1 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/05/30(土) 23:50:24
謎が謎を呼ぶ大王、継体天皇専用スレッドです。
応神五世孫って本当?息長氏なの?
なぜ何度も王宮を移したの?
そもそも出身は越前?近江?それとも河内?
なぜ任那四県を百済に割譲したの?
磐井が乱を起こしたわけは?
どの崩年が正しいのさ?
阿蘇ピンク石ってよく聞くけど?
安閑宣化と欽明の二朝並立説ってどうよ?
他にもいろいろ論点はあるけど、気軽に討論してね!
ただし学問板住人らしく分別あるレスを心がけましょう。
マルチやスレチやコピペはスルーで宜しう。
では、どうぞ。
2 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 12:42:25
過疎スレになると思うので、age進行でもsage進行でもOKということにしましょう。
3 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 12:43:37
33 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/06/03(水) 01:54:01
或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩りましぬといふ。
而るを此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へるは、百済本紀
を取りて文を為れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥の三月に、
軍進みて安羅に至りて、乞托城を営る。是の月に、高麗、其の王
安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨りましぬ
といへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は、二十五年に当る。
後に勘校へむ者、知らむ。
34 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/06/03(水) 01:55:42
欽明朝開設にあたっての第一の功労者は誰だ?
なんか、下級武士でも参議・大臣になっていった明治維新みたい。
4 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 12:45:15
174 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2009/09/19(土) 06:57:34
継体とアンチ継体は熱戦ではなくニラミアイの冷戦状態が長く続いたのではないだろうか。
上杉と武田もそんな感じ。
鉄砲ない時代だと、片方が要害の地にこもってしまうとなかなか勝負つかない。
5 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 17:00:55
武烈とその皇子たちは継体に殺されたのかな?
6 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 17:26:30
当時だと辺境に逃げれば命は助かったかもしれない。
つーか軍事対立なんてなかった
8 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 13:12:28
あったとしたら息子の代だろ。
@安閑宣化と欽明の争い
A安閑と宣化欽明の 争い
どっちが正しいの
9 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 15:37:34
1だと思う。
10 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 15:42:12
で、欽明天皇ってのもカイライ政権だったのかどうかよくわからん人だよね。
11 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:11:53
神武から武烈までは任那からわたってきた征服王朝だったんだよ。
だから父祖の地の任那の維持に躍起になった。
それが継体に滅ぼされて以後が土着の王朝。当然縁のない任那も手放した。
12 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:18:47
欽明天皇は任那に執着していたはずだが。
というか、継体天皇の以前も以後も
ヤマト朝廷の権力構造は殆ど代わってないんだけどな。
もし、継体天皇が征服王ならば、その下の官僚もごろっと
代わるだろうが?
しかし、殆ど代わってないし、
しかも、継体天皇は自分が傀儡大王にすぎないと思って
なかなかヤマト本国に入りたがってない。
>>11 そんなこと言うやついるのかw?
単純に任那には権益が多かったからだろう?
西暦3世紀の邪馬台国の時代から
弁韓のあたりには、倭人が多く住んでいて
そこには鉄が多かったから、
倭人が鉄を取りに来ていたと記載されているんだよ。
そこには、倭国は大きく権益を保持していた。
>>13 天皇家周辺が征服者で、官僚たちが土着精力だったのだから、
首をすげ替える口実がなかったんだろう。
しかし武烈と土着貴族たちは姻戚関係などにすでに分かちがたくなっていて
いつ叛乱を起こされてもおかしくなかったからヤマトに近づかなかった。
辻褄は合うな
17 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:50:59
>>13 > しかも、継体天皇は自分が傀儡大王にすぎないと思って
> なかなかヤマト本国に入りたがってない。
継体が暫定的に居座った仮宮殿は「水運至便」「交通至便」の土地にあって
軍事的にも交易でもヤマト中枢よりも条件が良かった。
18 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:52:59
>>13 > もし、継体天皇が征服王ならば、その下の官僚もごろっと
> 代わるだろうが?
当時は読み書きできる人すら少なかったのだから
替えようにも代わりの人材がいなかった可能性もあるのではなだろうか?
結局、1500年以上前の日本の歴史や皇室の歴史って
結局な、本居宣長の邪馬台国九州説が全て影響しているんだよ。
あの西暦3世紀の歴史解釈によって
その前後の数百年の歴史にも影響してくる。
>>16 だからさ、その天皇周辺自体が、さほど変化がないんだよw
継体天皇は越前生まれだが、生まれは近江でしょう?
ヤマトのすぐそこの皇族だよ。
あと、継体天皇がヤマトのトップにたつにあたって
熱田の尾張氏の信任を得ているんだよ。
これは、応神天皇の時も同じだし、景行天皇の時も同じだ。
かならず、ヤマトが混乱した時には
熱田の尾張氏の信任が必要になっている。
これ、どういう意味か分るか?
ちなみに、天武天皇の時も、熱田の尾張氏の信任を得ている。
これはだな、源頼朝や足利尊氏が征夷大将軍になるときにも
京都朝廷の天皇の信任を得ていたのに似ている。
この意味を理解せよw
21 :
20続き:2010/10/08(金) 20:03:51
今、俺が言ったことは、日本の古代史の謎の凄いヒントにもあるんだよ。
天武天皇が古事記の編纂を命じる前には、
ヤマト朝廷が王家の始祖として祀っていたのは、
女神アマテラスではなく、男神アマテルだったという説がある。
しかし、天武天皇はこの男神アマテルの存在が邪魔だったと。
このアマテルとは、天照国照彦であり、本名を火明命といって
皇祖ニニギ命の兄上にあたるかただ。
その人を、長い間、ヤマトの始祖として崇拝してきたのを
天武天皇は消し去ろうとした。
天武天皇は古事記を編纂する前、熱田の尾張氏と大喧嘩していた。
その尾張氏は、この火明命の嫡流の子孫w
22 :
銭形警部:2010/10/08(金) 22:26:12
諸君!
文献だけで歴史を語れない。
生の歴史に触れたまえ。
応神天皇五世が遠い血縁?
ナンセンスだ。
明治天皇玄孫竹田恒泰氏に会ってみたまえ。
これが生きた歴史てもんだ。
23 :
銭形警部:2010/10/08(金) 22:30:39
いまだに王朝交代などという
かびの生えた陳腐な説を
唱えているやつがいるとは。
2ちゃんねるのレベルを笑われるぞ。
王朝交代説なんて古臭いわな。
そんなの戦後の赤い学者さんたちの受け売りだろう?
だいたい、皇室の歴史を長くしたいのなら、
出雲大国主の歴史も皇室の先祖ということにしていただろうに。
天照国照彦という通称は凄いなw
天津と国津の勢力者という意味w
出雲国譲りを達成させて、天津と国津の両方を支配した最初の人物は
この天照国照彦(火明命)のことだよ。
26 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/08(金) 22:47:53
確かウエツフミでは天照大御神のほかに、夜見照大御神が月夜見尊、
国照大御神が須佐之男命だったな。ヨミテラスオオミカミとクニテラス
オオミカミ。
武烈天皇は明らかに王朝交代前の悪王の行状のパクリだろ
天照国照彦も明らかに天津神と国津神のパクリw
29 :
サガミハラハラ:2010/10/09(土) 09:06:02
太国さん、筑前の邪馬台国大研究の掲示板ごらんになってますか?
スサノヲとツクヨミについて考察しております。ご感想ご意見等およせください。
太田茶臼山古墳(現継体天皇陵)なんか発掘したら、
継体帝と前王権(いわゆる河内王朝)との関係性も見えてきちゃうかもな。
発掘しない方がいいよ。
王朝交替を信じていた人たちの夢をぶち壊すことになる。
31 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/09(土) 10:16:21
>>29 サガミハラハラ殿
見てないんですが〜? URLを願います。
明日は吉野ヶ里へ行こうかと・・・?
>武烈天皇は明らかに王朝交代前の悪王の行状のパクリだろ
蘇我氏の悪行なんかも春秋時代の魯の季氏のパクリだな
34 :
サガミハラハラ:2010/10/09(土) 12:30:20
>>31 邪馬台国大研究で検索して、25新版・おもしろい古代史の掲示板をクリックしてください。
>>30 文物で連続性を捏造することぐらい当時でも朝飯前
DNA鑑定するとなったら反対するのはそっちだろw
応神五世孫というのは、応神から数えて五代目のそのまた孫って意味なの?
37 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:48:24
1.魏志倭人伝には邪馬【壹】国と書いてあるのに邪馬【台】国と書き換えることで大和(ヤマト)を連想させる(台≠壹=壱)。
2.卑弥呼=神功皇后 と置き換える。
3.倭を大和(ヤマト)と読ませる。
この3つの作業によって、かつて北九州にあり、(中国皇帝の冊封を受けた)列島を代表する王権であった倭国筑紫王朝とその前身である邪馬台国の存在を抹消し、神代の時代から大和(ヤマト)王権のみが列島に存在した唯一の王権であったと思わせる記紀の意図を、
解りやすく解説しているこちらのホームページをハッケソ!
隋の煬帝に「日出処天子…」と書いた倭王・阿毎(あめ)多利思北孤(たりしほこ)≠聖徳太子 であることや、
継体大王についても書いてあるYO!
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/prologu0.htm
38 :
銭形警部:2010/10/09(土) 21:14:15
今よりも人口も少ないうえに
血縁を今よりはるかに
重視する当時において
応神天皇五世を僭称するなぞ不可能。
すなわち王朝交代なぞ
たわけた珍説以外の
何者でもない。
僭称も何も、応神天皇五世の孫と言うのは継体天皇の生きた時代より後に書かれたことなのだが
いや実際応神天皇五世の孫だった可能性は十分にあるのだが
悪徳の武烈の血統はたえて、有徳の継体の血統が皇位を伝える。
これは神皇正統記の発想そのままなんだよね。
43 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 07:34:11
平将門も天皇五世の孫ではなかったか?
44 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 07:57:58
継体については大伴氏の家伝が典拠と想定できる
将門が、他に朱雀天皇近親の皇位継承者がいなくて
中央に迎えられ即位していたら、朱雀天皇の次代の天皇として数えられただろう。
一方、将門が中央に反旗を翻し、これを打倒して、
文字通り日本の「新皇」として即位したような場合、
将門は後世の幕府創始者のように、新しい王朝の創始者・初代として捉えられたろうし、
何より本人がそう自認したであろう。
継体のケースはおそらく前者。近親継承者がいなくなったので、
遠縁にあたる王族の末裔が地方から迎えられ、中央の王女と婚姻することにより、
王権を継承した。
46 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:52:48
そういや前漢後漢なんかでは「民間に下っていた」少年皇族を「探し当てて」皇帝にする話とかよくあったな。
47 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 13:05:33
顕宗仁賢紀は古事記も日本書紀も歌謡まで正格漢文で
明らかに原典は7世紀以降の著述
このころ天皇になった兄弟の来歴をこっそり過去の天皇の説話に
潜り込ませたのかもね
49 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:26:29
なんか継体以上に怪しい
仁賢は継体親子の義父でもあるからこのスレの検証対象になるな
手白髪姫、橘仲姫、春日山田姫の実在性とか系図の信憑性も
合わせて考えてみたい
52 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 20:26:36
顕宗と仁賢はあやしいよな。
53 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:46:32
そういや、イギリスのバラ戦争のときに、
ヨーク側に擁立されたランバート・シムネルという少年がいたが、
現在では王族とは関係ないということになってる。
54 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 01:40:17
継体より応神の方が途切れてる可能性高いがな。
昔はそう言われてたな。
だけど最近誉田御廟山古墳の年代が応神の実年代とされる5世紀初頭の可能性が出てきて、
しかも同じ河内国志紀郡にはその2世代前位から大王墓クラスの大型古墳が築かれていて、
記紀にも応神の父・仲哀と祖父・ヤマトタケルの墓はこの地方にあると書かれている。
古市古墳群の「初代」王墓たる津堂城山古墳は、素直に考えればヤマトタケル墓だわな。
56 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 03:06:49
ということは、応神以前からいわゆる「河内王朝」は有力だったと。
「応神=河内新王朝の創始者」という構図は研究が進めば否定論が強くなっていくだろうね。
58 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 03:25:04
というか、やはり新羅みたいに複数の王統があった
新羅は金氏に一本化したな
ヤマトタケル─仲哀よりも、ホムタマワカ─仲姫の系譜に着目すべきだろ。
国宝海部氏系図やら、魏志倭人伝をみればわかるが
昔から倭国では、祭祀王と俗世王の二人の王がいた。
つまり、宗教的権威と政治的権力の二元体制だ。
中世以降も、天皇と征夷大将軍と二人の皇帝がいたように。
そのへんが、古代皇室の謎の真相でしょう?
64 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 12:37:45
>>60 確かに、あの二人は架空くさい。
やはり仲哀は武烈的存在か?
後漢も弟が皇位に就いたんだった。
66 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 08:57:34
日本書紀の記述では仲姫は「五百城入彦皇子の孫」だからな…
古事記では祖母が建稲種命の娘という記述がありながら母の名は載ってないし
名前も応神に似てるだけで本人にまったく存在感がない、というか名前から発想できるものがない
ホムダマワカ王は本来の名が伏せられた偽名で三人娘の父として現れる川派仲彦の別名なんじゃないかな
逆さから読むとカワマタだから?
68 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 13:14:19
武烈の存在の有無ってあまり意味無いな。
雄略が王権強化目指して暴れ過ぎて身近な皇族が殺されるか逃げて行方不明になるかした為、五世の継体までお鉢が回って来たってことか
どっかの源氏みたいだな
>>68 王権強化ってことは武烈は実は有能で急進的な合理的思考の持ち主だったの?
・・・ますます殷周革命とその異説にかぶるなw
読めてます?
>>68の「王権強化した」のは雄略。
読みましたw
>>68を推し進めると雄略の王権強化の過程で生れたとおぼしい摩擦を
悪徳として強調し武烈という仮構の人格に押し込めたんじゃないか、ていうことでしょうか。
>>64 というか、応神天皇には
仲哀天皇には第4子がいて、
彼には、ずっと年上の兄貴がいた。
また、母親の身分でも、
応神天皇の母親の神功皇后は若い側室で
応神天皇の兄の母親のほうが正室だった。
父系で見ても、後者のほうが皇室本家に近かった。
73 :
日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:02:28
彦人大兄命の系図は混乱しているのはどういうわけなんだ?
忍坂彦人大兄皇子から借用された名前もなんだか気になるし
この時代に大兄なんていたのか?
顕宗・仁賢・武烈期に仏教から知識を得た継体軍が攻めて来た
抵抗していたが3人は殺され手白香が嫁として強奪された
しかし継体の死後安閑・宣化らで対立が起き
先王朝の血を引き継ぐという点で正統性をアピールした欽明が権力争いを制する
ってな妄想を考えてみた
76 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 18:20:10
上宮記の系図の信憑性はどんなものかな。
77 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 20:36:18
豪族達にとって大王の血統ってどれくらいのものだったのかな
78 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:24:31
葛城氏と三輪氏はオオキミを出していたことが有ったような気がしてならない。
三輪氏は神別のくせに君姓を名乗ってるのは気になるな。
80 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 09:43:30
>応神五世孫って本当?
允恭天皇四年(乙卯四一五)九月戊申《廿八》。詔曰。羣卿百寮及諸國造等皆各言。或帝皇之裔。
或異之天降。〜是以故詐者愕然之。豫退無進。自是之後。氏姓自定。更無詐人。
ここが、クガダチによる歴史書き換えの犯行現場である。
まず、証拠品をそろえねばならない。そして1つずつ吟味する。
神功皇后摂政三九年(己未二三九)◆卅九年是年也。大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。
(己未二三九)年を239年景初3年と特定している。この後の和暦に段差は無い。
つまり本当の神功39年と239年の誤差分だけ、齟齬がある。
書紀は、この誤差を、時代を重ねることによりクリヤーしている。
書紀は、神功39年(313年)を景初3年(239年)とした、その為有りもしない74年分の
記事のねつ造と暦の改ざんに迫られる。
それが、神功残り30年+41年を暦の合わせられる神功39年(313年)を仁徳元年に繋いだ、
つまり神功崩御=立大兄イザホワケは、重なる。
神功の後をホムタが繋ぐ、しかしイザホワケでもある。
継体は、イザホワケの5世孫でアリ、又ホムタの5世孫とも成る。
継体の5世前は、400年頃誕生する。
81 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/16(土) 09:46:57
捏造の最高級 4重在位というインチキ論。><
新羅や殷も複数の王家があったとかいう話だ。
応神の「河内王朝」は武力で他の王家を潰したていうことかね?
83 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/16(土) 13:10:48
だから、唐松山という妄想男は、神功〜仁徳の代が各二重在位を三つ巴で
やっていたというトンデモのデタラメを主張しているのだ。さらにこの頃、
これに加えてワカタケル大王がこの間の時代に居座って4重在位を始めて
るという。要するにデンパ星での電波星人の社会では、こういう4重王位
で並立していることが言えるらしいのだ? そこからの大デンパを受信して
れば、そういう論を言い出すのもありえるといえばありえるんだろう?ww
百済も系譜上は一系だが、実際は複数の王統に分かれてたという説があるな。
日本みたいに複数の古墳群があるとか?
86 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 17:27:02
私が百済本記を編年に使わないわけ。
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です
百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御
書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦329年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差で癸未朔が成立
百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の干支で書かれた百済記があり、それが3国誌に使われた可能性を
否定出来ない。
87 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 17:35:31
この西暦329年から七支刀326年 東晉明帝太寧4年 ?次:丙戌 生肖:狗 西元326年2月19日が出る。
太国倍年では、百済王朝も特定出来ない。
文句があるなら、百済王朝を特定してからにしろ。
88 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 18:11:00
暦の話はよそでやって頂けませんか?
89 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 19:30:57
暦で書かれた日本書紀
その日本書紀が”継体は応神の5世孫というならば、
暦の上でそれを考えねばならない。
ただ世継ぎだけで考えても、継体が応神から5世孫にはならない事は明白。
このトリックを説明出来るのは、書紀に仕掛けられた暦のトリックである。
90 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 21:22:36
別のところでお願いします。
91 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 22:10:31
■それまでの天皇(大王)との連続性が不明
■越前から迎えたという論証が不存在
■なぜ越前にいたのかが不明
よって継体は論外者!除籍処分確定!
92 :
日本@名無史さん:2010/10/16(土) 23:17:31
>>91 先生、その考え方では「継体以降の天皇」が
全て否定されてしまいます
上宮記の系図の問題点の一つは振媛の部分
イワツクワケは垂仁記では本文に名前が無く、垂仁紀では妹で日本武尊の妃で仲哀の母のフタヂイリヒメの名前が無い
兄妹の母の名もその姉に似ているのが疑問だ
結局、イワツクワケを祖とする三尾氏は系図を仮冒したと考えなければならない
すると前提条件として垂仁は権威づけの足がかりになるほど知られていた実在の大王となるわけだ
垂仁が上宮記が書かれた当時認識されていた過去の大王であることがわかったと思うが
凡牟都和希についても応神天皇が発明される以前の状態と考えた方がいいだろう
これは明らかにサホヒメの子ホムチワケのつもりで表記されている
一方、ワカヌケフタマタは常にカワマタナカツヒコとセットで登場し史料によって母の名に違いがある
本来の伝承はカワマタナカツヒコはワカヌケフタマタの妃モモシキの父だけであって
ホムチワケを息長真若姫で接続することで振媛の件と同様に権威付けしたとみる
結局、允恭紀の忍坂大中姫と闘鶏国造の話に見られるように、この家系は皇族ではないと推定できる
95 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 00:10:37
殷ですら系図の水増しや違う系図のつなぎ合わせはいくらでも見られる。
さらに、世界の無文字社会では日常茶飯事らしい。
仲哀から応神が架空で(景行・成務も?)
垂仁かその次代の頃に河派仲彦や葛城襲津彦など半島で活動していた倭人たちが
マキムクの王権を倒して仁徳っぽい始祖王を掲げたのが実際だろう
>マキムクの王権を倒して仁徳っぽい始祖王
サホの王権はスルー?
98 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 01:14:01
【皇賊】税金をタダ喰い
戦後、すべての資産を取り上げて
国費であらゆる生活費を賄っているのが問題
外国の王室のように皇室の資産を認めるべきだな
取り上げた資産を返却すれば警備に関わる人件費くらいしか頭でない
100 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 09:38:01
でも血縁のない豪族が武力で畿内を制圧したのだとしたら
それまでの大和朝廷の重臣たちがほぼ温存されてるのが理解できない
血縁同士の争いであればそういうこともあるだろうけど
101 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:27:00
それはわからん。
けど、当時の豪族は自立的な土地や奴隷をもっていたから簡単に排除できるのかな。
それに継体と豪族が妥協した可能性もあればむしろ豪族が主体の可能性だって。
102 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/17(日) 10:40:18
>大和朝廷の重臣たちがほぼ温存されてるのが理解できない
纒向3代を支えた重臣の墓所は、オオヤマト古墳群である。(現実的には、景行と共に始まり、神功渡海で終了する)
この古墳群は、箸墓が築かれてから2,30年で終了する。
103 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:47:46
そんなのも簡単に排除できないのに
王朝交代があったはずだってのもバカバカしい話だねw
王が変わるのだから多少は権力の移動はあっただろう
だが、大和朝廷の重臣たちのほとんどが基本的に温存され
近江や越前時代の臣下があまり出世してないのはどうして
104 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/17(日) 10:53:27
継体はホムタの5世孫
ホムタは、3世紀後半の生まれである、継体は6世紀前半即位
ここに100年の齟齬がある。
これは、允恭のクガダチによる系図書き換えが事実であることを表す。
つまり、神功、応神、仁徳の3代には、隠された暦の秘密が存在する。
暦の話は日本書紀スレでやれ、話がしたいオカシイ奴だけいくから大人しく待ってろ
106 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 11:18:02
豪族側が引き入れた可能性も。
ヲホド側がむしろ客体かもな。
107 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 11:19:54
継体親子とタシラカ姉妹の婚姻もあるしね。
108 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 11:50:43
>>106 引き入れたなら大王家の血族である可能性が高いだろう。
そうでなければ豪族全員の同意が得られるか?
109 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:11:26
コテハンがプロの学者からはまともに相手にされないような妄想年代論や、
インチキ暦学で遊ぶのは隔離スレだけにしてほしいわ。
古代史スレ全てにしゃしゃり出てくるのは、一般住人には迷惑この上ない。
110 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:14:57
>>79 > 三輪氏は神別のくせに君姓を名乗ってるのは気になるな。
三輪氏は大王個人との人間関係が良かったことが多いように思う。
111 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:17:45
>>100 > でも血縁のない豪族が武力で畿内を制圧したのだとしたら
大連立みたいな妥協政権だったのかもしれないぞ。
小沢は民主党を征服したわけではなく
雇われ店長みたいなもんだった。
>>100 というか、普通、そうなんだよw
にもかかわらず、戦後の歴史学会などでは
反天皇制の観点、皇室の万世一系に対する思想を毛嫌いする観点から
三王朝交代説や騎馬民族征服王朝説なるものが出回らせるに至った。
だいたいだな、皇室の歴史の長さや万世一系が重要なら
出雲大国主も皇室の万世一系の系図に加えただろうし、
皇室の歴史を長くするために神武2600年の歴史とか言うが、
中国はもっと歴史が長いのである。
つまりだな、万世一系捏造説や皇室の歴史を引き延ばせ説も
さほど説得力のない説なのである。
にもかかわらず、こういうトンデモ説が拡散するに至ったのは
それだけ第二次世界大戦の敗戦の影響が大きかったわけである。
113 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:30:21
GHQが占領中に日本の社会の重要機関から20万人以上の愛国者を追放したからな
学界上層部もも反日キチガイや在日の巣になってしまった
114 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:51:36
>>100 > でも血縁のない豪族が武力で畿内を制圧したのだとしたら
血縁ではあったが、薄かったということなんだろうな。
115 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 13:48:26
そこは現代人の想像になってしまうからな。
いずれにせよ証拠がないと。
証拠w
そんなのあれば苦労しねーよ、バカ
なら決めらんないなあ
118 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 14:28:02
>>111 越前時代の重臣が黙ってるはずないでしょう
現に民主党内も小沢派と反小沢派で内紛状態だ
たった1年で古代の話なら武力衝突があってもおかしくない状況
二十年もの小競り合いがあったじゃん
120 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 15:24:06
全く血縁関係のない豪族と20年も争っていて
大王だけは受け入れましょうなんて妥協が成立するか?
功績があったであろうそれまでの重臣は?
舒明が崩御して天智が即位するまでにも二十年以上も
皇族や大臣が小競り合い(?)してるしな
122 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 16:54:01
武田と上杉も年中戦っていたわけではなく
にらみ合いだったわけだからな。
鉄砲伝来以前はそんな感じ。
朝鮮式山城に逃げ込まれたらお手上げ。
8世紀の話だけど新羅では王を暗殺未遂した王族がそのまま都の私宅に住んでた例がある
124 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:21:46
関係なくね?
125 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 18:52:02
たった五代だからな
100年〜150円年ぐらいか
余裕で遡れるわ
劉備みたいにわらし売りしてたんならあやしいけど
越の王だった訳だし
魏志倭人伝の投馬国を出雲とし
水行十日、陸行一月を日本海ルートとしたなら
越国は大和にとって当時からの重要拠点で
殆ど直轄地の様なものだったんだろう
126 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:27:06
比較するなら中国の殷代とかかな。
あと、複数王家説はどうなんだ?
殷の話なんかどうでもいいから
複数王家説というのは後期のビザンツ帝国みたいだな。
129 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:35:11
>>118 >>120 元の一族や重臣の処遇については確かに少し疑問だ。
しかし、「血が繋がっている」と考えたらその疑問は消えるのか?
血が繋がっているかどうかは判断出来ないが20年トラブっていたことは確かなのに。
130 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:39:07
兄弟同士でも争うんだ
一族であろうとも争うだろう
だが最終的に大和の豪族があそこまで温存されてるのは
一族でもない限り難しいと思う
当時の認識としてギリギリ皇族扱いだったんじゃないかな
20年間とらぶってたってのは仮説だがなw
131 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 02:59:59
皇族とはいえないが、かといって赤の他人でもないという微妙な関係だろうな。
132 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 03:11:16
江戸時代でいう御三家くらいのポジションではあったんだろうな
133 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 03:25:16
御三家ではないでしょ。
館林藩主みたいなもので
「徳川家と血のつながりがあることはあるので
御三家が藤原4兄弟みたいに伝染病で連続死すれば将軍になってもおかしくない」
ポジション。
134 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:23:17
雄略の庶流粛正の生き残りの争いの勝者?
さすがに五代なら同世代も生き残ってそうだけど
135 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:40:30
そんなに近くない。
記紀や上宮記の記述を信用しても、応神大王から5代もあとの子孫だから、
江戸中期の御三家みたいなものだろう。
もっとも御三家ほどの安定した地位や格式を与えられてたかあやしいものだが。
136 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:45:18
それに応神大王自体が、応神=仁徳説のように実在性を疑われている。
もし応神が架空の大王なら、オホト王の一族は允恭大王の外戚である豪族にすぎない。
だが、継体以前は王統が一系ではないと考えれば、允恭の后の一族であったオホト王が、
允恭系の断絶に際して大王に擁立されたと考えても、不自然ではない。
(顕宗・仁賢あたりも、いろんな意味で怪しいと言えば怪しいが)
継体の前に大王候補だった人はどうなったんだろうな?
138 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:04:58
>>136 無理やり西洋で当てはめるとルドルフ一世やミハイル・ロマノフとかがそんな感じか。
先王の姻戚の名門でありながら、中央に大した勢力を持たない。
139 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:22:23
>>136 >オホト王の一族は允恭大王の外戚である豪族にすぎない。
黒岩重吾さんも一時はその説(ただしオホト王の一族は室町幕府の日野家みたいなもので
大王の后を輩出する家)を取っていたが、晩年は
「やはり薄いながらも大王の血縁者だったのだろう」説に変化した。
140 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:23:26
迎えに来たのを殺しに来たと思って逃げたんだけど、
そのまま行方知れずということも無いと思うんだけど。
142 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 22:02:49
雄略が似たような感じで外戚や親戚を粛清したからな。
びびるのはわからう。
143 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 22:28:18
オホト王以外に、そういう候補者もいたと思われるが、
記紀に出てくるヤマトヒコは架空の人物だろう。
あまりにも名前が安易すぎるし、架空の人物である仲哀の子孫という設定だし、
実在性が疑わしい。
144 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 22:39:03
ヤマトヒコがいたとされる場所は古墳も多く
当時はそれなりに繁栄していた場所のはず。
145 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:05:59
>>138 ルドルフ一世に限らず、神聖ローマの皇帝は、王の親族姻族でかつ中央では無力な者が選ばれることがよくあったようだ。
豪族貴族の合議だったから、勢力が有りすぎな者は避けられた。
また、軍事的な才覚を持った者をヘッドに選出することも世界史上良く見られる。
146 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:38:34
雄略粛正生き残りの中から大伴ら首脳陣に都合良い傍系の第2候補だろ。
147 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:04:31
応神や仁徳の王家に押されてたいわば旧王家の子孫ということか?
148 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:32:49
神聖ローマ帝国はあまりにも特殊な例だw
仮説を一歩進めて雄略天皇が息長氏に創作された架空の人物とするならどうだろう?
手掛かりになるのは顕宗皇后の難波小野王の系図に現れる磐城王だ
雄略の子の磐城皇子と同一人物として雄略と吉備の争いは実際は允恭と吉備の争いとしてみる
円大臣は履中朝で活躍したのに允恭朝では陰もなく、雄略に滅ぼされるのはおかしい
円大臣を滅ぼし韓媛を妃にしたのは允恭とし
草香幡梭皇女を弟の皇后に迎えたのは反正とすると世代的にも納得度が高い
雄略は架空として片づけられるが木梨軽皇子と穴穂皇子はどうしよう?
あと衣通郎女は何者なのかな?
衣通朗女=豊玉姫
151 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 10:15:51
てすと
152 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 10:16:48
>>149 > 仮説を一歩進めて雄略天皇が息長氏に創作された架空の人物とするならどうだろう?
それは無理ではないか?
153 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 10:19:09
時代は下るが蘇我入鹿にとって息長氏当主は、
ビダツ大王の子であるオオマタ王と並んで目障りな存在であったとする
説があるそうだが、なぜ息長氏が目障りだったのかわからん。
154 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 10:59:20
継体大王って徳川吉宗とイメージが被るね。
155 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 11:28:41
継体天皇って大室寅之祐とイメージが被るね。
156 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 12:04:41
在日がいくら日本の歴史に粘着して捏造連呼しても
韓国のゴミみたいな歴史が変わるわけじゃないのに・・・
157 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 12:12:00
実際に男系で応神五世かどうかはともかく、
后を排出したのはほぼ確実なの?
雄略を架空とする場合の五王との対応は
讃=履中
珍=反正
済=允恭
ここまでは良いとして
興=星川皇子
稚宮って何のことだろうといつも思ってたんだが
この仮説を突き詰めていくと世継ぎの意味だとわかった(稚宮=世子)
武=清寧
なんで諡号に武の文字が入るのか疑問だったのも解けた
この後、息長氏の主人が五王朝を滅ぼし系図を改竄したのは明白
息長氏の主人の出自は五王朝に最も恨みを持っていた住吉仲皇子の子孫ではないか?
住吉は息長と関係深い土地だし…
五王朝の軍事氏族は君主を平気で裏切る非常に利己的な東漢氏や物部氏だし
継体一族が大和を包囲して干上がらせ、大伴氏が初めからここの軍事氏族なら無血開城は可能だと思う
まぁ、即位前紀の話はもっともらしい嘘ということになるけど
ここは漢籍の引用だし完全な創作でしょう
>>157 雄略が架空で允恭の皇后が草香幡梭皇女なら
忍坂大中姫の皇后はオカシな話になってしまうから
これも息長氏の入れ知恵で一族の女人を皇后に仕立て上げ
架空の息子たちも創作したんだろう
穴穂皇子の役回りは実際は反正天皇からスライドしているから
反正の末路は継子による暗殺になるわけだ
反正を祭神にしている神社は宣化の子孫に乗っ取られているのもこの関係か…
160 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 16:14:19
伝説的な応神はともかく、雄略まで架空?
161 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:40:02
>>157 > 実際に男系で応神五世かどうかはともかく、
> 后を排出したのはほぼ確実なの?
そこは認めている人が多いと思うよ。
162 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 18:06:00
6世紀初頭(継体即位直前)のものと思われる隅田八幡宮の鏡の銘文にも
「男弟王(オホト王?)」とか、「オシサカ宮」とある。
後者は、允恭の后の宮殿らしいので、継体は允恭系の大王家の外戚であろう。
163 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 18:50:19
允恭大王は業績の割りに目立たないよなあ。
忍坂大中姫・藤原琴節郎女の姉妹は近江坂田の出身だというのに、
二人とも「忍坂」「藤原」と大和の地名を名に負っているのは不審。
逆に、允恭(ヲアサヅマ)・安康(アナホ)の大王父子は、
「朝妻」「穴穂(穴太)」と近江の地名を名に負っている。
(朝妻は大和にもあるが、近江の方が元とする研究あり)
もし、ここら辺の人名や系譜に意図的な改変が加えられていて、
允恭・安康の実名が伝わっていないのなら、済や興との対応関係を
ワカタケル=武のようにすっきりとは説明がつかないのも納得がいく。
丹波の奴は后排出したりしてないのかな
166 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 20:26:32
ヤマトヒコは、継体即位前紀に唐突に名前が出てくる系譜未詳の人物。
仲哀の子孫ってことになってるけど、その中間の系譜が全く不明。
継体のように、別史料で系譜が残ってないので、全くの謎の人物。
先祖の仲哀が架空の王で、ヤマトヒコ(ヤマトの男子)という抽象的な名前なので、
実在の人物とは考えにくい。
好意的に解釈すれば、継体即位のときに丹波にいた有力豪族にも打診があったが、
その名前や系譜は後世に伝わらなかったので、記紀編纂の段階で創作されたのだろう。
シキ宮のワカタケルと朝倉宮の雄略は別人と解釈すればいい
オシサカ宮のヲオトと継体も同様に別人…か?
宮 天皇
飛鳥 → 允恭 顕宗
穴穂 → 安康 仁賢
長谷 → 雄略 武烈
磐余 → 清寧 継体
この宮と天皇の相関関係は一考の余地があると思う
168 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 20:49:59
飛鳥に最初に皇居を設置したのが允恭だな。
169 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:11:44
状況証拠的に応神五世は間違いないだろうな
170 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:31:08
応神の子孫でなく、実は応神の母親の家系?
171 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:37:18
>>170 可能性としてはありうる。
ただ当時は近親婚がデフォルトだから
やはり応神の子孫だったのかもしれない。
172 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:48:35
二回も前王朝の母后を出した家系で、自身や息子も前王家から后を迎えていたなら
たとえ男系で繋がってなくとも“同じ王朝”と言えなくもないような気も。
中国ではもちろんアウトだが。
173 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 23:28:24
>>166 穿った見方をすれば、継体のように畿内の外出身で継体よりも直系から離れているということで、
継体の即位のムリさを薄めるために創作された人物のように感じる。
しかし、継体が確実に持っていた条件(姻戚関係、勢力、部外者であること)を
満たしていた豪族が丹波にいたのかもしれない。
ただ、允恭紀の末で「京城の傍の耳成山・畝傍山」と言ってるから、
書紀編者も飛鳥付近に宮を想定していたことは確実と見てよい。
姓氏の乱れを正したという盟神探湯も甘樫丘で行っている訳だし。
創作説とか言い出したら
いくらでも、創作説いえる。
それこそ、明治天皇だって創作にされてしまうw
>>172 男系でつながっていたから、継体天皇が即位できたんだろうが...
というか、継体天皇って、ほとんど
大伴氏とかの傀儡でしょう?
大伴氏は、継体以前から、皇室周辺で権力をもっていたわけだから。
古事記の神武東征中の滞在期間と日本書紀の継体遷都間隔は同じ
179 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 06:38:19
近年では、5世紀のヤマト王権大王の地位は特定の血に固定されなかった
(即ち王朝ではなかった)とする説も強い。
継体以前のヤマト王権は各地域国家の連合であり、大王は地域国家の王から選ばれ、
祖先が誰かは分からないという意味である。
武光誠は、継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとしている。
また武光によれば、武烈などは実在した大王ではなく、応神の実在に関しても
諸説ある、としている。
180 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 13:27:15
>>178 > 古事記の神武東征中の滞在期間と日本書紀の継体遷都間隔は同じ
なるほど
181 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 13:28:36
100パーセント実在した最初の天皇は誰になるの?
垂仁天皇
183 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:23:52
上宮記の系譜に継体の母系の祖がイクムネリヒコ?大王とあるのが、
イクメイリヒコ大王(垂仁)のことらしい。
ただ、学者によると上宮記系譜の上の方は創作の疑いもあるそうだ。
たとえば、継体父系の系譜でも曾祖父のオオホト王(応神の孫)は架空の人物で、
実際にはオヒ王→ウシ王→オホト王くらいが実在性のある人物だとか。
184 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:41:10
王神はオホトを仁徳朝に取って代わり得る皇孫とするために作られた架空の天皇かな?
仁徳が「オホサザキ」で武列が「ワカサザキ」だから首尾対応してる。
応神は出生から即位までの経歴が物語的で真実味に欠ける。両親の事跡も
史実らしくない。
185 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:54:33
仁徳は実在していたが
「オホサザキ」は後の世の人がつけた名前という説もある。
186 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 20:48:22
>>184 あの簒奪者っぽいところがリアルに感じる。
少なくとも上宮記が書かれた当時、垂仁は過去に存在した大王として認識されていて
権威付けのため継体の母方の祖に設定したと考えることもできる
188 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 21:34:11
継体自身の能力や財力は重要視されたのかね?
上宮記って、聖徳太子の死亡した日付が法隆寺の釈迦三尊像の後背の日付と同じだね。
>>189 それは上宮記じゃなくて、上宮聖徳法王帝説だろ。
即位した時は高齢でも妃の数や即位前紀の母の過保護っぽりを見ると
生まれながらのお坊っちゃんな感じだね
イメージ的には良い家臣に囲まれたバカ殿
財力は三尾氏の全面バックアップがあったと見て良い
息長の正嫡として同族の支援や尾張連氏をはじめとする妃の実家も合わせれば
半端ない財力は間違いない
継体以前の大和政権は半島経営に巨大陵墓造築など湯水の如く財産を使いすぎて
全体的に疲労しきっていた様子がある
継体の即位は貧乏な大和の重臣たちにとっても歓迎すべき事態だったと思う
継体に反対するのは原理主義的な筑紫の磐井などの他の地方豪族や
外戚の地位を追われた葛城系や和邇系の豪族くらい…か、
192 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 06:37:52
>>188 継体は水運至便・交通至便の地に仮本拠をおいていた。
交易などの財務能力には長じていたような気がする。
政治はヘタで軍事が上手いのが理想かな
>>167 鏡のが「オオト」、継体は「ヲホド」だから違うかも知れない。
195 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 19:44:39
それだと項羽みたいな短命政権になっちゃう。
大伴としては馬鹿で扱い安いのが理想だったんでしょ
197 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 20:27:04
大伴は軍事氏族だからなあ。馬鹿すぎる大将だといざ有事の時に困るはず。
のちの蘇我なら軽くてパーな神輿を好んだだろうが。
それなら継体の一族は呂后の一族みたいなものかも
辛亥の変で滅びるのも同じ、か…
次は上宮記を点検するか
200 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 20:59:17
難癖をつけようと思えばいくらでも難癖をつけられるよな
201 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:43:33
応神の父系(ヤマトタケルやタラシナカツヒコ)は、まず虚構の系譜と見てよい。
応神(ホムタワケ)自身は実在の可能性は高いが、仁徳と同一人物の可能性もある。
有名な「ホムタの日の御子オホササギ」という記紀歌謡がその根拠とされるが、
ほかにも記紀の中で、応神と仁徳の説話が混同されていることも根拠にあげられる。
応神が実在の大王だとしても、その子孫が記紀の系譜どおりとは限らない。
五王系譜で指摘されているように、履中系と允恭系が別系統の王家の可能性が高い。
そして継体系が元々、大王家とは別の家系で、允恭王家の外戚氏族だったとすれば、
継体以前は王統が一系化しておらず、複数王家の持ち回りだったということになる。
まあ、そのあたりが妥当なんではないかな。
202 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:50:41
思うに、まず4世紀は崇神・垂仁系の王家があり、
その後、ホムタワケが崇神の家系に入り婿のような形で継承した。
で、おそらくホムタワケとオホササギは同一人物。
5世紀には履中系(讃・珍)から允恭系(済・興・武)に王家が交代し、
武=ワカタケルのあとは、大空位時代になった。
そして、允恭系の外戚で越・近江・尾張に勢力を持つオホト王が登場。
多分、こんな感じだろうな。
203 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 22:44:17
204 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 23:30:05
>>301 応神の父系も河内でかなりの力を持ってたみたいだぞ。
妄想オンパレードだな
別にいくら妄想したっていいし、妄想なくして話は進まないんだけど、
自信満々に胸張ってたわごと言うからバカにされるんだってこと、
どうしてわからんかな〜
応神=仁徳説も、履中系と允恭系に分ける説も
昔から言われてて、別に真新しい説でもないし、
普通に最近の概説書でも引用されてるものだろ。
妄想オンパレードなら、君が反論すればいい。
207 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 01:57:04
妄想くんの説は根拠にならないことを根拠に論陣を張ろうとするから馬鹿にされるんだよ
既存の説だといい気になって説いてるが、まったく無批判でその説を飲み込んでいるのではないか?
まず日本書紀の成立背景、関係者などの考察からはじめて、
さらに原典がある場合はそれに対しても同様のことをしなければならない
系図の偽称したりするには理由が必要でその理由が当時の世間に通るか否かも検討しなければ
ならないんじゃないか?
209 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 04:59:38
>>205 古代史は史料が少ないんだから仕方ない。
210 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 06:03:15
「日本武尊→仲哀(と神功皇后)→応神」の系譜は怪しすぎる。
後からの挿入だろう。崇神王朝に繋げるための造作だ。
211 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 06:05:46
つまり応神は父系でも母系でもどこの馬の骨かわからない。
その応神を祖と称する継体も皇孫ではない。
212 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 06:33:58
>>208 そうなんだよなあ
既存の説でも突飛な説でも
きちんと考察されてればおもしろい
そのあたりが適当だから妄想と言われるんじゃない
継体電話は既出?
214 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 06:58:14
記紀の系図を丸々信用するよりは、既存の説の方が信用できるのも事実。
継体の母系は磐衝別まで父系は稚渟毛二派までは遡れると
考えても良いと思うぞ、そこまでは単なる地方豪族でしかない
しかし畿内の豪族も武内宿禰系や物部連氏、大伴連氏も信頼できる系図の上限世代は
継体一族と差はないのではないか?
216 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 08:00:47
根拠がある既存の説ならなwww
紀年論に固執する某コテハンとかは基本資料を一冊も持っていなくて
ネットの情報しか資料がないらしいが、こんなのマトモじゃない
古事記、日本書紀は当然として風土記や続日本紀も持ってて当然だよな
古事記はボロボロになりすぎてなんか臭いし
古本屋で見つけた汚い三国史記とか早く買い換えたい
218 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 17:51:14
>>211 応神が前の王家の娘を妻にしたのは確実なのだろうか?
五百木入彦は現実の人間ではなくてよくある擬人化された神じゃないかな?
またはこの母系が尾張の豪族なので新興の王が東国の合力を頼ったとも考えられる
景行天皇の実在性の保証にはならないと思うよ
220 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 20:57:32
景行大王の名前はオオタラシヒコオシロワケというが、
オシロワケの部分に注目して、井上光貞は実在の王と言っていたな。
別の学者は大王ではなく、一武将にすぎないと言っていたが。
221 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 21:11:54
崇神、応神、継体が天皇系譜の節目なんだな。
継体が応神に直結し、どちらも地方から興って
大和の王になった。父が早く亡くなったことも共通かな?
オケオケも先の天皇に子が無くて市井から発見されて即位
223 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 21:37:35
今のイギリス王が間接的にエグバードだのアルフレッド大王の血を引いているみたいに
神武の血が間接的に受け継がれているのかも知れない。
224 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 22:06:15
神武は架空だろ。
225 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 22:11:00
実際はしょぼかったかも知れないが、何らかのモデルはいたんでは?
10代目から大国になったんだろ。
神話としての記録しかない時代の人物を、架空か実在かの二元論で
語れると思ってるやつがいることに心底呆れる
神武東征そのものは伝説だが、磐余の首長である
「イワレビコ」は実在したんじゃないかと思っている。
おそらく、その墳墓が桜井のメスリ山古墳だろう。
228 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 00:58:59
いや、東征のモデルになる何らかの出来事はあったんじゃないのか?
そうじゃないとあんなの書く必要ないじゃん。
神武と応神はやっぱり武力で王朝をうち立てたんじゃないだろうか。
継体はたとえ応神五世じゃなくても武力による征服王朝ではなさそう。
東征とは名ばかりで、畿内に入るまで戦いらしい戦いがないじゃない。
大和王権と天孫降臨の地に設定された九州とを結び付ける
必要性だけから作られた感じ。 だから、中間が空白になる。
230 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:22:17
戦いらしい戦いがない証拠ってあるのかい
>>230 記紀を読めば普通にそういう印象を受けると思うが。
登美のナガスネヒコが出て来るまで、戦があったか?
西の端から起こって中原に到って統治するというのは中国のパクリだろ
233 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 02:02:17
お前の印象なんてどうでもいい
そこは伝承が残ってなかったんだよ。
235 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 03:14:56
236 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 05:07:45
>>229 畿内がある種の権威を横取りした可能性はあるなw
237 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 08:28:43
記紀の伝説とか説話はあちこちからのパッチワークで、
元になる出来事はあったかもしれないが、それが時系列でつながってるわけではない。
記紀の天皇系譜は、ツギハギの説話を時系列につなげるために創作されたもの。
たとえば、欠史八代の天皇はあくまで架空の天皇だが、
そのモデルになったのはシキとかの地域首長やその祭っていた神霊の類だろう。
欠史八代の后妃に県主クラスのヤマトの在地首長の娘が多いことや、
欠史八代の名前の分析などから、そういうことが指摘されている。
だから、八代がすべて実在していたわけでも、記紀どおりの系図だったわけでもない。
238 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 09:08:17
>>218 確実ではないが、可能性としてはありうる。
239 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 09:11:47
>>229 > 東征とは名ばかりで、畿内に入るまで戦いらしい戦いがないじゃない。
吉備とかの有力勢力に対しては婚姻による同盟とかで間に合わせた可能性がある。
それと当時は道路ではなく水路で瀬戸内海を移動するのが便利だったかと思う。
240 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 09:19:42
神武伝説は、あんまりマジメに考えるべきもんじゃない。
記紀の古い時代の説話は、あちこちの説話や伝承をツギハギしたり加工したもので、
記紀編者の適宜創作したものを付け足したりしたものだ。
記紀に書かれているとおりの時系列や系譜を丸々信用すべきではない。
建内宿禰の母の父が神武の船頭だったよな
>>241 菟道彦は紀伊国造の祖で
珍彦は倭国造の祖だ。時代も違う。
243 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 10:25:55
初代から九代までの妻が磯城とかの小さい地域から出てるところが逆にリアルに感じる。
それに、ほんとに架空だったら「欠史」になんかしないとも思うんだ。
もちろん、そいつらが実在してても男系の親子相続をしてたなどとは思っていない。
2代目の話は海幸彦、山幸彦の話と重なってる。
高市皇子=手研耳
大津皇子=神八井耳
草壁皇子=綏靖
こんなイメージ
246 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 19:35:48
>>243 > 初代から九代までの妻が磯城とかの小さい地域から出てるところが逆にリアルに感じる。
なるほど。
247 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:52:03
西ゴートやロンバルドなどのゲルマン国家も世襲じゃなかったよな
なんだかここが記紀総合スレみたい様子だな
継体天皇が歴史の変わり目だからか?
249 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 11:39:07
欠史八代は、断片的に名前だけ伝わっていた首長やその祭祀する神霊がモデル。
シキツヒコとかミマツヒコみたいな名前や磯城県主の祖との婚姻関係とかが前者で、
ヌナカハミミとかオオヒヒみたいな名前が後者に基づくものだろう。
古事記の旧辞部分は継体の前で終わってる。記紀全体を考えるにあたって
重要な天皇だ。
251 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 13:12:01
>>247 > 西ゴートやロンバルドなどのゲルマン国家も世襲じゃなかったよな
日本の場合、世襲でなくても良いが
濃い薄いは別として「始祖王の血脈」でないとNGと
思われていた可能性がある。
継体の別名に「彦人尊」ってあるけど忍坂宮に住んでたら
忍坂彦人尊ってことだよね
舒明天皇の父と同じ名前なのが怪しい
まあ、崇神・応神のみならず、履中系だの允恭系だの顕宗系だの
「王系が色々あった」なら、継体はことさら「歴史の変わり目」でもないんだよな。
今城塚古墳発掘結果みても、墳丘ちか埴輪樹立とか、非常に中期古墳的要素も色濃く残ってるし、
むしろ350年続いた前方後円墳の時代が終わるその後の時代の方が変化としてはでかいだろう。
254 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 16:57:22
継体天皇〜敏達天皇を、皇室&豪族連合と考えがちだが、逆に考え「わざわざ
遠い血脈(表向き)の天皇」を持ってきた継体体制の皇室が脆弱瀕死だった
のも確かだと思う。皇室が弱体で、豪族が連合体って、いかに信心深くて善意
の豪族ばかりでもありうるかな?
実質は、「物部擁立王朝」の性格が強かったんじゃないかな?そうでないと、
その後の蘇我氏の台頭が、それこそ蘇我馬子スーパー大悪人じゃないと成り
立たなくなる。ま、日本書紀ではそう描かれているワケだけど。
実質は、蘇我馬子は、物部の「弊害部分」だけを取り去って、それ以外は
(つまり利のある部分は)継承したと考える方が普通ではないかな。
物部擁立王朝ってどういう意味?
蘇我王朝みたいなもんか?
大伴と物部の二大軍事氏族の支持で成り立ってた権力
(継体没後、大伴が脱落)ってことだろうな。
258 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 18:51:49
俺は欠史の天皇は実在したと思うよ
妻の出身地があまりにリアルすぎるし
全くの他人であるならばわざわざ欠史のまま記述するだろうか?
何も書かずに崇神を初代にするか
欠史にせずに創作するとかするだろう
ただ記紀の通りの親子継承ではなかったと思う
跡を継ぐ=次代は兄弟であっても親子扱いという認識があったのではないだろうか
それととても天皇、大王とは呼べるような存在ではなかったんだろうな
やはり畿内を統一した崇神こそが実質的な初代天皇だろうね
259 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 19:14:46
261 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 21:41:51
徳川家康を初代とするか、松平家の初代を初代とするか。
262 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 22:03:27
血縁が途切れてそうな天皇の出身地は播磨(清寧)、丹波(倭彦)、近江(継体)か。
みんな近畿だな。
263 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 23:38:48
九代までは史実と神話と創作が分かちがたく結びついてる。
たた、「欠史」にしてくれたことには礼を言いたい。適当にエピソード挿入されてたら余計混乱してたろうから。
でも神武東征は何代かかけて行ったのかも。
265 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 00:06:04
わざわざ適当なエピソードを挿入せずに
欠史のままにしてる点や
古代天皇の年齢など明らかに不自然な部分を
そのまま残してる点から考えると
編纂時点で嘘を書いた可能性は低いと思う
年齢が不自然なのはオオヤマツミの誓約との帳尻合わせだろ
天から降りてきて即初代天皇にならなかったのが天皇系譜の第一の謎。
何のための国譲りだったのか?何のための天孫降臨だったのか?
268 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 08:30:41
高天原は加羅?
269 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 08:36:31
>>257 大伴金村→物部守屋→蘇我馬子 ですな。最有力豪族が誰か?と追って考えた
方がいい場合もあるね。継体天皇は、大伴金村が擁立した皇室血脈系だからね。
基礎確認的記述でスマン。
270 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 08:46:23
しかし、4〜5世紀の「豪族分布図」を見て見ると、奈良盆地に巨大な奈良湖が
あってもおかしくない分布ではあるなぁ。
そうすると、巨大な奈良湖のほとりに大王がいて、その左右に大伴氏・物部氏
がいて、後(東)は三輪山。前(西)はアキツシマ(当時は本当に湖上の
島?)があり、防衛状況はピッタシ。
当時によくある、河別(カワワケ)などの人名も、ひょっとしたら干拓事業の
担当官だったのかもしれないね。
ここまでで稲目の名が出ないのはなぜ?
272 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 12:25:44
湖のほとりの都。
大津宮もあるが、イワレも当時は湖があったらしいな。橿原もたしかそうだ。
警備しやすいんだろうな。
じゃあ、師木津日子、御真津日子の「津」は港の意味だって本当なの?
274 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 15:00:26
当時は大きな川や湖の船着場も「津」と呼んだのではなかったか?
磯城=水辺の城
城と呼べるようなものは無かっただろうけど
276 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 18:00:07
>>268 「日本のノルマンディー」説か。
なら蝦夷は「日本のスコットランド」だな。
277 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 18:18:04
初期の倭王権というのは、まず、大和盆地の中で小首長段階があって、
後世、この首長たちがモデルになって「欠史八代」となった。
(初期の首長たちの名やその祭祀していた神霊をモデルに創作されたというのと、
八代の首長は実在していたが、記紀どおりの男系父子相続ではないというのは、
実質的におなじことだろう)
続いて、崇神・垂仁の王権=いわゆる三輪王朝が成立(4世紀頃)し、
そこに入り婿して王権を継承したのが応神ことホムタワケ王。
ホムタワケの後継者が倭の五王で、履中系と允恭系など(実在すれば顕宗系も)、
男系の異なる家系で回り持ちで継承していた可能性が高い。
そして、雄略ことワカタケル大王が没した後の政治的空白ののち、
允恭系の外戚だったオホド王が大伴・物部の二大氏族に擁立されて大王となり、
その後の大王家(天皇家)の開祖になった。
>>273 「〜つひこ」「〜つひめ」で「つ」が確実に「津」の意味だった例があるかな?
279 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 01:52:31
>>275 館や倉庫を空堀りや木柵で囲って警備兵を常駐させた程度だったとは思う。
280 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 01:54:21
>>277 >> 八代の首長は実在していたが、記紀どおりの男系父子相続ではない
そうだったとは思うが、やはり血の濃淡はともかく「始祖王の子孫」
であることが必須だったように思う。
281 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 06:03:35
父子相続ではないにしろ男系子孫であったのはたしかだと思う
そうでなければあのように記す理由が分からない
紀年延長のためだけなら架空の天皇をエピソード付きで
50代、100代と並べるべきだろう
282 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 06:44:11
少なくとも崇神以降は大王の権威も確立してただろうから
全く血統が関係ないところから持ってくるというのは
難しかったと思うな。
283 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 07:43:13
応神や清寧とかは怪しいけど、一応前の王家の子孫になってる。
権威確立後だからだろう。
誰の本だか忘れたけど
前方後円墳の形成事情の考察として大和、出雲、吉備、遠賀川周辺から
人と文化が集結して完成した、というのを前に読んだ
欠史八代の天皇は宮も陵も大和に設定されているけど
実際は各地から集まった首長を天皇化したのかもね
たとえば綏靖は沼河=糸井川あたりから翡翠でももって大和に来て
息子が玉手見命って話は出来すぎか?
ミマツヒコは播磨国風土記に似た名の暴君が出てくる
孝霊は古事記に吉備の小話が載ってるし子孫が吉備のたくさんいる
285 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 09:02:32
五摂家のごとく交代で就任したが
286 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 09:38:23
崇神天皇は成功した後醍醐天皇だったりして
というか、後醍醐が各地に親王を派遣したのは、
崇神の四道将軍の模倣とも言われてる訳だが。
288 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 12:07:44
リアル親王任国を実現したい意志は理解できんでもない。
289 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 22:11:15
基本は男系、時々女系で繋いでたのか、
複数王家があって互いに姻戚があったのか、
どちらだ?
290 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 21:58:41
後者じゃないか?権力ある奴らは姻戚関係つくるからな
291 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 23:32:56
2010年10月31日(日)滋賀県高島市で高島古代史フォーラム「継体天皇1500年の謎〜生誕地・高島から探る〜」
が開催。パネラーは、塚口義信・高橋克壽・中司照世・辻川哲朗・水谷千秋。
楽しみだが、台風が心配。
292 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 23:36:56
まず、今までの大王との血縁関係が明らかなのか、なぜ越前にいたのか、越前からわざわざ迎えるほどの人物なのか、という質問に答えろ
293 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 23:53:40
越前か近江か、という問題もある。
294 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 02:04:53
近江の坂田説?
295 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 02:09:49
『日本書紀』や「上宮記一云」にある高島も。
296 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 18:40:51
神武以前は畿内は縄文系と渡来系が仲良く共存していたと見なしていいの?
いや、神武なんていないから。
始祖王のときの倭王権はまだ特定家系に一系化される前の持ち回り状態だし、
その始祖王が誰だったなんて、いまとなっては永遠に不明だし。
複数を一つに紡いだのか
一系の祖先を脚色して権威付けたのか
299 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:28:41
始祖王=仁徳説がある。
300 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 02:10:51
九代までの記録は何らかの事実を表してるのだとは思うが、
どんな事実があったのかは永遠にわからない
301 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 07:18:35
まあ、断片的に名前だけ伝わってた、大昔の首長(むらおさレベル)の名前とか、
各氏族が祭祀してた古い時代の神霊の名前とか、そんなのをパッチワークしたのが、
いわゆる欠史八代だったんだろうな。
人によっては、10代以降のイリヒコまで、本当は神霊なんて言ってるようだし。
302 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:39:07
えらい古いところの話題やな。テーマは継体よ。
携帯天皇ってどんなん?
304 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:22:54
上宮記の継体系譜では、
父系の祖はホムツワケ王(垂仁の王子、ホムタワケ=応神ではない)で、
母系の祖がイクムネリヒコ大王(垂仁)になっている。
ここから本来の継体の祖は垂仁大王だったということが考えられる。
さらに、父系のホムツワケと母系のイクムネリヒコの関係が全く書かれていないので、
本来、この二人も無関係だった可能性が高い。
(記紀のとおりの父子関係があったら、父系の祖もイクムネリヒコと書くはず)
現在の記紀系譜は、本来無関係だった王家、氏族の系譜や伝承をツギハギしたもの。
4〜5世紀の倭王権は、複数の王家で大王位を回り持ちしていた連合政権で、
まだ王統の一系化はみられなかったと見るべきだろう。
305 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:38:02
ますます、記紀の内容はパッチワークぽくなってきたな。
記紀の系図や説話を史実なんて考えてる別スレのコテハンどもはキチガイだな。
306 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 08:12:06
307 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:19:38
振姫が垂仁の子孫である可能性はあるわけだな。
308 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:26:42
ある。ただしもう立証しようがない。
・垂仁と後継氏族が不明の山代の豪族の娘の妹の子
・仲哀の母の兄
・景行の娘で倭姫の後を継いで伊勢の斎宮になった五百野皇女の母の父
…が同一人物で振姫の先祖なんだけど
仲哀(タラシナカツヒコ)は、その父ヤマトタケルともども説話上の架空のキャラ。
景行(オシロワケ)は実在の可能性はあるが、ヤマトヒメは斎宮のルーツ的な伝説上の人物。
三輪の王権は、実在の可能性のある王と架空のキャラが混在している。
景行が晩年近江に遷都しているのは
大和に入れない理由が存在したと思う
東征してきた河内王権に追われ、
近江の王族を頼って遷都したのかも
日本書紀では綺麗に歴代が交代しているが
実際は異系統の王権が同時期に重複していたのかもね
継体が大和に入れなかったのも同じだろう
313 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 13:54:30
父親が応神子孫という話より、母親が垂仁子孫であるという伝承の方が本当の可能性が高い・古くからある、ということか。
しかし、本当に雄略の外戚で垂仁の子孫ならかなりのものだけどな。
>>312 武烈は継体に倒されたかも知れない、ということね
武烈の和名オハツセノワカササギというのは、
河内王朝(倭の五王)の最初と最後の王からでっちあげた架空の王名っぽい。
仁徳=オオササギ(大)→ワカササギ(若・稚)
雄略=オオハツセ(大)→オハツセ(小)
武烈の和風諡号は死後につけたのだろう
前半は母の父の宮地を継承したのなら納得できるし
ワカサザキの部分はこの親兄弟の命名法と異なるので
やはり死後につけたと考えていいと思う
これに関しては「でっち上げ」に当たらないと思う、が
武烈の存在が架空か否かは別の問題…
古事記や日本書紀が武烈の在位期間を8年に拘っているのは
断片的な伝承が存在した証拠なのではないかな?
日本書紀の主張する継体の在位期間は28年で百済本記の倭王家全滅は531年
継体は534年まで生きている史料があって安閑に生前譲位している
531年に滅んだのは武烈一族で武烈は8年在位したとすれば
大和に二人の大王が存在したことになる
隅田八幡人物鏡に大王と男弟王が別に存在するのはこういうわけかも
318 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:07:34
>>312 > 景行が晩年近江に遷都しているのは
大津京の場合は
「万一、唐が攻めてきても北陸方面に水路で逃げられる場所」
という理由での遷都。
守りには良いのかも。
でも、景行の墓は大和の柳本古墳群だろ。
近江遷都は次代の成務(架空)につなげるためで、史実ではないと思う。
320 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:39:31
周も二つに分裂し、東周側が西周を倒したんだっけな。
321 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 21:09:14
何でもありだな
このスレの妄想は
まあ、何人かのコテハンがデタラメな紀年や暦で妄想して、
神話と現実の区別もできないような、カルトな某スレよりはマシだと思うよ。
323 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 21:40:21
>>321 史料も考古学上の発見も少ないから妄想するしかないだろ。
こっちのスレは、コテの横行してるスレよりは、はるかに禁欲的だよ。
あいつら、記紀の神話や説話で自由自在に妄想してるからw
>>320 調べたらグダグダ過ぎてワラった
東周の孝王が弟に領地を分けた、これが東周
さらに弟の東周の三代目恵公が長男の武公に東周を
次男の恵公に領地を分けてた、これが西周
もちろんこの人たちとは別に孝王の子孫の周王が別にいる
歴史の記録に隙がないと思ってた中国にもこういう例があるんだね
326 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 21:33:34
西周東周の話が出てたが、
そもそも継体がヤマトに入るまで、ヤマトには別の王はいなかったのか?
それともやはり武烈は継体を担ぐ勢力に滅ぼされたのかな。
あ、継体がヤマト入りするまでに拒んでた勢力というのは武烈勢力だったということね。
大体、あんなに悪く書かれたというのは武力闘争で破れたからだろう。
328 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 03:33:42
>>326 > そもそも継体がヤマトに入るまで、ヤマトには別の王はいなかったのか?
ここも問題だよな。
大王はいなくても「大王代理」みたいのはいただろうな。
329 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 03:56:31
歴史が繰り返されているなら
仁賢天皇…天智天皇
武烈天皇…大友皇子
大伴金村…物部麻呂
継体天皇…天武天皇
安閑天皇…高市皇子
欽明天皇…草壁皇子
の相対関係が成り立ちそう
日本書紀の継体周辺の人間関係は天武の時代のものからインスパイアされた
創作上の物であると仮説が立てられるのではないか?
331 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 12:48:10
高天原は加羅か?
332 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 12:53:44
>>330 そんなん言ったら
天武=家康
大友=秀頼
とかも言えるぞ。
その時代は詳しくないんだけど
それだと物部麻呂はだれになるの?
334 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 18:56:04
335 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 18:57:04
>>331 そうだろうなあ。満州とか言う人もいるが遠すぎ。
336 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 19:32:09
天智=秀吉
十市媛=千姫
関係ないが、火の鳥「太陽編」は桃山時代でやるべきだった。
337 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 19:44:26
高天原は高句麗じゃないのか?
で、高句麗から馬に乗った連中がパーッとやってきてパーッと征服したのが、
いわゆる「天孫降臨」のモデルだろ。
338 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 20:21:21
手塚センセイの「火の鳥」黎明編もそんな感じ。
ヤマタイ国を征服したウマに乗った連中のリーダーは「ニニギ」で、
海の向こうからやって来た設定だった。
ぶっちゃけ、高天原=高句麗やろ。
339 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 21:33:11
騎馬文化は古墳時代の途中からだろ。
あと、たしか神武以前にも渡来系(ニギハヤヒ)がいたのが気になる。
携帯天皇「ガラケーwwwww」
341 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 01:48:26
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ☆ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
342 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 13:38:24
>>339 神武の章では馬なんか出てたかな?
それよりも舟がメインじゃないのか。
加羅あたりから来た農耕民が支配者になるというのはヤマトだけでなく、筑紫や吉備などの西日本一帯であったのかもな。
343 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 14:30:32
>>342 古代日本は道路整備が悪すぎなので、海路による移動がメインだったろうな。
マキムクにも物資搬入用の運河みたいなのがあったらしい。
344 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:24:41
ずっと後世ですら、湿地だらけだったからな。
騎馬民族征服説はかなりムリがある。
大体、神武も舟で瀬戸内海の拠点を移動してヤマトを征服してるし
牛馬による運搬は、古代から近世に至るまで尾根道を使ってたんだよ。
まあ神武の時代(いつなのか知らんが)には普及してなかっただろうけど。
346 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 18:04:42
>>344 > 騎馬民族征服説はかなりムリがある。
日本の地形にはあわないからね。
347 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 21:53:08
金官加羅の王家の末裔の金ユ信は、なんで新羅に忠誠を誓って、
倭国と敵対したんだろう?
いわゆる任那の王様の子孫だろ?
348 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 23:48:53
>>347 昔は敵だったか知らんが、金官加羅が新羅に併合されてからは同族扱いだったから。
349 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 04:13:03
>>347 金官加羅は興味あるなあ。
時代はずれるが
俺的にはラクロウ郡にもタイホウ郡にも属していなかった
朝鮮半島南端部の状況がどうなっていたのかも知りたい。
そもそも任那日本府は基本的に反大和朝廷でしょ?
任那王は自分の地位を保証しない百済を嫌って新羅につくのは当然
現地の倭人としては百済の言いなりになってる大和朝廷に
怒りを感じてたと思うし、混血の問題が倭国を祖国と思わない風潮を
生み出したのかもね
351 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 04:25:48
新羅は任那上層部のメンツを立てながら巧妙に懐柔していったしな。
BSフジでやってる善徳女王にユシンが出てる
353 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 21:24:27
その時代には、朝鮮半島南部と西日本の民族や政治の境界はかなり曖昧だったのかもしれない。
一方で朝鮮半島の南北、日本列島の東西の差はかなりでかいものだったかもな。
354 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 21:39:19
当時の移動は水路が主体だからね。
355 :
国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2010/11/06(土) 00:29:29
>>341 魏は星も周囲も見えないバカなのか・・・
356 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 04:01:07
違う違う。
魏は、あとから無理矢理、自分の領土からのルートに書き換えたの
だからおかしなことになった。
簒奪はシナ人のお家芸
357 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 08:56:52
シナなんて言葉を使う人間の言うこと説得力はない。
おまいらの年代で、普通にそんな死語は出てこない。
後付の知識で、脳内で無理やり変換してるだろw
若いヤツが、無理してそんな言葉使うことないよ。滑稽なだけ。
↑
かようにシナジンが申しております。
359 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/06(土) 09:49:57
今も使ってるよ。支邦ソバ屋もあるしね・・・。
360 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 10:11:42
>>359 >支邦
誤字はともかく、シナソバとE電は死語じゃないの?
361 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/06(土) 10:19:42
前者は死語じゃないよ。それがしの家の近くにも、ラーメンでなくて
支邦ソバ屋があるし、いろいろ町を歩いていると、支邦ソバと書かれた店
を見つける。
362 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/06(土) 10:20:36
連邦
363 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/06(土) 10:22:07
>362は書きこみミスです。失礼。これは無視で結構です。
364 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/06(土) 10:32:39
すみません。誤字でした。ソ連とひっかけて間違えました。m○m
訂正
○ 支那
365 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 10:34:07
いや、日常生活の中で普通に「シナ」なんて使うヤツは見たことない。
戦時中に教育を受けた世代(70代後半以上)がたまにポロッと出るくらいで、
それ以下の世代なら、まずパッと口に出る言葉じゃない。
2chとかネット上でイキがって使ってる若い連中は、半中意識を誇示するために、
無理やり脳内で変換して使ってるだけとしか言えない。
もし、リアル社会(学校とか職場とか近所)で、そんな言葉使ったら、まちがいなく
変人かウヨク扱いされるのがオチ。
366 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 10:37:26
だって漢民族とか言ってるけど漢人と違うやん、あの連中
367 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/06(土) 10:57:20
使う頻度は落ちましたが、この語は使用語ですよ。
古神道の言霊で(河童氏の言意学などと類似してますが、別物でしょう?)
そして数で、中国とかロシヤの主要の社会主義圏国の実体を把握する上で、
シナの語は重要なのです。
ロシヤというのは数字的に 6 4 8(ロシヤ)であり、この数列は
等差(党左)数列ではありませんが、中間の4→7(シ→ナ:シナ 支那)
と替えることで、数列は 6 7 8 と変わって等差(党左)数列の正体
をうかがうことが出来ます。中間数の7から、左右の数字との幅は左右とも
1で等しくなり、党左(等差)数列の正体、実体を現します。
7はナナとあるいは略でナと読みますが、シチとも読むわけで、7のシチを
略読みすれば、6 4 8 の4と同様シと読めるのです。だからシナの語は
軽視できません。中間数から観て、左右の幅、差がお互いに対等だという
ことを意味してるのです。
昨今のロ大統領の千島(千はシチのチの言霊の数を持つに注意)訪問は、
イザナミ命の黄泉国での千人絞殺の呪いの数字のため、なかなか日本に
領土が戻らないのだということです。
368 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 11:02:14
そういうオカルト系の話題は勘弁してください。
369 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 11:08:04
さて、上宮記についてだが、
父親から応神の血を引いているという記述よりは
母親から垂仁の血を引いているという記述のほうが信憑性が高いというのは意外だった。
370 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/06(土) 11:12:17
まぁ都市伝説のつもりで参考でよろしいです。w
麻和加介だけの前後世代のように別や君がつかないけど
「介」ってどういう意味なんだろう?
372 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 11:37:40
「介(ケ)」は称号じゃなくて、普通に名前の一部だろう。
マワカケという人名の一部。
マワカケ以前はワケやキミのようなカバネ(称号)はなかった。
それ以前の称号は、後世から追贈というか付加したものだろう。
>>365 普通に東シナ海とかあるんだが
中国が主張する東海にでも名称変更するか?
それはともかくいまの中国という呼称は中華人民共和「国から来てるわけで、
大陸の地域としての呼び名としては別に支那でも構わないと思うんだが
「麻和加介」は「麻和加和介(マワカワケ=真稚別)」の誤写だと思っている。
>>372 真若毛だけ後世追贈から漏れたのはどういう原因だろう
上の誤変換で気づいたけど「介(け)」は
若沼毛二俣王の毛(け)と同種のものではないか?
376 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 07:34:19
377 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 21:02:55
先に出たように、南朝鮮でしょう。
その前はわからん。
南朝鮮と西日本は人種的には北っぽいが、南方文化の影響強いし。
378 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 23:42:14
初代倭王は韓国の金海市から船出したという伝承が韓国側にある。
379 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 00:09:25
首露王の天孫降臨と関係あるのかね
380 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 00:26:03
>>379 微妙にあると思う。
初代倭王は宮崎県の美々津海岸ではなく、
金海市から東征を開始したのかもしれない。
首露「俺北ね」
ニニギ「なら俺東」
こんなやりとりがあったかもな。
382 :
繼体越前守:2010/11/11(木) 08:03:16
金官加羅
↑
これなんて読むの?
>>378 19世紀末頃に作った説かな?参考にする必要はないでしょう
385 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 12:49:37
確かに。
ただ、金海は注目だな。
386 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 12:57:19
>>384 いや、もっと古くから(百済があった頃から)の伝承とのこと。
ソースplz
388 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 19:40:56
天孫降臨の土地って本当に日向なんだろうか?
389 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 00:21:53
>>388 地理的に考えると博多=ナの津あたりだと思うが。
記紀を読めば、普通に霧島だろ。
「襲の高千穂峯」の「襲」は南九州しかない。
三世紀頃は博多周辺の勢力(九州王朝)と
遠賀川流域(畿内王朝)の勢力は対立してたというから
両方に神話があっても不思議じゃない
392 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 04:12:16
>>390 > 記紀を読めば
記紀が史実を記載していない箇所もあるとの前提なのだが。
393 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 07:50:01
「カラクニ」に向かい、とかあるしな。
北九州に日向っていう地名があったのかも
394 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 08:08:28
電磁波皇后
395 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 11:48:32
神功皇后がアメノヒボコの子孫だというのは息長=渡来系だということか。
396 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 12:39:25
息長=渡来系とまではいえなくても、新羅かどこかの王族を嫁にもらった可能性はある。
神功と継体って似てるところがある。
息長氏と関わりがあって、各王朝(?)をつなぐ重要な役割を担っている点。
あと、自身が天皇の5世孫で、母親が7世孫(神功の場合は新羅王だが)
系譜の伝承を持っている点。
398 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 13:41:25
やはり西日本と南朝鮮では人が行ったりきたりして、
一つの文化圏みたいなものを形成してたのかもな。
399 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 14:03:28
当時は博多の人が大阪に行くよりも、任那に旅行するほうが楽だったのかも。
400 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 14:45:21
息長氏は北条や上杉みたいなものか。
401 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 15:07:08
北条や上杉と違うのは倭王の嫁さんを輩出している点。
室町時代の日野家にやや近い性格?
402 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 15:16:35
息長は河内に進出してたらしいから、
そこで河内の豪族に娘(神功皇后)を嫁がせ、
その間に生まれた子が倭王になったのか。
403 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 15:43:19
執拗に語らなくてもいいから体系的に語れ
俺が以前発した下問
擁立者たちは、なぜ、越前にいることをつきとめたのか
本当に血縁があると確認したのか
他に候補者はいなかったのか
の下問に答えろ!これは警察下命だ
404 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 16:06:55
>>403 > 他に候補者はいなかったのか
丹波にいたが辞退して逃げたということになっている。
405 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 16:19:17
・継体が大和入りするまでの間、大和に王はいなかったのか?
・そもそも武烈は継体に倒されたのではないのか?
息子二人を呼び寄せても奈良盆地になかなか入れなかった
時間がかかってるので乱暴な方法だけではなく、コンセンサスを得られるように根回しもしたのではないでしょうか
琵琶湖との関連から宇治川沿いは勢力範囲だったので
新たに木津川沿いの拠点を押さえつつ時期が来るのを待つ継体一家
407 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:30:33
引き入れた奴、敵対した奴はだれなんだ?
そう言えば上で倭王の滅亡の話が出てたな。
そもそも大和に「入れなかった」のか。「入らなかった」のか。
皇子2人は勾大兄と檜隈高田で、大和の地名を名に負っているから、
先に大和入りしていたのかも。だとしたら、継体は「入らなかった」?
410 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 06:13:05
>>408 イワレの地は政治的には重要だったのかもしれないが
軍事的・経済的にはそれほど重要な地ではないからねえ。
継体の仮本拠のほうが要害。
411 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 06:13:54
>>407 > 引き入れた奴、敵対した奴はだれなんだ?
前者は大伴、後者は平群?
412 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 09:00:37
>>395-397 息長氏は実在の氏族でも、
神功皇后自体は架空の人物だろ。
きちんと区別して議論しろよ。
413 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 11:07:20
>>412 > 神功皇后自体は架空の人物だろ。
モデルとなった人物は実在していた可能性はある。
朝鮮半島への渡海戦争とかはしていないだろうが。
414 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 13:20:31
ホムタワケが実在の王ならば、当然その母親はいる。
だが、それは記紀のオキナガタラシヒメとは全然別の人物だろう。
オキナガ系氏族がヤマト大王家や継体の外戚、縁者であったにせよ、
記紀そのままの系譜は信じられない。
(仲哀とかは架空の王だし)
記紀にある神功皇后伝説は、古くからあったものではなく、
斉明女帝の筑紫親征をモデルに、海の母神と御子神の信仰を加味して、
7世紀後半以降に創作されたもの。
415 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/15(月) 13:50:13
> 神功皇后自体は架空の人物だろ。
> (仲哀とかは架空の王だし)
結局、真実の探求より、妄想の追求か。
416 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 13:51:53
カラマツとフトクニみたいな、
カルト記紀原理主義者はこのスレに来なくていいよ。
417 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 14:04:21
>唐松山
記紀の神話や説話を丸々信用して、自己流の年代で遊んだり、
あげくに怪しげな呪文を書いて悦に入ってるカルトが、
他人を妄想だのなんだの言えた義理かよw
418 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/15(月) 14:12:05
>>416 記紀がなければ、古代史の真相の大半は霧の中となる。それを否定
するオマエは津田妄想病原菌に冒された脳内の可能性が濃厚であり、唐松山
ほどではないが、相当インチキを書きこむ可能性が甚大であり、オマエこそ
唐松山に次いでスレから消えるべき野郎だということだ。><
419 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/15(月) 14:17:13
420 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 14:53:23
フトクニの自己流年代論や記紀原理主義もカラマツと五十歩百歩。
おまけに天上天下唯我独尊だし。
二人とも、このスレの雰囲気ブチコワシになるから、巣に帰れ。
421 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 19:10:17
全否定も全肯定もバカのする事だよ
だから巣に帰れ
422 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 19:21:27
河内王朝の初代倭王の母の出身氏族であり、何度か后を出し、
最終的には倭王そのものを出したというわけか。
太国唐松が顔を出すようになってから明らかにスレが停滞している
大人しく巣に帰るか、いつもみたいに名無しで茶々入れるだけにしろ
424 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:42:36
スマホとアンドロイドがキーワードだね
それは携....
言わないぞ
絶対に突っ込んでやらないぞ
426 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 17:50:03
止まってるな
427 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 02:48:54
湖東には縁起がはっきりしない古刹が沢山あります
仏教伝来は欽明朝という事になってますが
湖東では仏教が既に広まっていて
継体一家は仏教徒だった可能性はないのでしょうか
蘇我氏体制への移行がどういうきっかけなのか良く分からない。
429 :
日本@名無史さん:2010/11/23(火) 05:12:15
アマテラス−ナガスネヒコ−継体
スサノオ−神武−蘇我
この2つの系統があるのです。
元来、アマテラス系は政治が得意ではないようです。
しかしスサノオ系を王にすると、独裁しちゃうので
王はアマテラス系、執権はスサノオ系
というのが邪馬台国の頃からの伝統的な体制。
卑弥呼=アマテラスかどうかは分からないけれど。
卑弥呼の墓は湖東の、神郷亀塚古墳があやしいです。
430 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 10:48:21
保守
>>427 全然不自然さのない推論だと思うよ
まあ・・・ヤマト経由でない渡来人勢力ってのも
越のあたりにはぼちぼちいただろうしねえ
432 :
国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2010/12/01(水) 02:15:11
系図を眺めていて思った。
この系図が真実ならば、竹田くんに皇位が回る可能性が見えてくると。
433 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 18:52:31
悠仁様が男子を儲けるか不明な以上、愛子様は旧皇族と結婚なされるのか。
ヨーロッパじゃ傍系は王朝交代らしいが兄弟相続て近年あったのか
あそこは4代兄弟で回してるな
436 :
日本@名無史さん:2010/12/18(土) 13:49:21
欽明て、本当に継体の子供なの?
それを疑う人はいないだろう。
継体天皇と仁賢天皇の皇女との子供だ。仁徳天皇の血を引く、
大和の豪族たちにとっても正当性の高いプリンスだ。
それを考えれば、継体天皇がつれてきた安閑・宣化両天皇の嫡流が天皇になれなかったのは、ごく自然なことだ。
神武天皇が日向からつれてきた手研耳命が皇位を継げず、神武天皇と葛城の豪族の娘との間に生まれた
綏靖天皇が皇位をついだのとよく似ている。綏靖天皇のほうが葛城の豪族たちの支持を得やすかったのだろう。
欽明天皇は、宣化天皇の娘・石姫皇女を皇后とすることで越前・近江勢力との妥協を図ったのではないかな。
438 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 01:17:35
御免!疑ってる。
439 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 04:01:21
欽明即位前に、継体と息子2人皆殺されてるからな。
>>437 男系だけを見てても歴史はわからないってことだね。
441 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 10:16:05
平安時代まで普通にフリーセックスだったんで、娘のとこに牛車が止まっていれば
その時くらいにできた子は・・・・。
たとえ夜這いで農民レイプでもな。
特に西日本では当たり前だし、成人してから実はあなたは父親ですと。
子供は母親が育てるから、基本母のみぞ知るってか?
まあ、そのくらいの年の子供はいくらでも買えるのがこの時代。
だから母系家族が正しいんだがね。
継体と息長の関係は?
443 :
日本@名無史さん:2010/12/19(日) 20:09:37
安閑・宣化両天皇ともに父と同様に仁賢天皇の皇女を皇后にしている。
安閑天皇は、子供がいなかった(記録にない)。それに対し宣化天皇は、3人の皇女がいずれも叔父である欽明天皇に嫁ぎ、
その中で石姫皇女が皇后となり敏達天皇を産み、現皇室に連なる。
また、宣化天皇の子、上殖葉皇子は皇位にはつけなかったが、丹比(多治比)氏の祖となり、曾孫が持統天皇のもとでの島左大臣。
さらに下って多治比真宗は桓武天皇の妃となり、桓武平氏の祖である葛原親王を生んだ。
こうしてみると安閑・宣化両天皇と欽明天皇の間に、支持勢力の違いからくる対立や皇位継承に関するゴタゴタはあったかも知れないが、
暗殺や一族皆殺しのような雄略天皇ばりの血なまぐさい抗争があったとは思えないのだが・・・。
もちろん、記紀のもとになった『帝紀』などが成立したときの天皇である推古天皇は継体の孫であり、生々しく記載できなかった、
という事情はあるだろうが。
445 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 01:42:23
仁賢の系譜も、これがあやしいんだよな!
446 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 04:54:42
>>444 >推古天皇は継体の孫であり
意外と時代が近かったんだな。
447 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 13:06:16
継体の次子、宣化が気になる…。継体の長子、安閑は暗殺されたという説が
あると聞くが、もし、そうだとすると犯人は誰なのだろうか?安閑が死んで
一番得をしたのは宣化だから…。やっぱり犯人は宣化なのだろうか?
448 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 13:57:57
宣化も一緒に消されただろ!!
百済本紀「又聞、日本天皇及太子皇子倶崩薨」
継体・欽明二朝並立説の前提に立つならば、
天皇=継体、太子=安閑、皇子=宣化だろう。
もっともこれは事実じゃなくて、欽明が外交を有利に
進めるために流布させたデマだったと思ってるけど。
仏教公伝(538年)の使者も欽明側に行ってるしね。
450 :
日本@名無史さん:2010/12/20(月) 19:39:06
蘇我が鞍替えしたんだよな!
対立してたにしては、安閑も宣化も日本書紀では好人物として扱われているんだよね。
欽明天皇になってから大伴金村は失脚したが、大伴氏が完全に排撃されたわけでもないしね。
452 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 01:33:07
継体を建てた金村が、朝鮮問題だけで失脚するのも解せない。
453 :
レス長たらし毘古:2010/12/21(火) 01:39:59
継体は。。。おそらく鳴っている。君の後ろで。
「着信アリ!」
「あ、俺継体。大伴と物部に『いいからいいからテリーとドリーに任せて』と
言われて玉座に座っただけなんだ。ゴメン」と言うメール発見!
ひぇえええええ!?
454 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 02:32:24
>>452 記録されていない事情があるんだろ。
小沢排除みたいなことが起こったんだろ。
武烈時代も継体時代初期も金村が大連で政権中枢にいたってのも
史実なのかどうかあやしい。
455 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 10:21:46
チョンの犬など、死罪で当然
456 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 18:16:01
映画か、大河ドラマにして欲しいよな!
457 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 19:03:15
史料がなさすぎて厳しい。
>>451 対立してたという大前提が単なる妄想だから
459 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 20:21:11
雄略の後は、実質的な王権無き時代だろ!継体で立てなおそうと、機内豪族が計った。
しかし、蘇我が上手く欽明で王権を復活させて、三蔵まで握った。そこから今に繋がる!
>>458 だよね。基本的に日本の古代史研究は、天皇家の権威を貶めることを目的とした
根拠のない妄想ばかりだ。
明治〜昭和に天皇家を文字通り神格化しすぎたせいで
より真実に近い史実を探ろうとすると天皇家が人間臭くなるのは仕方ない
継体が大和にまだ入ってない時には王はいなかったのか
ていう問題もあるしな。
はぁ?馬鹿じゃね?
>>463 戦後、皇国史観の反動が酷すぎるといってるの。騎馬民族征服説だの継体が新王朝をおこしただの
ろくな根拠もなく好き放題言い立ててる。三王朝交代説も同様。
記紀は政治的な歪曲があると無視するなら世界中どこの国の史書も同様に扱うべきなのに
中国や朝鮮の史書については全面的に信用する。中国や韓国の主張など現代史でもデタラメだらけなのに
古代については正確らしいw
>記紀は政治的な歪曲があると無視するなら世界中どこの国の史書も同様に扱うべきなのに
>中国や朝鮮の史書については全面的に信用する。
零か百かで史料を見るな
日本の記紀は武烈帝→継体帝の部分に真に受けるには
あまりに不自然だから“ある程度”疑われている
周辺国の史料は金印、金錯銘鉄剣、遺跡(壱岐の原の辻など)といった裏付けがあるから
“ある程度”信用できるものとして扱うのが科学的
中国朝鮮には日本を美化する理由が無いから…とか。
467 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 07:57:47
「日本国天皇・皇太子・皇子がまとめて亡くなった」ってのはあまりにも不自然w
ま、当時の衛生・医療の水準から見て伝染病による病死とか
そういう可能性もゼロではないのだろうが。
468 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 08:24:00
469 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 13:03:13
武烈なんて、十代のガキだろ!
しかも悪ガキを史書に書き連ねてかわいそうだわ。たぶん架空の話だろうけどね。
武烈なんていてなかったんだろよ!!
>>465 前段はともかく、
>周辺国の史料は金印、金錯銘鉄剣、遺跡(壱岐の原の辻など)といった裏付けがあるから
>“ある程度”信用できるものとして扱うのが科学的
こっちが、全然「科学的ではないwww
ブッチギリで、銀河鉄道999より酷いレベルで地理的に滅茶苦茶なのが、魏志倭人伝。
執筆のタイムラグから、信用性がかなり疑わしいのが朝鮮系資料(執筆が新しすぎる)。
地理的には問題ないが、時間の設定が明らかにおかしい日本書紀と比べて、
より信頼できる要素は、実は大して存在しない。
>>464が言いたいのはおそらくこれだろう。
まあ、俺自身は、記紀に対する批判的な態度は正当だと考えているが、
同様の批判を、中国史書や朝鮮史書に向けたら、
戦後古代史の絶対の根本聖典である「魏志倭人伝」なんて、
「重症の麻薬患者が幻聴と幻想を描いたファンタジー小説」という以外、コメントのしようがない。
現実の陸や海と、倭人伝の記述する陸や海が、別の惑星の話としか思えないほどかけ離れている。
麻薬患者がラリった幻想のレベルの地理書を、馬鹿丁寧に分析する奴は、
そっちも麻薬中毒か何かとしか思えん。
471 :
日本@名無史さん:2010/12/22(水) 15:21:41
日出ずる所の天子て、確か差出人は男の名前だったのに、推古にされてるしね!
>>472 ほう。第1章第1節第1款だけ対応物らしきものがあれば、
その書物の全編が、紛うことなき絶対の真実だとなwwwwww
だから、倭人伝をまともなものとして言挙げする奴は全員、
考古学者から新聞記者まで全員、重症の麻薬中毒だと馬鹿にされるんだ。
記紀は宗教経典の意味があるから、
記紀の真実性を主張する人には神道関係者も多く、
自分の主張には神学的な要素を含むという意識が、多かれ少なかれ存在する。
だが、中華文献や朝鮮文献を信じ込んでいる奴は、
自分がやっていることが、完全なカルトになっているという発想が全くこれっぽっちもない。
科学的方法論を実践していると、硬く信じているからな。
宗教はアヘンと言いながら、マルクスの『御真影』と資本論という『根本経典』を絶対崇拝する社会主義者に似て、
記紀信者より、よほどたちが悪いwww
>零か百かで史料を見るな
少々煽りすぎましたかね。スレ違だから、この程度にするが、
魏志倭人伝に関しては、「虚心坦懐に見れば、資料的価値は限り無くゼロである」という常識を、
一度徹底的に広めないと、まともな議論は望めないと思う。
それくらい、どうしようもなく腐り果てた「邪馬台国真理教」と化している。
継体天皇に戻れば、皇室血縁の豪族が、越前または近江から入ったということでいいのだろうと思う。
良く似た例を上げるなら、「8代将軍徳川吉宗」に近い。
これくらい血縁が離れていても、「吉宗は別の幕府を開いた」とは言わないし、
紀州家は徳川ではなく、別の武将の一族であったなどということもない。
「代が離れていること」は、「王朝交代?」などと疑いを挟む理由としては薄弱だろう。
そうなると、「越前に御三家相当の皇統氏族はあったのか?」ということが、真の問題となる。
これを具体的に証明しないといけないのだが、
蓋然性が低いということはないはずだ。この時代まででも皇統氏族は、あちこちに拡散土着しているからね。
>>475 継体は御三家相当とは思わないが、大王家と濃い薄いは別として血縁ではあったと思う。
でも平将門も大王家と血縁なんだよね。
>>475 どうも、お疲れ様です。
ちょっとこれは(↓)誤解を招く記述だったかもしれないですな。
>記紀は政治的な歪曲があると無視するなら世界中どこの国の史書も同様に扱うべきなのに
記紀を疑うなら同様に中国・朝鮮の史書も「疑え」と言いたかったの。「同様に無視しろ」という意味ではない。
まあ、そのくらい行間を読んでくれといいたくもなるが。
したがって私に対する
>零か百かで史料を見るな
なんて批判は全くの的外れ。むしろ
>>460のレスだけ見て「皇国史観マンセーな人」などと決め付ける
>>463のようなアホにこそ
「零か百かで」即断するな、といいたい。
>>472も同様の批判があてはまるね。
ちなみに俺のレスは、
>>437、
>>444、
>>451、
>>460、
>>464 記紀に関しては、年代こそ(雄略以前は)信用できないが、大和王権の世代ごとの勢力拡大から九州制圧のプロセスは
そこそこ信用できると思う。それは、考古学上の成果とも大きく矛盾しない。
中国の史書に関しては、「何年に日本の使者が来た」などの年代に関しては信用性が高いと思う。しかしそれ以外は
「こういう『報告』があったが、それは『報告』であって信用性はまた別に検討すべき」という姿勢で検証すべきだ。
『聖典』のように扱うべきではない。
記紀、中国・朝鮮の史書、考古学上の成果、これらを可及的に同等に信用性を評価し、矛盾の少ない説を構築すべきだ、と言いたいの。
>>477 >「皇国史観マンセーな人」などと決め付ける
>>463のようなアホ
「日本の古代史研究は、天皇家の権威を貶めることを目的とした」
と決め付けてるあなたも同類だと思いますよ。 どっちもどっち。
>>477 話の繋がりが無茶苦茶で読むに耐えない文章だ
>>477 原の辻を認めたくないのは分かったから涙ふけや
>>477 そうなんだろうね。中国史書最大の問題は、
「使者は来た。でもどこの誰なのかはよくわからない(日本側の資料と照合が本当は大変に難しい)」
ということ。ここの繋がり(リンケージ)が怪しいということを理解しないと、
馬鹿げた議論を大展開することになる。
「武という倭王が、使者をよこして何年に朝貢してきた。」これは事実だろう。
だが、これは、「東方の島国?から、"mu"なる発音を名乗る酋長が、使者をよこしてきた」
というだけの話で、何者なのかはこれ以上わからない。
日本側で何処の誰が使者を仕立て上げたのか、実はわからないのだ。
そして厄介なことに、記紀の執筆者は、この記述を読んだ上で、「独自解釈で照合している」可能性がある。
そしてこの解釈が正しいかどうかは、大変に怪しい。
さらに、朝鮮史書は成立が大幅に遅れる。なんと12世紀であって、もう王朝すら交代している。
中国史書は当然のこと、記紀(特に日本書紀)をも読んで執筆した可能性が極めて高い。
「劣化孫引きに、民俗伝承の毛が生えた程度」と理解するのが穏当だろう。
こんなことはどうでもいいので、
>>476について。
平将門だって、京都の朝廷の皇位継承がgdgdになった隙をついて、
我こそは天皇なるぞと、東国から攻め上ってきたというのなら、話は違ったはず。
結局、王朝において重要なのは、まずは直系で承継されるかどうかで、
それが無理な場合に、やむを得ず遠くの親戚を引っ張ってくることになる。
その意味で、武烈で単に直系皇統が一旦切れた(と認識された)ということだけだろう。
こういう場合、新君主は家臣をつれてくるので、ある程度の摩擦があるのは当然で、
徳川家継→吉宗の場合も(先代で既に切れそうだったから先代から)侃々諤々の議論があった。
483 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 06:10:11
>>482 徳川のケースも、なぜか御三家ではなく皇族を将軍にする運動が発生したなあ。
原の辻遺跡って中国の鋳銭や鉄器や鏡に北九州の土器や瀬戸内系の土器が出土って
それが科学的に根拠与えてるのは鋳銭一つとっても日本が半島より先にやってんだから
所謂、渡来系技術者が中国から半島を通過しただけで日本に来たって根拠与えてんじゃね?
古代の人の流れのさ
485 :
日本@名無史さん:2010/12/23(木) 07:42:52
朝鮮族が変な説を広めてるよ。
http://zh.wikipedia.org/zh/%E5%8F%A4%E5%9D%9F%E6%97%B6%E4%BB%A3 >古墳時代中後期,有大量馬匹骨骼出土,因此有騎馬民族征服論,提出大和國後期的國王
(继体天皇)是朝鮮人,但日本歷史有相反的說法,是神功皇后征新羅生應神天皇,
即是神道教中的八幡。这时候渡來人大量來日本,奠下发展基础。佛教也在此时由百济引入。
古墳時代中後期、大量の馬の骨が出土しているので、騎馬民族征服説が唱えられ、大和国後期の国王
(継体天皇)は朝鮮人であるという説が提議されているが、日本史では逆に、神功皇后が新羅征伐を
行い応神天皇を生んだとされているが、これは神道の八幡である。この時期大量の渡来人が来日し、
大和朝廷発展の基礎を作った。仏教もこの時期百済から導入された。
「重症の麻薬患者が幻聴と幻想を描いたファンタジー小説」
「魏志倭人伝に関しては、「虚心坦懐に見れば、資料的価値は限り無くゼロである」という常識を、
一度徹底的に広めないと、まともな議論は望めない」
「劣化孫引きに、民俗伝承の毛が生えた程度」
と中国の史書を過小評価したい主張に対する反例としては原の辻遺跡の存在は充分だろう
逆に渡来とは中国から倭への事の科学的根拠にも原の辻遺跡がなってるだろ。
>>480 ガリバー旅行記において、
「日本の長崎で踏み絵をした」という記述は、史実とほぼ完全に一致するわけだがwww
これは、仮に日本側に文字資料がなかったとしても正確に説明可能で、
なぜなら踏み絵の現物は、今でもそのまま残っているからだ。
ガリバー旅行記において、「日本」「長崎」「踏み絵」が史実通りに描かれているからといって、
リリパット王国やらラピュタ王国やらヤプーやらが、
実際に存在することが、ほんの少しでも推測されるとでも言うのかね???
ちなみに、ガリバー旅行記において、リリパット王国の記述と、長崎の記述は、同じ筆致で書かれている。
どちらがデタラメ創作で、どちらが事実をもとにした記述かは、文面からは全くわからない。
俺が、中国史書の信用性を極めて低く見積もるのは、
16世紀末になっても、中華帝国は、外国の記述に関して信じられないような大誤謬をやるからだ。
他でもない、文禄の役という、実質的には「日本対大明帝国の全面戦争」の後で、
自らをさんざん苦しめた「敵方の首魁」について、
「平秀吉は、薩摩国の人である」
と書き残しているからな。もはやギャグとしか思えないが、これが中華帝国の外国認識の真のレベル。
戦争状態だったから知らなかったのだという言い訳が、決してゆるされないのは、明は同時に
「平秀吉を『日本国王』に封ずる」
と宣言しているわけで、素性すら全くデタラメのままで、
外国の支配者を、何の問題もなく正統な中華秩序に堂々と組み込もうとしていた。
「中華王朝をナメるな!倭人伝は、真面目に書かなければ著者の首が飛ぶはず。だから信頼できる」
などというのが戯言であることは、この一件でよくわかる。中華王朝は「なめるべき」なのだwww
中華帝国というのは、伝統的に大変な「外国音痴」であって、
中華帝国の書いた外国に関する記述というのは、そもそも信用性が皆無。これが万古不易の真実。
たしか秀吉は薩摩国の「奴」だったよな。
「明史」では秀吉は関白を「僭称」したとある。
そんでもって信長も関白だった。
>>488 ガリバー旅行記は最初から創作
中国史書は史書として書かれてる
前提が違う
>>489-490 戦国〜江戸時代は日本にあるの歴史書が弥生・古墳時代とは
比べものにならないほど量・質共に向上してるからそう言えるんだよ
弥生・古墳時代の日本にある歴史書はあまりに貧弱だから
“相対的に”中国史書の信頼性が高くなる
>>491 相対的云々以前の問題として、
中国人は、16世紀にもなって、名古屋と鹿児島を間違えているんだよ?
これは、もはや絶対的な信用性が限りなくゼロに近いことを示してしまっている。
絶対的にひどすぎて、使いものにならないということだ。
あまり良い例ではないが、
「身長180cmの黒人男性」と「身長120cmの日本人女児」を
5m先から間違えるような、著しい弱視の目撃証人は、
他の事件において、
たとえ、彼が唯一の目撃者だったとしても、
やっぱり目撃証人として「使えない」(少なくとも証拠としての力が皆無)ことには、変わりがない。
絶対的な信用性が完全にゼロに等しいことが他の証拠からバレてしまっている以上、
他の証拠がいくら足りなくても、証拠力が相対的に浮上することはない。
>相対的云々以前の問題として、
>中国人は、16世紀にもなって、名古屋と鹿児島を間違えているんだよ?
>これは、もはや絶対的な信用性が限りなくゼロに近いことを示してしまっている。
>絶対的にひどすぎて、使いものにならないということだ。
だから論理飛躍しすぎだ
薩摩と秀吉を知ってるだけでもわずかながら価値はある
戦国時代の場合は日本の史料がしっかりしてるから
相対的に中国の史料の価値は物凄く下がるが
日本の史料の信頼性が格段に低い弥生古墳時代では
“相対的に”価値が出てくる
もちろん絶対的にはあまり信頼が置けないのは考慮する
特にでかい数字はかなりいい加減に書いてあるのは
魏志倭人伝に限らず漢文の常識
まあ史書も政治目的の創作といえなくもないけど
史書とはいえ、どうでもいい遠地の話を書き記したことと、自国の君主の統の話では、重みがニュートリノとブラックホールくらい違う。
また、「いついつどこそこの王が朝貢してきたので、これこれの官位と物品を下賜した」という内容なら、誤伝も少ないだろう。
>重みがニュートリノとブラックホールくらい違う
いやいやさすがにそこまでは違わないw
>>496 >>495は軽々しく極端なこと口走るほど
思考力がおかしいと自己主張してるんだよ
言わせんな恥ずかしい
>>495 だからこそ、中国史書の倭人関連の信憑性(信用性)が、どう考えてもゼロに墜落するんだけど。
逆説的なようだが、自国の君主の系譜の話なら、
そこに、どのようなバイアスが掛かっているか、推測することは容易にできる。
編纂時の君主の系譜、政治闘争の分析、執筆者の人脈、その後の当該文献の扱い、解釈史などから、
真実はどのようであったのか、合理的に補正をすることができる。
原典はデタラメでも、補正をすることにより、
読むに耐える文献として、合理的に再構成をすることができるわけだ。
ところがだ。そのようなバイアスがかかりようも無いのに、
朝鮮半島の対岸に、真南に向かって500kmもうねうねと伸びる島があるというような、
この地球には存在しない記述がなされた、地理書がある。
そして、その地理書を書いた連中は、1300年も経っても、
大戦争の敵方の頭領の出身地を、1000km近くも間違えて平気だったという事実がある。
こんな状態では、補正のしようがない。こんな連中の書いた「史書・地理書」は、サッサと棄てるほかはない。
わざと間違えたのなら、まだ救いようがある。意図を読めば正解にたどり着くかもしれない。
真剣に書いて間違えたのだから、もはや救いようがない。悪人なのではなく無能ということだからだ。
>>498 お前は中国史書の否定が目当てで理由が後付けになってるぞ
>大戦争の敵方の頭領の出身地を、1000km近くも間違えて平気だったという事実がある。
1000kmを強調するあたりで底が知れてる
てか漢文をまともに読んだこと無いんだろ?
>特にでかい数字はかなりいい加減に書いてあるのは
>魏志倭人伝に限らず漢文の常識
の例として孫子「作戦」より
孫子曰、凡用兵之法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十万、千里饋糧、
則内外之費、賓客之用、膠漆之材、車甲之奉、日費千金、然後十万之師挙矣。
ここで出てる「千」「十万」といった具体的数字は単に「途方もなくたくさん」という意味に過ぎない
文字通りに解釈する方がおかしい
500 :
日本@名無史さん:2010/12/25(土) 17:14:01
早い話、自分の見たもの以外、信ずるなってことか?
>>499 別に白髪三千丈のメンタリティーは知っているけどw
1000km(やや誇張だが)が誤差になってしまうことを言挙げしているのは、
「中国史書では1000kmが誤差」になると言う時点で、
「邪馬台国論争は、その全てが即時に完全崩壊してしまう」からなんだよ。
これは、ごくごく簡単な理屈で、
奈良と福岡の間は、500km程度しか離れていないからだ。
でも、元ネタの史書は、1000kmでも誤差ww
こんな史書を訓詁して、畿内説だの九州説だの言っている連中は、
全員が全員、重症麻薬中毒レベルの絶望的な馬鹿と断言して構わない。
彼らは一度IQでも測ってもらったほうがいいんじゃなかろうか。
そろそろ継体の話に戻したいと思うんだが。
じゃあ光年単位で離れてる織姫と彦星を
橋があるくらいで渡れると思っていた
昔の中国の天文学も一切信用できないわけですね
>>501 お前が去ってくれないと話が進まない
荒唐無稽な願望を主張し出す奴が継体帝のことを語っても
トンチンカンな内容になるだけだ
504 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 02:59:32
雄略一族を滅ぼしたのは、大伴氏なのかな!
505 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 17:48:05
雄略一族は内紛で自壊し大伴氏によってトドメを刺されたのが実態では?
506 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 18:48:36
大伴氏はそういう策動をやるイメージがない。
507 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 18:58:13
その大伴を蘇我がトドメをさすわけだな。
>>505 天皇陛下、だろうが。
日本人はそんな所で今上天皇なんて使わねえぞ。
ひどいのになると今上、なんて略しやがる。
朝鮮帰って勉強し直して来い。
「今上(いまがみ)」さんは別人だから
>>508 今上と天皇は別の単語だし、今上は略語じゃないんだが。
拉致問題相、北朝鮮に圧力かけ対話を
1 :Ψ:2011/01/15(土) 19:56:00 ID:ZyW89JKp0
TBS系(JNN) 1月15日(土)12時34分配信
「情報収集をすることによって国際社会に対する説明能力も説得力も
一層高まってくるし、相手(=北朝鮮)に対する反撃力も高まっていくと思いますので、
より一層相手に圧力を加えていくと。その上で対話に引き出すと」(中野寛成 拉致問題相)
中野大臣は拉致被害者の安否に関する、さらなる情報収集の努力を続けるとした上で、
拉致被害者家族と一刻も早く面会するため準備を進めていると述べました。
また、朝鮮学校の高校授業料無償化について、
中野大臣は「拉致問題を考慮して極めて慎重に取り組む必要があり、
現時点では支給の条件は整っていないと考える」との考えを示しました。
(15日03:20)
ソース
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20110115-00000022-jnn-soci
512 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:43:19
【文化】 雄略天皇と継体天皇に注目 新著「ヤマト国家の成立 雄略朝と継体朝の政権」、京都教育大名誉教授が出版
1 :うしうしタイフーンφ ★:2011/01/19(水) 14:19:22 ID:???0
★出版:ヤマト国家の成立 和田萃・京都教育大名誉教授、古代史ドラマチックに /奈良
考古学の成果を生かした古代史研究に取り組む和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)が、
5世紀後半〜6世紀前半に活躍した雄略天皇と継体天皇に注目した
「ヤマト国家の成立 雄略朝と継体朝の政権」(文英堂、1900円)を出版した。
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1295414362/
513 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 04:07:33
久しぶりに来てみました
やはり継体の実像は謎が多いのかな?
私説
・強権で大和政権を纏めてた雄略の死によって後継者難から豪族同士の権力抗争が激化
・その為に地方の統制が弱化
・この状態が20年ぐらい続きさすがにこれではまずいと妥協がなって傍系王族だった継体を擁立
自信は今一ですがこう考えています
514 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 08:31:19
やっぱ原因は雄略が嫡流近親を粛清しすぎたせいか。
死ぬ間際には足利義持のようなこと考えたか
515 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 09:14:32
倭の五王は瀬戸内海の香がつよく
継体は越とか東海なんだろうけど
支持する豪族達もドラスティックに変わったのでしょうか
516 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 09:40:27
>>508 日本人も略すぞ
昭和天皇崩御で平成改元の朝、
渋谷駅の掲示板に
「天ちゃんGOOD BYE!」
と若者に書かれた
天皇へのこの呼び方は日本史上初の斬新な略し方だった
517 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 10:52:45
>>508 天皇、帝、今上、上などは日本で奈良時代から用例のある言葉で全く問題がない。
「天皇陛下」と言うようになったのは明治時代の大日本帝国時代から。
意外に歴史の新しい言葉だ。
ちなみに、香淳皇后は夫の昭和天皇のことを「主上(おかみ)」と呼んでいた。
これが長らく天皇家や公家社会で天皇を指していたもともとの言葉。
糞ウヨは糞サヨと喧嘩でもしてろ。
おまえらごときが学問系の板で歴史を語るのは100年早い。
519 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 15:35:01
イミフ
520 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 17:30:38
>>516 日本人がそんな略し方をするわけがない。それを書いたのは非日本人に決まっている。
非日本人でもそんなことを書くミンジョクの見当はつく。
521 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/18(金) 18:58:20
24日に應神陵の中の少しをいじくっていいので入るらしいが、少しじゃぁ
あんまり期待は出来そうもないかな??
522 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 19:19:13
外側だけなんですよね
523 :
日本@名無史さん:2011/02/18(金) 21:37:37
>>516 >>520 元ネタはクマさん(故人)の漫才ですよ。相方やコンビ名は忘れたが
売れっ子だった。国会で問題になり干された形の晩年だった
524 :
国士焼肉ぷらす ◆JUU/.JUU/. :2011/02/20(日) 00:25:25.63
レオナルド?
チャオズ「さよなら天さん」
526 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/24(木) 15:18:08.21
今回の應神陵調査では、あんまり大した発見は期待出来そうもないか?
あそこを応神陵に設定したのは奈良時代以降だから
本来の被葬者は不明としか言えないな
箸墓古墳の調査と基本一緒だろう?
そもそも、卑弥呼の箸墓古墳も
ありゃ、皇族の女性の墓だからw
今回の応神天皇領の墓と一緒だよ。
今回はせいぜい測量まででしょ。
目視で祭壇が確認されて、しかも後円部だった
そんな事でもない限り、「発見」はないと思われる。
530 :
日本@名無史さん:2011/02/25(金) 07:09:45.35
test
531 :
日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:08:21.16
敦賀あげ
この時代から有力者たちが天皇を選ぶ体制になっているのは驚き。
533 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 16:33:24.40
卑弥呼の頃から共立が継続されてんだ
534 :
日本@名無史さん:2011/03/08(火) 17:56:40.55
>>504 雄略の嫡子、清寧天皇は虚弱体質だった。
まともだった星川・磐城の2皇子は大伴らが謀反の罪で殺している。
雄略は病弱な清寧の後をどうしようと思っていたのかな?
最後の方は孤独になって自身が滅ぼした葛城氏を外戚とする
清寧を大伴らに託すしかなくなっていたということか
この頃は父子相続よりもどっちかというと兄弟相続優先だよ。
だいたい長子直系だと合議制で天皇を選ぶ余地がない。
継体からは仏教の香りがする
537 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 04:36:01.70
清寧から武烈は存在感が希薄ないし逸話は作文的
雄略から継体の間は中央権力不在だったのでは?
538 :
日本@名無史さん:2011/03/11(金) 11:03:31.43
星川・磐城が大伴に討たれた時点で大王家は壊滅状態だろうな
そして大伴が越前から継体を擁立する
割譲問題で失脚するまで大伴の天下だった
539 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 03:36:58.13
新年度あげ
540 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 06:12:38.65
この天皇のことを書いた小説ってある?
ああ、ケータイ小説ってのがそうか……
541 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 16:49:28.10
542 :
日本@名無史さん:2011/04/01(金) 16:50:09.20
磐井は、オヲドの大王位簒奪に立ち向かった九州の勢力
て事はその前は九州王朝ですか
545 :
日本@名無史さん:2011/04/11(月) 19:19:41.38
継体は大王の血筋じゃないと俺は考えてますお
大室は?
547 :
日本@名無史さん:2011/04/19(火) 21:24:00.67
急速浮上
表向きはね
550 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/19(火) 23:31:31.81
ウラもそうだよ。
これをウラゴト(卜事)で把握出来る。
天照大御神が瓊瓊杵尊に下された神勅によって皇位は
瓊瓊杵尊の子孫に固定されている。皇統交代などありえない。
552 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 12:12:48.57
>>546 少なくともそれなりに根拠があるつもり話をしているであって
ヨタとは違うんです
553 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 13:51:30.13
ムコ殿
ド田舎の分家の爺さんが本家継いだ挙句若い嫁さん貰って羨ましい
554 :
日本@名無史さん:2011/04/20(水) 18:17:12.47
しかも箱入り
しかし種だけ貰って最後は……
555 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 13:38:22.59
>>551 > 天照大御神が瓊瓊杵尊に下された神勅によって皇位は
> 瓊瓊杵尊の子孫に固定されている。
そうなんだが平将門も瓊瓊杵尊の子孫である。
それがどうした
557 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 10:38:20.59
継体が中央に入るまで、
大王が完全に空位だったとはとても思えん・・・・
もちろん簡単に選出できるとは思えんが、
20年も空っぽだったと考えるのもおかしい。
いずれにせよこれ迄の書き込みを見ていても
@継体は、それまでの大王との血統の繋がりはあるのか
A他に血統の繋がりがある者はいなかったのか
Bいたとすれば、なぜ継体が選ばれたか
C継体はなぜ越前にいたのか
D継体を担いだ主力は誰なのか
の疑問がなんら説明されていない。
お前らはバカだ
559 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 20:09:53.84
>>558 > @継体は、それまでの大王との血統の繋がりはあるのか
薄いながらもあったと思う。
> A他に血統の繋がりがある者はいなかったのか
いた。
> Bいたとすれば、なぜ継体が選ばれたか
今後の課題。
> C継体はなぜ越前にいたのか
家庭の事情
> D継体を担いだ主力は誰なのか
黒岩重吾氏は蘇我氏ではないかと勘ぐっていた。
>>558 どした?
先生に怒られて八つ当たりか?
ちゃんと読んだら書いてるよ
561 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 13:01:15.70
>>558 継体がはいる20年の間、ヤマトに王はいなかったのか?
562 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 17:29:33.40
だって〜ををともとかいうおっちゃんが近畿にいけば王さまにしてくれてさらにわかいおんにゃのこくれるって言うんだもん
おばちゃんなかみさんもうあきた
563 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 17:51:01.87
継体大王は仁徳・允恭系の王統とは男系ではつながっていないが、
允恭后で雄略母の忍坂大中姫を通じて允恭系の外戚であった。
(母系ではイクムネリヒコ大王=垂仁の末裔を称していたようだが)
雄略没後の「大空位時代」的状況のあと、允恭系の外戚という立場から、
大伴氏に擁立されたのだろう。
>>559 蘇我はこの時代空白だからなあ。
蘇我高麗の時代。
565 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 22:07:23.45
>>563 > 継体大王は仁徳・允恭系の王統とは男系ではつながっていないが、
平将門と朱雀天皇程度に、薄いながらもつながっていたと思うね。
10等親とか11等親なんてどこの誰か分からない実質赤の他人だよね
567 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 09:31:54.01
なんでも、
父が応神の子孫という言い伝えよりも、
母が垂仁の子孫という言い伝えの方が古いとか。
どちらも捏造ということもありうるが。
568 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 09:53:46.72
毛野氏や吉備氏などの有力豪族はみんな「天皇の子孫」と称してるね。
継体の氏族は新興豪族だから比較的新しい応神の子孫を名乗った、
とかいう考え方も一応できるわけか。
上宮記の系図はどれくらい調べられてるんだろ。
>>567 どちらも正しいということもあり得るな。
>>568 毛野氏や吉備氏が皇別氏族ではないだろう、なんてのは勝手な思い込みに過ぎないよ。
古墳初期・吉備の浦間茶臼山や中山茶臼山は、ヤマト側からの派遣将軍が被葬者である可能性もあるし、
前方後方墳が主流の毛野に突如大きな前方後円墳として登場する前橋天神山古墳には、
彦狭島王や子の御諸別王の東下り伝承を想起せずにはいられない。
570 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 10:49:41.53
>>568 > 毛野氏や吉備氏などの有力豪族はみんな「天皇の子孫」と称してるね。
子孫でなくても、幾重にも婚姻関係はあったと思う。
>>537 それは感じる。
プチ南北朝時代のような世界だったのかもしれない。
>>566 そうとも言い切れないのが名門・施政者の家系。
最後の得宗・北条高時と最後の執権・赤橋守時は11親等、
室町最後の将軍・足利義昭と喜連川家祖・足利国朝は16親等、
14代将軍・徳川家茂と15代将軍・徳川慶喜は18親等、
今上天皇と姉婿・東久邇宮盛厚王(旧皇族)は36親等、
男系で離れている。
573 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 12:44:59.57
やく100年の分家か
574 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 14:33:48.83
上宮記の系図で継体大王の男系の祖とされている人物の名は、
垂仁王子とされるホムツワケであってホムタワケ(応神)ではない。
本来なら、男系でもイクムネリヒコ大王(垂仁)の子孫とするはず。
よって、上宮記の継体大王の父系・母系双方の系図が成立した段階では、
まだ記紀にあるホムツワケを垂仁の子とする説話は成立しておらず、
継体の父系と母系は別系統の豪族だったと思われる。
上宮記の「イクムネリヒコ」が記紀の「イクメイリヒコ」なら、
上宮記の「ホムツワケ」が記紀の「ホムタワケ」の可能性だってあるだろw
君の説を補強するためには、なぜ継体から5世代しか遡らない「ホムツワケ」を垂仁帝の時代の人物としたのか、
(言い換えれば応神時代の人物もしくは応神本人にホムツワケ伝説を被せてしまえば良い)、
そもそも君はホムツワケとは何処のどういう人物だと思っているのか、への説明が是非とも欲しい。
576 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 20:22:59.67
>>572 いくら離れていても、家系がちゃんとつながっている証拠があれば扱いが違うからね。
オホドが大王になれるなら、歴とした天皇の子孫たる平将門も足利義満も天皇になれるじゃん
前にもあったかと思うが、朱雀天皇に近親後継者が無く関東から将門を迎えて天皇に即位させたんなら、
「桓武5世孫将門、朱雀天皇の後を継ぐ」と普通に歴史には記録されたと思うよ。
足利義満の場合、「天皇に近親後継皇族がいないため迎えられる」っていう想定は将門ほどには出来ないだろうけど、
仮に禅譲のような形で即位するんだとすれば、崇光とか後光厳の養子となることが考えられるが、
この際、自分の出自を偽るようなこと(足利氏の出であることを隠したり、崇光や後光厳の実の子に系図を改竄したり、
5世代くらい前の適当な天皇の子孫を騙ったり)はしないだろうと思う。
579 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:24:43.15
5世紀から6世紀初頭は王統は一本化されてなかったんじゃないのか?
讃・珍兄弟の系統(仁徳系?)と済・興・武の系統(允恭系)の男系の異なる王統が交代し、
さらに允恭系が雄略の死後、実質空位状態になったので、允恭系外戚の息長系が擁立された。
それは単に「宋書」において珍と済との間の続柄が記されていないために
断絶があるのではないかと妄想した短絡的な説。
581 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 21:44:38.47
珍と済は血縁ではあったと思うが、でも薄い血縁だっったような気がする。
「気がする」って……それじゃ何でもアリだなw
583 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:51:44.13
>>582 基本的に古代史に限らず歴史の謎解きはそう。2chに限らずね。
坂本竜馬暗殺なんか、「見廻組」に所属する複数の実行犯が名乗り出て、さらに命令を出したと見られる会津藩首脳の側近の証言などの
傍証があってもいまだに「薩摩陰謀説」がかなりまかり通っている。政見が竜馬と違うものはみんな怪しい、というだけ。
動機があれば怪しいのは確かだが、動機だけから無限に話を膨らますとこうなる。
近代でさえそうなんだから古代になるともうね・・・。中国の史書に続柄が記されていないだけでとか、
あるいは本拠地が移動しただけで「王朝交代」とかね。
あと5,600年くらいたったら、織田信長が尾張→岐阜→安土と本拠地を移したのではなく、斉藤氏が織田氏を滅ぼして織田氏と名乗り
さらに六角氏(だったっけ、もう誰でもいいや)が織田氏(旧斉藤氏)を滅ぼして織田氏と氏を変えたのだ、なんて説がでてくるかもね。
あるいは、安土城と清洲城は規模も建築様式も違いすぎるから安土城を築城した織田信長と清洲城を本拠地にしていた織田信長を同一人物とする
『信長公記』の記述は間違いだ、とかね。
584 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 22:54:35.00
>>583 > 坂本竜馬暗殺なんか、「見廻組」に所属する複数の実行犯が名乗り出て、さらに命令を出したと見られる会津藩首脳の側近の証言などの
> 傍証があってもいまだに「薩摩陰謀説」がかなりまかり通っている。
薩摩藩の何者かが第三者経由で見廻組に龍馬の居場所を教えた疑惑は払拭されていないと思う。
そんなもの払拭する必要すらないしw
586 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 20:37:10.79
文献も少ないし、宮址や墓所の比定も不確実
高校の日本史の時間では存在すら否定されてたから
現時点では想像するしかないんですよね
587 :
日本@名無史さん:2011/05/07(土) 21:17:16.72
>>583 >織田信長が尾張→岐阜→安土と本拠地を移したのではなく、斉藤氏が織田氏を滅ぼして織田氏と名乗り
>さらに六角氏(だったっけ、もう誰でもいいや)が織田氏(旧斉藤氏)を滅ぼして織田氏と氏を変えたのだ、
>
>あるいは、安土城と清洲城は規模も建築様式も違いすぎるから安土城を築城した織田信長と清洲城を本拠地にしていた織田信長を同一人物とする
>『信長公記』の記述は間違いだ、
実際その可能性はあると思うぞ。
588 :
サガミハラハラ:2011/05/07(土) 23:40:47.87
>>299 迎賓館には官、副がいたか?
倭人伝における官は王さまかそれに近い権力者のことです、ですから、官は京都に居り、迎賓館にはいないのです。
係のものはいたでしょうが。
末ろ国に官の記載がないのは、末ろ国の都が魏使の邪馬台国への行路にはいっていないので、官をかかなかったのです。
末ろ国の都は鏡山の方にあったようです。
589 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 18:55:28.15
保守
結局
傀儡なの?
共立なの?
591 :
日本@名無史さん:2011/05/28(土) 17:51:00.64
ほぼ独裁
整備された古墳公園に行った
歴史館では継体がケッタイさんに なっていた
間違いを子供に伝えるなよ
大王が来る、読んだ人いないの?
概略だけでも頼むよ
今城塚いってきた記念あげ
継体が地方豪族から身を起こし大和に攻め上り王位を簒奪して
継体王朝を開いたと言う王朝交替説をは成立しがたい。
理由としては、継体が簒奪者だとしたら、
新王朝の開祖ということになる彼の出身母体である息長氏が
たかだか疎遠な皇族と言う位置づけで684年に八色の姓で、
息長真人の姓をもらっているに過ぎないこと。
また、6世紀の倭王権の氏族構成から見ても継体天皇以降の倭王権が
地方豪族出身者の開いた新王朝だとは考えがたい。
というのは継体・欽明朝にもっとも有力であった氏族は大連の地位にあった
大伴氏と物部氏や大臣を出した蘇我氏なでであるが、
前二者は雄略朝以来の有力氏族であり、大王権力と密着しその軍事的基盤を構成していた。
後者は没落した葛城氏に替わって6世紀に台頭してくるが、ヤマトを拠点とする氏族である。
つまり、継体即位の前後で大王権力をささえる軍事氏族に変化が見られず、
新たに有力化したのもヤマトの氏族であり、王権内のヤマトの優位は揺るがないのである。
考古学的知見もこれを裏付けている。滋賀県近河町一帯には息長氏が残したと見られる墳墓群が点在しており、
息長古墳群と呼ばれている。しかし主要なものとしては、塚の越古墳や山津照神社古墳など五世紀から六世紀代の
40から50メートルクラスの後期古墳が数基知られている程度である。
大王墓に匹敵する巨大古墳を造営した吉備氏や
200メートルクラスの前方後円墳を複数含む馬見古墳群を残した葛城氏などとの格差は歴然としている。
考古学的に見ても息長氏は5から6世紀にかけて湖東の有力勢力の一つであっても、
ヤマトに攻め上って大王家を妥当するほどの勢力を保有していたとは考えがたいのである。
要するに息長氏が大王家を妥当しうるような勢力を持っていた地方豪族とは文献的にも考古学的にも考えられない。
王朝交代説は応神五世孫という曖昧な系譜に着目して出てきた説だが説得力は無い。
男大迹王は記紀ともに応神五世孫としながら、その中間の系譜を書いていたところ信憑性に疑問をもたれたが、
釈日本紀に引用された上宮記という書記よりも古い文献に、
凡牟都和希王と男大迹王の間の系譜全てがしるされていることがわかった。
息長氏を大王家の末裔とする系譜は確実に記紀よりも遡るのである。
応神五世孫は真実だと思う
どういった勢力がバックアップしたんだろ
日本海なのか東海なのか
597 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 12:51:46.61
>>595 鍋島家が親戚の龍造寺家にとってかわったようなもんだと思う。
鍋島は龍造寺一族を滅ぼしたわけではなく、名誉と封土を与えて養っていた。
>>596 バックアップされなくても元々強大な勢力だよ。
じゃあ奈良盆地に入らず
周辺をウロウロしてたのはなぜ?
600 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 13:56:24.48
フランスのアンリ4世もアンリ3世とは父系では21親等も離れていたし、パリにもなかなか入城できなかった。マルゴ王女と結婚して入婿にもなった。
似たような実例が外国にちゃんと実在するのに、継体天皇の血筋がやたら疑われるのは何故?
国も時代も違うのに同一視できるかよ。
>>600 戦後の万世一系イデオロギーへの反動に乗っかるように
少ない文献記述の深読みから王朝交替説が唱えられ、
それが当時センセーションを巻き起こしちゃって、
それに影響されちゃった人が多かったからだよ。
ただし、その後の考古学調査などにより、
今城塚古墳の伝統継承性や、太田茶臼山古墳との関係性から、
継体が実際に古市・百舌鳥期の王権と関連する人物の末裔である可能性が
決して荒唐無稽なものでは無くなってきていて、
今は声高に王朝の交替に言及する(継体の血筋を疑う)学者が少なくなって来ているのも事実。
古代史シンポジウムとかに参加してると年々実感する。
603 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 15:08:46.22
>>599 前王朝の正統な血を引く手白香皇女の墓が奈良にあるのに
継体の墓が大阪府にあるのがすべてを物語っているな
継体は下手したら生涯奈良には入れなかったのかもしれん
(入ったならば墓が大阪府にあるのが不自然)
手白香は夫継体の死後遺児を連れて奈良へ帰り
女系で正当な血を引く欽明を即位させた
>>603 その「前王朝の正当な血を引く手白香皇女」の父である仁賢の墓は大阪府にあるのですが...
同じ大阪府でも
大和川流域と淀川の北側じゃあえらい違いだろ
606 :
600:2011/06/15(水) 17:05:48.70
>>602 丁寧なご説明、有り難うございます。
要するに、万系一世への反発から生まれたセンセーションなんですね。
607 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 17:20:16.13
>>604 仁賢の埴生坂本陵はかろうじて大阪府というだけで
すぐ隣は奈良県橿原市の古墳地帯
万葉集にも読まれた畝傍山のすぐ近く
雄略天皇の墓も南大阪にあり当時のヤマト王権の勢力範囲内
継体のは大阪でも昔の摂津国に当たる北摂の高槻だろ
当時の都からあまりにも遠い
608 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 17:43:42.17
古代の天皇や皇族の陵の位置は、全くあてにならんから、陵の位置から「何か」を読み取るのは難しいと思うぞ。
継体陵が考古学的に「ほぼ確実」でも他の皇族の陵があてにならんのだからやはり意味は無い。
だからまさしく淀川流域に河内王朝風の準大王墓として突然築かれた太田茶臼山古墳がキーポイントなんでしょうな。
次に築かれる大古墳で継体の真陵とされる今城塚とは80年〜1世紀の誤差がある。
太田茶臼山は継体の祖先にして允恭の岳父、雄略の外祖父にも当たる稚野毛二派皇子の墓なんでしょう。
仁徳の宮が難波にあり子孫は近江に根を張るとなれば、その中間が淀川流域ですからな。
>>608 あんまりあてにならないは言いすぎでしょう。
たとえば古市古墳群ならば、河内国志紀郡・丹比郡・古市郡にまたがってるわけですが、
ここに陵墓をもつ天皇は志紀郡が仲哀・応神・允恭、丹比郡が雄略・仁賢、古市郡が清寧・安閑で、
志紀郡には仲津山・誉田山・市野山、丹比郡には岡ミサンザイ・ボケ山、古市郡には白髪山・高屋築山と、
それぞれ相当する古墳は存在するのです。
ちなみに一番古い津堂城山古墳(志紀・丹比境界部)はヤマトタケルの白鳥陵でしょう。
また一般には古墳群には入らない最後期の河内大塚山(丹比郡)は、
強力な資料の裏付けは無いのですが、未完成の欽明陵ではないかと考えます。
611 :
日本@名無史さん:2011/06/15(水) 18:59:57.55
>>608 大規模な古墳があってもその付近に有力者はいなかったとするのは
考えものでしょう。
考古学を全部否定するのですか?
>>609 淀川流域に大王クラスの墓が築かれたことは継体を除き一度もない。
大阪湾の難波宮に住んだ仁徳天皇すら、墓は河内国、すなわち南大阪だ。
継体の父方息長一族の墓は近江にあり、息長古墳群と呼ばれている。
>>611 太田茶臼山は大王墓が300m超級時代の226mだから大王墓ではないでしょうが、
陪塚のあり方や一代ぽっきりの「突然墓」であることから単なる地方豪族墓でもなさそうです。
つまりそうしたところから稚野毛二派皇子墓、あるいはその子で允恭とは義兄弟となる意富富杼王墓という説が出てくるわけですが、
古事記などではあなたのおっしゃる息長一族の祖を意富富杼王に当てていることなどから勘案しても、
私は太田茶臼山が稚野毛皇子墓、意富富杼から近江に墓域を定めたもの(土着)と見ています。
河内湾を起点に見た場合
南端に河口がある大和川と北端に河口がある淀川
それぞれの流域は別物ですよね
614 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 15:03:44.52
他にもっと血統の近い皇族はいなかったのかね?
>>614 いなかったはずがないよ。血統の近さよりも母方の力が
決め手だ。
616 :
日本@名無史さん:2011/06/17(金) 16:21:49.28
継体天皇より崇神天皇に着目されないから昨今の日本は・・・・・
MAKIMUKU
GACHIMUCHI
いやいや
継体即位の過程が分かれば
崇神、ひいては纏向の実体も炙り出されるってもんだ
621 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 16:26:56.73
焙りだされないね。
継体のような登極パターンは他にいないだろ。
現代には携帯天皇たくさんいるな
624 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 20:31:40.87
後倭
625 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 22:54:13.55
欽明の親が、継体というのは年齢から言って無理があるだろ!?
626 :
日本@名無史さん:2011/06/19(日) 23:26:59.22
父親なら可能
家康が御三家孕ましたの何歳だよ
毛利元就も隆元死後に生まれた子供がいる
もちろん孫の輝元の方が年上
628 :
日本@名無史さん:2011/06/20(月) 01:02:28.95
欽明は、蘇我の子じゃないのかな!
つーかそもそも古事記その他で年齢が違ったりしてるのだから、
あの時代の年齢記事は当てにならない。
630 :
日本@名無史さん:2011/06/20(月) 01:53:15.62
欽明以降の蘇我との関係は、異常だぜ!
継体の即位もよく分からないこと多いけど、
継体から欽明をへて用明への流れも相当なもんだよな。
その後、一巳の変以前に、仁賢-継体-尾張目子媛の流れに戻っているのも面白い。
継体、安閑、宣化はリリーフ。
633 :
日本@名無史さん:2011/06/20(月) 19:53:43.61
三人一緒にやられたんだろ!
あれはデマの可能性あり。
635 :
日本@名無史さん:2011/06/20(月) 22:10:58.34
>>625 前王権につながる手白香皇女が産んだ子供は欽明ただ一人だけだったからな
結構綱渡り的な皇位継承だった
636 :
日本@名無史さん:2011/06/20(月) 22:36:51.87
あくまで、体を継ぐ為だろ!
欽明の親父は分からない。
637 :
日本@名無史さん:2011/06/22(水) 13:17:26.84
安閑とその皇太子が継体の葬儀中に消された
犯人は宣化と欽明
この後両者は協力の証として欽明に宣化の娘が嫁いだ
保守
639 :
日本@名無史さん:2011/07/16(土) 08:47:57.90
継体天皇は元々「オホド王」と言われイチモツのデカさで名を轟かせておった。
それまでの大陸系天皇は9センチ未満のポークピッツ揃い。
皇女達の欲求不満は高まるばかり、皇室は約10代にして滅亡の危機を迎えておった。そんな折、白羽の矢が立ったのが越前の「オホド王」じゃった。
難波の都に着いたオホドは片っ端から皇女達とマグワっていった。都は毎夜皇女達の悦楽の叫び声がこだましたそうじゃ。
こののち、皇子が次々に誕生し、皇室は再び反映したということじゃ。
民衆は「己の体(み)をもって皇室を継がからしめた」偉大なる大王、即ち「継体天皇」と呼び拝んだそうじゃ。
なんじゃこらああぁぁ!!
チン説
今月の歴史読本で大橋信弥って人が太田茶臼山の被葬者を彦主人王に比定してた。
確かに八十以上で崩った継体の、幼いときに死んだ父なら充分ありうるかも
643 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 12:25:18.92
播磨、丹波、越前と畿内の外から迎えるルールがあったようだな。
644 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 12:32:46.90
>>595 越前や近江にはヲホドの親族がいたはずだが
その人達の待遇はどうなっているんだ?
それが疑問なのは応神の子孫であろうと無かろうと関係ないだろう。
645 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 16:45:59.28
ヲホドの親族はヲホーツクにいるよ
646 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 17:53:08.72
>>644 上宮記でも成立は7世紀ごろだからなあ。
記紀より古い時代から継体が大王家の出だという伝承があったところで
当時の天皇は継体の子孫だったのだから、そう書くに決まっている。
継体が出る前から息長氏が大王一家の同族、一員として
大和王権から破格の優遇を受けていたというのならば別だけど。
逆に継体が出る以前の息長氏は中小地方豪族に過ぎなかったみたいだし。
>>646 でも中小豪族に過ぎない息長氏から大王になれたということは
実力ではなく血統が理由だったとも考えられるし……
648 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 18:13:21.36
>>647 大王が息長氏を同族として扱っていたなら
息長氏が中小豪族にまで身を落としていたということがまず信じがたいのでは?
それに、大伴金村が候補にも挙がらなかった人物を五世王だといって
越前から連れてきたことは記紀にも書いてあるのだし、
継体が即位できたのは大伴金村のおかげであることは明らかだし。
>>648 五世ともなれば、世代を経るうちに段々と弱くなって中小豪族になった
可能性は無くはないと思うけどどうなんだろ
それこそ大王家と血縁の無い地方の中小豪族を大王にするのは難しいんじゃないかな
650 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 19:15:48.88
一応神功皇后と忍坂大中姫を輩出してはいるんだな。
651 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 19:23:39.78
>>650 神功皇后は継体が出た後で出自を創作されたんだろ
神話が色濃い人物だし
652 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 19:26:53.54
>>649 中央とつながりの薄い人物を大王に据えることで
大伴金村が権力を握ろうとしたとすれば不思議はない
大伴金村は畿内豪族で出自がばれすぎてて大王になれない
だったら中小豪族のバーター連れてきて恩を売ればいい
血筋がいいと排斥された例は覆い
聖武天皇のれっきとした皇女であり間違いなく全王権につながる
井上内親王の産んだ他戸親王を藤原氏が排斥して
母方の出自が零細豪族の桓武天皇を擁立して権力にぎったみたいに
653 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 19:52:01.03
ハプスブルク家(前王朝の遠縁)もロマノフ家(前王朝の外戚)も
御しやすい弱小豪族だったようだな。
654 :
日本@名無史さん:2011/07/27(水) 22:23:58.16
>>652 >血筋がいいと排斥された例は覆い
そうかね?桓武天皇こそ例外じゃないの?血筋が良いからこそ勝利した例だってある。
壬申の乱がそうだ。伊賀采女宅子娘を母とする大友皇子は皇極・斉明天皇を母とする大海人皇子に敗れた。
允恭天皇は、病弱で即位を嫌がっていたが、群臣と后の説得で即位。大草香皇子(母は日向出身)は無視。
後継者問題において、正当性を担保するのは「血筋」と「先例」であるのは古今東西の共通点。
>>652 それなら大伴が大王になっちゃえばいいことだろw
なんでわざわざある田舎から全く無関係の人間を選んで来る必要があるよ?
あるとすればそれはやはり大王家に連なるからだろ?(後世の「皇族」の概念はまだ無かっただろうが)
あなたが例示している桓武の時だって、藤原は大王にならなかったが、
桓武(山部王)はれっきとした皇族だぜ。
>>653 だからハプスブルクもロマノフも王朝が変わってるわけでしょ。
日本の場合も変わってれば変わったって記述されてたと思うよ。
「万世一系の為にそうしたんだ」なんて意見は、そろそろ考え直されるべき。
657 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 00:23:30.15
継体は、あんがい卑弥呼の子孫かもな!?
658 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 00:31:32.82
>>651 神功皇后の事業は本当かどうか怪しいが、
いわゆる「応神王朝」の初代王の母を排出した家だから
という理由で名門とみなされた可能性だってあるだろう。
あと、父が応神の子孫であるという伝承よりも
母が垂仁の子孫であるという伝承の方が古くからあるんじゃなかったっけ。
>>656 そうなんだよね。
もし継体天皇のときに王朝交代が起きていたとしたら
神話を後から都合良く作れば良くて、わざわざ前王朝に繋げずとも
正統性は確保できたはずだからね。
>>655 田舎って言うほど田舎じゃないぜ、近江は。
河内と交通の便は大して変わらない。
そもそも大津なら宮があったこともあるくらいだし。
661 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 22:13:13.33
そもそも神武天皇からしてナガスネヒコを殺して「クニを乗っ取った」のだから、
崇神、応神、継体で王朝交代があったのなら、なぜわざわざ打倒した王朝を先祖と「捏造」するのか?
自分達の本当の先祖のことを記せばいいだけのこと。
奈良にしがみつくのも継体以降の話だしね。
663 :
日本@名無史さん:2011/07/28(木) 23:13:05.05
そりゃ状況によりけりというしかない。
王朝交代が中国王朝のような前王朝の権威をぶっ潰して
新王朝をうちたてるようなものとは限らず、
例えばダレイオス一世はキュロス2世の一族ではない可能性もあるらしいが、
系図を書き換えて自分をキュロスの一族に仕立てた。
殷の系図では複数の氏族が一つにまとめられている可能性が高いらしいし、
アフリカなどでも系譜をつなぎ合わせたり
古く見せかけたりすることはよくあるらしい。
うがった目で見ると新羅の宣徳王とかも新羅の一族かどうか怪しいが
本人は新羅王の一族と名乗っている。
戦国時代の源氏とかね
665 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 12:22:53.23
>>655 大伴氏は畿内の豪族であることを誰もが知っている。
大王に長年臣従してきた家柄であることも。
だから、よく系図のわからない地方の豪族をつれてくる必要があった。
そんな例ぐらいいくらでもあるだろ。
666 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 13:01:57.27
>>661 王朝の創世を紀元前660年まで持って行くためには前王朝の歴史も取り込まなくてはならないだろ。
>>665 いくらでもあるの?
自分は出自が知れ渡っているので、
傀儡王とするための地方の豪族を連れてきて「王族」として即位させてしまう。
そのような例、3つほどでもお願いします。
>>666 じゃあなんでニギハヤヒ朝やイズモ朝の歴史は(自分の王朝の中に)取り込まなかったんだ?って話。
継体とは「とりあえず継いでみた→実質変わってしまった」の意味。
670 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 15:08:28.46
>>667 民間人なら
バラ戦争時のランバート・シムネルや楚の義帝とかか。
偽ドミトリーとかもかな。
文字もロクに使われていなかったような時代だし、。
比較するなら上に出ていたアフリカや他の古代の方がいいかもね。
671 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 15:11:41.55
>>668 征服王朝だからね。
誰かをやっつけたと言う事も記録しなければならないだろ。
継体天皇がやった事を神武天皇と言うキャラを作って継体天皇の祖先のやった事としたのだろう。
奇妙な継承の例 : 億計・弘計王(仁賢・顕宗天皇)の話
雄略天皇が絶やそうとした履中系の「自称」生き残り。清寧天皇が迎え入れたものの、
初めはどちらも即位を拒んだので、姉(!)が執政したとか、弟(弘計王)が先に即位し兄が皇太子になった…
後世ならば、重臣の政治闘争などが物語にくっついて合理性が増されるもんだろうけど、伝わっていない。
伝わっていないからこういう風に書いたんだろうけど、そのことがより奇妙さを増している。
創作がどうこういう人は多いけれど、記紀は「事実だけを書くのが建前」だから、
あ、切れた。
記紀は「事実だけを書くのが建前」だから、編纂当時、事実としての合理性がない伝承は省かれるもの。
『日本書紀』でもこのヘンの取捨選択で酷く苦労しているのが見て取れるだろ。
『古事記』、『日本書紀』に継体は応神五世の孫と書かれているのなら、少なくとも編纂当時は
事実とされたものであり、かろうじて、ここに継承の正統性を求めているだけ。
継体の出自が弱小だ傍系だけど何故という話はできるけれども、伝わってないのだからしょうがない。
まあ、ここから先は想像で楽しむ世界だと心得ようぜ。
継体の母が怪しいかもね。
彼女が雄略の子(かつ、清寧が認めない姉妹)だったとかなら、雄略側の勢力がプッシュするかも。
父系が「五世孫」でもね…という話ができちゃったりするがw
そうはいっても、顕宗仁賢そして武烈のラインは、誰あろう清寧が立てたものだから、
清寧はもちろん、編纂者としてもあっさり否定するわけにはいかない。
でも、顕宗〜武烈のラインから圧迫された、あるいは不満をもった勢力というのは存在する。
結果、大伴金村も、武烈を切って継体を迎え入れる決断をした。。。と。
この皇統のブレは、聖徳太子ごろの時代を想ってしまうのよね。
聖徳太子のころは、記紀編纂の時代にも話がはっきり伝わっているけれど、
この頃だとろくに伝わってない。だから「五代孫」なんていうのが強調される
奇妙な話になってしまんたんじゃないかと。
だから、継体、実は我々が想像するより、皇統にずっと近しい位置にあったんじゃないかと思うんだよ。
でないと大伴金村も彼を選択できない。
継体の母方が、雄略か、顕宗〜武烈に出自を求められる可能性が1番高い。
金村の縁者でもあったかもね。
上宮記も最近は推古朝の成立って言われてる。
推古朝は継体&蘇我の系統であるから、
継体の正当性を強く主張するため
より詳しく系図が書かれている。
>>670 義帝は違くね?本当に楚の血筋引いてると思うけど。
ランバート・シムネルや偽ドミトリーなんかは実在する
高位の王位継承権を持つ人物に成り変ったけど
継体も前王朝の血筋を引いていないんだとしたら遠い血縁だなんて言わずに
仁賢か顕宗の落胤だとか言えば正統性も上がりそうなものだろう。
677 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 17:59:03.26
オホド王はジンゴ(チンコ)皇后とマグワり生まれたのが桃太郎である。これは定説である。
678 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 19:43:27.51
○系譜いじり型
アケメネス朝、殷、アフリカ
○偽落胤型
シムネル、偽ドミトリー
これらの事例を集めてみるか。
679 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 21:39:51.78
応神は系譜いじり型。
播磨の二皇子は偽落胤型。
680 :
日本@名無史さん:2011/07/29(金) 22:24:44.37
チンコいじりー岡田
そのアフリカの例ってのが知りたい。
682 :
日本@名無しさん:2011/07/30(土) 10:42:50.52
>>675 こういう話をしてみようか。
「ヨシムネはイエヤス大王の四代孫である。父はミツサダ。
紀伊のクニに生まれる。母の身分は低かったが王として紀伊のクニを統治していた。
そのうち、イエツグ大王がお崩れになった。嗣子がなかったので、
絶大な権勢のあったヒロコによって、ヨシムネは大王に推され、即位した」
…この話の大まかな事情を今の我々は理解できるわけだが、
情報が大きく欠落していると、しばしば解釈に悩んでしまうものさ。
五代孫って話は継体の即位にとって大した意味はなかったんじゃないかと思うよ。
単純に大王一家に比較的近い有力者だったのさ。でなければ推戴されるわけない。
そもそもできないよ。周囲の支持を集めようがないから。
記紀には中央の話しか載らない。地方や地方との関係なんて書かれてない。
家の有り様や組織・社会の事情なんて、同じ日本なら、中世近世と大きく違うわけじゃないんだ。
皆、この手の想像力を働かせるべきじゃないかなぁ。
だから落胤説なんて意味ない。実際に落胤が吹聴されていたのなら、記紀にそう書かれるはず。
記紀は継体の正統性を主張したくてしかたないんだから。
例えば、こんな話だってできるさ。
「ヨシムネは、実はツナヨシの子である。なぜならばヨシの名が共通しているから」とかね。
実際に、吉宗は綱吉から偏諱を賜っている。その程度だけれど、縁者だったとは言えるよね。
683 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 12:22:23.00
しかし実際20年もにヤマトにはいれなかったからね。
この長い間に代理大王が本当に立てられていなかったのかも気になる。
684 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 12:30:24.37
まさか継体は
先に畿内で大王になっていた丹波のヤマトヒコを打倒して即位したのでは…
継体を正統とする立場としては、対立王の即位など記さないだろうし。
685 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 13:03:11.64
応神も本来は王子でなく、武力で王位を獲得後、
前王家の娘を嫁にしたと言われてるな
>>683 20年ヤマトに入れなかったのではなく、入らなかったという考えもある。
ついでに、継体は淀川域に本拠を置いていたが、
ヤマトには勾大兄(安閑)、手元(カワチ・ツ)には高田(宣化)を配していたのではないかと、
各皇子の伝承や子孫の本拠地などからの類推。
ついでに、本文の20年ではなく、或本の7年ヤマト入りが史実に近いのではないかと。
この場合、継体の即位を517年頃とし、ヤマト入りは523年頃との説もあり。
>>684 丹波のヤマトヒコの墓ではないかと言われているのが千歳車塚古墳。
この古墳は河内の仁賢陵や安閑陵などに見られる片直角型といういびつな形をしていることでも知られる。
しかしこの時代の大王陵である仁賢陵・安閑陵などや、
仁賢の姻族墓とも考えられる石上古墳群の盟主墳が120mクラスなのに対し、
千歳車塚は80m程度。飯豊皇女陵として蓋然性が高い現陵・北花内大塚でも90mであり、
古墳の規模で全てが分かるわけではないが、ヤマトヒコが大王だった可能性は低いのではなかろうか。
ただ、2重の周濠を持ち、三段に築成されるなど、非常に興味深い古墳ではある。
それと、もし大王だったなら、記紀編纂者がお得意の「系譜いじり」術を駆使し、
例えば継体の前あたりの大王に名前を連ねていたことだろう。
応神王朝と言われているものは実は仁徳王朝だよ。
オホサザキとワカサザキで首尾が対応している。
応神は神話的な始祖だから仁徳の子孫ではない継体が
応神を始祖とすることができたんだよ。
>>685 応神以前の古墳前期に「王家」なんてあったのか?という学者もいる。
つまり、応神を新しい王権の創始者とする意見でもいろんな見方がある。
しかし、近年指摘されてるのが、河内の大古墳の建設は、
想定される応神の実年より古い段階で始まっているようだ、ということ。
一方記紀では、応神の父であり王朝交替説では断絶があるとされる仲哀の墓は応神陵の近くにあるとされ、
近年の考古学的見地にむしろ一致している。
そんなことから、記紀の伝承どおり応神は大王の末子で、
本来の正室腹であった兄たちを打倒して大王になったのではないかという考えも決して荒唐無稽な話ではない。
さすればそれを画策した「妾」たる神功は、ほんとうに女傑だったのかもしれない。
689 :
日本@名無史さん:2011/07/30(土) 15:49:39.02
>>686 ヤマトヒコが大伴氏達に廃位されたのなら
墓は小さくて当然だろう。
しかし、実在さえ確かとされて無い人間の墓を比定できるの?
実在が確かとされて無いんだったら、大王だっただの廃位されただのもナンセンスだわな
>>688 王朝交代はまあないでしょ。
大王は合議制で選んでるから、血筋交代はしょっちゅうあって、
継体から天智・天武の時代に奈良の系統に血筋固定していったのでしょう。
それはやはり蘇我の力が強いんだと思うけれども。
記紀的に大王を合議なんかで選んでないでしょ?
記紀の原資料が編まれた時代
天智というか中大兄という傍系の皇族が今みたいに渡来人と結託して
本来の大王家を滅ぼしたから宣化・敏達系の以外の皇族は極端に少ない
693 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 10:50:23.74
平群は王になろうとしてたのか
694 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 11:44:41.51
蘇我も大伴も物部も葛城も大王を輩出した形跡は全く無い。
吉備からも尾張からもない。
「大王は合議制で選び血縁にはとらわれない」などというのは全く根拠なし。
695 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 12:28:48.21
合議だったらなおさら中央の強すぎる豪族は避けられるはず。
だから播磨、丹波、近江から選ばれた。
696 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 14:46:26.10
>>692 記紀的には前の大王が死ぬと群臣が集まって会議して
群臣の推挙によって大王の血族から次の大王が決まっている
群臣の推挙による即位がなくなったのは天智ぐらいから
697 :
日本@名無史さん:2011/08/01(月) 20:36:06.47
神聖ローマ帝国に似てるな。
後でハプスブルク家に一本化されたな。
後の五摂家みたいな感じで、「皇族」の家柄の中でも「大王」になれる家柄があって、
基本的にその中で選ばれていたとかないかな
初期は「巻向家」「柳本家」「大大和家」から選ばれていたけどその後「佐紀家」が有力になり、
さらに半島との交流が盛んになるにつれ、瀬戸内に近いところに本拠を持つ「百舌鳥家」「古市家」
から交互に選ばれるようになったが、両家に適当な候補がいなくなったために播磨や近江に土着していた
桓武平氏や清和源氏レベルにまで声がかかったとか。
そんな、古墳群ごとに○○家とか○○系とか、
どういうわけか学者さんにも多いけど、そういう単純なものではないでしょう。
だいたい各古墳群とも、いろんな規模のいろんな型の古墳が数多くあるわけで、
そのある一つの古墳群が全く一つの家の構成員によってのみ形成されているとは考えられないし、
逆に、同じ家の構成員が離れた別々の古墳群に葬られていることだって考えられる。
(記紀の陵墓伝承なんかがそれだが)
時代背景も政治から文化から何もかも違うので批判されることを承知で敢えて書くが、
都が京都に遷った平安時代でさえ、天皇陵はまとまった場所に造られてはいない。
たとえば、平氏と源氏の遠祖たる桓武天皇と清和天皇の陵の直線距離は、
ちょっとした散歩コースであるオオヤマト〜マキムク間は言うに及ばず、
百舌鳥〜古市間も優に超え、箸墓〜佐紀間くらいはあるんだよ。
付け加えれば、こういう「古墳群ごと説」はさ、
藤原京域の墓と平城京域の墓のそれぞれのあり方や両者間の関係性などから推し量っても、
そう簡単に肯定できるものではないだろ。
700 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 08:16:30.57
複数の氏族から選挙→特定の氏族から選挙→兄から弟→親から嫡子へ
という流れはどこでも同じか
>>700 でも記紀では「親から嫡子」が建前になってるんだわな。
こうじゃないと王統じゃないと言わんばかりに。
理由はわかるけれども、数々の伝承をこの考えで整理してしまったから
後世の我々が不合理性(脚色)の臭いを我慢しなくちゃいけなくなってる。
>>699 清和天皇は嵯峨天皇の系統ってことで、
陸墓の位置は説明できて、
余り適切な例でなかったのでは?
703 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 12:05:52.33
まさか雄略天皇って
自分達以外の大王を排出できる氏族を滅ぼしたんじゃあるまいな。
>>702 要は、平安時代という、都も定まり皇統も確立されている時代においても、
天皇家の陵地が歴代で連続、密集しているわけではなく、
被葬者本人や後継者の意向など様々な要因で、その選地が行われているということ。
嵯峨天皇の系統というけど、嵯峨の子で清和の祖父である仁明帝の陵は深草で、むしろ桓武陵に近いよ。
で、距離感的に、一見遠く離れていて別系統と見える纏向と佐紀でも、
実は同じ平安初期の桓武帝と清和帝の陵の所在地の直線距離と同じくらいしかないのだよ、
ということをイメージしてもらうために例示しただけ。
だから、古墳時代だって、たとえば「古市と百舌鳥は別々の系統だ」などという短絡的な思考で見るより、
古市に葬られるか百舌鳥に葬られるかは本人や近親者などの意向に拠ってた可能性だって大いに考えられるだろう、
というわけ。
>>703 大王の座確保という以前に、
上の世代から兄弟同士で殺し合い・相続(というか奪い合い)してるし
自身も即位前から謀略のまっただ中にいたんだ…粛正大将になって当然かと。
>>701 応神以前と応神以後では明らかに記紀の書き方が異なっているよ
応神以前では親子相続だが記紀編者が熟読して参考にした中国史書の影響を受けている
応神以後では群臣推挙、兄弟相続といった当時の日本ならではの
風習が描かれるようになる
707 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 15:09:43.80
応神と神功皇后の正体って何なんだ?
新羅人か?
708 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 22:11:41.76
仁徳の墓には、誰が眠っているんだよ!?
709 :
日本@名無史さん:2011/08/02(火) 22:57:29.94
>>706 神武から仲哀までは系譜しかのこってないということか。
>>668 ニギハヤヒの王国は縄文人との連立政権だったから。
いや系図自体怪しい。
711 :
日本@名無史さん:2011/08/03(水) 00:23:48.92
系図と言うより、「○代前の首領が九州から来て
縄文人を滅ぼして村を作りました」
くらいの伝承があっただけかもな。
もちろん同じ血筋から首領が出ることもあったとは思うけど。
712 :
日本@名無史さん:2011/08/06(土) 22:51:49.77
ただ、継体天皇の時代にはわざわざ丹波と近江から選出するってことは
もうオオキミを輩出できる氏族ってひとつしか残ってないのでは。
713 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 01:35:43.44
雄略が暴れ回ったからかな
714 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 08:29:17.31
クローヴィスみたいだな。
715 :
日本@名無史さん:2011/08/07(日) 23:14:23.99
糸魚川のヒスイを握っていた天皇家の一族だろ!!
716 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:59:17.45
大阪城本丸の下に巨大前方後円墳がある。石山本願寺の石山は古墳の葺き石の事。この古墳の存在が明らかになると宮内庁指定の御陵は間違いが出てくる。
717 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 19:59:57.13
塩だよ。 大和にないだろ。
傍系の豪族だら!
当時の情勢として『幼帝』および『傀儡』が不可能と言う事情がある。
血統だけでなく年齢と能力を考慮すると、傍系王の出現になったのだろう。
そう考えるとオケ・ヲケ伝説は非常に胡散臭い。
719 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 04:01:31.75
応神五世と見るよりも、仁徳の兄弟の子孫と捉えるべきだろ!
720 :
日本@名無史さん:2011/08/15(月) 20:14:32.16
いや、応神の血脈であることは間違いないと思いますよ。
継体、安閑、宣化、欽明と言う系譜の流れは、傍系が本家を乗っ取ったとか、
非血族の豪族が王統を僭称したと言う感じじゃないですね。
継体の扱いは、どうみても種馬、本人や擁立前に出生していた二王が権力者だったようには見えない。
まさしく、王統を継なぐための存在。
しかし、記紀にあるように他に王族が居なかった訳ではないでしょう。
権力闘争に組みし得ないような、泡沫王族だから擁立された大王です。
継体擁立譚の不自然さは、その正統性を薄めるものではありません。
逆に、記紀において疑うべくは、手白香の系譜でしょう。
継体のような脆弱な王統が必要だった手白香、こちらの方こそ僭称血族の可能性があります。
手白香が傍目にも顕かなまがい物でも、継体と言う種馬により、欽明の正統性は確保されるわけです。
後代の天武系廃絶、天智系復帰もこのパターンかも。
私はそうは思わんな。
手白香の墓(断定されたわけではないが)と考えられる西山塚古墳の埴輪は、
一時継体陵(今城塚)付近の新池遺跡で造られたと見られたこともあったが、
詳細な調査の結果、佐紀古墳群などのある菅原の地(今の奈良市)で造られたことが分かった。
西山塚は今の天理市にあるが、この二点の間には、まさに雄略朝〜継体朝間に相当する時代、
5世紀末〜6世紀初頭の大王墓にも匹敵するような古墳も存在している。
いわゆる石上古墳群だが、石上といえば手白香の父・仁賢の宮地であり、
その后妃には春日和珥氏系の人物がついていることからして、物部氏の古墳というよりは、
春日和珥氏に関係する古墳ではないかとも考えられる。
別所大塚古墳などは古市古墳群の安閑・春日皇后陵との関係を指摘する考えもある。
後代の天武系廃絶・天智系復帰のパターンが同じとは?
井上内親王がまがいものだったってことかい?
722 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 02:51:51.70
手白香って何歳位だったんだ
妹が二人いるとはいえよく嫁いでなかったものだ
名前からして、白髪のold mistressだったのか?
724 :
日本@名無史さん:2011/08/16(火) 07:08:50.06
磐井が反乱起こしたのも継体の正体を知ってからだろうね
越の地方豪族だった継体が大伴に唆されて天皇家を滅ぼした
これが大まかな真実だろ。
1世紀をG節に分けて、歴代天皇や皇族の生年を割り振ると、
平均的には1節おき(1世代はだいたい25年だから当然といえば当然)になり、
系統の違いによって同じ世代でも誤差が生じる、などの特徴から、
古代の天皇・皇族の生年を推測するという「お遊び」があったね。
記紀の系譜や伝承を尊重し、継体前後の数世代で見てみると……
神功紀の「百済記」年代・新羅遠征時の応神「胎中」天皇伝承から、
応神の生年を360年代はじめとすれば、これは4世紀第V四半期であり、
4世紀DE節のちょうど中間あたりとなる。
次の1世目である仁徳・稚野毛らは4世紀第W四半期(FG節)、
2世目は5世紀第T四半期(@A節)……とやっていくと、
5世目である継体や手白香は5世紀第W四半期(FG節)となる。
二人の子である欽明が6世紀第T四半期の生まれ、孫の敏達や用明が第U四半期、
曾孫の彦人や厩戸が第V四半期、玄孫の舒明や山背大兄が第W四半期にも想定できるから、
継体・手白香の5世紀第W四半期生まれは妥当なものと言えるだろう。
一応男長女幼とすれば、継体が5世紀F(確実ではないが古事記の527年43歳没からすると485年生まれ)、
手白香が5世紀G(488〜500年頃)に比定できるのではないか。
その中間年の494年生まれとして、書紀による継体の即位年507年には13歳くらい。あり得なくはないが、
>>686の517年頃即位説をとれば、23歳くらいと想定出来るであろう。
東海から見ると
山城や大和は西国への入口なんだよね
↑尾張一族黒幕説
728 :
日本@名無史さん:2011/08/19(金) 16:14:49.38
何の知識も無い人間からの、基本的な疑問です。
『古事記』『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫━━とのことだけど、
現代の様な戸籍制度が無きに等しいし、
戸籍制度が整備された現代でさえ、明治天皇の孫を自称する中丸薫みたいな人もいる。
5代を経ているってコトは、少なくとも150年くらいは経過しているのだから、
一代で成り上がった地方の有力豪族が、勝手に 大王の子孫 を自称しても、不思議ではないと思うけど・・・・・
730 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 10:09:48.54
ヘンリ七世くらいに前王朝とのつながりはあったかもしれない。
一代で成り上がったのではない。后妃を出した有力豪族だった。
真偽はともかく、応神の子孫という伝承は継体の前からあっただろう。
稲荷山鉄剣には十代前の始祖からの系譜が記されている。同じころに
近江や越前の豪族に系図がなかったとは考えられない。天神地祇、天皇・皇族を
始祖としてこその豪族だったはずだ。
>>729 勝手に自称するなら、中丸しかり偽有栖川しかり上の方にある英露の例しかり、
日本の他の時代にだっていくらでも例はある。
しかし実際にその身分として収まり得るかどうかの問題。
つまり、中丸や偽有栖川がある日突然一般参賀や園遊会に皇族として参列したり、
ましてや天皇となってしまうということが出来るのか、ということ。
それと「5代」は、系譜の端と端を見ると全くの疎遠に見えてしまうが、
自分を「間」に置いてみると、そうでもない。
どういうことかと言うと、自分が生まれた時には祖父世代がいる。自分が年を取れば孫世代がいる。
これで5世代。つまり、自分の系統が孫世代で途絶えてしまった時(自分はもう生きてないだろうが)、
祖父の弟の系統から同世代の者が継ぎに入った、くらいのことで、衆目の的である大王家ならば、
そのくらいの縁遠さでも後継たり得たろうし、その一族の輪の中に勝手に割り込むのは難しかったであろう。
それに、どうせ詐称するなら、中丸や偽有栖川のように「皇孫」でも良いわけで(その方が箔がつく)、
継体陵周辺の発掘調査などからも、前代(5世紀)との連続性を想定することはできても、
今のところ積極的に前代との「断絶」を示すようなものは見つかっておらず、
記紀に伝えられたとおりであった可能性をことさら捨象する必要もないであろう、というのが私の意見。
>>731 >>732 なるほど・・・・・
祖父−父−自分−子−孫 で考えると、5代になる訳か・・・・
でも、「 祖父 」のことを「 孫 」に伝えるべき「 自分 」が、仮に「 ほら吹き 」だったらば・・・・・という疑義は付いて廻る。
それに、文字として記録が残りにくい時代だから、
「 医者 」じゃなくて「 石屋 」━━的な聞き違い( By 横山たかしひろし )が生じていても不思議ではないし・・・・・
>>733 何を言いたいのか良く分からないが、
王家とか摂関家とか将軍家とか、いわば公の立場にある家系において、
「祖父」と「ほら吹きの自分」と「孫」との関係をどう想定してるの?
「聞き違い」についても、具体的にどういうことなのか説明をお願いします。
735 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 12:21:04.37
現にアフリカなどの無文字社会では「遥か昔からの伝承」
というのは極めていい加減だからな。
736 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 12:24:28.78
>>732 継体は自らの力で王になったというより、
ヤマトの豪族が擁立したなら「断絶」なんか見つからないんでは。
もちろん、ヤマトの豪族(の一派)に見初められるくらいの財力なり姻戚関係くらいはあったかもだが。
「遥か昔からの伝承」と「名門一族5世代の系譜」とじゃ全然釣り合わないけどね。
>>736 だから、近江・越前という「畿外」(しかも大勢力でもない)から擁立されたということは、
大王家の血筋が裏打ちされたのでは? というのが系譜肯定派の意見でしょ。
大王家の血筋にこだわらないんなら、それこそ並みいるヤマトの有力豪族が大王になっちまえば良い。
739 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 12:39:36.67
有資格の有力者が複数いる場合、
勢力が弱くて中央から距離を置いている者から王が選ばれるのは
ハプスブルクやロマノフの場合でもあったじゃないか。
珍しくもない。
ハプスブルクやロマノフの場合そこから王家・王朝が興ってるわけだからね。
ホーエンシュタウフェンやリューリクに王統を繋げたわけではない。
>>734 いやぁ・・・ そんなに難しく考えなくても・・・
例えば、
貧しい水呑み百姓の「 祖父 」「 父 」の家系から生まれた「 自分 」は、そこそこ甲斐性が有って、田畑を得ました。
そこから「 子 」「 孫 」も甲斐性が有って、田畑をさらに大きく拡げ、武力も得て、
本拠地を加賀から越前に移した「 孫 」は北陸道を束ねる豪族になりました。
「 子 」は先に亡くなったが、「 自分 」は当時としては長命で80歳まで生きました。
そして、いまわの際に、苦しい息の中で「 孫 」に「 お前は、応神天皇5世の子孫 」と伝えたとすれば、どうでしょう?
そして、その言葉を受けた「 孫 」は、我が一族の礎を築いた「 自分 」の言葉を金科玉条の様に妄信し、
「 我は応神天皇5世の子孫なり 」と称し、更に勢力を拡げ、ヤマト王朝から迎えられました━━というコトも考えられる、ということです。
今みたいに、警察検察等の調査をする機関も無いし、
本拠地を移していたりしたら、出自の噂もどこまで付いて廻ったかは疑問だし・・・・・
それに、当時は応神天皇なんて呼び方はしておらず、
「 ××の みこと 」( ウィキディアでは四種類の諱を挙げている )であるから、
本田別尊( ほんだわけのみこと )を、誉田別尊( ほむたわけのみこと )なんて言い間違い聞き間違いをしていても不思議ではない。
かなり大袈裟に書いたけど、
モチロン 資料として残っているから、全て正しいという意図は無い。
しかし、「 応神天皇5世の子孫 」はかなり伝承だけに頼っている感じがするから、
継体天皇から、全く別の系統としての新しい王朝が始まった━━としても、違和感が無いと思う。
>>741 私は総合的に見て、あなたの例示したような展開があったとは思わんのですよ。
あなた風の考えで行くなら、別に「詐称」するなら5世どころか、「親子」間でもありうること。
(水呑百姓が子供に向かって)「お前は実は王家の子供なんじゃ」
それを真に受け立身出世した子供が王様になった……考えられるっちゃあ考えられる。
つまり、究極的にはどうとでも言えちゃうわけ。
しかし私は、現状の文献学的・考古学的考察からは、
継体が全くの別系統の人物だったとはそう簡単に断定できない、
というかむしろ、記紀の伝承はそれなりに真を得ているのではないか、という立場にあるということ。
5世の孫の5と言う数字に現実的意味があるかと考えると、これに意味は無いと思う。
理由は平将門が坂東で独立王朝を樹てた時新皇と称しているが、
彼もまた桓武帝5世の孫だからである。つまり人々の感覚から言うと、5世孫が親戚と
考えられる限度なのだろう。記紀が成立した年代と将門の時代の間に開きが無い
ことも併せて考えるべきである。
では何故応神の5世王と記したか?私は将来の皇統断絶を考慮に入れ、皇位継承者を担保する意味で
故意に5世の孫説を採用したと考える。
744 :
日本@名無史さん:2011/08/20(土) 19:15:07.06
怪しいと言えば、「応神」の子孫であるという点も。
ま、これは永遠に謎だろな。
仮に「同時代に書かれた系図碑文」が見つかったとしても、
「これは出自を正当化し補強するために作られたものだ」
で終わり。
でも、発掘や調査の成果から色々想像するのは面白いでしょ。
例えば、5世紀初頭の誉田御廟山古墳(現応神陵)の相似墳として、
摂津三嶋の地に5世紀前〜中期の太田茶臼山古墳(現継体陵)があり、
ほぼ同形同大のものが誉田御廟山のすぐ近くにある5世紀中期の市野山古墳(現允恭陵)で、
その陪塚からは阿蘇ピンク石が出ている。
一方、太田茶臼山の埴輪製作のために稼働した新池遺跡は、
それから約1世紀後の6世紀前期に造られた今城塚古墳にも埴輪を供給している。
その今城塚古墳こそが真の継体陵と言われており、ここからも阿蘇ピンク石が出ている。
何かしら繋がりが見えてきそうじゃないかw
ちなみに継体との関係で語られがちな阿蘇ピンク石、
私はそもそもは雄略の方が深くかかわっていると考えています。
(5世紀の出土地が雄略の関連地とダブるため)
747 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 10:38:54.85
>>740 論点ずれてないか?
ネット上とかで「継承者が絶えたら畿内の有力豪族が即位すればいい。
わざわざ偽物をよそから連れてくる必要はない」
みたいな意見は他にも目にしたが、
中央の有力者が複数いた場合、そのどれかが即位することは極めて難しい。
あと、ハプスブルク家やロマノフ家の時代には文書も、名字も、
男系で途切れたら名字が変わるというルールもあったが、
継体の時代にそれはない。
「王朝が変わった」とみなすかどうかはケースによりけりだろう。
そこで聞きたいのが、じゃあなぜオホドが選ばれた?ってこと。
749 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 16:13:08.83
古代史難問のベスト5に入るでしょう。
日本書記の内容は、百済・韓国南部で占めています。
隅田八幡神社の「男弟王」=継体を支持しています。
750 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 21:28:58.23
◆糸魚川の翡翠が、三種の神器の1つ!
>>748 継体は近江の豪族を父方、越前の豪族を母方に持ち、
尾張の豪族の娘を最初の正室にしていた。
それらの勢力を味方につけたい大伴金村が
あなたを大王にしましょうと言いよったんじゃないかな。
畿内豪族の中で一歩抜け出したい金村にとって、近江・越前・尾張が
金村を支援してくれるならありがたいわけで。
継体以降、一気に大和への求心力が増大しているのも面白い。
>>751 それなら5世紀後半以来成長いちじるしい尾張さんを大王にしそうなもんだがな。
754 :
日本@名無史さん:2011/08/24(水) 10:04:35.01
丹波のヤマトヒコは対立候補と考えたい。
後で、仲哀の子孫で情けない人物ということにされたと。
>>753 尾張氏を大王にしても尾張一国の支援しか受けられないだろ
継体は娘の嫁ぎ先にすぎないし
継体ならば父母が出た越前・近江は手にしたも同然だし
さらにその子は尾張氏の血も引くわけで3氏の支援を得られる
なんかそこまで来るとなんで大王家の遠縁であることをことさら否定したいのかが分からんな。
複数の大王候補者がいたと考えるのが自然。
ヤマトヒコも候補者の一人。吉備、尾張
あたりの地方豪族が自称大王家の末裔を
後援している構図だったのだろう。
ていうかさあ、
継体の出自が近江と越前、妻が尾張氏、
丹波に有力候補がいるも、
畿内の豪族(大伴・許勢ら)によって擁立される……
みんな記紀からの引用なのよ(これは考古学的にも矛盾するものではない)。
で、なんで「大王家の遠縁」というところになると否定してかかるのかなあ。
息長真手王、坂田大跨王辺りも応神の血を引いていることになっているしなあ。
それの何が問題?
ちなみに私は、「後世の古代豪族系図」風に書けば、
本来は息長真手君、坂田大跨君だった可能性があると思っている(他の皇別[君・公]氏族の系図から)。
彦主人王や男大迹王も、もとは彦主人君(汙斯君)・男大迹君(乎富等君)だったのではないか。
で、継体が大王位に就いたことで、真手王や大跨王も大王一族(律令制でいう皇族)となったことで、
「王」表記が後付けされたと。
>>758 息長氏が近江の土着豪族と考えられていて
畿内から来た天皇の末裔だとみられないからだろ。
ちなみに記紀では蘇我氏も中臣氏も葛城氏も大伴氏も
すべて天皇になる資格のある天皇の子孫。
それをいうなら継体に限らず古代豪族は全員天皇の子孫になる。
>>761 >息長氏が近江の土着豪族と考えられていて
>畿内から来た天皇の末裔だとみられないからだろ。
その根拠をください。
>すべて天皇になる資格のある天皇の子孫。
>継体に限らず古代豪族は全員天皇の子孫になる。
それに近い考えを私は持っていて、律令制の前段階である当時は皇族・王族の詳しい定めなどなく、
強いて言うなら、究極的には「キミ」姓(皇別)の豪族が王位継承の候補となり得たのではないかと思っている。
「君」・「公」は「王」(キミ)に通ずるの観点から。
764 :
日本@名無史さん:2011/08/25(木) 17:56:08.44
面接でなんでもいいから興味あること語れる?って言われて、
オホド大王のこと語ったら落ちた。まず関係ないけど
仕事に「関係ない」
歴史に興味のない人にその時代の天皇を語ると
右翼判定が下されるんじゃね?
767 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 12:20:06.65
>>762 記紀では中臣氏の祖先武内宿祢は孝元天皇の曽孫としている。
つまり、中臣氏は神別ではなく孝元天皇の子孫。
>>763 近江には古くから息長氏由来とみられる古墳の存在。
仁徳の異母兄弟が急に近江を征服して従来の豪族を追い払い土着したというよりも
それをさかのぼる時代からの継続した王の存在
768 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 13:12:02.08
「河内王朝」「播磨王朝」「越前王朝」がそれぞれ血の繋がりもない別の王朝で、それを
「紀」を編纂する時に、無理やりつなげたって事はないですか。
「体制を受け継ぐ」から「継体」天皇って名前だったのでしょう?
無理やり作ったような名前ですよね。
ひと昔前にはそういう考えが盛んだった。
でも「足利幕府」「織豊政権」「徳川幕府」を、
「徳川実紀」を編纂する時に無理やりつなげるようなもんで、
河内だの播磨だの100年も続かない「王朝」に比すれば、
継体からは200年近くが立たんとする盛期にあたるのだから、
継体が真の「始祖」ならば、そこから筆を起こせばよい。
(継体を「至高の神」の末裔に繋げるなどしてね)
「継体」ってのは「先祖のあとを受け継ぐ」とか「後継ぎ」の意味だよ。
んでもって、日本書紀の継体紀の詔(後世の作文だろうが)の中に、
「継体の君として、中興の功を立てようとするならば云々」として出てくる言葉なんだよ。
>>767 中臣の祖神はアメノコヤネノミコトだよ。
>>767 坂田も息長も、前期には前方後方墳などが築かれるが、
中期後半以降には、とくに段築や埴輪・葺石等を持った首長墳の造営がさかんになり、
埴輪技術などには畿内中央政権との交流も見られる。
これを、前期以来の土着豪族による首長系譜と見るのもいいが、
上の方にもあるように、一つの古墳群が必ずしも「豪族の歴代首長だけ」で構成されているとは考えられず、
そこに外戚とか従者の一族とかが絡んでいる可能性は大いにある。
私は、真の継体陵・今城塚に近接する太田茶臼山(現継体陵)が、継体の上祖である稚野毛二派皇子の墓で、
皇子自身の本拠はその三嶋(淀川流域)にあったと思っていて(よく皇子が直接近江を本拠にしたように思われがちだが)、
近江との縁は皇子の母、妻及びその子孫によって繋がるものだと考えている。
つまり、坂田・息長の前期古墳の造り主が大王家とは直接関係ない土着集団だったとしても、
河派仲彦や息長真若中比売などに象徴される継体上祖の母系集団(あるいは坂田・息長君祖らの母系集団も)が介在することにより、
征服とかいうことではなく、中期後半以降は豪族化した稚野毛皇子系の子孫たちの奥津城となった、という想定も出来得るということ。
773 :
日本@名無史さん:2011/08/27(土) 21:39:58.92
「上宮記の系図は捏造だ」という主張でも
「まったく無関係な氏族が乗っ取った」という主張から
「外戚になったり、女系で応神の血を引いている」(イングランド王家みたいの)という主張まで
千差万別だからな。
ただ、「実態はともかく系図を記すときは男系でなければいけない」
みたいな理想はあったのかもしれない。
蘇我本宗家が大化の改新で焼亡したけど、
その時燃えた天皇記や国記には記紀以上の
情報が書かれていたのかな?
記紀以上に創作が多かったかも。
776 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 15:06:40.60
>>729 > 戸籍制度が整備された現代でさえ、明治天皇の孫を自称する中丸薫みたいな人もいる。
これは本当の孫だよ(側室系だが)
777 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 15:07:47.72
>>774 ところで天皇記や国記がなぜ蘇我邸に保管されていたのだろうか?
778 :
日本@名無史さん:2011/08/28(日) 15:44:15.74
>>777 蘇我馬子が編纂したからだろ
推古天皇の命令により蘇我馬子と聖徳太子が編纂したことになっているが
実質的な編纂者は蘇我馬子だったとみられている
推古天皇に献上され天皇家に伝わらなかった理由は不明
>>778 蘇我氏が天皇家に取って代わる意図だったからだろう。
やたらと女帝が立ったのも天皇家弱体化を考えてのことだろう。
その視点から行くと、蘇我家を美化したロクなものじゃなさそうだ。
皇極(斉明)は蘇我系じゃないけどね。
継体朝以前に、継体朝での意味の『女帝』がいなかったどうかもよく分からないし。
781 :
日本@名無史さん:2011/08/29(月) 18:47:56.66
>>779 女帝=弱体化というのは当たらない
持統、元明、元明、称徳の女帝たちの代は
強固な国家運営が女帝の手によって行われていた
逆に蘇我氏の全盛期には男性天皇も蘇我氏の傀儡だった
ちなみに蘇我系天皇の前には女帝の飯豊天皇がいたとされている
(記紀では即位したと記す)
女帝は生理の日はどうしてたのだろうね。
祭祀王としての役割を果たせたのかな。
それを思うと傀儡臭いんだよね。
783 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 03:37:37.95
>>782 その間は祭祀をしないか、代理立てるのでは?
蘇我氏は、皇別氏族の武内氏の傍系の貴族だけど
その歴代当主の生母の出自までは分かっていない。
でも、蘇我氏の歴代当主には、蘇我韓子なんて人物が出てくる。
日本書紀によると、当時の倭の豪族が、隣国(半島南部か?)の女性を妾にして
その間にできた子供に「韓子」と名付けとあるから
蘇我氏の歴代当主の中には、半島系の生母がいた当主もいたかもね。
蘇我氏自体は男系で見たら、皇別氏族の名家だけど
その生母の出自みたら、非常にリベラルな出自だったのかも。
だから、当時のヤマト朝廷からしたら、問題のある豪族だったと思われ。
>>769 そうだよ。
もし、継体から新しい王朝が始まるのなら
そこから新王朝が建国されたと記せばよいだけ。
事実、記紀の記述では、出雲国譲りみたいな
明らかな王朝交代の歴史を記載している。
もし、王朝の歴史をより長くしたいのなら、
出雲大国主も自分たちの男系で継承された先祖としていたと思うしね。
786 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 07:39:31.19
そうかな
787 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 10:05:37.42
継体の場合、すでに確立された政権に「前王朝の縁者」という触れ込みで招かれたから
状況が全く違う。
なんでことさらに「別王朝です」とか主張しなくちゃいけないの?
ヘンリ七世かダレイオス一世あたりが近いか。
>>784 母方が朝鮮系であることなどこの時代には何の問題もないよ
雄略天皇は朝鮮から妾をもらおうとした記述があるくらいだしね
(池津媛、途中で家来と交わって殺されたが)
雄略天皇の妃で葛城円大臣の娘だった葛城韓媛というのも
母親が朝鮮系だったんじゃないかと言われている
>>782 生理が不浄でその日は国家の祭事は行わないというのは
江戸時代の後桜町天皇のときはそうなんだが
(それでも毎日行う日々の祭事は行っている)
いつからはじまった風習かわからないんだよね
日本の祭祀は女帝に限らず、皇后・大后が行ってきておりその人たちは
本当に生理日には祭祀を行わなかったのかどうかなんて
卑弥呼なんて60年間も女王やってて鬼道で国を統治してたのに
記紀を読めばわかるけど、
ヤマト王権は、明らかに王朝交代だと認めている箇所が一つある。
出雲国譲り。
そこから、ヤマト王朝の歴史が始まったので、
長い間、朝廷はこの事実を大切にした。
皇室が、出雲の神様を大切にする理由。
それは、ヤマトの正統性は、出雲王権から天下を譲られたこと。
出雲国譲りって、出雲からヤマトへの禅譲。
よって、ヤマト王権は、出雲国譲りの時に
初代天皇(初代、ヤマトの倭王)とされる人物がいるはずだが。。。
記紀には、そこんとこの記述が曖昧。
日本書紀なんて、人の世界と神話の世界を明確に区別し、
出雲国譲りを神話の世界としている。
>>790 王朝交代も何も・・・
記紀は大和王権の祖天照大神と出雲王権の祖スサノヲは
実の姉弟だったとしているんだよ
大和王権と出雲王権は祖先は同じ(イザナギとイザナミ二神の子)
だと明記してるのに
>>791 まあ、そこまで遡れば、そうだけど
でも、実質的に最初は出雲国譲りが最初だと。
わざわざ、ヤマトと出雲を、天津神と国津神に分けているわけだから。
出雲とヤマトが同じ祖先ぽい、しかも高天原出身とされたのって
後付けじゃないだろうか?
ヤマトは、高天原、つまり、葛城の高天の原の出身だけど
出雲に関しては、おそらく全くの別の系譜、あるいは同じだとしても
かなり前に、葛城の高天の原から出雲に引っ越しした一族だったように思う。
天照大神、スサノオの世代と、天オシホミミ命や大国主の世代とは
事実上、断絶している。
オシホミミ命の誕生は、男女の性行為ではなく、
天照とスサノオの兄弟が誓約して刀がどうのこうの出てきた。。。
みたいな記述だし。
また、それ以前の、天照とスサノオの誕生に関しては、
左目とか、右目とかから生まれてきたんだろう?
大国主の系譜なんて、古事記とかでは、スサノオの7代くらいの子孫だとか、
でも、大国主の奥さんが、なぜか、スサノオの娘さんとかいう
世代数ぐじゃぐじゃ状態だし。
なんというか、ぐじゃぐじゃなんだよ。
でも、天オシホミミ命、大国主命あたりからは、世代数がだいたいが常識通りの記述になってくる。
よって、記紀神話の部分では、天オシホミミ命、大国主命あたりからは
割と実在性高いと思うけど
それ以前は、ずっと前にそういう神話があった程度だと思う。
実際に、尾張氏のなんか祭りでも、事実上
天オシホミミ命が直接の元祖で、それ以前の天照大神は、
天オシホミミ命とは直接の親子関係はない
ずっと前の先祖ぐらいの扱いらしい。
793 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 17:39:04.35
>>788 イングランド王妃がフランスから来るくらいの感覚かね?
>>792 そこまでもなにもスサノヲの子大国主が天照の孫二二ギに国を譲っていて
大国主と二二ギ血縁の近さは相当なもの
五世王だという継体のほうがよっぽど大王家から血縁が遠い
>>794 いや、だから、日本書紀では、大国主がスサノオの子供とされているが
日本書紀の別の一書や、古事記などでは
スサノオの7代くらい後の子孫が、大国主とされている。
記述が大混乱している。
また、アマテラスってのは世代を超えて、定期的に登場するんだよ。
だから、自分の中では、
大国主とか、天オシホミミ命のあたりからは、実在していた人物で
それ以前のアマテラスとかスサノオってのは、
彼ら(大国主とか、オシホミミ命ら)の親世代の話ではなく、
その時点で、ずっと前の神話の伝承だったのでは?と思うわけ。
>>793 というか、属国にしていたから、属国民の女性を寝とる間隔じゃないの?
どうせ、正室ではなくて、側室でしょう?
西欧諸国の場合は、一夫一妻という建前だから、妃の出自の影響はかなり大きいが
日本の場合は、一夫多妻制だから、多くの妾の中には、いろんな出自の女がいる。
そういえば、ずっと前の出雲の大国主命は、日本のいろんな地域から
奥さんを貰っていたんでしょう?
その延長で、半島を従属させる上で、その現地の女性を妾として奪っていく
というのは、なんとなしに想像できるわ。
自分が思うに、
紀元前1世紀くらいの倭国では出雲王(大国主とよばれる)が
倭の覇権を握っていて、
倭王として中国との交易を独占していた。
この時代の出雲と楽浪郡の交易品は、かなり、
やりとりされていたことが分かる。
この出雲王国では、スサノオという神様を信仰していて
この出雲王は、自らをスサノオ神の子として祭祀を行っていた。
一方、この出雲と勢力争いをしていたライバルだったのが
葛木の高天の王である火明命だった。
かれは、父方経由でアマテルという神様を崇拝し
また母方経由でタカミムスビという神様を崇拝していた。
火明命は、出雲の大国主命の王女だった天道日女命を正室として迎え
出雲と高天は政略結婚で結びついていたが
やがて、争いになり (播磨国風土記)
大国主は娘婿の火明命に倭王の地位を禅譲することになった。
これが、出雲の国譲りじゃないの?
だから、本来の倭王、つまり正統な天皇の地位は、
火明命と天道日女命の間にできた子孫に受け継がれないといけない。
しかし、現在の天皇家は、火明命の弟のニニギ命の男系子孫だなw
797 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 18:22:16.71
>>795 大国主が実在の人物とかw
出雲文化と近畿文化に継続性が見られないことで
現在は出雲から近畿への政権譲渡はなかったとみられている
大国主って、たぶん、
意宇主(おうのぬし)からきているんじゃないの?
出雲の中心地が、意宇郡あたりだし。
出雲の王の通称が、意宇主って言われていたんだと思う。
>>797 政権譲渡といっても、
出雲の版図って、ほぼ日本海沿岸部中心で
後のヤマト王権にくらべれば、倭国内での支配力は弱かったように思う。
出雲は覇権って、他の倭国内の勢力に比べて相対的なもので
ヤマトのほうは、絶対的なものだったように思う。
だいたい中世でも
中国地方の大勢力と近畿地方・濃尾地方の大勢力って
かならず覇権争いをするよね。
足利家VS大内家、山名家
織田家VS毛利家
とか。
799 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 19:34:26.97
神功皇后ってのはよくわからんな。
アメノヒボコの血を引いてたり、
息長氏自体が「辛国息長」というふうに渡来系な一方で
新羅をひどく下に見ているという。
800 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 19:39:58.29
そういえば、なんで神功皇后の息子の応神が
新羅系の八幡と同一視されるんだ?
801 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 20:06:45.62
もともと日本で信仰されてきた武運の神は八幡だったが
明治維新後日本の神はすべて天皇の祖先神ということになってしまった
そのために強引に八幡が応神に置き換えられたんだろ
結局、神話に何を仮託したのかが重要であり、
日本は出雲の神から天壌無窮に国を譲られた
天照の子孫が治めるという構図が、天皇家が
征服王朝の外来種であることを示すと思う。
だから、記紀でも国の始まりを神話時代とし、
継体新王朝説を採らないのだろう。当時の
朝廷は自身が韓半島由来だと認識していたからだ。
803 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 22:33:34.74
天孫降臨神話には「クシフル(亀旨峰)」とか「カラクニに向かひ」とかでてくるからな。
また、神武天皇と戦ったのは縄文系の先住民だろう。
ニギハヤヒとかは縄文人と共存していた渡来人だな。
というか半島南部と日本列島併せて倭なんだが
805 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 23:51:25.55
>>789 > 江戸時代の後桜町天皇のときはそうなんだが
> (それでも毎日行う日々の祭事は行っている)
> いつからはじまった風習かわからないんだよね
後桜町天皇の頃は既に女帝が即位した場合の日常生活ノウハウみたいなものは散逸していて
新たに始めた(間に合わせの)風習というのもあったのではないかと想像。
806 :
日本@名無史さん:2011/08/30(火) 23:53:09.99
>>802 >当時の朝廷は自身が韓半島由来だと認識していたからだ。
欽明天皇が「朝鮮半島南部を取り返せ」的な遺言をしているからなあ。
807 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 00:39:41.77
天孫降臨は倭人コンクエストだな。
808 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 02:02:46.58
高天原は朝鮮半島東南部のどこかでしょ。
809 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 06:00:42.05
稲作や金属器からのルートなら西南部かもね。
何で日本に移って来たのだろうね。しかも本拠地韓半島では勢力圏を失ったようだし。
百済との友好関係を見ると、百済王家の一族が遠征して土着したようだね。
811 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 15:08:38.08
別にもともとは王族でもなんでもないんじゃないか?
数ある渡来系の一派に過ぎないのでは。
もう、トンデモ説だらけだな、このスレ。
泣くに泣けん状態だ。
なぜ、狂った状態に突っ走るんだ、おまえら。
なぜ、文献を正しく分析しようとしないんだ。
だいたい、ここの連中って、日本や中国の文献を正しく原文で
読もうとしていない連中だろう?
>>806 >欽明天皇が「朝鮮半島南部を取り返せ」的な遺言をしているからなあ。
それは、神功皇后の時代から、半島南部の領有化に着手していたからでしょう?
神功皇后ってのは、母方が新羅系の帰化豪族だったから
楽浪郡崩壊後で半島が混乱しているので、そこに軍事介入したと見られる。
西暦5世紀の倭王武の上奏文では、ヤマト王権は
東に西に勢力を拡大させ、最後に海北に勢力を拡大させたとある。
>>808 高天の原とは、字のごとく、高天の原野って意味。
高天とは、葛城地方にある地名で
平安時代のなんかの文献でも、高天の原とは、この地域だとされていた。
現在の奈良県御所市高天のあたりだ。
ここの領主は、高天彦といわれ、高天知事みたいな感じだ。
高天彦神社という式内社が今でも存在している。
天孫降臨とは、出雲国譲りのあと、皇室の祖先のニニギ命が
高天原(奈良県御所市高天あたり)から
高千穂(九州南部)に派遣された話だよ。
ちなみに、出雲国譲りとは、どうみても、近畿VS出雲の戦争だよ。
ちょうど、織田家と毛利家が戦争するようなもんだ。
で、織田家(豊臣家)が毛利家を降伏させたら、事実上
天下の覇権がほぼ決まるだろう?
そしたら、次はどうする?
日本全国各地に、織田家一族や
織田家の譜代大名である柴田家、羽柴家、滝川家、丹羽家、佐久間家などを
地方大名として配置するだろう?
同じように、出雲国譲りとは、
近畿VS出雲の戦争で、近畿が出雲を降伏させた戦争だ。
これにより、近畿の全国支配がほぼ決まるんだ。
近畿、中部、中国地方を抑えれば
関東、東北、九州も自動的に、中央勢力の配下に入るようなもんだから。
そしたら、近畿王権は全国各地に
近畿王家の一族や譜代の豪族を各地に配置するだろう?
そんな中に、ニニギ命(皇室の祖先)がいいたわけだ。
このことから、長い間、皇室にとって、何が都合が悪かったか
誰にでもわかるだろう?
現在の天皇家というのは、ヤマト王権の本流ではないのだ。
ヤマト王権が初めて全国統治したのは出雲国譲りの時からで
その時点では、現在の天皇家の祖先は
その時のヤマト王権のトップ、つまり、倭王ではなかったはずだ。
九州南部の統治をまかされ、近畿から九州の辺境に派遣されたぐらいだから
ヤマト王権の中では傍流扱いだ。
しかも、ヤマト王権の初代倭王ではすらない。
つまり、現在の天皇家は、出雲国譲りを実現させた
ヤマト王権の初代倭王の男系の子孫ではないと思われる。
では、ヤマト王権の初代倭王とは誰なのか?
それは、記紀、風土記などの日本の文献に証拠が多く記載されている。
その人物は、天火明命という人物で
彼は、通称が、天照国照彦とされており、
出雲国譲りによって、天津と国津の両方の支配者になったという意味だ。
この初代倭王の天火明命にはニニギ命という弟がおり
天火明命が出雲国譲りを実現させた直後、
九州南部の統治をまかされたのが、ニニギ命なのだ。
817 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 18:51:46.89
出雲だのなんだの言ってる奴はコテつけてやったほうがよくね?
継体天皇と関係ねーし
818 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 23:03:00.17
どう考えても
高天原=葛城
はないだろ。
記紀に「高天原を奪還したぞ」
みたいな描写あるの?
>>818 高天原=葛城ではなく、
高天原周辺=葛城だと思うよ。
厳密には
高尾張=葛城だな。
高天があって、そこの北部に笛吹ってとこがあるが、
そのあたり一帯を高尾張といったんだよ。
そこが、葛城と名称を変更させたのが、イワレ彦(神武)。
まあ、やがて、高天も葛城と一まとめでいうようになったけどな。
>>818 記紀にある神武東征のところで河内上陸戦なんかで、それらしき記述あっただろう。
>>819 熱田社に尾張氏という豪族がいて、継体天皇も
この豪族に信任されることによって、
神武皇統の当主、つまり、オオキミになれた。
また、壬申の乱の時にも、大海人命(天武)が尾張氏の援助によって勝利し
オオキミにされた。
神功皇后なんかも、尾張氏に信任されて、王権を継承出来た。
オウス命(ヤマトタケル)も、尾張氏の姫を嫁にもらっている。
この尾張氏の祖先が、天照国照彦であり、出雲国譲りの時の近畿王権の倭王の可能性が高い。
神武皇統からみたら兄筋の家系。
>
>>819 >熱田社に尾張氏という豪族がいて、継体天皇も
↓
>>817 熱田社に尾張氏という豪族がいて、継体天皇も
821 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 09:21:48.25
「天界」という意味くらいしかないのかも。
823 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 15:46:38.56
>>813 > それは、神功皇后の時代から、半島南部の領有化に着手していたからでしょう?
倭王家が半島南部に進出したのではなくて、半島南部の有力者が渡海して倭王になったと思うぞ。
>>823 ないないw
そんなこと、どこにも書いていませんw
日本だけじゃなくて、中国や半島の史書にも
倭国が半島へ軍事介入していたことが
いっぱい登場する。
が、なぜか、戦後、その記述が気に入らないとして、
半島の民族主義者たちが、どなりこんでくる。
なぜ、日本の建国の話が、後世の人々の間で大混乱したのかと言うと
天皇家が、自分たちの先祖であるワカミケヌ(イワレ彦)を
初代天皇・神武天皇として神格化してしまったのが大きな要因。
ヤマト王権が、神武東征によって、誕生したのではない。
その前の、出雲国譲りによって、誕生したのである。
出雲国譲りとは、近畿王権が出雲王権を屈服させることによって
ほぼ日本列島での覇権が確立した戦争のことで、
その直後、九州南部の統治をまかされたのがニニギ命(現在の皇室の祖先)。
826 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 18:33:03.53
827 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 18:41:53.43
>>825 国生み神話に登場しない出雲の片田舎を譲ってもらって、どうするんだい。
出雲が大きくなるのは、5・6世紀の神門氏辺りからだろう。
>>827 出雲がいつ大きくなったかどうかなんて
文字資料のない土器とか眺めていても分からんよ。
ただし、普通に、紀元前1世紀くらいとか、
対馬なんかにも、楽浪郡と出雲の交易品が大量に出てくるから
出雲を中心とした交易圏が存在していたことぐらいは推測できる。
纏向遺跡が邪馬台国の首都で、
卑弥呼が崇神紀に登場するヤマトトトヒモモソ媛命という皇族の巫女ならば
出雲国譲りは、紀元前1世紀から紀元1世紀くらいにはあったと思われ。
その時が、ヤマト王権の前身である高尾張王権が誕生した時になる。
魏志倭人伝にも、卑弥呼の王朝は、卑弥呼よりずっと前にいた
男王によって建国されたとあるから、その男王こそが、出雲国譲りさせた王だろう。
その王の正体は、天照国照彦。諱は火明(ホアカリ)。
天照国照彦とは、天津と国津の支配者という意味で、まさに出雲国譲りによって、
天津神と国津神の全てのトップになった王と言う意味である。
この天照国照彦には、ニニギという弟がおり、彼は九州南部の統治をまかされる。
このニニギこそが、神武皇統の祖先になる人物である。
継体天皇は、神武皇統の中では遠い傍系に当たる王族だった。
よって、神武皇統内の家督争いが起った。
そこで、神武皇統にとっては本家筋にあたり、
ヤマト王権の前身の高尾張王権を建国した初代倭王の天照国照彦の
嫡流の子孫である尾張氏が、この家督争いに割って入った。
継体天皇の妃には、本家筋にあたり尾張氏の王女があてられた。
831 :
日本@名無史さん:2011/09/01(木) 20:33:15.76
渡来系と縄文人の共存と言えば、
ナガスネヒコとニガハヤヒ以外には
諏訪が有名だな。
>>831 あれを縄文と弥生と解釈するほうが、おかしい。
なぜなら、最近の考古学だと
遅くとも3000年以上前には農耕が始まって入り
それよりずっと前には、古アジア人種と新アジア人種の融合が始まっていたと思われるから。
ナガスネヒコとニギハヤヒの話は、神武東征の話だから
もし、実在の話だと、せいぜい1950年ぐらい前
西暦紀元1世紀代の話だと思うから。
ナガスネヒコもニギハヤヒも、ワカミケヌ(神武)も
普通に倭人同士の話だと思われるから。
ナガスネヒコのナガスネとは、
大和にあった邑(ムラ)の名前で
ナガスネの領主、ナガスネ知事くらいの意味だな。
記紀にも、そのように記してあったはず。
にもかかわらず、ナガスネをナガスネヒコの
身体的特徴を表したものとして解釈して
アイヌ説とか縄文人説を言う人がいるが
ナガスネヒコのナガスネというのは、ヤマトにあった地名の名称で
そのナガスネの領主をやっていたから、
彼はナガスネヒコと言われていただけである。
尾張氏は後代の壬申の乱の時にも天武側について勝利に貢献している。
やはりタダの有力者ではなく、王統に連なる豪族と見るべきだろう。
そうでなければ尾張氏だけが王家に頼られる理由がつかん。
>>834 というか、記紀にも新撰姓氏録にも、皇祖ニニギの兄にあたる天火明命が
尾張氏の祖先だとされている。
つまり、尾張氏は、皇室の兄筋の家系になる。
その天火明命の通称が天照国照彦。天津と国津の両方の支配者って意味だから
大変な人物だということは容易に想像がつく。
もともと、大海人命(天武天皇)が女神アマテラスを祭る以前は
男神アマテルがヤマトの始祖として崇拝されていたという説もある。
その男神アマテルこそが、天照国照彦。
つまり、もともとは、尾張氏の祖先をヤマトの始祖として崇拝していた可能性が高い。
神武皇統では家督争いや内乱が起った時に
オウス命(ヤマトタケル)、神功皇后、継体天皇、天武天皇の時など
常に、尾張氏が大きく関与し、尾張氏が支持したものが
神武皇統の家督を相続していたりする。
836 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 03:39:34.51
>>835 >
> 神武皇統では家督争いや内乱が起った時に
> オウス命(ヤマトタケル)、神功皇后、継体天皇、天武天皇の時など
> 常に、尾張氏が大きく関与し、尾張氏が支持したものが
> 神武皇統の家督を相続していたりする。
徳川時代でいうと水戸家みたいなもんだろうな。
837 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 09:19:57.84
大王擁立に畿内豪族の大伴氏や蘇我氏がかかわったのと同じことだろ
地方豪族でも大きくなると王位継承に口出しできた
大王擁立に口出しできた豪族は全部天皇の同族とか無理が多すぎる
>>837 大伴氏や蘇我氏とは格が違いすぎるよ、尾張氏は。
大伴氏と蘇我氏ってのは、ヤマト王権の中枢部にいた豪族。
大伴氏は天神系、蘇我氏は皇別系。
徳川幕府に例えるのなら、大伴氏は譜代大名で老中
蘇我氏は親藩大名で大老だな。
でも、尾張氏ってのは、ヤマト王権の中枢部にはいない。
遠隔地の尾張の熱田社にいる。
また、三種の神器の天叢雲剣は尾張氏が保持し、
そのレプリカを神武皇統が保持していた。
感覚的に言うと、神武皇統が徳川幕府とか足利幕府ならば
尾張氏は、天皇家とか五摂家みたいなかんじ。
839 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 14:38:44.37
>>837 >大王擁立に口出しできた豪族は全部天皇の同族とか無理が多すぎる
というか、文献的にそれが残っているから仕方がないだろう?
大伴氏はタカミムスビの子孫だから、徳川幕府でいう水野家みたいなもんだな。
蘇我氏は神武皇統以後に皇室から分かれた家系だから、
徳川幕府でいう会津松平家、津山松平家みたいなもん。
尾張氏は神武皇統以前に皇室から分かれた家系だから
徳川幕府でいう松平太郎左衛門家みたいな位置づけか?
大伴氏とか蘇我氏なんかは、ヤマト王権の中枢部にいたから、
神武皇統の家督相続に影響を及ぼしたのは想像がつくけど
尾張氏なんて、ヤマト王権の中枢部から外れていたからな。
でも、神武皇統での家督相続争いが混乱すると
緊急的に尾張氏が力を発揮するというか。
840 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 15:51:26.83
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。
天照国照彦天火明命
天照国照天彦火明命
櫛玉饒速日命。
彦天火明命/天彦火明命
「天照御魂大神♂」・・・
以上は式内社の〇〇坐天照神社/天祖神社などの祭神(三輪系/式内社に伊勢系の神明社は殆どありません)
・・・*天照大神(記紀編纂時期に創作疑惑)・・・
「天照坐皇大神」(♂)♀/又の御名を(天照)大日霊女貴命♀=大ヒミコ/憧賢木厳之御魂天疎向津比売命♀=天を祀る日向の姫御子?(天照大神荒魂)
伊勢内宮祭神(とされる)
841 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 16:07:08.25
>>840 >・・・*天照大神(記紀編纂時期に創作疑惑)・・・
もともと、殆ど存在感の無かった祖母ちゃんのオオヒルメを
アマテラスとして祭りなおしなのかもな。
それ以前は、天照国照彦を、ヤマトの始祖のアマテルとして祭っていた。
あと、火明命とニギハヤヒは別人ではと思うよ。
というのは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の
櫛玉ってのは、奇魂からきているといわれ
これって、形見とかいう意味だから
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ってのは
天照国照彦である天火明命の形見(遺児?御落胤?)である
ニギハヤヒ命って意味。
ニギハヤヒの末裔である物部氏は、新撰氏姓録では天神系とされ、
天火明命の末裔で天孫系とされる尾張氏とは別扱いだから、
ニギハヤヒは、自分は天火明命の忘れ形見だと主張して
妹の兄のナガスネヒコと共謀して、クーデターを起こしたのかもな。
842 :
841修正:2011/09/02(金) 16:09:08.59
>妹の兄のナガスネヒコと共謀して、クーデターを起こしたのかもな。
↓
嫁さんの兄のナガスネヒコと共謀して、クーデターを起こしたのかもな。
843 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 21:05:06.34
継体天皇と関係のあるのは尾張では尾張一宮の真清田神社です。
継体天皇は尾張一宮で生まれております。
岐阜県根尾村(現・本巣市)にある淡墨桜は継体天皇が植えられたと。
844 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 21:52:30.95
845 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 22:57:53.24
846 :
日本@名無史さん:2011/09/02(金) 23:32:08.48
>>843 継体天皇だけではないよ。
天武天皇も、幼少の頃
尾張氏の配下の大海氏によって養育された。
壬申の乱の時には、天武天皇は尾張氏の邸宅にかくまわれていたし、
また、天武軍の4万のは兵力のうちの2万は尾張氏の軍隊だった。
>>838 > 感覚的に言うと、神武皇統が徳川幕府とか足利幕府ならば
> 尾張氏は、天皇家とか五摂家みたいなかんじ。
「感覚的に言うと」ワロタ
848 :
日本@名無史さん:2011/09/06(火) 21:52:37.12
『継体天皇と淡墨桜』 継体天皇異伝 真清探當證(ますみたんとうしょう)
で謎を解け。
継体が実は顕宗の子供だったっていうやつだろ?
普通に継承権は持ってたんじゃない?
851 :
日本@名無史さん:2011/09/16(金) 21:52:11.71
>>850 持っていたにしても、その順位がかなり低かったような気もする。
852 :
日本@名無史さん:2011/09/18(日) 08:04:03.10
この天皇はあの天皇の投影とか、その天皇は架空とか言ってるひとがいるけど
俺はどうかと思うよ。何のためにそんな操作をする必要があったのか
という点において説得力に欠ける。
現在伝わっている系図のすべてが正しいかと問われれば、怪しい個所も
あるとは言わざるを得ない。ただしそれは長幼の間違いや同名異人の
こんがらがり程度だと思うよ。安易にこの天皇はあの天皇の投影とか、
その天皇は架空とかなどというのは面白いかも知れないが、何のために
そうしたのかという理由づけについてまったく説得力がない。
系図が正しい理由の説明がまるでされてない。
正しくないと信ずる理由を述べよ
継体が大王の血を引いていたのは確かだと思うんだよね。ただ、父系か
母系かはよく分からないし、5世孫なんて遠い系統。磐井なんかも、九
州の大豪族だし、大王家と姻戚関係くらいあっただろうから、あいつが
大王になれるのならば俺もって感じで反乱起こしたんじゃないかな。
血を引いていたと思うなら、
既存の伝承を採用するしかないんじゃないの?
今後、他に資料が出てくるわけもないし。
>>743 礼記によると、父系でさかのぼって5世代まえ(本人で1世代、父で2世代とかぞえる)の
先祖を同じくする「小宗」という集団が宗法とか祭祀とかの基本単位だとされてるみたい
>>856 天皇陵系の古墳発掘以外はないだろうね。> 新資料
発掘なら稲荷山古墳の鉄剣みたいのが出ないとも限らない。
持ち運び可能な “携帯”天皇
上宮記の記述は?
861 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 18:09:40.64
五代前ってことは、現実にはいないんだけど、
悠仁親王に跡取りがいなくて、明治天皇の次男の子孫が後をとるくらいだ。
もしくは、現実にはいないけど、悠仁親王の子供に跡取りがいなくて、
高円宮の孫があとを継ぐ。しかも高円宮の妹が天皇家に入り、次代の天皇
(雄略)を生んでいる、というような関係だ。
雄略の頃からは、年代がまあ合ってると言われてる。雄略没が479年。
継体はそのころ20〜30歳か?それで従兄弟の関係なのに、どこの馬の骨か
分からない新王朝というのは違和感がある。
古代人がそこまで血縁に無頓着だったはずがない。
8大将軍吉宗が、紀伊から招かれたようなもんだろ。
現皇太子-天皇-昭和天皇-大正天皇-明治天皇-孝明天皇
悠仁親王
862 :
日本@名無史さん:2011/10/06(木) 00:26:12.44
雄略が暴れ過ぎたんだよな
源頼朝の粛清の影響で代々内紛で少なかった義親流源氏が滅亡
代わって頼朝近親を嫁にしてた足利氏が義家流宗家になったようなものだろ
こっちは頼家娘は貰ってないが
継体は貿易家で金持ちだった。勿論それは才能によるもので、「応仁5世の孫」が理由ではない。
その財力を当て込んで継体を擁立したが、それを史書では血縁ありと粉飾した。こんなのはどう?
864 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 00:44:44.50
なら、欽明を女系で前王朝と繋げる意味はなんだ。
6世紀の初め頃に父系制が確立してたのかな。父系で皇統に
繋がるようにしたのは7世紀の潤色ではないか。
866 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 09:33:12.91
継体は父系(男系)では前王朝(雄略の家系)とつながっていないが、
允恭大王の后オシサカオオナカツヒメの兄弟の子孫というつながりで、
大王候補になったんだろうな。
倭の五王の王統が雄略で事実上断絶し、空位状態に近い混乱状態のあと、
前王朝の外戚の家系から継体が迎えられたと。
継体が大王家後を引くって証拠になるようなものは当時もあったのだろうか?
大王の孫くらいなら周知の事実だろうし後世の天皇家や将軍家なら
少々代が離れてても文書に記録するから外部の者が僭称するのは難しい
でも(素人考えになるが)応神〜継体の時代は文字を扱える人も多くなかっただろうし
媒体も木簡や竹簡で紙はあるかないかだったから証明するものはあったのか
>>867 王家の一族に王家の印(鏡とかの物品)が伝えられたと考えたらどうだろう。
それをもらえる人とそうでない人で王族の線引きをする。偽造対策として
王家に交付記録を残しておけばいいかと。
自分自身のことを考えてみれば分かるが、別に文書になぞ記録しなくても、
親戚関係という人間関係は築いていけるものだよ。
現代の都市圏に住む人だと実感ないかもしれないけど、
うちの田舎の方だと、じいさんの葬式にその母方のみならず祖母方の親戚も出席して、
孫である私と会話したりしてるよ。いわば「5世の親戚」なんだよね。法的には親族じゃないんだけどさ。
ましてや、衆目の的である大王家ともなれば、どの人が同じ血筋にあるかなんて文字無しでも分かるんじゃないかな。
上の方にもあるけど、今の天皇家を参考にしてみればいい。
明治天皇を応神に準えれば、悠仁親王世代が継体世代に相当するわけで、
悠仁親王に後継者が無かったとした場合、この際便宜的に男系女系を問わないとするならば、
「竹田家・北白川家・朝香家・東久邇家の現当主の孫」がクローズアップされることは考えられ得るでしょ。
一方実際に血筋でない他人、例えばニセ有栖川やその子孫なんかが、
悠仁親王の後継者として迎えられる可能性はゼロに等しいでしょ。
>>865 魏志倭人伝には宗族という言葉も出てくるし、
倭の五王には親子、兄弟の男系相続が見られるし、
稲荷山鉄剣にも父系の系譜が8世代書かれているし、
あんまムキになって否定するほどのこともないんじゃないか? >古墳時代の父系制
まあ、稲荷山鉄剣は代々の職務担当者を書いたものだとか言って、父系制否定に必死な奴もいるけど。
871 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 15:47:50.93
>>852 中世でも一つの氏族に複数の系図があり、
それが各々違うことはありふれたことだからな。
>>869 いや継体と武烈以前の疎遠っぷりを考えると現代の例を当てはめにくいのでは
だから言うほど疎遠じゃないんじゃん?
継体祖父と雄略とはイトコ同士にもあたる。
女系を介してのイトコということで、分かりやすい例でいえば、
昭和天皇と竹田宮恒徳・北白川宮永久・朝香宮孚彦・東久邇宮盛厚らの関係。
その孫の世代間で継承が行なわれたということ。
こんなのは、古代であろうが文字が無かろうが、「あり得ない人間(親戚)関係」とは言えないだろう。
874 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 23:43:40.85
欽明の親だから天皇って呼ばれているだけじゃないの。
欽明こそ始祖王と呼ぶにふさわしい。
継体は地方豪族のレベルで死んだ感じ
875 :
日本@名無史さん:2011/10/09(日) 23:46:45.43
糸魚川の翡翠を握っていた豪族!
>>864 傍系の光格天皇が即位したときも同じことしてるね。
877 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 01:51:49.20
>>866 応神の母親の実家と違うか?
しかし、継体自身は応神五世の孫と自称してたのだろうか?
>>877 中央で王族が減っていくのは当然知ってたよね。
そこで自薦したのかなと想像する。
879 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 07:33:29.32
>>876 応神天皇もそうだが、前王家と
「血縁ではあるが、薄い血縁」
の人が即位した場合には、前王家の人と結婚して
「血の濃さを補強」
するな。
880 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 07:51:09.60
継体天皇は越前から即位したとあるが、一時期は尾張にいたり、
また、彼の父親は、近江に所領がある傍系皇族な。
畿内にある近江は大和から至近距離だし、越前も尾張も畿内から近い。
継体天皇が即位する前も後も、ヤマト王権の中枢で権力を握っていたのは
大伴氏や物部氏な。
つまり、即位前も後も、王権の本質は何も変わっていない。
こんな感じで、王朝交代と無理にみるのは意地悪な。
まあ、西欧流でみたら、5代前に分かれて王位についたら、
王朝交代に近い感じにみられるかもしれんが。
881 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 07:53:46.08
単純に、倭の五王の外戚(允恭后の一族)だったってことでいいじゃない。
882 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 07:59:39.18
ちなみに、ヤマト王権内部で王位継承争いが起こった時には、必ずと言っていいほど、尾張氏が介入する。
応神の時も、継体の時も、天武の時も。
なぜかというと、尾張氏こそが、ヤマト王権の本来の創業者の男系の直系の子孫で
傍系で弟筋にあたる神武皇統の家督争いに口出しできるわけだ。
かつて、ヤマト王権には、中世以降の政治体制と同じで
最高権威者と最高権力者と並立していて
尾張氏の先祖が最高権威者のほうで、神武皇統が最高権力者のほうだ。
それを、神武皇統が、尾張氏の先祖を
葛城から尾張へ追放してしまった。
しかしながら、政治的に神武皇統が、唯一の倭王になっても
祭祀の上では、尾張氏の相続者を、自分たちの
宗家という慣習は残っていた。
まあ、それを天武天皇は廃止してしまったわけだがw
883 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 08:10:36.72
日本は、祭祀と政治の二元体制で
例えば、足利時代は、
祭祀の上では天皇がナンバー1、政治の上では足利将軍がナンバー1。
形式的には、天皇がナンバー1で、足利家はその臣下。
ヤマト王権の初期も
祭祀王と俗世王に分かれていたと思う。
この前、建前上は、祭祀王のほうが正式な倭王であり
実際の政治を行っていた俗世王のほうは、その臣下という扱いになる。
中世以降は、最高権力者の征夷大将軍たちは、
最高権威者の天皇の地位を追い落とすことはできなかったが、
ヤマト王権の初期は、それができてしまったわけで。
しかも、その時代は、文字で記録を残してないから
その記憶が徐々に失われてしまったわけで。
884 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 08:26:53.33
>>879 海外でもダレイオス一世(血縁があるか怪しいが)や
ヘンリ七世がいるな。
885 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 08:36:33.18
血縁に関しては、古来は、DNA鑑定技術がないから、子供を取り替えられたり
妃が浮気したりしても分からんから、
そういう意味で、血統が続いているかどうかはわからんが
社会的には、日本の皇室は男系で続いてきたんだろう?
もし、王朝交代があったら、普通にそう書くでしょうよ。
何も問題ない。
出雲国譲りのところで、王朝交代の記述があるわけだから。
886 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 08:55:56.14
なんでだ?
ヤマト政権を武力で滅亡させたのではなく、その後継者として即位したのに
なんでことさらに「新王朝です」って強調する必要があるの?
ヘンリ七世が、「プランタジネットの親族」として即位していて、
「テューダー家がプランタジネットに取って代わった」としていないように。
応神の実在は怪しい。応神王朝といわれるものは実は仁徳王朝。
仁徳の前の応神の子孫を称するのは事実上の新王朝。
>>886 そう、後継者として即位したんだから強調する必要はないね。
だから血筋も詐称してないだろ。
プランタジネット家ではなく「テューダー家のヘンリー7世」であるように、
前王家と無関係の豪族ではなく「応神後裔の継体天皇」であったのだろう。
889 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 13:48:44.29
記紀、とくに古事記のほうでは
王朝交代の歴史について正直に書いているよ。
どこがそうだというと、それは出雲国譲りな。
そこで革命があって、ヤマト王権が始まったと。
そして、この王権は東京の赤坂で、現在も続いている。
890 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 13:58:54.76
要するに、允恭大王(オアサヅマワクゴノスクネ、倭済)の后だった女性、
オシサカオオナカツヒメの近い親類にあたるオホト王が即位した。
河内大王家が断絶したから、数代前のお后の実家(外戚)から迎えられた。
ただそれだけのこと。
ヘンリー7世のケースに近いな。
そのお后の実家が応神皇子の家だった。そう、それだけのこと。
皇子が葬られたのが太田茶臼山古墳。継体はその近くの今城塚古墳に葬られた。
892 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 14:27:32.93
本当に詐称が成功したら、「本当に血縁なんだよ」と主張する資料しか残らないからな。
なんとも言い難い。
893 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 14:30:36.62
前王朝の外戚ならヘンリ七世より、ロマノフみたいだな。
そう、ロマノフのように、継体も外戚から出た「新王家」なら、そう伝えられるさ。
895 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 18:23:27.67
まったく別の王朝が誕生していたら、継体を初代天皇にしていただろうに。
出雲国譲りの時点の革命は否定せず記載しているわけだから。
革命自体は否定していない。
応神とか継体は革命ではなかったので、普通に、万世一系の系譜で記載しているのだろう?
896 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 18:26:27.32
革命起こすんなら、当時の権力者だった
大伴氏が倭王になっていただろう?
でも、それをせずに、越前の傍系皇族をわざわあ傀儡として
担ぎ出したわけだから、
継体が遠い傍系ってコンセンサスはできていたんだろう?
継体のおやじさんは中央に近いところにいた傍系皇族だし
ってか「王朝」って概念自体が後世の男系中心思想の産物で
継体の頃はそんな概念があったのかと疑ってみる
当時の中国や西洋にも王朝の概念はあった
が日本に定着していたかは確かに疑問だ
確たる王朝という概念は無かっただろうな。
だからこそ、天武の頃にそれまでの歴代の王権を全部系図で繋げた、ってのも嘘くさい。
小沢一郎が新しい君主となって王朝を開いたとしても、それまでの王権(政権)を系図で繋げるとは思われない。
900 :
日本@名無史さん:2011/10/10(月) 23:04:17.23
>>895 出雲のケースは、ヤマトと「並立」する有力国家を滅ぼしたわけで
継体と全く違う。
首都だって出雲に移したりしてすらないし。
継体の場合は既にヤマト政権が日本の最有力政権になっていた。
まさか誰も、「近江か越前の豪族が圧倒的な武力でヤマト政権を滅ぼした」
なんて主張してないだろうに。
「ヤマト政権を継承した」で一致してるだろう。
問題にされてるのは王の血統だけじゃないのか?
>>896 これもよくわからない。
歴史上「キングメーカー」とされる人物は山ほどいるだろう。
最高権力者だからといって、そんなにすんなりと王になれるはずがない。
もともとヤマト政権の一有力豪族でしかないし(しかも連)。
傀儡の王は必要でしょ。
もちろんヤマト外部から。
問題は、古事記・日本書紀を編纂した天皇たちが、継体天皇の直系子孫だということ。
それ以前とはほとんど血縁がない人々。
したがって、どう歴史を改ざんしたか、今では不明なこと。
だからそれが思い込みだっつーの。
直系の祖先は継体からだとか、それ以前の王家とは何の繋がりも無いなんてのは、
昭和20年代の学者だかが言い出したことで、実は全く根拠が無いまま「定説」になってしまった日本史学の悲劇(喜劇)。
おーい、
>>902よ、
唯一の資料たる日本書紀読んどるか?
これを否定するなら、継体天皇自体の存在もなくなるぞ
おーい、
>>903。
おれは日本書紀を否定するどころか、かなり尊重してまっせ。
905 :
日本@名無史さん:2011/10/11(火) 18:15:23.11
>>896 大伴は畿内でダントツの力があったわけじゃないよ
だから地方王を擁立する必要があった
継体天皇という父方を近江、母方を越前、嫁の実家は尾張という
地方豪族集大成みたいな血筋を持つ大豪族をね
大伴は大王家の直臣であって江戸幕府で言う老中みたいなもの
本人は大して領土も兵士も持っていない
朝鮮へ出兵するときには大王の兵隊を借りて出陣するありさま
大伴が自力で大王になれるならそもそも継体擁立はありえないだろ
新たに大伴大王になればいいだけだし
なんか前奏が格好ええでw
誰も大伴が本尊ではついてこない。だから地方豪族の権化を連れて来た。
結局豪族の連合政権を目指しますよと言う、豪族懐柔策である。雄略の
政策の全否定をしたんだね。つまり地方出身者でないとまとまらない
状況だったといえる。
908 :
日本@名無史さん:2011/10/11(火) 19:44:29.31
それで、播磨か丹波か近江の豪族を持ってくるわけだな。
最初に迎えに行ったのは丹波国だった。近江は次善の策だったようだ。
910 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 03:47:52.94
>>902 第二次世界大戦の敗戦の影響だなw
>>905 なんで、そんな面倒くさいことしないといけないんだよw
意味わからんねw
もう何が何でも記紀の言うことを否定せんといけない戦後の歴史学者の典型だなw
911 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 03:59:18.77
>>900 そんなこと言ったら、大和朝廷自体
首都を移しまくりだろうがw
近江にしたり、北九州にしたり、吉備にしたり、ヤマトのしたり
河内にしたり、葛城にしたり
もう、あちこちだw
出雲国譲りの前は、出雲と大和は殆ど並立していたかもしれんが、
普通に対中国として倭王と認定されていたのは
地理的にみても、出雲のほうじゃないの?
出雲は日本海交易権を支配していたから、
中国側が倭国の代表と交易するとしたら、出雲のほうだろう。
一方、ヤマトは内陸部で、中国側から見たら、出雲よりもさらに遠い国だしな。
912 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 07:26:07.85
継体が初代王なら、天武の枕元に立っているはずだろ。
913 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 07:33:41.78
継体は大王の女系の子孫で、大王の外戚で、大王の娘を后にした。これは確実。
父系の子孫かどうかはわからない。応神の実在自体が怪しい。
914 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 09:39:52.13
初期の天皇系図でも稲荷山鉄剣でも思うんだんけど、
十代にもわたって父子継承が続くはずないよ。「子」の
意味を考えなおさないとね。傍系はもちろん、女系でも
婿でも「子」だったんんじゃないの?
>>913 「応神天皇」を認めたくないなら、「誉田御廟山古墳被葬者」でも良いよ。
>>914 初期天皇(神武及び欠史八代)は加上された可能性が高いから除外した方が良い。
崇神から歴史時代だとすれば、若干の錯誤はあったとしても十分あり得る系譜。
稲荷山鉄剣だって後世のような家督相続をした代々当主ではなく、
直系の父祖を並べたものと考えた方が良いでしょ。
それよりあなたがすべきは、この時代における
傍系や女系・婿を「子(児)」として記した系譜などを例示して説明することではないかな。
916 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 10:42:33.79
>>914 >十代にもわたって父子継承が続くはずないよ
そうともいえない。
フランスでは、ユーグ・カペー(10世紀)からジャン2世(14世紀)まで、13世代400年にわたって
嫡出の長子相続が続いた。ヨーロッパでは、建前上、側室も庶子も認められていない。
オスマントルコや清王朝も十代(以上)直系相続が続いてるね。
日本でも、何を以て家相続とするかは異論があるかも知れんが、
一応代数で数えられている例をみれば、近衛家は基実から信尹まで17代続いてるし、
足利氏も氏祖義康から5代将軍義量まで12代、
徳川氏も松平信光(3代)から数えたとして4代将軍家綱まで10代続いてる。
918 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 11:38:40.89
>>914 :日本@名無史さん:2011/10/12(水) 09:39:52.13
>初期の天皇系図でも稲荷山鉄剣でも思うんだんけど、
>十代にもわたって父子継承が続くはずないよ
十代以上、父子継承が続いた例なんか、いっぱいあるだろう?
もし、無理に男系一系にこだわって偽称するのなら
出雲の大国主命の子孫も男系の先祖にしていたよ、皇室はw
でも、それをやっていない。
出雲と大和で首都が違うという意見があったが
出雲国譲りの後も、近江、九州、吉備、河内、葛城、ヤマトなど
首都が転々としているわけだし。
そもそも、記紀では出雲の大国主が国造りしたことが、
わざわざ記載したしな。
919 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 12:24:30.84
だから、なんで同時期に並立してたものを自分の先祖にできるの?
だいたい、出雲の祖先神はヤマトの祖先神の弟という形で同系にしてるし。
「うちらよりも力持ってた時期もあったけど、
うちらの分家ですから」
って主張してる。
そういうことじゃないんじゃない?
出雲の国譲りは神武以前の「神代」の話で、考古学的にもヤマトに巨大古墳が造られる以前、
出雲に有力な勢力が存在したことが確かめられつつある。
だから、王朝交代論者の言うように継体が武烈の後に「くっつけられた」のなら、神武以前に
例えば出雲宮御宇スサノオ天皇や因幡宮御宇オオクニヌシ天皇が歴代天皇としてくっつけられてるだろう、ってことでしょ。
天皇家を徳川家になぞらえてみれば分かりやすい。
徳川氏は足利氏と祖先を共通とする新田氏に系譜を繋げた。
だけど、足利将軍を家康の前の歴代将軍としてくっつけるようなことはしていない。
天皇家は畿内の先住勢力であるホアカリ(ニギハヤヒ)のアマテル(天照)系に系譜を繋げた。
だけど、ニギハヤヒを神武の先代の天皇にはしていない(王朝交代論者のいう武烈と継体のように、くっつけられてよい)。
戦後よく言われたように、記紀が日本創世以来の天皇家による万世一系支配を意図・強調するのが大目的なら、
天地開闢以来天皇家が常に物語や系譜の中心にあって、神武以前の有力者(例えば出雲)も天皇になっていた方が説得力があるのに、
実際にはそうなっていない。つまり、上記のような「戦後の常識化した記紀の見方」には、そろそろ問題意識・批判意識を持つべき。
逆に国を譲られたことで現在の天皇家の格が上がると考えてそうしたんじゃない?
記紀編纂時には中国の易姓革命思想は当然に伝来していた。放伐よりも禅譲である。
禅譲、つまり記紀が必ずしも万世一系思想に拘っていなかった傍証ですな。
923 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 17:23:21.86
天皇家では父子継承は寧ろ例外だよ。
記紀編纂時ってところが微妙で継体時代の日本に易姓革命思想が定着してたと断言できるかどうか
925 :
924:2011/10/12(水) 21:12:33.20
おっと記紀編纂時に定着してた
ここに異論はない
926 :
日本@名無史さん:2011/10/12(水) 21:13:05.52
仁賢→手白香皇女→欽明
が大王家の本流。
安閑か宣化の子孫が大王家になってたら王朝交代だ。
927 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 10:05:50.95
二人も手白香の妹を嫁にもらっていたので問題なし。
問題あるだろ、女系でも遠く血が繋がってればおkなのか?
将軍家茂の子が天皇になっても王朝存続になるてか
古来中国で王朝交代した天子だって、
だいたい前王朝の血縁に(遠く)つながってるだろ
それだったら
>>926の欽明子孫だって王朝交代だろw
もちろん
ま要するに、血のつながりは二次的なもんであって、
新王朝の祖が「新王朝だ」と言えば、新王朝ということだな
だいたい、古代ではDNA鑑定があるわけじゃなし、
血縁なんて怪しいのが多い
>>932 そうだね。男系という面では王朝交代に限りなく近いと言える。
ただし継体本人が入り婿だと言えば乗っ取りではないことになる。
結局は上の方にあるように、武力で乗っ取ったのではなく、
旧勢力から平和裏に継承したから正統と扱われているのだろう。
イギリスも男子優先をやめて第一子優先にする方向みたいだね。
欧州諸王国の例をみても、今後は女王の次代からは「新王朝」みたいな風潮はなくなるだろう。
まあ過去の歴史上の王朝の概念はこれまでどおりでも良いだろうが。
日本もどのみち女系継承の道に進んでいくだろう。
ていうか日本なんて、女系(婿養子など)によって家を存続させることにかけては、
他国より伝統もあり頻繁に行われてるんだから、欧州や中国・朝鮮に比べれば受け容れやすいはずなんだけどな。
もちろん、天皇に即位するのは内親王ないし女王であってお婿さんではないけどね。
てか、側室が認められない現代では、生物学的に言っても
男系にこだわることは無理。
女系を認めた上でも、やがて子孫断絶の危機が迫っている。
天皇は祭祀王でありかつ自家の先祖も祀る必要があるので家の断絶は非常にまずい。
記紀で武烈に女児がやたらといるのに男児がいないのは、勢力争いで殺されたせいだろう。
つまり入り婿を取ればいいやという思想が中央豪族にあったし、候補も用意されていたと思う。
継体が逃げていたら、次は吉備だったろう。
>>936 断絶を何が何でも避けるのは儒教思想が多かれ少なかれ入ってて
果たして武烈・継体時代は断絶を非常にまずいと考えてたかどうかは疑問の余地が残る
連レスになるが
女児しかいないのは偶然でもあり得る範囲だし
また実際には男児もいたが女児扱いして後の記紀が真に受けたみたいに
男児が殺された以外の可能性もある
>>937 儒教思想が薄かったら女帝で良かったと思う。
つまり女帝ではまとまりがつかないということ。
中央は武力のない「裸の王権」に近かったと思う。
940 :
日本@名無史さん:2011/10/13(木) 20:14:57.23
>>936 >記紀で武烈に女児がやたらといるのに男児がいないのは
武列には子供自体いないよ。皇后さえ出自がよくわからない。
仁賢の子と間違えてないか?
書紀の武烈の記述が中国の暴虐君主そのままで正直インチキくさい。
武烈は架空の存在で、「血統が途絶えても仕方のない王だ」という内容で
継体の入り婿に正統性を付与していると見える。オケ・ヲケの話も中国に
例があり、雄略以降の記述は「継体登場の布石」と思える。
>>942 その通り。継体の簒奪に正統性を与えるための布石。
武烈そのものは存在したかもしれんが、これほどのワルではなかったはず。
武烈の残忍行為は、天皇家の恥である。
通常なら、記述しないか、簡略に書いてお茶を濁す。
だが、それを考慮してなおかつ執拗微細に記述したというのは、
マイナス面をはるかに越えるプラス面があったからに他ならない。
そのプラス面とは、継体の簒奪を正当化すること。
じゃあ、磐井の反乱には簒奪者に抵抗するという名分があったのかもしれない。
しかし、女系では確実に大王につながり、大王家の外戚であり、大王の娘と
結婚してその子を跡継ぎにしたんだから簒奪とは受けとめられなかったんじゃ
ないかな。
細かく注釈すると、
磐井が今生きていて日本書紀を読んだなら
「なんだ、このウソの歴史は・・・?」てことね
全然大雑把すぎ。
おまえがな
「継体」という名前に意味がありそうだ。
「国体を受け継ぐ」の意味。
九州年号て知っとるか?
いわゆる逸年号(正史に載らない年号)というやつ。
これが「継体」年号から開始しているんだわ。
>>950 つまり後年に帝号を決める時も箔付けする必要があったわけだ。どれだけ弱い立場にいた人間かが分かる。
そもそも「継体の君」と言えば位を継いだ天皇のことを指すのだから、歴史上125人いることになる。
952 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 09:46:11.44
丹波王みたいな対立候補はともかく、
武烈を悪し様に書く必要は本当に謎だな。
昔は本当に半分別王朝扱いしてたのは間違いなさそうだ。
上に出てたヘンリ七世のような易姓革命と万世一系の良いとこどりか。
嘘だとわかるように書いた
954 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 16:38:03.65
継体天皇は遠い傍系の皇族だったんだろう?
もし、継体から男系が完全に変わるのなら、継体天皇を初代天皇にすればよいだけの話。
ヤマト王朝の初代倭王は天照国照彦で、彼は出雲の大国主の命の王女を妃にしていた。
つまり、彼は入り婿として、女系で出雲から天下を引き継いだ。
そこから、ヤマト王朝の天下が始まったのだが
今の天皇家は、この天照国照彦の男系の子孫ではないよなw
弟のニニギ命の男系子孫だ。
だから、天照国照彦を初代天皇とすることができず
このあたりの歴史を神話として、バッサリ切る必要があった。
>もし、継体から男系が完全に変わるのなら、継体天皇を初代天皇にすればよいだけの話。
それがそう簡単でもないんだな。
頼朝や信長でも天皇にはなれなかった。
つまり、旧体制をそのまま貰い受けようとすれば、
名目的に旧体制を“引き継ぐ”必要がある。
旧体制を完全に根絶やしにするなら、初代天皇にはなれる。
957 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 17:23:46.67
>>955 信長の時代は、歴史が深まって
ある程度、体制が整ってしまった時代だろう?
なんというか、記紀によって、皇室の家系の絶対性が固まった。
それ以前は、革命思想に対する抵抗はなかったので
出雲国譲りみたいな革命の話が普通にできた。
日本の歴史上、唯一の革命は、出雲国譲りで
出雲から大和への王朝交代は、女系継承でもあった。
大国主(出雲王)から、娘婿の火明命(近畿王)への女系継承な。
958 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 17:28:57.11
また、継体天皇の時代は、まだ律令制後の天皇という存在はしなかった。
その時代、倭王は二人いただろう?
祭祀王と俗世王の二人。
尾張氏の当主が祭祀王のほうで、神武皇統の当主が俗世王。
959 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 18:37:56.46
とりあえず、
・オホト王は越前・近江一帯に勢力を持つ地方豪族。
・オホト王の母方の先祖はイクムネリヒコ大王(垂仁)。
・オホト王の父方の家系はオシサカオオナカツヒメ(允恭后)を出した前王家の外戚。
・ワカタケル大王(武、雄略)の死後、倭王権は実質空位状態の混迷状態。
もう、これで十分だろ。
960 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 18:40:31.73
つまり、
母方で4世紀頃の三輪王権の流れをくむ、越前の地方豪族のオッサンが、
河内王権との外戚関係を理由に、ワカタケル死後の大王位に推挙されたということ。
応神5世の孫?
んなわけねーよw
961 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 19:31:05.10
>>960 越前の地方豪族ではない。産まれは父方の出身地の近江で
その後、尾張で養育されて、越前の地方官に赴任したんだろう?
もう、そんなこと言ったら、何でもアリだよw
あれも疑わしい、これも疑わしいだったら、その外戚関係だって
疑わしいって話になるよ。
応神の5世の孫だったからだろう?
もうひとり、仲哀の6世の孫と争っていたらしいじゃん。
962 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 19:33:25.56
とりあえず、
・オホト王は父系で倭王ホムダワケ(応神)の 5世の孫。
・オホト王は越前・近江一帯に勢力を持つ地方豪族。
・オホト王の母方の先祖はイクムネリヒコ大王(垂仁)。
・オホト王の父方の家系は倭王ホムダワケ(応神)の男系子孫で、
オシサカオオナカツヒメ(允恭后)を出した前王家の外戚。
・ワカタケル大王(武、雄略)の死後、倭王権は実質空位状態の混迷状態。
963 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 20:03:33.95
964 :
日本@名無史さん:2011/10/15(土) 20:51:57.75
継体が垂仁の子孫というのも本当かな?
966 :
日本@名無史さん:2011/10/16(日) 23:22:32.39
どっちにしろ、継体天皇は神武皇統なんだろう?
記紀の記述にしろ、真清田神社の伝承にしろ。
記紀の記述だと、応神天皇の庶子の男系子孫だが
真清田神社の伝承だと、顕宗天皇の皇子で、
生母の家系が応神の庶子の男系子孫。
真清田神社の伝承のほうが、皇室本流に近かった記述になっている。
ダメだな、この資料は。偽作(と言うのが悪ければ、創作)の可能性が高い。
「真清探當證」が、どこか、
継体天皇の出身と無関係の土地から発見されたのならまだ見込みがあるが。
桜の木を記念に植えた、という逸話が、いかにも後世的。
越前にも継体が植えたという桜がある
日本人が桜を愛でるようになったのは、平安以降じゃなかったっけ
それ以前は、たしか梅じゃなかった?
972 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 11:02:33.61
継体天皇の最初の妃が、尾張氏の娘なんだがな。
どっちにしろ、継体天皇は尾張氏と関係が深い。
というか、神武皇統で皇位継承がもめる都度
尾張氏が、神武皇統の家督争いに毎回、介入しまくるんだが。
神功皇后、継体天皇、天武天皇とな。
三者とも、尾張氏の援助のもと、神武皇統の家督を継承している。
しかしながら、最後の天武天皇は、世話になってもらった尾張氏を裏切って、
その祟りなのか、病に倒れて、神武皇統側が尾張氏に謝罪する事態になっている。
973 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 12:29:51.90
尾張って・・・どんな本にそんなに尾張を過大評価した戯言が書いてあるんだ?
桜は桃山時代以降では
桜を詠んだ和歌なんて山ほどあるんだけど・・・
976 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 13:15:50.24
日本は中世以降、最高権威者と最高権力者の二者に分かれた。
最高権威は朝廷、最高権力は幕府。
実際の政治を行うのは幕府だが、建前上は朝廷が最高機関で
朝廷が幕府に政治をする権利を与えるという形式をとっていた。
でも、これは中世以前、ヤマト王権の創成期にもあった。
尾張の先祖は最高権威であり、天皇家の先祖は最高権力。
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|しU" __⊃
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さー、1000レスまでに、うまくまとめてくれよ
結局、継体天皇て何なのよ?
979 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 14:51:56.81
Portable Emperor
982 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 19:09:03.89
ヤマト王朝の建国は、出雲国譲りから。
大国主命が、娘婿の火明命に天下を譲って、ヤマト王朝の覇権が完成した。
そして、火明命は天照国照彦(天津と国津の両方の支配者)と呼ばれるようになった。
ヤマト朝廷の初代倭王である。
当初、ヤマト朝廷の政治体制では、
正式な倭王は祭祀王として宗教上の最高権威であったが
それとは別に実際の政治を見る最高権力も存在していた。
火明命の嫡流の子孫たちは、正式な倭王として君臨したが、彼らは直接の政治は行わず
一族の者に実際の政治を任せていた。
現在の天皇家の先祖は、その実際の政治を行う最高権力者の地位にあった家系。
983 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 20:04:24.75
>>982 だ・か・ら・さ、査読のある学術論文にでもソースあるの?読んでみたい。
984 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 21:35:15.88
次スレ必要っぽいな
985 :
日本@名無史さん:2011/10/17(月) 23:31:39.65
平安時代、京都朝廷は
丹波の海部氏(熱田社の尾張氏の傍系)に、
欠史八代にあたる尾張氏・海部氏7の当主のこと
詳しく書くなって圧力をかけていたんだよねw
大和氏
988 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 19:39:24.26
継体天皇新王朝説って、
要するに、
歴史書が書かれる前の時代のこと
やや遠い傍系からの皇位継承だったこと
ヤマトからやや離れた越前の領主をしていたこと
第二次世界大戦後の戦後の反皇国史観の風潮
これらの原因から、新王朝説って生まれたのだろう?
つまり、その程度の理由から、そういう説が出たわけで
笑ってしまうほど説得力のない説だ。
989 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 21:29:00.50
海部氏家の真実の王朝って論本出ていたよなぁ確か。
990 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 21:55:38.85
日本って、昔から
権威と権力を分けたがるのか?
>>988 従来説を支持する立場までは否定しないが
新王朝説を一笑に付すなら説得力のある理由をつけてもらいたい
五代孫でなんの問題もない
なんで否定しなきゃいけない?
993 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 10:08:38.54
なぜ武烈のことをあそこまで悪く書いたのか。
>>992 近江の古代豪族息長氏を大王の子孫とすることに無理がある
息長氏の勢力地帯には古くからの古墳が数多くあり
大王家が侵略して皇子を置いて居ったと考えられないこと
例えば、白河天皇の後に源頼義(陸奥守、清和天皇の五大孫)
を天皇に迎えるようなもんだが。
そんなこと、本当にありうるのか?
ほかに皇位継承者がなければ仕方がないよ。
てか、源頼義は武士だからイメージが遠いよ。
もし地方で受領やってれば、さほどの違和感はないはず。
そういや関東で反乱を起こした平将門で
ちょうど桓武天皇から5世の孫なんだよな
あんなの都の帝に迎えられんだろ
999 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 12:06:20.97
継体天皇よりも武烈天皇に近い他の皇位継承者がいないなら
その状況自体がかなり不自然
1000 :
日本@名無史さん:2011/10/19(水) 12:09:12.61
普通に考えれば3世王、4世王が大量に居るわな
1001 :
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