伊作さんと殆ど同意見なんだけどね。
倭人伝という文献からは、北部九州以外という点も同じだし。
ただやはり3世紀の邪馬台国は畿内周辺しかないというだけで。
135 :
伊作:2011/02/10(木) 13:24:17
>「九州説ではない」なら
いわば列島規模説さね。史観のスケールがデカいべ。
ただ、邪馬台国の所在だけでいうならば九州説さ。
奈良盆地は、三方を山に囲まれて
左巻き台風の水害が少ない「東高西低で背山望水の吉地」だよ。
そして、交通に便利な大小の河川と湿地帯を持つ。
淡路島と本州との海峡をしっかりガードすれば、大阪湾は安全な内海になる。
まさに、史実が示すとおり、この地は王都にふさわしい環境が整っている。
(それとて、そうした軍事力が備わる時代まで待たなければならない。
むろん、軍事力・船舶技術・戦闘手段面での時代の成熟度によって、王都の適地も変わる。
時はまだまだ、自然の立地環境を最大の防衛構想としていた時代さ)。
日本列島には、この奈良盆地と「相似形」をした土地がもう1ヵ所だけある。
日本の神話は「稲・田・穂」がつく登場者が多く、ほとんど稲づくめといえる。
ところが、九州山地の傾斜が海まで達して平地が少ない九州東側には、
歴史の始まりたる「豊葦原」とか「葦しげる中つ国」という地形は存在しない。
この矛盾から、『日本書紀』を編纂した百済からの亡命漢人たちは、
日本の歴史は「豊かな水田地帯」を発祥としながらも、
邪馬台国を日向がにあると解釈して日向を歴史のはじまりにしたことがうかがえる。
豊葦原といえる土地は、九州では有明海側にしかない。
俺が否定する邪馬台国はそのあたりさ。
軍事・政治・自然環境・地形・交通アクセス・防衛構想など、
総合的な視点からピンポイントで否定している。
それがどこかは・おしえない。
136 :
伊作:2011/02/10(木) 13:27:35
×「東高西低で背山望水の吉地」
ていせい。
●「東高西低で背山臨水(はいざんりんすい)の吉地」
137 :
伊作:2011/02/10(木) 13:37:20
・
もう一度いうよ。
大陸で鬼道が最も盛んだった190年年ごろには、卑弥呼は鬼道をマスターしていた。
森羅万象の哲学ともいえる黄老学に基づく道学(鬼道)をマスターするには、
高度な中国語素養と豊富な知識を必要とする。
必然的に、生粋の土着倭人には学習も伝授も不可能だ。
では、卑弥呼はどんな人だったのか。考えたことがあるかい?
大陸で盛んになるタイミングからみて、あちらでマイスターした人だろう。
そして。………倭人と倭国支配層は、
●文身とお歯黒を習俗として●文字をもたない●長江文明を担ったと思われる民族●
隼人や熊襲と呼ばれた社会部族の気質はそのまま、楚人・呉人の気質に共通する。
こうしたことを正視しないかぎり、歴史の素顔を見ることはできないよ。
138 :
水銀厨:2011/02/10(木) 13:49:16
まぁ私は水銀朱の存在と卑弥呼は鬼道を用いるという点からは、
四国徳島、奈良東南部をやはり都の所在地候補として外せない。
139 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 13:54:29
>>135 >それがどこかは・おしえない。
俺も興味ないな。
まあ卑弥呼が日本人じゃなきゃならない理由は無い
141 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 13:57:16
俺も興味ない、上に同じ
有明周辺ってだけでもう十分っす
142 :
伊作:2011/02/10(木) 14:02:02
>俺も興味ないな。
そうさ。問題のプラオリティからいえば、
邪馬台国がどこにあったかなど些細なことよ。
その些細なほうに血道をあげる矮小ものが、
プロアマを問わず古代史の全面にツラを出すからおかしくなるんだ。
俺はまだ、邪馬台国がどこにあったかなど、ひと言もしゃべっちいない。
>卑弥呼が日本人じゃなきゃならない理由は無い
悟ったようなことをいうな。
それとて、俺が理づめで説明したから到達した心境だろが。
143 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 14:09:17
>>142 >邪馬台国がどこにあったかなど些細なことよ。
でも、貴殿は、九州にあったことは確実だと考えてるんだよね?
俺は、100%九州にあったという確実な論拠を得るまでは信用しない。学問的に、この差は大きい。
論拠を話す気があれば、話してごらん?
>>142 >それとて、俺が理づめで説明したから到達した心境だろが。
通りすがりの者だが、
卑弥呼は直感的に同族の気がしない、それだけ
145 :
伊作:2011/02/10(木) 14:23:03
>卑弥呼は直感的に同族の気がしない、
りょうかい。
中国からの新来の渡来人なればなおのこと、国家経営祭祀も墓制も都づくりも中国式になる。
●王都についての一般論
古代における王都というものは、海と河川に幾重もの防衛網をしいた上中流部で、
野蛮で危険な軍隊による重警備を必要としないところにつくられる。
これを警備するのは、王の親近血族(軍事貴族)で結成された王都警備隊、親衛隊である。
むろん、生産、商工業地域や庶民の生活地域など俗世間からはなれたところで、
ここで庶民とは異なる都文化が育まれる。
俺にいわせれば、九州では糸島半島を含む博多湾は、出入りと商工業と防衛監視の前線で、
王都とはまったく無縁の地である。
大和でいえば、やはり海岸に近い繁華地域がそれに当たる。
邪馬台国を比定するに臨んでは、そのあたりを考慮しないと、
海べりの危なっかしくもクソ忙しい所を卑弥呼の都だといい出しかねない。
146 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 14:27:40
アレクサンドリア
147 :
伊作:2011/02/10(木) 14:30:21
>アレクサンドリア
時・場所・状況・環境・社会のすべてにおいて次元の異なる例を持ち出して、
それを横すべりさせてくるという稚拙な手な。陳腐たぜ
王都へは、立派な道がいるのかな?
江戸幕府はわざと大井川に橋を掛けなかったようだが
>>142 >邪馬台国がどこにあったかなど些細なことよ。
畿内でも構わないわけね
150 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:07:21
太宰府政庁と太宰府天満宮のような関係かな。
まあ、太宰府天満宮は道真の墓所なので関係はないが、
内陸部の防衛容易な場所にある。
151 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:09:14
いやいや、王都の定義からはじめてもらわないとねえ。
地理的文化的背景の違いがあるから、王都の形式を一般化しようとしても無理。
そもそも、卑弥呼は、自分が共立される以前に住んでた場所を離れて、別の場所に王都を築いたの?
卑弥呼が共立される前から、その場所が王都としての機能を持っていたのか、
卑弥呼が共立されたことによって、王都としての機能が付加されていったのか、
卑弥呼が共立されたことによって、新たに王都をどこかに設けたのか、
「王都」だけで検討すべきことは山盛りなのに、簡単に一般化しちゃうんだもんなあ。やれやれ。
152 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:12:03
久留米の都市と、八女もそんな感じかな。
久留米だと、高良大社を思い浮かべるが、
あそこは防衛拠点というか、最前線に当たるので、
王が常時滞在するには向かないだろう。
真っ先に戦争が始まるところだ。
153 :
2浪中:2011/02/10(木) 15:19:15
うわ〜進行が速くてついてゆけない。困ったな〜。伊作さんのブログも読み終わっていないし(いろんな事をよく調べておられるし、すごいと思うんだけど
なにしろボリュームがすごいので)、皆さんのレスの中にも分からないことが多くて弱っています。
>>82 僕に答えて下さったのでしょうが、なんだかはぐらかされたような感じがします。倭人伝の地誌のどこが間違いでどこが正しいかを知りたいのですが、そんな
ことは自分で調べて判断しろと突き放されたようでもあるし。
東夷伝序文のローガンさんの解釈については伊作さんが異論を述べられていますね(お二人の解釈のどちらが正しいかについては早急には判断できないのですが)。
倭人伝には2回の魏使(梯儁と張政)の来倭記事がありますから、この二人の報告書がある筈だと思いますが、陳寿はそれらの報告者は信用できないと思ったので
しょうか?ローガンさんの解釈からするとそういうことになると思います。僕の感覚で言えば、歴史家が真偽不明のあやふやなことを史書に書き残すなどという愚行
をするだろうか?というところです。
それはそれとして、「水行1日は千里」の里についてはお答え頂いていませんが、いかがされたのでしょうか?
154 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:22:13
守りに適しているとすれば日田だが、
日田はある程度の通路が筑紫平野側にしか無い。
いざという時に逃げ出せるようにするには、最低2箇所
出来れば3箇所程度の退路が必要になるので、日田は王都にするには向かない。
王様家族数名なら道無き道でもどうにでもなろうが、
少なくとも小隊50名、出来れば中隊規模の200名で守らせながら
退却するとなると、それなりの退路が必要だ。
細すぎる道では、隊形を取れなくなって、各個撃破される危険があり、
隊形を維持できるだけの通路となると、細い山道は難しい。
155 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:32:32
軍事防衛観点から、複数の退路確保できる、
山に囲まれた場所だと、八女の上流部か、南関が
まもりに都合が良い場所として思いつく。
ただし、南関はこの名前のとおり、筑紫平野と熊本平野をつなぐ
南側の関であり、ここもやはり最前線になりやすい。
王様は首都にいるんだろ?
防衛の軍隊だけ前へ出て戦えばいいじゃ無いか
王様を連れての退却なんか考えんでも・・・
157 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:42:14
負けたときに全滅する覚悟があれば、退却を考えなくてもよかろうが、負け戦の場合、常識的には、
主力が戦っている間に、ある程度の警護の部隊をつけて逃げるのが普通だろう
退却まで含めて比定に絡める意味が解らん
159 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 15:58:18
王都というのは防衛網を敷いたところだそうなので、当然、防衛網が発揮された場合、
つまり攻められたあとのことも考えてしかるべきである。
大体、守られた王都が攻められるときというのは、本来の首都の軍が機能しなくなった場合であり、
つまり負け戦の時である。
まあ、退路のことを考えていない軍事防衛施設を考えるアホも全くいないとは言えないかもしれないが。
飛鳥時代ですら、王宮は奈良盆地のさらに片鱗の三方を山に囲まれたような場所、明日香にあったわけだし
政権が絶対化するまでは、都はそういう場所に作るものなのかも知れない
でも都への物資の補給はどうなの?
奈良には大和川も吉野川もあるが
161 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 16:23:43
北部九州の神籠石等の古い山城は、太宰府付近を守っているように見える。
しかし、大宰府政庁は本来、守りにくいところでもある。
大宰府政庁がある山は大野城であり、さらに古水城が有ることからも、防衛に苦労していることが伺える。
表の政治部署としてはそういう場所に確保しなければならなかったのだろうか。あるいは御笠川があるので、
物資や人員輸送を船で賄うためにはそこしかなかったのだろうか
そして、太宰府天満宮の場所、それから若干北側は防衛が比較的容易な場所である。
162 :
2浪中:2011/02/10(木) 16:28:51
>>158 >退却まで含めて比定に絡める意味が解らん
若輩者がサシデガマシイ口をきいて申し訳ありませんが、
卑弥呼が王に立てられる前には倭国乱があり、その後も狗奴国との争いがあったとされています。つまり、何時戦争が起るかも
知れない時代だったと考えられますから、王の居所(王都)としては防衛しやすく、また、万が一の場合には避難も考えなけれ
ばなりませんから退路がある場所を選ぶのではないでしょうか。
163 :
伊作:2011/02/10(木) 16:46:52
・
・
・
>大宰府政庁がある山は大野城であり、
>さらに古水城が有ることからも、防衛に苦労していることが伺える。
いいね・いいねー。
白村江の敗戦のあと、外からの侵攻がいざ現実的になって、
慌てて防衛体制をつくるようなところだよ。
あんな所に倭国の王都があったという九州王朝説など、クソくらえというわけだ。
164 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 16:53:38
いや、水城の中から発掘された古水城跡の木の樋は、C14で5〜6世紀と判断されてますので、
白村江よりは前に作られたものですよ。
>>161 神籠石は石垣ともいえない数十センチほどの高さで、等高線的に続いているものだ
石組みは綺麗で、三角形の石が鋸刃紋を描いて続いている箇所もあり、注連縄とかの結界の意味のものだと思っている
>>162 防衛という意味では、吉野ヶ里のような平地(微高地)に作るなんてのは愚の骨頂
やはり王都はそんな散居村の一集落よりは1ランクも2ランクも上の存在でなければならず、
それゆえ、防衛の適地でありつつも、配下に王令を布告伝達するにも適した交通の要衝でなければならない点も挙げられる
私が言いたいのは、戦の原理だけで考えてはいけないという事だ
166 :
伊作:2011/02/10(木) 17:06:08
あそ。
で・白村江よりは前に作られたのはそれだけかい。
例外提示なら、俺の学習によると、
唐の戦後処理部隊がきてる最中だか帰ったあとだったかも造ってたな。
いずれにしても、3世紀の王都じゃなかったてことさ。
167 :
伊作:2011/02/10(木) 17:09:53
王>王都はそんな散居村の一集落よりは1ランクも2ランクも上の存在でなければならず、
いいね・いいねー。だんだんいい話になってきたじゃないか。
東高西低の立地。風水によって造っていることに注目して、隋の使節も特筆してる。
これで。
久留米のような、ひらけすぎた北向き斜面(南高北低)の土地も除外だね。
168 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:11:48
久留米はどうみても商工業地域だな。
王都ではなさそう。
169 :
2浪中:2011/02/10(木) 17:14:23
>>165 >私が言いたいのは、戦の原理だけで考えてはいけないという事だ
あ、そういうことだったのですか。それならそうと言って頂いておれば僕なんぞが口出しすることもなかったんですが。
でも、戦の原理も考える必要があることには賛成されるのですね。よかった。
170 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:19:23
まるで後だしじゃんけんをみtるようだ。
171 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:21:10
>>166 集落遺跡として、弥生中期から周辺ではいろいろ出てますけどね。
王都とかの証明は無理ですねえ。
要はその辺りの集落はずっと続いているんですよ。
172 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:27:03
俺様の決めた王都の条件にふさわしい場所はここだ!
だから、邪馬台国はここだ!
で、納得できたら幸せですな。
173 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:28:14
太宰府から冠が見つかってなかったっけ。
弥生よりかなり後のものだとは思うけど。
174 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:28:33
>>114-115 タゴ作〜邪馬台国奇跡の痴呆
おいそこのゴミクズ 誤 魔 化 す ん じ ゃ な い ぞ 。
「郊外」だとか「墓域」だとかの御託並べて具体的な事は何も無し。
そもそも箸墓と例の大型建物だって(地図上で近くの巻向駅を目印にしてざっと見ても)5〜600mは離れているぞ?
一体どれぐらい離れていなければならないのか?
お前のほざく「墓域」と言うのは一体どの様な姿で無ければならんのだ?
現実にある遺跡の一つでも挙げてその姿を言ってもらえんかな?
(まさか後の河内朝みたいに河内〜大和ぐらい隔絶して場所に墓と宮があった
・・・なんてレベルのお話考えているんか?)
悪いが普通の人間はお前の発している特殊な電波をキャッチできるテレパシストでもなければ
イタコさんでもないんだよwww
(コレはもはやボキャブラリーの多寡の問題でもない)
時限爆弾を仕込んだとかほざいているが
何のことはないその場で爆発してしまった自爆芸w
まあプライド自惚れだけは人の千倍一万倍で(この辺が縄文人とかぶるwwwww)
何とか世間の耳目を集めている纏向にイチャモンを物申したいと全然的外れ
(と言うか矢が何処に飛んでいったのかも分らないのだがw)な戯言をほざいている阿呆がコイツだとw
175 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:30:14
>>124 アホ作
>朝鮮半島との通交ルートを仲良く使ったとか、「緩やかな連合」とか。
>寝言めいた空論をいうんじゃなかろうね。
うわあああ…これもこの板のゴミクズレベル九州説のデフォだなw
もうその件はおなかイッパイなんで勘弁して下さいヌケ作先生
大体、定住型農耕社会が出現して強固な中央集権国家が生まれるまで
各地の勢力が離合集散合従連衡を繰り返すなんてのが当たり前で
いきなり強固な中央集権体制が出現するなんてのがそれこそが漫画レベルの与太話
当然その過程において「緩やかな連合体」なんて段階もあろうし
そもそも邪馬台国でアタマイッパイイッパイのゴミクズレベル九州説は対畿内ともなれば
まるで九州を一枚岩であるかのごとく考える傾向があるがナンセンス馬鹿丸山車
北部九州における畿内系土器や前方後円墳と言う埋葬文化の受容を見れば
むしろ北部九州の勢力がそれに利がありと進んで参加したと見るべき。
(仮にコレを武力征服の跡とするならあまりにも早すぎるし
その広がりも版図を広げていったと言う面的なものではないし
初期畿内ヤマトにそれに釣り合うだけのそこまで強大なクニがあったとも思えない。
それに全国を平定した後に時に中央の王家の物をしのぐ巨大古墳が地方に造られたりと
様々説明に困ることが出てくる)
もう常々言っているがこれはもう邪馬台国論争云々とかはるか以前のお話。
(冗談無しに中学生の教科書レベル)
だからリアルで九州説を言っているような学者でさえ
「緩やかな首長連合なんてありえない」
と言っている奴はいない、少なくとも俺は知らないw
つまり立地を加味して比定するには、王都がどの程度の規模で、どんな機能を持たなければならなかったか、に掛かっている
倭国のイメージとして、ゆるやかな連合とか、軍事による強権支配とか、道教による祭祀政治?とか色々あるけど、
どんな国だと想定するかで、都のイメージや存在すべき場所も違ってくる
177 :
伊作:2011/02/10(木) 17:31:43
・
・
>政権が絶対化するまでは、都はそういう場所に作るものなのかも知れない
これは特にいい発言だね。
政権が絶対化して国内が安定したあとで、高い所から盆地や平地におりてくる。
時代の成熟度によって王都の候補地も変わるわけだ。
狗奴国は、魏の軍事介入によって新しい武器と戦法を手にした女王国に屈した。
南端の隼人以外には国内に不穏勢力がいなくなり、さほど気を使う必要がなくなった。
さて、臺與ちゃんは、
消失した卑弥呼の王宮跡地を放棄して、どこに王都を構えたでしょーーか。
誰だい。
玄界灘の出べそみたいな糸島半島の前原あたりに卑弥呼がいたなどと。
南高北低の北斜面で、両方の入り江から簡単に侵攻されて、
後は背振の山で退路がない。篭城に耐えない上に生産力も乏しい。
178 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:33:03
だいたい、卑弥呼は30国から共立されてるのに、
誰が攻めてくるの?
179 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:36:35
とりあえず、伊作氏は
>古代における王都というものは、海と河川に幾重もの防衛網をしいた上中流部で、
>野蛮で危険な軍隊による重警備を必要としないところにつくられる。
と主張されているし、商工業地域とは別物という見解らしいので、
場所が結構限られちゃうんだな。
これでイメージできるのが山の中の盆地。だけど、防衛という観点からみると、
盆地もどこでもいいというわけではない。
もちろん防衛のためだから、最前線になりそうなところは論外。
逃げ道がないのも論外。
さあ、どこだろう。
この条件だと太宰府は間違い無く消滅するけど、
太宰府は商工業+政治地域と考えればよい。
王の住むところは守りやすいところであれば良い。
>>178 30国の反乱、半島からの侵略など
でも、共立されてるのに誰が攻めてくるのか?って疑問は面白い
これって後世の天皇と朝廷の存在意義にも通じる、日本政治史の普遍的な本質を匂わせているな
181 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:37:09
卑弥呼が不仲だったのは、南のクナ国じゃなかったっけ?
なんで、防御するのに、南へ降りるのさ。
182 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:37:26
>自然の立地環境を最大の防衛構想としていた時代さ
この邪馬台国の位置を軍事防衛的観点から
自然の要害の地に求める…なんてお話はそう言えば関裕二が何処かで言ってたなwwwwww
自傷天災のヌケ作がパクったのか?パクられたのか?偶然の一致か?
183 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:41:16
平城京、平安京、鎌倉幕府
なんだかんだ言って、盆地で複数退路を持つという条件を
満たしてるよな。
昔の人も馬鹿じゃない。
184 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:41:39
>>180 つーか、半島から誰か海を渡って攻めてくるような状況が2〜3世紀にありましたか?
きいたことねえなあ。
185 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:41:56
>>179 つうかだな
>むろん、生産、商工業地域や庶民の生活地域など俗世間からはなれたところで、
>ここで庶民とは異なる都文化が育まれる。
この時点でなるほど首長が集落の中にあってお山の大将をやっている環濠集落のモデルはアウト。
最低でも豪族居館?
で半径500mぐらいに墳墓のあるようなところはNGぽいw
さてさて有明周辺でとりあえずその条件に一致するところってあるのかな?
186 :
伊作:2011/02/10(木) 17:43:12
>どんな国だと想定するかで、都のイメージや存在すべき場所も違ってくる
うれしいねー。
規模・体制・成熟度など倭国の実像をきちんと捕えて、
それからあっちだ・こっちだというべきでね。
畿内説によると、2世紀初頭には政権中枢は畿内にあって、
瀬戸内海と関門海峡と朝鮮半島との通交ルートを掌握していた理屈になる。
かと思うと、卑弥呼はただのシャーマン巫女で、
原始集落にケが映えた程度の国だったみたいなことをいう。
3世紀の倭国の実態にするコンセンサスがないいま論じられてきたわけだ。
俺が自分のサイトで倭国の実像から入ってるのもそういう理由があるのさ。
187 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:44:22
>>186 >3世紀の倭国の実態にするコンセンサスがないいま論じられてきたわけだ。
>俺が自分のサイトで倭国の実像から入ってるのもそういう理由があるのさ。
漫画なら、そういう手法もありだろうけど、ここは学問板だから。
188 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:46:37
ちっちゃいの含めたら、古墳なんて至る所にあるからねえ。
>で半径500mぐらいに墳墓のあるようなところはNGぽいw
この条件だと大抵のところはペケになりそう。
佐賀の大和町史を見ると、明治から昭和40年代までで
墳墓が2000以上合ったと書いてある。
海じゃなかったところは、たいがいそんなもんだと思うけどな。
189 :
伊作:2011/02/10(木) 17:50:05
>ヌケ作がパクったのか?パクられたのか?偶然の一致か?
判明している史実から逆算すれば誰にもすぐに分かることだ。
現に、みなが同じことを考えはじめたじゃないか。タコ
俺は研究歴20年以上になるが、関裕二てのはいつからゆってるんだ。
ほかにも聞かされたことがあるが、
「王都とは聖地のような所である」と、どこかのセンセがゆってたらしいぞ。
ま・落ち着く所はそんなもんよ。
190 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 17:52:26
>>189 20年以上研究した結果が、東遷説とは、貴方の人生がかわいそうすぎる。
関係ないけど。
>かと思うと、卑弥呼はただのシャーマン巫女で、
>原始集落にケが映えた程度の国だったみたいなことをいう。
ただのシャーマンでも良いんじゃないですか?
御神託を取ったり、後の風水や陰陽道みたいに吉凶を占ったりするために「共立」したんなら
卑弥呼のそれは、トップダウンではなく、ボトムアップで擁立された供託機関ととってもいい
192 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:05:49
福岡平野、筑紫平野に住んだ経験があれば、
500m四方に墳墓がないという条件は、
結構難易度が高いというのは直感でわかるとおもう。
場所のいいところなら大抵なにかあるもん。
もう九州全体が墓域でいいわ。
194 :
伊作:2011/02/10(木) 18:19:41
さて。これで・だいぶ・邪馬台国候補地も絞られてきたな。
いざ・自分が倭国王だっらどこを都とするか考えはじめたわけだ。繁栄と政権の安全と存続とを考えた場合に、
まさか糸島半島の根っこにはつくるまい。そんなもなさ。
>半島から誰か海を渡って攻めてくるような状況が2〜3世紀にありましたか?
別に外からの侵攻に備えるためとは限らない。きみは国内が安定したからと、武力支配時代の3世紀にのほほんと無防備にする人かね。
中国では2世紀末には数百人規模の兵士を積める船ができる。魏の使節船がやってきたとき、侵攻の可能性を痛感したことだろう。
これが、瀬戸内の奥への引っ越しを急いだ最大の動機かも知れん。
時代的に、瀬戸内を通って侵攻してくるなどとは、そうとうなバカでもない限り考えない。
卑弥呼以降も、晋はてきとーな王朝ですぐに内乱になり、そのあと間をあけずに五胡16国の争乱だ。
いつ外から侵攻してくるか分からん時代が続く。
>海じゃなかったところは、たいがいそんなもんだと思うけどな。
王都の跡地からは墓もでなければ、庶民の生活道具も出ない。政治色を感じさせるものとか、祭祀遺構とか堀っ立柱遺構とか。
かの纏向は墓づくりと葬送祭祀センターか、祭祀人材の育成と供給をになったセンターだろう。
とくに、祭祀人材の育成と供給をしなければ、全国統一的な葬送儀礼が展開するわけがない。
この当時の祭祀は支配者とその血族の女性がとり仕切っていたというから、卑弥呼の宮城にいた1000人の女性の大半は、
全国から集まった有力者たちの子女で、祭祀儀礼を学ぶ生徒だったのかも知れん。
俺が纏向畿内説者なら、その線で考えるだろうな。
邪馬台国がどこにあったかなど些細なことよ。
その些細なほうに血道をあげる矮小ものが、
プロアマを問わず古代史の全面にツラを出すからおかしくなるんだ。
(以上、伊作氏のレス
>>142より)
196 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:31:37
www
197 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:42:52
www
199 :
伊作:2011/02/10(木) 18:45:45
>(以上、伊作氏のレス
>>142より)
意味ないな。別に血道をあげてるわけでもなかろう。
そんなくだらい揚げ足で、きみは自己満足できるわけか。
さなかの仕方はほかにあろう。
「伊作さんは凄い」とほめるとかよ。
200 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:47:50
すくなくとも九州では、5世紀くらいまでは祭祀儀礼は統一されていなかったみたいだからね。
古墳の年代測定は難しいけど、5世紀に大型の円墳が出てるからねえ。
まあ、そういう勢力もまだ残っていたと。
201 :
伊作:2011/02/10(木) 18:49:44
>こんな惨めなやつはみたことがない。
想像領域を遥かに超えて、はじめて目にする見解ばかりで「おどろいています」と
正直にいえないところが可愛くないな。
202 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:50:04
>>194 >これが、瀬戸内の奥への引っ越しを急いだ最大の動機かも知れん。
ならば、卑弥呼が九州に居座り続けたと思えるほうがおかしい。
九州からみたら奈良は無防備なんだから、卑弥呼が九州で共立した時点で奈良に遷都したというならまだしも。
貴殿の理屈で、戦乱ばっかりのキケンな九州に半世紀も王都を置いたと、どうして思えるんだろうか?
3世紀初頭に奈良を征服して遷都すればよかろう。
最後の最後で論理が飛躍するのは、九州説という結論先にありきだからなんだろうが。
203 :
伊作:2011/02/10(木) 18:52:48
「俺が纏向畿内説者なら、その線で考えるだろうな」。
もゆっちゃったし。マネしてもダメだから。
205 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 18:59:39
2世紀末、九州で共立された卑弥呼は、九州の戦乱を回避して、
先遣隊を送っていた畿内ヤマトに、3世紀初頭に遷都しました。
魏から金印をもらったとき、卑弥呼の女王国は畿内ヤマトのことです。
>>203 マネするなよ。
>>202 卑弥呼というか、シャーマン家系をサポートする最大勢力が東の国に移ったんだろうね
天皇家だって物部、蘇我、藤原、平家、武家のトップ色々と、時々の政権に擁立されて今まで来てるじゃん
207 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:10:39
>>205 畿内の遺跡は荒らされた形跡がないよね?
卑弥呼が来るまで畿内にいた王はどうしちゃったの?
また、奈良盆地では九州の土器が一つも発見されていない。
九州から大勢の兵を率いて大王になったのならば
当然九州風の生活を改めるわけがないのにね。
208 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:15:24
九州と畿内は別物
互いに支配もしなければ、支配されもしない。
ひょっとしたら、神武さんという人が日向から何人か引き連れて
移住したかもしれない。
209 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:15:46
>>207 もちろん、伊作が勝手に宗旨替えするのを防ぐために書いただけ。
九州の王族が東遷してきたような状況は何もないことは知ってるよ。
210 :
伊作:2011/02/10(木) 19:24:35
・
3世紀の東遷というわけか。それでも・いいよ
俺がいいたいのは、大和の黎明と揺籃は、間違いなく九州が担った。
大和の歴史は九州から継続したものである。
俺が畿内説をケ嫌いするのは、そうした歴史の事実を無視することだ。
それは、たとえは適切ではないかも知れんが、
クソガキが、てめえ一人でデカく育ったとでもいうかのように、
親をバカにする図に似ているからだ。
自分たちの遠い祖先の体験の歴史をここまで愚弄する国民がほかにいるか。恥ずかしい
互いに誇りをもてるような歴史議論をしようじゃないか。
ってことよ
211 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:27:37
>>210 貴殿がけなげだから、少しを意を汲もうと思ったけど、やっぱ無理だわ。
>大和の歴史は九州から継続したものである。
残念だけど、2世紀までで九州の歴史は終わり、
3世紀に台頭してきた畿内王権が九州を支配していったのが歴史の真実だから。
212 :
伊作:2011/02/10(木) 19:34:12
>3世紀に台頭してきた畿内王権が九州を支配していったのが歴史の真実だから。
いちど・びょーいんで診てもらえ。
びょーきのちみに・意を汲むなどできるわけがないし。
>>210 >大和の黎明と揺籃は、間違いなく九州が担った
ではなぜ、巻向からは九州の土器が少なくて東海とか吉備のが出るの?
巻向に集まったのは中部および東日本の人が多いことを示している
そりゃ、王権?は九州を出自としているかも知れない、でも擁立したのは東の人達だよ
215 :
伊作:2011/02/10(木) 19:46:23
212
他人の投稿文言を拾ってオウム返しで切り返すようになったら、返答に詰まった証拠だ。タコ
216 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:46:26
>>210 >俺が畿内説をケ嫌いするのは、そうした歴史の事実を無視することだ。
>それは、たとえは適切ではないかも知れんが、
>クソガキが、てめえ一人でデカく育ったとでもいうかのように、
>親をバカにする図に似ているからだ。
これが本音だろうな。
九州の影響力は皆無のまま、畿内は自生的に王権を生んだ。
九州は、見下してたはずの畿内王権に飲み込まれた。
という事実が悔しくて受け入れられないと。
「ヤマト王権は、俺が育てた」by九州
というわけだ。
217 :
伊作:2011/02/10(木) 19:49:43
>九州の影響力は皆無のまま、畿内は自生的に王権を生んだ。
>九州は、見下してたはずの畿内王権に飲み込まれた。
>という事実が悔しくて受け入れられないと。
>「ヤマト王権は、俺が育てた」by九州 というわけだ。
九州勢力が関門海峡と半島ルートを握っているのに、
どうやって瀬戸内の奥地でそれほど先進的で強力になったのか、
歴史動向としての経緯を科学的に説明できるか。ぼんくら
俺は、遊びでやってるんじゃないぜよ。
>>217 まじめにやってこの程度なら本気で病院行ったほうが良いとおもいます。
219 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 19:54:04
実際は、畿内王権は、九州とか眼中になくて、近隣の山陰、吉備、東海と密な交易をして繁盛していた。
もちろん、
「九州は鉄器を独占してるから許せん! 近畿の力をあわせて鉄器ルートを奪ってやる!」
なんてことも起こらなかったはず。
ただ、九州とは無関係に、自生的に、ヤマトで卑弥呼が共立され、
九州は、朝鮮半島と近畿を見比べて、どちらと同盟したほうが得かを考え、
近畿と同盟することを選んだ。
どっちが力で征服したとか、
どっちが勝った負けたとか、そういう話じゃないんだよ。
220 :
伊作:2011/02/10(木) 20:02:48
218
九州勢力が関門海峡と半島ルートを握っているのに、
どうやって瀬戸内の奥地でそれほど先進的で強力になったのか、
歴史動向としての経緯を科学的に説明できるか。
代わりに答えてみろ。
答えられなくて・意味のないことを書き垂れるしかないか。
それじゃー「お手あげ」宣言してるようなものだぞ。銀蝿
221 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:03:44
九州で鉄器を独占してて、畿内も鉄を必要としていたが、
遠方へ軍を送っても、大軍を送らなければ勝ち目はないし、
遠方へ大軍を送るのは大変な事業だから、なかなかそこまで踏み切れなかった。
山陰出雲で製鉄が始まると、出雲だって遠い事は遠いが、九州よりはましである。
全力で出雲を奪取する。それが神話に残っている。
もし九州を軍事力で落としたのなら、大国主神話、須佐之男神話より大きな神話
が残っていても良いはずである。
東日本に入植し開拓したのは、半島からの移民だよ
九州とは別ルートで、畿内は高句麗や新羅地方と通交があったはず
というか畿内付近を開拓したのは新羅の秦人だし
223 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:05:11
>>220 畿内が九州より「先進的」とは言ってない。
九州は先進国で、畿内は後進国だった。
だからなに?
先進国だった九州は、後進国の畿内と同盟しちゃいけない理由があるわけ?
>>216 >「ヤマト王権は、俺が育てた」by九州 というわけだ。
ウケタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まあそもそも
「瀬戸内の奥地でそれほど後進地域」であったと言うヤマトを九州のナニが
一気に先進地域、それも緩やかな連合を否定するなら
天下とりに進出させるような一大強国に一気に飛躍させたのかってお話だなwww
ひょっとして切れ味鋭い九州邪馬台国印の鉄器デスカ?wwwwwww
そんな力があったら先ず九州を統一しろよって話で
まあこの馬鹿、話しが膨らむ膨らむw
>>218 とりあえず葛根湯をですね・・・
225 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:08:28
陸軍、
攻撃3倍の法則
上陸5倍の法則
攻城10倍の法則
そう簡単に攻めて勝てるものではない。
226 :
伊作:2011/02/10(木) 20:08:49
>実際は、畿内王権は、九州とか眼中になくて、近隣の山陰、吉備、東海と密な交易をして繁盛していた。
「山陰、吉備、東海」。これらの朝鮮半島との通交ルートはどこだ。
>九州とは無関係に、自生的に、ヤマトで
だから、九州に与するか「おこぼれ」をもらうしかないのが、なんで九州とは無関係になるんだ。
>九州は、朝鮮半島と近畿を見比べて、どちらと同盟したほうが得かを考え、 近畿と同盟することを選んだ。
見てきたような講釈の連続だが。
>どっちが勝った負けたとか、そういう話じゃないんだよ。
け。ほとんど泣き入れてるようなもんじゃないか。
どこに・歴史動向としての・科学があるか・この野郎。
227 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:09:48
地図を広げてよく見てみよう。
九州が先進国といっても、その範囲は北部九州に限られている。
一方、近畿は後進国だが、経済規模は、吉備、山陰、東海と、何十倍も広いだろう。
九州が、他の国と経済協力無しで、戦乱を生き延びていた、と考えるのはおかしな話だな。
あるムラとあるムラが争い、一方のムラが、近畿と手を結ぶことが出来るとしたなら、
相手が後進国であっても同盟を願い出るのではないかな?
>>220 おいおい、九州勢力が関門海峡や半島ルート押さえてたからって瀬戸内が発展しない
理由にはならんだろうにw
それに半島や大陸の人間が瀬戸内の方に行こうとしたら、九州最強帝国が全力で
阻止するのかよw
229 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:12:22
地図を広げたら、平野を見てみよう。
その平野の広さが、各勢力の力の大きさとほぼ同じと思って良い。
ただ、当時は内陸まで海があったりするので、その分は差し引いて
考えてほしい。
なんだかんだ言って、九州と畿内+東海は大国なのだ。
230 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:13:15
>>226 >「山陰、吉備、東海」。これらの朝鮮半島との通交ルートはどこだ。
誰が、朝鮮半島と交易したと言った?
してたかもしれないが、俺は言ってない。
あくまでも、近畿は後進国だったという前提で、話をしているぞ。
で、後進国なりに、経済規模は九州よりも大きかったという話だ。
231 :
伊作:2011/02/10(木) 20:14:56
221 神話導入法
222 高句麗・新羅論。時代ずれ
223 同盟論。弱気の妥協案
224 願望的・緩やかな連合論。
論拠提示なきストーリー語り。程度ひくーい畿内説のマンガぶり。
もっとマシなのはいないかね。
232 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:17:23
弥生時代の鉄器の出土量は、
わりと直線的に、九州から離れるほど少なくなっている。
普通に交易で鉄も流通していたが、
距離が離れるに連れて、入手が難しくなっていくというだけの話。
独占しているわけでもなく、米か何かをくれるなら、普通に交換していただけ
233 :
伊作:2011/02/10(木) 20:18:04
>誰が、朝鮮半島と交易したと言った? してたかもしれないが、俺は言ってない。
>あくまでも、近畿は後進国だったという前提で、話をしているぞ。
>で、後進国なりに、経済規模は九州よりも大きかったという話だ。
いねー。とり見出し方すてき。
ほとんど支離滅裂になってるところも好きさ。
追いつめられた時の天家手的なしょーじょーだ。もっとやれ
234 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:18:12
>>231 だって、4世紀以後、九州は畿内王権の傘下に入ったのは確実でしょ。
どうして九州は自滅したの?
東遷したというのは君のストーリーだけど、残念ながら物証が無いんだわ。
あったら根拠をよろしく。
そもそも北部九州の勢力にしたら入手した舶載品を九州の中だけで回さなければならない理由も義理も無いわけでw
236 :
伊作:2011/02/10(木) 20:22:49
232
ほれ。
もう、「畿内・独自・成長説」が・ボっロボロじゃん。
>わりと直線的に、九州から離れるほど少なくなっている
しょーじきでええよ。
人・もの・文化は、入り口ほど濃厚で遠くなるほど希薄になる
俺はこれをグラデーション現象と呼ぶ。
まして、出入り口が一つしかないのだから、この現象は顕著になる。
かんら・かんらの高笑いだ。
>>234 大宰府に九州を一任していて、律令下でも別扱いの地域だった
自治区みたいなものかも
238 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:23:10
普通に交換していたが、畿内にまで辿りつくのはわずかだった。
途中の村々でも鉄は使うからねえ。
で、貴重さが感じられるのが淡路島。
あんなところで、鉄をまとめて加工するなんて、
よほど他の勢力に渡したくなかったんだな。
貴重品だったんだろう。
九州ではわりとどこからでも出てくるから、
貴重は貴重だったんだろうが、独占まではしてない。
239 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:25:11
>>235 道民か? 「したら」は止めた方が良いぞ。
240 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:25:20
>>236 いや、あたしゃ、九州説でして、論争に紛れ込んで申し訳ありませんです。
241 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:27:00
>>236 鉄がなければ、交易がなりたたないみたいなことを思ってるようだが〜。
鉄器だけが商品じゃないから。
言ってもわからんかな?
俺は飢饉に備えた食料の交換、備蓄と考えてるし。
242 :
伊作:2011/02/10(木) 20:27:52
234
>だって、4世紀以後、九州は畿内王権の傘下に入ったのは確実でしょ。
倭国の中枢機能が九州から移転したから。
>どうして九州は自滅したの?
じめつなんかしていない。
大切な九州の支配と管理を委任された豪族が草書楽古墳の主だ。
のちには「○○の君」を名乗る「天皇家から分かれた豪族たち」が溢れる。
>東遷したというのは君のストーリーだけど、残念ながら物証が無いんだわ。
九州の歴史を知らんタコがいうことだ。
ちみ。相手にするほどのタマじゃないね。つまらんもの
243 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:29:29
>>242 ごめんね。君ほど物知りじゃなくて。
で、九州から東遷してきた証拠ってなに?
これだ!ってのを提示してくれないかな?
邪馬台国(1世紀-3世紀頃)
卑弥呼(X-248年。倭迹迹日百襲媛命。倭国大乱後の親魏倭王(連合国女王)。第七代・孝霊天皇の皇女。墓は箸墓古墳)
台与(235年-X。豊鍬入姫命。倭国女王。壱与。卑弥呼の親族。初代斎宮。晋に朝貢。第十代・崇神天皇の皇女)
邪馬台国は奈良県。1世紀頃には存在が確認。卑弥呼が即位したのは3世紀頃。
倭国大乱以前は、九州地方が倭国の中心地だったかもしれない。
同じく高度な文明を持っていた王国が出雲。大国主やスサノオも実在の人物。
>>236 阿呆作
>俺はこれをグラデーション現象と呼ぶ。
そうそう。
前方後円墳の出現がそのグラデーション状じゃないから
そこに単なる文化の伝播じゃない政治的な結び付きを見るのが常識なんだなwwww
246 :
伊作:2011/02/10(木) 20:31:33
草書楽古墳→→→→装飾古墳。
どたまの回転が早くて、キーボード操作が追いつかず。誤植が多いこと。
回転の早さだけは・どうしょもない。
247 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:32:10
いやあ、九州が畿内をがっつり軍事力で支配したのなら、
鉄ルートも同時に整備するはずだとは思うんだけどね。
実際には山陰出雲から入手出来るまで、鉄の出土料は少ない。
畿内と九州は関係なく、民間レベルの交易程度と見ている。
別に、統治し易い所で統治するだけ。やがて、関西が一番おいしい処になった。
249 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:34:34
>>246 ただの文化・流行が伝播しただけだねえ。
明治になって、日本人がチョンマゲしなくなったのは、
アメリカが東遷してきたから、じゃないよね。
250 :
伊作:2011/02/10(木) 20:35:45
>前方後円墳の出現がそのグラデーション状じゃないから
ちっ。
畿内に移転して統一のひな形ができて、より全国一律が徹底した時代の話だろ。
しかも大和を中心に伝播したものだ。
半島経由の出入り口の話とは全く別次元のものなのだが、
その区別をつける能もないのだろう。
251 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:35:59
九州で3世紀程度と思われる前方後円墳は少ないよ。
多いのは5世紀くらいじゃないかな。
3世紀くらいって日向は多いのかな?
九州は相変わらずバラバラ。
高句麗は、王国を作ったときにクリに高を付けただけで、クリ=クム=金・銅 を愛する民族
クリ族?は半島に広く住んでいた
狗邪韓国や金官伽耶(加羅)もこの民族の居住地、クリが付く
新羅はシラギではなく、シンラで秦韓(辰韓)と同じ
韓は漢も同じ意味で、ハンと呼び、国とか王を指す
モンゴ帝国の辺境のハン諸国、日本の藩も、読みも用法も同じだ
253 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:45:37
九州が自滅したのは7世紀後半
白村江で壊滅した後。
戦後処理と思われる数回の遣唐使の後、
大陸との関係は途絶えた。
それから8世紀に入るまで遣唐使は復活してない。
そのころから畿内勢力は年号を制定し始める。
記紀が編纂されるのも8世紀に入ってから。
国の構成を整え始めるのはその頃から。
大宝律令とかね。
254 :
伊作:2011/02/10(木) 20:46:51
>九州で3世紀程度と思われる前方後円墳は少ないよ。
あのな。何かといえば前方後円墳の大きさと数をいうが、
前方後円墳そのものが古墳時代に本格的に急増するものだ。
せいぜい2〜30メートル規模の高塚古墳が登場し始めた時代の
政権中枢の所在地の話にそれをいうのは不正行為だ。
誰も気づいていないのだろうが。マンガ論法そのものだ。
前方後円墳は菩提寺と同じだよ
各地方の各豪族が、風水でいう気の集まる大和に氏神というか供養塔みたいなのを競って建造しただけ
奈良や京都も神社や寺が集まっている、地方にある殆どの寺社が集められている
256 :
伊作:2011/02/10(木) 20:52:59
●九州説諸兄に。
ご欄の通り。何かといえば「証拠をだせ」と叫ぶ輩が、
いざ自論を述べるとなると証拠も論拠もなく、浪花節ストーリーを並べるだけだ。
稲作の発祥も弥生の稲作の本場も九州だし、
弥生の鉄鍛冶は熊本が中心だったことも分かってる。
鉄と稲。国家経営に必要なものはすべて九州にあったのだ。
こんなタコ連にまけるんじゃないよ。
257 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:53:53
むしろ九州はごった煮状態で、
その中から前方後円墳氏族が畿内に行ったという方が
前方後円墳ばかりの理由になりそうな気がするね。
大陸から、まあいろんなモノが入ってたんだろう。
墓制の統一なんてどこの話?というくらいに。
で遺作ちゃんはグチャグチャイチャモンばかりつけているが
その強大なる帝国 九州邪馬台国 が有明周辺にあっと言う根拠・傍証は何かな?
脊髄反射的に反対するだけして
もはやヤマト王権自体が本当にあったのかさえ分らなくなる話だが
同じ基準を自らに科し
その一大帝国の存在を論証して見せる事ができるのか?w
東海の登呂遺跡も奈良時代に引けを取らな洗練された農法だよ
九州は弥生の南方系の濃い稚拙な農法を通過しているが、東日本は最初から灌漑農法として入ってる
奈良時代でさえ東日本の方が反当りの収量が多かった
260 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 20:59:39
前方後円墳オンリーじゃなくて、
前方後方墳もあれば、円墳もある。
一気に同じ墓制で支配した?って何の話?っていうか。
とりあえず、前方後方墳について、見解を聞こうかな?別にどうでもいいけど。
261 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:01:57
>>259 様々に試行錯誤して、改良された農法となってから
東海に入っているわけですな。
262 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:06:00
まあ古代の人口の推定だと畿内や九州より東海の方が多かったりするからなwww
263 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:12:25
しかしこいつが縄文人と間違えられたのは頷けるwwwwww
結局は「九州無敵軍団の東征」なんていう馬鹿丸出しのお話になるのか?
まあベース部分がほぼ同じで
「巨大盆地湖ネタ」を加えれば縄文人
「卑弥呼帰国子女説」を加えればこのタゴ作ってところなんだろうか?w
Yahoooでも電波撒き散らして袋にされてこっちに逃げてきたん?w
農民がそんなに技術に目ざとかったら良いんだけど
だから奈良時代になっても水田技術は東高西低だったって言ってる訳
西日本は開拓された歴史が古いだけで進歩が無い
奈良時代になって中央から改善の梃入れがあってやっと収量が少し伸びた
それでも後までずっと低い、九州なんて加藤清正が移封されてから熊本平野が飛躍的に延びた
日向はさびれたまま、いまも牧畜と養鶏ばかりだろ
265 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:16:50
鉄器を重要視してる時点でおかしいんだな。
鉄器が無くても、ピラミッドが作れたって言うし。
古代人にとっては、鉄器よりも今日のご飯が重要なわけであって。
青銅器技術は東海系銅鐸を見れば解るとおり、東日本のお家芸なんだし
中国の漢でも鉄器は武器どまりであって農具には中々行き渡ってないよ
267 :
2浪中:2011/02/10(木) 21:34:11
わあ〜またまた進行が速いな〜。とてもついて行けない。
>>174-175 あなたはゴミクズを連発する方ですね。なんか偉そうな、怖そうな、大物のような方ですね。僕はあなたみたいな人に興味がありますので、
少し話をさせて下さい。
ゆるやかな首長連合とか交易連合とかは畿内を中心とした話でしょうか?畿内には3世紀前後の戦闘の痕跡などは無く、各地の土器が(マキ
ムクに)集まっているのがその根拠でしょうか?そしてそれは邪馬台国畿内説と関係があるのでしょうか?
268 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/10(木) 21:41:50
>>265 垂仁天皇三五年(丙寅六)是歳。令諸國多開池溝數八百之。以農爲事。因是百姓富寛。天下大平也。
鉄が大和に流入するのは、垂仁からである。
鉄があるから農地開発も進む。
>>264 >だから奈良時代になっても水田技術は東高西低だったって言ってる訳
まあその話と関連するところがあるかないか分らないがwwwwww
5世紀須恵器が登場してその窯の分布を示したものによると
初期には北部九州や畿内にポツポツとあるんだが
5世紀後半には東海地域に密集する。
最初にその技術に接したはずの九州には増加したようなあともない。
何なんだろう?
ひょっとして古代において東に行くほどイノベーションがおき易かったとか?w
270 :
伊作:2011/02/10(木) 21:48:02
畿内説プロパンの銀蝿しょくん。
おれはなー
風呂さ入ってなー
イモさ
洗ってくるから。
271 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 21:51:11
>>267 偉そうと思おうが怖そうと思おうが勝手だが
大物でもなんでもない。
言っている事は単なる常識レベルで
自分の脳内ストーリーに合わせてそれすら否定している馬鹿に馬鹿と言っているだけwwwww
>邪馬台国畿内説と関係があるのでしょうか?
ある。
ただし邪馬台国なるものをどう捕らえるかで「ない」とも言えるかもしれない。
別に謎賭けをしているわけじゃないが今日畿内説一辺倒と言われている現状が
どうしておきているのか考えれば分る話だろう。
「令諸國多開池溝數八百之」:諸国に命じて、池や溝を多いに開墾させる、数にして八百
開墾を命じたとしか読めない、奈良時代の百万町歩開墾計画みたいな事をやってた訳だ
でも初期の大和朝廷が介入できたのは東日本だけだよ、三宅も東に多い
西は国造系の力が強く中央が中々介入できなかった
273 :
2浪中:2011/02/10(木) 22:06:45
>>271 レスありがとうございます。
ところで、またお伺いしたいのですが、
倭人伝には卑弥呼が王に立てられる前には倭国乱があり(後漢書によればそれは「倭國大亂、更相攻伐、歴年無主」ということでかなりの期間
戦闘状態だったようです)、その後にも狗奴国との争いがあったと書かれています。このような時代の邪馬台国とその傘下の倭国は、「ゆるや
かな首長連合」だとか「交易連合」だとかと称され、戦闘の痕跡も無い畿内を中心とする地域にふさわしいと思われますか?
274 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/10(木) 22:14:02
>水田技術は東高西低だったって言ってる訳
西暦42年 神武元年
西暦86年 懿徳元年 この頃
ホ31202 ツクシより ミユキをこえば ミカワリと ナヲリナカトミ くだらしむ
トヨのナヲリの アガタなる ミソフのヌシも ノリをうく さきにサミタレ
ムソカふり サナエミモチに いたむゆえ
弥生後期は寒冷化が進む、筑紫では農業の衰退を大和に頼み回復させる。
筑紫には半島の玄関という武器に頼りすぎ、農業が少しおろそかになった可能性が有る。
大和に逃げる術が無いから、農業に真摯に向かう。
この程度の差は出たのであろう。
須恵器は、九州→河内→東海では無い。
九州=摂津=河内=東海=上野?=仙台。ほとんど同時に須恵器時代を迎える。
順次北上では無い。
神功49年 半島占拠 これにより中国東北部の民が大量に日本に渡来する。
上毛で牛馬を使った農業もそれ程遅くならない。
275 :
伊作:2011/02/10(木) 22:14:35
>偉そうと思おうが怖そうと思おうが勝手だが
かかか
>大物でもなんでもない。
ききき
>今日畿内説一辺倒と言われている現状が
くくく
>どうしておきているのか
けけけ
ホラ吹きプロパン
>>273 その戦闘は倭の諸国間で繰り広げられたものだろ
全国的に乱発した戦なわけで、卑弥呼が都とした土地だけで起こったことではない
277 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/10(木) 22:17:46
>>274 ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とコチラを口撃していた男が
〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。><
278 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:27:34
>>273 そもそも戦争状態にあったら交易が止まるのか?
戦闘の痕跡とは何をさすのか?(殺傷痕のある人骨とか?)
…等々イマイチ分らないところがあるがw
確かに開放的な纏向の雰囲気にそのような緊張状態は見られない
…と言う意見は活字でも目にするところだがw
個人的には狗奴国を九州と見ていてそれは問題にならないと思っている。
(あくまで魏に対しては倭国女王なのだから
自国=邪馬台国が戦渦に巻き込まれていなくても(名目だけかもしれないが)統治者として
何らかのアクション起こす必要があったんだろうと)
ただコレ恐らくこの板でも少数派だと思うんで話半分で聞いとけとwwww
恐らく今の主流は狗奴国東海説w
で、答えた代わり言うたらなんやけど
リアル学生さんなら中学校の時授業で日本の古代史についてどう教わったん?
古墳時代の初めはいつ?
大和朝廷による日本統一はいつとか書いているんか?
邪馬台国についてはいまだに畿内説九州説両論併記?
まあ記憶があれば教えてくれwwwwwww
279 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:31:25
280 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/10(木) 22:33:50
訂正
×大和に逃げる術が無いから、農業に真摯に向かう。
○大和には、逃げる術が無いから、農業に真摯に向かう。
281 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:43:17
>>278 >リアル学生さんなら中学校の時授業で日本の古代史についてどう教わったん?
浪人2期目ですが、実は中学を出てすぐ就職して3年勤め、(勉強しなきゃ一生他人に使われるだけだと思い)定時制高校に入り(途中で病気して)
6年かかって修了し、大学を受験したけど2回失敗したのでもうすぐ27才になります。中学校のことは10年以上前のことで、しかもあまり勉強して
いなかったので思い出せません。そういうわけでお答え出来ません。
282 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/10(木) 22:45:15
>戦闘の痕跡とは何をさすのか?
鉄鏃がその証拠となる。
大和にその証拠は無い=乱は無い。
283 :
2浪中:2011/02/10(木) 22:46:04
279と281は僕のレスです。友人のパソコンを使って書いたのでハンドルネームを付け忘れました。
284 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 22:54:06
2浪中さんは苦労人か。
九州説に傾倒するのは、社会に迎合したくないからかい?
>苦労人
正直ネタっぽいw
>>151 >「王都」だけで検討すべきことは山盛りなのに
検討しましょう。
「マキムクは王都ではない」というのだからマキムクが対象ですね。
マキムクはそれ以前に定住した痕跡がなく、自然発生ではない遺跡です。
なにかを契機としてなんらかの目的をもって建設されたのでしょう。
検出された遺構・遺物は、大溝と土木用具・祭祀土坑と祭祀用具と供物・祭祀施設・
大型建物、出土した外来系土器から各地域の人が集まっていたことがわかり、周囲に最古の大王墓級前方後円墳が含む墳群がある。
祭祀のためにつくられた、とは言えるんじゃないでしょうか?
そして、祭祀を司る者が王とみなされたのでは。
で、三つのうちのどれかというと・・・三番目かなあ?
287 :
2浪中:2011/02/10(木) 23:02:44
>>284 別に九州説に傾倒しているつもりはありません。今の所は九州の方が可能性が高いと感じていますが、まだ分からないことが多いので
皆さんにお尋ねすることで勉強しているところです。
288 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:07:07
>>287 [九州の方が可能性が高い]と思う理由をおおまかに聞かせてよ。
あなたが、どの程度、この問題を深く理解してるのか、または浅いのか。
本当に初心者なら、「ゆるやかな連合」=畿内説といわれてもチンプンカンプンだろうし、
九州の邪馬台国が4世紀に鉄器を武器に東遷したと考えたくなるだろうし。
共立の都に戦乱がないのは当たり前では
乱は卑弥呼以前なんだから
290 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:13:13
電波飛ばしてるくらいならいいけど
田子作はもはや嵐じゃまいか
291 :
伊作:2011/02/10(木) 23:13:33
「ゆるやかな連合」てなんだ。
歴史動向として説明のつかない詭弁造語か。ん・んーーー?
>>291 もうめんどくさいから過去スレ読んで来い
293 :
伊作:2011/02/10(木) 23:18:04
ところで、2浪中の青年。
くだらん質問でわるいけど。
今年もダメだったという意味の2浪かね。
バカ老人に混じってバカやってないで、3浪しない努力したろどよ。
余計なお世話だとは思うが。
遊ぶにしても場所を選ぶべきだよ。
何てゆうか、ここロムってて思うのは
畿内説が相当追い詰められてんだなぁってこと。
ゴミクズ九州説wwwとか言ってるヒマがあるならもっと論理的に九州説を粉砕しないとさぁ、危ないんじゃない?
俺、滋賀県出身の田舎もんだけど邪馬台国ってさぁ、何となく畿内にあったって思ってたわけ。
でもここ見てるとさぁ、何か畿内説って「馬鹿のしがみつく珍説奇説」って感じしかしないわけよ。
学者の先生たちはみんな畿内説を支持してんだろ?
だったらもっと論理的に九州説を粉砕してよ。
ここ見てるとどうも畿内説がインチキだというのが現実味を増してくるもんねぇ。
畿内説の連中って九州説に悪態つくしか能がないし。
俺はやだよ、九州なんかに邪馬台国があったなんて。
でも知り合いの学者に聞くとマキムクを掘っても掘っても何も出てこないらしいよね。
マズいよこれは。
295 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:24:28
弥生時代、九州の遠賀川の東西では文化は違ってた。
吉野ヶ里方面の西側は、先進地域だったな。
戦乱の痕跡が多かったのも、西側。
遠賀川より東のクニは、西側のクニとは距離を置いていたようだ。
現代でも、北九州市は、博多と文化は違ってたりするのかな?
296 :
2浪中:2011/02/10(木) 23:24:54
>>288 >[九州の方が可能性が高い]と思う理由をおおまかに聞かせてよ。
明日は朝7時にはアルバイトにでかけますので、簡単に述べます。
1.倭人伝の記事から
行程里数関係:末盧国(九州北岸と見ます)から二千里のところに邪馬台国がある。帯方郡から半島南岸の狗邪韓国まで七千餘里
とあることから二千里は約140kmと見られる。
とりあえず今日はこれまでにして失礼します。
>>291 > 「ゆるやかな連合」てなんだ。
「統属」してるんじゃない? もしくは「合従」みないなもん。
298 :
伊作:2011/02/10(木) 23:27:22
・
・
>もうめんどくさいから
歴史動向として、論理的にも歴史的・考古的にも説明不可能な詭弁造語というわけだな。
そかそか。
畿内説の環濠集落も脆いもんだ。
熊襲の末裔が一人乗り込んだだけで、3日間篭城しただけであっけなく落城。
♪♪そんなもんだろろろろろ〜
299 :
筑紫平民:2011/02/10(木) 23:27:53
ただいま。。今日は仕事で熊本にきています。
ついでに邪馬台国探してみましたが、見つかりませんでした。
ただね、大量の鏃が見つかる所を発見しました。
それは、阿蘇南外輪山の南側の某所です。古代此処で
何の戦いがあったのか知りたいです。
皆統属 女王国 : ジェトゥンゴ ミィワンゴ
韻を踏むためだけの言い回しって解らない?
>>295 違いますね
遠賀川から西は邪馬台連合の勢力範囲
遠賀川から東はむしろ出雲の影響、といいますか
おそらく出雲の勢力範囲に入っていたのだと思いますよ
だからこそ「東行百里至不弥国」が必要だったわけです
不弥国は邪馬台連合の東の接点だったのいでしょう
同時に投馬国(伊都国より南水行の記述しかないところから、おそらく天草諸島)も
南の狗奴国との接点にあったからこそわざわざ方位里程まで記述されたのでしょう
302 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:33:24
>>294 無理しなくていいぞ
いつでも畿内説見限って九州説をとってもwwwwww
てかタテ読みじゃないのか?w
303 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:33:54
農業が西高東低っていうの、なにか根拠ある?
だいたい、限度以上に暑くなると九州不利、寒くなると九州有利の傾向に
なるはずなんだけど。
あと今年みたいなラニーニャ現象で、高温低温がはっきりすると九州不利。
エルニーニョで高温低温がはっきりしないと九州有利の傾向。
唐松山氏のいう寒冷化なら、どちらかと言えば九州有利のはずなんだ。
304 :
伊作:2011/02/10(木) 23:33:59
>畿内説の連中って九州説に悪態つくしか能がないし。
すばらしい。
九州説もまた、野心・功名心・地元偏重に満ちた小細工論が多くて、つつかれるのは必定なんだよ。
互いに「うしろめたさ」を自覚し背負った上での「ムジナとムジナのバカ仕合」をしてる。
そこへ、真っ向勝負の経路の変わったのが闖入してきたら、
畿内説のタコどももつつきようがになくて、抽象的な中傷に終始してるわけさ。
どうにもならない眉唾ジャンルだね。
まあ九州には無い事は確実だな。
>>298 113 名前:伊作 本日のレス 投稿日:2011/02/10(木) 07:54:29
>ちっとも根拠を提示してくれないよね〜。
長いはなしさ。面倒だから、説明図つきで掲載してる俺のサイトをみれとゆってる。
堂々と公開してるんだ。別に逃げも隠れもしてないぞ。じゃがいも
「みれ」とゆってるのに、おそれてみないのは逃げだ。
もう一度いう。論破するには相手の論拠を潰すことだ。
こういうところで、見栄の強がり文言並べるのがロンパじゃないぞハンパもの。
wwwwwwww
307 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:36:47
>>301 九州といっても、遠賀川をはさんで、東西で文化が違っていたことは確かみたいですね。
東は、吉野ヶ里、八女、伊都
西は、宇佐、日田
南は、日向、熊襲
このうち、どこが邪馬台国連合と同盟していたか?
九州説では、遠賀川より西側と思うだろうし、
畿内説では、当然遠賀川より東側だろうな。
308 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:41:04
福岡と北九州の境目は、遠賀川というよりは、
古賀、宗像の山岳地かな。
そして、筑豊でも飯塚は福岡よりだけど、
直方の方は北九州圏という感覚が強いね。
309 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/10(木) 23:42:46
卑弥呼の記事が(神功39年等の倭人伝の借り物以外)記紀に無いという
ことは、卑弥呼が畿内と関係の無い女だったということだ。
つまり九州の女だな。これで決まりだ。
310 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:43:26
>>301 九州説の人は、九州の邪馬台国と出雲は別勢力だと考えているらしい。
遠賀川より、西は邪馬台国勢力
遠賀川より、東は出雲勢力
ちなみに、出雲は、畿内と同盟していたはずだから、
遠賀川より東は、九州説だろうが、畿内説だろうが、畿内と同盟していたはずだね。
伊作も、異論はないだろうな。
これにより、まず宇佐説は消滅と。
311 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:44:26
>>304 タゴ作
>そこへ、真っ向勝負の経路の変わったのが闖入してきたら、
真っ向勝負ねえ…w
卑弥呼の鬼道が道教であった根拠を出さず
それを前提として
「だったらネイティブの方が習得が楽じゃん」
とか言われても困るしw
墓域がどうたらこうたらほざいていたが
どの様なクニを想定しているのか具体的に遺跡の一つでも挙げて説明もしない。
(結局墓と宮はどれくらいの距離離れてなきゃならないんだっけ?w)
でそもそも最終的な比定地を言わない。
今まで散々てめえが言ってきた王都の条件に合う場所遺跡があるのか否か。
何処が真っ向勝負やら(呆
筑紫国=朝鮮半島系
肥の国=中国江南系
豊の国=秦王国、新羅系
鬼道を用いたという卑弥呼は江南系。
よって九州島内で邪馬台国所在地としてもっとも有力なのは肥の国。
それも農耕に適さない現長崎県内が有力。
自国が豊かで自給できるのならば何も好き好んで勢力範囲を広げようとは思わない。
自国領が農耕に適さず貧弱だったからこそ、他国を侵略しその農産物を手に入れる必要があったのだと思われ。
卑弥呼の鬼道を利用して他国を侵略併合していった、なるでヤマタノオロチのような恐怖政治国家、
これが邪馬台国の姿なのでは?ヤマタノオロチを退治するとクサナギの剣が手に入ったという伝承からも
邪馬台国は鉱山技術を持つ集団を抱えており、農耕国家ではなかったように思われる。
313 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:50:48
宇佐と北九州は同一文化圏だろうけど、
そこと出雲が一緒とはずいぶん遠くに飛ぶねえ。
314 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:52:16
遠賀川より、東が出雲勢力+畿内連合ならば、
関門〜瀬戸内海は、畿内連合の守備範囲になるわけだね。
おまけに都合がよいことに、宗像も、出雲勢力圏になるようだから、
宗像氏は海人だから、宗像三女神を祭る島づたいに朝鮮半島と交易ができる。
これは魏志倭人伝の壱岐島ルートとは別の交易ルートになるね。
九州に邪馬台国があっても、畿内王権は朝鮮半島と交易ルートは確保できていたわけだ。
315 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:53:31
ちなみに、宗像氏は出雲と関係が深いことは、説明するまでもないね?
316 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:55:00
宗像は遠賀川より西側です。
よって福岡側になります。
317 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:55:13
>>292 まあ分っているんだろうが
この手のゴミクズレベル九州説は読んだところで理解しない、しようとしない。
何故か?それは 畿内vs九州 でどっちが覇を唱えたかと言うか
どっちがつよかったんだあ〜 と言う比べっこのお遊びの場そのものがなくなってしまうからw
確かに昔の畿内説もそれに付き合っていたような印象はあるがwwwwwwww
319 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 23:58:03
>>316 そういわれると、九州地元民じゃないから、わかんないや。
だったら、宗像も邪馬台国側として、出雲も、邪馬台国側ということでいいのかな?
320 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:00:36
321 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:00:37
>>319 いや、地図見てくださいよ。
一発でわかりますんで。
>>298 > 論理的にも歴史的・考古的にも説明不可能
弥生後期の墳丘をもつ首長墓にはきわめて顕著な地域性がみられる。
これに対して出現期の古墳はきわめて画一的な内容をもって、それら広い範囲の地域に代わって現れる。
このことを比較すると、
遠く離れた各地の首長たちが、それまでの地域的なものにかえて共通の形式の墳墓を営むようになったことを示しており、
そこに共通の約束ごとにもとづいた連合関係が形成されたと想定される。
323 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:01:42
>>321 宗像氏は、出雲神の末裔だけど、
九州の邪馬台国連合側ってことでいいの?
>>310 >ちなみに、出雲は、畿内と同盟していたはずだから
根拠を聞いていいかな?
ひょっとして記紀の印象に引っ張られてないかい?
はっきり言って個人的にはそれには懐疑的。
単純に出雲は前方後”方”墳墓のが多く
前方後円墳の葺石が巷間言われるように四隅の影響なら
纏向型のごく初期にはそれが見られないとか
纏向の鉄関連遺構(フイゴ羽口)も日本海ルートからの伝播は考えにくいとか・・・
325 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:03:57
>>324 すると、奈良から大量に出てくる山陰系の土器は、出雲の土器じゃあない、ってことでいい?
326 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:07:24
>>323 自分は九州説ベースで、
九州大帝国はないというバラバラ説なんで、
氏族が多少行き来するくらいは普通にあるんじゃないですか。
327 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:10:04
>>326 すると、邪馬台国と出雲は、深い関係はなかったと?
お〜い、伊作くん、君はどう思う?
日本海側の日置氏がどうのって、君のサイトで見た覚えが歩けど。
328 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:13:24
伊作氏は大九州連合が畿内を抑えるという筋書きだから、
方向性は違いますねえ
329 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:19:47
>>325 まあ山陰系の土器から出雲を外せるのかと言われれば確かに苦しいがw
ぶっちゃけ山陰や北陸といった日本海側がヤマトと同盟するメリットがイマイチピンとこないと言うか
同盟するにしても庄内じゃなくてワンテンポ遅れて布留あたりかな?と想像している。
>>329 丹波なら四隅を受け付けなかった反出雲と考えても良いんじゃないかな?
同じくそれを受け付けなかった吉備、それらが集まった所が纒向じゃないかな。
331 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:25:58
いやあ、俺も伊作くんに教えてもらいたいんだよ。
邪馬台国が九州にあったとして、出雲との関係はどうだったのか?とかね。
出雲は、九州とも畿内とも無関係だったクニということでいいのかな?
そのへんよくわからないんで。真面目に。
332 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:29:44
>>330 >丹波なら四隅を受け付けなかった
そもそもアレってなんなんだろうなwwwwww
333 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 00:36:35
四隅ってのは、高句麗系の墳墓とかって聞いたことあるけど、実際どうなの?
>>332 普通に考えれば身分の高い者にたいしての墓だろうけど、よその地域のからしたら
征服の証とか配下の証にみえたかも・・
335 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 01:55:46
海人族の連合国家が邪馬台国です。
336 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 02:28:42
>>314 宗像氏は海人だから、宗像三女神を祭る島づたいに朝鮮半島と交易ができる。
沖ノ島ルートに関して・沖ノ島は縄文時代遺跡もあり古くから人の往来があった
と思われるが豊富な遺物は四世紀後半からである。このルートは下関方面を
目指す際に初めて意味を持つ。つまり3世紀〜4世紀政治や経済の中心が
畿内に移動したということ。
339 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 09:49:04
>>333 146〜167 桓帝(成宗) 。167〜189 霊帝
桓霊の末、韓[シ歳]強盛、郡県制することあたわず、民多く韓国に流入す。
建安中(196〜220年)、公孫康、屯有県を分かち南の荒れ地を以って帯方郡となす。
公孫模・張敞等を遣わし移民を収集し、兵を興し韓[シ歳]を撃つ。旧民やや出で、
この後倭・韓ついに帯方に属す。
景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。
諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与う。部従事(役職)呉林、楽浪
もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。吏訳転じ異同あり、
臣智激し韓忿り、帯方郡の崎離營を攻める。時の太守弓遵・楽浪太守劉茂兵を興しこれ
を撃ち、遵戰死し、二郡遂に韓を滅ぼす。
金官伽耶 ,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
二郡遂に韓を滅ぼす。と云われる中で、伽耶は建国330年 曲,永無違者。王朝が転覆することは
無い。
だから210年 伽耶建国=任那建国=文献は50年遡上する必要が有る。
孝霊時代(146〜164年)吉備方面に派兵
新羅本紀 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪=姫大神、ツノガアラシト来日。
韓国に流入した民は、海を越え倭国にも渡来する。
新羅本紀 193年 倭人が大飢饉となり避難民到来。
青谷上寺地遺跡の遺骨は、この時の渡来人であり、船や鉄器による文化を伝える。
新羅本紀 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。任那建国。
“二郡遂に韓を滅ぼす。”金官伽耶は建国から330年続く、滅ぼされた韓に属さない。
340 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 10:01:59
>>303 ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる コトのりに たしがたしかれ
ツトにをき ツミカミにこふ
崇神5年 凶(凶年=エトシと読む)半ば死ぬ(餓死)6年逃散
コトのり(通常の出来事)にたしがたし(足し難し)彼(ゆえ)
罪の中に起き 罪神に請う。〔異常な出来事が隠されている〕
新羅本紀
192年 4月大雪
193年 倭人飢餓の為渡来
後漢書 183年冬異常な寒さ、193年 6月寒風冬の如し
考古学 弥生後期後半
青谷上寺地遺跡 大量の分解された人骨。
唐古鍵遺跡 放棄される。
分解された人骨は、食人を表し、その行為の行われた居住区に人は帰らない。
弥生後期後半の寒冷化は193年を底とする。
神功は筑紫で溝を掘る。=農業進展の為。
大和では、垂仁時代に大きく前進していたが、筑紫では遅れている。
桓霊の末、民多く韓国に流入す。 当然倭国にも流入している。
だからこそ、魏書もこの頃から乱れるとする。
341 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 10:07:58
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とコチラを口撃していた男が
〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。
342 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 10:33:00
>>339-340 ありがとうございます。
このあたりは、太国氏といつもやりあっておられる部分ですね。
>>303で書いたように、九州は温暖なときに不利、寒冷のときは
むしろ有利になります。
考古学で山陰や畿内の生産が悪くなっているようですから、
山陽や九州に移ってきたのではないでしょうか。
そして、移ってきた人たちにも食わせなければならないので、
農地を拡張する必要はあるでしょう。そのとき、古墳建設で培われた
土木技術も役立ったのではないでしょうかね。
もう少し専制集権国家だったら、受け入れずに殺してしまうこともあるかもしれませんが、
九州は比較的、各国が独立していますので、開拓の余裕などから、受け入れたところと
受け入れないところがあったかもしれません。
343 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 10:37:16
>>342 >考古学で山陰や畿内の生産が悪くなっているようですから、
そんな事実は聞いたことが無いな。
一貫して近畿のほうが人口が多いのに。
344 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 10:56:05
この寒冷化による移住だけが原因ではないかもしれませんが、
前方後円墳氏族の移住が、前方後円墳式祭祀をもたらした可能性もありますね。
軍事的支配であれば、かなり一気に墓制が変わることも考えられますが、
実際にはかなりの期間混在しているようです。
もともと円墳等の地域に前方後円墳氏族が移住し、
その新祭祀手法に乗った豪族もいたのでしょう。
しかし乗らなかった豪族もいた。支配関係でなければ
採用不採用は自由ですからね。
345 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 11:13:16
>>332 ヒボコ伝承で伊都とのつながりがあり、本州の中では、邪馬台国連合との関連が感じられる。
347 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 11:31:02
時系列的には、こういうことかな?
弥生時代末、出雲で、青銅器が埋納される。
↓
中国山地で始まった四隅が出雲に広まる。ほどなく、越にも広まる。
↓
この時期は、卑弥呼が共立された頃だが、出雲、越は、邪馬台国の祭祀とは距離を置いていた?
↓
しかし、ヤマトには山陰の土器が流入しているので、交流は深かった。
↓
古墳時代へ。
348 :
伊作:2011/02/11(金) 11:32:59
・
横から失礼。少しだけ私の意見を。
前方後円墳の様式をとりあげて、
前方後円墳氏族という種族がいたように考えてるらしいけど。
円墳・方墳・方形周囲溝墓、前方後円墳・前方後円墳のほかにも、横穴墓もあるし。
九州だけをみても、ほかに地下式横穴、地下式板石積み、土壙墓などがあるし。
これらが同時代に複合共存してるし、それぞれには装飾を施した古墳もある。
ところが、鏡と剣を呪具として副葬する葬送儀礼は同じなんだよ。
さて。墓形で勢力や種族を区分する方法が妥当なのか。
葬送儀礼という厳粛かつ人間心理とかかわる「信仰的精神性の共通点」を重視して、
身分や生業や地域性といったもので区分すべきじゃないかと俺は思う。
銅鐸族・銅矛圏・銅鏡圏といった区分もよくみるけど。
後漢末という時期は東アジアに劇的な信仰改革をもたらす。
後漢末に誕生して爆発的に流行した初期道教が、銅鐸から銅鏡への変革をもたらしたんだよ。
銅鐸も私の研究によれば長江流域に発する呪具であり、
天上界の音を奏でた楽器でもあるらしい。
それまでの大地への(地鎮・豊穣)への祈りの銅鐸から、
死後の神仙世界の昇天するための呪具たる剣と、
破邪・駆邪、病気治療という生者に「現世利益」をもたらす呪具たる銅鏡へ転換したわけだ。
この、鏡と剣を呪具として副葬する葬送儀礼が同じである点を無視しては、
日本列島における倭人と勢力動向はとんでもない方向で語ることになり兼ねない。
と・私は思う。
349 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 11:43:24
四隅突出型墳丘墓ってのは、あらためて調べてみると面白いかもね。
弥生中期後半から広島県の三次盆地に発祥したということらしい。
邪馬台国と同時代まで続いた独自の墓制なんだよね。
日本海側を中心に作られてることで、瀬戸内海〜ヤマト〜東海連合とは祭祀形態の異なる勢力だったことがわかる。
でも、若狭湾周辺には無いので、丹後はヤマトと同盟していたということか。
北部九州勢力、日本海側勢力、瀬戸内海・近畿勢力が存在したということか。
350 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 11:52:08
面白いのは、出雲から出てきた銅鐸で、
近畿の広範囲から出ていた銅鐸と同型のものが含まれていた。
近畿の広範囲で祭られていた銅鐸が、出雲に献納されていたとしか思えない。
出雲にそのような宗教的権威があったのだろうか?神話ではいろいろ語られているが。
しかし、四隅出現を除いては、出雲に王権を認めるようなめぼしい遺跡はないみたい。
351 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 11:58:00
しかし、四隅が作られた時代、四隅ほどきちんとした規格の設計で作られた墳墓は、
他の地域にはなかった。
墳丘墓造営技術では、出雲や越は、一歩ぬきんでていたってことか。
弥生時代後期では、広範囲に一大勢力を持っていたのは、四隅を作っていた日本海側勢力だったことは確かだな。
352 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 12:03:24
193年 倭人飢餓の為渡来=銅鐸祭祀の終焉。
縦築や出雲で新しい墳墓=モモソ姫の墳墓。
モモソ姫の墳墓は、石を沢山使うが、大和には鉄器が少ない=墳墓は大きくない。
そしてまだ未発見である。
吉備や出雲に渡来人が居た証拠=青谷上寺地遺跡の人骨はその頃の渡来人。
当然九州にも渡来しているハズ。
この時代に吉野ヶ里は大きな影響を受ける? 時代設定が各書により違うので
思考がまとまらない。
353 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 12:15:38
仮に、九州に邪馬台国があったとして、四隅の勢力と、卑弥呼の関係を考えると、
四隅の勢力が九州の女王を共立する必要性は全く感じられない。
卑弥呼登場以前から四隅は発展を続けていた。
四隅が廃れるのは、卑弥呼の死後、古墳時代からだった。
九州説の場合、
魏の使者は、九州の女王を倭王としたにも関わらず、倭種と呼んでいた東のクニでは、
九州よりも洗練された四隅突出型墳丘墓を作る勢力が衰えることなく隆盛していた。
しかし、卑弥呼は四隅勢力よりもクナ国を警戒していたという。
魏の使者も、四隅の勢力は、意に介していなかったということか?
四隅の勢力は、何の害も及ぼさない勢力だったのか?
しかし、鳥取県青谷上寺地遺跡には、戦乱の痕跡が認められるという。
354 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 12:24:29
四隅の勢力も、倭国大乱に巻き込まれたなら、
倭国大乱とは、九州〜越までまたがるようなものだったかも知れない。
瀬戸内海も高地性集落が作られており、無事ではなかったようだ。
それを卑弥呼が収拾させたというのであるならば、
九州から号令をかけて、東方の戦をやめさせられるものだろうか?
そもそも、東方で戦があろうと、九州は関係無いのではないか?
倭国大乱が、西日本全域の出来事であるなら、
やはり、近畿に宗教的権威が存在しており、その主が号令をかけてこそ、倭国大乱は収拾が図れるはずだ。
355 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 12:37:48
「倭国大乱」を、魏がどのようなスケールとして記述したのか、考えてみる。
もしも、九州説の言うとおり、北部九州だけの乱であるなら、
それを「大乱」という表現を用いるだろうか?
三国志の中国の時代から見れば、北部九州の小競り合いなど、「大乱」と形容するほどの騒ぎではないだろう。
やはり、西日本全体を巻き込んだ戦を「大乱」と形容していたのだと思う。
その大乱を収拾させるべく、西日本のクニグニが、
九州の女王を共立させたというのは、おかしな話に聞こえる。
西日本全体を巻き込んだ倭国大乱を収拾させたのは、畿内ヤマトの女王であり、
それで、西日本がまとまったのであれば、九州もまた畿内ヤマトの女王に追従するしかなかった、というのが事実であろう。
356 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 13:12:02
238年 魏使は倭国を訪れる。
その先は、伊都国に留まり、倭奴国王の称号を貰った奴国までである。
この地で 女王卑弥呼を容認するのであるから、女王は北九州からでない。
大和が九州に関与する以前である。
>>348 蛸作
まあこの手の「解釈論」は百人いれば百通りのパターンがあるんだろうがw
三種の神器ならぬニ種の神器wを歴史の縦軸・時間軸に持ってこようと言うものなので
(しかも装飾古墳とか出ているんで相当に長いスパン)
卑弥呼を女道士(?w)と根拠無く断定し、その先のお話をさも真実のように語る
その大元の世界観から来るお話だと思うが…w
先ず事実として
柳田のまとめた弥生王墓の一覧に拠れば鏡や玉類が副葬されてあっても刀剣の類が服装されてないものが結構ある
例:三雲南小路王墓二号(鏡、ガラス壁、玉類)
平原五号 (鏡)
須玖岡本B地点 (鏡)
奴国松添 (鏡、朱)
まあ、被葬者の性別で説明をする手もあるがw
それだったら最初から特にその2種の組み合わせに特別な意味を求めない方が
余程スッキリするw
また、元々武器型青銅器として瀬戸内を中心に広形銅剣もあったわけで
結論として剣は剣、鏡は鏡として考えるべき。
更に言えばそもそも銅鐸は墓から出てきたことが殆ど無い(数例?)
墳墓から出土する鏡とかと同じ線上で比較するのは大きく見方を誤る可能性がある。
(集落・集団のマツリから特定の階級・個人へのマツリに変化)
結論:タコ作君は なめらかプリン の角に頭をぶつけて芯んどけとwwwww
>>355 まあ、その範囲がどうであれ
北部九州がその中にあったことはガチだろうw
その北部九州に前方後円墳や近畿系土器が出現するのは
その戦乱の結果を受けて…と見るのが” すなおな ”見方wwwwwww
(無論畿内が九州を軍事力で傘下に降したなんてお話ではなくてね)
359 :
伊作:2011/02/11(金) 14:13:55
357 蛸作て何だ外道。
>卑弥呼を女道士(?w)と根拠無く断定し、
鬼道に堪能だったと書いてあるぞ。日本の学者たちも認めてるぞ。
纏向で桃の種が出ただけで、卑弥呼の鬼道と直結してたぞ。
そいつらに「卑弥呼を女道士と根拠無く断定し」と笑う度胸はあるのか。
>事実として………三雲南小路王墓二号、 平原五号、 須玖岡本B地点、 奴国松添、
これだけか。で・鏡と剣が副葬されている墓の数と比較してみたか。ん?
姑息な。一つか二つの例外をあげてそれが普通でもあるすのように見せるまやかし法。
古くさい手を使うもんだぜ。
>鏡や玉類が副葬されてあっても刀剣の類が服装されてないものが結構ある
鏡が副葬されていればそれだれけで充分だ。鏡の用途に変わりはない。
お前らバカどもに提示する気などサラサラないが、
俺は日中の真摯な道教研究学者の見解に依拠してるんだぜ。
二種の神器の論旨を論破するには、
そうではなかったという学術的事実を提示することだ。ありはしないがな。
>結論として剣は剣、鏡は鏡として考えるべき。
なーにが結論としてはだ。ぼんくら。己の不勉強・無知を棚によくいうぜ。
無知ゆえの無恥。
>>329 > 同盟するにしても庄内じゃなくてワンテンポ遅れて布留あたりかな?と想像している。
纒向1式の外来系土器のうち、北陸・山陰系の割合は15パーセントぐらい。
>>330 > 同じくそれを受け付けなかった吉備、それらが集まった所が纒向じゃないかな。
西谷3号からは特殊器台・特殊壺が出ている。
362 :
2浪中:2011/02/11(金) 15:05:48
うわ〜またまた進行が速いな〜 とても追いつけない。こんなことでは皆さんの邪魔になるだけかもしれませんが、
>>278 への(
>>296)がレスが時間不足で途中
になっていましたので、続きを書かせて頂きます。
あ、その前に、伊作さんからご忠告(
>>293)を頂いていましたので、
3回目の受験では志望校のレベル(受験競争の難易度のレベルで、教育のレベルではありません)を下げましたので合格できると思います。今度の大学は理数系ですが、
僕は数学、物理、化学、語学に強いので大丈夫です。以前は芸術系の大学を受験したのですが、どうも本物の才能が無い事を悟らされました。
このスレッドに参加したのは一つには娯楽として、二つには社会勉強のためです。いろんな人がおられますから観察しています。僕は素直な性格だと他人には言われます
が、自分を見失うことは無いという自信があります。「常に冷静に物事を見なさい」というのが亡き祖父の遺言で、これを守っています。
さて、九州の可能性が高い理由ですが、
2.九州には卑弥呼登場前(2世紀以前)の王墓(と見られる)遺跡があるが、中国〜近畿〜東海一帯には無い。
後漢書には倭奴国王や倭国王帥升が登場します。三雲南小路遺跡からは漢の皇帝が王族に下賜される品とされる金銅製四葉(棺)飾り金具や漢鏡が出土していますが、僕はこれは
光武帝から印綬を授けられた倭奴国王関係のものだと見ています。帥升はこの倭奴国王の後に倭国王となったと見る事ができますが、この帥升関係の墓は平原遺跡だと見ています。
ただし、帥升の王都がこの糸島にあったとは考えていません。(長くなりますので、続きは次回にします)
>>345 > 四隅のはじまりは、安芸・備後。美作らしい。
以前「伊都国東遷厨」に指摘されたので紹介
71 :日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:30:06
>>19 >中期後半の広島県三次盆地に出現(宗祐池西1号など)。
>後期前半に庄原市(田尻山1号)、千代田町に拡がり、
>三世紀初頭、矢谷1号へと展開する。矢谷1号は吉備系の特殊器台を持つ。
これは今では古いですね。
出雲地方に青木4号という中期後半の4隅がみつかったこと等から
山陰の海岸沿いに築かれた方形貼石墓を原型に発達したという考えが有力になっています。
364 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 15:33:17
>>363 ご指摘どうもです。
方形貼石墓が日本海側にあったと。
貼石は、朝鮮半島の影響は認められませんか?
というのは、九州を介さずとも、山陰から直接朝鮮半島と往来するくらいのことは出来ていたのではないかと思うのですが。
>>351 > 広範囲に一大勢力を持っていたのは、四隅を作っていた日本海側勢力
出雲平野の「西谷3号」、安来平野の「塩津1号」、鳥取平野の「西桂見」を比較すると、ほぼ同じ大きさであり
これらはそれぞれの平野規模のクニの首長墓だという見方がある。
また、山陰と北陸の四隅は貼石の有無という規格の違いがある。
同質の葬送祭祀を共有していたとはいえると思うが、
「広範囲に一大勢力を持っていた」とまではどうだろう?
366 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 15:52:18
>>359 ゴミ作
>一つか二つの例外をあげて
ちなみに俺が参照した一覧、刀剣類が無い事例が先の4例で、刀剣類があるのが9例。
4/13で約3割、これで「例外」とか言われてもなw
そもそもその刀剣類が見られる事例にしても
種類や数に統一性法則性があるとも思えない。
間違いなくその組み合わせに意味を持たせていたと考えられる根拠があるのか?
…ってなんと言うか「三種の神器ネタ」で見たような既視感2万%なお話ばかりだなwwww
もう少しマシなお話かと思ったが
本当に「三種の神器」から一種類減らしただけのお話だったw
結論:ポン作はこんにゃくゼリーの角に頭ぶつけて新でおけwwwwwww
367 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 15:54:35
>>359 クズ作
>そいつらに「卑弥呼を女道士と根拠無く断定し」と笑う度胸はあるのか。
断定調で述べられようがもっと慎重な言い回しだろうが言葉尻は兎も角
現状ではあくまで「その可能性」と言う範疇で理解すべきもの
所詮「鬼道」の中身なんて分らない。
様々な意見がありどれも推測の域を出ない。
故に「桃の種」で「これこそ鬼道だった証拠」と話題にもなるw
もし現時点「鬼道」の二文字それだけでそれが道教と断じる事ができるなんていう奴がいたら
俺が笑わなくても周りが笑うんじゃないのか?w
>お前らバカどもに提示する気などサラサラないが、
>俺は日中の真摯な道教研究学者の見解に依拠してるんだぜ。
そうかそれは残念だな。
じゃあ本当にそんなモノがあるのか?
馬鹿がハッタリでほざいているだけなのか?も分らないなw
まあこんなところで開陳するのが惜しいと言うのなら仕方が無い
リアルで世に問うて
「九州の副葬品体形は道教思想に基いた二種の神器wであった」
と言う事を認めてもらってくれ。
そうすれば
「あの時の畿内説の名無しがワカランチンであってやっぱりポン作君が正しかったんだ!」
・・・となるだろうからガンバレよwwwwww
と言うか2ちゃんねる日本史板邪馬台国スレと言う土俵に自分から上っておいて
そこで勝負できないのなら最初からあがるなって話で
「すごいネタもってるんだぞ」とか「俺のブログに来いや!」なんてのは逃げ口上でしかない。
つくづく下らない奴だ。
結論:タコ作は低反発枕の角に頭ぶつけて新でおけwwwwwww
>>364 > 貼石は、朝鮮半島の影響は認められませんか?
わかりません。守備範囲外です。
> 九州を介さずとも、山陰から直接朝鮮半島と往来するくらいのことは出来ていたのではないかと思うのですが。
どうでしょう?
鳥取市・青谷上寺地遺跡 前漢時代の青銅製星雲文鏡
出雲市・山持遺跡 紀元前1世紀〜紀元後1世紀にかけての楽浪土器
など、最近それらしい発見が続きましたけどねえ。
369 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 16:19:37
>>365 >同質の葬送祭祀を共有していたとはいえると思うが、
>「広範囲に一大勢力を持っていた」とまではどうだろう?
おっしゃるとおりで、同一の王権があったとまでは言えないでしょう。
ただ、ヤマト王権でもその内部に、前方後円墳、前方後方墳という明らかに規格違いの墓制を内包してますよね?
出雲と越も、やはり深い同盟関係にあったといえるのではないでしょうか。
370 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 16:26:47
>>368 出雲から楽浪土器が出土してるのは興味深いですね。
九州からも多くの楽浪土器が出土してるだろうことは予想できますが、
九州に楽浪土器を持ち込んだ人が、わざわざ出雲まで楽浪土器を運んでいったというのも、
考えにくいことですね。
玄界灘ほど活発ではないにしても、
朝鮮半島と出雲は、交流があったのではないでしょうか?
渡来人が山陰を征服していたとまでデンパを飛ばすつもりはありませんがね。
>>369 > 深い同盟関係
“もっとゆるやかな連合”・・・だったりして?
372 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 17:24:26
「深い同盟関係」も、「ゆるやかな連合」定義があいまいなので、
形態について具体的に検討してみましょう。
たとえば、互いの縄張りを勝手に犯さない、互いに攻撃しない、安全な通行、
一方が不利益になることを、一方が勝手にしない、などが保障が約束されていること。
古来、そうした約束事は、首長の娘を相手に差し出す(婚姻、人質)などして、
取り決められていました。
そうして、姻戚関係が結ばれると、両方の国の血縁の人が生まれ、死ぬと、両方の国から親類が集まり、弔うことでしょう。
墓をどうするかは、宗教観が大きく左右します。
死者を弔うのは、親類縁者が主体になりますから、親類縁者が持っていた宗教観が墓のありかたに影響されます。
出雲と、越で、似たような墓が作られているということは、
出雲と、越で、姻戚関係が進み、宗教観が影響を及ぼしあった結果と見ることができます。
どこかから、ある宗教をひっさげたシャーマンが、「死者の墓はこう作れ」と、
出雲と、越に命令した、というのは考えにくいと思われます。
そのシャーマンが出雲と越を凌駕するほどの権威を持っていないかぎり。
出雲と越を凌駕するほどの権威を持ったシャーマンは、後にヤマト王権に登場する、という筋書きになるでしょう。
373 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 17:41:13
同じ四隅を共有してる出雲と越は、
最低限、首長クラスの姻戚関係が深く結びついていたと見ていいでしょう。
そして、信頼を結んだ上で、交易など、物資をやりとりしていたことはあったはずです。
それ以上の関係は、おそらくなかったのではないでしょうか?
たとえば、軍事同盟などを結び、協力して他国を攻めたりとか。
ヤマトのそうした緩やかな連合であったことでしょう。
最初は、隣同士のクニの結びつきだけだったのが、
ヤマトに交易の物資が集まることにより、ヤマトの首長と各国の首長が婚姻関係を持ち、
結果として、ヤマトの首長が、全ての国に意見を言えるような立場に上っていったものと考えます。
これが、ゆるやかな連合→ヤマト王権誕生までの筋書きだと考えますが、いかがでしょう?
374 :
sss :2011/02/11(金) 17:51:35
卑弥呼+台与=天照大神という立場なのだが、この考えからすると、
どうしても狗奴国は出雲でなくてはならなくなる。
後漢書の記述からすると、それも妥当性がないわけじゃない。
また、そのほうがいろんなことを無理なく説明できると思う。
狗奴国との決着も、台与の時代と考えられるいわゆる「出雲の国譲り」で
着くことになる。天の安河の誓約の意味も理解できる。神武東征の経路も
意味を持ってくる。考古学的なことも。
いろいろ書きたいことはあるが、また後日。
>>373 > 最初は、隣同士のクニの結びつきだけだったのが、
> ヤマトに交易の物資が集まることにより
列島内での交易が漸次拡大し、その結果広域の結合が成立したという想定ですか?
そうならば(ピンぼけだったら失礼)、
それには自立的な内需拡大と、相応する生産の増大が前提となるのではないでしょうか。
広域交易のための余剰を生むほど生産性が前代に比較して上がったのかどうかが疑問です。
また
出雲と越の遠隔地交易は、
翡翠という「特殊な重要のある産地限定品」と日本海という物流ルートがあって成立した
けっこう稀なケースではないだろうか、とも思う。
例えば大和を中心に瀬戸内と東海の交易を想定した場合、なにを交易するのか思い浮かばないんです。
少なくとも日用品などは物流コストを考えると遠隔地交易などする必要がないと思いますし。
婚姻の話はたいへん参考になりました。ありがとうございます。
>>375 訂正
× 特殊な重要のある産地限定品
○ 特殊な需要のある産地限定品
377 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 18:27:31
近畿がゆるやかな連合で結びつきつつあったとき、
九州はどんな様子だったでしょう?
北部九州が他の地域と交流を深めていったという形跡がほとんどありません。
また、古墳時代になっても北部九州に大きな前方後円墳がほとんどつくられなかったことからも、
北部九州と近畿の首長の婚姻関係は進まなかったと見ています。
首長同士の婚姻関係をもたない、政治的な同盟関係が、九州とヤマト王権に結ばれたようです。
したがって、九州から王族が近畿に流入していたという説は成り立たないわけです。
前方後円墳は、成立の過程が解明されつつあり、瀬戸内海、四国あたりに源流が見られます。
けして九州が源流ではなく、もし九州が源流ならば、
九州には前方後円墳祭祀をもった王族がいたわけですから、
古墳時代直後の九州に、多くの前方後円墳が出来ていないとおかしい。
日向には多くの前方後円墳が作られたものの、ヤマト王権よりも先に登場したという確たる証拠はありません。
378 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 18:34:14
>>376 >特殊な需要のある産地限定品
おもいあたるフシはありますね。
水銀厨さんの言う、水銀とか。
また、東海系土器というのは九州〜東北まで拡散しており、
東海系土器に対して、なんらかの需要があったことは明白ですね。
東海は人口も多かったのですよ。鉄は無いにも関わらず。
東海といえば、前方後方墳発祥といわれます。
前方後円墳、前方後方墳、どうして2つの墓制が同時期に生まれたのか?
ヤマトと東海が、ある程度、人的勢力が拮抗していたということでしょう。
もしも、九州からえいやと、前方後円墳をひっさげて王族が遷都してきたなら、
前方後方墳がわざわざ生まれるというのはおかしな話です。
379 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 18:40:53
魏志倭人伝ばかり見て、九州説にこだわる人、
日本神話ばかり見て、卑弥呼を天照大神だと考える人、
昔からそういう人は多かったのですが、
現在まで、考古学が多くの知見を与えてくれてきています。
考古学者は、年代をごまかしてるぞ!という批判をたびたび見受けますが、
出雲の、四隅突出型墳丘墓の存在であるとか、東海の前方後方墳の存在であるとか、
考古学者の言う年代が正しいか間違いかに関わらず、弥生時代末には、九州だけが一極的に優位だった、という見方は、
ほとんど出来ないのではないでしょうか?
380 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 19:46:51
方墳の発祥は丹後半島方面。気比大神で表現される地方であり
前方後円墳の受け入れが遅れる。
東海系土器は、伊勢に入植した武淳川の勢力を軍人としたため
景行(240〜261年)時代に分散する。
北九州中央部は、奴国王の末裔が存在する。
大倭は伊都国に1大率を置く。佐賀は熊襲の地であり、日本武尊が滅ぼす
ここにも大倭は進出する。
熊本はククチヒコの地であり女王に従わない、景行に滅ぼされる。
!ninja
冒険の書(Lv=1,xxxP)
382 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 20:13:09
大陸の方には前方後円墳も前方後方墳も同時に存在している場所があるんだがね。
そこはモンゴルだ。
日本のように高塚式ではないがね。
紀元前300年くらいから3世紀位まで続いている。
383 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 20:25:42
384 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 20:37:28
>>383 優位という意味は、鉄器などの先進文化を受け入れただけということではありません。
貴方のいうように、
現実に、古墳時代初頭でも、鉄器の量では九州のほうが畿内をはるかに上回っています。
しかし、九州はヤマト王権の傘下に入りました。この現実を受け入れて考えてください。
385 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 21:03:48
386 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:05:03
ものすごく荒っぽい考え方だが、
技術や文化が先進的でも、勢力の力は
勢力の規模で決まる。
時間が経てば技術や文化は互いに吸収され、
優劣の差は小さくなっていく。
大陸からの文化や鉄の輸入で九州が優位に立つ。
しかし文化は伝搬され、鉄は山陰でまかなえるようになると
畿内+東海という、平野面積が大きいほうが優位に立つ。
やがて、関東平野が開発され、関東平野が優位になる。
これが日本の歴史である。
387 :
伊作:2011/02/11(金) 21:06:42
>九州はヤマト王権の傘下に入りました。
政権中枢が大和に引っ越したあとのことな。
本格的な古墳時代の到来だ。大和中心にるのは当然だ。
で・九州では独特の古墳文化が展開すことになる。
この現実を受け入れて考えることだ。
●2〜3世紀の弥生時代の政権中枢の話をしてるのに、古墳時代の墓を比べてどーするんだ。
纏向の大古墳とて、4世紀前後の築造が本当のところだろう。
ものごとの拡大とエスカレートと衰退には、段階的なステップがある。
30センチの銅鐸をつくっていた時代に、いきなり3メートルの銅鐸をつくるか。
銅鐸、素環頭太刀、鏡、墳墓。みな例外ではない。
せいぜいが2〜30メートルの円墳を造っていた時代に、
前方後円墳の「完成形」ともいえる280メートルの古墳が
いきなり登場するなんて歴史じゃない。
とくに大古墳の築造には、道具・人員動員・土木技術などのほかに、
「祭祀規模の拡大」という超現実的な要素が伴うのだ。
280メートルの箸墓が弥生末期の3世紀半ばに登場する可能性など、物理的・過家具的、
そして人の感性と心理学的な面からみてありえないのだ。
388 :
伊作:2011/02/11(金) 21:09:44
過家具的→→→科学的
389 :
伊作:2011/02/11(金) 21:11:33
過家具的→→→科学的
390 :
2浪中:2011/02/11(金) 21:26:42
邪馬台国が九州にあった可能性が高いとする理由
3.旧唐書の記述
倭國 者古倭奴國也 去京師一萬四千里在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 其國居無城郭以木爲柵以草爲屋 四面小島五十餘國
皆附屬焉 其王姓阿毎氏 置一大率検察諸國皆畏附之
この記事については信憑性に疑問を呈する人もいますが、10世紀の後晋の歴史家の認識では倭国は昔の倭奴国であるというものです。この倭国が何時の時代の倭国
であるかが問題ですが、其國居無城郭以木爲柵以草爲屋や置一大率検察諸國皆畏附之は倭人伝の記事を彷彿とさせますので、唐の時代の日本国ではなく、3世紀以
前の倭国のように思われます。
この旧唐書の記事と倭人伝の記事
其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王名曰卑彌呼
を併せ考えますと、卑弥呼が王となった倭国は昔の倭奴国であったという可能性が見えてきます。
帥升系男王が2世紀初頭から七,八十年続いて倭国乱となり、その数年間の乱ののち卑弥呼が王に立てられました。
帥升系王の王墓らしきものは中国地方〜近畿地方〜東海地方のどこにも見当たらないので、その候補のある九州に
倭国王の本拠があった可能性が高いでしょう。その倭国王を卑弥呼が継いだのは数年後です。
卑弥呼の本拠邪馬台国は前国王の本拠地にあったとは限りませんが、数百キロメートルも離れてはいなかったでしょう。
帥升の倭国が九州にあったのに行き帰りに一月も二月もかかるような国々が卑弥呼の共立に関われるわけはないでしょう。
391 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:28:55
>>387 >せいぜいが2〜30メートルの円墳を造っていた時代に、
>前方後円墳の「完成形」ともいえる280メートルの古墳が
>いきなり登場するなんて歴史じゃない。
ここで質問です。
じゃあ岡山の楯築、島根西谷3号、奈良ホケノ、各々の全長はいくらあるでしょうか?
…恥ずかしい奴だなあポン作君はw
チョット上で四隅の話も出てるだろうにwww
まあ確かにそれでも箸墓の登場は画期・飛躍と言えるだろうが
「歴史じゃない」と言われても現実なんだからしょうがないww
で、その「歴史じゃない」事が九州からの東征勢力がヤマトに入ったら今度は歴史になるのかい?wwwwwwww
縄文人の巨大盆地湖を東征してきたゼネコン神武組が干上がらせました…なんてお話と変わらないなw
まあその勢力がヤマト入りする前
九州で箸墓に繋がるプロトタイプでも作ってりゃ説得力もあったかもしれないが
もう馬鹿丸出し…
ホンマに20年研究してきたのか?
ぶっちゃけ昨日今日始めた厨房でももう少しマシなお話できるぞwwww
392 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:33:42
>>387 >せいぜいが2〜30メートルの円墳を造っていた時代に、
>前方後円墳の「完成形」ともいえる280メートルの古墳が
>いきなり登場するなんて歴史じゃない。
箸墓以前にも100メートル級の墳丘をもつ墓がないことはないんだがね。
だがそれはともかく、1970年代までは、多くの考古学者、古代史家も、あなたと同じような考えだった。
歴史は段階的に、連続的に発展していく……古墳の大きさも、まあそんな感じで捉えられていた。
ただ箸墓古墳から特殊器台型埴輪(都月型)、あるいは特殊器台そのもの(宮山型)が発見されたことによって、
多くの考古学者が考えを改めたのだ、
歴史には「突発」や「大きな飛躍」もあることを、認めざるを得なくなったのだ。
伊作氏に問うが、秦の始皇帝陵を知っているか? あれは段階的、連続的な変化によって生まれたのだろうか?
393 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:47:28
まあ3世紀半ばには不可能だった200m超級の古墳の築造が
4世紀になって可能になったというのなら
その可能にせしめたのは一体如何なる物なのか?を
>物理的・科学的、そして人の感性と心理学的な面から
具体的に述べて欲しいwwwwwwwww
「〜学的」とか適当に並べりゃええっちゅうもんとちゃうぞとw
よーし ジョーカーいいぞ〜いいぞ〜
伊作さんはジョーカーに言われまくりじゃないか。
なんか拍子抜けしちゃうな〜
395 :
伊作:2011/02/11(金) 21:51:47
>箸墓古墳から特殊器台型埴輪(都月型)
どんな形だろうが、埴輪が出ている以上は殉葬をやめた時代の築造だ。
箸墓を掘れば馬具が出るに決まっている。
これ以上滑ったの転んだの弁解してもムダだ。
>奈良ホケノ
1世紀ぐらいサバよんでるだろうな。
畿内説考古学のいう年代を信用するバカはほとんどいなかろうさ。
>秦の始皇帝陵を知っているか?
比較に鳴らん要素が多すぎるが、それ抜きで比較してどうする。
もう一度いうぞ。
時代も・場所も・状況もすべて次元の異なる事象を横滑りさせてもってきて、
誰を説得できるというのだ。骨董的な姑息な手を使うな。
誰を相手にしてるとおもってるんだ。
秦の始皇帝と同様に、外来の、強烈な権力志向を持った支配者を想定したくなるね。
397 :
伊作:2011/02/11(金) 21:53:19
ジョーカーってどいつだ。
相手になってやるぜ。
398 :
2浪中:2011/02/11(金) 21:54:12
>>372 ああ、畿内説のなかの「ゆるやかな首長連合」派の考えはそういうものだったのですか。なんだかのどかで、縄文時代のような
平和な世界を思わせますね。
そういうことだとすれば、2世紀から3世紀の中国や半島の状況、それから倭人伝に書かれている倭国乱や狗奴国との争いから
窺われる状況とはほど遠いですね。ということは、畿内中心のゆるやか連合は大陸や半島の情勢に疎かったということですね。
(今日はこれにて失礼します)
399 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 21:55:54
>>397 ヌケ作
ふっ、ジョーカーなど我々の中では一番の小物
お前如き 改めドツボ 様 にかかれば虫けら同然よwwwwwwww
400 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 21:55:55
>>397 ゴミクズがどうのこうの言う wwwww をうんとつける奴だ。
畿内節だよ。
401 :
伊作:2011/02/11(金) 21:57:30
たいがい蹴散してしまったから、もうほとんど残っちゃいまい。
遠巻きに眺めながら、穴さえあればと虎視眈々か。弱虫ども。
そんなのは百も承知で、こっちは脇を甘くしてやってるんだ。
で・つっかかってきたらひと噛みで、尻尾まるるて強がりの逃げ口上。
402 :
伊作:2011/02/11(金) 22:01:14
>我々の中では一番の小物
「われわれ」て・この野郎。てめえら徒党組んでるのかー。
熊襲の末裔一人に・あたふたと・悪態つくしか手がない徒党か。
ちゃんちゃらおかしいぜ。
お、けんかだ、けんかだ
なんだ? ど、どうした?
改めさんが、真の大首領ですか。
406 :
伊作:2011/02/11(金) 22:09:37
畿内説の徒党にとり囲まれてるところだ。
さて。だれが囲みを破って突っ込んでくるかな。
こっちは熊襲の末裔一人。ただし、天才だ。
407 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 22:10:10
改めはドツボにハマったまま
伊作→→→遺作
409 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 22:13:41
邪馬台国は大和国です。
交易国家から帝国へと、
関西に行った連中は、「列島」で大きな勢力になるという意識に目覚めたということはある。
411 :
伊作:2011/02/11(金) 22:15:47
それにしても、九州説の連中もただ模様眺めか。
そらそうだわなー。
畿内説と同じ手口を使って、唐津から前腹、博多へ、そしてどこぞの不弥へと、
港から港へ荷物をかついで山ザルみたいに陸行して、
そうして、5万戸の投馬国と7万戸の邪馬台国を筑肥山地以北に押し込めようなんて、
小細工なしじゃ不可能なことを平気でやってるからな。
たかだか1000戸の伊都国に王がいたの、卑弥呼がいたのと、
寝ぼけたことをほざくていたらくだ。
412 :
伊作:2011/02/11(金) 22:20:28
どだい。
九州最大の繁華都市でありづける博多が、3世紀当時に、
どこかにあるという投馬国の2分の1以下の2万戸なんてあるかー。
倭人伝の数値比較からして、投馬国に匹敵する戸数がなくちゃおかしい。
ということは、倭人伝のいう2万戸の奴国は博多ではなく、
博多湾の大国は通過しなかったその多の傍国として書かれているはずだ。
これだって天才ならではの着眼だぜ。
413 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 22:22:27
>>395 バカ作
>1世紀ぐらいサバよんでるだろうな。
要するに所謂「纏向型」を箸墓以後にするって話かな?www
(怨み節の”まばら理論”以来だなw)
そうすると箸墓は「最初の定型化された巨大古墳」じゃなくて
「最初の前方後円墳」となると思うがそう言うことかな?
前方後円墳がいきなり200m超級から始まる!
その前に纏向型を置いてでさえその出現は飛躍的と言うのが一般の認識だと思うが
更にハードル上げちゃうわけねw
コリャ益々どうして4世紀になってそれが可能になったのか?
物理的・科学的・心理学的に尚且つ可及的速やかに説明してもらわないと(ハライタイwwwww
414 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 22:23:18
>>409 あなかがたのお仲間?が言ったように、
邪馬台国連合とヤマト王権とでは、社会構造がドラスティックに異なる。
416 :
伊作:2011/02/11(金) 22:55:15
なんでもいいから。
卑弥呼の都を探すなら、帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」を探すことだ。
これを継承したのが卑弥呼。
古墳時代の遺跡をさがしたり、古墳時代の大古墳をもって云々しても意味はない。
大和の大古墳の年代を3世紀半ばまで操作して、「ほかにない・ほかにない」という、
畿内説の議論の欺瞞とまやかしがここにある。皆も早く気づけ。
417 :
伊作:2011/02/11(金) 23:01:25
・
・
くり返す。
●卑弥呼の都を探すなら、
帥升たち男王の
100年ぐらい続いた「弥生の都」を探すことだ。
これを継承したのが卑弥呼。
●古墳時代の大古墳をもって邪馬台国を云々しても意味はない。
畿内説のまやかしに騙されるな。
伊作は文献だけにしておいて方が良いと思う。
考古学方面はいくらなんでもひどすぎる.........
うんうん
420 :
伊作:2011/02/11(金) 23:15:46
>考古学方面はいくらなんでもひどすぎる.........
おうよ。俺はもともと考古学から入ったわけじゃない。
その考古学方面からの邪馬台国論がひどすぎるから、
日本の古代史が・ひっちゃかめっちゃかになってるんだろが。
考古学者の文献批判とか、考古学者の倭人伝かいどくなんざ、もっと悲惨だぜ。
なににしろ、畿内説のいう考古学だけは断じて信用がおけない。
はちゃめちゃ記録の『梁書』倭伝に匹敵するひどさだ。
421 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 23:17:32
>>395 >どんな形だろうが、埴輪が出ている以上は殉葬をやめた時代の築造だ。
つーことは伊作は卑弥呼の死のとき100人殉葬は実際にあったと?
>>390 > 卑弥呼の本拠邪馬台国は前国王の本拠地にあったとは限りませんが、数百キロメートルも離れてはいなかったでしょう。
> 帥升の倭国が九州にあったのに行き帰りに一月も二月もかかるような国々が卑弥呼の共立に関われるわけはないでしょう。
離れていたと思っているし、関わっていたとも思っているが。
423 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 23:47:09
>>398 初心者がそうやって、「ゆるやかな連合」という概念を理解できないのは仕方のないことです。
しかし、
1、九州勢力がヤマトに東遷した証拠が全くないこと。
2、2世紀まで確かに隆盛していた九州が、自発的にヤマト王権の傘下に入ったこと。
これを認めるしかない現状では、ヤマト王権の誕生は「ゆるやかな連合」から始まったとしか説明することが出来ないわけです。
違うというのは、1、2、に対して異なる見解の論拠を提示する責任があるわけです。
以上ですな。
論点がわかりましたか?
>>395 > どんな形だろうが、埴輪が出ている以上は殉葬をやめた時代の築造だ。
特殊器台型埴輪(都月型)のほかに宮山型の特殊器台も出ています。
「段階的に、連続的に発展していく」のですから、
これらは殉葬に関わる形象埴輪よりは特殊器台に近いのですよ。
したがって箸墓は
殉葬をやめた(と記紀から推察される)時代より
特殊器台・特殊壺をつかった葬送儀礼をおこなっていた時代に近いと考えられるのです。
>>412 > これだって天才ならではの着眼だぜ。
フェニックス@日向厨が常々言ってることですが。
426 :
伊作:2011/02/11(金) 23:55:09
>「段階的に、連続的に発展していく」のですから、
墓形も規模も同じだろう。墓穴
427 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 23:56:59
>>426 前方後円墳の祖形は九州に無いでしょ。
バカじゃないの?
428 :
伊作:2011/02/11(金) 23:56:59
>常々言ってることですが。
いつごろからよ。
429 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/11(金) 23:57:01
100人の殉葬とは卑弥呼の後に擁立されて国王になった武埴安彦命が戦いで敗北して
その部下が捕虜になり首をチョン切られて穴に埋められただけの話しです。
>>416 > 卑弥呼の都を探すなら、帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」を探すことだ。
> これを継承したのが卑弥呼。
おそらくいま縄文人が言わんとしているのがこれだろう。
帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」は伊都。
卑弥呼はこれと断絶している。
431 :
伊作:2011/02/12(土) 00:02:37
>つーことは伊作は卑弥呼の死のとき100人殉葬は実際にあったと?
卑弥呼の墓の径100歩を取り入れて、箸墓の円丘のサイズとぴったり、
なんていう手合いに、そういう質問をされるとは思わなかったぜ。
432 :
伊作:2011/02/12(土) 00:07:12
>おそらくいま縄文人が言わんとしているのがこれだろう。
古墳時代の古墳の有無やサイズや数と、
弥生後期に100年ばかり続いた邪馬台国は無関係ってこと。
邪馬台国所在議論に多用される「盲点」にだまされるなよと。
>>426 > 墓形も規模も同じだろう。
墓の規模には飛躍がありますね。
>>392>>413の言うように。
それはともかく
特殊器台から円筒埴輪へは「段階的に、連続的に発展していく」のですから、
箸墓で見つかった宮山型の特殊器台と特殊器台型埴輪(都月型)は
殉葬に関わる形象埴輪よりは特殊器台に近いのですよ。
434 :
伊作:2011/02/12(土) 00:14:32
430よ。
俺は縄文人じゃないぜ。
縄文人を名乗った人が誰かは、俺なりに目ぼしはついている。
あの人はたしかに俺の論旨と同じことを首長してたし、接触したこともある。
どこを見てるかは知らんが、あるゆる意味において
「その人の具合とトーン」てのがあろう。
俺は3日前にはじめてきた人だし。
俺の偽物が出没して経緯も知ってるから、「本物の伊作」で登場してる。
複数のハンドルなんて使わんし。無礼なことをいうな。
>>427 当然、四国と千葉だが、九州なら津生掛あたりになるのか?
>>431伊作さん
で、倭人伝に記されている奴婢百人の殉葬は実際にあったことですか
437 :
伊作:2011/02/12(土) 00:30:02
436 しらねー。
438 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 00:36:11
>>437 伊作さん
1、九州勢力がヤマトに東遷した証拠が全くないこと。
2、2世紀まで確かに隆盛していた九州が、自発的にヤマト王権の傘下に入ったこと。
↑これらについて、きちんと反論してくれないと、
貴方が何をいっても、こちらは痛くも痒くもありません。
いくら汚い言葉で罵られても、なんとも思いません。
このスレも、もうすぐ半ばです。
そろそろ、まともな持論を展開してくれないと、自分が惨めな人になるだけですよ。
>>428 > いつごろからよ。
「462 :日本@名無史さん:2009/10/11(日) 23:09:47
>>460 >前原、博多の遺跡は何なんだってことだよ。
それらの遺跡には国の名前が書いてあったかな? そんなものは全くない。
倭国には、弥生中期ころ、百余国があった。
前原、博多の遺跡がどこの国のものか簡単に決められることではない。」
・
・
上記はそのものではないが、彼との初めてがこれ。
要するに「伊都国=佐賀説」なので玄界灘沿岸は傍国でないと都合が悪いのだ。
その主張はさらに過去にさかのぼる。
そのものズバリのコメントは検索では簡単には出てこなかった。
過去ログ漁ればあるはずだが。
>>437伊作さん
分からないと仰るわけですね。
つまり奴婢百人の殉葬は、あったかもしれないし無かったかもしれないので、今の時点でご自身では判断出来ないと仰るわけですね。
>>434 > 無礼なことをいうな
誤解です。
縄文人は別にいます。
>>423 >>438 さん
ヤマト勢力なるものが、東瀬戸内の文化を担った人々の「東遷」によって成立したもので、
東瀬戸内の文化を担った人々の出自が、別に九州であったとしても不思議ではありません。
ただし、墳墓の巨大化は「ゆるやか」どころではなく権力構造の激変を思わせます。
2世紀まで確かに隆盛していた九州が、何時からか?自発的にヤマト王権の傘下に入ったという仮説の証拠が必要でしょう。
443 :
伊作:2011/02/12(土) 00:58:05
>殉葬に関わる形象埴輪よりは特殊器台に近いのですよ。
あなたは冷静で礼儀ただしい人らしい。
「殉葬に関わる形象埴輪」。
こうした議論をどこかで見たとき、くだらない議論だと思ったことがあります。
形象埴輪が登場するのはかなり時代がさがるんじゃありませんか。
つまり、「埴輪が段階的・連続的に発展したあと」の時代。
段階的・連続的に発展する初期は特殊器台に近く形象埴輪ではなかった。
しかし明らかに用途・帰納は埴輪であって、埴輪である以上は殉葬に代わるものです。
だから。
どんな形だろうが埴輪は埴輪であると最初に書いたわけです。
444 :
伊作:2011/02/12(土) 01:09:46
439へ。1年ばかり前の話だったら、揺れのほうがぜんぜん早いぜ。
>要するに「伊都国=佐賀説」なので玄界灘沿岸は傍国でないと都合が悪いのだ。
「奴国は博多じゃない」という説ならどこにもあるだろう。
玄界灘沿岸は傍国でないと都合が悪いという動機にゆずったとして、
「奴国は博多じゃない」をいうにも色々あるだろう。
「博多の2万戸が投馬国より少ないのはおかしい」
「だから2万戸の奴国は博多じゃない」とゆったのかい。
俺はもっと前からゆってる。サイトでも公開してるがyahooにも発言記録が残ってるはずだ。
俺のサイトをみれば分かるが独自の説を網羅している。
このことは古代史論に詳しい人ほどわかる。
なんだか、この件だけじゃなく、
俺の説がちらちらと、そちこちで引用されてきたようだな。
445 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 01:17:21
>>444 >俺の説がちらちらと、そちこちで引用されてきたようだな。
なんで、そんなこと知ってるの?
他人の邪馬台国論には興味ないと言っていたのに。wwwwwwww
>>443 > 「殉葬に関わる形象埴輪」。
> こうした議論をどこかで見たとき、くだらない議論だと思ったことがあります。
殉葬と形象埴輪が関わるのかどうかわかりません。
そもそも殉葬の痕跡がみつかっていないので倭人伝の記述が本当かどうかわかりません。
>>421で「埴輪が出ている以上は殉葬をやめた時代」と言われたので
垂仁紀と合わせて考えられているのかと思い、上記のように書きました。
> 形象埴輪が登場するのはかなり時代がさがるんじゃありませんか。
> つまり、「埴輪が段階的・連続的に発展したあと」の時代。
そう思います。
> 段階的・連続的に発展する初期は特殊器台に近く形象埴輪ではなかった。
だから箸墓は特殊器台の時代に近いと考えます。
というか、宮山型特殊器台が出ているのだから、特殊器台の時代ですね。
> しかし明らかに用途・帰納は埴輪であって、埴輪である以上は殉葬に代わるものです。
そこは上記の理由でわかりません。
> だから。
> どんな形だろうが埴輪は埴輪であると最初に書いたわけです。
その点は了解です。
447 :
伊作:2011/02/12(土) 01:32:10
また詮索やろうか。
>なんで、そんなこと知ってるの?
てことは、俺の説がそちこちで引用されていたってことだな。
ま・俺のサイトからつまみ食いしては、こっちへもってきて
知ったふりの衒学材料にしてたんだろう。バカでもなけりゃ感じ取るものよ。
>なんで、そんなこと知ってるの?
>他人の邪馬台国論には興味ないと言っていたのに。
お前の思考回路のイカれ具合の分析込みで説明してやる。ただでな
「邪馬台国を論じた学者の本は読まない」主観・色気・好み・都合がまじるから。
「客観的に解説した学者の本は読む」
お前はこのことをいってるのだろうが、全く違う意味になっている。
その上お前は支離滅裂で。「本を読まない」が「他人の邪馬台国論には興味ない」になり、
俺の「WEB上での発言に引用されてきたらしい」という推測とくっつけてる。
こうやって議論したことで、どうやら俺しか言わない説が以前に出たらしいから、
誰かが俺説を引用してたんだろうと踏んだわけだ。
このことと、お前のいう「俺が他人の邪馬台国論には興味ない」とは、
何のつながりもない。
わかんねーだろーなー。イカれたあたまじゃ
448 :
425:2011/02/12(土) 01:46:35
>>447 ちょっと補足
「フェニックス@日向厨が常々言ってることですが。」
というのは
「博多湾の大国は通過しなかったその多の傍国として書かれているはずだ。」
という部分だけであって、
その理由は「墓から名前が出てきたか?」ってな程度のもの。
イサク説とは全然別ものですから。
誤解されたようで申し訳ない。
449 :
伊作:2011/02/12(土) 01:47:05
そも>そも殉葬の痕跡がみつかっていないので倭人伝の記述が本当かどうかわかりません。
箸墓も大変ですね。
方丘と切り離して、円丘のサイズだけ倭人伝に書かれたことになるわ。
築造年代は引き下げられるわ、置いてあった埴輪は埴輪じゃないといわれるわ。
しまいには、殉葬者の形跡がないから、倭人伝の記録は信用できないとなるわ。
そして、周堀から出た鐙は後世の誰かが放り込んだことにされるわで。
中国で鐙が発明されるのは4世紀ごろでしたね。
倭国に馬の搬送が可能な船ができるのはいつごろでしたかね。
450 :
伊作:2011/02/12(土) 01:52:25
>誤解されたようで申し訳ない。
りょーかい。
俺の論考作品は、本当に独自の史観と独自の視点で溢れているからね。
詳しい人ほどそのことは分かるはずだよ。
451 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 02:53:44
>>450 >俺の論考作品は、本当に独自の史観と独自の視点で溢れているからね。
ようするに根拠がひとつもないってことだろ。しょうがないやつだな。
独自だから価値があるんだろ
さるまねが好きなのか?
独自ならなんでも価値があるわけじゃない
ただの独断と独りよがりには価値はない
454 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 08:12:20
捏造してまで畿内にもって行こうとする畿内説には全く価値が無いし、
日本では金の無駄遣いで、世界史すら狂わしてしまうかもしれない、
まったく、害にしかならない存在。
世界に恥をさらした旧石器時代捏造事件と同じ構造なのである。
!ninja
456 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 10:58:33
九州だよ。
457 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 11:08:01
邪馬台国がたとえ九州北部じゃなくても、渡来人が九州北岸に数十万人以上が渡来し少なくても100年以上定住している。九州北部に邪馬台国クラスの国家が無数にあったことは出土品を見てもわかるよ。
九州にも畿内もなにかしらの国家は存在していたのだよ。
458 :
伊作:2011/02/12(土) 11:50:55
●天才の掲示板本日開店●
説明画像アップ可・文字数制限なし。自分の投稿の文字や文章の訂正・変更・削除が自在。
疑問・質問・異論・反論なんでも。まじめに・じっくりやりとりする人のためのスペース。
http://8242.teacup.com/isaq/bbs みなしゃん・いらっしゃい。とはいっても、
邪魔が入らず1対1の場だ、やってくる度胸のある奴は少ないと思うが。
459 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 11:59:50
九州に多くの渡来人や先進文化が流入していたとはいえ、
ひとつのクニごとに見ていけば、九州のクニのほうが、近畿のクニより文化的で豊かだったかもしれない。
しかし、九州のクニは、近隣のクニの人々と仲良く融合して、連合国を作って拡大していったという様子は無い。
あくまでも、北部九州の狭い範囲の中だけで繁栄を享受していただけだった。
一方、近畿のクニは貧しいながらも広範囲のクニの人々と協調を模索し、
ゆるやかな連合を発展させていった。
そうしなければならない理由は、やはり隣国との争いがあったことだ。
連合というものは、まず初めにありきではなく、争いを経験した上での、知恵による解決策なのだ。
九州はとくに戦乱が多かったようだが、北部九州という、いわば閉じた環境が災いし、
近畿では、たとえ隣国と戦争になっても、他の隣国に援助を求るべく、四方八方に広く友好国を捜し求めることができた。
友好を築けば、ある国で飢饉があれば、食料を融通しあうこともできたろう。
連合が広範囲に渡ったものなら、気候変動による飢饉にも対応できる。
吉備で飢饉があれば、東海の食料を分け与え、かわりに少しばかりの鉄器をもらうなどしただろう。
「ゆるやかな連合」は、近畿の発展のために機能した。
北部九州は、あまりに閉ざされており、連合したとしても恩恵に与れない。
気候変動で一国が飢饉にあっても、他国が援助するということもままならず、全体が一気に消耗する。
「遠くのクニとのゆるやかな連合」の利点に気づくことのなかった北部九州の繁栄は、こうして頭打ちになったのだ。
2世紀後半には、閉塞した北部九州と、西日本全体との連合を築いた近畿とでは、その勢力差は歴然としていた。
もはや、「鉄器」だけで、九州は優位に立てる状況では無くなり、
北部九州は、生き残りのために、畿内王権と連合するしか道は無くなったのだ。
460 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 12:29:59
自傷天災 ヌケ作
>●卑弥呼の都を探すなら、帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」を探すことだ。
さてさて、これは一体誰に対して言っているのか?
まあ取りも直さず「探せ」と言うことは
少なくとも今はまだ見つかった以内と言うことだろうがwwww
現実にはてめえがスコップもって地権者の許可を得て掘るか…
それとも考古学者に発掘してもらうかだろうが
「有明周辺の何処かに帥升たち男王の100年ぐらい続いた弥生の都があるはずです!
是非調査してください!」
とか、そんな事真に受けて調査に乗り出す学者もいないだろう
と言うかそんな事に付き合っていたら身が持たんわなw
まあ「九州の何処かにある」と言ういつものホレホレサギだなwwww
461 :
伊作:2011/02/12(土) 12:44:04
弥生の王の所在地を語るのに、古墳時代の巨大古墳の所在で決めようとする、
畿内説のバカどもの話には乗るなという、ありがたい教示よ。
そういう「まやかし」と「だまくらかし」が得意だろが。ぬー?
俺と1対1で議論する度胸があるなら、俺の掲示板にこい。まってるぜ
462 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 12:45:51
そもそも帥升だの何だのかつての玄界灘周辺の勢力と
どの様な関係性、なんらかの継続性 があったか?なかった?
・・・なんてのは先ず邪馬台国を見つけてからのお話wwwwwwww
そもそも九州の新興勢力であってもおかしく無いはずで
その膨大な日数その他を考えればその可能性をとても排除できるものでは無かろう
先ず最初に
「その後裔にあたるクニであるで当然九州にある」
と言う結論ありきと言うのは本末転倒。
463 :
伊作:2011/02/12(土) 12:49:56
>北部九州は、生き残りのために、畿内王権と連合するしか道は無くなったのだ。
畿内説のあんちゃん。
畿内説のタコどもは、何かというと「証拠をたぜ」というが、
あんた。このストーリーのどこに証拠があるというのかね。
ほとんど願望空論で公徳した「ものがたり」だよね。
どうだい。
ぞんざいな口調で横からつつかれる気分は。
畿内説のクソ野郎どもは、そればっかやってきたんだろ。
実際に自分がやられる立場考えると列して嬉しいもんじゃなかろう。
板への参加姿勢から改める必要があるとは思わんかい?
464 :
伊作:2011/02/12(土) 12:51:50
てーせー。
畿内説のタコどもは、何かというと「証拠を出せ」というが、
あんた。このストーリーのどこに証拠があるというのかね。
ほとんど願望空論で構築した「ものがたり」だよね。
465 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 13:01:36
>>463 バカ作
ヨコからだが…
一般には北部九州が初期の前方後円墳や近畿系土器を受容していることがその根拠だな
こんなものは邪馬台国論争はるか以前のお話。
それを単に政治動向(www)とは全く無縁の動きと言うのならよし
じゃあ九州に独自の連合体のようなもの(お前ならそれは有明周辺を中心になるのか?)
を出せと言う話。
イチャモンつけるだけは一人前で
何ら対抗できるモデルの提示をしない。
ゴミクズレベル九州説の習性だなw
ちなみに年代観についても、そもそもゴミクズレベル九州説がヒッシに噛み付いている現在の年代観なんて
結果から見れば舶載品に恵まれた九州の考古学による年代観に近畿関西のそれが追いついた形だw
まさか20年も研究しておいて知らないわけじゃないだろう?www
>>465 おまえ親からゴミクズって呼ばれて育ったのか?
ここでゴミクズまきちらさねぇで自分の家だけにしろや
468 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 13:30:59
崇神(188〜216年)
192,3年 冷夏、凶作、餓死、逃散。←新羅本紀。193年冷夏、後漢書。
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。任那建国。
垂仁(217〜239年)鉄の流入。
238年頃 「弁辰」条の「国出鉄、韓、?、倭皆従取之」
景行(240〜261年)全国統一。
(伽耶系)瓦質土器でも末期のものと思われ、かつ示唆的な例として、奈良県桜井市・纒向
遺跡巻野内地区出土のものが挙げられる〔橋本・村上1998〕。布留0式に位置づけられており、
この時期の纒向遺跡の重要性に照らしても、注目される事例である。
布留0式は箸墓であり直後の黒塚には大量の鉄器が副葬される。
筑後の女王塚なんて出土品散逸しまくり。
470 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 13:37:49
景行の代で朝廷が日本を統一した事実はなく、紀の景行の条にもそういう
記述は存在しない。当時九州王朝が在り、景行でも九州完全支配は出来て
いない。景行時は、朝廷は日本武尊の駆り出しでのバトルで疲弊していて、
日本統一の勢力は無く、傷は深く地に落ちかけていた。
従って景行の代、日本統一などという論は、荒唐無稽のインチキ造成脳内
だという〜デタラメ節なのだ。
471 :
伊作:2011/02/12(土) 13:55:25
>ゴミクズレベル九州説の習性だなw
ジョーカーてのはてめえか。
相手になってやるから、俺が作った掲示板にこい。
てめえらがこれまでいびってきた連中とは違う所をみせてやる。
なんでも聞いてやるぜ。その度胸がないなら大口叩くな。
472 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 13:55:56
さてさてイチャモンつけて根拠も出さずピンポンダッシュの繰り返し
卑怯上等!無知無能、それでも自惚れだけは人の千倍一万倍!! の
この伊作君とかいうアホの描く邪馬台国の嘔吐…もとい王都を探ってみようw
ただ何分基地外の支離滅裂な戯言を斟酌している部分が多いので間違っていたら訂正ヨロw
その王都とは・・・
・帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」…らしい
−老舗の看板を持つか老舗からのれん分けしてもらった?w
・場所はどうやら有明周辺地域らしい
−玄海灘方面から引っ越してきたのか?
・軍事的に見て守るに易く天然の要害の地らしい
・その都には農業や鉱工業に従事する階層の住居は無いらしい
・近くに墓があったらアウトw
−吉野ヶ里や纏向の事例から少なくとも5・600m以内には無いのが条件と思われるw
・恐らくそこには女道士の卑弥呼がいて道教の必須アイテム「ニ種の神器」があったと思われるw
…こんなところだっけ?w
(おれには想像もできないような都だがw)
まあ他説(畿内説)を否定するのにその条件ハードルを上げに上げるのは良いが
「そんなもの畿内だ九州だという前に古代の日本の何処かにありえたのか?」
…と言うところまで逝ってしまうアホの自爆芸w
他説を攻撃した同じ条件を自らに課して検証なんかできるはずもないw
ピンポンダッシュがお家芸になるのも当たり前wwwwwwwww
473 :
水銀厨:2011/02/12(土) 13:56:27
>>463 >畿内説のタコどもは、何かというと「証拠をたぜ」というが、
あんた。このストーリーのどこに証拠があるというのかね。
私の場合はそれを畿内における丹=水銀朱の存在
だと考えていますけど。
錬丹術や道教思想をまとめた抱朴子の成立年代も、
4世紀初頭ですからね。
倭人伝にも「丹がある」と書かれてますから。
大陸から倭の水銀朱に注目が集まると、
当然採掘権を持つ者の方に力関係は傾く、
という単純な理屈ですよ。
そしてそれはそのまま数百年奈良に都を置く理由です。
水銀の毒性が知られるようになるまでね。
474 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 14:03:01
>>471 クズ作
バ カ か お 前 ?
手前で2ちゃんのこの土俵にやってきて
そこで勝負できないなら最初から来るなゴミwwwww
泣かされて鼻水涙流しながらガキが
「うわあああん、お前なんか父ちゃんとお兄ちゃんにかかったらイチコロだ
悔しかったらうちに来い」
って言っているようなものだw 情けない奴www
かっこつけたかったらな、ここで完全に勝利して最後に
「リベンジなら俺の作った掲示板に来い、いつでも相手になってやる」
…って言うんだよ馬鹿wwwwwww
悪いがネット上に無数にあるであろう九州説のサイトに一々乗り込んでいったら流石に身がもたんわwww
475 :
474:2011/02/12(土) 14:20:23
まあ2ちゃんねる上の論戦で何が情けないって
「悔しかったら俺の作った(良く出入りしている)ブログ・HPに来いや!いつでも相手になってやるぜ!」
って類の台詞でw 要するに自分が勝てないことを宣言しているようなものww
無論、潔く負けを認めるなら 良いんだがそれでもチンケなプライドが邪魔をして
「今日の所はこれでかんべんしてやる」(byめだか師匠)
と言う内容の負け惜しみになるwww
>>465 土器に関しては、マキムクでは東海系や北陸系などの外来系が多いこと(北部九州系は乏しいが)を権力の集中と解釈している筈です。
前方後円型墳墓の起源については冷静に考え直す必要があるでしょう。
関西は外来の侵入者にとっては、おいしい草刈り場になっているようですね。
ジョーカー新しいおもちゃ見つけたな。w
478 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:06:03
伊作は、「自分の掲示板に来い」じゃなくて、
考古学のシンポジウムにいって、直接、考古学者の人をつかまえて、
「お聞きしたいことがあります! 畿内説は間違っております! 俺の説を聞いてください!」ってやればいいんだよ。
こんな場末の掲示板でぎゃあぎゃあ言ってないでさ。
479 :
2浪中:2011/02/12(土) 15:26:10
>>423 >1、九州勢力がヤマトに東遷した証拠が全くないこと。
>2、2世紀まで確かに隆盛していた九州が、自発的にヤマト王権の傘下に入ったこと。
>これを認めるしかない現状では、ヤマト王権の誕生は「ゆるやかな連合」から始まったとしか説明することが出来ないわけです。
>違うというのは、1、2、に対して異なる見解の論拠を提示する責任があるわけです。
レス有り難うございます。しかし、僕の書き込み(
>>398)とは少しずれたお答えのように思います。それに、
「1、九州勢力がヤマトに東遷した証拠が全くないこと。」は卑弥呼の時代の邪馬台国とどういう関係があるのか分かりませんし(無
関係なことのように思います)、何故これに対して「異なる見解の論拠を提示する責任がある」のかも不可解です。のちの大和王権の
成立の話をしているのではなく、2世紀末から3世紀半ば辺りまでの卑弥呼の倭国の話をしているのですから。
さらに、分からないのでお尋ねしますが、
「2、2世紀まで確かに隆盛していた九州が、自発的にヤマト王権の傘下に入ったこと。」についてですが、
「2世紀まで」というのは九州の隆盛の時期を示すのか、ヤマト王権の傘下に入った時期を示すのか、恐らく前者を意図されているのでしょうが、
そうするとヤマト王権の傘下に入った時期は具体的にはいつでしょうか?それから、「自発的に」ヤマト王権の傘下に入ったとはどういうことから
分かるのでしょうか?
480 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:26:20
>>476 前方後円型墳の起源は、阿波にあるという話はあるが、
九州ではないよ。
481 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:35:05
>>479 消去法で考えたら?
九州王朝はあったか?
九州から王族の東遷はあったか?
九州は他の地域から占領されたか?
いずれの証拠も無ければ、ヤマト王権を受容したとしか考えられないだろ?
482 :
2浪中:2011/02/12(土) 15:48:55
>>459 >連合というものは、まず初めにありきではなく、争いを経験した上での、知恵による解決策なのだ。
あなたは
>>372を書かれた方ですかね。そうだとすると、修正して来られたわけですね。なるほど、倭国乱などを経験して智慧がついたと
いう訳ですか。ストーリーを懸命になって創りだされたのでしょうが、いまいち胸に響きませんね。例えば、
>九州はとくに戦乱が多かったようだが、北部九州という、いわば閉じた環境が災いし、
>近畿では、たとえ隣国と戦争になっても、他の隣国に援助を求るべく、四方八方に広く友好国を捜し求めることができた。
これは一つの文章になっていますが、上段の「北部九州という、いわば閉じた環境が災いし、」はどこにつながるのやら?読んでいて疲れます。
それと文献や考古学的資料の提示が全くありませんので、説得力を感じることができません。
483 :
2浪中:2011/02/12(土) 16:03:19
>>481 う〜ん、仰ることがよくわかりません。
「九州王朝はあったか?」の王朝とはどういうものでしょうか?辞書によると「王朝:同じ家系に属する国王の系列。また、その家系が国を支配している時期」
とありますが。漢だとか唐だとかの王朝レベルの話ですか、卑弥呼が王であった頃の倭国レベルの話ですか?
>九州から王族の東遷はあったか?
>九州は他の地域から占領されたか?
そもそもいつの時代の話をされているのですか?
484 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:04:15
天皇家っていうのは、神武の時代から尊皇攘夷。
よって、親魏倭王の称号をもらった卑弥呼は滅ぼされた側。これ以外の推定はあり得ない。
つまり、熊野勢力と結びついた崇神天皇が卑弥呼の勢力を打ち破った。
485 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:09:56
>>483 君が考えてる、「九州の邪馬台国のその後」はどういうものなの?
卑弥呼〜台与の後、九州の邪馬台国は勝手に消滅して、
後釜にヤマト王権が九州に入り込んだと思ってる?
それなら、それでもいいけど、違うだろ?
486 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:19:02
日本書紀や古事記を読んで、
天皇は大陸のおかげで日本を支配できたなんて発想にいたるやつはおかしい。
これらは、明らかに天皇家は歴史が始まる以前から
日本の正当な支配者であるという王権神授説的な主張をするために書かれた書物。
よって、そこに描かれている東征の神話もそういう文脈でなければ信憑性は全くない。
>>480 讃岐、阿波の四国や、千葉の神門や、九州では津古生掛あたりでしょうか。
散在していたと考えたほうが良いでしょうね。
>>478 しかし真顔で
「●卑弥呼の都を探すなら、帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」を探すことだ」
なんていわれたら考古学者も困るだろうよw
俺なら…
(うっ、ヤバイそコイツ、とりあえずここは適当に話し合わせておいて何とか逃げよう!)
と思うだろうなあwwwwww
489 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:25:27
まあ今いる「2浪中」とかもそのようだが…
要するに邪馬台国は帥升の時代からの王統を継ぐか
何らかの継続性を持った後裔の国・・・という事なんだろうが
一体何の根拠があるんだ?ってお話で
そもそもAD189の霊帝没で事実上後漢滅亡
東夷は以後公孫氏の燕に従属する事になるが
その燕も魏によって討滅される・・・
これだけの変化がありながら帥升の時代から連綿と王位を継いで来た国が邪馬台国なんて言える根拠があったら教えて欲しいもんだがw
仮に九州説をとっても後漢の衰退滅亡の混乱で九州において一大再編成がおき
そこで台頭した新興勢力が邪馬台国なんてシナリオも普通にできる。
少なくともこの可能性を排除でる理屈も無いだろう。
ましてタコ作君はじめ玄界灘周辺地域以外に比定地を置く奴はそっちの方が余程必然性があると思うのだが(苦笑
まあ、正直
「九州が輝いていたネタは時代を超えてあれも欲しいこれも欲しい」
と言う子供じみた嗜好を感じるんだがwwwwwwwwwwww
490 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:26:27
魏志倭人伝は大陸側の勝手な主張(親魏倭王に任ぜられたことの重要性)をしているにすぎない。
魏のポチである卑弥呼が倭国の馬鹿な民衆を鬼道使ってを治めています。
ご安心下さいとでも報告したんだろw
だから、方位も距離もめちゃくちゃ。
491 :
2浪中:2011/02/12(土) 16:31:22
>>485 >君が考えてる、「九州の邪馬台国のその後」はどういうものなの?
僕が知っているとお思いですか?卑弥呼時代の邪馬台国ならば過去の僕のレスで述べたような根拠で九州にあった可能性が高い
と思っていますが、その後については有力な手掛かり(文献や考古学的資料)を見つけていないので、何とも言えません。
ところで、あなたの質問に答えましたので、今度は僕の質問に答えてくれませんか。
「九州は2世紀まで栄えたが3世紀には衰退した」ということを言う人が畿内説の中にはいますが、あなたはどう思われますか?
また、「九州は2世紀まで栄えたが3世紀には衰退した」と思われるならその証拠を示して頂けませんか?
492 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 16:40:38
考古学が主張する、2世紀末に崇神を配さない限り正解は得られない。
209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳。半島式木郭墓は田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
493 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 16:41:36
>>491 君ねえ。一応、数学とくいとか書いてなかった?
論理的思考ができないの?
3世紀に邪馬台国があったなら、それでもいいよ。
でも、その後、どうなったのよ?
わかりませんじゃ、学問として歴史は語れないの。
答えは、
「九州はずっと畿内と距離をおいて独立していた」=九州王朝説
「九州の邪馬台国は東遷都して、ヤマト王権になった」=東遷説
「九州の邪馬台国は消滅して、ヤマト王権が入り込んだ」=?
「3世紀初頭から九州は畿内と連合しており、邪馬台国はヤマト王権のこと」=畿内説
これだけしかないだろ。上記3つには成立しうる根拠が無く、
そして、君は、根拠無く、畿内説を否定してるわけだ。違うか?
494 :
2浪中:2011/02/12(土) 17:03:45
>そもそもAD189の霊帝没で事実上後漢滅亡
>東夷は以後公孫氏の燕に従属する事になるが
>その燕も魏によって討滅される・・・
>これだけの変化がありながら
>これだけの変化がありながら帥升の時代から連綿と王位を継いで来た国が邪馬台国なんて言える根拠があったら教えて欲しいもんだがw
僕の名前も出ているのでレスします。
僕は「邪馬台国は九州にあった可能性が高い」とする理由を
>>296、
>>362、
>>390に述べていますが、ご覧頂きましたでしょうか。一応
文献や考古学資料を材料として論じております。間違いがあればご指摘下さい。
>そもそもAD189の霊帝没で事実上後漢滅亡
>東夷は以後公孫氏の燕に従属する事になるが
それは卑弥呼が倭国の王に立てられた後のことでしょう。
>その燕も魏によって討滅される・・・
その時期に(公孫氏の滅亡とほぼ同時に)卑弥呼は魏に難升米らを派遣しています。
ご指摘の「これだけの変化がありながら・・・」については上記のようなもんでしょう。
495 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:11:29
>>494 2浪中
話しが微妙にズレているな。
お前の言っているのはあくまで「邪馬台国が師升王の後裔」と言う前提の話
俺が聞いているのは、その 「邪馬台国が師升王の後裔」と言う前提 の根拠。
>.九州には卑弥呼登場前(2世紀以前)の王墓(と見られる)遺跡があるが
とかは関係が無い。ゆーしー?w
496 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 17:15:45
大王の家来 伊支馬 ≠ 家来の上の垂仁大王
497 :
2浪中:2011/02/12(土) 17:18:03
>>493 >でも、その後、どうなったのよ?
>わかりませんじゃ、学問として歴史は語れないの。
無茶苦茶なことを仰らないで下さい。学問はそんないい加減なものではないでしょう。
「3世紀初頭から九州は畿内と連合しており、邪馬台国はヤマト王権のこと」=畿内説 が正解だと勝手に
宣言しているだけではないですか。明確な証拠がない段階で明言するのは学問とは言えません。
498 :
495:2011/02/12(土) 17:23:53
まあ前にも言ったが、本来なら師升の頃からの連続性云々なんて
邪馬台国を見つけてからのお話。
(九州における全くの新興勢力の可能性だってあるのだから)
あくまで仮定として
「邪馬台国が師升王の後裔たるクニが九州の何処かにあってそれこそが邪馬台国だ!」
とするのは良いとしても
「じゃあその仮定に基いて邪馬台国を見つけてからにしてください」
って話wwwwwwwwwwwwwww
499 :
2浪中:2011/02/12(土) 17:24:09
>>495 >俺が聞いているのは、その 「邪馬台国が師升王の後裔」と言う前提 の根拠。
>>390に書いておりますが。
500 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:28:56
何方か教えてください。
「このHPに載ってるぞ」だけでも結構です。
弥生時代の墓(その他の遺跡)から鏡が出土する地は、福岡・佐賀の他にありますか?
>>497 端からだけど、さすがに釣りとしか思えないな。
まともに話するつもり無いでしょ。
502 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:34:10
>>497 だったら、九州に3世紀いっぱい存在した邪馬台国は、
4世紀に急に消滅して、後釜にヤマト王権が進出してきたと、
そういうことになるけど、それでいいかい?
邪馬台国は、王は共立だし、30ヶ国の盟主みたいな存在だろ
配下の国を従えたまま、王権だけ大和政権に引き継がれたと考えては?
中国の王朝もその連続なんだし
504 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 17:44:32
>>499 2浪中
そもそもその後漢書自体が倭国と日本が元々別だったり倭国が国号を変えて日本としたとかどうにもバラバラw
(多分そんな厳とした地理観なんか無かったんだろう)
後者をとれば 倭国=後の日本の範囲 だが?
なんかだんだん九州王朝説に近づいてきたなwwwwww で、
>文献や考古学資料を材料として論じております。
とあるが考古資料の方はなんかあるのか?
505 :
2浪中:2011/02/12(土) 17:57:03
506 :
2浪中:2011/02/12(土) 18:00:29
>>505 >そもそもその後漢書自体が倭国と日本が元々別だったり倭国が国号を変えて日本としたとかどうにもバラバラw
???後漢書じゃなくて旧唐書じゃないですか?も〜 しっかりして下さいよ。
507 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 18:09:58
>>506 二浪厨
すまん素で間違えたw
まあ「倭国と日本は別ものだったのか?同じものだったのか?はっきりせいや」的なその内容は
ご指摘の旧唐書だから訂正して話を続けてくれwww
508 :
2浪中:2011/02/12(土) 18:12:28
あ、つられて僕も間違っちゃった。506の
>>505は
>>504の間違いです。
>>504 >文献や考古学資料を材料として論じております。
>とあるが考古資料の方はなんかあるのか?
>>362をご覧下さい。これは倭奴国と帥升の倭国が九州にあった可能性が高いとする材料です。
509 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 18:16:30
>考古資料の方はなんかあるのか?
弥生後期後半 唐古・鍵遺跡をはじめ各地の居住遺跡が放棄される。
纒向遺跡は2世紀末に各地の土器が持ち込まれる。
3世紀初期纒向に大型建物、その後を土盛りし、整地して3世紀中葉の大型建物
3世紀中期から後半にかけ、箸墓は作られ、纒向遺跡は緩やかな衰退。
崇神を2世紀末から配さないと、纒向遺跡の説明が出来ない。
チョロ松が絡んでくるから議論がゴチャゴチャになるなw
511 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 18:24:13
>>508 二浪厨
いや、だからだな…
倭奴国王や帥升が九州にいただろうなんてのは誰も異を唱えていないんだよw
その存在を王墓や副葬品等の考古資料に求めるなら
後裔国の存在もそれをもって証明するのが筋じゃないのか?wwwww
512 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 18:26:32
>>505 書き込み内容がイマイチ心に響くものが無いんでね。
513 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 18:34:54
>九州邪馬台国のその後
まあ意地の悪い言い方をするならばだw
「元々九州の地に見つけられないのならその終末の姿も見えてこないのは当たり前」
ってのは言えるかもしれないw
文献では266年の(まあ一般には邪馬台国のものとされる)入貢記事を最後にプッツリなんだからwwwwww
514 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 18:36:45
>>505 九州の邪馬台国が、4世紀にどうにかならなかったら、
4世紀以後に存在した大和王権とどう繋がっていくの?
少なくとも、絶対に九州に邪馬台国があったと考えているなら、
「九州の邪馬台国は4世紀以後も、大和王権とは別に九州に存続した」
「九州の邪馬台国は4世紀に東遷し、大和王権となった」
「九州の邪馬台国は4世紀に消滅し、大和王権が九州に進出した」
これ以外のストーリーはないでしょ?
君の心に響くストーリーとはどれなんだい?
2浪中の
>>362三雲遺跡について
>三雲南小路遺跡からは漢の皇帝が王族に下賜される品とされる金銅製四葉(棺)飾り金具や漢鏡が出土していますが、
>僕はこれは光武帝から印綬を授けられた倭奴国王関係のものだと見ています。
これが通説と違うんだよなあ。
単に「・・・・と見ています」とだけ書かれても・・・。
通説(三雲は紀元前)を否定するんなら、どういう理由でそう見ることになるのか、もっと説明しなくちゃ。
>>513 を真に受ければ、邪馬台国は元々九州にあったことになるなあ。
517 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:11:12
>>516 九州説がいくら「考古学者はウソつきだ!」といっていても、
大和王権は4世紀初頭から存在してたことは認めてるはず。
ならば、台与の朝貢から、数十年で、九州の邪馬台国は消滅したことになる。
いったい何が原因で消滅したんだろうね?
日本神話を信じれば、「大和王権の景行天皇が九州を征服し邪馬台国を滅ぼした」という説が有力となるが?
2浪くんは、ますます心動かされないだろうな。
「邪馬台国節♪」
倭の中枢は 北九州〜
平原遺跡に 吉野ヶ里〜
粋な作りの 宮室に〜
いかめし構えは 城柵〜
諸官省ズラリ 内郭部〜
楼観ビルディング 倉庫群〜
ポッポと出る船 海渡る〜
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで〜
パイノパイノパイ〜
パリコとパナナで〜
フライ フライ フライ〜
519 :
伊作:2011/02/12(土) 19:15:46
畿内説ゴロつきの発言が、だいぶたまったな。まとめて料理してやる。
これは、遠巻きの群集の中からヤジ飛ばすへなちょこジョーカーか?
>そこで勝負できないなら最初から来るな
ここで勝負しきれない奴が大口たたくな。
>「悔しかったら俺の作った(良く出入りしている)ブログ・HPに来いや!
>いつでも相手になってやるぜ!」 って類の台詞でw
>要するに自分が勝てないことを宣言しているようなものww
各論は総論と密接に関連する。ほんの数行で説明できることは皆無に等しい。
現に統属という二文字の議論だけでも相当の文字量を必要とする。それが論考であり論証だ。
目的は、ここじゃ書ききれないなもの説明するためにつくった。
逃げたのでもなければ、勝負できないのでもない。
「こい」といわれて来る度胸もないくせに、それをつくろうためにキャンキャン吠えるな。
>無論、潔く負けを認めるなら 良いんだがそれでもチンケなプライドが邪魔をして
みな言い訳めいたつくろいごとを並べてるのばかりだが。お前はどうだ。
本の数行、何の知識もない書き込みを垂れるだけのクソ野郎が。
>と言う内容の負け惜しみになるwww
てめえの垂れ書きがまんま負け惜しみじゃないか。
俺が去ったとでも思って、すぐさま勝ったそぶりの口上を書きたれやがる。
ちんけ野郎まる出しだ。
これは別人だな。
>伊作は、 考古学のシンポジウムにいって、直接、考古学者の人をつかまえて、
>こんな場末の掲示板でぎゃあぎゃあ言ってないでさ。
さすがに、俺の格とレベルの高さを認めてるわけだな。目があるぜ。
520 :
伊作:2011/02/12(土) 19:17:27
ジョーカーたたき●しょのに。
その王都とは・・・ ・帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」…らしい
そうだ。
・場所はどうやら有明周辺地域らしい
そうだ。
・軍事的に見て守るに易く天然の要害の地らしい
もちろんだ。
・その都には農業や鉱工業に従事する階層の住居は無いらしい
とうぜんだ。
・近くに墓があったらアウトw
墓は王都の郊外につくられる。あたりまえだ。
・恐らくそこには女道士の卑弥呼がいて道教の必須アイテム「ニ種の神器」があったと思われるw
古墳時代の日本列島に蔓延する。現実に出てくるのはそればっかだ。
そして、現在まで連綿と継承されている。
>九州勢力がヤマトに東遷した証拠が全くないこと。
大和に突然大和政権が登場した事実があればたくさんだ。
>2、2世紀まで確かに隆盛していた九州が、自発的にヤマト王権の傘下に入ったこと。
その大和政権がどうやって誕生して大きくなったのかを説明せんか。
その人種は何だ。どこからきた。どこを通って。どうえって先進の文化を取り入れた。
ほれ。それをやってからデカいことをいえ。
邪馬台国は狗奴国との戦いに決着が付けられないで、
卑弥呼以前の内乱に逆戻りして衰退したとは当然に
予想出来るよ。
522 :
伊作:2011/02/12(土) 19:19:57
畿内説のバカ攻撃叩き●しょのに
>九州王朝はあったか?
九州王朝説はない。
>九州から王族の東遷はあったか?
あった。日本書紀もそう書いている。
お前たちの好きな「ももちゃん姫」と箸墓を書いた本だったよな。
>九州は他の地域から占領されたか?
ない。
>「九州の邪馬台国のその後」はどういうものなの?
大和へ引っ越したあと蔓延する装飾古墳こそ、大和王家の皇別氏族のものだ。
九州にはのちに、「○○の君」が登場するが、「○○の君は皇別氏族の名だ。
日本列島の鍵を握る九州は、
ちゃんと王家の近親血族に振り分けて支配させている。
>卑弥呼〜台与の後、九州の邪馬台国は勝手に消滅して、
後釜にヤマト王権が九州に入り込んだと思ってる?
先進文化との出入り口がどうして消滅するんだ。そんな史実痕跡があるなら示せ。
その「後釜に九州に入り込んだ大和政権」は
どうやって大和にできて育ったというのだ。
>「卑弥呼の都を探すなら、帥升たち男王の100年ぐらい続いた「弥生の都」を探すことだ」
>なんていわれたら考古学者も困るだろうよw
古墳時代の古墳の場所で、弥生時代の邪馬台国を決めようて、
まやかし手口封じの正論だ。
523 :
伊作:2011/02/12(土) 19:21:28
畿内説のバカ攻撃叩き●しょのさん
議論も論拠も諸刃の剣だ。ヤマト王権とヤマト王権というが、
九州の存在抜きで、どうやって派生して育ったのかを説明しろろろろろー。
>要するに邪馬台国は帥升の時代からの王統を継ぐか何らかの継続性を持った後裔の国・・・
>という事なんだろうが 一体何の根拠があるんだ?ってお話で
3世紀に邪馬台国を目撃し調査した中国人がそう証言しているがな。
>そもそもAD189の霊帝没で事実上後漢滅亡
>東夷は以後公孫氏の燕に従属する事になるがその燕も魏によって討滅される・・・
議論も論拠も諸刃の剣だ。この時ヤマト王権はどうしてたんだ?
>これだけの変化がありながら帥升の時代から連綿と王位を継いで来た国が
>邪馬台国なんて言える根拠があったら教えて欲しいもんだがw
3世紀に邪馬台国を目撃し調査した中国人がそう証言しているがな。
>魏志倭人伝は大陸側の勝手な主張をしているにすぎない。
>魏のポチである卑弥呼が倭国の馬鹿な民衆を鬼道使ってを治めています。
>ご安心下さいとでも報告したんだろw
最後にはそれで逃げるしかなかろう。
で・邪馬台国と卑弥呼と径100余歩の墓の寸法だけは正しいとなるわけだ。
>3世紀に邪馬台国があったなら、それでもいいよ。 でも、その後、どうなったのよ?
東遷よ。時代の必然よ。列島の歴史がみなその方向向いてるだろ。
これが歴史というものだ。
524 :
伊作:2011/02/12(土) 19:23:15
畿内説のバカ攻撃叩き●しょのし
>「九州の邪馬台国は消滅して、ヤマト王権が入り込んだ」=?
>「3世紀初頭から九州は畿内と連合しており、邪馬台国はヤマト王権のこと」=畿内説
●九州とは無関係にヤマト王権が存在できた論拠をだせ●
この文言を返してやろう。
「上記2つには成立しうる根拠がなく、
君は根拠なく、畿内ヤマト王権の存在を標榜してるわけだ。違うか?」
>お前の言っているのはあくまで「邪馬台国が師升王の後裔」と言う前提の話
前提じゃない。目撃証言だ。最も新来のおける中国の歴史書がそう証言している。
>九州には卑弥呼登場前(2世紀以前)の王墓(と見られる)遺跡があるがとかは
畿内ヤマトには(2世紀以前)の王墓(と見られる)遺跡があるか。
>本来なら師升の頃からの連続性云々なんて邪馬台国を見つけてからのお話。
違うなー。見つけ方の方向性として最も正当な手法だ。
弥生前半の歴史がなく、古墳時代から始まる畿内説よりはよかろう。
>九州に3世紀いっぱい存在した邪馬台国は、 4世紀に急に消滅して、
>後釜にヤマト王権が進出してきたと、 そういうことになるけど、それでいいかい?
先進の九州に後釜としてやってくるほどのヤマト王権が、いつ・どうやって登場したのか証拠をだせ。
525 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:24:07
>>519 負け犬卑怯卑怯上等!の ぽん作くん
で、
>>472にお前の言った王都の条件とやらを羅列してみたんだが…
一体何処にあるのか?ご開帳してもらえないだろうか?
確かピンポイントで確定できているんだろう?
まあそんな物が実際あるなら九州説の復活おろか一気に今の畿内説との関係をそのまま逆転できるような
す・ん・ご・い!ネタだと思うのだがwwwwwwwwwww
○○県から始まって番地まで書いてもここに書ききれないなんて事は無いぞ?w
口先だけのハッタリ君じゃ無いんだろう?wwwwwwwwwww
526 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:24:27
>>520 >>九州勢力がヤマトに東遷した証拠が全くないこと。
>大和に突然大和政権が登場した事実があればたくさんだ。
じゃ、それを学会なりシンポジウムで発表してみればぁ?
527 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:26:53
>>520 たこ作くん
俺が拾って書いてやったことを一々追認しなくて良いから
それが何処なのか?はっきり言ったらどうだ?
景行、神功の神話で4世紀に特定できるとは限らないが、中国、半島の政治上の変動が列島に大きな影響を及ぼしたことは誰にでもわかる。
4世紀初頭に関西に規模の大きな国があったとすると(大和王権?)、その時点で自動的に九州の邪馬台国が消滅するのかね?
529 :
伊作:2011/02/12(土) 19:30:51
●着内説の論拠潰し
>大和王権は4世紀初頭から存在してたことは認めてるはず。
>ならば、台与の朝貢から、数十年で、九州の邪馬台国は消滅したことになる。
東遷しかないべ。文句あるならば、
先進の人・もの・文化をおさえてきた九州勢力に与するか
「おこぼれ頂戴」以外には後進国に甘んじるしかなかった瀬戸内海の奥地の湿地帯が、
どうやって九州に乗り込んで邪馬台国の後がまになれるか説明せ。
530 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:38:06
>>529 近畿は周辺国と”ゆるやかな連合”で結ばれていた。
九州は、「鉄器があるから、誰にも負けないもん!」と威勢をはって、近畿との交流をないがしろにしてたら、
気がついたら孤立してて、近畿になきつくしかなかったんだよ。
大和王権なるものを、2世紀後半?から持統朝まで基本的に同一の社会政治構造を持ったものと空想するからダメになるのでは?
532 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:42:22
>>531 誰にと言うか畿内説か九州説かどっちに言っているのかな?
少なくとも畿内説の人間は人により幅はあるもののその二つを同一のものなんて考えていないよ。
故に大和朝廷じゃなくて「ヤマト王権」と書く事が多いのであって
533 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:45:48
>>530 と言うか(近いのだから当たり前なんだがw)九州の敵は九州だったんだろうよw
初期前方後円墳の出現している北部九州の勢力にしたら
東方でおきた連合に参加しておけば背後の憂いを絶て
尚且つ交易でも儲けられてウハウハとかwwwwwwwwwwwww
534 :
伊作:2011/02/12(土) 19:46:23
●邪魔くさい畿内説を潰してまう。
古代から先進の中国文化を取り入れてきたましが、
そのルートは九州・壱岐・対馬・朝鮮半島経由でした。
瀬戸内海・四国・本州太平洋側の各地がこれを使うには、
関門海峡を通る必要がありました。
瀬戸内海ののまた奥地の大和州で、九州よりも強力な勢力が育つには、
どういう歴史動向だと成立すると思いますか。
「関門海峡と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」という
バカどもにとっては超哲学的な命題をクリアして畿内説を立証できる人はいますか。
535 :
sss :2011/02/12(土) 19:49:22
>>438 >1、九州勢力がヤマトに東遷した証拠が全くないこと。
東遷の「証拠が全くない」と言い切るのはおかしい。
証拠が出てくることはないという確信があるのか。
それとも、何が出ても証拠には成りえないということなのか。
墓制の問題、鏡の普及、銅鐸の問題、記紀の記述など根拠はあるのに、
根拠がないと言い切るのは、何が出ても証拠にはしないという決意なのかも
しれないな。誰の言った言葉かは知らないが。
根拠のない纏向を邪馬台国にし、桃の種や魚の骨を邪馬台国に関連付ける
畿内説の言葉とは思えない。というより、そういう畿内説だからありうるのかな。
>>465 ホケノ山古墳の年代についての石野博信氏の話。
「新しい銅鏃が含まれているので、発掘中からこの古墳は新しいのでは
ないかといわれてきた」「新しいと思われていた銅鏃が庄内期に遡る可能性も
あるということである」年代の決め方は難しいな。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm シベリア郵便局より。
だとすれば、4世紀以前?では、出雲王権、吉備王権、近江王権、讃岐王権、阿波王権等と同等の意味で王権という言葉を使っているわけだね。
537 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 19:53:02
> ゴミクズ九州説 の 典型的サンプル の 馬鹿作くん
>瀬戸内海ののまた奥地の大和州で、九州よりも強力な勢力が育つには、
>どういう歴史動向だと成立すると思いますか。
なんで関門海峡を閉鎖して九州以東のマーケットを自ら放棄するんですか?
一体どの様な 経 済 動 向 なんですか?wwwwwwwww
てか はよ有明のすんごい邪馬台国の王都 の場所公開せえや。
ここに書ききれないとかアホぬかすなよw
538 :
伊作:2011/02/12(土) 19:53:45
どうやら畿内説の銀蝿どもは、
日本の古代史を語るのに九州の歴史を正視する意思がなさそうだ。
ならばそれでいい。畿内説の脆弱な土台を潰すことに専念する。
2〜3世紀に「ヤマト王権」が存在したなどという夢想論は、
「関門海峡と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」という
超哲学的な命題をクリアししてからほざけ。
539 :
伊作:2011/02/12(土) 19:57:43
>なんで関門海峡を閉鎖して九州以東のマーケットを自ら放棄するんですか?
関門海峡のコントロールが、列島統一の鍵だから。
もう泣き節か。もっと強気に反論してこい。
>邪馬台国の王都 の場所公開せえや。
畿内説に勝利してからな。まってろや
畿内説の論拠潰しに専念するから、防衛に専念しろ。ぼんくら
540 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:00:21
>>529 九州から王が東遷したとか言ってるのはいいけど、
それ以前の近畿中心の「ゆるやかな連合」の存在は、認めるしかないよね?
近畿中心のヤマト王権の前方後円墳が急激に全国に広がったわけは、
全国の首長がヤマトの王に従うことに躊躇が無かったという素地がなきゃいけないしね。
君だって、ニギハヤヒの先遣隊を送ってたと言ってたろ?
ニギハヤヒが、ヤマト中心の「ゆるやかな連合国」を作ってたとは考えないのかな?
どのみち、「ゆるやかな連合」を認めないと、君の東遷説も論理破綻するんだけど?
541 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:00:54
もう一つ 健忘症(と言うか既に痴呆症か?)の多胡作くんが畳むの忘れた風呂敷書いておこうw
>とくに大古墳の築造には、道具・人員動員・土木技術などのほかに、
>「祭祀規模の拡大」という超現実的な要素が伴うのだ。
>280メートルの箸墓が弥生末期の3世紀半ばに登場する可能性など、物理的・過家具的、
>そして人の感性と心理学的な面からみてありえないのだ。
3世紀半ばでは無理で4世紀になって可能にせしめたその要因とは?
物理的!科学的!そして心理学的に 説明するんだ!!
ゴミクズレベル九州説の期待の星 森村伊作くん
wwwwwwww
542 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:09:01
>>539 >関門海峡のコントロールが、列島統一の鍵だから。
あのねえ、出雲からも楽浪土器が出てるって、誰かいってたよ?
543 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:10:23
>>539 バカ作
>関門海峡のコントロールが、列島統一の鍵だから。
列 島 統 一 !wwwww
流石、ゴミクズレベル九州説 大きくでたなwwwww
でそのコントロールしたという根拠は何なのかな?
一体いつの時代の話かは知らないが
通説の奴国=福岡平野で生産された銅矛は山陰・荒神谷にも見られ
四国や瀬戸内方面への東進も見られる。
そりゃ手広く商売やった方が儲かるというのが普通の 経 済 動 向 wwwwww
544 :
伊作:2011/02/12(土) 20:13:22
540 名前:日本@名無史さん
もう妥協案提示かい。俺に「ゆるやかな連合」の申し入れか。わらわら
>九州から王が東遷したとか言ってるのはいいけど、
東遷を認めるしか日本列島の歴史動向は語れまい。
俺の東遷説は手強いからな。用心してかからんと。
>それ以前の近畿中心の「ゆるやかな連合」の存在は、認めるしかないよね?
認めない。
>近畿中心のヤマト王権の前方後円墳が急激に全国に広がったわけは、
東遷後の動向は東遷後のこととしてとらえればよい。
>全国の首長がヤマトの王に従うことに躊躇が無かったという素地がなきゃいけないしね。
九州を手中にしてきた勢力に与するしかなかろう。
海を制する者が列島を制する。歴史はみなそう告げているだろうが。
>君だって、ニギハヤヒの先遣隊を送ってたと言ってたろ?
そう思うぞ、天の鳥船(当時の最新船)でやってきていたニギハヤヒは、
天の磐船でやってきた神武と互いが同じ神の子孫であることを確認してから、
国譲りにも似た無血開城をしている。
>ニギハヤヒが、ヤマト中心の「ゆるやかな連合国」を作ってたとは考えないのかな?
あくまでも先遣部隊というところだ。
>どのみち、「ゆるやかな連合」を認めないと、君の東遷説も論理破綻するんだけど?
いやいや、「ゆるやかな連合」は畿内説の最後の逃げ場だ。
545 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:15:18
どうやら、九州の卑弥呼は「列島統一」を目論んでたらしい。
それなら、卑弥呼が統治してた半世紀の間に、
どうして近畿を完全支配できなかったんだい?
近畿なんて未開の土人ばっかりで、簡単に征服できただろ?
546 :
伊作:2011/02/12(土) 20:16:19
>あのねえ、出雲からも楽浪土器が出てるって、誰かいってたよ?
九州勢力が関門海峡を絞っていた時代は、日本海側が「表日本」だ。
畿内説にはつらい下男実だな。
で・日本海側で半島との交流と九州系統の遺物が出るのは当然だ。
547 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:16:46
>>544 >>それ以前の近畿中心の「ゆるやかな連合」の存在は、認めるしかないよね?
>認めない。
よっしゃあ!!!
言質をとったぜ。ばぁか。
548 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:18:26
>>539 チン作
>畿内説の論拠潰しに専念するから、防衛に専念しろ。ぼんくら
いやいや現実を見ろよ爺さんw
アカデミズムはほぼ畿内説一色。
と言うかお前が20年戦ってきた邪馬台国論争が既に過去のものw
こんなところで油売ってて良いのか?
その俺なんかには想像もつかない「王都」とやらが見つかれば
一気に形勢逆転できるぞ?
と言うか本当にそんなモノがあったら、出てくる可能性が高い場所があると考えられているのなら
とっくの大昔に調査が入っていて
一般にも有力候補として聞えているだろうにwwww
「僕だけが知っている秘密の場所」tって如何にもゴミクズレベル九州説が言いそうな話だwwwwww
549 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 20:18:41
関門海峡が閉鎖されていれば、
鉄は九州に上陸後大和に分与される。
残念ではあるが、古墳時代(箸墓以後)の鉄は、大和から各地に分与される。
鉄が古墳(黒塚古墳)に副葬されるまで、鉄の需要を満たしてからとすると
それ以前から大和に鉄が流入している。
つまり、弥生後期後半に山陰に持ち込まれた鉄の量では、大幅に不足する。
書紀は任那建国後とする。
>列島統一
いよいよ話しが盛り上がってきますた!
551 :
伊作:2011/02/12(土) 20:20:54
>福岡平野で生産された銅矛は山陰・荒神谷にも見られ
九州が関門海峡をコントロールし、日本海側が表日本だもの。
日本海側も九州勢力の先遣部隊が築いたんだもの。
だから、瀬戸内側が後進国で、
本州中部までを支配下におくほどに大きくなっていた出雲も、最後は無血開城だ。
>四国や瀬戸内方面への東進も見られる
四国と本州西側が「おこぼれ」を頂戴していた証拠だ。
552 :
伊作:2011/02/12(土) 20:23:05
「根拠出せ」「証拠だせ」は、論に詰まった奴の常套句よ。
論破できる奴むは黙って論破する。
そろそろ、あっちいってろ。半端やろうとは格が違うぜ。
553 :
伊作:2011/02/12(土) 20:27:01
>とっくの大昔に調査が入っていて
畿内説ヒエラルキーに依存してる連中とは違って、
あくせくしてないんだ。弥生遺跡の宝庫だし、遺跡慣れして鈍感なんだわな。
よゆーよ いいからもうあっちいってろ・はなたれ
554 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:27:06
>>552 「ゆるやかな連合」の存在を認めないのはどうして?
近畿で、土器とかがいろんなクニにやりとりされてるのは、
まぎれもない事実なんですけど、それも4世紀からのことなんですか?
555 :
伊作:2011/02/12(土) 20:29:31
>近畿で、土器とかがいろんなクニにやりとりされてるのは、
先遣部隊が、関東にまで足をのばしていた時代だぜ。
3世紀の日本列島の歴史動向は、
畿内だ九州だという・ちんけな了見を凌駕してダイナミックだったのよ。
556 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:31:27
>>555 なんで卑弥呼は、「近畿も九州邪馬台国連合の一部です!」と魏に報告しなかったんですか?
大国に見せるのは当然だし、魏もよろこぶでしょ?
>>552 卑怯無知無能 の チン作くん
まあこっちは福岡平野の交易範囲の広さを伺わせる事例を
>>543出だした。
でこのゴミクズはそれは「おこぼれ」で済ますしかないw
関門海峡の物流をコントロールした事例の根拠の一つも出せない。
大風呂敷を広げて後は誤魔化すだけ。
論破だの議論だのほざくのは46億年早いわ 最低単細胞生物からやり直せゴミクズ。
「日本海側の先遣部隊」なんてそう言えば昔確か日向厨が言っていた記憶があるが
もう今までのゴミクズレベル九州説の総集編のような キ○ガイ だなwwwwwww
558 :
伊作:2011/02/12(土) 20:37:29
>アカデミズムはほぼ畿内説一色。
わらわら。ほんのひと握りの、畿内説ヒエラルキー依存与の話だろ。
畿内説をとることによって進級し卒業し就職し昇進を果たすと、
死ぬまで畿内説を「定期的に」唱える「義務」が生じるなんじゃないのか。
お前ら、その宣伝片棒を担いでるよなもんだ。
俺が呼んだものの本によると、埋蔵金探しの山師の常套句は、
「ここにあります」「もう出ます」「あと数メートルです」
といってはパトロンから資金を引き出すらしいぞ。
>>558 ゴミックズ九州説の典型 森村伊作
>俺が呼んだものの本によると、埋蔵金探しの山師の常套句は、
>「ここにあります」「もう出ます」「あと数メートルです」
>といってはパトロンから資金を引き出すらしいぞ。
「埋蔵金」を「王都」に変えれば
それお前の事じゃないかwwwwwwww
560 :
伊作:2011/02/12(土) 20:41:32
どおした畿内説しょくん。
込み入ったやりとりができる状況じゃないから、こっちは軽くいなしてるが。
まともな論など何も出てこない。
願望空論と泣きと妥協と、銀蝿野郎のブンブンしか聞こえてこないぞー。
>>558 ゴミクズ九州説の典型 森村伊作
>畿内説をとることによって進級し卒業し就職し昇進を果たすと、
>死ぬまで畿内説を「定期的に」唱える「義務」が生じるなんじゃないのか。
この辺も良く「サイキバ」とか「怨み節」の言っている
「悪のキナイセツによる学会支配」と言う陰謀論だなwww
しかし俺が ゴミクズ九州説 と呼ぶ要件に悉く一致するなこのバカはw
てかひょっとして過去の傾向リサーチでもされたんだろうか?wwww
562 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:47:09
>>555 >先遣部隊が、関東にまで足をのばしていた時代だぜ。
なんで卑弥呼は、「近畿も九州邪馬台国連合の一部です!」と魏に報告しなかったんですか?
大国に見せるのは当然だし、魏もよろこぶでしょ?
列島統一を目論んでたなら、なおさらだよね?
近畿を支配するために、魏の協力も得られるだろうし。
563 :
伊作:2011/02/12(土) 20:54:05
yahooでは、何年も前からゆってきた。証拠も残ってるぜ。
しかも俺は、京都大学での学者から直接聞いてるが、
畿内説をとるように上からプレッシャーがかかったことを嫌って
畿内説を捨てたといっていた。
>ひょっとして過去の傾向リサーチでもされたんだろうか?
むしろ、俺の説がこっちで引用されていたようだから、
これもその口じゃないのか。
何しろ、俺の偽物が登場したほどだからな。
下世話野郎。そんな推量する前に、ちゃんとした反論の糸口を考えろ。
>>562 九州北部までの行程しか詳しく書いてないし、辺境地は倭種が住んでるとしか書いてない。
魏から見たら東国などの辺境は興味なかったって事だな。
565 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 20:59:07
>>564 だったら、どうして東遷する必要があるわけ?
566 :
2浪中:2011/02/12(土) 20:59:58
畿内説の根拠というのはいったい何なのでしょうか?
倭人伝?
卑弥呼の墓=箸中山古墳?
卑弥呼が魏から貰った銅鏡=三角縁神獣鏡?
マキムク遺跡=卑弥呼の都?
各地の土器の集積、前方後円墳の拡散状況→ゆるやかな連合=邪馬台国連合?
みんなわけが分からんものばかりですが、他にもあるんですか?
567 :
伊作:2011/02/12(土) 21:00:48
>なんで卑弥呼は、「近畿も九州邪馬台国連合の一部です!」
>と魏に報告しなかったんですか?
俺は「事実」を述べている。
その事実動向に興味があるなら、想像ではなく自分で探求することだよ。
>大国に見せるのは当然だし、魏もよろこぶでしょ?
当時は狗奴国との戦時下だよ。魏の調査も思うようにできなかったと書いてあるだろう。
バカバカしい。
>近畿を支配するために、魏の協力も得られるだろうし。
是。倭国は魏に従属していたという史観による発言かい?
例の冊封体制とかいう奴ね。これも中国にはない言葉だ。
西嶋さんがとなえた奴だが、真意は臣従したという意味じゃないよ。
現実にそうした事実もない。
藩外国の朝貢外交は、ただの「外交と交流手段」だよ。
間違った史観による間違った意見だね。はずかしい
>>563 陰謀論大好き 森村遺作爺
それこそ
「わらわら。ほんのひと握りの」事例だろう?
そりゃ学者世界に派閥だ、しがらみだ、あるだろうさw
京大の某センセイによる訴訟沙汰なんかも俺でも活字で知っているような話
もっと学説の主流を一変させるようなレベルのネタもってこいよアホw
569 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:06:57
>>555 >先遣部隊が、関東にまで足をのばしていた時代だぜ。
その先遣隊とやらは、
どうして、東海地方は無視してたの?
よっ 2ch専門のジョーカー君、頑張れ〜
伊作氏にはぁウェy(away)戦っていうのを教えてやらないといけないかね?ALL
ドツボキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
あらためは、ドン来いでも終止符でもアウェイではないのかと。
>>565 興味なかったのは魏だよ。
倭人伝は、内陸の事とか倭国の全容については全然詳しくない。
記録に残さないって事は興味なかったって事だ。
574 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:14:10
自惚れ力だけは最強レベル の 森村遺作爺さんへ
>むしろ、俺の説がこっちで引用されていたようだから
で思い出したんで書いておくが
纏向に各地の有力氏族の血縁女性が集まって祭祀に参加していた
…なんて馬鹿が自分が考えたシナリオで真似するなとかはしゃいでいたがwwwww
文献の山尾がそれを言ってたわw
と言うかその程度の話思いついても
「まあこの程度の話誰か既に言っているんだろうな」
とか思わないのか?
俺でも考えるぞ?w
【ジャッジ】は
エコひいきなジャッジで有名な、
あらため、太国、唐松山 の3人で行います。
576 :
伊作:2011/02/12(土) 21:17:53
ジョーカーに警告。
俺の名はペンネームとして、実在する・人格をもった名だ。
名無しの・ののしり合いのつもりでいると、チトわけが違うぞ。
577 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:19:24
>>566 >みんなわけが分からんものばかりですが、他にもあるんですか?
”ゆるやかな連合”が理解できないなら、
今は何を説明しても君は理解できないだろうな。
伊作みたいに
「ゆるやかな連合など無い!!!」
なんて、恥をさらすくらいが関の山だし。
>>576 ドスを利かせたような
威嚇的なレスで相手をけん制しようとしても無駄。
きみ、減点1ネw
579 :
2浪中:2011/02/12(土) 21:25:55
>>577 >”ゆるやかな連合”が理解できないなら、 今は何を説明しても君は理解できないだろうな。
”ゆるやかな連合”というのは一般人に理解出来ないようなわけの分からんものなのですか?
580 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:26:41
>>576 散々ここまで相手を罵倒してきた 森村伊作
要するに
「名誉毀損で訴える用意があるぞ」 って事なのかな?
だったら止めとおこう(あっさり
お前の書いた物に興味を示した人間が検索して
2ちゃんのようなフランクな場でどの様な事を言っているのか?
知らしめるのに良いかなと思ったんだがwwwww
九州無敵軍団の東征劇とかあまりにも荒唐無稽なお話が本音の部分と分っていたら
全体の文脈の根底に流れているモノ
(ルサンチマンか畿内ヤマトに投影された何らかのコンプレックスか怨み節か?w)
に気づいてもらえると思ったんだがなwwwww
畿内説には何で「ゆるやかな連合」の解釈が必要なの?
582 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:26:50
東遷説の人へ。
東遷したのは神武天皇?
>>579 > ゆるやかな連合
弥生後期の墳丘をもつ首長墓にはきわめて顕著な地域性がみられる。
これに対して出現期の古墳はきわめて画一的な内容をもって、それら広い範囲の地域に代わって現れる。
このことを比較すると、
遠く離れた各地の首長たちが、それまでの地域的なものにかえて共通の形式の墳墓を営むようになったことを示しており、
そこに共通の約束ごとにもとづいた連合関係が形成されたと想定される。
584 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:32:43
>>581 そもそも、その段階を経てやがて中央集権国家へ進んでいくのが当たり前だから
と言うか中央集権的国家が形成されてもそれが瓦解し・・・諸勢力が離合集散合従連衡するというのが歴史だから。
それを否定するならその段階をすっ飛ばした日本の歴史を言ってみろって話で
この板のゴミクズレベル九州説なら九州無敵軍団が東征してきてめでたしめでたしで終わってしまうwwwwwwww
585 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:34:28
神武天応のは東征だ。倭国乱の頃の先遣隊みたいなもんだろ。奈良湖の干拓事業をしたんじゃね。
586 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:37:39
>>579 >”ゆるやかな連合”というのは一般人に理解出来ないようなわけの分からんものなのですか?
俺は「理解できない」とは思わないが、君を見てると、理解しにくい概念なんだろうなと思った。
伊作さんは
ジョーカー氏に言われまくって そろそろ涙目になってないかい?w
589 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:44:17
>>585 >神武天応のは東征だ。倭国乱の頃の先遣隊みたいなもんだろ。奈良湖の干拓事業をしたんじゃね。
じゃあ卑弥呼は誰なんだよ?
590 :
2浪中:2011/02/12(土) 21:45:06
>>583、
>>584 だから、そのゆるやかな連合が何故邪馬台国の所在につながるのですか?
>出現期の古墳はきわめて画一的な内容をもって、それら広い範囲の地域に代わって現れる。
まるで、卑弥呼の墓が出現期の古墳であるかのごとき口ぶりですが、そうなんですか?
出現期の古墳の年代ははっきり分かっているのですか?
591 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:46:53
>>579 早漏中
逆に聞きたいのは
じゃあヤマト王権の登場とヤマト王権が中央集権国家を形成した時代っていつって考えている?
(受験用の知識の中には無いのかな?)
登場するなりいきなり全国に覇を唱えたなんて考えていないだろう?www
592 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:49:45
>>590 邪馬台国以前から、西日本全土は、交易で結ばれていた。
だから、九州だけで邪馬台国が完結するような状況ではなかったということ。
邪馬台国が九州にあったとしても、「東の倭種はわけわからん」だなんて話にはならないの。
九州説だと、矛盾するわけ。
593 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:53:45
>>591 逆に聞き返したりせずにまともに答えたらどうだ。他人を罵倒するだけが生き甲斐なのか?同じ畿内説者として恥ずかしいぞ。
「邪馬台国節♪」二番
倭で繁華な 九州は〜
真珠に シルクに 丹翡翠〜
支那に媚売る お婆さん〜
伊都国 投馬国 邪馬台国
全てその数 十四万戸〜
なんだとコンチキショウで 一大率さん〜
詭弁に捏造に カッパライ〜
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで〜
パイノパイノパイ〜
パリコとパナナで〜
フライ フライ フライ〜
595 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:54:21
しかしこの板にいる年配の方は若い方に向かって平気で『おまえ、そうろう』よばわりかよ。
若者のレス見てごらん。恥ずかしくないのかね。丁寧なレスで論理的に話してごらんなさいよぉ〜。
596 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:56:16
と言うかね、スレの趣旨外してしまうかも知れんが
もし「緩やかな連合体」なんて状態をすっ飛ばして支配体制確立できたんだったら
仏教の導入やら冠位十二階なんて官僚機構の整理、律令制なんて法体系による支配 その他数々・・・
中央集権体制を固める為の様々な試み
(無論それに対して抵抗する勢力もあり成功したものもあれば失敗したものもあるだろう)
がなされたのか?
もうね俺には歴史自体が理解できないものになるわwwwwwwwww
597 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 21:57:51
598 :
2浪中:2011/02/12(土) 21:57:56
>>592 レスを頂くのは有り難いのですが、それでは590の答にはならないでしょう。
599 :
伊作:2011/02/12(土) 22:00:02
>共通の形式の墳墓を営むようになったことを示しており、
>そこに共通の約束ごとにもとづいた連合関係が形成されたと想定される。
そこに共通の信仰的精神性に裏づけされた統一性が形成されたと想定される。
>九州説だと矛盾するわけ。
九州説・東遷説で何も矛盾はない。
出入り口のないところに「政権」が生まれ、
人・もの・文化の流れが、出入り口へ逆流する図を描く畿内説は矛盾だらけ。
あの・コンチキ図を持ち出した着想の域を出ない。
515は無視か…
601 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:05:47
>>599 で、関東まで遠征した先遣部隊は、どうして東海地方は無視したんですか?
質問の意味が理解できてないんだろうけど。
604 :
伊作:2011/02/12(土) 22:09:53
>同じ畿内説者として恥ずかしいぞ。
こうい人も畿内説にいるんだ。見捨てたものでもないな。
恥かき罵倒野郎の声だけがデカくて、
こういう人の声が小さい所が・いまいちではあるが。
605 :
伊作:2011/02/12(土) 22:12:29
>関東まで遠征した先遣部隊は、
>どうして東海地方は無視したんですか?
「関東まで遠征した先遣部隊」という文面から、
「東海地方は抜かした」と読めるのかい。
おそろしくも芸術的な読解だね。
606 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 22:13:10
ジョーカー
もう少し綺麗な語を使い、書きこめ。
607 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:15:11
伊作ってやっぱり30年前の知識しかないのかね?
608 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:16:53
とりあえず この 口先だけの遺作君が風呂敷広げるだけ広げて投げ出しちゃったネタを整理しておこうかな?wwww
● 恐らく邪馬台国論争のみならず日本の古代史すら一変させてしまう
邪馬台国の王都とやらの所在地
● 卑弥呼の鬼道が道教と断定できてしまう根拠
● 九州勢による関門海峡の物流をコントロールし
列島w支配を目論んだという根拠
● 3世紀半ばには不可能だった巨大古墳が4世紀になると可能になった
その可能にせしめたものは一体なんだったのか?についての物理的・科学的・心理学的な説明
609 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:18:27
しかしまあ、ジョーカーも以前と比べれば丸くなったな。
わりと当たり障りの無い事しか書かなくなったとも言えるが。
うぉぉぉー
YAHOO!掲示板から来た「伊作」て
向こうではそれなりに知名度のある人が議論負けしてるぞ!!!!
みんな来い、来い
611 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:19:52
>>605 東海地方を先遣隊は無視してないなら、
東海地方で、先遣隊はどういう活動をしたのですかな?
先遣隊の存在を仮定した以上は、立証するための説明義務がありますよ?
>>590 > だから、そのゆるやかな連合が何故邪馬台国の所在につながるのですか?
「ゆるやかな連合が邪馬台国の所在につながる」なんてこと言ってないケド。
> ”ゆるやかな連合”というのは一般人に理解出来ないようなわけの分からんものなのですか?
と言うから書いてみたんだけど、どうなの?
613 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:21:07
>>609 えええ? 芸風的には変わってないと思うんやけどw
どのへん丸くなったん?www
>>596 仏教の導入〜律令制は、
やまと的統一から中国的統一へと移行では
615 :
伊作:2011/02/12(土) 22:23:23
606 それと。
何か一つでもいいから、論理的に立論してほしいね。
否定文言かき立てるだけで、はがゆさを罵倒に変換してるようだ。
yahooにも似たタイプがいるが、精神的に未熟なところがあるのだろう。
正当な批判と不当な批判の見境いがついていない。
616 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:24:40
伊作は、もうゴロボロだねえ。
見ててかわいそうになるし、ほっといてもいいんだけど、
こういうバカがいるかぎり、2浪みたいな人が九州説に夢みちゃうわけだしなあ。
617 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:25:25
>>614 その「やまと的統一」ってなんなんだよw
それこそが(大げさに言えば現代の日本の政治土壌にすら通じる) ゆるやかな連合体 ッてことじゃないのか?wwwwwwww
618 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:25:36
■象鼻山古墳群に専門家ら持論 養老町でシンポ
岐阜新聞 2011年02月12日
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110212/201102120944_12943.shtml 象鼻山古墳群シンポジウム「邪馬台国時代の象鼻山〜古墳出現の背景を探る〜」が11日、養老郡養老町石畑の町民会館で開かれ、発掘の成果を踏まえて専門家が同古墳群について意見を交わした。
町教育委員会主催。同古墳群は同町橋爪の象鼻山にあり、70基の墳墓が分布。
調査によると、主に2世紀中ごろ(弥生時代後期)から5世紀後半(古墳時代中期末)に造られ、2世紀中〜後半には大規模な造成も行われていた。他に例がないとして注目されている。
シンポジウムには400人以上が参加。兵庫県立考古博物館の石野博信館長、愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎副センター長、国際日本文化研究センターの宇野隆夫教授が講師を務めた。
町教委の中島和哉学芸員が基調報告し、3人が専門分野から同古墳群について考えを述べた。
ディスカッションで赤塚氏は
「東西の土地柄の境目となるこの場所で、新しい時代を迎えた先祖が結束し新たな決意をした場所では」
とし、かつて邪馬台国と争った狗奴国(くなこく)が濃尾平野にあったとの考えを示した。
地域における古墳群の在り方について宇野氏は
「遺跡は守るだけではない。活用できる空間にして」
と助言した。
・象鼻山古墳群について考えを述べる専門家=養老郡養老町石畑、町民会館
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110212/201102120944_12943.jpg
>>590 > 卑弥呼の墓が出現期の古墳であるかのごとき口ぶりですが
そんなこと言ってませんよ。
そんなふうに受けとめるのは、あなたの先入観・偏見のせいじゃないですか。
もう少し真摯に、他者の説を理解した上で自説を構築しようとしているんだと期待しているんですけど。
ただディベートのためにそのハンネを使ってるんですか?
620 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:29:33
伊作くん
君が追い込まれて鼻血出そうなのは察するけど、
自分のまいた種だからしょうがないよね。
>>605 東海地方を先遣隊は無視してないなら、
東海地方で、先遣隊はどういう活動をしたのですかな?
先遣隊の存在を仮定した以上は、立証するための説明義務がありますよ?
621 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:29:33
緩やかな連合なんてあったのかな。
それぞれの土地でそれぞれの勢力がいただけのような。
そのなかで利害関係が制約されるような
協定というか連合は、そう簡単にはまとまらないよ。
ある意味宗教的な、人畜無害な、利益と衝突しない繋がりからじゃないと
各国とも、そもそもテーブルに乗ってこない。
そこは話し合いの場が設けられただけというだけの話。
戦争している勢力同士でも、そこでは話ができたというだけ。
もちろん無いよりははるかにマシ
622 :
伊作:2011/02/12(土) 22:31:08
>東海地方で、先遣隊はどういう活動をしたのですかな?
>先遣隊の存在を仮定した以上は、立証するための説明義務がありますよ?
はははー。畿内説特有の手法だな。
自論はなるべくいわず相手にいわせ。そこへ攻撃をしかける。
その手には乗らんのだよ。
いま・東海の遺跡や歴史動向の話でないことはわかってるだろう。
むしろ。こっちが詰問した
「2〜3世紀においてヤマト政権が育つような
瀬戸内海と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」に返答を求める。
とぼけてるようだが、はぐらかすなよ。
>>599 > 共通の信仰的精神性に裏づけされた
そう、それが「鬼道」であっておかしくありません。
>>617 やまと的統一は、必ずしも西洋や中国みたいに武力統一や絶対権力じゃないかも知れないって事だよ
625 :
伊作:2011/02/12(土) 22:34:25
>伊作は、もうゴロボロだねえ。
>君が追い込まれて鼻血出そうなのは察するけど
これまもまた、畿内説特有の「みせかけ」発言な。
何一つロンバできず、罵倒文言をならべたあとで、勝利のポーズ。
Yahooでも、4〜5年前まではまったく同じだったぜ。
626 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:37:22
Yahoooの掲示板とか覗かないんで教えて欲しいんだが
この伊作とか言う馬鹿はそこでもやはりこんな 九州無敵東征軍団大勝利!みたいな基地外電波飛ばしているのか?
627 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:39:03
>>622 東海地方の弥生時代後期の様子も知らないってことだろ?
先遣隊だのなんだのと、ホラをよくふくわ。
>瀬戸内海と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」に返答を求める。
君は九州が関門をふさいでたって言うんだろ?
だったらそれでいいんじゃない?
ゆるやかな連合とは関係ない話し。
628 :
伊作:2011/02/12(土) 22:39:41
587 :日本@名無史さん
>伊作さんは ジョーカー氏に言われまくって そろそろ涙目になってないかい?w
これもそうだな。刷り込み勝利のポーズ。
「言われまくって涙目」になるようなタマが、一人で乗り込んで孤軍奮闘するかー。
お前に俺のマネができるか・んー? こもの
>>608 ヨコから
> 卑弥呼の鬼道が道教と断定できてしまう根拠
鬼道が道教でもいいんじゃない?
私的にはソレ賛成なんだが・・・。
箸墓が卑弥呼の墓であろうがなかろうがかまわないごとく、
三角縁が魏鏡だろうが国産だろうがかまわないごとく、
根拠が「二種の神器」か「モモの種」かでなら綱引きすればいい。
630 :
伊作:2011/02/12(土) 22:43:16
「2〜3世紀においてヤマト政権が育つような 瀬戸内海と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」
返答できないようだな。じゃこれこそ勝負ありだ。
返答に詰まると、人格攻撃ってのがパターンだが、ここでもそうか?
そういえば、東海でどこよ。おしえろ
631 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:44:37
>>630 >そういえば、東海でどこよ。おしえろ
はぁ?
632 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:44:39
孤軍奮闘…ハンネ変えながら涙目になる事かな?
ジョーカー氏(ホーム)vs伊作氏(アウェイ) を眺めるに
第三者的な公平な目でしても伊作氏の議論まけは確定かと・・・
634 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:46:20
東海も知らないで喧嘩売りに来たボケナスとは恐れ入った。
635 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:47:58
そもそも関門海峡物流をコントロールして列島支配を目論んだなんてお話は
少なくともある時期それまで潤沢に流れていた物資が急激に減少し
(もともと殆ど流れて無ければバルブを閉めても意味がない)
それにリンクして九州からの勢力の東進のような現象があった事を示しでもしなければ
完全な与太話 wwwwwww
「関門海峡と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」というのが
このバカ作にとっては超哲学的な命題らしいが
全く無意味な言葉の羅列。
しかしコイツ科学的だの物理的だの心理学的だの哲学的だのって語が好きだなwwwwwww
(縄文人にも同じ傾向があったがw)
中身がついていっていないむしろそう言った素養がないのが丸分りだというのが悲しいところwwwwwwwww
636 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:48:20
景行天皇のところのヤマトタケルの熊襲退治の話だけど、
通説では景行天皇は1世紀から2世紀の人だよね。
でも、弥生後期は別としても、弥生中期は文句なく
九州の国家が発展していて、互いに戦争もやってたのは
吉野ケ里を見ればわかるとおり。
そんな中に、軍隊を引き連れて、筑後?熊本?あたりまで来れるものだろうか?
とりあえず、ここに辿りつくまでが、戦争の連続だし、九州に拠点を建てるのも
大事業だろう。
そんな話を省いて、ヤマトタケルの話だけ書くものだろうか?
軍隊を持たない家族程度のただの旅行者なら、適当な金でも払えば
通してくれるかもしれないけどね。
新興国のマキムクから見る「ゆるやかな連合」とは、外来土器の分布から伺われるということで良いのかな?
638 :
伊作:2011/02/12(土) 22:53:48
>Yahoooの掲示板とか覗かないんで教えて欲しいんだが
>この伊作とか言う馬鹿はそこでもやはりこんな
俺が教えてる。
掲示板での口論テクニックも古代史に関する知見も知識も、
こことは格段レベルが上の連中が集まってるところだ。
知ってる奴は敬遠して覗くだけにしてる。
で・つまみ食いしてはこったにもってきて吹いたのもいたんじゃないか?
で・56年かがりで、孤軍奮闘してだいぶ静かにさせた。
手のつけようりないきちがいじみたのがかき回して質をおとしてるがな。
俺がここにきた当初「レベルが低い」といったのは正しかった。
あらゆる面でレベルが低い。この俺にやっかむようじゃ知れてるぜ。
639 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 22:54:38
>>638 伊作くん、東海がどこか、ググってきたかい?
>>636 ヤマトタケルの熊襲討ちは暗殺だろ
東国行きも少数っぽい記述だ
641 :
伊作:2011/02/12(土) 22:55:14
>第三者的な公平な目でしても伊作氏の議論まけは確定かと・・・
というだけの中庸な見識と公平な目をもってる所を書き込みで見せてくれたかね。
やいすプロパン抜かすな。
642 :
伊作:2011/02/12(土) 22:56:43
>伊作くん、東海がどこか、ググってきたかい?
うん。琵琶湖のあたりだろ。
その格段レベルが上の連中が集まってるヤフーから来た
伊作がここの連中にボコボコにされてるのには笑えたww
644 :
2浪中:2011/02/12(土) 23:00:06
>>619 >> 卑弥呼の墓が出現期の古墳であるかのごとき口ぶりですが
>そんなこと言ってませんよ。
>そんなふうに受けとめるのは、あなたの先入観・偏見のせいじゃないですか。
じゃあ、あなたが述べられたことは卑弥呼の時代とは関係ないことなのですか?「ゆるやかな連合」が(卑弥呼の)邪馬台国畿内説の根拠
であるならば、その「ゆるやかな連合」の根拠となる話も卑弥呼の時代の話だろうと思ったものですから。聞いて悪かったですか?
645 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:00:26
>>640 だよね。
ヤマトタケルに限らず神武神話でも
余り人数が多いような描写は無いんだ。
これは記紀編纂者が戦の経験がなくて
書けなかっただけかもしれないけど、
実際のところ、大軍による支配などはなくて、
暗殺や奇襲によって「アタマをおとす」のが
案外メインの手口なのかもしれないなと思うこともある。
646 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:00:36
>642 :伊作:2011/02/12(土) 22:56:43
>>伊作くん、東海がどこか、ググってきたかい?
>うん。琵琶湖のあたりだろ。
伊勢遺跡のあるとこ?
急造の「ゆるやかな連合」の説明まだか?
648 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:03:20
>>638 ボケ作
まあそんなにレベルが低いんなら、とっとと元の巣にでも帰ってもらえないかな?
こっちはこっちでお前みたいな与太飛ばす奴にはもう飽き飽きしている。
仮にネタとして楽しむにしても新機軸のようなものも何も無い。
今じゃ2ちゃんねるも全体に丸くなった印象だが
昔なら「過去ログ読んで来い」で片付けられてしまうような内容。
お前が根拠を求められるのが嫌なのは
ストーリーを編み出す為のネタはイッパイ集めていても
肝心なそれが事実として蓋然性を持つ根拠がないからだw
例で言えば
仮に卑弥呼の鬼道が道教そのものであったなら
そりゃその習得には中国語ネイティブが有利で中国人あるいは帰国子女と言う話もありうるだろうが
それもこれも先ず「鬼道が道教そのもの」であるという根拠を示す事。
お前にすれば 道教について色々ネタを集め一生懸命絵を描いたのに
それについて語られず その前の話に終始されるのが嫌なんだろう?w
自覚症状は無いかもしれないがお前凡そ学問的な話題の議論には向かないわwwww
例え2ちゃんねるのような場でもだwwwwwwww
649 :
伊作:2011/02/12(土) 23:04:46
>このバカ作にとっては超哲学的な命題らしいが 全く無意味な言葉の羅列。
理解できないと、ぎゃーぎゃーわめく。
返答できないと、びーすかいう。
まずいと思ったら罵倒でごまかす。
形勢不利とみたら、大声を出して仲間をよび集める。
さんぴん同然のタマだな。
産品なら使い途があるが、燃えないゴミじゃ扱いようがないぜ。
650 :
水銀厨:2011/02/12(土) 23:06:46
>>629 私も鬼道=初期道教説に賛成で、△国産説ですね。
元々水銀朱の存在を根拠にしてましたが、
巻向から桃の種か大量に出土した点も、
説を補強する点です。
>>645 アタマが落ちれば国滅ぶ、それが脆弱な古代政権ってとこなんだろうな
奈良朝くらいになると朝廷や天皇そのものを落とそうなんて輩はいなくなる
652 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:09:27
>>649 空しい言葉の羅列に自己満足するピエロの 慰作くん
だからだね君、ゴミ作君。
「関門海峡と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」云々ほざきたいのなら
先ずその両者で使われ方・支配のされ形に如何なる違いがあるのかを説明するのが筋だろうって話だよ?
ニホンゴワカリマスカ?分らなかったらママに…いやお孫さんにでも聞いてくれwwwwwwwww
653 :
伊作:2011/02/12(土) 23:11:31
>お前が根拠を求められるのが嫌なのは
返答の仕方にもいろいあろう。
とてもこのスペースじゃ説明し切れないから、わざわざ所在を提示してるのに、
細かく見ることもせず、ここで提示しないことをあげ足して、
さも返答できないかのようにいう。
それで勝ち誇ってるようだが、それだけのことだろう。
お前たちのいっていることは。議論とその内容と質ととは無関係だ。
観察していると、まるで、
ここで畿内説の勝利を叫ぶことが目的であり仕事のようじゃないか。
ま・ふあっちでも似たりよったりだったが、
それだけに、ある程度組織的なプロパガンダ活動の匂いするぜ。
ま・ここには学芸委員とか研究機関の下っ端職員がまじってるとは思わんがのぃ。
654 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:11:59
伊作くん
君は東海を琵琶湖周辺としたが、それで、先遣隊は何をしたのかね?
655 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:16:10
>>651 景行天皇も暗殺者みたいなもので
九州にそっと侵入して、ヤマトタケルのような人間を通して
落として言ったのかもしれないね。
アタマを落とすと国も滅ぶような描写なら
卑弥呼もそうだね。
卑弥呼が死ぬと国が乱れた。
台与を立てて何とか立て直したみたいだけど。
656 :
伊作:2011/02/12(土) 23:16:39
>「関門海峡と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」
>云々ほざきたいのなら
>先ずその両者で使われ方・支配のされ形に如何なる違いがあるのかを
>説明するのが筋だろうって話だよ?
てめえらが、ユマト政権が滑ったの転んだまいうから、俺が詰問してるのだ。
話にならんことをゆってる自覚もないのか。
よってたかって誰も返答できず、そんな理不尽いうしか手がないらしい。
じゃ・勝負ありだ。
657 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/12(土) 23:16:51
九州の土蜘蛛弱小国家が東征したとか東遷したとか言っている人は多祁里宮と高島宮がどこにあるかしめして欲しいですね。
大遠征軍ですから大規模な兵站基地の遺跡があるはずですよね。どこにありますか?考古学的物証はどこにもないでしょう。
何時になったら、関西説を裏付ける3世紀の「ゆるやかな連合」の説明になるんだ。
659 :
伊作:2011/02/12(土) 23:18:38
>先遣隊は何をしたのかね?
琵琶湖でわかさぎのよーしょくと、
しじみの
おすいものづくり。
660 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:20:25
まあ、ある程度後世なら、屯倉とか作っているんで
兵站の必要性は分かっていたんだろうけど、
それ以前は、支配してないので作れる状況になかったか、
そもそも大軍を動かさなかったということだろう。
661 :
2浪中:2011/02/12(土) 23:21:05
>>584、
>>596 国家の形成過程においてあなたの言われるような「ゆるやかな連合」で形容されるようなことはなかったと言っているわけではありません。
問題はあなたの言われる「ゆるやかな連合」が何時の時代のことかなのです。ゆるやかな連合」が卑弥呼の邪馬台国の所在についての根拠
になるのならば、その時代を明確に示してもらわないと納得できる筈がないでしょう。
倭人伝によれば、卑弥呼が倭国の王に立てられる前には倭国乱があり、王になった後にも狗奴国との争いがあり、死んで男王が立ったら千
人もの死者がでる争いがあったとされます。大陸では黄布の乱以降三国間の戦乱の時代であり、半島も平和ではありませんでした。そうい
う時代の中に卑弥呼の倭国は存在したのです。あなたの「ゆるやかな連合」はその倭国に相応しいですか?
662 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:21:21
>642 :伊作:2011/02/12(土) 22:56:43
>>伊作くん、東海がどこか、ググってきたかい?
>うん。琵琶湖のあたりだろ。
>659 :伊作:2011/02/12(土) 23:18:38
>>先遣隊は何をしたのかね?
>琵琶湖でわかさぎのよーしょくと、
>しじみの
>おすいものづくり。
それを、作ってどうしたの?
>>655 そう考えると、漢委奴国王〜倭国王帥升〜卑弥呼〜大和朝廷 と王家が継続しているとするのも無理がある
中国から見れば全部倭国王なんだろうけどな
664 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:25:13
そもそも関門海峡のバルブを〆てどうやってヤマトを困らせたんだ?w
例えば元々鉄ビンボーなヤマトにとっては鉄資源画は言ってこなくなって困ったなんて事があったのかな?ww
逆に俺がこのアホの熊襲ヌケ作君に変わって神武をやるなら
むしろ鉄資源入手のルート・鉄加工の為の技術持った工人らを手土産に
エサでヤマトの人間を釣るがwwwww
日ごろ舶載品の圧倒的優位を喧伝してヤマトの鉄ビンボーとかをあげつらってはしゃいでいるのに
そう言う発想はないのかねえ?wwwwwww
665 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:26:12
>>661 なるほど、2浪くんの気持ちがわかってきたよ。
魏志倭人伝には「大乱」とあるから、
”ゆるやかな連合”はいかにも牧歌的で、”ゆるやかな連合”は、卑弥呼共立にそぐわない、
そう言いたい訳か。
でも、一度友達になった人でも、何かのきっかけで大喧嘩して、後で仲直りってこともあるじゃない。
666 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:27:55
>>663 まあ、いちおう景行天皇は大和朝廷の人間だという前提で書いたけど、
「実は景行天皇は筑後の人で、隣国の邪魔な熊曾をヤマトタケルを
潜入させて落とした」
というのが一番シンプルな考えだったりするけど、
ツッコミが激しそうなので、穏当な通説の方を採用してみました。
667 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/12(土) 23:28:04
古墳時代の大和朝廷の皇后は九州出身者が1人もいません。古墳時代の九州の女性はブサイクで愚か者だったのでしょうか?
そうじゃないでしょう。最初から大和朝廷は九州を起源とする王朝ではないから皇后に九州出身者が1人もいないのです。
>>644 > あなたが述べられたことは
「”ゆるやかな連合”というのは一般人に理解出来ないようなわけの分からんものなのですか?」
と言うから書いてみたんだけど、どうなんですか?
>>665 烏合の衆だからこそ、何かあればすぐ乱れる訳で
また次の王を全会一致か多数決で共立するまではゴタゴタが続く
670 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 23:31:06
>>509 マシの動機が「道臣命在世記」のどのへんに書かれているのか?
はっきり明示しろ。
卑弥呼の時代に、九州を取り込んだ「ゆるやかな連合」が成立していることが実証出来なければ、邪馬台国関連の話にはならない。
1週間前からROMってますが、ここは非常に興味深いスレですね。
ゴミクズ畿内説のアホさ加減がとてもよくわかります。
邪馬台国畿内説を本気で信じている学者は実はほとんどいないというようなことを小耳に挟みますが、
ここを見ているとその理由もよくわかる感じがします。
とくにwww(ジョーカーとやら?)は精神病理学の研究対象としても非常に興味深い存在です。
是非直接お目にかかって精神病理研究の被験者となっていただきたいものですね。
673 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:33:44
>>661 二浪厨
>あなたの「ゆるやかな連合」はその倭国に相応しいですか?
相応しいこれ以上ないくらいピッタリだwwwwww
出入りに明け暮れ玉取り合ってもう共倒れしかないような状況でかりそめの手打ち。
どいつを連合の頭に据えるかもめて結局何処ぞの組の年とった姉さんにして落ち着く。
(無論どいつもコイツも空きあらば俺がいつかトップに…と腹の中で思っているのは当たり前)
※BGMは仁義なき戦いのあれwwwwwww
言っておくが「ゆるやかな連合」とか言っても人道的民主主義的な和気藹々な組織をイメージしている奴はいないからなw
年代観のお話はもうパスさせてくれw
今の教科書なら「古墳時代は4世紀から」なんて書いてないはずだぞ?
先生にでも聞いてくれwwwwwwwwww
674 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:35:11
>>672 >邪馬台国畿内説を本気で信じている学者は実はほとんどいないというようなことを小耳に挟みますが、
よっ、ベテランの通りすがりの人wwwwwwwwwww
675 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:36:59
景行天皇が4世紀だとか誰か書いてたような気がするけど、
久留米の高良大社(玉垂宮)は景行天皇の創健となっていて
創建年代が4世紀なんで、4世紀だと都合がいいんだな。
4世紀説、信じていいのかね。
676 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 23:37:24
>>672 ジョーカーはまだまだマシだよ。w
奴より
>>509というマシのほうが被験者候補にピカイチだぞ。
677 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:37:33
ヤフー掲示板は、悪口雑言罵りあいのレベルでは、2chより圧倒的に上。
まあ、本当に見るに堪えない。
あそこに書きこんでる人って、ああいうの平気なのかな。麻痺してるのかな。
「共立」という言葉からは、王が絶対権力者だというイメージは抱けない
魏もそう認めたからこそ「共立」って言葉で表したんだろうし
679 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 23:39:47
>>675 倍年暦法の逆算では
景行即位元年=293年
景行没年=322年
680 :
2浪中:2011/02/12(土) 23:42:01
>>665、
>>668 >なるほど、2浪くんの気持ちがわかってきたよ。
いえ、分かっておられません。
>「”ゆるやかな連合”というのは一般人に理解出来ないようなわけの分からんものなのですか?」
>と言うから書いてみたんだけど、どうなんですか?
一般人は「「ゆるやかな連合」が卑弥呼の邪馬台国の所在についての根拠 になるのならば、その時代を明確に示してもらわないと納得できる筈がないでしょう」から、
「一般人に理解出来ないようなわけの分からんものなのですか?」とお尋ねしたのです。
>>650 > △国産説ですね。
私的には魏鏡説です。
水銀厨さんに初めてレスつけられましたね。
ひとつ質問なんですが、
水銀朱って交易品にはなるんでしょうかね?
以前
>阿波系土器が広範囲に拡散するのは、阿波の商人が壺に朱を入れて、各地に売り歩いたから、とされる。
と言われましたが、拡散した地域ってどこですか?
東海方面には行ってるんでしょうか?
もしそうなら、列島内交易拡大説も説得力がでてくるかも。
682 :
伊作:2011/02/12(土) 23:46:30
さて。ジョーカーくん。まじめな話だ。
名誉毀損と侮辱罪は民事ではなく刑事だ。
刑事で立証されれば前科という「おまけ」がく。
官憲の調査が職場にもおよび、家庭の周辺にも噂がおよぶ。
どちらが勝とうが負けようが、そんなことは問題じゃない。
そうなれば、幾ばくか持てるものを失うことになるだろう。
純粋かつ崇高な行為であるはずの古代史研究の世界が、
かくも醜いことを世間に注目してもらうのに、大騒ぎするのも悪くはないが。
互いに慎んだほうがいいと思うぞ。
683 :
673:2011/02/12(土) 23:46:30
まあ質問に答えたんだしこっちにも質問させてもらえるかな
>673でも言ったが今の教科書なら
「古墳時代は4世紀から」
なんて書いてないはず。
むしろ
「昔って”古墳時代は4世紀から”学校で教えてたそうですがそれってどんな根拠だったんですか?」
って聞かれそうなもんだがwwww
実際、授業でなんて教わった?
684 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:48:26
>>680 ゆるやかな連合の時代を聞きたいの?
日本中のクニが、ある時期に一斉に「みんなでゆるやかな連合を組みましょう」なんて連合はしないでしょ。
それはもう、縄文時代からのつながりで結びつきが徐々に深まっていったんでない?
たとえば、糸魚川のヒスイが他の土地から出てくれば、交易があった=安全な人の行き来があった=ゆるやかな同盟関係があったってなるじゃない?
ならない?
685 :
伊作:2011/02/12(土) 23:49:10
>魏もそう認めたからこそ「共立」って言葉で表したんだろうし
倭国が歴代の中国王朝に、実質的に臣従してきた事実はないよ。
そこの所の誤解を解かないと。
686 :
2浪中:2011/02/12(土) 23:50:15
>>673 >年代観のお話はもうパスさせてくれw
>今の教科書なら「古墳時代は4世紀から」なんて書いてないはずだぞ?
>先生にでも聞いてくれwwwwwwwwww
年代が肝心なところでしょう。お逃げになるのですか?今の教科書に書いてあることは正しいですか?
あ〜つまんない。もう今日は失礼します。
687 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/12(土) 23:50:19
倭国大乱に疲弊した日本国内の海人族系の豪族が集まって会議をした。(たぶん三種の神器の勾玉が出た京都府亀岡市で)
集まったのは海人族系の豪族の安曇氏、久米氏、宗像氏、越智氏、津守氏、尾張氏、海部氏、大倭氏、吉備氏、息長氏、
阿倍氏、和珥氏、春日氏、中臣氏の御先祖にあたる人達です。その会議で豪族連合の長に卑弥呼を女王として擁立した。
>>684 で、ここで問題になっている、邪馬台国時代では、「ゆるやかな連合」がどの範囲であると実証されるかということだ。
>>684 それに古墳祭祀とかの共有も必ずしも押し付けではなかったかも知れない
前方後円墳だって、基本形は保ちつつもある程度自由な形が見られる訳だし
690 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:53:39
>>682 森村伊作
うざい、しつこいぞお前。
そんなに行儀の良いのがお望みならお前がとっとと消えろ。
はっきり言って語調を改めて相当まじめに論争してもお前に勝ち目なんかない。
九州無敵軍だの東征劇(先遣隊の山陰征服のおまけつき)なんてリアルじゃもうネタでしかない。
それが現実。
691 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:56:24
>>688 邪馬台国の時代なら、ほとんど西日本全体となるんじゃないの?
熊襲の南九州は外れていたかもわからん。
693 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 23:57:51
>>686 二浪厨
別に俺が逃げたというのは構わないが
教科書に書いてあるその根拠を調べてみろ。
そして昔の教科書からどうして変わったのか?
なんでもかんでもこんなところで教えてもらえると思うなよwwwwww
まあ正直お前は一生納得しないと思うがwwwwww
>>590 卑弥呼の墓は古墳でいいんじゃない?
だって径100歩以上あったんだよ、そう倭人伝が記録してくれてる。
そんな大きな墓は弥生時代の九州には全くみつかってないし、
これから見つかるとも思えない。
やっぱり卑弥呼の墓は古墳なんだよ。
むしろ倭人伝を信用する立場なら卑弥呼の墓は古墳だと積極的に
考えた方がいいんじゃない?
九州の中核を含む広域を、新興国のマキムクを中心に連合化していたのか?
邪馬台国連合を除く地域が、マキムクを中心に「ゆるやかな連合」を進めて行ったのか?
いすれにせよ、確証を示しての上だが。
696 :
伊作:2011/02/12(土) 23:59:32
>お前がとっとと消えろ。
それほど長居する気はもともとない。
いる間は行儀よくしてくれといいな。
本題とは無縁の無礼な文言が多すぎる。
697 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:01:35
>>692 九州の銅器も瀬戸内海西部に流通してるしな。
九州説に話を合わせると、九州より東の地域は「よくわからん倭種」ということになるが、
実際は交流があったわけで。
698 :
伊作:2011/02/13(日) 00:03:54
参加したことで、
畿内説の牙城ともいえる「ゆるやかな連合」を潰すという
新たな論考テーマを頂戴した。にひひ
今日で参加から5日目だったか。そろそろ潮時ではあるな。
699 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:03:55
>>695 たのむから、考古学の本を開いて、2〜3世紀の倭国の様子について学習してくれ。
考古学の本を信用しないというなら、なにを説明しても無駄だから。
卑弥呼の墓を巨大古墳とするのは難しい
箸墓とか造るには30ヶ国からの労力拠出が要ったはずで、卑弥呼死後すぐに内乱になった点からしても無理
701 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:05:45
>>698 >畿内説の牙城ともいえる「ゆるやかな連合」を潰すという
>新たな論考テーマを頂戴した。にひひ
はい、また言質をとりましたよ。
「ゆるやかな連合」など存在しないか、いいねえ。その調子で我を張ってくれ。
他の掲示板でも、そのネタを振るといいよ。
702 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:07:29
古墳は古墳でも、
丸も四角も四隅突出も古墳だからな。
前方後円墳だけが古墳じゃない。
そういや三角形の古墳は見ないな。
>>680 > 「ゆるやかな連合」が卑弥呼の邪馬台国の所在についての根拠 になるのならば、
> その時代を明確に示してもらわないと納得できる筈がない
「ゆるやかな連合」がどんなものなのかわからない、というのではないのですね。
「ゆるやかな連合」を外来系土器の分布から導き出す人もいて、それもひとつの根拠なのですが、
上述したように、定型化した前方後円墳の出現が根拠のひとつです。
であれば当然、それがいつごろなのかが問題でしょう。
>>673が
> 先生にでも聞いてくれ
と言ってますが、センセイの言うことには、それが邪馬台国の時代だと。
というか本当にそんなことを聞きたいんですか?
もういちど言うけどディベートしたいだけならハンネをもどしてほしいです。
まず、マキムクと、伊都国を始めとする邪馬台国連合と密接な関連を示す物証があって話が始まる。
>>697 逆に交流が皆無と考えるのが無理で、利害が一致した緊密なグループになっているかどうかだろう。
705 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:08:38
>>698 ポン作
がんばれよw
俺が知る限り例え九州説をとなえている様な学者ですら
「ゆるやかな首長連合なんてありえない、まやかしだ!」
と言った奴はいないからなwwwwwwwww
まあ否定するだけじゃなく、じゃあそれに変わる正しい日本の歴史ー如何にして中央主権国家に向かっていったのか?−
について書いたほうが説得力あると思うがw
尚書き終えてもこの板に宣伝に来なくて良いからなwwwwwwww
706 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:09:34
緩やかな連合以前に、連合である必要がないしな。
卑弥呼の住んでる近所、30カ国(だっけか?)が
卑弥呼の存在を黙認すればいいだけの話。
707 :
伊作:2011/02/13(日) 00:09:46
>他の掲示板でも、そのネタを振るといいよ。
もう掲示板も飽きた。古代史研究の底辺の醜さだけが印象に残った。
「ゆるやかな連合」を四方固めで潰す論考に入る。
708 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:13:47
連合という定義が人によって違う気がする。
自分は豪族たちの意志の交流がある程度出来る程度の状態を
連合と考えているが、
豪族の繋がりはなく、ただ単に民間レベルの交易だけが
行われている状態も連合という定義なのか。
完全専制君主のもとで、各豪族が
完全に支配されている状態をさすのか?
>>703 外来系土器の分布とするならば九州が外れてしまうし、
定型化した前方後円墳の全国的な普及であれば後ろへずれる。
もっと確たる根拠があるはずでしょう。
710 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:15:43
>>707 >「ゆるやかな連合」を四方固めで潰す論考に入る。
ぜひお願いします!がんばってください!
いやぁ哀れな人だ。どうしたらこんな負け組み確定な底辺人生を歩めるのか。
711 :
神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/02/13(日) 00:16:13
>>700 卑弥呼の後に王を僭称した武埴安彦命の乱は瞬時に鎮圧されました。
塞曹椽史張政が日本に滞在している短期間の間に反乱は終わったのです。
712 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:16:40
>>708 いやそもそも首長層がノータッチで「民間レベルの交易」なんてものがあったのかどうか・・・
>>709 > 外来系土器の分布とするならば九州が外れてしまうし、
九州でヤマト系どきは出ていない?
> 定型化した前方後円墳の全国的な普及であれば後ろへずれる。
どのくらい?
>>712 単に職業ではなくて、そういう通商を生業とする氏族がいたかもだな
秦人とか商人じゃん
715 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:19:04
>>712 身の安全が保障されないと、
他のムラから他のムラへ行商にいっても、身ぐるみはがされて終わりだよな。
>>713 関西説が想定しているマキムクでの外来系どきの分布状況は?
どのくらい?
卑弥呼の共立時に連合を実証できるほどに、全国的な普及がなされていたと?
>>717 巻向に土器を残したのは労力を出した国だけだから
でもあのシンメトリな建物配置は中国伝来のものだろ
吉野ヶ里とかにはそんな発想は無い
719 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 00:33:02
>>715 だいたい行商なんて、その土地にない必要なものを持ってくるものだから、
身ぐるみ剥がしたら、「もうこねえよ」で、その土地の人間も困ると思うよ。
「ゆるやかな連合」がこんなにはやるなら、
?→東瀬戸内→関西
の「ゆるやかな東遷」も、はやらせてもらいたいものですね。
しかし俺がいまだに理解に苦しむのはなんでこの板のゴミクズレベル九州説が
みな「ゆるやかな首長連合」に噛み付いてくるのか?w
そもそも手前らが考えている九州邪馬台国とその30各国がそうじゃないのかとw
力で抑えられたらなんでヒキコモリの婆さんを担がにゃならんのよ?wwwwwwwww
あと細かい話だがw
だれも「師升」を個人名として「師升等」までを個人名としない。
つまり通説通り「師升等」を”師升と愉快な仲間達”としているわけだがw
絶対的な地位を持っていた王が「〜等」って書かれるのはどうよ?って話だがw
中国史書の習慣(?)としてどうなんだろう?
オンリーワンの王なら「等」とは書かないんじゃないかと思うのだが…
文献屋さんに教えを請うw
外来系土器の分布状況で政治的な連合を知る作業は、コーチの財布分布状況で
国際連盟の状況を知ろうと言う行為に等しい
>>722 九州へのヤマト系どきの流入も、全く意味がなかったということになったわけだ。
コーチの財布とちがい土器は作る人も異動した結果だってこと
>>721 一人で本州説をゴミクズレベルにしてしまってはいけない。
誰か能力のある人が「ゆるやかな首長連合」で邪馬台国問題を説明できるはず。
「共立」なんだから絶対権力でない事は言わずもがな
>727
流入元は西から東に移って行った感じだな
>>709 > 外来系土器の分布とするならば九州が外れてしまうし
>>717 > マキムクでの外来系どきの分布状況は?
そうか、あなたは(同一人物なら)纒向で出土する土器を連合の根拠とみているんだ。
>>703で
> 「ゆるやかな連合」を外来系土器の分布から導き出す
と言ったのは、
列島内での外来系土器の分布から人の移動・交易が想定され、
各地域の結びつきをみることができる、
といいたかったのです。
>>729 おっ、するどい。
外来系土器の流入だけでは「ゆるやかな連合」の証拠にならん
むしろ絶対権力で巻向建設に動員したととるほうが自然
>>729 > それから問答の流れで、どのように考えるかということ。
あれ? ひょっとしてまたカン違い?
>>722>>723のことを言ってるのかな。
だから一応「定型化した前方後円墳の出現」を優先させたんだが。
てか、もう寝る・・・
733 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 01:17:50
>>731 巻向以前の、唐古・鍵からも外来土器出てるけど?
734 :
水銀厨:2011/02/13(日) 02:21:18
>>681 >私的には魏鏡説です。
厳密にはオリジナルが魏鏡が少数ある、という考えですが。
あくまで推測です。
倭国の水銀朱が交易品になるのは、倭人伝の記述からも判るように、
当初は主に対大陸から需要だと思います。
その後道教的な思想が広がるにつれて
国内各地へも配布される、という風に考えてますが。
国内では前方後円墳が拡散する範囲ではないでしょうかね?
天神山古墳のように水銀朱が埋葬主なんて墓もあった事から、
前方後円墳=壷をモチーフ、なんて仮想したりもしてましたが。
735 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 10:53:01
土器の移動は物資の移動を示しているね。
入れ物じゃなく調理器具じゃ無いの?
737 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 11:42:54
ただいま。熊本出張楽しかった。
鏃が沢山出土する場所を見つけた。
阿蘇南外輪山の南側で、南外輪山から延びる尾根です。
この地域は山都町という地名です。
古代の道は、自然にできるケモノ道を活用したと思われ、
阿蘇南外輪山の頂上を貫く道(現九州遊歩道)は、九州を東西に異動する際
大変便利だっただろう。
そういう幹線沿いに戦いがあったということは、国対国の大規模な戦があったと
推測できる。
古代の戦…倭国大乱・邪馬台国対狗奴国・熊襲征討…
方保田東原からも山陰、瀬戸内系土器が出ています。
鉄のネットワークと関連があるのでしょうか?
>>731 在地勢力の相互交流(ゆるやかな連合?)から、外来勢力による集中管理へと構造変化が起こったということ。
>>737 うらやましいです。俺も九州に旅行に行きたいです。一度阿蘇とやまなみに
行った事がありますけど良いトコでした。
先生がいう所の道は325号あたりですか。勉強になります。
邪馬台国は九州北部辺りが怪しいのではないかと思っていましたが最近は
熊本や菊池辺りでも良いのではないかと思っております。
ところで最近和名類聚抄で昔の地名を調べるのにはまっていますが
三毛郡に日奉(ひまつり)という地名があったのはご存知でしたか?
741 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 14:04:13
今の九州の地名は大半が他からの移設だと思うよな。
役人が中央から行ってるのに。
はて、どこであるにせよ、普通、地名研究は歴史的文脈を踏まえて行われるわけだが。
もちろん、文献による歴史的文脈踏まえた上で、記紀等についてのテキストクリティークも必要となるわけだが。
745 :
合格確実:2011/02/13(日) 16:03:54
>>703 >
>>673が
> 先生にでも聞いてくれ
>と言ってますが、センセイの言うことには、それが邪馬台国の時代だと。
>というか本当にそんなことを聞きたいんですか?
>もういちど言うけどディベートしたいだけならハンネをもどしてほしいです。
ハンネをもどしてほしいと言われても何のことやら分かりませんが、2浪中の浪人生では相手にとって不足と仰るのではないかと邪推して
ハンドルを切り替えました。
>「ゆるやかな連合」を外来系土器の分布から導き出す人もいて、それもひとつの根拠なのですが、
>上述したように、定型化した前方後円墳の出現が根拠のひとつです。
そのように伺いました。そしてその時代が(卑弥呼の)邪馬台国の時代だと仰るのですね。
ところで、確認しておきたいのですが、
「卑弥呼の時代に定型化した前方後円墳の出現があった」のですか? 定型化というと一定の形式の複数の墓の存在が前提になりますね(
1個の墓であれば定型も無定型もないでしょうから)。それらの定型化した前方後円墳は卑弥呼が王に共立される前に、あるいは共立の頃に、
あるいはまた共立されて死亡するまでの間に、それとも死亡後に築造されたのでしょうか?
746 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 16:45:11
畿内説の「ゆるやかな連合」に対して
邪馬台国は、一大卒なるものを諸国に派遣し監視していたのではないか?これがゆるやかというのか?
邪馬台国が狗奴国と戦う兵力を諸国から徴兵したと思うが、「ゆるやかな連合」程度で徴兵できるのか?
現在の日米同盟のようなものでも日本は兵力を出さない(出せない)のに、ゆるやか連合で諸国が徴兵に応じるとは思えない。
747 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 16:54:36
昨日、問答があったようですが、
あなたの望むような回答が出来る人はここには居ないでしょう。
あなた独自の考えを進めればいいんじゃないですか。
銅鐸は墓への埋納はなく、鏡は墓に埋納されるようになります。
墳墓も大きさ形だけでなく、内部構造に重要な変化があります。
地域のグループといっても、根底の社会構造の変化を考察しなければいけないでしょうね。
>>745 > 定型化というと一定の形式の
「前方後円墳の「定型化」とは次の要素を具えたものといわれている。
1正円の後円部と長く、高く発達した前方部をもつ整美な対称形、
2大規模な墳丘、
3後円部は三段に築成されて葺石をもつ、
4巨大な墓壙に造られた埋葬施設と排水溝の完備、
5長大な竪穴式石槨と割竹形木棺に埋葬、
6大量の赤色顔料(水銀朱、酸化鉄)、
7大量の銅鏡、
8大量の鉄製武器。
しかし、これらの要素はすべて弥生終末期の巨大墳丘墓や纒向型前方後円墳がすでに原形として具えているものであって、
新しい要素は何一つない。逆に、これらの要素をすべて備えた前方後円墳などめったに存在しない。
前方後円墳の「定型」とは研究者によってモデル化された観念の産物であって、
実のところは極めて漸進的でバラエティーに富んだ変化なのだ。」
(寺沢薫「王権誕生」)
> 複数の墓の存在が前提になりますね。
箸墓古墳、西殿塚古墳、中山大塚古墳、西求女塚古墳、吉島古墳、権現山51号墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳、
浦間茶臼山古墳、石塚山古墳、豊前赤塚古墳
(つづく)
>>745 つづき
> それらの定型化した前方後円墳は卑弥呼が王に共立される前に、あるいは共立の頃に、
> あるいはまた共立されて死亡するまでの間に、それとも死亡後に築造されたのでしょうか?
最古型式前方後円墳は箸中山古墳と言われています。
その築造は布留0式期です。
「埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣が471年に製作され、長期の伝世なく副葬されたとすれば、
古墳の築造年代は5世紀末頃と考えてよい。
墳丘の裾からは、葬送儀礼に用いられたと考えられる須恵器高杯が複数出土しており、
その形態は高蔵47型式の特徴を示している。
須恵器の形態は、高蔵73型式→216形式→208形式→23形式→47形式と変遷するから、
土師器にくらべて変化の早い須恵器一型式の存続幅を20年程度に見つもると、
初現期の高蔵73型式の時期を400年前後に位置づけることが可能になる。
そして、須恵器出現以前の土師器である布留式土器が4段階程度に分割できるとすると、
古墳出現期に使用された布留式最古層の成立年代は3世紀にかなり食い込む可能性が高くなる。」
(福永伸哉「邪馬台国から大和政権へ」)
ぜひお互いに検討してみましょう。
立派に回答していただける方がいらっしゃいましたね。
福永さんの説で5世紀末−20年が400年前後なのか?
埼玉県行田市稲荷山古墳出土の高蔵47型式が初源期〜終末期のうちのどこに収まるのか?
などと悩まされるようになりました。
定説、専門家の説についても、自分で汗をかいて考えなければいけませんね。
>>750 高蔵47型式ではなく、高蔵73型式では20×5=100となるということですね。
上のレスは理解不足で申し訳ありません。
>>748 ちょっと外野席からヤジを飛ばします。
>> 複数の墓の存在が前提になりますね。
>箸墓古墳、西殿塚古墳、中山大塚古墳、西求女塚古墳、吉島古墳、権現山51号墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳、
>浦間茶臼山古墳、石塚山古墳、豊前赤塚古墳
何の説明も無く名称だけ列挙してますけど、どう言う意味があるのかな?
議論の流れからすると古墳の「定型化古墳」発生期の古墳名を提示するところだと思うけど、
弥生墳丘墓から前期後葉のものまで順不同に並べてるだけじゃ、取り敢えず知ってる名前を貼りつけた、としか見えないですよ。
>>752 > としか見えないですよ。
では、訂正をお願いします。
>>753 訂正するにも何が言いたいのか全くわからん。
先ずは、それを教えなさい。
今の状態で訂正できるのは、語句の使い方だけだな。
・箸墓古墳・・・遺跡、旧跡名なら「箸墓」、古墳名なら「箸中山古墳」
・石塚古墳・・・まあ、これは現在では「古墳」と表記するのが一般的なので間違いでは無いが、定型化前の墳丘墓だよ。
あー、間違えがえた、「石塚山」か、二番目はペケね。
文章で説明しなくても、取り敢えず、貴方が思う実年代順に並べ替えてくれれば多少は理解できるかもよ。
>>754 > 何が言いたいのか全くわからん
>>752で
> 議論の流れからすると古墳の「定型化古墳」発生期の古墳名を提示するところだと思うけど
と言われてるじゃないですか。
> 貴方が思う実年代順に並べ替えてくれれば
実年代順はわかりません。
>>745に
> 定型化というと一定の形式の複数の墓の存在が前提になりますね
と言われたので挙げてみました。
ご教示ください。
757 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 19:04:25
>>748 >3後円部は三段に築成されて葺石をもつ、
まあ箸墓からして前方部は3段だけど後円部が5段だからなw
で、ふと思ったんだが…
これは結構なベテランさんに聞いたほうが良いのかもしれないがw
「定型化された大型古墳」と言う概念はひょっとして小林行雄から始まるのかな?
彼は例の椿井大塚を前方後円墳で最古級かつ綺麗に整った形と考え
そのような整った物が出現するには数世代の時間が要る
…トカナントカ考えたわけじゃない?
そこで 定型化された(=ある種の完成形) と言う概念と言うか
相場wと言うようなものができて今に至るとwww
どうでせう?
この場合は、昨日の人が書き込んだ、邪馬台国連合の成立と「定型化された前方後円墳」の全国的な普及が合致する(かしないか)ということだから、
本来ならば、その人が明確に示すべきことだ。
自分でお話の責任を取らなくてどうするんだ。
759 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 19:19:45
邪馬台国と古墳の大きさ形は無関係だよ。
邪馬台国は甕棺墓。
古墳論争はよそでやれ
>>757 > どうでせう?
はっきりとはわからないけど
「古墳のはじまりを考える」という本に
『従来の古墳の定義がゆれる中で、近藤氏があげた要素を用いて再定義がおこなわれ、
「定型化した前方後円墳」という表現が使われるようになります。』(森下章司)
とあるね。
761 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 19:23:03
古墳論争でごまかそうとする畿内の皆様ご苦労さま。
早く、本論に帰ろうぜ
762 :
757:2011/02/13(日) 19:24:54
>>758 あ、邪馬台国連合の成立(卑弥呼の共立)ね。
では他人のせいにせずに、お願いします。
764 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 19:38:30
本論と言うなら要するに今の「定型化古墳」のお話もつまるところその始まりは
毎度おなじみ「”ゆるやかな首長連合”があった、なかった」のお話だろう?w
もうね多分ここで納得できない奴はどんな本を読んでどんな学者から話を聞いても納得できないんじゃないかな?
(恐らく死ぬまでwwwww)
つうか穿った見方をすれば
自分が納得できない事を確認したいがために畿内説の人間に説明させているような気がしないでもないwwwwww
畿内説と言うか考古学史学は全体は今後もその「連合体」の路線で進むだろうから
だからもう自分達は
「結局自分達を納得させられるような話は出てこなかった」
としてわが道を進みそれに変わるモノを探し出すしかないんじゃないかな?
>>746をオセロの駒をひっくり返すようにすれば…
『ぜんぜんゆるやかなんかじゃない!きつきつ支配の九州邪馬台国w』は
・九州邪馬台国は、一大卒なるものを諸国に派遣し監視していた。
・邪馬台国が狗奴国と戦う兵力を諸国から徴兵していた。
…と言うような支配体制を誇っていたわけで、そんな強国を3世紀の九州に見つけてきてもらうとw
765 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 19:40:02
畿内の連中は逃げた。
卑怯にも土俵から逃げ去った。
だから九州勢力に東征されたのだ。
歴史は繰り返す。
766 :
764:2011/02/13(日) 19:46:49
>>746 の訂正
チョット誤解を生むかもしれないので以下の訂正w
誤)畿内説と言うか考古学史学は全体は今後もその「連合体」の路線で進むだろうから
↓
正)畿内説と言うか考古学史学は全体は今後もその「初期のゆるやかな連合体から中央集権国家へのヤマト王権の変質」
の路線で進むだろうから
767 :
怒濤の伊作:2011/02/13(日) 20:08:13
759
>邪馬台国と古墳の大きさ形は無関係だよ。
そうだ。
>邪馬台国は甕棺墓。
うーん・つらい。
倭人は封土冢をつくると書いてあるし。
せめて初期円墳あたりで・よろしく。
>古墳論争はよそでやれ
もっともだ。
そこをもっと主張してくれ。
「ゆるやかな連合」は俺がじっくり潰す。
じっくり・というほどでもないがのぉーい。
768 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 20:12:05
ポン作ちゃん宿題できたかな?w
● 恐らく邪馬台国論争のみならず日本の古代史すら一変させてしまう
邪馬台国の王都とやらの所在地
● 卑弥呼の鬼道が道教と断定できてしまう根拠
● 九州勢による関門海峡の物流をコントロールし
列島w支配を目論んだという根拠
● 3世紀半ばには不可能だった巨大古墳が4世紀になると可能になった
その可能にせしめたものは一体なんだったのか?についての物理的・科学的・心理学的な説明 www
769 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 20:33:05
え〜盛り上がってまいりました。
邪馬台国の王都って、そりゃ九州集各地にあって困りますよ。古代のことだし
ピンポイントなんて当分無理ですよ。あっちこっち掘る力も金もないしね。
でもね、今までの議論でスレに関心のある84%の方々は「邪馬台国は九州にあるのかな〜」
と考えていると推測できます。
卑弥呼の「鬼道」と「道教」は知識不足につき断定できません。
関門海峡の物流コントロールなんてそんなでかいこと考えてませんよ。だって、
朝鮮半島に行くこと考えれば、筑紫〜壱岐〜対馬〜加羅でしょう。これをおさえれば
関門なんて考えなくてよい。ただ、宗像発の沖ノ島経由新羅行きがあってこれは九州
の連中も未掌握だったかもしれない。でも、そんな海路は貧弱すぎて不活発に終わったと
考える。
巨大古墳は邪馬台国論争に無用。
770 :
巨匠・伊作:2011/02/13(日) 20:49:14
>卑弥呼の「鬼道」と「道教」は知識不足につき断定できません。
専門家空間のじょーしき。邪馬台国を論じない学者が証明してる。
>関門海峡の物流コントロールなんてそんなでかいこと考えてませんよ。
人間の狡猾さ・計画性・利己性なんて、古今東西変わりがないの。三国志読んでるんでしょ。
>朝鮮半島に行くこと考えれば、筑紫〜壱岐〜対馬〜加羅でしょう。これをおさえれば
九州からはそれでいい。これをおさえた九州勢力の独壇場よ。
>関門なんて考えなくてよい。
ここを締めることで、優位性が保てる。それがきみたちが安易に使う「戦略」というものよ。
>宗像発の沖ノ島経由新羅行きがあってこれは九州 の連中も未掌握だったかもしれない。
海人たちの祭祀の島だ。
これをヘソのように中心とした円弧の範囲が、「環玄界灘防衛監視ネット」だよ。
倭国屁の出入りはこれでこそ統制できる。
>巨大古墳は邪馬台国論争に無用。
わかればそれでいい。
>伊作
こいつ恥ずかしくないのかな?
772 :
巨匠・伊作:2011/02/13(日) 21:01:32
>こいつ恥ずかしくないのかな?
お前は・恥ずかしくないのか。なにをしに出没してるんだ。
倭人としての誇りはあるか。
それとも倭人じゃないのか。
774 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:03:52
沖ノ島は、何だったのだろう?
多分、九州勢力活発な頃、九州勢力に判らない様に半島経由で大陸と通じ合うための
海路だったのか?
「古代からの祭司をしてたところ」という人達もいるけど、あんな所まで祭司をするために
行く人達いたのかね?あれは、宝物持った人たちが遭難して島にたどりついて、
お宝を島に運び込んで神頼みの末の末路としか思えないよ。
そんな、危なっかしい海外貿易しなければならなかった国とはどこだ?
775 :
巨匠・伊作:2011/02/13(日) 21:05:07
>日本人ですが何か?
だったら・もっと・実のある書き込みをしろ。
なんか・いいことでもやってるつもりか。
>>775 >実のある書き込みをしろ。
オマエガナw
777 :
巨匠・伊作:2011/02/13(日) 21:10:54
筑紫の平民さん。
地元びいきのために、片方の地元の誇りも捨てるかね。
まさか。沖の島よりも前原を課題評価する手じゃなかろうね。
>九州勢力に判らない様に半島経由で大陸と通じ合うための海路だったのか?
列島の海を制した海人たちの能力を過小評価してる。
そこまでして、どんな歴史を語ろうって魂胆なんだい。
778 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:12:01
「巨匠・伊作」は「伊作」ではないよ。
九州説が大好きな元気な人です。
「伊作」は今「検討中」です。
779 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:14:56
「片方の地元の誇り」捨ててませんよ。
宗像は、同時代九州にいた豊の王の要請に基づいて宗像〜沖ノ島〜半島と
この危ない海路を制覇しようとした神々と知っている。
780 :
巨匠・伊作:2011/02/13(日) 21:15:27
776
普通にできるはずの会話を罵倒仕合いにする。
畿内と九州の対立構図を無理につくる。
議論の場を攻撃と罵倒の場するのは、決まって畿内説の外道どもだ。
これが、ある種組織的に行なわれているようだから、畿内説も焦ってるのだろう。
九州説を叩くことで、畿内説が優位になると短絡してるバカどもが。
781 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:18:07
伊作さん、そろそろ出番ですよ。
782 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 21:18:38
だいたい負け運んでいるほうが、罵声悪口偽計撹乱とかの手を使う。
勝てるなら、そんなマネはせずとも、まともに正規の論説で反論者側を
封じこめられる。そういう手の持ち駒が、そういう罵声悪口偽計撹乱や
偽装等々なわけだ。
783 :
合格確実:2011/02/13(日) 21:25:05
まだここの畿内説の方達の全ての意見は出ていないと思いますが、現在までのところで見ますと、邪馬台国畿内説の論拠として「定型化前方後円墳の出現」
を根拠とする「ゆるやかな連合」を唱えられていた方達は定型化前方後円墳の出現の時期についてご存知なかったようですね。僕も現在の考古学ではまだ
その正確な時期は決められないのだろうと思います。
ここで分かった事は、「ゆるやかな連合」を畿内説の論拠にされるこの板の論者の方々は何も知らずに(これは言い過ぎかも知れませんが)、学者の誰かの
言葉に乗っかって(これも失礼な言い方かも知れませんが)他人の尻馬に乗って騒いでおられただけなんですね。
それにしても、ゴミクズおじさん(失礼、ゴミクズ連発怖じさん)は見かけ倒しだったんですね。他人を見下して罵倒するだけの書き込みばかりで恥ずかしく
ないのですか?
784 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 21:26:40
奴はジョーカーっていうんだよ。
バレバレの自演は止めとけよ。
>>759 >邪馬台国は甕棺墓。
批判は
>>767が書いてるから反論してくれ
俺からは
「卑では弥呼の墓も甕棺墓なのか?」
と訊いておこう
787 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:33:37
>>786 卑弥呼の墓は「墳丘墓」です。
その周りは「甕棺墓」がいっぱいです。
788 :
786:2011/02/13(日) 21:34:36
>>786 訂正
>「卑では弥呼の墓も甕棺墓なのか?」(誤)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
「では卑弥呼の墓も甕棺墓なのか?」(正)
スマソ
>>787 卑弥呼の棺はどんな棺なのか? 甕棺ではないのか?
>>734 > 当初は主に対大陸から需要だと思います。
私的には、各地域間に広域的な交流が行われるようになるのは大陸との通商が誘因だと考えます。
> 国内では前方後円墳が拡散する範囲ではないでしょうかね?
東海の首長墓では水銀朱は使われているんでしょうかね。
自分で確認しなければと思ってますが、
> 前方後円墳=壷をモチーフ、なんて仮想したりもしてましたが。
それはないと思ってますよ。
791 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:42:08
そこまでは知らん。
ただ、魏志倭人伝において邪馬台国における埋葬は甕棺墓と明記されている。
だから、甕棺墓の数は邪馬台国を比定するに重要な要素です。
792 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:47:55
今日は、静かですね。「ゴミクズレベル九州野郎」的な発言もないし…
793 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 21:50:45
>>783 確か20代後半だっけ?そんな奴におじさん言われてもな(苦笑
年代に関してスルーされたのがそんなにご立腹かね?w
こっちとしては
「倭奴国王や師升らの系譜に連なる王墓の存在」
と言う宿題をやってきてもらいたかったがw
でなければ畿内説でも認めているような=畿内説の成立に何ら障害にならない
事をあげて九州にあったと考えるのが妥当なんていわれてもわけが分らないwww
あと
>>515の質問にも答えてあげたらどうかな?)
>>757は俺だが箸墓にしてもいまだプロトタイプ的な要素があって
「定型化」といっても曖昧な部分が多いのは認識していたつもりだが
まあ
>僕も現在の考古学ではまだその正確な時期は決められないのだろうと思います。
と現在の考古学会の動向を踏まえているので言わせて貰えば
それらの大型古墳に先行するいわゆる纏向型すらも「4世紀から」なんって言っているのは殆どないと聞くがw
その纏向型が3世紀に既に北部九州に出現していたなら畿内説のシナリオ
(と言うか邪馬台国論争と関係がない通説と言っていいと思うがw)
が何の無理もなく成り立ってしまうと言うお話。
794 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 21:58:25
あれなんだな〜
今日言ってた鏃が見つかった話ね…阿蘇南外輪山から通ずるところは高千穂もあるけど
竹田市の岡城経由の大分市あるいは水分峠経由の十文字経由の宇佐とか要衝にたどりつく
経路なのですよ。つまり北部九州(邪馬台国か?)と南部九州(狗奴国か?)の激突点
ですね。
795 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:02:53
>>791 >ただ、魏志倭人伝において邪馬台国における埋葬は甕棺墓と明記されている。
なにか勘違いしてないか?
魏志倭人伝のどこにも「甕棺墓」と明記した箇所はない。
>>793 九州にも外形は纏向型で、木棺直葬の津古生掛があるし、
もちろん、それ以前の四国の墳墓がある。
現在の考古学会の動向?でも、纏向の纏向型を画期としてるの?
797 :
でわ皆さんお持ちかねの・・・:2011/02/13(日) 22:12:46
>>780 巨匠・伊作
>決まって畿内説の外道どもだ。
まあ外道とまで言われれば心優しい俺でも
このゴミクズレベル九州説どもが!!
と言わねばなるまいwwwwww
>畿内と九州の対立構図を無理につくる。
まあ言っているのは畿内説vs九州説だろうが
昔ながらの「九州vs畿内ヤマト」でどっちが強いんだ?なんて子供じみた発想から抜け出せないのがゴミクズレベル九州説w
>これが、ある種組織的に行なわれているようだから
まあこの手の陰謀論にすがるのがゴミクズレベルたる所以w
>九州説を叩くことで、畿内説が優位になると短絡してるバカどもが。
これこそ「こっちの台詞」でw
「すなおに読んで」位置が分かるのなら
さっさと「真のすなお読み」を決めてくれ。
あるいは衆目の一致する九州説の大本命になりうる遺跡でも掘り返してくれ
…って話で いくら畿内説にイチャモンつけても現実は毛先ほども変わらないwwwwwwww
w
>>793 >>797 確か20代後半だっけ?
2浪の人なら二十歳そこそこだよ。もう頭働かないんなら早く寝たら。
800 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 22:20:35
明記ではなかった、あやまり。
「其の死するや棺有て槨無く」だから、これに最も近いのが「甕棺墓」ということ。
801 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:29:13
>>799 はい、そこのゴミクズ 尻尾振って脊髄反射で噛み付かない、どうどうwwww
>>281 >浪人2期目ですが、実は中学を出てすぐ就職して3年勤め、(勉強しなきゃ一生他人に使われるだけだと思い)定時制高校に入り(途中で病気して)
>6年かかって修了し、大学を受験したけど2回失敗したのでもうすぐ27才になります。中学校のことは10年以上前のことで、しかもあまり勉強して
>いなかったので思い出せません。そういうわけでお答え出来ません。
どうなんだろうねえ・・・
現在26〜27の奴の中学時代ってどう言う教科書の内容だったんだろう?
802 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:29:22
>>800 木棺でも良いではないか。例えば平原のような。
漢字の「棺」は木へん。
従って甕棺(土器棺)・石棺・金属製棺よりも、まずは木棺を疑うべきであろう。
803 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 22:29:31
>>797 君は日本人ではないな。
発言に羞恥心というものが感じられない。
君の発言で畿内説は評価が益々低下している。
この受験シーズンに浪人生が連日2ちゃんねるに顔を出して長々とレスを書くかw
805 :
巨匠・伊作:2011/02/13(日) 22:31:56
「棺有て槨無し」を甕棺墓に直訳する才能があるならば、
その同じ文章中に「倭人は封土冢をつくる」とあるでしょ。
頑迷な人だなあ。
それじゃ九州説はクズ扱いされるわ。
806 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:32:28
>>803 筑紫人民
まあ、お前が評価をどうしよとお前の勝手だw
畿内説全体の評価を下げる事ができるなら俺も知らない間にトンデモない大物になったもんだなwwwwww
もっと現実を見たほうが良いぞw
807 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 22:33:26
>>802 否定できません。が、甕棺墓も否定できません。
>>801 特に教科書の内容がその前後に変わるのかね?
809 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 22:36:18
>>806 おい 引きこもり、でかい口叩くな。
「ひっこんでいろ」と言っているのですよ。
810 :
水銀厨:2011/02/13(日) 22:40:06
>>790 前方後円墳なら秋葉山古墳、壷に水銀朱の付着を確認されてたはず。
今手元に資料は無いが後いくつか‥時代少し新しいが三池山とかも。
△鏡に水銀朱、壷とくれば、神仙思想の影響は
強いと言わざるをえませんからね。
前方後円墳=壷説は私だけではなく、
色んな人が主張はしてますが、ひょっとしたら?
という思いはあります。
古代中国人が想像していた、神仙が住む東の国、
蓬莱山は壷の形をしている、と言いますからねw
811 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:41:37
>>796 >纏向の纏向型を画期としてるの?
と言うのはイマイチ意味が分らないがw
北部九州に出現した早期前方後円墳(纏向型)の意味は畿内説にとって大きいだろうねえ・・・
まあこれには九州説は年代論で対抗と言うことになるんだろうが
じゃあ九州に年代を争える材料があるか?と言えば「ない」と言うのが現状。
九州邪馬台国がおきた事によるの舶載品の新たな流れ集中
30カ国を髣髴させるような埋葬文化墳墓形態や威信財の分布 ・・・etc
ましてこれに「強固な面的支配体制をもっていた一大強国」なんて脳内シナリオを加えると益々見出すのが難しくなるwwww
まあ「否定できりゃなんでもいい」ってメンタリティなんだろうがwwwwwwwwww
812 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 22:42:59
>>805 「倭人は封土家を作る」これはどの程度の規模か?
円墳(直径10m以上)もなければ痕跡不明ですよ。
であれば「棺有て槨無し」をもって比定に近づくほか検討できず
文献で扱われる槨と考古学用語としての槨は意味が違う事を知っているのかな?
>>803 ジョーカーは、日本語が苦手なんだな。
まともな論文も書けなくて、いつも怒られてるクチ。
口が悪いのは育ちのせいなので、かんべんしてあげて。
こいつがいないと、スレが盛り下がるので
815 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 22:48:21
816 :
合格確実:2011/02/13(日) 22:49:23
>>793 >
>>515の質問にも答えてあげたらどうかな?
金銅製棺飾り金具が出土した三雲南小路の遺跡のことですね。この遺跡の王墓と見られるものは、
32メートル×31メートルの方形墳丘墓に甕棺2基を埋葬したもので、1号棺には前漢鏡35、金銅製四葉座飾金具8、ガラス璧8、青銅武器4、ガラス勾玉3、
2号棺には前漢鏡22、ヒスイ勾玉、ガラス勾玉12、ガラス璧片などが副葬されていたということです。
この遺跡の年代については出土した漢鏡の製作年代が最も新しいものから勘案して紀元前後と推定されている というのが
>>515の言う定説なんでしょうね。
金銅製四葉座飾金具やガラス璧は漢の皇帝からの下賜品と見られることからこの墓は漢に認められた倭の王関係のものと思われますが、その王としては後漢書
に登場する倭奴国王であろうというのが僕の見解です。(なお、「東夷の王、大海を渡りて国珍を奉ず」(王莽伝)という史書の記述もありますが、これは何処の誰
かは特定できません)
倭奴国王であれば時代は1世紀後半ということになり、上記の定説とは半世紀以上の違いがありますが、定説は鏡による年代判定ですから絶対に正しいとは言えない
筈です。
>それらの大型古墳に先行するいわゆる纏向型すらも「4世紀から」なんって言っているのは殆どないと聞くがw
僕は卑弥呼の冢を前方後円墳だとは思わないので、これを根拠に畿内説を唱えられても違和感を感じるだけです。ただ、「定型化前方後円墳の出現」
を根拠とする「ゆるやかな連合」を唱えられていた方達に根拠の確かさをお尋ねしただけで、その結果に満足しています。
817 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 22:49:33
>>811 纏向の纏向型が画期とされたのは前方後円型の外形だけでなく、内部構造や副葬品だセットとなった原型が出来たいうのが、マトモな畿内説。
外形が前方後円型の津古生掛で喜ぶレベルの奴は、さすがにいないだろう。
いずれにしても、元をたどれば四国に行きつくことになるがな。
ジョーカーの存在を一番苦々しく感じているのは
今や風前の灯火となった畿内説の先生方ですよ。
「アレはどこの研究室の奴だ!?」と本気で怒っている先生たちを何人か知っています。
私は自分の将来のために畿内説を装っている者のひとりに過ぎませんが、
畿内説の先生方はもう相当追い込まれていますね、組織的な工作ひとつまともにできない状態のようです。
箸墓もダメ、マキムクもダメとなればまた何か捏造するしか手はありません。
ホント大変なんですよ。
820 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 22:57:44
>>819 >「アレはどこの研究室の奴だ!?」
じょーかーくん大出世だなwwwwwwwwwwwwwwww
821 :
合格確実:2011/02/13(日) 23:01:16
>>804 ご心配なく。受験は終っています。自己採点では抜群の成績ですから合格間違い無しです。
どこを受験したの?
823 :
合格確実:2011/02/13(日) 23:07:26
>>822 大学校名を教えたらのちのち支障がでるかも知れませんので教えません。ただ理数系の学部を志望しましたとだけ言っておきます。
>>820 喜ばしいことなのではないですか?
今や畿内説を装った九州説側の工作員として認知されているのがジョーカーくんですよ。
「アレは何だ?畿内説を貶めるのが任務なのか?卑怯な九州説の奴らがやりそうなことだ!」
と本気で怒っている先生もいますよ。
よかったですね。優秀な工作員として認定されて。
825 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 23:11:46
>>824 お前の脳内でもっともっと、じょーかー君を大物にしてくれwww
826 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 23:14:25
ジョーカー、頼むぞ。九州説のためにも
火を吹いてくれ。ゴwwww
畿内説という脳内妄想が止まらず
完全にイってしまってるじょーかーくんは
今日も大活躍
828 :
筑紫平民:2011/02/13(日) 23:32:45
では、おやすみなさい。
>>816 > 後漢書に登場する倭奴国王であろう
朝貢した相手は光武帝だろ。
なんで前漢中頃の鏡なんか副葬したんだ?
830 :
筑紫平民:2011/02/14(月) 06:12:11
おはよう、今日の筑紫はちょっと寒い。
仕事行きたくなか。
831 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 14:22:05
ここまでのまとめ。
>>267 ゆるやかな首長連合とか交易連合とかは畿内を中心とした話でしょうか?畿内には3世紀前後の戦闘の痕跡などは無く、各地の土器が(マキ
ムクに)集まっているのがその根拠でしょうか?そしてそれは邪馬台国畿内説と関係があるのでしょうか?
このスレで、初めて「ゆるやかな首長連合」なる概念を持ち出したのは2浪中(合格確実)さんってことでいい?
「ゆるやかな首長連合」って、そもそも、どこで聞いてきたの?
畿内説と関係があることは、初めから知ってたようだね。
そして、「ゆるやかな首長連合」に疑問を呈すために、(畿内説を論破するために)
いろいろずっと食い下がって質問をぶつけているのだと理解。
「ゆるやかな首長連合」を粉砕する意思は、伊作に引き継がれた。
彼はいま、「ゆるやかな首長連合」を論破するための資料をかき集めてるところ。
832 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 14:34:20
ここまでのまとめ。
畿内説の「ゆるやかな首長連合」の根拠。
>>583 >弥生後期の墳丘をもつ首長墓にはきわめて顕著な地域性がみられる。
>これに対して出現期の古墳はきわめて画一的な内容をもって、それら広い範囲の地域に代わって現れる。
具体性のある意見がなされたものの、2浪中(合格確実)さんから、”出現期の古墳の年代”について疑問が出される。
>>745で、前方後円墳の「定型化」の要素が提示される。
以下、おそらく、邪馬台国の時代〜それ以前の墳丘墓例として提示されたもの。
>箸墓古墳、西殿塚古墳、中山大塚古墳、西求女塚古墳、吉島古墳、権現山51号墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳、
>浦間茶臼山古墳、石塚山古墳、豊前赤塚古墳
>>748からヤジが、墳丘墓の名称だけ列挙しても意味が無いと指摘される。
それにたいして、はっきりした答えが無かったので、
>>783 >「ゆるやかな連合」を唱えられていた方達は
>定型化前方後円墳の出現の時期についてご存知なかったようですね。
>僕も現在の考古学ではまだ その正確な時期は決められないのだろうと思います。
>ここで分かった事は、「ゆるやかな連合」を畿内説の論拠にされるこの板の論者の方々は何も知らずに(これは言い過ぎかも知れませんが)、学者の誰かの
>言葉に乗っかって(これも失礼な言い方かも知れませんが)他人の尻馬に乗って騒いでおられただけなんですね。
と、2浪中(合格確実)勝利宣言される。
833 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 14:40:55
>このスレで、初めて「ゆるやかな首長連合」なる概念を持ち出したのは2浪中(合格確実)さんってことでいい?
いったい何を言ってるんだ
834 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 14:41:20
2浪中(合格確実)さん、
あなたは、
>僕も現在の考古学ではまだ その正確な時期は決められないのだろうと思います。
ということを知ってた上で、”ゆるやかな首長連合”というネタを撒き、
畿内説論者を釣っていたわけですね。
お見事ですなあ。
もちろん、考古学上で実年代を決めるのは非常に難しく、研究者によって意見がわかれること多し。
だから、仮に○○古墳は、何年頃……という話が出たら、それは格好の攻撃材料となる。
ここの畿内説の人たちも利口なようで、実年代について安易なこと口走らなかったのは、
非常に好感が持てるというか、煽りに対して冷静だったというか。
それを、いいことに、2浪中(合格確実)さんは、”実年代を提示せよ”と突っ込んでいたわけだ。
ディベートとしては成功だけど、それで勝利した余韻ってどうなの?満足してる?
835 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 14:46:59
>>833 2浪中(合格確実)さん、 は、実は「ゆるやかな首長連合」の内容について、
実はよく知っていた上で、勝てる議論を持ちかけた。
ってことですよ。
そして、その2浪中(合格確実)さんの、一番の被害者が伊作ってのが滑稽だね。
伊作は、「ゆるやかな首長連合」完全否定宣言しちゃったんだから。
無知ってのは、ほんとに哀れだよ。
836 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 14:50:11
2浪中(合格確実)さんは、
「ゆるやかな首長連合」の古墳出現期の実年代については疑問を提示していても、
「ゆるやかな首長連合」そのものは、否定できないし、するつもりは無いってことだよね?
「ゆるやかな首長連合」の完全否定は、伊作がやるって言ってるんだから、お手並み拝見だけど。
837 :
合格確実:2011/02/14(月) 15:03:45
>>829 三雲南小路遺跡の王墓については出土甕棺から弥生時代の中期後半(約2000年前)に作られたものと考えられるとする見解もあります
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/mm.htm 約2000年前とは紀元前後ということですね。僕の(倭奴国王関係の墓)という見解の時代より半世紀以上前になります。しかし、甕棺は
1世紀後半には用いられていなかったのですかね?
>なんで前漢中頃の鏡なんか副葬したんだ?
重圏彩画鏡の破片が出土したそうですね。江戸時代に発掘されたときの出土品は記録にあるようですが、現物の殆どは逸失しているそうです。
そのため分からないところもありますが、年代の異なる漢鏡が一緒に副葬されていたようです。
遺跡の年代を決めるのは難しいですね。製作年代が明確な出土物(例えば貨泉)は判断の手掛かりになりますが、これも遺跡の年代を「その出土
品の製作年代以降」と限定できるに過ぎません。出土品が製作される前に埋められる筈はありませんが、製作されたのち何時埋められたかは製作
年で決められる筈もないからです。
「前漢の鏡が出土したから遺跡は前漢時代のものである」と言えるのは「その鏡は前漢時代より後には入手不可能であった」という状況の下だけ
でしょう。時代が異なると考えられる鏡が一緒に出土する古墳が存在するようですから、鏡というものは製作後直ちに破棄される(埋められる)
とは限らず、かなりの期間保持されたり流通したりしたのではないでしょうか。
倭奴国王が前漢鏡を持っていた(光武帝から貰ったものか、別に手に入れたものかわかりませんが)としても別に不思議ではないと思うのですが、
如何でしょう?
838 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 15:18:11
839 :
合格確実:2011/02/14(月) 15:56:22
>>835 >2浪中(合格確実)さん、 は、実は「ゆるやかな首長連合」の内容について、
>実はよく知っていた上で、勝てる議論を持ちかけた。
いえ、僕は畿内説者の方々の「ゆるやかな首長連合」論を理解している訳ではありません。ただ、僕のお尋ねに答えて下さった方々の
お話から、弥生時代において「畿内を中心とするかなり広い地域に戦闘の痕跡はない」、「各地の土器が畿内に集まっている」、「定型
化前方後円墳の出現」が「ゆるやかな首長連合」論の根拠だろうと思って、とりあえず「定型化前方後円墳の出現」の時期についてお尋ね
しただけです。その時期が(卑弥呼の)邪馬台国畿内説の根拠となり得るかどうかを知りたかったのです。
恐らく、「ゆるやかな連合」論は僕が想像するような浅はかなものではないでしょう。僕が論破できるような底の浅いものではない筈です。
多分、伊作さんでなければ論破できないでしょう。あの人はよく調べていますからね。
ところで、僕にはまだここの畿内説の方々に教えて頂きたいことがいくつもあります。
弥生時代において「畿内を中心とするかなり広い地域に戦闘の痕跡はない」というのは「ゆるやかな連合」論の根拠なのでしょうか?
神武東征を否定するための考古学的根拠として持ち出されたのだろうと思っていたのですが。
wikiには「豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。これらの遺体は
争乱の犠牲者とみられる。」という記述が見られます(
http://ja.wikipedia.org/wiki/高地性集落)
本当に「弥生時代の畿内には戦闘の痕跡はない」と言えるのですか?
840 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 16:14:51
>>837 前漢鏡を副葬する三雲の甕棺葬が行われたのが、実は前漢代ではなく後漢代であった、と主張したいのであれば
きみは三雲の甕棺が前漢代の埋葬ではないことを積極的に証明する必要がある。
残念ながらきみのレスではその証明が書いてない。
841 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 16:15:58
>>839 >本当に「弥生時代の畿内には戦闘の痕跡はない」と言えるのですか?
君の心に響く、"戦闘の痕跡"の定義ってなに?
842 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 16:51:14
前漢鏡を副葬する三雲の甕棺葬が行われたのが、前漢代であった、と主張したいのであれば
きみは三雲の甕棺が後漢以降の埋葬ではないことを積極的に証明する必要がある。
843 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 16:55:49
>>839 >恐らく、「ゆるやかな連合」論は僕が想像するような浅はかなものではないでしょう。僕が論破できるような底の浅いものではない筈です。
>多分、伊作さんでなければ論破できないでしょう。あの人はよく調べていますからね。
自分はもう「ゆるやかな連合」の議論には関わらない、後は伊作が勝手にやってくれ宣言か。
ハシゴを外された伊作は、ふんだりけったりだな。
844 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 17:09:59
「ゆるやかな連合」? 見てきたような空想講釈よ。
九州の歴史などなかったかのような史観で、説得力のある歴史が語れるものか。
畿内説考古学は信用がおけないうえに、考古学に依拠する畿内説者は総体的にあたまが悪い。
新設した掲示板に、三助しょくんに分かりやすく書いておいたから、みてみ。
http://8242.teacup.com/isaq/bbs
845 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 17:27:36
>>844 ねえ、2浪くんに見限られて、いまどんな気持ち?
846 :
合格確実:2011/02/14(月) 17:49:59
>>845 僕は伊作さんを見限ったりしてませんよ。あの方は論理の筋の通った議論をされていますよ。ちょっと怒りっぽいところがあるようですが、
それも畿内説の方が暴言を浴びせられるからそれに応じたものでしょう?紳士的なレスには紳士的に対応されていますよ。
847 :
ローガン:2011/02/14(月) 18:00:45
>>837 そりゃ、ピンポイントに「〜年の墓だ」なんて誰にもわかりませんよ。だから「論」であり「説」であるわけ。
>三雲南小路遺跡の王墓
1号35面、2号22面以上もの大量副葬をするマインドとは何? 潤沢な供給の目算がたっているからでしょう。
伝世の期間を長くみるのは?ですよ。
848 :
合格確実:2011/02/14(月) 18:01:08
>>840 >きみは三雲の甕棺が前漢代の埋葬ではないことを積極的に証明する必要がある。
>残念ながらきみのレスではその証明が書いてない。
仰られるとおりです。積極的に証明することができません。それはしかし、定説とされるものも同じことではないでしょうか?
前漢時代の鏡と甕棺が決定的な証拠にはならないという理由を
>>837に述べたつもりですが。
849 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 18:03:34
>>846 おやおや、それじゃあ「ゆるやかな連合」の否定に追従するおつもり?
実際のところ、「ゆるやかな連合」に九州が参画してたかどうかだけが問題であって、
九州が近畿の「ゆるやかな連合」に参画してないのであれば、
近畿中心の「ゆるやかな連合」を認めても九州説・東遷説の否定には結びつかないんだけど。
850 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 18:04:17
>いまどんな気持ち?
合格確実くんは、まだ純粋な目を持っている。
ごく一部の畿内説学者の片棒を担ぐタコどもとは違う。
ま・できれば俺の論説で基本的な考え方を紫紺でほしいね。
・コンチキ図持ち出して笑い者になり。
・神獣鏡を魏朝がつくったといってはそっぽを向かれ。
・いま、魏朝では絶対につくるはずのない鏡に魏の年号が刻まれている事実を天才に指摘すれば返答に詰まり。
・年輪年代法を持ち出せば素人にもバカにされて総攻撃され。消沈
・C14炭素測定法に頼れば、良識筋からはその精度を疑われて総すかんを食らい。なりを潜め
・箸墓と隣り合わせの大型堀っ立柱遺構を卑弥呼の宮城趾だといっては、
「王の墓は王都の郊外につくる」という事実を天才に指摘されてぐーの音もだせず。
・そこから出た桃の種をとりあげては卑弥呼と道教を結びつけて原始宗教のように再現し。
・たまたま出た竹ザルの編み方や繊細さの違いにはとらわれず、
魏帝からの贈物を装封したパッケージかと思い込み、
「ならば泥風もでるはず」と血眼で掘ってみるていたらく。
そしていま、頭の悪い理系思考どもが寄ってたかって、
土器や墓の分布を初歩的な加減数式で比較したうえで、
「連合」などという見てきたような空想講釈を垂れる。
畿内説のやることなすことがマンガ以下だろが。
●巨匠語録。
邪馬台国は検証の対象でも何でもない。
処世のツールであり助成金の蛇口である。
851 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 18:06:34
泥風→→泥封
852 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 18:07:51
>>850 >土器や墓の分布を初歩的な加減数式で比較したうえで、
>「連合」などという見てきたような空想講釈を垂れる。
土器や墓の分布が、ゆるやかな連合を意味しないなら、
それぞれの地域に無関係に、似た墓ができ、たまたま何かの偶然で似た土器が登場したってことですね?
853 :
合格確実:2011/02/14(月) 18:10:46
>>847 おや、ローガンさん、お元気でしたか?
>1号35面、2号22面以上もの大量副葬をするマインドとは何? 潤沢な供給の目算がたっているからでしょう。
そのような見方もありますよね。光武帝から王の印綬を授けられて漢との交易の独占権を獲得したであろう倭奴国王であれば
漢鏡を手に入れ易かったかもしれませんね。
854 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 18:12:09
土器や墓の分布が、ゆるやかな連合を意味せず、
他地域との関係を証明するものでないならば〜。
伊作くんがさんざんいってた、鏡・剣についても、
それが中国で一緒出ようが、畿内から一緒に出ようが、
関連性は全くないってことになるわけで〜。
自ら東遷説の論拠を否定し、墓穴を掘っていく伊作くんでありました。
855 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 18:13:28
紫紺で→→→仕込んで。
封泥の方が一般的だと思うけど。
857 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 18:25:03
>たまたま何かの偶然で似た土器が登場したってことですね?
稲作文化社会では、煮炊きすることから土器文化が発達する。
土器にも、運搬用と貯蔵用の土器、生活用土器と、そして祭祀用の土器がある。
この分類をしたうえで、その土器がどう利用されたものか、
その土器が出た場所はどういう正確の場だったのか。
ちゃんと説明した上で、時代遅れの欧米型統計学的加減数式してるのかい?
858 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 18:29:57
>>857 考古学者は、きちんと分類してるわけですが、
どのへんがサギなのですか?
859 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 18:34:58
>伊作くんがさんざんいってた、鏡・剣についても、
>それが中国で一緒出ようが、畿内から一緒に出ようが、
>関連性は全くないってことになるわけで〜。
バカにからまれることほど煩わしいことはないぜ。
鏡と剣を呪具とする葬送儀礼は、
人間の信仰的精神性があらわれたもので、厳粛かつ崇高なものだ。
これが墓形やサイズにかかわらず全国統一。
墓形やサイズや墓の数で云々してどうするか。タコ
このことが意味するものを「唯物考古学」はなおざりにしている。
●巨匠語録
唯物考古学は洞察力と想像力が欠落しており、
わずかな創造力で空想講釈を垂れる。
●史実検証ごとに創造力は無用である。
860 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 18:41:56
>考古学者は、きちんと分類してるわけですが、
銅鐸族だの、銅矛圏などといった骨董的手法で、
平面幾何学的に分類したのなんて、クソくらえだけど。
大和州に流れた倭人は、どこから来たのかね。自生か?
それが、文身とお歯黒の習俗をもつことには何の関心も沸かないかね。
土の下から出るものばかり見ていて、歴史の真相が見えるとでも思ってるのかね。
たまには顔をあげて考えたらどうだい。
>どのへんがサギなのですか?
誰か詐欺といったのかい。おれゆったかなー。
(詐欺と欺詐は違うよ)。
861 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 19:10:36
伊作が、天才的着想で究明した倭人の源流。
まずこれから仕込んだほうがいいな。
「こんなん出ましたけどー」というだけの考古学が
気づきもしなかった発見の連続だ。文化人類学とかいうものに類する論考かなー。
短い論考で図版が多く、
論理的な文章をみると眠くなるタイプにも、読み物としておもしろいぜ。
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/
862 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 19:21:20
>>861 いいこと、教えてあげるよ。
卑弥呼を天照大神のモデルとして、
邪馬台国東遷が神武東征のモデルということにしなよ。
そうしたら、もっと伊作ファンがつくと思うよ。
どうだい?
863 :
ローガン:2011/02/14(月) 19:26:54
>>853 >そのような見方もありますよね。
そう。首を長くして中古品の到着を待つ訳でなし。いつでも新鏡が潤沢に手に入る環境。これが大量副葬に繋がる。
よって、この環境での長期の伝世は考えにくいという事です。
三雲南小路のある糸島にはやはり甕棺墓で
王墓級とされる井原鑓溝がある
こちらは後漢鏡ばかりごっそり。
だから三雲が前漢鏡ばかりで後漢鏡が一枚もないのは
時代差を考慮するのが最も相応しい考え方。
865 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 20:30:01
おや?
さすがの伊作も、卑弥呼=天照大神のモデル説には乗ってこないのかなあ?
さすがにそこまで、バ カ じゃないか。
はっはっはっはっはっは。
866 :
筑紫平民:2011/02/14(月) 20:45:53
ただいま。今日の筑紫はさむかったばい。
あれだね、今の季節北西風にのって半島から筑紫に
船がついたのかね。ということはこれから初夏頃までは
筑紫は渡来人でいっぱいだったのかな。
初夏以降は東南の風に乗って半島に帰ったのかな。
867 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 21:14:42
>季節北西風にのって半島から筑紫に船がついたのかね。
韓人は基本的に水人じゃないし。船で海洋に出た話は3世紀の記録にもないし。
半島から九州へは、九州から半島への何倍も渡海が難しいし。
多くは水人たる倭人が運んだものだろう。
稲作も土器も環濠集落も土盛り墓も船型棺も、
大陸からやってきたものの多くは長江河口からの直行便さ。
長江河口あたりの水人にとっては、九州への渡海は比較的容易に可能だったらしい。
九州を目指した中で、五島列島をすり抜けて半島南部に漂着した「倭人(と同種)」も少なくなかったろう。
その倭人も文身をするしとたちなわけだ。
868 :
749:2011/02/14(月) 21:47:49
>>823 > 何も知らずに
> 他人の尻馬に乗って騒いでおられただけ
そんなこと言われてたんだ。
それなりに調べて、ここまでは言えるということを書いたのに。
「わからない」と言うから、せめて理解はしてほしいと思って自分なりに説明したんだけどね。
869 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 22:29:13
ゆるやかな連合ってのが理解出来ないとは
全ては武力による支配・被支配の関係だったと思ってるのか?
870 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 22:36:28
>ゆるやかな連合ってのが理解出来ないとは
畿内説もゆるやかな連合も、
「ありもしなかったこと」を理解する幼児性は持ち合わせがない。
>全ては武力による支配・被支配の関係だったと思ってるのか?
だ
・
か
・
ら。
鏡と剣を2種の神宝・呪具とする宗教が2世紀半ばに中国に興きて、
東アジアに劇的な改革をもたらした。とゆーとるに。
こっちの歴史的事実には目を向けることができんだろが。いくじなしが。
871 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 22:43:54
872 :
筑紫平民:2011/02/14(月) 22:46:17
伊作殿は、まだ検討中ですか?
明日の出撃楽しみにしています。
おやすみ。
873 :
749:2011/02/14(月) 23:00:47
>>837 > 別に不思議ではないと思う
それはともかく
なんで前漢中頃の鏡なんか副葬したんだ?
それも「不思議ではない」のか?
874 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 23:05:55
??????? 高天原は、中国だったのですか?
俺が、アマテラスだの高天原だのと口走ったことがあるか。
『日本書紀』ができる100年も前に隋におもむいた使者は、
太陽神は男(兄)だと告げてるだろが。
なーにを勉強してきたんだ。タコ
俺に相手してもらいたかったら、もっとマシな発言をしろい。
875 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:08:11
>>870 まず宗教による支配ありきという事ですか?
連合が先で文化の共有としての宗教のような気がします
根拠はないwwww
876 :
合格確実:2011/02/14(月) 23:11:04
>>863、
>>864 三雲南小路の再発掘調査が昭和50年頃に行われて、2番目の甕棺がみつかり、其の時金銅製棺飾り金具やガラス璧や漢鏡の破片なども
見つかっています。ただし、盗掘の跡があったそうです。盗掘で失われたものもあったかも知れません。
江戸時代にここを調べた青柳種信は「柳園古器略考』に井原鑓溝でみつかったという出土品(土地の百姓が持っていたもの)を記録
しているそうです。
それによると、この井原鑓溝での出土物は壷(甕棺)、新、後漢時代の鏡の破片21面分、巴形銅器3個、刀剣の類、鎧の板の様な
ものだそうです。出土の状況から盗掘が行われていたと思われます。
なお、この井原鑓溝の遺跡は三雲南小路遺跡のすぐ側(100mくらい)の現在は水田となっている場所と推定されていて、元々は
三雲南小路の遺跡と一体のものではないかとも考えられます。また、
見つかった鏡は全て破片であり、盗掘が考えられるというと、仮に完全な形の鏡があってそれが盗まれていた可能性も排除できま
せん。こんなことを考えると、出土鏡による遺跡の年代推定は難しいですね。
>>850 >邪馬台国は検証の対象でも何でもない。
処世のツールであり助成金の蛇口である。
これは至言ですね。まさにそのとおりです。
878 :
合格確実:2011/02/14(月) 23:30:01
879 :
日本@名無史さん:2011/02/14(月) 23:42:21
>>874 すると、天照大神を女神として設定した日本神話は、
やはり7世紀以後の創作だったんですね!
880 :
巨匠・伊作:2011/02/14(月) 23:56:56
>まず宗教による支配ありきという事ですか?
大地の神に豊穣を祈る銅鐸。
病気治療と使者の災いが生者に及ぶのをはらい、使者が神仙世界へ昇天する鏡と剣。
生者に現世利益をもたらす初期道教は、絶大な勢いで民心を掌握した。
民心の掌握は、有効な政治手段として機能する。
これが、後漢末最大の東アジアの変革であり、画期だったのだ。
銅鐸の廃棄もその観点で見るのも悪くはないぞ。
現実に張魯の天師道と張角の太平道(ともに道学に基づく教団)は、
宗教組織が巨大な教団を形勢し、巨大組織が国家を形勢する過程をかいまみせた。
土の下から土器だの、限られた情報しか発信しない墓に依拠していながら、
その墓が発信する限られた情報すら満足に把握していないじゃないか。
それが、しょせんは唯物考古学の限界よ。
それでよくもまあ、鬼首もので天才の「ソフト史学」に喧嘩を売るもんだぜ。
●巨匠語録
信仰を基盤とした民心の掌握は、有効な政治手段として機能する。
881 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:15:27
>>880 もちろん、その宗教は神道とは無関係ですよね!
882 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:30:20
「ゆるやかな首長連合」と言うのがが曖昧な概念であるのも事実だが
この誤は「ヤマト王権の変質」と言い換えた方が良いかもしれないw
(まあ、バカ基準で一々合わせてやる必要もないのだろうがwww)
「ゆるやかな連合体から中央集権的国家へ」
…と言う当たり前の歴史認識から基いて出てくる語で
邪馬台国でアタマイイッパイイッパイの
字面だけで「仲良しこよしの隣組」程度のイメージしかできない阿呆どもはもう死ぬまで理解できないんだろうwwwww
まあ中には少し現実を見て
「その段階が登場したのは認めるがそれが邪馬台国の時代であった確証がない」
とその年代を問題にする奴もいるだろうが
年代はそれこそ「親魏倭王」の金印や泥風等々
確実な実年代の指標が出でもしないと決着はつかないだろうな。
だからもうお前らはお前らで
その「全然ゆるやかなんじゃない!キツキツ強権支配体制を敷いた九州邪馬台国」
を見つけて来いって話w
永遠平行線、まあ現実に考古資料等を用いて組み立てられたモデルに
脳内ストーリーに固執した奴がクレームつけるという形でw
勿論、脳内ストーリー以外3世紀九州にそんな強固な支配体制を推測できるような材料がない。
(あれば少なくとも今でも九州説は畿内説を相手に五分の戦いをしているだろうw)
もう畿内説にイチャモンをつける事しかできないのが現状w
無論、外部内部からの批判者がいてこそ健全なんだろうが
九州説はもはやその存在理由もない過去のものなんだろうな。
883 :
人豚:2011/02/15(火) 00:42:42
>>878 >漢鏡が出土しているそうです。
御呈示の鏡は、「漢鏡」では無くて「漢式鏡」ですね。
「漢式鏡」とは、中国鏡を分類するときの用語で、意匠面で漢代から六朝期までを一グループとして扱うときの呼称です。
後代の複製鏡や模倣鏡、さらに後世の復古鏡などもあって、鏡の製造年代を示す言葉ではありません。
>>829氏は、もっと細かい様式や鋳上げの状態から判断される「編年」に従って「前漢中頃」と判断し、」
それでは、埋納推定時期までの期間が長すぎるとおっしゃっているのだと思います。
長過ぎるのをおかしいと思うか、思わないかは、論者それぞれの都合になりますが、
三雲南小路遺跡の想定年代は、副葬鏡だけでは無く、甕棺の様式なども考慮されているんじゃないのかと思います。
王墓級の甕棺ですから、特殊なものかもしれませんが。
884 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 00:45:47
>>859 詐欺師 伊作
>人間の信仰的精神性があらわれたもので、厳粛かつ崇高なものだ。
>これが墓形やサイズにかかわらず全国統一。
そもそもこの「全国統一」なんていうのが真っ赤な嘘。
(先に王墓の副葬品で刀剣類の見えないものの事例を示した)
よくもまあこんな幼稚な嘘を堂々とつけるものとその厚顔無恥さには驚かせられる。
まあこの与太話(三種の神器や何処のアホウがほざいている二種の神器)なんて話が本当だったら
その副葬品体系の変遷を時代を追って系統化した研究が出ているんだろうが
(各時代ごとの鏡の様式、剣の形種類、各々の数量、どの様な副葬のされ方か…etc)
勿論そんなものはない、少なくとも俺は見たことがないがw
885 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 00:49:11
>もちろん、その宗教は神道とは無関係ですよね!
体制側の歴史書たる『三国志』が、体制外宗教たる天師道を批判的に鬼道と書いた。
ところが天師道しのちのち世家といわれる名家の士人たちにも信仰され、
とうとう儒教を取り込んで体制側宗教として「道教」へと昇華する。
このとき、儒教の神宝の玉(ぎょく・勾玉ではない)を取り込んで三種の神宝が成立する。
最初に入ってきた初期道教があって、5世紀頃に入ってきた道教があって、
縄文以来の自然信仰があって、これらが複雑に習合して神道があるわけで。
そのあとはいってくる仏教すらね中国で道教的要素が混じったあと、日本にやってきていたる。
あなたがどこの人かは知らないが、
私は関東で東京の西新井大姉に数十年通いつづけている。
ご存知、真言密教の寺院だが、祭壇の最上段正面には祭具として鏡が鎮座している。
空海が道教あるいはそれ以前の中国の古信仰を持ち帰った部分もあるのかも知れない。
いずれにしても、日本の古信仰の世界は一元的には語れないね。
886 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 00:56:11
884
●巨匠語録
扱いに困るのは、バカなくせにバカとは思っていない奴。
手に負えないのは、バカなくせに利口だと思ってる奴。
いちばん厄介なのは、抜けて利口で倫理観の欠落した奴。
てめ。バカなくせに利口だと思ってるだろ。
ほれほれ。てめーが勝手に仕込んだ第一印象固定観念とは、
だいぶ違ってきたろ。てめらの固定観念で補足できるほど俺は単純じゃないぜ。
そろそろ格が違うことに気づけ。
といっても無理か。
バカだから。
887 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:08:59
>>886 自惚れだけは人の千倍一万倍 の 伊作
「自分を利口と思ってる」ねえ…
まあ謙虚さなんていう美徳とは程遠い人間だが(苦笑)これでも自分をわきまえているつもりだがw
「初心者レベル」と言われれば
「ハイその通りです」と言い
「何処かの学者の受け売りにすぎない」と言われれば
「その通りですが何か問題でも?オリジナリティを競うような問題ではないと思いますがw」と言い
これでも自分をわきまえているつもりだが(コレマタ苦笑
お前らゴミクズレベル九州説はもう知識の多寡とかそれ以前。
自分が天才だ、自分の理論は完璧だとかほざいてみても現実を見れば邪馬台国論争自体が 終〜了〜 www
故に
>●巨匠語録。
>邪馬台国は検証の対象でも何でもない。
>処世のツールであり助成金の蛇口である。
と派閥闘争政治闘争に置き換えて己を慰めるしかない。
そもそも邪馬台国ブーム時の九州説がいい加減コマーシャリズム・センセーショナリズムの賜物だろうに…
それは爺さんの方が良く知っていると思うのだがwwww
888 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 01:09:31
>すると、天照大神を女神として設定した日本神話は、
>やはり7世紀以後の創作だったんですね!
道教がはいってきたあと三種の神器になるのだが、
道教の三種の神器は鏡・剣・玉の印璽だった。
ところが、玉璽は天皇の本当の法統の神器だから、
これをジャガイモ豪族にもたれても困る。
で・『日本書記』は開口一番、アマテラスの口を借りて、
鏡と剣と勾玉を三種の神器とするように告げさせた。
そうすることで・玉璽は天皇の神器であり続け、
ジャガイモたちは勾玉を神器一つとすることになる。
これも『日本書紀』の創作だね。
九州北部説者では名のある人でさえ、
中国にすら三種の概念がなかった弥生時代の墳墓から、
鏡と剣と勾玉をとりあげて三種の神器が出ているというのがいる。
とんでもない歴史錯誤というよりも、無恥無知だね。
●巨匠語録
三種の神器の概念が列島に入ってくるのは、道教伝来と同じ5世紀頃である。
889 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 01:15:37
>ゴミクズレベル九州説
確かに。伊都国を前原とし、奴国を博多とし、
邪馬台国を九州北部に押し込める説は、
ゴミクズといわれるような手口に頼らざるを得ない。
俺のばあいは、不正解釈・小細工解釈・まやかし解釈といった手口にたよらない。
それだけに、てめーらがののしり回す従来の九州説とはモノが違う。
バカはバカらしく、九州北部説を相手にしてろ。
格がちがう。てめえなどに横ちゃりされるレベルじゃないぜ。銀蝿
890 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:22:31
しかし光武帝の下賜品の前漢鏡の件について言えば
やはり伊都国・奴国周辺地域の王墓の相対年代前後関係があるんだろうな。
一つの遺跡を年代ずらして全体がどうなるのか…
まあ九州説の宿命(?w)として九州の遺跡遺物に対して通説の年代よりも新しく見なければならず
「畿内説けしからん!」と言った場合の畿内説には
(本州より恵まれた舶載品で延々と築かれた北)九州の考古学が含まれてしまうとw
>そもそも邪馬台国ブーム時の九州説がいい加減コマーシャリズム・センセーショナリズムの賜物だろうに…
これは言い訳出来ないよなw
ただ最近の映画は大して話題にもならなかったのが、
現在の九州説が置かれている現実を反映してるな。
892 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 01:31:56
888 のついしん。
念のために述べておくけども。
神宝・祭具としての鏡は白銅鏡。
明器(死者に副葬する・まれに地鎮に使ったみえて住居趾の床下から出る)は青銅鏡。
と決まっている。これ原則論
だから、土の下からでる鏡はほとんど粗末な青銅鏡が多いわけ。
はじめから、土の下に埋めることを前提につくられているから。
青銅と白銅の違いは、銅と錫の配分の違いによって生じるらしいよ。
『曹操集』によると、どうやら
中国では、王や貴人が使用した鏡は鉄鏡だったようだよ。
わが日本では、指定漏れの発掘調査可能な中小の墓(地方の有力者の墓)から出た遺物でもって、
倭国とその支配層の動向を語るという極めて不条理なことが平気で行なわれている。
私が考古学をバカにかる所以もそこにある。
いじょ
893 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:32:30
>>888 お〜。
すると、巨匠・伊作とは同胞になれそうだな!
卑弥呼=天照大神だのと抜かしてはばからぬ阿呆どもを共に抹殺しようではないか!
894 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:32:31
>>891 ただねえ…
あまりコレを強調しすぎると「官尊民卑」と言うか「アカデミズム礼賛」に繋がりかねない話ではあるwww
邪馬台国ブームの功罪の功として大衆に古代史への興味を喚起したというのはあるのだろうし…
この板の畿内説諸兄はその辺についてはわかっていらっしゃるとは思うがw
895 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 01:34:53
●巨匠語録
わが日本では、指定漏れの発掘調査可能な
中小の墓(地方の有力者の墓)から出た遺物でもって、
倭国とその支配層の動向を語るという
極めて不条理なことが平気で行なわれている。
「ささいなことを手がかりに大きなできごとを語る」という危険に
みなが不感症にされてしまっている。
896 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 01:36:13
>卑弥呼=天照大神だのと抜かしてはばからぬ阿呆ども
そんなの、もう誰も相手にはしていまい。放置がいちばんさ。
897 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:40:13
>巨匠・伊作
日本神話のほとんどが、7世紀の創作だって、
口をすっぱくして説明してるのに、理解できないアホが多くて辟易してたんだよ。
卑弥呼は太陽神の女神だったとか、イメージ先行の何の根拠も無い話しを妄信してるやつが多いこと。
そいつらに比べたら、何百倍もマシだな君は。
898 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:47:31
日本神話のほとんどが創作なら、たいした才能だ・・・。
899 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 01:51:14
>そいつらに比べたら、何百倍もマシだな君は。
分かればよい。俺のサイトからつまみ食いして、
ここでしたり顔で語る人がでるのも当然と思うだろう。
おれは、了見の狭いことはいわんから・悶着にはならんがよ。
ところで。
卑弥呼=天照大神説だかな。
天照大神には、そぼうで好戦的な弟と、目立たない弟がいた。
「卑弥呼にも、卑弥弓呼と政治を手伝ったいたという弟がいた」と
ちゃんという卑弥呼=天照大神説なら見所があるが、
どいつもこいつも、狗奴国・卑弥弓呼。狗古智卑狗だけは避けて通ろうとする。
自説にまずいことには「アンタッチャブル」だ。
論客として、だらしがない話だぜ。
900 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:55:05
>>899 ん〜??
>ちゃんという卑弥呼=天照大神説なら見所があるが、
後で、卑弥呼=天照大神説に追従する伏線を張ってるつもりかなぁ〜?
だめだよ。きみ、ちゃんと否定してもらわないと。
901 :
巨匠・伊作:2011/02/15(火) 01:56:34
>日本神話のほとんどが創作なら、たいした才能だ・・・。
中国に対して「臣」と称して朝貢外交展開した漢魏晋宋だいの歴史をー抹消した。
その間の歴史を神話に作り変えたのは事実だ。
そこに史実をー参考にしているとしても、脈絡を寸断された断片でしかない。
これが大人の判断だよ。
さて。明日から忙しくなる。必要があったら読んでくれ。
気が向いたら覗くから。
902 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 01:58:48
>>891 >ただ最近の映画は大して話題にもならなかったのが、
「まぼろしの邪馬台国」だっけ?
宮崎康平が同盟の小説で英治賞を受賞したのが1967年
ここらがブームの始まりかな?
で情(熱)の部分でブームをたきつけたのが宮崎なら
理(論)の部分でブームをたきつけたのが松本清張ってところだろうか?w
何れにせよもう全てが『昭和の思い出』って感じだなwwwwwwwwwww
903 :
902:2011/02/15(火) 02:07:50
>>902 訂正
同盟の小説 → 同名の小説
英治賞 → 吉川英二賞
…もうねるw
904 :
903:2011/02/15(火) 02:09:49
更に間違った orz 吉川英二 って誰なんだよ?('A`)
905 :
筑紫平民:2011/02/15(火) 06:33:12
おはよう、仕事行ってきます。
906 :
合格確実:2011/02/15(火) 14:39:21
>>883 人豚さん
レスありがとうございます。
そうですね。漢式鏡と書いてありますね。いや、言い訳にしか過ぎませんが、実は昨日アルバイト先の女性社員の皆様からチョコレート、ブランデー、ウイスキー、
特製芋焼酎などを山のように頂いて(と言っても皆さんが貰われたものに比べたら些細なものでしょうが)、夜に訪ねてきた友人にお裾分けをし、ブランデーを1本
空けた後に書き込んだものですから、神経が行き届いていませんでした。
例としては適当でなかったかもしれませんね。しかし、あの漢式鏡は5世紀に作られたものでしょうか?
>
>>829氏は、もっと細かい様式や鋳上げの状態から判断される「編年」に従って「前漢中頃」と判断し、」
>それでは、埋納推定時期までの期間が長すぎるとおっしゃっているのだと思います。
そうなんですかね。出土した鏡は破片ばかりで、1号墓の出土物は現存していない(「柳園古器略考」には拓本があるそうですが)のによくそのような判断が
できたのですか。すごいですね。まあ、前漢中頃と見られる鏡があったのでしょうが、盗掘の跡があったそうですからそれ以外の鏡はなかったとは言えないとも
思いますけどねえ。
あ、いけない、こまかなことを言い過ぎました。実はさっきまた友人と食後のお茶代わりに芋焼酎を飲んだので口が軽くなりました。僕を育ててくれた祖父に
「うちは酒豪の家系だが、酒はキチガイ水とも言うから気をつけなさい」と言われていたことを思い出しました。以後気をつけます。
907 :
合格確実:2011/02/15(火) 16:13:15
>>878 またまた反省しています。
>>873に対する答えがふざけすぎていました。
「>なんで前漢中頃の鏡なんか副葬したんだ? 」というのは当事者の思いについて聞かれたのではなく、「光武帝から王の印綬を受けた(AD57) 倭奴国王関係の墓ならば
何故BC100頃の鏡が副葬されているのか」ということだったのでしょうね。酒を飲んでいたとは言え軽卒にも直感で答えてしまいました。
問われているのは
(1)「1世紀半ば頃の倭奴国王がどうして紀元前1世紀頃の漢鏡を入手できたのか?」ということと
(2)「その紀元前1世紀頃の漢鏡を何故副葬したのか?」ということでしょう。
(1)については、僕はあの倭奴国王自身で前漢鏡を入手した可能性もあると思っていますが、この倭奴国王の祖先が交易で入手した可能性もあることを主張したいと思います。
倭奴国王が光武帝から王の印綬を受けた1世紀半ばの時代に「前漢鏡が全て破棄されていて入手不可能であった」とは考え難いでしょう。鏡というものは時代が変われば前代の
ものは全て破棄される性格の品物ではないと思います。したがって、倭奴国王は(その頃骨董品店があったかどうか知りませんが)前漢鏡を入手しようと思えば出来たと思います。
ところで、倭奴国王は1世紀半ばに「突如として」光武帝に倭の王と認められる力を持ったのでしょうか?九州から楽浪郡に至るまでの海路の制海権や陸路の安全を確保する軍
事力と政治力は瞬時に生まれるものではないでしょう。倭奴国王に先んずる数世代の祖先達の力があって生まれたものでしょう。つまり、前漢の時代に倭奴国王の祖先は楽浪郡
を通じての交易で前漢鏡を入手していた可能性が高いでしょう。
合格君少し自重したまえ。
世の中には女性との縁が全くなくてどんなに頑張って努力しても好かれなかったり
大好きな人と別れて泣きながら芋焼酎をあおっている人が一杯いるんだぞ。
僕も昨日もらったチョコはベビーチョコ3つだぞ3つ。彼女とは口も聞いてないし。
ところで倭奴国の話が出てるから思ったのだが、奴国が生口160人を献上したと
あるけどもその奴国は「本土」にあったか「半島」にあったのか、どちらなのだろう。
生口が奴隷であるならば当然警護の兵もつけなければならないし食料等も必要。
大船団を率いて本土から行ったのかそれとも半島からか?
909 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 17:46:27
そうだな。若いから自慢したい気持ちもわからんでもないが、少し浮かれすぎだぞ。ここの老人達も昔は花柳界でモテモテだった経験がありながら
そういうことを他人にひからかしたりするようなはしたない真似はしないのだ。わかったかね。
910 :
反省中:2011/02/15(火) 18:00:25
>>908、
>>909 すみません。仰るとおりです。反省してハンドルネームも合格確実から反省中に変えさせて頂きます。
ところで、
>そういうことを他人にひからかしたりするようなはしたない真似はしないのだ。
の「他人にひからかしたりする」は「他人にひけらかしたりする」の間違いではないでしょうか?
あ、また些細なタイプミスを指摘したりしてしまった。すみません。
>>876 >井原鑓溝の遺跡は・・・三雲南小路の遺跡と一体のものではないか
井原鑓溝には新代のころの鏡が副葬されていた。
三雲南小路遺跡が倭奴国王の墓なら、なぜ前漢中ごろの鏡だけが見つかったのだろう?
やはり不思議だな。
>>878 >だから不思議とは思いません
古い鏡が出てくること自体は不思議ではない。
前漢中頃の古い鏡を副葬した理由について聞いているんだが。
>答えようがありません でしょう?
「三雲南小路遺跡は漢倭奴国王の墓だとみている」と言う
自分自身の考えを聞いているんだが。
なにも考えずに「三雲南小路遺跡は漢倭奴国王の墓だとみている」と言い出したのか。
また、自分の言ったことについて疑問点を聞かれて、考えもしないのか。
912 :
反省中:2011/02/15(火) 20:13:20
>>911 すみません。怒らせてしまったようで。
あの〜、
>>907をお読み頂いたでしょうか?
>三雲南小路遺跡が倭奴国王の墓なら、なぜ前漢中ごろの鏡だけが見つかったのだろう?
僕は三雲南小路の王墓を倭奴国王(光武帝から印綬を受けたあの倭奴国王)自身の墓だと言った覚えはありません。倭奴国王関係の墓だろう
と言っております。多分、倭奴国王の父親や母親の墓ではないかと想像しています。倭奴国王の墓は井原鑓溝の方だったかも知れませんが、
こちらがどのような墓であったかは「柳園古器略考」の資料だけからでは分かりませんので強く言えません。漢委奴国王印がここから出てい
たら決まりだったのでしょうが、志賀島からの出土とされていますので・・・何か怪しい事情があるような。
913 :
反省中:2011/02/15(火) 20:46:36
>>908 >ところで倭奴国の話が出てるから思ったのだが、奴国が生口160人を献上したと
>あるけどもその奴国は「本土」にあったか「半島」にあったのか、どちらなのだろう。
>生口が奴隷であるならば当然警護の兵もつけなければならないし食料等も必要。
>大船団を率いて本土から行ったのかそれとも半島からか?
すみません。お答えしていませんでしたね。
あの〜、生口160人を献上したのは奴国じゃなくて倭国王帥升ですね。倭国王帥升は九州に居たと思います。
倭国王帥升は生口160人と護衛の兵とともに船で楽浪郡まで行き、そこから(後)漢の兵に付き添われて洛陽へ向かった
のではないでしょうか。
914 :
ローガン:2011/02/15(火) 20:54:24
>>912横失礼。
>僕は三雲南小路の王墓を倭奴国王(光武帝から印綬を受けたあの倭奴国王)自身の墓だと言った覚えはありません。
>>816に
>この墓は漢に認められた倭の王関係のものと思われますが、その王としては後漢書に登場する倭奴国王であろうというのが僕の見解です。
とありますが…別の人ですかね?
>>反省中さん
でも、それだけ関心をお持ちなのに、
何故、歴史・考古関係の方面に進まないの?
916 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 21:25:51
まあ結局のところ二浪厨は
「じゃあ邪馬台国の時代の王墓はどれか?」
に答えられなければ話にならんだろう。
いくら師升や倭奴国の墓が九州にあったと言ったところで
そこから連綿と九州にその王権を引き継いだ王がいたなんて保証はないのだから…
平原王墓あたりを挙げるのかな?
917 :
筑紫平民:2011/02/15(火) 21:49:11
伊作殿のブログ見た。すごかった。これで畿内説は終わった。
伊作殿ありがとう。
918 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 21:50:58
919 :
反省中:2011/02/15(火) 22:12:13
>>914 僕の書き方が不十分でした。倭奴国王に関連のある人の墓の意味でした。まだまだ修行がたりませんね。
>>915 歴史や考古は趣味です。それで飯を食って行く自信はありませんので。
>>916 >「じゃあ邪馬台国の時代の王墓はどれか?」
>に答えられなければ話にならんだろう。
それに答えられたら最高ですね。でも、畿内説の方にも同じことが言えるのではないでしょうか。
920 :
筑紫平民:2011/02/15(火) 22:12:31
『大和の揺籃 邪馬台国』 上下巻セット ダウンロードした。
これで勉強しなおします。
伊作先生ありがとう。
921 :
916:2011/02/15(火) 22:18:36
>>919 >それに答えられたら最高ですね。でも、畿内説の方にも同じことが言えるのではないでしょうか。
箸墓が果たして卑弥呼の墓なのかは別にしてその庄内期邪馬台国の時代に纏向があった…と言うのが畿内説。
無論九州説はこれに年代論で対抗するが
じゃあ九州説に年代を争えるネタがあるのかどうかって話だなwwwwwww
まあそんな物があれば九州説の大本命として誰もが知るところになっているだろうに…
「畿内説の方も同じ」と言う状況ではない。
922 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 22:57:53
別に巻向があってもいいんじゃね?
問題は数ある同時代の遺跡の中で、
巻向が比定できるかどうかということなんで。
923 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:03:37
>>922 いやだから今の話の流れとしてはだな。
九州にその対抗馬がないという話で
特に九州邪馬台国を倭奴国王や師升の後裔とするなら
そんな事を髣髴させうる物が九州にあるのか?って話。
さらに言えば筑紫平野とかそれ以南に比定する場合更に難しくなると思うが…
玄界灘周辺地域なら平原を引っ張る手もあるかもしれないが二浪厨は乗ってこなかったなwwwwwwwwww
>>912 >倭奴国王の父親や母親の墓ではないか
倭奴国王の父親や母親の墓であれ、なぜ前漢中ごろの鏡だけが見つかったか?
やはり不思議だな。
自分の言ったことについて疑問点を聞かれて答えないのも不思議だな。
自分自身の考えを聞いているんだが。
925 :
ローガン:2011/02/15(火) 23:34:11
>>921 > 箸墓が果たして卑弥呼の墓なのかは別にしてその庄内期邪馬台国の時代に纏向があった…と言うのが畿内説。
ん?箸墓は布留0完結。当然、その巨大墳墓被葬者の生前は、庄内期。
貴方はこの墓の被葬者を庄内期に活躍した大王だとは見ないの?
九州説叩きはおいといて、
「別にして」 じゃなく、一度見解を聞かせて欲しい。 勿論、蓋然性として…という話でね。
926 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 00:05:40
>>925 老眼
>貴方はこの墓の被葬者を庄内期に活躍した大王だとは見ないの?
そのことに関しては特に異論は無し。
そもそも布留0と言うものが形式的には庄内に含まれるものなんだし…
(この認識が間違っていたら指摘をヨロ)
927 :
ローガン:2011/02/16(水) 00:14:38
>>926 >そのことに関しては特に異論は無し。
なら、堂々と主張するよろし。
> そもそも布留0と言うものが形式的には庄内に含まれるものなんだし…
> (この認識が間違っていたら指摘をヨロ)
そうだけど。だから何?
928 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 00:17:25
>>927 老眼
>堂々と主張するよろし
いや、だからその「大王」が卑弥呼かどうかは分らんでしょって話w
929 :
ローガン:2011/02/16(水) 00:50:17
>>928 > いや、だからその「大王」が卑弥呼かどうかは分らんでしょって話w
では、魏志倭人伝の女王と、庄内期の纏向にいた「大王」との関連については、ノーアイデアという事ですか?
仙人とまぐわった熊女が卑弥呼
巻向大王はその子
931 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 01:15:53
>>929 横からだが。
「まともな九州説」なら、魏志倭人伝の女王=九州の女王
庄内期の纏向にいた「大王」=ヤマト王権の大王となるだろうな。
で、邪馬台国は、ヤマト王権に合併したんでしょう。
しかし、科学的には「オッカムの剃刀」によって、
九州に王権を示唆するような遺跡が見つからないかぎり、
庄内期の纏向にいた「大王」=卑弥呼とみなす。
これは、「学問」のとるべき姿勢なのであって、事実かどうかはまた別問題。
事実は、九州に卑弥呼がいたかもしれないが、証拠第一の「学問」として考えるなら、
「九州に卑弥呼がいたかもしれない」などとは言ってはいけない。
そういう、「学問」のありかたを嫌うなら、
「考古学など信用できん!」などと言って、九州説を唱えるのもいいが、
証拠が無ければ、九州説は、永久に「学問」ではなく、ただの歴史推理小説の域を出ない。
だから、九州説諸氏は、やはく九州の王都の遺跡を見つけて来いよ、となる。
今のところ、鉄=力=王権 が九州説なんだろ?
933 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 01:22:42
俺は畿内説だが、九州から王都の遺跡が見つかれば、いつでも九州説に転じる用意がある。
しかし、いつまでたっても、九州説からは
証拠を伴う形で、「卑弥呼の都はここ!」という論が出てこない。
出てこないんだから、九州説は、「夢」のままってことになるのは仕方がない。
俺は「夢」にお付き合いするつもりはない。
934 :
水銀厨:2011/02/16(水) 02:11:18
倭人伝の記述からは特に鉄を重視してる部分は無いはずです。
纏向は宗教的見地から重要視される場所なので、
そこに庄内期の大王らしき墓があるとすれば、
鬼道を用いた卑弥呼の物の候補としてもよい、はず。
ただし邪馬台国そのものは、この周辺はあくまで一部で、
7万5千戸という記述を信用するなら、
範囲は相当広大な場所のはずです。
935 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 03:12:28
7万5千戸って何だ?
高句麗は3万戸
奴国が2万戸とういのすら???
だが、
実際は奴国より規模が大きいのか?
すらわからんわ。
>>931 関西に「大王」がいたにせよ、東北に「大王」がいたにせよ、
奴国や伊都国等を従えて、狗奴国と戦闘し、親魏倭王と認めれたのが邪馬台国の卑弥呼であるに過ぎない。
考古学的にはその証拠が必要になる。
938 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 06:34:15
普通にやったら台湾辺りになるのって、否定する根拠は何?
普通に台湾でいいんじゃないの?
939 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 08:10:44
普通に台湾は無い。
940 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 08:43:00
@経路自体が台湾
A会稽東冶の東(福州)の東(台湾)と明記
B当時、呉の文化が日本にも伝播していた
普通に台湾でしょう邪馬台国
942 :
sss:2011/02/16(水) 09:46:30
>>921 倭人伝には、古墳らしきものの記述はない。「封土作冢」という程度なら
例えば吉野ケ里の墳丘墓なんて卑弥呼時代の200年以上も前からある。
卑弥呼の墓で突然、古墳というのは不自然。
箸墓は、後円部先作り説が終わっている以上、ありえない。大きさも形も
異なる箸墓をさらに卑弥呼の墓に比定するのは、恥の上塗りのようなもの。
>>931 王都が見つかればというが、これはなかなか難しい。継体王朝と四つに組んで
争った筑紫の君・磐井の都もわかっていないし、大きな勢力を誇った火の君の
本拠地も不明。こういうのは意外に見つからない。
纏向の場合は、邪馬台国のことが書かれている唯一の文献ともいえる倭人伝に
照らし合わせてみて根拠と言えるものはない。誰も文句を言えないような
根拠を示したてからの話だろうな。
943 :
sss:2011/02/16(水) 10:09:21
ついでに言えば、九州でも弥生時代の大集落遺跡、環濠集落はけっこう
見つかっている。
吉野ヶ里遺跡、平塚川添遺跡、惣座遺跡、方保田東原遺跡など。
しかし、これらの遺跡が何という国かはわかっていない。
このあたりが考古学の限界といえる。国名・人名は文献がないとどうにも
ならない。纏向だけは別らしいが。
944 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 10:21:01
九州説も倭人伝に照らし合わせて根拠と言えるものが一つもない。
ひたすら纏向叩きを繰り返して、纏向さえ邪馬台国の候補から外せば、
必然的に邪馬台国は九州にあったことになるんだよ、と繰り返しているが
纏向が邪馬台国でなかったとして邪馬台国が九州にあったという根拠もない。
近畿には纏向以外にも弥生時代の環濠集落が見つかっていることを
一切無視している。
委奴国王の金印があるじゃないか
中国の史書は「倭国は、いにしえの委奴国」とも書いてるのだよ
946 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 10:52:18
>普通にやったら台湾辺りになるのって、否定する根拠は何?
末盧国から二千里(対馬から末盧国までの距離)で女王国が始まる。
となれば、投馬国も邪馬台国も九州の中であることは明白。台湾になるわけがない。
947 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 10:58:23
>>942-943 sss氏
>卑弥呼の墓で突然、古墳というのは不自然。
そうかな?
もう一度魏志倭人伝を、初心に立ち返って読んでみてはどう?
長い歴史の間には、少々不自然なことも起こり得るのでは?と思わない?
>ついでに言えば、九州でも弥生時代の大集落遺跡、環濠集落はけっこう
>見つかっている。
>吉野ヶ里遺跡、平塚川添遺跡、惣座遺跡、方保田東原遺跡など。
きみに訊きたいのは、卑弥呼〜台与と女王が在位した時期を
きみが弥生時代だと思っているのは分かるのだが、
弥生時代をもっと細分して、次のどれに当たっていると考えているか、という点。
これはぜひ回答レスしてくないか。
@弥生時代前期 A弥生時代中期 B弥生時代後期
邪馬台国をマキムクとすると、出来たてホヤホヤの新興国ということにならない?
凄いスピードで、九州まで支配力を伸ばしたことになる(世々服属する)。
949 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 11:05:58
>近畿には纏向以外にも弥生時代の環濠集落が見つかっていることを 一切無視している。
弥生の大型掘っ立柱遺構なら九州にもそちこちにあることを一切無視している。
きみたちが目もくれないような場所からも存在が確認されている。
畿内説者たちは、文献に依拠して畿内説を唱えることが不可能だということを早期に察して
文献をとっくに捨てている。(捨てた文献の中から都合のょいい所だけ採用する)。
>委奴国王の金印があるじゃないか
>中国の史書は「倭国は、いにしえの委奴国」とも書いてるのだよ
しかり。『三国志』の倭人伝は、史実の把握と記録と継承に時には史官が命を賭けた歴史をもつ中国の歴史書が、
そのよき伝統を保っていた最後の伝だ。
言葉で史実を告げている歴史書よりも「ものいわぬ」考古資料で語るにしても、
欺瞞を抜きでやってほしいな。
●巨匠語録
2世紀初頭から2世紀末に至る弥生倭国の政権中枢の所在を語るにおいて、
古墳時代の大古墳の存在をもって云々するなかれ。………やれば欺瞞
●巨匠語録
関門海峡の支配権と通交権なくして、瀬戸内海と大和の連合など意味はない。………やれば欺瞞
●巨匠語録
「2世紀のヤマト政権」なる架空の存在は、関門海峡の支配権をいつ手にしたのか。
九州倭人は、敵対する勢力に利権を分け与えるほどお人よしではない。………説明できなければ欺瞞
950 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 11:06:12
横からだが、
>>947氏はいかなる理由で、
どの年代を想定しているのか表明したほうが
回答しやすいと思うのだが。
自分の立ち位置を表明しないで、誘導尋問するのは
あまり行儀のいいことではない。
951 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 11:16:53
>>949 >九州倭人は、敵対する勢力に利権を分け与えるほどお人よしではない。………説明できなければ欺瞞
九州倭人は、近畿をと敵対してたんですか?
その証拠は?
クナ国は近畿だとでも言うんですかね〜?
中国、半島との利権を求めるグループと、
列島での資源開発を進めるグループがあっても不思議ではない。
前者は交易国家で、後者は帝国化へ進む傾向がある。
ただし、両者の出自が別であるとは限らない。
953 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 11:37:12
>九州倭人は、近畿をと敵対してたんですか?
仲良くしていて、大和が九州を凌駕するほどに強力になるのを、
のほほんとながめていて、
しまいには九州とその勢力と利権とを乗っ取られたてかい。
>自分の立ち位置を表明しないで、誘導尋問するのは
>あまり行儀のいいことではない。
自論をいわず、相手にいわせてその穴をつつく。
「待ち受け型攻撃法」。畿内説が得意とする常套手段だね。
954 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 11:45:48
>自論をいわず、
言いたくても言えることがないんだろう。
福岡市西区の今宿五郎江遺跡の環濠も相当な規模のもの。
開発のためにまもなく全部埋められてしまうそうだが。
吉野ヶ里など邪馬台国に従った30ヶ国のうちの一つにすぎない。
956 :
筑紫平民:2011/02/16(水) 11:53:55
今日は、休みを取って『大和の揺籃 邪馬台国』を読んでます。
(上)の110ページまで読んだ。
すごかばい。
957 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 13:02:14
筑紫平民さん。ありがとね。
よみがな付きだから、解度がまたひと味理違うでしょう。
私の邪馬台国探しは、購読しないとわからないし。
ま・邪馬台国がどこにあろうが、「こう読むべき」という上巻の解説部分は、
邪馬台国研究史上かつてなかった正論で構築している。
WEB上で接触した人では最初の購読者だね。感謝
コンビニ決済できるから、ほかの人も購読してね。
そうすれば、この板で俺に投げられてきた罵詈雑言が、
いかに実態から遊離した誹謗であるかも分かると思うし。
巻向にお金をかけるより方保田東原遺跡発掘にもっとお金をかけてくれ!!
頼む!
959 :
九州ですが:2011/02/16(水) 14:57:18
ぜえったい巻向ではありません。
960 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 15:00:21
958
熊本は、大和州ほどガツガツしていないし。
遺跡慣れしすぎて「まさか」と思ってる。
臺(うてな)遺跡では、平原1号墳の2倍以上もある方形周溝墓がとっくにでてるし。
西都原を凌駕するほどの数の古墳群があるし。
弥生の鉄器生産の中心地で、弥生の人口密集地でもある。
そして何よりも、縄文時代から続く稲の生産地だ。
鉄と稲。これが古代における富国の鍵よ。
なーにが・土器が滑って転んだじゃーい。
>>959 ご本人かな?
なんとも懐かしいハンドルネームだw
962 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 15:10:02
あちきは、本物だよ。ちみだれ?
俺のサイトをのぞいて、俺の電子書籍を購入したまえ。
590ヘージの超大作が破格の1200円だ。
俺が・じぇんぶ・Nacで編集したから、
紙書籍のよーに制作費がかかっていない分だけ格安さ。
お解読だぜ。お買得。
963 :
反省中:2011/02/16(水) 15:25:40
>>923 >玄界灘周辺地域なら平原を引っ張る手もあるかもしれないが二浪厨は乗ってこなかったなwwwwwwwwww
まだ振り込め詐欺があとを絶たないそうですね。僕も怪しい話には乗らないように心がけています。
>>924 >倭奴国王の父親や母親の墓であれ、なぜ前漢中ごろの鏡だけが見つかったか?
やはり不思議だな。
そうですね。見つかったのは前漢鏡と推定される銅鏡の破片だけだったようですね。ただし、盗掘の跡があったそうですから、それ以外の
副葬鏡が無かったとは断言できませんね。何故前漢鏡が副葬されていたのかについては「前漢鏡が有ったから」でしょうが、当事者がどう思って
副葬したかは分かりません。
ところで、ご存知とは思いますが、
三雲南小路や井原鑓溝より後代の墓と見なせる平原遺跡の2号墓からは前漢鏡と推定される銅鏡2面と破片が出土しています。こんな例もあり
ますから鏡の年代と遺跡の年代が一致しなくても不思議ではないと僕は思います。
964 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 15:32:01
962 名前:巨匠・伊作
これ。早とちりで、自分あてかと思った。
しっつれい・いたしましたァー。
自意識過剰
966 :
九州ですが:2011/02/16(水) 15:52:21
>>961 PCが調子悪くなってそのままになてしまったのでございます。
まあ、箸墓が発掘されない限り結論は出ないだろうし
しばらく様子を見ているのでございます。
967 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 16:01:55
きみは
>>793で三雲南小路遺跡の王墓1号棺、2号棺から出土した副葬品を書いてくれたね。
ありがとう。
>>793 >1号棺には前漢鏡35、金銅製四葉座飾金具8、ガラス璧8、青銅武器4、ガラス勾玉3、
>2号棺には前漢鏡22、ヒスイ勾玉、ガラス勾玉12、ガラス璧片など
ところで、「青銅武器4」となってるのだが、この4本の武器の内訳は調べてないのかな?
968 :
967:2011/02/16(水) 16:04:43
969 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 16:10:11
素人の歴史小説に1200円は高いなあ。
∧,,,,,,∧
ミ,,´∀`彡
ミ ミつ
ミ,,,○,,,,,,,,,ミ
971 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 17:17:34
昔から思ってたんだが、畿内に邪馬臺国があるなら、その途中の国々の変わった
風俗とか書かないか?
仮に畿内説を取るにしても実際に使者は邪馬臺国に行ってなくて、
行った人から聞いたような書き方に感じる。
宣伝の為に自演までしてるとはねw
九州説の人っていつもまず商売だな。
まあ…
>●巨匠語録。
>邪馬台国は検証の対象でも何でもない。
>処世のツールであり助成金の蛇口である。
とか威勢良くほざいている奴が
ヒッシに自分の書いた本を宣伝してたら世話ないよなwwwwww
975 :
反省中:2011/02/16(水) 17:56:42
>>967 青銅製武器としては剣1、鉾2、戈1だとされていますが、現存しているのは銅剣だけだと聞いています。
976 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 18:51:04
まとめて矯正。
>素人の歴史小説に1200円は高いなあ。
そうかあ。へたな学者さんの論説よりは濃厚で参考になるぞ。
>実際に使者は邪馬臺国に行ってなくて、
>行った人から聞いたような書き方に感じる。
まだこんなことをいう人がいるんだね。矯正する気にもならんけど。
>ヒッシに自分の書いた本を宣伝してたら世話ないよな
よゆうだ・よゆー。売れた所でたかが知れている。
はなっから、売れることなど期待しちゃいない。
そうやって、嫉妬とやっかみ発言しかできん、お前らとは格が違うことを、
そういう形で証明しているのだ。タコ
●巨匠語録。
邪馬台国は検証の対象でも何でもない。
処世のツールであり助成金の蛇口である。
こういう言葉が湧き出る才能に脱帽か。
ボキャブラ能力だけでも段違いだな。
977 :
巨匠・伊作:2011/02/16(水) 18:52:08
>宣伝の為に自演までしてるとはね
この自演てのはどういう意味かね。おしえろ
978 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/16(水) 19:07:42
>>971 >仮に畿内説を取るにしても実際に使者は邪馬臺国に行ってなくて、
>行った人から聞いたような書き方に感じる。
238年の魏使は、伊都国までだろうな。
何故ならば、狗邪韓国からの記述は、対馬、壱岐、松浦までだ、
だから、この辺の博物誌、見聞に、「暦無し」と書かれていても、これは、漁民の風習。
現在でも、24節季で漁業をする輩はいない。
魏使は正始元年に始めて大和を訪れる。
979 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 19:17:49
コテを頻繁に変える奴は基本的に自演だよ、昔から。
>>978 実際に行ったが、方角の把握が90℃ずれているということだね?
983 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:28:22
ともかく、証拠第一主義なのが「学問」である以上、
導き出されるのは、邪馬台国は畿内というわけ。
それをインチキだというなら、九州の邪馬台国の場所を特定し、証拠を出さなければならない。
証拠も示せず、いくら含蓄を語ろうと、学問的には”詭弁”でしかない。価値はゼロ。
そこを理解できるかできないかだな。
理解できるやつは、学問を尊重し、畿内説をとるし、
理解できないやつは、学問を批判し、九州説をとる。←(幽霊は実在する!UFOは宇宙人の乗り物!人類は月に行ってない!、の類は全部これ)
984 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:38:14
東遷説をとる伊作にとって、一番辛いのが、マキムクから九州の土器がほとんど(全く)出ないことだな。
もともと、土器の重要性など認識してなかったのだから、気にしないのかもしれないが、
九州から人が移ってきて、九州の土器を持ってこないとか、九州の様式の土器を作らないとか、ありえないから。
「人は移動しても、土器を作るとは限らない」というなら、
九州以外の地域の土器が発見されてることの説明ができない。
この点だけで、伊作が何を言おうが、東遷説は否定されるし、「ゆるやかな首長連合」説は支持される。
マキムクから、九州の土器が出ないなら、九州の邪馬台国と畿内のヤマト王権が同時に存在したという論も出そうだが、
近畿の土器は九州から出てくるんだから、無関係とか敵対してたとか、
そういうアホな話には全くならない。
どうあがいても、九州説に分は無い。
邪馬台国の遺跡が九州で特定されない限り、一発逆転は不可能なのです。
985 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/16(水) 20:40:23
畿内大和に伊都国を傘下とする女王卑弥呼はいない。
986 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:44:01
伊作は、「ゆるやかな首長連合」という論説もしらなかったのだから、
マキムクの搬入土器の出土状況の評価なんて、自分の本で何も述べてないだろう。
伊作が、今後どのように「ゆるやかな首長連合」を否定していくか、
マキムクの搬入土器の出土状況の評価をどう論じるか、宿題ということだな。
よりいっそう、面白くもバカバカしい話をしてくれることだろう。
987 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:44:13
九州と畿内は関係なし。
若干民間レベルの交易があったレベル。
鉄も大陸の銅鏡等の銅器も、九州から離れるほどに直線的に
減っていく。
意図的な輸送ルートなどはなく、民衆の交易で自然に広がっていただけ。
互いに相手のことなど知った事ではない。
>>984 土器の出土は徴発する側か、徴発される側か分けて考えないとね。
989 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:50:44
>>988 きっと伊作は、マキムクで近畿の土器(産物)を徴発して、九州に献納したとか言い出すと思う。
そうすると、いよいよ、九州説は崩壊だ。
たのしみだなあ。
990 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:52:59
そういや、九州では若干ながら畿内土器は出るんだよな。
なにか詰めて持ってきたのだろうか。
逆はないようだが。
991 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/16(水) 20:57:25
「ゆるやかな首長連合」なんぞ大和に無い。
皆鉄を求めて、もみ手で大和に近づく。
>>990 九州では山陰、瀬戸内のものも出ているが若干とは?
報告書とは異なりマキムクに九州の土器がないとか???
993 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:00:53
畿内が九州に攻め寄せたところで、
奴国すら突破できんよ。
仮にもかつて金印をもらった奴国がどのくらいの軍を組織できるか。
防衛戦は、国家存亡の瀬戸際だから、編成できるぎりぎりの数を集める。
攻撃側は数倍の人数を本国から運んでこなくてはならない。
ホームとアウェイの戦力差は相当大きいものだ。
逆に九州から畿内を攻め寄せる際にも同じことが言える。
そんな大作戦やらかしたなら、記録に残らないはずはない。
人っ子一人いない無人の荒野なら、どうにかなるだろうが。
994 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:02:46
>>992 つまり九州に山陰、瀬戸内、畿内から
なにか物資が運び込まれていたということだな。
995 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:08:21
スレたて失敗した、あとはたのむ
996 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:12:23
>>966 九州ですが
しかしえらく懐かしい名が出てきたなw
この板の九州説には珍しく年代観では争わないコテだったと記憶しているがwwwwww
最期は「槨」について老眼その他から十字砲火くらってそのままフェイドアウト
…だったとも記憶しているw
>まあ、箸墓が発掘されない限り結論は出ないだろうし
地元の人間がショートカットの為の道を作ってたり
多分盗掘されていると思うなw
それでなくとも「親魏倭王」の金印でも出ない限り無理だと思うがw
997 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:18:27
>>963 > 鏡の年代と遺跡の年代が一致しなくても不思議ではない
それは不思議ではないが?
倭奴国王の父親や母親の墓であれ、前漢中ごろの鏡だけが見つかったのが不思議だ。
> 盗掘の跡があったそうですから、それ以外の副葬鏡が無かったとは断言できません
盗掘をまぬがれたのが前漢鏡ばかりだったというなら、それもまた不思議な話だ。
> 破片だけ
なにを言ってるのかな?
999 :
反省中:2011/02/16(水) 21:32:55
1000 :
日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:45:17
邪馬台国は、ヤマト王権。
1001 :
1001:
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