新田と足利3

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1日本@名無史さん
語ろう
2日本@名無史さん:2010/09/22(水) 19:15:49
ぼくの親族も「新田」ですが関係ありますか?
新田恵利ちゃんは関係ありますか?
3日本@名無史さん:2010/09/22(水) 21:01:57
>>2
新しく作った「新田(しんでん)」で田んぼに糞尿撒いてた次男三男坊の子孫です。
4日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:13:52
新田vs上杉・・・・・・・・・タッチ
新田vs国生・・・・・・・・・おにゃんこ
5日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:31:18
>>4
ふむ、なかなか。
6日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:36:52
新田vs大空翼・・・・・・・・・
7日本@名無史さん:2010/09/27(月) 14:38:48
新田俊vs沸かしまず FW争いw
8日本@名無史さん:2010/09/28(火) 20:52:15
足利vs斑鳩

アシカがvsイルカが・・・・・・・・・・・・



・・・・・・・・・・・・・イカルがじゃん
9日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:35:42
新田と足利共通の祖先である
義家の男系子孫って継続してるのか
10日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:51:53
最近中央公論社のさいとうたかを先生の『太平記』を読んでこの時代に興味を持ちました。
それにしても、どうも新田義貞はあまりにもちょっとなんていうのか、
損な役回りだなと同情してしまいました。
個人的にはああいう実直な人は好きなんですけど。
でも一応足利兄弟の相手になったりしているわけですし、
まんざらだめだめな武将でもないと思うのですけど。
ミネルバ書房の人物叢書の『新田義貞』でも読んでみたいと思っています。
11日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:55:26
間違えました人物叢書は吉川弘文館でした。
吉川元春は陣中で太平記を書写したそうだけど、
それぞれの武将をどう評価していたのか少し気になる。
読書感想文?人物評みたいな記録があったら見てみたい気もする。
でも、徳川家康が新田の子孫を僭称するくらいだから、
あんまり悪いイメージをもたれていたわけでもないのかという気もします。
12日本@名無史さん:2010/10/10(日) 23:25:27
>>9
確かなところでは上杉が吉良の男系だからそこは義家の男系だな。
後細川も男系で続いているな。
13日本@名無史さん:2010/10/10(日) 23:53:53
【岩松頼有こそ、田島経政?】

暦応2年から伊予国守護、その後備後国守護として活躍する岩松頼有その人を岩松・田島経政の出家した姿か、後継者である可能性が高いという。
新田義貞の鎌倉攻めにおいて、岩松経家と並ぶ岩松軍団の大将として、新田遠江(田島)又五郎経政がその人であろうという。

 『新田町史』
14日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:22:21
新田義貞まんせ〜
15日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:23:19
山名氏、里見氏も新田の一族だと知って驚きました。
16日本@名無史さん:2010/10/12(火) 22:57:32
>10
太平記はじめ当時の読み物には新田義貞はなかなかの智将、猛将として描かれているよ
戦前に皇国史観で過剰に忠臣として持ち上げられた反動で、戦後、極端に貶められている
その意味で死後の毀誉褒貶が激しいひとりと言える
17日本@名無史さん:2010/10/12(火) 23:05:52
16の補足
智将というより配下の意見をよくとりいれて果断に実行に移すというシーンが少なくない
18日本@名無史さん:2010/10/12(火) 23:29:16
足利は源氏の足利が有名ですが、藤姓足利氏がその前にいました。
子孫の方、いますか?
19日本@名無史さん:2010/10/13(水) 14:03:26
>>16
なるほどねえ〜そうだったんですか、
ほんとにだめだめだったら部下にも見放されていただろうし、
そもそも足利兄弟の相手にもならなかったと思うのです。
後醍醐天皇にも信用されてるし。
ノブヤボ風に表現すると足利、楠木武力90、新田80くらいの
イメージでしょうか。
20日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:13:16
>>19
足利100に対して新田5くらいじゃないか。
つまり20分の1
21日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:19:02
高師直95
高師泰90
22日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:24:04
北畠顕家90
護良親王85
赤松円心80
23日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:28:03
名和長年50
千種忠顕50
結城親光50
24日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:31:32
佐々木道誉50
宇都宮公綱45
25日本@名無史さん:2010/10/13(水) 22:51:49
20倍の相手に互角に戦ったのに凡将扱いとは……
26日本@名無史さん:2010/10/14(木) 00:08:00
凡将かもしれないが
尊氏よりは有能だろう。
27日本@名無史さん:2010/10/14(木) 00:46:49
尊氏って面白い人だね、
なんていうのか、何が何でも天下取ろうとかじゃなくて
周りに押されてって感じが面白い天皇も敬っているし、
名誉とかを大事にして、すぐに出家とか、
死んだほうがましじゃとかいって戦国時代の武将とはまた違った趣がある。
28日本@名無史さん:2010/10/14(木) 00:52:13
素朴に思うんだけどこの時代の戦って
たとえば一回の中小御家人の新田義貞が
いきなり鎌倉攻めとかそういう大規模な作戦の
采配を振るうのってそういうのいきなりできるものなのかって疑問に思う。
戦国時代だと、大小の合戦で地道に采配の経験をつみながら
上達していくこともできたかもしれないし。
その変どうなんですかね?
新田義貞も個人的武芸とかの騎者三物とかはしていただろうし、
孫子とか六韜とか読んでそういう集団戦の演習みたいなものも
していたのだろうか?
29日本@名無史さん:2010/10/14(木) 00:56:45
あと奥州勢が二回目の上洛のときその通った後は
兵糧の調達で民家は略奪されて、荒れ果てたとか
戦国時代でも略奪強姦虐殺とか当たり前にあったと思うし
ま、この時代もそういう感じだったんだろうな
そうやって略奪された集落とかこの時代食料とか
ものすごく貴重だったと思うし、大迷惑だったと思う。
餓死者とかも出たんだろうなって思う。
秀吉が評判よかったのも、略奪とかしないで、
ちゃんと現地で金払って物資を調達したかららしい、
秀吉クラスの経済力をもってやっとそういうことが可能だったんだろう。
30日本@名無史さん:2010/10/14(木) 00:58:52
なんだかこの時代の戦争ってさいとうたかお先生の漫画読んだだけだけど
リーダーが現れて、そこに同調する武士団がわらわら集まってくるみたいな
感じだ、これを見て上杉謙信の小田原攻めとかと似ているなと感じました。
31日本@名無史さん:2010/10/14(木) 01:01:35
青野ヶ原の戦いとかでも傷ついてもう自力で歩けない兵士とかは
当然見捨てられて放置されていたんだろうなあ。
なんだかインパール作戦みたいでほんと哀れというか。
32日本@名無史さん:2010/10/14(木) 01:04:31
後この時代の戦争って戦国時代と比べて遠征の移動範囲が
広いですね、戦国時代は割りと国境紛争を延々としているという感じだ。
33日本@名無史さん:2010/10/14(木) 12:31:13
>>28
新田と足利には源氏の棟梁格という大層な肩書きがある。
この時代、それだけで大将として振る舞えたんだと思う。
土地をめぐる小競り合いは日常茶飯事だったとも云うし。
34日本@名無史さん:2010/10/14(木) 17:13:01
足利も残ったのは分家末席の更に分家か
35日本@名無史さん:2010/10/14(木) 18:23:21
尊氏って頼朝や家康と比較すると凡庸な人間だよなあ。
もう少し有能な人間だったら南北朝内乱も、あれほど長引かなかっただろうに。
36日本@名無史さん:2010/10/14(木) 18:33:12
頼朝の功績は担ぎ手のお蔭
37日本@名無史さん:2010/10/14(木) 20:14:59
それが解かってた頼朝と、勘違いした義経。
38日本@名無史さん:2010/10/14(木) 20:30:39
尊氏と直義とどっちがすぐれた武将だったんですか?
39日本@名無史さん:2010/10/15(金) 02:54:57
カリスマ社長と事務畑の専務。

合戦武将としての直義は戦歴観る限り殊更弱いが
尊氏だって決して優れた武将とはいえない。
40日本@名無史さん:2010/10/15(金) 05:51:26
ま、鬼のように戦に強い高師直がおるからねい。
41日本@名無史さん:2010/10/16(土) 02:39:51
高師直ってどうして強いんだろう
最後に負けたけど
42日本@名無史さん:2010/10/16(土) 15:52:40
高師直って東国の名門足利氏の執事なのに
東国の武士のタイプとは違い西国の悪党のような感じがする。
もともと足利氏には西国的な要素が存在したのかな?
43日本@名無史さん:2010/10/16(土) 16:31:28
そりゃ元をたどっていけば河内源氏だからな
44日本@名無史さん:2010/10/16(土) 17:36:11
伊勢平氏は西関東出身だが
東国的じゃあないな
45日本@名無史さん:2010/10/17(日) 21:40:29
新田次郎の見解は
元々の勢力比が1:100にもかかわらず、
一時的には五分の戦をした義貞を名将としているな。

その中で、次郎は義貞の子孫でないと明記していたな。
46日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:25:43
>>44
伊勢平氏って、小泉元総理の小泉氏のルーツとされてる平家の土地じゃん
小泉純一郎自身の系譜上の祖先は、江戸時代の江戸の大工までしか辿れてなかったようだったけど・・。
47日本@名無史さん:2010/10/18(月) 19:29:31
>>45
ヤフーの百科でも、元々の動因兵力に差があったのに
対抗馬に仕立て上げられ、悲運の運命をたどった人と同情的に書かれていますね
俺もやっぱり、鎌倉攻めや一時的にでも五分に渡り合った所は評価できると思います。
でもやはり尊氏とか正成に武将として劣るとは思います。
48日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:41:22
>>47
正成よりははるかにマシだろ。
正成の戦歴は千早赤阪城しかないし、和泉河内ニ国の守護なのに、一族郎党百数十騎しか動員できないし。
49日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:08:10
>>47

足利は、尊氏が棟梁タイプに対して
弟の直義が謀将タイプってのがよかったな。

新田は義助も義貞と同じタイプだったからなあ。
50日本@名無史さん:2010/10/20(水) 16:47:51
>>42
高軍は恩賞の評価方法が違ってたから(首じゃなくてもOKだっけ?)
無駄なく戦えて強かったとかじゃなかったっけ?
51日本@名無史さん:2010/10/20(水) 21:24:52
上と同じだけど、
師直軍は、
打ち取った証は、目撃者!制度にした。
従来や他は、首を持ち歩いてた。

だから強いって、見たわけではありませんが。
52日本@名無史さん:2010/10/21(木) 10:36:45
バサラなんだろう
53日本@名無史さん:2010/10/21(木) 10:55:06
>>44
> 伊勢平氏は西関東出身だが
> 東国的じゃあないな

伊勢平氏の祖は平貞盛だから東関東だろ。
その前の国香も高望も東関東。
54日本@名無史さん:2010/10/21(木) 18:58:28
その前か前の前は桓武天皇で奈良→京都だったな
55日本@名無史さん:2010/10/21(木) 20:11:17
足利一族の一色・吉良・細川・今川は三河に名字の地である所領があった。
それから足利の姻戚の上杉氏も京都出身。
足利氏は西国的な要素が強いかもしれない。
56日本@名無史さん:2010/10/21(木) 20:58:33
>>55
斯波は陸奥。
畠山は武蔵。
渋川・桃井は上野。
小俣・加古・板倉は下野。
西国的というよりは、
足利氏の所領経営の一端が垣間見えるようだ。
57日本@名無史さん:2010/10/21(木) 22:08:26
地方毎に有力分家1家+ザコ分家か


58日本@名無史さん:2010/10/22(金) 20:14:45
鎌倉時代末期に出てくる足利宮内大輔・足利上総三郎・足利上総前司・足利孫三郎
って吉良一族なのか?
59日本@名無史さん:2010/10/23(土) 00:24:50
>>55
足利支族の領地は地方でも生れ育った屋敷は鎌倉だよ
尊氏の母親は丹波育ち
60日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:04:53
>足利支族の領地は地方でも生れ育った屋敷は鎌倉

ソースお願いします。
61日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:11:48
土着してるほうが珍しいでしょ
62日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:26:15
上杉頼重って上杉庄にいたの?
63日本@名無史さん:2010/10/23(土) 01:37:15
清子も鎌倉の人?
64日本@名無史さん:2010/10/23(土) 02:12:25
空にのみ/ちるはかりにて/けふいくか/日をふる雪の/積らさるらん
贈従三位清子
65日本@名無史さん:2010/10/23(土) 02:39:39
>>59
吾妻鏡を見ると足利の支族は鎌倉でひんぱんに将軍の供奉などをしているから
たぶん末期も同じだろう。
66日本@名無史さん:2010/10/23(土) 05:41:28
義貞は千早城攻にも参加してるね?
途中で帰国し一族とともに鎌倉攻めの兵を挙げた(最初は少兵)
南下するにつれ兵が集まり見る見るうちに大軍となった(この機会に一旗挙げようというものが大半)
成就の後は途中から参加した義詮(尊氏の息、まだ幼児)に集まる勢力が義貞のそれよりを凌駕
今後の事を考え少しでも自分にな有利な方に付いたという事だろう

北条の時代でも足利は従四位に行ける家柄(歴代は国守、守護に就いてる)
対して新田は従五位下が精一杯(それもほとんどいない、一人だけ)
もともと武士の間の声望は大差
67日本@名無史さん:2010/10/23(土) 15:23:42
頼朝が新田義重の娘を側室にしようとしたが
義重が政子の怒りを恐れて娘を他の男に嫁がしてしまい
頼朝の怒りをかったという事件があったけど
もし、頼朝と義重娘の間に男子が生まれたら血統的には申し分なく嫡男だろうね。
伊豆の小豪族出身の政子が生んだ頼家とでは雲泥の差がある。
義重が死んだ時に政子が、蹴鞠に興じる頼家をたしなめたのは
「義重が頼朝の要求を拒否してくれたおかげで、あなたは将軍になれたのだから感謝しなさい。」
という意味があったのかもね。
68日本@名無史さん:2010/10/23(土) 16:49:32
>>55
尊氏や斯波ら有力御家人に子弟は鎌倉産まれ。新田クラスの中級は不明。
竹崎らの小物や直冬らの庶民階級生母組は生母出身地だろうな。
>>58
足利宮内大輔→足利泰氏
足利上総三郎→吉良満氏
足利上総前司→吉良貞義(鎌倉前期は足利義兼)
 足利孫三郎→斯波高経
>>67
北条は弱小弱小よく言われているが三浦氏や土肥氏といった有力者の嫡流と合婿なんだよな。
69日本@名無史さん:2010/10/23(土) 17:38:42
鎌倉時代末期に出てくる足利氏のことだから
足利宮内大輔→足利泰氏・足利上総三郎→吉良満氏はありえないだろう。
70日本@名無史さん:2010/10/23(土) 17:42:52
足利上総前司→吉良貞義
足利孫三郎→斯波高経

ソースが知りたい。
71日本@名無史さん:2010/10/23(土) 17:51:51
>>68
足利泰氏は宮内少輔。
>>58は、「光明寺残篇」に見える
足利宮内大輔のことを言ってるんじゃないかな。
「光明寺〜」の足利宮内大輔は、吉良貞家という説もあるけど、
佐藤進一のいうように、足利治部大輔の誤りだと思う。
足利上総三郎は、足利上総介の子供であるところの三郎だから、
義氏もそう呼ばれているし、
上総介になっている吉良満氏の子もそう呼ばれただろうね。
足利上総前司も、足利一族で上総介を辞している人物ならば
全て相当するよ。

72日本@名無史さん:2010/10/23(土) 18:04:31
>>70
「北条貞時十三年忌供養記」
に出てくる足利上総前司と足利孫三郎じゃないの?
だったら、吉良貞義と斯波高経であってるはず。
73日本@名無史さん:2010/10/23(土) 19:34:05
楠木合戦注文に出てくる「足利蔵人三郎跡」って誰だろう?
74日本@名無史さん:2010/10/23(土) 19:40:10
>>73
足利蔵人二郎=義助で、
桃井氏じゃないの?
75日本@名無史さん:2010/10/23(土) 20:02:53
>>71
光明寺残編所収の「楠木攻撃軍編成表」の「足利治部大輔」は尊氏だが
「上洛編成表」の「足利宮内大輔」は尊氏が父の死で上洛できないから彼の代理人だと思う。
しかし、尊氏は喪中を切り上げて京都に向ったから攻撃軍編成表に載ってるのではないかと・・・。
76日本@名無史さん:2010/10/23(土) 20:16:09
>>73
義助は鎌倉前期の人だろう
77日本@名無史さん:2010/10/23(土) 20:42:44
>>75
幕府による当初の上洛計画の交名だからこそ、
尊氏が載ってるんじゃないの?
この交名の割注にある国名は他の人物を見ても
守護であることが分かるから、、
三河正守護である足利氏当主尊氏でないとおかしいんじゃないかな。

>>76
「跡」だから、むしろ鎌倉初期で良いんじゃないの?
同じ交名にある「山名伊豆入道跡」は
鎌倉初期の山名伊豆守義範の子孫を指すのだろうし。



78日本@名無史さん:2010/10/23(土) 21:02:03
>>77
書かれてある人物が正守護と断定できるかどうか…。
例えば「武蔵左近大夫将監 美濃国」は、暗殺された北条時村の
子の貞熈か孫の高政あたりで、実際の美濃の正守護は連署の茂時ではないかと思う。
連署だから鎌倉を離れられず代理の人物に行かせたのじゃないかと。
だから、あの編成表に載っている人物は正守護とは限らないのではないかと。
79日本@名無史さん:2010/10/23(土) 21:23:50
>>78
美濃の守護は政村流じゃなかったっけ?
(典拠は佐藤進一と伊藤邦彦)
たしかに正守護とは限らないのは仰るとおりで、
正守護の代行の可能性はあるだろうけど、
鎌倉時代の吉良氏で、八省の大輔への補任を確認できる人物が
いない以上、尊氏以外を想定することのほうが不自然じゃないかな。
80日本@名無史さん:2010/10/23(土) 22:23:04
>>79
美濃国は政村流で時村が暗殺された以降も政村流だったと考えるの自然だと思う。
時村暗殺直後に子息の熈時等が安堵された関東御教書が出ているから。
佐藤氏は有時流の政高ではないかと推測してるけど違うと思う。
政村ー時村ー為時−熈時−茂時(連署)←美濃国正守護?
政村−時村−義村−高政(武蔵左近大夫将監)←美濃国守護代理?
政村−時村−貞熈(武蔵左近大夫将監)←美濃国守護代理?
たぶん「武蔵左近大夫将監」は時村男で熈時の養子になり茂時
の義弟だった貞熈の可能性が高いと思う。
81日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:05:50
尊氏の父貞氏は元弘1年9月6日(5日?)死去し、
幕府軍上洛が鎌倉を出発したのが元弘1年9月5・6・7日の3日間
だというから(鎌倉年代記)、いくら高時でもさすがに尊氏に父の
死去の当日か翌日に出陣しろとは命令できないだろう。
・・・とまあそう言うふうに考えると「足利宮内大輔」は尊氏ではない
のではと夢想してみただけです。
10月14日の楠木攻撃に参加しているから、喪が明ける前に出陣したのは事実で
太平記に書かれた「我父ノ喪ニ・・相催サル事コソ遺恨ナレ」と
いったのは元弘3年の時ではなくこの時の話だろうと。
82日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:15:23
>>74
同じく義兼の子息である義氏が「上総三郎」と呼ばれている
から義助も「上総二郎」と呼ばれていたんじゃないかと。
そう考えると「足利蔵人二郎」が義助である可能性は低いように思う。
83日本@名無史さん:2010/10/24(日) 09:43:51
>>81
貞氏が死ぬ前に出された交名だから
問題ないんじゃないの?
84日本@名無史さん:2010/10/24(日) 09:49:19
>>80
佐藤進一は伊具政高とは断定してないんじゃないの?
85日本@名無史さん:2010/10/24(日) 14:05:53
>>84
>>80佐藤氏は有時流の政高ではないかと推測してる
「推測してる」
86日本@名無史さん:2010/10/24(日) 14:29:01
>>83
>貞氏が死ぬ前に出された交名

根拠は?
87日本@名無史さん:2010/10/24(日) 17:06:15
>>86
佐藤進一「光明寺残篇小考」257頁。

この大将軍の一人にして、
上洛後楠木城攻撃の一方の大将となつた、
江馬越前入道の名が問題の交名の中に
見出せないことより考へて、
この交名は事実西上せる武将に非ずして、
当初の計画として記されたものと解すべきであらう。

とある。
9月5・6・7日に進発した上洛軍の交名そのものでなく、
それより前の計画ということであれば、
9月6日頃に没した貞氏の生前に出されたものという解釈で良いんじゃないの?
88日本@名無史さん:2010/10/24(日) 19:55:55
「此外諸国御家人上洛。図合二十万八千騎」(鎌倉年代記)とあるごとく
大兵力を上洛させたけど「光明寺残編」の上洛軍交名には約30人しか
ないから多数の漏れがあるだろう。
承久の変でも北条泰時は息子や弟を東海道上洛軍に同伴しているから
今回も北条氏が江馬越前入道などの一族を連れて上洛したのは不思議ではない。
逆に同伴しない方がおかしいと思う。
89日本@名無史さん:2010/10/24(日) 20:30:47
>>88
『鎌倉年代記』や「光明寺残篇」を見ると、
江馬越前入道は大将軍の一人だよね?
とすると上洛当時の交名から漏れるのはおかしくないか。

ちなみに、承久の乱の際の時房の立場は、
『吾妻鏡』には東海道大将軍として載っているし、
慈光寺本『承久記』によれば、
東海道の第二軍だから、泰時麾下とはいえ、
一応独立部隊扱いなんじゃないか。
90日本@名無史さん:2010/10/24(日) 21:26:17
江馬越前入道(宗朝?)の江馬(江間)氏は光時の乱後は
守護職にも幕閣にもなれない傍流一族だから武蔵左近大夫将監(貞熈?)
を差し置いて大将軍になれるはずがない。
鎌倉年代記のこの部分はちょっとおかしい。
91日本@名無史さん:2010/10/24(日) 21:31:43
時房は泰時の叔父で、私が言ったのは、
泰時弟の有時や子の時氏や一族の北条五郎とかのこと。
92日本@名無史さん:2010/10/25(月) 21:11:41
>>90
江馬越前入道は、
名越篤時の子時見に比定されてるんだけど。
「関東楠木城発向軍勢交名」を見ると、
西南の手の筆頭に記されており、
『鎌倉年代記』の記述を裏付けてると思う。
で、この交名に見える「遠江前司」が一応名越宗教に比定されてるよね。
私は同じ名越でも公篤じゃないかとは思うのだけど、
いずれにせよ官途から北条一門、それも名越流の可能性が高いと思う。
承久の乱でも名越朝時は泰時らとは別に北陸道の総大将であり、
北条一門、というよりも朝時の子孫、として扱われたんじゃないの?

>>91
承久の時点では、北条諸家は時房流以外は分家していないんだから、
当たり前じゃないの?
93日本@名無史さん:2010/10/25(月) 23:18:24
>>92
1.「江馬越前入道」は江馬宗朝で間違いないと思う。
2.確かに「西南の手 江馬越前入道」となってますね。「遠江前司」(名越?)の上位だが、
江馬はそれなりの家格が有ったのかなあ?
3.尾張国守護は名越宗基だと思う。「遠江守・遠江前司」はその子供ではないかと思う。

で、例の上洛軍の編成表なんだが不思議に思うことが2つある。
1.「□(越カ)州御手 信濃国」とあるがどうして「越後守 信濃国」と書かないのか?
他の守護は「□□守 □□国」となっている。
2.勢田橋警固とはなんだろう。
もしかしたら、この編成表は六波羅北方越後守仲時の家臣が京都で作成したもので
後醍醐が楯籠もる笠置攻撃の編成表かもしれない。
だとすれば笠置攻撃路にあたる勢田橋を佐々木氏が警固する意味もわかる。
まあ、私の空想だけど。
94日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:13:11
>>92
江馬宗朝は、『前田本平氏系図』と
『正宗寺本諸家系図』にしか登場しない人物だよね。
で、南北朝期成立の前者では
「江馬孫四郎」と注記があり、その子隆政(弥四郎)まで記載する。
成立年代を考えれば、越前守に補任されていれば
当然記載されていてしかるべきだと思うのだけど。
後者には確かに「越前守」の注記があるけど、
江戸時代成立の同系図がどこまで信用できるのか疑問だ。
これらからは越前守補任は各章がもてないんじゃないかな。
それとも、他に史料があるなら、御教示頂ければありがたい。
もっとも、名越時見も、先行研究での比定はやはり系図に拠っていて、
この点は疑問ではあるのだけど。

普音寺仲時の被官が作成したものというのは、
確かに興味深い説なんだけど、
そうなると、何故、
.「□(越カ)州御手 信濃国」
が交名中にまとめて記してある北条一門の中に含まれないのか、
仲時父基時が存命中にも拘らず、信濃守護は仲時が正員なのか、
そもそも、本当に欠損部分が「越」なのか、
色々疑問も出てくるね。
95日本@名無史さん:2010/10/26(火) 02:08:59
■「江馬江馬越前入道」の件
武家年代記に江馬遠江(守?)政俊卒とあり
嘉暦4年関東下知状に「江馬遠江守後家・江馬越前前司 伊賀良庄」
とあるから江馬姓で遠江守の子が越前守である人物は宗朝が適当ではないかと。
光時流の人物には一次史料で江馬を名乗る人が他にもいます。
例えば正和1年の関東下知の「江馬越後四郎光政」も光時子の光政らしい。(内閣文庫本平氏系図)
一方、名越流で江馬を名乗る一次史料はないようです。(私の見落としかもしれないが)
それから江馬越前入道が遠江前司の上位に来ているのは彼が江馬家の当主だからかもしれない。
■編成表の件
光明寺残編の日記は京都のみで関東の動静は書かれてないのに
関東が作成した上洛軍の計画書のみが存在するというのはちょっと不思議ですね。
「越州御手」が後ろの方なのは「御手」つまり被官が軍を引率する意味かもしれない。仲時は探題で出陣出来ないからかも。
それから楠木攻撃軍の交名ですが四カ国の軍勢が載っているが、守護や守護代が不明ですね。
太平記に塩田国時を裏切った人物に狩野というのがいるが、狩野氏は重時流の被官で信濃守護代なのかな。
96日本@名無史さん:2010/10/26(火) 02:11:50
>>95間違えた
江馬遠江守後家→江馬遠江前司後家
97日本@名無史さん:2010/10/28(木) 17:12:05
新田貞方は命乞いして斬られた
98日本@名無史さん:2010/10/29(金) 00:18:55
新田と恵利
99日本@名無史さん:2010/11/09(火) 19:41:55
尊氏は朝敵の妻を捨てなかったの
なんで側室置かなかったの
新田は向当内侍ロマンあるのに
100日本@名無史さん:2010/11/09(火) 21:41:05
直冬って知ってるかい?
101日本@名無史さん:2010/11/09(火) 22:28:38
>>101
討幕以降を言いたいんじゃないか。
102日本@名無史さん:2010/11/09(火) 23:37:39
>>101
バカに斟酌必要なし
103日本@名無史さん:2010/11/10(水) 10:35:40
足利直冬の生まれはいつか?
尊氏と登子の結婚はいつか?
104日本@名無史さん:2010/11/10(水) 11:36:43
でも、側室って特筆すべき何かでもなきゃ
歴史的にこれこれ何人って残されるものじゃなくね?
ttp://bdg.sakura.ne.jp/siseki/keizu/asikagakeizu.html
とかみると何人かはいたと読み取れるよ。
105日本@名無史さん:2010/11/11(木) 17:39:27
最低三人は側室or愛人がいる。
@加古基氏娘・・庶長子「竹若丸」母。尊氏反逆時に北条氏によって処刑
A越前局・・・・足利直冬母。遊女?
B不明・・・・・英仲法俊 、了清の母。共に直義養子の為、恐らく庶子
106日本@名無史さん:2010/11/12(金) 10:59:25
英仲法俊って、直義の養子だっけ?
それに、直義養子が庶出子
(恐らく嫡子に対する庶子ではなく、
庶出子の意味で使っているのだろうが)の証拠になるのなら、
基氏だって庶出子ということになっていまうのだが。
107日本@名無史さん:2010/11/12(金) 11:18:54
基氏はあくまで猶子じゃないのか
108日本@名無史さん:2010/11/12(金) 18:34:02
安東義顕
天野義興
小田義宗
千葉貞姫
109日本@名無史さん:2010/11/13(土) 17:46:40
貞方は縁戚の千葉氏に捕らわれたんだが泣いて土下座して命乞いして、無視されて処刑。
その様子は平治の信頼、源平の宗盛のようだと言われた。
110日本@名無史さん:2010/11/14(日) 17:27:38
出典は?
111日本@名無史さん:2010/11/15(月) 13:02:31
浪合記
112日本@名無史さん:2010/11/15(月) 14:25:05
浪合記のどこ???
113日本@名無史さん:2010/11/15(月) 21:10:43
貞方をば、門前に引すへ、千葉介して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。
我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、千葉介、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」
と申されしかども、鎌倉殿、「朝敵の最なり。とう<きれ。」との給へば、千葉介、此上は力及ばずとてたゝれけり。
やがて七里ヶ浜にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、千葉介は身内とこそきゝつるに、などや貞方をば申助給はぬやらん。」とて、
起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、幡谷刑部少輔切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。
大の男の肥え太りたるが、首は取られて、むくろのうつぶさまに伏したる上に、すなご蹴かけられて、折ふし村雨の降りかかりたれば、背みぞにたまれる水、血まじりて紅を流せり。目も当てられぬ有様なり。
114日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:30:18
新田貞方の末期についての資料、ご教示感謝します。
ただ、
浪合記 
http://homepage1.nifty.com/sira/namiai/n_hon.html
には該当箇所が見当たりません。これは異文か何かでしょうか?
115日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:43:40
確かに、見当たらないな
116日本@名無史さん:2010/11/17(水) 20:42:06
新田宗家や北條氏が北朝.鎌倉幕府に降伏したら許されたか。斬られたか。
117日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:15:00
118日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:29:58
明石覚一って人物が尊氏の父方の従兄弟らしいが貞氏に兄弟っていたの?
119日本@名無史さん:2010/11/18(木) 19:56:01
>>113
>血まじりて紅を流せり。目も当てられぬ有様なり。

近代以降の擬古典戯作かな? それにしてもあまり上手ではないね。
120足利高義:2010/11/19(金) 23:10:06
>>118
Wikipediaには従弟としか書いていないけど。
貞氏には満氏という弟がいたという説も。
そういえば山名時氏は上杉清子の従弟(だけど尊氏と2歳しか違わない)。
121日本@名無史さん:2010/11/27(土) 22:44:23
>>118
父方?上杉か赤橋の生き残りじゃね。
またははとこ世代の間違いか
122日本@名無史さん:2010/11/28(日) 00:20:27
で、結局、新田貞方の最期はねつ造だったんか?
123日本@名無史さん:2010/11/28(日) 02:06:05
鎌倉大草子に出てくる、竹之下で討死した新田相模守って誰なの?
124日本@名無史さん:2010/11/28(日) 16:14:56
徳川が新田系というのは、嘘だよな
125日本@名無史さん:2010/11/28(日) 17:19:44
今さらジロー三郎
126日本@名無史さん:2010/11/29(月) 02:32:34
いやしかし別に征夷大将軍になるずっと前から新田の徳川の子孫を名乗ってるよね。なんで?
127日本@名無史さん:2010/11/29(月) 03:03:54
>>126
1566年ね。しかも征夷大将軍になるまではずっと藤原姓だというんだから
わけがわからない。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E5.AE.B6.E5.BA.B7.E3.81.AB.E5.A7.8B.E3.81.BE.E3.82.8B.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E6.B0.8F
128日本@名無史さん:2010/11/30(火) 16:02:57
歴史をよく知る家康も源氏になりたかったワケだ
征夷大将軍ではなく源氏にね

その家康の祖とされる世良田頼氏(初代世良田氏)は三河守であったが
世良田頼氏の室は足利義氏の娘、初代吉良氏の吉良長氏の姉もしくは妹
三河守護の足利義氏が陸奥守武蔵守を拝命した3年間、婿として三河守護代理を務めていたようだ


なる程、系図上は家康も、足利宗家はもとより藤姓熱田大宮司、源頼朝と繋がっている


*藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
*藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)の室)→足利義兼→足利義氏→女子(世良田頼氏の室)


129日本@名無史さん:2010/12/01(水) 06:23:17
義国の母は公家の藤原有綱女なんかじゃなくて、藤姓足利氏女だよね。
在地有力豪族と姻戚関係を結ぶことも無しに、
親父が下野守を一期勤めたくらいで地方に根なんか張れるもんじゃない。
130日本@名無史さん:2010/12/01(水) 07:17:00
源氏長者ね
131日本@名無史さん:2010/12/01(水) 07:18:45
水戸徳川が尊皇だったのは、南朝を支援した新田を意識したんだろ
132日本@名無史さん:2010/12/01(水) 07:55:12
逆だと思う。
徳川本家が新田系を自認し南朝びいきで禁中並公家諸法度にみられるように北朝を冷遇したのに対して、現朝廷である北朝との関係にも保険をかけておいたのが水戸徳川家に与えられた家康によるミッションだったのではないか。
133日本@名無史さん:2010/12/04(土) 12:26:17
>>129
>藤姓足利氏女

その説は半世紀前に臼井信義氏が否定している。
今日日そんなこと言ってるのはいい加減な記述で有名な故奥富敬之ぐらいだよ。
134日本@名無史さん:2010/12/04(土) 16:56:59
>>133
その臼井某とやらの方が今ではよっぼど古い見解だよ。

曰く
「義家は東国武士の尊崇を集めて、東国武士たちはこぞって義家に所領を寄進し、義家は領家となった」だw?

それこそ
>今日日そんなこといってるのは
最新の学説から取り残された
>いい加減な記述
で飯を食ってるカビの生えたような連中だよ。

繰り返すが、親父・義家が下野守を一期勤めたくらいで、
在地有力豪族と姻戚を結ぶ(つまり在地豪族に婿入りする)ことも無しに、自身が下野の在地豪族化することなんて無理だよ。

それとも本当に下野の在地豪族たちが義家を崇め奉って、在地豪族と血縁も持たない義国のために貴重なテリトリーを献上したとでもw?
135日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:38:32
>>134は前提として
「自身が下野の在地豪族化」
と言っているわけですが、
そもそも義国・義康・義重が在地領主なのですか?
晩年はともかく、
若年期に義国が在地領主化していたなんて史料あるのでしょうか?
常陸合戦も、ただ義光らと常陸国で武力抗争をしていたというだけで、
義国の在地化を示す史料というには説得力が足りないと思います。
近年では、義国・義康・義重は、須藤聡氏が述べていますが、
むしろ軍事貴族としての側面が強く、基本的に在京していた、
と見られているわけですが。
136日本@名無史さん:2010/12/04(土) 19:59:43
とりあえず、ウチの前の道は、新田の鎌倉攻めの通路だった
137日本@名無史さん:2010/12/04(土) 20:02:27
所沢かいな
138日本@名無史さん:2010/12/05(日) 05:04:09
>>135
質問の答えになっていないよ。

在地領主化していないから、
つまり基本的には京で活動する京武者だったからといって、
源姓足利氏が下野を根拠地にしている以上、義国に下野豪族の血が入っていないと考えることの方がよほど現実離れしているよ。

では何故、源姓足利氏は下野国足利庄をその根拠地とすることが出来た?

臼井説に代表される、一昔も二昔も前に唱えられていた「義家権門説」がその論拠か?
地元豪族たちが神のごとく義家を崇拝して、下野足利郡を義家に「寄進」したからなのか?

今どきの学界でそんな説を唱えている学者なんて誰もいないよ。

そんな「神話」を拠り所とするくらいなら、素直に下野足利郡の在地有力豪族の婿に入ったからと推論する方がよほど理に敵う。

だいたい地方豪族なんてみなそんなもんだ(たとえ活動拠点を京に置いていたにしても)。
義家の岳父・平直方にしたって鎌倉に拠点を持つ京武者であったが、
直方の母方一族はおそらく鎌倉在地豪族だったと考えるのがやはり、理に敵ってくるだろう。

139日本@名無史さん:2010/12/05(日) 09:02:30
義国の母
中宮亮藤原有綱女説:尊卑分脈
藤姓足利氏女説:新田足利両家系図・類従本佐竹系図等
系図の信憑性としては前者の方が上のように思うけど。
140日本@名無史さん:2010/12/05(日) 09:06:59
>>138
>今どきの学界でそんな説を唱えている学者なんて誰もいないよ。

諸国の武士達は各々その所領を義家に寄進してこれを領家と仰ぎ、
その保護のもとに各自の領有地を確保しようとした。
そのために寛治六年には朝廷は義家が諸国に庄園を構えるのを
禁止したほどであった(後二条師通記)。
 ↑
これはが史実だが。
141日本@名無史さん:2010/12/05(日) 10:17:33
>>134
>在地有力豪族と姻戚を結ぶ(つまり在地豪族に婿入りする)ことも無しに、自身が下野の在地豪族化することなんて無理だよ。

臼井氏は
「義重が新田を領したのはその生母が上野介敦基の女である関係であろう。」
と言ってる。
義重って在地有力豪族と姻戚関係を結んだんだっけ?
142日本@名無史さん:2010/12/05(日) 12:28:53
>>138
>>139のいうように、史料の信憑性からすると、
日野有綱説に軍配が上がる。

>>138のいうことは、
「そういう可能性もあるよね」
という以上の何者でもなくて、
従来の説を否定できるほどの史料的根拠がない。

つまり、妄想。
143日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:37:16
>>139
現代の第一線の研究者の一人である関幸彦氏は、義国の母親を藤姓足利基綱としている(「武士の誕生」NHKブックス)。
144日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:45:18
>>140
>諸国の武士達は各々その所領を義家に寄進してこれを領家と仰ぎ、
>その保護のもとに各自の領有地を確保しようとした。
> そのために寛治六年には朝廷は義家が諸国に庄園を構えるのを
>禁止したほどであった(後二条師通記)。
>  ↑
> これはが史実だが。

嘘を言っちゃいかんよ。
同時代資料である「後二条師通紀」に、「諸国の武士たちがこぞって義家に所領を寄進」なんてことが書いてあるわけがない。
どこからの引用?

145日本@名無史さん:2010/12/05(日) 14:53:07
>>142
>>138
>>139のいうように、史料の信憑性からすると、
> 日野有綱説に軍配が上がる。

どう
>軍配が上がる
の?
>>139もあなたも全然その根拠を述べていないのだが。
まさか自作自演てことはないよね?

>>138のいうことは、
>「そういう可能性もあるよね」
> という以上の何者でもなくて、
>従来の説を否定できるほどの史料的根拠がない。
>つまり、妄想。

>従来の説
って何?
ごまかさないではっきり言ってよ。
「臼井説」?
&「義家権門説」w?
146日本@名無史さん:2010/12/05(日) 16:21:19
>>141
>臼井氏は
>「義重が新田を領したのはその生母が上野介敦基の女である関係であろう。」
>と言ってる。
>義重って在地有力豪族と姻戚関係を結んだんだっけ?

それについてはね、確かに上野介敦基による斡旋なども大いに関係しているとは思う。

しかし、義重には既に述べたように藤姓足利氏の血が入っているということが大前提になってくる。

この時代はまだまだ母系制の遺風が強く残っていた時代だ。
地方で勢力を築こうと思ったら在地豪族の存在を無視してはそれは決してできない。
藤姓足利氏とは言うが、更にいうとその母系氏族はおそらく両毛の地の古くからの名族である毛野氏なのであり、
その毛野氏の血が(藤姓足利氏を介して)入っている以上、もう義国‐義重父子が隣国(というかすぐ隣郡)の上野国新田郡に進出することはもはや然程困難なこととも言えないんだよ。
現に藤姓足利氏だってその根拠地は下野足利郡内だけじゃない。
淵名氏、林氏、園田氏などのように、その庶流一族は隣国上野にもやすやすと根拠地を広げている。
これらを可能にするのは藤氏、源氏に関わらず、在地豪族を既に母系で取り入れているからこそなんだよ。
147日本@名無史さん:2010/12/05(日) 16:53:03
関幸彦〜?
関は、足利・新田氏のことなんか分かっちゃいないよ。
大体、関は最近まともに論文書いてるかよ。
148日本@名無史さん:2010/12/05(日) 16:57:18
ついでに聞いておくけど、
まさか>>138は、『尊卑分脈』と
鑁阿寺本「新田足利両家系図」、『類従』本「佐竹系図」
の成立年代を知らないという事はないよね?
系図史料だから『尊卑分脈』が必ずしも正しいとは言わないけど、
研究者だったら、『尊卑分脈』と後者だったら、普通前者を取るよ。
149日本@名無史さん:2010/12/05(日) 17:37:25
鎌倉期の編纂物だが『百練抄』寛治5年6月12日条に、

諸国百姓、以田畠公験好寄義家朝臣事、

とある。
150日本@名無史さん:2010/12/05(日) 17:41:10
>>147
どう
> 関は、足利・新田氏のことなんか分かっちゃいな
くて、
> 最近まともに論文書い
ないのか具体的に教えて!

それと
>>133から始まる君と僕との論争だけど、先に質問しているのはこちらの方だよ(現在における「臼井説」、「義家権門説」の妥当性、源姓足利氏が下野に根拠地を築くことが出来た理由、君の言う「後二条師通紀」とやらの本当の引用先、etc)

何故これらに答えない?
何故矛先をそらしてくる?

「関は大したことはない」
なんて豪語するほどだから、君はよほど歴史に精通しているんだろ?
だったら上の質問に是非答えてくれよ。
151日本@名無史さん:2010/12/05(日) 17:54:57
>>147
こちらの質問にまるで答えてくれない上に些末なところに難癖ばかりつけてくるので本当は答える義理は無いのだが・・・

「尊卑分脈」の重要性については重々承知しているよ。
俺自身、他スレでは編者の洞院公定がいかに一級の知識人だったかも含めてその重要性をレスしてる。

しかし、そんな分脈ですら諸状況に照らして妥当とは言えないところもある。
この源姓足利氏の成立に関する場合が正にそれだよ。
152日本@名無史さん:2010/12/05(日) 18:21:27
>>150
そもそも下野に根拠地を築いていないから。
義国流は京都の軍事貴族であり、
在地領主ではない。

それから、君の言う「義家権門説」とやらだが、
『百練抄』寛治5年6月12日条や
『後二条師通記』同日条など、少なくとも
「権門」と呼ぶに足る根拠はあるじゃないか。
では、逆に義家が「権門」ではないとする理由は何だ?

あと、俺は>>133じゃないから。
153日本@名無史さん:2010/12/05(日) 19:20:37
>>152
> そもそも下野に根拠地を築いていないから。
> 義国流は京都の軍事貴族であり、
> 在地領主ではない。

それについては>>138でとっくに答えているよ。
いい加減ごまかしはやめとけ。

> それから、君の言う「義家権門説」とやらだが、
> 『百練抄』寛治5年6月12日条や
> 『後二条師通記』同日条など、少なくとも
> 「権門」と呼ぶに足る根拠はあるじゃないか。

「百錬抄」・・
出してくると思ってたよw
同書は鎌倉時代末期に編纂されたもので、君も散々挙げている「後二条師通記」などから纏め直したものらしい。
つまり、同時代記録である「後二条師通記」などよりも2世紀も後世になって書かれたもの。
当然事実誤認なども多い。

> では、逆に義家が「権門」ではないとする理由は何だ?

これについては文字数が多くなりそうなのであとで。

> あと、俺は>>133じゃないから。

自演する奴の常套句だが、まあそういうことで良いよw。


それで>>140での
「後二条師通記」
あれはいったい何なのw?
誰の書物からの引用?
154日本@名無史さん:2010/12/05(日) 20:16:14
>>138
>直方の母方一族はおそらく鎌倉在地豪族

>>146
>藤姓足利氏とは言うが、更にいうとその母系氏族はおそらく両毛の地の古くからの名族である毛野氏

貴殿のカキコは「おそらく」ばっかりw

ついでにいうと私も152じゃないから。
要は貴殿の見解に反対する人間が複数(多数)いるってこと。
155日本@名無史さん:2010/12/05(日) 20:20:36

>>143
>関幸彦氏は、義国の母親を藤姓足利基綱としている
ほう、母が足利基綱か。
足利基綱って女性だったのか。

とまぁ揚げ足取りはさて措き、関説も推測の域を出ない訳で、
一般読者向けのいい加減な記述で知られる奥富敬之も
「有綱」だと適当な候補が藤姓足利氏にいないとかいう理由で
たしか基綱女とか言ってたよ。
156日本@名無史さん:2010/12/05(日) 20:27:42
それと質問への答え。
>>140の「諸国の〜」以下は臼井信義氏「尊氏の父祖」から丸写し。
出典示さなかった点は素直に悪かった。
157日本@名無史さん:2010/12/05(日) 20:29:02
で史実ってのは
「朝廷は義家が諸国に庄園を構えるのを禁止したほどであった」
のこと。
158日本@名無史さん:2010/12/05(日) 20:45:36
・義家が「権門」でない理由

ここではとりあえず元木泰雄氏の説から援用させてもらうが(自分もほぼ全く同意見なので)、
氏は、義家はたかだか四位の受領階級に過ぎない上、
後三年の役ではその受領としての役目も満足に果たせず、受領功過定にパスしなかったような者が、
上級公卿と同様の領家、本所の類いになれる訳がないという主旨のことを述べている。

受領階級ということは、
寄進を受ける側ではなく、自身が自己の所領を権門に寄進して保護を受ける側であることは言うまでもない。

事実、義家は他の諸大夫身分の受領階級たち同様それをやっている。

従って「後二条師通記」における「諸国百姓からの寄進を停止す」の意味は、
出羽、下野などで受領という職掌を通じて関係を持ったであろう当該国の在地領主たちが、所領を京の権門に寄進するその「仲介」役を果たしていたのが義家なのであり、
その仲介・斡旋を(先の出羽守赴任時での失態の懲罰の意味も込めて)「停止す」の意味にとるべきだとする(「武士の成立」)。

全くその通りと思う。
159158間違い:2010/12/05(日) 20:50:51
出羽守 ×

陸奥守 ○
160日本@名無史さん:2010/12/05(日) 21:11:05
>>154
> 貴殿のカキコは「おそらく」ばっかりw
>ばっかり

というわりにはたった二ヵ所だねw

> ついでにいうと私も152じゃないから。
いや、だからそういうことでいいですよって(いろいろ口調を変えているようではあるけどね)w

> 要は貴殿の見解に反対する人間が複数(多数)いるってこと。
=要は未だにこのスレでは臼井信義とやらの説にしがみついて、
学界ではとっくに否定されている、「義家が権門」だった等という旧説を頑なに信じている人間が複数(多数)いるってこと

になるね。

にわかには信じ難いが、まあそれならそれでも良いですよw

161日本@名無史さん:2010/12/05(日) 21:42:16
>>153
答えてないってwww
だから、足利氏は
「在地領主」じゃないの。
足利荘も義国・義康段階では
「根拠地」
と呼ぶに足る場所であったか。
162日本@名無史さん:2010/12/05(日) 21:44:22
結論としては、
義国母=藤姓足利氏というのも
160氏お得意の「おそらく」ってことで宜しいかな。
あまりみんなを説得できなかったみたいだけど。
163日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:09:50
>>162
> 結論としては、
> 義国母=藤姓足利氏というのも
> 160氏お得意の「おそらく」ってことで宜しいかな。

そりゃ尊卑分脈含めても後世編纂の系図資料しかないのだから「おそらく」と推論にはなってくる。
ただ>>151でも述べたように、その尊卑分脈ですらやはり諸状況から妥当性を欠く部分は存在するのであり、その場合は他の資料なり、当時の「時代」という状況証拠なりから当たって最も適切な推論を導く、ということはしなければならない。

> あまりみんなを説得できなかったみたいだけど。

俺が「おそらく」が好きなら、
君は「みんな自分と同じように思っている」とか、「ここにいる多数の者は君を支持してない」とか
「みんな」を引き合いにするのが好きみたいだねw

164日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:14:55
ついでにいうと「理に敵う」じゃなくて「理に適う」だろう。
165日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:16:43
言っとくけど、俺の説が推論なら、
臼井信義氏や竹内理三氏や安田元久氏の述べる「義家権門」説も推論に過ぎないんだよ。

古く、その後の研究の進展からもはや成り立たなくなった「推論」から、より確実性の高い「推論」に移行する。
学界でもそれをやっているんだよ。

「関幸彦よりは」立派な論文が書ける君ならば分かるだろ?

166日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:16:56
>>163
いや、多数を説得できるかは重要なポイントだと思うけど。
(このスレでの多数って意味じゃなくてだが)
167日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:18:15
>>163
>最も適切な推論

大した自信だ。いやそれならそれで構わんのだが。
168日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:19:51
>>164
あい変わらず本題と関係ないところでの「揚げ足とり」が多いとはいえ

失礼しました。
169日本@名無史さん:2010/12/06(月) 00:27:36
全国的な権門としては疑問でも、義家は下野守になっているのだから、任期中には下野国内では権門として君臨し、その時に獲得した所領を義国が相続したのではないか?
170日本@名無史さん:2010/12/06(月) 04:29:09
鎌倉は古代からそこそこ栄えてた
鎌倉郡の中心だし、
最初は平氏が治め、忠常の乱を、直方の代わりに討伐してあげたのが義家?頼義?
そこから源氏の土地になったんだっけ?
義朝が、初めて入植したわけではない
171日本@名無史さん:2010/12/06(月) 11:53:44
>>170
河内源氏は関東にそれほど領地を持って無かったよ。
面ではなく点と点ね。
172日本@名無史さん:2010/12/06(月) 14:23:46
>>171
鎌倉ももともとは桓武平氏の土地だよね?
その前は、国造、、
なんか、頼朝が初めて鎌倉を拓いて、それまでは、原野だったという認識されすぎてない?
173日本@名無史さん:2010/12/06(月) 14:29:45
>>172
頼義が直方の婿になったときに、ダウリーとしてもらったのが鎌倉。
知ってる人は知ってるから安心しよう。
174日本@名無史さん:2010/12/06(月) 15:39:48
>>173
直方はなんで鎌倉を選んだので?
175日本@名無史さん:2010/12/06(月) 20:33:00
>>174
直方が頼義の武勇に惚れ込んで「是非我が家の婿に!」

となったと一般には言われている。
176日本@名無史さん:2010/12/06(月) 20:34:31
アンカー間違えた
>>170
177日本@名無史さん:2010/12/06(月) 20:47:11
でも頼信に忠常があっさり降伏したのは、忠常が頼信の家人だったからなどと言われているが、
実際には直方による征討戦で、忠常は疲弊仕切っていたんだよね。
忠常としては既に戦闘継続能力は残っていなかったから、降伏する機会を待っていたとも言える。

可哀想なのは実質的に忠常をそこまで追い込んだのに、征討に失敗したとみなされて解任された直方だよ。

頼信は何もしていない。
178日本@名無史さん:2010/12/06(月) 21:38:50
新田も足利も河内源氏ってのは知ってたけど
源義国の長男(新田)次男(足利)だとは知らなかった
179日本@名無史さん:2010/12/06(月) 22:18:35
北条時政は直方の子孫
180自称子孫は贔屓の引き倒し:2010/12/07(火) 00:02:42
>>177
いやいや、頼信の存在自体が忠常の降伏を実現したんだから
何もしてないなんて言わないでやってよ。

頼信は忠常を京に護送の途次、
「このまま上洛しても刑死は免れぬ。
ならばこの場でもののふらしく自裁せよ。
お前の息子たちについては、この頼信が赦免を執り成すゆえ安心致せ」と。
公式には忠常は病死とされているのは周知の通り。

そして時は流れ、頼信の子孫(頼朝)のもとには
忠常の子孫(上総介広常、千葉常胤)が馳せ参じるのであった。
181日本@名無史さん:2010/12/07(火) 12:14:36
直方の母は?
182日本@名無史さん:2010/12/08(水) 00:35:48
>>181
平姓鎌倉氏の母系氏族にもあたる丸子連氏とか、鎌倉別氏とかそのあたりと考えている。また、この両氏はその由来から密接に関係して(ほとんど同一氏族化して)いるとも考えられる。
183日本@名無史さん:2010/12/08(水) 02:21:30
北条は平家代官として下行して日が浅いって事実?
184日本@名無史さん:2010/12/08(水) 06:54:51
>>182
丸子、、これは、系譜ある?
185日本@名無史さん:2010/12/08(水) 07:40:35
>>183
北条が本当に平氏であったかも疑問がある。自称の可能性あり。
ちなみに時政はもともと北条氏の嫡流でなく、傍流であったのは確実。
186日本@名無史さん:2010/12/08(水) 11:21:21
北条氏は源氏だったのか?
187日本@名無史さん:2010/12/08(水) 13:20:33
>>185
坂東八平氏自体、、平氏か疑わしい
188日本@名無史さん:2010/12/08(水) 15:35:15
ほとんどの鎌倉武士の祖先が源平藤に
つながるのはどうしてなんですか?
やっぱりニセ系図なんですかね?
189日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:03:33
>>188
承平天慶の乱での功績者の子孫が狭義の武士だから
190日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:17:52
>>184
>丸子、、これは、系譜ある?

残念ながら無い。
だから、古代、前代からの鎌倉(郡)で勢力を有していた豪族という状況証拠から。

>>189
その通りなんだけど、
そうなると秩父、上総、千葉、三浦、中村などの坂東平氏諸氏は何故に良文流平氏を称す(招婿した)のか疑問になるんだよね。

良文は承平・天慶の乱鎮圧勲功者とは言い難いから。

191日本@名無史さん:2010/12/09(木) 01:35:51
>>189
学説的には、延喜寛平勲功者子孫もプラスする。
藤原利仁、平高望
192日本@名無史さん:2010/12/09(木) 06:12:59
>>191
>学説的には、延喜寛平勲功者子孫もプラスする。
>藤原利仁、平高望

そうだね。
そもそも朝廷が承平・天慶乱鎮圧者に異例の高い勲功を与えたのは、
その前時代の寛平・延喜東国の乱、および承平南海賊の乱鎮圧者たちに碌な恩賞を与えなかったため、不満を持った鎮圧者やその子孫たち(将門、純友、玄明ら)によって承平天慶の乱が起こされてしまったその反省からだと言われる。
従って、天慶の乱後に朝廷は、そこから遡る形で寛平・延喜勲功者子孫の内、将門や純友に与しなかった者たちにも、ある程度の武官職に就けるなどの優遇措置を施していったという側面もあるかもしれない。
193日本@名無史さん:2010/12/09(木) 17:12:15
>>183
始めて聞いた
ソースは?
194日本@名無史さん:2010/12/09(木) 18:39:01
>>193
>>183ではないが、

平家代官とあったかどうかは覚えていないが、確か
2、3年前の新聞に、
比較的新しい時期(治承寿永期?)に京から下向してきた武家官僚的一族である可能性が高い
との記事が出たとかいうのがこの板で話題になってたぞ。

なかなか興味深いと思って読んでいたのだが、結局雲を掴むような内容だったような。

誰か覚えている御仁はいないか?

195日本@名無史さん:2010/12/09(木) 19:56:52
>>194
野口実の説?
あれも結局傾聴に値はする、
という評価以上じゃないような気がするなぁ。
196日本@名無史さん:2010/12/10(金) 15:10:40
野口実氏が「北条氏は平家代官として伊豆に下向した」と言っているのか?
197日本@名無史さん:2010/12/12(日) 20:18:33
足利宗家
斯波氏
西条吉良氏
畠山氏
渋川氏
岩松氏
今川氏
堀口氏
新田宗家
山名氏
大館氏
その他足利庶家
その他新田庶家
198日本@名無史さん:2010/12/12(日) 20:38:12
石橋氏、東条吉良氏、石塔氏は?
今川氏は細川氏と同じくらいで一色氏より下じゃないのかな?
199日本@名無史さん:2010/12/12(日) 20:58:37
斯波氏て岩手だろ、田舎から大物が、
200日本@名無史さん:2010/12/13(月) 04:53:25
斯波氏は所領が陸奥の紫波郡にあっただけで、鎌倉中期は、下向はしてないはず。
斯波氏は足利泰氏と、前妻の名越朝時の娘との間に出来ためかけ腹の子。後から得宗家から後妻が入り頼氏が生まれたので本流から外れた。
ただし名越は、北條の有力一族の血筋なので、斯波は、足利一族のなかで、宗家とならび足利を名乗ることを許されていたから鎌倉に在住していたはず。家時自刃後に斯波氏が家督代行をしてた様子があるので田舎侍扱いは間違い。
斯波イコール陸奥の国、紫波郡領有の端緒は、母の朝時娘の名越家から嫁ぐ際の化粧料として足利に渡された可能性が高い。※陸奥国は、源氏将軍滅亡後、北條氏の所領集中が進んだ地域だから。
201日本@名無史さん:2010/12/13(月) 22:45:12
ふむふむ
202日本@名無史さん:2010/12/14(火) 20:35:34
斯波西条吉良は別格で細川仁木はかなり下
203日本@名無史さん:2010/12/14(火) 20:40:29
足利一門は室町開いて繁栄したけど、
同系の新田の劣化は、やっぱりノー幕府だからだね
204日本@名無史さん:2010/12/14(火) 22:23:52
大館が将軍家側近になったきっかけって何なの?
205日本@名無史さん:2010/12/22(水) 08:34:14
空華集「三河国碧海荘は管領家、斯波義将の墳墓の地である」

足利家氏(初代斯波氏)は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し、そこが本拠地


滝山寺における足利義氏一周忌関係者
・足利家氏(斯波家氏)
足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納

・足利義継(吉良義継)
初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・藤原俊継(伊勢俊継)
初代伊勢氏、、叔父と従兄弟が滝山寺の僧侶、田畑寄進


室町幕府の政務執事で著名な伊勢氏であるが、三河国額田郡の伊勢神宮領に由来が濃厚
藤原俊継の父である藤原俊経は、滝山寺に持仏堂を造営し、足利義兼と真福寺に法華堂を造営
足利一族と伊勢氏との繋がりは、三河国で足利義兼の代まで遡る
206日本@名無史さん:2010/12/27(月) 22:41:39
新田恵利
207日本@名無史さん:2010/12/31(金) 16:55:44
南朝尊皇なのに、、子孫、力なかったね新田、、明治政府、優遇してやらんかったんか?
208日本@名無史さん:2010/12/31(金) 17:27:30
尊氏も北朝の尊王
209日本@名無史さん:2010/12/31(金) 17:56:05
新田氏は上西入道以来、今なお上州の雄として割拠してます。
210日本@名無史さん:2010/12/31(金) 22:31:48
尊氏が有能な政治家だったというエピソードはありますか?
優柔不断で無能だったというエピソードはゴマンとあるらしいけど
211日本@名無史さん:2011/01/01(土) 00:27:29
後醍醐は無能だろ
212日本@名無史さん:2011/01/01(土) 00:44:04
>>205
伊勢氏って貞親や5北条氏出した伊勢氏?
平姓の平家生き残り武将の拾われ者じゃないの?
213日本@名無史さん:2011/01/01(土) 02:17:46
伊勢氏

新編岡崎市史20(総集編) 足利家の根本被官で室町幕府政所執事などを務めた武士。ふつう桓武平氏で平季衡の子孫とする。
『滝山寺縁起』にみえる足利家被官の藤原俊経(肥前前司)・藤原俊継(伊勢前司)は「伊勢系図」にのる同名の人物と官途が一致するので伊勢氏の先祖にあたるとみられる。
とすると桓武平氏というのも必ずしも信をおけないことになるが、もとは藤原姓であったのを事情あって後に平氏に変えたのかも知れない。
『縁起』に登場する伊勢氏は、俊経・俊継父子のほかに、俊経の兄弟に滝山寺僧円辰、その子に同じく増恵がおり、鎌倉中期の滝山寺の隆盛に尽くしたひとが多く出た。
鎌倉時代の伊勢氏について知りうることは少なく、上総で足利貞氏の守護代を務めた伊勢九郎宗継がいるが系図にはあらわれない。
康暦元年(1379)に尊氏の近習であった貞継(俊継の孫)が政所執事に任じられ、以後伊勢氏がこの職を世襲した。ほかに将軍右筆や御番衆になった一族もいる。
明徳2年(1391)伊勢貞行が御料所額田郡山中郷の代官に任じられ、以後山中郷は伊勢氏の所領となった。寛正6年(1465)当時、山中郷代官は伊勢氏被官の蜷川親賢であった。


伊勢俊経

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉前期の武士、足利氏被官。『滝山寺縁起』に肥前々司藤原俊経(法名願仏)と見える人で、足利氏被官伊勢氏の先祖とみられる。
弟相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶であった。滝山寺に持仏堂を建て、古市場御油畠などを寄進した

伊勢俊継(初代伊勢氏)

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉中期の武士で足利氏被官。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継とある人で、肥前前司俊経の子。
滝山寺に足利義氏追善のため檀那として法華堂を造営し、田畠3町8段をこの堂に寄進した。
また碧海荘青野・宇祢部の料田畠も足利(斯波)家氏に働きかけて寄進させた。そのほか滝山寺の諸造営にかかわって財政的な援助を惜しまなかったのは、
叔父の円辰や従兄弟の増恵が滝山寺僧侶であったからであろう。


214日本@名無史さん:2011/01/01(土) 02:28:54
参考

同地域で藤原氏が伊勢氏を名乗った事例


藤原惟康(伊勢惟康もしくは高橋惟康)

大森葛山の祖・維康(惟康)について、「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」と上記「姉小路系図」に註記される
高橋庄は高橋郷(現豊田市高橋辺り)を中心に豊田市域の北部中央、矢作川中流を挟む一帯から尾張国境に及ぶ庄域をもった大荘園であり、十一世紀頃の開発とされる。
安元二年(1176)二月日の八条院領目録に庁分御荘として参河国高橋・参河国高橋新庄があげられる。

215日本@名無史さん:2011/01/01(土) 04:32:35
伊勢守になった藤原氏内のある者が、伊勢姓を名乗ったということか?
216日本@名無史さん:2011/01/01(土) 04:33:43
藤原氏内→藤原氏の内
217日本@名無史さん:2011/01/01(土) 06:00:17
あけおめ。
ことよろ。
218日本@名無史さん:2011/01/01(土) 11:01:07
>>214
追記

■藤原道隆(藤原道長の兄)→伊周→忠頼→惟康(伊勢惟康)
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku12.html


■藤原実範(三河守)→女子(兄は藤原李兼(伊勢権守令、別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住))→伊勢惟康

219日本@名無史さん:2011/01/01(土) 12:01:32
>>215
詳細不明だが、伊勢国、伊勢神宮、伊勢神宮領に関係する藤原氏と言うことだな
滝山寺は辺鄙な田舎にある寺だが、現在の本堂は足利義満が立て直したもの


同時代に滝山寺関係者
・藤原範忠■二代目藤姓熱田大宮司、源頼朝の母の兄、滝山寺領を確定するなど、最高責任者の立場であったもよう
・藤原寛伝■滝山寺僧侶、藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟
・三河祐範(藤原祐範)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄、頼朝(伊豆時代)の援護者
・三河仁憲(藤原仁憲)■滝山寺僧侶、三河祐範の息、源頼朝の従兄弟、吾妻鏡に登場
・粟田口長暹(藤原長暹)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄
・藤原朝氏(野田朝氏)■初代野田姓熱田大宮司、室は足利義兼の娘
・足利義氏■本堂造営
・足利頼氏■一切経蔵の経会料所寄進
・足利家氏(斯波家氏)■初代斯波氏、足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納
・足利義継(吉良義継)■初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・世良田頼氏■初代世良田氏、足利義氏の娘婿として、短期間三河守護代を努めたもよう
220日本@名無史さん:2011/01/03(月) 18:30:48
足利讃岐入道の家来の上総国守護代平宗継は伊勢氏なの?
だとすると平氏?
221日本@名無史さん:2011/01/05(水) 21:09:53
あだち充は群馬県民なんで、
地元に所縁のある名を取って
主人公を上杉
そのライバルを新田
とした。
222日本@名無史さん:2011/02/06(日) 23:22:03
age
223日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:40:21
今川は吉良家別家っていう扱いなのだろうな。
224日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:51:35
たんなる分家じゃなくて。
225日本@名無史さん:2011/02/07(月) 10:01:05
なんつーのそういうの。
226日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:43:29
【三代将軍足利義満時代の幕府内支配層】

■三職
斯波(三河国碧海郡矢作)、細川(三河国額田郡細川)、畠山

■七頭
一色(三河国幡豆郡一色)、上杉(三河国額田郡矢作)、伊勢(三河国額田郡矢作)
山名、京極、赤松、土岐

■武者頭(将軍御一家)
吉良(三河国幡豆郡吉良)、今川(三河国幡豆郡今川)、渋川


【七代将軍足利義政時代の幕府内支配層】

■三管領
斯波(三河国碧海郡矢作)、細川(三河国額田郡細川)、畠山

■下馬衆(将軍御一家)
西条吉良(三河国幡豆郡吉良)、東条吉良(三河国幡豆郡吉良)、石橋(三河国碧海郡矢作)
渋川

■同紋衆
上野(三河国碧海郡上野)、一色(三河国幡豆郡一色)、仁木(三河国額田郡仁木)、今川(三河国幡豆郡今川)
山名、新田、大館、桃井、吉見
227日本@名無史さん:2011/03/09(水) 00:06:49.99
あげ
228日本@名無史さん:2011/03/10(木) 00:48:02.03
>>226
一応突っ込んどいた方がいいのかなw
斯波は三河国碧海郡矢作じゃなくて奥州紫波でしょ?
義政は八代将軍。

三職ってのは歴史的表現だけと、三管四職は後世の造語。
七頭に至っては単なる俗説。
229日本@名無史さん:2011/03/10(木) 03:00:39.26
足利家氏の墓(どれだか分からない)は岡崎市の寺にあるようだが
御由緒が残されている

それ以外は不明だが、大昔に矢作に寺があって、家氏以外はそこが菩提寺であったと思われる

足利家氏以降足利高経まで、父足利泰氏から相伝した東北の所領ではなく、祖父足利義氏から相伝した三河の所領を本拠地にしていたつー事だな


義堂周信:空華集
「三河国碧海荘は、管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」


鎌倉時代の動向はハッキリしない渋川氏も、殆どが三河にいたんだろう
230日本@名無史さん:2011/03/10(木) 20:10:31.32
鎌倉時代の家格
一流御家人
足利本家
斯波
吉良
畠山
一般御家人
渋川
長瀬(東条吉良)
美濃畠山
岩松
世良田
里見
没落気味御家人
堀口
新田本家
山名
陪臣扱い
その他一門
231日本@名無史さん:2011/03/10(木) 21:16:14.55
>>230
鎌倉党とか、八平氏の序列は?
232日本@名無史さん:2011/03/13(日) 21:03:46.84
夏の暑さと民度の低ささえ我慢すれば
両毛地域は自然災害の被害を最も受けにくい地域だな。
233日本@名無史さん:2011/03/13(日) 21:16:59.20
>>232
冬の寒さも相当
火山も結構ある
234日本@名無史さん:2011/03/21(月) 19:45:21.72
湊川の戦い見りゃ新田のヘボさは明らかだろ
235日本@名無史さん:2011/03/22(火) 01:19:22.28
守護のくせに僅な一族郎党だけ連れて来て皆殺しにされたナントカとかいう田舎武士よりはるかにマシだろ
236日本@名無史さん:2011/03/22(火) 04:55:20.45
足利が九州へ落ちる時追撃しないわ
寡兵の赤松に苦戦するわ
足利の陽動作戦に引っ掛かって楠木を見捨てるわ
比叡山行幸を進言した楠木のような軍略もないわ
どう考えても湊川におけるA級戦犯は新田だろ
237日本@名無史さん:2011/03/22(火) 07:19:13.49
楠木?
あいつなにかしたっけ?
愚帝後醍醐のせいで、ただでさえ劣勢な宮方へ二ヶ国守護として援軍として来たなら、最低でも数千は連れて来たんだろ?
まさか数百しか連れてこなかったなんていったら、新田に死亡通知届けに行ったのと同じだよ。
よほど無能だったのか、単にやる気がなかっただけなのか、とにかく湊川合戦で宮方を勝たせたくなかった事だけは明白だな。
自分はゴミみたいな存在なんだから、宮方の総指揮官である新田を命を投げ打って逃がすぐらいしか役目はないだろ。
238日本@名無史さん:2011/03/22(火) 09:55:23.75
>>234
真実かどうか知らんが、まあ、講談では、尊氏が九州で予想外の大勝したあと
白旗城?かなんかで足止めくらってた新田は形勢判断から急遽都に引き返すことになり
撤退戦に移行することになり、都からは楠木が新田を来援にきた。
楠木は動員力が少ないから、新田を逃がそうとシンガリをつとめて、玉砕って流れだったような
239日本@名無史さん:2011/03/22(火) 23:03:11.06
楠木は北条の大軍を千早で知略を駆使して釘付けにし、京・鎌倉に軍事的空白を作るのに貢献したじゃん
240日本@名無史さん:2011/03/22(火) 23:53:59.67
>>238
>新田は形勢判断から急遽都に引き返すことになり
朝廷から楠木へ「新田に合力せよ」と命じた際
正成が「不利だから新田を呼び戻せ」と進言したのを却下、
仕方なく出向いた..ってのが太平記の筋立てだろ?
241日本@名無史さん:2011/03/22(火) 23:56:53.80
>>239
籠城して、落城直前に逃げただけだろ。
ましてや軍事的空白は生まれていない。全国の武士(御家人だけでない)が動員かけられて鎌倉と京に集結している。
242日本@名無史さん:2011/03/23(水) 00:03:52.43
我らは朝敵ではなーい!  光厳上皇から院宣もらったり、尊氏必死すぎワロタw
243日本@名無史さん:2011/03/23(水) 00:23:10.16
必死に駆けずり回っても一族郎党しか集まらない楠木。
必死に駆けずり回れば数万騎が集まる新田。
負け戦でもその数倍の軍勢が勝手に集まる足利。
244日本@名無史さん:2011/03/23(水) 00:29:38.69
>>241
赤坂は落城したけど千早の時は六波羅が落ちるまで持ちこたえただろ
軍事的空白まではいかなくても京や鎌倉が多少なりとも手薄になったのは確か
また鎌倉幕府(北条)の威信を失墜させたのも大きい
245日本@名無史さん:2011/03/23(水) 00:46:41.51
>>243
>勝手に集まる

ホントですか?詳しいんですね。
246日本@名無史さん:2011/03/23(水) 00:59:47.37
>>240
そのへんはインターネットがあったわけじゃなし
当時の九州の状況を把握できなかったことが理由にあるんだろう
通信手段が劇的に戦争をかえてしまってて
今の感覚じゃ到底昔の武将のよしあしをおしはかることはできまいよ
かなりの部分武運による評価になるとおもわれ
247日本@名無史さん:2011/03/23(水) 07:07:49.80
>>244
だから手薄になってない。
逆に動員されて続々と集結していたのだから。
尊氏の挙兵を知って四散したのだから、手薄にしたのは尊氏。
尊氏の挙兵がなければ、正成はジリ貧になって六条河原に晒されていた。
248日本@名無史さん:2011/03/23(水) 22:00:54.44
>>247
新田を過小評価している連中もアレだが
楠木をそこまで不当に評価するとは
楠木氏に何か恨みでもあるのか?
249日本@名無史さん:2011/03/23(水) 22:34:09.65
もし、尊氏が負けて死んでも、新田が後醍醐と手を切って新田幕府を
作っただろう。楠木も同じ。
250日本@名無史さん:2011/03/23(水) 22:36:36.53
誰が勝とうが負けようが歴史の大筋が大きく変わる事は無い。

現代の民主党政権だって結局は自民党政治と大差ない。
現実に出来ることは限られているから。
251日本@名無史さん:2011/03/23(水) 22:56:35.48
>>248
意味不明。歴史的事実から目をそむけて、過大に楠木を評価する輩の色眼鏡から見るとそう写るの?

>>249
楠木は幕府を開けない。守護職も満足に務められないような弱小武士が鎌倉殿にはなれない。
戦国時代と違って、この頃はまだ、血統も実力のうちだから。
新田が破格に重用されたのも血筋が良いから。
252日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:21:01.84
楠木が寡兵で幕府の大軍をしのいだことで幕府の威信が失墜したことは認めるべき
253日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:21:52.09
血統史観はうんざり
254日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:31:01.92
新田厨は昔から必死だから
255日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:40:28.54
楠木は悪党だから旧体制を破壊する能力はあったが、
新しい体制をつくる能力はなかった。
破壊と創造は同一人物でやり遂げることはできない。
256日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:47:21.37
楠木再蜂起から4ヶ月も篭城せずに和泉河内で六波羅と戦っている。
その後の3ヶ月、鎌倉からの援軍を受けてさえ幕軍が
千早を落とせなかったことが畿内各地の蜂起を促しているのは事実。
足利が京へ呼ばれたのは京の守りが手薄になったから。
鎌倉から軍勢を送るということは鎌倉も手薄になるということ。
大塔宮が篭城した吉野が十日程で落ちてるのと比べても
充分な戦ぶりだと思うがな。

足利新田がこけても楠木氏に幕府を開く事が出来たとは自分も思えない。
257日本@名無史さん:2011/03/23(水) 23:54:17.27
足利一族や新田一族が共食いして滅んでも誰かが幕府を開いたさ。
258日本@名無史さん:2011/03/24(木) 01:17:18.06
大仏高直
阿曽治時
二階堂貞藤
宇都宮公綱
武田信武

とかかなりの数の大物御家人が山攻め派遣されてたからな
259日本@名無史さん:2011/03/24(木) 01:47:27.60
その分、在地の御家人が招集されている
260足利尊氏:2011/03/24(木) 02:19:57.58
ゴダイゴ天皇のエロ画像キボンヌ
261日本@名無史さん:2011/03/24(木) 07:49:17.25
勾当内侍のポロリ画像キボンヌ
262日本@名無史さん:2011/03/24(木) 12:09:04.41
新田って、鎌倉幕府に冷遇されててちょっとなあってかんじだよね
血統がよければ、縁故関係もひろがっていて、それでいっしょに挙兵ってこともありうると思うが
新田は・・・朝廷の権威を受けるに十分ということから
朝廷の名を出しても、受け入れるだけの信用性があったということなのだろうか
俺がお上の命がくだった、今より参陣されたしとか檄とばしても、まじかよ的な空気になるもんあ
263日本@名無史さん:2011/03/24(木) 12:54:37.09
日本の政治は有史このかた
能力<血統<好悪
鎌倉で足利が優遇されて新田が冷遇されたのもこの一点。
ある意味新田家は古式豊かで無骨な鎌倉武士の典型。
太鼓持ち気質の足利家とは必然人気に差が出る。
現代日本の組織でもよく見られる事象だ。
264日本@名無史さん:2011/03/24(木) 13:36:30.79
いやいや頼朝陣営への参入が早かったからだろ単に>足利
不安定なときに同じ義家の一門が集ってくるってのは鎌倉にとってはたのもしい
ただでさえ初期は源氏勢力は三分されていたし
265日本@名無史さん:2011/03/24(木) 17:05:22.94
源頼朝の生母と足利義兼の生母が姉妹だったことから
鎌倉時代初期から、足利家は鎌倉幕府中枢との関係が深かった。
その前の時代でも、新田義重よりも、足利義康のほうが
源義朝に協力的だっただろう?
北条家に実権が移行した後は、足利家は北条家との姻戚関係も深めた。
266日本@名無史さん:2011/03/25(金) 13:11:57.24
新田政義が問題起こしまくったからな
267日本@名無史さん:2011/03/25(金) 13:37:50.76
>>265
義兼母は頼朝母の姪(義姉妹)。
義兼は頼朝挙兵の直後、頼朝の命により北条政子の妹と結婚している。
つまり、頼朝存命中から北条氏の婿だった。
268日本@名無史さん:2011/03/25(金) 17:09:44.37
>>267
ソースは?
269日本@名無史さん:2011/03/25(金) 18:08:44.98
頼朝は新田を相当意識していた。
山名、里見が義重に従わずに頼朝に参陣すると、「父に似ず殊勝」とわざわざ褒めてる。
頼朝がわざわざ新田荘までやって来て、仲直りの手打ちをしている。
念のために、「妻に」と義重の顔を立てながらも娘を人質に要求した。
足利への優遇は新田への牽制の意味合いもあったろう。
270日本@名無史さん:2011/03/25(金) 18:11:14.70
あれだけ反抗的な態度を取り続けたのに、武田、佐竹のように粛清されなかったのは、庶兄義平と深いつながりを持っていたからか?
271日本@名無史さん:2011/03/25(金) 22:45:12.43
北条政子のデリケートな部分
272日本@名無史さん:2011/03/25(金) 23:28:49.08
つラナケイン
273日本@名無史さん:2011/03/29(火) 23:50:39.04
雪村和尚行道記(続群書類従9下)を読んでたらこんなの見つけた。

元弘元年九月五日。浄妙寺殿讃岐守貞氏薨。喪未除。高時付兵符於尊氏。鬱訴不及。
274日本@名無史さん:2011/04/02(土) 00:45:40.37
空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」

初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした



斯波一族の墓石群があったと思われる寺院

薬王寺

中世に岡崎市矢作にあった寺。「三河念仏相承日記」が記す建長8年(1256)10月の親鸞の弟子真仏・顕智・専信ら念仏勧進の場所として著名で、所在地をめぐる論争があった。
同時代史料では永仁3年(1295)8月の熊野山日供米碧海荘配分状(鎌倉遺文18898)に薬師寺郷の名がみえ、「滝山寺縁起」に薬師寺の名が2か所みえる。
郷名は寺があるところから付けられたと推定され、創建は相当古いとみられる。
昭和57年(1982)12月に矢作川河床内で新井幸雄が採集した鎌倉時代前半と推定される平瓦の破片に「□師寺多宝塔」「東光坊良信」などのヘラ描き文字があり、矢作近辺に薬師寺があったことを裏付ける。
東光坊は12世紀後葉の創建で15世紀中葉まで存続したと矢作町山本家文書に伝えられ、「岡崎東泉記」も矢作の古寺の跡として東光坊をあげており、薬師寺の坊舎の一つであったことは疑いない。
昭和3年刊行の『矢作町誌』は、西牧内(現大和町)字西島の郡道に沿って8間四方の寺跡があり、本尊薬師像は桑子妙源寺に納められたが、慶長8年(1603)の検地帳には「薬師前」という小字があったと記した。
それでこの地を薬師寺の所在地とするのが通説となったが、原拠史料が伝わらないので詳しい検討はできない状況である。
ヘラ描き瓦の採集地に近い矢作川の中洲から鎌倉後半〜室町時代に比定される宝篋印塔・一石五輪塔13基が一括出土するなど、所在地は確定できない。

275日本@名無史さん:2011/04/02(土) 00:51:48.29
元弘の変当時の足利一族

【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期は足利尊氏の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利根本被官)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(統持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、下野守護他)の屋敷(日名屋敷)                                         
・仁木一族(幕府執事、伊賀守護他)の屋敷及び城(仁木城)             
・細川一族(管領家、阿波守護他)の屋敷及び3つの城      

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(細川氏分家)の屋敷                            
・上地一族(仁木氏分家)の屋敷                            

【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(石見守護等)の屋敷                        
・中条一族(尾張守護等)の屋敷と城(金谷城) 

【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(管領家、奥州管領)の屋敷                   
・石橋一族(将軍御一家、備前守護他)の屋敷                     

【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(将軍御一家)の屋敷と城(西尾城)               
・奥州吉良一族(奥州管領、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)          
・一色一族(四職、九州探題、丹波守護他)の屋敷                   
・今川一族(将軍御一家、九州探題、駿河守護他)の屋敷と城(今川城)              
・荒川一族(戸賀崎氏分家)の屋敷 
276日本@名無史さん:2011/04/02(土) 00:55:03.58
上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、
足利家家人の上杉三郎入道(頼重)より前は不明。その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か


事実上の始祖である上杉三郎入道(頼重)の日名屋敷

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉末期に額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。


277日本@名無史さん:2011/04/02(土) 00:56:26.98
あちこちで見かける三河のコピペバカは何がしたいの?
278日本@名無史さん:2011/04/02(土) 01:34:36.46
宝賀厨なんじゃないのか?
てか斯波と三河の関わりってあるのか?
279日本@名無史さん:2011/04/02(土) 06:20:54.12
高階氏コピペ厨も同様。

悪源太スレ他各地に出没。

たぶん同一人物なのでこちらでまとめて引き取って下さい。
280日本@名無史さん:2011/04/02(土) 11:51:28.30
上杉重房の父清房なら、当時の史料に結構出てくるけど…。
鎌倉時代の上杉氏関連の論文なら、
『鎌倉遺文研究』に載ってなかったかな?
281日本@名無史さん:2011/04/02(土) 18:15:53.96
高氏と上杉氏じゃろ

論文では上杉娘が足利に嫁いだので両家が結び付いたというが逆じゃろ。
両家が結び付いていたから婚姻関係が成立したんじゃね?
だったら何が両家を結びつけたのか・・・これが重要なんだが何にも書いてない。
282日本@名無史さん:2011/04/02(土) 18:59:06.64
伊勢氏

新編岡崎市史20(総集編) 足利家の根本被官で室町幕府政所執事などを務めた武士。ふつう桓武平氏で平季衡の子孫とする。
『滝山寺縁起』にみえる足利家被官の藤原俊経(肥前前司)・藤原俊継(伊勢前司)は「伊勢系図」にのる同名の人物と官途が一致するので伊勢氏の先祖にあたるとみられる。
とすると桓武平氏というのも必ずしも信をおけないことになるが、もとは藤原姓であったのを事情あって後に平氏に変えたのかも知れない。
『縁起』に登場する伊勢氏は、俊経・俊継父子のほかに、俊経の兄弟に滝山寺僧円辰、その子に同じく増恵がおり、鎌倉中期の滝山寺の隆盛に尽くしたひとが多く出た。
鎌倉時代の伊勢氏について知りうることは少なく、上総で足利貞氏の守護代を務めた伊勢九郎宗継がいるが系図にはあらわれない。
康暦元年(1379)に尊氏の近習であった貞継(俊継の孫)が政所執事に任じられ、以後伊勢氏がこの職を世襲した。ほかに将軍右筆や御番衆になった一族もいる。
明徳2年(1391)伊勢貞行が御料所額田郡山中郷の代官に任じられ、以後山中郷は伊勢氏の所領となった。寛正6年(1465)当時、山中郷代官は伊勢氏被官の蜷川親賢であった。


伊勢俊経

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉前期の武士、足利氏被官。『滝山寺縁起』に肥前々司藤原俊経(法名願仏)と見える人で、足利氏被官伊勢氏の先祖とみられる。
弟相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶であった。滝山寺に持仏堂を建て、古市場御油畠などを寄進した

伊勢俊継(初代伊勢氏)

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉中期の武士で足利氏被官。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継とある人で、肥前前司俊経の子。
滝山寺に足利義氏追善のため檀那として法華堂を造営し、田畠3町8段をこの堂に寄進した。
また碧海荘青野・宇祢部の料田畠も足利(斯波)家氏に働きかけて寄進させた。そのほか滝山寺の諸造営にかかわって財政的な援助を惜しまなかったのは、
叔父の円辰や従兄弟の増恵が滝山寺僧侶であったからであろう。
283日本@名無史さん:2011/04/02(土) 19:01:33.65
伊勢俊経 ・伊勢俊継と同時代の滝山寺関係者


・藤原範忠■二代目藤姓熱田大宮司、源頼朝の母の兄、滝山寺領を確定するなど、最高責任者の立場であったもよう
・藤原寛伝■滝山寺僧侶、藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟
・三河祐範(藤原祐範)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄、頼朝(伊豆時代)の支援者
・三河仁憲(藤原仁憲)■滝山寺僧侶、三河祐範の息、源頼朝の従兄弟、吾妻鏡に登場
・粟田口長暹(藤原長暹)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄
・野田朝氏(藤原朝氏)■初代野田姓熱田大宮司、室は足利義兼の娘(3代目足利義氏の姉もしくは妹)
・足利義氏■三代目足利当主、本堂造営
・足利頼氏■五代目足利当主、一切経蔵の経会料所寄進
・斯波家氏(足利家氏)■初代斯波氏、足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納
・吉良義継(足利義継)■初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・世良田頼氏■初代世良田氏、足利義氏の娘婿として、短期間三河守護代を努めたもよう
・大平惟行■滝山寺常行堂の造営、料田3町8段を寄進、法華堂へも藤原俊継と秘計して田畠を寄進した

284日本@名無史さん:2011/04/02(土) 19:10:14.52
高師直

高氏(こうし)は高階氏流で右大弁高階峯緒の末裔である。大高大夫惟頼が実は源義家の四男であったと言われるがこの辺りから源氏との結びつきが強くなったのであろう。
その曾孫惟長が三河の守足利義兼に仕え、額田郡日志賀・菅生郷司職に補任され足利家執事となった。それ以降、惟重、重氏、師氏、師重らが代々執事を務めている。
鎌倉政権下で足利氏は有数の名門として遇され、家督の下に三番編成の中央奉行所があり高氏(こうし)や上杉氏が務めていた。その下に地方公文所があり、命令は「袖判下文」により伝達されていた。
この袖判下文は将軍家のほかは北条氏、足利氏にのみ許されたというから幕府内部での足利氏の家格の高さが窺える。
徳治三年(1308)に高師行奉書が、元亨二年(1322)に師重奉書が出されており、執事が家督からの命令伝達に大きい役割をしていたのがわかる。


・額田郡日志賀・菅生郷の権益は足利義兼の嫁の実父(藤原範忠)から相伝されたもよう

■藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

■高階惟長→惟重→重氏→師氏→師重→高師直・高師泰 



『梅松論』新田義貞の下向
去程に数万騎の官軍関東に下向するよし聞えければ、高越後守(=高師泰)を大将として大勢を差し添へて海道に遣さる。
師泰に仰せられけるは、「先づ三河国に下りて矢作川を前に当て、御分国(三河国菅生郷、高師直の領地)たる間、駈け催して当国の軍勢を相待つべし。
努々(ゆめゆめ)川より西へ馬を越すべからず」と将軍の命を請けて、
285日本@名無史さん:2011/04/02(土) 19:12:20.33
総持寺(総持尼寺)

瑞生山 曹洞宗 新編岡崎市史20(総集編) 中町字小猿塚37にある曹洞宗寺院。深恩院瑞生山と称し、本尊は大日如来。もと籠田総門南の総構え内側に所在。古くは天台宗という。創建時より明治8年(1875)まで尼寺で、そのため総持尼寺の名で一般的に呼ばれる。
高師泰の娘で同族師冬の妻であった明阿が一族の菩提寺として所領菅生郷の築山(高氏屋敷地か)に建立した。
夫・父をはじめ一族の多くを観応2年(1351)に殺された明阿は、文和4年(1355)将軍尊氏に申請して姪の「いち」を住持として総持寺を建立し重代相伝の地菅生郷を寄進することを許可された。2、3年後には完成か。
応永6年(1399)足利義満が高氏所領であった額田郡比志賀郷を塔頭の深恩院に寄進した
寺領菅生・比志賀郷は、歴代将軍から手厚い保護をうけ段銭以下臨時課役に免除されて守護不入地とされていた

286日本@名無史さん:2011/04/02(土) 19:29:30.22
てか平氏とか藤原氏とか無意識に男系をどこまでも遡られすぎててそれに捕らわれすぎなんだよ。
中世までは母系制が強く残存してるのに。
よって母系姓を継ぐぐらい普通にしてる。
287日本@名無史さん:2011/04/02(土) 20:04:25.35
>>286

kwsk
288日本@名無史さん:2011/04/02(土) 21:17:55.77
高氏
義家乳母兄弟子孫
上杉氏
保元戦犯=根無草子孫
伊勢氏
山木氏子孫
289日本@名無史さん:2011/04/03(日) 07:13:58.00
名跡をつぐ形で姓が変わることはあるが、母系なのに同姓を名乗ることはまずないだろ
歴史上有名な姓の転換は畠山氏ぐらいなもので、
ほかのほとんどはあとから偽装したものばっかだろ 徳川とか
290日本@名無史さん:2011/04/03(日) 10:27:12.53
NHKで大河ドラマとして太平記をやると聞いた時、當然主人公は大楠公(楠木正成)と思い、全巻をビデオに撮ろうと張り切っ
ていたが、逆賊足利高氏が主人公と聞いて愕然とした。原作(吉川英治、私本太平記)がそのようになっているそうであるが、「梅
松論」ならいざ知らず「太平記」と名付ける以上は、大楠公を無視したり足利高氏を賞揚したりすることは許されないのではなかろ
うか。足利高氏の肩を持って書かれている「梅松論」ですら、大楠公に對しては稱贊を惜しまないとのことであるのに、NHKドラ
マの楠木正成は足利高氏に阿諛追從する道化役にされている。役者も重みのある人を起用するならまだしも(演技は上手なのかも知
れないが)輕佻浮薄な役者を起用して意識的に「河内の田舎武士」を演じさせている。役者自身も、大楠公を演じている自覺がまるで
ないようであり、チャンネルを變えると馬鹿面を晒して「ラーメン」や「冷藏庫」の宣傳を行っているから始末が惡い。心ある日本人の
崇敬を一身に集めた大楠公を演ずる以上は、己も大楠公に成り切り、少なくとも放映期間中は輕佻浮薄なコマーシャルの出演を斷る
位の見識を示して欲しかった。昨年の西郷南洲(隆盛)役に續き、NHKは我々の崇敬する人物を意識的に侮蔑しようとするのか!

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ζ
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   / ヽ、  \| |/    ||     :||ニ、i
   /   ヽ       ヽ ||___,||ー_ノ\ 
  l     ヽ        |___|`-'_ノ
291日本@名無史さん:2011/04/03(日) 10:43:23.58
                             ζ
                          / ̄ ̄ ̄ ̄\
                        /          ヘ
                     |⌒   ⌒   /ヘ
                     |(・)  (・)    |||||||
                     |⊂⌒◯-------9)
             __     | |||||||||_     |    大楠公で〜す
             r'´_,.ノi、   \ ヘ_/ \ /
           ,i:.:.:.:::::::::::::>、´.. ̄:. ヽ ____/、
          ,.i‐----‐'´::::ヽ⌒ヽ,::::ヽ ̄ ̄`''‐-., ̄`ヽ,
          .i.:.:.:.:.:..:.::::::::::::::::'i,._::::'i、::::i ̄ `'ヽ,.:.:.:.::ヽ.:.:.:i
          .i.:.:.:.:.:.:.:.:.:::::::::::::::i`ヽ,::`-'::.    i─-/"'i_ノ   ,r‐,r‐-、
          i:.:.:.:.:..:.:.:.:::::::::::::::i..:../..:..:.:_,.-─'´  |i .i.,r-‐./ ,i'''‐.、 .\
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292日本@名無史さん:2011/04/03(日) 10:44:50.72
逆賊高氏は放射能を浴びて死ぬべき
293日本@名無史さん:2011/04/03(日) 12:43:53.42
逆賊足利高氏に擁立されか傀儡の偽朝廷は即刻追放されるべき
294日本@名無史さん:2011/04/03(日) 12:46:09.76
>>292
もう死んでるし
295日本@名無史さん:2011/04/03(日) 13:37:16.88
武田鉄也好きだけどなあ俺
ま 顔は適役じゃないよねww坂本竜馬もあいつしたがるからなw
296日本@名無史さん:2011/04/03(日) 15:21:39.17
>>293
熊沢さん乙
297日本@名無史さん:2011/04/03(日) 17:43:34.46
>>286
日本は昔から男系制度だよ。
世界中どこでも氏族制度は男系制度。
でも、日本の場合、家制度という要素もある。
家制度によって、母系継承的な側面も起こっていた。
298日本@名無史さん:2011/04/03(日) 23:29:00.55
>>275
それだけ三河に足利一門が根をおろしていたのに
なんで徳川氏は源氏を名乗るのに世良田の子孫名乗ったんだろう?
299日本@名無史さん:2011/04/03(日) 23:45:57.83
在地支配はしてない
300日本@名無史さん:2011/04/04(月) 18:51:05.36
■仁木氏(三河国額田郡仁木)
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義清→義実→仁木実国(初代仁木氏)

■一色氏(三河国幡豆郡一色)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)

■上野氏(三河国碧海郡上野)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→泰氏→上野義弁(初代上野氏)

■石堂氏(不明)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→泰氏→石堂頼茂(初代石堂氏)

■細川氏(三河国額田郡細川)
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義清→義実→細川義李(初代細川氏)

■斯波氏
・藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→泰氏→斯波家氏(初代斯波氏)

■今川氏(三河国幡豆郡今川)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→吉良長氏→今川国氏(初代今川氏)

■吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・ 藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→その娘(初代足利氏の足利義康の室)→義兼→義氏→吉良長氏(初代吉良氏)


承久の変で所領を没収された藤姓熱田大宮司一族の血縁関係で、移り住んできたに過ぎない
301日本@名無史さん:2011/04/04(月) 21:22:42.51
>>300 馬鹿だろ?
302日本@名無史さん:2011/04/04(月) 22:28:38.71
>>298 馬鹿だろ?
303日本@名無史さん:2011/04/05(火) 05:41:33.20
>>286
> 日本は昔から男系制度だよ。
> 世界中どこでも氏族制度は男系制度。

それは違う。
>世界中どこでも
なんて乱暴すぎる。

日本の場合は律令制を取り入れたことにより、家系図も大陸(中国)風の父系系図をかなり人為的に取り入れたもので、それ以前は極めて母系制の要素の強い社会だった。
家系図の乱れ(具体的には複氏祖の問題など)は、父系制度にシフトして行く過程で、それ以前の社会形態であった母系制度における母系氏祖が深く入り込んでいるため。
朝貢国である中国への対面上、建前は父系社会ということにはしたが、実態は依然として律令制以後もそれ以前からの母系制社会は強く継続した。
また、日本中で古代末期から中世初期にかけて、古代氏族が源平藤橘に「総入れ替え」した(特に坂東では顕著)のも日本社会の基底に母系制度があったからと考えるとすんなり説明がつく。

> でも、日本の場合、家制度という要素もある。
> 家制度によって、母系継承的な側面も起こっていた。

「家制度」の成立は院政期になってからだ(10世紀後半〜)。
そしてその家制度こそが今述べた母系社会から父系社会への移行期を経て誕生した日本独特の制度でもある。
304303つづき:2011/04/05(火) 06:09:26.81
家制度の「誕生」は都の公家社会で起こった。
院政期に入るとそれまでの律令制の原則であった非世襲制は事実上破綻する。
そして明経道や明法道や陰陽道、さらには軍事などの部門が中下級の特定の貴族の家によって継承されることになる。
つまりは「家業」の成立だ。
これこそが「家制度」なのであり、
そしてこの家制度と、いよいよ実態を伴ったものとして成立してきた父系社会とは、実は切っても切り離せない関係にある。

つまり、
あなたは「家制度」と「父系制度」をリンクさせて述べているが、それ自体は正しい。
但し、繰り返すけどそれは院政期以降という「条件つき」。

それ以前の日本は時代を遡れば遡るほど母系社会。
305304訂正:2011/04/05(火) 06:16:12.07
>>304
> つまり、
> あなたは「家制度」と「父系制度」をリンクさせて述べているが、それ自体は正しい。
と書いたが>>297
「家制度」と「母系制度」をリンクさせて述べていた。

なら完全な間違い。
逆。

「家制度」の誕生こそが、社会が実態的な意味で父系制度に変わったことの証。
306日本@名無史さん:2011/04/05(火) 07:04:58.13
>>304
母系制って?
一応、出自に関しては、男系で決まっていただろう?
古代なんかでも。。。

>>303
>日本の場合は律令制を取り入れたことにより、家系図も大陸(中国)風の父系系図をかなり人為的に取り入れたもので、それ以前は極めて母系制の要素の強い社会だった。

そんな証拠はどこにもない。
それこそ、不確かな憶測だ。
戦後の左翼教育が生み出した暴論。
古代が母系継承だって??
洗脳されるなよ、戦後の左翼教育にw
307日本@名無史さん:2011/04/05(火) 07:19:15.42
古代が母系だったという説は、戦後の60年、皇国史観を打破するという
現代の政治的思想が大きく影響した暴論なのだよ。
つまり、純粋に歴史を解釈してないわけだよ。
古代が母系だとか言うやつには、反皇室主義者の影響をうけた
やつの多いこと。

古代もどう見ても男系を意識しているのが分るのは
葛城氏の系譜の変遷をみても分る。
葛城氏というのは、西暦4世紀以前までは
大伴氏などと同じで、タカミムスビの男系子孫ということで、
天神系の家系とされていたが
武内スクネの子孫を養子縁組してから、皇別氏族に置き換わった。
ちょうど、鎌倉時代の畠山氏が、養子縁組で、
平氏から源氏に変わったようなもの。
このことからも、その人物の男系の血筋を意識していたことが分かる。

むしろ、父系、母系にこだわらなくなったのは、家制度が重視された
中世、近世に入ってからであり
戦国期の佐竹氏は、本来は清和源氏だが、藤原氏系の上杉家を養子に入れて
男系的に見たら、藤原氏の系譜になった。
しかしながら、その後も佐竹氏は、男系を名乗りつづけた。
それと似たような例が、近世の近衛家の例であり
近衛家は、藤原摂家の系譜だったが、天皇の弟である近衛信弘が養子として
家督を想像しても、家系は源氏にならず、そのまま藤原氏を通した。
308日本@名無史さん:2011/04/05(火) 07:20:03.19
>>306
まずは小学校からやり直そうな、落ちこぼれ君
309日本@名無史さん:2011/04/05(火) 07:30:35.23
ついでに言うのなら、天皇家も古代から男系を意識していた。
男系に拘ったからこそ、
彼らは、自分達の先祖であるイワレ彦を初代天皇・神武天皇とし
また、そのことに自信を持って主張できないから、
その10代後の子孫のミマキイリ彦を崇神天皇として
もう一人の初代天皇として記さないといけなくなった。

記紀をよめば分るけど、天皇家の王朝が、はじめて全国統一したのは、
出雲国譲りからで、その時にすでに初代天皇が誕生していないと
いけないわけだ。
でも、その時はなぜか、曖昧な記述になって、そこから天孫降臨で
わざわざ九州南部にニニギ命が降臨して、その曾孫のイワレ彦の時に
畿内に東征して神武天皇になったとかいう
わけのわからない記述になるのだ。

ヤマト王朝が誕生したのは、出雲国譲りからで
おそらく、そのヤマト王朝の初代倭王は、天照国照彦(天火明命)という人物だろう。
この人物は、現在の天皇家の祖先・ニニギ命の兄にあたる人物だ。
しかし、この人物を初代天皇として記紀に記載してしまったら
大海人命(天武天皇)は、初代天皇の弟の男系子孫であっても、
初代天皇自身の男系子孫ではなくなってしまう。
だからこそ、記紀では、あういう、奥歯に物が挟まったような記述になったのだ。
310日本@名無史さん:2011/04/05(火) 07:39:19.26
>>308
小学校では、そんなこと教えません。
最近の小学校なんて、考古学のあたりすら教えないらしいから。

戦後の左翼の歴史学者らは、結局
彼らの力不足で、アホな歴史の説を広めることしかしなかった。
その最たる例が、皇国史観打破のための万世一系否定だ。
そのために、記紀に記載されている皇室系図の否定だ。
あれは、でっち上げだとかのたまった。

しかしなら、皇室の歴史を長めにするのなら、
出雲の大国主の系譜すら、天皇家の男系の先祖に偽造したら良いのに
天皇家は良心的なのか、それをしていないのだw
また、記紀が藤原氏に都合が良いのなら、藤原氏は自分の家系を
天孫・皇別としたら良いのに、彼らは、それもやっていない。
つまり、天皇家の王朝は一応、出雲から天下を奪ってから、
いちおう、微妙だが王朝交代せずに、継続しているわけだ、現在まで。

でも、王朝交代していないといっても、そこが微妙なのだ。
それが、記紀には、全部で三つの王朝の始まりを記載している不可思議な点だ。
その3つとは、出雲国譲り、神武東征、崇神紀の3つだ。
それこそが、天皇家の家系の秘密であり
>>309に記載したことなのだ。
311日本@名無史さん:2011/04/05(火) 07:58:56.94
ちょっとスレ違いの話題増えてしまったけど
まあ、たしかに、戦後の歴史教育なんて、まったく
あてにならないな。
後世の歴史家が現在の歴史教育事情を評論したら
アメリカ占領時代の不正常な状態と断定するだろうし。
312日本@名無史さん:2011/04/05(火) 09:40:29.30
>不正常
は戦前からだろ
国家神道だの、尊氏や将門を逆賊にしてみたりだの(etc)
歴史教育に左翼による「歪み」が無いとは言わないが、決してそれだけじゃない
313日本@名無史さん:2011/04/05(火) 10:08:00.82
歴史学自体が日進月歩だし
314日本@名無史さん:2011/04/05(火) 10:27:14.25
本居宣長の國学思想なんかも、
あれ、明治以降の保守思想のよりどころになっているが、
あれ、つきつめれば、左翼思想によく似ているんだわな。
右翼と左翼は360度回転したら、出くわすという説。
南朝正統史観ってのも、近代保守の原点になったけど、
幕末までは、楠木正成なんて、皇室(北朝)からみたら
逆賊だったわけだし、まさに左翼思想だった、南朝史観は。
315日本@名無史さん:2011/04/05(火) 12:20:57.03
日本人は神の子孫。
コミンテルンの手先の日教組はエテ公の成れの果てだと真っ赤な嘘を刷り込み、日本人の誇りを奪おうと躍起になった。
316日本@名無史さん:2011/04/05(火) 12:56:19.93
つうか藤姓足利氏と義国流源氏って普通に対立してるわけで全然母系継承されてないじゃん。
淵名とか園田とかだって普通は藤姓足利一門っていうか秀郷流藤原氏っていうでしょ。
義重も寺尾城で自立しようとしたわけでむしろ根拠地は西上野なんだよ。そして義康は在京。
両毛はずっと秀郷流藤原氏のもの。
317日本@名無史さん:2011/04/05(火) 13:13:35.18
九州王朝説なんてのも反皇国一元史観の急先鋒みたいな感があるけど、
あれだって昔は国学者とかが唱えてたんだよな。
卑弥呼は九州の女酋だの、日本国と倭国は別物だの。
318日本@名無史さん:2011/04/05(火) 13:35:04.06
>>316
家制度になってから、母系継承はもめることが多い。
なぜなら、古代から父系思想が強いから。
佐竹家の場合も、上杉家からの養子と
遠いながらも父系で源氏佐竹家の流れをくむものとの間で
争いが起こっているしね。
319日本@名無史さん:2011/04/05(火) 17:29:20.10
>>314
別に左翼思想じゃないよ
ただ公家社会は北朝正統論が支配的だったのに対して
水戸学の興隆があって、これがしんのうしょうとう記に依ったために
幕府を中心に武家は南朝を正統とするようになっただけ
別に真淵-宣長-篤胤のラインが異例だったわけじゃない
日本の庶民にいたるまで、国家意識をもつようになった、日本国民の自我が目覚めた時期が
江戸時代のあのころだっただけだよ
夜明け前なんかは篤胤の国学は宗教に近いなんて描いてるが
戦前から理性的には分かっていたことだが、
日本人が庶民単位でいやがおうでも日本とは何かを考えさせられる時代であったことが
国学の起こりの根本にあることを忘れてはならない。
今の日本人は戦って生き抜くことが骨抜きにされてできないからおかしく思うのかもしれないな
320日本@名無史さん:2011/04/05(火) 21:04:37.42
母系・父系のほかに乳母系も強いぜよ
321日本@名無史さん:2011/04/06(水) 07:50:56.90
佐竹家のお家騒動は、まさに父系と母系の対立。
前当主の娘の産んだ上杉家の男が佐竹家を継承した。
これにたいして、佐竹家の遠い傍系の男系の子孫たちが猛反発w

ちょうど、皇室典範騒動で、
愛子内親王と婿養子の子供に跡を継がせるか
あるいは、遠い傍系にあたる旧皇族を皇室復帰させて跡を継がせるのかで
争ったようなもんw
322日本@名無史さん:2011/04/06(水) 08:31:33.23
バーブ佐竹
323日本@名無史さん:2011/04/06(水) 12:14:32.27
>>322
お前さん歳いくつだ?w
324日本@名無史さん:2011/04/06(水) 16:51:19.28
未だに泰氏事件の影響で頼氏には北条嫁は来なかったって人いるんだな
325日本@名無史さん:2011/04/06(水) 19:50:42.73
>>298
何故馬鹿だか 教えてください
徳川氏が単に政治的動機から源姓に仮冒するなら
三河に縁の深かった足利氏の傍系を名乗ったほうがすんなりいった気がすると思ったのですが
326日本@名無史さん:2011/04/06(水) 19:51:34.79
アンカーミス
>>302へです。
327日本@名無史さん:2011/04/06(水) 22:21:55.75
三河譜代の自称足利一族といえば板倉氏がいるね
328日本@名無史さん:2011/04/06(水) 22:53:49.08
>>325
足利家は系図が知れ渡っているから、偽造しづらかったんじゃないの?
逆に新田家のほうは、南北朝時代の敗北者側で
家系図が噴出したり、行方知れずの人も多かったから
流浪人伝説も作りやすかったように思う。

ちなみに、徳川家康が源氏の家系にこだわったのは
源氏長者に選ばれることによって、諸国の源氏出自を自称する大名の
任官の世話をする権利を欲しかったため。
そんなわけだから、極論、清和源氏ではなく、村上源氏でも良かったわけで。
一方、豊臣秀吉のほうは、近衛家の養子になって、藤原氏長者の地位を
得ているわけで、豊臣姓を名乗った後も、それをなかなか返さなかった。
329日本@名無史さん:2011/04/06(水) 22:56:18.74
>>327
確かにな...足利家みたいな系図の明確なところで
自称するのは勇気がいるね。
徳川家の場合、新田氏の系譜を自称しだしたのは
家康の数代前から、家康もご先祖にならったのかもしれん。
330日本@名無史さん:2011/04/06(水) 23:22:51.06
三河なら頼光流がいたんじゃないの?
331日本@名無史さん:2011/04/06(水) 23:27:12.48
細川もあやしげだけどいいのかな
あれも、オトシダネ的なところから話がはじまってるじゃん
ま 細川は足利宗家の家人だから信用度はまた別だけどさ

松平氏が三河で勢力ひろめるころはそこまで壮大な計画がなかっただけじゃない?
で、まわりに吉良だとか、今川がいる中で、いまさら源氏は名乗れないてな具合で
藤原姓を名乗ってたんでしょ
だけど、急に源姓がほしくなって三河にいなかったころの、過去をほじくりかえしてきて
無理矢理つなげたんだろ

あと、源姓のほうが幕府をひらけるという点でも都合がよかったのでは?
藤原姓だとどうしても秀吉がそうだったように摂関政治のイメージがある
別に征夷大将軍は清和源氏以外でもなれるのだろうが、
今まで幕府をひらいたのは源氏だけであるし、前例がないことを不安に感じた家康が
故実にのっとったということもありうる。
足利の養子になって幕府の名目をひきつぎ、まったく新しく秩序をつくり直すこともできたわけで
それをせずに新系統の幕府を設立するとなると、開府の大義名分を前例がすべて源氏であるという理屈から
みなを納得させ、従わせる必要があった、とも考えれる。
332日本@名無史さん:2011/04/06(水) 23:31:32.17
>>306
> 母系制って?

別の言葉で言えば妻問婚(招婿婚)のことだよ。

> 一応、出自に関しては、男系で決まっていただろう?
> 古代なんかでも。。。

>古代
という言葉では曖昧過ぎると思うがそう主張する根拠は?。


> そんな証拠はどこにもない。

だから妻問婚だよ。
日本の古代社会は母系氏族が極めて強い力をもつ母系(或いは双系)社会だ。
これが分からないと、何故(>>303で述べたように)日本は古代、中世の境目位の時期から、ほぼ一斉に地方氏族が「源平藤橘」だらけになってしまうのかも分かるまい。


> それこそ、不確かな憶測だ。
> 戦後の左翼教育が生み出した暴論。
> 古代が母系継承だって??
> 洗脳されるなよ、戦後の左翼教育にw


左翼、右翼の話ではない。
第一反論にもなっていない。
333日本@名無史さん:2011/04/06(水) 23:33:05.95
平安時代でも、男系で家がつづいてるじゃん
334日本@名無史さん:2011/04/06(水) 23:38:01.24
>>333
> 平安時代でも、男系で家がつづいてるじゃん

名前(本姓)はね。
本姓は婿に入った父方のものを名乗るが、育つのは母方の家で育つ。
それが日本の招婿婚制度だ。
335日本@名無史さん:2011/04/06(水) 23:54:30.38
う〜ん
よくわからないなあ

寝殿造りかなんかで北の方って正妻が住む場所があるよね

三日連続で通婚が成立すると、正式に結婚して、男が納得すると、男の家にめでたく住むことになったりするよね
で、男がどうしても都合があって三日目の夜に女のところへ行けなくて焦がれ死にしたって少将の話があったりするよね
女が身ごもった時、安心して子供産みたいから実家に帰るなんて話もあるし
そのまま実家にいついて帰ってこなかった。だから実子だけは帰してくれって頼む話もある。

そもそも平安時代は一夫多妻で、正妻以外の女とは、けっこう自由につきあったりしてるよね
下手すると歌だけで終わったりする夜もあるよね
中にはみごもっても認知しない子、御落胤なんて存在もいる。

すべてが母系だとは思わないけど。
336日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:15:27.45
>>306
また、佐竹氏のことをやたら引き合いに出すが、佐竹氏を出すなら戦国時代なんかよりも、佐竹氏の誕生期だ。
源義業は常陸平氏・平清幹に婿入りし、その子である昌義が母方の常陸平氏の地盤を継いで誕生した一族だろう。
その常陸平氏にしても、平高望の子である平国香が前常陸大掾・源護の婿に入り常陸の地盤を継いだものだ。
さらに言えばその源護も、同様の過程を経て都から常陸に土着したものと推測されるだろう
また、国香に限らず平高望の子達(良兼、良持、良正、良文)は皆そうだ。

他の氏族も見てみるといい。
殆んどは今述べた佐竹氏他と同様の成立過程を辿っているはずだ。
また、日本神話にも詳しそうだが、
ニギハヤヒがナガスネヒコの妹ミカシギヤ姫を「妻とした」とはどういうことか?

ニニギがオオヤマツミの女・コノハナサクヤビメを「妻とした」とはどういうことか?
ホオリがワタツミの女・トヨタマビメを「妻とした」とはどういうことか?

みな「妻問婚」で、子は母系一族を継承したんだよ。

かように日本においては母系氏族が強い影響力を振るう社会だったということだ。
337日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:29:13.39
>>335
すでに自分で説明してるじゃないか?

女が身ごもった時、安心して子供産みたいから実家に帰るなんて話もあるし

母系社会の名残だよ。
そもそも平安時代は一夫多妻で、正妻以外の女とは、けっこう自由につきあったりしてるよね

>一夫多妻
というのは父系のみから見た視点で、別の視点から見ると、それこそが妻問婚ということなんだよ。
平良文なんかは南関東一帯の種蒔きマシーンと化してるだろ?
源為義にしてもそうだ。
あれらは
>一夫多妻
で自分で全て囲い込んだわけじゃもちろんない。
種だけまいて、あとはそれぞれの母系氏族に任せたのだ。

338日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:36:13.69
話をごまかされてる気がするな
>>289を書いたものだが

まず氏(名字)と姓(血統)を明確にしてほしいわ

名田が成立した平安末期、名跡を継いで、姓が異なっても、同じ氏を名乗るようなことはあったとは思うが
姓については男系をなのったのではないか?という話をしてるんだよな?
339日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:40:35.81
>>337
それはおまえの妄想だろww
武家ってのは、武の家ってことだぞ
律令が崩壊した800年代以降、低コストな家業化が起こる。
それは治安維持のための軍務も例外じゃなかった。
武家の起こりもそこに源流がある。

代々、武の継承をしていくことが武門の家の勤めなのに
信頼あるお守り役もつけないまま子供が武門にそだつわけがないだろう
340日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:42:30.47
>>331
征夷大将軍は、源氏でなくても就ける。
重要なのは、源氏長者のほう。
之を得ると、全国の源氏を名乗る貴族や諸侯の
朝廷での任官の世話をする権利をもつことができる。
源氏長者、藤原氏長者は、とくに重要。

よって、極論、清和源氏ではなくて、村上源氏でもOK。
つーか、歴史的には、村上源氏>清和源氏であり、
平安期の頃から、源氏長者は村上源氏の公家が握って
源義家ら清和源氏の武家たちも、村上源氏の公家に任官の世話をしてもらっていた。
341日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:50:28.56
>>338
> 話をごまかされてる気がするな

>ごまかされてる
等と言われても困るだけだな。

> まず氏(名字)と姓(血統)を明確にしてほしいわ

上で述べた通りだが?氏(本姓)は婿のものを名乗るが、育つのは母方の実家で養育される。
それが招婿婚だ。
それに姓は血統じゃなくて身分上の称号だよ。
元来は職種を表していたと思われる。

> 名田が成立した平安末期、名跡を継いで、姓が異なっても、同じ氏を名乗るようなことはあったとは思うが
> 姓については男系をなのったのではないか?という話をしてるんだよな?

だから妻問婚。
地方豪族に婿(大抵は貴族)が入り、その豪族は婿の氏(本姓)を名乗る。
生まれた男子は母方の家で養育される。
婿(父)自体は大抵は受領階層クラスが多いので、必ずしもその家に生涯居着くわけではない。
その場合はたいてい次の赴任先でまた同じこと(妻問婚)をやる。
カムヤマトイワレビコもそうだろう。
342日本@名無史さん:2011/04/07(木) 00:57:21.60
妻問婚だからといっても、母系とは言わない。
その人の出自をみるとき、父方の家系のほうを重視するからだ。
343日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:02:30.70
その長者システムってのがよくわからんな
なんらかの実物の権力基盤を継承することが前提になってるんだろうけど
まそれを継承するにしても有職故実の形式にもとづいてしなきゃいけないから
高家なんてのが公家との折衝にあたるため用いられることになるんだろうけどさ

ところで、全国の源氏っていっても秀吉が全国統一したころにはもうさほど実力ある大名に源氏っていなかったよね?
室町幕府創業時はあれほど権勢をほこっていた名だたる源氏だったのに・・・。
足利、山名、斯波、細川、佐々木、土岐、仁木、一色、今川、小笠原、武田里見佐竹最上相馬吉良ほとんどすべて没落してるじゃん
344日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:07:02.09
>>341
武家になってからはほぼ嫁だろ
武家同士で血縁まじえるんだから、後継ぎを人質にとられてどうする!?
345日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:11:35.09
>>339
> それはおまえの妄想だろww

招婿婚は学界の常識だが?


> 武家ってのは、武の家ってことだぞ

「兵の家」(軍事貴族)については諸学者間で微妙に見解が異なる。
俺はこの点については近藤好和説に立つがね。

> 律令が崩壊した800年代以降、低コストな家業化が起こる。
> それは治安維持のための軍務も例外じゃなかった。
> 武家の起こりもそこに源流がある。

同様の主旨をついこの間別スレで述べたよ。

> 代々、武の継承をしていくことが武門の家の勤めなのに
> 信頼あるお守り役もつけないまま子供が武門にそだつわけがないだろう

それこそ
>妄想
もいいところだ。
あんた自身すぐ上で述べている
>低コストな家業化が起こ
った云々とも矛盾する。
国の財政を圧迫していた軍団制の廃止以後に、それをスリム化する形で実施された健児制。
その中核となった在地富豪層(母系氏族)自体が
>信頼あるお守り役
にならぬわけが無かろう。
そうであるからこそ「妻問い」するのだ。
346日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:16:08.89
だめだこいつ。
文章がもうあきらめてるくせえし。何よりいちいち陳腐な会話するのがめんどくせえ
347日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:16:45.10
>>343
島津も大友みたいな自称源氏がいっぱいしたし、
佐竹とか最上とか由緒ある源氏の一族も多くいた。
おおいよ、真偽は別として、戦国期も源氏、藤原氏、平氏を
なのる一族というのは。
348日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:19:35.07
>>344
> 武家になってからはほぼ嫁だろ

> 武家になっ
たって具体的にはいつ?

話はそれからだ。
349日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:29:44.53
>>346
> だめだこいつ。
> 文章がもうあきらめてるくせえし。何よりいちいち陳腐な会話するのがめんどくせえ
具体的な反論出来なくなるとこのテのセリフが出てくるというのはよく分かる。


>めんどくせえ

のは、「招婿婚」について見当外れな突っ込みいれてくるたびに、同じ説明何度も繰り返さなければならないこっちのセリフだよ。
普通に武士発生論の本を何冊かでも読んでれば目にしてるはずのことなんだが。

まあ
>あきらめてる
というよりは酔っ払ってるのは事実上だがw
だがその骨子は間違ってはいないよ。
350日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:56:02.14
>>349
ほう。真性か。
まず、招婿婚というが、これ自体否定しないが、結婚の形態を定式化できるものではないと思われ。
男系の子供同士が争うとき、実家の力関係が左右することは確かだろうが、
基本、男系で世の中が動いているということは、はじめから男の方が主体的に家の中でふるまっているということを
意味している。つまりは、結婚したからって、その子が親父に家を継ぐうえで認められるか否かが
その子が男の家に呼ばれるか否かを決定していたと思われ。
その決定が女の家の財力に起因するものかどうかは別として、決定権は男の側にあったということが大事。
351日本@名無史さん:2011/04/07(木) 01:56:07.63
>>345
母系氏族という概念自体がおかしいと俺は思うのだが・・・。
そもそも男系で社会が維持されていたということは、その母系の家族内でも男系の血筋がいたわけで
そいつらはなんなの?どこにいったんだ?って話だよ
武士ってのは最初期は侍という高貴な階級とその従者からなっていた。
野党が集団をつくってヤクザまがいのものが発展していったってものじゃない。
また、柔術や兵法などは、儒学が家業化されて一般人には公開されなかったのと同様一般人が勝手に考えてってことはまずありえない。
じゃないと、林羅山の歴史的意味もないしな。博士家や比叡山のオコト点のつけ方なんて、
江戸時代じゃ現代漢文のレ点などにおきかわって完全にすたれた。武門の技術ってのも男系の家で相続されてきたと思われ。
で、武家てのは、当然今みたいに核家族じゃねえ。ひとつの政治機関といってもいいくらいの人が集まってる。
だから、家をとりしきることを家政といい、三位以上?だっけか?の家政は公的なものとみなされ
文書も公文書として扱われることになった。御教書などがそれだ。で家司や執事も世襲されるようになって高氏なんて家人もでてくる。
幕府も頼朝が将軍になってから、政所が家政から公的機関へと昇格し、その家に努めてる人、御家人が
有力な力をもったわけだ。つまり、武家といっても、家業に携わってる人が何人もいるってこと。
こういう人たちの中で武芸に秀でたものか、乳母の家族のものを子守につけ、武芸を身に着けさせる。
母方の家のものが男系の子をもりたてる郎党になるって感じではないかね
母系社会が鉄板でどんな場面でも顔をだしてくるような単純な社会構造を考えることは安易すぎると思うね
352日本@名無史さん:2011/04/07(木) 02:39:50.01
>>350
> ほう。真性か。

>真性
に対してやけに一生懸命に絡んでくるねw

> まず、招婿婚というが、これ自体否定しないが、

だんだん譲歩になってきてるじゃないかw

>結婚の形態を定式化できるものではないと思われ。

>定式化
なんて一言も言ってない。
「総じて」当てはまると言っているのだ。

> 男系の子供同士が争うとき、実家の力関係が左右することは確かだろうが、
> 基本、男系で世の中が動いているということは、はじめから男の方が主体的に家の中でふるまっているということを意味している。

「母系氏族」ということと、「女当主」ということとは全然違う概念だぞ。
よく間違われるが。
だから俺は「母系氏族の影響力が強かった」という言い方で何度も述べているだろう
母系氏族の当主が女だった等とは一言も述べていない。
招婿婚とは、本姓は婿(主として貴族)のものを名乗るので生まれた男子は婿(貴族)の姓に変わるが、養育は母方の家でなされる。
しかし、その母系氏族の当主自体は一族の男性だ。
そして生まれた男子の後見人とまずなる。
これは波多野義通や北条時政なんかを思い浮かべれば良い。

俺が何度も述べた(古代〜中世初期にかけての)「母系氏族は強い影響力を有していた」とはそういう意味で言っている。

353日本@名無史さん:2011/04/07(木) 02:45:47.42
また、これは「神話」においてもそうだろう。
天皇家の(祖)の母系氏族であるサクヤビメの家では父・オオヤマツミが、トヨタマビメの家では父・ワタツミがそれぞれ一族の「長」の役割を以て描かれているだろう?


そういうことなんだよ。
354日本@名無史さん:2011/04/07(木) 07:52:54.56
『殴り合う貴族たち』の平安貴族=東電役員
355日本@名無史さん:2011/04/07(木) 19:09:59.87
男系と女系の概念。
どこが始まりなのかというのも重要だな。
足利将軍家が途絶えれば、吉良家、その次が今川家
なんて話があるけど、
足利一門の中でも、足利尊氏の男系子孫と、そうではないものとの間には
明確な差があって、足利家が尊氏の男系子孫の中に
分家を大量に作っていたから、吉良家や今川家に回ることは、
可能性として低かった。
356日本@名無史さん:2011/04/07(木) 21:01:57.29
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    | /  (・)  (・) |   | そろそろ今川に寄こせよ、ハゲ!
  /⌒  (6     つ  |   |
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  − \   \_/  /    \__________________
 //  ,,r'´⌒ヽ___/     ,ィ
   /    ヽ       ri/ 彡
  /   i    ト、   __,,,丿)/        ζ
 |    !     )`Y'''" ヽ,,/      / ̄ ̄ ̄ ̄\
  ! l   |   く,,   ,,,ィ'"      /.         \
  ヽヽ  ゝ    ! ̄!~〜、       /           |
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   Y'´          /    """''''〜--、|||||||||||||||||)
   (      丿  ,,;;''  ....::::::::::: ::::r''''"" ̄""ヽ   |
    ゝ   ー--、,,,,,___      ::: ::,,,,,ー`''''''⌒''ーイ  ./
    ヽ      \  ̄""'''"" ̄   \____/-、
     ヽ       ヽ  :::::::::::::::::::: /          `ヽ
      ヽ  丿   )       /    ノ   ゝ ヽ ,〉
       ゝ      !      /            ∀
        !     |      /   人     ヽ   ヽ
        |     ,;;}      !ー-、/  ヽ _,,,-ー'''''--ヘ
          |ノ    |      |  /    Y        ヽ
         {     |      |   j      )         ヽ
         〈     j      ト-.|    /          )
          Y''""'i'~      |,__|    /      人   __,|
          |   |     ,-ーイ__j  /'""⌒""'''ノ  Y''""" |
357日本@名無史さん:2011/04/08(金) 01:09:16.45
>>321
竹田某は約600年の先祖が天皇というだけで
ずっと天皇に近い男系男子はいるだろ。

清和天皇から約600年離れた9代将軍足利義尚が
天皇に近い男系男子を飛び越えて
皇族に復帰して皇位継承するくらい無茶がある。
358日本@名無史さん:2011/04/08(金) 01:11:51.77
約600年→約600年前
359日本@名無史さん:2011/04/09(土) 22:14:29.45
>>327
足利尊氏関連史跡

・長瀬八幡宮(岡崎市)■社殿(火災消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に


参考:源頼義創建。長瀬は初代奥州吉良氏である吉良義継(法名:長瀬四郎)ゆかり。
360日本@名無史さん:2011/04/09(土) 22:18:12.35
足利尊氏関連史跡一覧

【岡崎市】
・滝山寺■足利宗家の菩提寺、寺領寄進。
・高隆寺■七堂伽藍造営。
・天恩寺■足利尊氏遺言の寺、3代将軍足利義満建立、4代将軍足利義持の祈願所。
・真福寺■持地院建立。
・満性寺■太子信仰、足利尊氏弓矢の守護神、伽藍造営。
・竜泉寺■日静(尊氏の母の弟)開基、元は上野一族(足利一族)の竜泉寺城。
・統持寺■高一族屋敷跡に高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義満の支援あり。
・長瀬八幡宮■社殿(火災による消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に。
・糟目犬頭神社■庇護(百貫文寄進)、北朝側の鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり。
・八剣神社■足利尊氏の墓あり、近くに大門屋敷(足利宗家の屋敷)があった。
【吉良町】
・金蓮寺■真言宗光福寺の子院を現在の場所に移転、金蓮寺として再興。
・勝楽寺■創建、お手植えの松あり。
・饗庭神社■新田開発し、一宮、二宮、三宮を鎮守、その内の二宮。饗庭命鶴丸氏直(花一揆武士団大将)が関係。
【豊田市】
・長興寺■三河利生塔、全国66ヶ国2島の利生塔の一つ。
【幸田町】
・安国寺■三河安国寺、全国66ヶ国2島の安国寺の一つ。
【西尾市】
・実相寺■安国寺(全国66ヶ国2島の安国寺)に指定、尾張国の安国寺の代わりらしい(尾張国にあった記録なし)。

【新城市】
・冨賀寺■真応上人(尊氏の従兄弟)が住職、祈願寺として寺領を寄進し、本堂・中堂・護摩堂・阿弥陀堂他、坊舎18坊を造営。

【豊橋市】
・赤岩寺■阿弥陀如来坐像奉納
361日本@名無史さん:2011/04/09(土) 23:04:31.79
三河には奥平、青山、大久保など義国流源氏以外にも上野、下野にルーツのある家が多い。
362日本@名無史さん:2011/04/09(土) 23:34:35.06
室町幕府 奉公衆
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・内、三河国は全国で最大人数

三河国の奉公衆

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)

【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田

【足利一族被官】
饗庭、朝倉、飯尾、伊勢、大草、高、久下、小嶋、二宮、彦部

【三河源氏】
足助、水野

【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永

【美濃源氏】
土岐、長山

【桓武平氏】
神谷、山下

【その他又は不明】
岩堀、宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、中条、堤、長、西部、本郷、松平、三浦、丸山、大和
363日本@名無史さん:2011/04/15(金) 06:51:38.68
永源寺


中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。
南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義持の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
これ以降の史料がなく近世の伝承地もないので、15・16世紀頃に廃絶したとみるしかない。(2−397)

364日本@名無史さん:2011/04/15(金) 06:56:34.08
板倉氏


戦国時代の碧海郡中島城主。
板倉氏はもともと足利氏の一族で足利泰氏の子義顕を祖とする。鎌倉時代三河守護となった足利本宗家の被官として三河に入部し、板倉右衛門入道は滝山寺の持仏堂を建立した(『滝山寺縁起』)。
16世紀頼重の代に額田郡小美に住し深溝松平氏に属した。子好重は中島城を守り、その子が初代の京都所司代となった勝重である。
頼重の子といわれる板倉重定は永禄4年(1561)中島城に拠って松平元康(家康)に対抗した。当時重定は板倉氏の惣領で今川直臣であったと考えられる。



板倉右衛門入道は、初代渋川氏の渋川義顕か?


365日本@名無史さん:2011/04/15(金) 08:41:31.45
すでに南北朝期には板倉名乗って家臣化している一族あるから近世板倉氏はその末裔でしょ
嫡流である義鏡の末裔名乗るから信憑性失ったけど
366日本@名無史さん:2011/04/15(金) 10:31:35.33
持仏堂を作ったのは鎌倉時代の話よ
渋川氏と三河の繋がりは古い

・初代の渋川義顕は出家して三河に居た
・以後渋川氏は三河を拠点とし、元弘の変では一族として矢作に集結(19家の一つに渋川一族あり)
・足利高氏に長瀬八幡宮の神主にされた板倉氏(渋川氏庶流か?)あり


367日本@名無史さん:2011/04/15(金) 16:11:30.82
大名板倉氏は安城譜代だし、名門渋川一族を名乗った仮冒だろ
368日本@名無史さん:2011/04/15(金) 18:44:11.97
松平家って、下剋上で成りあがった一族だけど
織田信長の織田弾正の家系なんかよりは
よほど地盤や組織がしっかりした一族だったんだよな。
たかだか百年ちょっとで、強力な支配体制を三河にしいて
吉良家のような名門一族ですら、松平家の取り巻きとかした。
そういうふうに考えたら、板倉家なんて渋川家一族といっても傍系で落ちぶれていたから
早い時代に松平家の家臣に組み込まれてもおかしくないよ。

まあ、松平家自体も、まるで、どこの馬の骨かも分らない一族ではなくて
足利家の執事の伊勢氏の配下で、京都の下級宮司やっていた家系みたいだし、
そんな筋の悪い一族でないのかもね。(清和源氏新田というのは冒涜だがw)
369日本@名無史さん:2011/04/15(金) 18:53:09.57
なぜ松平氏が世良田氏を称したのか。
なぜ三河に三河守護足利氏とはあまり縁のなさそうな上野、下野系の諸族がいるのか。
これを説明するには浪合記そのものは信じないにしても
ああいった宮方の上野、信濃、奥三河というネットワークを認めることが必要なのではないだろうか。
370日本@名無史さん:2011/04/15(金) 22:29:32.28
徳川家康の本当の男系の先祖って
鎌倉時代、後宇多天皇のそばで働いていた賀茂在盛という人物で
陰陽道に関係する公家で
また、そのずっと先の先祖には
ラノベで有名になった賀茂保憲がいるんだよ。

賀茂保憲が、徳川家康の男系の先祖と思ったら、おもしろい。
371日本@名無史さん:2011/04/15(金) 22:41:06.93
>>368
室町幕府の下級官僚の家柄だった可能性のある松平家って、家康の女系ね。
室町時代に大地主松平家に目をつけたどこの馬の骨か分からん坊主乞食
(乞食が坊主の格好をしてお布施をねだって生活する)が強引に松平家に宿を借り、
一泊二泊するうちに松平家の一人娘を犯して産ませたのが家康の先祖らしい。

織田家は越前剣神社の神主の家系で、古代からの有力者だよ。
室町時代、越前に守護として斯波氏が赴任すると被官となって
斯波氏が尾張の守護をかねたので終わりに移り住んだ。
徳川より素性はよっぽどまし。

372日本@名無史さん:2011/04/15(金) 23:24:40.97
>>371
>(乞食が坊主の格好をしてお布施をねだって生活する)が強引に松平家に宿を借り、
>一泊二泊するうちに松平家の一人娘を犯して産ませたのが家康の先祖らしい。 )

普通、そんなことないよなw うそくさいw
新田氏の子孫という伝説作るために、いろいろ偽造したのだろうが
そうすることによって、明治時代になって
どこの馬の骨か分らないってデマが流れるのは、ある意味
自業自得ともいえるな。

http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/sengoku/tokugawa/tokugawa_1.html
http://keizusoko.yukihotaru.com/tokugawa_zakkan/tokugawa_zakkan1.html
373日本@名無史さん:2011/04/16(土) 00:55:16.69
素性の知れない乞食坊主が地元の有力者、酒井氏と松平氏の娘にそれぞれ子を産ませて、
最終的に松平家の跡取りに収まったというのが、ある程度事実を反映しているなら、
素性は知れなくてもなかなかの人物と見込まれたということになる。
中世日本で人物評価の最重要基準が何よりも家柄であった以上、
乞食坊主が田舎の豪族当主に「それ」を信じ込ませたというところまでは想定すべきではないか。
374日本@名無史さん:2011/04/16(土) 02:30:46.67
家柄ってのは血統とは違うと思うが・・・

堂上家とか清華家とか、血で上の登れる限界が制限されているのが家柄だろ?
しかも人物評価基準というより、政治の家業化であって、権力欲やら上昇志向とはかけ離れたところにあるものだと思うが。

血統ってのはあくまで、家を運営する上でコネクションを重要視したところにあるもので
そんなのは組織体を構成する上で今でも行われてる事だろ。
375日本@名無史さん:2011/04/16(土) 02:38:52.46
馬鹿かw?
松平郷あたりは皇室最大規模の八条院領内
京の情勢は逐次伝わってるような所
もの知らないウブな豪族なワケないだろw

・源頼朝は安達盛長を母親の実家(荘園を皇室に寄進)である三河の守護にし、京の情勢を探らせた

・足助重範は後醍醐天皇の蜂起にいち早く足助(松平郷のすぐ近く)から駆けつけ、総大将になる


376日本@名無史さん:2011/04/16(土) 02:51:58.97
>>372
そこのソース、よく調べたね。徳川家に関しては
そこが一番説得力がある。
徳川家の先祖は、陰陽道で有名な葛城・賀茂氏。
地祇系の古代豪族の名門家系。
ずっと先は、大国主までつながっているが。。。
まあ、事実上の最初の先祖は、大田田根子だな。
377日本@名無史さん:2011/04/16(土) 02:58:34.03
賀茂氏には、複数系譜があり
もうひとつ有名なのが、天神系の葛城氏で、
これは、山城国の葛野の家系。

徳川家康の松平氏と関係ありなのは、葛城・賀茂氏で、
もとは鴨氏と書いて、前者と区別される。
378日本@名無史さん:2011/04/16(土) 08:36:17.09
鴨説も荒唐無稽だろw
葵紋が同じなだけじゃね?
はっきり言って源氏などより名族だけど
379日本@名無史さん:2011/04/16(土) 08:50:19.13
>375
読解力なさすぎ
>もの知らないウブな豪族なワケない
なら尚更、ただの流れ者を娘婿にするにはそれなりに見込むだけの何かがあったとしなけりゃならんだろう
あくまでも乞食坊主伝承が、ある程度事実を反映しているなら、だけどな
380日本@名無史さん:2011/04/16(土) 09:23:24.85
滝山寺関係者まとめ

・源頼朝■伽藍造営、鬼まつりは頼朝ゆかり
・藤原李範■初代藤姓熱田大宮司、源頼朝の母方の祖父、夫婦で滝山寺内に蓮華寺建立
・藤原範忠■二代目藤姓熱田大宮司、源頼朝の母の兄、滝山寺領を確定、本堂建替え(滝山寺とって二度目)
・藤原寛伝■滝山寺僧侶、藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟
・三河祐範(藤原祐範)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄、頼朝(伊豆時代)の支援者
・三河仁憲(藤原仁憲)■滝山寺僧侶、三河祐範の息、源頼朝の従兄弟、吾妻鏡に登場
・粟田口長暹(藤原長暹)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄
・野田朝氏(藤原朝氏)■初代野田姓熱田大宮司、室は足利義兼の娘(3代目足利義氏の姉もしくは妹)
・足利義氏■三代目足利当主、本堂建替え(滝山寺にとって三度目)、北条政子と源実朝の遺骨を分骨
・足利頼氏■五代目足利当主、一切経蔵の経会料所寄進
・足利貞氏■七代目足利当主、如法堂造営
・斯波家氏(足利家氏)■初代斯波氏、足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納
・吉良義継(足利義継)■初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・世良田頼氏■初代世良田氏、足利義氏の娘婿として、短期間三河守護代を努めたもよう
・大平惟行■足利被官、滝山寺常行堂の造営、料田3町8段を寄進、法華堂へも藤原俊継と秘計して田畠を寄進した
・板倉右衛門入道■初代渋川氏の渋川義顕か?、持仏堂造営
・伊勢俊継(藤原俊継)■初代伊勢氏、 法華堂造営
・貞円■滝山寺僧侶、高師泰・高師直兄弟の弟、大勧進
・足利尊氏■八代目足利当主、初代足利将軍、寺領寄進
・足利義詮■二代目足利将軍、中先代の乱の時に滝山寺に匿われる
・足利義満■三代目足利将軍、本堂建替え(滝山寺にとって四度目)
381日本@名無史さん:2011/04/16(土) 09:28:24.58
>>379
お前の話はつまらないから、もういいよ
382日本@名無史さん:2011/04/16(土) 09:34:53.50
源頼朝関連史跡一覧


【岡崎市】
・滝山寺■藤姓熱田大宮司一族菩提寺、伽藍造営、頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像、源実朝、北条政子の墓あり

【豊田市】
・平勝寺■元の名は大秘蜜院(平勝親王が改名)、寺領寄進
・普賢院■寺領寄進
・猿投神社■藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築

【蒲郡市】
・長泉寺■弥陀堂(三河七御堂)造営、阿弥陀如来奉納
・全福寺■現在は廃寺、丹野御堂(三河七御堂)造営、阿弥陀如来奉納

【吉良町】
・光福寺■現在の金蓮寺、弥陀堂(三河七御堂)造営、阿弥陀如来奉納

【新城市】
・鳳来寺■再興、三重塔造営、弥陀堂(三河七御堂)造営、阿弥陀如来奉納
・今水寺■寺領寄進

【豊川市】
・財賀寺■本堂・仁王門再建、観音堂(三河七御堂)造営

【豊橋市】
・普門寺■再興、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、観音堂(三河七御堂)造営
・赤岩寺■弥陀堂(三河七御堂)造営 、阿弥陀如来奉納
・吉田神社■天王社勧請
・鞍掛神社■愛馬の鞍を奉納
383日本@名無史さん:2011/04/16(土) 17:32:40.77
>>381
また例のあの系図厨かw
384日本@名無史さん:2011/04/19(火) 21:19:42.03
【鎌倉幕府】
政所別当:大江広元の子女

・海東忠成:藤姓熱田大宮司家に養子入り、熱田大宮司に。同時代の同門に野田朝氏

■藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国に住む)→李範→範忠→忠李→忠兼→忠成

・高階惟長室:高橋惟長(足利被官)は三河国菅生郷(藤姓熱田大宮司家より足利義兼に賦与)の郷司職


政所令・後に別当:二階堂行政(代々政所執事を務めた二階堂氏の祖)

母は源頼朝の外祖父熱田大宮司藤原季範の妹で、その関係から頼朝に登用されたと見られている。

■藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国に住む)→女子→二階堂行政
385日本@名無史さん:2011/04/19(火) 21:29:12.22
何らかの理由で薬師寺は消滅、斯波義将が跡地に永源寺を建てたと思われる

【薬師寺】
中世に岡崎市矢作にあった寺。「三河念仏相承日記」が記す建長8年(1256)10月の親鸞の弟子真仏・顕智・専信ら念仏勧進の場所として著名で、所在地をめぐる論争があった。
同時代史料では永仁3年(1295)8月の熊野山日供米碧海荘配分状(鎌倉遺文18898)に薬師寺郷の名がみえ、「滝山寺縁起」に薬師寺の名が2か所みえる。
郷名は寺があるところから付けられたと推定され、創建は相当古いとみられる。
昭和57年(1982)12月に矢作川河床内で新井幸雄が採集した鎌倉時代前半と推定される平瓦の破片に「□師寺多宝塔」「東光坊良信」などのヘラ描き文字があり、矢作近辺に薬師寺があったことを裏付ける。
東光坊は12世紀後葉の創建で15世紀中葉まで存続したと矢作町山本家文書に伝えられ、「岡崎東泉記」も矢作の古寺の跡として東光坊をあげており、薬師寺の坊舎の一つであったことは疑いない。
昭和3年刊行の『矢作町誌』は、西牧内(現大和町)字西島の郡道に沿って8間四方の寺跡があり、本尊薬師像は桑子妙源寺に納められたが、慶長8年(1603)の検地帳には「薬師前」という小字があったと記した。
それでこの地を薬師寺の所在地とするのが通説となったが、原拠史料が伝わらないので詳しい検討はできない状況である。
ヘラ描き瓦の採集地に近い矢作川の中洲から鎌倉後半〜室町時代に比定される宝篋印塔・一石五輪塔13基が一括出土するなど、所在地は確定できない。

【永源寺】
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。
南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
これ以降の史料がなく近世の伝承地もないので、15・16世紀頃に廃絶したとみるしかない。(2−397)
386日本@名無史さん:2011/04/20(水) 20:41:52.89
家康は新田義貞の末裔
根拠として三河は南朝方が多く、徳川家臣にも井伊酒井大久保戸田牧野西郷など南朝方の子孫が数多く存在することが挙げられる
387日本@名無史さん:2011/04/20(水) 22:37:46.70
>根拠として三河は南朝方が多く、徳川家臣にも井伊酒井大久保戸田牧野
>西郷など南朝方の子孫が数多く存在することが挙げられる

根拠じゃなく妄想じゃんwww
388日本@名無史さん:2011/04/20(水) 22:38:58.54
得川、世良田は新田氏同族でも義貞とは別系
389日本@名無史さん:2011/04/20(水) 23:14:58.28
井伊は遠州人で元今川家臣

西郷は菊池一族名乗っているが北朝方仁木氏に仕えた一派だぞ
390日本@名無史さん:2011/04/20(水) 23:46:31.26
足利直轄領のような国で、あえて南朝方の系譜にしたのは、実際に南朝ゆかりの人間がいたのではなく、
今川、吉良に対抗するためだったのでしょうか?
391日本@名無史さん:2011/04/20(水) 23:54:40.72
単純に足利系だと室町幕府を引き継ぐように見られるから嫌だったのでは?
新田の流れと名乗れば足利幕府の後継ではなく新しい幕府と認知させられる。
392日本@名無史さん:2011/04/21(木) 01:13:02.25
足利と違って、新田は衰退していたから、系図が偽証しやすいだろう?
家康の松平家はやはり鴨系であり、中でも地祇系の三輪氏族系の鴨氏。
平安時代以降は陰陽道の名門となり京都朝廷にも仕えていた一族。
だから、そこそこの名家。
393日本@名無史さん:2011/04/21(木) 01:35:18.05
>>389
生き残りのために敵味方入り乱れるのは観応の擾乱の足利一族みただけでわかるだろ
応仁の乱の時だって西軍は後南朝を担ぎ出しているぐらいだ
394日本@名無史さん:2011/04/21(木) 01:45:55.22
>>392
新田本家は滅亡していたから系図が偽造しやすいのは確かだと思う
しかし、戦国の成り上がり大名でほかにも新田源氏を名乗ったのはいたのだろうか
清和源氏の枝葉は、満仲の兄弟の所からそれこそ無数にあるのだから(土岐氏、明智氏など)、
わざわざ没落した新田源氏を名乗った成り上がり大名(一応、由来のある岩松、里見ではなく)がいれば
この説は説得力が増すと思う
395日本@名無史さん:2011/04/21(木) 03:17:02.54
家康の源氏改姓が強調されるようになったのは
関東入府のとき以降
(将軍就任まで藤原姓と源姓使い分けているが)。

若干、帰納的な感じもするが次のような説もある。

「家康が移封されたのは、後北条氏の遺領
(後北条氏の本姓は伊勢だったが、鎌倉北条氏にあやかり
 北条と改姓した)。
 そして鎌倉討幕の際、直接鎌倉を攻めて
 鎌倉北条氏を滅ぼしたのが新田義貞。
 その“北条氏を滅ぼしての関東入府”という故事になぞらえて
 新田系源氏に家系を繋げた」という説。
396日本@名無史さん:2011/04/21(木) 03:21:24.46
上記の説では、家康の改姓の理由について
将軍就任のため、という広く流布された説を俗説として退けている。

家康の残した書名で源姓が多用されるようになるのは
関東入府以降、地元の豪族どもに対してのものが多く、
従って、新田義貞の北条討伐の故事をかなり強く意識していた、
というのが上記説の骨子。

だいたい平姓の信長も将軍就任を打診されているし
将軍になるために源姓が必要だった、とうには後世の誤解。
397日本@名無史さん:2011/04/21(木) 03:30:31.06
>>395
北条氏のところで姓と苗字を混同してるな。伊勢氏も北条氏も桓武平氏。
398日本@名無史さん:2011/04/21(木) 03:44:01.66
それを言うなら氏と名字だろ
399日本@名無史さん:2011/04/21(木) 06:46:27.79
>>397

>>213

学習しない猿だなw
400日本@名無史さん:2011/04/21(木) 07:06:15.94
>>399
お前、恥垢臭いぞ
401日本@名無史さん:2011/04/21(木) 07:22:49.44
際に南朝ゆかりの人間がいたのではなく、後から家康が南朝伝説を裏から広めさせた?
402日本@名無史さん:2011/04/21(木) 07:26:06.95
里見八犬伝に興味ありますが、
房州里見一族も、逃げてきた新田系というのもウソ?
403日本@名無史さん:2011/04/21(木) 08:18:02.67
北朝方についた庶流の美濃里見氏が足利成氏の対上杉政策で派遣されたらしい
404日本@名無史さん:2011/04/21(木) 08:28:26.12
室町時代、一貫して新田本宗家は逆賊で、問答無用の討伐対象。
庶子家も一部例外を除いてほぼ同じ。
405日本@名無史さん:2011/04/21(木) 12:10:15.12
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

西条吉良
東条吉良
今川
一色
仁木
細川
斯波
戸賀崎(荒川)
畠山
桃井
渋川
岩松
石塔
上野
鹿嶋
粟生
倉持

上杉
406日本@名無史さん:2011/04/21(木) 13:41:30.91
足利一門オールスターキャストw
407日本@名無史さん:2011/04/21(木) 13:47:14.43
征夷大将軍になるために源氏を名乗ったというのは俗説だよな。
そもそも、藤原氏や皇族だって征夷大将軍になっているよ、中世以降も。
家康が欲しがったのは、源氏長者。
藤原氏長者は、羽柴秀吉が近衛家の養子になることによって奪ってたので、
逆に家康は源氏長者を欲した。

朝廷の任官の世話においては、源平藤橘などの氏長者にされたものが
責任者になって管理するようになっている。
超古代においては、姓を名乗る文化がなかった時代なんかは
ある氏族を創設したら、その氏族の代表者には、アメノという称号があたえられた。
それだけ、氏族制度では、その氏族・部族の本家本元が重視される。

中世以降は、朝廷においては、事実上、藤原氏と源氏の二大氏族が独占したため
この両氏族の氏長者とされたものの影響力が強まった。
藤原氏長者は五摂家、源氏長者は村上源氏の久我家がにぎった。

武家も、朝廷からの任官で有利になるように、源平藤橘を名乗りたがるものが多く
なかでも、藤原氏と源氏を名乗りたがるものが多かった。
そんな流れで、足利家や徳川家による源氏長者強奪、
羽柴家による藤原氏長者強奪が起こったのである。
408日本@名無史さん:2011/04/21(木) 14:00:31.46
>>407
たしかに源氏氏長者を独占したのは徳川将軍家が初めてだな。
もともと源氏氏長者を称していたのは公家の久我家。
源頼朝にはじまる鎌倉幕府では将軍は誰ひとり源氏氏長者にならなかった。
室町幕府で太政大臣になった足利義満が初めて源氏氏長者になったが
室町幕府将軍全員が氏長者ではなかった。
江戸幕府歴代将軍が源氏氏長者になったのは、徳川家康が太政大臣になったのをはじめ、
歴代将軍が内大臣以上を拝命して久我当主よりも高官職だったためだろう。
実は、歴代将軍の中で徳川家が一番公家化していた(歴代徳川将軍の肖像画はすべて
公家が朝廷に出仕するための衣装である束帯姿で描かれた)。
409日本@名無史さん:2011/04/21(木) 14:38:55.65
足利も源氏の蛆長者になったの?
410日本@名無史さん:2011/04/21(木) 14:40:32.43
平氏の氏長者は?
橘氏の氏長者は?
菅原の氏長者は?
清原の氏長者は?
小野の氏長者は?
411日本@名無史さん:2011/04/21(木) 14:42:13.81
でも源氏の氏長者だと、源氏系武家以外は管轄外になるのでは?
412日本@名無史さん:2011/04/21(木) 15:45:24.24
>>411
藤氏氏長者の摂家が藤原ではない他氏の公家たちも
統括してたから無問題
413日本@名無史さん:2011/04/21(木) 16:58:51.36
公家社会、武家社会の最大派閥が
藤原氏族と源氏族だから、
このどちらかの氏長者になることによって
それ以外の氏族の者へにも影響力が行使できる。

例えるのなら、かつて、自民党内の最大派閥の経世会のトップになると
それが自動的に、自民党全体の。。。または、日本全体の
最大権力者になれたようなものと同じ。
414日本@名無史さん:2011/04/21(木) 17:05:51.83
平氏は氏長者清盛一族が全員あぼーんされたから格下武士・下級貴族だけになったの?
415日本@名無史さん:2011/04/21(木) 17:13:19.64
足助氏
三河国の八条院領高橋荘、同領高橋新荘の荘官職となっている。高橋新荘はのちに足助荘と呼ばれるようになる
足助氏の動きで注目されるのは、一貫して京方に味方した働きである。
承久三年(1221)、後鳥羽上皇による討幕計画で、世にいう承久の乱では、重秀の子重成が後鳥羽方として戦い討死にした
元弘元年(1331)後醍醐天皇による討幕の計画は、幕府が事前に察知するところとなり、天皇は笠置山に逃れた。
この笠置山に最初に馳せつけ天皇に味方したのが、足助氏の惣領・次郎重範であった
元弘三年足助氏は、新田義貞の鎌倉幕府攻撃に参加した。このとき、足助太郎重信、賢尊、孫三郎重成が討死にしている。


高月院
1367年に足助重政が建立したと伝えられる、建立当時は寂静寺と呼ばれていたが 1377年に松平親氏が堂塔を寄進してから高月院となり、以後松平氏の菩提寺となる

酒井氏
・海東忠成の庶流
藤姓熱田大宮司家に養子入り
■藤原李兼(別号:三河四郎大夫、三河国に住む)→李範→範忠→忠李→忠兼→忠成

・世良田氏の一族:初代世良田頼氏室は三河守護足利義氏の娘
・大舘氏:新田政義の二男、大舘家氏を祖とする。母親は三河守護足利義氏の娘

藤原俊経 (初代伊勢氏伊勢俊継の父):滝山寺に古市場御油畠(足助荘内にあった)などを寄進した ←伊勢氏の先祖は何故足助荘内に所領を持っていたのか?



家康については藤姓熱田大宮司と八条院領、足助氏、伊勢氏、このあたりに秘密がある
416日本@名無史さん:2011/04/21(木) 17:30:33.12
徳川家の先祖には、松平親氏がいて、その実の父が、徳川有親だというが、
おそらく、賀茂在親が実の父だろう?

ちなみに、親氏(得阿弥?)は、松平信重の婿養子に入ったということだが、
この松平信重自体が、在原氏系の荒尾氏の出身で
荒尾家から、松平家の松平信盛の養子になっている。
この松平信盛こそが、三河の松平家の初代の人物で、
彼の父親は、陰陽道の名家の出であり、
造酒司という官職についていた賀茂在信であった。

賀茂在信には、松平信盛(賀茂信盛)以外に、賀茂在久という子がおり
その在久の子に賀茂在親という子供がいる。
おそらく、この賀茂在親こそが、徳川有親とされた人物であろう?

だから、得阿弥という坊主が、歌がうまいから松平信重の婿養子になったという伝説だが

実際は、松平信重自体が、在原系・荒尾家からの婿養子で
初代の賀茂系・松平信盛とは男系ではつながってなかったので
松平信盛の兄弟の孫である賀茂親氏を婿養子にして、
賀茂系に戻したというのが真相だと思う。
417日本@名無史さん:2011/04/21(木) 17:33:57.09
公暁

鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男。母は足助重長女(源為朝の孫娘)
第3代将軍源実朝を「父の仇」として暗殺した謀反人
後見人は頼朝の同母妹である坊門姫の旦那
藤姓熱田大宮司ゆかりの園城寺で出家


成瀬氏
祖は関白二条良基と足助重範の娘(滝野)の間に生まれた成瀬基久
江戸時代を通して尾張藩の御附家老を勤める


野口雨情
足助町野口は、野口雨情の先祖が住んだという、ゆかりの地。
楠木正成の弟、楠木正季(くすのき まさすえ)が先祖という。
足助氏を頼り、加茂郡野口村に住み着き、野口と名のったという



418416:2011/04/21(木) 17:41:29.15
以上のことから、徳川家康の先祖は、陰陽道で有名な地祇系の賀茂氏であり、
大田田根子まで繋がる名族だと言うことが分かる。
賀茂在信までさかのぼってみたが、彼の祖父まで行くと
賀茂在盛という人物がおり
彼は、鎌倉時代、持明院統の後宇多天皇の側近としして働いた人物である。

徳川家というのは、古くは大和・山城と
朝廷の側に常に仕えた名家の出身だった。
ちなみに、平安時代までさかのぼると、ラノベで有名な慶滋保胤も
その一族だ。
419日本@名無史さん:2011/04/21(木) 18:05:00.92
源氏将軍説は秀吉とぼす為の捏造
420日本@名無史さん:2011/04/21(木) 21:09:09.14
清浄院 (しょうじょういん)
http://www.katch.ne.jp/~hiro32/machi_info/ohama_south/ohama_south02.htm

>鎌倉時代初期の墓が4つ。前田利家公の先祖と伝えられる。何故この場所にあるのかは不明


・前田利家の先祖は、鎌倉時代中期〜室町時代初期に三河にいた武士
・4代(100年〜150年)にわたり、三河で足利一族の一色氏に仕えていた
・室町時代、海東郡の地頭職になった一色氏に連れられて海東郡に移住

こんな感じの仮説が成り立つようだ


・海東郡と言えば海東忠成(藤姓熱田大宮司に養子入り)
・ちなみに清浄院は、家康伊賀越えゆかり

421日本@名無史さん:2011/04/22(金) 14:09:42.24
安倍清明の師匠の賀茂忠行は
徳川家康の男系の先祖。
422日本@名無史さん:2011/04/23(土) 17:00:37.72
新田義貞は徳川家康の男系の子孫
423日本@名無史さん:2011/04/24(日) 06:25:33.36
賀茂系徳川家康は呪術ができたのですか?
424日本@名無史さん:2011/04/24(日) 11:12:54.71
三河国が足利王国になったのは、足利氏が三河守護になったからではない
足利氏が、三河国の藤姓熱田大宮司家(事実上の最大権力者)の血を引いていたからである
縁故者であったからこそ、北条氏は譲ったのである

425日本@名無史さん:2011/04/24(日) 13:02:19.42
熱田神宮って尾張じゃん
426日本@名無史さん:2011/04/24(日) 13:08:51.78
でも千秋氏の本拠は三河だよね。
427日本@名無史さん:2011/04/24(日) 13:10:48.66
熱田神宮は尾張だが
藤原熱田大宮司家は、三河の国の額田に本拠を構えた。
初代だったか、藤原李兼は額田冠者と言われていた。

なぜ、熱田神宮を支配したから、勢力を拡大できたかは分らない。
428日本@名無史さん:2011/04/24(日) 14:49:54.33
神社の運営が上手くいかなくて、三河いた藤原南家に泣きを入れたに決まっているだろ
三河にいて田畑耕しながら(開発領主としての財力)、矢作川の戦いで平氏すら追っ払った軍事力を持ち、死ぬまで長期にわたり尾張目代を務めた(政治力)実力者だからな

バーター取引だよ
大宮司職くれてやるから上洛して成り上がれよ
但し神事等仕切りは、今まで通り尾張氏がやるから口出しするなと

極端な話、尾張に踏み入る事すらするなつー感じだろうな
429日本@名無史さん:2011/04/24(日) 15:19:45.59
>>428
藤原李兼とか李範とか、そのあたりの時代の尾張氏や藤原熱田大宮司家の話が詳しい
書籍とか何とかあったら、面白いのにな。
このへんのこと詳しい書籍って、あんまりシラネ。

神事仕切りは結局、尾張氏の子孫が継承し続けたのか...
たしか、天照国照彦の嫡流だよな、尾張氏は。
430日本@名無史さん:2011/04/24(日) 15:45:14.28
大宮司
藤原南家:千秋氏

権宮司
尾張氏:田島氏、馬場氏


平成の時代なってもお互いが、息子が京大出たとか馬鹿私大出たとか張り合っているからな
御輿を担いでやっているとかの言い方もするし
431日本@名無史さん:2011/04/24(日) 16:36:33.44
千秋氏のほうは、男系でみると、皇別に変わっただろう?
たしか、江戸時代の東山天皇の後胤に変わったはず。
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu7.htm

尾張氏の子孫の田島家と馬場家は、
ちゃんと天火明命の男系の子孫が続いているのか?
432日本@名無史さん:2011/04/25(月) 11:09:26.81
おどされて神社のっとられたのでは?
433日本@名無史さん:2011/04/25(月) 16:21:57.83
公式には娘に対する偏愛だったな
434日本@名無史さん:2011/04/25(月) 18:54:02.09
頼朝の母方?
435日本@名無史さん:2011/04/25(月) 19:00:34.52
源頼朝の外祖父藤原南家季範は母親が尾張氏出身であったために
尾張氏から熱田神宮を譲られたらしい
季範母に尾張氏の兄弟がいなかったかどうかは不明
436日本@名無史さん:2011/04/25(月) 21:25:10.34
恐らく由良御前は尾張に行ったことすらない
由良御前にとって父の実家は三河の屋敷
その屋敷は恐らく、足利義氏が住んだと言われる旧足利義氏亭の場所にあった
足利義氏は縁故者としておばあさんに地に来たワケだから
当然屋敷も受け継いだワケだな

>>382頼朝も分かっていて、三河ばかりだろ
尾張にはまるでない
頼朝ゆかりの多さを見よ

李範も一族繁栄祈願の寺は三河に作った
それは菩提寺である滝山寺内にあった蓮花寺

437日本@名無史さん:2011/04/25(月) 22:19:59.96
足利義氏亭(現萬徳寺)
http://www.its-mo.com/map/?lat=125821694&lon=493807679&lvl=18&


川を挟んですぐの所にある籠田公園あたりに高一族の屋敷があった
高一族滅亡後、屋敷は総持寺となり、現在は違う場所に移っている
438日本@名無史さん:2011/04/26(火) 00:24:10.06
足利貞氏

父家時の菩提所として滝山寺に如法堂を建立
17回忌の正安3年(1301)額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷をこの堂に寄進した
またこのころ熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺に願文を奉納した
北条貞時の死に殉じ出家し、法名を義観と称した


僧籍は滝山寺にあったもよう
439日本@名無史さん:2011/04/26(火) 13:37:49.54
>>436
藤原季範自体は都の貴族だろ
季範は父親が尾張赴任中に現地の女(尾張氏)を娶って生まれた子らしいが
父親だってもともと藤原南家の都の貴族、当然本邸は都にある
三河に頼朝母方の家があるとすれば季範父の現地妻(頼朝の曾祖母)の家ということになる
季範の娘たち(頼朝母の姉妹たち)は都で育って
上西門院や待賢門院の女房となっており頼朝母も同様だろう
頼朝父義朝も都の六条堀川館に住んで由良のもとへ通った
440日本@名無史さん:2011/04/26(火) 15:24:56.40
何か思いつきで適当な想像が散りばめれているな、通り一辺倒でつまらないし

李兼は三河国司を多く排出した家系に生まれ(李兼は三河四郎と自称したから4男か?)
跡取り息子ではないから都を下って、自身は三河の伊勢神宮領の荘園の管理をしていた
で、気付いたワケよ矢作川の西は藤原氏の荘園で、東は手付かずの原野が多いのを
で、初期の頃は今の豊田市周辺、開発がある程度進むとそれを皇室に寄進、代官を妹の子供に任せた
次はいよいよ岡崎市北部一帯、屋敷を構えた所が明大寺
ここで李範は開発領主の跡取り息子として、24才まで三河に暮らしていたワケだ
李範にとって自分の実家と言えば、生まれてから24才まで暮らした岡崎の屋敷に決まっているだろ


・藤姓熱田大宮司家の屋敷→足利義氏亭
藤原館(皇族等VIP用宿泊施設)→矢作東宿

承久の変で藤姓熱田大宮司一族が西三河から追放されると、縁故者である足利義氏に、こんな感じにバトンタッチされたようだ
441日本@名無史さん:2011/04/26(火) 15:56:39.32
>>439
追記
尾張には赴任していない
三河に住みながら、死ぬまで尾張目代を務めた

恐らく目代になる発端は、藤原資良(李兼にとって祖父の兄の子供)が尾張国司になって頼まれて、李兼は三河に住みながらの条件付きで目代をやったワケ

力量があったのか尾張支配がうまくいって、誰が国司になっても目代を続けていたワケだな

当時、事実上尾張の最大の権力者だと言える

442日本@名無史さん:2011/04/26(火) 22:06:34.10
やや話がずれるが
尾張氏ってのは、皇室創世記・日本建国の謎を握る名家。
天叢雲剣の保持しつづけてきた名族なんだよ。
そこから、大宮司の座を、藤原南家の人間が母系継承で奪った。
ただし、あいかわらず権宮司の座は、尾張氏の者が握った。
それが、田島家と馬場家。
それら尾張氏と藤原南家、そして源頼朝。
このへんが、全部、つながるのは面白いな。
443日本@名無史さん:2011/04/26(火) 23:55:00.77
源頼朝と藤姓熱田大宮司家の関係は濃密だが、尾張氏とは希薄
三河とは>>382これだが
尾張は産湯の井戸とかの作り話みたいな伝承しかない
父親の墓もほったらかしで、上洛するので一度寄ってみるかの感じだったからな
義経との確執の原因となった源範頼への三河守推挙
三河は最初の関東御分国三カ国のうちの一つである事

上げればキリがないが、三河は源頼朝にとって、身内(宗教家)の国である強い認識があった

岡崎の滝山寺は、源頼朝の菩提寺と言ってよく
歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像は、墓のグレードアップ版ではないか
ただ墓に収めるより手間暇かかるワケだから
実際、歯と顎髭を死後すぐ手に入れたにも関わらず、大々的な供養は三回忌になった
像を安置するデカい建物を作ったからな
444日本@名無史さん:2011/04/27(水) 00:16:48.51
藤原季範についての書籍とか
なんか詳しいのない?
445日本@名無史さん:2011/04/27(水) 10:06:41.31
藤原李範は文字通り額田冠者(額田郡で生まれ育った若者)だったワケ

今風だと

1090年:生まれる
1093年:幼稚園入学
1102年:岡崎市立三島小学校卒業
1105年:岡崎市立竜海中学校卒業
1108年:愛知県立岡崎高校卒業

卒業後は自営業の父親手伝い

1114年:熱田大宮司職となり、京都の熱田社領に移り住む
1125年頃:父親死去、額田郡の権益を相伝
1137年:熱田大宮司職を息子に譲る

この頃、菩提寺である滝山寺(愛知県岡崎市)内に蓮華寺建立

1155年:死去

額田郡の権益は藤原範忠(足利義兼室の実父)が相伝したもよう
446日本@名無史さん:2011/04/27(水) 13:10:15.17
藤原季範の一族って、学者の家系なんだよな。
447日本@名無史さん:2011/04/27(水) 13:37:55.12
その蓮華寺に足利貞氏が、1301年に願文を奉納したとあり、建てられてから250年後も、残っていた事が確認出来る
滝山寺は門から本堂まで1キロあり、その間に寺、堂宇、坊舎がひしめいていたと言われ
デカさは熱田神宮以上の宗教施設であった
その中の藤姓熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺に、何を願ったのであろうか
448日本@名無史さん:2011/04/27(水) 13:39:49.49
×250年後
○150年後
449日本@名無史さん:2011/04/27(水) 14:05:36.26
同時期の1301年、家時17回忌に正観坊跡大門屋敷(観の字は貞氏の法名である義観に通ずる)を寄進とあり
尊氏が生まれる4年前に、三河の足利宗家の屋敷が足利宗家のもとから離れていた事が分かる

正観坊跡とは恐らく、大門寺(今はない)内の建物の一つを手に入れて、屋敷としたのであろう

その大門寺は火事か何かで廃寺され、阿弥陀如来等の遺物は、同じ大門地区にあった八剣神社に移された(現在もある)

そう、この八剣神社に足利尊氏の墓があるのだ
大門屋敷が貞氏によって寄進されて50年たった後も
足利尊氏の墓に大門地区が選ばれた事実は、大門寺と足利宗家との特別な関係が伺える
しかし今となっては知る由もない
450日本@名無史さん:2011/04/27(水) 14:06:57.37
熱田神宮の武門の神様?
451日本@名無史さん:2011/04/27(水) 14:56:26.67
貞氏の出家が出家したのは、1301年と1311年説があるようですが

恐らくこんな感じではないか

1301年:出家、大門屋敷寄進する。蓮華寺への願文は出家に関係するものか?
1305年:尊氏生まれる
1306年:直義生まれる
1311〜1312年:上杉頼重(三河国足利奉公人、上杉清子実父)死去、三河の屋敷(日名屋敷)は上杉清子が相伝する
1311〜1312年:家督を高義に譲り、夫婦で三河に移動、貞氏は義観と名乗る
1318年頃:高義早死、再び家督になり、鎌倉へ戻る
1331年:死去


452日本@名無史さん:2011/04/27(水) 15:24:04.17
尾張氏ってのは、皇室の秘密を握っている一族なんだよな。
だからこそ、天智天皇、天武天皇の時代にも
皇室と尾張氏の間でゴタゴタがあった。
三種の神器の一つの天叢雲剣も、尾張氏が本物を保持し
皇室がそれのレプリカを保持している。

なにか、藤原季範に、尾張氏から皇室の秘密がもれ、
それをネタにして、皇室をゆすったから、藤原南家や
源氏や足利家が天下を握る大きな要因になったつーことはないか?
453 忍法帖【Lv=4,xxxP】 :2011/04/27(水) 15:29:51.78
ag
454日本@名無史さん:2011/04/27(水) 15:42:03.91
三種の神器なら自称南朝の三浦天皇が、そのレブリカたる物を三河の作手村に埋めたらしいですよ
つー事は北朝に渡ったのはレブリカのレブリカ
三浦さんは天恩寺(尊氏遺言の寺)近くの大門地区に隠れ住んでいた
455日本@名無史さん:2011/04/27(水) 15:57:16.13
>>444
季範だけを記している訳でもないが
藤本元啓『中世熱田社の構造と展開』(続群書類従刊行会)がある。
季範の父季兼から鎌倉期までの熱田大宮司家について研究されている。
県立図書館ならこの本が所蔵されている可能性が高い。
456日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:30:11.23
>>455
それ、googleブックなんかで見れるな。絶版になっているぽいから。
でも、見にくいんだよ、googleだとw
図書館にあるぽいけど、田舎だから、うち。

尾張氏、藤原熱田大宮司家、河内源氏、足利家、徳川家という流れに
すごく注目してしまうのだよ。
尾張氏ってのは、皇室(神武皇統)の家系の秘密を握っているともいわれるから。
457日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:40:07.63
藤原信西も、藤原季範の従兄弟の息子なんだよな。
みんな近い。
なぜ、この家系が平安末期に勢力を拡大させたのか気になる。
なんでも、学者の家系だったらしいじゃん。
季範の祖父の藤原実範以来の朝廷の学者の家系なんだよね。

http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_nan4.html
458日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:42:20.61
想像するに、貞氏の蓮華寺への願文奉納は、出家にあたっての挨拶程度ものだったのではないか
たまたま記録に残っただけで、足利義継(尊観)や足利家氏(蓮阿)も同じく祈願したであろう
この事は足利一族にとって、足利一族も血をひく宗教家としての藤姓熱田大宮司家の存在が大きかった事を意味する
滝山寺には、鎌倉殿と尊敬を集めた頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像があり
それをみて驚愕し、御由緒聞き、藤姓熱田大宮司家への尊敬を深めたのは想像するに難しくない

この聖観音像は、頼朝従兄弟である寛伝(藤原範忠息、足利義兼室の兄)が運慶一派に造らせたものであるが
この寛伝は、頼朝推挙で下野(もちろん足利荘がある)の日光山別当になり
別当時代に足利宗家の菩提寺であるバンナ寺にお経を納めている

足利氏と三河は、足利義氏が三河守護になる前から深く繋がっていたのである
459日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:45:43.29
>>458
田島家や馬場家との関係は?
あと、織田信長も熱田神宮信仰していたみたいだね。
河内源氏といい、足利家といい、織田家といい、徳川家といい、
熱田神宮との関係は深い。
460日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:48:46.07
>>457
平安時代の貴族なんて所詮はみんな親戚だけどな
総勢二百人ぐらいしかいなかったらしいし
誰か院近臣に取り立てられればその叔父やら甥やら従兄弟やらが
みんな寄ってきておこぼれ狙うってやつだろ
461日本@名無史さん:2011/04/27(水) 16:58:14.27
>>460
まあ、そうなんだが、藤原信西と
熱田大宮司家は一門意識が強いと思うよ。
藤原南家と摂関家くらいだと、かなり遠いけど。
462日本@名無史さん:2011/04/27(水) 17:00:32.87
日光とはあの人、何で日光だったのかヒントがあるのではないか
吾妻鏡の愛読者で頼朝オタ、三河の秘密を知り尽くした例の奴
永井直勝の名字が悪いと言って変えざる程の歴史オタでもあった

永井直勝の元の名は長田
そう、義朝を殺した長田忠致の子孫だ
463日本@名無史さん:2011/04/27(水) 18:32:57.90
義朝を殺した長田忠致は、褒美に尾張守を要求したらしいが、願い叶わず褒美は壱岐守であった
但し、国司とは別に三河国に代官職を得た
それは藤原李兼が皇室に寄進したと言われる、高橋荘と高橋新荘の代官職である
源氏に味方した藤姓熱田大宮司一族は、権益を平氏に取り上げられたワケだな
ここの代官は李兼の妹の子供である伊勢惟康(藤原道隆のひ孫、伊周の孫の息)一族が務めいたが、追い出され駿河に移り住んだ
長田忠致は、現在のトヨタ本社あたりに屋敷を構えてたらしいが
義朝殺害にとどまらず、藤姓熱田大宮司家ゆかりの地に乗り込まれて怒りに狂う頼朝にどうされたは、ご存知の通りである
その後、長田一族は全国に散らばったが、うち碧南に移り住んだ長田一族の子孫が永井直勝である

ちなみに常滑焼は、長田忠致が高橋新荘にあった猿投窯の技術を移して始まったと言われている
464日本@名無史さん:2011/04/27(水) 19:55:49.77
信西は実務能力を鳥羽法皇に見いだされ、鳥羽側近になったとの説がある。(元木泰雄『保元平治の乱を読みなおす』)。その後は妻が乳母として仕えた後白河が即位して権力をにぎる。
同じく同族の藤原範季は、姪で猶子の範子と兼子が乳母として仕えていた後鳥羽天皇が即位したことと、
娘重子が順徳天皇の生母になったということで家格上昇。
かれらは揃って後白河に近い立場にあった。
465日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:24:26.58
またまた通り一辺倒で、全くつまらないレスである
足利と新田スレに絡んでないし

流石は
・李範は京都の貴族である←確かに藤原だがな
・李兼が都から赴任
・李兼は京都に本宅がある
・李兼の現地妻だ

まぬけ発言連発の猿である
466日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:42:46.30
>>460
>総勢二百人ぐらいしかいなかったらしいし
ソースは?

平安時代には
藤原氏一氏だけで、それも諸大夫層(4位〜5位貴族)に限っただけでも350人を超えてる記録があるんだが。
467日本@名無史さん:2011/04/27(水) 20:53:14.07
いつも同じ奴が長文連投しててつまんね
468日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:13:06.62
範李を出すのなら、源範頼と藤姓熱田大宮司家絡めてとか自分なりにな

信西とかの有名人は、ある程度はみんな知っているし
469日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:35:31.65
>>467
コピペばかりもなんだから、自分なりにまとめたんだよw
今日でお暇するから連投な
つまらないからこのスレはさいならw
470日本@名無史さん:2011/04/27(水) 21:52:10.17
足利>新田
471日本@名無史さん:2011/04/27(水) 22:13:18.87
ところで>>455の本によると、季範の定めた後継者は五男の範雅で、範忠ではなかったらしい。
この頃から熱田大宮司家は内部分裂があった可能性があり、
頼朝母は範雅派だった可能性が高いとしている。
また、範忠は頼朝の同母の弟希義を平氏に差し出した(新日本古典体系「保元物語平治物語承久記」)こともあり、範忠にはあまりいい感情を抱いていなかったらしい。
承久以前は非範忠系が熱田大宮司家の主流だったとも。
承久で範忠系が鎌倉方にたった為立場が逆転した。

この研究が正しいとしたならば、
範忠の娘を母にもつ足利義兼と範忠を敵視する頼朝の関係も再考したほうがいいのではないだろうか?
472日本@名無史さん:2011/04/27(水) 22:45:29.01
>>471
まあ、いちおう、近かったけど
微妙に路線対立もあっただろうね。
熱田大宮司家内部でも、生き残りのための路線対立はあっただろうし。
473日本@名無史さん:2011/04/27(水) 22:57:03.65
平安後期以降の裏権力か?
藤原南家の熱田神宮大宮司家は?
474日本@名無史さん:2011/04/28(木) 00:27:01.72
475日本@名無史さん:2011/04/28(木) 06:07:29.44
なんで季範の季がすももになってるん
検索対策かよ
476日本@名無史さん:2011/05/02(月) 11:19:51.08
新田郡に世良田家、得川家というのが実在したのですか?その後どうなったのですか?
477日本@名無史さん:2011/05/02(月) 21:36:20.60
新田本宗家とともに没落
478日本@名無史さん:2011/05/03(火) 02:57:38.29
「松平氏の興った三河国加茂郡には、元来南朝方の残党が逃れてきたことに関する伝承が多く残されていたようで、松平氏の家臣大久保氏(宇津宮氏)を始めとして南朝方武将の末裔を称する武士は数多い。」
という記事。

(「伝説」なるものは、家康が勢力拡大とともに意図的に広めさせたのであろう。三河国は足利の金城湯池)。

479日本@名無史さん:2011/05/03(火) 12:46:56.60
世良田総家は北朝方だったんじゃなかったか?
基氏の逆鱗にふれて粛清されたが
480日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:03:02.43
大名
徳川
酒井
蜂須賀
細川
柴田
里見
高家
吉良
奥州吉良
河内畠山
能登畠山
由良
旗本
最上
山名
幸手一色
481日本@名無史さん:2011/05/04(水) 19:52:15.02
482日本@名無史さん:2011/05/05(木) 01:50:47.72

南北天皇統一擬似太上天皇日本國王源義満の母方
3代義満<紀良子<智泉 尼<尊雅王<善統親王<順徳天皇<國母修明門院藤原重子さま<贈従一位左大臣南家藤原範季のりすえさま<…<藤原武智麻呂さま<大織冠中臣鎌子

483日本@名無史さん:2011/05/06(金) 13:51:01.73
織田は足利を政界から追放し 徳川は織田を幕臣にし 新田は足利政権下流やが なぜ得河は新田に家系を結び付けたのかや その真意は?
484日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:12:41.16
>>483
尊皇のふり
485日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:41:14.18
奥平氏は表では赤松氏流を称していたが内々では児玉氏流を称していた。
上野奥平郷に発するということや家紋を考えればやはり児玉氏である可能性が高い。
ではなぜ赤松氏を称したか?それは児玉党が南朝に属していて、
奥平氏もそれゆえに三河に移ることになったので足利幕府下では児玉党を名乗りにくかったからではないだろうか。

松平氏の場合も同じようなことではないだろうか。
つまり実際に南朝方の新田氏流であったが清康や家康が勢力を確立するまでは
当時の情勢からそれを公言しがたかった、ということではないだろうか。
486日本@名無史さん:2011/05/07(土) 04:23:36.55
 
細川政権と鹿児島水害は建武の新政パロディ

http://s1.shard.jp/deer/02/2/14B_2.html

日本政府(徳川幕府)は、未だに「皇紀」の年表に従って、

歴史(陰謀)を繰り返す。
487日本@名無史さん:2011/05/15(日) 02:42:32.63
488日本@名無史さん:2011/05/17(火) 20:42:38.14
赤松は 村上天皇後裔で、そもそも平安摂関家とツーペイで平安〜鎌倉の京都最高権力の裏を知り、自家も天皇末裔ゆえに摂関家などの手駒以上にのさばったが、
南朝皇家を壊滅する最後の役割を足利本家から任され 結局は手駒で利用されたのに、
足利幕府内でもうだつあがらず藤原日野家よりはるか格下。村上天皇が摂関家確立に寄与したため家名が続いたにすぎない
あと児玉党は古代天皇家の末裔。のちには平氏との姻戚が多いかと
489日本@名無史さん:2011/05/23(月) 12:50:02.91
490日本@名無史さん:2011/05/23(月) 19:42:28.69
491日本@名無史さん:2011/05/23(月) 21:36:29.29
「千寿王が新田軍に迎えられたこの日、
“関東の諸国より予期せぬ援軍が馳せ来たりて、総勢20万以上の大軍に膨れ上がった”
と古典『太平記』は誇張した数字で伝えている。
皆、千寿王という足利の旗のもとに集まったのである。
このことが後に義貞を大きく傷付けることになる。」

492日本@名無史さん:2011/05/23(月) 22:30:43.78
その日のうちに20万
当時も携帯電話とかあったのかね
493日本@名無史さん:2011/05/24(火) 08:22:38.78
20万は誇張だろうが、古典太平記は鎌倉攻撃に加わった武士たちの大半が新田ではなく足利という旗印の下に集まったということを伝えたかったんだろ
494日本@名無史さん:2011/05/24(火) 09:20:13.66
じゃあその日のうちにというのも誇張だね
495日本@名無史さん:2011/05/24(火) 12:07:19.08
鎌倉襲撃が確認されている有力御家人は千葉貞胤、小山秀朝、三浦高通ってとこだっけ
496日本@名無史さん:2011/05/24(火) 16:02:41.72
高家上杉氏は本性畠山?
497日本@名無史さん:2011/05/24(火) 22:53:25.34
『太平記』は、巻第十では千寿王いちはやくは五月九日に馳せ参じたとするが、
巻第十四では鎌倉の戦が終わった後の六月三日に鎌倉・大蔵谷に帰還してきたとしている。
前者は足利側の主張であり、後者は新田側の主張である。
現代の原子力安全委員会のようなレベルですら言った言わないの水掛論争の真相は藪の中となるぐらいだから
当時としてはすでにわけわからなくなっていたものであろう。
そうした事情を反映してか『太平記』という一つの本の中でも双方の言い分が前後矛盾する形で出てきているわけである。
498日本@名無史さん:2011/05/28(土) 18:02:29.92
>>481
ああ、それ大河のナレーションだね、なつかしい
499日本@名無史さん:2011/05/29(日) 23:52:37.35
500日本@名無史さん:2011/05/30(月) 13:45:35.62
足利>吉良>今川>斯波>渋川>畠山>細川、一色、桃井、石堂、上野
501日本@名無史さん:2011/05/30(月) 15:05:56.99
今川そんな高くない
502日本@名無史さん:2011/05/30(月) 18:24:09.35
斯波が低すぎ。
本宗家に準じる地位だぞ。
503日本@名無史さん:2011/05/30(月) 19:06:18.46
畠山は、二俣川で終わってたよな、無理やり再興だろ?
504日本@名無史さん:2011/05/31(火) 15:26:59.10
>>500
吉良や今川は足利家御一門とされた割に厚遇されてないよな。
管領家や山名などの大規模守護大名のほうが力があった。
505日本@名無史さん:2011/05/31(火) 16:33:27.08
今川は了俊のおかげで駿河あたりに地盤を築けたが
もし了俊いなかったら・・・歴史の闇に消えてたろうな
506日本@名無史さん:2011/05/31(火) 21:56:32.40
難太平記の今川了俊あたりが、足利本家が絶えなば吉良が、吉良が絶えなば今川がとか吹いたってことか?
507日本@名無史さん:2011/06/01(水) 09:13:01.35
>>504
吉良義尚は三管領に命令してたってどこぞにあったが。
吉良の人は左兵衛助がけっこういるのでは。
508日本@名無史さん:2011/06/01(水) 20:46:22.55
畠山氏は傍流が官領や高家になっているから実際は
足利>畠山>斯波>吉良
509日本@名無史さん:2011/06/01(水) 22:16:25.54
家格なんて枝分かれが遅いか早いか、本家からみて遠い親戚かどうかだけ
そんなことが通用するのは平安時代や徳川三百年の泰平の世だけ
南北朝の争乱で実際に戦功があったかどうかで遠い親戚だった細川、畠山が台頭
細川なんていちばん遠い親戚だったのが管領職に就き
その子孫は応仁の乱後に事実上の最高権力者に
510日本@名無史さん:2011/06/01(水) 22:21:35.97
細川からもう一代分だけ遠いのが新田
511日本@名無史さん:2011/06/02(木) 23:43:29.26
足利本家から遠い親戚ほど有能ってこと?
細川家→新田氏→源頼朝・義経、とか。
512日本@名無史さん:2011/06/03(金) 02:27:07.32
新田が有能?
義貞は議論あるがそれ以前の本家の人間は無能の方が近いと思う
特に政義
513日本@名無史さん:2011/06/03(金) 10:51:41.51
まあ鎌倉攻略を差し引いても無能でしょ
・足利が西国に落ちる時に討ちもらす
・湊川の戦いで陽動作戦に引っ掛かり敗因を作る
・大将のくせに寡兵で救援に向かい襲われる
514日本@名無史さん:2011/06/03(金) 17:34:36.78
鎌倉時代で、新田と足利が動員できた軍勢の人数の比較が出来る資料は無いのですか?
515日本@名無史さん:2011/06/03(金) 19:09:44.57
>>513
後醍醐という暗君に仕えたハンデだよ
516日本@名無史さん:2011/06/03(金) 20:13:43.11
>>514
新田の資料自体が
517日本@名無史さん:2011/06/03(金) 20:42:49.72
新田次郎の「新田義貞」と増鏡意外の他お勧めの本って何?
太平記と吾妻鏡以外で。
518日本@名無史さん:2011/06/03(金) 21:43:55.21
>>517
千々石実 新田氏根本史料
峰岸純夫 新田義貞(人物叢書)
519日本@名無史さん:2011/06/03(金) 21:45:25.41
>>518
ありがとうございます。
探してみます
520日本@名無史さん:2011/06/04(土) 00:13:18.14
521日本@名無史さん:2011/06/04(土) 00:57:06.53
>>517
梅松論 w
522日本@名無史さん:2011/06/04(土) 18:26:51.98
でも知名度でいうと
細川頼之・勝元・幽斎・護照<<<<新田義貞<<源頼朝・義経
だよな
523日本@名無史さん:2011/06/04(土) 20:04:55.25
斯波高経の正室って誰
524日本@名無史さん:2011/06/04(土) 20:27:47.12
>>523
豊丸
525日本@名無史さん:2011/06/05(日) 21:47:03.17
土岐氏って一色氏の血筋なんだな
526日本@名無史さん:2011/06/06(月) 19:34:39.22
527日本@名無史さん:2011/06/08(水) 20:01:08.83
528日本@名無史さん:2011/06/09(木) 17:40:21.88
新田義宗って平一揆で討たれたってことでいいの?
529日本@名無史さん:2011/06/11(土) 01:01:44.61
義宗は討ち取られ、脇屋義治は出羽にまで敗走した(それぞれ異説あり)。
530日本@名無史さん:2011/06/11(土) 01:38:51.00
531日本@名無史さん:2011/06/14(火) 00:29:28.85
俺が嫌いなのは新田ではなく必要以上に熱狂するファンなのだ
結局奴らは学校や仕事先でがんばれてなかったり、勝ててなかったりする奴らの
集まりで、それをひいきの新田に託し、新田が頑張れば自分も頑張った気になるし、
それで成功すれば自分も成功したような気になるのだ
俺の様に毎日2chで戦ってる人間なら人を応援する余裕なんてある訳がない
532日本@名無史さん:2011/06/14(火) 00:47:21.72
>>531
楠木厨は見聞きした事はあるが、新田厨や足利厨は寡聞にして無いな。
533日本@名無史さん:2011/06/14(火) 01:29:59.15
534日本@名無史さん:2011/06/14(火) 02:30:46.29
足利は朝敵関係なくあの優柔不断さが現代人にはうけんだろ
535日本@名無史さん:2011/06/15(水) 03:50:34.54
その後の新田姓と部落史の関係はどうなってるの?
536日本@名無史さん:2011/06/15(水) 16:02:41.53
尊氏
俺の中では李成桂とかぶる
537日本@名無史さん:2011/06/15(水) 16:39:12.60
>>535
千葉の匝瑳市に新田の落ち武者の集落あるけど、関係ないぞ
538日本@名無史さん:2011/06/15(水) 19:16:14.13
里見を頼って落ちて行ったとか?
539日本@名無史さん:2011/06/15(水) 19:52:55.93
>>534
悩める現代人からの共感を得られそうな気もするが。
540日本@名無史さん:2011/06/15(水) 20:31:41.21
>>538
http://www5a.biglobe.ne.jp/~puusan/fuji.html
由来は知らない、落ち武者の子孫って人に言う時微妙かもなw
541日本@名無史さん:2011/06/15(水) 21:48:48.23
新田姓の大半は新田(しんでん)の小作農
542日本@名無史さん:2011/06/15(水) 22:20:59.80
新田次郎も新田(しんでん)の農家の二男だったからペンネームをそうしたんだっけね
543日本@名無史さん:2011/06/15(水) 23:28:34.18
新田源氏の嫡流 新田昌玄
544日本@名無史さん:2011/06/19(日) 00:08:27.42
「しんでん」は江戸時代、「にった」は平安以前
545日本@名無史さん:2011/06/23(木) 17:47:52.81
そういや自称細川一族や自称畠山一族の旗本っていないな
546日本@名無史さん:2011/06/23(木) 19:16:29.26
畠山はいるんじゃない?
細川は、嫡流家が庶子家をガッチリ支配していたから、記録が残り易くて怪しげなのは難しいのかな?
あ、でも細川幽斎がかなり怪しいんだっけな。佐々木一族出身で、義輝から細川を賜ったんだっけ?
547日本@名無史さん:2011/06/23(木) 19:39:50.55
幽斎は三淵家からの養子だが、実父の三淵晴員は和泉半国守護の細川家の生まれだから、
単に実父の生家を継いだだけのこと。
548日本@名無史さん:2011/06/23(木) 20:41:08.26
三淵家起源説は古いよ。
最近のトレンドは、将軍近習で佐々木一族の細川高久の子供という説。
忠興が祖父について何も知らなかったというのも痛いよな。名門出身者にはあり得ないよ。
549日本@名無史さん:2011/06/23(木) 23:02:29.83
>将軍近習で佐々木一族

って名門じゃないの?
550日本@名無史さん:2011/06/24(金) 00:19:31.02
スレチだけど
足利→細川→三好へと権力が移行していく過程をうまく書いてる本てある?
wiki見てもイマイチつかめない
551YAP?:2011/06/27(月) 11:40:09.63
最近の本を読んでいると、どうも新田氏は、鎌倉時代初期に没落したあと、御家人として生き残るために、
足利本宗家に接近してその庇護を受けていた、と言う話のようだが、新田義貞も足利尊氏との関係は悪くはなく、
その挙兵も彼の指図があり、亦、建武親政下でも、尊氏に従属的だったようだ。
 足利一門の家格としては、吉良・斯波氏に次ぐクラスの評価を受けていたのではないか?
552日本@名無史さん:2011/06/27(月) 18:56:58.88
新田政義は岳父泰氏の宴会に呼び出されたんだが、その理由は宴会の参加者としてではなく庭で賓客への土産である名馬を用意する役だったってこともあったんだよな

没落御家人は辛い
553日本@名無史さん:2011/06/27(月) 19:26:24.72
>>552
政義はそんな屈辱は耐えられたのにくだらない事で味噌つけて新田氏没落を決定づけたな
554日本@名無史さん:2011/06/27(月) 21:57:06.36
浄土寺の足利尊氏肖像は尊氏だと思っていいの?
555日本@名無史さん:2011/06/27(月) 22:27:20.73
歴代の足利家当主は性格異常者が多いと歴史の本に書いてあったがホントなの?
556日本@名無史さん:2011/06/27(月) 22:50:00.61
みんな垂れ目だよな
557YAP?:2011/06/29(水) 10:04:06.51
里見氏も複雑で、実質的初代の義成は、祖父新田義重以来の縁で繋がっていた平賀氏に接近していたが、
御家人首座よされ、源氏門葉野首座でもあった平賀氏が、朝雅の失脚後没落すると、その庶流はやはり足利氏の
庇護下に入ったが、惣領家は、京武者都市いぇの性格を残し、成功に拠る感触も受けている(掃守権助氏義)。
相対的に、里見氏惣領家は足利氏より自立度が高かったのではないか?多分、新田本宗家よりも。
558日本@名無史さん:2011/06/29(水) 18:43:58.85
鎌倉期新田一門
新田宗家→新田尼の苛め&政義ポカ連発で没落
里見氏→
世良田氏→二月騒動連座(嫁が名越氏)で没落
山名氏→山名俊行謀反で没落
岩松氏→没落した一門の利権を吸収&足利に近づいて保身
って感じかな
また堀口氏が北條一門最下位の家柄とはいえ、伊具有時の娘を嫁に迎えれたのは驚きだな
559日本@名無史さん:2011/06/29(水) 21:35:25.63
あの時は驚いたわ
560日本@名無史さん:2011/06/29(水) 22:02:31.92
>山名俊行謀反

kwsk
561YAP?:2011/06/30(木) 00:25:47.22
山名家三流の内、最も落ちぶれたため、完璧に足利の被官化した重村流の時氏(母は上杉氏)の系統が
室町時代に、四職に成り上がった、と言うのも、まあ、運だな。

 引付衆か何かで、残ったのは、きっちりやられたが。

 ところで、557が確認の時に、いきなり投稿されてしまい、誤変換や誤記そのままになっちまった。
済まん。まあ、「感触」と「官職」とかわかるとは思うが。
562日本@名無史さん:2011/06/30(木) 12:25:23.56
評定衆の山名氏は児玉氏の一派って説もあるけどな
時氏系以外の一族何処一端だろ
563日本@名無史さん:2011/06/30(木) 20:22:17.56
新田宗家滅亡後、岩松氏により新田一族の男は殺され女は売り飛ばされた
564日本@名無史さん:2011/07/01(金) 03:39:13.54
天福2年の「山名陸奥入道」って誰だ?
565YAP?:2011/07/03(日) 18:57:32.34
>563

>新田本家滅亡後、岩松氏により新田一族の男子は殺され女は売り飛ばされた

 って、新田義貞の孫が、岩松宗家を相続しているのに? 無茶言うなよ。

 岩松満国に子供がいなかった為、その弟の満親の系統の京兆家の持国(土用安丸 右京太夫) つまり
満親の子の満春の子、と、礼部家の家純(土用松丸、冶部大輔)の系統の争いになた事は有名だろうが。
満国・満親兄弟のし姉妹が、義貞の三男義宗の妻で生れた容辻王丸が叔父の岩松満国の養子とり、
家督相続して岩松満純となったが、上杉禅秀の娘婿であったため、禅秀の乱で殺され、岩松家は、持国が相続し、
満純の弟の貞氏(横瀬)が、新田党を率いて満純に対応した功績で、新田庄内に所領を公認された。
 満純の子の家純は、諸国を流浪いたが、後の堀越公方と古河公方の対立など、紆余曲折を経て、最終的に家純が、
両岩松家を統一し、横瀬貞氏を家老として、新田症を回復したのだ。

 結局、岩松氏にしても、足利新田両氏に両属するような一族ではぁたが、新田荘は新田氏のmonod等式が、ずっとあったのだろう。
そのため、新田本宗家との妥協を探ってtのだろう。
同族意識は結構強かったのだろう。
566日本@名無史さん:2011/07/03(日) 22:07:31.64
朝敵たる義宗の子孫が岩松継ぐなんて捏造に決まっとるだろ

虐殺の事実を隠し、家格をあげるために偽装したんだろ
567日本@名無史さん:2011/07/04(月) 00:04:30.49
伝説の群馬県バトル
568日本@名無史さん:2011/07/04(月) 00:32:32.32
>>虐殺の事実を隠し

根も葉もない妄想と自ら暴露w
569日本@名無史さん:2011/07/04(月) 01:09:46.64
群馬栃木は新田県、足利県でよかった。
570日本@名無史さん:2011/07/04(月) 06:56:19.08
このスレよく続くね
571日本@名無史さん:2011/07/04(月) 12:20:38.38
逆賊の大館が足利将軍近習になった経緯も興味あるな。
572YAP?:2011/07/04(月) 13:41:24.18
 結局の所、足利一門にとっては、新田氏も「末の一族」であり、その血脈を絶やすのは
気が引けたのだろう。新田義貞は比叡山で後醍醐天皇と足利尊氏の和睦の話を知らされなかったので、
クーデターを起こして、後醍醐天皇を退位させ、新天皇を推戴して、北陸に落ちたが、この時足利との講和に
一枚かんでいたのが、新田本宗家の最有力庶家の大館氏明らだ。

 大舘氏が足利将軍家の有力近習になったのは、その功績もあるだろうが、義貞も足利尊氏に従えば、上野・越後お
二ヶ国の守護として、家は存続したのはないか?

 最近の研究では、新田氏と足利氏は仲は悪くなかったのだ。
足利本家は、没落後の新田一族を基本的には庇護していたのだよ。
岩松氏にしても、新田庄内の領有権や水利を巡って、大舘氏などと争っていても
里見氏あたりとは連記していたようだ。

 岩松氏の京兆家と礼部家の争いで、台頭した横瀬・由良氏の新田義宗子孫説は、
確かに、偽系図である可能性も残るが、礼部家の義宗子孫説は、信頼できるだろう。
ついでに言えば、565で私が書いたのは、今谷明 藤枝文他忠編『室町幕府守護職家辞典』
(新人物往来社)二従っている。
573日本@名無史さん:2011/07/04(月) 17:14:22.91
大館の赦免は道誉の仲介があったからだし、新田でなくとも降伏には比較的甘いぞこの時代
574日本@名無史さん:2011/07/05(火) 16:17:04.66
北条時行らはあっさり斬られたがな
575日本@名無史さん:2011/07/05(火) 18:23:52.62
昔から仲悪かったらしいね
当時の実態が記されてる
http://pype.org/thumbnail/1294140035/1294140035-3-1.jpg
576日本@名無史さん:2011/07/05(火) 20:50:35.73
こりゃ群馬が悪いわ
577日本@名無史さん:2011/07/05(火) 21:16:06.06
足利の方が重装備だな
578日本@名無史さん:2011/07/07(木) 21:45:02.43
>>555
冷泉の人間といい、家柄が良い奴ほど我侭遺伝子で、頭逝ってるIQが高すぎる基地外多いと思う。
579日本@名無史さん:2011/07/07(木) 21:47:11.00
渡辺氏諸流の家の姉もだしねW
580日本@名無史さん:2011/07/07(木) 23:09:46.35
足利時代って今の管制圏みたいなのが代々続いて地域紛争が慢性的に繰り返された時代だったんだからな。
日本人にとって最大の宰相不幸時代だろ。
581YAP?:2011/07/07(木) 23:24:36.39
大館や江田が後醍醐天皇の意を受けて、足利尊氏との交渉に一枚かんでいた、と言うのは、本当だろう。
地元の近江の京極道誉茂、足利方として、噛んででいたようだが。

 どっちにしろ、足利氏は、佐々木氏諸流を無視できるほど、力を持っていたわけではない。
582日本@名無史さん:2011/07/08(金) 01:28:02.83
>>580
ばか?
583日本@名無史さん:2011/07/08(金) 22:38:38.14
将軍でありながら582みたいな受け答えしかできないDQNばっかだったんだろうな
584日本@名無史さん:2011/07/08(金) 22:51:30.48
新田御真影:http://kazutcha2.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_3a0/kazutcha2/kennmin4-59e13.JPG
足利御真影:http://blog-imgs-21-origin.fc2.com/u/r/a/urasoku/64301.jpg

足利は頼朝の御門葉だから出世しただけ
画像を見てもDQN率はかわらにぃ
585日本@名無史さん:2011/07/08(金) 23:20:55.74
>>583
ゆとり?
社会構造も考え方も全く違う時代をごちゃまぜにするのは馬鹿な証拠。
586日本@名無史さん:2011/07/09(土) 15:14:59.07
583はどうみても受け答えの仕方をDQN認定しているようにしか見えんがな
587日本@名無史さん:2011/07/13(水) 18:52:48.22
北条の血筋の足利高義が長生きしたら
次男坊尊氏の家督相続もなく
鎌倉幕府もあと50年は持ったかも
588日本@名無史さん:2011/07/13(水) 19:52:28.12
渋川義季は母も妻も佐介氏だったのに謀反起こしたぞ
589日本@名無史さん:2011/07/14(木) 00:08:44.76
基本、みんな同族同士の権力闘争なんだから
590日本@名無史さん:2011/07/14(木) 07:54:03.04
むしろ直義がいなかったらの方がありうるかも
尊氏一人の場合、決断力高くないからな
591日本@名無史さん:2011/07/14(木) 07:58:22.61
iri
592日本@名無史さん:2011/07/15(金) 13:45:38.23
スレチだが鎌倉期スレがほぼ無いのでここで質問
北条時政や大江広元と義経.範頼.足利義兼ってどっちが上扱いだったんだ
593日本@名無史さん:2011/07/15(金) 15:12:21.59
南北朝室町時代で左兵衛督は足利氏以外だと斯波氏しかいない?
594日本@名無史さん:2011/07/15(金) 16:32:17.42
足利の一族は、華麗だね。もし、新田が天下取ってたら、同じようになってたんかな?
595日本@名無史さん:2011/07/15(金) 20:40:15.70
だろうな。本物の得川が管令にでもなっていたかな。
596YAP?:2011/07/17(日) 15:51:51.57
582
>北条時政や大江広元と義経範頼足利義兼ってどっちが上扱いだったんだ。

 頼朝在世中は、諸国受領は、ご門葉つまり、頼朝が一族と認定した源氏一門のみが、
任命されのだ。北条氏などはあくまでも、家之子扱いで、まあ、「準一門」扱いだった。
頼朝死後、ご門葉筆頭の平賀朝雅が舅の時政とともに粛清されて、北条氏優位となったのだ。

 頼朝の兄弟については、源氏一門中では、ご門葉ではあったが、庶子でもあり、他のご門葉と
認められた連中より上位として扱われたのかは不明だな。
平賀氏(義信⇒朝雅・大内惟義)が最上位で、足利系の義兼・山名義範 その後が、甲斐源氏の
加々美・小笠原氏、安田氏ぐらいだったのではないか?
597日本@名無史さん:2011/07/17(日) 18:33:14.96
義経には自分こそ源氏の嫡流だという意識あったんじゃないの?
頼朝は配流の身、その他の兄弟は僧籍。義経のみが奥州
の覇者である藤原氏に源氏の御曹司として庇護されていたわけだし
旗上げ前の段階では義朝の子の中で義経が一番勢力有ったんじゃないの?
兄弟の序列に関係なく最も勢力ある人物が家を継ぐのは常識だし。
598日本@名無史さん:2011/07/19(火) 09:08:29.77
>>596
そもそも義経と北条一族の接点ほとんど無かったはず

広元は腰越状があるけど
599日本@名無史さん:2011/07/20(水) 00:10:49.02
>>597
レスを>>1から全部読めば、そんな結論にはなりませんな

600日本@名無史さん:2011/07/20(水) 01:31:24.80
>>597の言うとおりだな
601日本@名無史さん:2011/07/27(水) 03:01:18.03
九郎御曹司ごときが嫡流気取るわけない
例え弟とは言え、頼朝の手綱を歩いて引いた御家人の一人にすぎない
602日本@名無史さん:2011/07/27(水) 21:42:20.72
それは頼朝旗揚げ後だろ。
伊豆にいた時の頼朝はただの流人。
603日本@名無史さん:2011/07/27(水) 23:22:08.92
蛭ガ小島って、本当の島だと思ってたんだな、清盛は。
604日本@名無史さん:2011/07/27(水) 23:42:18.39
>>603
俗説だよ。
伊豆への配流が決まった後に蛭ガ小島に決まったんだから。
605日本@名無史さん:2011/07/28(木) 13:20:34.57
新田尼
コイツさえマトモならば
606日本@名無史さん:2011/07/28(木) 17:59:41.14
頼朝を伊豆に配流したのが大失敗。
清盛は京都だけ押さえておけば地方はどうでもいいと。。。
それが時代遅れだったわけだが。
607日本@名無史さん:2011/07/28(木) 20:22:30.59
>>602
流人とはいえ地方では珍しい従五位下の佐殿、まさに貴種
608日本@名無史さん:2011/07/28(木) 22:34:16.08
頼朝が西国に流されていたなら、日本の歴史も大きく変わっていただろうな。
609日本@名無史さん:2011/07/29(金) 01:43:56.61
足利一族で北条についた人や南朝についた人(観応の擾乱除く)はいないの?
610日本@名無史さん:2011/07/29(金) 22:01:46.31
桃井は領地が上野だったから新田に従っていたような記憶があるが•••
611YAP?:2011/07/29(金) 23:34:34.52
 桃井は、足利義兼の子で承久の乱で、戦死した義助の子孫で、義胤ー頼氏の後、2系に分かれたらしい。
『太平記』に最初に登場する桃井尚義は、義貞に従って、鎌倉攻めに参加し、討ち死にしたらしい。

 次に新田義貞の建武2年11月の足利尊氏討伐に従軍した桃井遠江守があり、これを迎え撃った足利直義配下に
桃井義盛、の名があり、以後、義繁、直常が現れるが、義繁は新田方のようだ。直常はバリバリの直義派だ。
 多分「直」は、直義の偏諱を受けたのかもしれないな。

 尚、『梅松論』には、「義貞一流の氏族桃井」とあるそうだから、地縁の関係で、新田本宗家とも
仲がが良かったようだ。
まあ、岩松氏の立ち位置と似ているのかも。
612日本@名無史さん:2011/07/30(土) 20:23:19.36
>>609
共に庶子系統がどっかの被官になってたら不明だが多分足利はいない
新田は郷土史家の久保田順一氏の書によると牧野藤左衛門尉忠秋って武士が下総牧野出身の山名一族として番場で自害している
またこれは図書館で読んだ本で記憶曖昧だが奥富氏の書で大館宗氏を討った本間一党に得川某がいたらしい
613日本@名無史さん:2011/07/30(土) 22:41:26.81
牧野って真木野ともいい北条長時の家来で在京人でもあった一族でしょ
山名一族だったの?
614日本@名無史さん:2011/07/30(土) 23:30:39.91
大館宗氏を討ったのは大仏氏譜代の御内本間氏の手のものだから
得川(得行?)光季は本間の家来ということになるが、
新田一族がそこまで成り下がるかなあ?
615日本@名無史さん:2011/07/30(土) 23:44:04.05
下総の牧野(真木野)は千葉氏嫡流の所領だから山名とは関係ないだろ
616日本@名無史さん:2011/07/31(日) 13:37:26.63
>>614
北条一門の被官に落ちることはありえるがその更に被官の本間の家臣はなあ
617日本@名無史さん:2011/07/31(日) 22:04:37.61
畠山義純って最悪だな
遊女腹ってことで捨てられて新田に育てられ、婿として妻と領地まで貰ったのに、金持ちの娘が来たら速攻妻子捨てて北条にすりよって

捨てられた岩松兄弟に祖母新田尼の愛情が集中
嫡孫政義への不遇に繋がり結局は政義暴走→新田宗家没落になったんだから

足利や極楽寺といった名門から嫁貰っていたのが義貞の頃には陪臣安東氏だよ
618日本@名無史さん:2011/07/31(日) 23:48:05.06
安東は得宗の御内宿老だから大大名だよ。政治的にも経済的にも。
安東はそこらへんの御家人なんかよりずっと上だぜ。
619日本@名無史さん:2011/07/31(日) 23:58:42.91
>>617
舅の安東重保はよく解らんがその兄弟の安東聖秀は最有力御内人の一人
伊具など下級北条一門から嫁貰うよりよっぽど価値ある

陪臣を正室にするのが没落といっても六波羅評定衆にまで登り詰めた毛利時親の嫁は長崎円喜の姉だぞ
620日本@名無史さん:2011/08/01(月) 01:34:57.86
>>617
重保の母だから結構な年だと思うが、義純との間によく子供が産めたな
621日本@名無史さん:2011/08/01(月) 04:18:21.66
御内人でかつ鎌倉の御家人ってやつらもいる
622日本@名無史さん:2011/08/01(月) 15:09:15.65
諏訪氏のことか
相模三浦氏や霜月騒動後の西条吉良氏もそうだったのか
623日本@名無史さん:2011/08/01(月) 16:20:17.18
西条吉良は御内じゃないぉ
624日本@名無史さん:2011/08/01(月) 17:09:13.41
>>620
ウチの近所に重保の館伝説がある
横浜の戸塚なんだが、、
625日本@名無史さん:2011/08/01(月) 17:55:54.32
>>620
といっても三十代後半だろ
626日本@名無史さん:2011/08/01(月) 18:13:33.46
御家人身分保持したまま有力御家人の被官になるのは可能なのか
長崎氏や高氏の様な根本被官は御家人身分持って無いだろうが諏訪氏や上杉氏は元々御家人だよな
細川の様な家臣化した一門も非御家人?
627日本@名無史さん:2011/08/01(月) 18:40:44.18
可能
御家人身分自体が曖昧だから
628日本@名無史さん:2011/08/01(月) 18:44:06.06
そもそも守護代が坊主だったりした時代だし
身分制が確立してないからな
629日本@名無史さん:2011/08/01(月) 20:40:21.68
御家人が御内人である例は多いよ。
鎌倉末期の西国御家人などは同時に御内人である場合がかなり多い。
630日本@名無史さん:2011/08/01(月) 21:04:21.92
つまり鎌倉時代だと君臣関係が一本化されていないって言う意味では、
西欧に近いんだな。
江戸時代のような君臣関係は奇形的進化なのか?
631日本@名無史さん:2011/08/01(月) 21:29:01.79
御内の長崎も御家人だろ
祖先の平盛時は御家人らしいから
632日本@名無史さん:2011/08/01(月) 22:17:18.79
頼朝期の文官とは関係ないぞ
633日本@名無史さん:2011/08/01(月) 22:48:02.80
泰時の御内
634日本@名無史さん:2011/08/01(月) 23:22:50.02
徳宗の御内人と執権の御内人も対立した
635日本@名無史さん:2011/08/01(月) 23:25:49.61
親王将軍の弱小御家人なら有力御家人の被官化するわな
636日本@名無史さん:2011/08/01(月) 23:55:18.86
>>634
詳しく教えて
637日本@名無史さん:2011/08/02(火) 02:46:19.52
得宗と執権って対立したか?
638日本@名無史さん:2011/08/02(火) 09:54:09.84
なんか人によって得宗は北条一門を押さえ込み協力に統制したって説と、
結局逆に北条一門に押さえ込まれて、飾り物に近い状態になったとか。
いくらでも解釈のしようがあるんだなあ。
639日本@名無史さん:2011/08/02(火) 12:40:53.73
得宗専制体制と言う言葉が良くないなあ
専制体制というと現代史に出てくる旧ソ連のような国家体制を連想しちゃうからな。
640日本@名無史さん:2011/08/05(金) 06:03:15.25
後醍醐天皇が神戸市兵庫区の福厳寺に泊まられて置きながら、
わざわざ薬仙寺から水をとりよせたか?
ご利益とかの理由ではなく、
福厳寺で頭が痛くなったことを、
何かを盛られたと考えたようです。
そしてわざわざ薬仙寺より水を取り寄せたのが真実です。福厳寺は鎌倉幕府の菩提寺建長寺の関連で大覚という坊さんの流れで、後醍醐天皇は信用していなかった節があります。
鎌倉幕府は後鳥羽・後醍醐と二人の天皇を隠岐に
流していますが、
後鳥羽天皇が毎夜夢見て果たせないまま崩御された
「帰京」を後醍醐天皇は僅か一年余で実現されたのでしたね。
かって皇位にあった身で流人生活を送ったのはこの他、
淳仁天皇、崇徳上皇、土御門上皇、順徳上皇ですが、
配流地から脱出したのは後醍醐天皇だけですものね。
すざましいまでの執念の天皇です。
倒幕を掲げる後醍醐天皇が鎌倉方の密命を受けた使者
によって毒を盛られると考えられたとおもわれます。

臨済宗南禅寺派の福厳寺は後醍醐天皇の史跡
として有名です。また神戸の港の歴史におい
ても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、
起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃
寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲
庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕
にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福
厳寺に合併されています。

641日本@名無史さん:2011/08/05(金) 12:12:19.70
畠山義純の子の田中氏てその後はどうなったの、里見系田中氏の方はちょっとは名は出てくるが
642日本@名無史さん:2011/08/08(月) 18:29:57.40
>>572
> 岩松氏の京兆家と礼部家の争いで、台頭した横瀬・由良氏の新田義宗子孫説は、
>確かに、偽系図である可能性も残るが、礼部家の義宗子孫説は、信頼できるだろう。
>ついでに言えば、565で私が書いたのは、今谷明 藤枝文他忠編『室町幕府守護職家辞典』
>(新人物往来社)二従っている。

インチキ研究者の受け売り乙
643日本@名無史さん:2011/08/10(水) 01:42:13.58
新田政義の悲劇
644日本@名無史さん:2011/08/10(水) 01:47:43.68
>>643
馬鹿だっただけだろ
645日本@名無史さん:2011/08/10(水) 07:34:21.90
>>644
それなりの事情があったんだろ。
646日本@名無史さん:2011/08/10(水) 17:43:09.67
>>644
囚人脱走や自由出家など自業自得だが、それ以前の若い頃から不遇だからな
義重遅滞で初期分家の独立
新田尼の岩松への偏愛
足利のなめた扱い
647日本@名無史さん:2011/08/10(水) 19:57:46.91
幕府に一言ことわってから出家すれば済む話し
648日本@名無史さん:2011/08/10(水) 20:52:18.73
>>647
政義なりの意地があったんだろう。
649日本@名無史さん:2011/08/10(水) 22:28:19.30
その分をわきまえない軽率な行動が馬鹿だと言うんだよ
650日本@名無史さん:2011/08/11(木) 04:10:01.47
>>649
後からなら何とでも言える。
政義にも政義なりの理由があったんだろう。
少なくとも現代人がお前の政義の言動を偉そうに批判する筋合いはない。
651日本@名無史さん:2011/08/11(木) 04:11:59.95
>>650訂正
×少なくとも現代人がお前の政義の言動を偉そうに批判する筋合いはない。
○少なくとも現代人のお前が政義の言動を偉そうに批判する筋合いはない。
652日本@名無史さん:2011/08/11(木) 11:26:25.86
まあ政義としては我慢に我慢を重ねた挙句だったんだろう。
バカといえばバカだし軽卒といえばそうなんだろうが個人的には同情してしまう。
オレが同じ立場だったらもっと早くキレていたかもしれん。
たぶん649みたいな人はどれほど侮辱されようが愚弄されようが
絶対に自殺もせず暴力的行為にも出ず
場合に寄っては相手の靴を舐めてでも生きぬけるたくましい精神力の持ち主なんでしょう。
653日本@名無史さん:2011/08/11(木) 16:18:19.69
>>652
軽率とか我儘とかいう低レベルの話しではなく
政治的な意図を考察したまえ。
654日本@名無史さん:2011/08/11(木) 17:41:14.67
>>653
だったらまずはきみがレベルの高い話というのをふってみてくれ
655日本@名無史さん:2011/08/12(金) 16:08:46.37
新田はなあ鎌倉の執権、高時様に貞義って名前を貰ったんだべ
656YAP?:2011/08/12(金) 23:58:10.89
642氏へ

 岩松(礼部家)家の子孫は、明治維新のときに、新田義貞の正統な子孫として、男爵か何かに
なっているぞ。あんた一人が否定してもしょうがないだろう。
657日本@名無史さん:2011/08/13(土) 10:15:36.19
>>656
岩松は新田義兼の娘の子孫だから新田の正統になれたんだろ。
岩松も由良(横瀬)も新田の嫡流がいなくなったのをいいことに義貞の子孫を名乗っただけの話。
男爵を認められたのは他にまともな子孫が残ってなかったから。
そんな子孫の与太話を真に受ける連中はへっぽこ研究者だけ。
658日本@名無史さん:2011/08/14(日) 15:53:13.30
畠山国清の子孫は江戸時代何してた?
659日本@名無史さん:2011/08/14(日) 20:58:15.36
嫡子の義清が能登に住み奉公衆西谷内畠山氏を創設したっぽい。
その後は能登守護家の事実上の分家扱いで上杉謙信の七尾攻めの時、脱走して以降は不明
ネット上の情報では加賀藩重臣長氏の家臣になったとか

能登畠山家も義福以降、畠山尾州家の血筋に変わっているんだな。
上杉とばかり縁組してる印象があったから以外だった。
660YAP?:2011/08/15(月) 01:25:27.16
 657氏は飽くまでも、岩松氏が新田本宗家を滅ぼしたことにしたいようだな。
 北朝・武家方・足利方が勝利を収め、西国以上に武家方勢力が強かった関東で、
関東公方足利氏や、関東管領上杉氏との血縁ではなく、負け組筆頭の新田義貞の
子孫を称するのに、どんなメリットがあったと言うのだね?

 岩松氏は、新田氏と足利畑山氏との両属性のある氏だが、わざわざ新田義貞子孫を
証したのは、実態があったからだ。江戸時代末期の南朝正統論が生ずるはるか前に、
戦国時代に既に、新田義貞後裔を称し、また認められていたのだ。
661日本@名無史さん:2011/08/15(月) 02:36:53.71
自称新田氏の徳川が新田(岩松)に初期20石
新田名乗るのやめて100石加増
自称新田の徳川の圧が二百数十年有るから。
でも決して宗家譲らないのは逆に信憑性有る。
662日本@名無史さん:2011/08/15(月) 12:30:33.62
>>660
> わざわざ新田義貞子孫を証したのは、実態があったからだ。江戸時代末期の南朝正統論が生ずるはるか前に、戦国時代に既に、新田義貞後裔を称し、また認められていたのだ。


自称と真実は事なるよ
663日本@名無史さん:2011/08/16(火) 19:07:41.21
>>660
>負け組筆頭の新田義貞の 子孫を称するのに、どんなメリットがあったと言うのだね?

中央では負け組の新田義貞だって地元では英雄だから。
664日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:46:18.37
いつ頃から義貞末裔名乗ったんだ
満純からでは無いよな
665日本@名無史さん:2011/08/17(水) 00:54:14.93
鎌倉公方さまの命令で俺から名乗りました
「義貞末裔が降ったんなら楽だし」とか言われて
結果は皆さんご存知の通りDEATH!
666日本@名無史さん:2011/08/17(水) 09:03:31.62
>>664
横瀬に下克上された後。
横瀬が義貞子孫を主張して新田荘支配の正統性を主張したので、それに対抗しただけ。
667日本@名無史さん:2011/08/17(水) 10:15:42.20
よこせとは名は体を表すだな
668日本@名無史さん:2011/08/17(水) 18:37:46.39
スマナイ、南北ってよくわからないんだけど、
アレッて、男系じゃないの?
669日本@名無史さん:2011/08/18(木) 00:15:26.07
横瀬(由良)が岩松を新田屋形として残しておいた
後に自分も新田後裔名乗り出しただけ
長野氏の下に属していた後閑が武田に下った後新田に復し新田景純となり
武田の上野攻めの先頭に立った
後閑は岩松分家じゃ無いかとも云われるが謎
でも長野が傾いた最大の原因ではある
戦国時代にも新田は今の群馬、埼玉北部あたりでは大きな影響力有る
670日本@名無史さん:2011/08/18(木) 02:58:30.91
横瀬は南北朝以来の新田宗家重臣なのに何故か元同僚の由良名乗りだしたな
671日本@名無史さん:2011/08/18(木) 17:19:50.68
新田義宗母方祖父の小田真知とは何処の系譜の方でしょうか
常陸小田氏にそんな人はいないと思うのですが
672日本@名無史さん:2011/08/20(土) 21:30:40.68
小田貞知の誤記。
ソースは俺の脳内。
673YAP?:2011/08/24(水) 18:49:42.00
船田氏や由良氏は、紀姓だが、新田本宗家の根本被官だった。
 由良氏については、新田政義が「由良」と号したという話があるので、横瀬からいきなり
新田に改姓するのも憚られたので、とりあえず「由良」にしたのだろう。
関東公方や関東管領からも文句は出ないだろう。
で、「新田」の方は、岩松家にまかせたわけだ。
674日本@名無史さん:2011/08/24(水) 19:22:16.97
吉良長氏の母親の家女房って誰だ
側室腹にしては扱いいいし
675日本@名無史さん:2011/08/24(水) 20:59:08.56
吉良長氏・長瀬義継兄弟の場合、承久の乱の恩賞で豊かな時期だったから一色ら泰氏子息世代とは事情が違う
ただ幕府全体からの扱いの良さからして佐野や小笠原といった有力御家人の近い庶流と予想
676日本@名無史さん:2011/09/01(木) 08:42:23.36
公家の娘か何かだろ。
足利泰氏の妹が四条隆親の正室って資料みたことがある。
でなんとか天皇の乳母なんだっけ。
すでにこの時代に足利家一族は幕府と朝廷の中枢にいる。
ってことはそれ以前から公家と交流がないと、いきなり四条大納言の
正室にはなれないよね。
だから足利義氏の時代くらいにはなんらかの公家と交流があったのだと思う。
677日本@名無史さん:2011/09/01(木) 08:51:13.60
九条頼経、頼嗣あたりの摂家将軍といっしょに鎌倉に下向してきた
公家または同伴者の関係かもね。
家女房って意味からすると。
678日本@名無史さん:2011/09/01(木) 10:43:48.00
>>676
公家の姫なら足利尊氏母側室上杉清子程度の扱いは受けそう。
尊氏側室の越前局のようにもっと家柄不詳の可能性が高いと思うが
679日本@名無史さん:2011/09/01(木) 11:48:51.32
家女房という意味と庶宗家のような扱いから考えて、
一般御家人の娘や越前局のような人ではないと思う。
それより家格の上の人。
北条得宗家に続くような名越、赤橋と同程度の家の人
だと思う。
そうでないと庶宗家のような扱いの理由がまったくわからん。
他に理由があるのかな?
680日本@名無史さん:2011/09/01(木) 12:02:22.02
>>679
家女房という意味について言えば光格天皇母のような庶民の娘が「家女房」
家女房とは正室に次ぐ地位の第二夫人(側室筆頭)を指すことばではなく
側室として扱われない下働きの女中の意味
それに母の出自が良くない庶長子が優遇された例はよくある
三法師なんかも庶長子
681日本@名無史さん:2011/09/01(木) 14:21:09.24
へー、じゃ母親の立場が理由ではなさそうですね。
他の特別待遇理由はなんですかね?
682日本@名無史さん:2011/09/01(木) 19:54:52.75
承久の乱で儲かったからかね
泰氏流の場合、斯波渋川の方は母親が北条一門名越氏、一色ら他の兄弟は家臣の子だからってわかるが最低でも新田氏クラスの御家人位なら記録に残るはず
683YAP?:2011/09/05(月) 11:39:14.52
吉良氏(西条吉良氏)の庶子として、初代長氏の子孫ではない東条吉良氏や今川氏が、
西条吉良氏に組みいれられたのは、何故だろう?
684日本@名無史さん:2011/09/05(月) 11:57:13.36
派閥均衡人事、党内結束!てとこだろ。
685日本@名無史さん:2011/09/05(月) 12:53:58.30
出家したからでないか
今川は知らないが長瀬義継の方は出家後に中国に留学したはず
686YAP?:2011/09/07(水) 16:09:43.03
なるほど、出家説は今川氏初代国氏(系譜上は、吉良長氏の次子とされる)の実父は、出家した有氏(義氏の子、
吉良長氏と長瀬義継の兄弟)か、或いは最信かも知れないが、とすると、吉良長氏は、甥の経氏(長瀬義継の子、
東条吉良氏祖)と、国氏を出家した兄弟に頼まれて、養子にしたわけか。

 しかし、惣領の泰氏に頼まないとは、引っ掛かるな。それと足利義氏の五子の兄弟順も気になるところだ。
嫡子の泰氏が「太郎」扱いされるのは判るとして、実際の「長子」とされる吉良長氏が、「五郎」で、
長瀬郷に分立した義継が「(左馬)四郎」と言うことは、有氏と大僧正最信が、「次郎」と「三郎」だった事になる。
 吉良長氏の母の身分がよほど低かったのかなあ。
687日本@名無史さん:2011/09/07(水) 21:42:43.50
吉良系3兄弟は同母だと思うがな
それぞれの正室わかってたっけ?
688日本@名無史さん:2011/09/08(木) 19:46:38.08
>>686
泰氏は三郎。
689YAP?:2011/09/11(日) 10:33:55.01
 688氏へ

 済まん。泰氏が「三郎」だった可能性は、その後気付いていたのだが、書き込みの時間と
史料チェックの時間が取れず、先延ばしになってしまった。
足利氏は、二代目(義国を入れれば、3代目だが)義兼が、義清(矢田)、義良に次いで、嫡子で
「三郎」だったので、以後、嫡男が「三郎」を称した可能性があったが、しかし、足利「又太郎」
高氏の例も有ることだし すぐに訂正のレスを入れずに、調べてから、と思ったのだ。
訂正感謝する。

 まあ、足利義氏の五子中、早くから僧籍に入った最信は別として、後の長氏、有氏、泰氏 義継は、
嫡子の泰氏が三郎として、他の庶子の排行は同母だったり、母の身分差が極端でない限りは、
年齢順だろう。しかし、「四郎」が長瀬義継で、「五郎」が吉良長氏だ。
有氏の仮名が不明だが、「六郎」なのか、或いは「又太郎」とか「又次郎」だったとか、判明すれば、
吉良長氏の母の位置付けも見当がつくが。

 言われるように、長氏が庶長子なら、少なくとも、長氏の母と義継の母の身分差は、かなりあったのだろう。
しかし、泰氏の子は、頼氏(利氏)は、嫡子で「三郎」だが、斯波家氏は太郎だし、もう一つ、仮名のつけ方が判らん。
690日本@名無史さん:2011/09/11(日) 13:30:10.72
一色公深の外祖父桜井判官代って御家人?
譲れる領土及び判官位あるが一色は足利宗家家臣扱い
691日本@名無史さん:2011/09/18(日) 01:39:36.42
家氏も最初は三郎だよ。
これは『吾妻鏡』を確認すれば分かる。
頼氏が嫡子扱いになってから太郎を称したのではないか、
というのは既に先学に指摘されている。
692YAP?:2011/09/18(日) 10:57:56.31
確かに、家氏の母は名越朝時の娘だから、嫡子扱いで「三郎」とされたのもわかるが、
太郎家氏、次郎兼氏(義顕)、三郎利氏(頼氏)だと普通に兄弟順だ。
『吾妻鑑』は、根本史料だが、排行の誤記もないとは言えないだろう。
泰氏次男の兼氏の仮名が、「三郎家氏」と並んで「四郎」とでも出ていれば、
間違いないだろうが。
693日本@名無史さん:2011/09/18(日) 13:15:47.12
>>620
娘説があるよな
694日本@名無史さん:2011/09/18(日) 21:18:46.41
重保が16歳程で母親は恐らく時房と同じ足立氏腹
江戸時代のような年齢制限もない時代だしありうるんやね
695日本@名無史さん:2011/10/02(日) 17:35:24.86
だよね!!!!!!
醤油味じゃなくてケチャップ味を試してみる
696日本@名無史さん:2011/10/02(日) 17:35:39.49
誤爆
697日本@名無史さん:2011/10/02(日) 23:51:24.38
>>694
時房の母親って足立氏?
698日本@名無史さん:2011/10/03(月) 12:53:33.57
畠山重保の館跡がうちの近所にあるんだが、、、まあ、鎌倉と二俣川の中間の場所なんだが、、
699日本@名無史さん:2011/10/06(木) 00:31:39.08
源姓畠山の江戸時代は
尾州家が高家
尾州家庶流が薩摩藩士
能登家が高家
能登家庶流が米沢藩高家
二本松家が唐津藩家老
二本松家庶流今宮氏が仙台藩士
他にいる?
畠山はあまり自称も無い気がするが
700日本@名無史さん:2011/10/08(土) 12:12:10.71
ファシストごだいご第六点魔王についたバカ 新田。

ハッキリいって14〜15世紀のカルト 大日本史あたり
ないし戦前レベルで相当歪曲して伝えられてる。 かなりキチガイ

魔王島流しにして、明王にヲマエ殺すぞといっておどした足利

ぜんぜん違うわ。
足利は鎌倉なくなったあとで、ああ、間違ってたんだ、っていってはねかえるんだよね。
でそのとき、公式に、鎌倉の制度や仕組みは正しかったっていうんだよ。歴代の北条はすばらしいって。


で天皇、けん制、南北けん制のために、国王号につくんだよ。でもそのときも、実際の文書や、こうしょだと咲くほうって形とらないで(事実上シナの歴史でめずらしい非さくほうらしい)

ヲマエなめたら殺すぞ、っていって、で明王(あれ帝じゃないだろwしかも匪賊か丁稚なんだしw)が
遺言で日本と闘っちゃいけない。って文書か組んだよ。


しかもあれ本とは最初天皇が日本売ろうとして、シナに文書送るからはじまってて
途中ですげかえて流す。明は国交のぞんでたらしいけど、足利が途中で天皇ながした。



701日本@名無史さん:2011/10/08(土) 18:10:44.24
秩父氏の中で最高に活躍したやつって誰?室町以降で
702日本@名無史さん:2011/10/08(土) 19:35:46.40
大体、山奥の秩父に国の造以来、有力者が出てるのは、銅や馬がとれたから?
703日本@名無史さん:2011/10/13(木) 14:36:20.27
本庄繁長かな?

それはそうと高義が早世せずに家督相続した場合、高氏高国兄弟はどの位のランクの分家となったんだ?
高国は高氏がそのまま忠実な御家人として生きた場合も
704日本@名無史さん:2011/10/13(木) 19:41:08.40
>>701
高山彦九郎
705日本@名無史さん:2011/10/13(木) 20:05:16.37
>>700は日本語が完全崩壊し天皇制も否定するというまったく新手のネトウヨだなw
706日本@名無史さん:2011/10/22(土) 18:39:40.43
幸手一色氏を継いだ杉浦氏とは何者?
707日本@名無史さん:2011/10/26(水) 11:31:43.41
【社会】 部下を必要以上に怒鳴りつけていた足利署長、更迭される
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1319540702/
708日本@名無史さん:2011/11/03(木) 02:30:43.96
万里小路房子(贈准三宮。正親町天皇后。誠仁親王母)の母ですが、畠山政煕女とされてますが、その系譜ってわかりますか?
畠山政煕ではなく、畠山尚順の子の畠山晴煕という記述をしているHPも見つけたのですが、同一人物なんでしょうか?
709日本@名無史さん:2011/11/06(日) 20:05:31.02
捏造仮冒
710日本@名無史さん:2011/11/06(日) 20:54:49.86
万里小路房子は1520年頃の生まれと思われるので、
畠山晴熙がその祖父に当たるとは考えられません。
房子の祖父で義政の偏諱を受けていると考えられることから、
1460年頃生まれの人物だと思うんですが、
その壮年期(1500年頃)に畠山播磨守を名乗ってる人の諱って、
確か分からないんじゃないですかね。
個人的には、畠山家国−義熙−満基−教元−政熙あたりかなあ、
なんて思ってるんですけど。
711日本@名無史さん:2011/11/07(月) 18:47:20.19
家時は何故宗氏でないの
712日本@名無史さん:2011/11/07(月) 19:56:01.51
足利家時は源姓足利氏であり、
惟宗姓宗氏では無い
・・・というボケはともかく
斯波宗氏の方が年長という可能性はあるかな?
713日本@名無史さん:2011/11/11(金) 01:33:36.63
讃岐で長曽我部に滅ぼされた
細川氏政
細川頼弘
出羽で最上に滅ぼされた
細川直元
はどこの系統の方なのでしょうか
714日本@名無史さん:2011/11/11(金) 22:16:54.75
>>9
壷井八幡宮の近くににいるみたい
715日本@名無史さん:2011/11/12(土) 19:51:25.58
細川は阿波守護だよ
716日本@名無史さん:2011/11/14(月) 00:12:30.31
源義清 (矢田判官代)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%B8%85_%28%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%88%A4%E5%AE%98%E4%BB%A3%29

>なお、矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しいと思われる。




三河 矢田郷前城(愛知県西尾市上矢田町郷前)
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yada-Gomae-jo.html

>足利一門の矢田判官義清、義実が居住した地と云う
717日本@名無史さん:2011/11/18(金) 22:27:04.26
>>713
直元は奥州家(顕氏流)の子孫
718日本@名無史さん:2011/12/06(火) 12:14:15.92
三淵持重は足利義持の実子なんですか?
また生没年や子孫は不詳なのでしょうか?
719日本@名無史さん:2011/12/06(火) 19:24:58.47
日野一族なんじゃ
720日本@名無史さん:2011/12/07(水) 13:04:19.81
足利義清 (矢田判官代)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%B8%85_%28%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%88%A4%E5%AE%98%E4%BB%A3%29
>なお、矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しいと思われる。


三河 矢田郷前城(愛知県西尾市上矢田町郷前)
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yada-Gomae-jo.html
矢田郷後城
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yada-Goushiro-jo.html
矢田熊子城
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yada-Kumako-jo.html
>足利一門の矢田判官義清、義実が居住した地と云う


http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den056.htm
>「高階系図」には、高惟長(こうのこれなが)・惟信(これのぶ)兄弟が義清に従いこの戦いで討死したことを記している。

寺津八幡社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%B4%A5%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A4%BE
>建久年間(1190年 - 1199年)に大河内氏の初代、顕綱(あきつな)によって創建されたと伝えられる


何故、初代大河内氏の大河内氏顕綱が三河に逃げてきたか
三河国菅生郷(現在の岡崎城周辺、地頭職は足利義兼と推定)の郷司だった高階惟長
三河国矢田郷を本拠とした足利義清
源頼政の同盟者であった足利義清と足利義清と行動をともにした高階惟長からみだったんだね
大河内氏顕綱が、矢田郷と目と鼻の先にある寺津の地に寺津八幡社を建てたのも、足利義清が関係している
721日本@名無史さん:2011/12/11(日) 13:52:19.60
畠山尾州家
畠山総州家
能登畠山家
西河内畠山氏
二本松畠山氏
722日本@名無史さん:2011/12/13(火) 19:03:51.75
尊氏肖像画、修理終え公開ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201112070003.html
 尾道市東久保町の浄土寺に伝わる市重要文化財の「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)尊氏将軍画像」が6日、保存
修理を終え、同寺で報道陣に公開された。ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20111207000301.jpg
 縦107・5センチ、横56・1センチで、足利尊氏を描いている。宝物殿で展示公開していたが、白カビが広がったため、
宇部市の業者に11月25〜30日、保存修理を依頼した。費用は約11万円で、市が半額を負担する。
 市教委文化振興課によると、肖像画は細密な描線で美しく整った画風から室町期の制作とされる。黒の束帯には、
尊氏が武家で初めて使用を許されたキリの紋の透かしが入っている。
 来春以降、日数を限って一般公開する。小林暢善住職(59)は「歴史事典などに使用され、全国的に評価を受けている。
後世に残していきたい」と話している。【写真説明】保存修理した「絹本著色尊氏将軍画像」を説明する小林住職
723ヘブライ:2011/12/20(火) 10:25:02.09
足利尊氏
代々鎌倉幕府に媚売る⇒後醍醐天皇に寝返って鎌倉幕府滅亡させる。
⇒後醍醐天皇を裏切って独裁で室町幕府開く。⇒後醍醐天皇を島流し。
⇒源義国を共有の祖先とする同胞で親戚関係の新田義貞を殺害。⇒こ
れらの大罪で神の怒りに触れて、腫れ物による病死の神罰。

金正日
国民が重度の貧困や飢餓になる程の独裁政権。⇒日本に向けてテポドン発射。
⇒同胞で親戚関係である韓国人を拉致又は殺害。⇒これらの大罪によって
やはり神の怒りに触れて、心筋梗塞死の神罰。

724日本@名無史さん:2011/12/20(火) 13:16:45.27
>>722
そう言えば頼朝の肖像画を尊氏だと言い張る馬鹿な学者がいたな
725日本@名無史さん:2011/12/20(火) 21:02:16.17
足利ってさ成功したから祖が足利義国とかいってる馬鹿な学者もいるけど
正確には新田義国なんだよな、足利荘に滞在し次男に任せてから長男義重
と共に新田荘に移ってそこで死んどる
頼朝時、贈鎮守府将軍になってるのは義重でどうみても義国源氏の棟梁は
義重。足利は初期に別れたや 山名、里見と同格
足利氏族が成立していったのって鎌倉期はいってからだもんな
北条の腰巾着でうまくやっただけ
726日本@名無史さん:2011/12/20(火) 21:14:16.16
室町幕府の徹底した新田狩りや皇史感も絡んでくるし
徳川には系図改竄されるし一種この一族が歴史のタブーに
なってるのはおしいこと
727725=726:2011/12/20(火) 21:15:55.58
いちおう( ´Д`)y━・~~
728725=726:2011/12/20(火) 22:02:05.90
これは義光流源氏にもいえることで甲斐源氏が義光以来というのは間違い
義光流の嫡流は佐竹氏、そもそも武田氏は逸見氏の傍流だしの( ´Д`)y━・~~
成功者に気遣って認識をゆかめるのはいかん
729725=726:2011/12/20(火) 22:13:18.06
天下の大悪等、同属殺しの頼朝からうまく逃げ延びたってのもあるんだろうな( ´Д`)y━・~~

成功の影には
730日本@名無史さん:2011/12/21(水) 00:08:24.42
光明寺


愛知県岡崎市矢作町加護畑69にある時宗の寺。
鏡立山、帝守院。本尊薬師如来。寺伝では大同年中(806〜810)の創建で大治2年(1127)再興された天台宗の寺で、5世清観の弘安2年(1279)に時宗に転じたという。
また8世観鐘は新田義貞の落胤、9世浄開の永享12年(1440)には長阿弥(徳川有親)、徳阿弥(同親氏)父子来訪などの源氏との関係をいう伝承もある



731日本@名無史さん:2011/12/21(水) 00:10:31.13
高山下城

高山下城跡【愛知県新城市玖老勢字高山下】
周昌院【愛知県新城市玖老勢字高山下7】


【歴史】標高150m、比高30mの丘陵端に在るが、伝承地であり、確証は無い。新田義
貞、もしくは匂当内侍が居住したと云う。

732日本@名無史さん:2011/12/21(水) 00:11:56.93
楠木正成関連


若宮神社の楠
所在地の地名 愛知県豊田市若宮町2丁目

名鉄三河線豊田市駅の北300mほどのところに若宮八幡社が鎮座し、境内に1本の大クスノキが立っている。
上記とは別の案内板には、「天弘三年(一三三三)楠正成千早城落城後しばらく許呂母の里に隠れ南朝の功臣と策応して再挙をはかる楠正成が武運祈願のため建立したと言う」とある。



楠木正季(楠木正成の弟)関連


野口雨情さんは、茨城県の生まれ 河内国の楠木正成の弟、楠木正季(くすのき まさすえ)が先祖という。
三河の豪族、足助氏を頼り、加茂郡野口村(現在の豊田市)に住み着き、野口と名のったという。
ということで足助町野口は、野口雨情の先祖が住んだという。
733日本@名無史さん:2011/12/23(金) 01:22:30.12
足利義兼は北条時子の死に処罰受けなかったの?
734日本@名無史さん:2011/12/25(日) 00:42:18.30
>>724
頼朝肖像画は足利直義じゃなくて?黒田日出男さんの説じゃない?
しかし、あの3枚の肖像画は強烈だよね。他のものはみーんな同じに見えるのに、あの3枚は個性がありまくる。
どうなんだろうか。通説も新説もどっちも正しいように感じてしまう。
735日本@名無史さん:2011/12/25(日) 21:46:47.39
黒田日出男さんを馬鹿学者呼ばわりか
736日本@名無史さん:2012/01/05(木) 17:22:18.20
足利氏の成立は義康の母が藤原系足利氏ということもあり藤原氏を継いだって方が
正解じゃないのかい、平家の畠山氏を足利氏が継いだみたいにさ
藤原氏の婿としてなら義国の足利名乗りもありえるか
737日本@名無史さん:2012/01/12(木) 04:53:01.24
>>736
あらら、秀郷流の藤姓足利氏と、足利義康は、血縁ではありませんよ。
義康の母方は受領階級。
738日本@名無史さん:2012/01/12(木) 14:43:50.07
日野一門だっけ
739日本@名無史さん:2012/01/13(金) 04:37:08.18
>>738
村上源氏、源有房の娘が生母。
740日本@名無史さん:2012/01/13(金) 18:51:20.25
村上源氏か
随分高い家格の家柄と結婚できたな
新田は誰だっけ
741日本@名無史さん:2012/01/13(金) 19:25:33.72
新田義重の母は藤原敦忠(藤原式家)の娘
官位は源有房も藤原敦忠も正四位下が極官
どっちもどっちだろう
742日本@名無史さん:2012/01/16(月) 23:14:37.51
>>734
どう見ても3枚1組なので、全くつながりのない三者の肖像という
通説に疑問を感じていたところで新設を知り、目から鱗。
現在新説支持者。
通説支持者は、単にあの3像を「足利」にはしたくないんだろうな。

>>724
宮島乙
743日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:18:38.71
>>729
源平の同族争いを裏で操ってたのは、源氏は、藤原公家・・平氏は、百済渡来人
天皇家の自体も、漢民族に追われ大和渡来してからも、大陸と新羅の秦氏により反発と服従の朝貢外交で半島の高句麗=百済との駆け引きで翻弄されてきた歴史が在るしね。
日本に置ける秦氏とは、天皇家の連絡員監視役だったのでは?
744日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:24:22.33
>>743
スマソ
天皇家=倭人として話してるので、ヨロ。
745日本@名無史さん:2012/02/13(月) 22:37:57.30
人質を差し出していた側が逃げ延びてきた宗主国で何かを操れると考えられる事の不思議
746日本@名無史さん:2012/02/14(火) 07:42:40.55
>>745
藤原は、血の支配権で白河の時代まで世を馳せたじゃまいかぁ
747日本@名無史さん:2012/02/24(金) 11:37:26.66
あげ
748日本@名無史さん:2012/03/12(月) 21:05:31.32
ネットを見ると「足利尊氏キチガイ説」がよく書かれているが
これって現代から見るからそう見えるのであって
天皇という「貴族らの権威の源泉」と戦わざるを得ないという矛盾した立場に置かれた尊氏ら武家貴族の心理を分析するべきではないか?
北條だって天皇と戦う時は「錦のみはたを掲げたら降伏しよう」と言ってた訳だし
徳川よしのぶの時代もそうだ。
天皇に相対するとき、日本人は(アイデンティティの根拠であるがゆえに)気が狂うのであり
尊氏だけが例外ではないと思う。
言わばクリスチャンがイエスと戦うようなもので、頭が変になるだろう
749日本@名無史さん:2012/03/13(火) 00:36:45.80
>>748
んなこと無い。
「主上御謀反」って言ってるし、承久の乱では官軍ボロ負けしている。
750日本@名無史さん:2012/03/13(火) 03:23:11.30
官軍がボロ負けしていることと私の主張は矛盾してないと思うが?
要するに我が国においては真面目な良識ある人間ほど天皇には心理的に逆らえないという事である
(戦後現代人は除く)
あえて逆らおうとすると錯乱状態に陥る。
751日本@名無史さん:2012/03/13(火) 07:20:50.64
だから「主上御謀反」だよ。
治天や天皇が謀反おこしたってこと。
謀反だよ。意味わかる?
752日本@名無史さん:2012/03/13(火) 14:59:46.27
「主上ご謀反」などと矛盾したことを言わざるを得ないほど天皇を相手にすると混乱するということだよ
教養があり、誠実な人間であればあるほどそうなる
753日本@名無史さん:2012/03/13(火) 21:52:02.41
やれやれ、無教養な人間から見るとそういう解釈かよ。
あんたに言わせれば、土御門天皇の死体が死後40日以上放置されていたのも、「真面目で良識のある」公家や将軍たちが錯乱状態に陥っていたからっていうことになるんだろうな。
少しはまともな本読めよ。ここは「学問」カテだぞ。マンガや妄想の話は趣味カテの歴史難民板でやってくれ。思想を語りたいなら政治経済カテのゴーマニズム板でやってくれ。
754日本@名無史さん:2012/03/14(水) 00:54:46.67
無教養な人間は「天皇の有り難さ」を理解出来ないのだからさもあらん
江戸時代の国学者から見たら暗黒時代だろう
755日本@名無史さん:2012/03/14(水) 01:05:44.68
ちなみに死後四十日間放置されていたのは「後土御門天皇」のようだぞ
天皇を蔑ろにした足利幕府が滅んだのもさもありなん。
そもそも幕府権力を正当化する権威が天皇なのだから天皇を大事にしない事は自分の首を絞める事にも繋がるのである。
後の徳川幕府も天皇を大事にしていれば薩長に付け入られることも無かった。
756日本@名無史さん:2012/03/14(水) 01:41:51.58
確かに、北条氏と足利氏は禅寺ばかり熱心で神社信仰があんまりなさそうだけど。
天皇信仰から自由だったことと関係あるのかな?
757日本@名無史さん:2012/03/14(水) 03:46:27.02
そりゃあるかもね
仏教はメタ宗教みたいな面もある教えなので
あんまり熱心に勉強すると天皇教的世界観を壊してしまう面がある。
北條や足利が天皇を「蔑ろ」に出来たのはそういう面もあったかもしれない
その意味では天皇権威をバックに抱えた明治政府が廃仏きしゃく運動を起こしたのも自然の流れとも言える。
まあ日本史は仏教と神道、儒学の三つの言語ゲームが複雑に交差している面白い世界だとも言えるね
土御門天皇自身も仏教に取り込まれて「余がこの世で不幸な目に遇うのは前世の因縁なのじゃ。なむあみだぶつなむあみだぶつ」と唱えながら死んだらしい。
天皇からして完全に仏教世界に取り込まれて、天皇教が忘れ去られた時代が室町末期と言えよう
758日本@名無史さん:2012/03/14(水) 04:00:47.58
大体仏教の世界観からすると天皇だって生身の凡夫でしかないからな
野垂れ死のうがそれが自然の摂理。無常ですなあで終わってしまう。
朝廷政治が崩壊しようと無常ですなあw
一方で天皇教を信じると天皇を中心とした神国の建設が至上命題となる訳で大名なども競って天皇に寄進し統一政権が生まれ税収が上がり一種の強国が誕生する
面白いね
しかしこの世界はある意味で差別の世界でもあり
天皇権威から疎外されると生きて行けない。
そこで仏教が補完的な役割をしたりしている。
北條氏などは伊豆の小役人な訳で天皇秩序からすると糞奴隷でしかない訳で、仏教に力を入れた由縁なのかもしれない
759日本@名無史さん:2012/03/14(水) 07:25:28.14
やれやれ。
お前さんは学問カテじゃなくて宗教カテに逝けよ。
話にもならん。
普通中世史では、既存の秩序を破壊する行為は、権力者でも謀反になると解釈するんだが、お前さんが受信する電波ではそんな解釈あるはずないよなw
マトモな本を読めるようになってから出直して来いよ。
760日本@名無史さん:2012/03/14(水) 07:50:47.90
最低でも大手出版社の通史シリーズは読んでから来なね。
761日本@名無史さん:2012/03/14(水) 08:01:50.45
新羅の王も古いと思うが、
結局高麗に滅ぼされた。
なんで天皇だけは生き残ったのか。
762日本@名無史さん:2012/03/15(木) 09:48:35.80
ぶっちゃけ土地の生産量が摂関期の頃から江戸まであまり上昇しなかったから。
なかなか人間が一箇所に定住しなかったので京都以外の場所で権力が発生しにくかった。
農業するより、金貸しする方が儲かるのが江戸時代までの日本だからな。

中国の場合も唐宋で権力層の中心が北から南に変わったが
科挙制度のせいもあるが蘇州を中心とするその後の中国の富の源泉がこの時期に
生まれたからだ。

関東が日本の中国の南に当たる資格を持っていたのだがいかんせん経済基盤が
貧弱すぎたと言える。だからいつまでたっても京都のように法や組織が整備されず
将門から頼朝、得宗、鎌倉府にいたっても主従制による上下関係を脱することが
できず実態のおぼろげにしか見えない王権から国家に昇格できなかった。

上杉や秀吉との戦争に「御国」理論を持ち出した後北条は「国家」になる資格を持っていたが
もう大航海時代が始まり東アジア全域で歴史が連動するこの段階では遅すぎた。
763日本@名無史さん:2012/03/15(木) 20:11:23.01
>>762
さらにその生産力を象徴する文化財が
天皇の権威を保たせたんだろうな。
764日本@名無史さん:2012/03/15(木) 23:59:03.03
文化財なんていう概念は近代以降のものです
765日本@名無史さん:2012/03/23(金) 00:40:35.62
>>734 伝源頼朝像を足利直義とする説を立てたのは黒田氏ではなく、美術史家の米倉迪夫(みちお)氏
その説によれば伝重盛像が尊氏、伝藤原光能像が義詮となる 黒田氏がこの説をどう考えているかは不明
766日本@名無史さん:2012/03/24(土) 03:45:31.98
>>765 頼朝、重盛、光能という組み合わせは不自然だが、尊氏、直義、義詮ならば自然な組み合わせ。
現在は伝重盛像の痛みがもっとも激しく、顔面が剥落しかかった状態だが、これが尊氏像ならば、室町幕府創設者として、画像が3枚の中で利用される機会がもっとも多かったからと、その原因も推測できる。
いつの時代から現在の人物名があてはめられたかは不明だが、江戸時代にはすでに頼朝像と考えられていたようだ。
767日本@名無史さん:2012/03/25(日) 20:40:38.03
頼朝画像は絵画技法の専門家によれば鎌倉初期の技法らしい。
768日本@名無史さん:2012/03/25(日) 21:09:33.93
>>765
今でもそうかは知らんけど、黒田さんは昔の番組で米倉説を支持してたよ。
俺も子供の頃、歴史の本とかで「伝重盛像」見るたびに、
「頼朝に似てんなあ〜」とよく思ったもんだった。(当時は伝光能像の存在知らず)
それからこの説を知って、妙に納得が行ったw(新説によれば兄弟なわけだから)
重盛に関しては、似絵で描かれた肖像画が残ってて、その容貌は「伝重盛像」とは似ても似つかないもの。
これも新説(足利説)を補強すると思う。
769日本@名無史さん:2012/03/27(火) 07:27:33.67
>>767 頼朝画像は絵画技法の専門家によれば鎌倉初期の技法らしい。

こういう「学界の常識」って、一度はちゃんと根拠を確かめる必要がありそうだ。
そもそも鎌倉初期の技法なるものは、頼朝画像の絵画技法を基準にしていたなんてオチだったりすることも、ないとはいえない。
770日本@名無史さん:2012/03/29(木) 09:19:05.74
>>769
お前が絵画技法に無知だと言う事だけは分かった
771日本@名無史さん:2012/04/11(水) 00:05:10.61
>>768
天子摂関御影の重盛はむしろ藤原頼長に似ている
重盛の母親は忠実の落胤という説もあるけど、どうなんだろう
772日本@名無史さん:2012/04/22(日) 19:41:07.75
むぅ、
773新田昌玄:2012/04/24(火) 12:44:39.19
新田昌玄
774日本@名無史さん:2012/05/12(土) 08:35:07.76


足利義満は朝廷から「鹿苑院太上法皇」(相国寺の過去帳では「鹿苑院太上天皇」)の称号送られてる

太上天皇(太上法皇)の称号は、通常皇位を後継者に譲った天皇に贈られる尊号のこと


義満上皇か・・・
775日本@名無史さん:2012/05/13(日) 06:34:33.14
>>774
母系で順徳院と血縁が繋がってるのと、幼少期に、摂関家の二条良基の元で薫陶を受けて養育されたから、公家のシステムと文化に造詣が深かった一種の天才政治家だな。
義満の母方の祖父、四辻善成も、二条良基の猶子になっていたらしい。
義満が養育されたのもその縁だね。
776日本@名無史さん:2012/05/13(日) 11:08:19.43
やはり、出世や官位、身分などは、外戚の影響も大きいんだね
777日本@名無史さん:2012/05/19(土) 05:20:58.95
東大教授の喜連川なんとかってやっぱそうなの?
778日本@名無史さん:2012/05/26(土) 14:53:53.29
明日大河で保元の乱だけど源義康出てくるかな?
779日本@名無史さん:2012/06/20(水) 14:14:25.91
足利 新田リストラして逃げたクズ
新田 クーデター起したカス
北条 最後の1匹は寝返ったカス

終了。

ようは連中はマジ貸すなんだけど、常に自分の虚偽こぶしかしなく、役職はなかった。
780日本@名無史さん:2012/06/20(水) 16:35:39.60
>>775
会ったこともない母系ご先祖の一人が順徳院ということよりも
義満の場合、後円融天皇と従弟同士で(母親同士が姉妹)同族のように育ったためだろ。
後円融天皇は義満が帝位を狙っていると恐れるあまりノイローゼになり
義満の密通を疑って側室を刀の鞘で殴り倒し側室が恐れて実家に帰ってしまうなど
いろいろ問題起こしてる

781日本@名無史さん:2012/06/23(土) 06:45:18.96
>>736
親スレご紹介
河内源氏を語る
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1296386336/
782日本@名無史さん:2012/07/06(金) 22:10:38.81
>>778
出てこなかったな。
北面で200騎ぐらい率いてたんだっけ?
783日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:32:12.28
キーワードで探されている「本物のペット飼い主、カミ」カミにはまだ子供がいない。ニセペット飼い主が存在しているので騙されないように。
■アメリカ合衆国・オバマ大統領がその人の話をネタ元にパーティー演説。
http://twitter.com/4YoGun/status/201285556989202432
■その人が紹介画像を出したら、ロシア連邦大統領府クレムリンがプーチン大統領画像合わせた。
http://twitter.com/4YoGun/status/217765146053976064
■その人が2chで女子アナ画像のアップロード許可すべし! 規制すべきではないと書いていたら、
アメリカ合衆国日本大使館もインターネット規制はせずに自由であるべきと同調。
http://twitter.com/4YoGun/status/217766127365914625
■その人はカミ様と呼ばれている血統なので世界中の色々な映画漫画ドラマに人生を切り出されて元ネタにされてる。
ドラマ24の主人公などもその人が元ネタ
http://twitter.com/4YoGun/status/215813162820317184
■世界的TVゲーム、ファイナルファンタジーには主人公として登場。
http://twitter.com/4YoGun/status/206406425797345281
■その人の正体は、アインシュタインやマッカーサーに「神」と呼ばれた昭和天皇の肉親の宮将軍・東武皇帝。
http://twitter.com/4YoGun/status/205290560381128705
■正当継承者・後継者なので、色々な物を継承している。
http://twitter.com/4YoGun/status/206408752717508608/
女子アナウンサーには、この人の女が多くいて、この人以外が手出ししそうなだけで事故にあう確率が高まり、性行為をすると家族皆殺しにされるので手出ししないように気をつけよう。
784日本@名無史さん:2012/07/08(日) 04:50:42.57
徳川四天王
木曽四天王
織田四天王とかあるが
尊氏四天王を設定するとしたら誰がなるだろうか
785日本@名無史さん:2012/07/08(日) 12:24:17.37
高師直
高師泰
上杉朝定
上杉重能
786日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:28:10.42
仁木頼章は
787日本@名無史さん:2012/07/08(日) 18:21:01.89
仁木頼章と並べるなら
細川清氏か頼春
畠山国清か高国
今川頼貞か範国
ってところかな?
788日本@名無史さん:2012/08/15(水) 23:37:45.60
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1442777414
佐々木道誉と土岐頼遠は元は足利と同じ鎌倉御家人で徳川家康に例えるなら
上杉や毛利、伊達の様なもの
でもこれ等は徳川四天王や徳川18神将の様な
家康の有力の側近にはえらばれません

普通こういった際はその主君の直接の家臣等が選ばれます
土岐や佐々木は足利尊氏四天王に選ぶには格が同格すぎます
選ぶなら

高師直、高師泰、斯波高経、今川範国、細川和氏、上杉憲顕、畠山国清、今川貞世
等からノミネートされるかと…
789日本@名無史さん:2012/08/21(火) 02:20:26.30
斯波や今川は分家筋のうちでも有力親族で、家臣より立場が上だぞ。
だから四天王とかに選ばれる可能性は無いと思う。

同じ分家でも、細川は格が低くて、ほとんど家臣扱いされてたから、選ばれる可能性がある。
790日本@名無史さん:2012/08/21(火) 06:22:39.69
斯波氏、吉良氏、畠山氏、渋川氏は鎌倉時代から御家人だったが、今川氏はどうだっけ?
791日本@名無史さん:2012/08/21(火) 06:30:39.77
斯波は別格だよ。
本宗家の代理を務める家だ。
792日本@名無史さん:2012/08/21(火) 09:38:35.00
今川は吉良氏の分家だからなあ 御家人じゃないだろう
793日本@名無史さん:2012/08/21(火) 10:41:35.74
今川は吉良家の分家というより吉良家の別家扱いなんだろ?
上総介を引き継いでいる点でも特例の家の理由は単なる分家とは
まったく違うのだろうな。
794日本@名無史さん:2012/08/21(火) 10:55:12.03
初代 今川国氏 鎌倉時代後期        所領をもらって管理
2代 今川基氏 鎌倉時代末期        ちょっと拡大
3代 今川範国 鎌倉時代末期、南北朝    足利尊氏よりちょっと年上

ようするに鎌倉時代はほぼ活動期ではない。
家として分家した直後にもう南北朝だからね。
795日本@名無史さん:2012/08/21(火) 10:58:20.50
今でいう核家族みたいな勢力しかないはずだぞ。
796日本@名無史さん:2012/08/21(火) 11:18:58.15
たしか駿河の守護を歴任してなかったか?了俊でかなり今川家の力は膨らんだはずだが
797日本@名無史さん:2012/08/21(火) 14:31:20.11
たからそれは足利尊氏以降の話。
鎌倉時代は御家人でも、核家族程度しかいないから、幕府内の勢力図にには
関与していないはず。
あくまでも足利家の親族の一人ってだけの扱いのはず。
斯波、吉良、今川、渋川は御家人であっても単独で行動できるような
勢力ではないはず。
798日本@名無史さん:2012/08/21(火) 14:43:58.80
足利親族が東海道に領地をもったのっていつごろからなの?
799日本@名無史さん:2012/08/21(火) 20:20:46.12
>>797
斯波氏と吉良氏と畠山氏は鎌倉時代も単独で行動しているぞ
>>798
足利義氏以降では?
800日本@名無史さん:2012/08/22(水) 02:16:42.70
上総も当時は領地だったはずだけど、あまり親族は入植させてないようだが
801日本@名無史さん:2012/08/22(水) 06:09:52.42
吉良の存在感のなさときたら
802日本@名無史さん:2012/08/22(水) 21:48:30.62
吉良が観応の擾乱で没落したから、本来はその傍系である今川がデカイ顔したんだよ
803日本@名無史さん:2012/08/26(日) 04:45:46.07
桃井
804日本@名無史さん:2012/08/28(火) 02:49:19.57
今川は戦い巧者の家だった
805日本@名無史さん:2012/08/28(火) 10:35:58.72
奥州吉良氏、関東公方御一家。

関東公方御一家って他にいないの?

じゃ序列は

鎌倉公方>関東公方御一家吉良>関東管領上杉>その他家臣団

なのか?

806日本@名無史さん:2012/08/28(火) 17:02:52.94
もう過ぎた話だ
807日本@名無史さん:2012/08/28(火) 19:13:27.33
>>805
奥の斯波殿と大崎殿と最上殿を忘れるな。
808日本@名無史さん:2012/08/29(水) 15:14:24.16
http://ameblo.jp/8omote/image-11243083093-11957874833.html

吉良満義 正三位左兵衛督 昇殿

とあるが、これは正しいのか?
だとしたら、足利尊氏に続く足利氏の特例親族みたいだが、
こんな早い段階で特別な立場にいたのか?
809日本@名無史さん:2012/08/29(水) 15:18:44.39
http://ameblo.jp/8omote/entry-11243083093.html

この論文全部読みたいなぁ。本とかでないかな。
とおもったら売ってるみたいだ。

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-740-3.htm

値段が高いよw
810日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:44:58.32
まずは小川信先生の『足利一門守護発展史の研究』を読みなさい。
811日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:46:02.41
>>808
足利泰氏が兄弟に二人いるw
812日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:49:38.25
>>805
幸手一色も関東公方御一家だったはず
813日本@名無史さん:2012/08/29(水) 22:05:25.20
>>808
左兵衛佐でも従四位くらいなんだけど・・・
814日本@名無史さん:2012/08/29(水) 22:09:00.65
まちがえた
左兵衛督って従四位くらいなんだけど・・・
と書こうとしたのにorz
815日本@名無史さん:2012/08/30(木) 06:37:14.04
日本を内戦という失敗国家状態にした無能家足利
816日本@名無史さん:2012/08/30(木) 06:56:57.85
       (~)
     γ´⌒`ヽ      
      {i:i:i:i:i:i:i:i:}    
     ( ´・ω・`)  北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。
     / >‐ 、-ヽ  すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。
   /丶ノ、_。.ノ ._。)  その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。
.  〈 、〈Y ,ーiー〈ト  頼山陽などは、まだ眼孔が小さいわい。おれも幕府瓦解のときには、
   \_ξ ~~~~~~Y  せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。
     |__/__|   
      |、,ノ | 、_ノ
817日本@名無史さん:2012/08/30(木) 09:24:34.63
足利太郎高義
足利又太郎尊氏
足利二郎直義

北条得宗家の母親でないから足利三郎は与えられなかったのか。
818日本@名無史さん:2012/08/30(木) 10:12:04.50
この中では高義の母が北条氏であり、足利の家政に関与した文書もあるから
早死にしなければ高義が歴史に残っていただろうね。
819日本@名無史さん:2012/09/07(金) 01:17:04.33
室町幕府の支配層一覧
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・今川氏(三河国幡豆郡今川)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の斯波家氏と共に三河(滝山寺)で出家(板倉右衛門入道)

【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良)←初代の足利義継は長瀬四郎と号し、長瀬郷(三河国額田郡長瀬)を本拠とした
・石橋氏(三河国設楽郡石橋)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)←初代渋川義顕は、同母兄の斯波家氏と共に三河(滝山寺)で出家(板倉右衛門入道)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生)
・仁木氏(三河国額田郡仁木)
・細川氏(三河国額田郡細川)
管領
・細川氏(三河国額田郡細川)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作)←初代斯波家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国畠山)
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色)
・山名氏(上野国多胡郡山名)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時額田郡小久田に隠れ住む(赤田和城)
・土岐氏(美濃国土岐郡)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)
・伊勢氏(出自不明)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡で活動
820日本@名無史さん:2012/09/08(土) 20:50:21.38
足利尊氏
精神薄弱者の無能
新田義貞
プライド高い凡くら
後醍醐天皇
性欲と権力欲だけは強い俗物

これら無能どもの低レベルな争いが
南北朝の争乱
821日本@名無史さん:2012/09/13(木) 00:02:47.53
>>805
関東足利氏と東国社会て本によると
関東渋川氏と武蔵吉良氏が関東公方御一家で他の家は諸説あるらしい
ということは塩松石橋氏も武蔵吉良氏みたいに関東公方に仕えてれば
関東公方御一家に遇されてた可能性が高かったのかもな
822日本@名無史さん:2012/09/19(水) 08:39:08.62
吉良氏分家荒川氏と一色氏はどうなった?
823日本@名無史さん:2012/09/19(水) 14:01:21.92
じゃあ

鎌倉公方>御一家武蔵吉良、武蔵一色>関東管領上杉>その他家臣団
824日本@名無史さん:2012/09/21(金) 13:53:27.54
最近は御一家が将軍継承権を持つ説が出てんだってな
825日本@名無史さん:2012/09/25(火) 07:32:32.34
そうらしいね。
826日本@名無史さん:2012/09/25(火) 07:36:17.34
あの、なんたら太平記にのってる
「高麗人数百をひきいてかの国よりどうのこうののお末」
ってなんの説なのよ?
日野俊基が足利尊氏にしゃべってるけどさ。
827日本@名無史さん:2012/10/15(月) 04:18:48.61
足利の一族で新田に味方した奴ら
828日本@名無史さん:2012/10/15(月) 07:35:40.44
だれ?
829日本@名無史さん:2012/10/15(月) 21:16:17.16
エバラ焼肉の…
830日本@名無史さん:2012/10/16(火) 07:59:07.48
俺、新田義貞系の出。
鶴岡八幡宮お参り行ってるよ。
831日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:39:20.26
岩松
832日本@名無史さん:2012/10/17(水) 16:35:36.01
足利義兼年表


1153年に生まれる
1157年に父 足利義康死去
母親(頼朝の母と姉妹)の所領(父親からの化粧料)である三河国額田郡乙見に、異母兄弟2人と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1167年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮の祭典の大宮司代理に補された)
異母兄の足利義清は、三河国幡豆郡矢田に拠を構え、矢田判官代義清と称する
1174年 三河国碧海郡碧海庄で長男、足利義純が誕生(その所縁か、後に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年 三河国碧海郡碧海庄で次男 足利義助誕生
1180年 頼朝挙兵、義清義長と共に三河国から参戦
1183年 足利義清、足利義長は水島の戦いで戦死

1185〜1190年頃 三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺建立、真福寺(三河国額田郡乙見庄内)に法華堂建立
1195年 東大寺で出家
1199年 死去


833日本@名無史さん:2012/10/20(土) 19:16:49.19
源義兼の年表


1153年、父:源義康、母:藤原季範(初代三河の藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる
1155年、祖父:藤原季範死去
1157年、父:源義康死去
1160年、源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年、藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
母親(頼朝の母と姉妹)の所領(父親からの化粧料)である三河国額田郡乙見に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1167〜1168年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御(以仁王の母)領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖)は、三河国幡豆郡矢田に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
1174年、三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖)が生まれる(その所縁か、後に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年、三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
1180年、頼朝挙兵、義清義長と共に三河国から参戦
1181年、北条時政の娘を正室に迎える
1183年、異母弟2人源義清(矢田義清)、源義長は水島の戦いで戦死
1184年、源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
1185年、上総介に推挙
1187〜1190年頃、三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺建立(義純、義助の母、白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見内の真福寺に法華堂建立(母親を菩提)
1189年、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)誕生
1195年、東大寺で出家
1199年、死去
834日本@名無史さん:2012/10/20(土) 19:48:36.98
鎌倉時代は新田氏の暗黒時代
835日本@名無史さん:2012/10/20(土) 21:55:19.86
源義兼の年表


1153年、父:源義康、母(源頼朝の母と姉妹):藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる
1155年、母方の祖父(血縁は曾祖父):藤原季範死去、父方の祖父:源義国死去
1157年、父:源義康死去
1159年、母の姉:由良御前(源頼朝の母)死去
1160年、源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年、藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
母親(頼朝の母と姉妹)の所領(父親からの化粧料)である三河国額田郡乙見に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1167〜1168年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御(以仁王の母)領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖、室に新田義重の娘)は、三河国幡豆郡矢田(皇嘉門院(崇徳天皇中宮)領)に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
1174年、三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖)が生まれる(その所縁か、後に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年、三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
1180年、頼朝挙兵、義清義長と共に三河国から参戦1181年、北条時政の娘を正室に迎える
1183年、異母弟2人源義清(矢田義清)、源義長は水島の戦いで戦死
1184年、源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
1185年、上総介に推挙される
1187〜1190年頃、三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺を建立(義純、義助の母である白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見内の真福寺に法華堂建立(母親を菩提)
1189年、源頼朝軍の一員として奥州合戦に従軍、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)誕生
1195年、東大寺で出家
1199年、死去
836日本@名無史さん:2012/10/22(月) 19:29:00.06















  




837日本@名無史さん:2012/10/22(月) 19:36:59.44
源義兼の年表


1153年、父:源義康、母(源頼朝の母と姉妹):藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる
1155年、母方の祖父(血縁は曾祖父):藤原季範死去、父方の祖父:源義国死去
1157年、父:源義康死去
1159年、姉(血縁上は叔母):由良御前(源頼朝の母)死去
1160年、源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年、藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
母親(頼朝の母と姉妹)の所領(父親からの化粧料)である三河国額田郡乙見に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1167〜1168年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖、室に新田義重の娘)は、三河国幡豆郡矢田(皇嘉門院(崇徳天皇中宮)領)に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
1174年、三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖、新田義重が養育)が生まれる(その所縁か、室町時代に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年、三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
1180年、以仁王挙兵、源義清(矢田義清)、源義長、源義兼は三河国から参戦、義清と義長は源頼政(頼政死後は木曽義仲)と、義兼は源頼朝と行動を共にする
1181年、北条時政の娘を正室に迎える
1183年、異母弟2人源義清(矢田義清)と源義長は、水島の戦いで戦死
1184年、源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
1185年、上総介に推挙される
1187〜1190年頃、三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺を建立(義純、義助の母である白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見の真福寺に法華堂建立(母親を菩提)
1189年、源頼朝軍の一員として奥州合戦に従軍、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)誕生
1195年、東大寺で出家
1199年、死去
838日本@名無史さん:2012/10/25(木) 19:15:31.63
足利一族は鎌倉でもさかえていたのに
なぜ新田一族はぼろいのか
839日本@名無史さん:2012/10/30(火) 00:04:13.91
源義兼(足利義兼、2代目足利氏当主)の年表


1153年、父:源義康(初代足利氏)、母(源頼朝の母と姉妹):藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる(出生地は京都もしくは三河)
1155年、母方の祖父(血縁上は曾祖父):藤原季範死去、父方の祖父:源義国死去
1157年、父:源義康死去
1159年、母の姉:由良御前(源頼朝の母)死去
1160年、源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1160〜1162年頃、母親(頼朝の母と姉妹)の三河国額田郡乙見内の所領(父親からの化粧料)に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1161年、藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
1167〜1168年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
・異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖、室に新田義重の娘)は、三河国幡豆郡矢田(皇嘉門院(崇徳天皇中宮)領)に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
1174年、三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖、新田義重が養育)が生まれる(その所縁か、室町時代に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年、三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
1180年、以仁王挙兵、源義清(矢田義清)、源義長、源義兼は三河国から参戦、義清と義長は源頼政(頼政死後は木曽義仲)と、義兼は源頼朝と行動を共にする
1181年、北条時政の娘を正室に迎える
1183年、異母兄2人源義清(矢田義清)と源義長は、水島の戦いで戦死
1184年、源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
1185年、上総介に推挙される
1187〜1190年頃、三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺を建立(義純、義助の母である白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見の真福寺に法華堂を建立(母親を菩提)
1188年、相模国鎌倉郡鎌倉に浄妙寺を創建
1189年、源頼朝軍の一員として奥州合戦に従軍、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)が産まれる
1195年、東大寺で出家、足利荘に持仏堂を建立し隠居
1199年、死去
840日本@名無史さん:2012/11/09(金) 01:41:58.74
さかのぼり日本史 NHK
室町 “日本国王”と勘合貿易 第2回
実利を勝ち取る義満の秘策

勘合貿易を始め、その莫大な利権によって室町幕府の黄金時代を築いた3代将軍・足利義満。しかし、
明との国交を結ぶためには、臣下の礼をとって“日本国王”に冊封される必要があり、国内の反発を
押さえながら、明の使者との接見儀礼をこなさなければならなかった。近年、光が当てられたある史料
によれば、義満は明に臣下の礼をとる儀式を受け入れる一方で、上座にあたる北側で明使を迎えたり、
定められたお辞儀の回数を減らしたりなど、国内の反対勢力にも配慮しながら接見儀礼を進めていた
ことが窺える。二度失敗した義満による明への使者派遣に前史として触れつつ、“丁寧かつ尊大”な
明使接見の詳細を再現して、名ではなく実をとった義満の巧みな外交戦略を掘り下げていく。

通説くつがえす新たな史料

これまで、義満による明使接見の儀礼の実態を伝える史料は乏しく、義満は周囲にアピールするため
大規模な外交儀礼を行い、明使に対する態度は「度が過ぎてへりくだっていた」と考えられてきました。
しかし、2010年以降、宮内庁所蔵の史料『宋朝僧捧返牒記』に光が当てられたことで、通説は見直しを
迫られています。近年の研究によれば、義満はこの接見儀礼を〈明の臣下に入る外交儀礼〉としてでは
なく、〈義満に明の国書が捧げられる仏教儀礼〉に組み替えることで主客関係を逆転させ、巧みに
国内の反発を和らげていたことが分かってきました。
http://www.nhk.or.jp/sakanobori/schedule/index.html
841日本@名無史さん:2012/12/20(木) 20:46:27.02
秀吉みたいだな
842日本@名無史さん:2012/12/24(月) 23:28:13.70
新田って微妙だよね。楠木の方が優れてるし。
843日本@名無史さん:2012/12/25(火) 07:18:17.59
楠木?河内、和泉、摂津守護のくせに700程度の兵士が集められなかった無能な役立たずのことか?
新田がいなければ、南朝方の武士の総指揮をとれる武士はいないよ。
楠木某とかいう何処の馬の骨だかわからん奴のいうことなんか、当時の武士は誰も聞かない。
血統も実力だから。
844日本@名無史さん:2012/12/25(火) 10:02:08.92
楠木姓の由来


■楠木正成

若宮神社の楠(所在地の地名 愛知県豊田市若宮町2丁目)

名鉄三河線豊田市駅の北300mほどのところに若宮八幡社が鎮座し、境内に1本の大クスノキが立っている。
上記とは別の案内板には、「天弘三年(一三三三)楠正成千早城落城後しばらく許呂母の里に隠れ南朝の功臣と策応して再挙をはかる楠正成が武運祈願のため建立したと言う」とある。


■楠木正季(楠木正成の弟)

野口雨情は、茨城県の生まれ 河内国の楠木正成の弟、楠木正季(くすのき まさすえ)が先祖という。
三河の豪族、足助氏を頼り、加茂郡野口村(現在の豊田市)に住み着き、野口と名のったという。
ということで足助町野口は、野口雨情の先祖が住んだという。
845日本@名無史さん:2012/12/25(火) 15:34:20.96
あれ?
今では楠木氏の祖先は三河じゃなく武蔵から移住したんじゃないかって言われてたのでは。
それも、正成の父親か祖父ぐらいの世代に。
846日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:49:15.14
新田は名将なの?
847日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:49:35.52
足利直義と高師直は仲良くできなかったのかね?結局二人とも失って尊氏は求心力低下してるし。
848日本@名無史さん:2012/12/26(水) 00:01:21.51
新田義貞は無能丸出し。
足利軍に釣られて楠軍をの孤立壊滅をアシスト。
849日本@名無史さん:2012/12/26(水) 00:38:06.86
雑魚の楠木某とかいう無能の怠け者が三ヶ国守護の癖に軍勢集められない上に遅参したせいだろ。
己のミスで大事な総大将が危なくなったんだから、吹けば飛ぶような命を差し出すのは当たり前だろ。
新田が湊川で戦死していたら、あの年で南北朝の騒乱は終わっていたよ。
命の価値は新田の方がはるかに重い。南軍の総指揮をとれる新田の代わりはいないが、楠木の代わりはいくらでもいる。
850日本@名無史さん:2012/12/26(水) 01:42:54.29
>>849
犬死将軍か
鎮守府だったか北国だったか忘れたけど。
851日本@名無史さん:2012/12/26(水) 22:38:00.58
正成は、義貞が天下を取ると手堅いが、高氏ならどうせ長くもたない、だからいまは足利に勝たせておけと後醍醐に進言して、湊川ではわざと負けたともいわれる。
852日本@名無史さん:2012/12/27(木) 23:23:12.73
今の信長同様過大な評価が過去された正成は未だに奇妙な扱いをされているな。
義貞は畿内の武士からの評判が非常に悪かったことが書簡で残されていることから
正成の義貞切り捨ては当時の機内武士の一般的な見解だよ。
853日本@名無史さん:2012/12/28(金) 22:14:51.30
>>851は、室町後期といわれる『太平記秘伝理尽鈔』に出てくる話かな?

>>852のいう残された書簡とはどういうものでしょうか。
854日本@名無史さん:2012/12/28(金) 22:48:09.68
新田義貞って、尊氏が北条高時の遺児を破った後、新田の関東の所領を他の武将にあげたりしたのに
尊氏が後醍醐に「新田は悪いやつだ処罰させてくれ」とか訳分からん事言われたり
楠木正成には、新田を捨てて足利にすり寄りましょうと献策されたり
北畠親房にも嫌われて、新田は足利の一族と、神皇正統記に書かれたり

何でこんなに嫌われているんだ?
少ない人数で東日本はまだ倒幕の火が無い回りが敵だらけの中で旗揚げし
難攻不落の鎌倉を攻め落とした英雄のはずなのだが
855日本@名無史さん:2012/12/29(土) 00:04:01.26
>>北畠親房にも嫌われて、新田は足利の一族と、神皇正統記に書かれたり

一族であることに間違いないから別に、嫌われてたわけじゃないだろう。先祖が兄だからといっても、鎌倉末期の時点では新田家と足利家では段違いの差だったのも事実だし、都の公家から見れば新田が足利の分家にみえて不思議ではあるまい。
援軍を期待していたのに、越前でのあっけない犬死にに落胆させられた感は滲み出ているけどね。
856日本@名無史さん:2012/12/31(月) 14:15:25.21
>>義貞は畿内の武士からの評判が非常に悪かったことが書簡で残されていることから

で、結局この書簡は捏造ということでいいのか?
857日本@名無史さん:2013/01/04(金) 16:52:33.91
新田なんて鎌倉時代は斯波や吉良や畠山以下の扱いだったからな
足利本家と比べるのは失礼だな
858日本@名無史さん:2013/01/06(日) 01:26:46.74
>>830 俺の親戚発見。
859日本@名無史さん:2013/01/10(木) 02:33:55.71
>>856
この時代になっても書簡の話しを捏造しなきゃならないぐらい、新田義貞の武勲がコンプの対象なんだな
860日本@名無史さん:2013/01/10(木) 17:08:07.31
評判がいいとか悪いとか以前に、存在感がない。空気感がハンパじゃないぞ。
861日本@名無史さん:2013/01/12(土) 18:27:45.61
太平記秘伝理尽鈔って面白いの?東洋文庫から出てるんだな。図書館で見てみるか
史実がどうのこうのじゃなくて江戸初期の頃の足利、新田、楠木のパブリックイメージが分かりそうな。
862日本@名無史さん:2013/01/17(木) 13:23:21.52
流行った「楠木流軍学」を学ぶために書かれたようなところもあるからね。
読み物としてはおもしろいと思うよ。
「『太平記秘伝理尽鈔』研究」 今井正之助著
もあわせて読むといいかも。
江戸時代においての「懐古主義」って感じですかね。
863日本@名無史さん:2013/01/18(金) 22:24:34.01
兵藤裕己『太平記<読み>の可能性』
若尾政希『「太平記読み」の時代』

>>851のような楠木の新田評とされるものが引用されているのは前者。
後者は、『太平記秘伝理尽鈔』が江戸期の藩主層から儒学者まで、じつは決定的な影響を与えていたということを
実証的に明らかにした画期的な研究。
864日本@名無史さん:2013/01/26(土) 06:50:39.61
吉良とシバはどっちが格上?
865日本@名無史さん:2013/01/26(土) 15:55:13.45
>>864
オレは斯波だと思う。
866日本@名無史さん:2013/01/26(土) 16:25:24.91
>>864
吉良と斯波では微妙に斯波のほうが足利宗家に血縁が近い。
尊氏の父足利貞氏と、斯波宗氏がまたいとこ。
吉良の祖長氏と斯波の祖家氏では、家氏のほうが母方の出自も断然よい。
斯波氏は室町幕府で三管領の筆頭として重んじられた。
吉良は評定衆の一人にすぎなかった。
867日本@名無史さん:2013/01/26(土) 17:39:14.30
斯波はそもそも室町初期まで足利を名乗っていたほどだからなあ
868日本@名無史さん:2013/01/30(水) 07:02:27.80
家格なら吉良が上じゃね?将軍家断絶したら吉良から〜では?領地も少なく幕府の役職にも就いてなかったし。それは家臣のやることって言ってたらしい。今川は除く。
まぁ下剋上の室町後期じゃあんま意味ないけど
869日本@名無史さん:2013/01/30(水) 12:26:57.37
>>868
「室町殿の御子孫たへなは吉良につかせ、吉良もたへは今川につかせよ」って、
「今川記」にある言葉だしなあ。

室町幕府将軍の下、管領の上に位置付けられ、将軍になる家格があるとする「御一家」は
くじ将軍足利義教の時、足利将軍宗家が断絶した場合に備えてできた。

その際、足利宗家にもっとも血縁が近いものの、将軍足利義教に逆らって粛清された
鎌倉公方は、この御一家から省かれてしまった。
また、足利一門の名族斯波氏も、将軍義持や将軍義教とたびたび対立した経緯から
管領のままにとどめられ御一家から外されてしまった。

尚、この室町時代中期に定められた御一門とは、吉良・石橋・渋川の足利三家で、
今川は全く入っていない。
870日本@名無史さん:2013/01/30(水) 20:10:39.52
>>868
斯波の方が格上。
吉良は観応の擾乱で没落した上、内部争いで遠江の一国人まで零落。遠江を侵略した今川に拉致されて監禁されるようになる。
871日本@名無史さん:2013/01/31(木) 01:16:13.27
足利尾張守って斯波氏?
872日本@名無史さん:2013/01/31(木) 01:42:34.35
基本、吉良と斯波は仲良しだったよな
873日本@名無史さん:2013/01/31(木) 13:49:26.79
>>871
いつの時代?
874日本@名無史さん:2013/02/01(金) 22:41:37.81
吉良と斯波はどっちが格上かは年代にもよるな。南北朝期だと斯波だろうし。
吉良の当主が将軍職が不在の時に代行をしてたって説はどうなんだろう
今川記の記述で今川が格別と見る向きもあるが実際は征夷副将軍を輩出した事を
加味してもせいぜい御相伴衆と同等以下くらいじゃないかと思う
ただ、「足利家御一家」が本当に将軍継承権を持ってたと考えるなら
「吉良家御一家」だった今川も吉良家を継ぐことが出来た場合
確かに足利→吉良→今川とあくまで理論上はならない事もないかと考える
875日本@名無史さん:2013/02/02(土) 10:04:54.32
>>874
副将軍は反乱鎮圧の功として一代限りだし、将軍になれる地位ではないから関係ないと思うわ。
(たとえば、足利義昭は織田信長に副将軍を打診している。
しかし、足利一門ですらない信長が義昭の次の室町幕府将軍になるわけではあるまい)
室町末期には御一家のうち渋川・石橋氏は没落したり他守護大名の支配下に置かれたりしていた。
一方で、今川は、駿河の守護大名から戦国大名化し、足利一門の中では成功を収めていた。
その成功を盾にしたあくまでも自称だと思うけどな(足利→吉良→今川と将軍を継ぐという話)
876日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:09:54.26
やっぱ権威は実力による裏付けがないとね。一度でも将軍職継いでたらあれだが…望み薄だよね。なんとか公方とかたくさんいるから
877日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:21:19.54
新田と楠木の対立って、梅松論にある与太話かと思ってたけど、
新田氏の研究書とか読んだらガチである可能性がかなり高いんだな。
結局、豊島河原の戦いで奮戦した新田に対して南朝の諸将が警戒感を強め、
楠木みたいに足利との和睦を提案した奴すらいた
さらに楠木は湊川の布陣に際して総大将の義貞の指揮下に入ったとみなされることを嫌い、
義貞も自爆的な布陣をした正成に対して総大将権限を行使するのを遠慮したらしい

こりゃ駄目だと思ったわ…
だから、尊氏が義貞にターゲットを定めたのって、やっぱり効いてるんだよ
878日本@名無史さん:2013/02/03(日) 00:51:17.71
要するに日本は、出る杭は打たれるだからな。
鎌倉時代に無位無冠にまで落ちぶれていた新田氏が北関東から風雲のように出てきたからといって、
畿内や西日本の武士たちにすんなりと受け入れられるわけがない。
その点、あしかかたかうじは盆暗のお坊ちゃまだから御輿としてはちょうどよい。
879日本@名無史さん:2013/02/03(日) 10:38:03.27
鎌倉時代のツケだね。
足利も新田も血筋は良いが、足利は有力御家人。新田は零落した無位無官の貧乏御家人。
はっきり言って、あの頃は新田みたいな御家人って結構いたんだよね。
格上だった守護クラスの御家人から見たら、格下の新田の指揮下に入るのは屈辱だったろう。
楠木は護良配下で失脚していたから、感情的に後醍醐のお気に入りになった新田の指揮下に素直に入れなかったんだろな。
880日本@名無史さん:2013/02/04(月) 11:32:17.76
>>879
足利だって無位無官だよw
足利氏は代々北条氏から正室を娶っていたので、北条氏から姻族扱いを受け、
裕福だったのは事実
しかし足利が北条の支援なくして、他御家人から指示されていたかといえばそうでもない

だからこそ尊氏は恩賞を量発してかつての同僚たちを
味方につける必要があった
佐々木道誉みたいに損得を天稟にかけて
より良い条件を引き出して世渡りする源氏一門もいたわけだしねえ
881日本@名無史さん:2013/02/04(月) 17:11:17.29
後醍醐帝が牽制したくなる程度には足利支持が根強かったので、
対抗馬とするべく新田を育成しようとしたが、その効果は低かった。

どうにか足利勢を掣肘しようとして効果が出ないうちに中先代の乱が起きた。

その程度には足利と新田の間に格差があったわけだろ。
882日本@名無史さん:2013/02/04(月) 17:19:46.62
>>880
尊氏元服時で従五位下治部大輔なんだが

親父の貞氏が従五位下讃岐守、兄貴の高義が従五位上左馬頭
883日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:05:36.50
>>890
足利氏代々の最終官職
義康 従五位下 蔵人・左衛門尉・検非違使
義兼 従五位下 上総介
義氏 正四位下 左馬頭
泰氏 正五位下 宮内少輔
頼氏 従五位下 治部権大輔
家時 従五位下 伊予守
貞氏 従五位下 讃岐守
高義 従五位下 左馬助

無位無官というソ−スは
884日本@名無史さん:2013/02/09(土) 02:59:39.90
いわゆる侍と言われる人たちの官位だね
885日本@名無史さん:2013/02/09(土) 23:05:27.74
平安時代なら、武士の中でも最上位クラスの家の、極官レベルの人が多い希ガス
鎌倉時代でも、武士が就任しうる官位はあんまり変わってないよな、たぶん?
886日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:23:54.74
得宗とほとんど同じ官位だ。
887日本@名無史さん:2013/02/11(月) 01:26:50.10
>>885
執権や連署でも良くて従四位上、悪けりゃ従五位下とかだしねい。
例外なのは源氏三代の将軍ぐらい。
888日本@名無史さん:2013/02/11(月) 01:38:30.51
>>883-887
rつまり、鎌倉時代中期以後の足利氏は、
源氏将軍ほどではないにしろ、武士としては別格の高位高官に就いていた
(といっても北条氏の得宗ほどではない)というわけで、

その間、無位無官を貫くこととなった新田氏とは比較のしようもないってことだよな。
889日本@名無史さん:2013/02/11(月) 02:28:03.31
確か安達氏で四位になった人はいなかったような気がするから、足利はやはり別格だった。
890日本@名無史さん:2013/02/11(月) 22:53:36.15
義家のあとの河内源氏もけっこう冷遇されてたけど
新田(´・ω・)カワイソス
891日本@名無史さん:2013/02/12(火) 01:11:12.27
>>890
最初のボタンの掛け違えとその後の義政の愚行がトドメを刺した。
892日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:35:07.77
政義?
893日本@名無史さん:2013/02/18(月) 14:34:55.16
wiki、結構追加されているな
義氏の娘に世良田頼氏の娘(今川記)
家時の側室に新田政氏の娘
894日本@名無史さん:2013/02/18(月) 14:36:46.77
×世良田頼氏の娘
○世良田頼氏の室
895日本@名無史さん:2013/02/20(水) 08:21:24.05
>>869
でもさ、鎌倉公方は足利将軍家親族だから、そもそもあらためて御一家衆に
加える必要がそもそもないんじゃ。
896日本@名無史さん:2013/02/20(水) 14:25:23.65
将軍と公方は一体だから
897日本@名無史さん:2013/02/20(水) 22:06:40.88
鎌倉幕府の支配層一覧
【鎌倉将軍】
源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
898日本@名無史さん:2013/02/21(木) 06:38:42.87
この、三河ばかり主張するアホって何なの?
大体、「城主」って、平安〜鎌倉期に、
後世の用語持ち込んでる時点でアホ。
義清の矢田が三河だって、いつ決まった?
899日本@名無史さん:2013/02/21(木) 13:10:07.40
下野に矢田がないから、梁田が正しいとかアホすぎるw
900日本@名無史さん:2013/02/21(木) 13:29:27.99
900
901日本@名無史さん:2013/02/21(木) 14:10:54.32
足利は鎌倉時代に三河に多くの領地を持ってたから三河と関係があるのも不思議じゃないが、
新田氏が三河に領地を持ってたって事はないだろ。

どうして新田氏一門だったはずの山名氏が三河の地名を苗字にするんだって話だよな。

たしかに室町幕府創設時に山名は新田じゃなく足利に付いてたし、
そのときには新田一門というより足利一門として扱われたみたいだが、
苗字の地は新田氏の故地である上野国内じゃないの?
902日本@名無史さん:2013/02/21(木) 16:56:53.19
>多くの領地を持ってた

関東に住んでいて所領だけ持っていたと言いたげな発想はやめろ
関東こそ、人は住んでいなくて所領だけ持っていただろ
馬鹿の壁だ

何で平安時代を無視するのかな?
源氏一門雌伏時代、義清義兼兄弟は誰がどこで庇護していたんだい?
平安時代の吉良荘は、寄進地系の藤原氏領で当時は皇嘉門院領
実は義清は、上西門院にも仕えていただろうが、皇嘉門院の判官代で、吉良荘にいたという事だ
理由は不明だが、義重の娘が生んだ義範は後に義重に預けられ、母の違う義実は三河に残った
という事は、細川氏と仁木氏は、義氏に三河に連れてこられたわけでなく、もともと三河にいたということだ
だから関東を始め東国に、細川氏の伝承などないだろう、当たり前だよな、三河から出ていないんだから
903日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:12:51.97
足利氏が、全くゆかりのない土地をゲット出来るワケないだろう
平安時代からの所縁を主張されて、得宗家も譲らざるおえなかったんだろうな
904日本@名無史さん:2013/02/21(木) 21:03:05.03
>>902
仮定から断定するなよppp
悔しかったら、信用性のある史料を出して、
論文の一つも書いてみろ。
伝承や伝説だけでは、何の説得力もないよ。
905日本@名無史さん:2013/02/21(木) 21:19:09.15
下野に矢田がないから、梁田が正しい


だったらこれにしておけw
そもそも平安時代など仮定推定だらけだろがw


俺が悪かったよ

>新田氏一門だったはずの山名氏が三河の地名を苗字にするんだって話だよな。

この文言で察するべきだった、相手にすべきではなかったと反省
906日本@名無史さん:2013/02/21(木) 21:28:58.49
一次資料に梁田荘、下野に矢田の地名はない


矢田は梁田の間違いである(キリw
907日本@名無史さん:2013/02/21(木) 23:47:21.81
>>905
いや、おれの>>901は、たしかにお察しレベルの駄レスだろうが、
それ以外はオレじゃないぞ。

>>888の文章を書いて以後の唯一のレスを、他人のと混同せんといてくれ。

>>906
そういや。
厩橋は前橋の(ry みたいな、現代風の漢字音では異音になるような表記揺れ(変化)もあるんだっけ。
908日本@名無史さん:2013/02/22(金) 00:50:05.89
足利義兼は新田義重に庇護されてたんだろ
909日本@名無史さん:2013/02/22(金) 02:54:30.91
>>897
御門葉にあげられてる、源広綱は、頼朝の異母弟じゃなくて、源頼光流摂津源氏の頼政の孫だろ?
太田道灌には河内源氏の血は流れてないはず。
910日本@名無史さん:2013/02/22(金) 02:56:30.08
↑あ、行がズレただけだ。範頼を異母弟と表記したのね。
911日本@名無史さん:2013/02/22(金) 15:19:18.39
下向途中に三河があるのに下野に行くとか考えられんな
母親の本貫の地であり、母親自身、義康との結婚祝いで実父から貰った所領を持っていた
平治の乱、新宮行家の矢作川の戦いでは、平氏を追っ払うほどの軍事勢力を有していた
行家は、三河(蒲郡、熊野社領)を拠点としたらしいから、三河には源氏を庇護できる在野勢力があったという事だ
912日本@名無史さん:2013/02/22(金) 15:38:24.63
三河に潜伏しなかったら、伊勢氏が足利氏の家来になることもなかったであろうがることもなかっただろう


足利義兼:1154年〜1199年
藤原俊経:   〜1238年
伊勢俊継:1217年〜1274年←天照大神の託宣に寄り伊勢平氏と謂う


藤原俊経

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉前期の武士、足利氏被官。『滝山寺縁起』に肥前々司藤原俊経(法名願仏)と見える人で、
足利氏被官伊勢氏の先祖とみられる。
弟相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶であった。滝山寺に持仏堂を建て、古市場御油畠などを寄進した

藤原俊継(初代伊勢氏)

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉中期の武士で足利氏被官。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継とある人で、
肥前前司俊経の子。
滝山寺に足利義氏追善のため檀那として法華堂を造営し、田畠3町8段をこの堂に寄進した。
また碧海荘青野・宇祢部の料田畠も足利(斯波)家氏に働きかけて寄進させた。そのほか滝山寺の諸造営にかかわって
財政的な援助を惜しまなかったのは、叔父の円辰や従兄弟の増恵が滝山寺僧侶であったからであろう。
913日本@名無史さん:2013/02/22(金) 18:53:55.66
滝山寺の文書って怪しいよね。
坂上・高階の文書も、署名部分に擦り消したような跡があるし、
そもそも足利氏絡みだとしたら、
何で高階じゃなくって坂上が上位なの?
914日本@名無史さん:2013/02/22(金) 19:21:30.94
>>909
広綱は女系で頼朝と近いぞ

・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝


右大将拝賀の先駆の選ばれなかったのが引き金で逐電


先駆(頼朝手配の二人)

源範頼(頼朝異母弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼

藤原範清(頼朝従兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清


源広綱逐電後の駿河守は


藤原憲朝(頼朝従兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原憲朝
915日本@名無史さん:2013/02/22(金) 20:08:10.91
>>913
じゃ、これでいいんじゃねw


伊勢氏は平秀衝を祖とする。伊勢氏の足利氏への勤仕は俊経の代に足利義兼に仕えたことに始まる。
足利氏と伊勢氏嫡流の間には、足利貞氏(尊氏父)の代から上総国守護とその守護代という緊密な結びつきがあり、
さらにその以前、足利義兼が上総支配の礎を築き、伊勢氏の本拠地が上総にあったことから、比較的早い段階で伊勢氏は足利氏の被官であったことがうかがえる。
916日本@名無史さん:2013/02/23(土) 15:17:09.86
源頼朝 従兄弟

■藤原範清: 右大将拝賀の先駆
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清

■藤原憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原憲朝

■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■野田清季:野田城主(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季

■娘:足利義康の正室
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→娘→足利義兼

■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→三河祐範→仁憲

■源為朝の娘:足助(加茂)重長の正室、娘が源頼家の室(公暁の母)
・源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
917日本@名無史さん:2013/02/23(土) 20:00:39.12
見づらいし、しつこい
918日本@名無史さん:2013/02/23(土) 20:42:34.09
伊勢氏の足利氏への勤仕は俊経の代に足利義兼に仕えたことに始まる
足利義兼が上総支配の礎を築き、伊勢氏の本拠地が上総にあったことから、比較的早い段階で伊勢氏は足利氏の被官であった



寛伝__(1142〜1205)←日光山満願寺19世座主(勝長寿院別当、鶴岡八幡宮供僧を兼ねる)、滝山寺僧侶、惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
源頼朝_(1147〜1199)
足利義兼(1154〜1199)
藤原俊経(****〜1238)
足利義氏(1189〜1255)
足利義継
足利家氏
藤原俊継(1217〜1274)←天照大神の託宣に寄り伊勢平氏と謂う


藤原俊経

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉前期の武士、足利氏被官。『滝山寺縁起』に肥前々司藤原俊経(法名願仏)と見える人で、
足利氏被官伊勢氏の先祖とみられる。
弟相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶であった。滝山寺に持仏堂を建て、古市場御油畠などを寄進した

藤原俊継(初代伊勢氏)

新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉中期の武士で足利氏被官。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継とある人で、
肥前前司俊経の子。
滝山寺に足利義氏追善のため檀那として法華堂を造営し、田畠3町8段をこの堂に寄進した。
また碧海荘青野・宇祢部の料田畠も足利(斯波)家氏に働きかけて寄進させた。そのほか滝山寺の諸造営にかかわって
財政的な援助を惜しまなかったのは、叔父の円辰や従兄弟の増恵が滝山寺僧侶であったからであろう。
919日本@名無史さん:2013/02/24(日) 04:00:10.97
矢田は上野多胡郡矢田郷だろう。
悪源太と義重が多胡先生義賢を滅ぼした後、
西上野に義重の娘婿義清含む義重の一族が分布したわけ。
南から矢田、山名、寺尾、里見とね。
矢田郷は特に義賢の本拠地に近かったので義賢の遺児義仲が挙兵すると
父親の縁で東信濃、西上野の勢力を基盤にした義仲に取り込まれるというか
滋野一族らとともに義仲に味方したわけだ。
義清の子は最初は上野国広沢郷を与えられたが、この地は足利荘にも近い地なので
(倉持文書から、広沢郷は鎌倉後期には足利嫡流の所領だったとわかる。)
義清流はやがて三河へと行ったってわけだ。
後の広沢義利と同じコースね。
三河といえば、矢田と山名の近くに奥平氏発祥の地奥平郷があるよ。
これは山名が三河という与太と違い
ちゃんとした伝承だが、なぜ三河へと落ちて行ったかは不思議だね。
920日本@名無史さん:2013/02/24(日) 08:51:12.51
足利氏って、守護なのに市東しか所領を獲得できなかったことから
初期はそれ程上総への支配権を確立できてなかった、という説もあるよね。
義兼段階での伊勢氏の足利氏被官化は、ありえないとは言わないが、
むしろ上総守護職を得てからの方が可能性は高くないだろうか。
921日本@名無史さん:2013/02/24(日) 12:31:40.02
広沢も実は三河だろうなw
豊田か豊橋の広沢だろう
922日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:17:03.82
足利家氏(三河→広沢義利(上野w)→吉田義博(三河)→石橋和博(三河)


足利義清(三河)→広沢義実(三河)→細川義季(三河)
これと同じで広沢も上野ではなく三河の地名(豊田、豊橋)なんだろう、不自然だろうが



足利義清→広沢義実→細川義季
923日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:38:19.03
空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

新編岡崎市史20(総集編)
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。


北関東を絡らませると全てが不自然、足利一族に関しては北関東は無視していいわ
どーせ新田一族関係しかないんだから」
924日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:48:08.74
桃井・小俣・加古・渋川とか、明らかに上野・下野に
展開した一族もいるんだけどな。
三河も主要な地であるのは当然だが、
全てを我田引水するのはどうかと思うがね。
925日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:12:13.49
赤松氏とかあんま興味はないが、三河に赤松氏関連史跡は多いから、実は赤松氏も三河の土豪だったんだろうな
言ってみれば、奥平氏は先祖がえりしたわけだ


ちなみに奥平氏の拠点の日近郷(元は比志賀郷)
1399年、足利義満は、高一族菩提の為に建てられた深恩院(総持寺の前身、愛知県岡崎市)へ額田郡比志賀郷(高一族の旧領、愛知県岡崎市)を寄進する


どこの馬の骨ともわからない奴が入部できる場所ではない
926日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:24:18.90
深恩院(総持寺の前身、愛知県岡崎市)


明阿は南北朝時代の女性、尼僧。実名は不明。足利氏の執事を務める高氏の出身で、観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うために建立
父は足利尊氏の執事を務めた高師直の兄弟で、自身も優れた武将であった高師泰。夫は父の従兄弟で、後に高師直の猶子となった関東執事高師冬
927日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:40:55.96
三河厨は、今日も良い感じに発狂してますな。
928日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:58:14.54
訂正

足利義満が寄進したのは、この寺だわ


寺伝はめちゃくちゃでまゆつばだが、1300年代初めに高師氏が建立したんだろ


広祥院(愛知県岡崎市桜形町)
寺伝によれば、暦応2年(1339年)に足利尊氏の命令で高師氏が三河国日近郷に八幡社とともに寺院を建立したのが始まりとされる[1]。
当初は深恩院総持寺と号する真言宗の寺であった。
しかし、延文年間(1356年 - 1360年)に深恩院と総持寺は分離され、本尊なども總持寺に移されたうえ現在の岡崎に移転したため、日近郷に残った深恩院はやがて廃退した。


分離した総持寺

明阿は南北朝時代の女性、尼僧。実名は不明。足利氏の執事を務める高氏の出身で、観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うために建立
父は足利尊氏の執事を務めた高師直の兄弟で、自身も優れた武将であった高師泰。夫は父の従兄弟で、後に高師直の猶子となった関東執事高師冬
929日本@名無史さん:2013/02/24(日) 15:05:50.63
ところで、守護職が国の利権を貪る職になったのはいつごろからなの?
初期は地頭のほうがえらそうな気がするんだが。
930日本@名無史さん:2013/02/24(日) 15:32:29.64
広祥院(愛知県岡崎市桜形町) から直線で4キロ先の赤田和城(岡崎市小久田


南北朝時代、楠木正成の家臣・赤松円心がこの地に落ち延びて、代々居住したという伝説が残ります
http://www.oshiromeguri.com/okazaki/22akanta.html

現在も当主は赤松さん



善住寺・赤松則村供養塔
http://www.net-plaza.org/KANKO/toyokawa/kozakai-zenjyuji.html 
931日本@名無史さん:2013/02/24(日) 15:50:16.41
結局三河って植民地メンタリティなんだね。
932日本@名無史さん:2013/02/24(日) 16:03:36.88
所詮は世間知らず、頭も悪い万年パシリの田舎猿か?北関東の田舎猿と比較して実績がありすぎるが、今も昔も独力で勝ち組
北関東民あごがれの大東京(笑)と、一回でもタメ張ってみな

リーマンショック後の総所得ランキング】
総所得ランキングトップは江ノ電沿線、金融資産トップは京王井の頭線沿線。
リーマンショックで打撃を受けたのは近鉄長野線沿線――。

総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市〜鎌倉市)
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市)
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区〜武蔵野市)
04位 東急東横線(東京都渋谷区〜神奈川県横浜市)  
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市)

06位 東急田園都市線(東京都渋谷区〜神奈川県大和市)
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市〜神奈川県藤沢市)
08位 東急目黒線(東京都品川区〜神奈川県横浜市)
09位 名鉄西尾線(三河県安城市〜吉良町)  
10位 名鉄豊田線(三河県日進市〜豊田市)

11位 東急大井町線(東京都品川区〜神奈川県川崎市)
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区)
13位 小田急小田原線(東京都新宿区〜神奈川県小田原市)
14位 名鉄三河線(三河県豊田市〜碧南市)
15位 東急池上線(東京都品川区〜大田区)


ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.html
933日本@名無史さん:2013/02/24(日) 16:06:22.66
栃木や群馬、合わせて人口400万いるんだから、すこしは頑張れよ
地頭が悪いんだったら、24時間勉強しろ


2000年以降 公立高校 東大合格者数推移 (*公立全国1位)


        浦和  千葉   岡崎  旭丘  土浦一 宇都宮 都立西 日比谷
2000年 *32   25    30   26    31    21   11    6
2001年   16   21    31   21  *32    18   13    3
2002年   28   19  *36   24    33    17   17    4
2003年   29   23  *38   22    32    15   25    5
2004年   22   23  *31   29    29    23   11    3
2005年   27   20  *28   21    26    21   18   14
2006年   16   23  *36   20    21    28   19   12
2007年 *33   20    26   28    28    24   16   28
2008年   33   19  *40   25    26    29   28   13
2009年   36   27  *42   19    16    26   15   16
2010年   29   22  *41   32    24    11   20   37
==================================
合計    301  242   379  267   298   233  193  141
934日本@名無史さん:2013/02/24(日) 16:07:52.33
2012年6月進研マーク模試 参加校数3481校、受験者数43万9337人

団体受験校の5教科平均偏差値 公立高校 【参考:私立高校】

留意:私立は地元ネイティブだけではない


68.0〜 【東大寺学園68.4】【甲陽学院68.2】
67.5〜 【久留米附設67.5】
67.0〜 【大阪星光67.3】【白陵67.2】
66.5〜
66.0〜 【愛光66.2】【広島学院66.1】
65.5〜
65.0〜
64.5〜
64.0〜 岡崎64.0(三河県、公立全国一位) 
63.5〜
63.0〜 刈谷63.2(三河県、公立全国二位) 青雲63.0
62.5〜 横浜翠嵐62.5 
62.0〜 札幌南62.1 岐阜62.0 富山中部62.0 
61.5〜 藤島61.8 一宮61.8  高岡61.8 仙台第一61.7 時習館61.7 岡山朝日61.7 熊本61.7 
61.0〜 姫路西61.4 宇都宮61.4 長崎西61.3 高松61.3 
60.5〜 宇都宮女子60.9 金沢泉丘60.9 大分上野丘60.9 
60.0〜 山形東60.2 水戸第一60.2 秋田60.1 札幌北60.0 修猷館60.0 土浦第一60.0
59.5〜 札幌東59.9 札幌西59.8 新潟59.8 前橋59.7 神戸59.7
59.0〜 長田59.4〜 東筑59.4 大垣北59.3 盛岡第一59.2 福岡59.0
58.5〜 富士58.9 米子東58.9 明善58.7 小倉58.6 青森58.5 静岡58.5
58.0〜 筑紫丘58.3 

団体受験なしの主な公立上位校:首都圏:日比谷、西、浦和、千葉 東海:旭丘 関西:北野、天王寺、大手前 九州:鶴丸・・
935日本@名無史さん:2013/02/24(日) 16:44:54.63
>>929
南北朝時代なかばぐらいじゃないの、たぶん?
936日本@名無史さん:2013/02/24(日) 18:57:57.36
皇太子の先生
安達氏の一族
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yasuda-motohisa-adachi.htm

>足立遠元は、頼朝が安房・下総をまわって武蔵国に入ったとき、彼のもとに参向した武蔵の在地武士
>遠元が足立四郎・足立右馬允と名乗る武蔵武士であったこと、その本拠地が武蔵国足立郡であったことは、疑いない
>従って盛長も、その同族であるならば、武蔵の在地武士で、源家の譜代の家人であったと考えてよい


ただの三河国小野田荘の小野田さんですw



>矢田は上野多胡郡矢田郷だろう。
>悪源太と義重が多胡先生義賢を滅ぼした後、
>西上野に義重の娘婿義清含む義重の一族が分布したわけ。



それっぽいこと言っているようだが、これもただの三河国幡豆郡矢田の矢田さんなんだろなw
広沢は豊橋市か豊田市の地名に広沢がある
なぜか細川氏だけ、先祖代々の墓は豊田にある


関東なんか無視すりゃいいんだよ
937日本@名無史さん:2013/02/24(日) 19:16:01.67
>>935
あざす
938日本@名無史さん:2013/02/25(月) 01:58:01.16
三河厨はこの勢いでWikipedia書き換えろwwww
939日本@名無史さん:2013/02/25(月) 08:23:50.81
足利荘、梁田荘に子孫が定着しなかったので、早くから上野国矢田郷に移ったと思われる


いくら調べても伝承すらないのか?
そりゃそうだろう、定着も何も三河から出てないからなw
その上野国矢田郷にも、足利義実、細川義季、仁木実国、戸賀崎義宗の伝承の一つでもあるのかつーの
義清の伝承すらないんだろ


高階系図だったかな、三河国菅生郷の代官職だったらしい高階惟長と、三河から頼政に合流したんだろう
義清と惟長兄弟は水島の戦いで戦死、義実はそのまま三河に残ったが自然
細川氏と戸賀崎氏は、菩提寺が滝山寺ではなく豊田の隣松寺、氏神が村積神社(足利氏と家来の三河の氏神らしき伝承はない)、戸賀崎義宗は村積神社の神主であった
他とは異なり土着性を帯びている
連れて来られたのではなく、三河守護なった義氏をお迎えしたという事だ
940日本@名無史さん:2013/02/25(月) 08:40:00.01
偽書ではあるが滝山寺縁起に、上総国の伊勢平氏、伊勢氏の先祖、藤原俊経(藤原は間違いかしら、だって上総国の伊勢氏だもんね)が三河に所領を持っていたと記載されている
歴史は思いもよらない事はよくあるよね
941日本@名無史さん:2013/02/26(火) 12:49:21.61
政所執事:上総国、伊勢平氏の伊勢氏
執事代:蜷川氏


蜷川氏

初代・宮道式俊(吾妻鏡に記載)

元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する


宮道氏

饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の愛知県豊川市)と推定される。


宮道天神社(愛知県豊川市)

源頼朝は上洛の折、安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
942日本@名無史さん:2013/02/28(木) 23:36:30.27
どうした?
ネタ切れか?
943日本@名無史さん:2013/03/01(金) 18:56:24.37
>>928
追記

wikiが間違っているわ
寺の御由緒は高師重、師重だと辻褄がある
とすると、師重は1339年の時点で、生きていたという事だな
家督を師泰に譲っていたかは不明

足利尊氏ゆかりが一つ増えたわ
944日本@名無史さん:2013/03/01(金) 21:37:52.74
>>943
おいおい。
『常楽記』の記事までそんな根拠で否定するのかよ。
945日本@名無史さん:2013/03/02(土) 16:51:22.16
え〜か家時の没年は1309年か1317年にしろ
田舎の寺の縁起とか信憑性無し
しかもその縁起は、失敬にも、関東上総国の名門伊勢平氏の伊勢氏を藤姓と記載している偽書だ

田舎の寺の寺伝など無視だよな
946日本@名無史さん:2013/03/02(土) 19:32:58.10
>>945
『東征伝絵巻』巻第四に永仁六年付で「足利伊予守後室」とあるので、
少なくともこれ以前に家時が没してるのは間違いないし、
『滝山寺縁起』は鎌倉末期の成立であることは正しいと思われるので、
弘安七年の没は動かさなくて良いと思う。
947日本@名無史さん:2013/03/02(土) 20:11:59.80
滝山寺縁起は偽書だ
都合のいいな、お前
948日本@名無史さん:2013/03/02(土) 20:39:50.41
>>947
偽書というのは言いすぎだろう。
ただ足利氏が大旦那だった時期に成立したので、
寺家側が自分たちに都合良い記述をしただけだろう。
嘉禄二年四月日付の寄進状は怪しいと思うし、
これを基にした縁起の記述も疑わしいと思うがね。
949日本@名無史さん:2013/03/02(土) 21:20:58.26
これは正しいあれは間違い、都合が良すぎる
滝山寺縁起は偽書で間違いない
つーかバンナ寺の位牌が間違っていては恥ずかしいだろうが
下野には正しい情報を伝える人間もいなければ、それを受け取る人間もいなかったと言う事を意味する
いくら霜月騒動の実態が、源頼朝の三河譜代(安達氏・足利氏・吉良氏・斯波氏・・足助氏・大江氏・二階堂氏)vs北条氏・内管領家と言ってもだ


没年は1309年にしておけ
950日本@名無史さん:2013/03/02(土) 21:41:13.54
>>949
ああ、お前は三河厨だったのね。
相手した俺が馬鹿だった。
以後スルーするわ。

つーか、今時霜月騒動が外様vs北条氏って…
恥ずかしくないか?
951日本@名無史さん:2013/03/02(土) 22:41:06.96
位牌が間違っている
こんな恥ずかしい事はな〜い、あり得ませんw


源尊氏公
足利治部大輔
征夷大将軍
干時延文三天
四月晦日
足利内蔵之尉敬白


年月ぴったし
952日本@名無史さん:2013/03/05(火) 00:36:31.34
滝山寺縁起(14世紀初頭、偽書)

■藤原俊経(〜1238)
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

■藤原俊継(1217〜1274)
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去

■円辰
・藤原俊経の弟
・相模法橋

■増恵
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
953日本@名無史さん:2013/03/05(火) 00:43:51.61
滝山寺縁起(14世紀初頭、偽書)

■藤原俊経(〜1238)
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

■藤原俊継(1217〜1274)
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去

■円辰
・藤原俊経の弟
・相模法橋

■増恵(1209〜1283)
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
954日本@名無史さん:2013/03/05(火) 01:46:08.29
    /|/l/|/|
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 |(6レ ∴  つ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 |    ___ |< ちわーっ、三河屋でーす!!
 \  \_/ /  |   
   \___/    .\___________
955日本@名無史さん:2013/03/05(火) 23:04:44.03
そこは三河厨に改変だろが
万年パシリつーのは出来が悪いな、理解力が無いはずだわ
956日本@名無史さん:2013/03/07(木) 01:21:29.35
三河厨どうした?
ネタ切れで図書館通いか?
957日本@名無史さん:2013/03/07(木) 08:45:49.68
延元四年(暦応二年、1339年)
・暦応寺(天竜寺)建立発願。
・ 六月、直義が安国寺・利生塔の建立を始める。


延元四年(暦応二年、1339年)

【足利尊氏】勝楽寺(愛知県西尾市)創建
【上杉清子】日名屋敷(愛知県岡崎市)を丹波国光福寺へ寄進、翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命ずる
【日静(上杉清子の弟)】竜泉寺(愛知県岡崎市)を中興、日蓮宗にを改宗させる
【高師重】広祥院(愛知県岡崎市)を創建
958日本@名無史さん:2013/03/07(木) 23:03:24.70
滝山寺縁起(偽書)

【1140年】藤原季範(源頼朝の祖父)、夫婦(夫人は源行遠の娘)で蓮華寺造営、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進
【1151年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、滝山寺の2度目の本堂を建替
【1159年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、大檀那として滝山寺の四至を定める
【1201年】寛伝(源頼朝の従兄弟、藤原範忠の息)頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩
【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺の3度目の本堂を建替
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進、弟の相模法橋円辰とその子の大進法眼増恵も滝山寺僧侶
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営
【1254年】増恵、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進
【1257年】増恵、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進
【1261年】増恵、山王社の宝殿を改築する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)の如法堂造営
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納
【1330年代】貞円(高師泰・高師直の弟)が大勧進として僧侶
【1380年代】足利義満(3代目足利将軍)、滝山寺の4度目の本堂を建替
959日本@名無史さん:2013/03/08(金) 00:22:03.96
滝山寺縁起(偽書)

【1140年】藤原季範(源頼朝の祖父)、夫婦(夫人は源行遠の娘)で蓮華寺造営、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進
【1151年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、滝山寺の2度目の本堂を建替
【1159年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、大檀那として滝山寺の四至を定める
【1201年】寛伝(源頼朝の従兄弟、藤原範忠の息)頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩
【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺の3度目の本堂を建替
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進、弟の相模法橋円辰とその子の大進法眼増恵も滝山寺僧侶
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)の如法堂造営
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進、またこの頃、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納
【1330年代】貞円(高師泰・高師直の弟)が大勧進として僧侶
【1380年代】足利義満(3代目足利将軍)、滝山寺の4度目の本堂を建替
960日本@名無史さん:2013/03/11(月) 18:24:21.08
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継の屋敷で生まれる
【1368年】元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:管領・斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を、京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀郷の深恩院に、比志賀郷の高一族旧領を寄進する
【1408年】死去する
961日本@名無史さん:2013/03/11(月) 20:12:55.46
三河厨まだやってんのかppp
962日本@名無史さん:2013/03/11(月) 20:19:07.36
>>961
やってはいけないわけでもあるまい屁こきが
963日本@名無史さん:2013/03/12(火) 10:33:37.34
足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
964日本@名無史さん:2013/03/12(火) 10:35:22.65
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
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【1440年】松平信光(3代目松平氏当主)、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺寺領内に、神のお告げで万松寺を創建する
965日本@名無史さん:2013/03/12(火) 19:40:23.99
三河厨って浪合記とか信じるのかな?
966日本@名無史さん:2013/03/12(火) 19:56:14.56
>>965
くそちまんねぇレスかますなチンカス
967日本@名無史さん:2013/03/13(水) 07:31:31.75
当時、三河の親分は守護を差し置いて、足利義満なんだが、義満が松平親氏の正体を知らないはずがない
俺は三河の事なら何でも知ってる感じが伝わってくるだろう

素性知れない男の実の息子の嫁が、一色氏の娘とかありえん
968日本@名無史さん:2013/03/13(水) 10:53:39.69
>>967
義満がいちいち地方の土豪の家系図まで承知してないだろ
信光は伊勢貞親に仕え一揆を平定しているから
新興土豪にでも娘を嫁がせることはあるだろ
969日本@名無史さん:2013/03/13(水) 11:56:58.07
嫡子の親忠は1431年だけどw
額田郡一揆はもっと後だ
伊勢氏の家臣程度で、一色氏から嫁がくるとでも

やはり土地勘の無い奴には無理だな、特に松平郷と比志賀郷の位置関係
年表みれば、理解出来るはず


野間荘は、経緯不明だが、1351年まで高師直領、その後は御料所になって、義満から足助重宗に還付されたわけだが
この足助重宗の子供は、重宗が野間荘を還付される以前に、松平信重の援助で、高月院の前身を開いている


全員ズブズブやん、知らんワケないだろうw
関東にいた情報弱者の新田氏が、無位無冠だったのも納得だw
970日本@名無史さん:2013/03/13(水) 12:00:04.96
×1431年
○1431年


×無位無冠
○無位無官
971日本@名無史さん:2013/03/13(水) 12:04:29.50
×1431年
○1431年生まれ


×無位無冠
○無位無官
972日本@名無史さん:2013/03/13(水) 12:27:31.96
>>969
一色満範は三河守護だったから
三河の有力土豪に娘を嫁がせてもおかしくない
三河の土豪の娘に産ませた子だった可能性もある

真浄院殿の父は諸説あってはっきりしないともいう
973日本@名無史さん:2013/03/13(水) 13:26:45.12
結婚したとみられる、1425〜1430年あたりは、有力でも何でもないけど
974日本@名無史さん:2013/03/13(水) 14:15:36.80
>>973
だったらますます一色の娘が嫁いだからといって
血筋がいいわけじゃなかったんだろ
そもそも一色家の姻戚って全然いいところじゃない
娘もいたんだろうがどこへ嫁いだとか全く記録に残っていない
975日本@名無史さん:2013/03/13(水) 15:45:55.20
仮に嫁が関東一色氏の出だと、実は鎌倉公方と親戚だった可能性すらあるのに、その言い方はないわな、マジで
976日本@名無史さん:2013/03/13(水) 17:21:14.08
三河厨は、他の可能性は考えないんだもの。
実証史学を少しも分かってない奴に、何を言っても無駄だよ。
977日本@名無史さん:2013/03/14(木) 06:47:24.13
1368年:一色満範、生まれる
1404年:松平信光、生まれる
1409年:一色満範、死去する
1417年:伊勢貞親、生まれる
1431年:松平親忠、生まれる
1440年:松平信光、万松寺創建
1455年:伊勢貞親、家督を譲られる
1460年:伊勢貞親、政所に執事なる
1465年:額田郡一揆が起こる
1473年:伊勢貞親、死去する
1488年:松平信光、死去する



成る程、50才を過ぎて伊勢氏(伊勢貞親)に仕え、一揆を平定、一色氏(一色満範の娘)から嫁を貰ったワケだなw
978日本@名無史さん:2013/03/14(木) 12:48:18.08
■小田原城
築城主大森頼春
築城年1417年(応永24年)


大森氏・葛山氏
高橋惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝仕えた


大森氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋親康→大森親家

葛山氏
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢(葛山)惟兼→葛山惟忠→葛山惟重

葛山景倫
高橋惟康(三河国高橋荘領主、源頼朝の曽祖父の妹の息子)→高橋惟直→鮎沢(葛山)惟兼→葛山惟忠→葛山景忠→葛山景倫

金剛三昧院
貞応2年(1223年)北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立



関東人、万年パシリも大概せいw
979日本@名無史さん:2013/03/14(木) 21:44:52.46
松平信光(賀茂信光)が素性の怪しいもののわけがない。
(ただし、徳川家康が言うように新田源氏ではないがw)

彼の数代前の先祖は普通に京都の中下級の公家の出身で
足利家、伊勢家とも知り合いの家系。
持明院統の天皇の近くで使えていた家系のなので、
北朝を支援した足利家とも仲が良い。

この辺は、京都の朝廷のお抱えの武士の松波氏の
出だった斎藤道三に通じるものがある。

三河は元から、大田田根子命を祖先とし、陰陽道の名家だった
地祇系の賀茂氏との関係が深い。
980日本@名無史さん:2013/03/14(木) 23:24:08.03
どうでもいいよ
Wikipediaででもやってくれ
981日本@名無史さん:2013/03/14(木) 23:59:23.13
所詮は義国も関西人
北関東は遺伝子レベルで馬鹿である
982日本@名無史さん:2013/03/15(金) 00:10:41.32
渡来人・アイヌ・蝦夷・俘囚以外の東国は…
983日本@名無史さん:2013/03/15(金) 11:38:15.71
奥平氏は全く縁もゆかりもないところにきた訳ではないようだな

■赤田和城(岡崎市小久田町字新谷)
南北朝時代、赤松円心がこの地に落ち延びて、代々居住したという伝説が残ります

■赤松村(愛知県安城市赤松)
赤松満祐の男教祐播磨より逃げ来りて三河に居る、本村に住みしは其の親族なるべし、赤松某の城跡は字丸山にありて今尚的場の址あり。

■崇福寺(愛知県岡崎市中島町字道海1)
嘉吉の乱(1441)で赤松氏が滅亡すると三河に来住し、占部変相寺に寓居した。
これを知った中島城主由良光家は天台宗昌泰寺を改宗させて崇福寺とし、天祐を開山としたという。

■善住寺(愛知県豊川市小坂井町北浦11)
赤松則村供養塔

■敬圓寺(愛知県豊川市御津町御馬西40)
赤松満祐の三男である満照が開基
984日本@名無史さん:2013/03/15(金) 18:14:54.12
伝説や伝承って、自分たちの正当性や由緒を求めるために、
後世に作り出された可能性も高いのだが。
議論にならないなら、ここは学問板なので、出て行ってくれないか?
985日本@名無史さん:2013/03/15(金) 18:47:43.01
出て行くのは、こいつか?

485 :日本@名無史さん:2011/05/07(土) 00:41:14.18
奥平氏は表では赤松氏流を称していたが内々では児玉氏流を称していた。
上野奥平郷に発するということや家紋を考えればやはり児玉氏である可能性が高い。
ではなぜ赤松氏を称したか?それは児玉党が南朝に属していて、
奥平氏もそれゆえに三河に移ることになったので足利幕府下では児玉党を名乗りにくかったからではないだろうか。

松平氏の場合も同じようなことではないだろうか。
つまり実際に南朝方の新田氏流であったが清康や家康が勢力を確立するまでは
当時の情勢からそれを公言しがたかった、ということではないだろうか。


おーい、出て行けってよw
986日本@名無史さん
直近ではこいつもそーだな
ちゃんとした伝承とかなんだよw


919 :日本@名無史さん:2013/02/24(日) 04:00:10.97
矢田は上野多胡郡矢田郷だろう。
悪源太と義重が多胡先生義賢を滅ぼした後、
西上野に義重の娘婿義清含む義重の一族が分布したわけ。
南から矢田、山名、寺尾、里見とね。
矢田郷は特に義賢の本拠地に近かったので義賢の遺児義仲が挙兵すると
父親の縁で東信濃、西上野の勢力を基盤にした義仲に取り込まれるというか
滋野一族らとともに義仲に味方したわけだ。
義清の子は最初は上野国広沢郷を与えられたが、この地は足利荘にも近い地なので
(倉持文書から、広沢郷は鎌倉後期には足利嫡流の所領だったとわかる。)
義清流はやがて三河へと行ったってわけだ。
後の広沢義利と同じコースね。
三河といえば、矢田と山名の近くに奥平氏発祥の地奥平郷があるよ。
これは山名が三河という与太と違い
ちゃんとした伝承だが、なぜ三河へと落ちて行ったかは不思議だね。