221 :
日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
>>218 氏康が家督継承時深谷羽生はおろか岩槻・八王子・鉢方などにも全く進出してないし
下総にも進出前なのに領地増やせなかったとかアホすぎてワロタwwww
>>219 >>ところで武田との戦いに直接関係ない敵対勢力は残らずカウントするのに
直接関係ねーわけねーだろアホ
他の方面に敵がいたら当然そっち方向に残す兵が必要だから動員数なんて減るわw
勝頼との対戦時でも下野方面に対応して氏政が出兵してたくらいだし
>>221 その程度しか領地ふやせてないってことだろ。拡大率なら3割増し程度。
信玄謙信とか5倍以上にしてるよな。雲泥の差だな。
同盟国をカウントしないのはなぜ?
同盟国を使いこなすのも大名の器量だろ。
器量の乏しい氏康擁護は大変だなあ
領域区分のことはよくわからないんだけど
三船山の敗戦以降て里見氏は氏康相続時より領地増やしてる?
勢い乗って下総まで勢力伸ばしたらしいが
上総全域に加えて下総にまで版図伸ばしてる
北条が房総で優位に立つのは関宿・羽生・深谷攻防に勝利した天正2年以降の房総進出でようやく。
それまでは謙信も来るわ北武蔵や下総で忙しいわでそれどころじゃない
お前ら氏康ばっかり叩くけど
後北条氏は始祖早雲からして粉飾まみれだろ。
氏康は古河公方両上杉関東諸侯今川武田と包囲網張られた状態からよく
武蔵や下総に確固だる地盤築けたと思うわ
>>217によると武蔵にも下総にも確固だる地盤築けてないけどなw
地盤て別に全土を平定って意味じゃなくて土台っていみだろ
確固だる地盤て便利な言葉ですね
ん?確固だる?
武蔵羽生・深谷領以外なんだから十分確固じゃん
下総も関宿水海など東部や里見が進出してきた南部はともかくそれ以外の地域の地盤は氏康期に築かれたし
家督時から3割ほど増やした領地を確固だる(笑)地盤と飾り立てる
信玄謙信とかと比べると随分ショッパいね
>>226 粉飾まみれの早雲氏康のせいで、間の氏綱は影が薄いね
今川からの独立、北条改姓、今川上杉相手に領土をガンガン広げて、
晩年には扇谷上杉の本拠河越城さえ奪取、武蔵東端に追い込まれた扇谷は滅亡寸前
北条の地盤築いたのは氏綱なのにね
そういや、上杉系図によると上杉朝定て、氏綱が河越奪取した天分六年に死んでんだよね
天文十五年、河越夜戦(笑)の頃の扇谷上杉はどうなっていたのか
235 :
日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN
>>166-168 そもそも北条て本当に民に優しかったのか?
氏康より、かなり後の話だけど
秀吉よの戦いに備えて天正15年頃からは徴発掛け捲って農民の逃亡、小領主が借金で没落が相次いで
緊急事態とはいえ、かなり夫役きつかったみたいだけど
>>235 北条厨「氏政は過小評価!本当は名君名将なんだから(震え声)」
237 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
関東は石高が以外としょぼかったらから仕方ない
治水が本格的になされるようになったのは家康以降だし
徳川幕府樹立後全国から人手と資金かき集めてなさるようになったインフラ工事が北条時代にできるわけがない
238 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
豊臣…徳川家に滅ぼされる 信長&織田家…光秀に滅ぼされる 徳川家…天下を取る
武田家…織田・徳川軍に勝ちまくり両家ともに滅亡寸前にまで追い込む
上杉…武田に大勝する。織田を半分以下の兵力で瞬殺し1800人討ち取る
秀吉…織田で最も雑魚な信雄やアホ輝元に10000人&3000人殺される。滝川に伊勢で蹴散らされまくる 本多500に20000の大軍で敗北する
北条…滝川18000を瞬殺し6000人ぶち殺す
史実の戦績で本多500>>>>>秀吉軍20000(小牧長久手時の後詰妨害の攻防)
織田徳川16000〜17000>>>>>>秀吉軍135000(決戦しかけたら1万人戦死の大敗)
滝川6000〜8000>>>>>>>秀吉軍60000(天正11年の伊勢の攻防、ゲリラ戦で苦しめられまくり7月まで篭城
(3/4柴田→填島書状、滝川事書本多氏論文)柴田・信孝の降伏で勝ち目なく降っただけ)
だから滝川破った氏直は秀吉の20倍くらいの戦闘力はある
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
秀吉は信雄相手に7.5倍以上の圧倒的兵力で1万人以上ぶち殺された。
氏直は信雄より遥かに勝る家康相手に諏訪高島・乙骨で勝利し、全体でも引き分けした。
秀吉は6万の大軍を伊勢で滝川に蹴散らされまくり大苦戦。北条は三万で滝川18000を瞬殺し6000人討ち取った。
豊臣家は家康に滅ぼされて滅亡
北条家は江戸期も存続。旧臣らは家康配下で重宝され、統治システムも豊臣ではなく北条家の物が受け継がれた
239 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
小田原合戦時の陣立書で全国から215000&佐竹結城里見宇都宮ら2万で235000。
北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。秀吉書状で2、3万。兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前
そんな戦闘で重臣一柳や堀尾の子、前田重臣、平岩弟が戦死し、氏家行継負傷。韮山500に大苦戦し小田原1000程度や忍1000に手も足も出ない。
勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが北条方の兵力が集中した上野・武蔵・下総の諸城落としたおかげ(ちなみに勝ってない。講和開城しただけ)
北条側は主戦派抗戦派割れるなど戦意0で松田大道寺皆川北条氏勝など寝返り・抗戦意思なしで降伏する者ばかりの戦意0の状況
享禄以来年代記によれば豊臣軍は29万。また榊原書状や那須記など50万の大軍。にもかかわらず忍小田原韮山など1000〜500そこそこの拠点も落とせず
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる
北条>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
以上をまとめると武田>>>徳川・北条>>>>>>織田>>>>>>>>豊臣
240 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
北条は確かに雑魚だが、それは佐竹・里見・結城・宇都宮・武田・上杉など強豪と比べての話。
幼君義龍(クーデター騒ぎで分裂状態)に負けまくった信長や、信雄・輝元などの雑魚武将に蹴散らされまくった秀吉などに比べれば遥かに強い。
織田家トップクラスであり秀吉が伊勢方面で蹴散らされまくった滝川を北条が瞬殺してる時点でわかる
追い詰められると織田豊臣を叩いて織田武田厨の争いを誘発し、不都合なレスを押し流そうとする北条厨
本当にカスだな
242 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→100
信長30→20で氏康のがずっと上だしな
もはや支離滅裂だなw
ノブヤボスレの自演キチガイのスレ
コピペ厨は創造スレで相手にされないもんだから
こんな辺境に流れてきたようだ
>>235 北条はヒキニートに優しい大名
特に氏康さんの生き様はヒキニートに生きる希望を与えてくれます
247 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
神流川の戦いはガチンコ決戦だね。
合戦の最中寝返りが出たとか講談にしかないデタラメだし
上野国衆勢はむしろ緒戦で敢闘して氏邦勢を撃退してる
本戦で氏直の偽退却戦術にかかって滝川軍18000のうち6000も戦死し重臣もことごとく死ぬなど
決定的に戦術で負けただけ。ようは実力で勝負がついただけの戦。
あと信長が死んでボロボロになったのではなく
元々弱くてボロボロになっただけ。
森なんか本能寺前ですら四面楚歌状態の上杉に長沼攻防で敗北してるし
信玄横死後、斉藤道三・義龍横死後でも
美濃信濃甲斐遠州は草刈場にならなかったのに
信長横死したら甲斐信濃上野は大混乱で徳川上杉北条の独壇場。
いかに織田が雑魚だったかわかる事例
北条>>>>>織田
秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
氏直が2倍程度の兵力で瞬殺した滝川(6000そこそこ)に5〜6万で挑んでゲリラ戦で苦しめられ蹴散らされてたし
248 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
>>あんなド田舎で村上や長野に何度も破れて真田に泣きつくとか 信長や秀吉に比べると雑魚にも程がある
織田→ド田舎で弱体化しきった斉藤や内訌で分裂した北畠に負けまくり対浅井の敗戦や観音寺騒動でよわりきった六角などを火事場泥棒して版図広げるも光秀との戦いに敗れ信長殺されて滅亡、
豊臣→織田領を信長死後の混乱に乗じて棚ボタ火事場泥棒するも徳川に敗れ滅亡
武田→村上や小笠原山之内上杉北条今川など格上の国力の勢力に寡兵で勝ちまくり天下統一寸前で信玄死亡
>>天下を狙える人物(笑)なら何十年も甲信なんぞに 引きこもってないで中央に出てこいってのw
信玄は織田徳川相手に上村合戦東美濃攻防戦三方が原と勝ちまくり天下取る寸前のところで病死
勝頼は織田徳川相手に敵国の7分の1の国力にもかかわらず敢闘するが対北条戦徳川戦や甲江同盟反故の騙まし討ちと
織田の自国の10倍以上もの大軍と期を同じくしておきたタイミング悪くおきた浅間山噴火で撤退せざるをえなくなり運悪く滅亡
喧嘩でいえば1対5でも勝つ強靭ファイター武田相手に12対1で挑みかかって運悪く起きた持病と他の敵との戦いで負傷で負けたみたいなもん
ただの火事場泥棒で決まった戦いなので実力でもなんでもない。
実力で織田と武田が戦った結果なのが武田圧勝で終わった東美濃攻防・上村合戦・三方が原
信長や秀吉は畿内・美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
その家康は諏訪高島で北条相手に敗走。
織田家トップクラスの滝川一益も北条相手に6000戦死の大敗
馬鹿秀吉厨の妄想どおりだとすると
雑魚で無能な北条一族は滝川相手に討死してるか徳川相手に1万人以上ぶち殺されてる(秀吉は実際7倍の兵力で挑みかかって短期決戦で1万人ぶち殺されてる)
→秀吉が蹴散らされまくった滝川相手に6000人殺す大勝。徳川相手でも引き分け。
常に勝ちまくりで有能な織田豊臣はとっくに幕府開いて江戸期は豊臣か織田の時代になってる
→実際は両家とも戦いに負けて滅ぼされて滅亡
249 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。
信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
氏康>>>>>>>信長
>>246 壁の奥に引き篭もって家畜の安寧を貪る豚の象徴だな
251 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
信長が氏康の立場で生まれてたら今川・古河公方・両上杉・関東諸侯包囲網に瞬殺されてただろうな
何せ史実で幼君で分裂・国内クーデター騒ぎ・まともに抗戦せず降伏するものばかりの斉藤に6回くらい負け
伊勢侵攻の大河内城攻めではアホみたいに家臣団が死にまくり、長島一向一揆征伐じゃ餓死寸前の一揆勢数百を数万の大軍で騙まし討ちにしたら
一門10人以上殺されるアホっぷりw
252 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
武田戦では滝川平手佐久間水野18000はおろか徳川軍崩壊を見殺しにし
浅井朝倉戦や本願寺戦では原田森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳 林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤 小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
253 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
弱い者いじめで家臣をぶち殺されまくるのは織田のお家芸だからなw
三方が腹や上村合戦でボッコボコに敗れた織田軍は
これ以降近江にだけは兵をバンバン送ってぶつかり合うという弱腰っぷりで
武田に対して全く挑みかかる気すらなく一番頼りになる徳川家康を見殺しにしたからなw
これ以降武田軍は織田信長の援軍を見込んで包囲を崩さなかったのに、信長は家康に援軍いくいく詐欺しまくって
武田軍の攻囲から半年たってようやく重い腰を上げるビビりっぷりw
結局二股城野田城岩村城など東美濃や遠江は落ちて平手や森、青地や坂井はぶっ殺されて〆るという天正3年の勝頼による家臣虐殺劇は幕を閉じる
はっきり言って北条氏康の方がよほど強国だなw
援軍到着の可能性まで見込んで浅井にちょろっと攻勢かけただけで
254 :
日本@名無史さん:2013/07/29(月) NY:AN:NY.AN
織田が死なせた武将達一覧
赤瀬清六、佐々隼人正、千秋四郎、山口取手介、土方彦三郎、織田信益、岩室長門守、梶川平左衛門、山県源内、宇野弥七、朝日孫八郎、波多野弥三、近松豊前、神戸伯耆、
神戸市介、野村越中、森可成、織田九郎信治、青地茂綱、尾藤源内、尾藤又八、道家清十郎、道家助十郎、織田信興、坂井政尚、浦野源八親子、氏家ト全、平手汎秀、長谷川橋介、
佐脇藤八、山口飛騨、加藤弥三郎、林新次郎、賀藤次郎左衛門、前波吉継、織田信広、織田秀成、織田信成、織田仙丸、
織田又六郎、織田信次、織田信方、織田信直、織田久三郎、織田清長、原田直政、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎、万見重元、織田信家、真鍋七五三兵衛、沼野伊賀、
沼野伝内、野口、小畑、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五、森乱丸、森力丸、森坊丸、小河愛平、
高橋虎松、金森義入、菅屋角蔵、魚住勝七、武田喜太郎、大塚又一郎、狩野叉九郎、薄田与五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、久々利亀、種田亀、山口弥太郎、飯河宮松、
祖父江孫、柏原鍋兄弟、針阿弥、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松寿、湯浅甚助、小倉松寿、津田又十郎、津田源三郎、津田勘七、津田九郎二郎、津田小藤次、菅屋九右衛門、
菅屋勝次郎、猪子兵介、村井春長軒、村井清次、村井作右衛門、服部小藤太、永井新太郎、野々村三十郎、篠川兵庫頭、下石彦右衛門、下方弥三郎、春日源八郎、団平八、桜木伝七、寺田善右衛門、
塙伝三郎、種村彦次郎、毛利新介、毛利岩、斎藤新五、坂井越中、赤座七郎右衛門、桑原助六、桑原九蔵、逆川甚五郎、山口小弁、河野善四郎、村瀬虎、佐々清蔵、福富平左衛門、
小沢六郎三郎、土方次郎兵衛、石田孫左衛門、宮田彦次郎、浅井清蔵、高橋藤、小河源四郎、神戸二郎作、大脇喜八、犬飼孫三、石黒彦二郎、越智小十郎、平野新左衛門、平野勘右衛門、水野宗介、
井上又蔵、松野平介、飯尾毛介、賀藤辰、山口半四郎、竹中彦八郎、河崎与介、村井新右衛門、服部六兵衛、水野九蔵
255 :
日本@名無史さん:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN
北条は遠征経験が無いから遠征したらすぐに負けるよ
256 :
日本@名無史さん:2013/08/12(月) NY:AN:NY.AN
甲斐遠征ならしたことあるぞ
早雲氏綱氏直と全て失敗に終わったが
甲斐遠征なら氏政の代にもやってるよな
速攻で撃退されたけど
甲斐は攻めにくく守りやすい
259 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 05:17:47.47
氏康よわ!
え?10万の上杉軍小田原城で迎撃成功したんじゃないの?
ジャイアンに追われて家に逃げ帰るのび太くん。
ジャイアンはのび太くんが家から出てこないので諦めて帰りました。
のび太「僕はジャイアンを撃退した!」
謙信に追われて城に逃げ帰るウジ太くん。
謙信はウジ太くんが城から出てこないので諦めて帰りました。
ウジ太「謙信を撃退した!」
次にやってきた信玄はウジ太くんの城下町に火を放ちました。
城下町の住民が焼け死にましたがウジ太くんは城から出てきません。
ウジ太くんのへタレ振りには信玄も呆れて帰りました。
ウジ太「信玄に逃げられた!」
263 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 17:23:08.99
264 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:43:01.88
信長の国家ビジョン
9/14に京で富貴な者が賄賂を贈ることで目が悪い者しかなれない
検校(金貸しができる)になってる不正を座頭たちが信長に報告し
「金持ちの賄賂がまかり通るような社会では秩序が乱れるばかりです」と訴えたが
信長が富貴な下手人検校から黄金200枚の賄賂を貰って不正を不問にして許している。
こんな身障者の特権すら賄賂欲しさに剥奪する判決を
信長本人の私欲で是認する秩序崩壊社会は前代未聞の暴虐。
身障者は死ねと言わんばかりの残虐で狂った私刑社会の織田政権。
天正元年12/12の安国寺書状には別所と浦上の領地争いを信長が仲裁した話が書かれているが
その内容には浦上宗景が三カ国の朱印えお信長からもらったと書いてある(別所が浦上配下になるということ)
そのお礼として浦上が朱印の礼、夕庵より過分に申し懸け候、おかしく候と書いている。
朱印の礼ってのは朱印銭と言って、要するにワイロでありむちゃくちゃ多く請求されたということで
安国寺はそれに対して財力ある者が領地を金で買い不正が横行する信長のやり方を「おかしいだろワロスw」と嘲笑してる。
それゆえに信長がたかころびに転落するだろうと断言し、しかし秀吉は覇の者だから重視するように報告してる。
当時の人々には信長の悪政をカバーするため奔走する秀吉というのを認識していたのだろうね。
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
266 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 11:24:22.18
信玄の国家ビジョン
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
氏康はザコいのう
268 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 14:54:08.25
269 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 23:27:49.85
北条氏康ってゴミクズだよな
ウジやすい男