ムツノカミ、カイニンサレタヨ、ショボーン・・・
λ......................トボトボ
2 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 17:20:10
壷井八幡宮
頼朝も尊氏も家康も河内源氏。
家康も?
5 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 16:40:59
我は八幡太郎三十七代が後胤 旭八幡 源尊義なり!
世良田頼氏の嫁は足利義氏の娘
8 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 20:01:26
吉良も?
9 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 20:03:59
河内源氏って強いの?
10 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 20:07:54
俺、河内源氏が街を破壊しつつ原発の方に歩いていくのを見たぜ!
13 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 05:50:49
河内源氏(笑)
>>11 枕草子の源頼光は、清和源氏出身の河内源氏で、拠点にしていたのが、兵庫県川西市。
頼光のお供の源綱は、嵯峨源氏の光源氏のひ孫。
俺は、その子孫です。
>>11 綱の子孫で松浦氏諸流の本家次男なので、リアル桃太郎、吉備津彦のお供の大彦命の奥州安倍氏・・鳥海三郎の子孫でもあります。
竹取物語の阿倍御主人と同じ大彦命繋がりで阿倍氏の血も入ってますね。
安倍元総理と共通の祖先、琵琶法師の唄、源平合戦の壇ノ浦の合戦の章・・所業無常の鐘の音〜の松浦太郎(安倍)高俊も祖先なので、源氏、源義経の話とも繋がりますね。
>>14 幕末はどこで何をしてた家なの?
あと頼光は河内源氏じゃなくて、摂津源氏か多田源氏ね。
>>17 昔、ウィキペディア辺りで、見つけた時、川西辺りの河内源氏辺りと掲載されてたので、てっきり河内と思ってましたが・・
摂津源氏辺りでしたか、教えていただき、ありがとうございます。
幕末は知りませんが、家の氏祖自体は、江戸初期の長崎出島で長崎代官の片腕と語られてるそうです。
なだいなだ - Wikipedia
著者: なだいなだ
Amazon.co.jp
夢をみた海賊(チャイルド本社)。角川書店 1978.6
猫と海賊(偕成社、絵:小幡堅)。出版年月 1995年
に出てくる、島谷市左衛門親子だそうですね。
この著書で、父:島谷市左衛門定重が松浦氏出身と記載されてるそうです。
「長崎県大百科事典」
・島谷市左衛門 しまや いちざえもん ?〜一六九〇(元禄三)
泉州堺の人。江戸時代前期の探検家。オランダ人カスパル・スハルベルヘンによって遠近法
測量術を伝えられた長崎奉行所与力・樋口清右衛門から「規矩元法」の伝授を受け、島谷流
航海術に優れる。一六六九年(寛文九)末次平蔵の命で唐船を模した船を造り江戸に回航した。
一六七五年(延宝三)幕命を受けて代官・伊奈忠易らを乗せて伊豆下田を出港し、小笠原諸島
を調査・探検し珍獣、奇木を持ち帰り将軍に献上した。
・末次平蔵政直 すえつぐへいぞうまさなお 長崎代官を務めた朱印船貿易家。
・末次船絵馬 現在は長崎市歴史民族資料館に寄託。
・スハンベルヘン 出島商館外科医。
・航海術
島谷市左衛門定重は一六七〇年(寛文十)『オランダ系航海術』を著した。
「姓氏家系大辞典 第二巻」
・島谷 シマヤ シマタニ
泉州の名族にこの氏あり。河盛仁平の女婿を島谷安三郎という。
また銀座由緒書に「平銀見役、島谷八之助、島谷八次郎」等見え、また伊勢、志摩にも存す。
24 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 05:21:28
安倍晋三は腐臭。
25 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 07:11:38.28
26 :
日本@名無史さん:2011/04/08(金) 20:29:42.74
>>6 家康は自称だけどね
家康の先祖が河内源氏の得川氏の娘に
入り婿したことになっている
27 :
日本@名無史さん:2011/04/08(金) 22:04:23.02
>>9 河内源氏の鎌倉悪源太と鎮西八郎は強い
>>10 もう勘弁してくれ
28 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 04:12:13.15
新田遠江又五郎経政が居る (元弘3年8月熊谷直経軍忠状・熊谷家文書)。彦五郎・又五郎は田島氏の諱名であろう。
この経政は、南北朝内乱初期に、陸奥南部で親類の相馬氏と共に活動する新田左馬亮経政である(相馬文書)。
また「新田左馬亮経政代田島小四郎」(相馬文書)という記述から、経政の代官として田島小四郎なる人物が派遣されている。
代官には普通一族の者がなる場合が多いから、この史料は経政か田島氏であることを裏書するものである。
ところがこの経政は、史料上では建武2年(1336)に姿を消し、暦応元年から岩松頼有が伊予国守護、その後備後国守護として活躍する。
岩松氏惣領家は岩松経家が建武2年に中先代(北条時行)の乱で戦死してから、岩松三郎直(正木文書22)国が跡を継いで活躍する。そのように考えると、
この岩松頼有は岩松経政(田島系)の出家した姿か、あるいはその後継者である可能性が強いが、
それを確定する史料がない。
『新田町史』
29 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 06:46:14.69
河内源氏は義家の子孫が栄えたが、摂津源氏で中世近世の有力な家は?
30 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 20:36:07.24
河内姓に河内源氏はいないの?
32 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 01:39:49.21
ノーマル河内は関係ないのですね。
ありがとうございます。
33 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 02:40:58.37
自称頼政の子孫ね
実際はどうだか
松平は河内源氏吉良氏の家臣かな
35 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 06:17:03.77
新田から得川が分家するも断絶
三河の土豪松平が得川を僣称
>>29 あまり知らないね
多田の領地に残った直系子孫の多田院御家人達が再び日の目を見るのは幕末
38 :
sage:2011/06/18(土) 23:58:55.59
太田道灌の太田氏>駿河守広綱(頼政末子)流、
美濃守護土岐氏>伊豆守国房(頼光長男頼国六男)流くらい?
国房は義家と合戦になったらしいね。
その子の出羽守光国は、義忠暗殺事件で為義と共に義綱の追討に当たってる。
39 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:24:57.14
太田氏や大河内氏は皇族将軍についてきた京武者が鎌倉で生き延びる為に有力御家人の家臣になったってとこかな。
頼政流かはともかく、頼光流というのは十分可能性あると思う。
話は変わるが為義と共に斬られた義朝の弟って子供いなかったの?
>>39 斬られなかった鎮西八郎為朝には子供が出来ていてもよさそうだが、
だとしてもその後一緒に斬られたか。
>>38 摂津源氏では、国房流の美濃源氏は勢力あったらしくちょろちょろ登場するね。
光国長男の光信は鳥羽院四天王のひとりで為義と合戦しかけてる。偽義親退治の逸話も。
弟の保元・平治の乱で活躍した光保は、義朝より官位が上ですな。
光信の子、出羽判官光長は頼政養子の兼綱らと共に以仁王追捕の検非違使だったが、
美濃で反乱を起こして義仲と入京、伯耆守に任じられた後、法住寺合戦で行綱らと共に
義仲と戦って敗れ斬首になってる。この間兄の伊賀守光基はなにしてたのかしらん。
>>39 頼賢の息子や為朝の息子は八条院に仕えたらしい。
八条院が女院になったのは平治以降だからそれなりに生きていた模様。
43 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 13:00:38.68
流刑ですんだ為朝流はともかく頼賢も子孫いたのか
年齢的には妥当だが幼児すら斬った信西が殺さなかったのは意外
>>42 >>43 八条院の蔵人になった行家と一緒に令旨伝えてもよさそうなもんだけど、その頃には死んでたのかな?
45 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 17:19:12.85
>>41 光基、光長は「源氏揃の巻」で最初に名が挙がってる。
この時点で実際に最も動員力のあった源氏て誰なのかな?。
頼政はじめとする京武者の動員力はたいしたことないよね。
美濃や近江の源氏は流人の頼朝よりよっぽど力あったんだろうけど、都に近かったこともあって早々に掃討されちゃったが。
甲斐源氏あたり?。あとは官位も含め「勢力」でいうと新田足利、佐竹あたりか?。
46 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 20:31:10.80
源大夫判官季貞
豪族ではないな
47 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 21:40:08.97
>>46 季貞は平家方だよね?
>>45 の源氏は頼朝より動員力あったろうね。頼朝も土佐に流刑になってたら目なかったぽい。
その場合、関東では平家寄りの新田佐竹や、義広もいて反平家方は瓦解?。義仲との関係も微妙。
源広綱は関東武士団と繋がりなさそうだし千葉常胤が頼隆を担ぎ出す?
義仲と平家の戦いが続くことになるか、富士川を甲斐源氏単独で勝利したとすると後白河は武田信義を引き上げ、
政治力ゼロの義経も利用して対抗か?
49 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 12:16:16.47
>>29,
>>38 明智光秀て土岐氏流だったような
>>47 佐竹も平家方だろ。
頼朝の後ろ盾なきゃ義経は率いる兵ないよ。
頼朝の替わりに担ぎ出されたとしても関東から平家の影響力排除できたらポイされそうだな。
甲斐源氏に合流して頭角現してくるシナリオか?
50 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 19:01:07.21
>>48 頼朝の同母弟希義が土佐に流刑になっていたからじゃね?
この兄弟の流刑先(伊豆、土佐)が逆になっていた可能性があったかも。
51 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 19:07:49.26
>>45 挙兵を期待されたのは、「源氏」だけだったのかな?
円城寺の一部や南都も平氏と戦ったし、
八条院領を管理する非源氏系武士団にも令旨が行ったと見る向きがある。
(小山氏など)
>>47 広綱と血縁的に近い有綱は頼朝の挙兵直前まで伊豆にいたらしい。
しかし危険が迫って奥州に逃亡。
有綱の祖父頼政が長期間伊豆知行国主だった為、
伊豆の豪族の中には頼政一族と
私的な主従関係を結んでいた者もいた模様。
その関係で有綱が伊豆にいたと思われる。
また、頼政は下総の下河辺氏(下河辺荘も八条院領)とも主従関係を結んでいたらしい。
鎌倉幕府並みの組織化はできなかっただろうが、
頼政派が坂東で割拠できる可能性があったかも知れない。
53 :
日本@名無史さん:2011/06/25(土) 22:42:25.00
>>47 >>49 勲功第一頼朝、第二義仲、第三行家 → 第一義仲、第二信義、第三行家になって信義も受領したか。
しかし信義には頼朝ほどの政治力も野心も無さそうだから義仲は史実より存えたろうけど、
京は平家に奪還されたかもね。その後はどうなるかわからん。
史実より僅差の兵力での義仲と信義傘下の義経との合戦とかあったかも。
>>52 頼政派では富士川→佐竹成敗後ポイされそう。
>>47 >>49 の流れぢゃね?
うまく坂東武士団手懐けたとすると広綱、有綱らで伊豆、駿河、武蔵あたり受領して
平家、義仲、甲斐源氏と四すくみ状態か。義経は史実と逆に有綱の武将になってる。
新田義重にも兵が集まってると妄想してみる。
>>55 義重は自立していた、とあるけどどうするつもりだったんだろ?
義重は清盛婿の所領を管理していたし、
甲斐源氏と頼朝の挙兵直後の状況を都にご注進している。
元々義重の主な敵は藤姓足利氏でこの時足利忠綱は源氏方勢力の多かった上野国府まで攻めこんでいる。
義仲と足利に挟まれてうまく身動きできなかったのでは
>>45 八条院に仕えていて行家の甥だからといって
行動を共にする必然性はなかったんじゃないかな?
元々為義系は政治方向バラバラだし。
八条院領を預かる武士の中にも藤姓足利氏みたいに平家寄りがいた。
蜂起計画は八条院グループ内でも以仁王近辺のごく一部のみにしか
当初の計画は知らされなかったのではないだろうか?
機密重視を考えて知らされなかった可能性もあるだろう。
足利忠綱は令旨が届かなかったのにキレて平家側に走ったんぢゃなかったっけ?
60 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 22:40:36.67
源季貞
清和源氏でありながら平家に組みし、同族に弓ひいた男
>>59 「吾妻鏡」にはそう書いてあるけど、実際はもっと欲得まみれだったかも。
忠綱は宇治川渡河のあと平家に恩賞をねだってそれが同族の反感を買ったりしている。
その頃は平家官軍、以仁王と頼政は反逆者だから官軍について恩賞を貰おう位の思惑だったんじゃないかな?
本領では下野では小山氏、上野では新田氏との抗争を抱えていたから頼朝についたその後の行動は彼ら逆をついただけかも?
もしくは、藤姓足利氏が元々平家寄りだったから小山が頼朝を結果として選択したとか。
62 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 00:57:03.15
>>60 清和源氏に同族だから協力するという発想があるのか?
源氏の敵は平氏という認識が当時からあったのだろうか?
平忠盛の烏帽子親は源義家の息子の源義忠だった。
志田義広が志田荘を立荘するにあたっては美福門院に近かった
池禅尼や当時常陸介だった平頼盛の斡旋があった。
同族の誼よりも自分の利害関係が優先される世の中で、
血縁的に遠い同族が味方としてがっちり組むという発想自体無かったのではないだろうか?
補足だが、
従来源平の対立が勃発の一つの要素として見られていた平治の乱は実は院近臣は天皇親政派の
政治抗争が乱の大きな要因であって平清盛は当初中立勢力で源義朝を従えていた藤原信頼は
清盛が敵に回るとは考えていなかったと見られているし
今まで「源平合戦」と捉えられていたものが現在は「治承寿永の乱」と称されるようになり
「源平」という氏族同士の戦いという面だけでは捉えられなくなってきている。
63 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 14:53:36.41
ただし季貞はその義忠の系統だった気もするけど、利害優先ですな。
多くの関東武士団からして平氏てことになってる。
基本的に
「源家」 対 「平家」 の戦いかな
あとはそれぞれの利害対立。
65 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 17:48:24.55
>>64 その源家って誰を指すの?
頼朝?義仲?
頼政?
武田信義?
山本義経?源光長?
それとも他源氏?
66 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 18:14:21.08
義忠流は義忠暗殺後母方の実家の平忠盛の保護を受けているから家臣になってもおかしくない
>>65 >>64 は「基本的に」と断ってる。
頼朝あるいは義家嫡流を自認する義朝の一族でしょ。
>>55 >>56 義重んとこには令旨来なかったの?
(または頼朝・甲斐源氏の挙兵後に来た?)
挙兵の状況ご注進するくらいなら
行家(?)斬って報告した方がポイント高そうだけど。
そうはしなかったとすると単に日和ってた
or/and
>>56 のような状況だった可能性の方が高そう。
吾妻鏡の「自立の志あり」てどうなのかね。
>>67 なるほど。
ただ結果的には頼朝が平家を滅ぼしたけど、
挙兵直後は挙兵した源氏全体の盟主じゃないよね。
義仲は言うに及ばず、武田信義や安田義定は同盟関係。
畿内は頼朝の意向に従ったわけでもなさそうだし。
(「玉葉」を読むと近江源氏は武田信義とはつながりがあったようだが)
結果を見ると源家対平家だが経過をみるとそう言い切れなさそう。
初期挙兵勢力のうち九州、四国(希義以外)、寺社(熊野は微妙だが)は明らかに源氏とは無関係。
69 :
68:2011/06/27(月) 20:28:41.30
>>67 どこかの本のうろ覚えの記憶だが
令旨は八条院領の住人で平家寄りでない武士や
頼政に個人的繋がりのある武士を中心に配られたのではないかとの見解がある。
その見解に従うと、平重盛に従っていた新田義重は令旨配布リストから除外されていた可能性もあるのではないだろうか?
71 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 21:30:51.98
平安時代は、清和源氏対桓武平氏だろう。正し、末期の清盛の時代には、平氏側近が嵯峨源氏の松浦氏が安倍氏水軍として組みしたがったが、源氏にも、桓武平氏の流れを組む伊勢平氏が清和源氏に組み従ってたりで、勢力争いが複雑化してたようだね。
だから、後の鎌倉幕府以降の、武士時代には、出身問わない形を取ったからな‥。
72 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 21:41:59.49
だから、戦国武将の縁組みも複雑化しルーツ桓武平氏なのに源氏と成ってる武将が結構居たようだしね。
例、桓武平氏の平良兼→永井氏=大江氏→長州毛利氏。
大友氏は、藤原氏だけど、戦いや勢力争いで源氏方を取り込んで行き、大友氏さえ、頼朝の乳母筋の島津氏に取り込まれりと‥
>>71 平安時代は清和源氏対桓武平氏
意味がわからん。
武家棟梁が成立するのは義朝、清盛以降だし。(元木説の受け売りだけど)
保元以前に源氏と平家の対立があった?
それと嵯峨源氏と清和源氏を同系統扱いするのもどうかな?
あくまでも臣籍降下するときに「源」姓を賜ったという共通項を持つに過ぎない。
その嵯峨源氏と清和源氏を同一視する論理はずっと公卿を排出し続けた村上源氏と、
受領止まりで穢れを産む武士と蔑まされた清和源氏を同一視するのに等しい。
>>71 >後の鎌倉幕府以降の、武士時代には、出身問わない形を取ったからな
あなたがどのような意味合いでこの文章を書かれたのかわかりませんが
鎌倉幕府においては出身というか父方の経歴というのが重要視されていました。
例えば、御家人が「滝口」に推挙されるばあい、その御家人の父方の直系の祖先に
「滝口」経験者がいたかどうかが審査されましたし、
任官される場合も父方の先祖のその官位の任官前例が調べられていたようです。
このような事を見ても、少なくとも鎌倉幕府においては
出身が問われないということは無かったのではないかと思われます。
>>74 少なくとも鎌倉時代においては「源氏」の氏長者は公家で家格の高い「村上源氏」で
清和源氏ではないですね。
平安鎌倉期における家格では 村上源氏>>>>>>清和源氏ですね。
>>72 大友氏さえ、頼朝の乳母筋の島津氏に取り込まれりと‥
乳母筋って比企尼‐丹後内侍?
だったら藤原氏だよ。
系図では比企掃部允藤原遠宗は、京武者藤原遠義の弟遠光の孫となっているので、大友氏とは極近い同族。
>>72 毛利は確かに大江広元の子孫を称しているけど、平氏とは関係ないのでは。
大江は氏(姓)で毛利は名字。広元の姓は先祖から大江。大江広元の名乗りは源頼朝同様姓+諱。
毛利元就(名字+諱)の公的名乗りは大江元就(姓+諱)。
何で大江姓の毛利の出地があなたが主張する平姓永井になるんですか?
78 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 22:00:21.42
>>73 > 武家棟梁が成立するのは義朝、清盛以降だし。(元木説の受け売りだけど)
もっと古い世代の学者である安田元久氏なんかも、武家棟梁の成立は義朝以降と言ってるよ。
> 保元以前に源氏と平家の対立があった?
平忠常の乱の追討使の座を巡って源頼信と平直方が争っているけど、あれはポスト争いだからね。
しかもその両者は後に姻戚関係を結んでいるし。
79 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 00:08:16.48
>>47,
>>52 -
>>55 > 頼朝も土佐に流刑になってたら目なかったぽい。
> その場合、関東では平家寄りの新田佐竹や、義広もいて反平家方は瓦解?。
挙がってる平家方源氏(?)では、反平家方を「瓦解」させるまでは行かないような。
義重からすると、義広は足利忠綱と組んでるし佐竹と新田も仇敵だよね。
ただ頼朝がいないと野木宮合戦も起こらなかったかもしれんので
義広・忠綱(+行家)ラインが義仲と結んで(少なくとも北関東では)主導件握ったかも。
で、孤立してる義重は武田とは近いようなので、こちらと結んで義仲・義広に抵抗か。
行家は頼政一党方に付くかな?そもそも義広・忠綱ラインが成立したかもわからんが。
80 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 03:50:21.21
志田義広はよく平家時代生きていられたな
81 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 11:08:53.13
「平家にあらずんば人にあらず」という状況にはなったが、
粛清されたのは義朝の一派(藤原信頼方)でしょ。
都の権力争いとは無縁だったろうが義広はむしろ反義朝派だろうし、
義朝と近かった新田義重さえ平家に近づいて生きてる。
82 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 21:20:47.30
そのまま京武者になるのあきらめ田舎の在庁官人になって年貢納めてたらOK
83 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 21:54:43.48
>>56 >>70 そもそも「ご注進」といっても、義重は頼朝挙兵時京に居ったのを頼朝討たす為に清盛が国許に戻したんぢゃなかった?
(結局兵は集めても動かなかったようだが報告はしたと)
そんなんで、令旨の配布先になるとはおもえない。
甥の足利義兼には、八条院は荘園主で蔵人も勤めたから声かけそうだけど。
で、その令旨伝えてた行家、こんとき頼政に取り立てられこちらも八条院の蔵人になったそうだが
当時罪人か何かじゃないの。んなことして八条院や頼政は怪しまれなかったのかな?
配布先にだけ伝えてた?
84 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 09:59:17.97
>>84 名字の由来
http://office-maeta.jp/office/contents/060828.htm ■ 嵯峨源氏の起り
桓武天皇の次の嵯峨天皇は皇子と皇女を合わせて32人の臣籍降下を行ったが、これら全てに「源」の名字を与えた。
これが嵯峨源氏の始まりであるが、ではどうして源という名字を与えたか?
それは中国の北魏の太武帝が同族の河西王の子「賀」を西平侯に任じた時に、「卿(あなた)と朕(わたし)とは家系の源が同じである。
そこで今より源を氏とせよ」と言って源姓を与えたのに倣った。
佐賀源氏を遠祖する名字: 渡辺(摂津国西成郡渡辺村)・松浦(九州肥前)・宇久・五島(長崎五島列島福江島)
86 :
YAP?:2011/09/05(月) 11:33:00.31
鮮卑拓跋部の北魏の漢化政策の際に、鮮卑諸氏に漢人風の姓を与えた時に、宗室の諸家に与えられた
姓(と言うよりも本当は氏」だろうが)の一つが「源」だ。これは、皇帝家が「元」氏を称したのと
関連し、多分音が近い(音通かどうか調べていないが)のも、この字が選択された理由だろう。
しかし、父系制氏族社会で、しかも氏族外婚制の鮮卑族で、「百世通婚せず」と言われた
分出した各姓の関係と、日本の一応父系制氏族社会では有るが、異母兄妹婚をも許容するような
社会での「源氏」の位置付けは違う。
河内源氏の嫡流の壷井家は続いてるみたいだね。壷井八幡宮の鳥居に名前掘ってあったよ
88 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 16:01:56.62
兵庫川西の猪名川は摂津源氏の本家、落人の里、皮剥の集りですが、
>>88 多田源氏の末裔達は多田神社で同族会をつくってますので、はい。
90 :
日本@名無史さん:2011/09/19(月) 21:42:52.88
親平家の義忠流源氏
>>88 あのな、無知な捏造する前に、時代のギャップをどう説明するか、又、ソース揚げて
時代遍歴とターゲットと捏造したいターゲットのクロスポイントを、しっかり煮詰めてからレスれよW
そんな、バレバレなアホらしい捏造、相手にされないけどねW
B層集落のB落とは、将門の乱の時代に渡来していた、高句麗帰化の西宮神社の氏子や巫女の傀儡子の集落がB落の起源とされている。
即ち、B層とは、各神社の氏子と巫女を指している。
宮司や新主は、平民より上武家よりしたの立場の人。
その下の層は、おのずと知れる訳だ。
源氏と平氏が現れた時代は
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))と
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。
平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされる事から、903年とする[2]。884年頃とする説もある[3]。
嵯峨天皇、 源氏長者が、(源)融〔嵯峨源氏へ〕 、兄が(源)信〔嵯峨源氏へ〕
嵯峨天皇の嫡子が、仁明天皇・・
嫡子が・・文徳天皇、清和天皇、貞純親王、(源)経基〔清和源氏へ〕
弟が・・光孝天皇、宇多天皇、敦実親王、(源)雅信〔宇多源氏へ〕
だから、嵯峨源氏は、孫。
清和と宇多は、曾曾曾曾孫。
嵯峨源氏、光源氏モデル融は、枕草子の渡辺綱や松浦氏の祖。
八幡太郎の義家が頼朝と義経の祖←後、頼朝死後の末代は、平貞盛を祖とする伊勢平氏、北條政子の命により暗殺され頼朝末代は、滅亡。
賀茂二郎の義綱が新田と足利の祖←足利は、新田と仲違えし、新田は、楠木と共に足利に破れ、足利幕府の祖。
徳川幕府の家康も、賀茂二郎の義綱の末裔。
嵯峨天皇の弟筋、桓武平氏は、桓武天皇の第6皇子、葛原親王。
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛
平氏始祖の【平】高望王は、曾孫。
将門の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─良将─【相馬】将門
清盛の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛─維衡─正度─正衡─正盛─忠盛─清盛
鎌倉幕府、北條政子の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛─維将─維時─直方─聖範─時直─【北条】時家─時方─時政─【源】頼朝室入り、頼朝の妻:政子
清和源氏 > 摂津源氏の時代は、家祖:源頼光
摂津源氏は、もっぱら京で活動する武士であり、公家の日常に奉公する機会も多く、武はもとより文や和歌に長じた。
源頼光は、満仲伝来の本拠地を相続したが、その後武家源氏の主流は、頼光の弟の頼信にはじまり東国へ勢力を扶植し、武家の棟梁となった河内源氏のものとなり、子孫が繁栄した。
後の征夷大将軍は、源氏ではもっぱら河内源氏の流れから出ている。
摂津源氏で名の残る武士は、源頼光以外では、源仲政と、その子で、平治の乱の後、唯一生き残った源氏の長老の源頼政だろう。
頼政は、摂津国の渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とする滝口武者である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党とする。彼は父の仲政と同じく馬場を号した。
「朝家の守護」と称された満仲、頼光の流れを汲む摂津源氏は、代々、大内守護(宮中護衛。近衛部隊の前身のようなもの)の任に就いた。
多田を基盤とする系統で名前が残っているのは、鹿ケ谷での謀議を密告したとされる多田行綱(源行綱)。
行綱は源平合戦では源義経軍の一翼の多田源氏棟梁として活躍。
そのため、後に源頼朝から疎まれ、多田の所領を没収される。
摂津源氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%BA%90%E6%B0%8F
摂津が開発され、集落形成は、清盛の時代以降。
忍=傀儡子が仕えたのは、武家源氏や平氏だから、その膝元の皮革売りの傀儡子の集落=情報交換場所が在って普通だろう。
人里離れた忍の郷は、拠点=隠れ家。
要するに、忍びとは、アルカイダと似た組織だったって事。
今は、戦勝国アメリカの工作員なだけ。
経団連らも、生き残る為に、渋々追従してきたが、日本経団連に成ってからは、似非ユダヤ追随で開き直ったヤクザ的組織。
トップが、東電などの官僚天下り組織だしね。
高句麗からの傭兵=傀儡子=忍
皇族>公家>僧侶・宮司>武家
>>98 織田信長の時代までな・・
信長以降武家に僧兵悉く打たれてからは、皇族>公家>武家>僧侶・宮司
>>93 知行を失った後は多田院御家人になったんだよ。幕末は多田隊ね。
101 :
日本@名無史さん:2011/09/24(土) 15:05:54.98
>>91 あのな、説ばかり唱えてオマエはその時代に生きていたのかボケ、
川西、猪名川は皮剥の本場なのは間違いないやろ、現実を知れノータリンw
102 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 07:29:17.63
105 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 19:17:35.74
>>102 家康は、三河の2人先輩と同じ源氏になりたかっただけだろ
難しく考えすぎなんだよ
源頼朝
・生誕地:不明
*母親の実家である藤原館(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり
・墓所等:滝山寺(愛知県岡崎市)
*母親の実家の菩提寺、歯とあごひげが埋め込まれた等身大の聖観音像あり
足利尊氏
・生誕地:不明
*足利宗家の大門屋敷(愛知県岡崎市)、母親の実家の日名屋敷(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり
・墓所等:八剣神社(愛知県岡崎市)内に墓
徳川家康
・生誕地:岡崎城(愛知県岡崎市)
・墓所等:大樹寺(愛知県岡崎市)
106 :
YAP?:2011/09/25(日) 21:37:00.30
既に家康の祖父の松平清康が、世良田次郎三郎清康と称しており、
新田氏族世良田・徳川流に仮託していたから、家康はその路線を
継承しただけだ。
107 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 22:08:10.08
松平清康も源氏になりたかっただろ
↓三河はこれだから
源頼朝
・生誕地:不明
*母親の実家である藤原館(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり
・墓所等:滝山寺(愛知県岡崎市)
*母親の実家の菩提寺、歯とあごひげが埋め込まれた等身大の聖観音像あり
足利尊氏
・生誕地:不明
*足利宗家の大門屋敷(愛知県岡崎市)、母親の実家の日名屋敷(愛知県岡崎市)で生まれた可能性あり
・墓所等:八剣神社(愛知県岡崎市)内に墓
育ちの悪い全国のカッペが色々考えすぎなんだよ
源氏ばかりの勝ち組三河で、単純に源氏になりたかっただけ
108 :
日本@名無史さん:2011/09/25(日) 22:11:38.94
元弘の変当時の足利一族
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の屋敷
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領家)の屋敷
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城)
・奥州吉良一族(奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(四職家、九州探題、丹波守護他)の屋敷
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷
松平は鴨ちゃん
110 :
征明仁大将軍:2011/09/30(金) 13:07:27.24
什麼狗屁的源ョ朝,織田信長,豊臣秀吉,コ川家康 全部靠邊站。。。。
足利義滿在馬背上打倒後醍醐天皇,用兵馬一統天下,成為太政大臣,
手握天下兵權,是歴代征夷大将軍的典范
111 :
征明仁大将軍:2011/09/30(金) 15:00:43.12
112 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 18:27:26.82
日光東照宮、何故日光なんだろうか?
栃木県日光市
【日光山満願寺】
・源頼朝の推挙により従兄弟の寛伝(母親の兄の息)が別当に
・満願寺の別当は、勝長寿院の別当、鶴岡八幡宮の供僧に自動的になった
【日光東照宮】
愛知県岡崎市
【滝山寺】
・源頼朝の従兄弟の寛伝(母親の兄の息)が、一族の菩提寺で僧侶
・頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像を制作
【滝山東照宮】
この辺は田吾作にはわからないだろうね
113 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 18:58:42.72
源氏
114 :
YAP?:2011/10/02(日) 17:21:29.63
松平清康(清孝)が、世良田を書したのって、南北朝期に初期に武家方
、つまり足利側の三河守護に、新田氏族里見系大島氏が任命されているので、
足利一門を僭称するのはまずいが、清和源氏として有名な新田氏の中で、
武家方であって、尚且つ、子孫が没落した(つまり本物の子孫が文句を
言ってくる可能性がない)と言う条件で、世良田氏を選択したのだとすれば、
清康も凄いが、そうではないとすると、多少は根拠があったのだろう。
世良田善政は、上総守護(上総も鎌倉時代の足利氏の守護領国だ)から
足利基氏に、粛清されている。
松平は貴姓に憧れた悪党あがりの土豪。
赤松や楠木の三河版
116 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 06:38:14.08
松平は皇室領だったから
松平郷の最初の開拓者は、源頼朝のひいおじいさん藤原季兼
季兼が皇室に寄進後は荘官として三河源氏の足助氏、足助氏からは源頼家に室(源為朝のまご娘)を出し、生まれた子供が公暁
次が源氏(源義経)とつながりが深い三河鈴木氏
その次が松平氏
松平氏をただの山の中にいた土豪とか言っちゃう人は、わかっていない人なんだろうね
117 :
YAP?:2011/10/03(月) 12:18:02.18
114 の世良田「善」政は、「義」政の誤変換だ。訂正する。
松平氏には、東国からの浪人だと言う伝承は、有ったのだろうと思う。
118 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 22:03:03.06
松平信光の嫁はんが一色満範の娘だとすると、義家頼義義国の遺伝子は家康に確実に入っている
119 :
YAP?:2011/10/10(月) 20:00:30.75
伊勢氏の被官と為っていた松平氏の過去から考えると、京の清和源氏諸流の動向や
偽系図を作ったときの反発も予想できただろうな。
京都松平氏は、有徳人として、高利貸活動をやっていたから、借金のカタに系図を飾る
、つまり、誰かに金を貸して、その養子になる格好で、清和源氏入りも可能だったはずだが、
そうではない、関東の世良田氏の末裔を称したところから見ると、何らかの家系伝承はあったのだろう。
安城松平氏の宗家に当たる岩津松平氏は、結構盛んに在京活動をしていたから、
京都でのコネは十分にあり、資金力もあったから、在京活動では適当な系図の必要性も
認識していたと思う。
松平が新田の末裔ならば始めから源氏を名乗るだろう
家康が源氏を名乗ったのは征夷大将軍宣下とほぼ同時という事実をもって
源氏説は否定できるのでは
>>119 >京都松平氏は、有徳人として、高利貸活動をやっていたから、借金のカタに系図を飾る
>、つまり、誰かに金を貸して、その養子になる格好で、清和源氏入りも可能だったはずだが、
池田氏族系統
池田大作辺り臭いねW
122 :
YAP?:2011/10/12(水) 10:59:51.79
家康が、「藤原」姓奥川氏を最初に称した一件だな。
しかし、祖父の清康が、「世良田」を称したのを踏まえての「徳川」名乗りだ。
また、(記憶が間違っているかもしれないが)岩津松平氏の祖信光が、
「源信光」を称してなかったか?
123 :
YAP?:2011/10/12(水) 11:04:38.49
上の↑「奥川氏」は、勿論「徳川氏」の誤記だ。
PCがちゃんとキー・ボードの打鍵を拾ってくれないのか、良く一文字
抜けて変換されてしまうのだ。済まん。
松平氏は、あくまで被支配階級の出身だお(´-ω-`)
家系図を糊塗しただけの賤民だぉ
賀茂氏・・・
126 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 14:07:00.74
三河鈴木氏でしょ
一色氏から河内源氏の血も入り、水野氏が満政流なら、源氏である事に間違いない
127 :
YAP?:2011/10/14(金) 00:45:58.74
松平氏は、賎民出自かもしれないが、京都松平氏は、近江の日野家領の庄官を務めていたり、
有徳人として京で高利貸を行なっていたり、室町幕府逸事の伊勢氏の有力被官として、
伊勢氏の申次衆などにもなってたのだから、応仁の乱の前には、既に有力な土豪として、
扱われえいた事は間違いない。
129 :
日本@名無史さん:2011/10/14(金) 18:30:34.39
松平郷の主は
足助氏(三河源氏、満政流)→鈴木氏(三河鈴木氏)→松平氏
松平氏の出自については、鈴木さんが知っているはずなんだよ
あとは三河伴氏の設楽氏、富永氏、実は三河伴氏と思われる中条氏
有力な土豪であったとは言えそうだが河内源氏の血を引くと
言うのは無理筋だな
131 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 07:29:04.77
鎌倉幕府の4代目将軍は、源頼朝の姉妹の血を引いている理由で将軍になった
家康は一色満範の血を引いていると言う事は、一色公深、一色範氏(母親が今川国氏の娘)、一色範光、一色詮範のみならず
満頼信、源頼義、源義家、源義国、足利義康、足利義兼、足利義氏、足利泰氏のみならず
吉良長氏(今川国氏の父親)、今川国氏(娘の一人が一色公深の室)の血を引いている
132 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 08:27:01.46
伊勢氏家臣の中では席次高い方だったんか
松平氏って、実際、三河国のなかでどういうポジションだったの?
守護代ではないとしても、最有力な戦力だったようだし。
そういう位置づけって他の国では珍しいよね。
134 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 21:21:16.15
最初、藤原氏とか言ってたのは、伊勢氏が三河でプラプラしていた藤原氏だったからかな
足利宗家に鎌倉連れていかれると、伊勢氏と名前を変えたから
伊勢氏は平家とおなじ貞盛流伊勢平氏でそ。
136 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 22:28:08.38
初代伊勢氏の伊勢俊継、三河にはいた頃は藤原俊継と自分で言っていたでしょ
豊田に所領があって、三河でプラプラしていた
その時に斯波家氏や長瀬四郎とかの足利一門と知り合い、足利宗家に近習するようになったワケだな
伊勢氏も元々は三河つながりよ
平家の親類であることを避けたとか?
将門の子孫を名乗っている武家がひとつもないのと同じようにさ
138 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 01:10:44.25
>>118 >>131 松平信光室が、一色満範の娘らしいという説のソースってご存知ですか?
「三河松平一族」って本は読んだことあるけど、そこまでは言ってなかったような。
(一色宗義の娘となってたように記憶してますが、一色宗義って系図に乗ってないし、どんな関係なんだろう?と思った記憶があります。)
一色満範の旧名とかなのだったら合点もいきますが…
139 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 01:16:07.71
恥ずかしながら、wikiですわw
140 :
YAP?:2011/10/16(日) 02:59:59.19
伊勢氏って、確か鎌倉時代の足利氏の上総守護代だったと思うが、
三河出自ではないだろう。
伊勢氏は、やはり平氏でいいだろう。
141 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 03:54:42.31
上総守護代の人、系図に出てこないでしょ、俊継の孫の代みたいだが
伊勢氏の出自は謎で有名だが、活動を記録を残した一番古い資料では三河で藤原氏と名乗っている
松平に母系で一色の血が入っていたとしても松平を河内源氏とは言えないだろ
伊勢氏一族の伊勢新九郎(北条早雲)は、自家の遠祖を桓武平氏関氏と語ってる。
>>137 一応相馬家が
>将門の子孫を名乗っている
けどね。
だいぶ後世になってからだけどね。
145 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 21:54:28.81
伊勢氏が仮冒したのは事実で、田舎の寺の記録でバレた
伊勢俊継と俊継の父親、父親の弟、父親の弟の息子が揃いも揃って藤原と言っていた
伊勢平氏も眉唾だな
北条早雲が伊勢氏の可能性はあるわな、家来に足利被官で三河系の富永氏がいるから
146 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 22:07:25.55
早雲が伊勢一族なのは確定だろ
関氏や伊勢氏は山木氏に近い侍大将級一門
伊勢氏の称桓武平氏が仮冒なら、称藤原氏だって仮冒と言えてしまうわけ。
伊勢平氏祖の平維衡は伊勢国神郡で同族・平致頼(良兼流)と何度も所領を巡って合戦を起こしてるし、その間伊勢守にも任官しているので伊勢との縁は深い。
その過程で当然同国の有力在地豪族と姻戚関係を築いていったと考えるのが自然だろう。
中世伊勢氏はおそらく伊勢国造の伊勢直(中臣氏族)が母体氏族であり、貞盛流平氏を婿に取り込むことで桓武平氏流伊勢氏が成立したのだと考えられる。
但し、このような事例は中世伊勢氏に限ったことではなく、受領階級ならみな過程を辿っているのだが(受領階級は当然全国各国を赴任して回るので)。
伊勢氏の称藤原氏は母体氏族である「原」伊勢氏が中臣氏族である由縁からか、或いは藤姓伊勢氏流・川島氏(北家山蔭流)との姻戚関係が推測されるのではないか?
因みに伊勢三郎義盛がこの系統と言われる。
受領階級ならみな過程を辿っているのだが(×)
↓
受領階級ならみな同じ過程を辿っているのだが(○)
ただし、伊勢平氏祖・維衡が貞盛四男というのは無理がありすぎる。
西暦930〜40年代頃に活躍したのが父貞盛だが、
維衡の活動期間は西暦1000年前後から1010年くらいまでのこと。
その間6〜80年もの開きがあるので、間に2、3世代は入らないとおかしくはある。
150 :
YAP?:2011/10/17(月) 12:47:21.91
(北条?)早雲が、伊勢新九郎盛時の後身だと言うのは、もはや定説だろう。
彼が、姉の子今川氏親の擁立に貢献し、今川一門に準じて、一門の席次第三位か何かだった
筈だ。その伊豆・相模討ち入りも、京の管領細川氏の動きと連動していた事も
現在の常識だろう。黒田基樹氏の著書に書いてある。
河内源氏とは関係ないから、ここらで伊勢氏の話は止めたい所だが、足利貞氏の上総守護代
伊勢弾正忠宗継の名が、伊勢氏系図に見えないからといって、京都の伊勢氏が
その支流であることは、まず間違いないだろう。
151 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 18:18:07.91
何度も仮冒していては、信用ゼロだ
伊勢氏については
初代伊勢氏の伊勢俊継は、三河で藤原俊継と名乗り、足利一門及び足利被官と交流していた
鎌倉に移り住み、伊勢氏に姓を変えた
正しい事はこれだけ
下向話が胡散臭い上杉氏も、何か似ている
上杉氏も三河にいた藤原氏だろうな、三河にあった屋敷は重房の前からの所領だろう
152 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 18:20:07.86
宝賀厨が来てるな
153 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 19:01:56.73
むしろ三河厨だな。
足利関連の話になるとどこにでも湧いてくるw
154 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 19:02:00.92
伊勢氏って伊勢平氏と関係ないのか?
伊勢と言えば在原業平だろ。
156 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 21:12:51.98
中世前期に
>仮冒
もあるまいよ。
称氏姓の変更、複数の氏祖記録があることを以て即「仮冒、冒姓」と決めつけるのも
宝賀及び宝賀信者の悪い癖だ。
そのクセ、称桓武平氏の部分だけ「仮冒」とするのも恣意的もいいところ(宝賀一派は伊勢氏の称桓武平氏、称藤原氏の双方をひっくるめて「仮冒としている)。
☆宝賀の論調
・招婿婚の無視
・地方下向貴族(源平藤橘他)の末裔の行方を無視
・系図混乱の要因が「仮冒」一択
・少しでも矛盾があれば「古代豪族の末裔であろう」
157 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 09:28:55.64
早雲は氏素性不明の一介の素浪人で今川の食客、伊豆の混乱に乗じて国を切り取った乱世の奸雄、
戦国の風雲児、これが定説。
158 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 15:00:36.42
>>156 宝賀は斯波家長が高経実子で無いと考える理由を年齢的にありえないとか言いやがってから全く信用できない
16歳で子持ちは現代でもいます
159 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:10:47.74
北条早雲と言えば、小田原城 小田原城といえば大森氏
大森氏
藤原伊周→忠周→高橋惟康(伊勢新二郎)→親康 →大森親家(初代大森氏)
大森一族の祖で三河国額田郡高橋庄と関連が深い人物がいるからである。
すなわち、大森葛山の祖・高橋惟康について、「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」と上記「姉小路系図」に註記される。
高橋庄は高橋郷(現豊田市高橋辺り)を中心に豊田市域の北部中央、矢作川中流を挟む一帯から尾張国境に及ぶ庄域をもった大荘園であり、十一世紀頃の開発とされる。
安元二年(1176)二月日の八条院領目録に庁分御荘として参河国高橋・参河国高橋新庄があげられる。
はじめの下司・地頭職は開発領主高橋(藤原)氏から長田氏に移り、元暦元年には頼朝の御家人小野成綱に同職が移ったとみられている
。
160 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:18:56.95
源頼信のお兄さんである 源頼光は土蜘蛛退治、鬼退治で有名ですね。
161 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:47:54.68
大森氏
藤原伊周→忠周→高橋惟康(伊勢新二郎)→親康 →大森親家(初代大森氏)
藤原実範→女子→高橋惟康(伊勢新二郎)→親康 →大森親家(初代大森氏)
参考
藤原実範→季兼(高橋荘開拓者)→季範(初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
高橋惟康(伊勢新二郎)と初代藤姓熱田大宮司の藤原季範は従兄弟
162 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 14:57:06.73
wikiに為義は義家の孫でなく子だとあるんだけど
尊卑分脈の信頼性って低いの?
163 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 16:15:23.07
系譜類では最も高いものだが何せん300年近く前の人物だからな
まあ為義の場合、蔭位狙いな気がするが
164 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 20:23:12.87
165 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 20:34:07.67
義朝と義康、頼朝と義兼はセット
為義が義家の孫だと一世代ずれる
166 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 20:43:48.31
167 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 01:33:42.65
>>159 三河国額田郡高橋庄
荘官は足助氏
頼家の妾は足助重長の娘(源為朝の孫娘)
源為朝→女子(足助重長の室)→女子(足助重長の娘)→公暁
源為朝→義兼→義氏→泰氏
義兼の実父が源為朝だとすると、公暁は義氏の従兄弟の子供と言うことになる
168 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 05:35:20.06
そのものずばり、
『河内源氏』という本が出版された?
169 :
日本@名無史さん:2011/10/22(土) 22:37:23.65
■藤原季兼■三河四郎大夫、乙見冠者
・高橋荘、高橋新荘、乙見荘の開拓者
・源頼朝の曾祖父
【高橋荘領主】
・高橋惟康(伊勢新二郎、藤原季兼の妹の息)→高橋親康→高橋親家(大森親家、初代大森氏)→長田忠致(源義朝を暗殺)
・高橋一族は源義朝を暗殺した長田一族に追い出されたワケだな
【高橋新荘領主】
足助重長(娘が源頼家の室、娘の息は公暁)→以後室町時代初期まで足助一族、高橋新荘内の松平郷には松平氏
【乙見荘領主】
藤原季兼→藤原季範→藤原範忠→嫡流と寛伝、娘婿の足利義兼、足利義氏が三河守護になって以降は全域に足利一族・足利被官
・足利義兼には乙見荘菅生郷が与えられ、郷司職に高階惟長
・高階惟長の孫の高重氏の代に事実上高一族の所領になった
・高階惟長、高重氏の子孫は勿論、高師直・高師泰である
170 :
YAP?:2011/10/23(日) 01:05:51.15
元木泰雄『河内源氏』(中公新書)だね。
いい本だ。
河内のおっさんだけど何か質問ある?
172 :
YAP?:2011/10/26(水) 00:57:50.59
↑のヒト、まさか元木氏の論敵、河内祥輔氏だったりして・・・。
173 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 18:37:29.04
■藤原季兼■三河四郎大夫、乙見冠者(乙見は三河国乙見荘に由来)
・高橋荘、高橋新荘、乙見荘の開拓者
・源頼朝と足利義兼の母方の曾祖父
■藤原季範■額田冠者(額田は三河国額田郡に由来)、初代藤姓熱田大宮司
・二人の娘(1人は養女(長男範忠の娘))が源義朝と足利義康に嫁ぐ、源頼朝と足利義兼の母方の祖父、
【高橋荘領主】
・高橋惟康(伊勢新二郎、藤原伊周の孫、藤原季兼の妹の息)→高橋親康→高橋親家(大森親家、初代大森氏)→長田忠致(源義朝を暗殺)
*高橋一族は、長田一族が乗り込んできた後も高橋荘にとどまったが、のちに駿河国大森に移り住む
【高橋新荘領主】
・足助重長(娘(源為朝の孫)が源頼家の室、息は公暁)→以後室町時代初期まで足助一族、その後三河鈴木氏(松平郷には松平氏)
【乙見荘領主】
・藤原季兼→藤原季範→藤原範忠→藤原忠季(嫡男)、寛伝、足利義兼→藤原忠兼→藤原忠成(海東忠成、幕府政所別当 大江広元の息)
*寛伝の所領は66郷
*足利義兼(母親の実父は藤原範忠)には乙見荘菅生郷が与えられ、郷司職に高階惟長(室は大江広元の娘(藤原忠成の姉もしくは妹))
*高階惟長の孫の高重氏の代に事実上高一族の所領になり、高師直・高師泰に受け継がれた
174 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 19:37:20.83
【高橋荘】
■源頼朝
・猿投神社:藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築 、当神社には源氏八領の薄金の大鎧あり
■足利尊氏
・長興寺:三河利生塔、全国66ヶ国2島の利生塔の一つ
【高橋新荘】
■源頼朝
・平勝寺:元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・普賢院:寺領寄進
■足助重長
・黍生城
■足助重秀
・飯盛山城
175 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 19:42:44.87
【乙見荘】
■藤原季範
・蓮華寺:造営、仏性燈油料として恵那河内(米河内)郷を寄進
■藤原範忠
・滝山寺:本堂建替え(滝山寺にとって二度目)
■寛伝
・滝山寺:惣持禅院の建立、頼朝の歯と鬚が胎内に納められた等身大の聖観音像を安置
■源頼義
・長瀬八幡宮:創建
■源頼朝
・滝山寺:伽藍造営、頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
■源範頼
・上地八幡宮:創建
■源義経
・妙大寺:創建
■足利義兼
・真福寺:法華堂造営
■足利義氏
・滝山寺:本堂建替え(滝山寺にとって三度目)、北条政子と源実朝の遺骨を分骨
・高隆寺:七堂伽藍造営
・萬徳寺:元は足利義氏亭
■足利頼氏
・真福寺:証菩提院造営
・滝山寺:一切経蔵の経会料所寄進
176 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 19:44:00.45
【乙見荘】つづき
■足利貞氏
・滝山寺:如法堂造営
■足利尊氏
・真福寺■持地院建立
・滝山寺■寺領寄進
・高隆寺■義氏の時代から続く七堂伽藍完成
・天恩寺■足利尊氏遺言の寺、3代将軍足利義満建立、4代将軍足利義持の祈願所
・満性寺■太子信仰、足利尊氏弓矢の守護神、伽藍造営
・総持寺■高一族屋敷跡に高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義詮の支援あり
・長瀬八幡宮■社殿(火災による消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に
・糟目犬頭神社■庇護(百貫文寄進)、北朝側の三河鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり
・八剣神社■足利尊氏の墓あり、すぐ近くに大門屋敷(足利宗家の屋敷)があった
↑なにを貼ってるんですか?説明ないとわかりません!
178 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 11:47:22.79
家康は周辺が源氏だらけの恵まれた境遇だったよね
光明寺
岡崎市矢作町加護畑69にある時宗の寺。鏡立山、帝守院。本尊薬師如来。寺伝では大同年中(806〜810)の創建で大治2年(1127)再興された天台宗の寺で、5世清観の弘安2年(1279)に時宗に転じたという。
また8世観鐘は新田義貞の落胤、9世浄開の永享12年(1440)には長阿弥(徳川有親)、徳阿弥(同親氏)父子来訪などの源氏との関係をいう伝承もある
糟目犬頭神社(新田義貞首塚)
犬頭神社(岡崎市宮地町)の拝殿に向かって右側の蓮池の中に、樹木で覆われた島があり、南朝の忠臣で上和田(宮地町のすぐ北)城主・宇都宮泰藤(大久保氏の先祖)が、延元3年(1338)、
足利尊氏によって京都に晒されていた新田義貞の首を奪い返してここに埋め、その首を隠すために下の様な犬頭伝説を流布させ、犬頭霊社を祭ったと伝えられています。
179 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 12:00:52.24
源行家
・五井城(愛知県蒲郡市)
五井城は、文治年間に源新宮十郎行家によって築かれた。その後、戦国時代には鵜殿氏の居城であったが、松平信光の七男忠景が城主となり五井松平氏の祖となった。
源範頼
・茂松城(愛知県豊川市)
三河守であったころの居城
源範円(源範頼の息、吉見氏の祖)
・正法寺(愛知県豊川市)
了信坊(源範円)が中興、鎌倉時代初期には、源範頼の息子範円(のりかど、はんえん)が太子堂に居住した。
貞永元年(1232年)9月1日、浄土真宗の開祖親鸞が関東から帰京する際、聖徳太子像を拝むため太子堂を訪れた。
このとき範円は親鸞に教化されて弟子となり、名を了信坊に、寺を太子山上宮院正法寺に改め、天台宗から浄土真宗に改宗した
足利義満
・御馬城(愛知県豊川市)
1369年に足利義満が細川頼之に命じて、細川頼有に築かせた
源氏のスター軍団の足跡をなぞっただけだからな
180 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 14:08:57.24
義忠流源氏
反源氏の家柄
河内源氏なんて所詮多田源氏の分家だろ
ダサいよ
182 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 00:46:24.82
183 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 00:49:21.22
http://www.keiganji.net/history.php 桂岩寺の歴史
桂岩寺は、開創以来657年(平成19年現在)となる格式と歴史・由緒を誇るお寺です。
開山から現在で三十二代目となり、代々の住職はもとより、お殿様の庇護を受けたり、檀信徒の助力によって、浄土念仏道場の拠点として、宗門ばかりではなく、この地方に於きましても重きをなしてまいりました。
当山の開山、照m光山慧a大和尚は、大本山円福寺(当時・京都)第五世の法主「善偉堯恵上人」の直弟子で、当地に留錫の時、領主の三州戸ケ崎の城主、戸ケ埼次郎義宗郷が深く上人の高徳を崇めて帰依し、
四十四石の荘園を寄付して一宇を創建され、さらに永く上人を当地に留めるべく、後村上天皇の正平五年(1350、北朝、観応元年)三月に本堂庫裡等を新築落成して上人を開山として菩提寺と定め、三河国深草派十二本寺の随一とせられました。
義宗郷は、矢田判官義清の孫、広沢判官義実郷の子息で、明徳四年(1393)六月二十七日、道目記の合戦で戦死されたため当山に葬り、開山上人が引導、焼香、「源徳院殿慶巌善公大居士」と号し、武具を納めてハ幡官を勧請して「若宮八幡」と称しました。
義宗郷の戦死の翌日、夫人の富波姫は夫を慕って自害されたと云います。
また姫は長刀の名手で、敵に向って勇ましく戦い、三十数人の首級をあげて戦死したとも伝えられている。「雷光院殿玉岩清心太禅定尼」と号し、同じく当山に埋葬されています。
184 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 00:51:49.69
http://blogs.yahoo.co.jp/kurajiro63/15827750.html 戸ヶ崎城跡(西尾市戸ヶ崎町城山)
碧海台地が南方に張り出した小高い場所にあります。北方を除いて三方が湿地であり、天然の要害をなしていたようです。農道に沿って土塁?切岸?状の高台が残っていますが、土砂の採取や耕作地化などによりかなり改変されており、遺構として認めてよいのか判断に苦しみます。
最下段の画像は、城跡から東北、八ツ面山方面を望んだものです。
戸ヶ崎氏は足利氏の一族であり、城主戸ヶ崎次郎義宗は13世紀あるいは14世紀の人物ではないかといわれ、生存時期は明確ではありません。矢田に城館を構えていた矢田判官義清の孫といわれ、戸ヶ崎の地に移り築城しました。吉良氏の被官であったと考えられます。
義宗が創建し墓も残る桂岩寺(西尾市上矢田町)の縁起によると、明徳4年(1393)の道目記合戦で討ち死にしたことになっています。なお戸ヶ崎氏が分流した一族に前期荒川氏(後期荒川氏は吉良一族の荒川氏)がいます。
[参考文献:西尾の文化財散歩 西尾市教育委員会 S58]
185 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 00:56:11.28
186 :
日本@名無史さん:2011/11/27(日) 21:15:35.19
義経の子孫名乗る豪族って聞かないな
鞍馬氏とかいそうなのに
>>186 おいおいW
義経と静御前は、
説1.奥州にて、鎌倉の追っ手により、妊婦の静御前共々、殺害。
説2.奥州より北陸へ逃れ親子共々焼き討ちに遭い焼死。
だから、居たらおかしいだろうW
説と言うか、史実。
189 :
日本@名無史さん:2011/11/28(月) 00:25:00.24
それでも平家や秀頼のように自称末裔が現れんものかと
佐藤基治の女(つまり継信・忠信兄弟の姉妹)と義経が結ばれて、その間に安居丸という子ができ、その子孫が南北朝時代に南朝側で戦って戦死した佐藤基信であるという伝承ならある。
なお佐藤基信自体は実在の人物で、伊勢佐藤氏の祖かそれに近いところにいた人物。
伊勢佐藤氏が南北朝期以降に残した文書は国の重要文化財に指定されてる。
191 :
日本@名無史さん:2011/11/29(火) 21:03:19.21
元木泰雄の「河内源氏」を読んだ素人だけど、初期の源氏の棟梁の年齢(生没年)は
天皇の系図並に信じられないな。満仲が87歳、頼信が81迄生きたというのも信じ難い
けど一番信じられないのは頼義が家督を継いだ時が60過ぎで、それから前九年合戦に
赴いた点と子沢山の癖に長男の義家が生まれたのが51歳の折だという点。記録がない
から伝承に過ぎないだろうけどもう一代くらい間にあるか、頼義が生まれたのがもっと
後なのか。
頼義はマザーコンプレックスでその前半生は女嫌いで通っていたから。
年を取ってやっとその女嫌いが薄らいで来たんだろう。前九年の戦を経験したのも何らかの影響を与えているかもな。
満仲はありゃ息子じゃないだろう。
193 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 12:02:13.96
母親に捨てられたんやっけ
この時代でも離婚は珍しくなくいとおもうんだが
そういえば、何かに義朝は為義28歳の時の子だけど、それまで男子がいなかったのは不自然という内容が書かれた本を読んだ記憶がある。
政宗もけっこう齢いってから子供うんでたけど
正室との男子は33才でだろ、結婚21年でやっとかよって
まあ、一時不仲な時期があったのもあるが
196 :
日本@名無史さん:2011/12/01(木) 21:00:45.01
>>192 確かに、満仲は源経基の子じゃないね。
つまり、清和源氏は嘘。天皇の血筋じゃない。
当時正親司で管理されてなかったのかな五世以内だろ
臣籍降下したら、その子孫の記載はやめんのかな
石川氏の子孫ってまだ壷井にいるのかな?
199 :
日本@名無史さん:2011/12/08(木) 22:18:26.06
源大夫判官に襲われたからな
>>196 清和源氏じゃなくて、息子の陽成天皇の子孫でしょ。
御所の庭を馬に乗って暴れたり、乳兄弟を撲殺したりしたため、
藤原氏にさまざまな圧力かけられて、退位させられたんだし。
経基は清和天皇の子で
満仲は陽成天皇の子。満仲は素行が悪かったので経基へ養子に出したという真相?
まるで清盛、御落胤説だな
>>200 その頃、藤原基経ってのも居るよね。
藤原 基経(ふじわら の もとつね、承和3年(836年) - 寛平3年1月13日(891年2月24日))は、平安時代前期の公卿。
藤原北家・藤原長良の三男。幼名は手古。
従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位。堀川大臣(堀河大臣)と号する。
漢風諡号は昭宣公、国公は越前公。
摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。
陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。
次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。
天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。
元慶7年(883年)11月、宮中で天皇の乳母(紀全子)の子・源益が殺される事件が起きた。
それが本当に殺人事件なのか、あるいは過失致死といった類の事故なのかは明らかではなく、また犯人も不明とされたが、宮中では陽成天皇が殴り殺したのだと噂された。
この事件の直後、馬好きの陽成天皇が厩を禁中につくり、卑位の者に世話をさせ、飼っていた事実が明らかになる。
基経は宮中に入り、天皇の取り巻きと馬を放逐させた。
陽成天皇は後の記録には暴君として描かれており、それによると天皇は蛙を捕え、蛇を捕え、または犬と猿を闘わせて喜び、人を木に登らせて墜落死させたという。
元慶8年(884年)、基経は天皇の廃立を考え、仁明天皇のときに廃太子された恒貞親王に打診したが、既に出家していた親王から拒否された。
そこで仁明天皇の第三皇子の時康親王が謙虚寛大な性格であったので、これを新帝と決めた。
時康親王の母は藤原総継の娘・沢子で、基経の母・乙春とは姉妹であり、基経は時康親王の従兄弟にあたる。
公卿を集めて天皇の廃位と時康親王の推戴を議したところ、左大臣源融(嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言いだした。
基経は姓を賜った者が帝位についた例はないと退け、次いで参議藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決した。公卿会議の決定を持って、陽成天皇に退位を迫った。
孤立した年少の天皇に、抗する術はなかった。
藤原基経 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E7%B5%8C
203 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 14:52:59.66
経基自身の武勇はどうなん
将門に敗れた普通の中級貴族って印象だが
純友残党狩りの際は武勇見せたの
貞盛秀郷のオマケの名声&家格ゲット?
経基に「武勇」なんてないと言っていい。
武蔵介として赴任していた東国では将門との手打ちの宴の席で、武蔵武芝の手下が軍勢率いて国衙にやってきたのを自分を殺しに来たと勘違いして都に逃げ帰ったヘタレ。
権守興世王の方は堂々とやり過ごしたのにね。
純友討伐戦では純友の部下1人だかを生け捕りにしたということだが、それは純友自体が既に死に体になって以降のことで「戦功」と言えるほどのものではないし、どうもその「お手柄」も本当に経基自体の手柄なのか怪しい節がある。
思うに、東国で大失態を演じてそのヘタレっぷりが評判になった経基にはもう後がないことから、お雇いスタッフを雇って、純友部下を捕縛したのは9割方そいつの「演出」なのではないかと思う。
つまりは「お殿様のお手柄」という「既成事実」づくりの臭いがプンプンする。
205 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 21:09:29.41
話が一気につまらなくなったなw
>>205 そりゃすまんかったねえ。
それじゃあ代わりにあんたが
>話
を
>一気に
面白くしてくれよw
207 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 01:19:34.66
清和天皇って病弱なのに子供だけは多かったらしいな。
桓武天皇の様にカリスマは無い。
208 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 07:49:00.05
清和天皇といい経基王といいなんとなく草食系で短命なイメージなのだが、
世に言う清和源氏というと満仲から義家まで獰猛で長命だからな。
義朝、為朝、義経、義貞なども短命だが勇猛なイメージだ。
なんで最初の二代だけが草食系のイメージなのか? 不思議だよな。
>>207 清和天皇の時代にはまだ明確な摂関家というのもなかったため、
そこらじゅうの貴族が一攫千金を夢見て娘を入内させ、
清和天皇一人で女性30人ぐらいを相手にしていたらしいよ。
清和天皇が短命だったのも若いころからのセックスの強要だといわれてるくらい。
清和天皇は27歳で退位するとさっさと出家して、死ぬまでの4年間ほどは
女性と寝所をともにしなかったんじゃなかったかな。
たしか、退位後は大勢いる妃たちとの間に子供が生まれていないはず。
>>208 経基は生年がはっきりしないんじゃ?
45歳没説と65歳没説があり、短命だったかどうかはよく分からない。
鎮守府将軍にまで登っており、肉食系といった感じだ。
211 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 19:14:16.49
経基は一般的な受領貴族が戦乱に巻き込まれた中で無理矢理成長させられた感じだな
「成長」したのか?
213 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 05:36:55.35
清和天皇は、藤原北家と天皇家の度重なる近親婚のせいで、知的な障害というか、「幽玄の人」のようなちょっと不気味な人物だったらしい。
更に藤原北家と近親婚となった清和天皇と基経妹、高子の子供、陽成天皇がハチャメチャになるのは、有る意味仕方がないかと。
高子は、清和天皇とは不仲で、結婚前は在原業平や、源憲定?のような賜姓の元皇族との浮き名をながして、のちに后の地位を降ろされている。
聖なる王として祭祀を司る天皇が、罪もなく戦争でもないのに人間を殺傷することは、さすがの基経も無理だと考えて、陽成天皇を下ろしたが
人を殺す業を背負った陽成天皇の皇子、貞純親王から武家の源氏が生まれるのは意味深だなと、個人的に思った。
214 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 07:22:47.65
あ、訂正、
高子の密通相手→東光寺の僧
陽成の子貞純親王→陽成の弟
誤認があったので訂正。
経基が陽成の子か、貞純親王の子かは論議があるようす。
やっぱ経基と満仲は実の親子じゃないんじゃないの。
年齢も下手すりゃ逆転してるらしいし。
でどっちかが陽成源氏でもう片方が清和源氏。
もともとが武力嗜好でかつうだつの上がらなかった満仲が、
偶然武名があがっちゃった経基に頼み込んで養子になったとか。
猶子か、あるいは僭称かもしれない。
>>214 >経基が陽成の子か
なんて誰が言ってんの?
陽成源氏説で一般に言われてるのは陽成の子・元平親王の男子説だが。
てかね、経基陽成源氏説の唯一の「物証」が頼信が誉田八幡宮に奉納したとかという『頼信告文』の「写し」だけなんだよ。
その「告文」そのものが胡散臭いとする連中と、いや確かに「写し」ではあるけど内容は信用に足るものだとする連中とに学界が真っ二つに割れているというのが現状。
また、それと経基-満仲間の年齢矛盾とは別の話。
例え陽成源氏だとしても、経基-満仲間の親子矛盾は解消されない。
218 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 19:11:31.72
満仲実父説のある親王は経基と同母兄弟?
219 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 23:04:02.29
経基は二世源氏だから親王でないだろ。
経基『王』だし。
って言うかたぶん満仲の享年87が間違いなんだろうな。
20歳くらい若いんじゃないの。930年頃誕生とか。
それだと初見時に30歳くらいってことになるし。
頼光(948ないし954年誕生)の親としてあり得ない年齢でもないし。
俺は満仲は逆に系図(尊卑分脈)通りの生年月日で良いと思うね。
分脈の編者・洞院公定は親子の年齢矛盾を知ってて敢えて載せている節がある。
源氏の世だから表だっては経基-満仲間の年齢矛盾を書けないが、今と違い当時は西暦がないからよほど注意深く精査しないと生年の矛盾に気付かない。
だからこそ公定は元々自身は気付いていた年齢矛盾をそのまま掲載したのだろう。
東国での経緯から、どうみても武将として有能とは思えない経基が、対純友戦では何とか純友の部下を捕まえるという「戦果」を上げることが出来たのは、
東国の国司(武蔵介)をクビになり、次の対純友戦に追補副使として派遣されるまでの間にそれなりに優秀な人材と知己を得ることができ、それをブレーンにつけることに成功したからだろう。
伝承に過ぎないが、純友軍と激戦を演じた九州地方には、対純友戦のとき満仲は九州の大将陣山で戦勝祈願をしたとの言い伝えがある。
俺は案外この伝承は信じられるのではないかと思う。
だいたいが所謂清和源氏初期は嫡男との年齢差がやけに大きい場合があったり、
妙に高齢だったりして、ほんまかいなって思うことがある。
下手すりゃ孫じゃん、とか、下手しなくても孫じゃんって場合も。
>>221のようなケースはともかく、
系図とかで時々あきらかに元号の書き間違いだろうってのはあるな。
父親の方が息子より2、300年後に死んだことになってたり。
逆算すると祖父と孫が同年生まれってことになってたり。
223 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 02:50:59.76
貴族の系図でもたまに、甥っ子や孫を猶子(養子)にして「蔭位の制」の恩恵にあずかれるようにしたのを書き忘れていたりすると、年の離れた親子が出来上がって、研究者が修正してたりするけどなあ。陽成は退位をせまられた恥ずかしい天皇だから俺なら養子に入っちゃうかな。
224 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 01:43:32.22
経基は偶然の産物
やる夫キャラ
225 :
日本@名無史さん:2011/12/21(水) 20:11:50.99
藤原道長を中心に描かれた「大鏡」に源満仲が清和源氏であることが書かれてあるから、
陽成源氏である可能性は低いんじゃなかったか。
当時の源満仲クラスが系譜詐称できるほど貴族社会で特別待遇だったとも思えんし。
「大鏡」が書かれた時代がね、ちょっと新しいんだ。
>>204 「いまだ兵の道になれず」というやつだよね。源氏の始祖というけどこの人の
キーワードといえばやっぱりこれだな
>>222 頼義・義家も50才くらい離れてるんだっけ
228 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 00:53:47.47
経基
通説では、清和天皇(850〜881)の孫、
貞純親王(873?〜916)の子。
陽成天皇(869〜949)の孫で、
元平親王(?(894とも)〜958)の子とも。
どちらにしても誕生時は二世王(皇孫)である。
その後臣籍降下して源朝臣経基となったのか、
生涯経基王だったのか判然としない。
臣籍降下の時期も、晩年とも、839年以前とも。
938年武蔵介任官、939年従五位下叙位。
と言うことは、それ以前は六位と思われる。
それ以前に臣籍降下していれば、皇孫であっても、
六位と言うこともあり得なくはないが、
まだ王で有ったとした場合、六位というのは不審。
規定上二世王は従四位下に叙されるはずである。
三世王(皇曾孫)は従五位下、六位は四世以下の王(皇玄孫)。
この時期まだこの制度が崩れていなかったとすると、
経基王は四世以下の王だったことになる。
経基の生没年はいくつ仮説があり判然としないが、
経歴からいって920年頃以前の誕生は確実だろう。
貞純親王や元平親王親王の曾孫がそんなに早く誕生とは、
ちょっと考えにくい。
経基王は文徳天皇か光孝天皇の玄孫だった。
そう言う可能性すら有るのではないか?
参考
元平親王は、元良親王(890〜943)の同母弟であり、
おそらく890年代前半頃の誕生なのだろう。
894年誕生は当たらずと言えども遠からじ?
頼信は仮に968年誕生でないにしても、
せいぜい970年代始めの誕生だろうな。
987年左兵衛少尉任官、どう考えても15歳程度以上だろう。
この時期はまだこのクラスの貴族の10歳以下任官はないだろうし。
ってことは仮に没時81歳ではなかったとしても、
70代後半くらいにはなってたんだろう。
232 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 20:19:17.95
源経基には同母弟に源経生がいるのだが、
兄弟の父・貞純親王が西暦916年没なんだな。
つまり、西暦917年生まれの経基はギリギリセーフとしても、「同母弟」経生の誕生は精子バンクでも存在しない限りあり得ないと。
そもそも経生は実在の人物なのか?
系図以外に生存の証拠あったかな?
実在だとしても本当に同母弟なのか?
実は異母弟だとか、兄だとかってことも
経基の生年は914年等もっと早いとの説もある。
まあ、あと双子ってこともある。
経生が親王の子で、経基は別系かも。あるいは反対。
理屈つけるとしたらこんなところか。
経基について多分間違いないのは、
官歴から見て、870年頃以後920年頃以前誕生。
皇裔なのは確かだと思われる。
となると時期的に桓武天皇の子孫ではあるだろう。
桓武以後のどの天皇の子孫かはともかく。
さすがにそれ以前の皇族が残っているとは考えにくい。
234 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 23:22:04.47
まったく・・・
・系図に記載される生没年を書き換えたり、
・先祖を色々な天皇に入れ換えたり、
・系図に記載がある人物の存在を無かったことにしたり、
・etc・・・
↑の全てをやらないと矛盾が無くならない清和源氏ってどんだけ胡散臭いんだよw
235 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 23:26:45.97
>>226 「大鏡」だいたい成立が後三条天皇の時代だろ?
後三条即位を願望する内容で終わっている。
だけど、その時代、清和源氏はまだまだ摂関家の犬、受領階級に過ぎない。
武士の話も出てこないじゃないか。
236 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 01:29:43.10
父及び息子双方への矛盾から単純に経基の生年が間違えてるだけでは
片方のみならともかく
堂上菅原氏も初期に変なところがある。
それ以前はともかく古人から道真までの四代と、
道真の子の高視まではいいとして、
高視の子が怪しい。
高視(876〜913、38歳)、道真の嫡男。
文時(899〜981、83歳)、高視の三男とされる。
雅規(919〜979、61歳)、高視の長男とされる。
なんて人名辞典にあるわけだけど。
父親の没後6年、弟の誕生の20年後に生まれる、
そんな人物が居るのでしょうか?
この雅規の流れが堂上菅原氏なわけで、
堂上菅原氏、ホントは道真の子孫じゃないかも?
それでも古人と道真の系譜は確かなので、
古人系なら仮に詐称でも罪は軽いけど、
出雲氏系とかの別系菅原氏とかかも?
ひとつありうるのは雅規の没年天元2年が、
天延2年(974年)か、天禄2年(971年)、
どちらかの誤りかも?
それだと逆算で生年が911年か914年となり、
ぎりぎりあり得なくもない。
天徳2年(958年)没だと経歴と矛盾するようだ。
これでも、文時との兄弟順の矛盾は残るが、
嫡男だったので、兄弟順は無視して長男?
高視の没年が間違いか、雅規は実は高視の孫、
そっちの方が有りそうだけど。
そう言えば、
945年誕生の道真の長男(とされる)高視は876年誕生とされ、
道真32歳の時の子と言うことになる。
確か時平は基経が30代後半の時の子だし。
30前後で長男誕生は、さほど不自然でもないかも?
それ以前に女子はいるかもしれないし、
認知してない子くらいはいるんじゃないの。
239 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 14:10:29.72
藤原摂関家や上流貴族以外は記録ルーズだからな
満仲と頼義は、それぞれ、ある時点で60代だったとか、70くらいとかって、
証言もあるらしくて、それに従うと10かそこらは若かったことになるらしい。
まあ、本当の年齢は藪の中ってことなんだろうな。
241 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 19:32:34.76
他人の記録に残る程の価値も無かった
公的記録は蔭位及び出仕時期で代わるからな
江戸は地元でも記録が残ってるから判るが公式記録のみだと凄いことになる
源朝臣満仲
さすがに満仲の源朝臣姓は間違いないだろう。
賜姓時期がいつかという問題はあるだろうが。
912年誕生が一応通説のようだ。
初見は960年、通説に従うとこの時49歳。
記事内容から成人していたのは間違いないだろう。
987年出家、この時60余歳とも言われる。
丁度60歳なら余はつかないだろうし、
68、9なら70歳近くと書かれるだろうから、
61〜66歳と見て922〜927年誕生、
概ね925年前後、と考えることも出来る。
これだと初見時、39歳から34歳。
十分活動できる年代ではある。
活動年代のみから推定してみると、
900年頃〜935年頃の誕生ではあるだろう。
源朝臣頼義
通説は988年誕生。
父頼信は968年誕生とされるので一応問題はない。
没年が承保2年(1075)と、永保2年(1081)の
2説があり、享年も81歳と88歳の2説が有る。
通説は、承保2年88歳で没ということになる。
まあ承保と永保は書き間違いやすいと思われるので、
永保は転記ミスかも知れないけど。
とにかく、上記の組み合わせで逆算される生年は、
988年、995年、1002年の三通り。
このどれであっても、一応経歴とは矛盾しない。
親子関係としてもあり得ない年代ではない。
活動年代のみから推定してみると、
985年頃〜1010年頃の誕生ではあるだろう。
経基
890年代、又は914か917誕生とされる。
間違いなく活動していたのは、940年前後だけ。
870頃〜920頃誕生の可能性有り。
満仲
一応通説では912年誕生。920年代中頃誕生とも。
900年頃〜935年頃の誕生ではあるだろう。
頼光
948(通説)ないし954誕生とされる。
980年以後の活動と1021年死去はほぼ間違いなし。
940年頃〜960年頃の誕生は間違いないだろう。
頼信
968(通説)ないし974誕生。
987年左兵衛少尉任官から974年はないと思う。
経歴から965頃〜972頃以前と思われ、
968年誕生は信用して良いのでは?
頼義
988(通説)か995か1002誕生。
985年頃〜1010年頃の誕生ではあるだろう。
義家
1039誕生が通説。
経歴から見るともう少し年長の可能性はある。
とは言え、1106年没は確実なので。
1020年より前の誕生ってことは無いだろう。
経歴的に1040年頃以前誕生も確実。
多少重なる部分もあるけど、
一応親子兄弟順に活動はしている。
ただ系図ってものは、適当な活動時期の人物を、
適当につないで作った場合もあるよな。
特に古い部分は。
生没年を調べて意味あんのか。
養子が入ってたら意味なかろうに。
246 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 11:00:10.37
どこか1ヶ所だけ直せば辻褄が合うというならともかく、
あっちをこうしてこっちをああしてを延々とやんないと辻褄が合わないなんてどう考えてもおかしいよ。
247 :
日本@名無史さん:2011/12/25(日) 12:26:05.56
源経基の生年を訂正すればとりあえず辻褄はあうんじゃなかったか。
清和天皇(850〜881)の第六皇子だという貞純親王が
870年代生まれであることはかなり自然。
経基の系譜をここに求めるのならば、経基を890年代生まれとすれば
満仲との年齢逆転も解消できる。
>>247 >経基を890年代生まれとすれば
満仲との年齢逆転も解消できる
それもおかしい。
それだと2世源氏である経基は、40代後半の938年になって初めて受領でもない国司の次官にあたる武蔵介に任官し、
50歳くらいになって初めて貴族の最末端にあたる従五位下に叙されたことになってしまう。
「イマダツハモノノミチニネレズ」と坂東の諸豪族から青二才扱いされたのもこの年代でのこと。
元々、臣籍降下というのは、8世紀初頭に施行されて以来1世紀を経て律令制が行き詰まってしまい、数が多くなった皇族を食わすことが出来なくなったが故に、大量に皇族を臣下に落としていったことに始まる。
つまり、「お前らこれからは税で養ってもらう側から税を稼ぐ側に変われ」
との方針転換。
特に9世紀初頭の嵯峨帝の頃以降この傾向はより一段と強まる。
以上の経緯から、臣下に降下させた存在である経基を50歳近くになるまで遊ばせておいたなんて不自然極まりないことなんだよ。
249 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 01:50:22.53
いや、だとするとだな、経基王が源姓を賜って臣籍降下となったのが40代後半になってということも考えうるということにはならないだろうか?
二世王の叙位はかなり高齢になってからの場合もあるようだ。
なまじ初叙の位階が従四位下と高い上に、
当時は二世王が多すぎて希少性もないし。
いつまでも叙位されないから自ら臣籍降下を願ったのかも。
二世源氏の初叙の位階は特段の規定がないようだ。
なにか基準はあったのだと思うが。
実例は六位?(以下?)と従五位下があるようだ。
四世王並で正六位上が基準で、一部特例が従五位下なのかな?
ただし、経基が当時源氏だったのか王だったのと言う問題が。
本当に二世王で臣籍降下前なら六位ってことはないと思うが。
賜姓後なら、一世源氏でも文章生を経る経歴で六位はあったようだ。
そう言う場合は六位から五位をとばして一気に四位に進んでるけど。
あくまでも文章生を経るための方便か?
やっぱりおかしい。
初叙が従五位下で、それは将門謀反の密告の功によるもの、
ということは経基は既に武蔵介に任官した後、職場を放り投げて都に逃げ戻ったあと、ということになるのだから。
(受領でもない)国司次官の座に皇族のままで任官するなんてちょっと考えられないから、当然経基が武蔵介に任官したのは源姓を賜姓された後のことでしょ。
ハタチそこそこで賜姓清和源氏を賜った若き経基の辿ったちょっと情けない事跡と考えた方がどうみても自然。
そして、「有能な」次代・満仲との間に年齢矛盾があるというのは、
汚名返上のために経基は有能で老練な実務武官官僚を側近につけ、
上で誰かも述べていたようにやがてそのまま養子にしたとでも考えた方がよほどしっくりくる。
トンビは鷹を生まないよ。
満仲養子説の場合は、満仲の弟たちは経基実子って考えるの?
実在が怪しげな人物も混じってるかもしれないけど、
少なくとも満政(10世紀末ー11世紀初活動)と、
満季(970前後活動、1005年以前没)の二人は、
実在してるよね。
経歴を見る限りでは、満季はともかく、
満政は満仲と相当年齢差がありそうだけど。
3人は同母兄弟だから
実際には満仲を代表とする“経基サポートグループ”ということだったんだろうな。
経基の補佐役である満仲。
同母弟である満政・満季は、そんな兄・満仲の仕事を更に補う役割を果たしていた。
つまり、総体的には“満仲族”による経基支援体制。
経基はそんな満仲を養子にしたんだから、一族を挙げて兄・満仲の仕事をサポートしていた満政・満季兄弟をもまとめて養子にしたということなんだろう。
それはあまり前例がないだろ
さすがに説得力がない
やはり経基の生没年誤表記が可能性として高い
>>254 >誤記
と簡単に言うけどね、それは一体どういった類いの
>誤記
?
『尊卑分脈』の編者である洞院公定の「誤記」?
それとも、公定が諸氏の系図を編纂するに当たって集めたであろう足利、佐竹、小笠原、武田など清和源氏諸氏の系図そのものにそもそも「誤記」が有った、との意味?
そしてもし前者の意味で言っているなら、何故その「誤記」を載せた洞院公定や洞院家の人々は、
時の権力者である足利氏や、その他の佐竹氏や小笠原氏や武田氏などの清和源氏諸氏から、自分たち清和源氏の正統性に疑問符をつけられかねないような系図を掲載されたことに対して強く抗議を受けないの?
『尊卑分脈』は間違いに対しては、絶えず洞院家の人々によって訂正や改訂を繰り返されてもいるんだよ。
特に摂関家や、鎌倉、室町と二時代に渡って武家長者を出したような権門の家に対しては公定はいっそう意を砕いて編纂している。
だから『分脈』の平安時代、鎌倉時代の項は一等史料扱いになっているんだ。
なのに清和源氏初期の二代に渡る「誤記」だけは、どうしてそのまま時代を越えて通ってしまっているのだろうか?
ふつうに考えればそれは、
訂正したくてできない理由が有ったから、
とするのが筋というものなんだよ。
それと
>前例
などに構っていられる事態ではないだろう。
何しろ国家に対する反逆という、それこそ
>前例
のない事態に関連して起こったことだ。
その事態の端緒でミソをつけて笑い者にされた経基なんかは特に、悠長に前例に構ってられる余裕なんてなかったってことだ。
繰り返すが
トンビが鷹を生むようなことは無いんだよ。
べつに誤表記と思われるところはそこだけじゃないだろ
258 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 01:00:25.89
将門の乱って経基が悪いんだよな
>>258 原因の一つではあるなw
自分で火をつけておいて謀反の兆しありもないもんだ。
挙句の果てにそれを出世の足がかりにしたんだからなあ・・・
260 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 20:53:57.94
そして(あくまでも系譜上のこととはいえ)その経基の子孫が、
中世を通してずっと武門の長になるんだから世は無常w
261 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 21:16:31.99
経基は悪質というか、屁たれのくせに運がいいだけな気がするが・・・。
でも鎌倉幕府は実質上平家政権だ。
264 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:01:25.17
>>262 経基ほどではないが、
のちに源氏と並ぶ武門の棟梁になる平貞盛(平清盛等の祖)や、藤原為憲だって将門に連戦連敗の戦下手だよ。
将門と渡り合えるだけの骨があったのは藤原秀郷だけ。
265 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:47:08.63
貞盛は関東捨てて京武者として生きる道探してたし
為憲はそもそも武士ですらない
貞盛はわりと活躍してると思うが。
267 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 01:09:17.13
>>266 立ち回るのはね。
秀郷を見方に引き入れたりとか。
でも
>>264で述べた通り、将門との戦そのものは秀郷が参戦するまでは連戦連敗だよ。
経基は将門貞盛秀郷らに遅れをとってたのにぜうまく武門になれたの?
壷井を相続した石川氏はどうなったの?
270 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 21:17:54.66
>>268 東国で及第点つけられた者たち(藤原秀郷、平貞盛、平公雅ら)はそこまでで良し。
以後子孫たちは武門の家として取り立てる。
東国で落第点だった者たち(源経基、橘遠保ら)は西国に回す。そこで純友討伐に功績を残すことがラストチャンス。
それが出来れば以後子孫たちは(ry)
てな感じ。
次に安和の変で秀郷流を追い落とし、坂東平氏内紛に付け込んで棟梁になるって感じか。
なんかいつも悪役だね。
河内源氏はなんで関東にいったんですか?
ある意味落ちこぼれたからじゃないの。
都の出世競争に負けたんでしょ。
しょせん庶流なわけだし。
経基流清和?源氏の嫡流は本来摂津源氏だし。
頼朝が成功してなけりゃ、清和源氏の嫡流とかお笑いぐさの世界。
>>273 いや、義家の時代にすでに摂津源氏をしのいでいた。
>>274 その時代の河内源氏と摂津源氏はどんな関係なんですか?敵ですか?
つーか、関東にいくかどうかの問題より、受領になって財産をたくわえ、在庁官人と誼を結び、荘園をうまく統治して反乱を防ぎ税をきちんと納めることが
武官が中央に期待され、また本人らが生き抜いていくための方法論だったんじゃね?
平家が義親追討で一気に中央での地位を確立していったあと、豊かな播磨守をはじめとして一族の者が続々
西国の受領に任じられて経済基盤を築いていったのは落ちこぼれたというより評価されてのことだし
河内源氏が関東に行ったの?河内源氏の亜流が関東に行ったの?
278 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:17:59.89
>ある意味落ちこぼれ
たっていうのは、表現としてある意味当たってる。
天皇家や藤原氏の庶流や、藤原氏の台頭により影の薄くなった貴族たちにとっては、地方に下向する受領階級になるのが、貴族として生きるギリギリの線だったわけだし。
いや、そのギリギリの線からもこぼれ落ちた貴族(元貴族)も多かった。
将門や純友はまさにそうした存在で、だからこそ彼らは貴族社会への復権をかけて国家への反逆を結構したという側面がある。
関東に行ったってより東北を押さえるための出兵に一応成功したけど
実質的に支配権を確立することには失敗したんで坂東平氏と組んで関東に拠点を置いたって感じだろ。
それ以降も東北にこだわってるし。
280 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:19:26.11
結構した× → 決行した○
>>277 坂東へいったのは、頼信がはじめらしいです。
たしかに兄、頼光や頼親より不遇ですが、道長の下、東国の受領を歴任してます。
忠常の乱平定に活躍して、以後、頼信の系統が坂東のおさえとしての信頼をえたのかもしれませんね
頼朝は祖先として頼義を重視した、ようなことをどこかで読んだことがあるけど、
それだと佐竹や武田あたりと同列ってことになっちゃわない?
義家を重視すると、足利あたりがうざかったってこと?
283 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:54:04.00
不思議なことに清和源氏は、
桓武平氏や秀郷&利仁流の武門藤原氏などと違って、兵の家成立以降もあまり積極的に郡司富豪などの在地豪族に婿入りしていないんだな。
どうもそれまでの招婿婚とは違ったやり方で精力を扶植させようとしてたのか?
母系制から父系制への、いわば「イヘ→家」へのパラダイム転換期とぶつかってしまったからなのか?
摂津や河内という、伴造or帰化人系技能官人の本拠地だったところを受け継いでいることから見ると、
平氏や藤原氏など他の軍事貴族が、国造に系譜を引く郡司富豪層に積極的に婿入りして勢力の拡大を図ったのと違い、
清和源氏は、中央近くにいる伴造や帰化人など技能官人系豪族たちとの結びつきによって、家を発展させようとした節が伺える。
その為、他の軍事貴族に比べて坂東や奥羽への進出も遅れてしまった。
頼義晩年から義家の頃にかけて慌てて奥羽進出を図るが、それも裏目に出て失敗するし。
あるいはもっと単純に、ヘタレ経基の汚名を負った東国の地には最初のうちは中々進出できなかっただけ、ということなのかもしれないがw
三位以上の公卿とそれ以下の貴族とは明確に差があるだろ
まず家格がないとなれないし、家格があっても母方の財産基盤があり、すで公卿になっている親や親戚の助けがなければ
なれない。また政争にも勝たないといけない。
家格がないものが、なりあがるには当時は反乱での武功をたてるか、寺をたてるとか、都づくりとか一大事業を担当するかのどっちか。
285 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 10:59:22.32
>>282 そうだよ。
だから武田なんかは、
(頼義の子孫ならば)「一門さらに優劣なし」
と切って捨てた。
頼朝はそんな状態から自身の家だけが飛び抜けた存在とするために涙ぐましい努力をしてる。
>>282 それは、鎌倉御家人が重代相伝の家臣ではなかったから、故実に基づいて家臣化する理由にしたということ。
たとえば、前九年の役に、我が祖先は頼義公に対し、このような逸話がありましたー、
ってことで、鎌倉府でのその逸話にのっとるかたちで、職の補任に預かるというようなことをした。
>>283 そんなことはないよ、
義平などのように、母親の地位が低く、中央とも結びついていないと、
荘園で家人として勢力拡大にはげんでいく傾向にあっただけ
その他、義国もそうだし、義朝ももともとそういう立ち位置だった。
288 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 11:11:25.24
>>287 だからそれは「兵の家」成立以後ぐっと後になってからのことでしょ。
289 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 11:15:09.22
>>286 そそ。
「後付け」なんだよね。
(源家の側も御家人の側も)互いに「そうだったんだということにしときましょ」ということになった。
>>288 家の成立というのはあくまで、ある職を家が継承していくことを言っているわけであって
在地化とかはあまり関係ないと思われ
291 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 11:32:42.08
>>290 だから「兵の家=軍事貴族」という「家職化」だろ!
軍事に特化した家になった以上、職掌上最も大切な兵はどこから調達する?
一番手っ取り早いのは前時代からの系譜を引く郡司富豪層と一体化することだろうが!
現に桓武平氏や武門藤原氏はそれをやっている。
なのに清和源氏には不思議とそれが無い、若しくは極めて希薄だと言っているんだよ。
これでは都での警備程度ならともかく、正規兵を率いての反乱平定戦などできはしない。
そのための訓練だって覚束無い。
そして案の定、前九年役で、清和(河内)源氏はその戦下手を露呈する。
>>291 ちなみに
>鎌倉御家人が重代相伝の家臣ではなかった
という事実は、平氏にもあてはまるよ
前九年の役も陸奥で戦ったのは主に現地の清原の兵だし
だからこそ戦後の一番得をしたのは中央から派遣されない地方領主ではじめて鎮守府将軍となった清原氏なわけなんだし。
戦後、頼義、義家も栄転するとは言っても、清原氏までは及ばないよ
そして頼朝にほろぼされるまで繁栄した。
在庁官人や荘園領主は基本、地元から動けないのが源平合戦までの流れ。
平治の乱は畿内周辺に受領をもってた平家一門が特異的に勝てた。
というのが「河内源氏」という本には書かれているよ
小作人の家系なんですが、小作はもともとたどれば何者なのですか(#^.^#)?
スレチだったかも…
297 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:04:20.27
299 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 19:45:52.08
>>292 源氏は清原氏に臣下の礼まで取ってるからな。
自軍は対安倍戦(黄海の会戦)で壊滅してしまってるので再編成は不可能だし、
かといってこのまま打つ手無く終わって、陸奥守&鎮守府将軍を解任でもされて敗戦の将となれば、武門の棟梁を自認する河内源氏棟梁の面目は丸潰れ。
何より頼義はもう任期切れ間近で時間が無かった。
そんな状況下だったから、清原氏を自軍に引き込むためにはなりふり構ってられなかったんだろう。
300 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 20:32:55.13
ま、↑が頼朝が神格化しようとした頼義の実際の姿なんだけど、
実はこの時のことを深く恨んでいたのが頼義の息子の義家なわけ。
前九年役の恩賞では、義家は従五位下出羽守に任じられたのだが、乱鎮圧の一番の功労者である清原武則はそれより上の従五位上鎮守府将軍に任じられる。
つまり、義家としては清原氏のお膝元の出羽国で、その風下に立つような思いで出羽守をつとめなければならなくなったわけ。
まあ当然だわね。親父の頼義に至っては清原氏に臣下の礼まで取ってしまっているわけだし。
でもそれが義家には面白くない。
だから義家は出羽守を辞退して、代わりに出羽から遠く離れた越中守就任を朝廷に打診までしているのだが、それが認められた形跡はない。
だから前九年役から約30年後に義家が起こした「私戦」後三年役は、そんな義家の私憤を公憤にすり替えた戦い以外の何者でもないわけ。
清原方の千任に義家が見せた残虐性なんかには、まさにその思いが見てとれる。
義家ってのは後世ではこの上ない英雄、武士の鏡とされてるが、実際は恨みの念で固まった粘着性性格の持ち主。
301 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 21:02:42.93
>>292 >在庁官人や荘園領主は基本、地元から動けないのが源平合戦までの流れ。
結局 治承・寿永の乱 で大規模の動員を行うことのできる組織を作れた
頼朝が最終的勝利者になったってことか
>>300 >義家が起こした「私戦」後三年役は、そんな義家の私憤を公憤にすり替えた戦い以外の何者でもないわけ。
いや、義家が起こしたんじゃなくて、
勝手に清原一族が内紛起こして自壊しただけ。
>義家ってのは後世ではこの上ない英雄、武士の鏡とされてる
私財を投じて関東などの武士に恩賞を与えたから。
これが後に頼朝の全国統一を助けた。まさに損して得とれ。
現代において頼義の知名度がさほどじゃないのは、
頼朝に頼義神格化に無理があったってことなの?
それとも宣伝係の不足?
>>303 頼朝は朝廷からの大義名分にこだわったけど
御家人は「ご恩」の義家へ名声を与えた
305 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 03:19:54.47
義家の「ご恩」でさえ、二〜三代下る義朝の代には通用しなくなっていて、「大庭御厨乱闘事件」で鎌倉権五郎の子孫である大庭氏と、御厨の権益で争う始末だった。
その時、大庭と利害が対立していた、三浦や千葉などの豪族は義朝側だったけど。
前九年の役の佐伯経範の後裔である波多野氏も、平治の乱後の頼朝への冷遇しかり、石橋山での大庭景親の攻撃とその時々の利害でがらりと変化。
義家の「ご恩」は頼朝〜実朝あたりの頃に、後生作られたイメージに過ぎないとおもう。
源氏のカリスマは平氏の比じゃないな
親父に大江氏って系図には桓武天皇の子と書いてあるものもあるから平氏じゃねえの?って聞いたら
そんなことはない、鎌倉府創成期の有力御家人だから源氏(の家人)だ
ってキレはじめちゃったから(親父は毛利のファンです)
現代の親父たちには源氏はとてつもない力をもっているようです・・・
でもこれは頼朝だけの力じゃなくて、足利、徳川が長期政権を立てたことが、彼らが祖とした義家のパワーを
四次元的に増幅させてるからだろうね
307 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 04:54:25.00
>>306 いやいや、源氏じゃないと、武家政権を作る基盤が弱いのではないかという、不安が、「本来大江である毛利」でさえ「天子の血筋だから源氏だ」と言い張るようにさせてるわけだ。
戦国時代末から、小さい集落にも八幡宮が全国に広まってゆくのも、
あわよくば戦国の覇者となったときの精神的支柱として各地の武家が獲得領地の領民支配と合わせ導入したものだろうな。
本来新羅神社を氏神にする源義光(新羅三郎義光)の系統である、武田や佐竹も、八幡大菩薩を信仰するようになっているし。
308 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 05:31:14.20
>306がいってるのは現代人にも残っている清和源氏神話じゃないか。
個人的には、平家を滅ぼした源義経、鎌倉幕府を滅ぼした源義貞、というのが清和源氏の子供時代に最初にもったイメージだったし。
どちらも、幕府を開くことになる「腹黒な兄」頼朝、「逆賊」の遠縁・尊氏によって若くして命を落としてしまったということで悲劇のヒーローとなった。
事実、「義経記」と「太平記」というかたちでそのイメージは流布されてきたのだろうし。
源氏物語の主人公を頼朝と思ってる人もいるよ。
310 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 08:49:18.63
基本的には、
・「頼義神話」を創出したのは頼朝や鎌倉幕府首脳陣。
・「八幡太郎義家神話」を創出したのは足利将軍家や室町幕府首脳陣(その先駆けとして、
まず鎌倉時代中後期頃から説話集などで「義家英雄神話」が形作られて世間に膾炙されてゆくようになり、後代になるにつれて更に尾ひれがついてゆく、
といった前段階があるが)。
>>309 何か、その勘違いが、変ずって、藤原道長とか訳の分からん基地外説が飛び出してる始末・・
源氏長者で嵯峨天皇の子で最初に源姓賜ったのは、源融以外に居ないのに
313 :
310つけたし:2012/01/08(日) 09:11:31.03
なお、
義家が後三年合戦後、朝廷から恩賞が出なかったために、自らの私財を投じて「配下」の東国武将に分け与え、東国武将の間で義家の名声が一層上がることとなった、
なんてのも後世(おそらく南北朝期以降)の
創作話だよ。
地方豪族なんてのはその様なお目出度い存在では決してない。
318 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 10:02:13.78
>>313 私財をなげうって「御恩」を受ければ実利的にくっついていくだろうけど、
現実には、義家は藤姓足利氏の地盤に食い込んでいったというのが本当のところじゃないのか。
319 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 10:37:42.99
>>318 ってか義家にも頼義にも河内源氏全体にも、そもそも東国中の豪族に分け与えられるような「私財」なんて存在してないし。
上でも述べたが、清和源氏は桓武平氏や武門藤原など他の軍事貴族のように地方に進出はしていない。
本拠である河内古市郡壷井の所領もその実高はたかだか数百〜千石程度だったと言われている。
むしろ豊かさでは東国の豪族たちの方が義家なんかよりもよほど勝っていたはず(それも一家単位で)。
清和源氏(特に河内源氏)が東国豪族に期待されたのは、清和源氏の後ろに控えている摂関家の「ご威光」による自領の安定化。
東国と摂関家との仲立ちの役割を、義家など河内源氏は求められていたのだ。
だから義家や河内源氏に「財」というものがあったのだとしたら、それはむしろ今までそうした役割を果たしてきたことにより(主に東国)豪族たちから貢がれた「斡旋料」の類いの蓄積と思われるのだよ。
320 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 10:49:39.11
321 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 12:22:41.60
たぶん、河内源氏の家系が正当化されたのは、後世だろうね。
足利家とか、源氏を偽称した徳川家とか。
徳川家の場合、家康が今川家の人質時代に
河内源氏の系譜の正統性を嫌というほど聞かされていたみたいだし
いずれにせよ、足利家の影響が大きいと思う。
だいたい、鎌倉幕府はあっさりと、藤原氏や皇族を将軍にしたりしているし。
当時の東国の御家人の河内源氏に対する気持ちって、その程度w
322 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:19:41.18
>>319 普通に至る所に荘園を持ってたよ。
じゃないとあんな大規模な「私戦」を続行できないでしょ。
323 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:27:45.01
>>322 > 普通に至る所に荘園を持ってたよ。
@「至る所に持ってた義家の荘園」
の具体例を頼むよ。
324 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:33:35.47
>>321 藤原や皇族なんて源氏よりはるかに上玉なんだから
そこに取って代わられたからといてその程度ってことはありえない。
源氏の外戚・北条の政権が倒れたあとに天下を争ったのが
奇しくも足利と新田、その他にも武田や佐竹。
鎌倉期でもこれだけ関東一円に力をもっていたのだから
足利以前に、既に河内源氏ブランドは確立していたのだろう。
325 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:35:18.27
>>323 朝廷は義家への荘園の寄進を禁止している。
逆に言えばそれだけ受けていたということ。
326 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:37:49.23
それから、「後三年合戦」で
「大規模な戦い」を演じたのは、出羽清原氏族内の清原清衡や吉彦秀武らの軍によるもので、
義家自体が実際に動員出来たのは、陸奥守としての職掌から動員しうる国衙軍(それもどれ程動員することが出来たかは不明)、及びわずかな自身の郎党軍のみ。
327 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:39:05.02
328 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:48:24.09
>>325 それから言っとくが、 同時代資料である『後二条師通紀』に、「地方豪族たちが義家に所領を寄進した」等とは一言も無いぞ。
329 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:48:25.44
330 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:49:31.42
331 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:51:24.05
>>329 いや、
「陸奥守」義家の停戦命令に応じる、
という形を取ったのだよ。
国司に逆らったら逆賊となり、それでは奥六郡安倍氏の二の舞となるからね。
332 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 13:53:25.38
>安倍氏の二の舞
関係ないじゃん。
もう「清原」もいないんだしぃ。
333 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:03:12.93
>>330 『百錬抄』・・・
やっぱりねw
出してくると思ってたよw
同書は
>>328で挙げた『後二条師通記』などから鎌倉時代末期になって纏め直されたものと目されている。
要するに、同時代記録である『後二条師通記』よりも2世紀も後世になって書かれたもの。
この『百練抄』に間違いや事実誤認などが多いことは戦後間もない頃の研究者である安田元久氏あたりですら既に気づいていた。
まして、現代の学界ではもう問題にされていないんだよ。
334 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:07:22.84
>>332 >もう「清原」もいない
とは何時の時点だ?
真衡が頓死した時点では清衡、家衡をはじめ清原一族ばまだ健在でピンピンしてるが?
335 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:13:42.67
>>333 「纏め直された」だけ。だから同時代の史料だよ。
336 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:16:34.97
>>334 安倍が源氏に滅ぼされたときの「清原」のような他の大勢力がいないだろ。
っていう意味。
逆賊認定されても安心だろ。本当に源氏がたいした兵力を持って無いんだったら、な。
源氏長者って何源氏でも源氏であればなれるみたいだけど
338 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:35:28.44
>>330 それから『後二条師通記』での
>荘園を停止
云々の下りだが、
その前提には、義家が既に院や摂関家や有力社寺とならぶ「第四の権門」と化していたという虚構がある。
だが、たかだか四位の諸大夫階級に過ぎない義家にそのような権限があろうとは到底見なし難い上、他にも種々の矛盾があることから、
今日の学界では
>>319で述べたように、摂関家への諸国武士からの自領安堵の仲介、仲立ちの役割を義家(河内源氏)は求められていたのであり、
従って、元木泰雄氏を筆頭に今日の学界では
>荘園を停止
云々の意味は、その「『仲介斡旋業』を停止す」の意味であると解されている。
至極真っ当な見解であるといえよう。
339 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 14:39:57.64
>>335 それはあんただけの見解。
一次史料を「纏め直す」過程でどれだけの誤記、事実誤認、後世になってからの解釈、その他の粉飾などが紛れ込む可能性があると思ってんだ?
清衡ってさ、連れ子で清原清衡になったんだよな
吉備真備以来のネームバリューだな
341 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 17:53:46.18
>>336 今レスに気づいたわw
なに屁理屈こねてんだお前?
一族内部での私闘と違って、国司に対する反逆は大罪なんだよ!
将門も純友も忠常も安倍氏もみんな国司(=国家)に反逆したから国は本腰を入れて鎮圧することになったんだ。
源氏がどうこういう問題ではない。
源氏が駄目なら朝廷は次の軍事貴族に任命するまでに決まってんだろうが!
かつて忠常の乱の時に平直方から源頼信に担当を変えたようにな。源氏だろうが平氏だろうが所詮は皆、中央に仕える存在に過ぎないからだ。
>本当に源氏がたいした兵力を持って無いんだったら、な
頼義〜義家時点での源氏の兵力なんて本当に大したことはないんだよ。
だから安倍氏に惨敗して進退極まった頼義は出羽清原氏に臣下の礼を取るしかなかったんだといってるだろう。
>>299>>300で述べた通りだ。
何を根に持ってるんだか知らんが、俺に粘着して捨て台詞吐いてる暇があるんだったらさっさと元木氏などの最新の学説読んで勉強してろよw
ところでさあ、義家死後って経基流ないし河内源氏の嫡流って、
存在してたの?
平治の乱以後死去までの義朝、復権後の頼朝はまあ良いとしても、
それ以外の時期に嫡流なんて存在したのかな?
343 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:21:29.41
犬HKは張りきって「王家」を連発してますっ!
344 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 21:52:04.35
>>341 大罪だろうがなんだろうが安倍のように力で対抗できるハズだろ。
ましてや清原は安倍を併呑して力がもっと上のハズなんだから。
さらに言えば、親父のときと違って義家の「私戦」つまり国の後ろ盾もないハズなんだから。
新説珍説に飛びつくのも入れあげるのもいいがちゃんと答えてよ。
345 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:10:16.72
>>344 人に質問するのは
>>323の俺の質問に答えてからにしろ、な!
それから論点反らしもいい加減にしろ!
大勢力がいようがいまいが一族内の内紛と違い国司(国家)に対する反逆は大罪だと言ってるんだ!
将門も純友も忠常も安倍氏もそれで追討の対象となったと言ってるの!
分かった?
それと
>新説珍説
とは?誰のどの「説」が具体的に言ってくれ。
それと俺のレスを
>新説珍説
と言うからには、
お前の言う「定説」とはどんなものなんだ?
臼井あたりのとっくに葬られた旧説のことか?
いずれにせよ返答に窮したからといって、粘着、矛先反らしではもう返さないでね。
346 :
345一部訂正:2012/01/08(日) 22:13:01.48
>新説珍説
とは?誰のどの「説」が具体的に言ってくれ
↓
>新説珍説
とは?
誰のどの「説」を指すのか具体的に言ってくれ
347 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:19:23.73
Q.大罪だろうがなんだろうが安倍のように力で対抗できるハズだろ。
A.大罪だ!追討の対象だ!
…いやわかってるってそれは。
348 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:22:23.55
>大罪だろうがなんだろうが
って一体コイツは何を言いたいんだ?
恐らくは義家or源氏ファン或いはその両者で、俺のレスが源氏を貶めているとでも思って私怨の情に駆られてしまっているのだろうが、もう支離滅裂の極み。
勢力の大小に関係なく国司に反逆した時点でもうソイツは大罪人ということを繰り返し述べているだけなのに、何故こうも粘着してくるんだ?
349 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:32:16.90
>>347 お前の誤魔化し&論点反らしにはもう飽き飽きだよw
べつに粘着してないけどね。
「わかってる」と書いてるしね。
なに必死になってるんだろう。後ろ暗いことでもあるのかい?
351 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:41:28.27
言っとくが、元木氏の「義家非権門説」ならもはや
>珍説
でもなんでもないぞ。
野口氏、下向井氏、川合氏他最先端の学者がみな援用している。
つまりは現時点での定説となっているということ。
そして、この元木説に対する積極的な反論というものはとんと聞かれない。
352 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:43:40.50
>>350 >なに必死になってるんだろう
>なに
自己紹介してんだよ。
とっとと義家の全国に数多存在するという所領を具体的に言ってみろよ。
353 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:45:26.27
>>350 もっとも、お前みたいなヤツがもうまともに返答してくることが無いことくらいはこれ迄の経験上分かってはいるけどねw
354 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:49:41.91
>>344 > 大罪だろうがなんだろうが安倍のように力で対抗できるハズだろ
なんだ、源氏(頼義-義家)の
>兵力
なんて大したことないってことは分かってんじゃないかw
355 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 22:59:20.76
粘着君、
>>283の俺のレス以来、俺はお前の質問&反論には(幼稚なものとはいえ)いちいち答えてやってきてるんだよ。
一方、お前だけがそれに対する再反論の代わりに論点反らしで対抗してきているんだよ。
悪いことは言わないから、知識がないならもうやめといたら?
そして本を読みなよw
356 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:01:57.89
>>354 おお、ようやく話が通じたか(笑)
俺はそれをずっと言ってるのに頭に血が上って見えてなかったのかい?
で、真衡は独力で秀武や清衡を破ったの?
357 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:13:59.63
>>356 >>329の繰り返しで誤魔化して楽しいかいw?
>>331 でとっく答えてるだろう。
第一、真衡は清衡・家衡連合軍を破ってなどいない。
陸奥守義家に泣きついて停戦に持ち込んだだけだ。
だからといって「そら、義家は大軍を擁してた証拠だ」なんて言うなよw
その理由も既に
>>331で述べて終わっているのだからw
先手打って書いとかないとお前は平気で論じ終わったこと蒸し返してくるからなw
ま、これも経験上分かっていることなんだがw
再三
>話
を
>通じ
なくして逃げているのはお前の方だよw
358 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:28:38.22
359 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:38:40.28
>>358 だから(国家に反逆し得る)大勢力の有無とは関係ないと再三言っているんだよ。
つ
>>345 もうループでの誤魔化しはやめて、
全国に数多く存在するという義家の所領について(これも再三質しているように)具体的に答えてみてはどう?
360 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:42:59.53
361 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 23:52:21.02
>だから(国家に反逆し得る)大勢力の有無とは関係ないと再三言っているんだよ。
?いみふ
362 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 00:11:50.47
>>361 だから
>いみふ
なのは
「源氏の兵力なんて大したことない」
と言われたことに逆上して俺に絡んでくるオメ〜の方なんだよw
なにが
「安倍氏と違って清原氏が滅んだあとは国家に反逆する存在はもういないんだから―」
だw
そんなのは「結果論」でそれこそレスの文脈上
>いみふ
もいいところだったんだw
ところでお前さんの「認識」では清原氏は国家への「反逆者」なのかw?
今度こそは義家の数多ある所領と併せてどちらも具体的に答えて見てくれ!
363 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 00:16:04.81
>>362 ファビョるなよ落ち着け
「国家に反逆する存在」なんてことは言ってないよく読め
364 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:04:59.85
>>363 だからお前の誤魔化しや論点反らしやループはもうたくさんだって言ってんだよ。
要するに俺のレスが気に入らないから難癖つけてるだけなんだろ?
一向に質問にも答えてこんしなw
おまけに
>>336を無かったことにしようともしているw
じゃあ聞くが、義家(および河内源氏全体)の
>兵力
なんざ知れたもの、という俺のレスに何故こうも絡んでくるんだ?
それを否定したかったからなんだろ?
だったら、何度も質しているように具体性をもって再反論してきてみろと言ってるんだよw
しかもお前は奥六郡司安倍氏を倒した実質兵力は出羽清原氏によるものとは認めている。
ということは
=河内源氏の兵力などは大したことなかったという、俺や元木氏などの主張に沿っているということにもなっているはずじゃないか。
なのにお前は一方ではネチネチと訳の分からん屁理屈捏ねてそれを否定してくるということもやっているんだよ。
だから
>いみふ
なのはお前の方だと言ってる。
そこでちょっと質問だが、
お前は義家は大軍を擁していたと思ってんのか?
それとも寡兵勢力だったと思ってんのか?
どっちなんだ?
今度はもう誤魔化しなしで答えてくれるよなw
365 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:11:43.04
>>363 それと
真衡が頓死した時点では清原氏は滅んでなどいないということも是非覚えておこう!
366 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:13:07.43
>>364 ぜんぜん無かったことになんかしてないんだけどwよく読もう
寡兵勢力だという仮定に立っていますよ。
367 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:14:07.45
368 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:24:16.27
>>367 > 安倍が源氏に滅ぼされたときの「清原」のような他の大勢力がいないだろ。
> っていう意味。
日本語に直して再投下してみてくれw
それで河内源氏自体は大兵力なのか
寡兵力なのか
どっちだ?
大軍を擁していたとしたら、
それならそれでそんな大兵力で挑みながら河内源氏は安倍氏に大惨敗したヘタレ兵の固まりwということになるが如何w?
河内源氏ファンのネチネチ君へw
369 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:26:40.68
370 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:30:53.71
>>369 苦しそうだなw
まあ本題と関係ないところでしかレス出来なくなってきましたっていう良い見本ですねw
371 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:33:59.52
>>368 寡兵勢力だという仮定に立っています。
安倍は守る側でホーム。そして大軍だ。
372 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:35:05.74
>>370 苦しくないのならそんなにファビョる必要は無いはずだぞ、落ち着こう。
373 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:37:28.31
>>372 お前のような粘着難癖野郎には虫酸が走る質なのでね。
すまなかったね。
374 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:39:45.54
粘着はおまえだろw
375 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:45:27.39
376 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:48:00.11
377 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 01:50:44.11
本当に源氏がたいした兵力を持って無いんだったら
寡兵勢力だという仮定に立っています。
齟齬をきたしてないだろうに。
378 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 02:16:33.65
・清和源氏は平氏、武門藤原氏らと違い、地方への進出・訪婚による在地豪族の取り込みは(後発氏族であることを考慮に入れても)かなり後代になってからのものである。
・よって母系に在地豪族を有しない源氏は基本的に大兵力を擁し得ない
・従って清和源氏の軍事貴族としてのそれまでの経験は都周域での警備や貴人警護などに限られ(頼信の対忠常戦は実際に戦闘は行っていない)、
大軍を率いての軍事訓練などの経験も行ったことが無い、或いは行っていたとしてもそれは極浅いものであり、これは本格的な対国家反乱が起こった場合の最高指揮官としては甚だ不向きであると言わざるを得ない。
・それが見事に露呈したのが前九年役である。
・頼義、義家の「英雄伝説」並びに、義家の「権門説」は後世になって創出されたものである。
とまあこんなところが俺の主張。
これが気に入らず、いちいち茶々を入れてきては、先に自分でした発言と辻褄があわなくなって居直った統失君もいるようだがw
379 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 02:22:23.59
寡兵勢力だという仮定に立っています。ってば。
大兵力じゃないのに安倍に挑みかかる、しかも守る側じゃなく長征して攻めたと。
う〜ん、嘘くせえ
380 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 02:27:11.41
なんかこの粘着激しくデジャヴなんだが。
悪源太スレだなw
381 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 02:29:08.94
粘着はおまえだろw
382 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 02:35:44.01
>322 日本@名無史さん 2012/01/08(日) 13:19:41.18
>
>>319 > 普通に至る所に荘園を持ってたよ。
> じゃないとあんな大規模な「私戦」を続行できないでしょ。
>371 日本@名無史さん 2012/01/09(月) 01:33:59.52
>
>>368 > 寡兵勢力だという仮定に立っています。
383 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 02:42:18.40
慌てて修正w
>大軍を率いての軍事訓練などの経験も行ったことが無い、
>或いは行っていたとしてもそれは極浅いものであり、
>これは本格的な対国家反乱が起こった場合の最高指揮官としては
>甚だ不向きであると言わざるを得ない。
上の2行はまさにそのとおりなんだろうけど、
じゃあ対国家反乱対応レベルの大軍を自在に自由に動かせる勢力が、
当時存在してたのかって問題が。
相対的な意味合いで大軍ってことなんだろうけど。
五十歩百歩とまではいかなくても、幾分マシレベルじゃないの?
不向きはともかく、甚だは言い過ぎじゃないのかな?
>>378 俺は平氏も藤原氏も同様に動員力はなかったという派だな
そもそも頼義の前九年の役は公的なものだし
陸奥守をやめる直前になって起きた騒動であるので、在地豪族と在庁官人の対立にまきこまれたと見るのが
説得力がある。かわりの文官受領が来たがしたがうものがおらず、逃げ帰り
結局、朝廷はこの戦を認めた。
となれば頼義が、相当な数の兵力が動員できて当たり前のところ、阿部氏にいいようにやられたのは
頼義というより、在地の安倍氏が勢力が圧倒的だったからだろう
朝廷とすれば、頼義がダメなら、坂東から別の将軍を派遣するところだが
頼義としては武門の名折れになることを恥じて、清原氏に援軍をもとめるかたちとなった。
対して、義家の場合は陸奥守であるものの、私戦とみなされたわけで
動員力が減じて当然。緒戦は安倍氏とのつながりがある家衡に与したことが幸い、勝ったが
清衡、家衡を同等にあつかったためまたもや内紛。
清衡側についたために在地の兵力がまったく借りられない状態で動員力が上がらず
相当な苦戦をしいられたと見ていい。それが戦後の無残さへと発展したのであろう
386 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 19:33:14.84
>>386 なにが、言いたいのか??
分からない・・
388 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 04:23:44.05
経基ヘタレヘタレて言われてるけど
種馬としては超優秀だよな。
389 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 13:12:51.84
390 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 13:16:56.51
391 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 18:06:52.88
酒呑童子や土蜘蛛や鵺を退治した摂津源氏が清和源氏の主流だな。
392 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 21:38:18.27
393 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 21:40:33.03
>>389 あんたは微妙
一番種馬として優秀なのは頼義
天皇の血を引きながら落ちぶれて都落ちしてきた平氏や源氏たちは
血統を欲しがる地方の土豪に歓迎されたんだよ
貴人を家に泊めて娘を夜伽に差し出せば生まれた子供は天皇の血統ということになる
この時代は母方一門と一緒に育つから種馬だけの功績ではない
396 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 18:53:00.52
397 :
日本@名無史さん:2012/01/13(金) 21:53:23.91
>>395 まあその通りだね。
大枠で同意する。
ただ、そこに神社とか祭祀とかのパラダイムを絡めると更に実相に近づくと思う。
>>397 有ったとしても、平家落人
源氏は、江戸の世まで氏族で、武士階級には、ちゃんと公務員だから給金出てただろうに・・
鎌倉以来の武家社会は、南北朝戦国時代を経て徳川に継承されて幕藩体制は、明治の世に継がれて、
華族として、貴族階級には、階級ごとの役職が与えられ、給金しはらわれてたろうにWW
今の皇族見たいな役割。
江戸の世の食み出した武家は、侍として、藩取り抱えに成ろうと、必死だった。
藩取り抱えとは、今の地方公務員や区役所職員な・・。
法人とかもあるね。
平銀見役とかの・・
侍は、明治の世では、食ってけ無くて、かつての藩士旧家に訪れては、あることないことな強請り集りで、生計をたててた、右翼や営業職のルーツなっ!
>>395らは
歴史を親から語り継がれていない戯けか、同和の子だろう・・お前ら・・。
:中でも,最も古い源氏の家柄、嵯峨源氏筋は、水軍を経て、江戸の世には、瀬戸を中心に海運業の廻船問屋になり、出島貿易を幕府に認可され、貿易で、莫大な富を得たのだよ。
幕府も、貿易荷上げ税で、幕府の下支えとしてきたのだよ。
平戸貿易を知らないとは・・
前御手洗経団連会長も、その海運で財閥化した家柄、
今も、大半の民間財閥は、瀬戸内で貿易により財閥化した財閥が大半。
古くからの財閥の多くが関西出身なのは、その為、三菱、住友、三井など・・
御手洗を始めとする経団連の出自は、大抵、水軍家系。
原発関連も、財閥企業連が占めている。
広島の造船や海軍が基礎も、村上水軍が土台に成ってる。
またキチガイが暴れてる
403 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 15:16:41.08
>>398 >落人
の話なんかに限定してないが。
古代末期〜中世にかけての一般論を話してる。
地方豪族は中央の血筋が欲しくて仕方がない。
その理由は、貴種の血族への憧れという単純な側面ももちろん有ったろうが、他にもより実利的な側面もあったんだよ。
また、古代〜中世の時代はまだまだ祭政一致の側面を有してたことも事実。
それぞれの地方豪族が奉じてきた祖霊神に加え、
一宮や総社などに代表される中央由来の神社が、そのまさに「実利的」な力を(祭祀面だけに特化された江戸期以降と違い)以て各地に君臨していた。
地方豪族は、それら中央由来の世俗的実力を有している神社勢力を味方につけるためにも、源平藤橘などに代表される中央貴種を婿に迎えることに躍起だったんだよ。
また中央貴種の側にも、自家の勢力拡大のために地方豪族を多く取り込みたいという願望ないしは欲求が有ったことは言うまでもない。
そうした意味で、
中央・地方の婿入り婚による一体化というのは双務条約そのものでるといってもいいんだよ。
404 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 16:40:10.82
>>398 おかしい奴だな。
平家落人の血が欲しい奴なんかいたのか?
勘違い甚だしいが、平家落人は平家の血をひいてないからな(平家家来の子孫)。
「落ちてくる」とは中央の高級官僚から地方の中流官僚に落ちることを言っている。l
無職の男に地方豪族たちが群がったって、どういうファンタジー?
とりあえず、河内源氏(頼信流)は経基流清和?源氏の庶流だった。
頼義は頼信の嫡子だった。義家は頼義の嫡子。
つまり義家は河内源氏の嫡流。
ってここまでは一応異論がないってことで良いのかな?
また頼朝が義朝の嫡子だったってのも一応異論はないんだろうな。
問題はその中間で、義家の後継者ってほんとに為義だったのか?
義朝は為義の嫡子だったのか?
のあたりは怪しげな部分があるような。
なんか義朝も別家を立てて、自分努力で力を蓄えコネを作り、
為義祖流嫡流の自滅もあり、結果的に主流になった。
そんな感じもあるなあ。
406 :
日本@名無史さん:2012/01/14(土) 20:11:16.18
為義は消去法的に後継者に選ばれたっぽいからな
義親息子の中で唯一母が違うことにより、京都に残留。祖父に育てられ、義家個人からの後継に
朝廷公認後継義忠は暗殺され、子は幼くかつ感情的に面白くない成り上がり平家の血を引くことで一族の支持微妙
他の一族有力者はそれぞれの理由で失脚中
京に残る有資格者は為義のみ
ってかんじで
嫡流庶流なんてあったかどうかも微妙。
あったとしても緩やかなものじゃないの?
総領家が庶家を総取りするって考え方はこのころあったのかな
摂関家領なんかはいろいろごたごたあったみたいだけど
為義は長男じゃないらしいけど、兄貴達はなにしてたんだ?
いくつ年長かはしらないけど、軍事行動の場合だと、
14歳と16歳でも天と地ほど違うと思うけど。
410 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 02:09:08.08
対馬某郎と名乗り、為義だけが名乗ってないから異母兄弟と言われ、対馬について行って縁座で失脚したっぽい(義親舅も失脚)
まあ為義が自滅してる間にそのうち一人が復活、為義抜かしたがな
>>404 少なくとも、家がそれかもな・・
勝った源氏側だが、平家筋の血筋の家に家の姉兄弟を嫁がせてる。
源氏と平氏は、源平経ても、個々個人の家同士では、娘を嫁がせあってる。
今でもね。
家の母方も、清和源氏で、やはり、平家に妹を嫁がせてた。
源氏と平氏は、親戚同士に成ると、安心感か、とても仲が良いですよ。
まぁ・・平氏と言っても、伊勢平氏の北條氏末流だけどね。
うちは藤原秀郷流なんですけど、源家に属して壇ノ浦まで行って戦い、平家を追い詰めてはいます、一応。
でもその後、頼朝から勘気を被ることがあって先祖は京都で討ち死にしてしまいます。
まあ本領は安堵されたんですけど。
治承寿永期前後の頃は、那須氏や岩城氏とよく婚姻結んでいますね。
家はその後もなんとか存続することは出来たんですけど、
その規模は先細りして行く一方で、戦国時代中後期には五千石程度の国人領主となっていました。
更に戦国末期になると戦で大敗を喫することがあってそこからも大幅に身代を減らし、
とうとう一千数百石の身代になってしまい、近隣の大大名の家臣となって、あとはそこの重臣として代を重ねて明治に至りました。
>>415 家本家なんだけど、本来の跡継ぎだった叔父さんが、養子に行ったのが、藤原秀郷流の平泉藤原末流の泉氏。
自動的に、弟のオヤジが、本家の跡継ぎ。
母方の、姉の叔母さんの旦那も、藤原氏の桜井氏が従兄弟に居る。
家の家柄については、どうも、オヤジの姉やオヤジの死んだ弟さんが詳しいようで、無学の親父に、色々とアドバイスしてたようだ。
俺たち子どもの名づけまでね。
祖父の代から、祖先の土地の近畿圏に戻り、祖母の家紋を譲り受け、今の家の家紋は、因果な五三の桐
あっ・・家、嵯峨源氏松浦氏分流。
松浦の波多氏と言うのが、太閤秀吉に取り潰しされたから、五三の桐は、因果な家紋。
それを言えば、松浦氏の源平時代も因果だ。
清盛の側近、安倍高俊氏であったが、死後、源氏松浦氏として、義経と結託し、壇ノ浦で勝利に導いた立役者。
その昔、源頼義と義家親子に、父や兄を鬼切安綱で首を撥ねられ、生き永らえた宗任は、義家に従い
宗像氏の配下となり、末代が、流れ流れ九州の松浦久の家に婿入りする経緯も因果。
>>419 ×清盛の側近、安倍高俊氏であったが、死後、源氏松浦氏として、義経と結託し、壇ノ浦で勝利に導いた立役者。
○清盛の側近、安倍高俊氏であったが、清盛死後、源氏松浦氏として、義経と結託し、壇ノ浦で勝利に導いた立役者。
鬼切安綱は、源綱の愛刀
つまり、松浦久のオヤジの愛刀
頼朝幼少期に清盛から逃走中に必死に隠し通した、鬼切安綱。
頼光所有の童子切安綱と綱所有の鬼切安綱は、大原安綱作刀で一対の為。
頼光と綱が仁明筋へ養子と成る際に、仁明筋の宝刀と成ってしまった。
河内源氏・・清和源氏へと渡り継がれた。
家の家系の因果率の高さは、日本史の特異点とも言える。
故に、明治天皇外祖母の旧姓:松浦愛子さまや同時期の代の松浦平吉さんが五代経て、秋篠宮紀子さまの曾曾お爺さんともあり、歴代の源平合戦、歴史大河ドラマから、史実の松浦(安倍)太郎高俊が一切、出てこない理由なのだろう。
琵琶法師の壇ノ浦の合戦の歌でしか、松浦(安倍)太郎高俊の名と活躍が語られない訳だ。
425 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 22:57:59.94
近代日本の辿った道も、同様だね。
一次世界大戦で勝利し、二次世界大戦で、滅ぼされかけても
天皇陛下も日本も再生し、この世界大恐慌にも耐えてる。
河内源氏と大和源氏、どうして差が付いたか?
どこも同じだけど、河内源氏の嫡流も、結果的に嫡流になっただけだし。
それをさかのぼらせて考えると変なことになる。
428 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 00:58:39.21
そうだよね。そもそも、長子相続の確立というのは徳川家光以降でしょう。
それに嫡流が家産を受け継ぐにしても、天皇家や摂関家のようにすでにトップにある家柄でなければ、
家産を継がなかった奴のほうが出世することもざらあるだろう。
頼朝が征夷大将軍になる前の源氏で誰が嫡流かなんて意味がない。河内の片田舎の家産を継承した本当の嫡流は別にいたんでしょ?
だから頼朝が天下取った後から、頼朝の家系が嫡流とされたにすぎない。
なんでも、三河の草深い山奥の本貫地には松平氏の本当の嫡流がそのまま存続していたらしいね。
だけど平野部に進出した分家のほうがどんどん栄えていったということらしい。
>>428 > なんでも、三河の草深い山奥の本貫地には松平氏の本当の嫡流がそのまま存続していたらしいね。
> だけど平野部に進出した分家のほうがどんどん栄えていったということらしい。
松平はもともと岩津城を本拠とした岩津松平が宗家だったが、伊勢宗瑞(北条早雲)指揮する
今川軍の三河遠征で滅ぼされ、この時今川軍を撤退させた松平長忠の安城松平が変わって
宗家の座についた。この安城松平が家康に続く。
いやだから戦国時代と違って
義朝、頼朝の時代以前には宗家だの嫡流だのといった観念はいまだ存在してなかったでしょ、
そんなのは頼朝が天下を取って以降に作った後付け理論でしょ、
ということを皆言っているんだよ。
>>430 頼朝は少なくとも、源義朝の在世時から彼の「嫡男」として扱われていたことは確かで、保元の乱後
義朝が武家源氏の棟梁の座にいたことも確かな以上、頼朝が武家源氏宗家嫡流、というのは事実でもあり
おかしなことではない。
ただそのポジションは実力の裏付けがなければ不安定、というだけの話で。
>義朝が武家源氏の棟梁
そもそも当時そんなものが存在していたのかってこと自体が疑問。
仮にそうだったとしても、平治の乱でご破算になっている。
武家源氏の棟梁というのはよく分からん。
大内守護を任ぜられる摂津源氏が武家源氏の棟梁ではないの?
434 :
日本@名無史さん:2012/01/21(土) 19:55:08.94
流れと関係ないけど、朝長と義平ってなんであんなに差を付けられてたんだ?
母方の血筋にさほど差が有るとも思えないんだけど。
頼朝の母方は確かに一線を画しているけど、
その割には頼朝と朝長ってそこまでの差ではないようにも見える。
その点どうなんですか?
源義平の母は諸説あるが遊女説もあり、長男でありながら
母親の身分が格段に低かったらしい。
朝長は義平よりは出世しているが、やはり異母弟で嫡子の
頼朝には及んでいない。
436 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 16:21:29.89
>>431 その義朝(流)が源氏嫡流ってのが、鎌倉殿を正当化するために後になってからつくられた創作なんだよ。
その証拠に武田も佐竹も新田もそんなのは一笑に付してる。
437 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:55:20.06
義平→遊女or三浦氏(在庁官人)
朝長→波多野氏(京武者&官位持ち)
頼朝etc→熱田神宮家(院近臣)
範頼→遊女
義経etc→土地長者(庶民)
経基から続く源氏嫡流というより「英雄」義家の正統なる後継者という方が強そうだ
いや、
ていうか、源氏、平氏自体が構成の歴史上創作で
資料、
論拠
証拠
物象
そして政治学上は、源氏、平氏なんてのはただの地方官吏、ないしチンピラ傭兵
程度でしかない。天皇から与えられた名前を捨てれないとかいう、キチガイじみた官僚。
事実上歴史定義、されにイデオロギー、そして勢力は事実上ほぼ12世紀中に大半死んだ。
そもそも、あの枕草紙に代表されるように、あれ自体がそもそも膨大な創作資料で
誰が痕跡あって、誰が資料で誰が戦ったか。
事実単位の資料≠ナはない。
そして事実単位の資料、証拠。それらしき根拠だと、事実上
勢力はほぼ12世紀のうちにあらかた滅んだんだよ。
あれ坂東武士があらかためっさつした(報復とも征伐とも征討ともいう)
まぁ、それから50年しないで坂東武士の50パーセント。
300年で坂東武士の95パーセントはしょりゅう除いて滅んでしまうんだが。まぁしょりゅうは栄えた。
地名にもなった。
そもそも
・源氏と平氏があって ←源氏も平氏も存在しない。天皇子分の 官吏
勢力としての源氏、平氏は存在しなく、むしろ後世の創作要素でかすぎ
・主流は事実上消滅。ただし平家を除いて、勢力でかいのは存在しない。
そして平家は滅ぼした。
・頼朝伝説自体が、事実上資料などから確認される証拠がなく、ほぼ後世というか
当時期レベルからの空想がでかすぎ。妄想。
そもそも最初からまったく有力でもなければ勢力でもなく。祭り上げたとほぼいえる要素が大きい。
・事実上源家といわれる勢力作る前に、殺した。というか歴史上こいつほど多数暗殺説が残るやつもいない。
当時から暗殺といわれる。
またその後、主流そして、支えグループも全員殺した。末裔までも暗殺する時点。
そして速やかに連続で殺したから、ほぼ暗殺だといわれる。
・また後世の源家作成、は空作である。14世紀以降いったん鎌倉が滅んで、類する勢力(当時を知る当時権力者)
また鎌倉そのものが滅んで、後退してしまうため、
当時を知らない。当時鎌倉近隣にも、坂東にもまして、関東にすら住んでないものが歴史を変えた。
だから空作。
というか、資料、根拠もなしに、かなりきめつけて、一元的で意味もわからない。類輪、空想にすぎない、
源家説持ち出す辞典で空想だろ。
そもそも
勢力としては、事実上ずっと、源家、平家は同じ。
それほど、地脈関係はかなり近い。そしてそれが分裂状態になるのは、
速くて1050〜1100年。事実上分裂というか平家台頭が1150年相当以降。
ほぼ同じ勢力。
そして
将門公の敵の末裔が
源平家で、天皇の犬で
天皇の名前(平)を捨てて、自分の名前、土地の名前?を名乗りだして、独自勢力になったのが、
坂東武士、将門公の末裔。
そもそも後世武士という勢力、集団はその平を捨てた、というか大和から独立勢力になった。
坂東武士のことをいう。
そもそも
確かに空作の尾ひれはついたが、義経すら資料レベルでは存在しないのでは?といわれていいくらいの人物なのに。
そもそも
事実上の
坂東武士、坂東対大和
になった、ちしょう、かへいとかいわれる戦い。 ないし奥州合戦まで含んだ戦闘は、
完全に坂東武士が主流になっている。
金、力、数
最大的に勢力的には
坂東武士がしょりゅう数万以上。(最大的には20万以上)
農民、民間含む領域人口100万以上。
経済規模、開発ほかでは事実上単独大和以上。
武士団は事実上ほぼ、いとこ、はとこの関係であり、半同盟。
で大勢力で、逆に、いわゆる領地、領域、一族的にこれに匹敵する勢力規模は事実上当時いないんだよね。
そして対する源なんかは そもそも捕虜の長男?かなんかで、いとこ、はとこ、それから類する数は数えられるくらいしかいない。
せいぜい10〜20人くらいしかしりあいほかが出てこない。
そしてその勢力の人口、地域、規模、数それらは、直接領じゃないのを含めても、
坂東の5分の1以下の非常に小さな規模。
そして
源は、せいぜい高い服、馬くらいを持つ。個人資本しかもたないブルジョワ(といってもるしゅう)
事実上最初から利用されたし、勢力としても事実上一切イニシアチブでてこないんだよね。
歴史的にも、空想の中でもなにかやったというのがない。
坂東武士はフルで動いてんだけど、そして北条(当時)よりも何もやってないんだぞ。
で勢力作る前に事実上つぶされた。
また、関連する人物は(なすたかよいち、弁慶ほか)ほぼ大半が空作とされるよね。
組織理論、力関係で絶対イニシアチブ握れない。
そして、後世事実上主流は消えて、しょりゅうはすでに平氏、源を名乗らなくなった。
その天皇の名の源平をなのらなくなって、 民間、土地の名前を名乗ってしまうこと。
これが事実上イデオロギーとしての源平の消滅なんだよね。
源平合戦?源平なんか最初から空作、空想。さいしょから最後まで空想しかなし。
そして在地ネームを名乗ってそして自分の国、自国統治っていう在地主義が
初期の武士団に近いんだよ。アイデンティティ的に、足利とか今川とかが在地ネームを名乗ってしまう時点
でそれは源平の放棄になる。
そもそも現平空作は細大に
当時を知らない民間、足利の権威づけ(空想)、酸欠の権威作成、江戸庶民の妄想
で生まれた空想なんだよ。
なんだこの朝鮮学校卒なみの低学力な書き込みは?
あ庄屋さまだw
知的に弱い同和か在日の子?
更に、コピペ連投ぽいし・・
ただの荒しじゃん。
源氏平氏は、各時代の天皇の皇氏なのは史実なのに・・。
必死の矮小とか・・キモス
20年近く前かなあ、あまり聞かない出版社で、聞いたことのない人の書いた文庫本。
題名から歴史考証の本と見て手にとってみた。
前半、って言うか2/3くらいは確かに時代劇の考証関係。
だけど後ろの方は、真実の日本史とかで。
日本の史書は、中国のを参考にでっち上げた偽書で、
桓武天皇は金春秋だとか、書いたのは菅原道真で、その前身は菅野真道だとか、
源氏が新羅系で平氏が百済系だったか、反対だったかも?
確かペルシャがどうとかともあったような。
うろ覚えだけど、そんなのを思い出した。
野口実著「武門源氏の血脈」を読んでいますか?
野口センセ、最近は同じ内容の繰り返しばかり・・・
故宮崎市定翁は、清和源氏説と陽成源氏説の両方があるようでは、どっちも怪しい。
河内源氏は馬の骨じゃないのかって意見のようだった。
今時宮崎市定出されてもさあ…
452 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 17:15:12.06
義朝の為義処刑ってのは当時は重要な倫理違反ではなかったのかね?
後藤基清も息子に殺されてるが
朝幕ともにいくら謀反人とはいえ親を処刑させるのは儒学的倫理から考えたら大問題と思うが
日本の儒教は所詮お題目だしねえ。
「大義親を滅す」とか都合によって使い分けたんでしょう。
日本人お得意の便宜主義、結局の所借り物だし。
454 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 19:24:35.76
お上☛神
親父☛尊父
神に逆らったら処刑は仕方ない。
他人に殺されるよりは同族に殺されたほうが名誉。
必ず介錯人は身内がやる。
455 :
日本@名無史さん:2012/02/10(金) 02:53:53.14
関西で河内と言う地名はダサイくて下品なイメージだと言うのを知っておいた方がよい。
河内モンはガラがわるい。
じゃあ摂津や和泉は上品で格好良いのか?
>>457 和泉もがらがわるい。京阪神の概念に河内と和泉を入れないでほしい。大阪じゃないんだから。
河内、和泉、摂津、見事に水回りばっかり
水関連だと近江も仲間か。
後は遠いけど駿河、遠江
>>459 河内、摂津とか言ってぇ・・源氏狙い撃ちじゃんW
水関連とか空々しい・・水軍・廻船問屋の事じゃんっ!
水関連=水軍=海賊寄港地だから、柄悪いのは当然だわなぁ・・
お上品なジャックスパロウって、タダのコメディーじゃん・・。
河内と聞くと、どうしても反射的に「河内のオッサンの唄」を思い出す。
そんな自分はとっくにおじさん。
歌詞とかメロディとか覚えてないけどさ。
464 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 01:13:09.81
摂津は神戸阪神間及び大阪北摂辺りで関西では富裕層の多いセレブな所
河内や泉州とは人種が違うw
趣旨から外れるけど浪速ってのは?
わてかて浪速のアキンドや。東京には負けへんでえ。
摂津は名称自体が港湾事務局だよな。
津=港を、摂する=管理する、だもんな。
って言うか、元は摂津職=港湾事務局が便宜上周辺地域も管理してたのが、
後に普通の国になって、名前がそのままだったってやつだから。
ついでに河内も一時河内職だったことがあるし、
和泉は本来は和泉監だった。
監は、地方官庁って言うより中央の小官庁っぽい。
>>467 だろうね。
姓名が由来なら、摂津は、渡辺って事に成るもんね。
>>467 ただ・・和泉は、平泉と関係してるよね。
河内源氏は清和源氏の嫡流
>>471 嵯峨も清和も源氏嫡流筋が馬の骨や渡来チョン呼ばわりされて、何かの陰謀が働いてるのじゃないのかね?
両家とも、関西居残りだったから、分流の嫌がらせとか・・平氏や百済渡来の家系の風評で蹴落とそうと、何百年も陰湿に・・
反論すると、在日呼ばわりだしね。
特に、会津もんが悪い風評を言ってる気がして仕方ない・・。
関西人嫌悪が酷いからね。
清和源氏全体の嫡流なんてのは存在しない。
あえて言うなら陽成天皇の流れだから、陽成源氏が清和源氏の嫡流というわけのわからないことに。
それで陽成源氏を詐称しようとした名残のじゃないのか例の文書は。
所謂清和源氏(経基流の)の嫡流なら存在しうるわけだが。
さて、河内源氏がその嫡流と言い切ってしまって良いのか?
発祥時点では摂津源氏の庶流だったことはほぼ間違いないようだ。
鎌倉幕府の源氏三代の期間と、室町幕府存続期間限定なら、
その間は嫡流と言いうるかもしれない。
それ以外の期間のほとんどは、嫡流など存在しなかった。
そう考える方が当時の実態に近いのではないだろうか。
徳川は、あれは当時でも信じてはいないのでは?
一応公式にはなってるから入れるべきかもしれないが、う〜ん?
いかにも文弱でひ弱な、傀儡っぽい清和天皇より、
枠に収まりきれないエネルギーに満ちあふれた陽成天皇の方が、
武士の祖としてふさわしいかもね。
清和天皇-貞純親王-六孫王・経基王は、継系實元平親王男始而賜姓源朝臣?
清和天皇-陽成天皇-元平親王-六孫王・経基王は、貞純親王継系?
六孫王・経基王-多田新発意満仲-源頼光・頼親・頼信・頼平・頼範
多田氏は源経基嫡子満仲に出づ。
満仲が摂津國河邉郡多田院(現 兵庫県川西市多田)を貫して氏と為す。
満仲長男頼光の子頼國が彼地に下向し一族繁榮す。
源頼光-多田頼國-頼綱-仲政-頼政-大河内氏・下間氏・大田氏
【清和源氏頼光流】
源満仲の長子、頼光にはじまる清和源氏諸流の正嫡の流れである。 摂津国多田荘に本拠を置いたことから摂津源氏、多田源氏とも称する。 ほかに摂津国太田荘、越後国小国保などにも支流が広がる。 (頼光流分流略系)
頼光流の中で永く続いたのは美濃国土岐郡を本領とした国房の流れで、美濃源氏、土岐源氏とも称する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004.htm 源頼信-源伊豫入道頼義-八幡太郎頼義-源義親-源為義-源義朝-源義平・朝長・頼朝・希義・範頼・全成・義円・義経
源頼信-源伊豫入道頼義-賀茂二郎義綱
源頼信-源伊豫入道頼義-新羅三郎義光-佐竹、逸見、武田氏等武門一流の祖。・・河内五郎義長
-八幡太郎頼義-源義親・義國-新田義重・足利義康
修正。
清和天皇-貞純親王-六孫王・経基王は、継系實元平親王男始而賜姓源朝臣?
清和天皇-陽成天皇-元平親王-六孫王・経基王は、貞純親王継系?
六孫王・経基王-多田新発意満仲-源頼光・頼親・頼信・頼平・頼範
多田氏は源経基嫡子満仲に出づ。
満仲が摂津國河邉郡多田院(現 兵庫県川西市多田)を貫して氏と為す。
満仲長男頼光の子頼國が彼地に下向し一族繁榮す。
源頼光-多田頼國-頼綱-仲政-頼政-大河内氏・下間氏・太田氏
【清和源氏頼光流】
源満仲の長子、頼光にはじまる清和源氏諸流の正嫡の流れである。
摂津国多田荘に本拠を置いたことから摂津源氏、多田源氏とも称する。
ほかに摂津国太田荘、越後国小国保などにも支流が広がる。 (頼光流分流略系)
頼光流の中で永く続いたのは美濃国土岐郡を本領とした国房の流れで、美濃源氏、土岐源氏とも称する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004.htm 源頼信-源伊豫入道頼義-八幡太郎頼義-源義親-源為義-源義朝-源義平・朝長・頼朝・希義・範頼・全成・義円・義経
源頼信-源伊豫入道頼義-賀茂二郎義綱
源頼信-源伊豫入道頼義-新羅三郎義光-佐竹、逸見、武田氏等武門一流の祖。・・河内五郎義長
-八幡太郎頼義-源義親・義國-新田義重・足利義康
>>478 ↑
ココに、紫式部の作った、光源氏の全てが記されている。
籍を移した綱の数代上に、源光が居たので、題名を光源氏とした。
しかし、本来のルーツは、源融であり、融こそが、最初の源氏だったからである。
綱の祖の融の話と仁明の源光をごっちゃにしてしまったのが事の始まり。
綱の時代と紫式部、藤原道長の時代は、同時期ですね。
足利直冬の倭寇朝鮮出兵の際、この大河内氏に従い松浦氏の島谷氏が、松浦党と、佐世保漁民を束ねたのが最初の倭寇の実態。
徳川家康の父が、この大河内氏出身だったと言われている。
必死に直リン貼りまくって嵯峨源氏や渡辺綱や松浦氏の話を振ってくるのはなんなの?
スレ違いだってこともわからないお馬鹿さんですか?
大河内氏の家康の祖父の家の家紋が、三つ葉葵の門に成っている事の謂れに、家康の父親とされている事とされている。
>>481 ん?
家康の真のルーツが、この件で、不明瞭になり、家の家系まで不明瞭にされてるからだが?何か?
後の、島津氏右腕とされる島谷氏が、小笠原探検の件で、徳川幕府の勅命下されてる濃厚な関係を見れば、明らかなのですがね。
>>482修正。
大河内氏の家紋が、三つ葉葵の家門に成っているのは、家康のルーツ・・祖父が大河内氏だったとされているからである。
南朝に就いて倭寇朝鮮攻めをした足利直冬とその家臣、大河内氏と従った松浦氏一門は、数百年間、朝鮮外交を尊重の為、北朝勢の言いように、疎んじられてきたのだよ。
嵯峨源氏嫡流の渡辺氏の弟筋の松浦氏と清和源氏嫡流筋源頼光の多田氏の大河内氏はね・・。
ゆえに、家康は、出自を偽り、新田世良田としたのだよ。
それが真実だ。
俺も10年間ネットでルーツの僅かな、確かな情報の点と線を結んで行って、やっと、ココまで、辿り着いたのだよ。
親や親族ですら幼少期より、伏せてきた話だからね。
ネットの世だからこそ、分かり得た話。
逆に言うと、ネットの世だから、最早、隠し切れないし、偽りの風評の息の根も止められるからねっ!!
北朝ざまぁっ!
490 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:33:38.65
晒しage
491 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:38:50.10
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は軍功により、源頼朝から陸奥国信夫郡の地頭職を与えられている
492 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 00:39:22.98
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
>>483よっ!
明治の南朝天皇時代を経た、未だに、朝鮮寄りの北朝勢の戯言・風評を唱えてる事自体が、オカルト紛いなのだと知れ・・。
>>493 水軍筋を倭寇海賊だの言う朝鮮被害者の会面した、北朝のオカルト勢は、化石なのだよ。
あっそうそう・・北朝勢の清和分流や藤原公家流、高句麗・百済人渡来の連中は、韓流を東京から垂れ流しは、いい加減やめろよなっ!
一介の流人で孤児だった頼朝の下に坂東武者がこぞって馳せ参じたのは
義朝→頼朝の流れが源氏の嫡流だったから。
>>477 修正してたのに・・眠くて、気がつかなかったわW
八幡太郎義家
499 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 12:34:03.69
>>497 そういう考えこそ、「源氏神話」に囚われてるんじゃないか?
500 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:18:01.97
坂東武者など、ただのパシリ
頼義義家の時代に奥州での合戦を通して坂東武者との強固な主従関係を築きあげ、
源家累代の家人を自任する武士を関東の野に簇生させた。かれらは平家全盛の時代には雌伏し
ていたが、頼朝が挙兵すると呼応して挙兵し、御家人制に基づく鎌倉幕府を創った。
平家の敗因は王朝国家の機構に頼り、地方武士道の間に強固な主従関係を築かなかったこと。
>>501 大陸的な志向だったんだろうね。
朝貢君子に尽くす思想。
百済崇拝だったからね。
だから、足元も観ず海外貿易とか、意識が他所に行ってたんだね。
清盛が死んだ途端、足を掬われた・・側近に・・
側近の忠誠は、清盛にだけだったと言う事。
清盛が死ねば、義経に厚く誘われれば、そらぁ源氏に戻るわな・・
503 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 20:42:36.55
>>497 清和源氏嫡流ってぇ・・どう観たら、正嫡流なんだ?
馬の骨が馬の骨だったと言うオチで良いかぁ?
馬の骨の分流清和源氏為義流が嫡流筋を馬の骨と呼び、現代では、チョン呼ばわりするお粗末な嫡流源氏信仰だね。
もうねぇ・・北朝勢自体の捏造思考そのものが、チョンそのものなんだよね。
510 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 22:04:30.80
坂東武者、パシリやん
というよりも頼朝が坂東平氏に担がれた神輿
北条政子は、我が子でも、敵対する血を受け継ぐゆえに毒殺する鬼・夜叉だったとね・・
頼朝は、使い捨てにされたのだね。
義経を使い捨てるよう命じたのも、政子だろうしね。
源氏が血肉の争いが好きなのではなく
この、エイリアン的百済人・百済信仰・血が新羅由来の倭人を殺させてるのだろうね。
正に、百済信者政子は、黄喫に落ちたイザナギだね。
平氏出身者は、百済絡みの渡来説で和人だの、日ユ同祖とか言うなよ。
政子な思想家と疑うぞ。
平氏が滅んだのは、蘇我入鹿の徹を学ばなかったからだろうね。
大彦3男筋の武内宿禰の裔、蘇我氏は、代々、百済人の女を娶ったばかりに、在日扱いされた挙句に、入鹿が暗殺された。
百済人は、虎視眈々となのは、これを見れば分かる・・。
古代吉備地方に居た、百済の王子と称する温羅「うら」
百済の第3王子筋を称する、多々良豪族の多々良氏の大内氏。
百済王敬福 百済王 敬福 (くだらのこにきし の きょうふ く、文武天皇 元年( 697年) -天平神護 2年6月28 日(766年8月8日 ))は
奈良時代 の貴族。摂津 亮・百済王郎虞 の三男。 官位は従三位 ・刑部 卿。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元 年)、陸奥守 在任時に 陸奥国 小田郡から 黄金が
発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂 の 乱や藤原仲麻呂 の乱の鎮圧にも功績があった。
-Wikipedia
恵美氏って人も居るね。
藤原仲麻呂(仲麿)=恵美押勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82 吉備真備との戦い破れ、自ら、恵美氏と改名。
藤原南家の祖である左大臣の父・藤原武智麻呂の次男。
母:阿倍貞媛 - 阿倍貞吉または阿倍真虎の娘、阿倍御主人の孫
安倍氏は、大彦嫡流筋。
桓武天皇の母:高野氏の百済王族
高野氏が皇族に入ってからの源氏平氏の時代の清和源氏が、奥州安倍氏を滅亡させた。
四道将軍筆頭の吉備氏側に就いて、桃太郎時代の恨みを永いスパンで晴らして入ってるのが分かる。
百済族の恨みを晴らしてってるのが行く様子が分かね。
今の、在日が日本に留まる思考も、これだとすると、かなり、腹を食い破るエイリアンを飼う事になるね。
カッコウと言う鳥の生き方様が似てる。
522 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 08:16:12.57
坂東武者、パシリですやん
523 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 09:46:40.75
河内もそうだが、「河内源氏の嫡流」新田氏の群馬も中々らしいな。
嫡流は足利氏です
525 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 12:12:38.14
足利の本拠は下野
新田の本拠は上野
両氏とも河内との関わりはないだろ
526 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 21:16:17.66
坂東武者、パシリですやん
源家累代の家人
河内源氏を語る
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1296386336/477 477 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 22:27:21.82
清和天皇-貞純親王-六孫王・経基王は、継系實元平親王男始而賜姓源朝臣?
清和天皇-陽成天皇-元平親王-六孫王・経基王は、貞純親王継系?
六孫王・経基王-多田新発意満仲-源頼光・頼親・頼信・頼平・頼範
多田氏は源経基嫡子満仲に出づ。
満仲が摂津國河邉郡多田院(現 兵庫県川西市多田)を貫して氏と為す。
満仲長男頼光の子頼國が彼地に下向し一族繁榮す。
源頼光-多田頼國-頼綱-仲政-頼政-大河内氏・下間氏・太田氏
【清和源氏頼光流】
源満仲の長子、頼光にはじまる清和源氏諸流の正嫡の流れである。
摂津国多田荘に本拠を置いたことから摂津源氏、多田源氏とも称する。
ほかに摂津国太田荘、越後国小国保などにも支流が広がる。 (頼光流分流略系)
頼光流の中で永く続いたのは美濃国土岐郡を本領とした国房の流れで、美濃源氏、土岐源氏とも称する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004.htm 源頼信-源伊豫入道頼義-八幡太郎義家−源義親-源為義-源義朝-源義平・朝長・頼朝・希義・範頼・全成・義円・義経
源頼信-源伊豫入道頼義-賀茂二郎義綱
源頼信-源伊豫入道頼義-新羅三郎義光-佐竹、逸見、武田氏等武門一流の祖。・・河内五郎義長
-八幡太郎義家-源義親・義國-新田義重・足利義康
八幡太郎義家は武士の中の武士、軍神。
530 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 10:32:40.46
対をなすのが軍神・平将門
清和源氏の嫡流は河内源氏
河内源氏の嫡流は頼信ー頼義ー義家
義家流の嫡流は義親ー為義ー義朝ー頼朝ー頼家ー実朝
実朝で源氏嫡流は絶えた。
>>529 野心家のオヤジと違って、安倍氏に好意的だったと、大河ドラマ「炎立つ」では、成ってたね。
安倍氏の人間は、皆、美形揃いだと・・
その美形が、光源氏の血脈と一緒に成って、松浦氏族と成った。
俺がそうだ。
w
義家お気に入りの奥州安倍氏
系譜では、義家に安倍氏の女系が入ってたがその末裔は居るのかね?
ドラマを真に受けてるってw
「奥州安達原」を見ればわかるように八幡太郎は勇武と慈悲を兼ね備えた名将。武人の鑑。
537 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 19:03:32.86
後世に義家が英雄化・神格化されていき、
それと実際の義家像とは遠い隔たりがあることは、今や学会での定説になっているのに、それをガン無視して学問板で戦前の国定教科書モドキの書き込みを繰り返してる奴は一体何なの?
まあ愉快犯がネタでやってるんだろうけど。
538 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 20:27:32.71
>義家流の嫡流は義親ー為義ー義朝ー頼朝ー頼家ー実朝
>実朝で源氏嫡流は絶えた。
そのあと、義家三男・義国流の新田と足利が嫡流争い。
539 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 12:37:33.59
>>531 皇室典範の如くいくと、実朝のあとは
頼朝の弟範頼の系譜つまり吉見氏
540 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 15:44:11.89
河内源氏っていうくくりなら、義家の嫡男、源義忠→河内経国の河内氏、稲沢氏が嫡流っていうことになるよね。
ところがどっこい、御家人として残った義家流の足利に支持が集まりました
直系
543 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 23:40:48.49
「河内源氏」ってのはあくまでも河内を本拠とする源氏のこと
為義はよく知らないが、義朝、頼朝は河内を本拠としてはおらず
「河内源氏」と同様に呼ぶならば「相模源氏」とか「武蔵源氏」とかになるはず
河内源氏=義家流ではない
544 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 00:00:50.04
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
>>543 そうだね。
嵯峨源氏の融流源氏の綱は、嵯峨から摂津、渡辺で河内へと以降してるしね。
綱は箕田源氏
箕田抜かしてたね・・
嵯峨源氏の融流源氏の綱の家は、親の嵯峨から綱が箕田、渡辺氏で摂津・・河内へと以降してるしね。
>>547訂正・・細かく書くとややこしいぞぉ・・
嵯峨源氏の融流源氏の綱の家は、曽祖父の仕からの嵯峨から綱の親の宛からの箕田、渡辺氏で摂津・・河内へと以降してるしね。
渡辺から、全国に波及してくから、書ききれんのであしからず。
松浦氏は、嵯峨源氏のままだから、見様によっては、久の嫡流に見えるね。
渡辺氏の渡辺党も久の子筋だけど、系譜だけでは、どちらが嫡流か分からんね。
松浦視点では、源綱は、松浦綱だしね。
久の松浦党と所領受け継いでるのは、松浦氏で、親類の融筋の蒲池氏も松浦党に集ってるから、
母方の摂津に移籍した渡辺氏は、分流の辿る末路だよね・・普通?
渡辺氏が嫡流って聞いてたけど・・
安倍氏の呼ばわり避ける為のに、あくまで、本流の融筋で居たいが為とか?
東北での繁栄は、安倍氏を売り込んでそうだねW
ダブルスタンダードって奴かな・・
本来、源氏は、東北では、嫌われてるから、あんなに繁栄してるのは、安倍氏を自称しないとあそこまで、東北の人たちに信頼されんよね。
都の渡辺氏は、北朝方の公家衆には、松浦党とは、無縁みたいな事言って来たみたいだけどね・・。
明治以降のこのご時勢でも、裏で聞こえて来るよね。
毛利の家臣にもいたな、本物か知らんが
出自が怪しいって言えば、近世の南部って本当に河内源氏傍流?
河内源氏の傍流に南部を名乗った家はまあ有るんだろうけど、
それと戦国大名の南部氏って本当に関係有るの?
まるきり無関係だとか、縁はあるけど直系じゃないとかってことはない?
まあさすがに松前の武田出自よりは信憑性高いんだろうけど。
大名の系図何か全部嘘っぱちだ。ほんものの系図は庄屋だけだ。
八幡太郎義家は勇武と仁慈を兼ね備え、風雅の道にも通じた名将。武人の鑑。軍神。
>>553 義光流だろ
武田の傍流で、鎌倉が奥州平定後に入部した口のひとつ
558 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 23:19:15.31
頼義・義家はただの大量殺人者。
「同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」
甲斐源氏が繁栄した義光流は義家流と比べてやっぱり格落ち?
結局天下を取ったのは義家流のみなので後付ナノかもしれないが征夷大将軍は源氏のみと言う俗説も
源氏の中に多田系はもちろんの事、甲斐源氏も含まれていないと感じるのは俺だけか?
河内のおっさん
上の方で源義家は大した事ないとか言っている人いるけど
ならば平氏中心の坂東の大豪族と源氏の棟梁は何が違うのだろうか?
>>561 坂東の豪族は、土着
源氏は、中央と直結
楠木正成は河内源氏
源義家は山口組組長で坂東平氏は弘道会
「…楠正成の出自については、さまざまな説が出され、商業活動に従事した隊商集団の頭目という面が強調されている。一方、楠という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから、土着の勢力という通念に疑問が出され始めている。
『吾妻鏡』には、楠氏が玉井・忍・岡部・滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士であった可能性が高い。
武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂津・河内・和泉など北条氏の守護国に移住していた。河内の観心寺や天河など正成の活動拠点は、いづれも得宗領であったところであり、正成は本来得宗被官として河内に移住してきたものとおもわれる
(海津一朗著『楠正成と悪党』)。
566 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 04:29:11.16
新羅三郎源義光というのは、新羅の国の人間で三男の源一族の義光のことだよね。
だから新羅義光ともいうよね。
>>566 義光は、新羅神社で元服の儀式をおこなったんだよ。
義家は八幡神社で八幡太郎、
義綱は賀茂神社で賀茂次郎と呼ばれる。
これ、常識な。
キチにマジレスとかww
569 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 11:59:45.40
なんで新羅神社で元服したの?
>>569 先祖代々に由来する神社名を名乗るのが流行だったからね。
この由来する家柄とは、清和だったら、天皇家代々だろうが・・
八幡太郎義家らは、清和正嫡流の頼光筋出なく、分流氏族と言う点が味噌。
そもそも、分流は、最下層武士からなので、独り立ちしなくては成らず、母親の父k家柄を祖として身を寄せるので
ルーツが、母系なので、多様なルーツを求められるわけだ。
後は、婿入りや養子などの政略的な姻戚関係で祖が代わるなどである。
>>570文修正。
先祖代々に由来する神社名を名乗るのが流行だったからね。
この由来する家柄とは、清和だったら、天皇家代々だろうが・・
八幡太郎義家らは、清和正嫡流の頼光筋でなく、弟、次兄分流氏族と言う点が味噌。
そもそも、分流は、最下層武士からなので、独り立ちしなくては成らず、母親の父の家柄を祖として身を寄せるので
ルーツが、母系なので、多様なルーツを求められるわけだ。
後は、婿入りや養子などの政略的な姻戚関係で祖が代わるなどである。
ヒント:義家ら三兄弟は同母兄弟
新羅神社で元服したといっても、新羅人だなどといったら笑われるぞ。
神社の創建当時、奈良時代前期には周辺に新羅人がいたかもしれんが。
平安末期には、新羅という国は存在しないし。
574 :
日本@名無史さん:2012/03/17(土) 21:12:20.60
つまりキチさんが暴れてるってことですね
575 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 01:17:07.21
摂津源氏が嫡流
そんじゃあ・・そのキチ同士の話に茶々入れんなよW
嫌いなんだから、ほっとけっ!WW
577 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 14:40:00.35
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
578 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 14:43:38.17
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(足利一族、幕府執事、守護職)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(足利一族、管領家、守護職)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条一族(足利被官、守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋一族(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
579 :
日本@名無史さん:2012/03/18(日) 19:31:17.05
>>579 みんながきちんと出典を提示してくる内容の濃いスレだったよね。
581 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 12:25:51.25
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
582 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 12:27:38.93
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川一族(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条一族(足利被官、守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋一族(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
上総や千葉みたいな大き目の坂東の豪族と義家死後の源氏棟梁、どっちが経済的に恵まれていたんだろ?
誇張にしても頼朝挙兵時に二万人で馳せ参じた上総なんかかなりの大名クラスだと思うが・・・
戦国時代や近世でも二万人動員できる大名なんかほとんどいない。
584 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 20:23:32.42
在日キモイ
>>583 二万人ってのは、ちょっとした棟梁モドキだよね。
近隣諸国から仲間をあつめて動員したらしいが。
587 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:51:54.83
>>579 将門の母が犬養氏なのは有名だが、
源満仲も犬養から源に改姓した可能性ありか。
588 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 18:47:35.67
相変わらず、つまらない話をしているな
お前の話にレスが付かないだろ
589 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 05:32:24.31
590 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 09:26:08.72
「秦」と断じていいものかどうかはともかく、
源氏でないことはほぼ確実?
>>590 とっ言う事は・・正等な生粋の源氏とは、融流嵯峨源氏と言う事だね。
昔から言われてること
593 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:16:42.41
前のスレ(源義平スレ)では、九州の大蔵氏が源氏に偽装しようとして失敗した例が挙げられていたが、
満仲が経基の養子になったのなら
源氏を称しても非難はされない(されにくい)のでは。
>>593 嵯峨源氏渡辺氏に姻戚した、安倍氏の渡辺・松浦党みたいなもんだな。
安倍氏は,孝元天皇の皇子筋だから、皇統筋に違いはしないがね・・。
596 :
日本@名無史さん:2012/03/27(火) 23:13:52.07
嵯峨源氏と清和源氏を比べて正統云々いってる人ってバカなの?
はいはい、源氏信者さん
便所の落書き観て、トイレで絶叫は・・
松浦信者もトイレでわめき続けていますね
書いてる方だしW
まぁメクソハナクソだなw
源高明一点買い
醍醐源氏は擦れ違い
>>593 >満仲が経基の養子になった
満仲には、満政、満快という弟がいたが、こいつらも全部養子なのか?
本当の子供はどうなったのか?
>>603 なるほど・・
満州人だから、満仲なのかぁ・・
605 :
日本@名無史さん:2012/04/02(月) 19:29:48.38
義朝、義平、頼朝は、河内とは、そんなに関係ないからな〜
むしろ義朝〜実朝の4代は、鎌倉源氏に称呼変えた方が良いかも。
だったら相模源氏でしょ
607 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 11:33:30.24
>>571 >八幡太郎義家らは、清和正嫡流の頼光筋でなく・・・・・・
頼光流が嫡流って、誰が言っておるのかね?そもそも父系相伝の確立して
おらぬ平安期10世紀に、父系嫡流・庶流という区別があったのかね?
後の建武動乱期の足利氏のような宗家・庶家の区別を、10世紀に当てはめて
どうするのかね。
同時代の桓武平氏貞盛流子孫の動静を見ても、そんな概念はない。
608 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 22:23:07.91
河内源氏が嫡流でないとしつこく言う厨房は前々から歴史板に粘着しているよ。
まあ、それはかまわないが頼朝、頼家を河内源氏何代目とかって言うのは違和感あるな。
おいらは為義以降から違和感を覚えるな
為義は河内の領地を相続できなかったらしいな。
それじゃ、どこの領地を相続したの?
613 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 00:40:35.45
>>610-612 一応為義は、義忠後継を自任していたらしい。
>>612 >為義は河内の領地を相続できなかったらしいな。
源氏棟梁として畿内で頑張っていた為義なのに河内に領地が無いとは張り合い無いなw
為義は安房国に領地を持っていたから、
案外、為義自身が、関東への入植を考えていたのかもしれない、祖父の頼義も鎌倉に館を構えていた。
為義は、部下が畿内で殺人や押領を繰り返し、その所為で朝廷で散々怒られたので、宮仕に嫌気が差していたとか?
でも年だし検非違使の仕事もあるし、仕方ないので代わりに義朝を房総半島に送り込んだ。
流石の為義も、この決定が、孫の頼朝が鎌倉殿に成上がる事にまでに繋がるとは思わなかっただろう。
山田邦和が、義朝の保元の乱時の全く見当違いの行動を見てパッパラパー扱いしているけど、
流石にそれは言い過ぎだと思う、義朝は、三浦氏・上総氏の後押しもあったが、20代で南関東
をほぼ制圧している事を見ても馬鹿ではないだろ。ただ関東育ちであった為に田舎モノに育って
しまい都での機敏な行動やロビー活動には長けていなかった、と言う事ではないのだろうか?
長男の鎌倉悪源太義平にも同じ事が言える。親子で下手に上京しない方が出世出来たタイプだろうな。
その所為か頼朝は、上総広常の要請を聞いて鎌倉を起点とする勢力拡大策を目指し成功した。
それはさておき…
義朝、義平、頼朝、頼家、実朝の5代には“鎌倉源氏”と言う新しい称呼が欲しい。
河内源氏なんて全く実態や土着性を反映していない称呼だと思う。
頼義を“鎌倉源氏”に入れるかどうかが問題になるけど。
614 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 01:55:44.46
>>606 >だったら相模源氏でしょ
いや、違う。
義朝は、「上総御曹司」と呼ばれた時期があり、安西氏・千葉氏・上総氏の
連携の下に安房・上総・下総三ヶ国の房総半島全域に勢力があり特に上総氏の後見があった。
その後に義朝は、頼義以来の鎌倉の亀谷(扇ヶ谷)に居を移し三浦氏・大庭氏
波多野氏の後見を受けて相模を勢力圏に納める。この様に義朝の段階で既に勢力圏は
相模だけでなく房総半島全域も含まれている。
さらに義平の代になると都へ戻った義朝に代わりその地盤を受け継いだ義平は父以来
の勢力圏である房総半島との陸上交通路上の結節点を切り開く為に本拠地である鎌倉
より北上を目論み、叔父・源義賢と秩父重隆の勢力が上野、武蔵の武士団を糾合して
南へ勢力を伸ばそうとする動きを見せるなど、両者は武蔵国で衝突する事になる。
有名な大蔵合戦である。この戦に義平は勝利し武蔵へも勢力を拡大し“鎌倉悪源太”
のあだ名を名付けられる。
この様に義平の勢力圏や活動範囲は、相模、武蔵、安房、上総、下総の5カ国に
またがるほど広域化拡大化しており、とても相模だけの源氏武士団とは言えない
レベルの大勢力である。
こうなると義朝流の源氏武士団は、義平の代で相模源氏と言うよりは南関東源氏とも
言えるほどの広域武士団化しており、もはや相模一国で収まる様な武士団では無く
なっていたと考えられる。
故に相模源氏の称呼は不自然であり、むしろ義朝流源氏武士団の勢力を矮小化する恐れすらある。
615 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 02:10:27.25
義朝流源氏武士団は、勢力圏だけを見れば、南関東源氏とも称する事が出来る。
しかし、それでは余りにも漠然とした地域を示すだけである。
その為、義朝流源氏武士団は、棟梁の本拠地とした鎌倉の名を取り「鎌倉源氏」とした方が良いと思う。
義平は大蔵合戦勝利後に“鎌倉悪源太” と称され、頼朝、頼家、実朝の3代は正式に“鎌倉殿”である。
この様な経緯から、義朝流源氏武士団には「鎌倉源氏」の名がもっとも適当である。
616 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 10:11:33.23
鎌倉氏と関係あるのか?
617 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 14:59:12.37
義朝流源氏武士団に加わっている。
平良文の子孫とされる村岡忠通(平忠通)の孫の景通、景村、景成の3人がいる、
この内、景成の息子の権五郎景正の代に鎌倉氏は大きく発展を遂げることとなる。
景正は源義家に従軍して後三年の役にて勇名をとどろかせ、
戦後には多数の浮浪人を集めて相模国高座郡南部の一帯を開墾して大庭御厨を成立させた。
景通の息子の景久が鎌倉郡梶原郷にて梶原氏を称した。
景村の系統では、孫の景宗が大庭御厨に因んで大庭氏を称し、景弘は鎌倉郡長尾郷にて長尾氏を称した。
その鎌倉氏が、源頼信に鎌倉の居館を献上したのが、
源氏が関東に根を張るキッカケだとか、なんとか?
619 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 17:39:49.77
平直方は鎌倉氏の縁者か?
直方の母親が鎌倉氏とか。
620 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 18:12:02.23
源頼信の息子の頼義でしょう。
平忠常の討伐に失敗した平直方の娘を娶った頼義は、鎌倉の大蔵にあった直方の屋敷を譲り受けた。
以後その屋敷付近が鎌倉源氏(義朝、義平、頼朝、頼家、実朝)の東国支配の拠点となる。
頼朝が、伊豆北条氏に接近したのは、頼義が直方流と縁があった為でしょうね。
北条時政の家は三代前には貞盛流嫡流だったのに、忠盛清盛親子の台頭で失脚し、
伊豆の北条郷に没落した経緯があった。時政は鎌倉源氏棟梁との縁を復活させる事
で他の伊豆の武士や在庁官人を上回る政治的地位を回復させようとした。
だが貞盛流嫡流時代の記憶が残る時政には、伊豆・関東への固執が薄く、強烈な京都志向があるのに対し、
義時には、その貞盛流嫡流意識や京都志向が希薄で、関東における御家人や幕権強化の立場を堅持した。
621 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 18:30:45.14
鎌倉氏(鎌倉党)が、相武国造家である漆部氏と言う説は、まだ確証が取れていません。
村岡忠通(平忠通)の系図が混乱している為ですが、漆部氏はもうこの時点で武士ではなく、
寒川神社などの社家に転進しているはず。
622 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 19:34:49.40
丸子公景とかいたね。
623 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 21:01:44.43
鎌倉氏は鎌倉別だろう
624 :
日本@名無史さん:2012/04/09(月) 21:06:58.79
出雲臣氏族・漆部氏ならむしろ三浦氏の方がその血を濃く受けていると思われる
>>619 勢力圏から言ってその可能性はありでしょうね。
>>622氏の述べる通り丸子氏から招婿されたのが直方流平氏、
更に以前は鎌倉別に招婿されたのが丸子氏でしょう。
626 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 00:58:15.70
義家は、鎌倉の源氏館を全然使っていないのかね?
もったいないな〜
京に気を取られていたのだろうか?
後三年の役でもう一回関東の武士を動員するのだから鎌倉に拠点あった方が良さげだか…
627 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 01:01:14.69
>>625 丸子氏に良文の子孫、さらにその後に直方の父が婿入りしたということ?
628 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 02:17:31.87
>>627 スレ違い。
渡辺党(河内源氏)と鎌倉源氏の話しは?
629 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 04:03:26.11
>>319の指摘は、中々鋭いと思った。
義家は、ロビイストでもあるんだろうね。
摂関家の代理人的な存在でも有る訳だしね。
でも院政が始まり、院庁に直接繋がった貞盛流嫡流の忠盛・清盛親子の台頭で
河内源氏の立場は、ガタガタに。で、逆転を図る為に為義は、安房にも為義の
領地があるし、頼義時代に拠点を置いていた鎌倉の近くなどにも義朝を入植さ
せたと。
それが鎌倉源氏の始まり。
つまり河内源氏は、貞盛流嫡流の台頭への対応策として頼義時代に縁のある
南関東に源氏を入植させたという事になる訳だ。それが鎌倉幕府に繋がる決定だった。
630 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 10:12:02.36
>>628 河内ではないが、
スレ違いとも思えない。
>>629 河内源氏がガタガタになったのは院政云々ではなく
一族同士での争いの結果でしょ
>>631 義家の勢力が強大化するのを嫌った白河院の陰謀でしょう。
633 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 19:26:19.02
>>631 その前に、後三年役での義家の失態が落日の契機になってるね。
>>632 院や摂関家による陰謀説など今や誰も唱えていない。
>>633 院が源氏を警戒していた、武士と対立していたという説自体が衰退したもんな。
635 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 21:57:00.09
義家への荘園の寄付は禁止してますね、院は。
それと摂関家弱体化の政策も行っているのでは?
藤原北家のからの嫁さんには手を出さずに皇太子を生ませない、新規の荘園禁止とか。
摂関家が弱体化したので自動的に河内源氏も弱体化したと思います。
そこで逆転を狙った為義の対策が、義朝の南関東への入植だと思います。
義朝・義平親子の活躍があり、南関東を網羅する「鎌倉源氏」が成立します。
これが後の鎌倉幕府に繋がる主従関係になるのだと思います。
義朝・義平親子の活躍で、「鎌倉源氏」となり鎌倉幕府に繋がる訳ですが、出来れば
もっと早くに義家の段階で関東での主従関係拡大を目指すべきではなかったのか?と言う事です。
折角、父の頼義が平直方から鎌倉の館を譲り受けたのですから、義家自身や彼の子供を
鎌倉の館に常駐させて関東での主従関係構築をもっと早くから図るべきではなかったのか?と言う事です。
関東という京から離れた地方で主従関係を構築する事で院や摂関家との複雑な関係から逃れ、
ある意味朝廷から独立する形の政治勢力を目指す事は、義家の段階では速すぎるのかもしれませんが…
あんまり、それをやり過ぎると平将門になっちゃいますが、京での義家以降のダメさ加減を見ると
やはり源氏は京や畿内に居ても、あんまり出世に繋がらないのかな〜?とも思えます。
>>628 渡辺党は武蔵の箕田源氏の末流
系譜上は・・・。
637 :
日本@名無史さん:2012/04/10(火) 22:14:27.25
>>631 >一族同士での争いの結果でしょ
一族内訌も確かに河内源氏弱体化の要因ですが、
忠盛・清盛への対抗策を巡って河内源氏は内紛を起こす訳で
やはり伊勢平家(貞盛流平氏)には、既に差を付けられていたのは事実。
638 :
日本@名無史さん:2012/04/11(水) 01:34:40.88
>>635 > 義家への荘園の寄付は禁止してますね、院は
当時従四位の諸大夫階層に過ぎなかった義家が、天皇家や院や摂関家や伊勢神宮や東大寺や興福寺などと並ぶ荘園の最上位被寄進者、つまり権門であったかどうかには大いに疑問があります。
というか、結論から言って有り得ないと思います。
義家への荘園「寄進」停止令が出された寛治五(1091)年は、後三年合戦が終わって3年後のことですが、この時期の義家は未だ謹慎中の身分です。
陸奥守義家は、清原氏の内紛に過ぎない私戦を反国衙闘争ということにして、それを鎮圧し更なる勲功を得ようと目論んだのですが、朝廷に見事に見破られ、陸奥守を解任されました。
義家は、この戦で官符(国の許可)を得ないまま、官物として国に納めなければならない奥州の砂金を戦費に使い込んでいました(つまり公金横領)。
つまり義家は、国司の最も重大な責務である納税を怠り、しかも無用の戦乱をも招くという国に仕える者としての背任罪を犯したことになるのです。
当然、義家は受領功過定(勤務評定)に不可を付けられ、以後10年間に渡って受領職にも任官されませんでした。
639 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 03:45:18.95
>以後10年間に渡って受領職にも任官されませんでした。
義家は10年間も律令制からはぶられて居たのなら、京や畿内には用は無いはず。
サッサと鎌倉の源氏館に引っ越して、義家の代から源氏は、関東入植を果すべき
だったと思う。そうすれば、義家-義忠親子二代で関東全体を鎌倉源氏で押える事は可能だっただろう。
同じ時期に奥州では藤原清衡が奥州で勢力を伸ばし始めており、それに対する対抗処置とも朝廷に説明できる。
律令制度打倒の動きは当初桓武平氏が行っていた。関東への入植開墾や将門や忠常の乱など、
朝廷から距離を置く動きは当初平氏の方が行っていた、しかし伊勢平氏は、律令制に順応し
朝廷内部での勢力拡大策に乗り出す。
対する源氏は、畿内からはある意味逃げ出し関東での主従関係構築が基礎となり、朝廷以外の
制度を構築する事に成功する。当初は鎌倉幕府も朝廷とは敵対する関係には無かったが、鎌倉殿
の成立とその下部行政組織の整備とその後の幕府と朝廷の軍事的衝突により朝廷支配を終らせ
日本は中国式の律令制度から離脱し日本文化圏を本格的に構築し始める事になる。
この様に為義による義朝の関東入植は、孫の代で鎌倉幕府の成立という事態にまで進んでおり、
日本を律令制から中世の封建制に進歩させる重要な一歩を記する事になっている。
日本は律令制度を脱した事で名実共に中国文化圏から独立し、独自の日本文化圏を成立させた。
既に平安時代から国風文化が花開いてはいたが、政治制度としては律令制が続いていた。
それを鎌倉源氏の政治行動が、最終的に打倒に導き進歩的な中世封建制を生み出したのである。
鎌倉源氏こそが、最終的に中国文化圏から独立させ日本の歴史を進歩させた最重要な政治勢力である。
伊勢平氏の政治は、そこまでの進歩性と新規制を持ち合わせては居なかった。
李氏朝鮮なんて20世紀にもなって律令制にしがみつく馬鹿な事をしている。
鎌倉源氏>>>>>>>>来れられない壁>>>>>>>>>>李氏朝鮮と言う事だろう。
>>639 義朝の関東下向は、
為義に関東で入植という意図があったんだろうか?
単に、義朝を廃嫡し、義賢を嫡男にするため、いわば義朝の追放の意味だったような気がしてならない。
その為義の意図とはべつに、
東国武士たちは、自分たちが共同してかつぐ神輿を求めていて、義朝がそれにはまった。
上総、三浦、波多野らの行動はそれを証明しているのではないだろうか?
641 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 12:24:25.42
>>639 朝廷からの政治的独立が、なぜいきなり中国からの文化的独立に結びつくんだ?
むしろ、今までは朝廷のわずかな人数によって保有されていた中国からの文化が
中世には幅広い階層に広まったと考える方が正しいと思う。
日本の「律令制」なんて大宝律令施行からたった1世紀を経た9世紀初頭には既に実質崩壊してるからね。
元々日本の風土には適合しない制度だったから。
その崩壊の流れの中に寛平延喜東国の乱があり、承平南海賊の跳梁があり、
そして、その集大成として起こったのが将門、純友の乱。
643 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 18:39:37.58
>単に、義朝を廃嫡し、義賢を嫡男にするため、いわば義朝の追放の意味だったような気がしてならない。
一応、平直方由来の頼義の鎌倉源氏館があるからね。
それと関東は、奥羽侵攻の為の兵站基地でもあった、故に関東に入植させたのでしょう。
義朝の南関東入植が、もし義朝の追放の意味だったら、
保元や平治の乱の時に義朝-義平や頼朝が、京に戻る必要はない。
為義らが畿内で敗北し、平氏の遠征軍が関東に向かって来た時点で
関東の武士団を義朝-義平や頼朝らが、糾合し甲斐源氏と一緒に富士川で平氏軍を迎え撃てばよい。
義朝-義平や頼朝は、京に居ない方が、もっと早く朝廷支配の終焉と鎌倉幕府の成立がなっていたかもな。
>中国からの文化的独立に結びつくんだ?
文化的独立なんていってないだろ!
よく読めよ馬鹿。
平安時代には、既に国風文化が花開いている。
平安貴族は、中国文化なんて少数保有してないぞ、シナポチ!
日本は独自の文化圏を平安時代に形成しつつあった。
それがとうとう平氏政権打倒と言う形で、政治面で具現化したのが源平合戦であり鎌倉幕府。
これで名実共に日本は、シナ文化圏から独立し独自の文化圏を形成する事になった。
644 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 18:49:17.70
これで名実共に日本は、シナ勢力圏から独立し独自の日本文明圏を形成する事になった。←○
これで名実共に日本は、シナ文化圏から独立し独自の文化圏を形成する事になった。←×
重慶市書記のボー嫌いが失脚、英国人殺害事件の摘発もあり、
北京では、瀋陽軍区のボー嫌いシンパの軍人グループが、紫禁城に立て籠もる事件を起こしたらしい。
シナ人は、相変わらずだな
共産主義はともかく、一党独裁と律令制は似ているから、案外シナの独裁制は連中にお似合いなのかもw
>>640 いっそ、
京都での居場所を失い出世の道を絶たれた義朝が、
地方に土着して起死回生を図る(武士から豪族への転化?)ために関東に下向し、鎌倉に拠点を作った
ぐらいでいいような気がするな。
ところが、たまたま京都で復権の機会を得たから台頭しただけで。
>>643 >義朝の南関東入植が、もし義朝の追放の意味だったら、
>元や平治の乱の時に義朝-義平や頼朝が、京に戻る必要はない。
もちろん、義朝が京都へ戻ってくることは、追放したときの為義は想定していなかったのでしょう。
>ところが、たまたま京都で復権の機会を得たから台頭しただけで。
義朝は、たまたま復権の機会を得たというよりも、鳥羽院に寄進することによって、出世のつてにする路線ですよ。
狙ってやってることです。
おやじの為義の主人である摂関家と敵対する鳥羽院に接近し、
おやじよりも出世することで、おやじを見返したい。
殺したいとまでは思ってなかっただろうが、廃嫡と追放への復讐でもあると思います。
647 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 15:42:18.22
義朝の意図としては
>義朝は、たまたま復権の機会を得たというよりも、鳥羽院に寄進することによって、出世のつてにする路線ですよ。
>狙ってやってることです。
であっても、為義視点からは
>ところが、たまたま京都で復権の機会を得たから台頭しただけ
だったかもしれん、って程度なので、645の表現は軽く流してくれ。
為義の意図は実際のところどうだったんだろうなあ。
今となっては確認不可能だけど。
648 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 17:27:13.58
平将明の乱とも言われているらしいw
この議員も桓武平氏? TPPも郵政民営化も止めろよ!
【野党】 自民党、造反者の中川秀直・菅義偉・小泉進次郎と
退席した平将明の4人に注意 欠席した塩崎恭久らは対象外
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1334253082/ 1 :うしうしタイフーンφ ★:2012/04/13(金) 02:51:22.37 ID:???0
★自民、造反者処分せず 注意どまり、結束優先
自民党の谷垣禎一総裁は12日午後の記者会見で、郵政民営化法改正案に反対した
中川秀直元幹事長らへの対応を口頭での厳重注意にとどめ、党規律規約に基づく
処分はしない考えを示した。現行の郵政民営化法に反対した約60人を除名や離党勧告などの
処分にした2005年に比べ格段に軽い措置で、「小泉改革」をめぐる党内対立の再燃を避ける狙いがある。
谷垣氏は「政権を追い詰めていく大事な局面で、結束を図っていかなければならない。
この問題は打ち止めにしたい」と強調した。
大島理森副総裁が12日午後、衆院本会議採決で反対に回った中川氏、菅義偉元総務相、
小泉進次郎青年局長と、退席した平将明衆院議員の4人に注意した。
「体調不良」などを理由に欠席した塩崎恭久元官房長官らは対象外とした。
自民党は党規律規約で、規律を乱す行為や党議に背く行為などをした場合の処分を規定。
重い順に(1)除名(2)離党勧告(3)党員資格停止―などを定めている。
05年の郵政民営化法採決をめぐっては、執行部が野呂田芳成元農相らを除名、
野田聖子元郵政相らを離党勧告処分とした。
中国新聞
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201204130059.html
清和源氏の嫡流は河内源氏。河内源氏の嫡流は義家流。
これ常識な。
あんま関係ないけど
頼光流で一番繁栄したのって土岐氏?
>>649 嫡流というシステムが武家源氏でも確立されたのは鎌倉幕府成立前後のことだろ。
>>651 一介の流人だった頼朝の挙兵に坂東武者が応じて鎌倉幕府樹立の
つながったのは頼朝が清和源氏の嫡流だったから。
あのときに挙兵したミコシ状の武士が何人いたか知ってんのかよ。
木曾義仲をはじめとする何人もが挙兵して相争ったのは、彼らいずれもが、程度の差はあれ、似た程度の正統さを有していたからだろ。
頼朝がいちばん嫡流と信じられていたから勝ち残れたのか?
一介の流人で孤児だった頼朝の挙兵に坂東武者が挙って馳せ参じたのは
頼朝が武家の棟梁義朝の嫡子で清和源氏の嫡流を受け継ぐ貴種だったから。
清和源氏の嫡流は、頼光〜頼政のラインだろうな。
頼朝は、義家の子孫で、義朝の息子っていうブランドはたしかにあっただろう。
坂東武士の間に、かつて義家・義朝にしたがってまとまった記憶が残っており、
平家の支配に不満があり、
反平家で蜂起するため共通の神輿が求められていたところへ、
以仁親王の令旨という、大義名分まで付いてきた(w
656 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 12:06:12.92
嫡流だ傍流だってのが
後世の幻想。
657 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 13:00:26.99
何度そう指摘しても蒸し返されるんだよね
保元物語や平治物語が書かれた頃には、
嫡流が論じられているが。
源家嫡流に伝えられる鎧とか刀の話が出てくる。
だからそれらが書かれた鎌倉前期に嫡流とかいう観念が固定化したという……
頼光〜頼政のラインなんか京武者でとても嫡流といえる状態じゃ無かっただろう。
頼光と頼政が少し有名になっただけで頼信〜頼義〜義家〜為義〜義朝〜頼朝と綺羅星のごとく武門の棟梁を出した系統と
比べたら月とすっぽんw
>>654 その時点では、義仲も同様だよな。
立場も状況も。
>>660 少なくとも平治の乱以前では、
源氏の嫡流はかならず京武者だったはずだが...
京武者じゃなくなった時点で傍流他者との間に主導権争いが生じてるだろ。
天皇家に三種の神器、
摂関家に朱器台盤があるように、
源氏平氏にも嫡流を示すアイテムがあった。
平氏のは知らん。
源氏のは、源太の産着(鎧)と、髭切り丸(刀)。
664 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 23:15:39.11
うちの某藩では
里見氏や石橋氏や柴田氏よりも
後から仕官してきた多田氏のすこぶる多くが上級武士になってた
源三位頼政の末裔らしい
665 :
日本@名無史さん:2012/04/15(日) 23:18:38.26
清和源氏嫡流は夛田氏でしょ。
戦国を生き抜いてきて、仕官する直近の身分が反映したのだろう。はるか遠くの祖先などあまり関係ない。
>>663 そもそも、髭切り丸(刀)鬼切安綱は、嵯峨源氏、融流源氏の渡辺綱の愛刀。
清和なら、頼光流の童子切安綱の筈なのにネ・・。
童子切安綱の代わりにするなら、蜘蛛切にしないと変。
>>663 >平氏のは知らん。
平氏のは、小烏丸太刀
>>667訂正。
調べたら
童子切安綱と蜘蛛切は同一の刀だった。
>>667のは、
>>663 そもそも、髭切り丸(刀)鬼切安綱は、嵯峨源氏、融流源氏の渡辺綱の愛刀。
要は、清和なら、頼光流の童子切安綱の筈なのにネ・・。と言うことです。
奥州安倍氏に伝わる刀でググったら、こんなの出て来た。
古代の謎
homepage3.nifty.com/araebisu/a/kodai/nazo.htm
山腹・山麓には金属鍛冶にかかわる地名が多く残っている。
「舞草刀」 日本刀の祖型といわれる実戦型の反りのある刀で、源義家ら武士団・京都の近衛兵 などに「奥州刀」として愛用されたといわれている。
安倍氏・清原氏・奥州藤原氏の時代からつくられていた ...
舞草刀と刀剣 - 奥羽*温故知新 - Yahoo!ブログ
blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/23910965.html
この山から産出する良質の鉄鉱石を鍛えて作刀された舞草刀は日本刀の祖として奥州の覇者安倍氏並びに奥州平泉藤原氏 ...
やがて蕨手刀から少しでも自由自在に攻撃出来るように軽くし、手に伝わる衝撃を柔らげるようにと、蕨手刀の柄の ...
671 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 04:20:07.89
>>653 >頼朝がいちばん嫡流と信じられていたから勝ち残れたのか?
鎌倉源氏である義朝-義平親子と主従関係を結んでいた武士が南関東に多く存在した事で
頼朝が、彼らから支持を得るのは、比較的楽だった。特に相模平氏と房総平氏は、早い
段階から頼朝を担いでの蜂起に賛同している。
義朝の代で相模と房総を押さえ、義平の代で大蔵合戦に勝利し、新田氏の娘と結婚した事で
鎌倉源氏も武蔵や北関東への足がかりがつかめた。義平は上京せず畿内政局と無関係に関東
での勢力拡大策を継続すべきだった。関東を鎌倉悪源太義平が押えてしまえば、義朝が畿内
で負けて殺されたとしても平氏は何も出来ないだろう。木曾義仲や越後城氏が平清盛の命で
義平打倒を目的として関東に進撃しても義平で関東武士がまとまってしまえば、義平打倒は
厳しいだろうし。甲斐源氏は清盛から命令があっても義平側に付きそうだし。
>>669 髭切り丸は、前九年・後三年で、毛深い地元兵の首を切った刀
鬼切安綱は、羅生門で、渡辺綱が茨木童子の腕を切った刀
別物ではないでしょうか?
太刀 銘安綱 名物 童子切安綱 文化遺産オンライン
東京国立博物館所蔵の童子切安綱の作刀名の綱の字と
最上義光歴史館-最上家伝来の宝刀「鬼切丸」の謎 !
最上義光歴史館の北野天満宮所蔵の鬼切安綱の画像の作刀名の綱の字とが告示してますね。
よーく観ると、安の字も浮き出て来て、似てます。
紛れもなく、「鬼切丸」=鬼切安綱でしょうね。
>>675訂正。
太刀 銘安綱(名物童子切安綱) - e国宝
東京国立博物館所蔵の童子切安綱の作刀名の綱の字と
最上義光歴史館-最上家伝来の宝刀「鬼切丸」の謎 !
最上義光歴史館の北野天満宮所蔵の鬼切安綱の画像の作刀名の綱の字とが告示してますね。
よーく観ると、安の字も浮き出て来て、似てます。
紛れもなく、「鬼切丸」=鬼切安綱でしょうね。
>>677 >>673 鬼切安綱 - 名刀幻想辞典
http://meitou.gob.jp/index.php/%E9%AC%BC%E5%88%87%E5%AE%89%E7%B6%B1 鬼切安綱(おにきりやすつな)
大原安綱の作。
現存しており、「太刀 銘 國綱(号鬼切)」で重文指定。
北野天満宮所蔵。
作刀
?多田源氏の棟梁である源満仲が刀匠大原安綱に打たせた双剣のひと振り。
?双剣のもう一方は天下五剣のひとつで国宝の名物童子切安綱。
由来
?頼光四天王のひとり、渡辺綱の手によって一条戻橋の鬼の腕を落としたことから、「鬼切」の名で呼ばれることになったという。
?それによれば、渡辺綱が一条戻橋の上で一人の美女に出会い、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれる。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。
?すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行こうとしたため、綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。実は、女は茨城童子であり、酒呑童子の配下の鬼が化けた姿であったという。
?その切り落とした腕を摂津国渡辺の屋敷に置いていたが、綱の義母に化けた鬼が言葉巧みに腕を取り返して空へと消えたとされる。
?このときに使ったのは「髭切りの太刀」であったともいう。
来歴
?頼光から八幡太郎義家、のち新羅三郎義光を経て、何らかの由来で新田家に伝わった。
?南北朝騒乱の折、新田義貞がこの鬼切安綱を鬼丸国綱とともに佩いて奮戦したという。
鬼丸国綱との混同
?北野天満宮所蔵のこの鬼切安綱は、大原安綱の作だが現在は銘が改変されており、「國綱」と切り直されている。鬼切"丸"国綱。
?北野天満宮によれば、「鬼切と号する太刀で、当初「安綱」と刻銘してあったが、後代に安の字に字画を加えて「國綱」にしたと伝えられる。源氏の重宝として最上家に伝来し、のち有志者より当宮へ奉納された。」という。
?このため、国綱作の鬼丸国綱と混同される場合がある。
?”鬼切丸国綱”の由来については、下記サイト参照のこと
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=38707 髭切りとの関係
?二振りの片方「髭切り」は、この逸話により「鬼切り」と呼ばれることになる。
?また、多田神社には「源家宝刀鬼切丸」とされる刀が収蔵されている。
多田神社には「源家宝刀鬼切丸」とされる刀が収蔵されている。
と・・
最上義光歴史館-最上家伝来の宝刀「鬼切丸」が別物と言いたいのでしょう?
多田神社には「源家宝刀鬼切丸」とされる刀が収蔵の画像がネットにアップして無いので
作刀名観てみないと何とも・・
多田神社には「源家宝刀鬼切丸」は、放送中のアニメ、緋色の欠片の玉依姫の巫女さんたちが守って、撮影も出来ないとか・・W
683 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 19:54:08.74
またガイキチが暴れてる
>>679 >「髭切り」は、この逸話により「鬼切り」と呼ばれることになる。
鬼切りは安綱作。頼光の逸話により命名
髭切りは文寿作。義家の逸話により命名
義家は頼光の弟の孫だから、前後関係により、髭切りが鬼切りと改名されるわけがない
685 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 21:19:08.67
義平が棟梁になったら、頼朝はどういうポジションかな。
>>683 お前、スマホ以前の携帯だろう。
暴れるも、何も、読まずにレスされてるようだからのをサイトコピペレスってるだけだぞ。
>>687訂正。
>読まずにレスされてるようだからサイトのをコピペレスってるだけだぞ。
689 :
日本@名無史さん:2012/04/16(月) 22:31:39.89
>>686 尊氏と直義みたいになりそうだから、
頼朝は京都にいて朝廷を監視したり
官僚を鎌倉に送り込んだりする役目に専念した方がいいな。
>>684 アーッ
文寿って・・作刀者の名前捏造しようとしてんのん・・アンタ・・
気が付かなかった・・・怖いな・・
文寿って、何者かも言わずに・・何それ・・
刀身の柄部分に安綱・改名国綱の最上の鬼切丸と、もう一振りの童子切安綱は、双剣だと誰もが知ってる話を・・
アンタ・・何のつもり何だ?
アンタは、両方の刀共
>>677で、文寿って書いてたよね・・
何で、俺が
>>679で、サイトコピペをレスった後に、鬼切の方の髭切りの注釈して訂正するとも述べずに
前文改変してんのーん・・やばいよアンタ・・
あっぶねェェェェ・・
童子切安綱・鬼切安綱は
大原安綱作刀ですカラァァァァァ
>>691 >刀身の柄部分に安綱・改名国綱の最上の鬼切丸と、もう一振りの童子切安綱は、双剣だと誰もが知ってる話を・・
の書き方もあれだから訂正。
鬼切丸と、もう一振りの童子切安綱は、双剣だと誰もが知ってる話を・・
・・で、俺が言いたかったのは・・
恐らく、頼朝の幼少期、父の義朝から鬼切りを預かり、清盛の追ってから逃れて、刀工鍛冶屋宅に身を隠してる際に
鍛冶屋に手渡して、見つからないように隠すよう依頼し、鍛冶屋が安綱の文字を打ち直して国綱と改銘したと推察してると言いたかった。
・・で
多田神社には「源家宝刀鬼切丸」とされる刀が収蔵されている。
のと・・
最上義光歴史館-最上家伝来の宝刀「鬼切丸」どちらか本物か・・
多田神社には「源家宝刀鬼切丸」とされる刀が収蔵の画像がネットにアップして無いので
作刀名観てみないと何とも言えませんヨネと言いたかった・・だけ。
>>684 調べたが、あちこちの掲示板で言ってる髭切文寿って
双剣は、作刀者が別で、髭切が文寿といわれだしてる・・。
髭切も鬼切も同一。
義家から為義、義朝に渡った時に、別物にすり替わった可能性だよね・・
獅子ノ子、友切が鬼切安綱と言うような感じになってんだろう・・。
とっ言うことは
多田神社には「源家宝刀鬼切丸」とされる刀が収蔵されているのが
刀身の柄部分に、文寿と打たれている可能性大だと言いたいんだろう・・?
多田神社には「源家宝刀鬼切丸」とされる刀が収蔵されているのが
刀身の柄部分に、文寿と打たれている可能性大と言うのが正しいレスだね。
多田氏の頼光流がね正嫡流の家だからね。
綱嫡流の渡辺氏には、鬼切が受け継がれた記録が無いので、多田氏の頼光流が手放さなかった可能性大。
義家から義朝代で、レプリカを造って、安綱と打ち、双剣とした可能性があるのだね。
最上のは、そのレプリカだと・・
なるほど・・
三種の神器の草薙の剣も後に、無くして、レプリカだから、可能性大だね。
鬼切文寿を実際に写真でもアップされないと、どうにも、信じがたい話ですね。
大体、分かって来た・・
今の歴史家は、脇差しと言う言葉を知らずに、刀と脇差しの解説交えてるから、誰も、脇差しって語らないし分かりにくいんだね。
脇差しも刃の短い刀だから、表現に困るのかね・・
渡辺綱の愛刀 髭切文寿。
脇差しが 鬼切安綱。
鬼切と誤認されてる鬼丸国綱が、粟田口国綱の作刀。
源頼光の愛刀 童子切安綱
脇差しが 蜘蛛切丸。
義家「膝丸」(膝切)が、→為義「吼丸」→熊野別当→義経「薄緑」→消失。
渡辺綱の髭切と義家の膝切が、文寿の作刀。
童子切と鬼切が、大原安綱の作刀。
膝丸文寿と鬼丸国綱は、脇差しでは無い。
蜘蛛切丸の作刀と行方が知れないね。
あれ・・
鬼切安綱って、、一番長いぞ・・もうW
これだと、髭切が脇差しに・・
でも、脇差しの長さじゃないしぃ・・
渡辺綱が長身だったのか・・
脇差しを持っていなかったのか、知名度無く、無名とかか・・?
謎だな・・。
寝る。
705 :
日本@名無史さん:2012/04/17(火) 14:50:56.42
>>689 義平が平治の乱に参加しなければ、関東でそのまま鎌倉源氏の棟梁だろう。
平清盛が平治の乱に勝利して畿内を制し、その後清盛は、関東の鎌倉源氏を
制圧する為に奥州藤原氏の藤原秀衡を鎮守府将軍に任命し奥州勢3万を関東に
南下進撃させる。越後城氏勢1万もほぼ同時に北関東に侵入する。
北関東の藤姓足利氏と佐竹氏は、義平を裏切り奥州勢と合流する。
でも義平は、武蔵を含む南関東全域で5万の軍勢を動員し甲斐源氏と組んで
奥州勢や越後城氏を撃退しそうだな。史実でも城助長は木曽義仲に大敗している。
上総氏だけでも2万人動員できるし、下手をすると義平勢は北関東の藤姓足利氏と
佐竹氏を制圧、その後に南奥州に侵入し東北で第二次奥州合戦になりかねないw
義朝死亡の報が届いた段階でかなりの勢力が義平を見限ると思うが
707 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 10:20:28.40
それはないな、義朝が関東から離れてかなりの年月になっているし、
義平は単に義朝の主従関係を引継いでいるだけでなく、
大蔵合戦で独自の戦闘や北関東への勢力拡大策を講じ始めている。
もう義朝あっての義平とは言えなくなり始めている。特に大蔵合戦の勝利は大きい。
それに、なんで頼朝は、何十年後の源平合戦の時に、ほとんど戦いもせず南関東を制圧出来たのよ?
対山木戦は、勝ったけど大庭+伊東連合軍には大敗して、ホウホウの体で房総半島に逃げ出したんだぞ。
武士の棟梁としての重要な条件のひとつか朝廷への影響力である以上、義平の目はない。
んだ。
しかも母の素性が怪しいから母系氏族による朝廷への後押しも期待できない。
坂東武者が頼義・義家以来河内源氏に忠誠を誓っていたなんていうのも、頼朝の時に作った神話。
忠誠を誓わせた方も誓った方もあと付けでこさえた話を「そういうことにしておこう」と無理矢理思い込むことにしただけ。
710 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:14:42.45
義朝、義平親子には、そんなモノ、始めからネーだろw
源氏全体が、平氏に圧倒されている時代に関東を勢力圏に納めたんだから、朝廷へのコネは大して関係ない。
711 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 14:15:31.80
義朝、義平親子には、そんなモノ、始めからネーだろw
源氏全体が、平氏に圧倒されている時代に関東を勢力圏に納めたんだから、朝廷へのコネは大して関係ない。
本当に義朝、義平は関東を勢力圏におさめていたのか?
713 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 15:05:57.02
広常とかは朝廷にこだわる必要はない、とか言ってなかったっけ?
>>713 国司の、介という地位によって大軍を動員してた人だよね。
武士の主従関係の基本は個人対個人で、世襲されないのが普通だっただろ。
それを世襲できるように作り替えたギミックが、安堵という手法による御恩-奉公の関係
義家の嫡流で義朝の嫡子ある頼朝はなるべくして坂東武士の主になったのだ。
また嫡流厨かよw
718 :
日本@名無史さん:2012/04/18(水) 20:03:26.68
もうワザとでしょ。
無視無視。
>>707 >なんで頼朝は、何十年後の源平合戦の時に、ほとんど戦いもせず南関東を制圧出来たのよ?
藤本隆宏演じるところの伊藤忠清が、上総の介として赴任し、
親義朝系の坂東武士をいじめまくったのが大きい。
そのため、坂東武士団の間に反平氏の機運が醸成された。
以仁王の令旨という大義名分
それプラス、義家の子孫で義朝の嫡男という頼朝のブランド
八幡太郎義家は勇武と仁慈を兼ね備え、風雅の道にも通じた理想の武将。武人の鑑。軍神。
721 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 17:29:25.91
義平なら幕府どころか、朝廷から独立した国家の建設さえするかも。
とりあえず、東国各国の守は源氏一門から選び、
守護は各地の有力武士を任命。
722 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 22:38:27.18
悪源太スレがあるんだからそっちでやれよ
723 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 16:18:44.74
>>698 今昔物語で満仲は、狩りで獣を殺し、網で魚を捕えて殺生をする「悪人」と
批難されておるね。
殺人は行わなかったのかね?
724 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 17:54:11.00
甲斐源氏の信光が「一族更に優劣無し」と言ったのは本心じゃないだろう
木曽義仲は頼朝と戦うのに腰が引けてたし
甲斐源氏は重要人物が次々粛正されても何も出来なかった
河内源氏諸族内部では義朝の嫡子(頼朝)こそ源氏嫡流という概念があったんじゃないか
信光自身が粛正のおかげで甲斐源氏の棟梁になれたわけだし
一応、位は上だからな佐殿
親父が元帯刀先生だからって義仲なんの経歴もないし
まして東海一体を席巻してた甲斐源氏はさらになし
嫡流かどうかって結局、官位の上下という話だよね
ってことは平治直前では頼政が嫡流ってことだな
>>727 頼政が、河内源氏だと思ってるの?(www
「家」概念が確立した鎌倉時代ならともかく、
平安期の、まだ「家」が確立しきっていない時代には、
源氏全体で一つのウヂだったんじゃなかったか。
もちろん、嫡流という概念も固まっていない。
だから、河内源氏自体が嫡流じゃない。
鎌倉幕府を作った河内源氏が清和源氏の嫡流
732 :
日本@名無史さん:2012/04/24(火) 23:53:28.23
733 :
日本@名無史さん:2012/04/29(日) 15:16:54.29
坊門姫ってあまり話題にならんよな
頼朝の晩年の京都での動きって彼女の婚家の存在がかなり大きかったって思うが
>>730 摂家将軍親王将軍は別として武士の将軍はすべて清和源氏嫡流の河内源氏。
>>734 ただし、それはあくまでも「結果的に」だ。
源氏他流から将軍が出なかったのが必然か偶然かを判定する証拠物件はない。
第一、摂家将軍や親王将軍も「武家」ではあったはず。
鎌倉親王将軍4代のうち誰だかは忘れてしまったが、
将軍宣下に際して源姓も賜って源氏(当然清和源氏ではない)となり、
帰京後に改めて親王宣下を受けるか何かで皇族に復帰したという例があったはず
したがって、清和源氏以外の源氏将軍もいたということになるのではないか?
737 :
日本@名無史さん:2012/04/29(日) 20:48:16.42
ググってみたら
王のまま将軍宣下→源姓賜姓で臣籍降下→親王宣下で皇籍復帰→将軍辞職
っていう流れだな>>惟康親王
いずれにせよ後嵯峨源氏が将軍職にあったことは動かないな
739 :
日本@名無史さん:2012/05/01(火) 13:36:34.80
後嵯峨源氏はスレ違い
清和源氏の嫡流は河内源氏、河内源氏の嫡流は
義家流。八幡太郎義家は武士の中の武士、軍神。
人形浄瑠璃「奥州安達原」を見れば八幡太郎の実像がわかる。
742 :
日本@名無史さん:2012/05/04(金) 17:50:03.10
>>719 頼朝の(血統)ブランドと言うよりは、リアルな主従関係じゃね?
父親と兄貴だからな、ブランドと言うよりも南関東の主従関係を引継いだって感じだろ。
そんな南関東のすぐ近くの伊豆に頼朝を流すなんて平氏もあほだがなw
>伊藤忠清が、上総の介として赴任し、親義朝系の坂東武士をいじめまくったのが大きい。
平氏も平氏で義朝-義平親子が築き上げた房総平氏や相模五平氏との主従関係を気にしていたんだな。
義朝の代で、房総と相模は平定されており、義平の代では、武蔵を押えて北関東に進出する位に
悪源太の勢力は、拡大していたからな〜。
>>740 >清和源氏の嫡流は河内源氏、河内源氏の嫡流は義家流。
義家流の中の義朝流は、まったく河内の在地性が無い。
河内と無関係と言っても良い位、関連性は希薄。
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は河内源氏ではなく『鎌倉源氏』と称するべき。
特に頼家-実朝は、河内と無関係で行った事も無いはず。
鎌倉将軍でさえ、主従関係を世襲化させる仕組み作りに必死だったんだ。
つまり、その頃には主従関係を世襲できなかったからだ。
だからこそ、頼朝の父祖の代に家臣だったのに頼朝挙兵時には平家に従ってた武士も多かったわけだ。
744 :
日本@名無史さん:2012/05/09(水) 04:33:13.88
まあ〜平治の乱で義朝と義平の両方とも死んじゃったからな。
ところで、義平の母親って京近郊の売春婦?それとも三浦氏の娘?
結構、この違いって大きいと思うんだけど…
新田氏から正室もらっているから、三浦氏の娘かな〜?って感じもするけどね〜
義平の母は三浦氏か相模橋本の遊女か(五味氏)
新田と足利の差が決定的についたのは頼朝が天下を取った以降?
それとも元々新田は庶家の扱い?
747 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 05:06:28.29
頼朝に義平の正室を差し出さなかったから、新田はダメになったんでしょう。
義平が、鎌倉殿なら新田氏が執権だワナ。
748 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 11:32:52.73
>>746 里見、山名の息子(庶子)たちは頼朝の元に参集したけど、義重は、頼朝を格下に見てなかなか出向かなかったから、疑い深い頼朝に疎まれたっていうのが定説。
足利義兼が重用されたのは、頼朝の母親と同じ熱田大宮司家の女性が母親で、親近感が高かったからだろうね。
>>747 それ、対立のきっかけとなった事件なのか、対立してたから起こった事件なのか、どちらとも言えそうだな。
>>748 それ、足利が早くから頼朝に協力した理由ですよね?
頼朝が足利を贔屓した理由という意味ではなくて。
頼朝って、生母・乳母の親族をもの凄く重用してるよね。
マザコンが高じてなのかな?
751 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 05:08:42.06
比企氏や北条氏、安達氏あたりも結構使ってんじゃン。
義平の正室(新田娘)ってかなりの美人だって話だけど、吉岡美穂ぐらい美人なのかね?
義平って本当に遊女なのかね?
それだとあれほど三浦氏や新田氏が肩入れしない、と思うんだけど…
752 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 10:07:45.14
>>751 頼朝が義平と朝長の身分を低く見せるために
母親を遊女ということにしたのかも。
遊女=売春婦、と思っていたが、
>「遊女」という呼称は古くからあり、元来、芸能に従事する女性一般を指したものであり、とりたてて売春専業者を意味するものではなかった。
>奈良期から平安期における遊女の主たる仕事は、神仏一致の遊芸による伝播であり、その後遊芸伝承が次第に中心となる。
(wikiより)
為朝と範頼が、遊女の子として有名である。
wikiの記述にかかわらず、性行為をしたから子ができたんである。
しかし、誰とでもする一般的な売春婦だったら、父親が認知しないだろう。
少なくとも1年くらいは独占的にできる関係だったのではないだろうか?
興味深いことだな。
754 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 11:54:18.64
>>752 2人の兄たちよりも頼朝のほうが出世が早い事実はあるから
頼朝より母親の出自が悪かったのは事実だろう
>>750 父方親族(弟も含む)は味方と言うよりライバル、みたいな発想だったかもしれん。
嫡流というのが確立してなかったからこそのライバル視、かなあ。
普通なら総領の元に集まる、兄弟も従兄弟も団結するという、武士一般の風習からも外れてるのが頼朝の不思議だねえ
756 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 12:58:06.29
>>755 戦国大名も弟を殺しているのが結構いるし、
兄弟は他人の始まりのことわざ通りライバルなんじゃね?
特に平安時代は母系社会で、母方の一族に育てられていた。
母親違いの兄弟は成人してから初めて会う他人みたいなもん。
>>756 同じ母親の兄弟でも、乳母に育てさせるなら、会う機会は少ないんじゃないか?
信長とかはそうだったような。
逆に、常盤は3人兄弟をひとりで育ててたようなんだが、どうなんだろう?
義朝の妾なら、それなりの屋敷に警護の部下を配してとかありそうなものだが。
>>757 同母の場合はたとえ別々の乳母がついても一つ屋根の下で育つ。
世話係の乳母がいたところで養育の総責任者が母親であることに代わりはない。
信長の場合は特殊。
父秀信が急速に力を伸ばしたせいでわずか2歳で那古屋城城主となったために
父の城に住む実母と2歳から離れ離れになっていたから。
信秀が那古屋城を奪取したのはもっと後の話じゃないかって異論もあるぐらいで、
幼少期の信長に関してはほとんど分かってない。
俗書と講談以外の情報がすごく少ないだろ。信長公記に記されたわずかな情報の他に、ほんのちょっとだけ別情報があるだけじゃん。
天川の芸能の神の神社と言えば・・知らぬ者も居ないだろうよ。
アメノウズメ神社
でも、あそこは、そもそもが猿田彦神社で、国産み神話で夫婦神社となり、ウズメも奉る神社として
芸能神社となってる。
そもそものアメノウズメ神社は、京都のNHK社屋に在る大宮売神社だった筈だよ。
761 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 03:43:31.31
>>756 確かに平安時代の母系社会の要因は大きいだろう。
>>758-759 信秀は、尾張の三分の二を押えた。
守護代の家臣(分国奉行)の地位で良くここまで領地拡大を進めたと思うわ。
弾中正家は、名古屋港や河川からの関税収入が大きかった、と聞いたが…
信長にも兄貴いたよな。
で、あんまり出来が良くないのと、やっぱり母親が遊女で出目が悪く、
家臣団から、あんまり相手にされなかったらしい。
ま〜信長も若い頃は、土民百姓からもパッパラパー扱いされてたがw
まーだ母系社会言ってるやついんのかよ
単に母方の家のコネで官位を争ってただけじゃねえか
嫡流って概念にしても、支配基盤である家人の力が、相続によって分散しないようにするためだろ
つまり、ある土地を認可安堵してもらって領主となるかわりに、奉公するわけだから
御恩与える側としては、分散相続して奉公力まで小分けになって弱くなっては困るから武家法つくって
悔い返しだなんだってやったんだろが。
平安末期で中央から離れていった傍流、たとえば義光当たりは領主として根付いて
子供は土地からまた移動して別のところに領主として赴任できる余裕があったから一気に拡大できた。
一方中央につかえる軍事貴族とよばれるものはちがう。
まず中央に気に入られて官位をもらわないと話がはじまらない。
官位もらって受領になったら、そこに行って、在来領主に特別な計らいをすることで特殊な関係をつくり
富をためこみ、いざというとき助けに来るように仕向け、家人として定着させていく。
だから、より中央にコネのある結婚相手が必要で、母方が大きな意味をもっただけ
763 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 05:09:57.78
山名義範
愛知県西尾市生まれ
安達盛長
愛知県新城市生まれ
764 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 05:54:37.01
765 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 08:55:35.65
>単に母方の家のコネで官位を争ってただけじゃねえか
それも立派な母系重視の社会
>>761 その「奉行」が、幕府の奉行衆のことじゃなくて守護の奉行であることは、論証されてないよな。単に、昔から言われてるというだけ。
守護の奉行ってもの自体の論証はあるっけ?
幕府の奉行は広く知られているし、その奉行の中に織田という苗字の人間が活動してたのは確実なんだがなあ。
母親より父親の方が官位昇進に大きく影響するとはいえ、母親側の人脈・コネも大きく影響するよな
という、それだけの話だよな。
>>766 信秀は、清洲織田(守護代)の3奉行の一人
斯波(守護)
織田(守護代)
坂井(守護代の家老・小守護代)
の下の三人の奉行の一人
なんで、幕府の奉行が尾張に土着してると考えるの?
769 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:19:13.72
源氏のスレに織田とかなんだよ
尾張の田舎臭い百姓は関係ないでしょ
スレが汚れる、出ていけ
770 :
日本@名無史さん:2012/05/12(土) 16:36:56.96
>>762 >中央にコネのある結婚相手が必要で、母方が大きな意味をもっただけ
母方に大きな影響を持つのが母系社会の影響だよ
平安時代は一緒に住む母方の外祖父、外舅との結びつきが実父よりも強かった
摂関政治もそのために可能だった
鎌倉時代以降、子供が父方で育つようになると母方の家の影響は限られる
せいぜい嫡庶の違いがある程度
一緒に住んでいる実父の影響力は別々に暮らす外祖父や外舅よりも強くなる
>>768 その構図自体の物証がないんだよな。
幕府の奉行が地方に土着した実例のひとつは小田原北条氏だよ
幕命によって地方で活動したあとで、任務の長期化か何かが理由で土着しちゃうんじゃないかな。
772 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 04:20:13.54
>>770 >せいぜい嫡庶の違いがある程度
その所為で三管領家の一つ、畠山家が大分裂。
応仁の乱の原因の一つになってます。
畠山義就の母親が、土用という遊女なので、本当に持国の子供なのか?
って疑問が出て来て家臣団が余計に分裂してしまいます。
ま〜今と違ってDNA検査が出来ない時代ですから。
今は普通の女子大生やOLまでが、カードの支払い等で風俗穣になる時代ですが、
昔は、特定の身分階層の方が多かったのではないですか?遊女?
ついこの間までAV女優には、在日が多いって言う話だったです。詳しくは知らないですが…
最近は昨今のデフレ不況でで普通の主婦までが、AV女優になり始めたとか…
畠山家の分裂の原因が、義就の母親の身分の低さにあったという話はただの俗説ですよ。
義就の母親の身分に問題があったのが嘘というわけではないようですが、
そもそもの原因は、義就の父親である持国の進退問題です。
六大将軍義教との確執が元で、持国の家臣達は、取りつぶされる前に持国を隠居させて難を逃れようとし、
実際に持国を隠居させてしまっていました。
その直後、嘉吉の乱が起きて義教が死去し、その機会を捉えた持国が反対派を倒して自力で家督に返り咲いた。
この事件こそが畠山家の分裂の真の原因です。
のちに弥三郎や政長らを擁立した家臣達は、持国を隠居させた事件に関与した家老の遺族と、
事件に関与したものの処分を免れた関係者達が中心。
表向きは両者の共存を図るかに見えたものの、まもなく対立が表面化したことによって、
義就を後継者とする動きが始まったんですよ。
それと。
771等にあった幕府奉行衆の話とも関連しますが。
幕府の奉行衆の充実化が図られたとき、守護や守護代らの庶子や族弟が奉行として登用されました。
持国隠居の際に新たな家督候補として挙げられた、持永・持富も幕府の奉行ですよね。
774 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 05:57:44.30
畠山スレでやれ。
なければ作れよ。
足利将軍は頼朝の子孫ですか?
778 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 18:17:10.48
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられている
779 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 18:17:34.35
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
>>777 頼朝の子孫が消滅したときに、残った武家源氏の中で一番 武士として有力だった足利が浮上した
血統だけなら足利と同等に有望な家もいくつかあったが、幕府の中での地位・勢力が圧倒的だった上、北条氏と姻戚関係にあったこともあって源氏の正統を引き継ぐことになった
血統と幕府内での勢力、両面で足利のライバルだった平賀(だっけ?)は、生きていれば足利以上に有力だったが、北条との間で主導権争いをしたから、負けて滅んだしなあ。
782 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 18:36:54.43
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとり(三河国菅生郷)の矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
783 :
日本@名無史さん:2012/05/15(火) 18:42:58.27
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
【岡崎市東部地区/岡崎市中心部地区より東に6キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/岡崎市中心部地区より西に5キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【岡崎市南部地区/岡崎市中心部地区より南に8キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/岡崎市中心部地区より北に20キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市幡豆郡地区/岡崎市中心部地区より南に20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
…今度は三河厨!?
785 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 02:04:06.77
清和源氏のwikiページ上部にある著名な人物の項目に、源尊義とあるが、誰かわかる人いる?
786 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 02:09:28.63
清和源氏のwikiページ上部にある著名な人物の項目に、“源尊義”とあるが、誰かわかる人いる?
788 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 03:13:37.28
790 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 15:56:20.72
791 :
日本@名無史さん:2012/05/21(月) 22:37:01.35
>>773 >その直後、嘉吉の乱が起きて義教が死去し、その機会を捉えた持国が反対派を倒して自力で家督に返咲き。
>この事件こそが畠山家の分裂の真の原因です。
知っていますが、義就の母親が遊女上がりナ事も政長派家臣団から誹謗中傷される要因になっています。
本当に持国の子供なんだろうか?って事で。
異父兄弟には、小笠原家や飛騨の何とかって有名な大名の子供も居るので
大名専用の遊女かもしれません。そういう意味では高級娼婦です。
義平の母親の話ですが、やはり、遊女と言うのは頼朝より格下に思わせる為の工作かな?
と言う感じもします。
平治の乱の時に付いている義平17騎は、武士団の棟梁クラスばかりですよ。
三浦氏が、外戚となって相模五平氏や房総平氏の棟梁クラスをかき集めた感じがします。
鎌倉悪源太義平(生年十九歳)主従十七騎の描写
その中にもすぐれて見えけるは、三浦介二郎義澄(桓武平氏、三浦義明の子)・渋谷庄司重国(桓武平氏、河崎平三郎重家の子)・足立四郎馬允遠元(武蔵国足立郡を本拠とし、藤原氏を称す)・平山武者所季重(武蔵七党の西党に属す)、
悪源太が下知にしたがひて、重盛に目をかけてはせめぐる。
悪源太は一人当千のこれらをあいぐして、馬の鼻をならべてさんざんにかかりければ、重盛の勢五百余騎、はつか(わずか)の勢にかけ立られて、大宮面へばつと引てぞ出たりける。
(新日本古典文学大系43『平治物語』岩波書店)
>>791 政長派の家臣ってもともとは反持国の家臣達ばかりなので、
>本当に持国の子供なんだろうか?
という疑念は、彼ら自身には関係ありません。
旧持国派・現義就派への切り崩し工作用の宣伝文句ではあったのでしょうが、
政長擁立の原因ではなく、むしろ副次的要素だったと考えられます。
仮に義就の母親が高貴な身分で申し分ない人だったとしても、政長擁立による畠山家の分裂は避けられません。
794 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 07:42:09.54
畠山は畑ちがい。
よそでやれと何度言わせれば…
796 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 00:44:55.34
>>795 お前が、河内源氏がらみの事でなんか言え!
義忠暗殺事件の真犯人を推理しようぜ。
俺は、義光が怪しいと思う。
798 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 01:51:15.19
>>797 お前、すげーな!
なんでWikiったの?
(※ここ、棒読み)
799 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 18:26:23.44
河内源氏本拠地の河内国壷井にある壷井八幡宮の宮司の高木家は、
八幡太郎義家の六男で、同地を相続した陸奥六郎義時の子孫。
為義も河内の土地を相続したらしいが、どのあたりなんだろう?
>>762 >義光当たりは領主として根付いて
>子供は土地からまた移動して別のところに領主として赴任できる余裕があった・・・・・
おいおい平安から鎌倉期の耕作地の持主は、本家・領家と称される皇族・
公家・寺社であって、武士ではないぞ。武士は、下司・地頭という謂わば
土地の管理人に過ぎない。
日本史板で講釈をたれるなら、高校授業の基本的歴史用語くらいは覚えておこうね。
802 :
日本@名無史さん:2012/05/27(日) 20:43:40.40
>800
為義は河内の本領は相続していないはず。
相続したのは義家の六男の義時で、義忠なき後、源氏棟梁を志向したがなることが出来ず、
そのため為義への同調心は無く、為義からの源氏動員令には応じなかった。
地元で本領の河内の源氏郎党を動員出来なかったとが、
為義の兵力の少なさの主因。
803 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 05:30:53.07
旭八幡尊義の家紋だが、何故か十六菊も使われている。
源氏らしいけど、どうなんでしょう?
>>797 真犯人は義光で間違いない。
十数年後、義忠の長男が仇討ちを果たしてる。
>>802 ってことは為義以降は河内源氏ではない?
806 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 01:00:09.35
>805
河内源氏というのは、河内を本拠地とした源頼信の系統の呼称であって、
河内の本拠地の相続とはまた別ですよ。
河内の本拠地の地名が、◯◯源氏と呼ばれる場合は、河内源氏ではなく、
八幡太郎義家の所領の河内国石川荘から、「河内石川源氏」とか「石川源氏」と呼ばれ、
河内の本拠地を相続した、源義時の子からそう呼ばれるようです。
それに対して、源為義は、河内源氏ですが、石川源氏ではないという位置になるようです。
源義朝に至っては、河内源氏ですが、その系統の東国源氏になると思われます。
807 :
taka:2012/05/29(火) 10:52:54.45
808 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 19:25:29.29
>>791>>793 遊女云々ですが、職業として蔑まされた。
と言うより部落が多かった事が嫌がられていたようです。
今のAV女優とは、全然背景が違うようです。
809 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 19:53:49.16
>義朝に至っては、河内源氏ですが、その系統の東国源氏になると思われます。
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、東国源氏ではなく『鎌倉源氏』と称するべき。
東国源氏では、地域的に広すぎて漠然としすぎる。
特に頼家-実朝は、河内と無関係で行った事も無いはず。
810 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 23:06:34.79
河内源氏→相模
常陸→伊勢平氏
一ノ谷の戦いは、大手の生田口は範頼、搦手の鵯越は甲斐源氏の安田義定、多田源氏、一ノ谷が義経だったんだな
義経の逆落としは平家物語の創作なのかな?
河内源氏と摂津源氏は仲悪いですか?
813 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 07:28:27.47
つーかなんで一族でこんなに仲が悪いんだろう?
815 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:25:40.95
為義は本当は義家の4男なのに、義親の4男ということにして家督相続の正当性を持たせたのは頼朝ではないのだろうか?でも為義だけなんで下に義がつくのか・・
816 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:53:20.43
髭切り持っていたから棟梁じゃないですかね〜
長兄の義信は多分お母さんの出が良くないんじゃない?
それにしても無茶苦茶な一族だよね。
自分は義光の所業をWikipediaで読んでびっくりした。
棟梁になりたい為にかなりムチャやったね。
兄を助ける為に官位をなげうって義家の元に駆けつけたって話も実際は手柄を独り占めにされたく無いからって感じがする。
>>816 家督が関わる古い家柄の家庭程、今でも、兄弟仲良しいないだろう。
仲が良い兄弟の家は、総じて下流って、良く聞く話だね。
家は、昔の中流だけど、本家だったから、兄弟4人は、性格と様相、世代バラバラで啀み合いが凄まじかったな。
幼少期から赤の他人より憎んでたヨ。
だから、良く、友達の家に行ったきり、帰らなかったな、姉兄達は・・W
融流嵯峨源氏渡辺氏分流の家柄。
何かというと、次女次男のお前らは、家継がずに出てく立場なんだからと、言いたい放題言われてたわァ・・
自由で羨ましいとか・・
まっ・・結局、その長女と長男の姉兄が家潰したけどネ。
家をトコトン憎んでたからね。
家柄も知らずに・・
核家族化でバラバラ、跡継ぎ無し手で間もなく50歳つつつ
823 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 07:19:20.14
>>814 満仲が勝手に子孫を標榜したことによる清和帝の呪い。
824 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 22:26:56.86
義忠が殺されたのは江口遊君(遊郭)でとあるので、単なるトラブルかも。
でも、この人が長命なら義朝も頼朝も出番はなかっただろうから、一番得をしたのは
為義系かも。
>>824 >義忠が殺されたのは江口遊君(遊郭)で
なんという書物に書いてあるの?
826 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 02:04:56.90
為義て義忠の養子になっていなかったけ?
それ故義綱追討使に任命された(まだ14なのに)
義家の養子とされたのはその後じゃないか?
>>819 やっぱオカンがちがって、オカンごとに教育してると意志がバラバラになんじゃね?
三好、島津、毛利の三四兄弟はわりと仲いいほうじゃん、家久は異腹弟だっけ?
伊達にしろ、織田にしろ、兄弟で争うのは、兄弟間の感情より当主としての力量をとわれての反乱に担がれた感があるし
>>824 義光が、家来に命じて、義綱の息子に疑いがかかるように細工をして、暗殺したんだから、
「単なるトラブル」であるわけがない。
>>827 オカンの先祖は、江戸時代から家と啀み合ってた清和源氏の小笠原氏末代。
ダブスタ思考バリバリのオカンだわァ・・
そう言えば・・
830 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:17:02.84
義家・義綱・義光は同母兄弟なのに
なんであんなに仲悪いのかね〜
源氏の伝統はその3人から
832 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 20:40:25.83
平家も結構内紛はあるよ、平将門の乱とか、平忠常の乱とか。
清盛の場合、池禅尼、頼盛、忠正、家弘、家盛の遺児などの不平分子を悉く
崇徳上皇方につけ三族皆殺しにした結果安定しただけ。
833 :
日本@名無史さん:2012/06/11(月) 02:30:11.59
>>832 頼盛は鎌倉時代まで、源頼朝に優遇されて生きておいででございます上に、子息まで朝廷に仕えてましたが、何か勘違しておいででは?
池禅尼に至っては、崇徳院の負けを見抜いて、頼盛を清盛側につかせてますが?
834 :
日本@名無史さん:2012/06/11(月) 20:30:02.22
それが清盛からしたら予想外だったんじゃない?
崇徳側に頼盛が付いて
池禅尼共々始末したかったんじゃないかなぁ。
そうすると頼朝も。
助命は朝廷からの圧力もあったと思うけど
闇討ちとかもあったかもしれない。
>>830 義家・義綱あたりは都での出世競争で仲悪かったけど、(仲悪いって言うか上司が違うから仕方がなかった)
義光は後三年の役についていってるし、三男坊のつらさで早々に地方に根付いてるから、
義家が生きている間はわりと仲はよかったと思うな。
だけど義家が後三年の役で私闘扱いにされて、使った公金の返済にてまどっていたせいか
義親が不遇の対馬守で反乱起こして以来、義光は俺の時代が来たと思ったのではないかね
子孫の武田は、頼朝と仲たがいしたしね
836 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 05:52:56.31
頼朝は佐竹氏や武田氏に厳しかったから、義忠殺しは義光が黒幕と思っていたのでしょうね。
「平清盛」では頼朝が常盤の子に反感をもつ様子がよく表現されている。
837 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 09:50:23.56
>>835 義光が後三年で奥州に馳せ参じたのは、兄義家を慕ってとか助けたいとかからじゃないだろ。
「やべ、バスに乗り遅れる」とか、むしろ「義家兄にばかり手柄を独り占めされてたまるか」という気持ちの方からだと思うぞ。
後には色々と美化されているが。
それから
>義家
が
>私闘扱いにされ
たんじゃなくて、
あれは端から私闘以外の何物でもないから。
>>836 義光が義忠を殺したから、源氏の嫡流が為義・義朝・頼朝へ来た。
頼朝は、義光の子孫の佐竹や武田を優遇しないとおかしい。
>>838 平賀を大優遇して、一門筆頭みたいな位置だったろう
840 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 14:35:34.35
平賀義信
室 丹後内侍の妹
従兄弟 方原師光(三河国形原荘荘官)
安達盛長(三河守護)
父 小野田兼広(三河国小野田荘荘官)
室 丹後内侍
娘 源範頼(三河守)の室
841 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 15:09:22.06
>>840 丹後内侍と妹は、源頼朝の乳母の比企尼の娘。
頼朝の伊豆流人時代に生活を支えた初期の功労者のひとり。
842 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 17:21:41.82
比企尼(頼朝乳母)の近親者
長女・安達盛長室ー女(源範頼室;夫範頼が頼朝の命で殺害されてからは不明)
次女・河越重頼室ー郷御前(源義経室;平泉で義経とともに死)
三女・伊東祐清・平賀義信室ー平賀朝雅(北条時政の娘婿;北条義時の命で殺害される)
養子(甥)比企能員ー若狭局(源頼家室)ー一幡(北条時政によって源頼家・比企能員・若狭局・一幡ともに殺害)
あまり皆幸せになってないんだよな
843 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 17:44:40.70
義光の子孫(信玄)が義家の子孫(氏真)を覆い落としたのも源氏の血筋や
844 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 17:48:47.73
>>834 清盛は頼盛・池禅尼を厚遇してるからそれはないだろ。
平治の乱で清盛は重盛・頼盛を平家の大将軍として平家の主力軍を任せている(「愚管抄」)。
また、その後清盛が厳島神社に収めた平家納経でも、頼盛は重盛とともに自筆写経を収めている。
一時期、実子を出世させたい清盛の意向により職務怠慢を理由に解官されるが、
その後は権中納言まで出世させている。
池禅尼も平家全盛期にその主力地であった六派羅に邸宅池殿を構えていた。
845 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 14:45:39.36
保元の乱以前はわからんよ。
846 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 14:59:53.77
>>845 保元の乱の時も池禅尼が頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ(愚管抄)」と言っており
池禅尼・頼盛が清盛から冷遇されていた様子はない。
保元の乱の功績で頼盛はかつて清盛も任じられた安芸守になっている。
大河では、頼盛は崇徳につきかけたため清盛に謹慎を命じられ戦いに加わることを禁じられたが
史実では平家方武将として出陣しているし。
847 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 16:41:08.18
平頼盛(三河守)
848 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 17:13:56.77
頼盛、池禅尼親子は当時の平家の中では一大勢力だったって言いたかったんじゃない?
その意味では清盛は一掃したかった。
それなら自分も同意。
頼盛が一大勢力w
せっかくライバル清盛末裔たちが壇ノ浦で滅んだのに
チャンスの頼盛はあっという間に没落したな
後三年の役における源義家の戦後処理
4 千任丸の舌
次ぎに、千任丸が召し出された。
義家は言った。「先日、矢倉の上で言ったことを、今、もう一度言ってみろ。」
千任は、頭を垂れて何も言わなかった。「その者の舌を切れ」と義家は命じた。
すると、源直という者が、千任に近寄って、手でその舌を引出そうとした。
義家は、激怒しながら、
「虎の口に手を入れるのは、愚かなことだ。」と言って、源直を追い払った。
特に力自慢の兵を幾人か呼び寄せ、その中からとっておきの猛者を選んだ。
その者に焼けた鉄を掴む金ばさみを取らせ、舌を挟んで抜くように命じた。
ところが、千任は歯を食いしばって口を開こうとしない。
猛者は、金ばさみで歯を突き破り、ついにその舌を引き出し、これを切ってしまった。
千任の舌を切り終わると、縛り上げて、木の枝につり下げ、足を地に着かない程にして、その足の下に、武衡の首を置いた。
千任は、泣きながら足を縮めて、何とか主人の首を踏まないように我慢をした。しかししばらくして、力尽き、足を下げて、ついに主人武衡の首を踏んでしまったのであった。
http://www.st.rim.or.jp/~success/go3nenki2012.html
852 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:00:56.33
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、都を下り豊田に土着、高橋荘・高橋新荘を立券し皇室に寄進、後に岡崎に移り住む
・その息子藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康)を領主に、後に高橋一族は駿河に移住し初代大森氏に、頼春が小田原城築城
・源頼朝の実弟(八田知家)の家系(中条氏、三河伴氏か?)が代々地頭
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から、源頼朝の嫡男である頼家に室を出し、生まれた子供が実朝を暗殺した公暁
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が実母の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
853 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:02:07.19
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(三河守護、室は丹後内侍(比企氏))の娘)←頼朝が初めて推挙した事例
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍(比企氏)の妹、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼(上総介)の兄、孫が初代細川氏の細川義季))
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
854 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:34:39.40
源頼朝関連史跡一覧
◆三河七御堂◆源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
【西尾市】光福寺■現在の金蓮寺、弥陀堂
【蒲郡市】長泉寺■弥陀堂、全福寺■現在は廃寺、丹野御堂
【新城市】鳳来寺■弥陀堂
【豊川市】財賀寺■観音堂
【豊橋市】赤岩寺■弥陀堂、普門寺■観音堂
その他
【岡崎市】
・滝山寺■藤姓熱田大宮司一族氏寺、伽藍造営、頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像、源実朝、北条政子の墓あり
・夏山八幡宮■梶原景時を名代にして参拝、社領寄進
【豊田市】
・平勝寺■元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・普賢院■寺領寄進
・猿投神社■藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築
【西尾市】
・瀬門神社■1195年に源頼朝が社殿を再建
【新城市】
・鳳来寺■再興、三重塔造営
・今水寺■寺領寄進
【豊川市】
・財賀寺■本堂・仁王門再建
【豊橋市】
・普門寺■再興、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭
・吉田神社■天王社勧請
・鞍掛神社■愛馬の鞍を奉納
855 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 14:32:28.91
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、河内源氏ではなく『鎌倉源氏』と称するべき。
その持論このスレか他のスレで丁寧に説明してくれていて説得力はあったんだけどさ
後世義朝-頼朝のラインが源氏の正統と再三に渡り位置づけられたため
そんな呼ばれ方すると逆に分かり難くい上に実態とかけ離れるよね。
実態とかけ離れるってのは、義朝から実朝までが短すぎるんだよ
その義朝からの5代が
1.義朝が京でのロビー活動を非常に重視しし、義朝自身の在京が長い上に活動拠点が京都
2.鎌倉源氏と称すべきとされている5人のラインで
実質的に活動した義朝から頼朝までで期間が極短い
(全体として鎌倉源氏といえるほど支族としての実質的な活動実態がない)
3.有形力を行使して支配を確立した義平もあくまで在京活動を重視
2についてなんだけど幕府が確立した後の頼家・実朝と義朝・義平・頼朝を同列に扱うのはおかしい。
そもそも世代的には、義朝-義平・頼朝-頼家・実朝の三代だし一般的な解釈もこちら。
頼家を何もしてないというのは乱暴だけど頼家と実朝って実質何もしてないじゃん。
何もしてないというかあっという間に死んでしまうわけで。
実質義朝、義平、頼朝の三人で、しかも義平頼朝兄弟で
義朝とその子の二代で鎌倉源氏と態々呼ぶのに相応しいのか?
そして義朝の半生は完全に在京での活動で
上手く行けばそのまま京都で権力を確立し京都に在住したろう。
義朝の思考として関東はあくまで京都で活動の財源(金銭的な面以外も含めて)であり土着化など考えていない。
思うに義平の活動にフォーカスを当てすぎなんだと思うんだ。
平氏と違い基盤地に対して実効支配が必要で、義平を残して武力支配しておく必要があっただけでしょ。
頼朝の御曹司としての価値は、前半生。京都の義朝の子で官位を持って生き残った子という点。
この義朝なんて完全に京都だし、頼朝も鎌倉源氏なんて呼べるほどの関東で土着化していない。
土着化すっ飛ばして権力の頂点煮立ってしまいトップになってしまった。
仮に乱が起こらなかったり、義平が乱に行かずにあくまで関東の実行支配に固執し
義平が土着化し在京組の兄弟と分かれた場合
鎌倉源氏や関東源氏なんて呼ばれても不思議じゃないんだけどさ。
さらにifなんてすると義平が全部ついだ場合も京都にのぼって在京活動したんじゃないか?
このケースで京の兄弟とは別れて関東の方で完全に土着化したらまあまさに鎌倉源氏なんて呼ばれてもまったく問題ないけど。
義朝のクーデタやそれにあくまで参加した義平見ると
関東の方で独立した治外法権を確立するなんて発想は義朝と義平には一切無いように見えるんだけど。
勿論この失敗があったから頼朝と幕府があるわけなんだけど
それを以っても鎌倉源氏と呼ぶのが相応しいとはとても思えないんだけど
本人たちはあくまで在京系統重視してた上に頼朝なんて義朝からまだ2代目だし。
その頼朝なんてまさに京都で出世してた組み。
後世の位置づけもこのラインが源氏の嫡流で新規の別の支族という認識はない。
他の頼政などの源氏が頑張って嫡流取り戻したわけでもない。
あと結論だけ言うと義平も地方に土着化して
中央の政局から全く関係なくなってしまってた
多数の源氏と違い土着化なんてする気ないように見えるんだけど。
土着化や在住期間、活動内容が問題でない場合でも
清盛らの平氏と相対的な比較を踏まえてると
改めて鎌倉源氏と呼ぶほどの状態にないというのが
「鎌倉源氏説」の丁寧な説明をみて思った感想。
お父ちゃん(義家とか)が雅な御方にヘコヘコしてるのに、バカ息子が地方でヤンチャするのを繰り返すってことですね。
863 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 21:25:31.57
活動期間の短さとかは、頼信だって初代なのに河内源氏と呼ばれてるから関係ないだろう(頼親の大和源氏についても同じ)。
ただ「鎌倉」源氏と、「都市名」プラス源氏なのが違和感ある。
他は摂津源氏、大和源氏、河内源氏、近江源氏、信濃源氏、常陸源氏、と皆「国名」プラス源氏だからね。
朝長もいることだし、「相模」源氏の方が良いのではないか?
864 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 21:29:16.64
あでも「多田」源氏という「荘名」プラス源氏という故障もあったか。
失礼。
865 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:04:13.09
◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏 母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡)
・母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り加茂郡(豊田市)に土着
・季兼(三河四郎)は、加茂郡(豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼(三河四郎)は、額田郡(岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする
・季兼(三河四郎)は、設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼(三河四郎)室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼(三河四郎)は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼(三河四郎)の息である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
■高橋荘(愛知県豊田市)
・藤原季兼(三河四郎)は妹の息(高橋惟康(伊勢新二郎大夫))を領主にし、養育する(遺構 不動堂館跡)
・平治の乱で平家に没収され、恩賞として義朝を暗殺した長田忠致が荘官となる(遺構 長田館跡)
・高橋一族は駿河に移住し、初代大森氏・初代葛山氏に、子孫の大森頼春は小田原城を築城
・長田忠致一族が処刑されると、小野成綱(頼朝とは妾の子(貞暁)の乳母父を依頼される関係)が地頭になる
・小野成綱の代官である高橋頼之(藤原南家、相良氏)は、軍功により頼朝から高橋荘8000貫地の地頭目代となる(遺構 高橋館跡)
・その後、小野氏に代わり、源頼朝の実弟(八田知家(妹が寒河尼(頼朝乳母))の家系(中条氏)が、鎌倉〜南北朝時代通じで地頭になる
■高橋新荘(愛知県豊田市)
・荘官の足助氏(足助重長)から源頼家に室を出し、息に実朝を暗殺した公暁(母は足助重長と源為朝の娘の娘)
■菅生郷(愛知県岡崎市)
・荘園としては立券されず、後に足利義兼が母の実父(藤原範忠)から相伝したもよう
・郷司は足利被官の高階惟長(源義家四男の家系)、惟長は源頼朝から軍功により、陸奥国信夫郡の地頭職を与えられる
866 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:04:47.50
【鎌倉幕府】
■頼朝姻族(将軍御一家、源頼朝の女系一族、足利家、一条家、北条家の3家)
・足利義兼:河内源氏、上総介、幕府内序列2位、母親が頼朝の母と姉妹(藤姓熱田大宮司家/本貫地:三河国額田郡)、母方から菅生郷(愛知県岡崎市)を相伝、嫡男が足利氏として初めて三河守護
■関東御分国(将軍家が知行国主とし、国司は将軍家が推挙、当初(頼朝時代)は三河国、駿河国、武蔵国の3ヶ国後に9ヶ国)
国司一覧
・三河守:源範頼(河内源氏、頼朝異母弟、室は安達盛長(のちに三河守護)と丹後内侍(比企尼の長女)の娘)
・駿河守:源広綱(摂津源氏、古井城主(愛知県安城市)、実兄が伊豆守になり、伊豆に移住、頼朝と懇意となる)←太田道灌の先祖
・武蔵守:平賀義信(甲斐源氏、室は丹後内侍の妹(比企尼の三女)、従兄弟(方原師光)が三河国形原荘荘官)
・伊豆守:山名義範(河内源氏、実父は矢田城主(愛知県西尾市)の矢田義清(足利義兼の兄)←範の字は藤姓熱田大宮司家が関係か?
・相模守:大内惟義(甲斐源氏、平賀義信(武蔵守)の息)
・上総介:足利義兼(河内源氏、幕府内序列2位、母親が源頼朝の母親と姉妹(藤姓熱田大宮司一族/本貫地:三河国額田郡))
・信濃守:加賀美遠光(甲斐源氏)
・越後守:安田義資(甲斐源氏)
・伊予守:源義経(河内源氏、頼朝異母弟、室は河越尼(比企尼の次女)の娘)
■政所(一般政務・財政を司る)
・別当:大江広元(牛田城主(愛知県知立市)、五男(海東忠成)が熱田大宮司家に養子入り、娘が高階惟長(菅生郷(愛知県岡崎市)郷司)の室)
・令:二階堂行政(母親が頼朝の祖父(初代藤姓熱田大宮司/本貫地:三河国額田郡)の妹、岐阜城を築城)
867 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:36:30.99
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
868 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:39:16.53
■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
【岡崎市東部地区/岡崎市中心部地区より東に6キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/岡崎市中心部地区より西に5キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【岡崎市南部地区/岡崎市中心部地区より南に8キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/岡崎市中心部地区より北に20キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市幡豆郡地区/岡崎市中心部地区より南に20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
869 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:40:09.54
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造
【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長、高師冬
・伊勢国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長、高師泰
・三河国守護:高師兼、仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房、上杉重能
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:高重茂、高師冬、高師直、上杉憲顕、仁木義章
・安房国守護:斯波家長
・上総国守護:高師直
【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:畠山国清、高師泰、細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏、高師泰、畠山国清
【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経
【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・上野国守護:上杉憲房、上杉憲顕
・下野国守護:高師直、仁木頼兼
870 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:40:42.85
室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造
【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、高師詮
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上杉朝定、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼兼、高師泰、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義
【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春
【南海道】
・紀伊国守護:畠山国清、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏
あわわわわ・・
渡辺徹もだが・・松浦分流の俺も、糖尿病だった・・
嵯峨源氏源融遺伝ゆえなのかね・・?
チラシの裏にでも書いときな
>>872 新聞の代わりの2ちゃんなのだが・・
チラシ呉れッ
月一回程度、町内のどこかで回収してるだろ
そこから拾ってこい
義親の長男義信は、謀叛人の子でありながら従四位下まで出世している不思議。
為義より上じゃないか。
>>875 義親は人気者だったし、乱を起こしたのも事情があったんじゃないかな?
為義は、検非違使として犯罪者をかくまったり、貴族の荘園を荒らしたり、ろくなことをしてない
>>876 確かに事情がありそうなんだけど、その事情が全く見えてこないんだよね。
新興勢力たる武士の棟梁の嫡男が中央への反乱を起こして殺された、という大事件だし、
その時代の乱の多くはある程度背景も伝わっているにも関わらず。
878 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:58:16.82
879 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:55:26.20
河内=大阪
>>879 それは正しくない。
河内は大阪の一部であって全部ではないよ。
河内国全域と和泉国全域と摂津国の半分を合わせた広大な地方自治体が大阪府なんだ。
少し前まで、大阪府よりも狭い県なんて一つもなかったけどな。(今は香川県の方が少しだけ狭い)
ちなみに。
二国半より広いのは、兵庫県の「ほぼ四カ国」ぐらいかな?
丹波の半分と摂津の半分と但馬全域、播磨全域。淡路国(国と数えるなら)も入ってるか。
岡山県の三カ国(備前備中と美作)もあったか。
すれ違いだけど面白いので参加
千葉=安房・下総・上総
静岡=伊豆・駿河・遠江
三重=伊賀・伊勢・紀伊
京都=山城・丹波・丹後
島根=出雲・石見・隠岐
長崎=肥前・対馬・壱岐
なんだ結構あるな
下総は解体されて、一部が東京や茨城に行ってるから、三カ国よりは少ないよ。
紀伊は大半が和歌山で、三重に行ったのはごく一部、三重は「ほぼ二カ国」だ。
京都も、丹波が半分に分割されて兵庫と京都に行ってるから二カ国半で大阪と同じ。
隠岐・対馬・壱岐のような島嶼は、さすがに一カ国と数えるには厳しくないか。
三重て志摩もなかったか?
ハハハ、俺ってマヌケ。
志摩を忘れてたよ、スマン。
885 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 07:14:33.86
河内国が大阪の一部もなにもその時点で大阪だろ
大阪府ができるまでは大阪と河内は全然別だった。
間違えないように。
河内も和泉もガラ悪いよ。あんなのと大阪を一緒にされたくない。
ワレ何ぬかしてけつかるねん。
義家公も楠公も河内もんなんやで。栄光の歴史やんけ。
上品にやっとったらあらくたい連中まとめてくことなんかでけへんやろ。
=と∋、⊂などとの違い。
「は」と言ってたら、「〜の一部」とか「〜に属する」などの含意を持つこともあるが、「=」はそういう含意がない。
890 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 18:44:23.88
河内人 柔らかさとしなやかさを兼ね備える
摂津人 欲張りな上臆病で薄情
和泉人 軟弱、臆病、軽薄で狐に似ている
摂津国に関しては、大阪市の大半と神戸市の大半と「阪神間」の全域を含む地域なんだが。
(あと、大阪府下の淀川以北の全域まで含む。)
だから、「摂津人」というなら、神戸市民も含むんだよ。
(だいたい、須磨区の東端あたりが国境だったはず)
武士の中の武士頼光公は摂津源氏。
>>892 同じく、武士の中の武士頼光四天王の源綱も・・
頼光四天王の他、源貞光・卜部・金太郎
源綱(渡辺綱)の曾祖父は、源融(光源氏)で、嵯峨天皇の第18皇子でもある。
源氏始祖で源氏長者。
巨姓降下による源姓を賜りし、源融(光源氏)の官位は、大納言、最終的には、左大臣にまで上った。
その末代を、渡辺氏・松浦氏・五島氏とある。
頼光四天王
平貞道(坂東出身のつわもの。相模三浦氏祖)
平秀武(坂東出身のつわもの)
□□公時(坂東出身のつわもの)
不詳
源融 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%9E%8D 小倉百人一首第14番・河原左大臣源 融(みなもと の とおる、弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日(895年9月21日))は、嵯峨天皇の十二男。
侍従、右衛門督、大納言などを歴任。
極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。
死後正一位を追贈されている。
嵯峨源氏融流初代。紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれる。
陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、「いかがは。
近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後即位した例はないと基経に退けられたという話が『大鏡』に伝わる
渡辺綱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E7%B6%B1 渡辺 綱(わたなべ の つな[1])は、平安時代中期の武将。
源宛の子。
嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。
通称は渡辺源次。
頼光四天王の筆頭として知られる。
源頼光 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89 源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。
父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。
諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。
満仲の長子で清和源氏の3代目。
満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。
異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。
頼光四天王は
鮒
金柑
椎茸
定めて
>>900 頼光四天王は
鮒→→→渡辺綱
金柑→→坂田金時
椎茸→→卜部季武
定めて →碓井貞光
903 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 00:44:16.78
松浦厨の発作が出たかw
V
摂津源氏が上だね
906 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 17:32:46.64
908 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 22:42:49.97
ガイキチは消えてください
キチ相手だと何言ってもムダじゃね?
家康は、愛知の豪農です。
源氏ではない
だれか、釣り針を見て熊が考えてるAAを貼って!
912 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 06:19:47.81
仲間に入れてやれよ!
徳川家康って源氏じゃなっかのかよ
松平は最低でも家康の祖父の清康の時代から源氏を名乗っている。
最近の研究では松平氏の最初期から源氏を名乗っていたともされる。
言い伝えによると、
松平村の庄屋の家にさすらいの遊行僧が転がり込んで、娘をコマシ、入り婿になった。
そいつは、新田の子孫だとホラ吹いたという。
新田も一応源氏。
>>915 近隣の百姓を束ねて勢力をもち、三代目あたりで、三河の城のひとつを乗っ取り、
以後、順調に勢力を増し、国人大名となっていった。
917 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 20:12:56.93
源氏を名乗りながら、賀茂氏を彷彿とさせる「葵の御家紋」を使う松平土豪一族。
伝承の時期の三河の状況を見ると、南北朝期、大久保氏を始めとして、関東の南朝に参加し敗北した兵が
三河に流入する現象があった(三河は足利の本拠だけに、尊氏の合戦に根こそぎ動員されていて
一種の空白地帯となっていた)
松平氏の祖先(いわゆる徳阿弥)伝承は、関東の新田軍の残党が三河に流入したことを
表している可能性がある。
919 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 22:35:18.30
そもそも源経基って本当に源氏なの?
清和源氏の家格の低さは村上源氏や嵯峨源氏と比べても群を抜いて低いだろ。
1-2代で没落する源氏多いにしても初代は公卿クラスまで昇任してる。
初代源氏にしては官位低すぎ、仮に経基が源氏だとしても、子供の満仲が経基の子であるかどうか
怪しすぎる。
まあ父貞純親王との関係が取り沙汰されることはあるにせよ、経基は皇孫で間違いないと思うよ。
でも満仲は…
知〜らないっと。
>>919 賜姓源氏の人数を勘違いしてるだけだろ
賜姓源氏の内で初代が公卿まで出世してるのは一握りだけじゃなかったかな。
何十家の賜姓源氏が実在したのか調べてみろよ。
初代だけで何十人もいるんだぞ。
同時期に賜姓源氏(の初代)が10人以上も併存してた時期だってある、たしか。
>>918 徳阿弥が松平家に入り込んだのは、室町幕府第三代義満の頃だったと思う、たしか
>>922 あくまで伝承だからね、徳阿弥に関しても。
松平氏は五代義教の頃には、幕府政所伊勢氏の被官の、三河の有力国人として記録に現れているので、
結構早い段階で一定の勢力を打ち立てていたと思われる。
また書かせていただくますね。
家康=河内源氏
守護霊太郎左衛門大阪城の
地図を片手に東へ下る
ばあさんのお寺河内国臨済宗初日山常光寺
奈良時代行基建築。藤堂高虎最後の地。陸軍中佐が赤絨毯弾いて挨拶に。
母弓野家東北征伐の源氏の武士
爺さん本名前田
925 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 13:22:30.67
918
適当な事ばかり言ってやがるな
流入してきたのは、南朝の本拠が現在の豊田市だったからだろ
新田氏と三河の関係は平安時代末期にまで遡る
皇嘉門院領
新田義重
足利義清(矢田義清)
山名義範
926 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 14:32:48.41
>>919 嵯峨源氏や村上源氏の一世源氏は天皇の実子であることが多い
それに対して武家源氏の祖である清和源氏は天皇の孫(親王の子)など
天皇から数えて二代目以降だろ
もっとも嵯峨源氏や村上源氏の一代目(天皇の皇子)であっても
公卿になれなかった者はいる
927 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 08:07:18.06
・清和天皇→自閉症児
・陽成天皇→重度のアスペルガー症候群
だと仮定すると、同じ血筋の清和源氏は、穢れがついているとみなされ、
晴れと穢れに敏感な堂上貴族への道は閉ざされたのではないかと思うのだけど。
陽成さんに至っては、天皇の聖なる立場を省みず、家人を撃ち殺しているし。
928 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 08:33:53.35
>>927 清和天皇や陽成天皇といった身内が早々と死んだり政界を追われたりしたので
清和源氏を引き立ててくれる身内がいなかったというのはあるわな
929 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 12:39:30.68
皇室典範のように考えると鎌倉将軍家断絶後、源氏の棟梁は誰になるのかな
931 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 13:41:39.55
>>930 もとは新田のほうが嫡流じゃなかったか?
ただし足利は北条政子の妹を正室にしたため頼朝から義弟として重んじられ
その後も足利家歴代当主が北条一門から正室を迎えたので幕府内で大事にされてた
そもそも武家河内源氏に嫡流という概念は少なく、端的に言えば実力で主導権を握ったものが
河内源氏の棟梁となる状況であった。
頼朝の系統は清和源氏為義流から分かれた義朝流から更にわかれた頼朝流、に過ぎない。
「源氏の嫡流」という概念自体が、河内源氏の歴史から考えればおかしなものである。
>>927 現役天皇との血縁の近さが昇進の要件の一つ(主たる要因というほどではないが)だった以上、
清和源氏が確立した頃に皇統の傍流に転落していた(現役天応の祖先ではなく、廃帝陽成の親である清和天皇から別れている)、
傍流源氏たる清和源氏にとって、出世競争は非常に厳しいだろ。
庶子と嫡子の間の格差を、もう少し大きくしたぐらいの壁が立ちはだかっている。
で、出世の目処が立たなかったから地方進出に活路を求めたんじゃないのかな。
>>931 嫡流・庶流の差は、社会的地位、現実の権力などによって大きく影響されるだろ。
鎌倉幕府成立期に功績を立てた足利と、幕府と対立したりして衰退した新田では、競争の余地はなくなっていた。
幕府が「頼朝の親族のうちで筆頭は足利」と認定したから、政子の妹を正室に迎えることになったんじゃないか?
年齢が合わない気がするけど。
934 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 18:55:40.20
>>933 だから929にある通り「皇室典範」に準拠すると、なんだろ。
皇室典範では、自分で築き上げた功績や社会的地位は一切関係がない。
単に生まれながらの長幼の序(嫡庶の別)によって皇位継承が決まる。
現実には源氏は生まれながらの長幼や嫡庶によって棟梁が決まるのではなく、
親兄弟親戚一同が殺し合いをして一番強い者が棟梁になった歴史があるのだから、
皇室典範のようにはいかなかったってだけで。
これはちょっと不思議な記述だけど吾妻鏡に新田義重が
『以故陸奥守(義家)嫡孫』自立したとあるんだよね。
>>934 河内源氏の殺し合いの歴史って、ないだろう。
朝廷の命令で処刑したのを除けば、
自分の意志で殺したのって、
義光が義忠を殺したのくらいじゃん。
殺し合いして一番強いものが棟梁になったわけじゃない
937 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:22:05.63
頼朝が義経を殺してる。
義賢と悪源太、頼朝・義経と義仲とかイパーイあるじゃん。
938 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:42:52.33
>>936 源義朝(頼朝の父)は庶子・異母弟の源義賢が嫡子
義朝が長らく無位無官だったのに対して義賢は早くから官職を得ている
義朝は息子の義平に義賢を殺させて源氏棟梁を称している
源為義(頼朝の祖父)もまた庶子で、異母兄の源義忠が嫡子
しかし、義忠がその叔父義光に暗殺されたため、
為義は犯人に疑われた叔父源義綱を殺害し、
実際の犯人義光を常陸国へ追って、自ら源氏の棟梁となった
源氏一門で殺し合いしてるじゃん
河内源氏嫡流義朝の嫡子頼朝が挙兵したから坂東武者は挙って馳せ参じて
鎌倉幕府創健に到ったんだよ。
>>939 以仁王という皇族の挙兵命令があったからそれに集まったんでしょ
実際に頼朝じゃなくても他の源氏たちも挙兵できてるんだし
(木曽義仲や源頼政も挙兵)旗印は誰でも良かった
頼朝系源氏が三代が滅びても鎌倉幕府は崩壊しなかったし
>>939 そんなの、過去の俗説。
つか、鎌倉幕府公式の起源神話だろ。
既存秩序への不満が高まってる場面では、誰かが挙兵するだけでも雪崩うって賛同者が出ることがある。
嫡流じゃなくなって久しい新田氏が挙兵したときも同様だ。
義家以来の「源家累代の家人」を自任自負する坂東武者たちが「貴種再興の秋」に賭けたんだよ。
>>942 源氏将軍三代、皆暗殺とも言われるし(頼家と実朝は暗殺・頼朝は暗殺説)
坂東武士は必ずしも頼朝に忠誠心なんかなかったんじゃないの。
944 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 00:26:13.47
たとえば御曹司あべチャンに自民党員は忠誠心があるのかないのか?
そんな問いは無意味だろう
御輿として使える玉かどうか、使えなければ投げ出される
宗任の末裔だから河内源氏とも縁あるな。
>>944 別に自民党員は「安倍家累代の家人」ではないからな(世話になった程度)
しかし坂東武士が「源家累代の家人」なら多少の忠誠心はみせるはず
947 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 14:14:21.44
義朝以前は、「譜代の主従関係」なんてヒエラルキーは存在しなかったといのが学界の定説。
その時その時の利害関係で結びついていただけ。
948 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 16:27:39.13
>>947 為朝に従ってた家臣団たちは譜代じゃなかったのかw
忠盛も平氏の棟梁として家臣団を率いることの重み、みたいなのを大河で語ってたが
譜代なんかいなかったのかw
949 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:04:01.85
>>948 譜代はいたにはいたが、中世のそれも後半期以降に現れるようなそんな大掛かりなものではない。
いたのは平家貞的な代々の執事的存在だけ。
川合康とか元木泰雄とか読んでみ。
基本武士の主従は一代限りの関係だったらしいな。
951 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:29:52.29
>>949 家の子や郎党のことはどう解釈してるの?
毎回主従する相手をその時々で変えてたの?
952 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:30:56.31
>>950 それも契約期間だけ。たとえば頼義なら鎮守譜将軍などの権限で奥州に動員かけた時だけ。
それすらも関東の豪族で中々従う者はいなかった。
953 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:38:41.42
>>951 だからそれが二種類に分かれるの。
平家貞的な累代に渡る郎等と、あとは暫時の契約者的存在とに。
後者の中には独自に権門とも主従関係を結んでそのツテで位階官職を得ていて、実は源平と身分上は変わらない氏族もいた。
鎌田氏なんかがそう。
954 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 20:27:10.19
>>953 累代もいるにはいたんじゃん
動乱期にその時々で主人変えるのがいるのはいつものこと
(南北朝時代も戦国時代も主君取り替えまくってるのは多い)
鎌田政清は源義朝の乳兄弟、政清の母が義朝の乳母ってことだから、
為義の頃から源氏陣営にいたんじゃん。
信頼が政清に官職与えたのは源氏分断のためだろ。
955 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:04:37.17
956 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:20:50.74
>>955 947には「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかった
というのが学界の定説」と書いてあるが、存在してたんじゃん。
949では訂正して「いたのは平家貞的な代々の執事的存在だけ」と書いてあるが、
代々の執事以外にも、譜代や家の子、郎党が代々世襲で仕えてたんだろ?
>>956 横レスするが、
>949では訂正して「いたのは平家貞的な代々の執事的存在だけ」と書いてあるが、
代々の執事以外にも、譜代や家の子、郎党が代々世襲で仕えてたんだろ?
譜代・累代の郎党って、多くても数十人ぐらいが普通だったんだろ?
百人二百人もいることはなかったんじゃなかったっけ。
鎌倉幕府滅亡時に、北条一門(および郎党など)の自害した人数は、あの時代としては多い部類だしな。
それでも数百人。
958 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:06:23.18
>>957 執事といっても郎等に含まれるの。
執事的なる立場の者が存在したということで、それも郎等、家人の類い。
佐藤進一あたりが詳しいが、その「郎等」にしても、鎌倉殿以降の本領安堵の関係でもなければ、中世後期以降のご恩と奉公の関係でもない極めてドライなもの。
平家貞的な後世の譜代の家臣的存在は極めて少数。
>>953でも述べたが鎌田氏のような軍事貴族は、源氏に「仕える」以外にもそれとは別の政治活動を行って院や摂関に仕えており、むしろそれら権門との「主従関係」によって自身も五位の諸大夫の政治的地位を代々得ている。
つまり、為義と正親は身分上は同じ諸大夫に属する。
軍事はその性質上、結合する必要性が高いので、有事の時にはこれら軍事貴族が一同に会することになる。
その際の「軍事貴族連合の盟主」が頼義であったり、義家であったり、忠盛であったり、為義であったりしたということ。
いってみれば同業者組合の組合長ということで、決して江戸時代の殿様と家来の関係ではない。
盟主であるということとのちの主従関係との何よりの違いは、当時の源平には「家臣」を「本領安堵」する力なんて到底有していなかったということ。
959 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:13:05.73
>>958 >当時の源平には「家臣」を「本領安堵」する力なんて到底有していなかった
家の子や郎党の土地や荘園を源平が軍事的に守ってやるという役割は持ってただろ。
あの頃は自分の土地は自分で守るしかない。
源氏だって、代々摂関家の用心棒になって官職貰って食ってた。
960 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:16:44.58
>>957 たとえ数十人であっても、一代限りの関係ではない累代の家臣がいたことは事実なんだろ。
「規模」の問題ではない。
そら、鎌倉幕府なんて累代の家臣は規模から言ったら江戸幕府の半分以下だろ。
961 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:31:21.80
>>960 本論からズレて来ているぞ。
「源氏は頼義・義家以来の武士の棟梁の家柄であった」
というのが、君の主張だろう。
だからそれは違うということを提示しているまで。
そんなのは頼朝以降につくられた虚構。
諸大夫身分に過ぎない源氏にそんな力など有ろうはずもない。
河内源氏で言えば、本領河内の香炉峰の所領は飛び地含めても千石にも満たなかったと言われているんだぞ。
そんな身大で身分も諸大夫に過ぎない源氏に「家臣」の「本領安堵」なんて出来るわけも無かろう。
よって
>規模の問題
に決まっているだろう。
962 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:38:45.42
>>961 お前の頭の中が沸騰しておかしなことになってるぞ。そんなことどこに書いた?
よく読めよ、何度も引用している通り、
「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかったというのが学界の定説」
ということに対して反論しているんだが?
実際には譜代はいたし、家の子・郎党もいた。いなかったという根拠があるのかい?
「いたとしても頼朝のときよりずっと少なかったんだから、
どうせなら全然いなかったことにしてよ」という主張はなしね。
963 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:46:04.55
大体
>規模の問題じゃない
というならそれは他の同時代の軍事貴族(平氏、藤原氏秀郷流、同利仁流etc)全てに当てはまることで、全然源氏に特有のことでもなんでもない。
そのような家内隷属的「家人」なら上記のどの家にもいたことだろう。
964 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:50:28.02
>>962 後世の意味での主従関係などは殆んど存在していなかったと既に複数回レスしているはずだが、何を無かったことにして粘着している?
そんなに源氏は累代に渡って武士団全体の棟梁だったと主張したいのにそれが否定されて悔しいのか?
965 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:52:37.05
>>963 勘違いにも程がある。
平氏にも、秀郷流にも、「譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在」した。
家の子・郎党はどの武門の家にも存在した。
源氏だけが突出した武家の棟梁になったのは頼朝の時。
頼朝の時代にはすでに家の子・郎党などとは呼ばない。
御家人になっていたのだから全く別の話。
義朝時代に源氏は突出した武家の棟梁になったなど、お前の間違った主張だろ。
966 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:57:44.88
>>964 お前の論点すり替えもいい加減にしろ。
「源氏は累代に渡って武士団全体の棟梁だった」と俺が書いてもいないことを脳内ねつ造するな。
こっちが主張してもいないことを主張したと言い張る文盲、馬鹿め。
「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかったというのが学界の定説」
というお前の書き込みを否定されたからと言って、こっちが主張してもいないことを主張したと脳内変換して火病起こすな。
967 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 00:59:44.54
>>965 何を言ってんだお前は。
>>963で同じことを言ってるんだが何を言ってんだお前。
いい加減絡むのやめろやしつけえな!
968 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:01:04.51
>>966 論点のすり替えはお・ま・え
人の言葉真似してんなよ粘着君w
969 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:04:09.03
日本語読めない奴と「議論」するのも大変だなぁ・・・
970 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:04:56.92
>>967>>968 「義朝以前は、譜代の主従関係なんてヒエラルキーは存在しなかったというのが学界の定説」
が否定されたことは認めるんだな。
まともに議論もできない馬鹿だったとは。
こっちが真面目に意見書いて損したわ。何も読んでなかったんだな。
971 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:08:36.08
972 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:10:47.65
>>968 他人が書いてもいないことに対して書いたと言いがかりをつけて暴言はいたことに対して
素直に謝るべきでは?
もう、頭の中が沸騰して自分で何が言いたいのか分からなくなってるみたいだけど
973 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:12:09.29
大体、何度も鎌倉殿以降の意味での主従関係は「殆んど存在しなかった」とレスしてんのに、
それを無かったことにして「ほら、少しはあったじゃん!」とドヤ顔してくんのかワケが分からん。
何が主張したいんだコイツ!
974 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:14:11.72
>>972 この一連のスレの中で君の最初のレスをアンカーで挙げてくれないか?
>馬鹿
とか
>頭沸騰
とか煽りいれてくるまえにさ
975 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:15:10.85
>>971 人が書いてもいないことを書いたと言い張る馬鹿に、
こちらが日本語でどんなに丁寧に説明しても分かるわけないしな。
「源氏は累代に渡って武士団全体の棟梁だった」
↑こんなことどこに書いたのかっての。
自分の頭の悪さ、わかってる?日本語通じないから無理だけど。
976 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:18:22.11
ああそうか俺の最初のレスを言質にとって「ほら違ったジャンw」
と揚げ足取るのが目的のオコチャマだったわけかw
はいはい。
疲れるコだねえw
977 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:21:52.99
>>975 >>975 いやだからそういう流れの議論だから。
だからこの流れのなかでの君の最初のアンカーを訊ねているんだが?
なんで答えないの?
それとも自説を否定された腹いせに複数人を演じているの?
そうでなかったら答えられる筈だよね?
978 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:24:01.66
>>973 「義朝以前は、「譜代の主従関係」なんてヒエラルキーは存在しなかったといのが学界の定説」
これは正しいと思ってんの?
義朝時代より前の累代の家の子・郎党の存在を否定してるんだが?
頼朝の話をまぜてきたのは、混乱させるための横やりだろ
だいたい、頼朝時代には御家人は頼朝個人と累代の主従関係を結んだのではなく
鎌倉幕府との主従関係だった(源氏三代がほろんでも幕府との主従関係は続いた)
979 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:27:17.67
>>978 なんで質問に答えず、俺の最初のスレにしか粘着しないでその後の俺のレスを意図的に無視するんだ。
もう一度聞くぞ。
この一連の議論の中でお前さんの最初のレスアンカーなどれ?
簡単な質問だろ?
980 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:29:22.02
>>977 だから、947に対する反論だと繰り返し何度も言っている。
それに対するアンカー見ればわかるだろ
947に対する回答以外答えてないんだから。
そっちはいっこうに答えないね。
勝手な主張を入れて茶化してるだけの奴がもう一人いるのか、同じ人が茶化し入れてるのか。
981 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:35:58.59
982 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:37:11.70
>>977 お前が書いた947を否定しているんだから、自説を否定されたのはそっちだろ?
このスレの別の奴が書いたことと勘違いしているふりをしているけど、
このスレの中に961みたいな主張の書き込みは見つからないんだが?
978にも答えないし。
983 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:46:00.21
>>982 繰返すが「源氏は最初から武門の棟梁だった」という命題について議論してきた流れの中で、なんでか顔を真っ赤にしたお前がどこからか登場してきて、一人で些末な問題で俺に難癖吹っ掛けてきているようにしか見えないんだが。
自分の最初のアンカー出せないワケでもあんの?
>>947のことはとっくにその後のレスで「修正」してんのに何故そこに拘るの?
それともオコチャマして「ほら、僕の言ってたことの方が正しいジャン!だからア・ヤ・マ・レ」というのが目的w?
大体、学問板でお前がそんなに「郎等」にこだわる目的は何よ?
984 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 01:54:22.40
>>982 じゃあ視点を変えて・・・
お前は「源氏は昔から武士の棟梁」論を唱えてた奴なのか(だったら命題の吹っ掛け人)?
それとも途中で「横からだが」
とレスしてきたご仁なのか?
どっちなんだ?
議論を噛み合わせるために、「お前の最初のレスを明示して」という誰でも答えられる簡単な質問をしているのに、
これにはいつまでたっても答えないところを見ると両者は自演か?
985 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 02:01:30.45
>>939 くらいから始まった議論でこれが命題だな。
986 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 13:39:39.48
皇室典範に準じると鎌倉将軍家のあとの嫡流って誰になるの?
987 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 04:33:55.66
無意味な質問
本来の武士は武装開拓農民
990 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 13:01:19.15
頼義、義家時代に源氏に匹敵する武門ってあったか?
同時期の平氏も藤原氏も棟梁としてはぱっとしなかった気がするけど。。。。
つか藤原氏は秀郷だけで、平氏は正盛〜清盛ラインだけといったイメージが強いな。
総石高なのか本拠地だけなのか図りかねるが河内源氏の所領が1000石という話だけど江戸時代の価値観で言ったら
5000石位の上級旗本って感じかな?
同時期の摂関家や清華、平氏などはどれくらいの石高持ってたの?
991 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 18:01:35.98
>>990 元々東国を基盤としていた桓武平氏や藤原氏秀郷流と違って、氏族としての誕生が先の両氏に比べて2世代ほど遅かった清和源氏は当然両氏に比べて東国への進出が遅れることになる。
というりも清和源氏としての実質的な活動を始める満仲の頃には関東には
「もはや源氏が割り込む余地は無かった。東国の分割はすでに完了していたわけで、ありていに表現すれば、源氏は東国に関しては“バスに乗り遅れた”といって良い。このことは二つ目の理由につながる。」(関幸彦『武士の誕生』)
かつてのフロンティアである東国に進出できなかったことで、清和源氏は狭隘な畿内近国の各地に留まざるを得なくなり、
そのことが逆に時の中央最大権門である摂関家への伺候の度合いを深めやすくし、
安和の変など藤原摂関家による他氏排斥の走狗となることで、ついでに自身のライバルである藤原氏秀郷流などをも失脚させることができ、武門の第一人者の地位を獲得することが出来たってわけ。
頼信は道長の近習だったそうだしな
摂津源氏のほうが中央で活躍している。満仲も摂津に住んだ。
河内源氏は傍流。
まあ河内源氏が源氏の正統、みたいになったのは、足利義満が源氏長者に就任して、後足利将軍がこれを
踏襲してからだと考えるべきだわな。
995 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 10:40:00.97
弓射儀礼(歩射)の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
回数 命中 命中率 射手数
1096年(京都) 140 11 7.9(%) 14 最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉) 240 181 75.4(%) 12
満仲には軍功がないね。九条流の陰謀で汚れ仕事を引き受けて地歩を固めたんだね。
997 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 14:19:22.63
鎌倉時代には、まだ氏長者を一人として出したことがないしな。
>>991 >自身のライバルである藤原氏秀郷流などをも失脚させることができ、
>失脚
させられたのは秀郷長男の藤原千晴ね。
高橋昌明なんかが言ってるけど、秀郷流は千晴失脚後も次男の千常の系統が京武者として幾つか存続し、その活動は決して軽視できないものがあるそう。
仕えてた家は堂上源氏や藤原勧修寺家だけどね。
源氏は朝廷内で一番力のある摂関家の家司だから、その政治力で一番華のある役職に付けられるし、それが記録にも残るということ。
銀河鉄道999
千年女王
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