1 :
日本@名無史さん :
2011/01/31(月) 14:19:45 邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。) 2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。 3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。) 4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が 尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。 9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが 邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。 これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった 邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇 および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は 不快である。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に 後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。 記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。 これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
2 :
日本@名無史さん :2011/01/31(月) 16:00:57
糞スレ乱立させるな。 九州説ヲタスレ統一でやれ。
3 :
日本@名無史さん :2011/01/31(月) 16:06:21
霧島・新燃え岳の噴火が神武天皇東征の原因だろうな。
4 :
日本@名無史さん :2011/02/01(火) 01:33:46
__ヘ_ヘ_ ___________ /∴∵(・) (・)∴\ / /∴∵∴∵○∴∵ ヽ < おーい、またしょーもない (∵∴∵●〜〜〜●∴) \ クソスレが見つかったぞ〜! \∵∴∵∴∵∴∵/ \ ∵∴∵∴/ ____ / \ ( ) ________ \ ∧ ∧ | / | ・ ・ | < おめーさぁ、こんなクソスレ立てるから | ○ | |○ | \厨房と言われてもおかしくねーんだよ。 | 凵 | | ー | |______| ___ / \ ________ / ∧ ∧ \ / | ・ ・ | < おめーの事など必要としてるやつなんて | )●( | \いねーからさっさと回線切って首吊って氏ねよ \ ー ノ \____/
黒板勝美は陵墓参考地の古墳を整形したり、日本書紀すら改竄した男だからな。 史書の抹殺はやってもおかしくないだろ。
6 :
日本@名無史さん :2011/02/01(火) 23:00:12
>>1 こと地家靖一
西都原に隣接する東都原(とうとばる)の地名はどう説明つくんだ?あ?
7 :
日本@名無史さん :2011/02/04(金) 18:09:16
いままで政府が邪馬台国の場所を必死に隠してた理由がよくわかりました。
8 :
日本@名無史さん :2011/02/04(金) 18:46:46
9 :
日本@名無史さん :2011/02/04(金) 20:02:01
本屋にいくと「天皇は朝鮮から来た」という書籍が多いけど違うやろ。 全ての歴史は現代史だから神武天皇をカムヤマトイワレヒコ命(朝鮮人) にあてはめた維新直後当時の政府首脳たちの責任だろ
10 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 03:26:24
>>3 今日の新燃岳の噴火のニュースで高原町の狭野神社が出ていた。
あの神社は神武天皇を祀ってある。
あの神社のもう少し新燃岳に近いところに皇子原という場所があって、
神武天皇はそこで生まれたとされる。
あんだけ古墳造っといて 集落が分かんねぇんだよな
12 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 16:31:58
宮崎は、集落の跡なんかが出てきたら大変だと思っているんだろう。 わからないうちに、壊しちゃえ、なんてことがあるかもね。
13 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 16:33:27
宮崎には集落跡がたくさん出てるよ。
14 :
w :2011/02/14(月) 18:14:40
邪馬台国を隠蔽し大和=邪馬台国などとホラいいだしたのは実は「大正時代」からw
15 :
巨匠・伊作 :2011/02/14(月) 18:48:24
西都原はむかし、斎殿原(さいとのはる)とゆったの。 まんま、一大葬祭センターの意味よ。で・表題の話は・ちょん。 ここは古代名「児湯のあがた」。 児湯郡が、西都原をすっぽり囲んでるでしょ。まんま呼邑国です。 九州東側は山地の斜面が海岸まで迫っており、 数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。 西の塚原古墳群と東西に配された倭国の国葬センターがいいところじゃない。 このトピックの運命も知れたね。
16 :
巨匠・伊作 :2011/02/14(月) 19:00:07
>弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。 小林氏がつくった「弥生の人口密集地」によれば、 筑後川東岸エリアから熊本平野と、飛んで諸県郡(都城から肝属郡一帯)。 もっと・しっかりした論拠を並べないと・いけませんね。
17 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 23:38:32
弥生時代っつっても、 前期中期後期で、全然違いそう。
18 :
巨匠・伊作 :2011/02/14(月) 23:42:27
>前期中期後期で、全然違いそう。 違いそう・て。ただの推測? 前期中期後期で、ころころと人口密集地が変わったわけ? いったい、何をいう気なんだい。
19 :
日本@名無史さん :2011/02/14(月) 23:43:56
なんか、どのくらいの古墳で、どのくらいの人数、あるいは土地面積が必要か 計算してみたいですね。 戦国から江戸時代にかけては、一万石当たり250人が、 労働力を拠出する目安のようです。 戦の時の兵はもちろん、江戸城普請なんかもこの人数が 基本にされたそうで。
20 :
巨匠・伊作 :2011/02/14(月) 23:59:04
いったい・何をいう気なんだい。
21 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 00:15:55
>数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。 とりあえず、荒っぽく計測して、平野部分が400平方キロほどあるんですよね。 これは筑紫平野の1/3程に当たります。 水利や気候で筑紫平野と比べて、どの程度生産力が違うのかはわかりませんが、 ここで生産できる余剰生産力、言い換えれば古墳築造に割くことのできる人数が どのくらいか、大雑把なオーダーは見積もれるのではないかと思います。 このうち実際に耕作する面積を1/4の100平方キロと見積もると、1反一石として 84000石なので、2000人強を常時農業以外に当てられる事になります。 ひとつの古墳で、のべ何人の労働力が必要になるかわかりませんが、 これくらいの人数はうごかせるでしょう。 これはかなり少なめに見積もっていますので、もうちょっと多いかもしれませんが まあ、少ない方を採用しておいたほうが間違いは少ないでしょう。
22 :
w :2011/02/15(火) 13:06:55
西都原はかなり規模のデカイ古墳群遺跡だよ。人口30万人の邪馬台国にぴったりの場所。
23 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 13:25:34
倭人伝の行程は、末盧国から東南五百里に伊都国、その南に投馬国、邪馬台国だ。 伊都国は佐賀市付近。あとは必然的に日向が邪馬台国ということになる。 倭人伝の行程どおりで日向に至るということは絶対の強みだな。
24 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 16:50:54
>数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。 古墳を造り続けるのは、生産力がなければできないことか? 大和に生産力はあるか?
25 :
日本@名無史さん :2011/02/15(火) 17:10:08
逆に古墳があるから、生産力があると考えるのが妥当。 日向の平野もそれなりに大きい、畿内の平野も大きい。 それでいい。変に我田引水の結論をひねり出さないのが大事。
26 :
日本@名無史さん :2011/02/16(水) 10:39:49
日向市の地図を見ると耳川という川があるが、ミミは倭人伝の長官のミミだろうな。 そして奈良には耳成山がある。ミミナシ>ミミナリ(副官)だろう。
27 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 11:18:01
>地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 都支国、好古国、伊都国にも都があったのだね。 >西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。 西都原の古代名は「斎殿原」である。 7世紀の隋書は、対馬を「都斯麻」と書いている。 『8世紀初頭成立の日本書紀』は、都をことごとく「つ」と読ませる。 筑紫は地元では「つくし」と訛るが、地元の歴史書が「都久志」と書いている。 都を「と」と読むのは、唐音なるものが入ってきたあと、少なくとも8〜9世紀以降である。 そもそも「斎殿原」といった地名を、8〜9世紀に都を 「と」と読む時代巣に西都原と書いたと思われる。 そんなものを持ち出して、西都原には都がつくから憤怒んなどと、やってはいけない。 出だしの土台が願望空論だ。その上にいくら詭弁で構築しても意味はない。 地元迎合・地元びいきで前後不覚に暴走する九州説の典型として、 九州説がバカにされるネタをまくだけだ。 25 :日本@名無史さん >変に我田引水の結論をひねり出さないのが大事。 この私にゆってらっしやるのでしょうか?。ね
28 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 11:32:38
好古国→→→好古都国
29 :
巨匠・伊作 :2011/02/16(水) 11:56:22
大古墳群がすなわち「都」があった証拠というならば、 日本列島には、時代ごとにそちこちに都が合った理屈になる。 短絡的我田引水とはこのことだね。 西都原古墳群も熊本の塚原古墳群も、倭国が設けた国家規模の墓域だろう。 ここには、朝鮮半島で戦死した人の墓も混じっている可能性がある。 副葬物は現地で仕入れた手みやげとか戦利品とか。キンキラ馬具や武具や。 その場合、副葬品だけで遺骸はないかも知れない。 こういう線で考えることのほうが重要だと思うよ。
30 :
日本@名無史さん :2011/02/16(水) 20:03:41
たしかに日向なら冬は温暖。奈良の真冬はさぶいさぶい
31 :
日本@名無史さん :2011/02/16(水) 20:10:13
箸墓古墳を卑弥呼の墓だと言う人がかなりいるが、箸墓は前方後円墳で全長280mもあるのに なんでこれが徑百餘歩の冢に見えるんだろ。おかしくないかい。
32 :
sss :2011/02/16(水) 22:03:50
>>31 箸墓を卑弥呼の墓に比定したのは、大正末期の笠井新也。
没年干支をいろいろ考えて、崇神天皇の時代と卑弥呼の時代が重なると考え、
その時代の倭迹迹日百襲姫を卑弥呼と考えた。
要するに、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が卑弥呼の墓というわけ。
でも、その年代観は今となっては、ちょっと問題がある。
考古学的に箸墓の年代が遡り始めたのは吉野ケ里以降かな。
大きさも問題だったので、後円部が先に作られ、前方部はあとで継ぎ足された
という説も出た。後円部だけなら、径百歩に合うということだったのだろうが、
これは桜井市教育委員会の調査で完全否定。同時に作られたことがわかった。
このようにいろいろ問題がある上に、宮内庁の管轄で内部調査も出来ていない
わけだから、箸墓を卑弥呼の墓とするのはやっぱりおかしいな。
33 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/16(水) 22:19:16
百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の女性だが別人だな。 前者のほうが少し早く亡くなっている。7〜8年くらいの差だ。
34 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/16(水) 22:41:15
笠井新也氏はいい線を行っていたな。 だが、別人だよ。彼の言う崇神が卑弥呼の時代だということは、だいたい 合ってたのだ。
36 :
日本@名無史さん :2011/03/01(火) 22:45:08.99
崇神天皇は350年前後じゃね
37 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/01(火) 23:04:26.72
崇神活躍の代は卑弥呼の時代と重なるんだよ。 崇神のその年代は3世紀前半で、崩御はその半ばすぎ。
38 :
日本@名無史さん :2011/03/03(木) 11:08:43.71
邪馬台国の比定地についてはいろいろあるが、日向ならば緯度的にみて 会稽東冶の東にもっとも近いということになるな。
39 :
大室寅之スレ :2011/03/03(木) 19:45:09.93
>>37 おい、太国 ◆yVAs7uaYlYさんよ。当時の人の歩く距離は1日で14キロ、2日で約28キロくらいでOK?
40 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/03(木) 20:40:51.33
>>39 今と大差ないだろう? まぁ現代より栄養不足とかなら、若干減らして
数字を考えるのは当然だろうが。しかし朝廷の場合は全国からうまいもの
なる食物がけっこう調達されて来てただろうから、減らす考えはそんなに
いらないと想うがね? その例として、仁徳天皇が当時の日本一の長寿者
と謳った武内宿禰がいるではないか。 彼は105歳だったと想える?
なんでそんなことを聞くのか? 例の半島渡海の論戦のことからか?
そもそも福岡市近郊を奴国とする事が全ての間違いなんだよ あの金印を素直に呼んで 漢の倭の奴国王ではなくて漢の委奴(イド)国王 委奴=怡土(イド)?福岡が奴国じゃないとすれば 魏志倭人伝の記述通りに末盧国=唐津、伊都国=吉野ヶ里、奴国=筑後川下流域そこから有明海を通って南に水行10日、そこから陸行1月 そう考えて行った方が自然じゃない?西都原じゃないとしてもその周辺、九州の南の方だと言う事は想像に難くない
42 :
日本@名無史さん :2011/03/16(水) 05:18:52.80
>>41 伊都国=吉野ヶ里ならば、そこはもう海だ。水行は伊都国から始まると考える
べきだろう。ということは、伊都国からの放射説が正しいということになる。
もっとも放射説でも、九州の南のほうであることはまちがいないだろうが。
43 :
日本@名無史さん :2011/03/16(水) 07:46:59.57
女王国は、宇佐から西都原まで沿岸部に沿って存在した国であると比定しています。 一つの仮定として、『女王國東渡海千餘里復有國皆倭種』があり、女王国の東方 千里にまた倭種の国がある、とされている。 狗邪韓国〜対馬、対馬〜壱岐が千里とされているので、佐伯〜愛南なら 同程度の距離もあり、また倭種である。 『計其道里當在會稽東冶之東』とあるように、帯方郡より邪馬台国までの 方向、距離から推し量ると、その位置は、会稽、東冶のほぼ真東に当たります。 とされ、北部九州ではないことは明らかです。 ということで、北部九州でもなく、九州中東部全域を比定し、西都原には 限定したくありません。
44 :
日本@名無史さん :2011/03/16(水) 09:38:25.33
宮崎県全部は間違いないだろう。熊本や大分にもかかるかも知れない。 卑弥呼がどこにいたかは遺跡などが発見されないと確定できない。西都原 は邪馬台国の主要な墓地の一つということだろう。
45 :
日本@名無史さん :2011/03/18(金) 17:27:23.42
>>31 方の部分は後代の付け足しだって説がある。
>>23 そのとおりだな。魏志倭人伝の記述通りだと、邪馬台国は西都原あたりになる。
魏志倭人伝の記述通りならば、近畿説は全く無理。
47 :
日本@名無史さん :2011/03/22(火) 02:26:13.63
一昔前宮崎市に東都原古墳群があったそうです。140年ほど前まで。 宮崎駅の東側です。 西都原古墳群の倍の規模です。 当時中央から来た田辺という県令により整地させられ無に帰した とさ
48 :
日本@名無史さん :2011/03/23(水) 17:08:57.28
>>26 耳川の河口が日向市美々津(耳津)神武大帝お船出の地とされ名物の餅は美々津の民が旅に出る神武帝に贈ったのが由来
木に何キロか行った日向市細島の元の名前は鋒島。
これも神武由来の地名。
49 :
日本@名無史さん :2011/03/24(木) 10:16:45.28
東国バルが高千穂を江戸に遷します。
卑弥呼の時代は九州の南にあったと思うが 邪馬台国は時代によって首都が変わっていったと思う
51 :
日本@名無史さん :2011/04/05(火) 06:24:09.29
九州の北じゃないの
52 :
日本@名無史さん :2011/04/05(火) 06:55:01.55
北というには、水行十日陸行一月を無視するかトンデモ読みをしなければ ならない。まともに読めば、南九州だよ。
53 :
日本@名無史さん :2011/04/23(土) 15:05:24.84
西都原が邪馬台国かどうかはともかく、古代史を考えるうえで 重要な土地のひとつであることは確かだろう。
54 :
日本@名無史さん :2011/04/25(月) 21:01:16.03
>>53 同意。
西都原とその周辺がどの国に比定されるかわかったら,
邪馬台国がどこにあったかの有力な傍証になる可能性あるんじゃないかな。
55 :
日本@名無史さん :2011/04/28(木) 07:48:08.56
邪馬台国は宮崎でした。 ですが、大津波で滅亡しました。 難民が新天地を求めて瀬戸内海を東へ旅しました。 俗に言う神武東征です。
56 :
日本@名無史さん :2011/05/09(月) 16:11:24.14
>>54 >西都原とその周辺がどの国に比定されるかわかったら,
>邪馬台国がどこにあったかの有力な傍証になる可能性あるんじゃないかな。
女王がどこに住んでいたかはともかく、西都原とその周辺も邪馬台国のうちだろう。
57 :
日本@名無史さん :2011/05/09(月) 18:44:02.70
>>26 >>48 支持します。
神武天皇の子には全てミミがつきます。日向から従った子はタギシミミ。二代天皇はカムミナカワミミ、
そのほかカムヤイミミ、キスミミがいます。
天孫降臨の神話から、日向が倭国の都とは思えません。
久留米から大分へ連なる耳納山。ミミ
59 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 19:10:14.61
>>28 >日向市の地図を見ると耳川という川があるが、ミミは倭人伝の長官のミミだろうな。
>そして奈良には耳成山がある。ミミナシ>ミミナリ(副官)だろう。
ヒコホホデミ(神武)が投馬国(ツマコク)の官の家系である可能性が高い。
だとすると西都原古墳群も近い、西都市妻の都萬神社付近が、
投馬国の都と比定できる。
60 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 19:25:32.30
>西都市妻の都萬神社付近が、投馬国の都と比定できる。 5万戸の大国の国名がそんな小さな地名になってるわけはないだろう。
61 :
日本@名無史さん :2011/05/10(火) 19:26:59.15
対馬国、一支国、末櫨国、伊都国、奴国あたりまでしか、確定的に 場所を比定できなかった九州説が、投馬国を西都市妻と確定的に 統一的に主張できればおのずと狗奴国や邪馬台国が九州にあること が見えてきます。 九州説統一の一歩と考えます。そして近畿説は消えるしかありません。
62 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 19:29:53.59
け。 「いつ」と読むべきところほ「いと」と呼んだり、 「とうま」と読むべきものを「つま」と読んだり。 「邪馬台国論は自在なり」か。 いかにど素人の駄論・空論・願望ストーリーとはいえ、 少しは社会性というものを考えろ。
63 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 19:36:33.15
都城に「豊満」という古い地名がある。 あるサイトらよると、「とよみつ」を地元では「とっみっ」というそうだ。 これを「とま」と呼んでもいいか? どや
64 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 20:13:11.78
「みみ」にゴロ合わせするなら、やはり投馬国との関係だろう。 ミミとミミナリは投馬国の官吏だ。邪馬台国はその南。 バカづらさげた「続け読み」でいくと、 そこから水行10日と陸行30日だ。わっらわら
65 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 20:22:39.27
>>58 >久留米から大分へ連なる耳納山。ミミ
耳納・水縄は「弥奴国」だろう。
都支→都城(つき)
67 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 20:39:31.05
>>66 無知・無恥の・タコ。
都城という名がいつ誕生したのか、てめえで調べろ。
由来なんでいい加減なもんだ
69 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 20:54:12.52
>>68 じゃ・はじめから・地名なんて・持ち出すな。
>>65 西都市民だけど、妻のとなりに三納(みのう)という地区があるよ
三財と都於郡もなんかあるのかなあ?
71 :
伊作先生だけど。 :2011/05/10(火) 20:57:06.52
俺が当初に書いたこと。再掲
>>15 :巨匠・伊作
西都原はむかし、斎殿原(さいとのはる)とゆったの。
まんま、一大葬祭センターの意味よ。で・表題の話は・ちょん。
ここは古代名「児湯のあがた」。
児湯郡が、西都原をすっぽり囲んでるでしょ。まんま呼邑国です。
九州東側は山地の斜面が海岸まで迫っており、
数百年にわたって特定勢力が古墳を造りつづけるだけの生産力はない。
西の塚原古墳群と東西に配された倭国の国葬センターがいいところじゃない。
このトピックの運命も知れたね。
>>16 :巨匠・伊作
>弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
小林氏がつくった「弥生の人口密集地」によれば、
筑後川東岸エリアから熊本平野と、飛んで諸県郡(都城から肝属郡一帯)。
もっと・しっかりした論拠を並べないと・いけませんね。
こんなクソトピック、放置して潰してしまえ。
72 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 06:30:57.65
>>71 >児湯郡が、西都原をすっぽり囲んでるでしょ。まんま呼邑国です。
投馬国は児湯郡の領域より大きいと考えられ、西都市妻が児湯郡の中にある
から、投馬国の都ではないとするのは当たらない。
>>60 >
5万戸の大国の国名がそんな小さな地名になってるわけはないだろう。
国域が郡域より大きければ、国名は郡名では残らない。
大きな国名とその中心の地名が一致する例は、県名と中心域地名が一致する
例のようにある。
邪馬台国も領域が郡域よりも大きくて、郡名では見つからないために発見が
難しくなっていると考える。
73 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 17:45:51.38
30キロを2日で歩くんだよね
74 :
奇跡の伊作 :2011/05/11(水) 18:42:09.41
>>72 >西都市妻が児湯郡の中にあるから、投馬国の都ではないとするのは当たらない。
て・あーた。
「とうま」と読むべきところを「つま」と読んで、
これを西都の都万(つま)に当てるのがフェアな手法だとでもいいうのかい。
75 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 19:25:26.48
投馬は「とうま」と読むべきと結論をだせるのだろうか? 児湯郡がまんま呼邑国です。とどうして結論を出せるのだろうか?
76 :
日本@名無史さん :2011/05/29(日) 19:31:02.21
あまり地名にはとらわれないことだね。伊都国=怡土もだめだし。
77 :
本田 :2011/05/29(日) 23:53:04.93
投馬國(つまこく)=薩摩國(さつまこく) 薩摩國(鹿児島県)は伊都國(糸島市)の南にある。
そうか
79 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 11:23:04.08
末盧国(唐津)から投馬国(薩摩)に行くのに糸島経由はないだろう。 唐津で上陸して東南に歩き有明海に出たんだよ。
80 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 11:52:55.60
投馬はタウマだろ。ますますサツマからはなれるな。 倭国地名はせめて旧仮名字音で読んでくれ。タウマならタマの方が近い。
81 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 21:23:02.71
先のスレのように神武は投馬国の官、ミミまたはミミナリと思われる。 投馬国の都は西都市妻付近としても、その領域は児湯郡を超えて、 日向三代と言われている、ニニギが住んださつま地方、二代のヒコホホデミ が活躍した霧島地方、ウガヤフキアエズが住んだ大隅地方を含む広大な領域 だったのでは無いだろうか。都も移動した可能性があると考えます。 薩摩という地名は、投馬(ツマ)の読みが、何かの意味でサがついて残った ように考えます。
82 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 21:38:24.13
>>77 筑後川の南の地域、久留米市の近くは、延喜式に三潴(みづま)郡とあり、その近くには
上妻郡、下妻郡もあった。このあたりが投馬国だった可能性もある。
また、この地域の南側は、延喜式の頃にはすでに山門(やまと)郡と呼ばれていた。
83 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 21:47:33.80
それ邪馬九州道場だれか立ち上げて下さい。お願いします。
84 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 21:52:30.15
85 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 21:53:52.18
>>83 やってみたけど駄目だった。スレ立てはかなり難しいな。
86 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2011/05/30(月) 22:07:06.09
wiki見ると忍法帳のレベルが10以上なければならないそうなんだが、 そんなのいるのか? いなかったらどうやってスレたてするんだろ?
87 :
本田 :2011/05/30(月) 22:09:05.84
88 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 23:13:27.19
大崎町と言えば、大きな前方後円墳があったんじゃなかったかな。 鹿児島県で、肝属半島のあの付近は宮崎平野と文化的に似ていて、中部や西部とは異なる。 畿内色が強いというのか,他が独自の文化を残しているのと対照的。
89 :
忍法帖【Lv=1,xxxP】 :2011/05/31(火) 13:44:05.68
>>87 創建年代は不詳か。
古い言葉を残しているみたいだね。
90 :
レス長たらし毘古 :2011/05/31(火) 14:37:53.44
当方の想定では、それより少し北と想定している。 北限は宇佐、本命は日田、南限は阿蘇。 それより南になる西都はこれから調べてみます。
91 :
伊作 :2011/05/31(火) 17:46:21.73
>>81 >投馬国の都は西都市妻付近としても、
投馬(とうま)を「つま」と読む無理横暴に比べれば、
児湯の県・児湯郡を呼邑国に結びつけるほうが説得力がある。
>>82 >延喜式に三潴(みづま)郡とあり、その近くには
>上妻郡、下妻郡もあった。このあたりが投馬国だった可能性もある。
これも投馬(とうま)を「つま」と読む無理横暴の上に成り立つ空論だ。
三潴郡これを「みづま」と書いたのは妻郡にくっつけるための交錯だろ。
三潴は「みずま」と書く。これはこの土地の水沼(みずぬま・みずま・みぬま)の君に由来する。
とんでもないねつ造か無知発言だ。
>>88 >肝属半島のあの付近は宮崎平野と文化的に似ていて、中部や西部とは異なる。
都城を含む諸県郡は九州東側で最も豊だったところ。弥生時代から人口密集地だった。
ここにはとくに前方後円墳が集中している。
>畿内色が強いというのか,他が独自の文化を残しているのと対照的。
そうではない。地下式横穴墓・装飾古墳が混在している。
地下式横穴墓は九州南部東側に多い様式だ。(九州南西側は地下式板石積石室が多い)
ともに、前方後円墳と(前方後円墳を含む)装飾古墳と混在している。
そしてその南部。
錦江湾周囲、大隅半島・薩摩半島には、隼人の立石土壙墓の世界がひろがる。
甘ちゃんばかりのようだが、日向説が安易で論拠薄弱な願望論だという証拠だな。
92 :
本田 :2011/05/31(火) 22:33:38.49
93
94 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 18:49:59.41
この際青森にしようよ
95 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 22:20:06.07
倭人伝が示すところ、邪馬台国は日向だよ。末盧国から東南陸行五百里、伊都国は 佐賀市付近だ。そこから、南水行となれば、有明海を南下したことが明白。北九州 もなければ、近畿も可能性はゼロ。 倭人伝全体を通じて邪馬台国が南の方にあるということは繰り返し語られている。 そして、周旋五千余里、女王国の東渡海千里また国有り、いずれも日向ならば何の 問題もない。その日向には古墳時代早期から大古墳が造られ、古墳時代を通じて繁栄 している。それらは、邪馬台国があった考古学的な証拠だよ。
96 :
本田 :2011/06/17(金) 06:10:41.56
97 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 01:51:14.95
佐土原がかつて当麻と呼ばれてたっけな
>>95 吉野ヶ里みたいな遺跡が出ていないのが不思議
99 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 07:01:09.71
九州山地という天然の要害に囲まれていたからね。環濠はあまり造らなかったのかも知れないな。 それに、住居址などは出てきてもこれまで注目されなかった。どこからでも出てくるのでそれを まともに調査していたら何もできない、ってことで無視されてきたんだよ。
100 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 12:34:23.89
九州説は何故そんなに文字合わせを好むの?
102 :
日本@名無史さん :2011/07/12(火) 08:39:08.74
文字は所詮パッケージだからな
103 :
日本@名無史さん :2011/07/12(火) 10:06:31.26
>>97 当麻=投馬なら邪馬台はヤマトウともよめるな。
104 :
日本@名無史さん :2011/07/16(土) 22:28:20.34
九州の片田舎にあったのなら、なぜ大和朝廷に存在を抹消されたの?
105 :
日本@名無史さん :2011/07/16(土) 22:43:04.43
九州の片田舎という認識がまちがいのもとだな。考古学的にみても、古墳時代を通じて九州で 一番繁栄を続けたところだ。
106 :
日本@名無史さん :2011/07/16(土) 22:45:16.22
一番繁栄した王国なのに記録が残ってないんだ?なぜ
107 :
日本@名無史さん :2011/07/16(土) 22:50:41.22
中国に一目を置かれる大国なのに、日本史から忽然と消えている。 誰かが意図的に抹消したとしか考えられない
108 :
日本@名無史さん :2011/07/16(土) 22:57:17.10
>>106 記録が残っているのに、気づかないだけだろう。
109 :
日本@名無史さん :2011/07/17(日) 04:48:10.58
>>104 大和朝廷は、古事記・日本書紀でしっかりと日向を認識している。
天孫・ニニギノミコトは、高天原から日向に降りてきていて、それからの3.5代は日向の
物語になっている。
何よりも、初代天皇である神武天皇は日向の出身。
日向伝説にしても、現在の高千穂町なのか高千穂の峰のある都城のほうなのか よくわからん
西都原は東<魚是>(テイ)人の国
112 :
日本@名無史さん :2011/07/21(木) 11:33:15.58
西都原は神秘的で好きだが、県民の運転マナーさえ改善されればいう事無しなのにな。
運転マナーのいい県ってどこだ? 宮崎の運転はヌル過ぎる。特に軽トラの年寄り
>>104 唐と和平を望んだ畿内天皇家が、ニニギ以下の九州倭国王の系譜を飛ばすことで、
唐と敵対した後継国家でないと主張したため。
>>109 うむ、そのとおりだな。
大和朝廷は、日向から始まったということは神話から確実。
魏志倭人伝は、邪馬台国が九州の南方にあったことを表示しているから、
日向方面の比較的小さな勢力が、東征していく過程でふくれあがって、機内で大和朝廷になったんだろう。
116 :
日本@名無史さん :2011/09/15(木) 17:09:52.70
畿内の大和朝廷はいつからできたのかが問題だな。
>>116 痛いところを突くねえ。
畿内の大和朝廷はいつからできた、というのは、日本国の建国のときでもあるが、
それが文献では欠けている時期でもある。日本の創立があやふやなのは、やっぱり問題だわな。
文献が無理なら、出土品で年代を推定する手法だろうね。一応、天皇陵が残ってる。
その他大勢の古墳は、開発で潰す前の発掘調査で調べているが、調べたあとは建築されて
数が減るばかりなのだから、天皇陵は最後の最後になってから調べれば、たぶん大和朝廷の
創立ははっきりするはず。多分だけど。
西都原の古代の人口が比較的少ない(から邪馬台国ではない)という指摘については、 では、織田信長の清洲は京都よりも人口少ないし、頼朝の幕府創立にしても東国の辺境から 起こっている。西都原の邪馬台国が、近畿を制圧してもおかしくはない。 出土品が、西都原あたりの特徴が近畿でも出土していれば根拠になるが、出土品ではそうではない らしいので(逆に、近畿から九州へと伝播したらしい)、もっと調べねばならんが。
難波京が九州王権の副都として始まって、飛鳥浄御原あたりからかな。
>>119 難波京というか、大阪の土地は、水害少なく水量安定し、稲作に適し、湾で波も荒くなく、
まさに日本一の土地なんだわ(当時は)。広い面積もあり、多くの人口を養うこともでき、
多くの人間がいれば、強い権力をもつ組織もできる。日本の建国に関係していることは
確実だろうね。飛鳥浄御原は、その意味では反対だが…。
当時の人口からして、邪馬台国が九州にしろ奈良県にしろ、結局は大阪(難波?)に集権されて
ヤマト朝廷につながったと俺はみるけどな。
戦乱のあとは大規模建造で人心統一(秀吉の大阪城)という流れがあるとすれば、
仁徳天皇陵ができた時期が大和朝廷ができた時期だろうね。それが難波京の時期と一致するかどうかは
えーっと、難問で答えられん。
121 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 18:51:25.97
日向には畿内とほぼ同時期の前方後円墳や纒向型古墳があるって話だけど、 結局それって、畿内からの影響・支配を受けてるってのが定説なの? 日向の古墳型が畿内に伝播したって説は無し?
123 :
本田 :2011/09/16(金) 23:11:59.87
124 :
日本@名無史さん :2011/09/16(金) 23:27:29.95
>>120 >大阪の土地は、水害少なく水量安定し、稲作に適し、湾で波も荒くなく、
>まさに日本一の土地なんだわ(当時は)。広い面積もあり…
当時の大阪で人の住めるような土地は上町台地の上くらいなもんだぞ
現在でいえば中央区の東半分、天王寺区、阿倍野区といったところ
それより西は海が迫り、東は河内湖とその周囲の低地で洪水多発地帯
でかい古墳を作るには、大勢の人間が住んでなきゃならない。 そこで 仁徳天皇陵(大阪府堺市堺区)と 応神天皇陵(羽曳野市) の位置を調べてみた。 どちらも、大阪城のある場所からは遠いね。大阪の平野部よりも、やや山際といったところか。
卑弥呼の墓は、径100歩だったか、その当時にしては巨大なものだった。 でも、その後の前方後円墳などは径100歩を超えるものがザラ。 邪馬台国以上の巨大な国が発生したということだろう。 ともあれ、邪馬台国は西都原である説の 絶対的有利 なのは、魏志倭人伝の記述どおりなら西都原あたりになる、ということだな。 魏志倭人伝の著者がテキトーなことを書いたのか、それとも正確に書いたのか、当時のことを思えば、 日本書記などの神話のルーズさと比べると、魏志倭人伝は、方位や距離が書かれているなど 比較的には抜群に正確な記録だけどさ。
ここでタイムマシンの可能性を考えてみよう。 紀元3世紀?ごろの空中撮影写真というか、空からみた光景は、1800光年先に今、あることになる。 1800光年かかる宇宙の先では、地球の姿(ほとんど点?)は卑弥呼の時代のままのわけだ。 そこで超超高感度のカメラで撮影して、地上を分析すれば、邪馬台国がどこにあるかわかる。 よって、解決。平成3000年ごろには実現できると思う。
130 :
日本@名無史さん :2011/09/17(土) 13:36:18.25
どっちが先かはわからんが、古墳に執着しているのを見る限り 文化的に同族か近い一族なのだろう。 神武東征や宇佐神宮の話もあるしな。
魏志倭人伝には、卑弥呼の墓以外に、古墳(というか冢)はまったく記述がない。 もし古墳だらけの西都原が邪馬台国だったら、多数の古墳をまず書くだろう。
132 :
日本@名無史さん :2011/09/22(木) 10:12:17.18
西都原の古墳は全部3世紀前半までに作られたと思ってるの?
>>132 では西都原は邪馬台国に関係がないっていう前提でよろしいね?
西都原は北過ぎるな
西都原は南過ぎる。 大分県の宇佐神宮が邪馬台国の跡地。
136 :
日本@名無史さん :2011/09/23(金) 13:40:22.97
西都市民登場。これが本気だったらお前らひれ伏せ
西都原で金印がでれば、絶対的に確実といえる。 でればいいが。
西都原で出るのは「墓地」の看板だけだろう。
志賀島のことを考えれば、伊都国で出る可能性もあると思う。
船で行けば、志賀島と糸島は近いからな。
142 :
日本@名無史さん :2011/10/06(木) 11:18:48.18
邪馬台国は魏と呉の間を適当に遊泳していたんだよ。 だから、魏は親魏倭王の称号や金印を与え、呉は玉璧を与えたんだ。
143 :
日本@名無史さん :2011/10/06(木) 22:43:45.58
西都原の全盛期は応神ー仁徳の時代でしょう。 むしろ生目の方が興味深い。
144 :
やぶにらみ :2011/10/07(金) 16:35:20.68
西都市に大古墳群があるからこの地に邪馬台国があったという。 厳然たる事実として、王都・京域内に墓は造らない。墓は王都の郊外に造られる。 墓だらけの王都など絶対に存在しない。この点では纏向も同様。 さらに、山脈の傾斜地が海側まで迫って耕地が少なかった九州東側の地に、 数百年にわたって単独であれだけの古墳群を築く勢力があったと思われず、 西都原の古墳群は倭国の国葬センターの一つと見るべきである。 (熊本南部にも塚原古墳群という同様の大古墳群がある。 弥生時代の九州における人口密度が最も高いのは 筑後川東岸地域から熊本平野で、飛んで肝属郡の一部を含めた諸県郡)。 「高をくくる」ということわざが示すように、 その土地の石高(米の生産量)が国力や兵力の物差しになる。 古墳の規模も同様で、その地の生産力・国力・民力に比例する。 ところが、耕作地の少ない九州東側の西都エリアに大古墳群が存在する。 立地状況的にも時代的にみても、これがこの地の単独勢力によって、 3〜400年間にわたって継続的に造営し続けられた可能性はゼロに近い。 ご存知、西都原は古くは斎殿原(さいとのはる)と呼ばれていた。 斎殿原といえば、まさに「斎事殿のある原」という意味である。 ここを、児湯の県という古代名にちなむ「児湯郡」がすっぽり覆う。 ということで、 西都原は倭国の国葬センターの一つであり、 児湯の県の前身が呼邑国だったとみる。 私のこの見解が正しければ、朝鮮半島に出兵したことのある武将の墓があって、 朝鮮半島で入手した戦利品や当時の珍品が副葬されている場合もあるだろう。 また、朝鮮半島で戦死した武将の墓が造られている場合は、 そこに遺体はなく副葬品だけの場合があるかも知れない。
国際交流展のニュースでも見たのかな
146 :
やぶにらみ :2011/10/07(金) 16:59:10.21
『日本書紀』を編んだのは、滅亡百済からの帰化漢人だった。 その彼らは『三国志』倭人伝にも目を通しているのだが、 どうやら弥生の歴史の中心は日向にあったと解釈したらしく、 神話の中心を日向の地から始めている。ここに、『日本書紀』の矛盾がある。 それは、神話の始まりを豊葦原瑞穂国あるいは葦原中国としていることである。 先述の通り、九州東側は山脈の傾斜が海側まで迫って平地が少なく、豊葦原というほどの葦原はない。 『日本書紀』の神話は、高千穂、瑞穂の国、倉稲魂、天忍穂耳、 天穂日、稲田など稲と穂がつく神々と、天狭田、長田、田心姫、狭長田、奇稲田姫などなど、 田と稲作に関連した名の神々で溢れている。 天照大御神のくだりからして、素戔鳴尊が天狭田と長田の用水路を壊した、溝を埋め畔を壊したとある。 つまり、神話を創作した漢人たちは、開墾と灌漑がなった本格的水田耕作の時代を神代として書いている。 日本列島において、本格的かつ組織的な湿地開拓と水田耕作が最も早く行なわれたのが、 九州北部の佐賀平野〜筑紫平野であることは考古事実にみるまでもない。 しかるに、水田耕作が少なかったはずの日向を葦原中国としたのは大きな矛盾である。 『史記』には平原広沢とか平原沼沢という言葉が出てくるが、これは水田用開墾に適した一等地を意味する。 そのロケーションは、葦しげり浮き島が点在する一大湿地帯。これが豊葦原である。 九州で平原沼沢とか豊葦原といえるほどの大湿地帯を抱えていたのは、 筑後川河口域を中心とした有明海沿岸一帯である。 『日本書紀』を編んだ帰化漢人の誤読にによる歴史誤解の根源がここにある。
チクシのヒナタに天下ったんだから、別に宮崎県のつもりで書いたのではなく、 九州北岸のつもりで書いたと思う。
148 :
やぶにらみ :2011/10/07(金) 21:40:10.81
これで、このスレッドの存在意義もなくなったわけで。
149 :
日本@名無史さん :2011/10/13(木) 16:20:15.88
>西都市に大古墳群があるからこの地に邪馬台国があったという。 >厳然たる事実として、王都・京域内に墓は造らない。 それはそうだろうな。しかし、無関係の遠方の地に造るわけでもあるまい。 宮崎平野か都城盆地にいた連中、それが西都原に墓を造ったんだろう。
そんなところに王宮らしき遺跡はないから、墓を作らせた権力者は 山の向こうの熊本側じゃないのか?
151 :
やぶにらみ :2011/10/14(金) 16:27:53.68
>>149 >宮崎平野か都城盆地にいた連中、それが西都原に墓を造ったんだろう。
大河川の上流にある豊かな盆地の勢力が、河川の下流部や河口部に古墳をつくる。
大淀川しかり、球磨川しかり、緑川・菊池川・松浦川しかり、
(広大な湿地帯だった筑後川下流部は例外)
都城盆地にいた有力な勢力の墓域が大淀川下流部の生目古墳群だろう。
>>150 >墓を作らせた権力者は山の向こうの熊本側じゃないのか?
邪馬台国は山の向こうの熊本側にあった。とするのが当方の持論。
左巻き台風の風水害が多いのは山地・山脈の東側になる。
ときくに、東と北を山が囲む(東高西低=風水でいう背山臨水)盆地・平地は被害がすくない。
今回の台風で奈良盆地の被害が少なかったことでそれが証明されている。
熊本平野は、阿蘇外輪山の裾野は菊池から大津まで広大な台地がひろがり、
一等の畑作地でもあった。台地で畑作・平地で稲作。
目をあげれば、外海からの津波の心配がない豊穣の内海が広がる。
まさに、大和盆地と相似形の立地環境をもつ背山臨水の吉地だ。
地理・地形・気象学的には、ここが大和盆地の先輩。
152 :
やぶにらみ :2011/10/14(金) 16:40:16.36
阿蘇山の溶岩で濾過した清水がそちこちで出る熊本の沖積平野と、 温泉が噴出してヒエ・ソバ・イモの栽培が主だった東側の丘陵地と、 観客諸氏ならどちらを王都候補地に選定するか。 幾重もの防衛網が敷ける内海の奥の河川の中流部、 当時の一級道路ともいえる水運交通に適した大小の河川が走るところ。 そして、軍事・防衛・商工業地や庶民の生活地とはかけ離れたところ。 これが王都建設の候補地。 自らが倭国王か倭国首脳になったつもりで考えれば、 土地が痩せた所や容易に外的の侵攻を許す海べりは絶対に選択しなかろう。 くり返す。 遺骸を葬る墓と霊を祀る廟は別物である。 廟を王都・教徒域内につくった例はあるが、墓域は王都の郊外につくられる。
153 :
やぶにらみ :2011/10/14(金) 16:43:29.73
教徒域内 ↓↓ 京域内
どうみても畿内の前方後円墳の築造の方が先。
155 :
日本@名無史さん :2011/10/15(土) 15:26:52.15
156 :
日本@名無史さん :2011/10/17(月) 11:58:22.49
>どうみても畿内の前方後円墳の築造の方が先。 理由は何かな?
157 :
日本@名無史さん :2011/10/17(月) 13:49:53.91
>>156 九州から畿内に土器が移動してない。
以上。
>>156 81号のみ畿内纏向と同程度の古さだが、それ以外は4世紀以降のものってわかってるよ。
159 :
日本@名無史さん :2011/10/17(月) 19:40:27.81
日向からは庄内式土器が出てないよね。 そのへん、どういう解釈なの?
160 :
日本@名無史さん :2011/10/17(月) 20:40:22.37
古事記や日本書紀では、日向から奈良へ神武東征があるわけで、文献的には日向の方が先と 考えてよさそう。
161 :
日本@名無史さん :2011/10/17(月) 21:36:42.96
日向の土器出土状況はよくわからんが、 日向からは、庄内式が出ていないとすれば、 日向から畿内の人の流れはあっても、 畿内から日向には人の流れは、なかったってことだな。 まあ、神武東征神話に沿っているといえる。
>>161 逆だw
3世紀は九州からの土器の移動が少ない。
集団移住は考えられん。
そもそも天孫降臨の「日向」が後の日向国なの
かも疑わしい。
天孫降臨も神武東征も後の時代に日向国に設定
された可能性も考えられる。
大和王権の初期から、大和とつながりのあった
勢力がいたことは確かだが。
記紀のそれは集団移住じゃないけどね 空の土器を長距離運ぶのは無駄だし、 普通は現地で現地のやつを作らせるんじゃないの 搾取した物資を運ぶのは別として
生目古墳群(4世紀頃)→西都原古墳群(5世紀) 日向の豪族の権力が生目から西都原に移行していることが伺える。 西都原の男狭穗塚と女狭穗塚は、応神〜仁徳時代の諸県君牛諸井と髪長姫の墓の可能性が考え られる。 崇神朝から応神朝にかわるとともに日向の権力もかわった、と考えられる。 因みに、トンデモ説だが、生目地区には「生 目」の地名は「イクメイリヒコ」から来たとい う伝承もある。
>>163 人が集団で移住した場合、もともとの土地の様
式で土器を作る。
日向が奈良に侵攻したんじゃなくて、 日向出身の神武という少数の遊軍が勝手に侵攻して勝手に支配しただけ。 当然、土器は現地の人間か、周囲から連れてきた人間に作らせる。 やがて、奈良は周りの地域から搾取し出すが、日向は奈良と一定の友好関係があって 別に奈良から搾取したわけじゃない。遠いしね。 というのはどう
白村江のあと、国境を確定する必要があったが、 新羅に近い出雲や、隼人の反乱に手を焼いた南九州を、昔から「日本」の一部だったといいたくて 皇室の祖が隼人だとか、大国主を倒したとかいってるだけだ 政治目的の記述だよ。歴史書は政治文書なんだ そこから逆算して、事実を抽出せねば
168 :
sss :2011/10/17(月) 23:41:27.51
>>165 日本書紀には、神武天皇は天香山の赤土を使って土器を作り、地元風の祭祀をしてなじもうとしたと
書かれている。
即位してから、我々は天神の子であるから天神の祭祀をしようということになったらしい。
169 :
日本@名無史さん :2011/10/18(火) 02:36:31.99
>>168 その「天神」ってのは、タカミムスヒのことで、天照大神じゃないからな。
170 :
『情報開示』 :2011/10/18(火) 08:29:29.57
>>ALL ぶっちゃけると「西都原の男狭穗塚と女狭穗塚」の発掘調査を宮内庁に許可させる ネット住民署名拡散運動! (そろそろ開始??
171 :
日本@名無史さん :2011/10/18(火) 15:08:07.55
>>157 >九州から畿内に土器が移動してない。
畿内の土器は、南九州に移動しているのかな?
>>171 畿内から九州に入った土器文化として代表的な
ものに櫛目波状文土器が挙げられる。
それは、弥生中期に畿内に発生した櫛描文土器
文化が瀬戸内海を経て九州に入り、弥生後期〜
終末期における九州東部(大分県・宮崎県)で
顕著な発展をとげたものである。
173 :
日本@名無史さん :2011/10/18(火) 16:42:35.52
弥生時代の土器じゃなあ。庄内式土器は南九州から出てるの?
>>173 宮崎市瓜生野あたりで見つかっているよう。
安心しろ、宮崎は邪馬台国じゃないwww
175 :
日本@名無史さん :2011/10/18(火) 21:44:02.82
>>174 宮崎市瓜生野の庄内式土器でググったら個人のサイトしか引っかからないぞ?
あれか
177 :
日本@名無史さん :2011/10/18(火) 22:01:53.27
宮崎の古墳群がマキムクより古いとか言うやつだな。 しかし、アレは酷い誤魔化しがあって、 もしも、宮崎の古墳群が3世紀初頭だとするなら、マキムクも同じく3世紀初頭まで古くしないといけないわけ。
纏向より古いわけがねぇwww つーか、遊古館に行くか問い合わせればよくね?
179 :
日本@名無史さん :2011/10/18(火) 22:12:14.54
宮崎は縄文遺跡も貝塚もあるからな。 古墳ができたのはいつか知らんが、 弥生初期や中期から、ゆっくりと変遷してきたんだろう。
つーか、宮崎が邪馬台国とか言ってるやつは、何が根拠なんだ。
181 :
日本@名無史さん :2011/10/18(火) 22:26:39.63
>>180 恐らく、倭人伝に書かれている邪馬台国までの行程記録で、最も妥当性の高いのは宮崎だろうな。
狗邪韓国(釜山付近)から宮崎平野に直線を引くと、なかなか興味深い。
>>181 何だよ、そのオカルトじみた根拠はww
そんなんが根拠かよ。
倭人伝の記述にもあわねーよ。
大規模な弥生集落もねーし。
宮崎は隼人の地だよ。古墳初期から隼人族、も
しくは隼人にゆかりのある豪族が早くから大和
勢力に協力してたとみるべき。
生目古墳などでは前方後円墳と地下式横穴墓が
並存している。
隼人は鹿児島だろ。宮崎は日向。
>>183 釣りなのか...
日向隼人知らんの?大隅から日向は隼人だよ。
諸県君も出で立ちは隼人だ。
考古学的にも宮崎南部は隼人だぞ。
185 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 00:35:22.90
つうか日向に庄内の直接の流入なんて無いだろう? 現時点では北部九州の西新との併行関係を見るしかないのでは? 「大戸ノ口」「熊野原」とか良く知らんがwww
186 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 09:35:20.84
>>180 >宮崎が邪馬台国とか言ってるやつは、何が根拠なんだ。
倭人伝のとおりに進めば宮崎だ。それに中国が王侯に与えた玉璧がでているのは
宮崎だけだ。弥生時代から古墳時代にかけ連続して繁栄していたことが考古学的
に確認できるのも宮崎だけだ。
187 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 12:11:51.24
倭人伝の通りに進めば邪馬台国は太平洋にあります
時速4kmx8時間x30日=960kmを 白地図上で南にスーッと線を引いてしまったのが間違いの始まり
>>186 どう進んだら宮崎なんだよww
玉璧って串間のやつだろ?箱書にかいてあるだ
けで、本当に串間の遺跡からでたのかもわから
ない。
>連続して見られるのは宮崎だけ
宮崎だけ..宮崎だけ..何の本読んだのw
南九州から出たのであれば、ピンポイントの場所は判らずとも あまり関係ないんではないかな
191 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 14:21:13.17
>>189 >どう進んだら宮崎なんだよww
ほかにどこにも行きようがないな。
>玉璧って串間のやつだろ?箱書にかいてあるだけで、本当に串間の遺跡からでたのかもわからない。
いくら悔しがったところで無駄だな。→
>>190 畿内から出土なんて説はきいたことがない。
>宮崎だけ..宮崎だけ..何の本読んだのw
ほかから玉璧が出たなんて話はないね。せいぜいガラスのかけらだ。
北九州は古墳時代になったらすたれた。畿内の弥生時代は何もない。
宮崎に匹敵するところはないってことだよ。
192 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 14:44:33.46
宮崎には鏡が無いけどいいのかな?
193 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 14:47:31.28
まず、邪馬台国は日本にあり、卑弥呼も日本にいるという前提で。(対馬も壱岐も女王の 支配するところで、伊都国には一大率がおかれているから当然の前提) 末盧国を唐津市付近に比定すると、そこから東南に陸行五百里で伊都国。東南百里で奴国、 東に百里で不弥国。南に水行二十日で投馬国、南に水行十日、陸行一月で邪馬台国。 この里程・日程で宮崎よりもふさわしい場所があるとしたら教えて欲しいものだ。 個人的には宮崎が邪馬台国とは思っていないが、少なくとも倭人伝の行程の記述からは 宮崎がもっとも邪馬台国にふさわしい場所であることは認めなくてはならないと思う。 邪馬台国の問題は、それぞれの論点で最も妥当な結論を出し、その積み重ねで最終的に 邪馬台国の場所を決めるべきだろう。最初から邪馬台国の場所を決めておいて、 それに当てはまらないものは全て間違っているという観点では永久に結論は出ない。
>この里程・日程で宮崎よりもふさわしい場所があるとしたら教えて欲しいものだ。 宮崎よりふさわしい場所のほうが多いと思うが。
195 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 15:51:06.62
一日で歩ける目安は、普通に歩いて15〜6キロほど。 昔の宿場間でこの距離を超えることはめったにない。 普通の人ならこの程度 日本陸軍の進軍距離、一日当たり24キロが作戦計画されるときの目安。 昼夜兼行の強行軍として知られる、 秀吉の中国大返しで、一日に30キロ
>>191 >ほかにどこにも行きようがないな。
おめでたいな。
>ほかから玉璧が出たなんて話はないね。せいぜいガラスのかけらだ。
すまん、すまん、俺が言いたかったのは、考古学的に確認できるってとこだ。
玉璧があっただけで邪馬台国かね?
短絡思考だな。
>北九州は古墳時代になったらすたれた。畿内の弥生時代は何もない。
むしろ宮崎の弥生時代の方がないな。
>>193 >この里程・日程で宮崎よりもふさわしい場所があるとしたら教えて欲しいものだ。
その里程・日程がどうふさわしいのか詳細があるとしたら教えて欲しいものだ。
>個人的には宮崎が邪馬台国とは思っていないが、少なくとも倭人伝の行程の記述からは
宮崎がもっとも邪馬台国にふさわしい場所であることは認めなくてはならないと思う。
なんだよ、この意味不明な文章は。
まるでカルト信者だな。
基本は冒頭の行程。風土(温暖)、遺跡(花弁状住居)、遺物(璧)は傍証に過ぎない。
198 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 17:34:51.67
花弁状住居(笑) 花弁状住居が邪馬台国の遺物だったら東遷もないことを認めろよ。
199 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 17:35:55.63
花弁状住居(笑) 花弁状住居が邪馬台国の遺物だったら東遷もないことを認めろよ。
当然東遷ではない。記紀に書いてあるそれは集団移住じゃないから別に問題はない。
201 :
▲ :2011/10/19(水) 18:00:14.77
>東に百里で不弥国。南に水行二十日で投馬国、南に水行十日、陸行一月で邪馬台国。 これを「バカづらさげた続け読み」という。かくいうに足る厳然たる事実を提示する。 @中国語は「語順」が重要な意味をもつ言語である。 A対海国から伊都国までは「方角・行程・距離・国名」日程なし。これが順次読みの文法とみなされる。 B伊都国から奴国と不弥国へは、「方角・行程・国名・距離」日程なし。若干の文法変化がみられる。 C投馬国と邪馬台国については、「方角・国名・行程・日程」距離記載なしで、明らかに語順が一変している。 D語順の違いを数学にたとえれば数式の違いである。数式が違えば出てくる回答も自ずと違ってくる。 この文章構成の変化を前にしたとき、いわゆる続け読みがバカげた棒読みであることが明白になる。 @古代中国にとって、地理情報は軍事情報に位置づけられる重要なファクターである。 A魏朝の東夷調査は漢朝の西方調査に匹敵する文化事業だと東夷伝序文がうたっている。 B中国国家にとって、伝説の大海の中の倭人とその島の発見は、地理学的・民俗学的発見である。 C絶対専制の時代に皇帝の命を受けて初訪問・初調査で訪れた倭国の、 かんじんの王都に至る「方角・行程・日程・距離」のうち、 どこかで・どれかが欠落する(不明になる)ような報告をすることは断じてない。 D王都に至る「方角・行程・日程・距離」のうち、 どこかで・どれかが欠落する(不明になる)読み方は、すべて間違いである。 E王都に至る「方角・行程・日程・距離」のうち、いずれも欠落しない読み方は一つしかない。 それは、順次読み(続け読み)でもなければ放射読みでもない。 F「女王国以北はその戸数・道里を略載できるが……」とあるが、投馬国に至る距離が書かれていない。 投馬国はほんとうに邪馬台国の北にあったのか? まず土台から検証だ。個々に考えよ。 意図的誤解・誤読や間違った読み・解釈を論拠や反論根拠にする手合いは掃いて捨てるほどだが、 その顛末は例外なく不毛。雑草さえ生えない古代史荒原を描くのみ。 おっと。「根拠を示せ」「論拠をだせ」などと、幼児性丸だしのお角違いを受けつけない。 相手の意見を潰すにはその論拠を潰すこと。自ら反論となる論拠を出せば済むことだ。
202 :
▲ :2011/10/19(水) 18:10:01.74
厳然たる事実の続き。 @『倭人伝』を含む東夷伝の距離数値は、魏代の公式尺度の6〜6.5倍で書かれている。 むろん、卑弥呼の墓のサイズもこの例に漏れるものではない。 A厳密に測定しようのない海路距離は、実測による陸路距離とは無縁の数値で書かれている。 すなわち、数多の史書がそうであるように、1日航海(1航海)を1000里単位か日数単位で表記した。 Bこの海路距離を実際の距離に換算する愚行が多すぎる。 『倭人伝』は手強い。なめてはいけない。 その手強い『倭人伝』を書いた中国人はもっと手強い。願望空論など通用しない。 その手強いのを相手にしているという認識が不足してるようだ。
203 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 19:23:18.17
自分も軍事情報と思っているが、情報として価値を持たせるならば、 水行二十日などの情報は、別の人間が解釈しても、同じように再構成できなければならない。 すなわち、普通に行けば五日だが、測量や調査を行ったので二十日、では情報の価値を持たない。 文面からは測量や調査を行ったのか、そのまま行ったのかはわからないからである。 常識的には水行二十日の距離は水行十日の二倍でなくてはならない。 ただし、きわめて水行が困難で、誰が行っても水行二十日かかるという条件であれば、 これは情報の価値を持つだろう。 しかし、現実的にたとえ鹿児島まで行っても水行二十日もかかるはずは無く、 陸行一月では、九州を鹿児島まで行って、往復できる距離である。 ちなみに、九州西岸から、中国上海までの遣唐使船南航路では 平均的な日数は二十日である。距離は千キロ弱である。 このことから、水行陸行の距離は、実際の日数ではなく、距離として換算できる 距離の単位であると考える。
204 :
▲ :2011/10/19(水) 19:54:32.05
>水行陸行の距離は、実際の日数ではなく、 >距離として換算できる 距離の単位であると考える。 解読不可能ゆえの責任転嫁。逃げの詭弁だが、なにしろ日本語になっていない。 文章というものには起承転結がある。 歴史書は文学性とドキュメント性を備えた書き物だ。 この手の文章というものは、何も考えずに棒書きするのではなく、 起承転結を最後まで読んで色々と分かる構造になっている。 投馬国と邪馬台国までの日程工程は、それまでの書き方から転じている。 これが出た所で、ずっと不明のままできた日程が判明することになる。 郡より邪馬台国までの12000余里が行程説明の「結」。 これで、ずっと不明のままできた距離も判明することになる。 で・女王の都する所までの距離も日程も出そろう。 つまり、邪馬台国までの日程・行程は、 郡より邪馬台国までの全日程・行程ということだよ。 これが、今まで誰も気づくことのなかった文献読みの論理だよ。
205 :
▲ :2011/10/19(水) 19:58:44.37
異論反論疑問質問には対応するが、 ▲の投稿者と同等のレベルのものを要求する。 失笑を誘うような低次元のやりとりは無用とする。
206 :
▲ :2011/10/19(水) 20:07:06.41
▼中国の古代地図学 晋の武帝のとき司空に就任し裴秀(陳寿と同時代の人物)は、 「製図六礼」という地理学と地図学の法則を確立した。 すなわち、縮尺比率・方位・距離・高低差がある場合の水平距離・交差道の角度・曲線区間での直線距離と直線の方位、 以上の6つの求め方を確立している。(曲線区間においては、直線距離と直線の方位を求める)。 ▼中国の古代地理学 「軍事と地理は密接な関係にあり、中国古代の軍事的地理知識の累積は豊富である」。 「軍事的地理把握の要件には、政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、人口、河川等がある」。(中国文化研究) ……………『倭人伝』の記録内容も、ほぼこの要件に沿っている。
207 :
▲ :2011/10/19(水) 20:59:00.99
宮崎(日向)の地に邪馬台国があったとすれば、 少なくとも2世紀初頭には九州倭国の強豪であったとみなければならない。 そこに至るに必要な大陸・半島との通交はどうしてなり得たのか。 南周り海路には隼人が盤居している。 北回り海路を使うにしても、九州北部の大勢力を、 どのようにして傘下に治めたのか。 九州倭国を束ねるだけの力と先進性を 大陸半島との出入り口となる九州北部をだし抜いて 九州倭国を束ねるだけの力と先進性を、どうやって手に入れたのか。 諸君が目を三角にして批判する畿内説と同様の難問(関門海峡の支配の形と使われ方)が 控えている事実も認識する必要がある。
208 :
▲ :2011/10/19(水) 20:59:42.57
古来、大河川の上流部の盆地は一等地である。 日田盆地、人吉盆地、都城盆地。 こういう土地は、有力な王族に与えられるものだ。 日田からは金銀錯嵌鉄鏡、人吉からは鍍金鏡、 これらは、でき損ないの三角縁神獣鏡と格違いの高級品だ。 都城は、明治時代だったか、熊本の連隊が農地にするという名目で 古墳をことごとく潰したというから目ぼしい古墳も遺物も出ない。 よくよく考えること。 我々は、というよりも日本の考古学は主に、 指定漏れで発掘調査が可能な程度の中小古墳(地方豪族の墳墓)とそこから出た遺物でもって、 倭国という国家とその支配層の動向と歴史を論じている。 玉璧にしろ、「今出ているかぎりでは」という但し書き抜きで論じている。 実に、恐るべきことが平気でまかり通っているのだ。 全国の大古墳が発掘可能となったと考えたとき、 そこから何が出てくるのか。装飾はほどこされているか否か。 考えなければならないことは山積している。 倭国という国家とその支配層の動向と歴史を軽々に断定すべきではない。
209 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 21:11:48.36
相変わらず電波飛ばしているな ▲=ゴミクズ森村伊作 は >今出ているかぎりでは」という但し書き抜きで論じている。 >実に、恐るべきことが平気でまかり通っているのだ。 当たり前だタコ。 出ていなくても想像で何でも言っていいのなら 最早学問でもなんでもない。 森村伊作お得意のファンタジー小説だw 「関門海峡」だの「装飾古墳」だの自分の与太を出しても受け入れられるベースが欲しいのだろうがwww
210 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 21:22:30.68
>弥生時代から古墳時代にかけ連続して繁栄していたことが考古学的 >に確認できるのも宮崎だけだ いつもの何かに憑かれたような日向厨の叫びだがw こいつの言っている弥生時代の繁栄って何なんだ?話が見えてこないんだが… 例の81号をトンデモなく古く見ているのか? そもそも畿内のものに対してだけでなく北部九州の纏向型に対してもより古いなんて事が確認されたなんて聞いたことがないんだが・・・ 北部九州との相対年代で確認取れているのか? そもそも北部九州の繁栄と言えば先ず舶載品の豊富さだが 日向ってそれに比肩しうるようなものがあったのか? 日向は銅矛の文化圏からも外れていたと思うが・・・ 璧なんていつ日本に入ってきたか分からないシロモノだぞ? こうやって(畿内説批判から)自説を開陳する段階になると もうむちゃくちゃやるもゴミクズレベル九州説の特徴wwww 他に装飾古墳とか志賀島の金印とかw
>>210 だろ?ww
こいつら宮崎の考古学成果とか無視。つーか、宮崎が邪馬台国とか言うわりには宮崎の考古学を知らない。もしくは、都合の良い資料しか
持ってこないww
ただの願望説www
宮崎の博物館、図書館でも考古学研究者の論文は沢山あるんだが、読んでないのかね?
まさかネットでググっただけかwww
212 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 22:00:43.74
>>204 >つまり、邪馬台国までの日程・行程は、
>郡より邪馬台国までの全日程・行程ということだよ。
>これが、今まで誰も気づくことのなかった文献読みの論理だよ。
つうか散々外出ネタをドヤ顔で自分の発見のように言うこの神経って一体wwww
213 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 22:09:01.56
水行十日、陸行一月で、 水行一日を千里、陸行一月を二千里という換算で、 計万二千里という計算なのだろうが、 陸行一月を二千里という部分の 根拠がよくわからない。 短里二千里なら、150キロ〜160キロ程度だが。
214 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 22:14:22.29
水行十日陸行一月が、帯方郡からの距離なら、 不弥国から先の距離は記載していなかったことになる。 方向は南至でいいのだろうか。 距離がないのは、全行程から引き算して求めよという、 クイズ形式になっていたのだろうか? 個人的には、水行陸行の日数表記は、 距離を表していると解釈する。
215 :
▲ :2011/10/19(水) 22:46:35.91
>>213 >水行一日を千里、陸行一月を二千里という換算で、
水行10日は距離の不明確な帯方郡から末盧国までの海路1万余里。
末盧国から陸行2000里が1ヵ月。
投馬国への水行10日も末盧国までの海路1万余里と、
ここから先、残りの水行10日は、里程を知らない倭人の手漕ぎ倭船による日程。
(中国人は投馬国へは行ってはいない)。
>陸行一月を二千里という部分の 根拠がよくわからない。
1万2000里から海路10日の1万余里を引くだけ。根拠など無用。
>短里二千里なら、150キロ〜160キロ程度だが。
短里など持ち出さなくても、魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれているという事実がある。
>>214 >水行十日陸行一月が、帯方郡からの距離なら、
>不弥国から先の距離は記載していなかったことになる。
1000家(1000戸ではない)の不弥国は、邪馬台国エリアに入る最終関門の官衙とみた。
>距離がないのは、全行程から引き算して求めよという、
「簡潔にして饒舌」をもってよしとする歴史書は、行間のほうが饒舌な場合が多い。
不弥国から邪馬台国までは、残りの陸路1300里。バカでも計算できる。
ただし、すべて魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれている。
>水行陸行の日数表記は、 距離を表していると解釈する。
だ・か・ら。
「日数表記」が「距離を表している」とは日本語にもなっていなかろう。
いずれにしても、「邪馬台国が墓場の西都原」などとは現実からほど遠い願望空論だ。
216 :
▲ :2011/10/19(水) 22:53:33.42
>>212 :
>散々外出ネタをドヤ顔で自分の発見のように言うこの神経って一体wwww
じゃ再掲するが、ここまで論理的に説明して正しい読み方を提示した学者の一人もいるか?
銀蝿さんびんが横づけするとはけがらはしいぜ。格違いだっての。
@中国語は「語順」が重要な意味をもつ言語である。
A対海国から伊都国までは「方角・行程・距離・国名」日程なし。これが順次読みの文法とみなされる。
B伊都国から奴国と不弥国へは、「方角・行程・国名・距離」日程なし。若干の文法変化がみられる。
C投馬国と邪馬台国については、「方角・国名・行程・日程」距離記載なしで、明らかに語順が一変している。
D語順の違いを数学にたとえれば数式の違いである。数式が違えば出てくる回答も自ずと違ってくる。
この文章構成の変化を前にしたとき、いわゆる続け読みがバカげた棒読みであることが明白になる。
@古代中国にとって、地理情報は軍事情報に位置づけられる重要なファクターである。
A魏朝の東夷調査は漢朝の西方調査に匹敵する文化事業だと東夷伝序文がうたっている。
B中国国家にとって、伝説の大海の中の倭人とその島の発見は、地理学的・民俗学的発見である。
C絶対専制の時代に皇帝の命を受けて初訪問・初調査で訪れた倭国の、
かんじんの王都に至る「方角・行程・日程・距離」のうち、
どこかで・どれかが欠落する(不明になる)ような報告をすることは断じてない。
D王都に至る「方角・行程・日程・距離」のうち、
どこかで・どれかが欠落する(不明になる)読み方は、すべて間違いである。
E王都に至る「方角・行程・日程・距離」のうち、いずれも欠落しない読み方は一つしかない。
それは、順次読み(続け読み)でもなければ放射読みでもない。
つづく。
217 :
▲ :2011/10/19(水) 22:54:47.68
文章というものには起承転結がある。 歴史書は文学性とドキュメント性を備えた書き物だ。 この手の文章というものは、何も考えずに棒書きするのではなく、 起承転結を最後まで読んで色々と分かる構造になっている。 投馬国と邪馬台国までの日程工程は、それまでの書き方から転じている。 これが出た所で、ずっと不明のままできた日程が判明することになる。 郡より邪馬台国までの12000余里が行程説明の「結」。 これで、ずっと不明のままできた距離も判明することになる。 で・女王の都する所までの距離も日程も出そろう。 つまり、邪馬台国までの日程・行程は、 郡より邪馬台国までの全日程・行程ということだ。 これが、今まで誰も気づくことのなかった文献読みの論理だ。 事実だろがクズ野郎。 ところで、クズ畿内説では「バカづらさげた続け読み」だったんじゃないか。けらけら
218 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 22:57:16.89
>>水行陸行の日数表記は、 距離を表していると解釈する。 >だ・か・ら。 >「日数表記」が「距離を表している」とは日本語にもなっていなかろう。 この辺は水掛け論になりそうだが、 歩いて一日の距離、とか 車で三十分の距離、とか普通に使う表現だと思うのだが。
219 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 23:00:18.93
>>207 森村伊作
>大陸半島との出入り口となる九州北部をだし抜いて
>九州倭国を束ねるだけの力と先進性を、どうやって手に入れたのか。
つうかこれってお前の熊本説にまんま言える事じゃないのか?w
220 :
▲ :2011/10/19(水) 23:04:54.56
本当のゴミクズ九州説は放置して関与しないが、
この俺の説には畿内説も神経質になっているらしく、
わざわざこんな所まで追いかけてきて誹謗攻撃する。
俺の説は、今まで誰もいわなかって正論だらけだからなー。
畿内説の危機管理上からも、放置できないということだ。
本音丸見えで、お笑いぐさだぜ。
俺の正論に満ちたサイト。知らなかった人もおろう。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear 隅々までみれば、畿内説の銀蝿がたかってくる理由も分かるだろう。
221 :
▲ :2011/10/19(水) 23:09:48.90
>>218 >「日数表記」が「距離を表している」
このよくは意味の理解できん物言いは、
独善我流の法則で「1日は何キロ」といった数値を垂れるための伏線だろ。
俺が書いたことを最初から吟味するとい。
その上で、自分の独善我流の法則が正しいと思ったらそれでいい。
ただし、誰も受容しないだけのことだ。
222 :
▲ :2011/10/19(水) 23:16:26.32
俺のサイトは説明画像つきで明確だ。 見て、目からウロコがはがれた人は、正直にそう報告するよーに。 じゃ・おやしゅみー。
223 :
日本@名無史さん :2011/10/19(水) 23:19:28.80
>>221 多分、同様に水掛け論になりそうだが、
渡海一回を千里、一日を千里とする表現もかなり無理があると思う。
この表現では、軍事情報としては役に立たない。
100mの海峡を渡海しても千里か?
丸一日、百キロ渡海しても千里か?
常識的な距離があるはずではないか?
そして、常識的な範囲に収めるのならば、
渡海一日は、常識的な範囲での距離に換算できるのではないか?
たとえば、半日以上、終日以内の渡海を千里とするならば、
そのあたりの距離に換算できるのではないかな。
224 :
▲ :2011/10/20(木) 00:02:10.89
>>223 しつこいな。正論の登場で自論の崩壊目前らしいな。
水掛け論ではなく、きみが事実を認めないだけのことだ。
実例をあげるまでもなく、
「数多の歴史書が1000里単位か日数・月数・年数単位」で書いている。
ただし、陸路に順じて計測可能な河川水行は例外。
目測可能な距離を300里、400里と書いている例外も少しはある。
きみが何といって逆らおうと、「無理がある」思おうが事実だ。
>渡海一日は、常識的な範囲での距離に換算できるのではないか?
「ないかな」という根拠なき推論で事実に逆らうかね。
風待ち・潮待ちで正午に出港して夕方に到着しても、
1航海1000里、1航海1日。
あくまでも実際の距離とは無縁の表記だ。
計測できん海路距離を正しく表記しようがあるまい。
現実に1日で1000里も航行できるわけはない。いわば符牒のようなものだ。
千里眼、千里馬、千里船、1日千里(迅速なこと)という言葉もあるだろ。
225 :
▲ :2011/10/20(木) 00:07:23.41
正しく計測できん海路距離を正しく表記しようがあるまい。 状況によって航行スピードも航行距離も大きく異なる海路を、 1日何キロという一定距離で表記できるわけがなかろう。 これを特定数値の距離で計算せんといするきみの手法に無理がある。以上
226 :
▲ :2011/10/20(木) 00:21:18.19
最後に教示しておく。 俺がローガンくんにいったのが最初だと思うが。 『倭人伝』のいう1万2000余里は、 会稽・東冶(倭人の文身のルーツではないかとした、かつての越の領域)の東だ。 『倭人伝』編纂者自身が、1万2000余里をその程度の距離と認識した上で書いている。 『倭人伝』編纂者の机上計算だから多少のズレはあっても、 会稽・東冶といえばどのあたりになるかは分かるだろう。 この事実を見逃して、もともと実際の距離とは無縁の海路1万里を含む1万2000余里を バカづらさげてそのまんま魏の公式尺度に換算した上で、 インドネシアまで届くといっちのは、ほんとうの過去の遺物だ。
227 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 00:45:39.48
>>224 もちろん、海路だから正確な距離を計測できないのは想定済み。
しかし、実測距離では3割程度の誤差範囲で記録と一致する。
目測だから正確に計測するのは無理だが、
三割程度の誤差を荒っぽく千里と表現したのである。
それ以上のとんでもない短距離、あるいは長距離を
無理やり千里と表現した記録があれば教えていただきたい。
釜山−対馬間で、主要港で約104キロ
対馬−壱岐間で64キロ
壱岐−唐津間で52キロ
全て千里である。そして誤差は三割程度である。
そして平均すれば、千里あたり73キロである。
千里77キロと近い値であることがわかるであろう。
逆に聞きたいのだが、一渡海=千里は釜山から松浦に至るまでの
根拠以外になさそうである。
一日千里の根拠はもっとあやふやである。もちろん扱いやすい千里という言葉を
多用したのであろうが、いちおう千里に近い距離を千里と呼称したのである。
それに、なにより、実測距離と大幅に乖離した場合、軍事情報としては「使えない」
のである。
228 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 00:53:08.67
海路だから誤差は大きいながらも、千里を千里と表記している とする立場から、仮に100mと千里とするとか、 千キロを千里とするような、非常識な乖離がある記録があれば、 一航海=千里に同意しても良い。 いまのところ、海上目測でさえ、倍も誤差があるものは 見当たらないようである。 今のところ、誤差はあり、正確に測れないながらも、千里を 千里として計測努力して、表記するという意見を採用したい。
229 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 01:18:39.25
>224 >現実に1日で1000里も航行できるわけはない。いわば符牒のようなものだ。 >千里眼、千里馬、千里船、1日千里(迅速なこと)という言葉もあるだろ。 帯方郡から釜山まで、海上実測距離で9000里〜10000里 (帯方郡を平壌と設定) ここは倭人伝では7000里となっているが、 一日千里以下なら、当然九日以上となる。 一日千里であれば、一日千里、9日以上で、 九千里以上となってなければおかしいはずである。
230 :
『情報開示』 :2011/10/20(木) 07:27:09.01
おまえら結論は、
>>170 が『ガチ』。
(と自演してみる。
231 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 07:57:46.24
232 :
▲ :2011/10/20(木) 08:48:16.16
>>227 >三割程度の誤差を荒っぽく千里と表現したのである。
誰がきめたんだ?
>それ以上のとんでもない短距離、
目測可能な短距離を千里だというバカがいるか。
>釜山−対馬間で約104キロ 対馬−壱岐間で64キロ 壱岐−唐津間で52キロ
明らかに異なる距離を一律1000余里としてるだろ。どれも1日航海ということだ。
>誤差は三割程度である。 平均すれば千里あたり73キロである。
対馬と壱岐が、互いの南北間の距離を「平均」するための間隔で存在するわけではない。
既存の現実を、あとづけの法則に押し込めるという時空を超えた手法だな。
>>228 >海路だから誤差は大きいながらも、千里を千里と表記しているとする立場から、
そうはしていないだろ。
>仮に100mと千里とするとか、
目測可能な短距離を千里だというバカがいるか。
>千キロを千里とするような、非常識な乖離がある記録があれば、
千キロという単位は古代にはない。「何キロが千里」というしたいのはきみだ。
>千里を千里として計測努力して、表記するという意見を採用したい。
それはきみの意見だろ。「計測努力して」てどうやるんだ?
それが不可能だから古代人はそうしてはないのだ。
きみは、きみの「意見」を補証する実例の一つも出してはいないぞ。
何の証拠・論拠にもよらず、きみの願望的考えを述べているだけだ。
その背後には、陳腐な「我流邪馬台国比定地」が控えているのだろう。
233 :
▲ :2011/10/20(木) 08:48:59.39
>>229 >帯方郡から釜山まで、海上実測距離で9000里〜10000里
この海上実測距離て何だ。どこの距離尺度だ?
で・実際に通った「航路」をどの程度の正確さで把握できているのだ?
きみのいうことは極めていい加減だが、そのトーンでこれまでこの板でやってきたのかい?
>倭人伝では7000里となっているが、 一日千里以下なら、当然九日以上となる。
だから。実測とは無関係。便宜上用いられた符牒のようなものだといってるだろ。
おかしな「海上実測距離」を持ち出していい加減なことをいうな。
>一日千里であれば、一日千里、9日以上で、
>九千里以上となってなければおかしいはずである。
きみの「海上実測距離」といういい加減な手法に基づく3段論法だ。
いいか。9日で航海したのなら9000里と書いたろう。
7000里と書いてあるのだから、基点と終点がどこであれ、実地即距離がどうあれ7日間航海だ。
どうしても千里は「この程度の距離」という思い込み、
もしくは思いたい都合があっての抵抗のようだが、
きみの抵抗手段は、考え方の優先順位を錯綜・混同して成り立っている。
234 :
! :2011/10/20(木) 08:52:55.58
はあ。
235 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 09:13:01.41
>>234 要するに「邪馬台国・西都原説はない」ということだ。
236 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 10:18:30.62
>>232 >目測可能な短距離を千里だというバカがいるか。
まさにこれが言いたかったことである。
千里と書く以上、千里の距離は記録者の念頭に置かれており、
さまざまな記録や、航海時間、見聞などから、千里を導き出したのである。
千里の行程距離は、ある範囲内に収まっていることは見えてくるだろう。
技術的な問題で誤差があるのは仕方がないが、
渡海千里が距離と無関係、ということはありえない。
つまり、バカではないのである。
目測可能な渡海を一律に千里というバカではないのである。
237 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 10:39:40.52
距離情報は、他人に伝わって活用できなくては、 距離情報の意味をなさない。 千里と言えば、距離に無関係ということは無く、 ある範囲での想定距離として伝わらなくてはならない。 七千里、あるいは三千里、千里、これで正確ではないにせよ、 距離はのちの読者に伝わるのである。 「この程度の距離」としてである。
238 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 11:00:29.90
>釜山−対馬間で約104キロ 実はずっと疑問で、一日千里の疑問を持ったのがこの部分なのだが、 104キロを当時の船で、一日で行けたかどうかは怪しい。 釜山は湾内にあるので、少し距離が延びる。 互いの最先端からの最も近い距離だと、約50キロであるが、 現実的ではないだろう。今でも展望台しかない。 かなり後世になるが、遣唐使船南航路で、九州西岸から上海まで、 千キロを、だいたい二十日で移動している。 一日に約50キロである。 早くは8日で行ったり、遅くは2年(遭難)なんて例もあるが、 だいたい二十日としてよいだろう。 これより、倭人伝時代に、これより早いのか遅いのかはわからないが、 まあ、同じ速度として、二日かかったら、 二千里と記録されなければならないのではなかろうか。 一日に50キロは、24時間昼夜、1.5ノットの速度を出すことに相当する。 もし、漕いでいたら、連続航行は無理だろうから、 一日の航行距離はもっと短くなるだろう。 また、風にうまく乗れば、早くつけるかもしれないが、 風待ちもあって、実際にはもっと日数がかかることになるだろう。 偶然にも、行きも帰りも正反対のベストの風が吹けば一日で行けるかもしれないが。 つまり、一日千里を適用したら、釜山−対馬間は、二千里になるのではないだろうか。
239 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 11:38:36.34
>>210 >弥生時代の繁栄って何なんだ?話が見えてこないんだが…
南九州の弥生時代の遺跡を調べたことがないようだな。それでは話にならん。
>例の81号をトンデモなく古く見ているのか?
>そもそも畿内のものに対してだけでなく北部九州の纏向型に対してもより古いなんて事が
>確認されたなんて聞いたことがないんだが・・・
考古学的にどこの墓がどうだなんて確認された事実があるか? 何も確認されてないよ。
適当に、「俺はこう思う」って話ばかりだ。そんな話に振り回されてるようじゃまだまだよ。
>>239 210本人じゃないけど言わせてもらう
>考古学的にどこの墓がどうだなんて確認された事実があるか? 何も確認されてないよ。
適当に、「俺はこう思う」って話ばかりだ。そんな話に振り回されてるようじゃまだまだよ。
トンデモ説にふりまわされて、トンデモ説をのたまっているようじゃまだまだよ。
もうやめとけよ、じーさん。
願望はわかるが、あんたが考えてる様なことは
考古学研究者も可能性の一つとして考えたこと
あるのよ。
しかし、考古学資料が出てくるほど、その可能
性はなくなる一方なのよ。
241 :
日本@名無史さん :2011/10/20(木) 13:15:15.82
木のお面が出てきたとか桃の種がでてきたってか? 玉璧でも探してみたら?
宮崎に国家の中枢があったのではなく、墓場と集落があっただけだ。
243 :
日本@名無史さん :2011/10/21(金) 10:12:02.10
>考古学資料が出てくるほど、その可能性はなくなる一方なのよ。 そういえば、古墳が畿内発祥だという可能性はなくなってきましたね。
244 :
日本@名無史さん :2011/10/21(金) 10:55:07.08
四国発祥だからな。
245 :
日本@名無史さん :2011/10/22(土) 14:33:16.36
しかし、邪馬台国は北部九州で西都原は天皇家と関係の深い土地柄。 天孫降臨とは渡来系の民が中国大陸南部から薩摩半島の野間、笠沙に 上陸したことである。上陸地点は平野も川もなく大隅半島の内之浦、 志布志湾へ渡った。これは海幸神話と重なる。 そして、唐仁古墳、横瀬古墳、神領古墳を造った勢力は火山の爆発による 降灰から逃げて新天地へ向かった。これが神武東征である。これら一族が 造ったのが西都原古墳。
道里は調べたって意味ないよ 司馬懿の公孫氏征伐の結果、倭国を含む東夷の諸国が来朝することになる 一方、明帝の時代、司馬懿のライバル曹真はクシャーナ朝バースデーヴァ(波調)の使者を来朝させる手柄があった クシャーナ朝は洛陽を去ること16000里の大国 遥か遠方の大国から朝貢にくることは皇帝にとってこの上ない喜びだ しかし、曹真系の手柄を、三國志の著者・陳寿が大書することはできない 現帝室は司馬家だからである それではどうするか? 東夷の中で一番遠方の倭国を、「非常に遠方の大国」として書くしかない 邪馬台国は洛陽から12000里 これでクシャーナ朝と釣り合いがとれるというもの
続き だいたい、朝鮮半島を異常に大きく描き過ぎている これも、遠方にあるさらなる強国というイメージを膨らますための作為 邪馬台国の七万戸も多すぎる 一戸五人として35万人とは、さすがにウソだろう 以上
248 :
日本@名無史さん :2011/10/24(月) 10:30:22.83
>>246 >曹真系の手柄を、三國志の著者・陳寿が大書することはできない
魏略だって同じ里程を書いている。陳寿が作出したわけではない。
魏略って、原本あるの?
250 :
日本@名無史さん :2011/10/24(月) 11:26:46.05
魏略の原本はないね。だが、魏志の原本もないよ。
251 :
日本@名無史さん :2011/10/24(月) 11:32:34.30
大抵は写本でしょう
252 :
日本@名無史さん :2011/10/24(月) 18:17:58.79
>>246 >>247 >東夷の中で一番遠方の倭国を、「非常に遠方の大国」として書くしかない
>>遠方にあるさらなる強国というイメージを膨らますための作為
古クシャーな言説。
さらにいえば、 会ケイの東方に邪馬台国が存在するというのも、 司馬懿の功績を讃えるための作為 中国史書はこのように読むべきものだ 必ず政治目的の偏向がある 中国里は昔から450mと決まっている
254 :
日本@名無史さん :2011/10/25(火) 09:56:38.06
↑史書の読み方をまったく知らないようだな。
君はどー読むわけ? 魏略は魏志の引用としてしか実在を証明できない 正史が決定されると民間の史書は抹消される 正統は一つきりだからだ 中国人の言葉や文書をまんま信じてはいけない これが古代史の鉄則
256 :
日本@名無史さん :2011/11/09(水) 11:53:40.92
普通に読めばいいんだよ。東夷のことを曲げて書く必要などない。
257 :
日本@名無史さん :2011/12/18(日) 10:58:09.98
age
258 :
日本@名無史さん :2011/12/29(木) 11:51:23.90
ひむかの国は後の日向だけでなく薩摩、大隅も含み、その中心は大隅。 日向の美々津に神武東征の碑があるが、大隅の桜島近く鹿児島湾奥福山にも 碑があり、また志布志湾へ注ぐ肝付川河口にもあり。
259 :
日本@名無史さん :2011/12/29(木) 11:51:49.28
神武東征とは桜島、霧島などの火山爆発による避難だたっと思われる。 中国大陸から渡来した者たちが大隅に一大国家を築き日向へも移転した。 そして火山の爆発で集団移転したと思われる。この一派と北部九州や出雲の 勢力が機内への武力による東征を行ったことも考えられる。
260 :
日本@名無史さん :2011/12/29(木) 11:52:26.75
http://www3.point.ne.jp/~ama/w71.html この文では天孫降臨の比定地を霧島の高千穂にして薩摩半島の笠沙の御崎(野間岬)で
ニニギのミコトはコノハナサクヤヒメと出会ったとし天孫降臨はフイクションで
朝鮮半島から渡来した人々が九州内に散らばりさまよった挙句の笠沙まで至ったと
している。
笠沙をキーポイントにしているのは正しいが朝鮮半島から日本へ渡来して文化を伝えた、
という考えは戦後の朝鮮半島が国家を統一するために使った政策で、これが今の反日の
源になっている。1100年代に編纂された朝鮮最古の国史「三国正史」では朝鮮半島には
倭人が多く新羅も倭人の影響を受けたと記述され隋書にも同様の事が記述されている。
261 :
日本@名無史さん :2011/12/29(木) 11:52:43.97
このことを戦後、朝鮮は意図的に無視し敗戦と贖罪感から政府、関係者も無視してきた。 また、1200年代に編纂された「三国遺事」では檀君神話が出てくる。日本の天孫降臨は これを真似たのだとされるが反対であり、これこそ日本から朝鮮へ文化が渡った証である。 朝鮮の歴史が正しいなら日本書紀よりも古い国史なり歴史書があるはずである。 つまり、天孫降臨はフイクションだが中国大陸から薩摩半島南端の笠沙に流れ着いて薩摩半島 北部の川内(せんだい)に移住した一派がおり可愛(えの)山稜:ニニギノミコトの墓陵)があります。 一方、大隅半島へ移住した一派は内之浦と肝付川河口の波見に上陸し鹿屋、曽於、都城へ 進んだと思われ、様々な遺跡が残っています。鹿屋市の吾平山稜(神武天皇の両親の墓陵)。 なお、霧島にある高屋山稜(ホホデ三ノミコトの墓陵)は明治初めに内之浦の国見山にあった 高屋山陵を否定して霧島を比定地としました。 長くなり申し訳ありませんが今後、隠されてきた大隅地方が脚光を浴びます。既にすごいのが 多く出ていますが中央だけでなく地元も公にしません。圧力があるのでしょう。
私は詳しくないのですが
南九州にだけ見られる墓がありましたよね
北と南は意外と違う筋なのかもしれませんね
というか
>>261 だと隼人はどういう位置づけになるでしょうか
263 :
日本@名無史さん :2012/01/03(火) 07:28:12.25
隼人というのは、単に南九州に住んでいた人々のことにすぎない。 位置づけなどという妙なことは考えなくていいでしょう。
264 :
日本@名無史さん :2012/01/03(火) 21:15:30.51
265 :
日本@名無史さん :2012/01/15(日) 09:56:00.89
隼人は熊襲征伐後、恭順して大和朝廷に仕えてからの呼び名。 熊襲は旧大隅の国、都城、宮崎中央部までに至る渡来系の人種と思われる。 だから大隅から霧島、西都原、宮崎と神話と同じ古墳、遺跡が出てくるわけです。
266 :
日本@名無史さん :2012/01/15(日) 10:11:29.99
267 :
日本@名無史さん :2012/01/17(火) 13:49:31.37
熊襲征伐っていつの話かな?
268 :
日本@名無史さん :2012/01/19(木) 00:37:08.56
実は卑弥呼なんて最初からいなかったりして。 聖徳太子みたいな架空の人物ってオチじゃね?
269 :
日本@名無史さん :2012/01/26(木) 18:07:19.97
熊襲征伐は720年。同じ年に日本書紀も編纂されており因果関係ありそう。
270 :
日本@名無史さん :2012/01/26(木) 18:37:52.42
じゃあ何だよ、市原隼人は宮崎出身なのかよ? 違うなら、わけわかめの事を言うなや
271 :
日本@名無史さん :2012/01/27(金) 09:55:32.52
>>265 その南九州からたくさん出る蛇状鉄剣が全国から出ているということは深い意味を
もつと考えるべきだろう。
272 :
日本@名無史さん :2012/01/28(土) 14:17:56.03
274 :
日本@名無史さん :2012/02/08(水) 10:35:12.37
竹中直人はミスキャストだったんじゃないかな。
あぁ、よく観光で訪れられるところか…
277 :
日本@名無史さん :2012/02/26(日) 14:49:25.86
278 :
日本@名無史さん :2012/03/15(木) 20:54:01.64
関係ないが 志布志ってかわった地名だなと思った。
280 :
日本@名無史さん :2012/03/17(土) 09:37:43.65
>>269 南九州にクマソがいたなんて話を信じること自体がまちがっているな。
281 :
日本@名無史さん :2012/03/17(土) 13:25:13.90
http://www.iokikai.or.jp/kodai.hayato,kumaso.html 熊襲も隼人も同じ部族。日本書紀の伝承記録から見ても、3〜4世紀のころの中央政権に抵抗した南九州の人々が熊襲と
呼ばれ、中央政権に服属した5世紀代以降に隼人と呼ばれたと見て良いであろう。考古学上の成果から
も同じような見解が出来るようである。
旧日向の国は今の宮崎県、鹿児島県(大隅、薩摩)であり、その中心は大隅。大隅隼人の支配は西都にまで及んでおり、
西都原古墳が形成された。串間から発見された国宝の玉壁、鹿屋市の吾平山陵付近から発見されハート形の象嵌が確認
された中尾遺跡の刀剣、大崎町の神領古墳から発見された武人埴輪(女性を思わせるような精巧な埴輪)、同じ大崎町の
横瀬古墳の二重環濠が確認され環濠まで含めると九州最大になること、鹿屋市の立小野古墳の横穴式古墳から出土した
大量の鉄器、鹿屋市王子遺跡の棟持ち造りを含む大集落跡、鉄器、航海跡などから大隅が中心であったと思われる。
今後も新たな遺跡等が発見されると面白いが東串良町唐仁古墳の大塚古墳、九州でも最大級の前方後円墳内の石室は
国指定により調査できないが是非調査してもらいたい。
>>186 玉璧は高鍋藩関係者の誰かが所持して持っていったのだろう。
行方知らずになっていたが江戸文政になって発見された。
串間市というところは児湯郡を本領とする高鍋藩の飛地である。
283 :
日本@名無史さん :2012/03/18(日) 13:51:55.48
串間は高鍋藩の飛び地であり高鍋は福岡の秋月氏が治めたが都城の隣、 鹿児島県曽於市財部町と元は同じ地名とも言われ関連性があるようです。 また、高鍋と西都原はすぐ近く。元々大隅隼人(熊襲)の一族かもしれない。
熊襲が風土記では球磨曾於になってるから 熊と襲は別物で、襲→隼人じゃないの? 天孫降臨の地「日向の襲」てのも旧北諸県郡〜高千穂峯〜旧曽於郡だろし
郡からの距離から言って、邪馬台国が西都原である可能性は高い。しかし、古墳群は彼女の時代より後に作られた問い説がある。又、居住区と墳墓地が一緒ということはあるのだろうか?
286 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 08:43:36.61
巻向の古墳時代が早まり九州は逆に遅く推定されてる気もしますが。
287 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 10:31:58.51
狗邪国王権は同時代の中国王権に使節を送らなかっただけで、実際は南九州〜中九州の広い範囲を支配していたと考えられますね 当時の中国が言う倭国の南部の雄であったことはまちがいないと思います そして、邪馬台連邦王権と奈良大和王権をどうしても分離して考えられない頭の固い人が、日本の古代史をわけわからなくしてますね 大和王権をつくった人らの先祖は南九州のどこかにムラ社会を作っていた人たち 倭国大乱の時に(おそらく狗邪国の脅威に晒されて)東へ東へと移動していったと考えられます おそらく瀬戸内海あたりの海を船団で通過 紀州の浜に辿りついて苦労を重ねて奈良・三輪山の麓へ
288 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 10:34:43.43
>>286 あんたねえ
1世紀以前の北九州の遺跡から出るもんと、畿内の遺跡から出るもんの豪華さを1度較べてみんさい
289 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 10:53:18.04
>>285 邪馬台国はもっと南だよ。西都原はその邪馬台国の墓場にすぎない。
居住区と墳墓地は、庶民のものは近いだろうが、支配者のものは遠くに
造るだろう。墓参りも一つの示威行進だからね。
290 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 12:39:01.92
>>288 機内は九州から火山の爆発、降灰により移民(神武東征)した者共が集約し大和に
なった地域だから、それ以降の古墳や出土品が豪華なのは当然。
今、開発の遅れていた南九州から高速道路の工事等で驚くものが続々出てきている。
これらを再度検証しないと真の邪馬台国論争、天皇家のルーツは解明できない。
>>290 いや、畿内の3世紀以前はショボいな
まあ九州邪馬台連邦国と畿内大和王権の前身が同時期に別のところで別のものとして存在してたのはまちがいないよ
292 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 15:10:02.65
>>289 九州説の多数派が北部九州説で少数一部に西都原が邪馬台国と言う人はいるけど西都原より南に邪馬台国があったと言う人は聞いたことがない…
最近何か出土したりしたの?
>>290 まあ、どんどん掘れ。宮内庁の糞が南九州迄出しゃばり過ぎ。
294 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 17:04:33.96
>>292 >西都原より南に邪馬台国があったと言う人は聞いたことがない…
江戸時代から明治前半は南九州説が通説だったんだよ。その後、万二千里で邪馬台国へ
到達できるものと思い込んだ連中が北九州説を言い出したんだ。
南九州からは玉璧が出ている、しかも、花弁状住居は屋室有りという記述に合致する。
倭地温暖も何ら問題ない。つい最近まで南九州の古墳は5世紀以後とされていたけど、
今はそれがくずれ、初期古墳がごろごろあることも分かってきたしね。
最近、何人か南九州説を主張しているよ。
宮崎駅周辺ってよく発掘調査されてないんじゃなかったっけ? なんかありそうな気がするんだけど
発掘なんて出来なさそうな場所だね
>>289 とはいえ敵対勢力に占領される虞のあるところに作ったりはしないはず。
荒らされ盗掘されの被害に遭うことは避けたいと思うだろうから。
有名な仁徳天皇は河内の上町台地に都し陵墓もごく近い上町台地の端部にある。
遠くに墳墓を築造するのは根拠や状況証拠に弱い気がします。
>>294 狗邪国王の墳墓違うの?
邪馬台国に敵対してた狗邪国が天皇家のルーツかも
個人的にはそんな気がしてる
299 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 22:50:54.53
狗奴国は倭人伝に出てくるだけで、戸数も不明、官も一人しか記載されていない。 実際は小さな国だったということじゃないかな。
300 :
日本@名無史さん :2012/03/23(金) 23:08:52.00
生目古墳群の近隣柏田というところにに笠置山墳丘墓という全長145.5mの前方後円墳があるそうですが この前方部は工事で相当破壊されたそうです 研究家の方が出土した鉄剣等をかろうじて確保されたそうですが2世紀後半から3世紀中ごろのものと目されているそうです
笠置山墳丘墓は卑弥呼の墓。 魏志倭人伝によると奴婢百余人が殉葬されたが、推定100基ほどの土壙墓がセットである。
302 :
日本@名無史さん :2012/03/24(土) 06:40:38.29
>>297 >敵対勢力に占領される虞のあるところに作ったりはしないはず。
一般的にはそう言えるかも知れんが、その範囲をどう考えるかが問題だな。
勢力が強大ならば、都から遠い所に墓を造ることは何ら問題のないことだ。
>有名な仁徳天皇は河内の上町台地に都し陵墓もごく近い上町台地の端部にある。
仁徳の陵墓なんて確定されていないよ。仁徳の実在だって確定できていない。
303 :
日本@名無史さん :2012/03/26(月) 16:47:54.45
誰か魏王が卑弥呼に与えた金印偽造して掘出してみてくれよ 東北旧石器よりは罪が軽いと思う
304 :
日本@名無史さん :2012/03/26(月) 16:58:57.20
>>288 郡からの距離1万2千里の郡は楽浪郡と考えられる。帯方郡とするから南の方に行ってしまう。
306 :
日本@名無史さん :2012/03/30(金) 09:59:25.06
どちらと考えても末盧国は一万里だぞ。
邪馬台国って生目じゃないの? あそこはかなり古い3世紀代から作られた古墳群らしいけど。 垂仁天皇は活目尊(いくめのみこと)、伊久米天皇、生目天皇…とも言われるけど もろに生目古墳群の生目じゃない? 邪馬台国の長官名が伊支馬(いきま)なんだって。 生目なんてかなり珍妙な地名だよね。
畿内の大和が第一勢力になったものの古い時代の伝記には乏しかったとか、渡来人?の自覚のあった?畿内勢力が自己の伝説としてとってつけたor本当に東征があった?(疑問)そんな臭いがするんだけど。 後世、なぜ生目なんていう珍妙な地名なのか誰も由来を知らなくなって平安末鎌倉初期になって景清が目玉をうんぬんの話をとってつけた。 生目古墳群より前は対岸の瓜生野が中心だったらしいんだけど、景清うんぬんの話は当時残っていた瓜生野から生目への中心地移動の伝承についても説明を与えた…とか?
下北方の景清廟から自分の目をくり抜いて投げて生目神社のとこに落ちた っていう話は中心地移動の話とくっつけられたんじゃないかなあと。 以前は対岸に居してたって話が古墳が作られてた7世紀くらいまではきちんと言い伝えとして残ってても、 13世紀ごろには消えつつあって意味不明的になって説明を欲した…そこで景清登場なんていう。 景清の話は全国各地にあるんだけどその話を元々あった伝承とくっつけたんじゃないでしょうか? 何の根拠も無い想像なんですけど。
生目と時期を重ねて川南にも勢力があった。
南北二つの勢力が争っていたが(3世紀後半〜5世紀)、統一され中間点の西都原に中心を置いた(5世紀)。
>>164 もしくは争っている最中に畿内勢力の侵攻を受け西都原に畿内政府の支所が置かれた。
生目古墳などでは前方後円墳と地下式横穴墓が並存している。
>>182 が、時期が違う。地下式横穴墓は5世紀から。
南北統一(5世紀)以後の熊襲侵攻での戦死者を葬ったのが地下式横穴墓。
311 :
日本@名無史さん :2012/04/01(日) 12:56:11.12
西都の中心はは妻だが都萬国の可能性はないでしょうか?
312 :
日本@名無史さん :2012/04/01(日) 17:21:46.31
>西都の中心はは妻だが都萬国の可能性はないでしょうか? 残念ながらないね。まず、伊都国をどこに比定するかだが、末盧国から東南へ陸行すること五百里 となれば、佐賀市付近以外にはありえない。 その伊都国から南へ水行二十日で着くところが投馬国だ。ということは、投馬国は九州の西側でな ければならない。
陸の孤島西都とかがポテンシャルがあるとすれば水要り時期に多雨なことと日照時間かね 当時の貧弱な灌漑設備というか灌漑設備が無くても稲は育つには育ってたろう 稲の刈り入れ後も放置しとけば苗代無しで勝手に二番目三番目の稲が育って穂が出てくる 二番目の米は量は少ないけど美味だよしって米と言うんですが刈り入れる人はほとんどいなくなりましたがね 西都市の中心は西都の前は妻、その前は穂北と言っておりましたよ
西都はたしかに古墳時代の最初期から作られ始めているんだが初めは支族か臣か諸侯的勢力だったか 前方後円墳の前方部がばち形になってるものが最古形式の前方後円墳で250〜300年頃に作られている ばち(撥)というのは三味線を弾くのに使う末広がりの銀杏の葉様の形をしたヘラみたいなもの たしかにそのばち形前方後円墳が西都原にある(西都原81号墳、52m) だが西都原81号墳とほぼ同時期で同規模のものが檍古墳群にもある(檍1号墳、52m) 同じく同時期と思われる生目古墳群のばち形前方後円墳は西都原・檍の2.5倍以上大きい(生目1号墳、136m) 川南11号墳(106m)は西都原90号墳(96m)と同じ柄鏡形なので若干時代が後だが差が縮まっている
どうでもいいけど檍ってかな⇔漢字どっちも変換できんでしょ?w 檍地区とか檍小とか檍中の人はどこかに取っておいていちいちコピペしてんのかな…
単漢字検索で出てくるよ
奈良の纒向の勝山古墳から出土した木材は年輪年代測定法で新しく見積もっても210年ごろのものだった。 勝山古墳は帆立貝形と言われてる。 男狭穂塚は帆立貝形だとか帆立貝形じゃないとか女狭穂塚に侵食されてるとか 築造が5世紀とか言われているけど本当に5世紀なのかっていう疑問。 纒向と同じ時期だとすれば全く観が違ってくるのですけど… 女狭穂塚は普通の前方後円墳でいかにも5世紀っぽいのであんまり食指を動かされないんだけどね。 5世紀ころにわざと男狭穂塚を破壊するような形で女狭穂塚を作ったような気がする。 男狭穂塚と女狭穂塚が同じ時期に作られたとしたらかなり意味のないことをしているってこと。 宮内庁が男狭穂塚だけでも内部の発掘して年代測定させてくれれば良いのだけど。
>>170 男狭穗塚だけでも許可してくれればいいのだけどね。
319 :
日本@名無史さん :2012/04/11(水) 12:15:12.92
古墳の年代なんぞかなりいい加減。日向の古墳は、ほんの20年くらい前まで 五世紀以降だと言われていた。それが三世紀までさかのぼると言われるまでに なったんだ。もう少ししたら、日向は二世紀と言われるようになるよ。 とにかく、日向には畿内の初期古墳といわれる型が全部そろっている。 柄鏡式古墳なんぞ、畿内よりりずっと多いよ。
>>1 西都原の呼び名は斎殿(いつきどの→つきどの)原→西都農原→西殿原→西都原ですぜ
西都という地名は転化を重ねた地名
昔ながらのあのあたりの地名なら調殿(つきどの)か妻か穂北でしょうJK
>>319 13号墳がいちばん古いとか言われてたこともあったものな
今はそれより古いのがいくつもできてしまった
西都原の100号墳もバチ形でしょ?
発掘調査のおかげで葺き石も形もよくわかるきれいな古墳
妻は昔は妻万とも書いてサイマンとも読んだが妻と書いてツマとも読んだ 穂北の由来は古代のある時、穂が全て北を向いていた他いくつも伝承や説があって判然としないこれからも永久に ローカル話で申し訳ないが
佐土原と西都原の関係は? 国生みで佐渡とされてるのは佐土(原)=西都(原)とすると辻褄が合うんだが
324 :
日本@名無史さん :2012/04/16(月) 11:09:50.04
>国生みで佐渡とされてる佐土(原)=西都(原)とすると辻褄が合うんだが 佐土と西都は別だろう。佐渡は倭人伝にいう姐奴國かも知れんね。
諸県とか児湯とか臼杵とか 昔の地名って関係ありそうだよね
326 :
日本@名無史さん :2012/04/16(月) 22:38:19.00
まあ、宮崎の地名で最も謎なのはトロントロンで決まりだがな。
327 :
日本@名無史さん :2012/04/17(火) 07:02:34.50
倭の地を九州だとすれば、甑島や種子島、屋久島など九州周辺の島は、旁国 と考えなければならないな。
其南有狗奴國・・・その南に狗奴国あり 狗奴国は邪馬台国とは戦闘状態にある。 其の がどこを指すのか。 邪馬台国か奴国しかないのだがどう考える?てことだな。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴国〜(略)〜次有奴國 邪馬台国から近い順にこういう国があったそうな。 このスレタイを絶賛支持wして比定してみた。つか、こじつけwてみた。 3世紀に最大の古墳は生目古墳だから生目あたりに邪馬台国があると仮定。 斯馬国 (しまetc) → 島国 → 那珂郡田島郷 現・佐土原町上・下「田島」 巳百支国 (いおき、いはきetc) → 己百支国(きはき国)→現・国富町「木脇」 伊邪国 (いやetc) → 児湯郡三宅郷 現・西都市「三宅」 都支国 (とき、としetc) → 児湯郡都野郷 現・児湯郡都農町 彌奴国 (みな、みぬetc) → 美彌 現・日向市美々津 当時まで遡ってそんな地名があったのかは分からない。 ただ、木脇以外は平安には見える地名。 木脇は古くは絹分と書いたらしい。
この地方で3世紀最大は生目古墳ではなく男狭穂塚である可能性はないの? 女狭穂塚は5世紀だろうけど。 今、奈良ではホケノ山古墳が最古かもしれないと論じられているけどあれは形的には帆立貝形でしょ。 男狭穂塚は帆立貝形古墳とされてるよ。 男狭穂塚は発掘調査できない。
西都原284号墳が最古
マキムクのは弥生墳丘墓とも古墳ともつかないようなシロモノで… 男狭穂塚が地域色の強い特殊な形していればあるいは…と思ったりするけど あれを弥生墳丘墓から古墳への過渡期のものと見るのは困難かなあと たしかに後方部はわけわからんことになってるんだが いったい何が起こったんだか
西都原以外の帆立貝形古墳には新田原30号墳、同67号墳、、持田62号墳などがある。 全て5世紀のものか不明だがおそらく5世紀以後と言われている 発掘して年代測定できていないものは形がこれなら推定で一律5世紀5世紀以後としているだけだが 墳丘長 後円部径 後円部高さ 持田62号 51(0.290) 39(0.295) 6.2(0.325) 御塚 78(0.443) 67(0.508) 10.3(0.539) 乙女山 130(0.739) 104(0.788) 14.7(0.770) 男狭穂塚 176(1) 132(1) 19.1(1) 相似とまではいえないがおよそ規格内と言える範囲なので特異性をもって遡ろうとするには不利 もし前方部や周溝が後世たとえば女狭穂塚築造時に破壊されあるいは帆立貝型に無理矢理改変されでもしたとすれば
男狭穂塚の後方部のさらに後方の等高線を見ると色々と想像を巡らせてしまうよ
うっ崩したんやろ なんやこの古墳は・・目障りやわ!ってな 均して埋めて削って少し残ってるがまあこのくらいやればいいやろってな 女狭穂塚を作ったころに流行ってた帆立貝の被葬者の属性は臣 そうしておいて隣に女狭穂塚をうっ建てたんやろ
宮崎? 邪馬台国? くだらない!!
宮崎で金印が出てきたら確定してくれるよ
338 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 08:02:38.47
宮崎は行程、遺跡、伝説すべてにおいて合致しているよ。
>>338 誤魔化しこじつけ無しでは何一つ合致しない。
東北説、朝鮮説、宮崎説 みんな同じレベルですね。
>>337 >宮崎で金印が出てきたら確定してくれるよ
そんなのを
無い物ねだり、と言います。
古代人でも星を観察しての航海技術持ってるから方角は間違わない 距離については世界中間違いまくりなので、それを考えると確かに宮崎になる
昼間でも太陽を見ればどの方位に向かってるかはだいたいはわかるね
>>343 狗邪韓国〜末盧国 三千里―220q
末盧国(唐津)〜邪馬台国 二千里
唐津〜宮崎 240q
二千里で宮崎まで行けない。
ハイ、宮崎アウト。
346 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 20:16:23.23
347 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 20:27:40.05
唐津市から宮崎市まで、昔からあったと思われる 妥当な主要道で320キロでした。 240キロは直線距離かな。
松下孝幸の『南九州における古墳時代人骨の人類学的研究』(1990年)によると、南九州における男性人骨の形質は、 内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている。 内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似し、 一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている。 つまり、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。(wikipedia) 隼人の中でも日向隼人は北部九州弥生人を受入れたのではなかろうか 那珂郡の郡名も福岡の那珂郡と一致するしね 唐津〜佐賀平野〜八代〜宮崎はルートが違うと思う
児湯郡八郷 三納、穂北、大垣、三宅、覩唹、韓家(加良夜)、平群、都野 覩唹は単に「と」と読んで無理矢理二字にするために付けた唹は書くが読まない、「トの郷」と転じ現在は都於郡 平群(へぐり)は現在の平郡 だって 韓家なんて地名があったんやね
350 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 21:05:38.37
>>345 万二千里で邪馬台国に到達するなんて考えてるのが間違いなんだよ。
351 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 21:13:27.40
>>347 千里=540km、432km、76.6km・・・
352 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 21:27:08.99
短里だと距離が短すぎ。 公里だと距離が長すぎ、 どっちにしても合わないと。
353 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 21:28:53.39
万二千里は女王国の境界までだ。邪馬台国ではない。
佐賀から八代まで手漕ぎ船でどれくらいかかるんだ 八代つか芦北の佐敷あたりが最も山間部をショートカットできるが
355 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 22:51:33.18
佐賀なんかはむつごろうさんの楽園だからむりぽ
356 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 22:56:00.91
>>354 >佐賀から八代まで手漕ぎ船でどれくらいかかるんだ
有明海は干満の差が激しく、進めるのは日に数時間とかいう。
ちょうど十日ぐらいのものだろう。
357 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 22:59:28.38
引き潮にうまくのれるとらくちんで流されてゆくけど まぬけなことすると干潟に取り残されたりするからなあ
なら身動きとれなくなって潮が満ちてくるまでまる一日過ごしたりイレギュラーも入れなきゃならないな
>>347 >妥当な主要道で320キロでした。
宮崎説頓死だね。
>>350 >万二千里で邪馬台国に到達するなんて考えてるのが間違いなんだよ。
間違っているのはあなたの頭。
>>353 >万二千里は女王国の境界までだ。邪馬台国ではない。
アホとしか言いようがない。
当時の日本各地には熊もいたし狼もいた 国家事業で道が整備されたのはずっと後のことで当時の道は獣道みたいなものだろ 下手に民家や首長宅に泊めてもらえば荷物目当てに襲われるかもしれん 野宿となれば薪を探したり火を起こしたりしなきゃならん 川があったら渡れそうなところを探さなきゃならん 道が崩れてたら道じゃないとこを迂回して行くしかない 一筋縄じゃいかないだろ
361 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 23:22:38.60
宮崎説憤死
362 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 23:34:55.19
まああれだわ むだにでかいモニュメント残すとゆうのは 親方のに気に入られたくてやらかしていると考えるのがふつうかな むだにでかいモニュメント残っているのこそ臣従の印とみてもよいかな
「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」 伊都國から洛陽、帯方郡、諸韓国に行くのも船、郡使が来るのも船、文書、賜物を女王のもとに伝送するのも船。
そもそも
>>343 の反論に
>>345 がなってないのに気づかないのだろうか
古代人の生態からして世界中に星座から方角を計る航海によって
人類が分布してる事から方角は正しく把握してたのは判明してる
(逆に距離に関してはエラストテネスの地球の大きさにしろ誤差から間違いまくり)
だから距離が正しくて方角が間違ってる説で出る畿内より
方角が正しくて距離が間違ってる説の宮崎の方が信憑性がある
…って話なのに「距離ガー距離ガー」でしか反論できないんじゃ話にならない
>>364 >方角が正しくて距離が間違ってる説の宮崎の方が信憑性がある
距離と方角の都合の良い方だけを信憑性があるとして
恣意的解釈ばかり指定ね
貴方の頭は信憑性がない。
366 :
日本@名無史さん :2012/04/21(土) 23:53:39.69
末盧國発のも発は東南陸行だけど間も無く乗船のはこびとなって伊都國のポートに乗り入れだす 末盧國は唐津そのものではないのね 8世紀でも登望驛つうところが到着時ご利用のがお約束だったみたいだしね つうことは唐津は狗奴國のコアなところだわ
宮崎なんかよりも四国の方がよっぽどましずら。
>>365 古代人が方角を正しく理解していて距離を間違えてるって話は
都合ではなく事実だからちゃんと例をだして話してるんだけど読めないのかな?
>>368 屁理屈で貴方の妄想を押しつけても
まちもな人は誰も納得しない。
第一
陸路は東になるのに
南至邪馬台國女王之所都水行十日陸行一月
はなかろう。
それくらいのことも判らないのかなぁ。
距離の特に陸路は感覚に頼ってたんだろうからかなりばらつきが出そうだけど 方位の把握はかなりしっかりしてたと思うけどな世界的に見ても 海を渡って来ようってんなら方位が間違ったら命にかかわるだろうし 距離は間違っても方位を違えなければとにかく着ける
人類は方角に関しては正しく理解してたが距離の認識は中世までいい加減 最たる実例がコロンブス だから彼は方角の延長上にあるインドに到達したと勘違いしてアメリカについたわけだし 距離だけが正しいとする畿内説はまずない 九州説を崩すには方角すら間違えてた例を出さないといけない そうすると全国や朝鮮まで候補になるわけだが
宮崎には野生馬がいるから 牛馬無しに矛盾する。 邪馬台国どころか倭地ですらない。 宮崎は問題外。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 と矛盾する宮崎は無いよ。
>>372 都井岬の馬は江戸時代に持ってきたものだし南端の南端の岬だよ
世有王皆統属女王国とある。 末盧国からわずか五百里の場所にある伊都国の王が宮崎の国なんかに統属するはずもない。 伊都国の王が統属していた邪馬台国は宮崎なんかには無い、
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。 倭地温暖で冬夏常に野菜有り、皆裸足。 父母兄弟別れて寝る。
>>369 そう解釈したって方角だけ考えれば九州以外候補がないんだが
>>375 それこそ妄想じゃないのか
天孫降臨の土地で天皇まで元はいた伝説がある土地だし
>>377 >方角だけ考えれば
方角だけ考えて済む問題ではない。
>>378 >天孫降臨の土地で天皇まで元はいた伝説がある土地だし
邪馬台国と関係の無い話を根拠にしても無意味。
>>379 方角だけ考えるのではなく、方角は間違ってない可能性が高いって話だろ
それなら距離だけ考えて済ましてる畿内説の方がよっぽどおかしいって話
>>380 関係ないとするソースは?そっちのが妄想だろ
卑弥呼が皇族・日本神話に準えられる存在な以上
それと関連する土地と関係ないとか根拠ないとするのは100%不可能
はずもないとか…今の既存概念を過去全部に当て嵌めるのはどうなん? 稲作が始まったのは西からなんだろうし適地ってのもあるし 少なくとも5世紀には圧倒的勢力の間違いなく中心地の畿内なんだが
>>381 狗邪韓国まですら
?海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓國
と書いている。
南至邪馬台國……水行十日陸行一月
としか書いてないから
東へ1月も陸行する宮崎の可能性はない。
>>384 熊本から山越えするのを考えたら別に不思議じゃないけど
それなら南の記述を考えたら畿内の方がウルトラありえなくなる
>>382 >関係ないとするソースは?
根拠として使用するには関係があることを立証する責任がある。
立証できなければ根拠として使用できないよ。
>卑弥呼が皇族・日本神話に準えられる存在な以上
そんな事実は無い。
>>385 畿内ではない。
だから宮崎だ、では話にもならない。
>>386 >根拠として使用するには関係があることを立証する責任がある。
そっくりそのまま返すよ
お前の論拠で関係ないとする言説を出してくれよ
現時点で取られてる言説の大半がなんらかの形で関係するとするものが大半なんだから
>>387 もちろんそうだ
だが、畿内よりは可能性が高いのは事実だろ
気候や風土に関してはまず間違いなく一番近いのも事実だし
>>388 >お前の論拠で関係ないとする言説を出してくれよ
卑弥呼の記録が一切無いのは無関係だから。
>現時点で取られてる言説の大半がなんらかの形で関係するとするものが大半なんだから
都合の良いところだけ多数決ですか?
いっそのこと
多数決にしたがつて畿内説に転向したらどうですか?
>>390 相変わらず頭が悪いな
言説の支持者数と言説自体の数は関係ないよ
俺が述べたのは後者のことだから畿内説を支持することとは無関係だし
多数決に従わないとするならお前も宮崎説を支持したらどうだ
>>389 >気候や風土に関してはまず間違いなく一番近いのも事実だし
一番近い場所が邪馬台国とは限らない。
いっそのこと
一番近い沖縄説を主張したらどうですか?
宮崎説よりはましかも、
沖縄では最後の陸行がないからな
>>390 それ多数決関係ない
根拠と結論の区別が付いてない
>>392 沖縄だと方角どころか国同士の位置関係が合わなくなるだろ
距離だけ合わないで国の位置関係まで合うのが宮崎説だって話なのに
なんでその他までいっそ無視しろなんてガキみたいなこと言い出すんだ?
アホなのか
>>391 >言説の支持者数と言説自体の数は関係ないよ
詭弁ですね。
それに
言説自体の数か゜多い方が事実とは限らない。
>多数決に従わないとするならお前も宮崎説を支持したらどうだ
私はそんなアホではありませんのでお断りいたします、
NHKの多数決では九州だったな
>>395 >なんでその他までいっそ無視しろなんてガキみたいなこと言い出すんだ?
貴方が
気候や風土に関してはまず間違いなく一番近いのも事実だし
と
根拠にならないことを根拠にするから
それが
根拠にならないことを提示したのです。
それくらいも判りませんか?
>>396 お前がアホでないソースよろしく
少なくとも今までの話をお前の妄想でなくすべて例やソースを出して解説してくれ
お前の場合一切それがなく、相手をコキおろすだけだからたたかれる
否定するにしろ直接のソースでなくても、他にあるなんらかの実例を出せば理解はしてもらえるはずだが
それがまったくなく自分の妄想で否定してるだけじゃん
>>399 >自分の妄想で否定してるだけじゃん
貴方が妄想だけで主張しているのを
間違いだと言っているだけです。
>>395 距離だけ合わないで国の位置関係まで合うのが宮崎説だって話なのに
妄想でしょ。
>>398 屁理屈と詭弁でしか返せないのか?
実際の魏志倭人伝に書いてることだけどそれすら否定しだすのか?>気候や風土
気候や風土に関して沖縄がなんで出てくるのかわからんって話
沖縄が気候や風土に合ったとして、その他で沖縄が宮崎以上に条件としてあってる要素って何があるんだ?
それがなければ宮崎>沖縄になるのが自然なのに、そこで根拠にならないって
何を根拠に言い出してるんだ?
もうヤケクソで頭おかしくなってるだろ
最後に陸行一月して邪馬台国なんだから畿内は無いんではないの
>>400 >>401 妄想は事実と論理によって打ち砕けるが
それを訴える側が事実どころか論理も出さないんだから
お前たちはただ自分が気に入らんから妄想だとわめいてる馬鹿に過ぎない
最近の畿内説は死なばもろとも、だからな
何説か分からんけどどうにもめんどくさい人来たね
>>402 >その他で沖縄が宮崎以上に条件としてあってる要素って何があるんだ?
>宮崎>沖縄になるのが自然なのに、
沖縄と同じくらい宮崎が無いと言う話です、
>もうヤケクソで頭おかしくなってるだろ
貴方は最初から頭おかしいですよ。
>>407 >沖縄と同じくらい宮崎が無いと言う話です、
だからその論拠は?
沖縄と「同じくらい」というからには出土品から古墳状況まで
沖縄と同じレベルで魏志倭人伝並びに、周辺国と文明状況が違うというソースがなければならない
少なくとも誰の目から見ても古墳の状況にしろ沖縄よりは宮崎の方が可能性あるぞ
もう一度聞くが沖縄と同じくらい可能性がないとする論拠を出せ
宮崎平野は古墳だらけだし野菜とれるのも合ってるけど 沖縄は野菜は取れても古墳が合わないだろ あと河が流れてるってのも
末廬国とか伊都国とか奴国とか不弥国とか今の郡かそれ以下の範囲だし九州を出て大和まで行くとは思えないな 北部九州から陸路一月で大和も疑問だし延々と海があるのに陸行するのも不合理 水行できるなら船に積んで水行するよ 陸行はデメリットが大きすぎる
>>408 >だからその論拠は?
>もう一度聞くが沖縄と同じくらい可能性がないとする論拠を出せ
まだ判りませんか?
貴方の妄想と恣意的解釈以外に何も根拠が無いからですよ。
>なくとも誰の目から見ても古墳の状況にしろ沖縄よりは宮崎の方が可能性あるぞ
だから古墳の状況を根拠にするのには
古墳の状況と邪馬台国が関係があることを立証する責任があるのですよ。
>>410 >水行できるなら船に積んで水行するよ
陸行はデメリットが大きすぎる
そうだね。宮崎なら1月も陸行しないだろう。
うーん、自分は特に何か支持してるわけでもないんだけど
例えばもし試しに気候風土の記述だけで考えると
どこらへんが適当であると
>>407 は思うのかな?
答えたくなければ答えなくてもいいけど
子供じゃないんだから自分が論を立てないことには前に進まないよ?
卑弥呼を古墳に葬ったにしろ大規模な国と印されてる以上 高官もたくさんいたんだから古墳たくさん出る国が候補になる だから沖縄は論外で宮崎は候補になってるんだろう 宮崎説を否定するには同じくらい古墳が出て土地や風土が合ってる場所をださなきゃいかんことくらいわからんか? だから沖縄じゃ話にならない
>>412 九州の中心が山岳地帯なんだからそこを越えるルートなら当時一月かかってもおかしくない
迂回ルートならなおさら
危険度で言えば 外洋水行 > 山地陸行 ≒ 内海水行 かな
>>414 >宮崎説を否定するには同じくらい古墳が出て土地や風土が合ってる場所をださなきゃいかんことくらいわからんか?
中北部は人口密集地帯で古墳は掃いて捨てるほどある。
水田にするために一度に大古墳を含む数十もの古墳を壊した所もあるほどだ。
風土にしても中国韓国からすれば温暖で問題ない。
貴方の言うことは何一つ根拠になってないのですよ。
あまりにも馬鹿馬鹿しいから
本日はこれにて終わり。
温暖で野菜が冬でも食えるって部分は無視か そこを考えれば候補になんのは高知や宮崎が妥当 高知から宮崎平野並の古墳群が出れば別だが
父母兄弟別れて寝るってのがいいね プライベートが大事にされてたのか
>>417 宮崎平野も古墳はいて捨てるほどあるが
宮崎は超早期米とか出せる県だぞ?
大規模な国を支えるにはそれなりの食料事情があるのでそれらに合わなけるば話にならない
記述にも冬でも野菜食えるって書いてるんだからそれに合う場所は限られてくる
マジで張り合えるとすれば四国説の高知くらい
気温・降水量・日照時間 1981〜2010平均 1月 5月 6月 7月 8月 佐賀市 5.4℃ 19.5℃ 23.3℃ 26.8℃ 27.8℃ 57mm 198mm 339mm 339mm 197mm 124時間 191時間 140時間 170時間 207時間 宮崎市 7.5℃ 19.9℃ 23.1℃ 27.3℃ 27.2℃ 64mm 239mm 429mm 309mm 290mm 183時間 173時間 134時間 206時間 209時間 奈良市 3.9℃ 18.0℃ 21.9℃ 25.8℃ 26.9℃ 50mm 144mm 189mm 165mm 112mm 117時間 185時間 144時間 163時間 205時間 水稲で最も水が要るのは田植え間もないころで後の方は干したり入れたりで割と要らない 日照は足りなければ収量が激減するくらい生育にすごく影響するが適地じゃないかわが宮崎はw 大和は水路や池なんかの灌漑設備が出来なきゃ難しいんじゃないかね 出来てしまえば広大な平野を有する畿内さらには濃尾、関東は急速に適地化するだろうがなー 出来るようになったらポテンシャルゼロか…わが宮崎は…
高知の名が出るのになぜ宮崎説の人は四国を邪馬壹國の範囲に入れん?
>>421 マジレスすると宮崎は雨が多い、水分が多いと糖度が落ちるので
昭和のころもミカンの最大産地だったが、日本人の舌が肥えてから
ミカンも大量破棄する問題が出たりした
だから味を重視するなら雨の多い宮崎は向かない
でも古代は味より量の方が大事だから最強だったので邪馬台国みたいな
巨大国の候補としては十分可能性があるという話
高知から徳島はありえるかもしれない
>>422 高知は長畝古墳群だけだからでしょ
それに宮崎は西都原古墳群だけじゃなく生目古墳群やら
潰された平野部の古墳群までケタ違いだから
高知説が有力になるのは同じくらい古墳群が出ないときついだろうね
四国は、東渡海千余里に合うから倭種の国。 >水田にするために一度に大古墳を含む数十もの古墳を壊した所もあるほどだ。 全国どこも同じ。南九州もかなりの数の古墳を壊して今の状態。 >風土にしても中国韓国からすれば温暖で問題ない。 風土はタン耳、朱崖を例に出していることから南九州の方が妥当。
いや高知説じゃなくて範囲の話だよ 4世紀には大和を中心とした国作りが始まるのに、3世紀に宮崎限定でくすぶっとったら 間に合わんぞ 3世紀中頃には紀伊あたりまでひろがっとらんと
そして7世紀頃には東アジア統一か
>>427 宮崎が中心であって限定ではないでしょ
少なくとも宮崎が中心であったかは置いても、
北九州とか北部からの出土品からして九州の北部は邪馬台国連合の一部ではあると思う
あとはそこに神武東征の説とか絡んでくるんだろうけどな
女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。 女王国から東に千余里海を渡ると、また国がある。皆倭種である。 スレタイが邪馬台国ならこれは四国ということになる。
そして記述者の魏の人間は渡っていない。 つまりおそらく邪馬台国の人間から聞いた話で四国の存在と人を認識していた。 侏儒國、裸國、黒歯國なんかは古来中国で想像されていた伝説上の国なので偽だろうけれど。
海の向こうにも倭人(言葉が通じる人々?)が住んでる所があるんですよ〜って感じでな。 スレタイが邪馬台国の地なら海は東しかない。 正確には北東だけど知らないし海は東しかないので東とするだろうな。 空想はこのあたりで寝る。
宮崎から東へは海流が強いので東に行こうとしても流されて 四国に着く可能性は十分ある
434 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 05:12:55.07
>東へ1月も陸行する宮崎の可能性はない。 宮崎といっても卑弥呼がいたのは都城盆地だろう。それならば、八代からは東南だが、 伊都国から全体をみれば南で何ら問題はない。宮崎平野や西都原だと乍東が入るべき かなと思う。 都城盆地としても、宮崎平野は直轄地になるだろうな。とにかく戸数七万だいぶ広か ったと考えられる。
435 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 05:33:30.48
>4世紀には大和を中心とした国作りが始まるのに、3世紀に宮崎限定でくすぶっとったら >間に合わんぞ 誰も宮崎限定なんて言ってないだろ。邪馬台国が宮崎にあったというだけだ。その邪馬台国を 中心とした勢力が北九州も統属させていた。つまり九州全体を支配下に収めていたってことだ よ。だから、次の段階はその九州全体で本州へと拡大していくわけだ。大和はその九州勢力が 本州を付庸国としていったときのいわば基地となったところだろう。
436 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 06:02:22.70
出発点がどこかって話にもなると思う。 当時の国境感覚では、朝鮮半島と日本が別の国と認識されていない可能性は高い。 船に疎い魏の資料なのだからなおさら。 そうすると、途中の島々は対馬や五島列島の可能性があり、最後の陸行も説明可能。 宮崎には南郷村というところがある。 百済王族が逃げて来たと隠れ里という伝説のある村で、実際に銅鏡などが残る。 ここに行くには、二つ道があり、一つは太平洋側から耳川を昇っていく方法。 もう一つは筑紫平野から阿蘇を越えて高千穂に出、そこから尾根伝いに南下し、椎葉にでる。 そこから耳川を下る。途中で左に曲がると、そこが南郷村だ。 ここから、南郷を突っ切ってさらに南に行くと一宮のある都農の奥にでる。 平野と呼べるものが始まる場所で、いかにも一宮というものの存在が意味深だ。 ここは現在でも間道があり、昔は交通路の一つだった。 そこからまっすぐ尾鈴山の裾野を真南に南下すると、都於郡城跡のある木城町に着く。 木城と西都は比較的近く、歩いて一日もかからない。 これは直感として、昔ならひと月の道程であると思う。
437 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 06:07:23.28
さて、何故、途中左に曲がるかというと、理由がある。ここに御影という山がある。 この山を越えれば日向市なのだが、 もし、西都に行くのならわざわざ山を越えて日向に行く理由は無かった。遠回りだから。 しかし、神武の東征は、このルートを逆に、西都から都農、南郷村から南下し、 美々津に至るルートを使った可能性がある。 というのも、何故、南郷が南郷という名前なのかというと、当時はこの耳川が中心だったからだ。 だから周囲には東郷、北郷があり、御影の名の由来として、 神武が越えていった山の背であるから、御影であるという。
宮崎の神話と絡めて敵対国の正体が隼人だとすればいろいろ辻妻合うんだよね 神話の山幸彦と海幸彦の対立の話から海幸彦側が隼人になってんだし 山幸彦の一族から卑弥呼が出てるなら対立の根も見えてくるし 神武天皇が何より山幸彦の孫なら東征後、ヤマト政権での隼人の反抗まで合う
439 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 06:27:45.26
ちなみに、尾鈴山はおすす、つまり御進だったという話が地元にはあるよ。
>>435 レスをよく読んでないようだけど
>宮崎限定で というのは邪馬壹國の範囲のことをいったんだよ
あと
>九州全体を支配下に収めていた
というのは北部、中部九州のどういった出土物にその根拠が見られるのかな?
そして都城から版図を拡大して九州全体を支配した邪馬壹國がその過程で支配できなかった
狗奴國というのはどの地域のことなのかな?
北九州が連合下なのは贈り物である絹が出てるのと 記述にある検閲してる監督府の位置の話から一致するから
443 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 06:44:23.56
>>宮崎限定で というのは邪馬壹國の範囲のことをいったんだよ 邪馬台国の範囲だって宮崎限定ということではないさ。大分、熊本だって邪馬台国の 領域だったかも知れない。使者の訪問先が都城あたりなら問題なかろう。 >北部、中部九州のどういった出土物にその根拠が見られるのかな? 南九州特有とみられていた花弁状住居が佐賀からもみつかっている。南九州の勢力が 北九州に進出していた証拠ともいえるな。それに腕輪だ。もともとは南方のゴホウラ貝 を使った物だから、南の連中が珍重したものだろう。それが北九州、そして銅製に変化 して本州にまで広がっている。
>>444 うん違う
でも神武東征説に絡めて卑弥呼政権と同時期かそれ以前に
畿内に飛び地というか同じ一族が治める土地があって
後にそちらが本部になったというような考え方はもう一方も同じだと思う
諸県というのは現在の国富町から出た地名だよ 諸県と言うけど宮崎平野で西都原の南方10kmほどの地
肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたというから 佐賀の花弁状住居の存在が邪馬壹國時代の国の勢力拡大とはいえなくないかい? 佐賀のはたしか1世紀とかじゃなかったかな? 福岡の那珂遺跡からも見つかってるのかな? それと交易で手に入れられるようなものが単品で出るのは、支配、被支配関係とは必ずしも結びつかないよ その国の交易範囲の広さの証明にはなるけど
448 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 07:04:04.22
>>445 >卑弥呼政権と同時期かそれ以前に畿内に飛び地というか同じ一族が治める土地があって
>後にそちらが本部になったというような考え方
私は畿内は卑弥呼時代よりも後だと思うよ。卑弥呼時代には畿内はほとんど意識されていない。
それまでは九州の中の北と南の戦いで精一杯だったんだ。それが九州統一となったので臺与の時代
以降に畿内進出となったのだろう。
狗奴国は大国とは思わない。卑弥呼と卑弥弓呼が不和だったとはあるが、邪馬台国と狗奴国がもと
もと戦っていたとは書かれていない。もともとは同盟国だったのに、倭国の乱で意見の相違がでて
はじき出された男王という見方もできるかな。
>>447 に追加で
北部九州のは半島で見られる松菊里型住居だよね
これも弥生中期のものじゃないかな
>>447 那珂遺跡から魏へ送った絹が出土してるのと
埋葬方法が魏志倭人伝にあるのと同じ甕棺
魏志倭人伝に「邪馬台国の北方の諸国には一大率という官が置かれていた」と書かれてる
要は交易品の管理や出入国の監察してたとこがあって、その官は伊都国が管理していたとするので
南部が邪馬台国とすればそれと合致するし
邪馬台国の場所のことは置いておいても
その出土品から九州の北側は邪馬台国と連合・支配下、もしくは邪馬台国そのもの
であったというのは大半の論者がもう認めてることだと思うけど
>>450 いや、だから北部九州の伊都国と都城の邪馬台国との関係の根拠を聴いたんだよ?
>>452 俺は別に場所は特定しないけど
魏志倭人伝に書かれてる記述が根拠で
その記述通りの一大率の存在と出土品から少なくとも邪馬台国と関係してる
(そのものか属国かは置いておいて)というのは否定しようがないでしょって言いたいだけ
仮に邪馬台国畿内説を取るにしたって、魏志倭人伝が北九州の小国の記述がはっきり書かれてる以上
一大率は北九州以外にありえないわけだし、敵対してる国を通行ルートにいれるわけないし
>>453 うんそうだよ。その点についてはほとんどの説が一致してると思うし、俺も
そのことに疑問はもってないし、レスでも書いてないんだが
>>454 それがわかるなら
>>450 の俺はとくに都城派じゃないのがわかると思うが
魏志倭人伝の「邪馬台国の北に一大率がある」って記述を根拠にするなら
せいぜい九州の南側に邪馬台国があることになるんじゃないかってくらい
>>456 具体的に疑問点を整理したらどうかな
九州の北側に一大率があるのを君自身が納得し異論がないと認めた以上
>>454 魏志倭人伝に「邪馬台国の北に一大率がある」こと含めて
俺は宮崎と限定させてないだけで、俺の意見も基本
>>435 の意見となんら矛盾しないわけだし
7万戸って人口に換算すると何人ほどなのか30万人くらいか それには水行20日の投馬国薩摩は入らない 仮に国と戸数が記されていない水行10日からの上陸地点から全ての合算だとしても過剰すぎる 現代ならまだしも当時の農業でそんなに多大な人をその土地で養えるのかということ 人口爆発が起きていて移住圧がかかっていたということでやむをえず戦ってまで集団移住したのが東征の実態だったりしてな さらにこのころ狗奴国と敵対化が起こっていた 都城などは元は違っても地形的に狗奴国の勢力になっていったのではないか それがそのまま後の畿内大和対熊襲に継がれることになる 5世紀から7世紀は霧島北麓を中心に地下式横穴墓が大量に築かれる 出土品からして戦死者 時期を考えればこのような大規模攻勢に出たのは畿内勢力によるものだが
>>457 >九州の北側に一大率があるのを君自身が納得し異論がないと認めた以上
はじめっからそのことは微塵も疑いをもってません(笑
で
>>435 さんは
>>434 に書いてるように都城説なの。
その都城にあった邪馬台国が九州全体を支配下に収めていたと書いてたから投稿者に質問したの。
>>459 だから疑問点を具体的に書いてくれよ
「俺は○○に質問したんだ!」では回答になってない
俺は
>>447 が九州北部が邪馬台国と関係している国ではないと取れる文章だからレスしたまでだが
少なくとも魏志倭人伝にある邪馬台国はあくまで20の小国を束ねる連合の代表国であって
関係してる小国に邪馬台国と同じくらい歴史があっても全然不思議じゃないことからわかってないのかな
>>460 俺ははじめから
>>435 とアンカーをつけて質問してる。
それを君が横から入ってきたから
>>444 で別人だよねと確認した。
君には質問もしてないし、君のレスに対して反論も同意もしていない。
君には
>>435 の人に訊いてるんだよとしか答えてない。
つーか各国が揉めてどうしようもないから卑弥呼が出てきてなんとかまとまったわけで
邪馬台国が勢力を伸ばして小国ができたんではないんだけど
>>447 は明らかに勘違いしてるよね、はっきりと
>邪馬壹國時代の国の勢力拡大とはいえなくないかい?
なんていってるし、一大率にしろ後付けで知ったかしてるようにしか見えないし
>>459 たぶん魏志倭人伝から読んでないよね
>>461 >>462 に答えてよなんで
>邪馬壹國時代の国の勢力拡大とはいえなくないかい?
なんてアホなこと言ったのか
465 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 08:18:57.04
どう見ても自分の無知ぶり隠すために答えられなくなったのを おまえに質問したんじゃないやい!で暴れてごまかしてるだけだわな
>>464 >>443 は邪馬台国の領域といってるからあくまで同盟国であるという意味で言ってると思うんだが
同盟国なら当然人の行き来もあるから文化や風習が移ったりしても不思議ではない
そんで同盟国になる以前から周りの国も存在してんだから
>>447 が言うような1世紀からの住居跡があったとして、それが逆に邪馬台国に取り入れられたなんてのもありえるし
>支配、被支配関係とは必ずしも結びつかないよ
なんて結論にはならないんだが
467 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 08:46:43.68
支配とか被支配関係っていう考え方から見直すべきだと思う 伊都国にしろ王がいてその王が支配してたんだし、形として従属させてるとはいえ 実質連合や同盟みたいなもんだろ、卑弥呼はあくまでそのまとめ役で だから卑弥呼死んだ後も揉めてんだし 完全な支配関係にあるならもっと単純に統一されてるはずだし
地下式横穴墓って軍関係者や戦死者の可能性は大だと思うんだけど、 あれば南方勢力側に作られたものではないと思うよ。 鹿児島県の古墳はほとんどが肝属地域に集中していて、他はほとんど見られない。 地下式横穴墓が作られている最中も宮崎平野部では今まで通り古墳築造を続けている。 地下式横穴墓はほとんどが霧島山の北麓から東南麓あたりだけど西都原まで見られる。 傷を負って帰還する途中で息絶えた人もいた。 西都原より北では見られない。 戦死者の遺体を運ぶうちに損傷するし労力も考えて係争地域に近い自己勢力内に葬ったと考えるのが自然に思えます。 つまりえびの市や都城市あたりは北方勢力側だったんではないかな。
そもそも朝鮮経由で人が日本に来たんだから福岡や佐賀に古い住居跡がある方が自然だけどな
470 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 09:22:01.69
>>468 邪馬台国が宮崎含むその北側勢力で熊襲(隼人の元)が狗奴国とするか
狗奴国が宮崎で北九州の方に邪馬台国があるかの
どっちかになるよな九州説は
琉球を熊襲として船で航海して攻め込んでくるなんて
当時にしてはハイリスクすぎだから無いとして
ネット上で宮崎説を熱弁してる代表者が笠置山古墳が卑弥呼の墓だって言い張ってるし そこを調査するだけでもう決着つくと思うんだがな
472 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 10:46:28.51
>>470 熊襲は記紀がつくった物語であり、倭人伝が伝えるものではない。
そんな特別の種族があったと考えるのはまちがいのもとだね。
473 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 10:51:49.35
>>467 >伊都国にしろ王がいてその王が支配してたんだし、形として従属させてるとはいえ
>実質連合や同盟みたいなもんだろ、
その見方はどうかな? 以北の諸国は女王国がおいた一大率に検察され、これを畏憚
していたんだ。実質同盟だとか対等の関係だとかいうならば、これはおかしい。
以北は倭国の乱に実質的には敗れた、そのために厳しく検察されていたって見るべき
だろう。
その検察を任されてたのが伊都国で、伊都国は王が支配しそれも管理してたんだから 邪馬台国の完全支配なら派遣された役人が支配してなきゃおかしいよ ましてガチガチに支配されたなら派兵されて基地があったはずで 卑弥呼の死んだくらいでいきなり反乱起こってそれを鎮圧できなくなるなんておかしい んでまた女王建てたら治まるって時点でもはや各国が協議した形で代表者を決めてたとしか思えない
>>472 存在しないとするにはあまりに記録が多いが?いないとする根拠はなに?
熊襲は古事記やら他の文献にも出てくるし
仮にも宮崎説論者なら熊襲が後の隼人とする通説に加え
読みからして狗奴国の勢力とする説を取ればいろいろ宮崎と合致するわけだし
476 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 11:39:57.53
>>475 >熊襲は古事記やら他の文献にも出てくるし
文献といったところで、記紀だけだよ。あとは、それを適当に焼き直して書いている
だけの話だ。古事記と日本書紀は、いっげん別のように見えるけど、書かれた時期は
ほとんど同じ。古事記を下敷きにして細かな資料があったみたいに作り直したのが日
本書紀。しょせん同じものだ。となれば、古事記が熊襲を作り出したとすれば?全部
虚構ということになる。
だいたい、南九州は、その位置からして、北から南から次々と新しい人たちが入って
くるところだ。特殊な部族がそのまま閉鎖的社会を作っていくような所ではない。
ということは、熊襲などというものがいたとは考えられないんだよ。
477 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 11:42:10.72
>>474 >検察を任されてたのが伊都国
倭人伝を良く読んでいないようだな。伊都国が任されていたわけではない。
伊都国の王とは別に、伊都国に訳書を置いた一大率がいたんだ。それが伊都国や
その周辺の国々を検察していたってこと。つまり被征服国に置かれた進駐軍司令官
それが一大率だよ。
478 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 11:47:43.92
>>476 熊襲が特殊な部族だと言い張る根拠がまず不明
熊襲が特殊な部族ってその古事記から日本書記まで書かれてるのかそれをだしてくれ
単にヤマト王権にしろ体制に従わない部族の総称ともいわれてるのに
>>476 俺は475ではないが
いないとする根拠が
古事記が作り出したとか特殊な部族がいるところじゃないとかではどうもな
というかそれ根拠とは言わない
480 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 11:55:18.92
>>478 ウィキには、肥後国球磨郡から大隅国贈於郡に居住した部族とされる、と書いてあるよ。
単に大和王権に従わない人々というだけならば、邪馬台国時代にそんなものはいない
というべきだろう。まだ、大和王権などというものはないんだ。
特殊な部族がいなかったというならば、それで結構。私もそうゆう考え方だ。
だから、狗奴国なんてものにこだわる必要はないってこと。
特殊な部族という断定からソースがなくおかしい上 むしろ鹿児島は南から部族が流入しててもおかしくない土地だから 違う部族がいてもおかしくないのに特殊な部族がいるのが有り得ないとするのもまたおかしい 実際シラス台地の層を掘り返して出た土器から火山の噴火で逃げ出す前には南側から来た部族がいて その上の層からは北からの入った部族の土器が出たりしてる話あるし
482 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 12:08:11.89
>>480 だから特殊な部族って根拠ないの?
そして特殊な部族だからいないとする根拠もないの?
つまり熊襲いないって全部おまえの妄想だよね?
宮崎を邪馬台国に仮定するなら当然地元に伝わる東征の話からヤマト王権な話に繋がる
邪馬台国が畿内に移った説が有力にもなってくる話で
その上で南にある狗奴国、熊襲や隼人の話に関連されるっていうこと理解してる?
483 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 12:09:53.46
やっぱり君は「熊襲」と呼ばれる人々がいたと考えているみたいだね。 私はそんなことはないという考え方だよ。
>>483 その論拠は何と散々聞かれてるんだけど
論拠になる何かそれなりの説を唱えるなりしないで
相手の話を嘘だと言い張るのは学問板ではあまりに失礼であり幼稚な行為だよ
485 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 12:15:43.59
>>485 いたとする論拠が不明っていう理由におまえは特殊な部族だからって散々言っただろ
その特殊な部族とする論拠は何なんだよって聞かれてるのになんで逃げるの?
487 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 12:21:12.74
私は特殊な部族はいないって言っただけだ。特殊な部族ではないというなら それで結構。何も問題はない。熊襲と呼ばれた人々もいない。それでいい。
>>487 ありまくりだが
特殊な部族だからそんなの存在しないという説だから
特殊な部族だという論拠を説明する必要がある
特殊な部族でなく普通に当時の風土に該当する部族なら
なおさらなんで存在しないと言い切る論拠は何かという話になる
どうやっても論拠の説明が必要でそれがない以上はお前が悪い
489 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 12:30:27.36
熊襲と呼ばれる人々がいたら、それは呼ばれない人々と比べれば特殊だということに なる。しかし、熊襲と呼ばれるような人々はいなかった、それだけのことだよ。
また横から失礼 特殊とか何とかは全部置いといたとしても 「熊襲なんていない」の根拠も無いってこと? まあいたとする根拠がおかしいと言いたいんだろうけど そうは言ってもな ある程度記述がある以上不自然じゃないかな
熊襲が部族の個別名称でも反体制の勢力の総称としても
それが勢力として体制側からみたら特殊なわけでもなく
単に「異質」なだけで存在しない論拠にならない
従属しない国や部族としての呼称をもってる奴らなんて他にもいくらでも存在したし
倭人伝にも従属しない国があったと書いてる
>>489 は北朝鮮が国連に従わない国だから存在しないというアホと同じ
492 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 12:48:57.90
その記述というものの中味が問題だね。古事記が最初にそれを書いているわけだが、 神功皇后時代までの話として書いているだけだ。その神功皇后は、日本書紀にらよれば 卑弥呼時代の人物として描かれている。そんな古い時代のことが文字もない時代に記憶 されていただろうか。まず、信用できないと考えるべきだな。 古事記はクマソの物語で何かを伝えたかったんだよ。古事記は大和の王に「まつろわざる 者」としてクマソを描いているね。そこが重要だ、分かるかな?
493 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 12:50:18.71
いたとする根拠がおかしいなら何がどうおかしいのか言わないとな 日本紀記にしろ古事記にしろ別段おかしい記述されてる存在ではないし その日本紀記や古事記がウソだからいないんだと言い張るなら 天皇の存在どころか人類の存在まで全否定になるからな 存在の内容がウソなのと存在がいるかいないかは別だし
494 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 13:00:36.33
>>492 クマソがいないとするのは俺の妄想
まで読んだ
495 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 13:04:57.43
>いたとする根拠がおかしいなら何がどうおかしいのか言わないとな 何度も言ってるね。いたとする根拠というのは、古事記とそれの焼き直し。 しかも、とても古い時代のこととして記載されているわけで、伝承があった と信用できるようなものではない。根拠がだめとなれば、いたとは言えない。 >天皇の存在どころか人類の存在まで全否定になるからな 妙な論理だな。それは記録によって確かめるわけではない。今、存在するから 前からいたはずだという大前提がある。クマソ云々は今は確かめるすべがない。 まったくちがう問題だ。
>>495 >伝承があったと信用できるようなものではない
だからその信用できないとする文章は何?
たぶんお前が何を言おうが天皇関連についてもたくさん同じような要素が出てくる
そんでもって
>今は確かめるすべがない。まったくちがう問題だ。
と自分で言い張ってるが、確かめるすべがない以上は
存在しないとも言い切れなくなるんだが
これが自分で自分の言葉は妄想と放ってるようなもん
>古事記はクマソの物語で何かを伝えたかったんだよ。古事記は大和の王に「まつろわざる >者」としてクマソを描いているね。そこが重要だ、分かるかな? 意味がわかんないんだが 反抗勢力がいたとするのが嘘だとでも言いたいのか? 後の時代でも朝廷に出仕しないで怒られた奴がいないとでも言うんだろうか
498 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 13:38:56.01
>>497 >反抗勢力がいたとするのが嘘だとでも言いたいのか?
古事記はその点では嘘は書いていないとする。そして我が国は一つの権力によって
支配されていたとする。その場合、畿内とクマソを比べ、クマソが畿内に服従して
いないということは、畿内がクマソに服従しているということを意味する。
それが論理だ。 ちょっと難しかったかな?
>>498 お前頭おかしいんじゃないの?
>そして我が国は一つの権力によって支配されていたとする
これがまず意味不明、わが国って日本全土のことか?
魏志倭人伝だって倭人の国でも邪馬台国の管理外の国があることを書いてるぞ
>その場合、畿内とクマソを比べ、クマソが畿内に服従して
>いないということは、畿内がクマソに服従しているということを意味する。
もはやこれについては病院行けというしかない
反乱という概念がないのか
500 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 13:57:49.86
>>498 からして畿内信者なんだろうけど
畿内信者って頭おかしいのしかいなくなったな
501 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 14:02:32.87
まあ、それが普通の頭で考えた場合の限界だな。しかし、神功皇后が卑弥呼の時代に 合わせてあるとなれば、ヤマトタケルの時代何ぞいつのことか分かったものではない。 そんな古い時代に大和から九州に討伐軍を出したなどということがあり得る話ではない。 となれば、物語は全部虚構だ。何のために反乱軍を描く必要がある? 天皇の正当性を主張するならば、反乱などなく、民はありがたく従ってきたという物語 にすればいいはずだ。物語の裏に隠されたメッセージを読むことが大切なんだよ。 まして、倭人伝を読めば、南九州は邪馬台国の所在地だ。畿内は邪馬台国に従っていた ということ、それを物語として書いていると読んでやらにゃいかんのだよ。
>>501 ここのスレタイ読めるか?宮崎が邪馬台国なのにしろ、神話の舞台なのにしろを考えたら
南のお隣り鹿児島に討伐だしても全然範囲内なんだが
君は宮崎説以外有り得ないといいたいわけね
狗奴国が邪馬台国の南にあることから そこが熊襲=隼人の土地で天皇に反抗したこと お手軽に遠征できる距離であることまで 畿内信者さんが逆に宮崎説に信憑性を与える皮肉
504 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 14:12:19.44
畿内信者って馬鹿しかいないんだろうな
505 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 14:18:04.60
>>501 の内容からすると畿内説でも宮崎説でもなく薩摩、大隅説だろ
お前が馬鹿だからわからないだけだよ 畿内から遠いから有り得ない!という以上は他の候補地ではどうかとなる それで見事に条件が合致する土地があればどうなるか
508 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 14:33:02.71
上の肥前国風土記を出している人とは別人だが、 肥前国風土記では、肥前、肥後が別れる前は、肥国であり、 筑紫、肥、豊、熊襲、の国があったと書かれている。 領域が変化する可能性はあるが、 謎の集団ではなく、ひとつの国として書かれている。
筑紫、肥、豊、熊襲は国じゃなくて行政単位じゃないの
>>501 あのさー武勇を称えて正当性をアピールする話なんて世界中あるぞ?
ヤマタノオロチ討伐にしろ、武勇を描いて信仰を高めようとしたものだと考えれば納得できるし
大体、熊曽建って名前からして強者って意味でそれを討伐した天皇すげー!って話であり
反抗勢力はこの強い天皇様がオラオラしちゃうぞって意味で庶民に広めるのは全然ありえるのだが
そしてその熊曽が大隈から霧島に分布していて、霧島に討伐に出たなら
古事記の記述にあるとおり宮崎市から西になるし、邪馬台国の位置と神話と合致しちゃうんだが
511 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 14:50:15.95
どうだろうね? 少なくとも風土記成立時は、現地に有力豪族がいたとしても、 すくなくとも建前上は、国じゃなくて行政単位のはず。 そのころはすでに肥前、肥後となっていた。 肥前国風土記だから、肥前国の成り立ちが 最初に書かれている。 そして書かれた形式の類似から見て、肥前国庁が資料と風聞を集め、 大宰府が編纂して、朝廷に送ったと推測されているようである。
512 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 15:04:23.77
>>510 支配下になれば侵攻されても強い中央軍が駆け付けるというアピール
ならびにもしくは反乱が起こる可能性の両方を抑止できるからね
武勇伝ちらつかせて傘下に入れる、葉っぱかけるなんて現代でも常套手段だからね
いくら昔でも
>>501 の言うような単にありがたい天皇アピールする神話で
天皇支持するお花畑ばかりではないのは広める側も聞く側も思ってるだろうな
ていうか戦国時代どころか昭和だって軍部が似たようなことしてるし……>武勇伝
アーサー王だって実在の人物でモデルがいるとする説が主流なくらいだし 古事記の話も大概モデルや存在の元はいると考えるのが妥当だろうね 勇敢に戦った軍人や将軍を神様にして祭り上げるなんて古代から近代まで世界中どこでもやってるし そう考えたら熊襲だってそれなりの勢力として存在したと考えるのが妥当だろうな ヤマタノオロチみたいなモンスターとして描かれてる存在でなく、王権に従わないって奴らって現実味がある存在だし
そういや今日宮日にも載ってたけどえびのの島内って相当すごいんだね いま何点見つかったのか知らんけど銀象嵌龍文太刀とか まあ5世紀後半というから邪馬台国とはちょっとずれた話なのかな 朝鮮北九州中国地方畿内のいずこかから渡った品なんだろうけど あの辺りって鉄が出ると聞いたこともある 新燃で有名になった霧島連山周辺はいろいろありそうだ 神武様伝承の狭野や皇子原も近い
516 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 20:39:38.88
やまたいのヲロチ
517 :
日本@名無史さん :2012/04/22(日) 20:40:45.82
八尾よろずのかみ
狗奴国は志布志湾西岸の肝属平野あたりだと思う。 後に熊襲と言われるグループとは違う。 邪馬台国とは戦闘状態にあるものの魏に泣き付くほどで邪馬台国が圧勝できるような書き方はされていない。 畿内説論者の言うように邪馬台国が既に大和から九州に至る大勢力ならばそんなことはありえない。 この地域は後に例外的に規模の大きな古墳も築造される。 地下式横穴墓もこの地に多数見られるのは熊襲と戦ったということ。狗奴国曽於肝属は熊襲ではなく熊襲と戦った勢力。 地下式横穴墓は鹿児島県の奥深くには無い。 熊襲とされるグループは5世紀になっても服さなかった曽於肝属を除く大隅半島から霧島南西麓〜薩摩半島だと思う。 熊襲はごく小規模な古墳は作っても最後まで積極的に作ることはしなかった。
519 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 00:03:00.29
>>510 描き方のちがいに気づかなければいかんな。武勇を描くときには、討たれるものを
悪く描くのが常套手段だ。しかし、クマソって何か悪いことをしたか?
何もしない者をだまし討ちにしたってのが記紀の物語。
地下式横穴墓は軍事色のイメージが強いけど必ずしも成人男性ではないよ えびのの島内はたくさんあるけど、被葬者は女性のものもあるし未成年のものもある
521 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 00:13:47.48
>>519 大和側のやり方は酷いよなw
卑怯以外の何物でもない
卑弥呼が死亡したのは3世紀半ば248年頃 隼人と呼ばれるようになってまもなく国司を討って完全に鎮圧されるのが8世紀721年 大和〜九州を配下に置く勢力が500年も手こずっていたとは考えられないな
523 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 01:01:48.14
景行天皇の熊襲退治は、何年くらいかねえ。 記紀のままなら西暦130年までの人 実質は4世紀の人と言われてたり、 諡号のタラシヒコが、7世紀以降とか、 在年に各種説あり。
>>519 だからなおさら存在が事実臭いんだけどな
天書記では矢で打たれて死んでるし
526 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 01:46:01.25
古代の戦闘なんて決着つかずズルズルやってもおかしくない上 四六時中戦ってるわけでなく川中島みたいに停戦を繰り返してると見るのが普通で 長期間決着つかなくても不思議じゃないんだが 現代の感覚で考えてないか
>>473 >>477 一大卒ってどっちかというと記述からして外交官みたいなもんなんだけど
つーか伊都国が朝鮮側の帯方郡から支配受けてたり、その帯方郡が魏の支配受けてたりしたって知ってる?
だから魏の使者が経由する場所になってるのに
そこを邪馬台国側が実行支配してたとしたら外交もスムーズにいかないし、下手したら戦争もんなんだが
妄想もほどほどにしような
528 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 05:54:57.82
倭国の乱で邪馬台国や関係諸国が敗れた勝ったなんて記述自体がない件
>>473
529 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 10:26:24.97
>>522 >>526 522氏のいうとおりだろう。ということは、国司を討って鎮圧されたというのは、
その時だけの出来事だよ。発生器に入って南九州の者が不満をもつようなことが
発生したんだ。数百年にもわたって南九州に独立した勢力があったわけではない。
530 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 10:37:18.59
発生器→8世紀
国司を置いたから反乱を起こしたんだろう どういうことか想像はつくが…
532 :
日本@名無史さん :2012/04/23(月) 13:59:33.17
新羅が朝鮮を統一して、朝鮮半島経由で中国に行くことが難しくなった。 だから、南西諸島経由でいくことになった。当然、薩摩を通ることになる。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 女王国から東に千余里海を渡るとにまた国がある皆倭種である ってところは宮崎を50点とすれば大分と徳島は100点だな。
海流の影響で流されるから宮崎からの方が四国に行き着きやすいはず
536 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 04:50:07.06
日向港からなら大分よりも四国へ流れ着きやすいだろな 神武も日向港から船だし
>>533 生目古墳群は西都原古墳群のものより古く箸墓古墳と同じ時代
もしかしたらそれより古い可能性もあると言われてる
詳しくは笠置山古墳でググれば地元で研究してる人にレポしたりして
宮崎説唱えてる人のコラムが見つかるはず
卑弥呼の墓と大きさとほぼ一致する上
その古墳の上に磐戸神社なんてアマテラスといわくありげな神社が昔からあったり
素人目にもいわくありげすぎるわな
538 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 11:48:11.34
>>527 >伊都国が朝鮮側の帯方郡から支配受けてたり、その帯方郡が魏の支配受けてたりしたって知ってる?
伊都国が帯方郡から支配されていたって? それは間違いだね。
君は郡が何なのかも知らないようだね。
539 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 12:28:12.09
>>538 説明しないで言い張るとこ見るに
何の説明や論拠もなくずっと熊襲いないと暴れてる人と同一人物だよね
>>538 魏志倭人伝の全文である三国志魏書東夷伝の中に
公孫氏が帯方郡を置いて倭まで勢力を伸ばしたと書かれてて
交流のあった紀伊国に代々の王がいたといて邪馬台国側がその王を潰さずに一大率なんて置いた時点で
その王が帯方郡、もしくは帯方郡経由で任命された官なのは確実だよ
お前が倭国の乱で敗れて邪馬台国に支配されたとかいう
>>473 >>477 のアホなら
魏志倭人伝に女王を共に起こしたという「共立」って文字が書かれてるから
明らかに同盟・連合関係を説明してる文章をどう解釈するのかも教えてくれ
邪馬台国が支配でなく同盟や連合なら公孫氏が敗れて帯方郡が宙ぶらりんになったときに
紀伊国が邪馬台国同盟に加盟したというのも自然な流れになるし
542 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 13:25:15.20
伊都国と紀伊国を間違えるようじゃ話にならんな。それに他人に教えてくれという ときにはそれなりの言葉使いがあるはずだ。礼儀から学んだ方がいい。
543 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 13:33:54.29
支配関係を主張する人は なら支配者側の都合で王を立てたっていいはずなのに 神託を授かる巫女でないと治まらなかったという点はどうなのか 倭国の乱を持ち出すなら単なる一国内の揉め事ではないのは明らかで それが倭人伝では卑弥呼擁立で収まったかのような書き方である以上は普通に解釈すれば 各国が盟主として納得したとしか取れないのはどう解釈するのかを教えてほしいな 卑弥呼が軍事の超天才で邪馬台国の女王になると同時に各国侵略して治めたなんてトンデモを唱えるならもはや何もいわんが
>>542 やはり揚げ足取りの言い訳パターンに入ったな
すまないが支配なのか連合なのかにこだわる流れがちょっと分からん
546 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 14:28:55.07
>>543 共立から連合→対等な関係と考えたようだが、実質的な勝者と敗者の間においても
形として連合とする場合はある。倭国の乱はそういう決着だったと思うよ。
547 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 15:52:17.27
>>546 思うよではなく論拠は?
記述にもまったくないし
548 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 16:04:47.56
>>547 >>473 に次のように書いたのだがね。
以北の諸国は女王国がおいた一大率に検察され、これを畏憚していたんだ。実質同盟だとか対等
の関係だとかいうならば、これはおかしい。
以北は倭国の乱に実質的には敗れた、そのために厳しく検察されていたと見るべきだろう。
根拠になってねえよ お前が逃げたレスで論破されてるじゃねえか
551 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 19:03:08.47
反論出来ないから個人攻撃は馬鹿の常套手段
ずっと上から熊襲否定にしろ妄想で語ってる人だね 邪魔だから出ていってほしい
西都、ってたぶん、始めは「斎都」なんだよね。
555 :
日本@名無史さん :2012/04/24(火) 21:17:56.40
「左伊都」かも
斎殿だよ
>>551 宮崎なんたら言ってる連中のレベルなんてこんなもの。
558 :
日本@名無史さん :2012/04/25(水) 00:50:58.82
箸墓古墳 撥形前方後円墳 全長280m 後円部直径157m/高さ22m 前方部幅125m/高さ13m 生目1号墳 撥形前方後円墳 全長136m、後円部直径86m/高さ17m 前方部幅65m/高さ12m 相似
箸墓古墳 撥形前方後円墳 全長1 後円部直径1/高さ1 前方部幅1/高さ1 生目1号墳 撥形前方後円墳 全長0.486 後円部直径0.548/高さ0.773 前方部幅0.52/高さ0.923
上北方の笠置山墳墓にしろ生目古墳群の近くの北にあるものは 確実に生目より古くて、古墳時代の範囲すら出かねないからもはや古墳ではないということで 面倒や前提が覆るのを怖がって調査しないということらしいが これらが事実ならもう確定だろうな
その笠置山というのがもし弥生墳丘墓のうち終末期の古墳への過渡期のものだってんなら超重要じゃないですか 奈良では従来弥生墳丘墓とされているものは積極的に調査されてるよ
だから近くに道路やら変電所なんか作って壊すな! 県や考古学会は何してんだと宮崎説レポコラムのひとがキレてる 地元の研究者はその変電所工事のとき鉄剣を保護したみたいだし まあ彼が捏造ゴッドハンドとかでもない限り本当に調査すべきだろうね 流石に鳥型してるってのは眉唾すぎだけど
563 :
日本@名無史さん :2012/04/25(水) 07:15:01.04
弥生末期から古墳時代への遺跡としては、方形周溝墓がみつかっている川南町の東平下遺跡 円形周溝墓などがみつかっている新富町の川床遺跡、箸墓と相似形の前方後円墳がある高鍋 の持田古墳群なども興味深いね。
生目1号墳はトレンチで墳域確定はされてるんですかね? それで後円部の高さ17mなら1号墳は狂ってる 2号墳と1号墳が独立した古墳なら高さは8mくらいにしなきゃならない 17mならくっついてる前方後双円墳?になるしさらに円墳3つがある東側はどうなるのってことに 後の時代に1号墳の墳域の判別がつきにくくなって知らずに建てたんですかね
高鍋の古墳群は昭和はじめまでにほとんど盗掘され尽くして全国各地に散逸して個人蔵になったり行方不明になったりしてるよ
かなり大回りになるが水行できなくもないがしなかった。 狗奴国が南にあったとしたら陸行した理由も納得できるな。 沿岸から着かず離れず水食料の補給や不測の事態で接岸しなきゃならないこともあるはずで、 その時敵対国への使者だと知れたら捕らえられ追い返されるか処刑される可能性もあったろうし。
567 :
日本@名無史さん :2012/04/25(水) 22:42:28.04
実際にはゆっくりと大回りしたとしても、直行する場合はどうなのかという観点から 陸行を書いているとも考えられるよ。
東回りで南に水行20日で投馬国 東回りで南に水行10日 or 陸行1月 で邪馬壹國 ということかな?
569 :
日本@名無史さん :2012/04/25(水) 23:43:27.24
西回りだよ。南に水行20日で投馬国、水行十日及び陸行一月で邪馬台国だ。 水行10日 or 陸行1月はごまかし読みだろう。
伊都国は脊振山地南麓のどこかで、当時は直ぐ南が有明海だった。 その伊都国から 南至投馬國水行二十日 南に水行20日で投馬国、 同じく伊都国から 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 南に水行10日+陸行1月で邪馬壹国。 と読んで比定地はスレタイの地あたりだろうと思ってる。
571 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 00:46:42.99
だが、それでは方角が南だけなのは不自然。もっと南じゃないかな。
>>571 地理だけ考えれば志布志湾岸の肝属あたりも可能性があるな
肝属は鹿児島県では例外的に古墳文化圏
交戦中の狗奴国沿岸を水行することが不可だったので陸行したという仮定も通る
南に水行20日で投馬国なので、狗奴国の領域が引き算で薩摩半島南部と鹿児島湾岸と大隅半島西部と狭小になってしまうけどありえなくはないかな
でも肝属だと邪馬台国の南に狗奴国があるってのが通らない
573 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 01:36:54.94
肝属ならば狗奴国は種子島かな。島と考えるのは少し無理があるかも知れんが。 邪馬台国が都城あたりとすれば、狗奴国は肝属あたりでOK。 狗奴国は大国と思われているようだが、記載されている官は一人、狗奴国に従う 旁国があった気配もない。大国とみるのは誤りだろう。
都城盆地は湖底堆積物の上にシラスやシラス由来の土壌が堆積していて稲作に適した土地ではなかった… 稲作に適したのは新しい堆積物のある低地だけで、自然の堆積や土壌改良で多くの地域で作れるようになるのは後。 肝付も概ね同様だけれど、非シラス土壌の比較的広い低地があってそこでは稲作可能だった。
都城は発展するには南九州の中で最も不利なところだな
576 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 10:03:57.28
>>574 都に水田は不要だよ。王宮や大人の屋敷など、広い敷地を必要としたろう。
せいぜい、菜園が作れればいいんだ。米は産地から運ばせる。
何よりも、九州における弥生後期の人口密集地としてあげられるのは、筑後川流域
と都城盆地だ。北が伊都国、奴国。南が邪馬台国だよ。
水田もない、港もない、水運もないでは他都市と直接交易ができないから 宮崎平野か肝属平野に従属するか直轄地じゃないかな
578 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 13:20:37.23
もちろん、都の所在地が都城盆地というだけで、邪馬台国の領域は現在の県全体かそれ 以上の大きさと考えるわけだ。
宮崎全体が範囲と考えるならなおさら 伊支馬=生目で生目は宮崎市だし 大隈半島も狗奴国の範囲とすれば宮崎市の西で全然合うのでは
>>576 >>578 中心地だとしてもそれなりの人口があるんだから
やっぱ平野部で人口を支えるほど食糧生産ができた&運搬に都合が良い水路がある
土地に首都は置かれたと見るのが妥当だよ
そうじゃなきゃ戦争するにしろ兵站が成り立たない
弥生時代の遺跡がたくさん見られて繁栄したであろう地が 古墳時代に入ると衰退したり姿を消すというのはかなり見られるんだけど、 何を意味してるのかというとこも考えなきゃならんね。
琵琶湖の湖底遺跡のことか
琵琶湖は水面が上昇したけど都城盆地は干乾びたな
584 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 22:15:26.55
>>580 都で都に暮らす人々の食料を生産するなどということは不可能だよ。
東京で都民の食料を作っているわけではない。食料はよそから持ってくるんだ。
>戦争するにしろ兵站が成り立たない
都で戦争をすることなんぞ考えていないよ。
今の時代の感覚を持って行くことは不可なんだがな 中心地はあっても都市と言えるほどの都市なんてない 道路や駅が整備されたのは奈良平安になってからだよ 都城という地名が生まれたのは1375年
586 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 23:17:59.95
では、都城にはどの程度の人が住み、どうやって食料を確保していたというのかな?
食料確保が容易なところに人が集まってムラになったんだよ 当時は湿地帯で米作も容易だったんだろう
588 :
日本@名無史さん :2012/04/26(木) 23:36:52.67
なるほど、それで都城は人が集まりやすかったのかね。
都城盆地は弥生時代の遺跡は多いのだけど、古墳については5〜7世紀と時代が後で規模も小さいね。 牧の原古墳群、塚原古墳群、志和池古墳群があって前方後円墳もあるのだけど。 早い時代の撥形かそれに近いもの、規模が大きなもの、は全部宮崎平野になってしまう。 邪馬台国に限れば撥形すら新しすぎるんだけど。
都城に人が集まったのは島津荘以後の時代ではないの?
神話と絡めると都城盆地は無視できないよ 高千穂ってのは南の霧島山の高千穂峰のことで中心地が宮崎平野に移っていって海に出て行ったって話じゃないのかな 都城盆地は弥生時代の遺跡が多い
592 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 00:02:09.22
弥生遺跡の多少で言うなら、 九州全域多いからなんとも言えないが、 人吉、えびの、都城と、陸の孤島?が連なっている 特殊な地勢は、文化圏的に影響がありそうだな。 天孫降臨で、東に降りていくというのは、 都城方面から日向に降りていくのと重なるが、 簡単に飛びついていいものかはわからない。
593 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 00:06:12.79
>早い時代の撥形かそれに近いもの、規模が大きなもの、は全部宮崎平野になってしまう。 自分たちのすぐそばには古墳を造る気にはならんだろう。しょせん墓だからな。 宮崎平野や西都原に王族は住んでいなかったと思うよ。
全国どこでも中心居住地と古墳が営まれた地は若干距離を置いてはいるが見える範囲程度で都城まで離れる理由がない 都城に古墳がある説明はどうする
(今のところ)ほぼ同時期とされる撥形の生目1号墳、西都原100号墳、檍1号墳と豪族勢力的に散在している。 在地勢力による築造とみるのが妥当ではないかと思う。 このころには都城や肝属には古墳はまだ無い。 もっとも撥形と言ってもさらに古い前方が短い纏向型のようなものもあるし生目1号は定型化した撥形より古い感じがする。 女狭穂塚まで時代が下ると特色もなくなって畿内勢力の強い影響下に入ったと思うんだけど。
596 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 00:54:04.04
>見える範囲程度で都城まで離れる理由がない 被葬者の住所が分かっている古墳などないよ。 >都城に古墳がある説明はどうする その時の王宮からは遠かったのかな。
しょせん墓なら多大な労力をかけて墳丘など作らなくても墓石だけで良いな しょせん墓じゃなくてその地を治める者のステータスも示してた だから統治勢力居住地の只中には作らないがその勢力によるものと分かるくらいの距離に置かなきゃ意味がない 古墳時代終末期に小型化していってついには作られなくなったその時代にはもはやステータスを示す必要がなくなったってことだろう
人骨からすると都城は渡来弥生人があんまり行ってないだろ 宮崎平野には北部九州弥生人が住んでいる 在来民と同化して向かった先は東 東により鉱物資源に恵まれた土地があるからね
木槨が見つかっている古墳は全国で数ヶ所しかないそうだけど、その一つが檍1号墳なんだよね。 檍1号墳の木槨は長さ7.2m、幅4m、高さ1.5m。 ホケノ山の木槨は長さ7m、幅2.7m、高さ1.1mで檍がかなり上回ってるよ。
その木槨なんだけど、ホケノ山もだけど神郷亀塚古墳という古墳でも見つかっていて、その古墳は前方後「方」墳。 前方後方墳は特に出雲では前期から後期まで継続して作られ続けてる。
遺跡の古さでは西都〜都農間には到底及ばないよ。 縄文時代だからね
602 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 06:27:51.43
>>597 >その勢力によるものと分かるくらいの距離に置かなきゃ意味がない
誰が造ると思っているんだ? 領民が狩り出されるんだろう? どこに造ろうが王の墓だって
ことは誰でも知ってるさ。遠くへ造ってときどき行列を作って墓参りに行く。それが権威を見
せつける機会であり、王が領内の様子を見る機会でもある。
都城民の自己主張その意気や良し だがそれはどこの話だ 始皇帝の巡行や大名行列とごっちゃにしてないか
>>584 都での戦争有り得ないとか馬鹿か?本拠である以上、篭城戦を考えるのは普通
派兵だって指令を出す都を中心に考えなきゃ意味がなくそうしないとロスがありまくりだから
その意味での兵站であって都が生産拠点からかなり離れてるってのは有り得ないよ
605 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 08:03:31.31
当時は食い物が国力と同義なんだから 敵も味方もそれを念頭に置いて戦争するに決まってるからな 都城に首都置いたら宮崎平野抑えられたら餓えておしまいだし 狗奴国が火山の噴火で飢えて必死なんだとしたら真っ先に宮崎平野狙うだろうし 敵も味方も「都城?なにそれおいしいの?」状態
つーか食料運ぶとしたって流通考えたら 大淀川下流と海に面した宮崎しかないべ なんで川は使えない陸路でも山道登る都城まで運ぶとか馬鹿なことやったと思うんだ
607 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 11:22:35.90
みんな千戸程度の国の発想だな。邪馬台国は広大だ。九州山地が天然の城壁、 その中は城内のようなものだよ。 王宮や大人の屋敷、それらを警護する軍人の宿舎、大変な敷地を必要とする。 水田をつくるのに適した土地をそんな敷地に使ってしまうのは、それこそ国力 を損なうってもんだ。
輸送手段がねーんだからその発想がまず近代国家的すぎて有り得ない 大都市となった江戸だって流通重視で運河と湾に面した設計で発展したんだから
あの時代の話だけど あんまり海岸に近いところは居住の場としても生産の場としても不適だけどな 最適地は山地の麓に近い平地で微傾斜地 山地からは遠く離れた平野なら、ある程度内陸に入った場所で居住の場は微高地
610 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 13:08:28.63
それに当て嵌まるのがまんま古墳地帯の宮崎市の生目や北方あたりなんだけどな
611 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 13:19:05.80
>大都市となった江戸だって流通重視で運河と湾に面した設計で発展したんだから 奈良や京都はどうだったかな?
>>611 そもそも元になった長安の話をしなきゃいかんけど長くなるので省略するが
平安京についていえば流通は琵琶湖も河もあってとても便利なのはいわずもがなで今も京都の中心
そして流通に不便だから廃れたのが長安と平城京だよ
とはいっても、長安は膨らみすぎた人口が故に元からある河川や水路で流通がまかなえなくなったから
平城京の方は河川が少し遠いという面があった故
とはいっても、その平城京だって大阪に近い方面で宮崎の都城に比べたらはるかに大河川も海も近い地域にある
都城なんてこれらと比べるレベルですらないほど流通に適した面などないので
例に挙げるのも恥ずかしいよ
613 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 14:01:47.95
あらら、大淀川を知らんと見える。奈良や京都よりは便利だぞ。
614 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 14:03:27.12
邪馬台国は温暖と記されてるし宮崎市は降雪量ゼロも普通だけど 都城は雪が降る時点でないんだし、あきらめろ 都城は河はあってもシラス台地で稲作もろくにできない 対し奈良は小さな河川がたくさんあってシラス台地でもなく 池もたくさんあって稲作ができてたから発展の余地があった
615 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 14:09:18.11
奈良は雪が降る時点でないんだし、あきらめろ
>>613 お前マジで馬鹿か?
琵琶湖が日本海や近辺の運搬の要になってた面があるって知らないだろ
東北をつなぐ琵琶湖ルートと太平洋側の出入り口の大阪との中間に位置にあったから京都は重要視されたんだぞ?
琵琶湖が流通に重要視されてたのは奈良時代からで奈良の平城京も京都に比べたら遠いとはいえ琵琶湖と大阪の港に近い
都城が京都や奈良に利便性に勝ってるとか寝言は寝て言え
その上下流の緩やかに流れる河ならともかく、都城だと山地で流れが急じゃねーか
しかも生産地にもならない、流通の中間をつなぐ場所にもならない都城が何をするんだよ?
617 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 14:21:23.50
618 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 14:29:04.96
信長が琵琶湖近辺に安土城作った理由を知らない都城人 日本史勉強ろくにしてないな
邪馬台国畿内説にしたって奈良盆地が水量豊富で米がそれなりに生産できてた前提がある 九州説にしたって筑紫平野や食料自給率が高い場所が絶対の条件であって 宮崎平野や西都市くらいの場所ならともかく シラス台地と流通運搬の面でも向いてない都城はどう考えたって候補になりえない
620 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 15:12:51.44
では、弥生後期の都城盆地の人口密度が高いのはなぜかな。
>>620 どこと比較して高いのかをまず言って見ろ
ソース付でな
623 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 15:36:28.16
都城は高天原や真の高千穂の候補としては戦えるかもしれんが (まあ高原町に負けるだろうけど) 欲をかいて邪馬台国だと言い張るのは無理だよあきらめろ
624 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:09:08.18
>>621 自分で調べてみろ。少しは利口になるぜ。
>>622 遺跡の数だけ比べても何にもならん。質が問題だ。
昔は銅鏡が何枚出たとか喜んでいたが、今はお手上げだろうが。
625 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:24:31.16
>>619 >宮崎平野や西都市くらいの場所ならともかく
両方とも邪馬台国の中だ。分けてあれこれ言う必要はない。
>>624 そんなデータどこにもない
お前自身も結局どこと比較して多いのかソース出せないのがその証拠
トンデモぶっこきたいだけなら他に行け邪魔だ
627 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:29:27.52
>>624 質でもどう都城が勝ってんだ?言ってみろよ
628 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:29:52.95
君が知らないだけだな。
629 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:32:46.03
>>628 じゃあソース出せば?
お前の妄想で出せもしないだけだろ
630 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:34:10.26
出したら退散するか?
京都に流通の上の地形で都城の方が勝ってるとかいう馬鹿だもんなぁ たぶん上から珍説垂れ流してソースや根拠求められても出さないでずっと荒らしてる奴と同じだろうな 「みやこんじょ」とでも名づけてスルー対象にしたほうがいいかもな
632 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:36:31.41
>>630 もちろんソースでな
「俺がこう思ったからこうだ!」系はソースとはいわないからな
ちゃんと遺跡の記事のアドレスとか出せよ
633 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:37:55.41
都城が交通の要所だってことすら知らんようだな。
634 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:40:37.55
遺跡の記事? 人口密度の話をしていたんじゃないのか? 当時の人口密度を書いた遺跡があるとは初耳だ。(笑)
635 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:43:33.49
>>634 はぁ?じゃあ聞くが何をソースに人口密度が高かったと言い出す気だったのか教えてよ
とりあえずさっさとソース出せよ
>>633 >>613 で京都より便利とかほざいてるけど
そんな九州の流通拠点になれる場所ならとっくに京都と同じく政令指定都市になっとるわ
637 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:53:58.63
あらら、政令指定都市が流通拠点の印かね。奈良は政令指定都市か?
638 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 16:56:00.96
今の人口の話してもな 弥生時代の東京なんてとんでもない田舎だろ
>>637 流通拠点は当然人も集まるんだから政令指定都市になるよ、だから堺や神戸もなってる
奈良は平城京移転にしろとっくに流通に向かないことは移転した当時の人間すら認めて京都に移ったんだ
そしてその京都に勝る利便性の都城がなんでならないのか
こっちもソース頼むよ
市内や西都、都城、はたまたえびの 正直さほど違いを感じない 素人意見ですまないが
641 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 17:06:55.37
>流通に向かないことは移転した当時の人間すら認めて京都に移ったんだ そのソースを頼むよ。
642 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 17:07:24.46
人口密度の話はソース出すとかいいながらまったくださず話題そらしはじめたな
てか、流通って、日本が遠距離貿易できたのは古墳時代以降だよ。 ぎりぎり見ても4世紀。それまでは九州北部の先進地域と他の地域の文化格差が大きい。 直接交流が極めて限られていた事が解ってる。 つまり、この時代に最も重要視されるべきは穀倉の防衛であって、余剰生産の流通ではない。 大体、流通概念なんて平和な時代なものだろ。 邪馬台国の時代は世界的な寒冷期のまっただ中。大陸からも大量の人間が流入していた大激動期だよ? 流入が比較的平和的に行われたのは最初の100年ぐらいで、その後は血で血を洗う状態。 普通に考えて、国を維持するためには国境封鎖しか無い。 そう考えれば、巨大な天然の外城をもつ都城が一時的に首都になったとしても不思議は無い。
西日本の太平洋岸全域に、同一地名が同じ配置で点在している。 これは首都、つまりメインの穀倉地帯が変遷していた事を示す。 というのも、遺跡に含まれる稲や土壌の分析から、 当時の稲は水田ではなく多くが陸稲だった事が解っている。 陸稲は土地を極端にやせさせる。根が越冬もするため、 冬枯れの根を掘り起こすなどの手入れが滞ると、とたんに生産率は激減していく。 だから、普通は一度使った土地は一年休ませるか、あるいは数年間原野に戻した。 (これは東南アジアで今でも一般的な米の栽培法だ) おそらく支配者は、移動し続ける農地をおって、徴税のために軍隊を引き連れて移動し続けた。 寒冷時期の日本は、現在のヨーロッパと同じぐらいの気候だったと考えられている。 ヨーロッパが農業革命以前、王自体が仮や暮らしで放浪していたのと同じ事が起こっていたと見ていい。 つまり、国の首都はそもそも存在していなかったと考える方が自然だ。
>>641 日本紀略で桓武天皇が水運や交通を考慮した平安京に移したとする勅語
平城京での当時の飢饉や水不足の記録
後に移した長岡京や平安京が流通・水量に優れていること
>>643 >>609 も言ってるけどその考えでこそ宮崎平野部の山地の麓に近い場所がなおさら適地で
都城はシラス台地で米の生産に向いてないし、大量の人口をまかなえるほど食糧を備蓄できる場所じゃない
それを
>>584 が他から(都城に)もってきてた、都城で戦いなんて考えてない(穀倉の防衛なんてアウトオブガンチュー)
と珍言を出してることに始まってる
その上で熊本側からにしろ宮崎側からにしろ流通に不便という話になってるんだよ
日本の古い神社の多くが宮渡りや分社を多く持つ事はこの 「首都の移動」という支配者の行動に即したものだったのだろう。 彼らはある時期は都城に、ある時は西都に移動し続けた。 農民達が、生産効率が良く完全な定住生活を営める水田が発達するのは4世紀以降の話だ。
>>643 自ら都城は邪馬台国連合には参加していないといってるようなものだね
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史」
の記事と矛盾している
少しは北部九州の遺跡を調べたほうがいいね
どこで産出するものが北部九州に運ばれ、北部九州で製作されたものがどの範囲に
広がっているか
地名が一致するのは太平洋側だけじゃなく日本海沿岸も同じ それが全部王都だったら九州から関東まで一周しなければならなくなる 開拓集団が造った都市や海人族の拠点だね
宮崎市の檍遺跡で弥生時代の北九州の土器とか見つかってるから交流があったのは間違いないし 流通の外とカミングアウトした都城さんは自ら邪馬台国の可能性をボッシュートで〜す
650 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 18:42:21.20
つーか一切ソースださず逃げたな都城馬鹿
「桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼」(後漢書) 146年以前は北部九州にいた王統が絶え、女子を共立して大乱が治まるくらいだから 卑彌呼は分家の可能性がある 後漢に貢献した北部九州の王都が転々と移動していったわけではなかろう
652 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 19:53:50.48
>>645 単なる桓武の自画自賛、言い訳にすぎん。その前に、桓武は。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」と
して長岡京へ遷った、そこは確かに地理的には便利なところだったが、災害があって逃げ出した。その先が平安京だよ。
653 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 19:57:58.02
>つーか一切ソースださず逃げたな都城馬鹿 出してやったところで、理解能力はなさそうだ。
>>652 何が言いたいんだ基地外都城
ソースの否定にはなってないぞ
都城の恥は糞そのまんま東だけにしてくれよ 日本史板まで都城人の糞っぷりさらすな ソース出せないならそれでお前の負け
656 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 20:04:27.16
一番のところを選んだのなら遷る必要はないはずじゃなかったかな?
657 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 20:06:36.08
都城人はソースは?またわけわからんこといいだして逃げるの
658 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 20:20:31.83
うぇるね〜すみやこ〜のじょーうぇるかむみやこのじょー
>>656 何を言いたいのかわからない、つーか話題そらしのために
荒らしてるだけだろお前
>>641 で平城京が流通に不便であったソースを求めて
>>652 でおまえ自身が「確かに地理的には便利なところだった」と認めた時点で
お前は
>>645 のソースを認め、長岡京が地理的に便利と認めたんだからその話は終わり
そしてここは平城京の話をするスレではないのでこれ以上はスレ違い
そんで元はお前が都城が邪馬台国の首都だとかほざいて京都や奈良より利便性があると言い出したのが本筋
>>613 こっちはスレに該当した話題なのでそのソースを出せと再三要求したにもかかわらず逃げてるよな?
今度はお前がソースを出す番だし、違う話題にもっていくなら自分で荒らしだと認めたということでいいな?
盆地は利点も多いんだけどな 去年の台風で奈良盆地だけ大したことなかったように周りの山が風水害からの防御壁になることもあるし 上流部で川の水量が少ないし水運も無いし水の心配が出てきやすかったんだろうけど
661 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 20:29:20.24
人口密度の話からも逃げてるよー都城ー
662 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 20:31:39.46
都城人はすぐウソつくからなそのまんま東にしろ あいつ泉でトップの成績とかテレビ番組で紹介されたけど大嘘だからな
663 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 20:42:20.80
当時、都城から宮崎市に大淀川で下ろうとしてもあの入り組んだ流れではまず無理だろ 危なすぎ
664 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 20:51:48.29
>>659 日本語が読めてないようだな。私は平安京が「確かに地理的には便利なところだった」なんて
言ったわけではないぞ。
琵琶湖の水運というなら、平安京などより草津付近の方がずっと便利だ。
琵琶湖と京都の間には山があるからね。
>>664 荒らしの都城って呼んでもいいね、結局話題そらしに走ったから
「そこは確かに地理的には便利なところだった」
>>652 に文字検索してもあるのに
この言葉が長岡京を指して言ったとしても、ちゃんと
>>645 に長岡京のことも書いてるから
平安京のことをいったんじゃない!とか言い訳は通じないぞ
じゃあね、スレ違いで荒らすしかできない荒らしの糞都城さん
666 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:01:29.89
みやこんじょはウゼーな さすが熊本をなかったことにして南九州で第三の都市と名乗るだけある
667 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:03:47.72
ああ、そんなだからアホ丸だしで邪馬台国の都が都城にあったとか 恥もなくいえるわけかw
668 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:03:54.98
都城www ようやくスルドイ場所に目が付き始めたな
669 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:06:31.52
>>659 ソース、ソースって○○の一つ覚えってやつだな。交通の利便性なんてのは地図を
みれば分かるだろうが。奈良も京都も細い川しかない。主要な交通路からはずれて
いる。とうてい交通の要衝という位置ではない。
都城は宮崎から鹿児島湾へ抜けるにも、えびの、川内と抜けるにも通り道になると
ころだ。昔から交通の要衝と言われているところだよ。知らんだろうが。
都城は山にかこまれた要塞だ!とか上でほざいてるけど 当時の人口であの面積を南側だけでも封鎖できるわけないだろ それなら同じ山間でも田野辺りの方がよほどまとも 田野は西日本最大クラスの大規模な集落跡も出てきたし
671 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:10:31.21
>>665 何を言いたいのか意味不明だな。まずは文章の勉強からだ。
672 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:16:32.69
>>670 >都城は山にかこまれた要塞だ!とか上でほざいてるけど
どこにあったかな?
>当時の人口
いくらだと思っているんだ?
>封鎖できるわけないだろ
封鎖せにゃいかんか?
673 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:17:44.04
>>671 横からだけど相手は最初から長岡京と平安京の両方指して言ってるから
お前が長岡京のことを指したとか平安京の話はしてないとか言い訳しても無意味って話だと思うけど
674 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:18:25.25
675 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:19:31.22
>>672 南に敵対してる狗奴国あるのに封鎖しないで招き入れてどうすんの
676 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:25:43.44
入ってきたらつぶすチャンスじゃないかな?
677 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:28:03.92
>>669 いつの話してんの?
昔は汽車もトラックもないから運搬は水路メインだよ
その上で交通の要所に都城がなってたなんていつの話?
678 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:29:53.85
>>676 招き入れて潰すとかなんのための盆地なんだよ馬鹿だろ
焦土作戦でもするならわかるけど
むしろピンチになるだけだろ
679 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:32:08.69
それは君の思い込みだ。戦い方にはいろいろある。簡単に決めつけることはできん。
680 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:35:49.13
>>677 >昔は汽車もトラックもないから運搬は水路メインだよ
これも思い込み。交通は運搬ばかりじゃない。それに運搬だって水路とは限らん。
人が運ぶということも多々ある。
681 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:40:03.60
>>679 当時から山に逃げ込む形で高い場所に篭城拠点作ってる遺跡多数だし
戦国時代だって山城や石垣を積んだ城がメインで高い場所から弓や投石が有効なのに
わざわざ盆地にあるのに入口塞がないで入れてお互い平坦な場所で戦う意味なんてねーよ
もう馬鹿は黙ってろ
682 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:42:24.09
>>680 米俵とか担いだことないだろお前
牛使うにしたって運べる量は船より遥かに少ないし
不安定な山道経由する場所では牛も使えない可能性高い
683 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:44:06.32
弥五郎どんって知っているのかな。 都城は隼人の本拠地だろう。
今いる都城馬鹿を見てると確かに熊襲や隼人に通じる蛮族並の頭の悪さを感じる
685 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:53:56.40
そうかな。私はすぐ罵倒に走る連中の方がよっぽど頭が悪いと見えるが。
686 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:57:08.51
687 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 21:57:11.39
罵倒したくもなるだろ あまりに頭悪すぎだもん都城
隼人はむしろ誇称 今でも人名になるくらい
690 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 22:04:30.03
>>686 頭良いなら山間の奥地に人が足で運搬することの労力を考えずに要所になってたとか平然と主張しないだろ……
マチュピチュだって実際は数百人レベルで下手したらそれ以下残してみんな麓に下ってたほどだぞ
そのくらい運搬に不便ってのは致命的だ
メディアやネットで時々見る都城人の電波は確信犯だな 県庁所在地じゃないから埋没しないためにやってんだから別に何とも思わんその意気や良し おかげで延岡よりだいぶ存在感あるだろ
>>689 高岡と市街地では大淀川の呼び名が違ってたことからして
実際は生目あたりまでしか上り下りしてなかったように思う
693 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 22:15:14.20
>運搬に不便ってのは致命的だ 何とか因縁つけて無理だと結論づけようって魂胆のようだが、都城は後世島津氏が本拠にしたところ だからねえ。南九州においては重要な地域なんだよ。まさに要衝。
694 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 22:19:34.78
僻みの火がたまらず付いたな 物事には裏の秘密が隠されてることがほとんどなんだよね 鳥 → 空 → 隼人 動物 → 地上 → 熊襲 虫 → 地 → 土蜘蛛 魚 → 海底 → 蝦夷 あと熊襲は素人の捕らえ方ではなく 古代から熊の概念は神聖象徴を表すように 朝鮮神話の主人公とも言える熊との関連性を暗示され 南九州の韓国岳の呼称は古代朝鮮半島と繋がりを比喩してる
ローカルスレもここに極まって来たな。 県外の人間はもう誰もいないんじゃないか?
696 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 22:25:01.23
そんなん知らんがな
>>693 >都城は後世島津氏が本拠にしたところ
あくまでスタートした場所であってその島津氏は出水平野に移ってるんですが
その後も紆余曲折あって島津氏は鹿児島市が本拠で
都城にいたのは分家の北郷氏、都城島津氏
篤姫のときも島津氏発祥の地ではあるので鹿児島差し置いて 島津で儲けようとして鹿児島人にブーイング食らってたよな都城人
699 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 22:30:27.32
いろいろ最低な土地なんですね都城
700 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 22:32:12.31
島津家本家筋は鹿児島市に今も在住しております。
邪馬台国と狗奴国の戦闘もこんな感じだったのかな?w
702 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 22:56:07.93
都城が島津の本拠だって言い張って鹿児島にまで喧嘩売るんだから 邪馬台国連合どころか狗奴国にまでボコられる一部族みたいなもん
島津氏の九州でのスタート地点なのは確かなんだけどね>都城
704 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 23:13:57.22
島津氏だって重要視したのは琉球からの密貿易ルートになる港や国内を繋ぐ港で 都城なんて蚊ほどにしか思ってなかったろ
705 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 23:20:55.54
しかしまあ、都城盆地が古代人にとってもっとも住みやすい 土地だったのは確からしい。 宮崎平野や肝属平野は恐らく、津波に襲われたこともあっただろうな。
706 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 23:21:37.87
激しいな出水厨の都城攻撃はw
東北の震災みたいにリアス式海岸じゃないんだから津波は高くならないんじゃないの 少なくともある程度の間隔で来るんだから、来る地域はそういった伝承があるはずだが聞かない どっちかといえば大変なのは台風だろう 大淀川は確実に氾濫するし
708 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 23:28:26.04
この前の新燃岳でもわかるように 火山灰で作物駄目になったり土積流もあるから都城も完璧ではないんだがな
氾濫農耕 河川の氾濫が引いた後の肥沃な沖積土を利用して耕作し収穫する農耕のこと 古代文明の発生した場所で行われた基本的な農耕である(wikipedia)
711 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 23:41:36.75
宮崎平野は、氾濫を繰り返すところで住みにくい。西都原は墓だらけでやはり人が住む ような所ではない。日向の数千基に及ぶ古墳を残した人々はどこに住んでいたのか? そう考えりゃ、自然に結論はでるわな。
712 :
日本@名無史さん :2012/04/27(金) 23:43:22.94
都城は真上の文章すら読めないアホなんだろうな
西都原の古墳にしろ中期以降のものだったり 邪馬台国時代のもので占められてるわけではないのに 古墳だらけで住めないことになってるお馬鹿脳
当時最大人口地帯の筑紫平野に二万戸の奴国で それよりも遙かに過疎地帯の南九州に (筑紫平野の人口密度に匹敵するのは都城付近の狭い範囲だけ) 五万戸の投馬国と七万戸の邪馬台国があったと言うのは無理が過ぎる。
所詮入植地の役割りでしかないだよ 勘違いしないように今も古代も北九州地方は
>>714 倭人伝は南と東南を区別している。
東南でなく
南至邪馬台国とある時点で宮崎は完全消滅だしな。
>>714 西日本最大の縄文後期の本野原遺跡とか田野にあるんだし
弥生時代にそれなりの人口になっててもおかしくないんだが
その後の時代の古墳の数が多いのもあって確実にいないとおかしいし
世有王皆統属女王国で宮崎説は頓死だな。 北部九州の国が 宮崎の国に代々統属するはずもないし、 証拠も痕跡も皆無だしね、
719 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 00:02:34.72
>>714 もう都城は狙ってやってるのかと思うほどもはやその文章のデタラメさが気持ち悪い
>>716 逆読みをしたりの乱暴な解釈はしてないよ
陸行で水行くしたとこから逆戻りするような不自然さがなければ、具体的には
南に水行して上陸地点から東〜南〜西の範囲で陸行なら別に強引でも不自然でもないと思う
全体としては南至で合ってるし
>>720 事実だが
筑紫あたりと同じ密度と言うなら本野原遺跡くらいの規模と密度のある住居跡は都城にあるの?
>>718 伊都國王が属していた国の王統の傍流が北部九州以外の地域に移住している
可能性があるのでそうとは言えない
貝塚だってそれなりの人口いないと出来ないだろう 宮崎は青島付近に最大級の貝塚あるし
721続き 上陸地点から東〜南〜西の範囲なら可だとすれば、南には投馬国がある、西は天草諸島だけがある、 さらに南に狗奴国があるから南端ではない、となるとスレタイの地あたりから都城あたりまでしか残らない
>>721 >全体としては南至で合ってるし
いくら屁理屈こねても合ってないし。
727 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 00:29:27.13
>>649 みたいに北九州と交流あった跡は都城にはあるの?
檍遺跡は檍中あたりっていうから川沿いで河口に近く海と繋がる地域で
都城経由でなく海路で繋がってたとみられる場所だが
魏の正使は律令国家でもない島国の日本内を一月も陸行しないだろう ほとんど水行だろうね 行程記事は『參問倭地』した名も無きおじさんの話だろう あと投馬國や邪馬壹國は韓伝の戸数と比較すると連邦のように考えた方がよさそうだね
五万戸の投馬国と七万戸の邪馬台国が南九州にあって 邪馬台国を脅かすほどの狗奴国がさらにその南にあっただと? 馬鹿じゃねーのか?
730 :
ほれ :2012/04/28(土) 00:55:09.57
------------------ | 朝鮮 |沃租不而 | | 1万戸 | ? | ------------------ | 馬韓 | 弁辰 | | 10万戸 | 5万戸 | ------------------ ------------------ --------- |女王國以北| 邪馬壹 | | 投馬國 | | 3万戸 | 7万戸 | | 5万戸 | ------------------ ---------
五万戸の投馬国と七万戸の邪馬台国が南九州にあって 邪馬台国を脅かすほどの狗奴国がさらにその南にあっただと? しかも 九州中部北部の女王國以北3万戸だと? 馬鹿丸出し、
戸数だけは信頼できるのかw
戸数も信用できない情報だとする考え方はできるだろうが、 そうなると朝貢記事自体が信用できなくなる 考古資料と記紀、伝承に頼るしかない
朝鮮半島のものはある程度は信頼することもできるけど、倭国内のものをどうやって知って書いたのだろう。 戸数の方が詐称や想像妄想の可能性が高いと思うのだけど。 特に投馬国の戸数なんてどうやって知り得たのか。 そもそも当時の倭に戸籍なんてない。
邪馬壹國までの距離や場所を正確に伝えていないのは明らかだが 戸数は軍事力に関わる情報なので、大雑把ではあるだろうがある程度は 魏も把握している必要がある 下手すると後の時代のように倭国が半島に侵攻するかもしれない 戸数を誇張している可能性はあるが… 戸籍も当時の中国の人口を正確には反映されていない
その通り重要な情報だから真摯に記述しようとはしていたのかもしれないけれど、 倭の人間に言われるままに書く以外調べる手段も知る手段もなかったはず。 距離や場所も伝聞だけのものはそうなんだけれど、実際に水行陸行したぶんについては正確性は増すよね。 だからどちらかと言えば戸数より距離や場所の方が割合に信頼できるのではないかと自分は思うな。
それは確かに一つの考え方ではあると思う 実際どうやって戸数を計算したのかはわからないし、 見聞した使者が倭国内をどこまで訪問したのかもわからない ただ言えることは、我々は邪馬壹國の位置が知りたいから正確な行程情報がほしいと考えるけど 倭人伝を読む晋の知識層にとっては東方の島の中のどこに王都があるかよりも どの程度の国力をもった国なのかの方が重要ではないだろうか
738 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 05:49:32.77
倭人伝の原資料を書いた使者は、かなり堅実な書き方をしているよ。倭人から聞いて書くならば、 旁国の道里を書けないはずはないのに、書いていないところにそれが出ているね。 邪馬台国七万、投馬国五万も大ざっぱな数字ではあろうが、まず信頼していい。北九州に比べて 多すぎると思うのかも知れないが、両国はそれだけ広い領域をもっていたということだろう。 それに北九州は倭国乱の敗戦国、南九州は都の所在地、人々が都に集まるというのはいつの世で も同じだろう。狩り出されて集まる兵士などもいれば、職を求めて集まる連中もいたはずだ。
739 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 05:59:49.70
>>714 >(筑紫平野の人口密度に匹敵するのは都城付近の狭い範囲だけ)
お、自分で一生懸命調べたのか?感心、感心。
だが、日向全体にある多くの古墳はたくさんの人が住んでいたことを示す客観的
証拠だ。北九州の何倍になる? それを無視してるようじゃまだまだだぞ。
740 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 06:09:07.74
>>716 伊都国から南だ。伊都国は佐賀市付近、そこから都城盆地ならば
文句あるまい? まさに南だよ。
北部九州が倭国乱で南九州に敗戦して南九州にあった伊都國が北部九州に 移動してきたというストーリーかな でないと代々の王が皆女王国の統治下に属していた説明がつかないね 無理やり邪馬台国を地元にもってこようとするとだんだんおかしな想定が必要になってくる
742 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 08:59:31.09
伊都国、奴国はもともと北九州の国だろう。歴代の王が女王国に統属していたと いう読み方は誤読だよ。魏略と倭人伝は同じことを書いているにすぎない。 邪馬台国を地元に? 私は都城や宮崎とはまったく関係ない。
>>732 >戸数だけは信頼できるのかw
南という方角を無視し
末盧国から二千里と言う距離を無視し
戸数を無視しなければ
成立しないのが宮崎説。
惨め、悲惨。
744 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 09:19:36.80
倭人伝はしっかりした史書だ。全部を信用していいんだよ。 それが都城説だ。
>>793 >日向全体にある多くの古墳はたくさんの人が住んでいたことを示す客観的
証拠だ。
九州の平地が遺跡の宝庫だ。
南九州に狗奴国、投馬国、邪馬台国を押し込めるのは到底無理。
すなわち
宮崎説はゴミ屑。
>>742 「世有王、皆統屬女王國」をどう解釈しているのかな
747 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 09:26:32.73
残念ながら南九州に全部を押し込めているわけじゃないんだよ。
都城と否定派の二人の馬鹿は基本俺がそう思うからそうに違いない のワンパターンな発言で荒らししかしない 上で生目古墳群などのものが奈良と相似してることとか考察したり 宮崎説を真面目に考えてる人の話は実証と照らし合わせて話を展開して とても実のある話してるのに以上の二人が基本荒らしてるだけだしな
>残念ながら南九州に全部を押し込めているわけじゃないんだよ。 何の場所比定の説明もなく言っているだけ。 残念だろうな。
750 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 09:47:47.43
>>746 魏略には「其国王皆属女王也」とあり、「対馬、一支、末盧、伊都と順次に
その大官、副官を掲げた後、これを受けて其国王皆属女王也というのである
から、其国王とは以上列挙した各国の王を意味すると読むべきか」と指摘さ
れている。倭人伝も同じ資料をもとにしているんだろう。
それと同様に読んで、各国の王は世襲であり、各国は皆女王国に統属してい
ると読むんだよ。それが正しい読み方。伊都国に限定して読むのは誤読。
751 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 09:49:51.56
>>750 誤読と断定しているがその説は学者間では通説となっているのかな
753 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 10:12:30.95
学者は判断しかねているようだ。榎は、対馬国以下伊都国までの諸国に歴代王のいた ことを示し、「皆統属女王国」は現在それら諸国が女王国に属していることを言って いるとも考えられる、とし、要するにこの部分はいろいろに解釈できる、とするだけ で終わっている。
>>753 榎氏だけでなく学者の多数に支持されている説なのかどうかを尋ねたんだが
誤読と断定しているのは君だよね
755 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 10:20:47.96
当然だろう。
で倭国大乱時に伊都国、奴国をはじめ北部九州の国々が都城中心の南九州勢力に征服された というのは何か根拠があるのかな 君がそう思う以外に
757 :
良ババ :2012/04/28(土) 10:39:09.85
●都城の評価について。
大河川の上流部にある盆地は優良地で、勢力の強い豪族や王族に与えられる。
九州では日田盆地、人吉盆地、都城盆地がそうだ。
とくに、諸県郡から肝属郡にまたがる地域は弥生の人口密集地であり、
都城盆地はこのエリアを支配した勢力の中心拠点と思われる。
このことを大淀川下流域の古墳群や、肝属郡・志布志湾周辺の古墳群が伝えている。
(墓のあるところが勢力の中心地と考えるのは短絡。墓域は郊外につくられる。
よって、大淀川下流域の古墳群は都城勢力の墓域とみる)。
都城については、非常に興味深い意見がある。
●都城は、明治42年以来、熊本に本部を置く歩兵第六十四連隊駐屯地があり、
それを引き継いで大正十四年には歩兵第二十三連隊本部が設置され軍都の顔を持った。
●大正の末に連隊が古墳調査を目的に次々に田畑に変えたという。そのせいで、鳥見山の周辺に古墳が一つもない。
●地元民の間では、田畑を耕しているとき古代の遺跡・遺物に出会ったという人がいる。
●小野榛は、日本書紀に「上小野榛と下小野榛にして鳥見山の地号なり」と有り、現在の高野原が小野榛に当たる。
この山の中腹に、祭壇か城跡とみるべき広大な平地が幾重にも段をなしている。
(以上は『邪馬壹國』
http://www.btvm.ne.jp/~g-taka/mokuji1.htm )参照
都城がただならぬ土地だったことが汲み取れる見解だ。
この天才は、人吉盆地が狗奴国、都城盆地が投馬国で、
両者はもともと、南の隼人に対するクサビとして配置された有力国だったとみる。
のちに狗奴国が男王を担いで女王国側と対立する。
参考までに、西都市は「児湯郡」にすっぽり包まれている。ここが呼邑国。
西都原はもともと「斎殿原」だが、文字通り倭国の国家的葬祭センターという意味だろう。
(この土地は、山脈の傾斜地が海側まで迫って耕地が少ない。「ヒエつき節」がそのことを証明する。
この土地に、2〜300年間にわたって大古墳を造営・維持した勢力が存在し得た可能性はないから)。
宮崎偏重言説もそろそろ幕引きの時期ではないか?
759 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 10:52:02.77
>>756 以北の国々は、女王国に統属している。そして、女王国は以北に一大率を置き、以北の諸国はその一大率を
畏憚している。この厳しい支配、服従の関係がどうして生じたのか?
倭国の乱で、以北の国々が実質的に敗戦国だったこと意外に考えられるかな?
しかも、古墳時代に入ってから、邪馬台国は繁栄を続ける、一方、北九州はジリ貧だ。上の見方が裏づけ
られているだろう。
>>759 戦勝国側が都城を中心とした南九州勢力だという根拠になっていない
古墳時代に入って繁栄を続けるのは畿内だね
761 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 11:09:12.61
アホか、邪馬台国がどこにあったかは北九州の様子をみただけでは分からんだろう。 倭人伝の行程記事やその他の記事から判断することだよ。
結局根拠が行程、風俗記事しかない それでは南九州の中で都城が王都だという根拠にならない
そして君の説だと狗奴国が九州島内にいないことになる 種子島を想定しているのか
764 :
良ババ :2012/04/28(土) 11:39:35.18
765 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 11:40:07.42
>結局根拠が行程、風俗記事しかない。それでは南九州の中で都城が王都だという根拠にならない それらの記事で絞ってあとは地形、地名、遺跡等で考えるのさ。 それ意外に証拠がありえるかね? > 君の説だと狗奴国が九州島内にいないことになる そうとは言えないね。九州島内だろうと思うよ。種子島の可能性も0とは言わんが。
>あとは地形、地名、遺跡等で考えるのさ それが昨日話してる内容かね >九州島内だろうと思うよ 九州を北に制圧するときに元より不和の狗奴国は避けて通ったのかな 君の行程ルートからすると熊本にはないようだが 北部九州に達した段階で後ろに抱えることになるな
767 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 12:07:25.91
>それが昨日話してる内容かね そうだね。全部ではないが。 >北部九州に達した段階で後ろに抱えることになるな そうかも知れんが、ちがうかも知れない。
768 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 12:09:00.61
「日本古代史を科学する」中田力著(PHP新書)を読みました。 中田先生は、爆笑問題のニッポンの教養にも「こころは水で作られる」と題し出演したことがある。 この人、東大医学部出の脳神経外科の権威なのだけれど相当電波が入っていて自信満々。 この先生が邪馬台国は科学的に見て西都原に間違いないと自信を持って断定している。 後は遺跡を掘り当てるだけだと俺も思う。 さあ、みんなで掘ろうじゃないか!
769 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 13:17:36.57
諸県という地名も前から気になっていたのだけれど、 御諸山(三輪山)と同じ聖なる山という意味に使われていたのではないだろうか?
770 :
日本@名無史さん :2012/04/28(土) 17:13:41.46
そういえば諸県は三輪さんが多いな。 那須姓も平家落人の那須よりずっと前からあって その子孫が平家那須家の子孫、って椎葉の奴が言ってた。 要するに、縁故を頼って戻って来たのが落人伝説。
771 :
良ババ :2012/04/28(土) 17:34:34.16
都城には、鳥見山、豊満(とみ)、トンビが丘てのもある。 奈良の外山(とび)、鳥見山、登美が丘てのもあるし、 登弥神社の祭神はニギハヤヒだとか。
机上で一般論を巡らせて考えれば盆地は好条件的に見えるところもあるけれども、 いずれの盆地も水に関する問題で悩まされていることも同時に巡らせなきゃならないね。 さらに一般論が通じないこの地方特有の火山灰土についても考えなきゃならない。 シラスというのは今でも下の下の土とされる。
・・もうひとつ
もうひとつ。 諸県という地名は都城地域から出て拡大した名ではない。
http://g.co/maps/b39eb A 持田古墳群 4世紀初〜
B 川南古墳群 3世紀末〜
C 新田原古墳群 5世紀〜
D 西都原古墳群 3世紀後半〜
E 三納古墳群 5世紀〜
F 本庄古墳群 4世紀後半〜
G 生目古墳群 3世紀後半〜
H 下北方古墳群 5世紀〜
I 檍古墳群 3世紀後半〜
宮崎平野と大隅半島の隼人は全面戦争はしてないように思うんだけど やってたっぽい?
都城よりも延岡の方が弥生時代の鉄加工してた跡とか出てたり よっぽど戦争も強い可能性高い
予想っていうか想像だけどたぶん全面戦争まではやってない気がする 畿内の勢力に吸収されてから共に戦ったか戦わせられたか 6世紀ごろに作られた地下式横穴墓っていう共通の形式の墓があるしね
神話では北の五ヶ瀬と南の神武で東征してるし 吸収されたというより退散して占領されたと見る
あと薩摩、大隅、日向の隼人と人吉、熊本南部ってまた少し違う民族のように感じるんだけど 文化的にはどうなのかな、同族的な感じなの?
781 :
日本@名無史さん :2012/04/29(日) 00:33:07.96
昭和天皇は宮崎によく来ていたなあ。 明らかに宮崎に愛着を持っていた。
隼人は天皇の近習になってるしね
柄鏡形の前方後円墳は撥形に続くくらいの結構古い形式なんだけど、 その形式の古墳には日向市の富高2号墳とか延岡の南方1号墳10号墳とか宮崎県北にもある 南で古墳が作られるようになるのはまだ少し後 肝属平野でも5世紀中ごろには始まって有名なものに横瀬古墳とか唐仁古墳群がある そのころに同じ連合体共同体に入ったってことなんではないかな 直後の段階で肝属平野〜西都原の範囲で地下式横穴が作られるようになった
784 :
日本@名無史さん :2012/04/29(日) 01:09:24.41
>>777 生目と下北方の古墳群のすぐそばからは弥生時代の環濠集落も見つかってる
そこじゃない他の遺跡だけど鉄加工の痕跡とか東の海に近いとこは技術が高い少し違う匂いがするな
>>768 こんな話もあるよ
野毛大塚古墳 呪い で検索
バカな大勢には理解困難な秘密めいた暗号がある真実 ユダヤの血統から輩出した 偉大なアインシュタインの預言は色々確信させてくれて嬉しいね
>>785 盗掘とか私利私欲が目的でなければ大丈夫。
吉村教授がのろいで死んだという話はまだ聞いてない。
きちんとお払いをしてから掘ろうじゃないか。
788 :
日本@名無史さん :2012/04/29(日) 09:27:55.13
日向からは蛇行状剣もたくさん出ているよ。
発掘調査始める前に神事はするけどなw 場所によっては相当盗掘を受けてるな
790 :
日本@名無史さん :2012/04/29(日) 09:54:54.22
生目古墳群(いきめこふんぐん)にある地下式横穴墓1号墳は全長136メートル、高さ17メートルの前方後円墳。 一説にわが国最古の前方後円墳といわれ、畿内の箸墓古墳はこの古墳を2倍に拡大した相似形と言われている。 これが神武東征の動かぬ証拠だ。
地下式横穴墓1号墳って何だよw 生目1号墳って円頂部でも正円をしてなくて卵みたいな形してるな
西都原の菜の花畑と桜で泥酔してお祭騒ぎしても呪いが無いところを見ると被葬者も怒ってはいないようだな
正円じゃないって古い古墳の可能性がありそうだね。 纒向○○古墳も正円してないんだけど。
布留0とかに頼ってたら畿内説に対して優位に対抗することはたぶん永遠にありえん 樹皮まで残存してる木材など出土してその年代測定結果が驚くべきものとかがあれば面白いが
795 :
日本@名無史さん :2012/04/30(月) 09:24:31.27
畿内の測定だけで遡ったといっても何にもならん。そのうちに九州の測定をして シュンとするだろうよ。
まあ、真実は変わらないのだから、いずれ邪馬台国は西都原にあったことがはっきりする日が来るだろう。
纒向と同じ時期の墳丘について明らかにならんとどうにもならんね
798 :
日本@名無史さん :2012/04/30(月) 23:48:19.75
箸墓古墳は生目古墳群1号墳を2倍に拡大した相似形だ。 それは神武が東征の証として築造させたからだ。
799 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 00:01:12.99
西都原は元は斎殿原(斎場であり墓場) 生目古墳群も斎場であり墓場だったのだろう 生目を斎殿とした集団が何処にいたのか?
生目にいたんだろう
都城から宮崎に歩いて行こうと思ったら今の国道使っても日の出から日没まで使ってやっとかっとだよ 当時なら2日か3日はかかってたろ そんな離れたとこに作るのか?
802 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 00:42:36.58
斎殿は「神をまつる建物。また、潔斎のため神職のこもる建物。」(三省堂 大辞林) だから祖霊信仰が行われていた時代には斎殿が古墳のすぐ近くにあったということだろう もしも西都原が古墳文化の原点であり、この古墳を造らせた王が山を隔てた場所にいたなら 日本中の古墳(西都原以降のものでその影響があると考えられるもの)は全て宮崎の場合のように 遠く離れた場所の都市の首長が造らせたものということだろう 大和の古墳だと奈良盆地から山を隔てたところに王都があったことになろう
803 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 05:00:16.30
804 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 05:58:54.10
第二、第三の宮邸を造っておくさ。
805 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 06:40:38.62
電波甚だしいがひとつだけ望みがある 箸墓は他の纒向のものとは形状が明らかに一線を画している もし生目の1号墳が箸墓より先に作られていたとなったら激震だろうなw まあないんだろうが
807 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 07:59:04.06
あるかもよ。畿内の古墳は槨があるが、日向にはそれがない古墳がある。
809 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 12:38:39.98
山幸彦が都城人だとして・・・ 山幸は川を塞き止めて田を枯らし、海幸が困り抜いて水を流してくれと言ったら 一気に流して村を全滅させたりめちゃくちゃ酷い事ばかりしてる。 しかもそれを毎年やった。 そもそも海幸の釣り針無くしたてめえが悪いのに逆ギレしてな。 やっぱろくなもんじゃねえな盆地民族は。
しかも貸せと言われても海幸は何度も断ったのにな 山幸は根性がひねくれとる
811 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 13:14:04.42
海幸が隼人(吾多)で山幸はヤマトだろ
812 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 16:05:53.50
実は古事記や日本書紀の史実には 一度たりとも大和民族って名詞は書かれてないんだよね あくまで天皇血筋の家系図が華で書かれているだけだから 論理性がないんだよ大体、大和民族って!(笑) 自分が何処のアイデンティティーが不明なのにかぎって 歴史本や学術雑誌で盛んに書き出したのが大衆に広がっただけ アメリカや外国行って大和民族って横の繋がりがある訳ないだろ?
なんで大和民族の話がでてきたんだ?
814 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 17:57:45.90
主観的論理性欠如と客観的論理構築の力強い考察
盆地人が山幸で平野人が海幸なら結果的に平野人は盆地人に屈したことになりますぜ
816 :
日本@名無史さん :2012/05/01(火) 22:05:53.25
地下式横穴簿というところが問題なんだよ。 秦の始皇帝陵は地下に造られた神殿。それも埋め戻したものだ。 地下に陵墓を作るのは、より原型に近いものだといえる。
817 :
日本@名無史さん :2012/05/02(水) 03:40:38.81
>>815 海幸が隼人なら、かなり早いうちから屈服してる。
しかし、屈服させただけでは飽き足らず、儀式で犬のまねをさせたりとか、
いちいち陰険なんだよ。
山の陰で土地が暗いから人もそうなるのかな。
地下式横穴墓と古墳作ってた地域はだいたい一致するんだけど死者への概念とか違ってたんかな いったん縦坑掘ってそこから横に向かって掘って玄室作って埋める地下式横穴墓 縦穴掘って板石をまつぼっくりみたいに積み上げて直接埋める地下式板石積石室墓 板石積は抱石葬と似た概念も含まれてたっぽい?
819 :
日本@名無史さん :2012/05/03(木) 07:02:41.33
横穴墓は使者から薄葬主義を教えられたせいでは?
>>817 勝った側が卑怯というか姑息というか…
きれいじゃないのは対クマソ戦のヤマトもそうだよ
ヤマトのオロチョン族を退治したスサノウの手口も和平を申入れて酒でたらしこんで殺したわけだし、 古代の戦いなんてみんなそんなものなんじゃないの?
犬のまねということで気になるのは、現在の中国貴州の苗族の間で受け継がれている歌垣の風習だ。 谷を挟んで男女が歌を歌って誘い合う。遠くまで声が届くよう犬の遠吠えのように聞こえたのだろう。 花いちもんめのルーツも歌垣といわれている。 古代中国に住んでいた東夷や南蛮は倭族であり、かって長江(揚子江)に文明を築いたが、 漢の時代までに周辺に追いやられ、東南アジアから極東にまで広がったのだ。 現在の貴州の少数民族の風習には、今の日本にある神社、鳥居、正月のシメ縄などのルーツを見ることができる。 そう、佐伯とは倭族なのだ。
●『延喜式』巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」 と記されており、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、 隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られている。 井上辰雄らは、狗吠(犬の鳴き真似)行為や身につけている緋帛の肩巾(ひれ)や横刀が、悪霊を鎮める呪声であり、 呪具であった事を明らかにしている。 ●ヤオ族(-ぞく、瑶(よう)族)は中国湖南省から雲南省、東南アジア北部の主に山地に広く住む中国の少数民族である。 自称はIu Mien。道教の神である盤古を信仰し、宗教指導者は漢字を用いる。 古代中国の王女と犬の間に生まれた12姓のヤオ族を始祖とするという民族の伝承を有し、 この伝承が史記に取り入れられ、後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。(以上wikipedia)
824 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 11:08:37.59
>>817 >海幸が隼人なら、かなり早いうちから屈服してる。しかし、屈服させただけでは飽き足らず、
>儀式で犬のまねをさせたりとか、いちいち陰険なんだよ。
屈服させたというのが本当ならば、そんな相手を警護者にするだろうか?
寝首をかかれるだけだろ? 警護させるというのは、その者を信頼しているからだよ。
高千穂は霧島山の高千穂峰のような気がするんだがな。 南の高千穂は目立つ大きな山だが北の高千穂はでかい山体の目立つ山なんてないしな。 北の高千穂は県北の伝承や地名を考えると後の話じゃないのかな。 海幸山幸の話も意外と平野人と盆地人の話だったりしてなw 都城盆地人が大淀川をせきとめて壊せば下流の宮崎平野は洪水で壊滅する。 当然そんな技術は無いが洪水には悩まされたろうしそういう想像がされてたのかもしれないな。
>>824 妙な話だよな。
隼人が敵対をやめた熊襲なのかそんなに相手に寝首を掻かれかねない役目を任すか。
隼人と熊襲の違いはもっと大きいのかもしれん。
単純な旧敵対勢力の話とはとれないな。
阿多隼人の薩摩半島南部地域は地下式板石積石室墓もほとんど無い。
文化が違ったんではないか。
で、熊襲だけど熊襲は熊の襲という意味で日向の襲もおっただろう。
大隅薩摩も日向の内だった。
つまり熊襲とはもっと狭い範囲の薩摩北部球磨天草あたりだったんではないかな。
さらに阿多隼人の薩摩南部は木花咲耶姫の出身地であるとも言われる。 隼人とは厳密には攻撃したことのない地域の阿多隼人のことではないか。 サクヤ姫とかそんな時代に大和ヤマトが交戦しているとは思えない。 宮崎平野勢力が隣接し交戦していた大隅薩摩北部勢力を挟み撃ちにする目的で薩摩半島南部勢力と結んだ そんな話を神話に取り入れたんでないかなあと思う。
もう一つすまん。 投馬国とは薩摩川内あたりのことでなく南端に近い南さつま市あたりだったのかもしれん。 途中が危険なので行こうとすれば水行でしか行けない。行ってない。 だから水行20日と大きく飛んでる。 予想なんだけどな。
829 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 12:19:23.12
考古学的にみて、大和と南九州が戦った形跡はないよ。 南九州は弥生文化から古墳文化にスムーズに移行している。南九州の中に古墳が造られた 地域と造られなかった地域とがあるが、副葬品は似たようなものだ。戦いがあったら造ら れたはずの環濠や山城などもほとんどない。
九州は大和から遠いので、中央政権の基盤が衰えて統制が緩むとすぐに独立色を強めた。 薩摩藩は江戸幕府に隠れて南蛮貿易で巨万の富を築き、発言力を増して行ったのだろう?
831 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 17:09:55.81
>>827 隼人はその習俗から察するに、最古の部類の縄文系だろう。南朝鮮まで広がっていた民族と同根だろう。
大きな意味では、大和民族と同根の文化圏にあったのだと思う。
山幸と海幸が兄弟として描かれるのも、そういう意味があったのかも。
縄文系は蝦夷征伐でも解る通り戦闘に長け剽悍。背が小さく顔が四角く、四肢が短く頑健。
後の薩摩武士を彷彿とさせるね。
熊襲はその習俗から察するに、比較的新しい時代に台湾辺りからやって来た海洋民族ではないか。
姶良郡隼人の洞窟を見ると、洞窟壁を文様で装飾するところなどは現在の台湾原住民やその近縁であるアメリカ先住民と同じ。
逆に縄文人にはこの習俗は全く見られない。小樽の洞窟線画も随分趣が違うしな。
832 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 17:17:49.68
記紀に、アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)が行われ、その結果、五天子が誕生したと記されています。 「誓約」について、一般には「占い」と解釈されていますが、それは誤り。 「誓約」(うけひ)とは「政略結婚」のことです。 つまり、ヒノクニ(日の国=九州)の天皇とナカツクニ(出雲と大和)の大国主が、王家を統一するための 政略結婚に合意し、互いの娘を相手側に嫁がせ、子供を生ませること。 これが「誓約」(うけひ)なのです。 アマテラスとは天皇のことであり、スサノオとは大国主のことです。 神武天皇が即位した時代より40年ほど前に「誓約」が成立し、その結果、五天子(五人の皇子)が誕生したのです。 五天子とは、下記の天孫五兄弟のことです。 まず、天之忍穂耳命。次に、天之菩卑能命。続いて、天津日子根命。続いて、活津日子根命。最後に、熊野久須毘命。 この五天子の正体は、彦ナギサ天皇(ウカヤ=フキ=アヘス命)の五人の皇子です。 ・天忍穂耳命→ 五瀬命 ・天穂日命→ 天若日子命(ニギハヤヒ=異母兄弟) ・天津彦根命→ 稲飯命 ・活津彦根命→ 三毛入野命 ・熊野久須毘命→磐余彦命(神武天皇) そう、五番目の皇子、熊野久須毘命とは神武天皇のことなのです。
833 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 17:58:07.04
出雲王(大国主)だった天之冬衣命は、ニニギ命の息子か・・。名前に「天」の字あり。 ・天皇家と大国主家の世代対比 1)ニニギ命 2)ホオリ命――天之冬衣命 3)ナギサ命――大己貴命(大国主) 4)神武天皇――事代主命(王子)
834 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 18:15:17.56
ニニギ=徐福ということでいいのか? そうでないと木花咲耶姫が富士浅間神社の主祭である理由が思いつかないのだけれど。 誰か教えてくれないか?
835 :
天才的史観の人 :2012/05/04(金) 18:31:08.51
>>799 >生目を斎殿とした集団が何処にいたのか?
生目古墳群は都城にいた有力勢力の墓域さ。
>>801 >そんな離れたとこに作るのか?
墓域は郊外につくられるものだよ。
海から大淀川への入り口で、都城からは船で下れば1日。
>>818 地下式横穴墓も地下式板石積石室墓も、 そして横穴墓も装飾古墳も普通の前方後円墳もみな、
一つの共通した信仰的精神性をみせる。
これを理解するには、いわゆる「倭人」と称する民族が中国の少数民族のような民族構成だったと思えば分かりやすい。
基本的には同じ民族だが、海浜、河川流域、盆地、丘陵、山岳など、
棲息エリアによって異なるせいかつ文化をもつ色んな部族がいたということさ。
>>822 >古代中国に住んでいた東夷や南蛮は倭族であり、かって長江(揚子江)に文明を築いたが、
長江文明を築いたのも、呉楚越の領民を構成したのも三苗とか荊蛮、百越などよばれた民族だよ。
彼らは「文身する・お歯黒をする・文字を持たない非漢民族」。
倭人もまったく同じで、日本の皇族・貴族はお歯黒をしていた。
●「倭族」とは、「騎馬民族」「九州王朝」「冊封体制」などとならぶ現代日本人の造語だ。
こういう造語を、安売りの孫引きで使うのはやめたほうがい。
つづく
836 :
天才的史観の人 :2012/05/04(金) 18:31:38.69
>犬のまねということで気になるのは、現在の中国貴州の苗族の間で受け継がれている歌垣の風習だ。
>現在の貴州の少数民族の風習には、今の日本にある神社、鳥居、正月のシメ縄などのルーツを見ることができる。
縄文後期の土器・土偶から銅鐸、銅鏡、埴輪、装飾古墳に至るまで、長江文明が神と崇めた蛇の文様
「渦巻き文・鋸歯文 ・同心円文」が連綿と息づいている。
細かい生活文化をあげればキリがないので省略するが、稲作はむろん、支石墓、環濠集落、高塚式墳丘墓、(横穴墓の原型らしきものもある)、船形木棺、銅鐸祭祀などなど、みな長江流域が源流の文化だよ。
>>824 >屈服させたというのが本当ならば、そんな相手を警護者にするだろうか?
>寝首をかかれるだけだろ? 警護させるというのは、その者を信頼しているからだよ。
いいところに着目した。つねづね俺が主張してることさ。
「寸鉄を帯びず」が鉄則の宮中にあって、24時間、武器を所持して貴人の身辺警護させる場合、
最も信頼のおけるのは、洋の東西を問わず「近親血族」と相場が決まってる。
征服した民族にこれをやらせるバカは絶対にいない。
要するに、支配層と隼人は国策文献がいう通り出自を同じくする同族ということさ。
隼人いろいろで、服従と決めたらとことん服従するのもいるし、断固として服従しないのもいる。
>>826 >隼人と熊襲の違いはもっと大きいのかもしれん。
呉人も越人も基本的には同じ民族だ。これに楚人を加えて、
『三国志』が、勇猛で剽悍で頑固な山越という民族について振れているが、同じだな。
山越がいた山岳地帯は「丹楊」といったが、優秀な兵隊の産地としても知られていた。
>文化が違ったんではないか。
生活文化がほんの少し違っていた。
つづく
837 :
天才的史観の人 :2012/05/04(金) 18:45:07.36
>熊襲だけど熊襲は熊の襲という意味で日向の襲もおっただろう。
いつまでも国策文献の創作にとらわれるな。
真に創作にとらわれるならば、熊襲は福岡県と大分県に多く、土蜘蛛は列島各地にいた。
熊襲・熊鷹・土蜘蛛などは、大和朝廷の統一が徹底・浸透しなかった古代において、
辺境や山岳地帯にいた諸部族のみことだろう。もとはみな同じ民族だ。
>>829 >考古学的にみて、大和と南九州が戦った形跡はないよ。
当然だよ。基本的にはみな長江流域からやってきた民族の子孫だもの。
>>831 >山幸と海幸が兄弟として描かれるのも、そういう意味があったのかも。
創作された物語に史実が混じっていたとしても、脈絡の寸断なされた断片だよ。
装飾古墳は、倭国の政権中枢が大和盆地へ引っ越したあと、
重要な出入り口となる九州の支配と管理を委任された皇別豪族の墓よ。
「なになにの君」は天皇家の一族が名乗ったが、九州には掃いて捨てるほどいたろう。
余計な力をつけかぎないように、領地を細かく分けて与えたが、
それでも筑紫の磐井のような奴がでる。継体と磐井はもともと同族よ。
宣伝するわけじゃないが・天才の論考。
倭人は「文身する・お歯黒をする・文字を持たない非漢民族」。
倭人もまったく同じで、日本の皇族・貴族はお歯黒をしていた。
古くは、三苗族が神とあがめた単身双頭の蛇神をあがめていた。
これがしめ縄であり、出雲や三輪の蛇神へとつながっている。かくいう結論に至る簡単な論考さ。
このスレッドでも「散見されるが・まとまりのない部分」を、独自の視点と史観でまとめたものだ。
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/
838 :
天才的史観の人 :2012/05/04(金) 18:56:13.14
日本人といえど、各都道府県ごとに地域性や気質が異なる。 漬け物一つをとっても、材料も塩梅もつけ方も食い方も異なる。 倭人はかくのごとしだ。 基本的に同じ民族ではあるが、 棲息地域や産物や気候風土によって、生活様式や文化が少しずつ異なる。 そうやって、その地域特有の地域性や気質が形成される。 宮崎だ熊本だ鹿児島だ。九州だ畿内だ。 前方後円墳のルーツはあっちだ・こっちだ。熊襲だ隼人だ土蜘蛛だと。 何かと一線を引かなくちゃ語れんようじ本物の歴史とはいえんぜよ。
その程度の客観的自己評価で 天才的と勘違い出来るんだから凄いね
840 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 20:05:48.21
アホじゃんこいつ↑ 同族に守らせる? そんなアホな事をする支配者は居ない。 勉強し直せ。 なぜなら、利益が共通してるからだよ。利害関係がないんだ。 兄貴を、親を倒したら自分がその利益をがっぽり得るだけで、失うものが無い。 ソイツに流れる相続の権利は自分も有してるからだな。 洋の東西を問わず一番信用の置けないのが同族。 だから警護は、最も利害関係がはっきりしている人間を選ぶ。
841 :
天才的史観の人 :2012/05/04(金) 20:50:48.00
>>839 >>天才的と勘違い出来るんだから凄いね
半端な知識と憶測と願望だけで、みな好きなことをいってるじゃないか。
ちと考えさせる投稿をしてやっただけよ。
お前はどの程度の質と内容の投稿をしてる?
口先だけ利口ぶって『 』つけてるだけだろ。こもの
>>840 >同族に守らせる? そんなアホな事をする支配者は居ない。 勉強し直せ。
中国では常識。
物部もそうだが、のちの平家も源氏も、
支配者の近親血族が「臣籍降下」して「もの(武力)」を専らとしたものょ。
歴史を知らぬタコが、勉強を「し直す」ほどの勉強もしていまい。
その調子では臣籍降下という言葉すらも知るまい。嘲笑
842 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 21:38:31.27
高千穂神楽 物部の古神道 熊野の密教 伊勢神宮 出動!
たしかに身内が一番危険なのかもしらんね 木花咲耶姫は同盟の証として投馬国から嫁にもらった姫で西都あたりに妻という地名や咲耶姫の話が残っているのもそれが出所なのかもな そこから時が下って東征に向かったんだろうかね? どうなってんだろうなそのあたり
誰か言われてるが平野部には物部つー地名も平群つー地名も三宅つー地名もあった(ある)んすよね こりゃ奈良の地名すよ どういう関係なのか知らん
845 :
天才的史観の人 :2012/05/04(金) 22:20:33.19
>>843 >たしかに身内が一番危険なのかもしらんね
それは、現実を半分しか見ていないのだ。
身内にも野心家もいれば、絶対服従の身内もいるものだ。
絶対的に信頼のおける身内に身辺警護をさせる。それだけのことだ。
ところがだ。
歴史に記録されるのは、恭順で無害な親族よりも、
何かと手を煩わす輩との確執逸話が多い。
そこんとこを見違えると、「身内が一番危険」などといい兼ねない。
>>844 「もの」とは、武器・武力・戦闘にかわることを意味する言葉だ。
もののふ・ものものしい。
物部は、武器・武力・戦闘にかわることを専らとした部民だ、
これは、支配層の遠い縁戚にあたる連中が担当した。
その起源は、支配層の身辺警護を担った「軍事貴族」だ。
無常の世の中よ。原典・原則があって、それが時代とともに変化・変貌する。
どの時点を語るのかを語る者が自覚していないと、何ごとも混沌(カオス)になる。
846 :
日本@名無史さん :2012/05/04(金) 22:23:26.06
現在の交通事情からすればピンとこないけれども、 宮崎と熊本は元々一つの支配権であった可能性は高い。 つまり、同じ「ひのくに」であり 国見岳を中心に、日に向かう方が「ひむか」日が沈む方が「ひご」。 同じく、熊襲と隼人も同じ鹿児島県だろう。 『肥前国風土記』では、熊襲はどうも一つの単語ではないらしく、 一部別々に書かれている。 つまり「熊」はクマ、大隅半島の事で、ソは薩摩半島。 つまり両半島をひっくるめて熊襲と言っているだけで、 隼人は後の管理体制にはいってから延喜式で彼らを総称しつつ改名したもののような印象があるね。 というのも、隼人は後の時代には2種あり、近畿にも九州にも頭領が居たようだ。 要するに隼人という名称は厳密には部族の事ではなく、 近衛兵団の総称であり、その出身がクマソ国に多かった、という事なのかもしれん。
847 :
天才的史観の人 :2012/05/04(金) 23:43:06.61
>>846 そもそもは。長崎・熊本・宮崎が「肥国」だからさ。
建日別(たけひわけ)とかいったかな。「たけ」のつく神話の神も熊本が本場よ。
熊本では日向を「ひむき」という。この地名も残っている。
「ひゅうが」とは比較的新しい読み方だな。万葉時代か?
天孫降臨の逸話も、有明海側から山超えで高千穂に入ったという伝承が、
なんと宮崎の古老たちの間にあったらしいし。
よく言われるように日向国以前に日向が何と呼ばれていたかは定かではない。 だが古事記が献上された当時には日向国があったそれだけで日向が日向国であると確定することにじゅうぶんだと思う。 筑紫の日向の…というくだりは大きな地域名称から小さなそれに狭めていって場所を比定している。 九州を筑紫島と同じ古事記の中で述べている。 日向はその次に来る大きな地域でなくてはならないので市町村名や峠名や大字小字名ではありえない。
長崎に橘湾という湾がありますがな
850 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 00:44:47.22
外野の訳のわからぬ説を屁理屈をこじ付けても 薩摩の阿多で初めて人間と天孫は血縁を結んで 神武天皇の先祖が誕生していると天皇家の家系書に記録されてます
851 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 00:51:31.68
雑魚的書生史観の人 外野の具体的に何処からやってきた 自信がない輩ほど吼えまくるイイ例
>>850 阿多やコノハナサクヤヒメはともかく東征はにわかには信じ難いんだけど
嘘や作り話??
でも嘘だとして天皇家の出自に関わるようなとこで嘘をつくには天皇や臣の間で認められてるものでなきゃならないはず
それにもし嘘を書くならなぜ日向としたのか不明
どうせ嘘なら近場で大勢力の吉備なりにした方がよかったはず
どうなんですかね??
853 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 01:44:27.68
>>852 別に不思議ではないですよ
だいたい中国文化の流通が当時の近畿地方に
根付いて発展していた土地だったのかも定かでないし
当時の住民に近畿という概念・枠組みも無かったでしょうし
ただ日本列島を統括するには橿原が何らかの思惑で都合が良かったと
ヤマトって読みの地名は筑後にはあるし肥前佐賀にもあるし全国にあるけどヤマトという読みの地名は一つもないんでないの?>日向
855 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 06:11:55.14
小さな地名として残っている方がおかしいんだよ。沖縄などでは昔から九州本土のことを ヤマトンチュと呼ぶ。
856 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 07:16:24.98
ヤマトのトは「人」だろうから、ヤマ人と書くのが正しいんじゃなかろうか。 ということはヤマは山なのか、や・まと分けるのか。 もし、分けるのだとしたら、その手の名称は並列併記であり、順序が逆になっても問題ない場合が多い。 という事は、まとやを入れ替えれば「マヤ人」になるんだよっ!。 さあさあ面白くなって参りました。
857 :
天才的史観の人 :2012/05/05(土) 11:38:07.28
>>850 >>851 外野て何のことだ。俺は熊襲の末裔を自認する男だ。
地元びいきに熱中する小ものとは別格だぜ。
>>851 >自信がない輩ほど吼えまくるイイ例
カス野次垂れる名無し野郎。
具体性のない批判や否定の文言だけなら誰でも書ける。
たった2行20文字の文章すら日本語になっていないタコが。
ろくな投稿をするでもないくせに、他人を動向いえたガラか・タコ。
文があるなら、「かくかくしかじか・だからこうだ」と、
意見の述べ方にのっとって具体的に食いついてこい。
実りのない素人空論ばかだから、刺激的な一石を自身たっぷりに投げてやったのだ。
お前らには高度すぎて理解不可能だったようだがな。
858 :
天才的史観の人 :2012/05/05(土) 11:39:48.95
動向→→→どうこう 自身たっぷり→→→→自信たっぷり ちっ。
859 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 12:01:57.79
宮崎県南部から鹿児島県にかけて平安時代から鎌倉時代まで島津荘という日本最大の荘園があったが、 これだけの広大な地域が一塊の荘園とすることができたのは、かつてそこに大きな国があり、まとまりがあったからに他ならない。 それではそれはどんな国かといえば、桓武天皇の時代(延暦14=795年)に島津院が設置されており、 (院とは、正倉院などと同じように役所のこと)、奈良時代までにこの一帯は大和朝廷が征服し直轄地としていたことがわかる。 それ以前の歴史について、確かな文献記録は残されていないが、島津氏発祥の地である郡本村祝吉(都城市)にある祝吉御所は、 島津忠久公が出水郡山門院(鹿児島長島)からこちらへ移り、御所を建てた所と伝えられている。 邪馬台国とは、宮崎県南部から鹿児島県をまたぐ大国で、卑弥呼の宮殿は東シナ海から八代湾への入口に浮かぶ長島にあったと推測される。 そんなところに邪馬台国があったなんて信じられないし、調査した人も発掘した人もいないだろう。 誰か調べてくれ。
860 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 13:09:00.00
861 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 19:14:59.27
何の根拠も無しに平野部の古墳を作ったのが都城とか電波にもほどがあるだろ それなら都城でなくても延岡でも可だよ
862 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 19:32:40.11
>>833 事代主は、神武天皇より15歳〜20歳くらい年長だったのだろうね。
五瀬命とは年齢が近かっただろう。
神武天皇が初代天皇に即位した時の年齢は、22歳〜23歳くらいだったからね。
863 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 20:50:20.83
>>822 違うな。犬の遠吠えは魔除けの意味あいからで
相対的に南から来た隼人の神聖な力で
鬼道から持たさされるその土地の邪気を払い
浄化作用をもたらす力があると信じられてた
当時絶大な力があった陰陽道5行思想からの発想で
朝廷が命じたというより中国より
熱心に陰陽道5行説が研究されていた
百済か高句麗からやって来た
陰陽道博士が時の朝廷に知恵を付けたと思われる
当時戦争やらせれば都城より県北部の方が強かったかもね 弥生時代には鉄器つくってたし当然武器の性能も高かったはず 馬の飼育はいつから始まったのだろう 古墳時代になれば馬と被葬者が一緒に出土したり馬を飼育していたのは明らかなんだけど
865 :
日本@名無史さん :2012/05/05(土) 22:53:51.31
>>861 根拠はあるさ。倭人伝だ。延岡では倭人伝の行程に合致しない。
弥生に鉄は付き物だ 生目古墳群至近の弥生時代の環濠集落跡では鉄剣や鉄鏃が出土している 県北から入ってきたとすれば弥生時代のうちに宮崎平野の全域で鉄の使用はされていたってことだろう もちろん吉野ヶ里でも当然鉄鏃等はあったし鉄鏃が刺さったままの遺体も出土した 生目や下北方の環濠集落はたまたま古墳群のそばだからピンポイントで掘って見つけたってことで このような集落跡はあちこちに埋もれて放置されているんだろうな 古墳すら放置されてるのにあるかも分からんところを掘るのは不可能ってもの
海(うみ)を渡(わた)ってきた百済(くだら)の王様(おうさま) 今から千三百年ほど前、朝鮮半島にあった百済(くだら)という国がほろぼされ、王の禎嘉王(ていかおう)は、長男の福智王(ふくちおう)、次男の華智王(かちおう)とともに日本に逃げてきました。 王の乗った船は最初、安芸(あき)の国(今の広島県)に着きましたが、禎嘉王は新たな生活の地を求めてふたたび船で九州を目ざしました。 なぜ九州を目指したかというと、宮崎にはすでに百済からの帰化人の大規模な集落があったからなのです。 南郷村の環濠集落は、百済からの帰化人が作った村だったのです。 早い話、宮崎南部から鹿児島にかけての地域は、半島とつながりの深い倭人の住む地域だったということです。 こういう記紀が書かれる以前の伝説も邪馬台国≒島津荘だったことの傍証になると思うのですが。
島津荘を置いてすぐ寄進が相次いであっという間に全国最大規模の大荘園になったんだよね。 もちろん権益保護の要するに欲望があったんだろうけど人々の精神と言うか背景は考える必要があるかもね。 南郷村は現美郷町なんだけど半島系の文化や土器や人々が住んだ形跡は平野部にもある。 けど鹿児島西部沿岸部や長崎は中国系の方が強い気がする。
869 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 15:16:37.24
神戸牛の起原は宮崎牛だとか 邪馬台国は宮崎だとか起原を主張したがるのは半島の血がながれてたからだったのか
870 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 16:07:05.12
>>860 出水に3代の墓あり→5代の墓でした。
島津荘園は平季基が拓いたが、大隅の肝属を治めていた肝付兼俊は婿養子となり
都城から大隅(当時の大隅は加治木まで含み鹿児島県本土の半分)一帯を治めるようになった。
だから、島津荘園は島津氏が拓いたのではなく島津は島津姓を名乗ることで島津荘園を本領に
しようとしただけでなく薩摩、大隅(後には日向まで)を支配しようとした。都城から大隅は
平家勢力が強く島津忠久は頼朝から平家一掃を命令されたと思われる。
大隅南部の根占氏は平重盛の子孫で、島津に降伏した後、薩摩半島の日吉に移封された時に重盛の
別名、小松殿の名を取り小松姓を名乗った。また、戦国時代、一族の肝属兼三(伊集院忠棟の三男)が
島津の家臣となり喜入城主となり、幕末、その子孫の尚五郎が小松家に婿養子で入った。小松帯刀である。
なお、伊集院忠棟は島津家家老で鹿屋城主から都城城主となり旧城主の島津一門本郷氏は祁答院へ移封された。
その後、伊集院忠棟は京で島津忠恒に惨殺され、都城では息子の忠真と島津・本郷との戦いが起こった。
庄内の乱である。乱は徳川家康が調停に入り収まったが後で忠真は暗殺され本郷氏が都城に入り江戸以降
島津を名乗った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%86%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
>>869 半島の血は日本人全てに少し流れてるだろ
邪馬台国がどうたらってのは想像だがそれなりの根拠から想像を拡大させてそうしてる
そのひとつが天孫降臨から東征までの数代なぜ日向にいるんだ?っつーこと
日向にしなきゃならん理由はどこにもない
本家嫡流高天原から天孫降臨を命じられた分家傍流ニニギの子孫が日向にいる間に高天原が滅ぼされた…
東征はできていないが自分こそは正当な邪馬台国の後継者だと僭称したのかもしれんよ
3世紀の半島の住民と今の半島人は違うしね 辰韓人は中国人だろ
873 :
常識的的史観の人 :2012/05/06(日) 21:19:38.48
>>871 >日向にしなきゃならん理由はどこにもない
『倭人伝』をみてストーリーをパクった百済からの亡命帰化漢人は、
どうやら邪馬台国を日向にあったと誤読したらしい。
それが、山脈の傾斜が海側まで迫っていて、
(稲作一等地を意味する)葦しげる一大湿地帯「葦中原」などありもしないのに、
日向を「葦中原」にして歴史のスタートにしているという矛盾呈しているのさ。
874 :
常識的的史観の人 :2012/05/06(日) 21:22:04.04
>>872 >辰韓人は中国人だろ
秦の役をさけて楽浪郡→→韓地へ流入してきたというが、
「秦人に似るも燕や斉など生粋の漢人ではない」といっている。
875 :
日本@名無史さん :2012/05/06(日) 23:50:09.17
宮崎にはかなり色濃く朝鮮や支那の血が流れてるようだね
東亜ネタで喜んでる変な子が紛れちゃってるね
>本家嫡流高天原から天孫降臨を命じられた分家傍流ニニギの子孫が日向にいる間に高天原が滅ぼされた… だから東征は悲壮で強固な意志でなされた。 何もせず日向にいれば旧室の血をひくイワレビコノミコトらはいずれ滅ぼされる可能性大。 アマテラスの命だと言う様に書かれているがアマテラスは何代も前の本家と自分とこの共通の先祖で当然とっくに亡くなっていた。 先祖のアマテラスは象徴たる代々の御神体のようなもので一個の人間としては居ないので見た者もいないのは当然。 統治者の姉や妹などの親族が巫女のようなことをやっていたかもしれない。 東征はアマテラスの命=先祖の意思なんやと主張してる。 日向を発ったときから一緒だった身内も死亡していく畿内での厳しい戦いの中でも先祖が動物や自然現象に託して導いてたと書いてある。 …と勝手にこういう想像をすれば1300年前に書かれた昔話が現代のRPGやシミュレーションゲームにも通用するような話になる。 この妄想の中では一応邪馬台国九州日向説の肩を持つが既に畿内を中心とする体制でその体制内の話だったということになる。
878 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 09:28:02.97
>>875 >宮崎にはかなり色濃く朝鮮や支那の血が流れてるようだね
日本人全部だよ。縄文倭人も弥生倭人も長江流域の「非漢多民族」。
中国には現在でも50を超える少数民族がいるし、
インドシナ半島には100を遥かに超える多民族国家がある。
日本列島も例外ではない。多民族のうち海洋慣れした海人が複数やってきている。
伊豆諸島の神津島で採れた黒曜石が長野県で出土している。
縄文倭人は神津島まで採石に出かけていた。これは、縄文倭人の渡海能力を示す実例だ。
879 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 09:35:44.11
>>873 「葦原中国」「豊葦原中国」「豊葦原瑞穂国」だったな。
俺としたことが、いけね・いけね。
いずれにしても、九州島東部に稲作開墾用一等地たる
「豊葦原」「豊葦原瑞穂」と呼べる土地はない。
これは、筑後川河口部と有明海沿岸にひろがる広大な湿地帯のことだ。
どや。まーだ国策創作歴史書の「手抜かり」に気づかないか?
880 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 10:08:59.69
>>879 捕足。
『日本書紀』は、畦・田・稲・穂など、稲作に関する呼称・名称に満ちている。
つまり、神代において、すでに計画的・組織的水田稲作がなった時代となっている。
それほどに稲が重要だったはずなのだが、宮崎で稲をつくれる土地は少なかったろう。
もう一つ。稲作に対比して海人が重要な位置を占める。
稲作倭人と海人倭人、あるいは倭人そのものが稲作海人だったものか。
宮崎といえば、海人的なイメージも湧いてこないな。
大きなところで、「稲と海」が神話構成の柱になっているのは、
倭人の民族構成(社会部族構成)が大きく二つあったということだろう。
その彼らが共通して崇める神が、しめ縄に象徴される「単身双頭の蛇」。
もとは長江流域の諸民族が神と崇めてきた蛇神。これが日本列島における最古の神だ。
出雲も三輪山も蛇神を祭神とするところに注目したい。
881 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 10:12:07.24
弥生時代の有明海沿岸はだいぶ内陸まで海だし最近まで海水が入ってきてたような土地で稲作はできんよ 淡水の湿地帯ならおっけー
882 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 10:27:23.80
そういえば、葦原の中つ国、の葦原の葦は、 せいぜい薄い汽水で、基本的には淡水の植物だね。 塩分が強いと育たない。 そういう葦原を開拓、干拓、開墾して、田に変えてきたのだろうな。 逆に言えば、新たな入植地で、広大な葦原という表現は、 未だ開拓されていない、有望な新天地を表しているのかもしれない。
有明海は少しずつ海岸線が遠くなってたから後の干拓も合わせて稲作フロンティアは昭和まで絶えなかったな
884 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 10:51:22.80
>>882 >そういう葦原を開拓、干拓、開墾して、田に変えてきたのだろうな。
それができたのは、
長江河口部の広大な湿地帯を開拓・開墾した経験か、DNA記憶をもった連中だ。
虫食い状態の天然の水路が無数に走る土地も、長江河口部が先輩だよ。
100年に1キロのテンポで陸地化がすすんだという佐賀県の沖積平野には、
まだ、そちこちに天然水路の痕跡が残っている。
885 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 10:58:24.65
そういえば、筑後川の大川付近から下流にかけて、 ちょいちょい、岸辺(といってもなかなか広大)に葦原が出来てるね。 堤防がなかったら、どんだけ広大な葦原になっただろうか。 まあ、それが田になったんだろうけど。
実物の前に記述や神話や伝承や説や論や願望は好きに曲解され粉砕される まともに邪馬台国時代の200〜250年ごろとされてる纏向を撃破するには纏向と同時期のものを出さなきゃならないが 弥生時代の10mや20m30m40mくらいまでの方形周溝墓や円形周溝墓ならあっても纏向の90m級を上回るものは宮崎にも吉野ヶ里にも九州のどこにも無い
887 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 11:46:37.11
俺がつねづね叫んできたこと。 ・「王都は、左巻き台風の害と、外洋の津波の影響が少ないところに築く」。 ・しかも、最寄りの海浜港から海産物が腐らないうちに届けられる場所だ。 ・当時の一級道路たる大小の河川と水路があり、外海との通交にも便利な場所だ。 ・海岸から幾重もの防衛網を敷いて、王都そのものは軍隊による重警備を必要としない所だ。 これだけの条件を満たす立地は、日本広しといえどたった2ヵ所しかない。 数年前のこと、九州山脈東側にあたる宮崎県で、大雨による水害と土砂災害があった。 近畿地方を襲った台風の被害が、紀伊半島東側で甚大だったことは記憶に新しい。 前者の場合、九州山脈の西懐にあたる熊本平野と菊池平野の被害はなかった。 後者の場合、山に囲まれた西側の奈良盆地はまったくといって良いほど平穏だった。 このことを実感した奈良在住の人が、俺の慧眼に感服していた。 (熊本平野と奈良盆地は竜巻の発生回数も少ない)。 さて、願望と好みが渾然一体となって「邪馬台国は宮崎県」を宣うしょくん。 「高をくくる」という言葉がある通り、石高(米の生産高)は国力・兵力のバロメーターだ。 しょくんが倭国王あるいは倭国首脳だったとした場合、 稲の生産地が他と比べて少なく、ソバ・ヒエ・イモなどが主だった宮崎県に王都をつくるか? 台風や津波の被害に遭う危険度が高い立地や海岸ベリに王都を築くか? 熊本平野と奈良盆地が、山に囲まれた東高西低の「背山臨水」の吉地であること。 両者の立地構造は「相似形」といえるほどに共通していること。 古代において九州に王都をつくる場合、熊本平野の立地に着目しただろうことは容易に推察できる。 これだけの「現実」を前にして、こじつけの理屈で「邪馬台国は西都原」といい続けるか。 だとすれば、それはもはや歴史というジャンルで語るべき性格のものではないぞ。
888 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 12:18:38.90
>>886 10年1日のこどく、「バカの一つ覚え」のセリフ垂れるバカが。
>邪馬台国時代の200〜250年ごろとされてる纏向を
そーかー。建築物遺跡の柱穴をみると5世紀の様式だとかいう意見があるらしいぞ。
弥生時代に「宮殿建築物」をつくる鉄器はとこからもってきたのか?
ほれほれ。纏向遺跡とそこにある古墳の築造年代も怪しくなってきたぞ。
30年以上も途絶えていた洛陽での(魏の尚方での)鏡製造が再開されるのは明帝の青龍年間だが、
それ以前の神獣鏡(画紋帯神獣鏡)は、いったいどこでつくられた・どこから入ってきたのだ?
●神獣鏡は、鬼道と呼ばれた天師道が神宝・呪具としたものだ。
中原の覇を目論んだ領袖の一人たる公孫氏が、
おなじく覇を目論んだ漢巴の張魯の天師道の宗教的精神性に基づく神獣鏡をつくったり、
これを導入したりしない。事実、公孫氏と天師道には距離がありすぎて何の関係もない。
画紋帯神獣鏡が出たボケの山古墳は、神獣鏡を副葬するようになる時代の築造だ。
さて。神獣鏡が倭国には入り出すのはいつで、これを墓に副葬する葬送儀礼が浸透するのはいつ頃だ?
>撃破するには纏向と同時期のものを出さなきゃならないが
「同時期」とは、「4〜5世紀の」という意味か? ん・んー?
九州には、纏向よりも古い大型掘っ建て建築物があるぜ。
>弥生時代の10mや20m30m40mくらいまでの方形周溝墓や円形周溝墓ならあっても、
>纏向の90m級を上回るものは宮崎にも吉野ヶ里にも九州のどこにも無い
んー? 墓の話か?
纏向の大きな古墳はみな、弥生時代のものではなく4世紀以降の築造だ。
200mを越える古墳が造られだすのは4世紀前半。
これで箸墓の築造年代も決まりだ。
のこのこ出張ってくるなボケ。
889 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 12:20:15.47
>天災が少なく良港 西日本では瀬戸内も同じ。岡山が日本で最も安全。 そもそも、水稲が本格栽培されたのは灌漑が整った荘園時代にはいってから。 それまでは低地はただの湿原。 >外海との通交にも便利な場所だ。 外海は古代じゃ壁だ。交通路じゃない。 日本の船舶が明治期まで一切進化しなかった理由も知らないのか?
弥生時代に戦国時代の石高は無意味 稲作が始まってあまり時間も経ってなく開発も人力に限られていた時代 ほぼ開発しきって沖積平野面積がそのまま生産量と比例するようになる時代はずっと後 さらに弥生時代終わりから古墳時代にかけて気候は寒冷化していて北ほど稲作が困難になって衰退していた 沖積平野があまりなく人口も少なく石高も低い中世日向だったがそれでも江戸が終わるころには日向一国で44万石となって表高と大きく乖離していた 平野部の宮崎郡あたりでは人口の倍くらいの石高があった どれだけ開発がされていなかったかということ 面積あたりの生産額では全国最上 少ない面積で多くを産出できる土地は特に最初期には重宝されたろうね
891 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 13:03:39.63
>>887 君には頼朝が鎌倉に幕府を開いたことが理解できないだろうね。
去年奈良県御所市で弥生時代前期の水田跡が出土したが、大洪水で0.5〜1.5mの土砂に埋まり、 当時の水田がそのまま保存されたと考えられている 福岡と佐賀をまたぐ筑後川も日本三大暴れ川のひとつと言われて、洪水による被害が古くから記録されてるところ この地域は筑後川が上流より土砂を運搬して形成した沖積平野で洪水に弱い土地で、1953年6月の西日本水害では 筑後川の洪水で主要な交通機関がことごとく寸断された 熊本は1953年白川大水害で集中豪雨によって熊本市を流れる白川が氾濫。 全市の70%が浸水し、白川に架けられた橋梁が長六橋・大甲橋を除き全て流失するなど、壊滅的な損害と死者・行方不明者をもたらした 昔から白川は、源流がある阿蘇山の火山灰を運んでくるため、下流域では火山灰の堆積により川底が低くなり、 流路が大きく蛇行して洪水の大きな原因になっていた 日本の平野部は水害に関してはどこも似たようなものじゃないかな
>>892 の訂正
>下流域では火山灰の堆積により川底が低くなり→×
下流域では火山灰の堆積により川底が浅くなり→○
夏には湿地化、冬には乾燥、そういう場所を稲は好むわけで そういう場所を人工的に作っているのが水田
>>892 を書いたんですけど
だからといって大きな河川と広い平野部の土地を水運と食料生産地として利用しなかったと言っているわけじゃなくて
人はたくましくて余剰生産と食料を保存する建物、原始的な土木技術が発達する方向に発展したんでしょ
巨大古墳がその技術力、経済力をもつ王の象徴で
弥生時代の遺跡の規模として吉野ヶ里が最大で遺跡の数としても多数なのでやはりこのあたりに生産の本拠があって 最大勢力も吉野ヶ里のあたりにあったんではと考えるのが自然だと思うのたけどな
897 :
常識的史観の人 :2012/05/07(月) 19:43:19.48
●ザコ料理。
>>889 >西日本では瀬戸内も同じ。岡山が日本で最も安全。
具体的に説明せんと。
>水稲が本格栽培されたのは灌漑が整った荘園時代にはいってから。
学術的に説明せんと。
>それまでは低地はただの湿原。
縄文と弥生が和合した水田跡もあるというのに。
>外海は古代じゃ壁だ。交通路じゃない。
海外との通交手段という意味での「外海との通交にも便利な」だ。
>>890 >弥生時代に戦国時代の石高は無意味
モノ食って・栄養分をとって・クソたれる・は時代に関係ない。
その食い物の代表たる米の生産環境の話をしとる。
>人口も少なく石高も低い中世日向だったがそれでも江戸が終わるころには
ほれ。江戸時代になるまで稲作の面では「貧しい土地柄」だったのだ。
「戦国時代の石高は無意味」というタマが、
それ以降ま江戸時代の、いささか米づくりができるようになった時代の話をしてどうするか。
>>891 >君には頼朝が鎌倉に幕府を開いたことが理解できないだろうね。
天子の下で、天子の任命を受けて、天子に代わって軍政を司るのが大将軍だ。
将軍風情の居処(もしくは地方政庁)と、混同して偉そな口をきいてるだろ。な
わが日本では、征夷大将軍の任命を受けることが、
野暮で無粋な武将にすれば「天下を取った」ことになるという・ていたらくだ。
武将などしよせん・天子の庭先で暴れまくったに過ぎない。ちっとは理屈で理解できたか。
西都原は、魏志倭人伝の期日を素直に読めばたどり着く邪馬台国の候補地だということであって、 少なくとも私は西都原にこだわりを持っているわけではありません。 しかし、状況証拠からみて、邪馬台国は西都原に間違いないと確信しています。
899 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 23:05:51.37
佐賀大和原住民としては、吉野ヶ里が最大というのに違和感があるな。 ぶっちゃけ、まじめに掘ったら、環濠集落を別にすれば、 糸島から福岡市早良区、那珂川町、筑紫野市、鳥栖市、みやき市、 神埼市、佐賀市、小城市、唐津市 と、ずーっと一回り全部が最大の遺跡。
900 :
日本@名無史さん :2012/05/07(月) 23:18:53.77
伊都国がこれまで言われてきた怡土ではないってことに気づけばあとは 大した問題ではないよ。これまで理解できなかった南水行が有明海を南 に行くことだと理解できる。
>弥生時代の10mや20m30m40mくらいまでの方形周溝墓や円形周溝墓ならあっても、 >纏向の90m級を上回るものは宮崎にも吉野ヶ里にも九州のどこにも無い 宮崎市内の瓜生野の笠置山墳丘墓は弥生時代の墳丘で全長145.5mとネット上で見るんですけど 纏向のが90mなら上回ってるんだけどこれどうなの? さっぱり知らなかった
902 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 01:22:15.21
もういいだろ 邪馬台国なんてどこにでもあって、どこにもないもんなんだよ
うんわかった どこでもいいよ
904 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 05:58:35.87
まとめにはいりやがったw
しかしこのスレは
【宮崎県】邪馬台国は西都原【西都市】である☆2
に続きます。
>>980 よろ
905 :
常識的史観の人 :2012/05/08(火) 07:52:44.92
>>898 >魏志倭人伝の期日を素直に読めばたどり着く邪馬台国の候補地
素直に読めば誰だって有明海側に行くはずだが。
そこは、奈良盆地と立地的に相似形をなす熊本平野。
日本列島に奈良盆地と並んでたった2ヵ所しかない背中山臨水の吉地だ。
吉野ヶ里を上回る環濠集落跡もあれば、大型掘っ建て柱の遺構もある。
広大な大地は畑作地・平野部は綿かな稲作値、そしてその先には豊穣の海。
左巻き台風の害も外海からの津波の害も少ない「奇跡の吉地」だよ。
>状況証拠からみて、邪馬台国は西都原に間違いないと確信しています。
西都原はそ斎殿原の名の通り葬祭墓域。墓は王都の郊外につくる。墓まみれの都などない。
西都原は、周辺の環境と立地構造からみて生産能力に乏しい場所である。
天然地形を最大の防衛構想に活用した古代において、西都原は地形が開けすぎる。
このように、状況証拠を超える現実を提示したが、「素直に読めばたどり着く」結論は見えるはずだ。
状況証拠といえるものが何を指すかは知らんが、
状況証拠とはいえないものを状況証拠にしているんじゃないか? きみのは・ちぶん「情緒証拠」。
こういう作業は裁判と同じでね。論理が最優先で、論理で戦うものだよ。観念論では勝てない。
証拠能力のないものを証拠として認める世界ではないなんだよ。
斎殿原の存在を前にやるべき歴史判断としては、
計画的・組織的に斎殿原を設置して・継続的に維持・運営した倭国の実態を慮ることだろう。
邪馬台国は西都原でない。
906 :
常識的史観の人 :2012/05/08(火) 07:54:20.30
まーたやっちまった。 平野部は綿かな稲作値、 ↓↓↓ 平野部は豊かな稲作地、
907 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 12:55:12.36
>西都原はそ斎殿原の名の通り葬祭墓域。墓は王都の郊外につくる。墓まみれの都などない。 そのとおりだろう。しかし、そうとなれば、北九州や熊本では遠すぎる。 やはり日向の内でなければな。
908 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 13:34:35.28
>>907 お前さ、一度現地に行ってみろよ。 どんな分布になってるか、一目瞭然。 そもそもな、ここにいる連中のほとんどは、西都原が公称通りの古さだとは思っていない。 それを前提に話してる。何せ、調査してないんだからな。必ずそこに何かの矛盾があるから、調査ができない。 多くの人間が西都原のメイン級は最初期の墳墓だと考えてて、俺も同じ意見。 そうすると、時代的にどうなるか解るか? どの国もそうだが、はじめの頃は、国に都市なんて無い。 王都なんか存在しねえの。 都市ってのはヨーロッパが解り易いが、 権力者とならず者の長い抗争の果てに生まれるバラックが原型なんだよ。 武装集団兼商人が居座って、既得権を既成化する過程ってのが必ずある。 日本で言えばそれは奈良時代の話なのね。 都市人口を支えるためには商品となる余剰生産物が必要だが、そんな物は弥生後期には無い。 世界的な寒冷期だから、村落はただの集落以上のものにはなり得ない。 吉野ヶ里なども、北郭の真横に墳墓群が隣接してる。 他の郭にもあると見られているが、まだ発掘が進んでいない。 つまり、時代的な感覚がお前は400年程ずれてる。 古墳後期ならその「墳墓は郊外に作られる」という概念は多少なりとも興味を引く話題だが、 まだ、村落というものの概念すら曖昧だった時代には、郊外という物自体が存在しない。
909 :
908 :2012/05/08(火) 13:54:06.35
910 :
常識的史観の人 :2012/05/08(火) 22:09:41.68
>>908 >どの国もそうだが、はじめの頃は、国に都市なんて無い。 王都なんか存在しねえの。
古墳群をつくる時代に、王都はなくて、バラックてか。カス野郎
>吉野ヶ里なども、北郭の真横に墳墓群が隣接してる。
だから、吉野ヶ里も邪馬台国ではないし王都でもないのだ。タコ
縄文時代からつづく計画墓域だ。10万を超えるカメ棺がある都などあるかー。
>つまり、時代的な感覚がお前は400年程ずれてる。
お前の時代評価が過小(倭人をバカにしてる)すぎるだけのことだ。
>まだ、村落というものの概念すら曖昧だった時代には、郊外という物自体が存在しない。
いったい・いつの時代のどんな国体制を想定してるんだ?
縄文の原始共同体にケが生えた程度のクニか。ボケなす
911 :
日本@名無史さん :2012/05/08(火) 23:04:39.00
お、伊作ちゃん久しぶり
弥生時代の終わりごろに人口1万を超えるような都があれば驚き せいぜい人口1000かそこらの大きめな集落くらいじゃないんか
たしかに熊本平野は台風被害を和らげてくれそうな良い地形をしてる 白川緑川下流の低地の結構な割合は海だったみたいだけどそれでも広い稲作適地がある。 西都原もわかりづらいけど標高10mくらいの稲作低地の東は崖を平たく切ったような標高70〜130mくらいの畑作洪積台地、 西は険しすぎる九州山地中央部で軽く盆地状になってるよ。
914 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 01:26:39.48
>>913 気持ちはわかるが、「東高西下の背山臨水」という条件から外れる。
左巻き台風に対する天然の防壁を形成し得ない。
盆地状という条件ならば都城のほうがいい。
だが、ここは今度は「臨水」という条件を満たせない。
しかも、河川の上流部で海から遠すぎる感がある。
奈良盆地北部と熊本平野北部(菊池)が最高なのさ。
卑彌呼の共立のとらえかたによって、邪馬壹國の姿はかわってくる
916 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 09:05:21.22
>>915 >卑彌呼の共立のとらえかた
・誰もが納得する継承権を持つ者が王となるときは「立つ」。
・力で自ら王となるときは「自ら立つ」。
・実力者が王を擁立するときは「為す」「立てる」。
・実力者たちの合議で王を立てるときは「共に立てる」。
(以上の4パターンは中国の歴史上、普通に見られた)。
・卑弥呼の場合は少し違っていたようで、
擁立合戦か政権抗争で対立する者同士が合議で王を立てから「共に立てる」。
こんなところだろ。
917 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 09:35:32.07
>擁立合戦か政権抗争で対立する者同士が合議で王を立てから「共に立てる」。 そうだね。相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼。相攻伐していた者が共に 立てたってことじゃないかな。
918 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 09:38:03.89
>>913 ついしん。
・外国との通交アクセス(港がある海岸との距離関係)。
・物資の輸送と流通の利便性(一級通路となる大小の河川の存在)。
・内外からの侵攻に備えた防衛構想(防衛拠点配備計画と籠城計画)。
・畑作・稲作・水産の食料生産力。
・自然災害の被害が少ないこと。
こうした条件に総合的に鑑みて、自らと一族の繁栄と政権維持を第一に考えたとき、
きみが倭国王だったとした場合、それでも西都原を王都とするかね。
組織人というものは、自らの身分と利益の確保と、一族の繁栄と存続維持を優先するもので、
いわば「自らのために」制度を守り・組織に従い・組織の維持をはかる。
きみが倭国首脳だったとした場合、そ・れ・で・も西都原を王都とするかね。
他人ごとのように己の好きな所へ邪馬台国をもって行くのは簡単だが、
古代を生きた人間の心理と現場の臨場感を大切にすれば、
倭国王都の候補地など、そちこちなあるもんじゃない。
むかしから、「神様と偉い人は山の上にいた」といわれたものさ。
国内が安定して抗争の心配がなくなったとき、王城は平地に降りてくる。
のちに平地に構えた平城京・平安京は、中国のような高く頑丈な城壁をもたない。
これは、世界的にみても稀な例ではないかな。
それほどに、日本列島では「天皇絶対」が特殊なほど徹底していたことを物語る。
俺は、帥升の都の都市部は菊池の標高100メートルほどの広大な「うてな台地」にあって、
彼の本城はその奥の(さらに100メートル高く)、
全盛期の吉野ヶ里をしのぐ66ヘクタールの独立台地「米原」にあったとみている。
ここにはいま、築城動機・築城時期・機能が不確実な謎の城=鞠智城の跡がある。
相攻伐していた者が共に納得し争いをやめるような一女子はどのような 血筋でどの国にいた女子なのだろうか 少なくとも倭人伝の記述からすると王位に就く以前は人前に出る生活をしていたようだが
920 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 10:05:02.19
>>918 さらに・ついしん。
鞠智は古くは「久々智(くくち)」といった。
中世に菊池氏が赴任してから菊池になったが、地元ではいまでも「くくち」と読む。
倭人伝に登場する狗奴国の官「くくちひく」と関連があることは否めまい。
その「くくちひく」が官を務めた狗奴国は、卑弥呼の時代には人吉盆地を本拠地としている。
古来、一人の世継ぎが決まれば、他の継承権を持つ者は、継承の色気がないことを示さないと命が危うい。
(色気がないことを示す具体策の一つが「仏門に入る」という手だった。
なにごとにも例外はあるもので、出家しながら色気を出したのもいたようだが)。
中でも王となった者に近い近親血族は、いい土地をもらって継承者に恭順の姿勢を見せながら、
アクセスのよくない「いい土地」で、「隠居よろしく」に生きながらえることになる。
人吉盆地は狗奴国、都城盆地は投馬国ともに王族に与えられた国で、
倭国の有力国として南端の隼人に対するクサビを兼ねて置かれたものと思われる。
ちなみに、「くくち」とは地元言語で山から降りて来る出入り口の意味があるという。
さらに、米原の台地には、鞠智城以前に古い城があったという言い伝えがあるという。
(以下は妄想ストーリー)
それでは、久々智と関係が深いと思われる「くくちひく」が、なぜ人吉の狗奴国の官としてあったのか。
「くくち」一族は、帥升時代から山鹿と並んで山門(やまと=山の出入り口)の左右を固めた有力一族で、
これが、卑弥呼と血縁関係にある男王・卑弥弓呼に仕えるほうを選択したのではなかったか。
921 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 10:17:50.93
>>919 いい質問だ。質の高い内容になってきたぞ。そうこなくちゃ。
●「卑弥呼の鬼道は、いつ・どこから来たのか」(天才のサイトから)
張魯の天師道が鬼道と呼ばれ始めたのが188頃からで、そこから30年間218年頃まで続いた。
張角の太平道を柱とした黄巾党は180年頃の旗揚げで、20年間200年頃まで続いた。
両者は190年代に中国本土で盛んになっている。卑弥呼が女王になったのは同じく190年前後である。
その彼女は、女王になる時点ではすでに鬼道を修得していたことになる。
鬼道を修得していたのだから、年齢も13歳や15歳ではなく、すでに成人の年齢に達していたと思われる。
問題は、彼女はいつ・どこで鬼道をマスターしたのかである。
時間的なタイミングからみて、中国で学んで帰国した倭人道士がいて、それを卑弥呼に伝授したとは考えにくい。
それでは卑弥呼は大陸で鬼道をマスターしたのか。となれば、彼女は新来の渡来人の子女という論理に帰結する。
『倭人伝』によると、卑弥呼の王宮にはただ一人男性がいて、「飲食物を給し、辞を伝えるに卑弥呼の拠居に出入りす」とある。
辞は言語を意味するから、この男性は通訳だった可能性もある。
(卑弥呼が人前に姿を現さなかったということは、かつての天皇のようにある程度神格化されていたことをうかがわせる。
卑弥呼は、巷間に喧伝されるシャーマンや神託巫女とは次元が違って、畏怖・畏敬の対象となる別格の存在である)。
中国発祥の「森羅万象の哲学」ともいえる黄老学を基礎とする道学を修得するには、
高度な中国語の素養と多岐にわたる知識・見識を必要とする。
必然の道理として、生粋の土着倭人には伝授も修得も不可能である。それでは、卑弥呼は何者なるや。
さて、鬼道をマスターするほどの中国語素養と知識を持った卑弥呼は、どんな民族の出自だったのか………。
歴史は生き物であり、現実世界の事象である。
幼児性ムキだしで、願望や我欲で卑弥呼を引っぱり合っていては空論に終始するのみ。
922 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 10:57:25.97
さてと。 「邪馬台国は西都原である」という願望言説もシラけて、 新しいスレッドを立てても閑古鳥が鳴くことだろう。いいことだ。
923 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 11:09:11.02
>>919 倭国の乱の時、女王国側は誰が王だったと思う? 卑弥呼でないことは確かだ。とな
ると誰かは知らんが男王だろうな。北九州は実質的に敗北した。そうなるまでに、火
をかけられたり、非戦闘員まで殺されたり、かなり痛手を被っただろう。
実質的に敗北しても、北九州諸国としては、阿漕なことをした男王には従えない、そ
う主張しただろう。女王国側も男王を隠居させて一族の婆さんを形式的な王としたっ
てことじゃないかな。
924 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 11:51:40.26
>>923 「大乱」の実態は、文脈からも王位継承争いであることは明白だ。
107年に登場する帥升以来男王たちの時代が7〜80年間続いたが、
最後の男王が死んだところで後継争いが勃発した。これが180年半ばごろ。
王が不在のまま内紛が数年続いたところで、
困り果てた倭国有力者たちの合議で卑弥呼が女王に立てられる。これが190年ごろ。
「倭国の乱」そのものを、とんでもなく誤解してるようだ。
ここは3世紀に邪馬台国の王都が西都原にあった可能性を考察するためにたてたスレだろうから 広げても南九州内の宮崎、鹿児島のどこかということで論じる場だろうね 宮崎との共通性、類似性で他地域の事例をあげるにとどめるべきだろう 西都原説完全否定で熊本、奈良が王都の条件が揃っているという話になると、 奈良がいいというのは千数百年前の神武のときからわかっていたから移ったという話に沿っているんだろうし 熊本だと熊本の遺跡や出土物で弥生中期〜終期には統一された強国となっていた検証が必要になって、 そのためには福岡、佐賀の考古資料との比較も必要だろうし、 そうすると、いや熊本ではなくてパプアニューギニアだろうとか、いやエジプトだ朝鮮だと反論する人も 加わって本来のこのスレの目的が失われてしまい、ここの人たちに大変迷惑をかけてしまうことになる 普通は節度ある社会人の暗黙の了解で他説の人がここをのぞいても、いや邪馬台国の王都は西都原じゃなく 俺の出身地だというレスは書いていないようである 宮崎の場合肝心な古墳は調査できない状況であり、記紀、伝承も重要な判断材料として考察されている であろうから大変だろうがこれまでどおりガンバッテいただきたい
926 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 15:04:58.48
>最後の男王が死んだところで後継争いが勃発した。これが180年半ばごろ。 >王が不在のまま内紛が数年続いたところで、 >困り果てた倭国有力者たちの合議で卑弥呼が女王に立てられる。これが190年ごろ。 倭人伝にはそんな年代は書いてないね。倭人伝を誤読しているにすぎない。 倭人伝は、あくまでも魏志だ。倭国の乱や卑弥呼が共立されたのは、魏の時代の出来事 だよ。漢の時代の出来事ならばそのことを明記するさ。
927 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 15:56:32.27
>>925 >熊本だと熊本の遺跡や出土物で弥生中期〜終期には統一された強国となっていた
検証が必要になって、 そのためには福岡、佐賀の考古資料との比較も必要だろうし、
吉野ヶ里を上回る規模の環濠集落はあるし、平原1号墳の倍の規模の方形周溝墓もあるし、
弥生の鉄鍛冶工房の中心は熊本だったことが学術的にもコンセンサスしてるし。
西都原古墳群と同じ規模の古墳群もあるし、
ここでは、方形周溝墓、円墳、方墳、前方後円墳が計画的にブロック分けして整理されているし。
掘っ立てる柱の大型建築物の遺構もあるし。なんか・文句あるか。
>宮崎の場合肝心な古墳は調査できない状況であり、記紀、伝承も重要な判断材料として考察されている
みな・「考え違いの付和雷同」をしてるようだが、
古墳時代の古墳をとりあげて邪馬台国の場所を論じても意味はない。それは畿内説の手口だ。
>>926 >倭人伝にはそんな年代は書いてないね。
「書いてない」か。とっくに廃れたレベルの低いガキ論法。
利口な奴はそういうセリフは使わないものだ。
帥升から7〜80年とは何年だ。ちゃんと計算できるように書いてあるぞ。
>倭人伝を誤読しているにすぎない。
お前が「文字づら読みの表層解釈」をしてるのだ。
「簡潔にして饒舌」をもってよしとするのが正史だ。
書いてない行間を、歴史・制度・文化などの知識と、洞察で読むのが解読だ・バカ野郎。
>漢の時代の出来事ならばそのことを明記するさ。
帥升から7〜80年とは後漢末のこととは、中国の知識人ならずともバカにも分かる。
魏朝は正史をもたない正当王朝という奇妙な具合を呈する。
魏朝で編まれるべき(漢の時代を記録した)『後漢書』は、倭人伝が書かれるときには存在していない。
しかも190年ごろの後漢朝は有名無実で東夷調査をした形跡はない。
先史に書かれていないことを魏代になって魏朝が把握したのだ。
倭人伝に書かれて何の不足があるか。むしろ新説というものだ。
>>927 「それでも九州」か「ドンこい」か「終止符」に書け
929 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 16:28:12.26
>帥升から7〜80年とは何年だ。ちゃんと計算できるように書いてあるぞ。 「帥升から」とは書いてない。かってな思い込みだな。 単に男王になってから男王の時代が7〜80年続いたというだけだよ。
930 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 19:50:48.77
>>928 お手あげ宣言か。
煙たい正論を正視せず、願望妄想にひたり隊か。
じゃそうしろ。
>>929 >「帥升から」とは書いてない。かってな思い込みだな。
総合的・複眼的文献検証、なんて高尚な話とも無縁のようだな。
「桓霊の間」、「漢末に」、「霊帝の光和中」と、
お前のようなバカのために、歴代の歴史書が表現を変えて書いてるだろ。
ためしに、霊帝の光和年間から7〜80年と数年を差し引いてみろ。
何年ごろになるか?
赤面もののバカげた野郎だぜ。
>>930 ここだと板が汚れ、スレチになるから「それでも九州」か「ドンこい」か「終止符」に書け
といってるんだ
>>927 は何だあれは
弥生中期後半から後期まで(0年〜200年位)に熊本全体が統一された国家で
あったという根拠になっとらん
いろんな時代のものをひっくるめて熊本にもいろいろあるといっとるにすぎん
932 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 20:46:55.59
>>930 君が頼りにしている歴代の史書は、いずれも魏志をひねくりまわして書いているだけだ。
そんなくだらん史書は全て横に置いて、魏志を素直に読んでみろ。そうすれば、私が言っ
てる読み方の方がまともだということに気づくだろう。
魏志が断りもなしに漢時代の歴史を大々的に書くか? 魏時代の話なんだよ。
933 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 22:27:16.20
>>931 >ここだと板が汚れ、スレチになるから
もともと、墓があることだけを根拠に妄想と願望を垂れるだけの汚れた板だ。
そこんところを洗浄してやったが、受容しがたいというわけだ。お手あげということよ。
纏向スレッドでも同じ「逃げの排他的発言」があったが、結果は閑古鳥だ。
>弥生中期後半から後期まで(0年〜200年位)に
>熊本全体が統一された国家で あったという根拠になっとらん
弥生の実態を羅列しただけだ。
2世紀末までに熊本全体が統一された国家でだったなどという
バカげたこと(クソ恥ずかしい史観)はひと言もいっとらん。
>いろんな時代のものをひっくるめて熊本にもいろいろあるといっとるにすぎん
その色んなものすらも西都原にはなかろう。あるのは墓だけだ。
>932
>君が頼りにしている歴代の史書は、いずれも魏志をひねくりまわして書いているだけだ。
デキん゛悪いのあるが、お前等足下にも及ばない能力者が書いたものだ。
>そんなくだらん史書は全て横に置いて、
カスがよくいうぜ。
>魏志を素直に読んでみろ。そうすれば、私が言っ てる読み方の方がまともだということに気づくだろう。
カスのやることは所詮カスだ。
>魏志が断りもなしに漢時代の歴史を大々的に書くか? 魏時代の話なんだよ。
ほれ。カスなことを言い張る。
934 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 22:30:55.10
>>932 ハナたれ。
「歴史書の歴史」について、
俺とマジにやり合うだけの研鑽経緯と見識と度胸があるなら相手になるぜ。
935 :
日本@名無史さん :2012/05/09(水) 22:39:52.78
>ほれ。カスなことを言い張る。 ははは、この理屈が分からんようじゃまだまだだな。 このことに気づけば、倭人伝はすっきりと理解できる。 これまでのヘボ読みにはいろいろ問題があったろうが。年已長大、卑弥呼は共立 されたときかなりの年だったと明記されているのに、卑弥呼は少女時代に女王に なって6、70年も女王をやっていたと無理なこじつけをしていたな? そんな漫画みたいな話があるか? 魏時代に共立されたならば、それらの無理は 全て吹っ飛ぶんだよ。
936 :
常識的史観の人 :2012/05/09(水) 22:56:11.80
>>935 例の・追っかけストーカーか。まったくの井の何のカワズか。
てめえなどと、やり尽くした解釈談議をやる気などない。あっちいってろ。
このスレッドもそろそろ終り。ちょうど閑古鳥がやってくるころだ。
>>933 2世紀末までに熊本全体を統一してないのか?
人吉盆地の狗奴国は旧奴國でもともと隼人に対するクサビとして王族に与えた所領だろ
57年に後漢から印綬を賜った熊本出身の倭奴國の一部になってたんじゃないのか?大乱以前には
107年に後漢に朝見を請い願った帥升のうてなの王都は大乱で焼かれて、卑彌呼の共立時に 無防備な熊本平野のど真ん中に王都を造ったんだろ 有明海沿岸に王都の港があるなら、外海に出るために通る天草も当然自国領だろ 人吉盆地が倭奴國王族の領地なら中間の八代も自国領だよな 2世紀末までに熊本全体自国領じゃないのか?
939 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 06:23:52.02
まあ、いつの時代も熊本人の糞書生は九州の恥だな。 しかもその曲学阿世っぷりに自覚が無いのが最悪だ。 こいつらがやってきたら確かに終りだよ。うんざりして皆いなくなる。
940 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 07:15:14.01
奴は他人の説を攻撃するときはなかなか良いことをいうんだが、自分の説となると トンデモを主張し続けるからなあ。
941 :
常識的史観の人 :2012/05/10(木) 07:45:26.03
>>939 >こいつらがやってきたら確かに終りだよ。
違うぜぇ。俺が居る間はウンカのごとくたかってきて賑わうが、いなくなると閑古鳥なだぜぇ。
>うんざりして皆いなくなる。
みな・俺の正論を前に、一応は抵抗をしてみせたり口先では虚勢をはるが、
内心では己のバカさ加減に気づいて、時間とともにシラけてしまうんだぜぇ。
>>40 >奴は他人の説を攻撃するときはなかなか良いことをいうんだが、
勉強してるし、論理的思考手順がきっちりできあがってるんだぜぇ。
>自分の説となるとトンデモを主張し続けるからなあ。
自論の背景と根拠を可能な限り前説してるのは俺だけだだぜぇ。
一騎当千・無敵の天才。ワイルドだろろろろろろー。
どこが論理的思考手順がきっちりできあがってるんだ 根拠なく整合性がとれてない穴だらけの妄想だろうが 自分で自説の内容を「バカげたこと(クソ恥ずかしい史観)」といってるじゃねえか 他人の説にケチつける暇があったら、自説の穴埋めと修正でもしとけ
943 :
常識的史観の人 :2012/05/10(木) 11:24:17.17
>>942 >根拠なく整合性がとれてない穴だらけの妄想だろうが
誰か一人でも「邪馬台国は西都原」を
納得のいく根拠と整合性のとれた意見をいってるのがいるか?
それこそ妄想の垂れ合いになってるぞ。だから桶が刺激をあたえているのだ。
ぐーの音も出まい。ごまめが。
あと・幾ばくか・スレッドも残ってる。
ごちゃごちゃいわないで、具体的に俺説にケチをつけてみろ。
ただし、観念論抜きで論理的にな。やれほら
944 :
1 地家ヤスマサ :2012/05/10(木) 12:56:08.42
そろそろ 邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)であるパート2 作って誰かご親切な方。 邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。) 2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。 3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。) 4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が 尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。 9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが 邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。 これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった 邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇 および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は 不快である。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に 後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。 記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。 これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
945 :
1 地家ヤスマサ :2012/05/10(木) 13:05:42.66
いちおうペディアにも「西都原」説のってるので引用 邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、 福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群 など諸説が乱立している。 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊 都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀 県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)で は邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること[注釈 15]。 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗 奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[ 注釈 16]。 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を 甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土して いること[注釈 17]。 その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説 と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 18]。
さっきよく言われる生目1号墳の近くを通ったので寄り道して入ってって車窓から見てみたんだけどただの山にしか見えない… 木はこっち側だけ刈られて前方後円墳だというのは分かるけど言われなきゃ気付かずに通り過ぎると思う 結構高さがあった
947 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 18:44:32.01
邪馬台国の官「伊支馬」が「生目」の音訳 伊支馬は長官であり王はシラス山間の都城ではなく西都原あたりにいたのだろう 雪も降らないし冬も野菜を食べる記述とも合致する 都城は雪が降るからアウト
>>944 >西洲(九州)という固有名の地の都という意味
中央があってこそ西が存在するわけで、そうすると西洲は一地方に過ぎないってことをあなたは言ってるってことににならないか?
まぁ俺は綿津見の国じゃないかと思ってるわけだが
949 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 21:27:35.61
>都城は雪が降るからアウト 九州はどこでも降るよ。
950 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 21:33:42.22
>>949 ならば九州全域アウトでこの件については九州・畿内に差異なし
そのシラス山間の都城でも2500年前、縄文晩期の水田跡があるという事実。
952 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 23:11:17.30
だから邪馬台国の時代に 畿内意識なんて無かったよ 天皇軍団が遣って来て土着住民に植えつけただけだから
953 :
日本@名無史さん :2012/05/10(木) 23:32:40.91
>>950 同じ降るっつってもレベルがちゃうわ。
九州の東海岸は黒潮の関係で非常に温暖だ。
これは、弥生期は厳しい寒冷期であった事を考慮すれば、
宮崎平野が中心となる理由が具体性を持つ。
というのも、寒冷期がながく続いた当時、黒潮は今よりも早かった。
温度の差異は潮流の早さを決定づける要素の一つで、極が冷えていた当時
暖かい黒潮は今以上に宮崎・四国・紀伊にうちつけていた。
この三地域は他地域に比べかなり温暖だったろう。
地名が似てるのは偶然ではない。紀伊勢力と九州勢力は親戚であったろう。
つまり、後代のように日本が横に分割されていたのではなく、中央の山嶺を軸に
縦に分かれていたと見るべき。
朝鮮の影響の濃い日本海勢力と、太平洋側勢力が山を挟んでにらみ合っていた。
この構図は文化的で温暖な穀倉地帯を、鉄器遊牧系が侵略するという
当時の世界的普遍現象とぴたりと重なる。
>>953 瀬戸内海を挟んで南北に分かれてたんだよ
その痕跡が高地性集落として残ってるのに
縄文晩期〜弥生初期と弥生後期〜古墳初期に寒冷化していたらしい。 縄文晩期〜弥生初期の寒冷化は砂丘や湿地を発達させ気候が許す地域で稲作を受け入れる土壌になったけれど、 弥生後期〜古墳初期の寒冷化はいったん発達した稲作が不可・困難・収量減となった地域もあるだろうとも言われる。
>>953 山地を挟んだ北と南の気候の違いは今より大きかったんかな?
957 :
日本@名無史さん :2012/05/11(金) 08:39:26.27
>>956 現在の韓国は、緯度がほとんど変わらないにもかかわらず、シベリア寒気団の影響で亜寒帯冬季少雨気候に属し、
日本とはまるで違う気候だ。
これはインド洋の暖かい空気がヒマラヤにぶつかり自転の影響で日本に流れてくるからだが
弥生期はこの風は南に押し下げられ、日本海側全域に半島と同じ乾燥小雨の亜寒帯気候が広がっていた。
出雲勢力圏が短期間で伸張した理由もこの気候区分による理由が大きいだろうね。
もともと日本海側の縄文系も九州と同じく森林の焼き畑と11年サイクルの雑穀の栽培をしていたが
弥生期からはほぼ炭や種子が見られなくなる。
これは寒冷化によって焼いた森が上手く育たず、若い木が作るドングリが主食であった縄文系は太平洋側に移動した。
日本海側には軍事勢力の空白地帯が広がっていたのだろう。
ドングリといえば縄文集落の本野原遺跡でもドングリ貯蔵の跡が見つかってるね 邪馬台国とか言ってる時代から2000年くらい前だけど 貯められる時に貯めとこうってのは縄文しかり現代しかり
この地からは現代の法や倫理的に問題がある特異な埴輪が出土しているな。 このような埴輪は他に例が無いらしい。 神懸かっている女性らしいが…
気になる リンクお願い
検索したら出てくるみたいだよ 魏志倭人伝そのままに読むとやっばり西都含めたこのあたりになってしまう 人吉盆地を迂回して九州山地を歩いて来ようってんなら1ヶ月くらいかかってもおかしくないかもね
962 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 12:03:36.25
なるほど・・・! 天草南部+葦北+球磨+えびの+薩摩半島南部を除く鹿児島県本土全域を狗奴国と比定すればそのようなルートを通ることになるな。 わざわざ超険阻な山間部を通らざるをえない。 八代→坂本村→五木村→水上村→椎葉村→西米良村→西都を歩いてどのくらいかかるか歩いて確かめたような人はいないかね? 国道、県道、市町村道の使用厳禁、江戸以前の交通路は大概尾根部だったので尾根の人道か獣道か道でない所を通って。 全行程野宿(キャンプ)で肉体疲労も再現。 いったいどのくらいかかるのか・・・?
魏志倭人伝絡みでそういう条件で唐津から糸島半島までだったか佐賀の誰かは実際に歩いた人もいるそうだけどね
964 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 19:24:51.91
相変わらず 経読書生僧が多そうだな 最後まで行っちゃったからね 畢竟
965 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 19:26:15.95
狗奴国は大国だ 戸数にして邪馬台国の7分の5の勢力 邪馬台国を大和と仮定して南にそのような国がありえるだろうか?
そんな記述はない 読み間違ってる
967 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 19:33:21.23
空き地を用意しとけば北はそれでいい
968 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 19:39:59.23
雑魚経読書生僧じゃ無理 都城が邪馬台国卑弥呼の居住地
969 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 19:56:07.25
前−下−南 後−上−北 凡人に与える物理上かつ視覚上の 共通心理効果を深く考察し抜け出す
都城が邪馬台国なら狗奴国は肝属平野くらいしかないが 局地的すぎないか
971 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:16:20.05
>>786 付け足すと日本列島は自然構築な世界と違って
特殊な創造で造られた国土。それもあまりよくない
まるで世界を見回して受動認識するような赤ちゃん精神
972 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:21:58.13
水行の水というのは大河の意味 いすいとかいろいろある 川幅が何キロもある場合もあり、両岸で支配勢力が異なっている場合も多い 南水行というのは南岸沿いを船で行くということ じゃあ、日本にそんな大河があるのか 無い! しかし中国人からみれば瀬戸内海は大河に見えるらしい そう言うこと ちなみに陸行とはそれよりも川幅の狭い川を船で行くこと 中華の役人が辺境の地(奴ら基準で)を歩いたりはしない
973 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:31:18.92
娑婆の構造 月 = 漢人(北叟笑む老人) 月の欠片=朝鮮人(実行部隊) ↓侵入 太陽 = 倭人(無防備な赤ちゃん)
壱岐から唐津までの海を渡海と記しているのにそれより幅広の瀬戸内海を大河と看做すのは無理があるんでは… 陸行一月して邪馬台国まで行ったのかどうかは疑わしいとこもないでもないけど
975 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:43:58.33
発想力の次元がもう違う
976 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:47:03.28
宇宙や自然だけじゃなくて 人間活動のその影響下の一部だからね
水行とは川や海岸のすぐそばを航行することだよ
978 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 20:58:17.29
入れ物大きいから誘惑されるけど 北九州地方なんかに無いから(笑)
979 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 21:07:46.60
一般に認識されている漢字の意味が 創造者が込めた意味と違ってたら怖いな字術 確かに奥深高く大勢には理解困難な世界である
980 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 21:20:46.01
少し視野が広がり思考構造に柔軟性が出たかな?
筑後平野は広い平坦な土地だ 宮崎平野は平野内に台地や起伏が多くて平坦でない 脊振山地南麓のようなびっしり詰まった弥生の水田遺跡に匹敵する弥生遺跡は無い 状況証拠に弱い
982 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 21:24:35.08
まぁがんばってw
983 :
日本@名無史さん :2012/05/13(日) 21:39:31.36
その脊振山地南麓も弥生時代の末ころになると衰退してしまう。 だからこそ残っているとも言える。
より低地へ移っていったからと言われるが当時の有明海の海岸線が遠くなって新規開拓の余地が出来たこととは確かに合致する 匹敵する過渡期や直後の遺跡が見つからないなら相当数の人はいったんどこかへ移動したか人口がかなり減ったか 以後絶えることなく水田等として利用されて遺跡として残らなかったかどれかだろうな 弥生時代の終わりは寒冷化していたのでそれがどのくらい影響があったか