日本書紀 考察スレ

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1ローガン
日本書紀を中心に、日本の古代を考えてみましょう。暦の考察もこちらでどうぞ。
2唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 06:28:44
暦日を探す
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3/
瀚典: 資料庫選單より瀚典全文檢索系統 2.0 版をクリック
漢籍全文資料庫(現行版)をクリック、全画面表示で「免費使用」をクリック
左上の「道具箱」に暦日があります。

数字を干支に直す式
=CHOOSE(MOD((C7+7),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD((C7+9),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

おまけのホツマ
=CHOOSE(MOD((C17+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")&CHOOSE(MOD((C17+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")
3唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 07:00:42
書紀は、下記の様な数字が割り振られている。
暦が先に在っても、後付けであっても、下記の数字が基本である。

朔の書かれていない元年正月朔は推定ではあるが。
皇暦 天皇       治世
1年   神武天皇 28852日  977.02月
80年   綏靖天皇 12048日  407.98月
113年  安寧天皇
151年  懿徳天皇 26666日  903.00月 (安寧を含む)
186年  孝昭天皇 30299日  1026.02月
269年  孝安天皇 37267日  1261.98月
371年  孝霊天皇 27759日  940.01月
447年  孝元天皇 20819日  705.00月
504年  開化天皇 21912日  742.01月
564年  崇神天皇 24835日  840.99月
632年  垂仁天皇 36175日  1225.00月
731年  景行天皇 21912日  742.01月
791年  成務天皇 22266日  754.00月
852年  仲哀天皇  3307日  111.99月
861年  神功皇后摂政
4唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 07:10:06
倍暦は書紀の基本として存在出来ない。
例えば、崇神五,六,七年の記事に対し、必要な時空は3年である。
垂仁治世90年を半分の45年とした場合、孫が居ない。
対する景行は治世60年、30年として、孫が存在する。
成務治世60年に対し、記事は少なく、子供も少ない。
日本武尊公称景行2年生まれ、景行27年で16才である。ここには10年の齟齬があるが、
倍年では解決できない。

崇神の項目では1年は1年である。垂仁から成務を見比べると、同一の倍数では対処出来ない。
倍数を違えては、暦として存在出来ない。

可能な方法は、正しい太陰暦を使用しながら、空白年を差し込んで、見かけの数字のみを
加増させて行く。この場合、他人がどんなに正確に記録しても、太陰暦の本質を見抜くことが
出来ない。つまり民は、“籾を借りると同時に農事暦の配布を受ける”。
これで種貸し屋たる天皇家のシノギは安泰である。

240年 景行元年から四年迄は“増し”は存在しないと思われる
同5年から11年迄は記事が無い “増し4年”
同12年から20年 この間の“増し2年” 
同21年から27年の間 “増し4年”
256年 同27年 日本武尊16才
同28年 帰京 同40年書紀(未経幾年)、古事記(未経幾時)時を置かずに関東下向
“増し12年”
同41年に尾張へ 43年日本武尊死亡 “増し2年”

この様にして景行時代の治世22年“増し38年”で総合60年となる。
19の倍数であるから成務元年の太陰暦に齟齬は生じないが、景行60年で観ると、閏の
廻しが狂って見えるかもしれない。
この狂いが儀鳳暦と間違われる。
5太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/19(日) 10:41:20
日本書紀と先代旧事本紀大成経の雄略4年の同一記事は紀が春と言ってるの
に経は秋だと半年ズレている。このことは雄略の代(この代は通常暦法
なるも消極的行使での2倍年暦が行使されている)に2倍年暦が行使され
ていたから、半年の食い違いがあるのだ。

さらに雄略の寿命は

古事記   124歳
日本書紀 62歳

であり、記が紀の丁度2倍の年齢になっていることが2倍年暦の補強の文証
となっている。124−62=62年 の増しなど、奴の19年の増しとは数字
が合っておらず、空白のマシ注入論ではこのことが説明出来ない。つまり
マシなど存在せず、唐松山の脳内妄想の果てなのである。

上の紀と経との春秋の季節語の違いは、魏略の「春耕秋収」が2倍年暦を
意味してるものと言える可能性が強まったことになる。しかしながら、
九州でも倍年暦法があったのかということは、まだこれでは不十分であり、
雄略の紀と経の文は畿内の出来事の記事であるから、九州に関してはなんと
も言えない。
6太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/19(日) 11:23:39
ローガンさん スレ提供有難く感謝します。

昨夜の1001で結末した邪馬台国のスレで某無名氏が2倍年暦がたわごとだと
書きなぐっていたが、これはたわごとではない。

2倍年暦は現今でもミニの2倍年暦として12時間制と24時間制の時刻計測法
が共用で行われているわけであり、これだけでもたわごとではない。また
現今、グァテマラでマヤのキチェー族が古代マヤの1.4倍暦法たるツォルキン
暦をいまだに行使しており、パラオでは古田先生グループが2倍年暦の存在
を確認しているという。

古代南バビロニアでは2倍年暦が行使されており、いろいろ調べたが、2倍
年暦の行使では今のところこれが最も古い。この地域でこれが行使されて
いた事由とは、6ヶ月ごとに起こる月食を1年の単位としていたことからと
言われているが、さらに南部では春分を元旦としてたが北部のアッカドでは
秋分を元旦としていた状況のため、1年に2回元旦のカレンダーのことにて
2倍年暦を編んだと想われる。

また現今のバリ島でもウク暦(バウコン暦)という1.7倍暦法が行使されて
いるという。日本書紀の欠史八代の記事は総て1日〜14日(2週間)に
収まっており、これなど当時1ヶ月が14日間しかなかったということを
物語っている。このことは八代当時に2倍年暦の行使があったということが
うなずけるのだ。古代アステカでは1.4倍暦法のトナルポワリ暦があり、
古代サポテカでも1.4倍暦法の存在がサンニホセニモゴテの石碑3号の文字
から、当時1.4倍暦法の使用がうかがわれる。
7日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:26:25
天武はダメだろ。

よって日本書紀も評価しない。
8唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 14:10:10
日本書紀が”正朔”を主張する以上
太陰暦で世継ぎが容認出来、且つ他の歴史書と整合性がとれる。

これが正しい日本の歴史であろう。
9唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 16:06:14
新羅本紀が正しい歴史書であれば
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシトの来邦
崇神天皇 188年〜216年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。
209年 新羅 伽耶に援軍=任那建国
上記の如き出来事を歴史に載せられる。

173年から 1世代20年ほどで世継ぎをすると、273年頃応神誕生となる。
273年には日食があった、この日食を神功元年に記載された“あづないの罪”とすると
神功元年は273年でもよい。
神功元年 磐余稚桜宮 桜井茶臼山かメスリ山の時代、それから70年後に佐紀楯列に葬られる。
さらにそこから40年後が誉田御廟山である。380年代
仁徳は神功の孫であり、父応神から髪長媛を貰っている。即位は神功元年から40年ほど経つ。
313年仁徳即位 同31年イザホワケを太子とする。399年大仙陵

ここで面白いのは、275年神功元年とすると、神功69年は、344年となる。佐紀楯列
313年仁徳元年 同31年立大兄去來穂別尊爲皇太子は343年である。上石津ミサンザイ?
1年の齟齬はあるが、ここで即位したのは応神である。

どちらで見ても高句麗の南下の部分は記載されない。しかし履中、允恭の記事には、
その時代(400年代初め)と思われる記事がある。

百済本紀に歴史を合わせようとすると、この数字に50年ほど加えなければならない。
その場合、新羅本紀による設定を失うばかりでなく、神功元年のあづないの罪も別の事象としなけ
ればならない。そしてさらに問題なのは、神功渡海、半島の占拠、七支刀までもが行き場を失う。
10太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/19(日) 16:13:53
崇神5,6年の記事は新羅193年にはならない。崇神5,6年には船舶が無く、
到底飢餓の百姓が千人も渡海は出来ない。従ってこの説は肯定できず、
紀の崇神17年に始めて船舶が製造されたとあり、唐松山のこの説には重大
な齟齬がある。これでは常人はこの説に首をタテに振らない。つまり
インチキだということだ。
11日本@名無史さん:2010/09/19(日) 17:32:41
>>9
>崇神天皇 188年〜216年
この意味が解りませんorz

在位期間だと没年戊寅年という古事記の記述に矛盾するのであり得ないし、
元号だと200年以上も在位し続けたというのも無理かと。

おバカなワタクシめでも理解できるように簡潔に説明して頂けないでしょうか
12日本@名無史さん:2010/09/19(日) 18:02:12
>>3
どの天皇から在位期間と西暦が一致してると言われてるの?
13唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 18:39:03
崇神紀には、正朔の文字がある、しかし治世68年は長すぎる。
朔を容認しつつ、治世を短くするには、19年を一つの単位(一章)とし、n回を差し引く
これなら朔はそのまま認められる。
つまり書紀は空白の年を差し込んで伸長されている、その単位として一章×n回、例えば二章なら
38年間の増しとなる。
崇神12年迄に空白年は無い。この部分はそのまま使えると思われる。
崇神6年は、新羅本紀から193年と推定できる、であるならば、崇神元年は188年になる。
14唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 18:46:07
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜83年
懿徳天皇 84年〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシトの来邦
開化天皇 184年〜187年 3章 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り 近江伊勢遺跡の衰退。古墳の始まり。
209年 新羅本紀に伽耶の登場=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 景初3年。纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙の登場。遠国をまとめる為「屯倉」導入
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜   ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場は少し後。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
  応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
15日本@名無史さん:2010/09/19(日) 19:54:42
正朔ってどういう意味で使ってるのかずっと気になってたんだが朔望と間違って使ってるみたいね
16太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/19(日) 21:33:49
結局、崇神のどこの年代が19年もインチキをしたのか、その年代を示すこと
が出来ない。崇神12年までないということがどうしてなのかの、具体的説明
も出来ない。た〜だ崇神12年までないなんて言ったところで、何故なのかの
具体性の説明をしない。抽象的で誤魔化し、これでは常人誰も信じない。
17唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 21:59:44
正朔とは
「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一
月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。

この様な暦法に則った暦の朔日のことを云う。
18日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:04:25
昔の人は長生きすぎるから、年数を半分にすると丁度いい
でもそれでは説明できないこともある
その点はいろんな解釈で辻褄を合わせるとか
もともと考え方が間違ってるかということになる

ってな感じのことはわかったけど
今の議論で何が問題になっているのかがよくわからない
オレにもわかるように説明してくれないか?
19日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:05:44
>>17

せい‐さく【正×朔】

1 《「正」は年の初め、「朔」は月の初めの意》正月朔日。1月1日。元日。
2 暦のこと。
3 《古代中国で、天子が代わると暦を改めたところから》天子の統治。


さく‐ぼう 〔‐バウ〕 【×朔望】

《「朔」は1日、「望」は15日》陰暦の1日と15日。新月と満月。
20唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 22:20:15
日本書紀の暦日を調べると、朔の変更があるから儀鳳(リントク)暦である、とか説明されるが
日数は、4分暦と同等である。
朔の変更は月齢の調整の為では無い、したがって儀鳳(リントク)暦説は誤りである。
「正朔」の文字が有りながら、閏月が時々変わる、これでは「正朔」にならない。
何故「閏月」が変わるのか?
実際に経過した時空では、閏月の変わらない「正朔」で有るが
そこに、1,2,3,年などの空白年を差し込むと、閏月の変更が存在したかのような、状態になる。
つまり −660年から使われていた暦ならこの様なことは起こらない。
例えば西暦40年から使われた暦に700年分の”空白年”を差し込むことにより、起こる現象である。
21日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:21:35
>>17
これか
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin16/rekihouz.html

あなたが全体の意味を理解しないまま自分に都合の良い部分だけ抽出してきただけだってことは理解した
22太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/19(日) 22:33:53
>>14
紀の神功元年前年の記事は日蝕ではない。日を経てということは幾日も経過
してという意味であって、たかが1〜2時間で終わる日蝕のことを語っ
たものではない。奴は東海王を日本の天皇皇后と勘違いしてるんでは
ないのか?ww とにかくこれはインチキである。

また紀の崇神5,6年の百姓流離が半島渡海という新羅193年にもならない。
千人の多勢の農民が船舶もないのに渡海は出来ない。それは現今の脱北の
如く1〜3人くらいなら荒波の危険を冒して命がけで日本海を渡れること
もありえようが、腹もすかしてパニック状態で千人の渡海など出来っこ
な〜い。

紀は船舶の始めて製造したと崇神17年の記事として掲げているわけで、
同17年手前の崇神5、6年には船舶は製造されておらず、到底渡海は不可能
である。したがって崇神5,6年は新羅193年にはならない。明確な間違いで
ある。つまり出鱈目だと言ってよい。強行してこの主張を頑張っても暖簾
に腕押しのノン・メリットであり、労して功なしで常人の首はタテには
振ってくれはしない。
23日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:34:53
俺を置いてけぼりにするならチャットでやれよ
24唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 22:35:59
>>21 そうです。
下記の数字を見て戴きたい。

書紀に書かれた数字を支那の干支と同一とした場合
太陰暦のまま圧縮出来るか?
年号 西暦 元旦朔 増し 調整  暦日 朔干支 中国朔
神武元年42年庚辰 0日  0   0日  辛卯 辛卯
綏靖元年64年壬申 3章 1日 8033日 甲申 甲申
安寧元年78年庚申 1章 1日 13142日 癸巳 癸巳
懿徳元年90年己卯 安寧と同じ暦
孝昭元年94年丙戌 3章 0日 18988日 己未 己未
孝安元年120年乙酉 3章 0日 8467日 戊午 戊子
孝霊元年146年壬辰 4章2日 37976日 丁亥 丁亥
孝元元年165年辛未 3章1日 44916日 丁卯 丁卯
開化元年184年庚午 2章1日 51856日 丁未 丁未
崇神元年187年壬午 3章 0日 52948日 己未 己未
垂仁元年217年丁丑 2章1日 63904日 乙未 乙未
景行元年240年壬申 4章1日 72320日 辛亥 辛亥
成務元年262年甲申 2章0日 80352日 癸卯 癸卯
仲哀元年266年庚寅 3章1日 81799日 庚戌 庚辰
神功元年275年丁酉 0章0日 85106日 丁巳 戊午
神功39年313年 丁巳     98986日 丁丑 丁丑

仁徳元年313年丁丑      98986日 丁丑 丁丑
履中元年400年壬子      130761日 壬子 壬子

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
閏の廻しが違うので、調整場所も違うだろうが、中国の暦日と対応させることが出来るであろう。
「履中元年400年壬子」が西暦で400年壬子と表記出来る以上、これ以降の圧縮するのは、不可能だろう。
25唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 22:37:17
書紀の暦日から、使われたであろう日数を中国の暦と同期させた。
差し引いた日数は4分暦のいう19年6940日を基本とする。
使われたであろう日付が中国の干支とほとんど同じと云うことは、
この時代は、中国も4分暦である、それと同じ日数を表記出来る
日本の暦も4分暦である。
26日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:43:57
>>24
あなたのいう古記って↓のこと?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AA%80%E5%8F%A4%E8%A8%98
27太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/19(日) 22:50:19
こんなのは後で言えばいいことで、どこに空白の19年が各天皇の代に
あるのか、それが単数個か、複数個なのか、なぜ不正な19年のマシとせね
ばならなかったのか、閏で暦の修正が出来うるのに、なぜ大幅な19年の
増しを入れこんだのか、つまり動機は何なのか? こういうことを先に
具体的に説明し、紀の文証等を掲げて言わなければ、検討ウラ取りも
しないで計算だけでああだこうだと書きこんでも、納得はしてくれない。

四分暦法を日本が使用した具体的事由が、単に九州に銘文鏡があるくらい
では、十分とは言えない。
28唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 22:55:55
>>26 さんへ
>>21 さんの云う、日本の書物です。
29太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/19(日) 23:01:24
紀によれば開化や成務の在位が各60年位もあるのに

 60−19×3=3年

からなのか、>>24表から各在位が4年程度であるということから、
とぼけて言わないようだが3回もこの数式から、マシを入れたという
ことが奴の主張らしい?www

こいつはおかしいせ???www そんなに3回もマシをせねばなら
ない動機、原因を奴は言うことができない。これは妄想の果てだな。
一見して大間違いの出鱈目臭いぜ。><
30日本@名無史さん:2010/09/19(日) 23:02:01
21の内容は26から引用してきてるんじゃないのか?
31唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/19(日) 23:14:27
21の内容は、wikki以前からある。
32日本@名無史さん:2010/09/19(日) 23:22:06
>>31
古記を最初に出してきたのはあなたですよ
21を理解するためには21の中に出てくる古記とは何のことか確かめる必要があると思ってあなたに確認の質問をした訳ですが…
21は絶対的一次ソースとして盲信すべきものなのですか?
33(@∀@) 株価【18】 ◆ANOSADJXD6 :2010/09/20(月) 00:31:42 BE:139949344-PLT(13333) 株主優待(economics)

鯖復活と共に立つかと思ってたら、意外に待たされましたw。
無いとなんかさみしい。
34日本@名無史さん:2010/09/20(月) 04:03:23
日本書紀に書かれた天皇の在位期間と、史実が一致してるのって、反正天皇からでOK?
35太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/20(月) 10:48:04
>>32
あいつはいつも説明を抽象的にいいまくって、その具体性を示さずに
説明したふりをする常習だよ。表のほうも一見計算状況を示して説明
した素振りに終始しているが、よくあいつの書きこみを調べてみれば疑問
となる所の説明の具体性は全くない。だから各天皇の代のどこどこが空白
なのかそしてそれは複数個なのか単数個なのか、さらに何故空白年を19年も
差しこまねばならなかったのか、つまり動機は何なのかという説明が未だ
かつてただの一度もしたことのないいい加減なものなのだよ。

だから今後質問しても、上っ面の抽象的書きこみばかりで誤魔化すはず
だな。回答が核心に触れないで終わってるだろ。信用しちゃ駄目よ。

>>34
もっと後代ですね。それがしは佛伝を境目と考えてます。たとえば反正以降
の雄略は、古事記では124歳だとなってます。だから反正より後ですね。
36唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/20(月) 11:13:34
>絶対的一次ソースとして盲信すべきものなのですか?

盲信はしなくて良い、考えるべきは、450年以前であれば、使われた暦は4分暦である
4分暦の古い情報として”古記”が存在する。
であるならば、使われたか確認する必要がある。
−660年迄を一つの暦とした場合、4分暦は否定される。
そこで、本当の暦と架空の暦(空白年)の2本の暦の合体した物と推定する。
これであれば、本物の暦が4分暦であっても、空白年の差し込みにより、閏の廻しは狂って見える。

日数が4分暦のそれであるから、4分暦の日数を用いる、リントク暦は存在出来ない、
ー660年の暦を1本で説明するなら、閏の狂う4分暦だ。
西暦40年頃から使われた4分暦に、空白の4分暦700年を加えた物が、今の書紀の暦である。

まあこれを証明するために、思考している。
その為に、何年から何年まで使われたかを、歴史を合わせる事により、思考する。
合わせ目が狂えば、暦も狂う。
37日本@名無史さん:2010/09/20(月) 11:50:25
>>35
dです
Wikipediaだと↓のようになってるけど、↓はあってそうですか?

在位 456年12月25日 - 479年9月8日
出生 419年1月
崩御 479年9月8日
38太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/20(月) 14:14:18
>>37
これは雄略天皇のことかい?
多分月日は太陽暦での記述だろう。紀などの記載と1年ばかりズレてるの
があるが、諸般の事情、研究等でそのズレがあるのだろう。

こちらは紀年をやってるので、月日のほうは二の次で後回し物だが、
とにかくこれは現今の太陽暦からの月日の特定なんだろう。

年代は通説等の記載であるから真の年代ではない。このへんの代を簡単に
言うと、佛伝あたりから繼體まで2倍年暦行使の関係で通説とは14年の差が
ある。だから真の繼體元年は通説の507年から14年足した年代となるもので、

 507+14=521年

だということなのだ。2倍暦のために14年後代に真の年代が在るということ
だな。これをウラ付けるのに、佛伝の年代が538年と552年の二説に分かれて
いること ↓ でこれが分かる。

 552−538=14年

繼體元年(521年)から安康の代までは通常暦法がメインだったのだ。
これは同元年直前の繼體の行動が繼體紀では百済暦のとこれのみ月後半記載
であることから、武烈以前が通常暦法だったと確認出来る。繼體紀はこの
二つの例外を除き、月前半にて1ヶ月を1日〜14日間で行う2倍暦法での
記述となってるからだ。

武烈〜允恭は通常暦であり、雄略の124歳は反正からの2倍暦法の傍系使用
によるものでこの歳数となってるもので、通常暦法と観なければならない。

だから雄略でも真の実年代とはまだ14年差だから、通説に14年加算すれば
真の年代を得る。
39太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/20(月) 14:22:12
>>38 訂正
× 安康の代までは通常暦法がメイン
○ 允恭の代までは通常暦法がメイン

 418+14=432年 雄略誕生
 456+14=470年 雄略即位
 457+14=471年 雄略元年
 479+14=493年 雄略崩御
40太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/20(月) 14:34:26
>>38 注意点
佛伝から繼體元年といっても、同2年以降は倍暦の偏差の関係で14年差では
なく、その間の年代により14年より差が詰まり、差が少なくなる。
41太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/20(月) 17:39:07
>>36
4分暦だとか言ったって、研究中じゃぁ真だとは言えない。研究完成で
申し分ないほど恣意的ゴリ押しが無く一致していて、始めて小川清彦氏の
三閏以外全部紀の暦日が儀鳳暦で一致してる主張を覆せるんだ。

研究中では仮説に留まり、おまけに具体性をせずに逃げ、抽象的文言で
説明したふりをしても、これでは誰も説得できない。つまり信じては
もらえない。
42太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/20(月) 17:51:00
河童虫さん
正朔 とは 定朔 のことなんですか? そうでないんでしょうか?
いかがでしょうか? それとも平朔の意味になりえますか?

>>19氏も見解をどうぞ。
43唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/21(火) 17:22:46
つなぎ目のない日本書紀、つなぎ目は何処だ?
275年 神功元年 治世69年 増し57年 12年
287年 応神元年 治世43年 増し19年 24年(空白年を含む)
275+12+24=311年であれば、四章の増しと考えられるが、
313年 神功39年太歳 ここが仁徳元年になる。
313年 仁徳元年 治世87年 増しは存在しない 大仙陵399年

日本書紀のこの時代は二つの読み方の合体である。
275年 神功元年 磐余稚桜宮は桜井茶臼山、メスリ山の時代
70年後が 佐紀楯列 それから
40年後が 誉田御廟山 である 285年頃になる。

神功、応神を圧縮しても、313年は得られない。ここにつなぎ目がある。
書紀は云う
266年 仲哀元年閏11月、この19年ライン上に399年 仁徳87年が来る。
仁徳87年も閏11月が推察される。
履中から暦法改正か?これ以降の計算はしてない。

仲哀元年閏11月と仁徳87年との比較で、繋ぎのために、暦日には痕跡を残さなかったが、
暦法に痕跡を残した。

仲哀元年と仁徳87年を同じ19年ラインで読む事を正朔という。
44日本@名無史さん:2010/09/21(火) 23:51:10
45唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 16:26:16
>>43 の記事には、間違いがありましたので撤回します。

再度挑戦しますから、ご勘弁を。
46日本@名無史さん:2010/09/22(水) 16:59:16
インチキ正史
47唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 17:45:22
書き直しました。

つなぎ目のない日本書紀、つなぎ目は何処だ?
275年 神功元年 治世69年 増し57年 12年
287年 応神元年 治世43年 増し19年 24年(空白年を含む)
275+12+24=311年であれば、四章の増しと考えられるが、
313年 神功39年太歳 ここが仁徳元年になる。
313年 仁徳元年 治世87年 増しは存在しない 大仙陵399年

神功、応神を圧縮しても、313年は得られない。ここにつなぎ目がある。
書紀は云う
266年 仲哀元年閏11月、この19年ライン上に399年 仁徳87年が来る。
仁徳87年は、閏11月では無い、このライン上の仁徳30年も同じである。
仲哀元年が閏11月であれば、217年垂仁元年、274年仲哀9年共に閏12月になる。
しかし 仁徳30年,仁徳87年共に閏年ではあるが11月ではない。
仁徳元年が311年であれば、閏は3月が予想される。
繋ぎに2年の誤魔化しがある。
書紀は、神功39年(313年)を景初3年(239年)とした、その為有りもしない74年分の
記事のねつ造と暦の改ざんに迫られる。
それが、神功残り30年+41年を暦の合わせられる神功39年(313年)を仁徳元年に繋いだ、
しかし閏の廻しまでは合わせられなかった。
仲哀元年閏11月と仁徳87年との比較で、繋ぎのために、暦日には痕跡を残さなかったが、
暦法に痕跡を残した。

これで大丈夫かな?
48太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/22(水) 17:59:09
増しはインチキで存在しない。
この前抜かして大威張りで景行28年〜景行40年がくっついて1年だとか
言っていたが

 40−28=12年

で19年にはなってない。かように出鱈目をゴリ押ししてマシがあるとか
言っても、常人は誰も信じやしないね。

おまけに先代旧事本紀大成経に

 景行36年8月 五十功彦命 誕生

の記事があり、景行28年〜同40年が1年などと、イカサマも甚だしく、
到底空白年へのマシとやらは是認できない。つまり出鱈目である。
49日本@名無史さん:2010/09/22(水) 19:09:00
古事記の干支表記との整合性はどうすんの?
50日本@名無史さん:2010/09/22(水) 19:16:01
干支表記は、記紀の編者がどう考えていたかということだろ
それが史実であったかどうかはまた別問題
51日本@名無史さん:2010/09/22(水) 19:41:23
見たくないものは見ない、という姿勢ですか
52唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 20:13:02
古事記の干支表記ねえ…

1本で読む事は出来ないが、面白い品ではある。
まとめようか。
53日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:18:14
記紀の編者が何を考え、何を信じていたかはとっても大事だよ
54唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 20:44:07
古事記の干支
最初に導入されたのは、孝昭の時代になる、そして孝昭元年丙寅より加増されることなく使われる。
眉にツバ付けてみる古事記の数字
孝昭天皇 94 丙寅
崇神天皇 226 戊寅
垂仁天皇
景行天皇 266 戊午
成務天皇 263 乙卯
仲哀天皇 270 壬戌
神功皇后 100才
応神天皇 362 甲午 130才
仁徳天皇 395 丁卯 83才
履中天皇 400 壬申 64才
反正天皇 405 丁丑 60才
允恭天皇 78才
安康天皇 452 甲子 56才
雄略天皇 457 己巳 124才
継体天皇 554 丁未 43才

雄略天皇 489己巳 124才 雄略の没年齢は高い、中国の干支が使われていたら、下記の数字になる。
雄略天皇489−崇神天皇226=263年 私の主張が216年と479年、丁度10年の差である。

我田引水とはこの様に行われる。

55日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:59:57
1世紀に日本に干支があった可能性
あったとして、それが7世紀まで伝わった可能性
どちらもあまり高くなさそうだな
56唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 21:09:49
日本の干支
甲子(きのえね)
乙(きのと)

漢字伝来前から干支はある、だから漢字読みでは理解出来ない読み方となる。
57唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 21:16:38
牛馬と書いてウマと読む。
しかし倭国に牛馬がいなかったので馬をウマと呼んでしまった。
後から来た牛には、ウシと呼ばれるようになる。
干支はさらに古い。
58日本@名無史さん:2010/09/22(水) 21:21:27
馬の古語はンマ
59太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/22(水) 21:29:28
マシっていうのはマユツバもの。

>>55
神皇紀

 干支は、神代より引き續き用ゐさせ給ひしか。人皇第十代崇神天皇に
 至り、十干を廢止し給ふ。
60日本@名無史さん:2010/09/22(水) 21:36:46
神皇紀が何なの?
61太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/22(水) 21:43:01
だから神皇紀には、崇神の代に甲乙丙・・・癸の十干を廃止したとあると
いうことだ。これと十二支とで年代、日付の60干支を形成する。その片割れ
をの使用を取りやめたということがこれに書かれてあるということだ。
62日本@名無史さん:2010/09/22(水) 21:49:12
それはわかってるけど
だから何?
意見があるなら曖昧にしないではっきり言えよ
63太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/22(水) 21:52:19
だから神皇紀の記事が正解ならば、崇神の代より古い八代以前か、もっと前
か、干支が日本にすでに在ったということになるということだ。八代の前半
は1世紀にかかっている。
64日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:04:22
お前はいつもそうだな

決め付けと罵倒

そして自分の意見を不明確にしたまま、引用しただけで反論したつもりになっている

まともに反論をして議論になることを恐れているのがよくわかる

常に逃げの姿勢で、相手が本気にならない程度にチマチマと攻撃を続ける

神皇紀の記事が正解ならば?

「ならば」って何だよ

反論するなら神皇紀の記事が正解である根拠を示さないと意味が無いだろうが

記紀の表記に疑問があるって話をしているのに、神皇紀なんぞを持ち出して何の意味があるんだ?
65唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 22:05:03
大和に牛馬が入ってきたのは,漢字が使われ出した時代であり。
タジマモリに都市牛利(たしうり)という漢字が振られた、まだ未熟である。

韓国チジュ島の東に牛(う)島という小島がある。この読みからも牛はウと発音される。

日本の干支はキアエ、キアト、ツアエなどで構成されるホツマの読み方が12支の導入で
変化した物と思われる。
牛馬の登場よりかなり古い。
66太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/22(水) 22:09:27
>>64
オマエは中国と似て、えらく短気だな。ww
以前こちらにしてやられたから、頭に来てるんだろう? 先の書きこみ
くらいでギャァギャァいうな。参考文献だから出したまでのことだ。
ありがたく思え。><
67日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:16:29
>>66
お前と絡むのは初めてだ

以前からウザいと思っていたが、自分には実害がないので放置していた

今までにお前にしてやられた奴なんか、ただの一人だっていないだろうがw

何が参考文献だ

さっさと神皇紀が正しい根拠を持ってこいよ

それがあって、はじめて意味が生まれるってもんだろうが

役に立たない奴だな
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/22(水) 22:26:13
何も神皇紀が正しいとは言っていないぞ。参考史料よ。

オマエは物事を深く考えすぎるんだよ。こちらの書きこみをみて、あぁこれ
は参考史料で出してるんだなと、素直に考えればいいことなんだよ。
あの書きこみのどこに、コチラがオマエをたたいたところがあるんだ?

オマエとやり合ってないなら、結構なことではないか。唐松山とへの批判
をしてるのを、オマエ自身にされてると勘違いするようじゃぁ、大した野郎
じゃぁないな? そうだろう? 無コテでデカい口をたたくな。

出来のわるい野郎だな。少しはおとなしくなれ。><
69日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:41:27
アフォかw

んなもん何の参考にもなってないだろw

ただの無駄レスだ

神皇紀の記事が正解ならば?

「ならば」って何だよ

馬鹿すぎるwww

記紀が正確ならばって言うのと何が違うんだよw

いや、それ以下だな

偽書だし
70太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/22(水) 23:01:44
そうだね? 偽書かも知れない。だが本当の所もあるかも知れない?
これは何ともだ?

ところで、
オマエはこんな態度で相手の書きこみを解釈するんじゃ、今後オマエの
仕事場等で相手の誤解曲解ばかりやって、人生を人間関係で台無しに
するぞ。オマエの神皇紀の質問でのこちらの回答をもう1回読んでみろ。

一度もオマエたたいてなぞしてないんだぞ。オマエが分からないよう
だから、ああもっと詳しく内容を知りたいのかと答えてるんだよ。それを
オマエは感情的にわるいほうわるいほうに解釈している。そうでなくて、
もっとよい考え方でオマエ自身に知識をつけてくれてるんだと、よいように
取れよ。いまのような考えすぎでは、今後のオマエの周囲の人間に真の敵を
つくり失敗するぞ。

唐松山のほうの書きこみは熾烈な論戦のためだ。だから確かに感情的に
なる事は否めないが、古代史の真を防御するためだ。それをオマエはオマエ
自身がこちらから論戦されていると考えるからオマエの精神がおかしく
なるわけだよ。オマエは奴との論戦での第三者で、オマエにこちらが文句
を言ってるんではない。今夜の>>55へのこちらの書きこみも、>>55として
るものの、唐松山への伝達の役割を兼ねてるんだ。だからああだこうだと
深く考えて、こちらに能書きをたれこむな。オマエが参考になるかと
主って書きこんだことも確かだが、気に入らなきゃ遺棄しろ。

オマエは誤解の反応の脳内だから、興奮せずに少しは頭を冷やすんだな。w

分かれば文句をもう言わなくなると思うが、まだテンぱってるなら、明日
お相手してやるよ。冷静になったんならそれはそれでけっこうなことだな。

zzzzzzzzzzz・・・・・・
71日本@名無史さん:2010/09/22(水) 23:05:55
>>70
類人猿が古代史を語るのは10万年早いんだよwww
72太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/23(木) 09:16:15
類人猿は人間と違い名無しだからな。w
73日本@名無史さん:2010/09/23(木) 09:25:07
まともな暦も無く、春と秋の収穫毎に年を数えていたのなら、干支なんか使わんだろうよ。
74太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/23(木) 09:37:50
>>73
魏略のそこの文面だけでは結論を決めるのはちょっと早いと
感じる? それに当時は畿内政権に対して九州王朝王権の並立の
時代だから、大陸人のこの説明は九州だけのことかも知れないので、
日本がどこもかしこも無暦だと決めるのは早計だと想う?

なお>>72の無名氏というのは君の事ではないので、怒るな。なお昨夜
のあいつの言い分で神皇紀が偽書だとか言っていたが、参考という
ことで神皇紀を出すが、これには神武手前の神代にて殷暦が日本に
伝わったとある。また徐福も神武より古く、各文献などは孝靈の代
としているがこれは倍暦の関係での年代の誤りであって、神代相当の
人物であり、彼が大陸の漢字と暦法を日本で教えた可能性は十分
あると言える。
75唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/23(木) 14:39:06
>干支なんか使わんだろうよ。

暦も知らない蛮人に金印を与えるか?
そして何度も通って、黄旛を下賜する。
しかも女王国への文書は正しく届く。文書が届いたら読める人間がいる。

どこか変だろ。

76日本@名無史さん:2010/09/23(木) 16:18:05
そりゃ暦はあったろうよ
今は干支がいつからあったかって話だろ
77唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/24(金) 11:22:41
暦は60と云う数字で成り立つ、この数字で云えば、神武以前から存在する。
10干12支とするなら、女王の受け取った文書にも書かれているが、
実際の使用となると、仏教と同時、漢字、漢文文化受容の時代だろう。
78日本@名無史さん:2010/09/25(土) 04:13:37
>>73
というか、倭国は紀元前から中国と外交している。
当然、外交文章を作成しようとしたら、
中国の暦を知っていないと作れない。
でも、一方で、自分達の暦ももっていたんだろう?

79日本@名無史さん:2010/09/25(土) 04:39:53
問題は干支を知っていたかではなく
国内で使っていたかじゃないのか?
80日本@名無史さん:2010/09/25(土) 04:52:01
継体天皇や舒明天皇スレとか無くなってるじゃん…、個別の天皇の話題もここでいいかな?

で質問なんですけど埋葬地的に押坂彦人大兄皇子の正室は大俣王ですよね?
81唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 11:01:00
書紀は暦で書かれている。暦が使われていれば、暦に歴史を合わせられる。
一方書紀は、伸長された暦でもある。暦を引き延ばす方法として、倍数は無い。
何故なら、太陰暦を倍数で引き延ばしたのでは、月齢が得られない。
つまり、倍暦連中は、年代を唱えても、日々の日付に言及することは無い。
つまり、暦の後付けも出来ない。
可能性のある引き延ばしは、太陰暦自体を引き延ばす、太陰暦が19年7閏の積み重ねであるから
空白年を19年単位で差し込む限り、太陰暦のまま読めてしまう。
この方法で成務までは、年代を当てはめられる。
しかし渡海した時代以降は少し違う。
書紀は神功元年の目安として、273年の日食をアヅナイの罪として置いている。
神功39年を239年景初3年とする、太陰暦で繋がっているから
現実の神功39年と西暦239年の誤差の分だけ引き延ばされている。
ここで使用された方法は、19年単位の空白年では無く、誤差分だけ暦を重ねることにより
乗り切る、神功、応神つごう110年と仁徳87年は重なる
275年神功元年と399年仁徳87年が合わせになる。
だから、合わさった部分は双方の記事を合わせて読む必要がある。というか
合わせても齟齬を生じない、ハズであるが1年の齟齬を生じて居る。

82太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 11:07:49
>>71
猿人間が古代史を語ってくれてるのが、古代マヤ神聖文字の前身字体 キン
である。キンは1日分の日付の単位で、マヤ文字の文章に記載されて古代
当時の暦日を示している。キンはかように前身字体では猿人間の絵柄の文字
である。10万年前のでなくとも、この字体はマヤの遺跡に存在している。

キンの上の単位がウィナルだな。
83太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 11:12:23
閏月などは当時通常暦法が倍年暦法と並行して行使されていたから、倍暦
で月齢が得られないとしても、通常暦法も重暦で存在してるので、どうっ
ていうことはない。従ってこの言い訳では倍年暦法を否定はできない。
84唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 11:16:02
書紀には、この重ねるところを、神功39年太歳とする。
書紀の太歳とは、暦か天皇の代替わりに記載される出来事である。
だから、313年神功39年を仁徳元年と出来る。
そうすると神功69年と仁徳31年立大兄去來穂別尊爲皇太子は、重なる
神功の後を応神が継ぐが、去來穂別尊ともとれる。

だから”継体は応神5世孫”は”去來穂別尊5世孫”でもある。
これは、允恭時代の盟神探湯による世継ぎである。
85日本@名無史さん:2010/09/25(土) 11:17:25
>というか合わせても齟齬を生じない、ハズであるが1年の齟齬を生じて居る。

この時点で理論崩壊してるじゃんw
86太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 11:34:43
古代マヤの暦法なども多重暦法であり、ツォルキン暦(1.4倍暦)にハアブ
暦(通常暦)がまず二重であり、これに長期暦と月齢暦、場合によっては
短期暦、819日暦等が並行行使されていたであり、古代日本においても
例外ではない。したがって通常暦法で閏の処理はあったろうから、それに
従って倍年暦法を行使できたということだ。ということは編年においては
日にこだわる必要はなく、主流は年代であって、極端なことを言えば、
日なんか無関係でのA天皇の時代に大陸のB王と具体的某年交易したとか
いう信用性大なる古書でも出てくれば、それでその天皇の年代はもう解決
だということになり、日がどうのは重要ではない。日は参考にはなるが、
編年においてはこれにこだわるのは、要領が悪い労働だということだ。ww

それに閏で諸々のある年を調整していたろうに、ここにおいて年の空白が
奴の言う開化と成務の代で 各19×3=57年 もの多大に年数が狂っててその
調整をひどく怠ってたということは考えにくい。当時の倭人はそれほど
バカではあるまいが?w だいたい57年に至らずとも3ヶ月も狂って季節
に齟齬が出れば気づくはずであり、それを57年も狂わせていたなどとは
到底ありうることではない。その前に軽く季節の狂いが気づくに違いない。

奴は以前からこの57年のマシを奴は無説明で終始して来ており、ここに
奴の編年論の態度の具体的口無し、音無しの構えでいることに対して
極めて大いなる疑惑が深まるばかりなのだ。これでは全然信用などでき
ないし、今でも要求しててもとぼけて無説明を貫いている。要するに奴の
論が未熟で整合出来ず、突かれたくないので、黙りこんでるわけさ。ww
87日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:23:56
>>82
二回もレスして
よっぽど悔しかったんだなw
人間に進化できたらまた来いよ類人猿
古代史を語るのはその後だ
10万年後くらいかな?
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 13:31:32
別に悔しくはない。こちら有コテで論戦経験豊富であり、オマエをから
かってるだけのこと。猿人間はマヤ文字の前身字体に存在し、この絵文字
は1日の日数の単位である。つまりオマエの書きこみはオマエの脳内が
猿式にて即興に考えこんだいい加減なもの。pp
89太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 13:47:24
唐松山は臣下の伊支馬が天皇の垂仁だとか、インチキをたくましうして
いる。これは猿が人間だと言い人間が猿以下だというのと同然であって、
まるで映画の「猿の惑星」さながらの出鱈目論を展開している。当時卑弥呼
の女王国は九州にあったのであり、垂仁天皇は九州行幸などしていないわけ
で、倭人伝の伊支馬が垂仁でないことは軽く分かりうる。

オマエ(←>>87)は、そういうことを唐松山に言えばいいことだぜ。www
90日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:13:34
>>88-89
二回もレスして
よっぽど悔しかったんだなw
人間に進化できたらまた来いよ類人猿
古代史を語るのはその後だ
10万年後くらいかな?
91太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 14:19:25
>>90
オマエも重ねて、重ねて書きこんでいる。つまりオマエも食いついて3回も
書きこんで来て後追いで言ってくるということは、遠回しにオマエ自身が
悔しいと認めたことになる。PuPuPu!
92日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:53:12
コピペだよ
93日本@名無史さん:2010/09/25(土) 15:22:15
古事記の干支表記はどういう風に処理されてるの?
19年挿入されたら干支も19加算されちゃうの?
94唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 15:31:30
古事記の干支は>>54 で説明した、その疑問点の問いなら解るが。
95太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 16:16:32
>>93
干支が加算とかいう問いをすると、唐松山は「言わ猿」に変身する。w
96唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 16:22:39
>3ヶ月も狂って季節に齟齬が出れば気づくはずであり、

なるほど、太国倍年は存在出来ないという理由ですね。
97太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 16:26:10
なるほど、マシは存在出来ないということですな。ww

だろうね。各57年ものマシの説明も全然「言わ猿」で放置して
いたわけだからねぇ。ww
98唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 17:21:40
太国倍年には、文献による時代設定が無い。
時代設定できていない数字は、歴史の数字では無い。

新羅と書紀を重ねると

173 倭の女王卑弥呼の使者来訪。  姫大神 ツノガアラシト来邦
193 倭人が大飢饉となり避難民到来。 崇神6年
209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。 任那建国

176年頃? モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年頃? ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国
216年 崇神崩御 任那の朝貢
216年頃? 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守(都市牛利 タシウリ)の渡海 
240年 田道間守殉死
240年頃? 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年頃? 気長帯姫誕生?
273年 日食 神功元年あづないの罪 
274年 気長帯姫 応神を産む。
99日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:24:28
NG推奨:唐松山、水銀厨
100日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:46:16
NG推奨:太国、唐松山、水銀厨
101日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:53:25
NG推奨:太国、唐松山、水銀厨、サガミハラハラ、ローガン
102太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 18:37:06
こちらはいくらでも文献と照合してるよ。但しオマエのようなインチキの
ゴリ押し論はしてないがね。
オマエのは日を経ての数日間日蝕が続かないのを、非科学的に日蝕に
して、しかも月と太陽が犯罪を犯すような蛮族論wwwをデッチ上げて
いる。しかも船の無い時代に百姓がメシも食えない状態で、千人もの多勢が
渡海したという〜これも不可能事であるのにことさら前面に押し続けて
崇神5,6年=193年 だとか抜かしているが、これもs級の出鱈目であって
崇神17年に始めて船舶製造とあることで、2ちゃんの正常脳の持ち主ならば
だ〜れも信じやしないインチキだということが分かる。ww 船が無けれ
ば、渡海は無理なんだよ。

これらを基としてるオマエの編年はことごとく出鱈目の構図だという事だ。
おまけに神功〜仁徳の代では4人も重複在位だとぬかし、これも超s級の
妄想で誰にも出鱈目だと分かるイカサマだな。ww
103日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:39:53
コイツは一体誰と戦っているんだ?
104日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:41:18
でもこれ全部NGするとスレの2/3はアボンなんだよな
105太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 21:49:32
>>103
オマエ読んでて分からんのか? それとも初にここのスレを除いたのか?
前者なら分かる筈だが? 唐松山だよ。
後者の状態なら分からのもやむを得んな。
106日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:50:57
チャットでやれよw
107日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:53:24
確かに二人だけの専用回線でやって欲しい。
メアドでも交換したら?
108太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 21:55:34
こちらは年寄りでそういうPCの新操作はやったことがなく、苦手なんだよ。
だが、親切に言ってくれて有難う。ちょっとやれないので・・・。
109日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:00:03
唐松山氏は、
「天皇践祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩。時年百二十歳」
これをどういう風に解釈する?
110日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:27:02
PCの操作ができないなら回線切って首を吊れ
みんな迷惑してるんだ
ジジイであることが免罪符になるかアフォ
111太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 22:30:30
>110
迷惑? それだけ権威の書きこみで満載ということだな。
オマエここから消えていい。
112日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:34:44
煽りも煽りをスルーできない奴もみんな迷惑
113日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:43:24
コテつけて
煽り耐性低くて
自らも煽り体質
って最悪だろ

これだけ条件揃えば
そりゃ過疎板だって荒れるわ

コテ外すか
スルーを覚えるか
煽りをやめるか
何とかしろよ
114日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:45:16
>>111
お前が消えろヴォケ
お前はマトモに議論をせずに
人の意見を否定して荒らしているだけじゃねえか
115日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:47:09
>>111
そんなアホ相手にされんほうがいいですよ。
余計に腹がたつだけです。
116日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:49:18
煽ってるバカがいますがスルーされたほうが懸命です。
かまうだけ無駄ですよ、シナ人朝鮮人と同じでつけあがるだけですから。
117太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 22:49:34
>>114
オマエはタバコを吸うのか?
非喫煙者からすれば、あんなイヤなものはない。
吸ってるなら、そう言う前に迷惑この上ないから消煙するんだな。

仁徳天皇も煙雲を気にしていたな。
118日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:51:44
唐松山の説は個人的ちょっと受け入れ難いものはあるし、
無理やりながらも少なくとも、純粋に持論を補強しようとしてるよね。
それに対して太国は頭から否定しての揚げ足取りや罵倒が目立つ。
論旨自体は多少説得力がある部分もあるんだけど、
とてもお互いに意見を交わした議論をしようという態度ではないね。
正直、見ていて気持ちのいいものではない。
119日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:53:15
糞コテ
ウザい
120日本@名無史さん:2010/09/25(土) 23:44:31
>仁徳天皇も煙雲を気にしていたな。


山の噴火でも気にしてたって言うのか?
121日本@名無史さん:2010/09/25(土) 23:46:08
太国 ◆yVAs7uaYlY
こいつマジで日本史板で最悪のクソコテだな
122日本@名無史さん:2010/09/25(土) 23:56:50
>>120
民家のかまどから上がる煙が少ないのを見て
3年間租税を免除したという話を気取って言ってるんだと思う。
123日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:05:42
老害に何を言っても無駄
態度を硬化させるだけ
124日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:19:45
放っておけというのか?
ずっと続けるぞコイツ
125太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/26(日) 09:59:22
>>118
唐松山という男はいい面があることは言えるが、極度の強引主張が多すぎ
る。それだけではここまで反論するまでもなかろうが、奴の目を覚ますには
こういう反論を重ねることはやむをえない。まぁ貴殿が奴の言う神功〜仁徳
の間の4重在位を受け入れるとか言うなら、あきれて開いた口が塞がら
ないがね。ただこれだけでああいう反論をしてるものではない。アイツは
プリントミスつまり書きこみミスを知って故意に取り上げた事があり、これ
がこちらの怒っている理由だ。こういうミスは各スポーツ、将棋、碁等の
競技の世界ではいいわけ無しに負けの原因になるが、ここは歴史論議の
主張の場だから、訂正すればそれでいいことだ。それにこちらがAと主張
してないのにAと書きこんでいるねなどの否定するほうへの誘導を毎回重ね
ており、こういうこちらのしてない主張をたらふくした事にして書きこむと
いうやり口は、あいつの論を確実に封じこめるほかはない。あいつがそう
いうことをよくないと分かってもうしないというんなら、こちらも反論は
するものの穏便な書きこみをして行くのが当然となる。あいつは改め
ないだろうが?

>>121 スマン!
君に迷惑をかける気持ちは毛頭ないのだが、これは唐松山だけのことで
あり、君へのいじめとかではないの。だから最悪との評価はやめにしてもら
いたいところだ。
126日本@名無史さん:2010/09/26(日) 10:19:16
要するに粘着荒らしじゃねえか
お前が改めろ
クズが
127太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/26(日) 10:29:02
>>120 >>122
仁徳天皇が高臺に登って見ていた核心のものは、上空の星辰の動向です。
これを観察するときには上空の雲が障害になるわけであり、ことのついでに
住民の炊く煙りを認めることになり、仁徳紀のこういう説話となったという
ことですね。

紀の神功39年の卑弥呼の記事はその真年代が同39年ではなく、120年前後の
年代差で崇神の代ころに落ち着きます。紀と三国史記にはかような120年
あたりの年代差の記事がけっこうあり、こういう年差が出来た因は、当時
半島、大陸が1年365日余という通常の暦法を行使していたのに対し、畿内が
倍年暦法を行使していため、紀の編者らがこれを感知せずか、編年した為、
累積で120年前後の年代差が出来てしまったということです。

日本書紀        三国史記
255年 肖古王没   375年 近肖古王没
264年 貴須王没   384年 近仇首王没
265年 枕流王没   385年 枕流王没
272年 辰斯王没   392年 辰斯王没
285年 阿花王没   405年 阿華王没

 375−255=120
 384−264=120
 385−265=120
 392−272=120
 405−285=120
128太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/26(日) 10:51:44
>>120 >>122
>127 続き
こういう120年差という記載内容は紀以外でもあるわけで、先代旧事本紀
大成経の應神4年の条にはサソリ座の超新星☆の記事が下表のこれです。

皇紀 西暦 干支 倍暦 倍干
933 273【癸巳】377 丁丑  経(紀)の應神4年
・・・・・・・・・・・・・
979 319 己卯 393【癸巳】 仁徳3年=紀の仁徳7年 蠍座☆発現

 393−273=120年

干支【癸巳】と倍暦の干支(倍干と略称)とが一致しています。倍暦は
実年代です。

同経の應神4年の記事は、真は仁徳3年だったということです。この年
サソリ座のアンタレス星の脇にこの超新星が現れ、二星が並立した天体現象
を仁徳が見て、高臺(天文台)に登って二星を観察した示唆が,観測を妨げ
る上空の雲を気にしながら、住民のかまどの烟煙を見つめていたという話
です。仁徳はこのころ二上山に二回登山したのも上空二星の動向の観測に
その目的があり(同経にその登山の話がある)、山名も上天の二星に因んで
のものでしょう。
129日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:17:27
>>122
あれも中国の瞬とかの時代のパクリ臭いね
3年間租税免除してどーやって国家運営すんのよw
130太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/26(日) 11:19:13
>>129
仁徳当時3倍暦法を行使してましたから、実際は現今の1年分です。
131日本@名無史さん:2010/09/26(日) 12:01:52
お前には話していない
黙ってろ
132唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 17:27:48
仁徳天皇の竈の煙雲の話が
313年の話なら、冊封国として石勒の乱へ出兵、その維持によるもの
応神陵の築造のためなら、大仙陵築造が解せない。

いずれにせよ、巨大古墳築造は323年に半島を再編成し、大量の渡来民の力が大きい
百舌=モザ=百済。百舌野に渡来民が住居し、牧を経営する、これらの牛馬も使用して
初めて巨大古墳が造れる。
133日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:37:55
煙雲の話は単なるたとえ話
今、議題にすることではない
134日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:42:28
推古以前の天皇はそれ以降の人をモデルにした架空の人物、
本来の倭王の記録は永遠に失われているから紀年考察とか無意味です
135日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:44:14
>>134
それを言うと唐松さんの人生全否定になっちゃうw
136日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:54:58
古墳の被葬者がほとんど不明なのにどうして正確な歴史が残されていると
信じられる神経が疑問なんだけど、信仰は人それぞれだからなぁ…
137日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:57:59
不明だから探求してるんじゃないの?
どうせわかりっこないから考えるだけ無駄ってのは単なる思考停止では?
138日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:02:47
探求するのは重要だけど妄想はまた別の話だからね
彼の場合他人の意見は全く無視して変な年表張りつけるだけだしその根拠もよく分からないし
チラ裏としか言いようがない
139太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/26(日) 18:04:10
>>134
梁書には永元元年(499年)、日本から大陸に渡った慧深という僧が日本
の乙祁王(袁祁=顯宗天皇)のいる状況を説明していますから、貴方の
言い分はこの天皇までは棄却されて然りです。

当時は後代の2倍年暦の関係で、14年分通説と真の年代との差があります。
すなわち

 485(顯宗即位年)+14 = 499年 = 永元元年

で年代の整合が出来ています。

これを裏づけるのが佛伝年代の 538年 と 552年 と、二説の存在です。
つまり

 538+14=552年

となります。唐松山のほうは半島文献に固執して迷走してるため、ここの
年代が不整合ですから、それ以後の先代が悉く出鱈目となります。
140日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:09:25
>>139
名無しの煽りをスルーするのはいいことだが
自分自身が犯した荒らし行為について一言もないってのはどうよ
141唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 18:13:59
魏国の禅譲により、晋建国
266年 倭国が朝貢
280〜90年代 東夷は毎年の如く洛陽を詣でる。
ここに倭国の名は無くとも、倭国も含まれる。
この頃の東夷校尉は、東夷の中で生まれた、文俶かその父親と思われる。
291年 永平元年 東夷校尉文淑 ここに名が見える
304年 建武元年六月 東夷校尉崔 文淑の嫁の親戚
東夷の中で生まれた、文俶が高句麗を除けば、最初に冊封国となる倭国を無視する事は
考えられない。
最初に呼び出すのが倭国であろう、呼び出しを喰らった倭国は、274年むずかる仲哀を
殺しても渡海する義務があった。
渡海で得た物は、馬韓や新羅の上に立ち、これら諸国の統領となる。
神功の渡海での戦は考えられない。侵略のためのとかいであれば、斥候を出して渡海
ルートの確認や天皇の死を無視する事は無い。
古墳に祭祀器具の埋納される時代である。
そうこうするうちに308年石碌の乱勃発、洛陽詣でのツケが回ってくる。
前線とは云わないが、遼東辺りの守備には付いたであろう。
当時の大陸は、凶作、飢餓のまっただ中、食料の現地調達は不可能であろう。
軍を維持する為には、倭国から食料を送らねばならない。
これが仁徳元年の民の疲弊の記事出る可能性が高い。

続く
142太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/26(日) 18:14:13
>>140
君は>>134か〜? だろうなぁ〜。否定されるのは面白くないということ
で文句を言いたい気持ちは分からんわけでもないが、まあ非実在説はこう
いう文献があるから、通らんと思うよ。
143唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 18:26:08
316年 東晋滅ぶ
317年 倭は伽耶と共に朝廷に従わない。 下がその記事
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

ラヂオ氏は、韓国人だ そして百済本紀と新羅本紀の齟齬を埋めようとしている。
その為の編年がAD377年となるが、377年には倭が従うべき朝廷が存在しない。
317年時点なら、洛陽は陥落しても、東北方面はまだ存在する。
323年には西晋も洛陽奪回を断念する。つまり東北方面は切り捨て。
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸
口典 禁民子母相婚

3月 扶余の流民30戸が又来降した、扶余と倭は相通じている、倭は年年その民を
受け入れ都や邑に配属する。倭臣千熊名がひこは善く弁がたつ。人々の多くは、その言葉を聞く。
ゆえに、国人は朝廷に反し、百済や高句麗に帰属するが、多くの民は千熊長彦に従う。

半島、平州方面が空白となった時代です。ここ以外に半島を占拠する場所は無い。
144日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:36:23
>>132
百舌って百済の事なのかー
145日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:39:44
>>141
関西に大和が出来てから中国に朝貢するのは九州政権
だけになってしまったのでは??
146日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:49:57
>>142
敵は一人だけだと思いたい気持ちはわかるが、実際はそうではない
147唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 19:22:40
>>145
その心配は無い、何故なら、大和、河内に滞在したのが、倭王であるからだ、
大倭という呼び方は出来たが、それは後世まで使われなかった。
148日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:34:52
>>137
日本書紀や古事記のような平安初期に完成した史料を元に
何をどういう理屈で探求するつもりなのかな?
その史料の成立背景から考察を始めるのが筋だと思いますよ
なんでも無条件かつ無批判で利用するのは滑稽です
例えば>>139にあるような梁書の記事を参考にするのは良いけど
この文章はよく読めば正確な見聞と言えるのか激しく疑問ですよね?
というか明らかに不可解な内容です
この文章の著作者について考える前に南朝の社会情勢をよく理解していないと
誤った判断をしてしまうと思うんです
また顕宗の諱も前後に天皇と比べて異質なのはこの梁書の記事を参考に
追加された可能性を示している、とか考えられるわけです
149日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:51:53
>>148
いや、それでいいんじゃないの?
何の齟齬もないと思うけど
150唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 19:56:34
書紀が太陰暦で書かれている以上、太陰暦で読める様、そして諸外国の文献と一致させることが大事だ。
これまでは、書紀と百済本紀を一致させようとしていたが、太陰暦はおろか、百済本紀とさえ一致させることが出来ていない。
残念ではあるがこれが現実です。
そこで私は、新羅本紀との一致を実行している。
そうすると、神功49年の半島占拠、まで情勢が可能とする。

つまり書紀は百済本紀に合わせようとすると、どうにもならないウソの連続であるが
新羅本紀に合わせれば、かなり正確な歴史書となる。
151日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:15:15
>>148
じゃあ卷一神代紀を分析すればいいんでない?
それ以前にあった伝承を列記したものだろ?
一書に曰、蛭児を産んで次に淡洲産んだが子供の数に入れなかった、そのあと大日本豊秋津洲、淡路洲、伊予二名洲、筑紫洲、億岐三子洲、佐度洲、越洲、吉備子洲と産んでいった
これを制圧の歴史とみると面白いよ
152日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:33:22
なんだよこのアボンの連射はw
153太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/26(日) 21:30:06
>>148
顯宗天皇が通説の485年では、499年(永元元年)には顯宗(乙祁)
は生存してないんだよ。紀の編者らは倍年暦法なんか未知のはずだから、
梁書の記事(499年)を参考にしたんではないことが分かる。参考にしたん
なら、この天皇を499年生存で書かねばならない。

つまり君の参考にしたという説はこれで成立しない。紀の編者らが倍年暦法
に未知だったということは、年代の合わない神功39年に卑弥呼の記事を
載せてることからもこれが分かる。
154137:2010/09/26(日) 21:59:08
>>153
アフォか?お前は
論旨が違うだろw
横から口出すなヴォケ
何でもかんでも噛みつきやがって
たとえ話だろ
そこに少々のミスがあったって
本旨には関係ないんだよ
それくらいのことも理解できないのか?
突っ込もうと思えば突っ込めるところを
俺が意を汲んで納得しているのに
どうしてお前がシャシャリ出てくる?
本当にどうしようもないクズだな
老害は死ねばいいんだよ
マジで死ねよ
老い先短かろうが関係ない
今すぐに死ね
ウザすぎる
155日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:00:11
>>歴史とみると面白いよ
>>未知のはずだから

暇人ならもう少し調べれ
156日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:50:59
老害はなんでもわかった気でいる
老い先短いからそう思いたい
だから根拠のないことを平気で断言する
したがって議論になれば当然のように紛糾する
歴史好きには老人が多いから始末におえない
全員死ねばいいのに
157唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 23:05:45
気長帯姫もう一つの系譜
開化天皇─日子坐王──B山代之大筒木真若王──かにめ雷王──息長宿禰王(父親)
開化天皇183年〜187年
日子坐王 183年〜 数字上崇神より2つ年上
山代之大筒木真若王 202年〜
かにめ雷王 221年〜
息長宿禰王(父親) 240年〜
気長帯姫、神功皇后 259年〜

1世代を19年で繋ぐと、ツノガアラシトの系譜と同等となる。
ここで問題となるのは、大彦の系譜である。
孝元 165〜183年 孝元5年 大彦誕生
辛亥年七月中記乎獲居臣・・・辛亥年七月中コワコの臣記す
上祖名意冨比[土危]・・・・・上祖名はオオヒコ (169年生まれで計算)
其児多加利足尼・・・・・・・・其の児たかりそこね(188年渟川別?) そこね=宿禰
其児名弖巳加利獲居・・・・・・其の児名はテミカリのわこ (207年 磐鹿六雁命の兄弟?六雁は大彦の孫、50才まで活躍)
其児名多加披次獲居・・・・・・其の児名はタカヒジのわこ (226年 高橋神社に六雁は祀られる)
其児名多沙鬼獲居・・・・・・・其の児名はタサキのわこ (245年)
其児名半弖比・・・・・・・・・其の児名はハテヒ  (264年 肥前?)
其児名加差披余・・・・・・・・其の児名はカサヒヨ  (283年  風早国)
其児名乎獲居臣・・・・・・・・其の児名はコワコの臣 (302年生まれ)

この様に19年で繋ぐと応神より1世代後程後となる。
4世紀の辛亥年は351年、471年には120年不足する。
158日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:12:51
>>153
紀の編者らは倍年暦法を知ってたと思う
知ってたからこそ倍歴を廃止した際、過去に溯って歴史を修正するために記紀の編纂を始めたんだと思う
しかし頭がこんがらがって支離滅裂になってしまったのが今の記紀の姿なんじゃないかな
159日本@名無史さん:2010/09/27(月) 01:09:36
はじめまして。ようやく最近になって記紀に興味を抱き
手近なところでwikiで色々読み始めたばかりの歴史素人です。

wikiの「天孫降臨」のページで
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8


ニニギは「この地は韓国(からくに)に向かい、
笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、
夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」
(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國
夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)と言って、
そこに宮殿を建てて住むことにした。


高千穂を「高い山」の意とし、添(ソホリ)がソウルと同じ王の都であるなど
韓国との関連を示す記述があることと前述のニニギの言葉から、
本来は九州北部が伝説の地であったが、政策上の都合で九州南部に移動したものとしている。

・・と、韓国に関わりがありそうな記述がちらほら散見されますが
日本は神話時代から、半島や大陸方面との関わりがあったのでしょうか?

参考文献等、次の年末の連休で読めたら読み始めたいと思っておりますので
今現在、記紀や歴史にお詳しい方、できたらお教えいただきたく
恥をしのんで質問させていただきました。よろしくお願い致します。m(_ _)m
160日本@名無史さん:2010/09/27(月) 01:15:01
>>159
あそこの韓国はカラクニであって今で言う朝鮮半島の韓国とは関係ないんだが
だいたい当時三韓はあっても韓国なんて概念はない
161日本@名無史さん:2010/09/27(月) 08:09:58
おお、ありがとう!!
文字は一緒でも、まったく違うもの(カラクニ?とかんこく)と
考えて読んでいけば良いんですね?
早くちゃんと読んで、自分で理解していかないとですね。(^^;

本当にありがとうございました!
162太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/27(月) 10:38:56
>>158
倍暦の廃止は佛伝のころと観てます。このころ大陸からの佛教の受け入れ
と同時的に暦法も向こうの通常暦法を入れて採用ということです。
佛伝は538年(あるいは552年)ですから、紀の成立時の720年ではあり
ませんよ。その差150年以上間隔がありますからね。

紀の編者連が倍年暦法を知ってたのなら、顯宗(乙祁)即位を485年では
なく、499年ころにしないと、紀の読者が、アレッ顯宗が死亡してるのに
即位となってると、なおさら紀の信用性を落とす危惧を察知しますから、
倍暦での14年差を知ってなかったと観るほうが妥当ですね。となりますと、
梁書を参考にした創作天皇ではなく、大陸に情報が正規に伝わって
いたことから、これは実在の天皇だと観て間違いありません。
163日本@名無史さん:2010/09/27(月) 14:03:17
仕事はどうした?
リアルでニートか?
164太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/27(月) 14:22:52
>>162
永元元年=499年 と通説の顯宗(乙祁)即位年 485年 と〜佛伝の552年と
538年の双方の年差が14年であるということは、この等号の説明が梁書に
あることで、顯宗の実在が間違いないことが分かる。

このことは

 通説の雄略即位年=457年

のところ、14年を追加した〜

 457+14=471年(辛亥年)

が真の雄略即位年だということが類推される。これを裏づけるのに稲荷山
鉄剣の銘文に 「辛亥年七月・・・」とあり〜さらに「獲加多支鹵大王」と
あることから、先の真の顯宗即位年が 通説485年+14年 の 499年 で
あるのと同様に、通説の雄略即位年の457年に+14年 の471年が雄略の真の
即位年代だということが強固になるのだ。

このことは唐松山が同剣のこの大王名を雄略でなく他人だとの主張をして
いることが、奴の間違いのインチキであったことを意味している。
165太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/27(月) 14:45:21
>>164
稲荷山鉄剣銘文の七世代とかの記述は、銘文中のオオビコと斯鬼宮の名から
獲加多支鹵大王が雄略天皇ではないんではなかろうかとの数不足の疑念が出
て来るかも知れないが、ここの世代は略書きで七支刀の七数に合わせたもの
のようで、銘文にも「辛亥年七月・・・」と月数が七であることからもこれ
がうかがえる。

その略書きとした暗示が銘文中の「加差披余」であって、「加」はプラスを
「差」はマイナスを示唆しており、「余」は割り算の余りなるも、結局
ここの系譜を加えたり引いたりする操作を考えて余る途中の人物を七に
整えるため、差し引いた〜削ったと、銘文の作者はこれを示唆しているの
である。従って世代が不足で合わなくてもおかしくはないのだ。
166日本@名無史さん:2010/09/27(月) 15:31:40
アンカーのつけかた間違ってるぞ
167唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/27(月) 18:21:56
古代を考える 古墳 白石太一郎編より

三角縁神獣鏡 分布拡大の3段階
小林行雄説 
前期古墳には、中国製三角縁神獣鏡だけを多数副葬するものと、仿製のそれを混じえるものとの2
者があり、碧玉製腕飾類が共伴するものは後者に限るということを明らかにした。魏の王室から一
括下賜された鏡と推測する。中国製が不足してきたとき、それを補うべく生産されたのが仿製鏡だ
と位置づける。こうして分離された古相の前期古墳は、近畿中枢部から瀬戸内沿岸を経て北九州に
至間に分布する、これらは相互に同ハン鏡を分け持つ。
初期 中央型 畿内中心の分布  3世紀後半の配布
二期 西方型 静岡県西部を東限に北九州まで 300年頃の配布
三期 東方型 吉備から上毛、茨城まで 4世紀に入ってからの配布
これを編年に合わせると
中央型 261年景行崩御から274年仲哀崩御まで
西方型 274年渡海から東夷が洛陽詣でを繰り返し、308年石碌の乱まで
東方型 308年から323年半島占拠まで

308年の石碌の乱に対処するための軍隊派遣は、近畿以西ではまかないきれず、関東蝦夷や
毛人の調略が終了した、関東にまで軍隊派遣の要請が及んだ。

関東の古墳
三角縁神獣鏡を副葬する前方後円墳の段階ともなると、埋葬施設が巨大化する。
この頃までの古墳には、伊勢湾沿岸の形式の土器が副葬される。
5世紀ともなれば、東北地方を含む東日本一帯の高坏が東海系統の物からすべて近畿系一色に
塗り替えられる。

伊勢と云えば、武淳川以来大彦系の領地である。
5世紀とは、高句麗に破れ、大規模な軍を半島へ派遣する時代ではなくなる。
168唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/27(月) 18:29:12
稲荷山鉄剣銘文には、辛亥の文字が刻まれる。

これは、暦の有った証拠でもある。
323年 大量の渡来民 彼らは暦を知っている。
そして畿内政権も半島との文書交換で日付は必須である。
だから、仁徳元年(313年)には、和暦を中国の暦に合わせて使う。
一方和暦をそのまま使う連中もある。二暦同時使用が考えられる。
169唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/27(月) 18:43:36
257年 日本武尊は関東平定の命令を受け、軍を伴わず、伊勢に入る。
日本武尊に従った軍は、伊勢の武淳川系と尾張の軍隊
そして景行に従い関東下向したのは,磐鹿六雁を頂点とする大彦系の軍隊だ。
つまりその後の関東経営に大彦系は深く関わりをもつ。
170唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/27(月) 18:55:22
だから関東の古墳には伊勢系の土器が伴う。
大彦系の軍隊が日本武尊の子ワカタケルを大王と呼んだ可能性が残る。
171太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/27(月) 20:42:46
>日本武尊の子ワカタケルを大王と呼んだ可能性

そうならば、記紀に大王(天皇とか)に即位したとかの記事が載るよ。
盲象ご苦労!
172日本@名無史さん:2010/09/28(火) 03:13:52
>>171
消えろ有害
173唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 16:06:21
稲荷山鉄剣銘を過秋のように読むなら、ワカタケル大王は辛亥年には亡くなっていなければならない。
世々為杖刀人首奉事・・・・・・・・・世々杖刀人の首(おびと)として奉事を為す
来至今獲加多支鹵大王寺・・・・・今に至りてワカタケル大王の寺に来る
在斯鬼宮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磯城(斯鬼)の宮にあり
時吾左治天下令・・・・・・・・・・・・・吾天下に(号)令し治むるを左(た
す)く時
作此百練利刀・・・・・・・・・・・・・・・此の百練の利刀を作る
記吾奉根原也・・・・・・・・・・・・・・・吾(系譜と事跡の)根原を奉りて
記す也

齟齬のあるところ
吾(系譜と事跡の)根原を奉りて記す也  七代で繋がらない、根源では無い。
磯城(斯鬼)の宮 雄略の宮では無い。
ワカタケル大王≒ワカタケ大王 無理すれば通じる程度。
磯城(斯鬼)の宮にあり吾天下に(号)令し治むるを左(たす)く時 在位中と出来ない。

だから私は、ワカタケルの生きていたであろう291年辛亥年の次の辛亥年とする。

太国倍年には日時が無い、だから雄略即位が辛亥年7月以前であることを証明する必要がある。
しかもだワカタケル大王が即位した年の記載なら、即位後7月までの出来事を顕彰した文でもあるから
その出来事を特定せねばならない。
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/28(火) 17:24:27
別に雄略天皇が辛亥年に死ぬ必要はな〜い。雄略の陵は畿内にあるので
あろうし、稲荷山でははないと観るのが相当だからね。

日時は唐松山こそ霧中、雲中の状態であり、表の説明が具体的に出来
ないことが、日時の特定の出来てないことを軽く読み取れる。今後も日時だ
と言ってはいえど、説明出来ない。いつも抽象的無説明の日数字を書きこむ
ものの、その具体的事由等は常に踏みこむことが出来ない。インチキが
バレるのが怖いわけだろうなぁ。ww
175太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/28(火) 17:37:50
唐松山はオマエの表を納得してもらいたいなら、それを具体的かつ詳細に
証明する必要がある。餌のついてない釣り針での釣りでは誰も餌に食いつい
はくれない。ww

稲荷山鉄剣の辛亥年は471年である。これは通説の457年とは14年差があるの
はすでに解説したとおりであって、梁書の499年(=永元元年)とは14年差
で485年の顯宗即位(乙祁)で、梁書の記事が整合していることから、
確実に稲荷山鉄剣のほうも整合してると観て堅い。

これはこの鉄剣のワカタケルが雄略天皇であることを如実に示している。
したがって、唐松山の言う日本武尊のころに景行、成務以外に大王など
即位の記述は記紀には無く、このことは唐松山が証明できないインチキ
だということを意味している。
176日本@名無史さん:2010/09/28(火) 18:21:45
粘着キモい
177唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 18:22:48
太国が2chに書き込みしていた時 私は倍年の亡者と呼んだ。
合掌

こういう書き込みが出来るのは、太国が2chから退場した後だ。
同じく 辛亥年にはワカタケルは退場していなくては、記事を書けない。
ワカタケル生存中の読み方は無いだろう。
178太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/28(火) 18:43:14
唐松山はマシの亡者と言ってよい。景行28年〜同40年 はその間19年には
ならない。つまり数字も合わない出鱈目だということが即分かりうる。ww

稲荷山鉄剣のワカタケルは当然雄略天皇であり、唐松山の言う雄略天皇
以外のワカタケルとやらが即位した事実は記紀に存在しない。つまり奴の
妄想の空想であり、そんな奴の言う大王などいるわけがなく、同鉄剣の
ワカタケルは雄略天皇以外にない。奴の言い分は出鱈目そのものである。
179日本@名無史さん:2010/09/28(火) 19:34:30
残された僅かな人生を粘着に費やす太国
無駄だから今すぐ死ね
180唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 20:03:14
>稲荷山鉄剣のワカタケルは当然雄略天皇であり、

これが事実なら、辛亥年に生存できる読み方を掲示出来るの?
出来なければ、辛亥年に死亡していれば良いのだから、531年にするか
471年には退場していれば良い。

3択問題だから、太国亡者様は、どれを選択します?
181唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 20:26:23
太国倍年亡者の主張
853癸酉  345乙巳  神功立后
861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)

神功皇后摂政六九年(己丑二六九)十月壬申《十五》葬狹城盾列陵。▼是日。追尊皇太后。曰氣長足姫尊。☆是年也太歳己丑。
氣長足姫尊が皇后と呼ばれるのは、葬られた日に『追尊皇太后』が有るからである。
だから立后も摂政も存在しない。神功38年迄の大王を欠くのが日本書紀である。
時期は、磐余稚桜宮の営まれた、275年から38年間である。
4世紀半ばの纒向、磐余に宮の存在は無い。

182日本@名無史さん:2010/09/28(火) 21:10:17
月朔干支を日本書紀に追記したのは三宅臣藤麻呂だと思われる
183唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 21:29:01
日本書紀の月朔干支は、複雑である、つまり何年間もそのまま読めるところもあれば
間を開けては成らないところ、
だいたい各天皇の初めの頃は、余り間を開けないが、末になると急に年代が大きくなる。
この数字を後付けとするには、複雑すぎる。
本物の暦に、各天皇が、空白の暦を差し込んだとするのが妥当だと思われる。

もし書紀に書き換えがあるとすると、神功39年を景初3年と読んだ為、
西暦で表せる神功39年と239年景初3年の誤差分だけ二重表記となる。

私の推測では、313年=神功39年太歳=仁徳元年 313−239=74年
この74年ほどが二重の表記と成る。
神功39年〜応神41年と仁徳紀は重なる。
神功39年〜応神41年には、百済王朝が書かれているから短く出来ない、ただしこの百済王朝は、
百済本紀と重ならない。しかし323年神功49年、326年神功51年七支刀と歴史と整合性がとれる。
184太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/28(火) 21:51:15
>>180
すでに提示したとおりだ。オマエの変?年表は相変わらず、自信無き
無説明のインチキ臭い〜いい加減な代物。ww 餌の無い釣り針での釣り
では大魚(←納得する常人)は来やしない。

>>181
紀の説明では神功〜仁徳の代に4重在位なんて言ってはいない。つまり紀は
遠回しにオマエの主張はデタラメだと言ってることになるんだ。オマエの
言う日本武尊あたりとか神功〜仁徳のころにワカタケルが即位した記事は
記紀のどこにもない。これは旧事本紀でも先代旧事本紀大成経でも同様
に雄略が二人もいたような史実の記載は無い。

これはオマエの言うことが超デタラメだということを意味する。またマシ
などというものは年の不正注入の年代偽造であるから、こんなことをすれ
ば、古今の F.D を書き換えた不正検事のように逮捕されて、身分は失脚だ。

大した利害もなさそうなのに、そんなマシなどというやばいマネなど
するわけもなく、動機も存在しないと観てよい。つまりマシはデタラメ
そのものである。これを裏づけるのにオマエのいつぞや示した景行28年〜
景行40年の間が19年にならないことからもマシがウソであることが知らされ
る。40−28=12≠19 であって、オマエのインチキが露呈している。ww
185唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 22:07:13
太国も他人の説は否定出来るが、
自分の説を肯定出来ていない、言葉を繋げてもその中身は何もない。
であるから、太国亡者の尊号を有り難く受け取れ。
186太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/28(火) 22:12:54
>>185←これころ論の中身が無い。
  ↑
これには論が一つも無い。言うんなら正規の論説で来い。自説を肯定
するから書きこむわけだぜ。ウソでちょろまかすな。><
187日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:17:02
太国 ◆yVAs7uaYlY は死ねばいいのに
188太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/28(火) 22:17:26
>>186 訂正
× これころ
○ これこそ

オマエはそのうち4重在位とやらを5重6重在位とかにさせるのか?
そのうちn→∞に増加させるのか?ww いくつくらい重複在位を
増やすと、オマエはアレッこんなにうんと並立在位するわけが
ないなぁ〜〜ppp と気がつくのかね〜〜?? 鈍感なんだな?www
189唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 23:29:00
>>186
>>184にも>>188にもワカタケルを雄略とする正当性は見られない。
よって太国倍年亡者の主張は退けられる。

190日本@名無史さん:2010/09/29(水) 03:57:25
ジジイは寝たか?
このまま起きてこなければいいのに
191日本@名無史さん:2010/09/29(水) 04:13:16
何か勘違いしている人が多いけど
例えば日本紀を編纂したのは舎人親王ではないんだよ
舎人親王はただの表紙の人間で官僚が作った日本紀を代表して奏上しただけで
本人の意見は何一つ反映されていない
三宅藤麻呂の件も同様で暦博士の作成した儀鳳暦と山田史御方の書いた日本紀を合わせて
元明天皇の定めた文武天皇即位年を基準にした神武天皇の立太子年から
安康三年まで月朔干支を付記したといいたいわけ
192日本@名無史さん:2010/09/29(水) 05:06:14
>>171
おれは日本を文明的な観点で調べてる者だけど、過去の古墳王朝と
その後の王朝は「朝」がちがうんじゃないかと言う気がするんだが・・・・。
それに古墳王朝以降の大和王権は完全に朝貢属国になってるよね・・・。
古墳時代以降でかなり痛手な、2次大戦の敗戦級の大敗北と言うのを
どこかでやってるはず・・・・・。(白村江かもしれないが、それ以前に・・・)

あの古墳時代の王朝が途絶えず今日まで続いてたなら今ごろ日本は
もっと盛大な大国で繁栄していなければおかしくて、もっと独立した文化
をもった国として君臨してなきゃおかしい・・・・。
193日本@名無史さん:2010/09/29(水) 06:26:56
斉明天皇が道教系の新興宗教にハマって国費を使いまくった、とか
194日本@名無史さん:2010/09/29(水) 07:45:31
またここに、ひとつのトンデモ説が誕生した
195太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 10:43:53
唐松山の言う、日本武尊のころにワカタケルが即位したという記述はどこ
の古文書にもなくデタラメそのものであり、このインチキ妄想が神功〜仁徳
の代で4重在位したとかいう破天荒で気が狂ってるのかと失笑したく
なる盲造盲象の果てを製造している。日本武尊の頃にも神功〜仁徳の代にも
ワカタケルなどという大王が即位したなどは、常人なら誰もが嘲笑
するイカサマ論であ〜る。そのうちn重在位がn→∞にまで増大しても、
この男は自分の説がおかしいぞと気がつかないらしい。ウワッハッハ! ww
196日本@名無史さん:2010/09/29(水) 13:08:46
>>192
古墳時代の少し前に、銅鐸・銅鏡・銅矛などを伴う、春秋時代とリンクする
王朝もあるんだよね。
ここで出てくる青銅器は周と大体含有量や組成が同じなんで、大陸方面と
交流が有ったのは間違いない。
この王朝がそのまま古墳に繋がったのかもしれないけど。
前方後円の形も、天を祀る円形+地祇を祀る方形でほぼ間違い無い気がする。
197日本@名無史さん:2010/09/29(水) 13:23:45
文明史的な観点から見ると、春秋時代のどこかの国が、
日本と特に強い関係が有ったはずで、
斉が極めて怪しい感じがする。
845年に成立の新撰姓氏録の皇別・神別・諸藩の3個のカテゴリーが有るけど、
最近の遺跡調査で弥生人とも文化的にも、DNA調査でも密接な関係が有って、
絶対移民が多かったはずの「斉」が諸藩に入ってない。
百済、高句麗、漢、秦、呉、陳、唐とかが入ってるのにも関わらず。
これは一種のダイイングメッセージと言うか、古墳より前からの中枢部には
斉の人がいたから、この人たちは皇、神別に入ってるって言う事なのでは。
同じように周とかも諸藩に入って無いのが怪しい。
198太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 14:14:17
>>189
>見られない
見られない、見られるという言い草は抽象的文言であって、そこには見ら
れないという具体性が全然説明出来ていな〜い。つまりオマエの恣意的に
都合の悪いものに根拠も無いまま見られないをかぶせただけの否定のための
否定であり、そこに全く論説というものがこれこそ見られな〜い。これは
奴の自説の不都合をくつがえす持ち駒が無いことを意味している。ww
199日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:40:38
>ウワッハッハ! ww

歳を考えろ
200太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 18:03:15
倍年暦法の恒久的廃止での通常暦法一本での使用時期は、佛教伝来がその
境目であろうということは、かねてより目星をつけていたが、どうやら
間違いなかったと熟考している。それ以前での繼體〜宣化までが2倍年暦を
行使していたということだ。とりわけ繼體の代が2倍年暦であったことは、
その日数統計表から、繼體紀の日数記事が二つの例外を除いて皆月前半に
位置していることからも確認出来る。残りの二つは、一が百済の記事のため
半島が通常暦法行使のことから月後半の日付となっている事と、二〜繼體
即位直前の記事が先帝の代の暦法によることから、これが同様に月後半の
日付となっているのである。つまり武烈の代は2倍年暦でなく、通常の暦法
を行使していた匂いが強いということだ。

繼體即位元年は通説507年のところ、真の実年代は2倍年暦の関係で14年分
後代の521年なのである。遡って雄略の代までは先述の鉄剣銘文から
同じく14年差だということなのだ。このことは雄略の二代後の顯宗即位が
14年差で 499年=永元元年 及び稲荷山鉄剣の 辛亥年=471年 も通説の
457年から14年差であることで、雄略〜武烈(繼體の先代)の間が年差に
偏差がないことからこの間、通常暦法を行使していたと観るべきなのである。
201日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:04:20
妄言ジジイは死ねばいいのに
202太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 18:17:46
>>200 続き
真の年代との14年差のことは、佛伝の説に552年と538年の二つがあるわけ
で、二説の年代差も14年差であることからこれのウラ付けが取れてると
言える。

ところが以下のように雄略の寿命は

古事記   124歳
日本書紀 62歳

と記が紀の2倍となっており、記は雄略の代を2倍年暦で紀は通常暦にて
示したものだということが分かってくる。

では何故雄略世で通常暦法のところ2倍暦法の年齢数字があるのかとの疑念
が沸くが、この世にしぶとく2倍年暦を蔭で行使していたということなの
だが、このことはこの代の近くに通常暦法を脇に追いやり、2倍暦法を行使
していた天皇の代があったということなのだ。ではそこはどの代
なのか〜? 後述。
203日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:23:48
続けるな
204唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/29(水) 19:30:17
太国亡者は、
古事記の雄略は倍年で。
書紀は通常暦だと言っているのだ。

通常暦って何だ?
世の中に通常暦なる暦は存在しない。
倍年と同じく太国亡者の創作暦であろう。
205太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 20:34:34
唐松山は異常暦しかないそうだ。ww 笑ってやれ。ppp
太陰暦、現今の太陽暦が異常暦だそうだ。インチキで論の持ち駒が無しの
唐松山はこういう反論しか出来ない野郎だ。

4重在位なんでデタラメの極。ww
206日本@名無史さん:2010/09/29(水) 21:49:38
>>195
だから物部が蘇我らに滅ぼされてからはワカタケルなどは否定されたはず
207日本@名無史さん:2010/09/29(水) 21:51:24
>>196
それが多分もともとの弥生系でしょうね。
その後半島から新しい文化と共に大和王朝が成立されたんだでしょうし。
208日本@名無史さん:2010/09/29(水) 21:56:57
>>200
>間違いなかったと熟考している。
変な日本語使うなよ。

2倍歴なのに常に14年差ってのが理解できないんだけど。
仮に通常歴100年から2倍歴を始めたら
2倍歴150年=通常歴125年 ってことなんだろ?
209太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 22:21:22
>>208
後段
だからそれは態様によって違って来るよ。下表のとおり逆算。

西暦 倍暦
538 538  佛伝
537 537
536 536  宣化元年
535      安閑崩御 宣化即位
534 535  安閑元年
533 534
532
531 533 繼體崩御 安閑即位
530
529 532
528
527 531
・・・・
513 524 安閑立太子
512
511 523
510
509 522
508
507 521 繼體即位 521−507=14年

               以上
210日本@名無史さん:2010/09/29(水) 22:29:00
うるせーばか
211太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 22:30:01
>>209 続き
上表の最下段からさらに先代へ逆算するも、繼體手前での武烈より古代
では、雄略までは通常暦法のため14年差は変らずに14年差という一定の差
が続くのだということだ。そして

 通説457年=471年(辛亥年:稲荷山鉄剣銘文)=真の雄略元年

 471−457=14年
212日本@名無史さん:2010/09/29(水) 22:57:54
ばかだなあ
そんなわけないだろwww
213唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/29(水) 23:01:52
倭国の大敗北は、高句麗の南下だ。

この敗戦の責任を回避するために、允恭時代のクガチがある。
書紀はここで書き換えを正当化している。
仁徳末の20年と履中、反正の10年 合計30年の記事が記載されていない。
西暦280年から、310年迄だ。

履中6年 「悲哉。吾兄王何處去耶」この話だ、「廢以不求。是讃岐國造。阿波國脚咋別。凡二族之始祖也。」
で話は終わる。
呼んでも参内しない輩に、領地を賜ることは無い。多分404年迄の戦で戦死した人物の親族に領地を賜った、説話であろう。
214唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/29(水) 23:19:50
380年頃から、410年頃までの高句麗による敗戦を書紀は記載していない。
空白と「何事も無かった」でお茶を濁している。
これは、允恭時代のクガチによる、先祖、系譜の書き換えと連動している。
つまりだれも高句麗による敗戦の責任を取っていない。
 
405年 履中6年の記事に注目。
悲哉。吾兄王何處去耶。から 廢以不求。是讃岐國造。阿波國脚咋別。凡二族之始祖也。で終わる。
兄は呼んでも参内しない、この身内?に領地を賜る。
このまま信じれば、朝廷の命令を無視する兄の身内に領地を賜る。こんなバカな話は無い。
つまり兄は404年迄の戦闘で戦死している。その親族に領地を賜る。
これを説話的に記載している。
215唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/29(水) 23:31:11
次は
允恭天皇三年(甲寅四一四)正月辛酉朔◆三年春正月辛酉朔。遺使求良醫於新羅。
この記事では、仁徳時代までの新羅に対する不遜な態度は姿を消す。
413年には晋に高句麗、倭国が朝貢する。ここに百済国は登場しない。
百済が登場するのは、この時の高句麗国の中に百済王映として登場する。
百済、新羅は、高句麗国に帰属する。だから倭国としても、新羅に対し不遜な態度は取らない。
百済の再登場は、ガイルによる高句麗への反乱を待たねばならない。
これが書紀の記載だ、しかし百済本紀には、この高句麗への帰属期間が無い。
だからどうしても書紀と整合性がとれない。
216日本@名無史さん:2010/09/29(水) 23:49:35
>>209
ますます解らん。

西暦 倍暦
507 521
508 523
509 525

倍歴が存在したとして、こう進むんじゃないのか?
その時代に倍歴を使ってたんじゃなくて,日本書紀の執筆時に水増しのために倍歴で引き延ばしたってこと?
217唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/29(水) 23:55:24
高句麗は何故強かったか
4世紀初めの高句麗は帯方郡に攻め込んでも、前燕に痛いしっぺ返しの連続
挙げ句の果て、丸都を滅ぼされ、父王の墓を暴かれ、母を人質に取られる。
この次の段階で前燕の将軍と軍の駐留を許したのではないか。
270年 前燕の滅亡まで、高句麗は静かにしている。
前燕が滅んだことにより、活動を再開する。この時活躍したのが、前燕の置き土産
である将軍と軍隊だ。
高句麗の王家は高氏である、だが好太王は安氏である。
高氏と安氏の2重体勢が長寿王となって、その後100年続く。
長寿王の次の王は、高氏になる。

好太王とは、前燕の騎馬軍であり、徒歩の倭軍が敵う相手では無い。
この事実を痛いほど見せつけられた倭国は古墳中期の馬具として表される。
218日本@名無史さん:2010/09/30(木) 00:16:34
>>213-215>>217
乙です、なるどねー・・・・。
高句麗戦でかあ・・・・
219日本@名無史さん:2010/09/30(木) 01:33:09
>>217
そうだね。
日本で馬が普及したのは三韓征伐といわれる時期以降。

定説では馬具の普及は400年頃から、広開土王碑文には391年に倭と交戦したと
書かれているから、この頃に馬の有用性を知って、朝鮮から持ち帰ったのだろう。

220日本@名無史さん:2010/09/30(木) 04:42:49
実は允恭の時代は6世紀代である、治療に来た新羅人の姓が金氏だからだ。
新羅人が金氏を名乗り始めたのは真興王(540-576)の時代で前王代は特定の姓を名乗っていない。
また新羅から弔使来たのは允恭と欽明の時だけだが記紀の崩年干支を二巡下げれば
両者の時代は非常に近似しているといえる、允恭と欽明のいずれかは実体の無い架空の人物の可能性がある。
221太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/30(木) 09:41:45
>>213
>倭国の大敗北は、高句麗の南下・・・敗戦の責任を回避するために、允恭
 時代のクガチがある・・・正当化している

倭国の大敗北があろうともこれは九州王権王朝のことであり、畿内の探湯
とは全然関係ない。畿内は当時九州とは別国であり、こんな他国に自国の
者らが行って生活していたことはあろうと思うもそれらの地域の国々と畿内
とは他国であって、そんな国々の責任まで畿内が負うわけがない。

唐松山はまるで当時の古代に航空機や新幹線があった気分で古代史を考え
るスピード感覚麻痺の悪癖があり、こんなインチキ論を醸成させている。
江戸時代でさえ江戸の住民にとっては伊勢参りは一生に一回の遠国への長期
の旅であり、軽く行ける距離ではない。同様に畿内から九州への当時の
行き来はえらい長旅であって道中諸々の危険が待っているところ、唐松山の
ような九州即畿内と同一化して考える古代史は妄想の果てに至るのだ。
222日本@名無史さん:2010/09/30(木) 09:49:11
>>221
うるせー
てめーはだまってろ
じゃまだ
223太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/30(木) 09:50:27
>>216
>>216
だから繼體当時は2倍年暦を行使してたんだよ。だから現今の1年で当時
は2年を数えたということだ。これが佛伝直前まで継続した後、佛伝の
影響で恒久的に倍年暦法を廃止したのだということだ。それが逆算すると
繼體即位元年のとき通説が507年でも実年代は521年であり、その差が14年と
なっているんだよ。

貴方の表では2倍年暦でなく、1/2倍年暦でそうではないよ。
224日本@名無史さん:2010/09/30(木) 10:55:45
おまいら仕事行かないの?
もしかしてリアルでニート?
225日本@名無史さん:2010/09/30(木) 16:36:01
>>223

>貴方の表では2倍年暦でなく、1/2倍年暦でそうではないよ。
おいおい。
倍暦の1年ってのは一月(約)15日で12ヶ月とかのことだろ?

閏を考慮しなければ
10年12月15日 の翌日=11年1月1日 このときの通常暦は10年7月1日。
なので
西暦 倍暦
507 521
508 523
509 525

なんか基本的なところでおかしくない?


倍暦の終了時(国際標準にあわすため?)に、暦法が同じなら混乱を避けるために、
十干と十二支での表記が同じになる年が選ばれた可能性が高いと思うけど
そのあたりはどう思います?
226日本@名無史さん:2010/09/30(木) 16:50:34
奴は否定のための否定だからどうも思わないだろ
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/30(木) 17:00:20
>>225
とにかく、その表は2倍年暦ではないですよ。それは0.5倍年暦で、それを
やってたんではないですよ。閏に関しては紀の記述だけではなかなかその
行使の方法というものは分かりませんよ。ただ倍暦行使当時は通常暦法も
副次的に行使していた時代であり(反対に倍暦を副次的に行使し、通常の
暦法を公的主体暦で使用していた時代もあり)、閏はそれにて追加出来た
であろうから、それに合わせて倍暦を使用していたとは充分言えますよ。

下段
倍暦の終焉は宣化元年(丙辰)=536年 であり、この年倍暦の干支と通常の
暦法干支とは同一ですね。
228日本@名無史さん:2010/09/30(木) 18:10:24
>>227
あなたの言う倍歴って一月60日、あるいは一年24ヶ月ってこと?
229日本@名無史さん:2010/09/30(木) 19:19:15
>>225
逆に考えるんだ!
西暦 倍暦
505 517
506 519
507 521

>>227
>その表は2倍年暦ではないですよ
それはおかしい
230太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/30(木) 21:20:22
>>228
違いますよ。現今の1年が当時では2年、年代が経過するということです。
これは2倍年暦の場合です。

2倍年暦の行使の方法は時代によってやり方が違う場合があるようですよ。
231日本@名無史さん:2010/09/30(木) 22:23:53
>>230
時代による方法とかは話してないです。あくまでも基本形です。
例にした507〜509年も倍歴ならって前提での表示でこの年自体に意味はありません。
今年から2倍年を採用されたとするなら
今日は
2011年6月15日
ってことでしょ。
ここまではok?
okなら>>225でも>>229でも落ち着いて見直してください。


先に進めない....ため息しか出ないぞ・・・
232太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/30(木) 22:44:25
>>225>>229の表、いずれも違いますよ。理解出来にくいようですね?

いっぺんに月日まで特定するのは、倍年暦法では紀の文量からして無理
ですよ。文量が膨大にあるんなら、それは可能になりましょうが・・・。

貴方か細かく月日、閏まで詳細に決めたいんでしょうが、倍暦はとても
やれないですね。倍暦の方法は各時代によってやり方が違いますよ。
だから月日の特定まで至れにくいということです。ですが倍年暦法
を行使していたことは確かですね。通常暦法でなら細かくやって特定
された研究家はいますがね。小川清彦氏なんぞそれをやってますから・・・。
233唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 00:24:39
通常暦法? こんな暦法を主張するのは太国だけだ。
小川清彦氏は、太陰暦を深く研究した。通常暦法などという
いかさま暦法を研究していない。

234日本@名無史さん:2010/10/01(金) 03:15:06
老害は顧みることをしない
老い先短い自分に、そんな時間はないと思っている
間違っていても、突き進みのみ
235日本@名無史さん:2010/10/01(金) 07:06:38
安康三年以降が元嘉暦という百済などで使われた暦法で
実際、国内で五世紀中に元嘉暦が使用された証拠は全く無い
百済から暦博士などが渡来して以降に元嘉暦に基づく暦法が使用されたと見るべきだろう
敏達の時代でさえ文字を読める人が限られていたとすると
元嘉暦以前の暦法で暦を管理していたなど到底考えられない

そういうわけで日本書紀の紀年はほとんど捏造されたものであるという結論に達するのです。
236日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:45:36
たとえば歴史の教科書は西暦で記載されているが、もちろんこれは捏造ではなく、時代に合わせて暦を書き換えたもの
基本的な考え方には賛同できるのだが、当時の暦にしたがっていないから捏造だと決めつけるのは短絡的すぎると思う
だからといってもちろん、記紀に捏造がないと言っているわけではないのだが
237太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 09:39:51
唐松山は太陰暦も太陽暦も非常暦法だとぬかしている。どういうわけで、
これらが非常時の暦法なのか?ww 答えてみろ。
238太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 09:45:14
>>235
>捏造
これは早計たる判断である。そういう元嘉暦の状況ならば、紀の暦日計算
が後付けのものだったということだ。それがけっこうというか殆どと言う
べきだが、正確に紀の編纂当時から〜より古代の暦日を正確に書き留める事
ができ得たということだな。
239唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 09:55:27
>太陰暦も太陽暦も非常暦法だとぬかしている。

こんな発言はしたことが無い。この書き込みは、太国のねつ造である。

この時代にある暦法は、太陰暦で有り4分暦の類、それに24節季がのっかる。

>暦日を正確に書き留める事ができ得たということだな。

だから暦日までを再現する必要がある。もちろん”正朔”の文字が有る限り 季節と朔(新月)
に齟齬を生じてはならない。
240太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 10:04:20
オマエが現今等で通常行使されている太陽暦等の暦法区別をどうの
こうの言ってる事は、その反対語に当たる非常暦法というものを遠回しに
前面に押し出したことと同然となる。ww
241日本@名無史さん:2010/10/01(金) 11:25:33
日本書紀に記載されている事績などに天皇在位年代が干支を伴って形で原典に記載されていたと考えるのは無理がある
伝承される原典が存在したのならそれが執筆された時期が必ず存在することに異論はないと思う
例えば聖明王の活躍が中心の百済本紀は聖明王が生存している時代の実録が伝わって百済本紀として完成したと考えてはいけない
これはよく読めば自分の王位継承が正統なものであることを主張するために威徳王が書かせたものと判断できる
もちろん、こんなことをわざわざする人間が正統であるか疑わしいのは言うまでもない(略

同様のことは日本書紀にも言えるだろう、例えば…

 継体天皇は大伴氏によって大和に迎えられた
 大伴氏は代々天皇に仕えてきた由来書が必要になる
 大伴氏が仕えてきた天皇紀が完成

…こんな感じ、紀年は全然重要ではないのだ
242唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 12:31:13
全国最多39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡、そして全国最多358本の銅剣と16本の銅矛、
6個の銅鐸が出土した荒神谷遺跡。

加茂岩倉遺跡で見つかった39個の銅鐸は、外縁付紐1式(U−1)、外縁付紐2式(U−2)、および扁平紐式2式(V−2)である。その製造時期は、いずれも弥生中期。
両遺跡の出土品はいずれもいわゆる「聞く銅鐸」で、新しい段階の「見る銅鐸」は含まれていない。時期はほぼ重なるが、神庭荒神谷には最古段階を含んでおり、加茂岩倉遺跡には新しい扁平紐式を含むので若干の時期差はみられる。

この事実が、弥生中期と後期を別ける時代の指標である。
つまり弥生中期とは、銅剣銅矛による幕開けである、これらの武器による出雲の平定は
スサノオである。つまりアマテラス、スサノオは、弥生中期始めに位置する。

2003年2月に出雲市東林木町の青木遺跡から横6cm、縦3.5cmの銅鐸片が見つかった。
銅鐸の外縁を装飾する「飾り耳」部分で、弥生時代後期の 1〜2世紀の「見る銅鐸」のものである
という。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の銅鐸より、100〜200年後の新しい時代の型式のものと
なる。この発見は、出雲地方の銅鐸祭祀は紀元前後に終わったという従来の学説に一石を投じてい
るという。
弥生後期は、新たに造られた銅鐸祭祀の時代である。
この二点のどちらもそれまでの集落の再編成を伴う。

残念ではあるが、まだアマテラスの時代を算出出来ていない。
後期の始まりは1世紀中葉であり、土器がW式からX式に変わる。
ここを書紀の太陰暦から、神武元年=西暦42年と特定出来た。
纒向遺跡の始まりは、崇神からと成る。
この時代に各地の土器が纒向に集まるのは、四道将軍を各地に派遣した結果であろう。
大物主から崇神への譲渡である。
これにより、崇神は、ハツクニシラスと呼ばれる。
ここで箸墓を築くわけであるが、現在いわれる箸墓は巨大すぎる、そして時代に五,六〇年の
齟齬を生じる。
188年 崇神元年であれば、209年任那建国となり、鉄器の充足は垂仁以降となる。
箸墓の造られたのは、200年頃であるから、最初の古墳の造られた時代の先端にあたる。
よって墳形も定まらない、決め手は石を用いていることだけである。

243唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 12:45:20
>天皇在位年代が干支を伴って形で原典に記載されていたと考えるのは無理がある

太陰暦さえ守れば無理では無い。
つまり、時の経過した正しい太陰暦にその代の各天皇が空白の太陰暦を差し込んだ。
こう考えるのである。

太陰暦の後付けでは、では説明出来ない部分がある。
それは、各天皇紀により、加増された年数の違いであり、差し込まれた年度に違いが生じるからである。
つまり編纂時にはこんな手の込んだことは不可能である。

太陰暦を19年7閏の積み重ねであるから、19年こと1章を単位とし複数回の空白年を差し込む。
最後に中国の暦と同期させる。これで完成したのが日本書紀の暦であり、−660年と成る。
244唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 12:55:48
日本書紀は書かれた太陰暦がギホウ暦の如く見える。
この事実は、正しい四分暦の類に空白年を差し込むと、閏年が狂って見える事を
意味する。
だからとりあえずは、各天皇紀の元年を割り出すことから始めなければならない。
これが終了したら、元年の朔に異常がないか、検証する。妥当と成れば、そこに
他の文献を重ね合わせる。そして齟齬の無い事を確認する。
それから、各天皇紀の何処に空白年が差し込まれているかを考える。
出来上がりは、四分暦となる。
245太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 13:34:25
>各天皇が空白の太陰暦を差し込んだ。こう考えるのである。
>19年こと・・・複数回の空白年を差し込む
>齟齬の無い事を確認する

そう考えてウラがかなり取れればその可能性は強まるが、景行28年〜同40年
の間が唐松山のいう19年差になっておらず、ここにインチキとなる齟齬が
ある。つまりだ〜

 40−28=12≠19年

であり、全然言行が一致していない。つまり齟齬が在ることが確認できる。
これではデタラメである。
246太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 13:45:45
>各天皇が空白の太陰暦(←奴の言う非常暦)を差し込んだ。
 こう考えるのである

 ↑ 上の書きこみだが、コチラは

 唐松山が空白の太陰暦を差し込んだ。
 こう考えるのである。
247唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 14:37:31
ホ37202  あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ 
カクのキヨサホ カグヨサホ もちきたるマに キミまかる ミヤゲなかばを ワカミヤえ 
なかばをキミの ミササキに さゝげもふさく これゑんと はるかにゆきしトコヨとは 
カミのかくれの をよびなき フリをなじむの トトセぶり 
明くる春 弥生に帰る 田道間守 時至9ヶ月24日後
果香の木4棹 香草4棹 持ち来る間に 君まかる 土産半ばを 若宮へ
半ばを君の 陵に 献げ申さく これ得んと 遙かに行きし 常世とは
神の隠れの 及び無き 振りをなじむの 10年ぶり

カグとは香具山のカグであり穀物である。香具山とは、焼き畑である。
カクは果実、果実の木。
たたねこの言いたいことは他にもある、垂仁90年の命令から帰国の景行元年までの旅行期間が
約10ヶ月、しかし朝廷の暦はこの1年を10年と記録する。
これを知らない編纂者が漢字に直すからおかしな文章となる。
248唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 14:50:27
都市牛利を田道間守と重ねると、洛陽を暮れから新年で合わせられる。
注意する点は景初暦は、和暦に比べ1と月早い。
249太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 14:55:30
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と言っていた男が、
偽書といわれる書物を持ち出した〜。

終止符スレ(>356)のとおり。
250唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 15:00:52
ここに一つの齟齬のある記録がある、
それが「垂仁九十九年秋七月,戊午朔」の記録だ。
この数字を正しいとするためには、垂仁96年7月戊午朔が算出される。
まあ垂仁90年=同99年に変化は無い。空白9年の差し込み。
251日本@名無史さん:2010/10/01(金) 15:11:07
太国 ◆yVAs7uaYlY は荒らしです
みなさん、スルーしてください
252唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 16:06:10
>景行28年〜同40年の間が唐松山のいう19年差になっておらず、

当然だ、19年を一つの単位とした差し込みは、
例えば垂仁90年に空白年9年を差し込み、99年と成る。
垂仁治世99年のうち空白年の合計が76年と成る。

暦の後付けなら、19年ずつ差し込めば良いが、そんな方法は採られていない
もっと細かく分散して差し込まれている。だから、空白年を加えた2重暦は
ギホウ暦の如く、閏年が変化して見える。
しかし暦日の合計は、四分暦のそれである。ギホウ暦と言うには,暦日が多すぎる。
正しい四分暦に空白の四分暦を差し込んだ状態を顕したのが、わたしが、中国の暦に
同期させた数字である。

太国は、普通暦の名称で人をだまそうとしている。
太国のいう普通暦を開示せよ。

日数を特定出来ない暦に、編纂者が太陰暦を上乗せした、と言いたいのだろうが
−660年迄数えたとき 四分暦の日数と同じになる、ギホウ暦は存在出来ない。

253日本@名無史さん:2010/10/01(金) 17:23:42
>>252
>>250
>ここに一つの齟齬のある記録がある、
>それが「垂仁九十九年秋七月,戊午朔」の記録だ。
>この数字を正しいとするためには、垂仁96年7月戊午朔が算出される。

三行目の意味が解りません
なぜ「垂仁九十九年秋七月,戊午朔」を正しいとするために「垂仁96年7月戊午朔が算出され」なければならないのですか?
254太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 18:04:45
分散すればもっと暦が撹乱されてメチャクチャになり、通常の太陽、太陰暦
での真の年代は証拠隠滅の如く、元には戻らない。こんなひどいことを
大した利害もなのにやるわけがない。19年が10年だとか9年だとか、
さらに細分だとか、妄想の果ての果てがこの体たらくなのだ。第一、動機
もない。19年にできないから、相変わらず分散挿入だとかのデタラメ臭濃厚
なイカサマをあとからあとから生みだして来る。所詮マシなどは存在
しない。
妄想エイリアンはいくらでもインチキを発散させ、記紀の中枢記述を台無し
にさせる紀見な論なのだ。厳しくエイリアンからの防衛をせねばならない。
255唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 18:22:16
>>253
九十年春二月,庚子朔 271777
戊午274495  ←この数字は97年7月である。
九十九年秋七月,戊午朔  乙巳275202←此方が正しい99年7月
明年春三月,辛未朔壬午 275468

>真の年代は証拠隠滅の如く、元には戻らない。こんなひどいこと
これが、倍年の実態だ。
だから日付に迫れない。書き換えられた西暦は算出されたもので有り、歴史に合わせた物では無い。
256日本@名無史さん:2010/10/01(金) 18:30:23
唐松山も太国はスルーしてください
彼は荒らしです
257日本@名無史さん:2010/10/01(金) 19:34:20
>>255
271777=60*4529+37・・・庚子朔   
274495=60*4574+55・・・戊午朔    ↓ 2722日経過
275202=60*4586+42・・・乙巳朔    ↓  707日日経過
275468=60*4591+ 8・・・辛未朔    ↓  266日経過

九十年春二月,庚子朔と九十九年秋七月,戊午朔に
 275202-271777=3429日・・・約9年半

なるほどね、一見一致してるように見える
でもこれ実は、九十年春二月,庚子朔に271777、戊午に274495、九十九年秋七月,戊午朔に275202、明年春三月,辛未朔に275468を
当てはめた結果起きてる事象なんだよね。
本末が転倒してる。
何故その数字を当てはめるのかからきちんと説明してもらわないと・・・

 
258太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 19:34:27
日付けに迫れないと言ってる男が以前「自分も不可能だ」旨を書きこんで
いる。奴も日付けに迫れないいい加減な男だということだな。そうだろう〜
いまだ奴は編年表の具体的説明ができないことで、日付をあわせようと
労して功無しの無駄な勢力消耗に費やしていることからも容易に察知
出来る。

そんなマシなどという空白年の痛面をして昨今のFDの日付に猪ッ戒を加えた
として逮捕され報道された某検事のように、そんな暦の行使に重大なる撹乱
となる不正日付ちょろまかしが、どのような影響は出るのかは、日付けを
見るより日を見るより明らかだろう。発覚次第逮捕されて暦混乱のお咎め
で身分は失脚、死罪獄門、軽くて島流し、蟄居だ。そんな危険なマネは
とりわけ利害甚大な動機もなく、マシなどいう年や月日を工作するわけが
あるまい。今夜の報道では元特捜部長の逮捕まで行くらしい?
259唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 19:54:49
>何故その数字を当てはめるのかからきちんと説明してもらわないと・・・
数字は何でも良いのだ、ただ書紀を調べるのであるから、神武前紀からの
太陰暦の朔を全て並べる。当然空白は解らない、時々齟齬が出る、それでも
忠実に並べる。
齟齬が有っても、1次資料であるから、書き換えは厳禁。
並べ終えてから、なぜ齟齬が有るのか?等を考える。
当然感じてはいると思うが、記事は前半に片寄る、後半の大きな年度を経ても、
人の死亡等に大きな変化は無い。前半の短い期間の変化と後半の大きな時空の変化は
比例しない。この見知から、空白年の差し込みと言う推定が成り立つ。
四分暦に19年を差し込んでも微妙な変化しか捉えられない。
19年だけでは、ハッキリ言って変化を捉えられない、これが積み重なって初めて変化と
捉えることが出来る。
260日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:00:23
>>259
なら、何故そのいい加減に並べられた数字を根拠として使用するはやめてほしい。

あと、○○朔×× って、
○○という”干支の日”が新月(朔=一日)となる月”の”××という干支の日”、
例えば癸卯朔壬子なら、癸卯(40)が朔となる月の壬子(49)の日、つまりその月の10日なわけ。(カッコ内は干支の順番)、
このことはちゃんと理解してる?
261日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:05:04
日本語がおかしいけど、文意は読み取れるだろうから敢えて訂正はしない
262日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:13:05
>>247
ちょっと話がそれて申し訳ないが、24日をフソヨカとしてるが
フソは2なのか、それとも20なのか?

何が知りたいかと言うのは、扶桑国ってあるでしょ?
あれやっぱり日本のことなのかね?
日本=2本=フソ??
263日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:17:24
>>256
いずれにしてもおほくにはウザイなw
半分ファビョりだしてるしw
264唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 20:23:45
274495−271777=2718 /29.53=92.04月 97年7月
275202−271777=4325 /29.53=115.98月 九十九年秋七月
275468−271777=3691 /29.53=214.99月 明年春三月
太陰暦の朔は、その年その月の新月であらわす。
つまり90年2月朔から92ヶ月後が97年7月朔、…である。
265日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:35:46
>>264
計算式が滅茶苦茶なんだけど・・・
結局その6ケタの数字の当てはめ方(後世の人が当てはめたものだろうけど)が間違ってるんだよね。
無理しないで早く楽になりなよ・・・
266唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 20:51:25
274495−271777=2718
2718/29.53=92.04月 97年7月
>結局その6ケタの数字の当てはめ方(後世の人が当てはめたものだろうけど)が間違ってるんだよね。

書紀の太陰暦は正しい年度では無い、であるならば、太陰暦が計算できれば良いだけのもので有る。
暦日を使うと、それに引き込まれる恐れがある。
267日本@名無史さん:2010/10/01(金) 21:18:32
>>266
275202−271777=4325 /29.53=115.98月 九十九年秋七月
275468−271777=3691 /29.53=214.99月 明年春三月
については?

これは>>264であなた自身が書いたものだ。

全てについて整合性が取れなければ、それは間違ってるということなんですよ!
268太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 21:32:39
唐松山は19年もマシだとか、それも複数だとか言ってるわけだが、年月の
おかしくなくなる調整はすでに閏でやってるわけで、それが19年も増しなど
やる前に、季節が狂って冬のころに夏の気候が続くんなら、半年、3ヶ月
ばかり調整すればいいわけで、ここにおいて19年も追加あるいは19×n年も
暦の狂いを放置しておくのんきな奴らが朝廷を牛耳っていたとは到底考え
られない。その前に狂いは気がついて早めに暦の調整を先んじるはずだ。

だから19年とか19×n年の大閏年などという大年増のマシは全然あり得る話
ではない。つまりそんな年数を入れこむほどのんびり居眠りしてたわけ
ではないということだ。マシはインチキなのであ〜る。
269日本@名無史さん:2010/10/01(金) 21:40:09
>>268
俺もそれはインチキだと思ってるけど、それを証明できるのは論理だけ。
ただ罵倒するのはそれに屈したのと同義。
270太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 21:45:58
だからいろいろ長い間そういうことは、やってきてるよ。

たとえば奴は景行28年〜同40年が1年で、その間が空白なんだと主張して
いたから、これを先代旧事本紀大成経の景行36年8月の五十功彦命の誕生
記事を文証として、奴の言うことが間違いだと突き上げてる等いろいろ
根拠を挙げて反論している。
271唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 21:47:16
訂正
275202−271777=4325 4325/29.53=115.98月 九十九年秋七月 116月後
275468−271777=3691 3691/29.53=214.99月 明年春三月    215月後

そこでだ、92.04月これでは1日の狂いが有る、99年7月と間違った日付ではあるが
有るとすれば、97年7月と成る。この1日の齟齬は空白年の差し込みによる物では無いか?
4章で1日を減じねば太陰暦にならない。その1日を減ずる直前の日付としては、存在出来るか?

まあこんな事を考えています。
272太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 22:13:18
先だって解説したように、佛伝境目にての2倍暦の関係で、繼體元年には
通説年代と14年の年代差があるのだ。これを看過してはいけない。
この14年差は遡って雄略の代まででも同じ14年差であり、このことが雄略〜
武烈の代の間が通常の暦法を行使していたことが分かるのだ。日数計算も
悪くはないが、これに拘るのは無駄な労力の積み重ねになる嫌いがあり、
暦日を細かく知るにはいいこともあろうが、編年においてそれが要領の
いい方法なのかというと必ずしもそうではない。労して功少ない暖簾に腕
押しのとんだくたびれ儲けにならざるを得ないものだ。

雄略元年は通説457年+14年の471年が真だということなのだ。471年は辛亥
年であり、これは稲荷山鉄剣銘文のワカタケル大王(雄略天皇)の即位年
を書きこんだものだと考えるべきなのだ。

ところがこの天皇の寿命は記が124歳、紀が62歳であり、記が紀の丁度2倍
となってることは、雄略当時に通常暦法のほかに2倍年暦も並行、補助と
して行使されていたという可能性が高まる。だから公的通常暦法をして
いたこの天皇の代の前後の代あたりに、2倍年暦を主体として行使して
いた天皇の代があったと観れることとなるのだ。
273日本@名無史さん:2010/10/01(金) 22:18:34
>>271
だ〜か〜ら〜、、、
 4325(日)/29.53(日/月)=115.98月
 3691(日)/29.53(日/月)=214.99月
ではないんだよ!
274太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 22:22:59
>>272 続き
いずれにしろ雄略の代の14年差から、雄略元年=471年(辛亥年)を特定、
基点と出来たことになる。だから471年を固定してさらに古代を調べれば、
さらなる古い天皇の代の年代確定が出来得ることとなって来る。

では雄略の前後の代のどこで公的主体の暦として、この2倍年暦をやって
いたのかということが次の視点となる。仁徳、應神の代は武内宿禰の300歳
近い見かけの寿命を考えれば、必ずといっていい位いずれも3倍暦法を
行使していたと観る以外に無い。それより古くは雄略から大分年代が離間
するから、考えが行くのは履中〜安康までの間ということになるのだ。

この間のどこかの代で2倍年暦をやっていたという可能性が強まる。
275太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 22:41:09
>>274 続き
安康の代もそれが考えられるわけだが、在位年は暗殺されたため狭小で
あり、いまはその先代の允恭の代を調べよう。允恭世で2倍年暦を行使して
いたとすれば、下表のとおりとなるのだ。

皇紀 西暦 倍暦
1117 457 471 雄略元年(辛亥年)
1116 456 470 安康崩御 雄略即位
1115 455
1114 454 469 安康元年
1113 453     允恭崩御 安康即位
1112 452 468
・・・・・・・
1104 444 464 清寧誕生
・・・・・・・
1078 418 451 雄略誕生
・・・・・・・
1072 412 448 允恭即位元年
1071 411
1070 410 447 反正崩御

表で雄略満13歳の時、子の清寧が生まれた事になるから、2倍暦行使でない。
276唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 22:47:01
再度 訂正 写し間違えた。申し訳御座いませんでした。

275202−271777=3425 3425/29.53=115.98月 九十九年秋七月 116月後
275468−271777=3691 3691/29.53=124.99月 明年春三月  125月後
99年7月から9ヶ月後が明年3月であり、99年は閏年となる、
しかし90年は閏年では無い。
閏年でない90年に閏年の99年を植えつぐ。
この場合正しいのは閏年の99年が正しい、何故ならば、景行元年は正しい年であるから
その前年の99年が閏年であれば、90年より優先される。
この調子で治世中間で調べれば、閏年は狂う
277日本@名無史さん:2010/10/01(金) 22:49:24
>>275
倍歴を採用するなら、

皇紀 西暦 倍暦
1117 457 471 雄略元年(辛亥年)
1116 456 469 安康崩御 雄略即位
1115 455
1114 454 465 安康元年
1113 453     允恭崩御 安康即位
1112 452 461
・・・・・・・
1104 444 455 清寧誕生
・・・・・・・
1078 418 402 雄略誕生
・・・・・・・
1072 412 390 允恭即位元年
1071 411
1070 410 386 反正崩御

になるんじゃないの?
278太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 22:54:05
>>275
上表から、雄略がかぞえ14歳(満13歳)のときに、もう子が生まれたこと
になるわけで、このことはどうやら允恭の代に2倍年暦の行使がなかったと
観る以外にないということだ。

ここでこの代の行事の探湯が焦点となって来る。この行事は28日に行われ
ているもので、しかも極めて厳しい〜通常人なら出来得ることの難しい熱湯
に手をさらす、入れるという峻烈な儀式なのである。何故こんなことを月末
あたりの28日に行ったのか? これはこの厳しさに暗示して強力に真を表現
したものだということだ。つまり1ヶ月が2倍暦とやらの〜14日間 月前半
というシステムではなく、允恭の代は日の空白を行わず、まるまる28日
存在させたということを未来に教えたい意味であるのだ。

この代に通常暦で編年表をつくると、雄略〜清寧の年齢に不合理が見られ
なくなるのである。このことから允恭以後は雄略までも継続して通常暦法
を行使したということを確認できうることとなるのだ。
279日本@名無史さん:2010/10/01(金) 22:56:56
>>276
もういいよ、、、
あなたの言うことは信用できなくなった。
早く楽になりなよ・・・
280日本@名無史さん:2010/10/01(金) 22:59:45
楽になれって、氏ねってことか・・・
ヒドい。
281太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 23:00:42
>>275のは仮表ですよ。だから>>278からこの表の行使は否定されるから、
真はまた別物の表になります。

いまパッっと>>277表を見ましたが、これだと0.5倍暦になってるよう
ですね? そうではないんですよ。
282日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:04:16
>>281
西暦の1年を2年と計算した
その結果、時代が遡っていってしまったということではなかったのか?
283太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 23:14:36
>>278 続き
允恭の代以降が雄略まで通常暦法(←武烈の代まで)だということが確認
できたということは、2倍年暦を行使していたのはどうやら履中、反正の
代だということが濃厚になって来る。

履中が2月即位したということは、後代では2倍暦行使の代の繼體即位が
同様に2月即位なわけであり、2月に即位したということは(通常なら1月
にする場合の可能性が高いわけ)この月数の2が2倍暦を強調させて
いるらしく、だからこそ2月即位を敢行したのであろう。どうやら履中、
反正の代は2倍年暦を公的に行使していたと観るべきなのだ。
284太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 23:21:13
>>282
2倍年暦の場合は、皇暦2年分が現今での〜通常暦法での1年だということ
ですね。但し崩御の年は尻切れトンボ的にその年で切ってしまい、即位元年
から1から新たに年を数えることとなります。

繰り返しますが、>>275のは仮表を2倍暦で編年したもので、雄略〜清寧の
年代が不整合のため、実用はしません。
285日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:30:19
>>284
紀では”即位前紀”という形でその修正が計られてる訳だが
286太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 23:37:46
>>285
修正とは>>284に書きこんだ切ったという箇所のことでしょうか?
そのことを言ってるのでしょう? 夜が更けて来ましたので後は明日に
しますが、年代を切るのは元年とその前年の間でですよ。即位年と元年とは
違う年の場合もあるし、崩御の翌年に開きの年を入れてから元年に
なったりしてまうことを考慮し、元年とその前年で切っているようです。

zzzzzzzzzzzz・・・・・・・
287日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:53:54
>>282
西暦が一年ずつ増えそれに対する倍歴が2年ずつ増える暦を
太国倍歴は1/2倍歴と呼ぶらしい。
昨日まで数回やりとりして、もういいよ気分。



百才以上の天皇が多数いることから、マシにしろ、倍歴にしろ、何かあるとは思ってる。
マシならわざわざ不自然な年齢を作ってるわけで、そこまでして何を得てるのかが解らない。
倍歴なら記紀執筆者が倍歴の存在を知らなかったので、不自然に思いながらも伝承通りに
書いたってことで説明は付くんだけど。

記紀で推古の崩御日が微妙に違う。
古事記は間違ってるんだけど、間違ってることがかえって伝承があったことを証明しているようにも思える。
288日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:03:35
太国と唐松山って同じ過ちを繰り返してるんですよね
ひょっとして同一人物による自問自答なんじゃないかと思ってたりしてます
289日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:23:06
老人は学習しない。
繰り返すのみ。
290日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:44:06
>>277
太国 ◆yVAs7uaYlY は荒らしです
スルーしてください

誰の主張が正しいかは関係ありません
荒らし行為をする人間はスルーしてください
291太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 10:00:27
雄略の前後の代で、2倍年暦を本格的に行使していたのは履中(反正も?)
の代だったということが濃厚になった。〜であるがいかように同暦法を行使
していたのか、その具体的姿は在位年月が狭小のため見えてこない。空白月
をやっていた可能性は相当あろう。今後の研究にて把握したいと想うが、
新たなこの代を詳細に記す古文書等が発見されない限り、相当把握は困難
だと言える。

それはさておき、この代でいかような事由で2倍暦を行使し始めたのかと
いうこととなる? 熟考するに、神武からの皇統の天津日嗣に関し、履中
で始めて兄弟継承が行われる気配というかそういう方向付けというものが
現出して来たことからのことだと想う。そうなると反正、允恭の代は各々
2倍年暦を行使する方針になっていたということを意味して来る。

だから允恭の代の当初は2倍暦法をやっていたということだ。それがこの
天皇が病気になり新羅の良い医者に治癒させてもらったことから、その
恩恵というか影響にて、半島の通常暦にならって、畿内も通常暦法に直そう
ということになり、履中からやっていた2倍年暦を取りやめ、允恭元年に
戻って通常暦法で暦を編むようになったと、それがしはこう観ているのだ。

ところがいったんこの代の中途停止の2倍暦法はいまさら止めろといっても
実際これで朝廷の取り巻きは公的にやっていたのだから中々ストップ出来
ず、脇に2倍暦法を補助として行使し、これが通常暦法の継続の代の雄略世
まで持ちこたえたということなのだ。それが雄略の寿命の、記が124歳、
紀が62歳でから分かる記の2倍暦寿命記載なのだ。
292太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 10:59:31
>>291 続き
皇統は神武から父子継承で来た。この慣わしが履中の代にて兄弟継承という
画期的出来事が起こる時代に変貌することとなった。この状況下でおそらく
暦法を一変して、神功、應神、仁徳下での3倍暦法を取り止め、ここに
新たなる2倍暦法の行使となったということである。編年表を作ると

皇紀 西暦 倍暦
1117 457 471 雄略元年(辛亥年)
1116 456 470 安康崩御 雄略即位
1115 455 469
1114 454 468 安康元年
1113 453 467 允恭崩御 安康即位
・・・・・・・
1104 444 458 清寧誕生
・・・・・・・
1078 418 432 雄略誕生
・・・・・・・
1072 412 426 允恭即位元年
1071 411
1070 410 425 反正崩御
1069 409
1068 408 424
・・・・・・・
1060 400 420 履中即位元年

允恭元年以降後代は通常(1倍)暦、履中からその手前までが2倍暦。
293唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/02(土) 12:51:41
>マシならわざわざ不自然な年齢を作ってるわけで、そこまでして何を得てるのかが解らない。

ホツマはこの様に説明している。
ホ22044 タツタヒメ をのをのミナを たまわりて コヨミをまもる ヤヤサカミなり
このカミの つねにめぐりて まもるゆえ ヒミツのワザの さわりなし さわりなければ
おさまりて

古代の大王家のシノギは、種貸しだ。
種を貸すための方策として、存在するのが、農事暦と酒だ。
酒を飲みたければ、稲作に精を出し、祀りに参加し酒を頂く。
神と神酒は切り離せない根源がここにある。
農事暦は24節季で決まる、24節季は、太陰暦の暦法で決まる。
つまり太陰暦の暦法が解らねば、農事暦は造れない。
太陰暦を秘匿する方策として、空白年の差し込みがある。
後からどんなに記録を調べても、正しい24節季は割り出せない。
24節季が解らなければ、大王家の種を借り、農事暦を受け取る権利が出来る。

これで、暦が知られない限り、種貸しは安泰。
これが崩れたのが、九州の乱となる。
鉄と暦を手に入れれば、大王家に従う必要は無い。

ここで大和が取った方策。それが景行による屯倉導入。これで暦を隠す必要がなくなる。
仲哀からは、暦の増しは無い。渡海をすれば、暦は民が普通に使っている。
294太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 13:48:44
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とこちらを突いていた男が、
偽書といわれる書物を持ち出した〜。

農事暦など古今世界各地にいろいろある。農事暦だからマシが必要だとか
の空白年など作る必要など、世界各暦で言ってた地域なんぞどこにも見当た
らな〜い。農事暦は空白年のマシ注入など必要としないことが、これらから
でも分かる。19年×nというマシの大閏年なぞ、世界の各農事暦には不要
の代物であ〜る。
295唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/02(土) 14:12:07
>偽書といわれる書物を持ち出した〜

暦を後付けとする連中は、暦が有ったとするホツマを偽書と呼ぶ。
何故なら、古代の暦の再現に成功していないからだ。だからホツマを偽書として葬り
自分の無能を隠す。
296太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 14:15:49
オマエも先代旧事本紀大成経を、オマエの編年の成功にほど遠くなるから
同経を偽書として葬り、オマエのインチキを隠す。これでは駄目だ。
297日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:28:47
>>295
荒らしにレスすうのも荒らしいなります
気をつけてください
298太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 14:34:45
>>292 続き
この編年表から、履中即位元年時、通説と倍年暦法による実年代との年代差
が20年に広がっていることが分かる。すなわち同表から

 420−400=20年


である。なお履中元年あたりは別として、履中、反正の代は2倍年暦のため
その年差に偏差が生じるのに注意されたい。
仁徳以前は各3倍年暦のためさらに偏差が拡大となって行く。
なお>>275の表は仮であるから、これは実用ではない。
299日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:52:33
季節を知るのは太陽暦、太陰暦は月相を知ること。その折衷が太陰太陽暦。
太陰暦で季節を知ることはできない。そう思うのだが。
300日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:56:31
>>294
>>293は>マシならわざわざ不自然な年齢を作ってるわけで、そこまでして何を得てるのかが解らない
に対する示唆であり、その引用が偽書からであろうと脳内妄想であろうと一向にかまわない。
筋違いな反論は謹んで下さい。
以前から唐松山氏に対しては反論と言うより罵倒です。
ご自分の主張が議論では勝てないから罵倒してるととられますよ。
これはご自分の主張に対しての冒涜でもあることに気付いてください。
301日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:57:12
>>293

なるほど。
マシは記紀執筆時にマシたんだと思いこんでいましたが
当時から使っていたと言うことですか。
疑問も湧きましたが整理できていないのでいずれまた質問させていただきます。
302太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 17:36:48
>>292 >>298 続き
かようにして、允恭の代から武烈の代まで通常暦法を行使していたという
事が分かる。その先帝達が2倍年暦を行使していたと観て、間違いはなさ
そうである。允恭の代になって通常暦法に変更したものの、やっていた2倍
年暦を捨て切れず、並行して補助運用か、雄略の代まで2倍年暦を滅さずに
行使してたと観てよい。その根拠として雄略の寿命が記では124歳、紀では
62歳と、記は紀のキッカリ2倍の年齢になっている。そして

日本書紀の雄略4年
「4年の春2月、天皇葛城山に射猟したまひ、忽に長き人の来るを見・・・」

先代旧事本紀大成経の雄略4年
「4年秋8月 辛卯朔甲午、葛城山に射猟う。時、長大人見れ・・・」

と、双方が同じ記事を載せており、紀が春のところ同経のほうは秋となって
おり、2月と8月からそこには丁度半年の年代差があるのを確認出来る。
これは雄略当時、現今の1年分が半年で1年の2年分であった事を物語るもの
なのである。つまり2倍年暦を行使していたことを示すものであるのだ。
そしてこれはマシではないことを意味することになる。
3031:2010/10/02(土) 17:55:26
私は基本的に増し(意図的な伸長)を支持。最後の辛酉から1320年前をスタートとするのが、第一義だったと思う。
304日本@名無史さん:2010/10/02(土) 17:55:41
>>300
太国 ◆yVAs7uaYlY は荒らしです
レスを返すと返って荒らしを助長することになりまので、お控えください
太国 ◆yVAs7uaYlY は存在しないものとして扱う必要があります
筋違いな発言に不愉快な思いをされることは承知しておりますが
スレの健全化を図るため、どうか御理解くださるようお願い致します
305唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/02(土) 17:58:22
>>301
崇神元年から同12年迄には多分12年の歳月が必要である。
しかし治世68年は信じられない。

この様に、書紀の引き延ばしは単純では無い。
後付けでこれを行うのは、至難のワザである。
306唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/02(土) 18:11:24
>太陰暦で季節を知ることはできない。そう思うのだが。

太陰暦だけなら、月を数えていれば、そこそこの数字が出る。
しかしこれに24節季を被せる術を隠すための、年数伸長である。
書紀の太陰暦が正しくなっても、24節季を知ることは出来ない、何故なら、書紀に24節季が
書かれていないからだ、だから本当に隠したかったのは24節季である。

ホ30050 スズサナト サヤヱハツヒの ヲメデタも ツクシのタメシ ウマシマチ トクサさゝげて
アメタネコ カミヨフルコト たてまつる ナナクサミソも トンドホも カミアリカユも をこなわれ

神武元年から24節季は行われている、しかし日付つきの記録は無い。

307唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/02(土) 18:24:32
>双方が同じ記事を載せており、紀が春のところ同経のほうは秋となって
おり、2月と8月からそこには丁度半年の年代差がある

つまり書紀と大成経は違う暦を使っている。
であるならば、大成経の記事を書紀に差し込むことは出来ない。

書紀に景行28年の次が同40年でも、大成経の36年の記事を差し込むことは出来ない。
この事実を無視して、中傷記事をねつ造する。

つまり大成経のみで編年した数字を書紀のみで編年した暦に被せて齟齬を探すのが本来の
使い方である。
308日本@名無史さん:2010/10/02(土) 18:25:21
太国 ◆yVAs7uaYlYが荒らしだということには異論はないが
コイツはスルーして収まるタイプではない
コテつけて、自分が荒らしだという自覚がまるでない
こういう奴は、徹底的に吊し上げ、糾弾すべきだ
そのために一時期スレが使い物にならなくなっっても止むを得ない
皆で徹底的に叩くべきだ
議論をするのではなく、発言内容を咎めるのでもない
太国 ◆yVAs7uaYlYの存在そのものにノーを突きつけるのだ
コテの荒らしはそれくらいの対応が必要
309太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 21:00:45
>>303
マシをした利害大なる動機は何ですか? ローガンさんかね?
支持だけじゃぁ、論無しでうまくないですね。
310太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 21:04:19
>>306
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とこちらを糾弾して
おいて、オマエが偽書を持ち出すのは恣意的だぞ。
311太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 21:21:12
〜雄略〜允恭元年まで、倍年暦法による年代偏差は14年に達していたのだ。
雄略の場合は稲荷山鉄剣銘文のワカタケル大王と辛亥年の記述からそれが
分かる。すなわち

 457年(通説の雄略元年)+14=471年=真の雄略元年

を得る。履中元年にて年代偏差が20年にまで拡大して来る。この年 420年。
以下仁徳の代の3倍年暦の表である。

皇紀 西暦 倍暦
1060 400 420 履中即位元年
1059 399     仁徳崩御
1058 398
1057 397 419
1056 396
1055 395
1054 394 418
・・・・・・・
979  319 393
978  318
977  317
976  316 392
975  315
974  314
973  313 391 仁徳即位元年 広開土王即位年

                                 以上
312太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/02(土) 21:40:14
天津神算木 真の年代を語る天下の宝器。古代からの贈り物。
三輪神、三輪山の三輪とは半径r=3の円を示唆し、これの球化の体積、
表面積を天津神算木(天津金木)という。この場合 体積=表面積 となる。
天津神算木は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はべき)

天津神算木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335

右辺は三分したとき 113 097 335 の三つの数列となる。左辺の3は
3倍年暦を暗示しているのだ。三つの数列は

113←1/13 崇神即位の月日数
097←B.C.97年 崇神即位の見かけの年代(先頭0は紀元0年を示唆し、除去)
335←335年 崇神即位の真の年代を誘引させる年数

崇神即位の真の年代は見かけの年代と誘引年数との和

 -97+335=238年

ただし紀元0年を除いたから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=真の崇神即位元年=景初元年
                                 以上
313日本@名無史さん:2010/10/02(土) 22:14:46
>>306
「ホ30050 ホツマ」とか「スズサナト」とか「サヤヱハツヒ」とかでググってみたけど、
あなたの書き込みとそれ以外に一つヒットするだけなんです。
それってソースに成り得るものなんですか?
314日本@名無史さん:2010/10/02(土) 22:24:57
仮説に必要なのは根拠であってソースではない
315日本@名無史さん:2010/10/02(土) 22:27:46
根拠の存在そのものが確認出来ないんです
316EXPO’774:2010/10/02(土) 23:09:33
317太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/03(日) 09:52:04
>>312 続き
分断した天津神算木は

 3≠113.097335・・・・・・・@

@には分断前から 130973 の数列があり、これは皇紀0年を無視し、

 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

が厳然として存在している。
これの実年代は如何? 分断の天津神算木(上式)から右辺先頭1を除い
たとき

 3≠13.097335・・・・・・・A

右辺整数桁は013のところ、西暦0年除くをここの1年数の除去で強力に示し
13となったものであるが、ここから不等号をまたいで

 313年(通説) 仁徳即位

を得る。Aを左右にひっくり返すのが見易く 533790.31≠3 で
1年除いた313年は 313−1=312年 から見かけの崇神即位の逆年数 79 を
足すことにより、仁徳即位の実年代が得られる。すなわち

 312+79=391年=真の仁徳即位元年

最初から

 (313−1)+79=391年=真の仁徳即位元年 →>>311表の最下段のとおり
318ローガン:2010/10/03(日) 14:01:27
>>309
>マシをした利害大なる動機は何ですか?

日本書紀の増し(意図的な伸長)は、してますよ。 大体、古事記編纂のコンセプトは帝紀と旧辞の一元化です。 序文にそうある。
当時、諸氏の優劣を決める「奉事の根源」が優位を主張したい、それぞれの氏によりバラバラであったので
それを一元化しようと云うものでしょう。 天武十年の詔を見ても解る。
書紀はこの整えられた帝紀、旧辞をベースにしたが、そのスタートを最後の辛酉から一蔀遡ったものとしたため、伸長する必要があった。
しかし、全体を通しての法則性は、見えない。メトン周期の差し込みといった所で、検証すら出来ない。
唐さんは、「朔干支が同じでないと駄目」という縛りを勝手に設けているようだが 果たしてその前提の是非すら、不明です。
よって、増しはあるが、唐さんには同調しない。
319太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/03(日) 14:20:29
日本は易姓革命の国でないから、辛酉革命のため伸張したとは考え
にくいですね。意図的に伸ばしたんではなく、原書群からの編年において
伸びざるを得なかったということですよ。
320日本@名無史さん:2010/10/03(日) 16:53:13
太国 ◆yVAs7uaYlYは荒らしですので
レスを返さないようにお願いします
321唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/03(日) 17:01:29
ホツマ伝
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm

すべてカナ文字であるから、最初は読みにくい。慣れしか無いと思うが。
322ローガン:2010/10/03(日) 17:07:31
>>319
> 日本は易姓革命の国でないから、辛酉革命のため伸張したとは考えにくいですね。

勿論、日本古来の思想という訳ではなく、欽明、推古の代に百済から入ったものでしょう。
推古十年十月に観勒が暦本を持ち込んでいる。十二年には暦日始用だから、関心の高さが見て取れる。
讖緯もその辺りで百済から入ったんじゃないかなあ。勿論、万世一系が建て前だから、「革命」という部分は、御法度なれど、
初代の元年とするにはうってつけでしょう。
323太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/03(日) 17:11:02
革命などすれば、それこそ天皇を踏み倒すんですから、獄門あたり
は免れますまいね? そんなやばいマネはしないですよ。だからその
説は成立しないと考えるべきです。
324日本@名無史さん:2010/10/03(日) 17:39:21
中大兄が蘇我宗家とともに本当の倭王も殺害して天皇になった
325唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/03(日) 17:48:14
>推古十年十月に観勒が暦本を持ち込んでいる。

女王国には文書を読める人がいた。

暦を知らない、倭人に金印を下賜してどう使う?
黄旛も同じだ。
冊封するためには、暦と文字が読めることが絶対条件になる。
大和政権にしても、屯倉導入には、古代文字でも良いから文通がなければ、
同時代に九州から関東まで、古墳時代に入れない。
326日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:00:40
その証拠に乙巳の変の時はただの「中大兄」であって皇子ではない
孝徳天皇は実質的に中大兄に見殺しされたようなもの
この時代は天皇をどう扱ってもいい時代なのです
だから記紀に載る古い天皇のことをいくら捏造してもまったく問題ない
327唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/03(日) 18:27:27
第十二章 欠史八代天皇実在の論証
(2)欠史八代天皇系譜には、兄弟継承が含まれる。
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/12-2kyoudaikeisyou.htm

>安寧、懿徳、孝昭と続く系譜は3世代ではなく、2世代であろう。
>大伴氏の豊日命(とよひのみこと)は七代孝霊、九代開化と三代にまたがる。このあたりも一世
代の時間幅を20年から50年の間に収めて、整合性を得ることはきわめて難しい。

安寧、懿徳は、兄弟であり、孝昭は幼くして即位する。
開化は、治世3年ほどで崩御する、よって崇神の即位も幼い。
328日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:34:33
ヲシテ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Hotsuma.gif

唇の形と舌の動きを複合させた文字っぽいな。

寺小屋で教えてた国学者が文盲の人に正しい発音を教える為に開発した文字じゃないかな。
上代文字の系統とは明らかに異なってる。
内容もその時代の認識なんじゃないかな。
329日本@名無史さん:2010/10/03(日) 20:14:10
690 :日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:11:22
魏志倭人伝によると、邪馬台国を中心とした倭国は

一人の男王により建国し、数十年つづいた。
そして、歴年争いがおこり、
女王卑弥呼を「共立(=お家騒動が起こった場合、臣下の話し合いによって擁立されるケース)」
したとある。

卑弥呼=モモソ媛命と仮定して、
この最初の男王は何者なのか?考えると、日本古代史なんて
いっきに分る。
神代系図・皇室系図をじくりみると、どういうことなのか直ぐにわかる。

この最初の男王は、出雲国譲りを達成した人物である。
その辺の事情は、記紀や播磨国風土記にもある。

その初代の倭王は、男王・天照(アマテル)とされていた人物である。
正式名称は、天照国照彦(天津と国津の両方の支配=出雲国譲りを達成した)であり、
本名は、火明(ホアカリ)という。
皇祖ニニギの兄とされている人物である。

播磨国風土記でも分るように、出雲国譲りとは
出雲の大国主が、娘婿(義理の息子)であり、近畿の王だった火明命に
倭の覇権を禅譲した事件である。

こういうふうに考えたら、なぜ、ニニギの男系子孫である崇神天皇が
大国主や
天照(アマテラスではなく、実はアマテル)の祟りを恐れたのか
よく分る。
330日本@名無史さん:2010/10/03(日) 20:15:00
691 :日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:16:15
近畿王権の始まりは
出雲王が、娘婿の近畿王に母系継承で禅譲したことから起こった。
これを後世、出雲国譲りといい、このことは、ヤマト王権では重要視していた。

この近畿王とは、アマテルといわれていた火明命のことであり、
おそらく、二代目は、香語山命、村雲命と、直系で継承されていたのであろう。
ちなみに、この香語山命の母親は、天道日女命であり、
出雲の大国主の王女だ。

こういう風に考えたら、ニニギの子孫である皇室の立場は微妙である。
そういえば、記紀を編纂するとき、天武天皇は
尾張氏(火明命の嫡流の子孫)ともめまくっていたw
331太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/03(日) 21:24:26
安寧、懿徳は父子であって、兄弟ではない。紀は多数の原書の記述から
最も信用性あるものを載せたものであり、単なる個人の妄想異説とは異な
る。こういう妄想が紀の記述の中枢の信用度を落とす白蟻群のようなもので
あり、しっかりと記紀をこういう妄想エイリアンの妄想強蟻酸から防衛しな
けらばならない。記紀の敵はこういう奴なのだ。奴の妄想に同化したら
もうオシマイ。

兄弟継承なら重要事なので、ある書に曰く式の異説を落とさずに載せるはず
なのだ。それが無いということは、父子継承だということが極めて堅い。
332日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:14:36
この時代の貴族らは、結婚、出産が速いでしょう?
そうしたら、世代間のずれなんて頻繁におこるよ。

たとえば、父親が15歳の時に生まれた長男が、
また15歳の時に長男をつくったとする。
そうしたら、父親が30の時に産まれた次男は、
おいっこと同い年ということになる。
しかも、父親が40の時に産まれた三男なんてなると
おいっこよりも10歳も若い叔父さんなんて例も頻繁に起こる。
333日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:27:59
古事記の上ツ卷と中ツ卷・下ツ卷、日本書記の神代紀と巻第三以下は、同時進行してたんじゃないかと思ってたりする
334日本@名無史さん:2010/10/03(日) 23:09:36
百襲姫は新羅の伝説に出てくる細烏女と同一なんじゃないかな
細は訓読みで(ホソ=百襲)、烏は格助詞「の」、女はそのまんま、姫と同義
古事記に載る百襲の訓は比較的新しく誤訳されたと解釈可能だし
335ローガン:2010/10/03(日) 23:21:02
>>323
>そんなやばいマネはしないですよ。だからその説は成立しないと考えるべきです。

いや、革命があったと言っている訳ではないので、返信としては不適当。

>>325
>暦を知らない、倭人に金印を下賜してどう使う?
> 黄旛も同じだ。

いや、推古代に暦本が持ち込まれたのも、暦日を使用しはじめたというのも、史料実態。自説に合わないからといって、目を逸らしては駄目。
「金印や黄幢をどう使うんだ!」なんて空想はご自由に。
336太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 10:48:30
ご法度ではうってつけにならないでしょう。ご法度というのは、やれば
やばいマネですよ。そんなことに手を出すには、よっぽどの利害がなければ
やりませんんぜ。唐松山はそういうご法度たる暦の不正を動機も示せずに
空白年という大閏年を主張してるから、こちらはありえないと言ってるわけ
です。検事がインチキをやれば、発覚すると逮捕されて、いずれは懲戒免職
ですよ。そんな暦法のイカサマをして紀の編者らが容疑者になった状況など
見当たりませんよ。。
337太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 14:05:51
いずれにしろ空白年でマシの大閏年をしたなどと言うのは、唐松山の吟味
検討を怠ってウラも取れてない即断の妄想がバック・ギア錆付きの確信に 
至ったデタラメであり、そんな空白年などというのは西暦0年以外にかよう
なものは空想たる誤り論だということですよ。

>>307なんか奴の倍暦の文証にたいする即興の言い訳であって、その言い草
が果たしてそのとおりなのか、到底奴は無検証、無根拠のものであり、奴の
脳内で根拠、事例等を調べて反論したものではなく、一時しのぎの反論の
為の反論であって、そこ(→>>307)には何ら成程とうなずける内容は
全く無いということですよ。

だいたい空白年の大閏年という大年増を入れこむ説得すべき動機などは
一言も無く、たかが個人の勲章的付与物だと道臣命在世記に書かれて
いるとかの理由付けで言って、国家的でのこんな虚偽のマシなんぞやるべき
動機としては薄弱過ぎます。月の閏で太陰暦の狂いを補正してるわけで、
ここに不正注入となる大閏年を入れる以前に暦の不都合な狂いは補正されて
然りです。19年×n年という大きな閏年を指しこむべき必要性など皆無
ですよ。月の閏は現実に閏月として実にあったものですが、これを虚無の
閏年を実には経過せず虚として過ごすべき事由など存在しないと観るべき
ですねが。

奴は即興で反論できればいいわけで、それ以上の史料等を掲げての調べつく
した常人の相手を説得出来うるものは、>>307には一切存在しません。
景行28年〜景行40年が1年で貼り付くと奴は言っていたのですが、これは
確実に奴のウソの妄想です。
338ローガン:2010/10/04(月) 16:14:58
>>336
>そんなことに手を出すには、よっぽどの利害がなければ やりませんんぜ。

あなたのように、相手の意見を極論化した上で、 否定した所でなんら意味はありません。
では三善清行は朝敵ですか?(笑)彼の提唱で、辛酉の年を「延喜」と改元したんだが…。
339太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 17:56:31
改元っていうのは革命ではないでしょう。誰が朝廷に革命を起こしたん
ですか? 辛酉革命とは日本ではそんなものは無く、承服し難い説ですね。
340ローガン:2010/10/04(月) 18:53:38
>>339

> 改元っていうのは革命ではないでしょう。

何故、延喜に改元したの?

>誰が朝廷に革命を起こしたんですか?

「革命があった」と私がどこに書きました?何番のレスですか?

>辛酉革命とは日本ではそんなものは無く、承服し難い説ですね。

「辛酉革命」なんて云いましたか?言って無い事を否定しても仕方無いでしょう。
341唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/04(月) 19:08:59
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツフソヨカゴ カクのキヨサホ
カグヨサホ もちきたるマに キミまかる ミヤゲなかばを ワカミヤえ なかばをキミの
ササキに さゝげもふさく これゑんと はるかにゆきし トコヨとは カミのかくれの
をよびなき フリをなじむの トトセぶり

ホ38012 ワカミヤの ハツコヨミなる フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ ハリマのイナヒ
オイラツメ ウチメのときに コゾウヅキ はらみてうまず フソヒツキ へてシハスモチ
ウスはたに モチハナなして フタゴうむ ヱのナモチヒト オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ

書記編纂者は、「あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ」を垂仁崩御の明くる春と読んだ、だから
「トキシクカグツフソヨカゴ」が正しく認識できなかった。
たたねこは、同じ時空を重ねて説明している。

若宮の初暦なる 2年弥生吉備津彦が娘 立つ妃 播磨のイナヒオイラツメ、内宮の時に、
(垂仁)90年卯月孕みて産まず 21月経て師走望日 餅離して双子産む。

90年6月から閏を入れて21月後は、景行2年弥生である。
コウス元年12月に生まれるも、2年2月生まれと発表される。

ここでも垂仁90年の次の年は、景行元年となる。
つまり「トキシクカグツフソヨカゴ」は、時至9ヶ月24日後、が正解である。

この説明は、田島守りが常世国で、皇帝の崩御があったにもかかわらず、その国では、暦が変わることなく
そのまま使われている。この事実を知り、倭国の暦の不当性を実感した、それを暦と時空で表わしたものである。

トコヨとは カミのかくれのをよびなき フリをなじむの トトセぶり
常世とは、振りをなじむの(振り=増し)及びなき(1年)。
倭国は、振りをなじむの 10年ぶり(空白9年の差し込み)。
このようになる。そして景行27年コウスは16歳で熊襲を討つ。
27年までで、11年ほど増しがある。この様に書記の暦は、単純な引き延ばしではない。
342ローガン:2010/10/04(月) 19:25:01
>>341
> 書記編纂者は、「あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ」を垂仁崩御の明くる春と読んだ、

書紀の編纂者がその歌を読む事が出来たという根拠をお願いします。
343日本@名無史さん:2010/10/04(月) 19:33:06
>>334
つっこむのも嫌だが
モモソ媛命は、魏志倭人伝に登場する卑弥呼だよ。
新羅が何とかなんて無関係だよ。
魏志倭人伝と同時期の半島情勢を調べてみい。
344太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 21:22:36
>>340
フ〜ン、辛酉革命は関係ないというわけね?
そんじゃぁどんなマシがあったのよ? 伸張させた真の事由は何なのかね?
動機も確か他の話でまだ言ってなかったようだが?

〜そこまで言うなら、あんたも解説付きの編年表を出しなさいよ。解説
すれば、唐松山はこれが音無しだから、間違っててもあんたの点数が奴より
上だぜ。改元は縁起がわるいとかの事由でないの? 三善が革命を起こ
すぞとか書けば、朝廷の危機の今で言う政府転覆だからな。彼はただでは
すまないんだぜ。今でもこんなことをやれば、どうなるかわかるだろうが?
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 21:35:34
>>341
「非時香具津 24籠」ということだ。非時香果を集めて24籠と言った迄の事。
偽書といわれるこの書の読み方も恣意的でイカサマか〜?ww

そうだろうな。支離滅裂の状態だな。ppp
346日本@名無史さん:2010/10/04(月) 21:58:13
>>341
アンタの超恣意的我田引水訳よりもこちらの訳を信じる

http://www.hotsuma.gr.jp/
 37アヤ http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya37.html
 38アヤ http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya38.html

>>345
偽書というよりも、江戸時代の寺小屋の初級教科書だったんじゃないかという結論に、個人的には傾いてる。
347唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/04(月) 22:14:16
>の歌を読む事が出来たという根拠

書いて有る文字の理解を”読んだ”と書き込んだんですが。
348唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/04(月) 22:31:39
>橘果(カグツ)を二十四籠
>橘樹(カグ)四本
(カグツ)は(カグ)では無い。これがタチバナであるならば、タチバナと書かねばならない。
何故ならば、この時点でタチバナが存在しているからである。

>習慣に馴染むのにも十年の年月がかかってしまいました。
>モトヒコに御依(みは)を賜わり、タジマモリの喪を勤めさせました。
ホ37220 ノコシフミ ミコみたまひて カグキミが ハナタチバナは かれがツマ 
ヲシヤマやりて よばしむる チチモトヒコと のぼりくる ミコよろこびて
モトヒコに ユルシハたまひ モをつとむ ハナタチバナが サツキまつ ヨハにうむコに
ミコトのり ムカシのヒトの オをとゝむ オトタチバナと ナをたまひ にたるスガタの
ヲシヤマに とつぐハハコも おんめぐみ 

田道間守の子共が生まれるのは、“サツキまつ ヨハにうむコ”である。
妊娠期間を10年見る事は出来ない。
モトヒコが許されたのは、葬儀である、それがホケノ山の半島式墳墓である。
だから、ホケノ山は崇神か垂仁の古墳になる。
349太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 22:36:01
トキシク と最初に来るんだから、これは非時香果のことだ。ここは
年月日とは関係あgない。それを年月日にゴリ押しするから〜もう末期では
ないかと疑われて然りだな。bbbbb
350太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 22:38:49
>>349 訂正
× 関係あgない
○ 関係がない

とにかく偽書だといわれる書物を持ち出して〜読み方まで偽る男。pp
351唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/04(月) 22:45:46
>三年十二月十五日、后は年末の年中行事の餅花(まゆ玉)造りに参加して、碓(うす)の近くで楽しみながら手伝っている時産気づき、無事二子をお生みになりました。
ホ38013 フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに
コゾウヅキ はらみてうまず フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして
フタゴうむ
90年卯月が無視されている。
年中行事の餅花(まゆ玉)造り←(まゆ玉)造りは、春の行事である。師走の行事では無い。
“フタゴうむ”この文字を“無事二子をお生みになりました。”と記述するのは、意味は同じとしても
装飾が多すぎる。偽書は、装飾から始まる。
352太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 22:48:31
もうオマエの偽書といわれる書物の読み方は偽りの恣意的で、もう
信じられな><い。
353唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/04(月) 22:54:51
年中行事の餅花(まゆ玉)造り←(まゆ玉)造りは、春の行事である。師走の行事では無い。
ホ30050 スズサナト サヤヱハツヒの ヲメデタも ツクシのタメシ ウマシマチ 
トクサさゝげてアメタネコ カミヨフルコト たてまつる ナナクサミソも トンドホも 
カミアリカユも をこなわれ

この“トンドホ”で焼かれるのが、(まゆ玉)である。
354太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 22:58:42
とにかく偽書といわれる書物の読み方が自分の都合に合わせている恣意的
偽りの暴走解釈であり、紀もネジ曲げるが、偽書といわれる書物までも
ネジ曲げが得意中の得意である。
355ローガン:2010/10/04(月) 22:58:42
>>344
>フ〜ン、辛酉革命は関係ないというわけね?

緯書を異端とした記述を未見。

> そんじゃぁどんなマシがあったのよ?伸張させた真の事由は何なのかね?

一蔀前の辛酉だから。

> 〜そこまで言うなら、あんたも解説付きの編年表を出しなさいよ。解説すれば、唐松山はこれが音無しだから、間違っててもあんたの点数が奴より上だぜ。

点数不要。

>改元は縁起がわるいとかの事由でないの?

根拠は?

>三善が革命を起こ すぞとか書けば、朝廷の危機の今で言う政府転覆だからな。彼はただではすまないんだぜ。今でもこんなことをやれば、どうなるかわかるだろうが?

何が云いたいの?

辛酉年の改元の提言を受け入れたという事は、朝廷は讖緯思想に対して隋朝のような、あからさまな拒否反応を示していないと云う事。
356太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/04(月) 23:08:12
不要か〜。フ〜ン、要するに編年出来てないわけだな。で、どうしてマシ
だと結論つけたのか?〜まだまだ具体性のない数文字のみ?
そこを具体的に言わねばしようがないねぇ?
利害大なる動機が抽象的の感じでとぼけていて言わないんじゃぁ、そんな
論は役にも立つまいて。w

あれは斑鳩とかの寺を造った年ではなかったかねぇ? そんなときに辛酉とか
の革命なんか起きていないんだよ。よくよく考えるんだな。マシなんぞ
やってないよ。とにかく起きてないんだからね。また明日〜。

zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・
357唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/04(月) 23:14:49
313年 神功皇后摂政三九年(己未二三九)◆卅九年是年也。大歳己未。
313年 仁徳天皇元年(癸酉三一三)春正月丁丑朔己卯。

343年 神功皇后摂政六九年(己丑二六九)冬十月戊午朔壬申。葬狹城盾列陵。
343年 仁徳天皇三一年(癸卯三四三)正月癸丑朔丁卯。立大兄去來穂別尊爲皇太子。

364年 新羅本記 倭兵が大挙して侵入
365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)新羅不朝貢。

370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)秋九月。高麗王遣使朝貢。

継体は、応神5世孫である。つまり神功崩御=立大兄去來穂別尊爲皇太子である。
そしてそのとき即位したのは、応神である。応神=履中であれば、“継体は、応神5世孫”
で説明できる。もちろん別人ではあろうが・・・
仁徳は、中国の暦に干支を同期させた、しかし新羅本記の方が1年先行する、

“新羅193 倭人が大飢饉となり避難民到来”192年倭国凶作。である。
しかし 後漢書志第十五 五行三 大寒 では、
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」
養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
ここが倭国凶作であれば、新羅本紀はやはり1年先行する事になる、と同時に
189崇神元年、193同5年となり、暦の齟齬が2年に広がる。

ホ33003 トキアスス ムオフソヒトシ キナヱハル ムツキネシエハ ソミキシヱ 
ヰソニヱノミコ トシヰソフ アマツヒツギを うけつぎて ミマキイリヒコ
アマツキミ ミグサツカヒも アメタメシ タミにをがませ ハハをあげ

ここに“ハツコヨミ”の文字は無い。つまり崇神は、開化の暦をそのまま使う。
庶母を母に持つ崇神への嫌がらせであろうか?
358日本@名無史さん:2010/10/04(月) 23:22:30
トキアススでアスス歴に変わったことを表してるんじゃないの?
359日本@名無史さん:2010/10/05(火) 00:15:57
太国 ◆yVAs7uaYlYは荒らしですので
レスを返さないようにお願いします
360日本@名無史さん:2010/10/05(火) 04:10:25
辛酉革命説は作者の三善清行が政敵の菅原道真を失脚させるために平安時代に発明した
361太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 09:40:34
新羅193年≠崇神5,6年

右辺の年代に船舶が存在しないことから、半島へ飢餓の農民が千人も渡海
なんぞ出来っこな〜い。始めて船舶の製造出来たのは崇神17年であるから、
唐松山の言い分がインチキであることが確認される。

また偽書といわれている書物の読み方も奴の都合のよいように考えた極めて
恣意的なもので、支離滅裂の末期ではないかとの疑惑を持たれるのが関の山
である。たとえば果物のイチジクの話だと分かる文章があったとき、これを
を一時九」と勝手に解釈を強行し、ここを果物の意味でなく1時間9分とか
の解釈を企てるのと同然であり、誰かが言ってたが、妄想暴走の我田引水
そのもののデタラメである。
362日本@名無史さん:2010/10/05(火) 13:31:36
船がないわけないだろ
363太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 13:53:39
始めて船舶を造ったのが、崇神17年だと日本書紀にある。最初に乗るのは
天皇だよ。事故がないように製作者らが本当は先に試乗してることは特別
には言えるが、漁師でもない農民が千人の多勢なのに渡海なんかできっこ
ないね。だから空腹農民が千人も崇神5,6年に渡海は出来ない。これを主張
する唐松山は頭がおかしいにではないかと観た
364太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 13:56:20
>>363 誤記及び途切れたので、最後のところ

おかしいのではないかと、こう観たくなる。
365日本@名無史さん:2010/10/05(火) 16:40:27
バカ丸出しw
366唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/05(火) 18:14:02
オトタチバナと ナをたまひ
このオトタチバナ姫が日本武尊と結婚する。人生40年以下の弥生後期後半である。
結婚、子作りは10代から始まる。オトタチバナと日本武尊は同い年である。

オトタチバナ姫の年齢を日本武尊より4才、5才又はそれ以上の年の差はあり得ないだろうな。

>>346さんのホツマ伝は、飾りすぎた為、偽書の類に成る。
旧事記に飾りを付けた書物を大切にする輩も居るが、如何な物か?

先代旧事本記 によると
二十年の春二月四日、五百野皇女を遣わして、天照太神を祀らせられた。
冬十月、日本武尊を遣わして、熊襲を討たせられた。このとき、尊の年は十六歳であった。
四十六年の八月、大臣・物部胆咋宿祢の娘の五十琴姫命を妃とされた。妃は五十功彦命を生んだ。

この記事から見る限り、日本武尊の熊襲から関東平定までの間に五十琴姫が入る透き間は無い。
しかもあの倍年さんは、景行27年で日本武尊が8才であると主張しているから
景行20年ならさらに若い日本武尊が九州で熊襲を討ったと主張したいのだろうな。

>始めて船舶を造ったのが、崇神17年だと日本書紀にある。
弥生後期後半の土器に船舶の絵がある。
これを主張する太国倍年は、崇神を弥生後期後半とはしていない。
つまり太国は太国倍年がウソであると主張している。
太国よ、自分が信じないものを他人に押し売りするな。


367日本@名無史さん:2010/10/05(火) 19:38:34
ホツマについてはスレ立てしたのでこちらへどうぞ
【ヲシテ】ホツマツタヱ【偽書?】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286272610/
368唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/05(火) 20:12:46
>新羅193年≠崇神5,6年
>右辺の年代に船舶が存在しないことから、

逆に考えれば、船舶が存在するのは、崇神17年以降である。としたいの?
 
107年 安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。
福井県春江町の井向いのむかい1号鐸には、多数の櫂かいを持つ外洋船が描かれている。そして、加茂岩倉の10号鐸には新たな発見としてウミガメが描かれていた。
http://www.town.hikawa.lg.jp/www/contents/1018433403103/html/common/49f12354019.htm

107年 安帝の永初元年に160人の生口を運べたから、崇神17年以後である。
銅鐸に外洋船が描かれているから、この銅鐸は崇神17年以後の製作である。

369太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 21:25:05
>>366
そんなことは言ってませんね。
オマエのいつもの先行のイカサマ捏造だな。景行27年など言った覚えが
ないことを、言ったことにするオマエの卑怯な言い草だ。日本武尊が生まれ
たのは紀の景行12年だろ。言ってないことを言ったなどと言うな。

しかも先代旧事本紀では、五十功彦命が生まれたのは景行36年8月だと
あるんだよ。それを景行46年にスリ替えるとは、この書をスレ民が見れば
一目瞭然の唐松山のイカサマだと発覚できる。先代旧事本紀大成経も
景行36年8月に同記事を載せている。文の捏造をせねばならぬほど、オマエ
の景行28年〜同40年の間が空白年での1年だとかの繕いがミエミエの文書
偽造、年数の捏造だな。><
370太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 21:33:51
外洋船など畿内の船でなかろう。それが崇神5.6年にそれが畿内の海に
来ていたわけであるまいが。とうの昔にその船は帰っていて、崇神5,6年
まで金も取れない空腹農民千人のために停留などしてはいない。飢饉のとき
は、その船は畿内にいるわけもない。千人と言ったら、今でも大型船
だろうが。空腹では金も持ってない。こんなんで畿内から半島までなんか
連れて行っても、特にはならない。所詮オマエの論はデタラメだという
ことだ。日本側の畿内朝廷には崇神17年に始めて船舶が製造できたのだ。
それに最初に乗るのは造った奴と天皇とその取り巻きだ。農民なんか後の
後だ。
371太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 21:46:22
>>368
107年の安帝、帥升の件は九州王権の話で、畿内朝廷とは関係のない日本の
中の当時の外国であって、こんな話は遠方畿内の農民とは無関係。
当時、畿内と九州とは極めて遠隔であって、遣使、交易とか戦争とか以外
に畿内の者らが九州なんぞ行きやしない。江戸時代だって伊勢参りを江戸
から伊勢へ行くのに、一生に1回の遠い遠い旅路なのだ。だから畿内の農民
の件で、九州の帥升をくっつけるのは大間違いのコンコンチキだ。ww
まぁオマエは当時でさえ航空機や新幹線のあった感覚なんだろう?ppp

そのオマエの言う畿内の春江町の遺跡の櫂の件に、崇神5,6年とは書かれて
ないはずだね。つまりこんなモノも崇神5,6年が193年になるとは全然
言えないんだぜ。
372唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/05(火) 21:59:22
>畿内朝廷とは関係のない日本の中の当時の外国であって、

新羅本紀には、倭人としか表記していない。
九州は倭人の地である、全てを畿内崇神の農民で説明するのが太国なんだ。

>春江町の遺跡の櫂の件に、崇神5,6年とは書かれてないはずだ

だから崇神以前に船が有っても何ら問題は無い。
373唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/05(火) 22:02:25
旧事記
http://mononobe.nobody.jp/kujihonki/

この旧事記に装飾を施したのが、大成経だろ。
374太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 22:06:32
問題はあ〜る。むこうからすれば空腹農民を千人も連れて行っても、金には
ならない。オマエの論は経済的に破綻している。その春江町のどこに
崇神5,6年との絵があるのか? 
375太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 22:15:27
畿内から福井県の海岸へ行くんでさえ、当時では大変な道中だ。途中
山賊は多いだろうし、未知土地へ行くのに武器もない農民には危険極まり
ない道程である。途中糧食も保持せねばならぬのに、空腹千人がどこから
メシを得たんだよ? しかと説明してみろ。着く間にたらふくメシにあり
つけるなら、半島に荒波を超えていくバカは農民でもいない。wwwww
376日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:23:39
馬韓 ・辰韓 の南(半島南部)は倭人の領域だった訳で・・・
新羅に倭人が押し寄せたからと言っても、それが海を渡って行った倭人とは限らない。
377太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 22:33:48
フムフム。
結局ね、新羅本紀とやらのこの倭人とやらは、対馬あたりの農民
だな。それが四方海に囲まれていて漁師と仲がいいんだろう。
だからこそ、たまたまその関係で半島に千人が渡海できたわけで、
畿内の飢饉の農民とは全然無関係。それを唐松山は当時航空機とか
電送人間機とかの利器があったと思ってるらしく、このへんが現今
の通常人の脳内とあいつのとがだいぶ脳内が異なるわけだ。

古代の当時は畿内と九州とは航空機、新幹線もないんだから極めて
遠隔であり、双方は遠い遠い外国の気分でいたわけだ。だからそう
いう対馬あたりの農民の半島渡海を外国の地と観ている畿内朝廷
連中が、外国たる九州しかも対馬あたりの農民の話など紀に書く
状況などありはしない。つまり唐松山の脳内の悉くに製造され
た妄想なのであ〜る。
378太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 22:59:56
>装飾
装飾ではないね。例のサソリ座の☆の記事などこれに無い。

46年はミス・プリだな。こちらの持つ旧事紀は36年だし、大成経も36年だ。
大成経の文は原文の写真付きであり36年になっており、間違いは無い。
379太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/05(火) 23:13:47
いまHISASIとかいう方の先代旧事本紀の現代語訳を見たが、やはり景行36年
だ。つまりオマエの出した46年のはミス・プリだよ。46年だとがんばって
も、28年〜40年の間は19年にはならない。だからオマエは精神が分裂でも
したのか?〜19年を分裂させ挿入とかのうっちゃりを即興に考えざるを
得なくなったわけだ。ww オマエはつねにうっちゃりうっちゃりの連続
だからな。wwwww
380唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/05(火) 23:19:05
>オマエの論は経済的に破綻している。

飢餓の極みの民に経済で対処出来るのか?
餓えた民が、経済行動で腹がふくれるなら、そうしていただろう。
サソリ座の☆の記事など 装飾の極みだろう。
だから勝手に場所を移すことも可能な記事なんだろ。
381日本@名無史さん:2010/10/06(水) 03:58:48
崇神・垂仁の時代の記録は本来神代紀あたりに載せるべきものだが
なぜかこいつらのところに書かれる理由は何だろう?
マキムクの王を滅ぼした奴らはこいつらの記録を忘れてしまったのかな?
382日本@名無史さん:2010/10/06(水) 06:58:58
荒らしにレスする奴も荒らし
383太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/06(水) 10:31:32
>>380
勝手に景行に決めるのがオマエのインチキ。他に擦り付けて誤魔化すなよ。
崇神5,6年に半島から金もならない空腹百姓など、畿内に迎えに来る船など
ありゃぁしない。船員の食料をみんな百姓に食われてしまう。百姓が
来たところで、乗船を断られるのが当然の結論だ。自分らに利益にも
ならない飢餓の百姓を、大量の千人も乗せてくれるほど、向こうの船は人
がよくはな〜い。ww 春江の櫂なんぞ、崇神5,6年の農民らと無関係。

農民らがそんな春江に着く前に、腹が減って野垂れ死に。着けるのは多くて
数人いればいいところだ。ウワッハッハ!www
384太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/06(水) 11:09:51
大成経はネックレスやイヤリング、化粧品ではな〜い。ww
オマエの景行への恣意的勝手に牽強付会、我田引水のコジツケが、オマエ
のインチキたる虚飾のデタラメなわけだ。マシなんぞあるべからず!!
385日本@名無史さん:2010/10/06(水) 14:23:27
>>381
トンデモを言うな。
386唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 18:52:41
>大成経はネックレスやイヤリング、化粧品ではな〜い。ww

でも右の耳がいやで左の耳に付け替えたのが、
サソリ座の☆の記事。
387日本@名無史さん:2010/10/06(水) 20:33:51
新羅にはある時期「寝錦王」と「葛文王」の二王が共立していたことが碑文から知られているが
三国史記などにはとぼけているのか詳しいことは載っていない

同様の例は倭国にもあったかもしれない
つまり「倭王」「大王」が同時に存在したということ
その形跡は天智の前の代まで日本書紀に見える
紀年を想定するとき重複する在位期間を許容する覚悟が必要かもな
388太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/06(水) 21:23:47
>>386
オマエのマシがインチキの過大な装飾だ。ww
389唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 21:35:44
神功が磐余稚桜宮を置いた3世紀後半は、奈良東南部の衰退の時期である。
つまり磐余稚桜宮が中央政権として、独領的な機能を果たしていない。

渡海派と残留組の確執がある、とみる。
390日本@名無史さん:2010/10/07(木) 04:20:10
仲哀・神功の説話が作られたのは7世紀後半から8世紀前半で日本書紀の中では比較的新しい
プロジェクトとしてはかなり大規模で完全に滅びた倭王系の神社の祭神に変えて仲哀神功応神を祭るようになる
当時の天皇家の出自を飾りたてるために作られた架空の存在なのだ
では天智たちはどこからやってきたのか?
それは継体天皇の説話に現れている
彼らの正体は近江や越にいた皇室とは全く関係ない田舎豪族なのだ!
391太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 09:05:36
年月日がキチンと書かれているから、架空にはなりません。神代だったら
殆ど年月の記載はなく、そういう可能性はあるでしょうが、仲哀あたりは
卑弥呼のころより後代であり、このように年月がついていることは、創作話
ではないですね。その年月日で天皇や武内大臣の寿命が膨大なのは、当時に
おいて、2倍年暦等を行使していたことから、今の人間の寿命級に収ま
るもので、不合理はありません。
392日本@名無史さん:2010/10/07(木) 10:07:41
中国とかだと暦を計算するのに使用された木製の道具が時々出土するけど
日本の場合、こういう例は奈良時代以降に限定されるんだよね
どうしてか?
道具が無くても暦が分かるのに後の時代には一生懸命道具に頼るのは明らかにおかしい

それに卑弥呼は田油津媛だから皇室とは関係ない
実際、祭神卑弥呼の神社はない
393太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 10:28:15
今ならあんまり算盤はやらないでしょうし、電卓かPCでしょうから・・・?

古来からの卑弥呼の神社がないことは多分そのとおりでしょう?ただ現代に
なっての建造でしょうが、卑弥呼神社は九州にありましたね。田油津姫が
卑弥呼かどうかは、その事由が書かれてないんでは説得力が全くなくなり
ます。
394日本@名無史さん:2010/10/07(木) 13:48:36
本居宣長が、日本の古代史を破壊したと言っても
過言ではない。

卑弥呼=モモソ媛命でOK
395太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 16:03:32
モモソ媛は即位してないが、卑弥呼は女王の即位している。
従ってOKではなく

 モモソ媛≠卑弥呼
396日本@名無史さん:2010/10/07(木) 16:17:19
>>395
当時の倭国の王制について、どういうものなのか
分ってないだろう?
日本書紀は、律令体制の下で書かれたものだから
それを踏まえる必要がある。
397唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 16:21:41
>>392
ホ28260 フソヒホの キナエのハルは アメフタヱ アススコヨミと ナをかえて 
アヅサにほりて たてまつる アススコヨミを モロうけて このヨのワザを
かんがみる コヨミこれなり

古代の暦は梓に彫られる。
これが可能なのは、19年7閏を1章とする、4分暦である。
当時の朝廷は、この“真の暦”に空白の暦を重ね、暦日を長くして記録する。

398太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 16:30:53
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、こちらを口撃していた男
が、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

空白年は紀元0年以外は存在しない。倍暦の確認を教える空白日群は、欠史
八代の日数統計表から、月後半が空白のことで確信出来うる。これは空白年
ではない。
399日本@名無史さん:2010/10/07(木) 16:35:37
4分暦に限らず、今でも19年7閏だよ。
だから、「これが可能なのは、4分暦である。」でいいよ。
400唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 16:37:43
>卑弥呼=モモソ媛命でOK

これを可能とするためには、崇神時代を240年前後とする他の文献が必要である。
残念ではあるが、崇神時代は、新羅本紀の2世紀末とマッチする。
新羅本紀は後漢書と1年のズレがありそうだ。

まあこの様な他文献を提出出来るか?出来なければ、崇神世を240年頃と断定できない。
401太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 16:42:47
19年の空白の文証を唐松山という男は出し示したことがこれまで
ただの一度もない。景行28年〜同40年が空白で1年しかないことを
うるさく言ってたが、 40−28=12 で19年ではない〜い。

従って得意な毎回やってるうっちゃり、スリ抜けの言い訳しか出来
ず、19年を分裂させてマシをしたなどとのさらなる妄想を平気で
言って抗弁してるが、そんなうまくうっちゃりが毎回利くものでは
な〜い。つまりデタラメ加速のインチキな論だということである。
402太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 16:59:53
畿内から多数出土している景初3年△鏡が何故こんなにうんと造られたの
かを考えれば、これが崇神の代だということが確認できる。

紀の崇神6年に鏡の象徴と言える天照大御神を倭の笠縫に祭祀したのが、
△鏡の畿内に多出する事由なのである。1次鏡がこのとき笠縫に祭祀しその
2次鏡が崇神の同床共殿でのものであり、その3次的派生がこの翌年に朝廷
の取り巻き等に複製的に製造した事からこの鏡群がこんなに出て来るのだ。

だから景初年間が崇神の代だということが分かるのであり、これは倍暦逆算
から

 崇神元年=237年=景初元年

を算出しており、紀の崇神6年=景初2年 であることから、その翌年は
景初3年=239年 であって、倍暦の算出値が見事に整合する。

このことは 崇神没年=259年 の同逆算から記の崇神没年干支戊寅が
258年であったことを裏づけ、さらには同説を唱えた菅政友、橋本増吉、
那珂博士の言い分がほぼ正しかったことを意味している。

崇神5年、6年には船舶がいまだ畿内に無く崇神17年に始めて船舶の製造と
なったことから、同5,6年が新羅193年にはなりえないことは、空腹の農民
千人が渡海できる船舶にありつけないことから、これが成立しないことが
分かる。
403唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 17:06:02
>卑弥呼=モモソ媛命でOK

この思考は百済本記を正とした場合の思考だ、しかし
百済本記≪−≫金石文七支刀≪−≫日本書紀 ここを繋ぐ数字が無い。
百済本記=七支刀ととるか七支刀=日本書紀と捉えるか

百済本記=七支刀とした場合 書紀神功49年はねつ造となり、渡海までもねつ造と成る。
七支刀=日本書紀とした場合 七支刀=326年 であり274年渡海、323年=神功49年と数字を得られる。
この場合 崇神は2世紀末からとなり歴史を新羅本紀に合わせられる。

404太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 17:23:19
以上のように紀という文献の崇神の代の倭笠縫への日神祭祀した出来事
から、卑弥呼の代が崇神の代だと知れるのである。だが卑弥呼はモモソ媛
ではない。
405唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 17:34:41
百済本記=七支刀とした場合 七支刀=369年であり
書紀、好太王碑文共に、ねつ造、となる。好太王碑文は、百済本記では、蚊が刺した程度の影響しかない。
そして倭国は百済を師と仰ぎ発展する。しかし倭国が伽耶を属国とし、鉄を入手していた事実は消せない。
神功の渡海さえねつ造であるにも拘わらず、倭国は、渡海し伽耶を手に入れる。
どこかがおかしい。
百済本記と新羅本紀の間には50年ほどの齟齬が有る。
新羅土器には編年がある。
百済土器には編年が無い、これは百済本記を土器編年で表せないことを意味する。
この編年で表せない年代に合わせた思考が、卑弥呼=モモソ姫であり、考古学の編年も50年古くしすぎると主張する。
とりあえず 卑弥呼=モモソ媛とするなら、
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。

この文章をそれ相応に読み下さねばならない。


406唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 21:08:05
>崇神元年=237年=景初元年
>崇神6年=景初2年
>景初3年=239年 であって、倍暦の算出値が見事に整合する。

237年から239年迄の出来事を、崇神世で説明出来て初めて言える言葉。
太国がこの年代を崇神世で説明出来た事が無い。

質問
237年は、崇神1,2,3年ですか?
238年は、崇神4,5,6年ですか?
239年は、崇神7,8,9年ですか?

崇神5年 凶作(餓えの病)と餓死多数
崇神6年 民の逃散
崇神7年冬 民も糧にありつけた。
407太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 21:28:28
>>406 >説明出来た事が無い
説明はキチンと考古の△鏡と紀を掲げて説明出来ている。オマエのは渡海
出来ない船舶の無い時代に野垂れ死に寸前の農民の千人という超多勢が
人間電送機らしい機械で半島へ電送出来たようなインチキを主張している。

崇神の代であることは倍暦逆算以外の 天津神算木 から明確に算出出来る。
天津神算木は三輪山からの三輪(半径r=3)の円の球化の数式をいう。
天津神算木は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はベキ)

本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335

右辺の数列を3分し 113 097 335 に分けるとき(左辺3は3倍暦の示唆)

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位 B.C.97年 (先頭0除去は西暦0年を除く示唆)
335←崇神即位の実年代を誘引する年数

から  1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  により

 −97+335=238年

西暦0年を除くことから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=崇神即位元年=景初元年
                                 以上
408太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 21:30:51
>>406
そんなことを聞く前に、オマエの
〜開化が4年であることを具体的、分かりやすく説明してみな?ww
〜ついでに 神武元年=42年 もどうぞ?wwwww
409唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 21:35:55
全国最多39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡、そして全国最多358本の銅剣と16本の銅矛、
6個の銅鐸が出土した荒神谷遺跡。

加茂岩倉遺跡で見つかった39個の銅鐸は、外縁付紐1式(U−1)、外縁付紐2式(U−2)、および扁平紐式2式(V−2)である。その製造時期は、いずれも弥生中期。
両遺跡の出土品はいずれもいわゆる「聞く銅鐸」で、新しい段階の「見る銅鐸」は含まれていない。時期はほぼ重なるが、神庭荒神谷には最古段階を含んでおり、加茂岩倉遺跡には新しい扁平紐式を含むので若干の時期差はみられる。

この事実が、弥生中期と後期を別ける時代の指標である。
つまり弥生中期とは、銅剣銅矛による幕開けである、これらの武器による出雲の平定は
スサノオである。つまりアマテラス、スサノオは、弥生中期始めに位置する。

2003年2月に出雲市東林木町の青木遺跡から横6cm、縦3.5cmの銅鐸片が見つかった。
銅鐸の外縁を装飾する「飾り耳」部分で、弥生時代後期の 1〜2世紀の「見る銅鐸」のものである
という。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の銅鐸より、100〜200年後の新しい時代の型式のものと
なる。この発見は、出雲地方の銅鐸祭祀は紀元前後に終わったという従来の学説に一石を投じてい
るという。
弥生後期は、新たに造られた銅鐸祭祀の時代である。
この二点のどちらもそれまでの集落の再編成を伴う。

後期の始まりは1世紀中葉であり、土器がW式からX式に変わる。
ここを書紀の太陰暦から、神武元年=西暦42年と特定出来た。
纒向遺跡の始まりは、崇神からと成る。

410太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 21:40:15
>>406

質問
崇神のどこにマシの空白年が19年もあるんですか?
これは複数回ありますか、それとも単数回なんですか

崇神元年=188年

だと言ってますが

188、189、190、191、192,193、194、195、196、197、
198、199、200、201、202、203、204、205、206年

の19年なんですな??www これが空白年ですかな?ww
411太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 21:45:12
>>406
出た銅鐸類のどこに 神武元年=42年 の暦の銘文等があるんですか?
そうでなく暦がどうだこうだと言っても、まるっきり具体性が無いから、
これでは餌のついてない釣り針で餌をつけてる偽装をしてるだけで、利巧
な大魚(スレ民)は見向きもしないね。ww
412唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 22:04:04
銅鐸が埋められた時代に大きな政治的変化があった。だからここを神武元年とする。

何も変化の無い時代に、神武登場はまるっきり具体性が無いから。
これでは餌のついてない釣り針で餌をつけてる偽装をしてるだけで、利巧
な大魚(スレ民)は見向きもしないね。ww

>暦の銘文等があるんですか?
景初3年銘の△鏡にも、崇神の文字は無い。しかもこの時の対応は九州ですか。
つまり大和にとって景初3年銘は、文字が読め暦を知っていたとの証拠としてしか機能しない。
だから景初3年銘が彫られた時点で倭人は暦を知っている。

413唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 22:13:07
>説明はキチンと考古の△鏡と紀を掲げて説明出来ている。

これらを含めた歴史を、周辺国家の文献と整合性を得られるための編年である。
この中で同道巡りを繰り返しても、世界の歴史と整合性がとれない。

赤玉の上で踊る、太国。
414太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 22:14:43
神武紀のどこに銅鐸が埋められて即位したとあるですか? 銅鐸を埋め
るのが即位にはならんでしょう。むしろ鏡とかを奉るほうを即位に
位置付けますよ。三種の神器の第一ですからねぇ。それとも銅鐸が三種の
神武の神器の一だったんですか? ppp

何のためにうんと△が畿内から出るんですか? その出る事由を紀のどこ
と繋げると崇神の倭笠縫の日神祭祀より以上に納得できる出来事が出て来
ますか? それでは鏡とは何に使ったんですか? これは日神の分身の意味
で朝廷等の連中が製造したんですよ。そうなると倭笠縫のこの祭祀の関連
以外には考えられませんな。天皇以下朝廷は皇祖を祭祀する古神道を重視
していますからねぇ。ww
415太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 22:17:04
何ですか、赤玉っていうのは? これはオマエが赤玉と言ったときに一度
このことを質問してまっせ?ww しかし説明してませんな?
416日本@名無史さん:2010/10/07(木) 22:19:49
米良いいな
417太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/07(木) 22:22:21
>>413
>整合性がとれない

とれないのはむしろ船舶の無い崇神5,6年にどうやって千人もの多勢を半島
に行けたのかで〜何故出来たんですか? 船舶の始めて出来たのは崇神17年
ですよ。これでは船舶には乗れませんね。それともww〜電送人間機でも
電波星人から借りたとでも言うんですかな?ppp ウワッハッハ!www
418日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:07:17
>>417
船舶なんて、紀元前から
倭国は中国の交易していたわけだから、あるでしょうにw
419日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:33:45
丸木舟の類と建造船の違い?
420日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:41:42
まあ、自称かも知れないが
白村江で第一派1万人、第二派二万七千人、第三派一万人
輸送したことを考えると

遣唐使、遣隋使の船舶、航海技術は下手糞だよなあ。
421日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:55:59
遣唐使船は百人ほど乗り込める大型船らしいが
当時の技術では、その大きさが破損の原因になったという説もある。

白村江では千隻が集結したと言うから
せいぜい二十名程度の小型船だったのだろう。
422太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/08(金) 21:30:13
>>418
あんたは畿内と九州を一緒に考えるからまずいんだよ。当時畿内と九州とは
極めて遠隔の、双方殆ど関係の薄い状況にあったということなのだ

神武が九州から畿内に行ったときは船舶と使ったわけで、このときは地方の
一豪族程度の勢力で八代を終えた。その間小勢力で畿内の盆地あたりで
過ごしていたわけで、この八代間は海洋へ出ることはなかったので、畿内
に船舶を造らなかったということだ。

崇神に至って畿内一帯の勢力をつけて来て畿内外周の四方偵察をやるように
なって来たので、崇神17年に始めて(←神武を過ぎて)船舶を製造したもの
であり、その十年余前の崇神5,6年には当然船舶がまだ畿内に無かっ
たのだ。大陸との交易はあったことは確かだが少なく、どうせ大陸の船が
北九州あるいは稀に出雲近隣に来たくらいだ。

千人もの食料といったら、大変な量だ。しかもこれが10日20日となれば、
莫大になって来る。そんな向こうの船の船員らの食料のゴク潰しになる畿内
の腹ペコ百姓を千人など半島なんかに連れて行きたい船長などいやしな
いぜ。それが美女がうんとだというんなら、喜んでなんとかしてくれ
るだろうがね。w
423唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/08(金) 21:33:23
4万名を運ぶのに千隻の船、1隻あたり40名。
でもこれでは戦にならない、小回りの利く、戦闘用の小型船も必要。

とはいえ、猪突猛進、しか能が無かった倭軍に戦略を考えても無駄か?
424日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:38:33
記紀を読むと、イニエ命(崇神天皇)の時代に
初めて戸籍を取ったとか、初めて...とか、そういうのが、やたらと多い。

でも、それ以前に、倭国では戸籍を取らなかったとは考えられない。
それこそ、一部の階層では、中国との外交から、
普通に漢字を理解していたし、また、漢字を知らないと理解できないような知識を
当時の倭国の上層階級が知っていたことが分かる。
たとえば、戸籍とか干支とか数の数え方とか中国の歴史の知識とか
中国の官位の名前とか...
実際に、この時代の遺物で、漢字で書かれたものが多く出土する。

おそらく、イニエ命(崇神天皇)は、ある事実を隠したかったのだと思う。
それは、倭国大乱のことであり、
それは、火明命の後胤たちとの御家騒動についてだと思われ。
古代版の南北朝時代というところか?
425日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:45:17
神武東征って長すぎるよなw
どうみても、長い期間、遠征したのではなく
各地の地方官を歴任していただけでしょうにw
それも、その地方官の地位も、兄の五瀬命がついていて
弟のワカミケヌ命(神武天皇)は、兄に従ってというのが本当でしょう?
高千穂に降臨したニニギ命の子孫をみても、
神武皇統はその中でも傍系じゃなかったのか?
ニニギ命の三男坊の家系だしねw
426太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/08(金) 21:46:36
だからそれは暫定的少量はありえたろうが、たとえば船の場合は製造者が
試作して、これに乗ってるだろうし、そういうことはありうる。だから巷で
強く目に留める程度にあったわけではなく、本格的にあったものではないと
いうことだ。本格的でないなら、千人もの農民多勢を乗せる船など、
崇神17年直前ころには無いと観るべきだ。
427日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:53:17
皇室が隠したかった歴史は、おのずと見えてくる。
それは、大倭王の祭祀を継承していたのは、
ニニギ命の系統ではなく、その兄の火明命の系統だと。
そして、前王朝の出雲王朝から禅譲をうけたのは、火明命。
火明命は妃が天道日女命(大国主の王女)であり、
その間に産まれたカゴヤマ命は、母系で大国主の後を継承するにいたった。

このようにみると、系図でみれば分るが、ニニギ命の男系子孫である
神武皇統の家系は微妙になってくる。
428日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:54:21
いつ、神武皇統が、火明命の後胤から
正当な大倭王の祭祀の継承権を奪ったのかは分らないけど...
おそらく、それは欠史八代の時でしょう?
429日本@名無史さん:2010/10/08(金) 23:33:45
>>423
一派で1万人から2万7千人なので
一隻当たり10〜30人と考えたほうが良いのではないかと。
船頭などの水夫も必要ですし。
430唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/10(日) 13:18:25
公開土王碑文
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/koukaidoou/koukaidoou.htm
@永楽5年(395年)王は自ら兵を率いて契丹族の稗麗を撃った。
A永楽6年(396年)王はまた軍を率いて百済を撃ち、空前の大成果をあげた。
B永楽8年(398年)王は兵を粛慎に派遣し撃ち、朝貢させた。
C永楽9年(399年)百済が倭と内通した。王は平壌に下り倭の進出に直面した新羅の救援を決定した。
D永楽10年(400年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅になどに進み倭を退却させ、また安羅人を撃った。新羅は高句麗に朝貢するようになった。
E永楽14年(404年)倭はまた侵入してきたので王は自ら率いてこれを撃った。
F永楽17年(407年)王は五万の兵を派遣し、(百済)を撃った。(壁面の破損で読みとれないようです)
G永楽20年(420年)王は自ら率いて東扶餘の国都にせまった。

このうち404年が船団による、楽浪上陸、帯方界まで攻め込む。
当然百済軍も加わるであろうが、敗退する。
323年頃の軍編成は、徒(歩行)軍である、それから5世紀前後の戦まで大きな戦は無い。
この間に軍事行動の基本は忘れ去られ、猪突猛進しか無かったであろう。
この状態は、白村江でも同様である。
396年 百済は高句麗に負ける、失地回復のため、
399年の倭軍出動、伽耶辺りまで追い詰められる。
407年の高句麗の軍事行動で、百済は高句麗の傘下となる。

413年 和平協定を結んだ高句麗と倭国は共に朝貢する。
この時代の古墳では、鉄の供給は途絶えていない、馬具が副葬される。書紀から百済が消える。
和平協定が結ばれたとしたら、倭国に馬韓と伽耶、高句麗に百済と新羅。新羅は駐留高句麗軍の追い出しに成功する。
百済はガイル王の時代に失敗する。そして領土を減じた百済に、馬韓を分与する。この事実は、馬韓が倭国の領土であった事を意味する。
しかし百済は、倭国の承認した以上の領地を占拠する。それに反発した伽耶は新羅に身を寄せる。
431日本@名無史さん:2010/10/10(日) 13:19:33
毎日24時間365日あちこちの掲示板に書き込みを続ける福岡県暴力団のネット書き込み組織
集団による書き込みでネット世論の誘導を目論む
このまま野放し状態のままなのだろうか
暴力団関係者に掲示板を占領されるのは危険
yahooにも書き込みを続けている
政府、政党、政治家への苦情要望の集団メールなども行っている様だ
気をつけてくださいね
432日本@名無史さん:2010/10/10(日) 14:35:41
公開土王って誰さー
433唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 10:02:15
崇神6年 請罪神祇。
これを紀年して「景初3年」鏡を作る。

五年。國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕■。請罪神祇。
崇神は、罪神に何を祈ったか?
罪神に祈る前何があったか?國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。百姓流離。或有背叛。この様な
出来事があった、その勢いは「徳治」正しい政治を以てしても抑えられなかった。
そこで罪神に祈る。
崇神には何の罪もない、しかし天災は向こうから勝手にやって来て、民を苦しめ、かつ命を奪う。
これを記念して「景初3年」鏡を作る。
そして、方々に配る。鏡を頂戴した臣は、この天災をくぐり抜けて生き延びた臣かその子孫である。
“百姓流離”から“國内多疾疫”を推定すれば“疾疫”は“餓えの病”とその元“穀物が実らない
病”であろう。この出来事を記念するとは、飢餓の中で生き抜く、
つまり、餓死した人肉をも喰らう、こうして生き抜いた臣は、「景初3年」鏡を墓に副葬する。

魏志の倭人伝には、この凶作は記録されていない、つまり時代に齟齬が有る。
434唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 10:04:27
巻向の巨大墳墓は、何時から作られたか?
勝山、矢塚、石塚、ほけの山と続く。
ホツマは云う、 
ホ37150 ヰニシミコ ヰモトにいわく ワレおひぬ ミタカラもれよ オナカヒメ 
いなみていわく タヲヤメの ホコラたかくて またいわく たかければこそ
わがつくる カミのホコラも カケハシの まゝとうたえば

五十瓊敷命 妹に曰く 吾老いぬ 御宝盛れよ 大中姫 忌なみて曰く タオヤメの
ホコラ高くて また曰く 高ければこそ 吾が作る 神の祠も カケハシの まま

つまり 五十瓊敷は、「カケハシの まま」=モモソ媛と同じでよいと妹に伝える。
鉄の流入は、垂仁元年以降である。古墳の作られるのも、この鉄器流入からである。
とすれば つまり
石塚これが石を使わない石塚であれば、石塚=イニシ塚=五十瓊敷命。
萱原(スゲ、カヤ)=茅原(チガヤ)の齟齬と捉えれば、ホケノ山が垂仁となる。
ホケノ山には、殉死した田島守も許可を得て葬られる。
モモソ媛は大物主の妻、であれば墓は、出雲の石張り方墳でもよい。なぜなら凶作と
餓死、逃散から数年後の築造である、鉄器流入前の人海戦術では、箸中山古墳は作れない。


垂仁239年崩御 ほけの山古墳
景行261年崩御 箸中山古墳 最初の大王
政務265年崩御 西殿塚古墳 このオオヤマト古墳群は、
ホケノ山古墳直後から、 西殿塚古墳をはさみ、柳本行燈山古墳と時を同じくして
古墳は作られなくなる。時代は274年の神功渡海、渡海派と残留組の内戦が俎上
にあがる。磐余稚桜宮は、磐余茶臼山、メスリ山古墳の時代と重なる。
これから69年後は、佐紀盾列と仁徳31年が同じ年代になる。
佐紀宝来山、河内津堂城山又は、佐紀市庭、河内仲ツ山と二つの時代が考えられる。
435太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/16(土) 10:16:31
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜とこちらを口撃していた男
が、偽書といわれる書物を持ち出した〜。

垂仁崩御≠239年
436日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:10:46
それにしても書紀なのにホツマとか馬鹿じゃね。
よそでやれよ。
437日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:17:57
そもそも土族の帥升とかで九州王朝とか馬鹿まるだし。
ここは別次元の世界だな。
土民の酋長でも土下座外校すれば王朝になるのかw
しかも160人連れて行っても華麗にスルーされているしw
438日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:22:08
ホツマとか大成経とかやめれ。
まったくふざけんな。
日本書紀だろ。
たいがいにしやがれ。
からとおおとろがのばかたれども。
439日本@名無史さん:2010/10/18(月) 16:23:17
オカルト板に行けよ。もう
440日本@名無史さん:2010/10/25(月) 22:54:29
獨(ヒトリ)曠野(アラノ)に臥(フ)す。誰(タレ)にも語ること無し。
441日本@名無史さん:2010/10/27(水) 22:18:49
442日本@名無史さん:2010/10/30(土) 00:05:38
歴史オタクですけどあくまで素人です。。
日本書紀って聞くと、
今までの王朝を滅ぼし、天智天皇の弟をかってに名乗った天武天皇の辻褄合わせの書物ってイメージしかないです。
一応、記紀より古い書物は、
蘇我氏滅亡の時に焼け出されたって言いますけど。
眉唾ものじゃないですかねぇ〜
天武が焼き捨てたか、
本当は、皇室がキープしているんじゃないですかねぇ〜。
誰か持っていれば面白いですけど。
スレチですいません。
443日本@名無史さん:2010/10/30(土) 01:28:55
ほほう、天武は「弟」を僭称したと見るわけですか?

天智は天智で創業の天皇として偉いが、
何と言っても天武が古代の雄として抜群の偉大さだと思います。

筋論や感傷を抜きにして、あれだけの武力を組織して近江朝を亡ぼし
確固たる政権によって「日本」を確立したのですから。
また、そうでないと人は付いて来ないものです。
当時の人達(有力集団)も筋目の近江朝が続くよりもっと強力な指導力を期待したことでしょう。

天武と天武系を称揚する『日本書紀』作製を指示したのも、天武の偉大さの証明以外の何物でもないでしょう。
天武が出なければ「日本」の確立はずっとのちの世へ遅れたことでしょう。
経過などを善悪正義不正義という観点で見るのでなく日本史最初の大英雄と位置付けるべきと思います。
444日本@名無史さん:2010/10/30(土) 02:06:49
>>443
442です
天武は天智の弟ってのはおかしく無いですか。
大化改新などに名前がなく
いきなり出てきたって感じ、
明らかに変だと思いますけど。
私も天武は古代の英雄だと思いますよ。
日本史の授業では、
大化改新の天智に隠れているイメージでしたが,
天武がいたから、奈良、平安時代と律令国家が確立したと思いますよ。
すいません素人ですので。
445日本@名無史さん:2010/10/30(土) 02:20:10
後、補足ですけど
(歴史は勝者の記録)
だと思うんです。
天武は前王朝を滅ぼして歴史書(日本書紀)を
編集したって私は思ってます。
446唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/02(火) 20:33:11
東晋義熈九年の倭王と劉宋永初元年の倭王をめぐって
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/ad413wao.html

『咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。六月、遣使拝百濟王餘句、爲鎭東將軍
領樂浪太守。』(晋書簡文帝紀)
《咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各おの使を遣わし方物を貢ず。六月、使を遣わし百濟
王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》

 これによると、咸安二年[372]に東晋から百済へ册封使が派遣されています。そうだとすると、
晋書には書いてありませんが、義煕九年[413]の倭国へも册封使が派遣された可能性があるので
はないでしょうか。義煕九年[413]には東晋は山東半島を領有しており、東晋と朝鮮半島との往
来は咸安二年 [372]よりはるかに容易になっています。私はたぶん、東晋から倭国へ册封使がへ
派遣されたであろうと考えます。仁徳天皇紀には次の記事があります。

[仁徳五十八年]『冬十月、呉國・高麗國、並朝貢。』
《冬十月、呉國・高麗國、並びに朝貢す。》

『晉安帝義熈九年[413]、遣長史高翼、奉表、獻赭白馬。以[王連]、爲使持節・都督營州諸軍事・
征東將軍・高句驪王・樂浪公。
高祖踐[阿−可+乍]、詔曰「使持節・都督營州諸軍事・征東將軍・高句驪王・樂浪公[王連]、使持節・
督百濟諸軍事・鎭東將軍・百濟王映、並執義海外、遠修貢職。惟新告始、宜荷國休。[王連]可征東大
將軍、映可鎭東大將軍。持節・都督・王・公、如故。」』(宋書高句麗伝)
《晉安帝義熈九年[413]、長史高翼を遣わし、表を奉じ、赭白馬を獻ず。[王連]を以って、使持節・
都督營州諸軍事・征東將軍・高句驪王・樂浪公と爲す。
447唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/02(火) 20:35:30
続き

『義熈起居注曰「倭國、獻貂皮・人參等。詔賜細笙麝香。」』(太平御覧麝条)
《義熈起居注に曰く「倭國、貂皮・人參等を獻ず。詔して細笙麝香を賜う。」》

372年 咸安二年 使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。
413年 義熈九年 高句驪王・樂浪公と爲す。

この記事から、好太王碑の記述は正しいと考えられる。
372年には、百済が楽浪を支配していた、当然神功49年に倭国が百済に与えた領土である。
400年前後の高句麗の南下で、この地を奪われたばかりでなく、百済は、高句麗の属国と成る。
413年には、倭と高句麗は和平を結び、連れ立って東晋に朝貢をする。
その証拠として、「倭國、貂皮・人參等を獻ず。詔して細笙麝香を賜う。」
448唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/02(火) 20:37:28
継体は、応神5世孫、そのいわれ。
神功皇后 275〜344年
応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。名前の入れ替えがある。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。初期は仁徳であるが後期は名前の入れ替え。344年 仁徳31年立大兄去來穂別尊までが初期。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵。
履中天皇 400年〜405年 仁徳31年立大兄去來穂別尊とは別人。しかし、
この記事は「継体は応神5世孫」を説明するための舞台である。
反正天皇 
允恭天皇 412〜453年 24年の内乱で死亡。倭五王のつなぎ目。讃、珍、済。
413年 東晉安帝義熙9年 高句麗と倭は共に連れ立って朝貢。
和平を選択した允恭は、主戦派に殺されたと思われる。

竺志米多国造(ちくしめたのくにのみやつこ)(佐賀県三養基郡・肥前国三根郡米多郷)
志賀高穴穂の帝の御世に息長公(おきながのきみ)と同祖の稚沼毛二俣命(わかぬけふたまたの
みこと)の孫の都紀女加(つきめか)を国造に定められた。

稚沼毛二俣命は、この記事から履中時代の生まれと思われる。そこで前の書き込みをよく見て戴きたい。
344年 仁徳31年立大兄去來穂別尊で即位したのは、名を入れ替えた応神である。つまり、
ここで書紀は、
応神=大兄去來穂別尊=履中。この様に説明している。またクガダチの結果でもある。
449日本@名無史さん:2010/11/02(火) 20:56:22
>>442
王朝を滅ぼし、とかよく言う人が居るが
神武天皇の子孫では無い、と称する男が天皇になれば
王朝が変わったことになると思うけど、そうでは無いから
王朝が変わったことなど無いと思うがな。

出雲なども黙っては無いはずだし。
アマテラス、神武に付き従った豪族の末裔も居る。

王朝が変わったと言う人は、そういうアマテラス、スサノオからの
豪族たちを、どう説得して、または秦氏等の神武系に忠誠を誓った譜代の説得は?
それに全く血のつながりの無いとする人物が
王朝が変わったはずなのに、なぜまだ神武の末裔を称するのか
そのあたりの説明をどうつけるつもりなのか?
450日本@名無史さん:2010/11/03(水) 03:57:18
神武天皇は壬申の時に天武天皇に御利益があった古い武神で
天照大神は持統天皇の作った神功皇后の二次創作
451唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/03(水) 14:38:05
天照大神は、弥生初期を中期に変えた。
神武天皇は、弥生中期を後期に変えた。
崇神は、弥生後期終末を飾る。
垂仁時代に、最初の前方後円墳が作られる。
景行は、最初の大王で有る。
神功渡海からの時代が撹乱されているのが、日本書紀である。
452日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:28:27
わけのわからん妄想はいいから。
453日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:42:01
古事記は国内向けプロパガンダ
日本書紀は対唐外交用プレゼンテーション資料
って、電波加治将一が言ってた
454太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/03(水) 16:54:41
応神天皇≠履中天皇 である。イコールはインチキそのもの。

まぁ超S級のデタラメ論だな。もう脳内は大麻、覚醒剤同様にカルト・ホツマ
にやられて、治療は不可能事の末期でだある。これでも眼が覚めぬ重症。

景行は畿内で最初の大王ではな〜い。最初の大王は神武である。これも奴
の脳内がカルト・ホツマのエイリアンにしてやられ、脳内がこの妄想に同化
している証拠である。まさに映画「エイリアン」の人間の胎内に同化して
いるシーンそのものであり、健全な脳内の各々方は重々重々用心されたい。
455唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/03(水) 19:35:06
太国倍年は、赤玉の球から、直接西暦を特定する。
太国が赤玉に乗ってピエロを演ずる限り
太国倍年は、笑いの対象にしかならない。
それとも、噛み付き具合から、大道芸の猿を演じているのか?

猿の文言を信じる輩はいない。

456唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/03(水) 20:04:31
東晋義熈九年の倭王と劉宋永初元年の倭王をめぐって
http://members3.jcom.home.ne.jp/wakokunosobo/hougen/ad413wao.html

372年 咸安二年 使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。
400年前後の高句麗の南下で百済は領土を奪われ、属国と成る
413年 義熈九年 高句驪王[王連]を以って、樂浪公と爲す。

百済は340年代には、大国として存在している。
百済が大国と成る場所は、323年 東晋が、洛陽奪回をあきらめた時期である。
これにより、半島、東北方面は空白地帯となる。
倭は、すかさず半島を占拠し、百済に領土を分与する。
西播に備えるの文言は、石碌に備えるの意味であり、前燕は、西方石碌と対峙するため
東方へ領土を広げるだけの余裕が無い。この地方へ攻め込み、捕虜数万を自国へ連れ帰るのが精一杯であった。

七支刀が、326年と成る。
書紀の記述は正しい位置を表記している。
七支刀が369年では、書紀の記事に齟齬を生じる。だから、神功49年の半島占拠を真としない。
時代に齟齬が有れば、日本の歴史に齟齬を生じる。
崇神時代は、任那以前であるから、鉄の保有量は少ない、その時期に、最初の大王墓”箸墓”は築けない。
この様な齟齬を無視する年代感は修正されるべきである。


457太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/03(水) 22:20:10
今、六耳の猿は盲象をはなばなしうしている。これこそ真のインチキ猿
であり、孫悟空が烈火の如く怒るのも当然のことだ。ニセ悟空はいずれは
如来に見破られる運命だ。ww 西遊記の後半に六耳のエテ公の話がある。

とにかく盲象の上でインチキ・オナニーを繰り返して役にも立たない日数
計算に無駄な時間をバ○デカく費やしている。要領が悪いったらありゃ
しない。

この悟空はニセ悟空であり、ニガクリタケをクリタケとかカキシメジを
シメジだとかインチキをたっぷり書きこんでいる。その典型が 応神=履中
だとか吠えており、いよいよもって今の今までこっそり嘲笑されるのを
避けるため、この妄想を脳内に溜めこんであっためてたんだろう。ww
458日本@名無史さん:2010/11/03(水) 22:35:04
>>449
天智と天武が兄弟だったと信じてますか??
459日本@名無史さん:2010/11/04(木) 11:20:41
天智は性格は真逆だが趙匡胤
天武が即位するために兄を焚きつけたと見るのが正解
460日本@名無史さん:2010/11/04(木) 12:12:26
>>458
そもそも、その兄弟の争いで負けたのは天智だが
しばらく後の天皇は、天智系に戻るだろ?

つまり、その後の系図を受け継いでるのはそっちだから
もし天智と天武が他人なら、それこそ後で書き直すだろう?
まあ、一時的に10代ほど天武系だったから
他人だとまずいので兄弟だったことにした、と言う可能性くらいしかないな。
461日本@名無史さん:2010/11/04(木) 18:45:39
>>460
んな、系図書き直して政権の正当性どうこうしようっていうような
中華思想じゃなかったんでしょ、今も続く天智系は。

アマテラス−神武−継体−天武 を無理矢理つなげたのは、天武の代。
あまてるくにてる(笑)も、その頃の作。
462日本@名無史さん:2010/11/04(木) 20:09:18
天智と鎌足って、キムチュンチュとキムユシンをモデルに創作されたキャラだろ。
463日本@名無史さん:2010/11/04(木) 20:51:23
そんな、12世紀以降の資料しか無い朝鮮人をモデルに
できるわけ無いがな。

7世紀の日本書紀をもとに、12世紀に高麗が書いた
というのならありえるけど。
464唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/04(木) 21:18:30
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入
365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)。新羅不朝貢。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神天皇二八年九月。高麗王遣使朝貢。
380年 応神天皇三七年二月戊午朔。渡高麗國欲逹于呉。由是得通呉。
384年 応神天皇四一年二月是月。阿知使主等自呉至筑紫。

新羅と仁徳天皇五三年で1年の齟齬。
192年、新羅本紀、冷夏。193年、後漢、冷夏。1年の齟齬か?
仁徳天皇五八年と応神天皇二八年の記事は同一の出来事と思われるが、1年の齟齬が有る。
いずれにせよ、高句麗が前燕滅亡により、自由になったことを表す。そして、
高句麗 永楽6年(396年)王はまた軍を率いて百済を撃ち、空前の大成果をあげた。
ここからしばらくの間、高句麗と倭は、対峙する事と成る。
465唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/04(木) 21:20:36
「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」
倭が「辛卯年」(391年)に海を渡って朝鮮半島にやってきて…
364年の時点で、新羅は倭の臣民である。だから「辛卯年」(391年)では、遅すぎる。
この辛卯年が331年であれば、323年の出来事に繋がる。
つまり、領土を得た百済は、その属性が定まっていない帯方、楽浪地方を倭国協力の下
領土とする。遼西地方も可であろう。
前燕慕容氏は、この地方に攻め込み、捕虜として本国へ連れ帰った前科がある。
この地方の領有に積極的で無い。
高句麗は、この地方に攻め込み、慕容氏に父の墓を暴かれ、母を人質とされる。
この地方に攻め込めない事情である。
この空白地帯を、百済と倭が占拠し百済の領土とする。
楽浪は高句麗にとって、悲願の領土であった。それがこの文を残した理由であろう。
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。朝貢の期待できるのは、396年迄である。
それ以後の朝貢は期待できても、戦費をまかなうことは期待できない。
つまり、396年から413年の間に、巨大古墳を作り始める事は無い。
履中、反正各御陵は独自の巨大古墳と出来ない。
466日本@名無史さん:2010/11/06(土) 15:07:14
>>465
ああいう巨大古墳が王陵ならば王子が誕生した時点で
建設計画が始まるお。
467唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/06(土) 23:15:43
仁徳天皇六七年(己卯三七九)十月丁酉始築陵。是日。有鹿忽起野中。
仁徳天皇六七年(己卯三七九)是歳。於吉備中國川嶋河派有大■令苦人。

大仙陵は379年から始まる。対抗する吉備では、巨大古墳は作られない。
つまり誉田御廟山に対抗する古墳は作られたが、
大仙陵に対抗する古墳は作られなかった。
「有鹿忽起野中。」は、臣の憤死であろう。
468日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:54:34
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/              ┃           /ヘ   /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/              ┃    「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/      ★末盧国         ┃          ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~                        ┃             /
                           ┃ 「一大国」      /
          _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ   /
       /ヽ/ |/ |       伊吹山  ┃      | 「 /
      |      ヽ ★奴国       ┃      | |__/
       ヽ,  水行 ヽヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
       |      ↓ /           ┃ ↓  / カナザワ
     ┌ '        ノ          ┃ ↓ /
    /        ノ           ┃ ↓|フクイ
   丿      ノ ^’            ┗━━━━━━━━━━━
  |_ 水行↓,/
  /  _/ヘ/▲投馬国
  | |    \                   末盧国・・・敦賀市
 /  >   天 \                伊都国・・・旧伊香郡高月町
/  /     安 \               奴国  ・・・長浜市
\ |        川               不弥国・・・米原市
  ∨             ☆呼邑国    投馬国・・・野洲市・守山市
                          
      邪馬台国 ★ 天         邪馬台国・・・旧信楽町
               岩 ☆為吾国    
             戸             呼邑国・・・甲賀市
                           為吾国・・・伊賀市
            ☆巴利国        巴利国・・・名張市
      ☆烏奴国               烏奴国・・・宇陀市
  ☆奴国                    奴国 ・・・奈良盆地
469唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/19(金) 20:21:19
>ヤマトタケルが往復した地方に、後にタケヌナカハワケの子孫が「住み
着いただけ」かもしれない。

タケヌナカハワケは、崇神時代に東海へ派遣された結果
垂仁時代に倭媛が伊勢に入ったとき、同行して伊勢に領地を得る。
そして景行時代、伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁(大彦の孫)を魏に派遣する。
この伊勢の軍隊は、九州でも活躍する。
日本武尊が、自分で軍隊を編成せずとも、伊勢の軍隊は、伊都国に駐留していたし、関東にも
同行する。
そしてワカタケルとは、日本武尊の子共であり、九州や関東に領地を賜る。
このワカタケルを雄略などとは話にならない。
大彦から七代後は、西暦300年頃になる、丁度神功元年から39年の空白にあたる。
470日本@名無史さん:2010/11/20(土) 01:03:43
「古事記と易学」ってサイトが、なんかスゴイこと書いてる。
http://www.maroon.dti.ne.jp/uqmk/k_e/index.html
易はよくわからないけど、なんか説得力あるような・・・。
471日本@名無史さん:2010/11/20(土) 06:00:42
>>425
>神武東征って長すぎるよなw
実際の神武の武力活動日記と考えるから長い。神武が受けた「神託」の実現
過程を全て「神武の業績」と記紀編集者が規定したのだ、と考えれば自然だ。
同じ方法論で、ヤマトタケルも解釈できるかもしれない。
つまり「神託を受けた者」の代に、「神託成就までにかかった全ての件」を
凝縮させて記紀では表記しているかもしれないと言う意味です。
472日本@名無史さん:2010/11/20(土) 07:17:22
>>469
>タケヌナカハワケは、崇神時代に東海へ派遣された結果

古事記によると開化天皇の子の日子坐王、その子の曙立王の一族は伊勢に
住み着いている。祟神の時代と言うより、早くて垂仁、遅くて景行の時代と
考える事も可能。
つまり、ヤマトタケルに随行しての居住と考えることも可能という意味。
タケヌナカハワケの世代だと、曙立王の親の日子坐王あたりが、伊勢居住の
始祖となりそうな物。ま、一世代レベルの話なので断定は避けますが。
473日本@名無史さん:2010/11/20(土) 07:40:23
>>458
根拠は無いですが、異母兄弟も、兄弟と言えば兄弟。
474唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/24(水) 17:59:31
伽耶(任那)の建国は209年である。

新羅本紀  209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る
西魏文帝大統7年 :辛酉 西元541年2月11日
伽耶が新羅に降る。
 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日 有制曰 朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之降于當國也
所率來子世宗之子・率友公之子・
 自居登王即位己卯年置便房 降及仇衝朝 來三百三十載之中 享廟禮曲 永無違者 其乃仇衝失
位去國

伽耶建国から330年で滅亡する、それが541年であるから、建国は210年頃になる。
西暦210年は崇神世になる。

475唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/04(土) 16:58:01
太寧末(326年),『拜平北將軍,進封朝鮮公。廆卒,嗣位,以平北將軍行平州刺史,督攝部內』
326年に慕容氏は、慕容皝字元真,廆第三子也。廆から皝に変わる。この時即位をめぐり兄弟間で
イザコザが起こる。皝遣其弟建武幼、司馬佟壽等討之。幼は仁に殺される。
『仁盡眾距戰,幼等大敗,皆沒於仁。襄平令王冰、將軍孫機以遼東叛于皝,東夷校尉封抽、護軍乙
逸、遼東相韓矯、玄菟太守高詡等棄城奔還。仁於是盡有遼左之地,自稱車騎將軍、平州刺史、遼東
公。宇文歸、段遼及鮮卑諸部並為之援。』
仁は遼左之地(遼西)で自ら「車騎將軍、平州刺史、遼東公」を名乗る。それを宇文歸、段遼及鮮
卑諸部がたすける。
335年 咸和九年,『皝遣其司馬封弈攻鮮卑木堤于白狼,』335年には慕容皝はそれらを破り、
『是歲,成帝遣謁者徐孟、閭丘幸等持節拜皝鎮軍大將軍、平州刺史、大單于、遼東公,持節、都督、
承制封拜,一如廆故事。』統一する。
百済が遼西を支配できたとしたら、この時百済は慕容皝に身方をしているか対峙はしていない。
337年 咸康三年 冬十月丁卯,慕容皝自立為燕王。
338年 咸康四年 石季龍為慕容皝所敗,癸丑,加皝征北大將軍。
であれば、


342年 咸康七年,皝遷都龍城。率勁卒四萬,入自南陝,以伐宇文、高句麗,。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
高句麗は陵辱される。そして百済は慕容皝に遼西県、楽浪支配を認められる。
その為には、
前燕が滅びると百済は東晋に朝貢、帰依する。
『咸安二年[372年]春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。六月、遣使拝百濟王餘句、
爲鎭東將軍領樂浪太守。』(晋書簡文帝紀)
六月、使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》

これらを 『326年七支刀』でなら説明出来るが、『七支刀369年』では説明出来ない。
476唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/23(木) 11:39:09
弥生時代における初期鉄器の舶載時期とその流通構造の解明
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kaken/17520520.pdf

97ページのグラフ
古墳時代の初めに大和は鉄輸入ルートを手に入れる。
鉄分与の謝礼は、古墳築造として支払われる。
例えば、吉備はこの謝礼を埴輪で支払う。
であるならば、
河内の巨大古墳は、百済からの朝貢が原資となる。
百済が高句麗に敗退、隷属されたことにより、巨大古墳は造られなくなる。
大仙古墳は、山肌の状態から、築造完成を途中であきらめる。

古墳時代の始まりは、崇神世に任那建国(209年)により、垂仁元年(217年)ころ
より鉄が大和にもたらされる。

つまり崇神世=箸墓=卑弥呼=250年±10、としたのでは、鉄の流入時期に齟齬を生じる。
箸墓築造は、鉄の流入から少し間がある。
ホケノ山から鉄剣の副葬が始まるとすれば、それ以前には、鉄は流入していたが
まだ鉄を副葬する余裕の無い時代となる。
477うましか:2010/12/25(土) 11:21:28
>>471

>実際の神武の武力活動日記と考えるから長い。

そうですよね。
白肩津までとそれ以降では、本来は別の物語だったのだと思います。
478唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 08:19:38
成務までは空白年の差し込み
神功、応神と仁徳朝は重なる。その重なるところは、神功39年太歳が仁徳元年になる
399年築造途中の大仙陵は、完成をあきらめて仁徳朝の大王が葬られる。
それを継いだ履中は、404年の帯方界への侵攻で戦死した兄王であり、弟反正が継ぐ。

履中の葬られた古墳に履中の遺骸は無い。
479太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/26(日) 15:17:03
指しこむのはオマエの行為であって、朝廷はそんなインチキ行為に手は染め
ていな〜い。成務なんぞほぼまるまる年代が紀のとおり充填されてること
は、全国の史跡、神社伝承由緒から明確である。

つまりマシは出鱈目そのものである。><
480唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 18:35:58
鉄器のない崇神時代以前に古墳時代は幕を開けない。
大和への鉄器流入は、崇神世の任那建国(209年)以後である。
240年頃造られたホケノ山古墳以後、鉄器の副葬が続く。
つまり
崇神世=箸墓=250年頃。とするなら、
鉄は何処から大和へ供給されたか?
これらは動かぬ証拠であるから、神社伝承由緒より優先する。

481太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/27(月) 22:00:57
本年 7/2 産経ニュースから

愛知県一色青海遺跡から、赤いベンガラ(酸化鉄)顔料で鹿を画いた土器
(紀元前1世紀ころ)が出土した。

これだから、畿内でも紀元前ころに鉄くらい使用する要領くらい知って
たと思うね」。
482太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/27(月) 22:55:53
京都府竹野郡弥生町 奈具岡遺跡 から
今から約2000年前(紀元前後頃相当)の鉄製品(水晶玉等の穴開けに鉄針
使用)、鉄片8kg(300個の斧を作れる)分、鉄製品約200点が出土。

鉄製工具類多数出土という。
483唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 23:37:01
>畿内でも紀元前ころに鉄くらい使用する要領くらい知ってたと思うね。
>鉄製工具類多数出土という。

その通りである。しかし、鉄器が豊富であったか?と考えた時
鉄の大和流入は、崇神の任那建国以後であろう。
任那建国以前に、半島から直接鉄が大和にもたらされていたか?
崇神以前の記事は欠史八代として、欠けているから崇神以前から半島から大和へ鉄が
供給された。とするか
北九州又は日本海側から大和に鉄が供給された。
国内分与で大和が鉄を得て居たのであれば、供給先は、大和より鉄を使用している。
古墳時代の遺跡からの鉄の出土量は、大和の古墳が最大である。
グラフは、大和から鉄が分与される。という放物線を描く。
であるならば、古墳築造に先立ち、鉄が供給される。となる。
古墳が造られ始めた所へ、鉄が供給された訳では無い。
484太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/27(月) 23:48:06
八代の史実が欠けてるのと鉄の供給とやらは、直接因果関係があるとは
言い難い。欠けてるのは当時倍年暦法を行使していたために半島と日本との
年代断層がとてつもなく増幅して年代不整合が存在し紀の編者らが困惑
していたためであり、このため史実記載を殆ど保留としたということだ。

マシは存在しない。60年丁度空白とか30年が2回分空白の年代など、紀には
ありそうもない。これではマシ論は不成立であ〜る。
485唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 23:49:06
弥生時代における初期鉄器の舶載時期とその流通構造の解明
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kaken/17520520.pdf

96ページのグラフと97ページのグラフでは、単位が違う。
この単位の違いが、弥生後期と古墳時代を別ける。
単位の違いを、任那建国以外で説明出来なければならないのが、崇神=箸墓=鉄が流入してから時代が動く。

486唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 11:52:39
>60年丁度空白とか30年が2回分空白の年代など、紀にはありそうもない。

60年の段差は、太陰暦(日々の干支)で表せない。
同じく倍数で圧縮しても、日々の干支や季節が付いてこない。

崇神5年 民の疫病(凶作)病死(餓死)であれば、
崇神6年 民の離散(逃散)
崇神7年 秋の実りを得る。
この3年間を、1年間で説明出来ない。これが太国倍年の現実。
しかし、崇神治世68年間であれば、孫、ひ孫が存在しなければ、人生40年弱のこの時代を
説明出来ない。だから68年間では長すぎる。
太陰暦を容認しつつ、現実の治世を考えると、空白年(19年×n回)の差し込みである。

任那建国は、古墳時代の前であり、任那から鉄が大和に供給されることにより、古墳時代へ入る。
任那以前に大和へ鉄を供給する地方(筑紫、丹後)の鉄の量では大幅に不足する。
ホケノ山(240年頃)以前に任那建国(209年)で無ければ、説明出来ない。

つまり、考古学が50年遡上したら、文献も50年遡上せねばならない。
そこに新羅本紀がある。
百済本記に合わせてきたこれまでの歴史は、新羅本紀に合わせねば整合性を得られないと言うことなんだな。

両書との整合性が得られない太国倍年は、此方からも否定される。
同じく否定される書紀であれば、書紀の記述を信じる方が、太国倍年より信頼できる。

487太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 17:26:35
>>486
その3年間を唐松山大年増で説明が出来な〜い。
崇神の代のどこに空白年があるのか? その具体性の説明が出来な〜い。ww
488太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 17:43:44
紀の崇神6年には倭笠縫にアマテラスとその象徴の鏡を祭祀している重要
記事がある。鏡といえば三種の神器の筆頭であり、祭祀の重要性が分かろう
というものである。
その具体的多数出土の△鏡の銘文の年号は 景初3年=239年 であり、この
頃がほぼその崇神6年に隣接するのは合理性がある考察である。

唐松山の言う銅鐸なんか、朝廷にとっては重要物ではない。当然重要なの
は、三種の神器のNo.1たる鏡である。

以上から倍暦の逆算は整合しており

 景初元年=237年=崇神即位元年

であることは不動である。つまり唐松山の主張は完全に崩れる。
489日本@名無史さん:2011/01/06(木) 18:59:36
日本書紀の原文をテキストデータ化して配布しているサイトはないでしょうか?
研究の際の検索に使用したいので教えて頂ければ幸いです。
490日本@名無史さん:2011/01/06(木) 19:02:16
それと基本的な質問で申し訳ないのですが、
古語拾遺と旧事本紀の発音は清音と濁音のどちらが正しいのでしょうか。

 こご【し】ゅうい/こご【じ】ゅうい
 くじほん【き】/くじほん【ぎ】

両方の読み方をする人が居て迷っています。
491日本@名無史さん:2011/01/07(金) 01:43:30
三種の神器って文献に出てくるのは平安末期からだろ
平家が持ち逃げして海に沈めたとか
あれは桓武からはじまる平家王朝の神宝
492唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/09(日) 12:49:07
神武元年は何時か?
欠史8代の長さを推定すれば、死亡平均が40歳弱の弥生時代であるから、世継ぎを
20年として、父子相続であれば、20年×8代=160年、この程度である。
時代設定は、192年が崇神5年とすると、崇神元年=188年
父子相続8代で188年―160年=1世紀はじめである。

ホ28019 アクルトシなる ミタのアヱ なればフタヱト キアヱより ヱとホとかぞえ
ヒトヱムソ。 キアヱ(西暦4年甲子)より1巡60

ホ28257 コヨミなを アスズとせんや ときにヒメ モロカミともに むへなりと 
アススにきわめ フソヒホの キナエのハルは アメフタヱ アススコヨミと
ナをかえて アヅサにほりて たてまつる
アスス暦21年キナエ(西暦23年癸未)
ホ30050 スズサナト サヤヱハツヒの ヲメデタも 
西暦42年壬寅 神武元年 アスス暦58年サナト(辛酉)、サヤヱハツヒ(庚辰朔)

493太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/09(日) 14:13:52
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜とコチラを口撃していた男が、

 偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。><


192年≠崇神5年 ←船舶のアリバイが無い。よってデタラメ。

始めて船舶が成るのは紀の崇神17年。その十年前では千人もの明日の食にも
困っている漁師でない農民の渡海は不可能。つまり上式の等号はインチキ。
494太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/09(日) 14:38:01
天津神算木(天津金木)とは、三輪山の山名の半径r=3の円(←三輪)
の球化の 体積=表面積 の数式をいう。

天津神算木 (30桁目と手前数での98に注意)(**はべき)

 4πr**3/3=113.097335529232556584655161798』06・・・・・・@

右辺先頭から 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 の見かけの年代を得る。

大祓祝詞に曰く 「天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」

 3≠113.097335

右辺の数列を3倍年暦にちなみ三分して 113 097 335 とするとき

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年 (先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代を誘うジョーカー数 335年

から -97+335=238年 ここで西暦0年を除くから−1年とする。故に

 238−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

この場合097年の0が邪魔だったが、@の30桁目と手前数98が代用となり、
〜これは098の0を除去したものとみなせて

 -98+335=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年
495唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/09(日) 14:56:02
>始めて船舶が成るのは紀の崇神17年。

青谷上寺地遺跡
装飾を凝らした大型船を中心に、同型の小型船3隻が続き、さらに船形の異なる中型
船2隻を従えた、少なくとも大小6隻の船からなる船団が描かれています。この絵がいつ頃
描かれたか不明ですが、2000年前としますと、この時、すでに大陸と行き来をしていたこと
になります。

この時代を崇神17年以後で説明出来なければならない。
496太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/09(日) 19:27:08
説明出来てるではないか。ww
紀の崇神17年以後だということだな。それ以前の10年前は船舶は製造され
てないんだね。当然同17年以後のことだ。それ以後なら船舶があるん
だから、問題ない。
497唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/09(日) 20:17:03
>紀の崇神17年以後だということだな。

つまり崇神17年以後とは、青谷上寺地遺跡 が埋まった弥生後期後半以前であるから
箸墓より50年ほど古い。
498太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/09(日) 21:47:23
どこまで考古が合ってるか、アテにはならない。
また、十年二十年後に考古の年代が上ったり下がったりは当選確実!

インチキの唐松山の編日法出鱈目年代を祓いに祓って、日本古神道の真の
年代が旭日の如く煌く。すなわち

 237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年

が確定する。
499唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/10(月) 08:36:35
青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡
両遺跡とも朝鮮や中国との独自の交易ルートを持つことで、北九州勢力に比較的左右され
ることなく交易を行っていたことが、栄えることができた大きな理由であった。
また、200年前後に最盛期を迎えると同時に、青谷上寺地では、発見された殺傷痕人骨
が物語るように、何者かに襲われ、戦乱に巻き込まれています。同時期に最盛期を迎え栄
えていた妻木晩田遺跡では戦乱の後が見られない。
青谷上寺地遺跡といえば、殺傷痕のある人骨が大量に発見されたことで注目を集めました。
通常、人骨は土に埋められると分解され跡形も無くなるため、 甕棺などで埋葬された状態
のものを除き、発見されることは稀なのですが、保存条件がよかった同遺跡では土中から
計109体もの人骨が発見されています。通 常人骨は交連状態(生きていたそのままの姿
を保った状態での人骨≒埋葬されたもの)で発見されることが多いようですが、同遺跡では、
バラバラの状態の骨として発見され、多くの死体を折り重なるように無造作に穴に掘り込
んで埋めたとも思えるような状態であり、ほぼ同時期に埋められたことが推測されます。
内 外形が分かる頭蓋骨は32個分、全人骨数109体と大きく数が合わないのが少し不
気味ではあります。

193年飢餓であれば、解体された遺骸の語るものは、食料にされた。と云うことで
あろう。
丁度唐古、鍵遺跡が放棄された時空でもある。放棄された遺跡はアブナイ。

太国は、この飢餓、餓死、人を殺して食べる。を記念して景初三年鏡を作ったと主張するのか?

500太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/10(月) 11:14:07
飢餓であれば船舶なんかに乗せてはくれまい。ww

千人の農民の糧食なんか外国船が自己の船員のでいっぱいで、農民の
食い物なんかの準備などしてはいまい。こんな痩せ細った農民を千人も
半島に行かせるメリットなんか到底船長は無いと判断する。
畿内の中心から若狭湾(←オマエこれをさ〜てなんのことですかと言って、
下手なとぼけをやってたな。ww)までの間で空腹で野垂れ死にだ。ww

せいぜい残って10人いればいいほうだ。何ならオマエ断食を10日間くらい
やって空腹に耐えられるか自信があるか〜? 到底出来ない相談だな。ww

船員の帰り分までの糧食でせいいっぱい、とてもとてもそんな大勢食わせ
る食い物を大量に船に確保などしていない。オマエの精神病院行き推奨の
妄想の果てにすぎない。正常人の賢脳を騙せやしないぜ。インチキ御苦労!
501唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/10(月) 11:24:55
>船員の帰り分までの糧食でせいいっぱい。

こんな食料があれば、青谷上寺地遺跡の遺骸は無い。

502太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/10(月) 12:56:50
喰えないから、死んで遺骸を残す。おかしくはない。
それに先に言ったとおり、畿内の中心あたりから湾に着くまで、その
殆どが【野垂れ死に】(←ここをよう考えろ!)だな。ww
503日本@名無史さん:2011/01/10(月) 13:11:00
>>489

http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html

P.S.
まともな研究者はこんなスレ覗いちゃだめですよ。
ここは ものすごーい アホ が二匹住んでいるだけの隔離スレです。
ちゃんんと消毒しないと、アホ が伝染します。
504唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/11(火) 17:47:55
西暦192年 大凶作 ここを中心に考える。
その1 環濠
唐子、鍵遺跡を大凶作が襲う、人々は飢えに苦しみ、最後の手段で命を繋ごうとする。
最後の手段とは、青谷上寺地遺跡と同じ手段。青谷上寺地遺跡のバラバラに分解された
人骨の指し示すものは、食人である。
唐子、鍵遺跡内でも同様な出来事が行われる。このとき吾らの身を守るはずの環濠は、
吾らが逃げ出すことの出来ない施設に変わる。
数年後、生き延びた人々も、唐子、鍵遺跡を再興するための信頼関係は失われ、
衰退する。

その2 銅鐸祭祀
一般に大型銅鐸は”見る銅鐸”と表現される。
しかし、 見る銅鐸では存在意義が見出せない。ではどのように使われたら意義が
見出せるか?動かねば、綾杉文も輝かない。動かせば良いのであるから、神輿とし
て担ぐ、古代祭祀の姿である。祭祀では豊穣を願う。しかし192年の凶作は、
その祭祀を終了させるほど強烈なものであった。
そこで、次なる祭祀が作り出されねばならない。それがモモソ媛の祭礼となって
あらわれる。これは、食人で命を繋いだ人々の懺悔であり、先祖への崇敬の確認でも
あった。
モモソ媛伝説が異様なものでなければならなかった理由である。
そして皆が協力して石を積む。三途の川のケルンと同じである。
505ローガン:2011/01/27(木) 00:01:38
終止符スレ
832:太国 ◆yVAs7uaYlY 2011/01/26(水) 19:58:03 AA
ローガンさんよ
あんたの今回の書きこみは本当にうまくないぞ。
こんな書きこみで自説を強行するのはやめてくれ。


どううまくないの?
誤解を恐れず云うと、「天皇とは神である」…天皇の行いとは神の所業であり、民の倫理観を超えたもの。
というのが、この度の問題提議。 ではお休みなさい。
506日本@名無史さん:2011/01/27(木) 08:45:34
ローガンさん、こんなところで返事しないで
終止符スレで返事してあげたらどうかな?
507太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/27(木) 08:50:16
あんたの言ってたことはとんでもない失言だぞ。
武烈雄略の残虐行為をの当たり前で正当化するような言い草は、現今
だったら非難轟々だぞ。><
まるでロシアの空港爆破事件を悲惨でも残虐でもないような口ぶり
であり、君の過去の交通事故負傷を当然だなどと言ったら君は
怒るだろう? まるで過激派を正当だとかぬかしているのと
同然の書きこみであり、しかもこちらのスレに置き換えて書き
こむなど、何かかわそうとする狙いがあるのか、なかなか
残虐行為の正当化をくらまそうとかのやり口に思えてならない。

あんたの論はまるでテロ行為を賞賛するような書きこみであり、
こんな失言をしてインチキの畿内説防衛を企んでいるとは、
あんたの人格まで低劣なのかと疑いたくなるぞ。><
508ローガン:2011/01/27(木) 14:42:33
>>507
>武烈雄略の残虐行為をの当たり前で正当化するような言い草は、現今だったら非難轟々だぞ。><

では、あなたは何故「現今だったら」という条件をつけるの?

>君の過去の交通事故負傷を当然だなどと言ったら君は怒るだろう?

へえ、覚えててくれたの。ありがとう。

>まるで過激派を正当だとかぬかしているのと 同然の書きこみであり、

そんな主張はしてませんよ。

>しかもこちらのスレに置き換えて書き こむなど、何かかわそうとする狙いがあるのか、

あっちは賑やか過ぎて…もう明日にも1000いきそうだから。

>あんたの論はまるでテロ行為を賞賛するような書きこみであり、

違うんだなあ。よく読んでね。●誤解を恐れず云うと、「天皇とは神である」…天皇の行いとは神の所業であり、民の倫理観を超えたもの。
509太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/27(木) 15:04:35
オマエ正気の沙汰でないぞぅ〜。
血迷ったのか?
オマエもう古代史から手を引け。過激派とかテロ犯人を擁護するような
言動論をして畿内説だとぅ〜? ふざけるな以上のひどい論説だ〜。
爆破犯人を当然の行為だとぬかしているような論であり、これでオマエ
人間か〜?>< 先祖の仏壇で祖先と向かい合ってよ〜く考えろ。
オマエは悪魔か? 悪魔の手先か〜?
510ローガン:2011/01/27(木) 16:15:44
何を勝手に熱くなっているの?
いいかい、ぶっちゃけた話、古代天皇とは神と認識されたと言っているんですよ。
国見、行幸、遠征でもいいが、行く先々で民が帰順するのは、「客人神」の性格を表したものでしょう。
風土記の筑波山でみられるように、この「客人神」とは祖神。 祖神とは広義に捉えれば、豊葦原瑞穂の国をしろめした皇御孫。その直系である天皇が天つ神と繋がる「客人神」。
そして、悪事、つまり罪を犯すのは「天之益人」(人間)これは 六月晦大祓にある。
人間としては残虐な行為であっても、神が行った行為だと当時考えたとしたら、紀に書かれても不自然は無い。
又、隋書には「使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。」とある。
天は兄、日が弟。太陽(日神)の操作権を持つ神が天皇でしょう。
勿論、異論はあると思うが、これが何故「テロリストの容認」になる? 中傷は止めて貰いたい。
511太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/27(木) 16:49:18
ひとでなしと言われても仕方あるまいこの男が、こんなことを言って
くらまし、畿内節を防衛している。こんなが中傷になるのか。オマエの
失言を批判するのは当然だろう。
いいかげんにしろよ。残虐性を誇大に正当化して畿内節を主張するなど、
とんでもない野郎だ。畿内インチキ説を防衛するためには手段を選ば
ないらしい。何でも非道でもやってやるということのようだ。それを
くらまし論でこのような論を持ち出し、失言でないような工作をして
いるとしか想えないひどいものだ。
512ローガン:2011/01/27(木) 17:21:00
>>511

>畿内節を防衛している。

なんのこっちゃ?

>オマエの失言を批判するのは当然だろう。
> いいかげんにしろよ。残虐性を誇大に正当化して

読めと言ってもやっぱり無理だったか。アホの相手は疲れる。

>それをくらまし論でこのような論を持ち出し、失言でないような工作をして
> いるとしか想えないひどいものだ。

ほほう。くらまし論だと…(笑)
何をどう「くらまし」たか 君に指摘できるかね?出来なきゃただの中傷だ。 ほらそのくらまし論とやらを具体的に指摘してごらん。
513太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/27(木) 17:32:57
オマエの交通事故で心配してやったのに、なんだと〜?

>へえ、覚えててくれたの

これがオマエの言葉か。

「あのときは心配かけた。感謝してる。」

とか挨拶するのが礼ってもんだろう。オマエは吹けば飛ぶような低劣
の出来損ない野郎なのか? いい加減にしろ。

オマエが手段を選ばない男のようだということは分かった。
そんな畿内節論では肯定はしてやらない。

ひでえ男だな。オマエの両親の顔を見たいもんだ。こんな野郎に育て
た父母の顔をな。>< 

日本史板から消えてくれ。これが最後の言葉だ。><
514ローガン:2011/01/27(木) 17:55:33
ちゃんと「ありがとう」って書いてるやん。(笑)
くだらん中傷はいいから、「くらまし論」とやらを具体的に指摘してごらんなさい。
それに>>510のどこが「テロリストの容認」になるのかね?
515ローガン:2011/01/28(金) 00:20:41
アホは逃げたか。尋ねられて答えられんなら、掲示板なんかに顔を出すな。
516太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 08:02:00
ローガンは極めて危険思想の持ち主のようだ? 事故って核心を指摘され
たときは、野郎は憤っていたな。w 妄想の一点をビシリと突いたからな。
古代史論で負けそうになるので、残虐性を擁護も平気でやるらしい。
卑劣な野郎だからな。

危険思想者なら日本から消えるべきだ!
517太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 08:28:37
まぁあいつは寝られなかったんだろう? 0時を超えてギャァースカ
怒り狂っていたようだな。奴は以前寝られないと自認してたから、この
夜もふけてギラギラしてたんだろう? 奴の脳内で善悪の葛藤の泥仕合
が起こっているようで、まぁ寝られないで今日はボーッとしてるん
だろうな? あいつはどうやら悪が打ち勝っているようだ??

事故ってつつかれたときの怒り爆発らしい。*脳内での爆発はまだやむを
得ぬかな〜? あのときは、奴は精神的に相当こたえていただろう。
あいつはそのくやしさが増幅して溜まっていたようだな。もともと畿内
なんかに卑弥呼の国なんかあるわけがないからな。あれば伝の借り物で
なしの記載が記紀にうんと載る。これが無いんだからねぇ〜、こいつ
の主張には騙されない。南を東だとは ppp 妄想の極だ。陸行一月も
九州各地をのんびり見聞していたと観て、九州説に不合理はない。
遺跡は消えてやむをえないところ、痕跡が無いから九州でないとは
ならないからな。
*ロシア空港での爆発を擁護しちゃーいかん。その後非難されたことを
繕うサマは、到底真摯な人間のやるべき行動ではない。悪魔かと疑われ
も仕方あるまいぞ。><
518ローガン:2011/01/28(金) 08:38:23
おい、太国。駄レスを書いてないで お前の云うくらまし論とやらを、説明しろ。
自分の言った事だ。けじめをつけろ。何をどうくらましたのかね?
私はお前のように卑劣で幼稚な男に侮辱されて黙っている訳にはいかない。
519太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 10:35:35
侮辱だと〜。オマエ俺にアホと言ったな。こんなことを言っていいのか?これ
では卑劣なのはオマエのほうだろうが。 オマエは危険思想の持ち主か?〜
と考えてるんだよ。そうでないなら残虐性礼賛するような書きこみなんかするな。
危険思想を持ち合わせてないなら、残虐性礼賛のような書きこみをやるな。

俺がオマエに何の落ち度がないのにアホだとか言ったというなら俺が悪いが、
俺はそんなことを言ってはいないぞ。俺は特定個人に向かって直接アホだなん
ぞの暴言はいまだかつて吐いてはいないぞ。
重ねて言う。オマエ、「アホ」などとそういうことを言うな。
520ローガン:2011/01/28(金) 11:41:26
>>519
>オマエ、「アホ」などとそういうことを言うな。

云われたくなければ、先刻の問いかけに答えれば、よかろう。
>>508
>>まるで過激派を正当だとかぬかしているのと 同然の書きこみであり、

>そんな主張はしてませんよ。

これがお前の中傷に対する私の返事である。本人が否定しているにもかかわらず、お前は、その後も同様の中傷を続けた。
そして
>>510「何を勝手に熱くなっているの?
いいかい、ぶっちゃけた話、古代天皇とは神と認識されたと言っているんですよ。
国見、行幸、遠征でもいいが、行く先々で民が帰順するのは、「客人神」の性格を表したものでしょう。
風土記の筑波山でみられるように、この「客人神」とは祖神。 祖神とは広義に捉えれば、豊葦原瑞穂の国をしろめした皇御孫。その直系である天皇が天つ神と繋がる「客人神」。
そして、悪事、つまり罪を犯すのは「天之益人」(人間)これは 六月晦大祓にある。
人間としては残虐な行為であっても、神が行った行為だと当時考えたとしたら、紀に書かれても不自然は無い。
又、隋書には「使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。」とある。
天は兄、日が弟。太陽(日神)の操作権を持つ神が天皇でしょう。
勿論、異論はあると思うが、これが何故「テロリストの容認」になる? 中傷は止めて貰いたい。」

これがくらまし論だという。 しかしそれを尋ねても、一向に答えられない。アホ扱いされて当然。
いやなら きっちり返答する事だ。
521太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 15:04:29
オマエは明確な否定などしてなかっただろう。それをのらりくらりと
言い訳してくらましをやっているように想えてしまう。
否定するならハッキリとキチンと〜
いまのように書いて余計な無駄文など後回しにしろ。

オマエが否定したと今回初めて確認したから、オマエも脳がまだどうやら
正義らしい? そういうんならオマエが残虐行為を鼓舞してるんでないと
いうことをやっと知り得た。ならばいい。ど〜うもあの書きこみは誤解を
生むぞ。今後慎重に書けよ。

誤解を生むような書きこみはするな。オマエの脳内が正義だと
いうことが分かってれば、俺もこんなつつきはするわけがないんだ。

俺はオマエに卑劣なことをした覚えはない。オマエが誤解を生む書きこみ
をして繕うように想えるやり方の言い訳をするからこじれたわけだ。
とにかくオマエの脳が正義だと知ってこちらは胸のとどこうりが
ぬけた。今後は誤解のないように書けよ。それで、信じてる畿内説の展開を
したらいいだろう。それからアホって言うのはやめろ。これは俺も
えらく面白くない。
522ローガン:2011/01/28(金) 16:36:46
>>521
> オマエは明確な否定などしてなかっただろう。

では、これはなんだ?
508:ローガン 2011/01/27(木) 14:42:33 >>あんたの論はまるでテロ行為を賞賛するような書きこみであり、
>違うんだなあ。よく読んでね。

お前は「違う」という日本語の意味すらわからんのか。アホ扱いされて当然だ。
そしてお前の卑劣な中傷をこのレス以降も続けた。

>俺はオマエに卑劣なことをした覚えはない。

自分の書き込みを読み返せ。お前は卑劣な中傷をした。

>それからアホって言うのはやめろ。これは俺もえらく面白くない。

人が書いたものを、読めない、理解出来ない。にもかかわらず中傷、暴言を平気で吐いて、「卑劣な事をした覚えがない」だと? お前は最低の屑だ。
523太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 16:50:21
俺はアホとは言っていない。そういう言葉を吐いたことはない。

オマエの否定がいい加減だからそういう展開になったのさ。

それにスレまで変えることもないね。あのとき、トタンにそうでないと
言えばいいことだ。それに今後もコチラはアホという言葉は言うことが
ない。これこそが中傷だぞ。

オマエはこちらのつつきの直後、ス〜グそうでないと言えばいいことを、
ノラりクラリと言い訳してるからオマエは文句を垂れられたわけだ。
直後にトタンにハッキリそうでないと否定してればゴチンとやられず、
こちらはそんなことをする必要はないんだよ。

オマエの言い草が判然としないからそういうことになるのだ。土台オマエ
がコチラに猪ッ戒を出したのが始まりだぞ。どうだ昨夜は眠れなかっ
たから朝8時ころまで寝ないでいたのか? ww

だいぶ事故ったときのつつきが強力だったようだな。妄想の畿内節は
今後も続けるんだろう?ww そこには卑弥呼の国はないんだよ。
524ローガン:2011/01/28(金) 17:58:57
>>523
>オマエの否定がいい加減だからそういう展開になったのさ。

うふふ。自分のアホさかげんを吹聴とは…
終止符スレ822『ローガン 2011/01/26(水) 18:18:57 AA
804
> 偽造をしたければ、まず雄略、武烈の残虐たる大悪事を削除するのが
> 先決だろう。おまけに皇族同士の殺戮、浮気等スキャンダルが記紀には結構あるぞ。

大悪事だろうか?
「日常生活に背反しこれを脅かすようなものを負うて、しかもこれを祓いのけるような可能性を持つ。そういう性質が王権の神性となるのだ」(和歌森太郎著 天皇制の歴史心理に引用の「王権の象徴性」山口昌男) 』
※これは、言うまでもなく古代天皇の神性とはなんぞや?という意味の書き込みだ。それに沿って下記のようなレスがついた。
『824:日本@名無史さん 2011/01/26(水) 18:36:07 [sage]AA
823
>現代だったら失言だぞ。
古代を考えるとき、太国はどうしても現代人の感覚が出てしまうわけだ
これが曇った眼鏡となってしまい、恐らく古代の真実からは遠のくだろう
825:日本@名無史さん 2011/01/26(水) 18:43:43 AA
中国と日本の歴史書の感覚が違うからなあ。
皇帝の意に沿わない歴史書を記録したとして、編纂者が死刑になったが、
その後継の編纂者も記録を残したとか。
833:茨木童子 2011/01/26(水) 20:07:08 [sage]AA
829
ははあ、それはお気の毒に。しかし記紀を読むかぎりでは日本の天皇の悪逆度は
それほど高くないでしょう。武烈帝を除けば。』

このように、この3氏は私の書き込みの意図を理解してくれている。参加者のなかで、わかって無いのはお前だけなんだよ。
525太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 19:56:36
武烈がなるならこちらの主張は通っている。問題ないね。
これをオマエは分かっていないようだな。

今度は俺にアホと言わなくなったから、オマエはその点ではgoodだぜ。

いずれにしろ皇族のスキャンダルは記紀に結構あるわけで、こちらの
主張はおかしくはない。
526太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 20:01:03
うふふ、その自分とはオマエのことか?w

アホはテロ事件の犯人へ言うほうが、まだマシだ。アホの言動で
〜他のスレ民にローガンの書きこみはどうか? 〜とは言われないぜ。
527ローガン:2011/01/28(金) 20:16:20
>>526
> うふふ、その自分とはオマエのことか?w

ほれ。お前は、理解度が低過ぎる。末尾に「参加者のなかで、わかって無いのはお前だけなんだよ。 」とあるだろ。
アホ扱いされて仕方ない自分を恥じろ。それにお前の幼稚な主張など問題外。
528太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 20:28:59
アホっていうことはやめろ。オマエが正義の味方ならば、さっきまで
つついていた俺とオマエとは同士だということになる。つまりあれから
いままでお互いに同士討ちをしていたということだ。そうなればアホと
いうのは俺とかオマエでもなく、そういう犯人とかに言うのがまだ当然
だということになる。だからあっちのほうにするのがまだマシなのだ。
こちらにはもう言うな。

オマエも眠い目こすって昨夜は寝られなかったようだから、これも含め、
オマエが感情的になってるのはまぁやむを得んか?

ところで聞くが、オマエは記の崇神没年が258年説主張だと言って
た奴がいたので論に名を掲げて来てたが、オマエからこっちの点において
苦情がいまのところ無いことから、この説の肯定でいいんだな?
どうだな?
529ローガン:2011/01/28(金) 20:57:48
>>528
>オマエも眠い目こすって昨夜は寝られなかったようだから

心配には及ばん。いつもの時間に就寝した。それから、お前と「同士」など鳥肌がたつ。止めろ。

>この説の肯定でいいんだな? どうだな?

それが人にものを尋ねる時の態度か?真摯にお願いしてみろ。気が向けば、答えてやらんでもない。
530太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/28(金) 21:31:47
お願いだと〜? ウワッハッハ!
ジャァ〜気が向くまで待つべぇ〜。
531唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/02(水) 19:15:56
景行紀を西暦に直す、そのたたき台。まだ狂いはある
240 景行天皇元年(辛未七一)七月己卯《十一》◆秋七月己巳朔卯己卯。
241 景行天皇二年(壬申七二)二月戊辰《三》◆二年春三月丙寅朔戊辰。
242 景行天皇三年(癸酉七三)二月庚寅朔◆三年春二月庚寅朔。
243 景行天皇四年(庚戌七四)二月甲子《十一》◆四年春二月甲寅朔甲子。
247 景行天皇十二年(壬午八二)八月己酉《十五》◆八月乙未朔己酉。
248 景行天皇十三年(癸未八三)五月◆十三年夏五月
250 景行天皇十七年(丁亥八七)三月己酉《十二》◆十七年春三月戊戌朔己酉。
251 景行天皇十八年(戊子八八)三月◆十八年春三月。天皇將向京以巡狩筑紫國。
252 景行天皇十九年(己丑八九)九月癸卯《廿》◆十九年秋九月甲申朔癸卯。天皇至自日向。
253 景行天皇二〇年(庚寅九〇)二月甲申《四》◆廿年春二月辛巳朔甲申。遣五百野皇女令祭天照大神
254 景行天皇二五年(乙未九五)七月壬午《三》◆廿五年秋七月庚辰朔壬午。
255 景行天皇二七年(丁酉九七)二月壬《十二》子◆廿七年春二月辛丑朔壬子。
256 景行天皇二八年(戊戌九八)二月乙丑朔◆廿八年春二月乙丑朔。日本武尊
256 景行天皇四〇年(庚戌一一〇)七月戊戌《十六》◆秋七月癸未朔戊戌。
258景行天皇五一年(辛酉一二一)正月戊子《七》◆五十一年春正月壬午朔戊子。
258 景行天皇五二年(壬戌一二二)五月丁未《四》◆五十二年夏五月甲辰朔丁未。
258 景行天皇五三年(癸亥一二三)八月丁卯朔◆五十三年秋八月 丁卯朔。
258 景行天皇五四年(甲子一二四)九月己酉《十九》◆五十四年秋九月辛卯朔己酉。
259 景行天皇五五年(乙丑一二五)二月壬辰《五》◆五十五年春二月戊子朔壬辰。
260 景行天皇五六年(丙寅一二六)八月◆五十六年秋八月
260 景行天皇五七年(丁卯一二七)九月◆五十七年秋九月。
261 景行天皇五八年(戊辰一二八)二月辛亥《十一》◆五十八年春二月辛丑朔辛亥
261 景行天皇六十年(庚午一三〇)十一月辛卯《七》◆六十年冬十一月乙酉朔辛卯。

532太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 20:40:35
240年≠景行元年

238年=紀の崇神6年←倭笠縫に【鏡】を祭祀
239年←景初3年【鏡】
533日本@名無史さん:2011/02/02(水) 21:28:49
無意味な数字遊びだな。

日本書紀の古い時代の紀年なんて、全部、書紀の編者の創作なのに。
534太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/02(水) 22:53:55
これは創作ではな〜い。
創作という公文書偽造同行使に相当する罪をやったことが当時の政敵に
摑まれれば弱点を握られたことになり、身の失脚が待っている。これは
大相撲にあるのか?八百長相撲をやっていた事実を恨まれてる仲間とかに
知られればバラされることになり、もうクビは風前の灯だ。(今回の
大相撲の八百長疑惑はどういう成り行きになるか分からぬが・・・?)

そんな危険なマネとは利害の大なる理由があるとき身の危険を冒して
敢行するわけであり、紀の記載を創作するイカサマ敢行の動機など
見えて来ない。

創作だと根拠も出さず結論だけで言いまくるが〜他ならぬオマエの脳内の
〜その書きこみがオマエ自身オマエそのものの創作の主張だということだ。
535唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 17:38:38
書紀は信頼できても太国倍年は信用出来ない。
暦の後付けと主張しても、後付けが出来ない。
崇神世の任那建国が無い。
仲哀9年の渡海が無い。
神功49年の半島占拠が無い。

この様な主張を書紀から取り除けば、どんな数字にでも当てはめる事が出来る。
536唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 17:40:25
仁徳元年は313年 ~功39年太歳を目標とするが、1年程度の狂いが有る。

仁徳天皇四年(丙子三一六)二月甲子《六》◆四年春二月己未朔甲子。詔羣臣曰。
朕登高臺以遠望之。烟氣不起於域中。調役の停止を決める。
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月 。(317年丁丑)
元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令
至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之。
倭軍は274年(仲哀9年)以来、東夷軍の長として存在する。
308年 永嘉の乱勃発、これにより冊封倭国も軍を遼東、帯方方面に出動するが、そもそも
永嘉の乱の原因が蝗害による牧畜の疲弊である。牧野を求めて石碌が平原に進出し、田畑を
荒らし回る。民は難を逃れ、平州方面へ流れてくる。そこへ進軍するのであるから、食料の
後方支援も必要となる。民を兵とし派遣、船を造り、食料も供給する。疲弊は必定である。
この出兵の間に、朝廷と任那(伽耶)、新羅は親密度を増す。

313年 新羅本紀 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
316年 西晋滅亡、これを受け、朝廷は戦列を離れる決意をする。(1年の狂い?)
317年 倭軍は任地を離れる。
321年 皇后摂政四七年(丁卯二四七)四月 千熊長彦の派遣。
323年 皇后摂政四九年(己巳二四九)三月 半島占拠。大量の渡来民。
=クダラに領地の分与、クダラは百済(モザ)建国。
326年  泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
364年 新羅本紀  倭軍が攻撃
=仁徳天皇五三年(乙丑三六五)◆五十三年。新羅不朝貢。(1年の狂い?)
370年 前燕が滅びると 百済は、東晋に朝貢する。
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月◆廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。
=仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。(1年の狂い?)
372年 2月東晋の使者が百済を訪れる。楽浪太守百済王。
380年 応神天皇三七年(丙寅三〇六)二月戊午朔◆卅七年春二月戊午朔。得通呉。
537唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 17:42:47
続き
308年(323年)迄は、古墳に石製祭祀器具、これ以降は、武器が主流となる。
ここで使われた船団は、後に熊本から阿蘇ピンク石を運ぶ。
400年前後の高句麗南下は、巨大古墳の終焉。

323年以降の埴輪で壁柱タイプは渡来人の証拠である。
538日本@名無史さん:2011/02/03(木) 18:10:36
日本書紀の紀年なんて、飛鳥時代以降でないと信ずるに足りない。
5世紀の大王なんて、雄略が倭王武の時代に「大体」重なってるのがわかるくらいで、
それ以前は記紀編纂時に創作された架空の年代だよ。

百済から暦が伝わる以前の、満足な記録も行われていなかった時代の年代なんて、
年月日まで詳細にわかるわけがない。
書紀の架空の記述をもとに、さらに自己流の怪しげな理論でいじくりまわしても、
空虚な数字遊び以外の何物でもないな。
539太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 19:49:54
創作は当時での公文書偽造同行使であり、そんなイカサマをすれば当然
政敵から弱点をつかまれる危険が露呈するわけで、今で言えば大相撲の
八百長同然のイカサマ相撲の発覚であり、もう身の失脚は目に見えて
くる。記紀をあざむく合理的妥当な説は考えれず、そんな危ないイカサマ
の創作をやる危ない橋を舎人親王らがやる根拠は出てこない。

つまりオマエの書きこみは、オマエ創作だとするオマエ自身の脳内の
即興から滲み出たオマエ自身の創作したものなのである。
540唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/03(木) 20:01:21
>創作は当時での公文書偽造同行使であり、

創作は太国がしている。
任那建国が設定出来ない時代に崇神を配す。
これにより、渡海、半島占拠も無くなる。
541日本@名無史さん:2011/02/03(木) 20:02:44
太国の思いこみの激しさはどうしようもないな。
542太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 20:12:58
>>540
オマエが創作してるのさ。ww

日食が
543太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/03(木) 20:18:48
>>542 続き 書きこみエラー

>>540 創作はオマエがやっている。

日食が数日間続くのだと、オシデ族酋長脳はがんばっている。ww
まるでニガクリタケがクリタケだと言っているような類で、同酋長の考察
の「重大なる過失」である。こんなものを食せと薦めても、当然拒絶
するのが正常なる脳の判断なのだ。日食は数日間も継続しないが、熱帯
ジャングルの蛮族らはそれを無視する。
544日本@名無史さん:2011/02/07(月) 19:35:19
俺流の歴史をクリエイトするフトクニ
545唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 09:43:21
>俺流の歴史をクリエイトするフトクニ

太国は、あづないの罪を数日間続く暗黒と読む。
しかし、彼自身の神功元年でそれを証明していない。
天文学や考古学、半島の文献も信用しない。
これで歴史を西暦に変換出来た、と主張するが、金木算木の数字にしか整合性を
求められない。
それとて、まだ当時の円周率πの計算式も出来ていない。
546太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 09:59:54
唐松山酋長

πの計算が出来ていないという根拠をオマエは示せない。
〜結論だけしか言えない。古代「大兆」が行われておりまた八百万神即ち
8000000神とか179万余年の数字、仁賢天皇は億計尊の名称を考察
すると、計算が出来ないという主張は退けられる。

天体は犯罪者ではない。そんなところは神功元年前年の記述で最重要では
な〜い。最重要なのは、日を経てという日食が数日間も継続しないという
現代科学の鉄則のところだねぇ。くらまそうと企てても現代の高度の教育
を受けてる人間を、オマエは騙すことは出来ない。
547太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 10:24:57
古代史の真の年代を計測する天下の秘器。これを天津神算木(天津金木)
という。天津神算木とは崇神紀にある山名の三輪山の三輪(半径r=3の
円)の球化の 体積=表面積 の数式をいう。これに違える年代主張は
誤りなのである。天津神算木(**はベキ)

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335

主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇即位  副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇即位

主値は景行即位年ではない。つまり景行年代は主値にはなりえない。

崇神即位年の真の年代は右辺を 113 097 335 の三数に三分するとき

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけ年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の実年代誘引のジョーカー数 335年

 -97+335=238年  だが、西暦0年除去だから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年
548太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 11:36:46
>>547 続き
天津菅曾(右辺)の主値は崇神であり、右辺は景行が主値ではないことを
明確に示している。

主値は副値によって古代の年代の期間区分を教えているのだ。
崇神〜仁徳の代が三輪王朝の時代であり、それ以前の八代間は先王朝の
年代である。仁徳の次帝の履中の世から後三輪王朝の時代となるという
ことだ。景行は三輪王朝の時代の一経過時期であり、ここが初代大王
だとか言う野郎の言うことは棄却される数列であり、景行世が主たる時代
だというのは天津菅曾(右辺)からデタラメであって、主たる時代は主値
である崇神の代なのである。
549唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 11:45:12
>4πr**3/3=113.09733552923・・・

早く 円周率の計算式を示すことが肝要。
出来なければ、ただの電卓の数字との主張と受け取る。
550太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 13:24:21
受け取るのはオマエの勝手だねぇ。しかし万年経とうとどんな独裁者でも
天津神算木の数式の破壊は出来ない。

オマエの日食説はニガクリタケがクリタケだと抜かして2ちゃんスレ民
を騙そうとたくらんでいるも同然であり、皆高等教育を受けてるから、
唐松山蛮族脳酋長の偽装は小学生でも見破れる。ww
551唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 14:02:34
日食説が気に入らなければ
太国は自分の主張を太国倍年で証明すれば良いこと
それが出来なければ、太国倍年は存在しない。
552唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 14:06:59
太国が日付も使用して編年していると主張するが
それでは何故日付が表示出来ないのか?
答えは簡単だ。
日付の使用方法が間違っているから、だから日付を主張出来ない。
可愛そうに。
553唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 14:14:06
まだ完全に読み切ったとはしがたいが、普通の人はこの様に読む。年は伸長されているが
季節や月日はそのまま使う。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)元年春正月丁丑朔戊寅。
218 垂仁天皇二年(壬辰前二八)二年春二月辛未朔己卯。
219 垂仁天皇三年(甲午前二七)三年春三月。
220 垂仁天皇四年(乙未前二六)四年秋九月丙戌朔戊申。
220 垂仁天皇五年(丙申前二五)五年冬十月己卯朔。
222 垂仁天皇七年(戊戌前二三)七年秋七月己巳朔乙亥。
224 垂仁天皇十五年(丙午前十五)十五年春二月乙卯朔甲子。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)廿三年秋九月丙寅朔丁卯。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)廿五年春二月丁巳朔甲子。
228 垂仁天皇二六年(丁巳前四)廿六年秋八月戊寅朔庚辰。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)廿七年秋八月癸酉朔己卯。
230 垂仁天皇二八年(己未前二)廿八年冬十月丙寅朔庚午。
231 垂仁天皇三十年(辛酉一)卅年春正月己未朔甲子。
232 垂仁天皇三二年(己亥三)卅二年秋七月甲戌朔己卯。
233 垂仁天皇三四年(乙丑五)卅四年春三月乙丑朔丙寅。
234 垂仁天皇三五年(丙寅六)卅五年秋九月
235 垂仁天皇三七年(戊申八)卅七年春正月戊寅朔。
236 垂仁天皇三九年(庚午十)卅九年冬十月。
237 垂仁天皇八七年(戊午五八)八十七年春二月丁亥朔辛卯。
238 垂仁天皇八八年(己未五九)八十八年秋七月己酉朔戊午。
239 垂仁天皇九十年(辛酉六一)九十年春二月庚子朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)冬十二月癸卯朔壬子。
554太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 15:21:06
古今東西の世界の歴法を調べてみても、八百長のマシをする空白年などの
暦法をやってた国など見当たらない。オマエの主張はインチキだよ。

倍年暦法を行使していた国はけっこう在る。古代エジプトは古代マヤと
ともに1.4倍暦を行使していたことが確認出来ている。古代南バビロニア
でも2倍暦法を行使しており、古代マヤでも1.4倍暦法のほかにも2倍年暦
を行使していたことが確認出来ている。

この古代マヤの2倍年暦は月暦といい学者間ではルナー・シリーズと呼称
し、6ヶ月で1年分(180日ばかり)を数える。古代朝廷の場合は1ヶ月
が14あるいは15日での12ヶ月での1年分(=180日余ばかり)であったもの
で、月数が異なるだけで、事実上180日ばかりは同一だ。つまり1年の半年
分にて月暦を双方編んでいたということだ。

マヤの場合は学者連がここの月を C の単位でマヤ文字の代用と為し、
半年分であるから 1C 2C 3C 4C 5C 6C までで半年分で1周
する。ここでの朝廷と似た歴法(1ヶ月=15日等)をやってた国に印度
がある。だから1ヶ月が(グレゴリオ暦の30日、31日等と違う)15日にて
行使していた国が現存している。

まだまだ他にも倍暦行使の国があり、空白年などをやってた国はどこにも
見うけられない。オマエの言い分はオマエの脳内の空想だねぇ。

日付は表示出来ている。1/13の日付と1/3の各崇神仁徳即位の日付が
キチンと天津金木に存在する。つまり日付表示が出来ないとかいうオマエ
の書きこみは偽計であって、出来てることを出来ないと鞍替えして
コチラの論の妨害を偽計で書きこんでいるの過ぎない。オマエはいつも
この繰り返しで、出来てることを出来ないにして偽計を繰り返している。
555太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 17:16:34
当時の朝廷は通常暦のほかに2倍暦を行使していたことが、欠史
八代の日数統計表を見れば明確にその存在が知れる。同表は悉くが
1日〜14日までの数字であり、当時の1ヶ月が2週間しかなかっ
たことをシッカリ示している。とりわけ天皇崩御においては八代
全員が上旬死亡であり、このことは当時2倍暦のほかに1年が120日
余の3倍暦を行使していたことを物語るのだ。

これは古代マヤ暦での1年が260日のツォルキン暦に近似し、朝廷の
通常暦は古代マヤのハアブ暦、朝廷の2倍暦は古代マヤのルナー・
シリーズの月暦(半年分で一巡)に相当し、朝廷も古代マヤも各種
暦法を並行して行使していたのだということが浮かび上がって来る。

古代マヤのイニシャル・シリーズの長期暦はバクトゥンの大単位
からキンまでの小単位で長期年代の1点を定め、これに9日一巡暦
の夜暦とも言える夜の魔王暦 G(+F) を加え、さらに月の日暦と
観る DとE 、おまけに2倍暦同然の月暦 C により年月日を定め
ている。それにまだまだおまけがついての C 関連の X と意味不明
かの B 、区切りに月が29日か30日の判別文字 A がついての並行
暦法を石碑(ステラ)に刻んでいる。その途中の間にはツォルキン
暦とハアブ暦法をも加え、まるで暦のデパートの感を呈している。

かようなことで、古代朝廷もこのように各種暦法を並行使用して
たということだ。空白年のマシは、西暦0年以外存在しないデタラメ
なのである。
556唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 17:25:08
>2倍暦を行使していたことが、欠史八代の日数統計表を見れば明確にその存在が知れる。

太国は欠史の太陰暦も後付けで有ると主張している。
であるならば正しい暦に変換してからの主張であるが、正しい暦の主張は皆無である。

それを証明するには、書紀の主張する太陰暦に直せればの話である。
直せた時点で、1説となる。
557太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 17:33:00
>>556
オマエこそえらそうに太陰暦などと、さも日々数の各紀の記述に合って
るような言い草だが、これを具体的明瞭にこうだと説明したことがただ
の一度でもあったためしはな〜い。

つまりオマエこそ言い出して証明出来ない張本人なのだ。言い出したん
なら、オマエこそ具体的に各日々を合ってると提示してみるべきだろう。

それをしないオマエこそ、太陰暦をオマエの言う年表に全然表すことが
出来ない野郎だということだ。出来もしないのに日数日数などとえらそう
なこと言うな。
558唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 17:43:17
垂仁は任那建国後、任那の朝貢を受け取る。
田道間守を派遣し、帰国を待たずに崩御する。

210年伽耶建国、ここを任那建国としなければ、これ以外に任那建国を宛がうところが無い。
田道間守の派遣は239年に想定出来る。
纒向遺跡の3世紀初期の大型建物が珠城宮となる。
垂仁治世99年−19年×4回=23年であれば、太陰暦で整合性を得られる。

太国主張の如く 崇神5年民の大量死を記念して景初3年を刻む。
崇神は魏の年号を知っている=太陰暦を知っている。=正朔の文字が有る。
太陰暦と相容れない3倍年の行使は無い。
559唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 18:24:26
太国の主張する 崇神=237年では、結論は下記の如く成る。
任那の初出記事は「(崇神六十五年) 任那国、蘇那葛叱知(ソナカシチ)を遣して、朝貢らしむ。
任那は、筑紫国を去ること二千餘里。北、海を阻(ヘダ) てて鶏林(シラキ)の西南に在り。」。
これがいつの時点かは難しいが、崇神に重なることはない。
少なくとも任那の設置は崇神まで遡行することはない。

つまり書紀の主張が受け入れられる事は無い。
百済本紀に数字を合わせる限り、纒向遺跡の説明も出来ない。
560太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 18:43:33
オマエのこそ太陰暦と相容れない。何故か?

えらそうなことを言って太陰暦とかオマエは言ってるが、その具体的
オマエ自身の年表と太陰暦との整合してるという説明をただの一度も
したことがない。つまりオマエこそ相容れないから説明出来ないわけだ。

今日出した垂仁の年表も、その具体的にどうしてそうなるのかという説明
をしない。たーだ結論だけで〜こうだ〜と言っても、説明が具体的に
しないんでは餌のついてない釣り同然であり、誰も信用するためにの
〜見向きもしない。つまりオマエこそ説明の全く出来ない張本人なので
あ〜る。
561太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 18:55:29
>太陰暦を知っている。=正朔の文字がある

どれどれどれ〜〜どこにオマエの具体的説明がある? フ〜ン?
見当たらな〜い。全然全然説明が具体的に出来ていな〜い。

まずそれを強調するなら、オマエが見本を見せて具体的説明をしたら
どうだ。ww えらそうなことを毎回主張するが、今の今までただの一度も
説明しないで抽象的文言を飾って、さも説明したふりをしてる。

よ〜く見れば、どこにもかしこにもその詳細で具体性ある説明をスッポ
かし、誤魔化している。これでは相手にいつになっても納得はして
もらえな〜い。
562太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 19:50:13
>>553
いくら表を書いてこうだと結論だけ言っても、そのどうしてそうなるのか
との具体的説明がここには無い。今の今までこれを無い無いづくしで
結論だけ書いて、あとは説明したそぶりの1〜2行程度の飾りを書きこん
でいかにも説明したふりをしている。説明を具体的にしない以上、
千遍書きこもうとコチラも誰も信じない。ww

>太陰暦と相容れない3倍年の行使は無い
          ↑
これもデタラメの大ウソであり、3倍年暦は120日がメインであるから、
干支の2倍数の120にて干支が二巡する数字だから、容易に通常暦と同化
する。太陰暦も干支数での日数を使うならば、かるく3倍暦の並行行使
は可能であ〜る。
563唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/11(金) 20:14:34
>容易に通常暦と同化する。

口先だけならどうにでも成る、それを書紀の太陰暦と整合性のある数字として
主張したことが無い。
崇神元年1月13日を使用しても、日付の主張が無い。
使用方法に誤りがある。この1点で暦法の異なる暦日を100年以上も得る事は出来ない。
564太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 21:49:34
口先はオマエのほうであ〜る。こちらは倉西女史と同様に年代論の紀年法
であ〜る。年が合えば月日など調べなくとも、それで決まりだ。たとえば
神武が大陸の某皇帝とA年につきあったとかの信用性おける古文書が出れ
ば、それでもう決まりだ。太陰暦がどうのは、こうなると関係な〜い。
そんなものはあくまで参考で終わりだぜ。つまり月日は補助で論じるもの
であり、紀年の主体ではない。それをオマエは主客転倒で紀日法ばかり
をやっている。紀日法だと紀年法の365倍の精度が必要なのだ。それを
オマエはうるさく今まで言ってきたんなら、そのすごい精度をどうやって
具体的にものにしたのか、述べなさい。

オマエこそ日数日数と日数を決めろとの主張を毎回言って来たんでは
ないか。そうなればまず、オマエが見本を率先して具体的に説明するのが
当然ではないか。オマエから日数日数と言い出したんだぜ。つまりオマエ
は自ら紀年法ではなく、紀日法を述べなきゃいかんと繰り返し言って
たわけだ。その言ってるオマエこそしないんでは自語相違そのものだ。

つまりオマエがしないこととなると、オマエはオマエの言い出した日数
日数の説明が出来ないわけだということだ。テメエが出来ないで、こちら
に言ってくるな。オマエは紀日法研究家だから、早く具体的に抽象的で
なく、説明したらどうなんだ。ww
565太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/11(金) 22:09:52
>崇神元年1月13日を使用しても、日付の主張が無い

使用は主張である。つまり日付の主張をしたことにな〜る。
使用に誤りはな〜い。天津神算木の分断は

 3≠113.097335

これから 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

113←崇神即位の月日数 1/13←つまり使用での主張であ〜る。
097←崇神即位の見かけ年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年で除去)
335←崇神即位の実年代への誘引ジョーカー数 335年

よって

-97+335=238年  ここで、西暦0年を除くから1年マイナスとなり

 238−1=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年

の真の年代を得る。これに背く編年は誤りなり。
566日本@名無史さん:2011/02/12(土) 02:34:03
ここの人たちって紀年の創作話ばかりだけど飛鳥時代とかは詳しくないのですか?
知識が無いならスルーして下さい
567太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 08:02:55
創作もいるが、全部とは言えないぞ。口をつつしめ。

編年の真相を語る連中に、創作などと言うなら、オマエがより正しいと
いう編年を見せてみろ。
568日本@名無史さん:2011/02/12(土) 10:47:14
あなた古墳時代ですらあまり詳しくないのに飛鳥時代のこと書いたって
何も判断できないでしょ?
569太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 12:35:52
みんな、万能ではない。研究家には得手不得手とか専門があるんだよ。
だから飛鳥に詳しい方に聞けばいいわけで、脇では歓迎してやるが、
年代に関して直ちに創作とは〜根拠も言わずに言いすぎだろうが。

こちらの詳しくやってるのは、古代日本の年代論だよ。詳しくないこと
ばかり強調するのか?  ならばオマエは何なんだ?
570唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 13:49:32
書紀は正しく主張しているが、百済本紀をより正しいとするから歴史が読めない。
だから考古学は、文献史学を見放す。
考古学に書紀の主張を重ねれば、大半が正しいと成る。

崇神(188〜216年)
192,3年 冷夏、凶作、餓死、逃散。←新羅本紀。193年冷夏、後漢書。
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。任那建国。
垂仁(217〜239年)鉄の流入。
238年頃 「弁辰」条の「国出鉄、韓、?、倭皆従取之」
景行(240〜261年)全国統一。
(伽耶系)瓦質土器でも末期のものと思われ、かつ示唆的な例として、奈良県桜井市・纒向
遺跡巻野内地区出土のものが挙げられる〔橋本・村上1998〕。布留0式に位置づけられており、
この時期の纒向遺跡の重要性に照らしても、注目される事例である。

布留0式は箸墓であり直後の黒塚には大量の鉄器が副葬される。
274年 渡海 海戦の軍事訓練を受ける。
316年 西晋滅亡 仁徳4年 従軍に疲弊したため、軍隊の引き上げを決定。
323年 神功49年 半島占拠、クダラに領土分与=百済建国
326年 神功51年 東晉明帝太寧4年5月16日丙午
571唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 13:53:29
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年  ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉があり馬韓の登場は少し後。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
  応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。名前の入れ替えがある。
   新羅312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず、ウジノワキイラッコへの嫁ぎ?
   新羅344 倭国が花嫁を求めたが辞退、応神かイザホワケ?か
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。初期は仁徳であるが後期は名前の入れ替え。
364年 新羅、倭兵が大挙して侵入。仁徳五三年(乙丑三六五)新羅へ派兵。
372年 百済へ東晋の册封使、仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
応神天皇二八年 371年 高麗王遣使朝貢。
履中天皇 400年〜405年 仁徳31年立大兄去來穂別尊とは別人。しかし、この記事は「継体は応神
5世孫」を説明するための舞台である。
反正天皇 
允恭天皇 412〜453年 24年内乱で死亡、倭五王のつなぎ目。讃、珍、済。
413年 東晋 東晉安帝義熙9年 高句麗と倭共に 朝貢。百済、新羅は高句麗に属す。
572太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 14:53:04
>>565 続き
天津神算木(天津金木)(r=3;**はベキ)30桁

 4πr**3/3=113.097335529232556584655161798・・・

先頭の 1/13 B.C.97年 崇神天皇即位 を主値という。それにかかっての
後続の 1/3 皇紀973年 仁徳天皇即位 を副値という。

天津神算木(右辺有効数)には景行即位の年数値は存在しない。重要なの
は崇神即位の主値である。その日付が日本古代史年代の基点になるのだ。
勿論それ以前に先王朝(開化まで)時代の年代が在るが、神武は別として
の年代基点は、この崇神即位年なのである。景行は三輪王朝の間の途中
経過の時代にすぎない。勿論景行の代に日本統一は全然出来ていない。
天津神算木分断にて

 3≠113.097335=113.0973350

ここで右辺先頭整数桁113を年数とするとき、B.C.97年の見かけ年代は〜
右辺先頭整数位113と末尾350において

 350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

の主値の真の年代を算出する。これに背反する年代論は誤りなり。
573太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 15:26:44
>>572 続き
大祓祝詞に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて・・・」
天津金木は分断され

 3≠113.097335=113.0973350   (350はジャック年数という)

先述のとおり主値副値はそれぞれ

 1/13 B.C.97年 崇神天皇即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇即位

主値副値にかかって、後続の年代数 130 があり、130年は主値を引き立た
せる補助年数という。略して補助値あるいは助値という。年数助値である。

補助値は〜年あるいは年月までで、年月日の日数までの数字は存在
しない。これは主値を重視させるためであるわけだ。
補助値 130年 から

 B.C.130年(見かけ年代) ミマキイリヒコ(崇神天皇)立太子
 A.D.130年(見かけ年代) 景行天皇 崩御

景行は没年のみであり、天津神算木に即位年、即位年月日が無い。この
ことは、景行の代が三輪王朝の途中経過の時代であることを教示して
おり、主値の崇神即位年月日の引き立て役の年数たる補助値なのである。
574唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 15:27:34
>年が合えば月日など調べなくとも、それで決まりだ。

年だけで、書紀の干支を再現する?やって貰いましょう。
1番簡単な、仲哀などどうでしょう?
575太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 15:38:26
>>574
オマエもどうだ〜 オマエは紀日法研究家なんだしオマエから日数日数と
紀が狂ったように毎回吠え続けて来たのだから〜ww

日と年と月とも、書紀の干支をマシ入りで再現する?

やって貰いましょう。オマエから言い出したことだからね。コチラは
紀年法なので年代さえ合えばいんだよ。日数なんか補助の補助の参考
だし、日数の多少のズレは年代の確定に影響は殆ど無い。このことは
美濃もん太氏もオマエの要領の悪いことを呆れて批判していたし、倉西
女史も紀日法さんは範疇外だから他で論じてやりなさいと言っていたのは
当たり前妥当なオマエへの忠告だね。www 当たり前だな。紀日法では
紀年法とくらべ365倍の精度が必要になるのだ。日数日数とオマエは豪語
していたんだから、そろそろやって見せてくれ。ww

一番少なそうな成務なんかどうでしょう?
576唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 15:41:08
任那建国
渡海
半島占拠
これが主張出来ない数字の行く付く先。
日韓交流の陥穽
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuudai
古代では朝鮮は遅れた日本に文字や仏教、学問を教えてきた。また大土木技術をもって日本
各地を開発し、さまざまな優れた美術工芸や文化財を持ってきた。日本文化というのはすべ
て朝鮮から渡来したものだ。あるいは文明先進国であった朝鮮人が野蛮な日本人に教えてや
ったものだ。日本人が尊敬してやまぬ天皇家や古代貴族は、もともとは朝鮮から来たのだ。
朝鮮というのは日本に文化をもたらした大恩人なのだ。

これが太国の主張する数字で見る、歴史である。
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 15:43:07
>>576
オマエは半島人か〜?
578唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 16:16:28
太国が、主張する数字では、韓国の歴史と整合性を得られない。
中国の歴史とも整合性を得られない。
行き着く先は、太国は、>>576 の主張を認めるしか無い。

韓国の歴史と整合性を取るためには、それ相応に認める所は認めねば成らない。
それが、新羅本紀を認める事になる。
209年 伽耶に援軍=任那建国。
ここを崇神世に設定し、考古学の主張と整合させる。
さすれば、渡海は274年、占拠は323年が得られ、326年七支刀
金石文とも整合性が得られるから、主張も出来る。

太国の整合性を得られない主張は、韓国の主張を否定出来ない。
つまり太国が数字しか主張しないウラに韓国主張を認めるという、太国の主張が隠されている。
579唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 16:36:23
太国が、書紀の太陰暦への再現も否定し、
歴史と関係無い算木の数字で崇神世を決めても、
崇神世に任那建国の書紀の主張を数字に出来ない。
渡海の主張も数字に出来ない。
半島占拠も数字に出来ない。
この太国が主張する数字に近い百済本紀は影響を受けることは無い。

従って、太国の数字を認めれば、韓国の主張を全面的に認めるしか無い。
太国が数字しか主張しないウラに太国は韓国の見方を全面的に支持している
態度が見て取れる。
580太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 17:14:13
半島文献は120年前後等の大差の断層があり、百済文献と合わせられ
ないオマエの苦悩が目に見えるようだ。こんなんでは新羅文献もアテ
にはならない。天津神算木の主値副値助値の年代を固定すれば、なにか
のきっかけで半島文献も整合することは当然あり、現段階ではオマエ
のようなとびつくネヅ公のマネはするほどこちらは無用心ではなく、
そんな年代差のあるいい加減なものを喰らう必要はな〜い。

ほざけ! いつまでも半島に こって、手ゴキでもやってろ!
ウワッハッハ!!ww
581唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 18:08:55
太国は、書紀の主張を認めず、韓国の主張を全面的に支持する。
崇神5,6年の出来事は、後漢書の言う193年冷夏と同期する。
新羅本記とは1年の誤差である。
274年 西晋は東夷の冊封を見直す。
それが290年頃までの、東夷の朝貢が頻繁に行われた記録と成る。
323年 半島占拠、316年に西晋が滅び東晋が立てられるが、
東北方面は遠すぎ、この地方の覇権をあきらめた時代であり、まだ百済もない。
582太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 18:29:26
韓国のほうは、オマエではないか。wwwww
こちらは120年とか年差があり交錯がひどいから、半島はしていないの。
オマエこそ半島にコッているわけだ。ウソをつくなよ。

崇神5,6年≠192,3年

この不等式も当然だな。ジャンボ大船が無い崇神5,6年に半島へ千人もの
アバラ骨が洗濯板形の海を知らない農民が日本海を渡って半島へ行け
ることは出来ない。その殆どが若狭湾に着く前にメシも喰えずに野垂れ死
にだ。ww つまりオマエのこの編年はデタラメだ。

船舶の初製造はその10年余後の崇神17年。オマエの言い分は通りっこ
な〜い。デタラメそのものだ。
583唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 18:55:29
239時点で狗邪韓国=伽耶=任那は存在する。
晋書より
平州。案禹貢冀州之域,於周為幽州界,漢屬右北平郡。後漢末,公孫度自號平州牧。
及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,居襄平,

魏は東夷校尉を置いて東夷を帰属させる。
この時代に任那建国は無い。

>船舶の初製造はその10年余後の崇神17年。
この位書紀の記事を信頼するなら、任那建国を何処に設定するのだ?
弥生後期後半、青谷上寺地遺跡の人骨は食人を表す。この遺跡は、この直後に
土砂に埋まる。掘り出された遺物に船団の絵がある。
冷夏凶作であれば、なにも唐古・鍵の住民が渡海するとしなくても良い。

この主張を繰り返しても、太国は大和の農民が渡海としたいらしい。
この文献などを提示せよ。
584唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 19:02:24
太国が、崇神5,6年の出来事 民の疫病で民が大量死した=景初3年銘。
正始元年銘鏡の方が多い。この説明に繋がるのか?
あとは、任那建国。

任那建国が無ければ、太国は韓国の主張を認める事になる。
585太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 19:37:32
半島の設定などはオマエがやればいいことだろう。
こちらは120年も行ったり来たりする文献などは、年代設定に失敗
するから、こちらは採用など後回しだ。オマエも半島史紀日法研究家など
と言われたくなかったら、早々に上がったほうが利巧だぞ。

こんなに大きな年代差があるんじゃ、各半島の年代のどこがどうでどう
なのかという正確な年代など簡単には知れるわけがない。日本の紀年法
研究者があまり半島文献にはまると、もう真の年代から遠ざかるのが
当選確実だ。こちらはそんな120年とかも左右前後移動して定まらない半島
文献などあまり信用などしてはいない。当然だ。オマエは用心が足らな
い幼稚な脳内の男らしいな?ww
586唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 19:47:07
>120年も行ったり来たりする文献などは、年代設定に失敗するから、

>>584 に書き込んだのは、中国の文献だ。
中国の文献にも考古学の主張にも合わないのが、太国倍年である。
当然 書紀の干支に直せない事実は、書紀にも合わせられない。
587唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 20:03:13
>120年も行ったり来たりする文献などは、年代設定に失敗するから、

太国が主張する倍年と百済本記が主張する王家の歴史が整合することは無い。
と主張しているのか?
だから七支刀(金石文)さえ歴史に載せられない。
書紀の主張が正しければ、半島占拠の3年後にもたらされる。
七支刀も主張出来ない年代と暦法の太国倍年で有る。
588太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 20:19:22
中国の文献も考古のも合わないのが、コチラでなくオマエのほうで
あ〜る。つまりオマエは偽計を用いてこちらの論の妨害を企てている。

中国文献では整合があ〜る。

梁書

 永元元年=499年=顕宗元年(通説485年と14年差)

で整合しているから、オマエの言う中国文献と整合してないという主張は
コチラほかスレ民を欺く大ウソであ〜る。しかもこの前の千葉歴博班の
箸墓考古鑑定でも基準値から50年も逸脱しており、そのころは、オマエ
は慌てふためいていて、その不整合でのいいわけを創作し、インチキを
2ちゃんにうんと書きこんで各スレ民をたぶらかしていた。ww
つまりオマエこそ考古の鑑定と合わないいい加減なデタラメ論なのである。

オマエは書紀の干支を合わせて整合してるという具体的書きこみをいまだ
出来ず、干支を合わせることが出来ないのは、ほかならぬオマエ自身
なのだ。ウワッハッハ!!

七支刀もすでに過去のザ・掲示板で解説済みであり、オマエもそのとき
のその板の住民だったわけで、これは説明が出来ていることをオマエが
すでに知悉済みであり、オマエが言う説明出来ないというのはイカサマ
の偽計そのものであり、偽計をしなければオマエは立つ瀬がないという
ことを露見させている。
589唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/12(土) 20:49:13
>永元元年=499年=顕宗元年(通説485年と14年差)

太国が合っていると主張出来るのは、これだけか?
それで七支刀も主張出来ないと。
顕宗元年は合っているが、武寧王墓誌は半島の金石文であるから信用しない
と主張するのか?
590太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/12(土) 22:05:14
その墓碑は中国にあるのか?ww 120年も大波に年代が大揺れの半島
ではないか? 
よ〜く考えるんだな。いいか〜中国は半島より遠く、当時の国交なんか
そんなにザラにあるまい。じゃぁオマエ明確なのがあるのか?
〜1個でも合ってれば、コチラの言い分はウソではないということだ。

偽計で論の妨害をするなよ。七支刀は説明済みだ。見たいなら、旧のザ・
掲示板を読めばいいことだ。ウソは言うな。重ねて言うが、偽計を
用いてすでに出来上がっているのを出来ないとウソを言って論の妨害を
するんじゃねぇ〜。
591唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/13(日) 15:26:35
14年差は、二つの暦の並立?

「百済の聖明王が仏像と経論を大和朝廷に送ってきた年を、日本書紀は
 欽明天皇の第一三年(552)としていることは有名(仏教公伝)だが、
 この五五二年説をとっているのは日本書紀だけで、奈良時代の末以前にで
 きた本はどれも戊午年(538)説である。
552−538=14年差
神功皇后摂政三九年(己未二三九)は仁徳天皇元年(癸酉三一三)と同年である。
己未(56)+15=癸酉(10)。15年差で二つの暦が並立する。

316年 仁徳4年 課役免除。
絶対とは云わないが、316年西晋滅ぶ、この後へ持ってきた方が整合性は得られる。
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月。元年 丁丑 十一月。
時加耶与倭相通 不遵朝廷之令、  317年その時伽耶と倭は、通好しており、朝廷に従わない。

仁徳天皇五三年(乙丑三六五)◆五十三年。新羅不朝貢。
新羅本紀 364年 倭兵が大挙して侵入
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月◆廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。
仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
372年2月 東晋の使者が百済を訪れる。

仁徳紀は1年加えた方が整合性は得られるが、干支が合わない。
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 16:31:36
そんなところから妄想の5重在位とかを考えたんかな?ww

ひどい妄想だな。pp
593唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/13(日) 17:04:02
>偽計で論の妨害をするなよ。七支刀は説明済みだ。見たいなら、旧のザ・
掲示板を読めばいいことだ。

恥ずかしくて2chでは書き込めない様な代物か?
太国の論など妨害していないだろ?
崇神を240年頃に配すれば、任那建国が無いぐらい当然だろ。
であるならば、韓国の主張を認めるのも太国の思考のうちである。
否定したければ
任那建国
渡海
半島占拠
を数字と思考方法を書き込めば読んで上げる事も出来るが…
594太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 17:07:42
妨害する気がないなら、偽計は止めよ。出来上がってることを出来ないと
〜欺いて言うなよ。

恥ずかしいとかはこれには関係ないぜ。
595太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 17:12:41
こちらは日本の紀年をやってるんだよ。
半島の紀年じゃぁないんだよ。

また言うが、こちらは日本の紀年法をやってるんだよ。
紀日法をやるのが目的ではないんだよ。365倍も精度を上げる必要も
ないんだよ。だからもん太氏もオマエの紀日法を無用の長物のような
役立たずだと見捨ててるわけだ。
596唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/13(日) 17:32:52
だから〜
太国は、倭国は考古学が主張する数字(纒向遺跡2世紀末)より50年遅れた
国である。
と主張したいんだろ。
その場合、韓国の主張は容認される。
その為の太国倍年の数字である。
とにかく、考古学が主張する数字より50年遅れが正解である。
と主張するわけだ。
597太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 18:43:48
考古なんかあてにはならな〜い。ww

正解は天津神算木の計測であ〜る。
主値にも副値にも景行即位は無〜い。
助値に景行没年があるわけで、これは主値たる崇神元年のお助け役たる
崇神年代のための引き立て役だ。wwwwwww

景行没年は即位年ではな〜い。
598唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/13(日) 18:51:32
いいんだよ太国はその主張で、しかしその数字では、任那、渡海、占拠が無い。
それを承知して主張するならそれでよいんだ。
ただ、その主張では、考古学に合わせた数字とその見方を非難できない。
非難したければ、その数字に合わせた書紀の主張を対案として出せば良いのに、
数字の連呼しかしない。その数字の先には、韓国の主張が存在する。
数字のみの連呼=韓国の主張を認める。=太国は百済から全てが提供された、を連呼。
これが今の態度だ。
599太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/13(日) 19:36:05
そんな等号は関係な〜い。

真面目の意味の考古非難は出来よう。
この前の人類発生は6万年との考古の通説が今回1/28付けでの話だと、
12万5千年だと言い出した。ww
いかに考古なんかアテにならんことが、これで当選確実だ。なにしろ
6万5千年も狂ってたんでは、前説はトンデモだったということだな。

こんなんで信じるオマエの軽率さを笑って野郎!bbbbbbb
600唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/14(月) 13:08:37
人類発生は、推定値
纒向遺跡は、年輪年代。正確さが全然違うだろ。
太国倍年
崇神元年=237年。これでは任那建国は無い。
仁徳元年=391年。広開土王碑と仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月呉國。高麗國並朝貢。

広開土王碑と呉、高句麗の朝貢が重なれば、書紀のこの部分は否定され、ケンカ両成敗的に
広開土王碑の文言も誇張と断定される。
トクをするのは、高句麗の属国と成ったハズの百済が独立存続し、属国である倭に渡り倭を
発展させる。
だから、太国はこの出来事に感謝して、その読み方の出来る数字を連呼し、
50年遡上した考古学に合わせた数字を非難する。

太国が今連呼する数字上に、任那、渡海、占拠は無い。
これを承知の太国がこれらを否定しても守りたいもの、
それが、韓国の主張だろ。
私は、韓国の歴史書を認めている、それが
192年、4月大雪。193年飢餓の倭人渡来。と書かれた新羅本紀を
後漢書193年冷夏。より優先して使用している。
太国はこれを否定し、神功(353〜375年?)を支持する。つまり七支刀はこの中に存在する?
占拠は否定される。この時代に占拠が無い事は明白である。

太国は韓国の主張の守護者である。
601太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/14(月) 14:13:31
正確さだとぅ〜?w
任那建国なんで関係ない。そんなものは後回ししたほうがいい。
50年も狂っていては、これだけで信用性は無に帰する。
今後もまた年代を上げ下げするに違いない。これでは正確性が
あるとはとてもとても言い難い。つまりオマエの考古の威を借りる紀ツネ
言動も全然ダメそのものだ。
602唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/15(火) 09:26:13
秋津遺跡の発掘現場
橿考研が作成した見学資料によると、宮山遺跡は古墳時代前期(4世紀前半)に活動の
中心があったという。この遺跡が葛城氏に関係するものであるなら ば、遺跡の西南に位
置する宮山古墳よりも古い時代に葛城氏はこの地域に勢力圏を拡大していたことになる。
そのため、
和田萃・京都教育大名誉教授は、4世紀 前半の大和盆地に“東の纒向、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。

塀に囲われた建物を表した埴輪が大阪府八尾市の心合寺山古墳(しおんじやまこふん)から
出土していて、囲形(かこいがた)埴輪と 呼ばれている。見つかった3つの方形区画施設を
それぞれ復元すれば、この埴輪に示されたのと類似の施設になる。しかも、これらの施設は
いずれも同じ方位を している上に、いずれも数十年間で建て替えていたようだ。

4世紀前半には、二大勢力があり、その建物は、大陸から持ち込まれた形である。
この時代の二大勢力。
神功皇后 275年〜344年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山、メスリ山の時代、佐紀楯列までの
70年間。
応神天皇 345年〜387年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。
及び
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
603太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/15(火) 12:19:17
世界一の盲象級だと想うひどい論。
        ↓
唐松山の荒唐無稽の五重在位ww
604日本@名無史さん:2011/02/15(火) 12:56:52
日本書紀って渡来人による日本占領史って本当ですか?
本当の日本人はいなくなったんですか?
兄は縄文まで遡れと言います
605唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/16(水) 17:45:01
274年 渡海。直後に渡海派と残留組による内乱。
3世紀始めには朝廷は2派に別れる。

606太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/21(月) 22:34:47.31
>2派に別れる

妄想そのもの。ww
607唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/22(火) 08:52:49.67
太国の陰謀。太国の主張を日本史に直すと
崇神時代に任那建国は無い。(崇神237年では時代が許さない)
だから垂仁時代に鉄が大和に流入することは無い。
よって、景行が倭国統一の大王になることは無い。
これが太国の云わんとする日本史であるならば、別のシナリオを用意せねば成らない。
すると
239年頃魏使が渡来し、乱に疲弊した倭国を見る。
そこで九州の女王を応援するかの如くに見せかけ、半島人を兵士に渡来する。
まず、軍を四手に分け畿内制圧(4道将軍)
そして畿内の人民も兵士とし、九州制圧(景行の九州)
そして半島人に軍事を任せる(1大率)
半島人は魏朝の滅亡と共に、倭国を占拠する。
その後 半島に百済を建国し、百済の属国として倭国は存在する。

太国はこの様な日本史を主張したいんだろ。
その為には、任那建国、渡海、半島占拠を絶対認めない。
これを認めると、書紀の主張道理に事が進むから、伽耶建国210年を崇神世に変更することは
絶対に出来ない相談。
とにかく、崇神を237年で認めさせれば、上記のシナリオが見えてくる。
そこまでは、太国はじっと我慢で、自分の主張は数字のみにとし、他の数字による日本史を
否定し続ける。そして対案は示さない。
幸いにも伊作氏が、魏軍の渡来を主張しそうなので、
犬国はwwwwwww。とシッポを振って、従順の意を示す。
608唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/22(火) 09:01:24.20
太国:791辛未  323癸未  成務即位

成務の宮は近江穴穂。
4世紀初め頃から秋津にもそれと思われる建物遺構が確認された。
太国はここに百済人が居て、大和王権ににらみを利かす。

とでも解釈しているのか?
609太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/22(火) 09:29:13.48
>>607
2行目
任那がどうのとか言ったことはないから、オマエの偽計での糊塗である。

そんなものは向こうの文献が120年等大誤差がある可能性充分であり、
即向こうとこちらとの連絡をつけるオマエの妄想即断解釈が任那がどうの
こうの言うセリフになっただけのこと。こちらはそんなことを言って
いない。つまりオマエの脳内でコチラの主張の勝手な解釈のほとばしり
であり、オマエの更なる妄想の交錯の産物解釈だ。www

考古も毎回上下移動のメリー・ゴーランドそのものだから、鉄がどうのは
編年に接着させるのは失敗の因。だからこれも関係ない。

このごろコチラの悪口を言い出してきたということは、オマエの持ち駒
が無いからコチラの悪口を持ち駒にしてるわけであり、これは論説では
ない。それよりオマエの後生大事に抱えてるホツマ伝とやらは、昔の
そこいらのただのおっさんが当時の妄想を信じこんでこれを加えて書き
こんだ5級史料であり、これも古代の史実を語っている役立つ所が少しは
あるものの、結局大勢の学識経験ある学者で編となった記紀には遠く
及ばず、ついでにただのおっさんをご本尊にする愚は慎んだほうがいい。
610唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/22(火) 09:42:42.50
>任那がどうのとか言ったことはないから、

だから、太国は崇神=237年と任那建国の存在しない時代を主張する。
その理由を主張せずに、ただ数字のみを主張し、他説を非難する。
これを考え、太国の主張する数字で日本史を考えた時、上記の如き日本史が存在する。
否定する為には、太国の数字で日本史を解説せねばならない。

>オマエの持ち駒が無いからコチラの悪口を持ち駒にしてるわけであり、
太国は数字しか持ち駒がない。だから数字しか主張しない。
そして、他の数字での主張を、太国の数字のみで否定する。
太国の数字の先には、韓国の主張する「倭は百済の属国」が存在する。
太国は韓国の主張を否定することはない、なぜならば、太国の主張する数字上に存在するからだ。
611唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/22(火) 09:56:22.59
太国が私の説を否定したければ
210年 崇神世 任那建国
274年 神功前紀 渡海 軍の調練
323年 神功49年 半島占拠
326年 神功52年 七支刀

これに変わる数字か主張が必要になる。
太国が主張する崇神世に任那建国は無い。だから太国は任那に言及しない。
この数字で210年任那建国を否定出来ない、しかし崇神5,6年を否定する。
任那建国のない太国の数字を主張する為だ。

つまり太国は任那建国を主張する日本書紀を否定している事になる。
そして否定したはずの書紀の数字を韓国の言いなりの数字に近い数字のみを主張する。
何故?
612太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/22(火) 10:02:32.96
奴の言ってることが支離滅裂であり、唐松山は半島人らしく、日本に
いるんだろうが、半島の郷愁が強力にあるんだろう?ww

編年で失敗するのは倭の五王を天皇だとすることと、120年も年代が
左右して定めるのが極めて困難なる半島年代を無理でも決めこもうと
する焦り脳での論理年代計算であり、これが底無し沼にはまる如く、もう
真の年代は半島妄想年代と日本年代の交錯の増幅により放棄せざるを
得ないことからだということを、しっかり思い知ることだ。

つまり唐松山の論はまるで唐獅子の遠吠えそのものであり、よ〜く泣き
騒ぐなぁ〜〜と嘲笑の増幅ばかりであ〜〜る。bbb ppppp
613太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/22(火) 12:24:14.67
ホツマというのは、昔のそんじょそこらのオッサンが当時の妄想を
付加して、さらに巷の田舎暦で書きこんだ書で、詩文であるからして
史実の不十分性は免れず、5級史料である。

このただのオッサンをご本尊に美化仕立て上げる書きこみは盲象の極
たるホツマ蛮族教の蔓延に至ることから、各位はこの大盲象からシッカリ
と決意し、正論を防衛すべきである。
614日本@名無史さん:2011/02/22(火) 13:12:31.21
ホツマ伝は一応はローカルな教科書だよ
寺とか藩校とかにはその土地の歴史教科書があって
風土記くらいから書き起こしている
暗唱しやすい様に七五調だしひらがな書きだ
妄想本というならその土地の人共有の集団幻覚であって
それが土地の民俗文化や歴史観を作っているんだから馬鹿にならない
615太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/22(火) 17:25:21.14
>>614
ホツマの全部が全部妄想ではないんだよ。
けっこう貴重な文がある。が、しかし日神を男神などと、当時からの
妄想を入れこんである。ホツマを編んだ当時、すでに妄想が入って
いたんだということだ。この書は個人的色彩が強いからこういう独断的
妄想がチェックされないで生き残ってしまったということだ。

そこからいろいろとこの書の麻薬的魅力にはまって、いろいろの妄想が
増幅され、増幅の景行重視等ホツマ賞賛の脳内にはまりこんでしまう
奴を生んでしまったということだ。あわれ。><
616日本@名無史さん:2011/02/23(水) 01:08:18.97
紀記にも妄想は入りまくってるだろ
順学問の書物ではないんだから
617太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/23(水) 08:09:14.54
まったくないわけではないが、多数の学者らが過去の原書群を調べつく
して編じたことから、独り免許的ホツマとは同列に扱うのは間違い。
618日本@名無史さん:2011/02/23(水) 08:54:01.31
お上公認かどうかの差で、品質には大差ないよ。
619太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/23(水) 14:27:00.35
大差がある。

ホツマはチェックの入ってない昔のただのそこいらのオッサンが書い
たもので、詩文だし景行までしか記事がない。当然妄想の入って
いる量が無チェックのため多いと観るべきだ。詩文じゃぁ、当時の状況
を表現するのに七五調とかでは片手落ちになりがちだと観るべきだ。

日本書紀は当時の朝廷に在庫の原書群がうんとあったと観るべきで、
しかも学識経験多い学者連等を配して古代原書集のチェックは厳しく
やってたと観て可であるから、安全性は高い。落とせない場合は一書に
曰くの書き出しで、参考だろうが載せていて、恣意的要素は少ないと
観て間違いはない。勿論年代の量もホツマよりうんとあり、詳細がある。

こういうことから、両者を同視するのは大間違いだということだな。
620唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/23(水) 21:55:09.93
>ホツマはチェックの入ってない昔のただのそこいらの

逆に言えば、だから使えるんだ。

書紀にチェックを入れたから、太国倍年は使い物にならない。
書紀の主張を無視して、任那、渡海、占拠を否定する場所に設定する。
季節も日付も使えなくした。
621太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/23(水) 22:24:52.94
それは確かに妄想行きのほうには使えるぜ。
オマエがその典型だな。原田さんも歴史読本過去号で呆れていたのが
目に映るようだ。当然だな。ww
622太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 08:55:53.59
唐松山は 崇神5,6年=192,3年 だと主張し畿内農民が飢餓離散し彼ら
千人がメチャクチャにアバラ骨が浮き出ている状態で若狭湾から半島渡海
したなどと言い張ってるが、半島という遠方まで食料もない千人もの多勢
の農民が生命を維持して到達出来るのかと熟考すれば、とてもとてもそん
な長期の日数、食わずに日本海の荒波を越えて半島到達なんぞ出来っこ
な〜い。湾に着くまでに意識を失ってもう野垂れ死にだ。噴煙の降灰が
あることをつつく位の脳内ならば、当然メシが確保できないなら死に至
ること位軽く分かるはずだ。それなのに強行してこれを認めないで盲象を
頑張り通しているということは、もう手遅れの大麻同然のカルト・ホツマ
に蹂躙されたインチキ蔓延カルト・ホツマのクグツにしてやられてると
いうことだな。正常賢脳の各スレ民はこんなのに騙されやしない。

とにかく糧食がなく紀の崇神17年に至っていない崇神5,6年では、千人もの
乗船できる船舶など無いことから上の等式は成立しない。ジャンボ船舶の
在ったとのアリバイが無いから、当たり前なのだ。ww

今回のクライスト・チャーチの大震災での被災者の救出に際し、72時間が
生命維持の危険ラインだと各TV番組で放送説明がされている。いまだ救出
されてない人々の一刻も早い無事と救出を願うばかりである。が、72時間
を超えた現今では、無事か否かの状況が極めて厳しい状勢にある。この
解説では、まず体温の低下と水が飲めないので脱水状態の体内となり、
さらには3日以上メシも喰えないので体力の低下はひどくなるばかりで
あり、今回の被災をここで例として掲げるのは避けたいのであるが、こう
いう厳しい状況が崇神5,6年の飢饉空腹の千人百姓らのことと対比させ
ると、到底多勢が湾を渡って半島など到達なんぞ出来る訳がなく、湾まで
行けずに野垂れ死にがその結末である。であるから崇神5,6年が192,3年
には全然ならない。奴のひどい妄想の果てである。NZの被災者の無事を
祈るばかりだ。
623唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/02/27(日) 14:00:27.40
想いをはせるなら、NZでなく、193年の状態だ
大飢餓により、食人された人々を想え。

この時放棄された遺跡として、
唐古・鍵、近江伊勢、大風呂、青谷上寺地等沢山存在する。
青谷上寺地遺跡の船団は、大量の遺骨と共に存在した時代が有った。

この記事を崇神時代とすれば、210年の伽耶建国が事実となり、
ここから大和に鉄が流入する。
石塚あたりからホケノ山までは順調に古墳が造られるが、この後が箸墓と成る。
ホケノ山と箸墓には20年ほどの空白が存在する。
この20年の空白の間に”倭国乱”の倭人伝が存在し
メスリ山の大量の槍は、渡海、軍編成を表す。

文献と整合しない太国倍年は、日本の歴史としては、存在出来ない。
考古学と整合しない太国倍年は、日本の歴史としては、存在出来ない。

それを承知しているから、太国は、駄文で否定する。
駄文を連ねても 日本の歴史にならない。
624太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 15:20:06.75
千人が食人した記録はどこのどのへんにあるのか、説明しなさい。

食人したとなれば、千人もお互いに共食いであるからもっともっと人数が
減るはずだろうし、共食いして喰えるなら、なにもえらく遠い半島まで
行く必要もなかろう。人間を食ってれば生命の維持が間に合うんだから、
そんな今日の東京マラソンでへとへとになるほどの距離よりもっとずっと
ずっとずっと遠い半島まで渡海する目的なんか持ち合わせないで済む。ww
625太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/02/27(日) 15:37:33.32
210年建国が本当かどうかの説明の具体性がまるで出来ていな〜い。

いつも抽象的能書きだけで、これではいつになっても第三者の納得には
達しえない。オマエが結論だけ書いて、こうだ〜〜と勝手に主張して
るだけのことであって、結論だけでは〜あるいは説明したふりの抽象的
1〜2行の書きこみだけでは、餌のついてない釣り同然であるからして、
そんなのに誰(大魚)も〜ひっかかるような間抜けはいな〜い。ww
626唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/01(火) 19:00:49.46
考古学:弥生後期後半 唐古・鍵遺跡が放棄される。
新羅本紀:193年 倭人飢餓のため渡来。
書紀:崇神6年 民の離散。

考古学:2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。
書紀:崇神11年 異族多帰。

新羅本紀:209年 伽耶に援軍
書紀:崇神世 任那建国

書紀:垂仁元年 崇神末に任那より朝貢

考古学:景初3年、正始元年銘。
晋書:正始元年 東倭重譚納具。
書紀:景行元年 田道間守の帰洛。
田道間守の殉死と景行の許可
考古学:ホケノ山に半島式墳墓。

景行12年より、九州へ派兵。
627太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/01(火) 19:02:00.12
193年 ≠ 崇神6年
628唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/04(金) 12:43:09.01
七支刀 369年 近肖古王375年崩御
七支刀 326年 近肖古王329年崩御
その差 375−329=46年
曲学の徒氏の邪馬台国掲示板 ラジオ氏
[218] 婆娑尼師今記 32년, AD157년 Name:radio  2010/01/05(火) 21:40
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_218.html
その直訳。
*新羅本紀ジマイサグム元年, AD112年. *AD159年- AD112年= 47年偏差.
*三国史記 蓋婁王(ゲルワング)の元年記事は 仇知王(旧地王)の元年記事だ.

[1378] 基臨尼今紀 3年=AD366年-1 Name:radio2010/05/26(水) 02:45
三月 近肖古遣使入貢 3月, 近肖古(グンチォで)が使臣を送るわで供え物をあげた.

新羅本紀 基臨王即位(助賁王の孫)(298〜310年)
306年に近肖古王が登場すれば、

近肖古王二十一年 春三月 遣使聘新羅 21年(366) 春 3月に使臣を 新羅(新羅)に送る予防した.
五月 帝次于牛頭州 受楽浪帯方等貢物 時句麗与夫余争地 皆順于我 故二国皆順于我也

320年頃 高句麗と扶余が争い、扶余の流民を千熊長彦が受け入れる。
366年は百済、高句麗とも前燕に帰順している時代である。楽浪帯方の存在しない時代。
629日本@名無史さん:2011/03/09(水) 02:25:56.62
歴史の話をします.
7世紀…,
白村江の戦いで敗北した百済が日本列島に逃避し…,
大阪・難波や奈良・大和の地に,巨大な王城都市をつくった.
これが「難波京」であり、「藤原京」であり、「平城京」でありました。
百済が北魏の平城京に通いつめ,学びに学んだ巨大都市の築造技術の結晶が,
広大な満州の地ではなく,日本列島の中央部で活かされた….
これにより,日本列島は,古墳時代が終焉し,一挙に“都市国家”の時代に突入!
これは,日本列島の歴史のなかで最大の激変でした.
このことは,今までほとんど説明されたことのない歴史展開ですので,初めて聞い
た方は,ビックリしてしまって,先ず拒否反応が出ます.
しかし…,
巨大条坊都市の建設は,百済でなくては出来ない仕事! …これは否定出来ない.
つまり…,
「藤原京」も,「平城京」も,百済がつくった! ということ.
条坊制も,律令制=律令国家も,百済がつくった! ということ.
天皇制も,天皇就任の儀式「大嘗祭」も,百済がはじめた! ということ.
『日本書紀』も,『古事記』も,百済が書いた! ということ.
ようするに…,
古墳時代の日本列島には,何もなかった.
書かれた歴史書も,統治組織(政権・政府)も,役人・官僚も,街も都市も,何もなく,
今に残っているのは古墳だけ! という「古墳時代」.
この「古墳時代」が一挙に終ったのは,百済が一挙に巨大都市を建設したからだ.
その百済は,国名を『日本』とし,『日本書紀』を編纂する.
その『日本書紀』には,「何もなかった古墳時代」の歴史が,さも天皇制があった!
ように書いている.

もう一度言います.
『日本書紀』は…,
「何もなかった古墳時代」の歴史なのに,さも天皇制があったように書いている….
これが『日本書紀』の本質です!
630唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/09(水) 17:52:53.05
>「何もなかった古墳時代」の歴史なのに,

何もなくて、巨大古墳は造れない。
何もなくて、壁柱構造の建物(楽浪方面の)は造れない。
何もなくて、上毛で牛馬を使った農業は始められない。

323年を目安として、大量の民が倭国へ非難してきた。←自由意思で渡来。
百済建国は、領土分与により建国される。その証拠として、236年七支刀。
百済の建国に倭国が拘わったから、後の領土割譲や白村江の戦いまでをも支援する。
白村江後の渡来は、王朝自身であり、人数に期待は出来ない。

百済本記は高句麗南下の50年を欠く。
631日本@名無史さん:2011/03/12(土) 16:37:55.13

■倭人は5種類いた。

 古代に『倭人』と呼ばれた民族は、日本人だけではなかった。
 倭人とは、まず第一に、シナ大陸南部に住んでいた漁労=農耕民族のことであり、さらに黄海に突き出た山東半島、
同じく黄海に面するカラ半島西海岸地方および南部地方、そして古代日本列島に住んでいた漁労=農耕民族のことである。
 これらの『倭人』は、人種的にも、民族的にも同族であった。
 倭人は、同じ言語を話していた。それが古代の黄海沿岸地方および日本列島の公用語であった『倭語』であり、
我々日本人が話している『日本語』は、この『倭語』が発展した言語である。
 古代日本人は倭語を話していた。新羅人も久多良人(馬韓人)も、百済人(楽浪人)も倭語を話していた。
だから、10世紀以前の時代は、日本人、新羅人、百済人は、通訳なしでも会話が可能だったのだ。

 古代の倭人は、大別すると次の5種類であった。シナ大陸南部の呉系倭人。山東半島の山東系倭人。
楽浪地方(現在の平安道および黄海道)の楽浪系倭人。カラ半島南部の加羅系倭人(新羅人および久多良人)。
そして、日本列島の日本系倭人。
 彼らは同族であり、同じ言語を話し、同じ文化を共有していたのである。

 しかし大陸の倭人は、6世紀以降、漢人に吸収されて消滅してしまった。倭語も完全に滅びた。
カラ半島(朝鮮半島)の倭人も、10世紀に王氏高麗の建国により、滅びた。
 新羅人、久多良人、百済人、耽羅人が話していた言語は『倭語』であったが、韓国人が話す韓国語は
『倭語』ではない。
 韓国語は、ケリン人(キム族=ワイ族)が話していたシベリア系言語=ワイ語が発展したものである。
したがって、日本語やカラ語、楽浪語とは、何の関係もないし、共通点はない。
632唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/12(土) 23:23:50.76
>韓国語は、シベリア系言語=ワイ語が発展したものである。

古墳時代中期は、323年半島占拠(神功49年)。
この時、遼東方面の住民が自由意思で大量に渡来する。これにより倭国の文化
は発展する。
その時作られたのが、大仙陵を始めとする巨大古墳であり、
400年前後の高句麗南下により終了する。

半島の住民は、ほとんど移動せずに住み続けている。
633唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 09:41:14.19
太国曰く
>崇神も八代の天皇と例外のは除き、ほぼ百数十歳の年齢が似た者同士の
数字だ。それに神武紀は即位後1月〜4月までしかなく、これで当時の
1年が神武即位〜同崩御まで4ヶ月しかなかったということだから、当時
の1年は現今の4ヶ月しかなく、つまり3倍暦を行使していたということ
なのだ。

月の定義とは何ぞや?
年の定義とは何ぞや?

月の定義とは、月の満ち欠けを数え29日か30日で1月と成る。
その数が12か13で、太陰暦の1年と成る。
これを19年繰り返して、もとの太陽年と重なる。この繰り返しだ。
この太陰暦を使用していたから、書紀は太陰暦で書かれ”正朔”の文字が存在する。

つまり太国がどんなに1月を10日をする暦法と叫んでも、この段階で”月”の定義に違反する。
”朔”とは、新月であり、月の初めの1日を指す。
この月が4〜5ヶ月で一つの季節と成る。
4ヶ月を1年としては、”1年”の定義に違反する。一つの季節でしかない。
だから幾ら主張しても、その実態に迫れない。ただの妄想である。


634唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 10:06:59.52
20才をハタチと読む。
ハタチとは何ぞや?
ハタチとは”始めに立ち返る”の意味である。
つまり19年1章を基本とする太陰暦が使用されていたことを表す。

何処を読んでも太国の主張する”倍年”は存在しない。
書紀を書き換えて”倍年”を主張しても、その実態に迫れない。
つまり書紀の主張を書き換えても、存在出来ない事をあらわす。

太国倍年とは、
他人の説(倍年)を他人の主張する年代に当てはめただけ。
だからその他人と同じ様な年代であるが、その他人様は、何らかの倍暦を認める意思はあっても
太国倍年を認める事が無い。
近似値を認めながら、何故太国倍年は認められないのか?
答えの一つに、後付けで有るハズの書紀の太陰暦に変換出来ない。
書紀の太陰暦に変換出来ない以上、後付け説とならない。
説と成らない”太国倍年”を支持する輩が存在しない。
そこで太国は不当な手段に訴える。それが私に対する態度だ。
他説をこき下ろしても、太国倍年が浮上することは無い。
ただ”太国”の評価が下がるだけ。
それを挽回しようと、避難中傷を加速させる。廻りの皆を不快にさせるだけで何の効果も発揮しない。
635唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 10:37:05.85
書記の主張は、
崇神時代に”任那建国”
垂仁による”田道間守の派遣”
景行時代に”九州から関東までを領土とする”
仲哀時代に”渡海”
神功49年に”半島占拠、領土分与”

どんな数字で日本史を読もうとも、この主張を認めなければ、書紀を正しい歴史書とは呼べない。
七支刀=369年に設定して、崇神時代(この場合240〜260年頃)の任那建国を正しいとする文献は得られない。
だからこの時代に設定されていた考古学は、これを誤りとし、50年遡上した。
文献史学も50年遡上しなければ整合性は得られない。

箸墓=3世紀半ばから後半にかけて築造。
この数字から箸墓=モモソ姫と主張しても、箸墓には埴輪(特殊器台)が存在する。
埴輪は、垂仁後半以後の遺物である。
書紀の主張と齟齬が有る。
埴輪は箸墓に先行するホケノ山(穴あき壺=埴輪)にも存在する。
崇神の居場所は、
弥生後期後半、唐古・鍵遺跡の放棄=崇神6年民の離散
2世紀末 各地の土器=崇神11年異俗多帰
210年 伽耶(後の金官伽耶)建国
垂仁の居場所は 
ホケノ山古墳(穴あき壺=埴輪)
田道間守(都市牛利)の派遣 239年と特定出来る。
景行による倭国統一=大倭(大和政権)の成立

魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
書紀が任那建国を主張する限り、ここに崇神は当てはめられない。
636太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/30(水) 14:30:42.15
>>633
古代マヤの365日(通常暦)は1ヶ月がオマエの言う29日か30日ではないね。
ちゃんとこのように事例があるんだからね。この暦法の1ヶ月は20日での
18ヶ月となるんだよ。あと5日をワイエブといってこれを追加し、365日暦を
行使してるのさ。

これがマヤの太陰暦となると1年が 1C 2C 3C 4C 5C 6C の
6ヶ月だ。当然現今の1年で2周する2倍暦だ。2倍暦だからマヤの碑文には
7C〜12C は存在しない。

太陰暦に変換出来ないのはオマエだよ。ただの一度も変換なんか書きこん
だことはない。つまりオマエこそ太陰暦に変換出来ない張本人だ。ww
出来るならオマエがまず具体的に見本を示すんだな。それを誤魔化して1〜2行
とか数行の抽象的文言でさ〜も説明したふりをしてくらまそうとする。

もう一度言う。オマエは無説明を貫いているから、オマエこそ全然太陰暦に
変換出来ない。オマエがそれをやればコテンパンにつつかれるからな。ww
つまりオマエは出来ないわけだ。正朔が分かるなら、日食が数日間も継続
しないことくらい分からぬオマエは、ひどい妄想だとお分かりだろうが。ppp
637唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/30(水) 17:17:23.86
>1ヶ月は20日での18ヶ月となるんだよ。

”月”の意味も知らないのか?
20日を一つの単位とするときに”月”は使えない。
何故ならば、暦法を知らない民でも数えられるのが月の満ち欠けを基準とする
30日を一つの単位としたものが”月”であるからだ。
月の満ち欠けに準じない太陽暦でもほぼ30日を一つの単位とし、12ヶ月を1年と呼ぶ。
日本の古代に於いても太陰暦が使用されたから”正朔”の文字が存在する。
638太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/30(水) 18:02:07.75
だから古代マヤ暦には2倍暦の太陰暦があるんだよ。もう〜説明し
たねぇ。結論だけにはしてないぜ。

1ヶ月が20日は、古代マヤの専門家が言ってるんだから間違いないね。
古代マヤのハアブ暦法がこれだ。これも現地では今の使用している。

〜おまえの戯言よ。30日のほかに29日があり現代では31日もあるんなら、
これは浮動日数であるし、しかも現代での2月では28日のもあるん
だから浮動で20日になってもおかしくはな〜い。八代の14日までなら29日
のほぼ半分だから新月から満月までと満月から新月までを月として明確
29日の半分で錯誤しにくく2倍暦の太陰暦が可能なんだぜ。

ホツマは昔のそこいらのどんぐりの背比べのただのオッサンが、田舎暦と
妄想を恣意的に入れこんで書いたもの。
639太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/31(木) 18:51:00.10
>>634
何を読んでも空白年とマシは存在しな〜い。ハハッ、西暦0年は別だがな。

そのためオマエはまともな具体的大幅の空白年の成程と言える事例を
示したことがな〜い。いやいや事例とその説明が出来な〜い。オマエは
古代マヤの暦法も理解出来な〜い。さらに古代マヤ神聖文字も読むこと
が全く出来な〜い。
古代マヤの権威〜専門家の言い分にはオマエの否定も何ら暖簾に腕押しで
説得力は全然無〜い。マヤのハアブ暦が1ヶ月20日間の18ヶ月運用で
あるのは、その道の権威のお墨付きであ〜る。だから29日、30日でなく
とも、やる気になれば自在に1ヶ月の日数を決められるわけで、この中で
ハアブ暦は1ヶ月20日での18ヶ月(〜と、+5日のワイェブ)行使を採用
していたのだ。

ホツマはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが妄想を入れて書いた
文であり、独り免許であるから多数のチェックを受けておらず、
従って妄想個所等の切捨て修正が行われておらず、これでは権威の
無かろう〜5級史料に留まる。
640唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/03/31(木) 19:25:27.42
>何を読んでも空白年とマシは存在しな〜い。ハハッ、西暦0年は別だがな。

しかし日々を干支で読む限り、毎月日々の干支を3倍にしていた(3倍年の場合)
と主張するんだろ?
しかし30日の場合は割り切れるが、29日の場合割り切れない。
だから太国倍年の思考は割り切れない思考である。
引き延ばしかたに対する思考の違いだけである。

>独り免許であるから多数のチェックを受けておらず、
初期の形を残している、となる。

641太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/31(木) 19:45:24.53
日々の干支を空白でマシにしていたと、オマエは主張するんだろ。ppp
ウワッハッハ!!

29日は古代マヤの太陰暦 ルナー・シリーズにもちゃ〜んとある。
学術的にはA文字で表し、29Aは目玉とあごひげ頭字体、oと棒字とかの
絵文字で記載されて実物があ〜る。つまりオマエの説はマヤ暦権威には
失笑もののデタラメ否定であ〜り、説得力はまるで無〜い。
642太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/03/31(木) 22:29:51.26
>割り切れない
もともと1年は360日でなく365日と小数点以下があるから、月齢計算
でも割り切れるわけがな〜い。割り切れないのが当たり前だ。><
オマエはこれを割り切れる計算でやれるのか? ならばインチキ計算
だな。ワッハッハ! ww
643唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/01(金) 13:23:38.44
神武の頃使われていた暦の導入
16 ヰモツギの アマノマサカキ  世継ぎの 天の真暦
ホ28017 トシのホの トトセにはヰキ  年のホの 十年にはイキ
ホ28018 ムソトシに ミタのふヱトの  六十年に ミタのふ干支の
ホ28019 ヒトメグリ アクルトシなる  一巡り 明くる年なる
ホ28020 ミタのアヱ なればフタヱト  ミタのアエ なれば干、支
ホ28021 キアヱより ヱとホとかぞえ  キアエより 干と支と数え
ホ28022 ヒトヱムソ トヱはムモトセ  一巡60 10巡は600年

キツオサネとア(兄弟)ミ(兄弟)ヤ(兄弟)シ(兄弟)ナ(兄弟)ウ(兄弟)
キアエ、キアト、ツアエ、ツアト…で60
後にキアエが甲子(キノエネ)となる
甲子年から数え始め、58年神武元年が 辛酉年正月庚辰朔である。
19年間で6940日が基本と成る。
19年×3回+1年=58年=6940日×3回で1から数える。
では、甲子年が何時で数え始めの日々の干支は何か?
甲子年に根源を求めるのであれば、
西暦3年(癸亥)西漢平帝元始3年12月壬寅朔
壬寅(39)+6940+6940+6940+6939=庚辰(17)
又は
西暦23年(壬午) 新王莽地皇4年正月壬午朔(西元23年1月11日)
壬午(19)+6940+6940+6939=庚辰(17)

神武元年 辛酉年正月庚辰朔が
東漢光武帝建武18年 ?次:壬寅 生肖:虎 西元42年2月9日(星期五)起と重なるためには
中国で38年が経過する間に、年で57年、日々の数字で76年分を費やす。
年の数と日々の数が合わないウラに、正月がひと月遅れる事情が隠される。

事実を認定する文献が無い以上、全て推定の机上の計算でしかないが。
644唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/01(金) 14:04:14.49
>割り切れないのが当たり前だ。><
>オマエはこれを割り切れる計算でやれるのか? ならばインチキ計算
>だな。ワッハッハ! ww

だから”倍年”は無い。
自分で倍年を否定するのだから”太国倍年”は妄想の産物。
この忠告を”老教授”からもされた。
忠告を無視して出来上がったものでも、書紀の太陰暦を振れればまだしも、それが出来ない。
これが出来ない事を確認し、認めるわけだ。

妄想の産物である”太国倍年”この数字で否定しても、
妄想で事実を否定しただけであるから、無視をする。当然である。

考古学が文献史学の数字を無視して纒向遺跡を50年遡上する。
この事実は、文献史学の数字に誤りが有ることを表す。
太国倍年は、この誤った文献史学の数字の範疇に入る。
崇神と倭人伝を重ねても、任那建国が設定出来ない。
考古学の主張する纒向遺跡に崇神を設定すれば、210年伽耶建国が任那建国と重なる。
任那建国が設定出来ない 百済本記=巻向遺跡の説明が出来ないこれまでの文献史学。
任那建国が設定出来る 新羅本紀=巻向遺跡の説明が出来る読み方は存在する。
2択問題であり、「考古学は何処にでも設定出来る」とはならない。

645太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/01(金) 15:52:57.33
>>643
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜と、コチラを口撃して
いた男が〜〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。ww

>36年が経過する・・・日々の数字で76年分費やす

 36年×2=76年

な〜んだ、これでは2倍暦同然ではないか?pp

>>644
だから空白年などな〜い。当然マシなど無〜い。但し西暦0年は別だがね。

こんな年代の不正注入をして当時の政敵に知られれば、とたんに失脚
という身の危険が切迫する。大した利害もないのに、そんな馬鹿なマネ
などやるわけもな〜い。動機のまともな因でさえ、オマエは説明出来
たことは無〜い。

おまけにオマエはロクスッポ空白年の成程と想える事例を出したこと
はただの一度もな〜い。最初はたかが3年ばかりの空白年だとかの例を
示したが、3年位じゃぁ前660年までのマシなど説明出来ないと同然。ww

次に景行の二桁年代の某両端年を出して説明したが、これも途中に年代
のある文献があるわけで、どうやらこれも空白年の個所だという主張
はウソだということが分かる。それ以後ただの一度もまともな空白年の
納得できる事例を提示したことが無〜い〜〜というより無いから提示出来
な〜い。つまり空白年はオマエの虚像たる盲象だということだ。ww
646唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/01(金) 18:29:55.40
小学校訓導から新聞記者になりさらに京都帝大文科大学教授となった内藤湖南は、明治四十
三年、「卑弥呼考』という論文を発表した。明治以後の学説が、卑弥呼を熊襲または筑後、肥
後あたりの女曾とし、大和朝廷の女王ではないしとしている点を批判し、倭人伝に登場する
地名を九州から遠江までの地名と解釈した。この範囲を大和朝廷がすでに支配しており、その
勢力で及んでいたとした。また卑弥呼は天照大神の社を大和から伊勢に移したという垂仁天皇
の皇女倭姫命である、と考えた。
ほとんど同時に、東京帝大教授白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』という論文を発表した。それに
よると、倭人伝の当時の九州は南北二大勢カに分かれており、北が女王国で南が狗奴国だった。
卑弥呼はヒコミコト、狗奴国の男王卑弥弓呼はヒコミコトという尊称であり、固有名詞ではない。卑弥呼は狗奴国との戦争で死に、その国力は衰えた。そのうえ後ろだてになっていた魏の楽浪、
帯方郡が滅びた。このため中国地方まで勢力を伸ばしていた大和朝廷が、一気に北九州を支配
下におさめた。

100年論議しても、正解を得られていない。
何処かに齟齬がある。
内藤湖南 卑弥呼=倭姫の死亡は日本武尊活躍以後。
★ 時代設定はほぼ正しいが、大和に大乱は無い。
★ 日本武尊死亡以後の内乱は神功渡海と重なる。
白鳥庫吉 景行=魏が滅びた時代に北九州を傘下とする。
★時代設定が狂っている。

内藤湖南の時代設定に白鳥庫吉の九州女王を重ねると。
大和朝廷は景行の時代に冊封を受け晋の時代に半島で活躍する。
647唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/01(金) 19:46:51.79
崇神5年 疫病、大量死
崇神6年 民の離散
崇神7年冬11月 於是疫病始息。國内漸謐五穀既成。百姓饒之。
 
親族が病気で苦しむのを横目で民が逃げ出すことは無い。
つまり、疫病とは、えやみ(凶病み)である。
飢饉により餓死者が出る。
逃散は翌年春にピークを迎える。
その翌年崇神7年冬には民も糧を得る。

倍年は成立しない。
648太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/01(金) 20:11:14.96
空白年など、そんなものは何処にもな〜い。マシはインチキのオマエの
妄想のデタラメ。ただし西暦0年は別だ。
日本古代史の真の編年をするためには倍年暦法しかな〜い。

倍年暦法は古代南バビロニアの2倍年暦、古代エジプトの1.4倍暦法、
古代マヤの1.4倍暦と2倍暦法、古代アステカも1.4倍暦、またガリア暦
も1年を二つに分けていたというからこれも2倍暦法、印度の暦法には
1ヶ月が14日あるいは15日があるというのが「アジアの暦」:岡田芳朗著
にも説明がある。だから1ヶ月が29日と30日だけだという唐松山の主張
は通らない。またスリランカにも倍年法の年齢の数え方があるという。

印度など赤道直下では1年に2回、太陽が真上から地上を照らすこと
(つまり春分、秋分)で、1年を2年で数えるのだという。
これらは悉く唐松山の主張に極めて不利なものらなのであ〜る。ww
649唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/01(金) 20:20:15.24
崇神天皇十年(癸巳前八八)十月丙子《廿二》◆丙子。將軍等共發路。
崇神天皇十一年(甲午前八七)四月己卯《廿八》◆十一年夏四月壬子朔己卯。四道將軍以平戎夷之状奏焉。
崇神天皇十一年 異俗多歸。國内安寧。

四道将軍の活躍は、ほぼ半年、
農事作業の終了した10月から田植えの始まる直前で終了する。
この6ヶ月をたった2ヶ月で説明しようとすると、派遣した場所が小さくなりすぎるし、活躍も出来ない。
片道1ヶ月の範囲の民を連れ帰る。これだけで國内安寧ならば、崇神の領土は非常に狭い。
異俗多帰、この出来事が纒向遺跡の各地の土器の範疇であれば、2ヶ月では無理がある。
2世紀末の”各地の土器”、より時代が下がれば、さらに広い範囲の異俗が纒向遺跡に集まらねば説明が出来ない。

太国は、可能であると主張するだけで、それを太国編年で説明したことが無い。
崇神治世68年間=再編年した23年間、この数字は有りうるだろう。
しかし倍年が実在することは不可能である。
650太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/01(金) 21:48:01.76
オマエの不可能は暖簾に腕押しだな。ウワッハッハ!
古今東西の地域の暦法を調べれば〜みんなオマエの虚言が思い知らされる。

ホツマでさえ2倍年暦を謳っている。例の景行の代の妊娠月が

 十月十日×2

であることが、オマエのウソが。見え隠れする。ww これも2倍暦
だったということなんだよ。真相は、景行の代に2倍年暦を行使して
いたのだ。だから十月十日の2倍なんだよ。オマエのうっちゃりなんて
信用なんぞ出来な〜い。

記紀と他の古文献を調べても、このようにいろいろなところで倍年暦法
の様子が氷山の数角が出たように記載がある。
雄略4年の紀と大成経の春秋の半年の断層も、2倍暦なら立派に説明が
でき、季語の後付けを思い知らされる。オマエはオマエの上?の松本某人
の上にアグラをかいていたい身分が、崩落する利害を何としても回避した
いために、日食が数日間続くような露骨なインチキでも分かるように
がんばって否定否定で言い張っているだけのことよ。ppp
651太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 10:15:01.01
古代史の真の年代を測る天下の宝器→天津神算木(天津金木)とは、
半径r=3の円(三輪)の球化の 体積=表面積 をいう。これは崇神紀
に三輪山の説話があり、これは三輪の円を示唆していると観てよい。

天津神算木
       4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ)
大祓祝詞に曰く
         大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335=113.◎97B350

○数字は数的にミワと読む。ミマとも読める。崇神即位年=B.C.97年 が
ミマの○城壁で守られている形状であり、崇神をミマ城入リ彦とお呼び
するのもここいらからなのかも知れない? 城壁ミマの両外に 113 350
が位置する。ここから

 350−113=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

を得る。そこから3倍年暦で時代降下を計算すると、崇神没年=259年
に至る。これは古事記の崇神没年干支戊寅を258年とするのがほぼ正解
だということなのだ。よって

× 318年説 曲学の徒氏 鷲崎氏 ジョーカー氏?
× 215年説 唐松山←コレは特にひどいメチャクチャ説
○ 258年説 那珂博士 菅政友氏 橋本増吉氏 改め氏 原 静大名誉教授
652唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 13:49:37.91
>237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

この編年が正しく、且つ日本書紀が正しければ、任那建国が無ければ成らない。
瀬暦元年=神武元年が正しければ、神武が大和に入植しても何の痕跡も残さなかった。

書紀の間違いであれば、書紀の数字から編年を得る事は出来ない。
編年が間違っていれば、考古学と整合性を得られない。
まあ 幾つか考え方は有るだろうが、
事実と認定されるためには、まづ文献同士の整合性があること、次に考古学と整合性を主張出来ること。
この両方を欠くかぎり、承認されることは無い。

× 215年説 唐松山←コレは特にひどいメチャクチャ説  
七支刀=369年説を使う限り容認されない数字ではある。だが369年説で半島占拠を容認する人は居ない。
つまりここで書紀の記事を否定して成り立つのが ○ 258年説だ。
書紀の記事を否定して、書紀で編年することは出来ない。
○ 258年説は書紀の編年から得られる=間違いがある。
だから、書紀の編年をするならば、書紀の主張を数字としなくては成らない。
下記の対案が出せて、始めて審議の対象となる。

210年 崇神時代 任那建国
274年 仲哀9年 渡海
323年 神功49年 半島占拠
この対案が示されて始めて比較の対象になる。
その他にも 書紀には”正朔”の文字が有り、太陰暦で書かれている。正しい太陰暦に変換出来なければならない。
ハードルは高いぞ 太国にはこのハードルを越えることが出来ないであろう。
だから 誹謗中傷で私の退場を願うのであろうが、それでは正しい主張が負けたの如く見える。
退場は無い。
653太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 14:34:39.78
>>651 続き
古代の真の年代を測る天下の宝器→天津神算木(天津金木)

これに違える編年は、任那建国がどうのこうの食いつこうとデタラメなり。
崇神即位が188年だとかいうインチキを大祓いし、祓いに祓って、日本神道
を奉じて来た古代朝廷の大祓祝詞の教示を曲げてはならない。任那建国
なんぞ関係ない。そんなものは最後の最後に考えればいい他国半島の
事象である。任那がどうのこうの言うインチキの囁きに迷ってはならない。

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
分断の天津金木は >>651のとおり

 3≠113.097335

崇神紀の三輪山の説話に因み右辺を三分すれば

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年の示唆で除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引ジョーカー数 335年

 -97+335=238年 だが、西暦0年を除くから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

の真の年代を得る。任那がどうの言う悪魔の編年の甘事を祓いに祓うのだ。
654太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 14:49:50.37
>>651>>653 続き
大祓祝詞の教示から、崇神即位年が188年とかのインチキ編年のたわ言を
祓いに祓って、日本神道を奉じて来た朝廷の真の年代をかようなニセもの
から護らねばならない。大祓祝詞により記紀の大敵たるイカサマ・ホツマ
解釈で記紀以上にホツマにあぐらをかかせようとたくらむ景行超誇張の
妄想を徹底崩落させ、日本神道 大祓祝詞の教示の 天津金木 の真の年代

 237年=景初元年=崇神天皇即位元年

を固め、カルト・ホツマのデタラメ編年をしっかり押さえこむのだ。

この真の年代を測る天下の宝器たる天津神算木こそは数式であるから
して、未来永劫どんな暴君どんなカルト、偏見等も破壊することは
出来ず、以後の未来まで天津金木の真の年代が送り届けられて行く。
655唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 14:52:54.81
>>653
毎回同じ事を書き込んでも、そこから1歩も先に進まない。
進まないでなく進めない。
何故なら 太国:238年 だが、西暦0年を除くから1年分マイナスとなり
有りもしない西暦0年を用いなければ説明出来ないからだろう。
書紀の編年に西暦0年を差し込む透き間は無い。
正しい西暦に0年は存在しない。
有りもしない西暦0年で誤魔化してもその先に進めない。
656唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 15:02:18.29
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?朔干支を中国と同期させて検証。
西暦  年号元旦朔  増し調整   暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯 辛卯
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
90年  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未 乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 癸卯 癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 庚戌 庚辰 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 丁巳 戊午
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑 丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
書紀の暦日から、使われたであろう日数を中国の暦と同期させた。
書紀の主張“正朔”は正しい。
657太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 15:04:46.89
>>655
西暦0年がないのはグレゴリオ暦のほうだ。
西暦0年があるのは天文暦だ。
干支がどうの正朔がどうのこうの言ってて、天文暦の西暦0年があるのも
知らない考慮の浅薄野郎がここにいる。ww

ウソだというなら、もう一度斉藤先生の聞いてみるんだな。ppp
ついでに日食が数日間も続くというオマエの主張も言って来たらどうだ?
658太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 15:09:06.77
>>656
東夷の王は 元始5年=西暦5年 に国珍を大陸へ奉じている。
東夷はオマエの主張では日本基点だとするから畿内の王だということに
なる。となれば、神武元年=42年 では合わないデタラメだぜ。ww

オマエはうるさく日本基点だと言っていたからな。
659唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 15:41:26.70
>>658
>オマエの主張では
どんな主張ですか?

238年以後 魏は東夷九種を知る。この九種に倭国は含まれる。
239年 垂仁による田道間守の派遣が大和からの朝貢の最初。
。。。。。。。。。。。。。。。。。
ホ30033 ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて
おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
ホ09124 サホコクニ かえてイツモの クニはこれ

ホツマは叙事詩である。だから歴史書ではないが、正しい記述と詩としての記述になる。
だから全体を歴史書として見たら間違いが存在するように見えることもあろうが、歴史
の部分には、書紀に見られない真実が隠されている。
狭矛国 変えて出雲の 国はこれ
この文章から 神庭荒神谷の銅剣との関連が考えられる。
荒神谷に銅剣が埋納されたのは、弥生中期と後期の境目である。
であるならば、弥生中期と後期を分ける出来事を設定せねばならない。
分かれ目は1世紀半ば。
ここに上記の神武元年が入る。そして広い範囲で政治的変革が有った。
この出来事により弥生中期が 西暦42年神武即位 弥生後期と成る。


660太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 16:09:28.57
そんなイカサマにコチラは騙されない。神武即位年=42年 じゃぁ
東夷(オマエの主張だと日本基点での東)の王が大海を渡って国珍を
奉じたという記事が完全に合わない。言い逃れは即興だから、何の
説得力も無〜い。

>>659
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃して
いた男が〜

〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜。ww

神武当時、神武に畿内の連中はやっつけられたんだから、王など他に
いるわけもない。こちらの神武即位年だと、この文の年代に不合理は
ない。だからオマエはこの不合理をうっちゃりでいろいろとスリ抜けを
オマエの脳内で考えねばならない。それは裏づけなど取ってないから、
当たるわけがない〜信用度が0であ〜る。

ホツマが正しい記述があることは確かだが、最もマズいのが日神を男神
などとの妄想をこの昔のそんじょそこいらのただのオッサンが挿入
したことで、著しくこの書の信用度を下落させてることである。この
書のいい面は伸ばすのはいいが、これの虜になってはオマエのように
その脳内が妄想で蹂躙されてしまう。早く妄想から目を覚めよ。><
661唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 17:03:34.70
>>660
いつまでたっても進歩のない男だな、幾ら繰り返しても前に進まないぞ

注目すべきは 「狭矛国 変えて出雲の 国はこれ 」この部分だ
いくらホツマを偽書と叫んでも、神庭荒神谷から大量の銅剣が出土した事実は変わらない。
その事実をホツマは暗示している。

神武元年は、弥生中期と後期を分ける、1世紀中葉。だから田道間守の帰還、正始元年 西暦240年から
太陰暦で計算できる 西暦42年が正しい。
それが正しいと言う主張は、崇神時代210年伽耶建国が任那建国である。
これが正しいと言う主張は、考古学の云う、2世紀末纒向に各地の土器=崇神11年異俗多帰。

太国は書紀の長さを正しく修正した積もりだろうが 書記の主張する出来事をその数字上で主張し切れていない。
崇神6年=景初3年銘。この様に主張しても、崇神が魏の年号をどの様に入手したか?
大和朝廷にとり、景初3年、正始元年が特別な意味を持つのは、朝貢した年であるからだ。
崇神五,六年の災害を記年するのに、魏の年号は不要である。
貰う方も忌避すべき崇神五,六年。
662唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 17:26:12.14
>>660
>東夷(オマエの主張だと日本基点での東)の王が大海を渡って

晋書 正始元年 東倭重譚納具。東倭とは、大和である。
この主張を西暦5年に当てはめて書き込んでいるのか。
かくなら、自分の頭をかけ。

663太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 17:38:16.00
>>662
オマエの主張からだよ。オマエが日本を基点だと言ってるわけだ。
なると神武元年が西暦42年だから、元始5年の西暦5年に畿内に王が
いたというのはおかしいわけだねぇ。ww

神武即位前当時畿内は混沌として王の支配などあるわけもなく、それに
至れない豪族が交錯状態でその上に立つ支配の王など存しないわけだ。
コチラのほうは元始5年の東夷の王の記述に不合理はないね。
664唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 18:19:46.12
>元始5年の西暦5年に畿内に王がいたというのはおかしいわけだねぇ。

正始元年 の主張を元始5年に置き換える。太国お得意の主張だな。
きったなない、太国倍年にはお似合いだろうが
書紀の太陰暦の数字と正しい編年の太陰暦の数字を表記する我”増し”説。
日付までをも特定して、主張しているんだぜ、こちらは。
まあ 太国倍年なら天津算木で「正始元年は元始5年」という計算が出来るんだろうがな。
665太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 19:39:53.97
正始5年と書いたこいうなら、これはミス・プリントだ。
そのくらいオマエでも分かるだろう? ま〜だ書きこみミスをつつく
悪癖が消えないのか? いい加減にしたらどうだ。

ミス・プリントはやむを得ぬことだ。コチラは目も悪いし、なるべく
書きこみミスを無くしたいところだが、年齢の上積みで視力が落ちて
来ている。だからこんなところをつつくな。

今一度言う。訂正
× 正始5年
○ 元始5年
666唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/02(土) 19:50:07.69
太国倍年は、東京帝大教授白鳥庫吉説の編年を“太国倍年”に書き直しただけ。
七支刀=369年説である。
しかし この編年で100年議論してきたが、正解を得られていない。
なぜか?369年説が正しいとした場合、晋書などの分析から、半島占拠が否定されるからである。
現在、369年説=半島占拠は無い。つまり書紀の主張が否定されている。
369年が正しいとする限り、書紀に書き換えがあると判断されている。
つまり、 七支刀=369年説を取る限り、書き換えられた書紀の編年には意味が無い。となる。
書紀の記述が正しいとするならば、半島占拠が設定出来る場所に七支刀を設定する必要が有る。
323年 神功49年半島占拠。326年 神功52年七支刀
これが正しいとして、240年正始元年=景行元年に太陰暦で繋ぐ必要が有る。
274年渡海。275年神功元年。得られた数字は、引き延ばされていない。
神功治世69年、その後に応神が続き、ほぼ110年間と成る。
世継ぎとしては長すぎるが、歴史上の事実を繋げれば、この長さが必然と成る。
世継ぎを取れば、歴史は否定され、歴史を取れば世継ぎは否定される。

考古学が見捨てた数字上にある“七支刀=369年”説は、過去の思考となるのも間近であろうな。
667太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 19:50:53.31
これだよ。
   ↓
漢書王莽伝

 (元始5年=西暦5年)東夷の王 大海を渡り国珍を奉ず

オマエの西暦42年じゃぁ、西暦5年の畿内に王などいるわけもなく、
当時の畿内に王国は無〜い。これがオマエの無具体性たる無説明年表の
編年が不整合だということだね。つまりオマエの42年説はデタラメなり。
668太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/02(土) 19:54:27.39
>>666
コチラは白鳥某の編年など知っちゃぁいない。それとこれとは
無関係だ。だいたいその者が天津金木などしちゃいないだろう。
669唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/03(日) 14:02:48.40
>>668
知らなくても良いが、太国倍年の数字は100年間議論されてきた歴史がある。
その状態で100年過ぎた今でも正解が得られていない。
なぜか?
その数字で、任那建国、半島占拠を設定出来ていない、だからこの数字でこれらを
文献で主張する者がいない。
百済本記に合わせても、書紀の主張を数字に直せない。
だから太国倍年を主張しても数字に直しきれていない。「倍年は有ったハズ」のみで
中国の文献(太陰暦)との整合性が得られない。
整合性の得られない数字で歴史は語れない。←太国は数字を主張するだけで、対案が示せない。

240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥
これだけで、
正しい年代、+2章で書紀の太陰暦、神武からの日数、干支の対比で中国との太陰暦の比較。
を表す。
ここまで表せて初めて検討の対象となる。
太国倍年はまだ検討対象になっていない。
まず、検討対象になるまで突き詰めるか?歴史を語れるか?この前段階にしかない太国倍年。
まあ太国が太国倍年でどの様な歴史を語るかは、太国の自由である。
しかし、途中段階にある太国倍年で、他説を否定することは出来ない。
670太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/03(日) 14:33:12.22
古代史の真の年代を測る天下の宝器→天津神算木(天津金木)

崇神紀の三輪山の説話に隠されていた天津神算木とは、半径r=3の円
(三輪)の球化の 体積=表面積 の数式をいう。

天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ)

右辺から

☆主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位
☆副値 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
☆助値 B.C.130年 ミマキイリヒコ(崇神天皇)立太子
★死値 A.D.130年 景行天皇 崩御

天津金木から景行即位年代が無く、あるのは崇神即位、仁徳即位年代で
ある。従って景行の年代は崇神年代のお助け役でありかつ引き立て役
だと大祓い祝詞の文言から判明し、大中臣から天津金木の分断により、
崇神即位年=237年 の実年代が磐石に固まった。このために景行★死期年
が天津金木に含有される。

これ以外の編年はことごとくがデタラメであり、188年は葬り去られるの
であ〜る。景行年代とは『主役の崇神賞賛】のお助け〜★脇役年代で
あ〜る。ww
671唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/03(日) 18:55:30.73
>崇神即位年=237年 の実年代が磐石に固まった。

後は、任那建国を主張しなくてはならない。
でなくては、書紀の主張とならない。
魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
任那建国が主張出来なければ、崇神即位年=237年は無い。
任那建国を反故にしても、纒向遺跡さえ説明出来ない年代である。
210年 伽耶建国
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。
672太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/03(日) 19:21:37.08
任那建国なんぞ関係な〜い。オマエは半島人なんだな。
だからうるさいわけだ。だったら半島へ帰れ。
もっとも、オマエの任那建国なんぞ、日本も半島も修飾語だけで本説は
したことが今の今まで無いんだから、それが出るまでどこの誰でも常人
はオマエのインチキとして信じることはな〜い。ww
673唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/03(日) 19:46:53.10
>任那建国なんぞ関係な〜い。
任那建国が無ければ、垂仁時代の鉄剣製造も無くなる。
任那建国が無ければ、魏が大和に注目することも無い。
しかし
箸墓=椿井大塚古墳=黒塚古墳←大量の鉄器副葬の時代。
大和への鉄の流入が説明出来ない。
黒塚は△縁鏡の直前、椿井大塚は△縁鏡の時代。
景初3年銘鏡はこの直後の製作であろう。

太国倍年の主張
七支刀=369年 半島占拠は無い。ここが神功52年であれば、全ての文化が百済からもたらされる。

七支刀=326年 であれば、百済建国は、領土分与の結果である。
書紀の主張は、百済が自分から朝貢をするとしている。

半島の主張を認めるためにのみ太国倍年は存在し、他の思考は認めないという強権である。

674太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/03(日) 21:27:01.55
コチラは半島史編年法研究家でも半島史編日法研究家でもな〜い。
したがって、そんなものは半島人でない限り、後回ししてればいい事。

ホツマはそんじょそこいらのドングリの背比べのタダのオッサンが妄想
を追加して書いた文であり、さらなるインチキを造成される温床と
なる紀見史想を生む書物であるからして〜唐松山という記紀の朝敵を
形作ることとなった。

この罪は大きく、これらニセ編年を作ったこの男のイカサマ188年説を
祓いに祓って、日本古神道の潮満つ珠(天津金木)、潮干る珠(分断の
天津金木)の運用によりこやつのインチキ編年を折伏、壊滅させねば
ならない。

天津金木から

主値 ☆崇神天皇 即位 1/13 B.C.97年
副値 ☆仁徳天皇 即位 1/3 皇紀973年
助値 ☆ミマキイリヒコ(崇神天皇)立太子 A.D.130年
死値 ★景行天皇 崩御 B.C.130年

から★景行の代は崇神の代のお助け年代でありかつ崇神の代の引き立て役
であることが、その死値からハッキリと確認出来る。

つまり記紀の朝敵 唐松山 の主張は通用しな〜い。
675太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/03(日) 22:40:41.02
>>669
>太国倍年を主張しても・・・中国の文献(太陰暦)との整合性が
 得られない

それはコチラの言うせセリフだぜ。pp

オマエは自分の整合性を得られないことをコチラに鞍替えして、オマエ
自身の ↓ 不整合をくらます撹乱をしたのだ。ハハッ ww

漢書王莽伝(←これは中国の文献)

 (元始5年)東夷の王 大海を渡り国珍を奉ず

オマエは 東倭 が大陸を基点とする意味ではなく日本を基点としての
東〜つまり畿内だと言い張っていたな。なると上の文の 東夷 は畿内
だというのがオマエの主張だということになるのだ。

ところがオマエの説では 神武元年=西暦42年 だから、

 元始5年=西暦5年

に畿内に東夷の王とその王国が存在した事になるが、神武元年=西暦42年
では畿内に来た神武の前に畿内に東夷の王とこの王国があったことに
なり、神武がそんな王国と戦争して勝ったとかの史実は記紀に書かれて
いないから、オマエの主張がデタラメであることを露呈し、ボロが出た事
になる。ww 〜ボロが出たのだ。ppp
676太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/04(月) 20:00:29.39
>>675 から
中国文献に整合してないのが唐松山の主張と判明した。
677日本@名無史さん:2011/04/16(土) 09:38:05.16
678日本@名無史さん:2011/04/24(日) 03:51:49.46
日本書紀の文献批判は当然だが
同時代文献(古事記は古い史料はあるが成書としは平安初期の成立)がないから
やり方とすれば記述の矛盾を丹念に調べるぐらい
ある意味統計的な推定(事実の確定では無い)のレベルであるのは仕方が無いのだが・・・

ところでコテハンを付けてる人はこの辺が無頓着
特に確定的記述されてる年月日に深く考えて欲しい
679唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 15:25:03.90
>やり方とすれば記述の矛盾を丹念に調べるぐらい

これだけでは日本史を語れない、書紀の伸長された暦を正しい年代に設定し直す必要がある。
まず日本書紀の記事を正しいとできる年代と考古学を整合させる必要が有る。
つまり 崇神時代=卑弥呼の時代と設定しても任那建国が無い、纒向遺跡の説明が出来ていない
七支刀=369年と設定しても 半島占拠が無い。
だから全てを書き換える必要がある。
任那建国=新羅209年=三国遺事=451年時点で金官伽耶建国330年
七支刀=326年で323年半島占拠=中国東北部が政治的空白と成った時代。
百済本記近肖古王末頃 この時代に文字を得て記録を取る。
国家経営に記録は必須事項である。百済建国は323年領土分与を得て立国である。
342年以後高句麗、百済は前燕に帰属する。これ以後の戦は前燕滅亡後になる。
680唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 15:33:10.82
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=6940日が基本=1章
天皇   西暦   増し 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜
懿徳天皇   〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章 吉備方面に軍を派遣。
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシトの来邦 山陰に鉄
開化天皇 184年〜187年 3章+1年 1、2年の異常? 開化崇神は同じ暦?
崇神天皇 188年〜216年 2章−1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。209年 新羅本紀、伽耶に援軍=三国遺事541年で建国330年=任那建国
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。
鉄輸入権・配布権掌握を主要因とする大和政権。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。遠国をまとめる為「魏の屯倉手法」導入。
247年? 景行12年 九州平定へ。
252年? 景行20年 五百野姫=壹與
255年 景行27年 日本武尊の九州
256年 景行40年 日本武尊の関東 倭国統一なる。
260年頃(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜   ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
メスリ山の時代、佐紀楯列までの70年間。誉田御廟山までは110年。
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く。
681唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 15:42:19.45
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
316年 西晋滅亡、317年丁丑倭は朝廷に従わない。仁徳4年戦線離脱の決定(課役の停止)。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 半島は空白地帯となる。半島占拠、百済建国。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
324年 孝武帝の太元十年 高句麗が遼東と玄菟郡を攻める。前燕の慕容垂は弟の農を派遣し
て高句麗を成敗し、二郡を復旧した。
☆近肖古王二十六年 高句麗擧兵來王聞之 伏兵於河上 俟其至急撃之 高句麗兵敗
324年 遼東に攻め込んだ高句麗を蹴散らす前燕、その敗軍高句麗を襲う百済。
これにより百済も前燕に睨まれることは無い。
百済本記によれば、近肖古王の末近くに文字を得て記録を残す。つまり、それ以前
の百済は記録を残さない程度の集団である。国家経営に記録は必要不可欠。
326年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
これを満たす西暦は、326年5月辛卯朔≒東晉明帝太寧4年5月16日丙午、
正しくは3月16日丙午が存在する。

326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年3月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
331年 辛卯年 広開土王碑。
342年 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
高句麗、百済は前燕に帰属する。東北方面の安定は、渡来人の減少。
343年 神功69年。343年 仁徳31年 立大兄去來穂別尊爲皇太子。
  応神天皇 344年〜384年 磐余稚桜宮から110年後が誉田御廟山。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵。
370年 前燕滅亡。これを受け、372年2月 百済に東晋の使者。
371年? 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)冬十月。呉國。高麗國並朝貢
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月。高麗王遣使朝貢。
 
682唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/25(月) 15:46:28.01
大仙陵古墳の山肌の荒れは、築造が途中で終了した事を表す。
履中天皇 400年〜405年 仁徳31年立大兄去來穂別尊とは別人。しかし、この記事は「継体は応神
5世孫」を説明するための舞台である。
反正天皇 
允恭天皇 412〜453年 24年内乱で死亡、倭五王のつなぎ目。讃、珍、済。
413年 東晋 東晉安帝義熙9年 高句麗と倭共に 朝貢。百済王映は高句麗国に属す。
竺志米多国造(ちくしめたのくにのみやつこ)(佐賀県三養基郡・肥前国三根郡米多郷)
志賀高穴穂の帝の御世に息長公(おきながのきみ)と同祖の稚沼毛二俣命(わかぬけふたまたのみこと)の孫の都紀女加(つきめか)を国造に定められた。
稚沼毛二俣命は、この記事から履中時代の生まれと思われる。そこで前の書き込みをよく見て戴きたい。
仁徳31年立大兄去來穂別尊で即位したのは、名を入れ替えた応神である。つまり、ここで書紀は、
応神=大兄去來穂別尊=履中。この様に説明しているのである。
雄略天皇 457年〜479年 武寧王誕生は動かない。 
683太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/25(月) 15:59:18.37
メトン 19×nの計算をするんなら、274年の日食生起時間からの天空暗黒
の現実時間計算をちゃんとやるんだな。それでその算出時間が

 M=24×m (mは日数)位と算出すれば、オマエの計算からの年代
設定が整合している可能性が出ることになる。その左辺Mが10分前後とか
算出されたとなると、オマエの274年の日食説は成立しないことが紀と
大成経の神功元年前年の記述の 日を経て(数日間も継続して) と
合致しないMの数値だということだ。ww つまりインチキ論になる。pp
684唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/26(火) 17:12:11.62
神功元年の”あづないの罪”を数日間の暗黒と主張するのは太国だ。
太国は、数日間の暗黒を神功元年で説明する必要が有る。
これが出来なければ、太国倍年は無い。

まあ数日間の暗黒であると強く主張するのは太国のみであるからここは太国
が証明せねば太国倍年は無い。
685太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/26(火) 17:54:34.10
あづないで誤魔化すんじゃねぇ〜。

273年とやらの日食の暗黒継続時間の計算式を、調べて計算するんだな。

それで数日間の暗黒が継続するんだと正確に出るんなら、オマエの編年が
正確だとの可能性が出るがね。ppppp

最大数分間だというのが、観測と計算式から判明しているのだ。
これは紀と大成経の言う〜 日と経て という数日間の継続の記述とは
合わないんだがねぇ〜?www

これでメトンの計算したところで、根底からインチキだとミエミエでは
ないか〜。プハハハッ・・・

コレではスレ民を騙せないんだぜ。
686唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/04/26(火) 19:44:48.63
数日間の暗黒が継続するんだと主張する太国。
この出来事を太国倍年上で主張したいんだろうが、”数日の暗黒”を特定出来ていない。
特定出来ない数日の暗黒は存在しない。
それを正しいと言い張る限り、太国倍年の神功元年に数日の暗黒を設定せねばならない。
数日の暗黒であると言い張っても、神功元年に特定出来ない限り太国倍年は無い。
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/04/26(火) 22:18:12.97
オマエ経験が狭小だな。
まぁ〜
知らねえんだろうが、オーストラリアでたまに生起するという天候現象
に、モーニング・グローリーというものがある。これはその国のヨーク
半島付近で起こるという珍しいものだ。こんなのが停滞すると数日間
にまたがることも当然ありうる。

ここで起こる超大雲は日本列島の半分の長さまで大きくなる帯状のすごい
ものだ。こんなことが2000年とか3000年とか経過すると、日本でも似た
超大雲が出来てもおかしくはない。つまり神功元年前年の記事は似ては
いるが日食ではない。

皆既日食の暗黒時間はすでに天文学での計算で把握されているもので、
たかが数分で終わりだ。とても常夜と言える長さではない。2ちゃんの
オマエのここの主張はみんな騙されやしない。ww 紀のそこには
あるいは大成経のそこには 日を経て とあるわけで、日食では数日間も
暗黒は継続せず数分間であることから、神功元年前年の記事は日食には
ならない。ウソだと思うなら、オマエが天文計算で皆既日食の暗黒時間
を計算式を得て算出するんだな。どう転んでも数分間の計算結果にしか
なりやせぬよ。ウワッハッハ!!ww
688日本@名無史さん:2011/05/11(水) 23:16:36.60
日本書紀を「捏造」とする人々は、何を根拠に箸墓古墳の被葬者を「女性」とするの?
689太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 11:23:20.12
2倍年暦は古今東西世界各地で行われていた暦法だということが、調べれ
ば見えて来る。昨今のTVでの放送では本年 4/1 のTV東京の「世界遺産
ミステリー」と言う番組でのマルタ先史学会長のアントン・ミフスッド氏
の古代エジプト暦での説明の内容だったが、内容は同暦での9000年前が
実際は2倍になっており、4500年前のことだとのことであった。

今の所 調べて最も古い年代からなのはこれのようだが、古代南バビロニア
でも2倍年暦を行使していたということもどうやら確かだ。最も古代の暦
でかなり詳しく中身が分かっているのは、古代マヤ暦の太陰暦であり、
これはマヤ聖刻文字の絵文字で石碑等に書かれているもので、学術的
には C の呼称になっている。C文字で現今の6ヶ月周期を表現して
おり、1年で2周する2倍暦だということなのだ。
文字は右片手に魔人の頭部横顔になっていて、これに | の棒字と o の
小丸で1〜6数を使い2倍暦を行使している。2倍暦だから7〜12までの
7月〜12月を示す数字はこれにはない。

ホツマ紀生虫に脳内が冒されている唐松山宿主の倍暦否定とは、この者の
恣意的に景行に卑弥呼の年代等を持って行くのに、空年では好き勝手に
その空年を本人が決めることが出来て、宿主の都合のいいように景行を
ホツマの権威付けをしたい年代を編年できる利害からのもので、倍暦では
恣意的に景行の年代をこやつのしたい位置に設定出来ないことを当人が
事前に察知しているから、倍暦が都合が悪いわけであり、こういう利害
から何が何でもどんなに理が通っていようが拒否、否定を貫くわけで
ある。恣意的では何ら評価が無く、それ以下のマイナスであって、古代史
の論では極めて危険で有害な代物である。
690太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 14:08:27.31
唐松山宿主空年の失敗の因とは、最初にもう数学の公理的に景行の代を
卑弥呼の代に徹底して決めこんだことであり、これが景行が日本統一
したとかの正史を崩壊させるくらいのインチキ妄想の暴走論に進展
したことである。
こんなふうにさせたのは、奴の師なのかわからんが、松本某人にも責任
が過大にあると言えるようだ。とにかくひどい。こんな妄想を植えつけ
たホツマが、危険な史想書であることを思い知るものであり、両刃の剣
だから悪い面の他に活用できる面も勿論あるが、重々警戒しなければ
いけない。

とにかく奴は各古文献を調べて当初から景行絶対化にて、それに都合の
よさそうな文面を見つければ、ネヅミが鼠捕りの檻内のエサに飛びつく
ごとくトタンに喰ってしまい、これを幾度も行いながら景行の代設定に
好都合な編年を見向きもせずに、ろくすっぽ詳細を調べて間違いがないか
の点検等を無視して景行絶対化とその極超賛美の編年を成し遂げる。

それにはひどい〜恣意的景行の代が卑弥呼の代だとする極度に徹底
したカルト・ホツマ紀生虫に蹂躙されてる宿主たる奴の妄想脳内活動
が伏在する。そこには何の真もないと観てよく、原田実氏も過去の
歴史読本の某号でこのまずい景行重視を批判していたわけで、この方の
言い分はそのとおり、記紀の危機を生むホツマの虫のやり口を適正に
批判している。
691太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 15:01:48.63
>>689 >>690 続き
宿主空年の年代決めはいかように行われたのか・・・。
先述のとおり、まず最初に恣意的勝手な景行極超賛美というホツマ礼賛の
カルト・クグツ脳の先行決めが徹底して絶対化されているわけで、各文献
から自説に都合のいい文面があるともう途端にこれに飛びつき、いやが
おうでもコウダともう点検裏取りなどなおざりに決めこんで、これで
年代を確定以上の断定してしまう。

なおざりにしてるから、いくつかこういう恣意的取捨をして自説の年代化
を強行するとおかしな不審点発覚を無視とか、見ても見向きもぜぬ放置を
を欲しいままにし、それより景行絶対のグラつきの回避のみに脳が全力を
あげているわけで、それを保持しようとし、独善的ワクの砦を堅く
はりめぐらす。

その典型が 伊支馬=垂仁 だとかの主張を頑張ってるわけで、到底
おかしいから取り下げようとはしないだろう。これがカルトに冒されて
ない正常脳人なら、最初は文句を行って来ようが、最後にグサッと文句
をいいながらも次第に消えていく。とりわけムコテの方がそんな感じだ。

しかし宿主はホツマに麻痺しており、まるで覚醒剤、大麻同然のカルトに
脳内が蹂躙されてるから、いつまでも頑張り通すのだ。
692太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 15:21:31.64
>>691 続き
かように恣意的に先行の絶対化の景行の代を卑弥呼に合わせるとか景行が
日本を統一したとかの(妄想)、極めて強固な危険な信念を貫く古代史論
の先兵としての行動が、宿主の古代史編年なのである。

年代決めにあたってはまず景行が卑弥呼の年代だとの考え方からそれに
恣意的に都合のいい個所を古文献等を調べて行く。
そしてこれだと想う好都合のものを途端にパク付き、おかしくないかとか
の点検などは放置しその文を年代の糊塗をするから、吟味、前後の年代の
矛盾、不自然の有無等々を無視し省みよう気はなく、た〜だ景行景行と
景行絶対化に赤信号たるグラ付きのみへの防衛のみに気が行く。

こうやってこの方法の幾回かの行使により各年代を設定するから、各在位
年代の各間の空年の位置が不揃いができ、さらに空年両端にあるとなる
両年代の干支が一致か隣り合わせになるはずがうまく行かなず、この為
日数多数桁数列を配し年表にいれるのは難数字で権威を見せつけるためと
まぁ干支の整合が出来ていないことを、消極的にも何とかしようと隠す
気持ちが薄いながらも根底にかすかにあるようながら、今のところ接合が
出来てないわけで、そこを突かれても返答しないでというより返答でき
ないわけで、逆に別のことを質問したりしてはぐらかし、方向を他に向け
させたり、全然別の書きこみをして繕いダンマリで装う。

つまり今まで干支の整合は出来ないでいるわけなのさ。ww
693日本@名無史さん:2011/05/23(月) 16:43:41.76
ダ・ビンチ・コードや聖杯伝説より
古事記や日本書紀の原本の方がミステリアスだと思うがな。
694太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 17:04:05.83
>>692 訂正
× 隣り合わせになるはずがうまく行かなず
○ 隣り合わせになるはずがうまく行かず

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神武とその一行は畿内に於いて先住民と戦ったのだが、その後に神武は
即位するも、ここまで最も嘆いた出来事とは皇兄 五瀬命 が 5/8 に戦死
したことであった。とりわけ古代は現今よりも迷信が蔓延しており、命の
名に五数があることでその戦死が名と同数月の五月だったという数字の
一致が朝廷において5数を忌み嫌う凶数と観る大元となったのである。

しかも伝承で語りづかれて来た天の岩戸へ日神がお隠れになった事の
起こりに、五月蝿為す大混乱が因となってることで、なおも5数を大凶
と観たのであるが、暦にてはそれはとりわけ、おおむね月数での五月を
大凶と考えていたのだ。それでか、五月を悪月というそうである。
695太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 17:20:55.20
>>694 続き
五瀬命の戦死にて、神武の嘆きは大変なものだったろう。それでか神武は
即位にあたり1年のうち4月と5月の間を切断し、5月から12月までの
月を葬ったのである。つまり当時の1年が、神武即位から崩御までは
1月〜4月までの四ヶ月にしてしまったのだということなのだ。それだけ
5月を嫌ってたのである。これが3倍年暦の起こりなのだ。なので当時の
3年分が現今の1年になるのである。
その証拠に、神武紀は即位前とは違い、五月以降の記事が皆無なので
ある。これは当時朝廷が3倍暦を行使していたということだ。だが朝廷
とは別に巷では通常暦を捨ててはいなかったようだ。熊野年代記を
見ると、神武の代の記事に5月以降のものがあるからである。

ところで神武崩御直後、次帝となる神沼河耳尊は慣れてない3倍暦を不便と
感じてたのだろう。即座に3倍暦を廃止し、1年365日の通常暦に戻して
しまったのだ。それゆえ神武葬は9月の記述になっている。
696太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 17:42:12.93
朝廷は5月を大凶と考え、5日などは小凶とみなしていたのかも
知れない? これは易に関係する方位での五黄殺が大凶であるのと、一脈
相通じるものに感じてしまう。

五黄殺といえば黄色がつくのだが、記紀の記事ではどうしても黄泉国が
脳内にチラつくところである。この話は黄色が5と関わったときに、この
色も大凶なのだということなのだ。それは朝廷の祖神たる岐美の二命が
不仲になった因の物語伝承であるからだ。

これにより千人絞殺と千五百の産室の言い合いとなり、美命の呪いが
始まったわけで、迷信強い朝廷は

 1000 : 1500 = 2 : 3

の割合を重視し、これが朝廷の2倍年暦、3倍年暦を使う因となったので
ある。1500の三桁目に5数があるわけで、これを0と取り替えると1000と
同数になる関係上、ここの5数こそ二人の命の不仲の焦点そのもの
なのだということになるのだ。
697太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 20:05:38.49
>>696 続き
次帝の綏靖は神武崩御後、即位を待たず3倍年暦を廃し通常の暦法に
戻してしまったが、当然即位後もそのまま通常暦を継続して行った。即位
の直前に起こった手研耳命の反逆を討つのに協力したのが神八井耳命
であったのだが、戦死した五瀬命の命日が8日の日数であったことを
重視し、8数が五瀬命の名の五数と不一致であったことで8数を凶では
ない数と観たようで、両者の名の数の一致不一致を考察し、反逆者を討つ
手助けをした神八耳井命の名の数に因んで、綏靖は8日に即位したのだ。
神代では8数が多用されてたのも即位日数決定を手伝ったのであろうか。

こうやって綏靖は1年365日の通常暦で世を編んで行ったのだが、この
天皇が五瀬命と同じ5月に死亡(崩御)したことで安寧以下朝廷の者らは
大凶の日に綏靖が死んだ事に極めて戦慄、恐怖を覚え、通常暦の戻し
たことが天津神の怒りに触れたとかの想いを強め、これは倍暦に戻さな
いと天津神の罰でも当たるに違いないと恐れおののき、安寧即位に於いて
倍暦を再開せざるを得なくなったのだ。
しかし先帝が通常暦、初代が3倍暦ということで、神武の3倍暦を再開
することは綏靖の暦法行使に違背するというジレンマに襲われたこと
から、安寧はその折衷の暦になろうか2倍暦法を選択し、これを行使
し始めたのである。初代も2代も1月即位だったが、2倍暦ということは
現今の1年の半分で当時の1年ということなわけで、その1月から半年後
の7月即位をしたのだ。半年が安寧の当時の1年であるからだ。
698太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 20:39:25.58
安寧の次帝 懿徳 は 2/4 に即位している。月数2は2倍年暦の数字を
そのまま表現しており、しかも日数のほうは月数の2倍であることから
して、懿徳の代は先帝安寧の2倍暦を継続したんだろうと推測出来るの
だ。しかも諡号の「懿」とは 壹+次+心 の漢字構成であり、構成の
三者のうち前者は即 1 を表しており、次 は次長とかNo.2に使用する漢字
であるから2を示唆している。つまり諡号の心は1が2になること〜1倍
が2倍になることの想いであり、こういう諡号を名づけた人物が倍暦の
秘密を把握してたんではなかろうかとの考えに至るのだ。

このことから、これが確かなら、懿徳は安寧の2倍暦をそのまま引継ぎ、
暦を編んで行ったと観られる。2倍暦は継続されたようなのだ。
699唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/23(月) 21:15:33.66
>恣意的に都合のいい個所を古文献等を調べて行く。

これが出来れば太国倍年も有りうるぞ。
太国倍年=考古学の所見=古文献が可能な場合だが。
もう一つ
太国倍年×倍数=書紀の太陰暦。
700太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 22:52:50.07
>>698 続き
懿徳の諡号で判断するのは得心が行かないと言う方がおられるかも知れ
ないから、懿徳と月日が同一の即位の繼體の代が2倍暦だったと説明する。

【繼體紀の日数統計表】

1日 3  16日 0
2日 0  17日 0
3日 2  18日 0
4日 2  19日 0
5日 3  20日 0
6日 1  21日 0
7日 2  22日 0
8日 1  23日 0
9日 2  24日 1←繼體即位直前の 武烈世の通常暦の楠葉宮行きの日
10日 1  25日 0
11日 1  26日 1←通常暦で 百済の太子 淳陀 が死んだ日
12日 0  27日 0
13日 1  28日 0
14日 2  29日 0
15日 0  30日 0

2/4即位での繼體紀は2つの例外を除いては、記事が月前半にある。これは
2倍暦をこの代で行使していた為で、例外は先帝世が通常暦の為に月後半の
記事となっているのともう一つは百済の通常暦からの記事で同様に月後半。
だから繼體世の記事の正味は全て月前半の記事と分かり、2倍暦と分かる。
701唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/23(月) 23:10:26.51
神武
春正月庚辰朔。天皇即帝位
二年春二月甲辰朔乙巳。天皇
四年春二月壬戌朔甲申。詔曰
四十二年春正月壬子朔甲寅。立皇子
七十六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩

書紀の日付は、“朔”から数えている。
その日付を分析するのであれば、“朔”は外せない。
まあこの数字を無視すると、書紀の日付が再現出来ない、すると
”後付け説”が再現出来ない。

がんばってくれ。
702太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 23:22:17.53
>>694>>698 >>700 続き
2/4 という同一即位日の繼體世が2倍年暦を行使していたことが>>700
表から分かるわけで、先帝武烈の代の通常暦法を取りやめて、過去の懿徳
世の2倍暦を見本にして再開させたのだということを意味するものだ。

だから安寧世の2倍暦を懿徳の代でも継承行使していたことが知れるので
ある。ところが懿徳は五瀬命の命日の 5/8 から丁度四ヵ月後の 9/8 に
死亡(崩御)したことで、迷信深い朝廷は節目の四ヶ月後を重視し、過去
に皇祖神武が四ヶ月での3倍暦法を行使していたことを想い出し、これに
因んで2倍暦を停止し3倍暦法を再開することにしたのである。現今での
測っての四ヶ月分が、当時は1年としたということなのだ。

そして懿徳の皇子 孝昭は、懿徳の崩御日からさらに四ヶ月経過の初日
に相当する 1/9 に即位したのだ。つまり

 五瀬命 命日 5/8
 懿徳帝 命日 9/8
 孝昭帝 即位 1/9(1/8 の翌日)

この三人の出来事の合間が4ヶ月ということだ。但し孝昭は4ヶ月目が
経過したから、気分一新、翌日即位したというわけである。懿徳没年と
孝昭即位年は紀では2年分になるが、先帝は2倍暦だったから1年分と
みなすことが出来うる。つまり孝昭世からは3倍暦なのである。これは
どういう意味を持ち合わすのかと考えるに、神武からの当時の朝廷が
メインで、通常暦(1倍暦)と倍暦とをクルクル替えての暦法変更を毎回
行い、世を編んでいたということなのであり、ここでそれが分かって
来たことを意味するのである。
703太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/23(月) 23:43:17.77
>>702 続き
古代エジプトでは3期暦を行使していたという。これは向こうの季節と
ナイルの氾濫に応じて出来た暦法だということなのであろう。

日本の学制でも1学期、2学期、3学期の三学期制を使用してるから、
1年を三分することにそれなりのメリットがあるからだということになる。
1年を三分に区切ることはかように実際やっているわけで、一見奇異な
3倍の暦法とは、奇異だからありえないと否定することは事実を見誤
る浅薄な考察だと思ってよい。

さらに古代マヤの長期暦での補足シリーズにある2倍暦たる太陰暦に
並行して、準3倍暦法が行使されている。学術的には G で書かれ、
夜の魔王暦と呼ばれるものだ。
神武の場合は1月〜4月での当時の1年を計算する3倍暦であるが、
別の天皇の代にて1ヶ月を10日間としての12ヶ月が現今の四ヶ月分となっ
ての3倍暦を行使していた時代があり、同じ3倍暦でも神武と後者とは
そのやりかたが異なるのだ。夜の魔王暦は後者の場合に相当しており、
1ヶ月分が9日間での〜現今の1ヶ月弱の27日分で3周する準3倍暦法と
観られるものだということだ。                  〜続く

zzzzzzzzz・・・・・・
704太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/24(火) 23:10:09.35
>>703 続き
神武の在位中、綏靖が立太子したのが3日だったのだが、これは神武の代
の3倍暦行使に因んでのことであろう。その綏靖が在位のとき立太子
した安寧だが、7日に執り行ったのは、父の綏靖が8日に即位したこと
で、へりくだることからか、数字上一歩引き下がって手前の数の7日に
したのだろう。さらにその子の懿徳が 1/1 に立太子したのは元旦相当
であるからして、不自然ではなく通常の年初め日との選択だったのだろう。

次代の孝昭は懿徳在位中に12日に立太子したが、これも父の諡号の「懿」
の字の分解で ヘンの「壹」=1とツクリの上部での「次」=2 に因んで
その日にしたというより、諡号は後代に号としたものだから、1は1倍暦
たる通常暦 2は当時の朝廷の行使の2倍暦に因んで12日としたので
あろう。父の懿徳が2倍暦を編んだことは先述しておいた。

ところで倍暦の動機となった五瀬命の命日は 5/8 なのだが、懿徳の死亡
(崩御)したのは、なんと丁度四ヵ月後の 9/8 であったことは先述
したとおりである。それはいいとして、懿徳の子の孝昭は驚くなかれ、
朝廷の戦慄、恐怖の源たる五瀬命の命日と数字が逆転する 8/5 に崩御
したのである。これには孝昭以下、朝廷の精神の驚きは相当のもの
だったろう。                          〜続く
705唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/25(水) 18:22:40.92
太国 :東夷の王の西暦5年の文証で、オマエの論はオシマイだな。

太国は、“東夷の王”を神武としたいのだろうが、西暦5年というと、
畿内はまだ弥生中期だろ?つまり畿内はまだ石包丁の時代だな、。
この時代から25,6歳で世継ぎを繰り返せば、太国倍年が出来上がると主張するが
この時代、大多数は40歳を迎えられない。
書記の主張は、垂仁の派遣した田道間守が最初である。

太国 :神武の場合は1月〜4月での当時の1年を計算する3倍暦であるが、
神武元年辛酉正月庚辰朔。天皇即帝位 
二年春二月甲辰朔乙巳。
元年1月庚辰朔から2年2月甲辰朔迄は384日が得られる。
干支は60進数である。どう誤魔化したら、太陰暦になるのかな?

>8/5 に崩御したのである。これには孝昭以下、朝廷の精神の驚きは相当のもの
だったろう。

書紀の日付は後付けで有る。と主張する思考ではないのか?
706太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 19:17:32.31
>>705
41−5=36年

36年後だと弥生中期〜石包丁の時代でなくなるというのか?ww
随分細かく分かる自信があるらしいというんだな? そういうところの
説明がないんじゃぁ、即興でのどうしたら否定するかのオマエの脳内の
ゲームだということだ。pp

>40歳
オマエは武内宿禰が二百数十歳の寿命になっていることを忘失したか?
宿主空年の年表でおおむね武内大臣の実年齢を計算したが、なんと
124歳あたりになるではないか。40歳がどうのこうの言う前に、オマエの
この40歳を大幅に超えた編年からの寿命を何とかしたらどうだ?

日付は観測ではないんだよ。紀の朔望は後つけだ。何回も聞くんじゃ
ねぇ〜。><
707太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 20:08:39.48
>>705 続き
2倍年暦も一種類ではなく、そのやり方が違っていた場合があったようだ。

現今の半月分とか2週間分を1ヶ月を為して、2倍年暦が行使できたわけ
だが、安寧、懿徳の代の2倍暦法は孝昭即位に至って停止されたのだ。

その停止の孝昭の代、子の考安が立太子したのが1日から2週間目の末日
たる14日であったということは、孝昭世が2倍暦を止めたということを
物語っている。孝昭の父の懿徳の立太子が1日の初日であったのと対照的
なのが、2倍暦末日の14日だということだ。立太子という吉日、お祝いを
ドンジリ日に執行したということは、相当な事由があったからだと
観るべきであろう。14日にするのなら、先の1日にするほうが幸先が
よく感じないか? わざわざ1ヶ月が14日間ならその末日に国の祝い事
をやるのは不自然であろう? それをあえてそうしたというのは、孝昭の
代では先帝世の2倍暦をうしろにおいやったつまり、2倍暦の考えにフタ
をして別の暦法に変更したということなのだ。
708太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 20:27:30.93
>>707 続き
停止したということは廃止したという意味ではない。孝昭の代までで
通常暦に加えて二種の倍暦の〜計三種の暦法を時代によってメインで
使い分けしてたもので、フタをするということはまだ2倍暦法がフタの
中に残っていることを意味するのであり、3倍暦を発動したといって
も、2倍暦法(あるいは1倍の通常暦法)は消極的にも編まれていたと
いうことだ。つまり朝廷は三種のこれらの暦法を時代時代によって主役
変更をしていたのだということなのだ。孝昭の代は2倍暦と通常暦とは
隠れて脇役に回り消極的に編まれていたのである。

孝昭の代、皇子の立太子の14日執行によってこの代は2倍暦法を背後に
回していわば眠らせておくこととなったものであるが、さてそれでは再び
2倍年暦が日の目を見るのはいつの時代かと問われれば、孝元は14日に
即位しており、孝元の代に子の開化も14日に立太子してるということは、
孝元の代は14日を強調してるわけで、孝安の14日の立太子した孝昭の代
〜14日強調の孝元に代までが2倍年暦にフタをしたんだとなる時代間だと
いうこととなる。だから2倍暦の再開は孝元の次代の開化の世で
あるのだ。
709唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/25(水) 21:44:28.02
>>704
>五瀬命の命日と数字が逆転する 8/5 に崩御したのである。

>>705
>日付は観測ではないんだよ。紀の朔望は後つけだ。何回も聞くんじゃ

後付けの日付にビビる朝廷かあ。
710唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/25(水) 21:59:16.94
>オマエは武内宿禰が二百数十歳の寿命になっていることを忘失したか?

允恭4年 盟神探湯。
ここで書き換えがあると宣言しているのが書紀だよ。
711太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 22:39:27.88
宿主
そんなのは説明にならない。なんでこれで書き換えになるのか?

オマエはス〜グ忍者の高飛び論だ。風が吹けば桶屋が儲かる式の牽強付会
説明ばかりで、まったく話が地についてない空想のコジつけそのもの。
オマエはやはり精神病院行きの男だな。やること為すこと、とびはね論理
ばかりだ。
712太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 22:52:04.62
宿主
オマエいつから紀の日付を後つけだと言い出してんのか?
崩御は後で決める年代ではない。いつ死ぬか分からんのだから
〜後で決めたんでないの。自殺とか他殺等以外は、死んだ時点で決まるもの
が死の日付けだ。><

後つけでも、オマエのとコチラのとは全然意味が違うからな。
コチラと一緒にするな。
もっともオマエのは紀が誤魔化してると言う論だから、後つけも誤魔化し
でやってたと言いたいわけだな。それオマエの論の中でのお話。こちらに
ごちゃ混ぜにするんじゃねぇ〜。><
713太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 23:16:33.50
朝廷は孝昭が五瀬命の命日たる 5/8 の逆数たる 8/5 に崩御したことで、
相当驚いたことだろう。しかし逆ということは凶が吉だということなの
だと〜いうことを前々から薄々感じとっていたことは確かである。凶と吉
とが逆転しうる解釈になったわけであるのだ。

朝廷の恐れるのは5月の 五 なのである。これは先述したとおり、死の
五瀬命の名に 五 の字がかぶせられていた為であり、朝廷にとっては5月
は大凶月であって、このため紀には5月の記事が少ないわけなのだ。
紀で5月の出来事とはよっぽどの事があった場合であり、この月を存在
させる暦法とした場合は行動、行事等を消極的にして物忌みの月とし、
それでも活動するのは特別な事情が内々にあるからである。

五瀬命の戦死した直後は五数を忌むようになり、おろらくは5月のほか
5日の日でも小凶くらいは考えたことだろう。しかし命は五数と合わな
い8日に死んだことから、不合を次第に吉化となるものだと考えるように
なったと想える。五瀬命が8日に死んだ事と兼ねて神八井耳命の手研耳命
の反逆を討つ協力をした恩に報いて、神沼河耳尊は8日に即位したわけ
だから、ここの数字の不合を吉化する考えに至ることで、5月は悪月
なるも5日は吉化のよき数の日だと反転して考えるようになったのである。

神武即位後も5日が吉数との考えへの支配となり、神武即位5年、大陸に
国珍を奉ずることになったのは、5日と同様、5年を吉年と定めること
にあり、西暦5年、漢書王莽伝記述のことは、神武の5数を吉としたい
意向が大陸へと向けられたという事なのだ。神武5年=西暦5年 である。
714太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 23:28:29.71
>>708 >>713 続き
かように朝廷が5月を忌む月と観てたのは佛伝手前ころまでであって、
佛伝以後5月を不吉と観る考えは次第に薄らいで佛教の教理が朝廷を
支配して行ったと想われる。だから紀の成立も5月なわけだが、もう成立
したころの時代は古神道的の5月を忌む考えは衰退してたと観えている。

2倍暦を停止した孝安の在位のとき、子の孝靈は5日に立太子したのも、
先帝孝昭が5日に崩御したのを重視して吉化させたいことからなので
あると観てよい。こうやって2倍でない3倍暦法を孝昭から孝元までの
四代間にメインの暦として継続して行ったのだ。
715唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/25(水) 23:31:54.29
>そんなのは説明にならない。なんでこれで書き換えになるのか?

まず世継ぎより、文献の整合性を得る。であるならば、百済王家を無視出来ない。
私の主張の如く、百済王家は47年ほど狂っていると主張しても、この時代は
正しく太陰暦で有るという編年をする。この編年では世継ぎがおかしくなるのは
盟神探湯のためである。
716太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/25(水) 23:40:43.85
47年狂ってるなら、任那建国だって狂っていると観てよい。つまり半島暦
を正確に完成するのは、オマエは出来ないとするのが妥当である。ww
初めて狂っているのを認めたな。早く言わないでいたのは、不利だと
想ってたんだろう。ww

西暦41年では、漢書王莽伝の 東夷の王 の記述が不合理となる。
つまり41年説はデタラメと観て疑いはない。
西暦5年のこの王は神武である。

zzzzzzzzzz・・・・・・
717唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/26(木) 21:11:23.56
>47年狂ってるなら、任那建国だって狂っていると観てよい。

任那建国は百済本記の記事ではない。だから関係無い。

任那建国後、崇神63年に任那より朝貢。
これが書記の主張であるならば、これ以前に崇神の協力により伽耶建国が在ればよい。
新羅209年の記事が任那建国を主張出来るか?
崇神が2世紀末からであれば可能である。

位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
559年で330年なら伽耶建国230年頃を主張出来るが、330年を崇神時代とする
文献や考古学の知見をそろえられるか?

>西暦5年のこの王は神武である。
神武紀に朝貢の記事は無い。最初の朝貢は田道間守。
718日本@名無史さん:2011/05/26(木) 21:17:02.36
お前ら、本当仲いいな。
719太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/26(木) 22:16:46.94
>>718 宿主
卑弥呼が紀の神功39年に位置していても、そこが卑弥呼の実年代には
ならない。だから崇神紀にそれが書かれていようと、また垂仁紀に
彌摩那とあろうと、必ずしも年代が一致してるとは限らない。オマエは
そういう年代の移動があるんではないかの警戒心がまるでないネヅミ捕り
にかかる〜す〜ぐエサにとびつくネヅミ同然の浅薄さだ。ハハハッ!

神武紀に朝貢の記事がないということは、必ずしも朝貢してないという事
には全然ならない。オマエの41年じゃぁ〜漢書王莽伝の 西暦五年 の
東夷の王の記事に整合していな〜い。オマエの41年じゃぁ、神武即位の
直前に畿内(東夷)に王と王朝とかが存在していたことになり、豪族は
けっこういたろうが王などいた話はまるでな〜い。

つまりオマエの41年はインチキだということだ。神武5年=西暦5年 に
即位の証として5の年数を5に月数と区分けし吉とみなしたことで、
大陸に国珍を奉したのだ。ここもコチラが整合している。オマエのは
完全にデタラメだと観ていいんだねぇ〜。ww
720唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/27(金) 20:14:15.43
>神武3倍歴、神武崩御〜綏即位1倍歴
>【元】辛酉 【元】辛酉  神武即位
>神武5年=西暦5年 に

神武5年=西暦5年であれば、神武3倍歴は、西暦1年辛酉にならない。
721太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/27(金) 21:53:20.83
3倍年暦であるから、神武5年は紀の神武13年〜同15年であ〜る。
後者のほうが3倍年暦の数えである。
つまり神武5年とは通常暦での意味であり、このことはまだ即位し始め
たばかりであるから通常暦の関心は捨て切れず、大陸の通常暦法にも合わ
せた国珍を奉じるのためであり、何らおかしくはない。

おかしいのはオマエの言う宿主空年が神武初年から同末年までの、どこ
からどこまでなのか、オマエは今までただの一度も回答できない。つまり
恣意的に41年を決めたが、月日等の干支などをうまく合わせられないまま
今の今まで来ていたため整合が全然出来ず、仕方がないのでとぼけて
いるだけのこと。ww

つまりオマエの干支の整合は出来てないことと、その足元は丸見えで
あ〜る。ppp
722太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/30(月) 21:53:54.99
>>708 >>714 続き
神武とその朝廷が倍暦を採用した動機は、皇兄 五瀬命が名の数と同じ
五月に戦死したことからだった。高天原の五月蝿なす暗黒で日神が岩戸
に隠れた過去の伝承を想い、迷信深い神武らは五月を大凶だと考えたの
だ。そこでついでに5年と5日も凶だろうと怖がったが、この双方は結局
五瀬命の戦死の月ではないので、一致しないことから同数でも五月に違背
して吉だと次第に想うようになっていた。こういう五月の恐怖は佛伝まで
の話で、仏伝後は佛教の影響だろうが、時代の降下とともに大凶とは想わ
なくなって行ったのだ。たとえば紀の成立は5月なのである。

それで神武らは5年などは吉に転化する年と考え、神武即位5年に大陸に
国珍を奉じたのである。同年は倍暦計算で西暦5年である。そのことを
漢書王莽伝

 元始5年(=西暦5年) 東夷王度大海事国珍

と記録されている。神武は同年、即位の祝いから大陸へ国珍を奉じたのだ。
悉く5数がからんでいる。
723唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/30(月) 21:58:46.96
>皇兄 五瀬命が名の数と同じ五月に戦死したことからだった。

太国倍年に於いては、日付は後付けだろ?
もし正しいのなら、この5月は太陰暦か?
724太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/30(月) 22:13:38.57
>>722 続き
神武の3倍暦行使における1年のうち5月以降の切断は、当初は5月と
6月のみを削る〜1年10ヶ月のほぼ300日運用を考えたのだろうと思って
いる。

即位後、暦を編んで、1月から各月が経過して行ったが、10ヶ月という
のは神武が不便と感じてか、月の降下(経過)とともに10ヶ月方式を
改めたのだろう〜4月までで打ち切ってしまい、1年が当時は四ヶ月のみ
という奇異な暦法に変更したのだと想える。それは

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年、太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月
 とし、十月を一年と定め給ふ。

6月をも削ったのは2倍年暦も含んでのことだったと見える。一年のうち
前半年は4ヶ月の3倍年暦方式、後半年は6ヶ月での2倍年暦方式と〜
折衷で、一見便利な形態だからであるのだ。しかし具体的行使になって、
不便と観たのであろう。
725太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/31(火) 17:51:01.14
>>704 続き
孝昭の代、孝安は14日に立太子した。この日は1日から2週間目に当たる。

孝昭の先帝の懿徳世の1ヶ月を14日間(2週間)での2倍年暦行使を孝昭
の代から停止して、別の倍暦法(この場合、3倍年暦)に替えたことを
示すためであるのだ。2倍年暦では14日が月の末日だからであり、1日
とか月始めに立太子すればいいところ、末日に立太子ということは、2倍
年暦の(一時)取りやめを意味するものなのだ。

それが孝昭から三代後の孝元が14日に即位したのも、まだ2倍年暦を
停止したままだということであり、孝元でもまだまだ3倍年暦を行使し
続けたということなのである。孝元の代、皇太子だった開化も14日に
立太子したのも、孝元の代までこの停止を強調してるためだということだ。
726太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/31(火) 18:01:37.54
>>725 続き
2倍暦を廃止した孝昭の葬は皇暦では38年後となっているが、これを倍暦
計算で実際の年数を計算すると、孝昭没年を初年と観たとき14年後に
なるのだ。孝昭葬は孝安の代だから、孝安の世でも2倍暦の復活が無か
ったということを物語っている。14年の14の数字にこだわったから、孝昭
の葬は遅延させていたということを意味する。

かようにして孝昭〜孝元の代まで2倍年暦を表見上は出さず、3倍年暦を
四代の間、行使して行ったことがこれで分かったのだ。
727唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/05/31(火) 19:17:17.46
>1年10ヶ月のほぼ300日運用を考えたのだろうと思っている。

残念ではあるが、書紀の日々は、干支がふられている。
60進数の干支からは、300日の1年は存在しない。
728太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/31(火) 19:28:47.79
>>726 続き
1年は365日であるが、擬似の1年として360日での区切りの暦法が存在
する。これは古代マヤの長期暦にあるトゥンのマヤ文字に顕現されて
いる。360日だと干支の倍数であり、干支がこれでは6巡する。
同様に300日も干支の倍数であり、干支が5巡するから1年が300日での
行使はやりやすく、軽く可能であるのだ。

孝靈の代に孝元が 1/1 に立太子したがこれは元旦でのことであり、当然
であろう。孝元が1ヶ月14日での2倍暦では末日に相当する日に即位
したということは、立太子の日以上に権威があるわけで、孝元が2倍年暦
を停止していた代のとりあえずの最後の代だということなのだ。

それで開化の代は2倍年暦の回復の時代となるのだ。
729太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/31(火) 19:38:54.57
>>728 続き
開化は11月即位である。この天皇だけ八代では二桁月の即位なわけ
だが、おそらく以下のような2倍暦法の行使であろう。

11月、12月、1月、2月、3月、4月の6ヶ月で当時の1年とする。
11月が正月の如くになるのだ。そして5月の悪月と大祓いの6月は空白
となし、次は7月、・・・、11月、12月と月の数字をふる。これで半年
が当時の1年と出来て、11月12月が重複してることとなったろう。

神武から開化まで三種の暦法を、しかもやり方まで替えたりして暦を編ん
でたために、後代に暦の交錯が生じ、真の暦年が不明確になっていったと
観てよい。
730太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/31(火) 20:03:33.00
>>729 続き
紀によれば開化の代は60年となっているが、開化の93年に創立したと
いう大阪府泉佐野市所在の蟻通神社の由緒によれば、紀とは違う年数と
なってるわけで、これは孝元の代の3倍年暦による年数計算なのだろう。

60年のほぼ 3/2 の数字がこの神社の数字である。ということは2倍暦の
代でも消極的に3倍暦法も隠れながら息をつないでいたということだ。

開化の次代の崇神とその朝廷は即位直後、開化の代の2倍暦を継承して
いたのだと想われる。ところが5年という神武からの吉年たる崇神5年
に、これに反して疫病が多く発生したと紀にある。

これは崇神の年代をこのあたりの時代は3倍暦で記述してるもので、
2倍年暦だと紀の崇神5年は【崇神3年】の計算となるのである。3年と
いえば、五瀬命の戦死した皇紀前3年(=B.C.3年)に相当するもので、
朝廷は疫病の発生を五瀬命の戦死年と数字が一致するこを知り、この事由
で開化の2倍暦を廃止し、3倍年暦に移行し、即位元年へ遡りて3倍年暦
に書き換えたのだということなのだ。
731太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/31(火) 20:13:35.16
>>730 続き
3倍暦というと3数であるからして五瀬命の没年数と数字の個所は一致
してるわけだが、これで名目上3倍暦という言い回しをも葬って隠匿
したのか、それは定かではない?

しかし3年は年数であり、月数でも日数でもないことから、3倍年暦の
3に年数を関連付けするまでもなかろうというものともいえるのだ。

おまけに五瀬命の名の数 5 とは数字が一致しない。だが3倍といっ
て、当時の朝廷は一時的にでも3数のことでおびえたときがあったと
いえばあったとも考えられるが・・・?
732太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/05/31(火) 22:43:33.30
>>729>>731 続き
開化即位の11月が当時、正月気分でいた文が

神皇紀

 紀元五百甲申年1月12日、太神宮の宮守司長 眞田良命は、高天原より
 亦神使となり、三品の大御寶を奉じて、開化天皇の即位式に参向しぬ。

紀元五百甲申年とは皇紀504年の開化即位年の干支で、皇紀504年をいう。

さらに 崇神5年 において

神皇紀 (同年6月の記事の後に)

 且つ天下に詔して、列聖の遺訓に遵い、毎年 5月5日 の高天原
 太神宮の大祭には、天皇皇后親睦して、祭典を行わせ給ひ、四季の大祭
 には奉幣使を遣はして祭典を行はしむることを宣布して國中を鎮めさせ
 給ひき。

この文は崇神5年5月5日の記述であり、6月の後の記事となって
いることは、6月で開化の継続の2倍年暦をそこで切ったか(停止した
か)、3倍年暦で吉凶の五数を集めて祭典をし、天神地祇に凶の回避を
祈ったのであろう。5年と5日が5月を挟みこんで、大凶の5月を封じて
いる年月日だということなのであろう。そして即位元年に遡り、3倍年暦
にやり直したということのようだ。
733唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/03(金) 16:55:08.33
開化元年春正月庚午朔癸酉。
冬十月丙申朔戊申。
五年春二月丁未朔壬子。

開化天皇も他の天皇と同じ太陰暦を使用している。
だから全ての月の全ての日付に干支がふられている。
月の数を欠いた“3倍年”
日数を欠いた“3倍年”
全て再現する必要が有る。再現出来ない暦は存在出来ない。
734太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/03(金) 19:33:00.34
宿主
再現しないのは、オマエの得意業だな。
人のことを言うより、まず自分で実行したらどうだ?

オマエの42年なんて、具体的説明なんぞただの1度もない。干支がどうの
こうの行っても、その具体性ある解説なんてこれも1回もない。宿主空年
の明確な各年代もどこからどこまでかを全然提示しない。これではオマエ
の信用はクソ以下の低劣さだね。

これでは誰も信じてはくれないぜ。具体的懇切に説明したって、2ちゃん
の者らを納得させるのはだれでも難しいのに、た〜だ、上っ面のみで
抽象的な1〜2行程度の飾りの説明したふりでは、とても相手はうんとは
言わない。うんと言わせたければ、懇切具体的にしかも恣意的要素介入と
牽強付会と忍者の高飛びのようなマネをせす根拠を明確にして書きこんで
こそ、相手は黙ってても〜これは本当かも知れないと考えるように
なるのだ。オマエのにインチキ日食数日間暗黒継続論では、みなに嘲笑
されるだ〜け。ppp
735唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/04(土) 14:21:13.89
>現今の半月分とか2週間分を1ヶ月を為して、2倍年暦が行使できたわだが、
>こうやって2倍でない3倍暦法を孝昭から孝元までの 四代間にメインの暦として継続して行ったのだ。
>神武の3倍暦行使における1年のうち5月以降の切断は、当初は5月と
6月のみを削る〜1年10ヶ月のほぼ300日運用を考えたのだろうと思っている。

これまで太国は色々な暦法が有ったと主張するが、その暦法を数字で
表現したことがない。
数字に換算できない暦法は存在出来ない。
また、1ヶ月とは、月の満ち欠け29.5日を基本とする。
そして、それが12ヶ月でだいたいの1年となる。
こんな基本さえ理解出来ない太国なのか?
10ヶ月の1年とは?
月の満ち欠け12ヶ月なら354日程度か。300日程度の暦がどうやって存在出来るのだ?
2週間(14,5日)が何故1ヶ月になるのだ?
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/04(土) 19:56:20.81
オマエは暦の各空白年とやらを数字で具体的に表現したことはな〜い。
あるなら早く以下 ↓ の年の数字を明示して、具体的に説明してみろ
【質問状】

神武 神武何年から同何年までが空白年なのか?
綏靖 綏靖何年から同何年までが空白年なのか?
安寧 安寧何年から同何年までが空白年なのか?
懿徳 懿徳何年から同何年までが空白年なのか?
孝昭 孝昭何年から同何年までが空白年なのか?
孝安 孝安何年から同何年までが空白年なのか?
孝靈 孝靈何年から同何年までが空白年なのか?
孝元 孝元何年から同何年までが空白年なのか?
開化 開化何年から同何年までが空白年なのか?
崇神 崇神何年から同何年までが空白年なのか?
垂仁 垂仁何年から同何年までが空白年なのか?
景行 景行何年から同何年までが空白年なのか?
成務 成務何年から同何年までが空白年なのか?
仲哀 仲哀何年から同何年までが空白年なのか?
神功 神功何年から同何年までが空白年なのか?
麃神 麃神何年から同何年までが空白年なのか?
仁徳 仁徳何年から同何年までが空白年なのか?
737唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/05(日) 11:29:47.96
哀れ太国よ
古代人でも、月を見て月齢を数える。これが“暦”の始まりである。
だから 10日の1ヶ月も4ヶ月の1年も存在出来ない。
太国倍年を成立させるためにこの事実を曲げても、“倍年の暦”を表記出来ない。
この時点で太国倍年は、ぽしゃる。

古代天皇家が隠したかったのは、太陰暦では無く(太陰暦は月を見れば判明する)
24節季なのだ。だから書紀を見ても24節季を特定出来ない。
24節季は19年で1巡する。年を誤魔化すことによりこの事実を隠す。
これが実態である。つまり、太陰暦を誤魔化すためには、太陰暦をもってする。
朔を干支で表記する事により、24節季の真実を隠す。
種貸しをシノギとする古代朝廷に於いて、24節季を基準とする農事暦の配布
は、民の帰属を促す。
朝廷のシノギが種貸しから屯倉経営にシフトしたことにより、24節季を秘匿する
意味が無くなり、半島、中国との交流の為、この行為が廃止される。
だから仲哀からは、正しい太陰暦となるが、まだ干支の齟齬解消が出来ていない。
仁徳から中国の干支に合わせるが、閏年の廻しまでは合わせきれていない。

太国がいくら叫いても、太国倍年に数字をふれない。この事実は、太国倍年が
成立しないことを意味する。
他人に噛み付く前に、太国倍年を成立させることが先決だろ?
738唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/05(日) 11:59:59.41
ミ06102 ヒトのイキ ササナミもこれ
ササナミとは、3年・3年・7年(2年・3年・2年)3年
閏年の入れ場所である。つまり 古代人も月を数えて閏年を入れる。
この位のことは、月を数えれば出来る。
この程度の事も出来ない太国は、古代人に劣る。
哀れ太国よ
キチガイに餌を与えても、暴れるだけであるから、ここでは餌を蒔かない。
太国倍年に数字を与えられないのか?
数字を与えられない“暦”は成立しない。
739太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/05(日) 14:29:42.84
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜〜

 〜〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。


24節季はこのごろオマエが考えた即興の言い訳にしかならない。まず重大
な動機が判明していない。そんなものは朝廷が隠す事由にはほど遠い。

こんなことより>>736を悉く提示して、その具体的空年をしたという動機
とそのことにより公文書偽造同行使で逮捕、処刑された者らの具体名を
掲げ、それが何年何月ころだったのか、それを文献で明示せねば事実とは
言い難い。これが明示できなければ、オマエが紀の編者らを同罪の濡れ衣
を着せたことになる。

なおオマエが29.5日とがんばってみても

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、【30日】を
 一月とし、十月を1年と定め給ふ。

とあり、開化の2倍年暦が即位の11月から〜4月までの半年、7月から
12月までの半年で暦を組んでいたことの文証になっている。5月6月を
削っていて十月分で暦法を行使していたということだな。この文献と整合
してるぜ。ここに空年、マシを作ることは書かれてはないんだぜ。
740太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/05(日) 21:22:12.26
宿主空年は〜無い無い無い無い〜どこにも無い。www

>>736 を数字で表記出来ない暦法(←空年マシ暦)は存在出来ない。
741唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/05(日) 21:44:57.60
だから〜キチガイに餌は与えない。
いいか 編年に文献、考古学の知見を重ねられると言うことは、
正しいとすることの出来る第1条件である。
誤った見解であれば全てを否定出来る。
太国倍年は、太国が主張する如く合わせられる文献、考古学の知見が皆無である。
誤りの証拠である。
742唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/05(日) 21:47:16.35
弥生終末期・庄内並行期の銅鏡
  墳 丘 墓 名       鏡    名       後漢鏡の編年
福岡・祇園山古墳      画文帯神獸鏡片
福岡・津古生掛古墳     方格規矩鳥文鏡      漢鏡7期(ふみ返し)
福岡・徳永川の上墳墓群   盤竜鏡、画像鏡片     漢鏡7期
             方格規矩鏡片、内行花文鏡
大分・宇佐赤塚1号墓    斜縁禽文鏡
香川・鶴尾神社4号墳    方格規矩鏡        漢鏡4期(ふみ返し?)
徳島・萩原墳墓群      画文帯同向式神獸鏡    漢鏡7期
愛媛・朝日谷2号墳     斜縁二禽二獣鏡      漢鏡7期
愛媛・相の谷9号墓     細線獣帯鏡        漢鏡5期
岡山・宮山墳丘墓      飛禽文鏡         漢鏡7期
岡山・鋳物師谷1号墳墓   キ竜文鏡         漢鏡4期
兵庫・西条52号墳     内行花文鏡        漢鏡5期
兵庫・岩見北山1号墓    内行花文鏡        漢鏡5期
大阪・加美2号方形周溝墓  内行花文鏡        漢鏡6期 
京都・黒田墳丘墓      双頭竜文鏡

庄内期を4世紀に持って行くことは出来ない。
743唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/05(日) 22:07:10.87
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)元年春正月丁丑朔戊寅。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)冬十月癸卯朔癸丑。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)十一月壬申朔癸酉。
218 垂仁天皇二年(壬辰前二八)二年春二月辛未朔己卯。
219 垂仁天皇三年(甲午前二七)三年春三月。
220 垂仁天皇四年(乙未前二六)四年秋九月丙戌朔戊申。
220 垂仁天皇五年(丙申前二五)五年冬十月己卯朔。
222 垂仁天皇七年(戊戌前二三)七年秋七月己巳朔乙亥。
224 垂仁天皇十五年(丙午前十五)十五年春二月乙卯朔甲子。
224 垂仁天皇十五年(丙午前十五)秋八月壬午朔。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)廿三年秋九月丙寅朔丁卯。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)冬十月乙丑朔壬申。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)十一月甲午朔乙未。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)廿五年春二月丁巳朔甲子。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥朔丙申。
228 垂仁天皇二六年(丁巳前四)廿六年秋八月戊寅朔庚辰。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)廿七年秋八月癸酉朔己卯。

2CHじゃあ入りきらん。
744唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/05(日) 22:09:23.98
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)是歳。興屯倉于來目邑。〈屯倉。此云彌夜氣。〉
230 垂仁天皇二八年(己未前二)廿八年冬十月丙寅朔庚午。
230 垂仁天皇二八年(己未前二)十一月丙申朔丁酉。
231 垂仁天皇三十年(辛酉一)卅年春正月己未朔甲子。
232 垂仁天皇三二年(己亥三)卅二年秋七月甲戌朔己卯。
233 垂仁天皇三四年(乙丑五)卅四年春三月乙丑朔丙寅。
234 垂仁天皇三五年(丙寅六)卅五年秋九月
235 垂仁天皇三七年(戊申八)卅七年春正月戊寅朔。
236 垂仁天皇三九年(庚午十)卅九年冬十月。
237 垂仁天皇八七年(戊午五八)八十七年春二月丁亥朔辛卯。
238 垂仁天皇八八年(己未五九)八十八年秋七月己酉朔戊午。
239 垂仁天皇九十年(辛酉六一)九十年春二月庚子朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)九十九年秋七月戊午朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)冬十二月癸卯朔壬子。
745唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/05(日) 22:20:27.24
太国倍年の最大の欠点は、年を特定出来ても月日が得られない。
月日が無ければ審議が出来ない。
しかし数字の無い太国倍年には出来ない。
数字が有っても、太陰暦と整合する倍数は存在しない。
だから太国倍年では、”書紀は暦の後付け”と主張する事も出来ない。
後付けの元となる数字が存在しないからだ。
書紀がむちゃくちゃに太陰暦を後付けしたと主張すれば、
太国倍年自身が存続できない。
どのみち太国倍年は成立しないだろう。
だから私の主張を否定しても対案を示せない。対案が無ければ否定も無意味である。
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/05(日) 22:47:28.16
古代史の真の年代を測る天下の宝器、これを天津神算木(天津金木)と
いう。毒書ホツマに汚された脳内からのインチキ編年188年のデタラメを
祓う〜過去から未来永劫に金鉄の如きに防備し、頑強な妄想説にびくとも
せぬ、古代人から現今のデタラメ、妄想に騙されないための宝物である。
天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)の説話にある三輪山の三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335  右辺左辺をまたいで  B.C.3113年 マヤ文明元年

主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
死値 A.D.130年 景行天皇 崩御←崇神世の引き立て役たる補助年代

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引のジョーカー数 335年

 335−97=238年 から、西暦0年を除くから1年マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
747太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/05(日) 23:24:26.49
宿主空年など無い無い無い無い〜〜各天皇年代の空年の位置を示せな〜い。

>>736 の具体的年代の数字を出すことが出来な〜い。ww

>>736 を数字で表記できない空年暦法は存在できない。
748太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/05(日) 23:28:47.10
間に1〜2年とかの空年じゃぁ〜説得力がな〜い。
また文章がなければ空年だと言うなら、欠史八代は8人全員が各3年
前後でもうくたばったと言ったことになる。プハハハ・・・wwwww

イカにデタラメな野郎だということが歴然とする。wwwww
749太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/06(月) 22:50:54.05
>>743
>224年(垂仁15年)・・・  ・・・225年(垂仁23年)
           ↓
垂仁17年 高倉神社(三重県)同年 創建
垂仁18年 玉造稲荷神社(大阪市)同年秋 創祀
垂仁18年 深江稲荷神社(東大阪)同年 創建
垂仁22年 神戸神館神明社(三重県)倭姫 当地に4年座す
750唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/06(月) 22:52:32.09
三角縁神獣鏡の研究より
黄河流域で三角縁神獣鏡と共通点が多い画像鏡や神獣鏡が作られ始めたのは卑弥呼の
時代を下がる西晋の泰始年間になってからだということは、三角縁神獣鏡が卑弥呼が
魏朝からもらった鏡でないことを時間的に示しており、銅鏡の製造が衰退していたこ
とを考えると、特注説も物理的に難しいといえるのではないか。
弥生終末期・庄内並行期の銅鏡
  墳 丘 墓 名       鏡    名       後漢鏡の編年
福岡・祇園山古墳      画文帯神獸鏡片
福岡・津古生掛古墳     方格規矩鳥文鏡      漢鏡7期(ふみ返し)
福岡・徳永川の上墳墓群   盤竜鏡、画像鏡片     漢鏡7期

祇園山古墳は、九州で最初の畿内形墳墓である。
庄内式の時代に副葬される鏡は、後漢鏡である。
三角縁神獣鏡は3世紀後半の晋の鏡であり
308年永嘉の乱から仿製鏡の時代となる。

鏡の編年から見ても庄内式(2世紀末より3世紀後半)の位置は動かない。
箸墓を4世紀に持って行くと、庄内式期が、後漢鏡である説明が出来なくてはならない。

751唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/06(月) 23:03:34.99
黒塚古墳 3世紀末〜4世紀初頭
 鏡は全部で34面あり、木棺の中から画文帯神獣鏡が1面、立った状態で出土しました。
他の33面は三角縁神獣鏡で、棺の北半分から木棺を取り囲むような配列で出土しました。

大事にされた鏡は、後漢鏡の編年の画文帯神獣鏡である。
三角縁神獣鏡を”卑弥呼の鏡とするためには、年代を繰り上げる必要が有る。
260年±ころの箸墓を4世紀に持って行くことが出来ない。
つまり、纒向遺跡の大型建物の編年も動かせない。
752太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/06(月) 23:09:13.29
宿主
>>749の在年から、>>743>>744でいう宿主空年は存在しない。
753太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/07(火) 17:45:25.45
>>744 宿主
>236年(垂仁39年)・・・  ・・・237年(垂仁87年)
             ↓
垂仁45年 田村神社(滋賀県甲賀郡)倭姫の神霊を祭祀
垂仁60年 大成経 出雲大社の神宝を物部武諸隅命に検定させる
垂仁81年 大成経 五大夫 十市根命に物部姓を賜り 大連となす

上の由緒、文から、>>743>>744 の宿主空年は存在しない。
754唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/07(火) 18:05:23.65
太陰暦を知っている最後の世代太国よ
何故太陽暦にすっきり切り替わらなかったのか?
知っているだろ?
月齢なら、文字を知らずとも日付を知ることが出来る。
それに比べ太陽暦は、月齢で計れない。
2倍、3倍暦はさらに複雑であろう。天災太国脳でも数字を付けられない。
しかし数字の無い暦は存在出来ない。だから数字を振る必要が有る。

>空年は存在しない。
空年の差し込みであれば、日付に影響を与えない。
”朔”は朔のまま空年分の年を経るのみで、文字を知らない民の日付に影響を与えない。
解らなくなるのは”24節季”であり、農事暦の頒布をよりしやすくなる。

太国が倍年の数字を発表したとしよう、
太国倍年と書紀の太陰暦の関係だ。これは、空年の差し込みより複雑になる事は間違いない。
”朔”と書かれた全ての日付を得る事は不可能であろうが、これが不可能であれば
太国倍暦は成立しない。
書紀編纂者が適当に割り振ったと主張すれば、書紀の長さが否定されるわけであるから
太国倍年の元になる書紀の数字が当てにならない、ということだ。
残念ではあるが、倍数で太陰暦を得る事は出来ない。←常識だろ?
755太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/07(火) 18:25:48.43
得ることは出来る。そのいい事例が古代マヤの太陰暦 C で、これは
2倍暦法だ。それに古代マヤの暦法は確か17種類もあるとかいう話
だ。だから複雑でも出来るんだぜ。いま部分的規制中のため、簡略回答。
756唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/07(火) 21:04:37.72
>だから複雑でも出来るんだぜ。

当時の松浦方面の漁師は太陰暦を使用している。
だから時節を以て楽浪、帯方の市へ出かけられるのである。
不知正歳とは24節季を知らないと云う意味である。
海の生物は、潮の満ちかけ(太陰暦)を知っている。
だから例えば蟹は、夏の大潮(満月)の夜に大群を成して産卵に集まる。
漁師もこれを知っているから漁が出来る。24節季で漁は出来ない。だから知る必要もない。

太国倍年で漁や農業が出来るのか?

757日本@名無史さん:2011/06/07(火) 21:58:08.88
なんで仏教伝来時期が捻じ曲げられたんだっけ?
いまいちよくわからないんだが…
758日本@名無史さん:2011/06/07(火) 22:33:33.79
祖母から貰った大学入学祝い30万円でハイレバFXして一夜にして約600万の借金を作った日は忘れられない。

                                                           獏山
759太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/07(火) 22:55:09.57
>当時・・・漁師は太陰暦を使用して
どこにそんなことが書かれてるのか?

>不知正歳とは24節季知らないと云う意味
「不知正歳」の四字にに24とは書かれていない

>海の生物は・・・(太陰暦)を知っている
現代の人間は太陽が数分間しか暗黒にならない日食を知っている。ww
760太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/07(火) 23:15:08.70
宿主空年は佛説同然であって、佛伝以前では色即是空的 宿主空年 は
朝廷の採用しない思想である。つまり宿主空年はインド編年とかで
やればいいことだ。ww
761太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/07(火) 23:21:08.18
佛伝前の朝廷は 空 の思想は持ち合わせてはいな〜い。朝廷は古神道で
あり、大祓祝詞から〜高天原に神詰まります が朝廷の思想であり、空
ではなく、高天原の天地初発からもともと詰まっているわけで年代が確実
に詰まり存在しているという思想である。
よって佛説 空 の宿主空年は天皇の暦にはウソ無用の長物であ〜る。
762唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/09(木) 16:09:59.75
日本の暦は何時導入されたか?
神代の暦は論外であるが、神武から太陰暦がふられている。当然神武の時代には、暦は存在する。

ホ28021 キアヱより ヱとホとかぞえ ヒトヱムソ
ホツマに於いては、西暦4年甲子より数えられた暦である。
7世紀には、甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)。この様な暦が普及する。
しかし、甲子=キノエネと読みが並立しない。
(きのえね)の読みは、木・火・土・金・水の5行に兄(え)弟(と)を付け加えて十干とする。
この読み方の暦が使われるのは、313年仁徳(神功39年)であろう。
神功、応神は、ホツマ暦を使用し、274年渡海で帯方か半島で使われていた暦を和風にアレ
ンジし導入する。
323年 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年, 水羊(癸未年)祭を行った。

癸未(中国)=水羊(半島)=みずのとひつじ(倭)=ねしと(ホツマ)。
763太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/09(木) 17:39:49.08
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と、コチラを口撃していた男
が〜〜

 偽書といわれる書物を持ち出した〜〜。

神武の代、用法はどうあれ、暦があったことは宿主の言うとおりである。
764唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/12(日) 14:39:25.35
太国が主張する”倍年”は地球上の暦にならない。
何故か?
太国は、最初に書紀の太陰暦と季節を否定した。
この時点で、地球上に存在出来る暦とはならない。

だから”倍年”なる数字を付けても、地球上に存在出来る”歴史と整合性のある”数字とならなかった。
歴史と整合性が得られていないことは、太国自身が主張している。
だから、私の数字を否定は出来ても、太国倍年の浮かぶ瀬は無い。
また、否定出来る根拠が、”歴史と整合性のない太国倍年”であるから、
根拠自体が成立しない。

210年伽耶(任那)建国は、崇神世であり、太国の主張する240〜260年の崇神世に任那建国は無い。
323年神功49年半島占拠は326年七支刀で説明出来るが
369年七支刀で半島占拠は説明出来ない。
また、神功時代は通常の太陰暦で書かれているから百済王朝の存在が確認出来る。
しかし太国の主張する倍年で百済王家の存在も確認出来ない。
この時代を太国は、120年差を支持するが、120年の日々の干支差を埋める
暦法は地球上に存在しない。
地球上に存在しない、し得ない暦法、それが太国倍年で有る。
765太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/12(日) 14:53:09.06
太陰暦はコチラが否定したんではな〜い。

否定したのは神武であるわけであり、神皇紀に明確に太陰暦でなく
太陽暦だと記述があ〜る。おっちょこちょいのオマエは、神武の記事を
コチラが書いたようにもう狂って解釈する。こういう癖がオマエに
あるわけであり、オマエの文言は支離滅裂であ〜る。
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/12(日) 15:04:32.48
任那建国なんぞは、いずれが真かはまだ決まっていな〜い。

120年前後の年代差が、真の行方を撹乱している。それを先行して決めて
いるオマエのおっちょこちょいの様子は、まるでネヅミ捕りの餌に無用心
にパクつく鼠同然の浅はかさだ。ppp

日食が数日間も続くという計算結果を出しているオマエは、おそらく
現今の地球上では日食はたかが数分間の現象であるところから、遠い遠い
彼方の天体に日食が数日間も続く惑星があって、そこから極めて強力な
大デンパを送信しているその大デムパをピピピピ・・・ッと受信して
いると認められるオマエだから、日食が数日間も続く暦をまぁ〜頑張って
曲げないでいるのだろう。ww

地球上じゃぁそんな数日間も日食が続かないのはちょっと利巧な小学生
でも分かることであり、それを無視してこれが数日間も続くんだと
するオマエの説は、そこの天体からの強力な大デムパをピピピピピ・・・
ッとオマエは信号をもらっているらしい。ww
767唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/12(日) 19:44:40.71
http://homepage2.nifty.com/mononoke-kofun-room/HP/shiten3yamatai.htm
ホケノ山古墳の楽浪鏡 画文帯神獣鏡と方格規矩鏡
また日本列島で出土した画文帯同向式神獣鏡の中に楽浪郡出土の画文帯神獣鏡と文様が完全に一致
する、いわゆる兄弟鏡が存在することです。徳島県鳴門市萩原1 号墳丘墓は3世紀中期の前方後円
形積石塚で、この墳墓から一面の画文帯同向式神獣鏡が出土しており、この鏡の文様と寸分違わな
い鏡が楽浪郡から発見されて います。これら2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、楽
浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明しまし た。こ
の事実により楽浪出土鏡を原鏡とした踏み返しの鋳型より萩原墳丘墓鏡が作製されたことが明白と
なり、更に3世紀代に造営された積石塚が楽浪郡と密接 に関わっていることをも強く示唆するもの
として注目に値するといえます。
一方北部九州地方では、弥生時代に大量の方角規矩鏡や内行花文鏡などの漢式鏡が出土したにも関
わらず、画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんど認められません。
この組み合わせ が北部九州では一般的であったのに対し、やや遅れて造営されたホケノ山古墳では、
内行花文鏡と画文帯神獣鏡の組み合わせに変化しています。すなわち瀬戸内 以東では後漢鏡に加え
楽浪鏡が墳墓に埋納され始めたのです。この背景には畿内を中心として興隆した新興勢力が、伊都
国を経由しない独自の経路で、朝鮮半島 や中国大陸と直接交流し始めたことを示しているのではな
いでしょうか。

私は、ホケノ山を239年垂仁と仮定しています。つまりこの画文帯神獣鏡は“卑弥呼の鏡”
以前に“任那”を通じて輸入された鏡とする。
768唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/12(日) 19:47:57.39
http://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/kokusai5-1_2-001paku.pdf
韓半島南部の栄山川流域の主な前方後円墳と
古代日本との交流を示す出土物

http://www.jkcf.or.jp/history/first/1/1-02-kimtaesik_j.pdf
369年七支刀では、半島占拠は否定される。

歴史と整合性のない太国編年。
769太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/12(日) 19:52:03.65
数日間も日食が続くというオマエの主張は、現代天文学と不整合なのを
小学生でも分かるぜ。プハハハ・・・。
770唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/12(日) 21:20:34.10
>数日間も日食が続くというオマエの主張は、
太国の主張を他人の主張と書き換えても、太国倍年は地球上に存在出来ない
771太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/12(日) 22:12:49.63
日食が数日間も続く宿主空年はこの地球上にはありえず、大宇宙は広大で
あるからして、どこか遠い遠い大宇宙の果てに日食が数日間も続く天体上
が存在してもこれは否定出来ない。

であるからそういう天体から日食が「こちらでは数日間続くんだ」という
遊星人からの強力な大デンパの送信をオマエがピピピピ・・・ッと受信
してることからの日食数日間継続の大デンパ暦を強行することは、これは
やぶさかではあるまい。ww
772唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/13(月) 19:14:40.83
太国の主張する世継ぎ
190庚午  開化誕生 (大彦が兄)
211辛卯  崇神誕生22才 (武淳川)
246丙寅  垂仁誕生36才 (磐鹿六雁)
265乙酉  景行誕生20才
298戊午  日本武尊誕生35才
299己未  成務誕生36才
312壬申  仲哀誕生15才
322壬午  景行崩御
352壬子  應神誕生41才

開化治世が長すぎるから垂仁誕生が遅れる。
垂仁治世が長すぎるから日本武尊の誕生が遅れる。
成務治世が長すぎるから応神誕生が遅れる。
六雁は、仲哀誕生後に景行に従い関東へ下向。この時の年齢が高くなりすぎる。
これが、40才を迎える率の低い弥生時代の世継ぎと崩御であると主張する太国倍年。
この程度で世継ぎに疑問はないと豪語する。
垂仁誕生36才、成務誕生36才、應神誕生41才現在の子作りより遅い。
崇神の妃は、大彦の子供である、つまり崇神と同年齢程度が予想される
であるならば、妃の年齢も36才程度の出産となる。
江戸時代の大奥でも30才でお払い箱である。

地球上に存在出来ない暦を創造して、その倍年で想像出来る世継ぎもこの程度である。
773太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/13(月) 19:20:08.99
36歳の根拠があるまい。どこにあるんだ?ww
774太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/13(月) 19:21:06.83
滑稽な5重在位だというオマエのしゅちょ
775太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/13(月) 19:23:06.33
>>774 続き

〜オマエの主張こそ、「宿主空年」が精神病院お薦めの文言だ。

そのうち6重になるのか〜? どのくらい増えるんだ?ppp
776唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/14(火) 19:37:41.87
>太陰暦はコチラが否定したんではな〜い。
>否定したのは神武であるわけであり、神皇紀に明確に太陰暦でなく
太陽暦だと記述があ〜る。

1ヶ月が30日で1年が10ヶ月300日の太陽暦であれば、地球上に存在出来ない太陽暦である。
神皇紀はともかく日本書紀は太陰暦で書かれている。
西漢平帝元始元年 ?次:辛酉 生肖:? 西元1年2月11日(星期六)起も候補に入るが
300日の太陽暦は地球上では成立しない。精神病院お薦めの文言だ。

777太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/14(火) 20:15:50.27
>地球上に存在出来ない
       ↑
これは日食が日を経てという数日間継続すること自体が存在出来ない。
オマエのほうが出来ないことをさも日食だとか、2ちゃんのスレ民を
騙そうとしている。

あたかもニガクリタケをクリタケだと言って毒食させようとしてる如く、
オマエの 日食料理 は例の生食肉料理店の食中毒の危険性を助長して
る如くであり、日食だと頑張るオマエの妄想毒の 日 食中毒 には騙され
やしな〜い。><
778太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/14(火) 20:30:00.81
>>776
オマエは単純だから、そういう解釈を直行するのが大好きだ。ww

300日というのは見かけであって、そのうちの2ヶ月分は重複日数だ。
すなわち60余日の2ヶ月分が重複している。そこは11月と12月だね。
つまり軽く太陽暦は出来上がる。

なおホツマはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが、恣意的妄想を追加
して書いた危険な史想の毒書なり。
779唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/14(火) 21:38:08.52
>60余日の2ヶ月分が重複している。

はたして、再現出来るか?
780日本@名無史さん:2011/06/14(火) 22:04:08.35
ウズメがやったのが魂鎮めの儀の元になったてんだから
先王が崩御して後継者が定まらず混乱期があった後に
諸神≒有力者の合議の元で国を纏められる新王が定まった。

それで良いんじゃないの?
781太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/17(金) 11:23:41.40
>>772 宿主
オマエは天皇の【誕生年】と【立太子年】の双方の編年が出来ない。
いまだかつてこれらの年代を表にして見せたことは、例の41年と同様、
ただの1度mな〜い。出来てないと観た。ww
それを出すと空年のギコチなく釣り合わないのがボロ見えになるからな。

くやしかったら、それらの年代表を出してみなさい。><
782唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/17(金) 19:11:18.51
>>781
太国倍年に数字を入れられないのか? 1年が300日の太陽暦←どんなに主張しても
地球上に存在出来ない暦である。
当然だろうな、太国倍年は成立しない。

天皇家の世継ぎは19年程度である。
決して40才で世継ぎを作る事はない。

>くやしかったら、それらの年代表を出してみなさい。><
ちっとも悔しくないし、ひと月くらい前に世継ぎを書き込んだことが在る。
783唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/17(金) 19:13:06.64
太陽暦と書紀の太陰暦は重ねることが出来る。
42 神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔
西元42年2月9日
64綏靖天皇元年(庚辰前五八一)正月己卯《八》
西元64年2月7日=14日
78 安寧天皇三年(乙卯前五四六)正月壬午《五》
西元80年2月10日=14日
88 懿徳天皇元年(辛卯前五一〇)二月壬子《四》
西元88年2月11日=14日
94 孝昭天皇元年(丙寅前四七五)正月甲午《九》
西元94年2月4日=12日
120 孝安天皇元年(己丑前三九二)正月辛卯《廿七》☆1ヶ月早い
西元120年2月17日=12日
146 孝霊天皇元年(辛未前二九〇)正月己卯《十二》
西元146年1月30日=10日
165 孝元天皇元年(丁亥前二一四)正月甲申《十四》
西元165年1月30日=12日
184 開化天皇元年(甲申前一五七)正月癸酉《四》
西元184年1月31日=3日
187 崇神天皇元年(甲申前九七)正月甲午。《十三》暦に1,2年の狂い?
西元187年1月27日=8日
西元189年2月4日=16日
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)正月戊寅《二》
西元217年1月25日=1月26日
262 成務天皇元年(辛未一三一)正月戊子《五》
西元262年2月6日=10日
266 仲哀天皇元年(壬申一九二)正月庚子《十一》☆1ヶ月早い
西元266年2月22日=3日

仮説、天皇の即位は太陽暦の二月上旬に行われた。
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/17(金) 19:51:17.80
重ねてもしようがないだろう。表見上はいかにも難解に見せて俺はこういう
ふうに編年してるんだと気張っても、日食が数日間も続くとやらの突き上げ
編年では、もとからデタラメだとミエミエのものだ。

西暦5年にオマエの言っていた畿内だとうるさく頑張ってた東夷の王が
大陸に国珍を奉じてたんじゃぁ〜、オマエのこの表はインチキだという
ことよ。ppp あるときこれがオマエが都合悪いので 東夷の王 を
大陸の古文献の文から削った悪事のことなど、オマエの慌てぶりが目に
浮かぶようだ。ww ハハハッ!www
785太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/17(金) 20:19:08.04
>1年が300日の太陽暦
これもオマエの単純な解釈の受け取り脳内が即効先行の読みの甘さを
露呈したのだ。そんなことはやろうと思えばいくらでも都合がつく。ww

明治5年などその年の12月3日〜12月31日はないわけだ。つまり12月は
3日しかない年なわけだ。29日分が欠だから、この年は

 365−29=336日

だということなのさ。なぜか? 太陰暦を太陽暦に変えたためだ。12月3日
が翌年の元旦だからな。オマエの反論はこれで打ち砕かれたね。
開化の代は5月6月の重複で1年が300日に錯覚するも、実際は1年が
365日になるように巧妙に朝廷が暦を設定している。従って不合理はないね。

それにロムルス暦では、紀元前46年では1年が445日で行使している。なに
も1年が365日でなくても出来る好事例だ。これを乱年というのだ。
平成19年3/17での「世界不思議発見」の番組では、今から3億5千年前の
地球では、1年が400日近くあったことが珊瑚の年輪から確認されている。
786太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/17(金) 20:21:01.52
>>785 訂正
× 12月は3日しかない
○ 12月は2日しかない
787唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/17(金) 20:33:54.52
>それにロムルス暦では、

他人の事を自分の手柄とするのか?
太国倍年に数字が無い。これが今の現状である。
数字の無い暦は存在しない。
だからロムルス暦では、前46年では1年が445日と数字が有る。
>12月は2日しかない
太陰暦から太陽暦に切り替えた為、と説明出来る。

太国倍年を主張したければ早急に数字を提示すべきである。
その数字で正歳が確認出来れば、太国倍年は存在すると主張出来る。
788太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/17(金) 22:24:45.08
他人のを自分のように言うのは、オマエの得意技じゃぁないか。pp

その太陰暦の前のどこかで先に太陽暦があったんじゃぁ、オマエが日々の
干支を頑張っても、役にも立つまい。
千万、億の金が取引してるときに、1円が何枚だ10円が足りないだとか
知恵の回らない言動を頑張ってるのがオマエだよ。プハハハ・・・ッ。ww
789唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/17(金) 22:35:16.51
西暦5年時点で東夷の中の倭王は北部九州にしか存在しない。
畿内大和の王が朝貢するのは、田道間守が最初である。
この時点で魏の判断は、従来どおり奴国に倭王を求める、これが女王卑弥呼。
従って、畿内垂仁はその下に配される。
これに変化を与えたのが、正始元年の魏使が纒向を訪れてからであり、
以後”倭王”は大和の王を指す。
この大和王が全国を領土としたから”大倭”と書かれ、伊都国に1大率を置く。
考古学の言う西新町遺跡である。
274年神功渡海、神功稚桜宮は、桜井茶臼山で表され、三角縁神獣鏡は、晋鏡であり
茶臼山古墳の三角縁神獣鏡も渡海以後の1大率の半島駐留で説明され
323年 神功49年 簡単に半島占拠ができた背景に、1大率の駐留がある。
790太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/17(金) 22:38:56.08
垂仁はいいとして、臣下で天皇に即位した事例を出してみろ。どこに
いるんだ?
791太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/17(金) 22:45:39.28
畿内の天皇が九州の卑弥呼と交流した事実は存在しない。なぜか?
簡単だ。当時は新幹線も航空機もない。遠隔で畿内と九州中部あたりに
あった女王国と情報の行き来も上下の関係など殆どなく、お互いが遠い外国
同士だ。つまり国同士の主従の関係など存在せず、各々が独立である。
臣下伊支馬とは九州の国の王でない従たる臣下であり、天皇はそれと
無関係の遠く隔絶した畿内の大王である、つまり女王が天皇の上の身分
にはなりえない。また神国日本では臣下は天皇には絶対になれない。

どうだ〜今日は精神病院へ行って来たか〜?ww
792唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/18(土) 18:32:10.78
>女王国と情報の行き来も上下の関係など殆どなく、お互いが遠い外国同士だ。

これで、よく神武が朝貢したと言えるね。
>く隔絶した畿内の大王である、=井の中の蛙大海を知らず。自分で大王と主張するだけなら
誰でも出来る。しかし誰も相手にしない。=太国倍年の心境。
3世紀後半、福岡西新町遺跡に、庄内式と布留式、これを繋ぐ瀬戸内の土器。
庄内式土器がいつ頃の土器かも知らない。
793太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/18(土) 19:26:35.10
神武は最初九州にいたんだぜ。だから半島のことは神武の耳に大陸の情報
が入りやすいのだ。

大陸→半島
     ↓
    北九州→−−−−−−−→畿内


    中九州

上のように大陸からも畿内からも孤立していた地域が中九州あたりだ。

大陸と畿内とはこのように交易ラインが容易に出来上がっていた。
逆に神武がこのライン上にて、大陸に情報を行かせることが出来たものだ。

中九州は阿蘇の火山の恐怖か、畿内と大陸半島とも隔絶してたのだ。
それがたまたま大陸の連中が探検でもしたくなったようで、インディ・
ジョーンズさながらに中九州へ足を踏み入れたことで卑弥呼の女王国の
発見となり、大陸に紹介されたり、魏と女王国との繋がりが出来たと
いうことだ。畿内から北九州を左折して中九州へ行くのと女王国から北上
して北九州に行き畿内方向に右折する交易線はまず無の状態だったの
だ。だから記紀に女王国の情報が書かれておらず、畿内と女王国の関係は
全くに近く無く断絶しており、天皇と女王の上下関係などあったわけが
ないのである。

オマエはこういう遠隔の畿内と女王国の天皇、女王とが付き合いがないの
に上下関係があるなど、デタラメもいいところだ。また臣下で天皇に
なった奴は神州では絶対になく、事例もないのが当然だ。
オマエは浅薄だから、熊沢天皇でも出して妄想を頑張るのか〜?ppp
794太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/18(土) 19:37:16.57
>>789
オマエは数ヶ月前、東夷とは九州でなく畿内だと強行してバンバン書きこ
んでいたではないかww。昨日言ったことが今日は180度手のひらを返すの
で、オマエの論の信用はドカ落ちする。コインの表は、次は裏にと〜
するのがオマエのクルクル替わるインチキ論。
795太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/18(土) 19:55:27.67
>>789 随分話が違うではないか? PuPuPu・・・

>東夷の中の倭王は、北部九州にしか存在しない
         ↓
邪馬台国ドンと来い 85 唐松山 2011/03/16
>56 正始元年には魏使が大和を訪れる

      倭王=大倭

    晋書 正始元年【東倭】重譚納具
 
   【神功】の渡海は274年 倭国統一から20年ほど後。晋の要請に
    よる渡海であれば【東夷の親玉】として君臨でき、半島占拠も
    視野に入る        ↑
                これは何だ?wwwww
796太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/18(土) 22:41:05.26
>>783
>正月辛卯<<廿七>>☆一ヶ月早い

毒書 ↓

ホツマツタヱ

 ハツノナカ アマツヒツキヲ ウケツキテ タリヒコクニノ アマツキミ

 正月の七日 天津日嗣を受け継ぎて 日本足彦国の天皇(孝安天皇)
      ↑

27日じゃぁないぞぅ。孝安即位は7日だ。とぼけるな。pp
797太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/18(土) 22:53:11.21
>東夷の中の倭王は、北部九州にしか存在しない

 オマエは、東夷っていうのは日本基点での東だと言ってたんだよ。
 ならば漢書王莽伝の 東夷王 は、九州ならば「西夷王」と
 書かれるはずではないか。「西夷王」ならばオマエの解釈では九州だと
 いうことになるが、そうはなってないんだよ。この文は 東夷王 に
 なってるんだよ。どうなんだ? 早く答えろ!
798太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/06/18(土) 23:00:16.89
唐松山君よ
オマエのメシより好きなあのホツマには、孝安は >>796 のとおり27日即位
となっておらず、7日即位だと書かれてあるんだがね。

オマエは毎回27日にしてホツマに逆らっているが、これはどういうこと
なのかね? いいかね、しかと答えろ!
799日本@名無史さん:2011/06/22(水) 22:52:23.43
アメノコヤネ 屋根 日を遮る張本人 四つ足使い 蛇 藤 鹿島 春日 にせ天照
800日本@名無史さん:2011/06/29(水) 13:48:18.89
       ,,.r‐'''ゝ` -"〈.-、             ,,,,,,,,,,,,
    /:::::::::::::ヽ`'- ノ:::::::::ヽ         ,.r‐''":::::_:::`:ヽ、
    !::::::::::::::::::::~Lr^:::::::::::::i  ))    /::::::::::::::::((_::::::::::::::::、
    j r,r'´´ ̄ ̄ ̄` ー、::::l       !:::::::::::::::::::::__))h:::::::::::i
     .l;;;! -‐━::  ::━‐-ヽ;;!       !::::::::::::::::::_,,、-'''''' ̄ ̄`'ヽ
    .rl;;l. =・=‐  =・=‐ l;;lr、      |ミシ ̄━━i,,〜,,i━━!'''"
     ! l   ̄ ,:ノ:::.  ̄   .l! ,!     /~ |:::::::: ,(● )、 (● ) .|
    ヽ!   _r(.・_・.)ヽ 、  l .i'      |9 |::::::::  ⌒´,i |`⌒ i
     l. ,., イエエエフ、;  l´´       ヽ|:::::::::::ヽ  f ・ ・)、/ i
       ヽ   `二´   ,/          ヽ  .| / ◎ .| /
      l ヽ_(___ ノl           ヽ゛|     ..|_ノ
801唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/06/29(水) 20:48:25.62
『日本書紀』巻四孝安天皇元年(己丑前三九二)正月辛卯《廿七》◆元年春正月乙酉朔辛卯。皇太子即天皇位。
802太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/21(木) 16:34:25.91
ホツマの記載は

 孝安天皇即位 孝安元年 1月7日

だ。

どうだね。ヘヘヘヘ・・・ww

ホツマにも逆らうようになったのか?ww オマエが支離滅裂だという
ことだぜ。
803唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/07/22(金) 22:29:25.58
>どうだね。ヘヘヘヘ・・・ww

良いんじゃないの、違う日付は百も承知。
編年は日本書紀の干支を使用。

人の数字より 「自分の主張は暦に直せない」この事実は
”倍年”が存在出来ない事を表す。
書紀が太陰暦を主張するならば、太陰暦のまま正しい編年を考える。
太陰暦を無視しても、編年出来ないことを、太国は身を以て教えてくれる。
出来ないだろ?


804唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/07/22(金) 22:39:32.49
崇神世とは、
まず崇神は、庶母の出である。旧朝廷がこぞって賛成する状況では無い。
つまり、宮を無人の纒向遺跡に造る。
崇神5,6年 疫病、民の死、離散。この状況を12年に、寒暑矢序。疫病多起。
百姓蒙災。と説明している。
寒暑矢序。=天候不順。後漢183〜193年。
疫病多起。=凶作。
百姓蒙災。餓死と逃散。←百姓のみが被る疫病とは、“えやみ”であり通常“凶作”と
書かれる。
崇神10年 猶不受正朔。正朔とは、書紀が主張する季節と月齢は正しいと主張している。
しかし正歳とは主張していない。治世は引き延ばされているが、季節と月齢は正しい。
そして年数も正しいと主張するために、日々の干支が振られている。これは、正しい数字
を隠した“証拠品”である。朝廷の主張は、太陰暦を引き延ばし、日々の干支で覆い隠す。
十一年 異俗多歸。國内安寧。=2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
六十五年秋七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。210年伽耶建国、そのお礼。
805太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/22(金) 22:46:20.34
色即是空は佛教公伝以前は朝廷と関係なし。宿主空年は妄想の出鱈目。
ホツマが孝安即位 1/7 では、オマエの1/27など暖簾に腕押しだ。ww

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月とし、
 十月を1年と定め給ふ。
806太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/22(金) 22:53:53.79
>>803 ホツマでなくとも〜ww

神皇紀

 孝安天皇は諱を日本足彦国押人天皇といふ。
 孝昭天皇の第二の皇子・・・
 
 紀元二百六十九年 一月七日 大御位に即かせ給ふ。
807太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/23(土) 22:42:58.87
葛木神社 奈良県佐紀町1248

由緒

 金剛山の葛木神社と奈良の桂木神社の関係について
 金剛山の葛木神社の社記伝説のよれば

  人皇第十代崇神天皇 戊寅七年 御造営神戸司を附け給ふとある・・・

戊寅七年とは記の 崇神没年=258年 において、末桁年が七年だという
ことを示唆したものである。つまり 戊寅7年=257年☆ を意味する。
ところで 崇神の代の

 皇紀618年(崇神の戊寅年)=(見かけのB.C.43年)

だが、ここから7年後のことをも 戊寅七年 だというものであり、
それは7プラスして 618+7=625年 で

 皇紀625年=B.C.36年=(倍暦)257年☆(258年戊寅の前年)

となり、☆←→☆で、当時確実に倍暦の行使があったことを意味している。
宿主空年は空振りのデマカセである。ww
808日本@名無史さん:2011/07/24(日) 20:36:23.01
日本書紀には各天皇紀に一回ずつ太歳による表記が出てくる。
太歳とは何か?
それは木星の運行(公転周期11.86155年)を基準にした紀年法。
それ以前は太歳によって記されていたものを太陽太陰暦による表記に修正を試みたのが紀の編纂の意義。
しかし太国や唐松山並の大馬鹿によってその試みは失敗に終わり、その哀れな残骸が現代に伝わる記紀なわけだ。
809太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/24(日) 22:16:08.67
>>807

皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神即位年
565 -96
566 -95
567 -94 238
568 -93
569 -92      紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳
570 -91 239 景初3年鏡 銘文年
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅年
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社 戊寅七年
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅 没年
810太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/24(日) 22:22:19.71
>>807 訂正
× 618+7=625年
○ 618+7−1=624年

× 皇紀625年=B.C.36年=(倍暦)257年☆(258年戊寅の前年)
○ 皇紀624年=B.C.37年=(倍暦)257年☆(258年戊寅の前年)
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/24(日) 22:39:58.10
>>808
過去に太歳で研究しようとして、アストロのフロッピーの天体ソフト
で確かめようとやり始めたが、空巣盗難にあってしまい、以後この方法の
研究を縁起が悪いので停止保留とした。こういう忌まわしいことが
あったので、大馬鹿だとか弱り目に祟り目になる発言はやめてくれ。
812日本@名無史さん:2011/07/24(日) 22:46:25.11
>>811
今は自宅警備員だろ?
空き巣にあう可能性は皆無じゃないのか?
心ゆくまで確かめてくれよ、、、
813太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/24(日) 22:53:47.51
そんな職業じゃない。
こういうショックはえらくきついんだ。それを大馬鹿などと言われて過去
の盗まれたことを思い出させることをされ、もうギリギリして来る。

あの泥棒をとっ捕まえたい。いまでもくやしいんだ。
814太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/25(月) 15:03:25.71
>>809>>810 続き
本表によって、崇神戊寅7年とやらが257年(B.C37年:双方末桁が7)
という〜B.C.43年(戊寅年)の(同年基点から)7年後の年代となり、
その翌年が古事記の崇神没年(戊寅)258年と隣接となるということは、
崇神即位元年=237年 以降の編年が正確なのだということを物語る。

表の途中に鏡作神社の日像鏡の改鋳年たる崇神6年のすぐ翌年が
景初3年鏡銘文の 景初3年=239年 に位置するということは、
崇神6年改鋳の鏡作神社と景初3年鏡製造の直接的関係が観てとれる。
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/25(月) 15:15:20.54
>>814 続き >>809>>810訂正〜
以上のことは、古事記の 崇神没年=258年 とするのが真だということ
なのだ。鏡作神社の伝承と兼ねて葛木神社の由緒から、いよいよ

 崇神即位元年=237年

が正解だったということを、この二つの神社の由緒伝承から裏づけられ
ているのだ。

つまり、古事記の崇神没年318年説は間違いであり、さらに宿主という
男の言う215年がメチャクチャの出鱈目であったことが、二神社の文証
からハッキリ出来たのだ。

258年説が真と判明したことにより、那珂博士、菅政友、橋本増吉、
アラタメ氏及び原静岡大学名誉教授の説が正しかったということなのだ。
盲象の大天才←宿主の言う215年説はインチキだったのである。ww

ただアラタメ氏は年代が合っているものの、編年論が全然ものになって
おらず、倍年暦法を否定して、どのように年代を確定出来るのか、これを
提示せねばメリットが薄い。

以上から宿主空年は宿主の脳内の出鱈目創作であり、他のこの世に存在
しない。
816太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/07/25(月) 15:26:02.91
>>815 訂正
× 他のこの世に存在しない
○ 他にこの世に存在しない

それがしの論には、出た結果に対して殆どうっちゃりをしてひるがえ
す行動はしていない。ただ全然うっちゃりがないわけではなく、キチン
と最低の根拠だけでも掲げてうっちゃり反論したことはあることはある。
出た結果のほうが間違いだったということは、あることは確かだ。

しかし〜
出た結果を十中九うっちゃりをせねばならんのが、この宿主という脳内
妄想の塊り男である。彼は出た結果と毎回離反しており、うっちゃり
うっちゃりのしっ放しであり、その頻度はこの日本史板で最高クラスの
ひどい多大回数である。これはこの男の説が出た結果に殆ど合わないこと
を意味しており、合わない回数がひどく多いからうっちゃりを全部に近く
せにゃならんというわけなのだ。ww

つまりうっちゃりの最高頻度の名人ということは、その者の説が出鱈目に
当選確実だということを意味する。
817日本@名無史さん:2011/07/25(月) 17:27:04.12
もう馬鹿げた妄想や数字遊びは、いい加減にしてくれ。

世の中、それどころじゃないだろ。ウンザリだ。
818日本@名無史さん:2011/07/29(金) 01:40:22.76
うんざりどころか、面白いが。
小説書いてるんだけど、大変勉強になります。
同じ人が書いてるんじゃないかと思ってた時期もあるくらいw
819日本@名無史さん:2011/08/15(月) 16:07:10.38
日本書紀ってつまらないと思ったけど
イザナギとイザナミの話だけは面白い
黄泉の国に会いに行ったら腐敗してて怖くて逃げ出す
こういうのは今の話でもありそう
820日本@名無史さん:2011/08/16(火) 02:06:28.70
>>819

と言うかギリシア神話のオルフェウスが亡き妻の後を追って冥界に行くくだりにそっくりなわけだがwwww
821唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/08/16(火) 19:27:53.35
仁徳天皇即位前紀◆大鷦鷯天皇。譽田天皇之第四子也。母曰仲姫命。五百城入彦皇子之孫也。
仁徳(推定294年生まれ)は、五百城入彦皇子(推定245年生まれ)の孫であり、応神(推定274年生まれ)
の第4子である。
応神天皇四一年(庚午三一〇)二月戊申《十五》◆四十一年春二月甲午朔戊申。天皇崩于明宮。時年一百一十歳。
〈一云。崩于大隅宮。〉
明宮とは、アキツミヤであり、4世紀初めから複数回の立て替えをした、秋津遺跡である。
秋津遺跡が384年迄続くものであれば、274年生まれの応神は、384年に明宮で110才死亡となる。
しかし、応神は、誉田御廟山に葬られる。大隅宮が候補に挙がる。
313年仁徳即位、丁度永嘉の乱のまっただ中であり、316年西晋滅亡、疲弊した仁徳は、調役を停止し、
半島の軍隊を引き上げる。この時仁徳の宮は、雨漏りのするほど痛んでいる。
明宮(秋津遺跡)は、320年から数回の立て替えか?。
大隅宮の位置と時代を特定する必要が有る。
 淀川の出口に、古代には大隅島というのがありました。その真ん中に大隅神社がある。ここが『日本書紀』に
よる応神天皇の大隅宮があったところとなっている。
 近畿地方には近江や河内などの隼人が分注しているし、特に山城には大量の隼人がいる。 大隅島は近畿の隼人
の要のような土地、九州の隼人の中継地のような所ではないかと見ている。
822唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/03(土) 11:12:35.04
>>809
>皇紀西暦 倍暦
>564 -97 237 崇神即位年

太国倍年の説明が中断した。
結局 日本書紀を太国倍年で説明する事に失敗したわけだ。
結論 太国倍年は成立しない。
823太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/03(土) 13:03:21.42
皇紀 西暦 空年
  元 41 無説

宿主空年の説明が欠落した。
結局 日本書紀を宿主空年で説明する事に失敗したわけだ。
結論 宿主空年は成立しない。 ww
824唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/04(日) 11:18:40.34
274年応神誕生 344年応神元年 384年誉田御廟山
365年 応神天皇廿二年春三月甲申朔戊子。天皇幸難 波居於大隅宮。
384年 応神天皇四十一年春二月甲午朔戊申。天皇崩于明宮。時年一百一十歳。〈一云。崩于大隅宮。〉

明宮の実態は、“アケノミヤ”と読まずに“アキツミヤ”と読めば、秋津遺跡(4世紀前半から複数回の立替え)である。
大隅島は隼人が牛飼いをした土地である。
秋津遺跡の前は、神功の磐余稚桜宮であり、桜井茶臼山を指標と出来る。
1世代目応神が40歳弱で死亡したのであれば、メスリ山(応神274年誕生〜312年死亡)相当であろう。
仁徳(313〜399年)
仁徳31年(343年)立大兄去來穂別尊爲皇太子。まだ秋津遺跡の時代は続く。
825太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 14:29:04.30
先代旧事本紀大成経
應神4年

 四年、夏五月、天鳴き赤星然(もえ)て双出で、大き
 さ啓明の如く、二とも光烈くして日の如し。赤色にし
 て朱の如く、初更東天に在り、三更には西天没くる。
                   (啓明は金星)
 天皇、之を異とし武内公に問う。大臣奏して曰く。
 この星は妖星なり・・・唯吾が国にみ見られ三韓に見
 われず、是吾が国の妖なり、・・・

上の文は同経の應神の条に記述があるわけだが、この
手前にも應神四年の記載があるもので、この文にて再び
四年と年数の重複記載があることは、よくよく何らかの
編者側の事情があ應ったものと観てとれる。通常は年数
を書きこめば、その年の間は年数の重複記載などやらな
い記述方法で後文を述べているから、ここの應神4年には
何故なのかの疑問がそれがしの脳内に浮かんでしまう。

上文は393年のさそり座の超新星☆の天文現象を記載し
たものだと観て間違いはない。しかしながら、これが
実際に應神4年に起こった出来事なのかといえば、そうで
はない。真は仁徳3年で起きた現象なのである。
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 14:31:07.29
>>825 続き
以下のとおり

皇紀 西紀 干支 倍暦 倍干
933 273【癸巳】377 丁丑 経の應神四年
 ・・・・・・・・・・・
979 319 己卯 393【癸巳】☆経の仁徳七年=仁徳3年


 393−273=120年

で、干支の倍数の120年の年差が存在する。上表から、
上段の干支と下段の倍干(倍暦の干支)が一致している。
同様に(倍暦計算にて)

 391年=仁徳即位元年=広開土王即位年

だということなのだ
827太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 14:47:00.84
>>824
応神4年=347年説 をオマエが採るならば、
 〜応神4年が347年じゃぁ、393年の☆並列現象とは不整合。

だからオマエのはコチラと同様、☆並列が仁徳年間だということを認容
していることになる。

それがオマエの言う 仁徳没年=399年 では、この超新星の解説をして
る武内宿禰が(仁徳元年=313年としてる事から)、393年の☆並列の時が
仁徳末期にあることから、武内宿禰の没後過ぎ頃にこの☆並列の解説を
してることになる。つまり垂仁が死んだ直後ころに伊支馬が頑張って
いる伝の記事となる幽霊の如く、武内宿禰も幽霊で☆の解説をしてたこと
になる。pppppp・・・・・
828太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 15:38:01.03
オマエも師と仰いでいるだろう斎藤国治先生の著書「星の古記録」には、
393年のサソリ座での超新星の解説表がある。
つまり393年にはアンタレス星とこの超新星が近接して並列していたこと
を意味してる。

そしてオマエは仁徳元年を313年として、通説をそのまま採用、主張して
るわけで、313年〜399年が通説どおりの仁徳在位年代だということを
オマエは考えてるということだ。

そうなると超新星☆発現の393年は、オマエの主張では仁徳末期あたり
だということだ。そして大成経の応神4年の同星発現の記述がこちらと
同考えの仁徳年代だということを、オマエは認容したこととなる。

大成経には天皇(←この場合は仁徳になる。つまり同経は誤認して応神
4年にこの出来事を挿入したこととなり、オマエもその考えを継承して
るわけ)が武内宿禰に同星発現の解説をしたとある。つまり393年に
武内宿禰が仁徳にこの☆並列の奇異を解説してるわけだが、武内大臣は
通説だと367年に死んでいる。
つまり武内大臣没後四半世紀経過して、武内大臣が天皇にこの世でこの
☆並列の解説をしたことになる。オマエのはこの世にて武内大臣の幽霊が
この解説を天皇にしたことになる。プハハハ・・・・wwwww
829太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 15:46:52.79
この超新星発現の393年は先出のとおりで、こちらの倍暦だと、ピタリ
120年差で干支が一致するもので、三国史記と日本書紀との120年差と
同様になるわけであり、倍暦が真だったということを物語っている。

        ↓

皇紀 西紀 干支 倍暦 倍干
933 273【癸巳】377 丁丑 大成経の應神四年
 ・・・・・・・・・・・
979 319 己卯 393【癸巳】☆経の仁徳七年=仁徳3年


 393−273=120年

オマエのだと、武内大臣が幽霊で393年に二星並列の解説をしてたこと
になる。つまりオマエの編年は完全なデタラメだということを確認でき
たのだよ。wwwww
830太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 15:54:14.39
ほ〜ら ↓ これだよ。www

先代旧事本紀大成経
應神4年

 四年、夏五月、天鳴き赤星然(もえ)て双出で、大き
 さ啓明の如く、二とも光烈くして日の如し。赤色にし
 て朱の如く、初更東天に在り、三更には西天没くる。
                   (啓明は金星)
 天皇、之を異とし → 武内公 ← に問う。大臣奏して曰く。
 この星は妖星なり・・・唯吾が国にみ見られ三韓に見
 われず、是吾が国の妖なり、・・・
831唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/04(日) 16:15:15.02
>先代旧事本紀大成経 應神4年 四年、夏五月、天鳴き赤星然(もえ)て双出で、

これが正しい記録であるならば、応神4年の指標と出来る。
しかし仁徳4年の指標にはならない。

かわいそうに
832唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/04(日) 16:31:12.56
七支刀は、神功五二年の指標である。
しかし、七支刀を369年に設定しても、半島占拠は否定される。
このまま腫脹するならば、日本書紀の記事が信用できない。つまり編年も信用できない。
↑これが太国倍年の主張であるから、否定するのである←この状態でも百済王朝に繋がらない。

七支刀が326年であれば、半島占拠は存在できる。←この場合百済王家は、百済本紀とは合わない

七支刀を369年に設定して、書記を否定するか?
七支刀を326年に設定して、百済本紀を否定するか?
二択である。

太国は、369年を支持し書記を否定している。書記を否定して書記の世継だけを支持することは出来ない。
833太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 16:45:20.85
>これが正しい記録であるならば、応神4年の指標と出来る。
>しかし仁徳4年の指標にはならない。

それじゃぁ、オマエの言う 応神4年=347年 という右辺の年代の
超新星の天文記録があらねばならないが、そんなものがあるなら、
斎藤国治先生他現代天文学者がその年代の超新星☆に言及解説するはず
だが、その年代にサソリ座でも他でもそんな天文現象は見当たらない。

これはステラのソフトでも347年ではそんな現象は存在しないだろうがねぇ。
pppppp・・・・・

斎藤先生の超新星の発現表でもハレー彗星の発現表でも、347年(オマエ
の言う応神4年のことだ)にはそんな現象は起こっていな〜い。
393年はあるがね、347年にはそんなものはない。とにかく天に極度に大きく
光輝を発するから、表に載らないはずはな〜い。

つまりオマエの編年はデタラメだったということが確認出来たのだ。ww
834太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/04(日) 17:01:02.96
宿主は、5重在位を支持し書記を否定している。書記を否定して書記の世継だけを支持することは出来ない。

「星の古記録」斉藤国治著 95頁

A.D.185  ケンタウルス
   393  さそり
   1006 おおかみ
   1054・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上は年代順に掲げてあるから、347年の発現は無い。つまり宿主の言う
応神4年=347年では整合してない。

同著130頁のハレー彗星の表でも347年は無い。

つまり、宿主の言う347年説は成立しないし、347年に凄い綺羅星が出たと
いうことは無いということだ。ww
835唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/11(日) 16:58:23.90
晉書卷三 帝紀第三 武帝より
274年 二月,分幽州五郡置平州。
276年二月。東夷八國歸化。秋七月,安平王隆薨。東夷十七國內附。
277年 三年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,
278年 四年三月東夷六國來獻。十二月 是歲,東夷九國內附。

当該期の朝鮮半島系土器の分布が玄界灘沿岸地域、なかでも博多湾周辺に集中すること、
西日本全体でみると上述のルートと重複する点の多いこと、3 世紀後半以降、福岡県西新
町遺跡に極度に分布が集中するようになることなどが理解された。

魏時代、東夷は9種に分類される。
晋はこの9種を9国として小国家をこの9国に付随させて冊封下に置く。
9種(9国)が278年の記事までに揃ったことは確かである。

神功元年の“あづないの罪”は、273年の日食である。

836太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/11(日) 17:17:11.25
神功元年の“あづないの罪”は、273年の日食とは関係ない。
古今の天文用語に あづない なんぞはないことから明白である。
837唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/12(月) 16:57:05.99
278年までに東夷9種(9国)が出揃う。
この時代の北部九州に畿内の土器がある。
神功渡海時には、畿内は渡海ルートを知らない。畿内の渡海をこれ以上遡上させられないが、
この機会を逃して4世紀半ばの渡海では、武力行使が必要となるが、
神功渡海に大きな武力が使われたとは思われない。

だから、神功元年の“あづないの罪”は、273年の日食である。
このへんが渡海の指標となるのである。
神功渡海は、晋の要請か命令である。
838太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/12(月) 17:03:21.03
>だから、神功元年の“あづないの罪”は、273年の日食である。

日食は数日間続かないのは現代天文学の鉄則であり、オマエの主張は、
熱帯ジャングルの未開人とか精神異常者等とか以外の正常な脳内の人間は
全員棄却する。つまり神功元年前年の記事は日食にはならない。

つまりオマエの論は完全なデタラメそのものなり。
839mirai:2011/09/13(火) 08:45:26.05
 古代天皇の生きた年齢が実際はそうではないであろうのに、現代では考えら
れない長大なものとなって『記紀』に記されていることがあることを考慮すれ
ば、神功元年二月条の「あづなひの罪」は実際は短時間で終わった日食であっ
たけど、あたかも数日続いたように大げさに記された、と考えてもよいのでは
ないかと私は思います。それよりも私はそこに記される物語の内容を重要視し
たいです。
840日本@名無史さん:2011/09/13(火) 10:03:11.16
神功皇后元年の日蝕は、273年というのならその年月日に皇后がいたという御坊市で、日蝕がありましたかな。
841太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/13(火) 10:31:17.03
古代史文献で誇張はあることは確かですが、これは日食ではないですよ。
たかが数分間の出来事ですし数年に一度位は日食は起きてますよ。それが273年
の日食だというのは、この日食の多数の生起のうちで273年とはとても特定でき
ませんね。その年の日食が最大に欠けたと主張しても、皆既日食くらいは古代人
でも分かっとしても、最大の欠け分なぞわかりっこないですよ。
これが日食だというなら、記紀に他にこの年代前後あたりに数回の記載が
あるでしょう。

神功元年前年のこの記事は超異常な気象現象であり、あたかもオーストラリア
でのモーニング・グローリーとかの日本列島を丸ごと包む超大雲が生起して
るような現象がこの年に稀に異常にも生起したということです。だから対案が
あるわけであり、それは日食ではないですよ。
842太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/13(火) 10:37:42.53

古代天皇の生きた年齢が実際はそうではないであろうのに、現代では考えら
れない長大なものとなって『記紀』に記されている

当時の天皇の異常に長いのは誇張ではなく、当時は2倍暦等を行使していた関係
であって、当時の1年は現今の半年等の短期でありますから、現代人とあまり
変わらない年齢だったということです。

誇張ですが、先代旧事本紀大成経の天皇の風貌記述は極度に身長が高く超大柄
になっており、これはそのとおり天皇の偉大さを押し上げたいための誇張で
しょう。過去に博物館で見ましたが、古代中国の女帝が部下よりも二周り位大柄に
なっている絵巻を拝見したことがあり、誇張してるということです。
843太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/13(火) 10:43:14.71
>>842 訂正 >を入れ忘れました。失礼しました。

>古代天皇の生きた年齢が実際はそうではないであろうのに、現代では考えら
>れない長大なものとなって『記紀』に記されている
844日本@名無史さん:2011/09/13(火) 14:17:11.82

3248 金環食 146年8月25日 午前に中国・近畿を横断
3267 皆既食 154年9月25日 午前に本州中部を斜断
3478 皆既食 247年3月24日 日没頃九州西方海上に達す
3481 皆既食 248年9月5日 早朝に能登から奥州へ横断
3538 皆既食 273年5月4日 夕方に本州中部を斜断
3600 皆既食 301年4月25日 日没頃本州北部に達する
3658 皆既食 328年5月26日 早朝に近畿と中部を斜断
4003 金環食 479年4月8日 日没頃本州中部を横断
4238 金環食 574年3月9日 午前に近畿から奥州にかけて斜断
845太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/13(火) 14:35:45.92
提示有難う。

273年のが夕方からならそのまま夜に移行するわけであり、もしくはこの日食と
日の入りの間が若干明るい時間はあるかも〜到底数日間も日を経ての現象とは
言えず、この日食と日の入りが接着してるなら日食は日の入りと勘違いすること
となり、通常の夜間より数分間夜が長く感じるだけであって、神功元年前年の
紀の記事では全然日食とはいえない。
846日本@名無史さん:2011/09/13(火) 19:27:01.32
273年の夕方に本州中部を斜断の日食は、和歌山県では部分日蝕のようですよ。
はたしてあづないとかで騒ぐほどかけたのでしょうか。
847唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/13(火) 20:01:40.35
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。
魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。
及文懿滅後,有護東夷校尉,居襄平。

公孫氏に、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉。晋時代には東夷9種は、9国として冊封される。
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
咸寧二年十月(276年),分昌黎、遼東、玄菟、帶方、樂浪等郡國五置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。

この時、晋に冊封された倭国の勢力は?
北部九州の土器は、畿内の庄内式、布留式土器である。であるならば、
畿内で最初に渡海した軍隊である~功軍である。
神功渡海は、274年である。←この数字を簡単に説明するのが273年の日食になる。
848唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/13(火) 20:24:54.60
百済本紀近肖古王 21年, AD366年.(直訳)
二十一年 春三月 遣使聘新羅 21年(366) 春 3月に使臣を 新羅(新羅)に送る予防した.
五月 帝次于牛頭州 受楽浪帯方等貢物 時句麗与夫余争地 皆順于我 故二国皆順于我也
帝乃率仙巫 親祭于太白山 休礼奈勿宴狗徒于蚊川宅 命稟主賜□?

高句麗が扶余を攻めるのは、320年である。342年以後 句麗、百濟及宇文、段部之人,
皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
342年 慕容恪攻高句麗南蘇,克之,置戍而還。
347年 三年,周校:三年上脫年號,按之當為永和也。遣其世子儁與恪率騎
萬七千東襲夫餘,克之,虜其王及部眾五萬餘口以還。...悉隸燕國。

366年には、高句麗、扶余とも戦争をする能力はない。
366−320=46 46年≒50年
考古学の50年遡上とは、この近肖古王を日本の歴史と整合させてきた文献史学
を否定したものである。
ほけの山古墳(225〜250年)
東海、瀬戸内の壺は、崇神11年異俗多帰以後を表す
棺郭、鉄器は任那よりの朝貢以後をあらわす。
整然と並べられた穴あき壺は埴輪である、垂仁末以後をあらわす。
画紋帯神獣鏡(楽浪鏡、公孫氏の鏡)は時代をあらわす。
であるならば、伊支馬=イクメ=垂仁、都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守となる。
849太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/13(火) 22:07:27.33
伊支馬(猿相当)≠垂仁(人間相当)
850太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/13(火) 22:16:24.30
>伊支馬=イクメ=垂仁
      ↑
まさにこれは弼馬温的デタラメ解釈だ。bbbbbbbb
851唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/14(水) 19:50:19.44
>>846
>はたしてあづないとかで騒ぐほどかけたのでしょうか。

247,8年のいわゆる”卑弥呼の日食”と勘違いしている。
273年の日食は、計算上北陸方面で夕方5時前後に全食である。
北陸は、気長垂姫出発の地である。下向時の日食を帰洛時の記事としている。
852唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/09/14(水) 20:02:22.44
273年の日食 北陸で全食と思われる。
日付273・ 5月4日、大和での食率0.944、夏の5時はまだ日が高い。
かけ始め15:51:34、最大16:56:39、終了17:55:41

853太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/09/14(水) 20:16:01.69
へッへッへ〜〜

数日間も続かないのをこれで認めたわけだな。ww
854日本@名無史さん:2011/10/01(土) 15:24:02.40
スレチかもだが「日本」書紀というからには編纂当時から我が国を「日本」と呼称していたのだろうね
続日本紀など日本書紀を意識したであろう書物もあるから当時から日本書紀は日本書紀という名だったのだろうし
855日本@名無史さん:2011/10/04(火) 18:39:03.60
「日本」の表記はかなり古くからある。ぐぐれ
856ネバオin加古川市:2011/10/04(火) 19:55:13.67
「日本書紀は神話」‥

と言った人に避難ごうごう 笑。

日本書紀は正しい歴史書の部分もあるから、記述としては正しいとは思わないが、「日本書紀は殆ど神話」という意味の短縮なら間違いともいえない。
 ↑
俺の認識。


「日本書紀は殆どが神話」

これは事実。
実在した天皇だからって「史実」とは限らないでしょ?

史実でない部分=神話

そう考えて間違いない
857日本@名無史さん:2011/10/05(水) 19:58:50.95
そうそう
一部の記述が神話じみているからといって
神武天皇の存在そのものを否定することはおろかな行為だよ
858日本@名無史さん:2011/10/05(水) 21:19:06.38
だって明治で陵墓を捏造するんだもん。
いねえだろと思っても仕方ないだろ。
859日本@名無史さん:2011/10/05(水) 21:29:04.39
ある人物に関して捏造或いは事実でないとしか思えない事が伝えられてるからといって
その人物の存在を否定することはできない
その理屈でいけばイエス=キリストも神功皇后も天草四郎もいねえだろって話になる
860ネバオin加古川市:2011/10/05(水) 23:53:19.51
ですです。

実在したか不明の部分は全て「神話」と解釈して間違いない。

よって「日本書記=殆ど神話の本」といってもいい。
861太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/08(土) 19:08:01.12
年月日のある神武以後は神話とは限らんな。

年月日は×年×月×日に××が起こったとの記述だから、神武手前の神代
の神話とは同一視できない。
862唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/09(日) 00:41:44.61
>よって「日本書記=殆ど神話の本」といってもいい。

日本書紀の主張はほとんど正しい。
しかし、百済本紀と同期させることにより、「日本書記=殆ど神話の本」となってしまう。
韓国の正しい歴史書は、最後まで王朝が継続した新羅本紀である。
新羅本紀と百済本紀の間には、50年ほど隔たりがある。
日本の考古学が50年ほど時代を遡上させたのは、百済本紀から新羅本紀への乗り換えである。
七支刀=326年で、半島占拠と領土分与は正しい歴史となる。
863日本@名無史さん:2011/10/09(日) 12:25:55.19
百済王ってのは最終的にどこに消えたの?
しばらく日本にいたよね。
864ネバオin加古川市:2011/10/09(日) 20:55:06.79
これ↓Gフォーラムって携帯電話専用掲示板ですがね。
そこで「日本書紀は殆どが神話。なぜなら殆どが事実でないから」
と言っても誰も理解出来ないんですよ 笑

「日本書紀は殆ど神話」という主張を否定するなら、日本書紀のうち「事実」が何割か証明してもらおうじゃないの!




【神武天皇は存在したか?】
http://g-forum8.com/aibo/r.php/news2/54387/
865日本@名無史さん:2011/10/10(月) 16:10:05.11
>>864
ネバオ in加古川市

貴様が左巻きだってことはよーく分かったから、とっとと失せろ。

※無断充電
「駅のコンセント2円貼って無断充電したら、窃盗罪にはならない(第三者通報の場合のみ)」
866日本@名無史さん:2011/10/18(火) 23:57:36.46
>>856
>>860
神話・伝説・説話は、“ストーリー性”をもってることが大前提。
書紀でストーリー性がある部分なんて半分ぐらいではないか?
しかもお前は「神話の意味は二つある。“沢村栄治の神話”とか“安全神話”とかって意味もあるから!」
なんて、腸がねじ切れるほど“笑える与太話”をしてるようだな。

苦し紛れのごまかしか。
そんな比喩的意味の神話は書紀には無関係だということも分からないのか。

まぁ、何れにせよ、加古川のネバオなる五十男は書紀を一度も読んだこともないんだろう。
867日本@名無史さん:2011/10/20(木) 21:09:29.82
私の日本書紀の認識

神代

史実かどうかは全くあてにならない。編纂者も史実か自信ないから「神話」とした。
天皇家に語り継がれてきた先祖の話(日向神話)を大和の豪族達が語り継いできた神話(出雲・大和神話)の中にあとで位置づけて組み入れていった。
というのも日向からやってきた天皇家自身には出雲とのかかわりは見出しにくいが、神武天皇の后となった事代主神の娘など大和土着の豪族たちは
出雲の神々と縁が深そうだから。

神武以降

ほぼ史実の反映。ただし、年代はあてにならず、系譜も間違いがありそう。年代のズレや天皇の異様な長命は、当時の暦が日本独自の
地域暦で年代換算法も独自のものだったから。中国との外交が始まった5世紀頃から中国の暦が伝わり、天皇の寿命も常識的になっていく。
しかし、記紀編纂時には古代の地域暦は失われていたので仕方なく伝承どおりに記載した。

こんなんでどう?

868唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/20(木) 21:33:30.73
>年代はあてにならず、

最もあてにならない年代は、百済本紀である。
七支刀は領土分与のお礼の品である。
しかし、~功52年=七支刀=369年では、領土分与は否定される。
通常 書記があてにならないためと説明されるが、では、任那建国は?と問うても
だれも答えられない。さらに書記があてにならないと主張される。

書記の主張が正しければ、歴史と整合させられる数字があるはずである。
これまでは、百済本紀に合わせ新羅本紀は無視されてきた。韓国の正しい歴史は
最後まで生き残った王朝の前身である新羅本紀が正しい。
ソウル(漢城)には、百済本紀を正しいとした場合、未知の4世紀遺構が存在する。
つまり、百済本紀と新羅本紀の間には50年ほどの時代齟齬が存在する。
この数字は、以前の考古学と今の考古学の数字の違いと同じである。

>古代の地域暦は失われていた
正しい認識に見えるが、古代の暦が太陰暦であれば、太陰暦のまま短くすればよい。
太陰暦は1章=19年7潤=6940日が基本である。
百済本紀に合わせても、太陰暦にならない。新羅本紀に合わせれば、太陰暦になる。

869日本@名無史さん:2011/10/21(金) 02:39:37.64
日本書記って、はっきりした神話以外は割と正確だって、確か森浩一先生言ってたよ
少し前は、神話神話と言ったけど、発掘が進み、価値観が大きく変わったそうだよ
870日本@名無史さん:2011/10/21(金) 18:55:26.70
どこまでを「神話」とするかは、研究者によって様々だよね。
871日本@名無史さん:2011/10/21(金) 21:58:24.49
神話にしてもその元ネタになった事実はあってもおかしくないしね
872唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/21(金) 21:59:24.32
日本書紀が太陰暦で読めるのは、神武以降である。
その太陰暦が当時の朝廷により、空白年を差し込んで−660年を指すが、空白年を
差し引いて歴史と整合するか?
整合すれば正しい歴史と主張できる。
年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
西暦20年代 唐古、鍵の環濠を埋める洪水(降雨)。考古学:弥生中期後葉。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が少ない時期が続く=寒冷期である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。後漢193年6月寒風冬の如し。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。 金官伽耶 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。

唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。

この出来事を書紀に当てはめると
崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。
考古学:唐古、鍵の住民は居を山辺に移す。
崇神10年 4道将軍の派遣の結果として、異俗多帰。地方の民を連れ帰る=考古学:各地の土器。
崇神58年 新羅209年ころ。3国遺事。加羅建国
873唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/21(金) 22:00:32.96
書紀を太陰暦で読む。
書記 より19*n回(n章)の増し(空白年)を差し引く、正朔である。
天皇   西暦   増し(n章) 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X様式土器の始まり。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜(83年)
懿徳天皇 (84年)〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ≒天日矛の来邦。
開化天皇 184年〜187年 3章 暦に1、2年の異常?開化、崇神の暦を同じとするのが妥当。
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。後漢193年冷夏。
唐古、鍵 弥生後期後半(大和第Y−3)に大量の土器の投棄をもって、大半の環濠は埋没する。
異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り、陶邑のタタネコ=庄内式。
209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国。3国遺事=541年時点で建国330年。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳。半島式木郭墓は田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
874唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/21(金) 22:02:25.07
神功皇后 275年〜343年  ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
の時代、佐紀楯列までの70年間。
唐古、鍵遺跡で環濠の復活。
桜井茶臼山や黒塚古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、274年頃からの西晋洛陽、楽浪の鏡である。
魏の時代には、洛陽にない意匠・図像である。いわゆる卑弥呼の鏡とは、後漢鏡である。
画文帯神獸鏡・方格規矩鏡・内行花文鏡などであるが、卑弥呼以前から流入している。
308年永嘉の乱以後は、完全に仿製鏡の時代に入る。(意匠・図像の使い回し)
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、東夷校尉のもと、大和は半島で警察行為を行う。
新羅312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
316年 西晋滅亡、317年丁丑 倭は朝廷に従わない。半島は空白地帯となる。
323年 癸未年 神功四九年 半島占拠。領土分与=百済建国。
 平州方面の住民が大挙して渡来。
326年 五二年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午 百済本紀の数字には狂いがある。
百済本記 肖古王末 この時代に文字を得て記録を残す。
   晋書 343年 高句麗、百済等は前燕に帰順する。
   343年 仁徳31年立大兄去來穂別尊
   応神天皇 344年〜384年 磐余稚桜宮(桜井茶臼山)から110年後が誉田御廟山。
新羅344 倭国が花嫁を求めたが辞退。
364年 新羅、倭兵が大挙して侵入。仁徳五三年(乙丑三六五)新羅へ派兵。
372年 百済へ東晋の册封使、仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
応神天皇二八年 371年 高麗王遣使朝貢。
履中天皇 400年〜405年 仁徳31年立大兄去來穂別尊とは別人。しかし、この記事は
「継体は応神5世孫」を説明するための舞台である。
反正天皇 
允恭天皇 412〜453年 24年内乱で死亡、倭五王のつなぎ目。讃、珍。
413年 東晉安帝義熙9年 高句麗と倭、共に朝貢。百済、新羅は高句麗に属す。
 
875日本@名無史さん:2011/10/21(金) 22:08:20.27
お前たちのお手軽な偽史運動の化けの皮がはがれるのにも、IT情報革命が一役買うことだろうよ。


876唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/22(土) 23:16:42.64
文献と考古学を整合させて、太陰暦で読む。
何の問題もない。
問題は、韓国漢城の無村土城に”未知の4世紀遺構”が存在することである。
だから七支刀=369年を主張しても、”半島占拠”は否定される。
つまり、百済本紀の近肖古王は、高句麗軍の積石塚を墳墓としている。
877日本@名無史さん:2011/10/23(日) 01:39:52.63
日本書記は神功皇后をトヨとして考えるとつじつまが会うという学説あったな
878 忍法帖【Lv=37,xxxPT】 :2011/10/23(日) 10:33:57.48
878
879唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/10/23(日) 18:07:54.56
訂正
×無村
○牟村
880日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:26:21.67
発掘が進むと日本書記の正しいことが証明されるのは日本人が真面目だからだろう
881日本@名無史さん:2011/10/29(土) 14:07:05.21
神武は日向出身だけど、曽祖父のニニギが葛城の高天の出身。
だからこそ、近畿の豪族たちが、神武の東征を受け入れた。
神武の東征を先導した近畿の豪族たちは、神武の親戚やその姻戚たち。
882太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/10/29(土) 14:39:22.20
>文献と考古学を整合させて、太陰暦で読む。
 何の問題もない。

何の問題もある。

  ↓

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年

 太陰暦を【太陽暦】に改め、

 30日を一月とし、十月を1年と定め給う。
883太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 15:31:17.01
>太国倍年に数字を入れられないのか? 1年が300日の太陽暦←どんなに主張しても
 地球上に存在出来ない暦である。

秀魔電には何でも1年が385日とか1年が265日とかの暦が隠れているとかの
アスス暦とかいう田舎暦にて書かれているという者がいるんだよ。

この者はオマエではないのか〜? ア〜ン、どうなんだ〜〜??ww

そうならば、オマエは口と腹とが違うものを言う野郎だということに
なるが? これは素朴な疑問なんだよ。オマエか〜?
884唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 17:08:25.53
太陰暦は、12ケ月を1年とする。354日程度である。
だから3年程度に1ケ月の閏月を差し込み、ほぼ同期するが、
正しくは、1章を19年7潤・6940日。
4章で1日差し引く。これで1年平均が365.25日の24節気が出来上がる。

>30日を一月とし、十月を1年と定め給う。
この暦を運行して、地球上の暦とできるか?
また 書記の”日々の干支からその正しさを主張できるか?
太国も認める如く、1日につき1干支が振られている。
885唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 17:22:29.60
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)正月戊寅《五》◆二年春正月甲戌朔戊寅。
懿徳天皇二年(辛卯前五〇九)二月癸丑《十一》◆二月癸卯朔癸丑。

懿徳天皇二年正月1日=甲戌朔
懿徳天皇二年二月1日=癸卯朔
29日しかない。

>太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月とし、十月を1年と定め給う。

"朔"を1日とする暦は、太陰暦である。
朔"を1日とする暦は、民でも理解できる。
1年を4季に分ける、民でも理解できる。

>30日を一月とし、十月を1年と定め給う。 民には理解できない。
民に理解できない暦を、万人に理解させなければ”太国倍年”は無い。

886唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 18:07:23.25
>30日を一月とし、十月を1年と定め給う。
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔◆辛酉年春正月庚辰朔。
30日経過すると、庚戌である。

日本書紀には、これ以外の1日(朔)が大半である。
太国主張を正しいとすれば、書記の日付は誤りである。
太国倍年は、書記の誤りである日付から得られた結論であるから、太国倍年も誤りである。
887太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/02(水) 19:06:23.19
>太陰暦は、12ケ月を1年とする。354日程度である・・・
こんな説明を求めてるんじゃないんだぜ。
これは ↓ オマエの論かと聞いてるんだよ。

秀魔電には何でも1年が385日とか1年が265日とかの暦が隠れているとか
の アスス暦とかいう田舎暦にて書かれているという者がいる・・・

>この暦を運行して、地球上の暦とできる。
 当然 書紀の”日々の干支からその正しさを主張できうる。
もっともその正しさをオマエは具体的説明をいまだかつて出来ない。
つまりオマエは説明が2ちゃん等の万民に出来ない。

民に理解できない暦を、万人に理解させなければ”宿主空年”は無い

宿主主張を正しいとしても、書紀の日付は出来ず無説明である。
宿主空年は、宿主の無説明である書紀日付から得られた結論であるから、宿主空年も誤りである。
888唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 23:14:56.55
>1年が265日とかの暦が隠れているとか

ホツマも日本書紀も基本は太陰暦。太陰暦の12ケ月、1年は354日程度である。
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?朔干支を中国と同期させて検証。
西暦  年号元旦朔  増し(章)調整(日)  暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯 辛卯
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
90年  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未 乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥 ☆
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 癸卯 癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 庚戌 庚辰 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 丁巳 戊午 ☆
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑 丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
書紀の暦日から、使われたであろう日数を中国の暦と同期させた。
書紀の主張“正朔”は正しい。
889唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/02(水) 23:22:11.25
年号 西暦  中国朔
神武元年42年0日辛卯・西元42年2月9日
綏靖元年64年8033日甲申8日・西元64年2月7日
安寧元年78年13142日癸巳・西元78年2月2日
懿徳元年90年己卯 安寧と同じ暦
孝昭元年94年18988日己未9日・西元94年2月4日朔
孝安元年120年28467日戊午 戊子 30日早い27日 ・西元120年2月17日朔
孝霊元年146年37976日丁亥12日・西元146年1月30日朔
孝元元年165年44916日丁卯14日・西元165年1月30日朔
開化元年184年51856日丁未4日・西元184年1月31日朔
崇神元年187年52948日己未 開化と同じ暦調整前13日・西元189年2月4日朔
垂仁元年217年63904日乙未2日・西元217年1月25日朔
景行元年240年72320日辛亥 景初暦と同じ
成務元年262年80352日癸卯5日・西元262年2月6日朔
仲哀元年266年81799日庚戌 庚辰 30日早い11日・西元266年2月22日朔
890太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 09:38:23.22
大中臣の下命

     大中臣の偽編年撲滅 ↑ の下命〜その重要年代計測器 天津金木
古代史の真の年代を測る天下の宝器、これを天津神算木(天津金木)と
いう。毒書秀魔電に汚された脳内からのインチキ編年188年のデタラメを
祓う〜過去から未来永劫に金鉄の如きに防備し、頑強な妄想説にびくとも
せぬ、古代人から現今のデタラメ、妄想に騙されないための宝物である。
天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)の説話にある三輪山の三輪
(半径r=3の円)の球化の 体積=表面積 をいう。
天津神算木

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**はベキ乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335  右辺左辺をまたいで  B.C.3113年 マヤ文明元年

☆主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
★死値 A.D.130年 景行天皇 崩御←崇神世の引き立て役たる補助年代

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引のジョーカー数 335年

 335−97=238年 から、西暦0年を除くから1年マイナスとなり

 238−1=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
891太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 09:48:07.10
×成務元年262年80352日癸卯5日・西元262年2月6日朔
×仲哀元年266年81799日庚戌 庚辰 30日早い11日・西元266年2月22日朔
上は整合してないことが↓表でデタラメと分かる。

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 2/11 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人 観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
892太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 09:53:11.13
>ホツマも日本書紀も基本は太陰暦
どこに紀で基本だと記述があるのか?ww どこにもないだろう?
秀魔電のどこにあるのか?

>42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 辛卯 辛卯

 ↑ の具体的説明がオマエは出来ない。
つまり日付での具体的説明が出来ない。すなわちデタラメである。
893太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 12:32:23.06
「増し」の量は、そのままオマエの妄想度量。ww
894日本@名無史さん:2011/11/03(木) 15:54:50.79
所詮、「神話」でしょ。

真偽を問う以前の問題。


クソスレにつき直ちに終了しる。
895日本@名無史さん:2011/11/03(木) 16:16:14.58
日本書紀を神話を断定する理由と
神話を議論に値しないものとして切り捨てることができるということの根拠を述べよ
896唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 16:40:04.73
仁徳天皇元年(癸酉三一三)正月己卯《三》◆元年春正月丁丑朔己卯。
西晉懷帝永嘉7年 ?次:癸酉 生肖:? 西元313年2月12日(星期四)起 春正月丁丑朔

神功皇后摂政三九年(己未二三九)◆卅九年是年也。大歳己未。

神功渡海とは、晋による冊封体制に組み込まれたことを意味する。
当然、連絡には月日は必須である。
だから、~功紀は引き伸ばされていない。
そして、連絡書に書かれる日付は、晋の暦法による日付である。

323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
水羊=みずのとひつじ=癸未
倭は、楽浪方面で使われていた暦を輸入する。
そして、仁徳からこの暦での記録が始まる。
~功39年大歳は、その始まりをあらわし、太陰暦のまま世継ぎを古代につなげれば
42年神武元年が得られる。
そして、ここが神武元年と認識できるか?
ホツマを信じれば、神武東征は、大量の”朝廷”の移動でもある。神武単体では無い。
であるならば、文化にも影響が出る。
それが、1世紀半ばの土器の変化である。
897太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 16:47:34.24
女神の皇祖を男神だとかデタラメを書いている秀魔電は信じられない。
まっ、少しはホネがある点は確かだが、両刃の剣であり、読むときから
疑ってかかるとよい。
898唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 16:55:59.21
>女神の皇祖を男神だとかデタラメを書いている秀魔電は信じられない。

太国が信じずとも、事実は一つである。
書記の太陰暦を否定して、1ケ月が30日の太陽暦を信じるらしいが、
それなら、まず、太陰暦の書記の数字を使った太国倍年は捨てなければならない。

つまり、間違いである書記の太陰暦から導き出された太国倍年は誤りである。
だから”太国倍年”を正しいとする主張がない。
数字だけのごり押し。
899太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 16:57:45.29
太陰暦のまま世継ぎを古代につなげても、空年では42年神武元年が得られ
てもデタラメとなる。↓

【成務5年以後の日本全国の神社等の由緒、伝承】

成務5年 金神社(岐阜市)賀夫良命に国造を賜う
成務5年 会所宮(日田市)鳥羽宿禰を国造に任ず
成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
成務5年 姉崎神社(上総国)諸神を合祀
成務5年 熊野新宮(和歌山県)始めて郡境を分ける
成務6年 熊野神社(千葉県)同年に創建
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務60年 事任八幡宮(静岡県)この頃? 創建
900太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 16:58:59.06
>太陰暦の書記の数字

どこに太陰暦とあるのか? 言ってみい。
901太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 17:01:59.13
神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年

 太陰暦を【太陽暦】に改め、

 30日を一月とし、十月を1年と定め給う。
902唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 17:02:34.09
ウオヒルキ=大日孁貴≠オオヒルメムチ

ウオヒルキに大日孁貴の漢字を振ることは可能である。
オオヒルメムチに大日孁貴の漢字を振ることが可能となる文献を出すだけが出来ない太国。
903日本@名無史さん:2011/11/03(木) 17:16:02.86
伊弉諾尊=吾身陽元=日子→男
伊弉冊尊=汝身之陰元=月子→女
伊弉諾尊勅任三子。天照太神者。月夜見尊者。素戔鳴尊者。”者”=男。

ホ30033 ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて
おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる

神武元年に、これだけの勢力が畿内に入れば、文化に影響が出る。
崇神6年 大物主は、崇神に身をよせ、初子たたねこを仕えさせ、自身は出雲に移る。
大物主が近江に住んでいれば可能である。
近江伊勢遺跡などの異常事態は、唐古・鍵遺跡の異常と同期する。
であるならば、崇神5年の災害は”空前絶後”で良い。
この年をかんがえれば、後漢193年の出来事と同期する。
904太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 17:22:39.63
漢字をふろうがふらないが、日神は女神である。
このことは記紀の言い分が真なのであり、秀魔電の男神の記述は
作者のデタラメの妄想である。

193年の出来事と同期しない。←崇神5,6年と整合しない。

農民は腹ペコで千人では渡るわけがない。騙されはしない。こんどは
コテハン隠しか〜?ww
905唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 18:17:40.33
>日神は女神である。

伊弉諾尊=吾身陽元
伊弉冊尊=汝身之陰元
伊弉諾尊勅任三子。天照太神者。月夜見尊者。素戔鳴尊者。
これは書記の記事である。

この記事から、論をもって日の神=女性を主張できるか?
大日孁貴=オオヒルメムチ ←読みに正当性をもたせられるか?
いまのところ何の説も主張できていない太国。
906太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 18:25:33.21
イザナギ、イザナミは、それは人間じゃぁないんだぜ。

記紀は
そこんところを擬人化してるだけのこと。

本物の人間は国生みの後だ。国生みの前の神代七世の陰陽対の神は
後代と一緒に出来ない。島がないのにどうやって人間だというのか?
UFOの機内で生活か〜? 笑わせるな。ww

ところが国生み以後はどうやら本物の人間だ。だからオマエの言い分は
糞同然だ。ww
907唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 18:30:42.33
>神皇紀 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、
>30日を一月とし、十月を1年と定め給う。

書記の数字から割り出した太国倍年は誤りである。
との主張了解。

>どこに太陰暦とあるのか? 言ってみい。
”朔”を1日として12ケ月を数え、3年に1度程度の閏年(1ケ月多い)
書記の”朔”は、この太陰暦である。
東洋において、暦は太陰暦しか存在しない。だから”太陰暦”の文字も存在しない。
1日に月1干支を振れば、−660年の太陰暦となる。←常識である。
常識を無視して、1ケ月30日で10ケ月を1年とした場合、
地球の運行と整合しない。
整合しない暦を地球上の暦であると主張しても、歴史と整合させられないから、
大中臣…とか言うんだろ?
我が家の家系図
天児屋根命〜21代鎌足〜藤原姓4代乙麿→是公後胤
是忠→宗忠→宗興→親維→親俊→兼澄→景武→維則→維慶→公尭→
祐儀→祐氏→政秋→實英→實ネ喜→實敦→光央→光仲→光祐=永禄7年誓詞。

我が先祖は、太国倍年を支持しない。

908太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 18:38:21.30
秀魔伝も太国倍年を支持している。

ほ〜ら、素朴な疑問を持っているがねえ〜

1年385日の暦法と1年265日の暦法が秀魔伝のアスス暦とかから
存在を主張してる奴がいる。倍暦の一種の主張了解。
909太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 18:39:27.33
910唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 18:40:45.78
仲哀天皇元年(壬申一九二)十一月乙酉朔◆冬十一月乙酉朔。
仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月戊午《四》◆閏十一月乙卯朔戊午。
仲哀天皇二年(癸酉一九三)正月甲子《十一》◆二年春正月甲寅朔甲子。

仲哀元年に閏11月が存在する。
だから太陰暦である。


911太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 18:42:07.65
               ↑
         これで常識を無視か〜?
912太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 18:47:42.80
各天皇の代に閏など書かれてないだろう。
そこは閏をやってても、それの記載が無い代ではあったとは言えない。
暦法はくるくるくるくる変更しているようだぜ。

だから太陽暦をやってて太陰暦に変更したり元に戻したりしてるらしいん
だから、日数がどうの言っても糞の役にも立たぬことが多いということ
だ。だから年代で決めたほうが利口なのだ。オマエは美濃もん太氏からも
最高に要領の悪い野郎だと言われるわけだし、倉西女史からも他で
やってと呆れられるわけさ。ww
913唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 18:58:56.73
>>911
非常識人 太国。
914太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 19:03:23.76
日食が数日間も続くとかいう大ウソ論などを頑張るオマエは、非常識人
以上の精神病院ご到着→五重在位←眉唾のデタラメ。
915太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 19:08:38.23
整合する暦を地球上の暦であると主張して、歴史と整合させられるから、
整合する文献☆☆が在る。以下のとおり。

皇紀西暦 倍暦
564 -97 237 崇神天皇即位元年 景初元年
565 -96
566 -95
567 -94 238 景初2年
568 -93
569 -92     ☆紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳 倭笠縫に鏡を祭祀
570 -91 239 ☆景初3年鏡銘文年 ↑ 鏡改鋳とほぼ4ヶ月に近接(整合)
・・・・・・・
618 -43 255 戊寅年(皇紀の干支)
619 -42
620 -41
621 -40 256
622 -39
623 -38
624 -37 257 葛木神社伝承 戊寅七年(戊寅年から7年目)
625 -36
626 -35
627 -34 258 記の崇神 戊寅 没年
628 -33
629 -32
630 -31 259
631 -30     崇神天皇 没年
916太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 19:18:11.33
>>915のとおり、鏡記事はピタリと整合している。
つまり崇神6年ころは 239年=景初3年 に近接し、確実に整合だ。

つまりウィンドウ95が発売されれば、1995年ころに爆発的にウィンドウズ
95を一般人が使用するのは当然の当然だ。
オマエのは何の鏡重要行事も認められない景行元年にして、50年も
ズレて主張している。つまりオマエのはウィンドウズ95を50年後の
2045年に集中的使用だとインチキを語っている。ppp

つまりオマエの論は整合せず、50年も狂ったデタラメであ〜る。
917唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 19:26:34.50
>>915
> ☆景初3年鏡銘文年 ↑ 鏡改鋳とほぼ4ヶ月に近接(整合)

纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡、鉄器、木郭墓、穴あき壺(埴輪) 庄内3式期末
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1) △鏡の副葬

崇神6年で説明してくれ。


918太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 20:21:43.25
考古はあてにならない。
オマエが考古で考究しろ。
919唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/03(木) 21:55:56.54
>考古はあてにならない。オマエが考古で考究しろ。

研究した結果、太国倍年に整合させる文献は無い。
だから考古学とも整合しない。
これから結論を導くと、太国倍年はゴミ。

ホケノ山古墳(225〜250年)茅原→菅原 スゲ・カヤは、植物学的に同一である。
地名の変遷を認めれば、垂仁墓である。
(225〜250年)の間に垂仁末をあてはめれば、倭人伝の官は伊支馬=イクメ=垂仁である。
ここからさかのぼって任那建国は210年あたりである。
であるならば、崇神は2世紀末からとなり、景行は箸墓までである。
考古学と文献はここでしか整合しない。
だから太国は数字を主張する以外になすすべもない。
数字だけなら、書記の数字に?をつけながら読むほうがよっぽど正解に近い。
~功49年半島占拠、領土分与は事実である。
しかし、七支刀=369年では否定される。←否定する数字に間違いがある。

太国が1ケ月が30日の暦である、と主張する限り書記の数字から得られた太国倍年は誤りである。

△鏡は、初めての朝貢(239年)と倭王位授与(240年)を起点として発展した大和の指標である。
決して、民の離散を顕彰した数字では無い。
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 22:26:29.54
研究した結果、宿主空年に整合させる文献は無い。

オマエのはこの前の千葉歴博班の考古鑑定基準値結果からなんと50年
もの逸脱がある。
だから考古学とも整合しない。宿主空年はゴミ以下のクソ。

倭人伝の官は伊支馬=イクメ=垂仁でない。

臣下の伊支馬は後代の道鏡の如く天皇には絶対なれない。つまり猿は人間
の身分にはなれないのと同様である。つまりオマエのは精神病院ご歓迎の
口走りであ〜る。ww
これを強行することはまるで映画の「猿の惑星 創世記」さながらの
「猿の惑星 うそ西紀」であり、こういう惑星は電波星らしい?
つまりオマエのこのピピピ・・・論は失笑論である。bbbbbb

>任那建国は210年あたりである←こんなのはオマエのご都合のデタラメ。
崇神は2世紀末からとはならない。崇神即位元年=237年 であ〜る。

宿主が毎年が空虚の暦である、と主張する限り書記の数字から得られた宿主年は誤りである。
921太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/03(木) 23:19:31.04
研究した結果、太国倍年に整合させる文献は在る。
 
           ↓

http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG

1年が365日でない1年が385日とか1年が265日の暦法の存在を示す文献
が上のURLである。1年が265日となると古代エジプト暦の1.7倍暦法と
おおむね同日数であり、このことは1年が365日でない暦があることを
意味している。つまり倍年暦の存在の文献は存在する。
922唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 01:29:59.44
>つまり倍年暦の存在の文献は存在する。

そうなら、文献と整合する数字を主張すれば?
>☆景初3年鏡銘文年 ↑ 鏡改鋳とほぼ4ヶ月に近接(整合)
>考古はあてにならない。オマエが考古で考究しろ。

考古学に整合せず、文献とも整合しない。
崇神世には、任那建国がある(書記の記事など)←文献を出せば?
任那建国とできる文献は210年を指す。であるから、考古学の纒向年代と整合する。
923唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/11/04(金) 01:49:49.01
太国倍年の最大の欠点は、
治世の長い天皇に3倍、そうでもない天皇に2倍、短い天皇に1倍と
治世の平均化をはかっただけである。
だから世継ぎ年齢では、現在でもまれな高齢出産が存在してしまう。
時代が弥生であれば、平均死亡年齢は、40歳弱が考古学の見解である。
これを現在とほぼ同等の年齢である、と主張するが、出産年齢のばらつきが大きすぎる。
924太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 15:16:14.41
考古学に整合して、文献とも整合する。
鏡の銘文は考古関係ながら紙面でない金属面での文献である。勿論考古
が間違っている場合も多いが、これは金属面での文証であるからして、
年代は間違いはない。
以下のように4ヶ月だ。これは整合してる。
オマエのは50年も後代で、ウィンドウズ95の件から著しい不整合である。

・・・・・・・
567 -94 238 景初2年
568 -93
569 -92    ☆紀の崇神6年 鏡作神社 鏡 改鋳 倭笠縫に鏡を祭祀
570 -91 239 ☆景初3年鏡銘文年 ↑ 鏡改鋳とほぼ4ヶ月に近接(整合)
・・・・・・・

上表の通り☆☆ピタリと整合しており、コチラのは50年後だとか50年前だと
かにはならない。つまりオマエの主張の「整合しない」というのは虚勢の
意気張りにすぎす、1〜3年ななら整合のうちだが、50年後ではとてもじゃ
ないが整合とは言えない。つまりオマエの言い分は完全な詭弁のデタラメ
だ。ww 泣け!!
925太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 15:20:17.46
>治世の長い天皇に3倍、そうでもない天皇に2倍、短い天皇に1倍と・

短い天皇だから 1倍だとは必ずしも言えない。
履中などは2倍暦法だ。よく考えて書きこめ。

昔は2倍、3倍、1.7倍等々、種々の暦法があったということが真なの
だね。

            ↓

http://www.geocities.jp/hotsuma_koyomi/kodai_nihon.JPG
926日本@名無史さん:2011/11/04(金) 15:59:44.14
神武って天武の夢に出てきただけの奴だろ。まあ実在はしないだろ。
でも、神が夢に出てくるって日本書紀結構多いよな。
キリスト教の影響でもあるんかな。
遠いけどコンスタンチヌスみたいな例しか思いつかん。
中国の史書には、神が夢に出てきたなんて記述ないだろ。
どこを元ネタとして話作ったんだろう。
927太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/11/04(金) 16:18:17.30
紀には神武の代、年月日の記載があることから、創作とは言えない。
928唐松山 ◆V0F34EbmQA
>金属面での文証であるからして、年代は間違いはない。

しかしだ、崇神は、ホケノ山古墳(225〜250年)以前である。
ホケノ山は、半島の木郭墓、大量の鉄器、穴あき壺は初期の埴輪。ここから考えても垂仁末の形態である。
しかし、△鏡は、桜井茶臼山からであり、ホケノ山から見て50年ほど後の副葬品である。
そして△鏡の画像の種類は100程度。
ホケノ山の楽浪鏡は、公孫氏の時代の鏡である。つまり、公孫氏が滅ぶ238年以前に輸入されている。
そして、任那建国は、ホケノ山以前でなくては、ホケノ山の説明が出来ない。
であるならば、三国遺事541年時点で建国330年の金官伽耶が任那建国である。
任那建国を210年として数年後に任那からの朝貢。
そこから、垂仁世の始まりとすれば、垂仁末田道間守の派遣は、239年である。
ホケノ山古墳(225〜250年)←239年と考古学と文献に整合する。
考古学の数字に50年加えると、△鏡にもあてはめねばならないから、崇神から△鏡は遠のく。

△鏡で崇神を説明できない。←これが結論である。
崇神世に△鏡が存在したのであれば、垂仁末の形態であるホケノ山に存在せねばならない。
しかし、ホケノ山(庄内3式末)はその直前の楽浪鏡である。
庄内4式の時代の墳墓には、△鏡は副葬されていない。
△鏡の副葬は布留1式からである。