【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その12

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1日本@名無史さん
前スレを含む日本史板全体が、9月初旬以降サーバ落ちしていますが、今回新たに纏向遺跡の『桃』発見がありましたので、急遽マキムクスレを再開したいと思います。
(今次『桃』発掘の最新報道は、>>2以降に貼ってください)

─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!

「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」

■前スレ
その11 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1269689002/
その10 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1264210467/
その9 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1262915333/
その8 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1259561327/
その7 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1246924785/
その6 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1238078055/
その5 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1231414308/
その4 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1222374987/
その3 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203827235/
その2 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177791246/
その1 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1166155276/
2日本@名無史さん:2010/09/18(土) 02:14:58

■穴から桃の種2000個=3世紀半ば、祭祀で使用か−奈良・纒向遺跡

時事通信 2010/09/17
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010091700749

 3世紀前半の大型建物跡が見つかり、邪馬台国の有力地とされる纒向遺跡(奈良県桜井市)を調査している桜井市教育委員会は17日、建物跡の南側の穴から、桃の種2000個以上と多数の土器、木製品の破片が見つかったと発表した。
いずれも3世紀半ばのものとみられ、同教委は「大型建物の解体に伴う何らかの祭祀(さいし)で用いられたのではないか」と説明している。

 建物跡の南5メートルの地点では、3世紀前半の柵の跡とみられる11の穴も確認。以前に見つかった西隣の建物遺構2棟を囲む柵跡とつながっており、3棟が柵で囲まれていたことが裏付けられた。
柵の外側には大型建物と同時代の遺構はなく、同教委の橋本輝彦文化財係長は「大型建物を際だたせるため広い空間を作ったのだろう」とみている。

・写真
http://www.jiji.com/news/kiji_photos/20100917at39b.jpg
3日本@名無史さん:2010/09/18(土) 02:32:43

■纒向遺跡から祭祀用?桃の種2千超 邪馬台国有力候補地

朝日新聞 2010年9月17日
http://www.asahi.com/culture/update/0917/OSK201009170081.html
 
 女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、大型建物跡そばの穴から2千個を超す桃の種が出土した。市教委が17日、発表した。
桃は古代、魔よけなどに使われたとされ、市教委は「祭祀(さいし)に使った後に捨てた可能性がある」とみている。

 纒向遺跡からは昨秋、3世紀前半では最大の建物跡(東西約12.4メートル、南北約19.2メートル)が見つかり、卑弥呼の宮殿とみる研究者もいる。
市教委は7月から、建物跡を取り囲むとみられる柵(さく)列の延長を確認するため南側を発掘調査。
その結果、建物跡の南約5メートルで、楕円(だえん)形の穴(東西約2.2メートル、南北約4.3メートル、深さ約80センチ)が見つかり、2千個以上の桃の種(直径約2.5センチ)が埋まっているのを確認した。

 竹ざる6点(直径30〜60センチ)や木製の剣、故意に割られた土器片、漆塗りの弓、獣骨なども出土し、いずれも祭祀に関連するという。
市教委は土器の形から穴は、卑弥呼と同時代の3世紀中ごろのものとみている。桃の種は弥生や古墳時代の各地の遺跡で見つかっているが、1カ所でこれほど大量に出るのは異例。
(つづく)
4日本@名無史さん:2010/09/18(土) 02:33:51
(朝日新聞つづき)

 古代中国の道教の神仙思想では、桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされた。
3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は卑弥呼が倭国(わこく)を鬼道(きどう)(呪術)で支配したと記し、鬼道を道教とみる説もある。
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が竹ざるに桃を積み上げて祭事を行ったのではないか」と話す。

 現地説明会は19日午前10時〜午後3時。問い合わせは同市立埋蔵文化財センター(0744・42・6005)へ。(渡義人)


・纒向遺跡から見つかった大量の桃の種と竹ざるの遺物=奈良県桜井市、森井英二郎撮影
http://www.asahicom.jp/culture/update/0917/images/OSK201009170082.jpg

・桃の種などが出土したの纒向遺跡の穴
http://www.asahicom.jp/culture/update/0917/images/OSK201009170084.jpg

・遺跡の位置関係図
http://www.asahicom.jp/culture/update/0917/images/OSK201009170085.jpg

・地図
http://www.asahicom.jp/culture/update/0917/images/OSK201009170095.jpg
5日本@名無史さん:2010/09/18(土) 03:14:25

■2千個超える“魔よけの果実”発見 奈良の纒向遺跡

産経新聞 2010.9.17
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009171959002-n1.htm

 邪馬台国の最有力候補地とされ、「女王・卑弥呼の宮殿」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)が確認された奈良県桜井市の纒向遺跡から、全国最多となる2千個以上のモモの種が見つかり、桜井市教育委員会が17日、発表した。
モモは古くから魔よけの果実とされ、中国の歴史書・魏志倭人伝に記された卑弥呼の「鬼道」で使われたとする見方も浮上している。

 モモの種は、大型建物跡の約5メートル南に掘られた3世紀中ごろの穴(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ80センチ)から見つかった。
今回、新たに確認されたさくの延長と重なっており、さくの撤去後に掘られたと推定される。

 モモの種は2センチ前後で果肉が付着したままの保存状態の良いものもあり、果実のままだった可能性が高いという。竹製のカゴ6点も一緒に出土し、カゴに盛られたまま投棄されたとみられる。

 ほかに木製の剣や人為的に割られた土器片、漆塗りの弓、獣の骨などが見つかり、どれも祭祀に関係するという。穴とは別の場所からは銅鐸の破片1片も出土した。

 調査した橋本輝彦・桜井市教委文化財課係長は「建物群の解体時に執り行われたマツリの痕跡かもしれない」と話している。

 現地説明会は19日午前10時〜午後3時。JR桜井線巻向駅から徒歩約5分。雨天中止、駐車場はない。

・纒向遺跡から出土した桃の種と籠=15日、奈良県桜井市東田(沢野貴信撮影)
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100917/acd1009171959002-n1.jpg

・纒向遺跡から出土した柵列跡(白い棒の位置)と、桃の種や土器が出土した大型土坑(作業員が立っているところ
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100917/acd1009171959002-p2.jpg
6日本@名無史さん:2010/09/18(土) 04:02:07

■蘇る卑弥呼の「鬼道」 不老長寿の仙薬か

産経新聞 2010.9.17
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009172016003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009172016003-n2.htm

 倭国女王・卑弥呼(2世紀末〜3世紀前半)がいたともいわれる纒向遺跡(奈良県桜井市)の大型建物の“軒先”に掘られた穴から、ザクザクと出土したモモの種。
古来、不老長寿の薬効や魔除けの呪力を持つと信じられた果実だけに、専門家たちは2千個という数の多さに驚きを隠さない。
「国家的規模の祭祀を示す」との見方で一致し、「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」と中国の歴史書「魏志倭人伝」に描かれた卑弥呼の呪術に迫る発見だとの声も上がっている。

 金原正明・奈良教育大教授(植物考古学)によると、モモは弥生時代に稲作とともに国内に入ってきた。
現在の大きなモモは明治時代に日本に入った種類で、江戸時代まではスモモかウメほどの大きさだったという。

 金原氏は「1カ所から出るモモの種は多くても数十個ほど。千個単位は全国に例がない」と驚く。
「天皇による新嘗祭(にいなめさい)の原初形態のような国家的な儀式だったのだろう」と推測する。

 「大型建物の中でモモを盛ったカゴをいくつも並べ、卑弥呼が行った祭祀の情景をありありと思い浮かべさせる」と感嘆するのは辰巳和弘・同志社大教授(古代学)。
モモは、中国・前漢の武帝に特別なモモを与えたと伝えられる道教の女神、西王母(せいおうぼ)の神仙世界を象徴する果実で、「不老長寿の願いが込められた卑弥呼の『鬼道』の姿を具体的に表したものだ」と明言する。

 一方、石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は、1片だけ出土した弥生時代を象徴する銅鐸の破片に着目する。
纒向遺跡周辺の弥生遺跡の最近の調査で、卑弥呼が登場する時期に銅鐸が破壊され、再利用されたことが分かってきている。
「卑弥呼は銅鐸を破壊して弥生の神を否定し、モモに象徴される神仙思想(=鬼道)を引っさげて登場したのだろう。明治時代の廃仏毀釈にも似た宗教改革を断行したのではないか」と語った。
7日本@名無史さん:2010/09/18(土) 22:36:50

■段状に大規模造成か 養老町の象鼻山古墳群、調査委発表

岐阜新聞 2010年09月15日
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100915/201009151003_11674.shtml

 ◆山頂部と周辺、同じ2世紀代築造

 養老郡養老町橋爪の象鼻山古墳群で第5次発掘調査を行っている象鼻山古墳群調査整備委員会(委員長・宇野隆夫国際日本文化研究センター教授)は14日、発掘対象の12、14号墳の調査結果を発表した。
山頂部とその周辺の墳墓の築造が2世紀に集中、似た築造方法で作られたとみられ、宇野委員長は「丘陵の形を人工的に段状に造成し、計画的に整備したと考えられる。全国でも類似例がないのでは」としている。

 象鼻山(140メートル)には大小70基の古墳・墳墓がある。第4次調査までに山頂付近の4基が発掘調査され、1号墳は県内最古級で3世紀中ごろの前方後円墳。
残りは2世紀中ごろに造られた可能性が高いことが判明している。

 5次調査では古墳群の全体像を調べるため、山頂から数十メートル南東に下った斜面にある6基を対象とし、このほど12、14号墳の2基の調査を終えた。

 12号墳から出土した土器片は2世紀後半の制作で、2基の築造方法は先の4基と同様、斜面を平らに造成して盛土を施していたことが判明。
この時期の古墳群は自然の地形を生かした築造が一般的だといい、象鼻山では指導者が相当大規模な土木事業を行ったことが想像されるという。

 12号墳は約18メートル四方の方墳、14号墳は直径16メートルの円墳であることも分かった。この時期の円墳は同古墳群で2例目だが、東海地方でほかにないという。

 委員の赤塚次郎愛知県埋蔵文化財センター調査課長は「これほどの作業には大規模な動員と土木量が必要。地域を越えた大きな力を持つ指導者の存在を感じさせる」としている。

 19日午後1時から現地説明会が開かれる。問い合わせは養老町役場の生涯学習課、電話0584(32)1100。


・造成した地面から高く土を盛ったことが分かった象鼻山12号墳=養老郡養老町橋爪、同山
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100915/201009151003_11674.jpg
8縦目仮面:2010/09/18(土) 23:50:37
>>1
乙です。
9日本@名無史さん:2010/09/19(日) 02:15:59
誰か、神仙思想やら、西王母やら、
神仙思想について、詳しく書かれている
サイトやら、書籍やら、教えてください。
あと、小説でもあったのなら、教えてください。

10日本@名無史さん:2010/09/19(日) 02:55:07
歴史小説は目が曇るぞ
11日本@名無史さん:2010/09/19(日) 03:34:53
>>10
小説はフィクションだのは分っているがw
神仙思想を題材にして、なんか小説とか書きたいなと思って
聞いてみただけ。

そういえば、雷火とか、邪馬台国幻想とかいう、
邪馬台国を舞台としたマンガとかあったけど
いずれも神仙術の使い手とかなんとかいうファンタジーになっていたから
興味をもっただけです。
邪馬台国の時代は文献が少ないから、歴史小説というよりも、伝奇小説とか
ファンタジー小説って体裁を整えないと書けないと思うので
そこで神仙術とか妖魔(山海経に登場するような)を登場させて
書けないかな?と思ったのです。
12日本@名無史さん:2010/09/19(日) 04:22:06
どうだろうな?
そういう奴に限っておもいっきり創作に影響されたりする
13日本@名無史さん:2010/09/19(日) 04:52:18
東洋文庫で唐の時代の伝奇集をあたってみたらどう
14日本@名無史さん:2010/09/19(日) 05:02:24
十二国記って、山海経に登場する妖魔が
いっぱい登場するよな。
15♪伊勢の名物〜www:2010/09/19(日) 05:26:22
>>1  乙
しかし例の「桃の種」のお話は久々の燃料投下だったみたいだが
個人的には現時点で「鬼道=仙道」まで引っ張るのは些か牽強付会だとは思う。

むしろ
>「天皇による新嘗祭(にいなめさい)の原初形態のような国家的な儀式だったのだろう」と推測する。
と言うのがスンナリ腑に落ちるw

大和朝廷と言うかヤマト王権の祭祀にはどうも
「食」と言うか「食道楽」とか「グルメ志向」とでも言うイメージが強いwww

神宮のある伊勢志摩と言えば古来より「御食国(みけつくに)」であって
そこに祀られる天照には外宮に豊受と言う専属の飯炊き女(?w)もいるw

ここだけの話、実は纏向から大量に出る東海系の土器も
塩漬けの海産物入れてきたんじゃないかと妄想しているw

現在でも伊勢志摩あたりで捕れた大量の鯛を塩漬けにして伊勢神宮に奉納されていて
その奉納に向かう船には「太一御用」の幟を立てられ他の船は航路を譲る

…まあ昔TVでみた関西ローカルの「真珠の小箱」の一コマの記憶だがwwww
16日本@名無史さん:2010/09/19(日) 05:58:46
なにも日本神道が中国起源とは言ってないように思うけどな。
普通に卑弥呼のキドウは、自然崇拝に根差した原始宗教で
こういうのは、世界中どこでも普遍性のあるもの。
ただ、神仙思想で桃や丹が重要だったことを
この時代にすでに中国と同じ価値観を持っていたことが重要なんだわ名。
17日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:01:12
不老長寿へのあこがれは、古今東西の人間の究極の目標であり、
これは、中国だろうが、日本だろうが、かわらない。
でも、重要なのは、桃とか、丹が
不老不死や不老長寿と関係があると考えていたことが
日本でも中国でも同じだった事のほうが重要。
18日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:08:48
>>15
なんでわざわざ草生やしてるの?
自分に自信が無いの?
いずれにしてもバカみたいだからやめたら?
19日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:22:35
人形の肉を食ったら不老長寿って話があるな。
20日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:34:15
桃とか、丹が不老不死や不老長寿と関係があるという思想が
大陸の宗教観の輸入品だからな

卑弥呼の鬼道は大陸でいう鬼道
21日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:37:58
>>20
本居宣長的な國学思想では、日本はもともとは中国の影響がない
純正の国家だと言う思想が影響している。
邪馬台国九州説なんかでもそうだ、これ本居宣長が提起した説だからw

でも、そういう説を出回らせたせいで、そこから
古代日本は野蛮という思想が、現在にはびこっているんだよw
騎馬民族征服王朝説なんてそう。
これを聞いたら本居宣長は激怒するだろうが、実は
本居宣長の説がきっかけで、こういう説が生まれたんだよ。
22日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:41:02
でも、いまでは、日本と中国の文明の接触が
日本の歴史の長さの証明にありつつある。
たしかに、日本は紀元前の時代から中国の思想が入っていたかもしれんが
それは別の味方だと、日本は紀元前のころから、国家が成立していて
中国と同様の思想文化があったことがわかっている。
こうなれば、騎馬民族征服王朝説なんて出回る余地はないんだがな。
だって、日本はそうとう古い時代から強力な国家が誕生していたわけだから。
23日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:41:59
自然崇拝に根差した原始宗教や迷信呪いを鬼道と言うんじゃなくて
教団道教の神仙思想を取り込んだものも鬼道と呼ぶようになった
これが五斗米道だ
24日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:49:13
東大寺山古墳中平年鉄刀
丁度黄巾の乱の時にヤマトと大陸にコネクションがあったという事だ

フフフ
25日本@名無史さん:2010/09/19(日) 06:53:13
鬼道って要するに霊媒でしょ。イタコのことだよ。
霊媒師を呼んで、国をまとめたんだね。
船乗りの依代を作ったりとかも、卑弥呼が持ち込んだものだろう。
26日本@名無史さん:2010/09/19(日) 07:15:29
前漢王朝を滅ぼした王莽の頃の中国の通貨が
岡山から大量に出土しているんだから
これって、紀元元年前後の話だから、その頃から
中国との交易は活発だったということでしょう?
27日本@名無史さん:2010/09/19(日) 07:23:52
そう、リアルタイムだと思うな
28日本@名無史さん:2010/09/19(日) 07:26:19
西暦5年、王莽の時代に
東夷の王が、渡海して、朝貢してきたとあるんだがな。
29日本@名無史さん:2010/09/19(日) 07:32:05
それも倭だと思う
30日本@名無史さん:2010/09/19(日) 08:33:39
東遷説や騎馬民族征服王朝説なんてのは完全に死亡したな。
31日本@名無史さん:2010/09/19(日) 08:38:51
王権としては
普通に近畿から発祥したとしか思えん。
九州から引っ越す必要などないんだがな。
32水銀厨:2010/09/19(日) 08:57:58
桃2000個というのは結構重要な発見ですね。

私は以前からこの場所を水銀朱の産地の麓で、
桃の木を植えたりしている事から
神仙世界を目指した宗教都市だと言ってきましたが
少なくとも実証出来る証拠が一つ出てきたと思います。
33日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:10:30
モモソ媛命
34日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:11:35
この時代の建物って、どんな感じだったのかな?
神社の鳥居みたいに真っ赤だったのかな?
35日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:22:18
桃なんか日本では縄文時代から食されてきていることがわかっているというのに
種が出てきた程度のことで、なんでことさら神仙思想に結びつけたがるのかわからん
36日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:27:00
っていうか、弥生時代に桃が栽培されていたことは既にわかっていたこただろ
畿内で発見されたからといって、何をわざとらしく騒いでいるんだろうな?
37日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:37:18
また一世紀繰り上げ年代測定が見られそうだな
38水銀厨:2010/09/19(日) 09:38:05
>>36
重要なのは発見された場所と数です。
流石に食用とは考えられないでしょう。
消費する場所が周囲にあるとは思えませんからね。
酒という事も考えられますが、これも祭祀との
関連性は高いですから。

桃の原産が中国ですからね、古くからあるという事は
交流がある事の証ですよ。
丹と桃が揃えば嫌でも神仙思想を連想しますから。
39日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:48:01
漢字で書かれた戸籍とか出土したら、凄い発見なんだけどな。
40日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:52:17
一宗教都市が倭国でも抜きん出た中核国家になって行くというのは想像しづらいなあ
41日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:53:46
>古くからあるという事は交流がある事の証

日本にはもともと桃が自生していたんだよ
弥生時代に中国から栽培種が入ってきたというだけのこと
42日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:57:31
>>40
鬼道を用いて民を惑わすとされている位ですから。
43日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:58:16
國学思想の連中は
対中国との関係でムキニなって
韓国人に歴史を奪われた大バカ者。
44日本@名無史さん:2010/09/19(日) 09:59:15
>日本にはもともと桃が自生していたんだよ

ソースあるの?
45日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:01:48
桃自体は、大昔から日本でも自生していたが
桃と不老長寿を関連付ける考え方は
中国からの影響が強い可能性が強い。

ぎゃくにいえば、ヤマト王権は、わざわざれの想像以上よりもはやく、
建国し、また、漢字の知識などもあった可能性が高い。
一般では漢字は普及してなかったが、知識層では、
中国との外交の関係から、漢字が使われていた可能性がある。
46日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:05:16
巻向のあたりは、紀元2世紀位から首都になったかもしれないが、
それ以前は、御所市のあたりに首都があったと踏んでいる。
47日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:15:56
葛城VS三輪の戦いがあったのあろう。
歴史上6〜7世紀の時点でごちゃまぜにされているが。
48日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:30:02
>一宗教都市が倭国でも抜きん出た中核国家になって行くというのは想像しづらいなあ

いやいやいや、そもそも「宗教都市」なんてものが他に無いだろうって話でw

宗教に特化した都市ならそれこそ抜きん出た存在だろうとwww
49日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:37:33
>>38
こういう奴が「黄金ジェット」を連想しちゃうんだろうなw
50日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:45:33
>>48
宗教都市はどこまでも宗教都市であっって、現実の覇権を握る国家になるとは考えにくいよ
ことにその「宗教」が後代にさほどの影響も及ぼさず消えてしまったものならなおさら
51水銀厨:2010/09/19(日) 10:45:41
>>49
黄金ジェットってよく知らないけどオーパーツの類?
そういうのは全然興味ないですよw
52日本@名無史さん:2010/09/19(日) 10:58:27
興味のあるなしじゃないだろ
53日本@名無史さん:2010/09/19(日) 11:07:33
しかし道教云々は別にしても件の桃の種
DNAとか何とかでどの地域で採取されたものか分からないのかな?

穀類や堅果類と違ってあまり日持ちするようなものじゃないだろうし
纏向にどれくらいの範囲からモノが持ち込まれたか測る材料になると思う。

>>50
まあ「宗教都市」だけが単独で発生するはずもなく
当然それを造り運営した権力勢力があっての話。

逆に、全く王権の庇護等もなく発生し隆盛を極めた宗教都市なんてあったのか?
正直思い当たらないw


>黄金ジェット
ああ、これか…

http://www.nazotoki.com/airplane.html

まあ元ネタが水中の生物なら流体力学の道理には適ったフォルムなんだろうなw
54水銀厨 :2010/09/19(日) 11:16:27
唐古遺跡でも桃の種は発見されていたはずですが、
漠然と初瀬川上流に古くから桃の木が植えてあるという事で
この場所産だろうと言われてましたけどね。

>>52
ちょっと見たけど連想もしませんよw

55日本@名無史さん:2010/09/19(日) 11:17:20
倭国大乱とは、
葛城(高尾張=タカオハリ)と三輪(山処=ヤマト)の戦いだが
どちらも高天の家系同士。
兄の家系が葛城、弟の家系が三輪。
出雲国譲りをしたのが、葛城のほうだが
その直後に、九州高千穂に派遣されたのが、三輪の家系。
56日本@名無史さん:2010/09/19(日) 11:58:14
>>54
自国の文化と隣国の文化を
それがあったというだけで根拠もなく
勝手に結びつけて断言しちゃう態度を
単なる魚や鳥の造型を飛行機だと断言してしまった
オーパーツの黄金ジェットに例えて揶揄されているんだよ
57日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:02:58
大陸由来なら通り道にも当然その痕跡があるはずですよね
58日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:09:07
>>56
さすがにそれはあんたのこじつけだろう、無理やり過ぎ。
59日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:10:43
>>56
たしかに、それは言えている。

>>57
邪馬台国時代は、その例の通り道さんが無視されやすいのは
その通り道さんは、大半が中国の行政区間に併合されていたからw
60日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:10:55
大陸厨の卑弥呼で自国文化を語られてもなw
61日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:16:10
>>59
俺の言った通り道は北九州〜瀬戸内(邪馬台国畿内説だった場合)だよ
今後この辺からも神仙思想を匂わせる何かが見つかれば…
今ポンと巻向で桃が見つかっただけでそれを大陸渡来と断定するにはちと弱い
62日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:37:43
>>61
投馬国ってのは、中古音で
ヅマ国だkら、たぶん、出雲国じゃないの?
63水銀厨:2010/09/19(日) 12:39:29
>>56
断言って何の?神仙思想の影響を受けた宗教都市だという事かな。

それならむしろ大量の桃が祭祀場で見つかったというのは、
根拠の一つを補強する物なんですけどね。
大量の水銀朱の存在や三角鏡と同じです。

昼から時間できたので説明会見てこよう。
64日本@名無史さん:2010/09/19(日) 12:41:57
水銀厨は近いのか
65水銀厨:2010/09/19(日) 12:45:21
>>64
今は奈良県に住んでますからクルマで15分ですよ。
昔から仕事でもこの辺りは毎日のように通ります。
66日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:06:16
桃の種については2000人以上が桃でフルーツパーティやっだけのことだと思うんだ

67日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:10:48
モモソ媛命って、桃と関係ありなのか?
68日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:34:12
>>42
魏志倭人伝のそれって邪馬台国が魏の使節に見せたサクラの演技じゃないかな?

69日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:49:39
崇神天皇って、戸籍を作ったんだよな。
そういえば、魏志倭人伝には戸数の記述もあるということは
当然、戸籍を取っていただろうし。
70日本@名無史さん:2010/09/19(日) 13:57:16
>>61
いまだにいるんだね、渡来といえばすべてが北九州経由だと思ってる人が・・・
少しは東国の古代史にも手を出してみるといいよ
71日本@名無史さん:2010/09/19(日) 16:20:45
>>70
仮に邪馬台国が畿内だとしら、北九州経由の可能性はそれほど高くないな
ただ、畿内説論者の中にも北九州経由説を採る人が決して少なくないのもまた事実
72日本@名無史さん:2010/09/19(日) 18:50:01
魏志倭人伝、ちゃんと読んでいる奴、少ないだろう?
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王であって、
邪馬台国は、卑弥呼が住んでいたと言うだけの話。
つまり、倭国=アメリカ、邪馬台国=ワシントンDCみたいなもんって話。
そして、その倭国は、九州の伊都国に一大率をおいて
諸国を監視していたと書いてある。
だから、邪馬台国畿内説であっても、魏志倭人伝に九州のことが書かれるのは
何の不思議でもないというわけ。
73日本@名無史さん:2010/09/19(日) 18:57:50
       \
 お そ .い ヽ
 か の や  |
 し  り  `  ,. -──- 、
 い .く   /   /⌒ i'⌒iヽ、
    つ /   ,.-'ゝ__,.・・_ノ-、ヽ
    は i ‐'''ナ''ー-- ● =''''''リ      _,....:-‐‐‐-.、
      l -‐i''''~ニ-‐,....!....、ー`ナ      `r'=、-、、:::::::ヽr_
 ̄ \ヽー' !. t´ r''"´、_,::、::::} ノ`     ,.i'・ ,!_`,!::::::::::::ヽ
    ヾ、 ゝゝ、,,ニ=====ニ/r'⌒;    rー`ー' ,! リ::::::::::::ノ
       i`''''y--- (,iテ‐,'i~´,ゝ'´     ̄ ̄ヽ` :::::::::::ノ
       .|  !、,............, i }'´    _   、ー_',,...`::::ィ'
     ●、_!,ヽ-r⌒i-、ノ-''‐、    ゝ`ーt---''ヽ'''''''|`ーt-'つ
        (  `ーイ  ゙i  丿   ;'-,' ,ノー''''{`'    !゙ヽノ ,ヽ,
        `ー--' --'` ̄       `ー't,´`ヽ;;;、,,,,,,___,) ヽ'-゙'"
                       (`ー':;;;;;;;;;;;;;;;ノ
                       ``''''''``'''''´
74水銀厨:2010/09/19(日) 19:05:04
昼から説明会に行ってきたのだが今日は結構暑かった。
午後からだった為か思ったほど混んでませんでしたけど。

橋本氏の説明の要約は報道のとおりだが、
桃は2000と発表してるが、実際は4cに溝が造られていて
土抗が破壊、数は3000〜4000個はあっただろうとの事。
桃の種の出土は珍しくも何ともないが、これだけ
まとまっての出土はやはり何らかの祭祀目的と考えられる。

祭祀の内容について出土品からは、今まで巻向周辺で
発掘された物とは異なる、農耕関連のものではない。
(米やら鍬じゃないからね)

本音「本当は桃なんかより少し離れた所から出土した
銅鐸の破片に注目してくれよ」との事w
75日本@名無史さん:2010/09/19(日) 20:58:51
桃の祭祀が神仙思想と関わるのなら、纏向には渡来人が入っていた可能性があるか。「ゆるやかな連合」が岡田英弘的な
渡来人ネットワークがもたらしたものである可能性は?
76日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:23:58
大量の桃を使う祭りというのは他に例はあるのでしょうか?
77日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:26:41
>>75
渡来人はしれているでしょう?
というか、こういう古代に関しては、極端な発想が多過ぎるんだよw
だって、中国思想なんてのは、平安時代、鎌倉時代
江戸時代だって、たくさん入っていたわけだから。
それで、江戸時代に渡来人云々なんて特別意識しないでしょう?
戦国時代は、スペインやポルトガルの文化も入っていたが
だからといって、スペインやポルトガルが徳川政権を作ったのか?
とにかく、文献資料が残ってないから、極端な解釈をしがち。

倭国は紀元前から中国と外交を結んでいたんだよ。
当然、商人はもちろんのこと、外交官も中国を訪問している。
よって、卑弥呼の時代から、中国の思想文化を知っていても、
おかしくはない。
78日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:28:56
>>77
無理矢理半島絡めようとするからねここ数十年の考古学会は
79日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:31:33
早くから直接大陸と外交していただけの話だよね。

それじゃ困るんでしょ、一部の人は。
80日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:33:25
>>77
日本人の気質の根幹が2000年変わっていないとするなら、
こういうのは別に渡来人持ち出すまでも無く舶来ブームで片付けられる話ですよね
81日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:41:06
朝鮮半島のような中国大陸と陸続きなら征服されただの普通だからそういう発想になるんだろうね
騎馬民族征服説だの渡来人説だの日本人的発想じゃないわな
82日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:59:56
>>76
ない
83日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:41:23
>>76
収穫祭
84日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:51:59
>>83
どこの?
85日本@名無史さん:2010/09/19(日) 23:17:16
未熟な実も混ざってたようで
祭祀跡確定のようですね
86日本@名無史さん:2010/09/19(日) 23:49:09
酒だな
87日本@名無史さん:2010/09/20(月) 00:10:08
>>76
引きこもって暮らしてた卑弥呼を飲めや歌えやの大宴会で引きずり出した
88日本@名無史さん:2010/09/20(月) 00:36:13
>>74 水銀厨

報告乙。

>本音「本当は桃なんかより少し離れた所から出土した
>銅鐸の破片に注目してくれよ」との事w

破砕された銅鐸の新たな事例なのかな?

そもそもヤマトじゃ「見る銅鐸」の出土が極めて少なく
故意に破砕されたと思われる銅鐸片の出土も少ない。

それでいて >>6のような「廃仏毀釈」を想定するのは果たしてどうなのかとも思うが
この板でも何故かあまり批判の対象にもならないwww

件数に関わらず事例があること自体が問題なのか?
89日本@名無史さん:2010/09/20(月) 00:52:54
桃については、あてにならないが軽視もできない無数の資料がひとつ増えただけだ

銅鐸に関しては、壊す祭祀が伝統だったのか、壊すことが革命だったのか、
そこが現状ではまったくわからんからな
でも、「マキムクでは銅鐸を壊していた」ってのは確かにすごく重要な資料だ
90水銀厨 :2010/09/20(月) 01:22:21
桃に注目が行くのは仕方ないでしょうね、あの数では。

銅鐸の破片については、遺構近くの古墳時代後期の包含層から出土です。
比較的大型の突線鈕式銅鐸と思われる物ですが、
S47年調査の際に出土した破片との関連性に注目されているようです。
91日本@名無史さん:2010/09/20(月) 02:36:54
銅鏡を製造するには銅鐸を壊すしかない
92sage:2010/09/20(月) 07:10:53
再利用の為に壊すのなら
そんな大きな欠片を捨てちゃうかな?

5cm角くらいはあったけど
93日本@名無史さん:2010/09/20(月) 07:53:45
漢方ってどこ起源なの?
94日本@名無史さん:2010/09/20(月) 08:27:19
文化と政治を一緒に考えてはいかんよ。
政治は限定的な範囲だが、文化はその政治の範囲を越える。つまり、文化に垣根を設ける事は出来ないということ
95日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:12:28
>>91
>銅鏡を製造するには銅鐸を壊すしかない

そもそも、それ自体根拠の無い空想、良く言って仮説なんじゃないのか?

例えば粉砕された銅鐸片と銅鏡が鋳造施設とおぼしき所から出てきたとか言う事例が多々あるわけじゃないだろうに。


96日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:24:48
銅鏡を製造するために銅鐸を壊してたら
銅鐸はこんなにたくさん出土しなかったんじゃないか?
97日本@名無史さん:2010/09/20(月) 12:45:32
壊すのが忍びないということで、埋められたのもあるでは?
98日本@名無史さん:2010/09/20(月) 14:18:25
量産型三角に必要なだけ壊した
99日本@名無史さん:2010/09/20(月) 14:24:13
asahi.com:3世紀の銅鐸リサイクル工房跡か 奈良県桜井市で出土 - 文化一般 - 文化・芸能
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200712060108.html
100日本@名無史さん:2010/09/20(月) 14:27:40
そして同じく三世紀、三角を量産する為に

フフフ

伝説は本当だった
101日本@名無史さん:2010/09/20(月) 15:25:44
しかし、卑弥呼と桃太郎が兄弟だったなんてなぁ・・・
102水銀厨:2010/09/20(月) 19:03:59
やっぱり銅鐸を破壊して△の材料にした、
という流れなんですかね。

一部反対する連中が銅鐸を隠したとか。

まぁ△国産説(鍵・唐古製造)をとる私には
ありがたい事ですけど。
103日本@名無史さん:2010/09/20(月) 19:28:56
銅は貴重な資源だから、再利用するのが合理的だとは思うけど
再利用したとするには銅鐸の出土が多すぎると思う
それに、もし反対する勢力があったとしたら、銅鐸の出土分布にもっと偏りができるのではないだろうか?

銅鐸の衰退と銅鏡の普及に四半世紀から半世紀ほど、どちらもあまり出土しない空白期間があることから考えてみても
銅鐸と銅鏡の直接的な関連性は薄いと思う

ただし、このような変化を生み出した何らかの文化的・思想的な変化があったことは確かだと思う

ちなみに俺も△は国産だと思う
104日本@名無史さん:2010/09/20(月) 19:56:52
>>101
モモソ媛命の同母弟が、吉備津彦。
本名は、イサセリ。
105日本@名無史さん:2010/09/20(月) 20:00:49
さらに イサセリ=(倭人伝の)伊声耆(イセキ?)  またもう一人の弟
ワカヒコ=赤子のように若々しい男=掖邪狗(ヤヤコ?)
106ローガン:2010/09/20(月) 20:34:31
三角鏡の鉛の割合ってそこそこ一定でしょ?
銅鐸の鉛の量はまちまちなんだから、鏡にする時の添加する鉛の量の加減なんて、当時の技術で可能かな?
107日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:10:32
というより銅鐸のアマルガム含有量を調べてほしい。
銅鐸は水銀の精錬に使われたんじゃないかな。
108日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:17:51

■「特殊器台」再現へ 津山の前原さん 

山陽新聞 9/19
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010091819451268/

 弥生時代の墳丘墓では国内最大級とされる楯築遺跡193件(倉敷市矢部)で出土した「特殊器台」の再現に、縄文土器研究家の前原泰二さん(81)=津山市北園町=が取り組んでいる。
製作を持ち掛けた岡山大考古学研究室の新納泉教授は「弥生時代の高度な土器製造技術を探る手掛かりになる」と期待している。

 特殊器台は弥生時代後期(200年ごろ)、吉備地方で成立・発展した土器で首長の葬送儀礼に使われたとされる。

 再現しているのは1976年から同大などの調査で出土し、完全に復元された特殊器台。
高さ約120センチの円筒形で、上部と底部は直径約45センチの円盤型。三角形を複雑に組み合わせるなどした模様を忠実に再現した。実物は厚さ1センチ未満と薄く、高度な製造技術が必要という。

 21日に同市内で野焼きをする予定で、立ち会う新納教授は「完成が楽しみ。貴重な研究材料になる」と話している。

・特殊器台の再現に取り組む前原さん
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/images/2010/09/18/2010091819451268-1.jpg
109日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:33:09
>>2-6
以下、続報と関連記事


■銅鐸破片、豪族居館の溝も

読売新聞 2010年9月18日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20100917-OYT8T01217.htm

変遷たどる重要な成果

 神仙思想に基づく祭祀(さいし)に使われたとみられる大量の桃の種が出土した桜井市の纒向(まきむく)遺跡。
今回の調査では、3世紀の遺構、遺物のほかに、2世紀の銅鐸(どうたく)の破片や、県内では珍しい5世紀末〜6世紀初めの豪族居館の一部となる石張り溝も見つかっており、同遺跡の変遷をたどれる重要な成果が得られた。

 銅鐸の破片(長さ3・7センチ、幅3・2センチ、厚さ3ミリ)は、復元すれば高さ約1メートルになると推定される。
1972年、今回の調査地の西約100メートルで行われた調査でも銅鐸の破片が見つかっており、大きさなどから同一個体の可能性がある。

 当時、調査した石野博信・兵庫県立考古博物館長は
 「王宮とみられる大型建物を建てる際、銅鐸を壊す祭祀をした。その建物を壊した後、桃を使った祭祀をしたのだろう。王宮の出現と終わりの儀礼にかかわるものが見つかったのは、大変意義がある」
と話している。

 また、同市内の脇本遺跡や大福遺跡の3世紀初めの遺構で出土した銅鐸の破片などから、弥生時代の祭祀で使われた銅鐸を壊し、他の青銅器にリサイクルしたことが考えられており、今回も同様とみられる。

 一方、調査地西側で見つかった石張り溝(幅4・5メートル、残存の深さ0・8メートル)は、溝が切れた場所(長さ8メートル)を挟んで北側に16メートル、南側に6メートル延びていた。
溝が切れた部分が出入り口で、地形から東に遺構が広がるとみられる。

 近くに同時期の古墳があり、その被葬者が住んでいた可能性がある。橋本輝彦・市教委文化財課係長は
 「居館と墓がセットで考えられるようになった。纒向遺跡一帯を根拠にした豪族はわかっていないが、物部氏など大豪族に次ぐクラスではないか」
とみている。

・豪族居館の一部とわかった石張り溝(桜井市の纒向遺跡で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100917-623488-1-N.jpg
110日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:37:48
なんで神仙思想に基づいて、中国でも例の無いような祭祀を行ったと思うんだろう?
111日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:39:13
>>110
そこの説明無いよね
勝手に大量の桃で祭祀したって騒いでるけど
112日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:39:31

■バット? 奈良・纒向遺跡から“そっくり遺物”

産経新聞 2010.9.18
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100918/acd1009180938004-n1.htm

 桜井市教委の発掘調査で、同市の纒向(まきむく)遺跡からモモの種をはじめ祭祀(さいし)に関係するさまざまな道具が出土したことが明らかになった。
見つかった遺物の中で、ひと際目を引いたのが野球のバットそっくりの木製品だ。

 モモの種などとともに3世紀中ごろの穴から出土し、応援で使うメガホンほどの大きさ。大量に出土した土器や木製品が人為的に破壊されていた中で、例外的に完全な形で残っていた。

 市教委によると、ワラなどを打つ横槌(よこづち)とみられ、硬い木材として知られるアカガシ製。土器を打ち壊す祭祀で使われ、そのまま投棄された可能性があるという。19日の現地説明会場でも展示される。


・纒向遺跡から出土したバットのような木製品=奈良県桜井市東田(沢野貴信撮影)
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100918/acd1009180938004-n1.jpg
113日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:42:25
これで銅鐸鳴らしたら良い音するか実験すろ
114日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:42:48
普通にバットで桃を叩き潰して酒を作ったんだと思う
115日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:46:07
じゃあ酒を作るところまで実験
116日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:47:59

■大量の土器・木製品も/纒向遺跡

朝日新聞 2010年09月18日
http://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000001009180001

 ○意図的な破壊の跡

 2千個を超す大量の桃の種が見つかった纒向遺跡(桜井市)の大型建物跡そばの穴からは、ほかにも大量の土器や木製品などの道具類が見つかった。
当時の祭祀(さいし)の一端がかいま見える一方、意図的に破壊されていたり、一部のパーツしか見つからなかったりするなど、新たな謎も明らかになった。

 穴から見つかったのは、桃の種や竹ざる、つぼなどの土器のほか、ミニチュアの甕(かめ)10点▽黒漆塗りの弓1点▽ヘラ状木製品4点▽剣形木製品1点▽木製横槌(よこづち)2点▽獣骨数点――など。
 特徴的なのは、ほとんどの遺物が鉄製の刃物のようなもので寸断され、穴に投げ入れられていたことだ。
しかも、通常なら穴に捨てられて割れていても、破片を組み合わせれば元の形がわかるが、今回は意図的に一部分だけを捨てた可能性が高いという。

 調査を担当した市教委の橋本輝彦係長は「祭りに使った道具を壊すのは、神にささげる道具を再利用しないという意味もあると思う。だが、一部分だけ捨てた意味はよくわからない」と首をかしげる。

 県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は「東海地方の土器が異様に多いのが不思議だ」と指摘する。
 ミニチュアの甕は東海地方でも、周辺地域の祭祀遺構でよく見つかるという。大型建物の近くであった祭りには、東海地方の人々が深くかかわったのだろうか。

 一方、今回の調査では、大型建物跡など建物群の周辺を囲う柵(さく)列の延長約15メートル分も確認された。
柵の外側に建物跡は見つからなかったため、桜井市教委は「周辺に広く空間をとることで、柵内部の隔絶性を高めている。大型建物などのランクの高さが改めて示されたのでは」とみる。
 市教委は、来年度以降も周辺の調査を続ける予定だ。

・バラバラに壊された状態で見つかった土器の破片
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000001009180001&o_id=8885&type=kiji

・纏向遺跡の穴から出土した木製の加工品など
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000001009180001&o_id=8886&type=kiji
117日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:51:11
考古学において祭祀とは意味不明な行動を説明するときに用いられる用語だ
合理的な説明がつかないことはみんな祭祀で片付ける

こればっかりやっていると、すっかり麻痺してしまって思考停止状態に陥る
そしてなんでもかんでも祭祀にしてしまう

土器を壊す・銅鐸を壊す、わけがわからないから、みんな祭祀にしちゃう
合理的な理由を考えなくて済む便利な言葉、祭祀

道具と桃が出てきたら、道具で桃を何とかしたと考えるのが普通だろ
だけど思考停止したアイツ等は、土器を割る祭祀とか平気で言ってしまう

日本の考古学は終わってる
118日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:51:20
>バラバラに壊された状態で見つかった土器の破片

いつも思うんだが何を持って 壊された と断定してるんだ?
119日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:54:18
出土したときに壊れていたから
あいつらは頭がおかしい
120日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:55:27
>>119
だよね
土器なんて落とせば割れるんだからさ
銅鐸がバラバラになってるのは壊されたと言ってもいいと思うけど
121日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:58:06
日本では、遺跡や遺物をネタに、妄想を説くのが考古学なんだな。
桃の種が2千個出ると、それは卑弥呼がいた証拠なんだそうだ。
マスコミ各社も一斉にこの調子とは呆れる。
122日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:01:05
珍しかったんだろうが桃を強調することで意味不な状況になっちゃったね
123水銀厨:2010/09/20(月) 22:06:13
>>110
そっくりコピーした訳ではなく、独自解釈した
部分も当然あるのでは?

>>114
桃の潰された形跡はないです。
でも個人的に酒を造ったというのは有りえると思います。

>>117
桃と一緒に出土した道具といっても、皆小さくて実用性の無い物ですよ。
祭祀に使ったとしかいいようが無いですから。

ま、まだ発掘は続く訳ですから、それを待つしかないでしょうね。
でもその規模は橋本氏生存のうちには終わりそうも無いそうです。
124日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:09:16
吉備津彦が桃太郎というのは定説でいいのかな
125日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:10:04
でも纏向遺跡は面白いよ
発掘のたびに、いろいろ風変わりな出土品が出てくるからね
日本で一番面白い遺跡じゃないかな
次回の調査も期待しよう
126水銀厨:2010/09/20(月) 22:10:07
>>121
掘る側は桃を特に強調したり、安易に卑弥呼と結びつけたりなんて事は
一切してませんでしたよ。むしろ困ると。
報道する側はやっぱりインパクトが欲しいのは解りますけど‥

勝手な憶測は止めた方がいいです。
127日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:10:35
祭祀か
祭祀ってのは当然厳しく規定された様式があるわけでそれにも関わらず桃の形は不揃いなのはおかしくないか?
なんかマスコミもこのスレも不揃い=祭祀に使ったみたいな勝手な解釈してるようだけど
大きさがバラバラなら祭祀みたいな伝承があるのかね?
128日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:14:29
>>124
伝説
129日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:18:08
前から気になっているんだけど
銅鐸ってさ
時効で割れたってことはないの?
130日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:19:31
ソニータイマーみたいなものか
131水銀厨:2010/09/20(月) 22:19:47
>>125
それは言えると思います。

南側の田の下の発掘に期待したい。
132日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:22:26
>>126
新聞の飛ばし記事だって言いたいの?
実際はそうじゃないだろ
133日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:24:08
掘れば掘るほど実像からはかけ離れた解釈が蔓延してるように見えるんだが
134日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:30:35
>>131
巻野内の方ももっと発掘してほしいよ
導水施設が出た場所の上側(東側)あたりだね
布留期の大きな遺構があるらしいから、きっとトヨたんの宮殿かもよ
135日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:31:24

トヨタン・・・・・・・・・・
 
136日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:32:59
発掘は馬鹿になって掘るのが一番
○○の遺跡かも・・・なんて
考えるとロクなことがない
137日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:35:25

■纒向遺跡:モモの種出土、現地説明会 古代史ファン、熱心に聴き入る−−桜井 /奈良

毎日新聞 2010年9月20日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100920ddlk29040270000c.html

 大規模な祭祀(さいし)に使われたとみられるモモの種が約2000個出土した桜井市辻の纒向(まきむく)遺跡で19日、現地説明会があった。
約2000人の古代史ファンが訪れ、発掘調査をした市教委の解説を熱心に聴き、古代の「モモの祭祀」に思いをはせていた。

 市教委文化財課によると、弥生時代に国内に入ってきたモモは現在よりも小さなものだった。出土した種のうち数十個には皮を含めて果肉が残っていた。未成熟の種もあり、食用ではなく祭祀の供物として集められたとみられる。
金原正明・奈良教育大教授(環境考古学)は「1カ所から出土した数としては最多。国家的な祭祀が行われたとみられる」と話す。

 種が見つかった3世紀中ごろに掘られた穴「土坑(どこう)」からは、黒漆の塗られた弓などの木製品や、表面に模様を彫った壷、祭祀用のミニチュア土器が出土した。
割れているものが大半で、ほとんどつなぎ合わせることができないという。

 同課の橋本輝彦係長は「一般的に土器は土坑に捨てられる際に割れることが多く、復元できることが多い。しかし、ここでは別の場所で割って、一部だけを捨てた可能性がある」と解説。
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「祭祀に使った道具を再び使わないようにする強い意志が働いたのだろう」とみる。

 また、昨年11月に確認された大型建物跡の南側で、東西に伸びる柵(さく)列跡28メートル分が見つかった。
柵列跡の外側では建物跡などが確認されず、橋本係長は「柵で囲われた場所から一定の空間を取ることで、外との隔絶性を高めたのだろう。この一角がランクの高い場所であったことを示している」と説明した。

 見学した神奈川県三浦市の会社員、宮川勝さん(61)は「実際にモモの種を見て、その多さに驚いた。まさにこの場所に卑弥呼(ひみこ)の館があったと感じられた」と話した。

 土坑などは今月中に埋め戻される。周辺の発掘調査は来年度も継続して行われる。【高島博之】
138日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:44:56
>宮川勝さん(61)は「実際にモモの種を見て、その多さに驚いた。まさにこの場所に卑弥呼(ひみこ)の館があったと感じられた」と話した。

こういう馬鹿がいると大変だね
139日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:45:26

■「卑弥呼 ここにいたかも」

読売新聞 2010年9月20日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20100920-OYT8T00020.htm

纒向遺跡の現地説明会 全国から考古学ファン

 神仙思想に基づく祭祀(さいし)で使われたとみられる約2000個もの桃の種などが出土した桜井市の纒向(まきむく)遺跡で19日、開かれた現地説明会。
全国から多くの考古学ファンらが詰めかけ、邪馬台国の有力候補地とされる遺跡から見つかった遺構や遺物を熱心に見学した。

 午前10時からの開始1時間前には約300人が集まったため、市教委は予定を30分早めて午前9時半から説明会を実施。
冒頭、谷奥昭弘市長が発掘現場を囲んだ参加者に、
 「今回の発見で纒向遺跡が卑弥呼の邪馬台国である可能性は高まったと、多くの専門家に言ってもらった。今後は、これまでに出土した神殿や宮殿の再現に取り組みたい」
とあいさつした。

 続いて、調査を担当した市教委文化財課の橋本輝彦係長が
 「昨年出土した大型建物を囲む柵の延長部分や穴など、周辺の遺構が見つかったことが一番の成果」
と強調。今回の調査で発見された、5世紀末〜6世紀初めの豪族居館の一部とみられる石張り溝について
 「この地域が3世紀にも、5世紀にも有力者の住んだ土地だったということを示している」
と話すと、参加者たちは配布された資料を手に、メモを取りながら聞き入っていた。

 授業で邪馬台国を習ったばかりという奈良市の市立吐山小6年上田菜実さん(11)は
 「本物の遺跡を見てみたくてお母さんと一緒に来た。卑弥呼がここにいたかもしれないと思うと、わくわくする」
と笑顔。同市の無職君島恒男さん(70)は
 「大きな建物を壊し、大量の桃を使って儀式をしていたとは、かなりの力があった人物がいたはずだ。ここが邪馬台国に間違いないと思う」
と話していた。

・纒向遺跡を熱心に見学する参加者(桜井市で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100920-656904-1-N.jpg
・大量の桃の種(手前)などの出土品に見入る人たち
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20100920-658865-1-N.jpg
140日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:56:18
>授業で邪馬台国を習ったばかりという奈良市の市立吐山小6年上田菜実さん(11)は
> 「本物の遺跡を見てみたくてお母さんと一緒に来た。卑弥呼がここにいたかもしれないと思うと、わくわくする」
>と笑顔。同市の無職君島恒男さん(70)は
> 「大きな建物を壊し、大量の桃を使って儀式をしていたとは、かなりの力があった人物がいたはずだ。ここが邪馬台国に間違いないと思う」
>と話していた。

子供の方がよっぽど分別があるなw
141日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:02:09
>>138
もう宗教が定着した感があるね。

畿内説を唱えている学者で畿内説を本気で信じている人なんていないのにねww
142日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:06:24
畿内説って、印象操作がすべてだから、
邪馬台国の証拠は、桃の種でもいいんだな。
143日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:31:41
無人くんも叩けるネタが減って大変だねw
144ローガン:2010/09/20(月) 23:36:28
よく知らないけど…
桃の種を誰かが畿内説の根拠にしてるの?
桃がいっぱいあるから そこが邪馬台国だ!なんて言った人居るんですか?
通説である、畿内説前提で、桃の種を解釈しようとしてるだけやないの?
145日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:37:26
>>139

>冒頭、谷奥昭弘市長が発掘現場を囲んだ参加者に、
> 「今回の発見で纒向遺跡が卑弥呼の邪馬台国である可能性は高まったと、多くの専門家に言ってもらった。今後は、これまでに出土した神殿や宮殿の再現に取り組みたい」
>とあいさつした。


観光誘致のためだかなんだか知らんが、こういうあいさつをする市長と
それをなんのコメントもなしに記事にする新聞が誤解を広めてるんだよな。

そこが仮に卑弥呼の墓ならば、そこは伊都か奴、不彌あたりで邪馬台国じゃあない。
魏志倭人伝もろくに読まずに、ブームだけつくろうとする輩にはうんざりだな。
146日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:39:59
>>145
よしいいぞ。その調子で戦い続けるんだ。
147日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:44:43
>>145
>そこが仮に卑弥呼の墓ならば、そこは伊都か奴、不彌あたりで邪馬台国じゃあない。

???
意味不明としかいいようがないが、とりあえず邪馬台国スレへ移動して書き込んでくれ。
ここはマキムク中心でいこう。
148日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:48:40
>>147
マキムクが卑弥呼の墓だからそこが邪馬台国なんていう
メディアがつくるブーム、それをただ地元が儲かればいいと
考える市長の姿勢が、学問的障害になってると書いてるんだよ。
149日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:58:35
>>145
それとな、谷奥桜井市市長を批判しているが、市町村どこも財政逼迫してる中で、
毎年、学術目的での発掘調査に予算を計上してくれる首長さんなんて、なかなか居ないんだよ。

そりゃ話題づくりや町おこしのねらいもあるだろうけど、結果的に調査の実が上がっているわけだから
俺的には谷奥市長を批判できないな。
150日本@名無史さん:2010/09/20(月) 23:59:09
卑弥呼は桃が好物だったことが分かっただけでも大収穫じゃないか。
151日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:05:43
>>149
金儲けのために」予算を計上しているのなら、それは考古学を尊重してるからじゃないだろう。
宮殿を再現?どういう名前で客を呼ぶのかね?ヤマタイランドかね?
それが、ありがたいなんていうのは愚かというものだと思うけどね。
152日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:15:09
桜井市は邪馬台国は別にしても歴史的な遺物は山程あるけどな。

でもやっぱり少なくとも可能性のある遺跡なんだから、
力を入れてくれるのは俺も悪い事ではないと思う。
153日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:16:21
>>144
印象操作という似非証拠としての取り上げ事例の嵐だろうが?
すぐ上にもたくさん引用されてるだろ。
154日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:21:47
しかしゴミクズ九州説と言うか”いつもの東遷厨と他”なんだろうが、イイカゲンニシロと…
纏向の報道のたび、そこに「邪馬台国」だの「卑弥呼」の文字が躍るたびに、ヒステリー火病起こしてたら身がもたんぞ?w

そのくせ「銅鐸から銅鏡へ廃仏毀釈にも似た動き」と言うストーリーや
「吉野ヶ里には魏使の見た”宮室・楼観・城柵”の3点セットがある」なんてマスコミの喧伝したネタには飛びつくんだろうが(ニガワラ


…にしても纏向って木製の小型レプリカって良く出てくるよなあ…。

「形が似ればそこに魂が宿る」と言う呪術の世界で言う厭魅(=えんみ、「雛人形=流し雛」とか「呪いの藁人形」とかねw)の
その原型を見るような観があるwww






155日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:24:44
>>151
吉野ヶ里批判はそのくらいで。
156日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:29:55
>>154
勝手にレッテルを張られては困る。
卑弥呼の墓=邪馬台国という、間違った前提を新聞が報じたり
それを金儲けの道具にする輩にはウンザリだと書いているだけだ。
マキムクが卑弥呼の墓であるかどうかとは別問題だ。
157日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:50:55
ひょーひょひょひょひょひょ。九州説は終わったね。未だ何にもない九州に対して、
グレートデラックス纏向。ひょーひょひょひょひょひょ。
158日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:52:14
不況だからこそ、こういう金は国が財政出動するべきなんだよな。
財政出動路線の麻生政権のままだったら(実際にGDP回復・財政赤字回復)期待できたけど、

景気対策とは逆行する「無駄削減」マスコミと民主党は、まじ日本の癌だわ。
159日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:53:14
>>157
そうね。こうして、邪馬台国=纏向遺跡の全容が明らかになっていく過程に立ち会える
なんて、まさに生きる喜びを実感します。
160水銀厨:2010/09/21(火) 00:54:08
私もいきなり「卑弥呼、邪馬台国だ」と断定口調で
語られるのは?ですね。

でも元々奈良東南部に大きな権力が集中してゆくのは
神仙思想影響下による丹(水銀朱)の存在だと主張していたので
祭祀目的で仙果である桃が使われていたらしい、という発見は
素直に喜んでますが。
161日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:55:08
>>112
ただいまニュース速報+板で激論中!!!

【奈良】バット? 纒向遺跡から“そっくり遺物” 桜井市
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1284798794/
162日本@名無史さん:2010/09/21(火) 01:08:25
>>160
質問だけど、銅鐸の水銀含有量って調査されてるの?
ていうか、土器でもいいけど、水銀を精錬するのに
どんな容器を使ったかは興味があるな。
少なくとも奈良の大仏のころには、大規模に実用化されてたわけだし。
163日本@名無史さん:2010/09/21(火) 01:26:09
神仙思想の影響って言っても、様式だけなんだよな
神仙思想そのものは、ほとんど日本には定着しなかった
日本の歴史の中で純粋な神仙思想に基づいて何かが行われたという例は皆無だよね
様式だけは似ているところもあるけど、中国の神仙思想とは全くの別物
164日本@名無史さん:2010/09/21(火) 01:29:40
>>162
成分分析はされているけど水銀が含まれているという話は聞いたことがない
おそらく誤差レベルでしか検出されないんだろう
165水銀厨:2010/09/21(火) 01:48:07
>>162
銅鐸に水銀‥私も知らないですね。
水銀朱が塗られた銅鐸なら例はありますが。

水銀朱精製なら石臼、石杵を使って行う訳ですが、
水銀精製となると3世紀時点ではどうでしょうね‥
自然水銀を採取していた可能性ならあるかもしれません。
166日本@名無史さん:2010/09/21(火) 02:03:45
>>165
丹については倭人伝の記述にもあるし、
銅を加工できるなら精錬はできたはずだけどな。
ただ熱して、蒸気を冷やすだけだから。
167日本@名無史さん:2010/09/21(火) 02:11:55
熱して冷やすだけって・・・
168日本@名無史さん:2010/09/21(火) 02:54:19
蒸留という概念はなかなかハイレベルだな。
169日本@名無史さん:2010/09/21(火) 03:06:26
確かに金の精製に水銀と金を混ぜ 合金=アマルガム を造り
これを加熱して水銀を飛ばすと言う方法があって

るつぼか何かでやって見せているのを映像で見た事もあるが
蒸発した水銀を冷却して再度固体に戻すなんて技術古代にあったのか?

ここらへんは水銀のソムリエ、水銀厨に教えてもらいたいところwwwwwwww

170日本@名無史さん:2010/09/21(火) 03:23:11
固体って・・・
ゆとり爆発だなあ
171日本@名無史さん:2010/09/21(火) 03:25:48
>>170
ああ、ごめん液体かwww


172日本@名無史さん:2010/09/21(火) 03:50:58
つうか水銀とスズを混同してんじゃね?
173日本@名無史さん:2010/09/21(火) 07:11:56
アマルガメムノン
174日本@名無史さん:2010/09/21(火) 07:34:04
当時は赤色に意味があるのであって、
水銀自体を精錬する動機は無いと思ってるんだが。
175日本@名無史さん:2010/09/21(火) 08:02:49
>>165
3世紀の頃に水銀の精錬の痕跡などないだろ。そんなものが付着した
土器でも出れば話題になってる。ところで、宇陀での石臼、石杵、朱鉢
のようなものの出土状況はどうなの?3世紀に採掘してた痕跡はあるの?
176水銀厨:2010/09/21(火) 09:34:17
>>169
水銀の精製については4世紀初頭の抱朴子には記されてます。
「丹砂を加熱すれば水銀になり、更に丹砂に戻る」とあります。
加熱して変化を見るという事は、それ以前にも試されていたと
思いますね。

>>174
同意です。

>>175
水銀朱の精製跡なら3世紀の時点で確認されてますよ。
徳島と伊勢の物が特に有名でしょう。
国内最古の物なら縄文中期の物が、吉野川上村にある
丹生川上社境内から精製に使った石皿が出土してます。

177日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:08:43
三角縁にせよ、桃の種にせよ、なんか多すぎて、
旧説をぶちこわすような、わけわからん状況になってるな
178日本@名無しさん:2010/09/21(火) 10:32:40
>>177
考古学なんて、物理学と同じさ。
旧説を拡大破壊することに存在価値があるんだから。
179日本@名無史さん:2010/09/21(火) 10:39:24
当時は水銀朱が水銀の化合物であることを認識していたかどうかも微妙
180日本@名無史さん:2010/09/21(火) 11:37:53
神仙思想に限らず、中国の文化・思想は文字文化と密着しているから
漢字の渡来が遅れた日本では文化・思想が定着せず、様式だけが広まったのも当然と言えば当然
181日本@名無史さん:2010/09/21(火) 12:23:14
>>180
でも、古事記の文献をみても、天皇の干支没年が分っているぐらいだし
卑弥呼の時代にも漢字を理解できる人がいたと思うけどね。
中国の歴史(太白のこと)や官職(大夫)の意味も理解していたし、
戸籍で○万戸だとか、距離の漢字の単位もしっていたみたいだから
権力者たちは、一応、漢字を知っていたように思う。
外交に必要だし、漢字の遺物とかも出てくるし。

ただし、日本って古来から言霊の文化あり、
神社なんかでも口伝で伝えたりする。
また、古代の日本の権力者には、ミコト(命=御言)という
尊称がついていたぐらいだから

言葉を操ること(命令すること)が権力者たちの特権だったように思う。
そういう文化の中では、言葉を文字として書き留める文化など
権力者側からしたら、もってのほかだったように思うよ。
だって、庶民とか下の層に幅広く漢字が伝われれば
文字を介して、権力者たちに不満をあらわし、それが幅広く伝染するから。
182水銀厨:2010/09/21(火) 12:50:04
>>179
まあ中国でも仙術の時代ですから。
やっと系統立てて知識とする事に着手した位でしょう。

>>180
>>181
断片的に入る大陸の知識が、権力者層の独自解釈で
変化、浸透していったんじゃないですかね。
183日本@名無史さん:2010/09/21(火) 13:12:22
渡来の文化・思想が定着せず、様式だけが取り入れられるのは
文字文化が発達した後の日本でも同じなんだよな

日本には既に確立した文化・思想があったので
それと矛盾しないように独自に解釈していった結果だと考えたほうがしっくりするかも
184日本@名無史さん:2010/09/21(火) 13:18:05
そのころから、海外の文化を
マイルールに修正する性癖があったか。

仏教どころか、キリスト教まで
作り替えそうだったからな。

キリシタンとか。
185日本@名無史さん:2010/09/21(火) 14:49:27
世界的にもでかい墓でも墓誌が見つからないから、比定が混乱するという

古事記が編纂される時代まで口伝を使ってたくらいだから、言霊信仰が根強かったとか
186日本@名無史さん:2010/09/21(火) 15:08:59
多数の巨大古墳など、まったく出てこない魏志倭人伝。
前方後円墳など、まったく出てこない魏志倭人伝。
銅鐸や三角縁など、まったく出てこない魏志倭人伝。
桃の多用する風習など、まったく出てこない魏志倭人伝。

ますます纏向が邪馬台国である可能性がなくなってきましたね。
187日本@名無史さん:2010/09/21(火) 15:39:17
三角縁は今のところ纏向では見つかってないと思うが
188日本@名無史さん:2010/09/21(火) 15:44:54
>>186
スレ間違ってますよ。
189日本@名無史さん:2010/09/21(火) 19:01:52

■卑弥呼の時代語る - 東大寺山古墳の遺物一堂に

奈良新聞 2010年9月20日 
http://www.nara-np.co.jp/20100920133947.html

 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国から授かったとする説もある中国の年号が入った鉄刀など、東大寺山古墳(天理市櫟本町)の出土遺物が、22日から同市守目堂町の天理大学付属天理参考館で展示される。
同古墳の遺物が一堂に公開されるのは35年ぶりで、発掘から半世紀を経て初めての里帰り展示。古代史の謎を解く鍵となる貴重な資料であり、注目を集めている。

▽卑弥呼の刀?

 東大寺山古墳は全長約140メートルの前方後円墳で、4世紀中ごろの築造と推定。周辺を勢力地とした古代豪族・ワニ氏との関連性が指摘されている。
 昭和36年から発掘調査が行われ、多数の鉄製武器類が出土。うち1本の刀(全長約1.1メートル)に中国・後漢の年号「中平」(184〜190年)の文字が刀身に刻まれていた。
倭国で卑弥呼が生きた時代と重なり、魏志倭人伝が記す中国皇帝から贈られた刀ではないかとする説もある。
 発掘調査を担当した金関恕・天理大名誉教授(考古学)は「卑弥呼の時代の遺物で関連性も考えられる。ヤマト政権の成立期に国家を守る象徴として、武力を持つワニ氏に代々伝わったのでは」と推定する。

▽半世紀ぶり報告書

 出土遺物は昭和47年に国の重要文化財に指定され、東京国立博物館が収蔵。その影響もあり、貴重な考古学成果を挙げた発掘調査だったにもかかわらず報告書が未刊行だった。
(つづく)
190日本@名無史さん:2010/09/21(火) 19:03:36
(東大寺山古墳特別展(天理参考館)つづき)

 平成17年に天理大や天理参考館の研究者らが集まり、「東大寺山古墳研究会」を結成。文化庁の科学研究費補助金も得て出土遺物や記録の再調査を行い、今年3月、半世紀ぶりに報告書「東大寺山古墳の研究」(真陽社刊)を完成させた。
 金関名誉教授は「大きな肩の荷を降ろした気分。東京国立博物館の好意や若い研究者たちの協力に感謝したい」と喜ぶ。

▽大量の副葬品

 出土遺物は天理大学付属天理参考館の創立記念特別展「よみがえるヤマトの王墓?東大寺山古墳と謎の鉄刀」(同館、東京国立博物館主催)で展示。中平銘鉄刀のほか、鉄製品や腕輪形石製品、玉類、埴輪など約600点の貴重な資料がそろう。
 展示を担当する同館の藤原郁代学芸員は「これまで断片的だった情報を、まとめて公開することが意義深い。圧倒的な副葬品の数を実感してほしい」としている。

 11月23日まで。開館時間は午前9時半から午後4時半。火曜日休館(10月26日、11月23日を除く)。入館料大人400円、小・中学生200円。
 25日には金関名誉教授が「卑弥呼と東大寺山古墳」、10月16日には白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長が「東大寺山古墳の被葬者像を探る」と題し記念講演。いずれも会場は同館西隣の陽気ホールで、午後1時から。受講には当日の入場券半券が必要。
 問い合わせは、天理参考館、電話0743(63)8414。

・東大寺山古墳から出土した中国の年号が刻まれた鉄刀=天理市守目堂町の天理大学付属天理参考館
http://www.nara-np.co.jp/photo/bed17c9bbddeadbcb75c9417064e6576.jpg


※参照 天理参考館サイト

創立80周年記念特別展 「よみがえるヤマトの王墓 ―東大寺山古墳と謎の鉄刀―」
http://www.sankokan.jp/exhibition/plan/80_todaijiyama.html

出品リスト
http://www.sankokan.jp/exhibition/plan/80_todaijiyama_list.html

チラシ(PDF)
http://www.sankokan.jp/exhibition/plan/image/80_todaijiyama_tirashi2.pdf
191日本@名無史さん:2010/09/21(火) 21:46:15
このタイミングでこの企画を考えた奴は解ってるな

フフフ
192日本@名無史さん:2010/09/21(火) 22:14:46
報告書がまだ未刊だったのか‥
193日本@名無史さん:2010/09/22(水) 00:51:45
なんでこれだけ重要な発見もあって報告書なかったんだ?
194日本@名無史さん:2010/09/22(水) 02:41:26
和邇氏の祖先が重要だな。
和邇氏が皇室に分れた頃が...
ちょうど、母方に尾張氏の出身者がいた時代に
皇室と分離した。
195日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:45:15
畿内説の根拠は見出せずじまいか。無駄な時間を過ごしたな。あ〜あ。
196日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:58:32
桃の種が道教に由来するのかどうかはおいといてだw
出てきた種の分析でどの地域で採取された物か分かるのかな?

もし纏向のごく近くから採取された物となれば
桃園(なんか三国志で出てきたなw)みたいなものがあったと言う事になるんだろうか?

纏向のある傾斜のきつい扇状地は水田稲作には向かないとも聞くけど
桃園が造られていた可能性ってあるのかな?


197日本@名無史さん:2010/09/22(水) 23:03:05
「ウソも百遍言えば本当になる」・・・畿内説の根拠
198日本@名無史さん:2010/09/22(水) 23:33:11
>>197
スレ違いですから。
199日本@名無史さん:2010/09/22(水) 23:34:35
>>196
>出てきた種の分析でどの地域で採取された物か分かるのかな?

わからんだろ。そんなの。
200日本@名無史さん:2010/09/22(水) 23:55:51
>>199
DNAとやらの比較で分からないのかな?

まあ「桃園」と言うのは三内丸山で土壌に含まれる花粉の分析で
栗を自然に生えている木から採取したんじゃなくて
計画的な植樹がなされていたって言われているんで

栗があるなら桃もあるだろうって発想なんだがwww

ただ栗なら米と並んで主食級の扱いだろうが
桃となれば流石に嗜好品なんだろかなとも思うがw

201日本@名無史さん:2010/09/23(木) 00:03:58
古代の桃は基本的に呪詛に使うでしょ。
中国なら仙果、日本なら魔除けであり、
水害の多い場所にに植える物のはず。
202日本@名無史さん:2010/09/23(木) 00:24:55
>>199
全然わかるよ
比較対象物が存在する範囲内では
203水銀厨:2010/09/23(木) 01:29:48
多数の桃と一緒に出土したのが、ミニチュア土器類の他
漆塗りの弓や剣もある事から、祭祀目的なのは間違いないでしょう。

桃は果肉付もそうだが種(桃仁)状態でも結構意味あるものなんで
果肉付か種が主かというのも興味深いです。

あと宮中行事、追難の儀では桃の木の弓と葦の矢で魔(鬼)を払う
というのが行われているが、これの原形が紀元前中国にもありますね。
204日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:31:25
仮面も出てたような
205日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:11:16
206日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:14:09
しかし水銀厨さんも力をつけてきましたね。
207日本@名無史さん:2010/09/23(木) 03:49:55

■平原遺跡発掘 在野の考古学者 原田大六の軌跡たどる

西日本新聞 2010年9月23日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/199160

 福岡県糸島市の伊都国歴史博物館は、10月9日から11月23日まで、特別展「昭和を駆けた考古学者 原田大六」(糸島市教委・西日本新聞社主催)を開催する。
糸島に生まれ、伊都国の王墓とみられる平原遺跡を発掘、ベストセラー「邪馬台国論争」などの著書で大学アカデミズムに挑戦状をたたきつけ、激しい気性から「ケンカ大六」の異名をとった在野の考古学者・原田大六(1917−85)をしのぶ初の企画展となる。

 特別展は、今年が原田の没後25年にあたり、西日本新聞社から「面会謝絶だぁ 孤高の考古学者原田大六」(藤田中著)が刊行されるなど、原田の業績や人物像への関心も高まっていることから、原田家や同博物館に保管されている原田ゆかりの未公開資料を公開しようと企画。

 原田が発掘に参加した井田用会支石墓など糸島の支石墓群や沖ノ島(福岡県宗像市)関係の実測図や写真などの貴重な調査記録資料をはじめ、平原遺跡出土の土器や鉄器など計300点を展示する。
また、三雲遺跡出土の銅戈(どうか)の鋳型、糸島沖の海中で見つかった広形銅矛(どうほこ)(ともに九州大所蔵)のほか、原田の著作や遺品も展示。行政や学界と激しくぶつかりながらも熱く古代のロマンを追い掛けた原田の軌跡をたどる。

 同館は「常設展示している平原遺跡出土の国宝の内行花文鏡など、原田さんが発掘、修復した文化財とともに見てほしい」と話している。月曜休館。入館料は大人300円、小中高生200円。

 また、10月16日午後2時からは、森浩一・同志社大名誉教授による特別講演会「原田大六の考古学−町民学者と官僚学者」もある。聴講無料だが事前に電話での申し込みが必要。定員は先着順に150人。

 同博物館=092(322)7083。
208日本@名無史さん:2010/09/23(木) 04:13:17
まあ桃と言えば記紀(一書(第九)に曰く)に黄泉から逃げ帰るイザナギが
追ってくる連中に桃を投げつけるシーンがあって

これが桃を持って鬼を払うはじまりと書いてある。

無論これも道教の影響なんだろうが
ベースのイザナギの黄泉めぐりの話は記紀神話の中でも相当にプリミティブだと思われ

(神話学者の中にはギリシャ神話のオルフェウスとの類似を指摘する者もいる。
一般的には亡き妻や恋人をあの世まで追いかけていく…なんて話は世界中普遍的に存在しうるモチーフと思われがちだが
黄泉の食べ物を食したりと言う”タブー”を犯して現世に帰れなくなっていると言う話や
結局、連れ戻しに失敗する等々「よくある話」じゃ済まない共通項が見られるとかw)

日本文化に道教の影響が及んだのも相当に古いのかもしれない。

209日本@名無史さん:2010/09/23(木) 05:22:26
桃は古代から普通に食ってる
210日本@名無史さん:2010/09/23(木) 06:22:21
日本の場合、桃は魔よけの意味が大きいんじゃないの?
中国の場合、神仙の意味が大きいが。
211日本@名無史さん:2010/09/23(木) 06:27:25
ただし、卑弥呼(モモソ媛命)の時代は
神仙的な意味もあったかもね。

中国の場合、桃は仙果
日本の場合、桃は魔よけ。

卑弥呼の時代、日本では桃にはどういう意味があったかだ。

三輪山は水銀の産地で、丹は不老不死と関係ありだから
卑弥呼の時代は、桃は神仙思想の意味合いが大きかったけど
巫女の神事で神仙の意味でも桃を重視していたことから、
それから転じて、魔よけの意味にやや変化していった可能性もある。

いずれにせよ、巫女の神事にとって、桃は重要だったと思われる。
212日本@名無史さん:2010/09/23(木) 06:53:32
日本の場合、桃は子孫繁栄の意味もある
桃なりというほどたくさんの実をつける見た目のまんまの意味
古代においては、この意味の方が強かったのではないかと思う
213日本@名無史さん:2010/09/23(木) 08:59:56
>卑弥呼(モモソ媛命)の時代
いかにもコンセンサスを得られてるような前提で書くのはどうかね?
214日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:01:18
モモソという名前もモモ+ソと解釈すれば、
如何にも巫女的な名前だよな。
215日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:06:52
>>214
その前提だとマキムク=邪馬台国で確定じゃん
216日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:16:23
米だって猪だって、お供え物として捧げることはあるだろうけど
ことさら桃を重視するような神道儀式ってないよね。

さすがに米はあるけど。

桃はたくさんのお供え物のひとつに過ぎなくて
むしろ、酒にしたほうが、宗教儀式としては
重要度が増すと思うんだけど。
217日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:19:03
その内モモソ=桃みたいな短絡的発想が出てくる予感
218日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:28:11
九州説の地名みたいな
219日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:44:08
>>216
いや、神道的ではないので、神仙思想の影響による祭祀じゃないか?
という話なんだろうと思うけど。
220日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:56:02
>>217
考古学者の偉い先生も、それ狙っているのかとは思うw
221日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:59:37
そんなアホは偉くもなんともねえ
222日本@名無史さん:2010/09/23(木) 12:26:05
まあ周辺に桃が多いのなら、普通モモソ=桃と解釈するだろ。
今まであまりに考えすぎただけなんじゃないの?
223日本@名無史さん:2010/09/23(木) 13:16:39
モモって「百」という意味もある。果実や木とは限らない。
224日本@名無史さん:2010/09/23(木) 13:33:07
「百」は桃が多くの実をつけることから
とられた説もあるけどな。
225日本@名無史さん:2010/09/23(木) 13:36:01
2000年後には山口百恵も皇族になってそうだな
226日本@名無史さん:2010/09/23(木) 13:54:45
「百(もも)な人」とは、桃農家のことではなくて、百人、大勢という意味だ。
語源が桃であろうとなかろうと、桃としての意味など全くない。
さらにいえば桃は、もっとも実を多くつける木ですらない。
227日本@名無史さん:2010/09/23(木) 14:08:42
>>226
色々矛盾が多いと思うけど。
語源に桃がある事が重要な訳だが。
それに古代種の桃は小ぶりで実多くなかった?
228日本@名無史さん:2010/09/23(木) 14:31:36
もっとも実を多くつける木ですらない。
もっとも実を多くつける木ですらない。
もっとも実を多くつける木ですらない。
229日本@名無史さん:2010/09/23(木) 14:49:52

230日本@名無史さん:2010/09/23(木) 15:44:24
桃は兆の木だよ。兆という漢字は亀の甲による
占いのヒビの様子から取ったという意味の他に、
花の数が多いという意味もある。
つまり占いの木でもあり、花が多いというのが本来の桃。

百々をモモと読むのは、数多いという意味も
桃から取ったという意味も正確と言える。
231日本@名無史さん:2010/09/23(木) 16:45:23
>>227
桃は古代種も渡来の栽培種も現代の水密種も実が多いよ
桃は人の背丈ほどの木でも普通に千個くらい実をつける
大きな木になると、実を数万個つけるものもザラにある
桃を栽培するときは大量に間引きしているから少なく見えるだけ
232日本@名無史さん:2010/09/23(木) 16:52:00
桃より実を多くつける木など、いくらでもある。
233日本@名無史さん:2010/09/23(木) 16:55:57
例えばどんなの?
234日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:18:35
>>226>>232
一番じゃないと駄目か?
235日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:20:06
同じ仙果の棗とか。
236日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:29:08
国内最古の棗が確認されてるのは6世紀位だけどな。
237日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:33:23
ってか、ちっちぇーよ
238日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:36:14
梅のほうがはるかに実が多いだろ。
239日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:48:17
そうでもない
240日本@名無史さん:2010/09/23(木) 17:58:31
ま、モモソは桃に縁があるという事でいいんじゃないの?
桃と巫女、神仙思想、弟の件もある事だし。
241日本@名無史さん:2010/09/23(木) 18:06:11
いや、モモソは桃と縁があるかどうかわからないということでいいと思うよ
ワカランものはワカランしておくのがベスト
242日本@名無史さん:2010/09/23(木) 18:38:24
わからんというより無視したいだけでしょw
243日本@名無史さん:2010/09/23(木) 18:43:39
もも おそなえ姫
244日本@名無史さん:2010/09/23(木) 19:35:09
桃で襲う姫
245日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:04:40
『日本書紀』
倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)
『古事記』
夜麻登登母母曾毘賣命(やまととももそびめのみこと)
246日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:05:51
モモソ媛命のモモが
果物の桃と関係があるかどうかは分らない。
日本語は同音異義語が多過ぎる言語だから。

でも、まあ、関係ありと考えたくなる気持ちもわかるw
247日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:07:45
>>245
日本書紀と古事記では微妙に違うな。
248日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:29:38
ま、桃かどうかはわからんだろう。崇神天皇の和風諡号は
「御間城入彦五十瓊(ミマキイリヒコイニエ)」で、こちらは五十。
249日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:37:46
100対50でモモソ姫の勝ち!
250日本@名無史さん:2010/09/23(木) 20:39:52
ああこれは、百襲姫の殉葬者が100人で、崇神天皇が50人だったという話もあるね。
251日本@名無史さん:2010/09/23(木) 21:06:48
>>250
なんか卑弥呼と関連づけたい気持ちがありありだなw
252日本@名無史さん:2010/09/23(木) 21:49:20
まぁ、掘ればなんか分かるだろ。無理だけど
253日本@名無史さん:2010/09/23(木) 23:15:03
モモソヒメ=卑弥呼なら、魏志倭人伝にもそう載ってるはずじゃないか。
なぜ、モモソとは書かずに卑弥呼と書く必要があるんだ?
答えは簡単、「別人だから」。
254日本@名無史さん:2010/09/23(木) 23:23:09
卑弥呼はヒメコと読むんだよ
だからモモソ ヒメ 








なんて書いてる邪馬台国本あったよ
255日本@名無史さん:2010/09/23(木) 23:43:13
>>253
ホント邪馬台国が好きなんですねw
256日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:02:26
卑弥呼と百襲姫の共通点って巫女だったらしいってことだけしかないんだけど
257日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:04:48
纏向遺跡=桃=倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)=箸墓古墳=卑弥呼=邪馬台国
258日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:04:56
モモソ姫って女王でもなんでもないし
時代も合わない
さらに纏向とも無関係なことはわかりきっている
無理やりすぎる
259日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:06:13
卑弥呼同様弟がいたんだっけ
260日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:07:22
>>258
典型的な記紀と魏志倭人伝のいいとこ取り失敗のパターンだよね
卑弥呼=モモソヒメ説
261日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:07:45
百襲媛って纏向のすぐ近くの箸墓の埋葬者という話でなかったっけ
262日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:09:25
墳墓が箸中山古墳という伝承だから纏向と関係はあるだろ。
263日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:10:11
ほんの僅かな共通点を見つけ出し
整合しない条件を全てなかったことにして
ありもしない物証をこじつけ
記録と測定の年代を前後1世紀もねじ曲げて
むりやり邪馬台国を畿内に持ってこようとする

これが畿内厨

まじめにコツコツと研究している畿内説論者も非常に迷惑している
264日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:11:22
ここは巻向スレですけど‥
卑弥呼も邪馬台国も無関係です。
当該スレで好きなだけどーぞ。
265日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:12:12
266日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:12:58
>>263
九州説って何だっけ
267日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:14:02
>>123
> 桃と一緒に出土した道具といっても、皆小さくて実用性の無い物ですよ。
> 祭祀に使ったとしかいいようが無いですから。

嘘付くなよw
「バットのような遺物」も桃の種と同じ穴からだろ。
どこが「皆小さくて実用性の無い」だ。
http://mytown.asahi.com/nara/k_img_render.php?k_id=30000001009180001&o_id=8886&type=kiji
268日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:15:50
桃の種が同じ穴にたくさんってのはなんだろな。
全部一度に捨てたとしたらかなり大きなイベントだっただな。
いずれにせよ、道具、土器が一緒に出ているから、
その辺を整理して用途を探ることになるんだろうな。
269日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:16:32
バットで野球でもしたのかw
270日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:17:39
やっぱり杏仁豆腐工場
271日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:24:26
何でもかんでも 祭祀 の一言で煙に巻く今の考古学会のやり方はどうなのかなぁ
桃の種使った祭祀なんて伝承されてるようなものもないし古文書にもそんな記述どこにもないよね?
272日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:24:40
桃と言っても当時の栽培種はせいぜいプラム程度の大きさしかない
273日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:24:57
これは後代の「砧」なんだろうね。

http://heymanbow.exblog.jp/1762507/
274日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:29:39
>>271
巻向に関しては食用だったと説明する方が大変なんだぞ。

桃や桃の木を使った祭祀なら結構あるでしょ。
特に中国なら沢山あるしな。
だから神仙思想の影響による祭祀か?
というのが今の所妥当な考察。
275日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:29:51
考古学における「祭祀用途」は「使途不明」と同義だよ
わからないものはとりあえず「祭祀に用いたのでは」となる
したがって「祭祀用途だから、この遺跡は○○だ」というような推測は行われない
畿内説以外では
276日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:31:48
>考古学における「祭祀用途」は「使途不明」と同義だよ

そんなことねーよw
277日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:35:30
>考古学における「祭祀用途」は「使途不明」と同義だよ

そ、嘘もいいとこだな。何あせってんだか。w

278日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:37:29
ウソつき日向厨にバカが乗っかってんだろ。
279日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:46:18
これまでに邪馬台国が神仙思想と関係があったという物証も記録も発見されてはいない

今回の発掘は、纏向に邪馬台国があったことが証明されれば
邪馬台国が神仙思想の影響を受けていた可能性を示すはじめての物証となるものであって
神仙思想の影響を受けていた可能性をもって邪馬台国の根拠とすることはできない

神仙思想をもって邪馬台国とする推測は、完全に自家撞着を起こしている
280日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:49:20
祭祀だったとして、神仙思想と結びつけようとするのが意味不明
日本には日本の宗教・思想・文化があったわけで、本来はそれに基づく祭祀と考えるのが妥当なはず
さらにその神仙思想が邪馬台国の根拠につながるという主張は妄言の域に達している
281日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:52:34
>>279
>完全に自家撞着

それらしい文章を書いたつもりだろうが自分が大ポカやらかしていることに気づきけアホwww
282日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:54:32
倭人伝にある宗教的な記述というのは「神仙思想」ではないな。また、「太陽信仰」でもない。

>始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒巳葬擧家詣水中澡浴以如練沐

>其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去キ蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰
  若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹

>其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火(土斥)占兆

>事鬼道能惑衆
283日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:58:06
今回、最初に神仙思想を持ち出した馬鹿って誰なの?
284日本@名無史さん:2010/09/24(金) 00:59:27
>>269
木製横槌。
土器を破壊したのではという意見が報道されていた。
285日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:02:25
>>284
つまり祭祀使用という事だね。
286日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:03:13
どう見ても、脱穀用か、皮なめし用だな。
287日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:03:34
根拠は書いてなかったので、「つまり〜という事だね」と言われましても。
288日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:07:13
>>282
卑弥呼は鬼道使いで鏡、丹好きの大陸厨なのに?
289281:2010/09/24(金) 01:08:47
まあ>>279本人の気づきを期待するのもアテにならないんで書いておくと・・・

『邪馬台国が神仙思想の影響を受けていた可能性を示す物証』

と言うのなら既に画文帯神獣鏡が出てるって話な。

ただ神獣鏡が出ようが桃が出ようが水銀朱が出ようが
それで纏向で行われていた祭祀が神仙思想に基く物だというには決め手に欠くと言うか…

現在の神道とて道教の影響なんて多々あるわけで






290日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:20:18
>>288
「鬼道」については「五斗米道」と見る説もないわけではないが、「鬼」は祖先の霊という意味か、
あるいは「鬼道」で蕃夷の左道というような意味で用いられているのではないか。

三角などの東王父、西王母などのモチーフは 祭祀を司る巫女王と、世俗を受け持つ男王が
並び立つ様子を表すという解釈もある。

291日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:23:54
五斗米道のような当時の中国でもごく一部地域でのみの勢力が
日本に伝来して祭祀に影響与えたと考えるのは困難じゃね?

292日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:25:05
そもそも出てきた土器も祭祀用の小さな土器で意図的に破壊されていた
もともと大規模な建物で生活が営まれたってより祭祀用の神殿みたいなものでは
政治と祭祀は混ざり合ってた訳だし
政治はまつりごとだった
293日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:28:27
祭祀用の土器を破壊するって発想は、今でも葬式で茶碗割るみたいなところから出てきた考え方なの?
壊れてる=破壊されたじゃないと思うんだが
294日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:32:30
前に老教授と話したときには、卑弥呼の「鬼道」は、ゆるやかな連合を構成する各地の首長が会したときに、
各々の祖霊の格付けや、異なった祭祀形態を習合させるための調整機能ではなかったかという内容だった。
295日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:33:20
惑わすという記述とだいぶ違うね
296日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:34:17
>>289
うむ、正論だ
>>279は失敗だった
当初、長文すぎたので推敲しているうちに、逆に誤解を招く文章になってしまった
真意については、言い訳になるのでここでは書かない
機会があったら、また次の機会に
297日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:36:41
土器なんて落としたりぶつけたりしたら簡単に割れるのに
なんで意図的とかわかるんだ?
298日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:41:08
>>295
違うけど、>自爲王以來少有見者 だから、託宣を述べるだけで卑弥呼本人は衆の前に
姿を現すこともなかったのでは。各地の首長も「これが卑弥呼のお告げだ」という指示に
従ったとか・・・妄想に近いけどね。
299日本@名無史さん:2010/09/24(金) 01:42:36
>>294
ほぼ同意って感じだな。

自分流に言わせて貰えば
「首長層間のネットワーク形成の為の方便」とか?www

>>296
まあなんでもかんでも直ちに道教・神仙思想に結びつけると言うのには
自分としても批判したいところではあるがw
300日本@名無史さん:2010/09/24(金) 02:27:37
土器の破砕祭祀は一般的な認識だと思うけどね。楯築がそうだし、
他にも「破砕祭祀」でググればたくさん出てくる。破砕された土器
は復元ができないものもある。
301日本@名無史さん:2010/09/24(金) 03:54:17
というか「鬼道」ってシナ人がそう書いてるだけ
女をトップにするなんて、
エロか占いしか考えられんだろっていうシナ男発想
男同士だと戦したがるし
地元への利益誘導とかハニートラップとか、ありがちな腐敗を避けるために
脂っ気の抜けた訳知りのばあさんを代表に据えた。
とかそんなあっさりした話だと思いますけどね

纏向はイケイケ王の神武天皇が来てから作られた都だから
いろいろゴージャスな仕様になってる、と。
302日本@名無史さん:2010/09/24(金) 05:04:31
>>301
記紀を読みなおせや。
ワカミケヌ(神武)のころは、巻向なんて都はありません。
303日本@名無史さん:2010/09/24(金) 05:54:38
ま、神武は三輪じゃなくて畝傍だからなw
304日本@名無史さん:2010/09/24(金) 05:58:41
>>302
じゃあ神武のころの都の名前を教えてくださーい
305日本@名無史さん:2010/09/24(金) 06:10:16
神武のころっていつだよ
306302ではないが:2010/09/24(金) 06:28:23
>>304
畝傍山の東南、橿原の地に造ったと記紀にも書かれている『橿原宮』

これでいいかな?次からは自分で調べましょうね。さようなら。
307日本@名無史さん:2010/09/24(金) 06:29:23
>>304
調べろ、日本書紀や古事記で。
記紀を読んだら
天皇の御所は、高間・葛城(御所市)から三輪山処(桜井市)へ
大和盆地の西南部から東南部へ徐々に移転したことが分る。
308日本@名無史さん:2010/09/24(金) 06:34:16
魏志倭人伝に卑弥呼を「共立」したとあるが
これって、中国側の文献では
同じ王朝内部で皇位継承争いがおこって
家臣が話し合いによって皇帝を擁立した場合に
「共立」という言葉を使用している。
普通、皇位ってのは、前皇帝の意思によって、
次期皇帝に継がせるモンだけど、それがうまくいかなかった場合に
家臣の話し合いによって共立する。
309日本@名無史さん:2010/09/24(金) 06:35:16
>>308
スレ違い。
他のスレに逝け。
310日本@名無史さん:2010/09/24(金) 06:47:13
自分で調べろという二名がそれぞれ別の場所を指して断言するところが興味深いなw
311日本@名無史さん:2010/09/24(金) 07:49:13
「畝傍山」の東南かあ・・・

天香具山はどこか?
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_12-D.html
312日本@名無史さん:2010/09/24(金) 07:49:59
「水銀」がよく取り上げられてますか
水銀を求めて西から東へ九州から大和へ
文明文化が伝播していったのですかね
313日本@名無史さん:2010/09/24(金) 07:53:26
大和三山の一つ「耳成山」が
投馬国の副官「弥弥那利」とかぶってるのも気になる
314日本@名無史さん:2010/09/24(金) 08:42:24
>>312
求めてたのは中国人、もしくは影響を受けた人でしょ。
315日本@名無史さん:2010/09/24(金) 09:17:50
水銀を取り上げているのはごく一部の
纏向と邪馬台国と神仙思想を直接結びつけたい人だけ
316日本@名無史さん:2010/09/24(金) 09:51:26
今回は報道でも神仙思想に結びつけてたから
一部とは言えないでしょ。
317日本@名無史さん:2010/09/24(金) 09:57:53
現場はそうは思って無くても記者は記事書くためにしつこく聞いてくるからね
で神仙思想の可能性もと言ってしまったのかもね
で報道になるとそれが定説になったあげくなぜか卑弥呼もオマケで付いてくると
いい加減卑弥呼で発掘費用巻き上げるこのやり方止めるべきでは?
318日本@名無史さん:2010/09/24(金) 10:46:30
>>297
粉砕に近くて、
一部分しか発見されないから。
319日本@名無史さん:2010/09/24(金) 10:49:49
間違って落とす→割れる→むかついて踏みまくる→意図的な破壊完成
320日本@名無史さん:2010/09/24(金) 10:49:52
桃の種を捨てた場所がゴミ箱なら
ただ単に、使ってた土器が割れて使えなくなったから
ゴミ箱に捨てただけじゃね?
321日本@名無史さん:2010/09/24(金) 10:51:37
以下の相対的時間関係を考慮して発言すること。

桃の種の穴は、三世紀初め(発掘者らの推定)の柵の下で、
柵を取り外した後に三世紀中頃(発掘者らの推定)に掘られている。

http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E3EBE2E2808DE3EBE2EBE0E2E3E29180EAE2E2E2;at=ALL
> 7月に始まった今回の調査では、大型建物跡の南側で東西に延びる柵跡を発見。
> 桃の種は柵を取り外した後に掘られた3世紀中ごろの穴(南北約4.3メートル、
> 東西約2.2メートル、深さ80センチ)から見つかり、土器やミニチュア土器の
> 破片、漆塗りの弓、木製の剣も出土した。

参考:
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20100917-OYT8T01217.htm
> 石野博信・兵庫県立考古博物館長は「王宮とみられる大型建物を建てる際、銅
> 鐸を壊す祭祀をした。その建物を壊した後、桃を使った祭祀をしたのだろう。
> 王宮の出現と終わりの儀礼にかかわるものが見つかったのは、大変意義がある」
> と話している。
322日本@名無史さん:2010/09/24(金) 10:55:04
吉野ヶ里とか見ても動物の骨から土器、鏃に至るまで何でも捨ててるね
323日本@名無史さん:2010/09/24(金) 11:05:00
>>317
でもこの時代で桃とくれば祭祀、神仙思想の影響が
もれなくついてくるんだよ。
これは卑弥呼とかは関係ない鉄板の事。
324日本@名無史さん:2010/09/24(金) 11:10:17
銅鐸みたいにきれいに配置してあったり
大量の銅剣出土のような出土例なら
儀式で埋めたと言うことも出来ようが

ゴミ捨て場と今回の桃種は区別できるのかしらん。
325日本@名無史さん:2010/09/24(金) 11:15:54
吉野ヶ里で土器制作教室みたいなのをやってて
吉野ヶ里の掘りの端に作ったのが捨ててあるんだが、
これ埋めちゃって、数百年後に掘り返したら
えらいことにならないか心配だ。

それ見たとき、一瞬びびった。

まあ、出るところでは瓦礫の山になっても
おかしくないくらい本物が出るんで。
326日本@名無史さん:2010/09/24(金) 11:18:39
>>324
ごみ捨て場かもしれないが、
食物は桃の種しか出てこないので、
生活ゴミではないという推定になるのだと思う。
327日本@名無史さん:2010/09/24(金) 11:24:42
ミニチュアの土器や弓と剣、
これは祭祀用でしかあり得ないんだけどね。
328日本@名無史さん:2010/09/24(金) 11:33:34
>>320
夏祭りの後の破壊された看板とかのイメージでいいんじゃね?

>>327
今で言う子供用おままごとセットだったんじゃね?
329日本@名無史さん:2010/09/24(金) 12:10:13
おままごとに桃を数千も使わないけどなw
でも仏壇の茶碗類と思えば納得だろう。
330日本@名無史さん:2010/09/24(金) 14:50:58
>>323
中国だったらな
日本においても、可能性は否定できないが、鉄板というのは言い過ぎ
331日本@名無史さん:2010/09/24(金) 15:00:07
宗教国家だったんだから何をするにも祭祀はつきものだろう
神仙思想の影響を受けた儀式だろうが、酒造りだろうが、収穫祭だろうが、それに伴う祭祀はあったろうよ
問題は祭祀だったかどうかではなく、どういう意味があったかじゃないのか?
桃だから神仙思想っていうのは短絡的すぎると思うぞ
332日本@名無史さん:2010/09/24(金) 15:43:06
そうか?この時代の祭祀なら、桃=神仙思想の
影響下でいいと思うけど。
祭祀で他に例があるの?
333日本@名無史さん:2010/09/24(金) 15:49:05
次にはたくさんのクリが出るかもしれないよ。
334日本@名無史さん:2010/09/24(金) 15:49:18
数千の桃を腐らすに任すなんて
宗教的にはかなりいびつだな。

なんか、日常的に水不足に悩まされて飢えに苦しみ、
神頼みのためにモアイ制作に傾倒した、
イースター島の絶滅終末期のようだ。
335日本@名無史さん:2010/09/24(金) 16:01:47
>>334
実や皮の付いたのもあるというだけで、
全部実が付いていたわけじゃないんでしょ。
むしろほとんど種だけだった。
336日本@名無史さん:2010/09/24(金) 16:06:10
食ったなら食ったで良いんだけど
その食いカスをわざわざ1カ所にあつめたのか?
という疑問がある。

ゴミ捨て場なら納得は行くが、ゴミ捨て場だと
困る人もいるんじゃない?
337水銀厨:2010/09/24(金) 17:15:48
桃は種(桃仁)にも霊力があると言われてますからね。
実丸ごとか種をまとめて竹篭に入れていたかという点は
興味あります。あと弓や剣の材質とかもね。

>>336
ゴミ捨て場ということは、現状ではちょっと考えられないでしょうね。
ならそれだけの人物が周囲にいたのか?
他の(食用の)ゴミが何故ないのか?という矛盾があります。
338日本@名無史さん:2010/09/24(金) 17:56:32
剣は木製。
竹の籠に盛られたまま投棄されたという可能性があるって。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100917/acd1009171959002-n1.htm

遺物が祭祀用だとしても、穴がごみ捨て場って事はありうるのでは?
かつて大量に見つかった小型の土坑のように、
遺物が常に同じ構成、燃やした痕跡あり、建物との配置も同じってことなら、
土坑自体が祭祀の現場だったという推測もそれなりの根拠があるけど、
今回はそういう報告は皆無だから。
ごみ捨て場ってのは、遺物が祭祀用だったケースも含んでるでしょ。
339日本@名無史さん:2010/09/24(金) 18:03:08
祭祀跡であるのは間違いないよ。ただし神仙思想と関わりがあるかはわからない。というか
纏向で主流の農耕祭祀、収穫感謝でなぜいけないのか、ということだと思うね。
340日本@名無史さん:2010/09/24(金) 18:29:41
マキムクの王の子供の成長を祈る祭が行われて最後に桃が振る舞われてみんなで食べた
後でまとめて掘ってあった穴に捨てました
後の端午の節句である
341水銀厨:2010/09/24(金) 18:45:55
>>339
>農耕祭祀、収穫感謝でなぜいけないのか

当日一応現地で「農耕祭祀ではないの?」と確認はしたのだが、
過去に周辺で発掘した出土物と内容に明確に差があるので違う、
だそうです。

土抗については4世紀に溝が掘られた際に損傷している
部分がある為、他にも何かあった可能性は高いでしょうね。

まぁまだ何が出てくるかはわからん、という事で
色々期待していいんじゃないですか。
342日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:17:19
空想の上に楼閣を建て増しし続けて、
話だけをエライセンセイたちに利用されて、
橋本氏は将来の藤村にされるんじゃね?
343日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:24:27
ミニチュアを足で埋め込むんですね
分かります
344日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:28:00
神仙思想を否定するセレモニーが行われ
神仙思想に関する祭器が破棄された
345スレ違い御免:2010/09/24(金) 19:33:38
>>334
>イースター島の絶滅終末期のようだ。

おおっ、ひょっとして子供の頃「T・ヘイエルダール」読んだクチデスカ?wwwwww

で、ついでに聞くが、ひょっとして以前この板でコンキスタドールのコルテスの名を書いたことはなかったかな?
いや某倍暦研究家以外にこの板の邪馬台国スレで中南米の古代文明に触れるのは珍しかったから覚えているんだがw
346日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:35:10
その内柿の種とか大量に出てきそうだな
347日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:36:27
土器を割る祭祀ってのは神仙思想とは関係ないだろ
弥生初期または縄文後期から行われていた
日本で発祥した祭祀と見た方が妥当ではないのか?

桃だって縄文時代の遺跡から普通に出てくるものだし
古来から魔除け・子孫繁栄などの日本独自の宗教的意味合いをもった果実だ

今回発見された桃が祭祀で使われたとして
ただそれだけで神仙思想と結びつけるのは短絡的
348日本@名無史さん:2010/09/24(金) 19:53:11
日本古来っていつからなんだ?
349日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:06:37
魏、呉、蜀の宗教って何だったんですか?
350日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:37:16
そもそも桃だけ神仙思想から取り入れて、
祭祀具は全く関係ないって事はありうるのかね?
351水銀厨:2010/09/24(金) 20:45:41
>>347
日本独自の宗教的意味合いも、神仙思想から発展、変化した
可能性もあると思います。

>>349
大まかには仏教と道教(太平道と五斗米道から至る)です。
352日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:48:46
それもありうるし、そもそも神仙思想とは無関係の可能性もある
桃自体は日本にも自生していて、縄文時代の遺跡からも出土している
ただし、この時代の桃は、中国から移入された栽培種であることが多い
では栽培種であれば神仙思想の影響を確実に受けているかというと、そうとも言いきれない

要するに今の材料だけではわからないということ
353日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:51:00
>>351
アホか? 儒教だよ。
354日本@名無史さん:2010/09/24(金) 20:58:14
>>351
個人的には神仙思想から発展・変化した可能性は低いと考えている
神仙思想から独自に発展、変化したとするには、その変化が大きく、早すぎる
これはもともと日本土着の思想が基にあったためと推測している
355日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:03:08
>>353
少なくとも呉は儒教の本流ではないような気がしますが
356日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:17:48
祭祀跡だとすると、
水銀朱は出てないようですので、
祭祀に水銀朱は使ってないってことですね。
さらに農耕祭祀ではない。
祖先霊が関係する祭祀とすると、
ホケノからは水銀朱が出ていることとどう整合するか。

357日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:18:36
呉だって、上層部は儒教でがんじがらめなんだよ。孫権伝では、親の死後三年喪に服すという
儒教の習いを覆そうと諸臣と議論した様子が出てくるが、結局、儒教的概念である「孝」と「忠」の
価値判断で決着をつけるよりなかった。陳寿は服喪の期間に薬を作ったとして散々な非難を浴び
た。

三国志を読めば、清貧とか義とか仁とかなんとか、儒教の価値観で貫き通されていることがわかる。
日本の平家物語が、仏教の無常観一色なのと近い。
358水銀厨:2010/09/24(金) 21:21:03
>>353
失礼、ただしやや衰退を見せ始めた時期だと思う。

桃の種で思い出したのだが、同時代の神農本草経によると
桃の花は伝染性の悪鬼を殺す、
桃の種(桃仁)は流血や膿を取り除く、百鬼を殺すとあるので
まあ何にせよ桃や桃の木は鬼を倒す物だったのには違い無いはず。
359日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:25:04
いや〜、この桃は決定的だね。
桃太郎が日本史上最大の謎を解いたね。
360支謙:2010/09/24(金) 21:25:20
>健初寺、支謙
361日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:29:37
>>357
> 三国志を読めば

儒教に反するような裏切り、敵前逃亡、出国も多いよなw
国や国王に殉じるのが嫌なので、道教や仏教も流行った。

ちなみに桃のアミグダリンが胃酸と反応してシアン化水素になるので、
犬、猫のたぐいは中毒を起こす。
362日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:32:42
三国志演義だろ
363日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:33:59
儒教は前漢の時代に国教化し、官学化した。その後の中国の王朝はこれを受け入れざるをえなかったし、
上部層には必須の教養であった。儒教の教義に悖る行いは激しく非難され、これは三国時代でも変わらない。

三国志には「彼は清廉な人物で、死後少しの蓄えもなく家族が困った」とか「戦で勝っても、略奪も墓暴きもしな
かった」とか(これは今適当に思い出したので、この通りの記述ではないが)儒教を基軸に人物・業績の評価が
なされてる。まあ、実際に教義を厳密に守るのは実に厄介なことだったようだが・・・。

庶民層には土俗呪術的な道教、教団道教もあったろう。

>>355  http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/zatu9.html

>>361  戦乱の時期は、欲と打算、保身と自己防衛(責められることでもないが)で人は行動する。しかし、その
行動の評価は儒教で為されるということだ。
364日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:34:05
押し付けられた宗教で土着の宗教とは違ってたんだろうな
365日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:35:28
>>364
どういうこと?
366日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:38:53
儒教と道教って、理論上はともかく、実社会ではそんなに相互排斥的ではない。
367日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:39:22
儒学は学問であり宗教ではなかった
368日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:45:01
なんでもそうだが、原理主義に陥ると邪教化する。
369日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:45:55
>>365
孫権本人が儒教からの脱却を試みてる
370日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:49:04
>>366
そうね。儒教は現世を良く生きる法、道教はなんというか・・・現世をラッキーに生きる法??、運がよくなったり病気が治った
りとかだな。どちらも現世に基軸を置いた宗教。さらに、戦乱の勝者は、天命思想、易姓革命など古来から中国にある思想
によって儒教的評価を免れる場合もある。ww

>>367
それは現在から見た考えであり、当時は仏教だって学問だった。さらに道教は医術でもあった。
371日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:50:29
>>366
そもそも道教は何でもありだから。
ほとんど全ての宗教を飲み込んでる。
372日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:51:27
現在から見たら儒教は宗教だろ
373日本@名無史さん:2010/09/24(金) 21:55:04
>>369
これは、儒教の教義・・・つまり忠孝の概念は民衆を支配するためにも、国を安定させるためにも有益なものと認めつつも、
親の死には何をおいても駆けつけ、三年喪に服するという教義が、あまりにも実務を阻害するということで、現実的妥協案
を考えようとしたということ。
当時は、大義名分の世界であり、戦いを起こすにも理由がいる。いわく「○○は養父を殺した不孝者だ」「あれほど世話に
なった恩人を裏切った卑劣漢だ」・・・このような形でも、儒教の教義は活用?された。
374日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:00:50
>>373
法律(行動規範)と宗教は違うんじゃないか?
375日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:05:29
>>374
それが決定的に分かれたのは近代だろ。
376日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:08:27
戦いを起こしていいかどうかは行動規範による
戦いに勝つために何らかの儀式をとり行ったりすればそれは宗教
377日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:12:31
>>374
極端な例をあげれば、皇帝や王侯はやる気になれば人を殺し放題もできる。それを抑制したが行動規範だな。むろん戦国時代
の「法経」に由来した法制もあったよ。
378日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:18:03
土器の割れ方で行動を決めてたりすればそれは宗教で鬼道といわれてもしょうがない
379日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:18:03
「宗教」とは明治時代、英語の「religion」に
仏典の「宗教」を訳語として当てたもの。
380日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:25:38
水銀は西から東に伝わったんですか?
それとも東から西なんですか?
ココんとこ重要だと思うんですけど
381日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:47:34
伝わるも何も
末盧(松江)から不彌(津)まで
言い換えれば、出雲から伊勢までの路程の
中間にある伊都(丹波)のことを倭人伝では「その山に丹あり」
とわざわざ書いている。
382日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:50:42
いちいち地名を入れるから説得力がなくなるんだよw
383日本@名無史さん:2010/09/24(金) 23:00:24
水銀は硫黄と親和性が高いので、火山国なら産出する場合が多かったのではないか?また、辰砂は赤系の色で鉱床
も見つけやすかったのだろう。
384日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:20:54
Wiki
日本列島では桃の存在を示す桃核の出土事例が縄文時代後期からあり、
弥生時代後期には大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化し、各時代を
通じて出土事例がある。桃は食用のほか祭祀用途にも用いられ、斎串など
祭祀遺物と伴出することもある。

纒向の新聞見る限り弥生後期に大陸から伝わった栽培種?
385日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:35:57
詳しい発表は聞いていないが
写真と時代から推測すると、おそらく栽培種ではないかと思う

ただし栽培種だからと言って祭祀用とは限らない
また祭祀用だからといって神仙思想の影響があったとは限らない

今回の発見の場合は、何らかの祭祀が絡んでいただろうというところまでしかわからない
386日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:50:32
勾玉ってあれは魂の意味だよな?
玉(ヒスイ)に魂が宿るみたいな考えはあるのか?
あと、出雲の出土品で大きい勾玉が小さい勾玉をキノコのように
にょきにょきはやして産んでるような勾玉があるんだよなw
387日本@名無史さん:2010/09/25(土) 01:01:41
それとさ、魏ってなんの意味があるんだろ?
鬼が魂=霊なら委に鬼って・・・・
ちなみに倭はにんべんに委。
(魂は云うに鬼だから言霊のようなものか?)
388日本@名無史さん:2010/09/25(土) 01:02:44
清楚深淵間議長
389日本@名無史さん:2010/09/25(土) 01:03:49
曲がった玉じゃねぇの?
動物の牙に穴を開けたのが祖形と考えられてる。(牙製垂飾)
材質は多種に及び、ヒスイに限らない。
子持勾玉の多くは滑石製。朝鮮でも出土してるらしい。
390日本@名無史さん:2010/09/25(土) 01:10:55
勾玉と前方後円墳に関しては日本が朝鮮半島南部支配してた証明だね
韓国の学者は前方後円墳を朝鮮半島にいた日本人官吏の墓とか苦しいこと言ってるけどさw
墳墓を大量の人員動員して日本人が作れたと言うことは明らかにその地域を支配していたと言うこと
391日本@名無史さん:2010/09/25(土) 01:33:48
>>390
大体、あんな馬鹿でかい古墳を国内にばかすか作れる国が支配される側なわけねえw
で、朝鮮にその大和式冊封の古墳があるとwww
392日本@名無史さん:2010/09/25(土) 01:59:28
韓国の前方後円墳は、纏向からは時代が大分下った話。
任那とは場所も違うし。
朝鮮が気になって仕方ないんだな。
393日本@名無史さん:2010/09/25(土) 03:18:01
朝鮮半島南部に前方後円墳が登場するのは、
ちょうど、雄略天皇が中国の皇帝から
朝鮮半島南部の軍事指揮権の官職に任命されたころから。
規模は、日本のものよりも、かなり小さく、時代もあたらしい。
394日本@名無史さん:2010/09/25(土) 03:20:47
>>392
雄略天皇が、中国の皇帝から軍事指揮権の地域は、
任那だけではなくて、その周辺の広範囲になる。
395日本@名無史さん:2010/09/25(土) 03:34:38
中国の皇帝が、雄略天皇に認めた地位は
国家元首としては、倭国王と地位。
それ+、倭国および朝鮮半島南部の数カ国の軍事指揮権の地位。
ただし、雄略天皇は、百済の軍事指揮権も欲しがっていたが
百済は中国との間に直接的な臣下の関係を結んでいたから
その部分だけは、中国は認めなかった。
396日本@名無史さん:2010/09/25(土) 06:20:16
すこし桃の種について話を整理してみる。

問題を段階的に考える必要があると思う。

先ず、この大量の桃が道教を意識して使われたものなのかどうか?と言う点が一つ目。
次に、仮にこの桃の種が道教由来だとしても纏向で行われていた祭祀が道教をベースとすると言えるものか?が二つ目。

現時点では一つ目の「桃を祭祀に使ったのは道教を意識してなのか」も分からないだろう。

道教由来と日本オリジナル(?)の両方を考えておく必要があるんジャマイカ?

ぶっちゃけた話、コンビニでも砂糖たっぷりのお菓子が買える現在と違い
桃なんてかなり貴重なスイーツだったろうしwww

神様にささげる特別な食べ物として格付けされた可能性も考えておきたいところ。
397396捕捉:2010/09/25(土) 06:26:21
先に言った「神様にささげる特別な食べ物」と言うのは
現在の神道ので神にささげられる『御饌(みけ)』をイメージしてもらえるとありがたいw
398日本@名無史さん:2010/09/25(土) 07:11:40
神仙思想だったから、桃を大切にしていたかどうかは分らないな。
正直、マスコミを使った考古学者の情報攪乱に対して、あきれるわ。
まあ、紀元前から、倭国には中国の情報が入っていたから
当然、神仙思想ってものに惹かれるのは理解できる。
権力者に限らず、人間にとって不老長寿・不老不死は
永遠の望みだから。
でも、結果的には、日本では桃は、神事の魔よけの意味になっていった。
そういう意味で、必ずしも直接的には不老長寿という意味ではなかった。
399水銀厨:2010/09/25(土) 09:42:52
>でも、結果的には、日本では桃は、神事の魔よけの意味になっていった。
そういう意味で、必ずしも直接的には不老長寿という意味ではなかった。

少し誤解があるようですが、3世紀当時の中国で桃の扱いは「鬼払い」の木、
果実ですよ。後漢の頃に成立していたとされる神農本草経に中品扱いで
記述されています。勿論仙果ではありますが、魔よけの意味も当然あります。

400日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:32:01
魏志倭人伝で卑弥呼のことを鬼道、衆人を惑わすと書いてることからこの手のシャーマン的な要素は
当時の中国では完全に廃れてたことを示している
401日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:41:49
そんなことはない。
五胡十六国時代にシャーマン的な要素が
全真教系道教や密教系仏教の中で復活してしまう。
402太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 10:49:46
>>393
任命なんかされてないだろう。
403日本@名無史さん:2010/09/25(土) 11:31:59
帥升王とはだれか、その疑問に対して、まだだれも納得のいく答えを出していませんね。
帥升とは、御諸山の大物主のことだった。
「帥」は「師」と同じく「もろ」と読むのです。
「升」の方は象形文字に近い。鳥居を意味します。
御諸山の鳥居、つまり三輪山の大物主のことだったのです。
ただし、大物主は、御諸山の司祭王で個人名ではなく代々世襲されていたのだと思われます。
404日本@名無史さん:2010/09/25(土) 11:50:09
>>403
はあ? スレ間違っていませんか?
405日本@名無史さん:2010/09/25(土) 11:55:40
>「升」の方は象形文字に近い。鳥居を意味します。

あの、中国側は音に当て字してるだけで文字にそういう意味がないのは常識ですが?
406日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:25:46
>>399
それは神仙思想ではない
407日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:39:14
まぁ帥升は奴国の金印が志賀島から出てる以上博多周辺というか北九州の王だわな
あの時代に生口160人を洛陽まで送ってるんだからかなりの大物だわ
408日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:42:04
>>407
で、それが纏向にどう繋がるんですか?
いい加減にスレ荒らすのはおやめなさい。
409日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:45:27
>>403
邪馬台国の卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命 とすれば、三輪山の大物主の使いが魏に送られるのは理にかなっていますね。
410日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:47:21
>>409
だから帥升は奴国の王だと言ってるだろうが
金印無視して話するな
411日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:57:13
>>410
金印厨は金印スレへ
412日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:57:44
ヒミコとモモソは巫女という以外の共通点はない
想像力豊かすぎ
413日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:02:11
金印は、邪馬台国の使者が魏から帰る途中に時化に遭って船が志賀島に流されて、
その船員を自分の体温で温めて介抱した島の女とねんごろになって住みついたという伝説が残ってないのか?
414日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:03:10
記紀のモモソ姫とか引っ張り出してマキムクの研究してる考古学者なんて一人もいないんだけどな
この板は唐松山とか一部熱狂的な記紀信者がいるけど
415水銀厨 :2010/09/25(土) 13:15:20
>>406
神仙思想ですよ。
病気は鬼神がもたらすもので、それを追い払うという事は養生術です。
別に仙人になる事だけが神仙思想はないですから。

道教教団の基礎、太平道、五斗米道とも元々病気治療を目的とした
宗教結社です。
416日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:30:52
>>414
遺跡のすぐ近くの箸墓埋葬者の比定者なのに?
417日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:15:23
とりあえず神仙思想は保留にしておけ
418日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:18:02
>>412
>ヒミコとモモソは巫女という以外の共通点はない

いや、ある。
ともに造墓の記事が古文献に記載された点。

笠井新也説の重要なポイントだ。
419日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:21:40
やっぱり、邪馬台国が魏に使いを送って冊封を受けていたという事実がタリシホコには看過できなかった。
そのために正史である記紀から邪馬台国の存在そのものを消し去ったというのが真相だと思うのです。
尖閣諸島をめぐる政府対応に対する右寄り思想の人たちの批判を見ていると、そうに違いないと思うようになりました。
420日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:58:47
国家屈辱記念日だから正史に書けるわけがない
421日本@名無史さん:2010/09/25(土) 15:04:45
>>417
何故?普通に桃といえば神仙思想だ。
422日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:05:10
>>419
一文で神功=卑弥呼と仄めかしてる訳だが
確かに朝貢国としての史書にある古代日本は認めたくないが
全くの創作だと中国に相手にされないというジレンマをあの一文に感じないと
423日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:38:52
本気で正しい目で歴史編纂しないと将来ガチでこうなるよ
日本の未来はおまえらの手に(ry


12 名前:名無しステーション[sage] 投稿日:2010/09/25(土) 16:15:39.38 ID:Yp0SfqT5
日本はアメリカ領日本自治区から中国領日本自治区に変わり、中国に洗濯されるぜよ
424日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:43:15
>>419
北九州政権でしょ?
仁徳古墳などは倭の九州政権の委任王権では?
おれには大和王権が奈良ではなく九州人王朝だった事が
時の大和人には考えられなかったと思います。
今の日本が朝鮮起源だといわれたら絶対に否定するように。
425日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:45:46
>>399
なんだ決まりじゃない。
つまり生命の果実である桃は死霊は寄り付けなかったということか?
426日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:47:10
>>403
もろこしの王では?
427日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:55:23
>>413
昔は政治には命が掛かってたし、もちろん権威も掛かってるが
もし使者が事故などで帰ってこない場合は自分の権力から落ちるかもしれん。
(だから昔の船の操縦者は仕事をしくじると一家もろとも殺された)

あの時代に比べれば今の政治はなんともぬるい、遊びに近いな。
428日本@名無史さん:2010/09/25(土) 16:56:38
金印のあると無しじゃ支配力に雲泥の差が出るわな
429日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:02:46
差は出ないでしょう。
実効支配しているものが勝ちです。
430日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:15:13
ハァ?
431日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:25:07
まあ、実効支配してる者に授けたのかもな
432日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:43:21
>>421
中国ならな
433日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:50:54
青木慶一さんだったか言っていたが
モモソ媛命=卑弥呼ならば、
狗奴国王の乱=武埴安彦命の乱
434日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:53:08
>>419
中国の冊封を受けていたのかもしれないが
中国以外の国家では、邪馬台国はパキスタンにあった大月氏国とともに
一段高い国家にあった。
それでも、許せなかったわけだな、記紀を編纂したヤマト朝廷はw
435日本@名無史さん:2010/09/25(土) 19:21:27
話は違うが、大月氏国と新羅や大和って人や物での交流ってあった?
436日本@名無史さん:2010/09/25(土) 20:17:53
大月氏国は無いだろ。なにしろ、紀元前2世紀だし。

新羅からは外交使節(新羅使)や僧侶が来てる。
647年(大化3年)には、もちろん即位前の話だが、
新羅の武烈王も外交で来てると。
437日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:19:08
>>434
もっと近い時代の倭の五王の朝貢を記紀は無かったことにしてるよね
438日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:27:25
>>437
卑弥呼は一応同盟関係だった
倭の五王は完全に朝貢だった
だから後者は抹殺されたんじゃないかな
倭の五王の名前と履中以降の和風諡号に何の関連性もない理由もそこにあるんじゃないかな
要するに捏造
439日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:30:17
倭の五王に比定される天皇の御陵は例え発掘できても盗掘でたいして期待できないかな
440日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:31:44
当たり前だ
記紀は「ぼくがいちばんつよくてえらいんでしゅ」って作文だぞ
441日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:54:21
面白いのは魏志倭人伝では卑弥呼以前の時代のほうが倭国が栄えてる趣旨の記述がある事。

「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って
国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である。……」
442日本@名無史さん:2010/09/25(土) 23:45:57
ふつう、百以上の国が三十国に統合されたという理解だが
443日本@名無史さん:2010/09/25(土) 23:48:18
神代は神代
神武以降はリアルに作って欲しかったな
1万数千年神代から飛ばしてるんだからなんとでもなっただろうに
444日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:48:45
>>421
他に一緒に出た遺物にも神仙思想を感じさせるものがないと。
でなければ、単なる強弁でしょう。
445日本@名無史さん:2010/09/26(日) 01:03:43
>>444
例えば何?
桃が仙果な点は紛れも無い事実なんだが。
祭祀目的で桃があれば神仙思想の影響を
まず想定するのは間違いではない。
446日本@名無史さん:2010/09/26(日) 01:22:25
そういうのを予断といいますね。
447日本@名無史さん:2010/09/26(日) 01:31:37
予断でもいいんじゃないの?
断定出来なくとも有力という事え。
448日本@名無史さん:2010/09/26(日) 01:35:33
>>445
神獣鏡でてくると一番いいだろうね!
449日本@名無史さん:2010/09/26(日) 01:39:47
数百メートル東南のホケノ山古墳で画文帯神獣鏡
450日本@名無史さん:2010/09/26(日) 03:06:56
>>442
そういう理解はおかしいんだな。
なぜなら、卑弥呼の30カ国以外にも
倭人の国があるみたいだしな。

旧事本紀や倭の五王の上奏文でも
倭国の国の数はおよそ110カ国くらいだから
倭国というのは100カ国くらいあって、
そのうちの30カ国が卑弥呼の完全な勢力化にあったとみたほうが良さそう。
451日本@名無史さん:2010/09/26(日) 03:16:03
桃が仙果なのは中国においての話

神仙思想が根付いていたかどうかも明らかでない当時の日本において
桃の種が出たことをもって、神仙思想の影響を受けた祭祀が行われたとするのは乱暴すぎる

桃の種が出たから神仙思想の祭祀だと強弁するのであれば
日本には縄文時代から神仙思想が根付いていたことになってしまう
452日本@名無史さん:2010/09/26(日) 03:27:28
栗が出たら「栗の神仙思想」、って言い出すんだろうな。
453日本@名無史さん:2010/09/26(日) 03:27:52
ていうか祭祀なんて言い方がイメージを阻害してるんじゃないかな。
呪術tとか呪いとかの表現のほうがしっくりくる。
数千の何かを集めるって言うのはまちがいなく、命の表現でしょ。
靖国神社と変わらないよ。
亡くなった人の魂をその依り代で纏めて、バリヤーとするのさ。
454日本@名無史さん:2010/09/26(日) 03:55:20
卑弥呼の時代、まだ残存勢力あるだろうね、東国中心に。
卑弥呼は支配的な30カ国程度を抑えていたが
東国を中心に卑弥呼に反抗する70カ国ぐらいが存在していたんでしょう?
それも綺麗に東西にいろわけされるのではなく、
飛び地飛び地で分れている。

ちょうど、中世の南北朝時代の
北朝側、南朝側の対立みたいなもん。
北朝を中心に統一しても、なお、南朝を支持する勢力が各地に存在し
南朝の後胤も存在していたみたいなやつ。
455日本@名無史さん:2010/09/26(日) 06:47:00
>>451
>日本には縄文時代から神仙思想が根付いていたことになってしまう

縄文時代はともかく、中国と交流があるなら
早期に影響があっても別におかしくないと思うけど。

>>453
呪術や呪いでなら鬼道でもあるんじゃないの?
456日本@名無史さん:2010/09/26(日) 07:43:18
>450
前漢の時期の使訳通ずるところは九州+αの西日本の一部だろ。
それが畿内邪馬台国として3世紀は西日本+東日本の一部?で30国になる。
倭王武の時代は、列島全体が対象だし、誇張が入っている。海北九十余国を平定したとか自称の誇張以外の何ものでもない。
457日本@名無史さん:2010/09/26(日) 08:21:26
>>450
そうとは言い切れません。
458日本@名無史さん:2010/09/26(日) 08:36:59
籠神社の伝承鏡をみたら、紀元前から
全国規模の畿内王権が誕生していても不思議ではないね。
459日本@名無史さん:2010/09/26(日) 09:05:49
前漢鏡1枚だけw
紀元前1世紀に北部九州に何枚前漢鏡があるか知ってる?
ていうか、「伝世鏡」は踏み返し鏡が大半なんだが、、
460日本@名無史さん:2010/09/26(日) 10:07:41
あくまで優越的軍事力を持つ邪馬台国が権威を持って周辺諸国を勢力圏下に置いていた程度の話だろうね
で吉備、四国以東は完全に勢力圏外
吉備、山陰、畿内、東海各勢力は独自の勢力圏を持ち各勢力間は商業的繋がりもあった
しかし世界的な寒冷化の中で勢力圏内だけでは成立たなくなり各勢力圏が戦争または同盟で繋がりだした
で最終的な食料確保戦争が朝鮮半島での高句麗との激突
461日本@名無史さん:2010/09/26(日) 10:27:23
>>455
国内に神仙思想が定着していた証拠が少なすぎる
この時代で神仙思想に関連付けられそうなものは渡来品だけで、国内で発展した痕跡がほとんどない
ただし△鏡が国産ということになれば、状況は多少変わってくると思う
462日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:27:02
マキムクに関してはあの独特の遺構からヤマト王権の祭祀場だったと考えるのが妥当じゃない?
橿原宮の祭祀場
463日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:32:30
>>461
祭祀跡に桃の種(出雲や吉備等)、石室内に
ベンガラではなく水銀朱が確認されている場所は
影響があると予想してもいいはず。
464日本@名無史さん:2010/09/26(日) 12:13:41
一口に神仙思想の影響と言ってもピンからキリまで考えられるからな

思想を理解して文化として取り入れたのであれば、文句なく影響を受けたと言えるし
思想を理解せずに、様式だけ真似したって影響を受けているとは言える
もっと言えば、わけもわからず銅鏡を貰ってきただけでも影響を受けていると言うことはできる

割れた土器やミニチュアの木剣などからすると、日本独特の祭祀の特徴が強いと感じる
465日本@名無史さん:2010/09/26(日) 12:45:26
>>460
そんなことは分らんわ。
誰も見たわけではないし、そもそも、中央集権的なのか
地方分権的なのかは、それぞれの主観の問題だし。
徳川の幕藩体制だって、
300諸国(実際は10個くらいの勢力)の連合体制とみるむきもある。
466日本@名無史さん:2010/09/26(日) 12:56:04
>>465
鎌倉、室町、徳川幕府でさえ見方によっては緩やかな連合
弥生後期から古墳前期にかけて中央主権的な国家の誕生を想像する方が不自然
だからこその緩やかな連合説なんだと思う
467日本@名無史さん:2010/09/26(日) 13:18:30
特殊器台に加え大量の桃の種が出土したことで、纒向の地は吉備が支配していた可能性がますます高くなりました。
それと纒向という文字は、後の世につけられた充て字で、元々は真日向く、すなわち太陽の昇る方向に開けた土地という意味ではないでしょうか?
太陽の道と呼ばれる三輪山と伊勢斎宮を結ぶ東西線を延長すると吉備の玉野市付近を通過しています。
吉備の楯築遺跡は、纒向型前方後円墳の原型ではないかとされており、やはりこの点からも吉備が纒向に東遷して、邪馬台国の中枢を握ったというほかありません。
468日本@名無史さん:2010/09/26(日) 13:45:48
>鎌倉、室町、徳川幕府でさえ見方によっては緩やかな連合

アホか。それらの幕府の成立の過程を見ろ。おまいらの「ゆるやか」は意味が無いだろが。馬鹿め。
469日本@名無史さん:2010/09/26(日) 14:34:30
中央集権的か地方分権的かは
資本主義的か社会主義的かというぐらい
無意味な論争だw
470日本@名無史さん:2010/09/26(日) 14:36:01
>>467
いい加減なことを言うなよw
モモソ媛命の同母弟が、吉備津彦に任命されているんだから
纏向遺跡に吉備のものが出土するのは、当たり前だろうがw
471日本@名無史さん:2010/09/26(日) 14:45:51
奈良盆地、畿内を窺う何等かの勢力は有ったと思います。
阿波から近畿に鉄製武器が伝わる途上で淡路島に鉄製武器の工廠を永年営んでいた一大勢力(淡路島から西側のどこか)はいたと考えるのが自然。
国譲り神話なのか神武東征神話なのか、はたまた神功皇后の征途神話(敗走?)なのか。

ただ、神功皇后絡みの九州から瀬戸内海沿岸に異様ともいえる数の神社の創建伝承は各ポイントが西から襲来しする敵からの重要防衛線で軍事施設。
大隊の屯田(長田、生田、広田など)、駐屯地、駐在と考えるとうまいこと符合します。(住吉大社が大本営)
472日本@名無史さん:2010/09/26(日) 14:59:25
記紀でも書かれてるけど奈良盆地への侵入は難しいんだよ
だから神武の東征は熊野から山越えで宇陀あたりに出て滅ぼしたことになってるけどさ
あの修験者でも苦労する経路で地理に詳しくない日向の神武が奈良盆地まで進出とか100%無理
473日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:26:42
中央集権的とかいったって、広域を大きな権力が統治していたという根拠になるものが何か出てるのか?
具体物を基に論ずることができないなら、机上の空論といわれてもしかたない。ゆるやかな連合というのは
急速に伝播した前方後円墳と、地元の文化や祭祀の並立が一つの根拠になっている。
474日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:53:57

■吉野ヶ里か、纒向(奈良)か  邪馬台国“論争企画展”

佐賀新聞 2010年09月26日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1732452.article.html

 邪馬台国はどこにあったのか−。
奈良県の纒向遺跡をめぐる新たな発見が相次ぎ、畿内説が盛り上がりを見せる中、吉野ケ里公園管理センターが10月から2カ月間、「吉野ケ里VS纏向」をテーマにした企画展を行う。
畿内説の根拠とされる九州初上陸の史料と、吉野ケ里遺跡の出土品を約100点ずつ対比しながら展示。両遺跡の発掘に携わった研究者らが主張を闘わせるフォーラムも開き、邪馬台国論争を盛り上げる。

 邪馬台国をめぐっては「卑弥呼の宮殿」とされる大規模な建物跡が纏向遺跡で見つかり、同遺跡の箸墓(はしはか)古墳の築造年代が卑弥呼が亡くなった時期に一致するという研究が発表されるなど、畿内説が勢いを得ている。

 企画展は10月2日から11月28日まで。纒向遺跡をはじめとする畿内説関係の出土品と、九州説の出土品をそれぞれ100点ずつ展示する。
畿内関係品は、卑弥呼が魏から贈られたたとする「三角縁神獣鏡」をはじめ、高さ130センチで国内最大の銅鐸(どうたく)のレプリカ、纒向遺跡から出土して祭祀(さいし)に用いられたと考えられる「弧文円板(こもんえんばん)」のレプリカなど。
唐子(からこ)・鍵(かぎ)遺跡から出土した中国風の楼閣を描いた絵画土器も展示する。

 一方の九州側は、中原遺跡から出土した方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や鉄剣、吉野ケ里遺跡から出土し、国内最古(1世紀ごろ)の人の頭髪など。卑弥呼が魏(ぎ)から贈られたとされる金印を想像した復元品もある。

 フォーラムは10月10日午前10時半から午後4時まで。桜井市埋蔵文化財センター主査で纏向遺跡の発掘調査に当たった橋本輝彦氏や、兵庫県立考古学博物館の石野博信氏ら畿内派の研究者を招く。
九州派からは県社会教育文化財課で吉野ケ里遺跡の発掘に携わってきた七田忠昭氏や、旭学園理事長の高島忠平氏らが、最新の研究成果を踏まえながら論議する。

 主催の公園管理センターは「畿内説、九州説のさまざまな学説を取り上げながら、日本史最大の謎とされる邪馬台国論争に一石を投じたい」と話す。問い合わせは同公園、電話0952(55)9333。
(写真2枚)
475日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:55:34
※参考 吉野ヶ里歴史公園サイト
http://www.yoshinogari.jp/contents4/detail.php?id=350

■特別企画展「よみがえる邪馬台国」展

吉野ヶ里歴史公園では10月2日(土)〜11月28日(日)まで特別企画展として「よみがえる邪馬台国」展を開催いたします。

邪馬台国は近畿説か?九州説か?
今、話題の纏向遺跡の出土資料が九州初上陸!
また、纏向遺跡をはじめ、吉野ヶ里遺跡の遺物を約200点を一堂に公開!!

期間中の10月10日(日)には著名な方々によるフォーラムを開催します。
内容は、以下のとおりです。

■会場:吉野ヶ里歴史公園 東口エントランス

■フォーラム内容

【午前】
10:00〜11:30
基調講演「日本の古代と邪馬台国」原秀三朗

【午後】
13:00〜13:30
基調講演「卑弥呼をイメージする」中山千夏
13:45〜16:00
パネルディスカッション 「吉野ヶ里VS纏向 対論!邪馬台国」 
■パネリスト
石野博信 七田忠昭 高島忠平 玉城一枝
中山千夏 橋本輝彦 原秀三朗
476日本@名無史さん:2010/09/26(日) 16:28:28
おう。そちは葬祭長官か。ご苦労であるな。

(四起拝。蹲踞。八開手。単手一段。一拝。)
かけ巻くも綾に尊き我が大王(おおきみ)さまの大御前に某官何某氏。参来侍りて畏み畏みも申し上げます。
この度、拝命致しました御陵所造営に付きましては、我が大王さまが従え知食されました各地域のスタイルを勘案した最新モードのモデルを大王さまのためにご用意致す所存です。
何種類か御座いますのでお気に召した形式と仕様をお選び頂きますように恐み恐みも申し上げます。
おう。我が尊き大王さま。
一拝。
477日本@名無史さん:2010/09/26(日) 16:56:27
>>473
>ゆるやかな連合というのは
>急速に伝播した前方後円墳と、地元の文化や祭祀の並立が一つの根拠になっている。

そんな根拠で連合が「ゆるやか」だったと言えるか?むじろ「緊密」だったとする見方もあるぞ。
478日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:12:52
前方後円墳がその地域の首長墓であること自体がゆるやかな連合であるということだろう。それとも前方後円墳の被葬者
はヤマト王権から派遣された官人のものとでもいうのか?やれやれ、県主や国造の歴史でも調べてみることだな。
479日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:15:29
そもそも「ゆるやかな連合」の定義がよくわからん
480日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:36:44
このゆるやかな連合というのを側面から考えると、3世紀卑弥呼の時代においては、長距離を間にはさんでの戦闘は不可能
だったろうという認識からきている。さらに、もしそのようなことができたとしても、戦争に負けた国を支配・統治する仕組みなど
なかったと考えられ。つまり、お互いに相手に攻撃を加えることができない(そのメリットもない)点としての集団どうしが、交易
のための協定を結んだということ。
481日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:37:15
友達の友達はみな友達だ的な連合だろ、多分。
482日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:53:30
隣国との争いに備えて他国と同盟を結んだら
巡り巡って隣国とも同盟関係になっちゃったみたいな?
483日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:14:50
>>480
>3世紀卑弥呼の時代においては、長距離を間にはさんでの戦闘は不可能 だったろう

馬鹿も休み休み言え。大陸や半島では戦争は日常茶飯事の時代だぞ。倭国は鎖国をしてはいなかったんだぞ。

>戦争に負けた国を支配・統治する仕組みなど なかったと考えられ

アホか。3世紀の倭国を舐めてるのか?



484日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:16:42
争いっていうより交易によって仲良くなった首長同士の婚姻により
いつの間にか各地域の首長と親戚になってましたって感じか?
485日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:22:02
>>484
そんなことは、わからない。
新撰姓氏録の各氏族の系譜でも見ていないと。
486日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:29:33
いやいや「ゆるやかな連合」をどう定義するかって話でしょ
487日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:36:59
>>483
大陸・・・中国では少なくとも春秋戦国時代にはそのような鞘開段階にまで発達していたことは十分に承知している。ただし
この認識が、この板の九州説を狂わせているともいえる。倭国は当時そのような社会発達段階にはなかった。これは様々
な考古資料をもとに考えられたもので、一例をあげれば三国時代の中国には千人規模の兵員を乗せられる楼船があった。
日本で発掘されるのは、その何十分の一の準構造船、すべてがこの調子だ。

さらに、文献的に統治機構の歴史を調べたとしても、完全に地方を統治することができるのはずっと後代の話になる。倭国
の状況は中国と比較することはできない。それよりも、3世紀台の長距離戦闘の証拠についてレクチャーしてもらったほうが
ありがたいが?
488487:2010/09/26(日) 20:37:47
鞘開段階→社会段階  我ながらひどい。
489日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:47:53
辞書で調べてたのに・・・ orz
490日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:53:19
>>489
ワロタ! 吹き出したヨ。
491日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:53:56
>>487
キミの言う長距離戦闘とは例えば九州ー畿内みたいなものなんだな。ボクのはせいぜい九州島内の戦闘だがね。
卑弥呼の居た邪馬台国は九州にありその支配下の倭国の国々も九州にあった。その倭国を軍事組織を以て検察し
統治していたと倭人伝に書かれている。ゆるやかな連合などと表現されるようなものではないだろが。
492日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:57:44
緩やかな連合としか言いようがないからでしょ
この時代の大規模な戦闘の証拠もないしそれにも関わらず
3世紀後半からの50年くらいでヤマト王権が国をまとめて朝鮮半島に進出するんだから
493日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:58:37
畿内−九州で互いに大軍を送って
相手を制圧するのは無理。
当然その前段階として、その経路の
中立国を懐柔なり支配なりしなければならない。
それだけでえらく時間がかかる。

中立国のままで、他国の大軍を通らせるというのも無理。
いつそれが敵に回るかわからないから。

つまり互いの敵に辿りつくまでに
信長や信玄が上洛した時のように
その経路の勢力を降していかなければならない。

まあ、それから考えても神武東征は
仮に本当だとしても、そう大人数とは思えないのだが。
494487:2010/09/26(日) 21:00:37
まあ、上記した船のことだけでなく3世紀の倭国には馬はおろか車輪もなかったと考えられる。さらに言えば専門職としての兵士
というのが成り立ち得たかどうか。三国志の記述を見れば、魏は公孫氏の討伐のために数万の規模の兵員を出しているが、そこ
までいかなくとも、発掘された倭国の集落規模を考えれば多数の兵を出すことによって農作は成り立ちえたのか?兵糧を戦端部
まで送ることができたのか?
495日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:01:39
記紀にも、神武天皇という人物は登場しない、実は。
神武天皇という名前は、記紀が編纂されて数十年後に
つけられた名称。
記紀に登場するのは、ワカミケヌという名の人物。
496日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:02:52
>>494
文献がないから判断しようがないんだよ、そんなもんw
497日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:04:51
あと、西日本の輸送は、穏やかな瀬戸内海を中心とした海上輸送がメインでしょう。
歴史が明確な時代でも、大規模な輸送になると海上輸送のほうが
安定的で速度も速かった。
陸地で馬の輸送なんかよりも、遥かにスピーディーで大規模で安全。
498日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:07:07
>>493
神武東征は経路的には矛盾はないけどなぜ広島や吉備にあっさり上陸して支配できたのかがねぇ
あの時代の水行でそんな大軍引き連れてるとも思えないし
499日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:08:27
兵站の2乗則ですか。
現地略奪があるから一概には言えないが
兵糧を運ぶ人間や馬にも食物が必要だから、
運ぶ人間が、食料を喰いつくせる
距離までしか運べないのですね。
実際にはもう少し工夫するので2乗則と。

仮にひとりの人間が40キロの兵糧を運ぶとして
帰りの分も必要だから、20キロ分運ぶ人が兵糧を
食い尽くす距離までしか運べない。

極少人数なら現地調達も可能だが
大軍になればなるほど調達が難しくなり
行きつける限界のところで、現地の食料を
食い尽くして大軍が崩壊する。

三国志でよくある話です。

500487:2010/09/26(日) 21:08:59
>>496
文献がないから考古学的判断に頼る。そして考古学的には否定的に考える向きが多いと思われる。
>>497
最初に船のことを書いたはずだが。中国に見られるような大型船の出土はない。
501日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:09:46
>>492
>この時代の大規模な戦闘の証拠もないし

文献が無ければ証拠は無いだろな。古代の戦闘の形跡など遺跡遺物として残りようもないだろ。項羽が埋めた秦兵20万の遺骨
は見つかっているのか?司馬懿が公孫氏を滅ぼした戦闘の跡は残っているのか?
502日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:10:30
>>499
この時代もし神武みたいな東征するなら100%現地調達だよ
503487:2010/09/26(日) 21:11:32
>>501
また始まったか。では、証拠のない単なる憶測を語っているということを認めるんだな。可能性を言うだけならどんなことだって
言えるが、それが認められることはない。
504日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:13:32
>>501
吉野ヶ里でも戦闘で死んだ甕棺出てきてるし大規模な戦闘で支配したのなら戦死者の首塚的なものが出てきたり
伝承が残ってても良さそうなものですがね
505日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:15:42
そろそろ、神武東征の意味を考えようや。
あんなの軍事的にみて成功はあり得ない。
が、成功したんだよ。何を意味しているのか?

ワカミケヌ(神武)が畿内へやってきたとき
すでに、彼の親戚が畿内に在住で、彼をむかいれた。
この意味を理解しようや。
506501:2010/09/26(日) 21:17:45
>>503
ん?ボクは証拠のない単なる憶測を語っている人に言っているんだがな。
507日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:18:07
あと、神武天皇という名称で考えると、事の本質が理解できないと思われる。
神武天皇という名称は、記紀が編纂された数十年後に
考え出された名前。

彼の本名はワカミケヌ。
ワカミケヌは日向出身の豪族だが、彼の曾祖父のニニギは
ヤマト盆地の高間の出身だった。
508日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:18:17
>>505
記紀で神武を日向の王にした理由は永遠の謎
磐井の乱だの朝鮮出兵で荒廃した九州に配慮して日向にしたとかもあるかも知れない
509日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:19:35
いずれ、3世紀の倭国において大規模長距離戦争ができた、強力な中央集権国家があったとするならば、それはそう主張する
ほうが証拠を提示すべきものだ。具体的な根拠を提示してほしい。(具体的というのは銅鐸廃棄や三種の神器以外にしてくれ)
ループはもううんざりだ。
510日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:20:56
>>508
そんなしょぼい理由が考え出すかよw
いいかげんいきがつこうぜw

徳川吉宗って、やっぱ、
紀州から東遷して江戸で将軍になったといえるのかなw?
これ、すごいヒントだなw
511日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:22:26
>>507
天孫降臨から神武までは3代じゃないだろw
512日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:24:11
>>509
そんな勢力はないでしょ
倭国大乱と呼ばれる戦争を北九州内での統一戦争と見るか日本全土の大戦争と見るか
513日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:25:58
>>510
ヤマト王権による中央集権的な中央政府があることが前提じゃないとそれは成立たない
514日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:32:12
>>509
>いずれ、3世紀の倭国において大規模長距離戦争ができた、強力な中央集権国家があったとするならば、それはそう主張する
>ほうが証拠を提示すべきものだ。具体的な根拠を提示してほしい。

大規模長距離戦争が実際に起きたかどうかは分からないが、強力な中央集権国家があったことは倭人伝の記述から分かるだろ。
そのような文献があるにも拘らずゆるやかな連合を唱えるならそちらこそ誰にでも分かるような根拠を挙げて説明すべきだろう。
515日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:32:21
>>512
九州内でもかまわないが、例えば北部ー南部などで戦争があった痕跡があるのかどうか。古墳時代初頭においては北部、
南部九州どちらも小勢力乱立でまとまっておらず、・・・特に南部はずっと後代までまとまらない。近畿から土器とともに人
が入り、各勢力は争うようにして、ヤマト王権からの三角や前方後円墳を受け入れている。
516日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:35:13
ぶっちゃけ、戦争ができるほどの生産余力があるのは
それなりの平野があるところしかないわけで、
大きい平野は北部九州か畿内+東海くらいしかない。

あとは出雲や広島、岡山が中クラスか。

大軍率いて激しい戦闘やるとしても
北部九州や畿内の中だけのことだろう。
517日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:37:04
>>515
卑弥呼の時代を古墳時代初頭とするのは勇み足だろ。
518日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:38:55
倭人伝で共立と書いてある以上
独立国の集合体であろう。

明らかに広域を支配しているのであれば
そういった記述はしないだろう。
519日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:40:01
倭人伝は絶対ではないけど記紀の該当箇所よりは余程信用できると思うけどね
一大率を太宰府の前身と見るなら畿内勢力による北九州支配の可能性も考えられる
ただこの説を採るならば倭国大乱は北九州、吉備、出雲、畿内、東海による合従連衡による統一戦争で
畿内勢力がその盟主になったということになる
後漢書の帥升に関してはあくまで北九州の王という位置づけ
520日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:43:42
まず戦争の歴史を考えれば、それは弥生時代の開始頃に北部九州で始まったのは間違いない。おそらく大陸・半島からの
渡来人が持ち込んだものだろう。北部九州の平野部で始まり、やがてそれは周辺の丘陵部に及んでいく。(中橋・橋口らの
研究から)この戦争によって、伊都国・奴国などのクニが形成されていったとみるべきだろう。しかし、戦争が早くに始まった
北部九州においても、終始近隣同士の争いであり、これは遺体に残った武器とその産地からある程度まで推測できる。原因
は人口増加による耕地や水利の争いと考える。
521日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:44:20
>>518
おまえ、当時の中国の文献で「共立」って言葉が
どういう場合に用いられたのか調べてみろ。
現在の日本語のイメージで「共立」の意味を考える奴が多過ぎ。
これは、考古学の先生ですらそう。
522日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:45:53
>>520
そもそも、弥生時代、縄文時代に対する概念や
年代自体が、さっこん、揺れ動いているだわな。
おまえの考え方は、一昔の古い知識の考え方。
523日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:46:16
>大きい平野は北部九州か畿内+東海くらいしかない。

3世紀において生産力の高かった地域は北部九州(福岡平野、筑紫平野、筑後平野)と熊本平野だな。
畿内でも奈良盆地や京都盆地は沼沢が多く、河内も開拓が進んでいなかったから論外だな。
出雲は狭いし、広島や岡山も現在ほど拓けていない。
524日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:47:53
>>523
だから、3世紀の生産力なんて、実は分らんのだよ。
だって、いつぐらいに日本で農耕が開始されたのか
本当のところ、分らんのだからw
525日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:49:06
邪馬台国九州説論者は、とにかく、
古い知識で物事を考えすぎ
自分達の説が、音を立てて崩れていっているから
焦る気持ちは分らないのでもないが...
526日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:49:13
>>517
これは弥生時代から続いた流れの中にある。弥生中期から後期にかけては伊都国を中心としたある程度の秩序が北部九州
には認められる。墳墓の副葬品から、その首長の格が定められていた様子が伺える。しかし、後漢の衰退とともに伊都国の
権威は失われ、小集団の乱立状態が発生し、ヤマト王権からの権威を受け入れるようになっていく。
また、これとほぼ同時に環濠集落が解体し、分散居住が始まる。
527日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:51:41
>>522
歴博の年代は採用していない。>弥生時代、縄文時代に対する概念 これは教科書的な定義は別として人それぞれ微妙に違う
だろう。お前はどう考えているのか、それを書き込んでくれよ。
528日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:53:07
伊都国なんて、規模からいって、あそこに
九州を主導するような勢力が誕生するとは思えない。
なぜ、伊都国を過大評価するのか分らんw
あそこは、ただ単に、ヤマト王権が一大率を置いていた地というだけで
伊都国自体は、九州の中でも奴国や面土国よりも小国でしょう?
529日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:53:19
>>526
その説は帥升系の王がヤマト王権(魏の同盟国)の権威に屈したと言うことで良いのか?
530日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:56:54
>後漢の衰退とともに伊都国の 権威は失われ、小集団の乱立状態が発生し、ヤマト王権からの権威を受け入れるようになっていく。

伊都国が権威を持っていた?どうしてそれが分かるのだ?
そもそも伊都国とは何処にあった国だ?
小集団の乱立状態が発生したとはどうして言えるのだ?
531日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:57:53
>>529
この伊都国をはじめとする北部九州をどうやってゆるやかな連合が取り込んだのかは、畿内説にとっても考えが及んでいない
部分だ。公孫氏がからんでいるのではないかと考えているが、難しい。連合側がいち早く公孫氏と結んで、北部九州に対し優位
に立ったのではないか。これは異論があるだろうが、画文が公孫氏時代の鏡とすれば、これは北部九州を経由して畿内に流れ
込んでいく。
532日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:58:23
>>527
だいたい、歴博の年代に限らず、日本の農耕について
考古学者の導き出した説には、科学的な根拠は何もなかったわけで。
土器編年では、絶対年代は割り出せないんだよ。
が、それでも、植物学者なんかは、日本の環境だと
水稲農業は3500年くらい前に起こっていた可能性が高いというふに考えられている。
そういう意味で、歴はくの3000年前というのは、
植物学者の説に近づいている。
あと、陸稲や麦作などは、4000〜6000年前に始まっていても、おかしくないと言われている。

これらのことから、卑弥呼の時代というのは、日本で農耕が始まって
千年以上たった時代の話ということになる。
533日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:00:45
>>530
畿内説とすれば、伊都国は糸島説を取る人が多いだろう。漢により冊封を受けていたのではないかと推定させる遺物も出土
している。気に入らないだろうが、立場をある程度明らかにしないと論は進められない。
534日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:01:45
>>529
帥升ってのは、倭の面土国(メタ国)の王でしょう?
これは、筑紫の米多国(メタ国)の王だよ。
今の佐賀平野・吉野ヶ里のあたりの国。
535日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:02:17
またゆるやかな連合かよ。屁の突っ張りにもならん仮説なんか早く捨てたらどうだ。
536日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:03:09
>>533
文献上はないだろう?
というか、漢に冊封を受けていたかどうかなんて、どうやって分るのだよ?
奴国の場合は、文献上、そう記されているが。
537日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:03:37
>>534
奴国王でしょ
後漢書読む限りは
どこからメタ国とか出てきたの?
538日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:07:51
>>535
他の仮説もよく似たものでしょ
決定打がない
後漢書や倭人伝、宋書、広開土王碑とかまで考えれば
倭国大乱〜ヤマト王権(邪馬台国)による緩やかな連合(この際一大率を伊都に置く)〜朝鮮半島進出
と考えれば流れ的には矛盾はなさそうだが
539日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:11:40
戦争の続き・・・弥生時代の戦争は殲滅戦的なものではなかったと考える。相手をその地域から追い出すといったようなもの
ではなかったか。いずれ人の移動によって戦争は山陽地方などに玉突き状に拡がってゆく。ただし、争いはあくまで近隣同士
によるものであった。上気したように、遺体に残る石器。青銅器・鏃はその周辺の産であるものがほとんどだ。

>>536 

文献上はない。三雲南小路遺跡から出土した金銅製四葉座飾金具やガラス璧は、皇帝が身分の高い臣下に葬具として下賜
するものだと言われている。・・・文献上は >倭國王帥升等 と「等」がついており、生口160人は多いので、各地の王が合同
で請見したと考えられなくもない。
540日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:15:19
>>534
>奴国王でしょ
>後漢書読む限りは

後漢書を読む限りでは、帥升は奴国王ではない。
面土国については、ぐーぐれ
541日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:17:45
>>533
俺、畿内説だけど伊都国は出雲説を取ってる
542日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:18:26

■大和大王墓と造り方が相似 向日の元稲荷古墳

京都新聞 2010年09月22日
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20100922000161

 向日市向日町にある3世紀後半の前方後方墳「元稲荷古墳」が、大和の大王墓級古墳と造り方が相似していることが分かった。市埋蔵文化財センターが22日、発表した。
発掘調査の結果、西側のくびれ部から出土した多数の葺(ふき)石や盛土の状況から詳細な造営方法が明らかになった。同センターは「被葬者像や同形の古墳の性格を探る上で重要な成果」としている。

 2006年度に調査を始め今回で5回目。
7月から後方部南西側の発掘を進めた。くびれ部で10メートル四方にわたり葺石が多数出土した。斜面のこう配に沿って重厚に積み重ねられており、こうした技法は奈良の中山大塚古墳(天理市)などにみられるという。

 また、墳丘内の盛土の状況を調べたところ、最初に高さ約0・6メートルの土手を築き、水平方向に土を盛った後、内部を埋めていく作業を繰り返し構築したと判明。
黒塚古墳(同市)なども同様の技法で造営されたことが確認されている。
さらに、土の断面を調査した結果、墳丘の基底部は旧表土を削った土に灰などを混ぜて硬くするなどの改良が施されていた。地滑りや葺石の崩落を防ぐためと考えられ、畿内にある前期古墳で初の確認例という。

 センターの梅本康広主任は「大和の技術者か、地元の技術者が大和で造営法を学び造ったと推察できる。被葬者は、大和の王権に参画しながら政治経済的に自立した地元の有力首長だったのでは」と話す。
 現地説明会は25日午前11時から。向日市埋蔵文化財センターTel:075(931)3841。

・多数の葺石などが出土した元稲荷古墳の発掘現場(向日市向日町)
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2010/09/20100922193302.jpg
543日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:23:05
面土国は魏志倭人伝で消滅してるのはなぜでしょう
かなり強引な話だしメタと読ませるのも強引ですね
544日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:34:28
57年 倭奴国の朝貢 印綬下賜  奴国の独自朝貢か倭国王の指示による朝貢かは不明
107年 生口160人献上 倭国王の使者帥升等  倭国王による朝貢

ただしなぜ107年に印綬の下賜がないのかは不明
545日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:41:47
面土国って『後漢書』馬韓伝で言う辰韓と弁辰の南にあった倭人居住域にあった国なんじゃないの?
546日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:52:14
老害はなんでもわかった気でいる
老い先短いからそう思いたい
だから根拠のないことを平気で断言する
したがって議論になれば当然のように紛糾する
歴史好きには老人が多いから始末におえない
全員死ねばいいのに
547539:2010/09/26(日) 22:57:50
俺は大学生だが。ww
548日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:00:32

桜井市議会議員 あんまえ政光氏ホームページから
http://remains.anmae.net/?detail=1285174330


■纒向遺跡第168次調査現地説明会資料

           平成22年9月19日      資料提供 桜井市教育委員会


:説明風景     :桃核の入った笊      :桃核
http://www.anmae.net/remains/images/1285174330-01.jpg
http://www.anmae.net/remains/images/1285174330-02.jpg
http://www.anmae.net/remains/images/1285174330-03.jpg

(*)大型土坑(SK-3001)
調査区の中央より東側から検出された長楕円形の土坑です。
残存する規模は南北約4.3m、東西約2.2mを測りますが、遺構上部の大半が後世の溝遺構であるSD-1011(4世紀初め・布留1式期)に削平を受けており、本来は若干規模の大きいものだったと考えられます。
深さも溝の削平を受けていない所では湧水点にまで達する約80p分が検出されていますが、大きく削平を受けた土坑西側では深さ35p分しか残っていませんでした。

この土坑からの主な出土遺物には線刻を施した短頸直口壺や底部穿孔を施した小型の直口壺、ミニチュアの手捏ね土器・ミニチュアのS字甕などのミニチュア土器が数多く出土しているほか、
ヘラ状木製品4点、黒漆塗りの弓1点、木製槽1点、木製容器1点、木製筒型容器2点、木製横槌2点、剣形木製品1点、有頭棒1点、竹製籠6点、獣骨数点の他に桃核が2000点以上(現在土壌洗浄中のため総数未確定)出土しています。
なお、多量に出土した桃核の中には未成熟のものも一定量含まれており、成熟・未成熟を問わず桃を大量に集める必要があったものと考えられます。また、桃の一部には果肉が残っているものも少量含まれていました。

この土坑からの出土遺物は何らかの祭祀行為に伴うものと考えられますが、特徴的なのは横槌とヘラ状木製品、底部穿孔を施した小型の直口壺を除く総ての遺物が壊された状態かつ、それぞれが一部分しか出土しておらず、
土坑の周囲では無いごく近い近隣において何らかの祭祀を行った後に道具類を破壊し、土坑まで運ばれて投棄されたか、或いは意図的に一部分のみを投棄したものと考えられます。
(つづく)
549日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:01:58
(つづき)

(*)まとめ
今回の調査では第162次調査でその一部が確認されていた柵の延長部分と柵周辺の遺構の様子を知ることができました。これらの知見を順に挙げてみると、

1.後世の遺構によって大きく削平を受けているものの、第162次調査で検出されている柱列(柵)の延長線上においてさらに東へと延びる柱列を検出しています。
この柱列で囲まれた範囲は居館域の内郭にあたるものではないかと考えられていましたが、今回の調査ではこれまで確認されている建物C・Dの南側へと延びてゆく様子が確認できました。
遺構の状況から推定すると柱列はさらに東方へと延びていくものと予想されます。

2.今回の調査区内においては先述した柱列以外には建物群に関係する施設は確認することができませんでした。なお、建物Dの南端から柱列Dまでの距離は約5mです。

3.大型土坑は出土遺物の年代観やその内容、土坑の北端が柱列のラインと重なる事などからは土坑が建物群の廃絶後に掘削され、「マツリ」が行われたものである事が推定されます。
現時点ではどのような意味合いを持って祭祀が行われたのか或いはその内容については判然としませんが、同じく庄内3式期(3世紀中頃)に廃絶したと考えられる建物群と何らかの関係があるとすれば建物群の解体時に執り行われた「マツリ」の痕跡なのかも知れません。
550日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:03:34
>>547
根拠のないことを平気で断言している自覚はあるんだな。ww
551539:2010/09/26(日) 23:10:24
>>550
それは読んだ人が判断してくれるだろう。九州説向けに書いてるつもりはない。ww
552日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:32:19
自覚が無ければ老人向けの煽りに学生は反応しないだろう
そしてその自覚についての指摘に対して、読んだ人に判断を委ねるって
さすが、ゆとり世代は頭が悪い
。ww
553日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:34:32
>>551
もうよせ、お前は釣られたんだ
554日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:37:11

■纒向遺跡第168次調査現地説明会資料 図2

今回の調査と第20・162・166次調査の遺構配置図(1/200)
http://blog-imgs-44-origin.fc2.com/k/u/m/kumanoana/2010092500124169a.jpg



YouTube動画

■纏向遺跡現地説明会(音声のみ)
http://www.youtube.com/watch?v=kK23GUOjT7k
http://www.youtube.com/watch?v=MSy3yZE5QR8
http://www.youtube.com/watch?v=hYLLNKZlHhA


以上は、ブログ「わくわくドキドキ DOUBLE HEART」から
http://kumanoana.blog28.fc2.com/blog-entry-156.html
555縦目仮面:2010/09/26(日) 23:48:53
>>553
そうか。うまく引っかかった。ww ・・・縄文人排除を目指して名無史になったんだが、無コテになるとあtこちで論争になって面白い。
556日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:48:54
倭国の範囲もはっきりしない
後漢書では北部九州とも日本全体とも取れる
魏志倭人伝では日本全体を示している(邪馬台国もその一部)
宋書とか広開土王碑は日本全体を示している
魏志倭人伝から倭の五王までの約100年間に日本の統一(連合でも中央集権でもいいけど)が成立したと見るのが一般的では?
557日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:51:23
>>555
あんた誰?
558日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:53:12
>>555
>>546はコピペだよ
あんた、釣られただけ
論争は関係ないのw
559日本@名無史さん:2010/09/27(月) 02:01:55
>>554
建物Dの西の一区画は願望じゃね─かw
560日本@名無史さん:2010/09/27(月) 04:41:10
面土国は、筑紫の米多国のことだろう?
吉野ヶ里のあたり。
561日本@名無史さん:2010/09/27(月) 08:53:43
面土国とか振ってる奴は明らかにネタだと思うが

562日本@名無史さん:2010/09/27(月) 09:53:07
というよりスレ違いだし。
563日本@名無史さん:2010/09/27(月) 14:38:28
>>539
>三雲南小路遺跡から出土した金銅製四葉座飾金具やガラス璧は、皇帝が身分の高い臣下に葬具として下賜
>するものだと言われている。

それは糸島地域が倭奴国の領域であったことを示すのではないかな。漢書にも後漢書にも伊都国は登場しないし、
魏略には一万戸とあるが倭人伝では千戸だ。同じ倭人伝に書かれている奴国(二万戸)に比べて国力が低すぎる。
漢の時代に伊都国が冊封を受けて権威を持ったなど有り得るか?
564日本@名無史さん:2010/09/27(月) 17:09:06
>>555
もしかして君は盛岡第一高校の卒業生か?
565縦目仮面:2010/09/27(月) 19:10:29
>>564
これも釣りか?(疑心暗鬼) 何で盛岡なの?関東の剣道ではそこそこ有名な高校出身ですけども。
566日本@名無史さん:2010/09/27(月) 19:36:16
社会人は高校なんぞに興味を持たない
567日本@名無史さん:2010/09/27(月) 22:35:59
中国の文化はどうやって大和に伝わったんですかね
九州経由じゃないんですかね
中国と日本の地図良く見てみるとなるほどなでんな
568日本@名無史さん:2010/09/27(月) 22:48:37
魏志倭人伝の解釈とかどうでもいいよ地図みてみろよ
大陸からの文明文化は九州経由以外考えられないよ
九州に上陸して右へ右へ進んだんだろうな
569日本@名無史さん:2010/09/27(月) 22:52:11
文明が九州経由でっていう話もさ
弥生中期までならいざ知らず弥生後期以降は九州勢力自体がヤマト王権に組み込まれてた可能性もあるわけで
一大率が太宰府的な存在なら九州経由といっても直接畿内に持ち込まれるのと何ら代わりはない
570???:2010/09/27(月) 22:52:30
>>568
>九州に上陸して右へ右へ進んだんだろうな

長崎まで行ったんだな。
571???:2010/09/27(月) 22:55:14
>弥生後期以降は九州勢力自体がヤマト王権に組み込まれてた可能性もあるわけで

可能性の話であればヤマトが九州勢力の支配下にあったとも考えられるわけで
572日本@名無史さん:2010/09/27(月) 22:56:18
邪馬台国から見て右へ右へねwww
573日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:00:01
「九州説は今日も闇だった」

九州説にに かけた夢

倭人伝の言葉を 信じたの

さがし さがし求めて

ひとり ひとりさまよえば

行けど切ない 何もない

ああああ 九州説は 今日も闇だった


どこの遺跡を たずねても

冷たい風が 身に沁みる

愛し 愛しの卑弥呼は

どこに どこにいるのか

教えて欲しい 陳寿さん

ああああ 九州説は 今日も闇だった
574日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:03:25
たとえばモンゴル帝国の首都はどこかといえば、ジンギスカンのいるところというほかない。
伊勢も同じで、宮を神輿に乗せて常に移動していたのだ。
伊勢神宮の遷宮は妥協の産物。
平安京に定着するまで、都は王が変わるたびに移動するものだったのだ。
飛鳥坐神社など各地に残る「います」神社こそ伊勢神宮の原型だ。
575日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:12:26
ここはマキムクスレ
576日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:21:55
ここは非科学的カルト纏向信仰のスレ
577日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:48:58
科学で古代史を解こうとすると、いやでも
科学の限界を思い知らされることになる。
578日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:53:23
今の考古学は都合のいい所だけ科学万能じゃん
土器編年もあるけどマキムクの科学的根拠は年輪年代法でしょ
あれは法隆寺の材木に関して100年以上ずれてるし
マキムクも史実より100年前倒しに設定されてるという疑惑は払拭されていない
579日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:53:55
だな。
580日本@名無史さん:2010/09/27(月) 23:53:59
科学を伴わない歴史
それは物語と呼ぶのである。
581日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:00:18
>>578
それをいいだすと、もう全ての考古学が成立しないけどね。
582日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:08:56
>>581
ここ最近の年輪年代法万能前提でのこれまでの定説を100年前倒しするやり方は間違ってると思うけどなぁ
基準となる年輪データも公開されてない上に法隆寺という明らかな証拠があるんだから
年輪年代法のオッサンも法隆寺の矛盾に関しては「それは誰かが説明してくれ」みたいな不誠実な態度だし
583日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:23:21
>>582 怨み節
>これまでの定説を100年前倒しするやり方は間違ってると思うけどなぁ

その定説が何を根拠にされてきたのか?を調べてから書き込もうな。

お前みたいなのが好んで噛み付く「年輪年代」なんてのは
年代観の見直しのある意味”きっかけ”でしかないんだからw

みんな従来の年代観がおかしいと思っていた。
だが中々先頭切っては言い出せない。

そこに理化学的年代測定による裏づけが出てきたから
一斉にそっちの方向に流れたって側面がある。

神武のタイムスケジュールかなんだかのご都合なんか
誰も知った事ではないwww








584日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:27:14
>>583
冷静になれな

>みんな従来の年代観がおかしいと思っていた。
>だが中々先頭切っては言い出せない。
>そこに理化学的年代測定による裏づけが出てきたから
>一斉にそっちの方向に流れたって側面がある。

結局お前の書き込みは年輪年代法の正当性を何も示してはいない
科学的な根拠という意味では絶対にしてはいけない結論ありきの最低のやり方を擁護してるだけの馬鹿
585日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:30:59
>>582 怨み節
>年輪年代法のオッサンも法隆寺の矛盾に関しては「それは誰かが説明してくれ」みたいな不誠実な態度だし

これはチンピラヤクザの因縁吹っかけに等しい理屈。

出てきた数字をそのまま出すんじゃなくて従来の歴史の認識に合わせると言うのなら
それはもう科学でもなんでもない。

従来の定説に合おうが合うまいが測定結果を主観を交えずそのまま出せば良い。

年輪年代の方を疑うのなら自分でサンプルとってきてその間違いを立証するか
信用できないとしてその数字を採用しないのも学者の自由だろう。

が従来の説との齟齬云々を考慮して…なんてのはやるべきではない。

586日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:35:41
>>584 怨み節
>結局お前の書き込みは年輪年代法の正当性を何も示してはいない

「正当性」ってなんだ?w
そんなもの自前でサンプルとるところからやらんと実証もできんだろうにw

と言うかその前にそもそも俺は「年輪年代法」なんてなくても
年代観の修正は時間の問題だった…と言う趣旨を言っているんだが?

ニホンゴワカリマスカ?





587日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:36:02
土器編年で100年前倒ししようがそれを仮説として展開するのに文句を言うつもりはない
ただその説を補強するために科学的根拠の曖昧な年輪年代法で仮説を補強するのは正しいやり方ではない

>>585
法隆寺は発掘から焼失〜建直しの流れはコンセンサスじゃないのかねぇ
君の言ってることはよく分からんね

>出てきた数字をそのまま出すんじゃなくて従来の歴史の認識に合わせると言うのなら
>それはもう科学でもなんでもない。

自分の言葉に矛盾があること気付いてるかい?
588日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:38:04
>>586
あぁゴメンただの程度の低い馬鹿だったのね
589日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:50:04
>>588 恨み節

もう怨念で頭に血が上っているんだろうがw

>「それは誰かが説明してくれ」みたいな不誠実な態度だし

じゃあ「誠実な態度」ってどう言うものを期待しているんだアホw

本来、植物の専門家のMに自分の出した数字を是として歴史の分野に口を出せと言うのか?
それとも史学の分野と齟齬をきたすからその数字を発表するのを止めろと言うのか?

お前が言っている事は無茶苦茶。

そんな自爆しまくりのイチャモンつけるんだったら
現在の定説を100年遡らせるようにアイデアでもひねっておけwww

590日本@名無史さん:2010/09/28(火) 00:58:23
>>582
>法隆寺の矛盾

矛盾とは論理的にあり得ないという意味かな?

だったら今のところ何も矛盾はおきてないよ
591日本@名無史さん:2010/09/28(火) 01:08:31
C14に従うと纏向は二世紀前半。
年輪年代でも絶対年は出せず終い。
592日本@名無史さん:2010/09/28(火) 03:38:52
畿内は何でもアリすぎて、何が何だかわからん
何も信用できない
593日本@名無史さん:2010/09/28(火) 06:54:44
そんなにファビょるなよw
594日本@名無史さん:2010/09/29(水) 05:52:41
学会とかも、そろそろ不毛な邪馬台国論争に
終止符を打ちたいんだろう?
だいたい、邪馬台国九州説なんて、
在野の歴史愛好家や小説家の空想の世界の話だろう?
そんなわけで、邪馬台国=大和国で、面白い小説なりなんなりが描けたら
それだけで、邪馬台国九州説なんてアウト。
595日本@名無史さん:2010/09/29(水) 10:57:35
邪馬台国を舞台にした小説とか何とか調べてみたら
ほぼ邪馬台国九州説をもとにしたファンタジーぽいのが多いな。
在野の歴史愛好家の間でも、邪馬台国九州説のが殆ど。
それだけ、邪馬台国九州説というのは商売になっている。
だから、邪馬台国九州説論者は必至。
596日本@名無史さん:2010/09/29(水) 11:26:16
小説では儲からないが、畿内説で生活している学者・研究者はたくさんいる。
だから詐欺でも畿内説はやめられないのだ。
597日本@名無史さん:2010/09/29(水) 11:27:56
いつのまにか巻向発掘が168回目になってた。
安定して仕事があるのはいいなあ。
598日本@名無史さん:2010/09/29(水) 13:10:17
と言うか平城京でもまだ発掘してるんだろう?

纏向の場合遺跡全体の構造と言うか
「ここが中心だ」って部分も良く分かっていないのなら
まだまだ延々と続くんじゃないのか?
599ローガン:2010/09/29(水) 13:55:33
>>590
>だったら今のところ何も矛盾はおきてないよ

そうですな。
私も何が矛盾なのかを聞いてみたい。 デンドロで建て替えが確認出来たんだが…
何が矛盾何だろうか?
600日本@名無史さん:2010/09/29(水) 14:12:35
卑弥呼は纏向の女王である、と言いくるめんがための
纏向の発掘だから、終わりがありません。
601日本@名無史さん:2010/09/29(水) 15:39:30
吉備主導でヤマト政権が成立したというのが現在の主流。
かといって、邪馬台国九州妄想説はどうあがいても、ここに結び付けられない。
602日本@名無史さん:2010/09/29(水) 16:03:14
>>601
そんな主流はないよ。
ヤマト王権が邪馬台国だと言うのは、徐々にそうなりつつある。
吉備に関しては、モモソ媛命の同母弟でイサセリが
吉備津彦になっているから、
纏向遺跡と吉備の関係が深いのは、おのずと理解できる。
603日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:04:24
現在の主流は、根拠なく纏向が卑弥呼の都だと断定する手口。
604日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:31:22
邪馬台国九州説論者が必死な理由が分かった。
邪馬台国九州説って、いろいろビジネスになっているんだな...
605日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:34:20
大陸からの文化の流れで日本は九州から発展していった
各国をまとめ上げる勢力は九州にしか発生し得ない
したがって、邪馬台国は九州にあったはず
という考えが九州説の根底にはある

日本は大陸の影響を受けつつも独自の文化で発展していった
各国をまとめ上げる勢力が持っていた天皇中心の日本独自の文化は畿内で発生した
したがって、邪馬台国は畿内にあったはず
という考えが畿内説の根底にはある

畿内説論者が中国思想の痕跡を根拠に畿内説を補強しようとする昨今の姿勢には疑問がある

銅鏡は国産
祭祀は日本独自の思想・様式で行われた

こう仮説した方が畿内説には有利だと思うのだが
606日本@名無史さん:2010/09/29(水) 17:54:30
>>605
それは一つの味方にすぎないよ。

別の見方では、邪馬台国九州説論者には
神武東征伝承の解釈をめぐって、
邪馬台国九州説を信じたい勢力もいる。

そんあわけだから、九州説も畿内説も多種多様だよ。

あとな、外国文化を過大評価するのなら
前近代まで、日本に外国文化が入ってきたのは常に九州だよ。
鎌倉時代だって、日本で一番大きな都市は、博多にあったわけだし。
でも、その当時、日本を支配していたのは、なんと遥か辺境の鎌倉。
607日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:03:30
黎明期の話だよ
鎌倉はちょっと違う
608日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:07:12
>>607
ちがわない。
なにか、古代の話を特別視しすぎているんだよ。
609日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:09:53
近代と前近代の違いでは
近代以降の日本では、首都と国際都市がほぼ同義だからってのもある。
首都とは、国際的=外国文化=先進性
でも、交通と通信が発達していない前近代では、
首都と国際貿易港とイコールでないでしょう?
古代エジプトなんかでもそうらいいし。
610日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:27:46
国家建設の黎明期
各地の小国が支配され大国となりゆく過程
それを無視して、大国としての邪馬台国しか見ないのは正しくないと思う
611日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:31:28
>>610
いっている意味が分らん。
612日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:38:14
日本は最初から天下統一されていたわけではないだろうということ
倭国大乱のあと、いきなり西日本統一
そしてその統治が拡大することもなく何世紀も続くなど現実的に考えてありえない
613日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:40:19
古代には大陸から、いくつかの新兵器がもたらされた
鎌倉時代にはそれがないという違いもある

そして統治というものは時代と共に強力になっていくもので
最初から盤石なんてことはない
古代と鎌倉時代を同一視する方が無理がある
614日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:45:14
各地方がそれぞれ勝手にやってて
適当な時期に京に行って、いくらかの金積んで、
地方支配権「認定」なんて、信長以前までそんな感じじゃない?
615日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:48:19
>>613
そういうの過大評価だよ。
前近代の武器の技術力の差なんて、さほどないよ。
じゃ、いっぺん、軍事評論家に聞いてみろよ。
武器の優劣が勝敗に影響するようになったのは、近代以降だ。
とにかく、古代を語るのに、近代の常識で語りすぎる側面が間違いだ。
616日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:49:58
>>613
徐々に出来が立ってくるというの幻想なんだよ。
国家なんて、たえず統一、分裂、統一、分裂を繰り返している。
足利幕府をみろやw
617日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:52:37
邪馬台国が日本全土を支配していたという前提は共通認識ではない
618日本@名無史さん:2010/09/29(水) 18:53:52
もはや言った者勝ちだなw
619日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:11:12
纏向遺跡は、北九州から関東ぐらいまでの遺物が大量に出てくる。
620日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:12:52
律令制で租庸調のうち、調は京に運ばなければならないはずだが
九州各地で、そもそも調を運んだ痕跡が見つからない。
太宰府に送られてそこで消費したのだろうか。

九州発で調を運んだ痕跡があれば、教えていただければ
ありがたい。
621日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:14:16
マキムクでなにか目立ったもの出てきたっけ?
622日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:21:07
律令制が開始されて、全国で租庸調の制度が
行なわれたと「推定」されている、としか書いてないね
623日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:37:10
>>620
スレ違いだ。

が、例えば、

・平城宮第13次発掘調査出土木簡: 「豐前國宇佐郡調黒綿壹伯屯四兩屯神龜四年」
624日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:50:00
>>623
ありがとう。。年号確認した。
神亀4年だから727年でいいかな。

日本書紀のすぐ後か。
しかし、奈良時代って、亀と天平がつく年号ばかりだな。
625日本@名無史さん:2010/09/29(水) 23:53:55
古代史とは、地検特捜部の見込捜査みたいなものですね。
最初からすべての証拠がそろっているわけではなく、
限られた物証から検事が犯罪の大筋を描き、その筋書きに沿って証拠や自白を集めて事件の全体像を肉付けしていく。
筋書きに合わない事実は闇に葬るくらいならいいが、最初に描いた大筋に誤りがあると、事実をねつ造する危険を伴うのも
地検特捜部による捜査と似たところです。

時には、自分で描いた(畿内にあったという)大筋を疑ってみるべきではないだろうか?
九州説、その他の立場から見て、時節が検証に耐えるだけのものになっているか見つめなおしてほしいものです。

そして、もし、その結果、自分の判断に疑問を持ったなら、転向する勇気を持とう。
626日本@名無史さん:2010/09/30(木) 18:39:25
>>625
それは九州説のほうにこそ言える話じゃないかなあ。
畿内説というのは、新発見のたびにそのつど見直しと修正が加えられているわけだし
だからこそ△や□○墳や鉄器の有意性といった旧態依然の議論から脱却した。

未だに倭人伝の暗号謎解きから脱却できずに、好事家からも見捨てられた九州説こそ
次々と報告される考古成果に目を向けて、再構築すべきだと思うよ。
627日本@名無史さん:2010/09/30(木) 19:27:29
そうだね。三角縁や公定里を言う人も殆どいなくなったね。
628日本@名無史さん:2010/09/30(木) 21:47:23
>だからこそ△や□○墳や鉄器の有意性といった旧態依然の議論から脱却した。

上記を誰にでも判るように翻訳すると下記のごとくになる。

△や□○墳は根拠として使えないことが分かった。しかたなく新しい材料を探し求めている。
629日本@名無史さん:2010/09/30(木) 22:28:45
結局のところ、マキムクの開始が3世紀初めか、4世紀初めかで議論してて、
前者なら邪馬台国はマキムクで、前方後円墳を造り、画文帯や三角縁を配布した。
後者なら邪馬台国はツクシで、広形銅矛勢力圏の盟主ってことですか?
630日本@名無史さん:2010/10/01(金) 00:03:48
>>629
本当のところ「(庄内の始まりを)4世紀初め」なんてのは殆ど聞かないけどなw
この板じゃあ” 特殊な ”歴史観を持つ連中は必死に抵抗しているがwww

>>628のような奴は三角の件で鬼の首を取ったようはしゃいでいるが
同時にそれは昔の年代観の前提が崩れると言う一蓮托生である事を知らないで
欣喜雀躍していると言うアホぶりw

要するに年代観も含め全てが自分達の説が一番輝いていた時代に戻したい。
…って話なんだろうw

631日本@名無史さん:2010/10/01(金) 02:08:43
>>625
>時には、自分で描いた(畿内にあったという)大筋を疑ってみるべきではないだろうか?
九州説、その他の立場から見て、時節が検証に耐えるだけのものになっているか見つめなおしてほしいものです。

私はそれで九州説をやめましたよ。
632日本@名無史さん:2010/10/01(金) 04:20:24
× 私はそれで九州説をやめましたよ。
○ 私は飯を食うために九州説をやめましたよ。
633日本@名無史さん:2010/10/01(金) 06:55:33
飯食うためなら妄想全開な九州説の方がいいんだぜ。
自治体も多いし、韓国相手でもな。
634日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:53:41
飯を食うどころかあぶく銭儲ける為に九州説をやってる御仁すら居るもんな。

Y本とかな。

あれから見ると馬鹿でどうしょうもないF田なんか、馬鹿ゆえに愛おしく見えてくる。
635日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:58:26
ところで、卑弥呼の湯とか、清酒邪馬台国とか経営成り立ってるのか?>佐賀県
もっと妄想全開つーかなりふり構わずに九州人を騙くらかさないと、昨今の情勢では厳しいだろう。

いくら地元贔屓が強い九州人にしても、もうちょっとマトモな理屈立ててくれないと騙されてやるわけには行かないのだが。
636日本@名無史さん:2010/10/01(金) 09:31:08
>>634
Y本は、邪馬台国九州説を基に、たくさん本を書いてあるから
邪馬台国ヤマト説で決着したら、
これまで必死に書いてきた本の売れ行きにも直撃する。

そんなわけで、邪馬台国九州説論者は必死。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡関係の自治体でもそう。
637日本@名無史さん:2010/10/01(金) 09:32:37
横レス。

マキムク遺跡の発掘があると、メディアは必ず「邪馬台国?」みたいな報道するから、
みんなついカッカとして、言い合いみたいなレスが続くのも分からないわけじゃないんだけど、
でもこのスレはべつに邪馬台国の所在地を究明する必要はないんだ。

このスレで論じてもらいたいのは>>1で提起されてるようなヤマトの王権の問題だよ。
邪馬台国の所在地は別スレもあることだし、ここで熱くなって争うのはやめた方がいいよ。
638日本@名無史さん:2010/10/01(金) 09:40:17
>>637
たしかに、あのメディアの報道の仕方は問題だな。
実は、考古学的資料で確定的なことは何一つない。
純粋に考古学的資料だけでみるのなら
歴史的な推測は基本的に無理だから。

とはいえ、もともと纏向遺跡ってのは、
記紀に書かれている崇神天皇時代の話と
魏志倭人伝の卑弥呼時代の話を意識して発掘されたようなものだから
それを関連させて報道するのは理解できなくもない。

639日本@名無史さん:2010/10/01(金) 09:45:08
邪馬台国九州説ってのは、Y本とかF田のような歴史愛好家の寿命によって
もっているようなものだから、彼らの鬼籍後、
この説は急速に衰退するだろうと思うね。

吉野ヶ里遺跡の発掘にかかわった人も、実は邪馬台国ヤマト説の人なんだよね。
じゃ、なぜ、これだけ宣伝したのかというと
その遺跡は発掘され後、壊される運命にあったんだが、
卑弥呼と関連させて盛り上げることで、遺跡を存続させたわけで。
640日本@名無史さん:2010/10/01(金) 09:51:56
纏向遺跡時代の遺跡って、実は
建物がどんなふうだったか分らないんだよね。
641日本@名無史さん:2010/10/01(金) 19:35:52
吉野ヶ里だってわからないんだよ。
642日本@名無史さん:2010/10/01(金) 19:54:26
てか吉野ヶ里の復元にしても池上曽根や唐古・鍵の復元にしても
現代の工法で建てられていて、外見だけ弥生風にしているだけだから。
じゃないと建築基準法違反で許可が下りないw

当時の工法として想像され得るやり方だと
楼閣と称される建物は、人が上がるとその重さで倒壊するとみられる程度の柱穴跡しかないし
ふたつの内郭にしてもあれほどの上物があったのなら、強い目の台風でも来たらいっぺんに倒壊する程度の柱跡数しかない。

これは後の時代の出雲大社の高層神殿でも同じような分析がなされているから
まあ実際は何度も倒壊して立て直したのだろうといわれている。
北内郭などは違う時期のものと見られる柱跡が無数に出土しているからね。何度も倒れたんだろう。
643日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:13:11
ゼロからの蓄積だと
梁の技術って結構難易度高いんだよね。
644日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:19:55
九州説は、賛成も反対も別のスレでやってくれよ。
興味ないのよ。
邪馬台国もうんざり。
645日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:16:09
スレ本来の趣旨からそれるが「観光誘致」と言う話題で言うと…

奈良県って観光資源には恵まれているはずなんだが宿泊客数は何故か全国最下位w

http://www.j-smeca.jp/attach/kenkyu/shibu/h20/y_nara.pdf
>奈良は、日本の歴史や文化発祥の地であり、観光客を引きつける観光資源が数多くあるにもかかわらず、
>宿泊客数は全国最下位という結果となっている。

恐らく今後、桜井市とかが「邪馬台国」を前面にして観光スポットとして積極的にアピールして
纏向の認知度が高まっても地元の観光業界の実入りには繋がらないだろうと思う。

それ以前に「邪馬台国」の人気は日本史の中にあって奇観と言うか
エキセントリックな存在としての人気で
それが(学校で勉強した(させられたw))ヤマト王権に繋がるというのなら大衆の興味もそこで盛り下がると思うw

まあ平城京跡にアイドルや歌手よんでイベントやらかす予算があったら
少しは纏向の発掘に回してやれよ…っちゅう話だなwwwwwwwwwww
646日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:48:28
しかし、そもそも日本という国は九州から始まったわけで、
中国、近畿、東海、関東、越、南東北の順にまつろわぬ蝦夷を征服していったわけで、
元々は邪馬台国(もしくはその起源)は九州にあったことに間違いないし、
卑弥呼も1人というわけではなく、初代2代目3代目・・と世襲されていったのです。
魏志倭人伝の言うところの卑弥呼は何代目かよくわからない。
たぶん、距離や方向は初期の九州にあったころの邪馬台国の場所だと思われます。
実際に魏に使いを送った卑弥呼は、何代目かは知らないけれど、吉備か畿内にいた可能性が高い。
秦の始皇帝のように、その生涯のほとんどは神輿に乗せられて自分の領地地域を御幸する生活だったと思われます。
卑弥呼のいるところが都(宮来)だったのではないでしょうか?
現代のように定住を前提に邪馬台国の位置を特定しようとすること自体、誤りなのです。

わかってくれましたかな?
647日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:58:54
>>642
信頼性、実用性と言うことからすれば竪穴式住居と言うことなのだろうか?

案外、首長層も寝起きは竪穴式住居でやっていて、高床式建物は仕事用−オフィスだったりとか?www
648日本@名無史さん:2010/10/02(土) 01:03:14
>>644
アンチが煽り目的で九州スレを立てるから、こいうことになる
隔離したければ、アンチでもキチっとスレ立てしないと
649日本@名無史さん:2010/10/02(土) 01:26:23
と言うかこの板の九州説が、実は単なる「アンチ畿内説」だからなw

しかも連中の言う「畿内説」と言うのは「邪馬台国畿内ヤマト説」に留まらず
通説の歴史を唱えているアカデミズム全般だったりするww

そう言った連中にとっては「纏向遺跡」は存在自体が面白くないわけで
それは意味の無いケチレスの数々からも窺い知れるwww
650日本@名無史さん:2010/10/02(土) 11:44:06
要するに「アンチ・アカデミズム」つーか「アンチ・学校教育」って感じなんだよね。
自分も結局は畿内説つーかゆるやかな交易連合説に辿り着いてしまったわけだけど

これって実は一番面白くない説なんだよなー。
ぶっちゃけ物語的にも心情的にも。当たり前すぎて常識的過ぎて、自分が孤高のヒーローになれない。
倭人伝の暗号解読ごっこと』揶揄される作業にしても、あれやってるうちはけっこう面白いんだよね、空想の世界で遊ぶって感じで。
ところが現実の世界に冷静に目を向けると、こういう作業はもうすでに散々やりつくされていて
今更新発見や新解釈なんて見つかるはずがないしあるわけがないってのが判ってくる。
宇宙人や異世界人や未来人が現実の俺らの世界には居ないって、判っちゃってがっかりするようなものだ。

だからここのアンチ畿内説の連中の思考回路なんかは、心情的には理解できないこともないんだよなー。
一行レスでの罵倒が多いのも、こちらが理屈で責めるわけだから、もう自分の説の矛盾に気がつかされてしまう苛立ちが歪んだ形で発露されたってことだろう。

でもやっぱ現実は現実として存在するわけだし、もう妄想が介在できる余地なんてほとんどない。
だからこそ現実的にありうる九州説すら選択しないで、妄想の世界から出てこなくなっちゃってるのだろう。
651日本@名無史さん:2010/10/02(土) 11:48:44
>>645
盛り下がらんは。
邪馬台国=ヤマト王権ならば、
卑弥呼の時代の話が、はじめて
日本の歴史の中で語られ始めるわけだから。
652日本@名無史さん:2010/10/02(土) 11:54:11
纏向遺跡だって、柱の跡しか残ってないしな。
その当時、どういう建物だったのか、
実のところ、分らない。
653日本@名無史さん:2010/10/02(土) 12:01:51
>>652
それを言い出したら平安時代の建物にしても、あれも推測の部分のほうが大きいじゃん。
大極殿にしても、瓦なんかの遺物と現行存在する後に建てかえられたものやら、つたない文献から推測するしかないんだし。
ましてや当時の現行建築物が一切残っていない時代のことなんて、基本的には判るはずもない。
飛鳥時代にしてもまだ判らんことのほうが多いのに。
654日本@名無史さん:2010/10/02(土) 12:29:38
屋根とか壁とか、邪馬台国時代ってどうだったんだろうな?
655日本@名無史さん:2010/10/02(土) 12:39:03
吉野ヶ里遺跡の堀っ立て柱の物見台だったというイメージは何とかならんのか?
ちゃんと屋根もあったし、豪華な高層建築物だったのではないのか?

http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/images/h15/030410-60.jpg
656日本@名無史さん:2010/10/02(土) 13:43:00
>>655
ん?これ唐古・鍵の復元楼閣の写真じゃない?
何か勘違いして貼り間違えたの?
それとも吉野ヶ里もこんなのだったかもといいたいの?
657日本@名無史さん:2010/10/02(土) 13:53:48
>>656

うん、唐古の線刻土器の図を基にしたモニュメントだね。
ただ、古田な人達は、唐古民が遠い九州の楼閣の噂を聞いて、それに憧れた描いた絵だとか言うゾw
658日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:08:59
古田はもう教祖といってよい存在だろうな。もちろん経典は「東日流」、聖水は小便。
659日本@名無史さん:2010/10/02(土) 16:20:57
>>510
>徳川吉宗

当たらずとも遠からず
660日本@名無史さん:2010/10/02(土) 20:19:13
あんな土器に書いてある落書きの楼閣で
無理に楼閣を再現するほうが無理があるんだろうけどな。
実際の楼閣は、もっと普通の感じだったんじゃないの?
661日本@名無史さん:2010/10/02(土) 20:55:14
普通の感じとは?
あのぐるぐる巻きは特徴あると思う。
662日本@名無史さん:2010/10/02(土) 22:01:21

■邪馬台国は九州?畿内? 吉野ケ里で特別展始まる

佐賀新聞 2010年10月02日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1737258.article.html

 九州か畿内かをめぐる邪馬台国論争に焦点をあて、吉野ケ里遺跡と奈良県の纒向(まきむく)遺跡の出土品を同時に並べた特別企画展が2日、佐賀県神埼市郡の吉野ケ里歴史公園で始まった。
初日から県内外の考古学ファンや観光客が訪れ、双方の精巧な銅鐸や土器などの特徴を見比べながら当時の「クニ」に思いをはせた。

 九州初登場となった纒向遺跡を中心に畿内関連と九州関連の約200点を展示。
銅鐸や土器は両遺跡を対比して飾り、形や厚さの違いを示した。纒向の珍しい木製輪鐙(あぶみ)や、日本最大の銅鐸(高さ134センチ、滋賀)も関心を集めた。

 東京の男性(65)は「面白い企画。奈良に住んでいた当時は畿内説に傾いていたが、今日の展示説明を見ると吉野ケ里に利がある感じ。遺跡内を歩いてじっくり考えたい」。
岐阜県から長女と一緒に来館した主婦(59)は「この時代の最先端がそろっていてすごい。出土品から見ると九州説、立地のバランスを考えると畿内説かな」と古代史最大のなぞへの興味を深めた。

  特別企画展「よみがえる邪馬台国〜倭人伝の証明 吉野ケ里と纒向」は佐賀県教委と吉野ケ里公園管理センターが主催、11月28日まで。

・写真2葉(リンク略)


※参考サイト

吉野ケ里歴史公園
http://www.yoshinogari.jp/
663日本@名無史さん:2010/10/02(土) 23:35:46
>>661
あの落書きみたいな絵を真に受けて
再現もけいでも、ぐるぐる巻きにするのはどうかと思う。
664水銀厨:2010/10/03(日) 07:31:53
鍵唐古を馬鹿にしないでね。
665日本@名無史さん:2010/10/03(日) 08:05:23
紀元前の倭国で、中国式な建築物が
すでにあったのなら、驚きだろうがな。
666日本@名無史さん:2010/10/03(日) 08:36:03
まあ馬鹿にしているのでは決してないが、あの線刻土器を元に楼閣を再現するというのは
かなり問題があるとは、計画段階からそれこそ何人もの考古学者に突っ込まれていたね。

少なくともそれなりの柱跡ぐらいは確認されてからのほうが良かったんじゃないかなどと。
667日本@名無史さん:2010/10/03(日) 08:57:05
ゆるやかな連合
668水銀厨:2010/10/03(日) 09:00:02
まあ確かにあの復元楼閣はね。
ちょっと仕事を手伝っただけに複雑な心境です。
でも鳴石といい、大陸の影響は少なからずあるでしょう。
鍵唐古は巻向に移行した母体だと思う。
669日本@名無史さん:2010/10/03(日) 09:01:16
ゆるやかな連合というのは一体どの程度のものなのか?

はっきりとは言わないまま、きっとそういうものが
できたのだろうというのは無理があるのでは
670日本@名無史さん:2010/10/03(日) 09:04:02
>>669
まあ一つ確実に言えるとしたら

畿内王家のモノを凌駕するような古墳を作っても
お咎めなしなぐらいwwwwww
671日本@名無史さん:2010/10/03(日) 09:24:22
2、3ヶ国ならともかく日本中を巻き込んだ交易連合が
そんなに簡単に成立するものかね
少なくとも日本の歴史上では他に例がない
纏向に集積地があったというのも畿内の勢力に都合がよすぎる

やはり畿内の勢力(=大和朝廷)が軍事力を背景に
婚姻や軍事行動で他勢力を一度は屈服させていったのだろう
672日本@名無史さん:2010/10/03(日) 09:34:28
>>669
>>671
ゆるやかな連合なのか、屈服させたのかは分からないが、
統一国家が長い期間あったのは自明だろうね。
全国各地の神社の存在が物語っている。
673日本@名無史さん:2010/10/03(日) 09:43:29
>>663
あのぐるぐる巻きなんてそれこそ
卑弥呼が出てきそうではないか。
大陸の文化とは違う、複雑な縄文土器文化からの
移行途中だと思えば納得出来る。

あの楼閣は漢字文化よりも、
こっちがピッタリ来る。
http://www.hotsuma.gr.jp/futomani.html
674日本@名無史さん:2010/10/03(日) 10:55:20
神社そのものが千差万別だからねえ。
元社、末社みたいに勧請したチェーン神社以外は
統一されたかどうだか。

そもそも、いわゆる神社スタイルで統一されたのが
明治以降だろ。寺ともごっちゃだったし。

八幡神社と水天宮とか全国チェーンを率いているやつの
分布から、人の流れが見えるだろ?

丹生神社系もあるね。
675日本@名無史さん:2010/10/03(日) 11:12:47
>>653
平安時代ともなると絵巻物とか参考になるものがあるからな。
676日本@名無史さん:2010/10/03(日) 11:15:37
>>655
吉野ヶ里や三内丸山が発掘された時代は、
想像で勝手なものを足して復元しないことなった時代。
唐古・鍵のは>>657の言うように根拠が一応ある。
実装該当遺跡が当時そうだったかは分からないが。
677日本@名無史さん:2010/10/03(日) 11:20:50
八幡宮は鎌倉時代からある大山崎油座によって、
油のお金の力で系列が強力に整備されたので、
由来をちゃんと調べないと、証拠にはできない。
678日本@名無史さん:2010/10/03(日) 11:33:24
>>676
吉野ヶ里以降でもけっこうひどいモンがあるよ。
まあ登呂遺跡のデタラメさに比べれば可愛いものだけど。

それと>>655の写真は>>657が言うように、まさに弥生モニュメントであって
復元されたものでもなんでもないんだよな。記念碑かオブジェみたいなもの。

>唐古の線刻土器の図を基にしたモニュメントだね。

この説明と解釈が一番正しいと思うよ。
679日本@名無史さん:2010/10/03(日) 11:34:19
>>668
>鍵唐古は巻向に移行した母体だと思う。

母体だというのは、どういう意味なのでしょうか?
人口構成の比率を土器から推し量れば、大和の人は多かっただろうけど、
大和が主導的な位置にいたことを示す資料はないんじゃないのかな。
680日本@名無史さん:2010/10/03(日) 14:55:20
>>671
戦後日本の風潮が影響しているでしょう?
中央集権、皇室に対する反発。

でも、民主的に首長連合なんて、できるイメージがわかない。
あと、魏志倭人伝の卑弥呼擁立過程の記述をみれば分るが、
卑弥呼が共立される前にあった倭国大乱よりもさらに前に
倭国では一人の男王によって統合されていた時代があったということ。
また、卑弥呼共立の共立って言葉は、同じ王家でお家騒動がおこって
その結果、家臣によって擁立された王の場合に使われる言葉。
もし、家系にかかわらずに王が擁立されるのなら、共立という言葉は使われない。
681日本@名無史さん:2010/10/03(日) 14:58:52
家系にかかわらずに王が擁立されたら
そこで革命が起こったということにされ、
王が共立されたとは言わない。

実際に魏志倭人伝では、卑弥呼の一族の国が誕生したのは
卑弥呼よりもずっと前に、男性によって建国されたとある。
682日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:14:20
http://3939mart.tea-nifty.com/photos/uncategorized/2009/06/07/img_5132.jpg

しかし復元品は巻き方が足らんよな。
原図はもうちょっと巻いている。
683日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:21:01
作る大工の身にもなれ、といいたくなるような設計だな。
684日本@名無史さん:2010/10/03(日) 16:06:52
落書きをあまりにも真に受けた設計だなw
実際に楼閣は、ここまで、まいてないだろうw?
685日本@名無史さん:2010/10/03(日) 16:17:07
落書き?
686日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:24:22
>>680
ペルシャの外圧に対抗するためにデロス同盟ができたり
アテネに対抗するためにペロポネソス同盟ができたり
なんて例はあるよね。
じゃあ当時の東海から北九州にいたる首長連合は何に対抗するため?
それだけ大規模な連合を作らなければいけない驚異なんてなかっただろう。
単なる経済的利益のための連合というのは机上の空論だよ。
分け前で揉めるに決まっている。
687日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:35:04
戦後史観の影響が大きいのかもしれないが
考古学者や歴史学者の先生か、初歩的なことにも気がついてないのは笑える。
彼らが描く記紀の陰謀改ざん説は
素人の頭で思いつく程度のもの。
逆にいえば、戦後の考古学者や歴史学者の先生の説の多くが
素人レベルの説ということ。
688日本@名無史さん:2010/10/03(日) 18:57:28
畿内ヤマト王権が中央集権国家を目指したであろう事なんてのは常識。
そしてそんな中央集権国家なんてものが初めから存在し得なかったなんてものも常識。

最初は下手に出て、やがて”タメ”に
彼我の力の差が決定的になたら適当に口実をもうけて自身より弱小を併呑する…

洋の東西も問わない常識で21世紀の国際社会おろか民間企業の競争、さらに個人間にすら見られるようなありきたりの現象。

他のスレでも
「じゃあ学者(勿論九州説を唱えている学者でも良い)の中に”ゆるやかな連合なんてありえない”と言っている奴がいるのか?
 いるのなら名前を挙げろ」
…と問うてその名を挙げた奴は一人もいないwww

(無論、実際には探せばいるんだろうが)

何故か?

そりゃこんな匿名の掲示板なら言いっ放しのピンポンダッシュもできるだろうが

リアルの学者で「ゆるやかな連合」と言うステップをすっ飛ばしてヤマト王権・日本の国家形成のプロセスを説明を試みる
ドンキホーテもそうそういないからに過ぎないwww
689日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:06:12
もちろん大和朝廷の支配が確立するまでにいろんな合従連衡はあっただろ。

いきなり平和的、民主的に連合ができて
なぜか纏向遺跡に技術やモノが集結して
それを背景に大和朝廷が有力となったというのはおかしいよねって話。

大和朝廷が徐々に中央集権化を進めていったという
プロセスに異論を唱えてるわけじゃないよw
690日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:11:22
魏志倭人伝によると、邪馬台国を中心とした倭国は

一人の男王により建国し、数十年つづいた。
そして、歴年争いがおこり、
女王卑弥呼を「共立(=お家騒動が起こった場合、臣下の話し合いによって擁立されるケース)」
したとある。

卑弥呼=モモソ媛命と仮定して、
この最初の男王は何者なのか?考えると、日本古代史なんて
いっきに分る。
神代系図・皇室系図をじくりみると、どういうことなのか直ぐにわかる。

この最初の男王は、出雲国譲りを達成した人物である。
その辺の事情は、記紀や播磨国風土記にもある。

その初代の倭王は、男王・天照(アマテル)とされていた人物である。
正式名称は、天照国照彦(天津と国津の両方の支配=出雲国譲りを達成した)であり、
本名は、火明(ホアカリ)という。
皇祖ニニギの兄とされている人物である。

播磨国風土記でも分るように、出雲国譲りとは
出雲の大国主が、娘婿(義理の息子)であり、近畿の王だった火明命に
倭の覇権を禅譲した事件である。

こういうふうに考えたら、なぜ、ニニギの男系子孫である崇神天皇が
大国主や
天照(アマテラスではなく、実はアマテル)の祟りを恐れたのか
よく分る。
691日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:16:15
近畿王権の始まりは
出雲王が、娘婿の近畿王に母系継承で禅譲したことから起こった。
これを後世、出雲国譲りといい、このことは、ヤマト王権では重要視していた。

この近畿王とは、アマテルといわれていた火明命のことであり、
おそらく、二代目は、香語山命、村雲命と、直系で継承されていたのであろう。
ちなみに、この香語山命の母親は、天道日女命であり、
出雲の大国主の王女だ。

こういう風に考えたら、ニニギの子孫である皇室の立場は微妙である。
そういえば、記紀を編纂するとき、天武天皇は
尾張氏(火明命の嫡流の子孫)ともめまくっていたw
692日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:22:26
>>689
連合体=民主的 なんて短絡思考しかできない時点でお話にならない。


まあ「首長連合」と言う語に脊髄反射で噛み付いてくる連中と
このスレで纏向遺跡の報道にもケチレスつけずにはおられない連中は同じなんだろうが

連中にすれば纏向の有り様は許しがたいのだろうwwww

良く「人の(生活の)匂いがしない」とか「軍事的緊張の色が見られない」等々の表現がされるが
ゆるやかな連合体なんて軟弱なw事をせず
これか西に東に征服戦争おっぱじめなければならないヤマト王権の最初の都市としては
あまりに似つかわしくないwww

できれば幾重の堀に囲まれ櫓が建ち鉄壁の城塞都市で
近辺からは鉄製の武器がふんだんに出土する・・・なんてのが都合がいいのだろうwwww
693日本@名無史さん:2010/10/03(日) 19:41:40
>>690-691
あんたの言うとおり、神代系図・皇室系図で
記紀や風土記、魏志倭人伝なども見比べてみた。
すごすぎ...
気がつかなかった。
694日本@名無史さん:2010/10/03(日) 20:24:34
台与との関係は?
695日本@名無史さん:2010/10/03(日) 20:43:53
と言うかここ纏向スレだからな…

696日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:10:56
卑弥呼=モモソ媛命ならば、台与=豊鋤入姫命じゃないのか?
系図や記紀の記述から考察して、そうだろう。

だとしたら、倭国大乱がどこで起こったのかは、欠史八代の時代で
おそらく、大倭王・天忍男命のあとを母系継承で
天足彦国押人命が継がせるかどうかで、倭国大乱がおこったんでしょう?
このへんも系図をみくらべたら、なんとなしに想像ができる。
697日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:18:50
英仏戦争が欧州大陸と北米大陸(フレンチ=インディアン戦争)で同時に起こっていたように、
倭国大乱も九州と畿内で同時進行的に起こっていたのれす。
698日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:25:38
大倭王(祭祀王)の天忍男命の王女が、
最高権力者(俗世王)のカエシネ命(孝昭天皇)に嫁いでおり
二人の間に生まれた子供に、天足彦国押人命という人物がいた。

カエシネ命は、母系継承で自分の息子に
大倭王の地位につけようとした。
699日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:28:48
東大寺古墳の中平刀は、
天足彦国押人命の直系に子孫である和邇氏に
受け継がれたものである。
700日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:31:30
ハン板で保守を装いながら、天皇を貶めている工作員と同じ臭いが漂ってますよん!
701日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:32:40
>>692
纏向遺跡だけが全てじゃないだろw
702日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:33:10
天忍男命の王女は世襲足媛という。
この名前も意味深である。
彼女を通して、倭王の地位が継承されたのだ。
彼は娘可愛さに、彼女の産んだ天足彦国押人命に
倭王の祭祀を受け継がせようとした。
母系継承である。

そうしたら、天忍男命の兄の天忍人命の嫡孫たちが激怒するわなw

そして、倭国大乱が勃発したのだ。
703700:2010/10/03(日) 21:33:31
誤爆ったすまぬ
704日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:37:19
まあ環濠を始めとする防御施設も存在せず
しかし過去にない規模を持ち、干拓という新たな技法を用い
そこから発生する前方後円墳は、各地の土木や建築技術の融合体で
なおかつ土器どころか祭祀具までが各地のものが集結などという
あまりに異次元のものが出てしまったのが纏向だから、昔の弥生観しか持ってない人から見れば理解しがたいのだろう。

けれども出てしまったものは仕方がない。
農耕で皆が豊かになったとか、戦いで領土を増やしたなどという古い弥生観が通用しなくなったのを受け入れねば
邪馬台国なんてケチな話じゃなく、律令制にまで繋がる王権のあり方の変遷
つまり日本古代史そのものの変貌についていけなくなるだけだ。
705日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:39:15
倭国大乱がいつまで続いたかは分らんが、
カエシネ命の曾孫のクニクル命(孝元天皇)まで続いたのではなかろうか?
この間(倭国大乱)の神武皇統側の当主には、記紀編纂後の後世に
孝昭、孝安、孝霊、孝元という名前の天皇の名前が送られた。

クニクル命は、異母兄妹には、モモソ媛命(卑弥呼)がいいる。
モモソ媛命は大倭王の継承し
実際の政治をクニクル命がみるようになったのでは?
それが、およそ紀元2世紀後半のことだろう。
706日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:41:29
ちなみに、魏志倭人伝の240年代のころは
大倭王は、モモソ媛命(卑弥呼)であり、実際に政治をみていたのは
イニエ命(崇神天皇)だと思われる。
イニエ命の父方の大叔母が、モモソ媛命である。
707日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:43:45

■弥生の鍛冶ほぼ解明 五斗長垣内遺跡で実証実験 

神戸新聞 2010/10/02
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003499281.shtml

 淡路市黒谷にある弥生時代後期の竪穴式住居跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」が、国内最大規模の鉄器製造群落と確認されてから約1年半。
具体的な鉄器の製造工程について、同市教育委員会などがこのほど、燃料となった炭の製造から鉄を溶かして加工するまでの工程を復元実験した。
当時の鍛冶(かじ)が解き明かされつつあり、兵庫県立考古博物館(播磨町)の石野博信館長(76)は「鉄器の製造方法解明は、鉄器の普及ルートを知る手がかりになる」としている。(津名支局・西尾和高)

 遺跡は、出土した炉跡から鉄器工房跡と判明した。
鉄器の製造方法については、愛媛大学法文学部の村上恭通教授(東アジア考古学・冶金=やきん=考古学)が「炭を燃やし、革袋で風を送って温度を上げて鉄板を溶かし、石の工具でたたいて鉄器に仕上げていたのではないか」と推論。
具体的には不明な点が多かったため、同市教委は8月中旬、作業工程の復元実験に取り組んだ。

 実験では、炭の材質の特定▽炭の温度を上げるため風を送った革袋に取り付けた送風管の材質▽たきぎを燃やしてコメを炊いた跡と鉄器を製造した炉跡の違い‐を検証した。

 その結果、クヌギ、コナラなどを焼いて作った炭を燃料にして、鉄を溶かすことができた。革袋で風を送ったところ、炭の温度はわずか約20分で鍛冶が可能になる800度を超え、1100度に達した。

 革袋に取り付けた送風管の材料には、ハスの茎(太さ2センチ、長さ60センチ)と竹(同1センチ、同20センチ)を使った。効率よく空気を送り込めたため、材料として使われていた可能性があるという。

 実験後の炉の跡は遺跡と同様に赤く色づき、最も温度が高くなる中央部は白っぽくなるなど、普通にたきぎを焼いたときの黒ずんだ跡とは異なっていた。
(つづく)
708日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:45:26
(五斗長垣内遺跡 つづき)

 また、遺跡で見つかった石づちや台石といった鍛冶の工具と、同じ材質の花こう岩などは遺跡の周囲に分布。工具は遺跡周辺で拾った石で作ったとみられる。

     ◇

 今回の実験で「積み重ねた少量の炭を燃やし、革袋で空気を送り込んで鉄を溶かし、周辺で集めた石でこしらえた工具で加工していた」との作業実態をほぼ解明できた。
見学した石野館長は「鍛冶は簡単にできた。もっと高度な技術で生産していたかもしれないが、おおよそはこんな様子だったと思う」と声を弾ませた。

 同市教委の伊藤宏幸さん(50)は「当時、人口密度が比較的高かった淡路島が果たした役割を解明したい」と話す。
石野館長は「淡路島が奈良などとどのように文化交流したのかが分かれば、鉄の普及ルート解明につながるかもしれない」と期待を寄せる。


 ◆五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
 兵庫県が約4年前、ほ場整備の際に発見した。淡路市教育委員会の調査で、12棟の鉄器製造の工房跡や、矢尻などの鉄製品120点が出土。鉄器生産に特化した約1800年前の「ハイテク工業団地」と断定された。
「倭国(わこく)大乱」によって武器が必要となった時代、その供給源だったのではないか‐との説もある。


・鍛冶の実証実験。皮袋を開閉し、炭に空気を送り込んで鉄くぎを溶かした=淡路市黒谷、五斗長垣内遺跡
tp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/Images/03499282.jpg
709日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:48:30
大和朝廷の勢力がかなり広範囲に広がっていれば
その中心に位置する纏向遺跡に防御施設がなくても当然じゃないの?
710日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:07:43

■ヤマト王権支えた「鉄」

読売新聞 2010年10月2日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20101002-OYT8T00071.htm

 府立近つ飛鳥博物館(河南町)の秋季特別展「鉄とヤマト王権 邪馬台国から百舌鳥(もず)・古市古墳群の時代へ」(読売新聞社など主催)が2日、開幕する。
朝鮮半島からもたらされた鉄製の武器や武具、農耕具など約500点が並び、鉄を基盤としたヤマト王権の成長過程がうかがえる。

 藤井寺市の津堂城山古墳(4世紀後半)からまとまって出土したとされる鉄剣や鉄刀は、鏡類や管玉などと一緒に展示。5世紀前半から百舌鳥・古市古墳群でみられる鉄製武器や武具の大量埋納との関連を考えさせる貴重な資料だ。

 高宮遺跡(寝屋川市)や私部南(きさべみなみ)遺跡(交野市)からは、集落跡で出土した鉄の板「鉄■(てってい)」が並ぶ。集落から見つかるのは珍しく、ヤマト王権や朝鮮半島とのかかわりがうかがえる。
白石太一郎館長は「日本国家成立を考える上で欠くことのできない重要資料ばかりで、これらを集めた展覧会は珍しい」と話している。

 入館料は一般600円、65歳以上、高校・大学生400円、中学生以下、障害者手帳を持っている人は無料。毎週月曜休館(休日の場合は翌日)。問い合わせは同館(0721・93・8321)。

「■は金へんに廷」

・津堂城山古墳から出土したとされる鉄剣や鉄刀(河南町の近つ飛鳥博物館で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20101002-878022-1-N.jpg


※参考 大阪府立近つ飛鳥博物館サイト

 平成22年度 秋季特別展
「鉄とヤマト王権 −邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ−」
http://www.mediajoy.com/chikatsu/event/tenji/2010/autumn/index.html
711日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:09:35
>>709
そうだと思うんだけど、そうとは考えない人もいるんだなw
「防御施設がない=弱い」
って考える人がいるw
戦国時代なんかの例でも、王権が肥大化するにつれて
防御性よりも経済性を重視するのは常なんだけどね。
712日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:59:02
纏向遺跡に防御施設がない=平和的にゆるやかな連合体ができた


んなわけねーだろwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
なんて短絡的なんだwwwwwww
防御施設がないのは単に大和王権がその時点で
広範囲に勢力を拡大していたからだろうwww
713日本@名無史さん:2010/10/03(日) 23:00:55
>纏向遺跡に防御施設がなくても当然じゃないの?

纏向は都でもなく交易の拠点でもない。墓域なのである。各地の土器などは前方後円墳の築造のために集められた人夫が持ち込んだ
ものである。墓域だから特別の防御施設がなくてもよい。
714日本@名無史さん:2010/10/03(日) 23:02:36
纏向は大和朝廷の最初の都市というわけではないだろ。
715日本@名無史さん:2010/10/03(日) 23:58:34
纏向墓場には、墓守がいるだけで十分
716日本@名無史さん:2010/10/04(月) 08:44:47
>>714
記紀が正しければ、巻向よりも前は
葛城・高間のほうに最初の都市があったはずだよ。
717日本@名無史さん:2010/10/04(月) 10:12:44

ただいまニュース速報+板にて激論中!!!

【文化】邪馬台国はどこ? ライバルを迎え企画展 吉野ケ里公園
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1286040481/
718日本@名無史さん:2010/10/04(月) 17:03:33
>>707>>708
こんな中学生でもできる実験で、
「ほぼ解明できた」って言われてもなあ。
719日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:10:51
>>718
中学生くらいでも出来る方法でないと現実味が無いよ。
古代人がオーバーテクノロジーを使えた訳じゃあるまいし。
720日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:17:18

■卑弥呼は東四国出身? 古代忌部氏研究家、香芝で講演 奈良

産経新聞 2010.9.24
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/100924/nar1009240157002-n1.htm

 古代の宮廷祭祀(さいし)を掌握した忌部(いんべ)氏の研究家で徳島県立高校教諭の林博章さん(45)が、大和王権誕生の謎について語る講演会「倭国創生とモモソヒメ」が23日、香芝市の市ふたかみ文化センターであり、
 「大和王権や邪馬台国の基礎を築いたのは阿波を主体とする東四国勢力」
との自説を紹介した。

 林さんは徳島県の吉野川流域を拠点とした後の忌部氏が、全国に農業や養蚕などを伝えた課程を古文献や民間伝承、神話などから明らかにし、『日本の建国と阿波忌部』などの著作を出版している。

 考古学では、同地域の萩原2号墓(2世紀末ごろ、同県鳴門市)が前方後円墳のルーツとして注目されており、「阿波勢力は産業技術を持った海洋民で、王権のシンボルである前方後円墳や竪穴式石室も伝えた」と解説した。

 また、卑弥呼が即位した2世紀末には天候不順が続き、農産物の種や高度な農業技術を掌握していた阿波勢力が力を持ったとした上で、
桜井市の箸墓(はしはか)古墳の被葬者とされ、三輪山の大物主神の妻となるヤマトトトビモモソヒメの伝承が、四国東部に集中する事実を示し、「モモソヒメは東四国出身で、卑弥呼と同一人物」と推定した。


※参考サイト

阿波歴史民族研究会
http://www3.tcn.ne.jp/~aska/
721日本@名無史さん:2010/10/04(月) 22:52:24
>オーバーテクノロジー

オーバーな表現だな。
722日本@名無史さん:2010/10/05(火) 02:00:23
>>718
>こんな中学生でもできる実験で、

・・・もうなんと言うか中身の無い、何の批判にもなっていない
単なる「ケチつけ」とか「けなし文句」だなw

しかし >>707-708を読んで俺なんかが思うのは
「コストがかかり過ぎなのでは?」と言うことだな。

先ず鉄原料自体タダで入手できたわけでもあるまい。
そこで相当なコストがかかっているはず。

次に「炭」を使って1000度あたりまで持っていっているが
この炭とて作るのにコストがかかっている。

例えば稲の穂先を刈り取るのであればそこら辺の石から石包丁を作ったほうが
余程効率がいいのではないか?

まあこういった再現実験を始めこれから鉄の古代社会に及ぼした影響もかなりシビアに評価されていって
昔のような「鉄資源の確保がヤマト王権の求心力」「鉄器の普及度が先進性のバロメーター」なんて画一的な評価も
なくなっていくんじゃないだろうか?www
723日本@名無史さん:2010/10/05(火) 02:16:33
いや、甲冑を貫ける鉄鏃が、支配の決め手でしょ。
包丁なんてどうでもいい。
724日本@名無史さん:2010/10/05(火) 03:00:14
>>723
無論、殺傷能力があった方がいいが
「支配の決め手」とまで言うのなら厨丸出しwww

と言うかRPGで金がたまったら強力な武器を買って
嬉々としてダンジョンでモンスターの試し斬りに向かうがきの発想と変わらないwww

先ず「勝は大兵にあり」これが鉄則。
それを支えるのは取りも直さず農業と言う事になる。

むしろ金属製の鏃の最大のメリットは一度に同形のものが量産できる点にあるだろう
(プラモデルの”ランナー”の先に同じパーツが何個も並んでついている様を思い浮かべるべし)

725日本@名無史さん:2010/10/05(火) 06:05:06
鉄の農具と木製の農具
どちらのほうが生産性が高いか?って話だけど
そんなも大差がないというのが正しい解釈だよw
実際に、江戸時代の農具なんかも、木製多いでしょうw?

にもかかわらず、歴史学者とか考古学者ってのは
科学的に物事を見れないでしょうw?
なんとなく、「鉄は先進的」という思い込みで
「鉄の普及によって生産性がアップした」と単純に解釈してしまう。

じゃ、どれほど生産性がアップしたのか実験したのか?
数値を割り出したのか?というと、そんなもん殆どやってないでしょう?
726日本@名無史さん:2010/10/05(火) 09:35:32
鉄は大して重要じゃない。
大体倭人伝にも記述が少ないしな。
727日本@名無史さん:2010/10/05(火) 14:35:08
>>719
検証の方法のことであって、鍛冶の方法のことではない。
728日本@名無史さん:2010/10/05(火) 14:37:54
>>725
鉄の鍬、鋤の分布と発達については、
寺沢の著作、論文に詳しく書いてある。
一言で言えば、ヤマトでは古墳時代に徐々に普及したって事。
日常に使ったんでなく、開拓用だろうけど。
729日本@名無史さん:2010/10/05(火) 15:25:57
古墳時代になると確実に畿内大和の鉄器出土量は増えるんだけどな。
それでも鉄は役に立たなかったのか
730日本@名無史さん:2010/10/05(火) 16:38:55
役に立たないなんて言ってるのはお前だけ
731日本@名無史さん:2010/10/05(火) 20:04:00
首狩族に鉄器はつきものだ。
台湾は4世紀に首狩族に占領されて、倭人が近寄れなくなった。
732日本@名無史さん:2010/10/05(火) 20:09:17
なるほど、だから倭人自身が世界最大の首狩族となった
戦国時代まで台湾は日本の歴史に登場しないのだな。
733日本@名無史さん:2010/10/05(火) 20:59:50
>>729
いや役に立たないって話じゃなくて、今までが過大評価されていたって話でw

まあ、その反動で今度は過小評価するのもよろしく無いだろうwww


734日本@名無史さん:2010/10/05(火) 21:59:46
鉄製農具の有無の有効性は土地の地盤、土壌の質によるだろ。有無が全く差が無いというのは極論過ぎw
少なくとも、新たに農地を開墾する場合には差が大きいし、鉄製農具の普及度の差は、開墾可能な範囲の広さの差になるし、また農地以外でも開発可能な土木工事に差が生じる。
マキムクなどの山の辺の道にある扇状地の庄内以降の開発自体が新たな鉄器の普及によるだろ。
ちなみに、農具鉄器化が弥生後期に先んじた北部九州では段丘上の一部の農地化が始まっていた訳で。
また古墳中期における河内の段丘開発(巨大古墳群が先で農地開発が後みたいだが)も鉄器の本格的普及と関係がある。
都出比呂志ぐらい読め。
735日本@名無史さん:2010/10/06(水) 00:39:51
>>734
鉄器が有用とされたのは、新田開発のためだよね、確かに。
比較的後進地域だった東海や畿内で、爆発的な鉄需要が生まれたということ。
それはグローバルな規模の弥生後期の寒冷化が影響している。
昔から言われているように、弥生後期に起こる畿内の石器の減少は、鉄器に代替された結果。
つまりは弥生以来の拠点集落を中心とした経済体制が成り立たなくなり、
定住から移住に転換したことに尽きる。
未開の地を新規に開墾する必要があり、その時に活躍したのが鉄製農具。
736日本@名無史さん:2010/10/06(水) 00:43:27
その寒冷化は4世紀以後で
すでに古墳時代やろ?
737日本@名無史さん:2010/10/06(水) 00:52:06
>>689
いやまあ、世界史に疎い人なんだろうね。
世界中の歴史を見ても、実は都市国家連合から統一国家が生まれるという流れなんだよね。
殷にしろ周にしてもそう。
朝鮮半島を見ても、馬韓から百済、辰韓から新羅など、都市国家連合が4〜5世紀頃に統一国家となった。
三国史記の記述なんて、信じてる人はいない。
記紀至上主義者、未曾有の統一政権とかが卑弥呼の時代にあったとか、まともな思考じゃないよ。
738日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:00:24
>>736
いや違うよ。後漢末の政治的混乱は寒冷化によるもの。
739日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:03:09
百済の統一過程も新羅の統一過程も
平和的な連合によったなんてのは仮説でしかないだろw
それに朝鮮半島と日本とでは状況が違うな
740日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:12:10
>>686
>アテネに対抗するためにペロポネソス同盟ができたり
>なんて例はあるよね。

確かに外圧が高まると、人々は中央集権を志向する。
高句麗南下に伴う倭の五王、河内の巨大古墳。
隋唐に対抗するため中央集権を目指した聖徳太子から天智天武の流れ。
明治維新、昭和の軍国主義など。
ヨーロッパの絶対王政〜近代国家の流れもなども、苛烈な植民地争奪戦争が原因だと思う。

逆に外圧が少ないと、地方分権の流れに。
741日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:19:09
絶対王政の段階で既に中央集権だけどな。
742日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:31:18
>>686
>じゃあ当時の東海から北九州にいたる首長連合は何に対抗するため?
>それだけ大規模な連合を作らなければいけない驚異なんてなかっただろう。
>単なる経済的利益のための連合というのは机上の空論だよ。
>分け前で揉めるに決まっている。

うーん、どうなんだろうね。単純過ぎるというか。
商人たちが安定した交易を求めて、権威を希求するという事態は十分にあり得ると思うんだけど。
政治的混乱が経済活動に支障をきたす割合は大きい
王権の重要な役割のひとつに、交易路の安全保障ていうのがあって、
安定した商取引をするには、広範囲に権力を行使し得る権威が必要となる。
権威が無いと、海賊やら山賊が出没して、経済活動が低迷してしまう。
東瀬戸内地域や畿内東海にとって、鉄資源は非常に重要で、尚且つ遠隔地交易でしか入手し得ない貴重な物資だった。
北部九州の政治的混乱やら、瀬戸内海の海賊行為の頻発、各地の首長たちが勝手に通行税を取ったため、
コストパフォーマンスの低下、瀬戸内海航路が機能不全に陥ったのだろう。
結果、日本海航路を牛耳った出雲の台頭を招いている。
743日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:32:15
>>741
意味不明。
そういう意味で書いてるんだけど?w
744日本@名無史さん:2010/10/06(水) 01:40:40
>>739
>百済の統一過程も新羅の統一過程も
>平和的な連合によったなんてのは仮説でしかないだろw

連合だから平和的とか安直だなあ。
政治的抗争の最終は戦争なんだろうけど、その前段階に、もっと複雑な外交戦略、合従連衡が行われるだろうと。

ある種、高地性集落とか防御技術が高まり過ぎて、戦争決着が出来ず、外交で政治的決着を見たというか。

>それに朝鮮半島と日本とでは状況が違うな

いやさ。都市国家を経由せず、突然統一国家が生まれた例を挙げてみてくれよ、と。


745日本@名無史さん:2010/10/06(水) 02:08:20
>>743
なら中央集権化の例示としては不適だったのだろう。
746日本@名無史さん:2010/10/06(水) 02:22:29
>>745
あなたが読み間違えてるだけだろ
747日本@名無史さん:2010/10/06(水) 05:38:33
>>734
じゃあ、ちゃんと科学的に数値を出したのか?
そもそも、その人の本から疑ってみろや。
人文科学系の学問なんてのは、それぞれの学者の
主観に左右されやすいから。
748日本@名無史さん:2010/10/06(水) 06:33:22
>>744
都市国家は誰も否定してないのでは?????w
749日本@名無史さん:2010/10/06(水) 06:42:27
>>744
モンゴル帝国
750日本@名無史さん:2010/10/06(水) 10:57:32
>>735
石器と鉄器じゃ用途が違う。
751日本@名無史さん:2010/10/06(水) 14:52:40
せっかく、卑弥呼の墓が箸墓古墳かもしれないんだから
魏志倭人伝の記述と日本書紀の崇神紀の記述を
比較してみろや。
狗奴国の乱=武埴安彦命の乱だと分るよ。
武埴安彦命の所領は、許乃国(コノ国)で
彼の母方の一族は、河内彦の家系だった。
魏略などによると、狗奴国王は、卑弥弓呼とよばれ
その官は、拘右智卑狗(こうちひこ)だそうだしw

もう、決まりだよ。
西暦240年代は、日本書紀の崇神紀の治世10年までの内容が
ほぼ、どんぴしゃ。
752日本@名無史さん:2010/10/06(水) 21:22:04
>>751
ほぼそれで合ってるだろうな
女王ってのは勘違いか伝言ゲームで
誤って伝わったんだろ
753日本@名無史さん:2010/10/06(水) 21:53:33
>>752
>女王ってのは勘違いか伝言ゲームで
>誤って伝わったんだろ

三国志を読んでいないな。というか、読めないんだろう。
754日本@名無史さん:2010/10/06(水) 23:09:05
この時代なら隣国にその国の事情が正しく伝わることはまずないよね。
755日本@名無史さん:2010/10/07(木) 13:29:51
偉い考古学者の先生とか歴史学者の先生って
なぜ、そんなことに気がつかず、難しく考えてしまうんだろうなw
人文科学系の学問は、素人とプロとの境界線がないといわれる所以だな。
756日本@名無史さん:2010/10/07(木) 16:52:35

■(岡山市)埋蔵文化財センターで初の企画展開幕 墳墓テーマ、出土品200

山陽新聞 10/5
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010100510525347

 岡山市埋蔵文化財センター(中区網浜)による初の本格的企画展「前方後円墳の時代への道」が4日、同センターで始まった。弥生から古墳時代の墳墓を通じて、古代吉備の姿に迫っている。来年3月18日まで。

 弥生時代後期から古墳時代(3世紀半ばごろ?6世紀ごろ)を中心に、市内の出土品など約200点を展示。
吉備の支配者の勢力を示す全国4位の巨大前方後円墳・造山古墳(北区新庄下、墳長約360メートル)から出土した円筒埴輪(はにわ)、
陣場山遺跡(東区瀬戸町旭ケ丘)から見つかり、埴輪職人の墓とされる円筒埴輪棺のほか、遺体とともに墓に納める剣やおのといった副葬品などが並んでいる。

 天瀬遺跡(北区天瀬)から出土した器台土器の一部は初の展示。
 北九州にしか見られない土器の墓「甕(かめ)棺」2点(直径65?70センチ、高さ85?90センチ)も来館者の目を引いている。

 企画展は、2000年4月の開館から10年がたったのを機に開催。造山古墳の存在などを通じて市民にも比較的なじみがある古墳をテーマにした。
 無料。開館は月?土曜の午前9時?午後4時半(祝日、年末年始は閉館)。

・古墳時代の埴輪などが展示された会場
ttp://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/images/2010/10/05/2010100510525347-1.jpg



※岡山市埋蔵文化財センター 企画展『前方後円墳の時代への道』
http://www.city.okayama.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai_00025.html

※同 展示パンフレット(PDFファイル8ページ)
http://www.city.okayama.jp/contents/000070295.pdf
757日本@名無史さん:2010/10/07(木) 17:47:12
鉄器は貴重品という意味もあるが、
従来の弥生式の小規模の水田稲作ではさほど必要のないもの。
古墳時代が始める前くらいから、大規模潅漑施設が可能になって、
農具でも鉄器が増えるとともに、
大きな争いが生じて、武器としての鉄器が必要となってきた。
巻向遺跡は権力をヤマトで確立したヤマト王権が、
都といってもいいほどのものを造営したところ。

758日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:04:48
でも、絶対量としては明らかに農具だよ
759日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:06:46
鉄の重要性は武器や農具としての性能だけではない。工具(切る、削る)としての性能が特に重要であった筈だ。
木製の道具が多く使われていれば、それらの製造のための工具が必要だったのだ。
760日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:10:55
規模よりも、低湿地→扇状地の違い。
これは出土地の比較から。
それから鋤は多いが、鍬が少ない。
寺沢「王権誕生」より。
761日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:14:53
>>758
寺沢は大規模土木用だと。
理由は鍬が少ないからだと。
事実かどうかはしらんが、
具体的な根拠に基づいて書いてる。
実際、あまり田畑はないしな。
762日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:15:44
前に誰か張ってたのをはらせていただきます

http://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/book/noji-kaken/chap_05.pdf

これの93ページ、図5.5が直感的に分かりやすいのではないかと思う。
2本の棒グラフが並んでいるうちの、左が農工具、右が武器
さらに同じ高さでも農工具のほうが5倍多い。
763日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:26:19
ちなみに古墳時代になると大和の鉄の出土量が圧倒的になる
764日本@名無史さん:2010/10/08(金) 00:08:58
なんか、ここのスレ、劣化していないか?
765日本@名無史さん:2010/10/08(金) 00:15:51
九州説が入ってきたから
766日本@名無史さん:2010/10/08(金) 01:16:41
しかし鉄の問題は面白い。
もっとも自分みたいな人間には難問過ぎるんだがそれも含めて面白いwwww

このスレ的には
「果たして”鉄”は纏向勃興のキーアイテムたりうるか?」って事なんだろうが…

>>762のpdfを見て
「鉄が潤沢に出回っていた北部九州や日本海側と違って瀬戸内そこから更に東日本にとって
 希少な鉄を効率良く流通させる為に交易網の充実が促進されてのではないか?」
とも思った。

鉄の流入が纏向や交易網を作り上げたのじゃなくて
鉄の不足がそれを作ったとか?www
767日本@名無史さん:2010/10/08(金) 08:50:36
鉄輸入の玄関口である九州が、弥生時代には優位に立ち
山陰で製鉄が開始されると出雲が優位になる。
そして、山陰を握った畿内大和が優位に立つ。

なんてシナリオ書いてしまうと
鉄が非常に重要と言うことになってしまうな。
768日本@名無史さん:2010/10/08(金) 09:57:44
>>767
そういう状況があったかどうかも分らん。

ちなみに、記紀とか読んだら
北九州が日本の中心になったことなど、一度も書かれていない。
にもかかわらず、北九州にこだわるアホがいいる。
筑紫の語源は分らんけど、ツクシって、尽くすから来ているだろう?
そんなことが、日本の中心のわけがない。
769日本@名無史さん:2010/10/08(金) 17:48:17
>>768
「尽くす」をどういう意味に捉えているの?
筑後国風土記逸文は読んだことある?
770日本@名無史さん:2010/10/08(金) 18:52:15
>>769
なんと書いてあるのか?
771日本@名無史さん:2010/10/08(金) 23:33:20
>>770
スレ違いだからどこか誘導してくれ。
誘導してくれたら書く。
772日本@名無史さん:2010/10/09(土) 02:16:27
>767
古墳時代前期中頃まではヤマトは山陰を牛耳っていないよ。山陰はその頃、方墳の世界で前方後円墳を受け付けない。
古志本郷遺跡に半島系土器があり、西新町はじめ博多湾岸、壱岐、金官加耶のルートに山陰系土器が出る。独自の交易ルートがあるということだ。
筑紫が列島の中心って、弥生後期まではそうだろ?
神話の高天原の記述は、特定場所ではないが、実質的に筑紫を指すとみるのが素直。それが「邪馬台国」とは思わんが
773日本@名無史さん:2010/10/09(土) 04:57:16
>>772
山陰はスサノオ派遣後、一時的に発展しただけで、それ以前は大した事無い。
774日本@名無史さん:2010/10/09(土) 08:28:23
それいつだよ?
考古学的に説明しろって、
スサノオ派遣とか、神話の細かいとこも史実と思っているの?
スレ違いだなw
775日本@名無史さん:2010/10/09(土) 14:56:30
橋墓古墳の年代が人というより立場によって微妙に食い違うのが問題。
卑弥呼畿内説がその時代に近く置きたいというのは、
露骨すぎるが、
早く定説になる年代が確立しないと、
崇神天皇の時代が策定できない。
776日本@名無史さん:2010/10/09(土) 15:17:42

■纏向遺跡第168次調査現地説明会資料(PDF)  UP!

http://www.city.sakurai.nara.jp/422302172.pdf
桜井市ホームページ
777日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:08:40
卑弥呼と同じ時代に合わせようとさえしなければ
それほど難しい問題ではないのでは
778日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:13:34
>>777
卑弥呼と同じ時代になるのは何とか阻止したいんですね、わかります。

つうかそもそも年代がピッタリ重なったからって
箸墓が卑弥呼の墓なんて証拠どうせ出てこねえよw
779日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:50:46

1.魏志倭人伝には邪馬【壹】国と書いてあるのに邪馬【台】国と書き換えることで大和(ヤマト)を連想させる(台≠壹=壱)。
2.卑弥呼=神功皇后 と置き換える。
3.倭を大和(ヤマト)と読ませる。

この3つの作業によって、かつて北九州にあり、(中国皇帝の冊封を受けた)列島を代表する王権であった倭国筑紫王朝とその前身である邪馬台国の存在を抹消し、神代の時代から大和(ヤマト)王権のみが列島に存在した唯一の王権であったと思わせる記紀の意図を、
解りやすく解説しているこちらのホームページをハッケソ!
隋の煬帝に「日出処天子…」と書いた倭王・阿毎(あめ)多利思北孤(たりしほこ)≠聖徳太子 であることや、
倭国の皇位継承戦争に乗じて征服しようとした大和の継体大王についても書いてあるYO!

http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/prologu0.htm
780日本@名無史さん:2010/10/09(土) 21:06:31
そもそも魏志倭人伝に書かれてるような卑弥呼が実在してたかどうかさえ分からんね
781日本@名無史さん:2010/10/09(土) 22:22:29
鉄の問題については、
また鉄が出てこなかったなというのが正直な気持ち。> 桃の穴
纏向では鉄は特別な存在ではないのではないか?
782日本@名無史さん:2010/10/10(日) 07:34:05
大坂府南河内郡の近つ飛鳥博物館では、現在「鉄とヤマト王権〜邪馬台国から百舌鳥古市古墳群の時代へ〜」の秋の特別展を開催中!
http://chikatsu.mediajoy.com/event/tenji/2010/autumn/index.html

【王権=鉄】の古墳時代の幕開け、纏向遺跡をすっ飛ばして、いきなり百舌鳥古市古墳群!(大爆笑!)
783日本@名無史さん:2010/10/10(日) 07:51:32
いきなり2世紀から5世紀までJumpしちゃうんですか〜
784日本@名無史さん:2010/10/10(日) 08:57:31
>>782

巻向遺跡=邪馬台国(箸墓=卑弥呼の墓)

という大嘘をマスコミを通じて繰り返し連呼することで記紀神話(虚妄の書)を援護射撃し、
→(記紀神話によってのみ正統性が担保されている)権力者(天皇家=宮内庁&文部科学省)に媚を売り、
→考古学生の就職先確保と紫綬褒章ゲットしか頭にない館長の、浅はかな老人Jump!

大阪府の橋本知事、こんな税金食い潰しの歴史歪曲博物館なんかバッサリやっちゃってください!
785日本@名無史さん:2010/10/10(日) 09:02:02
>>779
もう、そのサイトの言い分は突っ込みどころ満載。
786日本@名無史さん:2010/10/10(日) 09:07:24
ペンタクロス古代史で御馴染みの古代史研究家・清水守民氏も基本的に>>779を踏襲しているよね?
「九州が本家で大和が分家」っていう点でゎ。
787日本@名無史さん:2010/10/10(日) 09:13:34
>>786
カルト歴史家だろうw?それ。
日本がユダヤがなんたらとかいう
トンデモ在野歴史家。
788日本@名無史さん:2010/10/10(日) 09:22:55
皇室の秘密なんて、神代系図・皇室系図をみれば一目瞭然だよ。

皇室の最初の先祖は、実質的に天忍穂耳命から始まっている。
その天忍穂耳命の跡目を継承をしたのは誰か?って話だよ。

古事記などでは、次男のニニギ命がメインで書かれている。
つまり、神武皇統の系譜につながる人物中心に書かれている。
だから、天忍穂耳命の跡目を継承したのは、ニニギ命かな?と錯覚を超す。

でも、ニニギ命ってのは、出雲国譲りの後、九州高千穂へ降臨するのだ。
この出雲、日向という土地観からいって、不自然だろう?

どうみても、天忍穂耳命の跡目を継承したのは、長男の天火明命だ。
この天火明命は通称、天照国照彦といって、天津と国津の両方の支配者って意味だ。
つまり、出雲国譲りで、天津と国津の全てを支配したのは、この天火明命。

その痕跡は、播磨国風土記や旧事本紀に残されていて。
出雲国譲りとは、出雲の大国主が、娘婿(義理の息子)の火明命に
禅譲した話であることが分る。
播磨は、地政学的に、近畿地方と中国地方の緩衝地帯だから、
出雲国譲りの戦いの痕跡が、播磨に残っていたわけだ。
789日本@名無史さん:2010/10/10(日) 09:31:17
>>787
清水氏のペンタクロス古代都市計画仮説ブログには説得力があるよ。たぶんあんたなら理解できるだろう。
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/

日本の古代都市はすべて星型に設計されているんだって。前方後円墳は陰陽五行説の立体模型なんだとか。
因みに箸墓は河内大和の、大仏は鎌倉の縮尺模型になっているんだって。

ただ専門家向けにすごく勿体ぶった言い方してるから全く浸透しないってだけ。
790日本@名無史さん:2010/10/10(日) 11:20:00
>>775 >>777

倭人伝と日本書紀、それに巻向の考古年代は整合性が取れるという考え方はすでにあります。

倭人伝の卑弥呼の実存年代の推定
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-1_5.html#1-5-50
日本書紀の「帝記」の部分によるによる年代の整理
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-2_1.html
巻向宮殿の主は誰かについての推察
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-3_1.html
791日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:06:55
>>788の意見が
一番、説得があるがな...
792日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:12:57
ひどい自演を見た
793日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:14:28
けっこう、みんなアホやな。
いちいち図解してやらんと分らないもんやろ。
でも、まあ、別にいいけどw
794日本@名無史さん:2010/10/10(日) 19:29:56
>>790
2番目の日本書紀の年代の整理ってのおもしろいけど
成務天皇のところが強引すぎじゃね?

卑弥呼を倭迹迹日百襲姫にしたいがためと思われても仕方がない
795日本@名無史さん:2010/10/10(日) 20:41:02
>>794
>成務天皇のところが強引すぎじゃね?

と、言われましても この人はものすごく影が薄いわけで、
旧辞に相当する各年記事もほとんどなく、景行の在位46年、 成務の在位48年、
たった二世代で93年にも及ぶ治世期間はいかにも不自然です。
でも、神社の縁起などでは 成務の時代とか言うのもあったりするのですが
正直なところこの人についてははよくわかりません。

>卑弥呼を倭迹迹日百襲姫にしたいがためと思われても仕方がない

別に隠しているわけではないので、遠慮なくしたいがためと思って下さい。
796日本@名無史さん:2010/10/10(日) 20:46:58
本人かw

でももう少し根拠がほしいな
他がおもしろいから余計にその部分が気になる
797日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:21:21
>>796
成務の在位期間を割り出す手段としては、同時期の武内宿禰の年齢を推定し、
それを参考にして割り出す方法が残っていますが。めんどくさいのでまだやっていません。
そのうち取り組んでみます。
・・・・・・変な暦法をこねくり回すのだけは絶対にやりたくない。
798日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:35:39

■古代の道 最新研究

読売新聞 2010年10月10日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20101010-OYT8T00061.htm

 ◆田原本で出土品100点展示

 古代の交通網にスポットをあてた秋季企画展「道の考古学」が9日、田原本町阪手の唐古・鍵考古学ミュージアムで始まった。
町内を中心とした12遺跡の出土遺物約100点から、古代の道路の実態に迫る。11月28日まで。

 町内には古代、「下(しも)ツ道」など南北に延びる幹線道路や、聖徳太子が斑鳩から飛鳥まで通ったという伝承がある「筋違(すじかい)道」が通っていた。
また、近年の保津・宮古遺跡の調査から、名称が記録にない重要な道路があったことがわかり、「保津・阪手道」という遺跡名が付けられた。

 展示には、保津・阪手道で出土した人面墨書土器や藤原京跡の下ツ道の調査で出土した祭祀(さいし)遺物などが並ぶ。

 町教委文化財保存課の清水琢哉調査係長は「奈良盆地中央部の実態はよくわかっていなかったが、徐々に明らかになりつつある。最新の調査・研究成果を見てほしい」と話している。

 月曜休館(今月11日は開館、12日休館)。開館時間は午前9時〜午後5時(入館は4時半まで)。観覧料は一般200円、高校・大学生100円。

・古代の道路にかかわる遺物が並ぶ秋季企画展(田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムで)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20101010-029294-1-N.jpg


※唐古・鍵考古学ミュージアム 秋季企画展「道の考古学」
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/event.html
799日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:45:43

◆特別展「昭和を駆けた考古学者 原田大六」が開幕

西日本新聞 2010年10月10日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/202662

 古代「伊都国」の王墓とみられる平原遺跡を発掘した在野の考古学者・原田大六氏をしのぶ特別展「昭和を駆けた考古学者 原田大六」(福岡県糸島市教委・西日本新聞社主催)が9日、同県糸島市の伊都国歴史博物館で開幕した。11月23日まで。

 ベストセラー「邪馬台国論争」などの著書で大学アカデミズムに挑戦状をたたきつけ、激しい気性から「ケンカ大六」の異名をとった原田氏(1917−85)の没後25年を機に、ゆかりの資料を公開する初の企画展。

 原田氏が発掘した糸島の支石墓群や沖ノ島(福岡県宗像市)関係の調査記録資料や国宝の大鏡など平原遺跡の出土品など計約300点を展示している。
開幕式に出席した妻イトノさん(85)は「発掘を通し人々の生きざま、魂を追求した姿を理解してもらいたい」と話した。入館料は大人300円、小中高生200円。


※伊都国歴史博物館 講座・イベント情報
http://www.city.itoshima.lg.jp/soshiki/33/hakubutsukan.html
800日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:55:59

■九州説、畿内説で激論 邪馬台国めぐりフォーラム

佐賀新聞 2010年10月10日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1742487.article.html

 古代史最大の謎とされる邪馬台国のありかを探るフォーラムが10日、佐賀県神埼市郡の吉野ケ里歴史公園であった。
畿内説を補強する新たな発見が相次ぐ奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘担当者を招き、九州説と畿内説の研究者が、当時のクニの形や国際性などをめぐり、講演やパネル討議で議論を闘わせた。
最後にコーディネーターが九州と畿内のどちらの立場を取るかを会場の約350人に問いかけると、九州説に大きな拍手が寄せられた。

 纒向遺跡からは「卑弥呼の宮殿」とされる大規模な建物跡や、祭祀(さいし)用とみられる2千個以上のモモの種や竹製のかごが見つかったばかり。
パネル討議で、発掘している桜井市立埋蔵文化財センターの橋本輝彦係長が
 「発掘エリアはまだ一部に過ぎないが、魏志倭人伝に描かれている楼館や城柵があるという姿に徐々に近づいている」
と現状を報告した。

 対する九州説の佐賀県社会教育・文化財課の七田忠昭参事は
 「吉野ケ里は祭祀性が高い北内郭と、身分の高い人たちが住む南内郭の二つの構造を持つ。倭人伝に描かれた姿を最も見せてくれている」
と強調した。
静岡大の原秀三郎名誉教授は、古事記や日本書紀の記述を踏まえた上で
 「当時は邪馬台国があった九州と、大和王権の近畿と、二つの“ヤマト”があった」
と持論を展開し、
「邪馬台国は有明海周辺で、福岡県旧山門郡(現・みやま市)」
とした。

 パネル討議には、畿内説を取る兵庫県立考古学博物館の石野博信館長や、九州説の奈良芸術短期大の玉城一枝講師、作家の中山千夏さんらも登壇した。
佐賀女子短大の高島忠平理事長がコーディネーターを務め、当時のクニの成立状況や、交易の豊かさ、卑弥呼の墓など五つの観点から議論した。

写真
http://www.saga-s.co.jp/var/rev1/0124/4676/SP2010101099000023.-.-.CI0002.jpg
801日本@名無史さん:2010/10/10(日) 22:40:11
しかし、スレをみていて不思議なのは
魏志倭人伝と卑弥呼に振り回されておるのう。
日本の歴史を語る時、なぜ中国の歴史を前提にしてしまうのだろう。
魏志倭人伝と卑弥呼は、中国の書いたものであって必ずしも正しいとはかぎらんだろう。
哲学者ヘーゲルの歴史哲学でも読んでみたら。
802日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:06:07
>魏志倭人伝と卑弥呼は、中国の書いたものであって必ずしも正しいとはかぎらんだろう。

それはそうだが、全て間違いだともかぎらんだろう。
803日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:39:08
>>801
本来このスレは、邪馬台国も魏志倭人伝も記紀も論じないところなのに
それすら守らずに書き込むという、ある意味空気が読めない人が倭人伝ネタを撒き散らしているんだよ。
そういう痛い人が主張する考えだから、トンデモばかりになるというのもまた必然だね。
804日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:44:33
>>803
まあそうだけど、倭人伝厨のみならず記紀厨もまた同じように厄介な存在。考古学的な知見で語るのが
こちらとしては一番いいのだが、それは板違いでもある。しかし、超過疎の考古学板でやるのもつまらない
ということで、これは大いなるジレンマだな。ww
805日本@名無史さん:2010/10/11(月) 03:55:52
>>801
西尾幹二かよw?
あういう似非右翼(もともとは左翼)の発言には興味ない。
806日本@名無史さん:2010/10/11(月) 06:22:28
1~7世紀の日本史は、この50年ほどの間の考古学の発掘資料で
中国・朝鮮半島文化導入史観の学説が次々と崩壊しているようだが、
そろそろ学者らも気付いて良い頃だろう。

しかし、日本から文化が伝わったとは考えないのが不思議である。
将来的には、考古学の発掘ににより検証されると思われるが。
日本の縄文時代は、あなどれないぞ。

807日本@名無史さん:2010/10/11(月) 15:12:12
と言うか日本の土器はトンデモレベルに古いからなあ…

808日本@名無史さん:2010/10/11(月) 15:20:42
夏島の旧海軍滑走路跡か
あれしか無いのが寂しい
809日本@名無史さん:2010/10/11(月) 16:15:33
googleマップが、最近巻き向くあたりが鮮明になったな。
810日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:57:41
吉野ヶ里から(モバイルでgoogleマップを使えば巻向=)邪馬台国が見える(笑)
811日本@名無史さん:2010/10/11(月) 18:59:35
桜井市に寄付でもして、発掘調査をしてもらわな。
ただ、中心地は、古い集落が固まってる辺りなきがするな。
812日本@名無史さん:2010/10/12(火) 00:13:14
桜井市という地名でも明らかなように、このあたりは木花之佐久夜毘売の支配地だったことがうかがえます。
古代富士王朝は、畿内までの広い範囲を支配していたのではないだろうか?
そして、畿内をニニギの勢力に譲って諏訪に移り住んだという記事だけが残されたのだ。

それは、記紀が富士山の存在を意図的に無視していることからも逆説的にわかることです。
813日本@名無史さん:2010/10/12(火) 16:43:51
地図で地形を確認したら分ると思うが

ヤマト盆地の西南部(御所市周辺)が、高尾張(葛城)といわれていた地域であり
ヤマト盆地の東南部(桜井市周辺)が、山処(大和)といわれていた地域。
近畿王権は、やや上流部の高尾張で誕生し
やがて、経済性を重視して、やや下流部の山処に引っ越ししたのが分る。
この引っ越しの過程で、倭国大乱が起こったのであろう。

高尾張(葛城)地方で崇拝の対象になっていたのは
その西南部に広がる高天山(現在の金剛山)で
山処(大和)地方で崇拝の対象になっていたのは
その東南部に広がる三巻山(三輪山)。

このへんの地理観を持つのが重要。

ちなみに、近畿王権が高尾張を本拠にしていた時代は、
ちょうど、神代系図・皇室系図でいうところの
天火明命・ニニギ命(出雲国譲り時代)
〜天叢雲命・若御毛沼命(神武東征時代)
〜欠史八代中ごろ

このあたりの時代が、高尾張時代。
814日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:26:24
スレチ承知なんですが、悪しからず……。


■英国に蔵書寄贈「待った」 考古学協会、16日再協議

朝日新聞 2010年10月11日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201010110075.html

 国内有数の考古学の専門書群5万6千冊余りの行き先が問題になっている。所蔵する日本考古学協会が受け入れ先を公募し、英国の研究所に寄贈が決まった。
それに一部の会員が反発、16日に協会としての対応をあらためて協議することに。騒動には、蔵書を持て余し活用できなかったという長年の経緯もからんでいる。

 ◆預け先転々 長年活用できず

 「学問の責務についての自覚を決定的に欠いている」「協会蔵書は、理事会の私物ではない」「信じがたい愚行」……。協会の有志が7月に発表した意見書には、強い表現が連なる。
9月9日には、海外への蔵書寄贈に反対する会員489人の署名を提出。定款を満たすため、協会は10月16日に臨時総会を開き、寄贈先について再び話し合うことを決めた。

 有志の一人、松本富雄・埼玉県三芳町立歴史民俗資料館長は「戦後日本の成長期の開発のなかで、考古学がどう歩んできたのかを知る記録が集約されている」と指摘する。

 蔵書は、1948年の協会発足以来、全国の会員や自治体が寄贈してきた遺跡の発掘調査報告書や考古学関係の図書。なかでも、在野の研究者らによる地域の同人誌が多いのが特色だ。
一般にあまり出回らず、公的な学術誌とは異なる独自の研究成果を静かに世に問うてきた。松本さんらは「分野にとらわれない一大アーカイブは他にない」と主張する。

 対する協会理事の石川日出志・明治大学教授は「こういう結論しか出せなかったのは情けないが現実」と語る。

 実は、蔵書の保存と活用の問題は、以前からあった。

 70年代には国立考古学博物館を建設してアーカイブ機能を持たせる構想が浮上、一方では「協会自前の図書館を」との声もあがったが、いずれも立ち消えに。図書の預け先も、東京近郊を転々とし、現在は埼玉県所沢市の倉庫に保管されている。
(つづく)
815日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:27:37
(蔵書寄贈問題つづき)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201010110075_01.html

 そもそも、協会の蔵書はほとんど活用されてこなかった。長年の寄託先の市川考古博物館(千葉県市川市)では近年、蔵書の利用者が年に数人だったという。
この10年間に寄贈された本は、所沢市の倉庫の段ボール箱に眠ったまま。蔵書の目録の多くもデータベース化されていない。

 そんな中、保管費だけは年間100万円余りとかさむため、協会の理事会は一括での寄贈を検討。昨年8月から受け入れ先を募った。
国内外の大学や博物館などから6件の問い合わせがあったが、結局、応募したのは英国のセインズベリー日本芸術研究所のみだった。
大英博物館のほか、九州大、立命館大などと協力関係にある実績を評価し、協会は今年3月、寄贈の覚書を交わした。

 同研究所は、目録を作成したうえで蔵書を英国へ運ぶ計画だ。インターネット上での目録の公開、日本への蔵書の貸し出しなどを協会と検討しているという。
将来は中身のデジタル配信も想定され、石川さんは「海外に日本考古学の拠点ができる」と期待する。

 一方、寄贈を心配する松本さんは「海外流出など想定外だ。国内に残すことに意味がある」と憤る。
ある会員はこうぼやく。「国内の機関で受け手がないという現実に、日本の底の浅さを感じる」(新谷祐一)


・倉庫に棚積みされた、日本考古学協会の蔵書=2月、埼玉県所沢市、同協会提供
http://www.asahi.com/culture/news_culture/images/TKY201010110073.jpg
816日本@名無史さん:2010/10/12(火) 19:11:24
>>814-815
関連ページ

2010年6月6日
 日本考古学協会蔵書の海外放出に反対する(声明)
  考古学協会蔵書の海外放出に反対する有志
2010年6月25日
 「日本考古学協会蔵書の海外放出に反対する」署名簿の提出について
  考古学協会蔵書の海外放出に反対する有志
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/proceedings/shomeiteishutsu.htm

2010年7月13日
 日本考古学協会所蔵図書の一括寄贈について
  一般社団法人日本考古学協会理事会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/proceedings/kizonitsuite.htm

2010年7月30日
 日本考古学協会理事会見解に対する私たちの意見
  日本考古学協会蔵書の海外放出に反対する有志
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/proceedings/kenkainitaisuruiken.htm

以上、日本考古学協会サイトから
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jaa2/index.htm


2ちゃんねる学問・文系 考古学板から

考古学協会蔵書問題
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1286321464/
817日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:17:01

■最大・最古級の未盗掘「粘土槨」 相当の副葬品か 兵庫

朝日新聞 2010年10月12日
http://www.asahi.com/culture/update/1012/OSK201010120070.html
  
 兵庫県宝塚市の前方後円墳「長尾山古墳」で、木棺を包んで保護する国内最大で最古級の「粘土槨」が見つかり、同市教育委員会と大阪大考古学研究室が12日、発表した。
周辺から出土した埴輪の形から古墳時代前期前半の4世紀初めの墳墓とみられている。粘土槨の中には木棺のほか、貴重な副葬品が入っている可能性が高いという。

 粘土槨は高さ1メートル以上、幅2.7メートル、長さ6.7メートルのかまぼこ状。後円部の墳頂に深さ2メートル以上、幅5メートル、長さ9メートルの竪穴を掘り、礫(れき)を敷いた上に築かれていた。
造られた当時の形をほぼ保っており、この時代の粘土槨がほぼ完全な状態で確認されたのは初めてとされる。

 長尾山古墳は全長約40メートルという規模から、大和王権と同盟関係にあった地域首長の墓とみられている。
盗掘しようとした跡はあるが、穴は木棺まで達せず、棺内には鏡や刀剣、甲冑、勾玉などが残っている可能性が高い。
木棺内部の調査については、多額の費用がかかるほか、開封すると内部の腐食が進む恐れもあり、方針は決まっていない。

 粘土槨がある同時代の古墳としては、奈良県御所市の鴨都波(かもつば)1号墳(方墳)などがある。
鴨都波1号墳からは古代中国の王朝・魏から邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとの説がある「三角縁神獣鏡」などが見つかっている。

◇粘土槨
 墓穴内に納められた木棺を覆い、保護するための粘土の層。棺の大きさによって規模が変わる。古墳時代前期(3〜4世紀)に特徴的な埋葬方法で、造るのが大変な石室のある墓の方がより権力のある人物の墓とされている。

・長尾山古墳の粘土槨
http://www.asahicom.jp/culture/update/1012/images/OSK201010120071.jpg
・長尾山古墳(波線部分)
http://www.asahicom.jp/culture/update/1012/images/OSK201010120104.jpg
・長尾山古墳内部のイメージ
http://www.asahi.com/culture/update/1012/images/OSK201010120100.jpg
・地図
http://www.asahi.com/culture/update/1012/images/OSK201010120093.jpg
818日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:45:12

ニュー速+板でやってます。
ただいま6スレ目。


【考古学】邪馬台国はどこにあったのか?★6
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1286884673/
819日本@名無史さん:2010/10/13(水) 17:46:58
箸墓古墳の年代を卑弥呼の時代におく科学的な根拠はない、
とかなりの学者が指摘しているのに、
まっとうな反論のない「歴研」は、
事業仕分けの対照にしなければいけないようだ。
820日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:03:19
この板には人間仕分けの対象者がいるな。仕事もなく昼カキコしてるやつは皆当てはまる。
821日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:03:50
>>819
そんなこといったら、いかなる説にも
ほぼ科学的な根拠はないからね。
822日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:05:35

ニュー速+板でち。7スレ目タッタヨー。(◎ο◎;) 


【考古学】邪馬台国はどこにあったのか?★7
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1286964478/
823日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:49:49
箸墓が三世紀半ばであっても別におかしくはない、ってのが大半の考古学者の意見でしょう。 <br> その決定打はないというだけで。絶対年代ではなく相対年代で語たりたがるのも、結局は理化学年代にまだ信を置かず、中立的立場ということ。白石とかが異常なだけで。
824日本@名無史さん:2010/10/13(水) 23:34:59
<BR>とか、使えない改行入れるのはやめてくれる?
825日本@名無史さん:2010/10/15(金) 02:38:12
>>813
なんの上流・下流なんだろ
御所から桜井に向かって流れてる川なんかあったかな?
826日本@名無史さん:2010/10/15(金) 17:38:26
>>825
葛城川
827唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/15(金) 17:55:14
>箸墓が三世紀半ばであっても別におかしくはない

現在の箸墓をモモソ媛とするからおかしくなる。
崇神時代には、石塚さえ造られていない、鉄を持たない時代の最後が崇神である。
828唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/15(金) 18:03:42
巻向の巨大墳墓は、何時から作られたか?
勝山、矢塚、石塚、ほけの山と続く。
ホツマは云う、 
ホ37150 ヰニシミコ ヰモトにいわく ワレおひぬ ミタカラもれよ オナカヒメ 
いなみていわく タヲヤメの ホコラたかくて またいわく たかければこそ
わがつくる カミのホコラも カケハシの まゝとうたえば

五十瓊敷命 妹に曰く 吾老いぬ 御宝盛れよ 大中姫 忌なみて曰く タオヤメの
ホコラ高くて また曰く 高ければこそ 吾が作る 神の祠も カケハシの まま

つまり 五十瓊敷は、「カケハシの まま」=モモソ媛と同じでよいと妹に伝える。
鉄の流入は、垂仁元年以降である。古墳の作られるのも、この鉄器流入からである。
とすれば つまり
石塚これが石を使わない石塚であれば、石塚=イニシ塚=五十瓊敷命。
萱原(カヤハラ)=茅原(チガヤ)の齟齬と捉えれば、ホケノ山が垂仁となる。
ホケノ山には、殉死した田島守も許可を得て葬られる。
モモソ媛は大物主の妻、であれば墓は、出雲の石張り方墳でもよい。なぜなら凶作と
餓死、逃散から数年後の築造である、鉄器流入前の人海戦術では、箸中山古墳は作れない。


垂仁239年崩御 ほけの山古墳
景行261年崩御 箸中山古墳 最初の大王
政務265年崩御 西殿塚古墳 このオオヤマト古墳群は、
ホケノ山古墳直後から、 西殿塚古墳をはさみ、柳本行燈山古墳と時を同じくして
古墳は作られなくなる。時代は274年の神功渡海、渡海派と残留組の内戦が俎上
にあがる。磐余稚桜宮は、磐余茶臼山、メスリ山古墳の時代と重なる。
これから69年後は、佐紀盾列と仁徳31年が同じ年代になる。
佐紀宝来山、河内津堂城山又は、佐紀市庭、河内仲ツ山と二つの時代が考えられる。
829日本@名無史さん:2010/10/15(金) 18:31:59
830太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/16(土) 09:26:24
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜と口撃していた男が、偽書と
いわれる書物を持ち出した〜〜。

 垂仁崩御≠239年
831唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 10:28:38
>ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜〜と口撃していた男が、

太国は、大成経の記事を勝手に移す。これが可能なのは、お飾りの記事であるからだ。

崇神6年 請罪神祇。
これを紀年して「景初3年」鏡を作る。

五年。國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕■。請罪神祇。
崇神は、罪神に何を祈ったか?
罪神に祈る前何があったか?國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。百姓流離。或有背叛。この様な
出来事があった、その勢いは「徳治」正しい政治を以てしても抑えられなかった。
そこで罪神に祈る。
崇神には何の罪もない、しかし天災は向こうから勝手にやって来て、民を苦しめ、かつ命を奪う。
これを記念して「景初3年」鏡を作る。
そして、方々に配る。鏡を頂戴した臣は、この天災をくぐり抜けて生き延びた臣かその子孫である。
“百姓流離”から“國内多疾疫”を推定すれば“疾疫”は“餓えの病”とその元“穀物が実らない
病”であろう。この出来事を記念するとは、飢餓の中で生き抜く、
つまり、餓死した人肉をも喰らう、こうして生き抜いた臣は、「景初3年」鏡を墓に副葬する。

太国が主張する日神△鏡の真実だ。
832日本@名無史さん:2010/10/16(土) 12:07:26
『江戸』も『上野』も『アイヌ』も語源は倭奴だった

という説に賛成です。
犬養死すとも倭奴は死せず!
833唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/16(土) 17:39:02
纒向遺跡の歴史
●2世紀末 各地から土器が持ち込まれる。
鉄のない纒向遺跡。
●3世紀前期より、纒向古墳群 勝山、矢塚、石塚、ホケノ山と続く。
鉄器が無ければ作れない。
●3世紀前期の建物を壊し、盛り土をして、3世紀中期の建物。
大王の世代交代。
●3世紀中期より オオヤマト古墳群が出現。しばらくして纒向古墳群に箸墓が作られる。
全国の古墳の時代的目安であり、且つ墳形である。箸墓は全国を統一した大王で有る。
箸墓は3世紀中期の建物の終焉をあらわす。
●纒向遺跡は、箸墓をもってピークに達し、衰退に向かう。
この後の大王の王宮が無い。
●箸墓直後に、オオヤマト古墳群に西殿塚古墳が築かれる。
●3世紀後期 オオヤマト古墳群は柳本行燈山古墳と時を同じくして古墳は作られなくなる。
大王家とそれを支えたオオヤマトが突然姿を消す。
しかし最後の咆吼、柳本渋谷向山古墳で終わる。宮も群臣の墓も無い。

箸墓をモモソ姫とした場合、崇神の墳墓から垂仁、景行の王宮、墳墓を特定出来ない。
これでは「書紀はねつ造記事」としか云いようが無い。考古学を否定するより、箸墓は
モモソ姫の墳墓ではない、と此方を否定したほうが歴史と整合性を得られる。

石塚=イニシ塚=五十瓊敷命。
ホケノ山=おう家の山=垂仁、239年崩御。
箸墓≠箸陵=景行、261年崩御。
西殿塚古墳=成務、265年崩御。△鏡、黄旛の柳本黒塚とほぼ同時代。
纒向遺跡は、274年神功渡海後の確執で終焉を迎える。
834日本@名無史さん:2010/10/16(土) 23:23:59
>>833
その整合性を語るには、記紀の捏造の動機を考えないとね。
835唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/17(日) 10:27:45
>その整合性を語るには、記紀の捏造の動機を考えないとね。

書紀の編年にねつ造は無い、ただ太陰暦に空白の太陰暦を差し込んで間延びしているだけ。
これは、当時の暦法である。だから書紀の1年は、太陰暦の1年ではあるが、
全体としては、間延びしている。
そして倭人伝、これは、238年の半島での聞き込み情報から、その年の奴国訪問情報から書かれ
イヨの時代に日本が統一された、”大倭”で話が終わる。
時間軸通りに順番は並んでいるが、どうしてそう動いたか?と云う肝心な部分は書かれていない。
これは、現実の人の動きの記録のみを集めた書物で有るからだ。
だから、この動きを各自が勝手に推理するだけで、正しい歴史時空に合わせていない。
モモソ姫=卑弥呼。この時空に合わせる為の編年が主流であるが、畿内に鉄が流入するのは、崇神
による任那以降である。←書紀は正しく主張している。そして「正朔」も主張している。
だから、書紀の太陰暦を正しい太陰暦に直す必要がある。
方法は簡単だ、太陰暦は19年7閏を1章とするこの”章”の積み重ねである。
であるならば、各天皇紀から、空白年を1章×n回差し引けば正しい太陰暦となる。
例、垂仁治世99年−4章(76年)=23年
成務治世61年−3章(57年)=4年
この年数で書紀をつないでも太陰暦である。
836日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:36:23
鉄器がないと古墳が作れないとか何の根拠もないだろ
インダス文明とか鉄器なかったらしいし
837日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:42:48
マヤ文明なんか金属器自体なかったらしいのに
石造りの遺跡なんかいくらでもある
838日本@名無史さん:2010/10/17(日) 11:10:58
シュメール文明を代表するウルクの遺跡では、ウルク文化の後半期にあたる前3500年ごろ以降、
豊穣神イナンナを祀る聖域エアンナと天空神アヌの神殿基壇が隣り合いながら発達した。
この豊穣神イナンナこそアイヌであり、アイヌの司祭道具の1つであるイナウはシュメールの司祭道具だったことは明白。

http://www.l-stay.jp/admin/letter/image/letter000058.JPG
http://4.bp.blogspot.com/_71OM9lkGuVg/S_MCYZgJCJI/AAAAAAAAV2k/krrYByxkKdI/s1600/k6-144.jpg

839唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/17(日) 11:34:01
>鉄器がないと古墳が作れないとか何の根拠もないだろ

崇神5年 凶作、大量の餓死者
崇神6年 残った民の逃散
崇神10年 箸墓

崇神10年にどれだけの人足を集められるか?
当然農業が優先する。だから農閑期の秋半ばから冬にかけてしか時間は無い。

この年を他の文献で特定すれば、新羅本紀の192,3年か後漢書の193年の冷夏である。
250年±10年辺りには、これ程の凶作を特定出来ない。
840唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/17(日) 11:56:23
これを”書紀の記事はねつ造”とするか”書紀の年代設定の間違い”ととるか?
2者択一である。
”書紀の記事はねつ造”とすれば、”箸墓はモモソ姫”になんの説得力も無い。
”書紀の年代設定の間違い”とすれば、”箸墓はモモソ姫では無い”何れの説をとっても”箸墓はモモソ姫”にならない。
841日本@名無史さん:2010/10/17(日) 11:59:52
祟神はシュメールの王の末裔。
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とは、初めてのシュメール王という意味だ。
842日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:34:21
神武皇統譜でみるのなら、

ワカミケヌ(神武)は、俗世王。
イニエ(崇神)は、モモソ媛命存命中は、俗世王だったが
モモソ媛命死後、俗世王と祭祀王の地位を兼ねるにいたったと思われる。
843日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:37:44
このレスの流れは、老教授が見たら泣くだろうな。
844老教授(代理):2010/10/17(日) 12:56:38
     ____      
   /      \ ( ;;;;(
  /   _ノ ,、ヽ、_\) ;;;;) 
/   ;;;(─)::::::(─/;;/
|    :;:, (__人__) l;;,´|      グスン…
/      ∩ ノ)━・'/     
(  \ / _ノ´. く ,、jーi   
.\  "  /   ト、 ヽソ ⊆) 
  \ /       ( |酒⊂リ
             |_とン
845日本@名無史さん:2010/10/17(日) 13:32:13
やっと老教授の説が受け入れられる時代が来たのですね。
よかったじゃないですか?
846日本@名無史さん:2010/10/17(日) 13:37:20
老教授の説というよりも
考古学での通説を紹介したというものだったからな
せれが世間に認知されたってことじゃね
847日本@名無史さん:2010/10/17(日) 13:40:40
老教授ってなに?
848日本@名無史さん:2010/10/17(日) 14:12:41
>>847

>>1を声を出して読め
849日本@名無史さん:2010/10/17(日) 14:49:21
アラブ首長国連邦は8つの首長国の連合で、その一つがドバイです。
そこに、巨大なバブルが発生し、世界中の金と労働力が結集し、とんでもない建築物ができる。

http://pds.exblog.jp/pds/1/200805%2F18%2F90%2Fe0067990_22184399.jpg?95066b5e0dbf9785e2103fdd3da8320c

それと同じことが古代の日本でも起こっていた。それが、倭国首長国連邦最大の国、邪馬台国なのです。
日本最大のピラミッド山、讃岐富士こそ、世界の中心、卑弥呼の墓だったのだ!

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/09/48309e01d05833f4e8c18bac37083916.jpg

そしてその建設に携わったのは、古代バビロンにあったジッグラト、つまり、バビルの塔を建て、
万里の長城を造り、ドバイタワーの設計も手掛けている日本の大手ゼネコン大成建設や大林組の祖先なのだ。
850日本@名無史さん:2010/10/17(日) 17:56:58
>>839
倭国の天皇記に曰く。韓国より渡来せる崇神天皇とて倭王となれるあり。常にして丑寅にうかがえて、兵を遣して敗るが故に、河内王和珥帝と和睦せんとせるも、和珥帝、元より膽駒王富雄郷之長髓彦系なりせば、春日穂無智別を遣して崇神天皇を討伐せり。
 和珥帝に縁れるは、宇治氏、大津氏、木津氏、春日氏、ありて蘇我郷の崇神天皇と常にして攻防の戦を相争ふたり。
 崇神天皇に加勢せるは、葛城王にて、日向の出なり。故地日向は、筑紫王磐井氏に滅亡さるまま崩滅せる後を猿田氏が地配せり。是また薩陽王、隼人王、併軍押領に屈したり。
 筑紫にては熊襲王、邪馬壹王と併せて奴国王を亡し、茲に立国せり。崇神天皇とは伊裡王の事なり。天皇系にして、景行天皇、倭武、神功皇后、ぞ実在せざるとぞ、天皇記に記述ありき。
   文正丙戌年二月七日
     船史恵尺之流胤 竹内宗達」
851日本@名無史さん:2010/10/17(日) 20:30:16
和田家文書とかあり得ねーw
852日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:01:04
結局祭祀用に使ったと思われるごみ捨て場しか見つからなかったのかね。
生活実態ないって事は、やっぱり「都市」は無理がありそうね。
いくら政教分離してなかったとはいえ。
853日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:06:49
>>852
それは「都市」の概念をどう捉えるかによるもので、下手すればただの言葉遊びに陥る。
ほとんど生活実態がない(と現時点では考えられる)纏向の前に
果たしてそのような集落やら広場やら祭祀場やらが存在したのかのほうが問題になる。
逆に生活実態のない巨大な更地なら、そんな突拍子もないものを何故必要としたのか
過去に類する規模のないものをわざわざ造ったのは何故か、しかも多数の地域から集結して
こちらのほうが邪馬台国がどうしたなどよりも、よほど謎だ
854日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:15:27
>>853
結局>>852のように「都市」と言う語にこだわるのは
都市=大国=邪馬台国 と言う自分達の定義にかかってくるからなんだろう…

もういい加減ウンザリだ。

その遺跡を下支えする人口を擁した集落が近辺にあると考えるのが
実はよほど『穏当』であるわけでw



855日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:17:55
>其國東有大穴、名隧穴、十月國中大會、迎隧神還于國東上祭之、置木隧于神坐。

これは東夷伝の高句麗の条で、「その国の東大穴あり、名は隧穴といい、十月国中大いに会し、隧神を迎え
国東上に還りこれを祭り、神座に木隧を置く」というような意。
これは収穫祭のよなものなのかちょっとわからないけど、何か関連があるのかもしれない。10月というのも
神有月を思わせて面白い。
856日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:31:41
>>852
生活実態jのない巨大建築物、その意味が解らないアホですか?
857日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:50:57
ニュー速+の一連のスレをざっと読んでみて、ふと思ったのだが
一般的というか古代史をかじってみましたという人たちや、何らかの思想によってこうであれかしと思うような人たちにとって
文献的には、九州であってほしいと思う一派には、魏志倭人伝が何より大切で
逆に畿内説の中で万世一系を主張したい人にとっては、記紀がそれにあたるってことなんだろうね。

考古学的見地から言うと、倭人伝も記紀もその内容は事実とは考えにくいわけなのだが
それは両者からしても受け入れがたいものなのだろう。
このあたりを冷静に説いていくことも、そろそろ必要なのかもしれないね。

宇宙人が地球に来ているというのが大前提で
それが金星人か火星人かで揉めているという失笑レベルの論調のようなもので
科学的には両方居ないよという事に気付いて欲しいという感じ。
858日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:53:02
M78星雲からだろ、JK
859日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:55:26
あれは本来M87星雲という設定だったのだが
円谷一氏が、なぜか78と勘違いして公式設定になった。
これ特撮ヲタの豆知識ねw
860日本@名無史さん:2010/10/18(月) 06:22:11
>>849
それはただの山だろうけど、仁徳天皇陵とかあれを作れるのは
そうとうの富や財力がなければね。
861日本@名無史さん:2010/10/18(月) 06:27:54
>>838
てことはアイヌが古代大和人の末裔か。
じゅあ今の日本人は・・・・・

>>836
>>837
岩は岩で亀裂入れて砕くんだよ。
しかも日本の古代の古墳の1部はマヤと同じ方法で
作られたとしか思えない石積みまであるんだよ。
おれは古代マヤと日本で交流があったとおもってる。
日本の古代古墳時代を支えたのは実はマヤの渡来民の技術だったと言うわけ。
862日本@名無史さん:2010/10/18(月) 06:32:50
>>832
アイヌ蝦夷語こそ古墳時代の古代大和語の系統で
今の日本語は古代半島渡来系の言葉。
朝鮮語と日本語が良く似ているのはそのため。
863日本@名無史さん:2010/10/18(月) 13:28:24
>>861
秦の時代に蜀の太守李冰が使った方法は
牛や羊の糞を岩の上で焚いて加熱したところに
冷たい水を引っ掛けて砕きました。

これは、突厥系匈奴とか始皇帝の秦の技術です。
864日本@名無史さん:2010/10/18(月) 13:39:33
日本人はトルコ人の一派だろう。
古代マヤのはずはあるめぇ
865日本@名無史さん:2010/10/18(月) 13:51:20
>>861
>じゅあ今の日本人は・・・・・
対馬海峡を渡ってきたトルコ人なのです。
モンゴル人もマンチュリア人もみーんなトルコ人なのです。
866日本@名無史さん:2010/10/18(月) 22:38:59

■丘陵に周溝墓発掘 大津・宇佐山古墳群

京都新聞 2010年10月15日
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101015000025

 滋賀県文化財保護協会は14日、大津市神宮町の宇佐山古墳群で弥生時代末期から古墳時代初頭(2世紀末〜3世紀前半)の溝で囲まれた墳墓、周溝墓3基が見つかった、と発表した。
「丘陵にある墳墓の構造や祭祀(さいし)場だったことを示す貴重な資料」としている。

 宇佐山古墳群は、縄文時代から平安時代にかけての遺構や遺物が出土している。砂防工事に伴い、4月から、約3500平方メートルを調査していた。
 東側の墳墓は南北17メートル、東西12メートル、高さ3メートル。墳丘を囲むように幅2〜3メートル、最深部1・3メートルの溝が北、西、南側に掘られていた。
 南北4メートル以上、東西2メートルの墓坑があり、長さ2メートル、幅0・8メートルの木棺が納められていたと推測される。同様に溝で囲まれた墳墓2基の一部も発掘された。

 宇佐山のふもとにある錦織地区で見つかった弥生中期−古墳中期の墳墓の約2倍の大きさで、同協会の中村智孝主任は「ふもとから見えるように造られ、最も位の高い人物が葬られた」とみる。
 和田晴吾立命館大教授(考古学)は「周溝墓は平地に多く、丘陵では北陸や丹後で見られる。滋賀の発掘例は少なく、他地域との交流や土器文化への影響を解明するのに役立つ」という。

 調査区域からは奈良時代の祭祀に使われた土馬の破片約50点も出土。体長約15センチで、平城京や平安京の発掘例と同じくらのない裸馬姿が特徴。国家にかかわる祭祀が行われた可能性もあるという。
 現地説明会は16日午後1時半から。協会TEL077(548)9780。

・宇佐山古墳群から発掘された周溝墓の墓坑。中央部に木棺が埋葬されていた(大津市神宮町)
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2010/10/20101015085328.jpg
867日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:05:53
スレチ承知なんですが、悪しからず……。
>>814-816の続報。


■考古学協会の蔵書寄贈凍結 臨時総会で反対上回る

産経新聞 2010.10.16
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101016/acd1010161427005-n1.htm

 日本考古学協会(東京、菊池徹夫会長)が所蔵している遺跡発掘報告書など約5万6000冊の蔵書が英国の研究所に一括寄贈されることになった問題で、協会は16日、兵庫県明石市内で臨時総会を開き、
会員に賛否を聞くために投票した結果、反対が上回り、寄贈がいったん凍結されることが決まった。
今後、協会員以外の第三者を含めた特別委員会を設けて対応を検討する。

 総会では「発掘報告書は失われた遺跡の貴重な記録。知的財産の海外放出は許されない」など会員から反対の声が相次ぎ、投票の結果、賛成922、反対1111となった。

 協会関係者によると、すでに英国のセインズベリー日本芸術研究所に蔵書を寄贈する覚書を今年3月に交わしているが、いったん白紙に戻す可能性もあるという。
868日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:41:42
>>862
似てねえよ、朝鮮語と日本語なんて。
869日本@名無史さん:2010/10/19(火) 13:30:51
>>868
だが今の日本語と言うものの多くは古朝鮮語と呼ばれる加耶や百済などの言葉であろう。
今の朝鮮人と古代の朝鮮南部の人は和人と蝦夷人のように違う存在であったと考えられる。
つまり今の日本語の起源は、現在の朝鮮人の祖先の古代朝鮮北部の人々によって
追い出された人々のものなのです、簡単な事ですよ。
870日本@名無史さん:2010/10/19(火) 13:44:50
>>864-865
>日本人はトルコ人の一派だろう。
>対馬海峡を渡ってきたトルコ人なのです。
>モンゴル人もマンチュリア人もみーんなトルコ人なのです。

それは結局の所、古代の朝鮮南部の人々です。
彼らが渡来してきて今の日本の基礎が作られた。
しかし彼らが最初に渡来したのは九州でありマキムクなど
には海洋系の大和人が住んでいた。
871日本@名無史さん:2010/10/19(火) 13:46:33
>>864
>古代マヤのはずはあるめぇ

それは分からない。
俺は飛鳥時代の日本は南米マヤやグアムなどの南洋諸島との
海洋貿易の交流の中継地であったと見てる。
872日本@名無史さん:2010/10/19(火) 14:36:37
ラピタ人遺跡の年代測定に
C14法が使えなくてお手上げなんだよ。
18世紀になってヨーロッパ人やアジア人が訪れて
口伝えからの逆算で11世紀にはラピタ人がイースター島に来ていたのが確定だが・・・
873日本@名無史さん:2010/10/19(火) 14:58:54
そんなことより王権の話しようぜ!

日本のルーツは○○にあった!みたいなスレはないのかね?
アイヌ語と朝鮮語関係はそういうとこに行ってもらいたいんだけどな。
874日本@名無史さん:2010/10/19(火) 15:36:51
>日本のルーツは○○にあった!みたいなスレはないのかね?

オカルト板
875日本@名無史さん:2010/10/19(火) 16:18:02
前にテレビのバラエティで芸能人の遺伝子でどこ出身の血統かと調べてたが、
キャイーンの天野はポリネシアに多い遺伝子を持ってると言われてた。
876日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:14:30

■邪馬台国の謎に迫る 纒向遺跡めぐりフォーラム

読売新聞 2010年10月19日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20101019-OYT8T00065.htm

 女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(3世紀)の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡をめぐるフォーラム「邪馬台国からヤマト王権へ」(読売新聞社主催、桜井市後援)が11月20日午前10時〜午後4時、千代田区有楽町のよみうりホールで開かれる。

 邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場。諸国の王が共立した卑弥呼が大乱を収め、魏に使者を出して「親魏倭王」の称号を受けたという。所在地をめぐる論争は江戸時代から続き、畿内(近畿)説と九州説に大きく分かれている。

 纒向遺跡は、1971年からの調査で都市的な集落だったことが判明。一帯には、卑弥呼の墓との説がある前方後円墳の箸墓古墳がある。また、最近では宮殿とみられる大型建物跡が整然と並んでいるのが見つかり、畿内説の中でも最有力候補地とされている。

 フォーラムでは、桜井市教委の橋本輝彦さんが調査成果を報告。鈴木靖民・国学院大教授と白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長が基調講演する。
この後、纒向遺跡の調査に参加している俳優の苅谷俊介さんを交えて討論を行い、古代史最大の謎とされる邪馬台国の実態や所在地に迫る。

 参加希望者ははがきかファクス(06・6313・1634)で代表者の郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号と参加人数を書き、〒530・8551(住所不要)読売新聞大阪本社企画事業部「纒向フォーラム」係(06・7732・0063)へ。10月29日必着。
定員1000人で、参加費は1500円。応募多数の場合は抽選し、当選者に参加証を発送する。
877日本@名無史さん:2010/10/19(火) 18:38:42
何かトンデモスレになってる・・・・
878日本@名無史さん:2010/10/19(火) 23:23:11
めづらしくまともに進行していたのにねえ
879日本@名無史さん:2010/10/19(火) 23:40:55
他スレ行って纏向がウンチャラ言ってるやつがいるから
マヤ文明がどうこうになってしまうんだよ
880日本@名無史さん:2010/10/20(水) 00:27:43
>>874
で、あるか。

オチがついたね。
881日本@名無史さん:2010/10/20(水) 01:13:38
>>869
日本語と韓国語は、一応、別系統の言語。
というか、魏書東夷伝よんでみろ。
倭語、扶余語、韓語、それぞれ通じない言語として
紹介されている。

比較言語学でも、現代日本語と現代韓国語の違いは、
1万年以上、開いているとみられている。

おそらく、日本語の先祖は、中国南部から来ている。
が、中国南部の日本語の祖語は、
西から来た中国語に飲み込まれたと思われる。
882日本@名無史さん:2010/10/20(水) 01:17:47
またトンデモスレになる・・・・
883日本@名無史さん:2010/10/20(水) 01:57:43
巻向と関係ない話になっている。
とにかく、へんなカンコク人や
へんな日ユダヤ同祖説論者のような
オカルトな連中がスレに参加すると、変な事態が生まれる。
884日本@名無史さん:2010/10/20(水) 20:36:33

■大和発掘物語:東大寺山古墳/上 鍬形石や車輪石がずらり /奈良

毎日新聞 2010年10月6日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101006ddlk29070659000c.html

 「鍬形(くわがた)石や車輪石が庭にずらっと並べられていました。それはすごいもので『こんなもんが、こんなとこにあっていいもんやろか』と思いました」。
天理市櫟本(いちのもと)町の前方後円墳、東大寺山古墳。鍬形石などの「腕輪形石製品」は「権力の象徴」とされる遺物だ。【山成孝治】

 ◇金関恕・天理大名誉教授(82)

 1961(昭和36)年の初夏。石製品は地元の歴史愛好家らが見つけた。この発見が「盗掘」だと告発される騒ぎがあったが不起訴になり、11月に天理大付属天理参考館が発掘を始めた。
 「12月の半ばに主体部を断ち割ったら、鉄の刀などが出てきたんです。これで、正月も返上。京大から、助手やった小野山さん(小野山節・京都大名誉教授)らが助っ人に来てくれて、ずいぶん助かりました」

 さらに、驚きは続く。研究室で同僚だった近江昌司さん(天理大名誉教授)や白木原和美さん(熊本大名誉教授)と出土品の土やさびを落としていた時だった。
 「白木原さんが鉄刀のさびを落としていて、象嵌(ぞうがん)の金色の輝きがちらっと見えた。あわてて歯医者さんのグラインダーを借りてきて、慎重にさびを削ると、最初は『宿』という字が出てきた。
結局、その日のうちにだいたい読めて、『中平』は中国・後漢の年号や、となったんです」

 184〜190年を指す中平は、国内の出土物で確認できる最古の年代。しかも、中国史書「魏志倭人伝」に邪馬台国と女王・卑弥呼が登場する時代だ。「大事件」である。

 ところが、多量の出土品が東京国立博物館などに所蔵されたこともあり、報告書の作成は進まなかった。
再開されたのは、05年に九州国立博物館(福岡県太宰府市)で、東大寺山の鉄刀が展示され、研究会が設けられたことがきっかけだった。今年3月に計568ページにも及ぶ力作の報告書を刊行した。

 「かなり遅くなりましたが、報告書が出せて、ようやく責任が果たせました。掘って、報告書が出せなければ、盗掘と同じですから」。普段の穏やかな表情が、いっそう丸くなった。
885日本@名無史さん:2010/10/20(水) 20:38:09

■大和発掘物語:東大寺山古墳/中 革製の短甲と草摺に注目 /奈良

毎日新聞 2010年10月13日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101013ddlk29070631000c.html

 「大きさでいうと、女性のMサイズのブラウスぐらいです」。
天理大付属天理参考館(天理市)で11月23日まで開く特別展「よみがえるヤマトの王墓−東大寺山古墳と謎の鉄刀−」で、学芸員の藤原郁代さん(44)が注目している遺物を紹介してくれた。
解説板には「短甲(たんこう)と草摺(くさずり)」と記されている。短甲は剣道の防具でいえば「胴」、草摺は腰から下を守る「垂(たれ)」にあたる。実戦で用いられたものは鉄製が基本だが、展示品は国内で唯一の確認例となる革製だ。

 東大寺山ではこのほか、「小型丸底壺(つぼ)」と呼ばれる祭祀(さいし)用の土器を滑石でまねて作った13点の坩(かん)形石製品や、261点もの銅鏃(どうぞく)が出土している。
ともに国内最多の出土例で、これらを含め、展示室に並んでいる東大寺山出土の遺物は500点を超えている。

 「祭祀に使った坩形石製品だけでなく、銅鏃も人を殺すためのものではなく、きらめきを大事にした『宝器』と考えられます。だから、副葬品は全部、飾り物、という可能性もある。この短甲も、どう理解するかはなかなか難問です」。
サイズも小さいし、攻撃から身を守る防具なら革では作らないはず。本当に実用品なのか。問題が次々に浮上しているが、逆に言えば、それだけ興味深い研究テーマも増えている。

 東大寺山古墳は今春、発掘調査報告書が刊行され、今回の特別展では東京国立博物館に移されていた遺物が40年ぶりに里帰りした。
 「ようやく今、私たちが持っている情報は全部、公表できました。だから『皆さん、これから、この情報を使ってくださいね』と思っています」

 藤原さんは先月27日、展示室で解説を担当した。
 「65人の方々に、熱心に聴いていただきましたが、地元の方が多かったのでほっとしました。並んでいる品々は、東京に行ったきりだった地元の宝。だから、地元の方に見て、喜んでいただきたかったんです」。
そう言った時の表情は、ほんとうにうれしそうだった。【山成孝治】
886日本@名無史さん:2010/10/20(水) 20:38:56

■大和発掘物語:東大寺山古墳/下 本体もしっかり保存へ /奈良

毎日新聞 2010年10月20日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101020ddlk29070555000c.html

 「ようやく、しっかりした報告書が出せたのでほっとできればいいのですが、古墳の現状は『残念だ』と言うしかありません」。
穏やかな表情ながらも、こぼれ出る言葉は厳しい。天理大で考古学を担当する桑原久男教授(47)は「荒れた竹やぶ」になっている東大寺山古墳(天理市櫟本町)の将来像に懸念を抱いている。

 中国・後漢の元号「中平」を金文字で刻んだ鉄の刀が出土したのは、天理大付属天理参考館が1961年に実施した発掘調査。出土遺物は72年、国の重要文化財に指定された。

 しかし、古墳自体は国史跡はおろか、県や市の指定文化財にもなっていない。景観や自然保護につながる歴史的風土特別保存地区や風致地区の網もかかっていない。
仮に開発の動きが始まればブレーキをかける手立てはほとんどない。桑原さんは「行政、市民、研究者が意見を出し合う場を早急に作らなければならない」と話す。

 この地域では4世紀後半以降、東大寺山に続いて、赤土山、和爾(わに)下神社古墳と100メートルを超える規模の古墳が築かれ、有力豪族だったワニ(和爾)氏の状況など歴史の研究に欠かせない地域だ。
ただ、桑原さんは「華美で不自然な整備をするべきではない」として、散策ルートの設置などを提案している。

 「2世紀末、卑弥呼に賜与(しよ)された可能性のある中平銘鉄刀は……連合政権を構成するワニ氏の一族に賜与」された。桑原さんは特別展の図録でこんな見解を示している。
 「この鉄刀は近い将来、きっと国宝になるはずです。
だから、古墳の本体も、しっかり保存し、落ち着いた雰囲気の中で公開され、人々の憩いにもつながるような環境にしていかなければなりません、私も微力ながら、努力を続けたいと思います」【山成孝治】


※参照 天理参考館サイト
http://www.sankokan.jp/exhibition/plan/80_todaijiyama.html
887日本@名無史さん:2010/10/21(木) 01:25:01
あの穴以外に何か出てこなかったの?
888日本@名無史さん:2010/10/21(木) 06:09:01
和邇氏は、スサノオの八王子の1人、猿田彦の末裔にして、大国主の因幡の白ウサギのワニ。
889日本@名無史さん:2010/10/21(木) 06:30:13

大和朝廷(日本国)は、纏向を陪都(副都)として、九州王朝(倭国太宰府)によって立てられた陪朝(副王朝)。

890日本@名無史さん:2010/10/21(木) 06:43:18

やがて大和副朝が、663年白村江の戦いで唐&新羅連合軍に敗れて衰えた九州本朝を乗っ取り、
大和王・天智を経て、新羅に捕虜にされていた九州王・薩野馬が大宰府に復活!
勢いを盛り返し、天智の皇子を壬申の乱で破り、大和の地で副朝を吸収合併し、薩野馬は天武天皇として即位した。

記紀は、九州本朝(天武)と大和副朝(天智)の両血統を繋ぐための偽装工作。

しかし、その後天智の妹・持統と藤原不比等の謀略によって、九州本朝・天武の皇統は滅亡し(長屋王の変)、
大和副朝(天智)の系統で占められることになった。これが天皇家の起源なのである。
891日本@名無史さん:2010/10/21(木) 09:56:03
古墳時代の九州と大和の関係って、現代の日本でいえば東京と大阪みたいなもんでつね?
892日本@名無史さん:2010/10/21(木) 11:27:28
>>891
まあそうだろうな。
だけど大和も奈良と河内で2つあったり、関東には古代の埼玉王権があったり
単純な話じゃないね。
893日本@名無史さん:2010/10/21(木) 12:13:05
>>891
古墳時代の倭国(九州)と日本国(大和)は、成田空港と羽田空港みたいなもん。

かつて米ソ冷戦時代、首都圏は沖縄同様米軍の専用空域で民間機は飛ばせず、増え続ける国際線需要を満たすべく千葉の成田なんて僻地に苦労して築いたものの、
冷戦が終わり、米軍から少しずつ空域を返還されて、羽田からも国際線が飛ばせるようになったことで、ハブ空港としての利便性が大幅に増し、成田空港に取って代わった、みたいな?
一方、国内線がなく、不便極まりない成田空港は、国際空港から一地方空港になり下がって、羽田空港の副滑走路となったわけであろう。
894日本@名無史さん:2010/10/21(木) 15:46:26
九州が日本国で、大和が倭国だと言うことは無い?
895日本@名無史さん:2010/10/21(木) 16:06:55
>>893
羽田の新国際線ターミナル開通日にそれを言うとゎ…座布団100万枚!

>>894
九州は倭国、大和は扶桑国。

大和扶桑国が九州倭国を併合したので、後に日本列島全体のことを大和とか扶桑国と言うようになった。
更に時代が下って室町時代、天皇は扶桑殿と呼ばれていた。
三菱ふそうの扶桑、フジテレビの扶桑社などはその名残り。

かつて列島を代表して中国皇帝から冊封を受けていた九州王朝を抹殺し、
自分達が神代から列島を代表する唯一無二の王権だったと喧伝したい大和天皇家は、中国の歴史書を参考に記紀を捏造。
・魏志倭人伝の邪馬「壱」国を邪馬「台」国と書き換えたり、
・倭(ゐ)を音読み「わ」訓読み「やまと」と決めたりして、
「邪馬台国=大和(自分たち)」「倭=大和(自分たち)」を印象付けるべく、必死に工作を行った。
そしてそれは大成功した。
896日本@名無史さん:2010/10/21(木) 17:01:21
他にも、倭国(九州王朝)の存在を抹殺し「倭=大和(自分たち)」と歴史を歪曲するに当って、記紀の編纂者たちが中国の歴史書を読んでいた証拠がある。

1.「宋書」倭国伝には413〜478年の65年間に9回「讃・珍・済・興・武」と称する5人の王が冊封を求めて朝貢し、これを「倭の五王」と書いているが、
 「倭の五王」は大和朝廷の大王(履中・反正・允恭・安康・雄略)ではない。
 「倭の五王」とは日本列島と朝鮮半島の支配権を中国宋朝皇帝に認めさせようとした倭国(九州王朝)の歴代5人の大王のことである。
  ちなみに五王の最後「武」の子か孫が、527(継体21)年の「磐井の乱」でお馴染み、倭王「筑紫君磐井」である。

2.三国史記の百済本紀では辛亥の年(531年)に「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事があり、これは「磐井の乱」で滅んだ九州倭国王一族のことを言っているのだか、
 日本書紀の編者は「日本の天皇」という文字を見て、「天皇は大和にしか存在しない」ことを喧伝するため
「継体天皇の崩御の年を531年にしたが、ある本では甲寅の年(534年)と書いてあってよく判らない。後の世の人が明らかにするだろう」と記している。
 しかし大和朝廷で継体天皇と太子(安閑)・皇子(宣化)がともに死ぬような異変があった形跡はどこにもない。

3.また「隋書」には、607(推古15)年、倭王「阿毎(あめの)多利思北孤(たりしほこ)」が、有名な国書「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、
 恙(つつが)なきや?」を書き送ったことを記録しているが、倭王「阿毎多利思北孤」は聖徳太子(厩戸皇子)ではない。
 倭王「阿毎多利思北孤」には妻と太子、後宮には女が600〜700人いて、官僚には十二等級の官位があり、阿蘇山があることも書いている。
897日本@名無史さん:2010/10/21(木) 17:32:33
簡単な話だ。
邪馬台国は畿内ではない。
898日本@名無史さん:2010/10/21(木) 18:10:01
マキムク遺跡の発掘があると、メディアは必ず「邪馬台国?」みたいな報道するから、
みんなついカッカとして、言い合いみたいなレスが続くのも分からないわけじゃないんだけど、
でもこのスレはべつに邪馬台国の所在地を究明する必要はないんだ。

このスレで論じてもらいたいのは>>1で提起されてるようなヤマトの王権の問題だよ。
邪馬台国の所在地は別スレもあることだし、ここで熱くなって争うのはやめた方がいいよ。(>>637
899日本@名無史さん:2010/10/21(木) 18:59:37
・・・ったく、「九州王朝王朝」ネタは専用のスレでやれ。

ゴミはゴミ箱へ

で、スレの内容がトンデモになって敷居も下がりきったところでw

>>766の自レス、鉄の流入と交易網の形成とか言うお話の続きで
後世の歴史の中に何か似たような上手く代用して説明できるような物が無いかと
無い知恵絞って考えたんだがw

17〜19世紀にヨーロッパ諸国がアジアに進出しそこで得た「香辛料」や「茶」とかを
古代の鉄になぞらえてはどうだろうか?

「東インド会社」は史上初の株式会社だったと思うが
香辛料や茶その他の産物をヨーロッパに運ぶ為に
経済構造あるいは社会構造まで変革されていると思うが

それでも香辛料や茶そのものそれ自体にそう言った経済社会の構造を変える力があったわけじゃない。
それらは原産地では普通に消費されてヨーロッパのような社会・経済の変化を引き起こしたわけじゃないのだから

・・・その辺が古代日本の鉄立ち位置と似ているような気がするw

まあ突っ込みどころ満載で叩かれるの上等だがw
少なくとも古墳時代の幕開けは鉄に恵まれた九州ではなく
むしろ鉄貧乏なヤマトでおきたと言う厳然たる事実を多少なりとも説明しうるのじゃないかと思うのだが
どうでせう?wwwww
900日本@名無史さん:2010/10/21(木) 19:09:47
ゴミ>>899はゴミ箱へお帰りください。
901日本@名無史さん:2010/10/21(木) 19:11:40
えっ、マキムク遺跡って卑弥呼の里じゃないの??
902唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/21(木) 19:13:24
240年 正始元年春正月, 東倭重譯納貢,東の倭(ヤマト)
266年 泰始2年十一月己卯,倭人來獻方物。
この30年弱の期間に倭国乱は終息する。

ここに古墳を重ねると
239年 石塚、ホケノ山 辻遺跡では、3世紀初期の建物が壊され、盛り土をして、中期の建物。
オオヤマト古墳群のはじまり。
260年頃 箸墓 纒向遺跡のピークであり、これ以降の宮殿は見あたらない。
266年 オオヤマト古墳群に西殿塚古墳、黒塚
黒塚には、△鏡、黄旛が副葬される。
300年迄に 柳本行燈山古墳、渋谷向山古墳と時を同じくして、オオヤマト古墳群は終焉をむかえる。

ホケノ山には、鉄器が副葬される、矢塚、勝山には鉄器はなさそうである。
つまり鉄器が流入して古墳は造られる様に成るが、最初期の矢塚、勝山では、鉄を副葬するほど
潤沢では無い。
鉄の流入は垂仁元年頃からである。任那建国は、新羅209年伽耶に援軍。ここになる。
つまり 崇神は、2世紀末からとなる。
903日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:52:51
纒向遺跡から、文字が出土する可能性はないの?
魏や呉(?)の外交官が来たかどうかはともかく、商人は来てもおかしくないだろ?
904日本@名無史さん:2010/10/21(木) 22:09:44
>>903
ありません。ヒエログラフを用いたのは、もっと古い時代の古モンゴロイド。
文明が退化していった時期にあだ花のように開花した無文字文化が纒向遺跡なのです。

むしろ、魏に朝貢して、魏の先進文化を吸収した可能性の高い邪馬台国のほうが、
中国製の文字の入った石碑や壺、粘土板が出る可能性が高いと思われます。
905日本@名無史さん:2010/10/21(木) 22:13:15
>>902
>矢塚、勝山には鉄器はなさそうである。

有ってもよさそうとも思うんだが、とにかく内部は未調査なんだから
鉄器の有無は不明、としたまま推論するべきだろうね。
不明なのに憶測を前提に推論するのは、あぶない。
906日本@名無史さん:2010/10/21(木) 23:24:40
>>901
そうだ。箸墓は卑弥呼ではない!
907日本@名無史さん:2010/10/21(木) 23:30:05
>>903
単に文字と言うのなら銅鏡の銘文があるやんw

まあ、あとは封泥とか木簡の類の事かな?
可能性はゼロでは無いんだろうがきわめて低いとしか…
伊都国周辺でもそんなモノが出てきたって話しが無いしね。

908日本@名無史さん:2010/10/22(金) 00:08:47
>>904
出てから言えよw
909日本@名無史さん:2010/10/22(金) 01:22:39
ずっと作業中だった橿考研サイトの「奈良県遺跡情報地図」が、先日からようやくUPされてるよ。
これでいちいち橿考研の図書室まで閲覧に足を運ぶ必要がなくなったね。良かった良かった。

奈良県立橿原考古学研究所
http://www.kashikoken.jp/index.html

→奈良県の遺跡 →奈良県遺跡情報地図 →(使用上の注意)同意する

の手順でどうぞ。

奈良県の教育委員会のサイトからは「奈良県遺跡地図Web」っていうページに行くんだけど
これは橿考研「奈良県遺跡情報地図」と全く同じものなんだ。

奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-16771.htm

で、ちょっとバカバカしいこと書くんだけど、
この2ちゃん日本史板に「決定;九州説チャンピョン」なんてスレがあって、
そこでまるでうるさい蝿みたいに
「盆地湖、盆地湖」
なんて訳わからんレス連発してる変人がいるんだ。(^^)

遺跡地図見たら奈良盆地の低地部にも
弥生、縄文、旧石器の遺跡があっちこっち存在してるのは
一目瞭然なのにね。(笑)
910日本@名無史さん:2010/10/22(金) 05:13:16
>>895-896
非常に興味深い話です。
ちなみに、あなたは倭奴国についてはどうお考えでしょうか?
やはり九州ですか?
911日本@名無史さん:2010/10/22(金) 08:40:29
>>909
邪馬台国人は湖底人だったwwww
912日本@名無史さん:2010/10/22(金) 08:41:50
>>909
邪馬台国人は湖底人だったwwww
913日本@名無史さん:2010/10/22(金) 09:50:26
出雲の東側の集落はそんな感じだね。
914日本@名無史さん:2010/10/22(金) 10:02:37
>>909
邪馬台国人は湖底人だったwwww
915日本@名無史さん:2010/10/22(金) 15:32:47
>>909
>遺跡地図見たら奈良盆地の低地部にも 弥生、縄文、旧石器の遺跡があっちこっち存在してるのは 一目瞭然なのにね。(笑)

正確に言うと、それらは低地部ではなくて平野部の微高地だね。唐古・鍵みたいな場所だよ。早とちりして騒ぐのはみっともないよ。(大笑い)
916日本@名無史さん:2010/10/22(金) 17:09:42
「紀元後弥生後期の奈良盆地湖」…流石にこのスレでまでやるようなネタじゃないだろうとw
あんなもの与太も与太、詐欺ペテン勘違い商法の類でしか無いんだからwwww

新たに得られたはずの土地に田畑や居住区が作られ
ある時代を境に、ある標高以下に、集落や田畑のが急増した…なんてシナリオを描けるような痕跡は無い。
水害のリスクは4世紀より前だろうと後だろうと、そう変わらなかったって話だなw

古代人にとって低地での農作は常に水害の危険と隣り合わせ。
リスク分散の観点から言うとあまりそれに特化するのもよろしく無いんだろうなw

今全国で人里に熊の出没が多発しているのは皆もニュースで知っているだろうが
ドングリも十数年程度の周期で不作の年と言うのがあるそうな・・・

そう考えれば稲作もそれ自体はリスクの高いものであっても
「リスク分散」と言う点で受け入れられたんじゃね?w

食料難に陥るリスクが高ければ高いほど人口も分散させておいた方が良い。
と言うか必然的にそうなるんだろう。

で、そのリスク自体を押さえ、収穫量もリスクコミでもそこそこ間尺にあうようになるのは
ずっと後の時代のお話だと・・・






917日本@名無史さん:2010/10/22(金) 18:11:51
>あんなもの与太も与太、詐欺ペテン勘違い商法の類でしか無いんだからwwww

そういうふうに(自分に思い込ませるだけでは不安だから)宣伝したい気持ちはわかるが・・・
918:2010/10/22(金) 19:15:18
安本教信者さん乙です
919日本@名無史さん:2010/10/22(金) 19:45:52
湖の水を引かせて開拓したという国造り神話はあちこちにある。
いずれも山間の盆地。
どこをとっても時代考証+地質学的には無茶な話なんだが、
神話の伝播過程を追う意味はあるんだろうな。
920日本@名無史さん:2010/10/22(金) 19:56:55
馬鹿馬鹿しい話だな。大和湖が弥生時代にもあったというなら、河内湖のように文献、
地質などに歴然とした証拠が残っているはず。
921日本@名無史さん:2010/10/22(金) 20:03:10
平地なんて大なり小なり、水域や湿地が堆積して出来たものだ。
灌漑や水路建築技術が出来るまでは、割と最近まで湿地だったところは
至る所にある。 低地の田んぼなんて、だいたいそんなもん。

微高地に集落があるのは、ようはその下が湿地で住めないからなんだね。
922日本@名無史さん:2010/10/22(金) 20:22:59
>>909
お前痛すぎwww
923日本@名無史さん:2010/10/22(金) 22:36:51
>>921
ま、一定以上の規模の平野部では低湿地ってことになるんだろうけど、
洪水野を避けていた、というほうが山国ニッポンでは一般的だと思うよ
924日本@名無史さん:2010/10/22(金) 22:42:47
竪穴式住居では、掘って水の湧くようなところには
住めないのでは?
庶民の住居として高床式はなぜ発達しなかったんだろ
925日本@名無史さん:2010/10/22(金) 23:06:20
>>924
これは面白い論点だと思う。東南アジア式の簡便な高床式住居ならそう手間をかけず作れただろうに、日本では
庶民の住居としては発達していないといわれている。よくはわからないけど、古代の身分制のようなことと関係が
あるのかもしれない。

一概に竪穴式住居といっても、伏屋式と壁立式があって、伏屋式は庶民の住居であり、壁立式は首長居館として
その権威を示すために作られた。庶民がこれを真似ることはできない縛りがあったとも考えられる。一方高床式
は神の住処としての神聖な建築様式、あるいはやはり神聖視されたかもしれない収穫物の貯蔵倉庫として用い
られ、一般的な居住の対象にはならなかったのかもしれない・・・。
926日本@名無史さん:2010/10/22(金) 23:14:10
奈良県民だけど、湿地を開発して収穫たっぷりなんてイメージできないなあ。

そりゃ古代とは気候も違うんだろうけど、
雨が降らなければ干ばつ、降ったら降ったで洪水という土地。
水不足で苦しんだ記憶は、いまだ生きた記憶だよ。

だから、谷あいの水を使った稲作が中心だったという話は、よくわかる。
葛城の風景が、古代からのものか、近世のものかは知らないけど、なかなかの風景だよ。
927日本@名無史さん:2010/10/22(金) 23:41:04
古奈良湖の干拓事業を行ったのは、秦からの渡来人でしょう。
川を掘り下げて古奈良湖から水を抜き、奈良盆地をまほろばに変える。
縄文人にはできない発想ですね。
928日本@名無史さん:2010/10/22(金) 23:57:44
しかし大和平野は >>926氏の言うように古代から慢性の水不足で、多くの溜池が作られたのもそのためだろう。
大和平野は水源となる山地が浅いため川の水量は乏しく、しかも中下流部はゆるやかな流れのために土砂が
堆積し、いわゆる天井川となっている。つまり水が少ないのに水害は起こりやすい土地ということ。

降雨量も少ないため常時水は不足がちであり、古代から農民たちは干害に泣かされ、逆に連日雨が降ると川が
氾濫し、水害を被ってしまうという悪循環。昔から言い伝えられてきた「大和豊年米食わず」とは、大和にちょうど
良い量の雨が降って豊作になった年は、他の地域では降り過ぎて凶作となってしまうという意味。
929日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:13:52
>あんなもの与太も与太、詐欺ペテン勘違い商法の類でしか無いんだからwwww


日本史じゃなくて縄文史だからな。
別にこういう人は一生日本史だけをやってれば良いじゃない。
毛嫌いするのも勝手だよ、だけど変ないちゃもんつけるなよ。
日本書紀とか皇国史観一点張りの連中みたいで不快だわ。
縄文、弥生史の編纂はすでに始まってきているというのに
そういう事言われると正直腹立たしい。
930日本@名無史さん:2010/10/23(土) 13:42:38
腹立たしいから縄文史スレに行くわ。
実際スレ違いだった。
不快だ。
あばよ。
931日本@名無史さん:2010/10/23(土) 14:22:37
>>930
縄文史スレないじゃんw
932日本@名無史さん:2010/10/23(土) 21:29:14

■東野土居遺跡:県内初、完形の庄内式土器 広域な交流を裏付け−−香南 /高知

毎日新聞 2010年10月23日
http://mainichi.jp/area/kochi/news/20101023ddlk39040514000c.html

 県埋蔵文化財センターは22日、香南市野市町土居の東野土居遺跡で、県内では初となる、ほぼ完全な形の庄内式土器が出土したと発表した。古墳時代初期(200〜250年ごろ)のもの。
大阪府の河内平野から持ち込まれたとみられ、広域な交流があったことが裏付けられるという。24日午前10時半から現地説明会を開く。

 南国安芸道路の建設工事に伴う発掘調査(今年4月〜来年2月)。調査対象面積は約1万2500平方メートル。

 ほぼ完全形の土器(高さ24センチ、最大幅20センチ、口径17センチ)は、香宗川近くで見つかった。黒くすすけた跡があることから、煮炊き用のかめとみられる。
同時代に県内で作られたかめより薄く、形も洗練されており、土器を作る専門の技術者が作ったらしい。庄内式土器は、県内ではこれまで他の遺跡から破片のみ見つかっていた。

 ほかに、弥生時代終末−古墳時代初頭(200年代)と、古墳時代後期(550〜600年ごろ)の集落の存在が判明。ともに竪穴建物跡が密集しており、かなり大規模な集落とみられる。
また、室町時代後期(1400年代)に中国から入ってきたとみられる陶磁器(青磁、白磁)なども出土。破片も合わせ、現在までに約20万点の遺物が見つかっている。

 出原恵三・同センター調査第四班長は「この辺りは河内平野との窓口的な地域で、港町のような役割を果たしていたとも考えられる」と話している。【千脇康平】

・画像(高知新聞、読売新聞など)
http://203.139.202.230/?&nwSrl=266188&nwIW=1&nwVt=knd
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kochi/news/20101022-OYT8T01142.htm

※東野土居遺跡 (高知県文化財団埋蔵文化財センターサイト)
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~maibun/contents/5_excavation/contents/1_nation/contents/10_4_higashinodoi.htm
933日本@名無史さん:2010/10/23(土) 22:52:00
>>928
確かに奈良盆地は慢性的な利水不足があり、ため池が多く造られたんだけど、
そうなると、なぜプレヤマト王権の地がマキムクなのか?という問題が再び頭をもたげてくるんだよね。

最新土木技術によって、奈良盆地で飛躍的に耕作地が生まれ、
その灌漑工事のリーダーが初代大王になった、ってのは、なかなか東アジア的専制国家っぽくて座りが良い。
魅力的で捨て難い仮説。
このプレヤマト王権≒土地改良区説は、その出資元は大和の自生勢力や吉備等になるんだろうが、
各地から入植者を募り、結果的に大和が倭国の中心となった。
同じような流れは東海〜関東にも波及。
奈良盆地が一通り済んで、4世紀末以降、河内でも同じことが起こるのだろう。
934日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:57:05
あのー、
マキムクが王権の地として選ばれたのは
農業立地がどーのこーの、なんていう問題じゃないよーな気がするんですが・・・・
935日本@名無史さん:2010/10/24(日) 00:12:54
なぜ、京都盆地ではなく、奈良盆地だったのか?
936日本@名無史さん:2010/10/24(日) 00:15:09
前もやったんだけど、東海地方との関係がやはり謎なんだよな。今回の桃の種の話でも、ミニチュア甕なんかは
東海の影響の強いものだよな。東海系土器が多いのも、だんだん単なる入植とは思えなくなってきた。
河内の勢力は、大和川の水運を通して纏向とは一蓮托生だったろう。
937日本@名無史さん:2010/10/24(日) 01:22:05
>>916
何この人w

> 水害のリスクは4世紀より前だろうと後だろうと、そう変わらなかったって話だなw

これ言い出すと、根本的に纏向の土木技術を軽視していることになるが?
938日本@名無史さん:2010/10/24(日) 01:23:49
>>924
> 竪穴式住居では、掘って水の湧くようなところには住めないのでは?

住めるだろ。
彫って水が噴出するんじゃ無理だろうけど。
939日本@名無史さん:2010/10/24(日) 01:58:01
ベッドに寝るわけではないんだけど?
940日本@名無史さん:2010/10/24(日) 02:00:48
井戸と竪穴式住居をごっちゃにしてないか?
941日本@名無史さん:2010/10/24(日) 02:42:59
マイタウン> 大分

■邪馬台国の謎に迫る展示 「発掘された日本列島」開幕

朝日新聞 2010年10月23日
http://mytown.asahi.com/areanews/oita/SEB201010220025.html

 全国各地の遺跡発掘調査の成果を紹介する展覧会「発掘された日本列島2010」(文化庁など主催、朝日新聞社など協力)が22日、宇佐市高森の県立歴史博物館で始まった。
今年度の開催は九州ではここだけで、20遺跡の出土品など400点以上を展示しているほか、県内の遺物や文化財なども約110点展示している。11月19日まで。

 九州説と近畿説で論争が続く邪馬台国や女王卑弥呼の時代に焦点をあてた展示が注目される。
九州説に関しては、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された「奴(な)国」の中心地といわれる須玖遺跡群(福岡県春日市)の銅戈(どうか)鋳型など、「伊都国」のあった場所といわれる三雲・井原遺跡(同県糸島市)の中国製鏡や豪華な玉類が見られる。

 近畿説では、卑弥呼の墓とする説もある箸墓(はしはか)古墳がある纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の土器、木製仮面レプリカなどを展示。
また、弥生時代前期から後期にわたり、大和盆地にあった近畿を代表する大規模な環濠(かんごう)集落、唐古・鍵遺跡から、当時のハイテク技術といわれる青銅器鋳造技術を示す遺物が出品されている。
当時の建物を再現する手がかりになった絵画土器も興味深い。いずれもめったに見られないという。

 県内からは日田市の吹上遺跡出土品、大分のキリスト教文化をしのばせる遺品などが展示されている。一般500円、高大生300円、小中学生無料。月曜休館。

・興味深そうに展示品を見る児童ら=宇佐市高森、県立歴史博物館
http://www.asahi.com/areanews/images/SEB201010220024.jpg


※文化庁サイト 「発掘された日本列島2010」展開催のお知らせ
http://www.bunka.go.jp/oshirase_event/2010/hakkutsu_2010.html
※同 ポスター
http://www.bunka.go.jp/oshirase_event/2010/pdf/hakkutsu_2010_poster.pdf

※大分県立歴史博物館サイト(関連講座ガイドあり)
http://rekisihakubutukan-b.oita-ed.jp/
942日本@名無史さん:2010/10/24(日) 17:04:43
大阪も東京も湿地を埋め立てたわけで
943日本@名無史さん:2010/10/24(日) 21:27:05
邪馬台国近畿説があってもいいが、
箸墓古墳=卑弥呼はないだろう。
あの古墳群にある他の古墳は何なのだ。
資料がないから、王族か有力臣下のものだろう、としか言えないのなら、
そんなものは学問でも何でもない。
944日本@名無史さん:2010/10/24(日) 22:21:21
最近、邪馬台国近畿説というのを聞かないですね。
邪馬台国と同じころ、近畿にも大きな集落があったという話なら時々聞くけれど、
近畿の人もずいぶん大人になったものです。・・・
945日本@名無史さん:2010/10/25(月) 06:18:44
それに関しては、近畿(大和)説のプライドを傷付けずに、かつ史実も歪曲しないために漏れはこういう風に理解している。

1.邪馬台国に関して、
 邪馬「壱」国は九州にあった。しかし邪馬「台」国は大和に(今でも)ある。

2.倭国に関して、
 「い」国は九州にあった。しかし「わ」国は大和に(今でも)ある。

3.卑弥呼に関して、
「ひみか」は九州にいた。しかし「ひみこ」は大和に(今でも)いる。

4.卑弥呼の冢(墓)に関して、
 卑弥呼の「冢」は九州にある。しかし卑弥呼の「墓」は箸墓である。

5.箸墓に関して
 卑弥呼の「墓」は箸墓とされている。しかし箸墓は卑弥呼の「冢」ではない。
946日本@名無史さん:2010/10/25(月) 10:48:21
>>944
甘いな。

大阪府には弥生文化博物館長の金関恕、近つ飛鳥博物館長の白石太一郎という
2人の近畿説の権威が税金使って史実を歪曲しているからな。

大阪府・橋下知事へ、
税金垂れ流しの歴史歪曲博物館なんかバッサリやっちゃってください!
947唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/25(月) 11:55:17
>>945
1,邪馬台国に関して、
 邪馬「壱」国は九州にあった。しかし邪馬「台」国は大和に(今でも)ある。

@、南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月
最初の情報では、邪馬台国は、北九州の南、1ヶ月の処にあり、女王が住んでいた。
しかし
A、正始元年 倭王因使上表荅謝詔恩
B、晋書、正始元年春正月, 東倭重譯納貢。 東倭=東の倭=邪馬台国。
Bに於いて、邪馬台国の位置が、南から東に変更される。
この時変更されるべきは、方向、距離ばかりでなく、女王の居所までも変更されねば成らない。
つまり、邪馬台国=大和、女王=北九州。
この変更により、倭王=大和である、しかし、女王及び女王国は、北九州に存在する。

4.卑弥呼の冢(墓)に関して、
 卑弥呼の「冢」は九州にある。しかし卑弥呼の「墓」は箸墓である。
卑弥呼の「冢」は九州にある。しかし卑弥呼の「墓」は箸墓としたいが為、
卑弥呼の時代を崇神世とするが、崇神5,6年の凶作は、192,3年頃でなくては、説明出来ない。
最終的には、
使大倭監之 自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
大倭(大和)が日本統一で、終了するのが、魏の時代である。
日本統一は、景行によりなされる。
948日本@名無史さん:2010/10/25(月) 12:17:26
949日本@名無史さん:2010/10/25(月) 12:41:33
卑弥呼と同時代にマキムクに大きな勢力があった。可能性でいえば、畿内説が妥当であろう、程度。
大体の学者がこんな感じだろ。
絶対年代には慎重な立場の人が多いから、邪馬台国の話をしない人も多い。
白石は急進派なので、つい言い過ぎてしまうが(リップサービス)、捏造とか馬鹿らしい。そういう持説を述べてるだけ。
950日本@名無史さん:2010/10/25(月) 12:48:56
そうだ!金関先生も、白石先生も悪くない!
畿内説の有閑老人やメディアにリップサービスしてるだけ。

悪いのいつまでも証拠も出せず、枝葉末節で互いに足の引っ張り合いを続ける九州説だ!
951950:2010/10/25(月) 12:53:46
悪いのは、記紀はもちろん、

@近畿説と九州説を煽って視聴率(部数)を稼ぐマスコミと、
Aそれに乗っかって、九州説VS近畿説の企画展をやる歴史歪曲博物館のエセ考古学者と、
Bいつまで経っても証拠一つ提示できず、枝葉末節で互いに足の引っ張り合いを続ける九州論者だ!
952日本@名無史さん:2010/10/25(月) 19:24:32
>>951
>近畿説と九州説を煽って視聴率(部数)を稼ぐマスコミと

アホか?このスレにいるやつの大部分がマスコミのターゲットだろ。www
これは畿内説もアンチ畿内説も含めてのことだ。
953日本@名無史さん:2010/10/25(月) 19:44:42
>Aそれに乗っかって、九州説VS近畿説の企画展をやる歴史歪曲博物館のエセ考古学者と、

それってこの博物館のこときゃ?
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/tokubetsu/index.html

954日本@名無史さん:2010/10/25(月) 21:03:36
>>947
なるほどね〜
邪馬倭国と邪馬東倭国かぁ
955日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:40:40

■「曹操陵」、日本で初報告 奈良で11月、中国研究機関

共同通信 2010/10/25
http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102501000026.html

 日中韓3カ国の研究者が3〜4世紀の王墓について報告し合う公開講演会「東アジアの王墓と桜井茶臼山古墳」が11月3日、奈良県橿原文化会館(同県橿原市)で開かれる。
中国考古学研究機関のトップが参加。中国河南省文物局が昨年12月に「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の陵墓と発表し、注目されている王墓について日本で初めて報告する。

 中国社会科学院考古研究所の王巍所長が来日。「曹操高陵の発見と中国の墳丘墓・王墓形成」をテーマに講演する。
曹操は三国時代(3世紀)の魏の基礎をつくった後漢末期の武将として日本でも有名で、研究者だけでなく、ファンにとっても貴重な機会になりそうだ。

 河南省文物局は2008年12月から被葬者が分からなかった同省安陽市の王墓の発掘を始め、曹操本人のものとみられる遺骨や、曹操を示す「魏武王」と刻まれた銘文が見つかったことから断定し、発表した。
一方、中国の一部の専門家からは疑問の声も出ている。

 問い合わせは奈良県立橿原考古学研究所、電話0744(24)1101。


※参照 奈良県立橿原考古学研究所サイト

・第29回公開講演会を2010年11月3日に開催しますので是非お越しください!
http://www.kashikoken.jp/event/koukaikouenkai/2010/第29回公開講演会プログラム.htm

・ポスターはこちら
http://www.kashikoken.jp/event/koukaikouenkai/2010/公開講演会ポスター.pdf

・アトリウム展示「東アジアの王墓と桜井茶臼山古墳」(2010年10月20日〜11月30日)のご案内 UP!
http://www.kashikoken.jp/event/atrium/2010/higasiasia-no-oubo.pdf


※中国社会科学院考古研究所サイト
http://www.kaogu.net.cn/
956日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:45:53
↑橿考研のお知らせリンクがうまくいかなかったので、こちら↓から辿ってください。

※奈良県立橿原考古学研究所
http://www.kashikoken.jp/
957日本@名無史さん:2010/10/26(火) 01:13:26

■邪馬台国サミット、九州・畿内それとも山陰?

読売新聞 2010年10月24日
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20101024-OYT1T00451.htm?from=area1

 古代史最大の謎・邪馬台国の所在地を巡って考古学者ら3人が持論を述べ合い、古代日本の中心地がどこかについて考える「古代史(邪馬台国)サミット 古代史論争」が11月27日午後1時30分から、境港市民会館で開かれる。
 国の成り立ちについて考えようと鳥取、島根、岡山3県の古代史ファンらで作る「山陰古代史研究会設立準備委員会」が企画。

邪馬台国は吉野ヶ里遺跡(佐賀県)にあったと九州説を唱える奥野正男・元宮崎公立大教授(考古学)、
古墳の分布状況から畿内説を主張する松木武彦・岡山大教授(同)、
弥生期の遺跡の出土状況や神話などから山陰説を唱える田中文也・島根県立大北東アジア地域研究センター市民研究員
が、それぞれ持論を展開する。

 参加費は資料代を含め2000円。希望者対象の実地検証ツアー(申し込みが必要)も28、29日に予定している。
 問い合わせは境港市観光協会のファクス(0859・47・3885)、電子メール([email protected])へ。


※参照 さかいみなとポータル サイト
http://www.sakaiminato.com/

・古代史(邪馬台国)サミットのご案内 【11/27(土)】
http://www.sakaiminato.com/site/page/event/kodai/

・ポスター
http://www.sakaiminato.com/site/page/event/kodai/file01.pdf
958日本@名無史さん:2010/10/26(火) 01:36:31
>>957
今や残された九州説は有明湾近く、比較的ヤマト王権と距離を保っていた地域、
肥後や筑後の国になるのだろう。宇佐や日向、筑前はヤマト王権の影響が強すぎる。

残された邪馬台国候補地は、有明海沿岸部、出雲、東海、吉備→ヤマトくらいか。
959唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/26(火) 21:20:05
>有明海沿岸部、

ここも最初期の古墳の作られる場所である。
つまり日本武尊により滅ぼされた熊襲の地。
960日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:21:10
某スレより…

昭和57年唐古鍵周辺水中に没するの図
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/05_others/disaster-prevention/pdf/flood_map/flood.pdf
http://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/knowledge/sinsui5.html

まあこれを見ても如何に弥生人が低湿地の農耕を営む為
高いリスクをとったかが想像できると思うが…

じゃあ纏向はどうだったんだろう?
高い標高にあり扇状地が勾配がきつくて水田には向かなかったというが…

(1)新しい土木技術でその地での農耕を可能にした
  将来その田畑の痕跡や農作業に従事した人間の集落も見つかる。
(2)食料をはじめ生活必要物資は外部に頼った。
  と言うか洪水リスクと背中合わせのパンピーどもが作った作物を上納させて
  「今日もメシウマ状態」だったw

どうなんだろうか?

961日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:31:33
沢の水を引き込んで水利を確保できるので
山間地はべつに不利というわけではない。
氾濫や旱魃の影響を受けにくい。
むしろ、水田を水平に保つにはただっ広い土地よりも
小さく区切ってあったほうが有利。
962日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:42:39
まあ、弥生初期は傾斜地なら、棚田のような細長い区画の耕地が多かった
だろうけど、中期、後期と時代が進むごとに区画は大きくなっていってるね。
傾斜地は水のかけ流しができたのかもしれないけど、水路も早くから引かれて
るし、発達している。
963日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:43:53
>>961
まあ簡単に言えば棚田みたいなもん?

964日本@名無史さん:2010/10/28(木) 23:46:52
965日本@名無史さん:2010/10/29(金) 02:51:07
元陽県(雲南)の棚田
http://www.itukadokokade.com/yuanyang/pg13.html
新化県(湖南)も有名
http://www.fjms.net/Hydt/Details.aspx?ID=39112

いずれも古代夜郎国があった地方らしい。夜郎国の中心地=都についてはいろいろな説ある。
966日本@名無史さん:2010/10/29(金) 09:35:28
弥生中期の大中の湖南遺跡なんか、湖脇の低湿地でしょ。
増水したら水没してしまうような。
五所市玉手や纏向太田はほとんど平ら。
纏向はJRの東は傾斜が強くなるけど。
967日本@名無史さん:2010/10/29(金) 19:08:12
>>935
京都盆地は奈良盆地以上に、人が住める環境ではなかったんだよ
これは京都盆地内における弥生・古墳・飛鳥期の遺跡からも容易に推察できる
あそこがまともに機能するのは平安京創設からで、それすら右京部分はものの50年も経たないうちに再度湿地化する
水量が多すぎるんだろうね
今でも京都は、水をたっぷり含んだスポンジの上に街があるといわれるような状態だし
968日本@名無史さん:2010/10/29(金) 19:10:49
京都では良い水が湧くというのは、そういう地層構造に
原因がありそうですね。
969日本@名無史さん:2010/10/29(金) 19:15:06
>>967
水の上に文字通り”盆”がプカプカ浮いているイメージかな?
四方から地下に水が流れ込み出て行くのが山崎(サントリーの工場があるw)あたりからだっけ?

まあ逆に言えば地下水には恵まれているんだよなw

今でも市内の地下水を使った豆腐屋なんてのを随分昔だがTVで見た記憶がある。
(無論水質は役所にお墨付きを貰っている)
970日本@名無史さん:2010/10/29(金) 19:29:38
>>968-969
この過疎スレ(妄想に侵略されて困っているスレとも言う)に
一気にレスがあってビックリだよ

スレ違いっぽいけど、古代の集落建設要素に関連がありそうなので蛇足気味に

京都の地下水ってのは歴史的な名水と呼ばれるようなものでも、平安期にはわずか10bも掘ってなかったのよ
そこが枯れると更に掘る。すると20数bでまた別の水脈に当たる。
現在では100bも掘れば、冷泉が湧き出るくらい地下は水だらけなんだ。

地下鉄工事が30年もの工期をかけて数十倍の予算を必要としたのも、遺跡よりもこの地下水とその補償問題(井戸が枯れた)などが主要因だった。

ちなみに豆腐屋どころか、風呂屋も和菓子屋も染め物屋や料亭も、自前の井戸水を使っていて
自宅に井戸がない人は、近くの神社のお手水(これも井戸)から美味しい水をいただいているというのが今でもデフォだったりする。
意外なところでは京大の吉田寮でも自前の井戸がある。
あいつら水道代払ってないどころか契約すらしてねえwww
971日本@名無史さん:2010/10/29(金) 19:51:00
御所の南東角の川原町丸太町の北側(上ル)に、出水町というのがありますね。
972日本@名無史さん:2010/10/29(金) 20:13:46
>>971
梨木神社の近所ですね(てかもうこのスレも終盤間近だから、このネタで次スレに繋ぎますかw)
あの辺りは『井戸水が出るマンション』とかが売り文句になってまして
おそらくだけど御所西側の出水の小路につながってるんじゃないかと。

まあ世間話から古代にも関連が深い井戸の話に無理矢理持っていくと
『水脈』というとなんだか地下水路みたいなのを想像しがちだけど
実際は別府温泉なんかの微細な泥に混ざった水分が、汲み上げるうちに泥が落ちて水だけが出てくるといったもので
要するに京都盆地の地下てのは、粘土層が極端に少ないそうなんですよ。
これをスポンジと表現したわけで
普通は奈良にしても福岡にしても、粘土層とその上の泥炭層(いわゆるピート、葦の葉などの植物の腐った蓄積層、燃料などに使われる)があって
それが作物などの自然肥料になり、またその柔らかさゆえに開発も容易だったし、掘り出したものが燃料にもなるという
まさに人が生活するうえで一石二鳥どころか三,四鳥にもなるとうのが、弥生までの集落の特徴だもあった。
その有利な条件を一気に覆し、全く不利な土地を大造成して『使える土地』にしたのが纏向だったというのが、やっぱ日本史の嚆矢たりうるものなんだということなのだろう。
973日本@名無史さん:2010/10/29(金) 20:14:42
御所からズブズブの京都に追いやられた鴨たん
974唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/29(金) 20:33:39
ホ32148 コホのナツ アメヨソカふり ヤマシロダ アワウミあふれ タもミモチ 
ナゲキつぐれば ミコトのり ミケヌシオシに いのらしむ アワクニミヲに
タナカカミ ハレをいのりて カゼフなす これヲヲナムチ タナカノリ ミナツキソムカ
ヲコナヒは ミモムソうたひ ヲシグサに イタミもなをる マモリもて タにぬかづけは
よみかえり やはりわかやぎ ミヅホあつ タミカテふゑて にきはえは

孝元9年 梅雨の長雨で湖水が溢れて田が水に浸かるが、最終的には、豊作と成る。

975日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:03:45
>>972
>全く不利な土地を大造成して『使える土地』にしたのが纏向だったというのが

そこが疑問なんだよなあ。

先に出てきた傾斜地の棚田にしても
地味(土壌の栄養)収穫量はどうだったのか?が気にかかる。

土壌が雨で低い方へ一気に流出なんてことはそうそうなかっただろうが
やはり養分みたいなのがドンドン流出するのでは無いかと
その点低湿地なら有機分の堆積もあるだろうし…

寺沢が引いていた奈良平安の文献じゃあ田のランキング上下じゃあ4倍くらいの収穫量の差があったと思うが…

ここら辺農学の知識のある人に助言頂けたらありがたい。

やはり纏向の時代でも(河川氾濫リスクとは別にして)生産性自体は低湿地の方が上で
纏向はそこからの「上がり」で食っていたと言う話も可能性としてはあると思うが…

まあそこら辺が将来纏向から大きな集落群が出てくる可能性があるのか
それとも「無人都市路線」を行くかの分かれ目だと思うがw

個人的には後者の路線を突っ走ってもらいTigerwwwwwww  
976唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/29(金) 22:04:13
孝元天皇165年〜183年。孝元9年は170〜173年頃。
孝元9年 梅雨の長雨で湖水が溢れて田が水に浸かるが、最終的には、豊作と成る。
年輪降水量
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi
このグラフから、180〜200年頃に降雨量が少なかったことが確認出来る。
この事実は、日本でもこの時代が冷夏であったことをあらわす。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
新羅本紀
192年 4月大雪
193年 倭人が大飢饉となり避難民到来

192,3年が崇神5年と出来る。
977日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:06:37
>>960
> じゃあ纏向はどうだったんだろう?
> 高い標高にあり扇状地が勾配がきつくて水田には向かなかったというが…
> どうなんだろうか?

(2)に一票。

東西約2キロで100メートルの高低差がある。
後期後半までの遺跡がみられない。
鎌や鍬など農耕具の出土を見かけない。
978日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:15:13
>>975
>やはり養分みたいなのがドンドン流出するのでは無いかと

山羊や馬などの草食動物を飼う必要があるのですよ。
棚田というのは、半農半牧の産物なのです。
979太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/29(金) 22:24:01
新羅192,3年≠崇神5,6年
980日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:53:48
>>975
水耕は連作しても土地が痩せにくいんですよ。
水が養分を運んでくるのが前提の耕作です。
稲作の基本です。
陸耕は痩せます。供給してくれる媒体がないので。

後、稲の場合は水による温度管理が重要です。
981日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:57:21
ちなみに初期(縄文から弥生初期)の稲作は陸耕だったみたいです。
水耕の方がよく穫れるんです。
982日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:57:50
>>975
傾斜地 一反6俵 醸造用稲
低湿地 一反30俵 サイレージクロップ用稲
現代でもこれぐらい違う。
低湿地の場合は莫大な土木工事投資が必要。
こうなると、定住しないと元本が20年ぐらいでは回収できない。
983日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:20:28
栄養と言っても、いわゆる3大要素の窒素、燐酸、カリ、と
それ以外の微量元素がありまして、

田植え前に入れる元肥は3大要素で、
水によって運ばれてくるものは微量元素と思われます。
984日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:35:10
陸耕だと、微量元素が枯渇してきて
肥料入れても育ちが悪くなるんですよね。
985日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:44:33
>古代の水田立地は、海岸砂丘の後背湿地、あるいは河川の自然堤防の後背湿地。
 また主流河川の上部砂層の堆積作用が旺盛であったとき、それに合流する支谷が
 主流河川の氾濫原への谷口で閉塞され池沼ないしは湿地化し厚い泥炭層になった
 ところ。その他浅谷状湿地。

 (縄文後期、弥生時代水田遺跡の立地位置について 井関)
986日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:48:55
>>985
マコモ属 Zizania ワイルドライスのような感じですか・・・
987日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:51:56
弥生初期から「かたあらし」があったと考えられるんじゃないかな。これは耕地の半分くらいを休耕(荒田)すること。
988日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:59:04
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その13
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1288364315/
989日本@名無史さん:2010/10/30(土) 00:21:43
古代の水田稲作は盆地で始まったことは明らか。
盆地は風水害の被害も少ないし、冷害もない。
外敵の侵入も防げるし、まさに「まほろば」です。
日本の古代史は盆地で始まったことは確実で、
邪馬台国が奈良盆地でなければ、
ほかの盆地にあったことは間違いないことなのです。
990日本@名無史さん:2010/10/30(土) 02:33:46
スレチ承知ですが、悪しからず……。


■海外流出危機の考古学協会蔵書、寄贈先の英研究所が白紙撤回を了承

産経新聞 2010.10.30
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101030/acd1010300021000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101030/acd1010300021000-n2.htm

 日本考古学協会(東京、菊池徹夫会長)が所蔵する遺跡発掘報告書など約5万6000冊について、一括寄贈方針を臨時総会で否決された英国のセインズベリー日本芸術研究所が、寄贈白紙撤回を受け入れる意向であることが29日、分かった。
考古学協会は、同研究所がこれまでに負担している蔵書の管理費約150万円を返還する方針という。

 考古学協会は、今月16日の臨時総会の結果を同研究所に電話とメールで連絡。研究所の担当者は「蔵書問題で、日本との関係が悪化するのは避けたい」との趣旨の返答をしたという。

 さらに同研究所のホームページで「臨時総会の決定を全面的に理解し、尊重する。蔵書の管理を協会に戻す」とし、「今後も日本の考古学研究者と密接に協力したい」と公表した。
 協会と研究所は3月に寄贈に合意する覚書を交わしており近く、正式に覚書の白紙撤回に向けた協議を行うという。

 蔵書は当初、千葉県市川市の市立市川考古博物館や東京都内の倉庫に保管されていたが、考古学協会は保管コストがかさむとして寄贈先を公募し、同研究所に決定。
現在は、埼玉県所沢市内の倉庫に移して一括保管し、移送費や管理料は同研究所が負担している。

 協会の白井久美子理事は「寄贈の白紙撤回は残念だが、研究所が理解を示してくれてほっとしている。蔵書問題とは別に、さらに交流を深めたい」と話した。
991日本@名無史さん:2010/10/30(土) 10:56:10
エジプトやメソポタミアやインダス文明の遺産も大英博物館にあるし、
貧乏国からお金持ちの国に文化財とは流転するものです。
しかし、そうでなければ劣悪な状態で放置されて朽ち果てる。
カビだらけになったキトラ古墳の惨状を知れば、
民度の低い国民に文化遺産の保管をゆだねることの危険性が理解できると思います。
992日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:12:08
動かすことが不可能なものなら
世界遺産登録すればいいと思うのだが。。。
監視と融資が提供される。
993日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:23:14
>>989
2世紀の夜郎自大の夜郎国みたいな嗜好か?
夜郎国に比べると奈良盆地は冬が寒すぎる。
994日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:33:34
>>982
現代だから平地耕作が効率的になっていて
時代を遡っていくと差が小さくはなりませんか?
995日本@名無史さん:2010/10/30(土) 11:42:41
>>970
ヤミ井戸掘ったりして
砒素がはいってても知らないよ
996日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:03:13
>>989
山形盆地が出羽で割合栄えていたのはそういう理由だけど
最上川で外界と繋がっていた。
大和川というのは水運の面で便利だったのだろうか?
997日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:07:03
台風が入ってきた時に甲府盆地はめちゃくちゃ怖い。
減衰して3000m級の山を通過するるパワーが無くなって
全てのエネルギーを甲府盆地で蕩尽する。
998日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:16:56
>>983
砒素ですか?
999日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:24:00
>>997
それは3万年に1度くらいの確率、
要するに盆地というのは、天然のスーパー堤防で囲まれているようなものなのです。
1000日本@名無史さん:2010/10/30(土) 13:26:07
次スレ

【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その13
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1288364315/
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