1 :
日本@名無史さん:
邪馬台国について語りましょう。
2 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 02:33:17
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
出来るだけソースを出して後はお好きに!
/^) /^) /^)
♪ ./ /_,∧ / /_,∧ .//_,∧
/ /・ω・) / /・ω・) / /・ω・) ♪
/ /o / /o / /o
./ 〈 ./ 〈 ./ 〈
し' ̄(_) . し' ̄(_) . し' ̄(_)
前スレ
邪馬台国総合スレッドPart98
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。荒しはスルー。
3 :
サガミハラハラ:2010/10/11(月) 11:27:34
邪馬台国は佐賀県小城市甘木で決定です。卑弥呼の墓は小城公園内の桜ケ岡(サクラオカ)です。
これからはこれをふまえて議論しましょう。
4 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:36:47
5 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 19:10:31
>>3 その結論を踏まえると、サガミは漢文の読み方を知らないと結論づけることが
できます。サガミは学校に行かなかったのでしょうか? みなさん、どう思い
ます。
6 :
サガミハラハラ:2010/10/11(月) 21:46:10
はい確かに中国の学校にはいっていません。
しかし、日本人に漢文を読ませてもわからないなら、中国人に読ませりゃ簡単にわかるだろうとは普通かんがえるのであるが、
面白いことにこれがうまくいかない。中国に駐在したとかの人が研究会にはいってきたりしても、倭人伝の解釈がうまくいかない。
評判倒れのようなものだ。
この理由は、当時の中国語の文法等が今と異なるのではないかということがあげられる。
となると、日本での古来の漢文読みのほうが古の文献解釈に有効なのではないかと思われる。
7 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 10:43:43
やまたい
部屋に隠れてひとり小城羊羹を食べる卑弥呼
9 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 17:41:06
サガミさん
桜ヶ丘はこっそり掘ることとか出来ないの?
何か見つかれば教育委員会とか動くんじゃないの?
10 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/15(金) 17:51:04
>桜ヶ丘はこっそり掘ることとか出来ないの?
あの辺は、日本武尊が熊襲を討った土地。
もし、熊襲の墓が出てきたら大変だろ。
11 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 01:36:54
こっそり掘ったら、教育委員会より先に
警察が動くというものでしょう。
埋葬施設があるなら、お祓いをしないと。
13 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 08:22:36
こっそり掘って何か出てきても証拠能力が無いのでは。
安本美典氏の東遷説(卑弥呼=天照大神)に同意。
15 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 06:37:05
豊後か日向のどこか。九州は女性が強いし。これガチだろう?
16 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 23:07:33
佐賀も福岡も主神が女性の神社は多い。
カカア天下はこのころから始まったのかもしれぬ。
邪馬台国なんてないだろ。あったのは邪馬一国だろ。
18 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 13:29:48
後漢書や隋書によれば邪馬台国だな。
19 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 15:30:01
そう。
おまけに隋書には
>都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
と魏志を引用した形で「邪馬臺」と書いている。
20 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:01:56
>>19 当時、世間では魏志邪馬臺といわれているが、
魏徴はそれを「所謂」とし、それを否定している。
つまり、魏志には邪馬臺とは書かれていなかったと
魏徴が証言している。
21 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:37:43
言葉の勉強からやり直しだな。
22 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:46:57
つまり、
>>21の限界がそこまでだって事で、一件落着。
23 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 21:16:40
>>15 もうその一点だけで俺は九州説だ。
嫁が鹿児島出身だけどきついこと・・・。
九州説が正しい。古事記や日本書記が九州の事
を多く割いているのも理に適う。大和説が正しいな
ら九州に触れる必要は無い。
26 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 23:59:26
畿内説の人は三角縁神獣鏡は銘文が韻を踏んでいないから中国で作られたものでは
ありえないっていうのはどう反論するんだろうかね。これかなり決定的な指摘だと思うんだけど。
反論を見たことがない。
27 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 00:02:10
畿内説論者も今や△は駄目だってあきらめているんだろう。
28 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 00:13:07
そうでもないよ。今日書店へ寄ったら邪馬台国畿内説の新書本が出てた。
三角縁神獣鏡がどうのとか書いてあったな。
wikiの三角縁神獣鏡のところ見ても畿内説が有利みたいな書き方してるし。
>>26 魏志倭人伝が耳障りがいいだけの韻文体であると言うのに
30 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 08:11:10
魏志倭人伝の記述を思い浮かべながら
グーグルアースで日本をみてごらんよ。
邪馬台国が畿内か九州か一目瞭然だから。
31 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 11:43:07
グーグルアース見ないとわからないほど難解なの?
当時の中国人もみんな、グーグルアース見てたんだろね
32 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 13:39:17
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
33 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 14:30:07
34 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 15:13:43
大和がだめなのに近江と言ったって可能性0だろ。
35 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 15:16:45
意味不明w
奈良はどうしてダメ?
36 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 15:49:27
方角距離が合わない。寒い。万二千里よりもはるか彼方だ。
何か合うところある?
37 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 16:02:11
>>32 これで方角合ってる
末盧国〜不弥国まで距離もばっちり
38 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 16:08:45
帯方郡〜末盧国と、末盧国〜邪馬台国は、別の行路なのだと思います。
なぜそんな事になるかと言えば、
魏の人間は邪馬台国が自国に従っていた事にしたかったから。
元々記されていたのは、沿海州からのルートだったのだと思います。
邪馬台国と交流していたのは、魏ではなく公孫氏の使者だったのでしょう。
その歴史を盗むために、行路は書き換えられた・・・
魏史を記したのが「中国人」であることを鑑みれば、
まったく不思議はありません。
他国の輝かしい歴史を指をくわえて見てはいなかったでしょう。
>>29 そのレスは何を言おうとしているのかイミフなんだけど。
>>39 そんな人ほっとけばいいじゃないですか。
>>32に結論が出ていると言うのに
41 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 21:15:09
42 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 23:55:37
言うに事欠いて「誰が見てもトンデモ」
43 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 10:19:08
うん。誰が見てもトンデモだな。
邪馬台国連合は台与の代くらいに大陸から朝鮮を経由して亡命してきた
操船技術に長けた騎馬民族である神武天皇の一族に敗れて彼らを統治者に祭り上げて
融合しちゃったらしい。
ソースはマクモニーグルの妄想。妄想でもありえない話ではから困る。
トヨタン・・・・・・・・・・
46 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:46:52
安本説って魅力的で捨てがたいんだよね。
甘木地方とか徹底的に発掘調査したら何か出てこないかな。
昔は出雲王朝も記紀の作り話しって言われてたんでしょ?
甘木からもそのうち何か出てくるんじゃない?
>>44 マクモの霊視では卑弥呼は南方系の顔立ちのはず
なぜ半島系に変わったのか?
それに神武(崇神)は若干8歳のトヨを推戴して東進したはずだが
トヨタン・・・・・・・・・・
49 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:50:31
>>46 いい加減にトンデモは捨てて現実を見てください
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
50 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 14:03:18
トヨじゃなくイヨだよ。
邪馬臺国と違って、壹與と言う名前は何度も出てくる。
おまけに壹與の使者が「詣臺」した、とも書いてあるのだから間違いようがない。
それにトヨじゃババ臭くって好きになれない。
「イヨは未だ13だから〜」の方が有ってるキガス。
イヨタン・・・・・・・・・・
53 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 07:22:42
54 :
日本@名無史さん:2010/12/10(金) 11:36:32
□現在の道程(Googleマップ調べ)
敦賀駅
| 約30km(山道)
高月駅
| 約10km
長浜市国友町
| 約10km
米原市伊吹庁舎
□魏志倭人伝 ルート
末盧国
| 500里(草木盛んに茂り、行くに前人を見ず)
伊都国
| 100里
奴国
| 100里
不弥国
この“1里”は75〜90mという説がある(短里)
投馬(於投馬)=出雲
邪馬台国=奈良県 橿原
斯馬国=三重県 志摩
己百支国=滋賀県 伊吹
伊邪国=愛知県 犬山?
都支国=岐阜県 土岐
彌奴国=岐阜県 美濃
好古都国=中山道・河渡宿(岐阜市)
不呼国=福島関?
姐奴国=信濃
對蘇国=木曽?
蘇奴国=諏訪?
呼邑国=小諸?
華奴蘇奴国=金沢宿?
鬼国=甲斐?
爲吾国=伊香保?
巴利国=榛名山?
烏奴国=新潟県 魚沼?
狗奴国=毛野
56 :
日本@名無史さん:2010/12/13(月) 08:19:56
横長の山島つったら、該当するのは四国かね?
57 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 13:47:38
東西五月行南北三月行の話かな。
距離は書いてないな。横長と読んだのは、かってな推測だ。
九州で東西といったらどこからどこまでだ?
宮崎から長崎ならば、唐津から薩摩半島南端までより日数はかかるよ。
58 :
日本@名無史さん:2010/12/14(火) 15:04:12
隋書の「東西五月行南北三月行」
一月行≒80km
東西の境界長が「五月行」、即ち南北の境界間の距離が400km
南北のにある境界長が「五月行」、即ち東西の境界間の距離が240km
北は対馬から南は薩摩大隅まで
西は五島から東は豊後水道まで
根拠は隋書百濟伝
百濟と済州島間は「海行三月」、実際は「250km」
済州島の大きさは「南北千里東西数百里」、実際は「東西70km南北50km」
59 :
日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:23:06
■播磨と邪馬台国の関係考察 播磨学研究所が出版
神戸新聞 2010/12/15
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0003675987.shtml 播磨学研究所(姫路市)は昨年度開いた特別講座の講義録「播磨から読み解く邪馬台国」(神戸新聞総合出版センター刊)を出版した。播磨と邪馬台国や卑弥呼のかかわりについて考察している。
同研究所などは昨年5〜11月、「最新考古学事情‐播磨から『邪馬台国』を展望する」をテーマに計10回の連続講座を開講。上田正昭・京大名誉教授や石野博信・県立考古博物館長ら第一線の研究者を講師に招いた。
講義録では、西条52号墓(加古川市)や綾部山39号墓(たつの市)を、卑弥呼率いる邪馬台国政権を担った有力者の墓と推定。
播磨は瓢塚古墳(姫路市)など、阿波、讃岐と同様多くの前方後円墳があることから、3地域の連合勢力がヤマト政権を支えたのではないか、などとしている。
四六判。288ページ。1785円。県内の主要書店で販売。神戸新聞総合出版センターTEL078・362・7138
出版された「播磨から読み解く邪馬台国」
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/Images/03675988.jpg
伊都国と密接な関連があるところだから、本州だとすれば、出雲やら丹波やらの日本海側ということになる。
東海や北陸と共同して栄えた巻向とは別な系統の話。
来月のNHKスペシャルの放送予定に邪馬台国の特集があるぞ。
邪馬台国論争って、古代史に於ける邪馬台国にこだわりすぎだな。
当時の日本列島で邪馬台国が最大の勢力だったかも、
大和王権が邪馬台国に続くものかも、魏志倭人伝その他の史料だけでは分からないのに。
63 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 19:29:56
でも規模で言えばクシャン朝を上回るんだぞ
距離も人口もほぼ同等になるよう、辻褄を合わせている。
場所も、南方の島で呉を覗うような位置にしている。
65 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 11:05:10
66 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:08:50
■畿内か九州か 邪馬台国論争 橿考研の研究員ら、自説を展開 奈良
産経新聞 2010.12.23
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/101223/nar1012230257000-n1.htm ■25日から4回シリーズ
近年の考古学の成果で邪馬台国畿内説が勢いづくなか、邪馬台国九州説に立つ県立橿原考古学研究所の研究員らが自説を展開し、激論を交わす「菅谷所長と語る!邪馬台国」が今月25日から4回シリーズで、同研究所講堂(橿原市畝傍町)で開かれる。
◇
江戸時代から続く邪馬台国論争だが、昨年には桜井市の纒向(まきむく)遺跡で卑弥呼の宮殿の可能性があると指摘される大型建物群が発見され、大方の考古学者は畿内説論者といわれる。
そんな時勢に九州説の立場から反論するのは、25日の初回に登場する入倉徳裕・橿考研総括研究員だ。「それでも邪馬台国は九州ですよ」とつぶやいた一言が菅谷文則所長の耳に入り、今回の企画に「引っ張り出された」という。
香川県出身で広島大卒という地理的に“中間的立場”の入倉さんは「魏志倭人伝を素直に読めば九州。畿内説の根拠になっている土器の年代にも疑問点がある」と話しており、邪馬台国は吉野ケ里遺跡もある「筑紫平野のどこか」との見解を示している。
2回目以降に登場する研究者とテーマは、
▽藤田三郎・田原本町文化財保護課長補佐の「唐古・鍵遺跡と邪馬台国」(来年1月29日)
▽関川尚功・橿考研主幹の「纒向遺跡の年代観と邪馬台国問題」(2月19日)
▽寺沢薫・橿考研総務企画部長の「纒向遺跡と邪馬台国」(3月19日)
で、いずれも午後1時半〜3時半。入場無料で定員300人。
問い合わせは橿考研((電)0744・24・1101)。
※橿原考古学研究所所長トーク『菅谷所長と語る!邪馬台国』
http://www.kashikoken.jp/event/other/2010/sugaya-talk_yamataikoku.pdf
67 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:20:12
68 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:24:36
>>66 へー。橿考研の研究員に九州説論者がいたとは・・・。
知らなかった。
69 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:46:39
まともな奴もいたということだな。
70 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:48:41
71 :
日本@名無史さん:2010/12/26(日) 00:06:49
■弥生前期の貯木場跡出土、丸太200本 本高弓ノ木遺跡
朝日新聞 2010年12月25日
http://mytown.asahi.com/areanews/tottori/OSK201012240105.html 鳥取市本高の本高弓ノ木遺跡から弥生時代前期(約2500〜2200年前)とみられる貯木場跡が見つかり、約200本の丸太が姿を現した。
弥生時代の貯木場跡はこれまで大阪府東大阪市の西ノ辻遺跡(約2千年前)が最古とされていた。調査している県教育文化財団は「当時の木材加工の工程を知るうえで貴重な資料」と言う。
丸太群は調査地にある延長約70メートル、幅約20メートルの水路跡を約1メートル掘り下げた砂層から出土した。直径20センチ前後が最も多く、最大は直径80センチ、長さ11メートルのケヤキ材だった。
いずれも枝打ちや樹皮をはぐ加工が施されていた。根もなかった。財団の浜田竜彦副主幹は「近くで伐採した丸太を水中で貯木していたと考えられる」と話している。
同じ地層から因幡地域で未確認だった弥生前期の特徴を持つつぼの破片(縦横各15センチ)が出土し、年代推定の手がかりとなった。ほかに石おのの柄に加工中とみられる木の棒(長さ1.1メートル、直径4センチ)も見つかった。
弥生時代の木製品に詳しい鳥取大学地域学部の中原計准教授は「丸太ばかりの集積跡は非常に珍しい。当時は器や柱材など何にどの樹種を使うか決まっており、近くの集落が自家消費するためにためていたのだろう」と話す。
現地は山陰道の鳥取西道路建設に伴って2009年度から調査が始まり、これまでに弥生後期の四隅突出型墳丘墓に似た盛り土が出土した。丸太は輪切りにして複数のサンプルを取った後、盛り土で覆う。
25日午後3時から一般公開がある。小雨決行。悪天時は27日午前10時に順延される。問い合わせは財団(0857・51・7553)へ。(中田和宏)
・因幡地域で最古とみられる弥生土器(左)と縄文時代末期の深鉢の破片
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201012240104.jpg ・直径80センチ以上のケヤキ(中央)など約200本の丸太材が出土した貯木場跡=鳥取市本高の本高弓ノ木遺跡
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201012240103.jpg
72 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 16:24:41
年輪年代法で年代を調べたらおもしろいだろうな。
>>64 だだし、三国時代が終われば、過大な待遇はしてもらえなくなる。
鏡なんぞもう貰えるわけないのに・・・
74 :
日本@名無史さん:2011/02/04(金) 17:38:06
あげとく
75 :
(´ー`)y─┛~~ ◆YK/jqQHtcg :2011/02/04(金) 18:01:26
ユダヤ人とその結社フリーメイソンリーによる経済支配に風穴を開け、
現在の様に複数の人種が経済競争できるまでに「欧州を正常化」させることに成功した。
その点において全ての泥を被る覚悟を持って遣り遂げたのであり、ヒトラー本人ゎ現在の扱ぃにも納得付くであろぅ。
第2次世界大戦以前のユダヤ人による悪行および、今も暗躍しているフリーメイソンリー(エシュロン含む)につぃて、
アメリカ建国の父の9割が、天皇が服従した占領軍司令官マッカーサーが、
フリーメイソンリー構成員であると言ぅ「事実」を日本義務教育で扱わず、
すなわち「隠蔽し続けている状況」でゎ、国家と民族と言ぅ定義を正常に判断できる成人ゎ育まれなぃ。
【フリーメーソン】ユダヤの陰謀【イルミナティ】9
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/occult/1294391749/ 戦時の自国領に、特定民族の「秘密結社すなわち敵国に本拠を置ぃて居る情報網」が蔓延っておれば、
適切なる対処をするのゎ指導者として当然のことであり、それを国民が望んだからこそ
ヒトラーゎ民主政治の選挙によって正当な指導者に成れたのであり、看板に偽りなし。
目標の大半ゎ成し遂げたと言っても過言でゎなぃ。 見事であったと言ってやるべきだ。
根本的なシステムに欠陥の有る、「共産主義」などに身を売ったスターリンが生き延びたのこそ残念。
俺がヒトラーの立場なら、イギリスを占領するまでゎソ連と開戦ゎしなぃ。 その辺、なぜそうしたのか疑問に思ぅ。
「天皇狩り」提唱者ゎ、2018年までに衆議院選挙で出馬して国号を「大和(語源:ヤマタイ)」に戻すんで宜しくw(クス
現天皇を敗戦責任で斬首刑に処し、大統領制/州制/核武装に移行し、帰化しなぃ在日朝鮮人ゎ「奴隷」にする。
米英を3度に亘り焼き払う核保有量で北方領土を奪還し、尖閣油田と竹島を保全し、衛星軌道を軍事的に掌握する。
天皇制廃止・共和制樹立 1
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1284922956/289n- 「はやぶさ」カプセル投下技術はまじやばい
http://p2.chbox.jp/read.php?host=yuzuru.2ch.net&bbs=war&key=1276447598&ls=78-108n
76 :
サガミハラハラ:2011/03/01(火) 00:07:36.95
歴史研究の3月号に私の投稿記事「漢の委奴国とは」が載っていました。
委はイまたはヰと、奴はトと発音することを述べてあります。
そもそも邪馬台国研究が行き詰まっているにはこの奴の発音がまちがっていることにあるのですが、
一向に皆さんめざめようとしないのです。
もうひとつの投稿文の「熊野のパワースポット」はボツのようです。
77 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:22:04.94
>>76 サガミハラ
>「熊野のパワースポット」
邪馬台国ネタよりスピリチュアルの方が儲かると踏んだのかwwwwwww
78 :
日本@名無史さん:2011/03/01(火) 08:09:08.07
>>76 とっくに否定された伊都とか持ち出されてもなあ。
金印の委奴国をイト国と読む説は昔からあるようだね。
これに人偏がついて倭(ワ)と間違えて読まれるよい
になったとするのも面白いけど、この場限りの思い付き。
パワースポットなら断然、阿蘇で推すべきだね。
>委はイまたはヰと、奴はトと発音することを述べてあります。
こいつ白痴か。
仮名遣いも知らない、漢音と呉音の区別も知らない無知が
九州説だ近畿説だといっても始まらない。
アトランティス説のほうがまだましだわ。
81 :
サガミハラハラ:2011/03/02(水) 00:06:53.87
熊野のパワースポットですか?神武が熊野川を遡っている時、一行が眠り込んでしまったとの
説話がありますが、その場所は今の大斎原であるという話です。
>>この場かぎりのおもいつき。
いいえそんなことはありません。かなり有力な説ですよ。
倭人伝は基本的には漢音でよむべきものですが。
私、どこかで漢音と呉音まちがってつかっているところがありましたでしょうか。
訂正いたしますのでお知らせください。
西暦57年の金印は、漢の倭の奴国という解釈で正しいよw
一時、漢の委奴国って解釈するやつもいたがw
83 :
サガミハラハラ:2011/03/03(木) 07:49:46.74
その一時が結局は正しかったのです。だから日本の古代史はそのような解釈の
間違いのためにさっぱり前に進めないまたは間違った方向に進んでいるのです。
迷い道フラフラつーわけです。
84 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 08:13:52.57
>西暦57年の金印は、漢の倭の奴国という解釈で正しいよw
一時、漢の委奴国って解釈するやつもいたがw
解釈する必要もなく、漢委奴國と彫られている。
サガミハラハラさんは、漢文の音韻の変遷から
勉強されたほうが良いよ。
あんたの説、めちゃくちゃ。
「倭の奴国」と平気で読む奴の気がしれない。
漢書王莽伝に登場する
東夷の王は、
葛城にいた大倭王のことだろう?
89 :
太国 ◆XFWiqLgIoY :2011/03/06(日) 20:51:05.69
神武かも知れない?
90 :
日本@名無史さん:2011/03/12(土) 02:21:06.98
火明命か、香語山命あたりじゃないの?
91 :
サガミハラハラ:2011/03/12(土) 13:53:16.11
>>86従来の説を信じすぎることが、邪馬台国を五里霧中の中においやっているのです。
定説や通説等でもってとけないのであるから、それらをおうといて新しい方策をかんがえなければなりません。
それらがあなたにとっては、めちゃくちゃにおもえるでしょうが。
92 :
日本@名無史さん:2011/03/12(土) 21:55:38.68
>>91 >邪馬台国を五里霧中の中においやっているのです。
そりゃ、あんただろうw?
ちゃんと正しい音韻通り読めば、何も難しいことないのに
変な出鱈目の音韻で読むから、混乱するんだろう?
だいたいだな、西暦1世紀〜西暦3世紀の中国の漢文を
現在の日本の常用漢字の発音で読んでどうするんだw?
93 :
サガミハラハラ:2011/03/12(土) 22:35:46.00
あれ?私現在の日本の常用漢字の発音でよんでませんよ。
不をオとよんだり呼をカとよんだりと、常識的な読みをしておりません。
>>93 >常識的な読みをしておりません。
たしかに非常識だなw
>イまたはヰ
イとヰは別音
>奴はトと発音
そんな発音はない
>倭人伝は基本的には漢音でよむべきものですが。
呆れた
>あれ?私現在の日本の常用漢字の発音でよんでませんよ。
すっとぼけたやつだなw
「委」を「イ」と読むってどこから思い付いたんだよ?
96 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 06:02:13.36
奴って漢字は
上古音なら、「ナ」みたいに発音し
中古音なら、「ノ」みたいな発音をする。
西暦57年の時点だと、上古音だな。
でも、西暦240年代ぐらいだと、「ノ」と発音した可能性が高い。
このへんが、魏志倭人伝の倭国の地名には
上古音と中古音が混在していると言われる所以だな。
西暦57年の時期に中国側に知られるようになった国名は
上古音をもとに漢字名がつけられ、中国側で有名になっただろうが
西暦240年代に知られた国名は、中国側に中古音の漢字名がつけられ
それで有名になった可能性が高い。
97 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 06:04:38.86
まあ、間違っても、「奴」を
「ド」とか「ト」と発音することはないw
98 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 06:53:09.02
三角縁神獣鏡は中国製でなく、日本産の贋物で間違いないが、送る側
と送られる側が互いに、そのベースとなる原品の価値が理解されてい
るからこそのコピーである。
現在、我々が手にする高級ブランド商品も同じ理由から贋物が常に出
回っている。
景初3年の銘があり、価値ある鏡と理解される地域のみに、この鏡は
代々の族長に引き継がれたものである。
99 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 07:21:37.15
鏡を送る風習ってのは、何も
卑弥呼(モモソ媛命)の時代に始まったのでは
ないよ。
籠神社の伝承鏡からも分るように
前漢の時代から、倭国では、そういう風習があった。
その鏡は中国製だろうが、日本製だろうが、あまり意味がない。
中国製品の鏡が高価なものとして、やり取りされていたかもしれんが、
別に、それを模倣して、配っていたから
別に中国の権威とは無関係でしょう?
なぜ、考古学者が、途方もないことを言い出すのかというと
彼は文献史学なり歴史なりの知識が乏しいから。
100 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 07:23:24.56
また、中国の道教では、南北を軸とした都市計画だったのに、
当時の倭国では、東西を軸とした都市計画だったのが、面白い。
東のことを、「日がさし=ひがし=東」だしな。
101 :
サガミハラハラ:2011/03/16(水) 07:50:03.54
102 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 08:01:00.30
>>101 だれもが同じ辞書を持ってるわけじゃないんだから、
出典を明記して、該当部分を引用すべきだろ。
103 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 08:23:13.56
サガミハラハラさんは、高校教師を辞められて、人生をかけて
邪馬台国にかけているんだから...
近年の纏向遺跡の発掘の成果には、耐えられないんだろうね。
104 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 08:27:52.84
誰が天皇だったとか倭王だったかという問題は
何も卑弥呼の時代だけではないよ。
中世の南北朝時代なんかもそう。
今は、歴代の正統な天皇には、南朝の皇統をカウントするけど
江戸時代までは、北朝の天皇を正統な天皇とカウントし
南朝の天皇は、ただの「新王」として、歴代の天皇にカウントしなかった。
卑弥呼=モモソ媛命として、あの時代(倭国大乱、欠史八代)に何があったか知らんけど
皇統(倭王統)が分裂して、どちらを歴代の天皇としてカウントする問題があったんだろう?
105 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 10:38:49.51
>>103 2ちゃんねるで人生をかけた自説を発表されても・・・ねえ?
倭王とか大王とか呼ばれた人と、天皇とは必ずしも一致しない
女であろうと男であろうと超能力者扱いされた皇尊(すめらぎのみこと)は何人いても良い
それが天皇(あまつすめら)として朝廷政治のトップに飾られたのは飛鳥時代からだし
それ以降は一致するのかな
107 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 19:01:43.53
倭王と天皇とでは思想が違うだろう?
相撲でも東と西、中世以降の政治体制でも朝廷と幕府
律令体制の官僚制度でも神祇官と太政官
一人の絶対者ではなく
権威と権力を分裂して、並立させるのが
日本のやり方。
108 :
日本@名無史さん:2011/03/16(水) 19:03:16.00
中世、スペイン人の国書には、
徳川家康が日本国皇帝になっていたしな。
大君じゃなくて皇帝か
110 :
サガミハラハラ:2011/03/16(水) 20:58:26.06
>>103高校ではなく小学校教師です。
纏向?全然気にしていません。
111 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 08:44:48.58
112 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 14:36:17.30
113 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 13:10:02.16
テスト
test
115 :
日本@名無史さん:2011/03/27(日) 13:53:36.67
test
test
117 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 03:05:13.07
( ゚∀゚)o彡° 邪馬台国! 邪馬台国! 邪馬台国!
118 :
日本@名無史さん:2011/04/14(木) 07:35:38.03
九州の国家が、その南方の狗奴国との攻防戦について中国に調停を頼んだって?
有りえないね。ましてや近畿の国家など有りえない。
邪馬台国は日本の国じゃないよ。
119 :
日本@名無史さん:2011/04/15(金) 19:19:52.42
狗奴国の乱がどの程度の規模なのか
実は分らんのに、勝手に思い込みが激しい
歴史愛好家や考古学者の多いことw
>>118 帯方郡の南東(半島内)から海を越えた九州および本州にまたがる地域が倭地だよ
それ全体が統一されていた訳ではないが、倭国と呼べるほどの版図を持った王朝があった
邪馬台国は倭国王直轄の国であり、倭地のどこかにあったはず
121 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 09:03:46.99
>>120 もろ、邪馬台国=ヤマト国だよな、その流れw
なんのことない、当たり前すぎる解釈なのだが
本居宣長とかいうウヨウヨなオッサンが変なこと言いだしたから
おかしなことになった。
122 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 14:36:20.04
邪馬台国は北九州だよ
倭迹迹日百襲姫の墓と言われる箸墓古墳は、台与の墓だ
その方が年代、出土品、遺跡の特徴的にも合う
倭迹迹日百襲姫=台与
箸墓古墳=台与の墓
大和争乱の後、大和の三輪山に王権が移ったのが崇神天皇の代で、
それ以前の三輪山は天照大神を祀っていた
崇神天皇が天災を鎮めるため、天照大神を伊勢に移し、
三輪山に大物主を祀ることで天災が静まったとされる
三輪山は須弥山であり祭神がだれという事は無い
人を祭る時は家屋に似た社を作る
125 :
日本@名無史さん:2011/04/24(日) 23:21:03.00
三十国が中国と通じていたとか、郡史が何度も訪れたとか、本当に信じているのか。
邪馬台国は列島の国家じゃない。晋州のあたりにあった国家。
東に海を渡った倭人の地が対馬。近畿地方が黒歯国。
「今使譯所通三十国」の30国は、中国の皇帝の所まで貢物を届けていた訳ではないと思う。
例えば、半島内に関しては、帯方郡の役所は辰韓・馬韓の各部族を宣撫し、数十ヶ国を郡へ帰順させていた。
倭国の30国についても、そういう意味。
邪馬台国は皇帝の所まで貢物を届ける力と、皇帝に謁見できる資格(大夫)を持っていた訳で、別格だと解る。
127 :
日本@名無史さん:2011/04/25(月) 20:57:45.99
128 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 22:02:25.57
>>127 当時の中国人は黄海も日本海も「大海」と呼んでいたことから、「大海中の山島」
を朝鮮半島とする説。帯方郡は営口あたり。狗邪韓国は大連あたり。伊都は海州あたり。
邪馬台国は晋州あたりにあったという説。
129 :
日本@名無史さん:2011/05/05(木) 13:42:57.60
黒歯国あげ
魏に邪馬台国の場所を伝えた奴は多分本当の場所を知らなかったんだと思う
>128
楽浪郡の中心が平壌市にあった(郡衙印の封泥が出土)のが解っているから、
帯方郡がそんなに後退した位置ではないはず。
132 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 08:15:33.59
>>131 諸説あるが、朝鮮四郡はいずれも位置が確定されていない。
133 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 07:58:28.39
>>131 「郡衙印の封泥」なんて、郡使がそこに来ていたことの証明にしかならない。
そんな理由で楽浪郡の位置が定説として決まっているなんて驚きだね。
134 :
日本@名無史さん:2011/05/11(水) 06:51:45.45
>>131 『北史』百済伝:「初めて帯方郡の故地に国を立てた。」
『宋書』百済伝:「高句麗が遼東を略有すると、百済は遼西を略有した。」
帯方郡をソウル近郊と仮定しましょう。
高句麗が遼東を略有すると、何故ソウル近郊の百済が遼西を略有するのでしょうか?
135 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 16:07:03.59
>>134 中国の歴史書というのは専制君主である天子の命によって役人が書いた文章だ。
しかも伝聞調でもないため、百済の遼西支配は史実として考えるべきだ。
それが意味するところは、百済の勢力が遼東半島あたりにあったということ。
すると百済は朝鮮半島南部から遼東半島まで勢力を伸ばす大国だったということになる。
しかし史書での百済は大国ではなく、高句麗や倭の圧力を受け続けた国と記述されている。
帯方郡は遼東半島付近にあったと考えるべきかもしれない。
136 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 16:56:26.70
百済の遼西支配は江戸時代の・・・の守のように実効的支配ではないのではないでしょか。
137 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 18:28:09.58
>>136 『宋書』百済伝
百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。
百済国、本は高句麗とともに遼東の東に千余里に在ったが、その後、高句麗が遼東を略有すると、百済は遼西を略有した。
百済の治する所は、言うところでは晋平郡晋平県。
実効的支配としか読めない。
138 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 18:55:33.21
>>136 でもこれだと百済建国の地である帯方郡は遼東の東千餘里(400km程度か)。
その地が山岳地帯でまっすぐな道がないとすれば250km程度か。
地図上では集安からせいぜい平壌くらいの場所にあったのか。
しかし、例え平壌あたりに百済があったとしても高句麗が遼東を略有した時に
百済が遼西を略有するのは不自然だな。
139 :
日本@名無史さん:2011/05/12(木) 22:10:48.14
>>138 『梁書』百済伝の方が詳しい。
馬韓有五十四國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸、百濟即其一也。
後漸強大、兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、
百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。
馬韓は五十四国あり。大国は万余家、小国は数千家、総計十余万戸、百済は即ちその一国なり。
後に次第に強大となり、諸々の小国を併呑した。その国は、本は高句麗とともに遼東の東に在ったが、
西晋の時代、高句麗が遼東を略有すると、百済もまた遼西の晋平二郡を占拠して、自ら百済郡を置いた。
遼東の東に在った百済とは帯方郡のことではなく、馬韓の一国の百済国のことだ。
帯方郡は後で併合したのだろう。
140 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 05:57:04.26
>>139 馬韓がそんな場所にあったということは、平壌にあったのは楽浪郡ではなく、実は
馬韓の東にあったという辰韓ではないか。
平壌楽浪郡説を定説にした2000以上の漢式墳墓。実は、秦からの逃亡者が建国した
辰韓がそこにあったとすれば、考古学と歴史書は矛盾しなくなる。
考えてみれば、中国からの逃亡者がはるか朝鮮半島南端まで大量に逃げてそこで建国する
なんて現実的な話ではない。
141 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 07:34:36.22
秦からの逃亡者がなんで漢式墳墓をつくるのか?秦式墳墓や春秋戦国式ならわかりますが。
142 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 07:55:31.70
>>141 墳墓の事はよくわからないが、辰韓人と楽浪人はほぼ同種であることが『三国志魏書』辰韓伝に記されている。
『三国志魏書』辰韓伝:
辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。
有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、
有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。
今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。
辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、
馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。城柵あり。言語は馬韓と同じではない。
そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、
秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、
楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。今はこの国の名称を秦韓とする。始めには六国あり、
十二国に細分化した。
>>139 >>自ら百済郡を置いた
遼西は飛び地では
144 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 16:15:30.87
>>142 これで辰韓人の事を何故「南方人」と呼ばずに「東方人」と呼ぶのか、理由がはっきりしたね。
辰韓が半島南端であれば、当然「南方人」になる。しかし平壌ならば当然「東方人」だから。
何だか、歴史の謎が次々に解けていくような気がする。
馬韓の西海上の大島にあったという謎の「州胡」はきっと長光島だな。
145 :
日本@名無史さん:2011/05/13(金) 16:20:21.18
>>141 平壌の楽浪漢墓は漢代の楽浪郡の墓という意味で、漢式墳墓という意味では無さそうだ。
146 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 07:49:50.41
>>144 辰韓を平壌とするとそれ以南、黄海南道以南が倭人の地ということか。
瀚海とは西朝鮮湾の事だな。地理的にもここをショートカットするのは理にかなう。
伊都国は海州から開城のあたりか。
南へ水行二十日の「投馬国」も謎だったけど、ここからなら南にいくらでも場所がある。
邪馬台国の場所は対馬から西に海を渡って千余里の半島南部しかない。
女王国へ「水行十日、陸行一ト月」も理にかなう。半島西南の水行は地理的にも大回りだが、
政治的にも対立する「狗奴国」の支配地域を通らなくてはいけないからだろう。
女王国から東方海上千余里の倭人の国は「対馬」。侏儒国が九州か。
裸国、黒歯国は近畿地方だな。
147 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 09:34:40.32
倭人伝というのは冒頭の一文「倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑」を現代人の地理認識で
読んでしまったから皆勘違いしてしまったのではないだろうか。
『三国志魏書』挹婁伝、沃沮伝や『北史』百済伝を見ればわかるように、「日本海」も「黄海」も
名称が記されず、いずれも「大海」としか記されていない。当時の中国人は実は太平洋の存在どころか
日本列島の存在すら知らなかったと考えられる。
そのような地理認識で考えれば「大海之中、依山島為國邑」という場所は、実は黄海と日本海に囲まれた
朝鮮半島以外に無かったんだ。ところがこれを現代人の感覚で読んでしまい、日本列島の記述だと思い込んでしまった。
楽浪郡平壌説が定説になったのも、倭人伝を日本列島の記述とするには楽浪郡はそのあたりと考えるしかなかったからだろう。
148 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 19:23:12.56
>>147 なるほど。「倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑」を日本列島だという固定観念を
打破しない限り真実には永遠に辿り着かない。でもそれを打破した途端、倭人伝の記述は
謎でもなんでもなくなるということですね。勉強になりました。
149 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 02:24:05.66
>>147 倭国がどうして新羅や高句麗との戦闘を続けていたのか、その理由が理解できなかった。
でも倭国がそもそも半島国家だったとすれば、納得できる。言われてみれば
博多の委奴国が「倭国の極南界」ならば、倭国の本体は半島だったということか。
150 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 08:54:49.88
要するにこういうことですね。
1) 平壌で発掘された漢墓は楽浪郡ではなく辰韓の遺跡
2) 大海中の山島とは日本列島ではなく朝鮮半島
この仮定で歴史書と考古学が一致。倭人伝の記述によれば邪馬台国は半島南部にあったと。
151 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 11:55:36.62
>>150 確かにこの説は正しそうだ。しかしこれは古代史へのロマンを打ち砕くことになる。
韓国人も忌み嫌う倭人が祖先だったなんて受け入れられないだろう。
この説を受け入れる人は少ないだろうね。論理的でない理由で。
152 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 16:57:57.96
>>149 > 博多の委奴国が「倭国の極南界」ならば、倭国の本体は半島だったということか。
飛び地が日本列島ということか。
153 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 19:57:24.75
>>152 古代人にとっては現在のような国境は無く、日本も朝鮮半島も関係なかったんだろうね。
154 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 20:23:23.23
半島に邪馬台国?気候風俗その他の点をまるっきり無視かよw
155 :
日本@名無史さん:2011/05/15(日) 20:42:04.28
>>154 半島南部の気候は日本と大差ないと思うが、具体的に何が問題なの?
156 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 04:02:51.30
高天原は任那のどこかにあったという説もあるな。
157 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 08:14:04.45
全然違うようですよ。
椿が咲くのは同じですが、ミカンの露地栽培はむりですよ。
>>154 少し調べりゃすぐ判るだろ。
それに青玉や丹はあるのか?
159 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 09:46:15.06
>>158 そんな専門家でないとわからないような問題でつついても、答えようがないんじゃないか?
160 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 10:02:38.49
文字が読めるならば、倭の始まりは対馬国からだと理解できそうなもんだが・・
161 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 10:11:23.67
162 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 10:34:47.28
原文がないことは知ってるだろうな。
「対馬国」は、紹熙本は『對海國』、紹興本は『對馬國』。中華書局標点本は『對馬國』とする。
163 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 12:07:34.06
>>162 こういう地名の文字合わせなんかにこだわるべきではないと思うね。
そいつの言ってることはもっと重大な事だ。即ちこういう事。
1) 平壌で発掘された漢墓は楽浪郡ではなく辰韓の遺跡
2) 大海中の山島とは日本列島ではなく朝鮮半島
3) 帯方郡は営口市付近
1) は遼東の東に馬韓の一国が存在したことから、平壌を辰韓と仮定した
2) は黄海も日本海も大海と読んでいたことから、朝鮮半島と仮定した
3) は帯方郡と馬韓を母体とした百済が遼西を支配したことから、仮定した
どれも史書に基づく仮説であり、そんな地名の語呂合わせの理屈とはレベルが違う。
164 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 13:26:43.41
>地名の文字合わせなんかにこだわるべきではないと思うね。
誰もこだわっていないよ。
>そいつの言ってることはもっと重大な事だ。
重大かどうかは問題ではない。聞かれたことに答えただけ。
>地名の語呂合わせの理屈とはレベルが違う。
君の説明がトンデモレベルだってことは分かるよ。
>>163 で、気候や生活風土の説明はどうするの?
166 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 18:06:24.29
この朝鮮説はなかなか興味深い。
平壌が辰韓だったとすれば、本当の楽浪郡はどこにあったのでしょうか?
また電波が一人、朝鮮人か?
168 :
本田:2011/05/16(月) 20:40:08.61
169 :
本田:2011/05/16(月) 20:58:17.52
170 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:06:43.03
>>165 すみません。気候や風土のことはよくわかりません。
>>166 すみません。本当の楽浪郡の位置については考えていません。
171 :
本田:2011/05/16(月) 21:08:36.94
磐余
を、
神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)
または、
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
と仮定すると、
伊都は「伊波礼琵古命の都」が語源になります。
172 :
本田:2011/05/16(月) 21:32:13.17
「神」は「かん」「かむ」「かみ」「じん」など読み方があるけど、
「かん」や「かむ」と読むときは「韓」の当て字と仮定すると、
韓倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)
または、
韓日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
となり磐余彦尊(伊波礼琵古命)は、
韓から倭(日本)に来た渡来人と解釈できる。
173 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 21:56:18.12
>>170 辰韓人の事を何故「南方人」ではなく「東方人」と呼ぶかを説明しているだけで、
検討する価値のある説だよ。
174 :
本田:2011/05/16(月) 22:20:24.34
175 :
本田:2011/05/16(月) 22:24:45.07
>>173 帯方郡の東に辰韓があったんじゃないの。
176 :
本田:2011/05/16(月) 22:54:24.75
「韓」は「ハン」でしょ、王国や国王という意味、モンゴルの王を指すハーン(汗)も同じ
チャガダイハン(汗)国とか、語尾の「ハン」は同じで固有名詞が前に付いて分国をさす使い方もする
日本でも「○○藩」という言葉があった、諸公領という意味では「韓」や「汗」と同じ
狗邪韓国という表記について、「韓国」は単に王国という語尾だから、狗邪の王国という意味になる
ちなみに、「神」はハングル読みでは「シン」、神壇樹はシンタンスと読む
178 :
本田:2011/05/16(月) 23:10:55.03
>>172 その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。
その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。
その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。
大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。
その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年。
その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。
婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。
その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す。
尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。
租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。
有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。
大倭は伊都国王つまり磐余彦尊(伊波礼琵古命)のことなのかな?
179 :
本田:2011/05/16(月) 23:21:34.29
>>177 漢字の使用して外国語を翻訳するのは、
意味を考えて翻訳する場合と、
音を表す当て字の場合の2通りある。
>>179 魏志倭人伝にでてくる倭国の固有名詞についてはどっちでしょうね
奴國、彌奴國、姐奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國など「奴」がつく国が多いですが、
共通する文字を用いた意味は何なんでしょう
「奴」が何かを意味しているのが、奴國の分国みたいな意味でもあるのか
181 :
本田:2011/05/17(火) 00:06:55.13
奴國は朝貢国の意味か?
182 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 00:23:13.55
「根の国・底の国」とかの「の」にあたる音に当て字をしただけだったりして。
「奴国」というのは「○奴国」の○が落ちたとか。
宇宙人なのかもしれんね
>>180 トーテムだろう。
国のシンボルがあるんだよ。
というか、当時の国の定義ってのが何なのかだな。
おそらく、それぞれ守護神があってそれでまとまっている集団が多かったんじゃないかと思う。
名無しの「奴国」は、そうしたトーテム部族の連合、って意味だろう。
185 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 06:09:30.86
>>175 『三国志魏書』辰韓伝を読む限り、比較しているのは帯方郡ではなく楽浪郡なんだ。
名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。
楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。
186 :
本田:2011/05/17(火) 23:04:03.38
>184
血縁で無いにしろ地縁で結ばれた氏族社会だったろう
奴国からの移民開拓団の作った国かも
188 :
本田:2011/05/18(水) 22:23:43.82
自ら大夫と称すとあるけど、
誰かに冊立されなければ大夫にはなれないのでは?
漢時代に身分を得たという事だろうか
>>189 冊立されていない。
だから「自ら称す」となってるわけ。
言い方を変えると
「中国で任命したわけでもないのに、勝手に称している」ということ。
191 :
遊撃的論客・伊作:2011/05/18(水) 23:18:52.25
>>189 天子・皇帝に接見する資格をもつのが大夫以上ということを、
弥生後期の列島倭人が知っていたという事実こそ驚くべきだろう。
ところで、「冊立」とはどういう意味だい?
現代の日本人学者が考え出した「冊封」という、
古代中国にはありもしなかった造語の意味を「誤解」した上での意見じゃないのかい?
自ら称した者の謁見を許す寛大さ
いや、大夫と自ら称してまで朝貢に赴いた倭人の直向な姿というべきかな
193 :
日本@名無史さん:2011/05/19(木) 17:42:23.42
関係ないが公孫氏は実力の割にあっさり滅んだなあ。
魏の脅威にならない位置なら良かったんですが
195 :
本田:2011/05/19(木) 22:15:31.63
>>189 漢字の意味は時代や場所によって異なる。
>使人自ら大夫と称す。
この 大夫は伽耶の倭奴国王(アイヌコクオウ)に仕える大夫だろう。
中国皇帝に仕える大夫ではない。
大夫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AB 中国における大夫
大夫とは、中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地を持った貴族のことであった。
大夫は卿の下、士の上に位した。周代、周王室および諸侯に仕える小領主は大夫と呼ばれ、その上級のものが卿と呼ばれ、国政に参加した。
諸侯が横暴であった場合、大夫らにより追放されることもあり、主君を脅かし得る地位を得るようになった。
後代には大夫や士の中に衰退する者も現れたが、その後、有力農民層が新たに士という階級を形成し、地位を得るようになったといわれる。
晋では地方の県の長官のことを大夫と呼ぶようになり、後に諸国もこれに倣い、中央集権的な郡県制へと移行することになる。
唐の時代の官制では従二品より従五品下の総称となった。
現在の中国語では医者(:zh:大夫)のことを指す。
196 :
本田:2011/05/19(木) 22:18:15.50
197 :
サガミハラハラ:2011/05/19(木) 23:18:21.66
>>195漢字の意味は時代や場所によってことなる。
確かにそうらしいですね。
私二十年も邪馬台国を研究してついこの間それにきづきました。
日本の学者さんはみんな意味はかわってないとおもって論究しているようです。
日本発行の漢和辞典をみながら。
>漢字の意味は時代や場所によってことなる
それって、言語の常識やん
極論を言えば、人によって異なる。だから陳寿を研究する必要がある。
「初」「始」「渡」「度」など、どういう意味合いで使うのか、など。
どうやって意志疎通するんだwww
>>197 >
>>195漢字の意味は時代や場所によってことなる。
>
> 確かにそうらしいですね。
> 私二十年も邪馬台国を研究してついこの間それにきづきました。
> 日本の学者さんはみんな意味はかわってないとおもって論究しているようです。
> 日本発行の漢和辞典をみながら。
漢字と言うか漢文の研究とは用例の研究です。
字体も字音も字義も時代によって変化しています。
その変化の流れを知らずに用例の研究などできないのは「常識」だと思うのですが・・・
そんなことに「ついこの間」きづいたんですかw
まあ、角川の安価版の漢和辞典で3世紀の中古音を論じてた方だからな。
202 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 15:43:36.48
日本国内に同等の勢力で
卑弥弓呼の狗奴国ってのも在ったんだろ?
どっちがどっちだが混同して言い伝えられたり、書き残された可能性もあるわな。
しかも卑弥呼と卑弥弓呼、名前も似てるし。
203 :
日本@名無史さん:2011/05/23(月) 18:11:58.51
これを観れば一発で
卑弥呼(中国名)=天照大神(日本名)、
邪馬台国→徳島県
がバカでも分かるじゃん。
ttp://www.youtube.com/watch?v=O3fHE7Kn4Qc&feature=related 九州派も近畿派も
「ぐぬううぅぅ・・・口惜しいぃぃー!
俺の信じてた物が・・・研究に捧げた一生が・・・学者としての名誉が・・・」
と意地張って見ざる聞かざるしたくなる気持ちも分からなくはありませんがね。
しかし真実は1つだから。
んなもん、間違ってる低脳学者の名誉なんぞ知るかよwゴミに等しいっつーのw
詐欺師みたいなもんだから学会から追放でイイよw
>邪馬台国→徳島県
がバカでも分かるじゃん。
邪馬台国→徳島県
なんてことは馬鹿じゃなけりゃ分からないでしょう。
まあまあ、釣りなんですから
206 :
本田:2011/05/28(土) 16:27:17.41
@狗邪韓國九州北岸、女王國九州東岸説。
A狗邪韓國朝鮮半島南岸、女王國九州東岸説。
B狗邪韓國九州北岸、女王國近畿説。
C狗邪韓國朝鮮半島南岸、女王國近畿説。
狗邪韓國朝鮮半島南岸説を主張するのには短里が前提になる。
女王國近畿説を主張するには三国志魏書東夷伝倭の記述が間違っていることが前提になる。
>>205 まあまあ、釣りなんですから
ちえっ、
釣られちまったぜ。
208 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 09:23:55.60
徳島は忌部の本家だから、皇族のルーツは徳島だろうな
邪馬台国かどうかはわからないが
また釣りですかい?
test
211 :
日本@名無史さん:2011/05/29(日) 21:40:44.35
テスト
212 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 07:07:54.97
九州説はもはや短里にすがるしか無いんだなあ
【小城】九州説短里探しの旅スレ【朝倉】
test
215 :
サガ〇五ハラハラ:2011/05/30(月) 22:53:07.70
0615ば2えs5て、2あ25260え0あせん.
誰乎直仕方教えて
ノート?
Numlockかな?
217 :
サガ〇五ハラハラ:2011/05/30(月) 23:16:00.70
もう少し詳しく教えて
IMEパッドで書いてます
218 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 23:26:26.25
ノートパソコンなら、Numlockがオンになってないですか?
Numlockをオフにすれば数字がはいらなくなると思います。
自分のノートパソコンだとNum Lkというキーが一番上の列にありました。
219 :
サガミハラハラ:2011/05/30(月) 23:36:34.13
ありがとうございます。ノートパソコンではありませんが、NumLockがありましたのでそれを押したら
回復しました。
どうもありがとうございます。感謝感激です。ほんと有りがとうございます。
かなりの初心者だねw
「国内最古」の堂ノ後古墳 掘ってみたら5世紀後半
>>221 堂ノ後古墳がホケノ山の下か上か確認されたの?
223 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 07:30:25.66
今週の週刊文春に三角縁神獣鏡が中国で生産された特注品である文献
証拠が発見されたとあるね。また景初四年という年号も当時は
中国で使われていた記録が晋書天文志という古代の公式天文記録
に使われているなど三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に
高くなったようだ。これで九州説の大きなな畿内説への反論
が見直さざるを得なくなることになりそうだ。
224 :
水銀厨:2011/06/09(木) 08:39:02.61
今更△の存在は関係ないけどね。
北部九州にある大国は奴国、伊都ですから。
邪馬台国が北部九州に存在する可能性は既にありませんよ。
225 :
伊作先生:2011/06/09(木) 09:57:50.96
>>223 ここでもやってたのか。がんたれ
>三角縁神獣鏡が中国産である可能性が非常に 高くなったようだ。
街頭香具師みたいなことをいうな。
この天才が現れたからにはそういう手口は通用しない。
問題の本質は中国産か倭国産かではなく、
中国産ならばどこで作られたである。
魏の尚方(官製鏡工房)で卑弥呼に贈るためにつくられた特注品か否かだ。
>畿内説への反論 が見直さざるを得なくなることになりそうだ。
バカ野郎。
神獣鏡は当時の魏の敵国たる呉地方の特産で、
魏の尚方(官製鏡工房)では絶対につくられない様式の鏡だ。
(わかるかなー。王朝とは威厳・格式というものにこだわるものだ)。
魏の尚方(官製鏡工房)では絶対につくられるはずのない神獣鏡に、
あろうことか魏の年号が入っているという、この「超不条理」。
天才がはじめて指摘した盲点をどう処理するか。
どうせ投稿するならば、知的香りのする内容にしろ。
226 :
伊作先生:2011/06/09(木) 10:32:09.18
その神獣鏡が、中国も中国「呉」で作られたと分かったら面白い。
魏が卑弥呼に贈った鏡とはまったく別の、ただの流通鏡という論理に帰結する。
文春にのっかったセンセはどういう結論なのか。
またぞろ、「畿内説のやることはマンガ以下」の轍を踏むんじゃなかろうな。
わらわら
227 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 11:42:48.21
伊作先生が涙目ですw
228 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 13:48:14.14
大陸は広いからねぇ〜。景初年間が終ってる情報が他国とか遠方に充分に浸透
していなかったなら、景初4年号のが大陸でも出てもおかしくはないし、これで
畿内説だにはならんだろう。
229 :
伊作先生:2011/06/09(木) 13:52:36.00
太国しゃん。
「邪馬台国は九州にあった」のスレッドをみてみ。
週刊誌を呼んだ人がいて、
509で 「週刊新潮の衝撃の一石はとんでもないまぬけな話」とゆってるよ。
思った通り、というよりも、話にならないレベルらしい。
230 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 14:01:22.62
鏡銘文の景初年間は、崇神の代の倭笠縫に鏡を祭祀した崇神6年あたりに位置
するということなのだ。ということは、卑弥呼の活躍年代が崇神の代だったと
いうことの合理的根拠になるのだ。
となれば記の崇神没年(戊寅)が258年頃に当たることとなり、318年説は誤りで
あることが分かって来るし、千人もの腹ペコ農民が半島という遠方に渡海出来
ぬ現実をわきまえれば、193年頃が崇神6年にはならないことは間違いない。
これは3/11の東日本大震災での遠方行きが出来ないと被災者が苦悩していたこと
からも、193年頃に船舶製造のされてない状況から、193年頃が崇神6年に位置
出来ないことを現実の3/11大震災の被災が証左になっている。船舶の始めて製造
されたのは崇神6年の後の紀の崇神17年であり、崇神6年に船舶のアリバイが
無いことから崇神6年の千人大量渡海は事実上不可能である。
231 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 14:07:53.50
232 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 14:49:29.90
233 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 16:01:14.06
まとめ
邪馬台国は日本ではなかった事が判明しました。
おわり
234 :
日本@名無史さん:2011/06/09(木) 17:11:12.92
そりゃ邪馬台国は倭国にあるからなw
>>225 >魏の敵国たる呉
まだ三国時代を信じているんだな
本当に呉と魏は敵国として対峙していたのか
宗教的には魏は呉の思想を受入れ、政治的には呉は魏に服していた
神獣鏡は神仙思想の流行った山東省が発祥だ
そこを領有していたのは誰?
で、なぜ天照の依り代が鏡になっていると思う?
なぜ倭笠縫に天照を祭ったのだ、というかなぜ笠縫と言うのだ
黄幡が松笠のカタチをしているのだ、三角縁神獣鏡にも描いてある
遺跡からも傘型木製品というのが出る、あれは神霊の依り代なのだ
畿内の王は道教の思想のもと神仙を祭った、黄幡は本家本元から送られたご神体であった
それを天照と称したに過ぎない
>王朝とは威厳・格式というものにこだわるものだ
どこの王宮における、どんな思想に裏付けされた威厳で、どんな価値観から来る格式なのだ
>ただの流通鏡
魏の尚方(官製鏡工房)こそが実用鏡としての市販品だろうが
神獣鏡が何の宗教的価値も持たない官営工房で作られる筈がない
236 :
ローガン2世:2011/06/10(金) 17:17:08.90
>黄幡が松笠のカタチをしているのだ、三角縁神獣鏡にも描いてある
黄幡て何?黄幢のことか?黄幢は軍旗なんだがな。
「南無八幡大菩薩」の幟も軍旗だよ
238 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 17:25:59.00
畿内説を採る場合、裸国と黒歯国はどのあたりになるんだろう?
239 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 17:42:01.67
小笠原諸島とかじゃないの?
240 :
日本@名無史さん:2011/07/18(月) 11:04:06.99
風俗業は邪馬台国
には無かったのか?
パート99??
邪馬台の正式名称は大和与であり、現在のさいたま市に存在した
243 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 18:59:16.38
いや、パプアニューギニアかマリアナ諸島なのはほぼ確実。
丹念に探せばヤマタイの言葉に近い地名がきっとあるはずだ。
邪馬台国とは、ヤマト国のことでOKだよ。
卑弥呼はモモソ媛命のことだな。
日本書紀に記されている歴代天皇とは、
あくまでも後世の人間が認定しただけのことだから。
しかしながら、あの歴代天皇とされている人物は存在していた。
欠史八代に相当する天皇たちは、政治的な最高権力者であったが、
宗教的な最高権威者は彼らとは別に存在していた。
その宗教的な最高権威者たちが正式な倭王とされ、モモソ媛命もその一人だ。
一人の人が、最高権力者と最高権威者の両方を兼ねるようになったのは
ミマキイリ彦(崇神天皇)が最初の人物だった。
彼は父方の大叔母のモモソ媛命(卑弥呼)の死後に、
その両方を兼ねる絶対者になった。
また、モモソ媛命(卑弥呼)が、
倭国の宗教上の最高権威者=正式な倭王の地位に就く前に
倭国大乱があったことになっている。
そして、それよりも前は、、男王の時代が続いていて、
最初の倭王も男王だったそうだ。
おそらく、倭国の宗教上の最高権威者=正式な倭王になれた家系は
神武皇統(現在の皇室の家系)とは別に存在していたはず。
それが、熱田社の尾張氏の先祖であろう。
ヤマト王権を建国した最初の倭王は、天照国照彦(天火明命)であり、
天照国照彦とは、天津と国津の両方の勢力者と言う意味であり、
文字通り、出雲国譲りによって、天津と国津の両方を制覇した最初の倭王だったと思われる。
この天照国照彦の男系の直系が、正統な倭王(宗教上の最高権威者)に地位にあったのを
神武皇統の人物が奪おうとしたのであろう?
それが欠史八代の時代であり、倭国大乱の時代とされている時代でもある。
246 :
サガミハラハラ:2011/08/27(土) 21:01:15.57
ここ1年にわたって東アジアの古代文化を考える会のHPの書棚と討論室に連載してきた、「邪馬台国と狗奴国の抗争」がようやく大団円をむかえることができました。
従来のような、邪馬台国あてっこではなく、邪馬台国と狗奴国はどのようにしてほろんでいったのかを、詳細に考古資料文献資料をもってろんじております。
是非お目をおとうしください。
247 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/27(土) 22:20:21.98
倭人伝にははっきり女王国とあり、モモソヒメは即位しておらず、
宗教的女王国が畿内にあったとのの記録は記紀にも古史古伝にも存在しない。
もしそんな女王の国が畿内にあったのなら、当時の天皇国とこの女王国とは
畿内で双方の国が近隣もしくは隣接してるわけであり、天皇国と女王国との
付き合いとか交易、戦争、婚姻、朝貢とかがあらねばならぬはずであり、
これが記紀に載るはずだ。が、それが火の消えたごとく蚊の鳴き声にも
届かない〜つまり、まるで記事が記紀にない。
このことは畿内に卑弥呼の女王国という国がなかったことを意味するのだ。
なると〜当然九州に女王国があったというのが正解なのである。
248 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 06:20:18.79
>>247 >>倭人伝にははっきり女王国とあり、モモソヒメは即位しておらず、
>>宗教的女王国が畿内にあったとのの記録は記紀にも古史古伝にも存在しない。
書いてる事が飛躍し過ぎているのでは?
魏志倭人伝に女王国が書いてある
宗教的女王国が畿内あった記録がない
だから九州に女王国があった?
絶対の前提条件として、倭人伝も記紀も間違っていないという考え方がまずある
片方が間違ってるのはありえないの?或いは両方
次に宗教的女王国が九州にあった根拠は?
その節だと畿内にないなら、それこそ四国でも山陰、山陽でもOKなのでは?
さすがに沖縄、東北とは言わないけど
249 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/28(日) 10:03:13.90
>次に宗教的女王国が九州にあった根拠は?
>その節だと畿内にないなら、それこそ四国でも山陰、
山陽でもOKなのでは?
こちらはさすがに山陰、山陽などとは言わないぜ。
山陽のどこかにあったのならば、半島、大陸の遣使の通行により朝廷に
女王国の存在情報を入れるはずだから、その実態が記紀に少しでも
載って然りだが、これも記事がない。だから女王(女天皇)即位と山陽の
情報が記紀にないということは、畿内より相当程度距離が開いていたとか
畿内に情報の入りにくい地域に女王国があったということだね。
山陰でも畿内に近い出雲ならば、近いことから当然畿内朝廷と出雲の
(仮定)女王国とも接触があることは当然であり、これもそんな気配は
記紀にない。つまり山陽、山陰じゃぁ可能性は0に近いと判断すべきで
ある。
記紀が間違っているという考えならば、当然倭人伝も間違ってるという論
も考えるべきだが、この点君は考えてるのか?
それに古史古伝は記紀ではない。
こうなると考えるべきは、当然九州だということになる。その文献が壊滅
してるだけで、倭人伝の読みで九州だという考えは軽く出来うる。
となると、畿内に情報が行きにくい地域というのは。九州中部以南が
妥当である。だから女王国はそのへんだよ。
250 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/28(日) 10:26:11.98
>>248殿
卑弥呼の女王国がどこかは詳細までの地域設定はいまのところ困難だが、
畿内か九州かと考えた場合はその判別は出来うるということだ。
ここで慎重に考えを進めるに当たって、ひいきとか先行的決めこみは
墓穴を掘る確率が50%になる失敗が待っているから、そういうひいきとか
はいやがおうでも遺棄すべきなのだ。
こういう考えを貴殿も持っているんではないかとコチラは思ってしま
うが、そうだとなると不利に自己の説が行き着くに当たって、奇抜な考え
とすりぬけ的うっちゃりを脳内で滲み浮かべて苦しいまでにも弁護して
しまうということだ。畿内説とはそういう途方もない突飛とか奇抜な機略
で、不利があろうとそういう滅多に起こり得ない可能性を探り出して
論とするから、そういうんならいくらでも頑張ってはいられるが、妄想
だという気はそれで起こらないんだろうが、もう失敗だぜ。
251 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/08/28(日) 10:39:27.73
そういう奇抜、突飛な以外な想定っていうのが南北朝時代のような
政治王と祭祀王がいたとか円墳なのに前方後円墳を後代に円墳を改築した
とか南と伝にあるのを実は東のことだとかのうっちゃり的言い訳であり、
これらはまともな説というより二次的以外的ハプニング的出来事の想定
からの主張であって、こういうのは稀にはありうることだが、これを連発
して論を組み立てると、まず殆ど真から遠のくと想う。
つまり妄想に気づかず、論の失敗があるだけ。ガンに気づかず、健康だと
思っいるようなものかな。
252 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 05:14:57.07
祭祀王と世俗王の二元体制ってのは
まさに中世以降の日本の体制だよな。
また、日本の場合、律令体制下の官僚システムでも
神祇官と太政官に分けていた。
法制上
天皇は朝廷のトップではない
雲の上の存在
254 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 11:17:06.74
>>253 神社のトップが神霊ではなく、神主なのと同じ理屈だな。
255 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 11:40:22.12
太古も大王(天皇)は君臨すれども統治はその実、実力者にお任せ。
物部、蘇我、藤原・・・
本当に大君主として名実ともに統治権、軍権を掌握し行使為さった天皇(大王)はいたのか?
256 :
日本@名無史さん:2011/09/07(水) 12:50:52.02
>>255 > 本当に大君主として名実ともに統治権、軍権を掌握し行使為さった天皇(大王)はいたのか?
雄略。 允恭もかな?
>256
平家がそうだろ
「平」ってのは、苗字が無いから「たいら」と名乗っただけ
天皇家にも苗字が無い
平氏は桓武から出たとされるが、逆に、「平」と名乗る氏族から天皇が出たと見る
平安京(たいらのやすのみやこ)は、「平」の一族を天皇に立てて開いた都
京都盆地に遷都して、桓武から始まる家系を作ったのは藤原氏などが率いる官僚システム
その官僚システムを皇室一門が一時乗っ取ったのが平家時代
院政と裏表の関係、後白河方法の野望
天皇の姓は、アマだったらしいが→隋書イ妥国伝
>258
それは古代の事だろ
260 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 22:41:54.46
アメ、タリシヒコだね。
え、そうするとタリシヒコは天皇家につながる一族かね?
まあ、断絶が何回かありそうだけど
261 :
日本@名無史さん:2011/09/14(水) 20:14:34.79
>>258 当初は姓があったのかなかったのか。
もしあったのならいつなくなったのか?だな。
熊谷次郎直実(くまがいのじろうなおざね)と同じで、「天の」は住んでる所と言う意味では
部族名が「あま」「あめ」だったので姓にしたんだと思う。
姓は天皇が臣下に与えるものだから
皇室には苗字が無いって聞いたことある
昔の天皇はやたら長い名前(ファーストネーム)だったんだね
宋書によると、日本の天皇の姓は代々「王」ですと、日本の坊さんがいったそうだ。
266年ゲット!
267 :
サガミハラハラ:2011/11/03(木) 04:22:15.94
天皇の話題がずいぶんでているが、天皇家の祖先は高天原(後世名づけられた地名)出身ですので、日本在来種であり、
邪馬台国の人達は満州からの渡来人です。
高天原とは、壱岐の原の辻(はるのつじ)
269 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 02:54:07.45
普通に考えて福岡か宮崎だろ。
アマテラスの生誕地が「筑紫の日向」なんだから
どちらかと言えば、弥生時代の遺跡から鏡が出る、福岡だな。
270 :
名古屋大文学部1年生:2011/11/04(金) 10:49:23.19
弥生時代の遺跡から鏡が出てくるのは2世紀前半までの
奴国を中心とした筑紫王国の時代でしょう。
倭国の乱以降は、北九州から畿内に中心が移ったのは明らかです。
アマテラスはたぶん関係ないですw元から皇祖神というわけでもなく、
女性ではなく男性だったという説もありますし、卑弥呼だとみるのは早計です。
庄内式土器と三角縁神獣鏡の流れをみるだけで畿内に邪馬台国=ヤマト国があったと
わかるのですが、魏の使者は倭国=九州 だと勘違いしていたために、
邪馬台国の位置を伊都国にて伝聞で聞いたときに、九州島の南の方にあるんだなあと
勘違いしただけです。
まあ、邪馬台国が古墳だらけの国なら、魏志倭人伝にそう書くわな。
卑弥呼の墓ぐらいしか目立つものがないから、そう書いたわけで、
どんなに畿内が栄えていたとしても、邪馬台国が畿内ということは
あり得ないだろうな。
邪馬台国は、やまたい国ではなくヤマト国
台与は、たいよではなく、トヨっていってるんだから
火の御子
豊の姫
纏向遺跡から遺跡の跡や桃の種が出た!と言って騒いでるらしいが
日本書紀の記すとおり邪馬台国は
北九州から近畿に"引越し"をしている
そうであれば箸墓古墳から親魏倭王印が
副葬品として見つかってもおかしくはない
つまり遺品だったり遺体が出てきてもそこに
邪馬台国があったと結論付けることはできない
引っ越したのは、神武ら少数の落ち武者たち。これは邪馬台国と無関係。
邪馬台国は倭国連邦の1構成国。邪馬台国が引っ越ししたりはしない。
国家が引っ越ししたように見えるのは、九州倭国と畿内日本国が並立していた状況で、
畿内日本国が九州倭国を併呑したというのが実態。
276 :
日本@名無史さん:2011/11/11(金) 04:44:26.81
神武が邪馬台国と無関係ということはないだろう。
ナガスネヒコが言うこときかないから、神武が邪馬台国の王の命令で征伐に行って、いいところだからそのまま住み着いて独立したのだろうね。
277 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 10:57:34.43
神武と邪馬台国の関係ってのは難しいよなあ。
でも少なくてもまったくの無縁ではなくて、縁戚関係ではあったと思うが。
278 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/12(土) 12:20:39.53
神武と邪馬台国を関連付けるなどファンタジーすぎますw
その前に神武など実在の人物かも怪しいですし、
邪馬台国の東遷もありえません。
徐福の到達コースと神武東征のコースが似てるんだけど偶然?
同一人物?
280 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 12:34:08.94
徐福の渡来コースなんて東海にも北陸にも東北にもあるやんけ
>その前に神武など実在の人物かも怪しいですし
その前に卑弥呼など実在の人物かも怪しいですとはしないのか?ww
>>279 別人です。時代が違います。徐福のほうが古いですね。
徐福はロリコンだし。
トンデモ満載だなw
285 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 21:12:16.05
>>283 前田利家夫人が妊娠したのは10歳ではなかったか?
これは当時としてもかなり早い。
286 :
日本@名無史さん:2011/11/12(土) 21:14:43.81
実在なのか架空なのかの線引きが微妙な人はいるよなあ。
例えば崇神天皇。
>>286 「みまきいりひこいにえのみこと」とかの口上が付いてる天皇は本物
失史八代は創作なんだろうな
エレクサンダーとか古代ローマ帝国より古いんだぞ!
ということを言いたいから作ったんだろ
今見たらローマの方が100年くらい古かったw
八世紀の日本で、ローマ帝国なんて知らんがな
291 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 02:00:28.30
>281
確かに、大和朝廷の公文書にある神武の実在が怪しいというなら、漢籍のオマケのオマケにちょっと出てくる卑弥呼なんか、もっと実在があやしいよなw
卑弥呼は、他国の記述による同時代資料(魏志倭人伝)があるので、
これほど実在性が確かな人物は、日本の古代史上では、あまりいない。
293 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 15:51:13.47
294 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 23:47:08.28
>>292 卑弥呼が載ってる日本の古文書は何ですか?
日本の古文書に載ってないだろ。
単に、外国文書な分捏造する動機がないから信憑性が高いという主張だろ。
297 :
日本@名無史さん:2011/11/15(火) 03:55:53.88
神武は台与の家来で、単なる軍団の長だった。そして奈良の銅鐸首長を倒す為に派遣された。
その時、お守りで卑弥呼の△鏡を持っていった。
そのまま住み着いて、△鏡の模造品を作って配った。
>>290 「秦」それがそうだろ、ローマを漢字で書いたもの
>>297 なるほどありそうな話だ
確か「返し矢恐るべし」の話が出てきた神話があったな
神武より先に派遣されたのがニギハヤヒってことか
ニギハヤヒは長髄に買収されていたのかもな
アレキサンダーの時代の指揮棒は「矢」だった
天羽々矢は全軍指揮権を表すものと思う
>>299 それじゃナガスネ=大国主(系統の誰か)でニギハヤヒ=天のワカヒコか?
302 :
日本@名無史さん:2011/11/16(水) 01:24:52.54
銅鐸の鋳型が出る奈良は銅鐸族。鉄器を持っていなかった。
北部九州邪馬台国の神武軍は鉄器を豊富に持っていたので、ナガスネヒコ軍を倒すことが出来たのである。
結局最後はニギハヤヒのクーデターでしょ?
もしかしたらナガズネも卑弥呼と同族かも
タケミカヅチがいくまで何回か派遣したでしょ
その第一回目がナガスネで2回目がニギハヤヒ?
ナガスネは縄文ネイティブのイメージが固い
307 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 00:07:58.88
>>305 出雲の国譲りと神武東征を混同してるよ。
まあ、邪馬台国は何回も出雲に派兵したり、懐柔したりして支配下に治め、出雲の鉄を獲得したということだろう。
(出雲〜北陸にある四隅突出墳が3世紀になると作られなくなる)
半島から鉄を持って来るより遥かに楽だからね。
その豊富な鉄が神武軍団の武器になったわけだ。
出雲大社の規模や古事記の記述量が出雲の重大性を物語る。
記紀は出雲風土記の焼き直しだから
出雲の記述が多く入っちゃってるのは当たり前
「出雲国譲り」のほうが虚構
やはりこれは葦原中津国征服だった
ヤマトの大国主は出雲に幽閉されて出雲はその監視役にされただけ
310 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 01:46:10.93
ながすねひこは中津根彦だったのかもね。
311 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 09:28:04.91
出雲神の広がり、出雲神話の大きさと現実の出雲は必ずしも一致しないね
吉備のほうがずっと強大だったはずだし
312 :
日本@名無史さん:2011/11/17(木) 11:08:27.80
まあ邪馬台国出雲説なんてのもあるしな
>>308 出雲国風土記には日本書紀で天皇の祖先神天照大神の弟神で
大々的に取り扱われているスサノヲが登場しないという矛盾があるらしい
313 :
狗奴国西遷説:2011/11/17(木) 12:19:19.36
では私は狗奴国西遷説を提唱したいと思いますw
まだ誰も提唱してないでしょうし。
濃尾平野にあった狗奴国が、西遷して畿内邪馬台国を駆逐して
新たなる倭国の王となりましたとさw
ナガスネは身長が高い部族という説も・・・
ということはヨーロッパ系の外人を神武が倒したとも考えられるな
>>313 狗奴国西遷説
いやこの間NHKの番組で赤塚と言う学者が東海の狗奴国が畿内ヤマト=邪馬台国を滅ぼしたと言ってたわけだがw
316 :
日本@名無史さん:2011/11/18(金) 01:35:48.08
>>311 出雲は戦略物資である鉄の産地として重要。これが豊富にないと東征できない。
安芸・吉備は神武が東征の途中でそれぞれ7・8年留まっている。
神武という一人の英雄の存在は不明だが、邪馬台国の東征軍団が安芸吉備を支配下に置くまで何年もかかるだけの大きな勢力があったのは事実だろう。
>>316 たしか岡山あたりに3年間滞在し軍備を整えたって記憶してるけど
(整えるだけじゃなくて戦いがあったんじゃないかとも思ってるけど)
日向を出て合計6年で完了したんだよね
318 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 01:44:17.16
古事記と日本書紀は年数が違います。
いずれにしても、何年もかかっているよね。
箸墓が最古の古墳だとすると、神武に相当する者が眠っているに違いない。
時代は楽浪郡が滅ぼされた313年以降だと思う。
王仁博士のような亡命漢人が巨大墳墓を設計したのだろう。
319 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 09:01:36.95
神武の東征などというおとぎ話はまだ子供の僕でも信じませんよw
邪馬台国は畿内巻向で間違いないでしょう。巻向以外の九州の国が
魏から倭王として冊封されるわけないし。
320 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 10:13:50.13
君の妄想よりはずっと信じられるよ。
>>319 若いわりには、しっかりと宗教に洗脳されちまってるな
322 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 10:21:58.30
まぁ宿主よりはまだまだマシだがねぇ・・・。w
323 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 10:27:37.62
すぐに逃げ出す太国さんに言われたくはないですねw
それに九州説では成り立たないことは前にも説明しましたが。
△鏡の件も、北九州上陸から関門海峡と瀬戸内ルートの制海権がなきゃ
鏡職人が大陸から畿内まで移動できませんし、
邪馬台国を盟主とした九州連合国家など妄想ですw
324 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 10:31:45.72
九州説なら阿蘇山が記述されないわけがない
要するに北九州は単なる通過点で畿内に行ったいうことだ
325 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 10:40:51.86
19歳君
君はこの前、もうすでにコチラに完全に論破された。
また逃走か〜? そこへハンター。
326 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 10:48:11.84
19歳君
△は君もそう考えてるんだろうが、日本製さ〜。舶載ではない。
つまり畿内に大陸人が来てたと観て可だ。
しかし九州でも来てたとも軽く言える。しかし日本製じゃぁ卑弥呼の鏡
にはなり難い。特鋳のうっちゃりなんかは不利のための即興的口実の産物
であり、今でもその言い訳をしてる連中が多いんだろうが、まぁ妄想
だな。こんなに日本製の鏡があるのを大陸の者どもが知ってたら、他の
贈答品に鞍替えだろうがね。w
到底紀無い説は成立しない。
327 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 10:54:11.13
△鏡は国産でしょう。下賜されたのは画文鏡等の別の奴でしょう。
国産にせよ、リアルタイムで製造しなければ景初4年の年号鏡は
ありえないことは前にも説明しましたが。
畿内で製造されたんですし、作ったのは当然大陸から来た技術者。
つまり大陸から畿内に技術者が移動するルートが当時あった。
倭国を九州限定ととらえるのは狭すぎるんですよ。
またこんなこと言ってるとレベル低い議論だとか横やりが入りそうですがw
これも前に論破したはずですが、まだやるんですか犬国さんw
328 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 10:55:30.24
それともオマエはジョーカーのマルチ・コテハンか〜?
のぼせるなよ。
329 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 11:07:24.78
何を言ってるのか意味が分かりません。
しっかりした日本語でしゃべってください犬国さんw
これだからしっかりした教育受けてないただの歴史好きのおじさんは嫌だわw
330 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 11:11:47.21
オマエは第2ジョーカーか〜?w
でけえ口たたいてると、ここのスレ民にいじめられるぞ。
糞クズレベルの論をするなら消えろ。
オマエは先日すでに論破されている。論する気があるなら、真新しい根拠
を持って真面目に来い。
331 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 11:23:04.67
ジョーカーとか何を言ってるのかわからないし、
でけえ口とかヤクザ口調で品がないですw
まるで低学歴で歴史学も専攻してないただの素人マニアのおじさんじゃないですかw
まあ九州説など言ってるのはこのレベルなんでしょうね。
ではお聞きしますが、九州に邪馬台国があったなら、なぜ畿内マキムク政権は
中国に朝貢しなかったのでしょうか?規模的にはマキムクのほうが上だし
倭王にふさわしいでしょ。それに雄略天皇の朝貢のときも
安東大将軍とかかなり具体的な位の称号貰ってて、新羅や百済よりも
格下扱いなので、かなり綿密に調査したうえで位を決めてるふしがあるのに、
マキムク政権は無視して、九州の邪馬台国女王に倭王の称号与えるのも
腑に落ちません。
理論で反論できなければわざと自演だ三角縁だと脇道に逸れる
太国お馴染みの詭弁の一種ですな
セコすぎてどこが太いんだかわからん
少国に改名すればいいのに
333 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 11:34:02.11
片方が朝貢したからといって、もう片方が朝貢せねばならんということは
必ずしもいえないだろう。紀無いの場合は山口県から北九州へ渡海してさらに
大陸側へ2回目の渡海をせねばならんのだぞ。畿内人に羽はついていない。
安東大将軍なんか畿内の天皇ではなかろう。畿内とこの将軍とは直接の関係は
まずなかろうが。また称号といったって、片方だけのことはある。必ずしも双方
そうせねばならぬということはないわけだ。
334 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 11:46:00.98
話になりませんねw
この時代の権威付けは、中国から爵位を貰い冊封されることでしょ。
邪馬台国より後の応神仁徳の時代だって畿内河内王権ですがそうしてますよ。
なのでマキムク政権が中国に朝貢しなかったと考えるのは無理です。
それに雄略が九州王朝の王なので畿内とは無関係だと言いたいようですが
それも無理です。九州王朝などありえませんのでw
たしか群馬県のほうでも雄略天皇関連の遺物が出たと思いますし。
九州王朝など古田武彦さんに騙されすぎですw
335 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:02:13.64
ならばなんで永続的連続的に朝貢しなかったんだ?
むろん九州説でも説明できないが、強力な中央集権ヤマト国家が成立していたのならますます説明不能になるね
336 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 12:19:06.31
>>335 それは中央集権ヤマト国家が成立していき、
中国の力を借りずとも自分たちの帝国を作ろうとしたんでしょう。
その証拠に4世紀に朝鮮に出兵してますしね。
で夢破れて、やはり分をわきまえて中国から冊封される道を再び
選んだんでしょう。秀吉の天下統一から朝鮮出兵失敗で、
徳川家康の征夷大将軍の権威の元に保守的な幕府政治に移行したのと
似てますね。
337 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:21:11.49
ずいぶんとご都合主義なんだなw
338 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:22:09.01
>>333 >紀無いの場合は山口県から北九州へ渡海してさらに
>大陸側へ2回目の渡海をせねばならんのだぞ。畿内人に羽はついていない。
壱岐と対馬経由してるから北九州からでも3回って事かい
>>338 政権変わってたとしてもおかしくはないだろ
若い学者の脳トレにすら役に立つレベルじゃないなこの板
341 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/19(土) 12:43:01.60
もう太国さんは都合悪くなるとすぐにいなくなるんだからww
九州王朝説とかにころっとだまされるような人は
振り込め詐欺にも騙されますから気を付けてくださいねw
342 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 13:03:52.94
オマエは昼飯食わねえのか〜? メシ食ってるとき書きこみなんか
やってねぇよ。
どうせオマエはすでに論破されている。
オマエこそ これから 逃走 か〜。w
〜逃走中 そこへハンター。
343 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 13:07:38.04
>雄略が九州王朝の王なので
雄略は九州王朝の王ではないぜ。コチラの言ってないことを言うんじゃ
ねぇ。
九州年号の多数の存在はオマエの主張を否定する。
344 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/19(土) 13:09:25.76
>壱岐と対馬経由してるから北九州からでも3回って事かい
それを考えれば数字が増えてなおも正確になりますが、略して言ってます。
345 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 13:38:53.43
69歳のくせに、
19歳邪馬台国畿内説論者などと自称する詐欺師が跋扈するのも
畿内説の特徴。
てへ
348 :
日本@名無史さん:2011/11/19(土) 21:48:55.70
ニギハヤヒの小隊が先遣隊として奈良に派遣されていたが、中州ネヒコの妹の婿になってしまっていた。
銅鐸の鋳型は出ても、鉄が出ない奈良では、出雲鉄を大量に持っていて吉備王国を配下に置いた邪馬台国の神武東征軍に負けて当然ですね。
349 :
19歳邪馬台国畿内説論者:2011/11/20(日) 09:01:34.02
くどいですね。僕は19歳だし、名古屋大にいますから
合いたかったら来てくださいw
350 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 12:35:24.38
19歳にしてはえらく離脱した〜19歳にふさわしくない書きこみが所々に
見受けられる。
19歳では、コチラのコテハンを毀損するのは純真性の多い少年にしては
そこまではやる気性は薄い。だからオマエは成人でガキのふりをして
書きこんでるんだろう?w
まぁ暴走族とかあまり素行のよくない仲間とつき合ってるなら、古代史
に所論を書きこむタイプにはまったく似合わないからな。それでいて
コチラのコテハンを毀損する気性では、19歳には合わず、まずやらんな。
大人の書きこみだな。
所詮ジョーカーの変身だな。w
69歳のくせに19歳とうそぶく畿内説馬鹿。
畿内説って、どいつもこいつも詐欺師ばっかりだなw
352 :
名古屋のサガミファン:2011/11/20(日) 16:28:35.53
ジョーカー的存在は犬国さんのほうでしょww
69歳か19歳かも見極めれないような見識ではそりゃ九州説に
傾きますわなww
まあ邪馬台国論など時間の無駄なのでさっさと卒業することですねww
こんなん素人が手を出してもなんにもなりゃしませんよ。
69歳の畿内説因業爺=名古屋のサガミファン=19歳邪馬台国畿内説論者
名古屋をハンドルネームに使うなよ畿内人だか知らないけどさ
355 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 16:49:00.93
ナマイキなあの野郎はジョーカー
まあどう間違っても九州に邪馬台国はない。
畿内の淡路島周辺の国だな。
357 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/20(日) 17:04:31.86
どう転んでも
>>352の書きこみは19歳未成年の内容ではないな。w
19歳が本物なら、暴走族級でない限りあんなナマイキなしゃべり方は
しない。もっともっと19歳なら純真素直だ。大人の野郎の偽装だと自明。
ジョーカーはすでに論破済み。
新羅だか百済にあった国が
359 :
名古屋のサガミファン:2011/11/21(月) 13:05:40.38
社会人なら、邪馬台国なんて無駄なこと勉強しませんって太国さんw
大学生で歴史学科の学生だから一通り邪馬台国のことも勉強してるだけですから。
>>336 倭国内では、中国の権威などいらない。
しかしながら、倭軍が海外へ出兵する場合
その海外で権威のある組織の権威が必要になる。
現在だと、海外へ出兵する場合
国連や国連に大きな影響力を持つアメリカに認められることが重要になる。
じゃないと、ただの侵略行為だと国際的にみられるから。
古代においては、倭軍が海外へ出兵する場合、
とくにそれは朝鮮半島への出兵を意味し
その場合、中国皇帝から認められる必要があった。
じゃないと、それは、ただの侵略行為とされるから。
だからこそ、倭の五王は、中国に朝貢して、
半島を軍事的に指揮する官職を得ようとした。
>>359 なるほど、だから君は邪馬台国に無知なんだな、非常に納得したぞw
362 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/21(月) 16:21:51.66
19歳よ
今日はまじめのようだな。
今後もそうしろよ。
〜しかしジョーカーじゃぁないのか〜?
自称19歳が、実はこのスレ最長老。
364 :
名古屋のサガミファン:2011/11/22(火) 09:06:54.62
19歳にこだわりますねw
まあその程度のこともわからない洞察力だから九州王朝なんてものを
支持してるんでしょうがw
69歳だと思うなら若者文化のことなんでも聞いてください。ちゃんと答えますからw
しかし社会人のくせに邪馬台国の勉強してなんになるのかw
サガミさんみたいに邪馬台国をネタに本出版して印税で小遣い稼ぎするくらいしか
思いつかないw素人が論文書いてもプロより数段レベル下ですし
相手にされないでしょうし。僕は単位貰えるんで古代史も一通り勉強してるだけなんですが。
>>364 お前、19歳の名大生じゃなくて、国民学校中退の糞爺だろ。
>>364 てめーがきてからすっかりとまっちまったじゃねぇーか!!
367 :
旧帝大歴史学徒:2011/11/25(金) 13:04:12.49
古文書も読めないような素人が研究とか笑わせないでww
邪馬台国の研究がしたいならしっかりした大学の歴史学科に行ってください。
素人じゃ研究資料も手に入らないでしょ。
国民学校中退のクセに、偉そうなことを言うなよ。
この万世一系史観!
関ユウジさんの本を読んで知ったかぶりしてる素人が
支離滅裂な自論を展開するのが面白いんじゃないか
名古屋大学の歴史学科て、あまり聞かないが、
少しはましな学者とかいるのか
殆ど無名な大学だわな、いままでも
名大といえば、
きしめんと味噌カツとモーニング定食とエビフリャーぐらいしか
研究するテーマがないだろ。
ごめん、シャチホコ盗難防止研究と、
オリンピック誘致失敗研究があったな。
373 :
サガミファン、サガミ待ち:2011/11/26(土) 09:04:27.41
名古屋が狗奴国の領域です
374 :
サガミファン、サガミ待ち:2011/11/26(土) 12:27:26.65
サガミさんは今日こないみたいですね。
では出かけますか。
とっとと消えたほうがいいんじゃない、69歳国民学校中退サガミファン。
376 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 22:31:43.94
377 :
サガミハラハラ:2011/12/10(土) 22:39:16.26
今日は三田でのあるグループに行き講演してきました。
皆さん度肝をぬかれたようでした。
378 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 22:57:49.73
まぼろしの邪馬台国
吉永小百合は若くみえる。
「キューポラのある街」の吉永小百合より、色っぽかった。
380 :
サガミハラハラ:2011/12/11(日) 09:33:41.87
あの方、年をとるほどうつくしくなっていくように思われますね。
基本的に、邪馬台国と中国語で書いてあったら、発音はその時代の中国音が近いのではないか
なぜヤマタイとよむのかな
万葉集や記紀編者は、ヤマトを山跡、野麻登、椰?等、夜麻苔、山常、也麻等、
夜末等、夜万登、八間跡などと表記している。
ここで「夜麻苔=ヤマタイ」という表記に注意してもらいたい。日本書紀の編者は
あきらかに漢籍を熟知しており、漢籍の邪馬台国が大和でなくては困る立場だった。
もとより畿内大和をヤマタイと呼ぶ人間はいない。だから日本書紀編者は
「やまたい」と読める「夜麻苔」の字をわざと使って、邪馬台国=大和を同一視
させようとしているのである。
しかしこの思惑は、「旧唐書」に倭国と日本国は別な国とすっぱ抜かれることで、
危機に立たされる。平安期になって日本から「然を送り宋の太宗に謁見させて
「天皇万世一系説」を言葉巧みに信じさせるのに成功した、。
邪馬台国=大和=倭国=日本国という大和朝廷側の大義名分が(嘘のまま)
中国側に採用されることになってしまった。しかし大宰府からはこれに異を唱える
使節が、宋に訴えていたのである。だが宋朝はこれを無視した。新唐書以降では
大和朝廷の言い分がそのまま採用されている。
サユリストが多いてことで、このスレの平均年齢が分かるな
俺は栗島すみ子がいい。
385 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 22:03:20.95
祖父祖母はいまだに、ひばりちゃん、というなあ。
俺は、おばさん以降の年になってからしか見たこと無い。、
やっぱ、原節子だろ
387 :
サガミハラハラ:2011/12/16(金) 23:55:51.49
近頃は中川翔子ちゃんがかわいいと思います。
サガミセンセー、趣味悪いですよ。
389 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 16:21:24.93
前提が間違ってるよ
朝鮮半島に朝鮮人が住んでて日本列島に日本人が住んでると思ってるでしょ
当時国境線がどこにあったかちゃんと考えないと
倭人伝だけじゃなくてその前も読まないと
390 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 16:24:44.51
当時倭国だと思われていたのは九州島までで
そこから先は知ったことじゃなかったんだよ
391 :
日本@名無史さん:2011/12/17(土) 16:28:30.71
だから大和に倭国(筑紫)より大きな国があっても
そんなのどうでもよかったんだよ
大体朝貢してきた国のことしか書いてないんだから
それしか書く必要ないんだから
392 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 10:39:07.65
画文帯神獣鏡の分布図をみると九州説はないわw
これはおそらく公孫氏政権からもらったもんだろうしね。
倭国邪馬台国は金印を貰った倭奴国の後継国だ。
朝鮮の南には九州しかない。畿内説だけは、絶対に無いわ。
そんなことも判らないほど考古学者のレベルは低いと言うことだ。
陳寿は天才とも言われるほどの人物だ。
我々凡人ですら判るような矛盾した記述はしないだろう。
資料は徹底的に吟味して間違いのない情報のみを記載したと言われている。
文中に矛盾した記述があるとすれば
それは読み方が間違っている。
陳寿は
文中の文字は徹底的に削り無駄な文字は使用しなかったと言われている。
原因、理由、結果についても何一つ記載してない。
補足説明などは間延びした駄文になると考えられていたからである。
補足説明をする代わりに
必要な事実だけを記載している。
補足説明をしなくても判るように事実を記載しているのである。
出鱈目な事柄、不確かな事柄を書いたら
補足説明の代わりになる訳もない。
間違いのない必要な情報を記載するから
補足説明をしなくても判るのである。
何一つ判らない、謎のままというのは
読み方が間違っているからである。
397 :
稗箕狐:2012/01/27(金) 09:23:01.51
梯儁さんのルートをたどる巡礼の旅レポート
398 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 16:10:32.47
陳寿さんは東夷圏が、魏の里程の1/6の単位系を使うことを
知ってたんじゃないかね?
公里:短里しかり、水行陸行もこの比率で換算すれば、
全部矛盾なく成立する。
どうせ陳寿さん自身は様々な資料を認識して、
机上で編集していたはずだから。
地域によって使われた単位系を理解しないで
行程記事が編纂できるはずはない。
九州北部に邪馬台国があったら、簡単に中国や韓国に侵略されるし国防上ありえないよ。
400 :
サガミハラハラ:2012/01/31(火) 13:11:53.42
昨日季刊邪馬台国が送られてきた。
私の邪馬台国論への投稿がのっているかと期待してみてみたが、のってなかった。
私の投稿が載らないわけはないのであるが、残念なことではある。
ということで、投稿しても載らないのであれば、投稿するのは無駄である。
よって今後は季刊邪馬台国の私の邪馬台国論への投稿はやらないことにした。
九州北部には伊都があるのだから邪馬台国が存在する意味なんて
全くない。気候風土も合わないしな。
402 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 20:39:20.74
>>396 実際は誰が読んでも邪馬台国の場所なんてサッパリ分からないやんけ
404 :
サガミハラハラ:2012/01/31(火) 23:04:44.24
>>396 そうだ。読み方が悪い野田。
東南陸行とかいてあるのに、東の前原にいくから迷い道クネクネになるのだ。
素直に東南に歩き、多久市中小路庄集落が伊都国の都なのです。
405 :
サガミハラハラ:2012/02/05(日) 21:47:54.09
そもそも邪馬台国論争の混乱の原因は、東南に行くとかいてあるのに、東にいくからである。
こんなところから間違えたら、ぜったいにゆきつけませんよ。
ま、マツラに渡るのも「南」とは書かれてないからな。
407 :
サガミハラハラ:2012/02/05(日) 22:26:35.06
しかし南以外ならば、その方向を書いているでしょう。
408 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 00:15:12.24
相模原こそ邪馬台国だったというのが落ちだろうな。
もうすぐ、富士山の噴火で、首都圏が壊滅する。
それと同じことが、今から千数百年前に起きたと認めれば、
邪馬台国の山とは富士山のことで、邪馬台国は富士王朝だということが明らかになる。
409 :
サガミハラハラ:2012/02/06(月) 09:13:56.39
そうなると、徐福さんの話と重なりますね。神皇記だったかにおなじようなことが。
411 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 17:35:52.07
>>405 そうでしょう。そして、水行二十日、水行十日陸行一月とあるのだから、
北九州もないですね。
狗邪韓國からも北以外どっちに行ってもいいんだよー
413 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 01:15:26.84
狗邪韓國からは南へ行かなければだめだよ。
414 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 03:32:02.91
>>411 馬韓に入ってから狗邪韓國までを南に行ったり東に行ったりしながら何週間も時間かけて
練り歩いてるんだよ。倭人は朝貢したぞお前らもしろ、と。
狗邪韓國と壱岐からは好きなほうに行ってもいいんだよー
416 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 09:56:03.17
倭は狗邪韓国の南にあるんだから、好きな方というわけにはいかんね。
417 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 14:32:59.91
弁辰狗邪國と狗邪韓国は厳密には同じではないんでしょうが
隣り合わせみたいに考える人がおおいみたいですね
現地の人は金海に比定していて駕洛國表記の推奨しているようですが
加耶・伽耶・加羅・可也・高野 ぜんぶごった煮で良しでしょ
418 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 14:35:19.69
そそ
弁辰狗邪國は弁辰ってしっかりかいてありますもんね
そしたら
其瀆廬國與倭接界 十二國亦有王 で
狗邪國に王様とかいたって至極普通つう感じで
支石墓と甕棺のセットから塚・墳墓まで基本共通のだから
王様同士は普通に血縁関係とかありって考えて決まりでしょ
隣のシロのところは倭人が瓢箪で漂着してとかのもあるしね
419 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 14:57:32.82
>>411 総里程を言われても
その一点だけで弥生九州北部の優位が吹っ飛ぶとでも?
ここも行程かよ
行程なら行程に特化したスレ立ててその中だけでやろうよ…もうやだ
行程で畿内へ持って行くのは無理だからな。
423 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 02:03:02.15
>>422 ぜんぜん無理ではない。
むしろ行程だけではどこにでも持って行けるから決着せず
この論争の行程以外への「広がり」がこんにちここまで拡大してきたわけで。
424 :
志紀:2012/02/21(火) 05:56:43.07
>>422 だよね。畿内説のいいところどりのつまみ食いは、行程問題から始まってる。
文献へのスタンスはアマチュアより低レベルだよ。
その癖都合のいいところは「モモソが卑弥呼だ」とかw
>むしろ行程だけではどこにでも持って行けるから決着せず
読み方が間違っているのが原因。
426 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 12:22:57.36
空見て旅してた古代人が南と東を間違えるなんてどう考えてもあり得ないし
小さい
428 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 22:38:17.57
古代人にも職業分担というのがあって、航海士や道案内の人は方向を間違えることはないけれど、
記録係の史人は天文の知識がないかあ南へ向かっていると勘違いした。そういうことだ。
429 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 00:54:43.09
古代人が方角まちがえるとかw
現代人じゃあるまいしいくら素人でも考えにくい。
もし畿内説とるなら、
単純に誤記か、間にあった何文字か脱落したと考えるのが普通だろ。
430 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 01:48:19.49
太陽が出て沈んでく方向見るだけで子供でも西と東がわかるのに、
はるばる旅してる古代人が東と南を間違えるとは思えない
仮に記録係が方角に疎かったとして、案内人にも航海士にも確かめずにわからないまま適当に記録するとは思えないね
そう、太陽が昇るのは南ではなく東。皆知っている。
また、半島の東側の付根から見て東方とも書いてある。
資料を写本写本していくうちに誤写をすることはよくあること
ただ、本来の三国志は原資料が失われるほど遅くに書かれたものではない
紹興本・紹煕本にいたるどこかで誤写があった可能性はあるが、
原資料にあたれたはずの陳寿が書き間違える可能性はかなり薄い
433 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 14:48:58.22
末盧国から伊都国は東南五百里。唐津に上陸したら怡土ではなく、佐賀市周辺だろう。
となれば、畿内説は即死だ。佐賀市周辺から畿内に向かうことはあり得ない。
有明海沿岸だけで倭国を形成してください
435 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 18:01:26.28
倭人伝の記録を、魏の公里比で1/6するだけで、
すべて解決する。
以上
436 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 18:03:53.24
そうか纒向かやっぱり
纒向は時代遅れ。
終わっています。
438 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 23:03:54.26
マキムクは170回くらい発掘しても、
なにも手がかりに繋がりそうなものは出てないからねえ。
むしろ、発掘で邪馬台国から離れていくような印象
439 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 23:23:24.60
箱物とか作ったが勝ち
テーマパークみたいなもんだから
440 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 23:26:24.29
>有明海沿岸だけで倭国を形成してください
有明海沿岸から出発して南へ水行二十日で投馬国だよ。
あるいは、南へ水行十日陸行一月で邪馬台国だ。
地価が高いところとか上物がびっしり建ってるとこの下にはいろいろ埋ってるだろうね
一般の人は復元されたものだけ見て弥生を想像するけど
掘ってみたら何か出た、ってのは津々浦々どこにでもある話
野球場を建てようと調査したら出てきた三内丸山なんて好例じゃないか
>>432 一行目と二行目以下がまったく矛盾してるぞw
歴史とは、本来、矛盾するもなのだ。
後漢のころ開発された天体測量法である第二天蓋法によると、一理は76.6mである。そこで、楽浪郡の南方一万二千里を求めると、宮崎市あたりになる。同様に帯方郡の南一万二千里には会計がある。これ以上はっきりした邪馬台国の位置はない。
後漢の時代は北回帰線より南を支配してるから
測量法の間違いに気付くけどな
>宮崎市あたりになる。
しかし宮崎市あたりは倭人伝で言う倭地ではない。
>>447夏至の時の影の長さは、緯度で決まる。間違いではなく誤差の問題である。
>>449 太陽の高さを仮定して三角比で求めてるのだから
太陽が直上に来ればこの測量法の前提条件である
太陽の高さ自体が間違ってる事が分かるんだよ。
>>450太陽の高さは仮定ではない。郡も邪馬台国も北回帰線より北にあるので夏至の時の影の差で南北距離は測れる。実のところ文章の意味が分からない。
452 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 08:23:19.67
邪馬台国はジャワ島にあった。
距離、方向、文化、魏志倭人伝の記述を全て合致する地域はここになる。
平家の日宋貿易は寧波と行き来していたらしい
会稽東治は寧波・上海よりは南の位置だが
真東に船を進めていれば海流に乗って北へ曲げられちょうど日本につく
あながち間違いではない
455 :
日本@名無史さん:2012/04/17(火) 01:34:59.67
陸路だと一ヶ月、水路だと10日だろ
その当時の道なんてけもの道みたいなもんだろうから、奈良まで一ヶ月
かかっただろう。
邪馬台国は奈良で何も問題ないな
宮崎説が一番神話と関連付けられて面白いことになるんだけどな
\(^o^)/兄貴の釣竿落とした、許して
(^o^) 許しません
\(^o^)/謝っても許してくれないから兄貴追放する
(^o^)実の兄になんという仕打ち
たぶん実際はこんなレベルの喧嘩が始まりで
弟は邪馬台国を治め、兄は南に隼人達を束ねる狗奴国を作って争いはじめたんだろうな
海幸彦と山幸彦の話みる限り
458 :
日本@名無史さん:2012/04/22(日) 19:02:53.21
宮崎は、瀬戸内海、豊後水道をたどれば、
畿内と比較的関係を持ちやすい場所である。
神武東征も一応は、宇佐や北九州を経由して畿内に向かう、
無理のないルートではある。
そして、宮崎と都城や人吉は、古墳や住居の形状から、
それなりの関係は認められるが、
熊本や筑紫などとは、あまり関係が認められない。
ごくわずか、花弁上住居が認められるくらいか。
その程度の僅かな交流はあったのだろう。
九州北岸にあったと思われる「奴倭国」は、1世紀倭人領域の
「極南界」だったということは、その後しばらく九州南部は
異域だったんだろう。
訂正
× 「奴倭国」
○ 「委奴国」
461 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 00:19:46.61
倭の五王の先代が土人やっつけて三潴に入植したのが4世紀後半のことだからな
462 :
日本@名無史さん:2012/05/13(日) 08:28:31.01
委奴国・・・「イヌ国」?
・・・・・・「熊野」。
現代は「くまの」と通常読みますが、
古語や地名、神名などでは「イヤ、イヌ、ユヌ、ユヤ」とも現代でもよみます
=熊野国・・・出雲帝国?
熊=イ、ユ、
野=ノ、ヌ、
因みに、和歌山県の寒村。熊野(イヤ)地方は去年の豪雨災害で一躍有名になりましたね。
イヤ地方と聞いて四国の祖谷かとおもいましたが熊野をイヤと呼ぶのが驚きました。
ユヤは油谷、湯谷、諭弥・・・
イヤは祖谷、揖夜、熊野、揖屋、伊弥(「不弥国」はイヤ国?)、伊谷・・・
>>462 くまのって明らかに和語で、その地名の真名じゃん
なのに、イヌの方が早いとかまちがってるだろ
へこいし→経来石→きょうらいし
こういう流れの名前の転変はよくある
その逆は稀だ
464 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 02:32:11.64
「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、
当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、
後に飾りとなったのだという
▲ならば入れ墨のない者は当時の役所をクビになったのか??とは、むろん大阪市での職員への入れ墨調査を聞いて頭をよぎった妄想である。
役所が職員の入れ墨の有無を一斉調査するというのもびっくりだが、「110人」という調査結果にも驚いた向きが多かろう
▲そういえば最近タトゥーと呼ばれるファッション感覚の入れ墨を就職活動を機に消す手術をする若者が多いという。
欧米の映画などをまねて気軽に入れたタトゥーも、いざ職探しとなれば入れ墨がアウトローのシンボルとされてきた日本社会の市民感覚に突きあたる
▲さて映画では片肌脱いで桜吹雪を見せる遠山の金さんこと町奉行、遠山景元には本当に入れ墨があったか。
放蕩(ほうとう)ざんまいの若い頃に遊び仲間と腕に桜の入れ墨をしたと記すのは元幕臣の漢学者、中根香亭だ。
旗本の子弟が「武家彫り」などという入れ墨をした時代だ
▲だが香亭によれば、幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐことがなかったという。
さて景元は「若気の至り」を後悔したのかどうか。ともあれこと奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをしたと香亭は絶賛を惜しまない
▲大阪市職員の入れ墨事情は人それぞれだろうし、何らかの措置が必要なケースもあろう。
ただ未来の景元を失わぬようにするのも組織の「マネジメント」だ。
毎日新聞 2012年05月18日 00時16分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120518k0000m070123000c.html
465 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 01:18:04.21
「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。
水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、後に飾りとなったのだという
▲ならば入れ墨のない者は当時の役所をクビになったのか??とは、むろん大阪市での職員への入れ墨調査を聞いて頭をよぎった妄想である。
役所が職員の入れ墨の有無を一斉調査するというのもびっくりだが、「110人」という調査結果にも驚いた向きが多かろう
▲そういえば最近タトゥーと呼ばれるファッション感覚の入れ墨を就職活動を機に消す手術をする若者が多いという。
欧米の映画などをまねて気軽に入れたタトゥーも、いざ職探しとなれば入れ墨がアウトローのシンボルとされてきた日本社会の市民感覚に突きあたる
▲さて映画では片肌脱いで桜吹雪を見せる遠山の金さんこと町奉行、遠山景元には本当に入れ墨があったか。
放蕩(ほうとう)ざんまいの若い頃に遊び仲間と腕に桜の入れ墨をしたと記すのは元幕臣の漢学者、中根香亭だ。
旗本の子弟が「武家彫り」などという入れ墨をした時代だ
▲だが香亭によれば、幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐことがなかったという。
さて景元は「若気の至り」を後悔したのかどうか。ともあれこと奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをしたと香亭は絶賛を惜しまない
▲大阪市職員の入れ墨事情は人それぞれだろうし、何らかの措置が必要なケースもあろう。
ただ未来の景元を失わぬようにするのも組織の「マネジメント」だ。
▽毎日新聞 2012年05月18日 00時16分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120518k0000m070123000c.html
466 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 08:27:15.13
大阪から奈良まで歩いて一ヶ月もかからねえよ
467 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 16:27:34.38
>>466 いや、そういう意味じゃないと思うよ…。
大阪から一カ月だったら山梨や長野までいけそうだな
468 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 17:30:48.67
歩いたら1っヶ月だろ
北九州から奈良まで歩いたら一ヶ月だよ
469 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 18:50:03.22
そんなに歩けないよ。君はこの一か月で何キロ歩いた?
470 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 21:59:49.02
素人なのでよく知らんが、邪馬台国がもし貿易で栄えたのなら大陸に近い九州北部っぽいな。
常に最先端の情報を得られるし、情報を握りつぶすこともできそう。
アメリカの首都ワシントンみたいだな。
>>470 その九州北部を支配下に入れた内陸政権ってこともあり得るけどな
100余国中、30国しか繋がりのない邪馬台国が、
「九州北部を支配下に入れた内陸政権」というのはかなり厳しいと思う。
倭人伝冒頭では、漢の時代に100国、いま30国だろ
それは朝貢してくる国が減ったと記しているとも取れるし、
時代と共に統合されて、100国だったものが30国に纏まったとも取れる
それはさておき、
邪馬台国は九州北部をとおり越して奥に入った場所だとは取れるだろ
距離や日数からいくと、九州北部の付近ではない
474 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 15:49:57.06
質問スレに書いたんだけど無視された。だれか教えて。
梁書倭国伝の陸行一月日の「一月日」ってどういう意味だと
考えられているの?
一月日なんて単位は無いでしょ。
学会的にはどういうことだと考えられているの?
ってか、もしかしたら分からないから学会的には気づかないフリ状態????
475 :
474:2012/06/10(日) 15:02:53.19
どうも自分で書いた最後の行が正解らしいな。。。
邪馬台「国」と大陸人に言われるものは存在してないよ
大陸人が「邪馬台国」と呼んだ「国」のようなものは
「卑弥呼の都するところ」
すなわち、卑弥呼が存在するあらゆる場所が「邪馬台国」だ
卑弥呼はシャーマンのリーダーとして近畿から九州をグルグル回っていたのさ
だからあちこちに痕跡があり、また大陸人が見つけるのにとんでもない日数がかかったのさ
477 :
476:2012/06/10(日) 17:33:45.50
チョイと言い直す
>すなわち、卑弥呼が存在するあらゆる場所が「邪馬台国」だ
↓
すなわち、卑弥呼がしばしの宿とした全ての場所が「邪馬台国」だ
卑弥呼を馬に乗せて各地を巡幸していたのさ
噂にだけ聞こえてくる僻地では御白様となったり
馬頭観音になったりした
479 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 15:02:22.08
480 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 15:09:14.83
十一面観音とかの小屋掛けしてあげると王墓は盗掘とかから免れやすいよ
卑弥呼の時代に仏教なんてねえよ
482 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 18:43:27.90
国産の鏡とか大量に出現させた実績のあるひとだから
径80m程の塚にはかなりな参拝者とかが訪れてからに
後年までたびかさなるケアとかがあったり
各地の有力者からの寄進とかのがあったりもしただろうから
製作時には無かったアイテムが追加されていたりもするかもしれんし
後年勢いを失った後にも保全のためにお堂とかセットされたりしたりしても
まあ不思議だったりするわけでもないがね
>>482 その頃に「墓参り」って風習があったと言う根拠は?
484 :
サガミハラハラ:2012/06/18(月) 18:17:37.36
>>474学界ではどうかわからないけど、陸行一月日至邪馬台国は、陸行一月の日(日数のこと)で邪馬台国に至ると解釈してください。
485 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 18:38:19.73
倭人伝のとこだけしか読まんとゆうひともままおるらしいからして
まぬけなひとは郡からの歩数とか日数だとかってふつうに読むことがでけんのだわね
実は魏志倭人伝自体が捏造でした
失礼な!捏造は畿内説の専売特許です。
489 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 14:44:32.43
弥生時代の伝承のかけらもないのはなぜなんだ?
大陸に使者送れるぐらいの文化水準なら伝承ぐらい
あってもよさそうなもんだけど。
記紀書くときに握りつぶしたかな
なんの伝承?
古墳つくるための行程もかかれてないが、御陵とかいった言葉はあるだろ
491 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:16:15.15
>>489 君の家には500年前の先祖のことが伝承されている?
無理だよそんなの
492 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:20:31.96
>>488 へぇー、こんなことで畿内説が確定と考えられるの?。単純だねー。
マキムクすれの1を見てご覧よ。
いや、今回のが出る以前に畿内で確定してるよ。
494 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:39:06.73
もう、さすがに三角縁の卑弥呼鏡説は潰れたかな。
質が低い紡製鏡というか、書や文章の質が低い模倣鏡みたいな奴も多かったからね。
495 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 22:30:33.86
確かに三角縁で畿内説を強弁してたのはなんだったんだ?
496 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 22:45:20.28
三角縁がだめだから画文帯とは、安易な話だねえ。三角縁を作った工人が
画文帯も作ったというだけのことだろ。三角縁がだめなら画文帯もだめさ。
497 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 02:11:01.94
散々捏造しても三角縁は無理だったんで、
今度は画門帯に乗り換えか。
九州説論者がまたファビョりだしたなw
暇なら行程パズルでもやってろよ。
499 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 03:11:40.14
んー、別にファビョってはおらんよ。
いつものことだし。
ファビョったことにしたいのはわからんでもないけど。
500 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:35:30.24
京都大学の学生なんかは、三角縁神獣鏡を散々見せられていたらしい。
まるでご神体みたいなもので、畿内説信仰を叩き込まれる。
何十年もこんな状況だったのに、だめだとわかったらあっさり捨てる。
もともと信者つなぎの時間稼ぎだったんだろうな。
何もないのは困るので、とりあえずは今は画文帯と言うことなのだろう。
畿内説の優位は鏡の件だけじゃないのにw
九州説は出土品でも文献解釈でも何も進展がないのが致命的だろ。
502 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:51:02.10
>>501 畿内説の状況については内部批判がないとどうしようもない。
畿内説の考古学者の言う人を何一つ疑うことなく、盲信するだけの
信者がいる限り、邪馬台国論争は終わらない。
503 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:53:00.18
>>502 訂正
畿内説の考古学者の言う人を→言う事を
>>502 考古学的には九州説は既に破綻有りまくりなんで
誰も賛同出来ないのが現実なんでね。
畿内説でも奈良を主とするか、河内や播磨、
もしくは阿波辺りまでを考慮するかというのが最近の流れですよ。
淡路島が世界を構成する地域の一つだったんだから
世界の果ては瀬戸内の東半分位だな
>>504 たとえば、どのへんが破綻してたりすんですか?
一二例でいいのでご教授ください
邪馬台国が本州にあるわけがない
>>506 まず現時点の出土品でも、弥生中期の時点で
中国人が丹波や阿波、畿内までやって来てるのが確認済み。
少なくとも倭国=九州内は成立出来ないだろ。
509 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 23:28:11.50
丹波や阿波、畿内に中国人が来ているなんていう考古学者は一人もいないよ。
鏡や貨泉は朝鮮半島から手に入る、そんなもので中国との関係をいうことは無理だ。
>丹波や阿波、畿内に中国人が来ているなんていう考古学者は一人もいないよ。
普通に沢山いるよw
>鏡や貨泉は朝鮮半島から手に入る
九州も同じ事が言えますよww
俺の近くで言えば
淀川以北からは朝鮮式の須恵器が出るようだな
物部系の神社が多いところだ
512 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 03:30:09.88
一般的な定説では須恵器は5世紀後半以降。
高温焼結窯の技術が導入されたことを意味する。
それとほぼ同じ時期に製鉄が始まるのは、
高温制御技術が関係しているのだろう。
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)
日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
その男系子孫であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷(東征)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
一白
大王 陛下
>>512 高温焼結というけど、青銅鋳物も1400度という温度が必要なので
それくらいの温度は弥生時代には達成していたと思うけどな
>>512 それと、鉄は還元工程のコントロールが専門技術的なのであって、
温度技術というだけでは無いと思うよ
516 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 00:51:58.61
>>515はごもっとも。高温と還元ガスコントロールが、両方必要。
>>514は、温度高すぎ。合金でもそんな高温はいらない。
517 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 06:23:24.34
マキムクは各地の豪族が送った、古墳建設労働者の飯場だろ。
それをゴッドハンドで卑弥呼の都にしてるのだよ。
【現実】
☆九州(東遷)説
. ↑
【左翼】(非国民)←┼→【右翼】(無知蒙昧)
. ↓
★九州(王朝)説 ★畿内説
【妄想】
>517
労働力と税が集まるところが、すなわち都
520 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 15:47:01.46
邪馬台国は、「国」じゃなくて「女王が都するところ」。
のちの時代で言えば、藤原京とか平城京、飛鳥浄御原宮。
天武天皇を飛鳥浄御原王と言わないように、卑弥呼も倭国王であって、
邪馬台国王ではない。
>>517 おまいさんの飯場はえらい立派なんだな。
都もない場所に、そんな立派な「飯場」を建てて、誰の古墳を作るんだい?
521 :
出土地不明:2012/08/12(日) 22:42:35.58
箸墓古墳には、台与が眠っているよ。
×箸墓古墳には、台与が眠っているよ。
○箸墓古墳には、台与の証を埋めといたよ。
523 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 23:40:00.49
古墳は特定人の墓ではない。兵士の訓練を兼ねて築いた邪馬台国の看板みたいなものだ。
たまたま大率クラスの人物が死んだときに葬っただけのこと。
524 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 02:19:38.01
マキムクは大王墓用の巨大飯場だが、卑弥呼の都である証拠はひとつも無い。
ゴッドハンドで卑弥呼に結びつけているだけだw
卑弥呼の墓は黒塚だろう。
526 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 14:02:32.76
河内のおっさんの先祖の土方得意な下品なワレ土人のお墓だろ
皇室とは関係ないよなな
河内には弥生期には既に中国人が入ってたんだけどな。
最大級の方形周溝墓と貨泉が証明しとる。
まぁ三世紀の巻向が、卑弥呼が都と定めた場所の
可能性は相当高いでしょ。
女王となってからら人前に顔を出さず
多くの巫女に囲まれて生活する場所だ。
鏡作神社や勾玉作りの場所が近くにあって
三輪山は丹山の入口というべき山だ。
新たな神仙思想に影響を受けた女王が
宮に定めるにはこれ以上の場所はない。
529 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 20:43:05.70
とまあ、こじつけてみました。
でも、やぱり妄想だと、自分で気づきました。
邪馬台国の中心は福岡の柳川市から八女市にかけての地域で田油津媛は卑弥呼の子孫
狗奴国は熊本市。普通に考えればこれ以外に無いと思うのだが誰がゴネているのだろう?
532 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 21:52:18.97
北九州から水行十日陸行1月とあるのだから、普通に考えれば柳川や八女あたりでないことは
明らかなはずなのに何を考えているんだろ?
水行十日は帯方郡からの所要時間
陸行一月は一日の誤り
534 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 22:49:32.78
漢文の基礎的な読み方もできないんだねえ。しかも、勝手に誤りと言うなら
どこにでも比定できるだろうが、まともな人は相手にしてくれないよ。
九州説は行程パズルしかないんだから、察してあげなきゃ。
巻向周辺が卑弥呼が都と定めた場所ですよ。
倭国大乱後、吉備や阿波の海人族がヤマト入りしました。
既に考古学界的には常識で、こんなの誰でもわかるでしょ。
537 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 23:54:41.70
ないないw
そんなの既に常識だよ。
九州説なんて妄想と行程ごっこ、
後はチョン工作員ばかりで他は何も無いじゃないかw
まあ、すべてが詐欺で構成された畿内説には敵わないよ。
540 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 00:19:27.63
>倭国大乱後、吉備や阿波の海人族がヤマト入りしました。
そんなことを書いている学者もいるけど、それでは何で古墳が隼人の盾で
守られていたのか説明できないな。
>それでは何で古墳が隼人の盾で
守られていたのか説明できないな。
海人族同志なだけだろw
渦文様は共通の証だよ。
542 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 11:21:05.69
海人族同志だから隼人の軍隊にきてもらって王になってもらったってか?
そうゆうのは、植民地にされたって言うんだよ。
言わないよw
>541
なぜ平安京の諸門が東国武士によって守られていたか説明しようか?
大番勤めがあったからだよ
隼人も王家の番人だっただけさ
545 :
日本@名無史さん:2012/08/20(月) 17:02:52.29
天皇が東国武士のためにでかい墓を造ってやったことはあったかな?
Tomb Raiderの新作が邪馬台国が舞台らしいぞ
いわゆる魏志倭人伝を信用したら、
畿内説はどうしようもないのでは?
同じ頃畿内にも別の王国?が栄えていました
では、何か都合の悪いことでもあるの?
そんなぁ〜!
畿内説はハナから詐欺だなんて大声で言ったら、困る人が大勢いるでしょ。
100%インチキでも、畿内説で食っている人の人生も考えてあげてください。
549 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 00:39:24.54
>同じ頃畿内にも別の王国?が栄えていました
銅鐸も出ないとこだよ。
550 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 10:24:13.43
今更だが倭人伝の解釈でも邪馬台国は畿内ですよw
未だに九州説なんてアホな妄想家や朝鮮人工作員位だし。
551 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 10:43:58.60
★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
552 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 10:47:14.88
>倭人伝の解釈でも邪馬台国は畿内ですよw
そんなことを言う学者はおらんよ。
邪馬台国時代に列島統一型体制が
設立していないと困るのか?
群雄割拠&地域連合体制でいいよ。
まぁ、邪馬台国の看板は商売になるけどさ、
所詮そんなのは科学に関係ないし…
畿内説詐欺で飯食っている学者ならいるよ。
九州説にはただの詐欺師しかいないけどな。
答えをだすと誰かが苦しむなら、答えを出さなきゃいんだよ
これが戦後
畿内説で飯を食ってきた大勢の馬鹿を餓死させないことが、真実より大事なのです。
まぁ、そういう現世のことは脇に置いてww
九州北部(博多、佐賀、中津あたり)九州南部(熊本、宮崎あたり)
出雲、吉備、畿内
敦賀−福井一帯
西日本に関してこのあたりに地域勢力があって大陸や半島と関わりを持ち
列島内ではいろいろと緊張関係したり手を結んでいたりした、でいいかな?
正直なところ、関ヶ原以東はわからんけど。
旧国名の領域が、当時の勢力と関係が深いのではないかと思う。
もちろん、旧国名の領域内に、小豪族がまた群雄割拠していただろう。
万単位の人口が示された奴国、投馬国、邪馬台国はいわゆる県単位に相当する
旧国名の範囲を示し、千単位や、人口の記録がないところは、旧国名の範囲の中にある、
いわば市町村単位の国だろうと考える。
俺は短里1/6と日数1/6の人だが、これでたどると、人吉盆地に到着する。
上陸した松浦は肥前国であり、肥前を通り、肥後を通って人吉盆地に到着する。
人吉盆地までが、肥後国で、この先の都城やえびのは日向国である。
おそらくは鹿児島方j面も含めて熊襲国である。
これから考えると、女王国と呼ばれるのが、肥前国と肥後国の
旧肥国であり、現在の熊本県全域が邪馬台国であろう。
その南の奥の人吉盆地が卑弥呼のいる国であり、
クナ国との最前線でもある。
異民族の軍隊がいたほうが帝国って感じがする
例えば大英帝国はインド兵に民族的な格好をさせて本国軍と写真に収まってる
国内支配や対外的な箔付けになる
水行十日で八代付近は譲って可としても八代から人吉まで陸行一月もかからんだろう。
文化的には人吉は北薩や天草と共にし、北や東とは異にする。
>>562 >>560の文中にかいたように、私は日数1/6の人なので、
陸行一月は、事実上5日程度の距離である。
つまり、一日15キロ程度として7〜80キロである。
潮の具合によって誤差は大きいだろうが、当時の船で日中だけ航行するなら、
水行も陸行とそう大きな距離の違いはないと考えている。
納得致しました。気付いていたが書き込んだ時点で全然読んでいなかった。
有明海や北の日本海を行ったという説を支持するよ。
関門海峡のような特徴ある海域に一切触れてないのは変だ。
場を特定するのに有効すぎるし絶対必要だろう。
565 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 17:28:08.40
有明海説は倭人伝どおり南水行でいいのだから正解だろう。
しかし、日数を6分の1にするなんて話はだめだね。ごまかしにすぎん。
有明方面は距離が近すぎで無理。
雲仙や阿蘇の火山の記述もない。
また大分辺りの温泉の記述もない。
つまり九州は通過してしまってるんだよ。
567 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 17:52:18.96
まあ、正直言って、日数1/6にさして根拠があるわけではない。
隋書百済伝、倭国伝、そして、魏志倭人伝の一月行80キロ程度は、
短里での千里に相当すること。
公里での千里は435キロとなり、実際の旅程のひと月分相当になることから、
一月行=千里という言葉がひとり歩きしたと推測。
これから、短里千里を倭人伝での一月行と仮定したのである。
短里が公里の1/6なので、一月行も1/6である。
そして、それで目的地がはるか南海上に行く事もなく、
地図上でも適切なところから、水行に変わり、
陸行が妥当なところで、陸行に変わり、
全く問題がない。
また、個人的には人吉盆地だと、いささか行き過ぎではないかと思ったが、
先に書いたように、人吉までが肥後の領域なのである。
この先はクナ国と思われる熊襲国の領域である。
クナ国に悩まされていた卑弥呼のいる場所としては
妥当ではなかろうか。
有明海から阿蘇山は見えるん?
見えても遠くの小さい青い山じゃない?
雲仙は見えるはずだけど結構な噴煙上げてないと火山とは気付かないよきっと。
有明海は広いからな
海上の場所による
570 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 18:16:23.32
有明海からだと、阿蘇山は外輪山が邪魔で、
中岳まではみえないだろうな。
九州西半分説の最大の弱点は
東に海がないことか…
宮崎県側まで支配していたことになるのか?
572 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 18:35:44.29
宮崎まで行くと東はほぼ太平洋だからな。
東の陸地を意識するなら、四国が見える大分付近かな
日数→里数の置換はあっても逆はないんでは…
一日や二日なら誤差も大したことないし推測で書いたとしても、
十日や一月となると記述するに耐えない誤差が生じるだろうと思って日数のまま書いた
…んではないかと思うんだけどね。
宇佐辺りなら温泉の記述がないと確かに変だよ。
575 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 22:58:53.21
有明海を南下するといっても有明海の沿岸に邪馬台国があったというわけではないな。
有明海を南下するのが水行十日、それから更に陸行一月があるわけだ。
つまり日向まで行くってことだよ。大分から日向の全部、これが女王国だったら東渡海
千里にまた倭種の国があるということになるだろ。
結局倭人伝の記述に一番近いのは
四国東南部という事だよ。
577 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:07:41.23
書かれていることを正しく理解できない奴は四国だとか畿内だとか言うわけさ。
銅鐸土人の畿内にもっていかないと、飯が食えない人たちがいるからな、そりゃ必至だわ。
人吉はともかく、熊本平野説は結構面白そう。
ただ壱岐から松浦へいくのは風海流共に難しくて
唐津−福岡のほうが容易な気がしないでもない。
その場合は福岡−鳥栖経由で問題ないかも知れないが
松浦上陸の場合は伊万里−武雄経由の方が安全かなぁ
ただ水行10日は単一の旅程とするのはかなり説得力不足な気がする。
いきなり出てくる数字としては大きすぎると思う。
熊本方面は火山の記述が無いのが致命的だね。
倭人伝を正しく理解すれば九州説なんて有り得ない話。
581 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 06:59:49.58
>>579 隋書も海岸へ出て後十日と書いている。つまり水行十日が一続きの旅程なんだよ。
582 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 07:06:28.52
畿内説は、九州、本州、四国と三大島が存在することに相当する記述が無いのが致命的だね。
倭人伝を正しく理解すれば畿内説なんてあり得ない話。
それに畿内に向かうのならば九州で上陸して陸行五百里も歩くわけがない。
船で直行する方がずっと楽だ。
>>582 まあそうだな。
畿内へ行くなら、壱岐→下関→摂津のコースだな。
プラス途中宿泊で留まる島くらいだろな、寄るのは。
>>582 意味不明すぎる。伊都が北部九州内陸部にあるなら
当然陸行500里は必要な訳だが…
582ではないが、機内が目的地なら東南陸行五百里は不自然だとは思う。
その前の末廬國についてだけれども、草木茂盛行不見前人と書いてある。
上陸して陸地を歩いたのは間違いない。
それだけでは伊都国まで歩いたと断定はできないが、東南陸行五百里と
書いてあるものなあ。
>>584 伊都が糸島なら然陸行500里は不必要だ。
伊都が差が平野なら畿内説は完全消滅。
>>586 >伊都が糸島なら然陸行500里は不必要だ。
伊都が糸島じゃないだけの話だろw
俺は畿内説だが伊都は大宰府周辺だと思ってるしな。
一大から末廬國まで海を千里とあるけど「南」とは書かれてないしな。
またそれまでの記述と比べると松浦半島じゃ距離が短すぎる。
畿内説の苦しいところは、道中の説明が足らないところか。
出発地点から見れば、畿内説だと九州北部までで行程の約半分。
岡山あたりや大阪あたりの情景がないのでは、さすがに辛いかな。
水行は陸行に比べて危険度が高いので、
できる限り陸行を取ると考えるのが普通だと思うけどね。
590 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 16:58:28.56
合計万二千余里のうち、帯方郡から唐津までで10000里使ってるんで、
残りは二千余里。
帯方郡から唐津までの距離の1/4から1/5程度の距離に、
邪馬台国、あるいは卑弥呼がいる計算になる。
地図上で主要道や、妥当と思われる航路を設定して約800キロ。
あと200キロくらいで、邪馬台国、あるいは卑弥呼のいる場所に到着する。
これでもだいたい人吉盆地あたりになりそう。
591 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 17:04:32.12
女王国に至るというだけで、邪馬台国に至るとは書いてないよ。
邪馬台国は北九州から水行10日陸行1月だ。万二千里の範囲には入らん。
当時の船で10日の間に進める距離は133kmだと確定している
なぜなら、卑弥呼の使いが魏に朝貢するとき、帯方郡に6月に着き、その後都に向かって黄海を渡って黄河を遡って2400kmの「水行」をした結果、その年の12月に到着しているからだ
常識で考えると水行10日陸行1月で九州に収まる訳ないしな。
逆にこれだけ時間かけて九州各地を回ったなら、
それこそ火山やら温泉等の情報が皆無なのは変だろ。
「水行十日陸行一月」であって「水行十日而陸行一月」ではないのだから、「水行なら十日、陸行なら一月」という意味だろう
不弥国が通説どおり宇美だとする
投馬国は「南」にあるわけだけど宇美の南は宝満山などの険しい山地だ
てことは投馬国はその山地の向こう側ってことになって、陸行は無理だ
もちろん里程の計測も不可能で、ただ、海路を回り道しないと到達できないことになる
宇美から博多湾を出て長崎を回り込み有明海を北上し筑後川を上って久留米あたりまでで約260km
ちょうど水行20日だ
そう解釈できる蓋然性がない
水行即十日、陸行即一月ぐらいは書く
>>592 仮に水行はよいとしても陸行は説明つかん、普通の足で、一時間4km、来客ペースで一日8時間あるくとしても
一月で約1000kmだ
598 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 17:34:09.00
江戸時代の街道の宿場で、
一番長い宿場間でも16キロ以内。
それでは遠すぎると、しばしばその間にも宿場ができる。
ゆっくり行って、だいたい14〜15キロ。
日本陸軍の行軍目安が、一日24キロ
一日30キロの行軍速度を記録した、
秀吉の中国大返しが、考えられないはやさ、と評された。
>日本陸軍の行軍目安が、一日24キロ
それ装備や兵站の用意をするためだろ、行軍だからな
宿場間を一日で歩いたわけじゃないよ
一時間4kmというのはワンゲル部に聞いた数字だから無難な数のはず
昔の旅行というのは、現代とは桁違い
ホテルがある訳じゃなし、コンビニがあるもんでなし
献使の旅行となれば、生活用具一式もって歩く
もちろん食料品や武具まで携帯するし、
大切な贈り物も丁重に運ぶ
盗賊に盗まれぬよう、兵隊がまわりに配置される
結果、現代のワンゲルの速度とは桁違いなのよ
かつて渤海という国から日本が朝貢を受けていた時期があった。
渤海からの貢物に対して日本側では数倍の回賜でもって応える義務が生じ、渤海に多大な利益をもたらしたという。
日本側は、朝廷の徴税能力が衰え、使節供応と回賜のための経費が重荷となった後は、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えたが、その交流は渤海滅亡まで継続したそうだ。
魏の使者だって、それだけ大量の回賜を携えて邪馬台国に向かったんだから、むしろ軍隊の行軍よりも陸行に時間がかかって当たり前だと思う。
>>600 一応、律令時代の記述はもっと早くすすんでるけどね
ワンゲルて荷物全部持参でテントたてて移動して点競うらしいんだけど?
>>601 軍の行軍は前線を意識するから、その比じゃないだろ
604 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:13:55.21
高校とかで、長距離歩行訓練みたいなのやるところがあるけど、
一般人には、30キロ毎日はきついぜ。
人足なんて現地調達しながら進むだろ。
その為に海人族ネットワークが使える水路が重要なんだよ。
606 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:43:41.56
島国日本で一ヶ月も国もないところを歩かせるかよw
>>606 グッドポイント!
やっぱり、陸行一月は総行程だな
水行十日のとこから陸行一月する間ずっと邪馬台国なら良いな
陳寿の手元にも魏使が邪馬台国に至る行程情報がなかったんだろ
だから他の資料から推測したか意図的に利用した
いずれにしても、いろんな仮説が立てられてしまう程度の情報だろ
倭人伝の行程記事というのは
>>608 その発想は面白そう。
まあ、それでも一ヶ月間、途中のトピックがないのは
さすがに不利といわざるを得ないなぁ
自郡至女王國萬二千餘里
で九州上陸までが1万だから畿内説は辛い。
>>609 そういう考え方も出来るし、あっていいけど
それだと、魏志倭人伝の他の部分で得られる当時の情報なども
使えないですね。
行程だけ、とかでは都合よすぎる気がしますよ。
>>697 いやいや、伝聞なんだろうよ。
それまで詳述しておきながら、ここから陸行一月はないわ
使者は九州で会見した、本国から来た会見相手にその行程を聞いた、これ
612 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 21:33:35.06
┌┬┐
├┼┤夫餘 方二千里 戸八萬
┌┼┼┘
├┼┤高句麗 方二千里 戸三萬
┝┿┿┓┐
└┼朝╂┤東沃沮
├鮮╂┼┐濊 戸二萬
┝┿╋┿┥
郡★┼╂┼┤韓 方四千里
├┼╂┼┤馬韓 五十餘國 總十萬餘戸
├┼╂鐡┤弁辰 二十四國 總四五萬戸
..月支★┴┸┴★神耶の狗邪 郡→狗邪 . 7,000里
千餘戸對海國★ 狗邪→女の園 5,000里
. 三千家一大國★天ハブセンター
二萬戸奴國┏★┳┓┌┬┬┬┬┐ミミの
┣┳┛┃└────┘投馬國 五萬餘戸
神の狗奴國┗┫┏┛
クマの .┗┛邪馬臺國
20ヶ國七萬戸
613 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 00:07:28.25
>>610 >途中のトピックがないのは
いわゆる風俗記事にまとめて書いているんだよ。詳述しているだろ。
>>595を前提にすると邪馬台国へは、久留米から水行10日(133km)の水俣あたりに着いたあと、さらに内陸を1ヶ月進むと見て都城あたり?
宝満山を超えられずに水行260km行った人たちが、陸行で高千穂越えするのってなんとなく不自然な気がする
615 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 06:45:33.16
>>595はウロウロしすぎ。末盧国から東南五百里伊都国は佐賀市付近だろう。
そこから水行十日陸行一月で南九州だよ。九州山地を越えて行くから日数は
かかるがそれがもっとも合理的なコースだ。
>>606 所要日数ではない。
勅使の目的を果たすためのものだ。
617 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:54:28.19
倭人伝は勅使の旅程を書いているわけではない。
618 :
通行人@古代:2012/08/31(金) 11:03:53.02
>>614 小さな川には橋があったかも知れないが、
律令時代以前は、川に「渡し」の制度はない、と考えられている.
<魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつな糸>には、当時の道は分水嶺道路だ、
と書いてあった.
江戸時代になっても、山陽道方面は船で、東海道方面は渡しのない中仙道が用いられた.
そういえば水行10日陸行1ヶ月が郡からの総日数とかいう説は
どうなったんだっけ?
1万2千里=総距離説も。
水行が十日て、そんな航行技術があったら、倭はもっとはやく魏についてるんじゃないのか?
621 :
通行人@古代:2012/08/31(金) 13:05:06.71
>>619 北九州から太宰府のあたりで稜線に登り、水分峠・阿蘇外輪・高千穂あたりをまわって南九州まで
20日か1月くらいだそうです.
途中の高地の村で、水や食料を調達し、ゆっくり山行すれば、そんなもんでしょうか.
1万2千里は天体観測で得た値だとしていました.
距離は行程距離ではなく、近くの山から見通しのできる、目的地の近くの山までの直線距離だ、
そうです.だから1万2千里は水行や陸行の距離ではないことになります.
622 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 13:21:54.68
水行10日と言ったところで、毎日陸地に上がって食事をして寝るんだよ。
倭の小舟だからね。
卑弥呼が魏に送った朝貢使節でさえ帯方郡から都までの2400kmに6ヶ月かかってるんだから
倭の小舟ならもっと遅いだろう
まあ、九州ではありえんな、陸行一月ではな。
一日20kmとしても600km、それですら軽く山陽道を超えるほどの距離だ。
つーか、小学生時分の俺ですら毎日往復4km歩いてかつ勉強してんだから
仕事で一日歩行20kmは相当甘めな職業だろ
おそらく中途、各国で事務をすませながら九州まで女王国全権委任大使がきたのだろうて。
で、魏の使者はそいつと会って、もろもろの事務をすませた。
一応女王に直接会ったというふうな格好にするため、その使者にここにくるまでどのくらいかかったか聞いて
各国の名前だけメモったんじゃないか?どうせその程度の話だろ
なるほどー
いわゆる総距離説もそれなりには大丈夫なのですね。
やっぱり九州北半分のどこか、でいいかな。
阿蘇山あるし。
でも時期的には近畿、というか奈良のあたりにも
大勢力がいたはずですよね。
倭人伝も両方書いてくれればいいのに…
626 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 14:49:33.85
>一日20kmとしても600km、
こうゆう計算で考えるのが机上の論と言うんだろうね。陸行1月といったところで、
使者が実際に歩くのは20日ぐらいのものさ。2日歩いて1日休みというわけだ。
それに1日に歩くのはせいぜい10キロ、それもあちこち観察し、倭国の実情を確
かめつつだ(それは風俗記事を読めばわかるだろう。)
前に進むのは6、7キロぐらいのものさ。
で、陸行1月はせいぜい150キロぐらいの話だね。
>>626 それはありえんな、日本の地理を記述したものがあるが、行程はやはり早い
旧令制国一国あたり三日とか四日そこらだ
国情も農産物の種類から石高の高さなどつぶさに観察しているが
そんなものは歩きながらでもできる
大名行列でも薩摩から江戸まで陸路で60日だそうだ。
そもそも滞在にはお金がかかるもので、邪馬台国もちで旅行気分で物書きされても迷惑だろ
ああ、wikiには前田家の大名行列が480kmを6泊7日だそうだ、一日90kmだな
まあ、昔の人は健脚だったからなぁ
すまん、70kmか(汗・・・
630 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 16:12:09.96
江戸時代と比べても仕方がない。邪馬台国時代には旅籠なんぞなかろう。
食事はどうするんだ? まず、狩りでもせにゃならんぜ。
大名行列は旅籠にはとまらんよ、本陣だろ
江戸時代の街道の整備は、世界的にも一級品という評判だからな
草木茂盛行不見前人
道は悪いし橋も無い食事も確保しなきゃならない
日が出てる半日の半分も移動に使えたかどうか
634 :
通行人@古代:2012/08/31(金) 22:46:01.73
>>633 草木茂盛行不見前人 の次に何を見ていますか. 海の景色ですよ.
つまりこれは帰路の景色の描写です.
倭人伝の行路は片道だけしか書いてありません.
だからわれわれも帰りも同じところを通ると思い込んでしまいます.
この点に関して、我々だけでなく、海と風を知らない陳寿さんにも責任ありです.
海流と西風に逆らって、北九州の海岸の東よりから北西へ向かう
ことはありえません.秀吉の名護屋城は呼子にありました.
もっとも秀吉の頃の船は手こぎ船ではなく、帆船でした.
草木茂盛行不見前人 こんな道では歩いた距離は測れません.
方向も同じでしょう.魏使は伊都国から末廬国のどこかの港までの距離を
案内役の倭人に教えて貰ったのでしょう.
つまり、魏使の復路の観察報告(アワビ採り)が面白いので、
往路の那の津かどこかの港への到着記録と差し替え、
つじつま合わせで方向を逆にしたのでしょう、−−−とこれは私の意見
ではありません.
635 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:15:26.91
駄弁だな。
内容はともかく、
「これは、私の意見ではありません、」
というところで全てが台無しになりましたね。
そもそも情景描写に往路も復路もないのでは?
その地域の説明の羅列と捉えるのが普通だと思います。
637 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 19:13:58.39
倭の地は周旋五千里、東西五月行、南北三月行で各々海に至るとあるんだ。
倭国というのは九州島のことなんだよ。
中国が我が国の本州も島だということを知ったのは平安時代以降の話さ。
東西に長い九州なんかないよ…
639 :
354:2012/09/01(土) 21:43:01.67
誰も東西に長いなんて言ってないぞ。日数がかかるだけだ。
最も大陸に近い末廬國あたりの陸地を基点に考えるだろう
海路薩摩半島南端までを3とすれば日向あたりは5くらいになるな
641 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:54:39.73
海上での里数のカウントは
流れに逆らってなんとか流されないで定点キープできてたとかの場合であっても
メーターのカウント値はどんどん増えちゃったりするんだよね
あまりにご都合主義すぎるw
643 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 23:44:29.37
東西五月行、南北三月行というのは水行ではない。陸行の話だ。
1420年に日本回礼使として日本に来た李氏朝鮮の官人宋希mが書いた
「老松堂日本行禄」を読んだ。
京都では足利義満の13回忌で喪に服し肉食を断っている様子などリアルで
生々しいが、王は足利氏(原氏)で天皇の存在は記録に登場しない。
途中、安徳天皇を祭る下関の赤間宮についても記載があるが、
安徳天皇は”平氏”で”平氏”は前朝の王子で原氏と争い
原氏に捕らえられて沈められたとなっている。
実際に日本を訪れた人間ですらこの程度。人から聞いた話を
記憶の範囲で記録するが、聞き間違いもあるし、しゃべった本人が
勘違いしてる場合もある。
結論として、歴史書は間違いだらけであたりまえなんだと思った。
ちなみに1月15日にソウルを出発し、対馬2月16日、朴加大(博多)3月4日、
京都には4月21日に到着している。
当時足利氏は、対外的に日本国王と言っていたから、それは正確な記述だろう。
646 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 00:07:09.52
倭が周旋五千里てのは明らかに九州=倭と認識してた証拠
そのころには秋津島が島だとすら認識できていなかったさ
>>645 足利義満は日本国王として冊封を受けたが、当時の将軍、義持は冊封を
拒絶している。(そのため当時、明が攻めてくると勘違いしていた。)
国王の話は別にして、九州探題(※探提と記載)渋川義俊が
国王義持の叔父の子(血縁はあるが叔父の子ではない)だったり、
全く見当はずれでもないが、正確ではない記載が多く見られる。
>>646 それじゃ地形といいむしろ四国の方がぴったりだな。
何しろ記紀でも九州より先に出来てるし。
649 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 00:40:01.45
しかし、記紀は四国を完全に無視しているな。書くことなかったのかねえ。
650 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 00:56:02.65
四国はきれいに南北3に対して東西5くらいだな
652 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 11:37:52.95
神話でも何も書かれとらんよ。神話は日向が出雲を征服した話だ。
だが国名が神名なのは四国だけどな。
654 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 12:51:48.97
四国だけではないよ。
出雲を征服したのは日向ではない
ニニギの子孫が日向でゴタゴタやってた時に知らないとこで行われた国譲り
記紀において男女の神名がつけられた四国が重要なのは間違いない。
というか、この点を無視して神武東征なんて語れる訳ない。
そうだね〜
四国は偉いね〜
やはり、四国はすごいよね〜
658 :
日本@名無史さん:2012/09/03(月) 11:25:56.82
四国が今の九州の位置にあったら邪馬台国愛媛説も生まれたろうにね〜
伊予(イヨ)の国なんだからここは当然女王国だよ。
バカでもわかる事を延々と難解にしてるのが
一部の九州説論者だね。
さすが四国だな
すごい!
誰も相手にしてないよ>死国説
いや、少なくともご都合主義な九州説よりマシだよ。
ご都合主義、と他説を決めつけているから
馬鹿にされるのにwww
堂々と
自説を説明するのであれば、受け止めようもあるけど
他説の足を引っ張って喜んでいるようではお里が知れる。
自説の論理的展開をすればいいのにw
ただ、熟田津とかの存在はなかなか興味を引く。
それに、いわゆる讃岐平野と対岸の岡山平野の位置づけとかも。
しかし遣新羅使や遣唐使とかでも
航路としてはなぜか本州側の沿岸部づたいが重要視されているんだろ。
熟田津なんて万葉集時代に読まれているし
もっといろいろ深く掘り下げても面白そうなのにね。
決め付けるも何もね、倭人伝や記紀の記述を重視するといいながら、
肝心な部分に蓋をする輩が多いから、ご都合主義と指摘されるのですよ。
他説のここがダメ、などという
つまらない補足説明しているヒマあったら、
【自説を述べればいいのに】
って書いてある文章のレスにしては中身が無いな
そもそも確定出来る材料が乏しいから解釈が多岐に分かれるのに、
解釈の疑問点を出すならともかく
ただ、ご都合主義とレッテル貼るだけの作業に価値なんて無いよ。
話をそらしたいわけじゃないのなら
自分の解釈を出せばいいのに。
いわゆる魏志倭人伝にしても、記述された文章だけでは比定出来ないから
九州だろうと近畿だろうと四国だろうと
ある意味、どの説もご都合主義だよ。
一応、記述されている情報では比定出来ないことは確実。
その情報が有効だと仮定すれば、何かを修正しなければならないことになる。
できるだけ少ない修正で読める方法を探して、公里1/6と日数1/6の修正法にたどり着いた。
もっとも、少ない修正が良いという保証もないのだが。
近畿説のご都合主義は、生活が懸かった詐欺だから悪質だね>665
668 :
日本@名無史さん:2012/09/03(月) 21:13:46.07
↑賠償金でも請求して生活楽にしようと思ってんじゃねこいつwww
669 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 10:44:01.69
答えが出ると思ってやってんの?
670 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 16:54:05.95
少なくとも僕の素直読みでは辿り着かないわな
今でいうなら同人誌に毛が生えた程度の信憑性しかない魏志倭人伝で
そうだね、
>>670の薄っぺらい考え方では
同人誌レベルの本にすら纏められないのだろうな
672 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:01:25.94
>一応、記述されている情報では比定出来ないことは確実。
変なところに比定しようとするからさ。倭人伝のとおりに比定すればいいんだよ。
つまり、パプアニューギニアですか。
674 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:27:07.23
郡より女王国に至るには万二千余里とあることを知らないのかね?
675 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:30:14.47
12000×435=5220000m=5220km = パプアニューギニア近辺
676 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:33:52.73
馬鹿な計算をしているものだ。末盧国までの里数を合計してみな。小学生でも
できるはずだ。一万里になるだろ。あと二千里にすぎん。
677 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:39:08.19
つまり、短里は認めるわけですね。
とすれば、千里=7〜80キロで、
松浦から140〜160キロ程度の所ということになりますか。
678 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:44:17.98
そう、そこが女王国の一部にまちがいないってことさ。
679 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 22:47:59.43
そうすると熊本南部ですな。
高千穂の麓でしょ普通に
ヤマトもそう言っている
681 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:02:16.67
>そうすると熊本南部ですな。
そこも女王国でしょうな。問題はどの程度の広さを考えるかですよ。
短里を採用して、倭人伝のとおりに移動すると、
一大率がいるとされる伊都国は小城から佐賀大和の間くらいに位置する。
一大率が代官としてこのあたりを監視支配しているのなら、
ここも女王国とみてよい。ここは旧国名の肥前国に相当する。
熊本が本拠地とすれば、ここが女王国なのは当然である。
熊本は旧国名の肥後国である。
肥前国と肥後国をふくむ肥国全域が女王国であり、
その中の熊本南部の一大国家が邪馬台国であろう。
683 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:20:23.33
一大率が検察していたところは、女王国よりも北の国々であって女王国では
ないよ。
熊本なら火山の記述が無いとダメだろう‥
魏の使いがわざわざ時間のかけて熊本周辺を廻ったのなら、
火山の記述がされないのは有り得ないと思う。
大分方面なら温泉の記述が無いのも変だが。
686 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:24:17.47
有明海を渡ってたら、阿蘇は見えないよ。
雲仙も普段は噴火してないしな。
687 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:25:08.58
爆発でもせんことには、火山なんぞ気にしないよ。
今の熊本県ほぼまんま狗奴国でしょ
キクチヒコだし
連合国は、阿蘇挟んで東っかわ
>>683 そうすると、肥前国は北の国々で、肥後国全域が女王国か。
実際、肥前国は北にあるから、位置関係は間違ってないのだが。
690 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:27:20.36
ちょっと似てる地名に飛びつくってのは畿内説的思考だな。
>>686 動植物を詳しく調査してるけどね。ある程度山に入る内容だ。
まあ伝聞だと主張するならわかるけどね。
だが隋の時代には火山の記述はあるしな。
ただ熊本に行くには
福岡−鳥栖経由の方が楽なんだけどね。
693 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:29:07.10
クナ国と熊襲国が同じであるという保証はないが、
少なくとも、熊襲国は熊本ではない。
熊襲国は日向、大隅、薩摩の領域だと思われる。
弥生期に確認されてる丹の山は四国徳島しかないからな。
倭人伝の気候風土内容で合致させるなら四国東南部しかない。
695 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:33:10.83
福岡から久留米は筑前国と筑後国の筑紫国。
唐津から佐賀は肥前国、熊本は肥後国。
倭人伝は筑紫国を通らず、肥国のみしか通っていない。
おそらく、通れない事情があったものと思われる。
696 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:35:54.39
阿蘇の噴煙を見ようと思えば、最低でも外輪山の中に入らなければならない。
一番奥まった海岸から、外輪山の内側まで、30キロ程度ある。
かなり本気で調査しないと、そこまで行かないだろう。
697 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:38:57.34
筑紫国は通る必要がなかったんだよ。唐津から佐賀へでて有明海を南へ進むのが
最短距離だ。
最短距離だけど街道ってあったっけ?
699 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:52:53.52
我が国に人が住んで何千年かたってるんだ。道はどこにでもあるさ。
唐津街道なら、天然の間道だな。
唐津から小城まで谷がずっと続いてる
701 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 07:21:00.95
12000里って魏使の行程のこと?
全然別のところに書いてあるけど−−
方角が正しいからと熊本方面に行っても
結局卑弥呼は誰で宮は何処?
それを表す文献資料あるの?となってしまう。
また火山問題もそうだが、記紀にも邪馬台国が
記載されない理由説明というのも無理があるものばかりだ。
703 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 08:58:34.08
大きな川に橋や渡しの制度があることを前提にして、
平野の道路の話しをしてるのでは?
古い道路は分水嶺道路に決まっている.
「魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつなぐ糸」を読んでそう思った.
704 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 09:06:00.09
>>703 そういえば、登山ガイドブックには、登り健脚○○時間、下り○○時間
などとかいてあり、距離kmが書いてあってもあまり実用的ではないね.
有明海の行程距離も日数の方が良い情報化も知れん.
705 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 09:20:08.94
>>703、704
朝鮮半島との間の行路は島伝いに距離(里)で書いてあるよ.
夜の航海は恐いから、1日(日中)ずつ漕ぎ切ったのかな.
>>697さん も夜はどこかに入港・停泊している、と
思っているんでしょ?
706 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 09:27:22.91
>>705 この距離は、島などの港の近くの山と山の間の直線距離だそうです.
「魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつなぐ糸」を読んで.
>>690 地名の大部分は、文字できろくされるずっと前から住民によって語り継がれた記録で、
その価値は魏志倭人伝に劣るものでない。
特に日本は他国に征服されて住民総入れ替えとかない上に、アイヌの地名でも
そのまま使う国民だから信憑性が高い。
708 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 11:37:58.54
似てる地名なんぞいくらでもあるんだよ。
かつて江戸という大都市があった場所には現在、全然違う名前の街がある
倭人伝のとおりに比定するとして、不弥国から投馬国に向かうときとつぜんそれまでの里程表記がなくなったことについて
なにか納得できる理由が必要だと思う
>>595は一見無駄に回り道してるようにみえるが一応納得できる理由がある
711 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 11:57:34.34
畿内の大和も7世紀以降の地名だ。
712 :
日本@名無史さん:2012/09/05(水) 13:09:05.52
>不弥国から投馬国に向かうときとつぜんそれまでの里程表記がなくなった
>ことについてなにか納得できる理由が必要だと思う
末盧国から伊都国までは陸行しているからね。伊都国から先は倭の舟に乗っ
たのだろう。速度がはっきりせず、時間から距離を計算することが難しくな
ったということかな。また、陸行も山道だ。単純に何時間歩いたから何里と
は計算できない。要するに、里数が不正確になったから日数の表記に止めた
ということだろう。
>>710 宇美なら太宰府経由でも二日市まで10km弱でそこから久留米まで20km強。
途中は太宰府に入るときの峠(標高170m)があるだけ。
福岡空港あたりに迂回して二日市を目指しても二日市までが20km強になるだけ。
こちらなら、標高は最大でも60m。
迂回して陸路50km足らずを船で20日かける必然性が分からない。
いっそ東回りで周防灘から国東半島まわって別府あたりまでいった方が
まだ蓋然性がある。
>>711 磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 - 仁徳天皇35年6月(347年))の歌
つぎねふや 山代川を 宮上(のぼ)り 我(わ)が上れば
あをによし 奈良を過ぎ 小楯(をだて) 倭(やまと)を過ぎ
我(わ)が 見が欲(ほ)し国は 葛城(かづらき) 高宮(たかみや)
吾家(わぎへ)の辺り
715 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 00:08:24.54
磐之媛命が本当に歌をつくったと思ってるのかな?嫉妬に狂っている姫の旁らで
誰が歌を筆記していたというのかねえ。
記紀の歌謡なんてものは、物語を練り上げていく過程で、使えそうな歌をもって
きて手直ししたりしながら取り込んでいったものだ。いつ取り込んだのか、分か
ったものではないんだよ。古くからヤマトという地名があったという証拠になる
ようなものではない。
>>715 記紀は否定できたとして、記紀を裏付けるかのように掘れば出てくる、
大和、畿内の膨大な埋蔵物や巨大古墳群はどうやって否定するのかね。
717 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 00:42:25.37
ヤマトと書かれた遺跡や遺物はなかったと思うが。
所詮、畿内ヤマトは、7世紀以降の命名。
九州脳は倭迹迹日百襲姫命も7世紀以降にしたいのかw
720 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 10:18:25.63
オオヤマトクニアレ姫→大いなる倭の国が生まれた。
ヤマトトモモソ姫→邪馬台と百余国、曽にあった。
倭人伝をみて考えた名前だろ。こんなの7世紀以降に決まってるよ。
7世紀以降になってから、過去にさかのぼって「ヤマト」を含んだ人名(神名)を付けてるんだよ>719
722 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 13:27:00.76
>>717 奈良の石上神宮に伝わる七支刀(369年or468年製作)に倭王の銘文が刻まれており、
記紀にも登場するがね。
漢委奴国王の時代、日本は「分かれて百余国」だった
邪馬台国の時代「いまは使訳の通じるところ30カ国」だった(日本の国の総数については触れず)
倭王武の上表文の時代、日本は「東国55カ国、西国66カ国」だった(+海を渡って北95カ国も支配してた)
どうみても、昔からずっと日本は120カ国ぐらいに分かれていたのであって
邪馬台国はそのうち約4分の1を支配する地方政権にすぎない
残り4分の3は、魏と対立する呉に親しかったのだろうが、そっちのほうが日本の主流派だ
>>716 否定する必要はない
大和、畿内のほうが日本の4分の3を支配する側だったのだから豪華なのはあたりまえ
むしろ、そういう豪華な遺物が出れば出るほど、邪馬台国だった可能性はなくなっていく
>>720 >オオヤマトクニアレ姫→大いなる倭の国が生まれた。
淡路島に宮があった姫だろ。
その説なら淡路島が倭の国だと証明する事になるけどな。
クニアレヒメの親の和知都美命は古事記には
淡道(あはぢ)の御井宮に坐しき、とまるでと天皇の扱いだな。
そのクニアレヒメが孝霊天皇との間に生んだのがモモソヒメだ。
箸墓に阿波や吉備といった瀬戸内東部の影響が伺える点や、
モモソが瀬戸内海で伝承を多く残すのもこれで裏付ける事が出来る。
>>716 強大な王権を示すものは全て3世紀後半以後だろ
九州にあった邪馬台国連合が東遷したと考えるのが自然でしょ
でも九州勢力の痕跡がない、あるのは瀬戸内勢力だったな。
そもそも邪馬台国が後の大和朝廷だったのなら記紀に邪馬台国の記述があるはずだから、記紀の誰が卑弥呼なのかという疑問の余地はないはず
しかし現実に邪馬台国の記述は記紀に存在しない
だったら、記紀の誰が卑弥呼なのかと疑問にする前に、本当に邪馬台国が後の大和朝廷なのかをまず疑うべき
大和朝廷が日本を統一する以前に、大和朝廷が知らないうちに他の国が中国に使いを送っていたと考えるのが一番すなお
>>728 まず何故書かなかったかを疑うべきだろう。
記紀は当然当時の権力者を正当化するものだし。
卑弥呼は結婚してないということになってるんで、
単純に天皇の系統に埋め込むと、万世一系が崩れる。
卑弥呼と別の系統で続いたとしなければならない。
732 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 19:23:54.84
神功皇后に卑弥呼を比定すると、
応仁天皇は神功皇后の息子ではないということになる。
なにか言い訳を付けなければならない
733 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 19:26:27.44
>九州にあった邪馬台国連合が東遷したと考えるのが自然でしょ
東遷したと考えると、隋書の倭王は誰かが分からなくなるよ。九州を捨てて東遷する理由もない。
単に東方に勢力を延ばし、畿内支店を出したと考えるべきだよ。
734 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 19:30:02.50
魏使がきたとき卑弥呼に夫がいなかっただけで、結婚歴がないとまでは断言して
いないよ。だから、仲哀が死んだ後は独身ということで問題なし。
そして、記紀はその言い訳を用意していない。
記紀の編纂者は倭人伝を知らなかったか、
整合させるつもりがなかったということ。
736 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 19:44:10.11
中華の人としてはさ
いくらなんでも女王さまは父親のちがう弟と夫婦だったとかって書けないでしょ
記紀は卑弥呼を神功皇后には比定してないよ。
書記の注釈に邪馬台国の事を載せてあるだけで。
738 :
日本@名無史さん:2012/09/06(木) 20:03:37.09
あれだけ西日本中心に各地で発見された銅鐸について記述がないだろ。
邪馬台国の卑弥呼も同じ事、あえて無視したんだよ。
739 :
水銀厨:2012/09/06(木) 21:11:08.43
銅鐸については現在それ程謎な物ではないでしょう。
諏訪大社の社伝に「鉄鐸は往古、神使の巡回に使用された宝鐸」とあり、
古語拾遺には「天目一筒神をして雑の刀・斧及鉄の鐸を作らしむ」とある。
古語拾遺をまとめた斎部氏は忌部氏の子孫で、中臣氏との政争に
負けた氏族。銅鐸は忌部氏が主に担当した祭具の一つでしょう。
阿波に出土数が多いのも、流水紋の意味もこれで理解できるでしょうか?
740 :
日本@名無史さん:2012/09/07(金) 08:55:50.48
銅鐸は半島経由で最初は北部九州や出雲で生産、
昔の畿内中心の銅鐸文化圏なんて思考は終わってるからな。
結局は鏡と同じなんだろう。
実用品と祭祀品とは区別しないとな
朝鮮半島の銅鐸ってどんな形で発見されてんの?
日本みたいに埋められた形なの?
743 :
日本@名無史さん:2012/09/07(金) 17:57:22.10
ちんさんがかんのたくまいについてかいておるがな
744 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 14:48:36.12
種まきが終われば鬼神を祭り群がり集まりて歌舞し飲食す。その舞は数十人が
ともに立ちて相したがい、地を踏むに低くたかく、手足は節奏に相応ず。鐸舞
に似たるあり。
これは朝鮮に鐸があったということではないね。
745 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 16:07:01.93
>>740 ああいう大型の銅器を極貧の近畿地方の人間がどうして所有していたか、
また、どういう風に使用していたのか、それが謎なのだ…。
746 :
水銀厨:2012/09/08(土) 16:33:33.94
>>745 中国人が水銀朱を欲しがったからですよ。
銅鐸が多く発見される出雲〜吉備〜阿波と、
墓に水銀朱を用いてる国々です。
これを産出する場所へ皆目指して来たのでしょう。
当然国力がついてゆくはずです。
銅鐸の使い方はごく簡単に言うと神を
呼び寄せる鐸でしょう、神社と同じ。
おそらく矛とセットで用いる物でしょうね。
748 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 17:49:17.12
水銀朱は使うところじゃ、おもいっきり無駄遣いして、
使わないところは殆ど使ってない。
流通の仕組みがあるようには思えない。
749 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 17:58:41.87
つまり、使ってない部族では、特に必要なものでもない。
750 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 19:04:22.62
>>746 中国人が水銀朱の産地へ来ていたって? そんな形跡はまったくないな。
751 :
水銀厨:2012/09/08(土) 19:13:32.18
流通需要があるのは対中国ですよ。
元々秦の頃から中国で需要の高かったのが水銀朱。
それが後年道教の興隆で更に高まる訳です。
この事は抱朴子の記された4世紀初頭から更に加速しますよ。
何しろ以降錬丹(金)術の要素も加わる訳ですから。
それが倭にあるなら当然皆交易しますよ。公でも闇でも。
>>750 宇陀水銀知らないの?その入口が三輪。
神獣鏡なんてモロに中国影響下だろ。
大陸国内で取れるものをなんでわざわざ海を隔てた僻地から
集めなければいけないのか分からない。
古代中国が水銀輸入国のわけないな。
吉野、岐阜、近江じゃ縄文中期から水銀朱使ってるね
水銀系は鉄分系と違って技術が必要だからね
水銀朱は古代中国でも貴重だよ。
方士はそれを求めて各地に散ってる。
魏の領域には水銀鉱山がないね
古代、などと簡単に一括りにするような
乱暴な論理では説得力無いですよ。
魏志倭人伝でも、真珠鉛丹各五十斤って出てますよ。
丹(水銀朱)が貴重なのには変わりないよ。
というより貴重だから記録にも残る訳で。
760 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 21:12:32.21
貴重なものにしては、水銀朱をずいぶん無駄遣いしている
古墳があるよな。
水銀と鉛は金の抽出に使うからね
鉛鉱山は魏の領域にあるけどね
西日本と北海道は水銀鉱床が豊富で、西日本だと特に奈良と三重に多いからね
762 :
水銀厨:2012/09/08(土) 21:19:13.62
史記、貨殖列伝には祖先が陵で水銀の鉱脈を発見した一族は
鉱山で利益を独占し、最も栄えていると記述されてます。
これが中国国内の戦乱による戦費調達、及び道教が広まるに
つれての需要急増が新たな鉱山探しに拍車をかける事になります。
当然鉱脈があれば海を渡ってでも来ますよ。
勿論それだけが目的ではありませんが、鉱山資源が
主目的の一つだと判断してよいと思います。
763 :
水銀厨:2012/09/08(土) 21:25:12.75
>>760 それだけ古墳の主に財があったという証明でしょう、剣や鏡と同じ。
というより普通は埋葬者頭部という重要な部分にしか使用されません。
もっとも水銀朱の為に古墳が造られた例もありますしね。
水銀などなくとも生活に困らないし、国家運営にも困らない。
>水銀などなくとも生活に困らないし、国家運営にも困らない。
水銀が無けりゃ大仏は完成してないけどね。
弥生時代に大仏なんてないだろ。
>水銀などなくとも生活に困らないし、国家運営にも困らない。
このように考える人と無理に話す意味もないし、日本の古代を探求してる人どうしで会話すればいいんじゃないかな
史記の時代と卑弥呼の時代をひとくくりで捉えているような
幼稚さでは、話す意味も無いですよ。
いったい何年の開きがあると?
貨殖列伝
『史記』では春秋末から漢初(前5〜後1世紀)に及ぶ富豪たちの経済行為を述べ,
各地の経済地理や気風の相違を記述するとともに,富の追求を是認し,それに成功する能力を高く評価する。
>>751,762 水銀厨氏は渡来人の渡来主目的の一つとその後の中国での需要の話してるね
史記はどれ位の時代をカバーしてるんだろうね?
まぁ倭人伝の時代に一番近い資料なら抱朴子、
そこには水銀朱は金より価値あると記述されてるな。
まぁ鏡や勾玉も無くても生活には困らない、水銀も同じ。
それ言っちゃ歴史なんて興味持つ必要もないw
弥生時代、人類は水銀のために生き、国家の目的は水銀を得ることにあった、なんて暴論は、
四国を世界の中心に持っていきたい水銀厨が、妄想しているトンデモ説だろう。
数ある宝物や貴重品の中の、ほんの一つが水銀だということであって、それ以上ではない。
丹が不老不死の薬、から転じて死後の世界の永遠性や
関連から宗教色の1つとして使われたりするのは、周知の事実。
そんなのは誰も否定していない。
ここからいきなり交易の断定がきたので
あまりにも非論理的過ぎて腹筋が崩壊しただけ。
>>774 気にしなくていい。
世の中にはこういう情けない言い回しでしか
自説を述べることが出来ない人もいる。
>>774 いや、知識がないから全て否定したいんだね
国家財政を支える水銀朱や鉱物資源には九州説者でも着目してるね
九州でも採れるから、ただ畿内、出雲、丹後周辺、四国、岐阜のほうが豊富
奴隷だけ売っててもすぐに他国に飲み込まれるね
>>774 いや、端から見ると正直君の方が幼稚に見える。
778 :
水銀厨:2012/09/08(土) 23:52:08.73
>>772 >四国を世界の中心に持っていきたい水銀厨が、妄想しているトンデモ説だろう。
勝手な印象操作は止めてくださいね。倭の中心は阿波周辺だと
主張してますが、邪馬台国に関しては一応畿内説です。
女王国は四国周辺国が主でしょう。
>>775 >そんなのは誰も否定していない。
ここからいきなり交易の断定がきたので
そうでした?かなり否定された記憶しかないですが。
交易については「これだけが目的ではないが」と断ってます。
まあ、改めて断定してもいいですけどね。
証明できる物は現時点でも数多いと思いますよ。
779 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:13:07.52
>>752 鏡が出ただけで、中国人が来ていたと思い込むとはおめでたい奴だ。
九州説では遺物もないのに郡使が滞在していた、集落遺跡もないのに国があったとするけど
他説には認めないんだね
>>780 そんな超異端者なんてスルーしておけばいいのに。
それをあたかも九州説の全てがそういっていると
するから笑われるのに。
不毛な発言しか出来ない人だなぁ
伊都国を佐賀市方面に比定するのは超異端なんだね
九州説でそれを否定してるのも見たことがないけどね
783 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:52:58.57
距離を短里で測ると小城と佐賀大和の間くらいになるが、
この辺は弥生遺跡が多すぎて、どこかわからない。
明治以降の記録が残っているだけでも、
旧大和町領域で、二千以上の小型円墳があったそうである。
また、工事のたびに増えているのではないかと思うが、
住居跡が、昭和の終わりの時点で600以上確認されている。
環濠集落も少なくとも8箇所存在していたという。
その一つが、よく言葉に出る惣座遺跡であるが、
これはたまたま高速道路建設のため、広く発掘されただけで、
多くの場合、一部の調査だけで埋め戻されている。
そのため、これが中心的遺跡かどうかすら定かではない。
784 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 00:54:59.07
否定する理由がないからだろう。方角、距離も倭人伝のとおりだし、南水行の
意味も分かるし。今まで墓の鏡に気をとられて不自然なところに比定してきた
ってことに気づいたのさ。
要するに伊都国及び二万戸の奴国であるという考古的根拠を示せないなら
中国人が日本中のどこでも交易で往来していたということも認めなきゃ
786 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:08:57.77
玄界灘沿岸には環濠集落の跡なんぞほとんどないさ。
筑紫平野の方が環濠集落だらけだ。王族はそういった集落の中に拠点をもって
いたに決まってるんだよ。
環濠集落は西日本の弥生集落の10分の1だよ
788 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:22:34.78
まあ、玄界灘の方でも、糸島はいっぱい遺跡あるけどね。
唐津もね。
ただ、唐津から糸島への道は難しい。
いまでも、海にはみ出る202号線か、
山の中を高架で通した有料道路しかない。
だから、当時は尚更道がないので、
唐津から糸島に陸路を通ったとは思えない。
江戸時代の唐津往還と言われる街道もあるが、
これも通過困難なところをなんどか、船で渡らなければならない。
伊都国の比定地の話をしてるんじゃない
考古的根拠を必要としないなら、中国人の往来に関して他説にだけそれを求めるわけにはいかんだろ
790 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:26:29.53
北部九州で「遺跡がない」なんて言葉は
言わないほうが安全。
791 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:29:22.00
伊都国の比定地は、いわばどこでも大量の遺跡があるので、考古学的には、
何処に比定しても、ありえないとはいえない。
だから、ピンポイントで決める場合には別の根拠が必要。
792 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:29:56.53
中国人の往来? アホな話だ。中国人は本州はもちろん九州にだって来ていないよ。
魏使が初めてきたからその記録を残したんだ。交易でどんどん来ていたならば行程
を報告したりするもんか。
793 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 01:32:04.33
>ピンポイントで決める場合には別の根拠が必要。
そのとおり。倭人伝の 記載に合致すること。末盧国で上陸して陸行する
必要があるところ。南水行ができるところ。それが伊都国のあったところだよ。
交易なんて記録に残る物だけじゃないはずだがな。
中国人が来なくとも海人が取次すればいいだけで。
それがアマを名乗るだけの話だろ。
中国との交易厨は自説の証拠が出せないから
他説の極論者を一般化して騒いでいるだけだから、
証拠を出してくるまでスルーしておけばいい。
唐津からなら谷沿いに多久経由で佐賀まで行ける。
海沿いに福岡目指すよりもらく。
ただ、九州上陸地点を糸島あたりに持ってくることはどうなんだろう。
3世紀末以降には鏡が畿内に集中してんだから、
当然交易の目的地はこっちへ移ってるだろ、常識だわw
九州説に対しては物証なんて出す必要ないしね
800 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 04:10:54.90
畿内説はゴッドハンドだからなw
現実にはゴッドハンドは九州王朝の先生だったけどなw
802 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 08:06:02.74
倭人は縄文時代から石の交易でかなりの距離を移動してるからな。
対中国でも当然同じ事が言える。
804 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 10:19:19.15
>>798 九州勢力が勢力を広げて鏡をばらまいただけのこと。畿内人が中国から
仕入れたわけではない。
畿内勢力は銅鐸だろ。中国とはまったく無縁だ。
>>804 勘違いも甚だしいな。勢力を広げたのは九州勢力ではなく
海人族だよ。それに銅鐸は北部九州でも造ってるしな。
銅鐸主体なのは、あくまで畿内。
九州の銅鐸は、おまけ程度の比率しかない。
銅鐸なんて単純な出土数だけで判断するのは無意味だけどね。
808 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 15:58:05.98
銅鏡がいっぱい出るなんて話は無意味なんだが、銅鐸を作っていたのは銅鐸勢力とは
いっても中でたくさんの集団がそれぞれ作っていたんだろう。出土数はかなり意味を
有しているよ。
銅鐸勢力は兵庫県中心で出雲と繋がってる勢力だろ。
で、元々北部九州で生産もしてるしルーツは中国だ。
畿内でも、刺青してたの?
記紀によるとクマソタケルは刺青してたみたいだね
どう考えても九州の風俗
812 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:01:09.25
畿内は巨大古墳は発掘できないハンデ戦だけど、出土物でも九州を
圧倒しているね。
813 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:05:30.63
箸墓も宮内庁の許可がないと発掘できないからなあ
まあ、畿内だろうなってのが常識的な感覚
小泉純一郎の郵政改革に熱狂した知能の劣った馬鹿たち同様、
マスコミに踊らされて信じちゃう、脳の弱い人間には畿内説がぴったりだ。
816 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:19:30.89
まあ、考古学者が畿内だと信じ込んでいる間は、考古学の本は漫画みたいで
おもしろいよ。桃の種に飛びついたり、お面に飛びついたり。
後漢書では、前漢が楽浪郡をおいてから、交通したとあるけど
邪馬台国が大和王として君臨していたとしたなら、どうして金印は奴国名義であったのか
理由は、奴国は九州で貿易の斡旋者として権益を独占していたからだと思う
大和はたしかに出雲畿内を統一して意気軒昂であったが、九州を征服するほどの勢いはなく
瀬戸内交易の外については、奴国に委託していたということが考えられる
邪馬台国が畿内だったとして、なんで畿内発祥のヤマト王権は、自分達の祖・神を高千穂峰にしてんだろうな
ここって熊襲なんでしょ・・・反勢力じゃん
なんで?
元熊襲人なんだってことは認めてんのかな?
元九州人だが、熊襲の土豪とはその後仲良くできなかったんだろ
821 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 00:02:58.10
熊襲と言いながら、熊襲がどんな悪さをしたのか書いていないね。
そこに秘密があるんだよ。
貿易上の利益対立あたりじゃないか
景行天皇、ヤマトタケル、仲哀天皇、と天皇や皇子みずからが遠征に赴くのがおかしい。
大和朝廷の長の息子が熊襲を屈服させてタケルの名を貰ったり、天皇が何年も滞在して子作りするか。
これ大和の天皇の話じゃないだろ。
本当は神話の日向三代の話?
他地方の神話パクって自分達の祖先や神にするかね?w
どんなだよw
信長はほとんど晩年まで戦いに明け暮れてるな
嫡男信忠も
そう言われればそうだが。
それでもかなり不可解な部分が残るな。
>>824 キリスト教はもともと祝日なんてなかったんだけどさ、
キリスト教発生時にすぐ側には
冬至を祝祭日にしている太陽神崇拝団体があったんだよ。
この団体を乗っ取るために、
キリストの誕生日は冬至の日 いまでいう24日を誕生日にしたんだよ。
いまの冬至は22日くらいだけどね。
828 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 16:00:52.69
>天皇や皇子みずからが遠征に赴くのがおかしい。
行くわけはないね。つまりは、単なる物語ってことさ。
古事記は、景行天皇の西征なんて一言も書いていない。
「親征」ってのは士気が上がるものだとは言われるがね
830 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 17:33:15.89
昔は行くだろ
あんまりボケばっかりかますなよ
>818
天界から天下る場所は山の頂であると言うモチーフは、
高句麗の神話、神壇古記でも登場する
向こうでは太白山(テベク山)の神壇樹(カンダンス)に天帝の子が降りてきて、
地上界の熊女とまぐわって朝鮮の初代王、檀君になったという
天孫降臨した高千穂のふもとに熊襲、そっくりじゃないか
まあ極東アジア共通の神話モチーフを共有している文化圏だったと言うだけのこと
832 :
831:2012/09/11(火) 19:06:26.10
あっ誤記
神壇樹は、「カンダンス」じゃなくて「シンダンス」
>>831 檀君は近代につくられた偽書
三国史記の建国神話は例のチュモンというやつです
834 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 20:03:30.96
わけがわからなくなってるくせに無理に作文したりするとそおゆう幼稚なのがままできちゃうんだよね
835 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 20:09:47.93
地下から沸いて来たって話だとあんまりありがたくないしなw
まあ、当時南にいた民族も元は北にいた民族だし、いろんなとこから来た人たちの中の『王』を表現してるんだろ
836 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 20:50:21.98
高天原という国=天界 ともとれるよ
中国の皇帝も天帝の命を受けて天下を知らしめす訳だよ
ローマ法王も、キリストの昇天に際して弟子の1人に以後の全てを「地上におけるキリストの代理人」の役目を託されたから、
布教とミサの権限持ってるんだよ
そしてヨーロッパ各国の王は、ローマ法王を介して神の祝福を受けて初めて王に就けた
洋の東西を問わず、最高権力者は神とかそういった神聖なるものの了解を得て権力の座に着く
高天原やアマテラスも、そういった物だと思うよ
>>837 檀君神話は仏教説話の影響をうけてるが
日本神話は影響がまったくない
あきらかに口承伝承、ドイルドと文化が似ている日本では、そういう神官職がいても不思議ではない
高句麗のアレの信憑性は竹内文書と同レベルだろ。
つまり神壇古記になった時点で檀君神話に仏教感が入ったんだろうな
841 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 11:23:23.31
>817
この引用ページでは、経由している旁国が「遠絶不可得詳」ということになり、
明らかに矛盾している.出発点と方向を間違えたのだろう.
842 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 11:28:38.90
南ではなく東北だね。
>>841-842 今どきまだ 倭人伝の元の文書を書いた郡使が邪馬台国まで行ったと思ってるヤツがいるのか。
彼は伊都国までやって来て、魏から西晋に替わったので遣使するように要請して、そのまま伊都国に留まっている。
その間に邪馬台国まで伝令が飛び、それに応じて使節が派遣され、その経路が21の旁国として記されている。
その経路の説明を聞いた郡使は邪馬台国周辺の国名だと誤解して旁国と記しているだけ。伊都国以遠は実地に踏査していなくて伝聞だけなので、当然実態とはかなり違いが出る。 ・・・・・・わかるかな? その前のページにちゃんと書いてあるよ。
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-1_2.html
>>843 >>その経路が21の旁国
順に並べたらどの地に着くのかな?
846 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:19:29.49
>>843 倭人伝の解釈がうまくいかなくなると、使者は行かなかったと言ってごまかすのさ。
>>846 「郡使の往来して常に駐る所」
遣使を要請しに来たときには いつも伊都国に滞在するとかいてある。
邪馬台国論争は終わったのだよ。
848 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:38:03.04
だめな解釈の例だな。郡使が倭国へ往来する際に常に宿泊した所という意味だよ。
>>848 だめな解釈の例だな。「駐」と「泊」の意味の違いが分かるかな?
850 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:47:49.85
遣倭魏使が通過しようとしまいと、
遣魏倭使が通過しようとしまいと
なんらかの経路に入っている旁国が「遠絶不可得詳」とは
不思議だね.
遣倭魏使・遣魏倭使は一緒になったこともあるのに、
邪馬台国までの道のりについて、会話せず、
あるいは遣魏倭使は伊都国まで夜に旅行していたので
魏使に教えて上げられなかったのだろうか.夜だって遠絶はないよね
851 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:52:16.07
津和崎のところで持ち物検査の臨検してからに
そこのところで無事に通過できたひとが収容される出島みたいな宿泊施設だな
近場に女王の女の園とかもあるし一大率さんとも連絡簡単にとれるし
場所としてはとても便利なところだぞ
常に宿泊ってほど、使者の往来があったとも思えないが
853 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:59:30.14
854 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 17:04:53.66
>>850 旁国を通らなかったか、通ってもその首都には立ち寄らなかったということだろう。
>>854 しかし ここの奴らは何も読まずにチョンみたいに自分の願望を並べ立てるヤツばかりだな。
856 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 17:11:45.07
>常に宿泊ってほど、使者の往来があったとも思えないが
過去の話ばかりじゃないんだよ。これまでも将来も常とする、というわけさ。
857 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 17:14:13.38
態度が良くなかったりしたら帰国の許可とか貰えないで長期の滞在とゆうか長期の収容になりますですね
858 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 17:32:30.22
20ヶ國の旁國の邪馬壹のは単なる鉄の消費者であって
魏のほうとしてはそこらへんかまっても利益とか無いし
詳細書いても読者うけとかしないからてきとおなんだろ
>>851 津和野かと思った
津和野とか津山って古代の街道が通っていたんだろうね
徒歩が基本の古代では意外と山間部を通るんだね
というか自然発生的な物流の道だから旁国を連ねて串団子みたいに走る道なんだろうね
山陽道とか山陰道は奈良か飛鳥の時代に官道として作った道だけど
京と大宰府の間を最速で結ぶ道として作ったわけで古代とは発想が違うんだろうね
>>798 3世紀末になると、鏡と大型古墳は中央集権化のためのシンボルとなる。
特に関西地方に集中するのは、そこを完全支配する必要性から。
861 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 13:08:26.92
九州にあった倭国が本州を植民地化し支配するようになって本州の物資を九州へ
送るための物流センターを奈良盆地においたってことだよ。
全くの門外漢ですが、
大型古墳はそれを造りあげる権力があったということで
逆説的に大規模勢力の存在が推察出来るとは思います。
ですが、鏡にそれほどの意義があるの?
あんなに沢山でてるのに。
そもそも、
館とか、宗教建物の最深部に保管するとかならともかく
墓の中に入れちゃったら
持ってるのかどうか分からなくなってしまいそうなんですが…
863 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 14:28:44.90
>逆説的に大規模勢力の存在が推察出来るとは思います。
その考え方が明快にみえるが、とんでもない間違いのもとだね。
考えてもみな、大型古墳をつくるなどということは、領民をいじめ、その労働力を無駄に
使うことでしかない。そんな愚かなことを全国の豪族が次々と繰り返したというのかな?
各地の豪族が造ったわけではない。倭国の統一された軍隊が、その力の誇示と訓練を兼ねて
造っていったものと考えるべきだ。ということは、古墳がある地と権力の所在地とは必ずし
も一致しないということだ。
>鏡にそれほどの意義があるの?
従った者に与える安上がりの勲章みたいなものだろう。古墳にたくさんいれてるのは葬式の
花輪程度のものさ。
北朝鮮の平壌に柳京ホテルという世界一巨大な105階建てのホテルがあるが
だからといって北朝鮮が現代において大規模勢力といえるだろうか
纏向遺跡からは日本各地の土器が出ますが九州のものは出ないようです
これは纏向が大勢力であっても九州を従えてはいなかった証拠でしょう
とすればその先の魏に使いを送るなど論外だったでしょう
866 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 02:25:03.99
畿内の土器は九州から多数出ている、これは九州が畿内を従えていた証拠です。が
>>864 巨大なモノが多数あるのなら大規模勢力と言えるだろう
少数ながら畿内から九州に物流があったということだな。
布留0式土器や纒向型前方後円墳や甕棺は日向などでも出土するようになってきている。
広範な交流が想像されるようになり強い地域特性は弱まってきています。
871 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 11:35:42.75
872 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 11:49:38.78
>大型古墳をつくるなどということは、領民をいじめ、その労働力を無駄に使うことでしかない。
どうにも古臭い発想だな
ある時期までは、巨きさはステイタスになる。
在地型の権力がやり続けるとなると、恐怖政治をひくことになるか?
874 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 14:41:08.15
巨大墓は全国から送られたドカタが建てたのだよ。
マキムクはその飯場だ。
875 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 14:41:29.33
古代の巨大土木工事は、征服した人々に服従の証として造らせる。
これが常識。たとえば、応神天皇記には、蝦夷が朝貢してきたので
廏坂道を造らせた、という記述がある。
大きな古墳もその傾向があると考えられる。このように考えると、大きな
古墳のある地域の考え方も違ったものになる。
876 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 15:59:10.07
大昔の授業はそう教えてたの?
気の毒にな
まぁサヨク被れだから仕方ないか
> 応神天皇記には、蝦夷が朝貢してきた
これは いわゆる緩やかな主張連合に自分も加わりたいという意思表示とみるべきでしょう。
景行巡幸でもそう解釈できる例がある。
878 :
自己レス:2012/09/24(月) 16:20:28.39
879 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 16:30:10.27
卑弥呼の偉大さを聞いて全国各地の王が服従を申し出てきたのである。
大和の 統治というか、各地の豪族をまとめるシステムは、本来の首長を国造(くにのみやつこ)としてそのまま尊重し、その下に実務官僚である国司を送り込むシステム。
上から押さえつけて絶滅するわけではない。
だから 今でも島根とか諏訪とかには国造の家系が残っている。
881 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 17:08:25.14
国造って7世紀以降の話だろう
>>881 倭人伝の時代でも 実質同じことをしている。
たとえば【官を多模と日い、副を卑奴母離と日う】
各国の首長(官)が国造に相当し、その下の(副)がヒナモリ(鄙守) つまり国司に相当する。
883 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 17:44:23.36
熊襲の女王鶏さんの場合は上手に刺して逝かせてあげられるともれなく炊けるのお名前が貰えたりする
884 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 19:17:27.15
>各国の首長(官)が国造に相当し、その下の(副)がヒナモリ(鄙守) つまり国司に相当する。
では、王は何に相当するんだ? 各国の官と副は誰が任命したの?
>>884 オマエ 郡使は中国とは異なる倭国の制度を、
中国の官僚制度に擬して解釈しようとしているだけと
言うのが理解できんのかねぇ。 バカダネエ
ヒナモリが複数国にみられるのは広域を勢力下に置く国の存在の証左なのかなあ。
副を任命したのはその大国になるのかもしれないか。
投馬国は官は彌彌、副は彌彌那利てことでその大国の配下にはなかったのか。
彌彌っていうのは皇室や日本の広い地域に見られる尊称みたいなものなんだよねー…
887 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 20:36:02.18
對海國とか一大國のような女王の宗族の出処母域の天ののところだとか
糸島あたりに入植して即時に湧き上がったプライマリーの開拓域に相当する
奴國とか不彌國とかみたいなところについては綺麗な行政システムが設定されていたっぽいよ
「副曰卑奴母離」 (ひな・もり)(鄙那母離・鄙那守=邑守) --- 對海國 一大國 奴國 奴國
「其大官曰卑狗」 (ひこぅ) (鄙~) --- 對海國とか一大國
奴國(なこく)(那國) 不彌國(うみこく) のは中心域だから
長官のが 「兕馬孤觚(しまこぅ)」「多模(たも)」とか特別な呼称
伊都國(ゐとこく)のは首都機能に軍港機能のも併せ持っているから
長官が爾支(にし) 副のが泄謨孤觚(えもこぅ) 柄渠孤觚(ふごこぅ)
孤は北方のボスのいいで 觚のが容器っぽいから 文字通りの酋長であたのだ
彌彌系の酋長はより古い基層ので 協力関係にある酋長だとゆうのは
記の系図の古いところに耳がまぶされているからふつうに気付きそうだけどね
大昔の授業の皇国史観では、常に緩やかな支配でありたかったが、
実際の歴史は、どうだったかということだね。
>>886 遣使経路上にある国は伊都国以外は全部ヒナモリで抑えている。
伊都国については長く滞在しているので、役職名ではなく、個人名を知っていたと言うことでは?
投馬国については 遣使経路から外れているし、事情がよく分からないので、とりあえず「えらいひと」と言う意味の「彌彌」を使ったのでは?
なんやケッタイなのが湧いてますなぁ。
ほんま、ケッタイどすなあ。このスレに合わんねん。
>>889 同じく自分も個人名と役職名が混ざってるのかなあとも思ってる。
取って付けたもので任命した大国なんかないのかもしれないなあとも思う。
>>887 自分は無知なのでかろうじて半分くらい理解しましたが、孤とは何のことか分からず…
泄謨孤觚、柄渠孤觚でなく泄謨觚、柄渠觚なんでは?
893 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 21:24:09.13
>889
知っていたとか、とりあえずとか、もうよさねえか
遣使にたいして失礼な発想だよ
俺は下級官吏だが公文書を適当にはかかねえぞ
>>894 ←こいつは一字一句にのみこだわって、全体を掌握できない関東土人。
ここで「遣使」というのは 倭国の側から 魏または西晋に対して 使節を派遣することな。
その遣使を要請するために伊都国までやって来ていたのが、帯方郡の「郡使」。
一番根底から理解できとらんやんけ
> 俺は下級官吏だが公文書を適当にはかかねえぞ
オマエは言葉の通じない地球の裏側まで行って、
そこの情勢を1700年後の検証に耐えるほど厳密に
記述できると言うわけだな。 ヴァ〜〜〜〜カ!!!
>>895 時代が違っても国家の行わんとすることは同じだよ
命令の実施、報告、記録は誤りなく、透明性を 持って、かつ客観的に行わなければならない
第三者に対して必要十分にして誤解なく伝えようとするのが公文書の性格
固有名詞(人の名前)と一般名詞(官職名)を区別なく羅列するのは、ありえない
897 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 17:24:12.00
魏志倭人伝を信じきってる人は内容が分りやすいなんて気にしないんだよ
1つの文書の中で単位の意味が違ってても問題ないくらいだから
ボクの素直読みに都合良ければどうでもいい
なんか カルトとか真性のアズペとか いろいろ賑やかになってまいりました。
だいたい歴史オタって
ふふふな人たちだよ
まあこれも人類の歴史だな
900 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 13:33:10.28
2チャンネルには素直に読むことがきらいな連中がいっぱいいるみたいだ。
902 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 17:38:06.54
HPの文も怨念、丸出しじゃのお
ひょっとして、HPの作者本人?
陳寿の改ざんを心配するより
現代人の「改ざん解釈」の方がよっぽど心配だな
905 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:52:32.58
いわれひこのを東から南に書き換えたほおがまし
906 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 21:56:12.76
素直に読んで辿りついた人が独りもいない現実をどう考えるんだ?
907 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 22:15:24.94
>>906 辿り着いている人もいるかもしれない。
しかし、その他大勢の説の中に紛れ込んでしまっている。
>>906 「素直に読めば邪馬台国へ辿り着けるはずだ」という固定観念が自体が間違っている。
>>907 辿りついた人はいない。 郡使は伊都国で引き返している。
909 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 23:07:37.86
つまりギシ倭人伝は伝聞で適当に書かれた物って事でよいか?
何となく有名なワードを使って書き連ねてみたのだろうな
日本書紀の編纂者からしても?だったんだろうな
910 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 00:22:07.66
>>908 それこそ、素直に読んでない読み方だな。
素直な人は他のことやってる
913 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 00:39:53.47
>>909 適当にやって、あんな文章を書くことは出来ないだろう。
適当に書くくらいなら、はじめから書かなければいい。
日本なんて、どうせ東夷の一部に過ぎないわけだから。
914 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 06:21:35.82
倭人伝は実に良くできているよ。陳寿が賞賛されるゆえんだ。
簡潔にしかも正確に書かれている。
>>914 簡潔にしかも的確に書いたのは帯方郡からやって来た郡使な。
陳寿はそれをグダグダにしてしまっただけ。
張政(張夷撫)が全てを把握していた筈だが、
その情報がどうなったのか?
917 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 08:48:40.71
>>915 ・・・見てきたような嘘を言い。郡使が書いたものは残っとらんよ。
>>916 それも倭人伝に取り込まれている。台与のことは張政の情報だろう。
倭人伝は「陳寿"編"」とかいてある。 「陳寿"著"」ではない。
オマエ 著作と編纂の違いが分かるか?
それでもコイツ棺桶に入るまで「はれ有り難や〜 チンジュ様じゃ〜」と喚き続けるだろうな。
南無阿弥陀仏 合掌 チー〜ン
919 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 09:34:25.24
>倭人伝は「陳寿"編"」とかいてある。 「陳寿"著"」ではない。
どこに? 倭人伝に続く評を見てごらん。陳寿自身が、史書については、著しとか撰録し
と書いている。岩波の倭人伝も、撰者としているね。普通、編は使わないと思うが。
>>919 今ちょっと探したが、元の本が行方不明、
「編」でも「選」でも大して意味は変わらん。
「選」のほうが 陳寿の記述内容への関与が より薄いということかな。
いずれにしても ここで問題になるのは、元になった文献は何か? と言うことだ。
921 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 16:54:14.24
無いんだろうな。現実として
遥か大昔には存在したかもしれんが
或いはたんなる口伝か
当時の書物は竹簡だから、錯簡もするしよくわからないことになる
陳寿は一応同時代人だからマシだろうけど、元は蜀の役人だから明帝期の内部事情はよくわからないかも
>>595みたいな読み方は、一応、書かれた内容がすべて正しいと想定してる
これが
>>906のいう「素直に読ん」だうちに入るなら、それでいちおう比定地にたどりつくのは可能だろう
924 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 19:04:20.36
倭人伝どおりに進んだら不彌國=宇美とはならんね。
925 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 19:06:54.75
倭人伝どおりに刻んで進んだら不彌國=生松原までのが100里
>>922 その洞察はなかなか深い・・・・・と言いたい所ですが、
現在までに知られている史料にのみ依存する限りは、結局は論理がドン詰まりになってしまう。
いったん陳寿から離れて、総括的に時間の流れを俯瞰する方へ模索の方向を切り替えた方が良いと思います。
927 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 21:53:34.80
どん詰まりなんかにはならんよ。何も問題はない。
どこで詰まるって?
928 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 23:48:45.45
魏志倭人伝は、当時の日本を知る上で第一級の文献なのだが、
畿内説の人は信用ではないという。
記紀も信用できないらしい。
畿内説が天下を取ったなら、誰かの頭の中の妄想が日本の古代史になりそう。
だいたい九州説や畿内説が現れること自体がふしぎ
どちらも考古学的に何も無い場所に誘致しようとしている
魏志倭人伝の記述ていどの都なら弥生時代ならどこにでもあり得る規模
930 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 00:18:27.65
魏志倭人伝の記述ていどの都なら弥生時代ならどこにでもあり得る規模というの
ならば、どこへ比定しても問題はないだろう。
どちらも考古学的に何も無い場所に誘致しようとしているというは的外れな
批判のように思えるね。
邪馬台国の1000年以上あとにできた世界人口の半分を支配する世界史上最大帝国の首都カラコルムには、現在、まったく何も残っていない
>>931 紫禁城は清へと受け継がれて今も残ってるだろ
933 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 21:30:42.29
考古学は文献があって始めて生きてくる。
文献がなければ「邪馬台国」を証明するものなどないから。
その意味では、倭人伝の『居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞』の
記述は重要だろうな。これが出ている吉野ヶ里遺跡も重要。
纏向から出たもので、邪馬台国を証明できるようなものはあるのかな。
何もないのに、邪馬台国だと言い張るのは詐欺ではないのか…。
>>933 吉野ヶ里遺跡の遺構は
宮殿というより高床式倉庫みたいな柱芯もそろわぬ稚拙な建物だし
樓觀というには粗末過ぎる物見やぐら
城柵は当時の中国の防御施設の概念で行くと嚴しいと言えるのかな
935 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 22:20:03.82
>>934 物見やぐらは現代の人が建てたものだから。
あんなものを造るのは間違っているという声もある。
少なくとも樓觀らしきものを復旧することは出来る。
倉庫といえば、纏向の大型建物は人の住んだ形跡が認められず、
倉庫以外の何者でもないという人もいる。
卑弥呼の宮殿というのは妄想に過ぎないな。
『常に人がいて、武器を持ち、守衛する』。城柵が環濠集落を意味するのは
当然といえる。
936 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 22:28:59.64
重要なのは、いわゆる『宮室、城柵、樓觀』が吉野ヶ里遺跡でしか
見つかっていないこと。
考古学的には、郡使は少なくとも吉野ヶ里を見たということになる。
すなわち、有明海沿岸に方にやって来たと言える。
937 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 22:56:50.38
吉野ヶ里遺跡の発掘も終わったな
ごくろうさん、そして、さよなら
938 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:05:50.62
要するに、考古学的には邪馬台国は吉野ヶ里遺跡ということになる。
そうでないと言い張れば、考古学はあてにならないということになる。
939 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:10:51.33
うん、わかった、さようなら。
940 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:32:39.94
吉野ヶ里は、当時の集落がどんなものだったかを示すだけだ。同じようなものは
あちこちにあったと考えるべきだろう。
使者が吉野ヶ里に来たかどうかは分からないし、吉野ヶ里が邪馬台国だなんて、
とても、とても。
941 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:37:19.70
環濠集落は米作に付随するものだろ
米作適地=湿地帯
湿地帯では大雨が降れば洪水
水害を防ぐのが環濠
堀を作るのは現在でも洪水対策として用いられてる
西都原なんかで環濠集落がないというのは、そこが米作地帯ではなかったから
943 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:41:46.13
>>941 邪馬台国は日向だよ。それは疑問の余地なし。ただし、考古学よりは倭人伝の
解釈の方が重要だ。
944 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:49:05.25
>>942 それは近畿地方の環濠集落。
吉野ヶ里遺跡の場合は完全に要塞を目指している。
西都原は墓地だから。
945 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:49:11.04
吉野ヶ里が傍國20ヶ國連合の邪馬臺國の一部である可能性は高いよ
まあいわば筑紫の西南端という位置づけかな
あそこは東側にもっとしっかりとした中心域があるところの西側の砦みたいなかんじ
千石山左手に眺めつつ坂本峠越えしたら那珂川の原流域で
原流のところ西側に向かって遡っていけば板屋峠越えで女の園のところに抜けるよ
946 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:58:47.72
環濠集落の環濠にも環濠内にもいろいろタイプがあって、環濠集落は少数派くらい知ってるんだろ
で九州北部の環濠がどこを経由してもたらされたと現在では考えられているかくらいの知識はもってんだよな
>>935 >>人の住んだ形跡が認められず
大量に見つかった桃の種は?
人が住んだどころか儀式か何かに用いたものだろう、ただのゴミではない
倉庫で儀式をするか?
まあ、神を祭る建物が倉庫みたいであっても不思議は無い、伊勢神宮なんて高床式倉庫そのものだ
その祭官が卑弥呼であったかも知れない、いやむしろ、卑弥呼が神聖視されて祭られるかのごとく住まいしたのかも知れない
948 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 00:07:03.86
ぜんぜんちがうかも知れない。
山国川、矢部川、菊池川、球磨川の中流域をもっと掘らないと話にならない。
まあ、予算もないし、観光と結びつけなければならないからな。
950 :
sss:2012/10/03(水) 09:17:07.51
>>947 倭人伝には、「以婢千人自侍」という記述がある。
卑弥呼は、千人の婢(女の召使)に囲まれて生活していたわけだが、これはなんとなく
伊勢の斎宮を連想させる。斎宮には500人程度の人がいたらしいが、
その規模は東西2km、南北700mとされ、建物も100棟以上あった。
卑弥呼の住んでいた場所もそれくらいか又はそれを上回る規模だったと
推定される。そういう場所的・規模的な観点から邪馬台国を考えるのも
意義があるかもしれない。
951 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 12:58:59.62
伊都国についてもそのような考え方が必要だろう。玄界灘沿岸の人家と墓場が
密集していたような所に王宮がつくられていたはずはない。
玄界灘沿岸に伊都国があったなんていうのは、誤りだってことだな。
>>950 激同。
卑弥呼の宮殿は環濠と城柵に囲まれ、高楼を備えた、戦国時代のような物々しい城塞であったことが覗われ、
その周囲に直属の臣下や属国の人質が住む邸宅が取り囲んでいたと思われる。
まさに外から中心部へ【外様大名の人質屋敷→譜代大名屋敷→親藩大名屋敷→徳川幕府の江戸城】のような大規模な集落が営まれることが必然で、
発掘されれば世紀の大発見となることは間違いない!
卑弥呼の宮殿がそれだけ大規模なら、それと敵対してた狗奴国の宮殿も同じくらい大規模で
邪馬台国から海を隔てた東にたくさんあった倭種の国々(裸国や黒歯国など)の宮殿も同じぐらい大規模だろう
もし大規模な宮殿が発掘されたとして、それが邪馬台国なのか狗奴国なのか裸国なのか黒歯国なのか
どうやって判別するのだろうか?
>>953 慧眼!
奴国は2万戸、邪馬台国(女王国)は7万戸、投馬国は5万戸とあるから、
ある程度規模は推測できるんジャマイカ?
大和朝廷も高句麗に派兵する代わりに、百済王子を人質に取っていたし(例:雄略大王時の昆支王=武寧王の父)、
信長も安土城、秀吉も大坂城・伏見城の周りに、臣従した大名に自腹で屋敷を建てさせ、その妻子を人質として住まわせていた。
そこに生活必需品を供給する商人が集まり、城下町が繁盛していき、都の様相を呈してくる。
ともかく、臣下の妻子を人質として運命共同体にするのは古今東西、主従関係の基盤と思われ。
>>950 伊都国はやっぱりUSAか
それで全ての辻褄が合う
今人が住んでいるような場所で弥生期の遺跡を発見するには偶然に頼らざるを得ないからなあ
中世以降だと割と記録をもとに掘れるケースもあるが
957 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 17:14:55.83
大和朝廷が、それ以前の政権の歴史的に重要な遺跡は(発掘されないように)神社として封印してしまったという可能性もあるんジャマイカ?
触れると祭神の祟りがあるとされる鎮守の森とか怪しい希ガス
958 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 17:49:24.37
そうまでして封印するなら滅却するだろ
例えば、太宰府の下とか、女山の後代の神籠石で囲われた禁足区とか、
まあ、山口の防府にも女山があるが。
960 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:15:45.86
7世紀の話じゃないのけ?
961 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 20:30:50.81
健軍神社に自信がないならそういえばいいのに
ぷっwww
古い神社というのは、その土地を支配していた豪族の先祖崇拝が元にあって、
それが時とともに、神という抽象的な祭祀対象に変化していったもの
しかも、そこの神は具体的に先祖の誰という個体ではなくて、何々一族先祖代々みたいな習合化したもの
崇神の時代に創建されたと由来を持つ古社が多いのは、崇神の時代に中央集権化の一環として、
地方に割拠していた豪族の神へたいして中央から奉幣する事で、彼らを懐柔しようとしたもの
その奉幣使はやがて、立ち入り権を持つ役人となり、治世権も奪っていった
神社のご神体がなぜ鏡であることが多いのか
天皇家ではアマテラスという先祖霊を宿した神鏡を伊勢に祭っている
それに倣って地方豪族へも鏡を配布し、そこの神のご神体にするよう、指導して回ったんだと思うよ
963 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:08:58.40
はんこもろたおひとの崇神は短期間だけ倭王だったひとだけど
倭地のところがわやくちゃになって揉めちゃったから
宗女のこども女王さんに首すげかえてからに「~夜良比夜良比岐」とかで
追放されちゃってからに毛人の地に辿り着いたんだろ
山口って、秦国の在ったとこだよね
965 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 07:50:56.55
>>962 >天皇家ではアマテラスという先祖霊を宿した神鏡を伊勢に祭っている
>それに倣って地方豪族へも鏡を配布し、そこの神のご神体にするよう、指導して回ったんだと思うよ
慧眼!
スサノオと大国主による日本古来の銅鐸祭祀から、アマテラスと大和朝廷による中国伝来の銅鏡祭祀への変化が、
出雲国譲りとなったと思われる。
大和朝廷が編纂した記紀に(前政権の)銅鐸祭祀が登場しないこと、考古学的にも、
1世紀の漢委奴国王と2世紀の帥升の時代までは銅鐸祭祀、3世紀の卑弥呼から銅鏡祭祀になるのと一致している。
邪馬台国と大和朝廷がどう繋がっているのか(いないのか)まったく不明だが、卑弥呼=アマテラスとすれば、
大和朝廷の外戚(神武の母親の一族)として邪馬台国があったことを示している可能性も否めないと思われ。
966 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 08:18:34.12
補足訂正
「(銅)鏡祭祀を共有する」邪馬台国と大和朝廷がどう繋がっているのか(いないのか)まったく不明(後略)
大和朝廷の外戚(神武の母親の実家)として邪馬台国があった可能性(後略)
神武天皇というのは関東に政権を作った源頼朝や北条早雲に近いのかもね
文化先進地帯は外国と交易のある北九州
そこの地方武人がそれほど大軍勢も連れず関西に潜入し地盤を築いた
968 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 12:52:19.37
イメージ語り
ボクの素直読み
969 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 13:13:23.05
中国って度々周辺の民族に国を滅ぼされてるけど
それについてどう思ってるの?
周辺の民族は中国以上に先進文化を持ってたの?
970 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 13:24:46.47
文化が高度ならば戦いに勝てるというわけではないんだよ。
971 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 13:54:00.11
要はそういうもんで、大陸の文化が伝わったから優位にたてる訳じゃないってことだろ
まぁ、ボクの鉄器は世界一とかしなくなっただけ成長したんだwww
>>969 元(モンゴル族)、清(女真族)とも、科挙によって中国人を官僚に使っているよ
ただ、武力だけは支配民族が握る
中国という国は、国を治める土台みたいなものが遥か昔に出来上がっていて、
歴代王朝はその土台の上に君臨することによって、容易に政権交代ができた
つまり首だけすげ替わるだけだよ
日本の場合は天皇と朝廷が不動で、その下の幕府がいろいろと変わった訳だから、対照的だね
「易姓革命」の名のもとに、王朝のトップが入れ替わることに抵抗を持たなかったのではなかろうか
逆に「それは臣下が君主を弑することを正当化するものだ」というように日本では受け止められるようになったが
>>969-971 古代の外来文化としては、例えば稲作、金属、馬。
まず、これがなければ優位に立てないという物質文化レベルで、
広い階層が瀟洒品を享受する文化レベルになれば、蛮国に支配されるようになることもある。
975 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 03:36:21.24
金属じゃなくボクの鉄器にしたらwww
976 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 06:22:23.67
しかし、ジジィはサヨク教育の影響なのか異常に中国を持ち上げるよな
文化が伝わったのは事実だけど、それがまるで異次元レベルの破壊力を持っていたかのように
脳内妄想とSFだけにしとけ
>>975-976 文明国が、剽悍で好戦的な遊牧民にしてやられるというあたりをイメージしてるのかな?
関西社会が、外からの支配、圧力を欠いたら、何百年、何千年も停滞した部落社会のままになる。
中国は他民族に支配されるたびに文明が進歩しているよ
外縁の他民族を馬鹿にしてはいけない
日本は単一民族ではないが、中国のような多民族国家ではないし
天皇家も万世一系かどうかわからなくても、実力者がかわる度に王朝交代はしてこなかった
これはやはり島国である日本独特のものであろう
水田稲作を見ても文化、技術の伝播が非常に早い国である
980 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 08:35:09.33
>>979 慧眼!
中原の漢民族王朝と北方騎馬民族の攻防 〜激しく争いながら互いに切磋琢磨していく過程〜 が中国古代史の醍醐味ともいえるな
高句麗の広開土王の侵略(南下)製作により、応神大王から始まる河内王朝の元で本格化する朝鮮半島(特に百済)からの渡来(帰化)人と関西人をどう考えるかが日本古代史の醍醐味だが、
中国大陸の先進技術を齎したトランスポーター(運搬屋)としての朝鮮半島からの渡来(帰化)人という位置付けが相応しいと思われ。
981 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 09:07:13.88
朝鮮の稲が伝わったって新発見じゃね
アメリカでもヨーロッパ系移民が中心になって作った東部と、アジア系移民が中心になって作った西部ではだいぶ気質が違う。
しかし違うとは言っても、同じアメリカであることには変わりはない。
それと同じようなことが古代日本でも起こったと思われる。
歴史の担い手はあくまでも倭人であって、帰化人ではない。
担い手がインディオ(アメリンド)ということはない。
984 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 05:25:48.19
王がいるのは伊都国・倭国・狗奴国.20の旁国についてはわからない.
「女王之所都」は「都せし」と過去(完了)形に読む.
つまり、当時、邪馬台国には王はいない.
王だった卑弥呼が国を離れ、
倭国王となり、首都が置かれていた伊都国に住んでいたからだ.
倭国には直接の国民・領土がないことが倭人伝解読のポイントだと思う.
8^^8
仁徳天皇陵調べようぜ
>>986 盗掘されてるから、ロクなものは出てこないだろうって話だけど…。
まあ、調査はすべきだろうが、期待はできないな。
988 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 19:01:39.98
仁徳
(おほ さざき) 大雀命
(おほ さざき) 大鷦鷯尊
(おほ かささぎ) 大鵲命
>>988 カササギは秀吉が挑戦征伐の時に連れ帰ったもの。古代日本のとは別。
カッチャ(朝鮮語) → カッチャ・サギ → カササギ
990 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 19:19:12.23
♂のかささぎは脚が3本とゆうことになります
991 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 19:30:18.28
992 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 19:32:10.67
993 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 19:43:43.79
994 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 20:09:40.70
ヤタガラスとは太陽の黒点という説がある。
銅鏡で布に太陽を反射させ、ヤタガラス(黒点)の数を観察することで、
その年の太陽活動の良し悪しを占うのが中国皇帝の仕事で、それが倭王にも伝わったとか。
996 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 08:23:45.84
997 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 08:57:24.87
てかね仁徳は天日矛の末裔なんだからカササギ(鵲)Pica picaさんでもふつうだろさね
日本は大化の改新までは単一国家ではなく、有力な豪族は、多くの部民同士の交流を禁じていた。
しかし、聖徳太子は、それでは大国 唐や統一新羅に対抗することはできないということで、
部民を取り上げ、全ての民は大和朝廷の配下にとした。その上で、
班田収授法で口分田を与える際に、民族をばらばらに配置し、民族の融和を図った。
999
おわり
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