1 :
日本@名無史さん:
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
2 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 03:06:44
3 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 04:27:11
前スレの騎馬技術の続きだが
渡来人が大和朝廷を経由して東国に入植したのは周知だが
直接、新潟あたりに高句麗人(後の渤海人)が上陸して出羽さらに陸奥の
蝦夷に騎馬技術を伝承したことは可能性としては否定出来ないと思うよ。
日本での弩の出土は弥生時代まで遡るので唐(半島に弩は存在しません)から伝わったとするのは時代が合わなすぎるんですよね
勃海経由で蝦夷が色んな技術を得たのは可能性ありますよね
5 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 05:09:46
征服王朝説だと武具、馬具、装備品の供給はどうなっていたのかな?
やはり支配者階級(戦士)は職能民集団も引き連れて来たというのが自然かも。
前方後円墳から円墳に変わる6世紀以降の古墳の副葬品に鉄剣と馬具(鐙)が
見られることはそれらの製品が自給生産されていたこと(輸入に頼る貴重品であれば
埋葬しない)を物語っている。
渡来職能民が伴造として在来の部民を技術指導して曲部を構成していたことは
創造に難くない。
長弓の使用に関しては温帯湿潤気候の日本列島の風土に合わせて短弓では張力が弱くなるので
弓の長さを利用して顔の後方まで引き絞り投射エネルギーの最大化を実現出来る長弓を採用したと
考えられる。
6 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 05:36:31
合成長弓(重藤の弓)の発明は世紀の大発明だね。
後年の元寇ではその威力を発揮してるし、為朝の剛弓は3人抜き?兵船撃沈を演じてる。
7 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 05:41:56
997 名前:日本@名無史さん :2010/12/17(金) 02:36:38
>>993 >応神朝の後の王朝交代は白村江から壬申の乱によって成立した親唐・新羅の天武朝。
>彼等が律令軍制と弩を導入した。
>騎馬民族である応神朝期に渡来した騎馬技術は渡来氏族とともに甲斐、信濃、坂東に
>すでに扶植されていて律令国家から王朝国家への端境期に王臣子孫、富豪層が彼の地方に
入婿し根を下す過程で歴史に再登場(再発見)したのが真相だろう。
>>5 張力を強くするために騎馬民族は短弓をコンポッジットボウにしたんですよ
短弓のコンポッジットボウの方が馬上で騎射能力に優れてますよね?
いきなりアイデンティティーの一つと言える短弓を捨てたとなると平安中期まで存続したところで入り婿した土着土豪に追い出される存在にしかなあないですよね?
それか土着土豪に吸収されることにって消滅した
(すでに平安中期には言語を失ってる飲み込まれたのは事実)
所謂、土着土豪が渡来系氏族の看板だけ分捕って飲み込んで乗っ取った状態ですよ
それに早い段階で言語を失ってアイデンティティーをなくしていた渡来系氏族が平安中期に忽然と騎馬技術だけ継続させていたは無理があります
日本に来たのは騎馬征服民じゃなく馬を家畜として運用(移動や飼育)する技術を持っていただけの人々でしょう
そして百済や新羅から来たで勘違いしてはいけないのは当時百済や新羅に多くの倭人もいたってことです
渡来系とはただ単に出戻り倭人をさすかも知れません
なぜなら渡来系と言われる人々が百済や新羅の言語を喪失してアイデンティティーをなくすのが早過ぎるからです
後の時代にも高麗人が大量に入植したとされる坂東にも、これは百済や新羅の言葉ですみたいな文献の破片もなく
渡来系氏族自身が先祖は百済のどこそこの生まれでとか、新羅のどこそこ何某の生まれでって伝承すらない
それらを考えるに征服民族がいたと考えるのは無理があると思いますよ
ちなみに長弓をコンポッジットボウにすることが出来たんですから
騎馬民族ならセオリー通り短弓をコンポッジットボウ(複合短弓)にすればいいわけで、わざわざ長弓に持ち替える必要がないんですよね
10 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 06:15:49
>>8 君の言うコンポジットボウ(合成弓)でも温帯湿潤気候の日本列島においては短弓より
長弓の方が有利では?
言語の話もされていますが、古代朝鮮半島南部には現代朝鮮韓国人は存在せず倭人(対馬海峡を
跨ぐ民族集団でした)の正体は海人族で、当然言語も共通。
彼等が結果的に一定期間足跡を彼の地に残して亡命という形で先に日本列島を侵略した同族に同化しただけ
の話です。
11 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 06:29:23
>>9 君の言う短弓コンポジットボウだが、日本の梅雨時に一ヶ月でも外気にさらしておけばどうなるか分るはずだよ。
現代のアーチェリーは防湿処理が施されてることも知らないの?
乾燥地域で発達した古代の短弓は当然のことながら防湿処理は行われていないのだよ。
>>10 やはり出戻りとみた方がいいですね
ちなみにコンポッジットボウで長弓と短弓のどちらが優れてるかは(環境を日本に変えても)不毛な議論になりますから止めますよ
それって武士の弓と騎馬民族の弓が日本ならどちらが優れてるか?って話しになりますからね
私はどちらも長い年月をかけ彼らの文化の中で発達した物なんで、目を見張る程の違いはないと思います
つまりどちらも優れた物だと言いたいです
そして中国の文献で半島北方に騎馬民族がいた文献がないんですよね
半島北方にいたのが狩猟民は確認出来ますが遊牧民(騎馬民族)はいない
確かに騎馬民族の移動範囲は広いので半島北方何かを襲撃したのは考えられますが
少なくとも高句麗などは狩猟民であっても騎馬民族じゃないみたいですよ
>>11 日本の梅雨時に武具を一ヶ月も外気にさらすのは短弓だけの問題じゃないですよ
日本にある素材で短弓を作れば良いことです
ちなみにモンゴル軍の短弓コンポッジットボウは日本の博物館に今だに展示されてますから
短弓コンポッジットは日本じゃ一ヶ月でダメになるは無理があり過ぎます
元寇なんて弓が腐食して失敗することになるじゃないですか
14 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 07:47:21
日本最古の弩は出雲産てのはなにを意味しているんだ?最も祭祀用と考えられてるらしいが。
15 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 10:48:11
出典を失念したが
古代日本語と高句麗語との数多くの語彙に共通性が認められるそうだ。
比較言語学の手法を用いて高句麗語の再現を試みたらしい。
sage
弥生時代の出雲で弩が出土してるのが興味深いですよね
好大王碑文しか残ってない完全な死語の高句麗語を上古日本語とどう比較するんですか?
比較言語学だと日本語の兄弟語で上古代に日本語と分岐した沖縄の言葉とも関連性(つまり似てると)が出て来ないと無意味なんですが
高句麗語が現代で発見されて日本語の兄弟言語の沖縄方言とも関連性が確認されたんですか?
まさか数字のひい、ふう、みいで似てるのがあるとか無しですよ
文法すらわからない言語を比較すること自体難しいと思うんですが
18 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 12:18:28
イングランドやガリアなどの例を見ると、
被征服民の言語は(多数派であるにもかかわらず)
痕跡残さず消えている。
逆にトラキアを侵略したブルガル人の言葉も痕跡無く消えている。
百済語と新羅語が関東で痕跡も残さず消えたことに大して不思議はない。
19 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 12:41:30
>>1 「武士の発生・成立について論じよう」
等のスレタイにした方が良かったとは思うが、
まあ乙 !
>>18 残念ですが英語はノルマン朝期にフランス語から大量の語嚢が入ってますよ
そしてフランス語はラテン語がゲール語を基層言語として、ゲルマン語を上層言語とした変化してきたもので、こうやってきっちりと言語の中に歴史が刻まれるものなんですよ
スペイン語しかり
スペイン語も現代でアラビア語と似ても似つかないですが、その語嚢に大量のアラビア語が入って基層言語は違いますが上層言語が同じラテン語のフランス語とは違う変化を残すわけです
まず結論ありきで話して死滅した言語が跡形もなくてもおかしくないんだじゃないものの考察は出来ないから
意味がないんじゃないですか?
ちなみにゲール語とはガリア人の言語です
22 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:00:02
虚勢の習慣が無かったんだから騎馬民族による征服王朝なんてナンセンス。
ちょっと高句麗を遊牧民にするのは無理がありますよね
>>20 ケルト系のブリトン人はアングロサクソン人に比べ多数であったにも関わらずその影響は英語にはほぼ残っていない。
そのようにある言語が痕跡残さず消えることは有り得る。
ましてや新参者の百済人や新羅人の言葉の影響が関東語に残っていなくても不思議は無く、
必ずしも「出戻り倭人」などと考える必要は無い
と言いたかった。
朝鮮南部でさえ家畜はあまり飼わないし肉食や乳飲もあまりないな。
前スレ
>>969 >ただし満仲や高見の出身は不明。
満仲は出自が不明だが、
高見は出自じゃなくてその実在が不明とされている。
>>24 高句麗が新羅が征服者として来たならの流れで言ったんですよ
言語の比較は死語と比較しても比較対象がないんで出来ないんですよね
日本語の場合、兄弟言語の沖縄方言と変遷を比較してくことで上層言語や基層言語の抜き取りをするわけですけど
分岐前に同一言語だった本土日本語と沖縄方言の基層言語は不明(あるとしても古すぎてわからないんでしょうね)
上層言語は無しです
日本で高句麗や百済の言語が早々に消え去ったのは、それだけ影響を与えてないからですよ
つまり影響を与えられてアイデンティティーを喪失し埋没していくのが早かった
いまだにケルト系としてスコットランド高地地方に残ったりブルトン人からノルマン人として逆上陸を果たしてフランス語を英語の語嚢の中に植え付けた彼らと
まったく消滅してしまった高句麗や百済を比較するのもナンセンスですよ
スコット人ってアイルランドの島から来た人らしいね
スコットランドは
ピクト人もともとのスコットランド人
スコット人、アイルランドから来た人
デーン人、北欧から来た人
ノルマン人、フランスから来た人
でできてるらしい
アングロサクソンはノルマンといっしょにきてるかも
ブルトン人はフランスのブルターニュにも逃げてあのへんに言語が残ってるし
ブリテン島のコーンウォールにものこってるらしい
アーサー王物語のモデルになったウェールズもアングロサクソンの統治から
逃れた地域で、コーンウォールとは異なってるがここにものこってるとされる
29 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:44:09
大化以前の馬飼部(大化以後は馬寮に継承される)は河内が本拠地。
日本在来馬はモンゴル高原が原産地とされる。
なら馬飼部も渡来系ということか?
30 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:53:15
スコットランドは僻地を除けばアングロサクソンだよ。
イングランドとスコットランド確執は謂わばローマ化されたアングロサクソンと、されなかったアングロサクソンとの確執。
そのゲルマン族のアングロ人とサクソン人も互いが影響しあって統合してく過程で色んな痕跡もあるし
スコットランドはスコットランド訛りだけじゃなくケルト語が生きてる地域もあるし
アングロ人でもキルトはいてバグパイプ吹きながらケルト語を話せばアングロ人じゃなくなるでしょ
イギリス自体が英語一つとってもRPって基準はあっても各地方で訛りがきつくてすごいわけですから
コックニーとハイランダーじゃさっぱり違うじゃないですか
だから多様性がありすぎるほどある場所を多様性はないんだって例えで出すのが間違いじゃないかと思いますよ
そんあことないよ
ローランドはノルマン貴族で占められていたし
イングランドとスコットランド両方に領地をもってる貴族もいた
今あるスコットランドのイメージは専らハイランドのもので
ローランド人もそれらを自民族のアイデンティとして積極的に認めるのは
かなり時代をくだる
スコットランドのような異文化異民族異言語の集団が
一つの国家としてまとまっていくというのはかなりめずらしい
アングル人はデーン人が来てから、かなりアイデンティティ不詳
サクソン人化してアングロサクソンになったらしい
デーン人が来て、生き残った唯一の国がサクソン人系のウェセックスだから
しゃーない。北にアングル人、南にサクソン人の国ができていたという
地理的な要因も大きいと思われ。おそらく、アルフレッド大王だっけ
あれがデーン人に勝利して、アングロサクソンとしてアイデンティティが
定まっていったということだとおも
それからノルマン人がノルマンディからやってきて、ノルマンコンケストがはじまる
でも、アングロサクソンの慣習法に従って統治したから
国としてのアイデンティティはアングロサクソンなんだろね
ノルマン貴族が母国語のフランス語使ってたから、高貴なイメージがあるらしいが
アメリカ人もフランス語に高級感感じるってどんだけ根深いんだよって話だわ
洋の東西で発達した長弓
武士を考察するなら、いずれはイギリスもと思ってましたが
ロングボウって調べたら元々ウェールズの武器だったんですね
そういえば、ケルトの円田が日本のものに似てるっていう話あったな
円田以外でもケルトは渦状の文様をシンボルとしてあしらうこと多いけど
東夷の夷は弓を構えている人を象っている字で
長弓をつかうひとたちを表してたってレスを見たことがある
もともと日本の長弓は時代が進むごとに短くなっていったらしいし
ロングボウは弓兵を組織して運用したみたいですが
さすがにあれで騎射は考えなかったみたいですね
>>29 モンゴル高原原産の家畜馬ですね
その後の日本での馬の使用を考えたら農村での使役で活躍しているので、そういった馬を農村で労働力として使役した生活をしていた人々が渡って来たか伝えたかしたと考えるのが無理がないと思いますよ
39 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:21:41
どうしても征服王朝説を否定したい輩がいるみたいだね。
逆ですね
どうしても扶余や豹や穢に放牧させて東胡に仕立て遊牧民が日本を征服したことにしたい人がいるんですよ
最初に結論があるんだから決定的ですよ
41 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:00:25
東アジア人は同化が容易だってことは戦後証明されてるじゃない。
最近の韓流ブームでハングルを商売にしてこそはいるけど、つい10年前まで
ほとんど日本人に同化していたじゃない。
日本人も敗戦で憎き鬼畜米英の文化にいち早く靡き、ジャズだのプロ野球だのパン食だの
恥も外聞も無くクリスマスやハロウィンなどうつつを抜かす民族性だよ日本人(東アジア人)は。
42 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:05:57
43 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:08:42
日本会議シンパは始末に悪いね。
44 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:22:19
騎馬民族=遊牧民じゃないだろ。
君の論証こそ結論ありきじゃないのか?
どうして「遊牧民」ってワードがいきなりでてくるの?
君の主張開陳は極端な前提から入るきらいがある。
思想から学術の結論を持ってくる論法は日本や中国にはない文化なんで平行線になりますね
東アジアの人種は同化が用意ならば、とっくの昔に日本人や中国人なんてなくなって同化してますよ
日本の馬伝播を考えた場合、長い歴史の中で農村での労働力としての使役として使われて来た事実があるのに
長い時間をかけて事実はいけなくて、放牧をしながら馬に乗って家畜を追いかけなくっちゃならないんですか?
武士ですら武芸の訓練で騎馬で狩猟はしましたが放牧して家畜を追いかけることはしてませんよ
それをしなくても騎馬民族になれるなら中国王朝も騎馬民族なれるわけであって格別、遊牧民を恐れる必要がなくなるんですよ
五世紀に日本が東北アジアと朝鮮半島を通過して来た遊牧民に征服されたなら、その五世紀から前方後円が南部朝鮮に建設されたり
日本自体が高句麗と対峙したりしてる事実はどう処理するんですか?
>>44 騎馬民族=遊牧民ですよ
馬を使えば騎馬民族じゃないですよ
47 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:31:40
>>47 もしかして馬に乗って戦闘したら騎馬民族と思ってますか?
49 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:33:18
50 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:34:33
>>50 あなたの脳内だと思いますが、他人を罵倒するのは好まないんでこういう不毛な議論は止めますよ
52 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:38:48
前方後円墳と言ってる時点で君の浅学が露呈してるね。
ポイントは円墳だよ。
五世紀から六世紀に朝鮮半島南部に倭人の前方後円古墳が建設されて、坂東じゃ六世紀からさらに前方後円古墳が大型化してくのは事実なんで事実は事実として見るしかないですね
54 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 02:52:26
どうして「放牧」ってワードが唐突に出てくるの?
騎馬民族→遊牧民→放牧 (爆笑)
放牧の文化の中で培われた騎馬技術が必要じゃないなら中華王朝も倭人もみんな騎馬民族になれますよ
四世紀後半の記述である好太王碑文に高句麗の属民であった百済、新羅を倭が討ち臣民としたってなってて
それで高句麗と倭が対峙した後に五世紀に半島南部に前方後円墳が建設されていく
事実は事実として見るしかないんじゃないですか
俺も騎馬民族説はないと思う
もう学会ではと っ くに否定された学説だし
なんでこんな話をここで出されるのかも不明だしいい加減にしてほしい
57 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:17:53
同一民族同一文化ならなんで薄葬令なんて出されたの?
七世紀になって改革期を迎えたからじゃないですか
改革って異民族による征服だけでされるものじゃないですよ
民族が玉突きみたいに移動したんじゃね?
60 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:31:47
征服されてレイプされた子孫が私達だってことを直視すべきだよ。
61 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:37:36
一重瞼の不細工な男達にレイプされ望まれぬ子供の子孫が私達なんですよ。
>>59 四世紀から五世紀にかけて匈奴が移動してますからね
>60
正真正銘の騎馬民族元に高麗が征服されてますもんね
こっちは説じゃなくって事実ですよ
63 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:41:53
小泉改革はアメリカによる再占領。
農業国家では普通、富裕層が子供のころから英才教育をして騎兵を育てなければいけないが
遊牧民は、乗馬が生活の一部になっていて、すべての人が生粋の騎兵となる。
お金をかける必要なく良質な騎兵を育てられる遊牧民でなければ騎馬民族たりえない
あと放牧は、丈夫な馬を育てるには不可欠
馬の名産地はかならず放牧がされているものです
65 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 03:52:07
だからなんで「騎馬民族」=「遊牧民」なの?
征服完了で「遊牧」を捨ててもいいじゃない?
66 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:01:54
じゃぁ
日本国内で 騎馬民族→放牧って事でいいのなら
なんで「遊牧」なの?
だからなんで「高句麗」=「騎馬民族」なの?
日本の馬文化は農耕狩猟民の農村での馬の使役文化の域を出ないのに、なんでないものを求めるの?って感じです
ちなみに中華王朝にも馬具はあったし馬に乗る人もいたわけで
世界中に騎馬民族じゃない民族にも馬具があって馬に乗る人々はいたんですよね
概ね馬の使用法は日本と同じですよ
68 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:17:37
だれが「高句麗」=「騎馬民族」だなんて言ったの?
騎馬民族征服王朝説を読んだこともないってバレバレですよ。
69 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:31:04
君の先祖も、当然私の先祖も一重瞼の朝青龍みたいな不細工な男にレイプされたってことだよ。
>>68 >>55の流れの中で伝播したんでしょ
倭と高句麗は朝鮮半島南部で戦って後に半島南部に五世紀から前方後円墳が建設されだす
中国の文献に高句麗の馬は荷駄を良く運ぶってなってるから
後の日本での馬の使役にも合ってくるしね
ちなみに日本語に上層言語はないから征服説は無理ですね
まさか日本が数々の異民族に征服されながら、その文化の高さで同化させていった中華王朝やローマみたいな国だったわけはないですしね
その征服民の文化が跡形もなく消え去ったなら日本は影響された側じゃなく征服した側に大きな影響を与えて飲み込んだ国になりますからね
71 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:38:46
君の論説開陳の上塗りってだけじゃない。
騎馬民族征服王朝説を読んだことあるの?
72 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:43:24
>ちなみに日本語に上層言語はないから征服説は無理ですね
どこからそんな妄想を仕入れたの?
あなたの自分の論説と罵倒を開陳するだけよりいいんじゃないかな?
ちなみに騎馬民族征服説は後々発見された事実を訂正してないですよね(例えば前方後円墳の存在)
古すぎる説だから
否定されてるんじゃなくって、もう説が古すぎて新しい事実確認がされてる事に追いついてないんだってば
>>72 それくらい自分で調べなさいって
日本語に上層言語はないよ
あれば兄弟語の沖縄方言と比較した時に上層言語がかぶさるわけだから
世界のどこ探しても日本語の上層言語はこれですなんてのはないよ
75 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 04:46:39
本当に読んだの?
あなたの言ってた円墳のことや騎馬民族が直接日本を征服したわけじゃないって読んで内容は把握してるから
>>65 遊牧民は必ずしも騎馬民族ではないが、騎馬民族は遊牧民だろう
遊牧民でない騎馬民族をあげて、どのような生活スタイルがありえるのか説明してくれ
78 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 07:36:42
だから虚勢の文化が日本に無い時点で騎馬民族征服説は成立しないっての!
騎馬兵や騎馬武官や騎馬武者といった「騎馬士官」がいたことと、
兵卒単位までも騎馬民族だったこととは全くの別物概念!
79 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 07:42:24
>遊牧民は必ずしも騎馬民族ではないが、騎馬民族は遊牧民だろう
この前提から駄目じゃない
80 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 08:22:58
>日本語の上層言語はない
こんな珍説を開陳してる御仁がいるが
我々は普通に漢字を使い、漢語由来の言葉を喋ってるだろ?
なにいってるんだよこいつwwww
現代日本語について語ってたwwww
去勢も宦官文化もないな
そもそも現代日本の漢字は西洋単語を漢字におきかえたもので
むしろ、日本語の基本を大幅に変えることなく近代化するために
外来語の漢字を境界として使って西洋文語を限定したと言ったほうがいい。
カタカナ語の使用も同じ。
これをもって、日本語のほとんどが漢字の影響をうけているとかどうしようもないほど池沼の理屈です
それが通用するなら、今の中国語の上層言語は日本語だわww
もしや前スレの比較言語学で日本語と高句麗の共通性があるだとかも、現代国語に現代韓国語から想像して創ってみた高句麗語の比較だったりして。
85 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 10:41:16
現代話者を無視して比較言語学とは笑止千万。
86 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 10:49:34
>それが通用するなら、今の中国語の上層言語は日本語だわww
全くの国際感覚音痴ですね。
現代国際社会では「ジャパン・パッシング」どころか「ジャパン・ナッシング」だよ。
87 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 10:59:30
>カタカナ語の使用
なんじゃそれ
「ギョーザ」「ラーメン」の立場は?
88 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 11:15:34
>>83 清朝で既に西洋単語が漢語に翻訳されてたわけで
大部分を拝借してる事実。
これには長崎オランダ通詞を中国人が担ってた歴史的経緯があるんだよ。
蘭学を学ぶ為には漢語に精通する必要があったことも知らないの?
89 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 11:19:21
なんか前スレ970番台から突如おかしいな。
弓の話が登場したと思ったら、10分20分刻みでレスが続いてあっという間にレス終了。
次スレももうすでに100近く。
自演でやってないか?
しかも案の定荒れてる。
90 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 11:21:00
長崎オランダ通詞は幕府の役職の意ではないからな。
念の為。
92 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:04:14
>>8 >渡来系とはただ単に出戻り倭人をさすかも知れません
神功皇后の三韓征伐は日本版レコンキスタだよ。
息長氏は宇佐国造と同族で八幡神を祖神として持つ渡来氏族。
新羅や加羅は去勢あるかな?
94 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:32:39
嵐山館襲撃は史実でないらしいね。
95 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:45:46
大蔵館?
96 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 13:06:12
>>92 >神功皇后の三韓征伐は日本版レコンキスタだよ。
>息長氏は宇佐国造と同族で八幡神を祖神として持つ渡来氏族。
息長氏族(息長、和爾、多氏ほか)は久米氏系だな。
宇佐氏と同族というのはその通り。
のちに新羅からの渡来系集団が、八幡神(神功皇后、応神天皇)と妙見神とを習合させて北辰妙見信仰とし、それを都周辺で布教していく。
やがて、それが目に余るほどになったので、天智天皇の代や、桓武天皇などの代に度々禁教にされたので、
彼ら新羅系渡来集団は、坂東の新天地に移って北辰妙見信仰を布教してゆくことになる。
97 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 19:11:05
天智朝、桓武朝は百済系だから八幡神を快く思ってない。
また新羅百済で歴史を見ようとするアホが現れたな
これはイデオロギーの問題だってレスで、現代の国家観を古代に持ち込んでるのを薄々気づきましたがね。
100 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 19:50:18
百済系つーか
百済と天皇家が同系なだけで、帰化百済人が天皇なわけではない
桓武天皇の時代は皇族暗殺されまくって誘拐同然に遷都されてて、
当時の政権は違う勢力の影響が強いのな。
102 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 19:52:03
>>98 何か不利益でもあるもかな?
日本会議厨w
もかまたり もかでまったり もかまたり
日本会議とか言い出したわ うわー
完全に在日だな
早く追い出そうぜこいうやつら
まじめに勉強したいのにまじうざいわ
シラギは「しらじらしい」「しらばっくれる」「しらっこい」の語源だから
アレだけど、百済との関係は考えるべきよね
残留百済人(ペクチェ人=ペクチョン)が、その後どんな目にあったのかも。
107 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:26:28
>>105 2ちゃんで勉強するなよ。アホ
勉強は大学ですればいい。
大学行くお金が無いんです
まさか日本史板でネトウヨ認定されると思わなかった。イデオロギーで古代史見すぎだっての
たかが60年前に建国された国のイデオロギーを千何百年前に持ち込んでも意味ないからさ。
110 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:37:17
安倍晋三と自民党清和会の支持者かね?
111 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:43:19
>>109 正真正銘、桓武平氏子孫の社会主義者だよ俺は。
112 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:47:20
大体、律令制はアジア流国家社会主義だろ?
現代は毛沢東思想ケ小平理論の国家資本主義だがな。
マジなのかネタなのか釣りなのかわからない。
115 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:55:48
>>113 お前は俺のこと知ってんの?
知らないくせに勝手なこというなよ。
統計では旧被差別民子孫に市場原理主義者、新自由主義者が多いって出ているけどね。
他人の事は好き勝手言ってる人でも自分の事は必死で否定するんですね。
117 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 20:59:48
1400年ぶりに巡って来たお前の春を奪うのは心苦しいけど
新自由主義に乗っかれてよかったねパチパチ。
118 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:01:39
安倍晋三は腐臭だよ。
119 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:06:58
「俘囚」ね。
そう呼んだ奴らは何もんなのかって方が疑問だよね
安倍氏の先祖はアビヒコ、ヤマト国の支配者だったという伝承がある程なんだから
>>118 「腐臭」なんて字を当てるコイツから腐った臭いがするね
122 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:10:57
124 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:13:25
126 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:14:35
127 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:16:31
なんか必死で誤魔化してるね(笑)
129 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:18:03
>>115 匿名掲示板でいきがってんじゃねーよカス
そんなに自慢したけりゃリアルでやれ、在日乙
131 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 22:38:26
>>130 匿名掲示板でのさばってんのはネトウヨおめーらだろw
132 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 22:40:53
>>130 俺はおめーより由緒正しき土岐源氏末裔なんだがな。
133 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 22:45:49
左翼、社会主義思想を在日と結びつける知能指数は世界最低レベルだな。
在日は半島に帰ればいいけど、永世下層民のお前は帰る場所すらないね。
134 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 22:50:06
由緒正しき大清國属末裔です。
>>132 在日ほどそういうな
押せば引くと思ってやがる、おまえみたいなシナ産に信用があると思うなクズが
137 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 22:53:07
>>135 つい140年前まで土下座して後頭部でしか俺らにお目にかかれなかったからねー。
いえ由緒正しき大清國属は日清戦争で日本に独立させてもらうまで土下座七回しなくてはなりませんでした。
>>133 事実だろ、みずぽみろや、朝鮮団体つかってマネーロンダリングしとるわ
>>137 はいはい、そういうやつほど系譜改竄してる在日両班だわ
リアルで晒してみろよチキン在日
こら、在日見てんだろ!逃げんなコラ
在日は力のある人間のごきげんとってでかい面してるだけの糞
ゆうなれば、売春婦にかせがせて金だけ吸い上げる女衒のようなやつらよ
メンツだけでいざとなれば逃げるだけのクズが日本人かたんじゃねーよ吐き気がする
クズのくせに
144 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 23:48:34
頼むから誰か前スレからの「まとも」な継承スレを改めて建て直してくれ。
どっちもウザくて仕方がない。
在日がからんでくるのが悪いわ
無視がきかない人種は力でどっちが上の立場か教えないと分からないからな
ほんとクズだわ
わざわざスレ立て直さなくても、このスレ継続で充分な気がする
十分に余ってるし
だいたい歴史にイデオロギーの問題だとか、自分の血筋は由緒正しきとか言い出すほうがどうかしてると思いますしね
147 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:13:44
また創価が在日をダシにして暴れてるね
想か=在日
だいたい自分は桓武平氏だの土岐源氏だの言って
桓武は百済系で天武は新羅系で渡来系がどうのとかって
ただ単に自分の先祖が何十年か前に日本に来て住み着いたのを千年以上かけた壮大な経歴詐称しようとしてるだけにしか思えないし
完全にパラノイアってかんじだよね
都合のいい本の一節を拾ってきては集めて繰り返し思い込みを脳内で再生しインプリンティングした結果
「ぼくのかんがえたれきし」を信じちゃうようになったあわれな人間だよ
ザイニチズムとしか言いようがない
151 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:26:07
いやいやこれぞ創価イズムですよwww
自己紹介乙wwwwwwwwwwwwww
千年以上先祖の嘘を必死こいて守り続けてご苦労www
もうウマミなんか無くなってきて、あとはバレたら困るだけなのにね
早く逃げれば?
>>150 「ぼくのかんがえたれきし」ならまだしも
ようは自分の先祖の桓武は百済系でとか言ってるのと同じですからね
やけに渡来系だの半島にこだわるなと思ってたら
全部が自分の家の経歴詐称のためのストーリーですって答になるから
手に負えないですよね
在日は何が言いたいの?死ぬの?
154 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:35:35
日本人が千年以上嘘ついてきたってことにしたい
まで分かったけど
さすがにうぜー('A`)
そろそろ本題にもどりたい
弓の話してたところだったね
156 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:43:46
勝手にくくるなよ
創価は日本人じゃねーよ
千年続く寄生虫
157 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:48:09
イミフ
創価はここ100年でできた宗教団体だろ
159 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:51:34
あら、お詳しいの?
成り立ちを教えてください
千年続く寄生虫というのをまず説明しろよ
161 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:56:42
なんで?www
ここ100年でできたってのを説明していただければ疑いは晴れるのでは?
日本で弩の出土(出雲)は弥生時代に遡る
その後、律令国家まで弩を使用(もちろん国で管理整備して組織的運用がないと無理がある)
その後、律令体制の崩壊から現れる武士は長弓を持って登場したってあたりですかね?
163 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:02:40
>>161 言いだしたのはおまえだろ
まさか知らないのに言ってたってことはないよな
164 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:03:44
部落差別を必死で継続させようとしてるらしいから、
創価の歴史は少なくとも100年ではないわ
165 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:09:11
なんだそういうことか
部落差別利権なんて戦後にできた利権だろ
くだらねえ
166 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:10:26
167 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:16:05
>>166 こいつなんなの
ついていけないほど突っ走ってんだけど
病院いけよ
168 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:19:01
>>167 問い:あなたは創価なの?
答え:病院いけよ
はい創価なんですねwww
169 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:22:27
本 当 に 病気なんだろうな…
あまりの超解釈におどろいたわ
170 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:25:23
いやいまどき創価かって聞かれて違うって答えないのは創価でしょ
ふつーそう思うよ
そうそう、
中村スンスケさんがあんなにブサなのも、シナ人だからなんだよね
171 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:29:42
じゃあ、俺は創価じゃないよ
関わったことすらない。まわりに創価のやつもいないし
ファミマで立ち読みはするけどな
とにかく死んでくれ
172 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:32:47
「じゃあ」ってwwwwww
もう遅いです。
ま、ほんとに関わりないなら知っておきなよ。
ほんと創価は死ぬべきだよ。じゃあね。
逃走
174 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:37:36
え、何か用あった?
知っておけって何をだよwww
中村スン介がブサって不細工ということかよ、それともサヨクということかよ
おまえの言っていることはいちいち意味が分からないんだが
創価が死ぬべきなのは否定しないが
創価も在日もかわらねえし。
でも、戦後在日貧民層に、ヤクザや部落利権や創価や共産党が関わっていってずぶずぶだからって
本当の部落や日蓮宗や元のヤクザまでさかのぼって否定するのは理性的じゃないな
176 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:42:47
元のヤクザってなにー?
清水の次郎長みたいな人
178 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:45:02
それと創価とどう関係あんの?
妄想?
病院行っとけよ
179 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:51:32
今のヤクザの7割が半島系って言われてるのは知ってるよな?
そいつらは戦後、日本に残ったのやら新たに半島から来たのやらのあつまりなの
公的な援助が受けられないこいつらが貧民層を形成して
ヤクザの構成員となるから、今のヤクザが在日集団でおおわれたわけさ
あと、在日貧民層に都合のいい教義をとなえて信者拡大したのが創価
同じくこいつらに都合のいい政策を訴えた政党が共産党、今は公明党と競合してる
同じく部落認定することで自組織の利権拡大をねらってきたのが部落団体
こいつらは在日コミュニティとつながることで勢力拡大してきた糞ども
180 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:53:18
いやー、関西に住んでるものの実感として、それ違うわ。
181 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:56:17
へー、実感プリーズ
182 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:57:35
だって「普通の京都人」も差別に加担してるよ、
あれはみんな在日か?
183 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:59:14
はぁ?差別が悪いとは一言も言ってないが?
184 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:04:09
実際問題、部落扱いされてたはずのとこの子らの方がいい子だったしさー
で、キッショいブサが、「同和ってこわいよね」とか言ってくんの
あなたは知らないだろうけど、
差別を作り出している側の方が、蔑まれて然るべき連中だよ。
これが実感。
185 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:08:15
でねー
職場に京都人が混じると、ウワサ工作ばかりに精を出すので
集団の作業効率が著しく下がる。これマジな話。気をつけなよ。
186 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:08:29
いい子なのは知ってるよ
だからって差別されてるくらいでキレんじゃねえよ
187 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:09:56
最近の部落の若い子は親の利権家業にはつかないまともな子です
188 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:10:52
は?誰の話?何の話?
「差別されてるくらいで」?
なんで差別されんの?嫌がらせされたらキレるでしょ
うちで固まるのは当然の反応だろ
190 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 02:15:53
つかねー
差別問題が深刻だったとこってのは、嫌がらせするやつらがいた所なのよ
藤原氏の京都、物部氏の奈良。
滋賀では織田信長が住みついた所が一番やばいって言われてるってさ。
差別利権で税金やら特権つかってんじゃねえよ
>>190 とりあえずニコ生の同和動画でも見てこいよ
とりあえず、クズが日本を貶めたいという意図は読み取れたな
194 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 03:17:13
日本ってそんなたいしたものかな?
195 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 03:27:33
下層民から成り上がりたい人ほど差別に加担する傾向があることは周知の事実。
2ちゃんで叩けば日々、在日にアゴで使われてる自分のウサも晴らせるしね。
ミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミ
ミミ~~~~~~~~~~~(((~~~~~~~~~~ミミ
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| / \ |
| \ / |
|\ /|
| | | | |
| | | | |
| -_- :::|
| ( ーーーーーー ) |
|  ̄ ̄ ̄ :|
\_________/
197 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 04:39:20
198 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 04:47:06
在日は国家に組み込まれてないから下層民ではない。
世襲下層民は必ずしも貧民ではないが被差別意識を忘れたいが故に右翼的言動に走る。
差別だーって騒ぐやつほど差別を聖域化するから
こいつらほどよっぽど差別に加担してる件
200 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 05:08:33
ここに居る連中は何らか差別を受けてるんだろうね。
すでに2ちゃんやってるってだけで白い目で見られる。
そうそう差別なんてとるにたるようなものじゃない
誤解があるなら、どんなに白い目で見られようと風きって解け
自分たちが属す集団のために、自分が不遇にあうなら
相手の集団と交渉するか、属す集団を変えてみせろってこと。
自分はその集団といっしょにするなとか、集団の行為について無関心であるほうがおかしい
日系米人とか、日本と言う国家も実力で差別と戦ってきたのに
シナチョンは騒ぐだけなんだよな
こういうやつらはいつまでたっても差別される
203 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 05:22:30
得体の知れない怖いものなんだろうね。
人間の生存本能なのだろうか。
かもな
人間とは所詮そんなもの
その生存本能とやらがまちがっていると言うより
まずは相手が不安をいだかないように努力することだ
そうすりゃ意外と愛せるものなのさ
205 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 05:38:14
中世における公界
神社仏閣がシェルターだったわけだ。
近世への代償は高くついたね。
206 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 07:32:04
1.高句麗は中国の中原王朝の統治秩序の中で建国された。
高句麗が誕生した地域は紀元前3世紀には燕の領域であり、秦が六国を統一した後は
秦の「遼東外邀」に属した。紀元前108年に漢が衛満朝鮮を滅亡させ、玄菟郡を設置した
際に高句麗は玄兎郡内の高句麗県に属していた。紀元前37年に高句麗の始祖朱蒙が高句
麗の五部を統一し、建国したのも漢朝の玄菟郡の領土内であった。高句麗の建国はこの
ように中国の領土内で行われたものであり、朝鮮とは直接的な関係がない。
3.高句麗民族は中国の古代の一民族である。
高句麗が滅びた後、高句麗の後裔たちの多数が中国の中原地域・突厥・渤海などに吸
収され、中国の各種族に融合され、朝鮮半島の大同江以南の一部の高句麗人たちが新羅
に統合された。今日の朝鮮民族の祖先は主に古代の三韓、即ち新羅人であり、朝鮮半島
に移住した中国の各種族もかなり多い。しかし、高句麗の後裔は少数である。
6.朝鮮半島の北部地域も中国の歴史に属する。
朝鮮半島の北部地域が朝鮮民族の居住地になったのは15世紀以後のことである。した
がって、5世紀に高句麗が首都を平壌に移したことから、高句麗を朝鮮の歴史と論じら
れない。15世紀以後の李氏朝鮮と箕子朝鮮・衛満朝鮮は朝鮮という名称こそ同じである
が、民族の構成と国家の帰属が異なるので、同列に見なされない。
207 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 10:02:17
六世紀の新羅の言語
梁書 緒夷伝(梁-西暦502年〜西暦507年)より
この時代(六世紀)の新羅は中華王朝秦の言葉を話していた
新羅者、其先本辰韓種也。辰韓亦曰秦韓、相去萬里、傳言秦世亡人避役來適馬韓、
馬韓亦割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物有似中國人、名國為邦、
弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、不與馬韓同。
其言語名物有似中國人
其言語名物有似中國人
其言語名物有似中國人
208 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 10:24:23
創価の集団ストーカーってどういう人が対象だったんだろう
朝鮮人をやとってやらせていたとも言うよ
「部落」のとこ(いたって真面目な人達の集落)に住んでる子が
交通事故で死んだことがあったなあ、2人も。
犯人捕まったのかな。
私の祖父は真言宗(京都南区にある東寺の宗派)の僧侶だったけど
すごく昔に、川に落ちて死んでたって言うんだよね。
事故だったのかな。
得体の知れないものなんかじゃない、
悪意を持った、宗教団体のフリをした渡来人(という名の在日)集団の仕業
そうはっきり分かる方が、ずっといい。
日本を本当にダメにしてきたのは何だったか、日本を救うとしたらどういう事か。
創価どもがしらじらしく愛国主義ぶりだす事じゃないよ
お前らは日本人じゃない
209 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 10:49:02
高句麗の言語
後漢書東夷伝によれば扶飫と豹(高句麗)と沃租は同じ言葉を話していた
高句驪、在遼東之東千里。南與朝鮮、wai[扁水旁歳]貊、東與沃沮、北與夫餘接。地方二千里、多大山深谷、人
隨而爲居。少田業、力作不足以自資、故其俗節於飮食、而好修宮室。東夷相傳以爲夫餘別種。故言語法則多同、而跪拜曳一脚
、行歩皆走。凡有五族、有消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。
東夷相傳以爲夫餘別種。故言語法則多同
東夷相傳以爲夫餘別種。故言語法則多同
東夷相傳以爲夫餘別種。故言語法則多同
210 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 21:51:33
ツングース系言語と推察されているね。
>>209 >東夷相傳以爲夫餘別種。故言語法則多同
これ、どう読むの?
東夷の相伝を以て扶余の別種とす。ゆえに言語の法則多く同じくす。
意味)東夷の相伝によれば扶余の別種である。それゆえ言語の法則の多くは同じである。
かな
212 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 22:13:30
百済の上層部が高句麗と同種であれば大和朝廷の上層部が通訳無しで百済王族と
話してたことを考えると高句麗語も少しは理解出来てたんじゃないかな?
倭の下層民レベルは分らないけど。
>>211 そうですよ
概ね正解です
ちなみにツングースはゆう婁
扶飫とゆう婁は別種になります
それから百済は中国の文献で百済人が山東半島から渡った人々が建てた国と言っているとなってますね
百済の言語
百済傳
其言参諸夏、亦秦、韓之遺俗云。
百済の成り立ち
百済支配層は海を渡って馬韓の地に着いた
通典百濟
晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。
自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。其國東西四百里、南北九百里、
南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南。(中略)自晉代受蕃爵、自置百濟郡。
百濟、即後漢末夫餘王尉仇台之後、後魏時百濟王上表云「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海、因號百濟
初以百家濟海、因號百濟
初以百家濟海、因號百濟
初以百家濟海、因號百濟
215 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 22:26:44
三東半島といえば太公望が封ぜられた斉の国があったね。
三東半島からはコーカソイドの形質的特長のある人骨が集団的に発掘されたことがあったな。
ちなみに扶飫の言語である百済と高句麗の言語が日本語に影響を与えたとしたら
日本語と沖縄方言がなぜ兄弟言語なのか?
琉球諸島まで扶飫が何の影響を与えたのかが問題になると思います
217 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 22:41:04
琉球の中山王朝を日本内地出身者が建国していたとしたら
兄弟言語説は崩れると思いますよ。
218 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 22:43:50
これがゆう婁
姿は扶飫に似てても言語は異なる
後漢書婁伝
婁、古肅慎之國也。在夫餘東北千餘里、東濱大海、南與北沃沮接、不知
其北所極。土地多山險。人形似夫餘、而言語各異。有五穀、麻布、出赤玉、好貂。無君長、其邑落各有大人。
處於山林之 、土氣極寒、常為穴居、以深為貴、大家至接九梯。好養豕、食其肉、衣其皮。冬以豕膏塗身、
厚數分、以禦風寒。夏則裸袒、以尺布蔽其前後。其人臭穢不 、作廁於中、圜之而居。
人形似夫餘、『而言語各』異
人形似夫餘、『而言語各異』
人形似夫餘、『而言語各異』
日本語と沖縄方言の兄弟言語は説じゃなく事実のほうですね
日本各地の方言と同じで中央に遅れて変化が始まるので、より古い日本語の形質が残っている
つまり沖縄方言のほうにより古い日本語の形質が存在してしまっている
>>214 その言諸夏また秦、韓に参ずの遺俗に云う
晋の時、高句麗すでに遼東を略有し、百済また遼西に拠有し、晋二郡を平らす。
今柳城・北平の間なり。
晋より以後、諸国を呑併し、馬韓の故地を拠有す。
その国東西に四百里、南北に九百里、南を新羅と接し、北を高句麗と千余里を拒す。
晋より蕃爵を代受し、自ら百済郡を置く。
百済、即ち後漢末の扶余王尉、仇台の後、後に魏の時、百済王、上表して云わく
「臣、高麗と扶余を先ず出づ。初めて百家海を済し、因みて百済と号す。」
その言語は諸夏、また秦や韓にかかわっていた遺流民の言っていたものである。
晋のときに高句麗は遼東を領有し、百済は遼西を領有していたが、晋はこの二郡を平らげた。
今柳城・北平の間の領域である。
晋より後、百済は、諸国を併呑し、馬韓の故地を領有した。
その国は、東西に400里、南北に900里に及び、南を新羅と接し、北は高句麗とおよそ1000里の間隔があった。
晋から外国を領有するものという位を代わり受け、みずから百済郡を名のった。
百済は、後漢末の扶余王尉、仇台の末裔で、魏のとき、百済王は上表してこのように言った。
「私たちは、高句麗とともに扶余から出て、初めてたくさんの部族のものと海をわたった。
だから、名付けて百済と号している」
むずい・・
あってるのか分からないんだが・・・
223 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:16:47
>>219 はたしてそれが古い日本語の形質と言い切れるのでしょうか?
対馬海峡、東シナ海を跨いでの扶余族を支配者階級に戴く倭国の言語形質ではないでしょうか?
>>222 概ねあってます
其言参諸夏、亦秦、韓之遺俗云。
最初のここだけ
その言葉は夏や秦の言葉がまじり、これは韓の古くからの風習であるですね
>223
沖縄方言から遡って比較したらどうですか?
夏や秦の言葉、つまり中夏王朝で話されてた言葉の形質が発見できたらそうなんじゃないんですか
ま、漢代末の上表で海を渡って秦代に柳城と北平にいて夏と秦の言葉が混ざった言葉を話すのが百済なんだから
中国の古代言語と比較したほうがいいんじゃないですかね
訂正
×秦代
○晋代
ごめん、のちに魏の時じゃなくて後魏(北魏)の時だな
文章的におかしいから
しかも扶余王、尉仇台(いぐだい)という人らしいし、まちがいまくってんな
>>227 九代末裔があるから話の流れは全然伝わりますよ
高句麗の西にいたけど、晋にせめられて海を渡って、馬韓の故地を征服しましたよ
だから百済だよってことか
百済は扶余系でも、馬韓系は倭の血が入ってそうだな
231 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 00:06:49
馬韓も九州も倭だと思うよ。
金印が見つかった志賀島付近が倭の奴国で
倭は海を跨ぐ広大な領域だったんじゃないのかな?
海幸彦、山幸彦も気になるし。
倭人もいたって文献がありますもんね
かなり雑多に入り乱れてたんじゃないでしょうか?
百済の支配層は扶飫ですけど武寧王がみたいに倭で人質として生活した人もいますし
好太王碑文や「やまとのみこともち」の存在から倭が半島へ進出してた事は確実じゃないかと
ただ日本語、沖縄方言を基層言語日本語、上層言語百済の言葉ってするには百済が琉球まで影響を与えていたとか
後の朝廷の国境が奇界島までだったってのがおかしな話になりますからね
倭=ゲルマン
日本=イングランド
加羅=ノルマンディー
蝦夷=スコットランド
隼人=ウェールズ
新羅→韓国=フランス
234 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 01:47:40
日本民族という概念を捨てて「倭民族」の視点で見ると
確かに見えてくるものがあるね。
235 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 01:55:06
たしかに原日本人が現日本国土に住んでなきゃならなかったっつールールはないからな。
もうそこまで遡ると人類学の範疇になってきそうですね
漢委奴國王(=漢の倭の国王)
cf.狗奴國(=狗の国)
>百濟亦據有遼西、晉平二郡
遼西、晋平の二郡を據有す
だったよ。ウィキみてきた。
これ書かれてるのは南朝系の史書で今の歴史家の多くは否定的らしいな
遼西群と晋平群は現在の河北省、遼寧省で燕の領域だったところで
北平、柳城の間と食い違わないですよ
むしろ東海沿いになったじゃないですか
訂正
×東海
○黄海
東を征服した倭人が日本人に、
北を征服した倭人が朝鮮人になったんじゃないのか?
朝鮮人はのちに北から侵略してきた民族の末裔で倭人ではない
243 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 22:13:07
結果的に半島へのレコンキスタは失敗し列島倭人に定着した。
244 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 22:59:18
縄文人
江南人、雲南人→弥生人(神別古代氏族)
扶余族+弥生人→倭人(皇別古代氏族)
渡来人+倭人→大和朝廷(応神朝)
白村江敗戦→律令国家(天武朝)
蝦夷征討→坂東軍事基地化(渡来氏族+古代氏族)
律令制の限界→田堵・負名層、富豪浪人の発生
中央王臣貴族子孫の在地(古代、渡来)豪族への入婿→田堵・負名、富豪層を吸収(寛平・延喜勲功者)
寛平・延喜および承平南海の乱勲功者の反乱→承平・天慶の乱勲功者(兵の家の成立)
律令制から王朝国家への転換→国衙軍制(国内武士の王権による認定)
院政の確立→家の制度の確立(武士の成立)
扶余と弥生人が皇族じゃねえよwww
弥生人は紀元前1000年ごろから断続的に日本にわたってきていた人たちで
一定期にいきなり現れた人たちではないことが分かっている。
それゆえ日本語が縄文人と言われる先住民族を基体として独自性を維持できた。
246 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 23:34:36
>それゆえ日本語が縄文人と言われる先住民族を基体として独自性を維持できた。
明確な説明が出来るのかな?
いやまずおまえが244の説明しろよと
完全な妄想じゃねえかスレの流れ無視しやがって
またいつものキチガイだろ
248 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 23:41:28
>>245 お前さんがじたばたしたところで歴史は変わんねーよ。(ぷっ)
249 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 23:58:43
>>247 こんな基地外無視して
義平、少なくとも清和源氏について語ろうぜ。
説明できないだけだろ、脳内妄想野郎
251 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 00:08:10
252 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 00:10:00
それゆえ>日本語が縄文人と言われる先住民族を基体として独自性を維持できた。
バカだろ?こいつ
これほど説明できないことを棚に上げて必死なやつは初めてだわ
254 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 01:00:26
大蔵館は発掘調査されたみたいだね
大蔵館襲撃の具体的遺物は出土しなかったけど14世紀までの痕跡は発掘されている。
秩父党高坂氏の管理下にあったようだ。
255 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 02:12:27
頼朝の同母妹坊門姫は平治の乱後、義平に従軍した後藤実基(秀郷流)に
預けられ養育されたみたいだね。
256 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 11:04:01
トンスル職人
言語がことなる
武蔵七党と坂東八平氏はどう関係するのかな
八平氏ってどっちかっていうと、両総、常陸ってイメージがあるんだけど
260 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 21:03:43
村岡五郎さん
坂東て基本、箱根より向こうだよな?
>>255 「平治物語」で金毘羅系の本では義朝が坊門姫の養育を後藤実基に命じたとあるが
学習院本では後藤実基が太っていてこれ以上義朝一行についていけなくなったから
近江に留まったとある。
「平治物語」の記載に差異はあるが
後藤実基が坊門姫の嫁ぎ先の一条家に仕えていたのは事実らしいから
後藤基実は坊門姫の近くにいたのだと推測はされる。
263 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 09:51:10
関東八屋形のなかに平氏って一人だけかよ
没落とはこんなにあっけないものなのに古代氏族ってのだけはしぶといとかないね
264 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 11:54:21
他の関東八屋形はいずれも新興階級なのかw?
265 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 17:24:09
>>263 前スレでも書いたけど
決定的だったのは結城合戦だね。
今川氏の軍制(寄子、足軽)によって血縁戦闘部隊は壊滅させられた。
266 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 18:51:31
関東八屋形、宇都宮氏についてだが
その祖、藤原宗円は藤原北家道兼流であり「兵の家」出身じゃないんだよね。
ただ父親の兼房 はとても乱暴な人だったようだ。
実質、関東に根を下したのは益子正隆の娘に入婿して宗綱をもうけてからであり、
宗綱は八田氏に入婿して嫡男朝綱、小田氏の始祖八田知家をもうけている。
八田氏とは何者なのだろうか?
267 :
266:2010/12/22(水) 19:00:49
ネットで今、「武家家伝」というサイトを見たら
藤原北家道兼流は仮冒と書いてあった・・・
268 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 19:47:37
益子氏=紀氏=毛野氏
269 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 19:57:05
>>265 下層民の戦闘部隊(寄子、足軽)によって名家の血縁戦闘部隊が殺戮されるってやるせないね。
270 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 21:11:22
271 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 21:17:22
実際そういう説も聞いたことある。
名田経営者が土地名から名字をつくるのは不思議ではないだろお
名字からの類推って研究者からすればまったく信用のない部類だとおもうわ
児玉源太郎とか、承久後に西国に下向した名家の子孫はいるな
毛利家の重臣だから明治にも元勲として名を馳せれたんだろうけど
かつての名家もやっぱ足軽レベルの禄を食んで生き残るしかないだろうね
秦、畑、畠、端、波多、波田、幡多、羽田、八田、半田、秦野、波多野、羽田野、波田野、畑野、畠野、幡野
羽田(波多)氏
波多氏
武内宿禰の長男、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする豪族。
太秦公宿祢
男功満王。帯仲彦天皇、謚仲哀。八年来朝。
男融通王、一云弓月王。誉田天皇、謚応神。十四年。来率廿七県百姓帰化。
献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇、謚仁徳。御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。
仍賜姓波多。
次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇、謚雄略。御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐(うずまさ)
『新撰姓氏録』
276 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 01:31:21
皇国史観厨w
277 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 01:47:42
なぜその土地名が付いたかを考えてみる
秦≠羽田
ということだな
そういや弓月の君、弓月氏が日本に来てなんで秦氏を名乗ったんだろな。
弓月「これあげます。養ってください」
天皇「この絹ってぬの、やわらかくってあたたかくってまるで肌(はだ)みたいなさわりここちやん」
弓月「・・・」
天皇「おまえの名前はだにしてやんよ」
弓月「はだってよんでね」
本当にそんな理由かも知れんね。
282 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 07:41:26
「旗(はた)」って単語、古代日本語か渡来語か?
琉球方言に無ければ渡来語の可能性大だな。
旗は機(はた)をたらしたものだからはたなのでは?
旗なら魏に貰ってるだろ
原の辻遺跡の出土品みたら、そもそも渡来が中国から倭にダイレクトだった可能性高いじゃないか
百済王の墳墓からは燕の鋳銭が大量出土してんだし
新羅が百済から倭へ渡ろうとする弓月氏の邪魔をしたのは、新羅は空っぽだから弓月氏の技術欲しさにって考えたほうが自然だろ
朝鮮半島自体は中国と倭を結ぶ高速道路のサービスエリアみたいなもんじゃないか
高麗時代ですら布を紙幣代わりに使うって画期的なことやってた地域だぞ
ダイレクトな交易があったことはありえるが
ダイレクトに移民するつわものがいたかどうかは疑わしいな
127県の秦氏が来たってあるし
どんだけ民族大移動だよってかんじだし
後世の脚色かな
実際は職人が日本に交易にきて、ヘッドハンティングされて秦部という財産をもらって秦氏を名乗り
この職人につかえた部民たちが技術をたずさえて全国に広まっていった結果
秦氏がありえないほど増えてしまったためにさかのぼって大量に移民してきたように記述した。
こういうことかもな
大量移民が来てるのに、朝鮮半島以上のものが日本にあるっておかしいもんな
その後、朝鮮半島に何も残ってないって事は渡来人は中国から来て日本に渡ってったんだよ。
日本にだけ渡来人が渡って来て朝鮮半島に渡来人が渡って来なかったってわけないだろう
余所から来て余所へ行ったんだよ
だいたい肝心の朝鮮半島での機織りの起源や歴史すらわかってないだろう
朝鮮半島以上の鋳銭ってのがあるだろうに
渡来人が半島に渡来した、それを倭がヘッドハンティングした
だから朝鮮半島には何も残ってない
だいたい漢城の語源もわからないのに余所の国もなにもないだろう
日本に大量に渡来人が来てるのに朝鮮半島には渡来人は来なかったと思うのが間違いだよ。
287 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 10:08:04
おめーら、おれの義平を返せ!
すまない、平安時代に戻ろう。
289 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 10:26:25
290 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 10:31:02
義平って嫡男だったんじゃないの?
源太って名前が嫡男っぽいわけだが
291 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 15:07:59
義朝が次第に院近臣に接近するに従って嫡流も
義平→朝長→頼朝と移動したってかんじ?
源太というのは「源氏の太郎(長男)」という意味。
当時は本名(義平)を読んではいけないから通称で呼ぶ。
通称は
官位が有る場合官位で呼ぶ。
官位がない場合は通称名(兄弟順など)で呼ぶ。
ちなみに「平治物語」では
義朝は左馬頭または頭殿
朝長は中宮大夫進殿
頼朝は兵衛佐または佐殿
と官位で呼ばれているのに対して
義平は「悪源太」
当時の扱いは 官位有るもの>官位無い者
そして通称で呼ばれたものが官位を得ると官位名で呼ばれてステータスが上がったものと見なされる。
(例 義経 九郎→判官殿)
よって少なくとも平治の頃のステータスは
義朝>頼朝>朝長>>>>>義平
となっており
頼朝の方が兄弟の中でのステータスが高いものと見なされる。
もう一つ。
従来義朝が為義の嫡子と見なされていたが最近はそうではないという見解も強い。
義朝の弟義賢が「帯刀先生」という東宮職を先に得ていたが
義朝はその頃東国にあって無位無官であったからということらしい。
ちなみに義賢が様々な問題を起して都での出世をあきらめた後は
頼賢が為義の嫡子になったと見なされている模様。
ふーん
じゃあ、義仲としては頼朝に従いたくない気持ちもあったのかね
義堅が下向したのは義朝が誰に官位を授かったかってとこじゃないか?
296 :
日本@名無史さん:2010/12/24(金) 02:18:12
義朝は親に頼らず官位を得たのか
中流貴族藤原忠清の娘の子である義朝は外祖父の忠清が出家してしまい、あまり母方の家の庇護を受けて育ってないが
幼少期を過ごした上総畔蒜庄は源頼義が前九年の益で得た土地で
畔蒜庄の実質的な名義人が為義のいわば主になる
義朝が坂東で土地の切り取りと家臣団の統合をしながら、父為義は義朝が切り取った土地をせっせと伊勢神宮や熊野大社に寄進して、そこに郎党を派遣することで管理した。
熊野別当の娘と義朝の間に行家が生まれるのも、こういう縁であると思う。
が、義朝が上洛して仕えたのは鳥羽上皇だ。
義朝が上洛してこのラインに入らなければ、下野守はなかっただろうし、義堅が下向することもなかっただろう。
なんで義朝が下野守を欲っしたかは義朝の坂東での婚姻関係と都で誰と行動したかを見たら一目瞭然だと思う。
ちなみに頼朝と都で行動を共にして保元の乱に参加した源義家の孫源義康は藤原李範の養女(孫娘)を妻にし
義朝もまた藤原李範の娘を妻にして頼朝をもうけている。
>>297 〉なんで義朝が下野守を欲っしたかは義朝の坂東での婚姻関係と都で誰と行動したかを見たら一目瞭然
曾祖父義家の足跡の追体験?
>>299 間違いじゃないと思うよ
義家と藤姓足利氏との間の子供が義国だからね
藤姓足利氏から自立する為に足利庄を立庄寄進した先が鳥羽院だよ
義朝と義康は熱田大宮家の娘を妻にして子供の頼朝と義兼は従兄弟同士になる。
そして義朝の長子義平と源義重娘の婚姻も決まってた。
義朝が土地を切り取り為義が寄進するその寄進先をを義朝が変えたので為義との関係も悪化したんだろね。
平清盛の従兄弟源経国(義忠子供で義国の甥)を通して義朝と義国が接近するんだけど
藤姓足利氏の真っ只中にある鳥羽院庄園の在地領主と受領の関係が出来上がる。
301 :
日本@名無史さん:2010/12/24(金) 21:53:04
>>300 経国は叔父義国に何故か東国に連れ去られて「国」の名を付けられて家人同然にされてしまうんだよ。
「尊卑分脈」以外では義忠は義国の兄であるんだけど。
君の言ってる通、清盛は鳥羽院との関係?はとても深い。
>>301 平忠盛が外祖父で清盛が従兄弟の経国は、ある意味で足利庄立庄のキーパーソンだったかも知れませんね。
忠盛、清盛父子は院政期に中央で大きな成功を収めていくんで色んな形でそれぞれが絡んでますからね。
為義も鳥羽院とまったく関係がなかったわけじゃない
だが為義は院政という中央の政体を上手く捉えきれてなかった
だから六条判官で終わったんじゃないでしょうか。
そして義朝の行動が変化するのは熱田大宮司家藤原李範の娘を妻に迎えてから
この妻の実家を背景に義朝が為義から離れる実力を持つに至ったと思いますが、この縁を持ってきたのは間違いなく為義ではなかったでしょうね。
303 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 00:03:38
>>302 熱田大宮司家は元々尾張氏だね。壬申の乱でも活躍した武力を持った神祇地方豪族。
尾張氏に藤原南家の季範?が入婿したと言われている。
保元の乱で熱田大宮司家は義朝に助力の兵を出したと言われてるね。
余談だが鎌倉時代の足利氏の所領が尾張、三河に多く有ったのも在地勢力と先祖義兼の
縁によるものが多かったと思われる。
>>303 ここの御神体は源義経が壇之浦で紛失した草薙剣であるわけですけど
義経が紛失することによって草薙剣の役目自体は大宮司家の血を引き清和天皇で天皇家に繋がる頼朝そのものって解釈も出来るんですよね
そして頼朝がそうであるなら源義康と熱田大宮司家の娘との間の子、源義兼もそう解釈出来ることになる。
為義、義堅父子と比較したら彼らと比べものにならない出世をして受領にもなってる。
義康の経歴を調べていくと源義親や源為朝と似たり寄ったりの任務を帯びて母方の家の恩恵にも預かれず無位無官でいた義朝が父為朝や弟義堅と違い、いきなり受領になれた訳が見えてくる気がします。
>>302 元木泰雄氏はこの縁は為義によるものと推測してますが、
新日本古典大系『保元物語・平治物語・承久記』の
「平治物語」脚注に次のような意のことがあります。
”義朝の母は待賢門院の女房であり、
頼朝の母の一族は待賢門院や上西門院に仕えるものが多かった。
このことから両者の婚姻の状況が想定できよう”
つまり義朝と熱田大宮司家娘との婚姻は義朝の母方を通じた縁も
理由の一つであった可能性もあるということです。
(この論のソースがよくわかりませんが)
それから、熱田大宮司家と待賢門院や上西門院の関係はよく取りざたされているが
意外なことに熱田大宮司家は美福門院ともつながりがある。
季範の祖父や父は美福門院の父藤原長実と関係があり
足利義兼の実父藤原範忠の妻は「美福門院上総」という美福門院に仕えた女房。
義兼自身も美福門院所生の皇女八条院に判官代として仕えている。
(藤田元啓『中世熱田社の構造と展開』)
熱田大宮司家は待賢門院、上西門院に近侍する一方で美福門院、八条院
にも接近するという抜け目ない宮中遊泳術を持っている。
>>306 訂正
×足利義兼の実父藤原範忠
〇足利義兼の母の実父藤原範忠
>>305 熱田大宮司家との縁は義朝が外祖父藤原忠清の娘を母に持つは同意です。
ただ私はこの熱田大宮司家の娘を妻とするのは、それまで為義、義朝父子が母方の実家(忠清が出家してしまってたのが大きな原因ですが)の恩恵にまったく授かってなかったのと
為義、義朝父子と比べたら比べものにならないくらい都で順風満帆に歩んでいた源義康も熱田大宮司家の娘を妻にしたってことで義朝と義康の婚姻はある程度セットであろうと考えています
実に義朝は母方の血縁で紹介してもらえたら妻に迎えられる資格がそなわっていたが、それまでの為義、義朝父子はそれを有効利用する力がなかったのではないかと。
源義康も熱田大宮司家の娘を妻として頼朝と義兼は従兄弟同士なわけです。
まったく別の縁でたまたま為義の子と義国の子は妻を同じ家から迎えることになったとは考えにくいと思います。
そして為義がこういう絵を描ける人物であったら本人が六条判官、義朝は無位無官ではなかったろうと思います。
309 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 11:24:46
近藤好和氏「騎兵と歩兵の中世史」(吉川弘文館)によると
武士の武芸(騎射芸)起源は天平宝字八年(764年)に起きた藤原仲麻呂の乱鎮圧での
勲功者である新興軍事官僚(坂上大宿禰苅田麻呂、道嶋宿禰嶋足ら)に求められると言う。
彼等は破格の官位を得ている。
彼等の騎射芸とは「うまゆみ」と呼ばれ後の武士の流鏑馬に類似するという。
「うまゆみ」や流鏑馬などの騎射儀礼は狩猟儀礼とその源流からセットで行われて来たのだと言う。
「続日本紀」大宝二年四月庚子条によれば
「賀茂の神を祭る日、宗徒会集ひて仗を執りて騎射することを禁ず、唯し当国の人は禁の限りに在らず」
とあり、8世紀初頭には賀茂祭の神事として騎射「うまゆみ」が盛んに行われていたことを示している。
賀茂社は周知の通り渡来系氏族秦氏の氏神であり根拠地の一つであるので騎射「うまゆみ」と
秦氏の関係にも今後の研究が待たれるとしている。
賀茂氏の祖神である賀茂別雷命を祀る
311 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 12:08:20
尾張氏って何者?
伊都之尾羽張(宇留命の息子)
313 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 13:49:06
千秋氏は戦国時代には信長の下でも活躍してるな
314 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 14:25:42
315 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 14:32:42
>>313 信長の桶狭間出陣のおり熱田神宮に武運を祈願している。
パフォーマンスとして古代豪族尾張氏の末裔達を鼓舞したのかな?
316 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 14:42:14
ところで
義平の弟範頼もたしか母親が三河出身で後に頼朝から三河守に推挙されてるね。
熱田大宮司家(尾張氏)とも縁があったのだろうか?
317 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 14:59:13
>母親が三河出身
遠州だった
まぁ源義平の異母弟範頼の養父は藤原範李だから藤原李範とまったく無関係ってわけでもないね。
尾張は生死ともに縁深い土地だな。
昔より
主をうつみの
うらなれば
おわりを待てや
羽柴筑前
みのおわりの恩賞ですな。
>>315 てか、千秋氏(熱田神宮大宮司家藤原氏)自体、戦国時代にはそれまでの社家としての性格も持ち続ける一方で、世俗領主としての性格も併せ持つようになっていた。
千秋季光は天文13(1544)年に織田信秀に従って美濃侵攻戦で討ち死にしてるし、
その息子の千秋李忠も信長に従軍して永禄3(1560)年桶狭間の戦いで今川軍先鋒隊に突撃して、やはり戦死している。
322 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 17:02:19
秀吉(日吉丸)多分、母方(大政所)は尾張氏と関係あるのかな?
姉妹は日秀と旭姫で太陽神との関係も気になる。
縁者の加藤清正や福島正則が庶民の出自といっても天下の武辺者であり
弟秀長に至っては武力、政治力を驚異的速さでマスターしてるしね。
彼等は元々そのような素養があったのではないだろうか?
323 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 17:10:39
秀吉ん家は父方は中村の豪農、母方は御器所の鍛冶師・関氏じゃなかったっけ?
324 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 17:46:21
「ふじわらりーはん」て誰?
325 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 18:22:56
氏族の相伝って凄いね。
326 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 18:26:25
うちの近所の神社にも秘伝(笑)の神事があるけど、結構古代から続いてるのかもね。
327 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 18:58:38
天下を覗う権力者はやはり早期に古代氏族の重要性に気付いてたのかもね。
328 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 19:29:49
息長氏と尾張氏って関係あるの?
>>314 そう。
ヤマト王権の東方への版図拡大の過程で、当時のヤマト王権の東端だった濃尾平野に封じられたのが尾張氏。
住吉大社宮司の津守氏や、籠神社の海部氏は同族。
>>328 あるっちゃある。
息長(久米)氏系の神功皇后が住吉神の子を身籠って生まれたのが応神天皇との伝説もあるし。
331 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 13:44:29
神武天皇は何故か鈴鹿以東の東征は中止してるね。
天孫族と同じ太陽神に憚ったことらしい。
その太陽神とは熱田神のことなのかな。
332 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 14:39:06
なんか電波っぽくなってるな
慈円は愚管抄だけにして欲しいものだ。
334 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 19:00:05
神功皇后
皇族出身でなく臣下出身なのになんで「皇后」?
335 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 20:30:27
いやあ、神功は皇后どころか実は即位して大王になってますよ。
夫である隼人=大和系の仲哀大王の戦死という突発的出来事が起こった為に。
それがために、新羅征伐が終わった後に、
半島から帰還した神功大王軍と、大和系の香坂、忍熊両皇子との軍事衝突が避けられないものとなったのです。
336 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 21:50:46
じゃぁ
応神朝は息長系なの?
少なくとも母系はね。
でも、あのころは代が変わる度に宮をうつして、その土地の名前を宮名にし、その土地の住人を舎人
にするような形態だったんでしょ
代ごとに王朝の交代があったようなものらしいね
339 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 06:42:51
>>201-204 世の中はそんな単純じゃねーんだよ。
他人事だと思って好き勝手言いやがって。
この世間知らずのボンクラ野郎共が。
とっとと地獄に堕ちやがれ。
むーしむーしおつかれさまでしたー
341 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 07:54:13
無視になってないしw
カートマンだよ
343 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 15:47:57
ザ・カートマン
あ
義平は斬首の後、遺体はどうなったんだろね?
346 :
日本@名無史さん:2010/12/28(火) 21:20:32
>>345 奥方(新田義重の娘)が上京して密かに葬ったって伝承があるね。
>>346 首の方ですね
太田市に(旧新田郡)墓ありますね
遺体の方はどう扱われたんですかね?
当時の罪人は野ざらしかな?それとも一応、集団墓地みたいなとこに収められたんですかね?
明けましておめでとうございます。
あけおめことよろ
貞盛流の伊勢平氏以外の関東に残って勢力をたもった一族ってどんなのがいるんだろ?
北条氏はどうやらちがうみたいだし、見当たらないなあ
351 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 02:24:08
age
352 :
日本@名無史さん:2011/01/21(金) 22:33:03
安倍晋三は腐臭。
354 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:52:22
源氏が鎌倉を本拠にしたのは、ここが相模公の居所だったからと読んだことがあるが、
「相模公」って何者?
前スレ
186:日本@名無史さん2010/10/14(木) 19:31:41
だいぶ前に歴史読本の源氏特集の号で、学者さんの寄稿したマジメな文章に、
鎌倉が源氏の本拠地なったのは、かつて「相模公」の居所だったからとあったのだが、
「相模公」って何者?
356 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 00:29:45
何者なんだろうね?
357 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 01:30:33
「学者さん」って誰?
その学者の書いた本を読めばわかるかも
358 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 02:17:20
質問者はここで2度も尋ねるよりも、
まず、自分がかつて読んだというその出典を自分で調べる方が先決と思う。
国立国会図書館へでも行けば「歴史読本」全巻揃ってるでしょうに。
遅レスでもなし聞いた方が早いな
360 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 07:06:58
てか、ネタで聞いてんだろ。
前スレでも、質問に対してそれなりに考察したレスをしてる人が何人もいたのに、
この質問者は礼も含めてそれに対するレスを何も返してない。
馬鹿馬鹿しい。
>>350 北条氏はちがうのかちがわないのか不明というのが本当のところ。
同様に不明な点はあるものの、熊谷氏も貞盛流と言われている。
あとは常陸平氏が貞盛の弟・繁盛流(こちらは正真正銘)だけど、
繁盛の息子たちはこぞって伯父貞盛の養子に入ってる。
こちらは北条、熊谷両氏と違って、大勢力を擁する。
>>354 平姓鎌倉氏の母系氏族にもあたる丸子連氏とか、鎌倉別氏とかそのあたり。
363 :
日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:05:01
平成キャバクラ嬢
364 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 02:51:55
553 :日本@名無史さん :2010/11/06(土) 16:45:30
>>551 「相模公」って12世紀以前によばれた人物は
正暦3年に薨去した太政大臣藤原為光が死後、正一位追贈され相模国を封ぜられたとあるね。
これは「国封国公諡号」の制度。
為光自身は鎌倉に居住した事実は認められないので相続した子孫か?
その子孫が山内首藤氏か波多野氏に連なるのであれば大変興味深い。
山内首藤氏の祖、佐藤資清の祖父相模守藤原公光の出自を「尊卑分脈」
にもとめれば魚名流秀郷五世となっている。
公光の養子となった通家という人物がいる。彼の祖父が藤原為任と謂い
藤原北家真楯流帥伊の孫である。
摂関家の祖、藤原兼家と近い人物でありその弟、為光と同じ通名「為」を持つことから
養子関係、若しくは父親の女婿関係を推測することは可能である。
山内首藤氏が鎌倉に居したのは事実であり、資清の兄弟佐藤季清は鳥羽院に
仕えた北面の武士で従五位下左衛門尉であり京においては藤原秀郷の嫡流とみなされてたようだ。
まあ、「相模公」を源義朝と勘違いしたのではと推測するけどね。
365 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 03:54:15
>193:日本@名無史さん2010/10/15(金) 03:03:32
> 186
> >相模公
> なんてはじめて聞いた。
> さがみのきみ と読むのか?
>
> 相模(相武)国造なら、出雲臣族の伊勢津彦命(=建御名方命と同一人とも)の子孫である漆部直(のちの相模宿禰)氏だしな。
> しかも場所は鎌倉ではない。
>
> 鎌倉となると、日本武尊の子孫である足鏡別王のそのまた子孫の鎌倉別命あたりではないのか?
366 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:30:21
日本武尊なんて架空の人物だから。
367 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:46:31
神武天皇も、神代の時代の神々の話も全部架空の作り話?
369 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:19:24
八幡大菩薩(八幡大神)は応神大王と同一人物?
370 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 02:10:14
age
371 :
日本@名無史さん:2011/02/13(日) 21:38:05
安倍晋三は腐臭。
>>364 秀郷流の嫡流ってどこなんだろうな。単純に小山氏だと思ってたけど
支流が嫡流になることは珍しくないから没落したどっかが元の嫡流ってこともあるか
河内源氏の嫡流は義忠が急死(暗殺)しなくても
元々義忠→為義のつもりだったのかな
安和の変で流罪になってなければ、千晴が秀郷流嫡流なんだろうな。
ただ、尊卑分脈によれば、次男(一説には五男)の千常の母は侍従・源通女で、元々この千常が秀郷嫡男だったという説もある。
で、その千常流諸氏においては、
中央では佐藤氏が、地方では下野小山氏か足利氏が嫡流に当たるらしい。
374 :
日本@名無史さん:2011/02/17(木) 09:35:42
>>369 そう。
宇佐氏の祖神である元八幡(原始八幡)神に、後世応神天皇と神功皇后が付加された。
神功皇后(オキナガタラシ姫)や応神天皇(ホムタワケ命)は宇佐氏と多分同族。
>>372 >元々義忠→為義のつもりだったのかな
それはなかっただろうね。
義忠の実子が幼いから、為義が養子になったんじゃなかったかな。
376 :
日本@名無史さん:2011/02/22(火) 10:30:37.42
しかし何で義平は、京に戻るかな〜?
飛騨でちゃんと保護してもらえていたんなら、そこでしばらく待機するとか
関東に来て頼朝のところに顔出すとか、親父さんの元部下の処を点々とする
とか色々やることアンだろ?
っておもた。
377 :
日本@名無史さん:2011/02/23(水) 08:17:44.43
>>376 後出本の「平治物語」では義平は北陸方面に向かったことになっているが
古い時代にできた「平治物語」では
東山道に向かっていきそこで都にいく一団の武士に合流したが
その武士達が途中で解散して在地に戻った為
義平は止む無く都に戻ったとある。
だから実際にはどうだったかわからないが、
東に行ってもどうにもならない状況があったのではないだろうか?
378 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:35:59.78
義平の子孫っていないのかな。
『姓氏家系大辞典』では中村氏というのがそうだと書いてあったような記憶があるが。
379 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:55:59.95
>>376-377 最初は源氏に心を寄せる武士達が彼の元へ集まってたけど、棟梁の義朝が殺されたという噂を耳にすると
あっけなく四散してしまったとも言われている。
さすがにこの状況を目の当たりにしたら「源氏再興」って感じではないだろう、もう。
頼朝が平家に捕われた事で逆に命拾いしたなんて事、まさかこの人は知る由も無いだろうし。
(京に潜伏していた時期にそれを何らかのツテで知ったとしたら面白いんだがな)
新田を頼れば良かったんだよな
381 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 06:16:48.94
頼朝逮捕は2月で義平の死後のことであるのだが
頼朝挙兵のあと甲斐と信濃でも源氏が台頭し、関東の頼朝と東海道の武田、北陸の義仲が割拠したわけだけど
源氏の棟梁という旗頭があれば、清盛生存時でも源氏は地方から中央へと攻め上る求心力たりえたのだろうか?
383 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 07:31:00.19
たりえないよ。
「源氏神話」なんてあと(頼朝時、足利時)から創作した嘘だもの。
はあ
でも、総領制の中で関東では主に源氏の名家と主従関係を結んでいく傾向があったわけで
血縁関係で考えるだけでも、源氏が芋づる式に挙兵に参加していくことはありえるし、主従関係を考えると
東国への源氏の影響力は無視できないと思われますけど
前スレ読んできて下さいな。
>関東では主に源氏の名家と主従関係を結んでいく傾向があった
という「通説」は、今日の学界では殆んど否定され、
それは頼朝が天下を取って以降、自身を正当化するための後付けとして付加されたものであるかということが散々議論されてきたはず。
386 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 17:56:28.70
しかし、三浦、千葉、上総などが、源頼朝の武装蜂起計画をかなり前から計画している。
しかも三浦と千葉の総領は、義平十七騎のメンバーだし。
義平十七騎の内ほとんどが国許に逃げ帰る事に成功しているだよな。
しかも清盛に帰参しているのもいる。
>棟梁の義朝が殺されたという噂を耳にすると
>あっけなく四散してしまったとも言われている。
平治の乱では、義平には十七騎しか付いて行く者がいない時点で駄目っぽい。
三浦は三千騎、千葉は一万騎の動員力があるのに総領一人来られてもどうしようもない。
勢力のでかい三浦と千葉は部下をもっと連れてこいよって感じだろう。
387 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 19:36:25.69
千葉、上総はちっとも早くなんかないだろw
388 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 00:29:08.64
>>386 >三浦は三千騎、千葉は一万騎の動員力
ソースは?
389 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 02:14:14.65
>>386 > しかし、三浦、千葉、上総などが、源頼朝の武装蜂起計画をかなり前から計画している。
これも出典お願い。てか、
>かなり前
って具体的には何時?
以仁王令旨以前?
それとも、石橋山合戦以前?
390 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 16:22:29.20
上総は平時家を旗印にするつもりだったのでは
出典とか言われてもこちとらたいていウィキだよ
比企尼とか乳母つながりってだけで一族総出で事に当たるわけなんだし
そもそも東国で縁故関係といえば源氏しかないだろう
平家対源氏という面なら、東国にはかぎりなく源氏につく者しかいなかったと思うぞ
朝廷対源氏の中の元摂関家の有力家人ってんなら、圧倒的に分が悪いが
なんせ、義朝の代で身内争いがあって関東でも義朝に味方したのは半分、半分は敵にまわしてたわけだ
392 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 19:34:04.56
前半と後半で既に言ってることが真逆な件。
なんで?
平家はかならずしも、朝廷じゃないだろ
当時の武家の中の侍階級に位置するもので地方と密接につながり動員力をもっていたのは
河内源氏の中の義家流と、伊勢平氏の中の正盛流しかいなかったわけで、
あとは国衙領につとめて国内警備をまかされていた地方武士や
常に都にいて院の警備をする高貴ではあるが動員力のまるでない侍しかいなかったわけだ
395 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:57:06.49
>>393 > なんで?
> 平家はかならずしも、朝廷じゃないだろ
その論で言うなら、坂東の豪族はもっと
>かならずしも
源氏なんか
>じゃない
ということが言える。
彼らもそれぞれ、当時の自身が置かれた状況における選択肢の中で頼朝を選んだということに過ぎないんだよ。
決して
>>384で言うような「源氏累代の家人」だったから等という理由からではない。
それで
>>386の
しかし、三浦、千葉、上総などが、源頼朝の武装蜂起計画をかなり前から計画している。
のソースは?
そして
>かなり前
とは具体的に何時の時点を指すのか?
>>395 言ってる意味がよく分からないんだがほんとに
平家か源氏かでいうなら源氏だと言ってるわけだが
平家も源氏もあくまで朝廷のかわりに軍権を預かっているにすぎない。
私闘であるならあきらかに源氏につくだろうと言ってるわけだよ
>>391 ウィキ出典という時点であれ?とも思うが、
ウィキの「治承寿永の乱」の記事やそのバトル一覧の記事に本当に目を通して書いた?
あのあたりを読むとそのような論理やにはならないし
>>386のソースになりそうな事は何も書かれてはいないのだが。
399 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 21:17:52.50
何って言われても
頼朝挙兵時から平家都落ちまでは
平家イコール朝廷と言っても過言ではない。
高倉院政ー安徳帝を擁した平家は朝廷を動かして
国府を通して各国から武士を動員することができた。(従わないものも多かったが)
一方頼朝らの各蜂起勢力は最初は反乱者扱い。
寿永三年十月宣旨以降、頼朝は後白河ー後鳥羽体制において朝廷に認められた。
その後は後白河ー後鳥羽体制のもとにある頼朝vs安徳体制の平家との間の戦いの側面もある。
>>396 平家が朝廷の代わりに軍権を預かっているのは平重盛が追捕権を貰って以降。(平治以降)
源氏が(というより源頼朝が)軍権を認められたのも寿永三年十月宣旨(臨時措置)→日本国惣追捕使任命(恒久承認)以降
治承寿永内乱勃発時は平家は官軍、各国反乱勢力(含む頼朝)は一応「以仁王令旨」に従うことを建前としていた。
決して源氏平家の私闘などではない。
三浦氏の動員兵力は、450人前後。
衣笠城に立てこもった兵力が大体これぐらいといわれている。
ただし、この直前に戦闘で死傷者が出ているし、立てこもった軍勢には
安房から駆けつけた娘婿の手勢も込みの数。
畠山重忠は、直属の郎党で500人前後。
さらに秩父党の面々が加勢に駆けつければもっと多い。
ちなみに北条時政は40人(時政・宗時・義時込み)。
405 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 22:51:02.60
>>400 前のレスで出典を求められたから
> 出典とか言われてもこちとらたいていウィキだよ(
>>391)
と書いたんだろ?
このレスのやりとげで他にどんな理解の仕方があるんだ?
早くソース頼むよ。
406 :
405:2011/03/02(水) 22:55:08.62
やりとげ(×)
↓
やりとり(○)
>>405 書いたんだろ?とか勝手に自分の解釈押し付けられてもね
出典厨がおるわー思うて、私はこういうもんですよってくらいの意味で言っただけなんだが
秩父といえば河越氏だろ
409 :
日本@名無史さん:2011/03/02(水) 23:50:15.87
>>407 > 書いたんだろ?とか勝手に自分の解釈押し付けられてもね
あんた以外誰の解釈でもそうなるよ。
>>386-391 の流れでそのように
>解釈
してんのが俺だけだと理解してるんだとしたら、あんた国語の勉強一からやり直した方が良いと思うぞ。
> 出典厨がおるわー思うて、私はこういうもんですよってくらいの意味で言っただけなんだが
史板でいちど出典求めたくらいで
>出典厨
になってしまうというあんたの思考回路の方がよっぽど
>勝手
な
>自分の解釈
の
>押し付け
だよw
そうか?出典抽出したらほぼおまえだったぞ
おまえの思い込みを押し付けんなよ、そもそも自分で最低限調べてから出典きけよ
411 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 00:04:20.88
>>410 > そうか?出典抽出したらほぼおまえだったぞ
それはお前が何のかんのとはぐらかして一度も出典の求めに応じないからだろうがw
> おまえの思い込みを押し付けんなよ、そもそも自分で最低限調べてから出典きけよ
俺が何を
>調べ
るんだww?
だからおれじゃねえしwふざけんなよ
調べ方も知らねえのかよ、おまえはレポート書くのに何調べればいいのとか聞くのかよ
とにかくいいかげんにしろよ いいな これでさいごにするからな いいな
413 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 00:11:25.93
>>412 >>386の
> しかし、三浦、千葉、上総などが、源頼朝の武装蜂起計画をかなり前から計画している。
は私の脳内ソースでした まで読んだよw
だからおれちゃうし、文体がちがうだろ 書き方というか、わかれよ
386が来たらはっきりする、そんときおまえすみませんって言えよな
415 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 00:19:41.42
人を信じれないとは悲しいやつだな
417 :
日本@名無史さん:2011/03/13(日) 20:09:42.79
>>404 >ちなみに北条時政は40人(時政・宗時・義時込み)。
山木攻めの時は、兵力が足りなくて仮武者(バイト君?・期間工?)を募集して何とか40名を集めたらしい。
マジでこの時期の北条氏って兵力に関しては少ない。
しかも政子以下幼い兄弟は、走湯権現に避難し北条館はがら空き状態。
>>417 なんか泣けてくるな。
伊豆の有力武家のひとつ北条氏の一有力者では、これが精一杯か。
419 :
日本@名無史さん:2011/03/15(火) 05:16:55.50
何でそうなるか、と言うと
伊豆北条氏は、関東の小規模田舎武者にしては名門中の名門(伊勢平氏:平貞盛流嫡流にして代々伊豆の守&介の家筋)杉。
つまりアンバランスで、家名が高い割には、伊豆北条氏の所領や兵力が小さい。
歴代の当主が、伊豆守、伊豆介に任官するのなら、現実の動員兵力は10倍は無くてはならない。
この時期の朝廷は、王朝国家で、現地有力者が責任を持って徴税や行政に当る事になっていた。
おまけに時政は、壮年になっても伊豆国衙の官職には就けていなかった。
北部伊豆には、伊東氏や狩野氏といった有力な武士が居るので、
時政としては、ここで大きく前進しないとカンバン倒れで伊豆北条家が埋没する。
と言う焦りがあったと思われる。
ついに伊豆介職は、おじが先に就いてしまう。これは、山木兼隆の意向が反映された可能性がある人事であった。・
北条が貞盛流なのか疑問視されてるけどな
むしろ北条氏の所領の規模の小ささと、その所領が国衙のすぐ近くに存在することは、
中央軍事貴族が在地化していく過程の初期段階を良く現している。
平貞盛流嫡流って平直方→源義家(外孫)に所領が移って、直系の子孫は
みんなパッとしないよな。
熊谷直実なんかは、実質的には久下氏の郎党だったし。
423 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 04:18:08.16
時方-時家-時政で伊豆に土着して3代目なので、伊豆では、まだ新顔の武士。
時政の頃なら、都の中央軍事貴族として華々しく活躍していた平維方や平盛方の話を
伊豆に土着する事にした祖父時方などから聞かされて残っており、小規模田舎武者としての現実と、
その割には官位が高い家筋で、伊豆国府にもコネがあるなど、
政治力と武士としての実力にアンバランスさがあったのでは?
このアンバランスさは、ある意味北条家が伊豆に在国してから日が浅く、
完全には伊豆に土着し切れていない状態を表している。
伊豆で武士として活躍できるのも高い官位や家筋、国府へのコネがあるからで、
所領の広さや動員力ではない。
この様に伊豆北条氏は、所領の広さや兵力という本来的な武士の力ではなく、
家筋や中央権力の末端とのコネなどを背景としていた非常に政治的ロビイスト的
な武士だと考えられる。
その分、中央政界の動向に敏感であり、情報収集や分析が的確かつ素早かったのでは?
こういう背景もあり、山木兼隆の意向で、伊豆北条家の分家筋である時政の叔父の時兼が
伊豆介に任じられた時は、時政は、さぞかし悔しかったであろう。
424 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 04:44:37.77
ロビイスト的←△
国衙への寄生的←○
425 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 16:41:00.56
一般に中央軍事貴族は官位は高くても、その身代は在地豪族や在庁官人系豪族にくらべて小さいよ。
それは旧国造階級などに淵源を持ち、広大な私領を有する地方郡司富豪層などと姻戚関係を築くことを、(在地豪族として生きていくことを決めた中央貴族に比して)それほど熱心に進めてはいないから。
北条氏の遠祖である平直方やそれを継承した河内源氏も、鎌倉の所領は近隣豪族に比べればずっと小さなものだった。
だから義朝はなりふり構わず自身の所領拡大に躍起になっていたのだ。
426 :
425一部訂正:2011/03/16(水) 16:51:43.45
(在地豪族として生きていくことを決めた中央貴族に比して)
↓
(在地豪族として生きていくことを決めた中央貴族系地方土着貴族などに比して)
427 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 18:00:16.29
伊豆北条氏は、元々貞盛流嫡流の家筋であったが、
しかし同じ貞盛流の正盛-忠盛の台頭により貞盛流嫡流を奪われ
京から弾き飛ばされて、伊豆に土着した家である。
その為に伊豆北条氏は、忠盛流であり、かつてのライバルの子である
清盛中央政権に対し元々忠誠心は薄かったかもしれない。
安達盛長が、頼朝と政子の仲を取り持ったらしいが、この当りの事情も
考慮して盛長は頼朝と伊豆北条氏を結びつけた可能性がある。
安達盛長は、北条氏なら、清盛中央政権に通報したり、頼朝を殺害する
可能性が少ないと考えたのかもしれない。
伊東祐親は、清盛中央政権に対し特に先祖代々の遺恨が無かった事から
頼朝と娘の婚姻を認めなかったのだろう。
また、清盛政権と皇室・皇族の対立の情報もキャッチしていなかったのかも知れない。
むしろ伊勢平氏こそ貞盛流の嫡流であるから
河内源氏(義家)の台頭と同時にこれを忌避して、
伊勢に逃げたのでは?
それに伊勢平氏の中でもいわゆる平家とよばれる正盛流が
源氏の没落とともに院の近臣として中央に力を持っていくと
伊勢平氏の嫡流たる伊勢氏、正衡?だっけは土豪化していく。
とは言っても、江戸時代までつづく名家として残っていることを
考えると、北条氏のような弱小さはいかんともしがたくうさんくさい。
>うさんくさい
なんて言ったらそれは良文流の坂東平氏の方がよほど
>うさんくさい
んだろうが。
良文流はもとからどうでもいい存在だろうが
鎮守府将軍ですらない血統だし
坂東八平氏というぐらい平氏が坂東にはびこったがその子孫たちがみな
良文を祖として仰いだから結果的に良文がフューチャーされただけだ
将門の件からして独立意識が高い坂東の武家たちをみるにつけ
北条もその一類型にすぎないと思うけどね
そういや小烏丸を伊勢氏がもっていたのってどう思う?
432 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 00:34:35.56
>>430 > 良文流はもとからどうでもいい存在だろうが
> 鎮守府将軍ですらない血統だし
良文自体は鎮守府将軍であったと言われているね。
>将門の件からして独立意識が高い坂東の武家たち
「独立意識」とやらが高かったのは将門や彼をそそのかした興世王など極少数だけ。
その証拠に「新皇宣言」して以降、将門の与党たちは急速に彼の元を離れてしまっている。
関東に平氏が多いのは親王任国制度で増えすぎた皇族にうまいぐあいにポストをつくり
任国の国衙でも臣籍降下したものたちに食い扶持をあたえるためだったと思われ
元祖天下り
435 :
日本@名無史さん:2011/04/06(水) 02:11:30.09
ほっす
436 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 22:46:35.96
>>422 :日本@名無史さん:2011/03/15(火) 23:08:26.21
>平貞盛流嫡流って平直方→源義家(外孫)に所領が移って、直系の子孫は
>みんなパッとしないよな。
>熊谷直実なんかは、実質的には久下氏の郎党だったし。
その久下氏自体が、平貞盛流嫡流でしょう?
桓武平氏系・熊谷氏の初代の兄の家系が久下氏だよ。
つまり、熊谷氏からみて、久下氏は兄の家系であり、主君の家系であった。
437 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 18:12:14.58
北条とか熊谷が平氏ってのは仮冒だろ。
どう考えても、インチキ臭いわ。
438 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 18:28:08.29
久下氏は武蔵七党の私市党
441 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 23:57:45.14
顔射
442 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 10:29:27.70
そうかなー
443 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 16:40:37.99
北条は京武者
頼政か頼盛か頼朝の郎党
444 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 18:18:35.17
鎌倉頼朝なのか伊豆頼朝なのか?
445 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 20:46:51.59
千秋頼朝
北条頼朝
比企頼朝
>>443 俺も北条氏は、伊豆国府の至近に位置している北条郷に土着している点から京武者系で良いとは思うが、同氏が頼政や頼朝の郎党だったという状況証拠か何かある?
因みに、北条氏の祖を仮に平盛方あたりだと定めると、
土着=在地豪族への婿入り、
の公式に従えば、盛方が婿入りしたのは、やはり国府や北条郷と同じ田方郡内にある三島大社の宮司か祢宜一族の家にだと思う。
北条氏は、家紋や伝承などに大和大神氏と共通したものが多いことは比較的よく知られているが、
三島大社の祭神は大山祇神であり、同神を奉ったのは大神氏と同族の古代氏族賀茂氏であることを思えば、両氏の家紋や蛇伝承の共通性はピッタリ辻褄が合うからだ。
また、賀茂氏の一族で伊豆と関連する人物と言えば、有名な役小角が同地に流されたことがすぐに思い出される。
447 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 18:50:23.10
そーいや右衛門頭信頼の子息、信親も伊豆に流されてたんだよな
あっちはどうなったんだろ
448 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 19:06:24.78
時政の前妻は伊東祐親の娘で三浦義澄と合婿なんだよな
これはどうなんだ
小土豪でも近所だからか、それとも家格が高いからなのか
北条氏‐身代は小さいが平貞盛流の京武者系なので家格は以外にも高い
三浦氏‐身代は大きいが平良文流の在地勢力なので(のちに色々飾っているが)家格はそんなに高くない
450 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 22:54:31.80
>因みに、北条氏の祖を仮に平盛方あたりだと定めると
この前提がバランスおかしい
451 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 23:01:06.99
北条氏が貞盛の子孫なんて、与太もいいとこだろ。
452 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 23:09:46.32
じゃあ誰の子孫なのね?
453 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 23:12:09.01
わからんもんは誰かが示してくれるだろ。そのうち。
454 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 23:15:09.68
455 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 02:39:20.26
悪源太・・・
源太っていうことはやはり嫡子扱い?
456 :
日本@名無史さん:2011/07/23(土) 19:37:58.15
紀州藩士 飽摩氏
悪源太義平の子孫
457 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 10:08:22.47
>>455 「義」の字が付いてるからな。
頼朝は京都とのパイプ役程度の存在だろ。義朝にの構想の中では。
458 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 22:27:05.21
>>455>>457 義朝が坂東と都どちらに軸の中心を置くかによるかな?
坂東の後継者は義平
都の軍事貴族としての後継者は頼朝かな?
ただ義朝の坂東支配は藤原信頼との提携や、院との結び付きに追うところも大きかったみたいだから、
義平だけじゃ坂東支配はむりかな?
都の貴族からみたら義朝の嫡子は頼朝だろうけど。
ちなみに源太というのは
源氏の太郎という意味。
太郎は長男を意味するけど必ずしも嫡子を意味しないだろう。
459 :
国士焼肉ぷらす@大五郎 ◆JUU/.JUU/. :2011/07/27(水) 22:35:05.79
軍事貴族の基盤弱そうやの。
460 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 23:08:20.88
中央軍事貴族の基盤は土地じゃなくて権門をバックにした中央の軍事役職ポストだからね。
中央の威光が効かない相手にはお手上げか
462 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 10:05:41.46
京武者の子の頼朝が結果的に坂東の王になった理由がわからない。
清和源氏って坂東ではそんなにステータスあったのか。
義平って三浦義明の娘の子でしょ。つまり孫。
そんな立場から周囲の豪族に担がれて大舘襲撃でしょう。
それしか考えられん。
義平と頼朝の関係で、頼朝は熱田神宮の娘の子だから優遇されたってのは事実
だろうけれど、藤原信頼の頼の字をもらってるから後継にきまってたってのは
あとから説っぽい。任官とかも軍記物の後付けじゃあなかろうか。本人たちは
平治の乱以前は面識もほとんどなかったのでは?
この時代の嫡子というのも父親の気分とか事情でコロコロ代わるからね。
なかには父親が食べようと思っていた瓜を盗み食いしたからという理由で、
義絶されて家を追い出された話があるぐらいだから。
大体、源義朝も為義の嫡子から外されちゃったぐらいだしね。
平重盛の嫡子も資盛→維盛だし、
北条時政の嫡子 政範→義時
北条義時の嫡子 朝時→泰時
瓜は処女の隠語
義朝と為義の関係もよくわからんね。保元の乱で敵味方に分かれたり。
坂東で義朝勢力が強いなら、為義はわざわざ敵方に参戦しなくてもいいだろうに。
前の年に義賢が討たれてるから敵対したのかな?
この時代、嫡子とか家督とかあることになってるんだけれど、
実はあいまいなんじゃあないのかね。為義はオヤジの不祥事で義家の子
扱いだし、それが源家の嫡流だって言うなら、なんで義朝、頼朝は嫡流を名乗れる
資格がある?
470 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 00:24:10.02
北条時政は貞盛流というより直方(坂東土着より都指向、忠常の乱で権威失墜)流と言うべきだろう
おそらく都で志を得ずせいぜい父の代ぐらいの伊豆下向ではないか?
後の時代ほど出自を簡単には偽れない
つ{仗時定
472 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 13:56:27.29
北条は狭いが立地はめちゃくちゃ良いからな
473 :
征明仁大将軍:2011/09/30(金) 14:18:58.28
ョ朝臨死前,応該将北条一族全部誅殺,
就如同誅滅平清盛一族,這才是至高的王手。
可惜,他舍得殺兄弟九郎義經,却放任同是平氏一門的北条氏
埋下了源氏天下權力不保的禍根
好比漢的高皇帝劉邦死後,呂皇後欲扶其兄代替其子
成為呂氏的天下同道理
但是,被周勃,陳平等人将呂氏一族全部誅滅,保証了劉氏天下
474 :
征明仁大将軍:2011/09/30(金) 14:45:49.95
>>473 我想,若是源義經未死,
ョ朝臨死前封義經為幕府執權,把ョ家托付予義經,
如同周公旦輔佐周成王,以防平政子奪位
義經必会助ョ家打倒母親平政子,
保証ョ家一系子孫世代做為征夷大将軍,
即使義經自任征夷大将軍,
也是源義朝之子
好過北条氏一門掌握幕府,
天下兵權再次落入平家之手
使源ョ朝一生憤斗化為徒労,
最終果実被平家北条氏呑食
頼朝が死んだのは平家や義経の怨霊が原因、義経他を重用してれば、
ってか。北条の天下も、武士の相続対策で滅んだわけだが。
>>470 ほぼ同意。
土着というか、時政の数代前からの「留住」だとは思うが。
477 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:00:15.67
>>468 為義が摂関家の忠実路線を選び、義朝が忠実と対立する美福門院路線を選んだ
という説があるね。
>>469 為義が受領になれなかった間、為義の養父義忠の実子たちは為義よりいい地位についていたし
為義が本当に嫡流を継いだのかわからないという説があるね。
義朝も無位無官だったころ弟の義賢が官位を先に得ていたから
義朝が為義の嫡子ではなかったという説もあるし。
頼朝が挙兵したときだって、義仲、武田氏、新田氏などは自立していたから
頼朝が嫡流だと認められていたわけではないともいうし。
源氏一族の中で治承寿永の乱〜奥州合戦までを勝ち抜いた最終勝者の頼朝が
その時点で自分を嫡流に仕立て上げたという見方もあるみたいだし。
ただし、官位の関係から頼朝は右兵衛佐になった時点では頼朝が嫡子である
という見方が強いみたいだ。
478 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 00:16:10.54
義忠流は平家一門でもあるからな
源大夫判官季貞とか
479 :
日本@名無史さん:2011/11/13(日) 12:23:05.46
北条氏はインチキ平氏だが、伊勢氏は本物の平氏?
ていうことは、伊勢新九郎宗瑞のはじめた後北条氏の方が、本当の平氏ってこと?
為義の配下に坂東者が多いのはそういう理由か
481 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:29:18.30
伊勢氏は平家の侍大将クラスの分家の末裔
北条氏に拾われた長崎氏と似たような立場
482 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 23:29:27.54
平治の乱で義平が率いた坂東武者17騎は全員後世で言えば大名クラスの殿様なんだよな。
平家の600騎は家人とその郎党含めての数だよね。
大河では出演するのかな。
>>484 おお有難う。じゃー間違いなく出ますね。
楽しみだ。
こ!これは地味な所に目を付けたもんだ!良スレage
>>477 >為義が摂関家の忠実路線を選び・・・・・・
為義が加勢方を選んだわけじゃない。保元乱以前からというか満仲以降清和源氏流は
累代藤原摂関家の家人で、為義も頼長の家来だったから。
鳥羽法皇が逝去し頼長から召集命令が来ても、当初は老体を理由に応召を拒んでいたはず。
488 :
日本@名無史さん:2012/04/11(水) 00:58:39.13
直方の母って鎌倉氏?
>>482 大名クラスも小名クラスも含まれるが
兵は大名の郎等を含まない少数精鋭で
兵力は重盛軍の5%以下(平治)
>>482 その17騎の殿様は、殿様ならば
なぜ、それぞれの郎党を引き連れて上洛しなかったんでしょうか?
仮に平均30騎も引き連れていれば、
17+17*30=527騎
むざむざ平家の600騎に負けることはなかっただろうに。
492 :
日本@名無史さん:2012/04/13(金) 12:20:00.43
>>491 本領が遠かったからかね?
都の近くの武士を家人にしてる平家のほうが強かったのもそういうことがあるのかも
結局 頼朝はそうした武士を動員できる体制を築いたので内乱に勝利したといえるのかも
>>491 戦争に参加する予定ならば、必ず郎党を連れて上洛するはずだよね。
ということは逆に、殿様ズは物見遊山気分の上洛だったのかも?
乱を主導した信頼、義朝の戦略の誤りだろうね。
最大勢力の清盛が熊野参りに出てる隙をついて蜂起したんだけど、
彼が戻ってくれば敵に回る可能性大なんだから、
平家勢力を上回る戦力を準備することは必須だった。
平治の乱の直前、というか、蜂起の直後かな?
義平が上洛して参戦するんだけど、
このとき、義平は郎党を引き連れてきていないようだ。
ということは、どういうことかと考えると、
a)義朝は東国に大軍の動員をかけたけど、それに従ったのは義平だけだった
b)東国武士は動員に応えようとしたが、間に合わなかった
aかbのいずれか。
495 :
日本@名無史さん:2012/04/25(水) 16:21:53.32
>>493>>494 河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書) [新書] 元木 泰雄 (著) によれば、
保元の乱には国府を通した公的動員がかけられていたが、平治の乱には公的動員が
かけられていなかったという事情が影響したみたいね。
源義朝も保元の乱以後、今まで言われていた以上の勢力拡大に成功したみたいだけど、
やっぱり私的な動員には、限界があったんだろう。
496 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 03:35:48.19
義平の「平」の字なんだが、中村荘司の中村一族の通字の「平」に関係あるんだろうか?
※中村宗平、重平、土肥実平。
三浦氏の娘の所生で、養育は中村一族がしていたとか?
>>496 養育というか、元服のときの名付け親役が中村かも?
498 :
日本@名無史さん:2012/05/08(火) 15:10:36.73
やはりどの氏族からみても義平は関東の王だったのかもな。
ええい義平無双はいつ見られるんだ???
>>497 名前の一字を与えたりするのは、名付け親役じゃなくて、烏帽子親
501 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 07:00:04.08
>>496 義平未亡人となった新田義重女は、その後誰と再婚したの?
師六郎
平治の乱で、平家を攻撃に行く途中で、
日和見してる頼政を攻撃するとか、
戦争指揮官としては、大きな疑問符が付くよね
>>503 将の器ではない。
戦闘指揮官ではない。
突撃隊長、しかも一人でも徹底して突撃する。
そこに惹かれる。
505 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 15:53:47.83
河内源氏って代々ヤクザだよね
摂津源氏と違って教養が無いというか
506 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 16:23:33.88
何せ武門の棟梁だからなw
507 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 20:41:56.36
義家の長男が義親、次男が義国、3男が義忠、4男が為義だとすると、後年足利氏が天下を取ったことや新田が頼朝の挙兵に参加しなかったことへの説明がつくのでは?
508 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 21:16:35.56
平治の乱で源氏が勝っていたら。
やっぱり頼朝と争いになったと思うけど
どちらが勝ちそうですか?
509 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 23:51:02.26
>>508 東国で勢力を拡大する義平と
京都西国で政権をとった義朝が対立
義平は父や弟達と戦争。
勝った義平は、船岡山で父と弟達を泣く泣く斬る
510 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 23:57:11.99
為朝と義平のタッグが実現していたら
511 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 00:49:23.92
馬
悪源太>八郎
弓
八郎>悪源太
大河ドラマの次回予告で義平が、走りながら刀を振り回してましたな
左近の桜、右近の橘の追いかけっこは馬ではなく徒歩でやるみたい。
か、、、徒歩か。
515 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 03:36:44.34
平治の方はつまらなかった。
まだ保元の方がまし
これで平家の安定政権だからつまらなくなりそう。
平治物語では手形の発案者として描かれている義平が徒歩で戦うとか馬鹿げてるよ
おまけに一騎打ちの相手は京育ちのひ弱なボンボン重盛
まともにかちあったら秒殺ですがな
残念だったね。
低視聴率の理由が分かりすぎるほど分かった。
518 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:29:10.30
「すぐに阿倍野へ出陣して、清盛を討ち取りましょう」
実際には遠征するだけの兵力が無い、平氏と対立する意思が信頼にない等の理由で
この言葉が後世の逸話だというのは分かっていますが・・。その上で疑問です。
どうして阿倍野に遠征して清盛を待つなんでしょうか?
わざわざ遠方に兵を分散させるリスクを犯さなくても
清盛が帰ってくる前に六波羅に夜襲を行い火をかけて燃やしてしまった方が
確実に手早く勝負がつくような気がするのですが・・・。
そういう発想は無かったのでしょうか?
519 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:50:35.67
清盛が帰京するかどうかはあの時点では断定できない
瀬戸内や九州、あるいは伊勢に下向して大軍を集めると厄介だろ
520 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:53:37.45
あと六波羅には平家の軍勢が駐屯しているし、防備を固めている
そんな簡単に撃破できない
521 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:34:43.03
>>520 六波羅に駐屯する平家軍勢は大して多くない
なにしろ保元の乱の時に動員した兵力が清盛300騎、義朝200騎
常時洛中にいる兵はこの程度だろう
しかも清盛は重盛も伴っての熊野詣なので六波羅の兵力は更に少なかったと思われる
しかし、このときの六波羅邸には変わった人が滞在している
源義朝と組んだ藤原信頼の嫡男、信親だ
信親は清盛の娘を正室に迎え、六波羅邸に入り婿していたのだ
信頼は自分の嫡男がいる六波羅邸を攻めるはずもなく安心しきっていた
>>518 多分地形だと思うけど。
上町台地の端が天王寺や阿倍野辺りではなかったかと。
「飛んでゆく雲」は少女漫画の大傑作
525 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 18:22:01.64
↑なかなか見つからない。
526 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 04:57:27.02
平治の乱以後に義平は関東に帰っても居る場所無い訳?
奥さんの実家の新田氏や母の実家の三浦氏は、義平を庇わないの?
比企氏だって頼朝が成人するまで何十年も面倒見続けたのに…
ちゃんと戻っていれば、かくまったと思うよ。
でも戻るのは無理だった。
当時の交通路から考えれば、伊賀〜伊勢〜志摩で海路で相模が
一般的だけど、伊賀・伊勢はもともと清盛がきっちり抑えているんだよね。
しかも乱の直後、平頼盛が残党狩りのため尾張守に任じられているからいよいよ無理。
では遠まわりで北陸道という選択をしても、伝手がなく難しい。
だからとても逃げ切れない→都に戻って潜伏しかなかったんじゃないの。
528 :
日本@名無史さん:2012/09/03(月) 18:25:15.65
坂東武者17騎のうち半分以上が、平治の乱後に関東に逃げ帰っているんだよ。
連中どうやってノコノコ逃げ帰ったの?
特に三浦義澄にとっては、義平は甥っ子だろ?
関東の武士は、義朝はともかく、
源氏の子供達は一緒に抱えて逃げ帰れってよ!感じだが・・・
義平が関東に逃げ帰れたら、もっと早く平氏政権が倒れていたかも。
それか清盛の要請で藤原秀衡が
関東に進撃して義平率いる関東武士団と合戦になったりして。
上総も帰国できてるし、義平はあえて残ったとしか思えぬ
義平は、
東国へ帰って親戚に迷惑をかけるよりも、
独りで、清盛を暗殺する道を選んだんだろう
531 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 06:55:12.72
義平が無事に帰ったなら、
関東で勢力盛り返せそうなもんだけどな。
でも、そうなると平氏と奥州藤原氏が攻めて来るかも知れないが。
そうなったら義平も頼朝と同じく甲斐源氏と組んで、迎え撃つしかない。
>>531 奥州藤原は、源平の戦いには不介入を貫くだろう。平家に協力する義理はない。
義平は、東国をまとめられるか、かなり難しいだろう。人気や支持はあるかもしれないが、
平治の乱の首謀者の嫡男として、平家の追及は厳しかったはず。
三浦もかばいきれたかどうか・・・
奥州藤原氏は関東では佐竹と結んでいたんではなかったか?
どっちも鎌倉から征伐食らってるし。
>>528 >坂東武者17騎のうち半分以上が、平治の乱後に関東に逃げ帰っているんだよ。
>連中どうやってノコノコ逃げ帰ったの?
そう言われたらそうだな。
これはひとつの可能性だけど。
彼らはあるていど情勢が不利になった時点で戦線から離脱したんじゃないの。
他方、義朝一家だけは最後まで踏みとどまって逃げ時を失ったと。
その関東からの17騎だって、死ぬまで付き合う義理はない。
だって彼らは下僕同然の郎党じゃなく、本人たちの意識では協力してやってるとか、
羽振りがいいので担いでいるってぐらいだろうし。
535 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 11:20:23.30
>平治の乱の首謀者の嫡男として、平家の追及は厳しかったはず。
三浦義澄、上総広常、新田義重あたりが
関東に逃げ帰る事ができた義平を本気で匿えば、国府サイドも下手に手出しできない。
特に上総広常は、国府サイドに色々と文句がありそうだし、彼に反乱の口実を与えかねない。
房総の同族の千葉常胤や相模平氏の和田義盛、鎌倉党、工藤党、中村党も一緒に反乱に加わりかねない。
彼らを下手に敵に廻すと、それこそ関東で義平を頭にした『源義平の乱』が起きかねない。
>>536 義平が生きて東国へ帰れば、
頼朝が伊豆に流されることはない。(たぶん佐渡か隠岐あたり)
義朝の遺志がどうであったとしても、東国武士は義平を嫡男あつかいするだろうね。
>>526 義平の母の実家は遊女で三浦なんか関係ないからだよ。
最も、三浦なんて元々大した家じゃないけどな。
頼朝以降は色々飾ってるが。
>>538 義平が、遊女の子だとしたら、だれが養育したんだろう?
若い頃の義朝は、子を引き取って養育する余裕があったとは思えんが。
遊女説なんて出てくるのは、為家が遊女との間に仔こさえているからじゃねえの?
541 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 19:43:00.36
>>538 義平の実母は、三浦じゃネーの?
遊女が実母だと、関東の武士達は誰も相手にしなさそう。
義平が、平治の乱後に関東に逃げてきたら、
おそらく上総広常が、いの一番に匿おうとするだろう。
義平は、国衙へ対抗する丁度良い旗頭になるし、
反乱が始まったら、母の実家の三浦も合流するかもね。
広常は、平忠常を意識してそうだし。
542 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 00:06:50.65
その場合は、三浦よりも、まず千葉常胤だろう。
頼朝に合流する以前に、広常は平時家を、常胤は源頼隆を擁していたし。
543 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 05:19:05.09
永井路子は三浦の娘=乳母て言ってるんだっけ
> 義平が、遊女の子だとしたら、だれが養育したんだろう?
基本遊女とその一族じゃね?。
のちの牛若みたいに。
もしかしたら八幡宮とか寺社を後見みたいにつけていたかも。
> 遊女説なんて出てくるのは、為家が遊女との間に仔こさえているからじゃねえの?
為義かぎらず、当時の貴族社会全般に遊女や白拍子との間に子供つくることは結構蔓延してたんじゃねえの?
でも母親の身分の卑しさのために跡はつげないと。
それに義平は無位無官だし。
理由は母方に政治的な力が無いからだろ。
545 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 13:28:53.51
遊女が蔑まされたのは、職業云々と言うよりも、部落民だったからだろ。
今じゃ部落の子も大阪市長になれるが、この時代はまず無理だよ。
関東武士は、京の公家連中から見れば下かも知れんが、部落民とは全然違う。
せめて三浦の血統が入っていないと関東であそこまで活躍するのは無理。
大倉合戦では、相模の武士を相当動員している見たいだし。
>>545 義経はもっと活躍してる。
大蔵合戦なんて比じゃない。
それで無位無官のわけは?
547 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 19:06:25.32
義経は、源氏の勝ちに乗じた動きだからな。
頼朝も源平合戦までは、無位無官じゃん。
無位無官が、それ程問題じゃない。
平治の乱以後だと、たとえ助かって関東に帰っても官職は剥奪だろう。
むしろ源氏の血を引いているかどうかの問題。
548 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 20:48:05.21
いやいやいやいや、そもそも白拍子や遊女の子だぞ?
本当に源氏の子かなんてわかるわけないだろ。
自称したもの勝ち。
渡来系の可能性がある。
549 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 22:34:54.69
何言っているの?
>>548 いやいや、そもそもの使い方を間違ってるから
「母三浦大介義明女」とするのが定説
渡来系って何の話だ?
信頼が官位をくれたのを拒否っただろう
「鎌倉悪源太」の呼び名が気に入っていたんだよ
渡来系が唐突すぎてワロタw
553 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 00:09:43.19
平治の乱以後に鎌倉悪源太義平の乱を見てみたかったな。
554 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 09:13:25.70
>>547 なんで中央軍事貴族の長男が官位にこだわらないの?
あり得ないよ。
弟の朝長も頼朝も先に官位を得ているのに。
555 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 01:37:59.76
>>524 > 「飛んでゆく雲」は少女漫画の大傑作
漫画のストーリーをそのまま映画にしてほしい。
紅萩塚で妻を自害に追いやった公家に復讐を誓う場面はマジ泣けた。
556 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 06:08:01.04
>>545 和田義盛の父、椙本(杉本)義宗も母が遊女なので、長男だったにもかかわらず、家督は三浦義澄が継いで、別家(分家)になった。
早死にしたから、嫡男になれなかったのかもしれないが、三浦一族内での義盛の扱いをみると、早くから別家扱いだったように思う。
557 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 07:17:57.88
頼朝のおっかさんは源氏と同等の軍事貴族系だから
関東武士の娘を母に持つ義平、朝長より格上
558 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 09:53:02.93
>>557 源氏は武力で嫡男の座を勝ち取ってきた経緯があるから
あまり母方は関係ない
頼朝の曽祖父義親など明らかに庶子だったが一族殺し合いの末嫡流になった
頼朝の祖父為義も庶子だが兄弟との政権闘争で嫡流になっている
559 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 02:36:32.78
え?熱田大宮司家も、婿入りする以前の藤原南家時代も、頼朝の母の家は、院近親(いんのきんしん)で文官でしょ?受領荘園領主クラス。
>>557 頼朝母の家は軍事貴族じゃない。
熱田大宮司家が武者なわけないだろ。
だいたい、藤原南家に軍事貴族はいない。
朝長母の波多野氏(相模佐藤氏)は累代に渡って中央で官職に就いている軍事貴族。
身分から言うと、頼朝母の家も朝長母の家も受領に任命される諸大夫身分。
だからどちらも母系氏族からの斡旋や働きかけもあるので官位を得るのが早い。
その面から言っても、長兄でありながら義平に官位が無いのは、弟弟二人に比べて義平の母の身分は相当低かったということが分かる。
>>558 武力と言うか、へまをしたり政争で失脚していったな。
562 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 23:36:03.21
>>560 〉藤原南家には軍事貴族はいない
いやいや、いることはいる。
狩野氏、伊東氏、工藤氏、二階堂氏が、南家の血筋。
承平、天慶の乱で登場した藤原為憲の子孫。
563 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 23:59:47.29
>>560 頼朝の母系が熱田神宮大宮司職を勤めるようになったのは
頼朝の外祖父藤原季範(由良の父)からで意外に新しい
季範の母方が熱田神宮大宮司職を勤める尾張氏(古代豪族から続く尾張氏)だったことを根拠に
季範が親族の尾張氏から祭祀を奪ったみたいだ
564 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 04:29:37.25
>>563 尾張氏から奪ったというより、孫で院政に近い院近親家の藤原季範に家督と大宮司職を譲って、大宮司職家の栄達をはかったのだと思うのだが。
尾張氏は尾張国造の末裔と言われ、歴史は古くても血統的には貴族化が難しい位置だったから。
すべては院政内での栄達のための手段。
>>562 ふつう、南家為憲流工藤氏族は軍事貴族には含めないんだよ。
その理由は「工藤」の名が示す通り、為憲が承平天慶の乱平定の功償で任官した役職が武官職ではない木工寮の次官である木工助であるから。
木工助(もくのすけ)藤原氏ということで工藤氏。
そして以後この為憲の子孫で武官職に就いた者は一人もいない。
為憲は同乱の平定勲功者とはいっても、その戦い方はみじめなもので、父ともども将門から徹底した辱しめを受けている。
戦巧者である藤原秀郷が貞盛に同心したことで結果として勝ち組に乗ることは出来たものの、内心では二度と軍事には関わりたくないと考えたものと思われ、(のちの任官ポストからみて)子孫にもその様に言い聞かせていた節も読み取れる。
566 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 08:20:57.24
>>553 それやったら富士川の戦いと鎌倉幕府の成立が、早まるだけだろ。
義平は、鎌倉悪源太どころか文字通り「鎌倉殿」になってしまう。
義平バージョンの鎌倉殿だ。
そうなると三浦氏か新田氏が外戚で執権になるんだろうな。北条の出番が無くなる。
567 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 00:22:20.17
父親は義平を東国の王にするために朝廷での高いくらいを得させず、
頼朝は東国国家からの京都への大使にするために官位を得させたんだろうな。
>>566 みんな官職が欲しいだけなのに義平に将門になられても困ると思うが。
569 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 21:46:38.75
結局保元物語の為朝をそのまま平治物語に移植しただけ
>>569 ぜんぜん違うだろ。読んだことないのか。
571 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 04:56:16.45
朝廷であれ、伊勢平氏であれ、畿内から大軍が関東に攻めてくれば
関東の武士は、抵抗せざるを得ない。それは富士川の合戦と同じだよ。
特に南関東の源氏に縁の有る武士は、抵抗するだろうし、甲斐源氏と
義平は手を組んで畿内の勢力と戦う事に成る。奥州の藤原秀衡や越後
の城氏との戦いも視野に入るだろうね。
畿内から来ようが、奥州から来ようが
既得権益が侵されないなら
南関東と言わず、関東全域の在地武士団は抵抗しないし、連合もしない
富士川の時点で関東や甲斐の武士は皆頼朝の傘下に入ったか?
富士川の勝利後、なんで頼朝は京都に進軍できなかった?
そんな単純な理屈で関東武士を糾合できるなら義朝の時点で苦労しない
573 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 19:45:29.57
畿内や奥州から軍勢が来たら既得権は普通侵されるだろ。
大蔵合戦以後は、義朝-義平の勢力範囲が、南関東から武蔵を越えて北関東まで拡大している。
義平が平治の乱で関東の武士がたいして付いて行かなかったのは、畿内に
利害関係が無いので当然だが、関東が攻撃されるとなれば、関東武士を
糾合するのは、そんなに難しくない。
頼朝の蜂起と房総での勢力拡大、その後にたいした戦闘無しでの
南関東平定を見ると平氏側の出兵を口実とした源氏の兵力動員が見られる。
頼朝や義平の段階だと河内源氏と言うよりも『鎌倉源氏』と言った方が正解だろうけど。
たとえ義平が関東に落ちてきたとしても
朝敵(に近い)義平を立てて戦うか、傍観するか
新田や三浦みたいに特別な縁故でもなけりゃ
平氏(や朝廷)に接近して討伐軍に加わるか、よくて中立だわな
以仁王の令旨もねーし
百歩譲って義朝ならともかく、中央に伝手すらない義平になんの旨味があるのか
歴史漫画の名作「飛んでゆく雲」
モーニング連載中のかわぐちかいじの最新作、
「ジパング 深層海流」で義平出てくるぞ。
朝長はもう死んだけど。
577 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 19:04:01.29
>>574 義平もたいした権益も無いのに、平治の乱でノコノコ畿内に行く必要はない。
義朝に呼び出されたのかも知れないけどさ。
大蔵合戦以降に、関東全域に勢力を
拡大しつつあった義平を関東に置いたままの方が良かったかも。
義平が上京する際だって、関東武士はあんまり人員を動員しなかった。
義平直属の17騎だって平治の乱では、最後まで戦う事無く途中で戦線離脱して
関東に帰ってしまうのが半分以上居た訳で、源氏サイドの関東武士の畿内での
戦闘にはそれ程ヤル気を感じられない。
だったら、義平や関東武士は、関東に留めて箱根の関でも固めて置いた方がまだ良かった。
その方が、畿内で平治の乱に負けた後でも源氏の勢力を温存し易いだろう。
>>574の理屈だと、頼朝の蜂起と関東制圧は、不可能になる。
平氏に近い畠山ですら一回だけ源氏側の関東武士と戦ったが、頼朝が房総を
押えた後は、頼朝に従ってしまう。平氏サイドは、国衙に依存するばかりで
地元勢力を押えている訳ではなので関東武士団へのグリップが効かない。
新田や三浦や房総平氏が、義平サイドに従ったら、その他の関東武士が
仮に平氏サイドであっても迂闊には動けないよ。畠山が平氏の意向で
鎌倉の源氏館を攻撃しようとしても三浦(その親戚の和田)や鎌倉党が
源氏館を防衛するだろ。合戦になってもその間に義平は、房総か北関東
に逃げてしまうだろうな。
その後、義平は、新田や房総平氏を動員して武蔵の畠山館を攻撃するだけ。
578 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 19:30:13.00
この時代の武士は、有る程度の規模以上だと、何年かにいっぺんは京に上がって
権門のお付や朝廷の警備仕事をしている。その過程でどこかの公卿や公家と何ら
かのコネが出来るので、以外と中央政界の事は知っているし、以外と中央と繋が
っている。畠山はたまたま平氏と近かったけど、それ以外の勢力との連絡だって
関東武士は持っていたと思うよ。
当然皇族の平氏への不満も耳に入っていただろう。
頼朝の蜂起直前には、三浦や千葉は、京での勤めからの帰り際に頼朝の寓居に立ち寄っているし。
事前の蜂起の打ち合わせと見なされても仕方ないよ。
源義朝が藤原信頼の保護を失ってどこまでやれたというのだろうか
源義平が源義朝の保護を失ってどこまでやれたというのだろうか
580 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 04:44:36.87
大蔵合戦での信頼の保護って言ったって
関東での戦闘ではそれ程直接的のモノではないぞ。
義平の動員した兵力は、
基本的に房総と相模と武蔵の武士で、基本的に源氏縁故の武士ばっかりだし。
頼朝は、北条氏と比企氏の支援だけで頑張ったよね。
三浦は、あとからの合流だったしね。
清盛も、頼朝の蜂起よりも甲斐源氏の蜂起の方を警戒していたらしいし。
平治の乱直後の政治状況(義平)と
治承三年のクーデター後の政治状況(頼朝)が同じだと思ってるのか
582 :
581:2013/01/13(日) 10:19:42.73
頼朝の蜂起と関東制圧についてだが、アンカー忘れた
>>577
平治物語知識だが
義平が平治の乱敗北し飛騨での軍勢が逃げ散った後
逆行して単独テロに走らざるをえなかったのは
関東に落ち延びても再起の見込みがないと考えたからだと思ってたんだが
その辺の行動目的はどうなの?実際はどこで捕まったの?
過去にも似たような疑問が出てるけど
>>580の見解を聞きたい
584 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 12:20:59.85
>>581 畿内では、平氏と皇族や寺社勢力との対立が始まっていたかも知れないが、
関東では、治承三年のクーデター後の政治状況(頼朝)の方が悪かったかもな。
なにせ義朝や義平が死んで数十年経過している。その分源氏の記憶も遠退くし。
>>583 前の方にもその手の質問があったが、
東海道や中仙道の主要街道を平氏方に押えられ帰れなかったのでは?
義平なら、三浦や新田などが居るし、
義朝の代から仕えている鎌倉党やアンチ朝廷色の強い房総平氏がいる。
義平が、関東に帰る事が出来たなら、仮に国衙サイドの捜索があっても庇うか逃がすだろう。
それかもっと早く源平合戦が始まってしまうか、どちらか。
平氏が大軍を関東に送っても義平が、関東武士や甲斐源氏をまとめて富士川で合戦になるだけ。
585 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 03:40:39.41
頼朝蜂起の時は、畠山と大庭(弟)が平氏側になって鎮圧に動いているけど、
義平と畠山は、大蔵合戦で組んだ相手だもんな。そのおかげで畠山が秩父党惣領になれた。
畠山にしたら義平は、恩人だから、三浦や新田や房総平氏と一緒に蜂起する側だろ。
586 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 17:51:32.03
そもそも、義平の祖父の為義って
河内源氏の嫡流だったのか?
587 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 09:43:07.03
まあ〜ボス的存在ではあっただろうよ。
でも河内とは、そんなに関係ないんだよな河内源氏w
588 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 03:01:36.47
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、河内とは切り離された存在。
義朝流五代は、『鎌倉源氏』と名付けるべき。
>>586 有力者のうちの一人という程度。
代表者とか棟梁とはとても呼べない。
あまり語られないけど、為義の兄弟のほうが官位が高かったりする。
義家が河内の地盤を五男の義時に譲った時点で、頼信流の本拠地は今後は関東に移行、
という意識があったんだろう。
591 :
日本@名無史さん:2013/08/25(日) 07:00:26.39
1031年に源頼義は、鎌倉の大蔵にあった平直方の屋敷を譲り受け、以後は、
その屋敷が清和源氏の東国支配の拠点となっているからね。義家以降は、
一時中断が有ったものの、「天養記」には1144年に義朝の館(亀谷殿)が、
鎌倉亀ヶ谷(現扇ヶ谷)に存在し使用されている事が記されている。
おそらく1160年の平治の乱勃発時まで亀谷殿は、東国の拠点として、使用されていただろう。
在地的観点に立てば、義時以降の石川源氏こそが「河内源氏」であり、
義朝以降は、一時的に京で侍として活躍していただけで、基本的には
義朝流は「鎌倉源氏」と言える。
義朝流が、源氏嫡流意識を持つのは、「鎌倉殿」になった頼朝以降だろうし。
592 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 07:12:20.09
朝廷は、寿永二年十月宣旨(1183年)で東国支配権を、文治の勅許(1185年)で
守護・地頭職の設置・任免を、それぞれ頼朝に許可しているから、義朝流が、
源氏嫡流意識を持つのは、コレ以降じゃね?
ただし、義朝流が「鎌倉源氏」だとしても、別に独立した別の国家を作るつもりは全然無いだろう。
東国独立論を強く主張していた上総広常が、頼朝の命により暗殺された事を見ても明らかだ。
義朝流である「鎌倉源氏」は、鎌倉を拠点にする、と言うだけの事に過ぎない。 もちろん義朝流は、河内ともほぼ無関係。
593 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 21:33:30.16
>>586 それ以前になんで「為義」なの?
「義為」でないってことはなんかあるの?
594 :
日本@名無史さん:2013/08/28(水) 21:40:53.81
>>593 そうだよね。
それと「為」の字誰からもらったんだろ?
全部が全部とは限らないけど、家の通字+烏帽子親から一字というのが多いはずだし。
それから、義家兄弟からあと「義」がつく人多くなったよね。その前は「頼」が多いのに。
なんでだろ?
それも気になるが「頼」の文字もどこから来たんだろ
経基の兄弟は「経」だし息子たちはみんな「満」でがす
596 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 01:02:44.80
関白の藤原実頼から貰ったんじゃね?
源満仲は、藤原実頼の用心棒していて
源高明の失脚で力発揮したはず。
597 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 02:18:22.58
598 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 02:22:53.34
頼通は時代が新しい。
599 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 06:37:59.92
ごめん
600 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 06:42:59.56
義朝と為朝の「朝」はどこから来たんだろう?
601 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 10:18:00.13
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、
河内とは切り離された存在。 義朝流五代は、『鎌倉源氏』と名付けるべき。
義平の平は、桓武平氏の平だろう。相模平氏や房総平氏から取った。
鎌倉悪源太が如何に彼らに支えられているかが判る。
義朝も上総御曹司と言われてたし、そうなると、義平の生母も三浦氏だろうな。
>東国独立論を強く主張していた上総広常が、
>頼朝の命により暗殺された事を見ても明らかだ。
広常は、平将門や忠常の血縁者だもんな。
反乱を起こした事自体を誇っていそうな感じ、ちょっと中二病入ってる。
602 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 14:14:46.75
平良文系の嫡流ってどこ?
603 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) 15:24:21.56
>>601 そう考えると「悪源太義平」って凄い名前だね。
坂東平氏を従えた途轍もなく強い源氏の御曹司って意味だね。
俗説だけど信頼の除目を蹴って「鎌倉悪源太義平のままで結構。」に自負と気概が感じられるね。
>>602 三浦と関係良好だった中村一族からかな?ともおもったんだけど(宗平ー実平)
>>602の見方もなるほどと思う。
義平の兄弟はどうだろ?
頼朝は父から「朝」で「頼」は烏帽子親説のある信頼から、
範頼は養父範季からの「範」と通字の「頼」と推測できるんだが
他はわからん。
希義は流刑のどさくさ紛れでつけられたから仕方ないけど
朝長、義門、義経はわからないなあ。
605 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 01:41:33.69
義経の経は、源氏の通じと始祖の源経基から。
義仲の仲は、源氏の通じと二代目の源満仲から。
義仲の兄の仲家は、二代目の源満仲と中興の祖の源義家から。
頼家は、中興の祖の源義家と、父である源頼朝や源氏の通じから。
606 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 03:06:57.90
頼朝の先祖・頼義への憧憬の根源は
同じ「頼」の字を持つ藤原信頼が原因のトラウマでしょう。
頼義が鎌倉を平直方(北条氏が先祖と主張)から譲られ奥州利権に侵食していった様が
子孫・頼朝によってことさら模倣再現されている処からも窺えるね。
607 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 06:42:07.58
信頼は武蔵国と陸奥国に巨大な利権を持っていたからね。
ある意味、鎌倉政権の誕生は平治の乱への今流行りの言葉で言うなれば倍返しだね。
義経追捕云々は口実でしかないよ。
608 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 21:27:35.27
平直方は、平貞盛の子孫では嫡流であるけど
子孫の盛方が、
同族の伊勢平氏の平忠盛との闘争に敗れて衰退していた。
609 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) 21:45:55.51
経基と満仲の年齢が合わないのはどうしたもんかね?
>>609 研究者ですら答えだせず
永遠に謎かも
経基と満仲の親子関係出自疑う人もいるけど
本当に謎としか言いようがない
611 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 04:37:12.54
>>602 将門の乱の時には、良文は、将門に味方している。
乱後は、なぜか将門の本拠地の相馬が、良文の領地になっている。
良文の子の平忠頼の妻は、将門の娘の春姫だ。
そして二人の間に出来た子が、反乱を起こした平忠常であり、
忠常は、将門の血縁者と言う事になる。この忠常が房総平氏の祖で、
忠常の5代後に例の東国独立論の上総広常となる。
良文流は、秩父氏、上総氏、千葉氏。
平(千葉)常長、常兼親子は、前九年の役・後三年の役に参加している。
この頃から房総平氏、源氏に近くなっている。特に千葉氏は、その傾向が強い。
頼朝によって東国独立論の広常が滅ぼされており、最終的には、千葉氏が、源氏に一番近い関係になる。
612 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 05:25:21.91
>>608 たしかに、伊豆北条氏の直方流は、化冒では無いと思う。
板東平氏で直方の孫である盛方が、伊勢平氏の忠盛の急激な出世に
圧倒されて、危機感を持ち、宮中で他の公家と一緒に忠盛襲撃を
企てるも、失敗。天皇の怒りに触れて、処刑される。
これで直方流の都での評判は地に落ちた。そして盛方の弟(阿多美聖範)の子の
時方が、直方流を継いだものの、忠盛との差は挽回できず、時方は、伊豆の国司
を勤めた経験があり、更に父である聖範が伊豆に居る事等から、伊豆の国衙の近
隣地である北条郷に移住し土着する。
つまり、伊豆北条氏(直方流)は、在京軍事貴族であり、摂関家の家人や北面の武士
でもあったが、伊勢平氏の忠盛との出世争いに負けて没落(都落ち)し、伊豆に落ち
延びたと言える。
熊谷氏の祖である熊谷直貞も直方流であり、平盛方の子であるが、盛方の処刑後に、
赤子であった直貞は、乳母に抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延びた。言い伝え
では、成長後、所領もない寄寓の身だったが、熊退治で名を上げ、所領を得たという。
熊谷氏も伊豆北条氏と同様に直方流である。 両者とも規模の小さい武士である。
ちなみに、盛方と聖範の兄弟には、妹(直方の娘)が居て、源頼義の室となり義家の生母となる。
直方は、鎌倉の館を頼義に譲ったが、この事と関係が有るのかも知れない。
613 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 05:46:00.44
>>603 >俗説だけど信頼の除目を蹴って
>「鎌倉悪源太義平のままで結構。」に自負と気概が感じられるね。
それは、如何かな?
相模や武蔵の国司職が提示されれば、飛びつくだろうし、
板東総追捕使なんかだったら、絶対にやりたがるだろう。
父の義朝は、下野国司をやっているし。
>>603>>613 その俗説のネタ元は多分近世以降に主流派となった「後出本(後から改変された)」平治物語。
成立年代の古い「古態本」平治物語(鎌倉期成立か)においては
義平が任官を蹴った話は載っていない。
俗説はフィクションの可能性大。
615 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:33:25.59
頼朝は自己を頼義に、北条時政を直方に、政子を春姫に擬えていたんだと思う。
あ、そうだ!嫡男は頼家(通字の「家」は義家から)だった!
しかも頼朝は三男で頼義も三男だった!
616 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 09:57:30.99
頼義は長男だろう?
617 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 10:01:14.41
本木せんせ曰く
頼義は元々は長男だけど嫡子じゃない。
618 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 10:39:09.42
>>617 俺は石井進氏の著書で頼義は長男でも嫡男でもないと書かれていたのを読んだ記憶がある
619 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 10:45:40.16
「兄さん死んでくれてありがとう。菩提は俺が守るよ」by頼朝。
620 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 11:29:32.67
>>615 頼朝は自己を頼義に、北条時政を直方に、
政子を義家生母(頼義室:直方の娘)に擬えていたんだと思う。 ← ○
頼朝は自己を頼義に、
北条時政を直方に、政子を春姫に擬えていたんだと思う。 ← ×
621 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 14:57:42.02
>>617>>618 だとしたら
>>594の理由も少しわかるな。
頼義は頼信の嫡子ではない。
新たに頼義流の始祖となった。
だから自分の子には自分しか持たない「義」をつけたと。
>>615 それ頼朝の意向もあると思うけど、北条側の思惑も大きいと思う。
元々群を抜いた勢力があったわけでなく、頼朝から三代の縁戚というだけで
勢力拡大したから
自らの正統性を補充するために主張し続けたのでは?
623 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 15:44:25.87
>>621 「義」の通字が頼義流の嫡流としたら
頼義ー義家ー義親ー為義ー義朝ー義平
ということになる
>>623 いや、そうでもないと思う。
為義が義家流の嫡流だったかどうかは不明だし、
義朝は為義の嫡子ではなかったと最近は言われている。
(官位の問題などで)
だから、義朝は新たに義朝流を作り出したともいえる。
したがって義朝流の始祖義朝の「朝」を嫡子頼朝と嫡子対抗者「朝長」
に継がせたと思う。
(義朝生存中に確実に元服を済ませたとみられるのは義平、朝長、頼朝の三名のみ
義門はわからん)
625 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 16:27:28.86
じゃあ
義朝流の嫡流は頼家ではなく実朝ということになる が
実朝が頼朝存命中に元服していたかどうかだね。
626 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 16:57:26.96
>>625 頼家の場合
>>620の事情が優先されたんだと思う。
頼朝的には義朝流の後継者というより「頼義の再来」の方が重要だったから。
義朝の後継者は河内源氏の一流派の後継者に過ぎない。
頼朝は清和源氏の頂点を目指した。
奥州に力を伸ばそうとした頼義の再来の方が義朝の後継者より頼朝には相応しかったとかんがえられたのでは?
627 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 17:00:03.52
ちなみに頼朝は自分が清和源氏の嫡流であることを目指した。
頼義、為義、義朝が実は嫡子でなかったことはないことにして
とにかく自分の直系先祖が嫡流だと主張し続けた。
628 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 17:56:51.74
御家人達にとってみれば頼家が義家化することは脅威だよね。
坂東武士(坂東平氏)はそれぞれの所領に割拠する豪族同盟を指向していたからね。
頼家暗殺の黒幕は北条義時だし、実朝暗殺の黒幕は三浦氏だと云われている。
629 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 18:10:45.44
もしもだけど
義平未亡人が頼朝の求婚を受け入れて男児をもうけていたら間違いなく嫡子だろうね。
しかも頼家の諱はその子のものだったろう。
頼朝と新田の直系先祖は義家だし。
そうなると政子の正室の座は怪しいものになったかも。
631 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 19:27:52.70
政子があれほど影響力を発揮したのは推測だけど
なんかのきっかけで河内源氏(ひいては清和源氏)の秘密を知ってしまったのだろうね。
632 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 19:32:37.13
>>626 >頼朝は清和源氏の頂点を目指した。
甲斐源氏とか足利、新田が居ましたからね。彼らの上位に頼朝は位置したかったのでしょう。
しかし、既に河内国の領内を本拠として無いにも関わらず「河内源氏」と
呼称し続ける事に対しての疑問は大きく、源頼朝のように史料上明らかに
河内に本拠を構えた事の無い人物まで河内源氏と括る事は、絶対にオカシイ。
源義朝は、幼少期に東国に下り鎌倉・上総国・下総国などを本拠として
活動していた時期が長い事から、義朝流五代は「鎌倉源氏」と称すべきです。
別に「鎌倉源氏」の嫡流が、清和源氏の氏長者になっても問題は無く、
矛盾もありません。むしろ、それが頼朝の願望だったとも言えます。
>>628 別に義家は、関東の武士の所領を取り上げる事などしてないが?
頼家降ろしと暗殺は、比企氏潰しとセットでしょうね。
頼朝は、梶原景時と比企能員に頼家の事を託したのだろう。ナノに景時を見捨てるから北条に潰された。
実朝暗殺は、北条潰しと連動していると思いますね。
それと朝廷も実朝暗殺を事前に知っていたかも、三浦義村の弟が後鳥羽上皇の近習でしたからね。
>>629-630 義平未亡人は、大変美人だったそうですが、
もう40歳過ぎています。この時代に40歳代での出産は厳しいかと。
633 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) 21:47:27.12
>>632 奥州清原氏の内紛に鎮守府将軍の兵権を根拠に坂東武士を動員している。
戦後、朝廷の裁断で私闘とみなされ十分な恩賞を与えられず信用を失ったのは言うまでもない。
後世の創作美談として私財を分け与えたとしているが実際のところ京武者である義家の所領はさして広くもなく
荘園寄進禁止令まで出されているので信じて従軍した坂東武者からの顰蹙が実態であろう。
義家の絶頂期が河内源氏の凋落の始まりであることは論を待つまでもない。
>>632 >別に「鎌倉源氏」の嫡流が、清和源氏の氏長者になっても問題は無く、
矛盾もありません。むしろ、それが頼朝の願望だったとも言えます。
そう、だからそうしたいが為に頼朝はあえて自分を頼義に例える必要があった。
頼義の継承者は新田でも足利でも武田でもなく自分であると。
自分を頼義に模することによって、義朝流が嫡流であると意識づけさせる必要があったかと。
>もう40歳過ぎています。この時代に40歳代での出産は厳しいかと。
確かに出産はムリだが、頼朝の正室になることは可能だったのではないかと。
そうなると頼朝の妻として
正室 新田娘
嫡子母 政子
という区分ができたのではないかと。
ちょうど豊臣氏における北政所と淀殿のように。
>>633 その坂東武士動員も注意が必要。
坂東武士といえるのは佐伯経範、大宅光任くらいで、
この人佐伯経範も頼義が相模守の時に主従関係を結んだ程度らしい。
他の郎党は畿内の累代の家人。
頼義勝利の要因は陸奥の豪族をうまく動員したという点につきるらしい。
義家の没落の要因としては
戦乱に没入しすぎて年貢を未納したのが大きいと言われてるよね。
>>634 豊臣家の場合、北政所と淀殿の骨肉の争いで、養子の秀次事件のような
悲劇が起きたが、その2の舞にはならんだろうか。
まあ、秀吉の場合、北政所は低い身分(恐らく秀吉と同じくエタ)の出身で、
浅井家という由緒ある家の出身の淀君との違いも争いの要因だから、
必ずしも同じ扱いはできないけど。
>>635 三浦、大庭などは、後三年の役に従軍したと言ってるようだが?
638 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 03:57:54.72
大蔵館襲撃事件の義平軍の陣容の詳細が知りたいね。
三浦一族と中村党の軍勢の存在が確認出来れば生母と烏帽子親の傍証としては精度の高いものになるし
平治の乱における義平17騎のメンバーの誰が居るかによって義朝、義平親子の南関東での勢力拡張の過程が詳らかになる。
奇襲ほど入念な準備が必要であるからね。
>>637 その従軍した坂東武士は相模国の武士が大半。(武蔵などはあまりいない)
義家の戦いは正真正銘の私闘で個人的なつながりによる徴兵が行なわれたが
だが、相模国の場合従軍にもう一つ要素があって
当時の相模守が義家の母方の従兄弟藤原棟綱であった。
この現役相模守の公的動員という後押しもあってのではあいかと言われている。
>>637 新古典体系所収の「平治物語」(古態本)によると
十七騎のメンツの中にいるのが
<相模>三浦義澄、渋谷重国
<武蔵>足立遠元、平山季重
義朝配下にいると見られるのが
<畿内>後藤実基父子、佐々木秀義
<相模>山内首藤父子(元畿内累代系)
<武蔵>斉藤実盛
<上総>上総介広常
<信濃>片桐景重
<不明>鎌田正清
源氏一族
義朝、義平、朝長、頼朝、志田義広、行家、陸奥義隆、平賀義信
なお青墓宿で義朝の身代わりで死んだ佐渡式部重成は戦いの中における記載では
義朝の配下という扱いは受けていない。
641 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 08:27:00.83
源義賢と秩父重隆を討った1155年の
大蔵合戦における義平軍の主力は、相模平氏や房総平氏だろう。
義平直属の兵力は少なく、実体は、千葉、上総、三浦、中村、大庭、の連合軍だろう。
なかでも大きかったのは、生母の実家で、義平の家人でもある三浦では?
大蔵合戦は、武蔵最大勢力をもつ秩父氏内訌の面が大きい。
秩父重隆が家督を継ぎ武蔵国留守所総検校職に就いた事に不満をもつ重隆の兄の子畠山重能と義平と組んだ。
秩父重隆と利根川を挟んで抗争を繰り返していた
上野国新田義重や下野国の藤姓(秀郷流)足利氏も義平と結びついた。
義平の妻は新田義重の娘であり。また義平の母や畠山重能の妻は、
相模の三浦介義明の娘であり、三浦氏が義平の外戚であり家人であった事が重要。
義平軍の主力は、三浦と新田、それに畠山だと思う。
義平軍は、南関東だけでなく、北関東の武士の兵力も動員してると思う。
さらに、武蔵守の藤原信頼の黙認があったのなら、武蔵の国衙の兵も動員出来たと思う。
この大蔵合戦は、保元の乱の前哨戦と言われるが、
源平合戦における頼朝の南関東制圧の素地も、この合戦により出来たと思う。
>>639 公的に動員した兵を、私闘に使ったら、もっと厳しく処罰されそうな気がするけど?
>>642 国司の親戚からの徴収
国司はその親戚に肩入れ
国司さまに睨まれると不味いという無言の圧力のかかった召集じゃないのかな。
>>642 当時の日本は無政府状態で、実権を握っていた白河法皇は政治はそっちのけで
放蕩の限りを尽くしていた。だから、私闘と言っても白河法皇が源氏の勢力が
強まるのを嫌って勝手に私闘と決めつけた可能性が高い。
最も、清原家衡、武衡が朝廷に朝貢していたら、その限りでないが。
645 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 07:11:31.28
平治の乱での義朝・義平軍は少数の一族一門&坂東の殿様ズなんだよね。
こいつら官位につられたのかな?
646 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 07:19:25.70
近江源氏の佐々木なんかは義朝とは血縁的には遠いけど
馬など軍需品の奥州利権にはどっぷり浸かっていたからね。
647 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 07:34:07.90
たとえば現在の渋谷区にある渋谷城主渋谷金丸の参戦動機ってなんだったろうね。
10代の若様が?
義平との青春ストーリーがあったら面白いね。
648 :
藤原隆信:2013/09/02(月) 09:31:57.15
>>644 無政府状態じゃないよ。
国衙はきちんと大田文(年貢台帳)をもってきちんと税管理してたし
国を治めきれない国司はきちんとクビになてった。
それに後三年の役は朝廷からの「停戦命令」が出てたのに
義家はそれを無視して戦いつづけた正真正銘の私闘だし
合戦に没入して義家は朝廷におさめるべき年貢を収めなかった。
そのせいで朝廷は砂金不足となった。
国司としての第一の任務の納税をおこったんだから義家は干されて当然。
ちなみにこのころはまだ摂関家の力が強くて
白河法皇の発言権は後より弱かったよ。
649 :
藤原隆信:2013/09/02(月) 09:40:50.58
>>645 >>640のリストに載っているもののうちのつながりを見ると
三浦義澄→義平の母方
山内首藤父子→頼朝の乳母山内尼の夫と舅
後藤実基父子→義朝娘坊門姫の乳父
上総介広常→義朝の最初の庇護者の子
鎌田正清→義朝の乳母子
佐々木秀義→奥州利権
渋谷重国→後に佐々木秀義の舅となる
片桐景重 → 牧(馬の生産飼育)の管理者 左馬頭義朝・院厩別当信頼とのつながりが推定される
一族平賀義信 → 同様に牧管理者
斉藤実盛、足立遠元、平山季重、志田義広、行家、陸奥義隆→ このあたりは不明
というわけで義朝やその子たちと個人的に親しいものと
利権で深くつながっている人たちが参戦していると思われる。
>>647 こんなことを書くと変な祭りになるかもしれないが
金王丸は元服前の少年。
義朝近くに常に近似。
織田信長における森蘭丸のような・・・・
651 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 10:08:14.29
>>641 大蔵合戦は、実質秩父氏の内紛だね。
それに義平が介入した事で、畠山家が勝って、秩父氏嫡流家督を
畠山重能が獲得した。武蔵国留守所総検校職には、重能の孫の河越重頼が任官している。
後の源平合戦では、畠山重能は、平氏方についたが、
子の重忠は、当初平氏方で三浦氏と戦うが、後に頼朝に従う事になる。
大蔵合戦の時の義平の活躍が、役に立ったという事だろう。
652 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 10:25:56.30
>>651 川越重頼は重綱系だよ。
他分野なんかの事情で重能系から重綱系に検校職がうつったんだと思う。
不思議なのが重頼は頼朝乳母比企尼の二女と結婚するんだけど
頼朝が挙兵した後最初に秩父氏へ声かける相手がなぜか江戸重長なんだよね。
653 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 10:34:10.75
>>652 あ、重綱系じゃなくて重隆系ね。
重弘ー重能ー重忠
重隆ー能隆ー重頼
>>650 金王丸って、常盤御前に敗戦を知らせにいった人ではなかった?
>>654 平治物語ではそうなってるね。
ただ平治物語研究者日下力さんによると
実際に義朝死亡の時点で義朝の近くにいて
平治物語のモトネタとなった手紙を坊門姫に書いた人物の可能性があるとしている。
656 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 20:41:26.23
いずれにしても、義朝流五代は「鎌倉源氏」と称するべきだよ。
そして源平合戦の勝利と征夷大将軍の世襲により、
鎌倉源氏が、清和源氏の嫡流・本家になったと言う事だろう。
657 :
日本@名無史さん:2013/09/02(月) 21:19:30.47
>>656 足利義満は清和源氏どころか源氏長者になっているのだが。
658 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:21:39.64
>>591 >「天養記」には1144年に義朝の館(亀谷殿)が、
>鎌倉亀ヶ谷(現扇ヶ谷)に存在し使用されている事が記されている。
義家以来廃れていた鎌倉の源氏館(亀谷殿)を義朝が、
再建した時期は、正確には不明だが、義平が誕生した1140年前後と言われる。
平治の乱勃発の1160年までの20年間は、鎌倉の源氏館(亀谷殿)は、機能していた。
この鎌倉の源氏館(亀谷殿)は、単に義朝や義平の住居と言うだけではなくて、
軍事機能はもちろん、一部行政機能を担っていた可能性があると思う。
国衙ほどではないが、一定規模の武器庫や兵舎、それに初歩的な侍所の機能は、有ったと思う。
侍所は、軍事・警察を担った部署だが、公家では、家政も担っていた。
源氏館(亀谷殿)には、鎌倉源氏の家政機関としての機能が有ったと思う。
さらに、相模や房総の御家人の召集・指揮や罪人の追捕や収監なども行っていたのでは無いだろうか。
1155年の大蔵合戦以降は、その対象国が北部へも拡大し、
武蔵や北関東の御家人の召集・指揮や罪人の追捕や収監も行った可能性が高い。
石橋山の合戦敗北後に、頼朝一行は、船で房総半島に逃げるが、その船上で
和田義盛が、頼朝に自分を侍所の長に任命する様に要請する場面がある。
その時は、頼朝は、笑ってあんまり本気にしなかった様だが、義盛は、義朝
や義平時代の源氏館(亀谷殿)についての記憶があり、その為に侍所の話し
を持ち出した可能性がある。
ただし少年期の頼朝は、在京しており、
鎌倉の源氏館(亀谷殿)の機能や業務内容についての詳細は全く知らなかった可能性が大きい。
659 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:23:58.50
>>657 ?????
時代が全然違うんですけど。 しかも、室町時代になってからの話しですし。
義朝流が、断絶したあとなら、新田や足利、甲斐源氏は、源氏の氏長者の候補者になってもオカシク無い。
後の徳川宗家ですら、源氏長者ですから。
660 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:52:53.46
>>646 義朝のねーちゃんか妹が佐々木秀義の妻でしょ。
佐々木四兄弟は母方のいとこじゃん。
関係ないのかね?
661 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:58:06.12
662 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 08:02:45.89
>>658 >少年期の頼朝は、在京しており、鎌倉の源氏館(亀谷殿)の
>機能や業務内容についての詳細は全く知らなかった可能性が大きい。
全く知らなかったという事も無いと思うけどね。
父や兄から聞いているのもあるだろうし、源氏の家人も居るんだからね。
663 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 08:46:52.80
>>659 源氏長者の条件知ってるの?
清和源氏なんてチンケなんじゃなくて全ての源氏の中で高位の者が奨学院・淳和院の両別当を兼帯(北畠親房は奨学院別当のみでも可としているが)
源氏長者となった。征夷大将軍云々は全く関係無い。
清和源氏に話を戻すと
新田、甲斐源氏武田、佐竹、南部はおろか美濃源氏土岐すら嫡流を奪取する野心が有ったと思う。
武田信玄は本気でそう考えていたかもね。
>>659 お前、歴史しらねえだろ
源氏長者ってのは、清和源氏だけじゃなく嵯峨源氏や村上源氏とか源姓を名乗る一族全てのおさのこといってんだよ
665 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 19:16:02.27
武田信玄は御旗・盾無を源氏の重宝としているからね。
666 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 00:15:42.59
源氏嫡流の定義って何?源氏長者=源氏嫡流なら徳川家が嫡流ってことになりかねない
667 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 05:13:53.18
天皇家との関係だと思うよ。
奨学院・淳和院はそもそも臣籍降下した皇胤子弟の教育機関。
その別当は最大の庇護者であり臣籍降下した皇胤諸氏の代表者ということだ。
徳川氏は自らをこの定義に適合させる為に新田氏系図を改ざんしたり高家や
武家伝奏を使って朝廷工作をしたんだよ。
668 :
日本@名無史さん:2013/09/05(木) 16:56:39.51
准三后宣下を受けた足利義満はさらに摂関家をも凌駕したからね。
669 :
668:2013/09/05(木) 17:04:10.90
スレチになるので別スレたてます。
申し訳ありません。宜しくお願いします。
670 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 00:24:51.07
義平の母は遊女だという説もあるな。
為朝の母もそうだからイメージ的にはしっくりくるな。
671 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 14:36:59.42
義平の母親は、三浦義明の娘だろ。
義平の平は、平氏の平だろ。房総平氏と相模平氏に支えられている、という意味。
尊卑分脈によると京都郊外の橋本の遊女
清和源氏系図によると三浦義明の娘
義朝は各地で子種ばら撒いてるから特定は難しいんじゃないか
『遊女』、といっても、この時代の遊女は、後の時代のいわゆる売春婦とは違うのだろう?
675 :
日本@名無史さん:2013/09/06(金) 20:41:09.58
>>673 洞院家には足利将軍家の圧力があったからね。
>>674 売春婦=春を売る女性
遊女=本業は舞や歌などの芸事を行う芸能人
しかしそれだけでは金にならないので舞や歌の後には酒宴の席に侍り
酒宴で昵懇になった相手にやっぱり春を売る
遊女も売春婦の一形態に違いはないが…
この時代の遊女はあくまで芸事がメイン
芸者に近いんじゃないじゃないか
678 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 04:51:41.26
遊女は今でいう女性芸能人と一緒。
今でも女性芸能人は政治家や青年実業家と付き合ったりするのもいるだろう?
それと一緒。
679 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 03:18:43.90
義平に限って言えば、三浦氏が外戚だろう。
じゃないと義朝流(鎌倉源氏)が、アソコまで関東を制圧できない。
1155年の大蔵合戦も勝てないと思う。
大蔵合戦での義平方の軍勢の主力は、三浦、畠山(重能)、新田だと思う。
義朝が、1140年前後の義平誕生とほぼ同時期に鎌倉の源氏館(亀谷殿)を再建出来たのも、
母方の三浦氏の支援が有ったからだろう。 単なる頼義や義家の故事だけでは済まなかったと思う。
680 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 08:35:22.69
三浦の娘(落胤)が芸能人としての「遊女」を職業としてた、とか。
681 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 23:14:54.62
>>679 三浦氏も鎌倉党もそこまでは当時強大ではなかったと思う。
682 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 23:17:05.90
>>679 海上勢力を背景とする三浦氏と大庭御厨という大型荘園の開発領主の鎌倉党。その間に割って入った形の山内庄は相模国最大の超ど級荘園。しかも地理的に武蔵国久良岐郡に大きく南北に連なっていた。
683 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 23:21:35.98
>>679 山内庄内の亀谷館についてはむしろ首藤氏主導とみるほうが自然。それに当時武家故事に従えば秀郷流のほうが関東・東海では上に見られていた。熱田宮司家を母にもつ頼朝より波多野氏が母である朝長のほうが嫡子扱いを受けていたし、官位昇進も速かった。
684 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 23:57:32.87
義平は嫡男ではなかったと言われるが...
なんでも、生母の出自や官位なので
弟の朝長や頼朝より下だからとか...
でも、そんなの関係ないんじゃね?
義平には、父親の義朝から、かなりの勢力を与えられているし
そもそも、先祖の義親、為義、義朝とも、兄弟や従兄弟などで
官位が上なのは、いっぱいいたしな。
義平が義朝に加担せずに、関東にとどまっていたら
源平の時の源氏の旗頭は義平になっていたかもな。
>>682>>683 >その間に割って入った形の山内庄は相模国最大の超ど級荘園。しかも地理的に武蔵国久良岐郡に大きく南北に連なっていた。
で、その山内荘は後に「八条院領」として文書に登場するが、
その立荘は鳥羽院政期に美福門院領として立荘した可能性が高いと言われている。
荘園の立荘にはその時の国司の認証が必要で、
その時の国司が美福門院の従兄弟藤原親忠であるといわれている。
つまり、山内荘の立荘は山内首藤氏の力ではなく背後にある
相模守、美福門院の背景なしには立荘できないものであった。
ちなみに山内首藤氏は東国にも領地をもつものの、都にも居住する武士という一面も持っていた。
もう一つ、立荘に近い時期にあった「大庭御厨事件」は
相模国田所目代と義朝郎党が組んで行った事件だった。
つまり、相模国衙と義朝がグル。
三浦は在庁官人。山内首藤は累代の家人。
このころは三浦と山内首藤と共同作戦で鎌倉に義朝の根を張らせたとみるべきではないだろうか?
もう一つの考察は、平治の乱の後岡崎義実が旧義朝邸を管理していた。
岡崎義実は、三浦系かつ中村系。
こう考えるとそれ以前から三浦系が鎌倉に力をもっていたとしてもおかしくないと思う。
>>683 >故事に従えば秀郷流のほうが関東・東海では上に見られていた。
根拠は?
それから、波多野氏は父系では「佐伯氏」だよ。
一時「秀郷流の女性」を妻に迎えたときもあるらしいけど。
>>683 朝長 13歳 非蔵人
時期不明 従五位下
16歳 中宮宮(後の高松院)大夫少進
頼朝 12歳 皇后宮少進
13歳 2月 上西門院蔵人 & 左衛門少尉
6月 二条天皇蔵人
時期不明 従五位下
12月 右兵衛権佐
13歳時点での地位を見ると朝長の方が昇進が速いとは言えない。
朝長にも権利はあったと思うけど。
ただ、頼朝が元服した頃は義朝は信頼との結びついている一方で
後白河上皇にも接近していた。その上皇ルートにつながる
頼朝の母方はやはり大切な存在だっただろう。
ちなみに1158年ころ波多野義通は義朝と決裂して本領に戻っていたという見方もある。
それから秀郷流の話になるが
秀郷流の山内首藤氏、小山氏は頼朝の乳母夫になっているw
>>684 >義親、為義、義朝とも、兄弟や従兄弟などで 官位が上なのは、いっぱいいたしな。
そもそも義親はともかく(一旦は嫡子になった)
為義、義朝が嫡子や家督相続者であったということ自体が現在は疑問視されているがな。
>義平が義朝に加担せずに、関東にとどまっていたら 源平の時の源氏の旗頭は義平になっていたかもな。
無位無官の義仲が旗頭の一つになっていたから以仁王の命旨さえあれば可能性があったと思う。
ただ義平の場合三浦氏との関係が深すぎるので
頼朝のように公平に東国武士の上に立つことはできなかったと思う。
(頼朝の最初の後ろ盾北条は無視されてもいいくらい弱小だったからその縁は気にされなかっただろう)
頼朝の場合
1st step 挙兵当初
頼朝を担ぎ上げた勢力の利害を優先
伊豆頼政系統在庁官人→彼らを圧迫しはじめた時忠系山木兼隆&平氏系伊東祐親を倒す
三浦中村系→前から対立していた平氏家人大庭氏を倒す
上総介→新たに上総の権利を握った伊藤忠清系を倒す&対立していた佐竹を倒す
千葉→対立していた平氏縁戚千田氏&佐竹を倒す
2nd step
頼朝傘下の武士の対立勢力も味方に取り込む
ex 三浦をいったん潰した秩父一族
3rd step
朝廷と交渉して反乱軍の烙印を消してもらい徐々に影響力を深めていく
4th step
自軍に吸収されない他源氏を叩く(義仲、甲斐源氏他)
5th step
平氏、奥州藤原氏を倒す
6th step
戦時中体制のどさくさで得た権利を平常時も保持するようになる。
義平は1st stepまではできただろうが
2nd step以降は難しいと思う。
689 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 18:08:23.17
いずれにせよ
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、 河内とは切り離された存在。
義朝流五代は、河内源氏ではなくて、『鎌倉源氏』と名付けるべき。
690 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 18:55:42.07
691 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 20:55:26.95
義家の河内の所領は、義忠の次男の義高へ受け継がれたが
義家の京都の邸宅は、為義に受け継がれた。
692 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 21:04:14.66
>>691 受け継がれたんじゃなくて為義が半ば強引に奪いとったらしいけど。
>>689 頼信ー頼義ー義家だって、鎌倉源氏としてよいだろう。
頼信のとき、(三宅八幡から?)
八幡の神を勧請して鎌倉八幡を建立して、源氏の本拠地と定める。
694 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 02:28:12.25
>>690 あるよ。河内源氏って称呼が、間違いだって事。
>>691 義高流(石川氏)が、河内源氏だよね。
>>693 頼信ー頼義ー義家は、鎌倉源氏とは、言えない。
平直方から引継いだ鎌倉の源氏館も義家の代で事実上放棄している。
義家の子の代の頃には、鎌倉の源氏館は、全く使用されてないし、機能してない。
頼信ー頼義ー義家には、鎌倉の在地性が乏しい。
やはり1140年前後に義朝が、
鎌倉の源氏館(亀谷殿)を再建してからが、鎌倉源氏だと思う。
ただ
>>683や
>>685が言う様に山内首藤氏が建てたという主張は如何かな?
無関係ではないけど、義朝流と姻戚関係が無いでしょう。外戚関係から三浦氏の協力の方が大きいと思う。
丁度、鎌倉の源氏館(亀谷殿)の再建の時期と義平誕生の時期が一緒なんだよね。その点も三浦氏だと思う。
山内庄は大きい荘園だと思うけど、三浦氏の場合は、三浦半島全域がテリトリーです。
三浦氏の荘園も半島全域に散らばっており、それを考えると、三浦の勢力はカナリ大きい。動員兵力も2〜3千人近いと思う。
房総平氏(千葉氏や上総氏)や小山氏、などは、それこそ一国全域がテリトリーでその国全域に自分の荘園が点在している。
単一の荘園を押えている武士よりも、面で広域にテリトリーを押えている武士の方が勢力が大きいと思う。
695 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 03:52:14.52
主君や主人の為に家臣が城や館を普請するのは中世末期以降。その性格は軍役と同じである。
入婿婚が主流で封建制が未だ無く軍役も存在しない中世初期においては子供の養育と在所の確保は母方の役割であり、
義朝と三浦氏のケースを見た場合、都から東国へ下向してきた主筋の貴種として三浦氏が義朝を婿として迎え入れ
男子(義平)誕生に合わせて頼義の故事に倣い鎌倉の地に源氏館(亀谷殿)を再建したと理解する方が自然である。
696 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 05:00:22.22
697 :
日本@名無史さん:2013/09/10(火) 05:00:59.36
698 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 01:22:01.49
>>695 山内庄が八条院領という思い込みをどうしてもしたい人がいるが、関東では御厨と摂関家領のほうがむしろプレゼンスが大きい。
699 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 01:23:05.83
>>695 山内庄=八条院領を唱える人はそう言ってさえすれば、山内庄は歴史が浅いと断定できる。都合がいい。
700 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 01:26:45.68
>>695 義朝は頼朝の落伍など気にせず、義平も道を違えて落ちていったが、最後まで必死になって同道させたがったのが朝長。波多野庄は摂関家領で庄司が秀郷嫡流であればこそ松田冠者を同道させることに義朝が執着した。
701 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 01:36:27.63
>>695 松田氏は後北条とも対等で相模国主の準待遇を認められていたことは松田氏独自の印を用いていた事実からわかる。山内荘も領内に関東では数少ない平安に縁起をさかのぼる春日神社があるし、摂関家領として考えたほうが自然。歴史もかなり古い。
702 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 01:41:54.41
>>695 戸塚区役所公式見解のように山内荘の歴史はかなり古い。無位無官の乱暴者の親父の下で京で全くうだつのあがらぬ息子がしかたなく上総に流れついた。ここも摂関家領と見られている。
>>698-702 「吾妻鏡」に山内荘は「八条院領」とはっきり明記されているんだけど。
山内荘が八条院だったという記載はこの時代の研究者の常識なんだけど。
(元木泰雄、野口実らの本をよんでみ、逆に摂関家領と主張している本があったら教えてくれ)
逆に「摂関家領」であったいう証拠はどこにあるの?
それから荘園の成立について誤解があるようだけど
平安中期まで→国衙が確実に納税をさせる為に有力農民に一定の権利をもたせて納税させる荘園
もしくは荘園領主が人を集めて耕作させる地域
院政期→元々国衙が支配していた一定地域を、ある政治的法則が働き
従来の国衙→国司→朝廷→権利受益者(偉い人)という流れでうごいた税が
荘園指定地域→現地荘園管理者→中央の取次者→権利受益者(偉い人)
という流れになっただけ。
ちなみに平安中期までに開墾された荘園の多くは、経営が行き詰って
荒廃地となったか、国衙に吸収された事例の方が多いので
そのまま院政期の「寄進地系荘園」にはつながらないものの方が多い。
院政期の荘園は開発農園を自力で開墾した地域有力者が税逃れで偉い人に名義貸しした
という事例のほうが逆に少ない。
(偉い人から援助を受けて開発したケースはあるけど)
つまり山内荘に当てはまる地域は摂関期以前元々あった生産地域の支配者に
鳥羽院or美福門院名義となり(最終利益受益者)
国司仲介の元、義朝の紹介でその郎党山内氏が現地管理者として下向したということになる。
だから、山内荘の生産地としての歴史は古いけど、山内氏の現地管理者としての歴史は古くないということなんだ。
春日大社があっても不思議じゃないよ。
1150年代に相模国知行国主が鳥羽院に変わるまでは摂関家の差配で相模国守が決められてたし
その相模国守やその従者が藤原氏であったとしてもなんの不思議もないからね。
春日大社がそこにあるからといって「摂関家領」と決めつけるのはちょっとおかしいね。
>>698-703 >波多野庄は摂関家領で庄司が秀郷嫡流であればこそ松田冠者を同道させることに義朝が執着した。
だから、波多野氏は佐伯氏説が濃厚なんだって、
逆に波多野氏が秀郷嫡流だって証拠はどこにあるの?
それから
>>683の>時武家故事に従えば秀郷流のほうが関東・東海では上に見られていた
の証拠を早く提示していただきたい。
>>686に対するご意見もね。
それから、義朝が東国に来た当時は確かに東国でも摂関家の力の方が強かった。
だが、東国の知行国主が鳥羽院・美福門院の国が増え(特に根拠地相模)
続々と院領が増えていくようになると、院・美福門院に接近を願う在地領主が増えてきたんだよ。
その在地の要求に応えて義朝は美福門院に接近していく。
その結果が保元の乱の義朝の陣営選択に反映されるわけだ。
705 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 08:42:31.21
元木信者があらゆる日本史12世紀関連スレで暴れ廻るのは何故だろう?
>>705 じゃあ、その信者に論理的に反論してみたら?
708 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 19:28:07.26
凄い勢いで伸びてたこのスレがピタリと止まったね・・・やはり
元木先生も大人気ない
>>708 本当に元木先生本人が書き込んでると思うなら
そう思うレスに反論の一つもしてみたら。
きっと丁寧なお返事が来ると思うけどw
710 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 21:18:33.01
収穫が有ったよ。
まさか学界のトップレベルの先生が書き込んでるなんて毛頭思わなかったけど
末端雑魚研究者もどき(京大閥の孫弟子くらい)が書き込んでることにね。
712 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 21:42:39.32
誤魔化すなって
今、俺に噛みついてるお前さんだよ。
いや、ここまでムキになるのは、やっぱり本人では?(www
具体的なレス番で聞きたいなあ ニヤニヤ
715 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 21:52:21.46
元木認定してる人って過去で論破されただれかかな?
716 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 21:54:31.73
俺はレスの内容になんか全く興味が無いからね。
素人相手の掲示板で暴れ廻っている末端プロもどきを釣るのを楽しんでるだけ。
なーんだ、アラシだったんだ。
相手してムダにスレ消費しちゃったよ。
718 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:03:45.65
末端プロもどきは教員の経験が無いからね。
非常勤講師にでもなって大学の教壇に立ち素人学生に教える苦労と経験を身に着けることを願うばかりだよ。
719 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:11:41.46
>>718 決めつけごくろうさん。
確かに教える苦労してないよ。
単なる歴オタで大学や教員とは関係ないから。
これからも頑張って○○信者や、勝手に学者研究者レッテル頑張ってね(棒)
720 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:14:45.66
恐縮ですが
お前さんに言った訳ではないよ。
721 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:15:53.70
じゃあ誰に言ったの?
722 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:20:03.20
暴れるだけ暴れて
今、じっと息を潜めてる人だよ。
723 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:26:25.29
724 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:30:43.45
お前さんじゃないって
釣りってのは
静と動の格闘技なんだよ。悟られぬように尻尾を出すまで待ち続けるんだよ。
725 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 23:01:58.31
727 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 00:09:49.17
豚切御免
朝長の生年は1143年説と1144年説があるけど、どっちなん?
1159年に数え歳16やったら1144年生やと思うけど
なぜかWikiでは1143年生になってんねん。
1158年春に波多野義通が相模に引き上げてから一年後、1159年に
朝長は従五位下、中宮少進に任官してるけど、
母方の支援を失った彼が昇進できたのは藤原信頼に体を差し出したからなんでしょうか。
728 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 06:35:07.22
渋谷金王丸が義朝に仕えるようになったきっかけ動機は何だったんだろう?
相模の渋谷氏の一族だったら桓武平氏中村党だろうけど地理的に離れ過ぎてるし。
729 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 06:53:42.13
渋谷氏は秩父党の一族と書かれた書物が多いけど
大蔵合戦以前は義朝と秩父党主流は武蔵国を巡って対立してた。
義平勝利の後に一族である武蔵渋谷氏は恭順したのかな?
少年当主であった金王丸は人質として義朝に差し出されたのかも。
730 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 07:10:16.87
秩父氏は良文流桓武平氏であり頼義・義家以来河内源氏に臣従していたから
その一族の武蔵渋谷氏も為義ラインに居たことは想像に難くない。
ただし国衙の指揮権を握っている知行国主の信頼の影響力で義朝の陣営に下っていた可能性も有るね。
731 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 07:52:18.52
正確には『頼義・義家を「仲介者」として荘園を摂関家に寄進し臣従していた』だね。
受領に成れず中央官人としても出世の遅れていた為義は必然的に仲介者としての求心力は低下していた。
為義の段階までは棟梁という概念が無かった。
732 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 19:08:48.94
渋谷金王丸は金王神社縁起によれば1141年8月15日生まれであるから平治の乱時点では18歳なんだよね。
元服前だとは考え難い。このスレの誰かが言ってた義朝との関係が気になる。
>>732 義朝は女好きと確定してるだろう?
それに、『蘭丸』にするには、18歳はトウが立ちすぎてるだろう?
>>732>>733 白河上皇が稚児として可愛がっていた阿古丸(後の藤原宗通)は
20才まで元服を許されなかった。
他にも理由はわからんが40才まで元服させてもらえなかった皇族がいたらしい。
ただ義朝との関係はようわからん。
「平治物語」を読む限りでは身の回りの世話をしてるようには見受けられるけど。
>>730 古態本「平治物語」だと
渋谷重国も平治の乱に義朝郎等として登場している。
佐々木秀義との付き合いも
平治の乱以前からのものだったという意見を
何かの本で読んだ。
>>727 朝長が仕えたのは二条天皇中宮の○子内親王(○=女朱)
上西門院の女院号宣下の直後に中宮宣下を受けている。
このとき義朝の手持ちの元服済息子は
義平、朝長、頼朝。
義平は東国要因。頼朝はすでに上西門院に貼り付けている。
残る朝長を中宮に仕えさせるのが妥当だと考えたのでは?
ただ中宮は美福門院所生の皇女で、この時点では二条天皇とは不仲ではなかったから
中宮が皇子を出産した場合朝長の運が開けた可能性もある。
737 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 04:20:14.76
いずれにせよ
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、 河内源氏ではなくて、『鎌倉源氏』の称呼で決定。
738 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 06:18:34.39
>>734 近習の歴史に興味あるね。
主君の身の回りの世話をしるにしても隷属的身分の小姓と違い近習は在地領主層の若様だったりする。
中世においては主君側、在地領主層側双方にとって関係の緊密化を図る上での必然だったのかもしれないね。
739 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 06:50:02.46
棟梁の登場により武士団の在り方や構成・機能が変化したのかもな。
承平天慶の乱から前九年後三年の役までの軍構成は館の兵(国司追捕使の軍)国内の兵(国衙軍)と
与党の同盟軍的色彩が強いが、保元平治の乱では宣旨や令旨を受けた武士団棟梁が私的主従関係に基づいて
軍を構成動員している(保元の乱においては後白河側が国衙を通じて動員したと云われているが)
治承寿永の乱では棟梁に率いられた重層的主従関係にある大規模武士団の動員だったからね。
(結果的に国衙を通じた動員の比重が大きかった平家は敗北している)
740 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 07:14:10.10
>>737 源実朝は一度も上洛したこともない稀有な右大臣なんだな。
741 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 10:41:19.46
話が横道に逸れるが
清和源氏の出自について以前何かで読んだけど
頼信の告文による陽成源氏説には当時の事情があったのではないか?
先代満仲が藤原摂関家に接近を図り勢力を拡大する上での都合である。
何かと評判の良くない陽成上皇の猶子であった満仲(本当の出自は不明)が
同じく陽成上皇の世話を受けていた清和天皇の孫である経基と養子縁組して
清和源氏の名跡を受け継いだんじゃないかということだ。
742 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:54:25.78
>>703 鎌倉権五郎景政は中村党の笠間押領使常宗の首を刎ねている。手元に資料が無いがこれはおそらく景政弟が首藤山内に殺された報復だったかと思う。
743 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:58:09.95
>>703 時代が降り、石橋山合戦で今度は長尾が佐奈田与一を殺したが、中村党と同一行動をとる岡崎氏への鎌倉党の敵視がいかに凄まじかったか。
744 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:05:36.46
>>703 景政は鎮守府将軍良文の相模居城村岡城で産まれ、長尾郷で没した。長尾郷は三浦党も首藤山内氏も領内を称しており、おそらく景政は加速する一方の大庭御厨侵食を前に歯噛みしながら開発領主としての全身を捧げる覚悟で長尾城を守り抜いたはず。
745 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:16:54.06
>>703 山内庄本郷から北方の武蔵国久良岐郡方面へわずかのところに武蔵国守建立の春日神社がある。山内庄本郷からほぼ同距離西にいくと笠間がある。こうした事実から見ても11世紀には山内荘は鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の相当部分を支配していたはず。
746 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:22:36.20
>>703 行動主体性に関しても源氏累代、源氏介入うんぬんはおそらく関係はない。開発競争に関してのみでは、北は大岡、南は腰越とほぼ柏尾川、大岡川両水系を支配した山内荘側の優位は11世紀の段階でほぼ確立していた。
747 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:22:57.11
>>741 土地の継承順位じゃね?って話。
実際の系譜ではないし、後世に修正したと注意書きしているぐらいだから。
名まえからして、清和源氏のままで正解だと思う。
>>742-746 長文レスお疲れ様。
>鎌倉権五郎景政は中村党の笠間押領使常宗の首を刎ねている。手元に資料が無いがこれはおそらく景政弟が首藤山内に殺された報復だったかと思う。
これは鎌倉党と中村党の抗争過程の出来事だよね。
なんでここに関係のない山内首藤がでてくるのかね。
>石橋山合戦で今度は長尾が佐奈田与一を殺したが、中村党と同一行動をとる岡崎氏への鎌倉党の敵視がいかに凄まじかったか。
それも三浦中村連合と鎌倉党との抗争の話、山内荘とは関係ないぞ。
>長尾郷は三浦党も首藤山内氏も領内を称しており
山内首藤はこの時期無関係なんだけど。
ちなみに言っとくが、ちょっとして境界争いぐらいは三浦と鎌倉党との争いはあったかもしれん。
ただ、大庭御厨の本当の危機は
「太政官符」によって許可された荘園ではなく
「国免」によって認可された荘園だったから
その時の国司の気まぐれによって「荘園認可」が何度も取り消されかねない荘園だったということ。
代々国衙に入り込んで利権を得ていた三浦に付け込まれる隙は沢山あったということ。
この時点の争いも三浦vs鎌倉党の話なんで
なんで山内首藤が出てくるの?
という話になる。
>山内庄本郷から北方の武蔵国久良岐郡方面へわずかのところに武蔵国守建立の春日神社がある
前にもレスしたけど、春日大社があるからといって摂関家領だったという証拠はないよね。
しかもわざわざ「武蔵守建立」とまで書いてあるんだけど。
で、山内荘となった領域は広かったという話はわかった。
だけど前のレスにも書いた通り
開発者=荘園寄進者
という図式は近年の研究によって崩れ去っているんだ。
誰かによって後の山内荘の領域は開発された。それが広い地域及ぶというのはわかる。
だけど、山内氏が開発したとは限らない。
(逆に山内氏が開発した証拠があったらそれを上げてくれ)
国衙領の中である既に開発済みの一定の地域またはその地域の収穫物の一部の納税権が
荘園として国司と中央貴族の仲介で本所に荘園として寄進されるというのが院政期の「寄進地系荘園」の在り方の主流なんだ。
で、荘園成立後に荘園管理者として送り込まれる人物は
その地域の開発者ではなく、地域を管理する能力を持つ中央出身者。というパターンが多い。
だから院政期以前にその荘園は開発されていた。その地域が広かったからといって
院政期に荘園を管理したものが開発者だとは言えないんだ。
だから、山内荘に該当する地域が広く、その地域の開発の歴史が古いからといって
院政期に荘園を管理していた山内氏が開発者だったわけではない。
もう一度書く
院政期の荘園は
開発者≠荘園管理者
つまり
山内荘を開発した者≠山内首藤氏
なんだよ。
一生懸命レスしてくれたことには感謝する。
だが、本当に答えてほしいのは
「『院政期』の山内荘の本所が『摂関家』であった」という証拠と
「『開発期』の山内荘の『現地管理者』が山内首藤氏だった」という証拠なんだ。
一連のレスでは
「山内荘は広大」
「山内荘に該当する地域の開発の歴史は古い」
「鎌倉党と三浦党・中村党との抗争の歴史は古い」
ということはわかるんだけど
肝心の冒頭の二つの答えにはなっていないんだ。
751 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 05:43:44.23
752 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 07:40:27.55
源満仲と源経基の親子関係を疑う説もあるけど
その割には、源満仲の本当の出自についての説ってないよな?
摂家との近さなどから見ても、満仲は経基の子供でいいんじゃね?
753 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 08:39:28.38
古い時代のことは疑ったらキリがないな。
754 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 09:19:21.77
清和天皇の賜姓源氏がキーワードだと思うよ。
清和天皇には数えきれないぐらいの皇子皇女がいたので2世源氏には通常の蔭位の制が適応されなかった。
経基は大叔父の陽成上皇に泣きつくことで陽成2世源氏として武蔵介の官職を手に入れたまでは良かったが
荒くれ坂東人に怖れをなしビビりまくりで都に逃げ帰り讒言の疑いで一旦、衛門府に拘束されるも将門の反乱で
ボタモチ的幸運を得たが討伐の実戦には参加出来ず老齢の陽成上皇の叱咤を受け純友西国討伐軍に参加することになる。
しかし、経基のヘタレぶりを憂慮した老齢の陽成上皇は子飼いの出自不明の満仲(3兄弟)と養子縁組させて西国へと出征させたのである。
経基没後、清和源氏の祭祀権を手中にした満仲兄弟は武門清和源氏として子子孫孫繁栄していくことになる。
755 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 09:24:27.77
訂正
大叔父→叔父
>>754 それなら、経基ー満仲は、清和じゃなくて、陽成源氏になるんじゃないの?
陽成天皇は家来を殴り殺すほどの乱暴者で、人望がないことで有名だから、
経基にそこまで気を使ってくれるとは信じられない。
757 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 15:02:02.33
>>756 解説しよう
退位後の陽成上皇は暗黒街の頭目的存在で義侠心から経基を支援したんだが
それはタダの義侠心ではなかったんだね。
そこにタムロしていた子飼いの満仲兄弟をはれて皇胤貴族に送り込む好機だったんだね。
裏部隊として伊勢斎宮内親王殺害も実行したとされる。
とくに満仲は不良皇族・源氏に恨みを買っており961年の満仲邸襲撃事件はその傍証だと言えるね。
それと陽成源氏→清和源氏は
陽成上皇没後それだと評判が悪いので「大鏡」成立前の時代ぐらいに清和源氏だと吹聴しまくったんじゃないかな。
758 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 16:33:37.23
陽成源氏説に無理があるのは年齢の問題だよ。
陽成天皇と貞純親王(経基の父親)の兄弟は4歳ほどしか違わないしな。
あと、このスレでも分かってないのが多いが
源満仲は、父親の源経基よりも、5歳早く生まれたことになっている。
そういうことから、源満仲は経基の養子になったのでは?という説がある。
でも、満仲の出自について何も伝わってないし
また、満仲には兄弟がすごく多い。
それらも全部、同時に養子になったというのは無理がある。
759 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 17:38:23.67
そりゃ
満仲は出自のことは絶対にいえないだろ
俺は個人的に満仲の出自は北部九州(宇佐かハルヤマ?)あたりから流れてきた集団(秦氏?)じゃないかと思うよ。
八幡神信仰の東遷過程で入京前に摂津国に上陸しているし多田あたりにコロニーを作っていたからね。
>源満仲は、父親の源経基よりも、5歳早く生まれたことになっている。
興味深いね。
それぞれの個人史を年表つくって比較すれば何かわかるのでは?
しかし、経基は45歳まで生きたそうだし、
45歳まで生きてれば、ホモでないかぎり子供は産まれてるだろう。
だとすれば、本当の子供たちはどうなったのか気になるね。
当時は、母親の実家の発言権が大きかったそうだから、
満仲が実子を追い出したら、必ず一悶着起こると思うよね。
>>760 満仲の残っている生年が間違っていると考えれば、全てが矛盾なく説明できるんだが。
父の経基の青年は914年又は917年。
長男の頼光の生年は948年。
これを考えると、満仲の生年は932年±1年ぐらいに限定できる。
満仲が最初に史書に出て来たのは960年だ。932年生まれで全然問題ない。
また、満仲が出家したのは987年で、今昔物語によると60余歳とあるので、年齢的にも
矛盾していない。
762 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 20:37:49.08
この当時の生年月日や年齢は史料によってもバラバラが多い。
でも、複数の資料が残っているので、それぞれ見比べて
どれかが間違っているから理解できるけど
古事記や日本書紀の記述は、その時代、他に資料がないので
それが間違っていても判断しようがない。
763 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 20:43:38.00
>>960 普通、養子とか言ったり一人だけど
満仲には兄弟も多いからね。
それら全員が経基の養子になるとは考えられないしな。
だから、史料の年齢の記述が間違っているとしか思えない。
陽成源氏説は、清和源氏が二の源氏だったので、官位の昇進でも不利だった。
だから、親族で近くて一の源氏だった陽成源氏の養子という形になったのでは?
という説が説得力あるな。
当時には、臣籍降下した公家が多くて、これらの公家は殆ど出世できなかった。
中でも、清和源氏のような親王ではなく王が臣籍降下した二の源氏の場合
官位の昇進でも放置されることが多かった。
764 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 23:23:51.70
ところで満仲の妹か娘が道長の兄貴の妻になってるよね。
このあたりから満仲の年齢再推定できないだろうか?
765 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 23:53:12.21
満仲の生年を推定したければ
母方を調べるのが有効だと思うよ。女性の場合、男性より生殖可能年齢のレンジがかなり狭い。
通常12歳から35歳でしょう。初産の場合、高齢出産は危険でこの時代では30歳が限界じゃないかな。
766 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 00:38:19.81
多田院文書によると満仲は
源姓を賜る「御歳廿四」の時とある。
>>761 の推定では932年生まれとしているから、賜姓は数え歳だとしても952年となる。
父親経基王の源姓賜姓時点前では満仲は「満仲王」でなくてはならず、息子の頼光も王子ってことになる。
767 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 02:11:17.69
>>766 源を名乗った最初は経基だけど
その時に既に満仲が生まれていたと考えるほうが自然だな。
だから、経基王だけではなくて、満仲王、頼光王だった可能性が高い。
でも、あんまり満仲王とは呼ばないな。
しかし、多田院文書にあるぐらいだから、満仲が生まれた時はまだ皇族だったのかもね。
まあ、とにかく、清和源氏の初期は、もろ上級貴族にちかいところにいた。
村上源氏、醍醐源氏、宇多源氏に比べたら、格落ちとは言われながらも
藤原摂家に極めて近いところにいた貴族だった。
だから、満仲が名も知れずとは考えにくい。
768 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 02:24:13.26
経基が臣籍降下したのは、いつなんだ?
純友の乱のときは、すでに臣籍降下していたという説もあるけど。
769 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 05:43:37.52
自称清和源氏子孫の身内びいきだなw
770 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 06:44:07.86
仮説なんだけど
経基と満仲は親子関係にはなく経基流武門清和源氏はそもそも存在しない。
満仲の前身は兼明王であり陽成天皇第3皇子元平親王の庶長子である。
母親は橘繁古女であり、この系統は堂上公卿の橘氏ではなく縣犬養橘氏であり宮城の警備を専門とする氏族であり
摂津国に地盤を持っていた。
一方、経基は賜姓清和二世源氏であり他の賜姓一世源氏の格下とされ蔭位の制での叙爵から除外されていた。
ただ幸運にも承平・天慶の乱鎮圧勲功者に名を連ねる栄誉に浴していたことは事実であろう。
満仲が経基の極官正五位下を遥かに凌ぎ正四位下に達していることからも二世源氏ではない傍証ともいえる。
武勇の者として実力はあったが勲功者としての武名を欲した満仲は経基の名跡を受け継いだのであろう。
771 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 08:45:27.26
>>770 面白い説だけど...
満仲が出世できたのは、安和の変で
源高明失脚に貢献したからだろう?
そこから、藤原摂関家との関係が深まった。
772 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 08:49:03.62
満仲よりも経基の生年が間違っていると思う。
父の貞純親王とその兄の陽成天皇は年の差は4つだけだし。
よって、従兄弟ともそんなに年の差はないと考えられる。
だとしたら、経基は890年代の生まれだと思う。
773 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 08:59:20.73
しかし
満仲が陽成天皇絡みだってのは真実くさいな。
774 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 09:02:06.27
775 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 11:53:45.43
>>774 経基流清和源氏がどうして格上の陽成源氏の所領を継承出来るんだ?
776 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 12:31:23.16
この時代(古代末期から中世初期)は家の制度は存在せず
全ての格付けは今上天皇からの親疎関係で決定された。
従って摂関家といえども今上天皇の外戚であり続けなければ家格の維持は無理であり
皇別氏族と雖も今上天皇との外戚関係が無ければ代を重ねる度に家格が低下していくことになる。
源氏においても例外ではなく一世源氏が二世源氏よりも優遇されたことは謂うまでもない。
更に子孫は父祖の官位官職を大きく超えることは稀有であり
源三位頼政が始祖満仲の官位を超えたことは異例中の異例であり都人の大きな話題であったと云う。
経基の実子であったならばどんなに摂関家の走狗として手柄を残したと雖も満仲の出世は異例であり
奇異としか言いようがない。
777 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 12:48:45.16
格上の陽成源氏を継承したほうが有利。
だから、近い親戚だった陽成源氏の養子にしてもらったと考えるほうが自然。
逆に陽成源氏から格下の清和源氏を継承する意味に乏しい。
清和源氏は源氏の中でも下級の源氏で公家社会では文化人として成功しても
政治家としては成功していない。
だからこそ、あんなに地方に下って武装化する道を選んだのかも。
778 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:08:53.14
>>770 元々満仲流は経基とは無関係だったんだけど
たぶん頼信の時代に清和源氏を仮冒したんだと思う。
何故、陽成源氏よりも格下の清和源氏を名乗ったかの理由だけど
この時期はイエの制度が勃興していた時期に当たり、「兵の家」の前提必要条件が
承平・天慶勲功者子孫に限られてきた時期であり、血縁的に近い経基を祖先に加える必要が
生じたのではないか。
坂東に野心を持っていた頼信にとって平忠常の乱を無血で鎮圧した実績だけでは足りず、自らの
「兵」としての正当性を持たせる必要が生じたのではないか。
頼信の告文は八幡神に対する懺悔であり、経基を先祖に加えたい願望を滲ませた頼信の複雑な心境を顕したものである。
779 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:12:16.86
>>778 それって、経基を過大評価し過ぎていると思うけどな。
780 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 18:35:21.95
>>779 経基を過大評価しない理由を言ってみなさい。
781 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:22:58.43
>>777 清和源氏よりも陽成源氏のほうが格上ということはないよ
陽成天皇も子の代には大納言にまで登った人物がいるが
孫の代になると一人も公卿の列に残っていない
たいして成功してないし
782 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 19:37:42.52
満仲が陽成源氏だとしても、清和源氏に家系を変える必要はないわな。
満仲は経基の子供で、清和源氏だというほうがしっくりくる。
ただし、満仲が領国とした摂津や河内は
元平親王の外戚の基盤の場所だから
その過程で、満仲は元平親王から土地を相続としたほうが自然。
経基と満仲の生年月日は、たぶん、経基のほうが間違っているんじゃね?
間違っているママなやつだと、経基は従兄弟たちよりも20歳以上も年下になる。
父親の貞純親王とその兄の陽成親王も4歳ほどしか年の差がないんだから
それぞれの長男が20歳以上も年が離れているとは考えにくい。
当時の貴族は結婚速かったし、二人とも子供にはちゃんと恵まれていたと考えるね。
783 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:26:32.81
>>782 こないだから注意しようと思ってたけど
「領国」じゃないって「所領」だよ。
歴史用語は正確に!
784 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:31:37.35
あっ それと
摂津の所領は元平親王の妻である橘繁古女の持参金代わりね。
785 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:44:03.49
「兵の家の者」でなければどんなに武勇に優れていても軍事貴族として認められなかった。
貞観・延喜勲功者及び承平・天慶勲功者子孫であることが絶対必要条件だったんだよ。
陽成源氏から清和源氏に名乗りを変えたとても重要なファクターだよ。
家の制度の時代とはそういうものだったんだよ。
786 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:53:40.33
787 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 20:56:11.55
>>785 満仲は別に軍事貴族になりたかったわけではないだろう?
満仲の男系子孫の最長子系は完全な公家の家として
歌人として有名になったくらいだし。
788 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:03:39.50
789 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 21:10:43.70
>>788 頼義かもね。
前九年の役で方便とはいえ出羽清原氏に名簿を差出し屈服したトラウマからじゃないのかな?
790 :
日本@名無史さん:2013/09/16(月) 23:19:04.30
791 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 06:36:30.90
満仲の義理の兄弟(妻の兄弟)が盗賊の首領袴垂こと藤原保輔というのが気になる。
792 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 06:46:49.81
仮に皇孫だとしても満仲の親族は生臭い人々(母方や妻の親族)が多いね。
たぶんだけど満仲も生臭い環境に身を置いてたんじゃないかな?
>>791 ググってみた結果、盗賊袴垂と藤原保輔は別人であることがわかった。
794 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 17:33:38.83
満仲に関する960年以前の一次史料はないのかね?
795 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 17:38:49.27
伝承であれば九州北部に純友の乱の時に満仲が陣を敷いたと伝えられている大将陣山があるけど。
796 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 22:41:50.73
うんじゃ、満仲は親父と一緒に従軍していたんだな。
>>796 経基が、961年に45歳で死んだとすると、生年は916年。
藤原純友の乱の追討に参加したのが941年。
とすれば、このとき経基は25歳。
息子の満仲は何歳だったのかなあ?
798 :
日本@名無史さん:2013/09/17(火) 23:46:42.22
>>797 満仲の生まれが912年ならば29歳くらいになるな。
満仲は、24歳の時に源氏になったらしい。(だとしたら、935年くらいか)
つまり、それまでは、源満仲ではなく、満仲王だったわけ。
一方、経基は、関東に将門を抑えるために下っていた時は938年くらいで、
その時にはすでに臣籍降下して源経基になっていたらしい。
これらのことから、たぶん、生年が間違っているのは、経基のほうだと思うけどな。
何年に何歳で死んだみたいな記述だから、その何歳で死んだという記述が間違いかも。
江戸時代の文献だと、897年の生まれに訂正しているらしいし。
これだと、陽成天皇の皇子(経基の従兄弟)たちが890年代の生まれが多くて
経基はそれよりもチョイ下ぐらいになるし。
陽成天皇と弟の貞純親王(経基の父)がたったの4歳違いだから、ほぼ常識範囲だよ。
799 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 03:27:19.08
スレの上の方に書かれてたコトを都合良く繋ぎ合わされてもな・・・
自分で一次史料は無理だろうから先行研究(これも無理か・・)若しくは
第一線の研究者の著書でも読んで勉強したら?
800 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 07:23:52.67
>>798 だから
経基と満仲流は関係ないんだって
満仲の父親は元平親王で経基は親戚の一人。
801 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 07:39:47.22
後の世の満仲流の誰かが時代の要請(家職の固定化)によって「兵の家」で在らんが為に
承平・天慶勲功者(名を連ねていただけど)の近縁者経基を祖先の一人に加える必要が生じたからだよ。
頼信あたりが言い始めて頼義以降は本気で信じ込んでいただろう。
よくある話だよ。
>>801 頼信の子孫でない頼光ーー頼政も清和源氏と信じていたのだから、
その論は成り立たない。
803 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 12:05:12.75
頼信が頼光没後、一族に根回ししたんじゃないかな。
804 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 12:14:26.52
>>802 >>801 は「満仲流の誰かが」って言ってる訳だから
親族間での合意だろう。
頼信の告文はその旨を八幡神に対しての誓詞だよ。
805 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 12:23:57.19
>>802 だから陽成源氏から清和源氏への名乗りの変更は成功したんだよ。
頼信の捏造に、頼光流が付き合う理由がない。
先祖を冒涜することであるから、必ず誰かが反対する。
807 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 14:56:17.79
清和源氏は清和源氏で良いんだよ。
頼信が元平親王からの所領を継承しただけで。
実際に頼光の子孫で公家で細々とやっていたのも全部が清和源氏のままなんだし。
808 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 16:31:33.83
>>748 史実は史実。山内首藤が権五郎弟を殺している。長尾は俣野と組討する佐奈田にとどめを刺したが、山内庄本郷に壮大な伽藍の佐奈田の菩提寺が頼朝によって建立されている。
809 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 16:36:58.28
>>748 長尾郷は三浦党も首藤山内氏も領内を称している。なぜなら山内庄本郷からすぐ近く。中村党の笠間の対岸で重要戦略地点だから。しかも山内庄本郷からは武蔵国久良岐庄郡衙へもほぼ同距離。
810 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 16:40:21.61
>>748武蔵国久良岐庄はかつて鶴見まで含んでいた広域郡と言われ、ということは当時鶴見川はセンター南や仲町台、都築郡茅ヶ崎まで大きく入り込んだ入り江だったから、都築郡郡衙の江田まで水路一本で通じていた商業集積の重要拠点だった。
811 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 16:45:03.12
>>748都築郡郡衙から橘樹郡郡衙を兼ねる武蔵府中までは古代東海道で結ばれていた。だから武蔵国守が春日神社を山内庄内に勧請することは水利と街道の支配権を確立する上で重要なエポックだった。
812 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 16:50:02.31
>>748明治時代に旧鎌倉郡郡役所のあった戸塚郷には武藤氏が支配していたと言われ、もし武藤氏があわせて戸部郷も持っていたら、柏尾川・大岡川両水域を上下流とも完全掌握していた。古代版の藤氏一揆といえる。
>>808-812 お疲れさん。
で、この長文のどこに「山内荘エリア山内首藤氏が開発した証拠」があるのかね。
814 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 17:31:45.37
>>807 だから
陽成源氏から清和源氏に名乗りを変えた結果だよ。
815 :
日本@名無史さん:2013/09/18(水) 18:55:33.78
>>807 >>頼信が元平親王の所領を継承しただけ
その論拠を示してくれないかな?
他の貴族たちも、血筋とかにうるさい連中が見ているのに、
先祖の乗り換えなんか、できるわけがない。
817 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 04:46:03.23
818 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 05:11:30.86
>>816 実際の血統よりも上のクラスを僭称した日にゃそりゃエライことになるけど
当時の貴族社会では三位中将や大夫尉のように武官は実際の官位よりも下のクラスの官職に留まることが
美徳として賞されていたんだよ。
陽成源氏から格下の清和源氏に名乗りを変えることは武門として美徳であり非難の対象にはなり得ない。
勉強が足りないね。
819 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 10:18:27.29
源経基にしてみれば清和源氏より陽成源氏に入れてもらったほうが出世に有利になる。
実際、経基らしき人物「源経忠」が元平親王と共謀して、陽成天皇の二世孫王として王氏爵にあづからうとした氏爵不正事件というのがあったらしい。
不正が露見し罪に問われたということから経基の”陽”転は失敗したことになるが、元平親王との深い縁は確認できるわけで、満仲兄弟の養父的な関係になっていたことは考えられる。
820 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 10:18:57.57
頼信、頼義、ましてや頼朝の時代ともなれば、陽成源氏より清和源氏が格下とかいっても、もはやどうでもいいレベル。
清和−陽成系は結局、光孝−宇多系に取って代わられたから、頼信、頼義の代ともなれば十把一絡げだったんじゃないか。
さらにいえば、陽成院の目が黒いうちはさすがに廃帝の悪い噂もひそひそ話程度だったろうが、没後は公然と悪評が定着したであろうから、
頼信あたりの代からは、実際に元平親王と因縁浅からぬものがあった承平・天慶勲功者の経基につなげて武門の棟梁のイメージ・アップを図るついでに陽成の親父の清和につなげちゃったんだと思う。
821 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 10:19:28.53
つまり、元平親王−養子=経基−養子=満仲兄弟、という感じで経基を押し込んだのが源頼信告文のような系譜につながっていったのであろう。
時代が降れば降るほど、陽成天皇=悪帝の代名詞的存在になっていったであろうから、義家や頼朝のようなステータスを得たころには先祖隠しが必要になり、陽成−元平の代を消去して貞純親王−経基から清和天皇に直結させるようになったと考えれば辻褄が合う。
822 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 10:37:17.56
付け加えると、清和天皇、源経基はあまり長命でもなかったし、歴史上伝えられるイメージに獰猛さがまったくない。
そこが獰猛で長命の多い満仲以降の「清和源氏」とのギャップだが、陽成天皇の流れと考えればイメージかあまりにもよく符合する。
ところが、その陽成帝の父親が清和帝というのがどうにもしっくりこない。
じつは、陽成帝の母・藤原高子は伊勢物語、大和物語などからは清和帝のもとに入内する以前、在原業平と恋愛関係があったと推測されている。
つまり、陽成帝の実の父親は在原業平だった可能性があるわけだ。
在原業平は平城天皇の孫だから、平城、陽成という二廃帝の流れを汲むある種の禍々しさが、世に言う「清和源氏」の猛々しいパワーにふさわしいように思えるのだが。
823 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 10:41:59.37
824 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 12:05:42.31
清和源氏は清和源氏で正しんじゃね?
というのは、陽成天皇、元平親王とつなげた史料って
頼信関連の資料だけでしょう?
あれでは、どうも、頼信が元平親王の所領を受け継いだからみたいだし。
でも、頼信以外の清和源氏一族も、のきなみ清和源氏のままなんだし。
825 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 12:22:30.21
そりゃ
経基流清和源氏であれば武名にあやかれるからな。
陽成源氏も清和の子孫だし軽い出来心からだろ。
826 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 15:08:23.54
>>824 >頼信が元平親王の所領を受け継いだからみたいだし。
早くこの論拠を示してくれないかな。
827 :
日本@名無史さん:2013/09/19(木) 18:44:50.49
武家源氏の実朝が右大臣を拝命したことは相当ヤバイことだったんだろうね。
父親の頼朝は右大将拝命を相当渋り任官してすぐ辞任してるしね。
常設の武官職ではなく征夷大将軍日本国総追捕使として軍事政権を樹立して
日本国を戒厳令下に置くことに成功した。
鎌倉幕府とは前の右大将の資格のもと東海道坂東諸国において白河法皇の権限委任を
根拠として成立したものである。
在京で無いのは右大臣になった先例はあるの?
829 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 07:40:04.58
承久の乱をもって王権を捻じ伏せ武士の世がもたらされた。
武士の棟梁に祭り上げられた武門清和源氏義朝流は捨て駒となりその役割を全うした。
830 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 08:19:00.26
鎌倉幕府は坂東平氏主導の政権。
そもそも、清和源氏よりもずっと前から、
桓武平氏が関東に基盤を持っていましたとさ。
平将恒、平忠恒は、平将門の娘の子供。
831 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 08:38:42.05
実朝暗殺の黒幕が三浦氏ってのが気になるね。
承久の乱では主要な一族が京方についてる。
前九年・後三年の役に河内源氏重代の郎党以外で参陣した坂東武士の先駆けとなっている。
さらに上総御曹司だったはずの義朝の長子が三浦氏娘所生の義平だったのも謎だ。
三浦氏重代の狙いはいったい何だったのだろう?
>>828 無い。
頼朝でさえ1990年に上洛するまで位階だけ従二位になって
それに見合う官職は獲得していない。
都に行って初めて権大納言右大将となるが
都を退去するとき二つの官職を辞任して鎌倉に戻ってる。
833 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 09:32:34.38
>>832 頼朝の先例としては奥州凱旋後に権大納言に任官した坂上田村麻呂。
頼朝は用心深く故事・先例に倣って常に判断した。
834 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 11:15:37.27
三浦氏ってのは、坂東平氏の中でも庶流なんだよね。
平良文の後胤ではあるが
有名な平忠常やその兄の将常の後胤ではない。
もともと清和源氏だったものを陽成源氏と付け替えたのか、
陽成源氏を清和源氏とすげ替えたのか、はっきりしない。
また、経基がやったのか、頼信がやったのかも明確でない。
>>833 それって、都に着く前に任官手続き完了したの?
837 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 21:51:51.21
>>831 承久の乱で京方についた胤義は妻の連れ子禅暁(頼家の子)の処遇で
鎌倉もしくは兄義村に何か含むとこがあったかも
と言われてる。
上総御曹司→三浦との婚姻については
上総氏と三浦氏は婚姻関係や地理的に近いことを考えると(三浦半島と房総半島は船だと至近距離 上総氏も三浦氏も水運を持っている)
この両者は緊密な関係にありその流れに沿ったと見たら不自然ではない。
839 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 22:03:39.08
>>838 坂上田村麻呂。
828の実朝が在京じゃないのに右大臣になった前例と
>>832の頼朝が都に上るまで任官されなかったという前例のあとに
>>833の坂上田村麻呂の話が出たから
坂上田村麻呂が都に着く前に大納言任官完了したのかな?と思って。
840 :
839:2013/09/20(金) 22:05:36.68
841 :
日本@名無史さん:2013/09/20(金) 22:12:30.37
坂東八平氏の嫡流は秩父氏。
平将門の名跡をついだのは、この一族。
842 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 00:04:41.31
>>841 秩父って言うと現代感覚ではアノ僻地って連想するけど
川越・大宮から江戸まで秩父氏のテリトリーだったんだな。
そしてその地域の拠点に不思議な共通点として氷川神社が存在する。
良文流平氏は在地の古代以来の有力豪族に入婿して坂東八平氏として栄えたんだろうね。
秩父氏の母体となった氏族は氷川神社と関係ありそうだね。
843 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 02:20:33.78
坂東平氏の良文流平氏の嫡流は、平将常の後胤で嫡流の秩父氏だけど、
最大の勢力は、将常の弟でもあり有名な平忠常の後胤である上総氏と
その上総氏と忠常流の嫡流の地位を争っていた千葉氏。
将常、忠常の生母は、平将門の娘でもあり、彼らの重要性が分かるもの。
将常の名前は、将門から受け継いだものだし。
844 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 07:13:42.40
そして大蔵合戦へと突入していくんですね わかります。
ところで、鎌倉幕府有力御家人の中で確かに貞盛流の北条氏は異質だな。
845 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 07:18:49.88
鎌倉殿と称した頼朝は、厳密には鎌倉頼朝であり鎌倉氏だよね。
846 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 07:44:53.48
>>842 坂東土着の知々夫国造(大伴系?)に出雲臣武蔵国造が入婿して丈部直氏となる。
丈部直氏は旧荒川流域(秩父地方から武蔵国南東部までの)水運利権と氷川神社の祭祀権を握っていた。
後裔には武蔵武芝がいる。
丈部直氏は不破麻呂が藤原仲麻呂の乱勲功者として神護景雲元年(767年)に武蔵宿禰氏に改姓している。
この武蔵宿禰氏に入婿したのが良文流平氏であり平姓秩父氏を名乗るようになる。
秩父氏には母系で武蔵武芝と平将門の血が入っていることになる。
847 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 12:43:07.71
>>845 その場合、鎌倉権五郎のほうの鎌倉氏はどうなるんだ?
鎌倉将軍家を「鎌倉氏」というかどうかわからんが
同時期に「二つの足利氏」が別姓で存在してたよ。
藤姓足利(忠綱など)と
源姓足利(義兼など)
849 :
日本@名無史さん:2013/09/21(土) 16:27:55.83
北条得宗家の御内人や足利将軍家執事の伊勢氏なんかは貞盛流平氏の巻き返しなのかな?
850 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 08:07:40.96
大蔵合戦の意義は途轍もなく大きい。
北関東での藤姓足利氏への牽制も含め、義朝・義平親子の義国流源氏(頼重・義康)との同盟提携により
義賢および平姓秩父氏嫡流を討ち果たし関東での覇権を成し遂げた(常陸国を除く)。
義平こそは坂東古来よりのパラダイムシフト(古代氏族および将門嫡流の克服)を成し遂げた覇者だと思う。
義平が生きていれば新田も足利も志田も仲良くやってたんじゃないかな?
851 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 08:43:46.55
義平が生きてたら、庶長子といえ
彼が棟梁に祭り上げられていたかもな。
義平が死んで特に新田氏は残念だったね
平治の乱での敗戦がなければ、比企氏くらいの立場にはなれただろうに
義平の場合都とのコネが弱いのがネックだな。
頼朝が義仲や甲斐源氏より優位に立てたのも
十月宣旨を獲得して逆賊認定を消して
東国支配権を獲得したのも頼朝が後白河上皇に繋がる
人脈を持っていたお蔭。
854 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:21:22.47
義平がたとえ左衛門尉に任官していたとしても同じ坂東でも頼重や常陸源氏に遅れをとっている。
頼朝は13歳の時点で将来の大納言コースに乗っていたと言われている。
架空の話だけど義平に残された戦略として荘園管理者として八条院との関係強化を図り
関東の敵対勢力を個別撃破し徐々に関東の覇権を確立していくことだけど平家はそんな時間を許してくれはしない。
奇策だけど奥州藤原氏との同盟だろうね。
背後の憂いをなくし義仲が力を付ける前に東山道諸国を一気に切り従え平家との戦線を京側に前進させ公家社会を
動揺牽制させることだね。
そして時を待つ。
855 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 21:19:09.59
>>854 の続きだけど
対平家戦で東山道諸国、とくに美濃に前線基地を設ければ義平の勝ちだね。
戦場はたぶん関ヶ原になるね。
壬申の乱も後世の承久の乱も関ヶ原の戦いも東軍の勝利で終わっている。
それは何故か?
地勢的要因が大きいのである。東側は平野部に開け西側は山地を背後に狭まっているのだ。
兵力を展開した場合、東軍は西軍よりも広い地域により多くの騎兵を展開出来るのだ。
地勢的に西軍は騎兵を有効活用出来ないばかりか背水の陣を敷くことになる。
短期決戦に追い込まれた場合、西軍は壊滅を免れ得ない。
856 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 21:56:58.51
頼朝の場合、母方の実家の影響力がシャレにならんほど強力。
この一族は、藤原南家の傍流の一族で
その後の藤原氏の本流から外れてはいたのだけれども
平安末期には、すごい経済力と軍事力があった。
>>855 残念ながら義平が関ヶ原で戦うには課題が多い。
まず坂東で挙兵して成功しても
美濃までに他勢力が割拠している。
駿河、遠江 甲斐源氏
尾張 尾張源氏&行家
美濃 美濃源氏
彼らは独立勢力だから義平に従うわけではない。
(事実頼朝に対しても独立性を保っていた)
彼らを差し置いて義平が先頭切って関ヶ原で戦うことはできない。
それと各地挙兵が起きた1180年の暮れに平氏は近江と南都を制圧すると
1181年1月には美濃源氏、尾張源氏連合軍と美濃で開戦して
平氏方が勝利を収めている。
そのまま尾張まで進軍する予定だったが清盛の発病と死亡で一旦進撃中止。
3月になってから再度出撃して
墨俣の戦いで平氏は勝利を収めている。
859 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 23:07:18.22
>>858 残念ながら
美濃源氏は基本京武者で尾張源氏&行家はご存じの通り指揮官がアレなわけだから絶望的だ。
坂東兵は騎射に長けた戦闘プロ集団であることを忘れてはいけない。
そもそも墨俣は後世の織田軍も手を焼いてたほど東側に不利な地勢であり実際はかなり上流部からの渡河作戦で勝利している。
戦上手の義平と行家を同列に論じてはいけない。
さらに史実として義平は美濃国に保元年間に鶴岡八幡(正確にはその前身)の分社を勧進している。
地勢的に明るく彼の与党が存在した傍証である。
860 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 23:27:45.49
>>857 残念ながら
義平の舅である頼重は甲斐源氏信義と縁戚関係を結んでおり義平に敵対する理由はない。
相婿である義平と同盟を結ぶであろう確率はかなり高い。
東海道方面は駿河戦線は甲斐源氏と海側からは水軍を持つ三浦氏と上総氏などが平家方橘氏を
挟撃し壊滅させたであろうことは論を待つまでもない・
>>858 坂東武者が強くて京武者が弱いということ自体が疑問視されているわけだが。
それに美濃と平氏の開戦の指揮官は行家ではないよ。
墨俣の戦いと美濃源氏と平氏の戦いを同列に語ってはならないよ。
>>860 その舅義重は頼朝と甲斐源氏が挙兵したときに
平氏に挙兵の状況をご注進したほど。
この時点で新田荘の領家は清盛姻戚の花山院家。
義重は平氏家人なんだよね。
それから、甲斐源氏が駿河平氏方を殲滅させた鉢田の戦いの頃は
頼朝はまだ鎌倉にいたし、三浦上総が出たかどうかは不明。
その頃まだ伊東氏が健在だったから容易に海路を駿河に出させてもらえなかっただろう。
一方頼朝が甲斐源氏を壊滅させた1184年の戦いでは三浦などの水軍が駿河に攻め寄せて
駿河の甲斐源氏壊滅に協力したらしいことはうかがえるけどね
あ、それと義平が甲斐源氏、尾張源氏、美濃源氏と同盟を結べたとして
義平が盟主となれるかは疑問。
官位としては美濃源氏や甲斐源氏の有義の方が上だし
義平の家系が源氏の嫡流だったわけではないから。
>>854 頼朝との話の比較ばかり続いて申し訳ないんだが、
頼朝が腐心したのが秩父一族をどう従えるかだったんだよね。
義平は秩父一族をどう従えるつもりだったんだろうか?
三浦と秩父一族はかならずしもうまくいってるわけではなかったし
秩父一族も一枚岩ではない。
それから、北坂東についても頼朝の場合寒河尼を通して小山、八田氏とつながりがあり
母方を通して足利義兼とのつながりもある。
それでも北坂東を完全制圧するには1183年の野木宮合戦の勝利を待たなければならない。
義平の場合新田とその姻戚くらいでしょ?
しかも新田は平氏寄りでなおかつ、山名なんかの一族がさっさと別行動するありさま。
藤姓足利との仲もあまりよくないから
あんまりあてにならないんじゃないかな?
865 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 00:00:00.42
>>863 義平には坂東をパラダイムシフトさせた武名があるからね。
あくまで「鎌倉悪源太義平」で十分。
参考までに叔父の鎮西八郎為朝は僅か2年余りで九州一円を切り従えている。
>>865 義平が大蔵合戦で勝利した要因の一つに
武蔵国知行国主藤原信頼の後援があり
為朝の九州での活躍の背後には摂関家の力があった。
けっして個人的武勇だけで切り従えたわけではない。
867 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 00:11:15.74
それと頼朝の成功の要因の一つが
所領の安堵や主な豪族の敵殲滅という
利害調整をうまくやっていたことなんだ。
従う豪族や同盟者にとって必要なのは
自分の利害に一致するかどうかで
個人的武勇ではない。
869 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 00:27:17.72
それも含めた上での武名だよ。
>>869 頼朝が所領安堵や豪族征伐できたのは、「反乱軍」だったからだよ。
律令の枠を脱することのできなかった
平治以前にはできなかったことなんだけど。
その頃の所領安堵権は国司か都の本所にしかなくて
源氏にはない。
ついでに言っとくが
頼朝の影響力が強かったのは南坂東で
北坂東、坂東以外の東国、西国というように
鎌倉から離れれば離れる程頼朝の力が及ばなくなってる。
頼朝の死後の幕府も承久の乱までそんな感じ。
義平が挙兵したところで美濃まで影響を及ぼすというのはかなり無理な話。
872 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 01:40:16.83
義朝や為義自体、武家源氏の嫡流とは言えなかったんだよな。
義朝も親父から嫡子扱いされてなかったみたいだし、
為義にしても庶子で、官位も低かっただろう?
為義よりも、家督を継いだ叔父やその息子、
嫡子だった兄貴たちのほうが官位が高かった。
873 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 07:17:35.41
日本史上臣下最高位で賊として討伐されたのは藤原仲麻呂(徳川慶喜より官位が高い)。
皇族としては大友皇子(皇太子どころか現役の天皇だった可能性が高い)。
治天の君としては後鳥羽上皇。
日本史は君が頑なに信じている以上に遥かに流動的だったんだよ。
874 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 08:39:27.67
大友皇子は本当に天皇だったのか?
生母の地位が微妙。
875 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:03:12.03
大友皇子は母親の家系が田舎の豪族の出身だったから
両親ともに皇族だった叔父の大海人皇子よりも
皇位継承にふさわしくなかった。
876 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:52:55.26
あと異説だけど
大海人(天武天皇)の庶長子高市皇子が実は皇位に就いてたんじゃないかという説。
根拠としては
@持統が皇位にあったとされる時期、高市は太政大臣とされているが封戸の数が尋常でないくらい莫大で
持統は都には居らず吉野に滞在していた。藤原不比等も政府の高官ですらない。
A高市の子長屋王の邸宅跡から「長屋親王」と書かれた木簡が発掘されている。
謀反の罪を着せられた長屋親王は父親の系譜まで書き換えられた可能性は大きい。
B藤原京は高市の王城であった。
内裏の配置が中央に在り日本の他の都の構造とは異質(軍事的)である。
庶子がトップに立てないと仰せの御仁もお見受けするが武勇と人望が有れば可能である。
スレ違いだが、その説は考古資料(木簡)からするとちょっと厳しめと思う。
@長屋王家木簡からは「後皇子命宮」と記されたものが出土しており、
後皇子命は高市皇子のことだから、天皇とは認識されていない。
A藤原京木簡からは大宝紀年をもつ「御名部内親王宮」という木簡が出土しており、
正妻・御名部内親王が皇后とされていない。
B長屋王家木簡では、長屋親王のほかに、長屋王・長屋王子・長屋皇・長屋皇子と様々な表記の仕方があり、
さらに娘の円形女王(高市が天皇だとしても孫王)にも「皇子」と記したものがあって、
「長屋親王」の「親王」が令制における「親王」そのままの意味であったか疑問。
むろん、
@後皇子命=高市皇子ではない(又は長屋王全盛期すでに何らかの理由で天皇から抹消されていた)、
A御名部内親王は立后には至らなかった、或いは皇后になる前だった、
(ちなみに同時期の木簡に、同母妹の阿閇皇女=のちの元明天皇は「皇太妃」と記されている)、
B円形皇子は円形女王とは別人の1世親王である、
等々の反論も可能だが、私はどうかなあと思う。
878 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 19:51:11.34
いずれにせよ
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、 河内源氏ではなくて、『鎌倉源氏』の称呼で決定。
879 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 18:59:02.65
>>872 甲斐源氏の石和五郎が一族さらに優劣無しと豪語していたのが
実は優劣があると認めている証拠ではないだろうか
認めていなければわざわざ口にだすわけないし
少なくとも義仲も含めた東国の源氏庶流家は頼朝の血筋が
自分たちより格上とみていたと思う
880 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 19:05:09.38
>>879 明確な嫡流はなかったけど、頼朝の血筋が
他の清和源氏一族よりも一段高いところにあるとは思っていたと思うね。
為義、義朝の活躍が大きかったと思う。
血筋というより
国守、左馬頭や右兵衛佐という官職歴任や
いったんは都の武者として自分たちより各上
になった事実に由来すると思う。
清和源氏で格上といったら源三位頼政だろう。
公卿でなおかつ八条院側近
以仁王の令旨も頼政の子仲綱が発行人になっている。
もしその当時源氏を束ねる存在があったとしたら頼政以外にはないだろうし、
頼政の知行国の流人に過ぎない頼朝は単なるパシリで終了していただろう。
頼政一門が敗退したから頼朝がでてこれた。
>>879 豪語したというのが記載されているのって「平家物語」や「源平盛衰記」じゃなかったっけ?
もしそうならば「平家物語」で一番成立年代の古い延慶本でも成立は鎌倉時代中期以降だから(「源平盛衰記」もそんなに早くない)
源氏の血筋の優劣が頼朝によって頼朝流が優位であることを
後付けで植え付けられた後の価値観が多分に入り込んでる可能性がある。
為義ー義朝ー頼朝の流れは、
義家の子孫ないし嫡流として、一定の尊崇を受けていただろう。
義家・義忠のあとを為義が継いだのは間違ってる気もするが、
とにかく、六条の屋敷を相続し、
義忠暗殺の黒幕とみなされた義綱を討ち、
源氏の棟梁たらんと努力はしている。
ほかの義親の子、義忠の子らは、為義ほど頑張っていない。
頼政の系統は、頼光以来の嫡流だが、
関東武士団に号令した実績はないんじゃないか。
885 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 22:13:47.09
満仲の正四位下を初めて凌駕したのは源三位頼政。
これは大変意義がある。
886 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 22:22:38.79
頼光以来の嫡流は多田氏で、頼政も庶流なんだけどな。
あと、嫡流からは外れたが、頼光の系統で最長子系は
歌人の家として有名。
ということで、当時の貴族社会は、やはり大都会の京都で公家やっていたいんだよ。
関東の田舎にくだって武士団なんて運営したくないわなw
武士団化した河内源氏でも、為義以外の義親の子供や
義忠の子供は、京都で出世したがっているし。
そんな田舎で、命とられるかも分からん武士団運営なんて、やってられるかよってかんじ。
887 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 22:25:07.85
桓武平氏のほうも、嫡流である高棟王流は最初から京都で公家やっていて
高望王流のほうも、嫡流である貞盛流は、伊勢平氏にしても、北条氏にしても
京指向が強かった。
桓武平氏で関東で武装化していたのは、末流の良文流がメイン。
>>884 >とにかく、六条の屋敷を相続し、
→ いいえ義忠の実子を追い出して強奪しただけですが
>義忠暗殺の黒幕とみなされた義綱を討ち、
→ 義忠の実子が幼少だったのでとりあえず14歳になっていた為義が担ぎだされただけすが
>ほかの義親の子、義忠の子らは、為義ほど頑張っていない。
→ 何をがんばるのでしょうか?
>頼政の系統は、頼光以来の嫡流だが、
関東武士団に号令した実績はないんじゃないか。
→ 治承寿永の乱は別に坂東武士のために起きたものではないからw
結果的に坂東武士団のボスとなった頼朝が勝利しただけで
坂東武士を束ねることが武士のボスになる要件ではなかったからw
あ、それと下総の下河辺氏は頼政の家人だし
伊豆の豪族たちも知行国主頼政の私的郎党になってたものもいるよ。
それに八条院人脈をつかって頼政が小山やその他八条院領の武士を動員する可能性もあったよ。
889 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 22:44:44.18
お前らさ
バカだろw
武士なんて後世のカテゴリーで当時は「武門貴族」。
それ以外にない。
腐っても律令制下において貴族は官人であり、官位官職が全て。
以上。
890 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 23:00:47.88
氏姓を同じくする者の中で官位官職が最高位の者が氏長者。
朝廷の見解・価値観・基準は幕末どころか太政官制度が健在だった明治初期ま変わっていない。
それが史実。嫡流だの母親の身分なんて言ってたら笑われるよ。
つい140年前まで続いてたんだよ!
父親や母方実家の権勢が官位官職と無関係だったとでも?
892 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 05:26:03.11
源朝臣有朋
正四位下ばっかりだからな、それ以上の貴族っていうと、太政官の人たちしか
いないわけで。
894 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 08:17:41.41
従一位、大勲位、功一級、陸軍参謀総長元帥、貴族院議員内閣総理大臣、枢密院議長
それが源朝臣有朋。
>>893 それ以上は本当に狭き門だからなあ。
平安末期から鎌倉にかけてその狭き門の一角に入り込んでいたのが村上源氏。
この時期は村上源氏が源氏の氏長者だった。
896 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 11:08:47.39
義家以来廃れていた鎌倉の源氏館(亀谷殿)を、義朝が、1140年前後に再建した。
正確には不明だが、義平が誕生した時点で再建と言われる。
平治の乱勃発の1160年までの20年間は、鎌倉の源氏館(亀谷殿)は、機能していた。
この義朝、義平時代の鎌倉の源氏館(亀谷殿)の詳細を知りたいね
発掘とかしてるらしいが、機能的な面からも調べて欲しい。
また、義朝、義平時代の鎌倉の源氏館(亀谷殿)と、後の鎌倉幕府に連続性が有るのか如何か?
挙兵して鎌倉に入った頼朝が義朝館(義平館)に入ろう
としたけど岡崎義実がそこで義朝を供養してたのと
館が「手狭」だったので諦めた。(「吾妻鏡」)
とあるよね。
義朝館は大蔵御所よりは遥かに狭かったんだろう。
898 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 19:45:53.93
899 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 22:54:38.86
>>897 一応、頼朝は亀谷殿を使おうとしたんだね。
でも、館なので、御所程の規模では無かった。
しかし岡崎義実が、供養と言う形で継続して使っていたのには、驚いた。
私見だが、義朝〜義平時代の亀谷殿には、侍所の機能が有ったと思う。
公文所機能まで持つと国衙や郡衙とぶつかるので、やらなかったと思うが、
武士の指揮や治安に関る侍所機能は、有ったと思う。
亀谷殿、源氏館、義朝館、、どの呼称が正しいの?
ちなみに、『館』はこの時代は『たて』と呼ばれて、
砦のような軍事的施設だったらしいけど。
あと、供養という形で使うってどういう意味?
>>900 「吾妻鏡」によると
亀ケ谷にある御旧跡(本文は変換できない難しい字)
で正式名称はない。
ちなみに頼朝はここに館を建てようとしたが「土地の形」が広くなく
この場所に岡崎義実が義朝供養の為の梵宇(寺院のことらしい)を建てていたので
館を建てるのを諦めたらしい。
>>899 侍所っていうのは
仕える人=侍がいる人は(当時侍は必ずしも武士を意味しない、文官侍もいる)
誰しも所有する。
頼朝になると侍=仕える人が爆発的に増えたので
広大な侍所が必要となったと考えられる。
>>899 岡崎義実は寺を建てて時々管理しにくる位で
そこには住んでいなかったような気がする。
904 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 15:44:51.63
>>902 侍所じゃなくて政所だよ。
義朝・義平館と大蔵御所は同じ鎌倉で距離も近いから勘違いし易いだろうけど残念ながら
各々に連続性はないよ。
頼朝が公卿の地位に就いて初めて御所の名称がつけられた訳でその政所(家政機関)が幕府の原型だよ。
905 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 16:04:27.91
>>904 侍所と政所は別物という認識で902で侍所の事を書いたんだけど。
侍所は家人、従者の統制
政所(公文所)は家政一般管理機関。
ただ鎌倉幕府は武士が多いので、鎌倉幕府の侍所は軍事的な意味合いは強いけどね。
906 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 16:06:16.30
ちなみに摂関家や上級貴族にも政所と侍所両方が存在する。
ただし、亀谷と大蔵に連続性はない には賛成。
義朝と頼朝では
武家棟梁のあり方
東国武士への対応の仕方
獲得した身分
に大きな隔たりがある。
908 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 18:54:47.05
>>900 「草燃える」で 岡崎義実が亀ケ谷に館を建てるよう主張して
「おまえたちが 言うほど 狭かねえって」 言ってたの思い出した
909 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:03:58.97
>>749 旧鎌倉郡の郡役所のあった横浜市戸塚区の区役所が那須系図に基づいた「山内庄は首藤山内氏によって11世紀には開発済み」という公式見解を示している。
910 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:09:31.46
>>749 那須系図と結城系図に若干齟齬があるが、藤原秀郷が相模国淘綾郡田原出身であり、その子で承平の乱に従軍し将門を射殺した千常の家系が波多野氏になっていることは歴史的事実。
911 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:15:49.35
>>749 相模北部に展開した千常の家系は秀郷が承平の乱の功により下野国守・武蔵国守を兼任したことにより、駿河足柄路から那須陸奥へと至る坂東路を封鎖しており、事実上の関東王として朝廷が封じたとも解釈できる。
912 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:17:50.58
>>749 千常の家系は松田氏、波多野氏、広沢氏、大友氏などに展開し、波多野庄田原の地も小田原など別地名にも受け継がれている。結城系図を見る限り秀郷子孫があまりに関東北部に偏っており、那須系図のほうが信憑性がある。
913 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:21:48.00
>>749 薩長土肥の4藩のうち2藩の藩主が秀郷流であり、武家故実に非常に詳しい毛利家ではいよいよ関東に侵攻する前に長州藩出身初の参議にわざわざ波多野から秀郷嫡流の由緒ある地名であるからと改名させている。
914 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:25:37.58
>>749 大織冠が東国出身であり、常陸から上総を経て武相国境の山に鎌を埋めたから「鎌倉」という地名になったと中世ではずっと信じられていた。常陸を領した水戸徳川家も同じ史観。
915 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:30:27.48
>>749 鎌足が鎌を埋めた山から一番近い海は武蔵国久良岐郡六浦。次が逗子か由比ガ浜。「くら」は「たかみくら」や「くらい」のように帝や貴人を意味した。久良岐郡も高座(たかくら)郡も鎌倉郡もいずれも武相の「くら」であり、「くら」と大織冠伝説は密接に関わっている。
>>909 その戸塚区役所の公式見解を詳しくupしてくれ。
それから、那須系図のどこに「山内庄は首藤山内氏によって11世紀には開発済み」
と書いてあるのか教えてくれ。
それと、「吾妻鏡」にはきちんと八条院領と記載例るんだけど
なんであなたが摂関家領と言い張るのかその理由も教えてくれ。
>>912 >結城系図を見る限り秀郷子孫があまりに関東北部に偏っており、那須系図のほうが信憑性がある。
系図の真偽の比較は二つの系図を照らし合わせるだけでは言い切れない。
系譜の年代に不自然さはないか
いつ成立したか、どのような意図のもと作成されたかをよく見極めないうちに
「こっちが正しい」というのはちょっと危険だな。
>>913 薩摩は自称源氏で実は惟宗氏、長州は大江。
となると土佐と肥前が秀郷流藤原氏となるけど
山内氏の家系ってどこまで信憑性があるのかね。
第一、戦国期になりあがった大名、とくに織田豊臣家臣系は
あまりあてにならんがな。
>>913 >長州藩出身初の参議にわざわざ波多野から秀郷嫡流の由緒ある地名であるからと改名させている。
誰の事?
919 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 00:14:16.86
武家藤原氏で権威のあるもう一つの家系は
藤原利仁流。
加賀の前田家は、実はこの家系ではないのか?とも言われている。
前田家は代々、諱に利を通字として使っていたしな。
921 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 06:38:28.38
スレ立てした者ですが
残り少ないスレ残量をどうか義平関連で消費してください。
お願い申し上げます。
922 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 06:51:24.27
>>916 山内荘は開発段階では摂関家主導で後の中央での政界の変化で鳥羽院か美福門院を本所として立荘され
(義朝と相模国衙の結託)で河内源氏家人の首藤氏が荘官として下向したってのが正解だろう。
>>922 その考え方は魅力的だが
摂関家主導を裏付ける証拠が
ないんだよな。
924 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 07:26:56.68
925 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 07:28:10.43
1120年代までは摂関家は白河院のもとで逼塞してるわけで相模国は院近臣が国守を務めてたからね。
古代以来の田堵負名系小豪族の墾田の集積を義朝と国衙が結託して鳥羽院もしくは美福門院を本所として立荘したのかな。
926 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 07:31:33.88
>>924 ここは義平スレだからね。
関係ない話で誤魔化すのはいい加減にしてくれないかな。
摂関家家長が所有権を有する摂関家領というものは
12世紀に入って忠実が
親族各個人所有の荘園を自分にかき集めて
家としての摂関家領を作り上げた。
厳密な意味での摂関家領の成立は12世紀に入ってから。
ちなみに摂政関白を独占する「家」としての摂関家の成立も、確立されるのは白河院政期。
それまでは、帝の身内になれたもの(帝の母の父か兄弟)のみが
摂政、関白もしくは政治ナンバーワンになる。
誰が帝の母になるかで摂政関白がきまる。
>>925 実際の生産者やそこに近い人も
どこに年貢を納めると楽かまたは外部の介入を防げるか
を考えてどの荘園に入るか、もしくは公領でいるか
という意思を持っていて
国衙も荘園も預所も彼らの意見を無視出来なかった
というからね。
そんな経緯で美福門院領になったかも知れない。
929 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 18:36:56.38
で、義朝ファミリーは「鎌倉氏」と考えていいのかい?
鎌倉殿の頼朝や鎌倉右大臣の実朝は、鎌倉頼朝、鎌倉実朝でいいのか?
930 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 19:44:49.12
>>929 残念ながら鎌倉を名乗ったの義平ひとりだね。
>>929 「鎌倉悪源太」は渾名みたいな使われ方だしなぁ
それも義平しか名乗ってないとなると、義朝の直系をして鎌倉氏とするのはビミョー
たとえば「鎮西八郎」と呼ばれた源為朝のことを鎮西源氏とはいわんだろ?
932 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 09:16:36.04
清和源氏の河内源氏の鎌倉氏、鎮西氏ではないの?
鎮西氏ってなんだよw
強引すぎ
よく知らんけど、鎌倉五郎ってのがいたと思う。
だから義朝流とは別に、鎌倉一族ってのがあると思う。
>>934 鎌倉氏というか鎌倉党って大庭景義・景親や梶原景時の一派だろ、義朝の郎党だった
治承・寿永の乱で解体されたようなもんだが
元から存在してる格下の名跡をわざわざ称するのもねぇ…
936 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 04:55:47.16
ちょっと検証したいんだが
今の地名鎌倉(中世以来の)と古代の鎌倉別氏の鎌倉は同じ場所だったんだろうか?
俺は古代の鎌倉はもっと内陸の現在の藤沢市も含めた地域だったんじゃないかと思うね。
937 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 06:10:21.03
長尾氏は、桓武平氏鎌倉氏の分家だよな。
938 :
日本@名無史さん:2013/09/29(日) 14:38:39.17
源氏将軍が途絶えることなく続いてたら、やはり鎌倉氏を称したのだろうか?
同様に清盛の子孫が存続してたら、六波羅氏とか福原氏を称したのかな?
地方に勢力を張ったからといって名字を必ずしも名乗るわけではあるまいに
940 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 03:39:14.93
藤原氏も村上源氏も苗字をもった。
近衛、九条、久我とか。
941 :
日本@名無史さん:2013/09/30(月) 07:34:53.64
中央貴族階級が本姓ではなく名字、家名、号を名乗るようになるのは意外と遅くて後白河院政期からだな。
辺境軍事貴族末裔の名字名乗りとは根本的に違う。
前者は家格・家の制度確立と同姓者の増加が主要因であり
後者は一所懸命・自立自助救済が主要因。
942 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 23:59:06.19
>>916 東京湾に注ぐ大小の河川。北上すると田浦、六浦、屏風ヶ浦、そして戸部の南北の浦。次に相模湾。沼間(逗子)、由比ガ浜、鵠沼(境川)、辻堂(引地川)、平塚(相模川)。
943 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 00:05:26.21
>>916 これらすべての扇状平野は中世までは現在の河口からおよそ半分ほど上流まで河口が入り込んでいた。鎌倉党や三浦党、首藤山内氏の居城がほぼすべて海岸に突出する形の要塞。武藤氏がいた柏尾川沿いの戸塚も境川の俣野城も引地川の大庭城など。
944 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 00:14:55.05
>>916 軍事力を擁する国衙在庁官人として高座郡衙を掌握した鎌倉党。さらに小貝川・鬼怒川を支配した将門の遺領も受け継いでいる。この存在を包囲・圧迫する勢力として三浦党・中村党・山内首藤氏の連合勢力が奉じた本家としては朝廷の第一人者しか考えられない。
945 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 00:21:30.38
>>916 さらに忠平が将門の私君といわれたように鎌倉党の本来の主君も摂関家であったろうことは後の宝治合戦からもうかがえる。宝治合戦では三浦党、鎌倉党がほぼ全員参加しており、彼らの摂関家に対する忠誠心の厚さは三浦光村の行動を見てもわかる。
946 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 00:26:31.61
>>916 義朝や頼朝が坂東武人を使ったのではなく、その逆で、あくまで彼らに使われてそして捨てられた。坂東豪族の目的は膨大な平家没官領の地頭職獲得。その結果として御家人の西遷が起こった。
>>941-946 戸塚区役所の公式見解なのか、系図の内容なのか
個人的見解なのかわかるように書いてくれ。
それからスレの無駄遣いになるからレスを分割して書くのは止めて欲しい。
>>946 嘘八百だ。
もしそのとおりだったら、上総広常は殺されることもなく、
梶原も、その殺害命令に従うことはなかっただろう。
949 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 13:00:06.34
>>946 それは違うと思う。
頼朝の挙兵から鎌倉入府の1180年時以来、参陣帰参した坂東豪族は平家没官領、の獲得が目的ではない。
中央での政変により院政停止・平家知行国の増加により国衙を追われ圧迫された坂東有力豪族が本領安堵と
既得権益の奪還を頼朝を神輿に担いで目論んだということ。
平家没官領は収公されるわけで坂東であれば多少の領地を掠め取るのを黙認されるかもしれないが
西国に多い平家没官領は全て中央政府たる院の管理下に置かれた。
頼朝が後白河院との折衝により全国に守護地頭が置かれたとされているが
全国制度として整うのは承久の乱以降であり執権北条泰時の登場を待たなければならない。
鎌倉御家人の西遷についてだが
実際の移住は元寇を契機としており北条得宗家の専制のもと鎮西探題・長門探題の
強力な統制下に組み込まれることになる。
その根拠として
1333年時点で後醍醐天皇の綸旨に呼応した菊地武時のみ鎮西探題に突入を図るが
少弐・大友の守護や有力豪族に阻止され打ち取られていることからも幕府機構が
ぎりぎりまで機能していたことがうかがえる。
鎌倉御家人の西国拡散は坂東武者の勝手な欲望からではなく軍事警察行政を朝廷からの委任承認(関東申次)のもと
鎌倉幕府の強力な統制下で行われたのである。
>>948 待て、八百じゃなくて嘘八万かもしれない
先祖が八幡太郎だけに
>>945 宝治合戦って北条得宗家の外戚の座を巡っての
三浦と安達の戦いでどちらかといえば安達が積極的に仕掛けた
というのが現在の評価なんだが。
光村と頼経の親密さは認めるけどそれはあくまでも個人的親しさだろ?
家人側から自分にとって都合のいい主を選んで主をしょっちゅう変えたり、
当たり前のように複数の主を持つ時代なのに
光村と頼経の関係だけで三浦ひいては坂東平氏が摂関家に仕えてたとみるのは
この時代の主従関係に関する理解が低いと言わざるを得ない。
>>945 鎌倉党の本来の主が摂関家ならば
なんで大庭御厨は「伊勢神宮領」なのかな?
摂関家領にしといた方が立荘当時は都合よかったろうに。
>>942-945 >>683の >当時武家故事に従えば秀郷流のほうが関東・東海では上に見られていた
の証拠を早く提示していただきたい。
の回答がまだ
>>683の>熱田宮司家を母にもつ頼朝より波多野氏が母である朝長のほうが嫡子扱いを受けていたし、官位昇進も速かった。
に対する
>>686への回答ままだ
>>704の>逆に波多野氏が秀郷嫡流だって証拠はどこにあるの? への回答がまだ
>>750への>「『院政期』の山内荘の本所が『摂関家』であった」という証拠と
「『開発期』の山内荘の『現地管理者』が山内首藤氏だった」という証拠なんだ。
への明確な回答はなし
(わけのわからない憶測の書き込みはあるが、証拠というのは文書か発掘成果
もしくはプロの研究者による当時の社会制度から推定された結果でなければ証拠能力はない)
>>813の
「山内荘エリア山内首藤氏が開発した証拠」
への明確な回答なし、戸塚区役所の公式コメントをわかる形で明示していない。
>>916の
>「吾妻鏡」にはきちんと八条院領と記載例るんだけど
への明確な回答なし
何が言いたいのかわからない当時の地理説明と
当時の荘園の在り方や摂関家の歴史的経緯や主従関係の在り方を無視した思い込みによる書き込み
にのみ終始し
証拠を示せといっても文献発掘もしくは学術文書からの引用は一切ない
レスは無駄に分割する。
言いたいことだけかいて都合の悪いことにはレスしていないので議論が成立していない。
きちんと議論したいなら誠実にレスしてほしい。
954 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 20:11:33.84
>>952 大庭御厨は境川西岸。境川東岸は北が吉田庄、南が玉縄庄。吉田庄には鯖神社が点在していて、渋谷一族の飯田氏は鎌倉党姻戚でありながら左馬頭義朝を崇拝していたようだ。地理学は軍隊の学問。中世武士の動線を探るには必須。
955 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 20:15:00.89
>>951 頼経近習は三浦義村の息子ほぼ全員が選ばれていて、光村はその一人に過ぎない。頼経近習選任は義村の専権事項だった色彩が強い。それほど摂関家と三浦氏のつながりは強かった。
956 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 20:22:27.76
>>952 権五郎神社の分布を見ると、吉田庄は時代が下るにつれて金井氏など鎌倉党に逆包囲される。鎌倉党の御厨死守という強いスタンスが伺える。地理学・経済学・文化史を総合しなければ史料からは何も読み取れない。吾妻鏡の曲筆傾向が顕著であることは言うまでもない。
>>954 なんで大庭御厨が摂関家領じゃなくて「伊勢神宮領」なのかの返答になっておりませんが。
>>955 頼経時代の三浦氏が頼経と親しかったということを主張してるのはわかるけど
あなたが主張する山内荘の成立11世紀に山内氏が摂関家に従っていた
との証明につながらないよ。
それから摂関家と一言で言うけど
この時期摂関家は近衛と九条に分裂していて
摂関家領は近衛が管理していたことをお忘れなく。
また頼経は鎌倉将軍に過ぎず、九条嫡流はその兄が予定されていたことをお忘れなく。
958 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 20:31:37.54
>>947 高座郡郡衙についての考察が一切なく鎌倉を語るのは非常に危険。高座郡は北は渋谷庄、南は大庭御厨。頼朝が相模国府で論功行賞を行った史実からもわかる。相模国府近隣の要地をめぐっての熾烈な争いを基本構図をまず理解すべき。以上。
>>956 ご高説結構だが
読み取るべき史料を示さずに「読み取る」とは言わないで頂きたい。
で都合の悪い史料を曲筆とかたずけるが
学者先生は前後との繋がりや他史料との擦り合わせで不整合を見つけて「曲筆」と判断していている
自説に都合が悪いという理由では「曲筆」扱いしない。
>>947の>戸塚区役所の公式見解なのか、系図の内容なのか
個人的見解なのかわかるように書いてくれ。
へのレスが
>高座郡郡衙についての考察が一切なく鎌倉を語るのは非常に危険。高座郡は北は渋谷庄、南は大庭御厨。頼朝が相模国府で論功行賞を行った史実からもわかる。相模国府近隣の要地をめぐっての熾烈な争いを基本構図をまず理解すべき。
になるのはなぜ?
>>941-946の出展元を提示もしくは自説であるとの明示を一切せずに
謎の主張をしているから議論にすらなっていない。
それから
>>948-951へのレスがないのもなぜ?
都合悪いから?
で、議論にならないのを覚悟してかきこむけど
>国衙在庁官人として高座郡衙を掌握した鎌倉党。
と主張するソースは何?
それから頼朝が相模国府で論功行賞を行った理由だけど
当時の国衙は大田文などを始め国を支配する情報の集積地であり
その国の支配の権威そのものでもある。
だから、治承寿永の乱の初期各反乱軍は真っ先に国衙を襲撃してそこを掌握することを目指した。
つまり頼朝が相模国府で論功行賞を行ったのは
鎌倉がある相模国を自分が制圧したというデモンストレーションの一環でもある。
高座郡郡衙とは関係なく語るべきだと思う。
それから無駄な分割レスはもうやめてくれ。
で、議論になくなるのを承知で書くが
>>960 最後の一行消し忘れて変なレスになってしまった。失礼
962 :
959:2013/10/03(木) 20:59:34.97
アンカーミスしてなかったのに無駄に間違えた訂正を書いてしまった
残り少ないのにごめんなさい。
964 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 22:52:29.77
鎌倉殿=相模公?
965 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 06:00:03.29
>>964 その話題は前スレで結論が出てるだろ
相模公はコラムの筆者の勘違い。
966 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 21:17:27.38
今、ここで論争になってる大庭御厨の件で
数年前に専門書籍を読んだ記憶だけど
大庭御厨は立荘の際の不手際で国司の代替わりごとに国司の承認が必要で荘園の権利関係が複雑に入り組んでた。
広大な大庭御厨は「御厨」の名の通り伊勢神領ではあるが実際の御厨部分は鵠沼地域だったという。
そんな複雑な諸事情に目を付けた相模国司藤原某は義朝に働きかけ共謀し義朝の郎党および三浦氏(在庁官人なので首謀者側)が
伊勢神領である御厨部分(鵠沼地域)に乱入し神人を痛めつけ神前の饗を奪い狼藉した。
後はご存じの通り他の広大な地域も合わせて大庭御厨として立荘し院に寄進することに成功したんじゃなかったかな?
>>966 大庭御厨って院領になったのか?
元々の荘園の領域が小さくても小さいが数十年かけて周囲の加納を
荘園に組み込むってことはよくあることだった見たいだね。
968 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 09:24:36.36
>>967 俺も大庭御厨濫行事件のその後について謎(史料上、その広大な荘園の権利関係が不明)が気になってる。
一部史料では1141年に国免荘から官省符荘に格上げされたとしているが疑問として
@太政官(中央政府)が認定する訳で律令制度上、国司の解が必要なはずである。
百歩譲って鳥羽院の意向であったならば伊勢神宮側は院に対して相当な見返りを譲ったはずだ。
A大庭御厨を濫行した実行部隊が義朝の郎党、周辺の摂関家領下司、相模国在庁官人の一族であることから見て
大庭御厨は官省符荘ではなく1144年時点では伊勢神宮の私領に過ぎなかったのではないか?
B大庭御厨の荘司とされる大庭兄弟が鳥羽院に急接近し異例の出世(父為義を凌駕し下野守に任官)を果たした義朝に臣従し
保元・平治の乱では郎党として参戦している。
以上の状況証拠から大庭御厨の実質的な本所が鳥羽院か美福門院であると判断した。
>>968 院政期に建てられた皇室の寺領が女院領扱いになっているケースはあるが
社領はどうだろ。
真清田社領や熱田社領の例はあるが、神社としての格式が違う。
ただ大庭兄弟が義朝の朗等になったかは疑問。
保元の乱では参陣してるが平治の乱には参陣していないし、
三浦、中村との関係は悪いまま。
保元の乱の参陣は国衙の命令に従った部分も大きいからね。
970 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 21:47:25.04
>>969 そうだね訂正する。
大庭兄弟は平治の乱に参陣してない。
しかし大庭御厨が伊勢神宮領として立券して官省符荘となったと主張するのは当時の史料として
伊勢神宮禰宜の解文しかないんだよね。
971 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 22:33:28.35
連投スマソ
伊勢神宮禰宜の解文は現存せず
一次史料として残っているのは左少弁中原朝臣の宣旨案の中で解文の存在に触れていることのみだね。
972 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 12:20:17.89
今、テレビ朝日で鎌倉の埋蔵文化財(大蔵御所跡など)を取り上げた番組を放送中だよ!
974 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 17:44:19.16
平安中期以降の寺社勢力の隆盛の秘密は「富」にある。
例えばこのスレの上の方で義朝正室の実家熱田神宮の武力なんてのたまう頓珍漢が居たけど
真実は墾田と周辺の国衙領を国司共謀のもと掠め取って権門権力を背景に神宮領としてウラ立荘して権門に
「富」を献上していた。
日本中の寺社領荘園の実態はそんなものだよ。
平安後期に寺社(延暦寺、興福寺、春日大社など)の強訴が増えていく原因がこの構造的要因に集約されてるんだよ。
摂関家も治天の君も致命的な弱味があったということだ。
>>974 熱田社レベルだと領家になれても本所にはなれない。
大宮司といっても院近臣レベル。
そういう人たちは所領を院女院に寄進する方が色々と都合がいい。
しかし、延暦寺、興福寺レベルになると寺社が院摂関家同等の荘園領主
つまり本所レベルになれる。
比叡山は数々の末寺末社を抱え、それらを統括する存在として君臨。
北陸には比叡山荘園郡を大量に抱えていた。
しかも厄介なことにかれらはそれなりの武力をもち、独自の通運流通ルートを持ち
現在でいう銀行業務みたいなことを行ったり、弁護士みたいな人材まで抱えていた。
比叡山銀行を頂点とする比叡山財閥と言うべき存在。私立軍隊までもっていた。
借財して滞納すると倍返し以上の取り立て。
色々と理屈をこねて土地をどんどん強奪。
さらに「仏罰」という精神的攻撃材料までもっている。
院の弱みなどというかわいらしい存在ではない。
976 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 01:30:34.80
補強してくれてありがとう
だけど「銀行業務」ってのはどうかな?
それと「比叡山荘園郡」ってのは郡一円が比叡山の荘園だったの?
>>976 >それと「比叡山荘園郡」ってのは郡一円が比叡山の荘園だったの?
スマン、郡じゃなくて「群」ね。
北陸には比叡山の末寺、末社がたくさんあってそれらが荘園を沢山抱えていたんだ。
銀行業務というのは言葉が不適切だったかもしれない。
平安末期から比叡山に属する行人やその配下の社の神人たちが高利貸を始めていた。
で、その利息が恐ろしく高くて「神罰、仏罰」をタテに取立も厳しく
期限内に返済できないと借り手が担保にしていた荘園丸ごと没収、なんてことをしていたらしい。
宋銭が導入され貨幣経済が始まると、真っ先に貨幣経済に乗り出し
銭決済での土地売買に寺社は乗り出して成功。
室町期に入ると高利貸の土倉が都に沢山あらわれるがこの土倉の元締めが比叡山
(土倉の経営者の身分は神人、しかも神人は無課税だから膨大な利益には税がかからない)
しかも、商業活動を行う「座」の胴元も寺社。
「高利貸事業」の元締めと言うべきだったかもしれない。
978 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 06:33:17.58
比叡山は留学僧が多いから経済先進国中国(唐・宋)で貨幣経済のなんたるかを知ってたんだな。
979 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 08:54:25.42
やはり日本の中世は「信仰と武と流通貨幣経済」が一貫して底流に流れてるんだね。
時代を見誤った義朝は平治の乱直後に近江国で落ち武者狩りに逢うし
清盛(寺社勢力の潜在的脅威を熟知していた)の怒りを買った重衡への南都宗門の報復は
すでに中世に突入していたことを物語ってるね。
980 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 18:42:19.72
宗教史、経済史での中世は織田信長と本願寺との石山合戦の終結で終わったんだな。
>>980 >宗教史、経済史での中世の終結
それって、比叡山=中世の宗教面・経済面での諸悪の根源=の焼き討ち、では?
982 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 08:57:52.34
>>981 そうだね言葉足らずだった
比叡山焼き討ち事件は最大のエポックだったね。
最終局面は石山合戦と言いたかった。
>>981 信長にとって強敵だったのは、むしろ本願寺ではないかな?
984 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:52:33.31
中世の研究者で個人的に興味があるのは網野氏だね。
彼の著作は朝廷・武家のみならず庶民や公縁に逃げ込まらずを得なかった流民にもスポットを当てて興味深い。
流通経済においては貨幣経済の興隆のもと400年の長きに亘る抑圧からの解放だったからね。
日本の中世後期とはもしかして日本版ルネサンスかもしれないね。
985 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 20:03:08.29
常勝軍団流通経済柏
986 :
日本@名無史さん:
>>985 >柏?
バカは無駄にスレ消費するんじゃねぇよ。
義平はとても不憫だね。
すでに中世に突入してるのに父義朝に従順だった。
信西を処刑しても第二第三の信西は登場してくるのに・・・
頼朝が清盛を反面教師として良い部分は取り入れたことは彼の才能だと思う。
義平の僅か20年の生涯で彼の資質を判断することは困難だが坂東での業績、美濃、飛騨、越前での伝承など
非常にアクティブだったことが窺える。
後に頼朝が光照寺を建立したのはまさに「兄さん 死んでくれてありがとう」だったのかもしれないね。