832 :
日本@名無史さん:
平家も結構内紛はあるよ、平将門の乱とか、平忠常の乱とか。
清盛の場合、池禅尼、頼盛、忠正、家弘、家盛の遺児などの不平分子を悉く
崇徳上皇方につけ三族皆殺しにした結果安定しただけ。
833 :
日本@名無史さん:2012/06/11(月) 02:30:11.59
>>832 頼盛は鎌倉時代まで、源頼朝に優遇されて生きておいででございます上に、子息まで朝廷に仕えてましたが、何か勘違しておいででは?
池禅尼に至っては、崇徳院の負けを見抜いて、頼盛を清盛側につかせてますが?
834 :
日本@名無史さん:2012/06/11(月) 20:30:02.22
それが清盛からしたら予想外だったんじゃない?
崇徳側に頼盛が付いて
池禅尼共々始末したかったんじゃないかなぁ。
そうすると頼朝も。
助命は朝廷からの圧力もあったと思うけど
闇討ちとかもあったかもしれない。
>>830 義家・義綱あたりは都での出世競争で仲悪かったけど、(仲悪いって言うか上司が違うから仕方がなかった)
義光は後三年の役についていってるし、三男坊のつらさで早々に地方に根付いてるから、
義家が生きている間はわりと仲はよかったと思うな。
だけど義家が後三年の役で私闘扱いにされて、使った公金の返済にてまどっていたせいか
義親が不遇の対馬守で反乱起こして以来、義光は俺の時代が来たと思ったのではないかね
子孫の武田は、頼朝と仲たがいしたしね
836 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 05:52:56.31
頼朝は佐竹氏や武田氏に厳しかったから、義忠殺しは義光が黒幕と思っていたのでしょうね。
「平清盛」では頼朝が常盤の子に反感をもつ様子がよく表現されている。
837 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 09:50:23.56
>>835 義光が後三年で奥州に馳せ参じたのは、兄義家を慕ってとか助けたいとかからじゃないだろ。
「やべ、バスに乗り遅れる」とか、むしろ「義家兄にばかり手柄を独り占めされてたまるか」という気持ちの方からだと思うぞ。
後には色々と美化されているが。
それから
>義家
が
>私闘扱いにされ
たんじゃなくて、
あれは端から私闘以外の何物でもないから。
>>836 義光が義忠を殺したから、源氏の嫡流が為義・義朝・頼朝へ来た。
頼朝は、義光の子孫の佐竹や武田を優遇しないとおかしい。
>>838 平賀を大優遇して、一門筆頭みたいな位置だったろう
840 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 14:35:34.35
平賀義信
室 丹後内侍の妹
従兄弟 方原師光(三河国形原荘荘官)
安達盛長(三河守護)
父 小野田兼広(三河国小野田荘荘官)
室 丹後内侍
娘 源範頼(三河守)の室
841 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 15:09:22.06
>>840 丹後内侍と妹は、源頼朝の乳母の比企尼の娘。
頼朝の伊豆流人時代に生活を支えた初期の功労者のひとり。
842 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 17:21:41.82
比企尼(頼朝乳母)の近親者
長女・安達盛長室ー女(源範頼室;夫範頼が頼朝の命で殺害されてからは不明)
次女・河越重頼室ー郷御前(源義経室;平泉で義経とともに死)
三女・伊東祐清・平賀義信室ー平賀朝雅(北条時政の娘婿;北条義時の命で殺害される)
養子(甥)比企能員ー若狭局(源頼家室)ー一幡(北条時政によって源頼家・比企能員・若狭局・一幡ともに殺害)
あまり皆幸せになってないんだよな
843 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 17:44:40.70
義光の子孫(信玄)が義家の子孫(氏真)を覆い落としたのも源氏の血筋や
844 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 17:48:47.73
>>834 清盛は頼盛・池禅尼を厚遇してるからそれはないだろ。
平治の乱で清盛は重盛・頼盛を平家の大将軍として平家の主力軍を任せている(「愚管抄」)。
また、その後清盛が厳島神社に収めた平家納経でも、頼盛は重盛とともに自筆写経を収めている。
一時期、実子を出世させたい清盛の意向により職務怠慢を理由に解官されるが、
その後は権中納言まで出世させている。
池禅尼も平家全盛期にその主力地であった六派羅に邸宅池殿を構えていた。
845 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 14:45:39.36
保元の乱以前はわからんよ。
846 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 14:59:53.77
>>845 保元の乱の時も池禅尼が頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ(愚管抄)」と言っており
池禅尼・頼盛が清盛から冷遇されていた様子はない。
保元の乱の功績で頼盛はかつて清盛も任じられた安芸守になっている。
大河では、頼盛は崇徳につきかけたため清盛に謹慎を命じられ戦いに加わることを禁じられたが
史実では平家方武将として出陣しているし。
847 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 16:41:08.18
平頼盛(三河守)
848 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 17:13:56.77
頼盛、池禅尼親子は当時の平家の中では一大勢力だったって言いたかったんじゃない?
その意味では清盛は一掃したかった。
それなら自分も同意。
頼盛が一大勢力w
せっかくライバル清盛末裔たちが壇ノ浦で滅んだのに
チャンスの頼盛はあっという間に没落したな
後三年の役における源義家の戦後処理
4 千任丸の舌
次ぎに、千任丸が召し出された。
義家は言った。「先日、矢倉の上で言ったことを、今、もう一度言ってみろ。」
千任は、頭を垂れて何も言わなかった。「その者の舌を切れ」と義家は命じた。
すると、源直という者が、千任に近寄って、手でその舌を引出そうとした。
義家は、激怒しながら、
「虎の口に手を入れるのは、愚かなことだ。」と言って、源直を追い払った。
特に力自慢の兵を幾人か呼び寄せ、その中からとっておきの猛者を選んだ。
その者に焼けた鉄を掴む金ばさみを取らせ、舌を挟んで抜くように命じた。
ところが、千任は歯を食いしばって口を開こうとしない。
猛者は、金ばさみで歯を突き破り、ついにその舌を引き出し、これを切ってしまった。
千任の舌を切り終わると、縛り上げて、木の枝につり下げ、足を地に着かない程にして、その足の下に、武衡の首を置いた。
千任は、泣きながら足を縮めて、何とか主人の首を踏まないように我慢をした。しかししばらくして、力尽き、足を下げて、ついに主人武衡の首を踏んでしまったのであった。
http://www.st.rim.or.jp/~success/go3nenki2012.html
852 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:00:56.33
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏、三河伴氏か?)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
853 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:02:07.19
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
854 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:34:39.40
源頼朝関連史跡一覧
◆三河七御堂◆源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
【西尾市】光福寺■現在の金蓮寺、弥陀堂
【蒲郡市】長泉寺■弥陀堂、全福寺■現在は廃寺、丹野御堂
【新城市】鳳来寺■弥陀堂
【豊川市】財賀寺■観音堂
【豊橋市】赤岩寺■弥陀堂、普門寺■観音堂
その他
【岡崎市】
・滝山寺■藤姓熱田大宮司一族氏寺、伽藍造営、頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像、源実朝、北条政子の墓あり
・夏山八幡宮■梶原景時を名代にして参拝、社領寄進
【豊田市】
・平勝寺■元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・普賢院■寺領寄進
・猿投神社■藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築
【西尾市】
・瀬門神社■1195年に源頼朝が社殿を再建
【新城市】
・鳳来寺■再興、三重塔造営
・今水寺■寺領寄進
【豊川市】
・財賀寺■本堂・仁王門再建
【豊橋市】
・普門寺■再興、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭
・吉田神社■天王社勧請
・鞍掛神社■愛馬の鞍を奉納
855 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 14:32:28.91
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、河内源氏ではなく『鎌倉源氏』と称するべき。
その持論このスレか他のスレで丁寧に説明してくれていて説得力はあったんだけどさ
後世義朝-頼朝のラインが源氏の正統と再三に渡り位置づけられたため
そんな呼ばれ方すると逆に分かり難くい上に実態とかけ離れるよね。
実態とかけ離れるってのは、義朝から実朝までが短すぎるんだよ
その義朝からの5代が
1.義朝が京でのロビー活動を非常に重視しし、義朝自身の在京が長い上に活動拠点が京都
2.鎌倉源氏と称すべきとされている5人のラインで
実質的に活動した義朝から頼朝までで期間が極短い
(全体として鎌倉源氏といえるほど支族としての実質的な活動実態がない)
3.有形力を行使して支配を確立した義平もあくまで在京活動を重視
2についてなんだけど幕府が確立した後の頼家・実朝と義朝・義平・頼朝を同列に扱うのはおかしい。
そもそも世代的には、義朝-義平・頼朝-頼家・実朝の三代だし一般的な解釈もこちら。
頼家を何もしてないというのは乱暴だけど頼家と実朝って実質何もしてないじゃん。
何もしてないというかあっという間に死んでしまうわけで。
実質義朝、義平、頼朝の三人で、しかも義平頼朝兄弟で
義朝とその子の二代で鎌倉源氏と態々呼ぶのに相応しいのか?
そして義朝の半生は完全に在京での活動で
上手く行けばそのまま京都で権力を確立し京都に在住したろう。
義朝の思考として関東はあくまで京都で活動の財源(金銭的な面以外も含めて)であり土着化など考えていない。
思うに義平の活動にフォーカスを当てすぎなんだと思うんだ。
平氏と違い基盤地に対して実効支配が必要で、義平を残して武力支配しておく必要があっただけでしょ。
頼朝の御曹司としての価値は、前半生。京都の義朝の子で官位を持って生き残った子という点。
この義朝なんて完全に京都だし、頼朝も鎌倉源氏なんて呼べるほどの関東で土着化していない。
土着化すっ飛ばして権力の頂点煮立ってしまいトップになってしまった。
仮に乱が起こらなかったり、義平が乱に行かずにあくまで関東の実行支配に固執し
義平が土着化し在京組の兄弟と分かれた場合
鎌倉源氏や関東源氏なんて呼ばれても不思議じゃないんだけどさ。
さらにifなんてすると義平が全部ついだ場合も京都にのぼって在京活動したんじゃないか?
このケースで京の兄弟とは別れて関東の方で完全に土着化したらまあまさに鎌倉源氏なんて呼ばれてもまったく問題ないけど。
義朝のクーデタやそれにあくまで参加した義平見ると
関東の方で独立した治外法権を確立するなんて発想は義朝と義平には一切無いように見えるんだけど。
勿論この失敗があったから頼朝と幕府があるわけなんだけど
それを以っても鎌倉源氏と呼ぶのが相応しいとはとても思えないんだけど
本人たちはあくまで在京系統重視してた上に頼朝なんて義朝からまだ2代目だし。
その頼朝なんてまさに京都で出世してた組み。
後世の位置づけもこのラインが源氏の嫡流で新規の別の支族という認識はない。
他の頼政などの源氏が頑張って嫡流取り戻したわけでもない。
あと結論だけ言うと義平も地方に土着化して
中央の政局から全く関係なくなってしまってた
多数の源氏と違い土着化なんてする気ないように見えるんだけど。
土着化や在住期間、活動内容が問題でない場合でも
清盛らの平氏と相対的な比較を踏まえてると
改めて鎌倉源氏と呼ぶほどの状態にないというのが
「鎌倉源氏説」の丁寧な説明をみて思った感想。
お父ちゃん(義家とか)が雅な御方にヘコヘコしてるのに、バカ息子が地方でヤンチャするのを繰り返すってことですね。
863 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 21:25:31.57
活動期間の短さとかは、頼信だって初代なのに河内源氏と呼ばれてるから関係ないだろう(頼親の大和源氏についても同じ)。
ただ「鎌倉」源氏と、「都市名」プラス源氏なのが違和感ある。
他は摂津源氏、大和源氏、河内源氏、近江源氏、信濃源氏、常陸源氏、と皆「国名」プラス源氏だからね。
朝長もいることだし、「相模」源氏の方が良いのではないか?
864 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 21:29:16.64
あでも「多田」源氏という「荘名」プラス源氏という故障もあったか。
失礼。
865 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:04:13.09
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り加茂郡(豊田市)に土着
・季兼(三河四郎)は、加茂郡(豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼(三河四郎)は、額田郡(岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする
・季兼(三河四郎)は、設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼(三河四郎)室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼(三河四郎)は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼(三河四郎)の息である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康(伊勢新二郎大夫))を領主にし、養育する(遺構 不動堂館跡)
・平治の乱で平家に没収され、恩賞として義朝を暗殺した長田忠致が荘官となる(遺構 長田館跡)
・高橋一族は駿河に移住し、初代大森氏・初代葛山氏に、子孫の大森頼春は小田原城を築城
・長田忠致一族が処刑されると、小野成綱(頼朝とは妾の子(貞暁)の乳母父を依頼される関係)が地頭になる
・小野成綱の代官である高橋頼之(藤原南家、相良氏)は、軍功により頼朝から高橋荘8000貫地の地頭目代となる(遺構 高橋館跡)
・その後、小野氏に代わり、源頼朝の実弟(八田知家(妹が寒河尼(頼朝乳母))の家系(中条氏)が、鎌倉〜南北朝時代通じで地頭になる
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から源頼家に室を出し、息に実朝を暗殺した公暁(母は足助重長と源為朝の娘の娘)
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が母の実父(藤原範忠)から相伝したもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
866 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:04:47.50
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(のちに三河守護)と丹後内侍(比企尼の長女)の娘)
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍の妹(比企尼の三女)、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼の兄)←範の字は藤姓熱田大宮司家が関係か?
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟、室は河越尼(比企尼の次女)の娘)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
867 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:36:30.99
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
868 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:39:16.53
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
【岡崎市東部地区/岡崎市中心部地区より東に6キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/岡崎市中心部地区より西に5キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【岡崎市南部地区/岡崎市中心部地区より南に8キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/岡崎市中心部地区より北に20キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市幡豆郡地区/岡崎市中心部地区より南に20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
869 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:40:09.54
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造
【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長、高師冬
・伊勢国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長、高師泰
・三河国守護:高師兼、仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房、上杉重能
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:高重茂、高師冬、高師直、上杉憲顕、仁木義章
・安房国守護:斯波家長
・上総国守護:高師直
【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:畠山国清、高師泰、細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏、高師泰、畠山国清
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経
【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・上野国守護:上杉憲房、上杉憲顕
・下野国守護:高師直、仁木頼兼
870 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:40:42.85
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造
【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、高師詮
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上杉朝定、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼兼、高師泰、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義
【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春
【南海道】
・紀伊国守護:畠山国清、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏
あわわわわ・・
渡辺徹もだが・・松浦分流の俺も、糖尿病だった・・
嵯峨源氏源融遺伝ゆえなのかね・・?
チラシの裏にでも書いときな
>>872 新聞の代わりの2ちゃんなのだが・・
チラシ呉れッ
月一回程度、町内のどこかで回収してるだろ
そこから拾ってこい
義親の長男義信は、謀叛人の子でありながら従四位下まで出世している不思議。
為義より上じゃないか。
>>875 義親は人気者だったし、乱を起こしたのも事情があったんじゃないかな?
為義は、検非違使として犯罪者をかくまったり、貴族の荘園を荒らしたり、ろくなことをしてない
>>876 確かに事情がありそうなんだけど、その事情が全く見えてこないんだよね。
新興勢力たる武士の棟梁の嫡男が中央への反乱を起こして殺された、という大事件だし、
その時代の乱の多くはある程度背景も伝わっているにも関わらず。
878 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:58:16.82
879 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:55:26.20
河内=大阪
>>879 それは正しくない。
河内は大阪の一部であって全部ではないよ。
河内国全域と和泉国全域と摂津国の半分を合わせた広大な地方自治体が大阪府なんだ。
少し前まで、大阪府よりも狭い県なんて一つもなかったけどな。(今は香川県の方が少しだけ狭い)
ちなみに。
二国半より広いのは、兵庫県の「ほぼ四カ国」ぐらいかな?
丹波の半分と摂津の半分と但馬全域、播磨全域。淡路国(国と数えるなら)も入ってるか。
岡山県の三カ国(備前備中と美作)もあったか。
すれ違いだけど面白いので参加
千葉=安房・下総・上総
静岡=伊豆・駿河・遠江
三重=伊賀・伊勢・紀伊
京都=山城・丹波・丹後
島根=出雲・石見・隠岐
長崎=肥前・対馬・壱岐
なんだ結構あるな
下総は解体されて、一部が東京や茨城に行ってるから、三カ国よりは少ないよ。
紀伊は大半が和歌山で、三重に行ったのはごく一部、三重は「ほぼ二カ国」だ。
京都も、丹波が半分に分割されて兵庫と京都に行ってるから二カ国半で大阪と同じ。
隠岐・対馬・壱岐のような島嶼は、さすがに一カ国と数えるには厳しくないか。
三重て志摩もなかったか?
ハハハ、俺ってマヌケ。
志摩を忘れてたよ、スマン。
885 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 07:14:33.86
河内国が大阪の一部もなにもその時点で大阪だろ
大阪府ができるまでは大阪と河内は全然別だった。
間違えないように。
河内も和泉もガラ悪いよ。あんなのと大阪を一緒にされたくない。
ワレ何ぬかしてけつかるねん。
義家公も楠公も河内もんなんやで。栄光の歴史やんけ。
上品にやっとったらあらくたい連中まとめてくことなんかでけへんやろ。
=と∋、⊂などとの違い。
「は」と言ってたら、「〜の一部」とか「〜に属する」などの含意を持つこともあるが、「=」はそういう含意がない。
890 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 18:44:23.88
河内人 柔らかさとしなやかさを兼ね備える
摂津人 欲張りな上臆病で薄情
和泉人 軟弱、臆病、軽薄で狐に似ている
摂津国に関しては、大阪市の大半と神戸市の大半と「阪神間」の全域を含む地域なんだが。
(あと、大阪府下の淀川以北の全域まで含む。)
だから、「摂津人」というなら、神戸市民も含むんだよ。
(だいたい、須磨区の東端あたりが国境だったはず)
武士の中の武士頼光公は摂津源氏。
>>892 同じく、武士の中の武士頼光四天王の源綱も・・
頼光四天王の他、源貞光・卜部・金太郎
源綱(渡辺綱)の曾祖父は、源融(光源氏)で、嵯峨天皇の第18皇子でもある。
源氏始祖で源氏長者。
巨姓降下による源姓を賜りし、源融(光源氏)の官位は、大納言、最終的には、左大臣にまで上った。
その末代を、渡辺氏・松浦氏・五島氏とある。
頼光四天王
平貞道(坂東出身のつわもの。相模三浦氏祖)
平秀武(坂東出身のつわもの)
□□公時(坂東出身のつわもの)
不詳
源融 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%9E%8D 小倉百人一首第14番・河原左大臣源 融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日(895年9月21日))は、嵯峨天皇の十二男。
侍従、右衛門督、大納言などを歴任。
極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。
死後正一位を追贈されている。
嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。
陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。
近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わる
渡辺綱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1 渡辺 綱(わたなべ の つな[1])は、平安時代中期の武将。
源宛の子。
嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。
通称は渡辺源次。
頼光四天王の筆頭として知られる。
源頼光 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89 源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。
父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。
諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。
満仲の長子で清和源氏の3代目。
満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。
異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。
頼光四天王は
鮒
金柑
椎茸
定めて
>>900 頼光四天王は
鮒→→→渡辺綱
金柑→→坂田金時
椎茸→→卜部季武
定めて →碓井貞光
903 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 00:44:16.78
松浦厨の発作が出たかw
V
摂津源氏が上だね
906 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 17:32:46.64
908 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 22:42:49.97
ガイキチは消えてください
キチ相手だと何言ってもムダじゃね?
家康は、愛知の豪農です。
源氏ではない
だれか、釣り針を見て熊が考えてるAAを貼って!
912 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 06:19:47.81
仲間に入れてやれよ!
徳川家康って源氏じゃなっかのかよ
松平は最低でも家康の祖父の清康の時代から源氏を名乗っている。
最近の研究では松平氏の最初期から源氏を名乗っていたともされる。
言い伝えによると、
松平村の庄屋の家にさすらいの遊行僧が転がり込んで、娘をコマシ、入り婿になった。
そいつは、新田の子孫だとホラ吹いたという。
新田も一応源氏。
>>915 近隣の百姓を束ねて勢力をもち、三代目あたりで、三河の城のひとつを乗っ取り、
以後、順調に勢力を増し、国人大名となっていった。
917 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 20:12:56.93
源氏を名乗りながら、賀茂氏を彷彿とさせる「葵の御家紋」を使う松平土豪一族。
伝承の時期の三河の状況を見ると、南北朝期、大久保氏を始めとして、関東の南朝に参加し敗北した兵が
三河に流入する現象があった(三河は足利の本拠だけに、尊氏の合戦に根こそぎ動員されていて
一種の空白地帯となっていた)
松平氏の祖先(いわゆる徳阿弥)伝承は、関東の新田軍の残党が三河に流入したことを
表している可能性がある。
919 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 22:35:18.30
そもそも源経基って本当に源氏なの?
清和源氏の家格の低さは村上源氏や嵯峨源氏と比べても群を抜いて低いだろ。
1-2代で没落する源氏多いにしても初代は公卿クラスまで昇任してる。
初代源氏にしては官位低すぎ、仮に経基が源氏だとしても、子供の満仲が経基の子であるかどうか
怪しすぎる。
まあ父貞純親王との関係が取り沙汰されることはあるにせよ、経基は皇孫で間違いないと思うよ。
でも満仲は…
知〜らないっと。
>>919 賜姓源氏の人数を勘違いしてるだけだろ
賜姓源氏の内で初代が公卿まで出世してるのは一握りだけじゃなかったかな。
何十家の賜姓源氏が実在したのか調べてみろよ。
初代だけで何十人もいるんだぞ。
同時期に賜姓源氏(の初代)が10人以上も併存してた時期だってある、たしか。
>>918 徳阿弥が松平家に入り込んだのは、室町幕府第三代義満の頃だったと思う、たしか
>>922 あくまで伝承だからね、徳阿弥に関しても。
松平氏は五代義教の頃には、幕府政所伊勢氏の被官の、三河の有力国人として記録に現れているので、
結構早い段階で一定の勢力を打ち立てていたと思われる。
また書かせていただくますね。
家康=河内源氏
守護霊太郎左衛門大阪城の
地図を片手に東へ下る
ばあさんのお寺河内国臨済宗初日山常光寺
奈良時代行基建築。藤堂高虎最後の地。陸軍中佐が赤絨毯弾いて挨拶に。
母弓野家東北征伐の源氏の武士
爺さん本名前田
925 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 13:22:30.67
918
適当な事ばかり言ってやがるな
流入してきたのは、南朝の本拠が現在の豊田市だったからだろ
新田氏と三河の関係は平安時代末期にまで遡る
皇嘉門院領
新田義重
足利義清(矢田義清)
山名義範
926 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 14:32:48.41
>>919 嵯峨源氏や村上源氏の一世源氏は天皇の実子であることが多い
それに対して武家源氏の祖である清和源氏は天皇の孫(親王の子)など
天皇から数えて二代目以降だろ
もっとも嵯峨源氏や村上源氏の一代目(天皇の皇子)であっても
公卿になれなかった者はいる
927 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 08:07:18.06
・清和天皇→自閉症児
・陽成天皇→重度のアスペルガー症候群
だと仮定すると、同じ血筋の清和源氏は、穢れがついているとみなされ、
晴れと穢れに敏感な堂上貴族への道は閉ざされたのではないかと思うのだけど。
陽成さんに至っては、天皇の聖なる立場を省みず、家人を撃ち殺しているし。
928 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 08:33:53.35
>>927 清和天皇や陽成天皇といった身内が早々と死んだり政界を追われたりしたので
清和源氏を引き立ててくれる身内がいなかったというのはあるわな
929 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 12:39:30.68
皇室典範のように考えると鎌倉将軍家断絶後、源氏の棟梁は誰になるのかな
931 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 13:41:39.55
>>930 もとは新田のほうが嫡流じゃなかったか?
ただし足利は北条政子の妹を正室にしたため頼朝から義弟として重んじられ
その後も足利家歴代当主が北条一門から正室を迎えたので幕府内で大事にされてた
そもそも武家河内源氏に嫡流という概念は少なく、端的に言えば実力で主導権を握ったものが
河内源氏の棟梁となる状況であった。
頼朝の系統は清和源氏為義流から分かれた義朝流から更にわかれた頼朝流、に過ぎない。
「源氏の嫡流」という概念自体が、河内源氏の歴史から考えればおかしなものである。
>>927 現役天皇との血縁の近さが昇進の要件の一つ(主たる要因というほどではないが)だった以上、
清和源氏が確立した頃に皇統の傍流に転落していた(現役天応の祖先ではなく、廃帝陽成の親である清和天皇から別れている)、
傍流源氏たる清和源氏にとって、出世競争は非常に厳しいだろ。
庶子と嫡子の間の格差を、もう少し大きくしたぐらいの壁が立ちはだかっている。
で、出世の目処が立たなかったから地方進出に活路を求めたんじゃないのかな。
>>931 嫡流・庶流の差は、社会的地位、現実の権力などによって大きく影響されるだろ。
鎌倉幕府成立期に功績を立てた足利と、幕府と対立したりして衰退した新田では、競争の余地はなくなっていた。
幕府が「頼朝の親族のうちで筆頭は足利」と認定したから、政子の妹を正室に迎えることになったんじゃないか?
年齢が合わない気がするけど。
934 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 18:55:40.20
>>933 だから929にある通り「皇室典範」に準拠すると、なんだろ。
皇室典範では、自分で築き上げた功績や社会的地位は一切関係がない。
単に生まれながらの長幼の序(嫡庶の別)によって皇位継承が決まる。
現実には源氏は生まれながらの長幼や嫡庶によって棟梁が決まるのではなく、
親兄弟親戚一同が殺し合いをして一番強い者が棟梁になった歴史があるのだから、
皇室典範のようにはいかなかったってだけで。
これはちょっと不思議な記述だけど吾妻鏡に新田義重が
『以故陸奥守(義家)嫡孫』自立したとあるんだよね。
>>934 河内源氏の殺し合いの歴史って、ないだろう。
朝廷の命令で処刑したのを除けば、
自分の意志で殺したのって、
義光が義忠を殺したのくらいじゃん。
殺し合いして一番強いものが棟梁になったわけじゃない
937 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:22:05.63
頼朝が義経を殺してる。
義賢と悪源太、頼朝・義経と義仲とかイパーイあるじゃん。
938 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:42:52.33
>>936 源義朝(頼朝の父)は庶子・異母弟の源義賢が嫡子
義朝が長らく無位無官だったのに対して義賢は早くから官職を得ている
義朝は息子の義平に義賢を殺させて源氏棟梁を称している
源為義(頼朝の祖父)もまた庶子で、異母兄の源義忠が嫡子
しかし、義忠がその叔父義光に暗殺されたため、
為義は犯人に疑われた叔父源義綱を殺害し、
実際の犯人義光を常陸国へ追って、自ら源氏の棟梁となった
源氏一門で殺し合いしてるじゃん
河内源氏嫡流義朝の嫡子頼朝が挙兵したから坂東武者は挙って馳せ参じて
鎌倉幕府創健に到ったんだよ。
>>939 以仁王という皇族の挙兵命令があったからそれに集まったんでしょ
実際に頼朝じゃなくても他の源氏たちも挙兵できてるんだし
(木曽義仲や源頼政も挙兵)旗印は誰でも良かった
頼朝系源氏が三代が滅びても鎌倉幕府は崩壊しなかったし
>>939 そんなの、過去の俗説。
つか、鎌倉幕府公式の起源神話だろ。
既存秩序への不満が高まってる場面では、誰かが挙兵するだけでも雪崩うって賛同者が出ることがある。
嫡流じゃなくなって久しい新田氏が挙兵したときも同様だ。
義家以来の「源家累代の家人」を自任自負する坂東武者たちが「貴種再興の秋」に賭けたんだよ。
>>942 源氏将軍三代、皆暗殺とも言われるし(頼家と実朝は暗殺・頼朝は暗殺説)
坂東武士は必ずしも頼朝に忠誠心なんかなかったんじゃないの。
944 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 00:26:13.47
たとえば御曹司あべチャンに自民党員は忠誠心があるのかないのか?
そんな問いは無意味だろう
御輿として使える玉かどうか、使えなければ投げ出される
宗任の末裔だから河内源氏とも縁あるな。
>>944 別に自民党員は「安倍家累代の家人」ではないからな(世話になった程度)
しかし坂東武士が「源家累代の家人」なら多少の忠誠心はみせるはず
947 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 14:14:21.44
義朝以前は、「譜代の主従関係」なんてヒエラルキーは存在しなかったといのが学界の定説。
その時その時の利害関係で結びついていただけ。
948 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 16:27:39.13
>>947 為朝に従ってた家臣団たちは譜代じゃなかったのかw
忠盛も平氏の棟梁として家臣団を率いることの重み、みたいなのを大河で語ってたが
譜代なんかいなかったのかw
949 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:04:01.85
>>948 譜代はいたにはいたが、中世のそれも後半期以降に現れるようなそんな大掛かりなものではない。
いたのは平家貞的な代々の執事的存在だけ。
川合康とか元木泰雄とか読んでみ。
基本武士の主従は一代限りの関係だったらしいな。
951 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:29:52.29
>>949 家の子や郎党のことはどう解釈してるの?
毎回主従する相手をその時々で変えてたの?
952 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:30:56.31
>>950 それも契約期間だけ。たとえば頼義なら鎮守譜将軍などの権限で奥州に動員かけた時だけ。
それすらも関東の豪族で中々従う者はいなかった。
953 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:38:41.42
>>951 だからそれが二種類に分かれるの。
平家貞的な累代に渡る郎等と、あとは暫時の契約者的存在とに。
後者の中には独自に権門とも主従関係を結んでそのツテで位階官職を得ていて、実は源平と身分上は変わらない氏族もいた。
鎌田氏なんかがそう。
954 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 20:27:10.19
>>953 累代もいるにはいたんじゃん
動乱期にその時々で主人変えるのがいるのはいつものこと
(南北朝時代も戦国時代も主君取り替えまくってるのは多い)
鎌田政清は源義朝の乳兄弟、政清の母が義朝の乳母ってことだから、
為義の頃から源氏陣営にいたんじゃん。
信頼が政清に官職与えたのは源氏分断のためだろ。
955 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:04:37.17
956 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:20:50.74
>>955 947には「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかった
というのが学界の定説」と書いてあるが、存在してたんじゃん。
949では訂正して「いたのは平家貞的な代々の執事的存在だけ」と書いてあるが、
代々の執事以外にも、譜代や家の子、郎党が代々世襲で仕えてたんだろ?
>>956 横レスするが、
>949では訂正して「いたのは平家貞的な代々の執事的存在だけ」と書いてあるが、
代々の執事以外にも、譜代や家の子、郎党が代々世襲で仕えてたんだろ?
譜代・累代の郎党って、多くても数十人ぐらいが普通だったんだろ?
百人二百人もいることはなかったんじゃなかったっけ。
鎌倉幕府滅亡時に、北条一門(および郎党など)の自害した人数は、あの時代としては多い部類だしな。
それでも数百人。
958 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:06:23.18
>>957 執事といっても郎等に含まれるの。
執事的なる立場の者が存在したということで、それも郎等、家人の類い。
佐藤進一あたりが詳しいが、その「郎等」にしても、鎌倉殿以降の本領安堵の関係でもなければ、中世後期以降のご恩と奉公の関係でもない極めてドライなもの。
平家貞的な後世の譜代の家臣的存在は極めて少数。
>>953でも述べたが鎌田氏のような軍事貴族は、源氏に「仕える」以外にもそれとは別の政治活動を行って院や摂関に仕えており、むしろそれら権門との「主従関係」によって自身も五位の諸大夫の政治的地位を代々得ている。
つまり、為義と正親は身分上は同じ諸大夫に属する。
軍事はその性質上、結合する必要性が高いので、有事の時にはこれら軍事貴族が一同に会することになる。
その際の「軍事貴族連合の盟主」が頼義であったり、義家であったり、忠盛であったり、為義であったりしたということ。
いってみれば同業者組合の組合長ということで、決して江戸時代の殿様と家来の関係ではない。
盟主であるということとのちの主従関係との何よりの違いは、当時の源平には「家臣」を「本領安堵」する力なんて到底有していなかったということ。
959 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:13:05.73
>>958 >当時の源平には「家臣」を「本領安堵」する力なんて到底有していなかった
家の子や郎党の土地や荘園を源平が軍事的に守ってやるという役割は持ってただろ。
あの頃は自分の土地は自分で守るしかない。
源氏だって、代々摂関家の用心棒になって官職貰って食ってた。
960 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:16:44.58
>>957 たとえ数十人であっても、一代限りの関係ではない累代の家臣がいたことは事実なんだろ。
「規模」の問題ではない。
そら、鎌倉幕府なんて累代の家臣は規模から言ったら江戸幕府の半分以下だろ。
961 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:31:21.80
>>960 本論からズレて来ているぞ。
「源氏は頼義・義家以来の武士の棟梁の家柄であった」
というのが、君の主張だろう。
だからそれは違うということを提示しているまで。
そんなのは頼朝以降につくられた虚構。
諸大夫身分に過ぎない源氏にそんな力など有ろうはずもない。
河内源氏で言えば、本領河内の香炉峰の所領は飛び地含めても千石にも満たなかったと言われているんだぞ。
そんな身大で身分も諸大夫に過ぎない源氏に「家臣」の「本領安堵」なんて出来るわけも無かろう。
よって
>規模の問題
に決まっているだろう。
962 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:38:45.42
>>961 お前の頭の中が沸騰しておかしなことになってるぞ。そんなことどこに書いた?
よく読めよ、何度も引用している通り、
「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかったというのが学界の定説」
ということに対して反論しているんだが?
実際には譜代はいたし、家の子・郎党もいた。いなかったという根拠があるのかい?
「いたとしても頼朝のときよりずっと少なかったんだから、
どうせなら全然いなかったことにしてよ」という主張はなしね。
963 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:46:04.55
大体
>規模の問題じゃない
というならそれは他の同時代の軍事貴族(平氏、藤原氏秀郷流、同利仁流etc)全てに当てはまることで、全然源氏に特有のことでもなんでもない。
そのような家内隷属的「家人」なら上記のどの家にもいたことだろう。
964 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:50:28.02
>>962 後世の意味での主従関係などは殆んど存在していなかったと既に複数回レスしているはずだが、何を無かったことにして粘着している?
そんなに源氏は累代に渡って武士団全体の棟梁だったと主張したいのにそれが否定されて悔しいのか?
965 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:52:37.05
>>963 勘違いにも程がある。
平氏にも、秀郷流にも、「譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在」した。
家の子・郎党はどの武門の家にも存在した。
源氏だけが突出した武家の棟梁になったのは頼朝の時。
頼朝の時代にはすでに家の子・郎党などとは呼ばない。
御家人になっていたのだから全く別の話。
義朝時代に源氏は突出した武家の棟梁になったなど、お前の間違った主張だろ。
966 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:57:44.88
>>964 お前の論点すり替えもいい加減にしろ。
「源氏は累代に渡って武士団全体の棟梁だった」と俺が書いてもいないことを脳内ねつ造するな。
こっちが主張してもいないことを主張したと言い張る文盲、馬鹿め。
「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかったというのが学界の定説」
というお前の書き込みを否定されたからと言って、こっちが主張してもいないことを主張したと脳内変換して火病起こすな。
967 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:59:44.54
>>965 何を言ってんだお前は。
>>963で同じことを言ってるんだが何を言ってんだお前。
いい加減絡むのやめろやしつけえな!
968 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:01:04.51
>>966 論点のすり替えはお・ま・え
人の言葉真似してんなよ粘着君w
969 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:04:09.03
日本語読めない奴と「議論」するのも大変だなぁ・・・
970 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:04:56.92
>>967>>968 「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかったというのが学界の定説」
が否定されたことは認めるんだな。
まともに議論もできない馬鹿だったとは。
こっちが真面目に意見書いて損したわ。何も読んでなかったんだな。
971 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:08:36.08
972 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:10:47.65
>>968 他人が書いてもいないことに対して書いたと言いがかりをつけて暴言はいたことに対して
素直に謝るべきでは?
もう、頭の中が沸騰して自分で何が言いたいのか分からなくなってるみたいだけど
973 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:12:09.29
大体、何度も鎌倉殿以降の意味での主従関係は「殆んど存在しなかった」とレスしてんのに、
それを無かったことにして「ほら、少しはあったじゃん!」とドヤ顔してくんのかワケが分からん。
何が主張したいんだコイツ!
974 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:14:11.72
>>972 この一連のスレの中で君の最初のレスをアンカーで挙げてくれないか?
>馬鹿
とか
>頭沸騰
とか煽りいれてくるまえにさ
975 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:15:10.85
>>971 人が書いてもいないことを書いたと言い張る馬鹿に、
こちらが日本語でどんなに丁寧に説明しても分かるわけないしな。
「源氏は累代に渡って武士団全体の棟梁だった」
↑こんなことどこに書いたのかっての。
自分の頭の悪さ、わかってる?日本語通じないから無理だけど。
976 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:18:22.11
ああそうか俺の最初のレスを言質にとって「ほら違ったジャンw」
と揚げ足取るのが目的のオコチャマだったわけかw
はいはい。
疲れるコだねえw
977 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:21:52.99
>>975 >>975 いやだからそういう流れの議論だから。
だからこの流れのなかでの君の最初のアンカーを訊ねているんだが?
なんで答えないの?
それとも自説を否定された腹いせに複数人を演じているの?
そうでなかったら答えられる筈だよね?
978 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:24:01.66
>>973 「義朝以前は、「譜代の主従関係」なんてヒエラルキーは存在しなかったといのが学界の定説」
これは正しいと思ってんの?
義朝時代より前の累代の家の子・郎党の存在を否定してるんだが?
頼朝の話をまぜてきたのは、混乱させるための横やりだろ
だいたい、頼朝時代には御家人は頼朝個人と累代の主従関係を結んだのではなく
鎌倉幕府との主従関係だった(源氏三代がほろんでも幕府との主従関係は続いた)
979 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:27:17.67
>>978 なんで質問に答えず、俺の最初のスレにしか粘着しないでその後の俺のレスを意図的に無視するんだ。
もう一度聞くぞ。
この一連の議論の中でお前さんの最初のレスアンカーなどれ?
簡単な質問だろ?
980 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:29:22.02
>>977 だから、947に対する反論だと繰り返し何度も言っている。
それに対するアンカー見ればわかるだろ
947に対する回答以外答えてないんだから。
そっちはいっこうに答えないね。
勝手な主張を入れて茶化してるだけの奴がもう一人いるのか、同じ人が茶化し入れてるのか。
981 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:35:58.59
982 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:37:11.70
>>977 お前が書いた947を否定しているんだから、自説を否定されたのはそっちだろ?
このスレの別の奴が書いたことと勘違いしているふりをしているけど、
このスレの中に961みたいな主張の書き込みは見つからないんだが?
978にも答えないし。
983 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:46:00.21
>>982 繰返すが「源氏は最初から武門の棟梁だった」という命題について議論してきた流れの中で、なんでか顔を真っ赤にしたお前がどこからか登場してきて、一人で些末な問題で俺に難癖吹っ掛けてきているようにしか見えないんだが。
自分の最初のアンカー出せないワケでもあんの?
>>947のことはとっくにその後のレスで「修正」してんのに何故そこに拘るの?
それともオコチャマして「ほら、僕の言ってたことの方が正しいジャン!だからア・ヤ・マ・レ」というのが目的w?
大体、学問板でお前がそんなに「郎等」にこだわる目的は何よ?
984 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:54:22.40
>>982 じゃあ視点を変えて・・・
お前は「源氏は昔から武士の棟梁」論を唱えてた奴なのか(だったら命題の吹っ掛け人)?
それとも途中で「横からだが」
とレスしてきたご仁なのか?
どっちなんだ?
議論を噛み合わせるために、「お前の最初のレスを明示して」という誰でも答えられる簡単な質問をしているのに、
これにはいつまでたっても答えないところを見ると両者は自演か?
985 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 02:01:30.45
>>939 くらいから始まった議論でこれが命題だな。
986 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 13:39:39.48
皇室典範に準じると鎌倉将軍家のあとの嫡流って誰になるの?
987 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 04:33:55.66
無意味な質問
本来の武士は武装開拓農民
990 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 13:01:19.15
頼義、義家時代に源氏に匹敵する武門ってあったか?
同時期の平氏も藤原氏も棟梁としてはぱっとしなかった気がするけど。。。。
つか藤原氏は秀郷だけで、平氏は正盛〜清盛ラインだけといったイメージが強いな。
総石高なのか本拠地だけなのか図りかねるが河内源氏の所領が1000石という話だけど江戸時代の価値観で言ったら
5000石位の上級旗本って感じかな?
同時期の摂関家や清華、平氏などはどれくらいの石高持ってたの?
991 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 18:01:35.98
>>990 元々東国を基盤としていた桓武平氏や藤原氏秀郷流と違って、氏族としての誕生が先の両氏に比べて2世代ほど遅かった清和源氏は当然両氏に比べて東国への進出が遅れることになる。
というりも清和源氏としての実質的な活動を始める満仲の頃には関東には
「もはや源氏が割り込む余地は無かった。東国の分割はすでに完了していたわけで、ありていに表現すれば、源氏は東国に関しては“バスに乗り遅れた”といって良い。このことは二つ目の理由につながる。」(関幸彦『武士の誕生』)
かつてのフロンティアである東国に進出できなかったことで、清和源氏は狭隘な畿内近国の各地に留まざるを得なくなり、
そのことが逆に時の中央最大権門である摂関家への伺候の度合いを深めやすくし、
安和の変など藤原摂関家による他氏排斥の走狗となることで、ついでに自身のライバルである藤原氏秀郷流などをも失脚させることができ、武門の第一人者の地位を獲得することが出来たってわけ。
頼信は道長の近習だったそうだしな
摂津源氏のほうが中央で活躍している。満仲も摂津に住んだ。
河内源氏は傍流。
まあ河内源氏が源氏の正統、みたいになったのは、足利義満が源氏長者に就任して、後足利将軍がこれを
踏襲してからだと考えるべきだわな。
995 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 10:40:00.97
弓射儀礼(歩射)の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
回数 命中 命中率 射手数
1096年(京都) 140 11 7.9(%) 14 最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉) 240 181 75.4(%) 12
満仲には軍功がないね。九条流の陰謀で汚れ仕事を引き受けて地歩を固めたんだね。
997 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 14:19:22.63
鎌倉時代には、まだ氏長者を一人として出したことがないしな。
>>991 >自身のライバルである藤原氏秀郷流などをも失脚させることができ、
>失脚
させられたのは秀郷長男の藤原千晴ね。
高橋昌明なんかが言ってるけど、秀郷流は千晴失脚後も次男の千常の系統が京武者として幾つか存続し、その活動は決して軽視できないものがあるそう。
仕えてた家は堂上源氏や藤原勧修寺家だけどね。
源氏は朝廷内で一番力のある摂関家の家司だから、その政治力で一番華のある役職に付けられるし、それが記録にも残るということ。
銀河鉄道999
千年女王
1001 :
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