>>171 自由に発想を膨らますのも良いけど、
尾張皇子の場合一応天寿国繍帳でも系譜が言及されてるからなあ。
180 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 08:12:01.36
>>179 尾張皇子の冷遇ぶり?に思わず発想を膨らませてしまいました。
どうして推古天皇は尾張皇子を竹田皇子の後継者にしなかったのでしょうか。
推古天皇は竹田皇子を愛して陵を共にしたのですが、年をとると余計自分の
産んだ子供に執着すると思うのですけれども。
181 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 09:46:41.17
>>180 推古天皇即位時には厩戸皇子と竹田皇子の一騎打ち
尾張皇子は竹田皇子の弟でこの時点で幼く即位候補にはならなかった
その後、竹田皇子病死、推古天皇の次代候補は厩戸皇子と尾張皇子
(聖徳太子皇太子説は取らない)
推古天皇は(中継ぎではない)75歳まで生きたので厩戸皇子も尾張皇子も先に死んでしまった
>>180 異例の女帝即位で輔弼の皇族男子が必要となっても、押坂彦人大兄皇子はすでに亡いらしく、
后腹皇子の候補者では、推古即位時やっと数え19歳の聖徳太子が一番年上だったのでは。
竹田皇子以下の推古所生の皇子達は、聖徳太子よりもさらに年下のように思える。
竹田皇子の薨去はいつだか不明だが、崇峻天皇即位前後との説もある。
尾張皇子の薨去もいつだか不明だが、娘を儲けるほどに成長した後に、
聖徳太子よりも先に薨去では。 聖徳太子没後に何か記される事もなかったので。
ところで紀によると、推古天皇の娘たちはみんな石女だよね。
嫁いでじきに、本人や夫が亡くなった場合もありそうだけど。
・厩戸皇子の妃の菟道貝鮹皇女
・押坂彦人大兄皇子の妃の小墾田皇女
・田村王(後の舒明天皇)の妃の田眼皇女
>>182 >異例の女性即位輔弼の皇族男子
推古以外は女帝即位でも江戸時代の後桜町天皇以外誰一人
政治代行者の摂政を置いて居ない
女帝は政治をみず男性に政治を代行させるというのは間違い
>推古の娘たちは石女
ただ単に近親婚が過ぎただけだと思うが
>>182 紀には載っていないが、他の史料で推古の外孫は追えるぞ。
彦人大兄皇子と桜井弓張皇女の子……山代王・笠縫王(古事記)
来目皇子と桜井弓張皇女の子……男王・星河女王・佐富王(上宮記逸文)
なお上段の桜井弓張皇女は、日本書紀の記載や推定される年齢から、小墾田皇女の錯誤である可能性もある。
>>183 >女帝は政治をみず男性に政治を代行させるというのは間違い
継体天皇以後から大宝律令成立以前までは、政務に与る者は、廟堂に列する豪族諸臣側の他に、
王権の核たる皇族側では、豪族からの王権保護の為に大王1人だけにせずに常に複数にして、
大王、大后・前大后、男性皇族(日嗣格・大兄等)の内、成人2〜3人は常置として、
豪族の他にそれらも政務に与る資格を有するするものだった、という論がある。
この論によると、推古は女帝で配偶大后がいないので、どうしても男性皇族から1人は
政務参加者を補充する必要があり、それが聖徳太子だったのではとの事。
継体天皇−−手白香大后−−−−−−−−勾大兄皇子
安閑天皇−−春日山田大后−−−−−−−檜隈高田皇子
宣化天皇−−橘仲大后−−−−−−−−−
欽明天皇−−石姫大后−−−−−−−−−箭田珠勝大兄皇子→→訳語田皇子
敏達天皇−−広姫大后→→額田部大后−−大兄皇子
用明天皇−−穴穂部間人大后−−−−−−押坂彦人大兄皇子
崇峻天皇−−額田部大后−−−−−−−−
推古天皇−−−−−−−−−−−−−−−厩戸皇子
舒明天皇−−宝大后−−−−−−−−−−
皇極天皇−−−−−−−−−−−−−−−古人大兄皇子
孝徳天皇−−間人大后−−−−−−−−−中大兄皇子
斉明天皇−−−−−−−−−−−−−−−中大兄皇子
天智天皇−−倭姫大后−−−−−−−−−大海人皇子→→大友皇子
天武天皇−−鵜野讃良大后−−−−−−−草壁皇子
持統天皇−−−−−−−−−−−−−−−草壁皇子→→高市皇子
文武天皇−−持統上皇−−−−−−−−−
186 :
日本@名無史さん:2011/09/21(水) 09:27:14.30
>>185 男性大王が軍事に携わり女性大后が祭祀に携わるというヒメ・ヒコ政治の名残は
古代社会には一部みられるが、大王でも大后でもない第三者の皇族が
積極的に朝政に関わった事実は見られない。
そもそも大王、大后を補佐する役割としては家臣の大臣・大連があったのであり
なぜ古代社会において大臣・大連が権力を行使しえたかが説明できない。
187 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 21:03:09.75
188 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 17:33:03.67
189 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 08:32:16.83
草壁皇子
190 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:29:31.83
陽光院こと誠仁親王の「業績」って何か本を書いたことだけ?
191 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:45:16.94
あなたの隣の集団ストーカー
駅改札や駅周辺で、人の流れを見張っているのが犯人です。
犯人はナマポで税金で食べていけるため
通勤、通学者を馬鹿にしながらターゲットを見張っています。
エア待ち合わせ、エア電話が得意です。
エア荷物、エアマスクもいます。
鉄道職員、タクシー運転手にも犯人がいます。
192 :
無名さん:2012/02/16(木) 07:46:04.94
>>190 なかったはずだが。
どうでもいいが、誠仁親王の死因はアル中。
>高市皇子(活躍の割にマイナーすぎる気もする)
壬申紀(天武紀上)を読んでないヤツはそう思うだろうなぁ
壬申の乱時に天武から全権を委託されて不破に本営を置き
作戦の総指揮を取り、戦勝後には大友皇子側に付いた者達の
処分決定も行ったのに…
それと母が卑母の為に長男でありながら天皇には即位出来なかったけど
太政大臣として太政官のトップに立ち、嫡男であった草壁皇子と
同格である尊という敬称が与えられた
その上、十市皇女(父天武)、御名辺皇女(父天智)、但馬皇女(父天武)という
3人の皇女と関わりがあったから恋愛関係も派手だった
息子が邸跡が発掘されて有名になった長屋王(左大臣)だわな
194 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 12:38:09.42
後醍醐天皇の皇子たちは気合いの入り方がすさまじい
後醍醐の手となり足となり
>>194 後醍醐の子は無茶苦茶数がいたから自分こそは父親に認められようと死も厭わずって感じだね
しかも後醍醐が自分の跡取りを決めたのが建武の新政開始後のかなり晩年だったので
(当初は兄後二条天皇の皇子に帝位を返す予定であり、この皇子が早世した後も
本来持明院統に譲ることになっており従来後醍醐の皇子は即位の可能性は低かった)
皇子たちもあわよくば天皇候補になれるという期待も多少あったんじゃないのか
>>196 護良親王は格別だし、尊良親王にも武人的気質があったのかも知れないが、
宗良、懐良等々の親王たちには、
> 自分こそは父親に認められようと死も厭わずって感じだね
はあまり感じないけどね。むしろ、父の命令でいやいやながらというような印象
すら受けるけど。
198 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 12:03:33.96
99 名前:日本@名無史さん [sage] 投稿日:2012/01/10(火) 11:37:32.22
みんな、日本史板の住人はだまされるなよ!
NHKは「時代の再現性」なんて、とっくに放棄してる!
前回の「江」だって、江役の上野樹里が関白に対して
「秀吉、秀吉」と呼びつけにしていたし、もちろん
今回だって、平気で登場人物を諱で呼んでいる
現在のNHKは、大河ドラマのことを時代劇というよりは
「昔の衣装を着用した現代劇」と位置づけており
「時代を再現する」とか、「国民に歴史教養を授ける」などという
発想は、とうの昔に棄て去っている
そんな姿勢の大河が、どうして天皇の呼称についてだけ
「王家」などという、後世の用語を
わざわざ時代を逆行させてまで、強引に用いるのか
これは実態よりも、「悪意のある主観」を優先させている、という時点で
韓国マスコミが天皇を「日王」と呼ぶのと
スタンスにおいては、まったく同じである
こんな態度を、日本史板の住人が黙っていられるか!
どんなに学術的な理由で糊塗しても、それは嘘だ!
「王家」を使用する理由は、視聴者に
「昔は天皇家も王だったんだね」
「それじゃ日王という呼び方にも一理あるんだね」
と思い込ませるための陰謀だ!
199 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 08:59:18.85
>>197 そうか?
彼らは後醍醐没後も仏門に戻ることなく兵を率いている。
嫌々だったのならば武具を捨て、仏門に入ることができたのに。
実際、建武の親政になっても寺に入ったままだった後醍醐皇子も多い。
宗良は1377年信濃下向の折に長谷寺で再び出家した。
懐良は出家してないが、1371年に下の歌を残している。
日にそへてのがれんとのみ思ふ身にいとどうき世のことしげきかな(懐良親王)
201 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 15:05:49.89
>>193 高市皇子の女性関係はいまいちはっきりしてないけどね。
御名部皇女(天智皇女)が高市の正妃だったのは事実だが政略結婚っぽい。
異母姉の十市皇女が死んだとき高市はこれを悼む歌を詠んでいるが
これを根拠に恋愛関係まで推測できるかは判断しがたい。
異母妹但馬皇女は一時期高市の邸に住んでいたが妻であったかはわからない(妻や恋人だと書いたものは残っていない)。
一方の但馬皇女は異母兄穂積親王を想う歌を万葉集に残している。
>>200 宗良は1377年にすでに67歳。老齢のための引退だろう。
後醍醐が死んだ時宗良は28歳だったから、
それから40年近くも俗世にあり戦に出ていたことになる。
懐良親王が歌を詠んだ1371年には今川了俊に攻められ危機に立たされていたとき。
翌年には懐良親王が守る鎮西探題は陥落している。
陥落しようとするとき出家をするのはよくあるパターン。
赤穂浪士の最後に出てくる公弁法親王ってのは変化球になるかな。
>>199 遺命の重みやら、自分を支えてくれている側近や武士への義理立て
やらといったものじゃないかな。
森先生の本に引きずられているのかも知れないが、父に認められる
ために必死に、という感じには思えない。
父に認められるためとか、
> 皇子たちもあわよくば天皇候補になれるという期待も多少あったんじゃないのか
ということだとすると、むしろ後醍醐が崩じて後村上が継いだ後でも
戦い続けたことが理解できなくなるんじゃないかな。
>>204 護良、尊良、宗良辺りには天皇候補になるチャンスがあっただろう
後村上は阿野廉子の生き残った唯一の皇子で当時兄弟相続はあったことを思えば
後村上即位時点でそれ以外の皇子の即位の可能性は完全に断たれたわけでもなかっただろう
懐良あたりは一次期九州王のようになって明に朝貢、明の皇帝から日本国王の称号を得てるし。
>>205 後醍醐より先に死んだ二皇子はまあおいておくとして、宗良親王
にしてもそのために頑張ったようには、とても見えないけどね。
兄弟相続に賭ける気があったなら、後村上の帰還要請に応えて
いたろうし。
太平記にある尊良親王の最後は、投降を勧める新田義顕に対して、
からからと笑い、「夫れ股肱無くして元首持つ事を得んや。」と言って
一緒に自害するというものだそうだが、やはり部下を見捨てられ
ないという意識は強かっただろうね。
>>206 宗良が出家すれば部下は別の大将に仕えるだけ。
宗良は世襲武家の棟梁というわけではないのだから、
部下の生活のために武士をやめるわけにはいかないという人ではない。
尊良親王は護良親王が足利に惨殺されるのを見た後なので
成人親王である自分が生き残れば同様に惨殺される恐れがあったためだろう。
尊良親王本人に部下がいたわけではなく、新田は同行していただけ。
208 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 18:54:40.19
>>167 覚仁法親王が抜けている。
「今鏡」だかに当時の呼び名まで書かれてるからな。
ちなみに「大鏡」には「世の痴者」と書かれた永平親王(村上天皇皇子)
なんていうのもいる。
210 :
日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN
厩戸皇子は実在してるよね
211 :
日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
この論理だと歴代天皇は一人も実在しなかったことになりかねないし。厩戸皇子は薨去後の聖徳太子の諡(贈り名)で信仰の対象にもなっている実在性が確実な人物。
世界史でイェスが極めて実在性が高い人物であることを教えないでキリストは実在しなかったと教えるようなもので、
公教育を利用した信仰に対する不当な干渉となっている。
212 :
日本@名無史さん:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN
>>177 田眼皇女って敏達天皇の皇女でもあるから相当な年増な上早死したんだと思う
>>182 尾張皇子は娘が聖徳太子の妃だから勝手に聖徳太子より年上で推古天皇が即位した時には既に死んでいるものだと思っていたけど違うの?
推古天皇腹の皇子女の序列を無視して勝手に
尾張皇子や小墾田皇女は初期の子供、菟道貝蛸皇女や桜井弓張皇女は中期の子供、竹田皇子や田眼皇女敏達天皇晩年の子供だと思っていた
213 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 19:41:09.40
>>212 尾張皇子はおそらく厩戸皇子より年下だよ
これは用明天皇が兄であり推古天皇が妹であること
厩戸皇子が用明天皇の第二子であり尾張皇子が推古天皇の第四子であることからの推測
厩戸皇子の生年は574年、推古天皇が敏達天皇と結婚したのが571年なので
推古天皇が第四子の尾張皇子を571年ー574年の間に産む可能性はほぼないため(双子でも産まない限り)妥当だと思う
厩戸皇子が40代で15,6歳の若い娘を妻にしたと考えれば
妻の父親のほうが年下であっても不思議ではない
征西将軍懐良親王は令旨をたくさん残したが、
征東将軍宗良親王は和歌をたくさん残した。
同じ時代に東西で対照的だよなあ、この2人
>>214 宗良親王の母二条為子は和歌の家元・二条家の出身だよね(摂家の二条家とは別系統)
藤原俊成や定家の子孫にあたる
216 :
日本@名無史さん:2013/12/20(金) 11:54:51.29
「すぐわかる女性画家の魅力(著・千足伸行)」という本を読んでいたら、
後水尾天皇の第八皇女である光子内親王という人物が紹介されていて、文化人で彼女自身も沢山作品を残したと知った。
でも、プロの芸術家というより、信仰心熱い宗教画家っぽい。
217 :
日本@名無史さん:2013/12/20(金) 12:05:41.98
>>216 光子内親王は芸術に憧憬の深い後水尾上皇に鍾愛されたらしいからね
後水尾上皇は自分の娘に対する好き嫌いが酷いわ
218 :
日本@名無史さん:2013/12/20(金) 12:10:41.61
>>217 鍾愛されていたのは、光子内親王と常子内親王。嫌われていたのは?
>>219 梅宮・文智女王は都の洛北に円照寺を建てて住んでいたが、
父の後水尾上皇の修学院離宮造営のために奈良に移転、移住。
跡地に建てた修学院離宮の一角に、後水尾上皇は
光子内親王のための御殿を建ててあげた。
221 :
日本@名無史さん:2013/12/27(金) 00:19:26.66
光子内親王ってすごい長生き
222 :
日本@名無史さん:2014/01/02(木) 17:55:10.04
>>218 > 誤りがあればご指摘願います。
結果として、全然的中しなかったことを指摘・指弾させていただいて良いですか?
あなたが悪意を持ってそういう書き込みをしたのか、どうなのか
私は知らないけど、とにかく結果として
>>218の書き込みは、人々に余計な不安を掻き立てる以外に何の利益も産まなかった、
っていう事実は、ぜひ重く受け止めてほしいのですが。
223 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 13:13:08.84
age
224 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 21:11:44.45
高岳親王
おそらく最も都から離れた場所まで行った親王
20世紀に入るまでその記録は破られなかった
>>224 >20世紀に入るまでその記録は破られなかった
19世紀のうちに欧州に行った親王が複数いるよ
226 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:53:32.07
〜都道府県の居住意欲ランキング〜
1位は『 京都 』
「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。
京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。
年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。
227 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 19:56:48.47
後桜町天皇の日記を読んでみたい
当子内親王が好き。うた変読んだだけだけどw