【復活】それでも邪馬台国は九州にあった【不滅】

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1日本@名無史さん
纒向をはじめ畿内の発掘調査は進んでいるにもかかわらず、それでも、邪馬台国が畿内にあったという決定的な証拠は一切出てきていません。
それどころか、畿内にあったのは邪馬台国とは別の国だったのではないかという疑問点ばかり浮かんできます。
今こそ、邪馬台国問題の原点に立ち返って、九州説から検証しなおす必要があるのではないでしょうか?
2日本@名無史さん:2011/01/30(日) 12:01:51
魏志倭人伝てそもそもどこまで資料的価値があるんだろうか。
九州説は魏志倭人伝や記紀の解釈に何十年も労力を費やしてきたけど
本当に意味あったのかな。

考古学の立場から3世紀に当時の日本最大級の勢力
(プレヤマト王権)が巻向に成立していたことを
実証しつつある畿内説の方が前向きな感じがするね。
3太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 12:18:02
畿内は男王が支配してた天皇国である。
記紀にはその相当年代男王は存在しないと観るのが、女王の
記述に無いことから妥当である。

 男王国≠女王国

ということは、九州は女王が当時支配してたということだ。
4日本@名無史さん:2011/01/30(日) 12:27:18
九州にも古くからの遺跡がいろいろとあるのだから、
無理して邪馬台国説などにしがみついていないで、
地元に密着した豊かな考古学を展開させる時期だろう。
5日本@名無史さん:2011/01/30(日) 13:25:49
魏志倭人伝の記述では畿内方面の方が
栄えてたのだよな。
6日本@名無史さん:2011/01/30(日) 13:49:50
たぶん、畿内は魏ではなく、古代から蜀とのつながりが深かったのであろう。
畿内には、秦の始皇帝の末裔を称する秦氏が大きな勢力を持っていることでもわかろう。
7日本@名無史さん:2011/01/30(日) 16:48:15
>>3
古代日本で行われている「ヒメ・ヒコ制度」を考えれば解決する。
すなわち、倭途々百襲媛にみられるように、
古来の日本では女王が祭祀を主催し、神託を受けて政治をとった。
そして女王の親族の男性1人が代表して、
女王の言葉を民に伝え、軍事行動の指揮をしていた。
卑弥呼にも身の回りに弟が仕えていて、
これが卑弥呼の言葉の伝達役であった可能性が高い。

はじめは祭祀を主催し神託を聞く女王のほうが力が強く、
魏志倭人伝もそのような書き方になった。
しかし、後の時代には軍事をつかさどる男王のほうが権限を持つようになり、
のちの天皇制のもとになった。
日本書紀も初期の記事ほど天皇の近親の女性が
祭祀をつかさどっている記載が多い。
8太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 17:08:23
その卑弥呼が祭祀王として、相当年代に記紀に載ってないんだよ。
倭人伝で女王が幅を利かせてるのに、これが全然0なわけがあるまいが?
記紀に祭祀王と俗世王とかの二つの系があることの記載が無いわけで、
その想定はありえないね。祭祀王だけ隠匿したというなら、神功39年の
記事も削除するだろうからね?

だから祭祀王がいて派手だったという考えはありえないな。
9日本@名無史さん:2011/01/30(日) 17:19:20
箸墓や西殿塚は記紀上でも皇女の墓ということになっているのが面白い。

ヤマトでは卑弥呼や台与等の女王の統治は忘却されていても、
これは女性の墓だという伝承はずっと受け継がれてきたんだろうな。
10日本@名無史さん:2011/01/30(日) 17:35:23
>>8
書記を読めば祭祀王と俗世王の存在は十分想定できる。
ただし、日本書紀はむしろ遣唐使などのために中国に日本を紹介し
高く評価してもらうべく、中国の史書をモデルに描かれた書物だ。
中国に女王の存在がないので男王の存在を強調しすぎたのは
やむを得ない事実だろう。
邪馬台国に身分制度があったことは魏志にも書かれており、
卑弥呼や壱与が群臣に擁立されたとはいえ庶民の出身でなかったことは当然のこと。
世襲王族に所属する女性であったことは間違いがない。

そもそも、卑弥呼が畿内王ならば神功皇后以外あり得ないというのは早計。
古代王権には男王がいたのと同じ数だけ祭祀をつかさどる女王がいたはずだからね。
口語時代の伝説と創作が集まってできたのが神功皇后なのだから、
その事績はすべて事実だ、卑弥呼が畿内王ならば記紀の神功皇后と
一字一句伝承が間違ってはいけない、と思って読むほうが間違い。


11太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 18:47:39
>>10
祭祀王の少しの記述もないのに、祭祀王など想定なの出来ないね。
畿内に卑弥呼の国があれば、天皇国と女王国とはお隣同士に近く、まさか
大陸よりズッ近い。こんなに近いのに畿内からはるか遠方の大陸に大々的に
記載があり、目と鼻の先になる天皇国とあんたの言う祭祀国の記載が0
ではおかしいではないか? 天皇国に近い畿内に女王国があったんだから、
当然倭人伝の遠方文献より全然近い天皇国のとなりの畿内の中に
ある卑弥呼の国の記事が相当年代に記述がないということはおかしいと
いうことだな。

ということは、畿内に世俗王と祭祀王の二国があったとは考えにくく、
これは畿内に卑弥呼の国などなかったと観るのが妥当だということだ。


遥か遠い外国の文献の倭人伝に卑弥呼の記事の詳細がある
天皇国というご本家に近い畿内にある筈とする卑弥呼の記事が記紀に無い


上は何を物語るのか? これは畿内に卑弥呼とその国は無かったと
するのが相当である。
12日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:03:39
>>11
天皇国と女王国は並立などしていないが?
女王国→天皇国だろう。

そもそも遺跡もない、日本書紀に代わる記紀もない
九州説のほうがはるかにありえないが?
君は邪馬台国を九州のどの遺跡に比定してるの?
九州説の人って、「まだ発掘されていない」
とありもしない遺跡を妄想しているだけなんだよね。
13太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 20:09:10
クレオパトラ女王の墓もまだ見つかっていない。未発見だから、彼女と
関係が考えられる相当地域に墓とかがないということにはならない。

遺跡は盗掘、風水害、火山噴火、戦争での破壊、建造物の上乗せ等で
滅する状況が多分にあり、遺跡がないは九州説否定の理由にはならない。

いずれにしろ九州は間違いないから、遺跡のことは今後のことに期待
することとなる。こちらは阿蘇ではないかと想うが? それも盆地では
ないかと考えている。
14日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:16:19
>>13
クレオパトラは遺構が発掘されており、
どこに都があったか、どこで生活していたかが裏付けられている。
エジプトを統治した女王としてその遺構はそこかしこに残っている。

しかし、九州には何の痕跡もないのだよ。
卑弥呼の墓だけじゃなく、都も生活空間も、存在も。
残念だが、阿蘇から遺跡が出るなんて妄想だ。
15日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:42:41
卑弥呼はアマテラス。邪馬台国は神話時代の話。

京都の丹波や京都市にも出雲という地名があるように、当時は出雲は京都市の
北あたりまで勢力を持っていた。それを国譲りで大和に譲って武器を葬った。

それが荒神谷遺跡である。
16日本@名無史さん:2011/01/30(日) 20:43:35
ちなみに、出雲はスサノオのこと
17太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/30(日) 21:57:32
>>14
57年の金印も志賀島から出てる状況から、卑弥呼の痕跡がないとして
簡単に片付けてはいけない。

体表にガンの痕跡がないからガンはにはなっていないと言ってるようなの
があんたの主張であり、これは判断が早計にすぎる。体内を調べつくさ
ないと、ガンではないとの診断はヤブ医者である。君はヤブ遺捨か〜?w

地中内に埋まってまいとは断言できまい? 上にいくらでも建物が乗って
るんですぜ。
18日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:44:37
クレオパトラの墓は、地震によって海に沈んだといわれている。
卑弥呼の墓も、琵琶湖に沈んだという説もなかなか魅力的な仮説です。
19日本@名無史さん:2011/01/30(日) 22:47:50
スサノウとは誰か?実は宇佐の王ではないかと考えています。
20日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:09:00
おお、それ(・∀・)イイ!
21日本@名無史さん:2011/01/30(日) 23:11:03
北九州のバッチリな場所に「女王墓」と言い伝え
られてる墓はあるんだって。

明治に出土した発掘品は行方知れず。隣で畑
仕事してる。そういうもん。
22日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:41:03
九州の連中は邪馬台国の呪縛から解放されたほうが気が楽になるのではないか。
23日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:56:37
>>6
ああ、すまん。勘違い。「地勢東高西下」は隋書倭国伝だった。
大和朝廷の時代だから、この記述は不思議ではない。

もっとも卑弥呼の九州邪馬台国時代にあっても、畿内以東が
それなりの規模で繁栄していたとしても、これも無理な話では
ないだろう。
24日本@名無史さん:2011/01/31(月) 17:57:57
>>22
いや、俺はまつろわぬ者の方だけどw
25日本@名無史さん:2011/01/31(月) 19:30:38
>>22
邪馬台国九州説が消滅したとしても九州にはそれなりの古代史が厳としてあるわけだから、
これからが九州の古代史研究が足が地についた発展する契機になると期待したいですね。
26日本@名無史さん:2011/01/31(月) 23:45:03
何でおまえらこそ、柵封体制の古代国家に固執する?
27日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:01:34
天皇の権威は中国より来たると
世に知らしめるべく活動しとる
わけですね?
28日本@名無史さん:2011/02/01(火) 00:15:38
俺も貼って置こう・・・。

魏志倭人伝、行程斜行式読み(分岐基点の伊都国への経路だけ「到」を使ってる)
   ┃渡一海千余里「至」
   ┃
┏━━━┓
┃末慮国┃
┗━━━┛
   ┃南東陸行 五百里「到」
   ┃        東行 百里「至」 ┏━━━┓
   ┃     ┏━━━┓━━━━┃不弥国┃
   ┗━━━┃伊都国┃      ┗━━━┛
         ┗━━━┛━━┓
     「至」  ┃  ┃     ┃東南 陸行百里「至」
  南 水行十日┃  ┃     ┃
    又は   ┃  ┃  ┏━━┓
  南 陸行一月┃  ┃  ┃奴国┃
          ┃  ┃  ┗━━┛
     ┏━━━━┓┃
     ┃邪馬台国┃┃
     ┗━━━━┛┃
              ┃南 水行二十日「至」
          ┏━━━┓
          ┃投馬国┃
          ┗━━━┛
29サガミハラハラ:2011/02/02(水) 20:43:25
今「邪馬台国壱与の時代ー邪馬台国と狗奴国の死闘ー」を執筆中です。
ところがちとひっかかるところがあります。それは、「その八年、太守王頎
官に到る」の官です。松本清張氏は「帯方郡太守王頎は、みずから洛陽に行って、本国政府に意見具申するところがあった」と訳していますが、
これはどうもおかしいと思います。この官とは本当に洛陽のことなのでしょうか。
皆さまご考慮のほどよろしくお願いいたします。
30日本@名無史さん:2011/02/02(水) 22:24:47
九州は邪馬台国なんてさっさと捨てて、倭国王帥升の墓を探せばよい
31サガミハラハラ:2011/02/02(水) 22:35:30
帥升の墓ですか?
福岡市の周船寺ですけど何か?
32ローガン:2011/02/03(木) 17:49:57
>>29
>「その八年、太守王 官に到る」の官です。松本清張氏は「帯方郡太守王は、みずから洛陽に行って、本国政府に意見具申するところがあった」と訳していますが、
> これはどうもおかしいと思います。この官とは本当に洛陽のことなのでしょうか。

お久しぶりです。到官…三国志に数例でてきます。
公孫度伝「先時、屬國公孫昭守襄平令、召度子康爲伍長。度到官、收昭、笞殺于襄平市。」
●公孫度は【官に到り】、公孫昭を捕まえ、襄平の市で殺した。
何キ伝「太祖以?前在長廣有威信、拜樂安太守。到官數月、諸城悉平。」
●何キは楽安太守に任命され【官に到り】数ヶ月で、諸城は悉く平定された。
梁習伝「習到官、誘諭招納、皆禮召其豪右、稍稍薦舉、使詣幕府。」
●梁習は【官に到り】州界の指導者達に呼びかけ、招こうとした。
●許靖伝「馥等到官、各舉兵還向京都、欲以誅卓。卓怒曰「諸君言當拔用善士、卓從君計、不欲違天下人心。而諸君所用人、至官之日、還來相圖。卓何用相負!」
●韓馥等は【官に到り】それぞれ挙兵、都に向かって引き返し董卓を殺そうとした。

上記の【官に到り】 は着任、赴任。洛陽に到りでは、すじが通らないでしょう。
同様に考えれば、王キの赴任。
33サガミハラハラ:2011/02/03(木) 19:17:41
ローガンさんすばらしいです!
けど、何故松本清張氏や安本美典氏等は京都と解釈したのでしょうか?
34日本@名無史さん:2011/02/03(木) 19:22:09
tet
35ローガン:2011/02/03(木) 20:15:36
知らないです。
36早沙羅魏:2011/02/03(木) 22:23:02
それはですね、聞いた話ですが、誰か最初の頃に官を都と訳したんだそうです。
それをそのまま、訂正せず疑いもせずにつかっているというわけです。
調べてみますと、最近の人では、王キが赴任したと採っている人もみられるようになりました。
37日本@名無史さん:2011/02/03(木) 22:52:14
九州説はもう考古学や文献学の対象ではなく、精神医学の対象
38日本@名無史さん:2011/02/03(木) 23:00:40
>>29
それは王頎が帯方郡の太守として任官したということじゃないかな?
前の太守の弓遵は、韓の反乱で戦死していたから。
39ローガン:2011/02/04(金) 00:16:49
サガミ先生
探してみたら書庫に古代史疑(昭和43年中央公論社)がありました。以下引用。
「水野説は、狗奴国もまた魏に朝貢をしていたと推定している。その裏づけとしては、女王が狗奴国と相争っているとき、
難升米をして帯方郡を経て魏の都に行かせ、その援助を乞うたところ、魏は帯方郡の兵を動かさなかったということを挙げている。(中略)
水野説によると、正始八年、帯方郡の太守は、狗奴国との苦戦の報告を卑弥呼の使者難升米から受けて困惑し、
即刻、魏の都に到り、その交戦の状況や、倭国の当面している政情をつぶさに上申して中央政府の指示を願った、という。」(p,222)
この水野説とは水野祐氏の「日本古代国家」のようです。
清張の主張ではないようですが。
40サガミハラハラ:2011/02/04(金) 08:26:33
本棚の諸本をみてみたところ、古い書物では都に行った説がみられ、ちかごろでは赴任説が多くなってきているようです。
Wikipediaの帯方郡の項では、「自ら上洛して官の決済を仰ぐが、」とありますが、ページの冒頭で、
この記事の内容の信頼性について検証がもとめられています。とありました。
訂正されるようです。
安本氏の本では、官を説明せずそのままかいている本もありました。
他にもそのようにかいているひとがいるところから、検討中の本もみられるということでしょか。
41日本@名無史さん:2011/02/04(金) 15:26:24
卑弥呼が帯方郡に使者を派遣したのは三回。
景初三年、正始四年、正始八年。

正始八年の遣使は、明らかに狗奴国との争いの相談が主要な目的になっている。
というわけで、これを受けて張政が調停にやってきた。

正始四年の遣使も、狗奴国との争いの相談が目的だったのかも。このとき
倭は魏に対して黄幢を求めた。正始六年に黄幢が帯方郡に到着していること
からそれがうかがえる。軍事力の後ろ盾を求めていたと解釈できる。

景初三年の遣使は、公孫氏が滅ぼされたことによる、魏の軍事力に対する脅威から
来た可能性もあるが、皇帝の詔書に「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、
故鄭重賜汝好物也」とあるところを見ると、卑弥呼は魏に後ろ盾を求めて
いた可能性もある。やはり、狗奴国が関係している可能性がある。

こういう風に見てくると、狗奴国とはいったいなんだろうと思えてくる。
倭人伝の記述から熊本に求める説もあるが、このあたりはずっと前から同じ
文化圏であり、すでに決着は付いており、何を今さらという感じがする。

ではもっと南、後の熊襲のあたりかというと、このあたりは直接、軋轢が
生まれるような地理的な要素がない。
というわけで、狗奴国は出雲ではないかと思う。倭人伝の記述には合わないが
後漢書の記述には合っている。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」がそれ。
出雲地域であれば、記紀の記述とも合致しているということになる。
42横山のまーちゃん:2011/02/04(金) 17:29:52
おや、サガミハラハラ先生のレスを今年はじめて見た。
ちょうど旧正月につき、明けましておめでとうございます。

横浜中華街の春節祭り、イイネ!イイネ!イイネ!
43日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:24:48
>倭人伝の記述から熊本に求める説もあるが、このあたりはずっと前から同じ
>文化圏であり、

男王の名が卑弥弓呼、阿蘇信仰の本家争いのライバル国というマイ学説。
44日本@名無史さん:2011/02/04(金) 18:40:14
これは俗説でも何でもない見方だから。

火国

火国・肥国(ひのくに)は、令制国以前に存在した地域名称の一つ。
後の肥前国と肥後国であり、あわせてまたはいずれか一国を指して
肥州(ひしゅう)と呼ぶことがある。

この地方は元々火山が多いことから「火の国」と呼ばれ、転じて
「肥の国」となったのち、前・後に分けられ「肥前」「肥後」となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9B%BD
45日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:00:22
筑紫が筑前と筑後
豊国が豊前、豊後

は、わからなくもないが、

肥前、肥後はどうも納得しにくい。
遠いし。
46日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:56:18
肥前が長崎、肥後が熊本。有明海を跨いでるのは、
地政学的な区域ではないからだろ。
47日本@名無史さん:2011/02/04(金) 21:51:17
肥前は長崎・佐賀、肥後は熊本。確かに陸続きではないな。
火の国といわれ、火の君がいたわけだが、火の巫女ってこともあるかも。
48日本@名無史さん:2011/02/04(金) 22:29:04
で、聖徳太子についての記述のある隋書でも、
わざわざ阿蘇山を霊山として特記してる。舞台
はもう畿内に移動しているのは明らかなのに。

阿蘇信仰が仏教風のアレンジをされてるのは
時代のせいだろうね。
49サガミハラハラ:2011/02/04(金) 23:09:34
>>42 こちらこそ新年あけましておめでとうございます。
邪馬台国の歴史について調べたいことがでてきたので再来いたしました。
50日本@名無史さん:2011/02/04(金) 23:52:11
筑紫は朝鮮半島系、肥の国は中国江南系ですよ
文化が違うわけです
肥の国のヒは太陽ではなく字義どおり肥える太る
つまり有明海の干満の差を表現しているように思えます
古代人にとっては潮の満ち干きは神秘のひとつだったのではないでしょうか
51日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:39:17
「干」の音読みは「カン」、「干(ひ)る」は「昼(ひる)」と同根かな。
52日本@名無史さん:2011/02/05(土) 00:46:56
「火の国」=「肥国」という日本史の常識について
疑義を差し挟みたいのなら、それはどうぞってか。
53日本@名無史さん:2011/02/05(土) 03:01:28
ああ、これは要ると思い立って、半日神田を
歩き回って納得のいく漢和中辞典を見つけた
その肥、じゃなくて火、でもなくて日。
54日本@名無史さん:2011/02/05(土) 16:58:19
で、ヤマトの地名の由来なわけだが、
これは霊山として栄えた阿蘇山の東に
あるカルデラの切り欠きをさしているの
ではないかと。

ここ一帯の古地名が山門(やまと)で
ある、と。つまり霊場への入り口だ。
55日本@名無史さん:2011/02/05(土) 17:00:39
こうやって考えて見ると、記紀神話の
高天原のモデルが阿蘇であることは、
ごく自然に考えられる。

神武東征が九州から始まることも全く
不自然ではない、と。

ここまでが前回のまとめ。
56日本@名無史さん:2011/02/05(土) 19:27:28
日本史の学会ってタブーが多すぎなんだと思うがな。
57日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:20:47
845 名前:日本@名無史さん :2011/02/05(土) 02:18:12

総体革命されてんだろw



隠さなきゃいけないことが多いと大変だね
58日本@名無史さん:2011/02/05(土) 22:54:50
「それでも邪馬台国は九州になかった!」以上、結論が出たのでこのスレは終了。
59日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:45:39
九州に邪馬台国があったという確実な証拠はないが、畿内に邪馬台国がなかったという証拠は山ほどある。

1.箸墓は径100歩と云うにはでかすぎる。
    大きな墓と云って、その大きさを後円部だけで表すことはあり得ない。
2.古墳は葺き石を持っているが、倭人の墓は土盛作冢とされ、あたかも石を積んで造られたかのような形を云う事はない。
3.倭人の墓は有棺無槨だが、畿内の古墳にはたいてい槨がある。
4.鉄が他の地域に比べて貧弱。弥生時代には皆無に近い。
5.方角が合わない。
6.距離が合わない。
7.歴博による炭素年代は完全に破たんしている。年輪年代法はデータが全部開示されていないのでインチキくさい。
8.箸墓から出た鐙は箸墓築造が4世紀以降である事を示している。
9.日本の土器編年は韓国より半世紀くらい古くなっている。
10.鏡編年は中国より100年古くなっている。
60日本@名無史さん:2011/02/05(土) 23:47:53
>>51
昼(ひる)は朝鮮語の日(いる)と同根。
61日本@名無史さん:2011/02/06(日) 01:51:29
ともかく、単音の読みだから音読みとは限らないね。
時々、誤解してる奴がいるけど。

九州説の方がよっぽどドラマチックだと言うのに・・・
62日本@名無史さん:2011/02/06(日) 03:16:12
>>60
ハングルだと「日本」は「イルボン」だな。
「ニホン」は「ヒノモト」の音読みか。
63日本@名無史さん:2011/02/06(日) 13:02:06
>>59
>確実な証拠はないが、

ガス室の実在を証明する根拠がネオナチには
永遠に見つからないのと一緒だな。
64日本@名無史さん:2011/02/06(日) 15:24:58
>>59
九州に邪馬台国がなかったという証明にしかなってないが。

1.九州説一押しの吉野ヶ里にはそもそも古墳が弥生時代に作られた形跡がない。
2.畿内の弥生時代遺跡には塚がある。葺き石を上から置いたら塚と言わないなどと言う用例がない。
3.郭があれば塚と言わないというのは不詳。九州からは有力な古墳が出ていない。
4.魏志倭人伝に鉄の記述がない。邪馬台国から献上された武器も鉄製ではなかった。
5.方角が合わない←九州説でも合わない。
6.距離が合わない←九州説でも合わない。
7.九州でも同じ方法で測定が行われている。
  それを言い出すと、九州の弥生時代遺跡も大部分がおかしいということになる。
8.鎧が出たという記事と測定方法の提示を希望。
9.九州も同様。
10.九州も同様。
65太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 15:27:44
方角は畿内説のほうが合ってない。九州説のほうは誤差が許容範囲内。
66ポキール:2011/02/06(日) 17:38:19
>>65
方角じゃなくて方位っすよ。
67日本@名無史さん:2011/02/06(日) 17:44:13
>>60
>昼(ひる)は朝鮮語の日(いる)と同根。


(いる)は逆立ちしても日本語っすよ。朝鮮語には見えないし
モロ日本語じゃないっすか
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 17:48:11
>>66
そのくらいはどうでもいい。

方位っすよ じゃなくて 方位ですよ だ。
69ポキール:2011/02/06(日) 17:56:05
>>68
どうでもいいことないっすよ。
方角と方位では意味やその目的が違っすから
70日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:22:04
違いを書いて
71太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 19:23:34
どう違うんだか、書きこめ。
屁理屈ならやめろ。
72日本@名無史さん:2011/02/06(日) 19:55:04
朝鮮語でヒルは何?
朝鮮語で昼は何?

朝鮮語でヒは何?
朝鮮語で火は何?

太平洋のどこかの島では火はアヒだったような
73日本@名無史さん:2011/02/06(日) 20:43:23
>>71
>どう違うんだか、書きこめ。
屁理屈ならやめろ。

おじさん視力弱いの?見た目からしてすでに違うっすよ
それを同じだとする方にその説明は要求されるもんだよ
違うと言ってる者に説明を求めちゃうほどチンケな考えだったんだね
それならそうと最初から言ってくれれば
ここまで引っ張らなかったっす

だっておじさんはさっき、そのくらいどうでもいいと言ってたじゃないっすか
そのくらいどうでもいいと言う事は、どのように同じかを理解していたから
どうでもいいと判断できたということっすよね
それともいきがかり上勢いで言葉を発しちゃったのかな?
74ポキール:2011/02/06(日) 20:58:59
>>70
>違いを書いて

方角は基準からの差異っす。
方位は観点からの位、位置っす。
方角は差異を求める基準がないと求めることが出来ないという性質があるっすが、方位は基準が無くても
その観点さえ存在すればその位を特定する事が出来るッす。
75日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:06:45
今定義を見たけど、
語源としては「方位角」

そのうち、
方位は東西南北や、北西、北北西のような離散値
方角は角度値であらわす数値(連続値)と言えるようだね
76ポキール:2011/02/06(日) 21:21:18
>>75
そうっすね
方角は角度です。角度は基準となる(たとえば0値)が存在しなければその数値を導き出す事が
出来ないっす。
基準0値に対してその角度があるから目的とする位置の方角がはじめて出てくると言う仕組みっす
このくらいのことなら中卒組にも理解できるっす
77日本@名無史さん:2011/02/06(日) 21:37:01
誰かが倭人伝と古地名を付け合わせて
九州の比定地マップ作ってくれるはず。
78ポキール:2011/02/06(日) 21:40:50
>>71
俺、ちゃんと説明したッすよ
おじさんは啖呵だけ切ってだんまりっすか。それとも「大人の事情?」
そういうのズルいっすよ
ここは学問なんて看板出してるけど、汚いっすね「大人の事情」って
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 21:41:50
>>76
誰がそんなことを決めたんだ? それくらいどうでもいい。
オマエ独りで踊ってろ。><
80ポキール:2011/02/06(日) 22:10:45
>>79
おじさん情けないっすよ。そんな返信しかできないんですか?
「大人の事情」かなんか知らないっすけど
ちゃんと説明してきた者に対するそれが大人の対応ですか。

情けないっす。

大人がそんな態度だから子供がダメになるッすよ
81太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 22:18:48
オマエ情けないぞ。そんな返信しかできないのか?
「オマエの事情」か知らないけれど
ちゃんと 〜っすよ でなく 〜ですよ と説明してきた者に対するそれが
オマエの対応なのか。

情けないぞ。

オマエがそんなだからオトナからゴチンとやられるんだ。
わかったか? ><
82日本@名無史さん:2011/02/06(日) 22:19:25
>>80

変な方向に食い下がってる感じがするけど、

記事倭人伝の南東だと方位が合わない
記事倭人伝の南東だと方角が合わない

で優位な差はあるのかね?

方位という名前集合で定義されている、南東という名前(ラベル)が示す角度

という意味で両者とも使っていると思うんだ。
83ポキール:2011/02/06(日) 22:59:29
>>81
オウムさんですか?それとも九官鳥さんですか?


>>82
観点は存在するから方位だと思うッす
でもその合わないと言うのが理解できないっす。いったい何が合わないのか
帯方郡が観点なんだから、帯方郡の東側でその東側を南北に分ける南側にその倭人が住んでいるわけで
合うとか合わないの問題ではないと思うッす。方角じゃなくて方位なんだから
一方方角はというと、その基準となる0レベルが設定できないので
方角を使用したと言う考えには無理があると思うッす
84日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:12:09
「合わない」ということについてはどうでもよくって

>記事倭人伝の南東だと方位が合わない
>記事倭人伝の南東だと方角が合わない

は、ただ単に適当な用例を上げただけですね。

特殊例はどうか知らないけど、一般的には
「方位角」が語源で、「方角」も「方位」も
両方とも基準点は北、0度なんですよ。


ただ単に、別の基準点からの相対角度は「角度」で表記されると思うのです。
普通「方角」と表記される場合、「北0度を基準とする角度」という意味だと思うのです。
85ポキール:2011/02/06(日) 23:21:19
>>84

>両方とも基準点は北、0度なんですよ。

基準値「北」を0度として角で測定されたものとかあるっすか?
たとえば、ここの方角は135度だとか
86太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 23:27:31
>>83
オマエやっと です と言い出したのか。
これからも です と言え。分かったか? まだ っす と言ってるが、
そうではない〜 です だ。 〜何回言ったら分かるんだ?

揚げ足取りをやるヒマがあったら、もっと受験勉強でもしてろ。

方角でいいよ。〜それおおむね意味が通じる。オマエは余計な外野に論を
もって行くな。
87ポキール:2011/02/06(日) 23:27:49
>>84 もうちょっといいっすか

方角を求めるための基準点「北」とはいったいどこっすか
帯方郡を観点とした場合の北っていったいどこですか
それが書物で明確にしておかないと、この本の読者は方向音痴になってしまうっす
88日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:34:23
語彙的にはごっちゃになってますが、西の方角なんて言いますよね。
方角135度なら、南西ですか。

逆に基準値180度(南)の方角90度(計270度で西)という表現は多分しないと思います。
「角度」なら相対角度も定義できますが、「方角」は相対角度の意味は無いと思うのですよ。
89太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/06(日) 23:39:15
>>87
数学とかの定義ならそういう細かい言い草をキチンと判別する必要が
あるが、倭人伝の解釈では方位でも方角でも方向でも〜これくらいの
漢字使用の差はまず問題ない。こんなことで話をあさっての方向へ
向けるな。いいかわかったか。
90日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:39:56
うーん、普通方角の基準点は北で、北極星だと思いますが、
書物で明確になってない場合、北に違いがあるのでしょうか。

もし、他の方向が基準となっている場合はお知らせください。

そういう点については考えてなかったなあ。
91ポキール:2011/02/06(日) 23:42:39
>>88

>西の方角なんて言いますよね。

いつの時代の話っすか。いま言われていても参考にもなりません
現代は幅広く教育が行き渡って、多くの人がそれなりの教育水準にあるから


>>86
おじさん話をそらすことに必死過ぎ
出来るだけ本題から遠ざけようと必死過ぎ
92日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:48:19
とりあえず、着地点が見えないんで、
「方位」と「方角」が変わると、意味が変わる部分がある場合、
そこに限ったほうが話がしやすくなると思いますが。
93ポキール:2011/02/06(日) 23:50:07
>>89
>これくらいの漢字使用の差はまず問題ない

おじさんには問題ない事かも知れないけど、ここにちゃんと問題だとする人が現れたんっすよ
ということは
おじさんが今まで考えていた「問題ない」とした考えが崩れたという証拠っす
自分ではどうでもよかったことが、後悔する事でどうでもいいことではなくなった
そうっすよね
まさか違うとは言わせないから

ところでどうして問題がないとはんだんしたの?
94日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:59:17
方位と方角で文章の意味が変わらなければ、とくに問題ないと思いますが。

該当するものがあれば、そこからですね。
95ポキール:2011/02/07(月) 00:00:11
>>92
それでもいいんですが、こういうものは初めから明確にしておかないと
あとあとその傷口が広がる可能性があるから
あえて細かくこだわってみたっつうわけです。
太いおじさんみたいにたいして変わりないなんて、理由もつけづに流す人もいるから
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 00:45:35
オマエの言うことは〜カレー・ライスを持って来てくれと出前に注文
して、出前がオマエのところへ「カレー・ライスを持って来ました。
毎度有難う〜。」とか言ってそれを持って来たところ、
オマエは出前に

「これはカレーライスでない。『カレーライスと皿と匙』であって
カレーライスの底の皿は皿であり、カレー・ライスではない。」

と出前に揚げ足を取るような言い回しの悪客で、そんなこと
を娑婆へ出てやらかすと、オマエいずれ本当に葬られてしまうぞ。><

確かにカレー・ライスの底の皿はカレー・ライスではなく皿だが、
そこまでの正確だと、オマエが社会へ出てコテンコテンにいじめを受け、
仇をとられてもう出世はおろか悲惨な目にあうぞ。いい加減にしろ。><

97日本@名無史さん:2011/02/07(月) 00:52:40
www
98不比等:2011/02/07(月) 02:55:48
大丈夫!
「邪馬台国九州説」が、最後の勝利者となるでしょう。
私が、保証します。
99ポキール:2011/02/07(月) 13:57:11
結局カレーライスは一生懸命考えたけど、肝心の方角は福神漬に化けちゃった
ということっすね。
これも大人の事情なんだろうっと。
100太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 14:01:52
だからオマエの言ってることはいささかその通りだろうが、そんな
枝葉末節の相違はここではあまり必要ないんだよ。だいだいでいいの。
それで、相手に何を言ってるのかだいたい分かるわけだ。

だから方角でも方位でも方向でも、そのくらいの書き方の相違はつつく
必要がないの。
101ポキール:2011/02/07(月) 16:34:13
>>100
そーっすかね?俺だって書き方の相違とわかればここまで引っ張らないっすよ。
方位と認識していても、単純に方角と書いてしまったんなら
それは突っ込む筋合いのものじゃない事ぐらいは理解してるっす。
でも俺が最初に物言い付け足時にはそんな気配はまったくなかったっす。方角も方位もまるで無頓着に書かれたような返信だったっすよ
違いを認識しての便宜使用と、まったく無頓着な使用では、同じ投稿でも
その内容は月とスッポンんす。
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 16:52:46
意味不明??
言ってることが支離滅裂であり、カレー・ライスの件で皿匙まで
言うことを頑張るなら、そろそろ精神病院へ行って診てもらえ。
オマエ末期症状が出てるようだぞ? 大丈夫か〜?

たとえで言うと、方角が畿内節では不合理ということは、
カレー・ライスを注文して出前がカツドンをもって来るような
もので、これは客が間違いだと客が出前に言うのは当然。

オマエのはカレー・ライスの出前で皿と匙はカレー・ライスじゃ
ないぞ、それらは皿と匙だとかつついているようなもので、
それは確かに皿と匙でこれらはカレー・ライスではないが、その
くらいは社会通念でカレー・ライスの注文では匙も皿なども言わず
注文するのだ。だからそんなのは方位でも方角でも方向と言っても
よく、オマエは脳内が支離滅裂の様だからゴリ押しで頑張る訳だが、
その三つの語でも充分(オマエを除く)相手側に充分文意が通じ
るからそれでいいんだよ。カレーと言ってもカレー・ライスと言って
もライス・カレーと言ってもオマエは脳内がいかれてるようで間違
えるだろうが、出前はそのくらい軽く間違えず適正に理解する。

もっとまともに融通をきかせるんだな。><
103日本@名無史さん:2011/02/07(月) 18:10:08
>>54
これ、間違いだな。カルデラの切り欠きは西側だ。

熊本平野から太陽の昇る方向に、「山門」を通して
高天原の円舞台の中心の阿蘇が存在する、という感じ。
104サガミハラハラ:2011/02/07(月) 19:17:59
狗奴国との戦いはいつからはじまったのか。
正始6年 詔して倭のナンショウマイに黄ドウを賜い、郡にふして仮授せしむ
正始8年、太守王キ官に到る。倭の女王ヒミコ、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず。
倭のサイシウエツ等をつかわして、郡に詣り、相攻撃するに状を説く。
サイソウエンシ張政等を遣わし、因って詔書・黄ドウをもたらし、ナンショウマイに拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。
とあります。
6年にナンショウマイは黄ドウを貰うことになっていたのに、太守弓遵が戦士したりという事件のために、それができず、ナンショウマイは郡にて待ちぼうけをくらっていた。
そこにやがて新任の太守が赴任してきて公務を再開した。そこに倭から新しい使者がやってきて、ナンショウマイが半島に来ている間の倭国の様子を話した。
そこで語られたことは、狗奴国との戦いがすでにはじまっているということであった。
そこで太守は張政を都にやり、詔書と黄ドウを持ってこさせ、最初の使いであるナンショウマイに授けたのである。
卑弥呼は本格的な狗奴国討伐を始める際に、味方の国々に正統性をアピールし、より一層の団結をはかったのであった。そこで
ナンショウマイを郡に派遣したのであったが、郡が倭の事情によってのびのびになっていたところ、到着を待たずに、戦いが本格的にはじまってしまったのである。
このことから倭国と狗奴国との本格的な軍事衝突は正始7年とみてよいであろうか。
105ポキール:2011/02/07(月) 20:44:08
>>102
おじさんはカレーライスのたとえで上手く説明したつもりみたいだけど、そんなたとえ話じゃ誤魔化されないっす
中卒だからって馬鹿にしないでよね
カレーライスは食文化として大勢の人が共通した認識を持っているから
カレーライスと言おうがライスカレーと言おうが、ライスの出前に皿と匙が付いてくることも
苦情が出ないし、それに対して突っ込む人もいないっす。
でもね、この方位と方角の違いはカレーライスのようなわけにはいかないっす
現にこうしておじさんのような違いを理解しないで使用している人がいるんだから

おじさんが最初から双方の違いを認識している流れなら、おじさんがたとえたカレーライスも
も納得しくし、上手いたとえと感心すら覚えるッす

おじさんは「融通をきかせろ」と言ってるけどさぁ、融通って、根本的な事を把握しているからこそ
きかせることができるもんっすよ
でもその根本が理解できていないおじさんに融通をきかせた会話をしたら、おじさんは
何もわからないまま、さも解ったような上辺だけの会話になっちゃうよね
それじゃ何のための会話かっつう疑問を残す事になるっす
根本的な違いを考えている人なら、頓珍漢なカレーライスのたとえも使わなかっただろうし

おじさんていつもこんな頓珍漢なたとえで話をごまかしちゃうの?
成立しないたとえは止めた方がいいと思うっす。
106日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:23:09
あらしはスルーで
107日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:25:17
フトクニは神話と史実の区別のできないカルトな狂信者の上、
自己流の数字遊びで歴史をクリエイトしてるような輩だから、しょーがない。
108日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:37:25
仮定として、邪馬台国と狗奴国が元は一つの
国だったのが南北に分裂して、諸国に境を接
する北の邪馬台国が結果として覇権を握ったの
だとしたら、南の狗奴国は面白くない。

南で反乱が生じて分裂したのかも知れないけど。

阿蘇を中心に考えると、邪馬台国の比定地は、
本来の場所よりもやや北よりだからな。

「狗奴国」という呼称が狗奴国自身の自称であった
かどうかも、ちょっと微妙じゃないか知らん。
109日本@名無史さん:2011/02/07(月) 21:51:00
阿蘇の山門付近に菊池郡という地名があって、
狗奴国の執政のクコチヒクが菊地彦のことだ
とすると、狗奴国は阿蘇の目の前にあったと
解釈も出来る。阿蘇信仰の宗家を自認する邪馬
台国としては、この狗奴国を放置したままにして
置くことは出来ない。お互い、譲れない立場に
あったと。

空想の範囲を出ない話だけどね。
110太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 22:27:54
ポキール
オマエ、○○ポは勃起するのか? ppp

まぁ〜それはいいとしてww、オマエ相当支離滅裂だなあ〜。 
言ってることが何が何だかわけが分からん??
だいぶ、脳内にたびたび電波が飛んで来てるのか〜?

どうだ〜? 精神病院へ駆けつけたか? そうか、それはよかったな。
早く手を打たないと、もう手遅れだ〜〜。><
明日ももう一度念のため精神病院で精密検査をしてもらったほうがいい。
オマエもデンパ星人からピピッと何かが送信されて来てるか〜〜?
何だと言ってる〜?
111日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:30:26
やはり狂信者だな
112ポキール:2011/02/07(月) 22:44:59
>>110
おじさんさぁ、ここは学問するところっすよ
おじさんがやっているのはたんなるチンピラ啖呵養成講座じゃないっすか
しかも今時流行らない古典的なもの
俺の事支離滅裂というのなら、どこがどのように支離滅裂なんだか言ってみてよ
ピントの外れたカレーライスのたとえなんて俺言ってないっすよ
俺は俺なりにちゃんと方角と方位の違いをここで述べたけど、おじさんはただ
お茶を濁しただけじゃないっすか
俺が言った違いは間違っているかもしれないけど、そんなことは問題じゃないっす
学問なんだから間違いは付きもの、でもおじさんはその間違いすら放棄し
「精神異常で病院へ行け」とか「勃起するのか」とか
学問とは全く関係ない事を前置きする事で、自分の優位性を保つことに躍起になってる
ここまでレスを引っ張っても
方角と書こうが方位と書こうがどっちでもいいことの説明が全然出てこない
大人ってこんな誤魔化しばっかやってんすか?

113太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 22:50:42
あ〜そうか〜?
オマエ診療医から〜〜もうダメですよと言われたんか?www

そうだろうな〜? もう手遅れってことか〜?
じゃぁ、明日精神病院へ行ってやっぱり精密検査を受けたほうがいい。
ウン、そうしないと、ヘタすりゃぁ 檻部屋 へ入るとマズいからなぁ。

今日のところは、オマエの前にカガミを置いて、ジックリ オマエのどう
しようもないツラでもスゴスゴ見てろ。ウワッハッハ!!
114日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:53:26
おまえら・・・

邪馬台国と狗奴国は、倭国大乱の時期に
分裂したままだったとも考えられるな。
115太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/07(月) 22:57:30
>>114
可能性はあるでしょうね?
116日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:00:28
相争う南北二つの国、名前の似通った
女王と男王。
117日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:06:53
フトクニが遂にタオルを投げたwww
118日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:07:02
アマテラスとスサノオ?
119日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:47:55
ああ、岩戸神話で狼藉やったのがスサオノだっけ。

狗奴国は九州説で漠然と薩摩隼人に同定され
て来ただけだったけど。
120日本@名無史さん:2011/02/07(月) 23:58:01
九州説には、俺みたいな素人でもまだやり残されてる
ところが見つかると踏んでるんだけどw
121サガミハラハラ:2011/02/08(火) 10:45:53
>>120そうです。いっぱいありますよ。
がんばってください。
122日本@名無史さん:2011/02/08(火) 11:39:33
神話の取り扱いには歴史上のタブーが色々あって、
畿内説ですら、未だにそれを遵守してる。

イデオロギー史観に凝り固まってるんじゃ元も子も
ないんだが。
123日本@名無史さん:2011/02/08(火) 13:12:03
で、邪馬台国は本来の「山門」の地の北の
筑後川の南の平野にあったんで、阿蘇から
は切り離されていて、倭人伝にも鬼道を
行うことは書かれていても阿蘇の話は出て
来ないのは仕方ないとも考えられる。
124サガミハラハラ:2011/02/08(火) 18:30:32
歴史上のタブーってどのようなものでしょうか。教えてください。
125日本@名無史さん:2011/02/09(水) 03:03:40
神話の背後にどれだけ史実を透かし見るか。
神話史観を拒絶することが、神話の内容の
吟味そのものの拒絶に短絡してしまう無意識の
傾向。

思い過ごしかも知れんけどね。
126日本@名無史さん:2011/02/09(水) 03:07:40
いや、神話の権威のあった時代を客観的に
受け止めることと、神話の内容を客観的な
事実(史実)と受け止めることは別のことだ
って分かっていると良いんだけどね。

名匠の鈍き刀は何処を彷徨うか・・・。
127日本@名無史さん:2011/02/10(木) 12:10:29
古代史の景色を形作るのは、全く、ミケランジェロ(だったかな)の
彫像の話に似ている。像は石の中に埋もれている。それをミノを
使って掘り起こす。
128日本@名無史さん:2011/02/15(火) 09:10:28
歴史と芸術を一緒にするのは不適切。
歴史を創作、捏造しようとしている畿内説と
同じになってしまう。
129日本@名無史さん:2011/02/15(火) 19:37:38
スレはじめて覗いた。
ガンバレ九州説!!(素朴な福岡出身者より)

\(゜▽\)(/▽゜)/
130日本@名無史さん:2011/02/15(火) 21:08:30
国体思想的には九州説はNGだもんな。
イデオロギー論になっちまうけど。

>>128
あれは芸術的ではない。
131日本@名無史さん:2011/02/15(火) 22:37:09
>>64
>1.九州説一押しの吉野ヶ里にはそもそも古墳が弥生時代に作られた形跡がない。
 吉野ヶ里の北墳丘墓は出土物から女王の墓である事が判っている。
しかも、殉葬が行われた事も判っている。大きさだけが径百歩より小さいが。

>2.畿内の弥生時代遺跡には塚がある。葺き石を上から置いたら塚と言わないなどと言う用例がない。
 土盛作冢とは土を盛るだけの冢を指している。石を葺いていたら土盛作冢とは言わない。

>3.郭があれば塚と言わないというのは不詳。九州からは有力な古墳が出ていない。
 槨があれば冢と言わないなどとは言っていない。三世紀の古墳ではないが九州の初期古墳には槨がない。木棺直葬だ。
>4.魏志倭人伝に鉄の記述がない。邪馬台国から献上された武器も鉄製ではなかった。
 武器なんか邪馬台国から献上されていないだろ。

>5.方角が合わない←九州説でも合わない。
 邪馬台国は有明海側にあったのだ。吉野ヶ里なら方角はぴったりだろ。甘木でも良いな。

>6.距離が合わない←九州説でも合わない。
 距離は一里7〜80mとすればピッタリ合う。

>7.九州でも同じ方法で測定が行われている。
  それを言い出すと、九州の弥生時代遺跡も大部分がおかしいということになる。
 百年新しくなれば吉野ヶ里の全盛期は3世紀半ばになる。ピッタリだ。

>8.鎧が出たという記事と測定方法の提示を希望。
 鐙は中国で3世紀末に発明されたと言うのが通説だ。倭人伝にも日本に馬がいなかったと書いてある。
そこに鐙があったらおかしいだろ。三世紀末に発明されても日本に伝えられるまで時間がかかるだろうから、4世紀後半位が妥当だ。

>9.九州も同様。
 時代が新しくなれば二世紀の遺跡とされている吉野ヶ里も三世紀半ばになって時代がピッタリ合う。

>10.九州も同様。
 時代が新しくなれば九州に有利な事くらい判らないのか?
132日本@名無史さん:2011/02/15(火) 22:56:17
考古学的な世界観と神話世界を何が何でも一致させようと
五里霧中をさまよい続けるのが畿内説。
133日本@名無史さん:2011/02/15(火) 23:40:27
2ちゃんを覗くようになるまでは邪馬台国は畿内にあるものとばかり思っていました。
畿内説の人たちが九州説を口汚く罵るのを見て初めて畿内説に疑いを持ちました。
少なくとも九州説の人たちには畿内説の人をwwwと嘲笑したり厨呼ばわりして誹謗中傷したりする人はいませんからね。
これはきっと畿内説というのが論理的根拠を持たないことの証左なのでしょうね。
今は九州のどこにあったのかに興味があります。

大阪府在住の考古学ファンより
134fsr:2011/02/15(火) 23:52:43
畿内説の連中は
卑弥呼を本気で畿内へ拉致しようとしている
本物の詐欺師犯罪者集団だ。

ところで
倭人伝の方角が間違っているというのは誤りだ。
つまり
伊都国への方角は間違っておらず
伊都国は方角の違う前原、糸島ではなく
唐津から東南の方角に当たる佐賀平野にあったのである。

だれか
伊都国が前原、糸島にあった証拠、根拠を挙げることのできる人がいたら
提示してほしい。
伊都国=前原糸島は間違いなのだから
間違いのない証拠根拠はあるはずもないのだが。

倭人伝記載の方角に間違いがないとすれば
畿内説は瞬間消滅だ。
※倭人伝記載の距離に間違いがないとしても
畿内説は瞬間消滅。

倭種の国にどれだけ大きな墓があろうが卑弥呼とは無関係。
方角は違う、
距離は違う、
墓の大きさは違う、
何も一致する物がない
倭種の国である畿内に
卑弥呼がいたという主張をするなど失笑ものだ。
135日本@名無史さん:2011/02/16(水) 09:46:12
気違いばっかだなここw
136日本@名無史さん:2011/02/16(水) 10:24:26
九州説ってむやみやたらと畿内説を感情で否定しているばっかりだな。
「ほら、九州にはこういう邪馬台国に間違いない証拠があるでしょ?」
と誰もが納得する根拠と考古資料を示せば誰も文句言わないと思うんだが、
完全な感情論争。
とにかく畿内であってほしくないという暴論だけで
内実が全く伴なってない。
137日本@名無史さん:2011/02/16(水) 10:32:42
>>136 甘木市周辺と奈良周辺の地名が二十箇所以上位置、方角が一致するというのはどうなったんだ?

 それが首都移転・神武東征の根拠という説があるな。
138日本@名無史さん:2011/02/16(水) 10:44:30
もともと共立ってくらいだから、互いに支配できない程度の小国の集まり。
小国の王とそれを束ねる皇帝(話がでか過ぎだが)の概念もない。
中国と交流するうちにそういう概念を理解してきたのだろう。

そういう概念がなければ、自分の国がそれなりに反映すればそれで良い。

もし、小国を束ねる皇帝が小国の王の利権を害するようなら、あっさり離れていく。
卑弥呼の時代はその程度の関係でしか無い。
だから、宗教のような無害の関係でしかまとまらないのである。

大型古墳があるというのは、大軍を動かせるだけの大国であることを意味する。
それは宗教的カリスマを擁立するしかない共立国家ではない。
139日本@名無史さん:2011/02/16(水) 11:06:51
>>138 倭国はギリシャのポリス連合みたいなものだな。
140日本@名無史さん:2011/02/16(水) 11:34:09
畿内説ってむやみやたらと九州説を感情で否定しているばっかりだな。
「ほら、畿内にはこういう邪馬台国に間違いない証拠があるでしょ?」
と誰もが納得する根拠と考古資料を示せば誰も文句言わないと思うんだが、
完全な感情論争。
とにかく九州であってほしくないという暴論だけで
内実が全く伴なってない。
141日本@名無史さん:2011/02/16(水) 13:24:41
感情的という意味に於いては間違いなく畿内説に軍配が上がる
142日本@名無史さん:2011/02/16(水) 15:28:04
戦前は九州説はタブーだったのが、戦後になって東大は九州説、
京大は土地柄で畿内説だったのな。

バブル景気の頃の吉野ヶ里ブームは九州説。
143日本@名無史さん:2011/02/16(水) 15:28:52
>互いに支配できない程度の小国の集まり。
一大率はかなりの権力をもっているよ。
144日本@名無史さん:2011/02/16(水) 15:33:19
マハラジャのお立ち台で火の国の祭りをやっとった。
145日本@名無史さん:2011/02/16(水) 15:35:44
>>134の言うとおりだろう。畿内説や北九州説を言う者は、まず伊都国の比定を
論じざるをえない。
146日本@名無史さん:2011/02/16(水) 15:41:45
「記・記」には古代、天皇が崩御すると都を遷都君する習わしがあった
ようですが邪馬台国も王がなくなった際は遷都してたんですか。素朴な
疑問ですよ。そこんとこはっきりさせてよ、学会の所見はどうなのさ。
北から南に倭人は移動してるみたいな感じ?

も一つ。沖縄にノロ制度とかいう邪馬台国時代を彷彿とさせる習慣が
残ってるのはなんでですか?暖かくて良いよね沖縄わ。もう年を取るとね
寒いのが嫌なわけ。
147日本@名無史さん:2011/02/16(水) 15:43:39
ジュリアナだったかな。裸族の祭典。
148日本@名無史さん:2011/02/16(水) 17:02:48
>>146
王が死ななくとも、中心部の移動は何度も行われていたと思うよ
環境衛生面を考えると、一か所にそんなに長くいることは出来ない
ウンコやゴミの腐臭で、やがてそこに住めなくなる
149日本@名無史さん:2011/02/16(水) 17:33:28
>>145
畿内説では北部九州にあれば大して問題はないけど。
150日本@名無史さん:2011/02/16(水) 18:28:59
90年代半ばの右翼教科書運動以後だね。
畿内説優勢は。
151日本@名無史さん:2011/02/16(水) 18:50:24
>>142
いや、逆。戦前は邪馬台国九州説が優位。
そりゃそうだ、天皇家の祖先が中国に朝貢してたなんて
そんな屈辱的な話ができるわけがないだろ、あれは天皇家の祖先とは無関係、
九州で熊襲と呼ばれていた卑民の女酋長のことだとしか言えなかった。
戦後にそういった呪縛から解き放たれて畿内説を言えるようになったんだよ。
>>150
逆、逆。
右翼は邪馬台国が畿内にあったなんて絶対に言わない。
卑弥呼は九州の熊襲の女だということにしたいから。
152日本@名無史さん:2011/02/16(水) 18:57:06
全く意味不明なことばかり言う、右翼教科書をつくる会さんでした。
153日本@名無史さん:2011/02/16(水) 18:59:25
畿内邪馬台国は中国に朝貢してなかったのですか?
154日本@名無史さん:2011/02/16(水) 19:05:07
畿内邪馬台国説は倭人伝の内容を完全に無視して、
天孫降臨の話から始めるからな。
155日本@名無史さん:2011/02/16(水) 19:07:28
しかし、キチガイ天皇制とかあんまり言ったら駄目ですよ?
156日本@名無史さん:2011/02/16(水) 19:17:44
アメリカですら進化論より創造説みたいなアタマのイカレた
奴らが多数派な時代だからな…
157日本@名無史さん:2011/02/16(水) 19:19:53
ルーピー・ワールドへようこそみたいな。
158日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:41:15
畿内派は邪馬台国なんて柵封体制の九州の小国なんて
忘れて天孫降臨の世界に浸ってた方が良いだろ。

歴史学会なんて格好付けないで良いから。
159日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:44:15
日本書紀や延喜式みたいな古文書をいじりまわしてた方が
幸せでいられるだろうし。考古学なんてうるさい学問は
抜きにして。
160日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:46:46
日本神話の格調高き世界には、歴史学だの考古学だのという
不躾な浅知恵は不要。
161日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:48:44
実証的な近代学問は九州説に任せて神話の里にカエレ
162日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:51:36
初歩的な質問でわるいが、機内に外洋を渡る航海技術はあったのかい?
東シナ海の時化は凄いぜ
163sss:2011/02/16(水) 22:17:48
>>162
古代船といえば、西都原古墳群の舟形埴輪が有名で、これをもとに古代船
野生号が作られた。野生号は対馬海峡を渡り、帯方郡のあったところまで
自力で航海した。

畿内説の人は、九州から出た舟形埴輪で古代船が作れるかというわけで、
大阪府の高廻り2号墳から出土した舟形埴輪で「なみはや」という舟を
再現した。

しかし、この舟は構造的に舟とは言い難く、結局、浮かんでいるのがやっと。
大量の錘をつけて何とか安定させ、他の船に牽引してもらってやっと対馬海峡を
渡ったという笑い話のような逸話がある。
164sss:2011/02/16(水) 22:40:31
>>134
伊都国を怡土に最初に比定したのは、新井白石なのだが、これは地名の類似性
だけで比定している。だから、伊都国は「戸数・道里を略載できる女王国より
北の国」とし、すぐ隣の志摩を「途絶したその余の旁国」である斯馬国と
するという変なことをしている。

伊都国までの東南陸行五百里は誰が見ても、前原あたりとは合わないのだが、
以前の邪馬台国論争といえば、畿内と北九州。伊都国を佐賀平野にすれば、
どちらも当てはまらなくなるわけで、どちらもうやむやにしてきたんだろう。
だから、定説のようになってしまった。でも、現実はお互いに触れないで
おこう、ということだったんだろうと思われる。
165日本@名無史さん:2011/02/16(水) 22:58:24
>>164

>伊都国までの東南陸行五百里は誰が見ても、前原あたりとは合わないのだが、

浜松も静岡県、下田も静岡県。
166日本@名無史さん:2011/02/16(水) 23:39:37
地名の移動する可能性も割とあるからな。
「山門」の名前が筑後川一帯に広く拡散してるみたいに。
167fsr:2011/02/17(木) 00:35:52
≫135

どれだけ
泣いても喚いても
地団駄踏んでも

悔しいだろうが
残念だろうが

悲惨なことに
邪馬台国が畿内にあった可能性は無い。

哀れ…
168fsr:2011/02/17(木) 00:36:59
≫164

>伊都国までの東南陸行五百里は誰が見ても、前原あたりとは合わないのだが、
以前の邪馬台国論争といえば、畿内と北九州。伊都国を佐賀平野にすれば、
どちらも当てはまらなくなるわけで、

邪馬台国を畿内とか北九州とか特定の場所に比定するために
倭人伝の解釈をねじ曲げるのは学問ではない。
そのような恣意的解釈は畿内説に任せておけばよい。

伊都国を前原に否定すれば致命的な矛盾ばかり。
@唐津から前原まで今では海岸沿いの道があり、山越えの道路も新設されたが
当時はまともな道は無かったと推定される。
伊都国が前原にあったら海流を考慮しても唐津付近に上陸して五百里も陸行することはなかっただろう。
A前原への方角が大きく違う。
B前原の人口は千余戸ではなく万余戸だから人口の記載が一桁違っていることになる。
C隋書では対馬国のことを都斯麻國と記載している。
つまり、都はトではなくツだった可能性がある。
だとすれば伊都国はイトコクではなくイツコクになる。
ならばイトコクという名前は根拠にならない。
倭人伝によれば奴国も二つあったのだから奴国の名前も根拠にならない。
D奴国を博多や春日に比定すれば五百里と百里の距離があまり違わないという矛盾が生じる。
E不弥国を宇美町に比定すれば
奴国が博多ならば奴国への方角が
奴国が春日ならば不弥国への方角が
大きく違うことになり矛盾する。
F伊都国を前原に比定したら
どこに不弥国を比定しようとも
不弥国の南は山であるから南水行は絶対に不可能。
これは
致命的な矛盾である。
169日本@名無史さん:2011/02/17(木) 00:48:02
>>148 >>166 なるほどねサンクス。
も一つ 巴形銅器に関して。これ日輪に見えるんすけど出土地は
邪馬台国勢力圏すか?シンボルにも見えるんすけどもね。

各国には大倭がいて税金みたいなものを集めたり、国の情報を集めたりして
定期的に首都に行ってたんでしょか?
170日本@名無史さん:2011/02/17(木) 04:37:18
162だが、ホントに東シナ海の時化は怖い。
釣りに男女群島まで行くが何度も怖い思いをした!瀬戸内海の船と外洋の船は構造が違う。
機内の連中は東シナ海を渡る航海技術を持ってたのか?
171日本@名無史さん:2011/02/17(木) 09:59:05
この時代の距離や方位や戸数はどんぶり勘定だ。

方位は中国、帯方群方面から見た倭国の位置の先入観が
あるんで奥地に進む=南東方向みたいな解釈だったような。
172日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:02:21
どんぶり勘定といえばどんぶり勘定だが、
時々遠方の山や太陽でも見て方向を確認しないと
容易に方向を見失う。つまり遭難する。

山の中歩いて、気がついたら逆方向を進んでいるなんてよくありがち。
方向の確認は結構死活問題。
173日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:03:57
地図見ると分かるけど山間部が多くて直線で歩ける道はないよ。
174日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:18:32
唐津から伊都は、今でこそ二丈浜玉有料道路が出来てるが、
下道の旧道は海沿いで、海まで岩場の場所をずっと走る事になる。
岩場がそのまま海まで出ているので、歩いて行く道が無いか大変に細い。
船のまま移動したほうがまともだが、二丈町の海に出っ張っているところは
波も荒い。ちなみにサーフィン屋が結構並んでいる。

山の中 323号線を通ると、佐賀方面へ行ってしまう。
伊都方面に行こうとすると、途中の北山まで上がって、
伊都に降りる道となる。

そこまで上がれば、伊都に行っても佐賀にいっても大して変りない。
175日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:20:41
卑弥子の支配力は巻向王国までは及んでいなかった
176日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:25:41
唐津から伊都方向に入るのに北山を通ると結構山登りになる。
標高400m以上登らなければならない。

唐津街道を通って厳木、多久経由の道だと、標高は50m程度で
ほとんど山登りをしなくて良い。これは小城や佐賀市の方向

唐津街道という名前があるように、唐津から九州内に移動する際には
この道を使うのが一番妥当だと思われる。
177日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:26:12
>>170
畿内説なら航海に長けた、北部九州に本拠を置く連中と
連携が取れていればよいだけなんだが。
その為の伊都国でもあるし。
178日本@名無史さん:2011/02/17(木) 10:30:47
唐津に到着して陸行する以上、必ず佐賀方面に行くのはセットと思って良い。
伊都の方に行くのはかなりきつい旅になり、
佐賀小城方向はかなり容易な街道がある。

伊都や奴国に行くためには、直接船で言ったほうが良い。
179日本@名無史さん:2011/02/17(木) 11:05:45
唐津から陸行するのは、船では行けないところだったからだろう。
伊都国が有明海沿岸ならば、船で回るよりも陸行した方がずっと簡単、
陸行した意味が十分に分かる。
しかも、佐賀市付近ならば、そこから南水行ができる。倭人伝どおりで
何ら問題がないということになるね。
180日本@名無史さん:2011/02/17(木) 11:16:10
距離は帯方郡から邪馬台国までの合計を文章内でだけは矛盾が
生じないように、つじつま合わせしてあるんだったかな。

たまにしかやらないと忘れてしまう。
181日本@名無史さん:2011/02/17(木) 11:18:31
佐賀あたりから南方向、あるいは南東方向に行くには、
現在の地図なら、大川あたりを経由しても陸行でいけそうな気がするが、
当時は吉野ケ里のすぐ南まで海が迫っていたという説があるように、
筑後川下流域は今でも川や湿地帯が多く、堀を作って水を抜けやすくしている
名残が随所に残っている。

そんな場所であり、かついずれ筑後川を渡るときには船が必須であることから、
佐賀から目的地まで船を利用するほうが良いと思われる。
水行の文字は妥当であると言える。
182日本@名無史さん:2011/02/17(木) 13:30:16
巴形銅器は弥生時代後半から現れ古墳前期頃まで見られたとの事。

自分はこれは倭国(邪馬台国)の国旗、或いは旗の様なものではないかと
勝手に妄想してます。戦争の際、敵味方を区別するのに使われたり国の門扉などに
飾ってあったか?

自分たちが倭国の構成員の一人だと自覚する視覚的にわかりやすいもの、
国民の意識の芽生えのような。なんか日本国旗にもみえますよねw

以上妄想でした。諸先生方怒らないでね。


183日本@名無史さん:2011/02/17(木) 23:47:25
>>182
なるほどね面白い考えですな。有難うございます。
ホントに九州のどこなんですかねぇ。怪しすぎる所多すぎ。
184日本@名無史さん:2011/02/18(金) 00:08:11
伊都国が佐賀市付近ならば、あとは何の問題もないだろう。
伊都国が有明海沿岸だということは、そこから南水行ができるということ。
つまり、奴国や不弥国に行く必要はないってことだよ。ということは、伊都国
からは放射式に進めばよいってことだ。
投馬国は水行二十日、薩摩川内市か南さつま市ということになる。薩摩川内の
方が平野が大きいから、まずそこで間違いなかろう。
となれば、次の邪馬台国は、伊都国から水行十日、熊本で上陸して日向に向か
うもんだろう。宮崎か都城、南にこだわれば都城だな。
185fsr:2011/02/18(金) 01:22:57
>>178
唐津に到着して陸行する以上、必ず佐賀方面に行くのはセットと思って良い。
>>179
唐津から陸行するのは、船では行けないところだったからだろう。

まともな思考をする人が多いのは本当に心強い。
186fsr:2011/02/18(金) 01:24:43
>>181
当時は吉野ケ里のすぐ南まで海が迫っていたという説があるように

西日本新聞にコメントしていたある女性考古学者によれば吉野ヶ里が海に面していた。
学説では吉野ヶ里は海に面していたことにはなってないが、
海岸線の位置は諸説あり正しい海岸線の位置は判らないと言うのが本当らしい。
しかし
素人の目からすれば
吉野ヶ里の東と西に港があったこと、
港の倉庫の位置から川ではなく海だったように判断できること、
海から遠く離れて
下流域にはほとんど人が住んでいない川沿いに
荷物の上げ下ろしのための倉庫群があるのは不自然であること、
弥生時代遺跡密集地帯などから判断すると
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
吉野ヶ里は海に面していたと考えられる。
187fsr:2011/02/18(金) 01:26:40
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
【弥生時代遺跡分布図】

唐津から東南六百里の場所にある奴国は
弥生時代遺跡分布図から判断すれば佐賀市北部の遺跡密集地帯しかない。
縄文時代の遺跡分布図もほとんど同じ。
ここには
東名遺跡という西日本で最大級の縄文貝塚遺跡がある。
最大級の貝塚遺跡があるということは超過密の大人口地帯だったと思われる。
遺跡分布図からも遺跡がびっしりと密集していて、それを裏付けている。
一大国+対馬国(壱岐対馬)四千戸、末盧国(唐津)四千戸の遺跡と比較すれば
(奴国)佐賀大和〜吉野ヶ里の二万戸の人口は妥当に思える。
そして
唐津から六百里(30〜60q)程度の場所で
伊都国→奴国百里、奴国→不弥国百里を満たす狭い地域に二万戸の人口を擁する場所は
他には無いのである。
もちろん
博多、春日にはこれほどの人口過密地帯は無い。

奴国の位置から考慮すれば(中心は東名遺跡の北東1〜2qの地点)
奴国の東百里の不弥国は吉野ヶ里になり、
奴国の北西百里の伊都国は佐賀大和、嘉瀬川沿いの都渡城付近が最有力となる。
188fsr:2011/02/18(金) 01:52:13
倭人伝に
自女王国以北其戸数道里可略載其余旁國遠絶不可得詳
(女王国より北はその戸数、道里を簡単に記載できるが、その他の旁國は遠く隔たり詳しく知り得ない。)
とあることから
魏使は戸数道里を記載した
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壹國以外の国はどこにあるか知らないのである。
言い換えれば
魏使はこの8カ国以外の国へは一国たりとも行っていないのである。
つまり
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壹國の間には他の国は一国たりとも無かったのである。
すなわち
水行二十日水行十日陸行一月は魏使が倭国へ来た目的を果たすための日数であり
所要日数のことではなかったのである。

だとするならば
不弥国(吉野ヶ里)の南にあるのが投馬国で
その南にあるのが邪馬壹國ということになる。

投馬国は奴国の二倍半の人口があることから
投馬国の領土は大川市、三潴市、筑後市、八女市。八女郡になり
邪馬壹國は奴国の三倍半の人口があることから
山門郡〜大牟田市、熊本県荒尾市付近までだったと推定される。
189日本@名無史さん:2011/02/18(金) 10:05:35
>対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壹國の間には他の国は一国たりとも無かったのである。
ここまでは、そのとおりだろう。

>水行二十日水行十日陸行一月は魏使が倭国へ来た目的を果たすための日数であり
>所要日数のことではなかったのである。
これはちょっと無理な考え方だな。無理はしないこと。

>狭い地域に二万戸の人口を擁する場所は他には無いのである。
狭い地域に二万戸を考える必要はない。倭人伝が書いている奴国は使者が奴国の王に
会った所だろう。奴国はそこを含むがその領域は二万戸を擁するきわめて広い地域で
あったと考えるべきだ。



190日本@名無史さん:2011/02/18(金) 10:16:29
佐賀市周辺を奴国として、
久留米市周辺が投馬国
熊本が邪馬台国

佐賀市周辺は筑後川の西側、吉野ヶ里も含む。
久留米市は筑後川の東側、東の甘木と南の八女も含む
南関から南、大牟田、荒尾と熊本平野全域が邪馬台国

としたほうが地形と文化の切り分けが素直だと思う。

そう考えると、狗奴国はむしろ福岡平野勢力だったりしてな。
狗奴国という名前は、犬の奴国という悪口だったりして
191sss:2011/02/18(金) 10:53:42
>>190
その説には賛成なんだが、倭人伝の記述から狗邪韓国も倭の支配するところ
だった可能性が高い。もちろん、壱岐や対馬もそう。
これで熊本平野までもが倭国に含まれるとすれば、倭国は相当に広範囲な
地域になる。
その王である卑弥呼が魏に救援を求めるような敵国・狗奴国は、やはりそれに
匹敵すると考えなくてはならないわけで、兵庫県北部から山口県あたり
までを支配していたとも考えられる出雲の勢力ではないかと思う。
192日本@名無史さん:2011/02/18(金) 11:16:08
狗奴国が筑後熊本勢力に対抗するだけの大きさを持つとすれば、
筑豊北九州を入れる必要はあるだろうな。そうすると
宇佐大分も狗奴国エリアに入ってくる。

伊都と奴国は一心同体と思って良い。
もし喧嘩別れしても、奴国が伊都を攻めてでも服従させるから
結果的にはいつでも一心同体だ。

山口と出雲を入れる必要があるかどうかはよくわからない。
弥生文化圏は平地農耕文化であり、山口周辺はあまり大きい平野がない。
だから取ってもあまり勢力は大きくならない。

出雲は遠い。平野を考えるなら、山陽のほうが良いと思う。
のちに山陰で製鉄を初めてからが、出雲の価値だろう。
193fsr:2011/02/18(金) 15:15:19
>>189
>水行二十日水行十日陸行一月は魏使が倭国へ来た目的を果たすための日数であり
>所要日数のことではなかったのである。
これはちょっと無理な考え方だな。無理はしないこと。

無理な考え方と考えるのに何か根拠はあるのかな?。
水行陸行を所要日数と考えているのは日本人学者。
中国人学者はそうは解釈しない。
どちらが信頼性があるのかは言うまでもない。
〓〓〓〓
ここに出てくる「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は、休日や節日やいろいろな事情によって、
ひまどって遅れたり鬼神への配慮などから道を急ぐのを控えた日々などをひっくるめた総日数に、
‐‐‐途中省略‐‐‐魏使一行が一日も休まずに水行し陸行した強行日程数を記したものでないことは明らかである。
【季刊邪馬台国86号P.149・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】
〓〓〓〓

>狭い地域に二万戸の人口を擁する場所は他には無いのである。
狭い地域に二万戸を考える必要はない。倭人伝が書いている奴国は使者が奴国の王に
会った所だろう。奴国はそこを含むがその領域は二万戸を擁するきわめて広い地域で
あったと考えるべきだ。

抽象的な意見ではなく
具体的に
伊都国、奴国、不弥国の比定地を提示できなければ意味のない主張になる。
194fsr:2011/02/18(金) 15:25:18
>>189
>佐賀市周辺を奴国として、
久留米市周辺が投馬国
熊本が邪馬台国

久留米市周辺が投馬国では方角が違う。
熊本が邪馬台国では
最大の人口密集地帯の八女筑後〜大牟田市が無視されている。

>としたほうが地形と文化の切り分けが素直だと思う。

地形と文化の切り分けについて詳しい解説を期待します。

>そう考えると、狗奴国はむしろ福岡平野勢力だったりしてな。
狗奴国という名前は、犬の奴国という悪口だったりして

倭人伝には狗奴国は邪馬台国の南にあると記載してある。
195日本@名無史さん:2011/02/18(金) 15:30:48
水行十日陸行一月は上陸地点に全く触れてないから、
海を行けば十日陸を行けば一月と考えるべき。
196日本@名無史さん:2011/02/18(金) 16:08:32
>>193
謝銘仁の説はそうおかしくはない。あなたが同じ趣旨を言おうとしたのならば結構だが、
「目的を果たすための日数」という要約はそうは読めなかった。
謝銘仁の説も、所要日数の一つの考え方にすぎん。

伊都国は佐賀平野全体かな。奴国は筑後川左岸から福岡平野。不弥国は吉野ヶ里付近。
投馬国は薩摩川内を考えるが、その領域は熊本南部から薩摩半島全部かな。
邪馬台国は日向全土。鹿児島、熊本の一部も入るかもね。
197日本@名無史さん:2011/02/18(金) 16:15:31
みんなまとめてお薬出しておきますね
次の九州説の方どうぞ〜
198fsr:2011/02/18(金) 16:24:21
>>196
>謝銘仁の説はそうおかしくはない。あなたが同じ趣旨を言おうとしたのならば結構だが、
「目的を果たすための日数」という要約はそうは読めなかった。

謝銘仁は「目的を果たすための日数」とは一言も言っていないのだから
そう読めなくても当然。
謝銘仁が言っているのは
「水行陸行は明らかに所要日数ではなく、他に何か理由のある日数」と言うことである。

私が倭人伝を解釈したら「他の何らかの理由」が「目的を果たすための日数」と判っただけ。

>伊都国は佐賀平野全体かな。

伊都国は千余戸しかない。
伊都国は佐賀平野全体が成立する可能性はない。
倭人伝の記載を無視した空論ならどんな主張でもできる。

>奴国は筑後川左岸から福岡平野
不弥国は吉野ヶ里付近。
投馬国は薩摩川内を考えるが、その領域は熊本南部から薩摩半島全部かな。
邪馬台国は日向全土。鹿児島、熊本の一部も入るかもね。

倭人伝の記述を完全無視していいのならどんな無茶な説でも成立してしまう。
199日本@名無史さん:2011/02/18(金) 16:33:45
>伊都国は千余戸しかない。
魏略は戸万余としている。倭人伝は単なる誤写とみる説が有力だ。
私もそれを考えている。

>倭人伝の記述を完全無視していいのなら
無視はしていないつもりだが。行程記事に出てくる国は、その国の首都か王が
実際にいたところだろう。それと領域の広さとは別に考える必要がある。

200日本@名無史さん:2011/02/18(金) 16:43:12
いや 素晴らしい。本家のヤマタイスレよりずっとまともで論理的だ。
畿内説の方達がいると足を引っ張られてどんどん変な方向に行くし
挙句は罵詈雑言の応酬(たぶんほんの1〜2人の方達のせいだが)。
ここのスレは九州限定で議論・批判しあって修正し目的を遂行していって欲しい。

学問は積み重ねだよね。失敗や間違いは当たり前、問題なのはそれを悪し様に
いう奴、素直に間違いを認めず変えて行こうとしない人、イデオロギーの人など。

試行錯誤しないと分かる訳がない。天才なんていないんだよ、万人の積み重ね。
201日本@名無史さん:2011/02/18(金) 18:23:55
佐賀市付近を伊都国と見る話だが、主な候補エリアは旧大和町だな。
現佐賀市中心部は標高0メートルから3メートル程度が大半なので
少なくとも湿地帯だろう。
ただ、創立して1600年以上といわれる与賀神社なんてのが、
佐賀城の近くにあるので、断言はできない。

人口としては、旧大和町の前身の春日村と川上村で千戸は余裕。
弥生遺跡の具合を見ても余裕。
一万戸となると、さすがに大和町だけでは足りず、神崎くらいまで
(吉野ヶ里もその辺り)エリアを広げなければならない。

神崎吉野ヶ里エリアもひとつの小集落であり、旧大和町総座遺跡あたりも小集落。
のちに旧大和町に肥前国庁が設けられた事や、大和町の與止日女神社が肥前国一の宮と
成っているところを見ると、大和町にまとめられたのかもしれない。

ちなみに、吉野ヶ里の近くにある神崎櫛田神社もなかなかの規模である。

202日本@名無史さん:2011/02/18(金) 22:19:36
モリコウの新聞に連載していた奴が新書になってたの知ったんで読んでみた。
はっきりと東遷説になっていてワロタ
最後っ屁かよ。

終止符スレでも張政の話題になっていた更にワロタ
おっさんはこういう煽りがうまいなあ。
203日本@名無史さん:2011/02/18(金) 23:48:28
>>199
軍事・外交の拠点であり「・・・世々有王」ともあるように
あるいは師升もそこに居た古都であったがゆえに邪馬台国が直轄地として治めていたからではないかとも
軍の駐留のため、伊都国人が強制的に退去させられていたからではないかとも考えます
食糧や物資などは奴国から運んでいたのでしょう
204日本@名無史さん:2011/02/19(土) 01:45:59
九州説は倭人伝を丸暗記したら良いか知らんね。
205日本@名無史さん:2011/02/19(土) 02:11:31
>>204
普通にいるのでは?
206日本@名無史さん:2011/02/19(土) 03:09:08
邪馬台国を研究する者には常識だな。
207日本@名無史さん:2011/02/19(土) 07:36:07
畿内説も倭人伝ぐらいは読んでから議論をして欲しいね。倭人伝は信用できない、
って言うから、どこがと聞くと、もう何も答えられない奴ばかりだ。
208fsr:2011/02/19(土) 09:05:46
>>199
>伊都国は千余戸しかない。
魏略は戸万余としている。倭人伝は単なる誤写とみる説が有力だ。
私もそれを考えている。

私も偉い先生が(賢い先生だとは決して思っていない)
「千余戸は万余戸の間違いです。」と自信満々に言われているのをテレビで見たことがある。
「千余戸は万余戸の間違いです。」の根拠は前原の遺跡が千余戸ではなく万余戸でないと矛盾するからです。
つまり
伊都国を前原に持って行きたいがために倭人伝の記載を間違いと断定してしまったのです。
しかし前原は人口だけでなく方角も大きく違っています。
都合の悪いことは全て間違いで片付ける主張はとてもまともとは思えません。
また、
魏略の方が正しいとする根拠はそれだけで他には何もありません、
また、魏略はと言えば
『其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀』
『従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里』
『倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里』
どこから入手したのか判らないような断片的で
間違いが多いと思われる書物です。
卑弥呼と同時代を生きて詳細で正確な文書を書き天才とも言われた陳寿の
倭人伝の記述を否定する根拠になるとはとても考えられません。
209fsr:2011/02/19(土) 09:07:27
>>199

>倭人伝の記述を完全無視していいのなら
無視はしていないつもりだが。行程記事に出てくる国は、その国の首都か王が
実際にいたところだろう。それと領域の広さとは別に考える必要がある。

四世紀以降にも九州の各地に王がいます。
三世紀に王もいないほど完全統一されていたと言う主張には苦笑しています。
確かに王はいたに違いないが、
東南至奴國百里、東行至不彌國百里とは無関係です。
倭人伝の記載を満たす
末盧国、伊都国、奴国、不弥国の比定地は存在しますか?
伊都国を千余戸ではなく万余戸としたら比定できるのですか?
抽象論だけでいいのなら
どんな無茶なことでも言えます。
210fsr:2011/02/19(土) 09:22:13
>>201
>佐賀市付近を伊都国と見る話だが、主な候補エリアは旧大和町だな。
現佐賀市中心部は標高0メートルから3メートル程度が大半なので
少なくとも湿地帯だろう。

同意見です。

>ただ、創立して1600年以上といわれる与賀神社なんてのが、
佐賀城の近くにあるので、断言はできない。

鍋島、城島など古い遺跡は多数あります。
しかし、
弥生時代遺跡分布図を見ればそれらの遺跡は点在しています。
『絶在海中洲島之上或絶或連』と言う倭人伝の記述や
遺跡分布図から判断すれば
遺跡の周囲は海だったと考えられます。

弥生時代遺跡分布図
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG

211日本@名無史さん:2011/02/19(土) 09:40:25
>遺跡の周囲は海だったと考えられます。
陸地でも洪水の時に冠水する地域は定住に適さないから、そんな地域
だったのかも知れないよ。
212fsr:2011/02/19(土) 09:49:49
>>203
そのように考える根拠は何ですが?
伊都国の比定地は何処ですか?

根拠を提示して
具体的な話をしたら
より多くの人の同意が得られるかもしれません。
今の主張では
単なる思いつきを述べたのと同じで
正しいとも、間違いとも
全く判断できない状態です。
213fsr:2011/02/19(土) 09:56:50
>遺跡の周囲は海だったと考えられます。
陸地でも洪水の時に冠水する地域は定住に適さないから、そんな地域
だったのかも知れないよ。

学説でも海だったことにはなっていない。
海だったというのは
倭人伝の記述と
島のつく地名が多いことと
吉野ヶ里の港の倉庫群などの地形と
弥生時代遺跡分布図から判断した
私の意見にすぎない。
もっとも
海だったと言っている学者もいるから
正確なことは誰にも判らないと言うのが本当のことだろう。
214日本@名無史さん:2011/02/19(土) 10:23:19
>>208
伊都国が前原ではないという点は同意。

@『其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀』
倭人伝にはないが、納得できる記述だろう。原資料にあったと考えて何の
不自然さもない。

A『従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里』
七千里の誤写だろうね。つまり、倭人伝と同じ記述だ。

B『倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里』
これは倭人伝に同じ事が載っている(若干表現はちがう)。
倭人伝の解釈の参考になる。

以上のように見ると、魏略は誤字はあるが結構信頼できる。
魏略に万余とあり倭人伝に千戸とあるのは、どちらかが誤写していることは明白だ。
どちらが誤写したのか? 伊都国が一大率の治所を置くところ(一大率はそれなりに
配下を従えていたはずだ)、3官が記されていることなどをみると、千戸(これは対
馬と同じ)はいかにも少ない。
私は魏略の記載の方が信用できるように思う。もちろん、千戸もまったく可能性がな
いとまでは言わないが。
215日本@名無史さん:2011/02/19(土) 10:27:38
>>214の追加
>天才とも言われた陳寿
陳寿がまちがったとは考えない。陳寿は正しい記述をしたであろう。
それが写される過程で、誤写が混入したと考える。
216巨匠・伊作:2011/02/19(土) 10:41:10
168 :fsrの発言

C隋書では対馬国のことを都斯麻國と記載している。
つまり、都はトではなくツだった可能性がある。
だとすれば伊都国はイトコクではなくイツコクになる。
ならばイトコクという名前は根拠にならない。

●これ。↑↑↑
きちんと述べている人がいるんだけど。

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/9520216820022ceffab4f51f34a5ed0b
217巨匠・伊作:2011/02/19(土) 10:50:10
ついでに。皆さんを元気づける論考。
各論は総論と有機的に関連するから、
断片的にじゃなく構造的に読み解く必要があるし。

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/d77ca4e423e08b7d703beb177db3c108
218日本@名無史さん:2011/02/19(土) 10:56:04
>>210


その遺跡分布図が当時の海岸線を表しているのかもね。
219日本@名無史さん:2011/02/19(土) 14:56:49
南側が海岸線、北が山の裾野ね。
筑後川南岸のはないのかな。
220fsr:2011/02/19(土) 23:45:00.31
>>214

伊都国が前原ではないという点は同意。

大変心強いことです。
しかし
どうして反対意見が皆無なのかな〜?
伊都国が佐賀平野だったならば倭人伝の方角は間違っていないことになり
畿内説は完全に消滅してしまうのだけどな。
いや、
九州説の先生方の説もほとんどが頓死してしまうことになる。
先生方の伊都国=前原の根拠でもよいからあつたら大歓迎なのだが。
「私は魏略の記載の方が信用できるように思う」には反論しません。
伊都国万余戸として
末盧国、伊都国、奴国、不弥国の比定地を提示してほしいものです。
221fsr:2011/02/19(土) 23:47:33.26
>>218
その遺跡分布図が当時の海岸線を表しているのかもね。

そう考えた方が一番自然だと思えますよね。
『なんでも鑑定団』で鳥栖甘木朝倉付近まで海になっている古地図を見たことがあります。
信頼性については判りませんが。

>>219
南側が海岸線、北が山の裾野ね。
筑後川南岸のはないのかな。

佐賀県は時代に分けて遺跡分布図を作っているのでホントに役に立つ。
私が見た限りでは
福岡県では一つの地図に違う印をつけて時代を提示してあるので判りにくい。
縄文、弥生時代を調べると
佐賀県の遺跡分布図と同じように
筑紫平野の遺跡は鳥栖、甘木朝倉付近も含めて
全て山の裾野に帯状に
びっしりと密集しています。
福岡の遺跡分布図は福岡県立図書館にあります。
222sss:2011/02/20(日) 00:05:22.32
>>221
諸富町あたりまでは弥生後期の集落跡も見つかっているので、このあたりまでは
陸地だったんじゃないかな。また、諸富町は港町だった形跡がある。
個人的には、ここを不弥国にしたいと思っているのだが。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/kaiho442.html
223fsr:2011/02/20(日) 00:59:10.28
>>222
諸富町あたりまでは弥生後期の集落跡も見つかっているので、このあたりまでは
陸地だったんじゃないかな

北に当たる
JR佐賀駅の4q程度北にある東名遺跡は海に面していたことが
学説になっています。
また
海岸線から東へ10q以上離れた大木町、筑後市では 
田で海の貝のびっしりと密集した貝殻があります。
私は島だったと考えてますが
海でも陸地でも大勢に影響ないので反対はしません。

>個人的には、ここを不弥国にしたいと思っているのだが。

伊都国とか奴国とか不弥国を単独で比定する人が多いようです。
他の国との位置関係を無視していいのなら何処にでも比定できることになります。
末盧国、伊都国、奴国を提示していただかないと
最終的には、いかなる判断もできないのですが
諸富町を不弥国に比定して矛盾のない位置関係は存在し得ないと考えています。
224219:2011/02/20(日) 02:04:19.33
川幅は今と大して違わないのかな。

誤解してました。
225日本@名無史さん:2011/02/20(日) 03:20:33.20
誰だよ、九州に遺跡ないとか言ってた奴は。
226日本@名無史さん:2011/02/20(日) 05:45:51.84
>伊都国が佐賀平野だったならば倭人伝の方角は間違っていないことになり
>畿内説は完全に消滅してしまうのだけどな。
>いや、九州説の先生方の説もほとんどが頓死してしまうことになる。
そのとおりだろう。しかし、伊都国=佐賀説は、倭人伝どおりなので、これ
に対する有効な反論は不可能だ。古代史の常識に反するとか言って、徹底的
に無視するほかなしという考えだろう。

>末盧国、伊都国、奴国、不弥国の比定地を提示してほしいものです。
末盧国は唐津、伊都国は佐賀大和、奴国は城島、不弥国は吉野ヶ里。
ただし、その領域はかなり広いものと考える。例えば、末盧国は伊万里も含む
のではないかな。伊都国は吉野ヶ里以東を除く佐賀平野の大部分を考える。
奴国は筑後平野、福岡平野の全部。城島は奴国が有明海に出るための港町。
227日本@名無史さん:2011/02/20(日) 10:22:50.51
松浦からいきなり佐賀大和に行くのではなくて、
多久、小城と刻んでいくほうが、距離的にはいいのではないかとも思う。

そうしてと奴国2万戸を佐賀、神埼、三養基、と比定する。
久留米筑後(甘木方面も含む)を投馬国
熊本を邪馬台国
228sss:2011/02/20(日) 12:08:01.88
>>223
不弥国から先は有明海を南下していると思われるので、それ以前からここは
港町であり、熊本あるいは八女などと北部をつなぐ要所だったと考えられる。
その意味で港の遺跡もある諸富町が良いんじゃないかな。
どっちみち、筑後川があるからそれより南は陸行出来ないわけだし。

諸富町は、徐福渡来の地としての伝説もある。
金立神社の碑には次のような文があるとか。
「徐福一行がまず着いたのは、杵島の竜王ア(佐賀県白石町)でしたが、
上陸に適さなかったので、海に大盃を浮かべ、これが流れ着いた筑後川下流
の搦(からみ)に上陸しました。」
搦というのは、諸富町大字寺井津東搦、旧名を浮盃新津というとある。

不弥国を諸富町に比定するということは、伊都国が多久か小城付近になり
奴国は佐賀市付近ということかな。
229巨匠・伊作:2011/02/20(日) 12:40:52.50
sss さん。
だいたい・いい線に近づいてきましたね。

●牛津周辺には、生立ケ里、大戸ヶ里、など「里」のつく地名が4ヵ所ばかりある。
里は原=はるのように「人の手が入った土地」とは違って区画整理された土地の意味です。
●牛津も古代の良港として機能していました。
●佐賀県南部もまた、寺井津、浮盃新津、諸富津などが帰納していました。
●諸富町の新北神社には、樹齢2200のビャクシンの古木があります。
これは日本では自生しないといわれ、この地が陸地か島だった証拠です。
●筑後川を渡れば、大川市の風浪宮には樹齢2000年の楠の木があり、
柳川市街地には弥生遺跡がたくさんあります。これと瀬高町は近いが、
古代においては、瀬高町よりも人口密集地でしょう。
●人口密集地といえば、筑後河東岸から熊本平野が弥生の人口密集地です。
すべて細かく検証済みです。

寺井津は「徐福が手を洗った井戸」からきているから、「手洗いの井戸の津」です。
ほれ。伊都を「いつ」と読めば、ゴロが近い地名がありますね。
ただし、ここが伊都国とした場合、
「東南陸行500里、東南100里、東行100里」とは計算が合いません。はははー

佐賀平野から柳川市あたりにかけては
虫食い状態の天然の水路が無数に走っていました。
伊都国から先を「東南100里、東行100里」と行程手段を書かなかったのも、
水陸兼用で通交したからではないかと思いますがね。

倭人伝のいうことに、本当に忠実とレースすれば、
誰しもたどり着くところは似てくるはずです。
●ただし。そこまできて、筑肥産地以北でお茶を濁す「エゴ」がまだありますね。

(こうした私の邪馬台国探しの詳しい論考は私のサイトに公開していましたが、
電子書籍にしたことでサイトからは削除しました)。
230sss:2011/02/20(日) 12:56:57.40
>>229
なるほど。
僕は邪馬台国は菊池平野ではないかと思っているんですよ。
方保田東原遺跡もすごいけど、どちらかというと、うてな遺跡に興味があるほう
ですね。
231日本@名無史さん:2011/02/20(日) 13:00:06.09
宮崎平野の都城だろう?
宮崎という地名も都城という地名も、大昔ここに都があったことの名残でしょう。
232sss:2011/02/20(日) 13:04:23.28
>>230
ただ、決定したというわけでもなくて、若干の疑問もあり、その一つが
日田から出土した鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)。どうして日田から出たのか。

>>231
都城は、長年にわたって大和朝廷と対立を続けた熊襲の本拠地だと思う。
233巨匠・伊作:2011/02/20(日) 13:07:55.34
sssさん。
>うてな遺跡に興味があるほうですね。
私が長年となえてきた線に近いですね。

私は、邪馬台国探しのポイントは、
帥升たち男王の都を特定することだと考えてきました。
それを卑弥呼が継承しているからです。

で・菊池と山鹿が両脇を固めた臺(うてな) 台地が王城があったところで、
その奥に80メートル高くそびえる米原台地が篭城用の山城と、
2段か前の城を康生していたと踏みました。
米原の台地は7世紀の鞠智城があったところで、不可思議な遺構が残っています。
ここにある人口の貯水池から、弥生遺跡からしか出ない大型の木製鋤が2本でています。
ということは、この「人口の貯水池」は鞠智城以前からあった理屈です。
面白いですね。

地元の考古学関係者のいうところでは、
ここからは、弥生と古墳時代の境目の時代(倭国大乱と吉野ケ里が放棄される時期)の
土器が少し出土しているが、ここで途切れて7世紀の遺物に飛ぶのだそうです。
それで、卑弥呼は大乱で消失したこの土地を放棄して新たな所へ都を移したとみています。

新しい論考はサイトでは公開していませんが、
これまで注目されなかった所に比定しなおしました。
みなさんは、私の歩いた道を探せるかどうか。期待しています。
234巨匠・伊作:2011/02/20(日) 13:14:38.56
231
>都城という地名も、大昔ここに都があったことの名残でしょう。
都城の地名は、室町時代に島津家分家のに北郷義久が築いた城の名前「都之城」から。

ここには古くから豊満という地名があります。
地元では「とっみっ」と呼びます。
大和州の「とみ」「とび」との関連をいう人もいます。

私はここが投馬国の本拠地だと思いますよ。
ここ諸県郡と肝属(きもつき)郡は、飛び地のように弥生の人口密集地でした。古墳も多いですね。
235巨匠・伊作:2011/02/20(日) 13:18:05.73
ちょっと変換ミスが多くて失礼。
なにしろ短気だせっかちなもので。
236巨匠・伊作:2011/02/20(日) 13:29:11.71
>方保田東原遺跡もすごいけど、
王城は庶民集落や軍事集落や農工業生産集落とは隔絶した所にあるはずです。
まして、王都域には墓はつくらないから、墓もでなければ
おびただしい甕棺や庶民の生活土器も出ないはずです。

吉野ケ里を邪馬台国だという人もいますが、全くの歴史錯誤ですね。
無数の甕棺とか墳丘墓があるし、放棄されたあとは墓域として利用されている。
237sss:2011/02/20(日) 13:39:12.68
うてな遺跡は多重環濠集落で、四重くらいの環濠が巡らされていたはず
ですが、環濠には多量の土器が埋まっていた。
これは吉野ヶ里遺跡とも共通しますね。しかも、年代も似ている。
共に集落を捨てたかのような感じがある。
他の遺跡については良く知らないけど、これはどんなものかな。
238sss:2011/02/20(日) 13:52:27.40
>>234
都城では、熊襲祭りというのがある。また、熊襲あるいは隼人の首領と
いわれる「弥五郎どん祭り」というのもある。
やっぱり、都城は熊襲の本拠地でしょう。

宮崎平野と肝属平野は墓制あるいは文化が非常に良く似ている。
例えば、高塚式の墓と地下式横穴墓が共存している点など。
なんとなく、異文化の融合という感じもする。
239巨匠・伊作:2011/02/20(日) 13:54:02.85
うてな遺跡からは、前原偏重主義連が女王の墓だとさわぐ平原1号墳の2倍の規模の
方形周溝墓が発見されています。(築造年代は不詳)

そもそも、地名が「臺(うてな)」ですよ。
菊池の語源は「くくち」です。くくちとは山麓からおりてきた出口」とか。
山麓への出口なら「山門」も同じ意味ですよ。菊池郡には山門もあったし。

菊池と山鹿が両脇を固めた奥に、標高70メートルほどの広大な台地があって、
その端にうてな遺跡。
その台地の奥には、さらに80メートルほど高い独立台地。広さは東京ドーム12個分。
ここには、2キロ四方の古代土城の土塁遺構。
7世紀に、短期間で鞠智城が築かれている。
ところが、古代山城最大の鞠智城だけは、築城記録がない。

で・王城の門脇(闕)にこそふさわしい(親王が赴任しただざいふにもない)
8角の装飾楼閣の遺構が50メートル間隔で2棟分。
時代を隔てて4棟分あるといいます。軍事砦にひつようなのは櫓でしょう。わらい
240巨匠・伊作:2011/02/20(日) 14:00:51.99
>宮崎平野と肝属平野は墓制あるいは文化が非常に良く似ている。
<例えば、高塚式の墓と地下式横穴墓が共存している点など。

このあたりになると長くなるので、このページと次のページを見てください。
熊襲や隼人がいかなるものか。姉妹サイトの『民俗の指紋』をみていただくとありがたい。
おどろきの倭人像と熊襲・隼人像を提起しています。

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/aeb2d51f6dd0c5abe60c1e0fe0e5be6b
241巨匠・伊作:2011/02/20(日) 14:07:09.42
いけね。『民俗の指紋』→→『民族の指紋』
242sss:2011/02/20(日) 14:17:02.96
>>239
うてな遺跡を航空写真で見たとき、台地の端という感じはしますね。
鞠智城のあたりが広大な台地の中心部という感じもする。
なかなか難しいところです。
243巨匠・伊作:2011/02/20(日) 15:27:59.23
鞠智城趾から弥生の鋤が出たことからも、膨大な土塁遺構からも、
また、鞠智城が比較的短期間でつくられたことからも、
ここに城としての土台があったものと思われます。

地元では、ここには古い城があったと言い伝えられています。
ここに、帥升にはじまる男王たちの倭国の居城があった可能性を想定します。

それよりも何よりも、熊本平野を衛星写真でご乱なさい。
南北と東は山が囲み、左巻き台風の被害が少ない地形。
周囲には通交に便利な大小の河川が流れ、西側には穏やかで豊穣の内海。
風水でいう「東高西低の背山臨水」です。
大和盆地とウリ二つの地形をしているでしょう。

天然の地形を防衛構想と王都づくりに活用した古代において、
日本列島で古代の王都にふさわしいのはこの2ヵ所だけです。
しかも熊本平野は、大陸・朝鮮半島とのアクセスも良かったわけです。

244sss:2011/02/20(日) 16:22:36.89
>>240
ちょっと居眠りしてた。ざっと見ましたが、量が多いので後でゆっくり見ます。
装飾古墳については、時代が違うと思ったのであまり関心はありませんでした。

移住については疫病の発生や、西暦280年の呉の滅亡といった中国の事情も
あるかもしれない。さらに、日向経由も考えたいですね。東遷説を採る人でも
どういうわけか日向を無視する人が案外多いと思います。
つまり、古墳発生については日向の方が早いということも考えられます。

また、饒速日命の方が先に大和に来ていたということも考える必要があると
考えています。

伊作さんは、記紀に対する信用性がいまひとつみたいですが…。
245巨匠・伊作:2011/02/20(日) 17:35:01.37
>装飾古墳については、時代が違うと思ったので
どうも。東遷後の九州を任された土着勢力の痕跡ですよ。
東遷と大いにかかわりがあります。

>饒速日命
大和州開拓の先遣部隊というところでしょう。

>記紀に対する信用性がいまひとつみたいですが…。
消してしまった漢魏晋宋代に相当する部分は新陽しません。
この400年間ほどは神話時代のこととして作り変えています。

記紀でも、制度・習慣といった部分は創作する必要がなかったので信用します。
三種の神器の中で、本当は玉璽だったものを勾玉にしたのは創作ですね。
玉璽は天皇家の法統の神器ですからね。
これをそこいらの豪族までがショュウしたんじゃ法統にならんでしょ。

>日向経由も考えたいですね。
日本書紀を書いた百済からの亡命帰化漢人は、
倭人伝をみて邪馬台国は日向にあったと解釈したようです。
で・神話の始まりを日向にしている。
だが、豊葦原、葦原中国は間違いなく有明海側の「地形的状況」です。
このあたりに矛盾がのぞきます。
246日本@名無史さん:2011/02/20(日) 19:22:48.17
文献学的に資料価値の高いのは古事記の方だと思うけど。
伝承が神話の衣装をかぶせられずに裸のまま記載されて
たりする。
247日本@名無史さん :2011/02/20(日) 20:07:28.54
日本書紀を不服とする人々が密かに伝承していたのが、古事記でしょうね。
248巨匠・伊作:2011/02/20(日) 20:25:43.19
246 日本@名無史さん
>古事記の方だと思うけど。

史実とは違ったことを書いているということは、
ある種明確な意思のもとに史実とは違う歴史にしたわけです。
書く立場の人間にしてみれば、
本物と偽物が混じった土器を叩き割ってバラバラにして、
その土器片を拾い集めて「創作」という間着剤でつなげ、
ありもしなかった異様な土器に復元するような作業をしているはずです。
そこに、確かに史実が紛れ込んでいる可能性はありますが、
脈絡を寸断された断片にすぎないと思います。

いずれにしても、臣とへりくだって朝貢していた時代を抹消して、
「日出るところの天子」と一人前のことをいうようになった時代から
書き始めているわけです。そこには漢魏晋宋もなければ、
馬韓・辰韓・弁韓もなく、いきなり百済・新羅・任那が登場するわけです。
私としては、漢魏晋宋と馬韓・辰韓・弁韓を消した時代の歴史を
信用するわけにはいきませんね。

それをやれば混沌の世界に埋没しそうで。
249太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/20(日) 21:23:57.54
利害がでかくなければ、創作という八百長はしない。
そんななるほどといえる動機なんぞあるまい。

大陸に負けないために神武天皇即位を前660年まで残したとするには
随分中途半端で、大陸なんか夏、殷とかいうもっと古い国があったし
三皇五帝も神武より古いだろう。だからこれも動機にはならない。
それをやるならば、神武陵を始皇帝陵の少なくても2周は大きくしないと、
文献だけ古い時代に持って行くことだけでは片手落ちであり、そんなこと
の工事など朝廷はしていないだろうがね・・・。

辛酉革命のためだといっても、革命は当時の天皇制をひっくり返す
ことを意味するから身の失脚につながることは明確で、これもやるはず
がない。
そう考えたとき創作なんか出来っこなく、知られれば当時の糾察官僚に
捕縛されて島流し、打ち首、軽くて蟄居が待っている。となれば、創作
なんぞありえない。それは過失とかでの記述とかはあるだろう?
記紀双方では年代が違っているだろうし・・・。
250横板に水:2011/02/20(日) 21:26:46.64
ここはなかなか興味深い書き込みが多いですね。僕も参加させて下さい。

いきなりでなんですが、倭人伝の行程記事(正確な表現ではないかも知れませんが)についての一つの試案があります。
方角は倭人伝の記述に従い、距離(里)は魏の公式の数値ではなく1里≒70mで書かれているとします。

帯方郡から女王国(女王が都を置いた国=邪馬台国)まで1万2千里余で、伊都国までで1万5百里余ですから、残りは千五百里です。
伊都国から先は放射読みと連続読みの二通りの読み方があるそうですが、ここでは連続読みを採用してみます。

伊都国(佐賀市北部)から奴国(佐賀平野東北部、吉野ヶ里や鳥栖を含む)まで百里、そこから不彌国(福岡県小郡市の辺り、筑後川
北岸になります)まで百里です。この不彌国の南に投馬国があってその南に邪馬台国があります。不彌国から邪馬台国までは千三百里
(約91km)です。とすれば、投馬国は筑後川流域以南の筑後平野一帯で、邪馬台国は熊本にあるということになります。

ここで問題となるのは水行二十日、水行十日陸行一月という日数表記です。不彌国までは里数表記であったものが投馬国と邪馬台国の
ところだけ日数表記になるのは何故か。

「里数表記が不彌国で終っているのはその後の里数については書く必要がなかったからだと思います。と言うのは、不彌国と邪馬台国
の間の距離は千三百里と分かるからです。でもそれでは投馬国と不彌国、投馬国と邪馬台国の間の距離が分からないではないかという
問題が生じます。

まだ考え中ですが、僕は投馬国は広大な国で北は不彌国と(筑後川を挟んで)接し、南は邪馬台国と接していたのだろうと思います。
それが千三百里の中に在ると書かれているのではないかと思っています。ここは正直言って自信の無いところです。

里数として書く必要が無ければ、日数表記は何のためにあるのか?僕はこれは投馬国と邪馬台国の国内のことを書いたものではないかと
思います。投馬国を巡れば水行で二十日、邪馬台国を巡れば水行で一月と陸行で一月かかるということです。

まだ、未完成の試案ですがご検討願えれば幸いです。
251横板に水:2011/02/20(日) 21:32:42.69
250訂正
邪馬台国を巡れば水行で一月と陸行で一月かかるということです。
             ↓

邪馬台国を巡れば水行で十日と陸行で一月かかるということです。
252日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:36:18.47
倭人伝を見ると奴国のある北九州と邪馬台国の間には異次元の距離的な遠さが
感じられるよね。

つまり、北九州と邪馬台国の間は、少なくとも200km以上の距離はあると思う
んだよね。
253日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:48:15.54
記紀についてはそらファンタジーに近い物もあるんだろうけどさ
少なくとも当時の朝廷上層・知識層の間で口伝されてた
半ば常識的な認識になってた物を文章かしたんジャマイカ?
嘘まみれでも嘘まみれなりに当時の「認識として真実」だった物を
切り貼りしたんだと思うがなあ
254太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/20(日) 21:53:14.67
一書に曰くとあるから口伝もあったわけだが、多数の原書があったいと
観てよい。一書とかで参考文献をいろいろ掲げてるわけだから、切り貼り
なんかやってないと思うよ。

そんなことをすれば、別の仲間から、アレッ、ここがおかしいぞとか指摘
され、修正されるだけ。
255巨匠・伊作:2011/02/20(日) 22:07:26.32
地方の風土記のほうが史実を伝えている場合もあろうし、
風土記もまた記紀の影響をうけている場合もあろう。
一書というのが地方の風土記の場合もあろう。

カオスの世界だね。カオス
256日本@名無史さん:2011/02/20(日) 22:17:06.36
九州東西五月行
南北三月行

実測値で一月行=50キロから100キロ

済州島実測値で一月行80キロ

推測
公里千里で435キロは、一月の距離として妥当な距離
一日あたり14.5キロ
これより、千里=一月行の表記が普通になる。

これを短里千里でも同様の一月行で表記してしまったのが
実測値千里=80キロとなる理由である。
257太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/20(日) 22:21:27.54
そういう切り貼り的なことが、古代史関係で他の例ではあることは
あるようだ。

古代エジプトのアビドス神殿の王名表では改竄跡があり、ツタンカーメン
の関係でそのへんの古代エジプト文字で4人分抜けているという。

イクナテン
スメンクカーラー
ツタンカーメン
アイ

が王名表から無いんだという話だ。

また武寧王碑の干支も改竄痕があることを、古田先生が現地で碑を調べ
て確認している。

だからそういうこともあることはあるのだ。
258日本@名無史さん:2011/02/20(日) 23:41:17.57
>>250
>不彌国と邪馬台国の間の距離は千三百里と分かるからです。
だったら、端的に不弥国から投馬国まで○○里、投馬国から邪馬台国まで○○里
と書けばいいじゃないか。
万二千里は女王国までの距離だ。邪馬台国と同じではない。
259巨匠・伊作:2011/02/21(月) 00:04:54.47
SSSさんは私の『民俗の指紋』をみてくれたから論旨を分かってるだろうし、
ほかの所で書いたことをここでも書こう。

●伊冊語録
日本では、明治時代に禁止令が出されるまで、皇族・貴族は「お歯黒」をしていた。
古墳時代の埴輪と人骨にお歯黒の痕跡があるらしい。
一説によると聖徳太子もお歯黒をしていたという。
日本書紀にも、なんとか天皇が女性のお歯黒を称える歌が掲載されている。

結論からいえば、弥生倭人は文身をして・お歯黒をして・文字をもたない民俗だ。
その源流をたどれば、長江流域で少数民族と呼ばれる多民俗にたどりつく。
(このことは『民俗の指紋』で証明している)。

彼らは長江文明の担い手だったし、楚呉越の領民を康生した。
いわゆる南蛮・荊蛮・南越といわれた民俗だ。その彼らの信仰的精神性をあらわすのが、
装飾古墳にみられる幾何学文様である。
その文様のモチーフは彼らが祖先とも神とも崇める中国神話の登場人物であり、
それを偶像化したのが蛇である。
すなわち、うず巻き文は蛇がとぐろを巻いた形、同心円は蛇の目玉(蛇の目)であり、
連続三角文と菱形文は蛇ののウロコをあらわしている。

つづく。
260巨匠・伊作:2011/02/21(月) 00:07:26.67
●伊冊語録つづき。

実はこの文様は、縄文後期の土偶、遮光器土偶、銅鐸、三角縁神獣鏡を経て
埴輪・古墳へと連綿と続いており、現在でもこれらを紋章とする神社もある。

倭国の中枢機能が大和州へ東遷したあと、九州では装飾古墳が展開する。
それは、支配層の血脈から出た豪族たちの墓である。
のちに九州には「○○の君」が大勢登場するが、これらはみな天皇家から分かれた豪族である。
その彼らが装飾古墳をつくった。天皇家が彼らと同族であることはもはや否定できない。
(未確認だが、磐井の墓も装飾古墳との情報もある)。

いま、わが国の古代史は、指定漏れで発掘調査が可能な中小の古墳、
つまり地方有力者クラスの墓を基準に倭国という国家とその歴史動向が語られているが、
じつはこんな不条理はない。皆さんにはこのことに気づいてほしい。
もしも、大古墳が発掘調査可能となれば、
その半数近くには何らかの装飾が施されているはずだと私はみている。

倭人伝の里程・日程の数値合わせだけが古代史論ではないし、
卑弥呼と邪馬台国を引っぱり合うだけが古代史ではないし、
大和と九州で感情むきだしにののしり・なじるのが古代史研究ではない。

邪馬台国以前と「その後」の実態にも目を向けてほしい。
261巨匠・伊作:2011/02/21(月) 00:10:47.75
>万二千里は女王国までの距離だ。邪馬台国と同じではない。

女王国と邪馬台国は別物という考えだろうか。
思い切り端的にいえば、領域表現と場所表現の違いなんだけど。
262巨匠・伊作:2011/02/21(月) 00:23:59.26
250 横板に水
私のサイトをまだ全部読んでいないのかなー。

●海路距離は測定のしようがないから、正確に表記しようがない。
●したがって、数多の記録が日月表記か1000里単位で表記している。
●倭人伝は1000里単位で表記しているが、これを最後に日数表記にしたのが水行10日だよ。
●帯方郡から末盧国までの10000里は、実際の距離とはまったく無縁である。
●韓地の面積方4000里の二辺合計は8000里だが、帯方郡から釜山までの海路7000
里は、これよりも長いという矛盾に気づいてほしい。
●加えて、釜山・対馬・壱岐・唐津この明らかに異なる海路距離を
一律1000里としている点にも注目。これは「1日航海1000里」という考え方による。
●要するに、12000里のうちの1000里は10日間航程を意味する。

帯方郡から女王の都する所までの12000里は、
大変アバウトな海路の10000里を含むことを見のがしてはいけない。
263ローガン:2011/02/21(月) 00:46:17.91
>>262
>●要するに、12000里のうちの1000里は10日間航程を意味する。

帯方郡〜九州上陸が10日。帯方郡〜投馬国はその二倍の距離。しかも邪馬台国より北…。
お邪魔しました。
264巨匠・伊作:2011/02/21(月) 00:49:14.07
>帯方郡〜投馬国はその二倍の距離。
帯方郡〜投馬国はその二倍の日数だ。

>しかも邪馬台国より北…
バカづらさげて順次読み(続け読み)するとそうなるわな。

>お邪魔しました
畿内説のバカどもがくると荒れるからくるな
265258:2011/02/21(月) 00:58:38.53
女王国は万二千里のところから始まる。そして、南の奴国までが女王国の領域に入る。
266日本@名無史さん:2011/02/21(月) 06:12:59.31
>>259
日本では、明治時代に禁止令が出されるまで、皇族・貴族は「お歯黒」をしていた。
古墳時代の埴輪と人骨にお歯黒の痕跡があるらしい。
一説によると聖徳太子もお歯黒をしていたという。
日本書紀にも、なんとか天皇が女性のお歯黒を称える歌が掲載されている。

つまり、畿内には黒歯国があったのであり、邪馬台国ではない。
倭人伝には倭人の風俗としてはお歯黒の風習が無い。
黒歯国は遠くにある国として描かれているのだから倭人国ですらない。

5世紀か8世紀か判らないが倭国は黒歯国に乗っ取られたのであり、黒歯国は今の畿内と言う事だ。
267日本@名無史さん:2011/02/21(月) 08:35:36.89
里で記録されるのは、歩行などのある程度距離が計測できるとき。
日数、月数で記録されるのは距離が計測できないとき。

陸行一月は距離が計測できない山中を移動したか、
方向が入り組んだ道を移動した。

水行一月行は言わずもがな。

だが、壱岐対馬のように、古くから行き来があり
天候がよければ見渡せるような距離であれば、里程で記録することもある。

と推測
268日本@名無史さん:2011/02/21(月) 08:50:58.14
水行陸行の比較は、海岸線が直線的に描けるか描けないかの違いを
水行陸行の違いで表現した。
実際にそのように計測したわけじゃない。
水行一月も陸行一月も、距離や時間は同じ。
269カミタケ:2011/02/21(月) 09:54:48.00
距離や時間は同じというなら、半島西海岸を距離であらわせているのに、投馬国や邪馬台国までの距離を距離であらわさなかったのですか?
270日本@名無史さん:2011/02/21(月) 10:23:12.65
>>267説が正解だろうね。百里ぐらいならば大した誤差がなく見当をつけられる
だろうが、長距離になると里数をだすのが難しくなる。
271日本@名無史さん:2011/02/21(月) 10:34:08.88
>>269
半島西海岸はよく知っている土地だから
里程で書けたんじゃないかな?

伊都や奴国までも比較的交流があったから
里程で書けたが、そこから先は魏使が行ったとしても
初めてで情報が少なかったことと、かなり
行きにくい場所だったのでは?
272日本@名無史さん:2011/02/21(月) 10:45:05.25
だが、水行二十日、水行十日陸行一月が投馬国、邪馬台国への行程であることは
まちがいないね。これを郡からの日数だとかいうのは邪道だ。
273巨匠・伊作:2011/02/21(月) 10:46:25.92
271 >半島西海岸はよく知っている土地だから

韓地の面積方4000里の二辺合計は8000里だが、
帯方郡から釜山までの海路7000 里は、
この陸地距離よりも長いという事実に気づいてほしい。
274日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:06:47.58
奴国が佐賀平野でも福岡平野でもいいが、
2万戸を比定できることはできる。

しかし、そうなると5万戸、7万戸は必然的に
筑紫平野と熊本平野しか候補地はない。
275日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:20:57.68
>>274
もっと南に候補地があるよ。
276巨匠・伊作:2011/02/21(月) 11:34:45.69
>これを郡からの日数だとかいうのは

倭人伝の文章構成からはそう読むべきだし、
難しい説明をしなくても、
最終目的地までの方角・行程手段・距離・日程は、
出発地からのものという不文律がある。

たとえば、福岡から東京までの行程手段・距離・日程を説明するのに、
順次読み(続け読み)するように、各ポイントから次から次へと
行程手段・距離・日程を説明しますか? それこそ邪道でしょ。

仮にそうした場合でも、最終的には出発地から目的地までの
行程手段・距離・日程をいうはずです。
277日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:42:19.05
>>272
行程なんかじゃない。
ただ位置関係を記したにすぎない。
278日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:45:28.08
水行十日と水行二十日では、当然距離も十日より二十日の方が
長いし時間も倍になる。
279日本@名無史さん:2011/02/21(月) 11:57:56.04
出発地点からの全行程は、万二千里とすでに書かれている。

あとは各拠点の距離を記載すれば良い。
280巨匠・伊作:2011/02/21(月) 12:09:48.88
>ただ位置関係を記したにすぎない。

魏にとっての東方調査は、前漢朝の西方調査に匹敵する、
天子政府の学術事業なわけです。(東夷伝の序文でそううたったている)。
中でも、それまでは伝説か風聞でしかなかった大海の中の倭人と倭地の発見は、
中国史上初の民族学的発見であり地理学的発見でもある。大偉業ですよ。

とくにこの時代の地理情報は、版図情報であり年貢の基本となるものであり、
何といっても軍事情報に位置づけられるものです。
●中国の古代地理学(中国の資料から)
「軍事と地理は密接な関係にあり、中国古代の軍事的地理知識の累積は豊富である」としている。
さらには、軍事的地理把握の要件には、「政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、
人口、河川等がある」としている。

『倭人伝』の内容も、ほぼこの要件に沿っていることが分かりますね。
初訪問・初調査におとずれた調査官たちが、肝心の女王の都までの
方角、行程手段・日程・距離のうち、どれか一つでも欠落するような記録をすると思いますか。
それじゃ、帰国したとたんに、首が胴体から切り離されますよ。

もっと、現場の臨場感をもって考えて発言すべきですね。
281巨匠・伊作:2011/02/21(月) 12:20:47.92
もう一度いうよ。しょくん

里程・日程・距離だけが古代史じゃないし。
里程・日程・距離をいじり回すことが
古代史をやっていることにはならない。

もう少し、見ごたえのある論客はいないのかね。
282巨匠・伊作:2011/02/21(月) 12:22:34.19
>出発地点からの全行程は、万二千里とすでに書かれている

そら距離だけだろ。
その色距離と陸路距離の内訳すらも分別できていなかったし。

なんば・しよっとか。だよ
283日本@名無史さん:2011/02/21(月) 15:25:43.35
>倭人伝の文章構成からはそう読むべきだし、〜最終目的地までの方角・行程手段・距離・日程は、
>出発地からのものという不文律がある。
そんな不文律はどこにもないよ。
あなたは、水行二十日はどこから考えるのかな?

>福岡から東京までの行程手段・距離・日程を説明するのに、
>順次読み(続け読み)するように、各ポイントから次から次へと
>行程手段・距離・日程を説明しますか? それこそ邪道でしょ。
邪道じゃないよ。途中で交通手段が変わるときには、ごく普通の表現方法だ。

>仮にそうした場合でも、最終的には出発地から目的地までの
>行程手段・距離・日程をいうはずです。
かってな思い込みだな。


284日本@名無史さん:2011/02/21(月) 15:42:58.63
国名があり、移動方法があり、距離がある、その国の風俗の説明がある。
これが経由国の数だけ続く。

それ以外の国の名前が列挙される。卑弥呼による支配関係が書かれる。
卑弥呼支配下の国の支配形態が書かれる。
全体としての総距離は万2千里である。


こんな感じで書かれてて、書き方に対しては、特に問題がありそうには見えないのたが。
285横板に水:2011/02/21(月) 15:53:46.34
僕の一つの試案(実は他にもいくつかの試案を持っているのですが、先ずはということで最初にお示ししたものです)に関していろいろと
レスを頂いてありがとうございます。僕と皆様の時間帯がズレているようなので直ぐに返事ができなくて申し訳ありません。午前中は働い
ているものですから、午後の手の空いた時にほんの短時間ちょこちょこと覗くだけでして。

倭人伝の行程記事(地理誌でも構いませんが)の書き方がどうしてあのようになっているのでしょうかねえ。投馬国と邪馬台国のところも
里数表記にしてくれていたらこんなに混乱することもなかったのに。まったくもう 人騒がせな!!

>>258
>>不彌国と邪馬台国の間の距離は千三百里と分かるからです。
>だったら、端的に不弥国から投馬国まで○○里、投馬国から邪馬台国まで○○里
>と書けばいいじゃないか。
>万二千里は女王国までの距離だ。邪馬台国と同じではない。

なんか喧嘩腰の口調みたいですね〜。でも僕は大抵のことには動じないタチですから、こういうレスにもにこやかにお答えします。
「だったら」というのは「不彌国から邪馬台国まで千三百里と分かるのならば」ということですかね?つまり、「・・・と分かるのであれば、
端的に不弥国から投馬国まで○○里、投馬国から邪馬台国まで○○里 と書けばいいじゃないか。」と仰るわけですね。

僕は 不彌国から邪馬台国まで千三百里と分からなくても「不弥国から投馬国まで○○里、投馬国から邪馬台国まで○○里 」と書けばよいと思います。
「・・・と分かっている」ことは『・・・と書けばよい」の理由にはならないでしょ。

「万二千里は女王国までの距離だ。邪馬台国と同じではない。」といわれますが、僕には倭人伝を読む限りでは女王国は邪馬台国としか受けとれません。
女王国と邪馬台国は違うという根拠を教えて下さいませんか?




286横板に水:2011/02/21(月) 15:55:02.91
285のつづき

>>262
>私のサイトをまだ全部読んでいないのかなー。

すみません。未だ読み終えておりません。しかし、伊作さんのブログの文字は小さくて薄くて読み難いですね。僕は目を大切にしているのでパソコン上の
小さな文字や色の薄い文字は長い時間読まないようにしています。

>>267
>里で記録されるのは、歩行などのある程度距離が計測できるとき。
>日数、月数で記録されるのは距離が計測できないとき。

ということで投馬国や邪馬台国のところに里数が書かれなかったということですか。有り得ることとは思いますが、それなら何故郡から女王国まで万二千
餘里と分かったのでしょうか?この万二千餘里はいい加減なものなのでしょうか。

一々返事を書いていると長くなりますね。今回はここまでにして、いずれ又。
287日本@名無史さん:2011/02/21(月) 16:08:21.03
>>285
>投馬国と邪馬台国のところも里数表記にしてくれていたらこんなに混乱することもなかったのに。
よく分からなかったから日数で書いただけだろ。難しく考える必要はない。

>なんか喧嘩腰の口調みたいですね
別にそんなつもりはまったくない。誤解されないよう結論を端的に書いているだけ。

>「・・・と分かっている」ことは『・・・と書けばよい」の理由にはならないでしょ。
何を言いたいのか、ちょっと理解できない。

>女王国と邪馬台国は違うという根拠
邪馬台国までは、北九州から少なくとも水行十日陸行一月かかる。それが千三百とか千五百
とかでは短すぎることは明らかだ。
女王国=邪馬台国ならば、なぜ断りもなしに表現を変えるのかな?
ちがう概念だから違う表現をしている、そう考えるのが当然のことだよ。
南の奴国は女王の境界の範囲内だ。となれば、女王国というのは旁国を含む概念だと考える
のが相当。

288日本@名無史さん:2011/02/21(月) 16:31:06.10
邪馬台国は九州だけど、 古参の有力地方豪族で、ブランド名だけ近畿に受け継がれて
消え去ったってのが正しいのかも知れんね。
それだと全部説明できそうかも。
289日本@名無史さん:2011/02/21(月) 16:42:08.98
>>288
俺もそんな感じだろうと思っているのだけど、
全部畿内にないと気が済まない欲張りな方々がねえ。
290日本@名無史さん:2011/02/21(月) 16:52:50.59
>>289
全部畿内だとやっぱ文献と整合しにくいよね。
纒向は単に非常に優勢な勢力が近畿にあったというだけのことで
邪馬台国である証拠は全然無いもんね。
291日本@名無史さん:2011/02/21(月) 17:04:16.87
九州も方角しか合ってないんだろ?
九州の南に日本列島が描かれてる時代の中国人が
方角なんか分かるのか。
どうも遺跡がない九州人が無理にこじつけてる気がするな。
292日本@名無史さん:2011/02/21(月) 17:27:24.24
こじつけじゃなくて、文献的には九州が優勢ってのは通説だと思うんだけどね。
だから、近畿説の人は文献は信用できないとか言いたがるわけで。
293日本@名無史さん:2011/02/21(月) 17:30:50.97
畿内だと距離も方向も合わんからなあ。
畿内に行くためには、ウミ国まで短里使って、
そこから突然公里使うなんてウルトラCが必要。
しかも、方向は相変わらずデタラメ

294日本@名無史さん:2011/02/21(月) 17:32:41.12
だから、畿内説では文献は信用できないという立場なんだろ。
295巨匠・伊作:2011/02/21(月) 18:08:49.92
283 :日本@名無史さん
>あなたは、水行二十日はどこから考えるのかな?
帯方郡から投馬国までの全行程と全日程。

>途中で交通手段が変わるときには、ごく普通の表現方法だ。
各段階・それぞれの日ごてに説明をつなげたとしても、
最終的には出発地から目的地までの 行程手段・距離・日程をいうでしょう。

>かってな思い込みだな。
常識的な話をしてるのだが、勝手なというほどの「常識」があるのかい。
言葉づかいをぞんざいにしてていのなら、俺も得意だぜ。
296日本@名無史さん:2011/02/21(月) 18:16:29.76
文献的にも狭い九州の中で三十国に分かれて戦争してたって
無理だろ。
しかも、狗奴国まで九州内だとしてるんだろ?
邪馬台国支配下だけで三十国、さらに狗奴国支配下の国も
相当あったとするなら完全に土地も人も遺跡の数も足りない。
297横板に水:2011/02/21(月) 18:17:50.74
>>287
あ、そういうことだったのですか。>>258は陳寿ばりに簡略にして饒舌な文章だったのですね。残念ながら、僕は行間をよむことが出来ずに
論理構造を分析したりしていました。
分かりました。あなたは、

投馬国と邪馬台国については里数が分からなかったから書かれていない。
万二千餘里は郡から邪馬台国までの距離ではなく、郡から女王国までの距離である。(女王国=邪馬台国ではない)

と言われるのですね。(これは内緒のつぶやきですが、そうならそうと最初から書けばいいのに)

ところで、お尋ねしますが、
あなたは「女王国というのは旁国を含む概念だと考える のが相当。」とされていますが、それだと邪馬台国より広い地域になりますね。
万二千餘里というのは具体的には郡 から「旁国を含む地域」のどこまでの距離なんでしょうか。

普通に考えれば、「郡から女王国までの距離」と言えば「郡から女王国の首都までの距離」を指すと思うのですが、その場合は卑弥呼が都を
置いた国は邪馬台国ですから、結局は「郡から邪馬台国までの距離」と同じになります。

あ、最初に書いておくべきことだったのですが、僕が行程記事の問題を持ち出したのは、九州説の中で意見が分かれているところの最大の
ものはこの行程記事の読み方だと思ったからです。読み方を異にする方々が自説に拘って譲らずという態度を続けるのは賢明ではないだろ
うと思います。そこで、お互い真摯に徹底的に議論してみたらどうだろうかと考えたからです。
298日本@名無史さん:2011/02/21(月) 18:40:08.28
>>296
確かに人口はおかしいけど、それは近畿にもってっても同じことだし。
他はそんなに変だとは思わない。
299巨匠・伊作:2011/02/21(月) 18:55:54.79
258 :日本@名無史さん
>だったら、端的に不弥国から投馬国まで○○里、
投馬国から邪馬台国まで○○里 と書けばいいじゃないか。

そうは書いていないからこそ、
不弥国から投馬国まで○○里、
投馬国から邪馬台国まで○○里
と読んではいけないといえるわけです。
300日本@名無史さん:2011/02/21(月) 18:56:31.99
>>291
琉球諸島が日本であったことの根拠になるな。
301日本@名無史さん:2011/02/21(月) 18:59:10.84
天照大神は太陽神でうんちゃらこんちゃらで、
その方向にヤマト国はあるとか説明しちゃったんじゃないの。

神武東征は魏の人には理解できなかったと。
302日本@名無史さん:2011/02/21(月) 19:09:21.01
天照大神というお日さまの神さんがいて、その命をうけて南の日向の高千穂にニニギが降臨してきて、
その子孫の神武天皇が船で東征してヤマトをつくったんですよ。

現在はお日さまを拝む巫女さんがもめ事がある都度にでてこられますです。
303日本@名無史さん:2011/02/21(月) 19:31:38.80
我々は日の神の御子なので日に向かって(東を向いて)戦うのはよくない。

っていう認識なので、太陽の方向といえば倭人は東。
魏の人はそんな認識はないので南。

こういうのは誤解の元である。
304日本@名無史さん:2011/02/21(月) 23:07:51.20
まあ、昔の戦は日の出と共に始まるから
眩しいと戦いづらい。
西のほうを向く陣形に持ち込むのは
軍事的基本ではある。
305日本@名無史さん:2011/02/21(月) 23:21:14.12
倭人伝の記述は、断片的な知識を紙の上で寄せ集めて
全体として矛盾のないように再構成したものだろう。

>>247
珍説ですから学会で発表して見て下さいね。
306258:2011/02/21(月) 23:59:48.69
>>297
>そうならそうと最初から書けばいいのに
何度も書いているが、名無しで書いているのでね。

>万二千餘里というのは具体的には郡 から「旁国を含む地域」のどこまでの距離なんでしょうか。
女王国の始まりまでの距離だよ。邪馬台国までの上陸地点は既に女王国のうちだ。そして、上陸し
てから陸行一月は全部女王国の中だね。

>普通に考えれば、「郡から女王国までの距離」と言えば「郡から女王国の首都までの距離」を指
>すと思うのですが
行程記事のときに出てくる国名はそうだろうが、行程記事は邪馬台国までで終わっている。
女王国は、邪馬台国だけでなく、投馬国や旁国を含む概念。邪馬台国の都といえども女王国の首都
というわけではない。



307日本@名無史さん:2011/02/22(火) 00:09:32.37
>>295
>>あなたは、水行二十日はどこから考えるのかな?
>帯方郡から投馬国までの全行程と全日程。
なるほど。となると、あなたは「東南、奴国に至る、百里」も郡からの距離だ
と読むのかな? これも投馬国と同じ書き方だよ。
308巨匠・伊作:2011/02/22(火) 00:47:34.82
>「東南、奴国に至る、百里」も郡からの距離だ
>と読むのかな? これも投馬国と同じ書き方だよ。

失礼だが、掲示板で書ききれる分量じゃないので、ご覧ください。
そこの所をきちんと分析してあるから、ご覧いただいて返答をもらいましょう。
このページ以下2ページに、すべて論理的に開示しています。

「東南、奴国に至る、百里」 と投馬国がと同じ書き方かどうか。
しかと確かめてからもう一度私あてに書いてください。

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/93c5ec5d3a97a19b698c4e1fd6342eda
309日本@名無史さん:2011/02/22(火) 01:14:47.12
>>308
>報告記録としては、かんじんの女王国までの方角・行程・距離・日程のうち、どれか
>一つでも欠落するものではない」という鉄則に基づけば、ここで明らかにされた行程
>・日程は帯方郡からの全行程・全日程であると読まなければならない。
上のような鉄則があると考えたわけだね。だが、裸国・黒歯国の記載はどうだろうか?
倭人伝によれば、船行一年というだけで距離は書いてない。となれば、あなたの鉄則に
従えば、その一年は郡からでなければならないことになる。しかし、後漢書はそれを「自
侏儒東南行船一年」と侏儒国から一年であることを明記している。後漢書の編者范曄があ
なたの言う鉄則を知らなかったとでも言うのかな? 
恣意的に鉄則を作り出しても駄目だってことだね。
310巨匠・伊作:2011/02/22(火) 01:29:57.55
309
>上のような鉄則があると考えたわけだね。
初訪問・初調査の鉄則だよ。
東夷調査の文化事業としての価値と意味については書いたはずだが。

>だが、裸国・黒歯国の記載はどうだろうか?
これは倭人からの風聞だろ。女王国周辺の傍国すら遠絶にして詳細を把握してないし。

>倭人伝によれば、船行一年というだけで距離は書いてない。となれば、あなたの鉄則に
従えば、その一年は郡からでなければならないことになる。
ここは「女王国東」ではじまる説明文だよね。
女王国からの放射説明か順次説明かは不確実だが。
こんな話ほ持ち出して、変ないいがかりをつけるわけじゃなかろう。

>しかし、後漢書はそれを「自 侏儒東南行船一年」と侏儒国から一年であることを明記している。
>後漢書の編者范曄があ なたの言う鉄則を知らなかったとでも言うのかな? 
『後漢書』倭伝を范曄が書いたと思ってるらしいね。
『後漢書』がどういう状況で書かれたのかも知らないようだし。
ついでに、「『後漢書』倭伝の検証と批判」にも目を通すといいよ。
誤読と誤解と誤字が多くて、
はちゃめちゃな部分を選別しないで採用すると迷宮にはまる。

>恣意的に鉄則を作り出しても駄目だってことだね。
無礼じゃないか。
ビギナーレベル会話をする人にいわれるのは心外だよ。
311巨匠・伊作:2011/02/22(火) 01:33:25.92
309

「東南、奴国に至る、百里」 と投馬国がと同じ書き方かどうか。
確認できましか。
まったく言及せず、別の話題にすり替えたらしいが。

分かる人なら舌を巻く分析だと思うし、
いかに表層的な会話をしているか自覚できたと思うけど、
感心したそぶりもないね。

312日本@名無史さん:2011/02/22(火) 01:40:02.06
>>311
同じ書き方だよ。日数というのも、距離の一つの表示方法にすぎない。
あなたはそれを理解できないだけだね。
313日本@名無史さん:2011/02/22(火) 01:52:47.80
邪馬台国は九州
畿内にあったのは黒歯国
314巨匠・伊作:2011/02/22(火) 02:11:44.03
(東南、奴国に至る、百里 と南至投馬国水行20日は)
>同じ書き方だよ。 あなたはそれを理解できないだけだね。

そうかい。
前者は方角・国名・距離……で行程手段がない。
後者は方角・国名・行程手段………で距離がない。

説明手順が明らかに違うが。これは文法の違いといえる。
説明手順の違い数式にたとえるといい。
数式が違えば自ずとでてくる回答も違う。

どこが同じ書き方だ。 違いを認識できないのはきみだろう。


315日本@名無史さん:2011/02/22(火) 05:05:51.01
>>305
前文を読んでみるだけで、疑問が出てくる。
学会発表以前に、まず、古典を実際に自分で読んでみることだね。
キミの感想の方は、学会誌にまとめたのかな?
316日本@名無史さん:2011/02/22(火) 12:32:48.04
314
プロ、アマチュアともあなたが恣意的に作り出した文法に
納得して同意する人は一人もいないよ。
まともなことをいっている人をぱかにしたりして
みっともない限りだよ。
317希代の天才論客・伊作:2011/02/22(火) 15:18:46.24
316 日本@名無史さん
(東南、奴国に至る、百里 と南至投馬国水行20日は)
>同じ書き方だよ。 あなたはそれを理解できないだけだね。

前者は方角・国名・距離……で行程手段がない。
後者は方角・国名・行程手段………で距離がない。
説明手順が明らかに違うが。
これが「同じ書き方だ」というのがまともな意見かい。

で・きみはまともなのかい。なんだこの濡れ衣発言は。

>恣意的に作り出した文法に
中国語も中国語古文の文法がわからなくても、
文法が違っていることぐらいは分かる。
俺がつくりだした文法じゃない。
文法を変えて書いてある事実を指摘してるんだ。

横ちゃりもいいが、状況認識と己の思考整理をやってからにしてくれ。
陳腐すぎるぞ。
318横板に水:2011/02/22(火) 15:59:29.04
>>269 カミタケさん
>距離や時間は同じというなら、半島西海岸を距離であらわせているのに、投馬国や邪馬台国までの距離を距離であらわさなかったのですか?

そうですよね。僕も里数と日数は換算できるようなものではないと思います。水行1日は千里なんて決められないでしょう。風も潮の流れもアゲインスト
のところとフォローのところでは1日に進む距離は違うでしょう。陸行だって悪路と良路では1日に進む距離は違うでしょう。

倭国内での水行や陸行について大陸や半島の例を持ち出して論じるのは一見理に適っているように見えますが、人も場所も状況も違うのでは参考にもなら
ないでしょう。あ、参考ぐらいにはなりますか。しかし、決め手には成り得ませんね。
319横板に水:2011/02/22(火) 16:16:17.79
>>306
>女王国の始まりまでの距離だよ。邪馬台国までの上陸地点は既に女王国のうちだ。そして、上陸し
てから陸行一月は全部女王国の中だね。

万二千餘里というのは女王国の始まりまでの距離なんですか。ふ〜ん(これは納得はしていないということを示します)。
ところで、その女王国の始まりというのは具体的に何処でしょうか?邪馬台国までの上陸地点というのは末盧国のことでしょうか?それとも
水行十日で上陸したところでしょうか?

あ、それから、女王国の概念とは何ですか?女王の統率下にある国々の集合体ということですか?もしそうであればそれは30国ほどから成る
倭国全体ということになりますが。その場合は女王国の始まりの国は狗邪韓国か對海国になると思いますが、郡から狗邪韓国までは七千餘里
だし、對海国までだと八千餘里となりますから万二千餘里とは一致しませんね。
320日本@名無史さん:2011/02/22(火) 16:36:10.11
317
爺さん
南至とかいてあるのだよ。
南ではないのだよ。
横車を押すのもたいがいにしときなよ。
321日本@名無史さん:2011/02/22(火) 16:38:59.41
317
爺さん
南至とかいてあるのだよ。
東南ではないのだよ。
横車を押すのもたいがいにしときなよ。

322日本@名無史さん:2011/02/22(火) 17:09:56.09
横板さん恐らく258さんは邪馬台国を宮崎あたりにもって行きたいんだろう。
なのでどうしても読み方が恣意的になる。まず結論ありきでは畿内説と同じ
危険性をはらむ。
323日本@名無史さん:2011/02/22(火) 17:17:38.11
>>319
>女王国の始まりというのは具体的に何処でしょうか?
伊都国までの里数が万五百里だからねえ。熊本県に入ったあたりかな。もう少し熊本市に
近い辺りかも知れんが。

>女王の統率下にある国々の集合体ということですか?もしそうであればそれは30国ほど
>から成る倭国全体ということになりますが。
女王国は邪馬台国、投馬国、旁国21国の集合体だよ。倭国全体ではない。
皆女王国に統属すとか、女王国以北に一大率を置くとあるのは、北九州諸国が女王国とは
別のグループだったということを示している。
私は、倭国の乱というのは、九州中南部の女王国と北九州諸国とが戦って実質的に女王国
が勝った戦いだったと考えている。だからこそ、北九州は一大率の強い監督を受けること
になったというわけだ。
324日本@名無史さん:2011/02/22(火) 17:25:48.28
>>318
>風も潮の流れもアゲインスト のところとフォロー

どこに風が吹いているのか?どこに潮の流れがあるのか?
325横板に水:2011/02/22(火) 17:58:42.17
>>323
ああ、そうなんですか。女王国とはグループのことなんですか。ふ〜ん(これからも納得できないときにこの ふ〜ん を使いますね)。
それで女王国フループは邪馬台国、投馬国、旁国21国の計23国なんですね。それが熊本辺りからその南の方にあるわけですね。ふ〜ん。

それで北九州グループというのは伊都国、奴国、不彌国、末盧国ですか?あ、奴国は21国の旁国の中にもありますが、これは官の名前などが書かれ
戸数が二万という奴国とは別の国ですか?對海国と一大国はどちらのグループに属するのですか?

>私は、倭国の乱というのは、九州中南部の女王国と北九州諸国とが戦って実質的に女王国
>が勝った戦いだったと考えている。だからこそ、北九州は一大率の強い監督を受けること
>になったというわけだ。

なるほどなるほど。面白い話ですね。倭国乱において九州中南部の国と北九州の国が戦ったかもしれませんね。詳細は分かりませんけど。

ところで、倭国乱の後、卑弥呼が王に立てられてから魏の使者が来るまで半世紀に近い年月が経っていますよね。そんなに年月が経ったのに未だ北九州
の国々は(一大率の強い監督を受けなければならないほどに)女王に服従していなかったのですか?一大率は「北九州の国々が何時謀反するかも分から」
ぬからその監視のために置かれていたのですか?

326日本@名無史さん:2011/02/22(火) 18:02:18.48
>>323
興味深いお話ですがその論で行くと「伊都国」からが女王国でしょう。
つまり郡から女王国まで1万500里?
327横板に水:2011/02/22(火) 18:04:30.18
>>324
またまた変な書き込みが現れましたね。何処と決まったことではないのですよ。船で行く場合に風や潮流に逆らう場合と従う場合では
1日に進む距離は違うでしょ と言っているだけです。
328日本@名無史さん:2011/02/22(火) 18:16:25.93
>>326失礼 伊都国の東南の奴国でした。
女王国より北の国々は戸数や道程が簡単ながら記載ができるのだから
都馬国は女王国じゃないのでは?
329希代の天才論客・伊作:2011/02/22(火) 19:17:03.71
321 :日本@名無史

>南至とかいてあるのだよ。 東南ではないのだよ。
その意味でも同じ書き方ではないわけだ。

>横車を押すのもたいがいにしときなよ。
横車とは、「書き方が違っている」というのに対して
「同じ描き方だ」といった客のことだな。
現実にちがってるだろ。
そうやって、わけの分からんことをいうきみも、
わけの分からん横車しているわけだ。

こんなもんでいいかな。
330日本@名無史さん:2011/02/22(火) 20:56:04.35
>奴国は21国の旁国の中にもありますが、これは官の名前などが書かれ
>戸数が二万という奴国とは別の国ですか?
別の国だね。

>倭国乱の後、卑弥呼が王に立てられてから魏の使者が来るまで半世紀
>に近い年月が経っていますよね。
倭人伝にはそんなことは書いてないよ。

>そんなに年月が経ったのに未だ北九州の国々は(一大率の強い監督を
>受けなければならないほどに)女王に服従していなかったのですか?
いい着眼だ。卑弥呼共立から70年も女王だったという結論の方に疑問
をもってみるべきだね。
331横板に水:2011/02/22(火) 21:30:26.57
>>330
このレスは>>325に対するものですよね。

僕の問いかけの一部だけに答えておいでですが、以下についてはどうなのですか?
1.北九州グループというのは伊都国、奴国、不彌国、末盧国ですか?
2.對海国と一大国はどちらのグループに属するのですか?
3.一大率は北九州の国々が何時謀反するかも分からぬからその監視のために置かれていたのですか?

>>倭国乱の後、卑弥呼が王に立てられてから魏の使者が来るまで半世紀 に近い年月が経っていますよね。
>倭人伝にはそんなことは書いてないよ。

もちろん「倭国乱の後、卑弥呼が王に立てられてから魏の使者が来るまで半世紀 に近い年月が経っている」という記事はありませんよ。
これは計算すればそうなるということなのです。

倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」という記事、後漢書の「桓、靈間、倭國大亂、
更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王」という記事、および梁書の「漢霊帝光和中、倭國亂、
相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼爲王」という記事から卑弥呼が王に立てられたのはAD180前後のことと考えられ、魏の梯儁が皇帝の詔書を持って
卑弥呼のもとに訪れたのは倭人伝に正始元年(AD240)と書かれていますから、その間は約半世紀だということになるわけです。


332日本@名無史さん:2011/02/22(火) 22:20:16.09
>>331
北九州グループというのは伊都国、奴国、不彌国、末盧国、対馬国、一支国
だろう。

>一大率は北九州の国々が何時謀反するかも分からぬからその監視のために置
>かれていたのですか?
だろうね。

倭人伝の記事は、卑弥呼共立の時期を明記していない。後漢書、梁書はその
倭人伝をどのように読むべきか、苦労したのであろう。
この点に関し、他に新しい資料があった気配はない。後漢書は、七八十年を
倭国乱の期間と考えて「桓靈間、倭國大亂」とした。つまり140年代から
180年代までの戦国時代を考えたということだ。
それに対し、梁書は、七八十年を前の通交時からの経過とみて、乱の期間は
相攻伐歴年の「歴年」を考えたということだろう。
しかし、倭人伝はそんなことは言っていない。共立時既に卑弥呼はかなりの
年齢であったとする。ということは、卑弥呼の魏への遣使は乱に勝利して共
立されて間もない就任挨拶と考える。子供の時に共立されたとか、数十年女
王を続けていたというのは非常識。私の考え方の方がずっと常識的だと思う
がいかがかな?
333横板に水:2011/02/22(火) 22:35:47.51
女王国についてですが、

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、・・・・(途中省略)、次有奴國、此女王境界所盡。
と書かれています。

自女王國以北は女王国を含むか含まないかで解釈の分かれるところでしょう。現代の日本語では例えば20才以下、20才以上という場合には
20才を含みます。晋の時代においてはどうだったのでしょうか?ご存知の方がおられたら教えて下さい。

「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」という文章の内容から判断すれば女王国を含むことになり、その女王国は
邪馬台国を指すと考えられます。

何故かといいますと。

對海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国については「其戸數道里可得略載」に該当するでしょう。そして、邪馬台国
は女王之所都ですから女王国に含まれます。つまり、「其戸數道里可得略載」の国々に女王国が含まれていることになり、自女王國以北の国々は
女王国を含みそれより北にある国々ということになります。

そして、其餘旁國遠絶、不可得詳です。これらの旁國21国が女王国であれば「遠絶、不可得詳」なんてそんな馬鹿なことがあるかということにな
ります。「此女王境界所盡」はこれが「女王國の境界端っこ」という意味ではなく、「ここまでが女王の統率(支配)権の及ぶ範囲」であるとい
うことです。

このように、旁國は女王国ではありませんから、女王国は投馬国の南にある邪馬台国であるという帰結になるのです。
334横板に水:2011/02/22(火) 23:01:49.79
>>332
倭人伝の記事だけで議論しますか。

「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」

「其國本亦以男子爲王、住七八十年」は倭国王帥升系統の男王の時代が七八十年続いたということでしょう。帥升が後漢に生口160人を
献じたのがAD107ですから、それからとして七八十年後はAD180前後ですね。倭国乱は相攻伐歴年ですから数年続いたのでしょう。その
後に卑弥呼が王になったのですからAD190前後ですね。

乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國

年已長大というのは、王になった時か梯儁が会った時かはっきりしませんが、今は王になった時としましょう。
年已長大と言うと老人のように思えるかも知れませんが、これは成人(女性であれば結婚適齢期、13才前後か、を少し過ぎた程度)という
くらいの意味でしょう。30才であったとしても梯儁が来たときは80才くらいです。有り得ぬことではないでしょう。

今日はこれで失礼します。

335日本@名無史さん:2011/02/22(火) 23:10:35.56
>>333
>自女王國以北は女王国を含むか含まないかで解釈の分かれるところでしょう。
使い方としては両方ある。現代においては含むと読む場合が多いようだ。
しかし、倭人伝の場合はそれでは話がおかしくなる。女王国以北は、女王国から
派遣された一大率が検察する対象でもある。一大率が水行二十日離れた投馬国を
検察するのか? 邪馬台国本国を検察するのか? 一大率はしょせん地方長官に
例えられる地位だ。伊都国から千五百里の女王国境界よりも北の地域を検察する
だけで、その南の広大な投馬国、邪馬台国を検察するはずはない。

>投馬国、邪馬台国については「其戸數道里可得略載」に該当するでしょう。〜邪馬台国
>は女王之所都ですから女王国に含まれます。
確かに両国は該当するだろう。しかし、該当する国が全て女王国以北だとはどこにも
書いてない。女王国以北かどうかは、万二千里より北かどうかで決まるんだ。
万二千里よりも南に該当する国があったところで何ら問題はない。
その該当する国は、旁国ではないということだ。

旁国とは何か? 傍らにある国だよ。主要国である投馬国や邪馬台国の傍らに
ある国々、それが旁国だ。必然的に大したことがない国、すなわち小国のことだ。

>旁國21国が女王国であれば「遠絶、不可得詳」なんてそんな馬鹿なことがあるか
主要国を小さな国だと思っているからそんな言葉がでるんだろうな。
邪馬台国は日向全土よりも大きいだろう。その都にいた使者からすれば、旁国は
遙か彼方だ。ちょっとやそっとで様子を見に行ける距離ではない。
336日本@名無史さん:2011/02/22(火) 23:17:12.33
>其國本亦以男子爲王、住七八十年」は倭国王帥升系統の男王の時代が七八十年
>続いたということでしょう。
AD107から七八十年を数えているようだが、そんなことは全く書かれていない。
単に男王の時代が七八十年続いたというだけの話だ。
だいたい、魏志は三国時代のことを対象としている史書だ。卑弥呼共立の年代を
明記していない以上、それは魏時代のことと読むのが当然だろ。
後漢時代のことと読むのは非常識というもんだな。
337日本@名無史さん:2011/02/23(水) 01:55:52.02
>>335さん
>伊都国から千五百里の女王国境界よりも北の地域を検察する

一大卒は常に伊都国にいて女王以北を監察するとの事ですが
あなたの論だと伊都国以南は観察しない、つまり女王国だからということですよね。
とすると不彌国は女王国に含まれないとしても奴国は東南なので女王国に含まれ
郡から女王国まで万六百里になってしまいます。

「日向に卑弥呼」がいた説も魅力的で興味深いですがその論では逆に否定されてしまいます。
338日本@名無史さん:2011/02/23(水) 02:35:00.62
「北の地域」って根拠はあるの?
南を東と読み替えるなら、北を西に読み替えるべきでは
大宰府、鎮西探題にあたるのが一大率では
339日本@名無史さん:2011/02/23(水) 06:17:47.64
>>337
>伊都国以南は観察しない
何か勘違いしているようだな。「伊都国以南は観察しない」などとは言ってない。
万二千里から女王国が始まる。それよりも北を検察するのだから、奴国も検察
対象に入るのだよ。

>>338
>「北の地域」って根拠はあるの?
倭人伝に「女王国以北云々」とあるだろ。

>南を東と読み替えるなら、
読み替えない。読替は畿内説等のごまかしにすぎない。
340日本@名無史さん:2011/02/23(水) 06:53:02.80
>>319
>万二千餘里というのは女王国の始まりまでの距離なんですか。ふ〜ん
女王国とあったら始まりではなく首都のはずだと思い込んでいるようだが、
後漢書を読んでみるといい。そうではないことがうかがえる。
楽浪郡徼はその国を去る万二千里。「徼」とは境のことだ。楽浪郡について
郡境を問題にしている以上、対する女王国についても国境を問題にしている
と考えるべきだろう。
341日本@名無史さん:2011/02/23(水) 08:13:05.56
>>335
>しかし、該当する国が全て女王国以北だとはどこにも 書いてない。女王国以北かどうかは、万二千里より北かどうかで決まるんだ。
>万二千里よりも南に該当する国があったところで何ら問題はない。

自女王國以北、其戸數道里可得略載 と書いてあるではないか。自分の考えに都合のよいように勝手読みをしてはいけんよ。
342日本@名無史さん:2011/02/23(水) 08:33:22.05
>>341
後漢書の例を持ち出してどうするんだ?倭人伝の行程記事で考えるべきだろ。
君の考えだと、帯方郡から狗邪韓国までの七千餘里は帯方郡の郡境から狗邪韓国の入り口の国境までということになり、狗邪韓国から對海国までの千里は
狗邪韓国の出口の国境から對海国の入り口までの距離となるわけだ。このようなことであれば、各国の入り口から出口までの距離はどうなるんだ?それが
不明では総距離は出せんだろ。
343日本@名無史さん:2011/02/23(水) 10:39:41.43
>>342
>>340に対するレスなんだろうね。
行程を説明する場合の狗邪韓国や対馬国というのは、入り口とか出口とかを
考えるわけではない、一点(たぶん首都)なんだよ。そうでなければ、あな
たの言うとおり総距離が分からない変な行程記事になってしまう。
ただ、女王国まで万二千里という記事は、行程記事とは別だ。行程の説明が
済んでからの女王国を説明するための記事。だから、これは国境までという
ことで何ら不自然ではない。
344日本@名無史さん:2011/02/23(水) 10:47:19.03
>>341
>自女王國以北、其戸數道里可得略載 と書いてあるではないか
これは女王国以北については、主要な国も旁国も其戸數道里可得略載というだけで
戸數道里可得略載の国が全て以北だというわけではない。
女王国以北でないところはどうなるのか? 旁国は戸數道里不可得略載だが、主要
な国については戸數道里可得略載なんだよ。
345横板に水:2011/02/23(水) 15:11:42.22
>>335
名無しだと議論の相手を取り違えたりして不便ですね。あなたは(察するところ)日向辺りに邪馬台国を比定されているようですから、
日向守とか、日向命とか日向カボチャだとか芋がら木刀とかなにか分かり易いハンドルネームを付けて頂けませんか?

女王国についてですが、倭人伝に出て来るのは
「自女王國以北其戸數道里可得略載」、「自郡至女王國萬二千餘里」、「自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」
の3カ所ですね。

あなたは自女王國以北に女王国を含むとすると「自女王國以北特置一大率檢察諸國・・・」がおかしなことになると言われますが、それは一大率
の捉え方が間違っているのではないでしょうか。「一大率はしょせん地方長官に 例えられる地位だ」というのは「於國中有如刺史」という文言が
あるためだと想像しますが、この「於國中有如刺史」は魏の人間が諸国が畏憚する様を見て「まるで国中に刺史の如きがあるようだ」と感じただ
けのことで、一大率を刺史のような地方長官とは言っていません。

倭国の各国には官や副(官)が別に置かれています。こちらの方が地方長官に相当するでしょう。一大率は「檢察諸國」とあるから単に一地方の
長官ではなく、現在で言えば検察と警察を併せたような権力を持つものだったでしょう。そういう存在であれば投馬国はもとより邪馬台国を検察
してもおかしいことはないでしょう。

>一大率が水行二十日離れた投馬国を 検察するのか?
この水行二十日が遠距離を思わせるのでしょうが、これについては話しが長くなりますので、改めて議論しましょう。

346日本@名無史さん:2011/02/23(水) 15:48:09.70
>>345
>一大率を刺史のような地方長官とは言っていません。
少数説だな。ウィキには次のようにあるよ。

原文のおよその意味は、「女王国より北には、特別に一(人)の大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させており、
諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような
役割を持っている。
347日本@名無史さん:2011/02/23(水) 16:03:39.66
たしかに、伊都に一大率置いたって、
睨み効かせられるのは、伊都と奴国くらいなもんだわな。

佐賀付近、出来れば鳥栖あたりにでもおいたほうが、
諸国に睨み効かせるには便利だ。
348日本@名無史さん:2011/02/23(水) 16:10:09.92
>>346
そのウイキの訳はおかしんでないかい。
常治伊都国を「いつも伊都国で政務を執り」なんて。「常に伊都国を治めている」だろ。治を動詞とすればcontrol、cure、govern、manage、punish、rule
の意味しかない。名詞なら地方政府の所在地(郡治、県治)の意味があるが、常治伊都国の治は名詞じゃないだろ。

>それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような 役割を持っている。
「役割を持っている」などと、よくもまあ書いてもないことを。

349日本@名無史さん:2011/02/23(水) 16:22:38.02
ウィキペディアを鵜呑みとかないわw
350337:2011/02/23(水) 16:31:23.17
>>339さん
>何か勘違いしているようだな。「伊都国以南は観察しない」などとは言ってない。
万二千里から女王国が始まる。それよりも北を検察するのだから

ですからね、あたしが何を言いたかったといえばですよ。
あなたの論を読ませて頂いて南部と北部が戦っていたという考えは興味深い
と思いましたが行程に矛盾が多すぎるんです。

万二千里から女王国が始まる それよりも北を監察する、なら仮に投馬国が女王国
だとしてもそこから先は北ノ国ですから当然一大卒(僕は専門卒です)は
奴国に置かなければならないのですよ。これと337の文章を読むと
なにかしら気づくのでは?
351伊作だけど:2011/02/23(水) 16:44:47.26
340
>後漢書を読んでみるといい。そうではないことがうかがえる。
>楽浪郡徼はその国を去る万二千里。

『後漢書』 東夷伝は『三国志』東夷伝の焼き直しでね。
後漢代の「帯方郡がなかった時代」のこととして書いているから、
楽浪郡から書くしかない。楽浪郡の役所からよりも「楽浪郡の境界から」が、
倭人伝のいう12000里にいちばん近いからね。

後漢朝が倭国に使節を派遣した事実はないし、
当時は里程を知らなかったはずの倭人が、
「楽浪郡の境界から12000里」という情報を伝えるわけもないし。
出所は『三国志』東夷伝・倭人伝しかない。
352日本@名無史さん:2011/02/23(水) 16:46:24.99
>>350
>だとしてもそこから先は北ノ国ですから当然一大卒(僕は専門卒です)は
>奴国に置かなければならないのですよ。
意味がよく分からないな。以北の中でもっとも女王国に近い所に一大率がいた
はずだという考え方かな?
それは一大率を置くときに候補地を考える要素の一つにはなるかも知れないが
絶対的なものではない。一大率は対馬までみるんだ。北九州全体に目配りをし
やすい所、そしていざというときに本国との連絡もとりやすい所、いろいろな
要素を考えて伊都国に置いたんだろう。

>>348
治は「治す」と読まれている。役所を置くという意味だ。
残念ながら「常に伊都国を治めている」という珍訳は聞いたこともないな。

>「役割を持っている」などと、よくもまあ書いてもないことを。
妥当な意訳だと思うがね。
353伊作だけど:2011/02/23(水) 16:47:07.61
345 横板に水
>日向守とか、日向命とか日向カボチャだとか芋がら木刀とか
わははー。議論するなら、せめてハンドルネームぐらいはね。
きみが言うように誰が誰だか分からないんじゃ的確な対応ができない。

>一大率を刺史のような地方長官とは言っていません
『倭人伝』の「一女子」と「一大率」は同じ描き方だろう。「一・女子」「一・大率」。
大率とは、中国語では「だいたい・あらまし」の意味だが、
『隋書』百済伝に百済の官位として「大率」が登場する。これに近いのだろう。
だけど彼の仕事は、邪馬台国ルートにある渡船場(津渡し)で、
そこを通過する(津で船に乗り降りする)卑弥呼関係の文物の検察をしていた雰囲気だよ。
私はさほど権力をもった人物だと思わない。

>一大率が水行二十日離れた投馬国を 検察するのか? 
(横板くんの投稿じゃないが)

これは、先に問題とした順次読み(続け読み)した結果、
女王国よりも先に紹介されているから、投馬国は女王国以北にあると解釈してるのだろう。

「自女王国以北其戸数道里可得略載」という文章は、
その他の傍国は遠絶で見て回ることができず、戸数や道里さえも簡単に紹介できない。
したがって「国名を羅列するにとどめる」ということわりの文章の導入冒頭だよ。

つまりこの文章は、文章構成からみて、邪馬台国と投馬国の行程説明とは無関係だよ。
354伊作だけど:2011/02/23(水) 16:49:10.34
346
>中国の刺史(しし)のような 役割を持っている。
郡見回りの刺史のような権力を威厳を持っていたのなら、「刺史の如し」でよかろう。
ここでは「刺史の如く・有り」としている。
これは、実際にそのような権力や威厳があったというのではなく、
「自分で刺史のように振る舞っていた」というニュアンスがある。
この大率なる人物は、名前も紹介されていなければ、倭国大変でもとんと働いた形跡がない。
倭人伝は意味深で、こんなのを「畏れはばかる」と、揶揄しているニュアンスがある。

名もなく、大したことをしないのがもう一人いたね。
卑弥呼の姉さんの威光を笠に偉そうに、「政治を手伝っていた弟」が、
伊都国の渡船場で、卑弥呼姉さん関係の文物のチェックをしてたんじゃないかな。

なははー。
355横板に水:2011/02/23(水) 16:56:30.81
>>335
以下は345の続きです。

あなたは「自女王國以北」に女王国を含むとするとおかしなことになるといわれますから、女王国は含まないという見解だと受けとってよろしいですか?
女王国を含まないとしますと、自女王國以北、其戸數道里可得略載がおかしなことになります。

邪馬台国については「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸」と書かれて
いて、まさに其戸數道里可得略載に該当しますが、これは女王国ではないということになります。投馬国もそう(女王国ではないと)なりますね。
それでよろしいですか?

あ、それから、
僕は旁国とは其戸數道里可得略載に該当する国の傍にある国だと思っています。魏の使者梯儁は末盧国、伊都国、奴国、不彌國、投馬国、邪馬台国をその順で
訪れていると考えています。官名や副の名が記されているのは彼らと会ったからだと思います。旁国は直接訪ねていないから「遠絶不可得詳」としたのでしょう。
倭人から話は聞いたでしょうが、自分の目で確かめたことではないものを(倭人はこう言っていたくらいのことは書くでしょうが)報告書に書くほど軽卒ではない
でしょう。

あ、その前に、あの行程記事の原資料は梯儁の報告書であるということを論じておかなければなりませんでした。しかし、それを書くと長くなりますのでいずれ別の
機会にしたいと思います。


356日本@名無史さん:2011/02/23(水) 17:02:12.06
>邪馬台国は其戸數道里可得略載に該当しますが、これは女王国ではないということになります。
>>335を読みなさい。
357日本@名無史さん:2011/02/23(水) 17:05:16.13
>>356
読んだうえで、君の論が成り立たないことを論じているとしか思えんがのし。
358伊作だけど:2011/02/23(水) 17:11:23.68
355  横板に水
>あの行程記事の原資料は梯儁の報告書であるということを
魏朝にとってみれば、伝説か風聞にすぎなかった倭人と倭人の住む島の発見は、
民族学的・地理学的発見だ。
また、東蝦夷調査は前漢朝の西方調査に匹敵すると東夷伝序文でうたっている。
相応の調査団と専門家を派遣しているはずだよ。

皇帝の詔書を持参できるのは、皇帝代理の印しである節を与えられた使節だけ。
当時の中国人には、
卑弥呼の金印と皇帝の詔書を携えた使節が本国から来ていることは周知の事実でね。
常識だからいちいち書いていないだけさ。

梯儁は、使節団の護衛と引率を兼ねて帯方郡太守がつけた官吏(警察官吏かな?)だよ。
詔書だけでも、ややもすると4人担ぎの輿に乗ってやってくる。
現場の臨場感でいえば、そんなもんなんだよ。
359337:2011/02/23(水) 17:31:57.47
確かに私の文章では確定できませんでしたね。失礼しました。ただ揚げ足を
取るような事はしたくなかったのですが

>>335 伊都国から千五百里の女王国境界よりも北の地域を検察するだけ

>>339 何か勘違いしているようだな。「伊都国以南は観察しない」などとは言ってない。

おっしゃられてますね、申し訳ないです。北と南の関係については興味深いです。
360横板に水:2011/02/23(水) 18:00:55.30
>>353
あ、伊作さん。伊作さんに絡まれるのはなんだか嫌だな〜。直ぐに怒るから。

>これは、先に問題とした順次読み(続け読み)した結果
順次読み(続け読み)のどこが問題なのですか?僕には書いてある順が分かり易いのですが。
361日本@名無史さん:2011/02/23(水) 18:24:23.82
>>358
>皇帝の詔書を持参できるのは、皇帝代理の印しである節を与えられた使節だけ。
当時の中国人には、
卑弥呼の金印と皇帝の詔書を携えた使節が本国から来ていることは周知の事実でね。
常識だからいちいち書いていないだけさ。


皇帝から下賜された品物は難升米と牛利が持ち帰ったと書いてあります。


>梯儁は、使節団の護衛と引率を兼ねて帯方郡太守がつけた官吏(警察官吏かな?)だよ。
詔書だけでも、ややもすると4人担ぎの輿に乗ってやってくる。
現場の臨場感でいえば、そんなもんなんだよ。

4人担ぎであろうが、8人担ぎであろうが、ここには関係ない話ですね?

362日本@名無史さん:2011/02/23(水) 18:31:04.88
>>355

「女王國以北」と「自女王國以北」の違いが重要なキーポイント
363伊作だけど:2011/02/23(水) 20:07:16.14
358 
>4人担ぎであろうが、8人担ぎであろうが、
行程記事は梯儁が書いたというから、
役職と職務分担が細分化されて確立された国家の話だからね。
調査記録は調査記録専門のに影かが書いた。

相応の人間が派遣されていることを、たとえば「詔書だけでも4人かがり」かも
という言い方をしたのだが。認識不足の上での揚げ足かい。
364伊作だけど:2011/02/23(水) 20:09:56.49
361
>皇帝から下賜された品物は難升米と牛利が持ち帰ったと書いてあります。
詔書と金印は別格だから、魏本国から使節が持参している。
この説明が理解できないかい。
正始元年の記録も見てるんだろ。
365伊作だけど:2011/02/23(水) 20:25:12.35
360 横板に水
>伊作さんに絡まれるのはなんだか嫌だな〜。
そうかい。勝手が通じないからけむたく思ってるのだろう。
いずれにしても、きみへ関与するのは今後はやめるよ。

>直ぐに怒るから
怒るようなことをいうから怒る。
不条理・筋の通らないこと・不正解釈・まやかし、
意図的誤解による論拠造作・まやかし・認識不足や誤解に基づく反論。
怒るようなことが大すぎるわなー。

>順次読み(続け読み)のどこが問題なのですか?
文章というものは、起承転結だけではなく、
調和と変化と、リズムとテンポてのがある。
それを、バカづらさげて「ぼーっ」と続け読みする愚かさ。
分からない者には死ぬまで分からない。

文章づくり、文章読みとは、特殊な才能を必要とする。
悲しいかな、倭人伝に手をつける人で、本当に文系才能がある人は少ない。
パズルか乱数表か暗号文のように読む理系思考が多い。
文字数が少ないことでくみしやすいと見るのと、
句読点のない漢字の羅列だからだろう。

先に提示した「一大率」だが。
「一・大率」である可能性がほぼ100%の記録を「一大・率」と読み、
一支国の間違いである可能性が99%の「一大国」と関連づけ、
「一大」の共通性を語る手法などがいい例だね。

あそこを続け読みしている間は迷宮にはまって、迷宮から脱するために、
どこかで「つじつま合わせ」という小細工をすることになる。
明確な理屈だよ。
10年後にこの予見を思いだすといい。
366日本@名無史さん:2011/02/23(水) 20:40:50.84
>>359
何を言いたいのか意味不明だな。
私が>>335 で言ったのは、一大率は万二千里より北を検察するということ、
次に>>339で言ったのは、伊都国よりも南でも万二千里までの間は検察する
ということ(だから奴国は検察対象)だ。何も矛盾したことは言ってないぜ。
367伊作だけど:2011/02/23(水) 20:44:14.69
>行程記事は梯儁が書いた
この歴史錯誤を矯正しておく。

●中国の古代地理学(中国文化研究院)
「軍事と地理は密接な関係にあり、中国古代の軍事的地理知識の累積は豊富である」。
「軍事的地理把握の要件には、政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、
人口、河川等がある」。

『倭人伝』の内容も、ほぼこの要件に沿っている。
中国においては軍事情報・版図情報・年貢の基本となる地理・地形を調査し、
表記したような様ざまな情報を収拾して記録するのに、使節や護衛の人間が
片手間にやったとでもいうような意見をいうのは、
「私は歴史を知らずに歴史書の解読をしています」と白状するようなもんだ。
368日本@名無史さん:2011/02/23(水) 20:46:26.84
>>360
横からだけど。
陳寿が放射式で書いているのに、順次式の方が分かり易いといっていたのでは
本当の邪馬台国の所在を見きわめることはできないってことだよ。
伊都国までとその先とで何のために書き方を変えたのか、そこからどうゆう意
味の違いがでてくるか、それが問題なんだな。
369伊作だけど:2011/02/23(水) 20:46:58.54
ここは相当にレベルが低いな。
2チャンネルの古代史関連ではブービーもののようだ。


己の程度を自覚して謙虚ならまだしも………………。
370伊作だけど:2011/02/23(水) 20:57:25.60
368 日本@名無史さん

>何のために書き方を変えたのか、
>そこからどうゆう意 味の違いがでてくるか、それが問題なんだな。
その通り。
そこにいち早く気づいて、それに対する一つの回答を俺は提示しているが、
「同じ書き方だ」といってはばからない・ていたらくさ。
371横板に水:2011/02/23(水) 21:12:01.30
>>368>>370
同じ書き方を続けるのは芸が無いということもあるでしょう。
ところで、お二人は
「南至投馬國水行二十日」と「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の所要日数はどこからどこまでだとされるのですか?
372日本@名無史さん:2011/02/23(水) 21:17:23.54
>>363
揚げ足とられたと動揺したか?
蚤の心臓よりもちっぽけか?小心者が見え隠れしてるぞ
373横板に水:2011/02/23(水) 21:27:48.76
>>367
魏の使者が初めて倭国を訪れた場合に政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、 人口、河川等の情報を入手すべく準備しまた実行した
であろうことは容易に想像できますよ。現代でもアメリカの外交官が赴任地でやってやっていることを見れば、いつの時代でもどこの国でも似
たような諜報活動を行うだろうと思いますよ。恐らく梯儁らの一行が手に入れた地理情報も軍事情報として役立つものだったでしょう。

しかし、三国志は史書です。それも晋の要人だけが見れる秘密の書ではないでしょう。敵対する勢力などが手に入れようとすればできるものでしょう。
そんなものに軍事情報をそのまま書く馬鹿はいないでしょう。
374日本@名無史さん:2011/02/23(水) 21:29:45.36
>>364
>詔書と金印は別格だから、魏本国から使節が持参している。
この説明が理解できないかい。
正始元年の記録も見てるんだろ。


別格じゃなく、別格としたいだけだろ?
それとも、その正始元年に別格だと書いてあるのか?
必要以上に記事の内容をヨイショする事で、自分の都合のいい解釈に持っていく作戦か?いや、作戦というよりも、お宅として生き残るための知恵とでも言っておくか。
375日本@名無史さん:2011/02/23(水) 21:30:51.11
369
>ここは相当にレベルが低いな。
2チャンネルの古代史関連ではブービーもののようだ。

ほんじゃ一人二役、三役の姑息なことまでしないで出て行けよ。
方角の違いも分からない耄碌爺さんよ。
376横板に水:2011/02/23(水) 21:50:29.31
>>367
>>行程記事は梯儁が書いた
>この歴史錯誤を矯正しておく。

誰も梯儁自身が書いたと言っていないでしょ。梯儁が一人で来るわけはないのだから、担当の記録官が書くくらいのことは誰でも
知っていますよ。

それから、梯儁の他に使節が居たのであれば何故その重要人物の名を出さないのですか。使節団の護衛と引率を兼ねて帯方郡太守
がつけた官吏(警察官吏かな?)如き者の名前は出して使節の名前を出さないなんておかしいでしょ。
377伊作だけど:2011/02/23(水) 21:55:49.84
372 日本@名無史
揚げ足とみとめたわけだ姑息もの。
378日本@名無史さん:2011/02/23(水) 21:57:04.76
>>371
>同じ書き方を続けるのは芸が無いということもあるでしょう。
意味があるのかないのか、それを見きわめる力を持とうな。

>「南至投馬國水行二十日」と「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」
>の所要日数はどこからどこまでだとされるのですか?
いずれも伊都国から。どこまでかは問題ないだろ。



379伊作だけど:2011/02/23(水) 21:59:05.63
374日本@名無史
>別格じゃなく、別格としたいだけだろ?
中国の歴史書に書かれた記録に着いて語るのに、
中国の制度を知らなくてどうするか。
恥かきものの投稿だが、
そのことにも気づいていないだろ。
380伊作だけど:2011/02/23(水) 22:01:51.04
375 日本@名無史さん
>ほんじゃ一人二役、三役の姑息なことまでしないで出て行けよ。
俺は気分屋でな。しょっちゅうハンドルをいじる。
だが、俺と分かるようにしてるだろ。

>一人二役、三役の姑息な
こそこそしてるわけじゃないぞ。こもの。
俺と分かるようにしてるだろ。
381伊作だけど:2011/02/23(水) 22:03:48.15
ひでえトピックだ。
デキが悪くて理解力がない上に、理解しょうともしない。

かんべんしてくれ。
382横板に水:2011/02/23(水) 22:08:12.34
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
の水行二十日と水行十日陸行一月がそれぞれ帯方郡から投馬国および邪馬台国までの所要日数だとすると何故ここ
に書かねばならないのかわかりません。

それより前に書かれた東南陸行五百里到伊都国、東南至奴國百里、東行至不彌國百里の里数は明らかに帯方郡から
のものではないのに、何故、突然、投馬国と邪馬台国の場合は帯方郡からの所要日数になるのかわかりません。
383日本@名無史さん:2011/02/23(水) 22:15:20.03
>>379
>中国の歴史書に書かれた記録に着いて語るのに、
中国の制度を知らなくてどうするか。
恥かきものの投稿だが、
そのことにも気づいていないだろ。

そういう問題ではなく、別格か別格ではないかの問題。
話をすりかえないでください。
384日本@名無史さん:2011/02/23(水) 22:19:26.09
>>381

おまえもな
385横板に水:2011/02/23(水) 22:29:10.69
>>378
あなたは起点を伊都国とされるのですね。放射読みとすればそうなるでしょう。

以前、僕はいくつか試案を持っていると書きましたが、二番目のものは次のようなものです。

倭人伝の里数は魏の公式の数値(1里は約430m)であれば実際の5〜6倍に誇張されている。東夷の地理は5〜6倍に誇張して書いても
よいとされていたかどうか知りませんが、実際上誇張されています。里数だけで日数は誇張されないのはおかしいですから、日数も同じよ
うに誇張されていると見るべきでしょう。

そのように見ると、水行二十日は「水行3〜4日」となり、水行十日陸行一月は「水行2日陸行5〜6日」となります。
戸数も同じように誇張されているとすれば、伊都国は二百戸ほど、奴国は四千戸ほど、投馬国は一万戸ほど、邪馬台国は一万四千戸ほどで、
畿内説派がうるさく文句をつけるほどのことはなくなります。
386日本@名無史さん:2011/02/23(水) 22:37:33.05
>>385
誇張説か、ふーん。何のために誇張するのかな? 通常、そのような操作をする
ときにはばれないようにするはずだ。となれば、郡を置き、様子がわかっている
朝鮮半島については真実を書き、実情が知られていない倭国内部のことについて
誇張する、それが普通だろ。朝鮮半島に関する記述から里数が合わないのは、誇
張説では到底説明できないな。
387日本@名無史さん:2011/02/23(水) 22:45:13.76
>>385

>実際の5〜6倍に誇張されている

誇張されていると言うのは、実際よりも大げさに言う事で
決して5〜6倍という数値で括れるものではありません。
そこに具体的な数値が提示できるのは、誇張ではなく拡大

拡大だったらそこには人為的な意図があり、その意図は何らかの法則にのっとったものとなります。
388横板に水:2011/02/23(水) 22:53:50.89
>>386
東夷伝の韓のところに
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里」とあります。四千里は魏の公式の数値とすれば1700kmあまりになります。
韓は現在の韓国の地にほぼ近いでしょうが、方形とみなしても300km×350kmほどです。これは5〜6倍の誇張です。何故誇張しな
ければならなかったかは分かりませんが、「郡を置き、様子がわかっている 朝鮮半島について」実際に誇張がなされているのです。
389横板に水:2011/02/23(水) 22:58:29.65
>>387
言葉の定義を問題にするほどのところではないでしょ。要は実際より誇大に書かれているということです。誇張がマズイのであれば拡大でいいですよ。
390日本@名無史さん:2011/02/23(水) 23:10:25.65
>>388
倭国を遠くに見せようとしたとかいう意図で誇張した可能性はない。→386
となれば、誇張ではなくて、中国のいわゆる長里とは別の単位だと考えるべきだ
ろう。これまで検討されてきたところをみると、中国内部の記事に関して「5〜
6倍の誇張」は見られないようだ。となれば、東夷でそのような、1里=80〜
90メートルの単位が使われていたと考えるべきじゃないかな。
中国の知識人がそのことを知っていたならば、東夷の記事に関して東夷の単位を
書くということも理解できる。
391伊作だけど:2011/02/23(水) 23:16:24.22
383 日本@名無史さん

>そういう問題ではなく、
天子を戴く大帝国の制度の問題だ。しらないんだろ。
日本国の天皇が、大戦の敗北宣言をするまでは、天皇の声をきいた庶民は皆無だろう。
天子・天皇の詔というものは、そういうものだ。それを文書にしたのが詔書だ。
といっても分からんだろうな。

>別格か別格ではないかの問題。
だから、日本の使者が持ち帰った贈り物とは別格だ。詔書は使節しか持参できない。

>話をすりかえないでください。
きもが理解できなてだけの話で、話をする変えてしいない。
こういう文言はもっと的確に使え。
意味もよく分からずつかってるようだが。
392伊作だけど:2011/02/23(水) 23:20:59.02
388  横板に水
>これは5〜6倍の誇張です。
>「郡を置き、様子がわかっている 朝鮮半島について」実際に誇張がなされているのです。

これはきみのオリジナル着想かい。
きみは俺のサイトをみているはずだが、
俺のサイトからのつまみ食いかい。
後者ならクレジットすべきだな。

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/49de9876a079f92d58113ae8a9e2b1e6
393日本@名無史さん:2011/02/23(水) 23:26:36.45
>>388

>これは5〜6倍の誇張です

近くに日本地図があったらそれを見てみよう。
そこに描かれている日本地図は実際の日本よりもかなり縮小して描かれている
この小さく描かれた日本地図は、謙遜、或いは遠慮気味で書かれたものかな?
394日本@名無史さん:2011/02/23(水) 23:29:57.66
>>389

>誇張がマズイのであれば拡大でいいですよ

誇張と拡大ではまったく別な答えが導き出される極めて重要な認識の違い
、誇張がだめなら拡大でいいという問題では無い。
395日本@名無史さん:2011/02/23(水) 23:36:13.63
>>391

>天子を戴く大帝国の制度の問題だ。

制度の問題ではなく、君の頭の中身の問題だよ

>日本国の天皇が、大戦の敗北宣言をするまでは、天皇の声をきいた庶民は皆無だろう。
天子・天皇の詔というものは、そういうものだ。それを文書にしたのが詔書だ。

だから別格だという問題ではないだろ。別格扱いしているのは君の頭の中だけの話。

>だから、日本の使者が持ち帰った贈り物とは別格だ。詔書は使節しか持参できない。

だから日本の使者が金印と贈り物を持ち帰ったと言ってるだろう

>こういう文言はもっと的確に使え。

的確に使おうが使うまいが、そもそも君の脳内で描いたものだから、的確も糞もない
396日本@名無史さん:2011/02/23(水) 23:39:35.38
>5〜6倍
これはよく言う短里だろ。


公里千里=一月行=435キロ(一日あたり14.5キロ)

これを単里に当てはめて

短里千里=一月行=80キロ

これで九州島と済州島の距離は合う。
倭人伝で鹿児島南海上に出ることもない。
だいたい熊本付近に付きそう。
397日本@名無史さん:2011/02/23(水) 23:40:15.41
>>329

別格だと主張したのなら、別格だとする原文でも提示すればいいだけの
簡単な話だろう。
制度上のことなら別格の事実も制度上に記載されてるだろう?
398伊作だけど:2011/02/23(水) 23:42:13.07
384 日本@名無史さん :
>おまえもな

一つの論を整理構築するだけの能のないのが、
断片的な半端知識をふりかざして、断片衒学するのが掲示板だ。
事実そうだろ?

俺はきちんとした膨大な論を構築してる人だ。
自分の論を公開している人は多いが、
yahooのカテゴリ検索に登録されているのは少ない。
俺のは2003年に公開したがすぐに登録された。けっこ狭き門なのだ。
あとで知ったことだが、ウィキの関連リンクにも誰かが入れてくれていた。
中庸な判断力をもつ良識が「質」を認めてるわけだ。

いくら口先でののしったところで、事実無根のむなしいカラ誹謗。
399伊作だけど:2011/02/23(水) 23:45:43.96
395

>日本の使者が金印と贈り物を持ち帰ったと言ってるだろう

はあ?
不相手が誰だか分からないから、オタクを相手にしてしまったかな?

397
>別格だとする原文でも提示すればいいだけの
簡単な話だろう。
>制度上のことなら別格の事実も制度上に記載されてるだろう?

悪いけどパスだ。
きみのいうことが正しい。これでいいな。
400日本@名無史さん:2011/02/23(水) 23:45:47.62
伊作さんの諭は、
Hiアマの歴史研究連中の中では、どういう評価を得てるの?
401伊作だけど:2011/02/23(水) 23:55:30.44
400 日本@名無史さん
>Hiアマの歴史研究連中の中では、どういう評価を得てるの?

まず大前提として確認しておく。
掲示板に参加する者は、半端者だろうが・オタクだろうが・妄想家だろうが、
「自論」というものをひっさげて参加しているのと、自己主張の強い者ばかり。
したがって、掲示板上て他人の意見を容れるなんてことはほとんどない。
自我の強い連中だから、表面上では必ず何かと反意をあらわにするものだ。

そうした前提があってなお。
yahooでは、名うての畿内説論客が俺の力量を認めてるぜ。
彼の書き込みをここにコピぺする必要はないと思うが。
yahooでは俺の隠れファンが多いらしいぞ。どうしょもない。

yahooでは俺が参加するトピックはヒット数が急増する。
てのも畿内説の論的の素直な評価だ。こんなもんでいいかい。
402日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:02:26.65
>>401
今のところネットだけの活動なんですか?
もし伊作さんが大学生とかなら、論文として発表できるレベルの物ですか?
失礼な言い方になるかも知れませんが
403日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:04:09.58
>>399
>きみのいうことが正しい。これでいいな。

言質取らせてもらったぜ
404伊作だけど:2011/02/24(木) 00:10:48.89
402
>今のところネットだけの活動なんですか?
平成2年に某出版社が読売の半5段の広告つきで出版してくれた。
平成8年に生死のかかった大病をして、
手術前のベッドから「遺言」のつもりで出版した。
どちらも、今となっては恥ずかしいデキで、
タイトルを口にすることすらはばかられる。

最近になって、サイトの内容を890ページの電子書籍にした。
これは集大成といえるもので、もう書くことはないと思う。
だから遊びにきているわけだが。
(サイトで公開しているのは上巻の分だ)

>大学生とかなら、論文として発表できるレベルの物ですか?
自分ではそう思っている。自力でゼロから構築したものだからね。
随所に独自の視点での解釈が網羅されている。
この点は、私は2003年頃からyahooに参加してるから
yahooの論敵を含む連中が証人になる。
405伊作だけど:2011/02/24(木) 00:20:35.69
404のついしん。

ネットの素人空間に、中国の歴史書の書いてない行間を読むために、
中国の制度・文化・歴史・習慣・しきたり・宗教的精神性・故事
などの必要性を持ち込んだのも私がはじめてだった。
漢詩もそうだが、表記したようなことを知らないと、
そこに書かれている比喩や人名がまったく理解できないのと同じだね。

それまではyahooでも文字談義と里程・日程談義ばかりだった。
現在のこのトピックよりは次元が違って上質だったがね。
ちょうどいま、「詔書は別格だ」といえばからんでるのがいるけど、
こんなにひどくはなかった。
ただし、あちらには正真のイカれたのが跋扈している。
406日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:25:52.58
ヤフーは一対一レスだし、自分への複数からの批判がすぐには見えないから居座りしやすいな。
407日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:29:48.01
絡まれるような書き込みしなければ絡まれない。
被害妄想があまりにもひどすぎる。

さも自分は正しくて、絡んでくる奴は悪者だと言わんばかりのいいぐさ

俺の言ってることは絶対的に正しいってか?馬鹿言ってんじゃないよ。たんなる妄想だよ
408日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:34:12.07
380
>ほんじゃ一人二役、三役の姑息なことまでしないで出て行けよ。
俺は気分屋でな。しょっちゅうハンドルをいじる。
だが、俺と分かるようにしてるだろ。
>一人二役、三役の姑息な
こそこそしてるわけじゃないぞ。こもの。
俺と分かるようにしてるだろ。

バレバレ。
姑息な魂胆もパレパレ。
409日本@名無史さん:2011/02/24(木) 00:36:01.82
>>404、405
ありがとう御座いました
私は好奇心程度の人間なのですが、それでも宜しかったらご教授下さい
学問的な興味というより、私は邪馬台国や女王国のイメージが知りたいんです
日本の当時の「制度・文化・歴史・習慣・しきたり・宗教的精神性」と言った物になるんでしょうかね
同じ国土にあった物だから、他人に思えない、自分の先祖として見たい、だから肌で感じたいと言う思いかなぁ
410伊作だけど:2011/02/24(木) 00:46:09.99
ここまで、畿内説のバカどもが俺を追っかけてきているのか、
それとも九州説の者が俺を攻撃しているのかが判然としないが、
今までみた中では、
九州説が畿内説の罵倒連にバカにされるも無理はない。
俺が消えた「ドンと来い」が閑古鳥してるところをみると、
畿内説のクソ野郎どもが追っかけてきてるんだろうな。

406 日本@名無史
>ヤフーは一対一レスだし、………居座りしやすいな。
じゃ・ハンドルネームつくって参加してみろよ。
その度胸も力量もないから、ここで名無しでやってるんだろが。

yahooには、プロ以上に文献に詳しいのが数人いる。
その研究深度も力量もケタ違いだ。そこでやってみせろ。
オタク扱いで無視されるか、蹴散らされるのがオチだろうさ。
411伊作だけど:2011/02/24(木) 00:53:42.36
407 日本@名無史
>絡まれるような書き込みしなければ絡まれない。
畿内説の危機管理上、何が何でも絡まなくちゃ・が本音だろ。
そういう状況も体験済みだ。

>絡んでくる奴は悪者だと言わんばかりのいいぐさ
現実に悪者だろが。罵倒をしかるのは決まってお前たちだ。
それも常套手段と化している。

>俺の言ってることは絶対的に正しいってか?
そういう発言をしたことはない。
自分の論考・検証に自信があるし、まとうな手順と手法を堅持している。
だから凛とした態度で発言する。それだけのことだ。
それに押されて遠くから吠えるしかないくせに、バカをいうな。

412伊作だけど:2011/02/24(木) 01:08:46.81
>私は邪馬台国や女王国のイメージが知りたいんです

私のサイトに「倭国の実像」というページがあります。
別サイトの『民族の指紋』では、倭人のルーツをたどる試みをしています。
そこで得た結論としては、「文身をする・お歯黒をする・文字をもたない」民俗です。
それは、長江流域の少数民族とまったく同じです。

私は熊襲の末裔を自認していますが、
熊襲も隼人も、まんま南蛮・南越・荊蛮といわれた、
楚・呉・越の領民を形成した民俗と気質がにています。
その熊襲・隼人こそ、倭国支配層に近い社会部族です。

倭国支配層は、明治自体に禁止令が出されるまで、
皇族・貴族の男女は「お歯黒」をしていました。
それと。
卑弥呼は190年頃に女王になりますが、その時点で若いながら鬼道を修得しています。
中国で鬼道が盛んになるのも180年頃です。
鬼道は、黄老学という森羅万象の哲学を素にした道学が基です。
これを修得するには、高度な中国語素養と文字の読み書きと、多様な知識が必要です。
ということは、生粋の土着倭人には伝授も修得も不可能ですから、
卑弥呼がどこで・どうやって190年以前に鬼道を修得したのかも問題ですね。

二次元紙面に書いてある文字づらだけを追いかける人が大多数ですが、
歴史はそんなに簡単でもなければ単純でもないと思いますよ。

413伊作だけど:2011/02/24(木) 01:11:55.90
ていせい。

中国で鬼道が盛んになるのも180年頃です。
↓↓↓
中国で鬼道が盛んになるのも190年頃です。
414日本@名無史さん:2011/02/24(木) 02:07:52.52
>>412
ご丁寧にありがとう御座いました。
という事は、卑弥呼の氏族>熊襲・隼人>被支配層 という異民族支配ですか。
まるで英国の植民地になったインドのイメージですね。
言葉は、支配層・被支配層の間で異なったんでしょうかね?
そんな外来者が持ち込んだ「鬼道」という新宗教(一種の科学でしょうかね)に民衆は素直に従えるものでしょうか。
中国で盛んになったのが190年頃、倭国に持ち込まれたのも190年頃で、すぐに民衆に受け入れられて卑弥呼の支配原理になったという事ですよね。
人はそんなに変われるものだろうか。
415日本@名無史さん:2011/02/24(木) 02:21:26.13
一々、朝鮮や中国大陸からその都度人や物が来ないと何も始らん土人の巣窟かよw
少しは自主性持てよ。
416伊作だけど:2011/02/24(木) 04:52:16.45
414
>中国で盛んになったのが190年頃、
>倭国に持ち込まれたのも190年頃で、
いったい卑弥呼は。いつ・どこで鬼道を修得したのか。
時間的なタイミングからは、中国本土で修得したと考えざるを得ない。
ここが問題ですね。

>すぐに民衆に受け入れられて
>人はそんなに変われるものだろうか。
後漢末は東アジアに一大宗教改革の時代ともいえます。
倭国ではとくに、銅鐸を用いた大地への豊穣の祈りの宗教から、
病気治療・死者の災いが生者に及ぶのをはらう破邪など、
現世利益をもたらす鬼道(天師道) へと劇的に変化します。
この天師道の神器であり呪具が鏡と剣だったわけです。

>民衆は素直に従えるものでしょうか。
現代でも風邪をひいただけでお手あげでしょう。
古代における病気は生死にかかわりますから、病気治療は人心を掌握します。
人心の掌握は有効な政治手段として機能します。
事実、天師道とこれと基礎を同じくする太平道は、爆発的に信徒をあつめ、
教団組織が巨大化して国家を形成する過程をかいま見せていますよ。

>そんな外来者が持ち込んだ「鬼道」という新宗教
>(一種の科学でしょうかね)
漢方医学・漢方医薬・易・陰陽道・鍼灸・などなど、科学的要素と
非科学的要素を包含した膨大な学問が基礎です。

いわゆる、特定個人(聖者)の悟りに依拠した宗教とは少し違います。


417伊作:2011/02/24(木) 05:00:23.13
415 日本@名無史

>土人の巣窟かよw
火焔土器をつくった土人も、遮光器土偶をつくた土人も、長江河口からきた民族だよ。
銅鐸をつくったのも、銅鏡をつくったのも、高塚古墳をつくったのも、埴輪をつくったのも、
縄文時代から継続的かつ徐々に数を増やしながら長江河口やってきた民族。

きみが倭人の末裔を自認する人ならば、その体内に同じDNAが流れて可能性を考えたほうがいい。
歴史というものは、概して個人の願望とは異なる事実をみせるものだよ。

>少しは自主性持てよ
自主性があるからこういう発見ができるんだ。
感情とは無縁の作業によって得た結論だ。

もうきみなどとつき合う意思はない。次元が違うようだ。
418伊作:2011/02/24(木) 05:11:12.59
415  日本@名無史

もう一つ。
日本の皇族・貴族は「お歯黒」習俗があった。これは厳然とした事実だ。
古いのでは、古墳時代の人骨と埴輪にみられるという。
一説によると、聖徳太子もお歯黒をしていたという。
『日本書紀』にも、ある天皇が女性のお歯黒の美しさを称える歌が登場する。

お歯黒は、生粋の列島土人の習俗ではない。
お歯黒も文身も、長江流民族の習俗だ。
しかも、中国大陸から来たにしては、倭人は文字をもたなかった。
これも中国南方民族に共通の現象だ。(伊作説)
これらの事実を正視すれば、少しは歴史の見方が変わるはずだ。

日本人1億2000万人いる中で、
よりにもよって君らみたいな人間とつき合う意思はない。
では・ごきげんよう。
419日本@名無史さん:2011/02/24(木) 05:39:46.78
だから、万里の北も南も無くなった大混血人種の中国人に向って言う事だろがよw
420日本@名無史さん:2011/02/24(木) 05:58:53.97
>>418 伊作
>では・ごきげんよう。

もう何回目やら・・・
421日本@名無史さん:2011/02/24(木) 06:57:56.95
>>382
分からなくて当然。まともな学者でそんな読み方をする者はいない。
単なるこじつけにすぎない。
422河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/24(木) 08:00:16.58
奉詔書印綬と書かれている。
印綬が金印ならば、臣下に与えるもので、天子の代理はそれを奉る事はしない。
423河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/24(木) 08:46:39.91
詔書は天子の言葉なので当然その代理はそれを奉る。
そして印綬も奉ったとなると、これは印鑑ではなく、天子の証、印影である可能性が高い。
今で言う印鑑証明。
皇帝が芳に代替りし、その証明書を綬で包み詔書とともに奉った。
424伊作:2011/02/24(木) 09:14:35.87
419の名無し
420の名無し
誰かが投稿すれば、それにたかって食いつく「待ち受け型攻撃」野郎ども。
時分から意見をいうことはなく、短い文章で相手にいわせるように仕向け、
その穴をつついては罵倒攻撃するだけの畿内説のタコども。

お前たちにそうやって攻撃されてきた九州説者たちも、
もうたいがい、こういう所で議論バカらしさに気づいたことだろう。
こういう所で議論するしか能がない者は少し残るだろうが、
ほどなく、邪馬台国トピックは閑古鳥になるさ。

うろちょめろせずに、「ドンと来い」に戻って集客してみせろ。
客を集めるだけの魅力ある内容の投稿ができればの話だがな。 わらわら
425日本@名無史さん:2011/02/24(木) 09:30:30.89
>お前たちにそうやって攻撃されてきた九州説者たちも、
もうたいがい、こういう所で議論バカらしさに気づいたことだろう。

九州説者も
方角の区別もつかない耄碌爺が
こういう場違いな場所に来ていることを皆知っている。
どこへ行っても嫌われ者の耄碌爺。
426伊作:2011/02/24(木) 09:32:49.79
425
俺には隠れファンが多いんだ。
お前たち待ち受け攻撃野郎に攻撃されるのを避けるために、
全面に出てこないだけだ。
427伊作:2011/02/24(木) 09:34:41.24
425
もういいか。

お前らも「ドンと来い」に戻ってあっちをにぎわせ。
閑古鳥がないてるぞ。
428伊作:2011/02/24(木) 09:41:33.53
しょくん。
伊作が行くところはどこでもこうだ。魅力があるし集客力抜群。
畿内説にとって「捨て置けない」ことをいうから、奴らが目の仇にする。
畿内説の危機管理センサーが働くんだろう。
こうして天才伊作は、武者修行と道場破りをする中で、
相手がひたすら罵倒するしかないことで、自論の確かさを確信するわけだ。
429日本@名無史さん:2011/02/24(木) 10:15:45.45
自意識過剰なだけだな
430河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/24(木) 10:17:23.57
伊作さん。

2chで煽れば益々エキサイトする。それが2ちゃん

ここで煽ってもなんら益はでない
431河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/24(木) 10:49:26.38
ここがクズの集まりだとわかったら、黙ってここには近付かない。
クズの集まり場所に近付くのもまたクズ。
クズがクズを煽ってどうするの?クズ日本一決定戦でもするの?

理解でき、自分はクズじゃないと思っているなら
二度とここには立ち入らない事だよ。スレのレベルアップなんて大きなお世話だからほっといてと言われる。
432横板に水:2011/02/24(木) 14:11:25.43
>>392
何を仰っているのか理解しかねます。
『>これは5〜6倍の誇張です。
>「郡を置き、様子がわかっている 朝鮮半島について」実際に誇張がなされているのです。 」
は伊作さんの専売特許ですか?

「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里」の四千里の里が魏の公式の数値とすれば5〜6倍に誇大に書かれていることは伊作
さんでなくても誰でも分かることでしょう。誰のオリジナルかなどと問題にすることでもないでしょう。
それから、「郡を置き、様子がわかっている 朝鮮半島について」の部分は>>386からの引用です。
433日本@名無史さん:2011/02/24(木) 14:18:53.27
自意識過剰なんで、かんべんしてやって
434横板に水:2011/02/24(木) 14:26:28.77
>>396
短里説ですか。短里説だと里数だけの問題になりますね。日数はどうなんでしょうね。誇張説ですと日数も5〜6倍に誇張して書かれていたと
することができるのですが。戸数も小さくできますしね。どっちが正しいのでしょうね。それともどちらも間違いでしょうか。
435横板に水:2011/02/24(木) 14:32:23.56
>>393
すみません。何を仰りたいのか理解できません。
436横板に水:2011/02/24(木) 14:39:49.27
>>394
仰ることが分かってきました。拡大だと意図的で誇張だと白髪三千丈のように単に大袈裟に表現したということですね。
すみません。>>389は性急で思慮を欠いたレスでした。
437日本@名無史さん:2011/02/24(木) 19:43:09.62
>>424>>423
「太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔」
「奉じる」は、皇帝の命をうけたまわったという意味であって、命令の実行者に過ぎない。
皇帝の「詔」を奉じたのが太守で、「詔」を齎す(届けた)のが梯儁等。

日本にも奉書形式というのがある。
「内大臣源朝臣
 左中弁藤原朝臣光広伝宣 権大納言藤原朝臣兼勝
 宣奉 勅件人宜為淳和奨学院両院別当者
  慶長八年二月十二日 中務大輔左大史算博士小槻宿禰孝亮奉」
(訳)
内大臣源朝臣 殿
左中弁藤原朝臣光広伝 並びに 権大納言藤原朝臣兼勝 勅を奉じて宣す(命じる)
件の人をして宜しく淳和奨学院両院別当に為す者(と帝が仰った)
慶長八年二月十二日 中務大輔左大史算博士小槻宿禰孝亮が奉ず(勅の通り施行する)

(意味)
最終的に受け取る人:内大臣源朝臣(徳川将軍家の継嗣)
勅を直接聞いてこの任官辞令を発した人:左中弁藤原朝臣光広伝および権大納言藤原朝臣兼勝(公卿)
この宣旨を書いた人:中務大輔左大史算博士小槻宿禰孝亮(官吏)

438婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/24(木) 21:32:37.16
ごめんくださいまし。

>>412
> 鬼道は、黄老学という森羅万象の哲学を素にした道学が基です。

そうなんかなあ。
張魯のやってることに貼られた「鬼道」というレッテルは、いわば
「邪教」というような意味であって、「鬼道」というひとつのジャンルが
あったわけではない気がする。

んで、魏志倭人伝の風俗に関するニュアンスというのは、「鬼道とか
持衰とか面黥面文身とか無冠とか、(中原の都会人から見たら)蛮風だけど、
けっこう礼儀正しいし社会も安定してていい奴らだよ」てな感じかと。
439婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/24(木) 21:52:34.44
>>421
あ、そこんとこが知りたい。
基点が帯方郡か伊都国かはさておき、そもそも放射読みって、
東夷伝のほかの国の記述やその他の地理書でそういう記述の実例が
あるのかしら。

最初は「又渡一海」みたいな「又」の有無が順列か放射かの違いを
示してるのかと思ったけど、魏志倭人伝のコピペの梁書諸夷伝では
ぜんぶ「又」がついてるんだよな…。
440日本@名無史さん:2011/02/24(木) 22:54:11.60
>>439
漢書などに放射式の実例があるそうだ。榎の「邪馬台国」や山尾の「魏志倭人伝」
に実例が紹介されている。
放射式で共通するのは、榎が指摘した語順らしい。「又」の有無も重要なポイント
だな。梁書が「又」をつけているのは、そのとおりだが、それは倭人伝が放射式に
書いているのを姚思廉が連続式が正しいと思い込み書きかえたんだな。
逆に言えば、倭人伝の書き方が放射式であることは、姚思廉も理解していたと
いうことだ。
441日本@名無史さん:2011/02/24(木) 22:57:28.51
放屁式解釈
442日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:07:41.34
>>440
>逆に言えば、倭人伝の書き方が放射式であることは、姚思廉も理解していたと
>いうことだ。

なんでそんな話になるんだよw
443sss:2011/02/24(木) 23:07:45.38
>>438
鬼道は、怪しげな術というような意味じゃないかな。
あえて言えば、祖霊信仰みたいな。鬼にはそういう意味があったはず。
鬼籍に入るとか。シャーマニズムと言って良いかも。

古代はそれが重んじられたから、女王がいた。熊本県の向野田古墳や
阿蘇の長目塚古墳では、100mクラスの古墳から女性の人骨が出ていて
女王が間違いなく存在していたことがわかる。

また、日本書紀に書かれている倭迹迹日百襲姫や神功皇后の神懸りに
その痕跡が残っているともいえる。
沖縄のノロや聞得大君なんてのも、その痕跡と言えるかも。
444日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:21:01.59
>それは倭人伝が放射式に 書いているのを姚思廉が連続式が正しいと思い込み書きかえたんだな。
>逆に言えば、倭人伝の書き方が放射式であることは、姚思廉も理解していたと いうことだ。

独善的な見方だな。「放射式に書いてあるのを姚思廉が連続式が正しいとおもって改めた」ということがどうしてわかるのだ?
倭人伝の書き方を連続式と見て、書き方を変えただけかも知れないだろ。実際はどうだったかもわからないのに「倭人伝の書き
方が放射式であることは、姚思廉も理解していたと いうことだ」などとよくも平気で言えるな。驚いた。
445婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/24(木) 23:28:02.99
>>440
ありがとう。ぐぐってみたら榎一雄 「邪馬台国」だね。探してみるです。

>>443
>鬼道は、怪しげな術というような意味じゃないかな。

俺もそう思う。たとえば「五斗米道が『鬼道』と呼ばれていたから、
卑弥呼も五斗米道だ」みたいな説をよく見かけるけど、この『鬼道』を
『怪しげな術』と置き換えたら、上の説は成り立たないよね。

さておき、時代が下って伊勢神宮あたりになると、道教の影響が色濃く現れて
いるけど(たとえば千田稔「伊勢神宮−東アジアのアマテラス」中公新書)、
それもやっぱり日本のシャーマニズムとは違う気がする。
446日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:32:58.27
>>443
聞得大君はあとからできたもの
447sss:2011/02/24(木) 23:41:17.16
>>445
黒塚古墳やたぶん椿井大塚山古墳もそうだと思うが、三角縁神獣鏡は、棺の
外側にあって囲むように並べてある。これなんかは神仙思想の表れかも。

西暦317年頃に出来たとされる抱朴子に「九寸以上の明鏡を用いて自らを照らし
凝視し続ければすなわち神仙を見るべし…」というのから来ていると思う。
つまり、この時代にはそういう思想が日本に伝わっていたということになる。

とこう書けば、三角縁神獣鏡の年代論にも触れるわけでいろいろ異論はあると
思われるが。
448婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/24(木) 23:49:00.10
>>446
聞得大君というポスト(役職)は後世のものだけど、シャーマニズムは
日本本土同様に(あるいはもっと早くから)あったんじゃないかと。
日本の神社の原型である聖なる森の信仰(神がかりの装置というか舞台)は、、
韓国の「モイドン」、済州島の「堂」、沖縄の「御嶽」まで並んでいるそうな(岡谷公二
「原始の神社をもとめて」)。

>>447
なるほどなあ。専門板はやっぱり、いろいろ勉強になるです。
そこで興味がわいてきたけど、そうなると古墳ではなくまるっきり大陸風の
埋葬法も、当時の日本にあったりしたんかな?
449日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:49:39.53
>>416
>>そんな外来者が持ち込んだ「鬼道」という新宗教
>>(一種の科学でしょうかね)
>漢方医学・漢方医薬・易・陰陽道・鍼灸・などなど、科学的要素と
>非科学的要素を包含した膨大な学問が基礎です。

卑弥呼に関する倭人伝の下記の記事や風俗関係の記事にも上記のような鬼道の有り様はうかがえないですな。能惑衆など「怪し気な」雰囲気を感じたのではないですかな。
名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入

450日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:50:16.72
>「放射式に書いてあるのを姚思廉が連続式が正しいとおもって改めた」ということがどうしてわかるのだ?
>倭人伝の書き方を連続式と見て、書き方を変えただけかも知れないだろ。
倭人伝の書き方を連続式とみてそれが正しいと思うならば、書きかえる必要はないだろ。
書きかえたということは、倭人伝を連続式とは読まなかったということだ。
そして、それには理由があるんだよ。倭人伝の時代から、梁書が書かれる時代まで数百年が経過している。
その頃には、倭地がどのあたりから始まるのか(末盧国の位置だ)が分かってきた。そして、その末盧国の
位置を考えた場合、そこから水行十日陸行一月(これが放射式だ)では東冶の東に到達するのは無理だという
ことを考えたのだろう。だから、水行二十日+水行十日陸行一月が真実だと思って倭人伝を書き換えたのさ。
451日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:55:59.14
>>450
>倭人伝の書き方を連続式とみてそれが正しいと思うならば、書きかえる必要はないだろ。

分りやすくしたのさw

しかし、まあ「放射式に読むのが正しい」と主張したいが為に牽強付会の極みだなwww
452日本@名無史さん:2011/02/24(木) 23:56:00.13
>>450の一部訂正
(末盧国の位置だ)→(末盧国や伊都国の位置だ)
453日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:04:30.61
>分りやすくしたのさw
ははは、君も倭人伝は順次式としては「分かりにくい」書き方だと思ってるわけだ。

454日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:06:30.29
>>450
>倭人伝の書き方を連続式とみてそれが正しいと思うならば、書きかえる必要はないだろ。

下記は梁書の行程記事のはじめの部分だが、
從帯方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國
倭人伝とは随分書き方を変えているよ。

先行史書と全く同じ書き方をするのは芸がないだろ。全く同じ書き方をするなら、三国志魏書東夷伝日・・・・・・・・という
具合に引用文にするだろ。
455日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:12:54.84
そこで私が言うに、

あれは地誌であって、単なる行程ではないって。
456日本@名無史さん :2011/02/25(金) 00:16:23.05
半島を抑えたことと、東南の大国を臣下としたことを最大限アピールしている。
457日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:17:17.56
姚思廉が乍東乍南なんて書くわけはないな。後世の誤写だろ。
あとは記事を短くするために削っているが、書かれている部分をみれば、倭人伝と同じことを
書いているだけだ。
458日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:17:59.29
地誌だろうが地志だろうが行程だろうが議論が致死にはならんだろ。にいー。
459日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:20:07.70
やや後代の書物では「至」と「到」を写し間違えてるんだよね。
同時代の中国人でも読み違う。
460日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:31:11.26
>>459
その他にも狗邪韓国、對海国が抜けているので?というところもあるのだが、姚思廉の頃の中国人でも放射式読みなど
理解できなかったのではないだろうか。倭人伝の記述が放射読みでなければならないとは当の中国人も知らなかったの
だとしたら、放射読みは日本人が発明したことになる なあ。
461日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:37:37.41
>放射読みは日本人が発明したことになる なあ。
いいや、中国人はちゃんと放射式の読み方を知っていたよ。中国では放射式のことを
俗語で「四至法」というそうだ。
462婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/25(金) 00:45:32.28
>>455
けっこう深いことを言ってる気がする。
たとえば「水行」について宮崎康平氏の提起した「古代の海岸線は現代とは
異なることを想起しなければならない」というのはすごく本質的な問題なんだけど、
それにしてもやっぱり「水行は海か内水面(=湖か池か沼か川)かの行程だ」という
ドグマに依存した話なんだよな。

だけど、日本の美称が「豊葦原瑞穂国」であるように、古代の沖積平野は葦の茂る
湿原だったんだよね。稲という作物は、灌漑設備のない時代には湿地の葦植生を
置き換えることによって栽培された。
その湿地というのは歩くと水に足が沈むし、腰まで深ければ舟が要る。今だって
平野水田地帯の道ってのは、本来の地表ではなくて、盛土をしている場所(畦)だよな。
つまり、本来はなかった陸(おか)を作って、「陸行」が可能になったと。
463日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:46:44.82
伊都国以後は文章の書き方は明らかに違うからね。
464日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:55:10.33
基本的に直線式読み支持だが、
前原伊都だと、自然に奴国まで直線となるので
放射式で読む意味が無い。

佐賀(というより鳥栖?)だと、放射式に道があるので
放射式で記録するのは有効である。
465日本@名無史さん:2011/02/25(金) 00:58:39.66
邪馬台国連合の諸国の様を記録した文章なら?

道程から外れた国はどうなる?
466日本@名無史さん:2011/02/25(金) 01:03:37.52
>>464
伊都国=佐賀方面という説は、基本的に南水行を有明海を行くことだと考えるわけだよ。
となれば、有明海沿岸に出た以上、ウロウロするのは無意味なわけで、鳥栖というのは
まず考えられないな。やはり、伊都国は佐賀大和あたりだろう。
そして、佐賀大和=伊都国となれば、そこから水行できるんだ。奴国や不弥国へ行く必
要はない。ということで、必然的に放射式で読むべきだということになる。
467fsr:2011/02/25(金) 02:26:23.55
>>466

>伊都国=佐賀方面という説は、基本的に南水行を有明海を行くことだと考えるわけだよ。
>やはり、伊都国は佐賀大和あたりだろう。

同じ意見の人がいるのは大変心強い。

>そして、佐賀大和=伊都国となれば、そこから水行できるんだ。奴国や不弥国へ行く必
要はない。ということで、必然的に放射式で読むべきだということになる。

放射状に読むのは中国人学者は否定している。
それでも
放射状に読んだほうが無理なく奴国、不弥国の比定ができるなら放射状の可能性もあるだろう。

しかし、
放射状に読めばどうしても奴国、不弥国の比定地がうまくいかない。
逆に
中国人学者が言っているように順次式に読めば奴国不弥国の比定がすんなりできるのである。
だから私は順次式に読む可能性が極めて高いと思っている。
468fsr:2011/02/25(金) 02:27:15.68
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
【弥生時代遺跡分布図】

唐津から東南六百里の場所にある奴国は
弥生時代遺跡分布図から判断すれば佐賀市北部の遺跡密集地帯しかない。
縄文時代の遺跡分布図もほとんど同じ。
ここには
東名遺跡という西日本で最大級の縄文貝塚遺跡がある。
最大級の貝塚遺跡があるということは超過密の大人口地帯だったと思われる。
遺跡分布図からも遺跡がびっしりと密集していて、それを裏付けている。
一大国+対馬国(壱岐対馬)四千戸、末盧国(唐津)四千戸の遺跡と比較すれば
(奴国)佐賀大和〜吉野ヶ里の二万戸の人口は妥当に思える。
そして
唐津から六百里(30〜60q)程度の場所で
伊都国→奴国百里、奴国→不弥国百里を満たす狭い地域に二万戸の人口を擁する場所は
他には無いのである。

奴国の位置から考慮すれば(奴国の中心は推定東名遺跡の北東1〜2qの地点)
奴国の東百里の不弥国は吉野ヶ里になり、
奴国の北西百里の伊都国は佐賀大和、嘉瀬川沿いの都渡城付近が最有力となる。
469fsr:2011/02/25(金) 02:28:57.72
>>46
>佐賀大和=伊都国となれば、そこから水行できるんだ。奴国や不弥国へ行く必
要はない。

水行陸行を所要日数と考えているのは日本人学者。
中国人学者はそうは解釈しない。
どちらが信頼性があるのかは言うまでもない。
〓〓〓〓
ここに出てくる「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は、休日や節日やいろいろな事情によって、
ひまどって遅れたり鬼神への配慮などから道を急ぐのを控えた日々などをひっくるめた総日数に、
‐‐‐途中省略‐‐‐魏使一行が一日も休まずに水行し陸行した強行日程数を記したものでないことは明らかである。
【季刊邪馬台国86号P.149・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】
〓〓〓〓

隋書でも
【倭王遣小コ阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎◯後十日又遣大禮哥多従二百余騎郊勞】
と目的地までひたすら進んだ訳でもないようだ。
私は
奴国や不弥国へ行ったのも水行二十日、水行十日、陸行一月も同じ目的があったと考えている。
つまり
投馬国、邪馬台国の比定地を考える上で水行二十日、水行十日、陸行一月は全く考慮すべきではない。
つまり、
不弥国のすぐ南が投馬国で、投馬国のすぐ南が邪馬台国だと思います。

根拠を述べた反論なら誰でも歓迎致します。
470日本@名無史さん:2011/02/25(金) 03:06:29.63
上陸地点が書いてないからと、何度言ったら
471日本@名無史さん:2011/02/25(金) 06:06:25.15
>>467
>放射状に読むのは中国人学者は否定している。
それは違うな。あなたが言うのは多分、台湾の学者だろう。
本当の中国人学者は、放射説をとっているよ。もちろん、中国人学者が全部同じということではないだろうが。

王金林「古代の日本」134頁
対馬国から伊都国までの書き方は、その行程路線が直線連続走行であることを現しており、今日の中国語でいうならば、
すなわち狗邪韓国から対馬国・一支国・末盧国を経て伊都国に至るとなる。・・・しかし、伊王金林都国以降はこれと
違うのである。公式を使って表示すれば「方向、国名、距離、方向」となり、行文の中には、行程路線の直線連続走行
を表す文字はない。・・・奴国は不弥国へ行く起点ではなく、不弥国は投馬国に通じる起点ではなく、投馬国も邪馬台
国へ行く起点ではない。・・・はっきりしていることは、伊都国はこれらの国の協同起点である。すなわち、伊都国か
ら始まり、その行程を中国の俗語でいう「四至法」(日本では「放射式」という)を取ったのである。・・・私の見方
は、榎一雄氏の観点と一致するものである。
472日本@名無史さん:2011/02/25(金) 06:17:07.10
コピーしたら、ちょっと文章が乱れてしまった。

王金林「古代の日本」134頁
対馬国から伊都国までの書き方は、その行程路線が直線連続走行であることを現しており、
今日の中国語でいうならば、すなわち狗邪韓国から対馬国・一支国・末盧国を経て伊都国
に至るとなる。・・・しかし、伊都国以降はこれと違うのである。公式を使って表示すれ
ば「方向、国名、距離、方向」となり、行文の中には、行程路線の直線連続走行を表す文
字はない。・・・奴国は不弥国へ行く起点ではなく、不弥国は投馬国に通じる起点ではな
く、投馬国も邪馬台国へ行く起点ではない。・・・はっきりしていることは、伊都国はこ
れらの国の共同的起点である。すなわち、伊都国から始まり、その行程を中国の俗語でい
う「四至法」(日本では「放射式」という)を取ったのである。・・・私の見方は、榎一
雄氏の観点と一致するものである。

473fsr:2011/02/25(金) 09:38:50.47
>>470
>上陸地点が書いてないからと、何度言ったら

誰に対するレスでしょうか?
私に対するものなら
言われたのは今回が初めてだし
「唐津から六百里(30〜60q)程度の場所で」から
唐津を上陸地点と考えていることが明らかだと思います。
474fsr:2011/02/25(金) 09:41:34.59
>>471
>放射状に読むのは中国人学者は否定している。
それは違うな。あなたが言うのは多分、台湾の学者だろう。
本当の中国人学者は、放射説をとっているよ。もちろん、中国人学者が全部同じということではないだろうが。

確かに謝銘仁で台湾の学者です。
誰かは覚えていませんが
中国人(もしかしたら台湾人?)で
「到を使用している伊都国は起点になれない。だから放射状の起点は上陸地点のマツロ国」
と言う意見もありました。
しかし
中国人学者で伊都国を起点にしている人が一人でもいるのなら伊都国起点を否定することはできません。
私の考えは
「放射状に読むのは水行三十日陸行一月を説明するために考案されたものだが、
それで水行三十日陸行一月の問題が解決するわけでもなく奴国、不弥国の比定ができる訳でもない。
順次式に読んだ方が一番自然でもあるから順次式に読む可能性が極めて高い。」
と言うことです。
475日本@名無史さん:2011/02/25(金) 10:26:20.40
倭人伝をどうしても旅日記にしたい連中が、
放射式を生み出し、やれ休日だ、やれ潮待ちだ、やれ歓迎会などとゴネている。奴らはたんなる地誌ではこまる。
という力が脳に働き掛けるの
476日本@名無史さん:2011/02/25(金) 10:41:21.45
話の根拠に外人や本場という言葉が出たら、
先ずその話の中身はバッタ値ぐらい差っ引いても過言じゃないだろう。
日本人はこの本場とか元祖とか外人に弱く、この言葉がでただけで信頼度を上げてしまう。
詐欺師はよくこの手法をとりいれるのは、日本人にはそうした弱みがあるからだ。
477日本@名無史さん:2011/02/25(金) 11:00:57.18
佐賀大和の遺跡密集地帯というのを否定するわけではないのだが、

糸島から始まって、
早良、那珂川、筑紫野、鳥栖、吉野ヶ里、大和、小城、と

背振山系の周囲は全部遺跡密集地帯なんだな。

ついでに太宰府、春日、博多区、東区と、福岡平野を挟んで
反対側も遺跡密集地帯という状況。

熊本福岡佐賀は、山の麓は全部遺跡密集地帯と言い切って
そんなに間違いはでない。

それが比定地を決められない原因でもあるのだが。
478fsr:2011/02/25(金) 13:41:13.56
>>475  >>476

根拠を述べることができずに
頓珍漢な根拠のない自説をごり押しする。
遠吠えで根拠のない中傷をする。
リンクを張れない。
遺作そっくり、うり二つだな。
貴方の性格は。
479fsr:2011/02/25(金) 13:42:19.57
>>477
>糸島から始まって、
早良、那珂川、筑紫野、鳥栖、吉野ヶ里、大和、小城、と
背振山系の周囲は全部遺跡密集地帯なんだな。

確かに
糸島、博多、春日などは多数の遺跡があるが
当時の人口の大密集地帯とされているのは有明海沿岸です。

>熊本福岡佐賀は、山の麓は全部遺跡密集地帯と言い切って
そんなに間違いはでない。
それが比定地を決められない原因でもあるのだが。

糸島へ向かう根拠は何かありますか?
伊都国、佐賀説に対して反論を何度求めても
誰も何一つ根拠を提示してくれないのですが。
480日本@名無史さん:2011/02/25(金) 14:07:09.95
むしろ、松浦唐津からは糸島には行きにくいという立場。
というか、陸行で糸島に行くなら行くでどの道を通るつもりだ?、
と問いつめたい。

唐津からは多久、厳木、小城、佐賀(大和)と昔からの唐津街道があり、
唐津街道沿いには縄文遺跡まで出ている。標高も低く山登りしなくて良い。

糸島は博多湾の入り口を押さえる場所であり、早期に福岡と一体化する可能性が高く、
国があっても、奴国(福岡)の属国に近いものであると考えるべきである。
481日本@名無史さん:2011/02/25(金) 14:14:05.46
>>479
>伊都国、佐賀説

この説は倭人伝の方位は間違いないっていう前提があるんだよね?

でもその前提だと末盧国=唐津とは決められないよ
末盧国=糸島かもしれないわけだし・・・
482fsr:2011/02/25(金) 14:51:25.24
>>481
>伊都国、佐賀説
この説は倭人伝の方位は間違いないっていう前提があるんだよね?

間違う可能性は何でもある。
私も伊都国前原でうんざりするほと検討した。
しかし
@無意味とも思える悪路陸行をすることになる。
A糸島への方角が違う。
B糸島の人口が違う。
C伊都国五百里と不弥国(宇美町とすれば)まで二百里の距離があまり違わない。
D奴国と不弥国(宇美町とすれば)への方角がどちらか大きく違うことになる。
E不弥国をどこに比定しようが南は山なので南水行できない。
F交通の便の悪い糸島、前原に渡航の重要拠点があるのは不自然。
などから
伊都国、佐賀説の可能性が極めて高いと考えている。
伊都国が前原糸島にあった根拠があるなら検討すべきだから提示してほしい。

>でもその前提だと末盧国=唐津とは決められないよ
末盧国=糸島かもしれないわけだし・・・

当然のごとくいやというほど検討しました。
末盧国=糸島で
伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の適当な比定地はありますか?
伊都国以降の適当な比定地も決めることができず
不弥国からは先へは進めない。
そのような状態のままで
末盧国=糸島を主張しても何の意味も無いと考えます。
483日本@名無史さん:2011/02/25(金) 14:56:50.74
>>475
旅日記にしたいのは直線読みだっての。
484fsr:2011/02/25(金) 15:11:24.48
>>480
むしろ、松浦唐津からは糸島には行きにくいという立場。
というか、陸行で糸島に行くなら行くでどの道を通るつもりだ?、
と問いつめたい。
唐津からは多久、厳木、小城、佐賀(大和)と昔からの唐津街道があり、
唐津街道沿いには縄文遺跡まで出ている。標高も低く山登りしなくて良い。

こんなまともな主張が何故受け入れられないのか
七不思議に数えることができるのではないかと思います。

佐賀平野へでれば順次式に読んでも
わずか
伊都国、奴国、不弥国、投馬国の次は邪馬台国です。
遠からず
論争、検討の末に
邪馬台国の比定地は一点(山門郡)に収束すると信じています。
菊池熊本は狗奴国。

私は博多湾岸勢力は大和朝廷の前身だと考えています。
ところが
唐津から
東南五百里、東南百里、東百里、南、南と進めば
不思議なことに
大和朝廷の前身の三世紀の勢力範囲から見事にはずれています。

このことから
卑弥呼と大和朝廷は無関係で
倭国大乱というのは
大和朝廷の前身と邪馬台国の勢力との戦いであった可能性が高いと考えています。
485fsr:2011/02/25(金) 15:25:25.95
>>484
>唐津からは多久、厳木、小城、佐賀(大和)と昔からの唐津街道があり、
唐津街道沿いには縄文遺跡まで出ている。

多久か厳木には
原色の中国衣装を身にまとい
中国舞踊を舞う祭りがあるとテレビのニュースで流していた。
486日本@名無史さん:2011/02/25(金) 15:52:24.40
>>482>>484

末盧国=唐津の根拠は?

きみたち立場だとマツロ〜マツラ(松浦)の地名の類似は使えないよね
487日本@名無史さん:2011/02/25(金) 15:53:45.11
>>485

スレ違いを書くなよ
488横板に水:2011/02/25(金) 15:58:10.09
僕は倭人伝の帯方郡から女王国に至るまでの各国についての記事は魏使の行程記事だと思っていますが、此処にも行程記事ではなく地誌だという
見解の人も居られます。この行程か地誌かは重要な争点だと思いますので、地誌だと思われる方と議論したいと思います。

僕が地誌(各国の位置関係や風俗や産物などを記述したもの)ではないと思う根拠は、以下の如くです。

1.地誌であれば例えば「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里」のように書かれるでしょう。至、到、水行、陸行などの移動を示す
言葉は不要でしょう。在で明確に示せます。末盧国の東南五百里に伊都国があると言うだけなら「末盧国之東南五百里在伊都国」か「伊都国在末盧
国之東南五百里」でいいでしょう。

2.從郡至倭、循海岸水行、歴韓國・・・という書き出しになっています。つまり、「帯方郡から倭に至る(行く)には」・・・・と、方向や距離や移動
手段(水行や陸行)などを示しています。これは行程を示すとしか考えられないでしょう。

489fsr:2011/02/25(金) 16:23:24.06
>>486
>末盧国=唐津の根拠は?

東南へ進むからには唐津に上陸した方がより険しい山越えしなくてよいので最適。
>>480
【唐津からは多久、厳木、小城、佐賀(大和)と昔からの唐津街道があり】
>>485
【多久か厳木には原色の中国衣装を身にまとい中国舞踊を舞う祭りがある】
と古代に中国の使節が通った痕跡もある。

>きみたち立場だとマツロ〜マツラ(松浦)の地名の類似は使えないよね

必要無い。
490横板に水:2011/02/25(金) 16:29:42.27
>>486
確かに地名の類似は使えないかもしれませんね。しかも一大国(壱岐)から末盧国へは「又渡一海、千餘里至末盧國」とあるだけで方角が書かれていませんね。
又渡一海の又が「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」の「又南渡一海」と同じであるから南を省略した(他の国の場合は全て方角が記されているのだから
南と異なるのであれば必ず書かれている筈だから)という見方もあるようですが、どんなものでしょうね。
491日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:37:03.45
>きみたち立場だとマツロ〜マツラ(松浦)の地名の類似は使えないよね
使えないわけではないな。そればかりにこだわらないということだ。
いろいろな要素の一つとしては考えの中に入れるんだよ。


492日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:42:09.41
地名の類似も大きな手掛かりだと思うが、
使っちゃいけないのか?
493横板に水:2011/02/25(金) 16:51:56.65
>>491>>492
3世紀の地名であれば使えると思います。
494横板に水:2011/02/25(金) 16:54:44.05
>>486
末盧国を糸島に比定するお考えだと思いますが、そうすると伊都国は何処になるのでしょうか?
495日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:55:35.86
九州説は相変わらず地名パズルですか?
496日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:55:37.67
>>488

>1.地誌であれば例えば「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里」のように書かれるでしょう。

韓は帯方郡と地続きだからね。
しかし倭人の住む場所は韓とは条件がまるで違う、そう大海之中
こういう条件下で韓と同じような書き方は出来ないよ

>末盧国の東南五百里に伊都国があると言うだけなら

いや違うだろ
末盧という場所は、これまでに紹介してきた對海國、一大國のような島ではなく
少なくとも陸行で五百里という地が確認できる大きな島だという事
五百里は末盧國の範囲だよ

>帯方郡から倭に至る(行く)には

對海国は倭じゃないの?對海國が倭の一部なら對海國で文章を完結してもいいだろう
充分「帯方郡から倭に至る(行く)には」の条件を満たしているんだから
497日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:56:33.06
>>484
>こんなまともな主張が何故受け入れられないのか
>七不思議に数えることができるのではないかと思います。
畿内や北九州に邪馬台国を想定した場合、佐賀ではあとが続かないからだよ。
先に結論ありきなんだ。
498日本@名無史さん:2011/02/25(金) 16:58:04.24
福岡から糸島を経由して、唐津に通じるJR筑肥線

糸島市二丈町から唐津浜玉への鉄道路線は地元住人に取っての悲願でもありました。
この部分は岩場が海に突き出ていて、干潮でも歩く場所は殆どありません。
地図上では近くても、実際には遠い場所でした。
ここさえ通れれば、あとはそれなりに道があります。

というわけで、後に筑肥線となる路線は、一番難所の、福吉-浜崎間を連絡する路線が、
一番最初に敷設されたのでありました。
499日本@名無史さん:2011/02/25(金) 17:08:48.29
>>479
> 糸島へ向かう根拠は何かありますか?
  伊都国、佐賀説に対して反論を何度求めても
   誰も何一つ根拠を提示してくれないのですが。


 「玻璃壁」の出土でしょう。夫余の王葬は玉コウ。倭国は玻璃壁。
 夫余は、王が死ぬとその都度、郡にもらいに行き副葬していた。
 倭国では、王?、貴人が死ぬともらって来て副葬していた。

 伊都国(前原)から6個。 奴国(須玖・岡本)から、1個出土。
 他地域からは、出てません。 漢代のことであり、魏の時代には
 やんでいた。  松本清張「邪馬台国」より

 伊都国=前原市、奴国=春日市は、やはり有力と思います。
 

500496:2011/02/25(金) 17:14:20.26
>>488

對海國も一大國もそれぞれ島一つに国一つという環境だと言う事がわかるが、
末盧國はそれらの国とは様子が違う
末盧國は当然島の一部ではあるけれど、一大國や対海國のように
一島一国ではなくて、末盧國の先には伊都国という別の国が存在すると言う地理的な環境
これが「陸行」の答えだよ
それまではすべて「渡一海」とし、陸続きではないことを書き記されてきたが「陸行」と書く事で
これまでとは違う環境の陸続きの末盧国と伊都国の関係を表している。

残念ながら倭人伝には伊都がどこという事を具体的には記されていないのも事実
501日本@名無史さん:2011/02/25(金) 17:49:13.47
相変わらず距離方向パズルと笑われるが、里程はそれなりに正確だという前提で
距離を計測してみた。
方向は東西南北と東南など8方向なので、+-22.5度以内、45度以内の扇形に収まる範囲で比定する。
水行一月行などは80キロ前後とする。水行10日は27キロ程度、誤差は2割以内とする。

予め書いておくが、背振山系周辺は遺跡の集中地帯であり、その気になれば割とどうにでも
比定する場所はあるということを断っておく。だから別の場所であることを否定するものではない。

記載記事はwikipedia魏志倭人伝より引用

> 4. また海を1000余里渡ると末廬国に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。
ここからスタート

> 5. 東南へ500里陸行すると伊都国に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。
500里は40キロ程度、唐津街道に沿って行くと、ほぼぴったりで佐賀大和の総座遺跡付近へ到着する。

> 6. 東南に100里進むと奴国に至る(「東南至奴國百里」)。
一割ほど遠くなって神埼へ到着。神崎櫛田神社、吉野ヶ里もすぐ近いので神崎集落もその一部だろう。

> 7. 東へ100里行くと不弥国に至る(「東行至不彌國百里」)。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。
現みやき町、上峰、鳥栖も合わず、久留米市長門石付近を比定。ここの山には神護石があり、神社が多い。
筑後川がここまで曲がりくねって流れていた痕跡が今も残っている。現久留米市もこのエリア内であろう。
ここから筑後川を下れば水行可能である。

502日本@名無史さん:2011/02/25(金) 17:51:31.11
> 8. 南へ水行20日で投馬国に至る(「南至投馬國水行二十日」)。
一月行=80キロとの仮定から54キロ誤差2割以内で想定し、大牟田、荒尾付近を想定、5万戸と戸数が多いことから、
筑後、みやま、玉名を含む広大なエリアを想定する必要がある。

> 9. 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬壹国[3]に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)
水行10日より27キロで熊本県の入り口、白川河口付近を比定。ここから南80キロを主要道を通っていくと
八代を超え、人吉に届く。ここなら誤差は殆ど無い。7万戸だと、ここまでの熊本エリア全域を含むことになるだろう。
ただ、場所的には熊本全域を支配するような場所ではない。距離がもう少し小さければ熊本の要所を比定するところなのだが
残念。

とりあえず、前提条件を忠実に再現するとこうなった。
503横板に水:2011/02/25(金) 17:54:11.44
>>496
>こういう条件下で韓と同じような書き方は出来ないよ

韓についての記述をだしたのはあれが地誌の書き方だという例ですが、要点は至、到、水行、陸行などの移動を表す言葉は不要で「在」で確実に記述
できるということです。

>少なくとも陸行で五百里という地が確認できる大きな島だという事
行程記事で大きな島だということが分かりますね。単なる地誌なら、「一大国から千里の所に大きな島があり、その北部に末盧国があり、その末盧国から
東南五百里のところに伊都国がある」というふうに書くでしょう。

>五百里は末盧國の範囲だよ

なるほど、そういう解釈は斬新ですね。「末盧国を五百里東南に行くと伊都国がある」となるわけですね。伊都国の境界(入り口)までの距離が五百里で、
その五百里は末盧国内ですね。そうするとこの五百里の起点は末盧国の海からの入り口の海岸ですか? それから、
東南至奴國百里や東行至不彌國百里の百里はどこからどこまでの距離になるのでしょうか?

>對海国は倭じゃないの?對海國が倭の一部なら對海國で文章を完結してもいいだろう 。充分「帯方郡から倭に至る(行く)には」の条件を満たしているんだから

「帯方郡から倭に至る(行く)には」は「倭の一部に行く」ではないでしょう。「倭の地に行くには」ということですよ。
504日本@名無史さん:2011/02/25(金) 18:09:09.36
帯方郡から倭に至るには狗邪韓国に到る、これで文章的には一段落だよ。
大阪から九州に行くには、まず下関に行けってな話だ。
505fsr:2011/02/25(金) 18:25:41.77
>>488
>「玻璃壁」の出土でしょう。
>王が死ぬとその都度、郡にもらいに行き副葬していた。
 倭国では、王?、貴人が死ぬともらって来て副葬していた。
 伊都国(前原)から6個。 奴国(須玖・岡本)から、1個出土。
 他地域からは、出てません。 漢代のことであり、魏の時代には
 やんでいた。  松本清張「邪馬台国」より
 伊都国=前原市、奴国=春日市は、やはり有力と思います。

ホントに有り難うございます。
初めての伊都国=前原説ですね、
ところで
王は各国にいたと思いますが
「玻璃壁」と邪馬台国と何故関係があることになるのですか?
「玻璃壁」が出土したら何故伊都国の有力候補地になるのですか?

宜しくお願いいたします。
506婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/25(金) 18:32:21.17
>>482
>@無意味とも思える悪路陸行をすることになる。

これは>>501も引用しているように「草木茂盛行不見前人」と
符合するわけで、「苦労したんだなぁ」と思ってた。

問題は「無意味とも思える」の部分だが、別に意味はなかったんじゃないかな。
当時の航海術で狙ったとこにドンピシャ着けるわけでもなく、そもそも
どこに行けばいいかもよくわかってなかったろうから、たまたま着いた
所がクソ田舎の末盧國だっただけじゃないかと。んで、とりあえず近所の
都会である伊都國に向かったと。

べつに末盧國が倭国の玄関口だったわけでも、邪馬台国に向かう人が
必ず通らなきゃいけない場所だったわけでもないと思うぞ。
507横板に水:2011/02/25(金) 18:42:26.47
>>504
>帯方郡から倭に至るには狗邪韓国に到る、これで文章的には一段落だよ。

そういう見解でも構いませんが、文章はその後も続いているのですよね。最終的には「自郡至女王國萬二千餘里」で締めくくられています。
從郡至倭から始まって自郡至女王國萬二千餘里で終っている一連の記述なんですね。

まだご意見があるかも知れませんが、從郡至倭から始まって自郡至女王國萬二千餘里で締めくくられている文章が行程記事ではなく単なる
地誌であるということを示す積極的な根拠は出てきませんね。行程記事ですから各国の位置関係も見聞した風俗も、移動手段も書かれている
わけです。行程記事が地誌を兼ねているのです。
508婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/25(金) 18:47:23.78
>>507
そういう意味では俺も行程だと思うけど、「陸行○日水行△日」の数字が
やたらキリのいいというのも気になるんだよな。
509日本@名無史さん:2011/02/25(金) 18:49:11.27
厳密に行程という意味では、邪馬台国までだろうね。
その後の旁国は、行程を書くことができない国々だ。
したがって、「自郡至女王國萬二千餘里」は、行程記事の締めくくりではない。
次の風俗に関する記事の冒頭部分という解釈があるが、それが正しいと思うね。
510日本@名無史さん:2011/02/25(金) 18:50:05.07
一月行を1000里として全行程を集計すると、12700里か。
万二千余里としては、合っているのか違っているのか。

まあ、とんでもなく間違っているとは言わないが微妙だな。
511日本@名無史さん:2011/02/25(金) 18:50:52.09
>>505
>王は各国にいたと思いますが
「玻璃壁」と邪馬台国と何故関係があることになるのですか?

 邪馬台国との関係は、ないでしょう。
>「糸島へ向かう根拠は何かありますか?」に対する返事です。


>「玻璃壁」が出土したら何故伊都国の有力候補地になるのですか?

 中国は、東南アジア諸国に対し、窓口を一つにして、後は武力制圧してます。
 当時の窓口は(代表)として認められていたのは、玻璃壁の出た地区。
 伊都国=前原市と考えています。
512日本@名無史さん:2011/02/25(金) 18:55:49.93
福岡や糸島に行くのに、松浦唐津は補給のために立ち寄ることはあっても、
陸行はありえない。

陸行するなら佐賀に行く。
とりあえず近い都会に行くなら佐賀に行く。

佐賀方面に道がひらけているのに、わざわざ北山を登りたくはない。
唐津街道は標高が低く山登りしなくていい。
513婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/25(金) 19:06:56.15
>>512
ううむ、>>506
> とりあえず近所の都会である伊都國に向かったと。
は訂正したほうがいい気がしてきた。たぶん魏の人らは、
とりあえず伊都國に行きたかったんだな。「郡使往來常所駐」の場所だし。
だけど末盧國に着いちゃったから、苦労して向かったと。
514横板に水:2011/02/25(金) 19:33:55.97
>>509
そうですね、行程記事の中で行程が書かれているのは邪馬台国までです。旁国については「行程が書けない」と行程記事として
書かれています。

>「自郡至女王國萬二千餘里」は、行程記事の締めくくりではない。
>次の風俗に関する記事の冒頭部分という解釈があるが、それが正しいと思うね。

う〜ん。どうですかね。「自郡至女王國萬二千餘里」が風俗記事に必要ですかね〜。

明日は早出で5時に出勤ですので今日はこれで失礼します。
515496:2011/02/25(金) 19:53:43.57
>>503

>単なる地誌なら、「一大国から千里の所に大きな島があり、その北部に末盧国があり、その末盧国から
東南五百里のところに伊都国がある」というふうに書くでしょう。


地誌にそんな決まりはないよ。
順列を追うから誌。これが志との大きな違い。
516496:2011/02/25(金) 20:21:03.71
お墓にある墓誌は、亡くなった人を時間で追って書き記すから

墓志じゃなく墓誌。
517日本@名無史さん:2011/02/25(金) 21:48:04.06
a)天皇家につながるのは 邪馬台国
b)天皇家につながるのは 邪馬台国とは別勢力


a),b)どっちなのか知りたい。
518日本@名無史さん:2011/02/25(金) 22:21:40.82
>>517
多分b
519日本@名無史さん:2011/02/25(金) 22:23:44.58
>>514
>「自郡至女王國萬二千餘里」が風俗記事に必要ですかね〜。
どこの風俗を書くのかは絶対に必要だろ。これまで多くの学者は、風俗記事は
倭国全体についてのものだと思い込んで、そこのところをごまかしてきた。
しかし、倭国の中の対馬国、一支国、末盧国などについては、国情やその風俗
が個別に書かれている。「男子は大小となく云々」以下はけして倭国全体の話
ではないんだよ。女王国に関する記述なんだ。それを明記した言葉が、「自郡
至女王國萬二千餘里」なんだな。
520婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/25(金) 22:24:52.27
>>517
俺はけっこうどうでもいいw
けど、やっぱり多分b)だと思う。
521日本@名無史さん:2011/02/25(金) 22:39:33.47
>>518
オレも b)だと思っているんだ
もし a)なら記紀にきっちり書いてると思う。

日本書紀の注で神功皇后を卑弥呼にあてているらしいが、
それは無理すぎる。
天皇家と邪馬台国はつながりがないから
卑弥呼の伝承がなかったんだ。

邪馬台国は九州にあった、
そして邪馬台国とは別の近畿にあった勢力が天皇家となったと考える。
522太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/25(金) 22:42:08.00
>>521
おおむね良好なる考え。
523日本@名無史さん:2011/02/25(金) 22:57:12.65
そもそも、>>521 のように考えるのが、人間の当然の思考方法。
旧くは本居宣長もそうだった。

畿内説論者は、まずここからスタートするべき。
モモソ=卑弥呼は、架空の都市伝説にすぎない。
524日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:23:59.00
記紀の成立した天武前後の時代の朝廷が
魏志倭人伝を知らないはずないだろw
525日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:28:43.26
書紀で神功皇后を卑弥呼に当てているなら
卑弥呼の遺跡も神功皇后の遺跡として当ててると考えるのが普通だね
九州には神功皇后の遺跡と云われる物が非常に多いよね
大体、中国はおろか三国史記にも卑弥呼の名が出てくるのに
国内史料に一切名前が出てこないのは異常だよ
526日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:29:31.96
記紀を編纂した人は当然魏志倭人伝を知っていた。
だから卑弥呼のことを書きたかったんだが伝承がなくて書けなかった。
そして無理やり注書きで、卑弥呼は神功皇后のことであろうと書いた。
527日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:32:19.58
太子の登場する隋書倭国伝にはわざわざ阿蘇山が霊場として
登場するだろw
528日本@名無史さん:2011/02/25(金) 23:35:59.37
太子の時代には大和朝廷誕生の神話的故郷として阿蘇信仰が
残っていた可能性は高いわけさ。
529fsr:2011/02/25(金) 23:37:53.37
>>511
>当時の窓口は(代表)として認められていたのは、玻璃壁の出た地区。
伊都国=前原市と考えています。

世有王皆統属女王国とあります。
他の地区とは交流するのに極めて不便な地区にあり
しかも
「玻璃壁」が6個も出た、勢力のある前原の国が何故
遠く離れた邪馬台国に代々統属する必要があるのでしょうか?
邪馬台国に代々統属していたのは独自に繁栄していた前原の国ではなかったと思います。

>当時の窓口は(代表)として認められていたのは、

伊都国は代表としての窓口ではなく、
邪馬台国の出先機関としての窓口だったと思います。
それに
代表として伊都国を指名したのは邪馬台国であり、
魏ではないでしょう。

また
伊都国が裕福で繁栄していた前原の国だったならば
代々
統属していた邪馬台国が朝貢するのに魏への献上品が
男生口四人女生口六人班布二匹二丈と言う粗末なものではなかったとも思います。

倭國乱相攻伐歷年及共立一女子為王名曰卑彌呼
とあるように、倭国大乱を終結させるために卑弥呼が共立されたのであり
邪馬台国は勢力権力があったから卑弥呼が女王になった訳ではないのです。
(※いずれ説明することになるかもしれませんが
逆に邪馬台国に十分な支配力が無かったから魏使が来たのだと思います。)
「玻璃壁」とか中国との交流実績は関係ないと思います。
530婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/26(土) 00:03:35.97
>>477
>背振山系の周囲は全部遺跡密集地帯なんだな。

>熊本福岡佐賀は、山の麓は全部遺跡密集地帯と言い切って
>そんなに間違いはでない。

ふっふっふ、いよいよ
 魏の使者「ここは何という場所ですか?」
 地元の人「山たい」
説が本気を出すときが来たようだなw

>>528
阿蘇(aSo)、伊勢(iSe)、宇佐(uSa)
S音一音節ってのは、卓球の愛ちゃんの掛け声「っさー!」みたいなもんで、
気合が入るのだ。一応言っとくけど、アイヌ語もポリネシア語も知ったこっちゃないぞ。
531fsr:2011/02/26(土) 00:10:03.42
>>506
>問題は「無意味とも思える」の部分だが、別に意味はなかったんじゃないかな。
当時の航海術で狙ったとこにドンピシャ着けるわけでもなく

糸島半島に上陸したかったのに唐津に上陸してしまったのですか?
海流を考慮すれば糸島半島付近の方が楽で、過去の密航者の多くが唐津でなく
糸島半島付近に上陸しているのに?

>そもそも
どこに行けばいいかもよくわかってなかったろうから、たまたま着いた
所がクソ田舎の末盧國だっただけじゃないかと。

難升米と牛利が同行しているはずなのに何処へ行けば判らなかったのですか?

>たぶん魏の人らは、
とりあえず伊都國に行きたかったんだな。「郡使往來常所駐」の場所だし。
だけど末盧國に着いちゃったから、苦労して向かったと。

婆さんは穏やかな唐津湾をいけるのに
大量の(半端じゃない)荷物を持って
道無き道を五百里も陸行したいと思いますか?
末盧国に上陸したからしょうがないと陸行するのですか?

接岸技術は知りませんが(接岸技術が未熟ならば砂浜の沖に停泊すればよい)
右も左も選択できない未熟な航海技術て
対馬国、一大国へは本当に上陸できたのでしょうか?
船で交易していた対馬国、一大国の人は
五百里も離れた場所に上陸するのは当たり前のことだったのでしょうか?

詳しいことは知りませんが
「そんな馬鹿なことは無いだろう?」
と思います。
532日本@名無史さん:2011/02/26(土) 00:27:19.20
文字通り唐津は、唐ヘ向かう津(港)ですから、
当時から、江戸時代までのほぼ全時代に渡って
唐へ行きやすい場所だったのでしょう。

魏使がここに到着したのも、偶然ではなくて
始めからここへ向かったものと思われます。
533fsr:2011/02/26(土) 00:40:00.05
魏志倭人伝に書かれ
中国だけでなく朝鮮半島にまでも卑弥呼邪馬台国は知れ渡ってしまった。
当然
中国、朝鮮が倭国の交渉相手として認めるのは卑弥呼のいた邪馬台国だけ。
四世紀以降に大和朝廷は各地を支配下に置いていくが
諸外国の交渉相手として認めてもらえるのは邪馬台国だけ。

大和朝廷としては非常に困る。
なんとしても諸外国との交渉権を手中にしたい。
しかし
諸外国は邪馬台国ではない大和朝廷(ダイワ)を交渉相手としては断固として認めない。

ならば
大和朝廷としては邪馬台国を滅ぼして自らが邪馬台国(ヤマト)を名乗るしかない。

神功皇后は
「鬼道を操り人民を惑わし神功皇后を暗殺しようとした」と濡れ衣を着せて
邪馬台国(ヤマトコク)の田油津姫を攻め滅ぼして
大和(ダイワ)をヤマトと呼ぶようにして邪馬台国になりすましたのである。

大和朝廷は従う者は無理に滅ぼさないで支配している。
ところが
邪馬台国だけは滅ぼして自らが邪馬台国を名乗るしか
諸外国との交渉権を手に入れる方法は無かったのである。

その顛末を記紀に書けるはずもない。
534婆 ◆HKZsYRUkck :2011/02/26(土) 00:46:23.85
>>531
>婆さんは穏やかな唐津湾をいけるのに
>大量の(半端じゃない)荷物を持って
>道無き道を五百里も陸行したいと思いますか?
>末盧国に上陸したからしょうがないと陸行するのですか?

いや、俺はやだけど、実際、倭人伝の記述の中で行程に苦労した記述は、
ここの「草木茂盛行不見前人」だけなんだよね。ということは、苦労してでも
山道を行く必要があったと。つまり、彼らの倭国における最初の目的地は
「郡使往來常所駐」である伊都国で、しかし何らかのハプニングで直接着けなかった、
ということじゃないのかと。

んで、航海術に関してはよく知らんけど、ただ、大陸中国や朝鮮半島の人ら
が海はダメな子だったのは、あるかなと。もちろん、済州島や対馬や壱岐や五島の人らは
自由に行き来してたわけだから、彼らの船をチャーターすれば良かったんだろうけど、
それをしなかった結果の体たらくなのかしら、とか想像してるわけで。
535日本@名無史さん:2011/02/26(土) 01:24:36.71
山に挟まれ葦の茂った松浦川沿いを陸行
536日本@名無史さん:2011/02/26(土) 07:07:34.77
使者一行が来て通行できるということはどうゆうことかを考えんとな。言葉も通じない
連中が大勢いきなりきたら海賊と間違われて戦いになるかも知れん。ちゃんと案内がい
たんだろうよ。それに対馬や一支の王は、使者一行を通すときにどんなことをするのか、
勝手に通すわけではあるまい?
537日本@名無史さん:2011/02/26(土) 07:40:59.08
>>534

>彼らの船をチャーターすれば良かったんだろうけど、
それをしなかった結果の体たらくなのかしら、とか想像してるわけで。    

なぜ船をチャーターしなかったの?予約センターが休みだったの?
それとも携帯が圏外だったから?
538日本@名無史さん:2011/02/26(土) 09:00:37.47
>>534 草木茂生って、別に苦労したとはかいてませんよ。様子を描いただけですよ。
彼らの船をチャーターって、あなたレッドクリフという映画みました?
539fsr:2011/02/26(土) 09:15:42.16
>>534
>末盧国に上陸したからしょうがないと陸行するのですか?
いや、俺はやだけど、実際、倭人伝の記述の中で行程に苦労した記述は、
ここの「草木茂盛行不見前人」だけなんだよね。

「草木茂盛行不見前人」と言う道を陸行しなければならないのに
魏の高級役人、勅使を上陸させたのは伊都国が前原には無かったからだと思います。
伊都国が前原なのに唐津に上陸して魏の高級役人、勅使を上陸させて道無き道を陸行させるのは狂気の沙汰でしょう、
まともではありません。

>彼らの倭国における最初の目的地は
「郡使往來常所駐」である伊都国で、しかし何らかのハプニングで直接着けなかった、
ということじゃないのかと。

直接船で行くには強い対馬海流の強い流れに逆らって三百qも進まなければならない。
上陸すれば40q足らず。
それが原因でしょう。

>んで、航海術に関してはよく知らんけど、ただ、大陸中国や朝鮮半島の人ら
が海はダメな子だったのは、あるかなと。もちろん、済州島や対馬や壱岐や五島の人らは
自由に行き来してたわけだから、彼らの船をチャーターすれば良かったんだろうけど、
それをしなかった結果の体たらくなのかしら

【赤壁の戦い】は知りませんか?
港に多数の船が停泊させて船同士を鎖でつなげる「連環の計」を用いています。
中国でも船を同じ港に集結させる技術はあったのです。
勅使を乗せる船が素人水夫の集まりとは考えられません。
生命の危険すら伴う航海ですから最高水準の技術を持った水夫が集められたことでしょう。
目的地から五百里も離れた場所にしか上陸できないと言うのは馬鹿げた話です。
頓珍漢根拠なしの「あそこがやまたい」さんの言うことを真に受けてはいけませんよ。
540日本@名無史さん:2011/02/26(土) 09:22:07.58
それに加えて、前原で南へ水行は不可能。有明海ならば、南水行は説明を要しないほど
当たり前の話だ。
541日本@名無史さん:2011/02/26(土) 09:39:54.98
>>539
>「草木茂盛行不見前人」と言う道を陸行しなければならないのに
魏の高級役人、勅使を上陸させたのは伊都国が前原には無かったからだと思います。
伊都国が前原なのに唐津に上陸して魏の高級役人、勅使を上陸させて道無き道を陸行させるのは狂気の沙汰でしょう、
まともではありません。

道があるから人が前を行くのです。苦労する事はありません。草木茂盛状態でも道がそこにあれば進むことはできます。
草木茂盛だから道が存在していないなんて書いてない
草木が生い茂り、直線的な道でなければ不見前人になります。
542日本@名無史さん:2011/02/26(土) 09:50:59.04
地図見ればわかるけど、
松浦から糸島まで、どの道を通るのかな?

平面地図では気づかないかもしれないけど、
標高を考えたら、前原方面は、目の前の山を見て
途方に暮れるレベル。

海沿いには、当時道はないと断言してよい。
行くなら、松浦で補給して、また海を行くでしょう。

水行二十日のあと、水行十日陸行一月のように、
水行を続けるのが妥当な場所です。
543日本@名無史さん:2011/02/26(土) 10:01:08.72
>>531
>他の地区とは交流するのに極めて不便な地区にあり

 伊都国をリーダーとする連合国は、「副曰卑奴母離」から、
 対馬、壱岐、奴国、不彌國であり、便利な場所と思います。
 前原には、今山遺跡があり、大規模な石器製作所が発見されている。
 ここで製作された「太形蛤刃石斧」は九州北部に広がっている。
 硬質玄武岩が容易に入手できる。 韓国南部から持ってきた優秀な
 石器製作技術で一世を風靡したと考えます。
  可也山に象徴されるように、韓国色の強い地域で早熟だったと思います。

>代表として伊都国を指名したのは邪馬台国であり、
魏ではないでしょう。

 両方共でしょう。 「郡使往來常所駐」は、魏と邪馬台国の中間である
 前原が最適とお互いの認識がなされたと考えます。

>男生口四人女生口六人班布二匹二丈と言う粗末なものではなかったとも思います。

 邪馬台国側の貢物です。

>逆に邪馬台国に十分な支配力が無かったから魏使が来たのだと思います

  賛同します。
544日本@名無史さん:2011/02/26(土) 10:04:08.11
>>542
>地図見ればわかるけど

昔の人にも地図を見ろと説明するの?現代人目線で見ても何も解決しないよ
545日本@名無史さん:2011/02/26(土) 10:10:58.14
地形だけで云々するのもどうかな
国家というものは、それなりの「首都への道」を用意するものなので

例えば、明治時代の日本では、外国使節は必ず
横浜港→新橋駅→皇居と進んだわけだし。
地形で見れば、もっと最短の位置に船を付けられるはずだったが
546日本@名無史さん:2011/02/26(土) 10:51:10.11
重要なのは、乍東とも乍西とも説明せず、南の投馬国、邪馬台国への水行をいう
ところだろう。いきなり南水行できるところが伊都国なんだよ。
547fsr:2011/02/26(土) 10:54:21.89
>>541
>草木茂盛だから道が存在していないなんて書いてない

『伊都国が前原なのに唐津に上陸して魏の高級役人、勅使を上陸させて道無き道を陸行させるのは狂気の沙汰でしょう、まともではありません』

ここで言う道無き道というのは
唐津から前原へ陸行するには道無き道を進まなければならないと言う意味で、魏使が歩いた道のことを言っているではありません。
548日本@名無史さん:2011/02/26(土) 11:05:11.82
つまりは、唐津から前原へは道がないってことね。草木茂盛の道すらない。
549fsr:2011/02/26(土) 11:14:18.66
>>541
>伊都国をリーダーとする連合国は、「副曰卑奴母離」から、
対馬、壱岐、奴国、不彌國であり、便利な場所と思います。

海岸沿いの国ならば船も利用可能ですが
南にある投馬国、邪馬台国の間には背振山地があります。
南に当たる筑紫平野などから見れば春日福岡へ迂回しなければ交流できない
とても交通の不便な場所です。
糸島の王が南にある邪馬台国に代々統属するなど考えられない話です。

>硬質玄武岩が容易に入手できる。 韓国南部から持ってきた優秀な
石器製作技術で一世を風靡したと考えます。

それが何故伊都国と関係があるのですか?

>邪馬台国側の貢物です。

邪馬台国は何処にあったと思われますか?
550日本@名無史さん:2011/02/26(土) 11:14:55.24
>>548
道があったから草木茂盛行不見前人と書くことが出来るんだろ
551日本@名無史さん:2011/02/26(土) 11:50:44.23
>>549
>南に当たる筑紫平野などから見れば春日福岡へ迂回しなければ交流できない
とても交通の不便な場所です。

 だからこそ、春日市以南の国々と交流がなく、交易を争ったと思います。
 邪馬台国側(山彦) 伊都国側(海彦) 

>それが何故伊都国と関係があるのですか?

 伊都国対邪馬台国。 邪馬台国対畿内は、中国、韓国との交流が早く
 開けていた場所と認識しています。隣の吉武高木遺跡が一番でしょう。
 紀元前から漢代、公孫氏時代の実績の評価です。

>邪馬台国は何処にあったと思われますか?

 朝倉市
552横板に水:2011/02/26(土) 14:23:24.24
>>515>>516

大辞林 第二版 (三省堂)には、
ちし 【地誌】
ある特定の地域の地理的特質についての研究。また、それを記した書物。

とあります。時系列だとか順列とかは要件ではないみたいです。

いずれにしても、あなたの仰ることは「行程記事ではなく単なる地誌である」とする積極的な根拠ではないようですね。「行程記事の
ように書かれた地誌も有り得る」という程度では弱いと思います。
553横板に水:2011/02/26(土) 14:39:16.85
>>519
>「男子は大小となく云々」以下はけして倭国全体の話 ではないんだよ。女王国に関する記述なんだ。
>それを明記した言葉が、「自郡 至女王國萬二千餘里」なんだな。

それにしても「自郡 至女王國萬二千餘里」の「自郡 至、萬二千餘里」は余計なものに見えますけど。
仰るようなことであれば、女王国(之)男子無大小皆黥面文身・・・・とすれば簡潔な表現になります。
それと、「男子は大小となく云々」以下というのは何処まででしょうか?「所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同」までですかね。

その後は「倭地温暖・・・」となっていて女王国に限らない話に見えます。
554日本@名無史さん:2011/02/26(土) 15:22:09.39
>>552
>大辞林 第二版 (三省堂)には、
ちし 【地誌】
ある特定の地域の地理的特質についての研究。また、それを記した書物。


いや、そういう調べれば誰でもわかることを述べているのではなく
地理的特性と解した理由はどこにあるのか?や、その具体的な内容。その地理的特性とする判断理由です。実際の話、そこに書かれている意味だけでは
地誌と地志はどう違うかの判断ができないでしょ

あなたの言われる細かな内容もその辞書には書かれていないでしょ
そうなると、書かれていないから間違いだとするのですか?
555横板に水:2011/02/26(土) 16:52:38.44
>>554
すみません。あなたとの議論をこれ以上続ける意欲を失いました。せっかくレスを頂いたのに失礼とは存じますが、ここで降りさせて頂きます。
556fsr:2011/02/26(土) 19:07:19.43
>>551
> 伊都国対邪馬台国。 邪馬台国対畿内は、中国、韓国との交流が早く
 開けていた場所と認識しています。隣の吉武高木遺跡が一番でしょう。
 紀元前から漢代、公孫氏時代の実績の評価です。

もしも
糸島の国は
邪馬台国に代々統属しておらず
邪馬台国と倭国大乱で対立してお互いに戦った相手だとしても
実績が評価されて
邪馬台国と同じ関係だったと思いますか?

>邪馬台国は何処にあったと思われますか?
 朝倉市

なるほど
朝倉ならば
佐賀山門郡大牟田などの有明海沿岸と比較すれば
大きく迂回することにはならないようですね。

ところで
朝倉には天照大神神社が無かったですか?
天照大神の時代は大和朝廷の前身はまだ九州にしかいなかったので
朝倉が天照大神の古里だったのか、
と、勝手に納得していました。
朝倉説では邪馬台国と大和朝廷は同じことになると思います。

今は邪馬台国の比定地について争うつもりはありません。
伊都国が前原にあった根拠を知りたいだけです。
557日本@名無史さん:2011/02/26(土) 19:47:14.52
>>556
>邪馬台国と同じ関係だったと思いますか?

  前原市、福岡西区は、とても韓国色の強い所です。
  狗邪韓國、對馬國、一大國、不彌國(東区新宮浜)は、海人族として
  強い結びつきがあったのではと、想像しています。

  軍隊の数で邪馬台国側が優勢だったと思います。
  海人族は、陸上では弱かったでしょう。
  卑弥呼を共立し、座布団一枚下がった状況で「住み分け」したのでしょう。

  ただ、邪馬台国側としても、伊都国を亡ぼす気はなかったでしょう。
  当時の舟では、「餅は餅屋に」という考えだったと思います。


  
  
558日本@名無史さん:2011/02/26(土) 19:56:41.97
>>556
>邪馬台国と倭国大乱で対立してお互いに戦った

  「大乱」は、大きな戦争でなく、盟主を争う戦いの意味と理解してます。

>朝倉には天照大神神社が無かったですか?

  私は、邪馬台国には、あまり興味を持ってません。
  邪馬台国東遷には反対です。 亡んでいった国と思ってます。

 *ところで、fsrさんは、伊都国=前原市でない理由はどんな事を考えてますか?
559日本@名無史さん:2011/02/26(土) 20:52:44.92
>>邪馬台国東遷には反対です。亡んでいった国と思ってます
系譜は多利思北弧までは繋がってるみたいだね、中国史書を見ると。
560日本@名無史さん:2011/02/26(土) 20:58:34.04
>>544
むしろ、地図を見なければ、糸島の方に移動しようなどとは
考えもしないはずだが。

そもそも当時山道が存在するかも怪しい。
561日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:07:02.98
>>559
>系譜は多利思北弧までは繋がってるみたいだね、中国史書を見ると。

 趣味の範囲で本をよく読む程度ですから、難しい事はよくわかりません。
 狗邪韓國、伊都国、安曇族に興味を持ってます。
562伊作:2011/02/26(土) 21:17:37.33
いま。
BS朝日で「三国志」をやっている。
レッドクリフよりはましだろう。

ストーリーは知れているのだから、
出演者のファッション・風俗・武器・武具・戦い方、
そして塘じゃの狡猾なかけひきなどを注視するのもいいだろう。
「幢」と「旗」の違いが分かるかも知れない。

火山が噴火しようが中東で政権が崩壊しようが、南半球で地震があろうが、
邪馬台国に熱中するちみたちよ。いそげ
563日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:36:54.22
>>553
>「自郡 至、萬二千餘里」は余計なものに見えますけど。
それが書いてなかったら、女王国がどの程度の大きさか見当がつかんのじゃないかな。
南の奴国に関し女王の境界の尽きる所とあるだけで、始まりがないことになるからね。

女王国に関する記事は、「兵を持して守衛す」までだろう。その間、倭地温暖とか女王国以
北とか若干女王国そのものに限らない記述もあるが、女王国について述べながら少し敷
衍しただけと考えてよい。
564日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:52:58.81
松浦から陸行で糸島に行くなどというのは、
地図の読み方も知らぬ素人が、陸続きというだけで考えた
現代人目線でしか無い。

実際にそこに行けば、そんな発想すら出てこないのが
実感でわかるだろう。
565日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:54:31.18
>>560
道が一本しかなければ誰でもそこに辿りつける
566日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:56:52.96
>>564

>実際にそこに行けば、そんな発想すら出てこないのが
実感でわかるだろう。

行く必要なんてない。だって読みものなんだも〜ん。
読みものに必要なのは目線を動かす事だけ
567日本@名無史さん:2011/02/26(土) 21:59:03.36
>>565
うむ、佐賀に行く道が一本ある。
そこにたどり着くのは当然だ。
568日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:04:12.84
>>566
>行く必要なんてない。だって読みものなんだも〜ん。
>読みものに必要なのは目線を動かす事だけ

うむ、それが文献学の限界である。
これに考古学や言語学、地理、地学、気象学、海洋学、植物学
などを動員して先達が積み上げてきているのだ。
569sss:2011/02/26(土) 22:15:59.63
末盧国を唐津市に比定した場合、その中心集落は年代から桜馬場遺跡となる。
この遺跡は松浦川の西側。つまり、伊都国を糸島の方に比定した場合、一行は、
川をわざわざ歩いて渡ったということになる。これも不自然かな。
570日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:21:05.10
橋はなくても川の渡し船なんかは何処にでも幾らでもあっただろ
571日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:29:01.98
>>569
川を渡る必要があるから、糸島の方に行けないというのは
短絡だと思う。2〜3キロ上流部に行けば渡れるところはありそうだ。
それに、それなりに人口があれば渡し船の用意もそう難しくないだろう。

多分、邪馬台国までの全行程について、小さな川を渡る機会は
かなりあるだろうが、その程度ならば書いていないのだと思う。
572日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:31:14.88
>>568
>うむ、それが文献学の限界である。

だって文献学してるんだよ
文献学していて文献学の限界に到達したら、それはそこで解散。

>>567

>うむ、佐賀に行く道が一本ある。

関係ないよ。佐賀であろうが前原であろうが
具体的な地名を出すから内容がすべていやらしくなってしまう
すけべ根性むき出しにしないで
573sss:2011/02/26(土) 22:32:29.64
最初から船で行けば良いという話なのだが…。
だいたい、壱岐から前原あたりに行くのに、唐津を経由するということ自体が
おかしいと思う。直接舟で行けるのに。
574日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:32:59.26
川なんて目線をずらす事ですぐに向こう岸に移動できる。
575fsr:2011/02/26(土) 22:33:09.90
>>558
>「大乱」は、大きな戦争でなく、盟主を争う戦いの意味と理解してます。

邪馬台国の場所が判れば何か判ると思いますので、
その後の話になります。

>邪馬台国東遷には反対です。 亡んでいった国と思ってます。

同感です。
ここに書いています。
>>533

>伊都国=前原市でない理由はどんな事を考えてますか?

ここに書いています。
他にもありますが
>>482
576sss:2011/02/26(土) 22:34:35.44
>>574
肝心なことを忘れているよ。そもそも方向が違う。
577日本@名無史さん:2011/02/26(土) 22:41:13.76
記載が確認されている行程距離が10700里

水行20日+10日=水行一月=1000里
陸行一月=1000里

合計12700里

自郡至女王國萬二千餘里
578日本@名無史さん:2011/02/26(土) 23:22:12.29
邪馬台国は九州にあり、同じ九州にあった狗奴国との争いが劣勢だった。

魏に使者をだして援助を求めたが、
結局邪馬台国はトヨの代に狗奴国との争いに敗れ狗奴国に統合された。

九州を制圧した狗奴国(神武)は東遷しヤマト王朝を打ち立てた。

ヤマト王朝は邪馬台国ではないから、記紀に卑弥呼、トヨの記述はない。
579日本@名無史さん:2011/02/26(土) 23:25:05.41
>>482
>@無意味とも思える悪路陸行をすることになる。
 A糸島への方角が違う。

  博多湾(生の松原)から唐津(虹ノ松原)間は砂州が多く、魏のV字型大型船では長期繋留が
  出来なかった。 伊都国、海人族の意見を聞き、しかたなく、末廬國へ置いてきた。
  場所は呼子湾。加部島で蓋をした地形で、波、風の影響を受けず長期繋留に適している。

  「草木茂盛、行不見前人」は唐津に出るまでの描写。
  夏を考えれば、東南も許容範囲と思います。  が、どうでしょうかね?

580fsr:2011/02/26(土) 23:25:32.62
>>558
>軍隊の数で邪馬台国側が優勢だったと思います。
海人族は、陸上では弱かったでしょう。
卑弥呼を共立し、座布団一枚下がった状況で「住み分け」したのでしょう。

座布団一枚下がった状況で「住み分け」ではなく
代々統属するほど親密な関係だったと書いてあります。

それに
伊都国が前原で
邪馬台国が朝倉ならば
やはり
大和朝廷系の同じ仲間になると思います。

前原の国と戦った相手ならば
有明海沿岸の国だと思います。

つまり
伊都国と邪馬台国が代々親密だったということは
邪馬台国が甘木朝倉以北の博多湾岸にあったのなら
伊都国は前原にあったことになり、
邪馬台国が有明海沿岸にあったらのなら
伊都国は佐賀平野にあったことになります。

遺跡と過去の実績から判断すれば前原が有望になりますが
倭人伝は前原にあったことを悉く否定しています、
私は
方角、距離、人口を間違え
挙げ句の果てには
山へ向かって水行を指示するほど
倭人伝がいい加減な文書だったとは考えていません。
581fsr:2011/02/26(土) 23:38:42.65
>>579
>「草木茂盛、行不見前人」は唐津に出るまでの描写。
夏を考えれば、東南も許容範囲と思います。  が、どうでしょうかね?

国同士の位置関係を無視していいのなら何処にでも比定できます。
問題は
奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国がうまく比定できるかどうかだと思います。
582日本@名無史さん:2011/02/26(土) 23:56:01.13
>>578じゃあー、勝った卑弥弓呼や狗古智卑狗のことは何故かいてないの。
583日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:01:14.28
会稽東冶とどう調和するか? 周旋五千里をどう説明するか?
女王国の東渡海千里をどう説明するか?
それらも考えるべきだな。
584日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:30:12.24
>>581
>倭人伝がいい加減な文書だったとは考えていません

  fsrさんと私とでは、ここに違いがありますね。
  私は、かなり不完全な文書と感じてます。脱行もあるのでは?と思ってます。
  陳寿も不自然さを感じた。しかし、どこがオカシイのかわからなかった。

  「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」から、有明海を考えたことありません。
  有明海方面も勉強してみたいと思います。
585日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:33:34.27
>有明海を考えたことありません。
女王国を小さな国だと思ってるんだろう。
586日本@名無史さん:2011/02/27(日) 00:53:50.97
>>585
>女王国を小さな国だと思ってるんだろう。

  趣味で本を読んでる程度ですからね。分からないが本音です。
587日本@名無史さん:2011/02/27(日) 01:06:08.89
唐津とは何か?
唐津とは、要するに唐人(韓人)の住む湊という意味です。
韓(加羅)とは、もともと唐の事で、山東半島から黄海を渡って渡来した中国の斉の国の住民でしょう。
更に、玄界灘を超えて九州北部にも拠点があったと考えるのが自然でしょう。
588日本@名無史さん:2011/02/27(日) 02:01:37.44
>>587そうだったのですか。
わたしももしかしたらそうなんじゃないかと薄々感じていました。
唐津という地名は唐もしくは韓(から)と関係があるのではないかという気がしていました。
秦の始皇帝とのつながりはともかく、「唐人の住む津」という説は反論の余地がありません。
589日本@名無史さん:2011/02/27(日) 04:01:22.03
>>583

>会稽東冶とどう調和するか?

「会稽東冶」は改竄文。
正しくは「会稽東治」で場所は現在の寧波。
寧波からの海外は九州西海岸で東鯷人の住むところ。
寧波からの海中は舟山群島にあたる。


>周旋五千里をどう説明するか?

郡から女王國まで12000里。
郡から狗邪韓國まで7000里。
狗邪韓國から女王國まで5000里。これが「周旋五千里」。
倭が周り5000里の島々であるのなら「周匝五千里」と書く。


>女王国の東渡海千里をどう説明するか?

九州島の東へ海を渡って1000里。
周防か伊予です。
590589:2011/02/27(日) 04:18:52.17
to fsr
>>539
>「草木茂盛行不見前人」と言う道を陸行しなければならないのに
>魏の高級役人、勅使を上陸させたのは伊都国が前原には無かったからだと思います。

大正解。
末盧國から南東に500里(35km)に伊都國はありました。
そこは佐賀平野佐賀市大和町です。
其処には惣座遺跡があります。伊都國の城郭です。

又、観音峠越えの山道なので、「草木茂盛行不見前人」になります。
591日本@名無史さん:2011/02/27(日) 06:04:35.43
観音峠? 厳木、多久、小城経由ではいけないの?
592日本@名無史さん:2011/02/27(日) 12:52:11.70
狗奴国は球磨(クマ=熊)の転訛か。

>>578
そういう話も面白いね。しかし、中国側の文献に卑弥呼が
ああいう立場で登場するからには神話的始祖としての天照
くらいの地位を与えざるを得ないということにもなり得る。
593日本@名無史さん:2011/02/27(日) 12:59:56.87
中国側の記録との関係で国家としての同一性を維持する
必要はあった。

後の倭の五王は中国から東征将軍とかの称号を受けてるし。
594日本@名無史さん:2011/02/27(日) 13:18:42.28
国家統一が固まり記紀神話の成立した天武の時代には柵封国家と
しての意識は希薄になってはいたが、古代日本の倭国支配の
金印の正統な継承権というものを全く無視するわけにもいか
ない、という微妙なスタンスが考えられるわけだな。
595日本@名無史さん:2011/02/27(日) 13:48:18.71
神武東征は実際には中国の金印を掲げてのことだったと
考えられるわけだな。もちろん、神話ではそういう背景は
書きたくない。
596日本@名無史さん:2011/02/27(日) 13:52:47.01
神武が実在した人物だとすりゃね。

記紀編纂の方針を固めた天武のパーソナリチーが初代天皇の
神武に投射されてるようにも見える、というのが俺様の最新の
思い付き。
597日本@名無史さん:2011/02/27(日) 15:38:52.72
史的リアリズムで参ります。
598fsr:2011/02/27(日) 15:52:55.46
>>586
>fsrさんと私とでは、ここに違いがありますね。
私は、かなり不完全な文書と感じてます。脱行もあるのでは?と思ってます。

どの部分に不完全さを感じるのですか?

>陳寿も不自然さを感じた。しかし、どこがオカシイのかわからなかった。

陳寿は恵まれない生涯を過ごしたが
正確な文章を書くことでは定評があり、天才とも言われていたそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%AF%BF
『三国志』については、優れた歴史書であるとの評価が高い。夏侯湛(夏侯淵の曽孫)が『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。

http://www.interq.or.jp/sun/unk/retuden/ta/tinzyuu.html
陳寿は、三国志に記載していることを間違えない事実のみを記そうとしたため、書かれている記事はものすごく簡略です。

>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」から、有明海を考えたことありません。

その理由を教えて下さい。
宜しくお願い致します。
599伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 15:55:31.92
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜海
┏┛∵∵帯方郡∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜海
┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜海
海〜┗━┓▲帯方郡庁∵∵∵┗┓〜〜〜海
海〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜海
海〜┏┓┣━━━━┓∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃┗┛∵∵∵∵┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵∵∵∵∵∵∵┣━━━┫〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵馬韓55国∵┏┛∵∵∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗┓10万余戸∵┃辰韓12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵∵┃弁辰12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵┏━━┛4〜5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓海
海〜┏┛∵∵┃(投馬國) ┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┗━
海〜┣━到━狗邪韓國○┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵
海〜┃∵∵┏━━┛〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵
海〜┗━━┛〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵┏━
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━┛海
海〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜┏━━┓━━━━━┛〜┏━┓
海〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛∵┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜到〜伊都國○◎∵∵∵∵┃〜〜〜┏┛侏儒國
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵邪馬壹國┗┓〜〜┗┓∵∵┏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵26国∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┛7万余戸┏┛〜〜〜〜┗┛海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┣━━━━┳┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
600横板に水:2011/02/27(日) 15:57:18.07
僕は日本の古代のことについて、中国や半島の史料(新羅や百済の歴史書や好太王碑文など)とともに日本の記紀なども考慮すべきではないかと思います。勿論、
書かれていることの真偽については十分検証しなければなりませんが。言うまでもなく、遺跡や遺物などの考古学的資料も当然参考にすべきだと思います。
いま神武東征の話題が出ていますのでこれについて、

神武東征は記紀に書かれていますが、これが事実であるか、また、事実とすれば何時のことであるかが問題ですね。僕は宝賀寿男氏の氏族系譜の研究はすごい(丹念
で緻密な考証に圧倒されます)と思いますが、その宝賀氏が神武東征について書かれたものがあります。
http://enjoy.pial.jp/~kokigi/kodaisi/yasumoto/yasumt1.html

これによると、神武東征は2世紀後半(倭国乱の頃)のことで、九州を出発し凡そ3年で奈良に入ったようです。それから、
崇神(これも九州系)は4世紀の大王で、箸中山古墳はこの崇神の墓であろうとしています。面白い説だと思います。
601伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 16:22:02.31
〜↓┃  狗邪韓國○━━━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜↓┗━━━━━┛↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜└→→→→→→→┤〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜七千餘里〜〜〜〜↓〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜水行20日〜對馬國↓○┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜方可四百餘里〜海
〜〜〜〜〜〜水〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜〜〜〜〜〜行〜千餘里↓┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜〜〜〜〜〜10〜一大國↓○┛壱岐〜方可三百里〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
〜〜〜〜〜〜日〜〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓〜海
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵┃〜海
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━○〜〜┏━━┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵┃〜海
〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜┃末↓━陸行1日(月) ━┛∵∵∵∵∵∵┗━━
〜〜〜〜〜〜┃∵∵┗━┛盧└→→○→→→◎→不→斯→己→伊→都∵
〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵國∵五∵伊∵百∵奴∵彌∵馬∵百∵邪∵支∵
〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵百∵都∵里∵國∵國∵國∵支∵國∵國∵
〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵里∵國∵∵∵↑∵∵∵∵∵國∵∵∵↓∵
〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵┏┓∵∵∵∵烏奴國∵∵∵∵∵∵∵∵彌奴國
〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏┛┗┓∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵
〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜┃∵支惟國∵∵∵∵∵∵∵∵好古都國
〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜┃∵∵↑∵∵(邪馬壹国)∵∵∵↓∵
〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜┃巴利國∵∵∵7万余戸∵∵不呼國
〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜┃∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵
〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜┃躬臣國∵∵∵∵∵∵∵∵∵姐奴國
〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┃〜┃↑∵∵∵∵∵∵∵華∵∵∵∵∵↓
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜┃邪←鬼←爲←鬼←奴←呼←蘇←對
〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜┃馬∵奴∵吾∵國∵蘇∵邑∵奴∵蘇
〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜┃國∵國∵國∵∵∵奴∵國∵國∵國
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜┗━━━┳━━━━━━━━━━━━━━
〜〜〜〜〜┃∵┃〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵(狗奴國)∵∵∵∵∵∵
602伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 16:36:31.56
>>599>>601図の解説は
ウィキペディアの九州王朝説の邪馬壹国を読むべし
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
603日本@名無史さん:2011/02/27(日) 17:06:41.61
>>598
>どの部分に不完全さを感じるのですか?

  結果的に、伝を読んでも誰もわからないでしょう。

>天才とも言われていたそうです。

  えぇ、それは知ってます。たくさんの注が必要だったそうですね。
  陳寿は完璧でも、手元にあった史料が不完全だったと思ってるんです。
  陳寿は考えぬいて「計其道里、當在會稽東冶之東」を記載した。

>有明海を考えたことありません。 その理由を教えて下さい。

  九州北部から山陰方面に興味があり、有明海側の知識がないので勉強中です。
  これまで、前原市を疑ったことがないので・・・   
  あくまでも、趣味の範囲ですから。
604太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 17:19:29.84
神武東征は紀元前。
605fsr:2011/02/27(日) 17:48:31.22
>>590
>大正解。
末盧國から南東に500里(35km)に伊都國はありました。
そこは佐賀平野佐賀市大和町です。

心強い限りです。
佐賀へ進む人が相当数、ある一定以上になれば
偉い先生方も前原に疑問を持つ人が出てくると信じています。
606fsr:2011/02/27(日) 17:57:25.15
>>603
>どの部分に不完全さを感じるのですか?
結果的に、伝を読んでも誰もわからないでしょう。

偉い先生方(の全て?)が方角の違う前原へ進むからだと思います。
佐賀平野へ進み
議論を進めれば
邪馬台国の場所は一転に収束すると思います。

今、
私は倭人伝の記述に不審を持つ箇所はありません。
607fsr:2011/02/27(日) 17:59:28.09
一転
↓↓
一点
608横板に水:2011/02/27(日) 17:59:34.22
>>602 伊都国王卑弥呼さん
ウィキペディアの九州王朝説の邪馬壹国を読みました。なかなか面白いことが書いてありますね。どこまで本当のことなのかは今は判断できませんが。
ところで、あそこには

「世有王 皆統屬女王國」を「魏の時代に卑弥呼、壹與と王がいて、倭の国々は皆、女王国に統屬していた」と読むように書かれています。
「世有王」は卑弥呼と壹與のことで、「皆」は倭の国々という解釈です。こう解釈して女王卑弥呼および壹與は伊都国に居たとするのでしょうが、この解釈でいいのでしょうか?

倭人伝には「南至邪馬壹國女王之所都」とも書かれていますので、上記の解釈と合わせれば伊都国=邪馬壹國となりおかしなことになります。有千餘戸と記される伊都国が可七萬餘戸
と記される邪馬壹國と同じ筈はありませんからね。




609伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 18:47:12.03
「南至邪馬壹國女王之所都」とは「南の邪馬壹國に至る、女王の都する所である」と訳せ
邪馬壹國は女王の都のある国であるのと解釈できます。
従って伊都国=邪馬壹國ではなく
邪馬壹國⊃伊都国(女王の都)です。
邪馬壹國は可七萬餘戸と記されており、規模からして国邑(都市国家)ではなく
国邑の連合体であると考えます。
610日本@名無史さん:2011/02/27(日) 18:54:14.14
宝賀寿男氏は北九州説のようだが、考え方が分からないですね。
誰か簡単に紹介してくれませんか?
611日本@名無史さん:2011/02/27(日) 19:02:48.07
>従って伊都国=邪馬壹國ではなく
>邪馬壹國⊃伊都国(女王の都)です。
意味が分からん。伊都国はどこで、邪馬壹國(卑弥呼がいた所)はどこ?
612伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 19:02:53.16
>>609少し修正
「南至邪馬壹國女王之所都」とは「南の邪馬壹國に至る、女王の都する所である」と訳せ
「邪馬壹國は女王の都のある所である」と解釈できます。
漢文の意味として「邪馬壹國⊃伊都国(女王の都)」でも可能です。
邪馬壹國は可七萬餘戸と記されており、規模からして国邑(都市国家)ではなく
国邑の連合体であると考えます。
613伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 19:06:01.06
>>611
伊都国は糸島市付近で
邪馬壹國は北部九州一帯(国邑26カ国の連合体)
卑弥呼は邪馬壹國の都の伊都国にいた。
614伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 19:17:44.23
放射状説とか分岐説は漢文上ありえない、
朝鮮半島内陸行説も朝鮮の陸上交通が近代まで未発達だったからない。
旅の行程は水行、陸行とも標準的に1日当り25km〜40km。
615伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 19:19:09.72
>>611ウィキペディアの九州王朝説の邪馬壹国を読んでね。
616fsr:2011/02/27(日) 19:27:55.63
>>608
>「世有王」は卑弥呼と壹與のことで、「皆」は倭の国々という解釈です。こう解釈して女王卑弥呼および壹與は伊都国に居たとするのでしょうが、この解釈でいいのでしょうか?

いい訳がありません。
先に結論ありきの恣意的解釈です。
畿内説のほうがまだましです。
彼らとの論争は無意味です。
何の価値もありません。
617伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 19:54:25.22
>>616
どこが恣意的解釈なんでしょうか?
「世有王」を「世世有王」と読み替え
「代々王がいた」と訳す方が恣意的解釈ではありませんか。
ウィキペディアにもあるように魏略との比較からも
「皆」は倭の国々という解釈の方が正しいと考えられます。
618日本@名無史さん:2011/02/27(日) 20:35:27.69
一日25キロとすると、一月で750キロ
水行20日+10日=750キロ
陸行一月=750キロ

合計1500キロ

方向を自由にしても台湾か北海道しか比定できない。
619日本@名無史さん:2011/02/27(日) 20:37:40.04
>>617
>「皆」は倭の国々という解釈の方が正しいと考えられます。

 「世有王」限定で賛同致します。
  投馬國に特徴のある人ですね。

 
620伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 20:55:04.39
>>618
『魏志倭人伝』の内容はだいたい正しですが、完璧ではなく、小さな書き誤りはあります。
「陸行一月」を「陸行一日」の誤りと考えると、従来言われている矛盾は全て解消されます。
「陸行一月」は「陸行一日」の誤りと考えます。
「水行20日+10日」で帯方郡の郡治から末盧國に着き
「陸行一日」で伊都國、奴國へ。
621日本@名無史さん:2011/02/27(日) 20:56:50.66
>>617
>魏略との比較からも

魏略のそれと倭人伝のそれは、同じ「皆」文字でも
その意図する内容はまったく異質です。
今一度「魏略曰」をお読み下さい。
倭人伝との違いがきっとわかるはずです。

文字の姿は似ていても、文章全体を眺めてみればあら不思議
622日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:00:46.59
>>620
>『魏志倭人伝』の内容はだいたい正しですが、完璧ではなく、小さな書き誤りはあります

誤りがあるとするのであれば、完璧な文章をご提示ください。
誤りがあるものが中国の正史という位置にあるのですから、その完璧に組み上げられたものは
世界遺産に匹敵する価値があるでしょう
623横板に水:2011/02/27(日) 21:11:16.06
>>611
宝賀氏は福岡県久留米市大善寺町の権現塚古墳を卑弥呼の冢の候補と考えておられるように思います。
僕の感覚では久留米がある筑後地方は北九州と言うより中部九州に近いのですが。
624日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:20:39.60
>>605
伊都国=佐賀付近とする説は結構ありますよ。
http://www.geocities.jp/niginiginomiko/page1.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/
安田哲也「邪馬台国の暗号」
625伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 21:23:35.13
「陸行一月」が正しいとすると
750km以上も陸行したことになるが
日本国内で750kmも陸行する必要がないしする場所もない。
海岸から1〜3日も歩けば日本国内なら何処でも着けるのに
船で旅して来て途中から一月も陸行の理由も分らない。
目的地の近くの海岸まで船を付けて最短を歩くのが楽だ。
3世紀の日本では広域道など整備されていない
川にも橋が無い、一月の陸行など不可能。
626伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 21:29:29.71
>>621
『魏略』逸文では「東南五百里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰曳渓觚 柄渠觚 其国王皆屬王女也」とあり
『魏志倭人伝』にある「世有王」が『魏略』逸文にはなく、皆が指すものは其国王以外にない。
つまり『魏略』逸文の皆とは其国王のことであり、即ち倭国の王達のことである。
同一の資料(又は『魏略』)を参考に作成されたと見られる『魏志倭人伝』の「皆統屬女王國」の皆も同様に倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは倭の国々は皆、女王国に統屬していたの意味なのである。すると「世有王」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」の世とは魏について記した『三国志』魏書の中に書かれた世であるから当然に魏の世を示しており、「世有王」とは魏の時代に(卑弥呼、壹與)王が伊都国にいたとの意味であると結論される。
(「世有王」であり「世世有王」ではないことに注意。世一字をもって代々と訳されたのは、皆が王を指していると誤解から王を複数にする為に生じたもの。)
627横板に水:2011/02/27(日) 21:37:55.01
>>621
おっしゃられる魏略というのは翰苑卷三十にある下記の記事のことですね。
東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其國王皆属女王也

倭人伝の記事
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國
と比べると、陸行が無く、副の泄謨觚が洩渓觚になり、千餘戸が戸万余となり、世有王、皆統屬女王國が其國王皆属女王也となっていますね。

魏略の「其國王皆属女王也」の其國とは伊都国と受けとれます。皆とあるから倭国の王達と思われたのでしょうが、倭人伝のように世有王であ
れば代々の王は皆女王に属したということで問題はないでしょう。
628日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:48:58.11
>>627
橋本増吉は、次のように述べているそうだ。(研究総覧引用)
魏略本文について考えれば、対馬、一支、末盧、伊都と順次にその大官及び副官
を掲げた後、これを受けて其国王皆属女王也というのであるから、其国王とは以
上列挙した各国の国王を意味するものとして読むべきかのごとき文脈をなしてい
るのである。
629日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:52:23.00
>>626-627

分[扁身旁右職]命官、統女王而列部。

【魏略曰:「從帯方至倭、循海岸水行、暦(歴)韓國到拘耶韓國七十(千)餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布(市)糴。
南渡海至一支國、置官至(同)對〔闕「馬」〕。地方三百里。又渡海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。東南五東(百)里、到伊都國。戸万餘。置〔闕「官」〕
曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。皆統屬王女(女王)也。」】

こういう場合一部抜粋で検証しても意味を把握してもね

この文章の中の「皆」

特にこの
分[扁身旁右職]命官、統女王而列部。
のお題目とこの魏略曰のハーモニーを読み説くわけで、倭人伝とは一線を引くものでしょ
630横板に水:2011/02/27(日) 21:53:44.80
>>626
>つまり『魏略』逸文の皆とは其国王のことであり、即ち倭国の王達のことである。

倭人伝には王について記述された国は伊都国と邪馬台(壹)国と狗奴国しかありませんが、これでは其国王が倭国の王達とすれば、
その王達とは伊都国の王と邪馬台国の王のことになりましょう。伊都国には女王の他に王が居て、邪馬台国にも女王の他に王がいた
のですか?

それとも、魏略には倭国の各國にはそれぞれ王が居たとでも書かれているのでしょうか?
631日本@名無史さん:2011/02/27(日) 21:58:28.74
ようするに、ナッシュビルチューニングで奏でる22才の別れと、半音下げないで
淡々とスリーフィンガーで演奏される22才の別れを
同じ扱いにしてはいけないでしょ。ということ
632日本@名無史さん:2011/02/27(日) 22:05:30.37
・知って置くと便利な斜行式での距離問題についての知識

・帯方郡から女王国まで一万二千里(=どんぶり勘定ですが万里の長城くらい遠いのです)
・一万二千里から、郡から伊都国までの距離合計を引くと残りが千五百里。
・伊都国から邪馬台国までは、陸行では(海行は別)千五百里だな。
・古代中国での常識として一日の移動距離は五十里。
・千五百里なら、一日五十里を三十日でちょうどだぞ。じゃ陸行一月にしとこう(つじつま合わせ)。
・伊都国から長崎を迂回して筑後川南部の邪馬台国までは、そのまま船で十日くらい。

だそうです。
633日本@名無史さん:2011/02/27(日) 22:10:34.22
糸島から西周りで沿岸伝いに筑後に行くには十日くらいだな。
634日本@名無史さん:2011/02/27(日) 22:20:52.68
>>630
>倭人伝には王について記述された国は伊都国と邪馬台(壹)国と狗奴国しかありませんが、
よくこうゆう言い方がなされるが、それでは誰が官を指名したのかということに
なるね。国という以上、各国には王がいた、それがそれぞれの国の官を指名したんだと考え
るべきなのだよ。もし、官を指名したのが卑弥呼だとすれば、各国はすべて卑弥呼の支配す
る一つの国の郡か何かになってしまうわけで、別の国として存在することはない。
後漢書も「国、皆王を称し」と書いているでしょ。各国に王がいたということです。
635横板に水:2011/02/27(日) 22:24:01.73
>>629
そこに引用されたのは翰苑の記事ですね。>>626の伊都国王卑弥呼さんが引用された文とは最後のところ(「其國王皆属女王也」と
「皆統屬王女(女王)也」が異なっていますね。其国王がありません。

この記事からすると、各国(對馬國、一支國、伊都國)の官、副は女王に統属するというふうに解釈できますね。
636日本@名無史さん:2011/02/27(日) 22:28:09.54
>>635
>副は女王に統属するというふうに解釈できますね。

女王って書いてありますか?
637日本@名無史さん:2011/02/27(日) 22:31:36.46
陸行一月を陸行一日の間違いとする手法では
水行10日や水行20日を換算できない。

水行10日はなんと間違えたのだろうか?、ということになる。


自分は九州の東西五月行南北三月行や、百済済州島間三月行、
済州島東西一月行の距離より、
短里千里=一月行=八十キロ説を取る。

魏志倭人伝の記事より、里で書かれている総工程は10700里

水行十日+二十日=一月=1000里
陸行一月=1000里

これを足して、12700里

最後の倭人伝の記録で、万二千余里となっていて、
この距離は記録の範囲に収まっているとしてよいだろう。

元々は公里での1000里=一月の行軍距離だったのだろうが、
短里でも1000里=一月の換算がそのまま使われていたのだろう。

だから距離における一月は時間を表すものではなく、
距離として使われたのではなかろうか。



638横板に水:2011/02/27(日) 22:34:23.17
>>636
>>副は女王に統属するというふうに解釈できますね。

「官、副(副官のことです)は女王に統属するというふうに解釈できますね。」です。

>女王って書いてありますか?

>>629をお読み下さい。書いてありますね。
639斜め読みさん:2011/02/27(日) 22:38:21.76
・帯方郡から狗奴韓国まで七千余里
・狗奴韓国から対馬国まで海渡千余里
・対馬国から一支国まで海渡千余里
・一支国から末盧国まで海渡千余里
・末盧国から伊都国まで陸行五百里

合計一万五百里、「海渡千余里」は全部、どんぶり勘定。

五十里は約24km。伊都国から奴国、不弥国までそれぞれ百里
というのは「歩いて二日」くらいな意味。
640横板に水:2011/02/27(日) 22:45:04.86
>>637
僕もこの日数の記述が問題だと思います。
あなたは距離として使われたものではないかというお考えのようですが、距離ならば何故里を使わなかったのでしょうか?
陸行千里でなんら問題がないのに、陸行一月と書いたのか、不思議なのです。
641伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 22:51:13.78
>>632
>・古代中国での常識として一日の移動距離は五十里。
長里約400mで1日25kmだと63里≒50里強 ですね。

『魏志倭人伝』は短里が使われているので1日300里以上でしょう。

>>637
>九州の東西五月行南北三月行や、百済済州島間三月行
これらの月も日の誤りでしょう。
月を日とすると丁度いい。


642ローガン:2011/02/27(日) 22:54:45.99
>>634
>国という以上、各国には王がいた、それがそれぞれの国の官を指名したんだと考えるべきなのだよ。

国王は知らんが、副官の名前まで知っている事を考慮してください。
お邪魔しました。
643伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 22:55:45.18
>>640
ウィキで説明があるように里数と日数は同じ行程を再度説明し直したもの。
続けて読むから不思議なのです。
644伊都国王卑弥呼:2011/02/27(日) 22:58:51.23
>>642
王名の記されていない国には王がいなかったと考えるべきですね。
645日本@名無史さん:2011/02/27(日) 23:18:37.74
>>642
>国王は知らんが、副官の名前まで知っている事を考慮してください。
国王も官も個人名はないね。王は王で問題がない。官はそれぞれの国で
呼び方が違うので書いたのだろう。
646日本@名無史さん:2011/02/27(日) 23:25:31.66
>>638
あれはサイトからのコピペですから
あれは参考程度にしてください。できれば影印程度で再確認してください
影印は「王女」です。
647日本@名無史さん:2011/02/27(日) 23:29:44.15
≫642
官副の名前が個人名ではなく役職名であることを考慮してください。
何故副官の名前まで書いたのか考察してください。
さすれば
国王の名前を書いてない理由が分かるでしょう。
648fsr:2011/02/28(月) 00:04:53.97
意図国王の名前も書いてない。
知らなかったのか。
649伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 08:19:05.65
伊都国王の名前は卑弥呼、
女王国の女王であり邪馬壹国の王、
親魏倭王卑弥呼。
650伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 08:35:11.93
『魏志倭人伝』によると、第1に倭には魏から王に任命された卑弥呼がおり
第2に卑弥呼に従わない狗奴國が王を自称している
倭には、この2人以外王はいない。
651伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 08:56:31.42
王の上位に来るのは皇帝であり
王を治める王や王の家臣の王はいない
倭王とは別に伊都国に独立した王がいたとすると
伊都国王は倭王卑弥呼に属さないことになるが
魏使は伊都国に留まるなど伊都国は倭の支配下にある
伊都国王=倭王卑弥呼であると考えれば問題は無くなる。
652特別観覧席:2011/02/28(月) 09:01:08.77
伊都国王卑弥呼氏の登場でレベルアップしてる。
同じ「伊」がつくのでも、かなり違うな。
yahooより上だろう。
653河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2011/02/28(月) 10:36:16.75
>>651

>王の上位に来るのは皇帝であり
王を治める王や王の家臣の王はいない


それは律令やピラミッド型構造社会などの縦型社会の場合。
たとえば学校などは、生徒と先生の関係は縦の関係でも、生徒だけで構成するクラス委員や生徒会役員などは
基本的に横社会。    しかし同じ学校のなかにあって、教職の世界は縦の関係がある。
654日本@名無史さん:2011/02/28(月) 10:39:20.09
>王の上位に来るのは皇帝であり王を治める王や王の家臣の王はいない
行程というのは、中国の王がそのように自称しただけのこと。
中国の王(皇帝)の下に倭王卑弥呼がいる、その倭王の下に国々の王がいる、
それで何も問題はない。国々の王もそれぞれ独立性をもつが、他国と同盟
することはある。倭国というのはそのような同盟体だ。
655伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 12:41:16.87
『魏志倭人伝』は魏使の報告を基に陳寿が書いたもので、
全て中華の目線で見て中華の思想で倭の姿を記したのである。中華では始皇帝以後
  ┏王
  ┣王
皇帝╋王
  ┣王
  ┗王
    であって、
  ┏王┳王
  ┃ ┗王
  ┃ ┏王
皇帝╋王╋王
  ┃ ┗王
  ┃ ┏王
  ┗王┻王
      のような関係はない。
『魏志倭人伝』も上の方の関係として書かれており
倭人の国家体系や思想は関係ない。
656横板に水:2011/02/28(月) 13:16:21.38
今日は仕事が早く終ったのでいつもより早い時間に書き込めます。ここは休み無く働いたあとの気休めと身体休めの場所です。の

>>643
>ウィキで説明があるように里数と日数は同じ行程を再度説明し直したもの。

これがよく分かりませんね。「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」のところには日数が書かれていますが、この日数が同じ行程を
再度説明したものとすると、これ以前に邪馬壹國までの距離(里数)が書かれていなければ成りませんが、それは見当たりません。どこに書いて
あるのですか?

また、「南至投馬國水行二十日」にも同じことが言えます。投馬國までの距離(里数)はどこに書かれているのですか?
657日本@名無史さん:2011/02/28(月) 13:22:29.49
>>655
後漢書東夷伝には次のようにあるね。
「国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居る。」
皇帝─大倭王─王という形になっているだろ。
658横板に水:2011/02/28(月) 13:35:29.18
>>646
>影印は「王女」です。

そうだとして、なにをおっしゃりたいのでしょうか。書かれているとおりに受けとれと言われるのでしょうか?
影印は版木になってからの文を示すものでしょう。その前に書写が何回か繰り返されたのではないでしょうか。写し間違いの
可能性もあります。魚豢の元本には女王とあったかもしれません。魏略逸文にはいくつも誤りと考えられるところがあります。

例えば、従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里の七十里は七千里の間違いでしょう。狗邪韓国から對馬国までが千里と
あるのに、帯方郡から狗邪韓国までの距離がその1/14など有り得ないから間違いと分かります。

女王は国のトップの位にありますが、王女は王の子女にすぎません。王の権力は持たないでしょう。そんな存在に統属するなど
常識ではかんがえられませんから、王女とあるのは女王の間違いだと見られるのでしょう。
659日本@名無史さん:2011/02/28(月) 13:43:01.82
中華体制のもとで描かれた王ならば、ただ皇帝の下という
位置関係だけじゃなく、王とする様々な条件をクリアーしていなければならない。
たとえば王としての所領問題とか
660横板に水:2011/02/28(月) 14:17:39.92
国について、
中国の辞書に国:有土地、人民、主权的政体(古代指诸侯所受封的地域)とありますね。古代においては诸侯所受封的地域を指すとあります。

三国志の倭人伝も中国からの視点で書かれたものでしょうから、中国人(この場合魏の人)が見て国(土地(領地)があり、人民が居て、主権的
政体(政府)を持つもの)で、諸侯が封じられた地域(この場合は倭国王によって封じられた者が政務を執り行う地域)を国と書き表したのでは
ないでしょうか。
661斜め読みさん:2011/02/28(月) 14:26:02.36
>>641
短里は実在したのかという議論もあるね。

長里のまま斜行(放射)読みでもきれいに解釈は可能と
いうことは言いたい。

大昔の人々の距離感覚を、衛星画像を見たり、レーザー光で
地球と月の距離をセンチメートル単位で割り出したりする時代と
一瞬くたにしないためには想像力を働かせる必要はあると思う。
662日本@名無史さん:2011/02/28(月) 14:28:45.71
>>658
>間違っているかもしれない。

確かに間違っているのかもしれないが、それは永久にかもしれないを脱することのない疑問。
常識ではありえないのもまた、現代の認識だけの話で、その答えは永久に解決することはない。
永久に解決しないからと、勝手にその文字をいじってしまうのもいかがなものか?
もしかしたら倭人伝の女王の方が間違っているのかもしれない。
そう考えるといつまでも答えはでない。その疑わしい文章を扱うのであれば、まず影印を以てすべきでしょ。
疑わしきものならば、使わない選択もあるのだから
663日本@名無史さん:2011/02/28(月) 14:46:14.43
邪馬台国畿内説を国定しちゃうと、記紀の記述、大和朝廷の歴史、とすり合わせを
何とか辻褄を合わせて構築しなければならない壮大な作業が待っている。
そうしないと記紀はまるでデタラメと言うことになってしまう。
それなら、徳川時代に国学者が考えていたように、邪馬台国なんていうのは
九州の土人の国が勝手に中国とやりとりしてたもので、近畿の日本とは違う
としといた方が楽だよ。
664斜め読みさん:2011/02/28(月) 14:47:34.62
時計も地図も目印もなしに曲がりくねった山道を10km歩けと
言われたら我々でも困る。

いわんや1000km単位だと、雲を掴むような話。
665斜め読みさん:2011/02/28(月) 15:03:57.32
リアルバカ地図な世界だなw
666日本@名無史さん:2011/02/28(月) 15:07:43.81
とりあえず、万二千里は公里だと5000キロだからな。

鹿児島から青森の3倍の距離。
どういう道程でこれを消化するかだな。

とりあえずどうにかひねくり回して
日本列島にどうやって上陸するかを考えなければ。

そのままだと、通りすぎてパプアニューギニアだ。
667斜め読みさん:2011/02/28(月) 15:21:32.85
ニューヨークや北京やモスクワを地図で指差すのと、
具体的な方角に向かって実際の距離を考えるのは
別のことだ。

我々にとって有意義なのは前者だが、これは空間感覚とは
違う。
668斜め読みさん:2011/02/28(月) 15:29:17.22
少なくとも身体的空間感覚というよりは仮想的なものだ。

日本にいてロンドンやパリの方角に指を差して距離を考えた
ところで、その現実の空間感覚に意味があるとも言えないが。
669日本@名無史さん:2011/02/28(月) 15:38:47.83
>>662
なにをごちゃごちゃ言っているのかな。横板に水君、こんなの相手にしても何の益もないよ。君も面白いやりとりをしたいから書き込んで
いるのだろ?こんなネチネチした議論のどこが面白いんだ?
670日本@名無史さん:2011/02/28(月) 15:40:35.66
斜め読みさん

これもネチネチと面白くもない能書きを垂れているだけだ。
671日本@名無史さん:2011/02/28(月) 15:56:03.19
陳寿が書いた魏志倭人伝の原本と現存する版本で
記述内容が違っているという事は考えられないか?

陳寿は九州にある邪馬台国の行程を記述したが、
後で写本した人が大和政権は近畿にあるから陳寿の記述が間違っていると解釈して
投馬国と邪馬台国の行程を水行20日、水行10日陸行1月に改ざんしたのでは?
672日本@名無史さん:2011/02/28(月) 16:00:14.78
>>669-670
あんたが一番ネチネチしてる。
自分がつまらないと思ったのなら、他人を巻き込まずつまらないとかきこめばいい。
673日本@名無史さん:2011/02/28(月) 16:01:58.14
>万二千里は公里だと5000キロだからな。
倭人伝の里からすれば、1000キロ足らずだよ。
そのことは、会稽・東冶の東からも裏付けられる。
674日本@名無史さん:2011/02/28(月) 16:04:18.74
>>673
そのとおりだな。
短里の使用はいくつかの裏付けがあると言ってよいだろう。

公里を採用する場合は、行程を示すことが出来ない。
675斜め読みさん:2011/02/28(月) 16:18:10.75
一万里の距離なんてものは、移動に半年かかるか一年かかるか
くらいの尺度でしか考えられないのではないか?
676斜め読みさん:2011/02/28(月) 16:23:11.81
我々は相変わらずバカ地図の中で暮らしてる。
我々にとって重要なのはニューヨークの現実の位置ではなく、
飛行機の搭乗口がどこにあるかだ。
677横板に水:2011/02/28(月) 16:28:08.86
伊都国王卑弥呼さん
僕の質問(>>656)に答えて頂けませんか。

行程記事について放射読みだとか、日数表記になったところは里数を再度説明しているだとか、書き方が日数表記に変わったらそのところは
出発点(帯方郡)からの所要日数と見なければならないだとかは理解し難いですね。

放射読みに関しては、
梁書のように連続読みをした史書がありますが、これは梁書の著者が倭人伝の放射読み書法を理解できなかったからだ、とか、理解していたが
計其道里、當在會稽、東冶之東の記述に合うように連続読みに改めたのだ、として放射読みが正しいと主張する人達がいます。

僕の印象では、(全ての人がそうではないでしょうが)自分の比定したい邪馬台国の所在地に合うように(自説に都合の良いように)放射読み
をしているようにしか見えません。日数表記についても同様です。
678斜め読みさん:2011/02/28(月) 16:35:24.52
通信速度=人間の移動速度

という世界だ。
679日本@名無史さん:2011/02/28(月) 16:35:43.21
>>676
くだらんな〜。君の主観なんか誰も聞いてはいないよ。「飛行機の搭乗口がどこにあるかだ。」などと田舎者か?
飛行機が無事に着くかどうかの方が大事だろ。
680斜め読みさん:2011/02/28(月) 16:39:52.86
客席の窓にかじりついてたって今どこにいるかなんて
分からんからね。
681斜め読みさん:2011/02/28(月) 16:46:43.78
テレビもラジオもない世界だなんて!
682日本@名無史さん:2011/02/28(月) 16:47:47.87
なにか気の利いたような口を利きたい高校生みたいなのがいるね。斜め読みとかいうのが。
もういいから、つまらんことを言ってないで、邪馬台国について論じてみなさい。
683日本@名無史さん:2011/02/28(月) 16:50:52.32
相手するなって。相手しなきゃ消えるだろ。
684斜め読みさん:2011/02/28(月) 17:01:38.72
俺は現代人の空間感覚は信用してないからね。
そんなのはテクノロジーやマスメディアに囲まれて生まれ育って
身に付けたもんだ。
685斜め読みさん:2011/02/28(月) 17:05:52.32
いわば我々は文明という名の巨大な妄想の檻の中で暮らして
いるようなものだ。
686斜め読みさん:2011/02/28(月) 17:22:03.29
考えてみれば、卑弥呼の時代からもう千八百年近くも経った
のだな。時の流れるのは早いものだ。世の中の景色も人の常識も
随分と変わった。
687斜め読みさん:2011/02/28(月) 19:12:52.87
前近代世界における人間にとって距離について意義は、「長さ」より、
移動に費やす「時間」についてのウェイトが現代人よりも重かったとは
考えられるだろう。ハイデッガーが『存在と時間』で論じていること
でもあるが。

行程距離中、距離を時間で表しているのは「陸行一月海行十日」の
箇所だけだ。ここだけ時間表現なのは何故かだ。
688斜め読みさん:2011/02/28(月) 19:34:09.57
投馬国までが二十日という箇所もあるな。「千余里」に比べると、
知識が具体的だ。

ついでに伊都国の南に邪馬台国があるって記述があるんだよな。
直線読みだと、この箇所は全く意味不明だ。

伊都国から邪馬台国まで千五百里と書くと、他の国々に比較して
距離が離れすぎるんでつじつま合わせの日数でごまかした
可能性もある。「水行十日」に合わせただけかも知れないが。
689斜め読みさん:2011/02/28(月) 19:39:13.87
これで畿内説はほぼなくなるわけさ。
もちろん、畿内説は倭人伝の内容は
無視する立場だから関係ないけどw
690日本@名無史さん:2011/02/28(月) 19:55:18.70
倭人伝の内容など信じていたら畿内説は成り立ちません。
文献など無視するに限ります。
691斜め読みさん:2011/02/28(月) 20:24:41.47
木で鼻をくくったようなお答えを有難う御座いました。
692日本@名無史さん:2011/02/28(月) 21:41:50.55
>>677
>僕の印象では、自分の比定したい邪馬台国の所在地に合うように放射読み
>をしているようにしか見えません。
そうではないよ。放射説を説いたことで有名な榎は、北九州説だから確かに
放射説で距離をちぢめなければ成立しないと思えるが、そもそも放射説を最
初に説いた豊田伊三美は畿内説だし、山尾幸久も畿内説だ。畿内説はなるべ
く遠くへ行けるように連続説に飛びつきたいはずだが、そうではなく放射説
を説いているんだ。倭人伝の文章を素直に読めば放射式に読むべきことに気づ
くということだよ。
語順が変わるということで、どのように意味が変わるのか考えてはみたかな?
693sss:2011/02/28(月) 21:52:47.43
>>692
倭人伝の里程・日程の記述は、実は畿内説の方が苦労していると思う。
連続説で行くと、不弥国から水行というのが意味不明になる。
通説と言うか、新井白石の比定では、不弥国は内陸部になっているから。

で、放射説のような考えをしなくてはならなくなるが、これだと投馬国の扱いに
困ることになる。もちろん、方角も全く違うし。
694日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:07:54.29
>>692
僕の書き方が悪かったようです。(全ての人がそうではないでしょうが)と断りを入れていたのですが、そこはお目に留まらなかったようですね。

>語順が変わるということで、どのように意味が変わるのか考えてはみたかな?

考えてみて、何故放射読みをしなければならないかと思ったのです。僕は今大学での研究生活に備えて英語論文の書き方を勉強しているのですが、
同じ構文や同じ表現様式の繰り返しは出来るだけ避けるのが読者にとって読み易い書き方のようです。史書でも同じことじゃないでしょうか。変化
をつけることで、単調な内容が生き生きしてくるのではないでしょうか。倭人伝の行程記事もそのようなことじゃないかと思います。
695斜め読みさん:2011/02/28(月) 22:08:39.57
宮崎は西都原の近くに妻(ツマ=投馬)町って地名があるらしいですよ。
696横板に水:2011/02/28(月) 22:09:03.53
うっかりしました。694は僕のレスです。
697伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 22:10:38.92
>>656
>>ウィキで説明があるように里数と日数は同じ行程を再度説明し直したもの。

>これがよく分かりませんね。

(郡治〜狗邪韓、七千里)が里数表記、同じ所の日数表記が(郡治〜投馬国、水行二十日)
(狗邪韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国〜伊都国〜奴国、五千里)が里数表記、同じ所の日数表記が(投馬国〜邪馬壹国 、水行十日+陸行一日)です。
狗邪韓が投馬国の中心国邑で、奴国が邪馬壹国の中心国邑。
698横板に水:2011/02/28(月) 22:13:18.34
>>695
妻なら筑後にもありますよ。現在は下妻しか残っていないようですが、下妻があるのなら上妻もあったでしょう。
699横板に水:2011/02/28(月) 22:19:20.22
>>697
ええ〜つ!!ますます分からなくなりました。
投馬国の中に狗邪韓国があり、邪馬壹国の中に奴国があるのですか?
700伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 22:27:05.99
「可五萬餘戸」の投馬国と「可七萬餘戸」の邪馬壹国は国邑ではなく国邑の連合体。
韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもの。
5万戸、7万戸では国邑(都市国家)としては大きすぎる。
701斜め読みさん:2011/02/28(月) 22:32:06.38
東大の榎氏の斜行読みが提出されたのは戦後すぐのことで、
バブル期に至るまで九州説は熱心に研究されて来たので、
それなりの積み重ねはあるわけですね。
702横板に水:2011/02/28(月) 22:32:08.85
>>700
そうなんですか。でも、それなら何故倭人伝にそのように書かれなかったのでしょうかね。
703日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:44:53.53
とりあえず、短里を採用して、佐賀方面に出て、
一月80kmを採用すれば、方向も合い、
九州内に収まり、万二千余里にも収まる。
704伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 22:53:05.98
>>702
「可五萬餘戸」「可七萬餘戸」と書けば国邑ではなく国邑の連合体と分ると陳寿は考えたのだろう。
705斜め読みさん:2011/02/28(月) 22:57:16.53
投馬国=宮城県妻町説は本居宣長由来らしいですね。
本居くらいの人なら倭人伝は当たり前に斜行読みするのか
知らん。
706横板に水:2011/02/28(月) 23:00:50.99
>>704
そうですか。陳寿の誤算だった のでしょうね。多くの読者はそうは受けとらない でしょうから。
707斜め読みさん:2011/02/28(月) 23:04:56.12
>>703
バカ地図説でも説得力ありますよ。

日本列島は朝鮮半島の南にあるんだから遠くに行くには、
南か東くらいな感覚の時代ですから。
708横板に水:2011/02/28(月) 23:05:43.67
>>705
本居宣長は斜視だったという噂を聞いたような気がします。
今日はこの辺で失礼します。
709日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:07:17.99
>国邑(都市国家)としては大きすぎる。
都市国家などという考え方がまちがっているということですね。


710伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 23:09:25.97
>>706
多くの人が倭人伝の部分しか読まないから
「可五萬餘戸」「可七萬餘戸」と書いてあっても国邑の連合体と気づかないのでしょう。
711伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 23:14:33.74
>>709
對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、
斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、
不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、
支惟國、烏奴國は国邑(都市国家)ですね。
712斜め読みさん:2011/02/28(月) 23:16:07.30
我々は地図で世界を面で見る習慣がついているけど、
昔の人の空間感覚は点(里)と線(道)で構成されて
いたんではないか知らん。
713伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 23:22:18.89
>>712
道具が発達していなかった分だけ
よく考えなければならなかったから
現代人より昔の人の方が賢かったんじゃないかな。
714日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:25:10.64
>>694
>同じ表現様式の繰り返しは出来るだけ避けるのが読者にとって読み易い書き方のようです。
確かに表現に変化をつけるということはあるでしょう。しかし、その場合は、不弥国だけに
ちがった表現をするとか、表現方法を混在させることが多いように思います。
あなたも、「同じ表現様式の繰り返しは出来るだけ避ける」と言ってますね。ところが、伊
都国までとちがって、その後の奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国はいずれも同じ表現様式を
繰り返しています。表現方法に変化をつけて読みやすくするというのとは反対だと思いません
か? しかも、この国々に共通する方向、国、距離(日数)という順序は、東南、奴国に至る
には百里と読まれているように、その国までの距離(日数)を表示しているだけで、そこに進
んだということは書かれていません。伊都国までは、千余里にして対馬国に至る、とか進んだ
ことが示されているのに、急にそれが消える、なぜ進んだと書かないのか、そこを軽視しては
いけないと思います。
715日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:27:05.11
>>711
何を理由にそのように考えるの?
716日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:29:13.30
紙の上の地図、あるいはディスプレイ上の地図は高さ方向の情報に乏しい。
地続きであれば移動できると簡単に考えやすい。
実際に行けるところは思いの外少ない。

この立体感覚は、現代人のほうが退化しているかもしれない。
717伊都国王卑弥呼:2011/02/28(月) 23:40:51.94
>>715
對馬國、一大國、末盧國は比較的に位置や範囲が特定しやすい。
伊都國、奴國、不彌國は對馬國、一大國、末盧國と同じように記されている。
斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、
不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、
支惟國、烏奴國は国名しかないが国邑の連合体がこんなに多くはないだろう。
718日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:54:02.23
国邑ってどんなものをイメージしているのかな?
719伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 08:17:22.38
>>718
イメージとしては
国邑とは中心となる集落と周辺の農村地帯で構成されていて、
現代なら町〜市程ほどの広尾さを想定しています。
人口5千〜10万人。多くが1万人前後。
720日本@名無史さん:2011/03/01(火) 09:03:34.86
伊都國=筑前国 怡土郡、奴國=筑前国 那珂郡、不彌國=筑前国 糟屋郡
支惟國=肥前国 基肄郡、邪馬國=筑後国 八女郡、鬼奴國=肥後国 玉杵名郡
呼邑國=日向国 児湯郡、蘇奴國=肥後国 阿蘇郡、彌奴國=肥前国 三根郡(吉野ヶ里遺跡)
伊邪國=肥前国 松浦郡伊万里付近?(「広志」に「末盧國より西南海行一日、伊邪国の分国に至る」との記述あり
已百支國=?(五百箇御統珠の産地?)、斯馬國=肥前国 杵島郡
721伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 09:32:09.29
>>720
国邑の位置については
昔から多くの人が色々と案を出していますが
決定は困難ですね。
722日本@名無史さん:2011/03/01(火) 09:46:51.86
>>719
30国で埋まる広さはどのくらいかな?
723伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 10:12:45.16
>>722
九州の北半分もあれば十分に埋まりますね。
724日本@名無史さん:2011/03/01(火) 10:43:45.01
福岡県は28市12郡、佐賀県は10市6郡、長崎県は島を除いても10市4郡
あるよ。合計48市22郡。30国ではとても北半分は埋まらない。
725伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 10:59:44.97
そうですね、3世紀の国邑は市、郡、3個分くらいあったのかな。
末盧國も唐津市だけでなく、玄海町、伊万里市、松浦市付近までくあいかもね。
726伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 11:03:00.37
そうですね、3世紀の国邑は市、郡、3個分くらいでしょうか。
末盧國も唐津市だけでなく、玄海町、伊万里市、松浦市付近までくらい含むかもね。
727日本@名無史さん:2011/03/01(火) 11:06:40.13
そもそも国邑というのは、都市国家とは無関係で、国々があり、村々ができている
というだけの話だ。その村々がいくつ集まって一つの国になるのかはまったく別
の問題。奴国が二万戸といえば、それだけ広い国だったと考えればいいんだよ。
728伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 11:35:05.56
国邑というのは人口5千〜10万人。多くが1万人前後で
広さは郡、市、1〜3個ぐらい
でいいかい。
729日本@名無史さん:2011/03/01(火) 11:36:39.18
投馬国は五万戸、邪馬台国は七万戸だ。それも一つの国。
730伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 11:48:54.23
>>729
それはないな
五万戸、七万戸となると韓の馬韓や辰韓、弁韓なみの大きさ
国邑の連合体ですね。
「可五萬餘戸」「可七萬餘戸」と書いてあり
戸数に「可」が付いていますから、正確に数えたのではなく推測値です
投馬国や邪馬壹国は国邑の連合体だったので戸数を正確に数えられないほど広かったのです。
731伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 12:19:06.19
日本の人口で、ある程度信用出来そうなのは700年ごろの500万人から。
それより400年前は400万人くらいでしょうか。
この内九州分は1割から1割5分の40万〜60万人
邪馬壹国は「可七萬餘戸」で1戸5人として35万人
北部九州全体が邪馬壹国でないと計算が合わない。
732日本@名無史さん:2011/03/01(火) 12:20:01.14
昔の人は大雑把だからな
733日本@名無史さん:2011/03/01(火) 12:51:55.41
>戸数に「可」が付いていますから、正確に数えたのではなく推測値です
戸数を実際に数えることは不可能。徴税、徴兵のシステムを聞いて算出したものだろう。
例えば、10戸から1人徴兵しているとする。兵士が7千人いるならば七万戸だ。
およその数だから、可とつけているんだね。

>北部九州全体→35万人
九州全体を考えれば百万人にはなるね。九州全体を考えれば、 投馬国や邪馬壹国は国邑の連合体
などと無理な考え方をしなくてもすむよ。



734日本@名無史さん:2011/03/01(火) 13:03:07.64
>>652
伊都国王卑弥呼氏の登場でレベルアップしてる。

自画自賛ですか?
トンデモは
自画自賛が得意。
他人はほめてくれない。
735日本@名無史さん:2011/03/01(火) 13:10:39.32
人口論自体がたいがい荒っぽい話ではあるが、
単純に面積で考えるんじゃなくて、
弥生期なら、農業で人口が増加する時代なんだから
平野に相当人口が集中していると考えなければならない。
山林は相当広域でないと、人一人分のカロリーが取れない。

日本全体400万人も相当荒っぽい仮定だが、
それを前提にしても、九州、畿内の平野部に200万人位集中してもおかしくない。
後の100万くらいは他の平野部に点在し、後の100万は山間部といった感じだろう。

緻密に平野の面積を計測して、当時の面積を推定し、山林部の人口密度を
積算する必要があるが、そこまではまだやっていない。

後、九州と畿内の気候と生産力も推定しなければならないかな。
736日本@名無史さん:2011/03/01(火) 13:26:53.51
≫697
>(郡治〜狗邪韓、七千里)が里数表記、同じ所の日数表記が(郡治〜投馬国、水行二十日)
>(狗邪韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国〜伊都国〜奴国、五千里)が里数表記、同じ所の日数表記が(投馬国〜邪馬壹国 、水行十日+陸行一日)です。
>狗邪韓が投馬国の中心国邑で、奴国が邪馬壹国の中心国邑。

本当の馬鹿だったんだな。
737日本@名無史さん :2011/03/01(火) 13:46:01.19
>>730
高句麗が3万戸だから、実態に近いのは伊都の1千戸くらいだろう。
距離も人口も、西の大月氏国と同格とみなしたかったと解釈すべきことである。
738特別観覧席:2011/03/01(火) 14:40:32.65
>>730
>実態に近いのは伊都の1千戸くらいだろう。
   陳寿は魏略を参考にしているが、戸万余を修正している。
   その伊都国に歴代王がいたという。人口の基準はここ。

   「可五萬餘戸」「可七萬餘戸」
   松本清張氏の陰陽説を支持したい。

   何が何んでも、倭人伝に合わせる必要はないでしょう。
739特別観覧席:2011/03/01(火) 15:00:03.66
 訂正  >>730 → >>737

   支持します。
740横板に水:2011/03/01(火) 16:07:45.56
>>714
表現を変えるといっても、一国ごとに書き方を変えるというのもあるでしょうが、数カ国同じ表現が続いたからその後は違う書き方にするという
やり方もあるんじゃないでしょうか。どちらが文章としての美しさが得られるでしょうか。まあ、これは感覚の問題ですから、人により受けとり
方が違うでしょうね。

>しかも、この国々に共通する方向、国、距離(日数)という順序は、東南、奴国に至る には百里と読まれているように、その国までの距離
>(日数)を表示しているだけで、そこに進 んだということは書かれていません。

ということは、あなたは魏の使者は伊都国までは来たが奴国以降の国には進んでいないという認識でしょうか。
僕は、この行程記事のような記述は東夷伝の中でも倭だけに出てきますので、親魏倭王の印綬を持参して卑弥呼に授けた魏の使者の報告が原
資料となって書かれたものと推定しています。梯儁らは卑弥呼が都を置く邪馬台国に来た筈です。それが当時の中国の人の常識でしょう。

とすれば、南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月の記事が邪馬台国まで進んでいないことを示す書き方だとは思えません。
同じように方向、国、距離(日数)という順序で書かれた奴国、不彌国、投馬国にも魏の使者が訪れたのでしょう。

741日本@名無史さん:2011/03/01(火) 16:43:09.13
>あなたは魏の使者は伊都国までは来たが奴国以降の国には進んでいないという認識でしょうか。
私は、使者は投馬国や邪馬台国にも行ったと解釈しています。ただ、行程記事の書き方が伊都国
以降は、その国に進んだと書いてない。なぜ、進んだと書かないのか? そう考えを進め、放射式の
記載であると解釈したわけです。
742sss:2011/03/01(火) 16:57:54.05
>>741
郡使は、伊都国に留まっていて、不弥国までは行ったが、その先には行って
いないと思う。

根拠としては、伊都国について「郡使往來常所駐」の記述があること。

投馬国と邪馬台国への行程が里程から日程に変わっていること。

倭人伝に「皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」と書かれていて
文書や賜り物を女王のもとに伝送する、とあり、郡使が直接持って行ったと
は考えにくいこと。

不弥国の港で、女王のもとに舟で文書や品物が送られていくのを郡使が
見送っている姿が浮かんでくる。
743特別観覧席:2011/03/01(火) 17:09:17.50
>>740
>梯儁らは卑弥呼が都を置く邪馬台国に来た筈です。それが当時の中国の人の常識でしょう。

  卑弥呼は、公孫氏の権力下で安定していた。 その公孫氏が魏に滅ぼされた。
  卑弥呼は、引き続き王として認めてもらえるように難升米を派遣し朝献した。

  当時の立場として、卑弥呼が伊都国に出向き魏使を迎えるのが常識と考えます。
  私は、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国にも行ってないと思います。
  すべては、伊都国で事足りていた。

  「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十曰、陸行一月」から
    伊都国王 = 卑弥呼には反対です。
  
744特別観覧席:2011/03/01(火) 17:17:53.97
>>742
>不弥国の港で、女王のもとに舟で文書や品物が送られていくのを郡使が
見送っている姿が浮かんでくる。

  不彌国を、何処に比定されているのでしょうか?
  とても興味有ります。 よろしくお願いします。
745伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 17:30:41.37
>>742
郡使は、伊都国に留まっていて、不弥国までは行ったが、その先には行って
いないと思う。

其の通り。都国に留まって、不弥国までは行ったが、その先には行って
いない。

>不弥国の港で、女王のもとに舟で文書や品物が送られていくのを郡使が
見送っている姿が浮かんでくる。

「親魏倭王」の金印を授領し、魏から柵封を受けた卑弥呼が魏帝の使いに会わないとか、魏の使が柵封した王に会わずに帰るなどありえない。
倭人伝にも「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛」
と卑弥呼や卑弥呼の都について詳しい説明があり、使者は卑弥呼の都まで行って卑弥呼本人と会っているのは明らかである。
伊都国に留まって、不弥国までしかいっていない使者が卑弥呼の都で卑弥呼と会っている、
つまり伊都国が邪馬壹國の都であったのである。
746伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 17:33:53.54
>>743
>当時の立場として、卑弥呼が伊都国に出向き魏使を迎えるのが常識と考えます。

「自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入」
卑弥呼は引きこもりなんですよ。
747特別観覧席:2011/03/01(火) 17:38:38.32
>>746
>卑弥呼は引きこもりなんですよ。

  座布団1枚!  お〜い、山田く〜ん。
748伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 18:13:31.18
>>737
>高句麗が3万戸だから、実態に近いのは伊都の1千戸くらいだろう。

当時の高句麗はまだ大した勢力ではない。
建国した場所も満州だから、北海道なみの人口密度。
高句麗の3万戸と比べても倭人伝の倭の国々の戸数は妥当。
倭人伝を無視しては、アホの畿内説論者と同じになるよ。
749日本@名無史さん :2011/03/01(火) 18:21:42.75
>>748
カン丘興と死闘を繰り広げ、
魏としては完全にトドメを刺せなかったのが原因で、逆に半島から追いやられ墓穴を掘ったわけだ。
750横板に水:2011/03/01(火) 18:33:24.20
>>743
>卑弥呼は、公孫氏の権力下で安定していた。 その公孫氏が魏に滅ぼされた。
>卑弥呼は、引き続き王として認めてもらえるように難升米を派遣し朝献した。

卑弥呼は公孫氏に王として認めてもらって保護されていたのですか?根拠はありますか?

>当時の立場として、卑弥呼が伊都国に出向き魏使を迎えるのが常識と考えます。

伊都国まで出向いて迎えるのは丁重でいいですが、特にそんなことをしなくても難升米に(末盧国なり、あるいは狗邪韓国でもいいですが)出迎え
させて、倭国内を警護しながら邪馬台国の都まで案内させればいいでしょう。伊都国などではなく都で厚くおもてなしをするのです。

また、魏とすれば、これは伊作さんが強調されていたように、初めて倭国の実情を知る機会なのです。伊都国に留まっただけで帰ってはいけません。
女王の都はもちろんのこと、出来る限りの国を訪れて情報を持って帰ったことでしょう。
751日本@名無史さん:2011/03/01(火) 19:08:54.19
てか、伊都国で帰っちゃったとしたら、
責任者は、皇帝陛下に何と報告書を出すんだ?
752特別観覧席:2011/03/01(火) 19:24:12.50
>>750
>卑弥呼は公孫氏に王として認めてもらって保護されていたのですか?根拠はありますか?

  私にはありませんが、時代の流れからそう考えるのが普通でしょ。
  陳寿は、無駄は削除。意味が通じれば圧縮。 【 簡素 】です。

>倭国内を警護しながら邪馬台国の都まで案内させればいいでしょう

  水行十曰、陸行一月。 魏使が行くのですか? 帰りは、陸行一月、 水行十曰

>これは伊作さんが強調されていたように、初めて倭国の実情を知る機会なのです。
 伊都国に留まっただけで帰ってはいけません。

>>751
  魏使でなくて下使の役目でしょう。 魏使は舟を降りてます。
  
753日本@名無史さん:2011/03/01(火) 19:51:38.90
素人が見て、記録が明らかに変化しているように見えるのは、
ウミ国までの里程表記から、投馬国、邪馬台国の水行陸行表記に
変わるところだと思うな。

でも、その先に魏使が行ったか行ってないかは、根拠がないからわからない。

少なくとも漢倭奴国王印があることから見て、奴国までは何度か使者が到達した場所で
、情報は多かっただろう。その一つ先のウミ国までは情報があったとも考えられる。

その先は魏使に取って未経験の場所なのではないだろうか。
そこから先は正確に計測されておらず、水行陸行表記にしか出来なかった
と考えられる。

だが、いずれにしても、実際にそこを魏使が通ったか通ってないかは、また別の根拠がいる。
754特別観覧席:2011/03/01(火) 20:25:34.99
>>753
>いずれにしても、実際にそこを魏使が通ったか通ってないかは、また別の根拠がいる。

  しかり!

ところで、不彌國は、ウミ国と読むんですか?

素人愛好家は、史料が極端に少ない。
いろんな見解を聞きたいものです。
755横板に水:2011/03/01(火) 21:55:54.81
>>753
>魏使が行ったか行ってないかは、根拠がないからわからない。

倭人伝には「自女王國以北、其戸數道里可得略載、
」と記述されています。これは魏使が実際に訪れて自分の目で
確かめた国とそうでない国のことを述べたものと考えられます。魏使の任務は印綬などの皇帝からの下賜品を卑弥呼に授けることの他に、
倭国の実情を探ることです。倭国の情報が伝聞ですむものなら「今使譯所通三十國」ですから使譯からの聞き取りでいいでしょう。

「其戸數道里可得略載」に該当するのは對海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国の8国だけです。残りの21国については
「其餘旁國遠絶、不可得詳」として国名だけしか書かれていません。使譯に聞けば官の名前や戸数など分かるであろうのに不可得詳ですから、魏使が
直接確かめていないということを示しています。ひるがえって、其戸數道里可得略載とする8国については魏使が直接(自分の目で)確かめたことを
示します。

魏使にしても、伝聞によるあやふやな情報を持ち帰って間違いだったということになったら大変です。また、自分が最後の使者ではなく今後も別の
使者が倭国を訪れるかも知れないのですから、嘘はつけません。いい加減な仕事では出世は望めませんし、下手すれば首が飛ぶのです。

以上のように、對海国から邪馬台国までの8ヶ国については魏使が訪れて自分の目で確かめたと言えるのです。

756伊都国王卑弥呼:2011/03/01(火) 22:05:24.08
邪馬壹國が卑弥呼の都で魏使が訪れていたとすると、
邪馬壹國についての記述が
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
だけなのは少なすぎる。
757sss:2011/03/01(火) 22:17:16.04
>>744
不弥国は佐賀県の諸富町と思う。つまり、不弥国からの水行は有明海。
>>745
そういうのは伝聞でもいいわけだし。それに、郡使が卑弥呼に会ったような
具体的な記録がない。これは郡使にとってはクライマックスのはずで、もし
会ったとしたら、詳しい記録が残っていてもいいと思う。
758日本@名無史さん:2011/03/01(火) 22:17:52.72
>>756
そこは行程・官名を記述している段落
759日本@名無史さん:2011/03/01(火) 22:27:15.79
>>756
あとのいわゆる風俗記事は、そのほとんどが邪馬台国で見聞した事実を書いた
ものだろう。
760sss:2011/03/01(火) 22:30:40.40
>>754
不弥国を宇美町に比定したのはやっぱり新井白石。
伊都国を怡土に、奴国を那の津に比定してこれが定説のようになった以上、
不弥国もそれに準じたんだろうな。奴国から東百里というのも理由の一つかも。

日本書紀だったか、応神天皇が生まれたから宇美と名づけられたという記述も
あったような。
761伊作:2011/03/01(火) 22:47:01.22
755  横板に水

皇帝の詔書と親魏倭王の金印は、皇帝代理の印しである「節」を与えられた使節にしかできない。
彼らは女王の都する所までいって女王に接見し、厳粛な授与儀式をを執行して、
卑弥呼女王に「親魏倭王となす」という皇帝の詔書と親魏倭王の金印を卑弥呼に渡している。
それが「拝假」という言葉だよ。
この拝假をできるのは、使節と、皇帝が特別に承制(承認許可)した人間に限られる。
歴史的にみても、後漢を興すことになる光武帝、魏の皇祖になることになる曹操、
例外的にトウ禹やトウケ艾の例もあるが、原則は皇帝と皇帝代理の使節にしかできない。

みなさん・失礼だが。
中国語で書かれた中国の歴史書のいう所を、日本的に「空想的解釈」をしすぎる。
誰だい。使節は伊都国どまりだの、小使いが行ったのと。バカバカしい。

ついでにたとえば。
3世紀の中国の歴史家が書いた国邑とは、(漢代以降の)諸侯の領有地を意味する。
倭国でいえば、倭国王を頂点とした豪族の領有地というところだろう。
誰だい。わけの分からんことを、したり顔で垂れてるのは。

さらに例えば天子・皇帝の詔書は、ややもすれば4人担ぎの輿に乗ってくる。
皇帝の贈り物には、絶対の威厳と信頼を裏付ける皇帝の封印が押されている。
その封印を開けることができるのは贈られた本人だけだ。
贈り物には荷札がついているし、贈り物一覧の目録がついてくる。
荷札と一覧目録を称号するのが大率の役目であって、
彼が荷物あけて中身を確認したわけではない。

歴史知らずの認識不足による「思いつき討論」は見るに耐えんぞ。
762伊作:2011/03/01(火) 22:49:26.31
757sssさん。教えてあげなさい。

↓↓↓↓遠浅干潟の海は、沿岸航行南下は不可能だってね。
>>744 不弥国からの水行は有明海。
763伊作:2011/03/01(火) 23:00:23.11
●天才語録

呉の孫権が公孫淵を燕王に封じようとしたときに編成した封爵使節団は、
4人の使節代表に400人の随行員と600人の交易商人による1000人規模だった。
しかも、九錫のほかに封爵儀式に必要なものを一切を積載している。
(これが、護衛兵団を含む員数かどうかは不明である)。

魏はどうだったか。
藩外の倭人国家を、中国歴史上の初訪問・初調査だ。
外交使節というものはそもそも、交流・交渉のほかに、視察・偵察・調査など、
さまざまな複合目的を負っているものだ。

大帝国がメンツをかけて展開した倭国調査を、激安温泉巡りの取材クルーよろしく、
5指を超える程度の数のスタッフによる片手間仕事だと思ってるかい。ちみたち
764sss:2011/03/01(火) 23:10:41.01
>>762
多分、諸富町は筑後川沿いにあるから、船の出入りは比較的、容易
だったんじゃないかな。だから、古代から港町だった。

数年前に、熊本から島原へのフェリーに乗ったが、有明海は想像以上に
でかかった。干潟があるのも海岸の一部ではないかな。
カモメがフェリーのあとをずっと付いてくる。えびせんを投げると
空中キャッチ。風は強くても、波は穏やかでけっこう快適な旅だった。
765日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:19:09.65
有明海は干満の差が激しいから、川をしばらく遡ったところに港をつくっていた
そうだ。もちろん、南水行は可能。ただし、日に数時間とか時間が限られていた。
766日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:25:05.80
大川と諸富町の昇開橋のあたりに、徐福上陸の地、ってのがあった。
干潟はたしかに上陸できないが、筑後川なら船をつけるのは可能ではないかと思う。

また、筑後川でも河口付近は干潟があって、船をつけられない時間帯もあるが、
久留米付近まで上がれば、常時係留も可能だ。

あと、当然のことながら、満潮時はどこでも相当の巨船を
付けることが可能。日本有数の干満の大きさは伊達じゃない。
767日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:26:27.58
>>厳粛な授与儀式
使節は卑弥呼を前にして、こんな風に唱えただろうな
「皇帝曰倭王
 制 詔親魏倭王卑弥呼
 帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・汝其綏撫種人勉為孝順
                      詔曰件如」
768横板に水:2011/03/01(火) 23:26:49.61
>>761
>755  横板に水

伊作さんは僕に何が言いたいのですか?>>755は魏使が伊都国どまりではなく邪馬台国へ行ったということの根拠として挙げたものですが、
何か具合の悪いことでもありますか?

761で伊作さんが言われていることは魏使(使節)が卑弥呼に会ったという根拠でしょうが、それが伊都国でのことであったか、邪馬台国の
ことであったかには言及していませんね。僕はその場所について邪馬台国であると考えられる根拠を述べているのです。

今日はもう遅いのでこれで失礼します。
769日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:27:18.23
ついでに、筑後川なら干潮時でも十分な深さと水量があるので
常時通行は可能。
770日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:33:08.87
魏使の報告が倭人伝にそのまま採用されているとは考えにくいね。魏使は邪馬台国まで来ただろう。それが職責だから。
おそらく魏の当時の行動パターンを考えれば数百人規模の軍勢で、大船で来ただろう。そして軍規によって素早く行動した。
771伊作:2011/03/01(火) 23:50:14.51
●公孫氏と倭国の接点
信頼のおけるオフィシャル記録のいうところでは、倭国と公孫氏との接点はどこにも見られない。
そもそも、倭人の外交対象は1世紀から一貫して中原王朝である。
倭人は、火事場泥棒のような太守がりの自称燕王を相手にするほど安くはない。
そんなことをするよりも、鎖国状態で籠っていたほうがましなのである。
(事実、中原が定まらなかった期間は、呉・魏・公孫氏ともコンタクトしていないし、
晋以降の混乱期も中国とはコンタクトしていない)。

●公孫氏の残党が海を渡って逃れた可能性
司馬懿軍に押された公孫淵軍は遼水から撤退して襄平に立てこもり完全に包囲されてしまう。
このとき長雨で濁流にみまわれ、平地は数尺もの水で溢れた。
城中の公孫淵軍は洪水を良いことに安心しきっていて、
まだまだ、薪を切り出したり牛馬を飼い養ったりのんびりしていた。
逃亡しようという将兵はいなかったし、いたところで魏軍の包囲網を突破することは不可能だった。
かくして公孫淵軍は、城を脱出するほどの切迫した自覚がないうちに攻め滅ぼされている。

その後の司馬懿の公孫氏勢力誅滅処分は徹底しており、公孫氏の一族郎党を皆殺しにし、
公孫淵が任命した公卿以下の諸官を誅殺し、2000人あまりの諸将を死罪にした。
さらに、襄平城中の住民のうち15歳以上の男子7000人あまりを皆殺しにしている。
こうした歴史書の証言によれば、公孫氏一族やその勢力の残党あるいは敗残・逃亡の将兵らが、
わずかでも㐮平から逃れ出た可能性はない。

夢物語を勝手につくらないように。
772日本@名無史さん:2011/03/01(火) 23:50:32.87
>そして軍規によって素早く行動した。

梯儁らの一行が数百人であった可能性は高い。だが、彼ら魏関係の人間だけでは初めての土地である倭国を素早く動くことは不可能だ。
(恐らく難升米ら)倭国側の人間が先導したであろう。梯儁らの任務(印綬や下賜品などの授与、倭国の探索などの諜報活動)を考えれば、
中国大陸における進軍のような動きである筈はない。国情視察と魏の威光を示すための示威行動を兼ねての行進となった筈である。

さらに、数百人の大人数の移動であり、使節の旅行である。野宿など考えられない。しかるべき豪族の集落において食事や宿泊を行いながらの
行進となる。一つの集落に一日という具合にして行進すれば一月かかっても不思議ではない。筑後川などの河川や有明海を船で移動すれば、20
+10日くらいかかるのは当然のことである。
773伊作:2011/03/01(火) 23:56:56.30
770 >魏使の報告が倭人伝にそのまま採用されているとは考えにくいね。

絶対専制時代に国家の文化事業としての意義が高かった東方調査において、
帝国の役人としてそれなりの使命をおびてやってきた各調査官と、
これに基づいて「志」を編纂した歴史家と。

どっちかがてキトーな仕事をしたってことかい? それなら歴史錯誤。
「歴史書の歴史」が分かっていない。
774伊作:2011/03/01(火) 23:59:35.00
つづき。


もう一度提示するよ。

●中国の古代地理学
「軍事と地理は密接な関係にあり、中国古代の軍事的地理知識の累積は豊富である」。(中国文化研究院)
「軍事的地理把握の要件には、政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、人口、河川等がある」。(中国文化研究院)

『倭人伝』の内容も、ほぼこの要件に沿っている。
775日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:03:22.86
中国はすっと呆けて未だ日本晒してない情報が在るってこと?
776日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:07:17.43
>魏使の報告が倭人伝にそのまま採用されているとは考えにくいね。

伊作氏の言うとおりだが、もちろん倭人伝は史書の一部であるから、軍事機密に関するようなことをそのまま載せるわけにはゆかない。
魏使の報告が「そのまま」書かれる訳はない。史書の編纂者が取捨選択して書いているだろう。だからと言って、魏使の報告に基づかな
いで書かれたものだとは言えない。
777伊作:2011/03/02(水) 00:17:00.22
764 :sss
>多分、諸富町は筑後川沿いにあるから、船の出入りは比較的、容易 だったんじゃないかな。だから、古代から港町だった。
諸富津・浮盃新津・寺井津は弥生の良港として機能していたようですよ。

>数年前に、熊本から島原へのフェリーに乗ったが、
弥生の・虫食い状態の天然水路と無数の浮き島を想定した上での海岸線を意識した話で。
現在の状態で語っては不正確さを免れないでしょう。

766  
>日本有数の干満の大きさは伊達じゃない。
徐福の「浮盃の逸話」とて、満潮まで待って上陸した様子だね。
778日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:22:48.59
>>776
書籍に残らないのであれば、軍事に関する貴重な資料も散逸する事になる。
意味ないじゃ無いか。
それに、倭人伝は「魏史」の一部なんだよ、次の王朝である西晋が作った前王朝に関する歴史書だ。
魏にとっては東方は軍事機密であっても、西晋にとってはそうでないかも知れない。
その辺を踏まえて言っているんですか?
779伊作:2011/03/02(水) 00:23:49.83
776
>軍事機密に関するようなことをそのまま載せるわけにはゆかない。
中国史上初の大海の中の島とひこに住む倭人の発見は、
人類学的はっけんであり、地理学的発見でもあり、大偉業ですよ。
しかも友好国だ。天子政府の文化事業としての意義のほうが高い。

>魏使の報告が「そのまま」書かれる訳はない。
魏が滅びたあと晋代に書かれた歴史書が、魏代の「軍事機密でもない軍事機密」を隠してどうするんですか。

>史書の編纂者が取捨選択して書いているだろう。
こういう意見をいう素人が本当に多いが、
「歴史書の書かれ方」と「歴史書の歴史」をまるでバカにした発言だね。
自分の解釈に合わせて倭人伝に責任転嫁するのもいいが、
歴史知らずがいうことだよ。
780日本@名無史さん:2011/03/02(水) 06:23:42.30
文献批判の仕方を知らない奴が多すぎるな。
妄想をいくら述べてもだめだよ。
781伊都国王卑弥呼:2011/03/02(水) 09:16:05.43
伊作さんは伊都国の王と親魏倭王卑弥呼の関係をどのように考えているのでしょうか?
また、行程記述では目的地までの距離(里)と時間(日)の両方の説明が必要だとの考えのようですが
投馬国、邪馬壹国までの里数、日数はどのようになるのでよう。
782伊作:2011/03/02(水) 09:26:57.54
781  伊都国王卑弥呼
>伊都国の王と親魏倭王卑弥呼の関係をどのように考えているのでしょうか?

卑弥呼の時代に伊都国に王はいない。厳然たる事実だよ。
もう何度も、文章構成の分析も含めて論理的に説明した。
どだい。たかだか1000戸で、どんな「王がいる国家体制」ができるというんだね。
こういえば、魏略から万余戸の記録を拝借してくるかね。
783伊作:2011/03/02(水) 09:28:07.20
末盧を唐津あたりとして、そこから東南に500里行くことには賛成。
●伊都国小城説
伊都を小城市あたりにするならば、
唐津〜小城間の5分の1の距離を東南に歩いた所が奴で、
そこから東へ、同じく5分の1の距離にあるのが不弥だ。
これでは、大方のにはまずかろう。

●伊都国佐賀説
伊都を佐賀市あたりにするならば、
唐津〜佐賀間の5分の1の距離を東南に歩いた所が奴で、
そこから東へ、同じく5分の1の距離にあるのが不弥だ。
小細工なしに歩けば、誰しも同じような所にたどりつく。

●バカづら下げた続け読み
不弥国から水行20日もかけてどへこへ行く。投馬国はどこか。
倭人伝がこんなバカげた書き方をすると思うかい?
そこからまた水行10日と陸行30日で邪馬台国てかい。それはどこか。
倭人伝がこんなバカげた書き方をすると思うかい?

こんな読み方で、八女だ、久留米だ朝倉・甘木だと、
九州北部に全部押し込めようとすれば、畿内説と同じ小細工を弄するのは必定。
結局は見苦しい邪馬台国論になってしまうのだ。

「都合勝手に読むための」見苦しい布石として、
「訪問者が方角を間違えた」「報告記録が間違えた」なんてのが一時流行った。
国際使節外交の上ににおいて、初訪問の使節を迎えるのに、
少なくとも末盧から、使節の先導を兼ねた倭国の掌客(接待担当官吏)が同行している。
こうした政治上の常識をこの天才が力説してきたから、最近は、
「倭人伝の間違い」「編纂者の勘違い」「適当に書いた」に切り替えてきた。
倭人伝へ責任転嫁法。昨晩も同様の投稿があったばかりだ。

つづくし。
784伊作:2011/03/02(水) 09:30:03.00
つづき。

●ほんとうの読み方
投馬国までの水行20日と邪馬台国までの水行10日と陸行30日は
帯方郡からの総行程と総日程である。
このことも、文章構成の構造分析を交えて明確に提示したよ。

「郡から女王の都する所までの総距離は水行10000余里を含む12000余里」。
「郡から女王の都する所までの総行程と日程は水行10日と陸行30日」。

この場合、末盧から邪馬台国まで陸路2000里を30日で歩くことなる。
ここまで丁寧に説明されたところで、不弥から残るは1300里だと「はた」と気づく。
そう。邪馬台国は、諸君がそれぞれに比定する唐津〜小城間の2.6倍の距離の所にある。
この末盧から伊都までの距離を基準に検算するといい。

真に倭人伝の記録をトレースしてたどれば、落ち着くところは似たようなもんさ。
あとは、そこに何があって、かつては何があったのかを探すこと。
そうなると、ほとんど北部半分にしか目がない諸君が疎かにしてきた「九州の歴史の南半分」が鍵になる。
中部九州には何があるか。
ここを「避けようとする」エゴが勝る限り、九州の本当の歴史は見えてはこない。

邪馬台国九州説も、畿内説にコケにされ続けるだけの「願望空論」に終わるのだよ。
785日本@名無史さん:2011/03/02(水) 09:52:12.78
最初はまともに考えているようだが、途中からトンデモに入っていくのが惜しいな。
伊都国が佐賀ならば、そこは有明海沿岸だ。そこから先に、奴国だ、不弥国だとうろうろ
する必要はない。それに、水行三十日、陸行一月ではいくらなんでも九州の中に止まらな
い。伊都国から放射式であることを理解すれば、全て解決だよ。
786伊作:2011/03/02(水) 09:54:21.14
●伊都は「いつ」と読むべき。
と、論理的背景をもって唱えたのはこの天才だ。

結論だけをいえば、都を「と」と読むのは唐音が入ってきた8世紀末〜9世紀以降だろう。
いわば、「比較的阿多にしい日本語読み」である。

百済からの亡命帰化漢人の手になる『日本書紀』も、都をことごとく「つ」と読ませるし、
怡土の語源となった「いと」には伊覩と、都(つ)とはぜんぜん違う文字を使っている。
日本の地名・人名も都はことごとく「つ」だし、
筑紫を地元ではなまって「つくし」ともいうが、地元の古い風土記が「都久志」と書いている。
そして、これも俺が提示したことだが、7世の隋書も対馬を「都斯麻」と書いている。

誰だったか、「西都に妻という地名がある」と書いていたが、都万が正しい。
これも「つま」と読む。

●ぼんくら日本人の邪馬台国は自在で面白い。

「つ」と読むべき都を「と」と読むかと思えば、
「とうま」と読むべき投馬を「つま」と読んでは、妻や都万を投馬にしてしまう。

笑っちゃおられない惨憺たる現象だ。
787伊作:2011/03/02(水) 10:50:29.86
785
>伊都国が佐賀ならば、そこは有明海沿岸だ。
そうだ。ちゃんと、弥生遺跡がある所を通っている。

>そこから先に、奴国だ、不弥国だとうろうろ する必要はない。
みな、邪馬台国ルヘーと上にある経由ポイントだ。

>水行三十日、陸行一月ではいくらなんでも九州の中に止まらな い。
バカづらさげた続け読みをするとそうなる。
俺はそういうバカげたことはしないから大丈夫。
そういうバカげた読みをしておいて、これを否定につかう論拠造作にも釣られない。

>伊都国から放射式であることを理解すれば、全て解決だよ。
きみの論法でいえば、 そこからだって
「水行三十日、陸行一月ではいくらなんでも九州の中に止まらない」だろう。
なにしろ、伊都国から先の水行三十日、陸行一月と不弥国から先の水行三十日、陸行一月では、
たかだかむ200里しか違わんぞ。

自分で自分のゆってることが分かってるのかね。
788日本@名無史さん:2011/03/02(水) 10:54:44.11
分かってないな。伊都国から放射式であるということは、伊都国から邪馬台国
までは、水行十日陸行一月だけだってことだ。
順次式と比べれば、完全に水行二十日分短くなる。もちろん、更に200里もな。
789日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:07:07.03
一月行千里なら九州内に収まる。
順次式でOK
790日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:12:37.52
一月歩いたり、船に乗ってる間の
衣食住はどんなものだったのでしょう
791日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:19:49.27
本当に一月歩いたり船に乗ったりすれば、必ず途中で補給が必要。
補給する場所も、何も無いところでなく、ある程度の集落じゃなければ
補給はできない。

いまさらながらだが、松浦に上陸してから、500里以上の記録はない事に気づいた。
それ以上は必ずどこかに立ち寄って補給しなければならないということだろう。
792日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:37:33.85
>書籍に残らないのであれば、軍事に関する貴重な資料も散逸する事になる。
>意味ないじゃ無いか。

王朝の書庫に記録として残されるのだ。書籍として纏められたものがあったかもしれないが、史書に軍事機密など書くことはありえない。
戦の記録などは歴史として史書に載せられるが、それは軍事機密には属さない。既に人に知られたことだからだ。
魏使が初めて倭国を訪れて調査した内容の内、他国に知られたくないことは機密事項として秘められる。

>魏が滅びたあと晋代に書かれた歴史書が、魏代の「軍事機密でもない軍事機密」を隠してどうするんですか。

陳寿の倭人伝は晋の時代に書かれたものだ。晋は魏とは違うと言っても、魏の功臣であった司馬氏が(簒奪に近いが)引き継いだ国だ。
魏代の軍事機密であっても晋にとって機密であるものはあったであろう。
史書編纂時において軍事機密であるものは史書には書かれないということだが、実際にも、倭人伝には軍事機密と見られることは書かれ
ていないだろ。

「歴史知らずがいうことだよ。」などと思い上がったことを言うものではない。自分の考えが絶対に正しいと思っているのは愚かなことだ。
793日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:37:41.21
一大率の配下が案内し、手配して行くんだろうな。案内係は先に伝令を走らせて
豪族に受け入れ準備をさせる。その準備ができたところへ案内するんだ。舟の場合
も同じ。夜は上陸して豪族のところに宿泊。
豪族がいない区間は、野営もあるだろう。最低限の食料は運んでいるだろうが、狩
りをして調達ということもあるだろうな。
当然のことながら毎日強行軍で歩くわけではない。毎日進んでいたら受け入れ態勢
を整えることもできない。2日進んで1日休みぐらいのペースでゆっくり進むとい
うことだろう。
だから、陸行一月といったところで、実際に進むのは20日ぐらいと考えて計算
すればよい。
794日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:45:29.64
女王国に向かった魏の使者は
グループのリーダークラス、
情報を見聞し記録する人、
下賜する物(金印、旗、銅鏡等)を持つ人、
護衛等で
20人位ですかね
795日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:49:47.13
そうだろうな。私もその程度と思う。せいぜい30人までだろう。
しかし、案内係が10人くらいはつくだろう。倭の小舟で案内するときは、
5〜10艘ぐらいは必要だろう。
796日本@名無史さん:2011/03/02(水) 11:55:05.02
伊作氏は水行1日を千里としているな。郡から狗邪韓国までの七千餘里は水行で7日、末盧国までの3千里を3日として合わせて10日だ。
これで水行十日陸行一月のうちの水行十日が説明できる。一見合理的だが、

投馬国の水行二十日はどうなるのかな。これを伊作流に距離に直したら2万里だ。郡から末盧国までの距離の2倍になる。
この投馬國を女王国以北のどこに収めることができるのかな?
797日本@名無史さん:2011/03/02(水) 12:04:33.66
総行程、万二千余里
里程で記録されている距離は10700里
残りは1300余里

一月行千里なら、そう外れた距離にならない。
798日本@名無史さん:2011/03/02(水) 12:53:13.41
水行1日を千里などというのは、何の根拠もない。思いつきだけではだめだ。
799母ちゃん:2011/03/02(水) 13:03:33.12
こら伊作
あんたま〜だわからんとか。子供んときからわがままで、学校じゃともだちの言うこつは聞かんで、
わが言いたかこつばかりゆうて喧嘩ば〜っかりして、
母ちゃんはなんべん先生に呼び出されてはずかしかったかわからんばい。ホームルームがでけんちゅうて
先生が嘆いとらした。あんころとち〜っとも変わっとらんじゃなかね。

とうちゃん!あんたが悪かとよ。あん日、あん時、とうちゃんが酒呑まんでおったらこげな馬鹿息子は
生まれちょらんかったんに。なんね。仏壇の上でにやにやして。も〜
800日本@名無史さん:2011/03/02(水) 13:10:52.34
公里千里なら435キロ
これを一月の距離として、一日あたり14.5キロ
平原を進むなら、妥当な距離

これを短里換算に当てはめたのが
倭人伝の一月行80キロ前後

もちろん、里程で書けずに月日で書いたのは、
正確な里程が計測できなかったということなので
多少の誤差はある。しかし、倍は違わないだろう。
801伊作:2011/03/02(水) 13:19:08.54
●まとめてぽい。

788
>伊都国から邪馬台国 までは、水行十日陸行一月だけだってことだ。
倭人伝の文章構造が読めていないのか、予断があって倭人伝そう読んでいるだけだ。

792
>倭人伝には軍事機密と見られることは書かれ ていないだろ。
まあな。どうやって軍事支援してどう戦い、どういう結末になったかは具体的に書いていない。軍事機密というならば、むしろこっちのほうだろう。
さすが大人の国だ。恩着せがましいことは一切書いてない。だから、歴史も行間も読めないのがいろいろと空想並べる。
「軍事機密」などという造語が一人歩きしているようだが、俺は地理情報が軍事機密などとらゆったおぼえはない。地理情報は軍事情報に入る要素だといった。ずいぶん話が違ってるぜ。

793
>陸行一月といったところで、実際に進むのは20日ぐらいと考えて計算
すればよい。
司馬懿の洛陽から遼東までの行軍をみると、100日に20日の休息で、5勤1休のパターンになっている。ただし、使節団の場合は経由国での歓待休日もあろうから、見てきたようなことをいうわけにはいかない。
802伊作:2011/03/02(水) 13:25:52.58
●まとめてぽい。
796
>投馬国の水行二十日はどうなるのかな。
魏の使節団船は、最新鋭の帆つき櫂つき楼船だろう。これは、航路を熟知した水先案内人を雇っているはずだから、星空眺めて昼夜航行が可能だ。
ひるがえって、投馬国までの水行日程は倭人の話なんだろうから、倭人による手漕ぎ倭舟の日程だ。
浅い思考深度で、両者を同じ土俵で比較してどうするかい。

>伊作流に距離に直したら2万里だ。
風邪待ち・潮待ち・天候待ちで昼間出港して夕方到着したも1日航海だぜ。
1日航海1000里の「距離ではない航海符牒」をそのまんましゼッサイの距離に換算してどうするかい。

797
>一月行千里なら、そう外れた距離にならない。
誰がそんなことをゆってるんだい。

798
>水行1日を千里などというのは、何の根拠もない。思いつきだけではだめだ。
海路距離をどうやって測る。実測できないものをどうやって表記する?
計測も表記もできない海路距離を1000里単位、もしくは日月単位で記録している実例なら山ほどあるぜ。
俺はきちんとした論拠を提示してゆってることだ。
事実無根。己の認識不足に基づく誹謗をする気か?

>何の根拠もない。
何の根拠もないのお前のほうだろが。無礼者
803伊作:2011/03/02(水) 13:26:50.52
●まとめてぽい。
邪馬台国を九州北部に押し込めるために、
どれだけの見苦しい論を垂れてきたか。

伊都国偏重論を筆頭に、倭人伝の解釈を曲げる・間違いとする。
この手の手法に頼るものは、みな予断あっての所行だろが。

邪馬台国を九州北部に押し込める輩の中で、
後ろめたさを自覚しはていない奴は本当のバカだけだ。

要するに、史実を究明しようという高尚な意思などなく、
邪馬台国を好みの場所に持って行くために、
倭人伝を好きなように扱っているにすぎない。

ここでやりとりされている内容の圧倒的大多数には、
そうした矮小かつ下卑た根性がのぞく。
804日本@名無史さん:2011/03/02(水) 13:27:29.53
>倭人伝の文章構造が読めていないのか、予断があって倭人伝そう読んでいるだけだ。
何をどう思い込んでいるのか知らないが、放射式に読めば伊都国から邪馬台国までは
水行十日陸行一月のみだ。勉強し直せ。

805日本@名無史さん:2011/03/02(水) 13:32:30.64
>>799
お前ん血ば引いとるけんだろたい。
おら、いつもぴしゃ〜りしとるもん。
大体あん時はじんもまうごつよかて喜びよったたい。
806伊作:2011/03/02(水) 13:37:44.82
●郡使の常宿

隋の使節がきたとき、筑紫に待機させて難波津の高麗館の上に迎賓館をつくる。
完成したあと隋の使節団はここを定宿としてとどまる。
(数ヵ月滞在したが、入京して倭国王と接見したのは2度だけだ)
唐から白村江の戦後処理交渉にやってきた連中は、筑紫を定宿として大和と交渉する。
(戦争当事国への戦後処理訪問とあって、さすがに護衛の兵団をともなってやってきたが、倭国は彼らが滞在するにふさわしく、筑紫都督府を置いた)。

外来の使節が常宿にするからと、必ずしもそこが重要な拠点とは限らない。
伊都国など、邪馬台国ルート上にある、たかだか1000戸の集落だ。
一大率など、卑弥呼関係の文物の荷札と目録の照合点検をしたにすぎない。

このあたりを過大に評価してるから、歴史を見失うのだ。
807伊作:2011/03/02(水) 13:44:51.65
804
>放射式に読めば
だれが決定したんだ?
倭人伝の文章構造が読めれば、そうは読まない。
文才のない理系思考とか、考古学者が文献に口を出すと、
そういうバカげたパズル読みになるんだ。
放射式に気づいた学者も、
もう一歩進んで文法の変化に気づいていればよかったろうに。

方角・行程手段・国名・距離が方角・国名・行程手段・日程に変わっていれば、
この説明手順の違いは文法の違いだ。
この違いをさんすうでいえば、数式の違いだ。
数式が違えば出てくる回答も自ずと違う。こういえばわかるだろ

これが。俺のいう文章構成・文章構造の違いだ。


なーにが放射式じゃい。
808日本@名無史さん:2011/03/02(水) 13:56:15.70
論理の筋道を忘れたみたいだな。放射式の話をしていたんだぜ。
君がどんな説をとるのかを話していたわけではない。
809日本@名無史さん:2011/03/02(水) 13:56:50.49
ごっちゃになって伊作氏も誰が相手かわからなくなっていそうなので
昨夜から自分の書いたレスのアンカーを書いておく。

>766、>789、>791、>797、>800
これ以外は自分ではない。

本業じゃなく、他所様に教えるものなど持ち合わせていないので、
コテハンなど付ける気もないが、混乱するなら考えないといけないかもね。
まあ、至極当たり前のことしか書く知識がないから、不要だとは思うが。
810伊作:2011/03/02(水) 14:03:41.09
●海路距離表記と陸路距離表記の特異性
これはローガンに俺が説明した文言だが。
漢魏晋代の公式尺度12000里といえば、
若干の差こそあれインドネシアまでとどく。
ところが倭人伝は、
倭国がある島は会稽東冶金の東という所感を述べている。

倭人伝を書いた本人が、
彼のいう12000余里とは「その程度の距離だったことを証言しているのだ。

ここに、海路の10000余里が、
実際の距離とはまったく無縁の表記であることがわかる。
しかも陸路距離も6.5倍の数値で書かれていることも事実だ。
(俺は短里などとはいわない。
記録されている事実比較から割り出した数値だ)。


なんか・文句あるか。しょくん
811伊作:2011/03/02(水) 14:05:20.90
808
>放射式の話をしていたんだぜ。
だから。放射式読みが間違いだってことを指摘してやったんだ。
勉強をし直すべきなのはきみのほうだってこともわかったろ。

孫引き論で偉そなことをいうな。
812伊作:2011/03/02(水) 14:07:35.70
809
>伊作氏も誰が相手かわからなくなっていそうなので
俺と議論するならハンドルネームぐらいつくれとゆってきたが、
手あたり次第に相手するしか手がないのだね。

無礼な発言をす奴には同じ態度で対応する。
相手が判別できず失礼があったら・ごめん。
813伊作:2011/03/02(水) 14:40:44.32
808
●放射式読みの証明を要求する。分かりやすくしてやるぞ

伊都国から奴国へは「方角・国名・距離」(日程と行程なし)。
伊都国から不弥国へは「方角・国名・距離」(日程と行程なし)。

伊都国から投馬国へは「方角・国名・行程・日程」(海路距離なし)。
伊都国から邪馬台国へは「方角・国名・行程・日程」(海路距離・陸路距離なし)。

他人に「論拠」だ「論理の筋道」というんだ。
明らかに文法(さんすうでいえば数式)の異なる文章が、
等しく伊都国を起点にしていることを独自の意見と論拠とともに証明しろ。

できなかったら、何の独自性も論拠もなく、
ただ孫引き衒学でゆってるだけということだな。
814日本@名無史さん:2011/03/02(水) 14:44:46.79
>>811
前をみると次のようにあるよ。
>伊都国から放射式であることを理解すれば、全て解決だよ。
きみの論法でいえば、 そこからだって
「水行三十日、陸行一月ではいくらなんでも九州の中に止まらない」だろう。
なにしろ、伊都国から先の水行三十日、陸行一月と不弥国から先の水行三十日、陸行一月では、
たかだかむ200里しか違わんぞ。

伊都国から先の水行三十日、陸行一月というのは、私の論法すなわち放射式の話だろ。
放射式読みが間違いだって話ではない。

815日本@名無史さん:2011/03/02(水) 14:47:23.78
>>799
これは縄文人だね。
816伊作:2011/03/02(水) 15:10:12.75
814
>伊都国から放射式であることを理解すれば、全て解決だよ。
理解しないんだよ。間違いだから。
学者とあろうものが、中国語古文の文法に頓着せずに唱えたものだろう。
文章構造と文法の違いをみれば、それが間違いだってことは分かる。

きみいったい何をくだらんコピペしてるんだ。
いいから、「伊都国から放射式であることを理解すれば」て、
理解してるんなら、その理解のほどを論拠とともに説明することだ。

かんたんなことだろ。
817父ちゃん:2011/03/02(水) 15:23:31.39
母ちゃん よい

そがん怒らんでんよかろうもん。あんたは博多んもんばってん伊作は肥後んもんの俺ん血を引いとるんじゃけんしょんなか。
肥後もっこすできらわれたっちゃしょんなか。あとはどうなときゃなろたい。
818日本@名無史さん:2011/03/02(水) 15:36:53.73
ほんなら高木石材にきゃーいこばい
819日本@名無史さん:2011/03/02(水) 15:41:31.46
なんだ?縄文人の断末魔か?
820横板に水:2011/03/02(水) 15:47:06.12
伊作さんに質問させて下さい。

倭人伝の下記の記事ですが、
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳

これは魏使が自分の目で(現地に赴いて)確かめた国のこととそうでない国のことを書いていると思います。
そして、投馬国は其戸數道里可得略載に該当し、その位置は自女王國以北です。
伊作さんはこの倭人伝の記事を無視されるのですか?
821日本@名無史さん:2011/03/02(水) 16:10:55.80
>>813
放射式ぐらい自分で調べろ。理解できないなら、教えて下さいっていえ。
822伊作:2011/03/02(水) 16:58:13.52
820 横板に水

>投馬国は其戸数道里可得略載に該当し、その位置は自女王国以北です。

「自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶、不可得詳」
これも日本人では俺だけがゆってることだろうが。正論だよ。

この文章は、戦時下の倭国訪問のこともあって行動が制限されたのだろうが、
隈なく踏査・調査できなかったためべての国を詳しく紹介できず、
21ヵ国の国名羅列にとどめた「ことわり」を述べる導入冒頭に位置する文章だよ。
むろん、その前にある投馬国と邪馬台国までの行程・日程記録とは何の関係もない。
句読点の無い漢文が相手だからつい続け解読をしてしまいがちだが、
これが、文章構造分析というものだよ。

>伊作さんはこの倭人伝の記事を無視されるのですか?
そういう愚かなことも不正にことも俺はしない。
俺のサイトを少しは見たんだろう。ちゃんと明確に説明してる。
俺がほかとは異質なほど歴史に正直で誠実なことぐらい洞察できそうなものだが。

「自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶、不可得詳」
この文章だけをみて、
「投馬国は其戸数道里可得略載に該当しその位置は自女王国以北」などというのが、
俺のいう「バカづらさげた棒読み(続け読み)」の産物の典型だね。

達人たちが相手だと・鼻にもかけられない愚論だよ。
823伊作:2011/03/02(水) 17:00:06.26
821
>放射式ぐらい自分で調べろ。
てめえが持ち出した愚論だぜ。
証明しろと詰問してるんだ。
安っぽい切り返し法にど俺には通用しないぜ。

>理解できないなら、教えて下さいっていえ。
これもどこかで覚えた孫引きセリフだろう。
いっちょ前が過ぎるぜ。
824伊作:2011/03/02(水) 17:03:30.12
821
ほれ。俺は論旨を絶対にも失わないし、振り回されない男だ。
話題を方向転換しよったってそうはいかない。俺の詰問にちゃんと対応しろ。

●放射式読みの証明を要求する。分かりやすくしてやるぞ
伊都国から奴国へは「方角・国名・距離」(日程と行程なし)。
伊都国から不弥国へは「方角・国名・距離」(日程と行程なし)。
伊都国から投馬国へは「方角・国名・行程・日程」(海路距離なし)。
伊都国から邪馬台国へは「方角・国名・行程・日程」(海路距離・陸路距離なし)。

他人に「論拠」だ「論理の筋道」というんだ。
明らかに文法(さんすうでいえば数式)の異なる文章が、
等しく伊都国を起点にしていることを独自の意見と論拠とともに証明しろ。
できなかったら、何の独自性も論拠もなく、
ただ孫引き衒学でゆってるだけということだな。


できないようだから、何の独自性も論拠もなく、
ただ孫引き衒学でゆってるということだな。
825伊作:2011/03/02(水) 17:04:52.49
821
>理解できないなら、教えて下さいっていえ。

俺が・お前に・放射式読みが正しいことを・証明しろ・とむ「詰問」してるんだ。
ふてえ野郎だぜ。
826日本@名無史さん:2011/03/02(水) 17:13:07.28
>証明しろと詰問してるんだ。
放射説のイロハも知らない奴に説明しても無駄だからやめておこう。
分からんことがあって具体的に質問してくるなら説明してやるよ。
既に学者は証明している。榎や山尾の本でも読め。4でも理解できない奴はごろごろいるようだが・・・
827伊作:2011/03/02(水) 17:17:55.65
821
>理解できないなら、教えて下さいっていえ。
伊都国から放射式に読む意味が分からんバカがどこにいるか。
てめえが、「伊都国から放射式であることを理解すれば」というから、
理解できないとゆってるんだ。

>既に学者は証明している。榎や山尾の本でも読め。
け。てめえ独自の論拠などなく、ただの孫引きであることを自白したか。

ばかばかしい。そんなんで、よーくこんな所にツラ出せるな。
828日本@名無史さん:2011/03/02(水) 17:25:02.67
放射説と順次説のバトルなのかね?

ようは長すぎた距離をどう縮めるかだよね。

放射説は伊都から放射記述とする。
順次説(伊作氏説)は最後の月日表記は総行程と解釈する。

(横からそっと顔を出して)
一月=80キロ説の順次説はダメ?
829伊作:2011/03/02(水) 17:29:09.51
826
何回かやりとりしてるが、
お前は何一つ論拠だの論理だのといえることを書いていないぞ。

俺の詰問にちゃんと対応しろ。「学者は証明している」などとウソほざくが、
放射式とて数多ある中の「ただの一仮説」にすぎん。
学者は自論の「説明」はしてるだろうが、証明できていない。
てめえが持ち出すからには、てめえで証明してみせろ。

●放射式読みの証明を要求する。
伊都国から奴国へは「方角・国名・距離」(日程と行程なし)。
伊都国から不弥国へは「方角・国名・距離」(日程と行程なし)。
伊都国から投馬国へは「方角・国名・行程・日程」(海路距離なし)。
伊都国から邪馬台国へは「方角・国名・行程・日程」(海路距離・陸路距離なし)。

明らかに文法(さんすうでいえば数式)の異なる文章が、
等しく伊都国を起点にしていることを独自の意見と論拠とともに証明しろ。
830伊作:2011/03/02(水) 17:33:12.81
828
>一月=80キロ説の順次説はダメ?

私の計算では、陸行2000里(1月行)は、直線距離で134キロから144キロ。
曲折行程を考慮すれば、その2〜3割減。

>放射説と順次説のバトルなのかね?
バトルなんかじゃない。
放射説が文法を無視した間違い説だと指摘し終えたところだよ。
831伊都国王卑弥呼:2011/03/02(水) 17:39:39.28
放射式とか分岐読みなどは漢文的に誤りであるとするのは正しい。
ところで伊作さんの説の陸行一月は何処から何処こまで何でしょうか?
832伊作:2011/03/02(水) 17:48:34.07
横板くんに・ついしん。

倭国を調査した記録官が、30ヵ国をきちなんと調査報告できなかったことに、
非常にナーバスになっている所に注目してほしいね。
自分の仕事ぶりの評価が落ちないように、
中国本国の上司や朝廷に申し開きをしてるんだよ。

この「調査官の言い訳めいた理由説明文言」を、
倭人伝編纂者も無視しないでちゃんと書いているだろう。
それほどに、外国に調査の使命をおびて派遣された人間は、
自分の仕事ぶりがてきとーだと思われたくなかったわけだ。

自論に都合の悪い文章になると、
調査報告書がてきとーだの・倭人伝編纂者がてきとーだのいう輩ばかりだが、
倭人伝は、ごまかそうとする奴には手強い書き物なんだよ。
833日本@名無史さん:2011/03/02(水) 17:58:15.23
>>822
>「自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶、不可得詳」
>これも日本人では俺だけがゆってることだろうが。正論だよ。

>この文章は、戦時下の倭国訪問のこともあって行動が制限されたのだろうが、
>隈なく踏査・調査できなかったためべての国を詳しく紹介できず、
>21ヵ国の国名羅列にとどめた「ことわり」を述べる導入冒頭に位置する文章だよ。
>むろん、その前にある投馬国と邪馬台国までの行程・日程記録とは何の関係もない。
>句読点の無い漢文が相手だからつい続け解読をしてしまいがちだが、
>これが、文章構造分析というものだよ。

こんな説明を納得できる者はいないだろう。
「戦時下の倭国訪問のこともあって行動が制限されたのだろうが」とはどうしてそのようなことが言えるのだ?

「自女王國以北、其戸數道里可得略載」が「21ヵ国の国名羅列にとどめた「ことわり」を述べる導入冒頭に位置する文章だ」としても
自女王國以北、其戸數道里可得略載であって、投馬国についても略載されているのだから、投馬国が女王国以北にあることは明白だ。
自説に都合のよいように解釈する見本のような説だ。「これが、文章構造分析というものだよ。」が聞いて呆れる。
834伊作:2011/03/02(水) 18:02:25.89
831
>伊作さんの説の陸行一月は何処から何処こまで何でしょうか?
大国の威厳と誇りと先進性とを満載した自国の船を降りた最終上陸地点。
すなわち末盧から最終・最大の目的地・女王の都する所まで。

魏の皇帝と倭国王とのトップ外交を代理する使節の目的は、
外交相手国の王に拝謁することです。
で・厳粛な授与儀式を執行して金印と詔書を渡す。

卑弥呼は伊都国にいただとか、使節が卑弥呼を伊都国まで呼び寄せたとか、
使節から金印と詔書をを預かった別の人間が邪馬台国に持参したとか。

いかにど素人とはいえ、不特定多数に向かって発言するには無責任すぎますね。
そういう無責任な奴だからまた、地元びいきの愚論を平気でいうのだろうけど。
835日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:04:11.55
>>824
そもそも倭人伝には伊都国の位置など具体的に示されて
いないのだから、伊都国から放射的に見ることなどありえない話。

倭人伝には末廬の東側に伊都があり、その東側に奴国が、その東側に不弥国があるとしか
書かれていない。

放射式を称える者に、その論証を求めるのは時間の無駄というものだ。
836伊作:2011/03/02(水) 18:11:44.64
833
バカ相手に説明してもムダだろうがよ。

>こんな説明を納得できる者はいないだろう。
こんな説明もへったくれもあるか。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載………」の文章は、
それまでの投馬国と邪馬台国までの行程・里程説明とは文節が変わっている。
これが分からんでバカが。偉そなことをいうな。

>「戦時下の倭国訪問のこともあって行動が制限されたのだろうが」
>とはどうしてそのようなことが言えるのだ?
「おれはバカだ」と宣言してるようなもんだな。
倭国では、卑弥呼が朝献する前から狗奴国と戦争状態だった。
卑弥呼の朝献は魏への軍事支援要請だったのだ。

その証拠といえるのが、皇帝の詔書が軍事支援承諾宣言であることだ。
天子・皇帝とは公的には現人神だから、人間くさいストレートな表現をしない。
わが国の天皇が遠回しの表現をしたのとおなじだな。

あの詔書の文言を軍事支援承諾宣言と理解するには20年ばかり時間が必要だうろし、
文脈と行間とが読めない奴には死んでも理解できん。

>とはどうしてそのようなことが言えるのだ?
なんてのは恥かきものだぜ。
837伊作:2011/03/02(水) 18:15:27.02
835
>倭人伝には末廬の東側に伊都があり、
末廬の「東南」には伊都があり、にていせいさせてもらう。

>その東側に奴国が、
その「東南」には奴国があり、にていせいさせてもらう。

ささいなことのようだが、重要な所。
838日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:23:23.54
>>834

>使節から金印と詔書をを預かった別の人間が邪馬台国に持参したとか。


正始元年に使者が持参したのは
詔書と印綬で、詔書と金印ではない。
金印は難升米と牛利が持ち帰っている
839伊作:2011/03/02(水) 18:25:34.93
●各論は総論と有機的に関連する。
期せずして佳境に近づいてきたぞ。

戦時下の来訪だからこそ、狗奴国勢が出没する海域は通れない。
通常の便利な行程は危険で、外来の賓客に通っていただくわけにはいかない。
だからこそ、難儀な「臨時の陸路」を歩いた。
臨時の陸路のスタートが、官もいない末盧の海浜(唐津湾)。
通常ならば、最寄りの港から陸行で1月もかかるような所に王都など築かない。
臨時の陸路を通ったからこそ1月も要した。

これが、天才が日本で初めて、今まだ誰も触れることのなかった陸行の理由と、
陸行で1ヵ月もようしたという「異常な行程」の理由だ。
840日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:31:17.91
狗奴国勢は福岡ですか?
唐津自体は伝統的な通行路だと思うのですが。
841日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:34:07.97
>>837
重要なことならば尚更訂正する必要はない。
東南側に伊都国があるのではなく、陸行とは末廬国は東南側に陸行出来る陸地があると記されてだけだから。
伊都国の具体的な位置をしめしているわけじゃない。陸行と書かれているので、同時に水行も平行して可能という事。
つまり、末廬国は陸地に奥行のある(次に伊都国が続く)島の一地域と書かれてある。
842伊作:2011/03/02(水) 18:36:06.23
838
まーた・疲れるビギナーが一人。

>正始元年に使者が持参したのは
>詔書と印綬で、詔書と金印ではない。

官位・爵位を刻んだ印と授はセットになっているもので、
「印綬を結ぶ」といえば任官することで、「印綬を解く」といえば退官する。
代名詞になっているほどポピュラーに話だよ。

>金印は難升米と牛利が持ち帰っている
難升米と牛利が持ち帰ったのは、既成の中郎将の銀印(これも印綬)という。

>詔書と印綬で、詔書と金印ではない。
俺たちが「金印」と表記しているものは、金印とその鈕に結ばれた綬のことだ。
これを「印綬」と呼ぶ。
親魏倭王の金印は特注品で既製品ではない。製作の都合もあってあと送りになっている。


ま・そのレベルの会話なら、わるいが・ほかをあたってくれんか。
843日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:36:55.69
>>839
それを人は妄想という。
844伊作:2011/03/02(水) 18:37:03.84
841
意味不明。
845伊作:2011/03/02(水) 18:39:57.63
843
思いつきのむ空論を述べる奴には理解できないことよ。
いきなり高度な方向へとんだからな。よけいに理解不可能だろうさ。
思考深度の浅い認識不足の見識で、好きな空想でも語り続けてろ。
846日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:44:14.59
>>842
それは律令体制に組み込まれた内臣の場合。律令体制に組み込まれない外臣に
内臣の制度をあててはいけない。
それに使者は詔書と印綬を奉っているので、印綬を臣に下す印鑑と紐と解す事は出来ない。
この場合の印は印影であり、しかも奉らねばならない皇帝の印影だよ。
847日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:44:50.24
本来ならば伊都国か奴国に到着して、筑紫方面から行くはずなのに、
福岡勢と筑後勢が戦っていたので、そこを通らないルートにした、
というネタは以前に書き込んだことがあるんだけど、

後世にもずっと唐津は使われているんだよね。
唐に向かう津なので、唐津なんだから。
848日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:48:40.72
>>836
相手を馬鹿呼ばわりしても貴殿の株が上がるものではないよ。むしろ人間としての度量の無さ、余裕の無さが強調されるだけだ。
せっかく刮目すべき見解をときたま述べていて、それなりの評価をする者もいるのだが、こう他人を馬鹿呼ばわりされると、嫌な
気分にさせられるだけだ。

>>833とのやりとりでは貴殿の負けだな。

>「自女王國以北、其戸數道里可得略載………」の文章は、
>それまでの投馬国と邪馬台国までの行程・里程説明とは文節が変わっている。
としても、自女王國以北、其戸數道里可得略載と書かれていて、投馬国が可得略載なのだから投馬国が女王国以北にあることは
変わらんよ。



849伊作:2011/03/02(水) 18:51:13.85
840
まーた疲れるビギナーが一人。
自分だけが分かって、他人にはさぱり分からん書き方をする。
しかも、自分の意見ををいわすせ質問だけを投げる。やなタイプだぜ。
「俺はこう思うが」「お前はこういうのか」「それは・こういう理由でおかしいだろう」
という会話のステップがみな省略されているやり方だな。

>狗奴国勢は福岡ですか?
「狗奴国勢は博多にいたからこれを避けた」とゆってると、
勝手に解釈したうえでの・自分にしか分からん質問か?
見ず知らずの顔も名前も分からん相手とのやりとりだ。
誰にでも分かるような描き方をしてくれんか。できないのか


>唐津自体は伝統的な通行路だと思うのですが。
せいぜいが、唐(から) という言葉が登場してからの名だろう。
しょせんは博多湾のサブ的存在だ。

>伝統的な通行路
きみにしては難しい言葉を使ってるようだが、
「伝統的な」とは、いつからで・どういう形だったというのかね。


それにしても、もっとマシな会話のできるのはいないのかなー。
850日本@名無史さん:2011/03/02(水) 18:51:22.88
>>845
自分の妄想は高度と自惚れか?
ま、その努力に敬意を表し、最高級な妄想とでも言っておこう。
851伊作:2011/03/02(水) 18:58:21.20
848
>貴殿の負けだな。
ろくな論をいうでもなく、開口一番こういうのを無礼というのだ。
で・意見は↓↓↓このていたらくかい。

>自女王国以北、其戸数道里可得略載と書かれていて、
だから。これと投馬国の文章とは文節が変わって文章の意味も別物だってこと。

>投馬国が可得略載なのだから投馬国が女王国以北にあることは 変わらんよ。
投馬国について行程・日程・人口を略載したことと、「自女王国以北、其戸数道里可得略載」とはぜんぜん関係ない。
投馬国は女王国につぐ5万戸の、倭国で2番目大国だから、行程・日程・人口を略載したんだ。

要するに、「バカづらさげた棒読み」をごり押ししてるだけだな。
その程度のタマに俺の高尚な論を批判してもらう必要などない。
何様のつもりだ。無礼者
852伊作:2011/03/02(水) 19:01:37.94
850
>自分の妄想は高度と自惚れか?
>最高級な妄想とでも言っておこう。

結局は、議論として中身のある意見は何もいえないんだろ。
きみたちが普通だとしたら、俺はケタはずれの天才だ。
意味も価値もないことを書いてからむなんざ30年早いぜ。

853日本@名無史さん:2011/03/02(水) 19:09:30.41
>>851

>その程度のタマに俺の高尚な論を批判してもらう必要などない。
何様のつもりだ。無礼者

ここは便所の落書きと言われる2チャンネル。その落書きに高尚も糞もない。
それに、その落書きに無礼も非礼もなく、そんな礼儀正しい掲示板を望んでいるなら、さっさと余所に移られたし。
何様は、むしろ貴殿の方だよ。
それがここ2チャンネル
854伊作:2011/03/02(水) 19:15:51.24
846
ご随意に。誰か一人でも、正解とゆってくれれば幸いだね。
855伊作:2011/03/02(水) 19:21:09.60
853
よう。

>便所の落書きに高尚も糞もない。
>落書きに無礼も非礼もなく、
便所の落書きに論拠だ論理だ証拠だ証明だという鉄が的な単語が飛び交うか。
いやしくも2チャンネル とはいえ、学術カテゴリだろ。
そこにツラ出していながら、何をくだらん開き直りをしやがる。

>何様は、むしろ貴殿の方だよ。
ろくな見識もなく、ろくな意見をいうでもないくせに、
場違いともうえる天才的な論客の論を評価するから、何様だとゆってるんだ。
てめえが出入りする学術カテゴリを便所の落書きにたとえる奴がよ。
856日本@名無史さん:2011/03/02(水) 19:39:28.85
>>849
まず、前提条件として、博多湾に行くはずだったが、
行けない理由があるから唐津に到着したという理由でいいのでしょうか?

直接熊本に海路で行きたかったが、島原周辺が敵の海域なので行けなかった。

なんて解釈もできるのでまず確認しておきたいと思います。

博多湾であれば、書かれているように前原、博多勢が敵に回っていることになります。
敵ではなくて、博多湾に行ったほうが良いのなら、唐津で補給し、再び海路で
前原か博多に向かうでしょう。陸路は非常に困難です。

通説であれば、東南、南方向の邪馬台国より狗奴国勢は南ということですので、
博多方面は敵ではないことになります。つまり、普通に前原博多方面に上陸できます。

つまり、唐津に到着したのは初めから佐賀方面に向かう意図があると考えてよいでしょう。
857日本@名無史さん:2011/03/02(水) 19:45:25.94
>>855
学問の看板は垂れていても、所詮は名無しの掲示板なんだよ。
権威有る掲示板にしたければ、名無しやハンドルなんて使わずに、堂々と素性と本名を明かし論をはればいい。
ハンドルで登場した段階で、既に2チャンの形態に流されているんだよ。 
学術的なものに名無しやハンドルで参加することなんて世の中にないだろ?
便所の落書きに論証求めても構わないはずだよ、落書きに決まりなんてないんだから
858伊作:2011/03/02(水) 20:18:47.02
857
>権威有る掲示板にしたければ
誰がそんな極端なことをゆってるか。
議論の場としての最低限の礼儀と、
普通に社会生活をしている健常者としての常識の範囲を逸脱するな。
こゆことだ。

てめえこそ、名無しやハンドルだからこそ、いいたい放題ななだろが。
本末転倒もはなはだしいぜ。筋の通らない稚拙な自己正当化じゃないか。

勝手なへ理屈並べてろ。陳腐すぎて相手をする気もにないぜ。
859日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:22:18.21
>>851
>>自女王国以北、其戸数道里可得略載と書かれていて、
>だから。これと投馬国の文章とは文節が変わって文章の意味も別物だってこと。

「文章の意味も別物だってこと。」とはどういうことなのかな。女王国より以北(の牟尼については)その戸数や道里は略載できるが」と言う意味
ではないというのかな?どうもよく分からん。馬鹿と読んでもいいから、馬鹿にでも分かるように説明してくれんかな。相手が納得できるように説明
できないのは当人自身が分かっていないからだと言われるけどね。どうかね。古今東西第一の天才君。
860日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:25:02.77
851 訂正
(の牟尼については)→(の国については)
861日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:42:25.53
>>858
>誰がそんな極端なことをゆってるか。

素性や本名を詳らかにしないためには、そうだろうな。

>議論の場としての最低限の礼儀と、
普通に社会生活をしている健常者としての常識の範囲を逸脱するな。
            「てめえこそ」なんて言葉は、常識の範囲を逸脱してないか?それとも、自分に甘く他人に厳しいか?


>てめえこそ、名無しやハンドルだからこそ、いいたい放題ななだろが。

だから2チャンだって言ってるだろう

862横板に水:2011/03/02(水) 20:58:29.58
伊作さん(伊作先生と呼んだほうがいいですか?)

あなたは梯儁らは政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、人口、河川等の倭国の国情を調査するために
それらの専門家も含めた数百名で来たというようなことを言われていましたね。これからすると、倭国についてか
なり多くの情報をえることが出来ただろうと思えます。

しかし、このごろでは、梯儁らが実際に倭国に来たときには戦時下で臨時の陸路を通ったと言われています。これでは、
そんな慌ただしく緊迫した状況下ではろくな調査もできなかったのではないかと思えます。

いったいどうなっているのでしょうか?
863伊作:2011/03/02(水) 21:05:42.07
856
>博多湾に行くはずだったが、
甘木・朝倉あたりが邪馬台国ならば、そうしたでしょうね。

>直接熊本に海路で行きたかったが、島原周辺が敵の海域なので行けなかった。
そう踏んでいます。天草の海域は狗奴国の制海権域で、有明海には入れなかった。

>博多湾であれば、
博多湾に上陸する行程だと遠回りになるということでしょう。

>博多湾に行ったほうが良いのなら、唐津で補給し、再び海路で 前原か博多に向かうでしょう。
そういう理屈ですね。

>東南、南方向の邪馬台国より狗奴国勢は南ということですので、
そう思います。

>唐津に到着したのは初めから佐賀方面に向かう意図があると考えてよいでしょう。
そういうことです。
864伊作:2011/03/02(水) 21:08:51.86
862
>「てめえこそ」なんて言葉は、常識の範囲を逸脱してないか?
>それとも、自分に甘く他人に厳しいか?
そういわれるような無礼の正当化ばかりするからだ。
しかも、「だから2チャンだって言ってるだろう」と、
ずいぶん正反対だな。
何でもありを正当化する一方で、他人の態度を四の五のいうか。
どっちかはっきりせい。

てめえこそ、実名でやる度胸があればやれ。2ちゃんで話題になるぞ。
どうだっていいことにフリやがって。
865伊作:2011/03/02(水) 21:18:29.86
862 横板
俺の論に対して、事実誤認か誤解か認識不足があるな。
中国における地理情報は軍事情報に位置づけられる。
(だからてきとーに書いたり間違ったりはしない)
というために、中国文化研究員のこれを提示したのだ。
「中国の地理把握要件には政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、人口、河川等………」
事実、倭人伝の記録もほぼこの要件に沿っている。

>あなたは梯儁らは政治、経済、文化、歴史、地形、気象気候、城市、人口、河川等の
>倭国の国情を調査するために それらの専門家も含めた数百名で来た
>というようなことを言われていましたね。
そうはゆってねーべ。勝手に他人の発言をねつ造するな。

>しかし、このごろでは、梯儁らが実際に倭国に来たときには
>戦時下で臨時の陸路を通ったと言われています。
研究をはじめた当初からそう主張している。勝手に曲げるな。

>そんな慌ただしく緊迫した状況下ではろくな調査もできなかったのではないかと思えます。
慌ただしいのではない。「戦時下で外来の客の行動は自ずと制限されたこともあって」
といってるだろ。それだけが理由だとどこに書いてあるかい。
遠絶なことも理由だろうさ。わかりきってることだ。

>いったいどうなっているのでしょうか?
きもの読解力はいったいどうなってるんだい?
それじゃ国語に入試科目のある大学にはとても合格できそにないな。
866伊作:2011/03/02(水) 21:22:21.72
862 横板
>専門家も含めた数百名で来たというようなことを言われていましたね。
俺は、孫権の燕王風爵使節団の陣容を紹介しただけで、
「さて魏はどうだったか」と、きみたちに投げたと記憶してるがな。

「専門家も含めた数百名で来たというよう」にきみが勝手に連想して、
それをさも俺がゆったようにしてしまっている。

……………不合格だな。やっぱ
867あ〜あ:2011/03/02(水) 21:28:14.22
古今東西隋一の天才、奇才、鬼才、巨匠であられる伊作大先生

>>859が答えを待ってあくびしてますよ。どうしたの?答られないの?
868横板に水:2011/03/02(水) 21:48:37.72
>>865>>866
あ〜そうですか。僕の勘違いだったんですね。わかりました。
>それじゃ国語に入試科目のある大学にはとても合格できそにないな。
あなたに心配して頂かなくても結構です。こういうことを言われるから支持者が離れてゆくのじゃないでしょうか。
869日本@名無史さん:2011/03/02(水) 21:53:37.68
横板君も気の毒だねえ。礼儀正しく質問しているのに噛みつかれて。それにしても伊作氏は度量がないね。
こうこうなんだよと丁寧に答えればいいものを。自分の思い通りにならない人間が許せないのだろうな。
870日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:18:27.85
>自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶不可得詳
国は、その規模から考えると、大国と旁国(大国の傍らにある小国)に大別すること
ができる。女王国以北(万二千里より北の地域)にあるのは対馬国、一支国、末盧国、
伊都国、奴国、不弥国だが、大国も旁国も道里・戸数を書くことができる。
其の余(万二千里よりも南)には投馬国、邪馬台国、21の旁国、狗奴国があるが、大
国について道里・戸数を書くことができるだけで、旁国については書けない。

水行二十日の投馬国、水行十日陸行一月の邪馬台国が万二千里よりも南にあることは
当然のことだ。しかも、それについては実際に道里・戸数を書いているのだから、い
ちいち書けるなんて明記する必要はない。だから、「其の余の大国については書ける」
という点は記載を省略した。
871日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:19:42.71
横板くんの「折り目正しさ」は端倪すべきものがある。
後世畏るべし。
賢者は罵詈して確かめるべし、とかいうし。
気にするなよ。
872伊作:2011/03/02(水) 22:31:46.80
867 名前:あ〜あ
 
くだらない。
873伊作:2011/03/02(水) 22:34:34.50
869
>横板君も気の毒だねえ。礼儀正しく質問しているのに噛みつかれて。
分かりのわるい子はしかっておしえる。

>それにしても伊作氏は度量がないね。
そういうお前はどうなんだ。
度量のある所を見せた客はここにはいないが。
んー?

この程度の投稿しかできないタマなんだろ。
874伊作:2011/03/02(水) 22:40:58.67
868 横板
>支持者が離れてゆくのじゃないでしょうか。

けっこう。はじめから支持者などおらん。
だいたい見えたところだろうが、
既存のいかなる邪馬台国論も俺は軽蔑している。
姑息な手を使ったのばかりだからだ。
だから、畿内・九州に限らず、
既存の邪馬台国論の欠陥や姑息な手法を指摘する。
素直じゃないものは「暴いて」みせる。

支持者どころか憎まれる。敵ばかりだ。
それこそ、余計なお世話だ。
875伊作:2011/03/02(水) 22:44:11.09
それにしても、俺が行くところは繁盛するなー。
「最も気になる男」てか。
バカどものよそよそしい外づらに反して、本心が良くみえるぜ。
876伊都国王卑弥呼:2011/03/02(水) 22:44:46.94
伊作さん陸行一月では関東か東北に邪馬壹國があったことになりませんか?
877日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:59:06.27
遺作に河童みたいな腰の柔らかさがあれば
スレを十分回していけるのに
天性というか育ちというか、今更どうなるわけじゃないけれど、
よほどひねた育ちをしたのだろう。
878伊都国王卑弥呼:2011/03/02(水) 23:02:53.20
>>870
恥ずかしいからデタラメ訳は書かないように。
879日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:07:46.81
伊作
どうしようもない人間だな。ここには楽しみのために書き込んでいる人達が多いのに、傍若無人に振る舞って他人の心情など顧みない。
はだかの王様では褒め過ぎだな。金正日のミニチュアだな。
880伊都国王卑弥呼:2011/03/02(水) 23:07:53.37
>>877
郷土愛が強すぎるの人が多いようだが
伊作さんも郷土愛が強すぎる一人のようだ。
881伊作:2011/03/02(水) 23:08:30.62
876 伊都国王卑弥呼
>陸行一月では関東か東北に邪馬壹國があったことになりませんか?
倭人伝のいう末盧から邪馬台国までの距離は
直線距離で137キロから147キロ。
曲折行程を効力すれば、その2〜3割減退。
といったと思いますが。この距離に1ヵ月をかけたというのです。

1日を何キロ歩くと想定して「陸行一月」の総計をだせば、
関東か東北になるのでしようかね。
7世紀の隋書ですら、関東から九州までを陸行5月行ですよ。
882日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:10:48.45
天才よ
>>859に答えろよ。君ならできるだろ。くだらんなどと 逃げるなよ。
883伊作:2011/03/02(水) 23:10:58.68
877
>遺作に河童みたいな腰の柔らかさがあれば
かかか。カツパはそうじゃなくてはやって行けないタイプなのだ。
したり顔で浅いことをぬかすな。どこ見てるんだ。タコ

884伊作:2011/03/02(水) 23:14:24.95
879
>ここには楽しみのために書き込んでいる人達が多いのに、
>傍若無人に振る舞って他人の心情など顧みない。

老人の楽しみ・ヒマ潰しなら、それなりの会話の仕方というものがあろう。
礼儀正しく・常識の範囲で・円満性一番でよ。
ところがどうだ。
何かといえば他人には論拠だ・証拠だという。
何かをいわれて二の口が継けないと非難・誹謗に走る。

てめえのその投稿がいい実例だろが。くそ野郎
885日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:15:34.39
登場人物紹介

伊都国王卑弥呼氏:とにかくイトが好き。

伊作氏:タコが好き。
886日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:15:43.64
ま、これまで九州説同士の討論というのはお互い牽制し合ってほんとになかったから,
伊作さんが来てくれたのは基本的によいことだと思うけどね。

ただ、コテは2chではホスト役も好むと好まざるとにかかわらず引き受けなくては
ならないから、自説と違うものを罵倒を浴びせて押し返すだけでは芸無しと
言われてしまう。
887伊作:2011/03/02(水) 23:16:08.29
882
くだらん。俺に対する質問のレベルにない。
だれでも平等に対応すると思ったら間違いだな。

相手をしてもらいたかったら、質問らしい形を整えてやり直せ。
888日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:17:40.50
登場人物紹介 (追加)

伊都国王卑弥呼氏:とにかくイトが好き。

伊作氏:タコが好き。芸がない。
889伊作:2011/03/02(水) 23:19:32.46
886
>罵倒を浴びせて押し返すだけでは芸無しと 言われてしまう。
なんとか議論や質問の形になっているのにはちゃんと論理的に説明してるぜ。
まともに意見らしい形と内容のにものを書いてるのは俺だけだ。
あとはできそこないの意見か横誹謗だけだろ

気のきいたことをゆうつもりなら、気のきいたことをいうことだな。
公正な目と判断力と良識をうかがわせるようにな。
890日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:22:19.97
>>887
ほいよ

>>851
>>自女王国以北、其戸数道里可得略載と書かれていて、
>だから。これと投馬国の文章とは文節が変わって文章の意味も別物だってこと。

「文章の意味も別物だってこと。」とはどういうことなのかな。女王国より以北(の国について)はその戸数や道里は略載できるが」と言う意味
ではないというのかな?どうもよく分からん。馬鹿と呼んでもいいから、馬鹿にでも分かるように説明してくれんかな。相手が納得できるように説明
できないのは当人自身が分かっていないからだと言われるけどね。どうかね。古今東西第一の天才君。
891伊作:2011/03/02(水) 23:23:12.00
886
筋の通った意見らしいことを書いているのは俺だけだが。
気のきいたことをいうつもりなら、
公正な目と的確な判断力と、それなりの良識をうかがわせるように書け。

どっちかに重心を置いた上での中庸な意見などない。
892伊作:2011/03/02(水) 23:24:31.93
890  ふざけるな。
893日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:25:38.27
なんだ神田といいながら居座り続ける遺作は、きっと心にすきま風が吹いてる
淋しい敬老会。
虚勢を張ることでしか自分の立ち位置を確認出来ないんだろうよ。
894伊作:2011/03/02(水) 23:28:54.86
893
ほれほれ。
そうやって誰かを非難・攻撃するしか能がないてめはなんだ。
女房のケツに敷かれた腹いせに書き垂れる生ゴミ爺いか。



895日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:29:29.47
しょっくん
伊作やジョーカーみたいな悪役がいないと、スレは盛り上がらない。
この原則をおもんばかって、多めにみてあげれ

別に日常生活で面と向かって罵倒される訳じゃなし。
育ちが悪いんだな〜と哀れんでいれば思えばかゆくもなし。
896伊作:2011/03/02(水) 23:32:56.83
「九州説はバカばかり」を宣伝するかのように、
バカげた空想とレベルの低い想像解釈を書き垂れるバカども。
あきれてしまて畿内説すら相手にしないだろが。

ちっとは矯正薬になったら、
畿内説がムキになって否定しにやてくるような意見を書け。
897伊作:2011/03/02(水) 23:36:47.49
895
>悪役がいないと、
俺を悪役と思うようじゃ、古代史などやめっちもえ。
できそこない連の古代史に対する意欲をそぐのも意義のあることだし。

ゴミクズといわれるのも・あながち根拠のないことではないと思うぞ。
続けるんなら、畿内説が寄ってたかって否定しにかかるような意見を書け。
898日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:39:41.14
>>890 は「古今東西第一の天才君」というところがふざけているね。そこさえ除けばまあ当然の疑問を投げかけているものと言えるだろう。
伊作氏も逃げていないで答えたらどうかな。
899日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:51:31.13
>続けるんなら、畿内説が寄ってたかって否定しにかかるような意見を書け。

いらっしゃ〜い。畿内説はトンデモ説大歓迎だよ〜ん。
900日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:59:23.46
少々の罵倒は大目に見てあげてもよいが、中身も大切。
内容が無い罵倒だけのレスはよろしくない。
901日本@名無史さん:2011/03/03(木) 00:10:10.03
>伊作氏も逃げていないで答えたらどうかな。
伊作氏はドン来いスレでも言われているね。

495 :日本@名無史さん:2011/02/22(火) 18:27:07.74
>>470 三流以下の嘘・誤魔化し・詐欺・ペテンの塊り 自称天才論客巨匠・伊作
>その倭人が、墳墓に限って段階的ステップを抜きで、
>いきなり巨大かつ洗練された完成形を築くことは断じてあり得ない。

はいはい、お前のご高説は十分承ったから
さっさと、そのお前の考える『 段階的ステップ 』とやらの中身を言え。

それにより200m超級の古墳の出現がスムーズに説明できるんだろう?w

ったく陳腐な御託並べて結局肝心なところは何も言わない。

逃げるわ隠れるわ誤魔化すわのオンパレード

その上、天才だの巨匠だの自称できるんだから
卑怯な上に恥知らずだもいいところだ(呆
902伊作:2011/03/03(木) 00:10:14.62
おっ。今日はもう終わりか?

日本語もろくに書けないし理解できないし、
自分の考えをまともな日本語にできないタマが。
中国語の古文で書かれた文献を解釈しようなどとは・笑いぐさだぜ。
笑いすぎて横腹が痛いが、これを「片腹痛い」というのか?
な・タコしょくん。

気が向いたらまたのぞきにきてやろう。
好き勝手をゆってるようだとヅヅケと矯正してやるけ。
903日本@名無史さん:2011/03/03(木) 00:31:03.18
>>901
>その上、天才だの巨匠だの自称できるんだから
卑怯な上に恥知らずだもいいところだ(呆

どこへ行っても嫌われ者で卑怯者の伊作に何を言っても無駄だよ。
904ローガン:2011/03/03(木) 01:56:18.95
>>890
>文章の意味も別物だってこと。」とはどういうことなのかな。女王国より以北(の国について)はその戸数や道里は略載できるが」と言う意味
> ではないというのかな?どうもよく分からん。

横失礼。伊作説では投馬国は使者の行程 に無い。
使者は中華から「遠絶」な地ゆえ、往来の際に実見した国しか、その概要を知ることができなかった。
ただ、投馬国は邪馬台国に次ぐ大国ゆえ、ルートから外れた地にあるといえども、なにがしかの情報を得る事が出来た。
よって、以北(行程上)とされる、国々の記述とは、別章扱いすべし。
という考えではないかなあと思います。間違っているかもしれませんが…
905日本@名無史さん:2011/03/03(木) 02:15:56.69
>>878
どこかちがっているか?ちゃんと説明してね。
906横板に水:2011/03/03(木) 14:21:49.59
>>869>>871
今仕事から帰ってきました。昨日は伊作さんに絡まれて嫌気がさしてもう二度と書き込みはしないぞと思っていたのですが、今日は職場の皆さんと楽しく
昼食をとりながら談笑して気分もよくなり、今日ここを覗いてお二人に慰めて頂いていたので気が変わりました。

伊作さんは漢籍に詳しく書かれる文章も勢いがあるとゆうか迫力があってすごいなと思うのですが、自分では論理的に書いていると言われるのにときどき
非論理的なことを言われるので全面的な信頼をよせることができないのです。感情的になって馬鹿だとかタコだとか相手を傷つけるような言動をされるの
は感心できませんが、僕だって丁寧な言動を心がけてはいても気付かずに失礼なことをしているかも知れませんので、人格攻撃に類することは慎みたいと
思います。

「伊作さんが非論理的なことを言われる」と申しましたので、実例を挙げておきます。

>方角・行程手段・国名・距離が方角・国名・行程手段・日程に変わっていれば、
>この説明手順の違いは文法の違いだ。
>この違いをさんすうでいえば、数式の違いだ。
>数式が違えば出てくる回答も自ずと違う。こういえばわかるだろ

上記はこのスレの>>807に書かれているものです。
「数式が違えば出てくる回答も自ずと違う。」というのは正しくありません。
例えば、2+2は和(足し算)で2×2は積(かけ算)で数式としては違います。しかし2+2=4、2×2=4で答えは同じです。このように数式が違っても答
が同じになる例はいくらでもあります。

これは些細な間違いに属するものでしょうが、論理的であると称するからにはゆるがせにはできないミスでしょう。

これでは揚げ足取りと思われるでしょうから、もっと本質的な問題について言いますと、
日数表記に変わったことに意味があるとしても、それが郡からの日数であるというのは想像される答の中の一つにしか過ぎないということです。
その答しか有り得ないとするには根拠が薄弱なのです。
907sss:2011/03/03(木) 15:04:52.82
里数については、ちゃんと測るというのは無理だから、大雑把になるのは
仕方がないとしても、日数の大雑把はどういうわけだろうな。
十日、二十日、一月と言うのは、あまりにも切りが良すぎる。
908日本@名無史さん:2011/03/03(木) 15:09:03.35
だから、魏使が実際にそれだけかかった実数を記録したという考えは捨てるべきだと思うね。
当時の中国人に目安を示しているのだろう。このくらいを見てれば確実に着きますよ、という。

909伊作:2011/03/03(木) 15:20:03.26
906  横板
まず、きみの論法の間違いから指摘しておく。
俺は明らかに変化していいる文法(あるいは筆法の)を数式の変化にたとえたが、
それはあくまでも「たとえ」であって、
基本的な「文法が違えば意味も異なる」という論理が間違っているのではない。
きみの指摘が正しいと百歩譲っても、
それは文法(筆法)の違いを数式の違いにみた「たとえが不適切」だったというだけのことだ。
これを揚げ足して、基本論理が間違っているというのは見当違いだ。
しかも、掲示板の定番ともいえるパターンで、相手の投稿を悪意に受け取った上での揚げ足だ。
どこを探しても、つつく所はそんなもんしかないというわけか。

つぎ。
きみは極めて自分に都合の良い、単純加減計算数式を提示したが、
数式に使われる記号は、+−×÷=といった単純記号だけかい?
俺は「数式の違い」といったが、数式とはそんなもんなのかい?
現役受験世代だから教えてくれ。

●数式とは、「数・演算記号・不定元などの数学的な文字・記号(および約物)」が
一定の規則にのっとって結合された、文字列のことである。(Wiki)
こうあるが、複雑かつ高度な数式の場合においても、
また記号が違っても、出てくる回答は同じかい? おれは算数に弱いからたのむよ。

>論理的であると称するからにはゆるがせにはできないミスでしょう。
不十分かつ都合のいい例を提示した上での不当な批判だな。
これで、俺に敬意を表して対応してもらおうと思ってるわけじゃあるまい。

>嫌気がさしてもう二度と書き込みはしないぞと思っていたのですが、
そうしてくれ。
俺もきみのような思考領域と思考深度の限られた若者とはお友達にはなりたくないし。
910伊作:2011/03/03(木) 15:25:35.95
●天才語録

非紳士的なモチベーションと手法によって創作した論をひっさげて
紳士的に議論する図よりも、
紳士的に構築した論をもって侃々諤々やるほうがいい。
911伊作:2011/03/03(木) 15:32:02.92
●侃々諤々(かんかんがくがく)
▼意 味:遠慮することなく、言いたいことを言い盛んに議論するさま。侃侃諤諤。
▼解 説:「侃侃」は強く正しいこと、「諤諤」は正しいことを直言すること。
肯定的に使われる。「侃々諤々の議論」の形で用いられることが多い。
「侃諤」とも言う。
▼出 典:「侃侃」は『論語』、「諤諤」は『史記』
▼英 訳: to go at each other tooth and nail
(四字熟語データバンク)


ばははー。
912日本@名無史さん:2011/03/03(木) 16:01:04.96
方角・行程手段・国名・里数が方角・国名・行程手段・日数に変わっていても、
文法的には何の違いもないが、そこが分かってないようだ。
913日本@名無史さん:2011/03/03(木) 16:10:29.60
>>909
君はここで何をしたいんだ?
もし>>910で述べてるような議論をここでしたいと考えているなら、それは場違い。
ここには君と>>910でいうような議論をする奴はいない。

914日本@名無史さん:2011/03/03(木) 16:17:38.91
>>907
>里数については、ちゃんと測るというのは無理だから

数値になって書き込まれているのだから、その経緯はちゃんとであろうが大雑把であろうが
関係ないのでは

>日数の大雑把はどういうわけだろうな。
十日、二十日、一月と言うのは、あまりにも切りが良すぎる。

そんなことはないだろう。
それとも「九日、十九日、一月半」と書かれている方が安心できるのかい?

「十日、二十日、一月」と「九日、十九日、一月半」の違いはなに?
915横板に水:2011/03/03(木) 16:32:04.50
>>909
>きみは極めて自分に都合の良い、単純加減計算数式を提示したが、
>数式に使われる記号は、+−×÷=といった単純記号だけかい?

数式はいろいろありますよ。多次元関数やら行列式やらと言っても伊作さんには分からないだろうと思って簡単な算数の式の例を示したのです。
里数が日数に変わったというような単純な変化ですから加減乗除のうちの加と乗の式で示したのですが、も少し違った式の例を挙げましょうか。
数学記号が使えませんので文字で書きますが、

(1+1)、{(1の2乗)+(1の2乗)}、{(1の3乗)+(1の3乗)}、{(1の4乗)+(1の5乗)}、(ルート1+ルート1)(まだまだいくらでもありますが)
は数式としては別のものです。しかし、答は全て2です。2次方程式でも3次方程式でも、三角函数の式でも同じ答えを持つものはいくらでも作れます。

>基本的な「文法が違えば意味も異なる」という論理が間違っているのではない。
ええ、だから
>これでは揚げ足取りと思われるでしょうから、もっと本質的な問題について言いますと、
>日数表記に変わったことに意味があるとしても、それが郡からの日数であるというのは想像される答の中の一つにしか過ぎないということです。
>その答しか有り得ないとするには根拠が薄弱なのです。
と申し上げているのです。



916日本@名無史さん:2011/03/03(木) 17:59:47.29
どっちが大人か?
9173S:2011/03/03(木) 18:54:21.28
>> 記号が違っても、出てくる回答は同じかい? おれは算数に弱いからたのむよ。

弱いのは算数だけではないな。
語学、論理、礼儀、社会性、性格など全てが酷い。

2+2は和(足し算)と2×2は積(かけ算)は違う式だと思っているだろが
これは同じ式だ。

2+2は2が二つ
2×2も2が二つだ。
918日本@名無史さん:2011/03/03(木) 18:56:41.65
何のスレだw
919日本@名無史さん:2011/03/03(木) 19:07:05.50
遺作が必死で自己PRするスレ
920日本@名無史さん:2011/03/03(木) 19:08:09.89
行列式って高校で教えていたんだっけ?w
921日本@名無史さん:2011/03/03(木) 19:10:15.81
俺らの時代には習っていたが、今はどうかな?
922日本@名無史さん:2011/03/03(木) 19:17:01.74
高校の最後のほうで微分方程式を習っていた記憶がある。
923伊作:2011/03/03(木) 19:47:23.60
917 名前:3S
くだらねー途中乗車横ちゃり。

>2+2は和(足し算)と2×2は積(かけ算)は違う式だと思っているだろが
>これは同じ式だ。
そうか。………「同じ式」ね。ここは数式の話なんだが・まいいか。
低学年レベルの事例につき合おうか。
提示された「式」の片方の2を4にしただけだが、
2+4=6と、2×4=8、この両者も同じ数式だよな?

918 >何のスレだw
なんて観客も出てきたが。
本論から離れて「数式のたとえ」に食いついて都合のいい事例を並べて、
「たとえがおかしいから本論の論理がおかしい」などと、
短絡直結論をご開陳してくれたが、どんな思考筋してるんだ。

たとえが不適切というならば、たとえが不適切でいい。それだけのことだ。
本論の論理とは関係ない。バカバカしい。
924伊作:2011/03/03(木) 19:58:00.89
915  横板

>日数表記に変わったことに意味があるとしても、
筆法(説明手順)が変化しているのは文法の変化だ。
「日数表記に変わった」ではない。文法の変化だ。
きみは、先にも俺の発言を勝手に書き換えてくれたばかりが、
批判するに重要な部分を書き換えたり濁したりするな。
議論のイロハだ。もっと正確に引用しろ。

>それが郡からの日数であるというのは
もう分かりきったことだ。これを否定するために重箱の隅してるわけか?
俺の論旨を否定するならば、それに勝る論旨・論法でかからんか。
重箱の隅は見苦しいだけだぞ。

>その答しか有り得ないとするには根拠が薄弱なのです。
倭人伝編纂者は「ただ一つの意味」でしか書いていない。
そのたった一つの読み方を探る作業をしているわけだが、
俺の検証手順と手法に勝る探り方をしているのがあったら教えてくれ。

ゆうとくが、失笑を誘うような陳腐なのはいらんぞ。
925日本@名無史さん:2011/03/03(木) 20:21:55.68
>>924

>ゆうとくが、失笑を誘うような陳腐なのはいらんぞ。

逆上せるのもいい加減にしとけよ。
926伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 20:23:26.75
>>881
1日、たった6kmですか?
時速3kmで2時間歩いて後は休み?
魏使は使命があって倭王に会いに来たのにこれはないでしょ。
遅くとも1日25〜30kmは行きますよ。
927横板に水:2011/03/03(木) 20:31:15.55
以下は伊作さんの言葉です。
>倭国では、卑弥呼が朝献する前から狗奴国と戦争状態だった。
>卑弥呼の朝献は魏への軍事支援要請だったのだ。

>その証拠といえるのが、皇帝の詔書が軍事支援承諾宣言であることだ。
>天子・皇帝とは公的には現人神だから、人間くさいストレートな表現をしない。
>わが国の天皇が遠回しの表現をしたのとおなじだな。

>あの詔書の文言を軍事支援承諾宣言と理解するには20年ばかり時間が必要だうろし、
>文脈と行間とが読めない奴には死んでも理解できん。

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻.太守劉夏遣吏將送詣京都.其年十二月詔書報倭女王.曰制詔親魏倭王卑彌呼.帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利.奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈
以到.汝所在踰遠之遣使貢獻是汝之忠孝.我甚哀汝今以汝爲親魏倭王.假金印紫綬.装封付帯方太守假授.汝其綏撫種人勉爲孝順.汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞.今以難升米爲率善中郎将.牛利爲率善校尉.假銀印青綬.引見勞賜遣還.
今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟十張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直.又特賜汝紺地句文錦三匹細班華五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠チ丹各五十斤.皆装封付難升米牛利.還到録受悉可以示汝國中人.使知國家哀汝.
故鄭重賜汝好物也.

上記記事には皇帝の詔書がくだされた時のことと内容が書かれています。これからは卑弥呼が軍事支援を要請して皇帝が軍事支援の宣言をしたということは読み取れません。誰かおいででしょうか?
伊作さんは「あの詔書の文言を軍事支援承諾宣言と理解するには20年ばかり時間が必要だうろし、文脈と行間とが読めない奴には死んでも理解できん。」と言われますが、これこそ非論理的です。

これは冗談のようなものですが、「あの詔書の文言を軍事支援承諾宣言と理解するには20年ばかり時間が必要だうろし、」だけ見ても、
仮に理解できる者が居るとしてみても、その人は瞬時に理解するかも知れないし、10年で理解するかも知れないし、50年かかるかも知れないし、「20年ばかり時間が必要だろう」という根拠はどこにもありません。

冗談はさておいて、相手が理解できないのは「相手の能力不足」のためだけですか?「伊作さんの説明力不足」のためじゃないですか?


928日本@名無史さん:2011/03/03(木) 20:43:04.60
>>927
「難升米爲率善中郎将.牛利爲率善校尉」じゃないかな。
武官の称号を送ったという事は、魏の官軍と見なすという意味にとれる。
両名は卑弥呼の官でありながら、魏の官でもある、逆らえば魏に対する反旗という扱いになるのかも。
929伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 20:44:18.38
少しづつ聞き出さないと
伊作さんの考えは分らないことが多いですね。
930日本@名無史さん:2011/03/03(木) 20:44:20.92
>>926
陸軍一個大隊で、一日25キロはきついよ。
秀吉の中国大返しで、一日に行軍34キロという数値が出ているけど
これは文字通り昼夜駆けた強行軍、先遣隊が街道沿いを準備させてだした最速に近い。

荷物もあるし、軍隊じゃないんだから、20キロ行かないくらいだろ。

ひとりだけなら、もうちょっと身軽だろうけどね。人数が多いと大変なのよ。
個人的には時々駆け足で、7時間で30キロ行ったことはある。若い頃の話だが。
931伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 20:49:26.68
陸軍の場合、連日行軍は一日24kmで、強行軍は一日40kmですね。
932日本@名無史さん:2011/03/03(木) 20:52:09.23
魏の重装歩兵って、歩くの大変そう。
でも常備軍だからね、大遠征もできるんだろうね。
933横板に水:2011/03/03(木) 21:04:03.38
>>928
汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞.今以難升米爲率善中郎将.牛利爲率善校尉.假銀印青綬.引見勞賜遣還. とあります。
汝の使者難升米、牛利は遠い道のりをご苦労である。今から難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とする。
銀印と青綬を与える。目どおりさせねぎらいをあたえて帰えす。

ですから、苦労して来た難升米と牛利には褒美として率善中郎将と率善校尉の銀印と青綬を与えたのでしょう。軍事支援宣言とは
おもえませんね。

>>839
>戦時下の来訪だからこそ、狗奴国勢が出没する海域は通れない。

梯儁らが来たときは倭国は戦時下で有明海や博多湾は狗奴国勢に抑えられていたというのでしょうが、これも根拠がありません。
末盧国から陸行をさせるために創りだされたものでしょう。
934日本@名無史さん:2011/03/03(木) 21:10:19.00
>>927

ごめんなさい。と言ってる相手に、それ以上の追求は無用だろう。

遺作は自分のレスの中で
「あの詔書の文言を軍事支援承諾宣言と理解するには20年ばかり時間が必要だうろし、
文脈と行間とが読めない奴には死んでも理解できん。」

と言っている。      ごめんなさい。と言えない奴の白旗が、その一文だよ。
自分を傷つけないための無意識のうちに身につけた、自己防衛手段。
935日本@名無史さん:2011/03/03(木) 21:13:19.71
一日に移動する距離は、官制に記録されている。
936伊作:2011/03/03(木) 21:16:52.56
927 横板に水

>その人は瞬時に理解するかも知れないし、10年で理解するかも知れないし、
>50年かかるかも知れないし、「20年ばかり時間が必要だろう」という根拠はどこにもありません。

大学入試の国語問題で、純文学または哲学書の2ページ分ほどの文章が提示されてあって、
その中の「棒線部分はどういう意味なのか100字以内に書きなさい」という問題がったとして、
この手の国語問題で85点以上がとれるレベルでないと理解不可能だろう。

ここに、そんなのがいれば瞬時に理解できるだろうが、
そうでない者は50年かかっても分からない。
文才というものは理屈じゃない・天分が占める部分が多い。
この理屈もまた、分かる人にはすぐに分かるが、分からん者には死ぬまでわからない。

二次元紙面の文字づらだけを追って、
「書いてある・書いてない」レベルの恥かき議論をしているレベルに説明はムダだ。

横板くん。きみの卑しい部分がみえはじめたぞ。
ところで、きみは「立て板に水」をどう理解してるかね。
横板というハンドルは「立て板」を縦板と誤解した結果だろう。
(またぞろ、あでもない・こうでもないと・慌ててつくろうだろうが)。
「立て板に水」に対する冗句のつもりなら「練板に水」が正解だ。
このネーミングをみて、きみが「立て板に水」を安易に誤解していることを、
俺はコンマ数秒で俺は察知してるぜ。
察知できない者は、いわなければ死ぬまで察知しない。

♪そんなもんだろ〜
937伊作:2011/03/03(木) 21:27:58.86
934
やすい野郎だな。
まともに議論に参加するでもなく、大勢で遠巻きにみている中から、
人影からヤジを飛ばす小者そのものじゃないか。

俺はここくる前に別のトピックで道場破りしてきた。
多くは黙りこんでしまったぜ。騒いでいたのは少数の畿内連だけだ。
たった一人で大勢を蹴散らしてきたが、俺のマネができるならやってみろ。
できてから大口たたけ。

正面から説明した教示・矯正したからといって、礼をいうでもない、
分かりましたというでもない。黙りこんでおしまいのタコばかり。

スポーツでもケンカでも、相手の力量はやった当人が一番よく分かる。
1〜2度やって力量が分からん奴はバカだ。
分かったところで、強がりのホーズをとるのも板参加者の定番行動だがな。
938伊作:2011/03/03(木) 21:29:56.18
936

ていせい。「練板に水」→→「寝板に水」
939横板に水:2011/03/03(木) 21:31:26.35
>>936
>「立て板に水」に対する冗句のつもりなら「練板に水」が正解だ。
なるほど、これはご教示ありがとうございます。ところで、

ひとのハンドルの批評をなさる暇があったら、
>>839
>戦時下の来訪だからこそ、狗奴国勢が出没する海域は通れない。
梯儁らが来たときは倭国は戦時下で有明海や博多湾は狗奴国勢に抑えられていたというのでしょうが、これも根拠がありません。」

という僕の疑問提示にはお答えいただけないのでしょうか?重要な問題だと思いますが。
940伊作:2011/03/03(木) 21:31:40.23
934

>ごめんなさい。
といって逃げるようなら、たった一人で切り込んでこない。

なめるなよ。こもの
941伊作:2011/03/03(木) 21:36:14.47
939
>なるほど、これはご教示ありがとうございます。
すなおでよろしい。
横板に水と書くようじゃ、高度な国語問題の問題には対処できまい。

>これも根拠がありません。
遥か昔から俺説として提示しているが、ここで説明しないだけだ。
説明したところで・ちみたちには理解できない。

センター試験の国語問題を85点以上とれてからだな。
942伊作:2011/03/03(木) 21:37:36.83
939
>ひとのハンドルの批評をなさる暇があったら、

きみの程度を知る物差しとして、重箱の隅をやってみせたのよ。
俺の場合は的確で分かりやすいだろ。
943横板に水:2011/03/03(木) 21:51:31.79
>>841
>>これも根拠がありません。
>遥か昔から俺説として提示しているが、ここで説明しないだけだ。
>説明したところで・ちみたちには理解できない。

伊作さんの字が薄くて読み難いブログを苦労して読んだのですが、理解できませんでした。根拠が書いてないからです。
狗奴国が有明海と博多湾の制海権を握っている(その根拠はなく、伊作さんがそう思っているだけでしょう)としたら、倭国は狗奴国の
支配下に入っているも同然でしょう。そんな状況を窺わせるものは史料にはありません。

倭人伝の風俗記事にも戦時下という状況を感じさせるものはありませんし、梯儁らが来たときの記述にも軍事支援を窺わせるようなもの
はなにもありません。

戦争に関わるようなものが出て来るのは正始6年の「詔賜倭難升米黄幢、付郡假授」が初めてです。
944日本@名無史さん:2011/03/03(木) 21:55:17.09
>>842
コドモの仕返しだね。おまえのかあちゃんで〜べ〜そ〜 レベルだね。
945伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 22:12:32.47
>>935
何km?
司馬懿は1日50kmくらい行軍したようだが。
946日本@名無史さん:2011/03/03(木) 22:16:32.39
>俺はここくる前に別のトピックで道場破りしてきた。
>多くは黙りこんでしまったぜ。騒いでいたのは少数の畿内連だけだ。
>たった一人で大勢を蹴散らしてきたが、俺のマネができるならやってみろ。

それどこの道場?見てみたい。呆れられていたんじゃなかろうね。
947日本@名無史さん:2011/03/03(木) 22:18:46.81
横板君の前に伊作が黙り込んでしまったじゃないか。
948筑紫の民:2011/03/03(木) 22:28:40.86
伊作先生何処行ったと?
949伊作:2011/03/03(木) 22:37:35.72
943 横板に水

>理解できませんでした。
できるわけなかろう。横板だもの。

>根拠が書いてないからです。
構造的に論じているが、断片的にしか見てないのだ。
横板だもの。
950筑紫の民:2011/03/03(木) 22:39:14.56
制空権……すべてのそして時間を制しているわけではない。
     1日にして比較的優勢程度。つまり警戒の穴がある。
制海権……上記に同じ。海にも穴がある。其処をつけ狙って
     密貿易もできる。
951伊作:2011/03/03(木) 22:40:12.27
948
>伊作先生何処行ったと?

見切りをつけたんだけど、しつこいから引き換えして蹴散らしてる。
きびすを返して背中を向けると、背中に向かって吠える犬。

これもまたどこにでもいるのよ。
952伊作:2011/03/03(木) 22:44:18.40
>制海権……上記に同じ。海にも穴がある。其処をつけ狙って密貿易もできる。

わはは。そんなバカがいたところで、
行きはよいよいで・わざと見逃して。帰りに船ごと積み荷をごっそり戴く。
人間のほうは生口だ。濡れ手でアワ。誰だて考えることだよ。
953伊作:2011/03/03(木) 22:53:17.10
945 伊都国王卑弥呼
>司馬懿は1日50kmくらい行軍したようだが。

4000里を休息20日を含む100日で踏破。
ただし、主に、戦車・馬車を伴う大軍が通交可能な道路を、討伐へ急ぐ行軍である。
もう一点。ここでいう4000里は魏書の登場人物の「口頭表現」だから、
端数を端折っている可能性がある。

もっと厳密に計算したければ、『後漢書』郡国誌の地理情報がある。
洛陽から遼東まで3600里。

さて。以上の前提条件を考慮した上で、「1日何里?」とやらねば。
さらにただし。
倭人伝の魏の使節の陸行行程は、獣道のような臨時の陸路ルートだったかも。
954日本@名無史さん:2011/03/03(木) 22:53:28.00
>>933
なるほど。
まあ、魏は本気で軍を送ってやる事まではしないだろう。
金は出さずに保証をあたえる、大手銀行の裏書つき手形とおなじだな。
まさに王道。
955筑紫の民:2011/03/03(木) 22:53:37.28
伊作先生
>>950 
 の発言は、>>943横板に水様に対してのものです。
「たとえ制海権があったとしても其処は穴だらけであり
連絡可能」ということです。

ところで、伊作先生の「大和の揺籃邪馬台国」と「民族の指紋」
感動しました。

2回読みましたが、

倭人が何処から来てどの様に成長して倭国になったのか

倭国がシナ大陸とどの様に付き合っていったのか

邪馬台国(倭国)が現代同様外交と内務に揺らいでいた事

そしてシナ大陸の歴史書の歴史

2回読んだ程度では十分理解できてませんので、
3回目読んできます。

伊作先生ありがとう。

956伊作:2011/03/03(木) 22:57:00.65
955  筑紫の民
>ありがとう。
興味をもっていただいたことに感謝します。
957伊作:2011/03/03(木) 23:02:44.48
メダカの学校ならぬメダカの抵抗。

幼稚な会話を楽しんでいたメダカの群の中に、
肉食のブラックバスを放り込んだ時の体だったな。

わらわら
958日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:03:59.52
>>937曰く

>スポーツでもケンカでも、相手の力量はやった当人が一番よく分かる。
1〜2度やって力量が分からん奴はバカだ。


ネットだから好きなこと言えるな。
こういう奴に限って、言ってる事と実生活の乖離が甚だしい。
よくネットで犯罪予告し、警察のやっかいになってる奴も、掲示板での内容と逮捕後の動機のギャップが
滑稽なくらいに乖離している。

お前も教科書通りの単純な奴。

お前はコモノすらなれない干物だよ。
959日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:06:06.55
年の功では伊作の勝ちだが、
人間の徳、学問への姿勢において横板の勝ちだな。

伊作も強気一辺倒では、人生折れちゃうぞ。
おまい見たいなタイプはよく自殺する。
960筑紫の民:2011/03/03(木) 23:08:25.54
1日50kmの行軍って厳しいよね。一般軍隊では2〜3日はできても1カ月以上はまず無理
ましてや古代の街道が未発達の倭国において、尾根(山伏が歩いた山々)
河川、浜辺など、そんなに速度を発揮できない。
個人に荷物だって、前にも書いたけど
個人用糧食1食500g×5(3食及び予備含む。)=2.5kg
水5l(1日4l+予備1l)5kg
衣類(平服と正装)5kg
武器(剣2kg×2)4kg
鍋・食器・その他生活必需品そしてお宝物
背中の荷物は個人あたり30kgは超すと見積もられる。
961日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:11:45.85
940:伊作 :2011/03/03(木) 21:31:40.23
934

>ごめんなさい。
といって逃げるようなら、たった一人で切り込んでこない。            

最強の馬鹿だな!!

これまでに掲示板に複数で遣ってきた例でもあげてみろ。バカ
962伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 23:14:38.63
>>953
『三国志魏書』の韓伝に「後倭韓遂屬帶方」とあるように
公孫氏と倭は親密な関係にあり
公孫氏が魏に滅ぼされると同時に使者を派遣している。
倭王の都から帯方郡までの道路を含めた交通手段が整備されていないと
情報を得たり、使者を瞬時に派遣することは難しい。
臨時の陸路ルートはないでしょう。
963伊都国王卑弥呼:2011/03/03(木) 23:21:20.76
>>960
海路に比べて、陸路はたいへんなんだよね。特に荷物があると。
なるべくなら海路で行きたいと考える。
日本は殆どの所が海岸から1〜2日で着けるのに
何で魏使は陸行1月もしたのか?
可笑しいね。
964日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:25:07.01
海路で行くよりも陸路の方がずっと簡単だからだろうな。
965日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:27:30.69
一日50キロも歩いたら、俺なら次の日動けそうにないな。

そうか、50キロ歩いて、一日休み、50キロ歩いて、一日休みなら
平均25キロくらいになるな。

966日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:31:04.78
西海道(九州)は海の道、山陽道は陸の道
 
967伊作:2011/03/03(木) 23:31:27.49
●メダカの古代史への興味をそぐ。

卑弥呼と臺與はあくまでもリリーフ投手にすぎない。
卑弥呼が倭国王家(帥升系)の血脈にあった可能性は薄い。
私は、卑弥呼は信頼の渡来人子女だった可能性を考えている。
論拠は、彼女の鬼道(天師道もしくは太平道)といわれた初期道教だ。
中国大陸で初期道教が盛んになるのは190年頃で、卑弥呼が女王になったのも190 年頃だろう。
彼女はこの時点で鬼道をマスターしていたわけだ。
鬼道(初期道教)とは、中国の無数の賢哲が極めた森羅万象の哲学ともいえる黄老学(道学)か基礎になっている。
これを習得するには高度な中国語素養と広範囲の知識を必要とする。
ということは、生粋の土着倭人には伝授も習得も不可能だ。
時間的なタイミングからみても、彼女は大陸でマスターしてやってきたと考えるのが妥当だろう。
縄文時代後期から弥生時代にかけて、最も渡来が多かったのは長江河口からの直接渡来だ。
私は、縄文人も弥生人も長江流域の「文身をする・お歯黒をする・文字をもたない」民族だったとみている。
彼らは、長江文明の担い手であり、楚呉越の領民を構成した南蛮・荊蛮・南越と呼ばれた民族だ。

つづく。
968伊作:2011/03/03(木) 23:32:35.69
お歯黒は実は庶民の習俗ではなく、皇族や貴族が江戸時代までしていた習俗だ。
(聖徳太子もお歯黒をしていたとか)。
お歯黒は古墳時代の埴輪と人骨から発見されているが、弥生時代に存在した証拠はまだ発見されていない。

後漢末は一大宗教変革の時代でもある。
大地の神に豊穣の祈りをした銅鐸の時代から、鏡と剣を二種の神宝とする信仰改革へ移行して、
古墳時代をもたらしたのは新しい渡来人勢力だった可能性もある。
私の検証では、▼縄文後期の土器・土偶、▼弥生時代の銅鐸・銅鏡、▼古墳時代の埴輪・装飾古墳から、
現代にいたるまで、長江流域の諸民族が神と崇めた存在を表した幾何学文様が連綿と息づいている。
つまり、長江流域から時代を隔てて継続的に渡来してきた多民族がつくったのが倭国ではないかと思う。

そう考えれば、似てはいるが少しずつ文化の異なる民族が混在したこともうなづける。
熊襲・隼人・土蜘蛛・熊鷹といわれた社会部族が、長江流域諸民族の縮図だったのではないかとさえ思う。
969伊作:2011/03/03(木) 23:34:38.29
さて。
リリーフ投手たる卑弥呼と臺與の時代を経て「空白の世紀」が続くのだが、
そのトンネルを抜けてみたら、倭国は中国名を名乗る五王(男王)たちの時代になる。
この見えない時代は推測に頼らざる得ないが、私流に推察すると、
古墳時代をもたらしたのは「お歯黒」をする民族だったのではないかと思う。

5世紀以降の熊本を中心とした装飾古墳は、
長江流域の諸民族が神と崇めた存在を現した幾何学文様で満たされている。
これは、お歯黒をする倭国中枢人が大和に引っ越したあと、
特定の者が力をつけすぎないように九州を細かく分断して支配管理していた、
皇別氏族(天皇家から分かれた○○の君)の文化なのだ。

それでも、磐井のように力をつけすぎる者があらわれる。
一説によると磐井の墓も装飾古墳らしい。
天皇家から分かれた○○の君の墓が装飾古墳という現実をメダカしょくんはどうみるか。


生身の人間が生きた歴史にロマンなどはない。
歴史の真相というものは、やわい美的願望など簡単に粉砕する。
970日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:36:32.81
一度船に乗ったら、できるだけ船で行けるところまでは船で行くだろう。

水行20日の投馬国は海沿いにあったんだろう。
そして、一夜の宿の後、又船に乗って邪馬台国へ向かう。
水行10日陸行一月。

多分、この水行10日陸行一月の部分に邪馬台国と投馬国の
国境線があっただろう。別の国はない。

水行10日陸行一月は、自分の一月千里という相当の短距離説ですら
100キロ以上となる。一日40キロという超高速でも3日、
一日20キロの通常ペースでも5日かかることになる。
ゆっくり調査しながらなら10日以上かかったかもしれない。

その間に別の国があれば、必ず記載されただろうから。


971日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:42:14.49
史書の行程記事は連続式のほかに放射式で書かれたものも多数あった。
史家は、連続式か放射式かを読み分けることが必要だったわけだ。
その徴表からすれば、倭人伝は放射式で書かれている。それを無視していて
は倭人伝は読めないよ。
972伊作:2011/03/03(木) 23:43:42.06
961             
>最強の馬鹿だな!!
やさて見せたことは「最強の強者」だな。
ここにきた当初に最強の九州説と豪語してるが。現実にそうだろ

>これまでに掲示板に複数で遣ってきた例でもあげてみろ。バカ

誰しも一人で参加するが、いわず語らずで徒党を組むだろう。
俺は孤軍奮闘。手あたり次第に蹴散らしてやった。
はじめから、そうなることは想定の上でだ。わからんか?

あい変わらず文字づら追いのバカ解釈で、
俺だけが一人で参加してるとゆったと解釈してる。
ま・その程度の能しかないんだろうが。

見ての通り、多勢を相手に蹴散してやったろ。
973日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:49:00.87
同時代の文献で、明らかに放射式とわかる記録と
順次式の記録、それらと倭人伝を照合すれば、
順次式か放射式がわかるのかな?

素人目にはほとんど違いがないように見えるので、
分かりやすい照合できる文献があれば教えてください。
974伊作:2011/03/03(木) 23:51:05.25
じゃメダカしょくん。
格違い・場違いの天才は失礼するよ。
ちみたちだけで、好き勝手な妄想と空想を語りあてたまえ。

「こいつ頭いいな」と思う人はいなかったが、
古代史研究空間の底辺の実態を見せてもらった。

ありがとね。
975日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:57:50.63
>>967
>卑弥呼は信頼の渡来人子女だった

この意見には全面的に賛成ですね
というより邪馬台国自体が江南からの渡来人による後発の新興国家ではなかったでしょうか
彼らは鬼道、水軍、すすんだ鉱山技術などを背景に倭に割拠していた豊かな国々を
次から次へと自国の配下におさめていったのではないでしょうか
しかしその栄光の日々は長くは続かなかったもののように思われます
976日本@名無史さん:2011/03/04(金) 00:16:17.53
>>973
倭人伝の伊都国以降は放射式だとする榎とそれに反対する学者のいずれもが、
次の例は放射式だと認めているそうだ。

漢書大宛国の記事
 大宛国王治貴山城。去長安万二千五百五十里。・・東至都護治所四千三十一里。北至康居卑闐城千五百一十里。西南至大月氏六百九十里。北与康居、南与大月氏接。
977日本@名無史さん:2011/03/04(金) 00:26:09.37
>>976の続き
山尾「魏志倭人伝」は次の例をあげている。

營州東百八十里至燕郡城 又經汝羅守捉 渡遼水至安東都護府五百 里 府 故漢襄平城也
東南至平壤城八百里 西南至都里海口六百里 西至建安城三百里 故中郭縣也 南至鴨淥
江北泊汋城七百里 故安平縣也

東南至平壤城八百里以下は、安東都護府を起点とした放射式説明だそうだ。
978伊作:2011/03/04(金) 00:27:07.54
975
卑弥呼は新来(ていせい)の渡来人子女だった
>この意見には全面的に賛成ですね
私説の論拠はしっかりしているから、そう考えざる得ないですね。

>邪馬台国自体が江南からの渡来人による後発の新興国家ではなかったでしょうか 。
火焔土器・遮光器土偶、銅鐸・銅鏡、埴輪・装飾古墳、
これらをつくったのはみな長江流域の文字をもたない民族です。
やってきた時期は新旧あれど、同じ民族です。
銅鐸、環濠集落、横穴古墳、高塚古墳、銅鏡と、
みな長江流域に源流が確認されています。

>彼らは鬼道、水軍、すすんだ鉱山技術などを背景に倭に割拠していた豊かな国々を
次から次へと自国の配下におさめていったのではないでしょうか
もとをただせば同じ民族ですからね。
小競り合いはあったにしても、「次から次へと自国の配下に」
といった激しい確執はなかったかも知れません。

いずれにしても、こういうことを私が発表したからには、
アマチュア古代史ファンの半数はシラけるでしょう。
「卑弥呼夢ものがたり」をたたき壊すのが狙いでもありますが。
そうした雑音・雑念を駆逐したあと、本当の古代史研究がはじまるのです。
979sss:2011/03/04(金) 00:32:51.29
>>933
景初三年の卑弥呼の遣使は、軍事支援の可能性も捨てきれないと思う。
魏の皇帝の詔書の最後にこんな文がある。

「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」

与えたものを悉く国中の人に示せ、国家が汝を哀れんでいることを知らしめす
べきである。ゆえに鄭重に好物を賜るなり。

卑弥呼が、魏との関係を他の国に対する牽制の意味で使っていたようにも
受け取れる。また、それを求めていたように思える。
980日本@名無史さん:2011/03/04(金) 00:34:35.95
>>976の続き
山尾は、「方位・地名・距離」を「放射式書法」としながら、その書法だけでは
絶対的ではなく、「又」などの経歴することを示す詞や新たな起点を示す地名が
なく放射式書法が連続する場合は放射式に読むべきだ、と主張している。
そして、倭人伝の伊都国以降には、経歴することを示す詞や新たな起点を示す地
名がないから放射式だと結論づけている。
981伊作:2011/03/04(金) 00:43:22.38
979  sss
>魏の皇帝の詔書の最後にこんな文がある。
「説明しろ」「論拠がない」「書いてない」とほざくぼんくらだけかと思ったら、
いちいち説明しなくても分かる人がいたらしいね。
982伊作:2011/03/04(金) 00:53:49.12
961             
>最強の馬鹿だな!!
俺は一人で「切り込んできた」と書いたが、その通りだったろ。
てめえなどとはちがってる所だな。

で・最初に俺が切り込んだ「ドンと来い」をみてみろ。閑古鳥だ。
「卑弥呼の王都に卑弥呼の墓はつくらない」という歴史的事実。
これで纏向邪馬台国説、箸墓卑弥呼墓説が飛んだ。
魏の尚方では絶対につくるはずのない呉式神獣鏡に魏の年号が刻まれている不条理。
これで、三角縁神獣鏡が国産であることが決定的になった。
「武力支配時代の関門海峡と朝鮮半島との通交ルートの支配の形と使われ方」
を提起した俺の「列島支配一元論」で、畿内説の基盤が崩壊したし、
「ゆるやかな連合」などという願望論もふっ飛んだ。

畿内説の輩も表面づらではやいのやいのいうが、
内心は強烈な論拠をていじされてシラけてきていることは事実だ。
俺のいう「あとは時間が解決する」だ。

「九州説はゴミクズ」といわれて何もできなかった所へ、
俺が切り込んでバンカーバスターを落としてやったのだ。
てめえなどにはマネのできないことをやってのけたのだ。

さて。ゴミクズメダカしょくん。しょくん相手も飽きた。
俺とマジな会話をしたい者は俺がつくった掲示板を再開するからこい。
http://8242.teacup.com/isaq/bbs

もっとも、ハンドルネームつくる度胸があればのことだがな。わらわら
983日本@名無史さん:2011/03/04(金) 01:27:37.60
記念カキコ

377 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2011/01/28(金) 23:52:59 0
>>372
近代前の人だってそんなこた分かってるから、
宣長などは古典文学の中の情緒的無常感を
日本の本質と見なしたわけで。

378 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2011/01/29(土) 00:04:01 0
こういう宣長の態度は本質論的日本主義と
明晰さや客観性の妥協点みたいなもんかね。
984sss:2011/03/04(金) 02:47:06.14
>>981
卑弥呼がどうして帯方郡(魏)に使者を送ったか。
帯方郡が魏の手に落ちたというのはあまり理由にならないと思う。
卑弥呼の側の必要性ではないから。

一つには、公孫氏を滅ぼした司馬懿の残酷さを恐れたというのがある。
成人男子を皆殺しにして、首を晒すというのは確かに怖いところがある。

しかし、その後の状況を見ると、狗奴国との争いの中で、魏の後ろ盾を
求めたというのが大きいと思う。
景初三年の朝貢で、詔書・金印をもらい、魏との関係が出来たにもかかわらず
狗奴国はひるむ様子がない。

そこで、卑弥呼は正始四年にまた使者を派遣する。倭人伝には、朝貢したと
いう程度の記録しかないが、六年に黄幢(魏の軍旗)が帯方郡に到着して
いるところを見ると、四年の朝貢のときに黄幢を求めたのか、あるいは
軍事援助を求めたということも考えられる。
援助の代わりが黄幢ということということも考えられるわけなので。

そして、八年になると、今度は、卑弥呼はまた使者を派遣し、狗奴国と互いに
攻撃し合っている状態にあることを説明する。これを受けて張政がやってきて
仲裁することになる。

卑弥呼が朝貢した最も重要な目的が狗奴国対策だったというのも十分に
可能性のあることだと思う。
985日本@名無史さん:2011/03/04(金) 08:35:55.17
>>936

伊作チャン
横板くんに苛められたときにやり返す殺し文句が見つかってよかったね と言ってやりたいんだけど・・・

「立てた板」に対して「寝かせた板」とするのは どうかな?
「寝かせる」には「パン生地を寝かせる」など必ずしも横にすることを意味しない用法がある。「木材を寝かせる」と言えば放置して乾燥させるなど
seasoningの意味で使われることがほとんどである。寝板より「横に架けた板」ということで横板の方がいいんじゃないかな。

まあ、どうでもいいことだが。伊作チャンが鬼の首でもとったかのようにハシャイデいるのを見て ふと思ったこと。
986日本@名無史さん:2011/03/04(金) 11:41:18.43
>>985
なるほどね。それじゃあ、これから伊作へのレスに「寝板だもんね」とやってやろうかな

と思ったが、それじゃコドモの喧嘩で伊作なみになってしまうから やめたっと。
987伊作:2011/03/04(金) 12:20:30.37
984 名前:sss
>六年に黄幢(魏の軍旗)が帯方郡に到着して
これは難升米の手に渡っています。
文章は「郡に付す」ではなく、難升米に假授したと書いています。

>そして、八年になると、
また黄幢がもたらされます。
倭人伝は(主なゆりとりの抜き書きで)いちいち細かく書いてないだけで、
このほかにもやりとりがあったと思いますよ。

以下は論拠はありますが説明抜きで結論だけ。
後漢代以降、軍隊の発動権は皇帝直轄になっていますから、
皇帝じきじきの詔(命令もしくは許可)を受けてもたらされた黄幢とは、
援軍兵団の代名詞として、恩着せがましくせずに表現しているものと思います。

黄幢は軍隊が掲げる(旗竿につける)旗とは異なる、(旗竿に吊る)のぼりです。
黄幢は側近の皇帝の親衛隊が掲げるものです。
軍旗にはその軍旗の格と規模に応じた兵団が付属します。
黄幢は禁軍の精鋭が付随した「錦ののぼり」でしょう。

つづく。
988伊作:2011/03/04(金) 12:22:43.11
つづき。

軍旗だけが来ても女王国側の戦力増強にも何にもなりません。
この親衛隊を指揮をできるのは、禄高300石の塞曹掾史ではなく、
2000石の親衛隊高官である中郎将です。
この程度のことは、当時の中国人にとっては常識だからいちいち書いてないのです。

魏が倭国の使者に中郎将の官位を与えたのは、
「いざ援軍派遣」という時を想定した事前措置だったと思います。
大夫も皇帝への接見資格があります(だから倭人の使者は大夫を自称した)が、
わざわざ親衛隊高官の率善中郎将を与えたのには、そういう配慮があったものと思います。

ここでちょろちょろする愚かなど素人たちは、
いちいち図式的な説明をするものだという思い込みんでいますが。
笑いぐさです。
当時の中国の知識層を意識して書かれた歴史書を読むのに、
当時の中国の知識層のレベルに近づく努力をしなくてどうしますか。
漢文の歴史書を読むに必要な中国の歴史を知らなさすぎます。
極めてバカげたことですが、必要な下地がない状態で勝手な妄想解釈をしているのです。

それで、己の無知により無理解に起因するものを、
理解できないことを提示されると「論拠がない」「書いてない」という愚かしさ。
989伊作:2011/03/04(金) 12:35:00.02
どうだ、無知蒙昧のタコども。

タコには思いもつかない、独自の新説・新解釈をずいぶん提示したが、
「舌をまきました」と、正直にいう良識は一人もいないのかな。
990横板に水:2011/03/04(金) 14:06:39.84
筑紫の民さん
伊作さんの書かれたものには素晴らしいものがいくつもあります。僕もそのような業績は評価されるべきだと思います。しかし、倭人伝の行程のところには
伊作さんとは信じられないような不可解な点があります。それで僕が若輩未熟の身を顧みずそれらの点について疑問を提示してお答えを頂こうと試みている
ところです。伊作さんを全否定しているものではありませんので、ご理解下さい。

>>949
>>根拠が書いてないからです。
>構造的に論じているが、断片的にしか見てないのだ。
>横板だもの。

構造的に論じているというのは、言わば積み木を何段も積み上げて塔を作るように各論を積み重ねて論じているということでしょうか?
991横板に水:2011/03/04(金) 15:05:52.53
>>984 sssさん
sssさんの言われることもいくつか考えられる可能性のうちの一つだろうと思います。他にも考えられることがあります。
漢時代の朝貢外交では文化や技術を得る事や交易も倭にとって重要な目的だったと思います。卑弥呼の場合もそのような目的が
あったのではないでしょうか。

東夷伝の韓のところに
景初中、明帝密遣帶方太守劉kin[偏日旁斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。其俗好衣saku[偏巾旁責]、下戸詣郡朝謁、皆假衣saku[偏巾旁責]、自服印綬衣saku[偏巾旁責]千有餘人。
部從事呉林以樂浪本統韓國、分割辰韓八國以與樂浪、吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之、遵戰死、二郡遂滅韓。
とあります。

卑弥呼が難升米らを遣わしてから数年後に韓が郡に叛いて、その鎮圧にあたった太守弓遵が戦死します。これに関して倭人伝の以下の記事は関係ないでしょうか?
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、hu[扁犬旁付]、短弓矢
献上物に短弓矢が含まれています。景初2年の献上物には無かった武器です。これは韓の反乱鎮圧に使ってもらうためではないでしょうか?

そして、其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授 ですから、これは魏が難升米を韓の鎮圧戦に参戦させたものと考えられませんか?

倭国においては狗奴国とのいさかい程度はあったでしょうが、戦闘状態に入ったのは正始7年以降のことではないでしょうか?其八年、
太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状 とありますから。

992sss:2011/03/04(金) 16:09:36.62
確かに、九州では前漢鏡も出ていて、非常に古くから大陸との交流があった
ことが認められるし、漢書・地理誌にも往来している様子が書かれている。
公孫氏の滅亡により道が開けたので、交流が再開されたというのも可能性の
一つだと思う。

ただ、倭人伝の記述で最も重視しているのは、卑弥呼が狗奴国に対応できなく
なっていること。外国に遣使して、その状況を説明するというけっこう
みっともないことをやっていること。さらに、その調停のために張政の
派遣があること。

やはり、狗奴国の圧力が大きかったと考えるべきで、卑弥呼の遣使の主因が
狗奴国だった可能性も十分にあると思う。

韓の反乱に関して、卑弥呼に参戦の要請をするというのは考えにくいと思う。
属国扱いしている国に軍事的な援助を求めるのは魏の威信にも係わる
ことなので。また、そのような例はないんじゃないかな。

弓遵がいつ頃戦死したのかちょっとわからないけども、八年に王頎が赴任
するまでの太守の不在期間がどういう意味を持つのかも問題かな。

黄幢については、張政が詔書と共に倭国に持ち込んでいるので、やはり
卑弥呼の要請ではなかったかと思う。
993伊作:2011/03/04(金) 16:12:57.12
990  横板に水
>構造的に論じているというのは、言わば積み木を何段も積み上げて塔を作るように
>各論を積み重ねて論じているということでしょうか?
それはただの縦て積みだろう。

「構造的」という言葉の意味を自分でしらべなさい。
自分で調べたものは自分の知識となるはずだ。
悪いが、きみは俺の説明や言葉を理解する容量がないとみた。
しかも、自分で未熟な若輩といいつつ、妙な反感だけが目につく。

自力で、ゼロから空想論を築きたまえ。きみのいう縦て積み方式でな。
994PTA:2011/03/04(金) 17:15:08.77
仮定に基づいて組み立てられた論は想像でしかない。仮定の正しさを論証出来なければ無意味な論となる。
伊作氏の「末盧国からの陸行」論は有明海や博多湾が邪馬台国と対立する狗奴国の勢力圏であったという仮定に基づいている。この仮定が許容できる
ものであるか否かが重要な争点となる。伊作氏の論証は論証の体をなしていない。文献なり、考古学的資料を以て論じてこそ論証と言える。伊作氏の
論にはそれがない。
995日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:19:56.25
>>993
>悪いが、きみは俺の説明や言葉を理解する容量がないとみた。

都合が悪くなったらこの手で逃げる。いつものことだ。自分の無能を他人の所為にする卑怯者のやり口だ。
996日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:28:48.20
>しかも、自分で未熟な若輩といいつつ、妙な反感だけが目につく。

はっはっは〜。ゲスの勘ぐり。振られた女の恨み言か。みっともないことはやめてくれ。「どうだ、無知蒙昧のタコども。」と切った啖呵が泣くぜ。
997日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:35:13.09
>>994
どうも伊作氏は熊本南部を狗奴国としているみたいだよ。
998日本@名無史さん:2011/03/04(金) 17:38:00.49
伊作は自論が完成しているから、ここに来たところで自論を披露して反論があれば
押し戻すだけ。正当な反論に対して返答できなくなってくると、相手を馬鹿呼ばわりの
罵倒だ。自分が正しい前提でしか討論する気のないやつがここに来てもしょうがない
んだがな。
999横板に水:2011/03/04(金) 17:49:59.05
>>992 sssさん
>ただ、倭人伝の記述で最も重視しているのは、卑弥呼が狗奴国に対応できなく
>なっていること。外国に遣使して、その状況を説明するというけっこう
>みっともないことをやっていること。さらに、その調停のために張政の 派遣があること。

仰られていることは正始8年という記述の後に書かれていることですよね。そのことから、それ以前、特に卑弥呼が難升米らを派遣した頃に狗奴国と戦争状態にあったとは
言えないでしょう。それから、
『倭人伝の記述で最も重視しているのは』というのはsssさんが重視しているということでしょうか。僕は卑弥呼の最初の朝貢が最も重視されていると思うのですが。
詔書の内容まで詳しく記述されています。それ以降については卑弥呼からの上表答謝恩詔の内容も、遣塞曹掾史張政等因齎詔書の詔書の内容も書かれていませんで、献上物に
ついて詳しく記されています。
1000伊都国王卑弥呼:2011/03/04(金) 17:59:56.59
伊作さん僕が書いた>>599>>601のような図で説明してくれない。
10011001
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