【勇猛】悪源太義平U【果敢】

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292日本@名無史さん
源太というのは「源氏の太郎(長男)」という意味。
当時は本名(義平)を読んではいけないから通称で呼ぶ。

通称は
官位が有る場合官位で呼ぶ。
官位がない場合は通称名(兄弟順など)で呼ぶ。

ちなみに「平治物語」では
義朝は左馬頭または頭殿
朝長は中宮大夫進殿
頼朝は兵衛佐または佐殿
と官位で呼ばれているのに対して
義平は「悪源太」

当時の扱いは 官位有るもの>官位無い者

そして通称で呼ばれたものが官位を得ると官位名で呼ばれてステータスが上がったものと見なされる。
(例 義経 九郎→判官殿)

よって少なくとも平治の頃のステータスは
義朝>頼朝>朝長>>>>>義平
となっており
頼朝の方が兄弟の中でのステータスが高いものと見なされる。
293日本@名無史さん:2010/12/23(木) 23:18:22
もう一つ。
従来義朝が為義の嫡子と見なされていたが最近はそうではないという見解も強い。

義朝の弟義賢が「帯刀先生」という東宮職を先に得ていたが
義朝はその頃東国にあって無位無官であったからということらしい。
ちなみに義賢が様々な問題を起して都での出世をあきらめた後は
頼賢が為義の嫡子になったと見なされている模様。
294日本@名無史さん:2010/12/23(木) 23:24:44
ふーん
じゃあ、義仲としては頼朝に従いたくない気持ちもあったのかね
295日本@名無史さん:2010/12/24(金) 00:34:53
義堅が下向したのは義朝が誰に官位を授かったかってとこじゃないか?
296日本@名無史さん:2010/12/24(金) 02:18:12
義朝は親に頼らず官位を得たのか
297日本@名無史さん:2010/12/24(金) 05:11:21
中流貴族藤原忠清の娘の子である義朝は外祖父の忠清が出家してしまい、あまり母方の家の庇護を受けて育ってないが
幼少期を過ごした上総畔蒜庄は源頼義が前九年の益で得た土地で
畔蒜庄の実質的な名義人が為義のいわば主になる
義朝が坂東で土地の切り取りと家臣団の統合をしながら、父為義は義朝が切り取った土地をせっせと伊勢神宮や熊野大社に寄進して、そこに郎党を派遣することで管理した。
熊野別当の娘と義朝の間に行家が生まれるのも、こういう縁であると思う。
が、義朝が上洛して仕えたのは鳥羽上皇だ。
義朝が上洛してこのラインに入らなければ、下野守はなかっただろうし、義堅が下向することもなかっただろう。
なんで義朝が下野守を欲っしたかは義朝の坂東での婚姻関係と都で誰と行動したかを見たら一目瞭然だと思う。
298日本@名無史さん:2010/12/24(金) 06:03:19
ちなみに頼朝と都で行動を共にして保元の乱に参加した源義家の孫源義康は藤原李範の養女(孫娘)を妻にし
義朝もまた藤原李範の娘を妻にして頼朝をもうけている。