週刊ポスト 2011/01/14・21日迎春合併特大号
あんぽん 孫正義伝[2]
佐野眞一(ノンフィクション作家)
鳥栖を取材中、偶然知り合った孫正義の従兄弟の大竹仁鉄氏の話をつづける。
「孫正義の父親?ああ、三憲さんね。頭のいい商売人でしたね。顔はいまの正義そっくりですよ。養豚や密造酒で
せっせと小金を貯めていました。
そういえば、税務署の役人に密造酒の件でしょっちゅう摘発されていましたよ。役人が来ると、一家総出で床下に
密造酒を隠すんだけど、たいがい見つかっていたなあ。その度に始末書を書かされる。でも、またすぐに同じことを
始めるんだ(笑)」
三憲が、密造酒づくりを税務署に何度摘発されても、懲りずに密造酒をつくってたことは、マッカリの原料の小麦粉を
孫家に納めていた製粉所の社長も認めている。
(略)
三憲はそのオート三輪で、大牟田や熊本、長崎や山口県の萩まで密造酒を運んでいたという。
鳥栖で孫の取材をすると、必ず話題に出てくるのが父親の三憲と、祖母の李元照の名前である。
(略)
孫正義は二〇一〇年六月二十五日に行われたソフトバンクの「新30年ビジョン発表会」の席で李元照の写真を大型
スクリーンに写し、祖母の思い出を涙ながらに語っている。
「この写真のおばあちゃんは、私にとってとても大切なんです。14歳で日本に渡ってきて、14歳月で結婚しました。
韓国の国籍で、言葉もカタコトで、知り合いも頼る人もいなかった。つらいですね。14歳ってまだ娘です。中学生です。
私を子守してくれたのは、このおばあちゃんでした。(略)
(略)
120 :
119:2011/01/17(月) 17:49:48
地元関係者の話をつづける。
「孫さんのおばあさんは、とにかくよく働く方で養豚から焼酎の仕事までまかされていました。小口の金融も、何でも
このお母さんから始められたようですよ」
朝鮮部落の住人にキムチづくりのための白菜を売っていた老舗の八百屋のおかみさんの話では、孫の祖母が
始めた小口金融の主な相手は、当時、鳥栖駅前にあった飲み屋街で働く水商売の女性たちだったという。
(略)
孫家と親しかった地元関係者によれば、彼女の家の近所には孫の祖母が産んだ七人兄妹の末子の一人が住んで
おり、その奥さんからこんな話を聞かされたこともあるという。
「その奥さんは、おばあさんから『子どもが多くてご飯ができたら、それを床の上にばっと広げて、子どもたちがご飯を
食べている間に、駅の機関区にある石炭ガラを拾いに行って、それを家の燃料にしていた』と聞かされていたそうです。
李元照さんの遺言は、『金を貸すときには親戚でも利息を取るように』だったと聞いたこともあります」
この話を聞いて、また映画「にあんちゃん」の場面を思い出した。「にあんちゃん」は、四人の幼い子どもを残して
死んだ炭坑夫の父親の葬式シーンから始まる。
(略)
「金を貸すときには親戚でも利息をとるように」という李元照の遺言は、まさにこの映画の葬式シーンを観るようである。
(略
121 :
119:2011/01/17(月) 17:50:46
大竹氏はそう前置きして、孫家の知られざる家の履歴書を語りだした。
「これはうちの母(清子、孫鐘慶<ソン ゾンギュン>の次女、三憲の姉)から聞いたんですが、孫鐘慶 さんは、
戦争が終わって故郷の大邱<テグ>郊外に一度帰ったそうです。そのとき孫鐘慶さんに同行したのが、母の清子と
中学一、二年生だった三憲さんでした。
ところが帰ったものの、故郷は田畑も荒れ、みんな貧しい生活をしていた。孫鐘慶さんたちが故郷で小さい商いを
始めたときも、親類からものすごい嫌がらせをされたそうです。『うちの一族は商売なんかする家柄じゃない』ってね。
(略)
それで『これでは日本に帰った方がましだ』と思い、再び日本に帰ることにした。といっても、密航です。やはり日本
から引き揚げたものの、故郷の荒廃を見て日本に戻る人たちがいた。その人たちと一緒になけなしの金を集めて、
ぼろい漁船を調達したそうです」
一行は見つからないように夜のうちに出港して、博多を目指した。ところが、その漁船が想像以上のオンボロ船
だったらしく、途中で浸水してきた。このままでは本当に沈みかねない。
「母の話では、そのとき三憲さんは、『だから、オレは日本になんか帰りたくなかったんだ』と大泣きしたといいます。
後にも先にも三憲さんが、それほど我を忘れて泣きわめいていたのは、そのときだけだったそうです」
仕方なく船は進路をかえ、韓国に戻った。だが密航船だから大声で助けを呼べない。そこで知恵者が『私たちは
日本から渡ってきました』とウソをついて、何とか救出してもらうことができた。
孫鐘慶らは、その後、別の船で博多の志賀島に無事上陸した。博多でしばらく過ごした一行は、知人に誘われて
鳥栖に行き、駅前の朝鮮部落にやっと居を定めることができた。
(略)
「私は小さい頃、飯塚に住んでいたんですが、近所の貧しい朝鮮人一家が、急に夢でも見たような、幸せそうな
表情になったんです。その家族は、それから二、三日後に、町から忽然と消えました」
彼らは、「北朝鮮はこの世の天国という総連の帰還事業の口車に乗せられて、北朝鮮に渡っていった家族だった。
「あの一家はいまどうしているのか。それを考えると、孫鐘慶さん一家が総連の口車に乗らなかったことだけは、
本当によかったと思うんです」
122 :
119:2011/01/17(月) 17:53:12
孫一家は正義が小学校にあがる頃、鳥栖の朝鮮部落を離れ、北九州市の八幡西区に移り住んだ。
(略)
孫一族が鳥栖を離れたもう一つの理由は三憲の生業<なりわい>が養豚や密造酒づくりから、金融業という“正業”
に変わったからである。三憲の金融業へのこの転身も、元はといえば、祖母の李元照が始めた水商売女相手の
小口融資に発端があった。
(略)
三憲は自宅に近い北九州市八幡西区黒埼に事務所を構えた。三憲に誘われて金貸しの世界に飛び込み、
三憲のカバン持ちになった大竹氏は言う。
「(略)
黒崎に事務所を構えたのは、近くに八幡製鉄所があったからです。
(略)」
大竹氏は製鉄所の社宅をターゲットにして、全戸の郵便ポストに片っ端からチラシを投げ込んだ。
「保証人・担保なし。5万円まで融資」というのが売り文句だった。
(略)
三憲は商売が上向きになると、顧客の幅をどんどん広げていった。年金生活者や生活保護受給者にも貸し付けた。
いまのように、多重債務者のブラックリスト名簿がコンピューターに登録されている次代ではなかったので、
完全な信用貸しだった。
「もちろん焦げつくこともありました。ですから顧客の幅が広がると同時に、取り立ても大変になってきた。まさに
夜討ち朝駆けの時代でした。ただ、三憲さんは、ヤクザのような厳しい取立てをやる人ではありませんでした。(略)」
三憲のこうした性格は祖母ゆずりだという。
「正義のお祖父ちゃんっていう人は、商売下手な人でね。廃品回収の仕事をしていたんだけど、ブツが盗品だと
わかると、慌てて返しにいくような人でした。正直者なんです。(略)」
(略)
123 :
119:2011/01/17(月) 17:54:23
孫が十歳になった頃、三憲は金貸しからパチンコ屋に転身した。
「三憲さんのところは七人兄弟ですが、長男の三憲さんがリーダーシップをとっていました。でも、ほかの兄弟も焼酎
の密造と養豚で結構なお金を貯めていて、いろいろな商売に手を出していた。
母の兄妹は、みんな個性が強いし、我も強かった。最初にパチンコ屋を始めたのは、うちの母(清子)と三憲さんの
弟の在憲さんなんです。一九六九年くらいでした。それが結構繁盛したものだから、それから一年ほどしたら、
今度、長女の(玉村)友子さんと三憲さんがパチンコ屋を出すことになった。それが、なんとうちの母たちが出していた
店の隣ですよ(笑)。(略)」
(略)
(略)結局、兄妹同士で隣に店を出してもしょうがないから、店をつなげて四人で共同経営しようということになった。
ところが、月末になると必ず大ゲンカです。売上げをどう配分するかで。
誰が一番よく働いたか、どんな景品を仕入れたとか、この仕事はうちがやったとかで・・・・。そこにばあさん(李元照)
まで入ってくると、もうまったく収拾がつかなくなる(笑)」
124 :
119:2011/01/17(月) 17:56:21
千九八〇年代の初め、大当たりが出るフィーバー機の規制がまだ始まる前のパチンコブームのときには、孫一族
七人兄妹のうち六人が持っていた佐賀と福岡のパチンコ屋だけで、五十六軒もあった。その当時、パチンコ屋で
大儲けした孫一族の一人が建てた御殿のような豪邸は、いまでも一族の語り草になっている。
その家には、だだっぴろい風呂場に水風呂やテレビ付きのサウナまであて、飼っていたピレネー犬の犬小屋には
クーラーまでついていた。
(略)
三憲が北九州の八幡に家を建てたとき、三憲はその豪邸で新築祝いの大盤振る舞いをし、両親を呼び寄せた。
父の孫鐘慶はその家で間もなく亡くなったが、母の李元照はその家で相変らず達者に暮らした。そのとき孫一族
がかつて暮らした鳥栖駅前の「無番地」のバラック建ての家は、しっかり者の孫一家らしく、別の朝鮮人に貸しつけた。
三憲がパチンコで成功すると、今度は鳥栖の郊外に、坪三万円という格安値で九百坪の土地を手に入れ、
そこに城のような豪邸を建てた。
そこには祖母のための部屋までつくられた。祖母はその豪邸でしばらく暮らしたが、鳥栖駅前のバラック建ての家が
懐かしくなり、そこで一人で戻って寝起きしていた。
鳥栖や北九州など、孫が幼少期を過ごした土地を歩いてみて、一番意外だったのは、孫一族の仲の悪さだった。
取材する前は、孫一家は葡萄の房がお互いにからみつくように仲がいい一族だと思っていた。だが、パチンコ屋の
共同経営の話でもわかるように、親密な家族関係とはまるで正反対だった。
(略)