1 :
日本@名無史さん:
忠君愛国の士
2 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 00:45:48
いしだ 壱成の親父のことか?
さっきの映画で、ゴエモンに一刀で切断されてましたが…。
4 :
金吾秀秋:2010/12/07(火) 00:54:13
三成はよくがんばったよ(´・ω・`)
5 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 00:57:07
みつなりぃ〜♪
三成は実は幼女だったのです!
7 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 04:33:28
>>3 あんな在日無能キリヤが作ったゴミ映画なんぞ忘れてください
8 :
日本@名無史さん:2010/12/16(木) 15:41:12
>>6 しかも時代を400年も先取りしたツンデレさん
9 :
日本@名無史さん:2010/12/17(金) 17:03:35
忠君愛国の士
というよりも家康に天下を取らせた最大の功労者ではなかろうか。
この人の決起のおかげで260年の太平が築かれた。
10 :
金吾秀秋:2010/12/18(土) 02:08:48
まったく、三成の決起のおかげだよな(´・ω・`)
12 :
日本@名無史さん:2010/12/30(木) 23:57:17
age
13 :
名無しさん:2010/12/31(金) 20:05:44
なんとなくage
三成好きだおー(^ω^)
あ
15 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 21:17:09
武田と正面から戦って負けて秀吉にに勝った家康とは戦歴が違いすぎたな
16 :
日本@名無史さん:2010/12/31(金) 22:03:03
家康にとってはかけがえのない大切な御仁だろうな。
石田様、本当に本当に決起してくれてありがとう、
やっと、天下を取る事が出来ました。
このご恩は徳川家末代に至るまで決して忘れません。
頭の下がる思いです。貴方様は神様です。
といった所だな。
17 :
金吾秀秋:2011/01/03(月) 03:06:41
まったく、三成は家康にいいように利用された愚かなやつだなぁ(´・ω・`)
お茶の件に関してだが
あれって光成の気遣いとゆうより和尚のしつけなんじゃね?
19 :
日本@名無史さん:2011/01/07(金) 15:59:58
>>18 しつけにしろ気遣いにしろ、
いい話であることにかわりはない
三成が挙兵しなかったらどうなってたかな
石田光成って文禄の役のときに
朝鮮出兵の総奉行としてソウルまで行ってるね。
すごい・・・
何が凄いのかわからんが・・・
モーニング連載のへうげもので今、石田三成やっているな。
しかし誰かアレ以外に家康の対抗馬居なかったのかよ・・・
本当は、毛利や島津が全面に出てくれれば何も問題なかったのにね。
26 :
金吾秀秋:2011/01/22(土) 03:42:06
まったく、毛利や島津の行動力の無さぶりにはあきれたもんだぜ(´・ω・`)
>>16 でも関が原が一日で決着するとは本人も想像できなかっただろな
どうせ負けるだろうけどせめて引き伸ばすことぐらいできるだろうに
28 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:33:39
西軍は、実質的に三成が中心に居た時点で負けだよ。
毛利や島津が19万石そこそこの成上がり者三成に心から従うわけないからね。
下剋上の宇喜多にも従わないだろう。
東軍は徳川隊が半数近くいるわけだしね。少々の仲間割れがあったとしても大丈夫な布陣だね。
29 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:42:16
つーか、西軍は三成ではなくて毛利輝元が総大将だったんだけど……。
毛利が東軍総大将と密約を交わしていたわけだから、
東軍が100%勝つわな。
西軍の吉川隊は最初から負ける気でいたわけだから。
東軍総大将
西軍総大将 対 西軍諸将
という世界史的にも奇異な布陣だったんだね。
兜かっこいいね。
31 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 16:08:38
どう考えても、西軍が負けると思うが。
結果的に、家康と密約を交わしていた吉川広家は、西軍ではなくて東軍なんだから。
一生懸命戦っていた石田隊と宇喜多隊がアホーみたい。
32 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 16:16:58
毛利はそれで良かったのかよ?
本当のアホーは三成ではなくて、毛利輝元・吉川広家の方だろう。
家康如きに簡単にだまされてやんの。
関が原へわざわざ、自分達の領土を減らしに来たようなもんだよ。
33 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 18:48:23
>>32 あそこで家康と徹底抗戦しても勝てる見込みがなかったからだろ。
三成は数え9歳の幼い秀頼の出馬を請うたというし、
秀頼を抱え込んで籠城まですれば戦の責任が幼い秀頼に及び、
秀頼が家康に9歳の時点で殺される危険性があった。
だから、負けた西軍側が罪をかぶって秀頼を守った。
家康は本当は関ヶ原で秀頼の首を討ちとっておきたかったはず。
しかし、かわされてしまったってこと。
34 :
日本@名無史さん:2011/01/23(日) 19:04:10
放送開始まであと2時間!!!
■日本古代史最大の謎に迫る 23日・NHK「“邪馬台国”を掘る」
日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国に迫るドキュメンタリー「“邪馬台国”を掘る」が23日午後9時から、NHKで放送される。
2009年、奈良・纒向(まきむく)遺跡で巨大な建物群が発掘された。
この遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及び、弥生時代末期の3世紀、突如建設された都市だったことがわかり、邪馬台国の最有力候補地と目されるようになった。
さらに昨年夏、建物群周辺の発掘が行われ、人為的に壊された銅たくや2000個を超える桃の種などが出土した。
果たして、邪馬台国所在地を巡る長年の論争に決着をつけるような証拠は発見されたのか。
番組では発掘現場=写真=に密着し、その成果を検証しつつ、纒向の実像を描き出す。
(2011年1月20日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20110120-OYT8T00621.htm
既に判明している事柄をダラダラと垂れ流すだけで結論もまとめも無しに放送終了のNHKに何を期待しているんだ>34
36 :
日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:44:22
>あそこで家康と徹底抗戦しても勝てる見込みがなかったからだろ。
そうかなぁ……。
さておき、徹底抗戦のポーズを見せた島津の方は上手くいって良かったね。
38 :
日本@名無史さん:2011/01/25(火) 20:50:34
島津はまだましな方だけど、
俺は、やっぱり吉川広家は馬鹿だと思う。
何ゆえ、敵将の甘い言葉を信じたのだろうか?
普通の知能だったら、信じないよ。
知恵遅れが参謀をやっていたとしか考えられない。
39 :
日本@名無史さん:2011/01/26(水) 12:12:46
総大将にお咎めなし。
なんて、仮に家康がそう言ったっところで、
家康の家臣や東軍諸将が納得するわけないな。やっぱり、現に領土削減になったけど。
当たり前だな。
普通に考えると、誰でもわかる事。
40 :
金吾秀秋:2011/01/28(金) 04:22:09
まったく広家にはあきれたもんだぜ(´・ω・`)
41 :
日本@名無史さん:2011/01/28(金) 05:23:21
↑オマエモナー
実は「みつひら」だという説があるが、誰も気にしていない。
43 :
日本@名無史さん:2011/02/10(木) 06:21:10
三成ではその後心配だったんだろ…
家康なら大丈夫だと判断したまで。
45 :
金吾秀秋:2011/02/15(火) 02:21:25
まったく三成は心配なやつだなぁ(´・ω・`)
46 :
コロ助:2011/02/27(日) 05:49:12.41
石田三成を石田光成にしたい。黒澤明の表記を黒沢明にしちゃった感じで物足りない。
47 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 17:41:47.70
48 :
金吾秀秋:2011/02/28(月) 03:25:40.95
漏れ様の生涯を舞台化させてやってもいいぜ(´・ω・`)
49 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 15:59:50.68
>>48 あんたの生涯じゃ陰惨すぎてお客が入らないわよ、きっと。
>>47は淀殿がヒロインみたいよ。
三成も艶福家だねえ。
50 :
忍法帖【Lv=12,xxxPT】 :2011/04/04(月) 16:30:36.10
aiyo
51 :
日本@名無史さん:2011/04/10(日) 21:24:01.66
新「関ヶ原合戦」論、みなさん購読していますか? 感想はどうですか?
52 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 06:22:40.12
三成は今この時代だからこそもっと評価されるべき
立ち位置は典型的な官僚なのに言行が全く官僚的でない
保〇院とか○安委員会とか代議士連中に爪の垢を煎じて飲ませたい
53 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 16:30:42.11
>51
アマゾンのレビューは評価が高い。石田三成の戦略や戦後構想などの視点は新しい。一読の価値あり。
江戸 奸臣
明治 小物
昭和 忠臣
平成 ホモ
最近 朝鮮を侵略した秀吉のコバンザメの鬼
>>51>>53 分量もそれほど多いわけではないからね。手頃な良書だと思う。
今読んでいる天皇大権関係の本を読了したら読むつもり。
56 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 00:51:59.49
三成が「次の瞬間大地震とか火事が来るかもしれない〜〜」
ってのを、3月ので痛感した。私は西日本だが、いつ何が起きてもおかしくない。
さればこそ生を養い毒を厭うのだ。(実際はたまに自棄になるが・・・)
戦国武将も、いつ死ぬか分らないけど結構養生していたとか見た。
一寸先は闇だなあ。
57 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 00:05:28.40
あやや
58 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 10:22:13.60
>>56 日頃から城の増強に財を惜しみなく使ってた
てのも、災害対策の財源削ってた今の政府とは対照的だね。
59 :
日本@名無史さん:2011/05/06(金) 07:07:11.72
三成の愚かさは、
自分への過信と、いろいろ問題のあった故・太閤への
かたくなな忠義。それが魅力なんだろうけど。
徳川家康の屋敷に逃げるという決断とか、そもそもあの段階で関ヶ原で反家康を組織して
戦おうと決意する決断力とか…今の政治家にない、決断力があるよなあ。
失敗したなら潔く散るしね。
61 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 19:45:12.05
三成はあのタイミングで挙兵する意味があったのか?
時間は豊臣に味方している。時がたつほど、秀頼は成長し家康は老い先が短くなる
だからこそ、家康は急いでいた。強引にでも諸事を押しとおさねばならなかった。
時間がたてばたつほど、家康は反豊臣の姿勢を明確に打ち出さねばならなくなる。
さながら、城攻めの如し 時に追われて死ぬまでに大阪城を落とさねばならない家康と、
天下という鬼の首を以って、敵の時が切れるのを待つ豊臣 まるでかつての家康と信玄のように
しかし、三成は早々に挙兵した 三方ヶ原のごとく城から出て大軍に野戦を挑んだ
秀頼はまだ幼く、豊臣家臣同士の内部争いとすら定義できてしまう時期でだ
自分が挙兵すれば、徳川に懐柔された諸将のみならず、武断派まで敵に回るとわかっていがらに。
さらに、自分が負ければ豊臣は各個撃破がごとく、権力を殺がれ、衰退し滅亡するリスクを承知のうえでだ。
なぜか?三成が蟄居させられ政治の王道から外されたからである。
時が建つにつれ自身の影響力が薄くなるのを恐れ、来るべき家康との決戦の時に自分が中心にいないことを恐れたからである。
秀頼が大きくなり、豊臣の力をもって家康を打ち破れば、自分はただの家臣で終わらざるを得ないのだ。
つまり彼は忠臣ではない、主家が滅亡するリスクを負ってでも、自身が中心となれるうちに一か八かの大戦争を起こすことを望んだのだ
そして、大戦争に勝利した後自分が、山崎の後の秀吉のようになれる時機だからこそ挙兵したのだ
しかし、彼は敗れた 敗れるべくして敗れた
恐るべきは家康の老獪 本来自分が焦るべき立場にありながら、三成を蟄居させ自分よりもさらに焦らせる事によって
時間の不利を乗り切ったのだ
62 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 20:24:49.45
三成は戦国時代ではなく、江戸時代に旗本にでも生まれてきてれば、勘定奉行か町奉行にでもなって後世に名を残していたんじゃないかな。
もっとも今でも名は残っているけど。
63 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 21:51:58.86
うん、挙兵早すぎた。
直江らと本格的戦闘がはじまったあたりでもよかった。
64 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 16:40:08.78
>>62 または明治に生まれても名官僚として名を残してたかもね。
>>63 それがし早漏にて候
65 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 20:07:06.62
>>63 まあ、そうだね。
御館の乱や、本能寺直前の状況など絶対絶命の状況でも生き延びてきた上杉だし、
魚津城でもそうだが、戦前の日本軍のように玉砕(全滅)するまで戦うので、
簡単には勝負はつかない。
あと、一週間くらいは待って欲しかったような?
66 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 07:09:27.00
三成は家康と違い
時を待つことができなかった
もしあそこで、機が熟するまでじっくり力を蓄えてれば勝機もあっただろうに
67 :
日本@名無史さん:2011/05/24(火) 12:04:37.93
先に仕掛けた方が負けなんだよね。
寝返りが多いあの世の中では。
小早川は利口だった。
68 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 21:27:58.76
そうか?
あのまま家康の横暴を見過ごしてたら
結局は家康の天下になってたと思うぞ
その場合はなぜ三成はもっと早く決起しなかったのかと言われてたかもw
69 :
日本@名無史さん:2011/05/26(木) 21:35:02.73
上杉征伐が本格化してからって言うけど
その場合は続々と諸大名が会津征伐に出発していて
西軍の勢力が実際の関ヶ原より少なくなってたかもしれないぞ
あそこまで結集できたのはあのタイミングだったからこそでしょ
それに上杉が数日で降伏してた可能性もあるわけで
その場合は家康の勢力がますます大きくなり挽回不可能
オレもそう思う。
曲がりなりにも、戦術的には西軍有利の状況にまで持っていったのだから、
あのタイミングがベスト。
後から何だかんだ言うのはいくらでもできる。
71 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 11:30:44.41
実際あと一歩のところまでいったわけだからな
小早川さえ東軍につかないか
吉川さえ毛利本体の足止めしなければ
家康を倒せた
その場合は日本史上最高の名将だったね
72 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 11:42:06.51
>>69 妄想は勘弁してくれ
上杉がすぐ降伏して、家康の力が関ヶ原以降より上がるのか?
そんな簡単には上がらないだろうね。
73 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 18:37:07.75
上杉は五大老から転落
前田は屈服済み
あとは毛利宇喜多のみ
各個撃破していけばいいじゃん
>>65 当時の連絡手段を考えたらリアルタイムに状況を把握するのは無理だから
一週間くらいの誤差は仕方ないんじゃないだろうか?
75 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 17:14:03.99
格で無理かも分からんが総大将に島津、立花を小早川の代わり関ヶ原に布陣。
島津義弘が総大将で指揮すれば、勝てたのじゃないか?
立花宗茂の采配で西軍の勝ちと思うが。
島津と立花この二人を使える人間が居なかったのが敗因だな。
単純に裏切りが無かったら自動的に勝ちだよ。
77 :
日本@名無史さん:2011/06/10(金) 00:06:31.13
采配が悪かったわけじゃないからな
吉川が裏切ってたのが一番痛かった
78 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 17:07:44.25
>>75 そんな、コーエーのゲームじゃあろまいしw
79 :
日本@名無史さん:2011/06/18(土) 00:17:59.46
勢力が拮抗していたのに、応仁の乱みたいにだらだら長引かなかったのは何故なんだろう?
不利と考えた側が長引かせれば、長期戦の泥仕合になって簡単に負けなかった気がするんだが。
西軍が拙速に攻めすぎたのが敗因か?
80 :
日本@名無史さん:2011/06/27(月) 19:45:38.81
>>79 孫子にあるだろ。
孫子曰く、凡そ師を興こすこと十万、師を出だすこと千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費し、
内外騒動して事を操[と]るを得ざる者、七十万家。相い守ること数年にして、以て一日の勝を争う
82 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 15:45:52.29
>>79 立花宗茂が主張したように、輝元が大阪城で徹底抗戦してれば
戦は長引き、最終的にどっちが勝者になったかわからんだろう
東西両軍の主君である秀頼を握ってるわけだし
無傷の大津城攻撃部隊や田辺城攻撃部隊、関が原から引き上げてきた部隊もある
石田の要請で3万の兵で松尾山に秀頼を擁して陣どってれば完勝してて
そんな苦労もいらなかったわけだが
83 :
日本@名無史さん:2011/06/28(火) 21:23:16.62
事実として輝元は大阪城で徹底抗戦なんてしなかった
歴史にイフは禁物ということで願いたいね
歴史にイフはないが、戦争の評価にはイフを導入しないとホントの評価できない気がする。
偶然で得られた勝利を過剰に評価したり、その逆もありえる。
敗因がどこに有ったという議論ならイフを考えなきゃ、分からないだろうに。
流れを読まずにどや顔書き込みは禁物ということで願いたいね
86 :
日本@名無史さん:2011/07/10(日) 03:11:57.08
うん、でもお前それ信長の野望の感覚で
物言ってるだろ的なイフは論外な。
例えば真田や立花に総指揮任せればーとかの類。
もし三成に人望があったらw
人望がないのが三成だから、その設定は無理。
ただ…仮にちょっと根回しあったら、ずいぶん変わっていただろうね。
89 :
日本@名無史さん:2011/07/12(火) 20:09:09.29
90 :
日本@名無史さん:2011/07/14(木) 00:05:18.68
>>88 懐刀が人望をえるのは困難
秀吉の自分に対する扱いは、三成が吹き込んだと取られるが
「まあまあ関白様」となだめる側に回る家康が人望を集めるw
ただ、かなりの大名が家族を東西にわけて家の存続を図るほど
勝ち馬が分からない状況を演出したのはたいしたもの
もちろん全て当初のプロットどおりにはいかないものだが
来るはずの主役(秀頼を擁する毛利勢)が来ない状況でも
金吾の動向いかんでは勝敗不明とは、なかなかやるね
91 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 23:03:57.89
つーか、裏切りがなく普通に戦ったら西軍有利の戦闘だろ。
布陣を見ると、ホントに三成は戦闘が下手なのかって感じだ。
プロイセン軍の高級参謀が布陣図見て「西軍優勢に決まってるだろ、これ…」
って言った話は有名だよね
プロイセン軍人は軍事のことしか考えてなくて政治が眼中に無いってよくわかるエピだよな。
だから第1次世界大戦なんかやっちゃったわけだが。
逆に言えば、そこまでの大勢にまでできたからことが、事前に裏切りを約束していた小早川秀秋に
直前まで裏切りを躊躇させる原因となった。
95 :
日本@名無史さん:2011/07/19(火) 00:32:17.69
家康にとっても一か八かだしな
このまま待ってて秀頼が出陣したら勝ち目はないし
毛利の得意技は味方に内応する振りをさせて、敵をさそいこむことでもあり
一般的にいっても内応の約束などあてには出来ない
秀秋が関白職と上方での加増のほうに、よりグラリと来てれば面白かったw
96 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 16:03:27.50
茶吉
97 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 18:03:28.88
>>97 Wikipediaにも事実のように書いているのだが?
99 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 20:23:29.80
>>98 まずWikipediaを盲信するの良くない
メッケル少佐が参謀本部に招かれた際に関ヶ原合戦の付陣図を見た迄はガチ
でも「西軍圧勝じゃん」とか言った事に対する信憑性は無い
ただ素人目にも西軍有利なのは見て分かるからそっからどうやって東軍が勝ったかの説明を受けたのが実際の話
この話でメッケルが情報戦で重大性に気付き彼の教えを受けた日本陸軍軍人が日露戦争を戦うって言うのが歴史の流れ
結局、ここのスレの内容である西軍有利なのは変わらないわけね。
でも、ガセだというソースあるの?
101 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 21:29:29.56
ちょっと違うけど少し前の歴史群像かなんかで検証してたけど西軍有利に見えて大局的に見たら実は東軍が包囲してるから西軍有利はガセじゃね??って結論出てたぞ
102 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:03:34.42
信長の子孫たちを屈服させた秀吉をつぶさにみてきた石田だから、時勢が徳川に向いているのを看過できなかったんだろう。
上杉家が潰された場合、その所領の配分は実質的に徳川が行う事が予測されるし、家康が将軍宣下される可能性もある。
大阪城の秀頼は、旧前の三法師が如く家康の掌中にあって、此度も秀頼の命令で会津を討つ形になっている。前の秀吉の手法そのものなのだ。
”放っておいたら、なし崩し的に主従逆転になるかもしれない”
徳川の大坂城留守居を追い出して、秀頼を取り戻すには兵を挙げる以外に方法は無かった。
だが、対決姿勢をとった彼のせいで、豊臣家が滅亡の道を歩み始めたのも事実だから、不忠の極みとも言える。
秀吉が徳川から千姫を迎えた事を無意味にしてしまった。
103 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:18:09.52
>>100 布陣そのものは西軍が東軍を包囲する形と言えるが・・・
鶴翼の主たる部分の一つ・小早川秀秋の去就は西軍布陣以前から疑われていた(西軍布陣のずっと前から、松尾山にこもる形になっていた)
石田自身、必ずしも自軍が有利とは思っていなかったのではなかろうか。
>>103 だが、小早川も裏切りを躊躇する程だったんだろ?西軍有利だったとする軍記物も多い。
105 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 22:52:32.56
松尾山に篭った時点で徳川に敵対しないって言う意思表示だと言う話もある
まあ小早川の内面なんざ想像するしか無いけど松尾山にいる小早川17000(だっけ?)は西軍としても相当不気味な存在だったんじゃないかな?
106 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 23:03:10.00
小早川の去就は”どちらにつくか”という点で、両軍とも読めなかった。
石田は小早川の監視役を兼ねて、麓に信頼できる大谷隊を置いた。
石田から大阪城の増田宛9/12付けの書状では、
長束正家、安国寺恵瓊は、人馬の水や上下にも苦労するような高所に陣取って、安全策ばかりで戦意を感じない。=先に南宮山に陣取った毛利隊の事を暗に言っている。
出陣した武将の中で、大軍を擁する者に内通の噂がある。
みなが心を一つにすれば徳川を討てるのに、今の状況だと味方に寝返る者が現れたり、不慮の事態が生ずるのが目に見える。
毛利輝元が出陣しないのは、もっともかとも思うが、陣中では皆不審がっている。
小早川秀秋には万一の事態もあるから、輝元出陣が無いなら、佐和山に五千ばかりの兵を増援してもらいたい。
宇喜田、小西、島津の覚悟はあっぱれである。
丹後方面の人数がいらなくなったようだから、その分もこちらにまわしてほしい。
状況の厳しさは西軍も同じだったでしょう。
107 :
日本@名無史さん:2011/07/20(水) 23:22:46.32
>>104 軍記物(笑)
軍記物とか一次資料じゃないんだから…記した人間の妄想やお上の都合やらで幾らでも脚色出来ちゃうよ。あくまでも二次資料なんだからさ
歴史を勉強したいなら軍記物とかじゃなくてもっと信憑性のある資料当たろうよ…当時の書状とか手紙とか色々あるよ
まあそうだが、複数の記述がある程度一致しているなら、信頼性はあるだろ。
>>107 取り扱いには注意は必要だけど、こういう少し後の時代の編纂物も充分史料的な価値はあるんだけどな。
一次資料にしても、他の資料と照らすなどの注意が必要なのには変わりないわけで。
とくに、合戦の「戦闘」部分の描写については正直、一次資料だけでは判りにくい部分も多いから難しいとは思うが。
110 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 02:12:03.96
>>108 >>109 イヤそれは分かってるよ。だが
>>104の 「だが、小早川も裏切りを躊躇する程だったんだろ?」とか内面描写は軍記物の妄想だろ
実際あの時点で小早川の気持ちなんざ誰にも分からんのに躊躇するとかある程度決めつけちゃうのはいかがな物かと??
客観的な事実のみを見るのが重要な歴史研究において一種の感情論みたいなのはダメだろって事
>>110 はあ?小早川が裏切るのに時間がかかったのは事実だろ?
また、裏切るなら最初から裏切った方が後々有利になるのも事実。
で、小早川は「裏切りを躊躇した」したのでなければ、どんな理由で時間をかけて裏切ったんだ?
他に、真っ当な考えられる理由あるんか?
112 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 19:44:42.56
>>111 >裏切りを躊躇した
これは東軍へ、合戦中に寝返る事を前提とした考えを基にしたものでしょう。
事実関係としては、東軍よりではあるが、東西を両天秤にかけていたという方がニュアンス的に正しい。
近江高宮にこもった小早川は、徳川に9/3 9/8 に使者を遣わしたが、家康からは一蹴されている。
決戦前日には、小早川の真意を疑った徳川・黒田から、家臣同士の人質交換をさせられるなど、信用されてない構図がありありと見える。
小早川は西軍として伏見城攻めに参加、鳥居元忠を討ち死にさせるなど、西軍方として実績を残しているから、
東軍に寝返ったとしても印象が悪いのは確実で、悪くすると差し引きゼロなどと言われたりしかねない。
一方、西軍側でも、小早川の不審な行動には神経をとがらせていて、
9/14石田自身が松尾山に出向いて、勝利の暁には、関白職(秀頼15才まで)・筑前播磨、家老ふたりに10万石など大変な好条件をだした。
石田としては傍観してくれてれば良い位の感覚だったかもしれない。
114 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 11:54:19.37
躊躇というか元からの作戦では?
敵(東軍)が攻勢限界点に達した時点で
新手の有力部隊を中心に守勢から攻勢に転じ敵を殲滅
115 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 13:16:07.59
最初から兵力差があったほうが、損害少ないだろ。
見た目が西軍有利に見えるだけ
東軍の後ろを囲んでいる毛利は動けないようにして、西軍側の懐に飛び込んでる布陣
117 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 20:44:51.96
だからよちょっと前の歴史群像見てみろよ 布陣について考察してあるから
118 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 20:47:43.33
小早川の中で寝返りの密約が確たるものであったなら、開戦と同時に大谷隊に攻めかかったはずである。
小早川が大谷隊に向かった段階で、西軍の右翼は崩壊するといってよい。
宇喜田隊は側面から小早川隊の攻撃を受ける事になる。
この場合、東軍の勝利はもっと早くに決していただろう。
しかし、小早川は動かなかった。
西軍の善戦は開戦してからしばらくたってから、結果として見えてきたのであって、小早川の日和見姿勢は最初から決まっていたと思われる。
福島隊が、兵力に勝る宇喜田隊に押され、小西隊が井伊・松平・寺沢諸隊を一手に引きつけたので、東軍の中央・左翼は危険な状況(ここで島津隊が攻撃に加われば更に危険)
黒田・細川・加藤・田中らの軍勢は石田隊にかかりきりであり、石田は一部隊での大奮戦といえる。
家康は徳川本隊3万を投入できるよう、桃配山から一気に本陣を動かしてきた。
この後、小早川が寝返る事になるのだが・・・
私見だが、寝返りの機を計っていたと言われてもいるが、合戦の中、3万の大軍を整然迅速に陣替え敢行してきた徳川本隊の圧力に屈したのではないかと思う。
結果的に、絶妙のタイミングで小早川が大谷を襲った形になり、前面に徳川本隊を向かえて、西軍諸隊が包囲される形になり、殲滅戦となってしまった。
119 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 21:03:44.16
>>115 その最初からっての開戦当初からって認識で良いのかな??
それなら開戦当初はまだ混戦になってないだろうから手持ちぶさたの部隊もあるし体力的にも消耗してないから下手すると裏切った瞬間に殲滅される可能性がある。まあそうじゃなくても苦戦するんじゃないかな?
ある程度戦線が膠着してから攻撃した方が相手は消耗してるだろうから有利に戦えると思う
>>119 後で裏切ると、日和ったと言われる危険性がある。筒井順慶のように。
戦後の扱いが全く違う。実際に民衆の目も違うし、統治にも影響する。
その危険性を考えても、やはり日和ったのだろう。
121 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 21:21:11.54
>>119 小早川隊は西軍右翼の主力部隊であり兵数一万六千、その下方に脇坂隊ら千二百 続いて大谷隊千五百であり、兵力差がありすぎる。
史実では小早川が寝返った途端、脇坂隊らも追随したため、大谷隊は短時間で全滅し、小早川隊らは宇喜田隊に襲いかかった。
122 :
日本@名無史さん:2011/07/22(金) 21:45:28.17
三成は、秀吉死後、思い切って家康に臣従すれば、老中くらいになれたかも。
123 :
日本@名無史さん:2011/07/24(日) 15:29:52.08
↑政治のノウハウを知り尽くしてる三成には家康も買っていたしな
124 :
日本@名無史さん:2011/07/24(日) 20:05:23.65
政治のノウハウてゆーか三成は技術官僚、経済官僚って言う気がするな。実務役の官僚ではあるけど政治家と言われるとうーん…
人間関係が作れない奴に、政治家は無理だよね。
いつの時代も、大事なのは多数派工作。
とはいえ、「西軍」をまがりなりにも作り上げただけでも
政治力を評価されるべきだと思うけど。
とは言うものの、石田三成を支える大名も多かったのでは?
島津、佐竹、上杉、直江… えとせとら
127 :
日本@名無史さん:2011/07/25(月) 15:57:39.84
上杉と直江はニコイチみたいなもんだろ
三成を支えるってゆーか個人的な付き合いじゃね??
あと島津って何かしたっけ??
どっちかて言うと徳川寄りな気がするが
>>125 想像以上にシナチョン汚染は進んでたんだよねえ
良民たちがまったりと暮らす間に
西軍に加わったのは、島津の「分家」では
というか、西軍を裏切ったのが、分家か
>>127 石田三成に意外と個人的繋がりが多いんだよ。
でも、戦下手で嫌われる要素も満載だ。だからこそ、今好きな人も多いわけだ。
132 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 23:30:27.99
取引先からは評判良いけど社内の同僚とは仲悪かったって感じだね。
味方に地方の有力大名や家老が多くて、逆に
秀吉の子飼いの多くは敵に回ったのを見ると。
中間管理職の悲哀
134 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 06:56:06.21
石田三成の関ヶ原における大きな誤算
豊臣政権時から便宜を図り、懇意にし、頼りにした大身大名が悉く役に立たなかった事
上杉景勝・佐竹義宣・島津義弘・安国寺恵瓊(毛利輝元)・鍋島勝茂・津軽為信
結局は、みな御家安泰が最優先であって、豊家の御為などは二の次であったという事。
特に上杉・佐竹には期待していたであろう。
だが両家とも直接徳川と戦う事を避けてしまった。
佐竹などは優柔不断も甚だしく、徳川が反転攻撃してきた場合、
真っ先に槍玉にあげられる事を怖れて日和見に終始。
島津・鍋島は国許が反石田であり、鍋島に至っては寝返る始末。
津軽は散々石田に世話になっておきながら、周囲が東軍だらけのため、攻められる事を怖れて徳川に味方。(言いわけのために嫡子を石田方にしたが、兵力がないので意味がない)
また、大大名に共通して言えると思うのだが、豊臣のために戦うとしても、石田の下知を受けるなど到底できなかったのだろう。
上杉は上杉、毛利は毛利、島津は島津であり、そこが石田の限界だったと思う。
135 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 07:31:02.83
三成の娘が高台院の養女になってることから
高台院が西軍よりだって説があるけど
どうなのかね?
淀殿は縁戚や乳兄弟の動向から西軍よりとは思えないっていう話もあるけど
>>134 津軽藩主の2代目が、石田三成の娘を妻に迎えて、その子孫が津軽家を継いでいるのは
その世話になったことへのせめてもの恩返しなのかな?
2代目の正室は徳川家康の養女。こっちの血統を大事にしたなら、津軽家としては都合が
良かったはずなのにね。
>>16 主犯格なのにその後の石田家への扱いが豊臣や他の大名に比べて甘いのは
家康か家臣団にそんな思いがあったからかもね。
>>137 甘いか? 関ヶ原関連で処刑されたのは、三成・安国寺・小西のみ。
他は改易で止めていて、大名個人への処罰は遠島になった宇喜多ぐらいだろ?
>>134 他の大名は判るが
津軽みたい中級大名にそこまでもとめるなよ
140 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 07:00:16.69
>>139 お主の言う通り・・
最初は入れるつもりは無かったが、つい書きたくなった。
津軽が上杉攻めに加わらず、南部や秋田を迎え撃っていれば、状況は又変化したかもしれない。
少なくとも、上杉の庄内戦線はかなり楽になったはず。
141 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 07:11:07.67
>>136 >津軽藩主の2代目が、石田三成の娘を妻に迎えて、その子孫が津軽家を継いでいるのは
>その世話になったことへのせめてもの恩返しなのかな?
それもあるだろうが、やはり三成女を一番愛しく思っていた事が理由ではあるまいか。
正室である満天姫との子は養子説もあるし、なによりイワクツキの姫でもあって、公儀からの踏み絵的縁組みともとれた(夫婦仲は問題無かったらしい)。
142 :
日本@名無史さん:2011/07/31(日) 07:30:04.51
>>135 淀殿も高台院も東西どっちとかは判断できる状況ではなく、
傍観しているしかないというのが現実だったと思われる。
佐和山隠居の石田が挙兵、突然やってきて諸将の人質をとり、合戦宣言!総大将は毛利輝元らしいが、采配は石田。
合戦の相手が、豊家大老の筆頭と次席、他豊家武将多数という摩訶不思議な構図である。
とにかく秀頼の安泰のため尽くしてほしいと思うばかりだったのではなかろうか?
同僚の三光がムカつくからって家康側について
案の定後で家康に潰された豊家武将アホすぎ
家康なんか信じるて間抜けすぎ
>>143 黒田も浅野も蜂須賀も、ついでに池田も前田もしっかり明治維新まで残ってますが、何か?
残ってりゃ良いってモンじゃないだろw
黒田は三成がどうこうじゃなくて純粋に徳川が天下取ると確信して徳川についた勝ち組
清正とかとは違いすぎるわ
147 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 00:51:21.81
秀吉死後の豊臣家の求心力の無さは異常
元同輩の前田・蜂須賀・黒田の家はまだしも
当主の代が変わったとはいえ血の繋がりもある浅野・杉原・木下や縁の深い家臣筋まで誰も大阪の陣で味方してくれないなんて
148 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 06:53:33.74
>>143 それ以前に、石田が政権の中枢に復帰したら、自分たちが将来どうなるかを考えた場合、結論として徳川に寄騎したという事。
黒田・細川などは蔚山城の一件もあって石田とは修復不可能、また石田を討とうした七将(黒田・細川・加藤清・加藤嘉・福島・浅野・池田)らも又然り。
他、東軍武将と石田とのあつれきの一例
蒲生秀行減封事件 前田・徳川
庄内領有権・上杉に加担 最上
上杉家会津転封時の越後年貢騒動・上杉に加担 堀
津軽為信独立 南部
秀次事件 伊達・細川・浅野・最上・毛利...東軍武将多数
朝鮮攻め 加藤清など多数
伊集院独立騒動 島津義久・島津忠恒
みっちゃんの嫌われぷりパネェす
嫌わ具合だけは天下人級スね
>>148 石田三成って九戸の乱の時に、総大将としてわざわざ陸奥まで行ったのに、それでも南部に恨まれているのw
つらいのうw
ここまで嫌われるのも才能
三成は天才的嫌われ師
152 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 17:14:44.27
>>150 総大将は豊臣秀次、石田は政権上の身分から軍監的立場
奥州仕置きによって南部家当主は南部信直となったにも関わらず、
それを九戸が認めないというのは、豊臣政権に対する逆心であるから、
公儀として討伐軍を出すのは当然だといえる。
独力で九戸を倒せないほど南部を弱体化させた大きな要因として、津軽の謀反があった。
故に九戸の乱以前に、全南部家にとって津軽は仇敵であり、その津軽を支持したのが石田。
そもそも津軽は南部の一家臣
南部の後継者争いのゴタゴタに乗じて謀反し、南部領西部を簒奪
石田の支持を得て、秀吉に独立大名として認められる
南部からすれば、家臣に謀反されただけでなく、伝来の所領を奪われた上に(特に津軽が簒奪した地域は南部信直の本領だった)、
その謀反人に指一本触れることさえ許されないという武家としては最大級の恥辱。
さらに、九戸の乱鎮圧軍に当の津軽が加わった事で恥の上塗りとなった。
このように石田ひいては豊家に多大な恩を受けた津軽だったが、
関ヶ原では徳川に味方した。
安藤英男の史伝石田三成と、石田三成のすべてって内容別?
154 :
日本@名無史さん:2011/08/05(金) 17:39:34.67
↑とはいえ石田に恩を感じていた津軽氏は関ヶ原以後石田三成の娘を嫁に迎えその息子を当主に迎えている
さらに石田三成の息子を重臣に迎え(杉原氏と改称)明治維新を迎えている
石田三成の恩を報いたわけだ
自己解決しました
割り込んでスマンかった
156 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:05:03.43
>>154 釣りに一応マジレス
恩に報いたなどとはとても言えない
石田女は関ヶ原の2年も前に高台院養女となっていたため、科人とはされていない。現に高台院の肝いりで津軽に嫁いだが、公儀にも堂々と報告している。
石田次男は関ヶ原のおりは秀頼付小姓衆として大坂城に出仕していた(当時11才)
秀頼の小姓で幼少でもあり、直接戦に関わったり西軍に合力した形跡もないのだから、
戦後でも科人として処罰の対象とはなっていない。(ただ居づらくなる事は確実だし悪くすると出家させられるだろう)
石田次男を大坂城から出して、共に出奔したのが津軽の嫡男たる信建(同小姓衆の同僚)。公的には大坂無断出奔でこれを罰するのは秀頼の役目
この行為が徳川方に不審感を抱かせ、論功行賞で僅か二千石の加増(石田と気脈を通じていた疑い、嫡男が出奔とは尋常でない)
よく石田のエンタメ本などで石田次男を匿ったなどと極めて良いふうに記述されていたりするが、
現実には津軽信建が彼を津軽家へ招いたのは、当時からして周知の事実であって公儀も詮索したりはしていない。
また、石田次男は”杉原”ではなく”杉山”である
157 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 17:32:09.59
続けて
また杉山と名乗ったのは公儀や主家を憚ったものであり、別に秘密でも何でもない。
津軽家の世嗣は信建であって、石田女は三弟の信枚に嫁している。
故に最初から恩に報いるべきとて石田の血統を当主にしようとしたわけではない。
世嗣の信建が当主為信より先に亡くなってしまったため、三男の信枚が世嗣となったのである。
石田女は信枚の寵愛が厚かった事は事実
石田女と津軽信枚の男児は待望の長子であり事実上の嫡男
公儀の命で満天姫を踏み絵的に正室としたが、後にその間にできた子は養子説が濃厚(地元記・満天姫は当時31才で前夫の連れ子あり)
形式的とはいえ神君家康の孫であった彼信英に対しての、当初の公儀からの扱いからして(僅か千石の旗本・津軽家から)養子であろう
又、杉山氏は当主の叔父であるから重臣となっても不思議ではない。
石田に対しての報恩という部分は確かにあったと思うが、
とりたてて何かやった(何らかの無理を通しただとか)わけではなく、結果的にそうなった、あるいは出来そうな事をやった程度である
津軽家が石田や豊臣の恩に報いたとはとても言えない。
158 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 14:56:05.80
過疎スレアゲ
家康が関ヶ原へ進出したことをどう評価するかだよな
まさか小早川秀秋の人物能力を信じて包囲網の中へ突入した訳でもあるまい
信長秀吉の時代の事実なんてかなりがねつ造ばかりだし・・・
>>159 秀秋が信ずるに足らない人物と決め付けてるあたりキミも充分捏造を真に受けてるよ
161 :
日本@名無史さん:2011/09/03(土) 15:47:17.44
>>135 >淀殿は縁戚や乳兄弟の動向から西軍よりとは思えないっていう話
たしかに京極家は東軍についてるな
大野治長も東軍として参戦してるか(これはやむを得ずか?)
高台院の縁戚では浅野が東軍だったけど
そこいらへんは白川亨の説ではどうなってるんだろ?
豊臣政権後半の浅野家は高台院とは木下一門ほどは懇意ではないんじゃなかった?
>>159 同時代の信頼できる史料では
秀秋は血気盛んで短慮ゆえ大軍の将としては危険視された人物だったらしいね
朝鮮役での単騎突出を咎められて蟄居という歴史的事実とも合致してる
大軍を任せるには危険な人物という点では同じでも今日の柔弱なイメージとはベクトルが正反対だ
萩原聖人の三成なかなかいいね。屈折した表情、目線などが。
165 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 19:19:22.98
>>163 このまま待ってると立花隊などが合流するのはもちろん
秀頼を擁して輝元が決戦に出てきたりすると敗北は必至
それよりは一か八かで運を天に任せただけだろう
毛利元就ばりに西軍がワザと裏切り役(小早川・吉川)を設定して決戦に誘い込んでるのかもしれない
あるいは戦が始まるやいなや東軍方として働く可能性もあるが優柔不断で迷ってる可能性もある
リスクはあるが座して死を待つよりはってことで
166 :
日本@名無史さん:2011/09/18(日) 01:17:31.57
167 :
日本@名無史さん:2011/09/18(日) 03:39:04.23
こいつは相当糞だと思うよ
168 :
日本@名無史さん:2011/09/24(土) 04:14:11.06
輝元が出てくるけど、秀忠も出てきたっていう本当の大決戦なら、どうだったんだろね。
(秀頼が来ない場合)
秀頼が来るとやっぱり、秀頼がついた側が優勢かな?
豊臣諸侯が三成憎しで徳川についたなんてのは巷説でしょ
実際にはもう家康に屈服してたわけだから
秀頼が出座してもあまり意味が無かったと思うよ
どこの馬鹿の説だよ
この時期にすでに屈服してたとか
変なムック本読むなよ
三成憎しで家康についたってのも小説の読みすぎっぽいけどね
でも三成は闇討ちにされそうになるんだろ?
憎まれてたのは確かだろうけど
それだけで陣営決めるような馬鹿はおらんだろ
未だに吏僚派と武功派の対立みたいな図式を書くのはどうにかして欲しい
実際には戦時中の参謀本部と方面軍や軍令部と連合艦隊の対立みたいなもんなのに
清正も正則も充分計数に明るくて吏僚の勤まる人間だし
三成や正家も普通に武功がある
前田玄以は確実に内務向きの人材だな
正家は丹羽家時代に数々
長盛は小牧で武功あげてる
寺沢正成なんて吏僚派で、三成襲撃の際には小西行長とともに三成から毛利輝元への
使者までやってる人なのに、会津攻めからそのまま東軍で活動している。
単純な武断vs文治みたいな図式は適当じゃない
177 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 19:56:55.69
三成が嫌われ者とみんな言うけど
関ヶ原当時五奉行やめさされて蟄居させられて謀反人みたいな形で旗揚げした男に
何万とゆう西軍が味方したんやぞ
178 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 11:31:21.68
そもそも個人的な好き嫌いでつく方を選ぶ程、戦国武将はバカじゃないお
加藤・福島と石田・小西の政治的対立のそもそものスタートは
個人的な好き嫌いって気もするけどな。
何しろ資質は変わらないからな
小西なんて「傲岸不遜すぎて商人が務まらなかった」男だし
四人とも秀吉の完成させた「職豊流兵法」を的確に運用できる軍事テクノクラートだ
小西行長なんか文弱みたいにいわれるけど
朝鮮で見せた剛は尋常じゃない。
加藤清正との先陣争いに勝つ機略は並じゃないし、
白兵戦でもすさまじい強さを発揮してる。
石田三成も阿諛追従の茶坊主みたいにいわれるけど
関が原の奮戦をみれば、立派な武闘派だし、
政治姿勢はむしろ武断派だもんな。
後世の人間は印象論で見すぎてる。
あれは尾張派vs近江派(尾張外派)と
地縁で生じた人脈が対立した、とみたほうが正しい。
>>181 紀伊攻め、四国攻めでの行長も凄いよ
ぶっちゃけ朝鮮攻めで株を上げたのはむしろ「行長と互角に張り合った」清正の方だから
国内戦では鉄砲奉行や普請奉行が多くてあまり「軍功」は挙げてなかったからね
183 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 22:07:16.97
>>174 確かに福島正則は朝鮮の役では兵站担当として活躍してるし
三成は、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いでは一軍を率いて戦い負傷
賤ヶ岳では一番槍だし強直な人物だろう(融通がきかず不正をきらう)
単純に武断とか吏僚とかではない
184 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 07:05:45.61
>>181 >尾張派vs近江派(尾張外派)と地縁で生じた人脈が対立した、とみたほうが正しい。
というより 年寄として豊臣家の枢機に関わっている主流派と非主流派の対立ではないのかな?
三成はタヌキおやじの書いた筋書きに完全にのっかって踊って自滅したアホ。
>>184 上にもあるけど
近代日本軍でもあった参謀本部と派遣軍の対立だよな
187 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:38:22.81
>>185 西軍勝利の可能性がある程度高かったことは
九鬼や真田のようにどっちが勝っても家名存続出来るようにした
大名がいることでもわかる
勝負は時の運なので後世
「家康は三成の書いた筋書きに完全にのっかって踊って自滅したアホ」
と言われた可能性もある
関ヶ原で負けても家康の評価はそこまで落ちないだろう
秀忠は地上最低の二代目・家を没落させるボンボンの代名詞として
永遠に馬鹿にされ続けるだろうが
189 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 00:42:38.51
万が一徳川が大敗しても徳川は存続してたわな
お江さんがいるし
30万石程度に縮小されるだろうけど
家康は切腹は免れないが、、
190 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 02:33:43.97
関ヶ原で西軍が勝ち、家康が負けても、秀忠軍らもいるし、三成の思うようにならず、群雄割拠の戦国にもどるだけじゃね
191 :
日本@名無史さん:2011/10/21(金) 06:46:59.12
石田三成の下知に従った大名
小西行長
宇喜田秀家
大谷吉継
だけであり、よく善戦したといえる。
ただ東軍にはまだ無傷の徳川本隊3万があり、これが寝返り軍に圧力を加えたとみてよい。
都市伝説の如く、昔から徳川本隊が役立たずだ、二軍部隊だなどと、
なんの根拠もない説がよくエンタメ本などにでているが、
ダメ軍隊が、3万の大軍を合戦中に短時間で陣替え前線移動できるわけがない。
石田の、事を起こす前の準備、すなわち味方糾合、畿内に関所、街道の支配、合戦場の陣場構築などなど、まさに流石というべき実務手腕である。
だが、残念?な事に、石田の下知に従う大名が少なく、計画が計画として機能しなかった。
家康が負けるはずがない。すべて家康の筋書きだ。小早川の裏切りの
約束を取り付けたから安心して上杉征伐に出かけたんだよ。上杉征伐自体が
三成の挙兵を誘う罠。三成の挙兵の報を聞いた家康は「これで天下が手に入った」
と大喜び。関ヶ原の布陣を見ても西軍圧倒的に有利。戦上手の家康がこんな布陣を
するはずがない。これも罠。タヌキおやじ恐るべし。
基本的な流れも理解してない人が日本史板にいるのか
>>192 裏切りもなにも
家康が上杉征伐に出発した時点では諸大名は随時合流すべしと命令くだって
動員中だ
その段階では東軍も西軍もないし、小早川も長曾我部も上杉征伐のために軍を
動員した
上杉征伐に出かけたのは三成の挙兵を誘う罠なんだよ。
あの老獪な家康が虚を突かれたりするかよ。
ところで、三成はなんで小早川を味方にできると思ったのかね?
恨まれまくってるのはわかりきってると思うんだが。
それともそんなことも分からないほど人の心がわからない人だったのか。
人の心がわからなかったんだよ。追従と讒言で取り入った茶坊主だからね。
三成の人徳のなさが豊臣縁故の大名までを家康側に押しやったんだ。
まさに獅子身中の虫だ。
ええ?秀秋に関しては主にラスボスの責任だろ
小早川は三成に就いたのではない。家康との密約で裏切るために西軍に加わっただけだ。
>>201 3年ぐらいROMって、勉強してから出なおしてくるといいよ
寧々の陰謀
197から急にレスのレベルが落ちた件について
関ヶ原で西軍から東軍に寝返ったり、静観したのは毛利家絡みの人が多いよな。
秀秋を小早川に押し付けたことで却って毛利家と豊臣・三成の関係は悪くなったのか?
秀次、利休の死の背後にも三成の暗躍がある。讒言と阿諛追従が三成の
出世術。当然人望はなく、後ろ盾の秀吉死後は三成への反発から
豊臣家の縁故者までが家康に味方した。豊臣の天下を滅ぼしたのは
家康ではなくて三成だ。
207 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 12:11:23.78
どんな漫画を読んだのですか?
208 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 12:22:41.50
絵本治部少記
>>206は身の危険も顧みず秀次を擁護したことに感じ入って三成の家臣になり
関ヶ原で奮戦して死んだ舞兵庫や大山伯耆ら若江八人衆に祟られろ
210 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 19:27:22.83
>>209 >身の危険も顧みず秀次を擁護したことに感じ入って三成の家臣になり
三成スレだから仕方ないにせよ、良い捉え方の極みすぎだ。
秀次改易は、実務的には三成が主要な役割(政権中枢)を果たしたといっても過言ではない。
ただ妻子共々死罪獄門ということには難色を示したという事であって、
結果として秀次一家は誅殺されたため、武将として、己が責務として妻子獄門の検視となったのであろう。
蒲生家大減封の時も蒲生旧臣が三成に仕えたが、これらは、改易前から話しがついていたと見る方が自然である。
石田三成の実務能力からすれば、当たり前と言えば当たり前で、
沙汰の準備段階で彼らを掌内に取り込んで、事に及んだのであろう。
政権中枢にいる石田が、これら科ある家の浪人を新規に召し抱えるというのは憚られて当然の事である。(特に秀次家は、前野や木村などが切腹に及び、連座した大名も多くいて、彼らは政権側から手酷く吟味されている。)
要は元々協力者、或はその伝手ありと考えるのが妥当だ。
それが卑怯だとかは全く思わない。武将としての兵法の心得であり、有能さの証といえる。
故にこそ、後の関ヶ原で、壮大な計画を成功寸前まで持っていけたのであろう。
211 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 19:47:38.28
長男の石田重家って、関ケ原の戦いの際に、大阪城で人質になってるって本当?
すると、毛利輝元が西軍の大将として、東軍の諸将の妻子を人質にとったというだけではなく、西軍の中心的な武将の嫡男も人質にしてたの?
212 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 19:57:11.26
>>205 毛利輝元は、石田の了承なしに、瀬戸内の四国側の制海権を得ようと兵を出したり、北九州に介入するなど、独自の行動をとっていた。
関ヶ原も合戦近くになると、西軍では、毛利派、石田派、日和見派にわかれてしまう。
毛利派は、石田の頭越しに、徳川方と講和或は和議を進めようとした毛利輝元に従った者たちで、
南宮山と栗原山に陣取った、毛利家諸隊、長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親、大阪城内の増田長盛もこれにあたる。
小早川秀秋は日和見派で、島津も合戦直前に日和見派となってしまう。
213 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 20:01:13.57
>>211 本当。
皮肉にも、そのおかげで罪人として科を受けず、後に仏門に入ったという。
214 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 18:42:21.03
戦闘力の高い毛利、立花、島津を本戦に活用できなかった。
これが最大の敗因。豊臣閨閥の秀秋も大軍だったので、開戦直後から西軍主力として参戦させるべきだった。
要は小大名で、人望が無かった。全体の戦略も家康に比べると甘い。
個人的には戦闘力が非常に優れていた立花軍を、本軍から外して関西方面の後詰にしたのが痛いと思う。
奥羽の上杉軍、信州の真田軍との連携は見事だったけどね。
毛利や小早川は三成よりも地位が高い大大名なんだから三成の言うことなんか聞く訳がない
お願いして出て頂く立場なんだから動いてもらえるよう話を付けられなかった時点で終わった
徳川倒したいなら代わりに上杉毛利に天下をくれてやるくらいじゃなきゃ無理だな
家康と北政所の関係は悪くなかっただろ。
東軍側に付いた主だった豊臣派武将は北政所派だったことを考えれば、
豊臣派どうしが何故戦ったか、何故東軍に付いたかは見えてくるだろ。
>>216 せめてこのスレだけでもいいかにら見てから書き込もうな
218 :
日本@名無史さん:2011/12/12(月) 23:29:57.72
age
何歳の時に茶坊主やってたのかは知らんがあんな気遣いできる子供気持ち悪いわ
まぁただの創作だし
三成みなおし論があるが、
おれは水戸光圀が旗頭だということに
懐疑心をいだかざるをえない
三杯の茶の話って多分に創作だろ
影武者 徳川家康で戦国を学んでいますよ
それと左近SAKONもいいですな。
ちなみに成り上がりの山内一豊は嫌いです
義風堂々と陣借り平助も忘れないでね
>>220 歴史って勝者側の歴史だからね、光圀は道理を説いただけだろ
家康が正義とするなら家康に反抗して負けた三成が
あることないことあしざまに言われるのは世の常だよ
習った歴史が全部正しいなんて思わない方が良いよ
225 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 06:32:52.23
>>222 高知の人に聞いたら坂本龍馬の人気が高くて次に長宗我部元親が人気あるって
山内はほとんど人気ないって(笑)
まがりなりに高知を作った人物なのにね
東北なんて政宗に侵略や虐殺食らった土地の駅に郷土の英雄さしおいて
政宗の像があったりするぞw
>>215 三成が200万石以上の徳川とタメはれる大名だったら他大名も言うことを聞いたよな
秀吉の加増を断りまくる欲の無さが仇となった
ただ欲がないゆえに豊臣に忠義を誓って守ろうと行動したんだし、強欲だったら
そもそも家康と戦おうとはせず保身に走り豊臣を滅ぼす側に回るわな
金銭欲や領土欲はないが
権勢欲があったんだろ
229 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 20:45:22.62
>>227 加増地が遠国設定(九州等含む)だったため、畿内に留まって政権中枢により近い場所を選んだ。
それでも、豊臣一族ではないにもかかわらず、三成の近江佐和山十八万石は畿内封としては最大級であり、五奉行の中でも飛び抜けている。
三成は封土を選べる境遇であり、朝鮮出兵のため有無を言わさず西国に封じられた者たちとは比べようもない。
秀吉が死んで家康が豊臣政権の政治を代行した時に勝負あった。
豊臣家臣団は分裂し各々が自家の生存を掛けて独自行動を取るようになると、
最大勢力を持ち、正統性もある家康が圧倒的に有利なのは当たり前。
次は家康の天下だとハッキリ認識できたものが生き残り、
読みきれなかった者はことごとく敗れ去った。
家康としても時間をかけると代行権を奪われる可能性があった。
博打を打ったのは三成の方で、結果的に秀頼を担ぐことが出来なかったのが敗因だが、
豊臣政権の行く末からして、三成の行動は否定できず、
秀頼側近や毛利の甘さこそ非難されるべきと思う。
231 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 21:50:47.36
232 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 08:17:32.56
三成って名前は珍しいな。
太田部三成とこのシトぐらい。
233 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 12:24:31.95
>読みきれなかった者はことごとく敗れ去った。
次の覇者が家康だってことなんて皆分かってただろ
石田家や上杉家でさえ家康に加担するよう説いた家臣が大勢いたんだから
それでも西軍諸将は各々西軍に入る理由があったわけで。東軍諸将も理由は様々だけど
それは今の時点での高みで言っているだけだろ。
関ヶ原だって、実際再度やったらどっちに転ぶか分からない。
こいつ典型的な外資系人間だな
朝7時にきて夜11時にかえる
仕事は内容より時間が大事
出世は能力ないから他人の評価をさげてやる
輝元がアホじゃなければ
毛利って天下ねらえる場所にいたよな
238 :
日本@名無史さん:2012/03/26(月) 17:07:47.00
元就が生きていたら大阪城に
立て籠もってたろうな
240 :
日本@名無史さん:2012/03/29(木) 22:33:15.45
毛利は周長2国の下関に落ち着いてよかったんじゃないかな。
石高は低くはなったが、収入は多くなったし、
家臣を土地から切り離せたし。
収入が多くなったのは村田清風が出た後。幕末直前。
>>241 重就(宝暦期)のときに新検地やってたし。地道に開発してたからこそでしょ。
広島の山の方よりは、確かに三方が海で西廻り航路の要衝を押さえる場所の方が
よかった。
石高は余り減らさずに内陸中心の藩にされてたら、倒幕などできなかったかもね。
長州なんて雑魚でたいした貢献してないだろ
維新後に勢力伸ばしただけ
戦争やって勝ったのは薩摩
244 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2012/05/07(月) 19:34:08.45
薩摩だけじゃないだろ
薩摩は密貿易と借金踏み倒しで
デカくなったからなw
決して実力ではないw
247 :
日本@名無史さん:2012/05/11(金) 23:34:58.65
まだまだ低評価の三成の話をしろよ。
248 :
金吾秀秋:2012/06/10(日) 10:10:30.29
まったく三成の低評価ぶりにはあきれたもんだぜ(´・ω・`)
249 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 02:11:52.20
251 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:03:36.82
秀秋の低評価も酷いもんだな
その短い生涯で朝鮮陣での前線働きが軽率だと言って秀吉に叱責された以外は
特に何の失敗もないのに
252 :
蘇我入鹿:2012/06/27(水) 23:12:35.34
253 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 00:22:54.56
三成関連の悪いエピソードってほぼ全部と言っていいくらい江戸時代の創作だよね。
254 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 01:27:16.04
もっかい
>>148読めよ。
こんだけの悪行やらかしてんだぞこのクズは。
255 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 16:50:08.79
殆ど言いがかりばっかじゃん
似たような存在の梶原景時とか江藤新平には同情できるんだが
三成だけはなんだか自業自得だなあ
>>256 江藤?
怜悧な秀才肌という点で?
三成は秀吉、景時は頼朝という庇護者の下で能吏として活躍し、庇護者がいなくなった時点で
没落した点が似ているとは思うけど。
江藤は西郷の下で司法卿として活躍しているが、一番やりたかった山県・井上の失脚は西郷が
阻止したようなものだし、西郷は全然江藤を信用していないし。
>>255 言いがかりは朝鮮絡みくらいだろ
三成にどういう意図があったにせよ上杉や津軽に肩入れしたことで禍根を残したのは事実
まあそれを「悪行」とかいうのも頭悪すぎるがw
259 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 16:12:06.11
伊集院と蒲生と秀次も言いがかりだろ。
上杉と津軽に関してはまあ南部とか堀に恨まれても文句言えないが。
>>259 ここは学問板ですから、言いがかりだと断ずるなら少しでもよいから根拠を示しましょう。
確かに政務を預かる石田からすれば、”止むを得ない、天下安寧のためには仕方ない”かもしれないが、やられた側はそうは思いません。
史実においては、伊集院の処置・蒲生の大減封及び当事者らの不可解な処置・秀次に連座させられそうになった諸将の処置、
いずれにおいてもやられた側からは大きな恨みを買っていて、全て関ヶ原に結びついています。
特に伊集院忠棟の件は、石田・伊集院ライン
(石田としては計数の才を持つ・島津家家老の忠棟を独立大名として取り立て、南九州諸藩政近代化と大藩島津家の分断を図りたかった)
と鹿児島島津宗家(家臣が1日にして同格の大名身分にされた上、所領までとられる形になるという、武家にとっては大恥辱であり何としてもそれは避けたかった)の間に決定的な溝を作ったため、
関ヶ原において西軍に与した島津義弘に、国許から兵が送られなかった要因となっています。
島津が兵を送れないのはいつものこと
朝鮮出兵時もうちだけ兵が来ないから恥ずかしいよ早く送ってっていう泣きの手紙があるし
もし東軍についても同じことだったろうね
要は体制が古いのが問題なわけで
一旦戦いになれば各兵は強いんだけどなあ
262 :
金吾:2012/07/01(日) 12:28:49.23
(´・ω・`)全くつまらぬ男もいたものである
関東政策に関しては申次として上杉中心でと考えていたのは確かで、
家康と急接近した浅野長政と政治的に対立関係にあったのは確か。
関ヶ原までの過程は石田三成vs反三成派、と見るより、浅野長政派vs反浅野派と見たほうがいいと思う。
264 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 15:54:31.54
後世の創作抜きで当時の行動や経緯だけを見てると
結局、どう転んでも誰かしらから恨まれるポジションにいたとしか言いようがないな。
好き嫌いの分かれる人物というのは、リーダー(神輿含む)としては八方美人・可もなく不可もなく
には勝てないのだろう。
足利直義が兄の尊氏に勝てなかったのと似ている。
好き嫌いがわかれるかどうかも含めて、石田三成という人間の性格や人格を記録した史料は存在しないわけで。
267 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 16:31:37.19
少なくとも東軍武将全員と小早川と西軍の間でも吉川とか
島津からは蛇蝎の如く嫌われてたのは史実から明らかだろ。
真田からも愚痴られてたし。
むしろ、上杉みたく三成の専横で甘い汁にありつけたごく一部の武将くらいしか親しい人間はいなかった。
268 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 17:06:37.54
だから山田長政として国外に亡命したのか?
269 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 17:12:33.04
大体、三成が優秀な官僚だったとか領民や家臣に慕われてたとかいうのも
小説なんかでの創作から広まった嘘八百じゃんか。
270 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:25:52.35
秀吉に熱め、ぬるめのお茶でもてなしたのも創作?
>>270 当然。と言うか現在残ってる三成の逸話はほぼ100%江戸期以降の創作
272 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:33:41.27
じゃあ、傲慢だとか讒言しまくったとかいうのも?
>>272 そう。ついでに言えば大谷吉継との友情話も。
274 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:48:31.80
じゃあ結局どんな人だったのさ?
275 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:04:34.66
只野人。
部下に「先輩!」と云われてた。
>>274 だから三成の人となりを表すような記録は皆無。
毛利輝元なんかが三成の前では物が言えない、みたいな事を言っていたようなので、
頭が良くて人に圧迫感を与えるような人間だったかも、という程度の推測はできる。
277 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:14:47.82
疑問なのは福島正則はなんで三成をあんなに憎んでたのかなあ?
清正、黒田長政、細川忠興は唐入りの一件
(これは三成の親戚が悪いがまあそのとばっちりも動機としては納得できるw)があるし
浅野長政は元々三成と政治的に対立する立場になることが多かったが
正則は三成と一緒に兵站を担当することが多かったし
秀次事件でも三成と一緒に事件の処理に当たる立場だったのにね。
278 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:21:04.63
>>267 後世の史料以外でのソースプリーズ。
特に島津。言っとくけど「状況から見てこうだっただろう」的なのはソースとは言わないからね。
>>278 どういうものをソースとするのか?
例えば278氏が資料的に信頼できると思う史料名は何でしょうか?
具体的に説明してから希望しなさい。
「状況から見てこうだっただろう」というのは、今現在の報道でも使われている手法です。
当事者の心情などは、人にはそれぞれ複雑な要素がありますが、行動した事がその心情の中でも優先順位として現れる事は否めません。
また反対意見があるなら、自分もソースを示してからにしないと学問板としての主旨に反します。
>>277 石田が秀吉の下命を申し渡す立場になった事がきっかけだと思われる。
豊臣政権の政に加わったものたちは、大体が石田と友好関係であり(当然と言えば当然、でなければ政が機能しない)、
それが端からみれば、仲間うちで政を牛耳っていると見えてしまう。
尾張衆筆頭の正則としては、秀吉の命令であっても、それが石田を通して下される事は屈辱的に感じたのだろう。
281 :
枡田衆道:2012/07/01(日) 20:15:00.08
>>273 三成と吉継は、衆道関係にあったと言われるが、
それも捏造かね?
282 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 20:53:52.26
同時代の一次史料を提示する奴はいねえのかよ。
どいつもこいつも好き勝手言ってるけど。
284 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 00:39:04.66
>>282 一次史料と史実を追えばこいつがいかにクズで嫌われ者で無能な豊臣家のガン細胞だったかがよくわかる。
福島正則が三成をどんな風に憎んでたの?
東軍についたのは三成が勝った場合より徳川に恩を売った方が自分に有利と考えたから、と見る方が説明がつくと思うけどね
実際に50万石貰ってるし
連投ごめん
正則が七将襲撃に参加したのも、個人的に三成憎しというより、周りの人脈との絡みで理解する方がすっきりする
そもそも七将とか関ヶ原とか単なる武断派だの三成憎しだので語れるほど単純じゃないからね。
ましてや北政所が仲のいい武断派をけしかけたとか何の根拠もない。
288 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 04:22:01.48
単に天下人の側近の運命なんじゃないの?
>>285 >東軍についたのは三成が勝った場合より徳川に恩を売った方が自分に有利と考えたから
その部分が大事なところ
徳川に味方した武将がそのように考えたのは、石田三成とはうまくやっていけはせぬ、それどころか先行きが不安だとしていた証拠であり、
行間を読めば、仲が良くないという事になる。
>>286 >正則が七将襲撃に参加したのも、個人的に三成憎しというより、周りの人脈との絡みで理解する方がすっきりする
勝手に軍事行動を起こす、しかも洛中で、これがどういう事なのか、政権に対する反逆ととられても仕方ないし、通常ならば明らかに討伐される対象となる。
ところが、七将の行動をストップさせようとするどころか詰問さえする者はなかった。
これは、つまるところ彼ら七将の行動の理由が"感情"の問題であり、理屈ではなく、止めるなら武力しかない、とばっちりも受けたくないと周囲が認識していたからである。
懇意の宇喜田、上杉、佐竹らも石田をある程度匿いこそすれ、決して七将と接触したり、直談判して助けようとはしなかった。
この事実も、七将に理屈は通用しない、自分たちとも事を構えるだろうと彼らが認識していたからだ。
そのせいで、石田は徳川に頼るほかなくなってしまった。
福島正則は加藤清正とともに襲撃の首謀者であり、憎悪もないのに人間関係のみでこのような大事を起こすという方がありえないし、七将自体、各々全員が普段から懇意なわけでは無かった。
三成憎し、三成討つべしという共通の強い目的があったからこそ大名同士で事を起こせた訳で、そうじゃない人間を仲間にはしないだろう。
>>289 行間を妄想しすぎw
>>230 七将の挙兵の感情論は面白いけど、三成が頼ったのは毛利と上杉だよ
293 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 10:24:36.80
七将の顔ぶれを見るとみな名将ばかり。
そんな彼らをここまで怒らせた三成はやはり佞臣だったに違いない
294 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:13:56.65
>>293 もともと秀吉没後に対立したのは前田利家VS徳川家康だろ?
しかし前田利家が死んでしまったのでその争いを三成が引き継いだにすぎない
七将たちは利家存命中から家康方についており、
必ずしも三成嫌いで家康方についたわけではない。
295 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:59:32.03
七将たちがもし
大阪方についていたら時代はどうなっていました?
296 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 13:14:15.79
前田利家は生前事実上家康に屈服している。
298 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 18:23:08.75
>>296 秀吉死後、利家と家康が一発触発で両者の邸に各大名が集まった際、
福島正則は利家ではなく家康の邸に集結している。
>>297 利家生前、家康に屈服した事実はない
>>298 対立の決着は利家が「家康の居る」伏見に出向いて頭を下げたこと。
これは武士社会の常識では屈服である。
その上、対立のきっかけとなった家康による婚姻問題は、全てそのまま推進された。
これを屈服と言わずしてなんというのか。
300 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 19:09:25.37
>>299 利家と家康が交わした誓紙は対等。
利家が家康を訪問したのは事実だが、利家が家康に頭を下げたというのは
何の史料に載ってるの?
家康もまたその後、病床の利家のもとを訪れているんだが、
家康が利家のところへ行ったということは屈服だ、とかいうわけ?
>>300 いいか。当時の常識では本当に対等なら双方中立地帯に出向くという形を取る。
利家が家康の居る伏見に出向いた以上、これは利家の屈服なんだよ。
家康が小牧長久手の後、大阪の秀吉のところに出向くことが臣従と同じ意味に成ったのはこ感覚のためだ。
ちなみに秀頼の二条城対面も同じ事な。あれは中身がどうであろうと秀頼が家康に臣従した儀式。
当時の人間は常識的にそう見た。
このくらい知っておくべきだぞ。
302 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 19:18:44.13
>>299 和議の内容としては
・利家側は家康の婚姻問題をとりあえず棚上げにする
・家康側は豊臣家の居城伏見城を出て向島に退去する
というもので、家康側の一方的優位に進められたわけではない。
利家が家康に屈服したのならば、利家に臣従の誓紙でも書かせて
利家の秀頼守役罷免・利家の大坂城退去・人質要求程度のことはやるだろう。
利家は秀吉・秀頼に臣従の誓紙は書いたが家康には書いてない。
>>296 >七将は利家を慕っていたはず
七将の中で利家寄りは細川忠興のみで、浅野幸長は徳川寄り、他は徳川派。
>>294 >もともと秀吉没後に対立したのは前田利家VS徳川家康だろ?
大老次席の利家を石田が担いだのであって、だがすでに利家は重病であり前田が主体的に動いたわけではなく、行動の青写真は石田がとっていた。
>>291 行間を読まなくてもわかる
>>三成が頼ったのは毛利と上杉だよ
それならなおさら、大老の大身2人揃って何もしなかったのは更におかしい。
大老2人連署の上、詰問使を送る程度の事もしなかったのは、その時点で見捨てたに等しい。
>>302 臣従したとはとてもじゃないが言えない、だが屈服したとは言える。
良く言うところの、四分六分、三分七分の手打ちといったところだ。
これが利長になると、徳川に人質(まつ)を差し出しているので、従属関係となり、
関ヶ原以後は所領を安堵されたため、臣従ということになる。
>>304 利家が重病ならあんなに大名が利家のもとに参集しないだろう
秀吉死後、利家は伏見城から秀頼について大坂城に入り
更に家康のいる伏見にも行っている
重病ならばこんなに移動できない
308 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 20:07:27.37
>>300 偉そうに知っておくべきも何も、いってることがむちゃくちゃだぞ。
秀頼は二条城対面のとき家康の臣下になったの?
後水尾天皇が二条城に行ったのは家光の臣下になったため?
小牧長久手の後家康が秀吉のところに行った際には
家康が秀吉の下座に座り、臣下の礼をとっただろ。
しかも、これより先に家康は次男秀康を秀吉の人質に差し出している。
人質まで差し出しておいて臣下になろうかどうしようかと言ってる場合じゃない。
臣下が主君と同座した例をあげてくれるかい?
>>308 キミも困った子だな。意地になる話でもあるまいに。
「御成」って知ってるか?後水尾天皇も臣下の招待に応じたものだ。
利家や秀頼はそうじゃないだろ?状況見ればわかるだろ?わからないならキミに理解する能力がないだけだ。
>>307 利家自身の書状でも病状について述べている。
無理をして大坂城入りしたため、余計に悪くなった。
又、伏見城訪問の際は、最早死病の状態で、これで徳川は天下とりの意を強くした。
返礼の前田屋敷訪問の際、利家は利長の行く末を遺言として家康に頼んだ。
>>305 組織内で人が物事がどう動くか知ってる?
>>311 そういう返し方をするのでは無くて、具体的な事例でもって説明して下さい。
313 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:23:15.16
>>309 百歩譲ったところで利家が家康のところへ行ったのは
家康が五大老筆頭であり石高も上、しかも豊臣家最大の姻族だったことによるものだろう
それは秀吉が存命中に決めた豊臣家家臣としての序列によるものだ
しかし、利家が家康に臣従したという証拠がない。
で、臣従した相手が主君と同座に座った例は見つかった?
314 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:31:22.62
>>310 利家が家康に臣従し、利長のことを家臣として目にかけてくれるよう家康に頼んだのならば、
利家死後の家康による加賀征討の意味なし。
すでに臣従している前田を今更なぜ征討する必要があるんだ?
利家が服従しているのだから、即刻伏見城に人質を送りつけるよう命じるなり
家康は利家の家に行った帰りにでも人質を一緒に連れ帰ればよし。
利家も臣下ならば家康に対する人質を拒む理由が全くない。
わざわざ加賀征討して人質要求する意味なし。
電波君なのか?
>>314 >利家が家康に臣従し
臣従したなど書いてないし、まだ臣従などしていないし、同じ大老で家康が1段上な状態です。
>利長のことを家臣として目にかけてくれるよう家康に頼んだのならば、
利家死後の家康による加賀征討の意味なし
利家死後、死人の頼みごとなど無いようなもので、前田利長は、合戦を起こして勝者側になろうとする家康の格好の餌食だったわけです。
この時、初めて人質要求がなされ、異心なき事を示し、戦を回避するため、やむなく母親を江戸に送ったのです。
同じ大老から人質をとるというのは、前田が徳川に従属した事の天下へのアピールであり、労せずして前田を屈服させた徳川は、次の標的を上杉としたわけです。
316 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 00:05:23.11
>>316 だから、お前は利家が家康に臣従はしてないことは認めてるんだろ。
だからその点はもういいよ。
家康は利家が死ぬのを待って臣従しようとしない目の敵前田家を滅ぼそうと
戦を仕掛けたんだから。
利家が家康に「屈服」したかどうかというのが問題。
家康は利家をゆるし伏見城を明け渡している。
「利家が家康のところへ行った」のはその後逆に「家康が利家のところへ行った」
でご和算だろ。
>>316 >だから、お前は利家が家康に臣従はしてないことは認めてるんだろ
言っておくけど、私は309氏ではありませんし、利家が家康に臣従云々を論点としているわけではありません。
>家康は利家をゆるし伏見城を明け渡している。
これは違います。
>「利家が家康のところへ行った」のはその後逆に「家康が利家のところへ行った」
でご和算だろ。
これに関しては、ご和算とはいきません。
平時ならともかく、石田が利家を前面に立て、太閤遺命を破ったとして家康を詰問したのが事の発端であり、
いったん両家に諸将の兵が詰め、戦仕度があった後、利家の方から家康の政庁たる伏見城を訪れました。
もしこの時家康に何らかの罰が与えられていたなら(今後遺命に背かぬなどの誓詞でもかまいません)、それは両者引き分けと言えます。
しかし、当の家康には何ら処分がないどころか、差配今迄通りと家康に確認された後、和解という形を取りました。
詰問したあげく兵を集めておきながら、自ら和議を申し出る形となり、挙げ句相手の家康に今迄通りでよいのだなと宣言されて、それを了承するという事は、屈服したという事です。
ただ、家康もあまり高飛車に出て、利家を追い込んでも益無し(どのみち死期が近い)として、返礼する事で利家の顔を立てたのです。
>>287 それ以前にまず北政所が武断派と懇意というのが何の根拠もない後世の創作だし
319 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 10:14:13.71
というか、三成は淀と密接な関係な一方でねねからはメッチャ嫌われてて
ねねは自分と最も親しかった尾張派の武将や金吾に家康に付くようけしかけたとか
一体誰が言い始めたんだよ。
金吾との関係に至っては「お前もうちょっと可愛がってやれよ」って秀吉から書状来たレベルなのに。
320 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 10:29:56.19
>>317 和議を申し入れたほうが負け?
小牧長久手では秀吉が家康に和議を申し入れたから秀吉の負けか。
大坂冬の陣でも徳川が豊臣に和議を持ちかけているぞ?
利家にも家康にも処分がなかったのだから、和議は公平。
家康が遺命に背かぬの誓書を取られたのならば、それは利家の意見が通ったことになり、
家康が利家に屈服したことになる。
両者処分なしなら、利家の負けのはずがない。
言ってることが無茶苦茶。
>>320 いくらなんでも無理がある。冷静に見れば利家が家康に屈服した形で事をまとめたのは確かだよ。
なんでそんなに感情的に成ってるんだ?
322 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:44:44.16
>>321 いや、冷静に見て対等だよ。
むしろ、秀吉没後、家康は天下取りを急ぎすぎてボロをだし、
前田利家を中心とする四大老から五大老解任の申し入れをされていた。
困ったことになった家康が「私を五大老に任じたのは亡き秀吉公の志。
私を大老解任することこそ亡き秀吉公の遺言にそむくこと」とすっとぼけて
五大老解任を免れたというだけ。
これが顛末。
323 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:04:27.46
>>301 なんか違ってるよな。
講和自体は利家は大坂城、家康は伏見城にいたまま結んでいるのに
なぜ「利家が講和してくださいと家康のもとへ言いに行った」ことになってるんだ?
ましてや、前田利家VS徳川家康のときには五大老中四大老が前田利家についた上、
豊臣家有力大名も利家に味方する者が多く、家康はむしろ不利な立場だった。
だからこそ家康は「私を大老解雇することは秀吉公に対する侮辱」と秀吉の名前まで出して
自分の大老解任阻止に必死になった。
どちらかといえば家康のピンチだった。
>>322 申し訳ないがキミは、先ず結論を決めつけてそこから過程を見ている。
全く冷静な観察ができていない。
>>324 結論を決めつけているのはおたくだろ。
時系列順に出来事を追ってごらんよ。
あと、前田利家方についた大名、徳川家康についた大名、
それぞれの動向も精査すること。
>>320 >小牧長久手では秀吉が家康に和議を申し入れたから秀吉の負けか。
家康は信雄の合力要請で戦に参加したのであり、当の信雄が先に秀吉と和議を結んだため、合戦の大義名分を失ったための和議です。
>大坂冬の陣でも徳川が豊臣に和議を持ちかけているぞ?
謀略なのが明らかです。
重要なのは前後の事情と和議後の結果です。
>利家にも家康にも処分がなかったのだから、和議は公平。
利家は三成とともに豊臣家の名において、太閤遺命に背いた家康を罰そうとした側です。
どのような資料をお読みになっているのかわかりませんが、
家康の無断通婚を法度違反として五奉行が詰問、家康が突っぱねる
奉行の力では太刀打ちできないと見た石田が、家康を封じるべく次席大老の利家を担ぐ
それでも家康は婚姻をやめない
利家・宇喜田・石田が、重大な法度違反として家康の大老罷免を一旦申し渡す。家康これも拒否
豊臣家への逆心であるとして、京・大坂の前田・石田・宇喜田らの家臣が大坂に集まり、戦仕度をはじめる
(江戸から軍勢を呼ぶ前にケリをつけねばならない)
事態をみて、家康の伏見屋敷に続々と大名が手勢を連れて参集してくる
加藤清・浅野・福島・黒田・蜂須賀・池田・森・京極・加藤嘉・藤堂・細川・大谷・有楽・有馬・山岡・新庄
家康を処分しようにも出来ない状態
加藤清を仲介として利家が和議を申し出る
和議の結果
婚姻は、今、公儀に届けたという事で了承、同じく婚約も了承
家康の大老職はそのまま、全て事件前と同じとする
利家・家康ともに協力する事を誓紙する
家康は諸将を帰し、伏見屋敷を出て、向島屋敷に移る
家康が利家を訪問する
であり、これを屈服と言わずして何というのかわかりません。
これらは慶長4年1月〜2月の間の出来事で、3月3日に利家が亡くなりますが、わずか10日後の13日に家康は政庁であった伏見城を勝手に接収して自分の居城にしてしまいます。(城代であった前田玄以・長束正家を追い出す)
327 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:58:02.26
>>326 解釈にかなりの曲解があるね。
そもそもどちらから和議を言い出したかは問題ではない(そちらも認めている)。
利家が江戸から徳川の軍勢が来られては負けてしまうとあわてて屈服したとか曲解そのもの。
そもそも家康の江戸の軍隊がそんなに怖いのならば、家康の五大老解任など申し入れることができるはずもない。
家康に完全な勝算があったのならば今こそ好機で和議の申し入れなど突っぱね、
一思いに政権奪取できた。
それが無理だったからこその和議受け入れなのに。
>>323 >五大老中四大老が前田利家についた上
宇喜田だけです。
上杉と毛利は表面上中立を保っています。
有力大名の合力が得られなかったために、家康を処分できなかったばかりか、全ての婚姻を認めるはめになっています。
>「私を大老解雇することは秀吉公に対する侮辱」
この台詞は三中老の詰問に対してのもので、この時家康は武力行使をひけらかして恫喝し、三中老を追い返しました
329 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 21:05:33.93
>>326 史料とおたくの個人的意見を意図的にまぜこじゃに書いているね。
家康は一貫して豊臣に忠誠を誓うというので明確な反逆意志とは断定できず
これをもって五大老解任を断念しただけ。
>>327 この利家VS家康の論点は、利家・石田が、私的な婚姻を繰り返して自ら勢力拡大しようとする家康を排除しようとした事
家康の太閤遺命違反は明白であり、それを罰そうとしながら出来なかったばかりか、公的に認める結果となった。
この事実をどう説明しますか?
>>329 >家康は一貫して豊臣に忠誠を誓うというので明確な反逆意志とは断定できず
私的婚姻や私的加増について、明白に咎められている
332 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 21:30:46.70
>>328 家康との戦支度を始めた前田利家邸に集まった者の中に
毛利輝元、上杉景勝がいる(宇喜多ももちろんいる)
利家と合わせて五大老中四大老がこのとき利家邸にいた
何の史料を読んでる?
333 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 21:35:40.57
>>330>>331 利家方の圧倒的勝利とはいえないでしょうね。
今更成ってしまった婚姻を解消して離縁させるわけにもいかず、
秀吉の遺言を盾に五大老解任を拒む家康を現職にとどめることになった。
しかし、家康も勝利していないでしょう。
五大老筆頭の立場でありながら自分よりも格下の大老たちから糾弾され、
他の大老の処分もできないどころか利家の邸訪問までして対等の立場をとらされたのだから。
>>333 >今更成ってしまった婚姻を解消して離縁させるわけにもいかず、
婚約も認めています。
>>332 >家康との戦支度を始めた前田利家邸に集まった者の中に
>毛利輝元、上杉景勝がいる
これはちがいます。
戦仕度の前、すなわち家康利家間があやうくなりつつあった時に屋敷を訪れてはいますが、兵を遣わしたりしてません。
同じような大名では細川忠興・浅野幸長がいます。
おそらく両家の仲介をとろうとしたものでしょうが。
いったん事が起きた後、細川と浅野は家康側に加わります。
336 :
金吾秀秋:2012/07/04(水) 21:58:59.60
(´・ω・`)たまには佐吉の話してやれよ。
337 :
日本@名無史さん:2012/07/04(水) 22:00:17.55
>>335 毛利・上杉・細川・浅野は利家に好を通じ家康邸には行っていない。
>いったん事が起きた後、細川と浅野は家康側に加わります
細川・浅野は利家死後に起こった石田三成襲撃に加わったというだけだろ
この話と無関係。
>>337 >毛利・上杉・細川・浅野は利家に好を通じ家康邸には行っていない
毛利・上杉・細川・浅野は前田に合力しなかったが、細川と浅野は家康の伏見屋敷に手勢をつれて参集している。
339 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 00:06:08.46
>>328 家康の私的婚姻を非難する文書はやはり四大老の名で出されているが?
つまりあの時点で家康の権威権力が、前田を含めた他の4大老をすら圧倒していたという証拠だな。
だからこそ、反家康派は政治闘争を諦め武力闘争、つまり関ヶ原へと方針を転換したのだろう。
341 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 12:02:53.66
>>340 関ヶ原は上杉征討のついでだろ。
家康は上杉を臣従させる目的で兵を動かしたのに思いがけず天下まで取れてしまった。
秀吉死後4か月で家康一人で四大老超えだったのならば和睦する意味もないじゃないか。
豊臣家の家中機構の中で最大実力者だったのが、関ヶ原の結果豊臣家を超えた存在になったってことだろ。
>>339 当初から四大老五奉行の連署による詰問状
だが、それに実効性を持たせようとしたのは、石田・利家・宇喜田のみ
増田、長束、玄以は首鼠両端の気配で、浅野長政は倅を家康につけた。
上杉、毛利は彼ら自身の独立性を主とし、家康の専横を容認したわけではないが、
だからと言って、前田屋敷に寄騎し、利家に従う形になる事も容認できなかった事がわかる。
関ヶ原の西軍は、日本の戦史において類例のないほどの完膚なきまでのボロ負けだということは、頭に入れておいたほうがいい。
>>341 >家康は上杉を臣従させる目的で兵を動かしたのに思いがけず天下まで取れてしまった。
これはちがいますね
上杉を潰して、その所領を徳川によって分配・再編成する事で諸大名と新たな主従関係を築こうとしたわけです。
上杉を討ってしまえば、東国は実質、家康によって支配される事になり、ここで家康の征夷大将軍の目がでてくるわけですが、
おそらく、豊臣家によって関白職を独占されている五摂家の1人を関白職につけた上で、豊臣家ではない関白殿下のもと、征夷大将軍に任じられる事で新たな政権を作ったと思われます。
まさに家康が尊敬する源頼朝に習ったやり方です。
そんな家康の会津攻めに、尾張以東の諸大名の多くが参陣し、敦賀の大谷や近江の京極、はたまた四国・九州の加藤嘉、藤堂、黒田など西国の大名まで参陣した事は、
豊臣政権そのものの否定ともなり、石田が決起したのも、今止めねば上杉が潰された後では手遅れであるとの判断からでしょう。
しかし、だれも家康を止めようとしなかった中、ただ石田のみが最初に決起し、全力で家康を討つべく奮闘し、
未曾有の合戦をした結果、日本近世たる徳川幕府を誕生させたのは、運命的なものを感じてならない。
その手のロマン主義的史観が歴史学では最も危険だ
>>302 これ、今読んだのですが間違いだらけです。
・利家側は家康の婚姻問題をとりあえず棚上げにする
正・今迄の私的婚姻、及び婚約(特に伊達、福島、加藤清との婚約がこの件のきっかけとなった)は、全て届け済みとし了承とする
・家康側は豊臣家の居城伏見城を出て向島に退去する
正・家康は伏見屋敷に集まっている諸将を帰し、向島屋敷に移る。伏見城は政庁であり玄以と長束が城代にてこの件には関係ありません
他
詰問状は無効とし、家康の大老、政事総裁職など全て従前通りとする。
この内容で、誓紙が家康と四大老・五奉行の間でかわされています。
349 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 16:04:36.52
佐和山20万石弱で関東王とも言うべき250万石の家康に挑んだ男の中の男。
俺が彼の立場なら豊臣家の存続を条件にさっさと家康に臣従したかも。自分が作り上げた豊臣政権に殉じたかったんだろうか。
350 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 23:24:00.50
ただの時勢が見えずに焦って自爆した愚将以外の何者でもない。
大人しく蟄居しとけば家康は寿命内に征夷大将軍にはなれなかったろうからな
家康は前々から、信長の死後ぐらいから天下を狙っていたとは思うけどいつ頃から将軍を志向するようになったんだろう。
353 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 14:40:59.45
時流も糞も家康が動き始めてたのは明白だったわけで。
まあ、別にもともと仲悪かったわけでもないし
いっそ家康に尻尾を振る選択肢は無かったの?と思わなくもないが。
振ったところで、後でどんな目に遭うかね
大恩ある豊臣を裏切った挙句に、追放か暗殺か取り潰された希代の大馬鹿として名を残すだけじゃないか
355 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 17:30:39.32
加藤清正・福島正則なんて家康に尻尾を振りまくって
家康養女と結婚(本人・養子)→関ヶ原でも東軍→徳川将軍家のために城作り奉公
と尽くしたのに改易だからな
秀吉は豊臣清正、豊臣正則を中老にすべきであった
中老は奉行と大老の間を取り持つのが役目だから石田憎しの二人では不向きだと思う。
358 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 18:18:38.59
そもそも清正は蔚山城でのトラブルがあったから(ぶっちゃけとばっちりに近いが)
まだわかるが正則が三成憎しだった理由がわからない。
正則は秀吉の時代尾張清須という枢要の地を任されており、秀吉子飼いの中では
最も信頼され重用された者の一人だと考えていい。
それ故に秀吉の寵をめぐって、三成と競合関係にあった、あるいは秀吉がそういうふうに仕向けた。
そういうわけで三成にとっても正則にとってもお互い競争者であり敵でこそあれ、協力し合うなど
思いもよらない事だったと考えられる
福島正則・加藤清正は秀吉の血族だから(秀吉の母方の親族)
よそ者石田三成を警戒したのはわかるが
同様によそ者の徳川家康をなぜあんなに信用したんだろうか
秀吉もなぜ五大老を血族で固めることなくその地位をみすみすよそ者に与えたんだろうか
家康はどんなに石高の高い大名でも外様は絶対に幕政に入れず(例外もあったようだが)
室町幕府でも幕閣になれるのは足利一門と決まっていたのに
秀吉の血族である福島や加藤が大老になっていれば三成誅殺はやっていそうだが
秀頼に危害を加えたとは思えんが
負けたから忠臣扱いされてるけど、勝ってたら、豊家を乗っ取るか潰してたりして。
豊臣組が天下とる
↓
経営に優れた大卒経理組と、ドンパチが大好きな武闘派が対立
↓
組長が死亡
↓
傘下の徳川組が、武闘派を取り込む 若くから名のある組とシノギを削ってきた徳川組長に武闘派メロメロ
↓
経理組がカチコミをかけるが逆に粛清される
364 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 01:36:18.49
>>364 だからそんなものないんだよ
あったのは中央組と地方派遣組の対立だけ
山口組田岡さん死去後の流れにしか見えない
>>362
>>364 武断派文治派という考え方自体が小説的理解。
秀吉死後の政治状況の軸はあくまで家康の主導権を認めるか認めないかということであり、
三成排除はただの事象、あるいは小事件にすぎない。
三成の存在をあまり過大評価してはいけない。
>>367 家康云々と別軸として、三成と政治的に対立していたのが七将の面々じゃないないの?
伏見城に逃げ込んだ三成と七将の間に家康が入ったのも、中立の立場だったからだろうし。
370 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:45:33.01
>>369 七将が石田三成を襲ったとき、
七将のうちの3将、加藤清正・福島正則・黒田長政はすでに徳川家康の姻戚で(婚約含む9
徳川家康が中立の立場だったとは言えないのでは?
371 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:56:02.15
>>369 関ヶ原の責任を負わされたのが三成というだけで
秀吉存命中から対立があったというのは正しくないと思う
秀吉死後、天下取りに動いた徳川家康に迎合して次々姻戚関係を結んだのが七将で、
それに反対したのが前田利家・石田三成らのグループ
家康が動き出す以前から対立があった節は見られない
>>371 加藤・黒田と石田の朝鮮役を発端とした対立は?
373 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:09:17.41
>>372 石田三成は実際に朝鮮出兵で朝鮮に渡り前線で戦ってるんだよ
加藤・黒田だけが前線に狩り出されて戦免除だった石田を恨んだというのは正しくない
それをいうなら加藤・黒田は朝鮮に渡りもしなかった徳川家康こそ恨まなければおかしいわけで
374 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:28:36.56
>>373 文禄の役での和睦の一件と蔚山城の一件があるでしょうが
375 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 12:32:02.86
あと前線で三成が足引っ張りまくった件もあるし。
376 :
金吾:2012/07/14(土) 14:40:51.82
(´・ω・`)まったく三成のお荷物ぶりには呆れるぜ
377 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:47:28.29
>>374 朝鮮出兵の総責任者は秀吉なのだし、文句があるなら秀吉のせいだろう。
加藤清正・福島正則は秀吉が生前に決めた私婚の禁止を重々承知しながら、
秀吉が死ぬと待ってましたとばかりに徳川家康と私婚を結んだ。
これは豊臣家に対する背徳であり、家康の天下を望んだとしか思えないが。
378 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:49:35.75
>>374 加藤清正・福島正則は石田三成への背徳のために私婚をしたんじゃないからね。
私婚は豊臣家への反逆行為だから。
>>378 結局前田利家との『和解』で、大名の婚礼を認める権限は家康自身のものも含めて家康の権限内だと認められましたが何か?
380 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 16:38:11.74
どっちにしても清正は三成が嫌いor恨んでたから家康についたんじゃなくて
豊臣政権下において家康寄りの立場だったから家康についたってことだよね。
381 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 16:50:58.67
秀吉だって織田家を乗っ取って天下を取ったのに家康が豊臣家を潰すのはなぜズルく見えてしまうんだろうか。
明治以降の反徳川史観による洗脳の結果です
383 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 19:28:33.45
>>377 でもその2つの件は明らかに三成が一番悪いでしょ。
あと秀次事件と蒲生のお家騒動と庄内の乱も
384 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:16:29.77
>>379 それは家康の軍事力に脅されて利家が折れただけのことだろう。
もともと秀吉の遺言を家康が勝手に破ることに大賛成したのは
加藤・福島なのだから。
385 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:18:17.84
>>383 どれも三成は悪くないが?加藤・福島が朝鮮で勝ち戦をしてたとでも?
秀次事件も三成は秀吉の下で事務処理をしていただけ。
「秀次さまが切腹するなら私も切腹する!」と加藤や福島が言いましたか?
加藤も福島も容認して従ってたじゃん。
>>382 明治時代に反徳川史観なんてなかったよ
徳川家は明治天皇に弓ひいて滅んだ一族ではなく
明治天皇を支える華族になっていたからね
徳川喜久子が高松宮妃になれたくらいだし
それとは関係なく家康は三傑の中でも好かれないね
反徳川史観って言うか
お江戸御用史観の反動が来た感じだろうね
長生きしてたら天下が転がり込んだだけのイメージは江戸時代じゃ口に出せなかったろうから
長生きしただけって言っても結構すごい経歴もってるじゃないか。
父親は家来に殺され、母親とは生き別れ城を追われて人質として織田、今川に転がされ、独立したかと一向一揆で一時期家来の半数に背かれて外では織田株式会社の下請けとしてコキ使われ、日本最強の武田の侵攻をクソもらすほどに防ぎ続け、信長には長男と古女房殺されて、
信長に招かれて旅行に出かけたら明智に殺されかけ、一応対等のハズの信長社長の家来の秀吉に臣従、交戦したにも関わらず領地は一切削られない。それどころか関東に加増転封(左遷)
その後過失を行わず一家を保ち、秀吉晩年には五大老の筆頭格として政務を預かり、秀吉死後は石田三成たちと暗闘、ついには政略実って武力に訴え、敵方がお膳立てした関ヶ原の一戦にて天下を9分まで決めるなんて尋常じゃない。
もちろんそのあとは世襲体制による徳川の天下を築いてしまった。
天下餅とかのイメージの話な
そんな歴史好き徳川さん好きの話はしていない
秀吉に臣従した時点で一旦天下諦めてるからね
山岡壮八のせいでこの間も天下を狙い雌伏していたみたいな話になってるのが嫌
家康は秀吉に臣従しても今川、武田、そして北條の統治システムを融合させ、あの時代
ぶっちぎりの最新鋭軍事行政機構を形成している。
コレで野心がなかったというのはちょっと考えづらい。
392 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 01:20:50.60
>>358 福島正則だって内政でも優秀だったというだけでやはり本来はバリバリの前線指揮官。
文弱の徒なのに威張り散らした三成を嫌うのは当然
393 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 05:06:04.61
>>355 清正は息子孫の代の改易だからまだマシだろ
>>392 大返しからずっと前線でも頑張ってるやん<三成
395 :
金吾秀秋:2012/07/15(日) 12:37:11.12
漏れ様も頑張ったんだぜ(´・ω・`)
日本史板で「三成は文弱の徒(キリッ)とか言う奴にレスされても困るんだがw
俺らは史実について議論してるんだからさ
歴史小説板かゲーム板にでも行ってくれw
397 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 15:27:16.97
>>394 算盤弾くのがメインの兵站ばかりで指揮を取ったのは、かの忍城の時だけだね。
戦場の指揮官としては出たら負けって印象しか無いんだが。
398 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 15:38:18.06
>>393 清正は運よく豊臣家の最期を見ることなく早めに死んだだけのことだろ
>>398 清正は晩年は豊臣一門というより、紀州徳川頼宣の舅という立場の方が大きかったフシがある。
伊達政宗とかと似たような感じ。
400 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 19:14:30.58
>>399 しかし、徳川頼宣も正室の八十姫も存命中に
八十姫の実家である加藤家は改易されている。
やはり、豊臣家の衰退とともに加藤家は力をなくしたんだろう。
ちなみに伊達家の婿松平忠輝も改易されてる。
初期徳川幕府は公平な政府としての公儀の姿勢を強くとったからな。
外様でも審判でも譜代でも、法度違反はビシビシ取り締まり改易してる。
402 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 20:11:40.79
>>397 実際に部隊の指揮を取ったのはそれと幸州山城くらいしか知らんが
忍城のアレは秀吉の無茶ぶりだろ
403 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:52:45.21
よく言われてる碧蹄館の話は小説の創作話だよね
404 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 18:43:22.50
如水が碁を打っててウンヌンする話?
三成が黒田如水に嫌がらせをして、怒った三成が秀吉に讒言、というのは古郷物語などにも見られる話で、
どうも黒田如水周辺ではそういう意識があったのは確からしい。
>>404 いや、戦線が伸びきってた事指摘して
漢城まで撤退して碧蹄館で迎え撃とうって言った説。
籠城主張したって説とか暴走して周囲にうざがられたって説もあるけど。
>>405 それ書かれたのって19世紀だよね。本当にあったんかな?
>如水が三成無視して囲碁打ち続けた話
>>407 あの話の原型は古郷物語にある。
古郷物語は如水の時代から黒田家に仕えていて、長政に反発した旧臣によって編纂されたと考えられている。
>>408 後藤又兵衛をはじめ、そういう家臣多いな。
長政に問題があったのか、太平に順応できなかったのか。
後藤又兵衛は長政と関係が悪かったという証拠は一切ない。
むしろ細川忠興の離間策に引っかかった可能性が高い
つか又兵衛こそ長政子飼いの家臣の筆頭だろ
幽閉事件の時離反した叔父に連座して追放され仙石家に仕えていたのを長政が呼び戻したんだから
官兵衛に養育されたとか黒田一成と混同した話が流布してる
>>397 賤ヶ岳で先駆衆として奮戦したり
淡路攻めでも前線で戦ってるんだが
ていうか秀吉が天下統一するまでの数々の戦いで
あんだけの大軍を一度に動かせたのには三成が大きく貢献してる。
三成には色々な見方があるけど、少なくとも行政手腕と
補給能力に関しては間違いなく一流の人物だっただろ。
申し訳ないが三成が補給で活躍したという話は一切残っていない。
三成の活躍の中心はあくまで秀吉の政治秘書としてだ。
415 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 10:36:21.25
じゃあ兵站奉行云々ってのは全部後世の創作?
つーか司馬遼太郎の創作
むしろ正則の方がよく船奉行とか兵站奉行とか外様武将と組む軍監とかやってたよな
むしろチート兵站奉行は長束だろ
そもそも九州でも小田原でも朝鮮でも、豊臣の軍隊は極度の兵糧不足に陥っているというのに、
その事実を無視して輜重がすごかったとか言い出すのはちゃんちゃらおかしい。
秀吉は確かに大きな戦の前に大量の兵糧の集積はしたが(コレも別に秀吉に限った話ではなく
戦国大名ならみんなやってる)、分配のシステムが全く未整備で、とてもじゃないが末端まで届くものではなかった。
それ以上に秀吉が兵糧を集積したのは、それを配下の大名に売りつけて金儲けする目的だったフシが強い。
秀長も兵糧米の貸し付けやってたよね
なぜか朝鮮でだけ兵糧不足になったかのような誤解がまかり通り
そのため朝鮮人の捏造した「イスンシン神話」に騙される結果に
>>420 秀長の銭ゲバぶりは多聞院日記が事細かに書き残してるんだが
司馬はそれらを無視して秀長死亡時の多聞院英俊の嫌味だけを取り上げることで
あたかもそれが秀長の大和支配で権益を奪われた宗教勢力の陰口であるかのように印象操作してたねw
アンチも信者も三成の実像を知らないと言うことがよくわかるスレw
424 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:35:45.81
じゃあ数々の戦役に従軍した三成さんは何してたの?
普通に備えの一端を任されてたんだろ。
426 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:01:14.58
堺屋太一は秀長を大絶賛
信長の小説を読んでいて感じたことだが堺屋太一は誰か(学生?)が纏めた資料に寄り掛かっている
執筆当時の論文に言及はしているが堺屋太一自身がきちんと理解出来ていないから
(恐らく金で雇った学生の)文を誤読している箇所がある
秀長の本は司馬を踏襲していたし
>>425 その割には大して活躍した話は無いな。
秀吉が無茶振りした忍城の時以外は、センゴクさんみたいにチョンボやらかした話もないけど。
更にこれで内政面や奉行としても他の武将の功績より目立たないとなると
益々もって何かある度に蔵入地加増されたり、五奉行の一人になった理由がわからない。
>>428 三成はいわば豪腕でめんどくさい物事をどんどん進めることの出来る人。
例えば太閤検地なんて、島津はじめ、国内の反発でとても無理だ、って泣きつく大名がたくさん居たが、
三成は村の数や大雑把な人口なんかを提出させ、そこから「適当な」数字出して太閤検地とした。
実際の検査一切なしになw
そんな風に、兎にも角にも力技で「結果」の出せる人。ああいう時代だからこそ重宝された人だとも言える。
430 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 15:49:57.80
現在佐和山では石田さんはどんな扱いなの?
すごいヒーローにされて例えば石田神社とか大一大万大吉通りとかあったり観光のタネにされてたりして。
00年以降になってようやく注目されだした感じ。
432 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:31:14.32
>>430 佐和山は登山道も山道しかなく付近もあんまりかな・・・
ただし石田町の石田三成生家跡には石田三成の銅像や碑が建ってるし
すぐちかくの鎮守社八幡神社には地下に埋まっていた
戦国時代の卒塔婆を掘り出した石田一門の墓があって
2011年の「江」のときに石田三成を演じる荻原聖人が墓参りに来てた
433 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 17:02:56.97
七将襲撃事件までの経緯ひとつ見てもこいつが如何にクズで佞臣だったかがよくわかる
一行じゃわかんないよ〜
もっと詳しく説明して><
435 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 17:46:21.45
七将はじめ数々の功臣から恨まれてた時点で石田は奸臣だったってこと。
経緯ひとつ見てもって言ってたのに経緯書いて無いじゃん!
詳しく知りたいから教えてよぉ〜
最前線の現場で必死に戦ってる将をだしにして出世
ありもしない失態を、妹婿共々半ボケの上司にいいつけて
自分は上司に気に入られてご褒美もGET、遠くで戦ってる将は釈明もできずに処分
完全に小賢しいスネオ
なんで三成はずっと内地にいた、とか考えてる人が多いのかね?
やはり、秀吉が死んだ時に内地にいて、帰還組に茶の湯でもてなそうと言って切れられるイベントのせいか?
440 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 00:30:26.74
切れられるイベントも実際あったかどうかわからんしね。
酷い人に至っては慶長の時は三成と同様国内にいた福島正則も
渡海して前線で戦ってたと勘違いしてる人までいるし
441 :
金吾秀秋:2012/07/24(火) 03:11:11.73
三成はいいやつだぜ(´・ω・`)
442 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 10:41:55.25
なら味方してやれよw
金吾もあることないこと言われすぎだよな
子孫残さず早死にすると損
444 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 18:26:58.59
息子や娘はみんな助命されて子孫もいるのに
後世あることないことボロカスに書かれてる三成ェ・・・
>>444 じぶはボロカスいわれた反面で持ち上げもされてるからな
金吾を持ち上げてる作品なんて戦国自衛隊のドラマ版外伝と隆慶の短編
くらいしか知らん
446 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 19:51:17.47
>>444 徳川のプロパガンダ&諸大名の自己正当化&太閤はんが晩節を汚した事へのフォローという
トリプルパンチで三成&茶々をネガキャンする逸話が書かれまくった江戸時代ですら
多くは創作なんだろうけど、一方で割といい感じのエピソードも残ってる
って辺りから三成の能力や人となりが伺えるんじゃないかな?って気もするな。
「同じ徳川の敵でも直江や大谷や真田の評価は江戸時代からメッチャ高かったじゃん」と言われたら反論出来ないがw
>>445 金吾の場合は再評価の材料が
・蔚山城での追撃戦と関ヶ原後の佐和山攻めでの奮闘
・関ヶ原で端から東軍についていたことがハッキリしてる
・岡山でそれなりに善政を敷いた
とわかってる部分だけでも年齢の割に有能だった証拠がこんだけあるんだから
今後「悲劇の若き名将」として金吾の時代がくる可能性も否定はできないよ。
一方で秀吉からの「お前もう少し金吾可愛がってやれよ」という書状が残ってる以上
「北政所から信頼されており、家康につくよう言われた」って説はもう言えないけどね。
三成は江戸時代むしろ、天下分け目の合戦を行った人物として、悪人ではあるがかなり評価されていた。
三成が本格的に奸臣あつかいされたのは、実際には明治になってからだな。
それも加藤清正の敵役として。
>金吾を持ち上げてる作品
学研の歴史群像シリーズが不定期刊行だった初期の頃
金吾に同情的なオバサンが再評価すべきだと書いていた希ガス
449 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 20:36:16.96
いい話悪い話スレやまとめブログの米欄は秀秋評価する一方で三成貶すレス多いがな
三成は機械的に使える人間ではあったかもしれないがそれだけ。
人を惹きつける人間でもないし人の上に立てる人間じゃない。
後世の人にとっても人間として魅力ある男ではない。
たぶん本当だからどうしようもない。
451 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 21:08:39.79
小物の癖にしゃしゃり出るウザい勘違いくんだったからこそ
「西軍をまとめあげた人物」としてスケープゴートにしやすかったというのが真相だろ。
でもなぜか、五奉行の筆頭扱いなんだよなあ。
実際は四番手?
基本的には2番手だろうな。筆頭はどう考えても浅野長政だし。
454 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 22:25:15.95
文禄の役で加藤たちは秀吉の講和を少しでも実現に近づけようと懸命に戦っていたのに
石田が早く日本に帰りたいあまりに偽講和を仕掛けてしまい努力が水泡に帰した
続く慶長の役では文禄のような強攻策は通用しないと見た加藤たちが篭城を中心とした戦線縮小を提案するも
朝鮮行きを免れて浮かれた石田が戦線拡張策を打ち出し、篭城する加藤たちを非難したため作戦が台無しになった
さらに多くの恩顧が秀頼と秀次の共存を何とか実現しようと模索していたにもかかわらず
石田が秀次を糾弾する行動に走ったため粛清の嵐が吹き荒れてしまった
最後は加藤・福島に限らず秀吉までがが豊臣と徳川の共存を考えていたにもかかわらず
石田が権力奪取のため豊臣と徳川の殲滅戦争に持ち込んで豊臣を破綻させてしまった
きちんと史実を見ていけば加藤・福島の努力を石田が踏みにじって豊臣を滅亡に追い込んだのは明らか
石田とその派閥連中以外の恩顧はまったく非難されるに値しない
455 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 22:58:37.54
結局、史実だけ見ればこいつを評価できる要素なんて皆無
何言っても無駄でしょ。聞こえない聞こえないワーワー言ってるだけなんだから
なんか狂犬の如く片っ端から噛み付いてまわってるし
457 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:22:40.19
>>456 そうなんだよな。
司馬遼太郎と堺屋太一と肥の罪は大きいな
キチガイに話しかけられちまったよ ヤレヤレ ┐(´ー`)┌ マイッタネ
459 :
日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:53:41.70
都合が悪いレスがつくとキチガイ認定か
460 :
金吾秀秋:2012/07/25(水) 01:02:53.13
まったく、小物の癖にしゃしゃり出るウザい勘違いくんにはあきれたもんだぜ
(´・ω・`)
みっちゃんが、毛利としまんずを引き入れたおかげで
そのご維新が起きたんだよ
今の日本があるのはミッチーのお影!
462 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 01:34:38.66
464 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 13:51:04.83
戦国武将のスレなんてどこもそんなもんだ。
お国自慢大好きな奴が多いネットらしい流れとも言える
465 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 14:47:50.41
上杉、武田、伊達、真田なんてまさにその典型だしな。
むしろ三成スレはこれでもまだ平和な方だよ
466 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 17:44:10.60
でも史料見る限りこいつは評価できることなんて皆無じゃん。
467 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 22:14:56.72
趙高をさらに小物にしたような感じの奴だね
既に何人かそういう書き込みあるけど
あの板のいい話悪い話スレのノリで学問板に来ないで欲しいわw
頑固なへいくぁいもの(笑)とか告げ口大王(笑)ありきで語ってる奴いるし。
マトモな一次史料提示出来ないなら戦国板に籠もっててくれと。
しかしいかにも夏休みだなw
>>469 そもそもあそこは逸話を語るんじゃなくて
DQN四天王(笑)だのラスボス(笑)だののテンプレに、逸話を当てはめて邪推するスレだし。
本当アイツら一生あのスレから出てこないで欲しいわ。
>>471 お前熱心によく読んでるなあ。感心するわw
473 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 10:29:19.67
やっぱ関ヶ原までの道のりで何度もやらかしてるのがイメージの悪さに繋がってるんかね?
まあ敗残者は、イメージ悪くて当然
日本史でも世界史でも並み居るイメージ悪い敗残者がいるが
その中ではマシな方だろ
475 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 12:12:26.59
その「比較的マシなイメージ」というのが
日本人好みの判官贔屓により完全に後世に創られたもので
実際はもっとどうしようもない愚将・佞臣だったのか
はたまたよく言われてるように、江戸〜明治を通じて意図的に貶められた経緯を経ても
尚も一方で割とプラスな印象が残るほどの傑物だったのか果たしてどちらだろうか?
>>473 >>474 負けに不思議の負けは無しってな。
敗者は後世の人間から「ここでこんな真似したから負けたんだよこの愚将は」
と好き勝手言われるのは謂わば当然のことなんだよな。
そして、過去の出来事にまで遡って「これも全面的にこいつが悪い」
とかこんな奴だから云々と言われ、事実確認も無いような悪い逸話を史実であるかのように語られる。
比較的マシなイメージといっても色々だからな
上は豊臣のために、圧倒的上の存在に立ち向かったが及ばなかった忠臣
下は、器も知らず、野心のための豊臣の威を借り、主家の滅亡を早めた佞臣
ってとこか 圧倒的優勢から負けたり、露骨に反逆したわけじゃないから
ボロクソ言われることは少ないんじゃないか 相対的に家康スゲーって評価を落とすことにもなりかねん
まあ、淀殿とどうこうとか 秀頼の真の父親とかあることないことも言われちゃってるが
478 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 15:27:41.56
まあ、なまじ後に天下分け目の合戦と呼ばれるような
大規模な戦乱にも関わらずたった1日の会戦でケリがついちゃったから色々言われるんだろうね。
もう少し粘ってればもっと評価も変わってたかも。
479 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 15:31:33.56
明智光秀も山崎の戦いで秀吉と対峙して
わずか1日で死んじゃったんじゃなかったか
しかしなんか近年は大河でも光秀いい人設定だな
天下分け目の戦い
山崎の戦い:約2時間
関ヶ原の戦い:半日
光秀の場合は信長の重臣として政治軍事双方でメッチャ活躍したからな。
特に軍事面での活躍が目覚ましいから最後の山崎がある意味
関ヶ原の三成以上に惨めにも関わらずあんまし悪いイメージに繋がらないのかも。
あと光秀は三成と違って、江戸時代でもあんまし悪い逸話が創作されてないのも大きい。
あと、三成がいい人として扱われる大河は地雷率が高くて
逆に名作ほど佞臣扱いされてるんだよなあ、独眼竜政宗の時とか。
威を借る、外戚、簒奪、密告、拝金、暗殺、こういうのに係れば評価は低くなって当然。
483 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 18:40:23.70
石田三成は後世、主君秀吉の側室淀殿と密通した小説がいくつも作られたのが
一番のイメージ悪化だと思う
大河ドラマでも三成が淀殿に惚れて豊臣を守ろうとする動機不純なのが多いじゃん?
明智光秀は信長の正室濃姫の初恋設定の小説はあるものの
一応正室煕子と仲睦まじく愛妻家設定なので
主君の妻を寝取った男にはなっていない
実際には北政所と懇意にしてたのに、何故か彼女に蛇蝎の如く嫌われてたことにされてるしなあw
485 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 18:50:24.87
>>482 実際はそれらの殆どが後世の創作や邪推だったりするから始末に悪いなw
>>483 そもそも淀殿自体が徳川史観の犠牲者っていう
>>485 淀殿が悪女にされたのは江戸時代よりも、むしろ明治後の講談の中で、だったりする。
徳川史観とは違うんだわ
あと、石田三成に関して江戸時代は、水戸光圀など多様な見方のあったのだが、それを
奸臣として決定的にイメージされたのはやはり明治後。
日本の大陸進出の象徴とされ国家的英雄に祭り上げられた加藤清正の敵役として矮小化された。
なるほどね。
明治とか昭和くらいまでの人ならともかく、今嫌いだとか奸臣だ悪女だと言う人は、
いろいろ見て考えたうえでそう言ってるのだから人がどう言っても変わらないよ。
知る方法がものすごく限られてる時代じゃない。
そうなると三成=傲慢な佞臣説に繋がる江戸時代の史料の話の殆どは真実ということか。
>>487 むしろそういう方面で犠牲になったのは小西行長の方じゃね?
唐入りで清正とおんなじくらい大活躍したのに、全部無かったことにされてますぜ?
492 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 20:13:21.58
単純に考えればいい
結果的にそいつがいない方が主家や組織は良い方に向かってただろと思われるやつは悪評価
三成は関が原で勝利して家康を討ち取り七本槍らの武功派を悉く処刑していれば、
評価は上がってた。結局負けたせい。
地元じゃ善政の名君扱いってのは史実なのかな?
悪人の場合、地元で悪政をしいて怨嗟の声があふれていた・・・・
ってのが定番だけど、そういう方の捏造はされなかったのか
そういやあっこらへんは、直弼さんも地元じゃ名君だったな
>>494 三成を地元で善政だの名君だの言い出したのは戦後の話だ。
佐和山の周りにある三成由来とされる「史跡」も、全部戦後に作られたもの。
つまり「新しい伝統」ってやつ。記憶の上書きが起こったわけやね。
石田三成の地元の政治がどうだったか、という明確な史料はないが、豊臣政権は基本7公3民という高税率の
政権であり、豊臣家奉行だった三成も当然その税率を領民に課していたと考えられ、また伝えられていた通り
佐和山城が巨大城郭だったとしたら、たとえ土壁のままにしていたとしても、維持のための負担も巨大で
そのコストは領民に転嫁されていたはずであり、少なくともその意味では領民は苦しかったと考えられる。
また慕われていたかというのも疑問があり、例えば石田家発祥の地である石田村では、関ヶ原のあと
石田一族が消滅している。
しかし東軍によって攻撃や捜索を受けたという記録はなく、というか東軍は石田村には行っておらず、
また石田一族以外に石田村に住民に、何らかの被害は確認できず、
傍証ながらどうも、関ヶ原の敗北を知った石田村の住民によって石田一族が虐殺された、と見るのが合理的と考えられる。
マジかよ。
9ヶ条とか13ヶ条のお触書とか石田地蔵とか全部創作かよ。
まあどの道僅か五年しか佐和山治めてないし、諸国飛び回ってて殆ど領国にいなかったけど。
てか石田一族って佐和山城攻めで殆ど死んだんじゃないの?
>>497 石田氏の娘が津軽藩主の妻になったり、石田家由来の人が大館市にいたりと、津軽から秋田あたりに逃げたんじゃないの?
津軽2代目藩主は京都から追放されたキリスト教徒を布教をしない条件で自藩に呼び寄せたりとか、結構いろいろやった
人なんだよね。
かくゆう俺も、その地区の石田姓なんだよな。北東北って、戦争で負けて逃げてきた家が多数いるから、農民なのに姓を持っ
ている家が圧倒的に多い。
500 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 04:46:50.94
>>491 行長の場合、元商人でクリスチャンというのも柔弱なイメージに繋がってる
実際にはあの時代の海商なんて海賊とほぽイコールだし
クリスチャンが平和主義なんて世界史知ってれば間違っても思わないけどなw
501 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 06:53:06.95
>クリスチャンが平和主義
キリスト教が平和主義になったのは戦後になってからでしょうね。
それまでの植民地主義はキリスト教が関わってるし。
聖書内の神の怒りを?勝手に買って?滅ぼされたエリコ
十字軍の虐殺、カタリ派の虐殺、中世の魔女狩り、インカ、アステカの虐殺など
日本史に何十何百倍もの残虐史ですから。
寒流ドラマでは一番大物のように描かれてるのは加藤でも小西でもなく脇坂だなw
>>503 李舜臣が叩き潰した日本水軍の総大将は脇坂で、戦死したことになってるからだよ
> 487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/18(水) 23:00:01.86 ID:sgYlIA3+
> 石田三成がまったく関係ないってのは言い過ぎなんじゃないの
> そりゃ三成との友情でってのは創作の領域だけど
> 共に奉行を担当した回数などから言って距離の近さでは三成が調略担当者として最適、くらいではあると思う
>
> あと吉継が親家康派の筆頭とか藤堂と双璧をなすくらいってのもさすがに言いすぎじゃないかなあ
> 宇喜多騒動はそもそも戸川派が吉継に調停を依頼して、吉継が榊原を仲介として筆頭大老家康に介入を要請したようなもんだし
> ほぼ配下ってのはちょっと 家康派なのは間違いないけど
>
> 重箱の隅をつつくようでなぜ西軍についたかに関する議論にまでいってなくて申し訳ないが
> 493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/26(木) 19:36:50.70 ID:+r0rI2R0
>
>>487 > 例の茶会の話やドラマでお馴染みの挙兵時のやり取りは創作だけど
> 宗湛日記には一時吉継が秀吉の機嫌損ねて謹慎させられてた時に
> 兼ねてから宗湛の茶道具を見たがってた吉継のために
> 三成がこっそり取り計らってあげたって記述がある。
> 宗湛日記自体に偽書説があるからこれも本当かわからんけど。
> 494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/26(木) 19:40:09.31 ID:+r0rI2R0
> って上でも出てたか
> 495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/26(木) 22:35:12.10 ID:tkKQMCCS
> > 宗湛日記自体に偽書説があるからこれも本当かわからんけど。
>
> どうも少なくとも江戸期に作られたっぽいんだよね。
> 史料として考えるには慎重になったほうがいいと思う。
> 496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/26(木) 23:56:39.30 ID:+r0rI2R0
> 戦国時代の出来事の中で我々が通説として知ってるものの多くは
> 江戸時代前期以降に書かれたバイアスがかかったものと
> 更にそれを本に編纂された云わば二次史料がソースだからな。
> 死人に口無しとはよく言ったものだ。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1253161122/
何が始まっただ?
関ヶ原当時においては家康こそが正当性のある豊臣正規軍で
大阪城から軍資金や秀頼の出馬諸々断られたように
淀殿や北政所はじめ秀頼周辺は明確に東軍支持で西軍は明らかに逆賊であった。
にも関わらず戦後処理で豊臣家自体が減封されたことに反発が無いのは何故なんだぜ?
>>507 清州会議で織田家の領域が分割されたのと一緒。
あと現実的問題として、奉行衆のシステムで運営されていたのが豊臣蔵入地だから、関が原によって
奉行態勢が崩壊した以上そのまま維持するのは無理。
「本拠」である摂河泉は保持されたので、豊臣家としては御の字。
ぶっちゃけ、それに文句をいうべき実務官僚である奉行がいない大阪城では
蔵入地の消滅の意味がわかってなかったんじゃね?
豊臣恩顧のはずの加藤清正なんかも元々大坂に納めるべき蔵入地の収入を
横領してたりするぐらいだから、自分から蔵入地制度を守れって言うはずがないし。
まあ蔵入地というのは、豊臣系も含めて大名にとって嫌でしょうがないシステムだったことは確かみたい。
地元の事情に斟酌なく強制的に7割の税金取られるし、責任だけは押し付けられるし。
そういう面から見ても三成は天下の佞臣と見て間違いないな
スレを見直すとスレ序盤の
>>1をはじめとする信者の頭悪い書き込みの数々が笑える
513 :
金吾秀秋:2012/07/29(日) 08:28:43.61
まったく三成には困ったもんだな(´・ω・`)
>>513 アンタも今の再評価が落ち着いたら、反動でまたボロカスに叩かれるかもよ?
515 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 15:50:52.03
二成だったら人気者だったのにね
他の奉行達と詰問してる秀次事件はまだしも利休事件に関しては完全にシロだよな。
利休事件も堺系商人と博多系商人との、政権への影響力を争った暗闘という見方があり、
三成は博多系に近い立場だったので完全に関係ないとも言い切れない。
秀次事件もそうだが、逆に言えばそういう立場的なところから
色々邪推されて「アイツがやったんじゃねえの?」って当時から噂が立ったんだろうなあ。
相変わらず戦国板の三成スレは荒れっぱなしだな。
こっちにもたまに荒らしがくるけど
そりゃ三英傑クラスですらスレが荒れまくってるからねえ。
まあ2ちゃん(というかネット)でメジャーな武将をマターリ語るのは諦めた方がいいお
>>517 兄は堺奉行だから一概に三成が博多派とは言えないんじゃ?
つか三成自身一時期堺奉行じゃなかった?
523 :
金吾秀秋:2012/07/31(火) 00:12:00.21
暑いから熱中症に気をつけてね(´・ω・`)
なんか可哀想な人だね。
仮にも教科書に名前が出るほどの出来事起こした割には
身近にいた人や家臣の書いた記録が殆ど(全く?)無いから
結局、当時の噂話や後世の記録や講談でバイアスがかかった評価しかされないっていう。
525 :
金吾秀秋:2012/08/07(火) 01:22:25.08
まったく、
>>524 の言うとおり、三成は可哀そうなやつだなぁ(´・ω・`)
アンタもだよw
死んだときの逸話とか酷すぎるレベルだぞ
現在見られるような石田三成というキャラクターを形成している主な逸話がほぼ全部つくり話というのも凄いな。
僅かに残ってる書状のやり取り見てると言われてる程狭量でも無かったと思うな。
>>528 そりゃま狭量じゃ仕事できないしね。むしろ大雑把なくらいの人だったと考えたほうが正しい気もする。
ぶっちゃけ本当に逸話で書かれてるようなアスペ気味な人物なら
諸大名との取次とか降伏を促す使者とか絶対務まらないよなあw
531 :
金吾秀秋:2012/08/12(日) 01:35:05.52
まったく、狭量だったりアスペ気味だったりしたら無理だよな(´・ω・`)
532 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 08:38:19.56
奉行やるような実務能力とプランニング、関ヶ原を企てる山師的な一面、島・蒲生みたいなクセの強い歴戦の強者を傘下に納めてしまう人柄
安物の歴史ドラマやマンガでステレオタイプに描かれる官僚的な人物とはとても思えんわなw
本当に官僚的な実務能力しかなかったらそもそも関ヶ原を企てる事もなければ、わざわざ家康討伐企てもせん。
>クセの強い歴戦の強者を傘下に納めてしまう人柄
アホか
こいつの人柄で傘下に収まったわけでは無いわwwwwwwwwwwwwww
島津の夜襲案蹴る時点で狭量だろ
>>534 また歴史と小説講談の区別のつかんやつがw
>>533 単に金払いが比較的良かったからってとこが真相じゃね?w
>>534 あの状況で夜襲しようとか考える方がアホ。
鬼島津さんほどの経験豊富な武将がそんな軽はずみな提案をする筈がない。
初出が平和な江戸時代になってから書かれたものがソースという点から考えても
後世の無知な軍学者辺りが言い出して「頭でっかちな文官」の三成なら
有り得るという勝手なイメージから広がった俗説やね。
537 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 23:43:10.08
三成が現代に生まれてたら
灘高→東大→ハーバードMBA→ゴールドマンサックス
みたいな人かな
頭が横に長いだけに頭でっかちかw
この人の肖像画は頭巾被ってる方は割とマトモな感じだけど
一番有名な例の肖像画が如何にも
「私は狭量で性格悪くてすぐ讒言する小賢しい木っ端役人です」
って感じの顔つきで描かれてるやん。
正直、この肖像画のせいで相当損してると思うな。
まあ肖像画のイメージのせいで一番損してるのは間違いなく金吾だが。
頭巾の方の肖像画って昭和だぞ。宇喜多秀家と一緒。
541 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 20:21:15.21
>>536 そもそも関ヶ原は実質石田隊(というか西軍)は瞬殺されたから
島津は参戦する暇すら無く気がついたら囲まれてたってオチじゃなかった?
島津の記録でものの1〜2時間で西軍は一方的に壊滅したって書かれてたよね。
ただ、それだと、開戦数時間してやっと小早川が下りてきた時にはもう西軍壊滅してるってことにならんかね?
543 :
金吾秀秋:2012/08/16(木) 03:34:42.52
そうそう。漏れは頂上にあきたから下りただけ。なんにも知らない(´・ω・`)
>>542 タイミング的には小早川が下山した所で崩壊だった模様。脇坂たちが寝返ったのも戦況を見て、ってこと。
そもそも戦下手に定評がある三成が数倍の数の武断派の部隊相手に
西軍全滅寸前まで持ちこたえたという方が話としておかしい
>>545 三成が戦下手っていうのも後世作られた談話や逸話によるイメージでは?
有名な忍城攻めは秀吉に水攻め強要されてやらざるを得ない状況だったらしいし
賤ヶ岳は先駆衆として一番槍の武功を立てて、七本槍に劣らない活躍をしたらしいし
でも実際に合戦に加わったり指揮取ったのはその2つだけでしょ?
賤ヶ岳の先駆け衆の話も信憑性薄いし。
中国攻め〜奥州仕置までほぼ全部の戦に従軍してるし
奥州仕置なんかは実際に兵を率いてるわけだから、全くの文官というわけでも無かろう。
そりゃまあ、武断派に比べたら合戦経験は少ないだろうけどね。
>三成が戦下手っていうのも後世作られた談話や逸話によるイメージでは?
いやコノスレ、三成全否定のイタイ奴が居ついて脳内妄想垂れ流すだけのスレだから
その証拠に関ヶ原合戦の経緯が間違ってても誰も突っ込まず淡淡とレスが続いているだろ
二時間くらいで全滅したってのはガチでしょ
全滅じゃなくて崩壊なw
まあ2時間ほどで木っ端微塵にされたのは確かだろう。そもそも関ヶ原の決戦で、西軍は
東軍の半分ほどしか無かった、という説もある。それでは三成が多少軍才があったとしても
とても無理だ
それって確か島津さんの家臣の二時間ほどで終わったっていう
言ってみりゃ「戦いの趨勢には俺らは関係ないよ」的な言い訳っぽい記録と
徳川家康から伊達政宗への書状である「午の刻に戦闘を行い」っていう記述が根拠じゃなかった?
ぶっちゃけ「戦場に出ない癖に偉そうにしてた」だの
「傲慢で融通効かない官僚で権勢欲が強くてすぐ讒言してた」だの
っていう一般的な三成のイメージって
正直、徳川政権における本多正純をそのまま豊臣政権における
石田三成のイメージに無理やり当てはめただけなんじゃね?
って気もするのよねw
554 :
金吾秀秋:2012/08/17(金) 01:55:38.77
昨日も暑かったね(´・ω・`)
555 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 04:01:06.86
554さん それだけでもまともな人だ。
あち〜 あちちち(´・ω・`)
>>552 言い訳も何も敵味方で午刻を指摘してるんだから、そのあたりで戦が終わったのは間違いないよ。
せいぜい前後1時間程度の差だろう。
家康の書状では「午の刻に戦闘を行い」とあるがこの時がどの時点を指すかだな。
こういう書状だと普通、戦闘始めた時間を書くんだがそれだと遅すぎるし
逆に戦闘終了した時間を書くことは普通無いんだわ。
通説通り午の刻すなわち正午過ぎに小早川が参戦して
それから2時間くらいで西軍崩壊って解釈でいいんじゃないかなあって気もするが。
家康本隊も参戦したのが正午過ぎなら書状とも辻褄が合うし。
お前ら、ちゃんと一時資料も目を通してる? 武功夜話とか。
煽りの夏
家康本隊って参戦してたっけ?
島津に突破された時?
そもそも島津の突破とは逃げ遅れてそのへんをぐちゃぐちゃになりながら人のいない方高人の居ない方向に
さまよっていただけの話。
組織的撤退みたいに勘違いしてはいかん。それは後世薩摩藩のつくり話だ
的中突破なんて、ものは言いようということ
現実は、敵前逃亡
通説だと午前10時頃に左近が重傷負った影響で大きく押し込まれてるが
島津さん家の家臣達が書いた「石田隊は二時間程度で云々」
ってのは多分そん時の話じゃないの?
「石田殿、一時(2時間)もこらえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」
『大重平六覚書』
「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陣破れて敗北す、然れば午の刻(正午ごろ)の事なるか」
『帖佐彦左衛門宗辰覚書』
566 :
金吾秀秋:2012/08/18(土) 16:55:19.37
今日は大雨が降って涼しかったね(´・ω・`)
567 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 19:12:27.17
文弱の徒の三成なんだからやっぱ石田隊はすぐ崩壊したと考えた方が自然だな。
568 :
金吾秀秋:2012/08/22(水) 01:15:06.79
ほんの少しだけど、朝晩の風が秋らしくなってきたね(´・ω・`)
関ヶ原が長引けば、どっちの軍が都合良かったの?
570 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 10:55:39.77
西
571 :
金吾秀秋:2012/08/24(金) 00:40:42.09
まったく、もっと長引くと思ったよな(´・ω・`)
>>569 とりあえず戦いが1日遅ければ、立花宗茂、毛利元康、小早川秀包ら、1万5000人が西軍に加わる。
9月13日に終わった田辺城の戦いの1万5000人は、数日のうちに西軍に合流するだろう。
9月19日には、徳川軍主力の秀忠軍3万8,000人が、東軍に合流。
地方は、略。
>>572 お前の考える軍隊はワープでも出来るのかよw
その西軍は行軍中の秀忠軍と違って戦闘後の整備もしなきゃいけない、大津や田辺に抑えの兵も置かなきゃいけない。
数は減るし当然数日かかる。
何で西軍脳ってこんなにハッピーな人間ばかりなんだろう?
>>573 おお、ハッピーだな。
立花宗茂が草津まで進出してきてるから、大津攻城軍はすぐ来るだろ。
草津まで来たのは15日ではなく、16日か?
そしたら関ヶ原到着は17日だな。
抑え置いても1万以上の援軍だろ。
それで大幅に戦局が変わるかは、知らんが
大津城での損害の回復に相当の時間を要すると思うが
大阪城まで徹底した焦土作戦で撤退し、その後籠城がベストだった。
577 :
金吾秀秋:2012/08/26(日) 00:58:49.73
漏れ様をもっと大事にして厚遇するのがベストだった。
>>577 だれが、てめぇみたいな虎の威を借る狐の典型みたいな奴を厚遇したいものか。
ちなみに、毛利輝元に当時子供がおらず、養子にされそうになって、あまりもの
不出来だが無視することもできないので、小早川隆景が自家を犠牲にすることで
毛利家を守った。
つまり、それぐらいお前ってどうしようもない男なんだよ。
>>579 豊臣秀吉は、秀次、秀保みたいなそこそこの優秀な一族は妻子、姻族含めて
皆殺しにしているが、小早川秀秋みたいな何のとりえもないできそこないは
放置している。実際に余りにも無能過ぎて害にならないと考えたからだ。
そもそも秀吉の血族である秀次・小吉秀勝・秀保らと
姻族=ねねの親類である秀秋の立場の違いがわかってないw
秀秋の兄弟は誰も粛清されてないよ
583 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:02:07.82
>>564って言われるが三成って本当に戦場の指揮官として活躍した記録一切無いのな。
戦国期の人間としてここまで武官としての実績ゼロで出世した奴も珍しいな。
584 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:15:36.26
585 :
金吾秀秋:2012/09/01(土) 00:23:01.77
まったく、実績もないくせに出世するなんてずるいよな(´・ω・`)
586 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:54:37.74
アンタだって関ヶ原は兎も角、蔚山城の方は割と疑問視されてるんだがw
>>585 それってお前自身のこと?自分を鏡で見ろよ。
無能なくせに、秀吉の姻族だけで出世した、虎の威を借る狐の典型。
秀吉は毛利家に養子に出そうとしたが、小早川隆景が自家を犠牲に
して毛利家を守ったが、それだけ無能だったってこと。
>>583 つ村井貞勝
つ本多正純
探せばもっとあるかも。
そもそも、秀秋が毛利本家に入るところを小早川がブロックした話って出典何何だろ?
秀元が毛利宗家の養子になったのが天正13年(1585年)
秀秋が隆景の養子になったのは文禄3年(1594年)
あとは言わなくてもわかるな?
592 :
金吾秀秋:2012/09/02(日) 16:03:48.18
9月になっても暑いね(´・ω・`)
>>591 なんでそんなはっきりとした年代の齟齬のある俗説がまかり通ってるんだろうな
>>591 判らん。元々小早川隆景の最初の養子は小早川秀包で1579年だったん
だがね。小早川秀秋を養子とした結果、秀包は当然廃嫡され、別家独立と
なっている。
つまり、毛利秀元がいても、小早川秀秋をなお押し付けることは可能だし、
秀吉はそれを目論んだわけ。
>>594 「毛利家には養子もいないから」秀吉が目を付けたというのが俗説だよ
そもそも秀吉自身が天正年間のうちに秀元の家督相続を承認しちゃってる
淀と三成って仲が良かったの?
多くの大名が関ヶ原で味方したのも、淀ー三成のラインがあったから?
淀は関ヶ原に関しては中立、もしくはむしろ家康よりだったと言うのが最近では有力
>>598 そもそも淀君との仲が疑われているのは大野治長は相当有力だが、
石田三成は余り疑われていない。大野治長自信が東軍だった影響で、
淀君も東軍よりだと言う説が有力化しつつある。
>>598 つか
関ヶ原の時点では「御腹様」以上の存在じゃないからな
良くも悪くも権勢を発揮し出すのは関ヶ原後豊臣家の政官システムが崩壊した後なのに
>>574 宗茂と一緒に毛利元康も参陣して、
街道沿いに進んで関ヶ原中央に陣取ってくれれば
吉川広家、毛利秀元ももう戦わざるをえない
そうなれば長曽我部、安国寺、長束も・・・
これで戦局が西軍有利になれば小早川も・・・
・・・という夢を見た
>>601 秀包追加
毛利一門の元康や秀包が東軍と戦端切った時点で吉家の目論見は霧散してるから
あとはもう西軍として勝つしかなくなるからな
間違った、広家なw
604 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 00:59:19.53
>>601 そうだね。
金吾ちゃんはアホだから、もうしょうがないとして、
西軍は、近畿各地に支部隊が散らばっていたからね。
あと、毛利輝元に本気で戦う意思があればよかったな。
輝元は、どうも西軍が優勢で、自分が大阪城に入れば、
東軍の豊臣恩顧の諸将も次々と馳せ参じて、徳川家が孤立してしまい、
家康がすぐに頭下げて来ると思っていたんじゃないかな。
織田信長と対決しようとしていた頃の毛利家なら考えられないな。
アホか。毛利は岐阜陥落の時点で吉川広家を通して家康と講和交渉行ってるっつーのに。
相変わらずここは講談レベルの議論が大好きだなw
それなら西日本で占領地広げようとしないだろ。
どっちに転んでもいいように準備してた、が正確なところだと思う。
そうだね
毛利、小早川、鍋島、とかは二股かけてたみたいだね
608 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 18:07:14.12
余力のある時点での講和なら言い分通せるからな
クソ負けした後じゃどうにもならんが
小早川秀秋は伊勢戦線への派遣拒否して勝手に近江に行った時点で既に東軍に寝返ってたと
言うのが最近の説じゃないの
そう。関ヶ原の時の大谷隊なんて明らかに、松尾山城にこもった「敵」に対しての備えだもの
611 :
金吾秀秋:2012/09/07(金) 00:07:28.55
吉継なんてちょろいよな(´・ω・`)
そりゃ15000vs1500ならチョロいわな
松尾山城って当時もうすでに城跡じゃなかったの?
>>613 3万石の小大名のくせに居城改築して天守閣作ったという
城マニアの伊藤盛正が修理した
615 :
日本@名無史さん:2012/09/07(金) 20:51:20.19
>>350 ↑よく後付で時勢が見えずとかいう馬鹿いるよね・・・
シリア情勢とかどうなるのか読めるのかこいつは
先のことなどわからんぞ
616 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 00:21:49.92
近世国民史とかで紹介されてる資料を見る限りでは石田劣勢な政局ではないな。
石田方と徳川・福島・加藤・黒田・細川で主導権争いになりそうだが、豊臣政権内の争いで終わりそうという見方が多かったみたいだ。
実際に関ヶ原後の論功交渉や取り潰しは政権内の配置入れ替えだし。
それを豊臣政権から徳川政権への移行に上手くすり替えたのが家康で、藤堂・黒田が反石田派の武将を「秀頼が大名として残れてるし、秀吉への筋はそれで通せてるし世間にも言い訳できるじゃん」と懐柔しつつ徳川幕府が始まった感じ。
徳川が主導権握ると見ていた人は多かったと思うが豊臣家滅亡させるところまで行くと予想した人はかなり少なかっただろうな。
室町幕府の執権っていう、将軍はいるけど実権はこっち、って体制が続いた後だしね
近世国民史www徳富蘇峰wwwwwww
いまどきそんな文献で豊臣末期見る奴が居るとは
619 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 12:47:33.04
>>618 手紙の抜粋や照らし合わせが多くて面白いんだもの
>>619 つまりお前は分かりやすさと引換にその後60年以上の研究成果を無視してるわけだ
その成果とやらを具体的に書けよ
資料の信憑性はともかくとして具体的な出典挙げてる人間に
なんのソースもなしに文句つけんなバーカw
>>621 つーかおまえはまさか本気で60年前の学説、しかも徳富蘇峰みたいな通俗作家の本が
今でも通じるとか信じてるのか
>>622 「信憑性はともかくとして」
コレ読めない?
日本語は不得意?
626 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 18:48:57.98
>>620 俺は研究者じゃないし、真剣に勉強してる訳でもないんで面白ければ問題ないw
へー、ほー、そーかーと楽しんで読めればOKさ
難しい研究やらその成果は君に任せたw
627 :
金吾秀秋:2012/09/08(土) 21:27:36.00
秋祭りの準備が始まったね(´・ω・`)
>>627 見てるだけじゃなくて
手伝いましょうね
629 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 07:11:19.95
三成の命日には、今でも菩提寺で何かやってるんだろうな
そういや、北政所は三成嫌ってたなんて話はどっから出て来たんだろうな。
北政所=西軍派とまではいわんが、三成に限らず北政所が誰かと敵対してたなんて史料は全く無いのに。
>>618 徳富蘇峰って最初に三成を再評価しだしたんだっけ?
632 :
金吾秀秋:2012/09/12(水) 01:04:53.10
漏れ様のことも再評価してみないか(´・ω・`)?
633 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 01:11:41.72
>>631 江戸期は敵役だからね。
維新でひっくり返った感じ。
蘇峰の近世国民史での石田への評価は「忠臣だったかは分からないが家康とやり合う気概と能力と野心を持っていた人」ってとこだった。
家康への評価は「石橋を叩いて叩き割る慎重さと機会を練り上げる知恵を持っていた人」ってところだったかな。
書かれた時代殻、2人の尊皇事情みたいなのも書いてあったけどそれはまあオマケ。
講談以上学問未満な感じなんで、とんでも話はないし俺は面白かったw
>>633 ひっくり返ってねーよ。三成の再評価が出てきたのはそれこそ、司馬遼太郎の関ヶ原あたりからだ。
>>631 西軍派ではないが
はっきりと記録が残ってる範囲で一番緊密に北政所と書簡の往復や往来をしていた大名は三成だな
個人的親密さかどうかはわからんが敵対関係とはほど遠い
一方巷説で北政所派のように言われてる東軍大名は族甥である浅野幸長以外とは何の交渉記録
もない
当時の公家の日記を見る限りでは北政所は東西共にあくまでお付き合いか、
大津城のように豊臣家に関連する妻妾が危険に晒された時にしか動いてないな
>>637 大津城の時は松の丸殿って京極家に戻ってたんだっけ
>>638 そのようで、ちなみに淀殿からも和議の使者が送られている
まあ妹もいるしな
仮に東軍がポロ負けしてたら家康はともかく妹婿の秀忠は擁護したかも
関係ないが秀忠って小田原征伐前に人質として上洛して、お江と結婚して
江戸に戻るまで京につめてた時代には豊臣家奥向きの女房衆とかにえらく
人気あったらしいな
特に美男であったという記録もないんだが、なぜなんだろうw
同腹弟で関ヶ原に参戦した忠吉は記録に残ってる美男だったらしいな
記録されるほどの美男ではなくてもそこそこ見栄え良くて
大大名の息子ならそりゃモテるかもな
北政所に仕える女房衆なら上手くいけば主人の後押しで側室くらいにはなれるかもしれんし
「女房」は普通の側女・腰元と違って上級職だからね
それなりの家の出身か、あるいはその養女でないとなれない
佐和山に蟄居させられた時点で大人しく表舞台から去ってればのんびりと余生を過ごせたのに。
645 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 02:16:55.62
挙兵するにしても今までいつも後ろでコソコソしてるだけが能の官僚の三成が中心じゃ誰もついてこない
646 :
金吾秀秋:2012/09/17(月) 18:43:03.71
まったく、三成の人望のなさにはあきれたもんだぜ(´・ω・`)
お前人のこと言えねえだろw
>>646 この人の評価というか人となりというか
は今どうなってん?
書状見る限りでは太平洋戦争の旧軍の高級参謀や、
機動警察パトレイバー2の警視庁幹部と言った所
650 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 22:06:05.79
>>648 ぶっちゃけ早死すぎて秀次以上に評価に困る感じ。
関ヶ原での判断にしても彼自身の決断によるものか
家康派の家臣達が主導権握って後押ししたのかわからないし
>>648 秀次は再評価の動きがあるが、こいつの再評価の動きは聞いたことがない。
それぐらい、どうしようもないほど評価は低い。
>>651 評価が低いんじゃなくて、良い評価にするにも悪い評価にするにも同時代資料がなさ過ぎて
評価のしようがないんだよ
653 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 02:16:07.79
逆に言えば評価が低く人望がない人間であれば
西軍を作り上げ、家康が破滅する可能性すらあった「関ヶ原」を演出できなかったろう。
伊達政宗なども西軍が勝つかもしれないので、上杉軍に包囲された
山形城の救援に家康の要請で出たものの洞が峠w
石田が武断派に憎まれたのは慶長の役で福原長堯(石田の妹婿)が
軍令違反をさかんに秀吉に報告したのを石田の差し金と誤解されたのは不運w
石田の指示どをりに輝元が秀頼を擁して戦場に到着していれば完勝だったし
毛利本隊不在でも勝負の帰趨は小早川の胸三寸というありさまw
また講談脳が現れた
そもそもその短い生涯において前線での槍働きが軽率だと秀吉に叱責された
以外は何の失態も犯してない人間がなんで無能扱いされるのかと
たとえ有能な家臣の補佐があったからにせよ、軍務は過怠なく務め度重なる
転封でもスムーズに封土を掌握してる
無能といえる要素は何一つ無い
そもそも三成をやたら過小評価し始めたのは明治以降である
前線での槍働きが軽率って叱責されたってのはいつ?
幸州山城攻めで負傷したときかな?
少なくとも三成よりは将としての資質は上だと思う>秀秋
資質どうこうを判断できる材利用はないがともかく負けた事ないからな金吾
三成は忍城は上からの命令で戦術を決められるという特殊ケースだから別としても
関ヶ原の敗戦ははっきりしとる
そもそも三成の有能さを示す業績なんて何一つ無い件
662 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 21:56:16.23
秀吉も見る目が無いよな。
こいつを奉行に取り立てるくらいなら、もっと他の奴を取り立てるべきだった。
663 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 23:55:35.69
664 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 04:47:47.52
>>661 逆に無能ぶりと佞臣ぶりならいくらでも挙げられるからなw
なんで儲とアンチってベクトルは反対なのにレベルは同じなんだろうw
ん?事実を述べてるだけだが?
そういう書き込みが低レベルって言うんだよ
668 :
金吾秀秋:2012/09/22(土) 01:07:41.99
秋らしい爽やかな気候になってきたね(´・ω・`)
家康以上にがまんづよかったら、 天下が取れたかもなw
加藤清正ら豊臣急進の武功派の因縁に、我慢強く対応w
家康の挑発に我慢強く対応
淀殿のヒステリーに我慢強く対応
ガマンで天下をとった家康にガマン出来れば、豊臣政権は続いたかもしれんw
我慢ってのは我慢出来るだけの体力がないと出来ない
まあアレだ。
単純に甘い汁にありつく為に政権中枢に返り咲くのが目的だったのか
それとも純粋に豊臣家の将来の為徳川を排除するのが目的だったのか
どっちにしてもなんか何をそんなに焦ってるんだ?って問いたくなる焦りぶりだったな。
結果的には家康が予想以上に長生きしちゃったわけだが
当時の基準から見れば家康の死を待つという選択肢もあったろうに。
672 :
金吾秀秋:2012/09/25(火) 02:03:58.40
何をそんなに焦ってるんだ(´・ω・`)?
すごい単純な話、つい最近失脚して、このままの状態だと影響力とかどんどん無くなっていくので、
未だある程度影響力の残っている状況で挙兵したってことだな。
三成的にもギリギリだった。
そう考えるとホント身の程わきまえない卑しい奴だな
675 :
金吾秀秋:2012/09/26(水) 02:20:28.75
まったく、身の程わきまえない卑しい奴だな(´・ω・`)
677 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:15:17.63
金吾は少なくとも三成よりは遥かに優秀な武将
678 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 10:13:51.50
>>671 家康が征夷大将軍になってからでは遅いと思って挙兵したんだろ
すでに成人していた秀忠に征夷大将軍を譲ってしまえば
家康一人死にさえすれば豊臣の天下に戻るともいえない
家康は秀吉の死の直後から明らかに天下取りに動いたから
あの時点ですでに家康の天下になっていたから、止めるならあそこで挙兵だろ。
加賀征伐、会津征伐… とどんどん有力大名を潰していく。
また講談脳が現れたよ。
家康は秀吉の遺命に従って行動してただけなのに
言いがかりつけた三成は屑だよ
681 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 23:33:15.24
>>680 遺命を無視して大名と私婚を通じただろ
加賀征討や会津征討をして前田家・上杉家を秀頼抜きで徳川家康に対して直接臣下の礼を取らせ
家康を主君として崇めさせることが秀吉の遺命なわけないだろw
>>681 そもそも婚姻許可の権限は家康にあり、それは前田利家とのいわゆる「和解」でも確認された。
家康と諸大名との婚姻は利家との和解以降も、全て問題なく進行されている。
683 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 10:16:48.55
>>682 「秀吉の遺命」にそんなことは書かれてないだろw
秀吉の死後、家康が秀吉の遺命に逆らったことは事実だよ
前田利家との協議により家康が秀吉の遺命に逆らっても
豊臣家家臣は家康を処分しないとされただけ
>>683 遺命で言うなら秀吉の遺命に政務の執行は五大老五奉行の協議で行う、という部分は一切存在しない。
秀吉の遺命では政務は家康一人に委任されていた。
五大老五奉行の協議という形にしたのは秀吉の死語。三成を中心とした巻き返しの結果。
これでもう遺命違反。
>>684 > 秀吉の遺命では政務は家康一人に委任されていた。
お笑いだな。どのトンデモ本を真に受けたんだ?
686 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:45:58.70
>>684 勘違いしている家康厨が連投してるな。
秀吉の遺言状でよく知られているのは、五大老にあてて秀頼を頼む内容のもの。
>秀吉の遺命では政務は家康一人に委任されていた
他の四大老五奉行を無視して家康の独裁で政治を任せるなんてどこにも書いてないが、
それがあるというならまずは史料をまずあげようよ。
秀吉が家康に「秀頼をお頼み申す」とか言ったのはドラマの中だけの話で
実際には大老全員に秀頼に忠誠を誓う起請文にサインさせた(三成も現場に立ち会ってた)
んで秀頼の後見人は利家で別に家康に政治の実権渡すみたいな約束はしてなかったんじゃなかったっけ?
俺の情報が古いから間違ってるかもしれんが。
>>685 トンデモも何も、「十人の衆多分に付きて」という文言が現れたのは秀吉の死後、
慶長3年9月3日付の十人連判の誓紙」で初めてだぞ?
「豊臣秀吉遺言覚書」では、五奉行の権限は
秀頼をもり立てるとこ(第七条)、蔵入地の算用を行い、それは家康と前田利家の検閲を得ること(第八条)としか
書かれていない。さらに
「何事も家康・利家の御意を得て行うこと」(第九条)とある。
政務に関しては「家康が伏見城で政務をとること」(第十条)、「利家は大阪城で秀頼を補佐すること」(第十一条)
としかない。
もっと言えば家康利家意外の五大老に関しては「秀頼対しに秀吉同然の奉公をすること」「豊臣家の法度を守ること」
「秀頼を取り立てること」くらいしか言及されない。
ここから秀吉の意図として、秀吉の死後の体制は家康利家の二頭立て政権として構想されており、五奉行は明らかに
この二人の行政官に過ぎなかったことが解る。
現在はこう言った見方のほうが定説と考えていいと思うぞ?
689 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 19:15:35.39
>>688 「豊臣秀吉遺言覚書」は浅野長政が作成したことが分かっていて(浅野家に伝来)、
秀吉生前に秀吉の命によって作られた可能性は低いものだが?
十一条からなるが、まず第一条に、何をさておき秀頼を徳川家康の婿としてほしいことが書かれてあるが、
そもそも秀頼と千姫の婚礼自体、関ヶ原後の家康の発案だとする説もある。
>>689 現在「覚書」の内容を否定する証拠も史料もないよ?
君のいう千姫の婚礼が家康の発案という話も、はっきり言って思いつき以上の信憑性はないし。
691 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 19:38:15.72
>>688 >>793 全く根拠になってないよ。
> ・「伏見ハ内府御座候て、諸職被成御肝煎候へと御意候、・・・」
諸職御肝煎は「責任者」とはならないってのは説明した通り。
> ・「・・・、内府『惣』様御留守居候事、・・・」
前田・長束が一番、その他一人が二番、家康が全体的にって事であって、 当然序列を表す言葉じゃない。
もちろん、この中に伏見の留守居=全ての政治決定権があるなんて内容は一切見当たらない。
何で意図的に内容かえるんだよw家康に政務を任せるなんて書いてないじゃんw
692 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 20:11:38.76
>>688 758 :人間七七四年:2012/07/28(土) 12:45:52.66 ID:qZfVxznP
> 秀吉の遺言により家康が豊臣政権の執権者だったんでしょ
そんな馬鹿な。豊臣秀吉遺言覚書にそんな事は一言も書いてない。
家康は伏見で「諸職御肝煎」に命じられているけど、
これが「政務を任された」などと意訳され、それを見た馬鹿が勘違いしただけ。
実際には長束と前田が日常的に行っている業務の相談役のような立場ってだけ。
政権としての重要な決定については別途定められてる。
>>691-692 一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意候事、
の時点で決定的だろ
694 :
金吾秀秋:2012/09/29(土) 02:09:41.36
9月ももう終わりだね(´・ω・`)
また諸職御肝煎のアホの三成厨が都合のいい独論を持って暴れてんのか
このID変えながらの連投は、前に戦国板で暴れてたキチガイ三成厨!
戦国板で相手されなくなってこっちに逃げてきてたのか
697 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 07:09:50.58
こんな無能な上に人格も最低な屑を美化した司馬や堺屋の罪は大きいな
司馬や堺屋は屑だが三成は屑じゃないだろ。
三成は根拠のない楽観主義者
書状でハッタリかますのは常套手段だから仕方ないんじゃ?
彼の場合、実際の行動に即しているから本気かと
所詮は頭でっかちだと
いや、本当に頭は横にデカかったらしいが
なんで秀吉はこんな無能を政治の要職につけたんだろ?
やっぱ人を見る目無いんじゃない?
704 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:08:44.14
>>693 >「家康が伏見城で政務をとること」(第十条)
お前がネットから引っ張ったこの意訳はやっぱり間違いジャンw
家康と利家が相談して物事を決めよ、だから、家康と利家が相談して私婚の禁止を破るなら
それは「太閤様の遺言で家康は他大名を個人的な家臣にします」でおk、
利家が死んでからは家康の独断だから
家康が秀頼を殺したことは「太閤様のご遺言でおk」だと言いたいみだいだなw
705 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:10:08.27
>>705 やっぱりお前戦国板に居たキチガイの三成厨か。こっちにまで迷惑かけるなや。
708 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 17:29:05.19
どっちにしても秀吉はこんな奴を奉行に取り立てるべきじゃなかった
709 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 17:53:33.22
「政権にしがみつきたい」というこいつのエゴのせいで
秀次の一族はじめ罪もない人が数多く死んだ。
>>704 とりあえず突っ込んでおくが、それ別の条目だぞ
家康に政務をとるように求めてるのは↓
一 伏見ニハ内府御座候て、諸職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハ
徳善院、長束大蔵仕、何時も内府てんしゅまても、御上り候ハんと被仰候者、
無気遣上可申由、被成 御意候事、
利家に秀頼を頼んでるのは↓
一 大坂ハ 秀頼様被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと
被成 御意候、御城御番之儀ハ、為皆々相勤候へと被 仰出候、大納言
御てんしゅまても、御上り候ハんと被仰候者、無気遣上可申由、被成
御意候事、
>>704 妙な空想しないように付け加えとくと「浅野家文書 107」だから
東京大学史料編纂所の古文書フルテキストデータベースで
誰にでも読めるよ。
712 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:42:56.68
>>706 別人だが。
でも、お前が歴史板の誰かは分かったよw
713 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:45:18.02
>>710 当たり前だよ。
「諸職被成御肝煎候」の訳をお前がネットから引っ張ってきて
「政務をとる」と誤読したことを言ってるんだ。
違うというのならば、
>「家康が伏見城で政務をとること」(第十条)
これの原文を上げてごらん?
714 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:48:39.77
>>710 だから、その条文をお前が誤読してると言ってるの。
歴史板から正しい訳を引っ張ってきた人がいたが、
「三成厨」だから無視しろ、と言ってごまかそうとしている馬鹿がいるw
その箇所の訳をしてみろ、と言ってるんだ。
715 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:52:26.88
>>709 妻子の処刑まで主導したのはガラシャの件と並んで弁護の余地ないよね。
>>714 ハッキリ言っておくが、最初に書いてたやつは俺じゃないぞ。
なんで、赤の他人の発言について、お前に絡まれなきゃならんのだ。
ついでに言っておくが、この場合の諸職は政務であってると思うぞ。
>>717 著名な本や歴史家はみんなそう捉えているよな
>>717 「惣廻御肝煎」はどういう職種と思ってるの?
>>718 どこの大学教授がどの論文で言ってるの?
素人歴史家は勘弁w
>>717 「御職」が政務なら「被成御肝煎候」は?
豊臣政権を家康にあげます、と言っているわけじゃあるまいしw
>>719 >どこの大学教授がどの論文で言ってるの?
この場合の「諸職」をお前の主張のように言っている大学教授()の論文は?
どうして全文さえ読まずに発狂するんだろう
ビョーキ? 性格? それとも宗教的な理由?
>>722 全文引用しないとダメなのかよw
前のほうで書いてる奴いるから読めよ
俺は前文でないと気が済まないというなら全文和訳を書いてくれていいよw
>>721 家康は秀吉から政権を譲られたのではない
私婚の禁を破ったのは家康の遺言違反(利家の言い分に理がある)
というのは山川・小学館当たりから出ている日本史の通説で
(それぞれ学者が書いてるから)
で、家康が豊臣家の政務代行を秀吉から命じられたと言っている教授は誰?
人に聞いておいて自分は答えないとかw
>>724 >家康は秀吉から政権(政務な)を譲られたのではない
この部分だけの話で頼むわ
どこ大の何と言う大学教授()の論文?
山川・小学館当たりから出ている日本史の通説とか曖昧な話でごまかすなよ
727 :
金吾秀秋:2012/09/30(日) 21:10:24.19
衣替えの準備した(´・ω・`)?
山川って教科書のことだったりしてw
我慢強いほうが勝つわw
結局、史実的にコイツには友達はいなかったでおkだよな
大谷も直江も友達である証拠は無し
奥州の大名は、戦国時代に戦闘が延々続いていてごっちゃごっちゃになっていたのだが、
「九戸の乱」の時に奥州まで直接来た石田三成を通して領土を安堵できた大名は恩を感じていたよ。
津軽氏とかね。津軽氏は家康の養女を正妻にしたけど、子どもが生まれなくて、後を継いだのは
石田三成の娘との間にできた子だった。
732 :
金吾秀秋:2012/10/03(水) 00:12:48.82
今年は10月になっても半袖が必要だね(´・ω・`)
>>731 山内氏勝みたいに、三成が本領安堵するから伊達と戦ってくれとの依頼を
受けて最後まで城を守り切ったのに、所領没収されたケースもあるからなぁ
恩を感じる大名もいるだろうが、恨みも相当買ってるよ。
>>731 徳川家康の養女満天姫にも男子が一人いたが(津軽信英)
石田三成の娘辰姫が産んだ長男(津軽信義)が弘前藩を継いだ
なぜ嫡男である信英が継がなかったかについては一説に
実は信英は満天姫の養子だった(満天姫の侍女が代わりに産んだ)説があるみたいだが。
信英のほうは旗本に取り立てられ後に初代黒石藩主になっている
で、結局
>>724はドロンかよw
ところで戦国板の三成スレ落ちたな
736 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 21:06:22.63
>>735 「家康が豊臣家の政務代行を秀吉から命じられた」という史料を誰一人出してこないから
話が進まないわけ
ドロンしたのは717・718のほう
「著名な人が言っている」と言っているのにその著名な人の名前は絶対に出せないらしいw
>>736 笠谷和比古、大西泰正、相川司などが著作で書いているよ
そちらの「家康が豊臣家の政務代行を秀吉から命じられたわけではない」というのは
どこの大学のなんという教授の論文?
お前ら無限ループしすぎ
740 :
金吾秀秋:2012/10/04(木) 22:55:44.55
漏れ様が言ってやろうか(´・ω・`)?
741 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 07:18:39.62
>>737 724であげてるじゃんw
笠谷和比古、大西泰正、相川司が原文を上げて「家康が豊臣家の政務代行を秀吉から命じられた」
と訳している書名と文章を具体的にあげようよ。
通史的に訳しているならただのごまかし。
742 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 07:19:28.32
>書名と文章を具体的にあげようよ
おまえがまず挙げなきゃw
745 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 07:29:41.16
>>737 笠谷和比古、大西泰正、相川司らは家康が前田利家と共に秀頼が成人するまでの
政務執行代行者の二頭だったことは書いてるけど、
秀吉が家康の独裁政治を遺言したとは書いていない。
どの箇所に書いてあるの?
>>745 とりあえず会社あるから帰って来てからなw
>>745は「政務をとる」を「政務を任されていない」とした書名と文章を具体的にあげとけよ
また無限ループかよ。少しは進歩とか成長とかしろよ
>>746>>747 こっちはちゃんと上げてるのにそっちは逃げばっかりw
秀頼が幼少だから成人するまで誰かに政治を託す必要はあっただろう。
そのために五大老五奉行制度を作った。
しかし、ここの家康厨は「家康は秀吉から自分勝手に政治をやっていいお墨付きをもらい、
それに基づいて大名たちと私婚を通じ、文句言う奴は武力で攻めると脅し、家康の個人的な家臣となるよう強要した。
しかし、それは秀吉からそうしていいとお墨付きを得ていたためで、三成が暴走して関ヶ原さえ起こさなければ、
秀頼公を主君としてお仕えし続けた」だもんな。
とりあえず、その三名が第十条の原文を上げて
お前の主張通り訳している論文の引用を頼むわ。
そうしないと誰も信用しないし延々ループするからな。
>>750 結局書籍名も論文名も引用も挙げられないのか
お前の勝手な解釈に過ぎんかったということか
>>751 あげてるだろ。
お前こそ他人任せで(747帰宅待ち)で他人を煽ることしかできない
歴史板の馬鹿じゃねーか
悔しかったらお前が証拠出せ
この終わった話題をいつまでも蒸し返す知性の欠片も感じられない展開
まちがいなく戦国板の三成スレから流れてきたバカども
755 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 11:00:31.85
涼しくなりかけたと思ったらまた暑くなったね(´・ω・`)
>>730 そもそも武将同士の付き合いなんて基本的にビジネスだろ。
なんで三成だけやたら友達いない嫌われモノとか強調されるんだか
758 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 03:02:29.41
家康シカトした話とか三斎様との柿の話みたいな明らかに後世に作られた
「傲慢で陰湿な嫌われ者三成」の逸話は信じる人は多いのにな。
そういや同時代の人の三成評とされてる
木食上人の「少しでもさわりあれば」云々とか
毛利輝元の「かの人大いに気を使う」って出典元は何だったっけ?
>>759 木食上人のは関ヶ原後に出した家康への弁明の書状らしいから
割り引いて考える必要がありそう。
輝元のは「萩藩閥閲録」で児玉元良宛書状だそうな。
木食上人は三成とはかなり親交があった人みたいだから
その人に言われるくらいだからよっぽどだったんだろうなあ
って漠然と思ってたが、そういう背景もあるのか。
輝元の方は個人的には要人だったって意味くらいに捉えてたが
三成が傲慢だったという意味で使われることが多いね。
萩藩閥閲禄は他にも割と三成の悪い話が載ってるが
(三成が脇差を強引に貰った話とか)真偽のほどが気になるな。
>>761 三成がどうとか書かれてるのは脇差の話だよ。
三成について述べた後に続けて、脇差を差し出してくれと
児玉三郎右衛門に依頼してる。
毛利にとって三成は取次だから、その権力に強さに対して
もの凄く気を使ってるだけで、性格についての批評じゃないとは
思うんだけどね。
毛利家家臣の児玉が秘蔵していた貞宗の脇差を当時の関白豊臣秀次が欲しがっていたので、
三成が「どうせ召し上げられるなら拙者にくれるよう仰せつけくださるまいか」
と毛利輝元に申し出たそうだが、これでは児玉と秀次の双方から恨まれるだけではないかな。
764 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 12:47:01.74
ほとぼり覚めたら返却するとかの手があるじゃん
要は秀次の無理がきないところに一時退避させてはどうかな
って事でしょ
765 :
金吾秀秋:2012/10/08(月) 15:14:56.17
まったく、三成には気をつかうよな(´・ω・`)
なんか色々と疑問が残る状況だな。
いくら取次として要人だったからって
奉行の一人に過ぎない三成が仮にも秀吉の跡取りである秀次が
手を出せないほどの権勢を持っていたとは到底思えないんだが
768 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 17:49:56.27
秀吉直の重臣に手を出せるほど秀次の立場は強くないよ
>>764 でも結局そのまま貞宗は三成の所有になってるみたいね。
ただ、原文にはどう書いてあるのか気になるな。
>>768 そうなん?関白になった後は秀吉と二元政治の体制になってたんじゃないの?
>>766 三成が脇差を要求した話は徳富蘇峰の「近世日本国民史」に書かれている。
うーん、徳富蘇峰は三成再評価の先鞭をつけた一方で
三成は七将襲撃の際に「家康邸に」逃げ込んだという誤読をして
それが後世にまで一般に広めてしまったからねえ。
これに関しても徳富蘇峰がどっかで誤読してる可能性が微レ存
知恵袋ってアンチ三成な人多いのか?
知恵袋はジャンルによっては間違った知識が垂れ流される駄目サービスだからなぁ
未だに「源義経は当時の合戦のルールを破ったから勝てただけ」
なんていうアホな説が常識であるかのように支持されてる知恵遅れ袋なんぞ相手にせんで宜しい。
あと戦国板によるとyaikomaeとかいうコテは「だが」とかいう自演しまくってるマジキチだそうで。
>>774 戦国板のいい話悪い話スレにもそれ信じてる人多かったね。
あとはポン刀役に立たない説や騎馬武者不在説なんかも信じてた奴多いし。
あそこは前々から所詮は逸話に過ぎないのを「史実」として信じてるのが多かったが
あれでもう完全に底が知れちゃったな
>>775 それでいいから二度と戦国板に戻ってくるなよ。迷惑だから。
は?一体何と戦ってるのこの人?
しっ、相手しちゃいけません!
>>771 徳富蘇峰は、誤読じゃなくて史料不足なんじゃないの?
で、結局元の輝元の書状には何て書いてあったんだ?
再来年の大河は如水だってさ。
またまた小賢しい小悪党キャラにされるのはほぼ確定だろうな
>>780 貞宗の脇差の件で毛利輝元が家臣の児玉に宛てた手紙には
「かの仁(三成)当時肝心の人にて、中々申すにおよばず。大かた心得にて候」
と書かれてあった。
秀次が脇差を欲しがってそれを三成が横取りする形になった
みたいな感じの経緯が読み取れる部分はその書状にはあるのかい?
出典が明記されてるんだから、たまには自分で調べたら
良いんじゃなかろうか
785 :
金吾秀秋:2012/10/12(金) 22:27:23.35
明日ハイキングにいくんだ(´・ω・`)
↑ぶっちゃけいい加減面白くない
>>786 金吾、誰もスルーしてるからって自演はやめようね。
定期的に糞スレ保守してくれる金吾さんを悪く言うなよ
789 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 00:05:20.83
今から金吾タンにレスされたり突っ込まれたりしたやつは負けなww
そんなに金吾が好きなら金吾スレ立てればいいのに
あっちこっちで三成スレに湧いては金吾持ち上げやるから金吾信者はイヤなんだよ。
はい負けました。
あーあ、金吾が来なくなったじゃないか!
792 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:04:08.74
三成ファンは三成とおんなじ位、うざい嫌なやつが多い。
794 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 00:48:13.48
>>783 うん。はっきり書かれてたよ。
あと蜂須賀家政から脇差強引に貰おうとして
「これは戦で使うもんだからお前には不要だろw」
って言われたからファビョってそれが蔚山城で家政讒言した要因って記録もある。
無能で戦下手な上に性格陰湿とかやっぱクズだなこいつ
795 :
徳川家康:2012/11/01(木) 15:52:00.95
備前中納言が首将となり、石治少、大刑少、小摂が指揮を取れば、苦戦するは必至。
敢えていおう。
>>795 それだと毛利が決して参戦しないから、関ヶ原自体起こらないよ。
797 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 20:31:00.14
こいつが後世に残した実績なんて何一つ無いし、豊臣政権にもマイナス面しかもたらしてない。
それどころか、こいつが関ヶ原起こしたせいで死ななくてもいい人物が沢山死んだ。
こんな奴を奉行に取り立てて大名との取次任せるなんて秀吉はホント見る目無いな。
茶室での密室政治、個人の資質の頼った場当たり的な人治的な処方しかない世情を
法に則ったきちりとした世の中に変えていくには、必要な人材だったんじゃ
乱世→治世への過渡期にはよくある話
799 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 22:51:27.37
調べれば調べるほど「兵站を重視した優秀なテクノクラート」像も
「部下や領民から慕われた名君」像も
司馬をはじめとする物書き達の捏造だった事がわかる。
ハッキリ言って他の子飼い武将と比べて優れてた部分なんて何もない。
単に秀吉にとって都合の良いイエスマンだったから側に置かれただけ
内容のないポエムを延々と書き続けるとか
どんだけ憎んでるんだよw
801 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 01:51:56.12
有名武将系マイポエムは誰もが通る道やで、そっとしといたりな
802 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 05:37:51.98
ポエムではなく事実です。
>>798 だとしてももっとマトモな人材がいくらでもいたでしょ
803 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 05:43:13.74
>>799 調べれば調べるほど
その出展先が徳川のイエスマンだとしたらどうなんだよ
毛利も木食も戦争に負けた途端、徳川まんせーだし
真田は立派だったけどな(三成書状を家宝として数百年極秘に管理)
頭いかれてるのかな
それとも親が三成にころされたのかな(笑)
804 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 05:48:18.84
>>802 三成の100分の1の能力もないくせにわめきちらすなや僕ちゃん
正直三成の代わりはいない
あの徳川ですら本音は自分の家臣に欲しいと思っていたほどの人物だし
だからこそ彼の子供を殺そうともしなかったし
805 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 05:50:13.36
結局今の三成人気にひがんでるんだよそいつは
今や義経と並ぶ悲劇の武将
それが現在の評価だ
1人で連レス必死ですねw
レス1つにまとめりゃいいのに。
>>803 別に徳川家が1つ1つチェックするわけでもないのに
どの大名家でも三成が悪く書かれてるのはそれだけ多くの大名に嫌われてた証拠。
ここまで嫌われてたんだからこりゃもう性格と能力に問題があるとしか思えない。
利休の切腹に関わってないのに、当時の兼見卿記で噂があったと書かれてるが
そういう噂が立つ時点で民衆からの評判も最悪だったんだろう。
>>804 後世の捏造ではなく同時代の史料で家康が三成評価してたソースよろ
807 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:47:34.15
>>806 それはどうだろう。
淀殿は江戸時代には悪女の象徴だったが(良く描いた史料なし)
最近では見直されてきている。
天下の大権現様に敵対した相手を悪く書く家伝などないだろう。
兼見卿記は公家の日記であり、三成の悪口は書いていない。
(武家とも交流があり、利休切腹の風聞を乗せただけ)
808 :
807:2012/11/02(金) 08:48:22.49
悪く書く家伝→ほめたたえる家伝、ね。
>>806 家譜の類は先祖や藩祖を顕彰する為の創作が多いから
プラスにせよマイナスにせよ、それを元に判断するのは危険だし
それ自体が後世の捏造ともいえる。
>>810 テンプレ暗君逸話を信じるのとと同レベル。
812 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 14:11:42.11
大権現に抗った光成を悪くいう日記なり、家史なり、
それらしく残しておくのは、江戸期の大名として当然の務め
ていうか、オレがもし江戸初期の大名で、
家康から領地を安堵された立場なら、
金をかけて必ず作っちゃうね
三成にも優秀な人材が命を賭けて仕えてくれてるってのにな
>>811 あれは元ネタとして中国古典籍からの引用が知られているし
そういうのと比較して捏造と判断すべきでそうでなければ、疑問込みで採用するべきかと
>>814 同時代史料の裏付けが無いものが信じられる訳無いだろ
817 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 14:36:29.88
>>816 むしろ戦国武将の評価の大半は江戸初期〜中期にかけて作られたもんだしね。
結局最終的に勝ち組になれなきゃ好き勝手言われる。
819 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 15:14:02.54
同時代にすら肯定的評価が一切無い以上、やはり人格に問題がある無能だったんだろ
820 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 15:45:16.93
無能で嫌な奴が専横極めてたからこそ、主君の死後に襲撃されたんだしな
関ヶ原の楽観的観測に満ちた書状を見ると、無能だと思う
あれは楽観的観測というより味方に対する一種のハッタリでしょ。
政治的誇張を含む書状で無能扱いなら、秀吉はどんだけ無能になるんだろう。
怖いぞ。
七将襲撃は三成だけじゃなくて増田長盛もターゲットに入ってるから
人格どうこうは無関係だな。
その後の政治的動向を見れば蔚山問題で決起したのは明らかだし
でも蔚山問題はどう見ても三成に非があるじゃん。
だから家康も三成を隠居させたんでしょ
826 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:14:52.88
三成を貶めれば
俺かっこいいなとか思ってるんじゃね
この連中
そもそも関ヶ原西軍大敗の原因はチョン成敗がほとんどだろ
秀吉のせいにできないから全部石田三成のせいにしたかったんだよな
あのアホ(加藤)どもは
負け戦で恩賞要求する事じたいちゃんちゃらおかしいわな
827 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:18:38.06
増田も巻き込むとは三成最悪やな
829 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:52:20.18
増田は自業自得
彼が信用できないので毛利は大阪からでられなかった
>>828 その辺は色々あるからなあ。一概に断定は出来ないでしょ。
蔚山問題は三成自身は関与してないだろ。
報告した軍艦がことごとく三成の与党だっただけで
×軍艦
○軍監
だからこそ「裏で三成が糸を引いてるに違いない!」って思われたんじゃないかな?
でも清正や長政はわかるけど、蔚山城の後はむしろ加増されてる嘉明や
慶長の役には出陣すらしてない正則や忠興が襲ったのは何故なんだぜ?
>>830 本来直ぐに、尾張国へ進出すべきなのにそうしないのは上方大名が
西軍に属するために西上していると判断していたから
>>833 嘉明は参加してないでしょう。
諸将を宥める為に出した、閏3月5日付の家康書状の宛先が
丹後少将殿、蜂須賀阿波守殿、清州侍従殿、藤堂佐渡守殿、
黒田甲斐守殿、加藤主計頭殿、浅野左京大夫殿の七人ですしね。
ただ正則、忠興の利得は蔚山に直結してる訳じゃないから疑問ですね。
藤堂高虎も慶長の役で特に不利益は被ってないな。
浅野と蜂須賀は蔚山城の件で割とひどい目に遭ってるからわかるが
>>834 だよね。西軍の武将達はさっさとこいつ殺して降伏すべきだったな
>>836 不興を蒙ったのは蜂須賀と黒田。
加藤、浅野は籠城で苦労した口か。
清正の場合は文禄の役の後の謹慎の方が強いんじゃない?
蔚山城の戦いで難儀したのはこのメンバーだけじゃないんだし。
まあこのメンツ全員の共通項ってこの出来事の前後で
家康と遠戚関係結んでる点だから個人的には正直そっちの方の視点から
攻めた方が良い気もするけどね>襲撃の理由
840 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 00:47:23.15
三成本人はとりあえず今、きちがい朝鮮人相手にこれ以上戦争状態が続けば豊臣政権は崩壊しかねないので早く撤退する必要がある、チョン成敗に異常に執着する加藤らを貶める必要性があった、とにかく彼らを戦場から取り除うと画策した
こんな感じじゃね
加藤らが朝鮮にいたら戦争は終わらねーし
結局秀吉が死んだ事で終われる口実ができたけど
秀次の件もそうだけどアホな上司をもったために部下は苦労するよな
841 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 00:54:13.71
結局チョン成敗が豊臣政権の命とりになったよな
加藤福島にもうちょっと脳みそがあればな
所詮農民上がりの秀吉の親戚じゃたかが知れてるか
チョン成敗してるくらいなら難癖つけて徳川毛利を攻めた方がまし
大大名に難癖つけて滅ぼすのは北条幕府足利幕府どちらもやった手段
徳川が天下を奪いに行ったのはそれを恐れての事だろう
豊臣命の石田に豊臣政権をまかせていたら息子の代でたたかれるだろうと容易に想像できる
なんで三成好きな奴って↑みたいなアホしかいないの?
843 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 07:03:27.42
>>842 おまえもアホだろう
石田三成の100分の一の脳みそも無いのにわめきちらすなや
>>839 家康との縁戚関係からの視点も面白いんだけど
細川、藤堂、浅野が選外で、蜂須賀、黒田も時期的には微妙だったり。
実際、浅野や細川はその後におこった加賀征伐騒動の辺りで
家康に人質を出したりして屈服した感じだしね。
七将襲撃の時点で家康の与党とは考えがたいかと。
なら尚更襲撃した意図がイミフだな。
唐入り絡みなら遺恨があるのは精々加藤、黒田、蜂須賀の三名だけだし。
遺恨があるその3人に加藤と親しい福島、浅野が便乗して
更に元々不仲だった細川も荷担、端からバリバリの家康派だった藤堂が煽動
って考えればまあ筋は通るような気もしなくはない。
輝元書状によれば、主導したのは蜂須賀家政、黒田如水、加藤清正だとしてるね。
何と言うか、関係者間の立ち位置が掴みにくい事件だと思う。
主導したのがその三人なら一応話の辻褄は合うかな。
忠興と仲悪いってのも例の柿の話って、出典元の細川家譜見たらよく言われてる
「和解するはずの場で三成が遅れて来た上に無神経に柿出して忠興が怒って帰った」って内容じゃないっぽいし
(柿持ってくる所は同じだが、別に和解の場で無ければ三成は遅れて無いし忠興も普通に話は聞いてるっぽい)
襲撃事件以前に両者に本当に遺恨があったのかどうか。
850 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:15:34.80
やっぱもう単純に三成を殺したいほどムカついてたでいいんじゃね?
正直この七人に何一つ共通点が見いだせないし。
そうして三成嫌われ者神話が作られていきましたとさ。
襲撃メンバー共通点は朝鮮へ渡海した事だね。
縁戚その他のの繋がりで共通点には乏しいし、
やはり朝鮮で奉行衆となんやらあったのだろうか
関ヶ原の立役者としては、家康、三成と並んで福島正則に注目すべきだと思う。
福島が先頭にたって家康についたから武功派の勢力も右へ習えした。
風見鶏ぞろいの戦国大名の中で、信頼されてるかどうかもわからない家康に
保険もかけずに協力したのは、戦国大名にあるまじき潔さだな。
で、後に体よく取りつぶされたわけだが、正則バカすぎだよな。
>>852 でも、逆に言えば朝鮮に渡海した武将は他にもいっぱいいたわけで。
関ヶ原で西軍の中心だった宇喜多さんや小西さんも朝鮮出兵では主戦力だったしなあ。
>>853 小山評定も実際通説で言われてるようなやり取りがあったのかは疑問視されてるがね。
>>856 そういや正則はもっと早い時期に反転してると言う説が出てるな。
>>855 小西はバリバリの三成与党だなー
朝鮮での挙動も諸将とちょっと違うかな。
蜂須賀家政などが提案して譴責された「順天、梁山、蔚山の
三城を放棄する案」にも反対してたそうだしね。
なんつーか調べれば調べるほど事情は複雑怪奇で
ぶっちゃけ三成自身の人格だの文治派云々だのは殆ど関係ない気もする。
>>859 正にその通り。
ようやく講談史観を脱して実証史学が機能し始めた所だしね。
豊臣の世から徳川の世へと移る過程で
豊臣恩顧の大名に口実が必要だったんじゃね
三成が悪いと
三成自身にも悪い点はあるかもしれないけど、それ以上にスケープゴートが必要だった
そのうってつけの位置に三成がいた
当の大名達は口実とか意外にも気にしてなかったりする
三成の逸話が酷いものになって行ったのは後世になって
家譜だの系図だのを編纂しはじめてから
そりゃまあ前政権の中枢で辣腕を振るった上に
新政権に抵抗して尚且つ敵が多かった人物とか
スケープゴートにはうってつけだわなw
同時代の悪い評価と言えばフロイスさんのが有名だが
彼は三成だけでなく清正とか正則とかセンゴクとか
非キリスト教徒の豊臣子飼いの武将には大体酷い評価下してるよな。
フロイスは秀吉も酷評してたな。
恩のない異教徒をディスると言う実に判りやすい人だけど
批判の仕方からある程度の人物像は判るか。
フロイスは信用出来ない気もするが
キリスト教を信じてるかどうかは分るけど
フロイスはあの大友宗麟を高潔な人物としてる時点でなーw
だが、キリスト教も仏教も本当は信じていなかった織田信長は評価していたんじゃ?
フロイスの評価はアレとしても、宗麟も必要以上に悪評に染まりすぎてる感じ。
義統の事績とごっちゃになってる所もある。
870 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 11:58:23.87
871 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 00:24:19.87
>>861 中国韓国における日本と立場似てるよな
インチキ政権としては国民を納得させるには日本が全て悪いとしなければね
まんまと奴らのスケープゴートにさせられた
872 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 00:31:21.15
加藤大河や石田大河という話は聞いてるけど福島大河という話は耳にしたためし無し(笑)
結局大名として残れなかった上、裏切り者だし忠義の人物としてのイメージもからきし無し
そもそも関ヶ原直後に家康の家臣の伊奈氏をつまらない言いがかりで切腹に追いやったのは理解しかねる
戦国武将が大河誘致されるか否かは自治体と出身地の政治家の関心が大きいでしょ。
三成だってここ二十年間の再評価を受けて漸く長浜市が重い腰を上げた。
清正は戦前の頃から熊本では郷土の英雄扱いだし過去の大河における
前田利家なんかは石川出身の森元総理が働きかけたというのは有名な話。
今回の黒田如水は福岡よりむしろ生まれ故郷の姫路の働きかけが大きいみたい。
正則の場合安芸でそれなりに業績は上げたが、やっぱり広島じゃ毛利が圧倒的に人気だからね。
そう考えると高知では嫌われ者(同じ武将ならどう考えても長宗我部のが人気ある)の
山内一豊が大河化されたのは未だに謎だけどね。
874 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 06:16:07.71
一豊は人気者の織田豊臣徳川との絡みが多いから
875 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 06:59:04.87
>>873 関ヶ原で長宗我部大河ドラマアピールしてた高知の人に長宗我部と山内のどちらが好きか、また県民はどちらが好きか聞いてみたら圧倒的に長宗我部だとさ
山内なんざ上士の子孫で無い限り好きなんて言うやつはいないんじゃないかなって笑顔で語っていた
876 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 07:03:36.12
>>874 それにしても山内大河での山内のねつ造手柄徹底的横取りは凄まじかったな
敗戦した三成に陣中羽織り着せたのは本当は黒田なのになぜか山内だったし
三成がアホ加藤らに襲撃されて家康屋敷に逃げこんだ時、助けたのは親友の佐竹なのになぜか山内
ほかねつ造いとまなし
とにかく醜かった
877 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 07:16:48.12
>>873 三成大河の話が全くなかったのは(教科書にも載るくらいの人物なのに)これまで自治体の招致運動が全くなかったにほかならぬ
長浜はなぜかあまり三成は好きでなかったし彦根は善政をつくしたが井伊が長年支配(たった十年前も井伊が市長だったし)してたから石田三成は徹底的に意図的にスルーされてた
結局三成をおしてたのは唯一石田町だけ(長浜市の中の)
だが天地人で流れが変わった
さらに人気ゲームで主要キャラに抜擢され今では源義経をもしのぐ悲劇の英雄扱い
江大河の招致を成功させた長浜市もようやく石田大河招致に動きだし彦根市も手のひら返し(井伊大河などありえないしね)で石田大河招致に動きだしたとか
さらに石田三成の子孫が代々家老をつとめた津軽の弘前も連携してるという噂もある
十年のうちに石田大河あると確信している
878 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 07:57:09.31
>>877 >井伊大河などありえない
いや、大河ドラマ記念すべき第一作の主人公は井伊直弼なんだがw
随分地味なとこからスタートしたんだな
何となく、信長、秀吉、家康あたりからかと
880 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 09:22:54.40
前半生とかまかなえる原作小説とか出てこないと厳しいが
今の時代捏造厨がうるさいし無理かw
そこんとこは大丈夫でしょ。
十代の頃から秀吉に仕官して中国攻めに参加してたみたいだし。
あとはガキん頃に左近と出会いましたーみたいなエピソードでも創作すりゃおkじゃね?
三成以上に前半生が謎に包まれてる明智光秀の大河化の動きがあるくらいだし。
>>880 ・少年期、北近江を支配する浅井長政やその長女茶々(後の淀殿)と知り合う
・14歳の時、浅井氏が滅びる
・15歳で長浜城主羽柴秀吉に出仕
秀吉に見いだされた有名な茶坊主エビソードも入れておけばいい。
ただし、再来年官兵衛をやるからすぐには実現しないだろうな。
どちらも人生の大部分、豊臣秀吉の人生なぞるだけだから。
883 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 22:30:52.29
>>878 それくらい大河ドラママニアの俺が知らんわけないだろ
ただ鼻糞の障害の場合、放映当時大河ドラマという位置付けでなくただの時代劇という感覚で4月から12月まで放映
翌年から大河ドラマとして正式にスタートしたので鼻糞の障害は数に入れるべきでは無い
それにしても井伊って関ヶ原以降ひたすら石田三成をいかにして貶める事に神経を使ってきた屑大名(石田三成の代々の先祖の墓を破壊するなんて人間としてあり得ないよね)
その屑大名の子孫が今度は一転逆賊として叩かれまくられるとは皮肉な話だよな
884 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 22:32:41.17
>>881 大垣大返しは三成たちの手柄と言われてる
これだけでもけっこう話数稼げそう
ここも以前の戦国板同様に長浜在住四十代童貞男のオナニースレとなってきたなw
今日も朝から怒涛の三連投とかやっちゃうしね
木槌のように頭が横に長くて
酷い出っ歯で冴えない男の三成ばりにキモいよな
でも三成大河って誰得って感じがするな
最後は下痢が止まらなくて自ら捕獲されにいった間抜けだからねぇ
>関ヶ原で長宗我部大河ドラマアピールしてた高知の人に長宗我部と山内のどちらが好きか、また県民はどちらが好きか聞いてみた
「長宗我部大河ドラマアピールしてた高知の人に」聞いてみたwwwww
長宗我部って昔から豊臣嫌いでしかも関ヶ原では本当は東軍につきたかった人たちだね
そして親友()の筈の佐竹は結局は東軍寄りで、三成なんかに情をかけるんじゃなかったとか思っちゃってた人だよね
佐竹のその話の出典元って何だっけ?
出典元が書いてないのは小説かもくらいで良いんじゃないかな。
893 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 07:10:21.50
キモっ
>>889 その後の義宣の行動や言動の逸話
またいち早く戦勝祝いに駆けつけて
家康秀忠の深い信頼を得たとこなどはそんな感じではありそう
896 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 07:31:38.57
>>895 先祖代々の水戸を取り上げられて寒い秋田に左遷した時点で信用されてなかったんじゃね
ちなみに佐竹は三成のおかげで今の茨城県全体の大名になれたので恩を感じていたのは事実だ
897 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 12:49:35.36
>>887 お前が大河マニアかどうかなんて知るわけないw
半年大河など今までにもあったし、何よりNHKが大河第一作と認定しているものを
お前の独断で俺はあれを大河だと認めていないからなかったことにしようというような
恥の上塗りを言う馬鹿な真似はやめたほうがいい(お前の中では清盛を大河49作目と呼べと?)
>>892 >>895 要するに創作なわけね。
負けた後必死で家康に媚び売るのは生き残る為に当然の処置でしょ。
899 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 18:46:00.87
処刑された三成は実は影武者で本物の三成は密かに逃げて親友の佐竹(息子の方)にかくまわれて秋田のとある寺の住職になって現地で死んだという逸話が秋田に残っている
真実はどうか知らないけど秋田に三成の墓が残っている以上眉唾では片付けられないか
大谷や直江だけでなく佐竹義宣とも友情で結ばれてたのは事実だけどな(ちなみに佐竹が徳川についたのは佐竹父が家康と仲良しだったから)
佐和山城って小さな山城だったの?
左近の屋敷があった寺から登ったら、すぐ本丸にたどり着いた気がしたが。
>>899 関ヶ原では佐竹は西軍についただろ。
結果的には、それが良かったと逆に評価する人もいるけどな。
(江戸に無茶近い外様だから、いずれにせよ遠くに飛ばされるかつぶされる)
佐竹の隣の津軽藩なんか、リアルに三成の娘や息子が奥方や重臣になっているからな。
しかも、津軽氏3代目なんか三成の孫だ。
津軽や秋田には昔から「石田姓」を名乗る家系が多い。
903 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 21:36:39.15
>>902 津軽氏はもともと南部氏の一家臣
秀吉天下統一寸前のところで南部氏から独立して秀吉に接近
秀吉としてはお家騒動を口実に南部氏津軽氏をまとめてお取りつぶしできるチャンスだったが三成が津軽為信に惚れ込み残すように説得
南部氏は津軽の独立を認めるはずはなかったけど豊臣に逆らえずしぶしぶ認める
こういった縁で三成が為信の息子の烏帽子親になったりともはや親戚同然
しかし関ヶ原では泣く泣く東軍に加担する一方、密かに西軍にも兵を送ったらしい
関ヶ原後、逃げてきた三成の息子と娘をかくまい、かたや重臣にかたや息子の嫁に迎えいれる
ただ三成の娘に関しては当初徳川の血筋の娘をお家安定のため受け入れ三成の娘は隠した存在にされていたが三成大好きの息子(三成が烏帽子親)が徳川娘に目もくれずただ三成の娘ひとりを愛した
結局徳川娘とは子供は産まれず(福島の息子と当初?夫婦の関係だったらしいが)三成の娘との間にできた男の子が後を継いだ
徳川サイドは知らないはずはなかったが何故か不問とされた
内心三成を嫌っていたとは思えない
かずしげ
>>898 別に創作じゃなくね
創作にしたいのだろうがな
そもそも親友の根拠もないのにすぐに親友にしたがるんだよな
三成厨はw
>>899 大谷や直江と嫌われ者の三成が友情で結ばれていたとする根拠は何?
908 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:27:27.25
妄想ですよ
909 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 23:37:47.29
石田三成アンチがわざわざ石田三成スレに来てわざわざ石田三成批判のオンパレード
なんなのこいつら(笑)
あのアンチ石田の旗頭彦根市ですら近年手のひら返しで三成ヨイショになりつつあるし(井伊じゃ儲からないからな、井伊グッズ売れねーし)長浜市も近年では秀吉より力入れてるし
この間の三成イベントでは約6000人の来場者ときたもんだ
歴女わんさか来てたし
のぼうの城かて結局三成映画だったし
涙ふけよアンチ三成くん
三成が相当に情無い映画だったですやんw涙ふけよキモオタくんw
>>909 石田みつにゃんとかいうひこにゃんのパクリグッズ全然売れねぇじゃん
井伊の赤備え兜を被ったひこにゃんの足元にも及ばねえな
涙ふけよ
三成の歴女への人気に嫉妬しているなw
>>909 この間の彦根の城まつりの来場者数は約55,000人だってさ
涙ふけよ三成厨くん
勘違いされているみたいだが実際に存在した史実三成が人気なんじゃなくて
ゲームでまったく違うキャラに美化された二次元創作三成が歴女に人気なんだろw
まあ才槌頭の醜い出っ歯でチビなオッサンなんか需要ないっすから
916 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 00:37:55.74
気持ち悪い人々に触ってしまったか、、
離れた方がいいな
PS
三成を批判した事で自分たちの気がはれるんならいくらでもしてくれてかまわないよ
それで憂さ晴らしできるならね(笑)
「だが」さん今度はこっちに来たのかな?w
918 :
金吾秀秋:2012/11/08(木) 03:45:41.95
風邪がなおったよ(´・ω・`)
>>913 1日しか違わない次の日の日曜に行われた三成イベントつか
のぼう宣伝引っ提げた上地雄輔を観ないで帰った奴多いんだなー
>>915 ひょっとこ三成…
>>901 佐竹は西軍と言うより生き残るためにあちこちに通じてただけだな。
921 :
金吾秀秋:2012/11/08(木) 22:15:45.55
まったく佐竹は卑怯なやつだなぁ(´・ω・`)
922 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:32:46.78
水戸(常陸太田)から秋田へ飛ばされたわな。
外様大名を、江戸の無茶近くに置いておけるわけないだろ。
秋田実季「えっ・・・」
荒らしの自演が去ったところで新しい話題を振るか。
三成には軍功の類が一切無い(賤ヶ岳の先駆けも一柳家記にあるだけで信憑性はわからない)
とされているが、果たして本当なんだろうか?
同じ奉行だった増田や浅野にも自ら兜首を取った軍功があるし
似たような官僚タイプだった直江兼続は失態も多い一方で小田原攻めなど軍功もある。
色んな合戦に従軍してたからには三成も探せば軍功がありそうなものだが。
で、新しい話題って何?
927 :
無党派さん:2012/11/11(日) 20:34:14.22
三成の直系の子孫で石田姓を名乗ってる人いるの?
石田世一さん
>>925 三成って、あれこれ従軍してる割に戦闘に遭遇してないんだよなー
淡路攻めとか山崎の戦いとか
あとは滝川一益を攻めた際にも従軍してるし
九戸政実の乱にも一軍を率いて各地の平定に参戦してるし
なんかあってもいいと思うんだがなー。
931 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 00:38:34.70
ナイナイの番組で誰々の末裔とか出てるけど
三成の末裔とか出演してほしい
誰得だよ
やっぱ出っ歯なん?
>>931 末裔番組多いが誰それの末裔と言っても直系じゃない人が出てくることが多いよな
坂本龍馬の子孫だと言って龍馬の兄の子孫が出てきたり(龍馬には子がなかったので直系はいない)
近藤勇の子孫だと言って勇の兄の子孫が出てきたり(勇の一人娘たまに子はなく直系はいない)
末裔と言っても血縁たいして近くなかったりする
935 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 18:03:43.28
>>932 俺得だよ
>>934 直系じゃなくても仕方ない
君が書いているように直系子孫がいないパターンがあるからね
三成と直系となると杉山家くらいかね
庶子だと確証がないし
織田信成とかも怪しいらしいね
936 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 18:40:57.01
>>935 でも、末裔といえば、普通は当人の血を引く人のことを差すのでは?
何も直系(嫡流男系)でなくても、庶子でも女系でもいいが。
兄弟の子では傍系(庶子系)でも女系でもないし
全く当人の血は引いてないだろ(当人の親の血を引いてるだけ)
三成に限らず日本の戦国武将は敗軍の将でも現代まで家系が残ってる所多いよね。
完全に直系が断絶したのは豊臣、大谷、直江くらいか?
>>930 実証に基づく三成研究はいわばここ10数年前に始まったばかり。
まだまだこれからわかってくることだってあるでしょ。
938 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 20:41:05.51
>>936 同意。
さすがに加藤清正や福島正則や小出や浅野や青木の子孫が、
豊臣秀吉の末裔とは名乗り出ないけど、兄弟だのの子孫に末裔
といわれるとそう言われるのと同じような違和感があるよな。
小西行長も弟の家系は残ったけど行長の直系は断絶したはず
真田の当主は徳川家康の子孫だっけ?
>>940 そうです。松平定信の息子が真田家の当主となり、現在に至ってます。
徳川秀忠公はあの世で困惑しつつ苦笑しているような気がします。
真田信之→→→→→真田幸専(父・井伊直幸)→真田幸貫(父・松平定信)w
>>941 幕末維新における藩主、真田幸民はたしか宇和島伊達家からの養子だったと思うのですが。
真田幸世が分家になってるね
そう、徳川子孫である真田幸世の家系が続いてる
三成の孫娘が確か家光の側室になってなかった?
949 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 00:16:55.86
>>937 大谷家って重政のところも断絶してるの?
仙台真田家が吉継の子孫かもしれんが
ああそうだった。刑部は三男の家系が続いてたわ
ウィキペの三成の項目の生年が1559年になってるがなんか根拠あんの?
>>951 履歴を見ると永禄2〜4年の間でちまちま書き換えられてるな。
永禄3年が主流だと思ってたんだが
953 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 14:52:37.82
まあそもそもウィキペなんて殆どの記事はいい加減な代物だしな。
のぼうとへうげのせいでまた新たに変な俗説広まってるな。
忍城攻めを三成に命じたのは三成に武功を立てさせてやろうという秀吉の親心とか
堤が決壊したのはろくに土を調べずに行ったからでその愚策っぷりをゲヒ殿に一喝されたとか
どこの一次史料にあるんだよって話が真実のようにネットで語られてるぞ。
三成に限らず有名な武将達の後世の逸話とかってこんな感じで作られていったんかねえ?
955 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 19:45:18.50
べつにかわまんじゃん
そこんとこはもうあきらメロン。
実は、水攻め開始直後の六月十二日付の書状で、三成はこの様に述べているのである。
「忍之城之儀、御手筋を以て、大方相済に付けど、(中略)然る処、諸勢水攻之用意候て押寄る儀これ無く」
水攻めと決めてかかる諸将の消極さを嘆く三成、そこから読みとれるのは、水攻めに批判的な三成の姿である。
一方で、この時期の秀吉の書状を見ていると、秀吉が実に細かく水攻めの指示をしていることが分かる。
水攻めが始まったのは六月十日であるが、十二日付けの書状において、すでに秀吉は三成に対し、水攻めの方法、戦後処理などについて細かく指示を出している。
また二十日付けの書状では、三成に水攻めの絵図を提出させ、「普請大形でき候間、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候の条」と述べている。
忍城を水攻めにすることに固執する秀吉の姿は、七月三日の浅野長吉あての書状にも現れる。
この時は、浅野長吉が忍城攻めで武功をあげたことを誉めたのち、こう付け加えている。「とかく水責仰せ付けらる事候間、其の段申し付くべく候也」
これらの書状から分かるように、忍城を水攻めにするという方針は、三成の考えというより、秀吉からの指示であった。
>>957 内容はともかくwebサイトからコピペするならURLも付けとけよ
にしても上杉謙信や北条氏康ですら落とせなかった名城を
難易度高い水攻めで落とせそれ以外のやり方は認めないとかどんな無理ゲーだよw
しかも、それを司令官としての実績があるとは言えない三成にやらせるとか。
秀吉マジで何考えてるんだレベル。
見本見せてやったからOK
その前でも館林城攻めで失態やらかしてんだから無能の言い逃れはできない
962 :
金吾秀秋:2012/11/14(水) 23:25:25.22
無能の言い逃れはできないんだぜ(´・ω・`)
963 :
日本@名無史さん:2012/11/15(木) 00:09:21.70
「のぼうの城」で一躍有名に成った忍上水攻めであるが
荒川と利根川の土手を決壊させたとは言え、熊谷市近辺から
河水を流入させた訳だろ?
あんな津波の様な鉄砲水のように忍城下を襲うとは到底考えられん。
決壊地点〜石田堤までの距離や面積を考えたら、じわりじわりと
水が溜まって行ったと思うのだが…。
映画にしろ小説にしろ、そこの所を「迫力的」に描写してる事に
疑問を感じる。
確かに。
地理的に無理があるよなあ。
荒川や利根川は江戸期を中心に付け替えとかしてるから
当時の流路と違う可能性も
当時の利根川は行田市近辺で合流し、現地では会いの川と呼ばれてたから有り得ない話でもない。
ただ、堤防の決壊については関八州古戦録では「若干」と記述があり
さほど甚大な被害でも無かったかのように書かれてる。
まあそもそも関八州古戦録自体が18世紀に書かれたものだけどね。
元和年間に北条遺臣が書いた北条五代記には
「忍城では水攻めが行われた」としか書かれてないな。
ぶっちゃけそんなに大した出来事は起こらなかったんジャマイカ?
968 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 02:52:08.55
詳細が不明なので、もしかすると、堤防が築かれた時点で、
「これから水攻めするぞ」と脅しをかけたら忍城側がビビって開城したのかもしれない。
つまり、堤防は築かれたが水がたまるまでは行かなかったのでは。
さらに言えば、その堤防も完璧ではなくて、所どころに飛び飛びに土盛り
されただけだったのでは。
要するに、堤防自体が脅しの道具だったのでは。
堤防が決壊して水攻めが失敗して三成は戦いが下手クソだというのは、
江戸時代に三成の悪評が広がった頃に創作された話しなのでは。
>>968 忍城の開城が小田原城より遅いのは史実。
水が十分に溜まる前に小田原城が落ちたという可能性はあるけどな。
結局のところ、堤防作ってる間に先に小田原城が落ちたので中止になっただけってのが真相だろ
根拠なく断言しちゃうおバカさんって・・・
根拠なく成田記を信じちゃうお馬鹿さんって・・・
通説批判するならそれなりの根拠を示す必要がある
974 :
山本勘助:2012/11/17(土) 22:05:35.39
根拠は無いよ。勘ですが何か?
はい論外
名前欄でボケた積りらしいから突っ込んでやれよ
水責めにこだわったのが秀吉なら、三成に確実に手柄を立てさせ武巧を上げることが肝要だった。三成は自信と実践経験がつくし、三成の評価が上がれば、それすなわち秀吉軍の高評価につながるし。その辺りの計算はさすが秀吉。
というか、逆に考えると三成が大事な作戦を一から十までプロデュースできる程の能者ではなかったから、とも読める。
可愛い部下に手柄立てさせてやりたい気持ちはわかるね。
ま、結果的には失敗しちゃったけど。北條が先に堕ちなかったら、三成もどうなってたやら。
小田原が粘ってれば、忍城もあっさり落ちたと思うよ。
>>973 むしろ成田記以外の史料では「水攻めしました」程度で殆ど触れられてない時点でなあ。
ホントにのぼうみたいな愉快な事になってたんならもう少し触れられてもいいと思うが。
当時の書状のやり取りからも成田記のような惨状になった形跡は見られないし。
>>977 確実に手柄を立てさせてやるのが目的という根拠は何?
わざわざ難易度高い水攻め縛りにしなくても、普通に力攻めでも
「あの謙信や氏康でも落とせなかった城を落とした」で箔がつく。
大体、親族でも何でもない三成にそこまでお膳立てしてやる義理が無いし
一連の作戦は単に秀吉のパフォーマンスの一環でしょ。
>>979 そういう風に書いてくれると助かります
外の軍記ではこう書かれていますとして、このため成田記の記述は
信用出来ないという感じに
981 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 21:47:09.85
983 :
日本@名無史さん:2012/11/23(金) 08:01:31.25
>>982 改易同然の仕打ちを受けて里見氏当主が狂い死
それに同調した八人の忠臣が幕府に抗議の切腹をとげる
後の南総里見八犬伝の誕生であった
里見の改易は大久保長安事件からの流れだろ
まあ戦国からの流れを見ると里見家なんて全く信頼出来ないしな
986 :
日本@名無史さん:2012/11/23(金) 17:29:39.72
滋賀県長浜市石田町出生 おさなくして 寺子坊主となるも、長浜城主
秀吉に茶を進呈す 時の振る舞い秀吉に感じいられ,三条河原にて斬首
されざるをえなかった 武士の模範ぞ
石田三成による水攻めも戦術そのものは悪くなかった
三成にもう少し人望や人を立てる技量、面目を潰さない技量があれば
堤も決壊しなかったろうに
989 :
金吾秀秋:2012/11/24(土) 02:10:15.85
まったく、三成にもう少し人望や技量があればなぁ(´・ω・`)
人望で決壊しない堤防w なんというファンタジー脳
別にファンタジーでも何でもないよ
水攻めにした上で更に忍城の連中を追い詰めるような事をすれば
堤を壊そうと考える連中も現れる
三成は城を攻め落とす事ばかり考えて
相手の心を落とす事まで考えが到らなかった
そこが太閤との大きな違い
人望があるから堤が決壊しないんじゃなくて
人望が無いと三成に手柄を取らせまいと
或いは三成みたいな奴に降伏してなるもかと
堤を壊そうとする者が現れる
またそういう者が現れても大多数が見て見ぬふりをする
なぜ
>>990はそういう解釈に到らないのかと不思議でならない
厳格すぎて、そういうのに波長があった人からは人望があったけど、
波長が合わなかった人も多かったという印象。
特に、戦国的な豪傑タイプには合わなかった。
人望が無いって連呼してるやつがいるが、
本当に人望がなければ天下分け目の決戦にあれだけ味方を集められるわけないだろ。
とりあえず三成ディスりたいだけだろうな
ただ西軍、東軍の所属に人望はさほど関係ない気がする。
東西ともに成り行きで仕方なく動いてる連中もいるし、両者が
同一条件で大名を募集してた訳でもないしね。
>>980 ・元和年間に書かれた北条五代記には「忍城では水攻めが行われた」としか書かれてない。
・その他、同時代の史料に甲斐姫の武勇を記述するものが特に無い。
・当時の書状のやり取りから堤防の構築には1ヶ月近くかかってる。
・だとしたら、水自体が十分に貯まらないので成田記に書かれてるような惨状は起こりにくい。
ってとこかな、あとの根拠は。
あと、甲斐姫伝説の初出は成田記ではなく真書太閤記のようだ。
これも18世紀末に書かれた娯楽本で成田記はこれをベースにしてるみたいね。
>>995 正直、大半の大名の視点では
「豊臣正規軍が上杉征伐に行くさ中に三成達がクーデターを起こした」に過ぎないからな。
単に反乱者を討伐しに行った程度の認識だろ。
三成が嫌いだの憎いだの人格がクズだのは殆ど後付けでしょ。
次スレは要らんな。
どうせまた荒らす奴がいるし、もうネットでマトモに三成語れる場所は無いんかね?
>>997 奉行衆と毛利、宇喜多がついて公儀を自称してたからクーデター扱い
してない連中も結構多いし、人質、大坂城、秀頼を抑えてたのも結構大きい。
西軍参加大名は、三成らが取次をしてた大名がメインだけど三成に問題が
あれは、あんなに集まらないから後世の後付けだろうね。
あと小大名は義理人情より大軍に靡く傾向が強かった。
そもそも他の子飼い武将との対立だって、どこの大名家でもよくある家臣団の対立だろ。
なんで三成の時だけ、三成の人格に問題があったからの一言で片付ける人が多いのか
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