元寇について語れ
2 :
日本@名無史さん :2010/10/12(火) 23:41:30
もういいでしょう 終了
3 :
日本@名無史さん :2010/10/13(水) 17:37:25
じゃ景気づけに歌イッパツ! ♪しひゃく〜よしゅうをこ〜ぞる、じゅうまんよきのてき〜、こくな〜んここにあり〜こうあんよねんな〜つのころ〜 ・・・ってかあっ!
モンゴルに謝罪と賠償を求めないといけないんじゃないか?
5 :
日本@名無史さん :2010/10/21(木) 22:43:25
よく竹崎季長は訴訟認められたな。 泰盛爺さん宣伝効果狙った?
なんで元軍は 橋頭保も維持せずに 夜逃げしたの?
そもそも、維持すべき橋頭保が築けてない
8 :
日本@名無史さん :2010/10/27(水) 17:33:15
ろくに上陸させてもらえなかったから
9 :
日本@名無史さん :2010/10/27(水) 20:40:52
10 :
日本@名無史さん :2010/10/27(水) 22:36:39
11 :
日本@名無史さん :2010/10/27(水) 22:51:02
日蓮大商人が題目を唱えたおかげです
>>9 元寇という歌は、19世紀の大日本で作られた軍歌ですよね。
13 :
日本@名無史さん :2010/10/28(木) 09:53:32
14 :
日本@名無史さん :2010/10/28(木) 19:03:55
【五代帝王物語】 麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。 高麗の牒を相副たり。 宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。 これに依て御賀止めらる。 公私本意なき御事也。 蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。 年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。 大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。 高麗も同せめおとされて、 臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。
15 :
日本@名無史さん :2010/10/28(木) 21:28:51
太平洋戦争は真珠湾、マレー半島、フィリピン、ジャワ、インド洋で敵を 駆逐した日本の圧勝。
16 :
日本@名無史さん :2010/10/29(金) 00:53:03
スレタイと関係ない話して 腐した気になっても その行為そのものが敗北宣言と同じ
17 :
日本@名無史さん :2010/10/29(金) 07:45:56
なんで腐されたと思うの? それが不思議。
18 :
日本@名無史さん :2010/10/29(金) 12:40:25
まあ元寇のときの蒙古高麗がいいとこなしだったのはもうしょうがないよね
19 :
日本@名無史さん :2010/10/29(金) 17:10:00
そうだね。太平洋戦争の英米、オランダ軍と同じ。 だから太平洋戦争は日本の圧勝。
20 :
日本@名無史さん :2010/10/30(土) 03:10:52
高麗軍の将(都督使)「金方慶」率いる高麗軍は 戦略的に意味が無い対馬・壱岐に執着し、防備の薄いこの島々を攻め 膨大な非戦闘員を殺戮した。 島々におけるこの行為は遠征目的と何の関係もなく、 それにフビライは"百姓を殺すな"と命じていた。 この無用の残虐行為は主将の「金方慶」の性格、朝鮮人の民族性によるとの事である。 彼らは島民を見つけ次第、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴を あけて綱を通し船舷にぶらさげるなど残虐の限りをつくした。 家屋は焼き尽くされ、家畜の被害も甚大で、壱岐牛も一頭もいなくなった。 「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、 その残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。 ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。「蒙古トハ異国ムクリノ事 也」(『沙汰未練書』)というようにムクリが通用していました。 高麗軍と闘った将士がことごとく 戦死すると、敵兵は住民を捕らえ暴虐の限りを尽くしたということです。 山に逃げ隠れ潜む住民の赤子の泣き声を聞いて、捜しまわり、 捕らえては、ことごとく殺しました。 中には、命惜しさに愛する我が子を刺し殺して、 逃げ隠れする者もあったと伝えられています。 捕らえられた妊婦は腹を裂かれ、中の赤子を掴み出されて殺されました。 意にそまぬ婦女子は手に孔をあけられ縄を通してから、 引きずり回され、後、舷外に吊るされました。 (新元史・鎮西要略・壱岐国史・元寇物語)
21 :
日本@名無史さん :2010/10/31(日) 01:00:49
仮に元軍の別働隊が敦賀あたりから上陸して京都を急襲していたら 歴史は違ったものになっていたかも知れない… 京が陥落すると天皇は吉野あたりに落ち延び、幕府軍は東海道を東進してきた元軍と浜松付近で激戦。 圧倒的な騎馬の速力&戦法の違いにより幕府軍は鎌倉政庁に撤退開始。 尚も追撃してきた元軍は海と陸両方から十万余の大軍勢で鎌倉に攻め込み、たった数日で関東をも制圧。 辛うじて善戦していた博多防衛軍は完全孤立後、元軍に無条件降伏。
若狭ルートでどうやって「急襲」するの?
24 :
日本@名無史さん :2010/10/31(日) 15:31:52
実際は集団戦法に対応して互角に戦っていた。 歴史の教科書に書かれる日は来るのかな?
25 :
日本@名無史さん :2010/10/31(日) 16:09:12
むしろ余計に幕府に体制整える時間をあたえ なおかつ精強な坂東武者たちがより集めやすい条件じゃん 上陸以前に海上でせん滅or追い返されておしまいだが上陸できても元軍は武士に圧殺されて終了 相変わらず固定ってちょっとおかしい
26 :
日本@名無史さん :2010/10/31(日) 17:27:21
若狭に上陸するためには航路を確立しとかないとね。 山陰を陸伝いにいったりバレバレだからね。 朝鮮と若狭を直に結ぶ航路は当時あったのかな?季節は関係なくその航路は使えるのかな? ちゃんと目指した地点で全船上陸できるかな?バラバラになったりしないかな? そこが目指した上陸地点だとちゃんと判断できるのかな? 目指す地点に無事全員たどりついたとして、撃退されたばあいどうするのかな? どこに撤退するのかな。どうやって態勢を立て直すのかな。 日本の他の地点で立て直すなんて無理なのわかるよね。 すぐに半島に帰れるのかな。 勝ったとして補給はどうするのかな?現地調達できる政治システムすぐに作れるのかな? 電撃的に京都を落とせたとしてどうするのかな? 孤立するだけじゃないのかな。 勝つ方法かんがえたら、九州からしかないよ。 それか、すっげー船発明するしかないね。 2010年の今でも日本を若狭から上陸してどうこう出来る国ないだろうね。
27 :
日本@名無史さん :2010/10/31(日) 20:01:22
大恥かいちゃったね◆CsSu9fRs1Ge4
【元軍の若狭急襲シナリオ】 @まず史実通り、対馬・壱岐を占領し、別働隊を隠岐島に派兵。 A隠岐島陥落。ここに兵站の中継拠点を作る。 B若狭に上陸、若狭街道(鯖街道)および西近江路を南進して京都に侵入。 C京都では皇族や有力公家などを人質として、拠点を構築。 D博多から瀬戸内経由でも兵站を実施、難波津を軍港に改修し、関東遠征船団を集結させる。 E東海道と東山道および北陸道で三軍に分け陸路で東進しつつ、海上からも軍船で兵站バックアップ。 F次々に防衛拠点を陥落させつつ、駿河、甲斐、越後方面から一気に関東に侵入。 G上州から十万余の騎馬隊が関東を蹂躙しつつ、相模湾や江戸湾からも陸戦隊が上陸。 H鎌倉政庁玉砕。以後、この国の歴史は元史に組み込まれる。
>精強な坂東武者 「やあやあ吾こそは…」の名乗りの間に元軍の毒矢と鉄砲にやられてお仕舞です。 そもそも集団戦法というものを知らず、個人戦に持ち込んで決着を付けないと恩賞がもらえない 日本武士と蒙古騎馬兵では勝手が違い過ぎます。 それとも関東に延べ数百Kmもの防塁(石築地)でも作りますか?
あやうく
>>28 に釣られて長文マジレスするところだった
自分にも
>>29 にもガッカリだよ
31 :
日本@名無史さん :2010/10/31(日) 23:37:36
更に恥の上塗りをする固定であった
野戦に持ち込めば蒙古兵の真骨頂が試せる。 何より騎馬弓手による攻めはどの民族でも苦戦した戦法。 そして馬は兵器でもあり、食料にもなるし、どんなにひもじくても蒙古兵はへっちゃら。 騎馬民族と農耕民族が戦ってまともに勝てた歴史がどれだけあるか考えれば分かる。 シュメールもインダスもエジプトも騎馬民族に攻め込まれて衰退した。 漢民族も何度も侵入を許し、ついには万里の長城という愚行までして自滅への時計を早めた。
もう小説でも書きなよ。ハッキリと出た結果に満足出来ないならフィクションで不満を解消しなさい。
気比の武装神官が、モンゴル兵や高麗兵の首を狩りまくる小説とか面白そう
35 :
日本@名無史さん :2010/11/01(月) 13:58:51
元寇もいいが尖閣問題どうにかしてくれよ北方領土も
36 :
日本@名無史さん :2010/11/01(月) 16:44:57
スレ違い
【 外国人参政権問題とは? 】 Q.問題の発端は? A.在日朝鮮・韓国人が「参政権をよこせ」と要求し、一部勢力がそれを応援しています。 Q.何で欲しがるの? A.当然、「自分たち(在日朝鮮・韓国人)に都合の良い候補を選挙で当選させたい」からですね。 Q.帰化すれば参政権もらえるんでしょ? A.もらえます。でも彼等は「日本人になるなんて絶対嫌!」と帰化を拒否します。 感情的に「日本が嫌い」ということもあるでしょうし、実利的にも、帰化しないうちは 生活保護の審査が緩く、相続税も払う必要もない等、優遇措置がありますので。 Q.彼等の言い分って滅茶苦茶じゃないか? A.はい、滅茶苦茶です。「日本の方が居心地がいいから母国には帰らない!日本が嫌いだし優遇措置を 手放したくないから帰化もしない!けど日本人と同じ権利はよこせ!!」と正真正銘こういう要求なわけですし。 Q.韓国は日本人永住者に選挙権与えてるらしいけど? A.韓国で参政権のある日本人は「数十人」です。「韓国への巨額の投資・納税が条件」だからです。 一方、在日韓国・朝鮮人は「数十万人」しかも「税制・生活保護の在日特権を持ったままです。 しかも反日思想なので参政権を与えると日本に災難が降り懸かります。
38 :
日本@名無史さん :2010/11/02(火) 01:05:17
文永で武士が元軍撃退した福岡平野は普通に平野じゃなイカ? そもそも最近で騎馬民族と農耕民族なんて分類使ってるやついないだろw なぜなら一定以上の国力を持つ国で農耕民族じゃない国なんか存在しないからね
39 :
日本@名無史さん :2010/11/02(火) 07:26:00
>>32 船腹に限りがある為馬は大量輸送出来ない。
橋頭堡を築き、船団を戻して馬を積み込み輸送するには月単位で時間がかかる
従って歩兵中心の軍を当面の食糧と共に輸送するしかない
40 :
日本@名無史さん :2010/11/02(火) 07:29:03
>>28 日本側は九州に3万、機内以東で10万は動員可能
どうみたって勝ち目は無い
お前ら、池沼相手に容赦ねえな
「天皇だ!」 モンゴル兵が天皇にきづいた。 事前に全将兵にくばっておいた似顔絵のおかげである。 若狭湾に上陸したあと京都まではスムーズに移動できた。交通標識のおかげである。 軍の移動も日本の誰にも怪しまれることなく済んだ。 若狭から京都へ10万のモンゴル兵が移動することは、当時の日本ではよくあることだったのだ。 朝鮮と隠岐を結ぶ航路はよく知られており なんの問題もなく、日本海は世界で一番穏やかな海であり、無事故でこれたよo(^▽^)o。隠岐若狭もね。 隠岐島すげー(・ω・)10万人分の羊を放牧できる。馬も飼い放題(^O^) 伐っても伐っても木が生えてすぐ育つから造船し放題(*^-^)b わーい
43 :
日本@名無史さん :2010/11/02(火) 23:16:33
九州の主力が苦労した史実があんのに、侵攻兵力を割いて別動隊を敦賀に上陸(隠岐から敦賀津までピンポイントに辿り着けるのかね)とな? で、さらに琵琶湖西岸ルート(関越え)と、若狭ルート(小浜や舞鶴から京都までは狭い山道だよ)に軍を分けるっての? 万が一(億が一)、京に着いても帝は吉野に移った後なんだよね? 一緒に吉野に行けなかった低クラスの公家や皇族を人質にとって意味あんの?
44 :
日本@名無史さん :2010/11/03(水) 06:20:24
sageで たられば
>>43 まず足掛け五ヵ年計画ぐらいで拠点整備してから本土侵攻ってパターンです。
対馬・壱岐・隠岐を占領後に拠点を磐石な体制で構築し、そこから充分な体制をもってして
船と兵力を本土進攻軍として出撃させます。
また、本土侵攻前に内通勢力に資金援助して内部崩壊工作も企て、日本側の主要な防衛拠点に対する地理情報や
有力者の動向など幕府の防衛計画も掴みます。
内通者を使って内部崩壊させてから速やかに侵攻ってのが蒙古の常套手段です。
【日本完全征服のシナリオ】
@手薄な対馬・壱岐・隠岐を急襲して防衛拠点を構築
A五ヵ年計画で防衛拠点の拡張整備と内通者との資金提供で情報傍受と内部崩壊を進める。
B内通者の手引きで西日本の主要な都市に侵攻して陥落させる。
C捕らえた皇族を使って傀儡政権を京都に樹立、后妃にクビライの娘が嫁ぐ。
D更なる抵抗勢力を錦の御旗の元に粛清(無論実態は蒙古による侵攻)。
E四面楚歌状態の鎌倉幕府を一気に叩き、関東制圧。
F高麗同様に完全な属国となった日本完成(←足掛け10ヵ年ぐらい)。
なんか北朝鮮の日本侵攻計画並のイカれた作戦だな
【元完全征服のシナリオ】 @手薄な釜山・鬱陵島を急襲して防衛拠点を構築 A五ヵ年計画で防衛拠点の拡張整備と内通者との資金提供で情報傍受と内部崩壊を進める。 B南宋の手引きでの主要な都市に侵攻して陥落させる。 C捕らえた皇族を使って傀儡政権を大都に樹立、后妃に天皇の娘が嫁ぐ。 D更なる抵抗勢力を錦の御旗の元に粛清(無論実態は日本による侵攻)。 E四面楚歌状態の元を一気に叩き、モンゴル制圧。 F高麗同様に完全な属国となった元完成(←足掛け10ヵ年ぐらい)。 どう?
>>47 それだと高麗は攻略できても、蒙古を落とすには更に100ヵ年以上かかるな。
何しろ国力の差が歴然ですぞ。1000対1ぐらいじゃなの?
幾つもの国家へ海外遠征を行いながら、日本にあれだけの軍勢を派兵できる蒙古は
現代でいえばアメリカ合衆国に等しい経済大国であり強大な軍事国家。
日本が一本の矢を放ったら千本お返しが来るぐらいの勢いだよ。
49 :
日本@名無史さん :2010/11/04(木) 08:32:59
残念ながら持てる海軍力をことごとく日本に潰されて とても無理だったけどね 第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、 海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった 14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、 沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である 元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、 しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる 中国の歴史12 第5章 王勇
>>48 わかったよ、わかったから、うん
痛々しくて哀れ過ぎてみてらんないよ
51 :
日本@名無史さん :2010/11/04(木) 11:47:47
ちゃんと一条といわなイカ
53 :
日本@名無史さん :2010/11/06(土) 05:54:35
結論としては元高麗軍は 橋頭保も維持できず 戦略目標である大宰府どころかその手前の水城にすら まったく届かずに武士によって追い払われてしまった
>>53 文永の役での撤退劇は最初から元の作戦計画だったんだよ。
そもそも威力偵察に過ぎない戦闘行為に占領という概念はない。
でも高麗人にとって巨費を投じて得る物がないと示しが着かないので
対馬・壱岐で略奪して住民を拉致ったということ。
弘安の役では拠点を整備して長期戦も可能だったが
台風の到来による損害とベトナム方面軍の不首尾により
蒙古大本営の判断で一時撤退を決断したというのが真相。
それでなくてもマジャパヒト朝に5度の艦隊派兵を行うなどしたため
財政が悪化したり、海外派兵に積極的だった継嗣チンキム王子が死去するなど
クビライにとって、もはや日本ごとき雑魚に構っていられなくなってきたワケ。
だ か ら 別 に 鎌 倉 武 士 の 力 で
追 い 払 っ た ワ ケ で は な い 。
55 :
日本@名無史さん :2010/11/06(土) 19:32:18
固定バカ晒しあげ
56 :
日本@名無史さん :2010/11/06(土) 19:34:26
及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒不可當、 我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、 忽敦曰、兵法小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、 復亨中流矢、先登船、遂引兵還、
57 :
日本@名無史さん :2010/11/06(土) 20:45:01
軍を回すに若かず、遂に兵を引いて還る。 撤退したのであって敗走したのではない、ということかな。
勝ち目がないので帰りました。 逃げ帰ったけど負けてません(;_;)
59 :
日本@名無史さん :2010/11/07(日) 03:24:12
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。 でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、 その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか 一度もやったことないわけ。 じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、 モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。 この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して 本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。 要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。 日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、 文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。
>>59 文永の役の時、一時撤退したのは負けたワケではない。
それは向こうの文献にも書かれている通りさ。
で、すぐに本隊を派遣しようかと思ったけど、南宋戦が片付いていないし
何より高麗の準備が超遅すぎなので、一先ず南宋に注力していたんだよ。
南宋を攻略すれば、有能な南宋人を使って日本攻略もできるし、土地を失った農民を
日本に移住させるように仕向けることもできるので一石二鳥。
台風とか不可抗力が無ければ、弘安の役で日本は相当なダメージを受けていただろうね。
まさに神風様々だ。
博多の防塁がダメなら隠岐〜若狭ルートで京都に侵攻することも可能でしょうし。
あるいは太平洋方面から直接鎌倉を攻めて、心理的ショックを与えて降伏に導くこともアリでしょう。
クビライの計画どうり第三次派遣軍が来襲していたら日本終わってたね。
61 :
日本@名無史さん :2010/11/07(日) 14:37:10
元寇当時の造船術・航海術の関係から、朝鮮から近場の場所に上陸するしかないというのは分かりました。 しかし、博多湾周辺以外にも、長崎方面や山口方面も充分朝鮮から近いはずです。 元寇軍団が(特に日本軍が守りを固めて待ち受けている第2次戦で)あくまでも博多を狙い、長崎や山口方面に 上陸を試みなかったのはなぜでしょうか?
>>61 敵地で大軍を安全に常駐させるには平野が一番良いからです。
先ず、福岡平野を抑えたあかつきに元軍本隊を上陸させ、博多に拠点を構築しようとしたのでしょう。
長崎や周防だと、狭い平地に対し堅固な山が多いので日本側からの奇襲の可能性があります。
当時の高麗人ですら日本の地理に疎かったのにモンゴル人はそんなに日本の地理に詳しかったの?
>>63 実は当時の博多には南宋商人がいっぱい居たんだよ。
そいつらから蒙古が情報収集すれば、日本のどこに何があるのかお見通しさ。
いや、むしろ南宋商人が鎌倉幕府に蒙古とはどんな国家かを世界地図広げて教えてやったぐらいだ。
その辺の描写は大河ドラマ「北条時宗」で北大路欣也扮する南宋商人の長であった謝国明が行ってる。
「今や蒙古は宋はおろか、 韃靼から天竺、ペルシア、果てはエウロパの東端までを支配下置いております」
「エウロパの同盟軍は蒙古に破れ、ローマの教皇はクビライに和平の使者を送ったそうです」
という台詞を言っていたね。
当時の中国の日本地図は関東・東北地方が南に延びているというアベコベぶり。マルコポーロに吹き込んだ日本情報も無茶苦茶。 日本に関しては、相当限定的な知識しか持っていなかっただろう。博多のある九州くらいか、詳しかったのは。西日本に関してはかなり大雑把に主要都市の位置を把握している程度だろう。
66 :
日本@名無史さん :2010/11/08(月) 04:00:52
博多湾上陸しか選択肢が無いのは ・知識がなくてそこしか行けなかったから ・大宰府落とせなきゃ日本にとって毛ほども痛くないから の二つでしょうね 当時は貿易目的の外国人は大宰府より先には誰も入れないようになってましたから
67 :
日本@名無史さん :2010/11/08(月) 04:05:57
>60めんどくさいからコピペ Excuse:元寇を防げたのは二度とも偶然ふいた神風のおかげでしょ? Answer:いいえ。ちがいます。 まず文永の役。 高麗史によれば風雨によって被害を受けたという記載があるのは日本でボロ負けした後、逃げ出した後のこととなっています。 一方、日本側の当事者たちの記録には風雨に関して全く記載がありません。 つまり高麗史を信用するなら、風雨は日本からかなり離れた後のことでしょう。 また。一説には日本との戦いでの損害をごまかすため風雨を言い訳にした、という見方もできるそうです。 次に弘安の役。 まず、元軍はそれ以前の5月から日本と交戦していた点を忘れてはいけません。 元軍は日本軍に追い落とされ、海上を数ヶ月間逃げ回っていたところに台風が来たわけです。 また、そもそもそんな長い間上陸を阻止し続け、海上を追い回した、日本軍の防衛能力の高さも評価されるべきでしょう。 さらに言えば元軍の大半は嵐の後も生き残っていました。 一部の元軍は残存する船とともに逃げのびましたが、10万近い兵が鷹島、平戸などに取り残されておりました。 これらの残党は日本軍との交戦によって滅ぼされています。 結論から言えば、台風はあってもなくても元軍敗北の事実は変わらなかったことになります。
68 :
日本@名無史さん :2010/11/08(月) 04:08:49
>54
>弘安の役では拠点を整備して長期戦も可能だったが
>>67 をどうぞ
五月から夏まですでに長期戦やってます
拠点整備はことごとく日本の妨害で失敗してますが
69 :
日本@名無史さん :2010/11/08(月) 06:04:05
>>69 わけがわからなくなって錯乱してるっこと
長崎は戦国時代になってから港としてひらけた。
鎌倉時代は多分たいしたことないはず。
仮にその有効性を元が知っていて、日本が知らず、
元が長崎から上陸しても港として整備して防衛の為の砦をきずくといった作業は成功しなかったろう。
史実で上陸が成功せず追い払われてしまうような戦力しかなかったのだから。
日本を侵略する一番いい方法は日本に元のシンパを数多く作っておくこと。 在日元人を多数送りこんでいろいろ工作させておくのが一番だね。 その点だと今の日本のほうが間違いなく弱いよ。
72 :
日本@名無史さん :2010/11/08(月) 18:55:35
元高麗ちゃんと日本武士ちゃんが喧嘩しました。 元高麗ちゃんはボコボコにされて逃げだしました。 ちょうど夕方になってお腹がすいてきたので、 日本武士ちゃんは水城のばあちゃんちにご飯食べに帰りました。 元高麗ちゃんは必死に逃げました。 逃げて逃げてお布団の中で震えながら考えます。 「うー悔しいニダ!明日は船を焼いて背水の陣で戦うニダ!」 しかしふと冷静になって考えます 「いやまてよ。明日お腹いっぱいになった日本武士はもっと大きくなって襲ってくる。やっぱ勝てね。」 そこで元高麗ちゃんは夜逃げします。 一方その頃日本ちゃんは水城おばあちゃんちで温かい布団にくるまり、 「明日はどうやって元高麗ちゃんと『遊ぼうか』」と考えながらすやすやおねむの時間だったとさ。
73 :
日本@名無史さん :2010/11/08(月) 19:13:10
翌日、志賀島あたりに座礁した、たった1隻の船を取り巻いた武士たちは、前日の戦いにおじけづいて、 蒙古兵が船から降りて降伏してくるまで、誰も寄り付こうとしなかったという。 そして無抵抗の蒙古兵捕虜の首を切った。遊びってこれのこと?
二月騒動で粛清されたはずの六波羅南方の北条時輔が 吉野に逃げ延びた後、高麗から元に渡ったのは有名な話。 大都では日本語に堪能なヴェネツィア商人のマルコポーロと有ったり チンキム王子と世界情勢について語りあったりして、日本の軍事拠点を 筒抜けにしたのは有名な話。 蒙古の特使と鎌倉まで随伴して時宗を説得するも、特使と高麗使節は龍ノ口で斬首。
76 :
日本@名無史さん :2010/11/09(火) 00:53:08
どちらにせよ 橋頭保も確保できず戦略目標の大宰府どころか 水城が見えるところまですら到達できず 福岡平野沿岸部をうろうろしただけで先駆けレベルの武士団だけで返り討ち 弘安に至っては上陸すらままならず数カ月も海上を逃げ回った蒙古・高麗軍
>75 ツッコミ待ってるんだよね? 精一杯ボケたんだよね? 本気で大河の創作を鵜呑みにしてるワケじゃないよね?
78 :
日本@名無史さん :2010/11/09(火) 01:34:02
「ガスコンロが出てくるドラマでも史実」になる国からやってきたんだよきっと
79 :
日本@名無史さん :2010/11/09(火) 09:05:29
北条時宗が、「それで済むのなら、フビライ殿にこの時宗の首を差し出したい」 と言ったのは有名な史実。
80 :
日本@名無史さん :2010/11/09(火) 09:33:55
ダメだコリア 完全に妄想と現実の区別がつかなくなっている
81 :
日本@名無史さん :2010/11/09(火) 14:58:55
麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。 高麗の牒を相副たり。 宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。 これに依て御賀止めらる。 公私本意なき御事也。 蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。 年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。 大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。 高麗も同せめおとされて、 臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。 牒使には趙良弼と云ものわたれり。 高麗の使を副たり。 牒状二通あり。 一通は高麗の牒也。 蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。 至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。 去年八月の状也。 数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。 五大帝王物語
82 :
日本@名無史さん :2010/11/09(火) 16:16:40
>>80 妄想じゃない。NHKの大河ドラマに出てた。
釣れますか?
大河の北条時宗だと、最終回で時輔と桐子がマルコポーロ率いる駱駝の商隊とベネツィアに旅立つシーンで終わるよね。 その商隊に数ヶ月前に鎌倉で死去した時宗の霊魂が憑いてフェードアウトして行き、 最後、見送るクビライ脳裏に日本〜中国〜インド〜バクダード〜ビザンチウム〜ローマというオープニングで使われた画像が出てきて 更に視点は大気圏を突き抜けて地球の軌道上から宇宙空間に並列に浮かぶ太陽と月にシーンで終わる。 大河史上、かくも壮大で荒唐無稽なドラマがあったろうかと、興奮したものさ。 そもそも、当時の日本人に唐天竺以外の世界観など有ったのか甚だ疑問です。
85 :
日本@名無史さん :2010/11/10(水) 05:37:44
大河w
86 :
日本@名無史さん :2010/11/10(水) 21:02:54
拠点確保のために海の家でバイトすればいいんじゃなイカ
87 :
日本@名無史さん :2010/11/11(木) 01:33:49
元軍よりイカ娘のほうがかわいい分即戦力になるな
10万杯のイカ娘に攻められる鎌倉
89 :
日本@名無史さん :2010/11/11(木) 09:04:05
イカたんハァハァ
しかし、鎌倉武士ってどんだけ強いんだよ? 仮にさ、あくまでも仮にだが 元高麗連合軍がもっと進んだ兵装だったら鎌倉武士を殲滅できたんだろうかね? 例@:大航海時代のスペイン並みの装備(ガレオン船、艦載砲、小火器) 例A:第一次大戦時のイギリス並みの装備(無限軌道、野戦砲、機関銃、複葉機) 例B:第二次大戦時のアメリカ並みの装備(重爆撃機、潜水艦、電探、原子爆弾) 例C:現代のアメリカ並みの装備(イージス艦、原子力空母、ステルス戦闘機、劣化ウラン弾、燃料気化爆弾) 例D:2015年時の特務機関NERV並みの装備(人型決戦兵器エヴァンゲリオン、N2爆弾)
91 :
日本@名無史さん :2010/11/12(金) 09:13:19
そんなたられば妄想歴史板でやる意味あるの?
92 :
日本@名無史さん :2010/11/13(土) 06:11:14
爾、爾が国に還り、速かに軍額を奏せよ。 不らずんば、爾をして将に之を討たしめん。 爾等、軍を出して、将に何れの国を討たんとするか知らざらん。 朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。 今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。 爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。 朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。 爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載すべきを造れ
94 :
日本@名無史さん :2010/11/13(土) 15:33:41
いま、博多湾では牡蠣小屋シーズン到来に湧いている!
95 :
日本@名無史さん :2010/11/13(土) 16:37:47
マジな話、 征服されていたら、 どうなってたでしょうか?
モンゴル人が土地争いに詳しいとは思えないので 統治は無理
なんだよ「妄想歴史板」ってw
>>96 占領地の統治経営は現地人官僚にやらせるのがモンゴル式。
モンゴル人はそうやって集まった金品をモンゴルの親戚一同に分配するだけ。
100 :
日本@名無史さん :2010/11/14(日) 04:57:04
そんなたられば妄想を歴史板でやる意味あるの?
102 :
日本@名無史さん :2010/11/15(月) 14:32:08
高麗史 惟彼日本未蒙聖化故発詔。 使継糴軍容戦艦兵糧方在所須。 儻以此事委臣勉尽心力小助王師。
103 :
日本@名無史さん :2010/11/16(火) 03:36:46
どっかの国は全然本気でない蒙古軍に戦うことすらせず、小さいに島に逃げたなw 人類史上最も広大な領土を支配しほぼ連戦連勝の常勝軍団が日本を攻めてみる 蒙古高麗連合軍 VS 九州に居た一部の御家人(日本の総兵力の約15分の1ぐらい) 九州に居た一部の御家人の圧勝 蒙古高麗南宋連合軍 VS 前衛部隊(総兵力12万5千の内約3分の1で本体は温存) 前衛部隊の圧勝 この連敗が後に尾を引き各地で起こる反乱を抑えきれず元が滅亡してしまう。 どう考えても本気出したとしか考えられない。
104 :
日本@名無史さん :2010/11/17(水) 08:25:21
第2次の日本遠征で元は宋から接収した海軍力をほとんど失ったため、 海防の弛緩を招来し、元王朝の命取りの一因にもなった 14世紀の初頭から、広州、泉州、慶元の 市舶司の置廃が幾度となく繰り返されたのは、 沿海地域の防衛問題が深刻になりつつある証拠である 元朝は日本商船の武装化および日本の復讐を恐れて初期の中日貿易奨励方針から、 しだいに消極的な閉関主義への軌道修正を余儀なくされる 中国の歴史12 第5章 王勇
105 :
日本@名無史さん :2010/11/17(水) 08:58:20
竹崎季長の子孫てどうなった?
106 :
日本@名無史さん :2010/11/17(水) 11:47:03
>>103 どっかの島に逃げた王を捉まえられなかった蒙古軍を「本気でない」で片付けるなら
勝手に撤退した文永の役の蒙古軍も「本気でない」と言えばいいのかな?
107 :
日本@名無史さん :2010/11/17(水) 13:18:03
30年間にわたって思う存分高麗で奴隷狩りを満喫 本気ではないという以前に本気で戦うような相手がいなかった 戦わなくても勝手に蹂躙させてくれてたのが某半島と高麗王 一方橋頭保も確保できず 水城にすら到達できず沿岸部をうろうろしているうちに 先駆けレベルの武士団だけで返り討ち 「勝手に(笑)」逃亡した元高麗軍
108 :
日本@名無史さん :2010/11/17(水) 15:27:17
>>107 それは弘安の役。
その話をするということは文永の役は本気でなかった、と言いたいのか?
109 :
日本@名無史さん :2010/11/17(水) 15:32:56
弘安? 弘安の役はそれ以前に志賀島以外に上陸できてないだろw 実質本土上陸自体できてないも同然なんだから 文永の役では橋頭保も確保できず 水城にすら到達できず沿岸部をうろうろしているうちに 先駆けレベルの武士団だけで返り討ち 「勝手に(笑)」逃亡した元高麗軍
110 :
日本@名無史さん :2010/11/17(水) 16:20:30
めんどくさいのでコピペ Excuse:文永の役は本気じゃなかった Answer:意味がわかりません。 元軍の兵数は蒙漢軍2万5000人、高麗軍8000人で合計3万人を超えています。 第4回十字軍は艦艇200隻、兵数1万2000人と文永の役の元軍の3分の1の兵力でしたが日本より人口の多いピザンツ帝国を征服しています。 ましてや元軍は直前に樊城、襄陽を立て続けに攻略し、攻城戦に絶対の自信を持っていた時期。 これだけの大軍を投入してる以上、本気じゃなかったなんて言い訳はできません。 そもそもその理屈で行けば日本もまだまだ実力をほとんど発揮していない状態でした。 なにしろ、本土の軍勢どころか九州の軍勢すら全軍投入してない段階で圧勝してしまっているのですから。
111 :
日本@名無史さん :2010/11/18(木) 09:31:41
>>109 「返り討ち」というのは翌朝、たった一隻の座礁船を怖がって寄りつかず、
「勝手に」投降してきた無抵抗の蒙古兵の首をはねた、あの話しのことか?
普通に闘って、普通に勝った話
113 :
日本@名無史さん :2010/11/18(木) 10:09:09
座礁するようなとこなら そりゃ海が怖いだろ
114 :
日本@名無史さん :2010/11/18(木) 10:57:00
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」 帝王編年記 『大宰府より飛脚が到着した。先月二十日の蒙古軍と武士との戦いの報告書が届く。 逃げ遅れた元の船を一隻捕まえたそうだ。残りの蒙古軍は追い払ったそうだ』
115 :
日本@名無史さん :2010/11/18(木) 15:12:42
>>114 「追返」というのは「勝手にいなくなった」をかっこよく言ったものだ。
座礁船の一件は八幡ノ蒙古記に具体的に書いてある。
116 :
日本@名無史さん :2010/11/18(木) 15:20:35
>>110 本気か本気でないかは表現の問題だが、少なくとも文永と弘安では「本気度」
の差があるだろ。
文永では合戦はたった一日。部将が一人負傷し、兵は駆け引きで疲れたのは
事実だろうがさしたる損害が出た風でもない。その状態で勝手に引き揚げた。
弘安では数ヶ月にわたって粘り、食糧不足や伝染病にも悩まされた。戦さでは
負け続け。それでも台風が来るまで引き揚げようとはしなかった。
どちらが本気度が高いか、わかるよね。
117 :
日本@名無史さん :2010/11/18(木) 21:22:43
本気だろうとなかろうと日本側にはどうでもいいこと。 どちらも九州御家人だけで撃退した
「べ、別に本気じゃなかったんだかんね!これで勝ったとか思わないでよね」 って考えないと自己が崩壊する人間もいるって事か
119 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 05:44:52
>>106 喧嘩売って小さい島にとんずらしたのをつかめえられないって?
歴史勉強しろよ30年間好き放題暴れて後その小さい島も征服しましたよw
文永の役では900隻(建造にかなり費やす)と6000頭の馬、兵士25000、水夫5000
で日本を攻めるが、午後から重装備の御家人数千にフルボコにされとんずらw
上陸用の小舟200〜300隻を回収もせず大慌てで不慣れな土地から夜に撤退するという
ハイリスクをおかしてとんずらwして帰る途中多数死亡w
威力偵察?はぁ?威力偵察ならせめて一晩泊ってけよw
120 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 08:28:07
121 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 08:36:02
質問がおかしい そもそも派遣した大軍全体が威力偵察なんていうことはあり得ない
威力偵察説への疑問 弘安で情報が全くいかされていなかったのはなんでだ? なぜ文永の役であわてて退却し、座礁船も救わず逃げるように退却したんだ? モンゴル軍に派遣軍全軍威力偵察なんてこと他に例があるのか? 威力偵察ならなんで6年以上、弘安の役まで動かなかったんだ? 水城や大宰府を見もせず、大将が負傷してまで得れた情報ってなんだ?
123 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 10:41:21
ディエップの例を思い出せ。 ディエップは上陸した6000人全体が威力偵察部隊だった。 ディエップを占領して「数時間」確保することが作戦計画であった。 一晩泊まらなければ威力偵察でないなんていうルールはない。 連合軍の上陸はそれより2年遅れた。 モンゴル軍の例で言うなら、カルカ川で戦った数万のモンゴル軍は 全軍が威力偵察であったとする説は多い。 そして本隊の侵攻はそれより数年遅れた。
>>123 じゃあ
威力偵察説への疑問
弘安で情報が全くいかされていなかったのはなんでだ?
なぜ文永の役であわてて退却し、座礁船も救わず逃げるように退却したんだ?
水城や大宰府を見もせず、大将が負傷してまで得れた情報ってなんだ?
なぜ、史書に威力偵察と書かないで言い訳しか書いていないの?
なぜ、危険な夜間に撤退しようとしたのか?
なぜ、天候を見計らいもせず、暴風雨にあってまで退却を強行したのか?
元が文永の役後、日本人との貿易を許可するなど態度を軟化させたのはなぜ?
125 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 12:46:12
>その間にモンゴル諸家からの供出部隊が参着したほか、先鋒隊による威力偵察を行い、
>「イランの地」の王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけた。
ttp://ethnos.exblog.jp/1908596/ しかし威力偵察って言葉はこういう人たちにはずいぶん好き勝手に使われるんだな。
押しかけていって王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけたりするのなんて
もはや威力偵察でもなんでもないぞ。
126 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 12:52:25
あーなんか気持ち悪い文章書くやつだと思ったら 前々スレぐらいからずっといる偵察厨かw
偵察クンがカウント不能なほどスルーし倒したレス
723 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 11:12:58
>>712 だーかーらー
■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■
あとづけで似てる似てると連呼したって何にもならん
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?
「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」
128 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 13:19:10
朝鮮人ですら日本で何か調べてくるなら ちゃんとお使いの項目について命令を出しているのに 偵察厨の頭の中は朝鮮以下か? 1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、 学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、 鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。 日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、 その中で技術にまで言及していたのは、 渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、 日本の技術を導入するように命じられていたからである。 日本の水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、 当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、 日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる。
129 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 15:51:30
>>124 >弘安で情報が全くいかされていなかったのはなんでだ?
逆に、なんで「全くいかされなかった」と考えるのか、それが知りたい。
>なぜ文永の役であわてて退却し、座礁船も救わず逃げるように退却したんだ?
だから威力偵察でない、というのなら、ディエップの英軍はもっとひどい。
>水城や大宰府を見もせず、大将が負傷してまで得れた情報ってなんだ?
なにしろ日本に来て武士と戦うのは初めてのことだから、すべてが情報だろう。
>なぜ、史書に威力偵察と書かないで言い訳しか書いていないの?
撤退の言い訳を書くのは元史によくあること。
>なぜ、危険な夜間に撤退しようとしたのか?
昼間は敵に見られるからもっと危険だろう。
>なぜ、天候を見計らいもせず、暴風雨にあってまで退却を強行したのか?
暴風雨に遭ったのは出航した後のことだ。
>元が文永の役後、日本人との貿易を許可するなど態度を軟化させたのはなぜ?
脅したりすかしたりするのは外交の常。今の中国だってやっている。
>>129 ■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■
さっそくスルーしましたね
偵察クンがカウント不能なほどスルーし倒したレス
723 :日本@名無史さん:2009/11/24(火) 11:12:58
>>712 だーかーらー
■■単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れるっての■■
あとづけで似てる似てると連呼したって何にもならん
お前の長々とした駄文では何の証明にもなってないよ
古今東西の戦争すべてを威力偵察にするつもりか?
「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」
131 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 18:11:15
>>130 >単に敗軍が逃げ帰っただけでもデータは持ち帰れる
敗軍と言うなら弘安の役の蒙古軍のほうが、すでにしてもっと敗軍だった。
つまり
>>116 で言った「本気度の差」が説明できていない。
>「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
>もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?
そんなことがわかる資料があるのなら、歴史家は苦労はしない。
元史に書いてあるのは「征日本」、この3字だけ。
念のためだが「征」は「征服」の意味ではないよ。
遠征する、征伐するの意味だ。
132 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 18:34:45
なに言ってんだコイツ?
敗軍というなら〜
といったところでどっちにしろ文永も元軍が敗退した事実は変わんねーじゃん
>>116 は俺じゃないから俺は文永と弘安の本気度の差なんて俺は考えたこともない
どっちも本気で日本と戦いどっちも元が負けました
133 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 18:38:26
>元史に書いてあるのは「征日本」、この3字だけ じゃあ威力偵察じゃないじゃんw
134 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 18:51:49
文永…三万で日本を倒せなかったので 弘安…十二万に増量 まずは東路軍だけでもまとまって先行し あとから江南軍が延び延びになりながらも日本を目指す 東路軍は日本にあっさり返り討ちにあうが江南軍はまだ全然来ないので 完全撤退するわけにもいかず博多湾を逃げ回らざるを得なくなる 江南軍がようやく集まった頃には東路軍の士気は完全崩壊 せっかく数で押せるようになったってのに統率がとれず右往左往 結局小競り合い程度しかできないまま台風到来 東路軍仲間を見捨てて逃亡 置いて行かれた江南軍は鷹島や平戸島で日本軍と戦い敗北
135 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 18:56:50
136 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 20:25:22
ディエップは威力偵察じゃないだろ 本格上陸の為の予行作戦で偵察が目的じゃない
137 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 20:45:39
>>133 威力偵察であっても遠征することに変わりはない。だから「征」だ。
そう言えばカルカ川ももっとすごい大遠征だな。
138 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 20:47:24
本気か本気でないかは表現の問題だが、少なくとも文永と弘安では「本気度」 の差があるだろ。 文永では合戦はたった一日。部将が一人負傷し、兵は駆け引きで疲れたのは 事実だろうがさしたる損害が出た風でもない。その状態で勝手に引き揚げた。 弘安では数ヶ月にわたって粘り、食糧不足や伝染病にも悩まされた。戦さでは 負け続け。それでも台風が来るまで引き揚げようとはしなかった。 どちらが本気度が高いか、わかるよね。
139 :
日本@名無史さん :2010/11/19(金) 21:06:27
>>136 予行作戦なんてわけわからんこと言う前にぐぐってごらん。
dieppe, reconnaissance in force でどれだけ出て来るか。
あ、reconnaissance in force は威力偵察の意味ね。念のため。
>>129 偵察の結果は活かされたって事だね
それであの結果ならしょうがないよね
141 :
日本@名無史さん :2010/11/20(土) 05:37:06
蒙古軍は大陸では無敵だったが、海を渡る戦だと途端に弱くなるんですよ。 日本もそうだけど、インドネシアのマジャパヒト朝との戦でも5度派兵して全部負けてるし。 ただ、マジャパヒト朝は日本と違って特使を斬首したりせず、安全に帰国させてる点で良い国だね。
日本も安全に帰国させてますがなにか? 斬首したのは文永の役のあとにのこのこ送ってきた奴だよ こういうウソツキが何言ってもねぇ…
144 :
日本@名無史さん :2010/11/21(日) 07:13:46
>斬首したのは文永の役のあとにのこのこ送ってきた奴だよ だからって、いきなり斬首したらダメじゃん。 結果、次の弘安の役が勃発しただろが。アホ?
145 :
日本@名無史さん :2010/11/21(日) 08:50:29
さて、
>>138 で言ったように、文永の役と弘安の役では、蒙古軍の「本気度」に差があった。
こういうと、いかにも弘安の役の蒙古軍の方が士気が高かったように聞こえるが、実際は
いろいろの資料に現れているように、弘安の役の方が蒙古軍の士気は低かった。
では「本気度」とは誰の本気度かと言えば、それは結局はフビライの本気度だ。
弘安の役の蒙古軍は、食料が乏しくなり、疫病がはやり、戦闘で勝てなくても、
帰るに帰れなかった。それはフビライの「本気度」を意識していたからだ。
フビライの本気度が後押ししたと言い換えてもよい。
そしてフビライの本気度が違うということは、作戦目的が違うというのと大差ない。
146 :
日本@名無史さん :2010/11/21(日) 16:11:06
本気度とかゲームじゃねーってのw どっちにしろ文永も公安も本気で戦って どっちも武士に撃退された
147 :
日本@名無史さん :2010/11/21(日) 16:15:19
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」 大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」 日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』ちゃん元気にしてる?」 境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」 況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」 遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」 朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」 即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」 高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」 義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」 王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」 高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」 日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」 開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」 尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」 故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」 冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」 且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」 不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」 以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」 王其圖之不宣「じゃーな!」 こんなの送ってくるようじゃ平和的解決など無理 むしろ使者を無傷で返すなんて武士やさし過ぎ
148 :
日本@名無史さん :2010/11/21(日) 19:24:34
竹崎季長末裔はどうなったんだ
149 :
日本@名無史さん :2010/11/21(日) 20:42:19
>>142 蒙古、南宋、金、高麗の連合軍14万人に4400隻に3カ月の兵糧
海を渡ってこれほどの大軍で攻めたのはほかにあるかな?
武器、防具、兵士で全てで優れていてることを日本を大軍で攻めて壊滅してしまい
日本に勝てず北(アイヌ)南(琉球)を攻めるも敗退
1297年 蝦夷管領安東氏率いる(海保嶺夫説による)樺太アイヌがシベリアに渡り、アムール川で元軍と戦う。
1308年 骨嵬と元が和睦。
1320年 奥州アイヌが蜂起、安藤氏と戦争になる。
1322年 蝦夷管領安藤氏の内紛。
1387年 骨嵬、アムール川の元の勢力を放逐。
第一次琉球モンゴル戦争
@1291(英祖32)年
琉球水軍、沖縄本島へ東上中のモンゴル水軍を海上に撃退
モンゴル水軍将は、副万戸・楊祥
第二次琉球モンゴル戦争
A1296(英祖37)年
沖縄本島に上陸するモンゴル軍を琉球住民が撃退。モンゴル軍大将は省都鎮撫・張浩
その後は小規模でしか兵を送れず敗戦に次ぐ敗戦で紅巾の乱でついに元が滅亡する。
日本さえ攻めなければ歴史は変わっていたはず。
151 :
マイ :2010/11/21(日) 22:48:36
樺太や琉球への侵攻は実態としては未踏地域の調査です。 そこで予期せぬ原住民の襲撃を受けたというのが真相。 後世、マゼラン艦隊がフィリピンで原住民に襲撃されて半壊滅したのと同じ理屈。 モンゴルは未踏地域に侵攻する場合、必ず事前に調査隊を派遣して測量や風土を詳細に検分しています。 西ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア、カムチャツカ方面にも調査隊を派遣しているし、 マルコポーロやイブンバットゥータから西方の詳細な情報を収集している。
152 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 00:41:56
元による小規模な攻撃
朝鮮、アイヌ、琉球、ベトナム
朝鮮のみ小さい島へ逃亡し30年荒らされるが、他国は徹底抗戦し勝利。
まぁ防具も武器もまともなものがなかったからしかたないかな?
http://netatama.net/archives/3375116.html 元による大規模な攻撃
日本、南宋
日本
島国ゆえ何処から上陸されるかまた何時攻撃されるかわからないという圧倒的不利な
条件(奇襲攻撃)にもかかわらず圧勝、陸続きの国と違って国境に強固な砦を築けず
分散配置しなければならないのに圧勝。
南宋
第1,2,3次と40年間戦うが襄陽・樊城の戦いでついに敗北
153 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 03:22:39
すんげえ疑問だけど、 南宋、40年も戦ってるのに国境に長城作る余裕無かったのかね? 日本ですらたった半年で博多湾岸に総延長20キロ近い長城作ったのに。
154 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 09:17:55
>>151 >モンゴルは未踏地域に侵攻する場合、必ず事前に調査隊を派遣
なるほど、そして相手の抵抗が予想される場合は兵力が大きくなって
「威力偵察」となるわけですね。
155 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 10:00:37
負けた言い訳に必死だな
江南軍が予定通り6月中旬に到着していれば、日本軍は壊滅してたけどな。
日本も九州以外から武士を動員して戦の規模が大きくなるだけ。結果は同じ。元軍がより盛大に敗北するだけ。残念でした。
158 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 10:59:54
>>155 負けた?
威力偵察への、さしたる抵抗は見受けられないが?
159 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 11:04:23
160 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 13:03:17
>>159 なにを寝ぼけたことを。それとも意識してか?
「さしたる抵抗は見受けられない」というのは、威力偵察説への、君たちの
抵抗のことだよ。
161 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 13:44:52
>>131 とりあえずレスつけただけで内容に全く反論できてないどころか
自分の妄想以外にソースはないことを白状してるけど
むしろさしたる抵抗できてないのは偵察厨じゃないのー
「いつフビライが『日本へ威力偵察して来い』と命令したんだ?」
もしくは「事前に作成されていた『日本で調査するべき項目のリスト』は?」
162 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 15:59:47
>>161 ないものねだりしかやることがないのが「抵抗できない」現れだ。
163 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 16:02:05
べつに無理に出さなくてもいいよ それじゃ誰にも信用されないけどねw 要は偵察厨の書いてることは全部妄想ってことなのね
164 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 16:24:39
>>163 あほか。
それなら大宰府占領とか日本征服とか書いてあるフビライの命令書を
出して見ろ。
ないものねだりはお互い様なのだ。デフォなんてどこにもないぞ。
165 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 16:30:13
負けた言い訳に必死になるのはいいけど どんどん論理が破綻して行ってるぞw
166 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 16:45:09
元・高麗軍は橋頭保も確保できず、大宰府の制圧どころか 前線の水城にすら全く届かず、 ただの先駆けレベルの武士団にいいようにすり潰され遁走したけど 威力偵察なので負けてないニダ! ソースはウリの妄想ニダ
167 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 17:53:21
>>165 「調査項目のリスト」とか言うないものねだり以外に、まともな反論はできて
いないではないか。
負けたのはそっちだ。
168 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 18:23:41
妄想以外に証拠はないけど 負けたのはそっちニダ …か┐(´ー`)┌
169 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 18:28:49
まるで「カールスイスも在日朝鮮人」とのたまったという前田日明の祖母のような話だな 優秀な人間をみれば「証拠はないけどあれは在日だ」と認定 朝鮮が関わって敗北した戦争があれば「証拠はないけどあれは威力偵察だ」と認定 それに対して「証拠は?」と尋ねても 「そんなないものねだりをする時点で負けたのはそっちニダ!」と逆切れ…
なんで韓国人が日本語で日本のBBSに書いてるレベルで 語尾にニダとかありえないミス犯してるとか思っちゃうの
171 :
日本@名無史さん :2010/11/22(月) 20:29:20
>>169 「威力偵察ではない」という証拠もない。
だが「ないものねだり」とわかっているから、私は「証拠を出せ、出せなければそっちの負け」
などとは言わない。
あ、「威力偵察ではない」はデフォだから証拠は要らない、というのは無しね。
軍板でフルボッコにされた威力偵察厨www
173 :
日本@名無史さん :2010/11/23(火) 13:47:28
はて、軍板なんて行ったことないが・・
174 :
日本@名無史さん :2010/11/23(火) 15:45:05
元寇は鎌倉武士の実力勝ち 文永の役…対馬壱岐などの防備の薄い小島でホルホルしている間に大宰府戦闘体制 九州上陸後あっというまに武士の集団騎射に射散らされて退却 夜陰に乗じて敗走 弘安の役…防塁上でびっしりと守備を固める武士が邪魔で上陸できず ろくに部隊を展開できない陸継島からむりやり上陸しようとするも 海からは小舟で乗り込んでくる武士、陸からは狭い海の中道から武士が押し寄せ 全く歯が立たず撤退 その後博多湾上を逃げ回る 攻め始めたのが六月なのに気づけば夏真っ盛り、台風シーズン 武士の包囲網をぬけ多くの兵士を見捨てて元軍逃走 台風後、船を失い平戸や鷹島に見捨てられた蒙漢軍兵10万余りは武士に徹底的に掃討され壊滅
175 :
日本@名無史さん :2010/11/23(火) 21:08:49
>>151 その調査隊とやらはどの程度の規模よ?
琉球やアイヌには1万規模の軍隊を派遣してるのは明らかに侵略目的なはず
1回目はともかく複数回攻めてる時点で調査でなく明らかに侵攻でないと財政的にもたない。
>>154 文永の役は朝鮮人が日本を攻めろとうるさいから船や物資を朝鮮人に用意させて
攻撃した、調査でも何でもない。
>>156 江南軍は3700隻もの数これぐらいの規模だと1日で出発できなくて同時到着なんて無理
鎌倉幕府軍は九州に4万(全軍12万5千人)で待ち構えたけど実際は武士の圧倒的な強さの前に
全く歯が立たず、蒙古軍は島を転々と逃げ回ってるので鎌倉幕府軍で戦いに参加できたのは
1万もいないはず、なぜなら日本には小さな小舟ぐらいしかなく数も多く見積もって100〜200隻程
陸上戦を見込んでたら相手が弱過ぎて海で逃げ回ってるので運よく小舟を調達でいた武士だけで戦った。
>>172 城総合スレでも、落とし格子不要キチガイとして威力偵察キチガイが出てきているみたいw
落とし格子議論を自作自演で妨害しているしw
177 :
日本@名無史さん :2010/11/25(木) 18:54:38
>>175 1万とかの規模だけで侵略云々は言えない。
前にも言った、カルカ川の戦いの数万の蒙古軍は、行きがかり上のような形でロシア
騎士団と戦ってこれを粉砕したが、戦果拡大することなく引き返した。
その数年後に侵入した、その倍くらいの蒙古軍がはじめてこの地方に居座ってロシアを
支配した。
178 :
日本@名無史さん :2010/11/25(木) 19:15:54
>>177 1回ならな数回は明らかに侵略目的でないと軍隊送る意味がない。
交易目的なら勅使を送るだけでいい。
179 :
日本@名無史さん :2010/11/25(木) 20:00:53
久々に日本史板来たら新スレあったから寄ってみたが 相変わらず威力偵察基地外がいるのか。 ところで威力偵察が正しいとしたら 棄民説は成り立たなくなる事に気づいてるか?
>>179 現在は威力偵察基地外は、
城総合スレッドで落とし格子に関する議論を妨害中です。
181 :
日本@名無史さん :2010/11/25(木) 21:33:31
>>180 バレバレの自演で、落とし格子議論を妨害しているしなw
184 :
解き胸 :2010/11/25(木) 23:23:18
おまえら生ぬるぽ
185 :
日本@名無史さん :2010/11/26(金) 01:52:46
「醜い韓国人」朴泰赫 韓国の歴史とはただ強い者に媚びへつらい、弱いものを 圧殺するというそれだけの歴史である。 大陸の宗主国の力が弱まれば新興の宗主国にくっついて旧宗主国をたたく。 これが韓国の「真実の歴史」である。 元寇のときは元にくっついて壱岐、対馬の善男善女を虐殺しぬき、 日本が宗主国となると旧宗主国である満州人をいじめ抜き、 日本が敗戦すると日本を見下し、恐喝、強盗まがいのことを平然として、 アメリカにくっついて武器も持たぬベトナムの女子供をなぶり殺しにする。 これが韓国の歴史である。 こんな歴史しかないくせに「五千年の偉大なる歴史」とは笑止千万! 卑怯者とは韓国人のためにある言葉だ
韓国人を叩くスレじゃねーぞ
187 :
日本@名無史さん :2010/11/26(金) 09:44:32
>>179 「棄民説がなんで成り立たないのか?」への説明がないな。
ちょっと言って見ただけなのか?
>>183 それでも、その機智外、まだ粘着にそのスレ荒らしているようだ。
189 :
日本@名無史さん :2010/11/27(土) 16:10:00
Aであるという証拠がないなら自動的にAではなくなる Aであると言い張る人間がその証拠を出せないなら 自動的にAであるという主張は瓦解する A=偵察厨の妄想
190 :
日本@名無史さん :2010/11/27(土) 18:04:42
>>189 威力偵察ではないという主張についても全く同じことが言える。
幽霊は存在するか否かの問いに、幽霊の存在を証明する事が出来ないので、存在しないと証明する事も出来ません。 否定できない以上幽霊は存在します。と主張する馬鹿を見たことがある。
192 :
日本@名無史さん :2010/11/27(土) 19:52:12
>>191 それは幽霊という、存在しないことが明らかなものについて言った、狡猾な例えだ。
193 :
日本@名無史さん :2010/11/27(土) 19:56:39
まとめると 元高麗軍は 橋頭保も維持できず 大宰府どころかその手前の水城にすら まったく届かずに武士によって追い払われてしまった
194 :
日本@名無史さん :2010/11/28(日) 01:10:37
同じ島国のイングランドは何回も征服されてるけど、日本は小規模なのも含めれば 何十回も侵略受けて最も侵攻を許したのは博多の浜辺から数キロ程度。 当初日本が想定していた大規模侵略に対しての砦が水城であったがここまで侵攻できた国はない。 島国は陸続きの国と違って国境に強固な砦築いて徹底防戦が出来ないから余程力差ないと防衛は厳しい。 まぁ侍崩れの倭寇にフルボコにされる程度だからな周辺国はね。
195 :
日本@名無史さん :2010/11/28(日) 04:38:36
196 :
日本@名無史さん :2010/11/28(日) 12:19:02
PTA会長「エロ漫画は子供に悪影響だから規制!データはない!(キリッ」 偵察厨「元寇は威力偵察だから負けてない!データはない!(キリッ」
197 :
日本@名無史さん :2010/11/28(日) 21:13:06
>>196 正確に言うと「元寇は」じゃなくて「文永の役は」だな。
私は文永と弘安で蒙古軍の一勝一敗だと言っているのだよ。戦闘については。
で、
威力偵察反対厨「弘安の役は威力偵察ではない!データはない!(キリッ)」
となるわけだ。データがないのはお互い様。なにしろ「征日本」の三字しかないのだから。
もう、二回とも偵察でいいよ
199 :
日本@名無史さん :2010/11/28(日) 22:40:25
>>198 そうは行かない。弘安の役は屯田のスキクワまで持って来て、偵察とはいくらなんでもね。
ついでに
>>197 の訂正:
誤:「弘安の役は威力偵察ではない!データはない!(キリッ)」
正:「文永の役は威力偵察ではない!データはない!(キリッ)」
植民の用意をしたとて、なぜ偵察じゃないと言える(キリッ!)
201 :
日本@名無史さん :2010/11/29(月) 07:27:22
このバカはいつまで悪魔の証明にしがみついてんだ?
威力偵察なんて言う「いいがかり」に対してでは
肯定側否定側の「証拠が無い」って言う意味が異なる
>>191 がすでに指摘してるけど言いがかり付ける側が証拠を出せない時点で
否定側にとってはそれ自体が否定の論拠になる
言いがかり付けた側が証拠を出してくるまではね
それこそ「文永の役では朝鮮は宇宙人の助けを借り大型ロボットで宙を飛び鎌倉武士をなぎ倒した。天から竜が現れたとはその大型ロボットの事だ」
って言いだすのと本質的に変わらない
仮にこいつを宇宙人説としようか(笑)
それに対して「なんだその妄想?しょうもない。証拠を出せ」って否定しても
「宇宙人の助けが無かったと証明する証拠が無いのはそちらも同じ」なんて悪魔の証明持ち出す時点で宇宙人説厨はすでに論破されてることになる
さてこの宇宙人厨、偵察厨とそっくりですよねw
202 :
日本@名無史さん :2010/11/29(月) 10:25:56
>>201 「威力偵察説は言いがかり」というのは「威力偵察否定説はデフォ」
というのと同じだと気づかないバカ
宇宙人も幽霊の焼き直し。
存在しないことが明らかなものをネタにする狡猾な、というより
バカな例えだ。
ないことを証明しろ コレ言い出したらそいつはもう終わりってことに気がつかないバカ それが偵察厨
204 :
日本@名無史さん :2010/11/29(月) 13:37:20
ないことを証明しろ? 威力偵察で「ある」ことを証明しろ、と言うのなら、まず 大宰府占領作戦とか九州占領作戦で「ある」ことを証明しろ、 と言っているのだよ。 フビライの命令書かなにかで。
>>129 >>逆に、なんで「全くいかされなかった」と考えるのか、それが知りたい。
文永の役が生かされたような場面なんかあったか?
>だから威力偵察でない、というのなら、ディエップの英軍はもっとひどい。
十分座礁船を見捨てたというのは見捨てらざる終えないほど、元軍が切羽詰っていたということ。
予定通りに撤退にしては不自然そのものだな。
>なにしろ日本に来て武士と戦うのは初めてのことだから、すべてが情報だろう。
そんなことは威力偵察として軍を派遣しなくてもわかることなんだが。
>撤退の言い訳を書くのは元史によくあること。
言い訳を書く必要があるということは、元側が思うように行かなかったという事。
つまり、威力偵察なんかではなかったという事。
>昼間は敵に見られるからもっと危険だろう。
つまり、当時の航海術で夜間に海に出る危険行動を取る以上に、日本軍のことを
恐それていたという事。
>暴風雨に遭ったのは出航した後のことだ。
だから、暴風雨が来そうな空の元、なぜ退却を強行したかという事。
>脅したりすかしたりするのは外交の常。今の中国だってやっている。
合戦前と合戦後では明らかに元側は、態度を軟化させた。つまりは、元側にとって
文永の役での日本側の抵抗が想像以上に激しかったということ。要するに、文永の役は
元側にとって想定外の結果だったことを物語る出来事。
はじめから偵察しとけよw
>>204 202 :日本@名無史さん:2010/11/29(月) 10:25:56
199 :日本@名無史さん:2010/11/28(日) 22:40:25
197 :日本@名無史さん:2010/11/28(日) 21:13:06
192 :日本@名無史さん:2010/11/27(土) 19:52:12
177 :日本@名無史さん:2010/11/25(木) 18:54:38
173 :日本@名無史さん:2010/11/23(火) 13:47:28
167 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 17:53:21
164 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 16:24:39
162 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:59:47
160 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 13:03:17
158 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 10:59:54
154 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 09:17:55
145 :日本@名無史さん:2010/11/21(日) 08:50:29
139 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 21:06:27
137 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 20:45:39
131 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 18:11:15
129 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 15:51:30
123 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 10:41:21
116 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 15:20:35
115 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 15:12:42
111 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 09:31:41
108 :日本@名無史さん:2010/11/17(水) 15:27:17
106 :日本@名無史さん:2010/11/17(水) 11:47:03
働けよ
208 :
日本@名無史さん :2010/11/29(月) 19:53:29
>>205 >文永の役が生かされたような場面なんかあったか?
2度目にのこのこやって来たこと自体が、「日本軍があの程度なら14万でイケる」
と考えたからだろう。
>座礁船を見捨てたというのは見捨てらざる終えないほど、元軍が切羽詰っていたということ。
暗夜のことだ。人知れず座礁することだってあり得る。
それに仮に切羽詰まっていたとしてどうなんだ? ディエップの英軍だって1/3が
捕虜になるほど切羽詰まっていたが、だからといってディエップ作戦は威力偵察では
ない、とは言わない。
>言い訳を書く必要があるということは、元側が思うように行かなかったという事。
ディエップの英軍だって作戦計画通りには行かなかったが、だからと言ってディエップ
作戦は威力偵察ではない、とは言わない。
>当時の航海術で夜間に海に出る危険行動を取る以上に、日本軍のことを恐それて
いたという事。
撤退すると決めたのなら安全なほうがいいに決まっている。翌日昼間の撤退だと
敵前撤退という難しい局面になることは避けられない。
>暴風雨が来そうな空の元、なぜ退却を強行したかという事。
暴風雨が予知できたかどうかはなんとも言えない。つまり「暴風雨が来そう」
だったかどうか、わからない。
209 :
日本@名無史さん :2010/11/29(月) 19:54:10
>>205 >元側にとって文永の役での日本側の抵抗が想像以上に激しかったということ
ディエップの独軍の反撃も英軍の予想以上に激しかったが、だからと言って
ディエップ作戦は威力偵察ではない、とは言わない。
>要するに、文永の役は元側にとって想定外の結果だったことを物語る出来事。
ディエップ作戦の結果も英軍の想定外であったが、だからと言ってディエップ
作戦は威力偵察ではない、とは言わない。
210 :
日本@名無史さん :2010/11/29(月) 22:02:44
>>撤退すると決めたのなら安全なほうがいいに決まっている。翌日昼間の撤退だと >>敵前撤退という難しい局面になることは避けられない。 馬鹿丸出しだな、敵前撤退が難しいのは陸上での話な、海の上では夜の撤退は危険 初めてたどり着いた場所なのに視界の悪い夜に撤退は常識的あり得ない 兵士2万5千馬6千頭で奇襲攻撃するも数千の御家人に半日で副将まで討ち取られ 全く勝つ見込みがないから慌てて撤退、上陸用の小船数百隻を回収もせず必死の逃亡。
211 :
日本@名無史さん :2010/11/29(月) 23:12:29
>>210 >馬鹿丸出しだな、敵前撤退が難しいのは陸上での話
どっちが馬鹿丸出しか。
この場合の敵前撤退とは陸上と海上とにわたる、アンフィビアスな戦闘では
ないか。
浜で小舟に乗船中、あるいは小舟で本船に向かう途中という、もろい状態は
敵軍にとって好餌、これを守るために陸上にしんがり軍をおいて敵を防ぎ
ながらの乗船となる。いかにうまく行ってもなにほどかの損害は免れない。
いわばダンケルク状態だ。
ダンケルクではドイツ軍が陸軍の追撃を押さえて空軍にまかせるという誤り
をおかしたが、戦車を伴う陸軍が来ていたら地獄だった。
212 :
日本@名無史さん :2010/11/30(火) 08:03:37
>>211 お前底なしの馬鹿だなw文永の役はなにか1から勉強しろ
半日でフルボコにされて大慌てで船へ逃げ帰って船の上で元と高麗の
士官たちで話し合って逃亡しただけ。
浜辺で追っかけまわされて船へ逃げて海上戦なんてやってないし、そんな大型船は日本にない。
沖の大型船の中でハイリスクをおかして夜撤退を決意した。
陸上で陣地作ってそこから撤退と沖の船からの撤退とは全然別
ぼうやには陸上の敵前撤退と海上での船から敵前撤退の違いすらわからないの?w
>>212 そんな駄レスしている暇があるなら、
城総合スレッドの義務を履行して来い。
214 :
日本@名無史さん :2010/11/30(火) 08:45:00
>>212 お前はどこまで馬鹿なんだ。
>翌日昼間の撤退だと敵前撤退という難しい局面になることは避けられない。>208
これが仮定の話だと分からないのか?
215 :
日本@名無史さん :2010/11/30(火) 08:49:09
威力偵察説ほど楽なものはない。 ディエップ、この一つだけ言っていればいい。 と、どこかの大臣が言ったとか、言わなかったとか・・
>>208 >>2度目にのこのこやって来たこと自体が、「日本軍があの程度なら14万でイケる」
と考えたからだろう。
そんなことは、文永の役が威力偵察でなく普通に敗北してもわかることなんだが。
>>暗夜のことだ。人知れず座礁することだってあり得る。
それに仮に切羽詰まっていたとしてどうなんだ? ディエップの英軍だって1/3が
捕虜になるほど切羽詰まっていたが、だからといってディエップ作戦は威力偵察では
ない、とは言わない。
ディエップの話してるんじゃないだよ。水城や大宰府を見もせず、切羽詰って退却した元軍の行動を
威力偵察と見ること自体無理がある。
>>ディエップの英軍だって作戦計画通りには行かなかったが、だからと言ってディエップ
作戦は威力偵察ではない、とは言わない。
元軍が作戦どうり行かなかったのは認めるんだ。じゃあ、威力偵察か大宰府攻略を目的してようが
結果からしてたら対して問題にならんな。
>>撤退すると決めたのなら安全なほうがいいに決まっている。翌日昼間の撤退だと
敵前撤退という難しい局面になることは避けられない。
そういうことだ。そこまで、元軍は追い込まれていた。単純に威力偵察で情報を集めて
「さあ、撤退だ」という状況ではなかったということだ。
>>暴風雨が予知できたかどうかはなんとも言えない。つまり「暴風雨が来そう」
だったかどうか、わからない。
突然暴風雨が来るということがあるのかは知らんが、対馬から朝鮮半島まで50kmしかない。
空模様ぐらい確認できないものだろうか。
ひたすら悪魔の証明だけを要求する偵察厨
>>207 偵察厨はとりあえずハローワークへ威力偵察に行った方がよさそうだね
218 :
日本@名無史さん :2010/11/30(火) 18:07:53
>>216 蒙古軍が切羽詰まっていたことにしたいらしいが、残念ながらそうは言えないだろう。
暗夜に、恐らく数時間内に、陸上には一兵も残さず、たった一隻座礁の犠牲で引き揚げた。
日本側の記録に、残された蒙古の馬の記述が無いことを見ると、恐らく馬も積み込んだ。
これだけのことをやるには、よほど余裕がないとできない。
撤退作戦において蒙古軍はなんらの妨害を受けなかったのだ。(わけわからん白装束を除いては)
蒙古軍が自主的に引き揚げたことは明らかだ。
そりゃ恐怖で逃げだすのだって「自主的」だろうよw >撤退作戦において蒙古軍はなんらの妨害を受けなかったのだ だから夜逃げしたんだろw 昼間じゃ武士に襲われるからな
220 :
日本@名無史さん :2010/11/30(火) 18:40:36
>>206 携帯から書き込んでるって言い訳したとしても
しょっちゅう仕事サボってトイレでカチカチしてんのかよ
って話になるわなw
221 :
日本@名無史さん :2010/11/30(火) 19:02:05
高麗史にある軍議の記述。文永の役の戦闘後。 わずか1日で元軍戦意喪失。 元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」 高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」 元軍司令官「疲れた少ない兵では日本の大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」
222 :
日本@名無史さん :2010/11/30(火) 20:01:29
>>221 その前を省略してはいけないね。
「日本軍は大いに破れ、死体が麻のように散らばった」
蒙古軍が戦闘で勝った、という認識を持っていたことは確か。
元史にも「これを敗(やぶ)る」と言っているし。
引き揚げが組織的だったのも戦闘で勝って余裕があったからだ。
>>222 202 :日本@名無史さん:2010/11/29(月) 10:25:56
199 :日本@名無史さん:2010/11/28(日) 22:40:25
197 :日本@名無史さん:2010/11/28(日) 21:13:06
192 :日本@名無史さん:2010/11/27(土) 19:52:12
177 :日本@名無史さん:2010/11/25(木) 18:54:38
173 :日本@名無史さん:2010/11/23(火) 13:47:28
167 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 17:53:21
164 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 16:24:39
162 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:59:47
160 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 13:03:17
158 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 10:59:54
154 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 09:17:55
145 :日本@名無史さん:2010/11/21(日) 08:50:29
139 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 21:06:27
137 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 20:45:39
131 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 18:11:15
129 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 15:51:30
123 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 10:41:21
116 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 15:20:35
115 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 15:12:42
111 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 09:31:41
108 :日本@名無史さん:2010/11/17(水) 15:27:17
106 :日本@名無史さん:2010/11/17(水) 11:47:03
早く寝てハローワークに威力偵察して来い
オレ本気だしてねーし
225 :
sage :2010/12/01(水) 01:35:13
つうか松浦党が派手にやられたのは誰も否定してないやんw 偵察厨ってどこまで馬鹿なんだろ 高麗史にせよ対馬壱岐ときての記述だから 日朝で記述も一致 その後元高麗軍は菊池勢その他に押し返され苦しくなって 焚船して背水の陣で〜とか火病おこすぐらい追い込まれちゃった 小敵の堅は、大敵の檎とか諌めてるとこからしても「もう我々元高麗軍は戦えない」って言う冷徹な分析してるよね 偵察厨とは違って忽敦はやはり敗軍の将とはいえ優秀な武将だな
226 :
日本@名無史さん :2010/12/01(水) 09:56:25
>>225 >その後元高麗軍は菊池勢その他に押し返され苦しくなって
それは絵詞に書かれた一つの局面に過ぎない。
武士厨はそれだけにしがみつくけどね。
その後は日本軍はじりじり押されて赤坂まで押し戻された。
大将自らが追われて殿軍の形になり、矢戦をする始末。
そこで戦線膠着して夕方になり、日本軍は誰からともなく「自主撤退」
なにしろ寄り合い所帯だから撤退するのも個々だ。「俺やーめた」という感じ。
それを深追いせず、ここが潮時と見て軍をおさめ、悠々と乗船した蒙古軍。
ここまでは忽敦は名将であり「優秀な武将」だった。大風にさえ会わなければね。
一方でめためたに負けながら意味も無く粘った弘安の役の蒙古軍。
この違いを説明しなきゃ歴史じゃないね。
15万のも大軍を同時に瞬間移動できるとでも思ってるのかな? 蛇のように延び延びになって最前が博多湾に現れてから 最後尾が博多湾に来るまでタイムラグがでる 無意味にねばった? 集結を待って反撃するつもりが日本軍に追い回されて集まった頃には士気ガタガタになってただけ まさか偵察厨って東路軍と江南軍に分かれていたことも知らないのかな めでてーやつw
228 :
日本@名無史さん :2010/12/01(水) 14:59:39
>>226 最初のプラン
博多湾の浜辺から水城まで直線距離で15kmここまで奇襲攻撃で攻め上がり
博多で陣を引き水城を攻撃し大宰府を占拠する。
現実
浜辺周辺から対して侵攻できず、奇襲攻撃しても1000〜2000程度の武士にかなわず
船へ引き上げ見知らぬ地から夜に撤退して帰りに多数死亡。
3万と6千頭の馬に1カ月の兵糧で攻めるも1泊もせずに撤退
理由はわかるよな?まさか威力偵察ですぅwwwはないよな?
>>226 早起き出来たんならハロワに威力偵察行って来い
230 :
日本@名無史さん :2010/12/01(水) 21:33:35
>>228 6000頭の馬とは初耳だな。ソースは?
>1泊もせずに撤退
また「一泊」が出て来たな。
お泊まりでないと威力偵察でないというルールでもあるのか? ソースは?
231 :
日本@名無史さん :2010/12/01(水) 22:23:56
>>226 その「最初のプラン」とは何に書いてあるのかな?
232 :
日本@名無史さん :2010/12/01(水) 22:29:03
>>228 の間違いね。
で、プランと現実が食い違ったから威力偵察でないと?
そんなこと言ったらディエップはどうなる。
ほとんど無傷で撤退するつもりが帰って来たのは6000人のうち
2000人足らず。だから威力偵察でないと言えるのか?
233 :
日本@名無史さん :2010/12/01(水) 23:39:55
竹崎季長の戦傷てあの激戦に置いて手柄に該当するの? 死んだり敵将討ち取った訳でも無いし やっぱ直訴が気に入られた?
202 :日本@名無史さん:2010/11/29(月) 10:25:56 199 :日本@名無史さん:2010/11/28(日) 22:40:25 197 :日本@名無史さん:2010/11/28(日) 21:13:06 192 :日本@名無史さん:2010/11/27(土) 19:52:12 177 :日本@名無史さん:2010/11/25(木) 18:54:38 173 :日本@名無史さん:2010/11/23(火) 13:47:28 167 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 17:53:21 164 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 16:24:39 162 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 15:59:47 160 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 13:03:17 158 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 10:59:54 154 :日本@名無史さん:2010/11/22(月) 09:17:55 145 :日本@名無史さん:2010/11/21(日) 08:50:29 139 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 21:06:27 137 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 20:45:39 131 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 18:11:15 129 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 15:51:30 123 :日本@名無史さん:2010/11/19(金) 10:41:21 116 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 15:20:35 115 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 15:12:42 111 :日本@名無史さん:2010/11/18(木) 09:31:41 108 :日本@名無史さん:2010/11/17(水) 15:27:17 106 :日本@名無史さん:2010/11/17(水) 11:47:03 202 :日本@名無史さん:2010/11/29(月) 10:25:56 204 :日本@名無史さん:2010/11/29(月) 13:37:20 214 :日本@名無史さん:2010/11/30(火) 08:45:00 226 :日本@名無史さん:2010/12/01(水) 09:56:25 228 :日本@名無史さん:2010/12/01(水) 14:59:39 ハロワへの威力偵察すら失敗する偵察厨がまだなんかいってんのか
235 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 00:36:56
>>232 ディエップは将来のD-dayの為に、フランスへ奇襲上陸が可能か否かの実験。
占領を目的としていないので兵力は5000人
文永は兵力4万人の時点で本作戦。
13世紀の4万人は20世紀の数十万人に値する
236 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 08:54:18
>>235 >ディエップは将来のD-dayの為に、フランスへ奇襲上陸が可能か否かの実験。
よくわかってるじゃないか。実験して情報を得る。だから威力偵察なのだ。
>占領を目的としていないので兵力は5000人
値切ってはいけない。6000人だ。
>13世紀の4万人は20世紀の数十万人に値する
どこからそんな計算が出てくるのかな?
ディエップは6000人の他に重戦車60両がいた。さらに空軍の掩護と
海軍の艦砲射撃があった。打撃力から言ったら文永の役と比較にならない。
237 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 09:05:18
238 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 10:52:28
>>236 わからんやっちゃな
人口だけでも日本は13世紀に1200万 20世紀7000万と6倍弱
13世紀の4万での上陸作戦は、20世紀では20万以上での上陸作戦に相当する
6000人なんていう小部隊での奇襲上陸とは物が違う。
239 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 11:19:52
>>238 ほー、人口割合で行くのか。これはまたびっくり。
そんな比較の仕方は例があるのかな?
まあそれは置いといて、4万人は漕ぎ手や軍夫を含んでいる。
実働は2万かそこらだ。だいぶ6000に近づくな。
威力偵察厨の理解不能な行動 何を思ったか、日露戦争における威力偵察の例を挙げる。 ↓ 論破されると、「今と昔では威力偵察の意味が違う」と言い逃れ。 ↓ 先の自分の発言を忘れたのか、第二次世界大戦の威力偵察の例を持ち出す。 ↓ 結局フビライが指示したという証拠はナシ
241 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 15:33:31
威力偵察の意味が違うなどと言った覚えはないがね。 違うも何も、昔は「威力偵察」という言葉も概念もないのだから。 むかしの作戦を「威力偵察」というのは、結局の所、近代戦にあてはめれば 「さしづめ」威力偵察だ、と言っているのだ。 これは誰が唱えようと変わらない。 ところがむかしのことに近代戦の概念、尺度をあてはめて、やれ兵力が どうの、間隔がどうのだから威力偵察ではない、と言って否定する人がいる。 そういう人に対しては近代戦の尺度にあてはめてもなお、威力偵察説が なりたつ、ということを示すために、近代戦の話しをしているのだ。 では上に言った、「さしづめ威力偵察」にあたるむかしの作戦はどんな ものを言うのか、と言えば、「より大規模かつ決定的な攻撃の前に、 敵の情報を収集するために、比較的小規模の軍隊で行われる、比較的短期 の攻撃」と言えばよかろう。 比較的だから絶対的な数字はない。大規模な攻撃との比較だ。 大陸では数万人規模で、2,3年かけた作戦もある。なにしろ出かけていく だけで1年かかるのだからね。 証拠については、いつも言うことだが、否定説の証拠として、大宰府を 占領して確保せよというフビライの指示書があるわけでもないのだからお互い様。 それを言ってもしかたがない。
242 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 16:41:18
>>241 情報収集が目的だったのは何の資料にある?
例え話のディエップとやらが威力偵察だからフビライも威力偵察を指示したんだってのは馬鹿すぎる 例え話と共通点があるからなんなんだ? 例え話は例え話だろ
244 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 17:29:14
>>242 それも「フビライの命令書は?」というのと同じ。
威力偵察説にとっても、否定説にとっても、「征日本」以外の証拠はないのだから
あとは状況しかない。
偵察厨っていつ寝てるの?
246 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 17:35:55
ディエップは否定説の根拠に対する反証だ。 兵力が大きすぎる 全軍が威力偵察というのはない。 本隊が近くにいない。 本攻撃との間隔が空きすぎる。 これらはみなディエップで吹っ飛ぶ。
247 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 17:37:31
そのディエップの戦いとやらが威力偵察じゃないって証明になるだけで ディエップの戦いとやらと元とフビライに関係性がないなら、なんの証明にもならんだろが こいつは一体何を言ってるんだ? まるっきり意味不明なんだが・・・
高麗史金方慶伝に撤退理由書いてるじゃないか。 金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は 却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。 我が軍は自ずから戦うことになるがこれは秦穆公の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に 沿うものである。再度戦わせて頂きたい」 忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦って も、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに敵軍が増 えている状況で相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」 征東左副都元帥劉複亨が本州上陸開始して、わずかな期間で重症を追うような状況で 高麗史のような議論が交わされていたとしても全く不思議じゃない。 元自体の史料にも明らかに文永の役が元軍の思惑通りいかなかったことを 裏付けるように「官軍整わず」と書いている。威力偵察なら「官軍整わず」 や「矢尽き」など書かず、威力偵察だったと書いたほうが元軍の体面も多少汚さず 済むし書かないわけが無い。 『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、 また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』 (『元史日本伝』)
>>248 訂正
〇ディエップの戦いが威力偵察だって証明になるだけで
元軍が攻撃続行するか撤退するか現場で軍議を開いて悩んでる時点で
当初の計画じゃそこが撤退予定地点子女なかった事は確かですよね
251 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 21:08:51
>>250 文永の役の蒙古軍の作戦計画はわからないが、仮に博多からの撤退が当初の作戦計画でなかった
としても、それは指揮官の裁量範囲だ。それが威力偵察作戦の特徴でもある。
カルカ川を考えても、ロシア騎士団と戦うのは蒙古軍の当初の計画では無かった。行きがかり上
戦って、これを撃滅したが、深追いすること無く軍を返した。
すべて現地の指揮官の裁量なのだ。
252 :
日本@名無史さん :2010/12/02(木) 21:20:36
>>248 しょうがないね。説明して上げよう。
ディエップ上陸作戦が威力偵察であることは、資料があるから規定の事実だ。
で、否定派くんたちは、ディエップを知らない状態で、文永の役が威力偵察でない理由を
並べる。いわく、
兵力が大きすぎる(2万強)。
全軍が威力偵察ということはあり得ない。
威力偵察なら近くに本隊がいるはず。
威力偵察と本攻撃の間隔が空きすぎる(状況が変化してしまう)。
そこでディエップと比べて見ると:
兵力は6000人+重戦車60両
全軍が威力偵察軍
本隊は海峡の彼方で、出動態勢にもない。
ノルマンジー上陸との間隔は約2年(状況は十分変化する)
ということで、上記の否定理由はすべて吹っ飛ぶわけだ。
>>251-252 ディエップの戦いが威力偵察だなんてどうでもいいだろ
しかも自分で
>>244 に「征日本」以上でもなきゃ「征日本」以下でもないって書いてんだろ
自分で書いた
>>244 の「征日本」とディエップの戦いが威力偵察だって何の関係があるんだ
元は「征日本」の目的で日本に攻めて来て、
>>249 の理由で撤退してったんだろが
「征日本」をどう読めばいりょくていさつってふりがなになるんだよ
てめーで「征日本」って以上はわかんねぇって書いてんじゃねーか
しかも
>>251 でも自分で文永の役の作戦計画はわかんねぇって書いてんじゃねーか
中世の軍隊と近代の軍隊を同列に語れるものなの?
カルカ川なんて他の地方がどうだろうと
>>249 の理由で撤退したって元と高麗が書いてんじゃーか
カルカと文永の役が関係あるって元と高麗が書いてんのかよ
元は征日本の目的で日本に押し寄せて
>>249 の理由で撤退した
文永の役の征日本は頓挫した、事実はこれだけじゃねーか
>>245 夕方、深夜、早朝にここで暴れてるなら
午前中から昼過ぎに寝てるんだろ
258 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 09:25:10
>>255 近代戦を持ち込んだのは否定派くんたちだ。私は同じ土俵に乗っているだけ。
>>256 「征日本」は「日本を征服せよ」ではない。「日本へ遠征せよ」だ。
漢和辞典で「征」を引いてごらん。
それから文献に書いてあることは絶対ではない。もし絶対なら、南宋の城攻めを
命じられた蒙古軍が1週間で撤退した理由の「雨が多いから」も信じなければならない。
>>258 何を言ってんだか。文献と司令官の負傷という元軍の苦戦状況が一致してる
んだから、疑うほうがどうかしてる。少なくとも「ディエップ」がどうの言ってる
だけの威力偵察説派より日本に侵攻した本人達が記した文献の方がはるかに信頼性が
高いのは馬鹿でもわかること。
260 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 11:37:38
>>259 南宋での「雨が多いから撤退」を信じるのは馬鹿だけだな。
高麗史を書いたのは高麗人だ。
蒙古人と裏切り高麗人が結託する軍の中で浮いた存在の高麗人将軍が
「船を焼いて戦う」などと自己宣伝しているような文献に書いてある
撤退理由をそのまま信じるのも馬鹿。
261 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 11:46:56
あ、撤退理由なら元史にもあったね。 「官軍不整」と「矢尽」。 「官軍不整」が将軍間の軋轢を言うのなら、もともとあったことで 撤退の理由にはならない。 軍の統制がとれなくなったという意味なら、統制のとれない軍が 一兵残さず見事な撤退ができるわけがない。 また「矢尽」が真実なら、それこそ短期作戦を証明している。
>>258 自分で書いた
>>244 を説明してどうするんだよ
「日本に遠征せよ」以上の事はわかりませんって自分で言ってんじゃねーか
文献が信用出来なきゃ征日本の記述も信用出来なくなるだろう
征日本は自分で文献から引用して書いたんだろう
文献が絶対じゃないなら自分自身で引用した文献も絶対じゃなくなるだろが
>>260 状況と文献との整合性がとれてるのに文献を疑う必要性はないわな。
元軍は日本の拠点になんら打撃すら与えていない上に、博多の町に被害すら
与えていない。その上に司令官が重症を負っている始末。座礁船すら見捨てている
という状況と元側と高麗側の史料はその事実に矛盾していない。よって疑う必要は無い。
>南宋での「雨が多いから撤退」を信じるのは馬鹿だけだな。
それとその史料を疑うのであれば、元側の「官軍整わず」とか「矢尽き」などは日本軍に敗退
した言い訳ともとれることになるぞ。わかるよね?
>>261 >「官軍不整」が将軍間の軋轢を言うのなら、もともとあったことで
撤退の理由にはならない。
本州上陸した途端、「官軍不整」という状況になること自体異常なんだよ。
将同士の軋轢だけなら、対馬を落とした時点で退却することだって可能だった。
しかし、本州で司令官が負傷するなど元軍が苦戦する状況で「官軍不整」という
状況になって撤退したのなら、明らかに作戦の失敗を窺うに十分だな。
>軍の統制がとれなくなったという意味なら、統制のとれない軍が
一兵残さず見事な撤退ができるわけがない。
座礁船を見捨ててる軍を統制がとれてるとか、それはねえわ。
慶長の役の日本軍のように座礁船を救助した軍が、統制のとれてる軍隊というんだよ。
ちなみに今の
>>258 を文永の役に例えると、どんな状況なんだろか?
266 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 13:03:09
とうの昔に撃沈した いりょくていさつ厨がまた出たのか、 チョンか痴呆サヨか。 現政権だけで食傷してるのにうざい。 これ以上アホさらすな。
267 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 13:16:48
>>263 >>264 それら全ては「威力偵察」と矛盾しない。
将軍間の軋轢、兵の疲労、矢の不足、敵の強さ、これらを勘案して
どこで兵を納めるかは、威力偵察軍の現地司令官の裁量範囲なのだ。
そこが、敵地の占領を果たすまでは帰れない、征服作戦との違いだ。
ついに高麗史まで否定しだしたw ひたすら負けた言い訳にやっきな偵察厨 どれほど言い訳しても「文永の役は蒙古高麗軍の負け」 この部分を変えることはできず ひたすら妄想を垂れ流すのみ 大宰府どころか水城を視認することもなく ただ白石勢他に射散らされて夜逃げしたけど「負けてない」んだそうですw
269 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 15:06:08
>>268 そんなに高麗史を信用していながら、「倭兵大敗、伏屍麻の如し」は
信用しないわけか。
270 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 18:11:44
271 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 18:15:59
「倭兵大敗、伏屍麻の如し」 のあと 白石勢に蹴散らされ 結果夜逃げした元高麗軍
またも負けたか偵察厨 それじゃ就職できん隊 またも負けたか偵察厨 それじゃ就職できん隊
273 :
日本@名無史さん :2010/12/03(金) 19:59:20
>>271 あほか。「倭兵大敗、伏屍麻のごとし」は撤退会議の直前、夕方の描写だ。
そのころ白石はとぼとぼと水城へ、長い道のりを辿っていた。
>>273 21:08:51
21:20:36
09:25:10
11:46:56
13:16:48
15:06:08
19:59:20
またハロワへの威力偵察失敗か
せっかく早起きできたのにハロワいかないで何やってんの?w
275 :
日本@名無史さん :2010/12/04(土) 09:25:52
私はどういうわけか金があるし、自宅も一軒家が二つあるのを渡り歩いて 両方の家から書き込んでいる人間だからハロワなんて知らないのだ。
276 :
日本@名無史さん :2010/12/04(土) 09:26:58
あ、家は2軒あるけどローンはゼロだからね。
277 :
日本@名無史さん :2010/12/04(土) 13:26:21
威力偵察への反撃が途絶えたな。 それでは悠々と撤退することにしよう。
現実逃避妄想ニートだったか くれぐれも事件起こしたりするなよ
279 :
日本@名無史さん :2010/12/04(土) 17:33:30
280 :
日本@名無史さん :2010/12/04(土) 18:08:28
それはハワイ海戦、マレー沖海戦、せいぜフィリピン攻略戦までで日本軍が勝ったから 太平洋戦争は日本の圧勝、と言ってるのと同じ。
281 :
日本@名無史さん :2010/12/04(土) 18:35:10
最終的に夜逃げしたけど対馬や壱岐でホルホルしたし松浦党やっつけた回想で夕方も盛り上がったから元軍の圧勝(棒読)
>>275 どうせなら親が石油王とか
もっと笑える嘘つけよ
283 :
日本@名無史さん :2010/12/04(土) 21:53:15
>>282 そうだな。現実はちゃちなもんだ。
その他に別荘が1軒と貸家が1軒ある。
貸家は北海道だから安くて月6万だけどね。
別荘は税金の他に管理費が年16万もかかってぜんぜん引き合わない。
びっくりするほど虚言癖
もうこれだけ話題が元寇から離れたんだから 北海道から威力偵察に来ました専用スレに変えたらどうか? これならディエップでもノルマンディーでもオッケーだし
隔離所として 虚言癖がハローワークへの威力偵察に成功するまで見守るスレ でも立ててやったほうがいいかもな そこで好きなだけうわごと言っててもらえばいい
樺太アイヌを制圧した元軍が蝦夷アイヌと十三湊の安東水軍をも駆逐して 陸奥街道を数十万騎で南進して関東に攻め込むストーリーを夢想してしまう今日この頃。 実際のところ、寒さに滅法強い蒙古兵なら北から攻めるのが得策だったんだよ。 下手に高麗や南宋の兵力に頼ったばっかりに、九州の武士に撃退されたワケだよ。 ヨーロッパだって南欧じゃなくてキエフとかウクライナとか北方から攻めてポーランドに入ってるし。 逆にインド、エジプト、ベトナム、マジャパヒトではボロ負けしてる。
288 :
日本@名無史さん :2010/12/05(日) 09:07:48
>>287 単にアイヌを駆逐するのでなく、味方につけただろうね。
味方につくのは、じぶんが新しい支配層に連なりたいからでもあるし、単に占領地で
略奪という快楽を味わいたいからでもある。倭人の女を陵辱したりね。
史実より700年早く北海道にジンギスカンがもたらされるのか……胸が熱くなるな
------------------------------------------------------- スレに「ディエップ」と書き込むだけの簡単なお仕事です -------------------------------------------------------
元によるディエップの威力偵察後に築いた日本側防塁に落とし格子がないのは技術的な問題だろうか? ぜひ旅順要塞で例えて欲しいものだ 乃木第三軍は威力偵察だよな?
292 :
日本@名無史さん :2010/12/05(日) 21:25:12
釣れますか?
>>288 そうだね、蒙古の見方に付けて関東侵攻の先兵としてアイヌ部隊を結成した方が面白そうだ。
アイヌにとっては積年の大怨念を晴らす又とないチャンス。
弥生人(現日本人)に駆逐され豊かな豊穣の大地から極寒の地に追い立てられた祖先(縄文人)の恨みに報いる時。
日本の支配層はアイヌ人を頂点にして根本から変わり、倭人は全てアイヌ人の下僕となる。
服飾もアイヌ人風にしなければ成らない「生髭刺青」の風習を日本人に強要する。
仏教や神道は徹底的に破壊され、自然崇拝に戻る。
294 :
日本@名無史さん :2010/12/06(月) 01:21:59
虚言癖まであるとは… いかにこいつの発言に信憑性が無いかを露呈した結果になったなw >275 :日本@名無史さん:2010/12/04(土) 09:25:52 >私はどういうわけか金があるし、自宅も一軒家が二つあるのを渡り歩いて >両方の家から書き込んでいる人間だからハロワなんて知らないのだ。 >276 :日本@名無史さん:2010/12/04(土) 09:26:58 >あ、家は2軒あるけどローンはゼロだからね。 >277 :日本@名無史さん:2010/12/04(土) 13:26:21 >威力偵察への反撃が途絶えたな。 >それでは悠々と撤退することにしよう。 元寇そっちのけで三連投必死すぎ どんだけ図星だったんだ
295 :
日本@名無史さん :2010/12/06(月) 09:59:15
>>294 別荘と北海道の貸家を抜かしてもらっては困る。
なお、二つの家には両方ともパソコンを置いている。一つはウィンドウスで、
一つはアイマックだ。今書いているのはアイマックの方。
296 :
日本@名無史さん :2010/12/06(月) 11:06:50
「醜い韓国人」朴泰赫 韓国の歴史とはただ強い者に媚びへつらい、弱いものを 圧殺するというそれだけの歴史である。 大陸の宗主国の力が弱まれば新興の宗主国にくっついて旧宗主国をたたく。 これが韓国の「真実の歴史」である。 元寇のときは元にくっついて壱岐、対馬の善男善女を虐殺しぬき、 日本が宗主国となると旧宗主国である満州人をいじめ抜き、 日本が敗戦すると日本を見下し、恐喝、強盗まがいのことを平然として、 アメリカにくっついて武器も持たぬベトナムの女子供をなぶり殺しにする。 これが韓国の歴史である。 こんな歴史しかないくせに「五千年の偉大なる歴史」とは笑止千万! 卑怯者とは韓国人のためにある言葉だ
297 :
日本@名無史さん :2010/12/06(月) 23:58:52
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。 文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』 『このため、元はまた大挙して攻めてきて、その軍は壱岐、対馬をへて博多と肥前の沿岸にも迫りましたが、南海、西国の将兵がよく防ぎました。 また、偶然にも大暴風雨がおそい、敵の船は破壊され、多くの兵が溺死し、残った軍はあわてふためいて逃げかえりました。 弘安四年のことでありましたので、これを弘安の役といいます。』
298 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 01:26:33
フビライ「そんな装備で大丈夫か?」 「大丈夫だ、問題ない」 一番いいのを頼んでおけばなあ
299 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 01:28:37
300 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 01:34:21
>>298 時宗「対馬民ノカタキヲトルノデス!」
◇ ミ ◇ ◇◇ / ̄| ◇◇ ◇◇ \ |__| ◇◇ 彡 O(,,゚Д゚) / ( P `O /彡#_|ミ\ </」_|凵_ゝ 【ラッキーAA】 このAAを見た人はコピペでもいいので 10分以内に3つのスレへ貼り付けてください そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
302 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 08:38:58
偵察虚言癖のセリフが全部地獄のミサワの絵で再生される
303 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 09:37:00
考えて見ると北海道アイヌばかりではないね。 東北は古代の蝦夷(アイヌではなく北方騎馬民族)、平将門、そして 奥州藤原氏と、連綿と続く反中央の土地だ。 彼らが本州征服の過程で元軍の味方に付く。 大軍になるぞ。
304 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 10:20:08
偵察虚言癖のたられば妄想をお楽しみください
蝦夷(エミシ)は北方騎馬民族とちゃう。大和民族とアイヌの御先祖とその両者のハイブリッドを強引に一纏めにした政治的な概念がエミシ。
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。 しかし、それに対する日本からの返答は、 「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。 我が国には、水沢の地や山海の洲にも備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません」 という挑発的なものであった。 当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、 自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。 明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三 「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
そうか平将門がいた茨城や栃木は南東北になるのか 今まで関東だと思ってました
いまさらだが遊就館特別展に行ってきた。 「蒙古襲来油絵」が写実的で迫力あってよかった。 第13図のキャプションが神風を描いた情景ながら、神風のみによって勝利したわけではなく 鎌倉武士の奮戦があったからこそ元高麗軍に勝てたというような文章だったわけだが(別に靖国史観ってわけではなくて)、 どうして「神風(のみ)のおかげで」勝てたって話になってしまったんだろうかね。
309 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 21:49:46
>>305 いや、そういう説がある。裏日本に馬飼育の渡来人が入ったことは遺跡から確実だが、
彼らまたは近縁の連中が直接、東北に分布したという説。
でないと蝦夷のほうが騎馬戦で強かったり、馬を大和に売ってたりすることが説明できない。
310 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 22:10:17
蝦夷や隼人はどんな言葉を話してたのかな?たいていは民族=言語だよね全部ではないけど
311 :
日本@名無史さん :2010/12/07(火) 23:23:15
>>309 他の説も教えて下さい
「騎馬戦の強さ」や「馬を販売する能力」は
蝦夷の遺伝的な特性なの?
「飼育技術の伝播」があったりしたら駄目?
312 :
日本@名無史さん :2010/12/08(水) 01:58:10
日本の場合単語が違うだけで 北から南まで全部おんなじ言語になっちゃってるからなぁ
蝦夷(エミシ)と会話するのに「蝦夷訳語」と呼ばれる通訳を介す必要があった様なので(蝦夷の人名や陸奥・出羽の地名にアイヌ語が見られるらしいので)アイヌ語系の言葉を話す人々もいたと思う。
314 :
日本@名無史さん :2010/12/08(水) 15:25:26
>>313 うん、だから「北方騎馬民族」がアイヌを北海道へ追いやったと
考えるわけだ。一部はまだ残っていたとは思うよ。
315 :
日本@名無史さん :2010/12/08(水) 16:00:58
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、 そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、 射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、 なしにけるとそ
橋頭保も確保できず 水城にすら到達できず沿岸部をうろうろしているうちに 先駆けレベルの武士団だけで返り討ち 夜陰に紛れて逃亡した元高麗軍
元寇は鎌倉武士の実力勝ち 文永の役…対馬壱岐などの防備の薄い小島でホルホルしている間に大宰府戦闘体制 九州上陸後あっというまに武士の集団騎射に射散らされて退却 夜陰に乗じて敗走 弘安の役…防塁上でびっしりと守備を固める武士が邪魔で上陸できず ろくに部隊を展開できない陸継島からむりやり上陸しようとするも 海からは小舟で乗り込んでくる武士、陸からは狭い海の中道から武士が押し寄せ 全く歯が立たず撤退 その後博多湾上を逃げ回る 攻め始めたのが六月なのに気づけば夏真っ盛り、台風シーズン 武士の包囲網をぬけ多くの兵士を見捨てて元軍逃走 台風後、船を失い平戸や鷹島に見捨てられた蒙漢軍兵10万余りは武士に徹底的に掃討され壊滅
318 :
日本@名無史さん :2010/12/15(水) 05:22:31
元高麗ちゃんと日本武士ちゃんが喧嘩しました。 元高麗ちゃんはボコボコにされて逃げだしました。 ちょうど夕方になってお腹がすいてきたので、 日本武士ちゃんは水城のばあちゃんちにご飯食べに帰りました。 元高麗ちゃんは必死に逃げました。 逃げて逃げてお布団の中で震えながら考えます。 「うー悔しいニダ!明日は船を焼いて背水の陣で戦うニダ!」 しかしふと冷静になって考えます 「いやまてよ。明日お腹いっぱいになった日本武士はもっと大きくなって襲ってくる。やっぱ勝てね。」 そこで元高麗ちゃんは夜逃げします。 一方その頃日本ちゃんは水城おばあちゃんちで温かい布団にくるまり、 「明日はどうやって元高麗ちゃんと『遊ぼうか』」と考えながらすやすやおねむの時間だったとさ。
海上でひと月うろちょろしてた元軍ですが、 その間の兵糧はどうしてたのでしょうかね? 勿論積んで来てたんでしょうけど、何ヶ月分くらい用意してたのかご存知のかた教えて下さい
321 :
日本@名無史さん :2010/12/16(木) 16:13:34
文永の役 「そんな装備で大丈夫か?」 「大丈夫だ、問題ない」 「神は言っている、ここで死ぬ運命ではないと。」 弘安の役 「そんな装備で大丈夫か?」 「一番いいのを頼む」 「ツシマジンノカタキヲトルノデス!」 「アッー、今回もやっぱりダメだったよ。」
322 :
日本@名無史さん :2010/12/17(金) 16:00:30
>>319 江南軍が来ないので、撤退すべきかどうか軍議をやっている。
そのとき、「なお*月の糧あり」とか言っている。
計算すればはじめが何ヶ月分だったか、出て来るはず。
高麗史を見てみれば?
323 :
日本@名無史さん :2010/12/17(金) 23:49:45
逆に言えばそれだけ食糧たんまり持ってきたって事は 本格的に侵攻するつもりだったって事だよなあ。 棄民説はやっぱ嘘だったんだな。
324 :
日本@名無史さん :2010/12/18(土) 03:56:15
元史 巻十一 世祖本紀八 至元十七年 七月戊辰、詔括前願従軍者及張世傑軍、使征日本。 八月戊寅、以前所括願従軍者爲軍、付茶忽領之、征日本。 うん嘘だねこりゃ
325 :
日本@名無史さん :2010/12/18(土) 20:27:44
一回目の時はどんだけ食糧持ってきてたんだろ?
威力偵察厨の理解不能な行動 何を思ったか、日露戦争における威力偵察の例を挙げる。 ↓ 論破されると、「今と昔では威力偵察の意味が違う」と言い逃れ。 ↓ 先の自分の発言を忘れたのか、第二次世界大戦の威力偵察の例を持ち出す。 ↓ 結局フビライが指示したという証拠はナシ
今日、鎌倉幕府と呼ばれる政権は実は元寇に敗れていて国ごと乗っ取られた。 しかし蒙古軍の将軍は、海戦力をほぼすべて手にしていたのをいいことに そのまま日本列島で独立したのであった。 「ほぼ全滅しました」と本国に敗残兵を装った使いを送って。 蒙古は海軍をほとんど持って行かれたので追撃もできず諦めた。 新日本側も、独立を蒙古に気付かれないために鎌倉幕府までの歴史を受け継いでいる。 これが歴史に矛盾が生じない理由である。現代の日本人は彼らの子孫であり、 日本列島の原住民、大和民族はほぼこの時に駆逐されていたのである。 とかいうトンデモ理論を大学で真面目に語るアフォウがいた 仮想戦記でも書けばいいのにと思った っていうかこれ挑戦的というか朝鮮的だよね思想が
騎馬民族説にインスパイアされちゃったとか? まあ民間の古文書に一切記述が無いし文化の断絶も起きてないから駄目だよね。
>>328 まぁ、議論の余地もなくめちゃくちゃだw
何故かそういう突飛なものの方が覚えてるんだよなぁ
>>327 カルト好き団塊や女性誌の影響多大な誇大妄想狂だな・・精神病患者の部類
江南軍が戦線に到着したと同時に神風。江南軍がもっと早く到着していたら 日本は征服されていたな。
江南軍が日本に向けて出発したのは6月18日で台風が7月30日〜閏7月1日だよな。 江南軍は出発して1ヶ月以上何してたんだ?
>>327 連中は島国の統治方法なんか知らないだろ・・
チーターをジャングルに放り込んだって生きていけないよ
江南軍がもっと早く到着してたら 上陸を試みる際に防塁で矢の雨の洗礼を浴び 派手に武士にやられて「台風のおかげで…」という言い訳も使えず 完膚なきまでにやられてたろうな
337 :
日本@名無史さん :2010/12/31(金) 14:07:01
338 :
日本@名無史さん :2011/01/03(月) 17:58:34
前々から疑問だったのですが、この時代もう大宰府はなかったと思うんです。ならば、モンゴル軍が大宰府を目標にしていたというのは、違うんじゃないかと思うんですが。
>>339 鎮西奉行
1185年(文治元年)、源頼朝が天野遠景をこの職に任じて、九州の御家人の指揮統制にあたらせたのが始まりである。
平家の残党及び源義経一党らの追捕がもともとの任務であったが、その後全九州の御家人の統轄にあたるようになり、大宰府の機能も継承した。
341 :
日本@名無史さん :2011/01/15(土) 17:09:02
蒙古厨はもう負けたって認めろよw
342 :
日本@名無史さん :2011/01/21(金) 05:36:35
とっくに逃げ出してるよ いわせんな恥ずかしい
343 :
日本@名無史さん :2011/01/27(木) 18:35:22
まとめると 元高麗軍は 橋頭保も維持できず 大宰府どころかその手前の水城にすら まったく届かずに武士によって追い払われてしまった
>>343 現在の大宰府跡の場所にこの当時もあったのでしょうか。
> 1158年(保元3年)に平清盛が大宰大弐になると、平氏政権の基盤である日宋貿易の意図もあり、やがて北九州での政治的中心地は、
大宰府から20キロメートル北の博多(福岡市)へ移る。とあるし、発掘調査でも12世紀までのようだし、この時代には既に水城の向こうには何もなかったのでは?
345 :
日本@名無史さん :2011/01/27(木) 21:22:58
鎌倉武士が元に苦戦し運よく神風で救われたとか、博多が炎上した、 それから鎌倉武士が単騎でどうたらみたいなことは確かに俺も授業や歴史本で習った。 これは戦後の左翼的な連中が印象操作をしたという意見がネットでは多くみられる。 しかし戦前の教育を受けていたうちの父親も元寇の内容に関してはこれと大差ないんだよな。 もしかしたら戦前の戦意高揚で意図的に日本のピンチを神風が救ったということに するためなのかな?と思ったもんだ。 しかし日本近代文学の学者をやってる友人に聞いたら、実は江戸時代に こういう面白おかしい読み物として誰かが脚色してしまったためらしい。
あ、江戸時代のものってのは、きちんとした歴史書レベルじゃなく、 今で言う東スポとか3流芸能雑誌レベルの話ね。
1186 源頼朝、鎮西奉行として天野遠景(とおかげ)を大宰府にやる
1226 武藤資頼、大宰小弐となる
1274 文永の役(元冦)
1281 弘安の役(元冦)
1336 有智山城の戦い、小弐貞経戦死。足利尊氏、菊地・阿蘇軍を多々良浜にやぶり大宰府(原八房)に入る
1361 懐良(かねなが)親王、大宰府に入り征西府(せいざいふ)をおく
1467 応仁の乱、大内、大友連合軍小弐教頼(のりより)を水城で破る
1480 連歌師宗祇(そうぎ)大宰府へくる(『筑紫道記』)
1497 小弐政資(まさすげ)、大内氏に大宰府を追われる
http://yukos.co-site.jp/dazaifu/timetbl.htm
ここ一週間、2ちゃんでの元寇に関するスレを板を問わず、過去に遡及して 読んだがおもしれーなw 一番笑ったのが、最初の元寇で元の連中が船に戻ってその夜のうちに 帰国した事実があるのに元が優勢だったとか主張してる奴や学者w おそらく日本海側に一度も住んだことない、また一切日本海側の気候に関心を持ったことの ない連中だろうなw 日本海側は初秋からでも現在の装備でさえ細心の注意を払って漁に出る。 1200年代の木製の船でこの時期に夜中に船を出す?w 天気予報もレーダーもないのに?w 自殺行為だぞww 間違いなく元の連中は、この海域にこのまま留まるよかまだマシという思いで逃げ帰ったんだよ。
韓国の漁船が自国領内で蟹を捕りつくしたので近年では この時期の夜間に日本海にて密漁しておりますが何か?
353 :
日本@名無史さん :2011/01/29(土) 22:57:08
>>346 そりゃまあ物語としては、あっさり撃退しましたおわり。
よりも、絶対絶命のピンチで神懸かり的な何かに救われた。
の方が面白いもんな。
ただ、日本人が国として外国との戦争で
本当に絶対絶命の所まで陥ったのってWW2を
除けば精々白村江ぐらいだしな。
モンゴル軍が目標とするような大宰府という施設がこの時代にもあったようには思えないのですが。 有智山城にしても、足利尊氏が入ったり、征西府が置かれた原八坊にしても太宰府天満宮に近く大宰府跡の場所からは離れている様ですし。 少弐氏が有智山城を築いた頃には大宰府は廃墟になっていたのでは。
平安京の平安宮が無くなっても 京都が廃墟になったわけじゃないんだよ 大宰府政庁が無くなったからといって 都市としての大宰府が廃墟になるわけじゃない
356 :
日本@名無史さん :2011/01/31(月) 10:38:16
>>354 太宰府が廃墟になっていたという一次資料出してくれ
思えないのは個人の勝手だが、他人を説得するには、しっかりとした資料が必要
>>353 今回のアジアカップでつくづく日本人って「自国の劣勢の様子」を見るのが好きだと思ったわ。
WCBだってなんだかんだいって優勝したが、アメリカと韓国、キューバは常に
強敵だから「苦しい展開」はあった。
おそらく一番好きな展開は「苦しみながらなんとか勝つ」で、
次が「シーソーゲームで勝つ」というもの。
「戦力差から圧倒的な敵に負ける」様子も一矢報いようとする様子があれば
そこに美学を見出し健闘をたたえる。
で、一番好まないのが「圧倒的に敵を蹂躙して勝つ」ことだろうな。
外国の映画の内容も 苦しみながら最後に勝利する展開が多い 最初から最後まで敵を圧倒してるようじゃ面白くないのは万国共通
>>358 >最初から最後まで敵を圧倒してるようじゃ面白くないのは万国共通
まぁ映画はそうだろうな。
しかし偏狭バルサヲタは最初から最後まで圧倒するサッカーを好むぞ。
そして偏狭バルサヲタは世界中にいる。
360 :
日本@名無史さん :2011/01/31(月) 19:45:34
判官贔屓
361 :
日本@名無史さん :2011/02/03(木) 01:19:12
Wikipediaで「壱岐の戦いでは日本側の奮戦で、高麗兵3500人以上が討ち取られている」 と言ってるバカをなんとかしてくれ。
地理に疎くて悪いが、石垣作ったってそこ以外から上陸されたらしゃぁないと 思うのだが、よほどの断崖絶壁で上陸しにくいとこばっかりで 浜辺みたいなとこをとりあえず守った、ってことでいいのか? 1回目はともかく2回目の守りなんか、いつどこに、来るかもわからないから どうしてたんだろって思ってた。
364 :
日本@名無史さん :2011/02/04(金) 01:54:06
>>361 多分、応永の外冦と勘違いしてるんだと思う
365 :
日本@名無史さん :2011/02/04(金) 01:59:06
>>358 ただ、最近のゆとりは圧倒的に強い主人公が
「バカが」とか言いながら、ほぼ一方的に敵さん相手に
無双乱舞やる話の方がお好みのようだ。
最近売れてるバトルモノや戦記モノみてるとそんな傾向がある
なるほど少年ジャンプ的、努力ー友情ー勝利、路線ですら 過去の価値観になるわけか。 リンかけみたいに、全部省略ー勝利、ってのもあったが あれはあれで面白かったな。 ところで1回目元寇は、日本が勝利か、向こうは偵察ーイヤガラセだった説とか どういう感じなの?
>>363 防塁上での武士の様子が知りたいなら蒙古襲来絵詞
防塁が海岸線にどう築かれていたか
はそれこそ地理に明るくなりなさいとしか言えない
地図見て確認すればすぐわかるんだしそれぐらいは自分でやらないと
>>368 そのぐらいはわかるが、野蛮人が石つみあげてら、ぐらいにしか
思えないから367みたいな解釈がどこまで有効か
このポイントに詳しい人に聞いてみたくてね。
>ところで1回目元寇は、日本が勝利か、向こうは偵察ーイヤガラセだった説とか >どういう感じなの? 上の方でレスがあったからみの話だが、俺は新潟。 新潟県民の感覚からすると確かに11月の夜に日本海側を帰還するどころか攻めてくること じたが無謀そのもの。(金沢にも住んだことがあるが、石川もこれは同じ。) 冬は常に雲が低く波は大荒れ。東映の例の動画みたいな感じ。 しかしこの時期の玄界灘はどうなの? もしかして福岡なら温暖で全然問題ないのかな?
>>373 ありがと。
しかし結構荒れてはいるんだね。
なんで台風前とか夏に攻めてこなかったんだろうね。
水先案内人の高麗人がいい加減だったとかw
行きたくないから海のせいにしてたんだけど 明側にいいわけがバレて無理やり最初は使者に行かされたんじゃ なかったっけ。高麗さん。
>>363 博多湾以外に上陸してもしゃあないからだと思う。
九州の政治的中心である大宰府を攻撃するには博多湾に上陸するのが最短ルート。
博多湾以外に上陸した場合は山を越えなければならなず、攻撃側には著しく不利。
また、そもそも元軍は日本の地理に詳しくない。
>>369 死をも恐れず戦う勇猛な野蛮人が、石を積み上げて壁を築いて守りを固めていたので
文明人の方々は「ここを突破するのは不可能」と賢明な判断をしたんだと思うよ。
>>376 ふむ、そうか。
その前に使者が長居したのを偵察のためとは聞くけど
それなりにどこがベストか考えたわけか。
普通なら誰もいないとこからこっそり上陸しそうなもんだから
戦闘自体が不思議にも思えてね。
もちろん見張りとかはしてたんだろうけど。
1回目の時あまりに野蛮人がアホな戦いしてるから相当油断したのか
どうか知らないけど、2回目はなんか粘られて台風?とか逆にアホに
なってるように思える。
こっちが、強くて勝った、ようには見えないんだが、まあいいか。
378 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 10:18:18
>>363 発想がおかしい。そこ以外から上がられたらしゃあない、
ではなく、少なくともそこからは上がってこれない、が正解。
石垣で博多湾を塞げば、敵の上陸場所をそれだけ限定できる。
あと、敵は実際にそこ以外に上陸して戦闘が起こってる。
金印がみつかった志賀島ね。
この島は九州本土からは狭い一本道で繋がってるだけなんだが、
その一本道から強行突入してきた日本軍に元軍はボロ負けしてる。
本来なら絶好の待ち伏せポイントなんだけどね。余りにも弱すぎる。
所詮はまともな統一国家の存在しない暗黒時代の大陸で成功したってだけ。
装備も二流、戦術も二流、兵員も二流。
それがモンゴル軍。
こっそり上陸ってすげえなw元軍は潜水艦でも持っていたのか
モンゴルが2流なら日本は幕下てっとこか。
381 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 17:11:54
いや、日本は普通に大国だから。奥州攻めでは20万以上動員している。 国土も広いし人口も多いし、それが統一されてて安定してる。 当時の世界でも日本よりでかい国はほとんど無いんじゃない? モンゴルは覇権国家として成功したけど、 それは、弱小国家の寄せ集めである暗黒の中世に適合した形だった。 その実態は、田舎のお山の大将討伐に特化した軍隊。 打撃力を犠牲にし、機動力を重視した、大規模なパトロール隊に過ぎなかった。 高コストの重装弓騎兵を余裕を持って揃えられる先進国に惨敗するのは必然。
382 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 18:02:04
日本は普通に大国WW
383 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 18:25:37
そう。対するモンゴルは田舎のオマワリさん。 最弱民族チャンコロとか、 突撃一筋の脳筋欧州騎士に勝った程度ではねぇ・・・
384 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 18:31:40
日本:大鎧 モンゴル:ジャージ 日本:ポン刀 モンゴル:山刀に毛が生えたモン 日本:長弓を馬上で扱う! モンゴル:馬上で扱えるけどショボい短弓 日本:小部隊の指揮官も、土地持ちの武士が当てられ高い自律性と戦意を持つ モンゴル:まともな指揮官はてっぺんだけ。寄り集まらないと戦えない。 モンゴル、どこの後進国?
385 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 18:36:43
矢戦:騎兵なのは同じ。射程は日本が圧勝。 白兵戦:モンゴル完全死亡。 モンゴル、どうやって勝つ気だったの?
>>381 当時の日本は軍隊、兵器・装備が美的なまでに装飾化していることからわかるように
政府政治どころか文化そのものが「戦う」ことを前提にしていた。
むき出しの戦闘部族国家だから当然といえば当然。
なにせ幼少から鍛えてるような連中だからな。
世界有数の戦闘部族であり、まるで映画のプレデターのようだ。
そういう意味では他の国から見たらまるで蛮族だろうな。
しかし産業面ではともかく軍事面では立派な大国だった。
余談だが我が国の武道の源である柔(やわら)はもうこの時代から普通にできあがってる。
思い甲冑を着て相手を素手で組み伏せる技法だったがな。
387 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 18:48:44
大事な戦闘員に、フツーの木綿の服とショボい短弓しか 支給出来ない国に、 大鎧と長弓を揃えられる国の産業面を云々してほしくないなぁ・・・ せめて鎖帷子くらい着せてあげようよ。
388 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 21:13:58
鎌倉時代の日本が世界の大国だっだとは初耳!
389 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 21:55:12
鎌倉時代どころか、それ以前から現代まで大国だよ? 君は何だと思ってたの?
390 :
日本@名無史さん :2011/02/06(日) 22:15:06
当時の世界で、日本に面積、人口、経済力で互しうるのは 大元ウルスくらいのもんだよ。 奥州攻めで頼朝は20万動員してるけど、 当時の世界でこんだけ集められるのは他に元しかいない。 しかもその中身はただの軽装パトロール隊。 当時の欧州もイスラムも、分裂しすぎで頭数がハナクソすぎるからね。
なんの本か忘れたけど、当時鎌倉は人口20万以上いたっていうしね。 20万以上の都市なんて当時数える程度にしかないんじゃない?
>>388 元寇当時の他の国の状況、実情をよく見てみ。
ちょうど同じ時期の他国の状況を。
強制動員された江南の兵に戦意がなかったこと、強制し急造された船が 脆かったことが元軍退却の原因。鎌倉武士の勇猛などまったくのデマ、 作り話。東アジア人民の反モンゴル闘争が日本を救った、これが 現在の史学の到達点。ネットウヨ残念!
>強制動員された江南の兵に戦意がなかったこと 釣りなのはわかるんだが、こういう主張が多いから述べると・・・ 統制面で盤石でない可能性はあったろうが、それでも 戦意もモチベーションも無いなんてありえんて。 そんな状態で敵に臨んだらあっという間にころされる。 強制動員された兵隊が生き残る方法は目の前の敵を倒すことだから 士気が低かったなんてありえない。
395 :
日本@名無史さん :2011/02/08(火) 18:01:49
>>379 基本的に上陸作戦は、上陸側が有利だよ。
選択権は上陸側にあるから。
阻止側はヤマを張るしかない。
ノルマンディー上陸作戦でも、
激戦になったのはオマハビーチだけだからね。
他はあっさり上陸成功している。
ドイツ側はカレーとノルマンディーで迷い、兵力を充分配置できなかった。
弘安の役でも、志賀島自体への上陸は成功している。
元軍が余りにも弱すぎて(一本道から突入してくる敵にボロ負け)
速攻追い落とされたけど。
まあ、以上のような理由があるから、博多の防壁は有用。
敵の選択肢を減らし、他の上陸ポイントへの対応力を高められるからね。
396 :
日本@名無史さん :2011/02/13(日) 06:05:31
>>393 いつまでそんな言い訳にすがってるんだ?
元史 巻十一 世祖本紀八 至元十七年
七月戊辰、詔括前願従軍者及張世傑軍、使征日本。
八月戊寅、以前所括願従軍者爲軍、付茶忽領之、征日本。
よくさぁ日蓮が元寇を予言したっていわれているけど、あれってそれほど意味のあることなの? あ、イヤ日蓮宗や創価学会の人には悪いけどさ。 だって通商ルートでは元の噂がバンバン入ってきてたはずだよね?
もともと予言とか占いで出てくる情報なんて 戦争、天変地異、結婚、事故、死別など予測しうる事態ばっかりじゃん それも範囲が数年〜百年単位の「極超低ハードルで乱発」して やっといくつか当たったことにできる 日蓮の場合もありったけの災難の羅列のなかから一つ二つおきただけでしょ しかも浄土宗批判のために、どこかの経典を引用したレポートだったようだし 超能力で当てたかのような尾ひれが後々ついたんじゃね?
東スポの「本誌既報通り」と同じレベル
日蓮なんて論ずるにも値しないでしょ… 一時期、網野善彦が日蓮の弟子がサハリン情報を掴んでたんじゃないかとか 言ってたこともあったけど、結局それはなかったわけだし 財布は痛むけど、撃退できないレベルでは全然ないよ。鎌倉武士のレベルを考えたら
401 :
日本@名無史さん :2011/02/27(日) 01:29:52.54
>>393 >東アジア人民の反モンゴル闘争が日本を救った
それは四十年前の歴史書に書いてあることで、
今の歴史書にはさすがに書いてない。w
402 :
日本@名無史さん :2011/02/28(月) 22:13:09.84
それから、和弓の性能をやたら貶める記述もおおいが、同時代のアングロサクソン人の殆ど丸木弓の ロングボウだって300mを超える射程とチェーンメールを打ち抜く威力があったのに、木と竹の合成弓で ロングボウより更に長い和弓の性能だって近いところあっただろう。大体、劉復亭が射られて重症を 負ったのも、劉自身も自分達の漢族の短弓の射程を基準にアウトレンジに居たつもりだったが、 しっかり和弓の射程内だったということだろ。大体大陸の軍隊の指揮官は、兵士とは身分が違うから、 戦場では思い切り安全なところにいるわけだし。
玉川大学のHPは酷いな。
404 :
日本@名無史さん :2011/03/02(水) 21:58:27.90
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
< 第三十一代 三戦板自治新党党首 選考会のご案内 >
1.日時
2011年3月6日(土) 20時〜21時
2.場所
三戦板自治新党スレ(最新のスレ)
(その221)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1298771138/ (三戦板)
http://yuzuru.2ch.net/warhis/ 3.立候補要件(以下の全てを満たすこと)
(1)党首未経験のコテ。
(2)自治新党と学徒閣下に忠誠を誓うコテ。
(3)党首就任の暁には最低でも週一は新党スレに出席できるコテ。
(4)選考日の前日までに立候補を表明し学徒閣下の立候補者名簿に記載されること。
4.選考方法
(1)選考期間に自治新党スレ(最新スレ)で一回レスを行う。
(2)その際、カンマ以下(最後の2字)が大きい方が勝者となる。
(3)同点の場合はその前の字を見て、大きい方が勝者となる。
(4)最終的に閣下からの党首任命を受けて自治新党党首となる。
(5)次点のコテが副党首となる。
5.党首に関する規定
(1)党首の任期は3カ月。
(2)党首は2期(最長6カ月)まで再任可能。
(3)党首経験者は再度党首になることは出来ない。
(4)欠格要件に該当する場合、自動的に副党首が党首に昇格する。
6.その他の規定
いずれの規定も学徒出陣閣下の勅命に限り修正可能。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
元寇でググると玉川がウィキペの次に来たぁ
407 :
日本@名無史さん :2011/03/03(木) 15:24:33.78
日本人の戦い方も基本的には集団戦法だろう。 夜討ち、奇襲、だまし討ち、、、正々堂々と一騎打ちで 勝負するほうが少ないだろう。 逆にモンゴルだって戦場で好敵手を見つけた時は一騎打ちやってるし。
408 :
日本@名無史さん :2011/03/03(木) 19:13:13.27
>>404 こういうアホな大学見てるとつくづく旧帝出て良かったと思うわ
409 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 03:22:16.51
広大な大草原を騎馬軍団で疾駆して連戦連勝したモンゴルも 狭い国土に山や河や田んぼが入り組んでいる日本では勝手が違って苦戦したんだろう。 ベトナムやインドネシアの侵略も失敗してるし。 古今東西、戦争の勝敗は地形や気候が重要な要素になるから。
410 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 08:25:36.20
狭い国土に山や河や田んぼが入り組んでいる日本では買ってが違って苦戦って、 モンゴル軍は水際で阻止されたんだけど。
411 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 08:29:42.09
初回の襲来のときは内陸まで侵攻している
412 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 09:39:41.85
とりあえず海岸線から10kmもない水城、大宰府までは到達してから言え。 >内陸まで侵攻
狭い半島人の感覚では数kmでも内陸なんじゃね?
414 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 16:12:33.67
広い大陸人の感覚では数kmでも水際なんじゃね?
■ 元寇 ■ サヨクの妄言、よくある言い訳とその回答 Excuse:元軍や朝鮮の弓は和弓より優れているので負けるわけがない Answer:飛距離に関しては互角かあるいは和弓が上です※ ※弘安の役を例にとります 防塁は切岸ですので白兵を挑む敵軍の内陸部への侵攻を止めるには効果的ですが、 矢のような飛翔物から累上の武士を守る遮蔽としては効果がありません。 つまり飛び道具には無力。 したがって本当に和弓より威力も射程も勝る弓を大量に投入できていたなら 上陸するまでもなく船上から防塁の上の武士めがけて矢を放ち、射散らしてから上陸すればいいはずです。 ところが実際の元軍は防塁の前になすすべなし、 結局防塁がない陸継島に上陸を試みています(結局今度は武士の白兵戦の能力の前にここからも敗走) つまり元軍にも高麗軍にも海上から、 あるいは海岸線から防塁上の武士まで届く有効な射撃ができるほどの弓はなかったことになりますね。
416 :
日本@名無史さん :2011/03/04(金) 18:28:18.15
大宰府どころか 水城が見えるところまですら到達できず 福岡平野沿岸部をうろうろしただけで先駆けレベルの武士団だけで返り討ち されましたが「内陸まで侵攻」しました
417 :
日本@名無史さん :2011/03/06(日) 01:52:45.00
玉川大学もそうだが、新井なんとかっていう大学の先生の戦争の日本史のご本も中々の物だった(笑)
日本の武士を必死で賞賛するのも、必死になってケナスの精神構造は同じ。 もう、うんざりだ。 歴史は客観的で科学的なものなのに・・・
420 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 04:38:44.75
くやしそうですね
日本人なら必死で賞賛するのと必死で貶すのなら 前者をマシと考えるね。 いや、どこの国どの民族も自分達のご先祖様を賞賛するか貶すか? なら賞賛する方をマシと捉えるだろう。 精神構造が同じなんてとんでもないね。 まして自分達のご先祖様が不当に貶められている元寇ならば、 必死で賞賛するのは、むしろ当然と言っても良い。
422 :
日本@名無史さん :2011/03/08(火) 14:09:38.27
まあアホみたいな捏造を必死で繰り返す馬鹿を理詰めで弾き返すだけなんで 必死に称賛というよりは単に「馬鹿を冷笑している」に近いとおもうけどね ただし卑劣な侵略者ではあるとはいえ勇猛果敢な武士に対して必死に頑張った元軍の当事者達 には惜しみない賞賛をあたえたい 圧倒的な数で攻め込んであっさり返り討ちされてるけど…まあそれでも賞賛しよう 冷笑する対象はあくまで現代の馬鹿達だけね
必死で貶めたり、必死で賞賛したりして何の意味があるのかな 歴史は科学だから感情の入る余地はないはずだが
事実と違うと思われる部分を具体的に反論したらいいじゃない
425 :
日本@名無史さん :2011/03/09(水) 04:29:57.55
426 :
日本@名無史さん :2011/03/17(木) 22:47:14.50
このスレを見て元寇に興味が出てきました。 元寇の本、小説でおすすめは何ですか?
427 :
日本@名無史さん :2011/03/21(月) 03:06:50.49
基本的に日本の場合、戦争の検討はしても戦闘の検討はあまりされないからな。 元寇にしても、戦争が与えた社会や幕府の変化には研究の蓄積があるけど、戦闘の内容 については、あまり込み入った研究がなされていないことが多い。
>>423 歴史が科学?とんでもない。
歴史ほど民族や個人の主観によって左右される学問はないだろ
429 :
日本@名無史さん :2011/03/22(火) 07:58:13.58
その通り。 だいたい英語のヒストリー(歴史)とストーリー(物語)とは同じ語源だ。 同じ語源どころか、フランス語ではどちらもイストワールで、区別されてない。
430 :
日本@名無史さん :2011/03/22(火) 16:34:57.26
元軍の鉄砲と集団戦法で圧倒的に優勢だったが、 士気の低さと船の脆さから撤退した。鎌倉武士の 勇猛など、屁の突っ張りにもならなかった。日本は中国と 高麗の民衆に救われたんだ。感謝したまえ。
432 :
日本@名無史さん :2011/03/22(火) 21:19:38.85
>>431 中国・韓国の民衆は元軍を応援していたんだぜ。
433 :
日本@名無史さん :2011/03/22(火) 22:38:18.60
竹崎季長の子孫の記録って残ってないの?
434 :
日本@名無史さん :2011/03/23(水) 08:10:39.83
435 :
日本@名無史さん :2011/03/23(水) 08:32:40.34
「醜い韓国人」朴泰赫 韓国の歴史とはただ強い者に媚びへつらい、弱いものを 圧殺するというそれだけの歴史である。 大陸の宗主国の力が弱まれば新興の宗主国にくっついて旧宗主国をたたく。 これが韓国の「真実の歴史」である。 元寇のときは元にくっついて壱岐、対馬の善男善女を虐殺しぬき、 日本が宗主国となると旧宗主国である満州人をいじめ抜き、 日本が敗戦すると日本を見下し、恐喝、強盗まがいのことを平然として、 アメリカにくっついて武器も持たぬベトナムの女子供をなぶり殺しにする。 これが韓国の歴史である。 こんな歴史しかないくせに「五千年の偉大なる歴史」とは笑止千万! 卑怯者とは韓国人のためにある言葉だ
436 :
日本@名無史さん :2011/03/23(水) 10:15:54.52
1948年の長春チャーズ事件で約10万人が真空地帯で餓死させられたとき、 真空地帯の包囲に当たったのが朝鮮人師団だったって知ってた? 彼らは元宗主国の日本人に対してはもとより、中国人に対しても なんの同情も持たなかった。だから目の前で市民が餓死しても屁でもなかった。
437 :
日本@名無史さん :2011/03/23(水) 11:36:19.81
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、 そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、 射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、 なしにけるとそ
438 :
日本@名無史さん :2011/03/23(水) 22:42:51.77
台風があろうが無かろうが、どっちみち蒙古が日本を征服するは無理だった。
>>434 みたいに草生やすしかできない奴は大抵馬鹿だな
>>440 人を馬鹿にする奴を馬鹿にする奴も大抵b(ry
弘安の役の元軍総大将の「忽敦」って 名前なんて読むの?
443 :
日本@名無史さん :2011/04/01(金) 19:10:16.29
強制的に急造された船が脆かったこと、強制動員された高麗 江南の兵の士気が低かったことが元の撤退の原因。 東アジア人民の反元闘争が日本を救った。鎌倉武士の勇猛は関係ない。
445 :
日本@名無史さん :2011/04/01(金) 21:12:13.56
>東アジア人民の反元闘争が日本を救った じゃあ鎌倉武士も「東アジア人民」のために元と戦ったわけだな。 鎌倉武士は偉いなあ〜。
>船が脆かったこと >動員された高麗江南の兵の士気が低かったこと 同意ですw
韓国は蒙古の日本征伐に反対してくれました。 韓国は三別抄の乱を起こし蒙古軍に抵抗してくれました。おかげで日本征伐が遅れ日本は救われました。 韓国は遠征に使う船をわざと弱く作ってくれました。おかげで嵐で蒙古船団が壊滅し日本は救われました。 日本人は未来永劫韓国人に感謝しなければならない国民です。
448 :
日本@名無史さん :2011/04/01(金) 22:53:26.47
>>447 だったら最後まで反対してくれれば良かったのに
それは5万円寄付してくれた人に 「10万円寄付してくれたら良かったのに 」 と言うようなものだ
三別抄の抵抗説も、一時はグローバルな日本史の流れとかで過大評価されたけど、 よく調べてみたら大した勢力じゃなかったし最後は降伏の申出までしたと分かって誰も顧慮しなくなった
鎌倉武士が集団戦法に対して個人戦法で戦って苦戦したとあるけど、とんでもない誤解だな。 そもそも平家物語を読めば分かる通り、鎌倉武士は実戦向きに徹底された武士。 名乗りを上げるのは単に証人を残すため。
452 :
日本@名無史さん :2011/04/02(土) 10:52:40.57
>>451 だよな。
スポーツじゃあるまいし正々堂々と戦う訳が無い。
鎌倉武士は勝つためならどんな卑怯なこともやる。
頼朝の旗上げの山木討ちも、倶梨伽羅峠も夜討ちの奇襲。
一の谷は和平交渉中にだまし討ちしたし、屋島は背後からの奇襲。
壇ノ浦は武士ではない船頭を射殺して船の自由を奪い勝利した。
北条時政が畠山を滅ぼしたときも、濡れ衣着せてだまし討ち。
和田の乱も義時があくどく挑発して、それに乗った和田義盛が義時の屋敷を
突然奇襲攻撃した。
宝治合戦も「三浦氏を絶対攻撃しない」と時頼が誓文を差しだしたのに
裏切って攻撃し滅ぼした。
陰謀、裏切り、だまし討ち、奇襲、夜討ち・・・なんでもあり。それが鎌倉武士。
そりゃあ、戦に負けたら妻子ともども一族郎党も地獄行きだからな。 なりふり構わず必死で戦うさ。
>>447 >韓国は蒙古の日本征伐に反対してくれました。
蒙古が韓国を征伐する時に反対した国ってあるの?
どの国も知らん顔してたんじゃないの?
当時から韓国は世界から無視されていたんだね。
可哀想に w
韓国は三別抄が日本のために蒙古に抵抗し 日本に救援を求めました。 しかし日本は黙殺してしまいました。 アジアとの連携を考えない日本の外交音痴は昔から変わらないようです。
456 :
日本@名無史さん :2011/04/02(土) 22:12:40.18
やっぱ日本に助けてもらわないと駄目か 昔も今も同じだな
457 :
日本@名無史さん :2011/04/04(月) 05:31:34.53
我々日本人は、白村江の時にチョンに援軍を送った結果 すんげー痛い目にあったから学習したんです。 チョンと手を組むとロクな事が無いと。 富国強兵に夢中になるあまり、近代の日本人が 先人達の遺した教訓を忘れてしまったのは甚だ残念であります。
まあ、三別抄がどれだけの受け入れ能力があるかにもよるな。 兵糧は出してもらえないと、とても維持できないだろう。 維持できなければ、結局撤退するしかない。 撤退すれば結局三別抄の救援にはならない。
三別に支援すると、下手すると高麗の内乱に巻き込まれる恐れがある。 そうなったらもう泥沼。 よっぽど有力ならともかく、あの程度の勢力なら日本専守防衛のほうがマシ
>>447 >>455 >韓国は三別抄が日本のために蒙古に抵抗し
三別抄が戦ってた相手は高麗軍だよ。要するに、当時、三別抄は韓国の敵だった。
高麗軍の司令官の洪茶丘も金方慶も高麗人だし。
それに三別抄だって、それぞれの故郷や家族を守るために、高麗人の誇りのために、
高麗がモンゴルに服従する事を嫌って戦ってたんだから
それを勝手に日本のために戦ってた事にするのは、三別抄の人達に失礼だと思う
だいたい、日本の庇護を受けた韓国人は
韓国では売国奴って呼ばれてるんじゃないのか
文永弘安の役は、前線の武将クラスではリストラ寸前御家人の失地回復戦でもあるな。 菊池武房、河野通有、竹崎季長…大友小児島津と違って、この連中は承久の乱での在地冷や飯組でしょ
463 :
日本@名無史さん :2011/04/10(日) 10:56:11.80
併合するまで庶民は縄文時代以下の生活してた半島に言われたくない
464 :
日本@名無史さん :2011/04/10(日) 11:14:50.05
そうやって昔から他の国を偏見で見下してばかりで 自分たちが一番優れている、なんて妄想を抱いて生きてるから 韓国はいつまでも先進国になれないんだよ。 てかスレタイ読め
466 :
日本@名無史さん :2011/04/11(月) 00:01:49.91
チョンのキチガイモード丸出し。現代の夜郎自大そのものだな。
問題は海がどの程度役に立ったかだなあ。 幕府が日本海岸の防備に大わらわだったことを考えると、 差し引きでは海は防衛側に不利に働いてるような気がするけどね。
468 :
日本@名無史さん :2011/04/12(火) 08:32:01.86
有利だろう
>>462 こういうの見ると朝鮮史=属国史みたいなもんだから外国コンプレックスが酷くて
偏見と妄想でしか自我を保てないんだろうなと思う。
>>468 幕府の警護体制が北陸から九州までと言う広大な地域に及んでも?
物凄い動員態勢だよ。
歴代鎮西要略には、弘安の役の日本の兵力が 25万人とか書いてあるみたいだけど正直誇張だろうと思ってた 実働兵力が4〜6万人くらいだとしても、 海岸線の警備に大量の人員を割いただろう事を思うと、 「総動員兵力」25万人と考えれば、あながち誇張でもなさそうな気がするな
472 :
日本@名無史さん :2011/04/13(水) 22:48:26.71
>>455 三別抄なんて盗賊団に毛の生えた程度のことしかやってないだろ。
蒙古に喧嘩売って情けなくも小さい小島に逃げて自国民を放棄して30年間も奴隷狩りされ放題w
>>467 島国は防衛には断然不利、奇襲攻撃と何処から上陸されるかわからないので防衛は極めて困難。
陸続きの場合進軍ルートは限られてるので(食料の確保から陸路上に必ず都市がないといけないため)
砦築いて待ち伏せできるから攻撃側は防衛より3倍以上の兵力がいる。
島国
攻撃側 何時(奇襲)、何処(上陸し易い場所)を決めること出来る
防衛側 何も決められない
大陸
攻撃側 砦を落とすため多数の兵力を準備しないといけないので隣国ばれる
進軍ルートは限られてるので待ち伏せされる
防衛側 砦をきちんと築いていれば敵は自軍より多数の(通常約3倍)兵力がいるので
兵糧切れをを待ってれれば勝手に帰ってくれる。
金も南宋もその他国もみんなこの様にして防衛あたったが敗北、唯一朝鮮のみ小島に逃げて味方に
クーデター起こされw敗北
473 :
日本@名無史さん :2011/04/13(水) 23:11:55.85
>>470 幕府の予想通り九州方面にしか攻めてこなかった。
この段階で元の敗北は確実
若狭あたりまで警戒してるよ。
475 :
日本@名無史さん :2011/04/15(金) 13:36:27.93
防塁は九州だけ 防塁のど真ん中に攻めてきた段階でアウト
476 :
日本@名無史さん :2011/04/15(金) 22:46:34.99
元寇の頃って、わりと確実に日本海側の任意の場所に上陸できるような航海術が確立されてたのかな?
サハリンには攻め込んでるよな。上陸地点なんて防衛側には正確には分からんだろう 渤海は北日本に来てたわけだし…
478 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 00:39:30.82
だったら蒙古は九州飛ばして本州に直接攻めこめば良いのにね。 やっぱ蒙古人はバカだわな。wwww
479 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 00:55:13.65
日本海を舐めるな そういや元はウラル海や台湾海峡、インドネシアは攻略できたの
480 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 01:39:56.16
>>478 いや、元は直接鎌倉に奇襲上陸すれば良かった w
こらぁ、やっぱり釜山〜対馬〜壱岐〜博多・大宰府と侵攻するしかないんだわ せいぜい別働隊で長門を襲う程度 隠岐〜出雲を襲うルートは、ほとんどアテにならない それ以北だと、沿海州〜蝦夷地・サハリンのほうがまだ近い。 江南軍も1回対馬沖に来るしかない。元軍侵攻ルートはほぼ予想可能ですな…
482 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 11:18:04.25
幕府は侵略ルートを予測できたんだろ だから、あらかじめ防塁つくって武士を配置して待ち受けた。 まあ、勝てる戦いだ罠。
483 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 13:16:14.85
今でも日本海は厳しいからな
484 :
日本@名無史さん :2011/04/18(月) 22:17:56.29
歴史にIFはないから日本が元に勝ったのは歴史的必然。
485 :
日本@名無史さん :2011/04/19(火) 01:08:46.23
>>482 予測じゃなく前回上陸した場所なだけで実際は何処から上陸されてもいいように
きっちり分散配置してる。
九州に北条実政4万(前衛部隊)、中国地方北条宗盛2万5千、京都宇都宮貞綱6万(これが本体)
瀬戸内海渡って大阪から上陸するかもしれないので京都に本体を敷いた。
遠距離攻撃は世界最大級の和弓に防御は非常に防御力が高い鎧兜をそして
中距離は薙刀、接近戦は最強の日本刀を装備した12万5千の精鋭部隊
これに対して弓以外対してとりえのない元南宋金朝鮮連合部隊14万で
日本を攻めたら2ヶ月間海で逃げ回って死んでいっただけであまりに勝ちすぎて
鎌倉幕府は恩賞払えず財政破綻w
元はこの敗戦以降大群での遠征はなくなり地方の反乱すら抑えることが出来ず滅亡。
狭い関門海峡を渡れるのかなぁ 中国地方の北条宗盛と言う人物もよく分からないけど
487 :
日本@名無史さん :2011/04/19(火) 08:56:10.20
恐らく北条宗頼の間違いじゃね
488 :
日本@名無史さん :2011/04/19(火) 11:53:50.24
489 :
日本@名無史さん :2011/04/19(火) 13:22:39.82
>>489 その人飽きた
熱いのかもしらんが、なんか素人くさいし
京に6万の軍勢が数か月駐留したら、戦う前に兵糧食い尽くすでしょ 前線に4〜5万、中国地方に1万、都に1万 あとは海岸線沿いに警備命令 この程度じゃないのかな
492 :
日本@名無史さん :2011/04/20(水) 02:34:25.58
>>491 なんで本体がたった1万ななんだよw
治承・寿永の乱(1180〜1185)では多いときに5〜8万で戦争してるし
1221年の承久の乱で双方合わせて20万で1ヶ月間戦争してるのに12万5千の兵糧なんて
たいしたことないだろ。
493 :
日本@名無史さん :2011/04/20(水) 04:15:06.20
奥州合戦28万騎、承久の乱19万騎、この公称数を実数と思ってる人はいないでしょ 奥州合戦では大手軍が3万程度でしょ いつ上洛させたのかにもよるけど、前線に4万、中国に2万、京に6万、計12万って、 鎌倉中期の生産力を考えたらほぼ最大限か、それ以上だと思う。 その他にも日本海岸沿いに警備を命じているだろうから
494 :
日本@名無史さん :2011/04/20(水) 09:18:32.06
モンゴル兵は処刑した らしいが宋兵、高麗兵と どうやって区別したんだ?言葉?それとも装備品か?
旗とかじゃない?
まあ高麗兵蒙古兵は言葉で分かるとして 南宋人と華北漢人も言葉で分けたかねえ 何万人殺したんだろ
497 :
日本@名無史さん :2011/04/20(水) 11:42:48.88
侵略者は殺して当然 当時ジュネーブ条約が有るわけじゃあるまいし
498 :
日本@名無史さん :2011/04/20(水) 12:37:46.15
万もいたかね その前に討ち取られそうな気がするが
499 :
日本@名無史さん :2011/04/20(水) 13:31:15.67
>>493 平安〜鎌倉時代の人口は650〜700万で戦国時代は1200万人
鎌倉時代に二毛作が普及してるし、鎌倉から戦国時代の農業生産力(効率)が1,3〜1,5倍ぐらいで
農業面積(石高)は戦国時代しか正確な数値がないのでわかりません。
戦国時代の最大動員数が約50万人であるから鎌倉時代は大雑把に45〜55%位?
22,5〜27,5万人ぐらいかな?
>>496 10万〜14万位平戸島に集まって陣を張っていて台風に襲われほとんどの船が
流され僅かしか船はなかった。
そのうち南宋の指揮官クラスと高麗は逃げてその他は平戸島に取り残されてるので
ぶっ殺したのは約5万〜8万人ぐらいだろうね。
500 :
石原信者 :2011/04/20(水) 13:33:35.28
蒙古人はね他国を侵略してきた天罰が下ったんだよ。台風を利用してだね我欲を洗い流す必要が有るね。
モンゴル弓とトルコ弓を同一視できるというソースはどこにあるの?
5〜8万を処刑するとしたら、首斬ってたら日本刀のほうが刃こぼれしそうだけど。 遺体をどうすると言う問題もあるし、重りつけて海に放り込むほうが簡単じゃないの? 漢人と南宋人は、たぶん言葉と軍装で分かるものは分け、あとは自己申告と予想 処刑するほうも面倒なので
503 :
日本@名無史さん :2011/04/20(水) 20:17:13.42
元軍が数万も上陸してないだろ
>>502 元軍の死者のほとんどは戦死か溺死じゃないか?
それに南宋人って結構人数居たはずだし、
処刑された元軍の兵は多くても1万人くらいだと思う
>>506 なんだ、「元韃攻日本敗北歌」の著者って戦闘を見てもいないのか
それを勝手に改変して、しかも忻都の言葉にするなんて捏造以外の何物でもないな
元韃攻日本敗北歌の内容ひどいな。 例の一文だけ見れば日本を賛美してるように見えるけど 前後の文を読むと日本を馬鹿にしまくりだな。 著者の鄭思肖は日本に行った事すらないみたいだし。
509 :
日本@名無史さん :2011/04/21(木) 13:55:57.48
昔は基本的に伝聞とかでしょ、実際戦闘した人が書いた書物の方がすくない。 で肝心の忻都発言は発言したかどうかは別で内容はほぼ間違っていと思います。 忻都「日本人はどうしたものか? 死を恐れず、一人で大勢の中に飛び込み、全滅を承知で戦う、 日本人ほど恐ろしい敵を見たことはなかった」 文永の役4万を900隻の船で乗ってきたので単純計算で1隻辺り44人 弘安の役14万 東路4万を900隻で1隻辺り44人 江南軍10万を3500隻で1隻辺り28人 それに対して鎌倉幕府軍は大型船を持っていなくて10人も乗れない小型船で 敵船に乗り移りなぎ倒していった。 小さい船でしかも船の数も少ない(おそらく10数隻もあれば多いほうだと思う) 何十人も乗ってる大型船にしかも数百隻の大軍団に漕ぎ手を除けば5人程度の小船10数隻程度 で奇襲攻撃してしかも圧勝、相手はひたすら逃げ回って上陸できずに小島を転々とし そして台風で逃げる船すらなくなり皆殺し。
兜を貸してくれるという申し出を断って 脛当てかぶって戦う季長はかっこ悪いけどかっこいい。
511 :
日本@名無史さん :2011/04/21(木) 18:07:12.34
降伏した者も怒り狂った幕府に斬られたの?
512 :
日本@名無史さん :2011/04/21(木) 19:55:37.73
文永の役で蒙古が夜、逃げ帰る時に一艘が志賀島に座礁漂着。 多分翌朝、蒙古軍120名ほどが生きていた。 壱岐・対馬の怨念が有る御家人が掃討開始、逃げる者、中には刀を振りかざし突っ込んで来る者。 半分が捕虜として京都に送り、大宰府水城で残りを斬首。 志賀島でもかなり斬首している筈。
2回でのべ18万人を動員して1回目に帰ってきたのが1万ちょっと、2回目は4万 あわせて5万(生還率3割以下)では誰も遠征する気になりません…
>>513 帰還兵の異常な少なさは、さすがのフビライも
なにそれこわい状態だろうな
仮にフビライが3回目にGO出しても
実行部隊の将軍が行きたがらなさそう
>>511 侵略者の蒙古、高麗、漢人は処刑
交流のあった南宋人は助命
鎌倉幕府は親宋政権だから
516 :
日本@名無史さん :2011/04/23(土) 17:04:59.81
蒙古人は当然(てか軍監数名のみじゃね?)だが漢人も斬ったのか 高麗人は現地指令部隊だからこれも当然 結局 戦死水死刑死逃亡成功のどれが一番多いんだ 南宋人以外は全員死刑か
517 :
日本@名無史さん :2011/04/24(日) 01:07:35.51
>>509 元は大船なのに日本は小舟といって馬鹿にするけど
日本の複雑な海岸線の地形から考えて小舟の方が有利でしょ。
大船じゃ接岸できるところが限られるし、下手すれば座礁するし。
518 :
日本@名無史さん :2011/04/24(日) 02:56:47.41
元寇の後は両国は断絶状態になったんたっけ? 勝った後なら対等な外交を申込む事も出来たのでは?
519 :
日本@名無史さん :2011/04/24(日) 13:11:23.39
正式な国交はなかったけど両国の商人が普通に交易してたよ。 後は大分後に足利尊氏が天竜寺船派遣してるし。
水死>逃亡>死刑>戦死 では?
戦死者はそこまで多くないでしょ
>>517 船をぶち当てに来るとか、船べりが高いとか、石弓を積めるとか、
大船にはやはり大船ならではの軍事的有利さがある
この時代は接舷して切り込むのが手っ取りばやかったのだろうけど
521 :
日本@名無史さん :2011/04/24(日) 19:39:03.66
小舟は川でも、遠浅の砂浜でも利用でき、あらゆるところで乗船下船が可能。 しかし、大船は港湾設備の整った所しか兵隊を上陸できない。 結局、上陸地点は博多に限定されるから博多に防塁築いて上陸出来なくすればOK。 勝敗は戦う前から分かっていた。
522 :
日本@名無史さん :2011/04/25(月) 02:16:50.04
>>521 馬鹿じゃないんだから上陸用の小船ぐらい持ってるよ。
文永の役でフルボコにされ副将まで討ち取られて大慌てで夜逃げした時
200隻前後の上陸用の小船を回収せずに逃げてる。
見知らぬ土地に上陸するのにもし浅瀬の浜がなかったら帰るんか?w
侵攻作戦の準備に何ヶ月もかけてるのに、上陸用の小船忘れて何もせず帰ってきたら
フビライはまじでぶちぎれるだろうなw
弘安の役も博多湾だけでなく別の場所から上陸を試みてるが鎌倉幕府軍に
フルボコにされ結局島へトンズラ。
523 :
日本@名無史さん :2011/04/25(月) 02:48:13.96
>>博多に防塁築いて上陸出来なくすればOK 1日だけ上陸して攻撃したんだよ、だけど敗退して志賀島に上陸して陣をはるが (島といても細い一本の道が陸に繋がってる)たった3日で陥落し小島を転々とする。 2ヶ月間の内防塁で戦ったのは1日だけで後は小船に乗ってひたすら攻撃。 何百隻もの大型船を数隻の小型船で攻撃するのは常識的に考えてかなり無謀 1、大型船にぶつけられ転覆したら重い鎧を着てるので間違いなく溺死 2、大型船の方が高いので乗船し難く乗船中に攻撃されたら戦死 3、大型船で更に圧倒的多数なので乗船できても敵の船が接船して次々 と乗船してきたらいくら何でも多勢に無勢(日本刀と云えど刃こぼれはする) じゃあ何故こんな無謀なこと何度もやったのか? 1、ただの馬鹿。 2、余程勝つ自信があった(1回戦ってるから)
524 :
日本@名無史さん :2011/04/25(月) 11:00:57.17
>>522 >200隻前後の上陸用の小船を回収せずに逃げてる。
ソースは?
ソースはって… 夜半に逃げ帰ったなら、小船を全部大船に引き上げてるほうがおかしい そんな冷静さを保ててたら、夜半に逃げ帰ってないよ
526 :
日本@名無史さん :2011/04/25(月) 14:27:20.62
だから、典拠とした史料はなに?
また偵察虚言癖が来てるのか
528 :
日本@名無史さん :2011/04/25(月) 16:00:47.08
>>488 ,524
疑ってること見ると同一人物かな、俺もお前と同じだった。
自分が教えられた歴史が嘘だと理解するまで少しかかったかな。
でも真実を知れば知るほど昔歴史で習って色々疑問があった事全てに辻褄が
あった。
例えば元寇なんかそう都合よくいいタイミング台風来るのか?しかも2回(巧みに元は嵐のシーズン避けて
日本へ攻めて来てますね後で知った。文永10月弘安6月)
当時世界でも有数の金銀を保有してるのにスペインポルトガルなどの国は他の国でした略奪植民地を何故日本でしなかったか?
(交換なんかしないで奪えばただなのにしかもこいつらそこらじゅうでやってるのに何故日本では?)
なぜ世界最大の陸軍(兵力500万人)のロシアに先制攻撃をしたのか?
あげればきりがないが真実を知ればすべて理解できた。
学校の先生は教科書は嘘なんかありえないと思うのわかるがもっと色々勉強したほうがいい
お前の気持ちはわかる俺も同じだったかな。
>
>>200 隻前後の上陸用の小船を回収せずに逃げてる
200は資料内と思うが翌日武士が浜辺まで出陣したら浜辺に小船が多数あっただけで
敵の姿なしとどっかで見た記憶あるけど不安なら調べたら?
文永の役が4万人、総数900隻、高麗水夫6700人 と言う数字を信ずると、 大船200隻、1隻あたり漕手20〜30人(平均2〜3隻の小船が付随する)でほぼ計算が合う 帰還できなかったのが1万3000(約3割)としたら、小船を全て回収した後撤退したとしても、 小船100〜200隻は失われてるんじゃないかなあ 以上の計算は若干厳密さを欠くけど、夜半の出航を信ずる限り、 おそらく小舟を引き上げた大船から撤退していったから、残された小船も相当あったと思うよ
530 :
日本@名無史さん :2011/04/25(月) 18:37:54.60
典拠の史料を明示できない話しは信用できん
なぜそんなにこだわるの? 軍議のすえ夜半の出航で3分の1が未帰還 船の総数900なら、小舟 の収容はかなり困難を極めたと思う
異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、 そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、 射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、 なしにけるとそ
■ ご注意! ■ こちらのちょっとおかしい妄言を繰り返すage荒らしさんは 通称「偵察ニート」と呼ばれる虚言癖の持ち主です 早朝から深夜まで24時間体制で当スレに粘着し ひたすら「蒙古朝鮮の負けた言い訳」をでっちあげるだけの 空しい人生を送っています 目を合わすと噛まれる可能性があります くれぐれも安易に近寄らず、生温かく見守ってあげてください ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ >275 :日本@名無史さん:2010/12/04(土) 09:25:52 >私はどういうわけか金があるし、自宅も一軒家が二つあるのを渡り歩いて >両方の家から書き込んでいる人間だからハロワなんて知らないのだ。 >276 :日本@名無史さん:2010/12/04(土) 09:26:58 >あ、家は2軒あるけどローンはゼロだからね。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
534 :
日本@名無史さん :2011/04/27(水) 23:23:43.49
>>523 >大型船にぶつけられ
大型船は操縦が難しいから小型船に体当たりなんかできない。
蒙古が負けたのは歴史的必然だぉ
536 :
元は :2011/04/29(金) 09:08:45.68
台風が来なくても敗けたよ
537 :
日本@名無史さん :2011/04/29(金) 13:06:45.88
歴史にifはない。 「もし、台風が来なかったら日本は侵略されていたかも」ということは断じて無い。
狙ってぶつけるのは困難だけど、突進してくると小舟は波かぶるから 退避するので精一杯、浸水や転覆したりとかするでしょ 静かな川面ですら小さい船が鈍足運行の大船の起こす波だけでよく転覆する 適当に焼き玉や矢を射かけらながら進んできたら、大混乱でしょ 当時、火矢焙烙玉戦法が用いられたかは知らないが
確か日本に火薬が伝来したのはこの元寇じゃなかったっけ? 弘安の時の元軍は大所帯な上に日本側に押されまくってたし 船同士を鎖でつないで板を渡してたみたいだし 船で突進かけれる余裕はなさそうな気がする
540 :
日本@名無史さん :2011/04/30(土) 20:21:21.22
船では到底日本を攻略できないよ。 歴代の中華王朝が朝鮮までしか侵略せず、日本に攻め込まなかったのは 中国が平和国家だからではなく船で日本を征服できないのを知っていたから。
二月騒動って、空席にしておいた六波羅北方に、直前に赤橋義宗を送ってるから 明らかに予定戦場の九州に地盤を張る名越を狙い撃ちした時宗の軍事戒厳体制だな。 北条一門も安達も賛成してなさげだし、肥後を安達にやったのは不満を抑えるためだろ
あれは時輔の陰謀が露見したんだぉ
名越討伐→即日陰謀露見→早馬→4日後に京で時輔誅殺? 手際が良すぎるでしょ
時輔・名越が全く陰謀企てていなかったとでも? そんな呑気ことじゃ執権職は勤まらんよ、キミ。 これは陰謀の臭いを察知した時宗の先制攻撃じゃ。
二月騒動は、やっぱり名越の守護職を取り上げるためだったと思うな。
じゃあ、何故時輔まで殺したの?
完全に俺の憶測だけど 前々から時輔はキナ臭かったから、この際一緒にやってしまおうって腹だったとかじゃね? それに、なるべく早く手を打っておかないと仲間集めて挙兵されるおそれもあるし
時章を殺した御内人→斬首 教時を殺した御内人→斬首されず この差はどこから来るの?
549 :
日本@名無史さん :2011/05/04(水) 21:38:42.48
>>534 根本的に間違ってるな、ぶつけに行く必要はないなぜなら向こうから近づく
から。
世界最大の領土を誇りあらゆる国家を滅ぼしまさに快進撃な元を一方的にフルボコ
にした事実をどうしても認めたくないのがにじみ出てるなw
どっかの民族はビビッて小さい小島に逃げたけどこれも認めたくないんだよなw
>>549 >世界最大の領土を誇りあらゆる国家を滅ぼしまさに快進撃な元
世界史の勉強やりなおし
551 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 13:45:00.21
>>485 > 瀬戸内海渡って大阪から上陸するかもしれないので
元サイドとしては、それは考えなかったと思うよ。
>>551 >
>>485 > > 瀬戸内海渡って大阪から上陸するかもしれないので
> 元サイドとしては、それは考えなかったと思うよ。
確かに。
何割大阪へたどり着けるやら。
下手すると全滅しかねない。
553 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 16:32:18.84
日本側は想定していたようだけど
554 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 16:43:04.23
>>540 もう少し勉強しなさい、侵略は何度も受けてる。
島国は奇襲攻撃されやすく防衛には向いてないが全て日本が勝ってる。
元が10万以上の大群で攻めたのは日本、ヨーロッパ、南宋だけでこの内
完膚なきまでやられたのは日本だけでこれを知ってればそれ以降おいそれと
侵略しようとは思えないし実際漢民族、モンゴル、女真族、朝鮮そしてスペイン
ポルトガルなど日本に来た全ての民族は侵略を諦めるか敗北してる。
>>549 ぶつけるまでもなく少し接触するだけで小さい船は波で大きくバランスを崩す。
余程勝てる見込みがない限り小船で乗船は無謀すぎる。
>>551 遊んでるんじゃなく戦争してるわけだからあらゆることを想定して防衛に
あたらないと防衛側は負ける。
実際元が何処から上陸するかは攻撃されないと分からない、だから全てを想定して
防衛に当たるのが鉄則。
島国の防衛の難しさは何時何処では攻撃側しか決められない、陸続きの国は
国境で砦築いて待ち伏せしてれば良いだけとはわけが違う。
555 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 17:25:16.13
>>554 >島国は奇襲攻撃されやすく防衛には向いてない
イギリスを見ろ
>>555 イギリスは近現代でこそ仏軍なり独軍なりを撃退してるけど、
それ以前は結構いろんな形で上陸を許してるよ。
デーン朝、ノルマンコンクエスト、名誉革命のオラニエ公ウィレムも無血上陸してる
ただ、日本海の荒さから考えて、主攻は対馬・壱岐・北九州になるのも事実なんだよね。
幕府が北陸まで御家人に警備を命じてるけど、実際には鬱陵島〜隠岐〜出雲ですら難しい
あとは人口希薄な沿海州から蝦夷地・樺太に侵攻するほうがまだ近かったり
558 :
日本@名無史さん :2011/05/05(木) 19:03:08.30
うる覚えだけどスペイン艦隊が英国に上陸しようとして 大風で失敗したという話しをどこかで読んだことがある
陸続きの方が守りやすいって主張あるけど 攻める側も守る側も陸続きの方がリスクが少ないってだけで 島国は攻める側としては海渡らなきゃいけないから厳しいのはお互い様でしょ
560 :
日本@名無史さん :2011/05/06(金) 22:15:23.10
元は朝鮮の江華島や珍島でも攻めあぐねてる
561 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 00:22:20.25
こうか島はともかく珍島はほっといて良かったのでは
562 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 03:31:37.43
>>557 フィリップ2世にロンドンまで攻め込まれた事もなかった?
563 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 13:04:32.11
結局征服には失敗してるよね
564 :
日本@名無史さん :2011/05/07(土) 21:58:09.81
フィリピンインドネシア台湾ブルネイは?
アンジュー帝国の時か。ドーバーは34キロ、対馬海峡は九州本土から高麗まで200キロ つうか元が中華世界から離脱してる日本をムキになって攻める必然性があったのか? 清は北京・南京制圧は一瞬だったけど、最初から日本に使者なんて送ってきてない
566 :
日本@名無史さん :2011/05/09(月) 20:49:25.11
ジョージ・マロリー「そこに山があるから登るのだ」 フビライ・カーン「そこに島があるから攻めるのだ」
567 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 04:10:32.53
強固な封建制が存在する所ではモンゴル軍を撃退している と言ったのは今谷明だったな マムルーク朝、神聖ローマ帝国、鎌倉幕府 鎮西探題が出来て、北条一族が下向した島津・大友・小児を組み込んだから ますます九州は攻めにくくなってるね
568 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 18:28:45.27
というか、衰退王朝だと裏切りが続出するからな。 漢民族の宋が蒙古に滅ぼされた時は、蒙古軍の主力は漢民族だったしな。
569 :
日本@名無史さん :2011/05/11(水) 20:02:42.88
>>567 フューダリズムの本家ヨーロッパは蒙古軍にこてんぱんにやられてるけど?
ワールシュタットは文永の役の日本軍とは比較にならないお粗末さだから…
571 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 20:19:33.90
日本軍は文永の役の教訓を弘安の役に生かしたけど、ヨーロッパはカルカ川の教訓をまったく 生かさず、ワールシュタットで同じことを繰り返した。
572 :
日本@名無史さん :2011/05/13(金) 21:27:20.39
文永の役での教訓ってなに 集団戦闘?防塁? 集団戦闘に関しては日本の武士はとっくに集団戦闘だよ
ヨーロッパって戦のたびに諸侯をかき集めるからやたら不統一だけど、 日本の幕府御家人制のほうがはるかに主従関係や動員に関しては強くない?
574 :
日本@名無史さん :2011/05/15(日) 16:47:31.41
>>572 「集団戦闘」の定義はなに?
二人以上で戦えば集団戦闘とか?
集団戦闘=組織戦闘と言うことでしょ、兵士の自由な進退が許されず銅鑼や鉦で進退するような 先駆けを争う、名乗りを重視する、一騎打ちの最中は求められない限り加勢しない みたいな武士のルールを個人戦法と呼ぶのじゃないか
576 :
日本@名無史さん :2011/05/16(月) 11:40:52.22
元は強力な集団戦法、日本は比較的おおまかな集団戦法だと考えるべき。 元は集団戦法、日本は個人戦法というのは、あまりに単純な考え。 知的レベルを疑ってしまう。 治承・寿永の内乱を見ればわかるだろに。
577 :
日本@名無史さん :2011/05/16(月) 11:52:04.74
>>575 >集団戦闘=組織戦闘
>兵士の自由な進退が許されず銅鑼や鉦で進退するような
それは日本軍の戦法?
それとも蒙古軍の戦法?
578 :
日本@名無史さん :2011/05/16(月) 15:45:27.92
まあ、文永の役の日本軍が集団戦法か個人戦法かはさておき、組織的で なかったことは確かだな。 竹崎末長は5人しか率いていないのに、総大将に直接会って指示を受けた。 それも戦闘区域の指示だけ。 で、その区域に行くと、すでに戦って来た菊池勢と会うが、菊池がこの方面の 指揮官というわけではない。だから挨拶はするが指示受け取りも打ち合わせもない。 その後竹崎は独自の判断で手勢5人だけで突っ込み、その過程ではほんとうに一騎のみ になったことが絵巻に描いてある。 なんのために突っ込んだかというとただただ「先駆け」という功名のためだ。 当然、危なくなるが白石の加勢で危うく助かる。 白石はだれかの指示で助けたのかというと、「親戚だから」という独自の 判断である。 以上の戦闘には「組織」のかけらもない。ただ「武勇」があるのみである。 対する蒙古軍は・・・という説明はもう要らないね?
579 :
日本@名無史さん :2011/05/16(月) 16:18:01.05
580 :
日本@名無史さん :2011/05/16(月) 23:48:50.80
ふと思ったんだけど、 「手勢5人」と「一騎」だと、「一騎」のが人数少ない?
581 :
日本@名無史さん :2011/05/17(火) 08:19:52.04
>>580 質問の意味がわからない。
「一騎」というのは人間一人と馬一頭なんだが。
結局、個人戦闘か集団戦闘かは日本軍と、元高麗軍の構成員の特徴に応じた戦い方で、 それ自体優劣はないでしょ。日本軍がワールシュタットの欧州軍ならともかく、 いちおうは幕府の軍役を果たすためだから幕府や総帥の命令には従うわけで ただ元・高麗連合軍にもその種の武人はいたはずだけど
583 :
日本@名無史さん :2011/05/17(火) 17:36:07.04
まあどのみち元軍が 武士の集団騎射に射散らされ 橋頭保も維持できず 追い返されたことはかわらないわけで
>>581 すまん、馬に乗った武士一人で一騎なのね、
お供とか連れてるイメージがあった
徒歩立ちの郎党を入れると一騎の武者でも手勢5人はおかしくないんでは
586 :
日本@名無史さん :2011/05/18(水) 08:38:01.54
>>585 竹崎が「五き」と言っているのは騎馬武者5人のことだよ。
突撃で、そのうち自分を含めた3人が重傷を負い、馬も射られたと言っている。
もし馬が射られなかったら、自分はそのまま敵兵の中に突っ込んで死んでいた
だろうと、馬が射られたことを幸いにしているのだから正直なものだ。
もちろん、その5騎にはそれぞれ徒歩の従者がいたと思うよ。
587 :
日本@名無史さん :2011/05/18(水) 12:04:43.42
588 :
日本@名無史さん :2011/05/18(水) 13:39:50.64
589 :
秋刀魚 :2011/05/18(水) 16:19:29.54
しかし高麗人(現:韓国人)が壱岐と対馬でやった住民虐殺は永遠に消えない罪だな(-"-;)韓国人は日本の植民地支配は酷かったといい続けてるが壱岐対馬で韓国人がしたこともちゃんと学べよって思うよな(`ヘ´)
竹崎の5騎で 兜ありの二人は鎧が大鎧。 兜なしの三人の鎧は胴丸で大袖もない。 身分の違いは歴然としている。
591 :
日本@名無史さん :2011/05/18(水) 22:20:27.47
馬に乗るのは大鎧の重量を託すためかと思ってた 胴丸程度の徒歩立ちの者も騎乗するのか
592 :
日本@名無史さん :2011/05/19(木) 08:10:14.87
胴丸を着れば徒歩立ちとは限るまい。 竹崎一族が貧乏だっただけだろう。
593 :
日本@名無史さん :2011/05/19(木) 08:22:22.47
一つ気がついた。 5騎のなかで旗指しだけが弓を持っていない。 (旗を持っては弓は無理か) そして竹崎勢のなかでは武装も粗末。 では旗指しは身分の低い武士の仕事かと思うと、そうでもないらしい。 白石集団の旗指しは立派な鎧兜を着て、先頭を突っ込んでいる。 やはり弓は持っていない。 旗指しは度胸の要る任務だね。 それでも武功確認のためには欠かせなかったのだろう。
594 :
日本@名無史さん :2011/05/20(金) 08:01:48.90
日本の馬は去勢してないから猛獣 蒙古兵は恐ろしかっただろうな
595 :
日本@名無史さん :2011/05/20(金) 16:33:05.14
竹崎一族って南北朝期以降どうなったんだ? 絵巻は転売してその結果、原型崩壊したらしいけど
足利の配下になったんじゃないのか?>竹崎家
597 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 02:34:53.58
南北朝期、足利直冬傘下の竹崎季宗が戦死して断絶
九州の在地系御家人にとって、鎮西探題の設置は絶望的な事態だったから 南北朝内乱はこぞって倒幕側を支持しただろうな 尊氏はなかなかいい所に目をつけて落ちたもんだわ
599 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 10:01:44.33
ぶっちゃけモンゴルってクソ弱いんじゃね? 農民ばかりの辺境、整備されてない田舎、弱小国家相手には奇襲で勝つが 組織された、正規軍国家には大概まける。 ドイツ 日本 マルムーク ロシア北部(モスクワ付近) ベトナム に負けたり、侵略できなかったりしてるし、 毎回 戦争計画 補給など まったくたたずに負けまくってるよね。 正規兵や、戦争強い国、地域に 勝ったことほとんどないんだよ。しこたま弱い。 蒙古 最強妄想は どちらかといえば、後世の蒙古本真に受けたアホの妄想で実際はそれほど強いわけじゃないんだよ。
600 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 10:04:43.08
奇襲と、雑魚つぶしやっただけで 毎回 辺境しか攻撃できない 装備などとくに強くない 辺境の雑魚 長期制圧できない 実際、辺境潰しただけで、制圧した地域、国はない それ以後蒙古は歴史でまけまくる。 弓も別に射程長くない。射程50〜70メートルしかないんだよね。和弓は射程100〜150メートルあるけど 最初っから弱くて奇襲して 嘘最強説流してただけだわ、マジ最低 ザコ
601 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 15:28:17.87
じゃ、そんな雑魚に「倭兵大敗伏屍麻の如し」で大損害の武士も輪をかけて 雑魚ってわけだ。
602 :
日本@名無史さん :2011/05/21(土) 17:05:57.31
>>598 霜月騒動のゴタゴタで死んだ御家人も多いしね
>>601 よう、久しぶりだな。
また、懲りずに論破されに来たのかよw
士気が低い高麗兵と言う割には、双方犠牲も多いよね。なぜ激戦だったのか あと、Wikiに載ってるけど、数万の兵が上陸後1日で撤退するのは不可能だと言う説があるが、 あれはどうなの?
そもそも文永の時相手した幕府軍は地元の武士中心の5000程度じゃなかった?
東アジア人民の反蒙古闘争と暴風雨が日本を救った。 日本軍は蒙古軍の集団戦術と鉄炮に壊滅寸前だった。
幕府軍が少数だから舐めて突っ込んだら意外な激戦になったってこと?
607 :
日本@名無史さん :2011/05/22(日) 17:19:00.03
>>605 ←時々忘れた頃に沸いて来るんだよね、こんなアホ。
午前10時に戦が始まり日が暮れる頃には逃げる相談をして夜にはトンズラする。
これ文永の役ね、何年もかけて準備をしてこれだもんね。
卑怯者民族朝鮮人と組むと何故か、負けてしまう。
608 :
日本@名無史さん :2011/05/22(日) 21:47:19.76
>>605 は釣りだろ。
>午前10時に戦が始まり日が暮れる頃には逃げる相談をして夜にはトンズラする。
これはどう考えても無理だな。
一日中戦った、疲れて負傷者も多い2万余の軍隊を、暗夜に、馬も残さず船積みして、しかも
出航する。それをやり遂げたのなら、それだけでも蒙古軍は賞賛に値する水陸両用軍だ。
しかし無理。
そうなると「関東評定機」の、
「同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
が浮かび上がる。
両軍が三日間休養した後、より内陸で再び合戦する。
蒙古軍が負けて海岸へ退くが、日本軍もまた追撃しない。
蒙古軍は翌日から二、三日かけて、昼間に悠々と乗船して、昼間に出航する。
日本軍はまた敵が来ると思って太宰府・水城に籠っているからそれを知らない。
これのほうがよほど現実的。
609 :
日本@名無史さん :2011/05/22(日) 21:49:21.16
やはり文永の役は1日で終わらなかったと言うことなのかね。 蒙古兵が水際で激戦になってれば日暮れには撤退してただろうが、 日本軍の先駆けが少なかったために上陸じたいは許してしまった 戦力が集結した結果、敵は破ったが疑似焦土作戦で敵の打撃が増えたと… それなら双方の戦闘で犠牲者が多かったのも納得できる
611 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 13:24:23.74
>>608 の続き。
金方慶伝の記述は一日のできごとのように見えるが、もともとこの文章は
中抜けが多い。例えば上陸の場面が無くて壱岐からいきなり本土の戦闘場面
になる。
そういう眼で見れば、「暮れに及びてすなわち解く」のあとに第二戦の描写が
あったと考えたほうが続きがかえってよい。「日ごと滋すの兵に敵するは」の
ところも、その日だとするとおかしい。敵が増えるということがどうして分かるの?
ということになる。
第二戦の後ならば「この前より増えてるじゃないか」ということで、通りが
よい。この軍議も、前置きがなくていきなり方慶の言葉になる。弘安の役の
ときの撤退の軍議にはちゃんと前置きがある。
中央アジアの草原を疾駆しオアシス都市を蹂躙した蒙古騎馬隊が そのまま上陸したら日本は半年で全土が征服されただろうね。 しかし、強制動員された江南や高麗の兵を大量に擁した侵攻軍の 士気が低く統制がとれず、強制労働で急造させた船が脆く、おりしも 到来した暴風雨で被害が出たので撤退した。
613 :
日本@名無史さん :2011/05/23(月) 14:29:57.15
江南はともかく高麗はノリノリだったと思うが だからこそ捕虜は処刑されたんだし
>>612 撒き餌が多すぎると、かえって釣れないよ
615 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 17:03:06.38
モンゴルに謝罪を求めるニダ
616 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 21:28:43.77
日本のような山あり、谷あり、河あり、田んぼあり・・・のような 複雑な地形では、大草原を騎馬軍団で怒涛のごとくに疾駆する電撃作戦は無理。 台風が無くて上陸に成功したら、泥沼の長期戦になって元王朝 の権威は失墜し、元はもっと早く衰退しただろうよ。
617 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 23:09:54.60
>>616 複雑な地名には騎馬軍団は向かない?
明国を騎馬軍団で倒した満洲族の故郷、東部満洲の地形は、日本どころではない。
平地でさえ当時は密林で覆われていた。さもなければ大湿地帯。そして
もちろん平地以外は果てしなく起伏する山。それを縫って大河が流れる。
大河は往々にして蛇行し、下流は湿地帯と同化する。満洲族はこんな条件の下で
馬を使いこなした。
蒙古軍が疾風のごとく電撃作戦だと?
とんでもない。走るのは戦闘か、連絡の時のみ。
あとはとぼとぼと、生きた食糧である羊の群れと共に大草原を歩むのだ。
ヨーロッパまで行くのに1年以上かかる。だから冬営期間まで含む。
時間の感覚が違うのだ。
618 :
日本@名無史さん :2011/05/24(火) 23:16:56.03
>走るのは戦闘か、連絡の時のみ。 だから戦闘の話しをしてる
619 :
日本@名無史さん :2011/05/25(水) 08:43:38.01
>>618 「電撃作戦」は進撃の時間も含む。
年単位の電撃作戦はあるまい。
馬を操る技術なら、日本の武士は負けてないと思う。何しろ馬そのものが武器なんだから
幼児から裸馬で草原を疾駆するモンゴル人にはかなわない。
622 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 10:50:15.14
日本には草原が少ないが
軽騎兵の得意な戦術が後退戦術だったんだから 相手が無理に追ってこなかったり離島で孤立したりしたらどうしようもないわ
624 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 21:59:12.03
追って来ないどころか武士達は進んで飛び込んだ。そして取り巻かれて終わり。 馬だけ帰って来る。 「軽騎兵」の「草原」での戦術など知らない人が書いているのだから信頼性あるな。
625 :
日本@名無史さん :2011/05/26(木) 23:54:59.95
個人的な印象だが、日本側は源平戦争の時ほど組織的な戦闘を行ってないように思える なんで?
626 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 02:25:34.73
小物御家人が殆どだから
戦闘では日本側の完敗だったね。
日本に撃退されたんじゃない。元軍自身が抱えていた弱点のゆえに 自発的に撤退しただけ。皇国史観に死を!アジア人民と共有できる歴史観万歳!!
629 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 07:32:03.33
元軍自身が抱えていた弱点って、日本の武士に圧勝できないということですか。
630 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 08:36:19.80
>>625 それは、源平戦争の時は相手の平家を倒さなければ自分たち源氏の時代は
来ない、という共通認識があった。
元寇、特に文永の役のときの武士たちの動機はただ一つ、戦功をたてて
恩賞(領地)に預かろうということだけ。
極端に言えば戦略的な勝ち負けはどうだっていい。
だからすでに多くの領地を持って入る富裕な武士たちの戦意は低く、
領地が少ない貧乏武士たちの戦意が高かった。
631 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 08:38:39.78
632 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 10:11:18.91
というか地元の武士達が応戦してて東からの援軍が 来る前にあっさり終わった時点で組織戦も糞も無いやん
それにしても日本の歴史学者は「「関東評定記」の 「同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」 という明白な記述を無視して「謎の撤退」なんてふざけたこと言うんだろうね。 そんなに日本の武士が勝ったというのが気に食わないのかね。
634 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 11:34:13.91
>>633 なるほど、日本軍が博多は戦略的に撤退して大宰府に第二抵抗線を築いたことは
認めるわけだな。
文永の役はそのほうが面白くなるな。日本軍の先駆けと交戦して1日で撤退したとかつまらん
636 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 14:16:14.91
>>635 そう考えれば金方慶伝の軍議は実によくわかるね。
大宰府の第二戦の記述がない、現在の書き方だと、
「倭兵大敗、伏屍如麻」と書きながら、その直後に方慶が
「もういちど戦わせてくれ」と切歯扼腕するのがよくわからない。
大宰府の第二戦で蒙古軍が苦戦して、博多まで撤退してきた後ならば、
雪辱戦を戦いたいという気持ちがわかる。
またクドゥンが「日増しに増える敵に対して」というのも、第二戦の
日本軍が意外に多くの増援を得ていたので、という意味ならわかる。
それがなしに「今後、敵は増えるだろうから」というのは言い訳にしか
聞こえない。
>>625 もともと九州が鎌倉幕府にとってアウェイだからでしょ
鎌倉から大将軍が派遣されていない(文永の役後に宗頼・実政らが下向してきたが)
外様の御家人たちを支配下に組み込みながら防戦準備を進めた
文永の役で各個撃破に見えるのは恐らくそれ
>>636 確かにオレも高麗史の金方慶伝を読んだ時には、
記述と登場人物の主張に食い違いがあるような違和感を受けた。
省略された部分があるという意見は興味深いよ。
九州土着で幕府に帰順した御家人は、経済力や弓箭の技術でも劣ってる気がする。 御家人の多い東国は頼朝以来、さかんに競技を開いて武技に熟達しようとしたのに比べたら
640 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 20:41:42.01
実際、日本に来ている蒙古人はいないでしょ。 文永、弘安通じて主力は中国人、次に朝鮮人。 大体、蒙古人は水に関わるのは大嫌いで日本招諭の使者だって玄界灘を渡るにどんだけ時間がかかったか。そんな状況で蒙古騎兵が日本で活躍するという仮説ははあり得ません。
641 :
日本@名無史さん :2011/05/27(金) 23:09:19.50
蒙古人がいないということはない。高麗史にちゃんと書いてある。 それに、たとえ中国人部隊だとしてもばかにはできない。 江南軍は別として、このころのいわゆる漢軍は金国からの降軍だ。 金国は女真族の国で、その軍隊は騎兵主体だが、南宋との戦いの過程で 中国人の傭兵みたいのが多くなった。 この中国人傭兵部隊が部隊丸ごと蒙古に降ったのが漢軍だ。 もともと金国のために働いていたのだからこれもまた騎兵だ。 さらに言えば当時の華北の中国人じたいが北方騎馬民族の流れだから、馬に 親しんでいる。 いわゆる南船北馬だ。
蒙古の弓と和弓は@射程距離、A速射性、B殺傷力に分けると Aは蒙古、Bは日本が優れているようだけど、@はどうなの?
643 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 19:38:15.28
日本の方が優れている
644 :
日本@名無史さん :2011/05/28(土) 21:03:42.72
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/17749/4/p501.pdf というpdfに、「関東評定記」のことが載っている。
本の名はこの資料によれば「関東評定伝」で、問題の箇所の全文は:
文永十一年十月五日蒙古異族寄来、著対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬允、同二十四日寄来
太宰府、与官軍合戦、異賊敗北
となっている。すなわちこの文章は:
「藤馬允」という官名の武士が十月五日に対馬で討たれた、
十月二十四日に太宰府で官軍と蒙古軍の戦いがあって蒙古軍が負けた、
という二つのことを言っている。いずれにしても上陸後四日目に太宰府で戦いがあった。
つまり蒙古軍は一日では帰らなかった。そのほうがずっとわかりやすい。
>>644 これ面白いな
そのうち歴史小説のネタにもされるかも
日本って速射性を犠牲にしても精度を重んじる所があるな、火縄銃もそうだろ
>>646 なんで火繩銃まで跳ぶんだよW
と思ったけど、「俺が殺った」的な発想って
日本の武士の古典として、もしくは戦国時代の現実として
ありそうな気がする
旧軍でも、弾幕より狙撃だしな…
まあ、これは「物量より精度」だから違うか
いや、日本の種子島の設計思想は精度優先なんだよ。 種子島は遅れてるのか、それとも日本の設計思想なのかという論争があったの
649 :
日本@名無史さん :2011/05/29(日) 13:59:34.07
大宰府合戦説は、武士厨、偵察厨双方にとって不利だな。 武士厨にとっては、大宰府合戦で蒙古軍を敗退させ、数日後の自主撤退に 追い込んだと言うのは有利だけど、 その前の博多合戦で撤退して蒙古軍に橋頭堡を築かせたと言うことを 認めなければならない。 偵察厨にとっては、蒙古軍の目的が大宰府の攻略にあったことを認め なくてはならない。 双方にとって当たらず触らずがいい。 ところで、こんなに重要な説について、どうしてもっと研究がないのだろう。 太宰府周辺の考古学的調査をやるべきではないか? また、文献的に太宰合戦説は補強されないのか? 例えば大宰府合戦に関係すると思われる恩賞の資料はないのだろうか?
650 :
日本@名無史さん :2011/05/29(日) 16:51:32.95
>>644 関東評定伝はちょっとアレだから使用する場合は気を付けた方がいいかも
651 :
日本@名無史さん :2011/05/29(日) 18:00:46.08
>>650 アレの内容説明して。
八幡の蒙古記はもっとアレなの?
ただ、関東評定伝だと馬骨人骨が多数発掘されててもおかしくないけど、 そういう痕跡はないんだよね。それと赤坂合戦に関しては人数差で普通に説明できると思う
653 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 02:04:04.68
>>641 日本武士の強さは、一人で弓兵と刀槍(この時代は長刀だが)兵をこなしたこと。大陸の兵士は、弓兵は弓兵、
槍兵は槍兵、短兵(刀剣)歩兵は刀剣と兵科がかっきり分かれていた。遠戦も白兵戦もこなす武士の方が、
強いのは当たり前。それに、武士の郎党だって戦国時代の足軽よりも武術には優れていた。
まぁ、狭い北九州ではお得意の機動戦が展開できなかったんだろう 上陸時に弓で狙い打たれるし それでも上陸してしまえばあとはやっぱりそれなりには戦ったとは思う ただしやはり舐めてたというか、当初の計画より装備が心もとなくなり 今後の継戦が難しくなる 玄界灘は難所、帰還できなくなる可能性を考慮して 天候が安定してる間に撤退 こんな感じだと思う
>>649 太宰府で合戦したとなると水城の防衛ラインはどうなってたんだろうな?
656 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 08:13:10.86
>>655 書いた人の感覚は、「水城は大宰府の外郭陣地、大宰府と水城は一体」ということ
だと思うよ。
例えば秀吉時代の大阪城とその外堀のような感覚でないか?
博多湾岸も大宰府と一体かもよ 書いた人の感覚では
4日後に合戦と言うのは、博多湾〜水城・大宰府が10数キロの距離であることを考えると、 上陸軍も一気に追撃する力はなかったのかなと。1日目に上陸が完了していなかった可能性もある
659 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 16:01:40.02
>>657 それでもいい。上陸したのは20日だから、ともかく橋頭堡を築いたことは
変わらない。
660 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 16:10:50.20
>>658 >1日目に上陸が完了していなかった可能性もある
それはあり得るね。
1日目は高麗軍にやらせて、蒙古軍は海上に温存していたとか。
661 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 19:32:44.46
高麗人は命乞いしなかったの?
>>654 威力偵察云々は置いといて
大宰府を中心とした北九州一帯を占拠して、橋頭堡にしたいってのはあったとは思う
663 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 20:49:55.02
元軍がたった3万で日本征服とかふざけすぎだろう
664 :
日本@名無史さん :2011/05/30(月) 23:19:58.47
あっちも日本側の兵力知らないし、博多湾で圧勝したら降伏すると思っていたんだろ
実際、数十万人程度の民族でほとんど世界征服しちゃったからね。
666 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 00:24:56.46
>>664 >日本側の兵力知らない
そりゃ有りえんょ
当時日中は経済や文化で交流多かったょ
>>663 元軍は1万の兵力でパガン朝を降伏させてるし
2万の兵力で一時的にせよマジャパヒト王国を制圧してる
総勢4万の軍勢は当時としては大軍と言ってよいと思う
そもそも文永の役での日本側の兵力はどれくらいだったんだ? 闘っていたのはほとんど九州の武士ばかりだから元軍より圧倒的に少なそうだが。
ワールシュタットとかはどうなの?
670 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 08:51:31.27
モンゴル軍2万、連合軍2万5千。 カルカ河もモンゴル軍のほうが少ない。
671 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 09:44:00.13
文永の役の時は5000ぐらいで迎え討ったんじゃなかった?
672 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 13:48:12.07
そんなに強いモンゴル軍を僅か五千の兵で戦い抜いた日本の武士って強いんですね
673 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 14:02:57.43
攻撃三倍の法則 上陸五倍の法則 攻城十倍の法則
674 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 15:00:00.78
10万の兵が立て篭もる城を攻撃するのに100万もの兵が必要ということか? じゃあ、攻撃側に勝ち目はないな w
元高麗軍は 橋頭保も維持できず 大宰府どころかその手前の水城にすら まったく届かずに武士によって追い払われてしまった
676 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 15:16:25.94
昔から、力技での攻城戦なんて難しいもんよ。 まともに攻められないから、兵糧攻めとか水攻めでもしないと 容易には落ちない。 数千の兵が、数万を相手にして、何カ月も持ちこたえるなんて、 史実には無数にあるだろ。
677 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 15:18:48.88
十万の兵が立てこもるなら、意外と早く落ちそうだ。 兵糧攻めすれば、食いものなくなって自滅する。 十万人立てこもるなんて、大阪城でもきついだろ。
そもそもあの当時でも元軍お得意の機動戦を展開できるような 平野は北九州にあったのかね? それにワールシュタットとかいわゆる全盛期に比べると元の兵士の錬度や 士気も落ちていたと思うしね 地の利があって専守防衛に徹し、遅滞戦術を取ることで 相手に消耗を強いたのがおそらく文永での日本軍の基本方針 で、元は長期戦は利あらずとして撤退、こんなところかな
まあ少なくとも武士が集団騎射による機動戦を行える程度には平野はあったろうさ
680 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 16:28:50.40
元は少数のモンゴル人が多民族を支配する征服王朝だから 指揮統制を保つためには組織戦が不可欠。 だが、日本のような狭隘な国土では大軍の組織戦は不可能だ。 うまく統制がとれぬ元軍に対し、血族で繋がった固いきずなの 小武士団が死に物狂いで戦えば勝てるのかもしれん。
>>だが、日本のような狭隘な国土では大軍の組織戦は不可能だ。 元軍以上の兵力を動員した組織戦なんて、680のいう狭隘な国土で いくらでも日本史上あるだろ。負けた言い訳にしか聞こえん。 >>小武士団が死に物狂いで戦えば勝てるのかもしれん。 勝てるのかもしれんというか、勝ってるじゃん。
>>681 で、北九州が大規模な組織戦に適した土地だったのか?
683 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 17:53:44.98
まあ、馬なんてほとんど運べなかっただろうからな。 機動力はむしろ日本より低いかもしれん。
攻者3倍の法則って第2次大戦の硫黄島みたいな十分に防御されてる場所を攻撃する場合の話だろ。
685 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 18:01:15.97
>>682 大友が龍造寺に六万で攻めてるがな。
で?元軍は何万人?
686 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 18:04:25.31
>>684 それはそのとおり
だから、防御を固めさせないような電撃作戦などさまざまな工夫が凝らされる。
相手の体制を崩すのも戦術、戦略の一つ。
攻撃三倍の法則は平地戦。硫黄島は上陸戦ですな。
688 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 18:07:20.44
大阪城は、徳川方が2倍の戦力で攻めてるが、結局和睦で終了。 掘りを埋め、二の丸三の丸を破壊して、再挑戦したのは周知の通り。 城攻めはそう簡単には落とせない。
千早赤坂での楠木正成の例もあるしな まして勝手を知らぬ外国の軍勢
>>682 福岡平野。そもそも四万の兵で「大規模な」組織戦ってどんなんだ?
それ以上の兵力を有する鎌倉武士団が到着したら、まさしく『高麗史』
のいう「小敵の堅(元軍)は、 大敵(日本軍)の擒なり」という状況を
682のいう「大規模な」組織戦とやらが覆せるとでも思ってるのか?
当時の鎌倉幕府の動員能力ってどれくらいだったんだろうか? 某学習マンガだと末期で百万動員出来たらしいが
692 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 18:25:14.76
>>687 既に佐賀城包囲した後の話しだろw
六万の部隊は動かせるんだが元軍なにしてたん?
>>691 武士の中でも御家人とその被官の軍勢でしょ。
19万(承久の乱、吾妻鏡)、28万(吾妻鏡、奥州合戦)、25万(歴代鎮西要略)程度か
公称だけど、近い数字は出せると思う
694 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 20:14:28.38
西アジアでの話しだが、敵の偵察騎兵に発見されたモンゴル軍は、 報告に引き返す偵察騎兵を追い抜いて敵軍に襲い掛かったらしい。 すげえ機動力だなあ
695 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 20:30:38.22
ユーラシアを席巻したモンゴル軍の実力からすれば 到底日本がかなう相手ではない。 日本が勝てたのは敵失だろう ベトナムの米軍みたいだな
696 :
日本@名無史さん :2011/05/31(火) 23:56:44.67
日本の場合は完全に自力。専門の戦士身分を数十万そろえてる国はそうない 欧州は当時日本よりはるかに動員力の低いド田舎だから。長期戦になっても確実に勝っていた
697 :
日本@名無史さん :2011/06/01(水) 00:42:55.50
>>695 モンゴル軍は陸戦には強かったが大海を渡って征服した土地はない。
日本、アイヌ、琉球、インドネシアへ来襲したが、どこからも撃退された。
耽羅島は攻め落とされたやん
アイヌはともかく 琉球侵攻は征服目的だったのか、そもそもあったかどうかも不明だし インドネシアの王国は一度征服されてるからな 海岸線で元軍を退けた武士たちはもっと評価されていいと思う
なぜ、たまたま勝てたみたいな馬鹿なこという奴いるんだろうね。 九州が占領され、ゲリラ戦でやっと撃退したわけではなく、 九州のほんの一角すら占領させなかった武士団のどこに元軍が勝てる要素 があるとでもいうだろう。
占領しようとして阻止されたんじゃない。偵察線だったんだよ。 一旦船に戻って明日から本格的に攻めようとしてたところへ台風が来た。 戦闘では日本の完敗。なぜ日本が勝ったことにしたいのか? 武士を讃えたいから?神国日本の不敗を宣伝したいの? そうして日本を再びアジア侵略の道へ進ませたいの?
そういう釣りはニュー速でどうぞ
>>697 陸戦でも負けてたところがあったでしょ。
エジプトとか
>>701 なぜ元王朝が勝ったことにしたいの?
中国を讃えたいから?中国の不敗を宣伝したいの?
そして中国を再び日本侵略の道へと進ませたいの?
>>695 戦後になっても神風説がなかなか改まらなかったのは、
まさにそういうゲリラ戦の発想だと思う。
「蒙古軍は強いから日本は勝てるはずはない。だが気象・地形・防塁によって勝った」的な
モンゴル軍が戦闘で敗北して、事後臣従もしなかった例はマムルーク朝と日本だけでは 奴隷王朝は本格的侵攻を受けていない 神聖ローマは原因はともかく守りきった例に入る 臣従したが戦闘で勝利を収めたのが陳朝 同じく相手を裏切って撃退したのがジャワw
707 :
日本@名無史さん :2011/06/01(水) 18:55:40.53
カルカ河とかワールシュタットとかに同じ数の鎌倉武士を放り込んで、さてモンゴル軍に 勝てたか? あやしいものだ。 日本に来たのは、馬もいたけど基本的には歩兵軍団。本来のモンゴル軍ではない。 たぶんジャワやベトナムに行ったのもそうだろう。 やっぱり全軍騎乗にはなり得ない海上軍の編成が、海を越えては勝てなかった 原因だろう。
708 :
日本@名無史さん :2011/06/01(水) 18:57:34.82
>>705 なんか、戦後のアカ思想の影響か知らんが
市民達によるゲリラが美化されて、まるでゲリラ戦を
やる連中が物凄い戦闘民族みたいに語られがちだけどさ
そもそも「ゲリラ戦」ってのは
本来、弱っちい国が強い国に奥深くまで侵略されても
それでも粘り強く抵抗する為にやるもんなんだよ。
勿論、それはそれで立派な戦術だけどね。
現にもっとヘタレな国はチョンみたいに端から一矢報いることすら出来ないし。
ただ、武士は当時の世界ではかなり強い方だったから
そんな手を使うまでもなく、あっさり撃退出来たってだけの話。
>>707 あんな広大なモンゴル帝国に人口の少ない純粋なモンゴル人だけで
編成された軍なんているわけねえじゃんw
たとえ、君の言う本来のモンゴル人だけの兵をかき集めても広大な領土を統治
しているモンゴル兵が1万も上回ることはまずない。1万で日本に来ても山がちな慣れない
土地での戦いを強いられ、その上に日ごろ鍛錬を怠らない猛者だらけの武士団10万以上に
包囲されて全滅するだけ
710 :
日本@名無史さん :2011/06/01(水) 23:21:22.72
>>707 既に源平合戦の時に源氏側は、徒歩武者にも弓を持たせて平家方の騎馬武者を射落とさせていたのだが。
モンゴル側が全員騎兵でも、相手の短弓の射程外から射掛けることが出来るから、リーグニッツ(ワールシュタット)
みたいに、逃げると見せかけて振り返りざまにパルチアンショットをかますのは通じないだろう。そもそも、北条時宗
自身、流鏑馬の時に宗尊親王の前で、通り過ぎてしまった的にパルチアンショットで命中させるなんてことやっている
から、鎌倉武士の騎射の技術はヨーロッパや中国よりも上だ。
モンゴルの弓って複合弓だから射程は結構あるんじゃないのか?
712 :
日本@名無史さん :2011/06/02(木) 00:42:52.61
>>709 カルカ河やワールシュタットに行ったモンゴル軍はまだほとんど100%
モンゴルだった。
しかし私が言っているのはそのことではない。モンゴル軍の戦術が
全軍騎乗を基本にしていた、ということだ。さらに言えば全軍騎乗プラス
替え馬だ。
そうでなければ数十キロにわたる偽装退却なんてできない。
そのような軍隊と、日本に来たような将校のみ騎乗で大部分は歩兵という
軍隊と、同じ戦術であるわけがない。
日本に来たのは本来のモンゴル軍でない、というのはそういう意味だ。
もちろん構成民族の差もあるけどそれ以前の問題だ。
>>711 日本も複合弓だよ。射程は異説あるが、有効射程は確実に日本のほうが上では?
さらに日本の大鎧の防御力は半端ないから蒙古弓には圧倒的な性能差が求められる
>>712 騎馬隊に特化した結果が、ワールシュタットの後に行われたオルミュッツ城攻城戦での
モンゴル軍の敗退でしょ。騎馬隊に特化するのは機動や偽装退却には有利だが攻城戦に
向かない。
だからこそ、南宋ではたびたびの攻城戦の失敗を乗り越えモンゴル軍は柔軟に多民族の
長所を取り入れ、、多民族混成軍によってついに南宋を滅ぼしたり得た。
本来のモンゴル軍なんてのはなく、常に戦場によって進化するのがモンゴル軍という軍隊。
あの当時のルーシ諸侯やポーランドの連合軍と鎌倉幕府軍では 統制力に大きな差がある。しかも九州御家人は東国と比べたら少ない上に土着 武具をねん出する経済力も、弓箭の技術も劣ると考えたほうがいい
乱戦状態になると案外日本の武士は強いのかも・・・。 元軍はそれを避けて船に引き揚げたのかな
案外も何も、普通に強かったと思うよ、ただ @先駆けの武士と交戦して被害をこうむり、1日で撤退したか A先駆けの武士は打ち破ったが、集結した日本軍と大宰府で交戦し敗れて撤退したか Aがこのスレで有力視されているが、博多湾から大宰府まで10数キロ 勝利したなら4日もかかったと言うのがやや解せない。 損害多大で再編成に手間取ったと考えると、日本兵が集結する大宰府への進撃余力が残っているのかな 蒙古の先陣と日本が交戦した際に損害が大きく、内陸部まで至らずに1、2日で撤退した可能性もある
ユーラシアの文明諸地域を瞬く間に征服した蒙古が辺境の未開国 日本に負けるはずがない。黒船が火縄銃に負けるようなものだ。
719 :
日本@名無史さん :2011/06/02(木) 09:38:53.73
一応博多に上陸したものの、あとが続かずに 撤退した感じかな。 お得意の電撃戦もできないしねえ。
720 :
日本@名無史さん :2011/06/02(木) 11:28:28.55
過去の歴史にタラレバは通用しない。 戦の結果が実力、文永の役の蒙古敗北はボクシングで言えば1Rボコボコに負けて戦意喪失で2Rタオル投げで負け。
元寇の日本軍は馬関戦争よりもひどい負けだった。
キチガイ湧いてるなあw
723 :
日本@名無史さん :2011/06/02(木) 15:13:55.51
>>714 >常に戦場によって進化するのがモンゴル軍という軍隊。
それはその通り。カルカ河だって、よく言われるように「軽騎兵」だけで
勝ったのではない。決定的な打撃を与えたのは槍を持つ重騎兵だった。
この重騎兵は2年にわたる遠征過程で他民族から取り入れたのを早速使った
のだ。
日本に来た蒙古軍は、海上移動と攻城とに適合して「進化」していたと
言えば言える。
しかし私が提起したのはそのことでもない。
連合軍と同数の鎌倉武士を、カルカ河やワールシュタットに投入したならば
その時点の蒙古軍に勝てたか?
ということだ。
724 :
日本@名無史さん :2011/06/02(木) 15:36:25.47
>>723 お前、脳ミソ腐ってるな。
投入したならばとか、非現実的な言い方は止めなさい。
現在の米軍と過去の蒙古が戦ったら、蒙古が勝てるのか?
脳内だけで妄想していなさいボンクラ。
>>723 ぶっちゃけ、鎌倉幕府がウィーン幕府になったら、悪くても相討ちだったかと。
戦場の特性以上に、ルーシやポーランドの諸侯は戦闘中の行動が不統一すぎる
726 :
日本@名無史さん :2011/06/02(木) 17:54:18.34
>>725 >ルーシやポーランドの諸侯は戦闘中の行動が不統一すぎる
蒙古襲来絵詞に現れる「不統一」はルーシやポーランドの諸侯といい勝負だと思うよ。
そして武士団は必ず偽装退却に引っかかる。
恩賞に眼がくらんでいる上に、源平時代と比べて戦場カンは鈍っているからね。
日本は人口が多く人海戦術が可能だから欧州とは違う
729 :
日本@名無史さん :2011/06/02(木) 21:59:02.75
>>728 朝鮮人は息を吐くように嘘を言う、中国歴代王朝に朝貢をしている。
高麗は滅亡するまでモンゴルと中国の属国だよ。
大蒙古國皇帝奉書 高麗君臣感戴來朝 高麗朕之東藩也
今更だけど全盛期のモンゴル軍を持ち出すなら全盛期の鎌倉武士と比べるのが筋では?
>>726 とんでもない。治承寿永内乱期以降、日本は旧来の嗜みである弓箭の術に加え、
馬上での組討ちに適した相撲を奨励している。明らかに当時より戦闘は洗練されてるよ
それに突撃した人間だって許可を得てるわけで
技量の劣る九州御家人にせよ時頼時代から統制令が出てるし、レベルは鎌倉中期のほうがアップしてる
そもそも源平合戦の頃の九州武士より戦場カンが劣っていた証左があるの? 東国御家人の島津・大友が文永で下向してるし、少弐は鎮西探題格で総大将格、 菊池・河野らも充分な働きをしている。治承寿永よりよほど活躍してると思うが
734 :
日本@名無史さん :2011/06/03(金) 08:19:15.19
>>731 なるほど、元寇時代の鎌倉武士は長い間大きな戦闘を経験していない
から戦闘技術や戦場カンが全盛期の鎌倉武士より劣っていた、それを
比較に持ち出したんじゃ不公平だ、と言いたいんだね?
>>732 >それに突撃した人間だって許可を得てるわけで
竹崎季長はだれの許可を得て5騎で突撃したの?
竹崎の突撃が掛け合い・独断だったのは事実だが、
掛け合いにしても、武士は大まかな持ち口の指示は仰いで実行している
全軍を崩壊させるような単独行動は行ってない
正嘉年間にも幕府から警備令が出て、軍令に従うことが要求されてるらしいじゃん
>>731 元寇時代の武士は、治承寿永以後、頼朝〜時頼まで弓馬の術をさかんに奨励している
時宗の逸話を見てもおそろしく高度な技術を子供がマスターしている
宝治合戦・二月騒動、さらにその後の霜月騒動・岩戸合戦を見ても泰平の世の武士ではない
治承寿永の乱の当時に比べて、東国御家人は遜色がないよ。戦場の九州の御家人はそんな暇があったか知らんが
それでも九州御家人主体で蒙古軍を撃退するだけの力はあった
>>734 なぜ鎌倉中期の武士が草創期の武士より技量が劣っていたと決めつけるの?
挙兵当時の東国武士の弓箭の技術がおめがねにかなわなかったから、
わざわざ師匠を読んで東国御家人に伝授し、実戦向けに手直しした競技を奨励してるんでしょ?
鎌倉幕府中期の方が武士全体の実力は上昇しているでしょ 経済力とか組織力とか
738 :
日本@名無史さん :2011/06/03(金) 13:58:14.39
>>736 >なぜ鎌倉中期の武士が草創期の武士より技量が劣っていたと決めつけるの?
私に言われても困る。決めつけているのは
>>731 だ。
>>734 >武士は大まかな持ち口の指示は仰いで実行している
竹崎は赤坂方面に行ってくれと総大将から指示を受けているが、それを
突撃の指示と見るわけだね。
赤坂へ行ったらお前の判断で突っ込め、というのは、なるほど突撃の指示だ。
>正嘉年間にも幕府から警備令が出て、軍令に従うことが要求されてるらしいじゃん
そんな当たり前のことをわざわざ指示すること自体が、いかに功名争いが多かった
かを物語っている。
739 :
日本@名無史さん :2011/06/03(金) 18:27:44.74
江戸時代みたいに泰平の世を謳歌してたわけじゃないぞ。 少し年配の武士なら三浦合戦を経験してるだろうし 直前にも二月騒動なんかがあったし、血生臭い出来事は結構起こってる。
740 :
日本@名無史さん :2011/06/03(金) 20:13:01.59
竹崎って軍法違反には問われなかったんだっけ
741 :
日本@名無史さん :2011/06/03(金) 22:54:11.52
そんなもの問うていたら全軍ひっかかっちゃうよ
742 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 01:05:10.96
さきがけして恩賞貰ってる
743 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 02:00:46.43
どっかで軍令違反の先駆けつまり暴走だだから少弐に睨まれたって話聞いた覚えが
744 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 08:48:19.18
まあ恩賞なかったから鎌倉まで出かけたんだし、現地ではにらまれた かもしらんね。
745 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 11:02:57.14
鎌倉の泰盛は先駆けの武功を認め恩賞を出してるが 九州と鎌倉では先駆けに対する評価が違ったのか?
>>738 「功名争いが多かった」=手柄を認定してもらうことが重要だった
=御家人は幕府の統制下にあった
747 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 18:38:16.91
>>738 >正嘉年間にも幕府から警備令が出て、軍令に従うことが要求されてるらしいじゃん
これは正応6年に出た幕府の通達のことじゃないか?
北条兼時と名越時家が鎮西に下向するから彼らの命令に従えという内容で
別に先駆け禁止とか、そういう具体的な命令ではないでしょ。
元って騎馬戦を得意とした国だよね 馬って長い船旅に耐えられるのかな? 馬を連れてこれなかったことが元の敗因なんじゃないかと思う
749 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 21:20:03.13
>>748 馬はちゃんと連れて来ている。
蒙古襲来絵詞を見れば将校らしいのが馬に乗っている。
劉なんとか言う漢人の副将が射られて負傷したときも騎馬対騎馬の戦闘だった。
船酔いで弱ってたんだろう
「人馬共に慣れない船旅で弱ってた説」? 元軍の敗因の一つとして聞くけどさ、だったら渡海戦なんてしなきゃいいのに それを見越してやって来たにせよ、想定外だったにせよ、 モンゴルってちょっと頭弱いね こう言うと「元寇の派遣軍は捨て駒」説 が湧いてくるのかな
もともと船を馬で運んでのいくさなんて経験したことなかったから 初体験での失敗を攻めるなんて最低の奴だな
753 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 22:49:42.21
南宋「えっ?」
754 :
日本@名無史さん :2011/06/04(土) 22:51:23.80
保元の乱・平治の乱・源平争乱・承久の乱など大きな合戦には 物語があるけど、元寇は合戦物語が出来なかったのは何故だろう
>>748 元が騎馬部隊を有効活用したのは、中央アジアや東欧や華北での戦い。南宋攻略は漢人部隊が中心だろ。
他でも、攻城戦では征服したオアシス都市の定住民や漢人を使ってただろ。
むしろ、モンゴル人は軍隊の指揮官として優秀だったんじゃないか。清の時代でも八旗軍の将校はモンゴル族
が多かったぞ。
757 :
日本@名無史さん :2011/06/05(日) 00:14:42.18
>>756 兵隊は被征服民族。指揮官はモンゴル人だろう。
モンゴルの指揮は歴戦の勇士で有能かもしれないが、
乱戦に引きずり込まれると、指揮官の能力が発揮できないから
戦闘意欲が高くない被征服民族の元軍は脆弱かもしれない。
>>728 高麗の国土蹂躙されっぷりって、
たぶんモンゴル支配下の地域の中でも最悪の部類じゃないのかな?
そういう意味ではひたすらおもねるしか生きる道のなかった忠烈王には
けっこう哀れみを感じるよ
元寇の頃の日本人の世界認識ってどの程度だったんでしょうか? 日本・高麗・宋・天竺ぐらい? 蒙古とか言われても何じゃそりゃって感じだったんでしょうか?
>>747 いや、正応じゃなくて正嘉年間らしい。時頼〜長時政権の時期
城郭、軍令、兵糧米などに触れている
個人ブログだけど、史料じたいは福岡県史から引っ張ってるから確実では
六浦に宋船が出入りしてるし、この時期モンケが南宋包囲網を作ってるから
日本も危機感持ってたんじゃないかなあ
>>761 御免、その法令が見つからないんだが
詳しく教えてほしい
>去文永十一年大歳甲戌十月ニ(略) >壱岐ニヨセテモ又如是、船オシヨセテ有ケルニハ、 >奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、【日蓮書状】 と言う文書があるのですが、文永の役当時”奉行入道豊前前司”=少弐資能は 博多にいてたとする記事がありました。どちらが正確なのでしょうか? 記録が残っている資料はありますか?
資能本人が壱岐に?考えられない。その書状は信憑性があるんだろうか
>>763 「壱岐ニヨセテモ又如是」ここまでが壱岐の話し。
「(九州に)船オシヨセテ有ケルニハ」は九州の話し。
766 :
日本@名無史さん :2011/06/07(火) 22:22:48.63
>>758 庶民にとっては大災厄だったけど両班らにとっては権力争いの良い外圧
江戸幕府も清の成立を知り、かりに清が琉球に辮髪を要求したら従うよう薩摩藩に下命している 幸い清はそんな要求はしてこなかったが、鎌倉幕府もかなり情報集めてたのは間違いない
>>760 文永の役の前にハワイに行ってるから、ハワイは知ってたと思われる
769 :
763 :2011/06/08(水) 14:33:30.16
>>765 「船オシヨセテ有ケルニハ」は九州の話しだったんですね。とするとこの後
>奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ、松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ
と続く”松浦党”の話は十月十六、七日の平戸鷹島で松浦党が破れたことでしょうか?
すると奉行入道豊前前司=少弐資能は平戸鷹島あたりに居たことになるのでしょうか?
770 :
763 :2011/06/09(木) 12:39:21.69
日蓮書状って元寇の資料として用いられてますけど、その信憑性がどうかと思いまして。 対馬の守護代宗助国が逃げたとか明らかな事実誤認がありますから。
武士の戦い方ってカタフラクトみたいなもん?
武士は防御力は高いけど、基本的に弓箭の兵でしょ 鎮西八郎の強弓に馬の巡らせ方で対抗したと大庭が説いている所から見ても カタクラフトとはちょっと違う
奉行入道豊前前司ハ逃テ落ヌ→博多の話 松浦党ハ数百人打レ、或ハ生取ニセラレシカハ→肥前の話
宋 遼 金 西夏 増えた 高麗 よりごみ国家? 皆モンゴルに滅亡して言語も絶滅 wwwwww
wikiのバカどもをなんとかしてくれ。
「論倭」(隣交徴書より)14世紀前半成立 (1) 倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに、独り元に服属せず、… (2) 唐が百済を攻めた時、百済は(倭奴の)兵を借りたが白村江(はくすきのえ)で 敗れた。(倭奴は)物欲しそうにうろうろしながらも撤退した。今(元の時代)の 倭奴は昔(白村江の戦いの時)の倭奴ではない… (3) (唐の)太宗がおっしゃられた「靺鞨(まつかつ=北東の蛮族)が朝貢に来た、 突厥(とっけつ=西の蛮族)も既に帰服した。今倭奴は突厥ほど遠くは無い。…」 (4) 倭奴の国は高麗・耽良(たんら=済州島)からそんなに遠くない。 (5) 昔、隋の人は52万人を率いて高句麗を討った。高句麗は最後まで防戦し降伏し なかった。頼みにしたのは鴨緑江という一つの小さな川だけであった。今、倭奴 の強さは高句麗の比ではない。しかも大海の険がある。 (6) 出兵して極小の倭奴を撃つのはなお利益のないことである。 (7) 彼の倭奴は利を非常に好む。 (8) まして、倭奴の人は少し文字を知っている。 (9) つまり、今、高麗・耽良は既に帰服している。まだ帰服していないのは倭奴だ けである。
777 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 13:43:14.88
>太宗がおっしゃられた 「おっしゃる」は「おおせある」のつずまった言葉。 つまり人の口から出たことを「おおせ」と最高級の敬語にし、さらにそれが 「ある」と客観化することによってその人の動作とすることを避ける、 最高級の敬語である。 「おっしゃられる」と二重敬語を使う奴はそれによって「おっしゃる」 よりも一段格が上がると思っているらしいが、人の動作に付いてこれを敬語化 する「られる」が付くことによって対象人物のじかの動作になり、「客観化」が がなくるから、実は格を下げているのである。
778 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 13:44:47.16
訂正:最終行 がなくるから→なくなるから
779 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 19:37:20.78
>>770 「日蓮書状」や「八幡愚童訓」など宗教色の強い史料は注意しないと駄目。
宗教的な主張や価値観から書かれているから。
特に「八幡愚童訓」は八幡神の霊力を強調しているから、武士は弱かったが
八幡の霊力で勝ったみたいに宣伝している。
武士が力戦して元軍を見事に撃退したといったら、八幡神の宣伝にならないだろ。
日蓮も、幕府が法華経を採用しないと日本は元に征服されてしまうと主張してたから
法華経を採用せず弾圧していた幕府が元軍に勝利したのは許せない。
だから、日本は負けたんだと言い張っていた。
780 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 22:13:32.73
それほど圧倒的に武士が強かったのなら、なぜ上陸を許したのか? 個々の強さ×兵力という軍の総力に於いて劣っていたからではないか? そう思って見れば20日の海岸地域での戦闘は壱岐対馬と同じ、「及ばぬながらも」 というゲリラ戦、と言って悪ければせいぜい遅延作戦である。 だから日本軍が水城/大宰府に引き上げたのは予定の行動。 そして24日の「大宰府の戦い」となる。 これは攻城戦だから兵力の差は守備側の有利さによってキャンセルされる。 ここではじめて蒙古軍は挫折した。 その結果としての軍議であり、自主撤退だった。 極めて自然な成り行きだ。
781 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 23:12:09.79
>>780 つまり
武士の強さが圧倒的とまでは言わないでも、元軍は攻城戦で挫折して撤退に追い込まれるくらい強かったと?
素直にそう言えよ、可愛い奴
782 :
日本@名無史さん :2011/06/10(金) 23:49:15.32
まあ、ナチドイツとソ連軍の戦い見たいなもんだろう。 ナチがいくらソ連軍を破っても、ソ連は膨大な戦死者を ものともせず力攻めしてくる・・・。
さっきまで、アジアン飲み屋でモンゴル人のねーちゃんと酒飲んでたよ。 目が細いけどふっくらした丸顔で足が長くてスタイル抜群で日本がめちゃくちゃうまかったよ。 オユンナの天の子守歌をモンゴル語で歌ってくれた。 ウランバートル出身とのことだけど都市住民なんで、乗馬は出来なくはないけど苦手だって。
関東評定伝が前提になって議論が進んでるけど、なぜ大宰府到達まで4日かかったのか、 緒戦で惨敗したなら説明できないよ
785 :
日本@名無史さん :2011/06/11(土) 07:41:22.70
>>781 つまり武士の強さは野戦では到底蒙古軍に敵わないが守城戦では蒙古軍を
撃退できる程度には強かった・・
素直にそう言えよ、可愛い奴
786 :
日本@名無史さん :2011/06/11(土) 07:56:26.70
>>784 逆に翌日直ちに攻城戦にかかれた、と考えるほうがおかしい。
20日に戦ったのは先遣隊の高麗軍、漢軍だけであり、本隊の蒙古軍はまだ
上陸してなかったかもしれない。馬を有する万単位の軍隊が1日で上陸できる
というものでもなかろう。
また、20日の戦いによる負傷者の手当、食糧・消耗品の補給(船から運んで
兵士に配る)、隊伍の整備などある。20日の戦いは上陸戦だから軽装で戦って
いる可能性が高い。
さらに言えば蒙古軍は水城/大宰府の予備知識を持っているから攻城機械を
持って来ていたかも知れない。とすれば、それの陸揚げ、陸上運搬がある。
こう考えてくれば4日の間隔は極めて妥当である。
それにしても船を焼いてまで、と言うとは、大宰府では尋常じゃない負け方をしたのかな。
788 :
日本@名無史さん :2011/06/11(土) 10:36:13.64
攻城戦なんて数カ月、普通にかかるからな。 初撃でつぶせなきゃ、泥沼化するかどうかはわかるだろう。 泥沼化することが確実になれば、補給を考えざるをえない。 もどるときに船を焼いたというのなら、追撃を恐れてたのかな。
789 :
日本@名無史さん :2011/06/11(土) 12:07:24.05
我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦 我が軍は兵力は少ないがすでに敵地に入って戦意は上がっている、これは 孟明が船を焼き、淮陰が水を背にして戦ったのと同じである、もういちど 戦わせてくれ、 と言っているのだから焚船は例えに過ぎない。 船を焼いて覚悟を決めた孟明の兵と同様に我が兵の戦意が高い、と言っているわけ。 これはその前で「千里懸軍其鋒不可当」すなわち遠征軍は勢いがある、という のを受けている。
>>786 いくら何でも軽装の先遣隊だけで幕府軍の先駆けを一挙に蹴散らす力はないよ。
幕府軍が最初から上陸を許す前提で早々と水城に引き上げたならともかく。
もし幕府軍があえて内陸に引き込んだなら、武士は強いばかりでなく賢かったと言うことだね
関東評定伝の記述が正しければ、文永の役では大規模な攻城戦が行われ 元軍は再度の攻撃が出来ないほどの打撃を受けて引き返したことになるが、 その場合、当然幕府軍は追撃するからね。下手すれば博多の浜で皆殺しになってる。
792 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 03:33:25.61
隊列を組んで、銅鑼や太鼓で前後する歩兵 武器は短弓に手槍、青龍刀、etc... どうしてこんなどうしようも無い編成になったんだか 仮にも十年以上戦争してた国なのに
793 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 09:24:24.87
途中から見てるが武装について、弓の射程は長い和弓の方があったらしい。刀も日本刀の方が長く、中国式の短い直刀に対し斬り合いは有利だったようだ。朝鮮出兵の時も同様だったらしい。槍、大砲類は解らない。
794 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 09:38:27.05
神風はどこかの神社の宣伝だったようだ。日本のが半島に攻め込んで、1ヶ月以上釜山の海岸でうろうろしていたら負け戦である。最近言われているように当時の武士が、モンゴル指揮下の高麗、南宋軍を撃退したと、私も思う。
795 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 09:55:28.18
>>792 >隊列を組んで、銅鑼や太鼓で前後する歩兵
元軍は被征服民族で戦闘意欲の無い兵隊の寄せ集めだから
きっちり編成して、いちいち号令掛けねば戦わないんだよ。
それを高度な組織編成だと勘違いしてる学者が多い。
796 :
日本@名無史さん :2011/06/14(火) 10:20:17.65
明の初代皇帝も、元でさえ勝てなかったので、日本遠征は諦めたと言う逸話もあるらしい。秀吉の時代、半島での兵役負担が明滅亡の一因となったらしい。
>>795 まぁ多少とも軍事に知識があるならそうだよね。欧州の17世紀以降の密集隊形は兵の逃亡を防ぐ目的
だもんな。火器の発達と国民軍の創設でやっと散兵戦術が取れるようになったわけだし。
それに、日本の場合は長大な和弓や長刀を使うから、ある程度散開してないと味方を傷つけてしまうんだよな。
鎌倉武士はある意味で職業軍人の集団だもんな。 戦功をあげて恩賞を貰わないといけないから、戦線を放棄するなんて考えられない。 日本も足軽が出てくると備えによる集団戦に移行するわけで、兵員の質を陣形・戦術は やはり密接に関わってるよね。
800 :
日本@名無史さん :2011/06/16(木) 12:21:49.36
蒙古は戦利品を平等に配分する習慣があるから 個々の兵隊の戦闘意欲は鎌倉武士より劣るだろう。 鎌倉武士の恩賞への執着は異常なほど高いからなあ。 自分が戦死したら息子に恩賞を…とかいって死に物狂いで戦うから。
801 :
日本@名無史さん :2011/06/16(木) 17:28:52.35
元寇のときには日本は領土を切り取ったわけではないから 恩賞は出なかったんだよ。 与えようにも新しく得た土地がなかったからね。 まあ、これが鎌倉幕府滅亡の原因にもなるんだけど。
土地本位制的な経済システムだと 報復侵攻せんと土地が足りなくなるわな
分割相続を続けて猫の額の土地しか相続してない連中が一発逆転をかけて蒙古軍に襲いかかったら
>>803 それは、鎌倉末期に「唐入り」をやる、という仮定と考えていいかね?
805 :
日本@名無史さん :2011/06/16(木) 22:52:32.94
>>801 幕府滅亡の原因に元寇の恩賞問題を挙げる説ってまだ多数なの?
東日本の農業生産の壊滅、貨幣経済の進展と御家人救済の失敗、
高時の病弱と後醍醐挙兵への対応の甘さ、蝦夷合戦での軍事的威信失墜
元寇問題で言えば九州御家人には、鎮西探題設置のほうが大きいと思う
807 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 10:19:22.62
>>801 戦功の有った武士だけでなく、勝利の効験あらたかな寺社にも恩賞出たよ。
808 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 13:11:56.34
>>801 元冦の恩賞はでてる
ただし財源は霜月騒動(岩戸合戦)の安達方没収地だけど
809 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 16:21:12.22
810 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 16:51:04.84
>>807 >寺社にも恩賞出たよ
寺や神社の恩賞の査定ってどうやるんだろう? w
811 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 20:39:03.60
>>806 御家人の不満云々も、霜月騒動による
御内人増長の方が大きいしね。
812 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 22:06:43.73
>>808 頼綱一族を攻撃したのは武蔵七郎(塩田国時)などの北条一族や御内人
で、塩田国時は貞時から恩賞として無断遁世で収公されていた父義政の
塩田庄を返還されているぉ。
813 :
日本@名無史さん :2011/06/17(金) 22:08:07.58
塩田義政の遁世って、立場がなくなって失脚したようなもん?収公されてると言うことは
なぞ
そもそも元寇が幕府の滅亡の原因なら元弘の乱が畿内から起こって 元寇と全く関係ない畿内・東国の武士が中心になって幕府を倒した ことに対して説明がつかない。
>>810 坊主のグレード×祈祷のレベル×寺社のグレード
だいたい寺社のグレードに応じてでは?
馬はどうやって運んだんだろう 船が糞だらけになるぜ
海に捨ててたんだろ
馬糞は乾かせば貴重な燃料になるじゃん 結果的に海上で2カ月も過ごしたんだから
wikiの文永の役日本10万で弘安の役25万!て・・・。
日本刀がモンゴル兵の皮鎧にきかなかったってほんと?
824 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 09:38:06.70
相州伝て元寇が原因で生まれたとか何とか
太刀の姿が幅広に薄く、長寸になったことを取り上げて 元寇のせいだとか言われてるけど その変化が起きるのは元寇から50年くらい後だから。 現代の自衛隊の装備が、太平洋戦争の戦訓を取り入れて云々〜言うくらい無茶。
でも承久の乱19万騎、奥州合戦28万騎(公称)でしょ。実働部隊はたぶんその2割だけど 北陸や京、中国地方や東国の予備動員も含めたら意外と25万くらい行ってるんじゃないの
828 :
日本@名無史さん :2011/06/24(金) 18:29:14.78
京都以西の六波羅担当地域でそのくらいかな
>>826 でも、海自の対潜部隊が世界一なのは太平洋戦争の通商破壊作戦の影響だって言うぜ?
「軍隊は前の戦争の準備をする」っていうからな
>>823 中国側の記録に皮の冑ごと頭を割られたとか、槍の穂先を切り落とされたとか、鎧の上から着られて深手を
負ったとかあるが。
ここの最後のほうに書いてある。永山コーカン?という人が主張してるらしい。
http://www.thearma.org/essays/knightvs.htm The Medieval European Knight vs.
The Feudal Japanese Samurai?
author Kokan Nagayama contended, the "Japanese warriors had never before encountered such an enemy (the Mongols),
who was protected by leather armor and wielded a very stout sword 'clearly superior to theirs'in a unique style of fighting.
" Some swordsmiths thereafter altered their designs to narrow the temper lines and extend them around the point because
"blades with wide temper lines reaching near to the ridge line look gorgeous, but tend to break."
と言うか日本刀が効かないと言う発想がどこから出てくるのか不思議。
永山光幹
835 :
日本@名無史さん :2011/06/25(土) 20:52:33.39
刀はどっちかといえば護身用 兵器としては槍や弓。 攻撃範囲が長いのは正義 日本側も刀は最後の武器
836 :
ゴミ豚 :2011/06/26(日) 02:44:11.91
歴史にIFはタブーかもしれないが もしも元が博多でなはなく、敦賀に来襲していたら日本終わってただろうね・・・ 京都や奈良が灰燼に帰して、日本文化とか根底から消去させられてたかも知れない。 海外勢力が攻め込まなかった首都って世界史上でも京都ぐらいか?
>>836 このスレの最初でさんざん議論されて、元がかえって悲惨な目に遭うだけという結論が出ている。
>>22から読んでみるといいよ。
高麗からじゃ敦賀への渡海じたい難しい。日本海の幅が一番広い所を渡るから 鬱陵島→隠岐→山陰のルートですら厳しい もっとも守る側はどこに上陸するか分からないから、御家人を総動員するけどね
>>835 アニメ板ならいざ知らず、この板にまだこんな釣りをする奴がいるとは。
>>835 鎌倉時代は槍はまだ殆ど無いよ。
鎌倉武士といえば馬上からの弓射だけど、長ものとしては薙刀とかの時代だね。
銅鑼を鳴らし、陣を組んで盾と手槍で前進してくる高麗+南宋兵を騎射でさんざん射すくめ、
長巻でなぎ払う、と。
あれ、鎌倉武士めちゃくちゃカッコよくね?
>>838 史実元寇みたいに御家人を張り付かせておく必要はないんじゃない?
京都の周りはなんだかんだで西国武士団がいるから、元軍が上陸した、と言われてから
動員かければ京都までのどっかで迎撃できるだろう。
若狭街道があるとは言え、大軍を高速展開出来る土地じゃないし、船できた時点で輸送の
為の馬匹も少ないわけで進軍速度は遅いだろう。
842 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 22:03:25.28
843 :
日本@名無史さん :2011/06/26(日) 22:36:19.61
須磨に上陸すれは京都はすぐだ!!
チョンの槍って短くて日本でいえば手槍レベルのもの。江戸時代に武士の娘が護身用に使った 長刀よりも短い。鎌倉時代は徒歩武者の武器として使った長刀の方が長いから、チョンの槍の リーチ外から奴らの頭上に振り下ろせた。しかも、遠心力で勢いついているから、ヤツラの皮の 冑など西瓜のように割れまくり。
845 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 00:12:08.72
>>843 幕府は文永・弘安の両方とも長門(山口県)・安芸(広島県)
の両国に動員令を発しているから蒙古が関門海峡を通って
瀬戸内海に侵入し京都を攻撃すると考えていたのかも。
846 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 00:23:38.87
蒙古襲来絵詞に刀で戦ってる場面出てなかったっけ
847 :
ゴミ豚 :2011/06/27(月) 01:18:04.88
若狭ルートは完全にNGだったとして、他ルートの可能性なかったのかな? 本命突くための陽動作戦とかモンゴルの十八番でしょ? 弘安の役のとき、仮に先発の東路軍と後発の江南軍の折り合いが着けば、 東路軍を博多に釘付けにして、その隙に江南軍は畿内に侵攻とかあり得ないかな?
848 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 03:46:40.71
南九州無視はダメだろ。 島津家を無傷で置いといちゃいかん
源平合戦からの瀬戸内水軍の巣を無傷で突っ切れるとでも? スカパフローに水上艦で突っ込むみたいなもんだろ、それ。
関門海峡+若狭方面は幕府も警戒してた 長門にも防塁築いてたし、長門安芸に動因令出してる。これで関門・若狭は警戒済み。 それに策源地の見込みもなく、一気に瀬戸内海や若狭行くのは考えられないんじゃ? 博多を策源地にしないと、九州南回りルートも補給路が確保できないからNG。 仮に上陸地点を二分するなら 博多の他には、関門海峡側から長門か豊前か筑前に上陸なのかなぁ どちらにせよ長門上陸は、補給の関係で凄く冒険だね。 長門から上陸して畿内目指すなら完全に補給捨ててる。 大軍だけに現地での徴発で賄うのは非現実的。 一日一食とかで京都へ行けばたらふく食える!必至になれ!は背水すぎると思うの。 関門海峡側から筑前又は豊前は、上陸できれ海と陸から博多を挟撃できるけど 中国地方と南九州、四国と最悪(背後を含めた)三方面から敵を受けるので無理じゃない? 博多は挟撃してるけど、上陸軍は敵中に完全に孤立してる状態になる あとは肥前と筑前の二面かな でも地図見れば分かるけど対馬-筑前で補給路確保するのが最短ルートで肥前行くと遠回りなんだよね こう考えると筑前の博多に兵力集中させるのが一番効率的 樺太・北海道制圧してとか、もしくは津軽からか・・・とか考えると やっぱり史実の元軍の進路は至って真っ当で一番確実かと 話し変るけど元って樺太までは行ってたんだっけか? いやこれって清だったかなw
サハリンに攻め込んでるよ。
>>848 鎌倉武士団が送り込んだ頼朝の乳母筋の島津氏と島津に取り込まれた、藤原氏秀郷流/源頼朝落胤説の大友氏。
大友に取り込まれた、源融筋の松浦党蒲池氏。
薩摩藩と成った島津氏に植民地化された、琉球沖縄。
その島津氏鎌倉武士団つきの松浦党出身だった、江戸時代の平戸松浦時代まで、出島貿易を担当していた、島谷市左衛門。 その子が、小笠原諸島を江戸代官:伊能と探検した巡検士隊長で、北海道測量の島谷一族:最上徳内もだし、代々、松浦氏族が、日本周辺海域を守ってきた事に成りますね。
855 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 16:11:02.63
上の方で日本側の動員数が10万ってのは 多分、各地の上陸地点に合わせて警備させた 武士全部を合わせた数で実際に戦った武士は やっぱり精々5000くらいなんじゃね? まあ、ウィキに書いた奴は元軍の方が少数だった という印象をつけたいみたいだけど それならそれで、鎌倉幕府は当時の時点で 本気出したら10〜20万くらいの兵力は余裕で 動員出来るような超大国だったって事になるわけで (下手すりゃ十字軍時の全キリスト圏の兵力より多い) そんな国にたかだか数万程度で攻め込んだ元軍はやっぱ馬鹿と言うことになる。
856 :
日本@名無史さん :2011/06/27(月) 22:33:28.38
日本は昔から人口多いからなあ 食糧豊富だから
>>855 ば、馬鹿じゃないもん!
予期できないくらいの未曾有の暴風雨に負けただけだもん
858 :
ゴミ豚 :2011/06/28(火) 01:54:20.42
>>851 何のために…
ていうか、モンゴルは寒さに強いので寧ろ有利かな。
真冬にサハリン⇒蝦夷ヶ島⇒奥州街道を縦貫して関東に攻め込めば、或いはもしかして…
ああ、補給どうすんだって話だ。牧草とかも無いし。
wikiはあっちの人が書いてるから参考にしちゃだめ。
860 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 08:21:54.91
>>858 源平〜南北朝の武士の携行食糧は「干し飯」だったけど、
モンゴル軍の携行食糧は干し肉だった。羊の肉を干して、さらに叩いて
でんぶ状にしたものを持って、ヨーロッパまで行ったらしい。
それで1年ぐらいはまかなった。
もちろん「歩く食料」も併用だけどね。
861 :
日本@名無史さん :2011/06/29(水) 08:25:16.06
訂正。 でんぶは繊維状だからかさばるね。するめ状と言ったほうがよかった。 するめ状であって、叩いているからするめより柔らかい。 干し飯と同じように水に戻すだけで食べられる。
862 :
訂正 :2011/06/29(水) 09:32:37.65
>>855 『吾妻鏡』には東国最大の勢力であった上総介常広が頼朝の挙兵に応じて二万旗を率いて参じたとある。
一つの豪族で二万旗を動員できるんだからが十万の動員数は簡単だろう。
昔から日本は人口大国だったんだよ。
>>858 攻め込んだと言っても、蒙古との取引でアイヌに内紛が起きて、安藤氏の一族らしき者が殺されたとか、
その程度の話。網野善彦が昔挙げていた説
864 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 12:49:45.35
>>846 あるね
船上での場面で
槍で防戦する蒙古高麗兵相手に日本刀で攻め込んでる
865 :
日本@名無史さん :2011/07/04(月) 12:55:25.37
接近戦になったら弓は使えない
昔の水軍の戦は最後は接舷しての切り込みだったものなあ 日本刀は振り下ろすとよく切れるし、室内戦闘に近い船上では非常に効果的だったかと
>>866 確かに。17世紀から18世紀のカリブの海賊もアボルダージュしたあとは、カットラスで切込みだよな。
868 :
日本@名無史さん :2011/07/06(水) 00:08:31.87
最終的には切り合いだろ 近代でも砲撃戦の後に歩兵による白兵戦で敵を制圧するわけだし
幕末の宮古湾海戦の時はもう接舷切り込みは時代遅れになってたでしょ
モンゴル人と話をする機会があったので、モンゴルでは元寇について歴史でどう教えているのか聞いてみた。 そしたら、結構とんでもなこと言ってたよ。日本に遠征した時は、戦う前に船が台風で沈んで失敗したので、 戦いで勝っても負けてもないとだとさ。 それから、バトゥのヨーロッパ遠征のことも知らないみたいでリーグニッツの戦いのこと話したら、「本当に ドイツやポーランドまで攻めていったのか?ロシアまでじゃないの?」てな感じだった。一方で、リーグニッツ の戦いではモンゴル側3万の兵力で約5万のドイツ・ポーランド連合軍を半日で撃破したということを言ったら、 「戦争に強いドイツ人だから、5万で我々モンゴル人の相手が出来たが、中国人で同じくらい持ち応えるには、 その10倍の兵力が必要だろう」とそういうところだけは都合のいいこと言ってくるんだよな。
社会主義時代はチンギスハンのこと教えないようにしてたから仕方ない だが、それ以降に学校に通ってバトゥの遠征も知らないモンゴル人は、授業サボってただろw
872 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 17:29:01.86
「日米両国は150年間平和でした」と日本の国会で演説したアメリカの大統領もいたじゃん
今のところ、戦闘が詳細に考察されてる最高の「元寇」本ってなんだろうか? ワンパの八幡愚童訓によれば・・・は正直うんざり。
874 :
日本@名無史さん :2011/07/07(木) 20:50:00.71
だから、竹崎季長・・・・・・・当然うんざりだろうな W
元寇関連本は九割うんこ
2 : あ 神風はプロパガンダで、んなのないって結論が出てるんだけどね 後、日本VSモンゴル軍は海戦っつか陸戦メインで戦ってる 連れてきた馬が船酔いしたんじゃね?とは言われてるけどね。基本は不意討ち闇討ちでフルボッコにしてる 何でも一回目の戦争で「名乗り」が通用しなかったから蛮族に礼儀はいらないと思ったらしい 2011年07月08日 00:04
3 : モンゴルが日本に負けたのは海戦に弱かったせいだ、て言われてるのは嵐でぼろぼろになったりとかそーいうとこも影響しているだろうけど、 実際のとこは夜間の日本の小舟による奇襲でかなりダメージ受けたのももちろんだが、陸上での歩兵戦闘だとモンゴル軍の歩兵が日本の足軽や武士に圧倒されていたのが事実。 彼らは集団による騎馬戦は得意だが歩兵による上陸戦なんてほとんど経験ないしね。
878 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 11:49:09.43
下馬騎兵が歩兵としてメインで戦ったってこと? なんか、釈然とせんけど。
879 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 13:25:26.11
足軽だの下馬騎兵だの、戦国時代か
鎌倉時代は徒歩武者というのだ。
881 :
日本@名無史さん :2011/07/08(金) 23:57:08.35
奇襲上陸で安全な場所に上陸出来れば侵攻過程の80%は成功したんじゃないかな。 例えば、門司辺りならどうだったんだろ。 あの辺りは海の近くに小高い山、狭い平地で、 反撃に出てきた武士団に対する要害としても最適だと思うのだが。
その場合、まさに籠城になってしまうでしょ。初期の目的を達成できないじゃん 元軍は「侵攻」するために来てるんだから
883 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 14:11:18.97
シナ人&韓国人はいまだに日本人の戦争責任を追求し、賠償しろなどと言うが、元寇の件はどうなるのだ? 元軍の先発隊の韓国人に対馬の住民は皆殺しに遭っている
884 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 17:49:25.87
>>882 いや、それでいいんだよ。
外征での要点は敵を屈伏させること。
それがだめなら、疲弊させること。
日本国内の要所に拠点を築き、こもって日本側の反撃を数度撃退すれば、
日本側の結束を崩せる。
少なくとも“神国日本“などという自信は崩せるだろう
門司であれば、調略を進めることで、瀬戸内の海賊を手懐け、将来的には京にまで脅威を及ぼせる
どうだろう?
885 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 18:01:52.00
崩せない崩せないw 長門方面と九州方面から挟み撃ちにあい、壇ノ浦になるのがオチ なぶり頃されるよ
886 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 18:51:57.98
>>885 海戦しろなんて、一言も言ってないぞ?
なんで壇の浦?
そもそも、元軍じゃ操船しながら、あの逆巻く海峡で戦えないだろ
887 :
ぶっさん :2011/07/09(土) 18:55:50.36
>>883 待て待て、倭寇と朝鮮出兵で報復完了してんじゃん。
888 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 19:08:18.15
朝鮮出兵は引き分けなんだから報復でもないんじゃね?
多民族国家なら調略も効くのだろうけど、御家人から寝返りが出る可能性はまずないね。 元軍は門司から動けず干上がって降伏するほかない
890 :
ぶっさん :2011/07/09(土) 22:38:01.03
陶工とか連れ去って返してないじゃん。 早く返してよ。
891 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 22:45:39.82
>>890 帰りたくないって言ってたらどうするの?
892 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 23:00:56.38
>>890 これこれ朝鮮人よ、何時の時代の話をしているのじゃ?
元寇から、いきなり戦国時代末期まで話を飛ばしてオツム大丈夫か。
ふと思ったんだけど、 日本がせいぜい部族単位でまとまってる遊牧経済の国か、 大小の城塞都市からなる農耕経済の国だったら、 もしかしてモンゴルも戦いやすかったのかな?
894 :
日本@名無史さん :2011/07/09(土) 23:42:54.51
俺もそれは思った。日本は古来から都市に集住してるわけじゃないから、 元軍がしたように、博多という都市を狙っても、日本征服には影響がなかったんじゃないかと。 そうなると、軍事力による完全征服よりも、調略や奇襲による朝廷要人奪取などが効果的だったんじゃなかったかなと思う。
>>886 海戦とかではなく、平氏一門のように逃げ道を塞がれてしまうと言うことでは?
博多湾は壱岐対馬への退路を残しているが
>>894 日本は異民族の支配を受けたことないから、異民族に降伏するということ自体全く考えてないだろ。
元の書簡に対しても、朝廷側が取り敢えず用意した返書も「今まで聞いたこともない藩国が神国に対して
無礼なことを言うな」という内容だったわけだし。
897 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 00:33:15.51
朝廷要人(というか皇族)奪取で擁立出来れば、体裁としては異民族に降伏ではなくなる。 まあ当時の高麗王の感じなんだが。
898 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 01:31:53.47
>>896 >異民族に降伏するということ自体全く考えてないだろ。
戦わずして異民族に降伏する国はないだろう w
899 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 10:26:41.74
>>896 異民族に朝貢して冊封された歴史はなんぼでもあったくせに。
遣唐使だって、国内向けには対等をアピールしてても、実際には朝貢外交だったのは常識。
>>898 内訌が激しくて保身のために異民族を引き入れた国はいくらでもある
>>897 無理だって。朝廷は「お前らふざけんな」と返書を出そうとしたら幕府がそれすら辞めろと言ったわけで
ああ、かぶっていたか…
元寇もう飽きた 刀伊の入寇の方が電波スパークリングで面白そう
その頃皇族の血にそんな大した権威があったのかね。 敵方の幼い天皇海に沈めて出来た政権じゃなかったっけ。その血も三代で途絶えて?乗っ取られてんじゃなかったっけ? そもそも奪取自体に現実性が無いけど。 日本の中央部を武力制圧するか、単一民族の国で異民族の集団が隠密行動で侵入するか。 九州奪取の方がまだ試みる価値はあるんじゃないの、微々たる可能性にしろ。 高麗とかそもそも実力で圧倒されてる前提の話じゃないの? それは征服の為の手段ではなく、統治の為の手段に過ぎないのでは? まず武力制圧してからの話じゃないの?それは。
>>904 鎌倉幕府はなんだかんだ言って調停からの権威付けを必要としてたよ。
承久の変の時も、後鳥羽上皇始めとする皇族が直接出馬してきたら、戦わずに
講和の話し合いをしろと北条義時は泰時に指示してた。
それに、将軍だって皇族から迎え入れてきてたしな。
>>905 でも兵を引くわけでもないし、無論後鳥羽上皇に降ったわけでもない。
というか後鳥羽上皇は島流しになってるわけだ。
その程度の権威でしょ。
鎌倉幕府が必要としてたのは「朝廷」との関係であって、 皇族ではない。 皇族の99%が元に取り込まれたとしても、一人皇族を抱えてればそれで事足りる。 全員取られても、どっかから「見つけて」くれば済む話。 やっぱ現実性無いわ。
908 :
日本@名無史さん :2011/07/10(日) 21:51:06.43
鎌倉幕府にとっての必要性ではなくて、各地の御家人をまとめる柱になりうる人物だよ 平氏の末裔で、名の通った人物はいないかな。 その人物が反幕府であればなおさら良いが...
909 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 00:29:39.76
>>900 それは降伏ではなく同盟関係になったわけだろ
降伏と同盟の違いわかる?
910 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 06:55:07.49
今年の博多祇園山笠の天神一丁目の飾り山は季長元寇武勲
911 :
日本@名無史さん :2011/07/11(月) 14:16:35.95
竹崎季長が恩賞を貰えたのは色々な人脈が有ったからでは? 季長と同じように鎌倉へ恩賞申請にいったのはかなり多かったと聞いております。 季長が何故恩賞を貰えたのか? 一番目は下関の鳥帽子親三井季成の歓待(馬・銭)を受ける。 季長は馬・銭の餞別を受けて喜ぶが、一説には費用を出してくれないとか 愚痴めいた事を書き遺しているようです。(これは本当かどうか分からない) 二番目は三井季成の上司二階堂行忠(?)の妹か娘が安達安盛の兄弟に嫁いでいる。 三番目は季長が直に逢ってもらえたのは同郷のよしみと言う事は安達一族は肥後国の 守護に任ぜられていたのか? 季長が一介の只の御家人だったら恩賞は貰えて無かったのではないか?
913 :
日本@名無史さん :2011/07/13(水) 23:59:42.01
なんか、天皇の権威を軽視している奴が多いけど、鎌倉幕府を倒したのは後醍醐天皇なんだぜ? 元軍が皇族を擁して、鎌倉とは別の御恩と奉公の関係を築けたら、 どうころんだものだか分からん。
持論にこだわるのも結構だが、その朝廷が無礼だと言う返牒を出そうとしてんだから あ り 得 な い っての。神国思想は元寇「のあと」に始まった話じゃないんだから
なんか、天皇の権威を過大視しているやつが多いけど、尊氏は後醍醐の皇子を殺しまくったんだぜ? 元軍が皇族を擁して、鎌倉とは別の御恩と奉公の関係を築けるわけがないし、 どう転んだものかは目に見えている
916 :
日本@名無史さん :2011/07/14(木) 17:20:55.88
陣中食は各自、自前か? 幕府幹部だけ豪華な陣中食で顰蹙買うとか有ったの?
>>647 首藤経俊の矢のエピソードなんかが例になるんじゃないかな
モンゴルの留学生に和弓を見せたら、でかさに驚いていたよ。 更に、それを馬の上から射るのだと言ったら二度びっくり。 そして、彼の感想は確かに遠くまで飛ばすには有利に見えるけど、騎射するなら射程が 劣っても、相手も動いてるんだから、短い弓で次から次に射た方がいい筈だと言ってたな。 モンゴル人も遠射なら和弓という意見だった。
和弓は次から次に射るんじゃなくて一撃必殺だからな 相手が刀を振り上げた時に喉辺りに出来る隙間を射れとか無茶言ったり
日本はやはり速射を犠牲にしても狙撃をやると言う主義なんだよな 普通は半弓のほうが扱いやすいし安心だと思いそうなものなんだが 実際それで勝ってるから仕方ない。和弓の威力は凄まじい
>>918 遠くに「飛ばす」と言う発想…でもないからなあ。文字通り射殺
あんなゴツい鎧着てたら長弓で近距離から射るような、威力優先に進化せざるを得なかったんだろう。 それでも組み討ちが多くなっていったり、大太刀でドツき合うようになるんだから、 やっぱり大鎧着た相手を確実に殺害するには、長弓でもまだ威力が不足だったのかもしれない。
923 :
日本@名無史さん :2011/07/15(金) 12:40:24.49
この時代に射殺専門の スナイパーは居たのか?
モンゴルでもナーダムの弓競技では、徒歩で遠くの的狙うから、 騎射用の短弓より大きい弓使ってるよ。 だから、モンゴル人からしたら大きな弓=遠くに飛ばす為と 思っちゃうんだろうね。
>>915 尊氏も清和源氏の末流だから、皇族同士の争いだろ。
鎮西八郎はわりと間隔を開けて強い膂力で射ているが、 都育ちの能登守教経は矢を受け取り受け取りして短時間で鎌倉の軍兵を殺傷している 実はアベレージヒッターでもある
これが「教経=モンゴル人」と言われる由縁である
>>926 一方、鎮西八郎は一矢で2人を殺していた
いわゆるスラッガーである
パワーだけなら為朝>教経だが、総合力では教経>為朝 和弓でも歩射なら彼のように充分に速射可能だっただろう
>>928 しかし、馬では大庭の爺さんに馳組戦で負けてるレベルだろ。
その2人だって的になりに出てきてるようなもんだし、そりゃ為朝には楽な相手だよ
>>922 和弓がどう進化したの?なんか文献でもありますか?
あれば教えて欲しいです。
和弓は魏志倭人伝のころから、進化してないと思ってるので。
これは日本人のルーツにもかかわることです。
>>931 > 和弓は魏志倭人伝のころから、進化してないと思ってるので。
弥生時代から戦国時代まで丸木弓を使っていたと思っているのか?
頭大丈夫か?
ブラジルの首都も攻め込まれてないと思うぞ
米英戦争で焼かれてるだろう>ワシントン
ブラジルも旧首都のリオは入植者どうしで戦争が起きてる。 近代までの首都が外国人に攻撃されていない大国は確かに稀。
937 :
日本@名無史さん :2011/07/17(日) 23:44:25.02
蒙古軍は性欲処理は どうしていたんだ? 船にセックルする為の 女は連れて来たのかな?
馬か羊じゃね?
939 :
日本@名無史さん :2011/07/19(火) 09:05:37.56
北京→義和団討伐 台北→清残党一揆 漢城→朝鮮戦争 平壌→日露戦争 マニラ→太平洋戦争 ジャカルタ→? バンコク→タクシン一揆
>>931 銅鐸の画像を検索するでゲソ。
あれに刻み込まれた狩人が和弓らしきものを使ってるでゲソ。
>>932 プッ!!
おまえ、あたま、ぢじょうび〜〜?
材質だってよ。そんなもん時代で変遷すのに決まってんだろボケ!
形式美のこと言ってんだよ!
馬鹿には解らないと思うけどね!
>>941 文章を見る限りお前の頭の方が心配なんだが
943 :
日本@名無史さん :2011/07/24(日) 02:21:55.91
教えてください。 「八幡愚童訓」には幾つかのバージョンがあるとのことですが、つぎの文はどれに該当するのでしょうか? 『然ル処に十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ馬ニ乗リ、旗ヲ上テ責懸ル。日本ノ大将ニハ少弐入道覚恵ガ孫纔十二、三ノ者箭合ノ為トシテ小鏑ヲ射タリシニ、蒙古一度ニドツト咲フ。太鼓ヲ叩銅鑼ヲ打チ、紙砲鉄砲ヲ放シ時ヲ作ル。 其の声唱立サニ、日本ノ馬共驚テ進退ナラズ。馬ヲコソ扱ヒシガ、敵ニ向ント云事ヲ忘ル。蒙古ガ矢ハ短シト雖モ、矢ノ根ニ毒ヲ塗リタレバ、中ル程ノ者毒気ニ負ズト云事ナシ。 数万人矢鋒ヲ調ヘ雨降ル如ク射ケル上、鉾長柄、物具ノ罅間ヲ差テ外サズ、一面ニ立並ビテ、寄ル者アレバ中ヲ引退キ、両方ノ端ヲ廻合テ取籠テ、残ル所無ク討レケル。』
>>943 軍事板か歴史難民板の武士スレのほうが詳しい人多いんじゃないかな?
もちろんここの武士スレでもいいけど
945 :
日本@名無史さん :2011/07/28(木) 20:06:51.64
>>944 943 のバージョンを素直に解釈すると、従来の色々な定説が違うものになってしまいました。
このバージョンの加筆変化版として八幡宮愚童記上下(表紙に「八幡宮愚童記 上代及蒙古ノ侵寇ニ関スル俗傅ナリ」と付箋付き)がありましたが、少しの加筆により解釈がまったく異なるものになっております。
943 バージョンの元を知りたいものです。
>>943 のバージョンを素直に解釈したら定説になる気がするが。11月20日は10月20日の間違いでしょ
947 :
日本@名無史さん :2011/07/30(土) 19:27:25.11
>>946 あなたが解釈した10月20日と書いてある「八幡愚童訓」のバージョンを教えてください。まさか旧暦の換算ではないでしょうね。
だから旧暦十一月二十日に攻めてくるわけがないんだから、誤記でしょ?!
旧暦11月だと新暦の12月。荒れ狂う日本海を渡ってきたら日本に付く前に壊滅するよね。 文献解釈と同時に、現実だとどうかを考慮するべきでは? 文献に書いてあるから、だけを振りかざしてるのは学者馬鹿としか言いようがないですよ。
950 :
日本@名無史さん :2011/07/31(日) 11:33:57.74
>>948 誤記かどうかは分からないが、私が知りたいのは
>>943 のバージョンである。
>>949 元の至元11年10月は文永11年11月にもあたるし・・・。宣明暦なのか、神社・神道では違う暦を使っていたものか(?)・・・。
この書「八幡宮愚童記(訓)」の著者は京都岩清水八幡宮の祠官であり、八幡神の霊験を説くために書かれた書物である。
たまたま、他に史料がない「元寇」の記載があるために注目されているが、中世的思想に基づいた荒唐無稽な記載もあり、実際の元寇戦を見ていなく、後から聞き語りを記述した可能性がある。
また、この書物は「上代及蒙古ノ侵寇ニ関スル俗傅ナリ」と付箋が貼られているような書物で、加筆、減筆、軍記物に書き換えなど、面白おかしく伝わってきたこともあり、幾つかのバージョンがある。
951 :
日本@名無史さん :2011/07/31(日) 12:29:57.12
ここで聞いてるより図書館に行って調べた方がはやいんじゃない?
952 :
日本@名無史さん :2011/07/31(日) 12:44:43.04
>>951 了解。いろいろありがとうございました。
953 :
日本@名無史さん :2011/07/31(日) 14:43:41.80
鉄砲という言葉が出てくるけど、現在一番古い写本と言われている筑紫本 には出てこないし群書類従本にも出てこない。 多分、近世に入ってからの写本だと思う。
今フジテレビのYoutubeの公式チャンネルのコメント欄が凄いことになっているが、 これは現代における元寇に対する日本人の奮戦と思う。 鎌倉時代だって日本人は、奮戦したのは間違いない。
竹崎に向かって弓を射る蒙古兵3人はいつの頃の書き足しなの あそこでもテツハウが爆発してるような描写あるよね
956 :
日本@名無史さん :2011/08/03(水) 00:51:01.60
「蒙古襲来絵詞」は、「季長」と記入してある絵以外は書き足しの可能性がある。 「なぜ書き足す必要があったか」を考えて見ると、他の箇所も書き足し、補正がある。 特に「蒙古兵」の絵は、「八幡愚童訓」に合わせて追加されているようで、絵が稚拙。
957 :
日本@名無史さん :2011/08/03(水) 10:40:50.48
蒙古兵は壊血病には ならなかったのかな? アイラグとかでビタミン を補給していたとか?
958 :
日本@名無史さん :2011/08/04(木) 22:32:05.57
負けていれば、日本国どうなっていたのかな。今のような形で存在していないかな 元寇は史上最大の国難だったのでは、東日本大震災は元寇以来の国難だが、国が他国の 占領下になるようなことはないので鎌倉幕府に感謝、神風の偶然も幸運でした
太平洋戦争知らないの? 元寇なんてどうやって負けてやるのかわからん
>>957 長期の篭城戦や航海で食糧の品目が限定された場合に多いようだね、壊血病
乳酒の他に、茶や家畜の血・肉・内蔵もビタミンC補給に役立つという話もある
大して期待できないという話もあるがw
漢人や高麗人の食生活は知らんが、蒙古人にしたって壊血病になる前に日本に辿り着いて壊血病になる前に撤退を決意してると想像できる
あ、元軍が壊血病を意識して作戦行動をとったって意味じゃないからね
961 :
日本@名無史さん :2011/08/05(金) 02:15:37.73
壊血病の典型的な症状は下記のようなものですが、実際に症状がでるのは、3〜12か月以上の長期にわたる高度なビタミンCの不足が継続した場合だけです。 ・倦怠感、脱力感、体重減少、鈍痛 ・皮膚や粘膜、歯肉の出血、歯の脱落 ・創傷治癒の遅れ ・低色素性の貧血 ・感染への抵抗力の低下 ・古傷が開く
東路軍が5月初めに出発、7月初めには残兵掃討が終わってるから壊血病ではないな。
ts
964 :
日本@名無史さん :2011/08/09(火) 02:36:00.32
日本の大陸進攻を決意させた主因が元寇であるって解釈でいいの? 元寇以前に日本と朝鮮でトラブルはなかったのか
戦乱に勝ちぬいて強大な軍事政権が確立されたなら、その強大な軍事力が 外に向くのは日本だけではなく世界史の常識だと思うけど
>>964 >元寇以前に日本と朝鮮でトラブルはなかったのか
あった。
古くは朝鮮半島側へ遠征して大きな戦争も合ったし、
九州側に攻め込まれた事も合ったし。
・弘仁四年(813年) 新羅の賊110人が五島・小値賀島に来寇。日本人9人を殺し100人を連れ去った。「弘仁の韓寇」 ・貞観十一年(871年)5月22日夜、新羅の船2隻が博多湾に侵入し、豊前国の年貢を奪って逃走。「貞観の韓寇」 ・貞観十五年(873年) 朝廷は、出雲、石見、隠岐等国に命令を下して、新羅の賊行為に備え、警戒を固くさせる。 新羅の賊船が日本海に展開する。 ・元慶四年 (880年) 但馬国に新羅の不審船が出没し、但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐国等に、改めて厳戒体制が敷かれる。 ・寛平六年(894年)6月、新羅から賊2500人が45隻の船で対馬に来襲。文室善友らが士卒100人を率いて防戦にあたる。 これに加えて島分寺の僧・面均など島民も戦闘に参加した。新羅側は戦闘で302人の戦死者を出して引き揚げる。 捕虜を問いただすと、新羅の国王の命を受けたとのこと。「寛平の韓寇」 ・延喜六年 (906年) 隠岐に新羅船が出没したが、台風により沈没。 ・天慶五年 (943年) 隠岐に新羅の賊船7隻が漂着。賊か難民かは不明。 ・長徳三年(998年) 高麗の賊が壱岐対馬を侵して肥前に迫り、奄美島民が筑前筑後薩摩壱岐対馬に攻め寄せた。「長徳の入寇」 ・長徳四年(999年)2月、高麗の賊を大宰府が討伐する。9月南蛮の賊を大宰府が討伐する。 ・長和三年(1014年) 高麗の賊が攻め寄せ、大宰府が討伐する。 ・寛仁三年(1019年)、50余隻の船団が来襲し、壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らし、 物資を奪い家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。博多に迫る。 日本側は、大宰権使藤原隆家・大蔵種材や在地の豪族らが応戦撃退。逃げる敵を追って船三十艘で追撃。ついに追い払った。 戦闘は十数日間に渡った。「刀伊の入寇」 ・承徳元年(1097年)、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。大宰府官兵・九州軍士大いに守り、賊船を撃破し賊徒数万を海没させた。 元寇までの外国からの侵略の中で最大規模のもの。この時は民衆からも兵を募ったと考えられる。
南蛮ってなんだろ? 琉球とか?台湾ってことはないだろうし。
969 :
日本@名無史さん :2011/08/11(木) 21:00:20.58
>奄美島民が筑前筑後薩摩壱岐対馬に 奄美島民凄すぎ。 何か頭にくることでもあったのかな
970 :
日本@名無史さん :2011/08/12(金) 09:35:50.08
奄美が倭寇の拠点になってたってことかね。 平戸がそうだったらしいけど。
971 :
日本@名無史さん :2011/08/14(日) 20:10:58.58
>>964 というか、途中でやめるなら
1地方を治めた程度で他の勢力と和睦を結ぶだろ
全勢力を支配下に入れるってことは隣り合った敵をすべて倒していくって言う事と同じなわけだし
あの時代に国境の区切りはあんま利関係ないし
>>970 平戸がそうだったらしいけど。
それ、デン髪の清国水軍に江戸時代だか明治時代に薩摩の要請で佐世保港を平戸藩に貸すようお願いされてた件の末期の倭寇だろ。
台湾攻めの中国水軍。
奄美は、純友の時代からむ中期倭寇の河野水軍や下松浦水軍の拠点じゃね。
上松浦の松浦党は、光源氏の家柄で上松浦の時代は、聖徳太子の時代から藤原純友の時代を経て、元寇や初期倭寇に活躍した水軍ですね。
974 :
日本@名無史さん :2011/08/15(月) 01:18:00.06
>>973 平仮名、片仮名、漢字は使ってますし、文法の誤りも無いですよ
句読点の正しい使い方を覚えような、 話はそれからだ。
接続詞の使い方が間違ってるんで何言いたいか分からないんですよ<文法
>>972 すまんね。
眠かったもので・・
理系なんで、昔は、文学に興味無くて、最近、趣味でルーツ探ししてネットで書き込みだしだからね。
手紙も年賀状も、出す事無かったな・・
面倒臭くてね。
精々、仕事での報告書とか転職時の履歴書止まりだわぁww
いや、お前、仕事の報告書ほど文章力いるものないだろ。 触れるとマズイことをわざとらしくないように回避したり、 どうでもいいことをさもすごいことみたいに強調したり。 上司を立てながらさりげなく自分の功績をアピールしつつ、 なにかあった時の責任が自分に来ないようにしたり。 By 公務員 ひょっとして民間はもっと適当に文章作るの?
980 :
日本@名無史さん :2011/08/16(火) 07:59:58.23
元史日本伝の「冬十月,入其國敗之。而官軍不整,又矢盡,惟虜掠四境而歸。」 は読み方としてどっちが正しいんだろうか? 「この国に入り敗ろうとする」なのか。それとも「冬十月,入其國,敗之(その国 に入り、これを敗る」なのか。両方の意味が天と地ほど違うし、前者なら元側は文永の役 は敗北と認識していたことになる
>>980 普通に読めば、「之を敗る。しかれども、
(損害がひどくて、あるいは反撃に堪えられなくてとか、詳細はわからんが戦線維持ができなくなって)
官軍整わず、矢が尽き、云々かんぬん」だろjk
要するに、上陸戦か、上陸後の緒戦は優勢だったんだろ
でもそのあとたちまち力尽きちゃったことは事実なわけだよ
岩波文庫の中国正史日本伝だと「冬十月、その国に入りこれを敗らんとするも」としているが やはり「之を敗る」が正しいな。高麗史でも「倭兵大敗伏屍如麻」と緒戦の元軍の優勢状況 は一致している。 さらに元史の「而官軍不整。又矢盡」と高麗史の「小敵之堅,大敵之擒,策疲乏之兵敵日滋之衆,非完計也,不若回軍」 の両方の記述からも次第に元軍の戦況が苦しくなってきている状況が一致している。 元軍が優勢に戦いを進めていたという日本軍というのは少弐景資の部隊なのか、それとも元軍が壊滅させた対馬や壱岐、松浦党 のことを言ってるのかはよくわからんが。
983 :
日本@名無史さん :
2011/08/17(水) 20:24:02.88 要するに予選で日本に勝ってホルホルしてたら 本戦でボコボコにされたWBCの韓国みたいなもんか