馬鹿な質問だけど、お市は出家はできなかったのかな
彼女が出家して菩薩を弔おうとしなかったのは長政を嫌ってたからだ…と曲解してる人を見たことがあるw
まあ多少は恨んでいたかもしれないけどね
この時代の女性は夫が死んでも必ずしも出家してない。
二夫にまみえずで妻は夫が死んだら再婚せず出家になったのは江戸時代だよね?
犬、江、千姫、京極龍子、夫が死んでも出家せず。
北政所ねねも出家したのは秀吉が死んでから5年後で、
秀吉の死により出家したわけではないらしい。
戦国時代だと出家してから還俗して結婚した女性もいたみたいだし
僧侶と違って出家は曖昧かも
僧侶も曖昧
上杉謙信も出家後還俗だっけ
謙信が生涯独身だったのは元坊主だった為ではないだろうけど
有名どころでは室町幕府6代将軍足利義教や
足利義視(足利義政弟)は出家後還俗してるよね
> 夫が死んでも必ずしも出家してない
> 出家してから還俗して結婚した女性もいた
江戸期なら永光院がその両方
柴田勝家はもちろん過去に正室がいたんだろうね。
あの年齢まで独身なんて考えられないし、世間体も悪いだろうし。
秀吉は正室ねねと結婚したとき25歳、利家は正室まつと結婚したとき21歳。
信長自身が16歳で濃姫と政略結婚しているのに対し、織田家家臣は割と晩婚。
柴田勝家が60歳まで未婚だったかどうかは分からないけれども
未婚だと世間体が悪いということも必ずしもなかったらしい。
生涯独身を貫いた上杉謙信はよほど特殊だったらしく、記録に残ってるところからすると
柴田勝家も老齢まで未婚ならば記録に残ってても不思議じゃないけどなー
「佐野の方」だっけ、そんな名前の側室がいたという史料もあるようだ
戦国大名の上杉謙信と織田信長家臣柴田勝家では知名度にあまりにも差があるからな
勝家も最晩年のことしかほとんど記録にないので若いころから独身だったのかどうかも分からない
「柴田勝家公始末記」では勝家には佐野の方という側室があり二男一女を作っていたという
記述がある(市は勝家とともに死んだが、佐野の方は城を落ちた)。
ただ、この書自体江戸時代になってから福井藩士が書いたもの(同時代史料ではない)。
また、勝家には側室腹とはいえ2人の実の息子がいたのならばなぜこの男子を捨て置いて
甥(姉の子)を養子とし後継者指名していたのかが分からない。
仮に正室・側室がいたとしても子供ができにくい体質だった可能性もあるね。
秀吉みたいに。
・勝家は晩年に迎えた市以外に妻の記録はない
・後世、落胤の噂が流れたが勝家生前は実子を確認できず
(後継者は甥(勝家の養子)。また、勝家の娘がどこかに嫁いだというのも確認できず)
これ以上は無理じゃないかな。記録はないので。
勝家にしてもそうだけど、敗者の史料って残らないものだよな
淀殿の兄の万福丸はやはり異母兄と考えるのが妥当なんだろうか
浅井家も敗者なだけあって正確な家族構成が不明なんだよなぁ
一般的に市が北近江へ嫁いだのは織田信長が美濃を征服した永禄10年(1567年)以降とされている。
尾張から近江へ行くには美濃を通らねばならず、これ以前では嫁入り道が確保されていなかったとみられるため。
となると、天正元年(1573年)に10歳だった万福丸は市の子ではない。
「信長公記」では万福丸が「嫡男」と書かれてあるが、市に男子がなかったので
長政が嫡男扱いしていたものかもしれない。
信長の庇護のもとで快適に暮らした三姉妹と、磔になった万福丸では同じ市の実子にしては差がありすぎる気もする。
江戸時代成立の「総見記」では万福丸は「下腹」と書かれてあり、市の子ではなかったとしている。
永禄4年説を唱えてらっしゃる研究者の方もいるね。
とはいえ、いまのところは永禄10年末〜11年説が主流かな。
万福丸の生母が市であったならば、彼も出家程度で済まされたのかもしれんね。
信長は実弟殺した時も、その息子(甥)は殺さずに厚遇してるし。
以前読んだ史料に書いていたが、信玄の息子勝頼と政略結婚させたのは
信長の姪で、確か信玄宛の手紙に勝頼の年齢と釣り合う娘がいないので
姪を養女にして嫁がせたいと書いていたらしいけど、ちょうどお市の方
が勝頼と釣り合う年齢だったのに何故か彼女を嫁がせていないと書いていた。
随分前に読んでうら覚えなのだけど、お市の嫁いだ年齢に関しては色々異論
があるね。
>>917 いくらお姫様育ちでも、戦国乱世の女性だし気が弱いとかあり得ない
>>961 勝頼と信長養女の婚礼が進められていたのは永禄8年段階か。
微妙なところだな。
>>955 根拠は無いが「柴田勝家公始末記」という仰々しい題名からして
創作や伝承のはいった部分も多いような
史料としては曖昧なものの部類にはいる書のような気がする。
>>963 ああいうのって同盟結ぶ段階の前から「うちの娘どうよ?」とか交渉しないの?婚約期間も長いし
>>965 永禄8年なら既にお市が浅井に嫁いでいたというより、
その頃には織田浅井両家の間で同盟締結に向けて動き出していたともとれるね。
還俗ができるなら、是非とも長政次男(淀の兄)、秀頼の娘も還俗して
子孫を残していってもらいたかったなあ。まあそうは問屋が卸さないだろうけど。
「実は○○がこの人の子孫だと言われてるんだよ」という伝説もないのが残念。
次男は生きてたけど、淀達と会ったりしたことはあったのかな。
妹が数奇な運命を辿っていくのをどういう思いで見ていたんだろう。
青岳尼ほどの出自と混乱の時代背景があるならともかく
豊太閤の孫娘として知名度もありすぎ、
かつ家康の庇護と寄進も多く受けて、
昔より寺格も高い東慶寺の住持になるを見据えられて仏門にはいった
天秀尼がそうそう還俗できるわけないじゃん・・
>>967 長政次男って良質の史料には登場しないんだっけ。
いたとは思うけど…。
子孫といえば、平民宰相こと原敬は浅井氏の血を引いてるんだよね。
ずっと子供が出来なくて種なしと思われていたけど
50過ぎになって子供が出来たっていうのは
カエサルもそう(生んだのはクレオパトラ)。
カエサルは二十代の時に最初の妻との間に長女ユリアを儲けているが・・・
カエサルは種なしじゃなくて種が薄いだけだよ
ユリアが若くして亡くなっている所為かクレオパトラとの子しかいないように思われているけどね
秀吉にも、長浜城主時代に、石松丸(秀勝)が生まれたという説がある。
市、江は多産系だから、淀も多産系で妊娠しやすかったということも考えられる(初はなぜかだめだったが。)。
秀吉が長浜城主時代に一男一女を授かった説はよく聞くけど、信憑性はどの程度のものなんだろう。
カエサルの娘はガチだけど、石松丸とその姉妹は確定ではないんだよな
ちなみにクレオパトラの息子はカエサルの息子じゃない説もある
>>973 秀吉が主君信長の実子を養子として迎えた事実から、その時点では、実子が望めないとみなされていた。
おねの嫉妬心を諭す信長の書状からも、壮年期の秀吉がその道に励んだ事は事実だが、その結果としての子はついに生まれなかったと考えられる。
近江長浜十二万石の有力大名である秀吉に子ができたなら、同時代の確実な文献資料として残っているのが自然だが、それが無い事
もし子ができていたと仮定した場合、財力も持った大名秀吉が、これから嗣子をえる見込みが増えるにも関わらず、
主君信長が、勲功の将たる秀吉の実子相続を諦めさせるような養子縁組をするのは考えにくい事
などからして、一男一女説は信憑性が薄いとされる。
「自分の家来のほとんどは元・織田家の家臣だから、彼らの忠誠心を確固たるものにするために
織田の血を引く者を後継者にしたい。でも他人に譲るのはムカつく。せめて自分が1から育てた子がいい」
秀吉の本音は、その辺りだったんじゃないかと。
つまり、必要なのは淀君が生んだ新生児であって、父親は誰でも良かったのかも。
だったら母親が淀殿である必要はないんでない?
それこそ信長の娘の三の丸殿でいいじゃん
淀君が19歳で側室になった時に10歳そこそこだった三の丸殿ですね
うーん、どうでしょう
目の前に結婚適齢期の淀殿がいて、それでも幼い三の丸殿を母親役に選ぶでしょうか
じゃ、姫路殿は?
同じく信長の姪だが
そもそも織田家の血筋に拘るなら
母方が織田家の茶々よりも父方で織田の娘の方が良いだろ
織田の血関係なく
「どうせ自分は子無し。跡継ぎはお気に入りの愛人の子がいい」
って理由だけで良いだろう
現代でも金目当てですり寄ってくる妻の親族や自分の甥姪よりも
愛人の連れ子の方が自分を慕ってくれて可愛いってあるんだし
それなら秀次でも良かったんじゃ?ただでさえ少ない豊臣親族を削ってまで織田に拘らなくてもさー
織田に拘る理由はあるよ
卑賎の出の秀吉が自分の死期も豊路美政権を維持するには、どうしても高貴な血が必要だった
そして、織田系武将が大半を占める豊臣政権において高貴な血とは織田家以外有り得ない
それでこそ「秀吉は政権を織田家に返した」という名目が成立し、下克上の世を終わらせることができる
× 死期も豊路美政権を
○ 死後も豊臣政権を
ちなみに、姫路殿ではダメな理由は、父親が生存してるから。
織田家の人間を「天下人の世継ぎの祖父」にしちゃったら権力が強くなりすぎるでしょ?
あくまでも豊臣家の独裁体制の維持に拘って、さあ、誰を選ぶのが最善か、という話。
>>975 一男一女説は信憑性が薄いのか・・・サンクス。
それなら、あの石松丸の肖像画はなんなんだろう。
織田家の血統に拘るなら三の丸だろ
鶴松はともかく秀頼の時は、三の丸も年齢的にOK
むしろ三の丸を秀頼の生母にすべきじゃん
淀は浅井家の娘であって、織田家としては傍系だし、
織田家の人間って意識は本人にもないだろ
ご縁なんだよ。
子供が産まれない=縁がないというんじゃなくて、子供が産まれるのは縁なんだよ。
三の丸殿が側室になったのは秀頼が生まれた後ですね
990
豊家よ永遠なれ
ああPL〜PL〜
豊中よ永遠なれ
庄内
曽根
>>985 石松丸肖像画というのはないよ。
あの肖像画の銘は本光院朝覚居士絵像。
所有する寺が本光院朝覚居士のことを豊臣秀勝だと公称している。
長浜時代の秀吉は豊臣を名乗ってなかったけどね。
史料的裏付けはなし。