1 :
日本@名無史さん:
源氏は三代で途絶えることなく安定政権を作ったか
足利幕府の如き内輪もめでかえって幕府崩壊を招いたか
それともまた別の展開になったか…
歴史にifはないなんて堅いこと言わずに語りましょう
2 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 18:59:10
てか、もしもなにも、頼朝は義経義仲範頼行家義広と身内を粛正したんだが
3 :
1:2011/02/01(火) 21:32:18
なんてこった…
肝心のスレタイを間違えてる
これの鎌倉時代版か
もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1161313522/ 6 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2006/10/20(金) 12:33:39 ID:bWDVvue8
よし、妄想するか。もし東軍が勝っていたら
首謀者の石田治部、小西行長、恵瓊は六条川原で斬首大谷刑部は討死、宇喜多は逃亡のち八丈島に流罪
西軍の所領はことごとく没収され、毛利は防長20万石に削封、長曾我部・立花らは改易、島津は安堵
豊臣の直轄領から東軍へ恩賞を与えてしまい、豊臣は河内65万石の大名に転落
そして徳川は征夷大将軍に任じられて幕府を開き、その12年後に方広寺の鐘に家康を呪う文字があると
言い掛かりをつけて豊臣方の大坂城を二度に渡って攻撃し滅亡させると思う。
ちょっと飛躍しすぎたかな?東軍が勝利するifならこんなもんでしょ
7 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2006/10/20(金) 12:59:09 ID:2RS+plRh
>>6 どうだろう。そもそも東軍が勝つという前提が難しい。
西軍は上方と大阪城を抑えていたわけだし当初こそ東軍は岐阜城を落したり
勢いがあったが大垣城から西軍を誘い出すまでが限界で
関が原の布陣では西軍に先手を取られたじゃないか。
あの関が原では早期撤退すべきだったのを、何を血迷ったか
家康は本陣を繰り出し、あげくのはては静観していた小早川秀秋に
攻撃しかけて東軍壊滅のきっかけまでつくったではないか・・
5 :
日本@名無史さん:2011/02/02(水) 20:58:54
このifは展開がむずかしいな。
だって義経がいなかったら、奥州藤原は存続不可能だし、
義仲が早々に倒されたら、松殿家は摂家としてあれほど繁栄しなかったかも。
よし、妄想するか。もし頼朝が粛正をしたら。
頼朝の嫡男・頼家は政治センスに欠けていて伊豆・修善寺に幽閉後、北条氏の手により暗殺。
弟の実朝が3代将軍となるがあまり政治に関わることは出来ず和歌に没頭、
さらに鶴岡八幡宮の銀杏の木(2010年に東原亜希のデスブログの呪いで倒壊)に隠れていた
頼家の遺児・公暁に暗殺される。
実朝の代に既にお飾りとなっていた将軍家はこれにより源氏嫡流は断絶。
遠縁である九条頼経が第4代将軍となり実権は完全に執権である北条家へ移ることになる。
7 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 05:46:59
押さえるべきだったのは身内より外戚の北条氏じゃないの?
鎌倉幕府があれぬきで関東支配を確立できるような体制を頼朝は残せなかった。
もう少し、長生きできていたら話も変わってきたんだろうか。
8 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 16:53:53
身内の女が少ないから
北条&比企で義兄弟作ろうとしたが、それが対立の元になった
9 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 02:29:00
>>6 妄想炸裂しすぎwww
源経基以来、延々と続いてきた源氏が、ついに政権とった瞬間に
三代で滅びるとかって、マンガか小説の読みすぎでしょw
それに、源氏の将軍が和歌に没頭して、
藤原氏が将軍になるなんて似合わねーよw 逆だろ普通www
まさか、そこで男の代りに女が実権握って「尼将軍」と呼ばれる、
とか言い出さねーだろうな?ww
11 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 03:23:16
鎌倉幕府第四代将軍だぉ
そんな将軍いないよ
13 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 12:07:15
>>11 それはあり得ない。
もし下向するなら摂家に台頭した、西園寺家の公玉だろう
>>6 嫁の一族に簒奪されるって中国史のパクリじゃんw
源氏断絶なんてことが起きたら、朝廷に幕府自体滅ぼされるんじゃねえの?
後鳥羽上皇もいたしww
16 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 02:23:18
>>6はどう見ても、ありえない空想。
もっと現実性をもったシナリオをきぼんぬ
17 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 06:40:30
いい題材のスレだと思ったのに
1のミスでネタスレになったな
頼朝の選択肢は
奥州藤原&義経、義仲の粛清が先か
北条、三浦の粛清が先かのどちらかしかなかったろう。
どちらも不正解なのは、歴史が証明しているなw
19 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 18:45:00
室町幕府のように執権家を複数にすればよかった
20 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 19:42:26
で、頼朝自身も粛清された、、、という噂を聞いたことがあるんだが
ホトンですか?
もし、南北朝動乱で北朝方が勝っていたら?
22 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:53:45
それは有り得ないだろう。
戦上手の楠木正成がいるんだから。
あ
24 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 06:02:11
>>22 そりゃそうだな。
北畠顕家もいるし。
歴史にifはあってもよいとは思うが、あまり現実味の薄いこと言われても興ざめするわなw
25 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 07:22:54
もし織田信長が天下統一に失敗してたら、徳川家康による政権簒奪を経て江戸幕府の成立もなかっただろう。
しかし浅井の反乱に続いて松永久秀、荒木村重に明智光秀。これだけ同盟者や重臣が反乱起こしてるんだから、
一度くらいは成功しててもよくね?
26 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 08:45:39
>>25羽柴秀吉も反乱してたもんな。
結局人望がないから、家康みたいな周到な人間に天下をかっさらわれるんだよな。
27 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 09:28:47
南北朝動乱って北朝の勝ちじゃないの?
じゃ今の皇室の祖先はどの系統なんだよ…
あれは南朝が絶えちゃったから必死で探したら北朝出身の坊主の隠し子が
居たんだわ。
もう60近かったたけど、南朝最後の天皇の姫、40前と結婚させて、
でたった一人生まれた皇子が今の天皇家のご先祖。
・もしも仏教受容をめぐる蘇我氏、物部氏の戦いで蘇我氏側が勝利していたら?
・もしも壬申乱で大海人皇子側が勝利していたら
・もしも戊辰役で薩摩側が勝利していたら?
・・・
このスレは、あと30レス以内で終るとみた
31 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 04:12:21.74
頼朝自身きっかけは作ったが
軍事行動を起こすには担がれる立場に甘んじることから始めた
その後自身の能力で実際の統制力を強めていく
その過程で義経他身内の粛清は避けられない道程(さすがにやり過ぎか?)
いずれにしても武家政権の確立は彼抜きでは考えられない
後継者にはこの遺産は重すぎた
32 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 09:21:02.12
北条氏だって足利氏だって徳川氏だって一門は厚く遇して長期政権を維持しているからな
徳川なんて嫡流絶えたら親藩から将軍迎えることにしてたし
足利は微妙かと
34 :
忍法帖【Lv=21,xxxPT】 :2011/04/05(火) 13:31:12.54
te
35 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 15:14:54.92
>>31 一方的に担がれたというがそもそも北条時政など都の人は誰も知らない
その点頼朝は長らく院近臣を務めた都の官僚出身
後白河法皇の平家打倒の院宣を受けるほどに
源頼朝は都人から知られた存在だったわけだ
北条時政では平家打倒の院宣など戴けるはずもない
担がれたというよりも代々武士団の棟梁として東国統治を続けた源氏の末裔
頼朝が声をかければ東国武士がすぐ集まっただけのことだろう
何も東国武士が初めから強固な武家集団を結成していて
その一番上のお飾りとして都の貴族頼朝を担いだというわけではないということ
36 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 22:40:37.55
>>25 信長がせめて、家康は無理でも信康だけでも葬ってたら、
徳川の家臣に甘んじてた信忠が、家康亡きあとにさらに簒奪して
織田家に政権が奪還されただろうに。
やっぱ信康の安定感は異常。優秀な弟は他にもいたが、
秀康も忠吉も力不足。秀忠は論外だしw
37 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 11:08:33.38
>>36 家康は戦は滅法弱く臣従しまくりの人生だったから
武力で織田家から政権を奪取することは不可能だったろうけどね。
(豊臣家が幼主だったから政略結婚と策略で天下取れただけの話)
信康は優秀だった、だから、父の家康が息子に殺されるのではないかと恐れた。
武田家では実際に息子の謀反が起こっている。
だから、怖くなった家康は息子に切腹を命じた。
そもそも信長が本当に徳川を脅威に思っていたのならば
家康・信康共に切腹を命じて終わりでしょう(ついでに生まれていた秀康・秀忠も串刺しで)。
息子だけが死ななければならなかったのは家康が息子の謀反を恐れて切腹を命じたから。
江戸時代中ごろになって急遽切腹させたのは信長だという歴史が作られた。
>頼朝が声をかければ東国武士がすぐ集まった
それならとっくに挙兵してたんじゃ・・・。
令旨が回ってきたとき、兵を集める手立てなどまるでなかったから
内心ガクブルだったというのが本当でしょ。
だから、清盛にけっっしてバレないよう令旨の一件をひた隠しにしてた。
北条は取るべくして天下を取ったんだよ。
源氏の家臣すら見限っていたものを、平氏でありながら
清盛を恐れず頼朝を拾い上げたその度胸だけでも並じゃない。
頼朝にはそういうカリスマを感じない。
ギリギリ(一か八か、又はヤケクソ)になって
やっと兵を挙げるけど、頼朝のケツを叩いたのは北条だと思うね。
39 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 14:01:12.77
>>38 源頼朝は流人とはいえ、乳母やら従者やらの同居が認められ、かなり裕福に暮らしてたんだよ。
ある程度の武士を集められる目論見もあったし、
いつか挙兵する気は間違いなくあっただろう、ただし、平清盛に勝てる自信がなかっただけ。
清盛死後、以仁王の令旨が廻ってきたのでこれは、と思って飛びついただけ。
そもそも、傍系の木曽義仲や源頼政ですら挙兵できたのに、
河内源氏嫡流で彼らの主筋に当たる源頼朝がなぜ挙兵できなかったと思うの?
北条の支援で挙兵してるでしょ?
41 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 00:40:09.52
頼朝は義家の直系ということで
関東武士団には旧主家という意識は有っただろう
ただ挙兵当時は手兵は二三を除けば北条氏しか無く(後年幕府内で特殊な地位を占めることになった遠因)
当初から力で君臨したわけでは無い
権力を固める過程で一族の優遇(弟達や甲斐源氏など)と御家人を競合させた上での排除(朝廷との関連も有る)
政治向きな事は御家人層を排除し専ら京都下りの貴族を活用
最終的には独裁権力を確立した
彼だから成し遂げられた事であって(矛盾も多し)凡庸な後継者には過重な負担
42 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 19:59:26.37
>>40 いや、北条は平家攻めで何も戦功がない。
というか、そもそも頼朝と一緒に鎌倉にいて一切出兵していない。
源氏軍として組織されたのは頼朝の呼びかけに応じて集まってきた関東武士たちで
頼朝は北条が兵を出してくれたから挙兵できたわけじゃないよ。
43 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 20:07:37.65
>>41 頼朝の挙兵に応じたのはいずれも源氏が平安時代中期からの関東支配において
源氏を主君とした源氏恩雇の武将たちで、4月に以仁王の令旨発令、
その後2,3カ月で早くも頼朝のもとに300騎が集まり、8月には軍事行動に出ている。
この時集まってきたのは同族の源氏たち、源氏恩雇の武士たちであり、
関東の小家であった北条氏だけの支持で軍事行動を起こすことは無理だった。
源氏恩雇の関東武士団がなければこれだけ早い時期の挙兵は無理である。
東北を義経、西国を義仲と分割統治したから
頼朝政権は安泰だったわけで、2人を抹殺したら
すぐに瓦解して、坂東武士団による実力争いが
勃発していただろう。
45 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 22:43:37.07
源ヤリトモ
北条氏の後押しがあったから挙兵したし、反平家の武士も集まったん
じゃないか。歴史的にも誰もが認めている事実を否定してどうする?www
西国を義仲が分割統治?もう一回ちゃんと勉強しなおして来い!!
最低限の歴史くらい知ってからにしろよ。恥かいてて恥かしくないの?
そうだよな。頼朝が義仲を追討して敗死させるとか、
あんなに頼りにしていた義経を粛清とか、
イフスレにしても空想過ぎる。
鎌倉幕府は義仲、義経、範頼が頼朝亡き後も
補佐したからこそ繁栄していったんだから。
49 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 10:21:11.70
義仲はともかく、義経は家人も少なく経済基盤もないから、
粛清される理由が見当たらない。多少でも政治的センスがあったら
義経を担いで頼朝に対抗しようとする勢力が現われたかもしれない。
50 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 11:47:49.36
>>46 そんな歴史的定義などないぞ?
北条の後押しがなければ頼朝は挙兵できない?
木曽義仲や源頼政が挙兵できたのに、源氏嫡流の頼朝は一生関東で野武士状態?
んなことあるわけないじゃん。
北条がいなくても弟たちや関東に住む源氏の末裔たち(新田や足利)が
ちゃんと頼朝のもとに集まってくれてたよ。
51 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 11:50:25.18
>>46=
>>47 歴史を知らないのはおまえの方。
北条は頼家・実朝の外戚だったから政権を取れただけで
頼朝挙兵で戦功をあげたからではない。
そもそも、北条の戦功って何か上げれるの?
戦功建てたのは多くが源氏ゆかりの武将たちで、
北条は大した働きしてないんだけど?
52 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 11:54:01.89
>>48 義経は英雄になり過ぎた、将来跡取りの頼家の邪魔になるかもしれないから
頼朝の意志で粛清した。
我が子との政権闘争になりそうな身内(弟・甥)を殺すのは
頼朝だけに限らず権力者がよくやる手じゃん?
北条が自分が政権を撮るのに邪魔な義経を、頼朝の意志を無視して
殺害したのではない。
そこは定説と違うし勉強しようよ。
53 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 12:28:48.03
>>52 はぁ? 北条が義経を殺害? そんなバカなこと言ってないけど。
それこそもし義経が頼朝に粛清されていたら、頼家は北条氏に手玉に取られていただろう。
義経が頼家の邪魔になるなんてありえない展開www
54 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 13:42:18.20
>>53 馬鹿者発見w
頼朝の跡取りは誰だよ?
北条とかいう馬鹿wwwww
55 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 13:54:54.52
春らしくなってまいりますた
>>54 ここは「もし頼朝が義経・義仲を粛清したら」という
妄想スレだよ。何をムキになってるんだよ。
肩の力抜けよ。
>>56 意味がやっとわかった。確かにムキになるだけアホだったwww
58 :
日本@名無史さん:2011/04/22(金) 23:37:55.08
ところで粛正するって言っても幕府設立後だよな?
義経・義仲あたりを幕府設立前に粛正するのはさすがに無理があるし
ましてや平家を倒す前に粛正しちゃったら平家に勝つという前提すら成り立たない
59 :
日本@名無史さん:2011/04/23(土) 00:33:27.05
>>49 義経に関しては朝廷との関係が決定的
政治性が少しでもあれば手柄を独り占めをせずに御家人層に花を持たす気遣いも出来ただろうし
(実際鎌倉御家人の戦力が無ければこの戦果は有り得ない)
・・・
60 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 09:25:09.47
>>52 あまり勝ち過ぎても、
まずいわけですな。
>>39 自分の父親、息子を殺したのは、他でもない源氏だよ?
令旨のことを北条以外の人達に固く秘密にしてたのは、いつ清盛にチクるか
わかったもんじゃないと、全く信用してなかったからでしょ。
その時の潮流加減でとことん無視されたり、奉られたりしただけで
頼朝自身に武威があったとは思えない。
62 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 23:19:43.47
スレ違いだと思うが読んでみてくれ。
今回の震災、東北の被害がむご過ぎてスルーされているが、千葉県旭市の津波被害は明らかに不自然。
ちょっと日本地図を見てもらえば判るだろう。
震源地からは銚子岬の陰に隠れ、前は太平洋、右は九十九里浜と、津波を反射する物はなく、入江もないので津波が巨大化する原因もない。
にも関わらず、津波は市内住宅地まで襲い、死者13人(俺の記憶に間違いなければ全員津波被害)が出る事態となった。
津波被害としては、福島に隣接する茨城をも凌ぐ関東最大の被害である。
近隣の同様な地形条件の市でもこれほどの被害は出ていない。
旭よりも震源地に近く、ちょうど旭市の防波堤の様に太平洋に向かって大きく突き出した構造になっている銚子ですら、コレほどの被害は出ていないのだ。
つまり、津波が不自然なカーブを描いて、ピンポイントで狙ったように旭市を襲ったとしか思えないのである。
続く・・・
63 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 23:23:08.21
>>62の続き
大袈裟な表現はしていない、何度も言うが一度日本地図を見て確認してみて欲しい。
この津波被害がどんなに不自然なモノか納得してもらえるだろう。
旭市はあの木曽義仲の一族が逃れて拓いたという伝説がある。
木曽義仲と言えば、源氏の一勢力として平家を初めて破り、京都から平家を排除した武将である。
そもそも木曽義仲の父が関東で源頼朝・義経兄弟の兄である義平と戦って破れ木曽に落ちたのだから、あながちあり得ない話ではない。
さらに続きます・・・
64 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 00:16:25.07
>>63の続き、コレで最後だと思うから我慢して読んでみてくれ。
さらに今回の震災では、岩手県も福島に次ぐ大きな被害を受けた。
岩手と言えば平泉、奥州藤原氏の黄金郷があった場所だ。
壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経は、その後、兄の頼朝と仲違いしこの平泉に逃げ込んで、この地で討たれた。
元々、義経は幼少時代から奥州藤原氏の庇護を受けて育ったというのが近年の有力な説である。
事実、義経の直参の家臣は皆、奥州の出身である。
あの弁慶ですら、比叡山の僧兵出身ではなく、出羽三山の山伏系武装兵出身だという説が近年注目されているほどだ。
平家を滅亡に追い込んだ二人の源氏武将ゆかりの地が、まるで狙われた様に被害を受けたのは偶然だろうか?。
最近、ネット上で今回の震災がアメリカの地震兵器によって人為的に起こされたモノだ。という説が浮上してきている。
それを指示したのは、アメリカを裏で支配するロックフェラーであるという。
もしソレが本当ならば、ロックフェリー=平家の末裔説もあり得ると言えるのではないだろうか?。
平清盛の不自然な大出世も、清盛=フリーメイソン説ならば納得がいく。
いやむしろフリーメイソンの力無くして、当時の日本で無名武士があれほどの出世はあり得ないのではないだろうか?
65 :
日本@名無史さん:2011/04/26(火) 11:52:18.02
>>61 頼朝父は家臣の裏切りで殺されたが別に源氏に殺されたわけじゃない
息子を殺したのは北条だろう
なぜ頼朝が他の源氏を信用できなかったの?
源氏である異母弟たちに大軍を任せたりしたの?
66 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 05:57:55.30
「源氏恩顧の武将」なんて頼朝による創作。
そもそもそれ以前に源氏は関東の支配などしていないし。
67 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 09:51:08.44
>>66 前九年の役・後三年の役は?
新田や足利など源氏の武将たちが関東に土着してたのは無視?
平教経「義仲だけが相手なら、我らが負けるはずがなかろう」
源頼朝「じゃ、義経やっちまうよん」義経「兄者…ゲフッ」
平知盛「源氏自滅キター!」平教経「それ、京まで押し返せ!」
貴族「阿呆じゃ阿呆じゃ、源氏の棟梁は!」
平教経「平氏に逆らう貴族どもは逆臣ぞ!島流しじゃ!」
…という夢をみてみた
69 :
日本@名無史さん:2011/04/28(木) 22:39:36.23
頼朝が作り上げた体制は
基本は都下がりの貴族をスタッフとした彼の独裁体制
権力基盤である組織された御家人層(軍事力)を政治向きから排除したが(悪いようにしないから俺に任せろてとこか?)
それだけに個々のの有力御家人とは個人的な信頼関係を維持しようと腐心してる
(身内の排除もこのためには不可避だったかも?)
生存中はともかく早晩破綻するのは必然だろう
70 :
忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/04/29(金) 06:24:55.20
tesuti
71 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 15:22:42.91
>>67 前九年の頼義、後三年の義家はともに、陸奥守という国の役人として、それぞれ安倍氏、清原氏と戦ったに過ぎない。
しかもその前九年役、
関東から頼義に率いられて参戦したとされる諸将のその内訳をみると、その殆んどは実際は都の武官職についていた者、つまり京武者。
生粋の坂東土着豪族など極わずかで、それに上で述べた京武者(実際は頼義の同盟者)と、更に陸奥守赴任後に官符(つまり頼義の力によってではなく国命)によって従った兵の全てを合計してもその数は安倍軍の3分の1ほど。
源氏の動員力などその程度のものでしかなかとたのだ。
そして「頼義軍」は安倍軍に惨敗する。
それは後三年役の義家にしても同じこと。
>新田や足利
が
>関東に土着してた
のなら、それは平氏系土着豪族や藤原氏秀郷系土着豪族と同列ということで、関東豪族のone of themということに過ぎない。
そんな彼らが、「坂東軍ヒエラルキー」のトップに君臨して、
>源氏恩顧の武将
とやらをたくさん従えられるような
>関東の支配者
のような存在である等とはとても言えまい。
72 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 02:29:08.03
>>64 義経のお墓にいってきましたよ。
平泉の高館にあるんですが今年は藤原祭がないんです。
…なんか訳もわからず一気に悲しい気持ちになりました。
73 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 02:45:30.68
ねね、源平あたりで武芸に優れた猛将って言ったら誰が思いつきます?
平知盛とかよく聞くんだけど
74 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 03:06:53.47
情緒的かもしれないが
義経の腰越状は頼朝は見てる(それ以前に許可なく官位を受けたものは東国下向禁止の命令を発してる)
個人としては許したいと思ってたかも・・・
75 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 09:20:12.43
>>73 畠山庄司重忠
斎藤別当実盛
伊勢三郎義盛
意外なところで梶原平左景時
76 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 09:32:12.24
ありがとうです
平知盛って強いんですか?
他に、平とか源とか北条がつく人で挙げれますか?
77 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 09:34:30.18
う
>>76 平教経は、平家による源氏派鎮圧戦「六ヵ度戦」の中で、瀬戸内の水軍で源氏に
寝返った勢力と対峙。
「昨日まで平家につくといっておいて今日はこれか!一人残らず討ち取ってくれる
わ!」
という怒りの叫びを敵に浴びせ、一声だけで、敵軍を壊走させた。
その場所は岡山県倉敷市下津井田之浦。「備前壇之浦」と、当時は呼ばれていた
そうな。潮流の難所で、壊走の際、海に落ちて死んだものもいたそうな。
教経が怒りしときの顔思へば 波さへ騒ぐ下津井の海 平賀元義
瀬戸大橋本州側の直下に「田土浦公園」があり、その碑に詳しく載ってる。
79 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 20:43:17.72
能登守教経
悪七兵衛景清
鎌田政近
佐藤忠信
緒方惟義
>>78-79 能登守教経や悪七兵衛景清の活躍の多くは軍記物語の中だけじゃないか。
平家一門で実際に軍を率いていたのは知盛・重衡・通盛・維盛・資盛・経正・
忠度といったあたりだろう。
82 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 00:37:11.93
ん
83 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 13:28:03.66
源頼朝の領土っていったいどこ?
土着できない武士なんていずれ外戚に傀儡になっただろ。
弱体したのは範頼・義経ら他の源氏が粛清されたから。
頼朝は利用されてることなんて端から承知だよ
>>83 範頼一門、義経一門はよき藩屏になりました
86 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 10:20:37.06
源氏同族の新田や足利は関東に領地があったんだよな
頼朝は領地を平家に奪われたとはいえまた平家から武力で奪い返した
それだけのこと
87 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 20:52:57.26
亀の前事件で伊豆へ逃走した時政討ち取ったのは正解だな
88 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 06:16:12.25
保守
89 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 19:35:53.61
もしもお江戸にピラミッドがあったら
90 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 23:48:01.08
義仲を身内と呼んでいいのかね。
そもそも頼朝自身が粛正されたかもしれないという疑念が
92 :
日本@名無史さん:2011/08/12(金) 15:05:39.76
もし源義朝が身内を処刑しなかったら
94 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 07:24:09.64
源頼朝「粛清はしましたが、"粛正"というもののやりかたはわからなかったのでしていません」
もし京成が標準軌に改軌していたら
もし京浜・小田急・京王が戦後再独立していたら
もし愛電と名妓が合併していたら
もし南海鉄道が国有化されなかったら
もし鹿児島本線が水俣経由だったら
97 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 14:01:23.32
もし相撲協会が外国人力士を容認していたら
もし恐竜が白亜紀末期に絶滅していたら
もしビッグバンが起きていたら
もし日本プロサッカーリーグが発足していたら
もしエベレストが噴火しなかったら
むしろ北条と三浦を残しておいたのが断絶の原因じゃね。
泰時とかは残してても良かったけど。
頼朝なんて北条の人形だろ
軍を率いなかったのも、鎌倉で人質にされていたため
で、軍功のあった兄弟二人を粛清させられて
自身も息子もぶっころされて終わり
ただの飾り
もしバベルの塔が建設されていなかったら
106 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 20:00:18.89
もし十二支決定戦に猫が出場していたら
107 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 20:04:59.33
もし日本放送協会が分割民営化されていなかったら
108 :
日本@名無史さん:2011/12/03(土) 21:10:11.80
もし頼朝が側室を持たなかったら
ネタとしてももう飽きたな。
110 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 20:40:10.93
じゃあ誰が御三家になるんだよ。
妻の実家の北条や比企か?
112 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 00:07:07.77
たしかに、鎌倉幕府滅亡の原因は頼朝が一門を粛清しなかったことかも知れないけどさ
150年後を見越して有力一門を粛清するとか神視点杉だろ
打倒執権北条を旗印に奥州源氏を中心に親潘が一斉蜂起して鎌倉を滅ぼすなんて誰が予想できるってんだか
おまけに足利なんて源氏の血筋でも微妙な奴が後醍醐に気に入られたおかげで天下取っちゃうし
113 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 09:05:12.05
義経や範頼が粛清されていたら、希望の子孫が将軍職を継承したはず
つうか義経達が粛正されたりしたら彼らに率いられた坂東武者や奥州のつわものが北海道、樺太を経由して大陸に渡り
日本の騎馬武者がユーラシア大陸を席巻するなんて歴史はあり得なかったわけで
身内の粛正なんてしたら平家討伐しただけで鎌倉幕府は勢力範囲はせいぜい本州で終わってただろう
日本が歴史上唯一、西アジアを越えて東ヨーロッパまで勢力を伸ばすっていう大陸進出の成功できたのは
義経、義仲っていう世界史上最高峰の戦術家と頼朝の敷いた完璧な統治機構が源氏という血族によって緊密に連携できたからこそ
そんなありえないifがおきたらそれこそ中世以降の世界史は根本からくつがえされてしまう
たしかに義経を祖とする奥州源氏によって蝦夷や樺太の開発が進み、女真や蒙古と直接交流できるようになったのは大きいな
ただ、義経や義仲が直接海を渡って大陸で活躍したってのは講談本の話だろ?
チンギスハーン旗下で活躍し西アジアで所領をもらった日本武士の傭兵団が、義経や義仲の旗印を使ったせいなのか
義経や義仲が大陸で大暴れっていうホラ話を琵琶法師が語り継いで、江戸時代にはその手の講談本が大流行
おかげで史実と勘違いしている人が結構多いんだよな
義経は室町時代まで続く奥州源氏の祖として子孫をたくさん残して平泉で亡くなってるし
義仲は晩年出家して木曽にこもっただろ
>>115 清和源氏っていうか八幡太郎義家の子孫達がユーラシア大陸でもっとも多くその遺伝子を残したというのは科学的に証明されてる
さらに明代において編纂された元史は中国の二十四史のなかでももっともいい加減な内容で現代中国の成立後になって新元史の再編の必要が生じたようなレベル
元史に書かれた日本の武士団が大ハーンの率いるモンゴル騎馬軍団に組み入れられたという記述と
吾妻鏡にある義経旗下の奥州兵団による蒙古平定を比較すると後者の方が圧倒的に記録に正確性がある
後世の検証によってモンゴルのハーンと鎌倉の将軍の力関係は鎌倉方のが上だったのは明らかになってきてる
歴史がすり替えられたのは漢民族どころか五族ですらない倭人の勢力下にあったのを否定するため
後の元寇に関しては鎌倉幕府の影響力を廃除するためのフビライによる独立戦争っていう意見が強いしな
北条氏が頼朝の活動初期から権勢を持っていたと思ってるやつが結構多いんだな
118 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 18:28:13.91
>>116 マユツバだなぁ
兵站から見ても政治的に見ても明らかに無理がある
まだ清朝がかつての日本武士傭兵の血を引いてるって説の方が説得力があるよ
まあ、義経が奥州を治めなければ樺太回りの渡海ルートも無かったわけだから、そんな伝説も生まれなかっただろうね
奥州藤原氏は必要以上に蝦夷地に介入しなかったから
……ってかさ、義経粛清したら奥州どうすんだ!?
義経が秀衡の後継者になるという形で奥州が鎌倉の傘下に入ったのはあくまで義経と秀衡の個人的な関係のおかげであって
義経がいなければ奥州藤原氏が頼朝に頭を下げる理由が全くない
武力制圧するにも頼朝が義経や義仲無しに奥州藤原氏に勝てるとは思えんし
下手すると東北地方や北海道は日本とは別の独立国家になっちまうぞw
>>117 初期にそれほど権勢を握れなかったのは、それこそ義経義仲をはじめとした頼朝の親族衆が勢力をもっていたからだろ
朝廷工作を担当した行家の存在も大きいな
頼朝がそいつらを殺してしまえば誰が北条一族を止めるんだ?
眉唾と言うか、実際に国書を送りつけて「至用兵、夫孰所好、王其圖之」なんて書いてしまったからなあ>義経
そら蒙古も怒るだろ。そうは言っても義経の侵攻の脅威に抗すべくもなく屈服したと見られてるんだけどな
>>118 義経が粛正されて鎌倉とのパイプが無くなったにしても秀衡の死後はどうとでもなりそう
偉大な当主が死ぬと次代で一気に一族が没落するのはよくあること
藤原兄弟が義経を擁立して頼朝と対峙すれば奥州は鎌倉の勢力外になるかもしれないが
ただそうなると今度は兄弟で国を二分することになるわけで何のメリットもない
どう仮定しても一族の粛正なんてデメリットしか見えてこない
まして蝦夷地、樺太への介入なんて奥州藤原の莫大な資金力がなければ無理だろうな
あの人らは黄金の国ジパングの伝説を知らしめた当時世界最大の大富豪だし
漢の高祖以来、天下の覇者が統一後、有能すぎる軍師や将を廃するのは定番だけど
頼朝の場合幸運だったのはそれが一族の人間だったことだな
>120
後にジンギスカンの孫のフビライが真似た奴だな
九郎判官の署名にハンを詐称したと激怒したとか
南無八幡大菩薩の旗に日本には八人の大ハーンいると驚愕したとかいろんな逸話があるな
まあ義経の蒙古平定は鎮西為朝が伊豆諸島、琉球、台湾、ルソンと島づたいに西へ勢力を拡大し最後にバイキングとともにアメリカ大陸に渡ったって話よりはるかに信憑性あるよ
江戸時代から大正の学者は割りとマジで研究してて為朝の子孫はアパッチ族なんて話も流行したが
ああいう俗説の類いと違う
>>121 頼朝が一族粛清することにメリットが無いのは完全に同意
それ以前に、粛清できるのか?
義経は自前の勢力こそないものの奥州には後に義父になる秀衡がいて
京には公家の異父弟も居る、かくまってくれる先はいくらでもある
義仲は粛清しようと思っても鎌倉に彼を倒せそうな将が居ない
義仲を倒せる武将がいるとすればそれこそ義経だけだ
どうやってこの二人を粛清するんだよ?
潰しあいでもさせるのか(プゲラ
>>123 頼朝は中世の最高権力者には珍しく跡継ぎ候補の子が少ないからねえ
だから義仲の子義高を大姫の婿にして実子同然に育てたりして一族の結束をはかった
一族の粛正を行えば戦後期末期の豊臣家みたいに家来筋に政権を簒奪され早期に滅んだ可能性もあるな
秀吉は我が子可愛さに甥を死罪にしたり朝鮮送りにしなければ頼朝みたいになれかもしれないのに
鶴ヶ丘の頼朝像に向かって儂のが上だって言ったらしいけどバチがあたったな
ほぼ一夫一妻だった頼朝に比べ平清盛は大勢の女たちとの間に
大量の跡取り候補がいたがあっという間に自滅したからな
何もかもが上手く行くというのは難しい
頼朝の嫡流を限定しておきながらも親族を厚遇するやり方はなんだかんだ言ってもバランス良かったよ
たぶん天皇家をモデルにしたんだろうな
一方の平家は藤原氏のように一族を競い合わせたのが結果的にはまずかったね
源氏が結束できたのは新宮行家がよく間を取り持ったからだよ
義仲が一番乗りで後白河に会おうとするのを制止して
あくまで行家の伴として同伴させたのはまさしく英断
同世代の義仲が勝手に先行すれば氏の長者である頼朝の面子がつぶれるけど
親世代の行家なら、頼朝が尊属の顔を立てたことになるからね
あくまで後白河院の遊び相手に徹したことからも個人的野心ではなく
源氏全体のための朝廷へのパイプとなったことがうかがえる
頼朝は公私の区別に厳しかったから、御家人の信望を得ていた。
江間義時が御所の女房に付文をした時に即座に斬罪を申し渡し、
梶原景時が必死に助命嘆願した結果ようやく許され、義時は修禅寺に幽閉されることになった。
安田義資は笑って許したのに、何故義時には過酷な処分を取るのかと諌められた頼朝が
「おのが姻族だからこそ厳しくなければならぬ」と答えて、御家人が感涙に咽んだという逸話が蝦夷鏡に載っている。
↑これってパオ兄さんが書いてるの?
>>115 あまり知られていないが、義経は初代十勝守に任官している。
北海道諸国の守護はほとんど義経流が独占している。
そうかと思うと北条にもコネがあったり何気に勢力圏がすごい。
北条泰時の息子経時の烏帽子親にもなってるし。
ところで上の方で出ていた頼経というのは義経の長男で、九条家に養育された九条判官頼経のことじゃないか?
鎌倉中期の守護は、推定ではこんな感じだと言われてるね
渡島守護…経朝(義経流、京流…有名な静との間の子)
江差守護…新田経重(義経の女婿の子)
天塩守護…経義(義経流、時忠流)
十勝守護…義家(※八幡太郎とは別人。義経流本家、河越流)
当時は泥炭地が多くて、これ以外は産業を立てるのが難しかったんだな
ただ石狩、胆振、天塩あたりの先住民アイヌとの通商は江差守護、十勝守護の差配下にあった
彼らの権益を保護・確定する必要が、義経の蒙古への服属要求の背景にあったと言われている
岩母田氏は(石母田じゃないから間違えるなよ)は義経の蒙古服属要求を無謀な要求だと断じていたが、
最近、中央アジア史の研究者からこれを見直すような見解が出てきてるんだよな
とにかく義経流の諸家が北方交易でどれだけの富を蓄えたのか想像もつかない
この中で最も美味しかったのは、十勝守護に任じた本家ではなく、渡島守護の京流だったと言われてる
>>127 同世代なら良くて親世代なら顔を立てたってことになるって理屈がよくわからんが…
義仲が行家の伴ってことになったってのも初耳だし
つーかむしろ行家は頼朝と義仲、頼朝と義経との対立を助長してる感さえあるが
>>130-131 詳しいなあ。勉強になります。
義経流に比べて義仲流はその後あまりふるわなかった印象があるけど。信濃じゃ大した産業も無いしね。
せめて義高と大姫の間に男子があれば…。
そういえば、九条頼経と正室の頼朝孫娘との間の男子もみな早世しちゃってるね。
やはり奥州源氏の影響力を恐れた北条氏に毒殺された?
>>131 >十勝守護…義家
通称は鞍馬太郎義家な。幼名は五条若。
>この中で最も美味しかったのは、十勝守護に任じた本家ではなく、渡島守護の京流だったと言われてる
経朝の孫の経明(つねあきら)は十三湊の安東太郎と同じくらい金持ちだったらしいね。
朝廷に莫大な献金を行っていたのは言うに及ばず、幕府の有力御家人たちにも軒並み金を貸していた。
当時すでに隠居して出家していた本家の鞍馬太郎義家が「やりすぎると破滅するからほどほどにしときなさい」と手紙を送って諌めたけど、結局改まらなくて、三代後には滅ぼされることになるんだよね。
すぐに復活して元の鞘に収まるけど。
>そういえば、九条頼経と正室の頼朝孫娘との間の男子もみな早世しちゃってるね。
>やはり奥州源氏の影響力を恐れた北条氏に毒殺された?
殺ってる殺ってる。
中でも九条頼経の子頼嗣の件が惨くて有名。
頼嗣は九条関白が「藤原に改姓させて跡継ぎにしたい」といったほどのかわいがりようだったのを非情にも。
この一件で実行犯に直接命令した名越朝時は九条家とその分家筋、家来筋の公家衆や寺社から総すかんを食らって、北条の嫡流になれなくなった。
逆に泰時は老義経との縁から頼嗣を丁重に弔った結果、その一族は北条の本家に収まった。
どっちも義時の命令に従っただけなのにこの違いはと思わんでもない。
ま、朝時は謀略家の色が強すぎて政治家として表舞台に立てそうもなかったからこれで合ってるんだろうけど。
>>133 竹御所(頼朝孫娘)との間に子はできてねーぞ
竹御所のは死産で頼嗣らは藤原親能娘との間の子
竹御所はむしろ頼経を将軍にするために利用されてたぞ、祭祀にも結構関わってたし
>>136 >竹御所はむしろ頼経を将軍にするために利用されてた
北条時政の後妻の伊賀の方(伊賀禅尼)が起こした伊賀崩れの話だな。
あのときは阿野全成の一族が相当巻き添えを食らって流罪になって、泰時も殺されかかって鎌倉は大混乱だったらしいね。
>>136 藤原親能娘が早くに死んだから竹御所が母親代わりになってたのを勘違いしてる学者とか未だにいるよね。
>>133 ただ義高女の板の前は名越朝時に嫁してるでしょ。おかげで朝時は越後、越中、信濃、
さらに一時的に甲斐、出羽の守護まで拝命して絶大な権限を握ってるのでは?
駙馬金吾と言われて実子同等の扱いだった義高の娘だから朝時懐柔には適していた
板の前は政子の贔屓が凄かったから、頼家との叔父姪婚も真剣に考慮されてたらしい
泰時もあまりに巨大な大姫御料地による頼朝御料地の分散を警戒して、両者の婚姻を支持し、
入内に反対してたらしいけどね。このあたりが入内運動が失敗した遠因ではないかと言われている
頼朝は源氏の代表ではない。
関東武士の神輿だ。
>>140 そう言い放った上総広常は義仲に説教されて面目を失い、出家する羽目になったわけだが。
あそこで義仲が介入してきたのが謎なんだが、
頼朝に頼まれた説と、広常が義高=政子閥と対立していた説の両方があるな
>>142 頼朝に頼まれた説のほうが事実に近いんじゃないのか。
広常は関東での自立を唱えてやまず、振る舞いも横暴だったため、広常が常々次期武家の棟梁と期待していた義高の父で、自身も尊敬を受けていた義仲から押さえるよう頼朝が頼んだという話は筋が通ってる。
対立していたという説は贈答の記録なんかをみると疑わしい。
広常は義高に奥州の名馬を贈ったりしてむしろ後援者だし、その後ろ盾の政子にも付け届けを怠っていない。
一時は広常の娘が義高に輿入れするという噂もあったぐらいだし。
>>141 義仲が広常の太刀をひんまげて、「藤原俊兼は華美で倹約を知らない贅沢者であるが、できることとできぬことをわきまえて高くを望まない。
だからその身は引き立てられ、公事に重きをなすのである。それにひきかえお前は多くの家人・郎党を養う身でありながら大言して慎みを知らない」
「今後は大言をやめよ」と辱めを与えるくだりか。
後藤新平が上司に叱られた時聞かされた話だな。
義仲流では朝比奈氏の活躍が要所要所で目立つね。
義秀(巴御前の子)には和田義盛の女が嫁いでるし、
終始、御家人達との繋がりが総じて強かった印象があるけど。
義秀は吾妻鏡にも正室の和田義盛娘が「怒りて里に帰ること一度ならず」、って記述があるくらい多くの側室を持ったからなー。
側室所生の大勢の娘たちをいろんなところに嫁がせて、影響力を持っていた。
その一方で跡継ぎにはちゃんと正室の子を立てたから、舅の和田義盛も笑って許して、ますます勢力が強まったんだっけ。
義平が、生きていたら頼朝の天下も無かったな
父が旧敵同士の義仲ですら頼朝は御門葉として自身の藩屏にすることに成功したんだよ
上にあるように義高、義秀をはじめ頼朝政権の重鎮が揃ってるんだし
義平が生きていても門葉が増えて盤石になるだけの話だろうね
>>148 仏教界も地味に掌握しているのを忘れちゃいけない。
義経の同母兄義円の家は園城寺の世襲坊官になり、代々寺で重きをなしている。
鎌倉中期、後期に園城寺と幕府の間で事件が起こると、幕府側で奔走するのは阿野全成の子孫、寺側で奔走するのが義円の子孫。
大問題に発展するのを避けるために自分の首を差し出した当主もいる。
そのおかげで園城寺はずっと幕府と良好な関係を維持し続けた。
を幕府側につなぎとめる役割を果たしている。
150 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 04:31:48.84
あげ
さすが中世オタは違うなw
>>128 北条氏は義時のこの事件がなければ外戚として執権を独占できたろうと言われてるけど、実際どうだろう?
北条は元々小豪族、そこまで巨大勢力になれただろうか?
準門葉の比企氏や頼朝側近筆頭の梶原氏と三執権で並び立てたのがどう見ても限界だと思うんだけど、どう思う?
確かに、義仲、義経、範頼、一条忠頼と次々と頼朝自身の手でほふって、
源氏を弱体化させたことは、源氏将軍の消滅につながったことは確か。
かといって、頼朝自身が源氏一門をすべからく冷遇したかといえば、NOで
範頼の子孫は吉見として続き、弟義円の子孫は阿野として北条とも縁戚。
義弟は義国流の足利で、ここには門葉として公式に源姓使用を容認している。
冷遇されたとみられがちな新田の一族でも、支族筋の山名が源姓使用を許され、
厚遇されている。
それどころか、鎌倉御家人で従五位下に叙爵し、国司に任官せらるる者は源氏に限るとされ、
一門優遇策も皆無でなかった。
一度は攻めた佐竹を復帰させ、幕府別当に取り立てたり、服属が遅れた新田も、冷遇されこそすれ、
源氏一門の御家人として看做されてきた。
問題は、頼朝が坂東八平氏といわれる有力武士団で武力を固めすぎ、一門の優遇・冷遇に
かかわらず、源氏一門が皆、外様化してしまったこと。
おそらく平家一門なりの一門優遇では武士はついてこなかったと思うが、もう少し、身内の勢力
バランスを考えて、幕府を構成できれば源氏将軍の土台はもっと盤石だったかもしれんな。
>>152 なかなか面白いシミュレーションだが史実のように語るのはどうかと
人気も実力もあった義仲や義経を粛清したら、そもそも鎌倉政権が成立しないんじゃないか?
>>153 どういうこと?史実しか言っていないけど。何らシュミレーションは加えていないよ。
源氏一門の続柄、関係性。御家人としての源氏一門が外様であった一方、坂東平氏は幕府の中枢にいた。
すべて史実でしょ。何か脚色や事実誤認があったかな?
155 :
日本@名無史さん:2012/03/13(火) 17:57:23.66
>>154 この世界の日本史では義経は奥州探題、義仲は九州探題として遇され間違っても殺されてなどいない
架空史スレだからって成りきってるのか?
お前さんは義経や頼朝が殺された異世界から来たとでも言うのか?www
>>155 どうしたんだ、あんた。
まぁ、恥ずかしい間違いをしたのはわかるが。。
自分自身で異次元に飛んでいくのは勝手だが。
まずは目に穴が開くほどスレタイを見ろ
話はそこからだ
158 :
1:2012/03/14(水) 01:23:24.35
スマソ
×粛正 ○粛清
>>151 泰時が優遇されてるから、そういう見方(北条氏の執権世襲構想)が出てくるんだろうけど、
純粋に義時の能力不足だと思うんだよね。
何しろ義経と違って目立った戦功がない上に、景時のように能吏であったわけでもない
江間の当主に過ぎず、頼朝に忠実なのだけが取り柄の男だろw
いくら政子の後押しがあっても侍所の所司くらいがせいぜいだよ
政子だって可愛がってたのは女婿の義高、縁戚の平賀と言ったご門葉だからね
艶書問題は御家人の規律の問題であって義時がこれで失脚したわけではないよ
義仲が出家して早めに家督を義高に譲ったのも、義高が北条政子に可愛がられていたからこそだな
いつまでも義仲が権力を持っていたら乱が起きたかもしれないが、義高なら鎌倉と対立する要素がない
こう見ると義仲は意外と政治的判断もできる男だ。京都では受けが悪かったけど戦一辺倒の猪武者ではないよね
まあ出家の理由に関しては、単に木曽に帰りたかっただけという説もあるんだけど
161 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 09:14:50.32
162 :
日本@名無史さん:2012/03/14(水) 18:10:51.07
源氏一門といっても歴史を変えるインパクトがあるのは、たんに頼朝の弟
でしかない範頼でも義経でも、なく、北信越に勢力のあった義仲・義高親子だろうな。
義高は大姫の婿候補だったし将軍になりえた。
義仲が滅ぼされないためには、ひとまず自滅の端緒となった、義仲上洛が起きず、
鎌倉に臣従することが前提となる。
当初、頼朝も義仲の挙兵に別段、忌避感はなかったというし、父義賢の死因と、
武家の棟梁への切符を割り切れさえすれば、超楽観的見方として義仲滅亡も
回避する道はあっただろう。
ただ、ひとつ重要なことは頼朝から厚遇された源氏一門でさえ、外様扱い
だったこと。
鎌倉幕府の中枢は、北条や三浦、梶原など伊豆以来の御家人が占めていたし、
頼朝の死後、北条や三浦といった重臣勢力だけで権力闘争がなされ、源氏一門が
蚊帳の外だったことを思うと、頼朝がたんに一門を生かす選択をするだけでなく、
人事の面でもう少し、一門とのバランスを図らないと、結局は、北条などの一門
以外の有力御家人で権力闘争が行われるという構図は変わらない。
実朝以降も源氏将軍の血脈が続いたとしても、頼朝の死後も範頼の子孫である
平賀朝雅、阿野全成、吉見一門など次々一門が政争により命を落としたから
源氏嫡流の滅亡は時間の問題だったかもしれない。
>>162 IFものとしてみると、もう少しあらすじを工夫したほうがいいな。
義仲義高の父子鷹ものはさんざんネタになってるしね
頼家と義高のBLとかにチャレンジしてもいいかもよw
義仲の出家隠遁は偽装、というか入内問題が浮上した時期の政子あたりの内意じゃないかな…
上洛前後にやけに策動してるんだよね
城氏の乱では鎌倉に詰めたりしてるし単なる出家だったのかどうか
義仲入道覚実が通親や基実と親しかったことを玉葉が批判的に書いているから遠慮説が生まれるんだろうが、
実は遁世後に在京してた時に松殿の子の隆房としばしば交遊ありと風聞がある
そして何より北陸道軍は独断で先発して東海道軍の出動を余儀なくさせたのに、
吾妻鏡には木曽入道に二品が感じ入ったという逸話しか残ってない
それに乱の1か月前に突如下山して鎌倉を訪れているのもおかしい。
義仲は生け取りにして、頼朝が将軍となるまで軟禁。
頼朝が征夷大将軍になるに際し、前将軍義仲の勅勘解除を奏上。
時政の後妻方 牧氏ともめた際に、時政が伊豆に無断帰国するので北条を討つ。
鎌倉に甲斐源氏や新田足利勢力を駐屯させ、源氏一門の兵で坂東平氏を圧倒し、
源氏一門で鎌倉評定衆を構成。源氏の支配権を強化させる。
義経は一度は奥州藤原氏の下に追うが、藤原氏の臣従あれば、義経ともども助命する
といい、義経を鎮守府将軍とし、奥州藤原氏をその配下とする。
さらに、助命へのあがないとして、義経に義仲をつけて蝦夷地、樺太、千島に攻め込ませ、
ベーリング海まで支配下に入れる。
志田義広などは、宇都宮の鬼界ヶ島征討の際、飾りの大将として随行させ、琉球
を攻め取らせ、大宰府の少弐、大友、島津勢ともども台湾まで攻め込ませる。
新宮行家は、まだ朝鮮にもどこにも服属していない済州島や鬱陵島など島を切り取らせ、
日本の版図を最大限拡大する。
いや、なぜ義仲を生け捕りにしなくてはいけないのかさっぱり分からないわけだが。
日本史をちゃんと勉強したほうがいいよ
知ってる。妄想だから。
>>166 >いや、なぜ義仲を生け捕りにしなくてはいけないのかさっぱり分からないわけだが。
日本史をちゃんと勉強したほうがいいよ
うーんと、きちんと回答しよう。義仲を生け捕る理由は確かにないし、現実味はないのはひゃも承知。
でも、このスレの前提では、粛清していないことになっている。
となると、そもそも義仲滅亡の発端となった上洛がなかったか、上洛後、洛中狼藉や院御所襲撃して
しまった場合、それぞれ義仲を生かす道を考えないといけないわけだ。
まぁ、冷静に考えれば上洛した時点で頼朝との訣別は明らかだし、助かる見込みはなくなるわけだが。
妄想に身を任せて、書いたまで。
少し、傍系といえど八幡太郎の血を汲み武勇があり、大きな所領を持つ義仲は東国の棟梁たる見込みはあった
わけで義仲を追討しない方向性を描くにはどのみち、無理な設定なくしてできないと思うから。
どうせ暴論かますなら、領土問題になっている島々をこの時代から日本にくわえさせ、理想的な歴史を描いてみても
いいんじゃないかと。それだけの話よ。
君が何を言っているのかよく分からないが、
義仲滅亡の発端となった上洛って、あの出家した後の上洛か?
出家したのは頼朝に遠慮して頼朝女婿の義高を立てたという旧通説からは「滅亡」と映るのかも知れないが、
義仲入道は越後の反乱の時になぜか鎌倉で留守部隊の指揮を取ってるんだよ
これを見ても義仲の出家は「滅亡」ではなく、のちの探題設置の前身ではないかと言う見方が有力になっている
義仲の出家上洛も、上洛後に親交があった貴族を玉葉が記してるんだが、
どう見てもこれは鎌倉の政治諜報機関としての活動を任されていたと考えるほうが自然
だから娘婿の朝時に薦めて北陸道軍を勝手に進発させた時に、二品が義仲入道に感じ入ったと東鏡に記されてるんだよ
そういう義仲の裏での活躍を考えると、どうしても従来の寡欲な田舎者で戦では猪武者という
従来の義仲像を大幅に改めなきゃならんよな
大河ドラマで「天に二日なし」といって旭将軍の位を返上した義仲には感動したのに
俺は
>>149のいう通り義仲入道の上洛は仏教界を抑えるのも大きな目的だったと思ってるんだけどね
義仲入道なら頼朝とツーカーの間柄だし、いざとなった時に畿内の守護を纏める戦闘指揮能力もあるだろ
所領の多い北陸道からはすぐに軍が駆けつけられるし
まあ義仲入道が政治工作の本拠とした六条邸が探題の前身となったのは事実だけどね
>>159 確かにそうだな。
義時にはこれといった特技がない。
侍所所司はともかく将軍の代理である執権は無理だわな。
京都の支配という意味では頼朝が後白河に一条能成を出世させるように書状を送りつけたのもなかなか妙手だったと思う
頼朝が恩を売ったことで能成は兄の義経だけでなく源氏全体の味方にまわった
これにより朝廷内での源氏派貴族の勢力が増すのはもちろん、目立ちたがり義経の独走を止めることにもなったと思う
もし頼朝が義経を粛清するなら能成はどうしてたんだろうな?
下手なことしたら全藤原氏を敵に回しかねんぞ
>>1 それは絶望的に違うんだよな。
もうこれは歴史でわ常考だけど、
もう頼朝は最初から歴史のコマだったしあやつり。
そして最後は粛清されるんだぜ。
で結果的に頼朝が幼時のころの保元の乱から始まる
千葉、上総のストーリーが正史なのでストーリーが別。
・史実はコマ
・頼朝像やらは完全に1220?年ごろブロパガンダとして作成された。
・史実では暗君で粛清
これが事実だから歴史、証拠だとこいつホントなんもしてないんだよね。
そりゃそうだ。
嫁さん一人捕まえるのに20年費やしてる人が
武士の天下だの、坂東の棟梁だの、寝惚けてるとしか思えないw
176 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 20:34:04.08
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り加茂郡(豊田市)に土着
・加茂郡(豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・額田郡(岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする
・設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく(季範の母、松御前は、晩年新城市稲木で過し没した)
・季兼の息である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主にし、養育する(遺構 不動堂館跡)
・平治の乱で平家に没収され、恩賞として義朝を暗殺した長田忠致が荘官となる(遺構 長田館跡)
・高橋一族は駿河に移住し、初代大森氏・初代葛山氏に、子孫の大森頼春は小田原城を築城
・長田忠致一族が処刑されると、地頭として小野成綱(頼朝とは妾の子(貞暁)の乳父母を依頼される関係)
・小野成綱の代官である高橋頼之は、頼朝より高橋荘8000貫地の地頭目代となる(遺構 高橋館跡)
・その後、小野氏に代わり、源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏、三河伴氏か?)が、鎌倉〜南北朝時代通じで地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から源頼家に室を出し、息に実朝を暗殺した公暁(母は足助重長と源為朝の娘の娘)
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
177 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 20:34:51.36
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(のちに三河守護)と丹後内侍(比企尼の長女)の娘)
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍の妹(比企尼の三女)、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼の兄)←名前は藤姓熱田大宮司家が関係か?
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟、室は河越尼(比企尼の次女)の娘)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
>>173 もっと凄いのは早期に範頼を粛清した場合だな。
藤原範季という縁で知り合った(というか、当時の感覚では半ば親族か?)
範頼との長年にわたる交友がなかったら承久危機の時、誰が後鳥羽上皇を止めるんだ?
下手すれば朝廷と幕府の全面戦争になって、どちらか(おそらくは朝廷)が滅びていたかも。
もちろん歌舞伎「参州一人之戦」で描かれている、上皇軍を単騎で突破して見せた上で
「我一人も防げぬ兵にて、鎌倉を討たんと思し召すか」と上皇を諫める範頼は創作だろうが。
(だって通説に従えば当時70歳だぜ…いや、千葉常胤の例もある…まさかな…)
179 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 22:13:45.07
源範頼
蒲生御厨の蒲生八幡の神主、勘解由丞季成に育てられ、蒲冠者と呼ばれた
勘解由丞季成←藤姓熱田大宮司 藤原季範の弟、由良御前の叔父
ほぼ同時代に藤原範季と藤原季範がいて、どっちも源氏と絡むから紛らわしいこと。
181 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 03:22:45.60
>>178 凄まじい話だが事実。
範頼は75歳まで現役の武将だった。
この戦いでは一騎討ちで首取りもしている。
182 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 04:20:48.05
頼朝はなぜ奇人変人なのか
>>116 源氏の御曹司に真っ先に目をつけて源氏の旗印の下に関東の武士を糾合したのは
北条の政治力だな。
>>117 政治力が皆無だといってるわけじゃない。
鎌倉の中で使い捨てにされないようにうまく立ち回る程度の政治力はあったんだろうが、
朝廷との交渉に関しては、軍事力という背景と、北条の政治力と、頼朝の血筋の3つが
あってなされたこと。
184 :
日本@名無史さん:2012/07/30(月) 02:25:42.80
頼朝はなぜナルシストなのか
185 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 17:38:15.77
なんで日本で天寿を全うした義経がジンギスカンなんだよ
187 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 21:09:18.90
>>186 義経は蒙古の名馬を買い付けては馬匹の改良に力を入れたり、馬医者の心得があるモンゴル人を連れてきて家臣にしたりしている。
このこだわりもジンギスカン説の傍証とされているね。
188 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 01:45:03.60
頼朝はなぜブサ男だったのか
189 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 14:58:54.17
頼朝はなぜ異常なほど体臭がくさかったのか
男の場合、相手が自分よりイケメンでも、金持ちでも、力強くても、頭良くても、女口説くのがうまくても、金稼ぐのがうまくても、
それはそれで辛いことはお互いにわかっています。だから友情も成立します。
有能ということは、利用されるということで、頂点目指す、パワーゲームの中のコマとして綱渡りさせられるということです。
ボルトもカレリンもオバマもプーチンも凄い妥協の上で生きてることは、思いどおりにならない中で死ぬ思いしてるのは誰だって知ってます。
自分に才能ないからと拗ねて駄目になる奴こそが駄目で、互いに限界知った上で居所見つけて頑張るのが男のやるべきことです。
女性の場合は例え美人でも相手があることですから、好きな大切な相手がこちらに好意を持ってくれるとは限らない。確率は増えますが。
また、その相手が浮気もせずしっかり働いて尽くしてくれるかは、博打みたいなもんです。美人の相手が一番成功してくれるかなんか全くわかりません。
また、人間関係というものは顔よりはちょっとした気立てや、合う合わないがいくらでもあります。美人より不美人の方が幸せなことは珍しくもなんともありません。
でも幸せだろうが何だろうが、美人じゃなければ負けですよね。
親が美人に生んでくれなかった瞬間から欠陥品ですよね。
どんなにいい男捕まえてようが仕事で成功しようが幸せだろうが、美人じゃなかったら女として負けですよね。
有能だろうが頭良かろうが性格良かろうが男がよってこようが、成功しようが、ブスだったら駄目ですよね?女としての価値は劣りますよね?
後は欠陥品の自分をいかに高く売りつけるか。もともと良品美品には劣りますよね。
質問
・欠陥品としてラベリングされて生きていくのはどういう感覚ですか?
・絶対かなわない美人とは友達になれますか?あるいはその逆とは。
相手が自分よりは美人でもよくみりゃ自分もそこそこで、
人によっては自分を選ぶ場合には友情は成立すると思いますが、
釣り合いのとれない相手と友情はありですか?
・どんなに努力しても美人にはかなわないさだめをどう思いますか?
191 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 20:04:52.33
頼朝はなぜグロ好きだったのか
>>181 後鳥羽院-範頼ラインと戦と言えば、早期に範頼が粛清されていたら
後鳥羽院との膨大な往復書簡も無かったんだよな。
端的に言えばミリオタだった院が、当代屈指の武将だった「伯父さん」に
根掘り葉掘り聞きまくった記録と書くと、色々残念な感じになるが、
軍事史研究者にとっては、よくぞオタの道に走ってくれたと、院の陵に酒の一升も供えたくなる。
アレがなかったら、平家物語あたりが中世軍事史の第1級史料呼ばわりされていたのだろうか。
193 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 07:11:18.76
頼朝はなぜまるで自分中心に地球が回っているかのように調子のりと有名だったのか
防御率 勝 敗 セーブ
小山 正明 2.45 320 232 0
若林 忠志 1.99 237 144 0
村山 実 2.09 222 147 0
江夏 豊 2.49 206 158 193
195 :
名無しさん@恐縮です:2012/09/04(火) 06:28:22.58
>>26 人望の問題じゃないだろww
明征服願望に取りつかれて政権運営が疎かになり
死後内部分裂してそこをずるがしこい家康に付け込まれるんだろう
196 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 13:39:16.05
江戸城をつくったのは摂津源氏 家康は河内源氏
197 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 14:21:35.85
>>192 源平合戦を経験した武将のほとんど最後の生き残りだから、院以外に京武者たちにもあれこれ聞かれて、やれ弓の訓練だ馬術の訓練だと頼まれて最後の数年間はほとんど在京してたらしいね。
>>197 それが
>>181の事態の遠因か。
上皇軍の京武者から見たら、「お師匠様」が覚悟完了モードで
突撃してきたら、そりゃびびるな。
>>198 その時師匠と実際に戦って源平合戦の時の斎藤実盛と同じ感想を書き残した弟子がいる。
「坂東武者めちゃくちゃ強い、覚悟が違い過ぎる」的なことを。
この時範頼は「源三河守」じゃなく、「鎌倉方の大将軍、蒲冠者範頼」と
源平合戦時の名乗りを上げたと伝えられる。
ただ一騎でありながら「大将軍」を名乗った老武者を笑うことが出来た武士は
上皇軍に一人もいなかったという。
201 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 21:02:39.62
範頼の75才とは、1150年に産まれて、1225年まで生きていたのかいな
>>196 家康は部落民である徳阿弥の子。
江戸城の作法を決めたのが小笠原氏でこっちは正真正銘の源氏。
203 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 19:45:20.84
>>162 阿野全成は義経の同母兄の今若のことだぞアホ。
政子の妹の夫そして実朝の乳父にもなった男だし、
頼朝が死んだ後もその後の政争に巻き込まれるまでは生存していた。
ようするに自分にひたすら追従する奴なら生かしておく男なんだよ頼朝は。
>>201 80歳説もあるけどな。流罪にされた後鳥羽院についていった孫と音信を交わした記録がある。
いずれにしろ長生きだったのは間違いない。
おかげで範頼流は鎌倉後期武家源氏の棟梁格に上り詰めている。
頼朝流が断絶した後は宮将軍というが、その宮将軍の母は範頼流の娘、育った場所は範頼流の領地、実質範頼流だし。
>>203 その政争でも軽い処分で済み、鎌倉後期には執権家の一つに上ってるよな。
阿野氏、義円流、義経流をして「常磐三家」と尊称するようになったのっていつからだっけ?
207 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:43:49.50
>>203 全成は頼朝に追随したというより北条氏追随だな
北条政子の妹を正室としたことが吉と出、北条氏から婿として重んじられた
>>205 武家の阿野氏は大して出世してない
全成の娘が公家と結婚して全成の外孫(娘が産んだ女系孫)が外祖父の阿野氏を名乗り
公家の阿野氏が誕生した(男系では藤原南家魚名流)
ここから後醍醐天皇の側室、三位局阿野廉子が出ている
>>205 公家から迎えた正室の家祖の名前を取って家名にした魚名氏とかが有力分家として出てるよな。
名門ぶりを北条の赤橋氏と競ってた。
>>204 晩年の範頼は、ある意味鎌倉武士の理想型だからなぁ。そりゃ支持されるだろう。
上皇軍二千を一人でぶち抜いて戦争を始まる前に終わらせたのは
おそらく日本史上最大の個人武勲だろう。
後年、自称を含む源氏系の武将たちが、彼にあやかって三河守の官位を望んだ気持ちはよく解る。
スレタイに従って、もし範頼が源平合戦終わったあたりで粛清されていたら
……多分、承久危機は日本を二分する大戦争になってただろうな。
細かいところでは後年、姉川の合戦で朝倉軍の真柄直隆が一騎当千の強者と聞いた
本田忠勝が言い放った「三河に手向かうには千人ほど足りぬな」の名台詞もなかった訳か。
>>209 実力もないのに望んで出家させられて奴もいたよな、三河守。
さらに時代が進むと征夷大将軍になるにはまず三河守に任官して京官の左馬頭の兼任を許されて、初めて資格ができたっていうくらいのブランドになった。
範頼には有能な家人がついていて土地を切り売りしなくても京都大番役を務めあげられるというのも羨ましがられてたよな。
範頼が鎌倉武士の理想形でいられたのはこの家人のおかげ。
義経流本家の家人出身の商人「金売り吉次」(後々まで義経流本家に出入り)とこの家人は他の鎌倉御家人の羨望の的だった。
>>211 優秀な家臣もさりながら、基礎となる経済力が違うだろう。
範頼に三河があれば義経には伊予がある。
国持ち大名という言い方は後世の物だろうが、事実上一国(それも上国)を
領土にしているのは強すぎる。義経にはその上、藤原秀衡から分与された
奥州の知行もあるし。
>>212 義経はそのうえ十勝国も手に入れたしな。
結局は畿内・東海地方で繁栄した範頼流が15世紀以降政権を取ることになるわけだが。
>>197 出世の目がない下級貴族が範頼の家人になりたがって範頼の邸の前に列をなしていたという記録すらあるw
範頼流も義経流も、頼朝流断絶においてバックアップの役を果たしたけど、
両者の勢力は、一つ間違えば鎌倉にとってもの凄い脅威だった。
考えてみてくれ。奥州藤原氏と全面戦争になり、奥州軍の陣頭に義経が立っていたら。
あるいは承久危機の時、範頼が上皇方についていたら。
どちらも頼朝から見れば十分にあり得た未来だ。未然に防ぐための粛清、一度も考えなかったとは思えない。
216 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 10:52:17.99
源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表
1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
・藤姓大宮司一族(由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
1155年、藤原季範(初代熱田大宮司)死去
1157年、由良御前(源頼朝の母)死去
1159年、父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
1161年、藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184年、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
217 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 11:04:11.38
源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表
1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
・藤姓大宮司一族(由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
1155年、藤原季範(初代熱田大宮司)死去
1157年、由良御前(源頼朝の母)死去
1159年、父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
1161年、藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184年、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
1190年、源頼朝右大将拝賀の前駆を藤原範清と務める(前駆10人の内8人は院が調達)
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清(頼朝の従兄弟)
1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
218 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 15:40:20.99
ああ。「元」と言うのは「源」と同義語だからな
>>215 考えただろうな。
けど、自分の息子がどっちもorzな出来である以上、それをやっちまうと政権そのものが消滅するか乗っ取られる。
有力家臣、外戚の乗っ取りを防ぐためには一門に手をつけるわけにはいかんだろ。
>>218 西シベリア「ハンチマンシー族民族自治区」の名称の由来は「八幡氏」なんだってね。
>>220 源氏はこれ以前にも嫡流の座を巡って一族で殺し合いしてるだろ
北条氏に政権簒奪されるくらいなら木曽義仲に政権をやろうとか
源義経に政権やろうとかは考えないさw
義仲の子の義高と大姫に子供ができればあるいは
ただ頼家とか公暁とかとごたごたになりそうだけど
>>221 樺太の現地名 サハリン は「笹竜胆」が由来とか・・・
225 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:47:46.09
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を産む
226 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 21:41:15.33
【衝撃の】やはり義経はチンギス=ハンだった【新事実】
勧進帳で知られている安宅関の時点で義経は別人と入れ替わっていたという説がある。
美談になっているが、義経とは別人だったから弁慶は杖で何度も殴打したのだ。
涙を流しながら(泣きながら)とあるが、季節的に「弁慶」は花粉症だったという説を唱える歴史研究家までいる。
では、安宅関の以前に入れ替わった義経は何処にいったのか?
答えは東尋坊にある。
地図を見ていただければ一目瞭然だが、このあたりだけ地形が突出している。
東尋坊の名前の由来も「東(東北)の位置を訪ねた僧(坊主)」からきているらしいが
方向音痴として知られる弁慶の微笑ましいエピソードである。
この東尋坊で義経は弁慶と別れ船に乗り、能登へ移動(「義経の舟隠し」へ)。
そこから現在の禄剛崎まで徒歩で移動し再び船に乗って一旦、舞鶴に戻ったとされる。
記事詳細
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/river/1356991283/
>>217 蒲冠者範頼の出生地遠江国蒲村は現浜松市東区蒲地区あたりみたいです
228 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN
命は一つ 命かけて戦った者に勝るもの無
頼朝はバカ 頭は良かったかもしれにが小心者では?
源氏の旗あげ時も 他の者の助言によるもの
弟は何の為に命かけたか・・・・歴史とは 振り替えると
すべてが馬鹿らしい だけど
それが人間の歴史
源範義、範とも
↑ミス
義範、範朝兄弟も優秀だよな
二人で祖父範頼の代わりをしようとして、義範が武で範朝が文を極め、幕府を補佐したという
正直、4〜6代目あたりの幕府はこの二人がいなきゃ終わってたな
>>214 地下家には実際、なった家も多いぞ。
範頼流の家臣の行政能力の高さは多数の地下の実務官僚が武家化して家臣になったからだとか。
室町時代には範頼衆から公家に戻って武家伝奏に出世した奴とかいたよな。
>>232 範頼が孫に残した訓話集に、武家といえど事務を軽んじてはならないとあるな。
おそらく源平合戦時に、当時としては桁外れに大規模・長距離な遠征軍の管理に苦労した
経験を反映しているのだろう。
必要な兵糧は一人一日米5合だが運ぶ人夫が食う飯も忘れるなとか、一万の軍勢を
3列に並べると先頭が出発してから最後尾が出発するまで1時間半かかるから、
一日の行動可能時間は一人旅の時より3時間少ないとみて行軍可能距離を計算しろとか、
恐ろしく実戦的な事務手引きも含まれている。
>>235 一番足の遅い者と一番の駄馬を基準に行軍可能時間を算出しろとも言っている。これは役に立つ。
馬の餌も忘れるなとか馬医者を連れて行けとか馬関係の記述も多いな。
馬医者は義経流が養成を一手に独占してたんだが、人間相手の医者は範頼流が一手に養成してるよな。
この時代の日本の医者特に外科といえば、範頼に仕えた宋人とその弟子だらけ。
>>221 義経流の本家争いに負けて逃げた連中が住みついたのがそのあたりだからな。
>>236 この辺は
>>192で紹介された書簡に関連記事があるな。
藤戸の戦いで馬に海を渡らせて勝ったは良いが、その時多くの馬が
脚を痛めて後に苦労したという失敗談が書かれている。これを教訓にしたんじゃないかな。
人間の方は……同じく書簡集に、助からない重傷を負った味方兵を楽にしてやる話がある。
「我が身を刺すより苦しきものなり」と記される。中世としては画期的な軍医の自力養成を
発想した原点はここではないかと想像する。
>>238 長時間馬に乗る関係上痔になる奴が多くて、痔の手術法が発達したのはさすが東国というところだな。
世界初の痔の手術が行われたのは範頼の息子の時代だったっけ?
スレタイと合ってるか分かんないけど質問
昔伝記漫画を読んだ時に、戦で義経が奇襲をかけようとした時味方から「不意討ちなんて武士として恥ずかしいですよ」と言われ
「負けるほうが余程恥ずかしいですよ」と返すシーンが有って
後で諸々の資料を読んで、義経って結構そういうルールやマナー無視戦法で有名だったと知りました
が、上記のやり取りって何かの資料に元ネタがあるんでしょうか?
聞き覚えのある人いますかね…
>>240 その手の話のルーツと言えば、やはり壇ノ浦での水夫射殺じゃないかな?
当時の感覚では奇襲を通り越して非戦闘員の虐殺に該当したらしく、
義経はこの件では生涯後ろ指を指された。英雄義経最大の汚点だな。
で、後年息子が「何故父上はそのような非道を行ったのですか?」
と問うた時の答えが「格好つけて負けていたら、今お前はここにはいない」
だったそうな。
242 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 22:52:01.59
>>241 静御前が産んで即由比ヶ浜で殺された男子以外に義経の息子なんていたっけ??
244 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 02:48:33.29
131 :日本@名無史さん:2012/02/18(土) 03:18:16.82
鎌倉中期の守護は、推定ではこんな感じだと言われてるね
渡島守護…経朝(義経流、京流…有名な静との間の子)
江差守護…新田経重(義経の女婿の子)
天塩守護…経義(義経流、時忠流)
十勝守護…義家(※八幡太郎とは別人。義経流本家、河越流)
ほい義経一族
245 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 20:56:55.54
もし猪瀬知事が徳洲会から5000万収賄して百条委員会にかけられていたら
樺太(kar put)って最初「唐太」など適当に充ててたのだが、
中に「蒲太」というのがあって、そこから樺太になったらしい
なぜ蒲 kabaをわざわざ充てたのか考察されるが、植生ではないらしいね
西蝦夷地の守護はおおむね義経流が独占してたが、北蝦夷地の騒乱に際して幕軍が後詰を送った際
範頼が救援隊の大将軍を命じられた伝承(実際は
>>230の義範か、父の朝範?)と関係あるとかないとか
そうだったのか。